Book: 真の神 True God



第一章 神様の本体

一 神様は無形の主体であられる

 一) 無形でおられる神様


神様はどんな形態ももっていらっしゃいません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。

神様は果たしていらっしゃるのでしょうか。誰かがつねって「あっ」と叫ぶことよりも、おなかがすいて御飯を食べるよりも、もっと事実的に感じることができる神様がいるのでしょうか。問題はそこにあります。本当に神様がいらっしゃるとするならば、問題はすべて解決されます。

人間には心があります。心は見えないので、ないようですが、あります。心はどこにあるのでしょうか。頭にあるのでしょうか、心臓の中にあるのでしょうか。心は、私の体の中のどこにでもあります。私の体の中にないところはありません。同じように神様がいらっしゃるならば、神様もこの世界が神様の体のようなものなので、この世界のどこにでもいらっしゃいます。

神様を見ることはできません。皆さん、力が見えますか。神様はエネルギーの本体であるので、霊界に行っても見ることができません。

知恵の神様、全知全能なる神様は、中央で思いどおりに振る舞うことができる無形な存在としていらっしゃいながら主管することが一番便利だと考えられたのです。神様は無形であるだけに、存在世界を思いどおりに突き抜けてきたとしても少しも支障を感じません。皆さんは体がありますが、神様が来て思いどおりに過ぎたとしても皆さんには分からないのです。神様がこくりこくりと居眠りしている皆さんの体を思いのままに踏んでいったとしても分からないのです。それでどんなに便利でしょう。ですから神様は考えた末に見えない神様としているのが一番便利だろうと思い、見えない神様になったという論理は妥当な論理です。

私たちは空気が通っていることが分かりません。空気が通っているのにそれを感じられません。空気が通っているのを感じられないのに、神様が通っているのが分かるのかというのです。神様は無形の神としていらっしゃるのが最高の便利な方法です。そうしながら、この大きな宇宙をふろしきで包んでも余りある、そのような神様でなければならないのです。無形の神様ですが、神様の心はこの宇宙よりも大きいものを要求しているのです。

皆さん! 愛をもっていますか。生命をもっていますか。皆さんの血統を継ぐことができる精子と卵子をみなもっているでしょう。良心ももっていますか。それでは愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見ましたか。その存在の現象は知っていますが、触ることも見ることもできないことを知らなければなりません。ただ心で感じてこそ知ることができるのです。同じ論理で神様がいるのかいないのかと言う時、または神様を見たのか見なかったのかと尋ねる時、見なかったと言うことができないのです。

心の中に神様が入ってきて、いらっしゃれば心が分かります。神様が心の中に入ってくれば壁も突き通して見ることができ、じっと座って何千年前に死んだ聖人たちを運行させることもできます。永遠なる神様が心の中に入ってくればそのようにすることができます。永遠を時間ではとらえることはできませんが、永遠の中に時間があります。ですから神様は見えなくても心は分かるのです。


神様はどのように愛するのかと言う時に、答えるのが大変でしょう。神様は無形の神なのでどこでも通ることができることを知らなければなりません。若奥様の目の中に入って心臓の中にも入って……。どこにでも行かないところがないのです。すべてに通じるのです。それでは、神様はどこに住んでいるのでしょうか。神様の住んでいる家は私たちの心の真ん中です。男性の心には神様の男性的心情がとどまり、女性の心には女性的心情が入って生きるというのです。

全知全能なる神様、すべての天下を料理される神様がここにいるとしましょう。力で言えば太白山も吹き飛ばし、地球にも穴を開けることができる能力の神様なのですが、そのような神様を皆さんの目で見ながら生きるとしたら生活することができると思いますか。神様が見えなくて良かったというのです。見えれば皆さんは神経が衰弱して一時間も我慢できないのです。ですから神様が見えないことを有り難く思わなければなりません。これは笑い話ではありません。今までの話は私がそのような問題を中心として深刻に通過してきた経験談です。他人のことを言ったのではなく、私が今までたどってきた経歴報告のような話です。

もしこの世界に空気が一升しか残っていないとすればどうなるでしょうか。神様が意地悪い方ならば、世界統一は問題ありません。多分五分以内に統一されるでしょう。神様が空気をすべてもっていって「お前たち統一するのか、しないのか」と言えば、世界人類が合唱して「統一します」と言うのです。そのようにすれば一遍に統一することができますが、神様が空気をもってそのようにされないことは有り難いことです。空気がなければ私たちは生きることができません。このように空気は生命に絶対に必要な要素です。ところが空気に対して有り難く思いもせずにどろぼうみたいに使っています。*

天宙の大主宰なる神様が人間の目に見えるようになれば、神様をお互いが奪い合おうとしてけんかをするでしょうか、しないでしょうか。このけんかを防ぐ道がないのです。神様が見えなくて良かったのです。もし神様が見えたとしたらアメリカとソ連がお互いに自分の神様だと争うでしょうか、争わないでしょうか。争うのです。その争いを誰が止めることができますか。神様は全知であられ、こんな争いが起こるかもしれないので無形でいらっしゃるのです。神様が見えることを願うのはばかげた行為なのです。見えなくて良かったのです。

この宇宙は神秘に包まれています。その大きさが二百十億光年にもなる大宇宙です。一光年とは光が一年間かかって行く距離を言います。一秒間に地球を七周半も回ることができる光ですが、この光が一年間かかって行くのが一光年です。それではこのように大きい宇宙を支配することができる主人はどれほど大きいでしょうか。背が高いとすればどれほど大きいでしょうか。神様がそれほど大きければ神様自身が足手まといな体を引きずって歩き回ることができるでしょうか。ずるずると歩き回るとすればどれほど大変でしょうか。一度動けば、宇宙が全部驚き倒れるのです。神様は知恵深い方です。それで「見えない主人になろう」と考えたのです。

それでは神様がどれほど重いですか。それを考えたことがありますか。神様がどれほど重いですか。斤数で量れば何斤になるでしょうか。何億万トンになるでしょうか。重ければその体で歩き回るのは大変ですが、神様は無形でいらっしゃるので理想的です。財布に入れて歩いても重くありません。また、無形なのでどんなに狭い針の穴も通り抜けることができます。思いどおりに運行できるのです。大きいと言えば大きいのに、小さいと言えば無限に小さく、この宇宙どこにでも思いどおりに運行することができるのです。

一番貴重な物があったとしたら、いつも持ち歩きながら、一時もその物と離れたくないのです。それでは最高の宝物といえる神様を持っているとすれば、その方をどこにしまっておきたいでしょうか。安全にしまっておくことができる倉庫があるとしたらどこでしょうか。その倉庫が私たちの心です。人間の心が神様を安全にしまっておくことができる倉庫です。

神様は無形なので、有形の存在を自分より重要視しなければならないという結論が出るのです。そうでなければ回らないのです。また、人は自分の体より見えない心と神様をもっと重要視しなければならないのです。


 二) 本来は自然に分かるようになっていた


人類が堕落しないで本性の善なる父母を通じて生まれていたならば、神様がいるのかいないのかという弁論は必要ではなかったはずです。生まれながらにして自然に分かるというのです。赤ちゃんがおなかの中でお乳を飲む方法を習ってから生まれますか。生まれてすぐに目の前にお乳があれば吸うようになっているのです。自動的に分かるようになっているのです。人類が堕落しなかったならば、神様との関係を自動的に知り、自動的に解決し、自動的に行かなければならない立場であることを知るようになっていたはずです。ところが堕落することにより全部忘れ去ってしまったのです。それで神様がいるのかいないのかを疑う、結果の世界になったのです。これは悲惨な事実です。

人はこの宇宙の被造万物の中の傑作品です。どのくらい傑作品かというと、皆さんが察することのできないくらい大きく素晴らしい傑作品です。それでは絶対的な神様がいらっしゃって、人を造られたとしたら神様自身が言うこと、見ること、感じることを人間には分からないように造られるでしょうか。*

神様に似たアダムとエバが人類の父と母になったならば、その姿を通じていつも神様がいらっしゃることを歴史を通じて認知できるはずでした。もしそのようになったとすれば神様に対して疑うようなことはできなくなるのです。堕落しなかったならば、いつでも見ることができ、呼べばすぐ現れるようになっていたのです。そのような基準になったならば、誰が神様は存在しないと否認するでしょうか。否認することができないのです。

「神様がいる、神様がいる」というのは言葉だけではないのです。原理を通じて主体と対象の関係を中心として見る時に、神様は不可避的にいなければならないという立場ではなく、神様は私が考える前にいたのです。私のすべての感覚、私の一切を主管する天ではないかという立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。知って認識するのが原則ではなく、認識して知るようになっているのです。

私たちは寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのではないですか。これと同じように神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです。

皆さんが寝ていても「お父様」と言うことができ、独り言でも「お父様」と言えなければなりません。御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れながらその生活の裏面で父に対する懐かしさをもって「お父様」と言えば、父の手に捕まるようになるのです。夢のような事実が起こるのです。「お父様」と言えば父の懐に抱かれるのです。このような表現的圏において体恤的感情をどのように体得するのかということは信仰生活で何よりも貴いということを知らなければなりません。そのような体恤の感度、感じる度数、その量いかんがその人の信仰基準になり得るのです。そのような愛の心情をもったならばどこかに行って「私がこれをしなければならない」という時は、「天よ、共にいてくださるように」と言う前に既に神様は共にいるのです。このようなことを皆さんが感じれば、「有り難い神様」と言うようになるのです。

統一教会の原理は、神様は無形の絶対的主体として、二性性相の中和的主体としていらっしゃる方だと言います。二性性相であられる神様自身の分性的実体としてアダムとエバを造り、彼らが成長して愛を中心として横的に連結されるとき、縦的な立場で中心になろうとされたのです。それは何のことかと言えば、アダムとエバが成熟すれば神様の男性性相はアダムの心の中に、神様の女性性相はエバの心の中に入っていくということです。だからといって神様が分かれるのではありません。そのような二性性相の主体としていらっしゃる神様なので、アダムとエバの心の中に臨在することができるというのです。

神様は二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在ということは今まで話さなかったのです。そこに愛を中心とした統一的存在だということをつけ加えなければならないのです。


二 無形の神様は体が必要

 ) 体をもつためにアダムとエバを創造


神様はどうしてアダムとエバのような形を必要とするのでしょうか。万物は形状的な形をもっていますが、神様は無形の存在です。神様はどのような形ももっていません。大きいと言えば無限大です。小さいと言えば無限に小さい方です。そのような方がどんな標準的な形を形成し、形体を現したとしても実体をもった万物はその神様に直接主管されません。ですから実体をもった被造世界においては、実体をもった主人的人格と形を備えた存在がなければならないのです。神様は地上万物の主管だけではなく、無限な霊界も主管しなければなりません。天使長や様々な形体をもった実体、そして無形の実体までも主管するにはその中心的タイプ、すなわち形状が必要です。それで神様はアダムを創造されたのです。

アダムを中心に霊肉両面の世界、無形実体世界と有形実体世界を主管されようとするのが神様の人間創造の目的です。したがって一つの人格的実体と関係を結ばなければならないので、アダム完成とともに神様の形状完成、すなわち形が完成するのです。神様はアダムを造られる時、彼の形態、人相、人格などが無形世界の中心にいらっしゃる神様のような姿にならなければならない、という考えをもってアダムを造り出されたのです。形がなければ形の世界を主管できないのです。

神様はなぜアダムとエバを造られたのでしょうか。神様は無形でいらっしゃる方なので、実体の形状をもった父母になれなければ形状の子女を愛することができないので、体を着るためなのです。アダムとエバの創造目的は第一に、アダムの体を無形の神様が着ることであり、二番目は、体を着ることによって震動的な衝撃が来るようにするためです。言葉だけでは駄目なのです。この衝動的な刺激に喜びを感じるのです。三つ目は、神様は中心軸をもった垂直の父で面積がないので、面をもとうということです。

霊界に行っても神様を見ることができません。神様は見えないのです。皆さん、力が見えるでしょうか、力が見えますか。神様はエネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることができません。体がないのです。ですから実体世界を指導して主管するためには実体をもたなければならないのです。神様はどのような神様ですか。アダムが堕落しないで完成して地上で暮らし、天上に行くようになれば、アダムの形状をもった神様になるのです。それで見えない神様と見えるアダムが一つになるのです。そのようになればアダムが「ははは」と笑うのは神様が「ははは」と笑うことになるので、それはすなわち宇宙が「ははは」と笑うことだというのです。何のことか分かりましたか。

無形の神としていらっしゃる神様では、この宇宙を相手に刺激を感じることができないのです。心自体だけをもってしては、どんなに刺激しても感動しないのです。無形では、同じなので刺激が来ないのです。これが互いに相反するもの、熱いお湯と冷水が合わされば爆発するでしょう。そのような刺激が必要だというのです。

神様は霊界でも無形です。形がありません。それで姿をもった人間の父母になるためには、姿をもたなければ中心になることができないのです。

神様の最後の創造目的は体をもつことです。実体世界を主管するためには無形の神様では駄目なので万民の父母として体をもって現れなければならないのです。感覚器官をもって刺激を感じることができる主体と対象として立つためには、体を着なければなりません。


実体世界を造られた神様が無形であっては、実体世界を支配することはできません。それで体が必要なのです。(アダム・エバが)創造された目的は、神様も実体をもって実体の父母になるためです。その実体がアダム、エバです。アダム、エバが完成したならば神様は、アダム、エバの心の位置に入って神様を中心とした王権を成すのです。王権が成立するとともに父母権が成立するのです。父母権とともに本然のアダムは長子権をもつのです。


今日、次子権は必要ないのです。アダム自体が長子中の長子で、エバも長女中の長女でしょう。そのようになれば二人の息子、娘は、人類の父母中の父母になるのです。父母であると同時に、永遠な世界の王になるのです。

なぜ神様が人に体をもたせたのでしょうか。体のない神様がいたならどれほどいいかというのです。神様が一人でいればいいのに、問題となるような体をなぜ造られたのかというのです。神様自身は無形の神です。無形の神様が体をもった人間の先祖になることができないのです。体をもった息子、娘に対そうとするので、体をもった神様の立場へ出ていかなければならないのです。それでアダムの体が神様の体のようになるのです。しかし神様は、アダムの心のような位置より一層次元が高い世界の段階に上がっていくのです。何のことか、分かりましたか。

結局、神様は無形で形体が見えないので、形体を得て現れるのです。また、形体をもっている人間と万物を主管するために神様がアダムとエバの形体を着て現れます。そのようになればアダムとエバは神様と一体となるので、神様はアダムとエバの心のような方になるのです。アダムとエバの心の位置に神様が臨在して一つになったので、結局はアダムの内的な主人、内的なアダムのような方が神様だということを知らなければなりません。

なぜ人を創造したのでしょうか。この宇宙は実体があるので、実体の主人であるアダムとエバを中心として管理主導することができる立場に立つためです。神様は霊界で無形でいらっしゃるので支配することができません。それで実体の仮面をかぶり、実体の体をもつことによって、あの世で、地球で生産されてくる自分の息子、娘となる子孫を実体をもって支配することができる王になるために人を造ったのです。その王の顔がアダムの顔です。王を造ったので、王妃が必要なのです。王妃とは誰ですか。エバが王妃にならなければならないのです。アダムとエバは地上の祖先であると同時に、天上世界の祖先になるのです。


  ) アダムは宗の祖先、有形の神様


神様は第一に、体を着るためにアダムとエバを創造され、第二に、愛を完成するために創造されたのです。このようなアダム、エバが完成し二人が一つとなることができる愛の実体になれば神様が臨在し、人類の前に愛の父母となるのです。そうして、神様の形状的実体の父母になったアダムとエバが実体の子女を繁殖することによって理想世界ができるのです。そのようになれば、人間を通じて霊界と地上世界が連結されるのです。その目的もあって人間を造られたのです。それで神様が愛を中心としてアダムとエバに臨在されることによって人類の真の父母、実体の父母としていらっしゃってから、アダムとエバがあの世へ行けば、霊界でもアダムとエバの形状で体をもって父母の位置に顕現することができるのです。

実体をかぶった、神様の体で造ったアダムが、人間の先祖になるのです。言い換えれば、アダムは実体の神様です。無形の神様が実体の世界を主管するためには実体の体がなければなりません。それがあってこそ見たり聞いたりできるので、神様が実体の体として造られたのがアダムだというのです。それでは、エバとは誰ですか。エバはアダムの妻です。実体の妻です。それゆえアダムが実体をもった神様ならば、エバは実体をもった神様の妻です。神聖な神様が妻を得るというので驚くかもしれませんが、アダムは実体をもった神様の体です。エバは実体をもった神様の妻として創造されたのです。

神様がアダムとエバを必要とするのには二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就しようとすることです。もう一つは、無形の神様が形状をもって現れるためなのです。ですから、無形の神様が有形の形状をもって有形世界と関係を結ぶことができるその基礎、その核心がアダムとエバなのです。

天の国に無形の神様が一人でいて何をしますか。見えない神様では何の意味もないのです。人間の父母になるには、体をもって感じることができなければならないのです。このような人間と同じ体を着なければならないので、体をもつために仕方なくアダムとエバを二重的存在として造らざるを得なかったということを知らなければなりません。

体をもった父になることで、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象徴します。ですから神様の形状に似たそのような体をもつことができる姿として、アダムとエバを造ったのです。そうしてアダムとエバを天の国の王宮に、王座へ上がらせ、その王と王妃の心の中に神様がいらっしゃり地上世界と無形世界を統治するのです。神様の王国を造るのです。王国は愛の王国だというのです。愛の王国。愛を中心としてのみ霊と肉が合わさるようになっているのであって、他のものをもってしては合わさることができないのです。


エバは未来において、神様の王女です。王女であると同時に、将来の神様の相対でした。エバを愛の相対にしようとしたのです。神様の夫人となるのです。なぜそうなのかと言えば、愛を分かち合うためには体が必要です。体が必要なのです。あの世へ行ってみれば神様は無形です。空中で太陽のような光が二十四時間いつも浮かんでいるのです。空中から神様がみな無形で管理しているのです。その無形の神様が、実体をもった人間の愛の対象ではむなしいのです。ですからアダムとエバは無形の神様の愛の理想の絶対作品です。パートナーとして体をもったアダムとエバを造ったのです。神様は誰の姿かと言えば、アダムとエバの姿です。一つは内的な父であり、一つは外的な父なのです。一つは内的な父母であり、一つは外的な父母だというのです。

神様は愛を共にするために天地を創造したのです。ですから男性と女性を、無形の神様が永遠の愛の実体として登場させるのです。愛の中心の実体として登場させるのが人類の善なる真の先祖、真の父母なのです。皆さんは真の父母をもてませんでした。しかし今日、統一教会には真の父母の教理があります。

神様はアダム、エバをなぜ造ったのでしょうか。無形の神をもってしては実体世界を主管できないからです。無形の神をもってしては、見えない神をもってしては、この見える世界、創造物、宇宙世界を支配することができないのです。ですから神様は、愛を中心として体を着なければならないのです。それで創造をしたのです。愛を中心として体を着れば、内外共に刺激が起こるのです。刺激が起こるのです。

無形の神様は実体がないのでその形体を身代わりしたのが真の父母だというのです。真の父母は個人的な父母、家庭的な父母、氏族的な父母、民族的な父母、国家的な父母であり、霊界に行ってもこれからは真の父母の形状で神様が現れるのです。統一教会が偉大なのはそれです。レバレンド・ムーンが偉大なのは何かと言えば、レバレンド・ムーンの形状を神様が使うというのです。何の話か分かりますか。

神様は、無形の神様なのです。無形の神様が、有形の神様として現れようというのです。有形の神様とは何ですか。堕落していない、私たちが言う真の父母です。

究極的に神様は霊的で無形なので、人間は直接神様から教えを受けたり重生の体験をすることができません。それで神様は中心人物を立てて、人間が彼を通じて教えを受け重生を体験することができるようにされました。この方が正に有形、無形の真の父母です。


神様がアダムとエバを造った目的はどこにあるのでしょうか。私たち人間の形状を見なさい。体をもっているのです。しかし無形の神様は体がありません。体を着なければ、体をもたずしては霊界世界や地上世界を治めることができないのです。それで神様がいらっしゃったとしても、神様が人間の父母として現れるためには体を着なければならないのですが、その体を着た代表が誰かと言えば、アダムとエバだというのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。そうすることでアダムとエバは人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様になるのです。


実体をもった神様、すなわち永遠な無形世界の神様の形状を代わりに着て現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。

神様は、神様と人間が主体と対象として縦的な愛の関係を完成することだけを目標にされてはいませんでした。縦的な愛を完成し、アダムとエバの横的愛の結実をもたらそうとされたのです。その瞬間が正に、内的父母であられる神様が外的父母であるアダムとエバと完全一体を成すために臨在される、愛の理想の成就の瞬間です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状を使って有形世界に永存される父母になるのです。この時アダムとエバは、真の父母、真の先祖となるのです。



三 神様は人格的な神

 一) 神様は知情意をもった人格神


今日、多くのキリスト教信者たちは、神様は唯一無二のお方であり、絶対的な方であり、創造主であり、至高至善の位置にいらっしゃるので、被造人間すなわち被造物と創造主は関係をもつことができないと考えます。被造物は俗なるものであり、創造主は絶対的で神聖な方であると見ます。しかし愛の概念を中心として見る時、至高至善の神様であり、どんなに低俗な被造物だとしても愛の関係を結ぶためには人格的内容が同じでなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。人格を備えた人間と性稟が同じでなければならないのです。

神様は、どんな神なのでしょうか。人格的な神です。知情意を合わせた内容をもった人格的な神です。そのような人格的な神が最高に願うのが愛なので、その愛の対象として私たち人間を造ったというのです。これは驚くべき事実です。

神様は第一原因的存在ですが、人間をどのように造ったのでしょうか。神様と同じように造ったというのです。神様と同じように造るのに、神様の形状をかたどって、形状どおりに造りました。その言葉は何を意味するかと言えば、私が父に似ると同時に父は誰に似ましたか。私に似たというのです。それで答えになります。ですから神様を模索してみるとき、神様はどんな方ですか。私のような方だと言えば、さっと入ってくるのです。

神様は誰に似たのでしょうか。神様の必要とするものが愛ならば、神様が愛するのに、神様に似たものを愛するでしょうか、神様と似ていない動物の子を愛するでしょうか。神様は喜ぶことができ、愛を分かち合うことができる相対的なものを必要とするのです。ですから人間がそのような相対ならば、人間を中心として見る時、神は人格的神でなければならないという結論が出てくるのです。そうでありながら、人間とはすべての要素が一〇〇パーセント和合しなければなりません。体と心の素性において、すべてが和合することができる神でなければなりません。ですから神様は、知情意をもった神でなければならないのです。

神様がいらっしゃるのならば、人間とはどんな関係なのでしょうか。神様が人間と関係をもつためには、人格的神でなければならないのです。人格的神になるには、人間と同じでならなければならないのです。人間には心があり体があるのと同じように、このような素性がある人間を造られた神様も、人間と共に共同目的をもつことができるその本体ならば、人間に似なければならないというのです。二性性相という概念はここから出てくるのです。

さあ、それでは、神様も人間のような人格をもっていますか。人と同じならば神様は男性でしょうか、女性でしょうか。それでは男性と同じようにぶら下がったものがあるでしょうか、ないでしょうか。神様は何性相と言いましたか。二性性相の主体なのですが、凹凸があるでしょうか、ないでしょうか。それを考えたことがありますか。

神様が笑うでしょうか、笑わないでしょうか。神様が笑うのを見ましたか。神様も目があるでしょうか、鼻があるでしょうか、口があるでしょうか、耳があるでしょうか、体があるでしょうか。既成教会の信者たちをよく見てみると、でたらめです。神様に目があるのか、ということも知りません。目を本当に見たかと言えば、知らないのです。神様は誰に似ましたか。誰に似たのでしょうか。神様に似たと言うのです。そんな答えがどこにありますか。神様は誰に似たのですか。息子、娘に似たのです。それで神様は人格的神でなければなりません。人格的神として神様が、私に人格的最高の基準を要求するのです。人格的最高の基準とは何ですか。それはお金でもなく、権力でもなく、愛なのです。

神様がいらっしゃるのならば、神様も人格的神でなければなりません。人と同じでなければなりません。人格的神だということは、知情意を備え、感情とか、またはみ旨を中心として目標とか、そのようなすべてのものが具体的でなければならないのです。

神様は、知らないものがありません。知識の大王であられ、能力の大王であられ、全知全能であられるというのです。また、遍在されます。いらっしゃらない所がありません。この方が必要なものとは何ですか。ダイヤモンドですか。それはいつでもつくることができます。黄金ですか。宝石ですか。神様が必要なものは愛です。神様が一人でいて「ああ、愛があってとてもいい」と言い、「ひひひ」と言いますか。神様が必要なものとは何ですか。神様も人格的神ならば口があるでしょう。鼻もあり、目もあり、耳もあり、手足もあり、心もあり、心情もあるでしょう。人格的神ならばです。

神様はいったいどんな方なのでしょうか。全知全能で、遍在され、ただ一言で世界を殺したり生かしたりする……。そのような神様を私たちは必要としません。私たちの本心は、どんな神様を願うでしょうか。「愛をもって、私のお母さん、お父さん以上の愛で愛さざるを得ない方なのだな。我が国に義なる国王がいるとすれば、義なる大統領がいるとすれば、その国王以上、その大統領以上の方なのだな」と、こんな方を願います。大統領は四年ごとに変わるので慌ただしくて、別に尊敬するほどでもありませんが……。

今日、この世界を探し求めてこられた神様がいらっしゃるとしたら、その神様は知情意を備えた神様であることに違いありません。なぜでしょうか。人間がそうだからです。それは人類を中心とした知情意ではなく、天倫を中心とした知情意です。

絶対的神様は、悲しむことができるでしょうか、できないでしょうか。全知全能なる神様は、悲しみの場を避けることができるでしょうか、できないでしょうか。その悲しみとかかわることができるでしょうか、できないでしょうか。これは深刻な問題です。私たちのような人間は、それをそのまま通り過ぎることはできません。絶対的である神様は絶対的に悲しみがあってはならないと言うならば、その神様は知情意をもった、喜怒哀楽の感情をもった人間の父となることはできないのです。論理的に矛盾します。ですから神様は、私たち人間よりももっと喜怒哀楽を感じることができる主体とならなければなりません。

神様に対して正しく証した宗教団体はありません。仏教でも儒教でも、みな同じだというのです。神様と言えば、すぐにあぜんとして物が言えなくなります。彼らは人格的な神様、知情意を兼ね備えた神様を知らないのです。しかし統一教会は、神人一体を主張しているのです。それが偉大だというのです。

統一教会が誇ることができるのは、神様をよく知っているということです。神様をはっきりと知っているというのです。神様は、知情意を備えた人格的神であると同時に、愛の主体だというのです。それを私たちははっきり知っています。その愛の神は、天情が中心なのです。天情の中心位置は行ったり来たりできないのです。



  ) 神人一体の人格神を要求


神様も知情意をもった方であられるだけに、神様にも願いがあり、事情があり、心情があります。神様の願いは何で、神様の心情が何で、神様の事情とは何でしょうか。人間の事情よりも先に知らなければならないこととして、これさえ知ればいいのです。これさえ知れば、自然に人の願いが何であるか一遍に分かるのです。なぜでしょうか。人間の目的は神様であり、神様の目的は人間なので釣り合うのです。人間の事情をよく知って、願いをよく知って、心情をよく知る人は、神様の願い、神様の事情、神様の心情と通じることができるのです。

愛を論じるならば、人格的神でなければなりません。情緒と、人格的に人と同じ素性をもった神でなければならないのですが、そのような神を提示した宗教はキリスト教以外にはないのです。神様を父と言ったのは偉大な発見だというのです。神様を父だと言ったのです。神様を父だと発見したという事実は今先生が話す、神様を内的父と外的父と見て実体に一致する愛によって統一的な権限をつくろうとするその基準、確実にこの基準までは発見できませんでしたが、そんな内容を暗々裡に解明することができる標題を掲げたという事実は驚くべきものです。そして唯一神を論じました。ですからこの宗教は世界的宗教であり、世界がこの宗教を中心としてまとまることができるというのです。この宗教によって世界が一つになることができる道を立てていくと、このように見るのです。

今日、数多くの道がありますが、心情を通過することができる一つの道が歴史路程において現れませんでした。そのような道は必ず現れなければなりません。もしそれが現れないとするならば、神様はいらっしゃらないのです。人間が守らなければならない社会的倫理と道徳を教えてくれる道もあり、無限な霊界を教えてくれる道もありますが、倫理道徳と無形世界に対する教えを統合し、一つの心情の骨子の上にあげられた宗教がなければなりません。そんな宗教を探してみると、キリスト教だったというのです。キリスト教は心情の宗教です。人間は堕落することによって神様を失ってしまい、神様が私たちの父だということが分からなくなったのです。実体をもった真の父母を失いましたが、キリスト教はその真の父母を紹介することができる宗教です。

哲学の最後の終着点は、神様を発見することです。その神様はどんな神でしょうか。絶対的な神、不変の神、唯一の神です。神様を発見することにおいて、その神様は私たち人間に必要な人格的神でなければなりません。私たち人間と関係を結ぶためには、私たち人間が考えるすべての内外を備え、意志を備え、理想を備えた人格的神でなければならないというのです。すべての面で通じることができる、情緒面やみ旨的な面や、または知識的面で私たち人間と通じることができる、完全に関係を結ぶことができる神様でなければ、どんなに神様がいると言っても私たちとは完全にかかわることができないのです。このように見るとき哲学は、人格的神にならなければならないという標題のもとであがめ尊んでこなかったのです。

神様は誰に似ましたか。息子、娘に似ました。皆さんは誰ですか。神様の息子、娘です。神様に似たのです。そして神様は人格的な神です。神様がつまらない神様でいいでしょうか。キリスト教の驚くべきことは、人格、愛を中心として、知情意を中心として情緒的な人格的神を論じたということです。これが偉大です。そして唯一神を論じました。

神様が人格的神ならば、神様に愛が必要でしょうか、必要ないでしょうか。私たち人間が神様の息子、娘として生まれ、神様に対して父だと言うなら、父が必要なように私も必要なのです。私も必要なように父も私が必要なのです。

人格的な神がいるとすれば、その神を中心として何が連結されなければならないでしょうか。皆さん、神様と言えば高いところにいらっしゃると言うでしょう。そこに私の体が連結されるでしょうか。違います。心が連結されるのです。人格的な神であり第一原因なる存在の神様を中心として人生を生きていくのに、垂直のような心を中心として生きていくのであり、地球星が太陽系を中心として角度を合わせて軸を成して公転しながら一日、二日、三百六十五日と回るのと同じように、回りながら生きていくのです。このように見なければなりません。

神様がいらっしゃるならば、神様の摂理を通して行かなければ、世界が未来に希望を残す何ものもないという、論理的な結果として結論を下すことになりました。ここにおいて統一教会が出てきて、神様がいるという実存性と、知情意の完成基準に立った人格的神を認定し、心情圏を中心とした理想世界を実現しようとしたのです。統一教会が初めて、神と人間の関係を確実にしたというのです。


四 神様は父であられる

) 神様と人間は父子の関係


 神様と人間は父子の関係ですが、どのようにしてそのような関係が結ばれたのでしょうか。神秘の境地に入ってこの宇宙の中心が何であるかと尋ねると、父子の関係だという答えを得るのです。宇宙の中心とは何でしょうか。一言で、父子の関係です。

 天地の中心と宇宙の根本とは何ですかと、神様に祈祷してみれば、父と息子、娘の関係、父子の関係だと言います。分からない人は、肉親の父、母、息子、娘との関係だと思うでしょうが、神様との根本関係を言っているのです。

 神様がなぜ人間を創造されたのかといえば、一人でいれば刺激がないからです。喜びとは相対関係によってわきいずるものです。一人では喜びの刺激を得ることができません。神様の相対的位置に立って初めて最高の愛を得ることができるのです。そのようになれば、神様の性相がそのまま実体化されます。神様が悲しくなれば人間も悲しくならざるを得ません。ですから人間と神様の関係は離そうとしても離すことのできない不可分の関係です。どんなに研究してみても、ここに到達するようになるのです。

 神様と人間が父子の関係だと言いましたが、父子の関係がもつ特定内容とは何でしょうか。父と息子が出会うことができる最高の場は、愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心です。そのようになれば愛と生命と理想は一つの場所にあります。その場所に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想です。それを決定することができる最初の因縁が、父子の関係です。

 神様は私たちに愛を与えるとき、どれくらい与えたがるのでしょうか。神様の愛はこれくらいならいいだろうという限界を引いて与える、そんな愛ではありません。無限に与えようとする愛です。神様はすべて与えても、「お前によって、お前の中で生きたい」と言います。そのようにさせる本質とは何でしょうか。愛です。神様も愛の中に入って僕になってもいいというのです。父は愛する息子が自分の食卓の上に上がってうんこをしても、それを眺めて喜びを感じるのです。愛は法を超越します。

 神様が今まで人間に愛を与えたからといって、「私は完全にすべて与えたのに、お前たちはなぜくれないのか」と、このように言えますか。絶対的な愛をもった神様は、今でも与えたい愛をすべて与えられずに、もどかしがっています。自己を主張することができない神様です。完全な愛を与えようとしたのが神様の人間創造の目的ならば、神様は今まで完全な愛を与えられなかったので、人間世界に対して愛を与えたがる神様です。そのような神様なので、考えるほどいいのです。「私はすべて与えたので、これからはお前たちがもってこい」と言う神様ならば必要ないのです。

 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様の骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をすべて投入して創造した人間なので、神様を引っ張れば引かれてこざるを得ないのです。

 神様は愛のために創造しました。愛ゆえに創造したので、男性と女性が愛し合うのを見るのがもっといいのです。それゆえ、神様は存在世界の前に現れるとき、愛の本質として現れます。

 子供は、お母さんとお父さんの愛の実現体であり、投入体です。お母さん、お父さんの生命の延長体です。またお母さん、お父さんの理想の具現体です。子供はお母さん、お父さんの愛と生命と理想の基盤から生まれるので、父母はその子を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対なのです。


 神様と人間は、絶対的な相対として愛の関係を中心として生まれた存在です。その位置が、神様は父となり、私たちは息子、娘となる位置です。もしそれ以上の位置があるならば、人間の欲望はまたその位置を占有しようとするのです。人間の欲望は最高を追求するので、それ以上のものがあったとしたら私たち人間に与えなければならないのです。このような点から見るとき、当然神様は人類の父であり、人間は神様の息子、娘です。

 神様が人間を造るとき、無価値に造ったのではないことを知ることができます。無価値に造ったのならば、神様は異常な神様です。神様は絶対的な方なので、何でもすべて知っています。それなのにそれを知らずに造ったならば、その神様は不完全な神様です。神様は絶対的な方なので、私たち人間を造るときも絶対的な相対として造りました。


 天地を創造した神様はどんな方でしょうか。極めて善なる方であり、すべての万物の根本となる方であり、愛の主体です。ですから神様は天地万物を創造したのち、全宇宙の貴いすべてのものを人間に与えたかったのです。神様は自分が本当に信じることができ、愛することができ、すべてのものを任せることのできる人がいれば、一番貴いものをそっくりそのまま与えたいのです。

 神様が私たちの父ならば息子、娘を造るのに、いい加減に造り、駄目なものを造りたくなかったのは間違いないことです。神様は人間を全知全能なる神様のような同等の位置、同位の立場に立つことができるように造られたので、私たちの良心は最高のものを希望するのです。

 神様が絶対的な方であられるのなら、その絶対的な方がなぜ人間を造られたのかというのです。お金のために造ったのでもなく、知識のために造ったのでもなく、権力のために造ったのでもなく、神様の愛を感じることができるただ一つの道のために人間を造られました。このような観点から見るとき、神様は父であり人間は息子、娘だというのが一つの軸を成すのです。この軸がもし連結されていたならば、人間と神様が愛によって一体になった関係に、何が作用しても絶対に離すことはできないのです。

 神様は人間を創造するとき、完全に投入することによって、より価値があり理想的な完全な形で展開しました。神様はアダムとエバを造られて、彼らのために生きるというのです。神様のためにではありません。自分のために生きていたときから、相手のために生きるときに展開されました。理想的な存在は自分を中心としません。理想的な存在は、人のために生きるところに、対象のために生きるところにあります。この原則が宇宙の根本です。

 神様がどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であられ、全知全能な方であったとしても、お一人ではうれしいはずがありません。「幸福」という名詞、あるいは「うれしい」という言葉は一人では成立しない言葉です。必ず、相対的な関係を備えた立場においてこそ「うれしい」、「幸福だ」という言葉を語ることができます。一人でいて「幸福だ」と言う人がいますか。どんなに全知全能な神様であっても、お一人でいては幸福ではありません。歌が上手な声楽家が、誰もいないところで歌を歌ったとしましょう。それで幸福ですか。そこには相対がいなければなりません。与えたり、受けたりすることができてこそ、うれしいのです。それゆえ、神様も喜ばれるためには、必ず対象がいなければなりません。


 神様は完全に投入して愛の対象を創造しました。そのようにしたのは神様も愛の対象が必要だったからです。ところが愛は一人ではできません。どんなに絶対者であっても、その絶対者の前に愛の対象がいてこそ愛することができるので、その愛の対象として人間を造りました。それで人間を造るとき、いい加減に造ったのではありません。聖書にみ言で造ったとありますが、いい加減ではありませんでした。千辛万苦を経て、自分の一二〇パーセント、何百倍を投入して造ったのです。

 神様の天地創造を考えるとき、既成教会の信者たちは「神様は全知全能なのでみ言で造られた」と信じています。しかし魔法を使うように、そのように造ったのではありません。知性の限りを尽くし、自分の身を全部投入して息子、娘を創造しました。ですから愛するのです。私たちも精誠を尽くさず、血と肉を投入しないものは愛しません。私の骨の中の骨、肉の中の肉、私の思想の中の思想、私の全体中の全体を投入したので希望の対象とするのです。

 神様は、創造の理想的出発点をどこに置いたのでしょうか。神様の前にすべて「ため」に生きよ、というのではありません。「お前、私の所に来てくっつけ」という吸収ではありません。投入です。「くっつけ」ではなく投入です。その言葉を振り返れば、「ために存在する原則」に理想的出発点を置いています。ですから神様は、人間のために投入しました。神様自身は人間のために存在します。

 神様が「私は愛である」と言いましたが、それは何でしょうか。夜も喜び、昼も喜び、働きながらも喜び、休みながらも喜び、踊りながらも喜び、泣きながらも喜ぶということです。それで「私には愛がある。すべてある」と言ったのです。「すべて」という言葉は、その中に全部入っているということです。愛が一番好きな方は誰かと言えば、神様です。そんな愛をすべてもっている神様なので、その愛の味を占めれば死んでも離せないのです。

 神様は全知全能で、遍在されるお方として、惜しむものがなく、もっていないものがありません。すべてのものをもっていますが、その全部の価値よりも貴く立てて誇りたいものがあるとすれば、それは何でしょうか。神様は、ただ愛のほかは必要ないというのです。愛以外は必要ないというのです。

 創造理想完成はどこから始まるのでしょうか。創造理想完成は神様から始まるのではなく、人間から始まるのです。創造理想完成なので創造物から始まります。創造物の中心は人間です。ゆえに人間の完成がない限り、神様の完成はあり得ません。神人一体なのでそうなのです。

 神に一致することができる、神のみ旨に一致することができる、神のみ旨を中心としては過程的み旨ではなく、完成的み旨の中心の核と一致することができるそれとは何でしょうか。それが神様の全知全能なのでしょうか。全能性をもってしても駄目なのです。全権でしょうか。違うというのです。それでは遍在する素性でしょうか。それも違います。それは何でなければならないのでしょうか。神様自身も生きて生活するのは、もちろん霊界があって時空の関係を超越したところで生きていくのです。生きていくには何を中心として生きていくのでしょうか。無限な力がある、遍在する、全権的権限がある、それではありません。神様も愛を中心として生きていく、このように見るのです。生きていくには始まりもそうで、過程もそうで、永遠にそうなのです。神様も真なる愛の対象をもつようになれば喜ぶからです。

 神様は絶対的であり、全知全能なので、愛をひたすら与え与えて、また分け与えても限りなく補充することができる愛の倉庫をもっています。それでは、神様の倉庫から愛を多く盗んで、夜も昼も限りなく愛を取って分け与え分け与えるとき、神様が「やあ、こいつ! 盗人、愛どろぼう!」と言って処罰するでしょうか。全知全能な神様なので、「そのようにしろ、してもいい。いくらでもやってみろ。お前が永遠にやってみろ。お前が入ってきても余る。それで私が神様だ。だから私が主体だ!」と、神様がそのように言われるのです。「私が主体なので、客体に与えても残ってこそ主体だ。お前たち客体である人間に与えても余ってこそ主体としての神様であって、そうでなければ神様になれない。私がそうなのだ!」と言われるのです。「私から愛を盗んで神様の愛の発電所のように限りなく与えたいならば、いくらでも補給してあげよう」。それで「これが全部なくなれば私はまたもっていきたいのですが、神様の愛のパイプに私を連結したらどうでしょうか」と言う時、「そうしたければしなさい」と言うのです。


  二) 神様は一番近くにいらっしゃる方


 真理中の最高の真理とは何でしょうか。それは父母であり、夫婦であり、子女です。それ以上はないのです。それでは真理の中心とは何でしょうか。愛です。このような原則を中心として見るとき、最高の真理の中心とは何なのでしょうか。神様は真理の本体であり、善の本体であり、愛の本体であり、生命の本体だと言うのですが、それは何を意味しますか。みな同じ言葉です。真理が成立するには愛と生命がなくてはならないのです。ですから最も核心である生命の本体、愛の本体、真理の本体は神様ですが、神様はどんな方でしょうか。私たち人間の父であると同時に母です。核心は父母です。このように見れば、神様は簡単な方であられます。

 神様は白い髭が生えているでしょう。それが似合うのです。さあ、神様が髭をそっと触るとき、息子が「僕は長い髭が好きだ」と言えばその髭は長くなり、「短い髭が好きだ」と言えば短い髭になるのです。そうなるはずです。全知全能な神様なので、神様の顔は男性に対するときは粗雑で乱暴に見え、男性格が好きなアダムには男性のように見え、エバのような女性には女性が喜ぶことのできる姿を見せるのです。

 神様は天地創造の以前からいたでしょうか、いなかったでしょうか。それでは神様の年は何歳でしょうか。そう、七十しか知らない人は七十だと言ってもいいです。そのような人には神様は「ほほ、私は七十だ」と言うのです。五つしか知らない人が「神様何歳ですか」と言えば「ほほ、五つだ」と言うのです。それ以上知らないからです。数がどんなに多くても、その数で数えられるような神様ではありません。私たちの神様がそうだというのです。

 神様も冗談が本当に好きです。ユーモアが好きです。ユーモアの大王は誰でしょうか。誰かと言うと、神様です。全知全能なのでユーモアも多いのです。笑うときもにこにこ笑い、おなかをよじりながら笑い、転げ回って笑わせることができる大王とは誰ですか。神様です。そんな大王が神様だというのです。

 神様は外的に男性に似たとするならば、内的には女性に似たのです。神様は、強く、全知全能でもありますが、お釈迦様のほほえみに花を添えることができる慈悲の心もあるというのです。女性の中の女性のような心もなければなりません。そうしてこそ両面がみな生きるのです。

 神様が宇宙の大主宰であり全知全能であられて、もっていないものはないくらい能力が多い方ですが、どんなにそうだとしても愛の因縁をもって孝子の立場に立った息子が尋ねもしないで胸をかき分けるからと言って「おい! やあ! お前、いつ見たというのか」と言いますか。いつ見たのかと言ったとしても知らないふりをして幾度も胸をかき分けて、昔、自分のお父さんの乳を触ったようにこうして……。「私は昔、うちのお父さんの乳を触ったように触りたくてそうしたのです」と言えばどうしますか。気分を悪くするでしょうか。お父さんが本当に幸福を感じるでしょう。だんだん大きくなれば自分のもとを離れ、壁を越え、川を越え、山を越えて、消えようとしていたのが、越えていった息子が、壁を越え、門を越え、服を越え、昔のように自分の乳を触ろうとする時、お父さんは気分はいいでしょうか、悪いでしょうか。もうすぐ死にそうなおじいさんも、「早くここに来て触れ、早く!」と、気分が良くてそうするでしょう。

 神様は創造主ですが、つけ足すものがどこにあり、引っ張るものがどこにありますか。大きくなろうとすれば吸収して引っ張るとか、誰かがつけ足してくれるとかしなければならないのです。自分が吸収するか、第三者の存在がもってきてつけ足してくれるかしなければなりません。ところが神様自身において、つけるものもなく引っ張るものもないのに、自体がどのように大きくなることができる概念を立てるのかというのです。これが重要な問題です。私がこれを話せば皆さんがむやみに話して困るので話さないのです。研究してみてください。宿題を出すので研究してみてください。論文を書いてみなさい、私が点数をつけてあげます。

 本来、絶対者なる神様はどのように始まったのでしょうか。一度にさっと出てきて生まれたのでしょうか。それが気になりませんか。そんなことを言えば既成教会の信者たちは、「ううー、創造主は聖なる方なのに、その冒も普通の冒ではない。ばかげたことはやめなさい!」と言うのです。神様が生まれて出てきたのでしょうか。ただそのままいたのでしょうか。気になりませんか。その問題に対するには、論理的背景を備えなければなりません。尹博士。どのように出てきましたか。物理学の博士様がそれを知らなければならないではないですか。博士様がそのように顔を隠せば恥ずかしいではないですか。統一教会員も仕方なく「自然にいらっしゃる?」と言うでしょうが、違うのです。神様も発展していかなければならないのです。そのように言えば正しいのです。

 調和の無限な力をもっているのは何ですか。神様も研究したことでしょう。神様が人格的神として人と同じならば、全知全能なるその方もそれに対するとき、その中に行って安息の睡眠を取りたいのです。神様がいつも目を大きく開いて「こいつ、昼夜休まずに蕩減復帰をしろ」と、このように言うことができません。神様も道理がそうではないですか。息をする道理と同じです。息を吐けば吸わなければなりません。神様も働けば、休まなければなりません。神様が働くのもすべて、休む喜びを感じようとするからなのです。神様もそのすべてのものが、相対的授受関係の因縁になっています。

 神様が愛することができる相対は、私たち人間しかいません。被造物の中で、神様自身がまた別の神様を造ることはできないのです。どうしてですか。全知全能なる神様なので神様と同じ、もう一つの神様を造るだろうと、それも可能だと思いますが、神様がそのように造ればどうなりますか。同じ神様が御飯を食べるとき、一緒に御飯を食べ、手入れをするときは一緒に手入れをして、立つときは一緒に立ってついて回りながら、神様が座れば一緒に座り、このように億千万年一緒に行動するならば生きていけますか。考えてみなさい。どんなに気が遠くなるでしょうか。一日もたたないで目が回ってひっくり返ってしまいます。また、話はどうしますか。話をすれば何日話すと思いますか。三日間ですか。「あれ、あの、同じではないか! 死にそうだ」と言うでしょう。

 宗教の中心とは何でしょうか。神です。神様です。もちろん神に対する名前はたくさんあります。しかし名前が問題ではありません。その神は二人になることができないのです。根源は一つなので、一つの神です。一つの神について話すとき、各国の言語が違うので一つの神を表す名詞は違っていますが、その本体は一つなのです。

 天と地自体も自ら存在したくて存在するようになったのではなく、必ず存在するようになった動機と根源を通じて、ある力の源泉に立脚して生まれたということを考えるとき、ここからももっと上がって必ず中心的な主体を備えて天地を動かすとか、あるいはここに創造するという力の作用体、根本の作用体がいなければならないのです。このような立場にいるその方を私たちは神様と言いますが、民族が違い、言語が違うからといって、違う表現をするその名詞が問題ではありません。いずれにせよ、この宇宙の中心がなければならないのです。その中心は全体、この存在世界の前において、存在が作用し移動するとしても、その移動するのに従って移動するのではなく、この動く相対的な世界の中心において億千万年動かない中心的な本体がなければならないのです。



 五 法度の中での全知全能である

  一) 原則的基盤の上での全知全能である



 神様が天地万物を創造するようになった動機とは何でしょうか。根本に入っていくのです。神様はお金が必要ありません。お金のためでもありません。知識のためでもありません。知りたくて造ったのではありません。何かの権力のためではありません。全知全能で遍在されるその方は、知らないことがありません。知恵の王であり、能力の王であり、黄金の王ではないですか。ダイヤモンドもいくらでもつくることができるでしょう。神様にはダイヤモンドが必要ありません。いつもあるのにそれが必要ですか。ないから必要なのでしょう。また知識というのは……。この宇宙のすべての原理原則を中心として運動し作用する一つの構成体を全部コントロールすることができる法理、法度を造られたその知識に比べれば、今日の科学者たちがどんなに研究しても、自然界の法則一つ発見してそれでもって博士になったと威張ったりして、そんなものは何でもありません。芸術もそうなのです。芸術というものが他のところにあるのではなく、全部自然から学んできたものです。自然にはないものがないのです。

 神様は全知全能なる方なのに、力がなぜ必要でしょうか。宇宙を動かすことができる主体であられるのに、そうではないですか。力の大王だから力は必要ないのです。歴史上の英雄豪傑が偉いと言っても、歴史において大国を統治した君王、帝王たちが過ぎ去りましたが、彼らはみんな神様の権威のもとで踊りを踊っていった人たちです。神様は、私たち人間が必要とするお金も知識も必要ありません。

 神様自身は絶対的な存在です。全知全能なる方です。遍在されます。その方には知らないものがなく、できないこともありません。そのようにすべてのものを備えた主体として絶対的な位置にいらっしゃる神様において、何が必要でしょうか。神様が絶対的な主体だとしても、主体自体が主体となると同時に相対となりたい心もなければならないのです。なぜそうでなければならないのでしょうか。人には東だけ必要なのではありません。東があれば西が必要であり、東西があれば南北が必要であり、南北があれば前後、上下が必要であり、一つの球形を成すことを願うのです。ですから宇宙は球形を標準にして動くのです。

 さあ、あの星の国にはどんなものがあるでしょうか。ダイヤモンドの星があるでしょうか、ないでしょうか。全知全能なる神様が宇宙を造ったのならば、ダイヤモンドの星一つだけ造ったでしょうか。

 そう、神様が一番好きなものは何ですか。学者、有名な学者ですか。有名な学者も大したことはありません。自分が何を研究して何をどうしたとしても、神様が造ったすべての自然界のある公式とか原則を発表しただけであって、それ自体を造ったのではありません。神様は、学者も好きではないというのです。その次は大統領ですか。レーガン・アメリカ大統領を神様が好まれますか。世界大統領ですか。宇宙大統領なる方が神様です。全知全能なる絶対者なのに何が必要でしょうか。権力も神様は好まれません。その次には何ですか。お金ですか。口にもするなというのです。

 神様は全知全能なる方です。憤って一度地面をけられるならば、めちゃくちゃにすべてが崩壊してしまうのです。大統領や世界の偉大な人たちも、一度叫んだならば、もれなくすべて流れていってしまうでしょう。その方に権力が必要でしょうか。神様の前には権力は必要ありません。それはちんぴらが好むものです。誰が好むのかと言えば、悪魔が好むのです。


 神様は、天地創造をなぜしたのでしょうか。「力を誇ろうと、全知全能性を誇るために一度造ってみたのだ」と言えばすてきですか。そのようなとき、力によって生まれたものたちが「神様ありがとう。力でもって造ってくださって!」と、このように有り難いと言うでしょうか。神様が知恵が多くてお前を造ったのだと言うとき、気分はいいですか。能力が多くてお前をこのように造ったのだと言うとき、気分はいいですか。能力や知恵で造ったならば私の喜びと何の関係があるでしょうか。それが神様の能力でしょう、私の能力ですか。神様の知恵でしょう、私の知恵ですか。私を見れば無気力この上もない私なのに……。このように考えるのです。それで問題になるのです。

 今日、キリスト教で「父なる神様、全知全能の神様」と言いますが、全知全能なる神様も原則的基盤の上での全知全能であって、無原則的基盤の上での全知全能ではありません。自分勝手にする神様ではありません。自分が法を立てたならば、永遠なる方が制定した法は永遠なものです。自分が立てたものを自分勝手にしないのです。それに順応して越えていこうとするその神様の権威、それが驚くべきことなのです。公義を立てるにおいては、すべて天理の原則にかなう公法を立てるにおいては、絶対に神様がまず踏んで越えていったのちに万民が従うようになっており、宇宙が従うようになっているのであって、それを二番目にすることはできないのです。そのような人間創造の理想的基準があるのです。

 神様一人ではできないのです。今日、既成教会の牧師は「全知全能の神様が、創造能力をもった神様がいつでも思いどおりにできるでしょう」と言うかもしれませんが、とんでもありません。天地すべての存在物は法則、大原則によって作用するのです。いくら神様でもこの法則を破壊して行動することができないのです。この国の大統領でも憲法を中心として制定したすべての法、立法を通じて制定した法を重要視しなければならないのです。そのようにしていないので、今騒いでいるのではないですか。

 このように言えば少しおかしいですが、神様が愛をしたいならばつくればいいでしょう、なぜ愛をつくれなかったのでしょうか。それは思いどおりにつくったならば神様が立つ位置がなくなるからです。それでつくらないのです。それはつくれないのと同じなのです。何のことか分かりますか。「ええ! 神様は全知全能なのにつくれないとは……」。そうなると二元論や多神論という結果に陥ってしまうのに……。しかし、疑えばそうです。

 最近人々は神様の属性について、神様は絶対的であり、全知全能であり、遍在し、唯一無二であり、その次に永遠不変だと言うのです。しかし、絶対的で何をするのですか。唯一だとして何をするのですか。神様が唯一なのと私たちとは何の関係がありますか。大きな問題です。全知全能ならば何をしますか。何の関係があるのかというのです。永遠不変ならば何をしますか。神様自身にはいいですが、私たち人間には何ら関係がないならば、それは邪悪なことになるのです。必要ないのです。盲目的な信仰をすることができないというのです。このようなことを全部分別してあげなければなりません。

 神様は知らないものがありません。全知全能であられ、全権者であられ、遍在されるというのです。それが私と何の関係がありますか。私と何の関係があるのかというのです。


「ああ、全権があるので私を支配するのにいいですね、どこにでも遍在しているので私を監視するのにいいですね、知らないものがないので私をすべて精密に分析して身動きできないように造ったのですね」と、神様が私を全知全能で支配されるとすればいいことがあるでしょうか。

 神様は天地を何をもって主管しますか。法で主管しますが、その法も愛で治める法です。そして治める方向を後押しするために宇宙の法も存続するというのです。それで神様は人間創造をなぜしたのかといえば、愛が恋しくてです。一人でじっとしていればいいのに、何のためでしょうか。刺激的で衝動的な愛が必要だからです。


  二) 愛のみが絶対基準である


 神様が一つだけどうすることもできないものがあります。神様は全知全能でしょう。全知全能ですが一つだけ思いどおりにできないものがあるのです。それは何だと思いますか。金がつくれないでしょうか、ダイヤモンドがつくれないでしょうか。力がないでしょうか。全知全能なる方が一つだけつくれないものがあるというのです。それは何ですか。愛だというのです。愛です。先生の心にも愛がありますか。あると思いますか。皆さんの心にも愛がありますか。あることはあるのです。あることはありますが、自分一人で「私の愛する人、私一人の愛、私の恋人!」と言っていれば気違いになるのです。

 神様一人で愛を成すことができますか。全知全能であられ、唯一無二であられる神様一人で、「ああ、気分がいい!」と、そう言いますか。そうすれば神様も気が狂ったと言うしかありません。レバレンド・ムーンも愛を感じることができるものをもっているからといって一人で「ああ、うれしいな! ああ、私の愛する人よ!」と、こう言うならば、それは気の狂ったやつだと言われるのではないですか。しかし、相対となる紙のかけらでも、このような手拭いを中心としても「愛するお前、手拭いよ!」と言うならば、誰が悪口を言いますか。宇宙に代わって登場することができる相対的価値と権威は、愛の世界でのみ可能なのです。

 どんなに絶対者の神様だとしても、一人では愛をもつことはできないのです。愛は必ず相対的関係でのみ見つけられるものなので、どんなに全知全能なる方だと言っても愛だけは一人で所有することができないのです。もちろん愛の素性をもっていますが、愛の刺激と愛の信号は相対を通じてのみ再現されるのであって、自体だけでは顕現することができません。これが愛だというのです。愛の力です。

 寡婦と男やもめをかわいそうだと言いますが、なぜかわいそうだと言いますか。愛はその中にありますが、発動する何かがないからです。神様がいくら全知全能で遍在する神様だとしても、相手がいないときは愛が作用しないのです。天宙を造られた神様は、誰を中心として相対したいのでしょうか。アダムとエバを中心として愛の作用をしたいのです。

 神様は愛が好きですが、神様が一番好きな愛はどんな愛でしょうか。真の愛です。ところで真の愛ですが、どのようなものが真の愛ですか。真の愛というのは愛の根をどこにおいて言いますか。その根を神様においていないのです。それはおかしな話でしょう。全知全能の神様が真の愛の主人公なのにもかかわらず、その愛の根は神様から始めたくないというのです。その愛の対象になることができる人に根を植えたいと考えるのです。

 神様が天地を創造するとき、誰のためにしたのでしょうか。神様自身のためにしたのか、相対的な創造物のためにしたのでしょうか。神様はもちろん自分のために造ったと見ることはできますが、相対を重要視することにすべての創造の基準をおいたということを知らなければなりません。その相対の主体が誰かと言えば人間です。人間を中心として、すべての人間の幸福を中心として考えたのです。神様自身こそ全知全能な方ではないですか。

 神様は絶対的であり、また全知全能で遍在する神様ですが、神様も愛だけは思いどおりにできないのです。神様も愛の支配を受けます。それでは神様は何ですか。神様は全知全能ではないのではないでしょうか。「神様、あなたは全能ではないのではありませんか」と言えば、「私は全能だが、愛には全能ではない」と言われるのです。神様がなぜそうなのですか。

 神様一人では神様の本分を尽くせないのです。それは何のおもしろ味がありますか。食べ物が心配ですか。寝るのが心配ですか。着るものが心配ですか。思いどおりに供給を受けることができるのです。飛行機に乗って空中を回るとしても、一時間も回ったらおもしろくないのです。どんなに全知全能なる神様であり、どんなに威張った神様でもおもしろくないのです。私たち人間と同じなのです。それで神様も仕方がないのです。自分が努力して貴いとするものを創造しておいて、行ってみるおもしろ味がなければならないのです。このようになるのです。

 神様は、何が恋しくて創造したのでしょうか。絶対的なのに神様は何が恋しくて創造をしたのかというのです。その方は黄金も必要なく、知識も必要ない全知全能なる方なのに、備えていないものがない方なのに、何が必要で人を造ったのかというのです。創造の根本動機とは何でしょうか。権力でもなく知識でもなく、所有物でもないというのです。神様に何がないでしょうか。愛の基盤がなかったのです。神様もやはり一人でいては愛を成せないのです。ですから天地創造の動機、アルファ的起源も愛だというのです。

 神様に何の愛が必要なのでしょうか。神様も愛をもっていますが、相対がいなければ愛せないというのです。皆さん、愛をもっていますか。ところが一人で「ああ、いいな! ああ、私の愛する人よ!」と、それがいいですか。愛というのは相対が現れなければ作用しないのです。これが宇宙の原則です。どんなに全知全能なる神様でも、愛の相対がいなくなれば孤独な神様であり、悲しい神様なのです。

 神様がどんなに素晴らしく、どんなに絶対者であられ、全知全能な方だとしても、一人ではいいことはあり得ません。「幸福」という名詞、あるいは「良い」という名詞は、一人でいて設定される言葉ではありません。必ず相対的関係をもった位置にいてこそいいのであって、そうでなければ幸福という言葉はあり得ません。どんなに全知全能なる神様だとしても、一人でじっとしていてみよというのです。それが幸福でしょうか。歌が上手な音楽家が一人で歌を歌ったとしましょう。それが幸福ですか。相手がいなければなりません。授受するものがあってこそいいのです。それと同じです。神様が喜ぶためには、神様が一人でいてはならないのです。

 神様自身を存在させる起源とは何ですか。何から生まれたのでしょうか。神様が存在するための起源とは何でしょうか。全知全能ですか。絶対的権限ですか。絶対的権限があれば何をするのですか。一人でいるのに、一人でいる両班が絶対的権限があって何をするのですか。誰もいないのに。一人で絶対者になっていれば知識があって何をするのですか。神様の本質が何かという問題が重要な問題です。それが愛です。「ため」になれという愛ではなく、「ため」になろうとする愛です。

 全知全能なる神様も、真の愛の前にはどうすることもできません。大韓民国の大統領がどんなに素晴らしいとしても、真の愛の場ではどうすることもできません。妻を本当に愛するというときは、妻の前に敬拝したいですか、したくないですか。敬拝しても足りません。宇宙の中で偶然にも、私がこうして心から愛してやまない妻がどこから来たのでしょうか。その人がいないと考えたら、四肢がすべて麻痺します。実際にいないと考えるときは大変です。しかし、いるのでどんなにいいですか。いいので大統領でも仕方なくお尻を天にして「思慕する人よ、愛し給え! 愛します!」と言います。そんなとき、小柄な女性が座って見るとき、気分がいいでしょうか、悪いでしょうか。

 神様がどんなに全知全能だとしても、愛を一人で思いどおりにできません。「全知全能だから愛も思いどおりにできるだろう」と言うかもしれませんが、それなら問題が大きいのです。愛の対象が必要ないという論理に逢着するのです。ですから神様も絶対的な中心存在として自分自身の愛、神様的愛に対する刺激と喜びを感じるためには、愛の対象が必要なのです。

 神様自身も相対が必要なのです。神様も愛を一人では成せません。私が人もいないのに一人で立って、「ああ、きょうは本当にいいな」と、このように熱烈に語るならば、気が狂ったと言われるのではないですか。しかし相手がいて熱心に語ったなら、それが筋道に合い環境与件にかなうようになっているでしょう。どんなに全知全能なる神様でも、一人で「うれしい、うれしい、ああ、私の愛がいい!」と踊りを踊れば、それは何ですか。それを知らなければなりません。神様も愛を成すためには一人では駄目です。相対を立てておかなければ刺激的な愛を感じることができません。これが問題です、これが。

 世の中に存在するものの中で神様と相対になる力はありません。神様は全知全能であり、絶対的だからです。または永遠不滅の自存の方が神様です。そのような神様が願われるものがあるとすれば何だと思いますか。お金でもなく、知識でもなく、権力でもない、その何を願っていらっしゃるのかというのです。神様が絶対に必要とするものがただ一つあります。それは人間に絶対に必要なものであると同時に、神様にも絶対に必要なもので、真の愛です。


) 神様も愛の前には絶対服従である


 神様も愛が好きなので、神様も愛に及ぶことができるでしょうか。天地を造られた全知全能なる素晴らしい神様が? 神様が愛に及ぶことができるでしょうか。家の中で虎みたいなおじいさんが、小柄なおばあさんにどうすることもできないこともあるのです。それは何の鼻をつままれてそうなのかというのです。愛の鼻です。愛には偉大な力があるというのです。ですから神様も、愛の前にはどうすることもできません。

 能力が多く全知全能なる神様がいらっしゃるならば、神様はどんなものを好まれるのでしょうか。神様は人間より優れているので、愛を好まざるを得ないという結論が最も理論的に妥当なのです。それでは神様の愛とはいったい何でしょうか。永遠の昔から永遠に「ため」に生きる愛をもっておられ、そのような愛をしようとする方が神様だというのです。

 皆さんは神様を中心として息子にならなければなりません。神様を中心として息子になるには何を中心としてなりたいですか。お金ですか。神様が「私が全知全能なる神様なので、大きい権力を中心とします。父子の関係にならなければ」と言いますか。知識ですか。それはすべて付録です。神様は愛を中心として、その愛と私は一つにならなければならないのです。「その愛だけが最高だ」。そうでなければなりません。この愛を完全に占領する日には、天下にどんなに権能が多い神様でも「うん、うん」と言うのです。

 いくら神様が全知全能だとしても、男性、女性は愛に絶対服従だと命令することができますか。「私も真の愛には絶対服従するから、私のようにお前たちも真の愛に服従しろ!」と、こうすればこそ父なる神様として堂々たる神様になるのであって、神様は守らずに「おい! 息子、娘、お前たちは愛に絶対服従しろ!」と言えば、それは話になりません。先生の位置にいる神様が、独裁者の神様になるのです。神様も同じように「私が真の愛に永遠に永遠に絶対服従するように、息子、娘も真の愛を中心として永遠に服従すべきだ!」と言うとき、息子、娘が「アーメン!」と言うのです。そうでないときには「父は自分勝手にして、私たちだけに服従しろと言うのでしょうか。ふん!」と言うのです。問題になります。このように見るとき、神様も真の愛には絶対服従するという論理を立てなければならないのです。

 どんなに全知全能なる神様でも、真の愛の前には絶対服従するのです。どうですか。この言葉を聞くのはいいですか、悪いですか。その真の愛は東から聞けば良く、西から聞けば悪いでしょうか。西から聞いても良く、南から聞いても良く、北から聞いても良く、上から聞いても良く、下から聞いても良いのです。夜も昼も四季も越えて、青年時代と老年時代を越えて、真の愛は永遠に聞いても悪くないというのです。

 絶対的な力を主張する神様も、愛が定着できるところ、愛が立つことができるところを探されるのです。神様も愛を中心として絶対に好まれるのです。絶対に好まれますが、どのくらい好まれますか。絶対的、全知全能、遍在されるよりも好まれるのです。神様はすべてのものを捨てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするのです。そうしてこそ話が通じるのです。神様は人類の父であると言うでしょう。それでは、父自身が愛を中心として生きずに、「子供たちよ、お前たちは愛に絶対服従して生きろ」と言うことができますか。根源がなければ駄目なのです。それゆえ神様自身も愛に絶対服従して生きるとき、「私がこのように生きるので、お前たちもこのように生きなければならない」という教育をすることができるのです。

 絶対的な神様も「ああ、私が絶対的で全知全能で遍在するのですべてをもっているが、私もその何かに順従して生きることができたらいい」と言うのです。神様も「ため」に尽くしたい心があるのです。そんな神様なので、私のために尽くせという愛をしないのです。「ため」に尽くせという愛はいけないのです。

 神様が全知全能だと言ったので、全知性を中心としてですか。知識を中心としてですか。違います。それでは何を中心としてですか。力でもってですか。力をもってしても駄目です。どんなに春に力があるとしても、花を咲かせる環境を越えることはできません。どんなに夏に力があるとしても、生い茂らせることができるそんな時期を越えることはできません。秋を迎えれば、それが全部枯れてしまうのです。秋がどんなに結実の時期だとしても、冬を克服できないのです。これを克服するためには、いつも太陽を中心に仕えていなければなりません。そこで春夏秋冬を克服することができます、それ以外はできません。それは何のことかと言えば、息子、娘、姉、弟、兄弟同士けんかしている場面において、父母の伝統であられる神様がそこに入ってきて、中心となり「このようにしろ!」と言うとき、統一ができないでしょうか。「統一できない」と言う者は狂った者です。

 今日、現代神学が滅びざるを得ない内容とは何かと言えば「神様は全知全能なる神様なので、その方は愛も思いどおりにすることができる」と考えることです。自分一人で思いどおりに愛することができますか。うちの奥さんなくして、できますか。できると言う者は狂った者です。それでは神様一人で愛することができますか。

 神様は全知全能ですが、神様のように全知全能なものがもう一つあって、二つの全知全能なものが愛するようになれば、その世界はどんなものだと思いますか。これがバランスが合わないで、かえって逃げてしまうというのです。その二人の中で引っ掛かって、行くこともできないし、来ることもできないのです。横に外れてしまうのです。弱いものは強いものに行き、強いものは弱いものに入っていってこそ、ちょうど真ん中にはさまれて身動きがとれないのです。


 弱いものは強いものを、強いものは弱いものを願います。女みたいな男が好きな女は、死んでしまえというのです。女のような男を愛するという女は、死んでしまってもいいというのです。女が女の手を触れば気分がいいですか。女同士で手を握ると気分がいいですか。ソフトな女性の手がソフトな手を握れば、それはどれだけ気分が悪いでしょうか。二つのソフトな手の感じが、どれだけ気分が悪いですか。それは死ぬよりももっと嫌なのです。だから死んでしまえというのです。

 神様がいらっしゃると言うとき、その神様はいったいどんなお方でしょうか。全知全能な方、遍在される方、それもいいです。全知全能で遍在され、できないことがない方……。しかしどんなにできないことがない力をもっていて、どんなにすべてのものより優れた立場に立ったとしても、自分だけのためにさせようとする神様ならばどうなりますか。千ならば千、万ならば万、数多くの人類、多分数千億になるでしょうが、その人類が集まって住むそのような霊界があるとすれば、霊界において神様が「ああ、私は全知全能の方で、絶対的な存在なので、お前たちは絶対的に私のために生きよ」と、このように言われたらどうでしょう。全部神様だけのために尽くさなければならない立場に立ったならばどうなりますか。私たち人間の良心の本質から見るとき、それを永遠に歓迎することができないのです。それは必ず相反するのです。皆さんの心は相反するしかないのです。いつでも、そうではないですか。



六 愛によって遍在される

  一) 愛だけが境界を出入りする



 神様の心は神様のみ言の中だけにあるのではなく、神様が造られた万物の中にもあるのです。天地のどこに行ってもそこに神様の心があるというのです。ですから天はいらっしゃらないところがないのです。すなわち遍在すると言いました。神様の心の中にいることを願うのなら、皆さんが眺める物の中に神様の心があるので、その物を自分の物として、天地のすべての存在物を私の物として抱こうとする心をもたなければなりません。それが天の心です。最高の道に通じた人がいたとすれば神様の心に所有された人です。自分が鳥一羽、香りを放つ花一束を見ても、永遠を歌うことができる境地に入る心をもった人は、万物の中にあるのではなく、神様の心の中にあるのです。

 それでは神様の遍在性をどのように感じるのでしょうか。空気を神様の息吹のように感じなさい。台風が吹いてきたら、それを神様がこの世界のために受難の道を克服してこられながら流された汗のように感じなさいというのです。太陽を眺めれば、その太陽がこの宇宙全体の生命の要因を象徴していることを知って、神様の愛を太陽に学ぶのです。神様の心情を体恤する一つの教本であり、教材として展開させたもの、愛する息子、娘を喜ばせるための教材として立てられたのが自然です。木の葉を見て自分の息子、娘のように思って一人つぶやくことができる人がいれば、彼は聖人に近いのです。

 神様が遍在されるので私たちも遍在するものに似たいし、神様が全知全能なので私たちも全知全能になりたいし、神様が唯一無二なので私たちも唯一無二を願うのです。これが似ました。私自身が神様に似たので、私を神様に似るようにつくりたいのです。私自身がすべての天下を治めたいのです。これがすべて同じように神様に似たのです。

 愛を通じて体恤的な生活をしなければならないのです。それで神様が悲しまれるときに私が悲しみを感じ、神様が喜ばれるときに我知らずうれしくなるのです。孝子は千里万里離れていたとしても、父母の愛はいつもその孝子のそばにあるのです。神様の遍在性において神様はどこにいるのでしょうか。知識的内容に存在するのではありません。しかし、愛はそうではありません。極と極を越えて遍在を妥当に、可能にするのが子供を愛する父母の心、子供に向かう父母の心です。愛を通じるその道に父母の愛は遍在します。どこでもいないところがないのです。それは愛だけが可能です。愛だけがその息子を完全に支配することができるのです。全能な権限はそこに該当するのです。このようになっています。

 愛には偉大な属性があります。神様の絶対的な愛、不変的な真の愛と一致した立場に立つようになれば、神様がいらっしゃるところに私が加勢することができ、いつでも同居することができる権限をもつようになります。そのようになれば私が目をつぶらなくても神様に出会い、神様の悲痛な心情を体恤した者は道を歩いていても立ち止まって痛哭する、そのような体恤的世界があるのです。堕落した世の中でも母の愛は、もし息子が外地で不慮の事故に遭ったとしたら第六感で分かる場合が少なくありませんか。寝ていたとしても「あっ! 誰々よ」と叫んで起きるのです。

 動脈が偉大か、静脈が偉大か、どちらが偉大ですか。同じです。それでは神様が偉大か、人間が偉大か、同じです。愛を中心として見れば、神様が動脈的だとしたら私たち人間は静脈的な存在なので、神様と対等になることができるそのような特権をもった人間の価値があるのです。「天上天下唯我独尊であり、全知全能であり、遍在し、私を通じないものはない」。それは何を中心としてですか。愛を中心として、それが理解できるのです。

 神様はどんなお方でしょうか。神様は欲張りの中でも大王の欲張りです。いらっしゃらないところがない、遍在される神様です。いらっしゃらないところがない神様なので、どれほど欲張りですか。欲張り者とか欲張りと言ってはいけませんが、ともかく欲が多いのです。

 神様は絶対服従できる道があるでしょうか、ないでしょうか。絶対主管しようとするそのような絶対、独裁者的な性格をもった神様が、絶対服従できなくなるときには、高いものは主管することができても、低いものは主管することができません。遍在性という言葉自体が、矛盾した言葉になります。神様も私たちに似たので……。母、父が自分の息子、娘に似ているでしょう。そうではないですか。神様を私たちの父だと言います。神様も絶対服従して生きたいのです。そういう道がないというときは、神様はどれだけ孤独でしょうか。

 自分が描いた作品を持って、夜も昼も酔い、眺めて涙を流し感嘆する人がいれば、それを描いた画家は気分が悪いでしょうか。そのような人がいれば連れてきて、部屋に招待し「どうしたのですか」と言いながら、その理由を話させるのではないですか。「ああ、とてもいい。ああ懐かしい。ああ、一緒にいたい」と言ったからといって、狂ったと言うでしょうか。皆さんは神様を知らなくても、神様が全宇宙にいっぱいに満ちている遍在性を知識的な主体としておられるよりも、愛としておられるので「私がどのように同感権を各分野で体恤することができるのか」という立場で神様を再認識し、再発見しなさいというのです。


  ) 宇宙には愛がない所がない


 神様は絶対的な神様ですが、なぜ絶対的なのでしょうか。愛に絶対服従するからです。気分がいいですか。悪いですか。また神様は遍在します。遍在。神様の愛がない所がありません。

 神様の愛は宇宙を抱いても余りあるのです。中心的な基盤をもっています。最も大きい基盤を包容する愛の中心者が神様です。もし神様が動くという場合には、小さいものも全部ついて動かなければなりません。一つの大きな円の中に全部入っているでしょう。それで神様が全世界、全宇宙をカバーすると言っても理論的な言葉になるのです。


 神様がいなくなるときは、宇宙がすべて空になるのです。空みたいなのです。しかし神様がいるようになれば、宇宙はいっぱいに満ちているのです。なぜですか。愛があるから。ですから私が一人でいても神様がいることを知れば、宇宙はいっぱいに満ちるのです。どこにでもいらっしゃるのです。どこにでもいらっしゃることを感じるようになるのです。それで遍在の感動を知ることができるのです。愛の中にいて……。しかし私が神様を分からなくなるときは、すべてのものが空になるのです。ないのです。同じだというのです。


 愛の主体がいなければ、何もないように感じます。しかし愛の主体がいれば、すべてのものが満ちるのです。愛がいっぱいに満ちてこそすべてのものが満ちるので、無限に与えることができるし、真実に与えることができるという結論が出てきます。授受することは理想の実現です、理想の繁殖です。愛の世界は距離を超越します。愛がどれほど速いのかといえば、光もついて行くことができません。一番速いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満ちるのも愛です。

 愛とは何でしょうか。回ることができる潤滑作用と軌道作用をしてくれるものです。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も動かそうとすれば油を入れなければなりません。運動するのに潤滑作用がなければなりません。何でも運動しようとすれば潤滑作用をしなければなりません。ですから最高の喜びの潤滑作用をするものは愛しかありません。それは根が遍在する神様なので、なくなることはありません。

 愛は神経のようなものです。私たちが髪の毛一本を引っ張れば体全体が引っ張られるのと同じように、愛さえ引っ張れば宇宙が引っ張られ、愛が動けば宇宙がすべて和して回るようになります。

 この宇宙にすべての人々の心を満たしてくれる一つの主体があるとすれば、それはどんな主体でしょうか。絶対的な一つの中心者でないわけにはいかないのです。どのような心の位置にも愛をいっぱいに満たすことができる絶対者がいなければなりません。ですから彼は無限な絶対者でなければなりません。今日、数十億になる人類の心をすべて満たしてあげなければならない神様のその愛の量が、どれほどでしょうか。それは絶対的でなければなりません。全知全能で遍在という言葉が、だから必要なのです。その言葉は神様に必要な単語だというのです。これは理論的です。


 七 既存神観の問題点

  一) 既存神観は二律背反的である


 宗教の教えに対する反問にはいろいろあります。「神様は果たしているのでしょうか」。「神様が全知、全能、遍在し、至善、至美で、愛であり、審判の主であり、人類の父などと表現しますが、そうだということをどうやって知ることができますか」。「じっとしていてもいいはずの神様が、なぜ宇宙を創造したのでしょうか」。「神様の創造の目的は何なのか」。「創造には方法があったであろうが、その方法は何なのか」。「絶対的な神様が創造した世界に、なぜ弱肉強食という現状が起こっているのか」。「人間が堕落して罪の世界ができたと言うが、完全な神様が創造した人間がなぜ堕落するようになったのか」などがそれです。

 神様は問題が多いのです。全知全能だと言いながら、なぜイエス様を十字架に架けるようにしたのでしょうか。十字架の道理でなくては救援することができませんか。それにどうやって答えるのですか。全知全能だと言いながら、十字架上のイエス様を救うことができないのなら、そんな神様は残忍な神様です。人間の前から追放しなければならない神様です。信じるとは、何を信じますか。

 神様は人間を堕落するようにしておいて、なぜ悲しまれるのかという根源を暴いて、人間と神様との関係がどのようになっており、また全知全能だという神様が、なぜこのように無能な神様になっているのか、ということを知ろうとした人がいませんでした。

 今まで神学者たちや霊界に通じる数多くの人たちは、サタンがいることは知っていましたが、全知全能なる神様の前に反対するサタンをなぜ防御できなかったのかという問題は分かりませんでした。これが霊界に通じても問題です。いつでも神側に行こうとすれば、必ずサタンが妨害するようになっているのです。多方面から、一方ではなく八方から反対するようになっているのですが、それをなぜ神様が干渉できず制裁できないのでしょうか。このような問題が今でも謎です。霊界に通じても、これだけは分からないのです。

 全知全能なる神様が、今まで数万年の歴史を通じて人類を導いてきましたが、どうして善の目的を成すことができる世界に導くことができず、しまいにはこのような失望と絶望の世界に向かわなければならなくなったのでしょうか。これは深刻な問題です。神がいないと断定することができる内容にもなるのです。神がいないならば、私たち人間が願う理想とか、あるいは平和な世界、人間が追求していくユートピア的な内容が、未来に可能なものとして人間の前に到来するのでしょうか。今まで長い歴史路程を通じて考える人、あるいは無数の哲人たちがそのような世界を追求したのにもかかわらず、それにまだ到達できず、現在にとどまっているという事実を見るとき、私たちの未来にそのような希望の世界をもたらしてくれるとは考えることができないのです。

 全知全能の神様が、なぜサタンをそのままにほっておくのでしょうか。それをなぜほっておくのですか。一朝にして首を切って処断してしまえばいいのに、なぜほっておくのでしょうか。それが宗教において一番の難問題なのですが、それは簡単な内容でしょうか。

 今、数多くの宗教人たちは「神様」と言えば、栄光の宝座に座って、全知全能であられ、遍在される方、また絶対的な権限をもっておられる方だ、このように考えているのです。それで神様は苦痛とか悲しみとかそのような概念と関係ない方だ、このように考えています。そう言いながらキリスト教では神様をどのような方と言うかといえば、天のお父様だ、とこのように呼ぶのです。そしてお父様と呼ぶすべての信者は罪悪の世の中で悔い改めなければならず、信仰をしなければならないと言います。父子の関係にあるのに、神様と人間がこのように二律背反しているというのです。


 今日、キリスト教で「神様は聖なる方であり、全知全能なる方として、公義の審判主として宝座に座って万民を審判する審判長だ」と言うのですが、皆さん、裁判長がいいですか。裁判長を十年したら病気にかかって死にます。死ぬと言うより病気になってのけぞって倒れます。病気にならなければ偽物です。人の命を奪う死刑宣告を下したりもしただろうに、自分が下した判決が、絶対的ではあり得ないというのです。論法、解説法はいろいろな方向があるのに、自分の判決によってその人の生死の問題を決定するようなことをしたので、そうだというのです。それは深刻な問題です。宇宙の公法に照らしてみるとき、法は絶対的ではあり得ません。ですから考える人であれば、十年判事をしたら病気にならないといけないというのです。

 さあ、それではこの天地の大主宰なる神様がいるならば一度尋ねてみましょう。神様を中心として、今日既成教会ではこの宝座に座って全知全能なる神様、審判主として来られて、悪いやつは地獄へ送り、善い者は天国へ送り……。それを見て喜ぶ神様ならば狂った神様でしょう。神様は善悪を超越した絶対善の立場にいらっしゃいます。

 既成教会の牧師たちは、神様は宝座に座って、全知全能であり、遍在者と言いますが、それのどこがおもしろいのでしょうか。宝座に、王座に何万年もただ座っていたとしたなら、お尻が全部ぶよぶよになるのではないですか。皆さん、座っているのが好きなら、三日間だけ座っていてみなさい。それで神様は何をしているのですか。キリスト教で言えば神様は宝座に座って永遠に栄光の中で……。一人座っていて何が栄光でしょうか。永遠の以前から今日まで一箇所に座っていて、「おお、私の権力はすごいな。私のこの全知全能で重大な……」。それが何ですか。ぺっ、とつばを吐きます。神様も愛を中心として、今でも生きているのです。このような論理を否定することはできません。

 神様が自分勝手にするようであれば、今日までの数万年の歴史、人類歴史を言えば、八十五万年、百五十万年と見てきましたが、そのように長久なる歳月の間、なぜ人間をこのような姿に造ってきたのでしょうか。もしそうであれば、神様がいないという結論を出すことができるのです。全知全能なる神様という言葉も使えません。これはみな荒唐無稽な論法です。なぜできないのかというのです。なぜできないのですか。条件に引っ掛かったからです。

 神様はどんな方かと尋ねてみると、キリスト教の人たちは、「絶対者であり、唯一無二であり、全知全能な方だ」と言います。それではそのような方と人間との関係はどんな関係なのでしょうか。今日、キリスト教では「父なる神」と言っていますが、その父という言葉はどのような意味で呼ぶ父なのでしょうか。ただ名詞を尊重するために呼ぶ漠然とした父なのか、そうでなければ本当にそのような内容をもっている父なのでしょうか。その内容はどのようなものかという問題は考えもしないでいるのです。父ならば、どのような父なのでしょうか。私たちが肉体を通じて生まれたその父母と神様とは、どのような関係なのでしょうか。これが漠然としているのです。

 堕落していなかったらどのようになるのでしょうか。今日、既成教会では神様は全知全能で、聖なる方であり、我々人間は俗なる者だと言いますが、間違っています。あの世に行ってみなさい。今日、この世で自分たちも「天のお父様」と言っていますが、この父というのは何なのでしょうか。神々しく相対できない関係から父という言葉が出てきますか。それは既に初めから論理的矛盾だということです。矛盾だらけです。しかし文総裁が言うことは事理にかなっています。

 私がこのような話をなぜするのでしょうか。神様が始めて人間を息子、娘として造られたのですが、この息子、娘が神様を褒めたたえながら歌い踊る、そのようなことを見たでしょうか、見れなかったでしょうか。人間が堕落して追い出されたので、いまだにこのような日を迎えることができないのです。このような神様であるということを既成教会の人たちは知りません。神様が栄光の中にいながら全知全能であり、何でもすべてできる神様だと思っているのですが、このような神様ならば、なぜ数千年の間このように人間を救うことができなかったのかというのです。それをどのように答弁するのですか。それは人間が罪を犯したからです。人間が罪を犯したので、罪の清算も人間がしなければならないのです。

 それでは神様は御自身において一つになったのは何のためでしょうか。神様の心が絶対に願うことは何でしょうか。これが問題になるのです。神様が願うことは何ですか。神様の体が絶対的に願うことは何でしょうか。能力ですか。今日、既成教会の既成神学では神様は全知全能であられるので、公義の審判主として来られ、善なる人は天国に送り、悪なる人は地獄に送ると言います。そんな裁判長がいいのですか。裁判長が好きですか。意地悪な神様になって地獄へ送り、天国へ送るように造りましたか。論理的に全部不当な仕打ちだという結論になるのです。

 既成神学では創造主なる神様は聖なる方であり、神様から創造された被造物は俗なるものであるという論理をもって出てきます。これは宇宙生成の本性的原理に違反する論理です。キリスト教の伝統的主流思想が愛だと言ったのに、俗なる罪人と聖なる神とはどのように一つになることができますか。理論的根拠を出してみなさいというのです。理論を提示できないならむなしいことです。偽物です。ですから神様にも絶対的な神自身が絶対服従して、絶対者である神の生命を捨てでも「ため」に尽くしたい相対がいなければならないというのです。

 今日、既成神学者が言うには、「信仰全体を我々は批判する時だ。今までの神観、人生観に対するすべてのものを再検討する時が来た」と言います。今までの神学思潮は「聖なる創造主と被造物は対等な立場に立てない」ということでした。それでは愛はどのようにしますか。神様一人で愛しますか。平和だ幸福だというものは、何ですか。神様一人でしますか、と尋ねたら、答えはどのようにしますか。対象がいなくてはいけません。

 キリスト教では絶対的神さえ信じれば何でもできると言います。ですから独裁国家が出てきたし、血を流したのです。愛という論理を見いだせません。神のみが第一だとする前提のもとでは、どんなに行っても愛の神のお尻について回らなくてはならないのではありませんか。愛というものは対等な概念から始まるものですが、そのような概念では水平にならずしては垂直を探すことはできません。独裁の歴史が現れて流血の歴史がキリスト教を背負って出てきたのも、神のみを絶対視したからです。「私が神の代わりに刀を持ったのも神の僕だからだ」と言うのです。

しかし統一教会が偉大なことは、それを越えて、神も絶対者ですが、絶対者として絶対愛の前に屈服することができることを論ずるという事実、もう一つの世界を創造できる念願があるという事実をもっているということです。ですから神様も、愛に絶対服従することを喜ぶというのです。

 この被造世界が生まれるようになった動機とは何でしょうか。神様も愛が必要で天地を創造したというのです。このような事実を知らない今日の既成神学の神観は、それで間違っているというのです。絶対的な力の神、力さえもてば何でもできるというふうにです。ですからキリスト教文化が通過するところは血を流してきたのです。西洋文明がキリスト教に従って発展してきましたが、これからはキリスト教文化は終末世界に破綻的結果をもたらすだろうということを、このような論理から予測できるのです。

 歴史は科学の時代に来ています。すべての根源を把握して種の起源を探究し、根本を追求する科学の発展時代が来ることによって、宗教もそこに歩調を合わせざるを得ないのです。そこに主体的な観をもって、世界がどうであり創造の内容がどうだということを説明して、神様を立証できる宗教が現れなければならないのに、そのような宗教がないので、神が生きている限りそのような宗教の内容を準備しなければならないのです。

 人間が絶対者によって創造され、絶対者の愛を実践するように造られたならば、人間の創造に動機と目的があったことは明らかです。その動機と目的が明されるためには、絶対者がどんな方なのかという問題、すなわち正しい神観がまず立てられなければなりません。正しい神観が立てられることによって、その方の創造の目的と動機が明らかになるでしょうし、したがって平和のために絶対愛を実践しなければならない理由も明白になるでしょう。

 絶対的であり、永遠であり、唯一であり、不変の神様がおられるならば、そのような神様によって新しい見地から真なる愛、真なる理想、真なる平和、真なる幸福の起源を要求せざるを得ないのです。このような立場から見るとき、神様自身から見る神観、神様自身から見る人生観、神様自身から見る物質観、これをはっきりさせるところから、初めて新たな平和と新たな幸福の世界を私たちは迎えることができると見るのです。

 宗教紛争の根本原因もやはり本体論の曖昧さにあります。絶対者はただ一つであって、二つも三つもあり得ないにもかかわらず、各宗教の指導者たちは自分の絶対者だけが正しい神であり、それ以外の神は真の神ではないと見ているので、結局宗教ごとに絶対者がいることになり、絶対者が多数いるという背理が成立します。したがってすべての宗教の神は相対的な神にすぎないという結論になり、各宗教を通じて立てようとした絶対的価値観、すなわち神の愛と真理に関する理論は相対的なものにとどまっています。すなわちこれまでの宗教は、混乱を収拾することができる絶対的価値観を立てることができなかったという結論になるのです。これはすべての宗教が絶対者に対する正確な解明をすることができなかったので生じた必然的な結果だと言わざるを得ません。


 各宗教ごとにその教理が成立する根拠としての絶対者がいます。ユダヤ教の絶対者は主なる神です。キリスト教の絶対者はGod、すなわち神様です。イスラム教の絶対者はアラーの神です。儒教や仏教は絶対者を明確にしていませんが、儒教の徳目の根本である「仁」は天命と連結しているので「天」が儒教の絶対者だと見ることができるし、仏教では諸法は常に変化しており真理は諸法の背後にある「真如」から探し出すことができるとしているので、真如が仏教の絶対者だと見ることができるのです。

 新しい宗教のための本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神ではなく、同一な一つの神であることを明かさなければなりません。それと同時にこの神の属性の一部を把握したのが各宗教の神観であったことと、その神の全貌を正しく把握して、すべての宗教は神様から立てられた兄弟的宗教であることを明らかにすることができなければなりません。それだけではなくその本体論は、神様の属性とともに創造の動機と創造の目的と法則を明らかにし、その目的と法則が宇宙万物の運動を支配しているということと人間が守らなければならない規範も結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致することを解明しなければならないのです。

 統一教会の原理が偉大なのは何かと言えば、創造性が具体的だということです。創造がどのようにされたのかということが分かるようになっているのです。その次にどのように堕落したのかという実質的な論理があります。その次には歴史観があります。歴史時代において神が堕落した人間を放置したままにしないで、再創造するためにどれほど苦労されたのかということがはっきりしているというのです。そうして過程を通して目的の世界に到達するということを理論的に一目瞭然に明らかにしたのです。


第二章 神様と創造の役事

 一 神様の創造の動機は愛

  一) 創造の役事は完全投入


 神様の天地創造は生命の接着を目的としたものではありません。愛の理想を同化させるためのものです。

 科学者は、宇宙は力で形成されており、この力によって宇宙が発生したと言います。しかしそうではありません。電気は、先に力があって作用するのではなく、作用を通して電気が生じます。そして作用する前に、プラスとマイナス、すなわち主体と対象がなければなりません。作用は一人ではできないので、作用するためには必ず、主体と対象がなければなりません。結局プラスとマイナスがあってこそ作用し、その作用を通して電気が生じます。同じように力も主体と対象が作用をして初めて生じます。ですから今日、学者が言っているように力から宇宙が発生したのではありません。また、力が先なのではなく作用が先です。


 愛が先でしょうか、生命が先でしょうか。愛が先です。地球が神様の生命から出たからといって、生命が一番だとは言いません。愛が一番だと言います。神様は天地創造をする時、まず生命からしたといっても、その生命の発源地、動機は愛です。生命が生じたのは愛のゆえです。


 神様がなぜ天地を創造したのでしょうか。いくら絶対者だと言っても、一人で喜びを感じることはできず、たとえ喜んだとしても喜びの刺激を感じることができないので創造をしました。絶対者がたとえ「私は絶対者だ。私は愛の主人公である。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができないのであり、天地が私の体の中にあるという生命の刺激を感じることができないのです。

 神様が御自身だけを思ったとするならば、天地創造をしたでしょうか。創造とは力の投入を意味します。芸術家は最高の作品を作ることが願いです。芸術家は傑作品を作るために、ありとあらゆる精誠を投入します。すべてを投入したところからのみ完全な傑作品が出てきます。これ以上できないというときに初めて傑作品が生まれるのです。

 創造は自分を投入するところから始まります。力を投入してこそ創造が可能です。力を投入せずしては、いかなるものも生じません。完全に投入するところに完全な対象が成立するという原則を考えると、神様は主体として対象を造るために完全に投入しました。神様自身が、御自身のためではなく対象のために存在しようと運動を始めたのが創造です。

 創造するとは力の投入のことを意味します。投入をしたのですが、どれだけ投入したのでしょうか。神様がみ言によって造るときに、「こうなれ、ああなれ」といたずらに創造したかのように考えられています。違います。ここには真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入しました。私たちも、精誠を尽くさず、血と肉を投入していないものは愛しません。

それゆえ創造する前と創造した後では違います。創造する前は自分のことを考えたのですが、創造を始めてからは対象のためを思いました。私が存在するのは私のためではなく、相対のためであり、息子、娘のためである、このようになっています。

 神様が天地を創造するということは、御自身の本質を投入するということです。結局エネルギーを投入したということであり、エネルギーを投入したということは自分の本質の減少を意味します。対象世界の創造は愛によってなされたのですが、神様はそのみ旨をなすために自己を投入しました。投入したそのものが自分に実るようにしたのではなく、相対に実るようにしました。投入することによって神様が疎遠さを感じるのではなく満足を感じるのです。それは愛によって造ったからです。

 私たちが朝食を食べて重労働をすれば空腹になります。そしてすぐ疲れます。なぜでしょうか。力を投入すると消耗するからです。世の中の万事において、損をして喜ぶということはありません。プラスとなってこそ良いのです。それゆえ神様も天地万物を造ったのは、良しとするために、必ずプラスとなり得る何かがなければなりません。それでは神様はプラスとなり得るものをいつ得ることができるのでしょうか。ここに被造物の完成という標準があります。「この時まで投入すれば、その時からはかえってくる」というものがあります。同じことです。何かをしようという望みをもって努力し、その限界点を乗り越えると、必ず結果がかえってきます。これが宇宙の法則です。


 神様も同じです。人を造ったのは神様の力を投入したということです。力を投入しました。自分自身を消耗しました。ところが投入できるものを完全に投入して人を創造したとするならば、その完成した人はどこかに逃げるわけではありません。完成すればその次には神様に戻ってきます。戻ってくるにあたって、百を投入したときに、百よりも小さい価値をもつものとして戻ってくるのではなく、神様の創造の価値を加えて戻ってくるのです。

 宇宙はどのように出発したのでしょうか。神様を見てみると、すべてが「ため」に生きるところから、投入するところから出発したのです。自己を消耗するところから始まったのです。では、自己を消耗して相対を造って、何をしようというのでしょうか。二者共に消耗するのですが、消耗して得るのが愛です。愛さえ得るならば、いくら消耗してもいいというのです。そのような概念が愛であるゆえに、愛を中心として神様が創造を始めたのです。神様が損をするようなことをしたのではありません。投入することは損になりますが、神様はなぜそうしたのでしょうか。愛はすべてを満たしても余りある力をもっているがゆえに、消耗して投入しましたが、その代わりに愛を得るのです。愛は投入すればするほどだんだん小さくなるのではなく、動けば動くほど大きくなっていくのです。そうではなくて、真の愛が小さくなるという原理であれば、神様自体が投入して消耗するのです。反対になります。真の愛は投入すれば投入するほど大きくなっていくのです。

 愛には創造の能力があるゆえに、くたびれることはありません。愛の心をもてばいくら投入しても、消耗したエネルギー以上にいつでも補充することのできる愛の力があるがゆえ、疲れ果てることがないのです。ですから困難で苦痛でも嫌ではないのです。それが嫌だとすればどうしますか。愛のための道には永遠に嫌だという心はあり得ません。神様の本質には怨讐という概念はありません。悪の概念がありません。真の愛の中にあるからです。

 神様の創造理想を中心として投入、投入、投入しなさいというのです。投入すれば回りに回るのです。空気を例に挙げれば、絶対低気圧と絶対高気圧があればその中間の気圧が生じます。誰が呼ばずとも天が降りてくるのです。それゆえ一〇〇パーセント以上投入したがる人は、いつも天が満たしてくれるのです。宇宙の原則がそうなっています。完全に投入して忘れるところには永遠な運動が連結するために、その基準において永生の論理が出てくるのです。永生、永遠な生命、そうでなければ統一の原則をどこから引き出してくるのですか。「ため」に生きればぐるぐる回ります。ぐるぐる回ってどこに行くのでしょうか。だんだん小さくなって上がっていきます。上がっていくのです。ぐるぐる回って広がれば下りていきますが、だんだんすうっと上がっていくので、神様は自動的にアダムとエバの肩の上に両足を置くしかありません。何のことか分かりますか。


 それでは神様が天地万物をなぜ造ったのでしょうか。造ったという事実は力を投入したということです。力の投入です。力の投入というのは自体の消耗を意味します。いくら全知全能の神様でも、力をすっかり引き出したのにそれが戻ってこなければ消耗するのです。



 神様は万物と人間を創造するためにあらゆる力を投入されました。全部を投入し、また投入されました。他のものは投入すれば全部消耗しますが、真の愛だけは投入すれば投入するほどより栄え、生産するのです。真の愛は百を投入すれば百二十が戻ってきます。それゆえ真の愛を実践する者は滅びるようでも滅びることなく、永遠に栄えて永生するのです。

 神様がなぜ存在されるのでしょうか。何ゆえにおられようとするのでしょうか。愛ゆえにおられようとするのです。それゆえ愛の相対が必要なのです。ですから全知全能なる神様は、愛の相対を創造しなければならなかったのです。創造の本質的理想を、愛を中心として創造を始めたということをこれまで私たちは知らなかったのです。愛ゆえにすべての被造世界が創造されたのです。

 神様の願いは真に与えることのできる世界的な足場をもつことです。神様は与えることにおいて誰も讒訴することはできず、受けることにおいても誰も条件を提示することができない、自由で平和で幸福な場を望んでいます。そのような立場を世界的に広げて、万民をそこで生きるようにすることが、神様の得ようとされる所期の目的です。



  二) 愛を通じた創造理想の実現



 愛の実現のためにこの世を創造された神様でした。人間と万物が神様の愛を中心として一つとなり、和気あいあいとした愛の世界を築くのを見て喜ぶために、そして人間が神様の愛を中心として真の夫婦の因縁を結び、真の愛の家庭と氏族、民族、世界を築くのを見て喜ぶために、そしてそのような人間と愛によって一つとなることで愛の喜びを味わうために被造世界を創造した神様でした。正にこれが神様の創造の理想だったのです。

 無限なる神様の愛が目的を中心として愛することのできる本心の根本、これが正に心情です。その価値は変わることのないものです。神様の存在の価値を論じようとするならば、この愛について論じなければなりません。価値というものは相対的与件ができた中で決定されるものです。


 喜びというのは神様の心情から出発するものです。その目的はどこで遂げられるかというと人間によって遂げられるのです。見えない神様の心情が目に見える人間の心情で顕現するのです。そのような心情をもった人間が横的に広がって家庭を築けば、その家庭が世界的に広がって世界の中心になるのです。そのような家庭を築くよう、神様はアダムとエバに、生育せよ、繁殖せよと祝福されたのです。天宙主義は生育し繁殖して万物を主管するという根本の上に成立するのです。


 神様はなぜ被造世界を創造されたのでしょうか。神様は被造世界を通して喜びを享受されようとしたのです。神様がいくら絶体者だとは言っても、喜びを一人で感じることはできません。喜びは相手がいてこそ生じるからです。神様が必要とされるのは知識でもなく、お金でもなく、権力でもありません。神様自身が絶対的であり、全知全能であられるがゆえに、そのようなものは必要とはされません。科学がいくら発達しても、神様が造られたものに追いつき、越えることはできません。膨大な宇宙は、秩序の中で法度に従って運行しています。人間の考えや科学が及ぶことのできない宇宙を神様が創造し、また運行しておられるということを考えると、神様は絶対的な科学者でもあられます。

 神様の本然の愛に綱を結んでその愛の味を味わった人が離れるようなことがあるでしょうか。蜜を吸っている蜂のお尻を引っ張ると、その蜂はお尻が取れても蜜から口を離しません。皆さんがその味を感じたとするならばどうでしょうか。行っても途中で戻ってきて再びそこにくっつこうとすることでしょう。


 神様の愛は統一教会の原理によれば、四位基台の完成という結論になります。だとすれば四位基台の完成とは何でしょうか。父母の愛は子女たちに伝達されて感じるようになっています。四位基台の中心は、父母の愛を中心に子女と一つとなり、男女の愛が一つとなり、最後に神様の愛と一つとなるのが四位基台なのです。

 アダムは神様と一つとならなければなりません。これを結びつけるものは愛です。存在世界の平面的な代表者は人間であり、立体的な代表者は神様です。これを永遠に結びつける中心点がすなわち愛という絆です。肉体をもった人間が神様と一体となれば、その心情と感情は無限な体恤境と幸福感に酔うようになります。結局愛によって神様と人間は一つとなるのです。愛によって人間と世界が一つとなり、神様の創造目的である理想世界の実現はここから出発するのです。


 神様を中心とした新たな愛、すなわち創造法度による愛が決定されたところから初めて神様の理想が出発します。

 私たち人間が寝て朝起きたとき、その心に願うことは何でしょうか。朝食を取ることが問題ではなく、仕事に出掛けることが問題ではなく、全世界のことを気遣うのが問題ではなく、愛の心を夜も昼も春夏秋冬変わることなく、一生の間変わらずにもつことを願うのです。そのような男性、そのような女性が完全に水平線をなして、縦的な神様と共に九〇度に連結され、人情と天情が合わさることのできるそのような立場の愛、そのような愛の理想境、そのために神様は天地を創造されたのです。


 神様が創造するにあたって、愛のために投入し、投入し、忘れるという本質から出発したがゆえに、相対もそれを受けるためには共に投入しなければならないのです。上から投入し、下から投入するのと同じです。こうして天地が合徳、一つとなるのです。天地を抱いて動かすことのできる愛を中心として一つとなるのです。そこに偉大なる力が来るのです。



 愛を占領しようとするならば、投入しては忘れ、投入しては忘れなければなりません。なぜそのような愛をもたなければならないのでしょうか。愛は動けば動くほど大きくなるものだからです。力学の世界での自然現象は、動かせば動かすほど、作用すれば作用するほど小さくなります。自然世界は動けば動くほど小さくなりますが、真の愛の世界は動けば動くほど大きくなっていくのです。神様はそれを知っていたので、真の愛を中心に創造を始めることができたのです。


 二 人間を創造された目的

  一) 神様の愛の対象として造った


 神様は人間を愛ゆえに造りました。人間はなぜ造られたのでしょうか。愛ゆえに造られました。人間が万物と違うのは、神様の息子、娘として造られたことです。神様の直系の愛を受けることのできる対象者として造られたのです。これが人間の特権です。

 完全なプラスである神様は、完全なマイナスを創造するようになっているのです。それでは宇宙の主体の立場に立たれた神様の対象は誰でしょうか。これが問題です。神様はなぜ人を造ったのでしょうか。人は神様の無形の内的な相対的実体存在だということです。少し難しい言葉です。

 人を創造して育てて、天宙の主人である神様の代わりに愛をもった者として、自分よりも高い座につくようにして、主人にしてやろうということなのです。

 万有の中心は誰でしょうか。人なのです。その人というのは、どのような存在なのでしょうか。全知全能なる神様の前に相対的価値として登場したのが人間だ、と見るのです。人間は万有の愛の表象体として、一つの灯台のように光を放つことのできる一つの中心として現れた存在です。そのような存在が人です。

 人とは何ですか。神様の愛の対象存在として造られました。神様が二性性相であるだけに、プラスとマイナスの二性性相の主体であるだけに、その主体の前に対象となるためには、プラスとマイナスのような二性性相の形態が必要です。その形態というのは、主体の性稟とは反対の形態ではありません。すべての性稟の相対性を備えて、愛という本質にぴったりと合わさる相対的形態のことをいうのです。


これが相対存在なのですが、それは他のものには合いません。愛にだけ合うようになっているのです。神様には知識といったものや他のものは必要ありません。愛が必要なのです。人間がこの宇宙の中心だというのは、愛の理想を果たすために被造世界を造ったからです。愛の神様に代わって、主人の前に最初に中心の位置に立って愛されるという特権をもっているがゆえに「人間は万物の霊長である」という言葉が成立するのです。

 神様はなぜ人間を創造したのでしょうか。息子、娘の生命を見るために創造したのではありません。その息子、娘と共に愛をするために人間を創造したのです。いくら考えてもそうとしか考えられません。人間を創造した目的は愛のゆえです。神様の愛を中心として、その基盤の上で生命が創造されたのであり、生命を造って愛を誘発したのではないのです。言い換えれば、本来神様の心に愛が芽生え始めて生命が始まります。その生命は愛から始まったので結果も愛にならなければなりません。それゆえ愛を除けば私たち人間は不幸なのです。

 神様はなぜ人を造ったのでしょうか。全知全能なる神様、遍在される神様が何が足りなくて人を造ったのでしょうか。キリスト教式にただ造りたいから造ったのだといえば簡単です。しかし、それでは通じません。神様は何が必要でしょうか。神様がお金が必要であり、金塊が必要であり、ダイヤモンドが必要でしょうか。そのようなものはいくらでもあります。また、神様は知識が必要でしょうか。必要ありません。知識の王なのですから、知識はいくらでもあります。全知全能なる神様には権力は必要ありません。あればあったで、なければなかったで済みます。そのようなものは「ある」と言ってもいいし「ない」と言ってもいいのです。大した違いはありません。

 神様に必要なものは何でしょうか。神様は生命も必要ではありません。生命の主体であるのに、そのようなものがどうして必要でしょうか。それでは何が必要でしょうか。愛が必要なのです。なぜ神様に愛が必要なのでしょうか。愛というのは相対的関係から成立するものだからです。神様も愛を必要とする神様にならなければ、この創造世界や人間世界と関係を結ぶことができません。それで愛をもって尋ねてこなければ存在世界と関係を結ぶことができないという結論になるので、神様は愛を標準に定めてきたのです。

 神様は人を最も貴いものと思っていますが、なぜ貴いものと考えるのでしょうか。神様は愛の相対を必要とするので最も貴く思うのです。いくら神様が愛をもっていたとしても愛する対象がいなければ愛を感じることができないのです。相対的関係においてのみ愛を感じるのです。神様が人を最も貴く思うのは、人間は神様が愛することのできる対象の位置に、愛の対象の位置にいるからです。神様が最も貴く思うのは正に人間なのです。

 神様がなぜ人を造ったのでしょうか。それは愛を完成するためです。その愛は神様から始まるのではありません。相対から求め得られるものです。相対がなければ見いだされることはありません。神様が最高に貴いものを成就させるためには相対が必要なのです。神様も相対がなければならないのです。それで相対を造ったのです。神様御自身も、相対から絶対的な愛をつくりあげることができるように相対を求めていくのです。それゆえ神様も愛のためにおられるのです。愛のために存在されるのです。愛の驚くべきところはここなのです。

 人は神様のためにあり、神様も人のためにあるのです。それゆえ真の愛というものは「ため」に生きるところから始まるのです。本来人間はどこから生まれたのでしょうか。神様も愛から始まったのです。愛ゆえに生まれたのです。愛が起源なのです。

 神様御自身が愛するための愛の対象が必要で人を造ったのです。一人で愛することはできません。対象圏がなければ愛は成り立ちません。神様も愛が絶対必要なので被造万物を造り、被造万物を代表した万物の霊長として人を造ったのです。人が絶対的に必要であるがゆえに、絶対的愛の対象圏の価値を与えたのです。愛を共有するために、その対象的存在として造ったのが人間なのです。ですから人間自体が神様の体です。神様の体となったアダムとエバの二人が夫婦になったということは、神様が夫婦になることなのです。そうなれば天上世界に行ってアダムとエバの姿で神様が人類の祖先となり、霊界と地上世界を治めるようになっているのです。そのようになったのです。

 神様はなぜ人を造ったのでしょうか。好きで造ったのでしょうか。違います。見るために造ったのでもありません。愛を求め得るために造ったのです。それが分からなければなりません。


  二) 愛と生命の核心をすべて投入


 神様はあらゆる万物を造り、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造られました。人間を造るのに、神様がいたずらに造られたのではありませんでした。趣味で造られたのではありませんでした。人間を造り、万物を代表する中心として立てるまでの神様の苦労と精誠は、言葉では到底表すことができないという事実を私たちは知らなければなりません。神様が人間を造るとき、ありとあらゆる精誠を尽くし、心血と、御自身の生命の核心をすべて注いで造り、愛と心情をそっくりそのまま注いで造られました。どんな力をもっても離すことができず、離れようにも離れることのできない因縁の中で造られたのです。このように造られた人間であるゆえ、その人間を見つめられる神様に初めて平和が宿るのであり、すべての情と幸福はその人間を通してのみ宿ることができるのです。

 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をそっくり注いで造った人間であるゆえに、このような人間が神様を引っ張れば、引っ張られるしかないのであり、また神様が人間を引っ張れば、引っ張られるしかないのです。神様はこのような因縁の中で、内容と目的が一致する人間として造られたのです。もし、そのように造った人を見て神様が賛美するみ言や詩があるとすれば、それはこの世のいかなる詩人や文人にも表現することのできない最高の作品となることでしょう。その対象は神様でもなく、万物でもなく、唯一万物を代表した人間なのです。

 神様が被造万物の中で神様の愛の対象となることのできるその存在が我々人間です。神様は愛の対象を造るために全心全力を尽くして自己のすべてを投入したのです。神様はこのように御自身の全体を投入して何をしようというのでしょうか。宇宙の愛の核を設定しようというのです。それが創造理想でした。

 愛について語るとき、神様にはそのようなものはありません。神様が造られた創造物にはありますが、神様にはそのようなものはありません。あったとしても心の中に内的にあるのであり、形として表れることはありません。それで何をするのでしょうか。それが誰にあるのかというと、人間であるアダムにあり、エバにあります。ですから神様よりも、もっと貴いものを人間がもっているということを知らなければなりません。

 神様は自分の愛の相対が自分に優ることを願って創造を始めました。今日の私たちもそこから出発したので、自分の愛の相対は自分に優ることを願うのです。皆さんもそうでしょう。神様も同じです。

 神様が御自身の愛の対象として人間を創造するとき、自分に優ることを願う立場で一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント以上を投入しようとしたのです。投入しては忘れ、また投入し、より貴いものを与えようとしたのです。

 神様が人間を創造するとき、御自身よりも立派な愛の相対を造ろうとしたので、神様のすべての要素、目に見えない無形の要素を一〇〇パーセント実体化させるために投入し、また投入しようとしたのです。それはどういうことでしょうか。投入して忘れることのできるところにだけ、真の愛の起源を発見することができるからです。簡単な内容です。これが宇宙の根本原理です。

 人間の欲望の最終着点、人間は欲望の最大の完成基準に向かうことのできる方向性があるのですが、それが私たちに作用しているという事実を発見しなければなりません。聖書には「私たちの体は神様の聖殿である」とあります。それがどういうことなのか解釈できずにいるのです。たとえ神様でも、神様と私が愛をささやくことのできる愛の対象圏となり、その愛の対象圏と一つとなれば、宇宙を相続することのできる権限が生じるからです。愛という原則基盤を通して神様の造った世界、霊界、無形世界、実体世界、このすべて、宇宙の相続権を獲得することができるのです。この驚くべき事実を知らずにいるのです。

三 アダムとエバを通じた愛の理想


 一) アダムは無形の神様の体として造った


 神様がアダムとエバを造った目的はどこにあるのでしょうか。我々人間の形状を見てください。体をもっています。しかし無形の神様には体がありません。体をまとわずして、体をもたずして霊界や地上世界を治めることはできません。それゆえ神様が人間の父母として現れるためには体を着なければならないのですが、その体を着た代表がアダムとエバということです。アダムとエバは人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様の実体なのです。実体をもった神様、すなわち永遠な無形世界の神様の形状を代わりに着て現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。実体世界を造った以上、実体世界の中心がアダムとエバなので、アダムとエバの形状に倣って霊界と肉界を連合させようとしたのです。そういう意味でアダムとエバを造ったのです。

 神様はなぜアダムとエバを必要としたのでしょうか。二つの目的があります。一つは愛の理想を成就しようということです。二つ目は無形の神様が形状を着て現れるためです。それゆえ無形の神様が有形の形状をまとって有形世界と関係を結ぶためのその基礎、その核心がアダムとエバなのです。それでアダムとエバが完成して霊界に行けば、アダムとエバは神様の体のようであり、神様はアダムとエバの心と同じ位置に御座されるのです。一人の人、一人の霊的世界で完成した人を、実体世界の体と心のような一つの結果としようとしたのが、神様がアダムとエバを創造された目的です。

 無形の神様が実体をもった神様として登場するというのがアダムとエバの創造なのです。アダムとエバを創造したのは、無形の神が実体の神様として登場するためなのです。それはどういうことでしょうか。南極と北極のような極を描いてこそ一つの磁石となることができるのです。それゆえ目に見えない神様と目に見える神様が調和を成すことのできるこのような原理が現れるのです。そうして初めてこれが回る作用をすることができるのです。上が下の位置へ行き、下が上の位置へ行き、内的が外的に、外的が内的に回って一つとなることができるようにしなければなりません。何によってするのでしょうか。愛です。

 霊界と肉界は何を中心としたものでしょうか。霊界の代表は神様であり、地上の代表はアダムとエバなのですが、これが連合しなければならないのです。ゆえにアダムが生きている間アダムがもっている形態は、地上において地上の国の王であり、永遠な王権をもって現れたものです。エバは誰かというと、皇后です。永遠な皇后権を代表する皇后として登場するのです。そしてその永遠な王権を代表した夫婦がそのまま霊界へ行って神様に代わる役割をするのです。

 天の国に無形の神様が一人でいて何をするというのでしょうか。見えない神様だけではどうすることもできないのです。私たち人間の父母となるためには、体をもって感じることができなければなりません。人間のような体を着なければならないので、体をまとうために、仕方なくアダムとエバを二重的存在として造らざるを得なかったということを知らなければなりません。

 なぜアダムとエバを二重構造に造るしかなかったのでしょうか。無形の神様と同じくなるには、心と体が一生を通じて生きながらあの世に行くまでに、一つとなったという基準を立てなければなりません。そうせずしてあの世に現れればその形状が神様と一つとならないのです。実体的王権をもった父母が無形の父母である神様と一体となって永遠な天上世界に体をもった王権を顕現させるために、アダムとエバを二重構造に造りました。神様もアダムとエバに連結しなければ世の中と関係を結ぶ道がないのです。アダムとエバと関係を結んでこそアダムとエバの息子、娘と関係が結ばれるのです。そのようになるのです。

 神様が人を造った理由は同じ父母の位置に立てるためであり、体を着るためなのです。ですから外的な神様はアダムとエバであり、神様は内的な神様なのです。体的な神様がアダムとエバであり、心的な神様が無形の神様です。その神様が人類の父母です。本来の父母です。その父母が何人もいるのではありません。一人です。一人なので、その一人の方が入ることのできるアダムとエバ、男性と女性の二性性相をもった分聖殿のようにしておいて神様がそこに入るのです。神様が臨在して作用してこそアダムとエバの二人が理想的作用をするのであって、神様が作用しなければ神様のみ旨も何も分からないのです。

 神様は父の位置、父母の位置に立ったお方です。人間を地の神様として立て、創造主である神様は天の神様として縦的な神様として立てて、これが天地合徳し、こうして愛によって生きようというのです。神様も一人では寂しいのです。

 創造主は縦的な真の愛を中心とした縦的な父であり、堕落していない本然の人間祖先であるアダムとエバは、完全に九〇度で一つとなることのできる位置に立った完成した父母、横的な体の父母なのです。創造主は真の愛を中心とした心の父母であり、アダムとエバは横的な体の父母なのですが、この二つが合わさって天の父母と地の父母が一つとなり、天と人が合わさって息子、娘が生まれたならば、この地に生まれるすべての人々に宗教は必要ないのです。そのままで神様の国へ行くのです。堕落ゆえにこのような複雑な問題が生じたのです。そうなっていたならば私たちの体と心が分かれるということはなかったことでしょう。

 神様が男性と女性を造られた目的は、二人が愛し合って一つとならしめるためでした。アダムはアダムのために、エバはエバのために造ったのではありません。アダムはエバのために、エバはアダムのために造られたのです。また、神様御自身の愛と喜びのためにアダムとエバを造られたのです。神様がアダムとエバを造ったのは、知識、金、権力などが必要だからではなく、唯一愛が必要だったからです。

 神様がアダムとエバを造ったのは、知識を与えるためでもなく、権力を与えるためでもなく、たくさんの財物を与えて裕福に暮らさせるためでもありません。彼らを創造した目的は愛の実体として立てるためだったのです。

 神様が人間を創造した目的は、家庭を通して愛の基盤をつくろうとしたのです。愛のない被造世界は地獄であり、神様御自身もまた存在価値が無意味なものとなるからです。神様が人間を創造された目的は愛のためだったというのが創造の絶対法であることを知らなければなりません。

 神様がなぜ人間を創造したのでしょうか。男性は東であり、女性は西なのですが、縦的な神様を中心として東西四方、平面が必要です。そこでは三六〇度なので無限な面があるのです。その面を通して何をしようというのでしょうか。天国の民を生産する工場、出発地がこの地球です。それゆえ天国の民は、この地球で生きてから行った人です。行ってみてください。地球星のほかに国はありません。宇宙に人がいるなどと言っていますが、いったい何が住んでいるというのでしょうか。宇宙はすべて人ゆえに造られたものです。

 私たち人間は、神様より優れているでしょうか、劣っているでしょうか。神様が人間を創造するとき、縦的なアダムとエバしか造ることができませんでした。しかしながら私たちは息子、娘を生めば二十人以上も生むことができます。それは神様にはできないことです。神様はアダムとエバしか造れませんでした。なぜでしょうか。縦的なものは絶対的な基準が一つなので、絶対的男性一人、絶対的女性一人しか造れないのです。

 アダムとエバは神様の息子、娘として生まれましたが、神様の中にあった双胎が実体として現れたものです。無形の男性、女性の双胎が有形の男性、女性の実体として現れたのがアダムとエバでした。神様の息子、娘がこのように始まったのです。神様の無形の心情圏の内容を実体心情圏として完成させて、無形と有形が一つとなるためのものが創造理想です。創造理想は愛を中心として対象圏を成そうというものです。

 アダムとは何でしょうか。神様の内在的性稟の半分を実体として展開した表示体です。エバは何でしょうか。女性の性稟を実体として展開した表示体であり、表した存在です。表したと言うとき、表したということは実体をもっている、表示体であるということです。表れる前に、表れていない動機があって表れたということです。その表れていない動機が何であるかというと、私たち統一教会では無形の実体である神様です。このように見るのです。

 一男一女は無形であられる神様の実体対象として表れた息子、娘です。男性は神様のプラス(+)性稟を、女性は神様のマイナス(-)性稟を表した実体対象です。創造の理念は、両性の中和体としておられる神様の性相を二性に分立したのちに、再び神様の本性相に似た姿に合性一体化することです。一人の男性と一人の女性は、それぞれ神様の一性に似て出てきました。したがってこれらの一男一女の結合は神様のプラス(+)性稟とマイナス(-)性稟が一つとなることです。すなわち神様に似た中和体となるのです。それゆえ人間二人、すなわち夫婦は神様の全体を表象する結合体なのです。


  ) 夫婦は第二創造主の位置


 夫婦が一つとなって息子、娘を生むことによって永続することができます。ですから創造した創造主の位置に上がって息子、娘を生んでみることによって神様が創造した喜びを平面の世の中で感じることができるのです。それゆえ自分の妻は息子、娘のようでなければなりません。息子、娘と兄弟の立場を合わせたものです。ですから分かれることができません。愛はそういい加減にはできていません。息子、娘を生んでこそ神様が本来の創造理想として願った本然的基準に到達するのです。それゆえ家庭が天国の基盤です。

 このように夫婦が息子、娘を生んで父母の位置に上がることによって、神様の位置で神様が人間を創造するときに、どれほど喜ばれたかを体恤するのです。天地の大主体であられる神様の権限のすべてを相続することのできる位置に入り得る体恤的環境をもって、体恤的内容として伝授してあげるのが息子、娘を生産することです。息子、娘を生産して大切に育てて結婚させるまでが母親と父親の責任です。神様がアダムとエバを育てて結婚させなければならなかったのですが、できなかったのです。アダムとエバも息子、娘を生んで結婚させることができませんでした。この恨を解かなければなりません。これが教育の原論になるのです。結論は簡単です。

 人間は横的な父母の立場に立つのです。アダムとエバは子供であると同時に兄弟です。兄弟であると同時に夫婦であり、夫婦であると同時にのちに息子、娘を生むことによって神様の位置に上がるのです。息子、娘を生んで愛するということは、神様が人間を創造して喜んだすべてを相続することなのです。

 神様がアダムとエバを創造したのと同じように、創造主の立場でその喜びを感じさせるためのものが子女なのです。子女はアダムとエバによる第二創造物です。無形の神様は有形の実体としてアダムとエバを造りました。アダムとエバが完成すれば、神様の有形実体の完成として愛の中心代表となります。その神様がアダムとエバを創造して喜びを感じたのと同じように、実体的に神様の創造の喜びを感じることができるように、体験させるために与えたのが子女だというのです。


 神様が理想的な宇宙の円満な家庭理想を完成しようと、子女と兄弟と夫婦と父母の立場を備えて自分の愛を相続させようとされるのです。愛をもっているがゆえに私を第二の創造主の立場に立てるのです。それが息子、娘です。息子、娘はそれほど貴いのです。


 女性が子供を妊娠すれば新しい世の中が生じるのです。その子供が活動を始めるとたくさんの夢を見ます。女性はそうでなければなりません。神様が創造されていたその夢、夢は多いのです。「将来この子が大きくなってこうなったらいいのに」というのは、神様が創造しながらアダムとエバを準備したその思いに似たものです。女性の立体的夢はそのようなものです。「私一人ではない。天下が私の息子、娘の手の中にあり、私の懐で育つのだ」このように考えながら愛を中心として天下を呼吸しているのです。

 子供を生む立場は、結婚から上弦世界を占領するのです。神様の位置に上がることによって子女を愛することは、神様が創造以後に人間をいかばかり愛したかという内縁を体恤させることです。

 神様はなぜ人を造ったのでしょうか。愛の相対が必要なので、横的な繁殖の基盤として人を創造したのです。

 アダムとエバが神様のように愛してこそ、そこに神様が臨在するのであり、アダムが勝手に、エバが勝手にしてはならないのです。完全に一つとなってこそ無形の神様がここに往来するのです。そうして神様の愛の冠を、愛のふろしきをかぶせようとするのです。それが理想です。そうしてこそ神様がにおいをかぎ当てるのです。神様はどこへ行ってもくんくんとにおいをかぐのです。

 それでは神様も口づけするのを好むでしょうか。無形の神様は二つが一緒に合わさっているので刺激を感じません。愛も一つとなったり離れたりします。夫と妻が最初、死ぬか生きるかというほど愛しているときは、雷が鳴り、稲妻が光るように愛するのです。次は雨ののちに雲が晴れるように、愛が一度燃えたのち、再びゼロに戻るのです。そうですね。一度燃えてからゼロに戻るではないですか。結婚生活をしたことがないのですか。どうして笑うのですか。

 神様は二性性相の中和体であると同時に、格としては男性格をもっています。神様の父格の愛に対し、相対的立場にあるのが男性であるがゆえ、これは垂直関係です。垂直関係。女性は垂直関係ではありません。女性は何でしょうか。垂直の相対となる横的関係なのです。神様の人格を中心として格に従って見るとき、男性は縦的関係である上下関係であり、女性は左右関係である横的関係です。それでは縦が先でしょうか、横が先でしょうか。縦が先なので先の位置に近づこうとするのが、すべての自然の道理が追求して求める道なのです。それゆえ神様の愛を中心とすると、娘よりも息子なのです。こうしてこそすべて整理されるのです。

 女性には一カ月に一度ずつ生理がありますね。誰のためですか。子孫がどれほど貴いかを知らなければなりません。アダムとエバを造った目的は天国の民を生産することです。霊界では生産ということがありません。神様は縦的な愛の主人であるがゆえに、縦的なことにおいて軸が一つしかありません。一点しかないのです。一点では生産することができないので、横的な面積が必要なのです。それで人間と一つとなって天国の民をたくさん繁殖して移譲するというのが神様の創造目的です。このようなことを聞くのも初めてでしょう。

 天国の民の生産者が夫婦であるということを知らなければなりません。それゆえ人間を創造しないわけにはいかないのです。これが天国の息子、娘、神様の息子、娘です。結ばれ得る天の皇族を中心とした連結を拡大して天国の民を、この地上に私たち人類始祖の肉身を通じて天国の民を生産するための基地だったということを誰が知っているでしょうか。

 アダムとエバの二人が愛するのを御覧になった神様は孤独な存在ではありませんでした。御自身の中に内在した愛の素性というものが、こんなにまで強力なものだったのかと相対的な喜びを感じるのです。

 皆さんが愛するのを神様が見るでしょうか、見ないでしょうか。天下時空を超越する神様がこの世界五十億人類が愛する夜に、目を閉じるでしょうか、どうでしょうか。見ているとすると、気分はどうでしょうか。善い婦人、善い夫がどれほど多いでしょうか。考えてみてください。あらゆることが繰り広げられるでしょうに、仕方なく妻の役割をして、仕方なく引かれていって、仕方なく機嫌をとって、そのように暮らすものではありません。それがどうして愛といえるでしょうか。それが人生ですか。世の中がすべて神様の願った創造理想どおりに、花の香りが漂うエデンの園のように蝶と蜂が飛び回り、天地が和動しながら暮らすことのできる環境となり、神様がそこに酔って眠ることができたらどんなにいいことでしょうか。そう考えたことはありますか。一度そのように暮らしてみてください。


 神様は夫婦の立場に至ることができず、父母の立場に至ることができませんでした。これを復帰しなければなりません。そのためには真の父母が来なければなりません。真の父母が来て、縦的な父母と横的な父母となって初めて神様が創造当時に理想的子女を繁殖したのと同じように、そのすべてがここで実るのです。神様は縦的創造だけをしましたが、霊肉の実体が完成した位置にあるアダムは、横的創造をすることができます。神様は息子、娘の二人しか創造できませんでしたが、神様に代わって実体の父母の立場に立った人間は、アダムとエバを無数に生むことができるのです。十人生むこともできれば、二十人生むこともできるのです。しかし神様はそうすることはできません。このように横的な拡大の道を中心として多くの民が生まれて、天国の民として移っていくのです。

 真の御父母様は数多くの宗教の結実です。神様の創造の偉業を代表することのできる結実です。歴史の終着点であり、宗教の目的であり、人類の最高の希望です。すべてがここに帰結するのです。ここは自由です。個人解放、天上天下がすべてここで解放されるのです。これらすべては愛から統一天下が繰り広げられるのです。


 四 愛の理想は家庭を中心に完成する

  一) 神様の創造理想は四位基台完成


 神様の創造目的は何でしようか。アダムとエバを造って、ただ見るためではありません。男性と女性を造ったのは、男性は男性なりに、女性は女性なりに老いて死ぬようにするためではありません。息子が成長し、互いに異性に対する相対的な心情を通して神様を中心とした真の地上天国を建設するためでした。神様を中心とした愛の巣をつくるようにするためだったのです。ここで男性であるアダムは天を代表し、女性のエバは地を代表します。天地です。それゆえ彼らは二人ですが、彼らが横的に一つとなれば天と地が統一されるのです。神様の愛を中心として二人が統一されれば天宙は自動的に統一されるのです。

 神様はアダムとエバを創造されたその当時よりも、彼らを通して繰り広げられる未来に、より大きなみ旨を置かれました。最も貴いものが来るようにしました。それは創造目的を完成することです。愛を中心とした四位基台を完成するのです。

 神様は個体の性稟を中心としてプラス的性稟の代表として息子のアダムを造り、その息子を最高に愛されました。息子を愛するときに、女性的な愛を合わせて愛されました。また、娘であるエバを愛するときも、男性的な愛を合わせて愛されたのです。このように分立した二人が一つとなるので第三の出発の起源が生じるのです。それが子女です。それゆえ子女は、より新しい希望を触発してくれる愛の対象だというのです。

 アダムとエバは神様の愛と父母の愛を代表した実体として生まれました。したがってその息子、娘を神様も好み、アダムも好み、エバも好むのです。皆さんは三対象目的ということを知っています。その三対象目的はこのようにして完成するのです。

 人間に対する神様のみ旨は、創造目的を完成して創造理想を実現することです。創造理想の実現とは、男女が結婚して愛で一つとなることで終わるのではありません。その次には息子、娘がいなければなりません。なぜそうなのかというと、天地の道理は上下、前後の関係が連結することであるためです。きのうがあればきょうがあり、きょうがあればあすがあるのです。連結しなければなりません。それゆえ夫婦だけではきょうはあっても、あすはありません。あすがなければすべてが終わるのです。夫婦が上ならば下(子女)がいなければなりません。下がなければ終わるのです。それゆえ天地の道理は、上下があってこそ左右があるのです。


 父母はその息子、娘を結婚させて初めて自分の責任を果たしたと言えます。夫婦である父母と、息子、娘が結婚してこそ上下関係となるのです。上下関係ができてこそ理想がかなうのです。左右として夫と妻が合わさり、上下関係の父母と子女がいてこそ縦横が連結して、この宇宙の理想的球形世界を実現することができます。また、ここに兄弟姉妹がいて初めて球形が繰り広げられるのです。それで理想実現が完成すれば、横的に縦的に連結する十字的円形を描かなければなりません。その二つの理想実現圏を男性と女性が感じるとき、初めて自ら理想的な立場で暮らしているということができます。それが統一教会でいう四位基台です。それゆえ創造理想完成は四位基台完成であるというのです。

 人は自分だけにとどまっていてはなりません。自分から始まって三段階を経ていかなければなりません。これが私と相対と子女なのです。神様を中心とした私と相対と子女の関係、これが四位基台です。そしてこの四位基台を完成することが神様の創造目的なのです。

 四位基台を造成するためには、まず夫婦の心情を経なければなりません。そうしてこそ子女の心情をもつことができ、父母の心情をもつことができます。



 二) 創造理想は家庭完成によってなされる


 人間祖先を通じた神様の理想は、男性と女性が結合して理想的な家庭を築くことでした。そうなれば理想的な家庭の中心は男性でもなく女性でもありません。家庭というのは父母と子女、夫婦の結合からなる一つのまとまりなのですが、その結ばれた中心がすなわち神様の愛です。神様の愛を中心として家庭を完成することが神様のみ旨であるという結論が出てきます。

 家庭は永久不変の起源であり、礎です。これは父親も変えることはできず、兄弟も変えることはできず、いかなる国のいかなる制度によっても変えることはできません。また世界的にも変えることはできず、天地も、神様も変えることはできません。それゆえ家庭というものには革命という名詞は永遠に必要ないのです。

 人間には父子関係がなければならず、夫婦関係、兄弟関係がなければなりません。すなわちこの三つの関係が一点になければなりません。その中心点は一つです。上下、左右、前後の中心が異なってはならないのです。この中心点が異なれば、上下、左右、前後関係の均衡がすべて崩れるのです。それで結局、上、下、左、右、前、後ろ、そして一つの中心点まで合わせて七数となるのです。このように七数となるのは、すなわち神様を中心として完全な真の愛で一つとなり、このすべてが完全に球形を成して、調和と統一を成す家庭になるということです。

 父母と子女、夫婦、そして兄弟姉妹がみな、真の愛を中心として合わさることを願うところが私たちの理想家庭です。ここから永遠な世界的平準化が始まることによって地上天国が出発するのであり、また地上天国も自動的に築かれるのです。

 神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されればすべてが同じ体となります。父母は神様に代わる生きた神様であり、夫と妻はお互いにもう一方の神様であり、息子、娘は、もう一つの小さい神様です。このように三代が真の愛を中心としてつくられた家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤をつくらずしては天国が築かれません。家庭というのは宇宙の中心です。家庭完成は宇宙完成の基礎であるがゆえに、家庭で愛するように宇宙を愛すればどこでも無事通過です。このような場合神様は、宇宙全体の父母として愛の複合的な中心におられます。

 神様を中心とした創造本然の家庭的基台には、男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、神様の愛がすべて含まれています。このように消化された位置において父母を愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば誰でも天国生活をすることができます。


 一つの家庭は社会の倫理的基盤であり、人間世界において最も根本となり、根源的であり、一次的な組織です。このような家庭において、愛が最善の価値基準となるのです。

 人の一生で最も重要な時はいつかというと、生まれる時、結婚する時、死ぬ時です。それでは生まれる時はどのように生まれるべきでしょうか。良く生まれなければなりません。次には結婚する時です。結婚というのは生きるためにするものです。すなわち四位基台の造成のためにするのです。このような宇宙の公法を地球上に立ててこそ神様のみ旨が完成し、人間の志が遂げられるのです。このような宇宙の法度が指向する内容を備え、その形態を備えるためのものが家庭です。

 神様の創造理想は、人間始祖であるアダムとエバが、善なる子女を繁殖して神様を中心とした一つの世界をつくり上げることでした。

 「家和万事成」という言葉があります。その家庭が平和であれば万事がうまくいくという意味です。完成した家庭は平和の家庭であり、これは天国の基礎です。家庭の原動力は真の愛です。私よりも神様を、そして対象を生命のように愛する純粋で美しい愛、これが真の愛です。神様はこの宇宙に、真の愛の力よりも大きい力を創造されませんでした。真の愛は神様の愛です。


 この地球上に神様のみ旨が成し遂げられたならば、アダムを中心とした単一文化圏が形成されたことでしょう。今日のように多くの民族がそれぞれ異なった文化と文明を形成するのではなく、アダムを中心として一つの単一文化、単一思想、単一文明をもった世界となったことでしょう。そのようになったとすれば、文化、歴史、風習、言語、伝統などがすべて統一されていたことでしょう。



 神様の愛圏の中で理想的な家庭を築き、氏族を築き、民族と国家を形成し、さらに拡大されて、アダムの理想が実現された一つの理想的世界を築いたことでしょう。木の根、幹、葉が一つの生命につながっているように、愛を中心として上には神様を父をして侍り、下には万民を兄弟のごとく一つの生命体、愛の生命体となるようにして、神様を中心とした永遠な理想世界を築くことこそが、神様のみ旨から見た世界観です。このような世界の人間には救いは必要でなく、メシヤも必要ありません。なぜならば、その世界に暮らす人間は神様の善なる息子、娘だからです。

五 神様が万物世界を造られた目的

  一) 万物を造られた目的


 本来、神様は天地万物を遊び道具として造られたのではありません。趣味で造られたのではありません。目的も方向もなく、何らの理念的な内容もなく、ただ造られたのではありません。それは大きな目的と大宇宙の理念をもって造られました。それゆえ極めて微少な物から宇宙に至るまで、すべての存在物には、神様の心情を通じた理念が宿っているということを私たちは否定することができません。それではこのような理念をもって造られた目的は何なのでしょうか。神様の愛を中心とした理念の世界、すなわち愛とともに通じ、愛とともに喜び、愛とともに生き、愛とともに死ぬという世界を目的とされたに違いないのです。

 私たちが眠りから覚めて目を開ければ、目の前に広がった万象が見えます。見えるその万象を通して何か分からないけれども間接的な印象を受け、その反応する感覚で生活における感覚を高めていくのです。私たちの周辺にある極めて微少な物でも、必ず私たちと因縁が結ばれており、関係しています。私たちが無視しても、その万物はその日その日、天倫の理念によって存在の価値を示して人間と関係を結んでいるのです。なぜそうなのでしょうか。極めて小さい存在から、万物を主管することのできる万物の霊長である人間に至るまで、その存在目的を中心として見れば、神様の大宇宙の理念に通じることのできる愛の理念圏内に入っているからです。それゆえ小さなものは大宇宙の目的を達成するにあたって、大きな分野を担っているものに吸収されて動くのです。小さいものは大きなものに吸収されその材料となり、一つの要素となり、大理念を中心として一つの目的に向かうのです。歴史はこのように進展していくのであり、存在世界は天倫という原則の軌道に沿って一つの目的のために動くという事実を否定することはできません。

 なぜ神様は万物を造ったのでしょうか。御自身が愛する対象を、対象者をもつためです。御自身が愛する対象圏を造るためです。その対象が食べて生きたのちに、自分の本然の世界に戻ってきて、永遠な神様の愛の本国に来て生きるようにするためです。それが分からなければなりません。

 聖書には天地創造したことが簡単に述べられています。み言によって天地万物を創造したというのです。「星ができよ」と言うと星が生じ、「地球ができよ」と言うと地球ができたということになっています。しかしながらそこには無限な秩序と法度に従って前進的な原則を継承させ、小さなものから大きなものへと発展させてきたことを私たちは知らなければならないのです。そうしてこのすべての万物を造って、万物の精髄として集約したのがアダムとエバ、人類の祖先です。

 今日のキリスト教信者が考えるところでは、神様は全知全能なので一言「このような天地となれ」と言って、このようになったと言います。しかしそうではありません。神様がすべてを投入したのです。もてる精力をすべて投入したのです。もてる愛の力をすべて投入して未来に自分の愛する息子、娘、自分の愛する家庭のための礼物として、贈り物としてすべての物を造ったのです。それゆえ私たちはそのような観念をもって万物を見なければならないのです。

 創造するとき、何をもってしたのでしょうか。初めに神様のみ旨がありました。神様の考えがありました。神様の考えとともに計画がありました。人間を創造してこういう人間世界を造ろうという本来の神様のみ旨と計画があったということが分かります。

 一つ知らなければならないことは、神様が世の中を造るとき、環境を先に創造したということです。環境の創造を先にしたのです。これを知らなければなりません。そこは必ず主体、対象を中心として作用する世界です。結果がそのようになっているのです。主体、対象が合わさって作用する現象の世界として自然界は展開されています。そのとおりになるのです。

 天地創造の道理を見れば、核心を先に造ってから相対を造るのではありません。核心を造る前に、相対的な条件を造るのです。人を造るために土を造っておいて……。外的なものを基盤として内的なものを立てていくのです。それが天地創造の道理なのです。現在のものよりも大きいもの、無価値なところから、より価値のあるものを求めていくのです。道理がそうなのです。今日、人間創造を考えると、人間を造るときに体を先に造っておいてから霊を造ったのです。

 神様が六日間造った万物を御覧になって誇りたかったのです。すべての被造物を御覧になって無限に喜ばれたのです。その喜びの心をもって「良し、良し」と重ねて言われたそのみ言は、誰に向かってのみ言なのでしょうか。万物に向かって言われたみ言だったのです。万物に向かってそれほどに懇切な気持ちを抱いて言われたということを私たちは知らなければなりません。


 神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造ってから見て、良しと言われました。喜びがあったということです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在していたがゆえに、創造された万物に神様は喜びを感じられたのです。それでは復帰の世界とはどのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体個体を見て神様を賛美することのできる心情的な因縁を立体的に備えた人々が住む世界です。天から見た人格の価値はそこにあります。それゆえ昔、聖フランシスのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したというのも、うそではありません。夢のような話です。しかし夢ではなく事実です。

 愛は一人でいるときにもありますが、愛の作用は相手がいなければ生じません。神様でもどうすることもできません。神様が最も好む愛なのですが、その愛は一人では完成しません。一人では愛の喜びを感じることができず、愛の衝動を感じることはできません。そのような理由から神様が宇宙を造ることになりました。神様が愛し、喜ぶことのできる相対として宇宙を創造したのです。そうして宇宙を創造してから、その宇宙の主人としてアダムとエバを創造しました。

  二) 神秘の宇宙、その規模と構造


 被造世界のすべての物は、神様の愛する息子、娘が愛の理想を見つけていくことができるように、教材として造ったものです。それゆえ相対的な構造になっています。鉱物も主体と対象の関係によって作用し、原子も陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続することができないのです。運動しなければ永続、存続できません。それゆえ宇宙は人間を中心としてその中心点に到達することができるように創造された世界なのです。

 宇宙とは何でしょうか。神様の体のようなものです。目に見える体と同じようなものです。神様の分身です。ですから私が本当に愛することができるという観念が成立するのです。宇宙を愛するということの実感がわくのです。皆さんの頭もこうやってなでてやったりするでしょう。服にも何かがついていれば、取り除くでしょう。それはなぜですか。私のものだから、私と一緒にあるから、このような観念があるのです。皆さんが今後どうすべきかというと、心の中に神様を迎え、心が一つとなり、体が一つとなり、万物が一つとなる、そのような統一の世界を築かなければなりません。

 この宇宙がどれほど大きいかというと、何億光年です。光は一秒間に三十万キロメートル進みます。その三十万キロメートルとはどれほどかというと、地球を七回半回ることのできる距離です。その距離を一秒間に走る光が、一年かかって進む距離を、天文学では一光年といいます。そのような光年を単位として出発した光が、何億光年になってもまだ到達できないほど大きい宇宙です。グリニッジ天文台では今まで百億光年離れた世界の星まですべて発見しましたが、今では百五十億光年離れた世界の星も見ることのできる時代となり、それ以上の時代となってきているのです。

 この宇宙がどれほど大きいかというと、今何と言いましたか。ざっと百億、それも原理的な数です。二百十億光年、それほど大きいのです。それがどういうことかと言うと、光がここから出発して、それが一日かかるのを一光日、一月であれば一光月、複雑で分かりません。皆さんが自分で考えてください。さて、これが出発して一秒間に三億メートル、光の速度で三億メートル行きます。距離でいえば地球の七回り半にもなる距離です。あっという間に七回半も回ります。


 それほど速い光が一日かかっただけでも、腰が曲がって考えも鈍くなり「私には分からない」ということになるでしょうに、それが百年でもなく、百の何万倍でしょうか。百の何万倍ですか。百の千万倍が億です。そうでしょう。百の千万倍ですか。百の百万倍、それが一億ですが、一億光年。出発して一億光年。行っている途中なのに、人が百歳まで生きるとすれば百万人が死んでいくのです。一億光年にです。


一億光年ですから、百人が生まれて、百年生きては死ぬのを続けて、百万人が死ぬときになってもまだ続くのです。それでは二百十億光年ならばどれほどでしょうか。皆さんが計算してください。人がずらっと並んで生きては死に、また生きて、百歳まで生きて、このように二億百万人が生きてそれほど行ったのにまだ続くのです。その遠い距離は直線ではありません。これがぐるぐると回っているのです。このような宇宙なのです。

 宇宙の完成とはいったい何でしょうか。宇宙を完成するには私が完成しなければなりません。いくら宇宙が完成したといっても私が完成できなければ何の関係もないのです。世の中がいくら良くても、外的世界が良くて踊りを踊るとしても自分が今苦痛にさいなまれているとすれば、その外的世界の喜ぶべき環境もすべて、自分と関係のないものであるということを私たちは知っています。

 宇宙の完成は、外的な世界も良いのですが、内的な私自身、私にとっても良くなければなりません。私の細胞、すべての細胞にとって良くなければなりません。目の細胞と足の裏の細胞とでは異なります。異なるのですが、その細胞がみな喜び、手の細胞も喜び、すべての細胞が喜び、体と心、どれ一つ残らず全体が喜ぶものが、離れているのではなく、一つに連結されて連帯的な内容を中心として、共鳴的な愛の喜びを感じることのできる、そのような世界となってこそ宇宙が完成されるのです。


  三) 自然は愛の理想を教えてくれる教材


 祈祷する人は、自然は第一の聖書だと言いました。第二ではありません。イスラエルの歴史をつづってきた聖書を見ても、内容を確実に知ることはできません。その内容を見て、先生がどれほど頭を振ったことか、分かりますか。それは占い師の占いのように、耳にかければ耳輪、鼻にかければ鼻輪(韓国の諺:解釈によってどうとでもとれるということ)なのです。現実を逃避するための方便です。ですから事実の内容を判断して前後の事情を明らかにするのは難しいので、聖書よりも神様の造られた自然の世界が一番だというのです。

 因縁というのは極めて小さいところから結ばれるものです。皆さんの個体も百兆個もの細胞で因縁が結ばれた生命体です。神様の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどれ一つをとってみても、神様の心情の外で生じたものはありません。このようなことを感じる詩人がいたとすれば偉大な詩人です。一枚の木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、それは宇宙的な詩人だといえます。

 私たちの周囲で無意識のうちに繰り広げられている天下万象は、神様の愛と共に存在するものであるという事実を知りませんでした。神霊な境地に入ると、小さな一粒の砂にも宇宙の道理があり、原子一つにも無窮無尽な宇宙の調和があるということを知ることができます。存在するものすべては、はっきりとは分からないけれども、ある複合的な力を通じて現れた結果だということを否定することはできません。分子を経て原子、原子を経て素粒子……。このようなものが無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的を備えて存在するのです。それゆえ存在するすべての物は、神様の愛の手を経てできたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているという事実を、徹底的に知らなければなりません。

 修道者とはどのような人なのでしょうか。一株の草をつかんでも「神様!」と言うことのできる心情で、自分の価値と同等にその価値を認識することのできる人が最高の修道者だと言えます。そのように、その価値をうたうことのできる人が最高の芸術家だと言うことができます。様々に存在する万象を見て、神様の様々な愛と心情の妙味を発見し、それらと友となり、共に楽しむことのできる感情をもった人がいるとするならば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとするならば、その人は全宇宙を代表することのできる人だと言えます。そのような人が万物の霊長です。ところが食べること以外に能のない人が万物の霊長と言えるでしょうか。

 子供たちを見れば、子犬だとか、何かの虫だとか、飛ぶもの、動物といった、動くものを中心に好みます。それはどうしてでしょうか。本来、人はそのようになっているのです。それがどういうことかと言うと、人間は、自然世界や、この地球の動きを見て興味をもつということです。もちろん相対基準は違うかもしれませんが、それを鑑賞することに人間はおもしろさを感じ、興味をもつのです。そうすることで自分自身の愛の属性をすべて学ぶのです。虫たちが生き、昆虫が生き、また動物たちが生きるのを見ると、すべてがつがいになっているのが分かります。このように考えると、自然とは何かというと、人間一つを愛の対象として相対理想を教育するために展開させた教材、博物館なのです。

 神様は宇宙を、被造世界のすべての物を愛する息子、娘が愛の理想を求めていくことができるように、教材として造りました。それですべては相対構造になっています。鉱物も主体と対象の関係によって作用します。物質の構成単位である原子も、陽子と電子が主体と対象の関係で作用します。作用しなければ存続することができません。運動せずしては永続し存続することができません。ですから作用しなければなりません。


 人間は成長しながら自然を見て習得します。「昆虫の世界はこうなのだなあ」と学ぶのです。月が照らし、星が光る秋の夜にじっと耳を澄ますと、昆虫たちの鳴き声が一つのオーケストラの演奏として聞こえます。なぜ昆虫たちはそのように鳴くのでしょうか。それは相手を求めて理想を歌うのです。愛をささやくのです。鳥やその他の動物たちも悲しい声、喜びの声を何で示すかというと、愛という共通分母に従って声を出します。級は低く、軸から離れていますが、その軸を中心として平衡線をとって回っています。すべての存在はそのようになっています。


 鳥たちの歌には三つの種類があります。一つは空腹の信号の歌であり、次は愛する相手のための歌であり、次は危険なときの歌があります。それらはみな異なります。私たちには、普通の人には分かりませんが、鳥たちの世界ではみな分かるのです。空腹で鳴けば、すぐに分かるのです。毎日の生活は何を中心としているでしょうか。空腹なのは一度食事をすれば解決します。だからといって毎日のように危険な場にいるのでもありません。大部分の歌は何を中心としているかというと、相手と授け受ける関係で歌が行き来するのです。

 人間は主体と対象、すなわち相対的な双として造られ、また、人間のためにある万物世界もすべて愛の原理のもとに調和をなし、人間の愛によって生命と理想を実現するようになっています。万物世界は人間にとって、特に、成長するアダムとエバにとっては愛の教材であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。

 すべての鳥や動物はつがいになっています。互いに愛を中心として和動します。花と蝶は極と極ですが、互いに和合します。これは天地の調和です。宇宙の極と極が愛を中心として和動するようになります。渡り鳥も同じです。南にいた鳥が北に飛んでいき、北にいた鳥が南に飛んでいって地域を越えて愛します。愛を中心として永遠に回ります。人間はこのような愛を、神様の造った博物館の教材を通じて学びます。


 人間と神様が好きで愛すれば、天下のすべての万物はそこに調子を合わせて和動します。神様が愛し喜べば、天使世界も喜び、このすべての被造世界が喜んで拍手を送り、賛美を送ります。歌を歌うことのできる鳥は歌を歌って賛美し、美しい花は香りを漂わせて賛美します。最高の愛の主人公たちが楽しむことのできる香りの雰囲気を拡張するためのものが、この被造世界です。見た目には気持ちの悪いひきがえるも愛するときには「ウッウッウッ」と言います。どれほど素晴らしいことでしょうか。足を打ちつけて後ろ足を上げたり下げたりしながら愛するその姿は、どんなに素晴らしいことでしょうか。それは最高の芸術です。

 アダムとエバは成熟するに従って「ああ、あんなふうに愛するのだなあ」と分かるようになります。神様は万物世界を人間の愛の理想を成熟させるための教材として展開しておきました。それを学んでいくのです。だんだん大きくなるに従って「ああ、昔は妹のように、兄さんのように暮らしたけれど、こうしてみると……」このように感情が変化してくるのです。「ああ、そうか」と学んでいくのです。それで「お前と私は死んでも会わなければならない。他へは行けない」と平衡線で直行しつつぶつかるようになるのです。

 最初は神様の子女として生を受けたアダムとエバも、神様の保護圏内で幼いときから成長するに従ってだんだん大きくなっていくのです。そうして知能が発達するので神様がなぜ被造世界を造ったのかを知るようになり、その被造世界を通して教育を受けるのです。被造世界の動くものすべては、私たち人間始祖、本来の祖先となるべきアダムとエバが生活するためのすべてのことを教えてくれる教材でした。完成したアダムとエバではなかったので、理想生活をしていくにあたっての標本であり、一つの博物館であったという事実を知らなければなりません。


  ) 自然に対する私たちの姿勢


 朝、目を覚まして自然を見れば、その自然が、かすかに私の本性と絆を結び新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし人間の世の中を見れば見るほど、絶望と悲しみの感情が高まるという事実がよく分かることでしょう。本来、堕落していない本然の人間が住む世の中というのは、人間の価値はそのように見る人をして悲しみを感じさせるようなものではないのです。一株の草や一輪の花、一本の木程度の価値のものとして造られた人間ではないのです。いかなる被造万物とも替えることのできない高貴な人間であり、その何ものとも比較することのできない価値ある姿で天上に代わって出てくるべき人間でした。

 神様の愛が宿っている自然を見て、「この世の王や有名な人がもっている立派だと言われる物に比べることができるであろうか。骨董品と比べられるであろうか。有名な婦人が着ている豪華な服と比べ物になろうか」という思いをもたなければなりません。それができなければ私たちは自然世界の前に我知らず罪を犯しているのです。一つの生命体を見て「人間がつくった物と比べることがでようか。どんなに立派な人でも神様よりも立派であるはずはない」と、神様が心情を注いで造られた万物にすがって何よりも貴く感じる者がいるとするならば、その人は天の息子、娘に違いありません。このような人には祈祷が必要ありません。神様のように生きる人です。天は人間をそのような位置にまで押し出すのです。

 人間は自分の愛する人のものは何でも好み、かわいがります。それなのに、最も愛すべき神様の造られた万物をかわいがらないのです。このような人々が神様の息子、娘でしょうか。嘆息する万物の恨を解怨すべき責任を負った皆さんは、一本の木、一株の草からも六千年前、それらを造られたときの神様の心情と創造のみ手を体恤しなければなりません。そのような心をもたなければなりません。それゆえ道の途中で一株の草を見ても、涙することができなければなりません。「主人を失ってどれほど寂しかったことか」と言いながらです。ここで話をしているこの私はたくさん泣きました。岩につかまって泣きもしたし、風が吹くのを見ても泣いたことがあります。なぜそうでなければならないのか、み言を聞いたので、もう理解できることでしょう。

 「神様が造られた価値ある万物が、神様と永遠の因縁を結んだ貴い万物が、今日どこかの王宮で国宝だの宝物だのと、貴く思われている物ほどの扱いも受けていない悲しみを私が分かってあげなければ、私だけは分かってあげなければならない」と考えてきました。「この地で暮らす世界人類が誰も分かってやらなかったとしても、私は分かってやらなければ」という思いを皆さんがもったならば、その民族は今後、世界人類を支配し得る新しい民族となることでしょう。これは観念ではなく事実です。どこの誰が万物を、代々受け継がれてきた自分の家門の宝物よりも、この世で最も貴い宝石といわれるダイヤモンドよりも貴く思い、しっかりとつかんで離すまいとするでしょうか。そのような人はどこにいますか。神様は御自身が造られたものを心情的に分かってくれて、それにすがって涙する人を見て「よしよし」といわれるのです。

 自然とは何でしょうか。神様が私のために、「ため」に生きる愛をもった息子、娘が生まれたときに、「ため」になる万物として、プレゼントとして下さった展示品です。鳥の声一つ、一株の草さえも、愛の息子、娘たちの生活の美化のために造られた装飾品なのです。道に転がっている岩も、息子、娘が国を治める主人になることを知って、その国の装飾品として造ったのです。流れる水も同じです。無味乾燥として単調だといけないので、この上なく調和した和合の園、愛のための世界を見てそれを相続することのできる夢の王子、希望の王子とするために創造したのです。それゆえ万物を通して学ぶのです。雄と雌がチュンチュン鳴くときには、これは主人であるおばさんも学べというのです。お互いに「ため」に生きる世界に向かって自分の人生を、命を懸けて生きる本然の被造世界の美しさを賛美できなければなりません。そうなればその家の垣には小鳥もやってきて住もうとするのです。ひなを産もうとするのです。どういうことか分かりますか。

 博物館のある作品がいくら貴重だといっても、生きている作品に優るでしょうか。神様の作品であるこの地球の万物博物館を、誰が神様以上に愛したでしょうか。自分の国の博物館以上に愛したかというのです。道端で踏みつけられる一輪のたんぽぽを、博物館にある新羅時代の金の冠に比べることができるでしょうか。神様が直接造られたものであるのに。そのような神様の心情をもって「神様のための本然の王の立場から、愛を受けていたその立場からお前を愛することのできない私が申し訳ない。恥ずかしい」と言うことのできる心をもって「ため」に生きるそんな王がいたとするならば、一株の草もその王に従って永遠不変に一緒にいたがるのです。そのように生きるべき人間なのです。


  五) 自然を愛し、人を愛しなさい


 自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することのできない人は、神様を愛することができないということを知らなければなりません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在であるゆえに、万物と人間を愛することのできる人は、神様を愛するようになるのです。

 いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。また、人間を愛さなければなりません。人間の中でも五色人種をみな愛さなければなりません。「私は白人だけがいい」。神様はそうでしょうか。それならばみな白い衣服ばかり着なければなりません。色のついた服は全部捨てなければなりません。黒い服をなぜ着るのですか。色のついた服をなぜ着るのですか。矛盾しています。

 元素も微物もすべて愛の道を行くのです。神様と一体となることのできる愛と直接に接することのできる細胞を求めていくのです。それが人間です。ですから、愛のためには犠牲にならなければならないのです。投入しなければなりません。生命と財産をすべて投入した伝統があるがゆえに、低級のものはより高級なところへ自分のすべてを投入しようとするのです。それゆえダーウィンの進化論ではなく、愛を中心として吸収する論理です。第二の価値的な内容を創造するときに創造要素として適用されるならば、微物としてよりもどれほど価値的な内容が上がるかというのです。

 神様の造られたすべての存在を愛の対象として感じなければなりません。すべての微物まで愛し、人はもちろんのこと、天にあるものまですべて、無形のもの、有形のものを愛することができ、愛されることのできる皆さんにならなければなりません。朝、鳥がチュンチュン鳴くならば「このすずめめ、ゆっくり寝ようと思ったのにどうしてチュンチュン鳴くのか」と言うのではなく、「ああ、有り難い。私を起こしに来てくれたんだ。大事なお客さんが私を迎えに来るのをお前が知らせてくれるのか」と考えなければなりません。思想が違うのです。これが偉大なのです。これが。

 神様は人間世界を造ると同時に天使世界を造りました。それでは天使世界とはどのような世界でしょうか。人間が一つの結実のために、花のような存在としての美を備え、香りを放ち現れるときに、初めて愛の巣が完成するのです。それゆえすべての生命力はそこから出発するようになり、すべての生命の因縁をもった存在がそこから和動できるようになるのです。このように和動できるようになる起源が正に人間なのです。

そのような人間を中心として、天にいる天軍天使たちが人間と、蝶と蜂のように互いに授け受けることができる和動の主体圏を成すようになったなら、それこそ神様が喜ばれ、人間が喜び、天使が喜び、全被造万物が愛に浸る和動の花園になったことでしょう。また春の宴が始まったことでしょう。


第三章 復帰摂理歴史と神観の変化

 一 旧約時代、神様は天使であった

  1. 旧約時代は僕の時代であった

 人間が堕落することで無原理圏内に落ちました。どの程度落ちたのでしょうか。神様の僕である天使にも劣る世界に落ちました。主人となるべき、王子王女が僕にも劣る位置に落ちたのですから、再び上がらなければならないのです。それゆえ僕の僕の道理から始めて、僕の道理、養子、庶子、こうして直系子女まで、次に母を通じてアダム(父)の位置に戻らなければならないのです。復帰です。救いの摂理とは病気になる前の健康だった基準に再び戻すのと同じです。病んでいなかった位置に戻らなければならないのです。それゆえ救いの摂理は復帰摂理です。復帰摂理はむやみにするものではありません。とにかく「信じれば救われる」そのようにはなっていません。

 人間は堕落しましたが神様に背くことはできないので、僕の僕の立場から上がっていかなければなりません。それでは「僕の僕」というのは何を意味しているのでしょうか。主人がいないということです。堕落した人間は「僕の僕」の立場から神様に忠誠を尽くさなければなりません。サタンは天使長だったのであり、神様の僕でした。その僕の前に引かれていった人間であるがゆえ、人間が神様の前に戻ってくるには「僕の僕」の立場から神様の前に忠誠を尽くしたという基準を立てなければならないのです。

 旧約時代は祭物を犠牲にして、神様が僕として使うことのできる人を探し求める時代です。それが旧約時代です。人を失ったので反対になったのです。人が万物よりも低くなりました。人が万物よりも悪くなったので、神様の前により近い万物を二つに裂いて、お前の所有物、私の所有物として分けたのです。このように分別的な祭物を立てなければならなかった事実は誰のせいかというと、神様のせいではなく、サタンのせいでもありません。人間が責任分担を果たせなかったからです。それを知らなければなりません。サタンの血統を受け継いだのは、人間が責任分担を果たせなかったからなのです。

 摂理的に見ると、旧約時代前、ヤコブ以前は僕の僕の時代であり、ヤコブからイエス様までは僕の時代であり、イエス様以後は養子の時代であり、再臨の時期は息子の時代です。息子の時代が来るので、息子に父母がいなければなりません。それゆえ父母の時代を経て神様のもとに帰るのです。

 旧約時代は僕の時代でした。僕の僕の位置にいる人間を僕の位置に復帰してくる時代でした。それゆえアブラハムも僕であり、息子にはなれませんでした。神様は僕の僕を立てて、忠誠の道理を立てられました。そしてこの歴史的な世界人類を引っ張って糾合させて、世界的な悪の舞台を天の側に占領しながら神様の摂理を発展させてきたのです。ヤコブも神様の息子として勝利したのではなく、僕の立場で勝利したのです。神様がこのように僕の僕から、僕の位置に復帰し、僕の位置から養子の位置へと復帰しながら摂理してこられたのです。

 歴史的な復帰路程を総括的に見ると、神様は今まで蘇生、長成、完成の三段階を通して摂理してこられたということが分かります。旧約時代の僕の時代、新約時代の養子の時代、成約時代の真の子女の時代を越えて、真の父母の時代になるという復帰路程なのです。旧約時代の全人類に対する救いの摂理は僕の立場での救いでした。それゆえこの時代は、初めから終わりまで残って勝利することができる中心を立てなければ、僕としての復帰基台を立てることができませんでした。それゆえ神様はノアやアブラハムなどの中心人物を立てて四千年という歴史を導いてきながら多くの犠牲を払われました。

 旧約時代は何をしたのでしょうか。この世がサタン世界となったので万物を犠牲にして天の側の人を立て、僕を求めました。神様の僕。養子を探すこともできません。僕の僕を探し出すのです。サタン世界の人々はみんなサタンの息子、娘となっているのに、それを奪ってくることができるでしょうか。ですからサタン世界で落胆した人を集めて引っ張ってくるのです。惨めです。廃品を収拾してきます。廃品を収拾してくるので、そのままではできません。犠牲にならなければなりません。祭物の過程を経なければなりません。

 天はサタン世界の僕の子にも劣る人間を連れてきて、神様の世界の僕の僕にしようというのです。それが旧約の役事です。ヤコブとエサウを闘わせたのもそれです。ノアもそれです。遠い異国に連れていって、隔離された位置に、疲れ果てたところに天はサタン世界の僕の僕の子を連れてきて神様の僕にするのです。

 神様がサタンの僕にも劣る人間を御自身の僕として立てようとされたのが、旧約時代の摂理でした。

 サタンは一方では人間を怨讐のように扱います。人間はサタンの僕にもなれません。このような人間を神様の僕にする役事をしたのが旧約時代です。ここから再び僕を養子に、養子を直系子女に、子女を兄弟に、兄弟を新郎新婦として祝福して、真の父母の位置にまで行くようにしようというのです。神様を中心とした真の家庭を失ったので、これを取り戻すのが復帰です。イエス様を真の父母の位置に登場させるのが小羊の宴です。

 神様は僕を立てて、私がお前の父だと教えてやりました。僕を遣わし、天使を遣わして教えてあげました。次に息子に役事させました。その時代が新約時代です。その次は聖霊に役事させてきました。


 今まで神様の願いは、人間が万物と因縁を結び、神様と因縁を結ぶことでした。それゆえ神様は堕落した人間を僕の立場から始めて養子の位置を経て、子女の位置、そして父母の位置まで引っ張り上げるということをしてこられました。それは嘆かわしい堕落の因縁を切り捨てて万物と人間と神様が、一体の因縁を結んで神様の喜びが人間の喜びであり、人間の喜びが万物の喜びになるようにしようというのです。神様は息子、娘のために生き、息子、娘を万物世界と天使世界にまで誇り、見せてやりたかったのです。


 考えてみてください。旧約時代はイエス様が来るまでの四千年です。当時、祝福という言葉がありましたか。神様の名で家庭を祝福することができましたか。僕の時代だったので僕である天使長圏内にいるのです。天使長は結婚することができないのです。独身生活をしなければなりません。独身生活です。神様が家庭をもつことができず、神様の息子、娘が結婚できないのに、僕が結婚することができますか。そんなことができますか。

) 旧約時代は天使が神様に代わって役事した


 神様は汚された地を再び回復しようと、天使たちを通じて人間と関係を結ぶ救いの摂理をしてこられました。堕落によって神様に背いた立場にいる人間、万物とも比べられないほどに落ちに落ちた人間に、神様が再び対するために救いの摂理をしてこられたのです。サタンが支配し、サタンが讒訴する人間を神様が主管するために、橋を架けて役事してこられたのが、旧約時代を経て新約時代を経て今まできています。

 旧約時代には本来、神様が直々に役事しなければならず、神様の栄光で人間に対すべき時代でした。ところが堕落によって摂理が完成しなかったので、悲しみを抱いて、第二次として天使を通じて人間に対する道を開拓してきたのが旧約時代なのです。天は天使に役事させる基準を立てられました。天使も神的な存在なので、イエス様が来るまでの方便として人間に神様のように現れて、仲保の使命をなしたのです。

 旧約時代を見ると、天使たちをみ使いとして立てて、神様の自由の園、解放の天国を建設してきました。僕の立場から神様の息子へと解放される恩賜圏に入るには、命を失っても喜ぶことができなければなりません。そのような自由の心情をもった人だけが、僕の位置を越えて息子の位置を取り戻して入っていくことができたということを、皆さんは知らなければなりません。

 皆さん、聖書を見てください。神様は今まで霊界にいる天使長に、息子に、聖霊に役事させてきました。神様が直接心情を接続させる役事ではありませんでした。旧約時代は天使に役事させ、新約時代は息子に役事させました。旧約時代は天的に見ると、民を収拾するための時代であり、新約時代は子女を収拾するための時代でした。

 皆さん、見てください。イスラエル民族を立てるために、天上世界の天使たちが来て働きました。僕が来て働きました。次に息子が来て働きました。今は父が来ます。皆さん、来たるべき主は父として来られます。真の父母として来られ、真の子女を率いて愛するのですが、その時にはどうなることでしょうか。皆さんは一人を前にしても夜を明かすことでしょう。神様はアブラハム一人を全人類以上に愛し、イエス様一人を全人類以上に愛されました。それゆえ皆さんは神様の愛する息子、娘の一人がどれほど貴いかを知らなければなりません。

 アブラハムに現れた主なる神も天使の姿で現れました。本来、神様は無形の神様であり、目に見えない神様なのですが、創世記では三人が神様として現れ、二人はソドム、ゴモラの審判をするために行き、残る一人は神様となってアブラハムと対話する場面が出てきます(創世記一八・一~一八)しかし、彼らも神様の遣わした天使であり、天使を立てて方便として神様のように摂理されたのです。それを知らなかったのです。

 ヤコブが二十一年間修道して、一日の願いを成し遂げるためにセイルの地、兄のいる故郷の山河を訪ねていくのですが、二十一年間、その一日を待ちわびていたのですから、神様は喜んで「行きなさい、行きなさい」と言うべきなのに、天使を遣わしてヤボク川で「おい、この息子!」と闘いをさせたのです。ここで天使に負けようものなら、二十一年間の苦労が水の泡になるのです。それでヤコブが天使にしがみついて、勝つまで離さないと言ったのです。腕が折れても離せないと言ったのです。どんなに執念深いでしょうか。

 イサクの手を通じて祝福してくださった神様、すべてを捨てて故郷に帰るように命じた神様が、ヤコブの行く道を案内し、平坦にしてやることができず、さらには、ヤボク川で夜を徹して切ない思いで天に訴えるヤコブに勧告のみ言を下さるどころか、むしろ天使を遣わしてヤコブを打たせるという、こんな非情な環境を準備されたのです。

 旧約時代に生まれて死んでいった私たちの信仰の先祖たちは、どのような人々だったのでしょうか。神様は無形の神なので現れても分からないので、神様の形状として、神様に代わって、その時代時代に合うように、その歴史の因縁を再現して因縁を結ぶために送られた人々でした。それゆえ私たちが神様の養子の位置にまで上がるためには、多くの人の歴史的因縁を連結して、個人的世界代表、家庭的な世界代表、また、氏族的な世界代表、民族的な世界代表、国家的な世界代表、このような多くの数を経て、終着点を代表する一つの代表者としてすべて結束させなければならないのです。


 三) 天使がなぜ人間の救いに加担するのか


 天使はどのような存在なのでしょうか。僕の立場で神様の前に忠誠の道理を尽くして、アダムとエバの囲いとなってやるべき存在です。万世に天の世界に栄光の雰囲気をつくって、神様の愛を中心としてアダムとエバと共に幸福に暮らすべきだったのです。言い換えれば、天使長はアダムとエバのために創造されたのです。アダムとエバの父である神様が天使を創造した目的は、アダムとエバのためだったのです。

 天使長が堕落してアダムとエバ、人類世界をこのようにめちゃくちゃにしたので、天使がその仕事を代行しているというのです。天使世界がその仕事を代行しているのです。したがって天使世界がサタンと対決しているというのです。悪なるサタンと善なる天使が対決しているのです。その闘いで善なる天使側が勝利してこそ一歩前進するのです。何の話か分かりますか。神様の思いどおりにすることができないというのです。原理がそうだというのです。

 神様が堕落していないアダムとエバの前に僕として三人の天使長を造りました。誰にアダムとエバを保育させ、保護して育てさせたかというと、天使長に任せました。なぜそうしなければならないのでしょうか。主体と対象の関係です。地上が主体で天使世界が相対となる主体と対象関係です。二重的な環境を中心として神様の真の愛の前に平衡的な相対圏を拡大させることが、天上天下を創造した神様の理想だったのです。

 アダムは誰が教育しなければならないのでしょうか。神様が教育するのではありません。天使長たちが教育しなければなりません。保護育成しなければなりません。結婚するときまで大切に、傷つかないように管理指導して教育すべき責任が天使長にあったのです。その原則に統一教会も従わなければ蕩減復帰完成ができないので、私は三十六家庭を立てて自分の息子以上に愛しました。

 神様は生命の母体です。父母はその子供の生命を育ててくれるというのです。生命の母体であり、愛の母体であり、保護の母体です。生命を保護してくれ、育ててくれ、愛してくれるというのです。それゆえ、幸福はどこから出てくるのでしょうか。保護圏が成立しなければ命が危機にさらされるのです。命が危機にさらされると愛も成立しないのです。今死ぬというのに愛が成立することができるでしょうか。できないのです。それゆえに保護圏がなければならないのです。それで保護圏を造りましたが、保護するのは誰かというと天使長だというのです。アダムとエバは生命の起源であられる神様から生命を受けて、天使長の保護を受けて愛の教育を受けている途中だったのです。


 二 主なる神の正体

   ) 主なる神の属性


 モーセが愛の神様を紹介することができず、全能の神様、能力の神様、審判の神様を紹介した理由は、イスラエルの民に律法を与え、律法によって天の民を保育するためであり、乳と蜜の流れるカナンの地に連れていくための復帰のみ旨を成就することに、その目的があったということを知らなければなりません。

 乳と蜜の流れるカナンは荒野で十戒と律法を受けて契約の箱を担いだ生まれ変わった人だけが行くところです。神様は出エジプトをしたイスラエル民族に、神様の民として再創造するためのみ言を下さったのですが、彼らがみ言どおりに行わなければ、むちで打ち、怖い刑罰を加える恐ろしい神として現れたのです。

 サタンが王になっていた旧約時代は、メシヤが現れるまで悪魔が権勢を握る時代なのです。モーセにとって主なる神は恐ろしい恐怖の神、復讐の神、嫉妬の神として現れ、僕の僕となった人間を律法でむち打ち、法度に反すれば容赦なく刑罰を加えた時代が旧約時代です。旧約の主なる神の属性を見ると、嫉妬心の強い神として「私」以外の他の神に仕えるならば恐ろしく嫉妬される神様であり、イスラエル民族にカナン七族を残らず滅ぼせと命じた残忍な神様であり、律法と法度に反したイスラエルの民を目の前で倒した無慈悲な神様です。宇宙を創造された愛の神様であるのに、このように嫉妬と復讐と恐怖心とカナン七族を無慈悲にも滅ぼすという、こんな性稟があっていいのでしょうか。旧約時代は天使が仲保となって神様に代わった時代だからです。

 命には命で、目には目で、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、傷には傷、殴ったことには殴ることで返せという復讐に満ちた律法主義は、創造主神様の性稟であるはずはありません。神様は愛であり、許しの神様です。

 モーセの前にも神様は何度か現れます。ホレブ山で柴の中の炎のうちに現れモーセを召命し、シナイ山の頂でも現れてモーセに十戒を与えました。今日までモーセの前に現れた主なる神が天使であるとは知らずにいますが、新約聖書の使徒行伝第七章を隅々まで見ると、天使だと記録されています。「四十年たった時、シナイ山の荒野において、み使が柴の燃える炎の中でモーセに現れた。あなた方は、み使いたちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。このように旧約に現れた主なる神とは天使であって、神様そのものではありません。旧約時代は僕の時代です。息子ではない僕に、父として神様が現れることはできないのです。

 主なる神は、モーセが神様の名を尋ねたとき、神様は「わたしは、有って有る者」だと答えて、主なる神だと名を教えます。しかし民族の前に出たモーセは、先祖の神、すなわちアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、主なる神は先祖の神様であることを強調します。主なる神とは天使です。旧約は僕の時代だったので、神様の本当の姿を現すことができない時代です。

 さて、旧約聖書を見ると、神様が闘えと言いましたか、闘うなと言いましたか。サウル王が戦争に勝利したのち、女と子供だけ残して、男はすべて殺せと言われたのに、殺さなかったので罰を受けたことを知っていますか。どうしてそうなったか、考えてみましたか。サタンの男を生かしておけば、サタン世界が再び侵犯するので、そのようにさせたのです。サタンの男がいれば、自分の妻を連れていって思いどおりにするので、男さえ脈を断ってしまえば、子供と女は天の側に属することになり、その制度がなくなるのでそうさせたのです。そうしなかったことによって、異邦の神をあがめ、あらゆる異邦の淫乱な風俗が入ってきて、天の国が侵犯されたので、サウルが罰せられたのです。


 二) 宗教には新婦宗教と天使長宗教がある


 神様がアダムを造る前に天使を造ったので、今日の宗教は何かというと、天使世界圏を地上に造ったものです。それが宗教世界です。その宗教世界圏内で何をすべきなのでしょうか。アダムを造り出すということをしなければならないのです。それでは宗教の中で世界的中心は何でしょうか。それはユダヤ教です。このようになるのです。そのユダヤ教は何をする宗教でしょうか。新郎を紹介する宗教です。それがメシヤ思想であり、救い主思想です。

 神様がアダムとエバを創造するまでは、その伝統的思想を誰が受け継ぐかというと、天地長の立場にある方々が受け継ぐのです。そうしてアダムとエバが生活するための新しい風潮と伝統を誰が教えてやるべきかというと、神様が教える前に、僕である天使長が「主人の息子、娘はこのようにしなければならない」と教えてやらなければならないのです。主人の息子、娘が過ちを犯すのを制止して、正しく歩むように先頭に立って教えてやるのが、年上の僕の責任ではないでしょうか。

 堕落した人間を救うために、神様は宗教を立てました。その宗教とは何でしょうか。エバの宗教と、天使長の宗教を世界に造ったのです。エバと天使長ゆえに堕落したので、人類をエバと天使長の宗教をもって復帰するのです。その道を通じて復帰されるのです。宗教は天使長圏の宗教です。百個、千個あったとしてもすべて天使長圏に属します。多くの宗教がありますが、それを大きく分けると四大宗教です。その中心はキリスト教ですが、キリスト教の主たる思想は新婦の思想です。

 神様が真の神であり、その他の存在は神的存在の天使たちです。唯一神と多神に対する確実な区分をしようとするならば、多神教は神的な存在、天使たちが立てたものです。これらの宗教の中で、善なる天使たちが人間の神霊と精神を高揚するために誕生したものがあるのですが、これらが高等宗教であり、神様はこの善なる宗教を通じて人類の心を開墾してきたということを知らなければなりません。

 天使長宗教は根本が明確ではありません。神様が何か分からないのです。終末にどうなるか分からないのです。ただ外的な遂行概念だけを中心として指導してきたのです。それゆえ終末になると、ふろしきをまとめて主人の家に世話をしに行かざるを得ないという立場になるのです。明白な伝統がないからです。

 旧約時代に神様のみ旨に従った人と、新約時代に神様のみ旨に従った人を考えてみましょう。旧約時代は原始的な宗教形態をもち、新約時代は時代的な宗教をもっていました。すなわち、新約時代は近代の二十世紀文明まで連結されてきた宗教時代なのです。統一教会は何の宗教でしょうか。統一教会は原始的宗教、時代的宗教よりも新たな次元の未来的な宗教になるべきだと考えるのです。


 三 イエス様が「父子関係の神観」明かす

  一) 新約時代は養子の時代

 イスラエルという名を得たヤコブが勝利したというのは、神様の息子として勝利したのではなく、神様の前に僕として勝利したということです。こうして僕の僕から僕の立場に復帰し、僕の立場から新約時代には養子に復帰するのです。ローマ人への手紙第八章二十三節には「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」とあります。アバ、父と呼ぶことのできる養子となることを待ち望んでいるとあります。新約時代にいくらよく仕え、よく信じていた信仰者たちも、牧師、長老、学士、博士はもちろん、みな神様の前では養子です。養子なのです。正直な話です。養子は養子です。養子というのは血統が違います。血統が違うのです。


 イエス様は何によって一段階上がるのでしょうか。この地上には人間の堕落によって人類の先祖がいないので、先祖の位置に上がればイスラエル民族は養子の立場で接ぎ木され、神様の前で相続圏に対することのできる息子の名分をもつようになります。それゆえローマ人への手紙第八章を見てください。「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」とあり、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。アバ、父よと呼ぶのである」と書かれています。養子にしかなれないのです。今のキリスト教信者は養子です。養子は血統が違います。

 養子は直系の息子とは違います。養子は、もし直系の息子が来れば、夜でも昼でもいつでもすぐに自分のすべての所有物を直系の息子にあげることができなければなりません。その所有物は自分のものではないからです。養子の立場に立っても、養子に定められたとしても直系の息子が生まれたときに「こいつ、どうして生まれたんだ」と言ってはなりません。これはサタンの本性です。神様がアダムを造ったとき、天使長がそのアダムを見て喜ばなければならないのです。喜ぶべきなのに、「どうして生まれたのか」と言ってはなりません。養子はこれを知らなければなりません。養子は息子を保護しなければならないのです。直系の息子が腹中にいるときも「ああ、生まれなければいい……」と言ってはなりません。

 それでは養子になるにはどうしなければならないのでしょうか。僕よりも優れていなければなりません。神側の僕よりも良く、サタンよりも良くなければなりません。なぜそうでなければならないのでしょうか。サタンは本来、天使長だったのですが、その天使長は僕だったので、その僕にも劣る人は養子になることができません。これは原理的です。それではその養子と言っても、どのような養子にならなければならないでしょうか。私が神様から相続を受けたとしても、それは私のものではなく、神様の本来の息子、娘の前に返すべき相続だという思想をもった養子にならなければなりません。そのような養子をつくらなければならないのです。


養子というのはのちに来る息子、娘のために、自分が死んでも命を尽くし、自分のすべてを犠牲にしても、神様の願われる直系の息子、娘が生まれることを願い、そのために準備する心をいつももっていなければならないのです。養子の名を立てなければ、息子と関係をもつことはできません。天使長よりも一段階高い中間的な存在として生まれたのが養子だということを皆さんは念頭に置かなければなりません。

 養子というのは血統が異なります。元来、新約の出発において、養子として立てられたのは誰かというと洗礼ヨハネでした。洗礼ヨハネは天使長の代表でした。神様の息子であるアダムの前で反対した天使長ではなく、最後までアダムのために生きる天使長側の地上の代表者として立てられたのが、洗礼ヨハネでした。ところがこの洗礼ヨハネがイエス様に従うことができず、イエス様と一つとなれなかったので、悲運の歴史が繰り広げられたのです。


 旧約時代と新約時代が連結される歴史だということを知らなければなりません。旧約を信じてきた人は、僕として養子の恵沢を受けることを願うのですが、それがメシヤが来ることを望む理由です。すなわちメシヤによって僕の悲しい身の上を乗り越えて、養子圏の立場に進むことが彼らの願いです。養子の立場は、直系の息子、娘がいない場合に父母から相続を受けることのできる因縁が成立する立場です。ですから、僕の立場を超越し、神様のみ旨を迎えることのできる恵沢を受けるのを望むようにしたのが、僕の旧約時代を指導してこられた神様のみ旨です。それゆえ、彼らは僕の立場を免れて、神様の相続を受け得る圏内に入ることのできる特権的な一時を願ってきたのであり、それがイスラエルの選民思想でした。

 万物から養子的勝利圏を経て、息子の勝利圏を経て、父母の立場で復帰して上がらなければなりません。ですから新約時代はいくら良く信じても神様の息子には絶対なれません。


 今までの歴史を見れば、旧約時代は万物を祭物視しました。万物を犠牲にしました。万物を犠牲にした目的は、人間の解放のため、人間の復活を助けるためでした。万物を犠牲にして人を取り戻したのです。言い換えれば、万物を犠牲にするのは神様の子女を取り戻すためです。旧約時代は万物を祭物とし、新約時代は神様の子女たちが血を流して、この世界の復活圏に向かっていくのです。それがキリスト教を中心とした歴史でした。キリスト教の歴史はイエス様、そしてイエス様に従うすべての個人、家庭、民族、国家が今まで犠牲となりながら祭物的過程を経てきたものです。

 旧約時代はモーセに能力の神様を証させました。能力の神様として信じなければ罰を下しました。次に、イエス時代には慈悲の神様を紹介しました。イエス様が病人を治さなかったならば追い詰められて死ぬことはなかったのです。神様がこの天下を統一して、万国を救う指導者を養成しなければならないのに……。病気になって死ぬのは、この世の先祖たちが過ちを犯したので、その罪の代価として死ぬのです。それをどうして生かしておくのですか。統一教会の文先生が病気を治したとすれば、数十万の病人を治したことでしょう。病気を治さなくても私たちのみ言を聞いて喜べば、らい病が治らないでしょうか。どんな病気でも治るのです。


  二) 養子は父と呼ぶことができる


 旧約時代を経て新約の新しい朝を迎え、イエス様は神様を父であると宣言し、堕落人間を養子の位置に上げ、神様と父子の関係をつくってくださいました。養子は血筋が違います。しかし来られたイエス様に接ぎ木されることによって、息子の名分をもって神様を父と呼ぶことができるのです。神様との父子関係の成立は、イエス様以外には誰にもできない天の秘密だということを知らなければなりません。

 イエス様が神様を父と呼ぶとき、当時、旧約の観念に浸っていた祭司長やパリサイ人は、神様を冒するけしからぬ言葉として聞いたのです。それほどイエス様の父としての神観は革命的な神観だったということを知らなければなりません。

 イエス様は一段階高めて神様の愛を紹介しました。旧約時代には、モーセが愛の神様を紹介できず、権能の神様、能力の神様、審判の神様だけを紹介しました。しかしイエス様は、愛を紹介しました。愛の神様を紹介し、愛のイエス様であることを紹介したのですが、当時の人間は受け入れませんでした。

 旧約時代は僕の時代だったので、神様の正しい姿を現すことができない時代です。神様は父であり、愛の存在です。神様は愛そのものなので、すべての罪悪を許される愛の父です。目には目で、歯には歯で復讐した旧約時代の律法は消え去り、イエス様によって怨讐を愛し、兄弟の過ちを七回ではなく、七十回まででも許される愛の真の姿を現すのです。父がどうして子の過ちを許さないことがあるでしょうか。

 神様は目に見える存在ではありません。その見えない神様が、目に見える神様として現れた存在がイエス様です。ですからイエス様はヨハネによる福音書で「わたしが父におり、父がわたしにおられる。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしい、と言うのか」と、神様との一体を主張しました。

 ですからパウロも「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」(ローマ八・三八、三九)と言いました。イエス様も神様の愛のために来られたのです。

 イエス様がヨルダン川で洗礼を受けて天が開けた時から昇天するまで、三年という短い歳月だったことを知らなければなりません。イエス様が父子の関係の神観を明らかにしながら、具体的な内容をすべて語れずに逝かれたという事実を知らなければなりません。

 ユダヤ教のメシヤとして来て、世界的メシヤ路程を開拓しようとしている途中で死んだというのです。そうするとユダヤ教はどうなるのでしょうか。ユダヤ教のためだけの神様として仕える、そのような神様であってはなりません。イエス様がこの地上に来て教えるべきことは何でしょうか。旧約聖書で教えてくれた神様をそのまま教えてはなりません。新約時代の神様として教えてあげなければなりません。「国家的次元の時代を越えて、今は世界的次元の時代に入っていくので、世界を吸収するためには世界のために精魂を込める基台を築かねばならない」。このように教えるべきなのがイスラエルの国家的メシヤとして来たイエス様の使命だったのです。そうして生涯を捧げて世界的メシヤの権威を取り戻すことができるようにすることが、イエス様の生涯になすべきことでした。


 四 成約完成時代は神人一体の時代

真の子女は血統転換、

重生を経なければならない


 復帰途上で僕の僕時代から僕の時代を経て、養子の時代、直系の時代へと上がっていかなければならないのです。それでは完全に僕の僕時代を経て、僕の時代、養子の時代を経て直系時代と因縁を結ぶことができるでしょうか。直系の時代と因縁を結ぶには、そのままでは結べません。必ず原理によって信仰基台を立て、実体基台を立て、メシヤを迎えなければならないのです。メシヤは神様の真の息子です。養子と真の息子は血統的な関係が異なります。それゆえ血統転換が必要なのです。

 エデンの園で過った結婚をしたのが堕落なので、今真の父母が正しく結婚させることによってひっくり返すのです。偽りの父母が犯したことを、真の父母が清算することによって地獄を撤廃し、数千億の霊界の先祖まで結婚させるようになるのです。真の愛を中心とした地上の子孫が家庭基盤と通じて、霊界の先祖と地上の子孫が縦的に一つとなるだけではなく、このような家庭基盤を起点として東洋と西洋がつながるのです。

 私たち人間は血統的にサタンの血統を受けているので、自分では天の前に戻ることができません。ですからメシヤが絶対血統を復帰して、サタンが汚した血統を改造しなければなりません。これを転換しなければなりません。それゆえメシヤは必ず来なければならないのです。メシヤが来なければ血統復帰がなされません。血統復帰をしなければなりません。

 真の父母は何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根である間違った血統を正し、間違った生命を取り戻し、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書に「死なんとすれば生き、生きんとすれば死なん」とありますが、そのような逆説的な論理がどうして出てくるのでしょうか。サタン世界は死ななければならないからです。

 神様が創造当時に理想とされていた真の愛、偉大なる愛を中心として人間との愛の関係を結び、一つとなることのできる神人愛一体の理想を完成したならば、今日の私たちは天国だとか地獄だとか心配することなく、皆そのままで天国に行くようになるのです。

 人類歴史を見ると、旧約時代、新約時代、成約時代、このように三時代があります。ところで旧約時代とはどんな時代ですか。祭物を犠牲にして子女を救う時代です。神様の息子が来る準備をするのです。新約時代はイエス様が祭物となって父母を迎える時代です。それゆえ、再臨時代を迎えて新郎新婦を立て、父母を迎えるための準備をしてきました。成約時代に先生が中心となり、真の父母という名をもって今まで四十余年間苦労してきたのは、神様を地上に迎えるためです。そうして神人一体となるのです。

 神様と皆さんは元来父子の関係です。新約時代には、人間は神様の養子でした。しかし今は父子の関係なので、息子のすることは父のすることであり、父のすることは息子のすることです。一緒にすることになるのです。父のものは息子のものであり、息子のものは父のものです。統一教会が恐ろしいのは、このような父子の因縁を教えるからです。これが最も恐ろしいことなのです。

 金博士、博士を売ってこんなもの買いますか。なぜ笑うのですか。博士が問題ではありません。自分の物は旧約時代、息子は新約時代、自分たち夫婦は成約時代なのですが、この三時代を捧げても手に入れたいのです。旧約時代に物質を犠牲にしたのは、真の息子が来ることのできる道を築くためです。イエス様は息子として来て犠牲になりましたが、それは父母様が来ることのできる道を築くためです。父母様が平面上に来て受難の道を行くのは、神様を迎えるためです。どこにですか。本然の垂直の位置にです。天地の大道の起源がここで切れたので、この根本の根を是正しない限り平和の起源はないのです。これは絶対的です。

 文総裁のことを皆さんが「ああ、私たちと同じ人間だ」と考えてはなりません。文総裁の使命は何でしょうか。旧約時代は万物を犠牲にして息子、娘を取り戻す時代です。分かりますか。新約時代は息子、娘を犠牲にして父母が来る道を築くのです。父母が来て、この地で何をするのでしょうか。神様が来ることのできる道を築くのです。縦的父の水平世界を、万民世界を越えてつくらなければならないのが真の父母の使命です。それゆえこの水平の父の心情圏が造られれば、縦的な父の心情圏は自然にここに来て定着します。そうして縦的、横的な愛を抱くことのできる位置に行けば、ついに世界を越えて神様は核の位置に行って、本然の理想の権限を再び編成することによって「すべて完成した」と言うことのできる時代になるのです。どういうことか分かりますか。

 堕落した人間が神様の前に出るための方法は、時代によって異なっていました。すなわち、旧約時代は祭物を捧げることによって、新約時代は神様の息子であるイエス様を信じることによって、成約時代は真の父母に侍ることによって神様の前に出ることができるのです。

 皆さんの息子、娘は今後、同じ国の人同士結婚させることができません。神様は三代を見ているのです。今はこうですが、三代以後に一つにしようというのです。その中の一つが旧約時代です。ですから皆さんの結婚は旧約時代です。旧約時代。その次が新約時代と成約時代です。皆さんの息子、娘である二世が結婚して生んだ三代になって、伝統ができることでしょう。

 成約時代は真の父母が犠牲になることによって縦的な神様を地上に迎えるのです。それが最後です。神様は人類の前に真の愛を中心とした縦的な父であり、真の父母は真の愛を中心としてその縦的な父の前に横的に九〇度を合わせた横的な父母です。それゆえ縦横の愛を中心として初めて神様の愛と神様の生命が激動するのです。神人合徳が激動して、真の父母の愛を中心として新たな血族が広がるのです。そうなることによって、人類歴史の中で初めて本然的原理基準を中心として、神様の愛の中で出発した生命の種が地上に顕現するのです。これが分からなければなりません。


 これからは所有権を復帰しなければなりません。旧約時代は万物を犠牲にし、新約時代は息子を犠牲にし、成約時代は父母を犠牲にして神様を迎えたので、今は何をすべきでしょうか。皆さんが母、父に代わってその立場に立たなければなりません。息子、娘は新約時代であり、万物は旧約時代です。この旧約時代、新約時代、成約時代が一遍に真の愛を中心として抜け出すことで、サタンが主人となっていたものをすべて蕩減して本然の主人に戻り、これを捧げなければなりません。捧げなければならないのです。


 成約時代は成就する時代です。個人的に完成し、家庭的に完成し、氏族、民族、国家、世界的に完成するのです。何を中心としてでしょうか。神様の愛と神様の生命と神様の血統を中心として連結されるのです。単一の血統、単一の愛、単一の生命の伝統です。このようになればサタンは離れざるを得ません。接ぎ木することによってサタンの血統的因縁がなくなるのです。

 五 創世以来初めて神様が顕現

初めて神様が姿を現される


 統一教会時代は父母の時代です。神様が地に臨むことができ、神様が来ることのできる道をつくるのです。それで神様が来られて、侍ることによって救われるという言葉が成立するのです。歴史はそのように発展するのです。

 最後に残るものは何でしょうか。神様プラス人間、神人、神人の生きる道、神人の生活観です。人生観も同じように、神人人生観、神人世界観です。それは漠然と神様のことを人が知ることのできる程度の位置ではなく、人が永遠に離れようにも離れることのできない位置です。なぜでしょうか。神様と人は本来離れることのできない位置で離れたので、離れることのできなかったその位置以上の位置に到達しなければなりません。そのような位置で神人が一つとなった生活的な舞台、世界的な舞台を要求していかなければならないのです。

 神様は宇宙の中心存在なので、その近くに行けば、千年万年主管されてももっと主管されたいのです。神様を中心とした侍る道理がそのようになっているために、今日私たち人間もそうした立場で主管されればそれ以上の幸福はないという事実を私たちは想像すらできませんでした。

 これから皆さんは侍る生活をすべきです。今までの信仰生活は信じることによって救いを得ましたが、今後は侍ることによって救いを得ます。本来、堕落しなかったならば神様に侍ることによって私たちが行くべき道を行くのです。侍るには皆さんの生活と心で共に侍らなければなりません。

 神様は絶対的な父であり、絶対的な真の父母、唯一なる真の父、不変なる真の父、永遠なる真の父なのです。そのような父は絶対的な息子、唯一、不変、永遠の息子を探します。そのような息子、娘たちは絶対的な夫婦、唯一なる夫婦、不変なる夫婦、永遠の夫婦を成さなければなりません。それで彼らが安着するための家庭は、絶対家庭、唯一の家庭、一つしかないのです。その次には不変なる家庭、永遠の家庭です。そのような家庭が神様と共に暮らせる地上天国の永遠の基地です。

 侍義というのは生活化天国時代を言います。それで侍義を掲げてきたのです。復帰歴史は何かと言えば神様の創造理想を再現することです。

 神様を心の中に迎え、私たち人間が体の立場で完全に一つとなることのできる起源をつくらなければ、この悪魔の世界を清算する道はありません。このような観点から、侍る時代、侍義の救援時代と考えるのです。侍ることによって救われるのです。神様はあの空中に遠く離れた神様ではありません。私たちの生活圏内の主体者としての神様に侍らなければなりません。

 神様は、妄想的で観念的な神様ではありません。抽象的な神様ではありません。生活的な主体性を備えて、常に私たちの暮らしている生活の主人として共にいるのです。侍られるだけではありません。共同的な愛を中心として共同的な生活をしている神様なのです。

 神様がアダムとエバを造った目的はどこにあるのでしょうか。私たち人間の形状を見てください。体をもっています。しかし無形の神様には体がありません。体を着なければ、体をもたなければ霊界世界や地上世界を治めることができないのです。ですから神様がいらっしゃるにしても、神様が人間の父母として現れるためには体をまとわなければならないのですが、その体を着た代表が誰かというとアダムとエバなのです。堕落していないアダムとエバの体をもって現れるのです。それゆえアダムとエバは人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様となるのです。実体をもった神様、すなわち永遠な無形世界の神様の形状を代わりに着て現れた立場で、父母の立場で世界を統治する責任がアダムとエバにあったのです。

 無形の神様には実体がないので、その形体を表したのが真の父母です。真の父母は個人的な父母であり、家庭的な父母であり、氏族的な父母であり、民族的な父母であり、国家的な父母であって、霊界に行ったのちも、真の父母の形状で神様が現れるのです。統一教会が偉大なのはそれです。レバレンド・ムーンが偉大なのは何かというと、レバレンド・ムーンの形状を神様が使おうとしていることです。どういうことか分かりますか。

 その父母というのはどのような父母でしょうか。何億もの人間の父母が一度に生き返ったとしても、今日皆さんの言う真の父母の栄光を備えた父母はいないのです。千万代の先祖がみな復活して、復活した栄光をたたえたとしても、それは堕落圏から抜け出していない栄光であり、称賛です。しかし今日統一教会で言う真の父母という言葉は、皆さんの立場が悲惨でも、幾千万の先祖と共に、この地に勝利をもたらして、万民解放圏を備えた栄光の立場で称賛する以上に価値のある、誇るべき言葉だという事実を知らなければなりません。父母様に出会った中で、神様に出会うことのできる道がつながるのであり、統一教会に巡り会ったこの場は、近い将来、神様の国と父母様の願われる祖国を取り戻すための道につながっているという事実を知るべきです。

 成約の侍義時代は、生活の中で直接神様に侍って暮らす時代です。その時が神様の幕屋が人間にある時であり、天にある新しいエルサレムが地上に降りてくるので、その時初めて真の神様の姿が人間の前に現れることでしょう。創世以来、初めてです。今までアダムの堕落以後、未完成級の歴史上では神様は現れることができないのです。



第四章 真のお父様の見た神様

 一 歴史的な恨、苦痛の神様

  一) 人間の堕落により父母の立場を失う


 私たちの本当の父親は神様なのですが、サタンが父親に成り済ましています。それでヨハネによる福音書第十八章四十四節でイエス様は「その父の欲望どおりを行おうと思っている」ととがめられたのです。サタンの血を受けたという悔しい事実を知ったならば、憤りの思いがほとばしり、自分の体を刃物で刺し、汚れた偽りの血を出してしまいたいという義侠心が生じるべきです。そのように感じたことがありますか。「この肉の塊め」と体を打ちながら憤りを覚える人は天の忠臣です。

 最後の心情の世界を連結させることのできる宗教があるとすれば、それは神様が最もかわいそうだということを詳しく教えてくれる宗教であると言うことができます。神様は善くて、素晴らしいというだけではありません。悔しい神様、憤りと恨に満ちた神様です。これを詳しく教えてくれる宗教が現れなければなりません。そうしてこそ孝子となることができるのです。

 神様がどれほど悔しいかというと、王の座を怨讐に奪われたのです。神様が極光の神様となることができず、悲しみの歴史をもっていらっしゃるという事実を知らなければなりません。御自身の国の王として、宇宙の王としていらっしゃるにもかかわらず、王が生きているのに王は死んだとさげすまれているのです。御自身の理想を奪い取られ、御自身の愛する息子、娘を奪われ、完全に怨讐の籠絡の場としての地球となってしまいました。

 今まで神様が主管することのできる統一された民族や主権国家がなかったがゆえに、全知全能の神様はその威信ゆえに来られなかったのです。その神様の怨恨を解いてさしあげるのが統一家の息子、娘の道理であり、統一家の孝子の道理であり、統一家の忠臣の道理であり、烈女の道理であることをはっきりと知らなければなりません。真理を知っているので、真理があなた方を自由にしてくれるでしょう。知る人は解放されるのです。これをはっきりと教えてあげるのです。

 皆さんは神様のためにどれほど涙を流したでしょうか。神様の御苦労の前に、神様に代わって苦労するために、四肢が裂けるような道でも行こうともがいたことがあるでしょうか。ないのです。皆さんが「子女」というその立場を追求するためには、公的な涙を流さなければなりません。そうして父なる神様にまみえ、「父よ、あなたの息子である私を、そして私たちの先祖を失ったとき、あなたの心はどれほど悲しみに痛んだことでしょうか。その子孫を通じて今まで歴史過程において受けた屈辱と苦痛と苦難が、どれほど大きかったことでしょうか」と慰労してさしあげながら、限りなく涙を流すことができなければなりません。


 全知全能の権限で全世界とサタンまでも審判してしまうことのできる神様でありながら、能力をもっていながらも、今までひどく苦労する立場に立ち、手をつけようにもつけられず、神様御自身がもつべき環境をもてないまま孤独単身でサタンの前に讒訴され、サタン世界で足場をすべて奪われて呻吟する神様の立場を考えると、言葉も出ません。このような神様の立場に同情しながらどれだけ涙を流したでしょうか。問題はここに帰結するのです。

 この世の親も自分の息子、娘が罪を犯して絞首刑に処されることになったとき、その子が死ぬことを願う親はいません。自分の思いどおりに子を助けることができるとすれば、百回でも千回でも助けてやりたいのが父母の心です。母親の気持ちはなおさらのことでしょう。堕落した世界の女性の心もそうであるのに、全知全能なる神様がいったい何ゆえに終わりの日になって審判をしなければならないのでしょうか。どうして神様が許してくださることができないのでしょうか。これです。神様はどれほど愛しておられるでしょうか。イエス様が七十回ずつ七回許すとすれば、神様は七十回ずつ七千回以上許すはずです。神様の心はそうなのです。

 神様の救いの摂理は復帰摂理ですが、復帰摂理の出発はアダムとエバからでした。アダムとエバは堕落したのです。先生が現れるまでアダム復帰はできないのです。これを復帰するために、全知全能であられ、この宇宙を創造された神様が、一人の男性を探すために数千万年間、今まで被造世界に顔を現すことができなかった神様の事情と恨を皆さんは知らなければなりません。

 神様のみ旨が何かというと、創造理想の完成なのですが、創造理想とは、私たち人間世界に三対象圏理想を実現することです。その愛を中心として理想が実現するとき、神様は「ああ幸せだ」とおっしゃることでしょう。神様が何をもって幸せだと言えるでしょうか。今日のキリスト教信者はみ座にいらっしゃる万軍の主は全知全能であられるので、「おい」と言えば「ははあっ」と万事が通じると考えていますが、いつも惨めで一人の神様はどれほど悲惨でしょうか。

 愛する息子をそのように死なせるしかなかった神様の痛ましい事情を誰が知るでしょうか。それは聖書にはありませんが、息子を死なせるほどの事情があったのではないでしょうか。キリスト教のイエス様を信じると言ってあのように集まるのも悲惨だし、すべての選民の味方になるべき神様なのにこれを知っているのか知らないのか……。行く所々で血を流し、首が落ち、煮えたぎる油に入れられて死に……。

このような運命にぶつかるのを見て、「神様がこれを防ぐことができるのではないか」と言うかもしれませんが、全知全能であられながらその忍び難きを忍ばねばならない神様は、どれほど恨がしこりとなっていることでしょうか。そのように考えたことがありますか。それなのにどうして神様が最も高いところにいらっしゃることができるでしょうか。いつかきれいに清算できたらいいと思います。

 自分の愛する人は命を投入してでも保護したいものです。本来創造理想がそうなっています。神様御自身も、息子、娘を愛するがゆえに、自分の命までも投入しなければならない悲しみの神様となったのです。

 堕落しなかったならば、神様は創造主として永遠な主人になるはずであったのに、堕落することによってサタンが主人になりました。そうなるしかありませんでした。いくら官吏の屋敷の中の箱入り娘だとしても、その町のやくざ者に強姦され愛の関係を結んだとすれば、その娘は誰のものになるでしょうか。やくざ者のものとなります。全く同じ道理です。天国の王となることのできるアダムであり、天国の王妃となることのできるエバでした。

 これを復帰するには、創造の原理原則を中心としてなさなければなりません。本来アダムとエバを中心として永遠な愛の法度を立てたので、その法度に従わなければならないのです。その法度を否定するならば、天理を破壊することになるのです。それゆえ人間はもちろん、神様自体まで否定される立場になるので、仕方なく再創造過程を通して収拾してきたのです。そのように恨多き歴史路程を誰が知るでしょうか。

 今日、既成教会では「神様が栄光の中にある審判主として、地獄へ送り、天国に送る」と言います。この世で最もかわいそうなお方が神様です。最も悲痛で身もだえしながらも光明の天地が暗黒の地獄へと落ちるかもしれないのを克服して、そこで身を持ち直し、目を開けて意識を確かにもって、死にはしたが、この子らを生き返らせようという心をもった方が神様です。創造主の能力、絶体者の力があったのでそれが可能だと考えるのであり、そうでなければおしまいなのです。

 それでは神様はどのようなお方なのでしょうか。神様は本然的真の父母の立場にあるお方です。ところが真の父母となるべき神様が父母の立場を奪われてしまったので、創造理想の本然的基準にはなかったことが生じたのです。この創造的世界にはあり得ないことが生じたのに対し、創造主であられる神様は干渉することもできず、それに責任を負って消化することのできる立場にも立てないのです。



  二) 復帰の恨、子女を訪ねて六千年


 私たち統一教会では原罪とは何だと言っていますか。誤って愛したことです。神様の愛と神様の生命と神様の血統が連結されなければならないのに、悪魔の愛と悪魔の生命と悪魔の血統が連結されてしまったのです。アダムとエバが悪魔の生命体になって悪魔の血筋を残したので、今まで恨めしい歴史となったのです。それでは神様のように全知全能で天地を根本から創造し、すべての自主的な権限を所有しておられる方がどうして悪魔の前に、歴史を通して人間をこんな姿、このようにしたのでしょうか。ですから神はいないという結論は当然なものです。

 過ぎし日にはいろいろなことがありました。悔しく、無念な内容が多くありました。私の性格では我慢できないようなことが多くありましたが、舌をかみ、カインの世界を占領しなければならなかったのです。カインの個人ではなく、カインの家庭ではありません。カインの世界を消化しなければなりませんでした。苦い、どれほど苦いことでしょうか。氷山くらいの苦いものを口に入れて、解かさなければなりません。神様を滅ぼし、人類を駄目にした億千万世怨恨の大怨讐の悪魔、この悪魔を黙って屈服させなければなりません。

 堕落した人類の始祖は悪魔が父となりました。サタンの愛、サタンの生命を受けたがゆえに、救いの歴史は困難です。キリスト教では全知全能だと言う神様が、なぜ無力な神様のようになり、人類が滅びていくのに手をつけられずにいるのでしょうか。死んだ神様の立場にあるのです。人間が罪を犯したがゆえに、人間がそれを解決することのできる解放圏を備えなければ、神様は解放してやることができません。解放してやれるものならば、初めからエデンの園からアダムとエバを追放しなかったはずです。神様が思いどおりにできるのならば、エデンの園からアダムとエバを追い出しませんでした。しかし追い出さざるを得なかったのです。

 神様の求める真の心をもたなければなりません。神様は真の愛を訪ねてこられます。救援摂理歴史、復帰摂理歴史の前線から探し求めてきた真の息子として、今まであかまみれになり、傷つき、悲痛な傷跡のある神様の心を大きく開いても余りある余裕満々の純潔な愛が滝の水のように流れ出て、神様が彼を抱き万事を忘れ、むしろ堕落があったことでより幸福だったと言うことのできる場はないのでしょうか。男ならば誰でもそうでなければなりません。分かりますか。

 悪魔が神様に対して、「あなたの創造理想を中心として愛の絶対圏理想である真の単一氏族圏をつくるための愛の血統圏がこのように滅び、破壊状態になったにもかかわらず、今も創造理想的論理が適用されるというのですか」とあざ笑うのです。そういうとき神様は何と答えられるでしょうか。どれほど息の詰まるようなことでしょうか。本来、主人の息子となるべきであるにもかかわらず、怨讐の息子となり、抜け出そうにも抜け出すことのできない塗炭の苦しみの中に陥った人類を見つめられる神様がどれほど悲嘆にくれておられるかを、はっきりと知る既成教会の人々はいるのでしょうか。

 人類の父母としてこられたのに、父母として侍ることができずに、自分のために血を流して死ぬために来たという父母がいったいいるでしょうか。愛の祝宴を催して「私の息子よ、私の娘よ、家庭よ、国よ」と、天下がすべて和合するときに一つの平和と栄光の一日をたたえるべき立場に立っている父母が、失った子に出会うべきであるのに、会ってみると、子女の手によって刃物で刺され、死んでいったとは……。考えてみてください、イエス様がどれほど悲痛か。無知な人類に向かって教えてやることのできない事情の中に埋もれた神様の心情はいかばかりであったでしょうか。

 悔しい歴史的恨が先生にはあります。しかし、私の恨は何でもありません。神様が神様の本分を果たせずにいます。このような多くの事情を残した歴史過程に、神様の骨髄が溶けるような悲痛な涙と流された血の跡がこの地から喚声をあげているという事実を知らなければなりません。神様を解怨成就しなければならない使命が残っているということを知っているがゆえに、私は今までこのようなことをしているのです。

 堕落した世界に責任を負って復帰してこられた神様は、高く、貴く、聖なるきれいなところにだけおられる神様ではありません。人間には想像もできない、形容することもできない悲惨で悲痛で残酷な背後をもっているのです。

 皆さんは自分よりも悔しい立場にいる人に慰労されれば慰められます。しかしながら神様は誰よりも悲痛さを感じておられるがゆえに、神様を慰労することのできる立場にいる人は一人としていないのです。始まりも神様御自身であり、終わりも神様御自身なので、その心の中にしこりとなった怨恨をいかにして解くかということが、今までの神様の内情的な事情なのです。神様はこのような事情を抱いて、今まで復帰摂理をしてこられたのです。

 神様に会いたくて泣いたことがありますか。涙、鼻水を流しながら口蓋垂が垂れ下がるほど泣いたことがありますか。それほど涙の出るような悔しく、悲痛な立場に立ったことがありますか。これはすべて心情世界を越えるにおいての一つの峠となるのです。

 人間と永遠に共にいるべき神様が、人間と引き裂かれるときのその悲痛さと悔しさと憤りと悲しさは、どれほどのものであったでしょうか。人間は全宇宙を渡しても替えることのできない愛の基地を目指して、成熟し、平衡線上で縦横が結合する一つの軸をつくらなければなりませんでした。そうなったならば、それが基準となり天地のあらゆる存在、あらゆる万物の測定基準になれたのではないでしょうか。その愛と因縁を結んだすべての物はどこにでも合うようになっています。どこにでも。

 悪魔は四代を蹂躙しました。まず皇后、その上は何ですか、皇太后、その次は王の祖母、次には娘、このように四代がみな生きているのを、王の目前で真昼に裸にさせて蹂躙してしまうのです。娘まで蹂躙してしまうのです。次にはみな殴り殺します。どれほどの怨讐でしょうか。これを処断することのできない神様の悲痛な事情を知らなければなりません。


 では、神様にとって悔しいことは何でしょうか。偽りの血筋を受け継ぐことです。偽りの血統を皆さんは受け継ぎました。起源はサタンです。サタンという存在は被造物をすべて滅ぼすことを願っています。そのような宇宙、そのような所有権、そのような血筋が皆さんにつながっているのです。見て、考えて、においをかいで、話し、触る、五感のすべての根がサタン側にあります。皆さんの先祖はとても悪い父母の実です。そのようなものを神様が救おうというのですから、神様は本当にかわいそうです。(堕落した)アダムとエバを片づけてしまって、アダムとエバを再び造ることができないのはなぜでしょうか。造ることはできても、本来、永遠の真の愛を中心として永遠の因縁で造ったがゆえに、そうできないのです。

 神様の悲惨さ、悔しい立場に立っておられるということを皆さんは知らなければなりません。「私が造らなかったならば、あのようにはならなかったものを。愛を求めて栄光の天国を願ったことがこのようになるとは」と言われるのです。なぜでしょうか。悪魔の血肉を受けたからです。悪魔の愛が注がれ、悪魔の生命、悪魔の血統がそこにあるので、これを取り除かなければ神様が所有することができないのですが、それを取り除けば死んでしまいます。ですからそこに徐々に新しい血管と生命と愛を注入して第二の創造物、救援物として神様のような代身者を探して立てなければならないのです。その怨讐を愛してやらなければなりません。その怨讐を我慢して愛さなければならないのです。とんでもないことです、全く。

 神様が、日が昇ったと言っては休み、気候が良く、季節が良いといっては休むことがあるでしょうか。皆さんも同じです。怨讐を愛さなければなりません。この世の天地の背後にいたサタンを愛していかなければなりません。神様の息子の聖なることを私がたたえ、驚くべき価値をもっていることを知っているとするならば、その価値の前に悲惨でつらく、恨めしくとも行かねばならない道があり、それが大怨讐を愛するということなのです。


 二 息子を失った衝撃、悲しみの神様

  一) 永遠のひとり子を失った神様


 純粋な本質的愛をもった神様の前に、理想的対象として描いていたアダムとエバが堕落して落ちたとき、神様の心はどれほど悲しかったことでしょうか。どんな人間よりも極めて悲しかったことでしょう。極めて、極めて悲痛だったことでしょう。その内容が深く価値的な内容であればあるほど、悲惨中の悲惨だというのです。そのような父なる神様が失った子を再び探し出すために復帰の道をたどっていかれたのです。

 父母が愛する子をそれほどまでに信じているのに、子が裏切ったならば、信じていたのに比例して父母の受ける衝撃と苦衷、そして悲惨さは、言葉ではとても表現できません。また、命を懸けて互いに愛し合っていた人が裏切り、排斥し、不信するならば、やはり言葉にはできないほど悲惨です。そのような立場で身もだえしながら受ける苦痛は、経験した人でなければ分かりません。言葉だけでは理解できません。このことは世の中のことを見れば分かります。それでは神様はどうして悲惨になったのでしょうか。神様は漠然とした神様ではなく、具体的な神様です。私たち人間とは最高の関係をもった神様です。神様が喜ぶことがあったとすれば、それは人間と共に喜びで出発し、終わりのない永遠に向かって進み続けることのできる出発の起点をもつことです。ところがその出発の起点を人間ゆえに失いました。それがアダムとエバの堕落です。

 この世でも、父母が還暦を過ぎてから生まれた七代続きの一人息子が死ぬことを考えれば、絶望中の絶望だといえます。若ければまた生むこともできますが、年を取ってから生まれた七代続きの一人息子が死んだとすれば、七代圏を継承しようとしていた先祖たちの心はいかばかりでしょうか。先祖たちは自分の子孫、自分の血統を通して世界にまたとない万福を受けたいのです。ですから子が死んだとすれば父母は後を追って死にたいのです。アダムは七代続きの一人息子どころか、永遠の一人息子です。一人しかいないアダムをして家庭を築かせ、創造の大業を果たした立場に立たせようとしたのに、そのアダムが死んだのですから神様の心はいかばかりであったでしょうか。このように、よじれたのですからどうしたらいいのでしょうか。神様はアダムとエバの堕落によって六千年間、衝撃から抜け出せずにいらっしゃいます。

 元来、創造原則から見ると、愛の一体理想圏内に入れば、永遠な所有主が、愛を中心とした主体者が中心となるのです。ところが神様がそのような中心となるべきであったのに、サタンが中心となったのです。天地が地天となり、すべてが反対になったのです。神様御自身が真の理想として願った愛の理想、真の愛を中心として一体となり、一つの体となったものは分かれてはならないものです。その血統も神様の直系子女となるべきであるのに、それが妨げられて反対となったのです。

 人間の悲惨な姿を毎日毎日、時々に見つめられる神様のその心情はいかばかりでしょうか。自分の息子が不具者となり、王子、王女の栄光をたたえるべき存在が、肥だめのようになり地獄に逆さまに落ちたとするならば、全知全能だという神様の威信はどうなるでしょうか。絶対的な神様の威信はどうなりますか。顔を上げることができるでしょうか。


 息子が犠牲になったとすれば、その父親は息子が死ぬようにほっておくでしょうか。このような観点から考えると、愛の神様は愛の対象である私たちを死の場に立たせることができないのです。全知全能の神様であるならば、理想的な世界を造って復活させなければならないのです。父母の愛というものを考えれば、それは十二分に可能です。神様がおられるとすれば、神様は必ずそうすることのできる立場におられるでしょうから、私たちをそのような理想的な復活圏へと移してくださらなければならないという結論になるのです。神様は、私たち人間に住まわせようとして、死ぬようなところ、悲惨なところに置いたのではなく、私たち人間を高次元的な世界に連れていくための一つの関門として、そのようなところに置いたとするならば、それは素晴らしいことではないかというのです。


 創造主の威信までも、全知全能であられる神様の威信までも、あまねく臨在される神様の実存性までも忘れるような心情で、アダムとエバを愛したかったのです。そのような立場で堕落したアダムとエバを見つめられる神様の心はいかばかりであったか、これを知らなければなりません。

 今日、私たち人間は神様の息子、娘ではありません。神様がいくら泣いても見て見ないふりをします。いくら悲しんでも見て見ないふりをします。それは人間がサタンの血肉を受け継いで生まれたからです。むしろ神様が悲しむのを見て賛美しています。滅びるのを見れば、喜んで笑うのです。神様がこのような人間を指導し、開拓の方向を教えてやろうというのですから、どれほど御苦労なことでしょうか。神様に、「ため」に生きようという心、憐れみの心がなかったならば、今まで摂理歴史を支えてくることができたでしょうか。

  二) 神様の歴史的に悲惨な姿


 神様が天から見下ろしているとするならば、どれほど憤慨されるでしょうか。この万民は御自身の血統的子孫であるべきなのに、悪魔が悲惨な境地に追い込んで「あなたの子孫はこのように凄惨な立場に処している」と、神様に向かって嘲笑しています。サタンがまた「全知全能の神様なのだから、この環境をどのように収拾するのですか」と言えば、神様は沈黙を続けるしかないのです。聞いても聞こえないふりをし、においをかいでもかがないふりをし、感じながらも感じないふりをしなければならない神様の歴史的に悲惨な姿を皆さんは考えたことがありますか。

 今日の既成教会で信じているように、全知全能で栄光のみ座におられる神様であるとすれば、御自身の息子、娘が死んでいくのに、み座から「ここに上がってこい。私が座を離れることはできない」と言うでしょうか。み座でも何でも投げ出して下りていくでしょうか。どちらでしょうか。そのままでおられるでしょうか、下りていかれるでしょうか。王冠を脱いで急いで下りていくでしょうか。どうされるか考えてみてください。それではキリスト教の信仰は正しいでしょうか、間違っているでしょうか。

 神様が泣き叫びながら「私の息子よ、私の娘よ」と何万年、何十万年、何百万年も呼び続けてこられたという事実を知らなければなりません。そのような神様の前で「父よー」と声がかすれるほど呼んだことがありますか。舌が乾き、息が詰まり、目がつぶれて開けられないほどに、切に父を呼んだことがありますか。生命の主体であるその価値を抱くために、どれほど身もだえしたでしょうか。身もだえした基準に比例して皆さんの人格の基準が測られるのです。


 私たちは全知全能であられるそのお方に対することのできる何らの内容も持ち合わせていません。しかも堕落した人間として生まれた私たち、私たちの目は俗なるものです。私たちの五感の感情はすべて俗なるものです。神様に対することのできるものは一つとしてありません。一つもなく、公義の法をもっては相対することのできる内容が絶対にないのですが、愛の法をもってのみ対することができるという唯一の道があるのです。したがって皆さんが信仰生活において年を経るほどに愛の哲学をもって暮らし、愛の哲学をもってすべてのことを分別しながら生活する信仰者にならなければならないのです。そのような人は十年が過ぎ、二十年、三十年の生を経れば、自動的に神様の必要とする人になっていくのです。


 神様が数千年の間復帰摂理をされながら受難の道を経てきたのは、神様が善なる心をもっていたので耐えてきたのでしょうか。神様が今まで人類歴史の数万年の間救いの摂理をしてきながらも、いまだに疲れ果てることなく続けてきた原因はどこにあるのでしょうか。全知全能であられるからですか。そうではありません。愛の道を求めてきたがゆえ、愛の息子、娘を探し求めているからです。それゆえ千年を一日のごとく受難の道を越えに越えることのできた偉大な力は愛であった。そうでしょうか。そのとおりなのです。

 神様がかわいそうです。かわいそうではありませんか。全知全能の神様がどうしてかわいそうなのかと言うかもしれませんが、いくら全知全能だとしても愛する息子、娘を失った衝撃から抜け出すことができないのです。その衝撃から抜け出すための道が神様御自身にあるならば、神様は今まで六千年の歴史路程を経ながら苦労される必要はないのです。

 人間が罪を犯したからといって「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりの神様ではありません。罪を犯した事情をよく知っていらっしゃる神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとする神様です。悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。皆さんは神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、六千年という歳月を訪ねてこられたのです。

 統一教会とは何でしょうか。神様の心情を論じています。神様を解放しようとしています。既成教会は、私たちがそのようなことを言うと言っては私たちを異端だと言います。皆さん、立派な大統領でも自分の子が今死んだとすれば、その死んだ子の前で大統領の権威をもって「子供は死んだけれども、大統領は涙を流すことはできない」と言うでしょうか。陰で鼻を打ちつけ、痛哭し、人前では顔を拭って、そうだとすれば通じますが、そうでないとすれば死んだ息子の霊が「これが父親だなんて……。父親ではなかったのだ」と言うことでしょう。死んだ霊が活動するとすれば、その父親に協助するでしょうか、反対するでしょうか。世界の大統領でも誰でも、自分の愛する子供が死んだならば涙を流さなければなりません。

 人間の創造本然の特権的な価値を喪失し、堕落のうじとなってあえぐ無価値な人生を見つめる神様の内情的心情は、どれほど悲惨なことでしょうか。あの者たちは本来、私の愛と私の生命と私の血統を通して直系の子となり、天国の栄光を占めたであろうに、敗者の仮面をつけ、呻吟と苦痛と絶望の中であえぎながら命を絶つ場にいるのです。ですから、それを見つめる神様の心はどれほど悲痛でしょうか。そのように神様が悲しみの神様であることを知らずにいました。それゆえ文総裁は神様を知ってから何日も何週間も痛哭しました。統一教会の出発には、そのような深いものがあるということを知らなければなりません。


 神様の心の中に苦痛があるとは誰も知らないのです。歴史上に現れ、今ここに先生を通して現れて、その深い使命を明らかにしたので知ることができるのであり、そうでなければ分からないのです。どれほど驚くべき事実でしょうか。イエス様もそれを知らなかったし、知っていたとしても心の中にあることを語ることができなかったのです。また、宗教指導者の中で誰一人としてそのような隠された宇宙の秘密を知る人はいませんでした。歴史上初めて世界の前に先生が現れ、宇宙の秘密が明らかにされたのです。


 三 拘束された神様、囹圄(れいご)の神様

  一) 神様が立つ瀬を失った


 私の恨は何でもありません。神様が神様の本分を果たせずいます。このような多くの事情を残した歴史過程で、神様の骨髄が溶けるような悲痛な涙と流した血の跡がこの地で喚声を上げているという事実を知らなければなりません。このような神様の恨を解怨成就する使命があるということを知っているがゆえ、私が今までこうしているのです。

 神様を解放しなければなりません。神様は今愛を中心として拘束されています。監獄に閉じ込められているのと同じです。解放されていないのです。全知全能の神様、宇宙を創造された神様が人間ゆえに愛を中心として築こうとされた理想世界をサタンに奪われたので、神様も心情的に解放されないのです。神様の心情的解放基盤がこの宇宙にできないのです。神様も拘束されました。愛する子供が死んだのに父母が安らかでいられるでしょうか。いられないのです。

 神様を私の手で解放しようというのです。神様は解放された神様ではありません。拘束された神様です。息子、娘を失った父母、なおのこと孝行息子が死んだのちの父母の心を解くためには、その孝行息子以上にすべての面を備え、十倍以上功を尽くして孝行しても、その本来の心を解放することはできません。レバレンド・ムーンがそのような神様を解放しようというのです。

 悔しい神様、神様がなぜ悔しいのでしょうか。人間世界では青春時代に苦労すれば必ず未来に希望が保証されるのですが、神様は歴史始まって以来今まで苦労しているのに、いつ希望があるのでしょうか。いつ神様の希望が成し遂げられるのでしょうか。神様は若い神様でしょうか。今は年老いた神様なのでしょうか。神様は何歳だと思いますか。神様は宇宙の外にいるので年齢もありません。神様は地球のように太陽系を一年に一度ずつ回るでしょうか。その外側にいるので数えられません。計算する必要がありますか。

 神様がどれほど悔しいかといえば、王座を奪われました。王座を怨讐に奪われたのです。神様が神様となれず、悲しみの歴史をもっていらっしゃるという事実を知らなければなりません。自国の王、宇宙の王であるのに、王が生きているのにもかかわらず、王は死んだとさげすまれているのです。御自身の理想を奪われ、御自身の愛する息子、娘をすべて奪われ、完全に怨讐のもてあそぶ地球となってしまいました。

 万民が嘆息圏を抜け出さない限り、父母の立場に立った神様は嘆息圏内から抜け出すことができないのです。愛する子供が悩んでいるのに父母が安らかな立場に立つことはできないのです。このような立場に神様がおられるがゆえに、神様を解放してさしあげなければなりません。何によって神様を解放してさしあげなければならないのでしょうか。神様は万民を愛することのできない拘束圏内にあるので、万民を自由に愛することのできる解放圏を神様の前に取り戻してさしあげるべき責任があるのです。堕落した人へと落ちぶれたので、堕落線を越えて勝利した息子、娘となって解放してさしあげなければなりません。

 人間が堕落することによって何がどうなりましたか。神様が自由な神様になれませんでした。拘束の神様となりました。次に人類始祖が拘束されてしまいました。その次には天使世界まで拘束されてしまったのです。それだけではなく、歴史的に多くの宗教人が拘束圏内であがいています。人類もやはり同じです。

 親不孝者をもった親は、その親不孝者によって拘束されるということを知らなければなりません。その親を解放するためには、親不孝をした以上の孝行を尽くさなければなりません。それだけでなく、大衆の前で公認されなければなりません。そうして初めて過去の罪を洗い流すことができるのです。これが天理です。同じ道理です。「先生だけのために……」というのは必要ありません。

隣人とこの国、この民族はかわいそうな群れです。五千年間「わらぶきの三間の家を建て、両親に侍って、千年万年……」(韓国の童謡の歌詞)。両親に侍るという言葉は有り難いのですが、千年万年わらぶきの三間の家に住むのですか。かわいそうな民族です。このかわいそうな民族を正しく指導しなければなりません。お金も何もないこの民族が、神様の恵みまで受けられなければ、どこに行って暮らしますか。


  二) 神様が神様の本分を果たせずにいる


 統一教会はいつまで残るのでしょうか。地球を解放し、霊界を解放し、のちに神様を愛の心情で解放するときまで統一教会は行かなければなりません。最後には人類を解放し、霊界を解放し、神様を解放しなければなりません。このような話を聞くのは初めてのことでしょう。神様が私たちを解放してくれるものと思っていたのに、私たちが神様を解放しなければならないのです。心情的には神様が拘束されているということを知らなければなりません。

 愛する父母の前に親不孝者がいるとすれば、その親不孝者が父母の願う基準、解放される位置まで上がってくるのを見なければ、その父母の心情の解放圏はできないのです。同じように神様においても最高の愛の相対として造ったアダムとエバは、神様の愛の相対であると同時に縦的な面では父子の関係であり、横的な面では夫婦的な縁となるようになっていたので、彼らを中心として天地のあらゆる愛の理想を実践しようとしたのです。ところが堕落によってそのすべてを失ったのです。神様までも拘束の神様となってしまったのです。

 天国を築いて生きる人でなければ天国へ行くことはできません。私が監獄に入って手錠をかけられて暮らす立場に立ったとしても、「私」を拘束することのできない愛があるのです。私が腰を曲げ、眠ることのできない立場にあるときに、夜に起きると手が光を放っていたのです。なぜ光るのでしょうか。神様が抱いてくださっているからです。それが分かったのです。ですから暗い部屋でも光を放ったのです。


私がうめき声と泣き声を聞きながら監房の隅で粛然としていると、次の日の朝には、皆はったい粉の包みを私に持ってきてくれたものです。通りを越えて「どこどこの監房の何号のところに、お前がこれを持っていかなければ、この監房全体が安らかではなく、お前の家が安らかではないので持っていってやれ」と言うのです。私の神様は愛の神様なので、このような神様を冷遇する恩知らずの統一教会の群れとなってはなりません。

 「人類のゆえに神様が拘束を受けているのだ。私ゆえに神様が拘束されているのだ。私という一個体のために神様がサタンの讒訴を受けているのだ。私のゆえにイエス様も死んだのだ。私ゆえに聖霊が血のにじむ闘争の歴史を抱いて身もだえしてきたのだ。神様、私に力をお与えください。お父様を安息させ、解放の座に移してさしあげます」と言うことのできる、信仰に飢える者、希望に飢える者、愛に燃える者を神様が六千年間求めてこられたのです。このような事実を私たちは知らなければなりません。

 神様とサタンが闘ったとすれば、止めることのできる者はいるでしょうか。そのままで闘いが終わるでしょうか。神様の前に孝子はなく、神様の前に忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理、聖者の道理、天国を守ることのできる主流の愛の体制がなくなったので、神様の立つ瀬がないのです。今まで囹圄の身で軟禁状態にある神様となったのです。天国は完全に廃虚となり空になっています。そのような痛みをもっているのが神様です。


 では、神様の探し求めるおじいさん、おばあさんに会ったことがありますか。堕落したがゆえに、会うことができませんでした。神様の探している母、父に会ったことがありますか。神様の探している妻、夫に会ったことがありますか。神様の探している息子、娘に会ったことがありますか。この恨みをどのように解くのでしょうか。この心情の拘束の鉄条網を誰が切るのでしょうか。それは神様の愛以外にはありません。神様の本質的愛以外にはありません。

 神様はあらゆる面において自由自在にできるお方であるのに、非法的な愛という条件ゆえに手をつけることができないという恨めしく悲しい神様の心、気が遠くなるほど嫌気がさすのを誰が知るでしょうか。

 既成教会では「聖なる、聖なる神よ、栄光の神よ、私に恵みを下さい」と言うのですが、神様はそんな神様ではありません。悲惨な神様です。拘束された中にある神様です。良い息子を生んで解放されるべき神様であられるので、神様の運命は哀れな運命です。ですから皆さんは神様を解放してさしあげなければなりません。そうせずしては天道が正しく定められないので、この地上に理想世界は現れることができないのです。これを正すための歴史が統一教会の歴史であり、使命です。

 統一教会のみ言、統一教会の内容、耳で聞く内容の中には何があるのでしょうか。心情的に拘束されている神様を解放することのできる内容をもっているのです。人間が堕落することによって神様は嘆息されたと言われています。嘆息の歴史は出発から世界的なものとなったのであり、世界的になったがゆえにパウロは「人類が嘆息し、私たちの先祖も嘆息し、全人類までもが嘆息している」と言いました。そうして神様の多くの息子、娘が現れることを願っていると言ったのです。それは嘆息圏から逃れることを、より分けていくことを願ったからです。


四 サタンを処断できない理由

  一) サタンが讒訴する理由


 今日、神学的な立場でも、もともと悪魔サタンがいたのか、いなかったのかということが問題となります。もし、もともとサタンがいたとするならば問題は大きいのです。全知全能の神様の摂理に対し、六千年間反抗してはそれを遮ってきた巧妙なサタンが初めからいたとするならば、このサタンを退治し、取り除くことのできる人があり得るでしょうか。問題となります。

 サタンはどこから生じたのかと考えるときに、もともといたという人がいます。全知全能の神様に反対し、本然の人類始祖を堕落させたサタンがもともといてこのような結果を招いたとするならば、サタンがいる限り、私たち人間が救われるのを願うことはできません。そうなれば結局、世界は二元論となり、二つの目的をもって世界は永遠に続くという結論が出てくるのです。

 本来、神様のみ旨として立てられた創造理想世界は、堕落することによって築くことができませんでした。しかし神様は絶対的な権限をもった方であるがゆえに、外的な世の中がすべて変化したとしても、御自身は絶対的に変わることができないのです。悪魔にアダムとエバを奪われ、万物をすべて譲り渡しましたが、神様は絶対的なお方なので本来、天使長である悪魔サタンまでも自然屈服させなければならないのです。神様はいてもいないと同様の立場に立って、絶対的な神様の権威を立てなければならないのです。神様は先に打つことができません。神様が悪なるサタンを打つことはできません。善なる神様が悪なるサタンを打つことはできないのです。

 全知全能の神様がどうしてサタンを一息に片づけてしまうことができないのでしょうか。それを片づけようとするならば、アダムとエバ、創造したものまですべて片づけなければならないという、愛の理想圏を爆破しなければならないという結論になるので、そうすることができないのです。絶対的な主人には、一度しようとしたことは絶対的に完成させるべき責任があるのです。それゆえ、よこしまな悪魔がいくら攻撃し、いくら迫害したとしても、立てられた道理を回復するために、歴史を抱いていかれる主人が神様であるということを誰も知らなかったのです。

 ところで、全知全能で絶対的な神様は、なぜ今まで人類がサタンに侵犯され、サタンの足の下で犠牲になりながらも、神様がいるのかいないのか分からないほどに、何も行使できずにいる神様となったのでしょうか。これは深刻な問題です。それは神様が治めることのできる国がなく、神様が治めることのできる民がなく、神様が治めることのできる氏族がなく、神様が治めることのできる家庭がなく、神様が絶対的に公認することのできる個人がいなかったからです。その個人が成立し、その家庭が成立し、その氏族が成立し、その民族が成立し、その国家主権が成立すれば、一時に悪なる国、悪なる国民、悪なる氏族、悪なる家庭、悪なる個人を処理することができるのです。そうしてこそ善となるのです。そうしてこそ神様の権威が立つのです。

 皆さん、サタンに勝つことができますか。知恵の王であられる神様もサタンの讒訴にかかればどうすることもできません。一国の大統領もそうです。ある条件に引っ掛かって国民がわあわあとデモをすればどうなりますか。首を切られるかもしれません。条件に引っ掛かれば全知全能の神様もどうすることもできません。大臣も条件に引っ掛かろうものなら、夕方には首が飛びます。ですから条件防御をしなければなりません。いかにして条件防御をするかという問題が信仰生活における極めて難しい問題です。ここに生死の問題がかかっています。

 私たち人間はサタンの愛を中心としてサタンの生命、サタンの血統につながってきました。これが問題です。このような位置には神様がいることができません。神様が干渉することができません。今まで歴史において全知全能な神様がなぜ無能な神様となってきたのでしょうか。怨讐となる立場にサタンが立ち、その怨讐は何を奪っていったでしょうか。神様の愛を奪っていきました。神様の愛の圏、神様の生命圏、神様の血統圏を蹂躙したのです。この概念を常にもたなければなりません。

 本来サタンは天使長でした。ところがその天使長が「私は堕落してサタンになったが、神様は全知全能の絶対者であるから、あなたの立てた法度を中心として解決しなければならないのではないか。私は法に背いてサタンになったとしても神様は全知全能な絶対者であられるのだから、あなたの設定した法を中心として実践すべきではないのか」と言うのです。

 なぜ怨讐を愛さなければ私たちの道を越えていくことができないのか説明します。これは原理の本にはありませんが、とても重要なことなので知っておかなければなりません。堕落した天使長が神様を讒訴しても、神様であられるがゆえに、たとえ天使長は堕落したとしても神様が立てられた法度を遵守せざるを得ないのです。神様は絶対者であられます。それゆえ天使長が堕落したとしても、神様は被造物を御自身の立てられた法則、規則に従って主管せざるを得ません。これは、神様が堕落以前の天使長になさろうとされたことが何であろうと、堕落したのちもそうせざるを得ないということを意味します。それゆえ天使長は神様に「神様、あなたは私を完成期まで、完成期ののちまでも愛されることになっています」というのです。

 アダムになろうとすれば、三人の天使長を治めなければなりません。天使長は絶対服従しなければなりません。絶対服従して絶対に愛さなければならないのです。神様に絶対順従せず、絶対服従できないサタンは、絶対服従すべき天理原則が残っている限り、原理原則が残っている限り、その原理原則をサタンの勝手にすることはできません。その原理原則に順応するしかないということをサタン自身が知っています。神様が全知全能であっても原理原則に反すれば除去されるのです。大統領でも憲法を通してこそ行使できるのと同じです。憲法になければ大統領も勝手にできないようになっています。

 統一教会の文先生という人は深刻な人です。深刻でした。神様がいるのか、いないのか。神様は全知全能であられるのに、なぜ悪魔をほっておくのでしょうか。一日で清算してしまわずにいるのです。ヨブ記を見てください。あれほど無力な神様はどこにいるでしょうか。そのようなことが理解できなければなりません。ですからどれほど深刻でしょうか。死ぬか生きるかで身を投げ捨てて、一身を絞首台に差し出し、闘ってより分けて取り戻したのです。自分の本然の生命を取り戻さなければなりません。

 ヨブ記を見ても、神様はどうして悪魔の願いを聞き入れるのでしょうか。「ため」に生きる愛をもった本体であるので、悪魔までも、悪魔に対しても悪魔の行動をもって対することはできないのです。ですから真だというのです。

 神様は神様の神秘的な創造力を活用して、サタンを屈服させるのではありません。自然屈服です。

 現在、悪魔は世の中が神様のところに戻ることができないようにめちゃくちゃにしました。フリーセックスやら何やら……。アメリカでは近親相姦がどれほど多いか知れません。父親が三人娘であれば三姉妹と連れ合って暮らします。そのようなのがぞろぞろとしています。フリーセックスなので叔父が母親とも一つになり、息子が自分の母親とも一つになり、そういった具合です。獣と変わりありません。ですからサタンが神様に「こんなところで神様の創造理想である愛の理想を立てることができるのか、神様。ハハハ」と笑っているのです。

  二) 神様は法度を守られる


 神様はどんなお方ですか。宇宙の心のようなお方です。この宇宙は体のようなものなのですが、その体の真ん中には誰が入っているかというと、悪魔が入っているのです。空中の権勢をつかんだサタンがこの宇宙を支配しているのです。これを消化するために神様はどうしなければならないでしょうか。力ずくで打ってしまうことはできないのです。宇宙の創造の本質は愛であり、宇宙の歴史的伝統が愛を通じたものであったので、誤った者がいたとしても、神様はその原則の立場に立たざるを得ないのです。それゆえ神様が堕落したこの宇宙を回復するためには、今まで本質的愛を中心として創造された真の愛の理念を実現するために投入した本然的基準を永遠に続けなければ、絶体者である神様の権威を取り戻すことができないのです。ですから神様はいかばかり大変なことでしょうか。


 堕落とは何でしょうか。サタンを中心とした愛の因縁を父母の立場で結んだことです。堕落論だの、善悪の実の話は必要もないのです。否定することはできません。ですからサタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を受け継いだ血族が今まで残ってつながってきたのです。サタンは愛の怨讐です。神様が創造理想として万年夢見てきた事実を破綻させたのです。官吏の家門の一人娘を僕が蹂躙したとすれば、その家の主人の娘だと言うことができるでしょうか。追い出されるしかありません。天地の大道の軌道を離れたということは、愛において過ちを犯したということです。これは否定することができません。

 悪魔の子を自分の愛する息子、娘以上に愛さなければ、神様の本然の創造理想を実現することができないのです。悪魔は「私は堕落してこうなったのであり、私の血族が神様を裏切ったとしても、神様だけは、天理の道理を守ってこそ神様といえるのではないか」と提唱するのです。ここで引っ掛かっているのです。

 サタンが神様に向かって、「あなたは永遠不滅の主体であられる神様であり、天地創造の大主宰であられることを私は知っています。真理の本体であり、愛の本体であり、原則の本体であるがゆえ、あなたはその法則、原則どおり、変わることはできません。ゆえに私は堕落したとしても、あなたはあなたの立てた原則を実行すべきではないですか。そのためにはあなたは原則的な存在として、堕落した天使を愛さずしては本然の世界に息子、娘を連れていくことはできません。あなたが私を愛し、あなたの息子までが私を愛さなければ天国へ行くことができないというのが、堕落前の天使長に対してあなたが立てた計画ですから、私が堕落したとしても、あなたはその原則を守らなければなりません。ですから私を愛さなければなりません。そうでなければ真の神様になることができず、真の息子、娘になることができません」と讒訴し、食い下がるのです。

 悪魔が言うには「神様、私は変わる悪魔の親玉として変わり得る先祖になっているが、あなたは天地の大主宰であり、真理の本体であり、不変の主人公ではないか。生命の不変の原則を備えた愛をもったお方ではないか。私は堕落してならず者となってしまったが、あなたはあなたの立てた本来の理想基準というものを実践すべき責任があります。だから私を、このあなたのみ旨を成し遂げてしていく理想の門まで……。その世界に入っても、そこに住むことができなかったとしても、入っても自分で出てこれます。そこでは生きられないので出てこなければなりません」と言うのです。これがサタンの主張です。すると神様は「お前の言うことはもっともだ」というのです。

 悪魔サタンは私たち人間が一つでも罪を犯そうものなら神様の前に讒訴します。「この者は罪を犯したので地獄に行かなければなりません」と即座に讒訴します。神様の前に人間の罪を讒訴するこのサタンは、罪を犯したことに違いないのですが、この悪魔サタンの罪を神様の前に告訴した人はいまだにいません。「絶対的な神様、あなたの権限を中心として考えると、悪魔サタンは、私たち人類の前に許されざる悪なる罪を犯し、神様の前に許されざる悪なる罪を犯したので罰してください」と言うことのできる人さえ現れたならば、罪を犯したサタンを除去する道があるのです。そのようにしてもサタンを除去できないとすれば、神様は全知全能の神様ではないと言うしかありません。神様は人間の側の神様ではなく、サタン側の神様だということになります。

 サタンは天使長なので、アダムとエバが完成して天国に入るときには天使長もアダムとエバについて天国に入るのです。天使長が神様の愛を受け、アダムとエバの愛を受けたのちに、共に天国に行くことができるというのが原理であり、創造の原則です。サタンは途中で失敗しましたが、サタンが「私は僕として裏切り者となったのですが、主人であるあなたは、天理の道理を定めた上で本質的伝統を立てました。あなたの立てた原則の上で、完成したアダムと天使長を愛してこそ天国に入ることができるというのが原則なのだから、あなたはその原則を捨てることができないのではないですか」と言うならば、引っ掛かるのです。「お前の言うことは正しい」と言うのです。「私はこのようになったとしても神様は私と同じというわけにはいかないのではないですか」と、サタンはこのように引っ掛けてくるのです。

 悪魔は天使長なので「本来、天国に入ることのできる息子、娘は私を愛さなければならないのではないか。神様も、アダム自身も私を愛してから天国に入るのが本来の創造原理ではないか」と言います。悪魔はまた「そのようにならない限り私の讒訴条件を逃れることはできません。あなたは私を愛し、あなたの息子であるアダムも私を愛したという条件を立てなければなりません」と言うのです。このような問題を中心として怨讐を愛せよという言葉が宗教人の中から出てきたのです。

 神様と父子の関係になれば、息子が痛哭する立場において父なる神様も痛哭するようになっています。そうなればサタンはびっくり仰天して逃げていくのです。その場にいられないのです。

 人間として自分の本然の権威を取り戻すことのできる人、すなわち悪魔サタンよりも上になる人が現れなければ、この世の中を天側に取り戻すことができないのです。言い換えれば全知全能の神様の前に、サタンを引っ張っていって「神様、悪魔サタンがこのような罪を犯したのになぜ審判してしまわれないのですか」と告訴することのできる人が現れなければならないのです。

 今まで私たちはサタンに主管されて引きずられてきたので、反対に私たちがサタンを捕らえて、神様の前にサタンを引っ張っていって讒訴しなければならないのです。ところが今日この世では、サタンがいるということは知っていても、サタンがどんな罪を犯したのかは知りません。いまだに全知全能な神様の前で「神様、この罪を犯したサタンをあなたの全知全能の権限でもって処断してください」と讒訴した人は誰一人としていないのです。

 それでは神様は全知全能であられるのに、なぜ天使長を打ち捕らえることができないのでしょうか。なぜサタン悪魔をやっつけることができないのかというのです。サタンを打ち捕らえられないのは、神様もサタンを愛さなければならないからです。絶対者であられる神様が立てた天使長が悪魔になったとしても、神様は、天使長を本来の堕落していない立場で考えてやることのできる基準をいつももって歩まなければならないのです。ですから天使長を愛さなければなりません。神様の前に造られたアダムとエバは、神様の体です。ですから神様のみならず、アダムとエバもサタンを愛さなければなりません。

 神様が六千年間、愛する息子、娘の首を数千万回も切り落としてきたサタンを追及できないのは、天使長の立場において彼を完全に愛してやれなかった責任があるからです。ですから今まで誰かが過ちを犯せば、「神様、あの者がこのようなことをしようとしています」と讒訴するサタンの仕業が背後にあったのです。このような内容は今日統一教会が現れたので分かるのであって、誰も知らなかった内容です。

 もし悪魔サタンを引っ張っていって神様の前に訴えるならば、神様が「お前、そうするものではない」とおっしゃられるでしょうか、喜ばれるでしょうか。神様は間違いなく「おお、私の息子よ、たった一人の我が息子よ」と万世の前に立てて祝福してやりたいことでしょう。そうしたい神様の内情がどれほど懇切で、それをどれほど願っておられるかということを私たちは推し量ることができます。神様は絶対的な神様であり、全知全能の神様であり、公義の審判主であられるがゆえに、もし悪魔サタンを告訴し、讒訴する人が現れたならば、神様はサタンを審判することができるのです。

 アダムとエバは罪を犯したので、神様が思いのままにできないのです。自分の息子、娘が殺人をしたからといって、母親が変わりに責任を負うことができ、兄弟が代わりに責任を負うということができるでしょうか。できません。それが天の法です。アダムとエバが罪を犯したがゆえに、神様も思いのままにすることができません。そしてまた誰と罪を犯したでしょうか。サタンと罪を犯しました。アダムが罪を犯したのですが、サタンがどうで、アダムとエバがどうだということについて神様はいまだに審判していません。追い出しはしましたが、神様が今でも救いの摂理をしているので、サタンに讒訴されながらも審判することができなかったのです。このような問題は神学的に見て大きな問題です。なぜ処理できなかったのでしょうか。全知全能の神様がなぜ悪魔を処理できないのかというのです。

 神様は闘いには関心がありません。神様の創造理想圏、その理想圏内には戦争、闘争という概念はありません。闘争の概念があるとするならば二元論に陥るのです。根本的にこれが一つの理想世界、絶対的な平和の世界とは関係ないところに落ちることになるので、神様の創造世界圏内には闘争という概念はないということを知らなければなりません。


 サタンがどのようにして落ちたのでしょうか。それをはっきりと知らなければなりません。サタンは大きいもの、下がっていったものをすべて裂きましたが、天は小さいもの、下がっていったものをすべて合わせて大きくするのです。反対の道です。宇宙の原則、宇宙の生成の原則からすればどのようになっているかというと、真の愛を求めようとする宇宙の根本に立脚してみて、この根本に順応することにおいてサタンは根本的に反対したので落ちていくのです。全知全能で唯一無二であり、永遠であられる神様の本性はすべて一〇〇パーセント「ため」に生きるということです。

 全知全能の神様も歴史を通じて愛の怨讐に報いるにおいて、力と権能であだを討つのではなく、愛の法度を通して屈服させるのです。怨讐が自ら神様の前に完全に屈服して、僕の立場で世界人類の審判を受けても感謝することのできる立場、怨讐をそのような立場にまで引っ張っていこうとされるのです。そうでなければその罪を蕩減することができません。



五 神様を解放してさしあげよう

  一) 神様は囹圄(れいご)の立場


 誰が悪霊と善霊の闘いを終わらせることができるのでしょうか。それは神様でもなく、サタンでもありません。それでは誰でしょうか。真の愛から出発して真の愛をもっていく、世界万民がついていくことのできる愛の主人公が現れなければ、神様の闘いとサタンの闘いを終わらせることはできないのです。この闘いから解放されない限り、人間歴史世界において平和という言葉は妄想的なものです。理想という言葉は抽象的で感傷的な言葉にすぎません。それで神様はこの代表者を遣わすのですが、その主流思想をメシヤ思想というのです。救世主思想、救世主は人間だけではなく、神様までも解放する人のことを言います。悪を処断することを意味します。神様解放と悪を決算するための総責任者が救世主です。

 救世主の使命は神様を解放することであり、サタンを処断することです。あれほど人間に食いついては讒訴した怨恨のこの元凶を誰が清算するのでしょうか。神様にはできません。唯一メシヤが、救世主だけができるのです。

 私たちの願う統一教会とは何でしょうか。父母の宗教を求めていこうということです。甘い生活を求めるのではありません。道義的な関係ではありません。真の父母を中心として真の愛の道理の道を求めていこうというのです。そうして神様を解放しようというのです。愛の原則条件が結びついていなければ解放されないのです。

 お父様が愛され、そのお父様が求めようとされる国を考えてみたことがありますか。監獄の道をもいとわずに行けば何らかの道があります。その生死の岐路を開拓してきたのが、民族が進むことのできる道であり、暗黒の淵を越えて希望ある道であるということを知る人はいません。世界万民を解放するためのトンネルを貫通するために、そのような事情を抱いて苦労したということを知る人はいないのです。神様に忠誠を尽くし私がこの道を行くということは、中心をお迎えした中で細心の注意を払って暮らしながら、愛を貴く抱いて侍るべきお方だということをわきまえていくということです。この道は時が移り、歳月が変わっても万世に変わることのない、たった一つの道であると考えて生きていくことですӍ