Book十四: 真の孝の生活

A Life of True Filial Piety




はじめに


 文鮮明先生は、かつて数えの十六歳の時にイエス様からメシヤとしての使命を託されてのち、神様の解放と人類の救いのために血と汗と涙の人生を生きてこられました。服を涙でぬらす祈祷を通して神様と霊界に通じ、神様がどのようなお方なのか、神様と人間とはどのような関係なのか、深い瞑想と祈祷をなさいました。


 文鮮明先生が発見された神様は、今までの人類が考えてきた栄光の神様ではなく、堕落した人類のために深い苦痛を受けられ、身もだえするかのように胸を痛めてこられた悲しみの神様でした。また、神様と人間との関係は、父子の関係だということを明らかにされました。


 父母はいかなるものよりも、子女のために完全に犠牲になり、投入し、子女の幸福のために命も惜しまない存在なのです。そのようなお方が神様であられるということを悟った文鮮明先生の一生は、ただ悲しみと苦痛の神様を解放してさしあげるための超人的な生きざまだったのです。ほかの何ものでもなく、ただ神様を喜ばせてさしあげ、人類を数うために、孤独な立場で多くの迫害と苫難を越えられながら、真なる孝子として生きてこられたのです。


 本書は、真の孝子としての完全な手本として生きてこられた文鮮明先生が語られた「文鮮明先生み言選集」三百余巻の中から「真なる忠孝とは何か」をはじめとして、「聖子としての道理」、「聖子、忠臣としての姿勢」など、真なる忠孝に関するみ言を精選して、訓読用の書籍として編纂したものです。


 どうか、真の御父母様が生涯にわたって体で示してくださった真の孝の生活を手本とし、そのみ言を訓読することによって、私たち自身も真なる孝子、孝女となり、聖人、聖子となって、歴史的に悲しみを受けられた神様を慰労してさしあげ、解放してさしあげる子女となるよう祈るものです。

                                二〇〇二年十月



第一章 忠孝の意義

一、忠孝思想は韓国人の中心思想


 孝行する人は、自らの生活の中で良いことがあれば、先に父母を思います。良いものを見た時に、先に自分の夫や妻を思うのは堕落した世の中ですることです。先に自らの父母に貴い物を買ってさしあげなくては、自分の妻に買ってあげることはできません。


 男性たちも、自分の服を買おうと思えば、先に父母に買ってさしあげてから買わなければなりません。そして、妻や子供たちにも買ってあげなければなりません。


 御飯を食べる時も、父母に侍って食べなければなりません。サタン世界の父母が亡くなっても、三年間喪に服するのが韓国の風習です。ですから、この地上で三年以上精誠を尽くして父母に侍らなければ、天上世界に行って、「大韓民国の子孫だ」と言うことはできません。


 昔、孝子が父母の三年の喪に服する時、墓地に穴蔵を建て、そこで起居しながら孝の道理を履行したのが韓国の礼法ではありませんか。

 私たちは、それ以上にしなければなりません。私たち祝福家庭は、お互いの良い面を備え、父母に侍る生活をしなければなりません。(一九六九.一一.一〇)


 韓国人は、古くから忠孝の志操が高い民族です。国軍の日(韓国軍創設記念日、十月一日)に五・一六広場に招待され、壮年の国軍の威容を見て満足感をもったことがあります。そして、その国軍の勇士たちが査閲台の前を通り過ぎながら叫ぶ「忠孝」というスローガンは、本当に印象的でした。

 神様から召命を受けた民族として叫ぶスローガンとしては、あまりにも啓示的でした。世界のどこの国にも、このようなスローガンを叫ぶ軍人はいないでしょう。


 韓国は、最後に神様に忠誠を尽くして孝行する民族なので、今日、その忠孝精神が国家の中心思想になったのです。沈清の父母のために尽くす哀切な孝行心、春香の夫に対する志操、鄭夢周の君主に対する忠誠、柳寛順の殉国精神、このような忠孝の志操は、古今東西、どこにもその類例を見ることができない韓民族の魂です。


 このような忠孝の精神と、松と竹のように固い志操は、今後成し遂げられる地上天国の中枢的思想と精神になるのです。天国は神様の国なので、その国のために永遠に忠誠を尽くさなければならず、神様は人類の父であられるので、その父に永遠に孝行しなければなりません。世界の様々な民族をいくら試験してみても、韓国のように忠孝の情熱と志操が高い国はないので、神様は、韓国を選んで訪ねてこられるのです。(一九七八.一〇.一九)

        

 孝子は、百年たとうと千年たとうと、父母を離れてはいけません。「一緒にいたらいい!」と思わなければなりません。父母に「できるならば、私と千年、万年一緒にいたらいい!」と思わせる、そのような父母の心を引きつける者でなければ、孝子ではありません。


 父母の愛には、子供がいくら悪くても、「その子供と共にいたい」という思いがあるのです。


 それゆえに、真だというのです。しかし、親不孝者とはどのような者でしょうか。父母と共にいることを嫌うのです。聖書にもそのような比喩が出てくるでしょう? 兄弟たちと共にいることを嫌うのです。自分一人で自由にしてみたいというのです。それは何の種ですか。不孝の種です。(一九八六.一〇.一)


 孝子とは、自らの立場を忘れて先に父母の事情を思い、涙を流す心情で父母のために生きる人です。忠臣とは、国家が乱世に置かれている時、自らの一身のことをすべて忘れて国王の困難を先に心配し、忠誠の道理を果たしながら生きる人です。


 自分を忘れ、自分の利益とすべてのものを犠牲にするところから、忠孝の極致が連結されるのです。(一九七〇.一二.二二)


 家庭において、男性でも女性でも兄弟でも、すべての人が願うことは、孝子、孝女にならなければならないということです。それは、愛を中心として一つの体にならなければならないということです。


 家庭を一つにするためには、孝子が必要です。国も同じです。国の父と母である国王と王妃、そしてその国王の息子、娘を中心として、相対的世界の夫婦と兄弟同士が上下、左右、前後で合わなければなりません。前後がなければ、父母と子供は関係を結ぶことができません。ですから、上下、左右、前後です。


 兄弟が絶対的に必要です。結婚は、兄弟から連結されていくのです。(一九九七.八.一三)


 皆さんは、忠孝の道理について話しますが、その定義を知りません。父母を家庭の中心として神様と同じ立場に立ててさしあげ、心と体を一つにし、子供を愛するその父母の心が変わらない限り、その愛する心の前で、常に心と体で一〇〇パーセント受け入れ、一〇〇パーセント順応することができる立場に立った息子、娘を何と言うのですか。「孝子」と言うのです。


 今日、忠孝の道理について話しますが、本当の忠孝の道理を知らないのです。(一九七八.一〇.二八)


 父母の願いとは何でしょうか。父と母として、血統的に一つになった根がありません。息子、娘を生んでこそ、その家庭の血統が続いていくのです。息子、娘が父母を愛することによって、関係のなかった父と母の血統が、その息子、娘によって統一されるのです。子供によって父母の完成がもたらされます。その息子、娘が孝行することによって、父母の完成がなされるのです。


 私に、孝行することのできる父母がいるというのは、幸福なことです。私は、父母の生命と、父母の愛と、父母の血統を得たのです。父母の愛を通して、父母の愛が私において再び二重になるのです。核になります。皆さんの愛と生命と血統は、副体となるのです。それゆえに、父母を完成させれば、私の完成をもたらすことができるのです。私が成長すれば、父と母と同じように一つにならなければなりません。それゆえに、お互いが完成するのです。(一九九一.一一.一〇)


 家庭が願う世界とは、どのような世界でしょうか。国です。家庭が直行していかなければならない国です。その国が行かなければならない所とは、どこでしょうか。世界です。その世界が行かなければならない所とは、どこでしょうか。世界が行かなければならない所、地上天国が行かなければならない所は、天上天国です。


 ですから、国の忠臣とは、国の孝子のことです。世界の忠臣とは、どのような人でしょうか。世界の聖人とは何かというと、世界の孝子のことです。天地の聖子とは、どのような人でしょうか。天地の孝子のことです。孝子という存在、息子という存在には、自分というものがありません。このようになるのです。(一九九六.一一.一一)


 二、聖人、聖子は忠孝の完成者


 大韓民国は、忠孝思想が本当に素晴らしいのです。それでは、大韓民国の民は、大韓民国に対してだけ忠誠を尽くせば良いのでしょうか。これが問題です。日本人は、日本の天皇に対してだけ忠誠を尽くせば良いのでしょうか。ドイツ人は、ドイツの主権者に忠誠を尽くせば良いのでしょうか。あるいは、アメリカの国民は、アメリカの大統領に忠臣の道理を果たせば、すべて通じるのでしょうか。違います。通じません。


 大韓民国の国民に「あなた方は聖人になりますか、忠臣になりますか」と尋ねるとき、「今、大韓民国は忠孝の道理が中心なので、聖人のことは分かりません。忠臣になろうと思います」、これではいけません。


 忠の道も重要ですが、誰においても聖人の道理を行かなければならない道が残されているので、聖人の道を行こうという新しい国民がいるとすれば、その国民は、世界の福を人類の前にもたらすことができる人々となります。

 忠臣とは何かというと、忠臣は、その国家の福をすべての国民の前にもたらしてくれるのです。孝子とは何かというと、その福を家庭にもたらしてくれる人です。それを知らなければなりません。(一九七八.一〇.二八)


 愛国者である忠臣と聖人では、どこが違うのでしょうか。忠臣とは、自分の国のために生命を捨てる覚悟をし、公的にすべてのものを投入していく人のことをいいます。


 聖人とは、自らの民族を越えて世界人類のために生き、さらにはより公的な神様のために生き、世界人類に対して、その前で忠孝の道理を果たすために、いかなる孝の道、いかなる忠の道よりも、それ以上に尽くさなければならないと決意して立ち上がった人です。それをなすために、忠臣の位置を捨て、自分の国の国王を捨てていこうという人です。


 国王がその手をつかんで「あなたが行けば、我が国は滅びる」といくら頼んだとしても、国王の立場を考えずにそれを捨て、世界に向かって聖人の道理を全うするようになれば、その国王に対して世界にない忠臣の道理を果たすこと以上の価値を、天から認められるようになるのです。(一九七八.一〇.二九)


 愛国者の中には数多くの孝子が入っています。孝子になったとしても愛国者になることができなければ、それは、愛国者の隊列に上がっていくことはできません。しかし、孝子になることができなかったとしても、愛国者になる時には、自動的に孝子の班列に上がっていくのです。

 そのような意味で、聖子の位置に立てば、聖人を統治することができます。孝子となることができず、愛国者となることができず、聖人となることができなくても、聖子の位置に立てば、すべてのものはその下に抱かれるのです。しかし、聖子となる道は、それほど易しい道ではありません。愛国者の中の最高の愛国者となることができる困難の峠を克服した歴史をもった人とならなければならず…。


 孝子ならば孝子として、愛国者ならば愛国者として、聖人になる時まで、あらゆる困難を経て、それ以上の立場で克服することができる自主力をもったその基盤において聖子の道理が連結されるのです。そのような過程を経ていない人は、短時日のうちに世界的迫害を受けなければなりません。(一九八九.一二.三一)


 人に絶対的に必要なものは、孝子の道理、忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理です。堕落したので、聖人が必要です。聖子の道理を完成するのです。

 それゆえに、神様のすべての相対圏は、私から、天、世界、そして私たちの家庭まで連結することができるのです。それは、生きている間に成し遂げなければならない道です。完成する道です。国についていえば、国王は、父と母の骨です。そこに接ぎ木して大きくなろうというのです。私が家庭をもたなければ、国の前に立つことはできません。また家庭も、国がなければ、サタンの国の前に破綻するのです。(一九九七.四.二一)


 愛の生命力がそのまま通じる家庭を愛することが孝子の道であり、国の生命力を中心として愛することが忠臣の道であり、世界の生命力と愛を連結していく道が聖人の道です。このように見るとき、このような方向を通して人倫道徳を教育してきたという概念は、確かだというのです。それが正しかったことを知らなければなりません。世界を愛することが聖人の道理だ、ということを知らなければなりません。


 これが、人倫の道徳教育の標準となってきたのです。それが間違いでなく正しかったということを、ここから見いだすことができるのです。(一九八一.二.一五)


 人間世界で生きる時、愛を中心とした孝子が最初の円であり、忠臣はその外側の円です。これが大きくなっていきます。小さい時は、これは小さいのですが、大きくなっていくのです。この円が、聖人はもっと大きく、聖子はもっと大きいのです。ですから、これをきちんと並べれば、その一点は孝子です。孝子が最初です。その次に忠臣、聖人、聖子、この四段階です。


 その中心は垂直です。垂直を中心としています。すべて中心は一つです。二つではありません。愛は中心が一つです。それゆえに、父母の前における孝子は地獄に行きません。国の前における忠臣は地獄に行きません。救世主を信じなかったとしても、それは、自然に収拾するようになっています。ですから、聖人は地獄に行きません。


 すなわち、この話は、孝子になれなかった人は、忠臣にはなれないという話です。それでは、孝子になりたいと思っても、父母がいなくなればどのようになるのでしょうか。孝子が良いというのですが、自分に父母がいなければどのようになるのでしょうか。大変なことです。「神様、私に父母を下さい!」と言っても、天地の道理はそのようにはなっていません。父と母が死ぬこともあり得るのです。


 そのようになれば、孝子になりたいと思っても、なることができるでしょうか、できないでしょうか。なることができない時には、どのようにするのでしょうか。忠臣、聖人になりなさいというのです。聖人の位置は、孝子や忠臣の位置よりも勝っているのです。(一九九〇.一.七)


 父母を愛し、息子、娘も愛するのが孝子です。それは、最初のページも愛であり、過程も愛であり、最後の結論のページも愛です。家庭は、核となることはできません。家庭の核の上には国がなければなりません。国の核は何かというと、忠臣の道理です。それはどういうことでしょうか。国を愛しなさいということです。


 忠臣、聖人、聖子、これらはすべて核は核ですが、何を根拠として核になっているのでしょうか。それが愛だということを人間は知りませんでした。しかし、漠然とそのように立ててきたということは、今後、終わりの日の時代に定着し得る安定点は、愛以外にはないということを意味しています。


 それゆえに、男性と女性の夫婦同士で愛する人こそ、孝子になるのです。孝子になり、忠臣になるのです。忠臣になり、聖人になるのです。聖人になり、聖子になるのです。


 聖子になって、すべての相続権をもつのです。このようにして神様の息子になれば、神様も私のものになり、それから神様がもっているものも私のものになり、今後、神様が創造することのできる希望的な未来のものも私のものになるのです。


 聖子の位置に立ってこそ、過去と現在と未来のすべてのものを伝授してもらうことができます。そこにおいては、被造万物は頭を上げて抗議することはできません。そこにおいて初めて、統一天下をうんぬんすることができるという結論が出てくるのです。(一九九〇.一〇.七)


 私たちが人生行路をどのように歩んでいくべきかという問題について整理してみるとき、孝子が行く道、忠臣が行く道、聖人が行く道、聖子が行く道の、その骨子とは何でしょうか。


 永遠に共に暮らしたいと思うことです。そのような人々は、上下で共にいたいと思い、前後や左右で、昼夜を問わず、生涯を超えて共に暮らしたいという思いが心の奥深くまでしみ込んだ人々ではないでしょうか。このような推理的な結論が出てくるのです。(一九八六.一〇.一一)


 それでは、皆さんは、神様の前に何にならなければならないのでしょうか。第一に、孝子にならなければなりません。第二に、忠臣と愛国者にならなければなりません。忠臣と愛国者の上は何でしょうか。聖人です。

 孝子とは、家庭において、父母の前に絶対的な忠誠を尽くす人です。愛国者とは、国に対して絶対的な忠誠を尽くす人です。それでは、聖人とはどのような人々でしょうか。イエス様や釈迦や孔子のような人々です。彼らは、自分自身を主張した人々ではありません。


 神様を主張した人々です。神様を中心として生きた人々です。


 また彼らは、人間たちに被害を与えた人々ではなく、利益を与えようとした人々です。また彼らは、国家主義者ではなく、世界主義者です。(一九七二.三.二四)


第二章 真の忠孝

一、真の忠孝は困難の中でも自ら実行すること


 易しい立場で易しいことをしながら孝の道理を果たそうという人よりは、限りなく難しい立場で孝の道理を全うしようという責任者、そのような立場に立った人、そのような立場に立った息子、娘こそが、孝子の行く道に入ってきた人です。それは間違いありません。


 このように見るとき、神様は世界的な問題を心配していらっしゃるので、世界的な問題に責任をもとうという人がいれば、その人は、世界のいかなる民族やいかなる人よりも、神様の前で認められる近い立場に立っているということは言うまでもありません。


 それゆえに、孝子の立場とは、「父母が受けた悲惨なことに対して代表的に責任をもとうとする立場だ」と結論づけることができます。


 良いことがあっても、良いことは除き、常に悪いことに責任をもたなければならない道が孝子の行くべき道です。(一九七二.九.一〇)


 周囲に散在する数多くの人々が父母に侍って孝行している生活環境において、父母の前に孝行するということは難しくありません。しかし、多くの人が、みな父母を排斥し、自らの行かなければならない道を避けようとする時に、たった一つしかない自分の生命を捧げる恨があったとしても、行かなければならないその道において父母のために生きようとする立場に立つならば、それこそ、環境を超越した立場で孝行の道理を果たした、ということになるのです。それゆえに、そのような人は孝子として立てざるを得ないという事実を、私たちはよく知っています。(一九七一.三.四)


 孝子とは、豊かに暮らしながら孝行するのが本当の孝子ですか、貧しく暮らしながらも孝行をするのが本当の孝子でしょうか。(貧しく暮らしながらも孝行するほうです)。

 一日に一食しか食事をとることができない家庭で育ち、自らの血肉まで売ってでも父母に三度の食事をとらせてあげるのが孝子ですか、三度の食事をとり、残って処理できなかった御飯をたくさん盛ってあげて侍るのが孝子ですか。どちらが本当の孝子でしょうか。(血肉を売ってでも孝行するほうです)。


 本当の孝子は、豊かに暮らしている家からは出てきません。それを知らなければなりません。


 父母が飢えていて、弟が飢えているのを見る時、母が自分の御飯を弟に与えている姿を、その息子、娘は、夜を明かしながら見つめ、骨身にしみるほど知っています。弟をあのように愛しているので、自分も母に倣って、その弟に一銭でも多く助けてあげようと思い、自分の御飯を先に母に分け与えるようになる時、孝子圏、孝子の環境が生まれるのです。自分だけのために生きる人は、すべて追放されるのです。このような観点から見るとき、孝子が行く道は「ため」に生きる道です。


 本当の孝子になる道は、「ため」に生きることです。環境が良い所で「ため」に生きることではありません。(一九九七.八.一三)


 私たちが誇ることのできるものは、何もありません。天の主権と民と国土を滅ぼした、ということしかありません。今、私たちは、忠誠と孝行によって、天の主権と国土と民を売り飛ばして蹂躙した自分自身を反省しなければなりません。裏切った自分自身を反省しなければなりません。悲しみの中でも、天の主権と民と国土を取り戻してさしあげようという信念が明確でなければなりません。食べることも、生きることも、死ぬことも、ただこれだけのためになければなりません。


 それでは、何のためにしなければならないのでしょうか。地と民と人類と主権のために忠誠を尽くし、孝行しなければなりません。自覚さえすれば、不忠をし、不孝をし、裏切ったすべてのことを父が忘れてくださることのできる時なので、民族に代わって悔い改め、国土に代わって悔い改め、主権に代わって悔い改めてください。父のために悔い改める時は、過ぎ去ります。


 また、地のために悔い改めなければなりません。今も、数限りない聖徒が待ち望んでいます。私たちは、天の主権と領土を回復するために悔い改めなければなりません。天の民を回復し、天の国土を回復し、天の主権を回復するために、皆さんを選んだのです。


 ですから、皆さんは、もし間違えればアダムとエバのあとに従っていくようになります。自分で正しく判断して行えば、勝利の日を迎えるようになるでしょう。(一九六一.五.一三)


 歴史的なすべての先祖のように、霊界に行き「私はどうしたら良いのか」と言って恨を残す群れになることなく、自分一代においてこれを終結させ、「私はどうしたら良いのか」と言う位置に立つ子孫を残さないために、私たちは、団結し、一つになってこれを完結させ、国家的な忠臣、国家的な孝子、孝女の基盤を築かなければなりません。私たちにはそのような責任があります。


 これが、現在、私たち統一教会の行かなければならない道だということを知らなければなりません。


 干渉しない立場で、孝子となり、忠臣、烈女となることができ、天が指示し命令しなくても、怨讐サタンに対して復讐し蕩減するために、自ら責任をもって行くということが、どれほど福なことかというのです。


 そのようなことを知って、この時代とこの世代に対する責任を担って闘っていくことができる自らの立場を感謝に思いながら、今からあすに向かって、「私はどうしたら良いのか」という問題にぶつかった時に、「私は忠臣となり、孝子、孝女となった」と言うことができる時まで、倒れることなく必ず進んでいってくれることをお願いします。(一九六三.一〇.二四)


二、真の忠孝は家庭を築き、父母と国を完成させること


 父母を知ったならば、その父母の前に何をしなければならないでしょうか。孝行しなければなりません。孝子にならなければなりません。また、その父母を中心として、その国の忠臣にならなければなりません。その父母が、国を率い、世界を率いてきたからです。


 忠臣になる前に孝子にならなければならず、孝子になる前に真の兄弟を誇ることができる家族にならなければなりません。家族とは、兄弟間で褒めたたえることができる圏を中心とした名前です。

 それでは、孝子とは、どのようにするのが孝子でしょうか。昔、結婚して夫婦となり、家庭を率いて父母の前に孝行した男性と女性以上の孝行をしなければなりません。結婚しなくては、真の孝子、孝女となることはできません。


 真の孝子、孝女とは、結婚したのちに初めてなることができるのです。結婚して夫婦を成し、その父母の前で、夫の孝心に妻の孝心をプラスして、二人で父母に侍る孝心の基盤を備えてこそ、真の孝道圏を成立させることができるのです。


 忠臣も一人でなるのではありません。統一教会でいう忠臣は、一人でなることができるものではありません。家庭を築いた夫婦であってこそ、忠臣になることができます。ですから、皆さんが忠臣という立て札を立てるためには、孝子を生まなければなりません。


 皆さんは、神様の前に孝子とならなければなりません。孝子は、一人でなることができるものではありません。三位基台を中心として、三人の兄弟が一つになって初めて孝子となることができるのです。皆さんには三位基台があるでしょう? その三位基台が一つにならなければなりません。


 三位基台の三つの家庭が兄弟として一つになり、各家庭の四人の子供が再び糾合されなければなりません。そのようになれば、三×四は十二で、十二子女になるのです。それがイスラエルの第一の基盤です。部族、一族、別の言い方をすれば、氏族創立の起源となるのです。(一九七〇.三.二三)


 天の皇族になろうとすれば、孝子、忠臣、聖人、聖子にならなければなりません。その訓練場所が家庭です。完成した家庭が拡大されれば、理想的な王国になるのです。常に家庭がセンターです。男性と女性の二人の問題だというのです。理想的男性と理想的女性が夫婦となって家庭を築けば、すべてのものが完成します。理想家庭が拡大されて国家になり、世界になるのです。


 私が家庭で奉仕して父母を敬うことによって孝子になるのと同じように、国の王に侍って「ため」に生きれば愛国者になるのであり、全人類のために生きれば聖人になるのです。ですから、私たちと聖子では、次元がどれほど異なっているだろうかというのです。私たちが変わろうとすれば、革命的に変わらなければならず、数多くの段階を経て上がっていかなければなりません。(一九九八.五.二六)


 神様は、孝子を願われません。孝子の家庭を願われます。忠臣の家庭を願われたということを知らなければなりません。聖人の家庭を願われました。聖子の家庭を願われました。それが恨です。霊界に行けば、今まで、みな独身生活をしてきているでしょう?


 モーセも、今まで何千年という歴史を経たにもかかわらず、常にそばで世話をしてくれる女性がいると言ったでしょう? その女性に「なぜ結婚しないのか」と尋ねてみると、「神様が少し待ちなさいとおっしゃった」と言うのです。自分の思いどおりにできないのです。(一九九八.一一.二〇)


 国を愛するにおいて、息子が父母に忠告し、教育してあげることによって、その父母を国の忠臣にし、天に記憶される父母にした場合、その息子は、不幸者でしょうか、孝行者でしょうか。(孝行者です)。


 それでは、息子が、「お父さん、お母さん、外に出ないで楽に休んでいてください!」と言いながら、国を愛することができなくさせるよりも、「お父さん、お母さん、何をしているのですか。私と一緒に一人でも国を愛することができる人、南北統一することができる人、北朝鮮を生かしてあげることができる人を探さなければなりません」と言って、血と汗と涙を流し、周辺のすべての国民がその功労を褒めたたえるようになればどうでしょうか。


 その時は、自分の息子に対して、「こいつ、父と母をひたすら酷使して悪いやつだと思ったが、それに成功した人となって、褒めたたえられるようになった。ああ、私たちの息子は孝子だ」と、そのように言うでしょうか、それとも「不幸者だ」と言うでしょうか。どちらだと思いますか。(一九九〇.一一.三〇)


 皆さんの父母がみ旨のために忠誠を尽くすことができなければ、皆さんが勧告しなければなりません。「お父さんとお母さんは、何をしているのですか。み旨の道はこうであり、天のみ旨はこうだと思うのに、お父さんとお母さんは、なぜそのようにしているのですか。


 このように歩んでいかなければならないのに、なんですか。毎日のようにけんかをして、なんですか」と言いながら責め立てるのです。それは良いのです。父と母が誤れば、大変なことになるのです。(一九七八.一〇.九)


        


 父母が生き返ることのできる道をつくらなければなりません。それが子供としての道理であり、孝子の位置に立つことです。これが私たちの責任です。それゆえに、生死を意に介すことなくこの道を開拓しなければなりません。世の中の良いものや、世の中の迫害や、死の道も意に介すことなく、この道を開拓するために忠孝の因縁をもたなければなりません。(一九六八.五.一一)


 歴史的な女性になるためにも、歴史的に失敗して追われた内容を清算しなければなりません。


 また、時代的なエバになるためには、時代的なすべての女性を代表して、天の前に忠孝の道理を全うした一つの基準を立てなければなりません。


 そして一人の女性として、一人の男性に対して、また神様に対して、烈女の心情をもって立ち上がらなければなりません。(一九七〇.三.二二)


三、真の忠孝は従順により、より「ため」に生きる愛を施すこと


 孝子は、父母が生きている時に孝行しなければなりません。忠誠も、国王が生きている時に尽くさなければなりません。死んだあとでは、千万倍の孝行も無益であり、千万倍の忠誠も無益です。そのようにする者は、ずる賢い者たちです。


 死んでから大きな祭祀の膳を捧げるよりも、生きている時に一言でも慰労するほうが勝っているのであり、自分が悲しみの相対となってその心を慰労することのほうが、千万種類の食物で整えられたその祭壇よりも美しいということを知らなければなりません。死の道を追慕しながら行く人よりも、その死の道に行く前に、目的のために行く人のほうが貴いのです。(一九七一.一一.二八)


 孝子になろうとすれば、父母の心の方向と常に一致していなければなりません。孝子の道を行く人は、父母と掛け離れた行動をする人ではありません。

 父母が東に行けば東に行かなければならず、父母が西に行けば西に行かなければなりません。行く目的を提示したのちに、行く途中で回れ右をすれば、一緒に回れ右しなければなりません。そこに異議があってはなりません。十度行き、十度回れ右をしたとしても、また回れ右して従っていかなければなりません。


 反抗すれば、孝子の道理を最後まで守ることはできません。父母が狂ったことをすれば、子供も狂ったことをしなければなりません。父母の命令ならば、狂ったことでもしなければなりません。狂ったことをすること自体はいけないことであり、父母が分からずにしているのならば知りませんが、分かってしているというのです。


 それでは、なぜ父母は狂ったことをするのでしょうか。孝子の中から最高の孝子を選び出すためには、その道しかないからです。百人の孝子がいるとすれば、その百人の中から一番になることができる孝子をつくるために、その父母は狂ったことをするのです。


 しかし、その気まぐれを真実だと思い、生命を捧げてその父母の命令の前に絶対従順をすれば、その人は、孝子の王にもなることができるのです。(一九七二.九.一〇)

 孝子とは、父母を愛し、兄弟を愛した人です。より「ため」に生き、より愛する人が、その家庭の相続者になります。それゆえに、すべてそのような道に方向を取らなければなりません。今日のあらゆる理想的作用の主流は、真の愛が行く道です。真の愛が主流です。それ以外のものは、すべて傍系的流れです。


 したがって、「孝子、孝女になりなさい」という言葉は良い言葉です。今日、母親の時代と若い時代では差があると言いますが、とんでもないことです。母親の時代と若い時代では、愛に差がありますか。女性として生まれ、一人で生きることができますか。また、男性として生まれ、一人で生きることができますか。口にも出してはいけません。


 一年を一緒に過ごしたのちに行く時に、「もう一日だけいてくれたらいいのになあ」と言うこと、それが貴いのです。百年生きたのちに逝く時も、「ああ、もう一時間だけ生きてから逝ってくれたらいいのに…」と言う妻になっていますか。そのような夫になっていますか。そのような兄弟になっていますか。


 いくらかのお金のために、「お兄さんはお兄さんであって、私は私でしょう。お兄さん、私が百万ウォン貸してあげたのに、なぜ返してくれないのですか。愛であれ何であれ、私は嫌いです。お金が一番です」と、このように言ったとすれば、その人は、もって生まれた福をすべて売ってしまうことになります。


 千万長者や億万長者になることができる福をもって生まれ、愛があればすべての宇宙の福が来て巣をつくってくれていたはずなのに、「ああ、あのけち」と言って無慈悲に逃げてしまうのです。ですから、人は孝子を好むのです。(一九八六.三.二)


 父母の愛の道に従っていこうとするので孝子が必要であり、国の愛の道に従っていこうとするので愛国者が必要であり、世界の愛の道に従っていこうとするので聖人のような人が必要なのです。

 皆さんの息子、娘はたくさんいますが、その息子、娘の中で、息子の中の息子とは、どのような人でしょうか。父母のために厚い愛の因縁をもった息子を、孝子というのです。


 孝子だというのです。孝子の中の孝子を中心として、父母の行く方向を連結させるのです。(一九八五.一二.二九)


 父母が大便を漏らそうと何をしようと、すべて自分の赤ん坊のように愛し、抱いてあげることができる息子、娘ならば孝子です。天国に行くことができる息子、娘だ、このように思うのです。(一九八一.一二.二〇)


 息子、娘の中には、孝子もいて、ただの普通の息子もいて、不孝者もいるでしょう。三種類です。最高の孝子になろうとすれば、神様と競って負けてはならないという結論が出てきます。


 そのようになろうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。歴史過程においてこの地上を経ていったいかなる聖賢、賢哲以上に、神様のみ旨の前にみじんも疑わない者にならなければなりません。


 神様に、「あなたが息子を引き離すような疑わしいことばかりを私におっしゃったとしても、私は信じます。『信じることはできないだろう』とおっしゃったとしても信じます。愛する父母が最も悪なる父母となって、むちで打ったとしても、私は、愛する孝子以上の心をもってあなたに従います」と言わなければなりません。神様は、そのように思っていらっしゃいます。(一九七四.七.二九)


 父母が寝たとしても、孝子は眠ることができません。眠って起きたのちは、罪人のように悔い改める生活をしたのです。食べたのちも、申し訳なくて顔色をうかがう人です。

 結局は何かというと、孝子の道です。孝子の道をどのように行くのでしょうか。これを見れば、先生は狂った人です。父母を顧みたでしょうか、妻子を顧みたでしょうか、兄弟を顧みたでしょうか、親戚を顧みたでしょうか、国を顧みたでしょうか…。


 私は、国を思ってあげなかったのではありません。より次元の高い立場で、国のために行こうとしたので…。日帝時代に、私が国のために涙を流したこととは…。愛国者に負けない涙を流しました。(一九七二.九.一〇)


 父母が、この道は死んでも行かざるを得ないということを本当に知ったならば、子供を神様のところに連れていかなければなりません。父母の使命を果たすことができなかったのは、知ることができなかったからであり、知ったならば、祭物としてでも連れていかなければなりません。むちで打ったとしても、それは善です。ですから、先生は、「父母が正しく立っていさえすれば、子供が救われないことはない」と言います。もし父母に対して不孝者がいるとすれば、追い出してしまいなさい。


 そして、父母に孝行する者を自分の家に連れてきて、養子として立てなさい。(一九六五.一〇.九)


第三章 忠孝の道理

一、生命まで惜しまない真の忠孝


 新郎のために自分の命を捧げれば、烈女だといいます。孝子も、父母のために命を捧げる人のことをいい、忠臣も、国のために命を捧げる人のことをいいます。


 しかし、天の基準は、永遠の命を懸けて忠誠を尽くし、孝行することです。この肉体は死にます。永遠の生命を懸け、それをすべて父のものとして、新郎のものとして、父母のものとして捧げることができる立場においてのみ、天的な烈女の基準が成立します。自らの命が動いて感じるすべてのものを傾けなければなりません。


 それゆえに、聖書にも、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくしなさい」と書かれています。それでは、尽くす基準とは何でしょうか。世界のいかなる忠臣よりも、いかなる孝子、孝女よりも、いかなる烈女よりも勝らなければなりません。


 そうでなければ、神様の威信が立ちません。今まで、サタン世界にも多くの忠臣、烈女がいましたが、そのサタン世界の忠臣、烈女の基準と同じ基準を立てた人を天が忠臣、烈女として立てれば、神様の威信が立たないというのです。(一九六〇.四.二四)


 孝子は、過去から現在まで、時代ごとにすべていました。その中から一番の孝子を選ぶとすれば、どのような人を一番の孝子、孝子の標本として選ぶのでしょうか。老いて孝子の役割をして死ぬよりも、若くして老いた人以上の孝子の役割をしたとすれば、より貴いのです。孝子も千態万状です。貧しい人、裕福な人、雑役をする人、物ごいをして暮らす人、あらゆる階級がありますが、孝子はどこにもすべています。


 生きている人が真の孝子になることはできません。生命をまだ残している人が、孝子の部類に入っていくことはできません。孝行するために数多くの人々が死んだのですが、死んでいない人が孝子の表彰を受けたとすれば、孝行するために死んだ人々から讒訴されるのです。


 死んだ人の中にも、孝行するために道を行く途中で死んだ人もいるのです。父と母が病気になったので、薬を買いに行く途中で死んだ孝子もいるでしょう。


 薬を買いに行くのに、自分のお金をもって買いに行った人もいるはずであり、借金して買いに行った人もいるはずです。困難であればあるほど、その価値が大きくなるのです。忠臣も、死ぬ前には忠臣になることはできません。同じ道理です。(一九七一.一〇.一七)


 孝子になろうとすれば、どのような立場に立たなければならないでしょうか。死の道、一番の受難の道に責任をもつことができる立場に立たなければなりません。孝子として行くべき道とは、何でしょうか。


 「父母である私を愛する以上に兄弟を愛し、お前が私のためにいるように、兄弟のためにいてほしい」。これが、孝子の行くべき道です。父母は、このように自らの願いを言うでしょう。(一九七二.九.一〇)

 孝子の中の本当の孝子とは、どのような人でしょうか。父母のために一生をすべて犠牲にし、七十歳、八十歳の高齢になるまで孝行を尽くした人と、若い青春時代に父母のために生命を捧げた孝子がいるとすれば、どちらをより孝子と言うことができるでしょうか。


 いくら七十、八十になるまで孝子の役割を果たしたとしても、青春時代に父母のために生命を捧げた孝子にはかないません。それゆえに、忠臣は、死んだのち、生命を捧げたのちに決定するのです。真の孝子も、生命を捧げる立場で決定するということを、私たちは歴史時代においてたくさん見て知っています。(一九七一.九.五)

        

 忠臣の名をもって立ち上がる人も、天のために生きてこそ忠臣という称号を天から受けるのです。孝子の行く道も、やはり同様です。ですから、どれほど貴重であり、大切なものかというのです。


 私が食べるのもそのために食べ、私が見るのもそのために見て、私が話すのもそのために話し、私が行動するのもその目的のために行動しなければなりません。


 たとえそれが悲しみと涙の道であったとしても、天上の主人であられる神様が行かなければならないその道を代わりに受け持って行かなければならないので、孝子の道理と忠臣の道理を果たさなければならない責任があるということを、私たちは知らなければなりません。


 神様の涙の道をふさぎ、私が地に倒れることがあったとしても、再びその道を行かなければなりません。そこで忠孝の道理を果たさなければなりません。(一九七一.二.一四)


 孝子や忠臣は、死を共にしなければ、本当の忠臣ではありません。本当の忠臣は、死ぬ前にはいません。いくら苦労したとしても、きょう、一言後悔の言葉を言えば、忠臣になることはできません。いくら忠臣であったとしても、この時間に不忠をすれば、逆賊になるのです。死の峠を越えていく時まで忠孝の道理を果たしてこそ、「忠孝を全うした」と言うことができる人になるのです。


 それゆえに、公的な道においては、忠と孝はその過程が同じです。国のために生命を捧げた人を「愛国者」と言い、父母のために生命を捧げた息子を「孝子」と言うのです。


 父母が死ぬ前まで親不孝したとしても、父母が死ぬ最後の場に置かれた時に、今まで孝行してきた子供が親不孝になり、親不孝してきた子供が転換すれば、孝行してきたその位置を受け継いで一瞬の孝行をすることによって、父母から「孝子だ」と言う声を聞くようになるのです。

 そのようになれば、その一日の行動の基準とともに孝子の称号をもって登場するようになります。

 生命が尽きる時までその目的に向かっていく人の前に、栄光の相続がなされるのです。(一九七二.一〇.二四)


 長く苦労するよりは、本当に忠誠の心をもって、重大な問題と世界的な問題に身を捧げて死んでしまいましょう! 爆発してしまいましょう! このような覚悟をもつことが、堕落した人間としては素晴らしいことだと先生は思っています。もし神様の前でそのような最期を遂げたとすれば、既にその人は素晴らしい所に行くように決定されているのです。(一九六七.六.一二)


 父母は、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なことを教えてあげなければなりません。孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、そののちに神様まで行かなければならないことを自分の息子に教えてあげなければなりません。


 そのように教える人がいるとすれば、神様が御覧になる時、「やー、あの人は父母の役割を果たしている。あの人は先生の役割を果たしている。あの人は主人の役割を果たしている」と思われるでしょうか、思われないでしょうか。


 「あなたには、父母の資格があり、先生の資格がある」とおっしゃる時は、主人の資格があり、さらには王になることができる父となることができるのです。西欧の人々に孝子という概念がありますか。忠臣の概念がありません。聖人の概念がありません。聖子という概念がありません。ですから滅びるのです。


 神様は、聖子になることを願っていらっしゃいます。それならば、聖人は誰が願うのでしょうか。世界が願います。国は何を願うかというと、忠臣を願います。家庭は孝子を願うのです。これがまさしく真の真理の道です。(一九九七.五.一九)


 真の父母がいるとすれば、「あなたは孝子になったので、忠臣になってはいけない。忠臣の道を行ってはいけない」と言いません。真の父母は、その孝子に「あなたは、家庭を犠牲にし、忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、聖人の道理を果たさなければならず、聖人の道理を犠牲にして天が願う道を行かなければならず、天地を犠牲にして神様を訪ねていかなければならない」と教えてあげなければなりません。


 そのようになろうとすれば、個人は家庭のために犠牲にならなければなりません。家庭のために犠牲になってこそ、孝子になるのです。また、国の愛国者になろうとすれば、その家庭全体を犠牲にしてでも国を救わなければなりません。そのようにしてこそ、愛国者になるのです。聖人は、自分の国を犠牲にしてでも世界を救わなければなりません。


 聖子は、世界を犠牲にしてでも、天上天国と地上天国を築かなければなりません。このような概念があるということを知りませんでした。投入して犠牲にならなければなりません。


 そのようにしなければ、一つの世界、一つの国は永遠に現れません。(一九九七.五.一九)


 キリスト教徒の数が問題ではありません。神様の体となり、神様の命令によって、いつでも、どこにでも行こうと決意する人、神様が「命令を待ちなさい」と喜んで命令したいと思われる人が要求されるのです。


 今日、何億という信者を誇るキリスト教徒の中から、果たしてそのような人を探すことができるでしょうか。わき腹に剣を突きつけて、「あなたを天の祭壇の犠牲物として捧げようと思うが、生命を捧げることができるか」と尋ねた時に、その峠を越えることができなければ何にもなりません。命を懸けて神様を愛する孝心に燃える人、天に対して身もだえすることのできる群れがこの時代に必要です。私は、そのような群れが終わりの日の天の革命軍だと思っています。


 全世界の人類の前にそのような責任を全うしようという徹頭徹尾の思想をもった個人、家庭、民族、国家がどこにあるのかと、神様は探されるでしょう。


 神様は、早くからそのような個人を探してこられました。そのような個人は、神様の心情を慰労してさしあげ、神様の前に忠誠の道理を果たし、孝道を尽くさなければなりません。天地のあらゆる事情を解き明かさなければなりません。

 そのようにして、神様が、「この時代の前に責任を負うことができる者があなただ。あなたを見ると、あすに望みをもつことができ、あなたを見ると、きょうの闘いを勝利に導いていくことができる」とおっしゃってくださる一個人にならなければなりません。このような個人が絶対的に必要です。


 そのような個人を神様がつかまれ、「あなたは骨の中の骨であり、肉の中の肉であり、心情の中の心情だ」とおっしゃることができなければなりません。いくら歴史上の多くの先祖がいて、時代的に多くの人類がいたとしても、心情を中心として、「あなたは、歴史において、あとにも先にもない最高の先祖の立場にいる」とおっしゃることのできるお方がこの地上に現れない限り、人類始祖の堕落による悲しみの歴史は清算されないのであり、その中で生まれた私たちは、また再び、ある父母に侍らなければならないのです。(一九六五.一〇.一〇)


 世界のための神様のみ旨が残らなければならず、世界を愛する神様の愛が残らなければなりません。したがって、皆さんは、死んでもそれらを残してあげなければなりません。それを残すために自らの生涯を犠牲にする人は、孝子になり、忠臣になるということを、皆さんは知らなければなりません。


 一日孝子や一日忠臣は必要ありません。一日孝子には、どれほど悪い強盗でもなることができるのであり、一日忠臣も、やはり誰もがなることができます。その場で悔い改めればなることができるのです。神様は、生まれる時から孝子、忠臣として生まれ、孝子、忠臣として生きたのち、孝子、忠臣として死ぬことができる人を願っていらっしゃるのです。


 先生と皆さんを比較すれば、先生は、神様の前に皆さんよりも孝子です。なぜならば、今まで、生涯を捧げてこのような仕事をしてきたからです。


 しかし、私が孝子の道理を果たしたとは夢にも思っていません。歩めば歩むほど足りなさを感じます。孝子の道理、忠臣の道理を果たしたと思う人は、そこで孝子や忠臣としては終わりです。


 「私は孝子なのに、私は忠臣なのに、なぜ分かってくれないのか」と言って抵抗する人は、その峠から後退する人です。歩めば歩むほど孝の道理が残っていて、歩めば歩むほど忠の道理が残っているということを発見し、その孝を果たすことを自らの生活哲学として生きる人であってこそ、天の孝子になり、忠臣になることができるということを、皆さんは知らなければなりません。(一九七〇.一一.一)


        

 今、私たちが学ばなければならないことは、幸福の中にいらっしゃる神様を学ぶことではありません。それは、そのようにしても良く、そのようにしなくても良いのです。先に知らなければならないことは、孝子になり、忠臣、烈女になることです。孝を立てる人は、困難な中から生まれます。忠を立てるのは、その国が完全に平安な立場において成されるのではありません。


 国が泰平で、国民が安らかな立場において成されるのではありません。国の状態が最期の峠にぶつかり、「お前が死ぬか私が死ぬか。全体が死ぬか生きるか」という最後の逆境において、自らの命を懸け、あらゆる精誠を尽くして、国運を転換させ、国難を解決してあげる責任を果たした者であってこそ、その国の「忠臣」と言うことができるのです。困難な時に「忠」の名詞、困難な時に「孝」の名詞、困難な時に「烈女」という名詞が、歴史路程の中に記録されるのです。(一九六二.一二.一五)


 皆さんは、妻に関心をもつよりも、南北に分断された皆さんの国を思わなければなりません。分断されている民主世界と共産世界を思わなければなりません。

 南北を一つにしたのちは、自由世界と共産世界に分立されたこの世界を一つにしなければなりません。それを一つにしたのちには、分かれている霊界と地上を一つにしなければなりません。


 これを一つにして神様を解放することが、息子の名前をもった孝子の行かなければならない道だということを知らなければなりません。(一九八一.一一.八)


 したがって、真の孝子の道を行くためには、歴史始まって以来の迫害がどれほど激しく、困難な峠道が多かったとしても、それを克服することができる余裕に満ちた男性にならなければなりません。


 艱難と試練の中で苦しめられ、後退して悲しい恨の道に行くのではなく、億千万代の苦衷と受難の道を克服して、また克服しながら、決意して誓い、あすの希望にあふれた再出発の道を促していきながら、死の道も選んでいくことができる道を残していかなければなりません。そのような歴史的要求と神様の要求があるということを知らなければなりません。(一九八八.二.三)


二、相手のころを読んで真の愛を施す真の忠孝


 人類歴史は、堕落の歴史ですが、人倫道徳を中心として流れてきました。その道徳の中心は愛です。父母の前の孝子は、父母をより一層愛する人であり、国の前の忠臣は、国をより一層愛そうという人であり、国を越えて世界に愛を教えようとするのが聖人の道です。


 自分の家庭よりも、自分の国よりも、世界を愛そうとするのが聖人の道理です。聖子の道理とは何かというと、天と地のすべての法よりも王宮法を中心として、「最高の愛を行いなさい」というのが聖子の道理だということを知らなければなりません。愛を中心として、すべてのものはこのようになるのです。

 孝子は、家庭を愛するにおいて正しく行かなければなりません。忠臣は、国を愛するにおいて正しく行かなければなりません。聖人の道理は、世界の人々を愛するにおいて正しく行かなければなりません。


 天子は、天国の王宮法を守り、天国の国法を守ることはできますが、天国の王宮法の道理までは知りません。その王宮の法まで備えて神様に侍ることができてこそ、聖子になるのです。人間が行かなければならない段階はそのようになっています。


 孝子になれば国が歓迎するのであり、忠臣になれば聖人が歓迎するのであり、聖人は聖子が歓迎するのです。聖子は神様が歓迎するのです。その核は真の愛です。不変の真の愛、絶対的な真の愛です。


 しかし、絶対的な真の愛をもって絶対的な孝子、絶対的な忠臣、絶対的な聖人、絶対的な聖子、絶対的な父の息子、娘の因縁を連結させることができるこの道を知らなかったので、さまよっているのです。どのようなことをしてでも天理と共に行かなければならない道が残っているということを知れば、さまようことはできません。(一九九〇.一〇.三)


 孝子は、自分のためにいるのではなく、父母だけのためにいるのです。忠臣は、自分のためにいるのではなく、国王のためにいるのです。聖人は、神様だけのためにいるのです。それゆえに聖人は、神様の道理を教えてあげました。


 それでは、神様の願いとは何でしょうか。世界を救うことです。神様の事情とは何でしょうか。息子、娘を愛したいと思っていらっしゃるということです。神様の愛の願いとは何でしょうか。その愛に酔って暮らしたいと思っていらっしゃるのが、神様の愛の願いです。


 それゆえに、神様の願いと事情と心情に通じなければなりません。それに通じなければ、孝子になることはできません。それが統一教会の骨子となる思想です。神様の事情を知ろうという人が、神様がいるのかいないのか分からなくていいのですか。神様の願いが何なのか分からなくて、孝子になることができますか。


 神様の心情が悲しいのかうれしいのか分からなくて、孝子になることができますか。到底不可能な話です。孝子になる道は簡単です。父母のより多くの苦しみに自分が責任をもとうという立場が孝子となる道です。(一九七二.九.一〇)

        

 食膳を立派に整えてもてなす孝子と、食膳も何もなく手ぶらで来て、何をもって来たかというと、愛をもってきた孝子がいるとすれば、どちらの孝子が良いでしょうか。愛をもってきた孝子だとしても、おなかをすかした母の前に何も食べる物を持ってこなければ、そのような親不孝者がどこにいますか。しかし、「親不孝者が参りました」と言いながら涙を流せば、食膳を整えること以上になるのです。


 それならば、御飯の釜を持って歩くのが孝子でしょうか、愛の釜を持って歩くのが孝子でしょうか。愛は、二十四時間、時間と空間を超越していますが、御飯は、時間性を超越することができません。それを知らなければなりません。(一九八八.四.一四)


 国家に忠誠を尽くす前に、神様が臨在されるその臨在点で忠誠を尽くそうと誓わなければなりません。社会に奉仕する前に、神様が臨在される所に入っていって奉仕し、認定を受けなければなりません。そのようにしなければ、神様の内的な因縁は、結果である外的世界で実を結ぶことができません。


 これが信仰生活の本質です。皆さんは、「世界のために奉仕し、国のために忠誠を尽くす」と言うでしょう? それでは、忠誠を尽くすにおいて、その起点はどこにあるのでしょうか。


 必ず家庭におけるその父母の心と体の中から出発しなければなりません。(一九六九.一.一九)


 その時のために、忠誠を尽くして歩調を合わせれば福を受けるのであり、歩調を合わせることができなければ嘆息が生じるのです。


 その命令を遂行するにおいて、「私は、私のすべての精誠を尽くしてこのような仕事をした」と言うことのできる人が統一教会の中にいるとすれば、その人々が精誠を尽くして一致化した基準がどの程度か、またその数と量がどの程度か、そして天運をどれくらい多く吸収したかに従って、地上と関係を結ぶことができる広い基盤になるか、ならないかが左右されることを、皆さんは知らなければなりません。


 広い基盤にならなかったとしても、先生は、個人を中心として、そのような足跡でも残していかなければなりません。これが蕩現復帰の道です。(一九七一.一.三)


 愛国者は、国の愛を受けようという人のことです。孝子は、父と母と家族の愛を受けようという人のことです。家族の愛を受ける孝子になることも、簡単なことではありません。人が食べている時に食べずに、人が食べることができるように助けてあげ、人が寝ることができるように助けてあげ、人よりも良い服を着てはならないのです。


 遊ぶ時に遊ばずに、その国のために生き、家庭のために生きる人が孝子になるのです。自分の家だけではありません。三代を中心として、おじいさん、息子、娘、おばあさん、それから伯母さんたちがいて、母の兄弟がいて、それから何でしょうか。孫娘まで、すべての人が好きにならなければなりません。一人でも好きにならなければ、孝子になることはできません。


 そして、親戚がいれば、親戚全員が「あのような息子にならなければならない。あのような姉にならなければならない」と言うことができてこそ、その一族の中における孝子の称号をもって定着することができるのです。自分の位置が生じるのです。(一九九九.一.一六)


 考えてばかりいてそのことを行わなければ、考えていない人よりも悪いのです。そのような人は、本当にどろぼうです。それがもし思ったとおりにならなければ、盗みしかできないのです。


 それでは、神様が喜ぶことのできる孝子、孝女とは、どのような人たちでしょうか。どのような人たちですか。自分のおなかを満たす人ですか。自分が食べる物までも人に食べさせてあげなければなりません。「食べない」と言えば、口を開けて食べさせてあげなければなりません。


 それでは、父に代わって、皆さんを統一教会の忠臣、烈女、孝子、孝女にするためには、どのようにしなければならないでしょうか。割かなければなりません。一年でできると思いますか。忠臣というものは、もちろんそのように生まれついたという言葉もありますが、生まれつきそのような天性をもっているのならば、死ぬ時までその志操が変わってはいけません。

忠臣になるためには、どのようにしなければならないでしょうか。苦労の道で苦労するしかありません。それが最も近い位置であり、最高の近道です。忠臣、烈女になり、孝子、孝女になることができる最高の近道とは何ですか。

公的な立場で涙を流す生活だけです。涙を流して苦労の道を行かせる方法しかありません。(一九六五.一〇.三一)


 国をもっていなくても、もった以上にその国の忠臣となり、民をもっていなくても、その民以上に世界の人々を愛そうとしながら、天の忠臣と孝子の道を一生歩めば、自分に何もなく死んだとしても、滅びる人ではなく、逆にもっと価値があり、その国とその世界の忠臣になることができるということを知らなければなりません。(一九七六.七.一)


 真の愛を国に与えれば愛国者になり、それが父母に向かえば孝子の中の孝子になります。世界万民の前に立てば聖人の道理を果たすのであり、神様の王国まで行けば聖子の道理をすべて果たすので、神様までも見守ってくださる息子となることができるのです。(一九八八.五.三)


 真の愛でなければ、真の孝子はいないという結論です。今、誤った愛の伝統を受け継いだ人間たちによる世俗的な愛、フリーセックスなどというものが、この愛の基盤、孝子の基盤、忠臣の基盤をすべて破壊しています。


 絶対愛を中心として真の孝子の道理、真の忠臣の道理、真の聖人の道理、真の聖子の道理を経て、神様の前に立つことによって、天国において初めてその時に相続を受けるのです。個人的家庭であるアダム家庭で堕落した内容を相続する時は、未来の国と未来の世界と未来の天国のすべてのものを合わせて自動的に大きくなったものを相続するのです。(一九九七.八.一三)


三、無条件に服従し、代価を要求しない真の孝子


 おじいさんがつばを吐こうと、おばあさんがつばを吐こうと、また母が気に掛けず、兄弟が知らないふりをしたとしても、おじいさんのことを思い、おばあさんのことを思い、家庭全体のことを思って忘れてしまう人になってこそ、歴代に残り得る孝子の班列に入っていくのです。


 「私は孝子だ。孝子になるためにこのようにしている」。それは偽りの孝子です。「ため」に生きて忘れてしまうことのできる人が、孝子の班列に入っていくのです。


 どのような人が忠臣でしょうか。すべての閣僚の中で、自分が王を愛するにおいて、餅も作り、何でもしてさしあげ、王に侍る臣下や、王妃に侍る侍女がみな責任を果たすことができない場合は、それを見てじっとしているのではなく、それに対して説教しながら、自分がそれ以上にして、その環境がそのようになるように教育し、それを忘れてしまうのです。そのようにして「もういい」と言うのではなく、「もっと良くしなければならない」と言わなければなりません。


 なぜでしょうか。大韓民国よりも大きい国の王がいるのであり、天下には天子がいるのであり、天国の王子がいるので、大韓民国という一分野の代表にしかならない忠臣では、自らの欲求を満たすことはできないのです。(一九九〇.七.一)


 父母の前に孝行する人は、孝行するその天の心が、動脈に行ったのちに静脈に回ってくる血の流れのように動くのです。家庭の一番末端に立ったとすれば、天理の愛の力が動脈側に行ったのちに静脈に回ってくるのです。見えませんが、自然に動くのです。


 静脈の血は、自分で入っていきますか、押されて入っていきますか。押されて入っていくのです。それは、福を受けようとしなくても福を受けるということです。動かないようにしても、大きな心臓によって次第に回っていくのと同じです。福を受けようとしなくても福が訪ねてくるようになっているのです。


 ですから、一生懸命に孝行しなければなりません。それが統一教会の教育です。孝行しなければなりません。孝行する父母がいなければ、国ために尽くしなさい。国が危険な時に、孝行しなければならない父母を残し、父母の反対を受けてでもこっそりと荷物をまとめて一線の将兵として出ていって死んだとすれば、その人は、孝の道理の完成体になることができるのであり、忠の因縁の立場に入っていくことができるのです。(一九八六.一〇.一)


 私たち人間を見れば、困難に直面した時、大概自分の悲しみでいっぱいになります。そのようなことがよくあります。しかし、忠臣はそのようにすることができません。孝子もそのようにしてはいけません。自分の子供が死に、自分の妻が死んだからといって、その子供をつかんで泣いたり、妻をつかんで泣いたりしてはいけません。


 本当の指導者は、そのようにすることができないのであり、真の忠臣ならば、自らの事情を見せたりはしません。自らの心の奥深くにしみ込ませるだけであって、表に出して泣くことはできないのです。


 国王のためにそのような一時をもつことはできませんでしたが、父母以上の心をもって、善の立場に立って、国王よりも悲しい立場に立てば、天がなすべきことを教えてくれるのです。


 そして、孝子、孝女の立場で考えるとき、私たちは、自分が悲しくても、自分の悲しみだけを中心として悲しんではいけません。また、悔しいことがあっても、その恨みを晴らそうとしてはいけません。(一九六七.六.一一)


 良いことよりも、嫌なことにもっとOKすることができてこそ孝子です。自分の一生の貴重な愛を犠牲にしながら父母に孝行しようとする人は、天上世界のどこに行こうと、四方に十二真珠門があるとすれば、そこでふさがっている門はありません。完全に開くのです。


 興進が霊界に行く時、イエス様はオールド・キリスト(年を取ったキリスト)であり、興進はニュー・キリスト(新しいキリスト)だと決定して天上世界に送ったところ、そのとおりになったのです。(一九八七.五.一)


 イエス様を愛することができなかった神様の恨を解くためには、一つの国の代表者として、おじいさんとおばあさんを愛しなさいというのです。私たち統一教会は、そのようにしなければなりません。


 おじいさんとおばあさんを愛するにおいては、国のおじいさんとおばあさんが愛することができず、教会のおじいさんとおばあさんが愛することができず、家庭のおじいさんとおばあさんが愛することができなかったものを愛さなければなりません。


 このような三段階の内容を代表した、忠孝の道理を備えた真の兄弟の因縁をもって愛さなければなりません。(一九七一.一.六)


 孝行する父母がいるとすれば、その父母は、自分よりも孝行する息子を願うでしょう。そのようになってこそ、おじいさんが死ぬ時に目を閉じて死ぬことができるのであり、父が死ぬ時にも目を閉じて死ぬことができるのではないかというのです。息子を自分よりも苦労させることができる心情は、息子を愛しているということです。


 それは当然の考えです。そのようにして、自分と共に苦労してこられた神様を慰労してさしあげなければなりません。このような息子、娘が必要であり、そのような後継者が必要なので、死んでも忘れることができない孝行をするように教育するのであり、私よりももっと苦労させるのです。

 先生は、自分に対してはけちです。自分のためには、お金を使うことを知らない人です。おなかがすいたからといって、食堂に入っていって一人で御飯を食べる、そのような人ではありません。お母様に対しても、食べたり着たりする物まで干渉する人です。(一九七一.四.一八)


 孝子をもった父母は、その孝子に対することができる父母であり、愛する孝子のための父母であって、そこには第三者が関与することはできません。


 それゆえに、天は、真の孝子をつくるために、サタンと人間がどのようなことをしたとしても、タッチし得ない最後の道を中心として深い因縁を結ぶために、愛する子供を死の場に立てながらも知らないふりをされるのです。


 それが、不孝者になった人間に再び孝行の道理を立てさせるための天の心であり、孝子を立てるための天の指導方法ではないかというのです。それは、言うまでもないことです。(一九七二.九.一〇)


 孝子をもった父母よりも、その父母の前における孝子のほうが、より心配が多いということを知らなければなりません。孝子、孝女のほうが、父母よりもより多くの心配をもたなければなりません。


 孝子、孝女になるためには、父母よりも多くの心配をもたなければならず、孝子、孝女になるためには、その父母よりも各方面に多くの心配をしなければなりません。(一九六五.一〇.三一)


 イエス様は、神様の前で僕の僕となり、十字架を背負いながら死んでいきました。義人とは、国のために僕の僕のような悲惨な立場で死ぬ人のことをいいます。


 自分が死ぬにしても、国のために死ぬという人が愛国者です。僕の僕の立場でも、感謝して父母のために生きようという時、その人には孝子という名称がつきます。これが、人間世界の道徳の骨子であり、核心だということを知らなければなりません。

 神様のためにより公的に僕になることが、より義人になることのできる道であり、国のために、僕よりももっと深刻な僕になることが忠臣になることのできる道であり、父母のために、より僕となった立場で犠牲になっていくことが孝子の道だということも、ここから発見することができます。(一九七六.一〇.三)


 この地上の復帰摂理に対してこられた神様の前で、「神様の真の孝子」と命名できるようにするためには、また息子や忠臣として認めることができるようにするためには、どのような人でなければならないでしょうか。アメリカで一番裕福な人でしょうか。飛行機に乗ってビラをまいて回りながら、「さあ、イエス様を信じなさい!」と言う、このような人々でしょうか。飛行機に乗ってビラをさーっとまいて、「信じるならば信じ、信じないならば信じないようにしなさい」と言う、そのような人々でしょうか。


 そのような人々と、一枚を与える時も、その人をつかんでぶるぶる震えて涙を流すほどの精誠を尽くして与える人とでは、どちらの人が神様の前に近いと思いますか。(一九六五.一〇.三一)


 結論的に、孝子とは特別な者ではありません。父母を絶対信仰し、絶対愛と絶対服従するのが孝子です。

 国王を中心として、国の民を中心として、絶対的に国王を信じ、絶対的に民を信じ、絶対的に愛し、絶対的に自分を投入するところからのみ忠臣が出てくるのです。(一九九五.五.二九)


第四章 神様に対する忠孝

一、神様の願い


 神様はどのような方ですか。神様は人類の父母でもある方であり、神様は人類の王の中の王でもある方であり、すべてのものの中心でもある方です。その神様の息子になるために、個人的には一対一の立場で、一つの家庭を中心として見るならば孝子にならなければなりません。それも、世界的な孝子にならなければならないのです。


 そして、孝の中でも最高の孝であり、忠の中でも最高の忠であり、聖の中でも最高の聖を代表することができる、そのような位置を占有した者だけが神様に侍ることができるならば、それらを別々にしてはいけないのです。神様の願いは、この三つを一度に成し遂げた人です。孝子にもなり、忠臣にもなり、聖人の中の聖人にもなる、そのような人を願うはずです。


 このような観点から見る時、神様は、そのような方であることに間違いありません。私たちは、その神様を父母として侍り、子女の名分を備えるために努力しています。そのように、最上になることができる孝子の行くべき道を訪ねて、それを守ろうと努力する群れになろうという者たちが、あるいは宗派が、あるいは民族がいるならば、彼らの行くべき道は楽な道ではありません。楽な道を求めていくところには、そのような孝子は生まれてくることができないのです。


 それは、正常な形態として現れることはできません。見ればすべての人が「間違っている」と言うでしょう。他の人々は東に行こうとするのですが、この人は、西だけではなく、南にも行き、東にも行き、北にも行き…。


 誰かがついてこようとしてもついてくることができない、そのようなことをさせるはずです。そのようなことをする宗教が出てこなければならないというのです。それは、私たちが常識的に判断しても、そのような結論に到達します。(一九七二.九.一〇)


 今まで、歴史的に国王のための忠臣、孝子、烈女は多かったのですが、それに比べて神様のみ旨のための忠臣、孝子、烈女はいませんでした。


 しかし、今日の私たちは違うというのです。彼らは、すべて地の基準に立脚した自由解放のために捧げてきたのです。ですから彼らは、神様の前に心配の対象にはなったとしても、慰安や喜びの対象にはなることができませんでした。「忠臣、孝子、烈女だ」と神様が誇った人は今までいなかったというのです。


 神様の前に忠臣、孝子、烈女になることが人間の正道ですが、そのような人はいなかったのです。国王と父母にはそうであっても、神様の前にそのような人はいなかったというのです。


 神様は、世の中の忠臣、孝子、烈女を見つめながら、彼らが神様のための忠臣、孝子、烈女になることをどれほど慕い願われたでしょうか。(一九六一.一.二九)


 神様は、すべての人々が孝子、孝女、忠臣になることを希望していらっしゃいます。また、神様は、その中でも最上の基準にある人を願っていらっしゃいます。忠孝を尽くす道しかないという人を神様は願っていらっしゃいます。


 父母の生命と財産に責任をもって家庭に平和と発展をもたらすことができない者は、孝子になり得ないというのです。父母の財産が崩れる時は、自らのすべてのものを投じることができなければなりません。


 神様の創造理想が破綻したので、生命、財産、平和、理想を蹂躙する位置では、忠臣、孝子にはなり得ないのです。私がいつ神様のために自分のことのように悔しく思い、私がいつお父様の生命に対して偉大さを感じ、私がいつお父様の家庭の平和と統一のために苦闘してみたでしょうか。


 そのようにしようとはしましたが、それが神様の前に忠孝になることができず、不忠、不孝になったのです。(一九六七.一〇.一)


 神様は、忠臣、孝子を立て、彼らを通して御自身の恨をサタンに譲り渡そうというのです。しかし、この恨を無条件に渡すことはできなかったので、忠臣、孝子を立てて、個人的に歴史的な苦痛の道を歩むようにすることによって、その恨をサタンに譲り渡そうとされるのです。(一九六三.一二.二〇)


 神様も解放して、愛自体も解放する、そのような孝子が存在し得るだろうかという問題が重要なのです。神様もその場に入ってきて、「私も一度孝子になってみることができれば良い」と言われ、真の父母も、「一度孝子になってみることができれば良い」と言い、神様と真の父母が一つになって、愛の前に孝子になることができるそのような道があるならばどれほど良いですか。

 神様御自身が、お父様として愛を完成した立場に立たれ、息子自体が、神様の愛と宇宙の根本的愛を中心として孝子の道理を果たし、父と息子が一つになって、その愛の前に、より次元を高めることができる孝子の道をどのように植えつけることができるかというのです。植えつけることができたとすれば、堕落も永遠に生じないのです。


 解放の解放圏です。それは、原理圏を凌駕したというのです。根本世界です。このようなことを考える時、今後皆さんが家庭理想と地上天国が成され、天上天国が成されればそれで終わりだと考えてはいけません。


 そこにはまだ解決しなければならない、サタンの血統によって汚された痕跡がまだ内的根に残っているというのです。数千万年の歴史を経てきたのですが、その何倍、何十倍、何百倍以上の消耗を経ても、堕落したその世界の過去の出来事を忘れることができるかというのです。それを忘れてしまい、あなたと私が一つになり、息子、娘が一つになり、愛自体の苦労を慰労することができる孝子になれればということが、神様の最高の願いだということを皆さんが予想しなければなりません。(一九九九.二.二一)


 神様が手を挙げてアダムとエバを祝福なさる時に、神様は彼らの父として心で何を願われたのでしょうか。「おお! あなた方は私が造った大天宙を抱いて、私を王として侍り、忠臣になってくれ」と思われたのです。神様は、そのような心だったというのです。


 したがって、アダムとエバは、この天地間に忠臣の志操を立て、それを伝統として億千万年残さなければならなかったのです。アダムとエバが神様を真のお父様として侍り、真の孝子、孝女になっていたならば、彼らが神様の前に立てた忠孝の志操は伝統になっていたのであり、この地の役事は、連結した神様とアダムとエバの心情を中心として受け継がれてきたのです。そのようになれば、悪が主管できないのです。


 神様の心情の世界を悪が主管することができるならば、復帰歴史、救援歴史は絶対に不可能です。(一九六〇.四.二四)


 神様が息子、娘であるアダムとエバに願われたことは、彼らが育って孝子、忠臣、聖人、聖子になることです。皆さんは、神様が願われるように、家庭で孝子になるという考え、国で忠臣になるという考え、世界で聖人になるという考え、そして、天地の前に聖子になるという考えをもってみましたか。


 歴史的に見る時、すべての聖人たちは、孝子になり、忠臣、聖人、そして聖子になりなさいと教えてきました。これを教えることができない宗教は、宗教として千年、万年の歴史を越えることができません。いずれ行くべき私たち人間の宿命的な路程です。宿命は、父子の関係のようなものをいうのです。宿命は分けることができません。運命は代置し得るものがありますが、宿命はそのようなことはできないのです。

 このような内容を知らなくては、家庭において真の父母の役割を果たすことはできないというのです。真の父母ならば、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なことを教えてあげなければなりません。


 自分の息子たちをして、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たすようにして、さらには神様にまで行かなければならないということを教えてあげなければなりません。(一九九七.八.一〇)


 神様が理想とされた一双の夫婦は、神様に栄光をお返ししてさしあげなければならないのに、堕落によって栄光の代わりに悲しみを返してしまったというのです。ここには、アダムとエバの責任だけでなく、天使長の不忠もあるのです。天使が先に神様に忠孝の道理を立てなければならなかったのですが、その道理を果たせずに堕落したのです。したがって、復帰摂理は忠孝烈を立てることです。


 神様が忠孝烈の心的中心を立ててこられたので、すべての宗教と道もこれを立ててくるようになっているというのです。すべての道人たちは、これを探し立てるために出てきたのであって、イエス様も忠孝烈を立てるために家庭を尋ね求めてこられたのです。


 神様がイスラエル民族を立てられたのは、このような家庭を復帰するためでした。イエス様が先に忠孝烈の道を立てていなければならず、忠孝烈を立てるための祭司長になってこそ、サタンを屈服させることができたのです。


 私たち祝福家庭は、忠孝烈を立てることにおいて誰にも負けてはいけないのです。忠も、孝も、烈も家庭から始まらなければなりません。


 祝福は、お父様の希望を相続することです。今まで、神様に対する忠孝はありましたが、烈の家庭はなかったのです。「神の日」が訪れるまでは烈を立てることができず、サタンの讒訴が残っている限り烈は立てられないというのです。(一九六四.一一.四)


 それゆえに、本来は、皆さんが天の前に完全に立つためには、韓国ならば韓国という一つの国に忠誠を尽くすことだけではいけません。それでは、天の前に完全な神様の息子、娘になることはできないのです。使徒パウロのような人は、そのような事実を知っていたというのです。自分の民族は、誰でも愛することができます。自分の民族は、誰もがすべて愛することができるというのです。

 しかし、異邦の人々までも愛さなければなりません。なぜなら、神様は、自分たちの国の人々だけ愛するのではありません。全体を同じ立場で愛する神様だということを知らなければなりません。

 その神様の心情を知るためには、逆境にぶつかり、難しい環境に置かれている一つの国を訪ねていき、私たちが因縁を結んでいかなければなりません。そのようにしなければなりません。原理的に見る時も、三カ国を経ることができる忠誠の道理を立てなければなりません。


 皆さんが今、韓国でお父様に侍り、天の前に忠孝の道理を果たそうと考えるようになる時、ここで忠誠を尽くすその忠誠は、自分自らのために忠誠を尽くすのだと思ってはいけません。「先に民族のために、先に世界のために、先に天地のためにこれを捧げ、これを残しますので、天のものとして受けてください。天のものとして、地のものとして残してください!」、このように祈祷しなければなりません。


 そのようにすれば、それは、私が死んでも必ず天のものとして残るのであり、地のものとして人類が残すようになるはずです。そうだというのです。(一九六五.一〇.三一)


 神様の前に孝子になることができる時は、いつもあるのではないのです。孝行することができる時は、死んだのちに霊界でつくられるのではありません、永遠を中心として見る時、限りなく短い期間、チックタックという瞬間のようなこの一生の間に、神様を愛したという条件を立てなければならず、神様の前に孝行したという条件も立てなければなりません。


 また、私たちが生きている時に、神様の前に絶対必要な息子だという決定もしなければならないのです。私たちは、生きている時にそのようなことをしなければなりません。(一九六九.一〇.一九)


 神様が、一時に六千年の恨の因縁を解くという目的をおいて今までつづってきた歴史の結果として私たちが因縁を結んだのです。


 それゆえに、私たちは、お互いの姓が違っても、同じ血筋をもった兄弟以上の情をもって生きなければなりません。私たちは、父母でない父母に侍っていますが、神様を中心として、自分の血肉の父母以上にその父母に侍ろうとする群れです。また私たちは、国をもっていますが、その国以上の忠孝烈をもって天国のために生きようとする群れです。(一九七一.八.一九)


 今は最後の時が来たというのです。父母から私の国まで復帰するのです。祝福を受けた家庭が父母の代わりに横的に囲んだので、私の国を取り戻すにおいて、忠孝の道理を果たすことによって、孝子の代わりに忠臣、忠臣の代わりに聖人、聖人の代わりに聖子の立て札を持ち、天宮法を守り、天国の道、天国の法を立てなければなりません。私たちによって天国の憲法が始まるという事実を知らなければなりません。このような意味で「私の国」というのです。(一九九〇.一.七)


 神様の心さえ知る日には、この民族は、天地を支配するはずです。どうしてでしょうか。数多くの子女がいて、数多くの民族がいたとしても、最高の孝子、孝女、忠臣は一人です。堕落した人間の父母も、同じ子女であっても、無念に打たれている子女をより考えるというのが誰もがもっている人情ならば、ましてや神様がそうでないということがあるでしょうか。


 神様は、ある民族を探し求められるのではなく、最も愛する孝子、孝女を探し求められます。孝子、孝女を探し立てて、その民族に誇りたいと思われます。


 世界を収拾して一つの民族を取り戻し、イスラエルを立ててここで一つの血族を取り戻し、一つの血族を収拾して一つの家庭を取り戻し、一つの家庭を収拾して一人を取り戻すのです。その一人を取り戻すことが世界を取り戻すことなので、その一人は、神様のすべての歴史的な恨を解いてさしあげることができる心を所有した孝子でなければなりません。


 そのような孝子が出てきてこそ、彼によって悪なる人々が贖罪を受けることができるのです。(一九六〇.一〇.一六)


 終わりの日の私たちは、何よりも神様の心を知っている人にならなければなりません。人間には、知、情、意の三要素があり、知と意を踏み台にして情的な天情をなすべき部分が残っています。


 神様の情的な流れがあり、私たち韓民族に対して天的な摂理があるために、韓民族は、誰よりも天に対する切実さと忠孝の心が強く働いているというのです。(一九五八.六.二二)

 天の忠臣になろうとすれば、天の恨みを晴らさなければなりません。孝子になろうとするなら、父母の怨讐をそのままにしてはなることができないので、怨讐をなくさなければなりません。烈女も同じです。この恨みを晴らす日まで、永遠の命を懸けて覚悟して行かなければ、闘わなければ、皆さんは、堕落の恨に満ちた峠を越えることはあり得ないのです。


 この峠を越えてこそ、初めて神様がすべての悲しい心情を解かれ、皆さんに、「六千年間待ち焦がれた忠臣よ、孝子よ、烈女よ」とおっしゃって、両手を挙げて祝福してくださるはずであり、三位神は安息することができるのです。


 このように、心情基準が解決する前には安息できないというのです。(一九六〇.四.二四)


 神様は、父母の中で一代の父母であり、王の中で一代の王であり。この天地を一人で主管することができる方であり。理想を形成することができる一代の先祖である方です。


 その方を中心として孝誠を尽くして、その方を中心として忠誠を尽くし、その方を中心として聖人の目的を達成することができる息子、娘になり、そして神様の天地創造の大偉業を相続されるにおいて恥ずかしくない位置に行こうということが、私たち統一教会の目的だというのです。(一九七六.二.二九)


二、神様を感動させる絶対忠孝


 ノアじいさんは、迫害が激しく、乱れた環境の中でも、渾身の力を出したので、その環境に勝つことができました。神様の法度の前に、子女として忠孝の道理を果たすだけだ、という謙遜な心をもっていたのです。


 神様の前に行けば行くほど、環境の非情さを感じて悲しみましたが、そのような時であるほどノアじいさんは、神様に申し訳ない心で悔い改めの涙を流していったので、彼が行く道を妨げる者はいなかったのです。


 そのようにして百二十年間を過ごしてきたノアを一度考えてみてください。ノア一人に対して、サタン世界は、打つことができるすべての方法を動員して反対しましたが、神様が中心として立てられたその基準から、ノアは少しも外れることがなかったのです。その基準は、天宙の絶対的な中心として立てたものであり、宇宙の正義の人間として立てたものであり、真の勝利者として立てたものです。


 それで、神様は、この基準に反対になるすべての怨讐の要素を清算しようとされたのです。(一九六六.六.四)


 生きるためには、皆さんが一生の間、忠誠の道理に変わることがあってはならないというのです。環境が自らの立場と自分を評価すれば評価した分だけ、私たちの舞台は世界へ拡大されるというのです。今日、国内事情を中心として身もだえしていますが、環境が平安ならば平安なほど世界を中心として身もだえしなければなりません。世界のために行かなければならないというのです。


 それで、世界のために忠誠を尽くす神様の息子、娘をお迎えして、神様が祝福してくださり、神様が誇ることができるその日を迎えなければなりません。そのようにしてこそ、初めて韓国に安息が展開するというのです。皆さんが、三千万民族が世界のために忠誠の道理を果たして、世界万民が「韓国によって自分たちも神様の息子、娘になった」と言って忠誠を尽くすことができる環境の基台を迎えるようになる時、初めて韓国に安息の基台が展開するというのです。(一九六五.一〇.三一)

 今まで大韓民国のために、神様が苦労してこの歴史的な環境をつくっておかれ、あるいは今日、時代的な時を私たちが迎えるようにしてくださり、そして今その時が来たとすれば、ここで忠誠を尽くす牛のような人々が出てこなければならないというのです。


 牛のような人です。アブラハムの祭壇の中に三大祭物がありますが、一つは鳩であり、一つは羊であり、一つは牛です。今の時は、象徴的な型から見れば牛の時代です。牛の時代だというのです。神様は牛を好まれるのです。


 牛の時代! 捕まえて食べるために好まれるのでしょうか。牛を好まれるのは、肉を食べるために好まれるのではありません。農夫が牛を好むのも、未来に食べる肉の塊が集まっているから好むのではなく、働くからです。働かせて、肉を食べて、また食べて食べて、さらに食べるというのです。そのようになっています。


 それでは、神様の息子になるためには、何にならなければなりませんか。豚にならなければならないでしょう? (いいえ)。象徴的に言えば、その方が大王の牛のような忠誠と至誠を人間のために尽くされ、子女のために尽くされたので、今日の私たちも、牛のような方の前に子女になるためには、牛の子のよにならなければならないというのです。


 だからといって、牛の子になりなさいという話ではありません。例えて言えば、そうだというのです。(一九六五.一一.二)

この全天地間に、私よりも天の前に忠誠を尽くす人がいるならば、その人は誰か、東方か、あるいは西方か、どこにいるのか、これが気にならなければなりません。


 忠誠を尽くす人がいれば、その人はどのような人なのか、気にならなければならないというのです。どのように忠誠を尽くす人なのか、その人はどのようなことをする人なのか、そのようなことが気になるべきだというのです。(一九六五.一〇.三一)


 神様のために忠誠を尽くすことにおいては、一歩も譲歩できないという信念をもたなければならないというのです。どのような人、どのような忠臣、誰よりも私がより一歩、わずかでも先んじなければなりません。地上で生きていった霊人たち、地上で一生懸命に仕事をしていった霊人たち以上に、その人々が国のために忠誠を尽くして、すべての公的な仕事に一生懸命に働いたそれ以上に実践しなければならないというのです。わずかでも多くしなければなりません。鉄則がそうなのです。(一九七八.一一.二六)

 僕の時代において絶対的な忠誠を尽くし、養子時代において生活面で絶対的な忠誠を尽くさなければなりません。このように二代の環境を経ることなくしては、養子として神様の直系子女と一体となることができる基準を決定できないのです。

 一つになることができる基準を決定できないというのです。地の世界を中心として天の世界との関係を結ぶことを、世界を代表して最初にした民族が第三イスラエル民族になるのです。(一九七一.六.三)


 皆さんが待つ心をもって耐え、その環境において、すべての恨的な要件を皆さんの一身で蕩減、解怨しようと思って苦闘しなければなりません。そのような人は、倒れず、滅びないということを皆さんが銘記しなければなりません。倒れて、今ではもう主の前に行く道がないと考えても、天は生きているというのです。


 天は今まで耐えてきたので、そのような立場で精誠を尽くし、忠誠を尽くしている途中で倒れたそのような群れは、再び起こして天の前に祈祷だけでもし得る道を開いてくださるのであり、また今から生きて進んでいく方向を提示してくださるのであり、また彼らを起こして協助することができる人を送ってくださるようになるというのです。(一九六四.一.七)


 神様が御覧になる時に、民族の内的心情を泣かせることができ、天宙の内情を貫徹することができる人にならなければなりません。神様と通じることができる愛情をもったその孝子、孝女は、深い悲運が漂う立場でも、その悲運の主人公になった王ならば王、父母なら父母の心を解いてさしあげ、その背後のすべてを一人で防いで解決しなければなりません。このような忠孝の因縁をもった人が天国に行くのです。


 イエス様を信じて一人で天国に行くという人は、天国どころかエデンの園にも行くことができません。このような人々に今まで悪口を言われて迫害されてきたことは無念で悔しいことですが、だからといって銃刀で復讐してはいけません。(一九六八.三.一〇)

 皆さんが文字を書く時に、点を一つ書くにしても、その時の心の姿勢いかんによって喜ぶことができます。また、その一点が希望の象徴になり得るというのです。


 それゆえに、天地を創造された神様が、いくら小さな物をつくられたとしても、それは神様の孤独な立場を埋めて喜びを得るための対象なので、それは、神様の前においては最高の喜びの対象になるのであり、忠孝の要件にならざるを得ないのです。ここで私たちは、神様が、つくったものを鑑賞されながら、これは抜いてこれを加えればどうかという希望の中で、いつも喜びの心をもってお過ごしになったという事実を知ることができます。(一九七一.一.一五)


 誰が神様を解放してさしあげるのでしょうか。忠孝の道理を誓って孝誠の道理を尽くす、限りなく最善を尽くす孝子が現れて、その方のすべての十字架の恨に責任をもたなければなりません。そのような息子、娘が現れなければなりません。


 そうでなければ、神様は解放されないということを皆さんは知らなければなりません。(一九七八.一一.一)


 私を見て勇気を出され、悪なる世界を押し倒そうと思いながら立ち上がることができる神様になるとすれば、その瞬間には神様の活動舞台が自分によって生じます。それは、自分にとってどのような貴い位置、玉座、栄光の位置において、一生ではなく、いくつもの生涯にわたってそれ以上のものをプラスしても達し得ない、王からの喜びの贈り物なのです。


 歴史を越えてまで迫害に対して自分が対抗する、それが永遠の歴史を代表した孝子、孝女が行くべき道ではないかと思うのです。


 それが永遠の国に対しての忠誠の道ではないかというのです。(一九九四.三.一〇)


 結論的に神様は、絶対家庭、絶対忠孝を願われるのです。今までそのような絶対的な忠孝が出てきませんでした。絶対聖子、神様の息子のような世界的な基盤がなければ、神様が地上に降臨できないのです。神様お一人では、地上で何の役事もできません。ですから、私たちは、「悲しい神様、かわいそうな神様だ」と言うのです。


 今から、レバレンド・ムーンを中心として、ヨーロッパのメンバーが初めてそのような家庭を築くということは、驚くべき事実です。誰でもみな忠孝を願います。今まで神様は、この堕落した世界に対して、かわいそうな立場にいる以外になかったのです。


 その神様をどのように解放することができるのですか。それは、どのようにそのような家庭、氏族、民族、国家、世界を建設するかということにかかっています。(一九九八.一一.二〇)


三、イエス様の忠孝


 イエス様は、「どのような難しい環境にぶつかっても、その環境を克服するためには忍耐心をもたなければならない」と主張しました。「罪人が悪に対して忠誠を尽くす以上に神様のみ旨のために忠誠を尽くさなければならない」と言ったのです。これがキリスト教でいう、聖霊の九つの結実の根本です。愛の生活をするようになれば、喜楽と和平が現れ、忍耐を通して慈悲と良善が現れ、忠誠の生活をすれば柔和と謙遜が現れます。


 イエス様は、堕落圏内にいる人間たちのすべての悪の要素を除去してあげるために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調したのです。これらが天国の理念を達成させ得る実践的な理念ですが、今日、皆さんの心にこのようなキリストの愛がありますか。


 また、忍耐と忠誠心がありますか。イエス様は、神様の心情に代わって顕現なされた愛の化身体であり、寂しいゴルゴタの道においても万民の苦痛を心配なさった忍耐の主人公であり、歴史上の誰よりも天に対して忠誠を尽くした忠誠の代表者でした。

 それでは、このようなイエス様の愛、忍耐心、忠誠心はどこから来たものなのでしょうか。これらは、イエス様自身が起源となったものではありません。イエス様は、神様の愛を人間に連結させる仲保の役割をするのです。無知な人間を救うために来られたイエス様は、神様の愛の化身であり、神的な価値の実体でした。(一九五七.八.四)


 神様は、このように真のみ旨を成すために、御自身のような人、全体の価値の代わりをすることができる人を取り戻すために、人間が神様に対して忠誠を尽くす前に神様が人間に対して先に忠誠を尽くされたのであり、無限に忍耐してこられたのです。


 したがって、皆さんは、天倫を中心として運行なさる神様と、み旨を成就するために人間に対して無限に忠誠を尽くされたその事情を体恤しなければならず、この志を立てるために無限に犠牲になってこられた神様の心情、また未来の理念を立てるために無限に御自身を超越なさった神様の心情、無限に与えようとされる神様の愛の心情を体恤しなければなりません。(一九五七.八.四)


 イエス様は、人類の父として来られ、聖霊は、人類の母としてこの地に来ました。しかし、彼らは、霊肉を中心とした父母になることができずに霊的な父母としてのみ役事してきました。


 イエス様の十字架における死は、霊肉が一つになった立場でサタンに勝利したのではなく、サタンに追い込まれて死んだのです。それゆえに、体はサタンに差し出し、霊だけが復活したのです。四十日後に復活して弟子たちを集め、霊的な基準を中心として第二イスラエルを出発しました。これが今までのキリスト教二千年歴史なのです。


 それでは、第一イスラエルはどこにいるのでしょうか。第一イスラエルは滅びました。第一イスラエルであるユダヤの国は、イエス様を殺した罪によって滅び、第二イスラエルが登場しました。神様は、メシヤを待ち焦がれたイスラエル民族を四千年間率いて保護し、育成し、四千年間苦労したその功績の基盤の上にメシヤを送られました。

 それにもかかわらず、この民族は、メシヤを信奉することができずに十字架の死の道に追い込んだのです。それで、この民族は、神様の前に怨讐になったのです。


 イスラエル民族は、この時から国のない民族になりました。そして、イエス様が再び来る時までは独立できないのです。イエス様を殺した罪を蕩減するために、二千年間多くの苦労をしなければなりませんでした。イスラエル民族は、万人類のために万民の先祖として来られたイエス様を、刑場に立てて血を流すようにしたので、国のない民族として苦労したのです。


 その時のイスラエルは、霊的にも肉的にも、どこに出ても堂々とした権威をもった国でした。イエス様は、このような国家圏の上に来られて、国家を収拾し、世界を復帰しなければならない責任があったのですが、イスラエル民族が信奉せずに死の位置に追い出したので、イエス様はやむを得ず霊界に行くしかなかったのです。


 しかし、イエス様は、神様のみ旨を立てることができる忠孝の道理をすべて果たしました。死の道を行きながらも、万民に代わって天倫の使命と責任を全うしようと思い、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言いながら、忠孝の道理を立てたのです。


 ゆえにイエス様は死んだとしても、その精誠の基準はサタンが占領できません。そして、イエス様が霊的に復活することによって、霊的なイスラエルの基準がつくられたのです。(一九六八.一.七)


 イエス様は、「わが神、わが神。なぜわたしをお見捨てになったのですか」という立場に出ていき、自分の体が引き裂かれて、自らの魂がずたずたに引き裂かれる犠牲の道、死亡の峠を越えていきながらも、お父様を離さずに最後まで忠孝の道理と忠臣の道理を誓うにおいて、サタン世界の誰にも負けない立場で静かに死の道を迎えていったのです。


 イエス様が、その場において、サタン世界で死んでいったどのような人よりも上に立つことができたその条件とは何でしょうか。怨讐に対して福を祈ったという事実、その条件を中心としてサタンがそれ以上は侵犯できない防波堤として決定されたというのです。


 神様はイエス様を愛して、イエス様は天を愛したので、愛を中心として復活の権限を発揮して復活したのです。(一九七一.一一.七)


 イエス様は、幼いころから神様が喜ぶことができる立場でイスラエル民族の慕心を受けなければならず、神様の前に召命されたイスラエル民族は、忠孝の道理を果たす立場でした。しかし、イスラエル民族がそのような使命を果たせないので、腹中教を中心としてイスラエルの勝利的立場を再現し、そのことを再び推進させたのです。(一九六九.八.一〇)

 本来、ヨセフとマリヤが、イエス様は神様が送られた真の息子であり、神様の王子であり、また万民のメシヤだということを知ったなら、彼が生まれたその日から、神様の王子として侍っていかなかればならないのです。


 毎日のようにイエス様に敬拝しなければなりません。王の王であり、永久に全天宙を支配することができる天の主権者として来られた方であるがゆえに、イエス様が生まれたその日から、ヨセフとマリヤは、彼に最善を尽くし、忠孝の道理を果たして侍らなければならなかったというのです。


 人間的に見れば、自分の息子に忠孝の道理を果たさなければならないという法がどこにありますか。しかし、天法ではそのようにしなければならないのです。(一九六五.一二.二六)


 イエス様は、どうして父母、すなわち神様に侍ることができる天の法度を親しく教えてあげることができなかったのでしょうか。本来、堕落していなければ、神様がアダムの父母になっていたはずですが、堕落によって父子の因縁が途絶えたのです。それで、父子の因縁として、忠孝の道理を果たすことができなかったことを私たちが蕩減復帰するために、忠の道理と孝の道理の代わりをするのです。


 それまでは、神様が父母の位置で教えてあげることはできないというのです。(一九六五.一〇.一〇)


第五章 孝行と忠誠と宗教は不可分の関係

 神様を占領する方法は忠誠を尽くす道理しかなく、父母を占領する方法は孝行する道理しかありません。ですから、皆さんは、神様の前に忠孝の道理を果たさなければなりません。(一九六四.六.一二)


 家庭で本当の孝行をする人は、国の忠臣の道に直通します。国に本当の忠誠を尽くす人は、聖人の道に直通します。それを知らなければなりません。結論は何かというと、家庭において父母を絶対的に愛していこうという道が孝子の道であり、国のすべての国民と主権者を絶対的に愛していこうという道が忠臣の道であり、世界を絶対的に愛していこうという道が聖人の道です。


 国の国王も、聖人の道に従っていかなければなりません。絶対的に信じなければなりません。愛国者と忠臣は王に従っていかなければならず、孝子は愛国者に従っていかなければなりません。一つの道です。それでは、聖人は誰に従っていかなければならないでしょうか。神様に従っていかなければなりません。


 神様も永遠、不変、唯一の愛、この聖人も永遠、不変の愛、国王も永遠、不変の愛、忠臣も永遠、不変の愛、孝子も永遠、不変の愛であり、これは一つのコースにあります。いくら回り道して行ったとしても、この道に従っていかなければなりません。

 個人が行き、家庭が行き、氏族が行き、国が行き、すべてのものが行くので、父母にも孝行しなければならず、国にも忠誠を尽くさなければなりませんが、一度に二つともできない場合は、どちらを先にしなければならないでしょうか。孝子の道と忠臣の道の二つがある時は、孝子の道を捨て、忠臣の道を取るのが法度に準ずることだということを知らなければなりません。なぜならば、国の中には数多くの家庭が入っているからです。数多くの父母が入っているからです。(一九七八.七.二三)


 友人たちがすべての秘密のふろしき包みを持ってきて、それを千年、万年保管しておいても、安心できる友人にならなければなりません。そのようにすることができる友人が一番の友人です。自分の妻や父母や兄弟をほうっておいても訪ねてくるような友人になれば、友人の中の代表的な友人になります。


 友人として、過去と現在と未来の代表者にならなければなりません。それから、家庭における代表者になりなさいというのです。それゆえに、父と母は、息子を自分の家庭の代表者として立てるために「孝行しなさい」と教えます。別の言い方をすれば、孝子になりなさいということです。


 それでは、情緒的に最初に一つになることができる道とは何でしょうか。孝子になる道です。天地が知ることのできる孝子の因縁をもった人は、その国を中心として相続することができる特権をもつのです。


 三綱五倫の教えとは何でしょうか。その家庭において、国が知り世界が知ることのできる孝行を尽くしなさいということです。そのような孝子は神様も御存じなので、神様は、その血統を通して国を納める人を送られるのです。

 孝子は家庭を中心として決定され、忠臣は国を中心として決定されます。忠臣とは、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、主なる神様を愛した人ではなく、心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして、自分の国を愛した人です。そのような人だけが忠臣になることができます。(一九七〇.七.一九)


 どのような人が主人になるのかというと、一番の主人になる人は、至誠を尽くし、忠誠を尽くす人です。そのような人だけが主人となる資格をもちます。学士や博士が主人になるのではありません。


 もし学士や博士が来て働いて協助したとしても、彼らは労働者にすぎません。主人になることはできません。最後の帰結点は、知識が問題ではなく、学識が問題ではなく、その人に力量があることが問題ではありません。至誠と忠誠を尽くすことが問題です。


 昔を見てください。日本が三千万民族を掌握して思いどおりにしていた時に、柳寛順のような少女が日本人に反対したのですが、その当時で見れば、それは正常な人ではありません。しかし、彼女は、民族が忠誠を尽くすことができない時に、民族を代表して忠誠を尽くし、民族が精誠を尽くすことができない時に、民族を中心として精誠を尽くしたのです。それゆえに、私たち韓民族にとって、常に忘れることのできない思想的な指導的権限を彼女が占めるようになったのです。


 時でない時、環境ができていない時、その時と環境ができていない時だったので、その目的は、達成することができずに失敗したのですが、時と環境ができている時に精誠を尽くし、忠誠を尽くす人がいるとすれば、どのようになるでしょうか。誰かが捕まえて殺すでしょうか。どのようになるでしょうか。


 環境ができていない時に死を覚悟して忠誠を尽くした、そのような忠誠をもって、時になり、環境ができた時に立ち上がる天の子女がいるとすれば、その子女はどのようになるでしょうか。その人は、動けば動くほど、上がっていきます。その代わり、歩んでいる途中で中断してはなりません。私が生まれたのはこのために生まれたのであり、私が働くとすればこれしかないという、このような観念をもって至誠と精誠を尽くす立場で、一年を過ごし、二年、三年と過ごしていけば、その過ごす年数に比例して、その人はどんどん上がっていくのです。(一九六五.一一.二)


 皆さんは、李舜臣や柳寛順のような人が愛国者だということを知っています。彼らがこの国の愛国者ならば、彼ら以上に忠誠を尽くそうという心はもっているのですが、今まで、そのようにすることのできる実質的基準をもつことができなかったので、今から皆さんは、忠誠の道を歩まなければなりません。


 国を取り戻すための解放の先駆者にならなければなりません。それゆえに、この道を行く所で党派的に追われ追われて、あるいは投獄されたとしても、闘争しなければなりません。この闘争において、敵対する相手が誰かということを決定していかなければなりません。これが、統一教会の行かなければならない道です。


 「自分は父の前に孝行した」と誇ってはいけません。孝は、忠の道理を果たすための一つの土台です。父に代わって忠の道理を果たし、一つの家庭の父母を中心として愛の祝福を受けることができる私にならなければなりません。


 そして、国を中心として永遠の愛を祝福してくださろうとする父の願いに、いかにして私がその基準を突破し、成就するかということが問題です。


 これを一生の事業だと考え、国民としての道理をもって、その責任と使命を果たさなければなりません。(一九七〇.二.二五)


 おそれ多くも、天は、父子の因縁に対するみ言を私たちに提示してくださったのですが、私が、どの程度まで父に侍ったのか、どの程度の孝子になったのかというのです。


 個人的には孝子として、国家的、民族的には忠臣の気概をもって天に対さなければなりません。東洋の三綱五倫のようなものには、すべて一理があります。それを教えてあげるためのものです。天に対する忠孝も同じです。同じことです。父母に孝行することのできない者が、天の前に孝子となることはできません。


 国に対する忠臣の志操をもつことのできない者が、天の前に忠臣となることはできません。天の前でもこの世界でも同じです。心情の世界も、内容が異なっているだけであって同じです。(一九五九.七.一二)


 愛国心は天の理想に連結されるので、本心は忠孝の道を賛美するようになっています。しかし、日本の中心と韓国の中心では、方向が異なります。


 韓国の李舜臣将軍といえば、日本では怨讐です。また、日本の伊藤博文は、韓国の怨讐です。そのようなものです。ここにおいて、韓国と日本がお互いに中心に立とうとします。ですから、偉人は各国ごとにすべているのですが、聖人はいません。


 偉人は、国を中心として愛した人であって、世界を中心として愛した人ではありません。伊藤博文が、アジアと世界をより一層愛していれば、そのような悪いことはしませんでした。(一九九二.四.一二)


 家庭において父母に孝行するために、毎日毎日父母の考えと一致する生活をする人と、今すぐに孝行することはできないものの国を取り戻すことができる道を求めて民族の願う最善を追及し、世界のために最善を尽くそうとしながら、ある瞬間を待ち望んでいる人を比較してみるとき、今すぐには父母に孝行できなくても、未来に孝行しようという人が、この世の中においてはより必要です。このような観点から見るとき、「宗教とは、未来を追及する立場で、未来の国のために忠誠を尽くすものであり、未来の孝行の基盤を強固にするために出てきた」と言うことができます。(一九六九.一二.二八)


 国を愛することは、国を中心としたものではありません。父母を解放しようという愛の心をもった孝子になろうというのが統一教会の思想です。国を愛する前に、父母を愛さなければなりません。孝子にならなければなりません。


 それを通って国を愛することができるのであり、国を愛することができる道を通って世界を愛し、世界を愛することができる道を通って天を…。そのようになるのです。まず、父母の前に孝子にならなければなりません。(一九八六.一.三一)


 宗教が追求しているある瞬間、忠孝を行うことができる未来のある瞬間とは、どのような瞬間でしょうか。

 人類が共に幸福を謳歌することができ、人類が初めて希望の起点を賞賛することができ、歴史を支配される神様が喜んで誇ることのできる時です。

 その瞬間を迎えて勝利を誓い、その一瞬に自らを全天地の中心として現すために宗教が出てきた、ということだけは間違いありません。(一九六九.一二.二八)


第六章 忠孝と真の愛の有無が天国行きと地獄行きの尺度


 いくら邪悪な社会環境に直面したとしても、愛する父母がいて、その父母の懐に行って涙を流しながら寄り掛かることができるならば、それはどれほど幸福なことでしょうか。


 私が悲惨な立場にいる時に、誰も私を抱いて慰労してくれなくても、父と母の懐にもたれて涙をすっと流せば、その重荷を背負いながら苦しんでいる体を無言でなでてくれるその父と母の手は、億千万金を出しても買うことができません。そこには、天下の名将として敵対軍を退けた勝利の気分を凌駕するほどの感謝の気持ちが訪れてくるのです。


 それで、孝子、孝女になりなさいというのです。夜に傷つこうと、昼に傷つこうと、父と母に報告すれば、その父母は常に準備しています。なでてあげ、包んであげる心が常に準備されているのです。


 たとえ包帯や薬は準備できなかったとしても、愛の包帯と愛の薬で私をなでてくれるという驚くべき事実、その場所は平和の香りで満ちあふれるようになります。これを支配し得る力は、ほかにないということを知らなければなりません。


 一生の間、子供のために愛の関係を結んで生きる父母が血の汗を流し、腰が曲がり、その容貌がどれほど悲惨になったとしても、その心の世界に燃え上がる希望は、誰もくじくことができません。直面する困難がどれほど強かろうと、そこには、それを一歩一歩踏み越えていくことのできる偉大な力があるのです。


 愛国者の道も同じです。我が国の先祖たちが、愛国者の道を行き、父母を愛する立場に立ったので、それと同じように愛そうとするのは、先祖の愛を受けることができる子孫としてもち得るプライドです。


 ですから、一つの国の国民になったならば、国を愛さなければなりません。国に依存して生きてはいけません。成長して分別がつく時までは、依存して生きるでしょう。ただ勉強するだけの時はそうです。


 しかし、分別がついてからは、依存して生きてはいけません。赤ん坊も、何ヶ月か乳を飲めば、乳離れするでしょう? ちょこちょこ歩き回る時は、父母が隠しておいた物をどれだけ盗み食いしても、それは罪悪ではありません。お父さんやお母さんが隠しておいた物を子供がちょこちょこ行って取り出して食べたからといって、「やい! この息子、どろぼうをしたな。罰を受けろ」と言うでしょうか。「こいつ、とんでもないな。どうやってそれが分かったのか。私よりも勝っている!」と言いながら、おしりをたたいてくれるのではありませんか。それが父母の心です。(一九八八.四.一七)


 エデンの園においてアダムとエバが堕落することによって蒔かれた罪の種は、彼らの息子であるカインとアベルによって刈り入れられました。それゆえに、罪の種を蒔いた父母が復帰されなければならないのです。

 そして、天宙史的な父母復帰の基台を中心として、忠孝の道理を全うすることができる子女の基準を復帰しなければなりません。この基準が決定したのちに、初めて「万物の日」が出てきたのです。(一九六六.六.一九)


 愛は、自らの家庭から父母の助けを願うことではありませんか。自分が父と母の愛を受けたならば、父と母を愛さなければなりません。天理はそのようになっています。すべての心情的な誘発点は、父子の関係から連結されるのです。それは、すべて郷里から植えられてくるのです。


 しかし、堕落することによって、これがすべて食い違ってしまいました。それをこの地で解かなければなりません。郷里に帰っていって、サタン側に立って愛する数多くの孝子、孝女以上に孝子、孝女の立て札を立ててこそ、天使長ではなく、善の霊人たちが地上に来るのです。


 そのようにして横的に活動する霊人たちが、故郷で愛する心をもってソウルの家に来て協助するのです。そのようにして横的基盤を広めていくことができるのです。それが復帰です。(一九八八.四.六)


 最高の立場で自己陶酔して満足しているその群れから迫害されて追われ、涙を流す立場で血だらけになって倒れていく体を立て直しながら、たった一つ私が残さなければならない遺業とは何であり、私が残すことのできる遺産とは何であり、私が相続させることができる最後の遺言とは何でしょうか。天に対して燃え上がる心情と、忠誠を尽くしたいと思う孝子の心、忠臣の心、烈女の心をもつ群れがいるとすれば、その群れは絶対に滅びることがありません。(一九六一.一.九)


 正義の道をはっきりと知って分別していくのが忠孝の道理です。ですから、皆さんは、何の価値もない一日一日を送ってはいけません。それは負債を負うことと同じです。自分に近い人々をここに引っ張ってこなければなりません。力が足りなければ、脅迫してでも連れてきなさいというのです。それは罪ではありません。


 なぜそのようにでもしなければならないのでしょうか。教育して良い所に連れていくためです。そのような条件があるので、何でもすることができるのです。ですから、これからはそのままほうっておいてはいけません。(一九九三.一.一)


 皆さんが忠誠を尽くせば、皆さんの子孫の前に道が残されるのであり、皆さんが霊界に行けば、その苦労の功績の道が褒めたたえられるのです。今はもう、蕩減の時代は過ぎ去りました。


 今は、皆さんが動くほど輝く伝統を立てることができるのです。それが皆さんの財産になります。

 このような時点に置かれているということを知って、すべての精誠を捧げなければなりません。(一九七一.一.三)


 絶対的に忠孝を尽くせば、神様の本性の天国に行くのですが、ここに反対すれば、天国と一八〇度反対の地獄に、直行で落ちていくのです。


 フリーセックスは、サタンが人類を滅亡させ、地上地獄を膨張化するための悪魔の計略的愛の版図だということを、皆さんは知らなければなりません。絶対的な愛の神様を中心として見るとき、おじいさんとおばあさんは、絶対的に一つになっています。分かれることができません。


 神様を中心として、おばあさんとおじいさんが愛を中心として絶対的に…。愛とは何でしょうか。その凹凸を合わせるにおいて絶対的であり、父と母も絶対的であり、夫婦も絶対的であり、自分の息子、娘たちも絶対的であることを願うのです。(一九九六.一一.二四)


 父母は、孝行する子を見て涙を浮かべ、永遠をかけて祝福するのです。心情圏には、そのような背後があります。恐ろしいのです。


 この世には、お互いを比較しながら祈祷しているうちに、後ろ指を指されて消えていく人もたくさんいますが、本当に忠孝を行う孝子が中心になる時は、父母と自らは、涙を流してその家庭を守り、未来の国の祝福がその家庭と共にあることを願う孝子になり、父母になるのです。(一九九三.四.二一)

 神様のために生きる孝子の道は、客死の身になったとしても、その環境を守り、その環境が喜ぶことのできる立場を継承していかなければなりません。そのようにしてこそ、天国に行くことができるのです。そのようにしなければ行くことができません。(一九九六.一〇.一三)


 一つの世界、一つの目的の世界を成し遂げるための神様がいらっしゃるのであり、その神様は、遠くに対する時は万軍の主であられ、中心の中の中心であられるので、そのお方に対して私たちが信仰するのは、忠臣になるためです。


 それが、私の生まれた義務であり、責任です。近くに対する時は父であられるので、孝子、孝女になることが私たちの責任だということを知らなければなりません。それが先にしなければならないことです。そのようにしておいてこそ、「地獄に送ろうと、天国に送ろうと、自由にしてください」と言うことができるのです。そのように生きたのちに地獄に行った人はいません。(一九六四.一〇.五)


 アメリカは、世界の代表国家として責任を果たし、皆さんは、世界の国家代表としての責任を全うするという立場で結束しなければなりません。


 ですから、先生の前において完全なカインにならなければなりません。国家を代表した者、世界を代表した者として、完全なカインにならなければなりません。そこにおいては、個人の観念はあり得ないということを知らなければなりません。


 この時だけは、皆さんが世界史を代表したカインの中のカインになり、天使長に恥ずかしく思わせる天使長になり、天使長の蕩減条件を越え、天のために忠誠を尽くす天使長になるという心をもって立たなければならないことを知らなければなりません。(一九七六.八.一〇)


第七章 神様と真の御父母様

一、真の御父母様は忠孝の標本


 私たちは、イエス・キリストを「王の王」と言っています。「主の主」、あるいは「絶対者の主体者」と言っています。しかし、そのお方の前で、「忠臣だ」と言って祝福された人はいません。このことを知らなければなりません。天の忠臣が現れず、天の孝子が現れず、天の烈女が現れなかったのです。


 ある絶対的な信仰をもった人がいて、天が、天地を統治することのできる位置にその人を立てて祝福してあげたいと思われるとすれば、その人は、最高の位置に行くようになるでしょう。そのようにしようとすれば、その人は、その国の「最高の忠臣」という名前をもたなければならず、その国の「最高の孝子」という名前をもたなければならず、信仰者たちを「新婦」と言われたので、その国の「最高の烈女」という称号ももたなければなりません。しかし、神様は、六千年間復帰摂理をしてこられましたが、「あなたは、天地が生じたその日から今日までの歴史において、かけがえのない私の忠臣だ」と言って祝福してくださった人はいません。「創世以後今日までの歴史において、あなたは私の前における真の孝子だ」と言って祝福してくださった人はいないのであり、烈女として祝福してくださった人はいないというのです。


 それは、この地の各国家が、天が誇ることのできる主権をもった国になり得なかったからであり、この地の家庭が、天が永遠に愛して守ってくださることのできる真の父母をもった家庭になり得なかったからであり、この地の人々が、天が永遠に信じてくださることのできる真の新郎新婦となり得なかったからです。


 ですから創世以後今日まで、創造主が、この地上で暮らす人間たちの中で、「あなたは私の愛する息子、娘だ」、「あなたは天上天下を代表した孝子だ」と言って誇った人はいません。「あなたは私の前における忠臣だ」と言って誇った人はいないのであり、「烈女だ」と言って誇った人はいないのです。


 堕落した私たちは慕っています。天が認める忠臣になり得る、その国を慕っているのです。真の父母に侍って孝子となり得る、その世界を慕っているのです。


 真の新郎新婦となって、天の懐に抱かれ得る、本然のその世界を慕っているのです。これが、人間の願う最大の目標です。(一九六〇.四.二四)


 この世界は、父母が慕わしいので、その父母が来られる日のために準備するのです。その一人の主人公、一つの父母、一つの世界が、神様が今日までの六千年間苦労してこられた結実であり、願ってこられた目標です。ここに、その父母に代わって立つことのできる心情的な後継者が出てこなければなりません。


 心情的な後継者です。言葉だけの後継者ではなく、姿だけ同じ後継者ではなく、喜ぶだけの後継者ではなく、父母の悲しみと苦痛を自らのものとして、父に代わって苦痛を受け、父に代わって悲しみながら、心情的に天の前に忠孝の道理を立てようともがく後継者のことです。そのような群れだけが、天の前に立つことができるのです。(一九六〇.四.三)


 今日までの歴史路程は、善と悪の闘争によってつづられてきた路程です。このような歴史が私の前に迫ってきたので、私を中心として、悪は悪として、善は善として分立しなければなりません。「私」という存在は、この勝敗を左右する鍵を握った人です。


 したがって、私は、個人を超越した公的な存在だということを肝に銘じなければなりません。過去に忠誠と孝行で公的な使命を完遂するために苦労した先祖たちのその歴史的な偉業を継承する者は、彼らよりも公的使命の前により忠誠を尽くし得る人でなければなりません。


 したがって、私たちが公的な使命を担うためには、歴史を超越した宇宙的な忠孝烈の心情と覚悟を備えなければなりません。(一九六一.一二.一七)


 忠臣とは何でしょうか。国王に対して精誠を尽くす人が忠臣でしょうか。違います。民を国王と同じように愛することのできる人が忠臣だということを知らなければなりません。


 孝子とは何でしょうか。父母のために精誠を尽くす人ではありません。父母を愛するのと同じように、兄弟のために精誠を尽くす人が孝子だということを知らなければなりません。


 真の聖子、神様の息子、娘とはどのような人でしょうか。神様を愛するのと同じように、神様に属するすべてのもののために歩もうとする人が聖子です。


 それゆえに、私は聖子の道を歩もうというのです。先生は、神様も愛していますが、人類も愛しています。怨讐であるアメリカまでも愛しているのです。そうであってこそ、神様が御覧になるとき、「私の息子よ」とおっしゃることのできる人は、神様を愛するのと同じように、人類のために生きる人です。そのような人が神様の息子です。


 御自身のことを忘れて人類のために生きる神様なので、自分を忘れてこの人類のために生きるのです。そのように生きるので孝子だというのです。その定義をはっきりと知らなければなりません。

 私たちは、孝子の道と忠臣の道から聖子の道を尋ねて行くのです。聖人の道を尋ねて行くのではありません。そのような内容を中心とした孝子の道理と忠臣の道理を通じて、聖子の道理を成し遂げてこそ、その国が何の国となるのですか。地上天国です。そこで生きれば、そのまま天国に行きます。そのようにすることが神様の創造理想だったのです。(一九八四.七.一九)


二、真の御父母様に対する忠誠は神様に対する忠誠


 父母に親不孝した息子の立場に置かれているのが人類です。不幸を招いた張本人が、私たち人間です。天の前に言い表すことのできない不孝をしたので、親不孝した者が天の前に堂々と立つためには、孝子となることのできる立場に立たなければなりません。


 統一教会の食口たちは、天の孝子となることを誓って立ち上がったということを自負しています。しかし、私たちは、再度冷静に批判、分析しなければなりません。私の手が、天の前にどれほど孝子の手として、天が慕う手となっており、私の顔がどれほど天の前に孝子の姿として、天が慕うことのできる人になっているでしょうか。


 自らの一身が、どれほど孝子の触媒となり、いかなる逆境にあっても、昼夜その逆境を克服しながら、孝子の行く道を開拓してあげるために努力される父の姿を現すことができるようにしてさしあげたのかという問題を考えてみるとき、そこでは、私たちは自分というものをもつことができません。(一九七二.八.一)


 孝子になろうとすれば、父母のすべての苦労を、あるいは父母の前に最も困難な道を選んで責任をもつために立ち上がる者にならなければなりません。

 また、そのような孝子になることができない子供を孝子にさせたいと思う父母がいるとすれば、その父母はどのようなことをさせるでしょうか。死ぬほどのことをさせるのです。「おい、これをしなさい」と言って、兄弟の中で最も大変なことばかりを選んでさせるのです。


 ただ一つしかない孝子の名をもってこられるお方がメシヤです。ただ一つしかない孝女の名をもってこられるお方が、メシヤの新婦です。


 イエス様は男性なので、男性の前に女性だからといって、すべての人が新婦でしょうか。新婦がたくさんいるのですか。新婦は一人しかいません。しかし、新婦になろうとするところでは、誰もが競争することはできるのです。(一九七二.九.一〇)

 故郷に孝子がいるとすれば、歴史時代において、その地にいた孝子の中のいかなる孝子よりも立派な大王の孝子にならなければなりません。忠臣がいたとすれば、それよりも立派な大王の忠臣にならなければなりません。


 いくら孝子と忠臣になったとしても、真の父母と横的な因縁をもたなければ何の意味もありません。真の父母を中心として、横的な父が水平になる時、縦的な父が現れるのです。


 完全なマイナスが生じるようになれば、完全なプラスが訪ねてくるのです。(一九八八.五.二二)


 真の父母とは何かというと、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天地では聖子の伝統的道理をすべて果たした人です。そのようなコンセプトをもたなければ、神様を中心とした家庭において、神様の願われる孝子として立つことができず、そのような中心を中心として築かれた国において、神様の国を中心とした忠臣として立つことができず、そのような世界において神様が願われる聖人として立つことができず、そのような天地において孝子となり得る聖子として侍ることはできません。


 それゆえに、私たち自身が、このようなサタン世界の蕩減復帰のために、このような四大条件を完成し、天の前に奉献しなければなりません。聖子とは何かというと、天国の宮殿法と天国の法と地上の宮殿法と地上の国の法を守らなければなりません。天国にも王宮があり、国があるのです。


 地上のすべての宮殿法と国の法と、天上世界の宮殿法と国の法を完成し、それをすべて守ることができなければなりません。それを守ることができてこそ、聖子になるのです。


 その故郷の地を訪ねていって何をするかというと、「家庭盟誓」の第二番の孝子、忠臣、烈女にならなければなりません。二番を成すのです。今まで神様は、そのようなものをもつことができなかったので、サタンのものだったというのです。(一九九四.一二.二二)


 三千里半島の至る所で、三千万民族の代わりとなり、父のために忠孝を果たそうと誓う群れが現れることを先生は待ち望んでいます。


 皆さんが胎中にもいない時に、先生はこのような誓いをなしたのであり、皆さんがこのような道を行くことを夢にも思わなかった時に、既に先生はこのような道を歩んでいたのです。涙が多いとすれば、三千万民族の誰にも劣らないほど涙が多いのです。誰かが現れて私に一言でも言えば、抑えることができずに痛哭してしまうでしょう。


 この世から見れば、先生は本当にかわいそうな人です。どれほどかわいそうでしょうか。心の安らぐ場所がありません。天地がどれほど広くても、心の安らぐ場所がないというのです。


 イエス様が、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ八・二〇)とおっしゃいましたが、その心が理解できます。(一九六三.一〇.一六)


 皆さんは、先生に対して、天の父母のように孝行したことがありますか。サタン世界に生まれて死んでいった数多くの孝子たちも、その国が追慕することのできる孝子の碑を残したのではありませんか。


 また、いつ忠臣の道理を果たしたのかというのです。死ぬ最後の時まで、生命を捧げるまでは、孝子になることはできないのであり、忠臣になることはできないのではないですか。私は、そのような人を願いました。私が教育をしたのは、そのような人を願って教育したのです。それにもかかわらず、標準がすべてずれてしまいました。


 いつ皆さんが、本当の意味で国を愛し、本当の意味で兄弟を愛し、本当の意味で先生を愛し、本当の意味で先生の家庭を愛したことがありますか。蕩減復帰の原則において、いかなる孝子よりも、いかなる忠臣よりも勝っていなければならないのではありませんか。それが、「原理」が教えてくれている教示ではありませんか。


 そのような基準に立ったことがありますか。このようなことを皆さんは知らなければなりません。(一九七三.八.一五)        


 先生が命令することのために、なぜ手が曲がるほどに忠誠を尽くすことができないのかというのです。それを見つめる時、その話を聞く時、なぜ胸がふさがって痛哭が出てくる歴史の条件を残すことができないのかというのです。簡単で易しい方法だというのにです。


 家庭を代表して父母の前に孝行し、国に対して忠誠を尽くし、天に対してすべてのことをなし、歴史的な勝勢の権限をもっていくことができるチャンス、天のすべての偉業を無条件に相続し得る絶対的なチャンスを得たにもかかわらず、なぜそれをすることができないのかというのです。そのようにしてこそ、地から国を経て天国に入っていく時に、遮る者がいないというのです。


 サタンはどのようにするのかというと、家庭の前で遮ったのです。私個人がいくら完成したとしても、父母の前に孝行しなければなりません。そのようになっています。また、いくら父母の前に孝行したとしても、国の前に忠誠を尽くすことができなければなりません。


 いくら国の前に忠誠を尽くしたとしても、人類の前に忠誠を尽くさなければ、天国に行くことはできません。(一九六七.一二.二六)


 私が愛さなければならない万物という父母の前に孝子となることができなかったのであり、私を生んでくれた父母の前に孝子となることができなかったのであり、この霊界と神様の前に孝子となることができなかったのですが、先生を中心として真の父母に侍ることによって、代わりに孝子の資格を与えてもらうことができるのです。それゆえに皆さんは、粘り強く従っていかなければなりません。(一九七九.九.三〇)

 世の中の若い男性や女性たちも、「初愛は忘れることができない」と言うでしょう。皆さんは、みな結婚したことがなくて分からないかもしれませんが、初愛は忘れることができないものです。


 神様と私たち人間との間で父と息子の因縁をもち、父の前に孝行した孝子として記憶された息子、娘は、神様の心の中から取り除いてしまおうとしても、絶対に取り除くことができません。それは、アダムとエバよりも勝っている立場に立っているからです。


 アダムとエバは孝子になったでしょうか。孝子になることができませんでした。孝子になる道とは、どのような道でしょうか。孝子の道を行こうとすれば、父のみ旨のとおりに生きなければなりません。父のみ旨のとおりに生きた人でなければ、孝子になることはできません。(一九七二.五.三一)


 自分のために苦労してくださる父母の前に孝の道理を全うするためには、まず涙をもって父母を慰労し、引き受けた十字架を堂々と背負っていかなければなりません。


 あなたが歩んでこられた十字架の道は、子女を愛するがゆえに悲惨だったという事実を告げる心をもって、「父よ! これ以上苦労しないでください。父よ! 私のためにこれ以上心配しないでください!」と言うことのできる立場に立たなければなりません。


 これが、今まで悲しみを受けながら歩んでこられた父母である神様の前に、立つことのできる孝子の姿ではないでしょうか。このようなことを思うとき、今日、私たちは神様の前にあまりにも厚かましく、あまりにも傲慢だったという事実を発見するようになります。(一九七〇.四.一二)


 天地を代表して真の父母に侍るにおいて、歴史上のいかなる先祖よりも、いかなる時代の人よりも忠孝を尽くすという自覚をもって行動しなければなりません。そのように行動すれば、天とその環境において、すべての人が影響を受け、自分を中心として一つになるのです。(一九九五.一二.八)


 皆さんは、社会に忠誠を尽くさなければならず、教会に忠誠を尽くさなければならず、家庭に忠誠を尽くさなければなりません。それでは、教会とは何をする所でしょうか。人格を形成し、人格を育てる所です。堕落したので、教会が必要です。家庭と社会で終わるのではありません。


 人格を復帰するにおいては、そのままでは復帰できません。大学を卒業して何かの博士の学位を受けたからといって、それで人格が復帰されるのではありません。ですから、教会が必要だというのです。


 それでは、どこに忠誠を尽くさなければならないのでしょうか。家庭に忠誠を尽くす前に、教会に忠誠を尽くさなければなりません。社会に忠誠を尽くす前に、教会に忠誠を尽くさなければなりません。教会が主体であり、家庭と社会は対象です。


 知恵深い人はどこに立つのでしょうか。対象の立場に立つのではなく、主体の立場に立つのです。主体の立場は一つしかありません。


 対象は、東西南北の四方において三六〇度回転しなければなりませんが、主体は、中心のただ一箇所しかありません。それは、ある圏内の絶対的な立場です。二つではありません。中心が二つになることができますか。これが行ったり来たりすれば、滅びる可能性が大きいのです。(一九六九.九.三〇)


 大統領になるには、大統領になり得る基盤を築かなければなりません。いくら皇太子として生まれたとしても、王になるには、王になり得るすべての法度と規則を学ばなければなりません。


 ですから、皆さんは、言葉ばかり言うのではなく、人類歴史最後の路程で、父母の言葉を一つ聞いて実践するのです。そのようにすれば、神様が「あなたは孝子だった」という印を押して、天国の孝子として天国に送ってくださるのです。これは、どれほど驚くべき愛でしょうか。その基盤は何ですか。家庭教会という基盤です。天国は孝子が入っていくのです。


 息子は息子でも、ならず者は入っていくことができません。孝子の名をもっていかなければならないので、孝子という名の印を押してもらうためのものが家庭教会です。(一九八二.一一.一)


 家庭で安楽に暮らす人々は愚か者です。家庭天国の垣根の中にしかとどまることができません。ですから、代表的家庭になり、中心的家庭にならなければなりません。それで、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理は、私が行く道だというのです。天性的に私が必然的に行くべき道だというのです。


 それゆえに、家庭では孝子にならなければなりません。それから、国では忠臣にならなければなりません。忠臣は、生まれながらその道理を外れることがありません。夜も昼も、焦点を合わせていかなければなりません。先生は、一生の間、寝ても覚めてもみ旨という焦点を忘れたことがありません。床から起き上がれば、それを続けます。千年、万年続けるのです。

 先生が勝利した内容があるので、「氏族的メシヤの責任を果たすことができなかったとしても、国家的メシヤの責任を果たして、自分たちの誤ったことを清算しなさい」と言って前に立てたのです。そこで孝子にならなければならず、忠臣にならなければなりません。世界と国家を愛する心で、兄弟たちのために祈祷しなければなりません。そのようにしてこそ、真の御父母様に従って聖子の地位をもち、神様のみ前に現れることができるのです。(一九九七.四.八)


 先生が国を担いました。その道において、皆さんが功臣です。それゆえに、孝子の道、烈女の道、忠臣の道を築くために行く道だということを知らなければなりません。それが氏族的メシヤの使命です。


 孝子は家庭における息子の立場であり、烈女は夫婦の立場であり、国を代表する父母の立場は忠臣です。忠臣になることによって国と連結され、父母の立場を代表するのです。(一九九一.一〇.一六)


 先生のために、神様は多くの涙を流しています。そのようなことを知らないでしょう? 皆さんの中に、先生に涙をたくさん流させる孝子、孝女がいますか。それを願っているのです。

 そのような人は、まだ探し出すことができずにいます。深刻な男です。(一九九四.三.一二)