Text Box: TP portrait  第二章 家庭盟誓の各節の解説

 一 家庭盟誓第一節の解説


  私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想であ

  る地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します。


  一) 私たちの家庭は真の愛を中心として

   (1)真の愛は神様とのみ関係した愛


 摂理的な観点から見るとき、復帰摂理の時代は終わったとみなしています。復帰摂理時代が終われば、本然の創造理想の世界へ越えていくようになるのです。復帰摂理時代が終わるという言葉は、堕落したサタンの権限の世界が終わり、神様が地上と天上世界を直接管理する時代に越えていくということです。このような時が来るので、統一教会においては「家庭盟誓」というものを宣布したのです。

 「家庭盟誓」は、一般の人が唱えるのではありません。「家庭盟誓」は、誰もが唱えることができるものではありません。「家庭盟誓」の八項目の書き出しは「私たちの家庭は真の愛を中心として」であり、それが前提となっています。それは何を意味しているのでしょうか。真の愛はサタン世界と関係ない基盤から、という意味です。

 

 堕落することにより、偽りの愛を中心として、偽りの生命、偽りの血統が連結した世の中になってしまったので、これを克服して越えるためには何をもたなければならないかというと、真の愛と、真の生命と、真の血統の位置を占めなければなりません。そのようにしなければ、これを克服することはできません。このことを、はっきりと知らなければなりません。

 「家庭盟誓」に真の愛を前提条件とした理由は、堕落がなかったエデンの園の本然の世界に入っていることをいうためです。真の愛と、真の生命と、真の血統が、神様と共に一体的理想を成したならば、そこには偽りの愛と、偽りの生命と、偽りの血統がありません。地上で生活しても、それ自体が地上天国と天上天国になるのであり、永遠の世界の出発を形成するようになっていたのですが、これを堕落によってすべて失ってしまったのです。

 

 今まで、歴史を通じて数多くの宗教の宗主や、数多くの聖賢、賢哲たちが現れましたが、真の愛とは何らの関係もありませんでした。このようなすべてのものを解決するために、この地上にイエス様がメシヤとして来られ、新郎新婦の基盤を築こうとされたのです。それでは、メシヤが来られて成さなければならないこととは何でしょうか。新しい家庭と、新しい氏族と、新しい国家と、新しい世界に向かって新しい皇族圏を設定しなければなりません。皇族圏の直系先祖は誰でしょうか。本然の愛と神様の直系子女であり、真の愛を中心として真の生命と真の血統の基盤を中心とした堕落していない人です。そのお方が種です。

 その種から根が出てくれば、中心の幹の根となるでしょうし、そこから中心の幹、中心の芽へと大きくなっていくのです。これが縦的に大きくなることによって、そこに対応して横的世界へ拡大していくので、家庭と氏族が連結され、民族、国家、世界が連結されるのです。

 

 「家庭盟誓」の最初の部分は、どのようになっていますか。「私たちの家庭は真の愛を中心として」です。真の愛を中心として成すのです。堕落したので、真の愛をもつことができなかった人は、家庭というものをもつことはできません。それを知らなければなりません。真の愛をもつことができなかった人は、本来神様の前に家庭をもつことができなくなっているのです。堕落とは何かというと、真の愛が腐っていることです。

 それでは、真の愛とは何ですか。神様とのみ関係を結んだ愛です。自分や国家や、また世の中の習慣性や風習、あるいは国民の伝統性といったものがありますが、そのような関係を結んだ愛ではありません。神様とだけ関係を結んだ愛です。

 

 堕落したので、神様とだけ関係を結んだ愛になることができませんでした。サタンの愛と関係を結んだのです。それが家庭だけではなく、サタンの家庭を越えて氏族、民族、国家、世界、そして天上世界にまで拡大されているのです。私たちが堕落した人間として生まれ、その生活環境で身につけたすべての習慣や伝統は、神様とは関係がありません。これを否定し、これを解決するということはどんなに難しいことか分かりません。純粋な本然の神様の愛はどのように本質的基準へと帰っていくのでしょうか。神様の愛に接するためには、自らの愛という習慣性、愛という伝統を完全に否定しなければなりません。

 

 神様が、この地上の人間と共に生きることができないのは、この統一観が家庭で成し遂げられなかったからです。これが成し遂げられれば、神様が再び来られて共に生きるようになります。真の愛といえば「心と体が一つ、夫婦が一つ、子女が一つ」というコンセプト(観念)がそこに集約されていなければなりません。この三つが一つになれば、真の愛の家庭は、地上天国と天上天国の出発になるのです。

 神様と真の御父母様を中心として一つになる時、地上天国と天上天国を建設することができます。ですから、地上天国はどこからでしょうか。私と家庭から、息子、娘からです。

 

 統一教会は、真の愛の理想によって神人と心身を統一する所です。神様は、真の愛と、真の生命と、真の血統をもっていらっしゃるお方であり、私たちはそこから出てきたので、私たちにも、真の愛と、真の生命と、真の血統がなければなりません。人間は、神様の真の愛を中心として、父子一体の関係をもって生まれたので、神様の心と体が真の愛によって統一されているように、私たち人間の心と体も真の愛によって自然に統一されていなければなりませんでした。ところが、サタンの愛と、生命と、血統を受け継いだ堕落人間の体はサタンの側に立ち、そして心は神側の一線に立って、これらが継続して闘っているのです。

 

 真の愛の起源である神様は、父の立場から人間に絶対不変の真の愛を相続しようとされました。真の愛の中では完全調和と統一が成されるので、神様の真の愛は、そのパートナーである人間に完全に相続されるのです。それだけではなく、このような真の愛の属性によって、相続権と同居権、同参権が自然に生じるので、人間も神様の子女として同行することができるようになっていたのです。また、人間相互間においても、真の愛を中心として相続権、同居権、同参権を享受するようになっていました。そして、人間は神様の真の愛を中心として、各自の理想と幸福を所有し、自然にこれを先代から後代に伝承するようになっていたのです。そのような世界が創造本然の世界でした。

 

 創造本然の人間は、その心と体に神様の真の愛をもち、それにそのまま感応しながら生活するようになっています。言い換えれば、心は、真の愛を中心として神様に感応し、体は、その心に自動的に共鳴するようになっているのです。心と体が闘うことのない真の統一の起源は、神様の真の愛をそのまま受け継いで体験するところにあります。心と体が統一体になるという人間の理想は、神様の真の愛を完全に所有する時に成し遂げられるのです。心と体が真の愛を中心として統一されるところから、真の自由と平和の理想が出発できるようになるのです。そして、心と体が統一された基盤の上で、自由で平和な個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を成し遂げることができるのです。

 

 真の愛は、神様と連結しています。真の愛の根は、自分を中心として連結されていません。根本的に神様と連結されているのです。そして、神様は永遠の存在なので、真の愛に連結されれば自動的に永遠の存在になることができるのです。これはすべて理論的です。

 

 真の愛は、どこから生じるのでしょうか。真の愛は、「ため」に生きるところから生じるのであり、「自分のために生きなさい」と言うところには真の愛はありません。なぜでしょうか。天地創造の根本、出発がこの注入からだったのではありませんか。世の中のすべてのことは、自己投入です。愛の理想を探し求めてきた神様のこの宇宙創造の軸は、注入からです。引っ張り込むことからではなく、投入するところから始めたのです。自らの生命を投入しても忘れてしまうことができる立場になることが、真の愛の道理だということを知らなければなりません。

 

 真の愛とは何でしょうか。自らの生命までも投入し、また投入しようというこのような立場、与え、また与えて忘れることができる立場からのみ、真の愛が始まるのです。真の愛は、天地を貫くのです。死の世界も貫いて上がっていくのです。生命の世界でも、強い心でも、どこでも貫いていくことができるのです。愛の通じない所はありません。愛は、秘密の部屋にも通じるのです。

 

 真の愛とは何でしょうか。投入して忘れてしまい、投入して忘れてしまうことです。立派な父母とはどのような父母でしょうか。投入して、投入して忘れてしまう父母です。「私が大学に行かせてあげたので、私が老いれば養って、その代価を払わなければならない」と言って、それを手帳に記録して計算書をあらかじめ準備する父母は、偽りの父母です。そのような父母は、神様のように理想的な孝子に対することはできません。

 

 真の愛は、いったい何をするのでしょうか。皆さんの心と体が闘っているのを、すべて統一することができるのです。今まで、心と体が統一しなかったのは、真の愛がなかったからです。偽りの愛をつくっておいたからです。真の愛でなければ一つにすることはできません。堕落は、偽りの愛によるものだったので、真の愛でなくては一つにする道がないのです。

 

 真の愛とは何でしょうか。全体を投入し、また投入し、また投入しようとすることです。永遠に投入するところから真の愛の真の相対を中心として、一つになることができる道ができるのです。

 

 真の愛とは、天理を立てるためのものです。ですから、愛も原理原則に基づくのです。愛は原理上にあるのでしょう? 自由も原理主管圏、すなわち原理上にあるのであって、原理を否定するものではありません。


   (2)真の愛の基盤は真の家庭


 真の愛の第一の故郷は、真の家庭です。そこには真の父、真の母、真の夫、真の妻、真の子女がいるのです。それが真の愛の家庭基盤です。

 

 家庭には、男性と女性がいます。それでは、その男性と女性は、どのような男性と女性ですか。創造理想から見るとき、再創造過程に適合した男性と女性です。すべてのものは同じです。男性と女性は、心と体が一つにならなければなりません。心と体が一つになるならば、男性が一つの主体、プラスになり、心と体が一つになった女性をマイナスとして、それと一つになろうとするのです。

 このようにして、夫婦が大きなプラスになり、子女と一つになろうとするのです。家庭は、この原則に従って、主体と対象によって一つになるのです。プラスとマイナスがこのように一つになったものが父母になり、夫婦になり、兄弟になり、このように主体と対象によって一つになるための三段階の内容を備えて結束したものが家庭です。

 

 心と体が一つになり、夫婦が一つになり、父母と子女が一つになる、それ自体の力は何でしょうか。愛の力です。真の愛の力です。それでは、真の愛の力は、どこから出発するのでしょうか。皆さんが結婚する時、相手が自分よりも百倍、千倍、万倍、無限大に素晴らしいことを願うのです。無限大です。

 そのような心は、どこから来たのでしょうか。神様から来ました。人間もそうであるように、神様も、御自身の対象が無限大の価値になることを願っているのです。ですから、絶対的であり、永遠であり、唯一的な対象の愛を中心として願うのです。その愛の力は、どんどん大きくなろうとするのです。小さなところから大きくなっていこうとするのです。真の愛だけが大きくなることができるのです。そのようにして、この愛を通じて宇宙と連結されるのです。すべて同様の公式です。

 

 人間は、なぜ生まれたのでしょうか。それは愛のためです。真の愛のためです。真の愛とは、いったいどのようなものでしょうか。宇宙のすべてのものを与えても得ることができない価値をもっているものです。その真の愛をつかめば、神様をつかむことができます。神様の本体をつかむことができます。ですから、結婚というものは偉大なものです。どんぶり勘定式ではありません。縦的に完成し、横的に完成し、神様と一体となるのです。縦横の完成や前後完成という、すべてのことがそこで成し遂げられるのです。

 

 皆さんは真の人間になりましたか。真実の子女がいるかというのです。子女のために、父母は投入して忘れてしまい、また投入します。そして夫は妻のために、また妻も夫のために投入して忘れてしまい、兄弟もやはり同じように投入して忘れてしまう、このような基準が、創造理想の愛を中心として、真の神様が願った理想的な出発点だったのです。

 

 父母は家庭の王であり、氏族の中心は氏族の王になるのであり、民族の中心は民族の王になるのであり、世界の中心は世界の王になるのです。アダムとエバがこのようになるのです。神様を主体にすれば、人間は対象になるのです。それで、家庭の中心の王、すべての中心の王になれば、神様もここで王になるのです。プラスであり主体です。いくら大きくても、この公式に適合しなければなりません。

 

 神様は、相対のためにこの宇宙を造りました。神様も独りでいれば、孤独です。皆さんも独りでいれば孤独でしょう? ですから、相対が必要です。

 パートナーが必要なのです。それは何のパートナーですか。愛のパートナーです。そのような愛の主体である神様が投入して忘れ、無限に投入して忘れてしまう観念をもって始めるならば、その相対となるパートナーも、無限に投入し、無限に注入し、刺激することができる相対として立たなければなりません。神様の愛は、投入して忘れてしまう思想です。このような思想なので、自ら自身を消耗させる奉仕と犠牲の精神によって宇宙が生じ始めたのです。

 宇宙の存続が始まりました。それで、神様も愛の相対が必要です。皆さんも愛の相対が必要でしょう? 神様も真の神様なので、真の愛を中心として真の相対と愛し合うことができる、そのような位置を中心としてこの地上に定着しようとするのです。

 

 定着する基盤は何かというと、家庭です。これが基礎です。これが単位です。公式は単位を通して連結するのです。神様が喜ぶことができ、神様が踊ることができ、神様が笑うことができ、神様が歌うことができる定着的出発地はどこでしょうか。それは国でもなく、世界でもなく、いかなる男性や女性でもありません。男性と女性が一つになって神様の相対的立場で定着することができる家庭です。そこから、すべてのものが出発するのです。すべての出発です。理想、自由、幸福、すべてのものの出発です。すべて同じ公式です。

 

 真の愛を実践しなければなりません。「家庭盟誓」を暗唱する時は、必ず心と体が一つになり、夫婦が一つになり、息子、娘が一つになった上で唱えるのです。

 偽りの愛が始まることによって、心と体が分裂し、夫婦が分裂し、兄弟が分裂したので、蕩減復帰の原則によって一つになり得る家庭を取り戻すためには、心と体が一つになり、夫婦が一つになり、兄弟が一つになることのできる位置を再び築かなければなりません。そのようにすることによって、天上天国と地上天国とが連結されるのです。


  二) 本郷の地を求め

   (1)本郷の地の真の意味


 本郷とは、どのような所でしょうか。行きたくて、見たくて、暮らしたい、そのような所です。私たちの心が行きたいと思い、心と共に体が行きたいと思う、そのような所です。心が慕うと同時に体も慕い、永遠に安息することができて幸福の基台だと誇ることができる本郷を、私たちは訪ねていかなければなりません。今までの歴史過程において、数多くの人々がこのような本郷を慕い、追求し、欽慕する途中で死んでいきました。また、今までの数多くの宗教人や哲人たちも、この本郷の地を探すために苦労してきたということを、私たちは知らなければなりません。ですから、本郷の地は必ず現れなければならないのです。

 

 本然の園は、理想の園です。有無相通(注:あるものとないものを互いに融通すること)の世界であり、兄弟の感情が万宇宙のどこにおいても通じる世界です。今日のように、民族的な感情、あるいは国家の主権的な違いをもって論議できるような理想と主義の世界ではありません。民族の差別、あるいは国家の主権など、そのようなすべてのものを越えて論議する世界です。人間の経済的な事情や文化などという条件の違いをもって論議するのではなく、心情をもって論議する世界です。

 

 本来、人間始祖が堕落していなければ、その本郷はどこでしょうか。アダムとエバが生きたエデンの園であり、その村であり、その山河であることに間違いありません。今日、堕落した父母の血統を受けて生まれた人間たちは、「本郷!」と言えば、自分たちが生まれた所を思い浮かべますが、今日の人類が追求し、慕っている理想的な本郷というものは、あまりにもでたらめなものです。

 今日、統一教会が探し求めていく最高の目的地はどこでしょうか。失ってしまった本郷を捜し求めていかなければなりません。その本郷には両親がいらっしゃり、兄弟がいて、親戚がいます。そこは、彼らが悲しみの中で私たちを迎えるのではなく、永遠の喜びと幸福の中で迎えることができる所であり、そしてその喜びが一時的な喜びで終わるのではなく、永遠に続く、そのような本然の場所を私たちは訪ねていかなければなりません。

 

 本然の地は、悪が宿る所ではありません。悪と絶縁し、あふれる本然の愛を中心として、永遠無窮に幸福を謳歌して暮らす永遠の統一世界です。本郷というものは、幸福を謳歌し、父母の愛と家庭の愛に浸り、天地万物を主管しながら天地が喜ぶ中で永遠に生きたい所です。

 

 私たちが本郷の地を慕うのは、そこには誰よりも近い父母と兄弟と親戚がいて、常に私を導いてくれ、いつどのような時に訪ねていっても常に私を変わらず迎えてくれるからであり、私が困難な目に遭えば、それに同情し慰労してくれ、私を喜んで迎えてくれるからです。

 

 本郷が慕わしく、恋しくて訪ねていったとしても、もしそれがなければ、切に恋い慕った心情はなくなり、かえって嘆息の条件をもって帰ってくるようになるということを知らなければなりません。本郷の地には、必ず迎えてくれる人がいなければなりません。

 

 本郷というと、皆さんは何を連想しますか。本郷には自らの愛する父母がいて、愛する村があり、愛する家があり、愛する兄弟がいます。私たちが故郷を遠く離れて外国に行くようになれば、その本郷の範囲は広くなり、祖国、すなわち国までが本郷に入ってくるようになります。また、宇宙、あるいは天宙という見地から見れば、この世界が私の本郷になります。このように、眺める範囲が大きくなればなるほど、その本郷の範囲もそれに比例して大きくなっていくということを、皆さんは生活過程においてよく感じるはずです。

 

 本郷を訪ねていかなければなりません。エデンで堕落せずに完成していれば、私たち人類の先祖は神様と同苦同楽(注:共に苦しみ共に楽しむ)できるそのような本郷の基地に行くのです。宗教指導者や父母や先生の指導を受けることなく、良心の命令に従って自らの行くべき道、天理の大道を行くのです。「良心を教育しよう」という言葉を聞いたことがありますか。良心は、自らの一生において知らないことがありません。

 

 皆さんは、みな故郷をもっているでしょう? ところで、神様の本郷はどこでしょうか。神様の本郷の地があれば、その本郷から一族が生じ、その一族から民族が生じ、民族から国家と世界が生じ、それによって地上に天国が生じるはずです。この地球星に神様の本郷の地があるとすれば、行きたいですか、行きたくありませんか。行きたいのです。ひどく愚かな母、父、お兄さん、お姉さんが暮らす故郷であっても行きたいと思う人間であるのに、神様の本郷に行きたいとは思わないでしょうか。神様の本郷は、私たちすべての故郷であるのに、行きたいと思わないならば、それはうそです。

 

 神様がこの地上に着地し、家庭をもって生活できる所ができるようになれば、そこは、人類全体を代表した位置になるのです。ゆえに、神様が生活を出発したその家庭基地は、人類の本郷の地になるのです。それゆえに、神様が暮らすその根本の出発地が故郷になるのです。

 堕落したがゆえに、神様を中心として、その出発地から出発することができませんでした。家庭がそのような立場になることができなかったのです。そのような故郷がありません。先生が現れることによって初めて、真の愛を中心として神様と真の父母が一つになって着地して出発することができる起源を備えたのです。そこは、人類の本郷の地とならざるを得ません。復帰されたそこが本然の形態の出発基地と同じなので、そこは、神様の愛を交わすことができる真の愛の基地であり、人類の本郷の地となるのです。

 

 神様が願われる国、すなわち祖国は、どこでしょうか。人類の祖国は、どこでしょうか。人類の真の父母が来られるその国が祖国です。それが道理です。祖国はどこでしょうか。(人類の真の父母が来られる国です)。人類の本郷の地はどこでしょうか。アフリカなど、国は数多くありますが、人類の真の父母として来られたそのお方の生まれた故郷が、宇宙とこの歴史的な世界の本郷の地になるのです。

 

 神様が願われる祖国は、どこでしょうか。人類の本郷の地は、どこでしょうか。真の御父母様が誕生された故郷こそ、歴史的であり、宇宙的であり、世界的な本郷の地になるのです。

 先祖と、思想と、伝統を受け継がなければなりません。それをしなければ、継子の扱いを受けます。韓国民族は選民にならなければなりません。そのようになるためには、先生が内外をひっくり返さなければなりません。韓国が本郷であり、祖国であるとすれば、すべての世界的な文明は、韓国で成就しなければなりません。私たちが韓国を本郷の地とするためには、今日、忠誠、精誠、愛、犠牲の祭物になることを覚悟しなければなりません。そのようにしなければ、韓国は本郷としての資格を失うようになります。良いものをつくるためには、実践が必要です。血と汗と涙を流しながらでも成し遂げなければなりません。

 

 もし韓国が神様の願われる、この世界の本郷の地となり、宇宙万民の祖国となれば、その国の新しい文明は世界を支配し、その国の言語は世界語になり、その国の男女は世界的な男女になるはずです。本来の父母を中心として生まれていれば、言語は一つです。

 堕落したがゆえに分かれたのです。それで、韓国が祖国の地、本郷の地となり、神様が願われる国になれば、今後、韓国は持ち上げられることでしょう。神様が踊れば、韓国を持ち上げて踊るのです。今まで、神様は一日として踊ったり笑ったりすることがおできになれなかったのです。

 

 愛の本山が韓国です。人類の愛の家、愛の故郷、愛の国を成し遂げることができる本郷の地は韓国です。それで、真の父母であるというこの人は、真の愛を中心とした絶対不変的な家庭理想を中心として、国家形態、世界、天国、地上と天上天国を連結する直通行路を開拓したのです。外国でもそのようなことを知っています。ですから、自らの国を捨て、韓国に来て生活しようとするのです。

 

 地上天国で神様の家族として生活した人々が行く所が、霊界の天上天国です。天上が私たちの本郷の地です。天上天国が私たちの本郷の地なのです。しかし、人間の堕落後、今までそのような地上天国が築かれることはなかったので、天上天国は空いています。天上天国に入っていった人はいないのです。


   (2)私たちが求めていかなければならない本郷の地


 懐かしい本郷の地は、どこですか。父と母がいる所です。それは、間違いありません。今の人間世界は、堕落したアダムとエバが神様の前から追放され、失楽園したのちに結婚して、息子、娘を生むことによって繁殖した五十億人類によってできている世界です。「そうではない」と言う人はいません。このように病気になったので、行くべき道が分からないのです。事件が起こり、孤児として流れてきました。出発が不明確であり、目的地が不明確です。人類は、どこに行くべきかを知らないのです。どのようになるのか、誰も知りません。それを知らないので、神様が五十億人類に教えてあげようと、まず先生に教えてくださったのです。統一教会に入ってくれば、神様を知らない人はいません。

 

 堕落することによって、私たちは本郷の地を失い、故郷を失ってしまったのです。本来、私が堕落しないで生まれていれば、この世で生きて死ぬ時に、どこで死にますか。本郷の地です。それで、死んでも本郷の地に埋めてもらいたいと思うのです。暮らすならば、どこで暮らしますか。本郷の地です。故郷の地で暮らすはずなのに、生まれてみると怨讐の地であり、悲しい地であったのです。

 今、生きているこの場所は、私たちが本拠地とし、幸福の基台であると賛美することができる地でしょうか。違います。それゆえに、通り過ぎなければなりません。家庭よ過ぎ去れ、国よ過ぎ去れ、世界よ過ぎ去れ、共産主義も民主主義も過ぎ去れ! 先生が願うのは、本郷の地の愛主義であり、父母の愛を分け、血肉を分けた兄弟主義です。イエス様は、漠然とそのようなことを叫びましたが、今は具体的です。

 

 本郷を求めなければなりません。本郷は、どこでしょうか。イエス様の本郷は、どこでしょうか。イエス様が死ななければ、イスラエルの国がイエス様の本郷になっていたはずです。世界の祖国の出発は、イスラエルの国を中心としてなされていたはずです。イエス様がこの地上で負う責任と、担当しなければならない使命とは何でしょうか。本郷の地を創建しなければならないということです。堕落したすべての人類の前に本郷の地となるためには、すなわち故郷の地となるためには、天が探し立てた父母が登場しなければなりません。そのようにならなければ、本郷の地が現れることはできません。父母がいないのに、兄弟が現れることができますか。できないのです。

 

 故郷には誰がいますか。親戚がいて、兄弟がいて、父母がいなければならず、それから家庭を中心とした所有物がなければなりません。なぜ故郷を恋しがるのでしょうか。自らの命の心情的な因縁がそこから始まったからです。それゆえに、自らの生命の価値を重要視する限り、故郷を忘れてしまってはいけません。

 

 「希望の祖国の一時が早く来てください!」。天の一国家を立てることによって、今まで天の前に怨讐であった大サタンを審判し、悪を取り除いてしまい、善だけを中心とした平和の天国をこの地上に成し遂げなければなりません。それが神様の願いであり、イエス様の願いであり、今までの摂理路程において多大な貢献をした私たちの先祖の願いだったということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 

 今までの人間たちは、恨を抱き、悔しく、かわいそうな神様であることを全く考えませんでした。よく分からなかったのです。御自身の息子、娘である世界の万民が、怨讐の鉄柵網にかかり、「死にそうだ」と言う恨みの声が天地に響きわたっているのに、神様が「ああ、お前たちは、何をそのように大きな声を出しているのだ。私はちょっと寝なければならない」と言って、腹をなでて眠る神様でしょうか。神様は、休むことなくこの地を復帰してきているということを知らなければなりません。

 

 「本郷の地を求めて」と言いました。ですから、今までの宗教世界では、出家を命令し、独身生活を命令したのですが、統一教会はその反対です。還故郷です。「故郷に帰りなさい」というこの言葉は、宗教世界の歴史にはなかった福音の中の福音です。これは、一度しかない朗報の中の朗報です。そうであるのに、還故郷の道をのろのろ歩んでいた罪人たちがどれほど多いでしょうか!

 それで、盟誓文の第一節は何ですか。「真の愛を中心として、本郷の地を求め」です。その地を訪ね求めていかなければなりません。「神様の創造理想である地上天国と天上天国を完成すること」を誓うのではありません。創建しなければなりません。私の手でつくらなければならないのです。悪魔の世界から、きれいに取り戻してこなければなりません。サタンの世界圏を完全に回復しなければなりません。それゆえに、完成ではなく、創建なのです。これが違うのです。

 

 故郷に帰っていって孝子、忠臣になり、神様の創造理想であるモデル的家庭と国をつくりあげ、王権を成就することによって、地上天国と天上天国になるはずでした。しかし、堕落してもう一つの世界ができたので、これを神様の大家庭の理想を中心として一つにしなければなりません。そのままにしておいてはいけないのです。天上世界と地上天国を一つに連結しなければなりません。これを早めるためには、発奮し、情熱的な立場から発展させなければなりません。

 

 「私たちの家庭は真の愛を中心として、本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建する」ということは、地上天国と天上天国を私がつくるということです。家庭を失ってしまったので、家庭をつくらなければならないということです。私たちの家庭は真の愛によって、本郷の地を中心として、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建するのです。本郷の地です。家庭を中心とした本郷の地です。国ではありません。故郷へ帰らなければならないということです。

 皆さんにそのような家庭があれば、故郷の地へ帰っていき、地上天国と天上天国をつくりあげなければなりません。故郷さえ取り戻せば、今は国と世界のすべてが自然に一つになるのです。心配する必要はありません。地上天国と天上天国が自然に成し遂げられるのです。それが家庭から起きるのです。

 

 還故郷とは何でしょうか。真の愛の根源地が神様なので、その本然の地に帰っていき、その根や枝や実と共に永遠に生きようということです。愛を中心として、平和に、幸福に、永遠に暮らそうというのが、本郷に帰っていくということの道理です。簡単なことです。

 

 いかに本郷を連結し、神様と連結するのでしょうか。本来、皆さんが生まれた所が故郷ではないですか。すべての人々は、故郷から全世界に横的に連結されるのです。今まで、全世界の人々は、天側の故郷をもつことができませんでした。それを失ってしまいました。本然のアダムの位置を探し出すことができなかったのです。私たちがその場所を探し出していかなければなりません。そこに帰っていかなければなりません。その場から家庭を出発し、氏族を出発して、国と世界まで進んでいかなければならないのです。これは理論的です。観念的なことではありません。そのようにすれば、行くことができる道がすべて現れてくるのです。

 個人の基盤の上で先祖のアダムを復帰し、イエス様の立場を復帰しなければなりません。そのようにすれば、完成時代において、再臨主である真の父母を中心として本郷に入っていくことができるのです。そこに入っていけば、すべてのものは皆さんの所有となるのです。皆さんの立場はそのような立場です。皆さんがそのような概念さえはっきりと知って歩んでいくならば、サタンは退いていくのです。ですから、氏族的メシヤの使命を完遂しなければなりません。

 

 定着する所で何を相続してあげるのでしょうか。個人ではありません。家庭です。それを知らなければなりません。それで、「家庭盟誓」が出てくるのです。ですから、「家庭盟誓」を徹頭徹尾、教育しなければなりません。この「家庭盟誓」を見れば、第一節は、真の愛を中心として、本郷の地を求め、創造理想である地上天国と天上天国を創建しようという内容です。それ一つをもって、すべて成し遂げることができるのです。


  三) 本然の創造理想


 神様のみ旨とは何でしょうか。真の愛です。創造理想を完成しようというのです。神様の創造理想を完成しようとは、どういうことでしょうか。四位基台を完成しようということです。アダムとエバが結婚することによって神様と人類が一つになっていれば、万物がすべてその愛の上で一体となるので、神様を占領し、創造された被造物を占領することができる第二の主人になるのです。神様は目に見えない主人となり、私たちは目に見える主人となるのです。神様は内的な神様であり、私たちは外的な神様になろうというのです。みな神様になりたいという欲望をもっています。

 

 神様の創造理想である四位基台の完成は、愛によってアダムとエバが神様と一つになることです。上下、前後、左右に神様が入ってくるのです。そのようにして、何をしようというのでしょうか。第一は、人間の愛と神様の愛を完成することです。神人愛の完成です。一体です。愛して一つになれば、所有権が決定します。永遠の愛には、愛の所有権が決定されるのです。夫の前の女性に対して、夫が永遠の所有権をもつのであり、女性の前の男性に対して、女性が永遠の愛の所有権をもつようになるということを知らなければなりません。

 

 神様は縦的な父であり、縦的な主体であって、人間は横的な主体です。縦横が一つになってこそ構成体を完成させるのです。立体的な構成体というものは、縦横が一つになり、前後が一つになっていなければなりません。それで、縦的な存在とは何かというと、父子の関係です。横的な関係、東西の関係は夫婦の関係であり、兄弟の関係は前後の関係です。このように、一つの家庭に愛の理想の一つの球形を形成しようとすることが神様の創造理想です。

 それでは、神様はどこにいらっしゃいますか。中央にいらっしゃいます。父として代表し、夫として代表し、母として代表し、妻として代表し、息子として代表し、お兄さんとして代表し、弟として代表できる、中心存在としていらっしゃることを願われたのが神様の創造理想です。それはどういう意味かというと、神様は、男性と女性と永遠に共に暮らしたいということです。彼らが父母になれば、父母の位置で永遠に共に暮らしたいと思うのであり、彼らが夫婦になれば、夫婦として永遠に暮らしたいと思うのであり、神様は父母であられるので、父母として永遠に人間と共に暮らしたいと思ったその基台が家庭だったのです!

 

 本来、神様の創造理想というものは、真の父母を標準としてつくられたのです。創造のすべての始まりは……。真の父母を標準として、すべての被造物を創造されたのです。真の父母が完成する時間、すなわちアダムとエバが完成した段階に入っていき、真の父母が聖婚式を行うその時間は、神様の聖婚式と同じです。一箇所において成されるのです。神様は真の愛の主人であり、真の愛の根となられるお方なので、その真の愛を中心として、これと人間が一つになり、真の愛の根をこの平面世界、人間世界、地上世界に拡張することを願ったのが創造理想でした。


 しかし、堕落によって、血統的にはサタンの血肉を受けました。このサタンの血と、サタンの血統と、地獄をすべて取り除いたとしても、天国に入っていくことは難しいのです。これをすべて取り除いたとしても、私たち人間は、神様の創造理想を中心として、神様と真の父母が真の愛を中心としてもつことができるその血統的因縁の世界とは、元から関係がないからです。

 

 良心は最高の理想を願い、体も最高の欲望をもつのです。それゆえに、皆さんが考えても、男性でも女性でも、何を願うかというと、この世界の王になり、女王になることを願うのです。それが神様の本来の創造理想です。横的に無限大の中心存在となり、縦的には神様と同じ存在になるのです。神様以上の最高の存在がいますか。それでは、女性と男性は何かというと、神様の聖殿です。目に見えない神様の内的な実体なのです。

 

 神様が願われた創造理想は、最初は一粒の種を植えることです。これが公式です。一粒の種を植えるのです。そのように植えられた一粒の種が、絶対的な男性の代表です。二つではありません。女性も同じです。そのような女性がクイーンであり、そのような男性がキングです。そのようなキングとクイーンが愛で一つになることが理想です。そのように連結するところに神様が臨在されるのです。堕落世界には、そのような内容の理想的な公式基盤がありません。

 

 愛は一体を成すのです。父子一体、夫婦一体、兄弟一体という言葉は、愛を離れてはありません。男性と女性の体は、神様の実体です。これが一つになる時は、縦的な基準を求めて上がっていくのです。この一点に集まるのです。縦的基準がまず連結されるのです。

 縦は引力に引かれて下りてきます。横よりも早く下りてきます。自然に来て縦的基準がぴったり中心となり、これらが一つになって回るようになれば、この全体が一を中心として球形を成すのです。これが核となり、アダムとエバが夫婦になって一つの愛の球形体を完成するのです。その位置が息子、娘の完成した愛の実体です。その位置が天国家庭の愛の理想の完成体です。その位置が男性と女性が理想とした神様の創造理想であり、根源的な核心点を爆破、結実させたそれ自体なのです。

 

 平和の世界において根源となるものとは何でしょうか。神様が中心になるのです。神様を中心として、神様のみ旨と神様の創造理想を中心として、その方向を一致させ、目的の一致を成し遂げるところにおいて、平和の世界が可能だったのです。神様のみ旨とは何でしょうか。これは重要な問いです。統一教会では、神様のみ旨は何であるといいますか。第一は、創造理想を完成することです。簡単です。それでは、創造理想の完成とは何でしょうか。四位基台の完成です。四位基台の完成とは何でしょうか。理想的家庭です。簡単なことです。その理想家庭になっているかということが問題です。

 

 神様の創造理想から見るとき、真の男性と真の女性を描き、真の愛と真の生命と真の血統を連結させて、それが安着した位置から家庭が出発するならば、神様の愛と神様の生命と神様の血統が縦的に降りてきて天と地が一つになり、地で定着し、横的に拡大していかなければなりません。相対的な愛を中心として家庭ができれば、個人と家庭を中心として、氏族になり、民族になり、四方性を備えるようになるのです。

 

 未来において、私たちが天上天国の中心になり、地上天国の中心となるのです。天上天国は縦的基準であり、地上天国は横的基準ですが、これが一つになって地上天国と天上天国が統一されるのです。これは、神様の真の愛を中心として、統一的大家族の編成を模倣したものです。これが神様の創造理想です。

 

 真の愛を中心として、神様が人間を無限の価値をもつ者として完成させることによって、神様も真の愛の完成を成し、永遠の理想愛が宿る創造理想世界が完成するのです。

 神様の愛の理想は一人では完成することができません。これは、必ず家庭を通して、夫婦の結婚を通して成されるのですが、今までこの内容が分からなかったので解決することができませんでした。堕落して偽りの父母となることによって、いまだに偽りの後孫は天国に入ることができないのです。神様が創造理想によって立てられた天国に入っていくことができません。この中間段階にとどまっているのです。イエス様も同様です。イエス様がなぜ楽園に行かれたのかというと、結婚することができなかったからです。

 それゆえに、霊界にいるすべての先祖たちも、すべてばらばらになっているのです。どこに行くのかというと、どれほど愛し合っている夫婦が霊界に行ったとしても、神様の国、天国に入っていくことはできません。中間天国のようなところに入っていき、自らの心霊状態に該当する場所に行くのです。ですから、家族が十人いれば、みなばらばらになっているのです。

 

 世界と同化することができる核、モデルケースを家庭で完成させようとするのが神様の創造理想です。それは夫婦を通じて成されます。それゆえに、もし夫婦がまっすぐ行かずに曲がるようになれば、四大心情がめちゃくちゃになります。家庭で完成した心情圏は、天国に入っていくようになっているのであり、そのようにできなければ、天国ではなく地獄に行くようになるのです。初愛の貴さを知らなければなりません。これを知ることによって、統一教会の家庭がどれほど素晴らしい家庭かということを知らなければなりません。

 

 神様のみ旨は、創造理想の完成です。創造理想の完成は、真の愛の理想の完成です。これが堕落したので、再び戻ってくるためにはどのようにしなければならないのでしょうか。長子権復帰、父母権復帰、王権復帰、皇族圏復帰を成し、そのように生きて天国に入っていくことができる本然の基準を完成しなければなりません。これが統一教会の摂理史の主流です。創造摂理が主流ですが、堕落したので復帰摂理がすべて主流になったのです。


  四) 地上天国と天上天国を創建

(1)地上天国と天上天国の出発基地は家庭


 アダム家庭は、神様の理想と一致した真の愛の家庭を成さなければなりませんでした。人間始祖のアダムとエバは、神様の無形の性稟を実体的に完成し、神様のみ旨と愛を宇宙に伝えるという期待の中で創造されました。アダムとエバとその子女たちは、全人類が従うことができる根本原理を生活の中で確立しなければならなかったのです。

 そのようになれば、アダムとエバの後孫たちは、心と体を一つに完成し、神様と一つになった個人、夫婦が一つになった家庭、また子女たちと一つになった家庭を築き、全地上に自由と、平和と、幸福と、希望の満ちあふれた安定した基盤が成し遂げられていたはずです。その典型が家庭や国家にとどまることなく、世界と全宇宙に広がっていくのが神様の理想でした。家庭で成された天国の模型が国家全体に拡大され、国家圏の天国が全世界に拡大され、世界圏の天国が全天宙に拡大されるのです。

 

 人間の最も基本的な心性と人格は、家庭から形成されます。家庭は、愛と人格、そして生命の出発であり、その根本基台となります。人の一生というものは、家庭の基盤の上で父母の愛によって生まれ、息子、娘の位置から夫婦の位置、父母の位置、祖父母の位置へとその位相を異にしていく中で愛の人格体として完成し、愛の中で暮らしたのちに、最終的に天国に行くようになっているのです。これが創造原理です。

 家庭を通して歴史と国が生まれ、理想世界が始まります。これがなければ、個人の存在する意味もなく、血統の伝承もありません。したがって、家庭は、すべての価値と理念、そして制度と体制を優先する、最も貴い人間の愛と生命の本拠地となるのです。

 

 神様を歓迎し、真の父母と共に、地上で家庭を中心として神様に侍りながら生きることによって、地上の家庭から地上と天上天国の家庭となり、統一された世界へ入っていくのです。ですから、皆さんの家庭で神様が暮らすことができなければなりません。神様が暮らしたいと思われるエデンの家庭を築かなければなりません。神様は、アダムとエバの家庭で暮らすことができなかったので、皆さんの家庭に神様をお迎えして暮らさなければなりません。

 氏族的メシヤとして、皆さんの一族が神様に侍らなければなりません。皆さんの国が神様に侍らなければなりません。皆さんの世界が神様に侍って暮らし、天地が神様に侍って暮らさなければなりません。そのように神様に侍り、共に暮らすことができる出発基地が家庭です。私たちの家庭が地上天国と天上天国の出発基地であるということを知らなければなりません。

 

 神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されればすべてが同じ体となります。父母は、神様を身代わりした生きている神様であり、夫と妻は、お互いにもう片方の神様であり、息子、娘は、もう一つの小さな神様です。このように三代が真の愛を中心として築いた家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を築かなければ、天国は築くことができません。家庭というものは、宇宙の中心です。家庭完成は宇宙完成の基礎となるので、家庭で愛するのと同じように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。このような場合、神様は、全体の宇宙の父母であり、愛の複合的な中心の位置にいらっしゃるのです。

 

 神様を中心として一つになる時、千態万状に回るようになるのです。したがって、父母が子女を愛するのを見習って、兄弟間においても、兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛して一元化された家庭には、家庭愛が花開くのです。またこれは、社会愛になることができます。これがさらに進めば、民族を愛する民族愛になります。このように愛すれば世界ができるのです。しかし、今日の世界においては、これが漠然としているのです。

 

 アダムとエバが堕落していなければ、神様は、何をしてあげようとされたのでしょうか。神様は、祝福によって結婚式をしてあげ、息子、娘を生ませて神様が喜ぶことができる家庭を編成し、これを繁殖させて氏族と民族を編成しようとされたのです。これがさらに広がっていけば、その世界は、何主義の世界でしょうか。神主義の世界であると同時に、アダム主義の世界です。その世界に理念があるとすれば、それはアダム主義の理念であり、そこに宇宙観があるとすれば、アダム主義の宇宙観であり、天宙観があるとすれば、アダム主義の天宙観であり、生活観があるとすれば、アダム主義の生活観です。

 五色人種の皮膚が色とりどりなのは構わないのです。それは環境によって変わったことなので、数多くの民族の皮膚の色が異なるのは構わないというのです。それでは、どうして数多くの民族の言語が異なるようになったのでしょうか。人類始祖が堕落したので、天が分立させたのです。

 

 兄弟を通して国民が形成され、人類が形成されるのです。兄弟は前後を表示するものですが、それは肉となるのです。平らになっているところに肉がついたのです。ここから円形が生じるのです。ですから、円形をつくるのが兄弟であり、国民です。兄弟が広がって国民になるのです。ですから、兄弟愛というものは世界愛と通じるのです。多くの兄弟たちが育つ家庭は、世界の人類を抱いて理想的な地上天国と天上天国をつくるモデルのようなものです。それゆえに、兄弟はここから広がっていくのです。

 

 地上天国と天上天国の民を愛さなければなりません。これは兄弟です。三つの愛がそこから成されるのです。兄弟同士で愛することができる、このような一つのモデルが天国の軸です。理想的天国建設の一つの軸です。地上の軸です。地上軸、天上軸となり、地上の国と天上の国が交代して天国を育てていくならば、天は発展していきます。なぜ神様が人間を造られたのかというと、縦横の理想構成を願ったからです。なぜ子女を必要とされたのかというと、横的な前後を中心として球形を成さなければならないからです。それで、創造されたのです。

 

 家庭は、どのような家庭でしょうか。神様は、おじいさんの位置です。アダムは、現在の家庭を代表しているのであり、息子、娘は、未来です。神様は、過去の象徴であり、父母は、現在の象徴であり、息子、娘は、未来の象徴です。このような愛の理念を中心として、一つの家庭で四大心情圏と三大王権が展開しなければなりません。この心情が完成すれば、どのようになるでしょうか。神様が地上の表面に姿を現され、家庭においてはおじいさんの位置に立たれ、その家庭を治めて天上天国と地上天国が一つになって完成できるようにされるのです。それで、繁殖した子女たちは、二つの国の相続者として連結されるのです。

 

 家庭は、地上天国と天上天国のモデルです。そこには、祖母、父母、夫婦、赤ん坊まで、四代の系列があります。これを拡大すれば、世界各国においても、祖母、父母、自らの夫婦、赤ん坊のような四代の段階になっています。個人は家庭のために、家庭は氏族のために、氏族は民族のために、民族は国家のために、国家は世界のために犠牲にならなければなりません。より大きなもののために犠牲になるという原則を中心として外国に出て行ったとき、自らの家庭の父母、祖母、自らの夫婦、息子、娘以上に、また自分の国の人以上に世界の国の人を貴く思うならば、天国の本宮と一致した位置で完成し、天国のどこへでも入っていくことができるのです。

 

 神様を中心として地上天国と天上天国が統一され、縦的に神様と真の父母を中心として横的にカイン、アベルが一つになるのです。愛のゆえにつくったので、地上天国と天上天国は愛で一つになるのであり、神様の本然的な理想を中心とした主体と対象も、愛の理想を中心として一つになるのです。この宇宙、創造世界は愛から始まりました。それゆえに、神様も愛を中心として一つにならなければなりません。地上天国と天上天国の対応的な主体は何かというと愛です。

 

 人間の完成は、真の愛を中心として心と体が永遠に一つになり、そのようになった男性と女性が永遠の夫婦の愛を成し、そのような夫婦の愛を成した父母が真の父母の立場となって、そのような父母を中心とした歴史が、先祖から千年、万年変わることなく継続することによって、これを縦から横的に拡大するのです。そのようになった世界は、地上天国と天上天国になります。そこで天地合徳が成就されるのです。

 

 統一教会の原理の驚くべき点は何でしょうか。今までは、地上天国と天上天国がどのように一つにならなければならないかという理論的な根拠を知りませんでした。それは、真の愛を中心としてアダムとエバから始まるのです。神様は、内的なアダムの人格を身代わりし、アダムは、神様の外的な人格の代表者なのです。この二つが一つになるのです。

 それゆえに、神様の愛はアダムと共に出発するのですが、一つは縦的な出発であり、もう一つは横的な出発です。理論がちょうどそのようになっています。そのようになることによって、地上天国と天上天国が一体となるのです。それを理論的に説明することが可能です。今までの既成教会の神学をもってしては、それは不可能です。彼らは、創造主は神聖なものであり、被造物は卑しいものと見ているのです。そのように見ていながら、愛の理論をどのようにして立てることができますか。一遍に問題になるのです。彼らが主張しているように、神様は、何でも思いどおりにすることができるお方でしょうか。違います。神様にも思いどおりにできないことがあるのです。愛を中心としては、神様も思いどおりにすることができないのです。

 

 家庭というものは、世界を縮小させた横的な基盤です。ここから、国家と世界が展開していくのです。家庭とは何でしょうか。家庭は、世界の横的な縮小型であり、絶対的な中心の前に相対的な基準です。それでは、私とは何でしょうか。絶対的な中心がとどまることができる基台です。

 

 家庭は、すべての人類の男性と女性を縮小したものです。人類といえば、それは男性と女性です。家庭は、すべてのものを拡大することができる種です。種から繁殖して家庭、そしてその家庭が増え、それらの家庭が連合して数が増大することによって氏族となり、民族となり、国家、世界、天宙まで拡大していくのです。家庭は機関車です。ですから、トンネルを過ぎて目的地に走っていくようになれば、一番後ろを走っていた皆さんの国と世界は、自動的に天国に到着するのです。


   (2)天国創建は祝福家庭の任務


 「家庭盟誓」の第一節は環境復帰です。失ってしまったすべてのものを蕩減復帰しなければなりません。今までの宗教は、出家を要求し、独身生活を要求してきましたが、統一教会において初めて還故郷を命令したのです。「還国」です。世界的にとてつもない事件が起きたのです。宗教界にとってこれ以上の幸福はありません。それは言葉だけではありません。

 

 本郷の地を求め、それから何ですか。地上天国と天上天国を創建しなければなりません。追放されたので、すべてを失ってしまったのでしょう? 求めて何をするのですか。地上天国と天上天国を築かなければなりません。私が創造しなければなりません。失ってしまったので、すべてつくらなければなりません。盗まれたので、再び取り戻してつくっておかなければならないのです。千年、万年かかってもしなさいというのです。それで、統一教会では還故郷を唱えたのです。これは、宗教界にない出来事です。

 

 地上天国と天上天国は、アダムとエバが失ってしまったので、私たちが取り戻さなければ、神様もそれを取り戻すことはできません。悪魔は、さらにそれを破壊しようとするのです。地上天国と天上天国は、私たちが取り戻さなければなりません。「本郷の地を求め」と言いました。ですから、今まで宗教世界では、出家を命令し、独身生活を命令したのですが、統一教会はその反対です。還故郷です。「故郷に帰りなさい」というこの言葉は、宗教世界の歴史にはない福音の中の福音です。これは、一度しかない朗報の中の朗報です。

 

 「本郷の地を求め!」です。この地球星が本郷の地です。本郷の地において、本然の創造理想である地上天国と天上天国を完成するのです。何を通してですか。愛を通してです。みな本郷に帰っていくことができる愛の道に従ってきたのです。堕落した人々の本然の愛を復帰して、再創建するのです。

 

 地上天国と天上天国が一つになり、そこで神様の真の愛を中心として、一致した家庭生活をした人が、地上で暮らしたのちに天国の家庭へ移動していくのです。ですから、個人救援時代ではありません。

 キリスト教では、個人救援というのですが、それは違います。家庭救援が神様のみ旨です。堕落は家庭で起きたので、復帰も家庭で成さなければなりません。そのような時代が来ました。今までの地上の歴史時代においては、なかったことです。初めて家庭が、新しく定着時代に入ってきたのです。

 

 「本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します」。ここに「創建」という言葉を使いました。どうして「創建」というようになったのかというと、これは、私たちが再びつくらなければならないからです。ただそのままできるのではありません。つくらなければなりません。再創造しなければなりません。地上地獄になっており、天上地獄になっているので、私たちが再びこれを再創造しなければならないのです。

 「本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国を創建することをお誓い致します」。私たちがつくらなければならないということです。私個人において、地上天国と天上天国になるのが家庭です。家庭においてつくらなければならないので、「家庭盟誓」です。これをつくることができなければなりません。それは私たちがつくらなければならないのです。

 

 「家庭盟誓」の第一節は、還故郷です。故郷の地の環境へ帰っていくのです。ですから、「本郷の地を求め、本然の創造理想である地上天国と天上天国」と言ったのです。そこで失ってしまったのでしょう? 創造は誰がするのですか。私たちがしなければなりません。私がしなければなりません。家庭がすることができなかったので、アダム家庭がしなければなりません。

 先生が、その基盤をすべて築いてあげました。反対されなければ、今はそのようなみ言と内容をもってどこに行こうと、自動的に覇権を掌握することができます。どこかに行って、口を開けて話さなければなりません。眠っている町中の人々を起こして「集まってください」と言うのです。それでも集まらなければ、棒でたたいて、強制的にでも引っ張ってきて、三十分、一時間、二時間、説教するのです。「悪い話であれば反対しなさい」と言うのです。聞けば、有り難く思うようになっているのです。

 そのような絶対的権限をもって、一方的に一気に推し進めても、副作用がない環境条件ができあがってきているというのに、これを目で直視しながら行動することができなければばかだというのです。そのような者たちは、乞食に奪われてしまうのです。僕になるのです。 

 私たちの一片丹心とは何でしょうか。失ってしまった本郷の地を取り戻し、本郷の祖国を創建しようというのです。今日、「再建」という言葉を言うでしょう? 再建とは、あるものを取り壊して再びつくることです。統一教会の群れは、再建ではなく、創建しようというのです。これは材料もなく、このこぶししかありません。

 本郷の地がありますか。本郷の国がありますか。ありません。ないので創建するのです。創建するのですが、何を材料にするのでしょうか。皆さんのこぶしが材料であり、皆さんの体が材料であり、皆さんの骨が材料です。この体を動かし、骨を削り、すべての血と肉を注ぐようになれば、世界の金銀財宝が飛んでくるのです。それで、材料を購入しようというのです。

 

 皆さんにとって、「家庭盟誓」の文をもったということは有り難いことです。他郷で悲しく歩んできた宗教圏でしたが、「家庭盟誓」は、「帰郷しなさい」と言っているのです! 「還郷しなさい」と言っているのです! 「故郷へ帰りなさい」と言っているのです! 忘れることのできない言葉です。


   (3)還故郷と氏族的メシヤの使命完遂


 個人的なゴルゴタを越え、家庭的なゴルゴタ、氏族、民族、国家的なゴルゴタを越えて世界的なゴルゴタに向かっていかなければなりません。天は、私たちを前に立てていくことを望んでいるのではなく、今まで天が前に立って私たちの行くべき道を開拓し、私たちに「来なさい」と言っているのです。このような道を行くことができなければ、滅びます。滅びなければなりません。千回、万回、死ぬようなことがあったとしても、この道を行かなければなりません。

 今日、韓国人の手によってこのような本郷が創建されれば、世界の人々は、私たちを祖国の民として迎えることでしょう。私たちは、天が願われる園に向かって、きょうも歩んでいるのであり、あしたも歩んでいくことができる準備をするために集まったのです。ですから、力と精誠をすべて捧げ、世の中の何ものよりも貴く思いながらこの道を行かなければならないというのが、生まれながらの生涯の目的であるということを、皆さんは絶対的に知らなければなりません。

 

 故郷へ帰っていくのです。今はすべて追い出されています。追い出されたので、復帰していかなければなりません。完成した家庭として訪ねていくことができるのです。それで、本郷の地に訪ねていって何をしようというのでしょうか。そこで暮らすのではありません。

 失ってしまった地上天国と天上天国を、私が捜し出して築かなければなりません。今は、サタンが本郷の地を占領しているので、天国をつくらなければならないのです。なぜこれをしなければならないのでしょうか。真の父母が築き上げたものを相続してあげようというのです。真の父母が来て、世界的舞台において本郷の地を訪ねていき、アダム家庭が失ってしまったものを復帰して地上天国と天上天国を完成することができる基盤を築き上げたのです。先生が世界的基盤を築いたので、皆さんは、氏族的基盤を築かなければなりません。

 

 なぜ氏族的メシヤとしての責任分担を果たさなければならないのでしょうか。第一の理由は、皆さんの父母を救ってあげなければならないからです。父母は第一のアダムの立場であり、皆さんは第二のアダムの立場です。父母を復帰し、再創造してアダムの使命を完遂しなければなりません。第二の理由は、皆さんには故郷が必要だからです。氏族的メシヤの使命を果たすことによって、自分の故郷をもつことができるようになるのです。結局、氏族的メシヤの責任分担を果たさなければならない理由は、アダム家庭を完成するためです。具体的には氏族を教育しなければなりません。

 

 氏族的メシヤがいなければ、家庭基準を中心としてすべて連結されません。それが連結できなければ、皆さんの故郷はあり得ません。先生の故郷はあっても、皆さんの故郷はありません。家庭をすべて復帰しておけば、今後入籍時代が到来します。入籍時代が到来すれば、部族の編成が起こり、入籍する順序の系列ができるのです。先に入籍する人々がお兄さんになり、彼らを先祖のように侍る新しい体制ができます。全世界をすべてそのようにして、初めて地上天国の完成が成されるのです。

 

 統一教会の教団は、氏族です。私の血が共に動じるのです。私が涙を流せば涙を流さなければならず、私が喜べば喜ばなければなりません。血族です。五色人種を超え、文化背景の異なるすべての国家基準を越えて、壁を突き崩して一つに団結した新しい天国創建のための民族です。この民族が神聖になれば、天国の「創国」が顕現するのであり、そのような神聖な「創国」の民族として生きていく時、「創世界」が展開するのであり、その世界の上に天宙的な地上天国と天上天国が連結するのです。

 

 今、先生は、皆さんに「メシヤ」という名前を与えました。氏族的メシヤです! それでは、皆さんはどのようにしなければなりませんか。メシヤとして何をしなければならないのでしょうか。国家的メシヤ、世界的メシヤ、天宙的メシヤになることができるすべてのものを準備しておいたのです。皆さんのために山のように大きな宝物を準備しました。皆さんがメシヤになりさえすれば、宝石の山のようなものが連結され、水が流れ下っていくように、皆さんにすべて相続されるのです。

 

 地上天国で生きた人が、死んで入っていく所が永遠の天の国、天国です。それでは、ここでどのように一体となるかを考えなければなりません。これからは、ほかのことを考える必要はありません。自分を中心として、このすべてのことを完成して解決し得る最後の終着点にとどまっているということを知らなければなりません。そして、これをどのように完成するのかという問題が残っているのです。

 それは、私自身の心と体の問題であり、家庭の夫と妻においては、自分と相対の問題であり、父母を中心として子女がいれば、親と子の上下関係の問題です。これが、皆さんの家庭全体が共通に連結された完成の表題となっていることを知り、どれか一つでも偏れば、すべてが傾くようになるというこの事実を、皆さんは知らなければなりません。

 

 先生が願っていることは、今日の統一教会の青年男女を、どこにおいても通じることができる人々にすることです。国が慌しくなる時に、どのような分野でも任せることができる人々をつくらなければなりません。

 じっと座って土ばかり掘って農作業だけしているのならば、いっそのこと死んでしまったほうがよいのであって、そのようなことで何ができるのですか。土を掘るにしても、一度行けば、村の人々が想像もできない仕事をしてくるのです。十年後、二十年後にそれを知る時が来るはずです。私たちがそうです。とんでもないことをしながら、ほかの人ができないことをするために準備している人々です。行こう! 行こう! 本郷の地に早く行こう! 本郷の地に早く行こう! しよう! しよう! 早くしよう! あらん限りの力を尽くして闘おう! しよう! しよう! 早くしよう! 一致協力して何をしようというのですか。真のみ旨を立てようというのです。

 

 私たちは、きょうも行き、あしたも行かなければなりません。皆さんを指導する先生も、この道を歩んでくるために袋だたきにも遭ったのです。監獄にも、何度も行きました。先生の監獄生活を計算すれば、何年くらいになると思いますか。監獄にも入り、むちで打たれて血を吐いたこともあり、悲しみと迫害の中で、ありとあらゆる恥ずかしさと惨状も味わいました。父母の恨も、親戚の恨も、国の恨も、民族の恨も、数多くの宗教の恨も受けました。

 しかし、行くべき道がそれよりももっと大きく、もっと貴いということを知っていたので、それらは問題にならなかったのです。ですから、きょうまで歩んできたので、あしたもまた行かなければならず、あした行けば、あさってもまた行かなければならず、今年行けば、来年もまた行かなければならず、十年、二十年、四十年の人生を歩んできたならば、また生涯が終わる時まで行かなければなりません。そのようにして行くべき本郷の地が残っているのです。その本郷の地とは、どのような所でしょうか。行きたい所、行って会いたい所、会って暮らしたい所です。

 その道が、今日の世の中のどのようなものよりも、私の周囲のどのようなものよりも貴い道であるということを知り、どのようなものよりも切実であるがゆえに、それらをすべて捨てていかなければならない運命があるのです。ですから、今日、これが私たちの行く統一の道であり、師が歩んでいく道であるということを皆さんは知らなければなりません。生涯の最後まで行かなければならないのです。

 

 家庭の最終着点の美化を完成しなければなりません。芸術的な家庭理想を備え、神様に侍り、真の御父母様が自分の家庭に来られれば、永遠に離れたくないと思われるような家庭を築かなければなりません。同じように神様も永遠に離れたくないと思われるような家庭を築かなければなりません。万民のすべての責任者、指導者、さらには天国にいる真の御父母様の直系の息子、娘、そして皇族圏があるとすれば、どのような皇族圏もその家に行って暮らしたいと思うことができるようなモデル的家庭を築かなければなりません。それが私たちの責任です。

 天は、このことを今の時代の当面の課題として提示しているということを知らなければなりません! 成就しなければなりません! 責任をもった中心者にならなければなりません! そのようになれば、神様が願われる地上天国、永遠の家庭の出発がなされるのです。


二 家庭盟誓第二節の解説


  私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の御父母様に侍り、天宙の代

  表的家庭になり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣、世界

  では聖人、天宙では聖子の道理を完成することをお誓い致します。


  一) 神様と真の御父母様に侍って


 「私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の御父母様に侍り」です。神様と真の御父母様に侍らなければならないのですが、エバが堕落することによってアダム家庭が追い出されてしまったのです。神様と真の父母に侍らなければなりません。神様と真の父母が縦的な父母と横的な父母であり、二つの父母が一つになることによって、初めて私が出てくるのです。

 神様は縦的な父母であり、完成したアダムとエバは横的な父母であって、この二つの父母が一つになったその上で統一が成され、天国と神様が連結されるのです。ですから、神様と真の父母に侍らなくては何もできません。それで一つになって天宙の代表的家庭になるのですが、その家庭はどのような家庭でしょうか。その家庭は、堕落する前のアダムとエバ以上の立場なのです。

 

 成約時代は、真の御父母様を中心として神様に侍って暮らす時代です。これは、エデンの園の家庭的基盤において暮らすことではありません。世界的頂上を越えて暮らす時代だというのです。

 

 神様は父母です。今まで、神様は漠然としていました。統一教会は、神様とどれほど近いでしょうか。縦的な私の父です。私たちの良心とは何でしょうか。神様は縦的な創造主として、真の愛を中心とした霊的な父の立場から私たちにすべての血統をつないでくださるのですが、それを相続した代表的立場が縦的な良心の立場です。したがって、良心は「縦的な私」です。良心は、縦的な天の父から受け継いだ私であるというのです。私は二人です。縦的な私と横的な私、この二人です。

 

 堕落した家庭から出発したので、神様を中心として真の御父母様に侍り、真の家庭の秩序を立てていくことによって神様のみ旨が初めて成就されるのです。私たちは、家庭を中心として神様に侍るということを誇らなければなりません。そして、真の御父母様に侍っているということを誇らなければならず、真の氏族圏と民族圏をもったということを誇らなければなりません。

 

 祝福は、真の御父母様に侍り、神様に侍り、天国に入っていくことです。霊界まで参加させるのです。霊界は、弟の立場です。後のアダムと共に自らの子孫に従って祝福を受け、共に入っていくことができる天地の解放圏が展開するのです。

 

 皆さんも、この世界に真の勝利の基台を備え、神様に侍り、真の御父母様に侍って、個人の恨と、人類の恨と、今までの数多くの歴史的な恨をすべて蕩減しなければなりません。さらに進んで神様の恨を解いてさしあげなければならず、地上の恨を解かなければなりません。そのためには、「神様の前で幸福を謳歌し、賛美することができる真の息子、娘になろう」という思いが切実でなければなりません。そのような立場で、孝子、孝女となり、忠臣、烈女となって、真の御父母様に侍りたいという切なる思いをもってこそ、今日の重い十字架を踏み越えていくことができるのであって、そのような強い信念と強い欲望がなくては、この十字架を越えることは難しいのです。

 

 霊界は、いくら距離が離れていても神様を目の前で見ることができます。時間と空間を超越しているので、神様に侍って暮らすのです。霊界に行っても、神様のみ声は聞こえますが、神様の体は見えません。今後、真の御父母様が霊界に行けば、神様の体が現れるのです。なぜでしょうか。地上で体をもった父母に侍ったからです。そのようにして霊界でも体をもつようになるので、より刺激的であり、より幸福になるのです。今は、神様を見ることができないので、神様と共に喜びを感じることはできません。ですから、天国の王宮が空いているという言葉が出てくるのです。


  二) 代表的家庭、中心的家庭となって

 (1)アダム家庭が代表的家庭、中心的家庭


 アダム家庭は一家庭でしたが、未来の世界を築くことができる中心であり、国家の中心、家庭の中心だったのです。アダム家庭は、全体の理想を実現することができる一つのモデル家庭です。それは、アダム家庭が完成していれば、氏族も完成し、国も完成し、世界も完成し、天宙も完成するはずだったという話です。そのようなアダム家庭になっていれば、その家庭がすべての理想の代表的家庭であり、中心家庭である、このような言葉が出てくるのです。

 

 「神様と真の御父母様に侍り、天宙の代表的家庭となり」、アダムとエバは、頂上の代表的家庭です。「天宙的家庭になり、中心的家庭となり」、中心、頂上の代表の位置から地上に着陸する時に中心家庭になります。アダム家庭は、すべての最高の愛を中心として降りてきた根の家庭です。根の家庭なのです。最高の位置に立ったものがこの地上に来るようになれば、平面的な根になるので、中心家庭になるのです。

 

 アダムの位置は、世界人類の過去と現在を代表した位置であり、頂上の位置です。数億万年の人類先祖の頂上です。最初は、この一つしかありませんでした。アダムとエバは頂上で結婚し、地上の中心家庭として着地して世界に拡大していくようになっているのです。そのような位置で天国の孝子となり、天国の忠臣となり、国をもって忠臣となり、国をもって聖人となり、国をもって聖子の道理を果たさなければならなかったのですが、アダムは、それを成すことができなかったのです。

 

 第二節は何でしょうか。「私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の御父母様に侍り、天宙の代表的家庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣……」、このように続いていきます。それは、何を意味するのでしょうか。天宙の中心家庭は、アダムとエバです。アダムとエバが中心家庭であり、代表家庭です。代表は一つしかありません。中心も一つです。それが種です。アダムとエバがその種です。そして、祝福を受けた家庭の種は、すべてイコールです。皆さんの家庭も全く同じでなければなりません。

 

 アダムとエバは、真の愛に絶対的に侍る道を通ることによって、家庭から国家、世界、天を無事通過するのです。家庭から国家、世界、天に直行するようになっています。今までの歴史時代の思想観は、そのような内容になっていませんでした。すべてジグザグに上がっていったのです。このように、万年不破の愛を中心として、一体的な家庭拡大の理想に従って歩んでいかなければなりません。家庭のモデル形態は変わりません。それが代表的家庭であり、中心的家庭です。堕落せずに完成したアダム家庭が天宙史的な代表家庭になるのです。代表的家庭、中心的家庭になるのです。「家庭盟誓」の第二節にあるように、中心家庭であると同時に、代表家庭だというのです。頂上、すなわち神様の前まで上がっていき、アダムとエバと神様の三者が一つになるのです。

 

 アダムとエバが天地の中心です。全世界の人類を代表した中心家庭です。ここから上がっていくのです。国の大統領の家庭があります。世界の大統領も家庭があります。神様も家庭があります。同じです。これをしっかり押さえれば、世界版図なので、八段階に拡大されれば標準は一つになるのです。これが大きくなり、軸が一つになるのです。家庭という軸を中心として一つになるのです。

 私は家庭軸の代表なので、世界に一つしかない位置に立つのです。それで、王子、王女になりたいと思うのです。欲望は、神様を占領し、この地上における最高の男性、女性となって最高の神様の相対になることです。そのようになることによって、神様が私のものになると同時に、神様がつくられたすべての被造世界も私のものになるのです。愛は、一体になることです。所有権が決定されるのです。これは驚くべき言葉です。

 

 「家庭盟誓」の第二節に「代表的家庭となり、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣」と続いていくでしょう? 孝子の道理、忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理をすべて愛によって連結させなければなりません。そのようにすれば、アダムとエバの代表的家庭です。一番頂上の家庭です。頂上で結婚すれば、地上に着陸するのです。天上で愛を中心として着陸すれば、中心家庭になるのです。それは聖子の家庭であり、聖人の家庭であり、忠臣の家庭であり、孝子の家庭です。それが永遠の種となり、それが実を結ぶことによって拡大していくのです。千代、万代、この原則に立脚した人になることによって、間違いなく天国の民になるのです。

 

 アダムとエバの家庭という一つの起点を中心として、氏族は、その周りを形成するのです。家庭は核です。核は、移動することができません。そのような家庭を中心として、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様を解放させることができる位置を備えなければなりません。神様と同居することができなければなりません。

 神様が家庭に同居でき、氏族、民族、国家、世界、天と地に同居できる家庭的価値の内容を備えてこそ、堂々と天国に入ることができるのです。アダム家庭は、世界家庭の代表です。時間的な未来にそれを残しておきましたが、彼が行かなければならなかった所は、全世界家庭の代表の位置です。それで、今日蕩減復帰の原則によって私たちが立った位置は、世界的代表の位置です。

 

 アダム家庭は代表的家庭です。ここにおいて神様は一番頂上にいらっしゃるので、一番頂上に立たなければなりません。その前でプラス・マイナスとして一つになることができる最高の位置に連結されるのです。代表的です。代表的家庭です。ここで植えたので、植えたものは、後代を通じて広がっていくのです。家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、天と地を中心として、この中心地に植えつけられて連結されるのです。

 それで、代表的家庭なのですが、家庭は、地上に植えなければならないので、平面図上で中心的家庭になるのです。八段階です。全宇宙の中心になります。このような種を植えれば、ここから家庭が広がり、氏族、民族、国家、世界が展開していくのです。全く同じ価値の種です。同じです。

 

 アダム家庭において、天がアダムとエバに祝福した種、それは結婚の種です。結婚の種がそのようになっているので、今日人類が家庭をもつようになれば、それは世界家庭として、種から実を結んだものなので、アダム家庭の種も、今日その数千万代の子孫となった種も、その価値は同等になります。種の価値が違っていていいでしょうか。松ならば、松の種を一つ植えれば、それが世界へ広がっていき、数千万の松の中から数億個の種ができたとしても、その種はすべて一つの種と同じ価値をもった松として培養されなければならないということです。


(2)祝福を受けた家庭は本然の家庭と同じ価値


 祝福というものは、堕落していない本然的な神様の愛と連結され得る基準なので、堕落していないアダムとエバの家庭と同じ価値をもたなければなりません。そうであってこそ同じ種になるのです。夫婦を中心として兄弟がいれば、その兄弟に神様が対するのは同じだというのです。どんなに広がっていっても、一つの家庭がもつ価値は、アダム家庭のもつ価値と同じです。同じ種の価値をもたなければなりません。

 

 祝福を受けた家庭は、名実共に世界を代表した家庭です。したがって、世界を代表した家庭として、真の父母の血族と氏族、民族、国家の数多くの血族の前に恥ずかしくない、神様を身代わりした家庭にならなければならないということは間違いのない事実です。このような意味で代表的家庭であり、中心的家庭です。そのようになることによって、アダムとエバの家庭と私の家庭が同じ価値になるのです。それが結論です。ですから、皆さんは、ここではこのように生き、あそこではあのように生きるということはできません。

 

 祝福を受ける位置は……。大韓民国の金氏ならば、金氏の息子として祝福を受けるのではありません。神様の直系である堕落前のアダムとエバと同じ位置で祝福を受けるのです。それはどういうことでしょうか。その家庭を中心として、全体を代表しているということです。アダム家庭が全体の代表となり、アダム家庭の一点を中心として宗族が連結され、氏族が連結され、世界まで発展して一つにして、しっかり押さえておけば、一点を中心として球形と円形に発展するのです。それと同じです。

 それと同じように、中心者であるアダムと同じ本然の種の位置を自分が再び譲り受けたので、アダムが成そうとしていた氏族、民族、国家、世界型と、等級は違っても同じ内容の価値をもたなければなりません。

 

 真の父母の家庭、これは種です。種が完全な種であれば、その種を植えて繁殖した数億万の家庭があっても、種は同じ価値をもちます。イコールです。神様が定着される家庭の基準は、何千代、何万代、何億万代になったとしても同じ価値を認められるので、種はイコールです。それゆえに、私たちの家庭は代表的家庭です。大韓民国を代表しているのです。

 それで、盟誓文の第二節に「私たちの家庭は真の愛を中心として、神様と真の御父母様に侍り、天宙の代表的家庭となり」としたのです。代表は頂上です。その次には中心家庭になるのです。縦横に連結するようになれば、縦横が連結される位置です。代表的家庭であり、中心家庭です。そのようになれば、宇宙はすべて皆さんのものです。

 

 「代表的家庭となり、中心的家庭となって」、これを考えなければなりません。皆さん、祝福を受けた家庭は五十億人類の五十億分の一ではありません。逆です。五十億人類を代表しているのです。代表的家庭であるアダムとエバの二人で出発したものを失ってしまったので、代表的家庭として、世界中のすべての男性と女性に推薦させて、その代表者一人一人として残った者を引き抜いてきて組み合わせた結婚です。代表的家庭は、地上の頂上でしっかり押さえれば中心的家庭になります。

 ですから、中心的家庭となって、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子、イエス様の恨、このようなすべてのものを解いたというのです。先生がこれを完成したので、皆さんに相続してあげるのです。ゆえに、従ってきて収拾すればいいのです。

 

 皆さんが結婚する時、一対一の男性と女性として行くのではありません。人類を代表した位置で結婚した家庭だということを考えなければなりません。真の愛を結ぶ夫婦は、人類を代表した位置で結ぶのです。アダムとエバと同じ位置です。八段階です。一、二、三、四、五、六、七、八、八段階です。アダムとエバは、この頂上にいるのです。これがすべてアダムとエバの伝統を相続して大きくなっていくのです。これが王権です。

 

 天宙の中心家庭は、アダムとエバです。アダムとエバがその中心家庭であり、代表家庭です。代表は一つしかありません。中心も一つです。それが種です。アダムとエバが祝福を受けて結婚した家庭の種です。その家庭の種はすべてイコールです。皆さんの家庭も全く同じでなければなりません。

 

 「祝福を受けた家庭は復帰された家庭だ」と言うとき、アダム家庭とその内容の価値は違いますか、同じですか。皆さんの家庭に行けば、皆さんの家庭は家庭の王宮です。また、氏族の王宮であり、国家の王宮であり、世界の王国であり、天宙の王宮です。皆さん、男性に尋ねれば「王になりたい」と答え、また女性に尋ねれば「女王になりたい」と答えるでしょう? いったいそれはどういうことでしょうか。本来のアダムとエバは、王であり、女王だったということです。

 世界を代表し、宇宙を代表するのです。家庭を代表するのはもちろんのことです。王と女王です。それが種です。皆さんはその結実です。実というものは、同じ種から出てくるのです。種と同じ価値をもっているのです。同じ脈絡です。皆さん、男性と女性の二人を連れていって植えつけておけば、堕落しなかったアダムとエバになり、家庭の王国、国の王国、天上・地上天国の王国の基地となることができると思いますか。統一教会で真の父母を通じて祝福を受けた家庭がそのような対等な価値をもたなければ、雷に打たれるのです。

 

 真の父母を中心とした家庭は、神様の愛を中心とした直系の血統圏内に入っていくのです。このような真の父母の歴史性の結実として世の中に現れたものが祝福家庭です。祝福家庭は世界的です。世界の平面図上で祝福されるのです。その下には、数多くの国家があり、氏族があり、家庭があり、数多くの個人がいるのです。逆になったのです。これを代表しています。したがって、アダム家庭が世界的家庭を完成することによって統一世界を成し遂げていれば、その価値と私において成し遂げられた価値は同じです。種です。世界的種なのです。

 

 先生が神様の家庭において孝子になり、国において忠臣になり、世界の聖人になり、天宙の聖子になったように、皆さんもそのような伝統を受け継がなければなりません。それを受け継がなければ、代表的、中心的家庭になることはできません。代表的なアダム家庭は、家庭の中心であると同時に天宙の中心です。中心は一つです。代表は頂上であり、中心は垂直です。家庭、氏族、民族のこの八段階をしっかり押さえれば円形になるでしょう?

 

 皇族圏の直系先祖は誰でしょうか。本然の愛の神様の直系子女であり、真の愛を中心として真の生命と真の血統の基盤を中心とした堕落していない人です。そのお方が種です。その種から根が出てくれば、中心の幹の根となり、そこから中心の幹、中心の芽へと大きくなっていくのです。これが縦的に大きくなるにつれて、それに対応して横的世界へと拡大していくのです。ですから、それを見れば、家庭と氏族も連結され、民族、国家、世界も連結されるのです。したがって、真の根と真の幹と真の芽に連結している枝も、すべて真の愛の枝となるので、そこで結ばれた実は、本然のアダム家庭と同じです。

 中心の幹の根となることができ、中心の幹となることができ、中心の芽になることができる種の起源が結実として現れる時、その結実・・家庭を中心とした夫婦を中心として・・を植えておけば、一族を中心として、その一族の新しい中心の根となり、中心の幹となり、中心の芽となるのです。それゆえに、実には同じ価値があるのです。

 

 統一教会の食口は、「アダムとエバと同じように、私は天地を代表して立った」と思わなければなりません。そして、宇宙を代表していると同時に、平面的にはすべての国と世界を代表している家庭だというのです。縦的な基準においても代表的であり、横的な基準においても代表的な中心です。これは最高の代表家庭です。地上においては、これが横的な世界の中心にもなるのです。そのようになってこそ、同じ皇族圏としての心情をもって天国に入っていき、神様に侍り、王に侍り、王の一族として暮らすことができるのです。そのような所が天上天国だということを知らなければなりません。

 

 神様と真の父母に侍り、代表的な家庭となり、中心家庭となって、家庭ではもちろん孝子孝女、国では忠臣烈女、世界では聖人、天地では聖子の道理、このような天が願ったすべてのものを私たちの家庭では完成しようというのです。父母として子女教育をなし、国家では民族教育、世界では……。そして、天と地ではその天国の一族として、家庭の一員としての合格者になることができるようにしようというのです。

 

 時間と場所に関係なく、古来すべての人間は、みな自分が中心存在になりたいと思ってきました。それは人情の常です。私たちはみな、それが人間としてもっている共通の内容であることを知っています。

 それでは、人間は、どうしてこのような欲求をもつようになったのでしょうか。それは、自分が生まれたのちにもつようになったのではありません。生まれながらにしてそのようなものをもって生まれてきているのです。ですから、生まれてみると、そのようにならざるを得なかったのです。本然の基準にこれがあり、避けることができないものとして、歴史性とともに私たち人間に連結されているので、誰彼を問わず自分が一番の存在になりたいと思うのです。


  三) 家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の道理を完成

   (1)必然的に行かなければならない孝子、忠臣、聖人、聖子の道


 家庭において、孝子孝女とは、どのような人のことをいうのでしょうか。父母のために心と体を犠牲にしても、それを超えて父母を愛したいと思う人のことを孝子孝女というのです。愛国者とは、何でしょうか。国家のために自らの一身を顧みず、いくらでも犠牲になり、投入して忘れてしまう人が真の愛国者です。十回投入して忘れてしまう人と、十一回投入して忘れてしまう人がいるとすれば、十一回投入して忘れてしまう人が主体になるのです。

 この原則によってのみ、すべてのものが平和に収拾されるのです。愛を除いてしまえば、「ため」に生きる道を除いてしまえば、それを成し遂げる道はありません。

 

 家庭には孝子が必要です。父母と絶対的に一つになった息子のことを「孝子」といいます。国の忠臣は、国の中心存在と絶対的に一つにならなければなりません。これが宇宙の存在的実相です。世界には聖人がいて、聖人と絶対的に一つになりたいと思い、それを越えて天宙では、すなわち天と地を中心としては、中心である神様と絶対的に一つになりたいと思うのです。

 

 「孝」というものは、孝子に従っていこうとします。年を取って老いていきますが、彼らの父母のことを思う心情に従って、未来の自らの後孫や父母に属するすべての兄弟までも、その孝子に任せようとするのです。神様に向かい、神様が願われる家庭と世界を神様のために創建するのです。誰がですか。私がです! 駄目でも私に任せ、後援することができるそのような情緒的な神様であることを知って、信念をもつ人は滅びることはありません。

 

 神様は、御自身の愛の相対が自分よりも優れていることを願っていらっしゃるので、神様に命令して暮らすことができる位置にまで行くことができるのです。孝子が父母に「来てください」と言えば、来ますか、来ませんか。来るでしょう? どのようなことでも新しいことをしなければならないのが孝子の道であり、忠臣の道であり、聖人と聖子の道理です。

 

 「家庭盟誓」の第二節に出てくるように、家庭では孝子、国家では愛国者、忠臣にならなければなりません。この孝子とは、地上のサタン世界における孝子のことではありません。歴史上初めて現れる孝子です。神様は、アダム家庭を失ってしまった恨を残したのです。それで、真の父母を探し出すために、さまよい歩んでこられました。それゆえに、真の父母というもの自体が、どれほど貴いものなのかということを知らなければなりません。

 

 妻を探し求めていく夫が、その愛の前に絶対服従するとすれば、妻は幸福でしょうか、不幸でしょうか。絶対的に幸福だというのです。夫を探し求めていく妻もそうであるならば、その夫も絶対的に幸福だというのです。父母の前に絶対服従することができる者を「孝子」といい、国の前にそのようにすることができる者を「忠臣」といい、世界の前にそのようにすることができる人を「聖人」といい、天地の前にそのようにすることができる人を「聖子」というのです! アーメン。

 それは、すべて私を教育してくれる教材であり、教本だったのです! アー、舌まで踊りながら、メン! 腹の肉、腹の皮、はらわたまで踊りながら「メン」です。メン(man)とは「人」のことです。「アーメン!」と言えば、「アー! 驚くべき人だ」という「アーメン!」です。そのような意味を考えながら「アーメン!」と言うのです。分かりましたか。

 

 「どんなに難しくても、孝子の道を取り戻す道であり、忠臣の道を取り戻す道であり、聖人と聖子の道を築いていく道であるので当然だ」と言うことができる信念が必要です。父母のためには、自分一身だけではなく、自らの妻子を犠牲にしたとしても、孝子の道を行こうという思いをもたなければなりません。

 この孝子に対して父母が一つになり、「父母まで犠牲にしてでも国を救わなければならない」と言えば、忠臣の位置に立つのです。それから、この忠臣に対して国が一つになり、「国まで犠牲にしてでも世界を救おう」と言うとき、聖人の道理を果たすようになるのです。それが、アダムの行くことができる創造の理想です。私が孝子にならなければならず、忠臣にならなければならず、聖人になり、聖子の道理を果たさなければなりません。「家庭全体をすべて犠牲にしてでも聖子の道理を果たそう」と言うことができなければなりません。

 

 家庭において孝子という場合は、すべての息子、娘の中で、一番犠牲になりながら投入したがゆえに孝子となるのです。国においても、どの氏族、どの国民よりも投入したがゆえに愛国者となるのです。聖人も、世界のためにより投入した人が聖人になるのであり、天地のためにより投入した人は、イエス・キリストのような王子になることができるのです。そのように生きなければ、天国に行くことはできません。天国は、そのように生きた人が行く所であって、そのように生きることができなければ、天国に行くことはできません。

 ここに来て仕事をするのは、食べて暮らしていくためではありません。出世するためでもありません。天国の民となり、天国の孝子、忠臣、烈女、聖人、聖子の道理を果たすために集まっているのです。神様が求め、神様が好まれる家庭と、神様が好まれる家族を愛し、そのような家庭において生きたのちに行った人が地上天国と天上天国の民となり、家族になるということを知らなければなりません。

 

 皆さんは、真の意味で国を愛したことがあり、真の意味で兄弟を愛し、真の意味で先生を愛し、真の意味で先生の家庭を愛したことがありますか。蕩減復帰原則において、いかなる孝子よりも、いかなる忠臣よりも優れていなければならないのではありませんか。それが原理の教える教示ではありませんか。そのような基準に立ったことがあるかということを、皆さんは知らなければなりません。

 

 神様の救援摂理は、家庭を通しては村を救わなければならず、村を通してはその社会を救わなければならず、社会を通しては国家を救わなければならず、国家を通しては世界を救わなければならず、世界を救ったのちは、霊界を救わなければならず、このようにして霊界と世界を救って神様を解放しなければなりません。このような救援摂理の道があるので、どうしてもそのような結論を下さざるを得ないのです。それで、孝子は天に通じ、忠臣は天に通じ、聖人は天に通じるという結論が出てくるのです。

 

 今まで、皆さんは何をしましたか。天の孝子になり、国の忠臣になるために努力したと思いますか。ここに該当する精神は、まさしく一にも孝と忠であり、二にも孝と忠であり、十にも、百にも、千にも、万にも孝と忠であると言わなければなりません。私が死ぬとしても、いかにしてこのような位置に上がっていって死ぬのかということが問題です。これが、今まで摂理のみ旨を担ってきた人々の生活でした。忠の位置に到達するためには家庭が責任を果たさなければならず、氏族まで責任を果たさなければならないという結論が出てくるのです。

 

 完成した私は、世界人類を代表した家庭における孝子であり、歴史的国家を代表した忠臣であり、世界を代表した聖人であり、天の摂理全体を代表した聖子として完成した私であるという自信をもってこそ、個人からサタン世界を完全に越えて天に帰っていくのです。そのような私です。

 そのような孝子、忠臣、聖人、聖子として完成することができる私であり、そのような夫と妻が夫婦的孝子であり、夫婦的忠臣であり、夫婦的聖人であり、夫婦的聖子です。それから、そのような国家的夫婦であり、そのような世界的夫婦であり、そのような天宙史的な夫婦であり家庭であるということができる家庭が、創造理想的み旨を完成した家庭になるのです! アーメン! アーメン! アーメン! そのような家庭を完成することに自信があるという人は手を挙げて誓いましょう。そうです。万歳! 万歳とは何かというと、すべてのものが億万年まで「万事亨通」(注:万事滞りなくうまくいくこと)ということです。永遠に継続するという意味です。

 

 「ため」に生き、また「ため」に生きようとする人が中心存在になるのです。間違いありません。家庭において孝子とは何かというと、父母のために生きる人です。そのように生きれば、その家庭の中心存在になり、家庭の相続を受けるのです。愛国者も同じです。国王のために生き、国のためにすべてを投入して、投入して、犠牲となり、もっと犠牲になろうとするならば、国の責任を負うことができる人になるのです。そのような人が大統領や首相になるのです。そのような人が必ず中心存在になります。

 ですから、私の良心は「そこまで行きなさい」と言うのです。「家庭では孝子になり、国家では忠臣になり、世界では聖人になり、さらには、天地において聖子の道までも行きなさい」と教えてくれるのです。

 

 家庭で心安らかに暮らす人々は間抜けです。家庭天国の垣根の中にしかとどまることができません。必ずそのようになるのです。それで、代表的家庭となり、中心的家庭とならなければならないというのです。孝子、忠臣、聖人、聖子の道理は、私が行く道です。私が必然的に行かなければならない道です。それゆえに、家庭では孝子にならなければなりません。その次に、国では忠臣です。忠臣というものは、生まれつきその道理を外れることがありません。夜でも昼でも焦点を合わせていかなければなりません。一生の間、先生は、み旨という焦点を失ったことがありません。寝ても覚めても、布団から起きれば続けます。千年、万年続けるのです。

 

 家庭で本物の孝行をする人は、国の忠臣の道と直通するのです。国に本物の忠誠を尽くす人は、聖人の道と直通するのです。それを知らなければなりません。道は一つです。二つではなくて、一つです。ですから、結論は何かというと、家庭において父母を絶対的に愛していこうという道が孝子の道であり、国のすべての国民と主権者を絶対的に愛していこうという道が忠臣の道です。

 

 私たちが正しく行動すれば、国が生きるのであり、私たちが正しく行動できなければ、国が滅びるのです。私たちが正しく行動すれば、世界が生きるのであり、私たちが正しく行動できなければ、世界が滅びるのです。歴史時代のいかなる家庭とも比較にならず、天情を中心として団結した家庭、そして孝子、忠臣、烈女を中心として団結した家庭とも比較にならない、そのような千人、万人の前に模範となり得る驚くべき家庭のモデルを、統一教会が提示しなければなりません。

 

 男女を問わず、愛国愛族する人にならなくては、天国の民となることはできません。サタン世界の忠臣以上の位置に統一教会の男女が立たなくては、天国の民となることはできません。サタン世界の孝子以上の位置に行かなくては、天国家庭の食口になることはできないのです。統一教会では「食口」と言うでしょう? サタン世界の孝子、孝女以上の因縁から脱け出て、それ以上にならなくては、「食口」という名で呼ぶことはできないのです。

 

 忠臣も、一人でなるのではありません。統一教会でいう忠臣は、一人でなることはできません。家庭を成した夫婦であってこそ忠臣になることができるのです。それゆえに、皆さんは、忠臣という立て札を立てるためには、孝子を生まなければなりません。

 

 今日、国家では個人を表彰しています。忠臣烈女や孝子孝女を表彰しているのですが、これは、あくまでも個人を表彰しているのであって、家庭を表彰しているのではありません。今まで、家庭を中心として表彰した国家はありませんでした。同じように宗教においても、家庭の構成員を目標としてきた宗教はありませんでした。

 

 真の孝子、本物の孝子に対する父母は、王様よりももっと難しいのです。言葉一つにも注意し、行動にも注意するのです。それはなぜでしょうか。家庭において王様に侍ることができることを見せてあげなければなりません。そのように侍ろうとすれば、息子、娘も父母に対する時、いい加減に対することができないのです。子女を敬って丁寧に対する父母にその子女たちが対する時、どれほど大切に思いながら侍るでしょうか。一言でもいい加減に言うことができないのです。何度も考えてから言うのです。

 

 「家庭では孝子になりなさい」と言うでしょう? 孝子になって何をするのでしょうか。「孝子になりなさい」と教える父母は、みな自分の利益のためにそのように言うのだと思うかもしれませんが、それは違います。「父母の愛の上にあなたの愛をプラスさせなさい!」。このようになるのです。そのようになってこそ球形が生じるのです。大きくなるのです。運動する存在は、すべて大きくなるでしょう? 運動すると、なぜ大きくなるのでしょうか。すべて愛というものを中心として作用するので、大きくなっていこうとするのです。

 

 人の夫になり、人の妻になるということは簡単なことではありません。息子、娘は、自分の息子、娘ではありません。この世界の息子、娘です。世界の息子、娘の父母になるということは簡単なことではありません。また、先生になることは、簡単なことではありません。また、そのような父母の前に孝子孝女となることは、簡単ではありません。それゆえに、家庭において完全に「ため」に生きる訓練を、祖父母から、父母から、夫婦から受け、自らの息子、娘にもそのようにし、「ため」に生きることができるモデル的形態の家庭を築くようになれば、その家庭は天上世界のどこに行こうと、どの国、どの村に行こうと歓迎を受けるのです。

 

 聖書に「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」という言葉があります。ろくでもない者たちが死ぬことを言っているのではありません。忠誠を尽くして孝子、忠臣、烈女になった立場においても生命を捧げて死のうとする基準の人々や、堕落した世界の孝子以上、堕落した世界の忠臣以上になった、そのような天の側の人を中心として言っている言葉です。そのような人々が、その立場に立っても生命を捧げようとする時は生きるというのです。地獄のどん底にいれば、生命が何百個、何千個になっても、神様とは関係ありません。露骨に言えば、そのような意味のみ言になるのです。

 

 神様が救援摂理を行う理想には、そこからすべて区別しなければなりません。その中には、神様のためにすべての生命を捧げて感謝することができる、特別な何かがなければなりません。アダムとエバの背反的な歴史の基準を越えなければなりません。それを知らなければなりません。神様が現れなければ、堕落する以前のアダム、その人類の先祖以上に神様が現れることを願いながら、御飯を食べずに、寝ないで待つことができる、心情的に孝子、忠臣、烈女以上の位置に入っていかなければなりません。

 

 孝子は地獄には行きません。地獄に行かなければならない場合には、再臨主が来られる時まで保留されるのであって、地獄には行きません。中間霊界というものがあるのです。皆さんは、孝子になろうと思いますか、愛国者になろうと思いますか、聖人になろうと思いますか、聖子になろうと思いますか。父母に孝行しなくても、愛国者になった場合には、父母への孝行を完成したものの上に立つのです。

 

 統一教会で忠臣になるのならば、世の中にいない忠臣になろうと思いますか、世の中にいる忠臣になろうと思いますか。孝子になるとしても世の中にいない孝子、忠臣ならば歴史にいなかった忠臣、聖人ならば歴史にいなかった聖人、聖子ならば歴史にいなかった聖子の道理を果たしてこそ、神様に侍ることができるのです。このように悔しく無念な恨がエバの一日の失敗によって生じるようになったのです。これを知る時、今日私たちが統一教会において血統を転換し、所有権を転換し、心情圏を転換するためにどれだけ深刻にならなければならないか、ということを知らなければなりません。

 

 真の愛を中心とした対象となり、御自身よりも何千倍も優れていると言うことができる愛の相対を迎えるようになれば、神様は、自動的に解放されるのです。それゆえに、孝子の中の孝子、烈女の中の烈女、忠臣の中の忠臣、聖人の中の聖人、聖子の中の聖子にならなければならないという事実を知らなければなりません。そのようにならなくては、神様を解怨することはできません。それ以上にならなくては、解放することができないのです。

 イエス様に従っていったとしても、楽園にしか行けません! 独身生活するのです。ほかの宗教では、すべて「出家をしなさい」と言い、「独身生活をしなさい」と言いますが、統一教会では何でしょうか。「出家しなさい」と言いますか。「故郷へ帰りなさい」と言うのでしょう? そして、「結婚しなさい」と言うのでしょう? 反対です。どのような理由で、そのようにするのでしょうか。宗教は必要ありません。宗教を克服した位置に立ったのです。

 天国の孝子になり、天国の忠臣になり、国をもって忠臣になり、国をもって聖子の道理を果たさなければならないのですが、アダムはそれを成すことができなかったのです。先生の恨は何かというと、青春時代の血気旺盛な時代に孝子の道理を果たすことができなかったことです。時を逃したのです。また忠臣の道理を果たすことができなかったのです。国が生きることができるならば、いかなる冒険を冒してでも先頭に立ち、愛国者としての血を流しながらも感謝することができる、その道を歩んでみることができなかったのです。

 

 なぜ私は、歴史をつづりながらこのような衝撃的な宣言と刺激的な話をするのでしょうか。これが神様の事情なのです。その事情は死んでいません。胸に積もり積もった恨を、いまだに解くことができずにいるのです。真の御父母様の胸に積もり積もった恨を、解くことができないでいるというのです。青春時代において、神様の前に孝子の道理を守ることができなかった真の御父母様の恨! 国をもつことができずに忠臣の名誉をもつことができなかった恨! 万国を代表して聖人の道理を果たすことができなかった恨! 天と地の勝利の覇権を備えて包括することができず、神様を解放して聖子の道理を果たすことができなかったその恨! このような恨が残っているのです。

 

 孝子、愛国者、聖人、聖子、これらがなぜ必要なのでしょうか。父母に孝行したといっても、長くても百年くらいです。ずーっとすることはできません。父母は、千年、万年生きることはできません。生涯孝行しても、百年未満です。しかし、愛国者は一代を越えるのです。愛国者の伝統は、祖父母から父母、自らと自らの子孫にまで相続されるのです。そうでなければ、国が成り立ちません。聖人の思想は、愛国者を超越するのです。宇宙全体を愛した上で生きなければなりません。ですから、聖人の道は、愛国者の道を超越し、聖子の道は、聖人の道を超越して最高の位置に立つのです。地上天国と天上天国の法律、その両国の法律をすべて尊重し、内外の縦横の関係を維持しているのです。

 

 真の御父母様は、どのようなお方かというと、家庭においては歴史始まって以来初めて現れた孝子であるということを、皆さんは知らなければなりません。天国においては、一人の忠臣と同じ位置、代表的な忠臣の位置に立っているのです。それから、聖子の道理を果たした聖子の位置に立っています。それゆえに、今皆さんがもたなければならないものは、真の御父母様の思想です。

 息子として、孝子として、忠臣として、聖人、聖子の道理をすべて経たように、皆さんもそれと同じ伝統を真の父母に従って受け継ぎ、全世界のたった二人の息子と娘であるという心情をもたなければなりません。世界を代表した息子と娘の位置に行き、真の父母によって祝福を受けたという事実は相対圏を許されるということです。そして、祝福家庭は、先生の家庭と生活を共にしたという心情的体恤圏をもたなければならないということを皆さんは知らなければなりません。

 

 東洋哲学の「三綱五倫」を中心として見れば、五倫の中には「父子有親」というものがあるでしょう? 有親が良いのですか、一身が良いのですか。父子有親とは何ですか。血筋が一つになっており、愛の根と幹が連結しているのですから、父子有親ではなく、父子一身です! そして、夫婦一身です。それから、何でしょうか。「君臣有義」です。君臣は有義ですか。君臣一身です。何をもってですか。愛をもってです。それゆえに、家庭において、愛を中心として絶対的に「ため」に生きることができる中心存在は、孝子だというのです。国を中心として見るときも、絶対的に「ため」に生きる愛をもって王様のために歩んでいくようになれば、その人を忠臣というのです。


   (2)聖人と聖子の違い


 聖人と聖子の異なる点は何でしょうか。聖子とは、堕落していない本然的アダムとエバが、神様の愛を中心として、神様の生命体として、神様の血統として一つに結ばれた位置から出てくるものです。神様の息子、娘の血統を受け継いだ位置から聖子が出てくるようになっているのです。しかし、聖人はそうではありません。ゆえに、堕落した世界には聖子がいないのです。聖人までは出てくることができます。今まで、聖人たちは、外的な相対的世界の道理は教えてくれましたが、内的な主体的な道理は教えることができませんでした。なぜでしょうか。父母が現れず、聖子が現れなかったからです。父母と聖子の道理を植えつけるものが再臨の思想です。それがメシヤ思想です。

 

 この世の聖人の中で、最も中心の聖人は誰でしょうか。イエス様です。イエス様の血統は、既に腹中にいる時から聖別されていたので、サタンのどのような条件にも引っ掛かりませんでした。神様を中心として、神様の愛によって身ごもったその赤ん坊は、最初の真なる愛の結実体です。したがって、そのお方は、偽りの愛とは関係がありませんでした。そのような聖子として生まれた方は、イエス様以外にはいません。釈迦牟尼もそのような人ではありません。マホメットも、孔子も違います。しかし、イエス様は、心情圏を中心として神様のひとり子になるのです。

 

 歴史時代において、血統を清めて最初に生まれた息子がイエス様です。したがって、神様の前において、その息子は長子であり、ひとり子となるのです。宗教圏において、このように血統を清めて生まれた聖子は、イエス様しかいないので、「聖子」と言うことができるのです。

 

 イエス様は聖人の中の聖人です。初めて血筋を清めることによって、初めての愛の先祖になることができたのです。

 

 イエス様は、神様の愛を中心として、国家的基準で生まれた血統を転換させた、神様の第一号の息子であり、ひとり子です。有史以来、そのように血統を清めて生まれた聖人はいません。孔子であろうと、釈迦であろうと、マホメットであろうと、誰であろうと、そのような伝統的な背後の血統を清めて生まれたお方は、イエス様お一人しかいません。

 

 イエス様は、ひとり子の聖者であり、聖人の中の聖人です。イエス様は、真の愛を中心とした一代目の先祖です。

 

 世界的な人物になるためには、どのようにしなければならないのでしょうか。人倫道徳だけを中心としては、そのような人物になることはできません。人間のみを中心としてはなれないのです。人間のみを中心としては、国を越えることができません。国を越えることができる内容は、天にあるのです。天宙思想をもつことなくしては、国を超越することはできません。それゆえに、聖人たちは、人間だけを紹介したのではなく、神様を紹介したのです。聖人の列に加わった人々を見れば、その人たちは、神様を崇拝しましたか、しませんでしたか。神様を除外して聖人になった人はいますか。また、聖人たちは、人倫の道理のみを教えてくれたのではなく、それとともに天倫の道理を教えてくれたのです。

 

 聖人の道理とは何でしょうか。世界の人々に生きることができる内容を教えてあげることです。自らの国の民のために生きる人は忠臣です。自らの家庭のために生きる人は孝子です。神様は、孝子よりも、忠臣よりも聖人を好まれるのです。聖人の中でも最高の聖人がいるとすれば、その最高の聖人は救世主となるのです。皆さんは、それを知らなければなりません。統一教会は、この道を行かなければなりません。

 

 忠臣は、一つの国における忠臣ですが、聖人というものは、国家を超え、万民を超えて、万世に栄光の基台を築き、万国の解放圏をつくり、自らが勝利したすべての栄光を与えても、もっと投入しようとする人です。そのようになる時に聖人の道理となるのです。五色人種を超え、文化背景やすべての階級を超えて、投入して、投入して、また投入しながらその平等的価値を追求していく人が聖人です。

 

 聖人とは、国境を越えて世界の人を愛する人です。したがって、聖人の道理は人種を超えて世界を収拾していくのです。

 

 聖人とは、どのような人でしょうか。家庭を捨ててでも天と世界のために生き、国を捨ててでも天と世界のために生きる人が聖人です。それでは、どのような人がより大きいのでしょうか。孝子よりも、国のために生きる忠臣のほうがより大きく、国のために生きる忠臣よりも、聖人のほうがもっと大きいのです。皆さんは何になろうと思いますか。

 

 「聖子」と言えば、神様の息子のことですが、聖子は、神様はもちろん、天と地を愛そうとされるのです。天と地の愛の圏だけではなく、天国の王宮法まで愛そうとされるのです。聖子は天国の王子なので、天国の王宮法も守り、地上世界の王宮法もすべて守らなければなりません。その上で天国の王孫たちも愛し、天国の民たちも愛し、地上の国の王孫たちも愛し、地上の国の民たちも愛さなければならないのです。

 そのようにして、二つの世界の宮殿と、二つの世界の民を愛することができるようになる時に、神様の息子であるというのです。神様の息子は、この地上の民も必要であり、この地上の王族たちも必要であり、あの世の民も必要であり、あの世の王族も必要とするのです。そのようになってこそ聖子になるのです。

 

 宗教の出発は、どのようになされたのでしょうか。聖人たちがすべて宗主となっています。宗教の主人になっているのです。この人たちが精誠を尽くし、道を通じて神様の教訓を受けることができる位置から出発したのです。しかし、より高い位置に上がっていくようになってからは、徐々に世俗化されていってしまったのです。

 それゆえに、世界が混乱する中にあるこのような時に、本質的で明確な内容をもって正しい道へと指導することができる宗教体制がありません。ブロック的な体制はありますが、世界全体をカバーして収拾することができる宗教がないというのです。宗教も実験済みです。すべて実験済みです。政治も実験済みであり、すべての思想も実験済みであり、すべて失望的な帰着点に到達しました。今はもう、進んでいこうとしても進んでいくことができない限界線にぶつかっています。

 

 今まで、神様が共に暮らすことができる家庭がなく、国がなく、世界がなかったということは繰り返して言うまでもありません。皆さんは、常にこのような概念をもたなければなりません。私自身においても、神様が共に生きることができず、家庭においても生きることができず、国においても生きることができず、世界においても生きることができなかったのです。そのような神様を再びお迎えし、堕落した世界のいかなる孝子、いかなる忠臣、いかなる聖人、いかなる聖子よりも、高い位置において神様に侍って生活しなければならないという、そのような信仰のモットーを強化しなければなりません。

 

 「聖人」といえば、世界人類を愛する人々です。今まで、宗教指導者たちが聖人になってきましたが、聖人の中でも大聖人は誰かという時、人類のために血を流し、いくらでも命を投げ出そうとすることができ、それを続けてきた人が聖人の中のナンバーワンであるという論理が成立するのです。そのような意味で、歴史を通じてキリスト教が数多くの血を流してきたので、キリスト教が第二次大戦以後に世界を統一したのです。

 

 私たちは、命を投げ出して生きているのです。既に覚悟した体であり、天の前に誓った体です。ゆえに、たとえ客死する運命であっても恨みはありません。神様がその場に訪れてこられて、私の体を引き取ってくださることができる孝子となり、国王が訪れてこられて、その場を整えてくれる忠臣になったとすれば、またそのような聖人になり、聖子になったとすれば、それ以上の幸福はありません。

 そのようになれば、倒れたその場所は名勝地になるのです。天下の万民を蘇生させることができる祝祭の基台となり、記念の基台となるのです。そのような悲しい場所によって、数多くの後代の若者たちが新しく生まれ、その国を身代わりして活火山のように爆発するのです。そのような材料を統一教会はたくさんもっています。

 

 歴史は、何を通してつづられてきたのでしょうか。堕落した世の中であっても、人倫道徳を中心としてつづられてきたのです。その道徳の中心は何でしょうか。愛です。父母の前における孝子とはどのような人かというと、父母をより一層愛する人であり、国の前における忠臣は、より一層国を愛する人です。そして、国を越えて世界の前に愛を教えようとするのが聖人の道です。世界を自らの家庭よりも、自らの国よりも愛そうとするのが聖人の道理です。聖子の道理は何かというと、天と地のすべての法よりも、王宮法を中心として「最高の愛を実践しなさい」と言うのが聖子の道理だということを知らなければなりません。

 

 アダムが堕落しなければ、家庭の王であり、氏族の王であり、民族の王であり、国家の王であり、天地の王になっていたのです。堕落した人間世界ではありましたが、この道理を備えるために孝子を育ててきたのです。忠臣を育ててきたのです。聖人を育ててきたのです。聖子を育ててきたのです。


(3)人間が行かなければならない真の道


 人間が願う最高の願いも、愛を通じた願いです。神様の願われるすべての願いも、愛を通じた願いです。神様がもし孝子の位置にいるとすれば、父母のための愛を通じた孝子を願うようになるのです。夫婦をもったならば、愛を通じた夫婦、また愛を通じた父母、このようなことを願うようになるのです。

 

 自らの体を燃やして犠牲になっていく所に、家庭の光が現れるのです。それを孝子といい、国のために全国民が犠牲となって光を発するところに国の忠臣が現れ、そして、世界の聖人、天地の聖子が現れるということを知らなければなりません。

 

 心と体が一つになり、全宇宙のために生きることのできる人は、宇宙の中心存在になるということを知らなければなりません。「孝子」と言えば、家庭において、父母に対してより「ため」に生きる人が孝子になるのであり、国において、国王と民に対してより「ため」に生きる人が愛国者となり、世界を中心として、より「ため」に生きる人が聖人となるのです。そして、天地を中心として、より「ため」に生きる人が神様の息子になり、聖子になることができるのです。

 

 孝子というものは、父母に面倒をかけるのではありません。父母に面倒をかけさせるのです。忠臣とは、国に面倒をかけるのではなく、国に面倒をかけさせる人です。聖人は、世界に面倒をかけるのではなく、世界に面倒をかけさせる人です。また、天地の前に面倒をかけるのではなく、面倒をかけさせることによって聖子の道理を果たすということを知らなければなりません。

 今や世界は、真の御父母様を中心として動くことができる時になったのです。世界途上においてサタン世界の孝子、サタン世界の忠臣、サタン世界の聖人、サタン世界の聖子の道理はありましたが、天国を中心とした孝子と、忠臣と、聖人と、聖子の道理、標準はありませんでした。それを私たちが創建しなければならないということを皆さんは知らなければなりません。

 

 皆さんの家庭は、天と地を与えて買った以上の価値をもっているということを知らなければなりません。皆さんの祝福家庭の価値が、これほど途方もないものであったという事実を知らなかったでしょう? けんかをしたり殴ったり、このようなことをしてはいけないのです。この途方もないものが、地上において天国を代表した孝子の基盤をつくるのであり、忠臣の基盤をつくるのであり、聖人の基盤をつくるのであり、聖子の基盤を経ていくことによって、神様がアダムを中心として願われた理想世界になるのだということを知らなければなりません。

 真の御父母様は、そのような立場に立っているので、あの世に行き、孝子たちに対する中心のプラス、すなわち主体になるのであり、忠臣の主体になるのであり、聖人の主体になるのであり、聖子の主体になるのです。皆さんの父母の理想、皆さんの国の理想、忠臣の理想、聖人たちの世界理想、天と地の理想、そしてイエス様が願われた願いを皆さんの一身で蕩減することによって、解放が成されるのです。これが建国理想であり、建国理念の中心であり、一番の基調となるのです。

 

 聖子になってくれることを誰が願うのですか。神様が願われるのです。聖人は、誰が願うのでしょうか。世界が願うのです。国は、何を願うのかというと、忠臣を願うのです。家庭は、孝子を願うのです。まさしくこれが真なる真理の道です。真なる父母がいるとすれば、「あなたは孝子になったので忠臣になってはいけません。忠臣の道を行ってはなりません」とは言いません。

 真なる父母は、その孝子に「あなたは家庭を犠牲にし、忠臣の道を求めて国に仕えなければならず、聖人の道理を果たさなければならず、聖人の道理を犠牲にして天が願われる道を行かなければならず、天地を犠牲して神様を探し求めていかなければならない」と教えてあげなければなりません。このような概念があるということを知らなかったのです。投入して犠牲にならなければなりません。そのようにしなくては、一つの世界、一つの国は永遠に現れません。

 

 理想的な人間、人間構成、人格の完成において必要となる、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なものを教えてあげなければなりません。自らの息子に「孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たし、最後は神様まで行かなければならない」ということを教えてあげなければなりません。そのように教える父母がいるとすれば、神様が御覧になるとき、「いやあ、あの人は父母の役割を果たしている。あの人は先生の役割を果たしている。あの人は主人の役割を果たしている」と思われるでしょうか、思われないでしょうか。

 「あなたには父母の資格があり、先生の資格がある」と言われる時は、主人の資格があるのであり、さらには、王になることができる父となるのです。西欧の人々に孝子という概念がありますか。忠臣の概念がありません。聖人の概念がありません。聖子という概念がないのです。ですから滅びるのです。

 

 皆さんは、神様よりも優れた者になりたいという欲望をもっているでしょう? そのような欲望をもっているでしょう? そのようになることはできるのです。嘆き悲しんでいらっしゃる神様を慰労する孝子であれば、神様を慰労することができるように、神様よりも次元が高くなくてはならないのではありませんか。泣いていらっしゃる神様を慰労しようというのに、神様よりも劣っていて神様を慰労することができますか。そうではありませんか。理論的なのです。

 そのようになることができる世界が、今後、迎えることができる私たちの永遠なる本郷の地なのです。行きたいですか、行きたくないですか。頑固な性格では行くことはできません。東西南北に通じることができません。平面上の三六〇度も通じることができないのに、どうして縦に三六〇度回ることができるのですか。「東西が軸になり、反対に三六〇度回りなさい」。このような自由自在に行くことができる立場になっていないではありませんか。

 

 家庭完成、親族完成、国家完成、世界完成、天宙完成、神様解放までです! 神様を救ってあげなければなりません。親不孝者を迎えた父母の心を解放するためには、孝子の中の孝子にならなければなりません。神様はかわいそうな神様であることを知らなかったのです。無念でかわいそうな事情を抱えてきた神様が私たちの父であったということを思うとき、千年、万年痛哭し、地を這ってでもその涙を止めることができる悲運をもって生きる孝子の道理を守らなければならないのが、今日地上で救いを受けなければならない人々の責任であるということを知らなければなりません。深刻なのです。このようなことを誰が教えてくれるのですか。

 

 苦労の道から出発し、苦労の生涯で終わったとしても、いかにして神様の心情を解放してさしあげ、いかにして神様のために生きる立場に立つかということが、孝子として天に向かう、天の子女が取るべき態度です。天国に対して、先生は、そのようにして愛国心を残したいのであり、聖人が完成させることのできなかったその世界を、聖子の名をもって完成圏に移行させたいのです。先生は、そのように真剣です。

 神様が自分を御覧になって勇気をもたれ、悪なる世界を倒そうと思いながら進み出る、そのような神様になられるとすれば、その瞬間から、神様の活動舞台が自分によって生じるのです。それは、自分にとって、ある貴い立場や玉座、また栄光の立場において、一生ではなく何世代にもわたって、それ以上のものをプラスしても及ばない喜びの 賜 です。「自分は、歴史を越えてまでも、迫害に対して立ち向かっていこう」と思うのが、永遠の歴史を代表した孝子、孝女が行くべき道ではないかと思うのです。それが永遠の国に対する忠誠の道ではないですか。

 

 人間がいなければ、神様は愛から解放されません。父母は、孝子を迎えることによって、心情世界が解放され、王は忠臣、また聖人は今後の世界の大統領、そして神様も、聖子が孝子の道理で愛の対象者としてすべてを成して、初めて解放されるのです。そのような意味です。驚くべき言葉です。

 

 先生は、一生の間、不平を言うことができませんでした。批判してみることができませんでした。孝子の道、忠臣の道は、不平がありません。批判というものはあり得ません。完全な主体の前に、愛の関係を結んだ以上、不平や批評をすることはできないのです。夫が過ちを犯せば、すべて自分の過ちです。私の過ちです。妻が過ちを犯しても、私の過ちであるということを知らなければなりません。「私は、あなたが嫌だ」と言ってはいけないのです。

 

 神様の前に、孝子の表札を掛けることができませんでした。孝子は忠臣となり、忠臣は聖人となり、聖人は聖子とならなければなりません。天上世界と地上世界の統一のための家庭を中心として、聖子の道理が地に埋まっています。初臨のメシヤであるイエス様が来られ、「小羊の婚宴」を中心として祝福できる世界が現れなかったので、先生の時代にこれを表面化しなければなりません。

 

 なぜ神様は、これほどまでに孝子を好まれ、愛国者を好まれ、聖人を好まれ、聖子を好まれるのでしょうか。それは、宇宙の核だからです。宇宙の核です。孝子は一代先祖であり、忠臣は二代先祖であり、聖人は三代先祖であり、聖子は四代先祖です。三段階です。段階から見れば、三段階を意味します。これが愛によって連結されるのですが、「ため」に生きる一方通行の愛の天理を中心として、理想圏が動くようになっているのです。

 

 真の愛とは何でしょうか。真の血統とは何でしょうか。真の生命とは何でしょうか。神様が真の血統であり、真の生命であり、真の愛であられるとするならば、神様は何をされたのでしょうか。自らを投入して新しい理想的な世の中をつくろうとされたのです。ゆえに、人間が理想を探し求めていくためには、家庭ならば家庭において、自らのすべての生命と血統と愛を投入しなければなりません。家庭のためにそのように生きる人が孝子になるのであり、国のためにすべてを投入する人が忠臣になるのであり、世界のためにすべてを投入する人が聖人になるのであり、天地のためにすべてを投入する人が聖子になるのです。さらに進んで、天地と世界と国家と家庭全体を一つにして率いていくことができるお方が神様であられるのです。

 一日の生活は、天と同行するものでなければなりません。天が私の中に入っており、世界が私の中に入っており、国が私の中に入っており、家庭が私の中に入ってきていなければなりません。何を中心としてですか。孝子の愛、忠臣の愛、聖人の愛、聖子の愛、神様の愛を中心としてです。ですから、愛を中心として父母を思い、国を思わなければなりません。

 どのようなことをより一層思わなければならないでしょうか。父母よりも国のことを思わなければなりません。国よりも世界のことを思わなければならず、世界より天のことを思い、この全被造世界よりも神様のことを思わなければなりません。神様の愛が最も大きいので、ここにそれよりも少し小さな世界の愛が入っていくことができるのです。それから、愛の国もいくらでも入っていくことができます。

 

 今後、個人別に実績の統計を出す計画です。真の父母と成約時代の安着とは何ですか。さまよい歩いていた天が、すべて帰ってきて、そこで生活をしなければなりません。その国で生活をしようとすれば、税金を納めなければなりません。そのような忠臣が必要であり、孝子が必要です。家庭には孝子が必要であり、国には忠臣が必要なのです。忠孝の道がすべての国家形成の基本ではありませんか。自分は飢えるような困難なことがあっても、また死ぬようなことがあったとしても、天に侍り、国を滅ぼしてはいけないのではありませんか。

 

 人間に必ず必要なものは、孝子の道理、忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理です。堕落したので、聖人が必要なのです。聖子の道理を完成するのです。それゆえに、神様のすべての相対圏は、私から、天から、世界から私たちの家庭にまで連結することができるのです。それがこの世で生きている間に成し遂げなければならない道です。完成する道です。

 このような言葉を初めて聞いたでしょう? このような話は、具体的にはアメリカでのみしてあげたのであって、ここでは初めてです。ですから、孝子にならなければならず、忠臣にならなければならず、聖子にならなければなりません。自分がどこにありますか。自分というものがありますか。母の骨と父のものしかありません。国でいえば、王様は父と母の骨です。そこに接ぎ木されて大きくなろうとするのです。私が家庭をもたなければ、国の前に立つことができないので、家庭も国の前に……。サタンの国の前には破綻させられるのです。国が必要ですか、必要ではありませんか。

 

 愛は、自分を主張するところからは徐々になくなり、逃げていきます。「ため」に生き、より「ため」に生きるならば、ますます大きくなっていくのです。それゆえに、真の人は「ため」に生きるところから存在するのです。真の夫も「ため」に生きるところから、真の父母も「ため」に生きるところから、真の孝子、真の王、真の国家も、「ため」に生きるところからのみ存在するのだということを知らなければなりません。



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