Text Box: TP portrait第二章 愛の


 一 神の愛


  1.愛は神から始まる


 神は、愛の神です。パウロは「キリストの中にある神の愛の綱を誰が切るか」と言いました。キリストも、神の愛がなければ何でもありません。それで神の愛を何よりも好むのです。神の愛は生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。的体をしてみれば、これが分かります。

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 神の愛は太陽よりいのです。朝日が出れば、すべての植物の芽は太陽に向かいます。これと同じように、神の愛は生命の起源であり、私たちの本心の起源であり、理想的要素の主体的起源です。そのようになっています。

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 神は、愛の体、愛の中心存在なので、アルファとオメガがありません。正な愛は、始めと終わりがあり得ません。

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 心情の世界で一時間生きるのは、千年の史に誇ることができ、一日生きるのは、万年の史に誇ることができるように、高貴なことを体できるようにするのがの愛です。愛は、細胞が膨張する運まで感じることができます。そのような世界が、神の愛がある世界です。その世界は、言葉で表現するのが難しいですが、あたかものどかな春の日に雲にって飛んでいくような感じをえる恍惚な世界であり、すべての細胞が踊りを踊るような分になる世界です。

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 天地を創造した神は、どのような方でしょうか。極めて善なる方であり、万物の根本なる方であり、愛の主体です。ですから神は、天地万物を創造したのち、宇宙の貴いすべてのものを人間にえたかったのです。神は、御自身が本に信じることができ、愛することができ、任せることができる人がいれば、一番貴いものを、そのままりたいのです。

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 神はどのような味を一番好まれますか。神が臭いをかぐならばどのような臭いを一番好まれますか。聞くならば何を聞くことを好み、感じるならば何を感じることを好まれますか。神が好まれるものは一つしかありません。それは愛です。神の五感を集中させることができ、喜びを充させることのできるものがあるならば、それは愛よりほかにありません。

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 神が絶的な愛のパトナを求めるとすれば、誰を連れてきて立てるのでしょうか。それは間違いなく人間だという結論を出すことができます。ですから「万物之衆 唯人最貴(万物の中で人が最も貴いの意)」という言葉が出てきたのです。

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 神の愛は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を代表します。もちろんそこには兄弟の愛も入り、これを大すれば家や世界の愛も入ります。神の愛は父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛だというのです。これが最高に素晴らしい言葉です。

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 神が必要とする愛は、果たしてどのような愛でしょうか。絶的愛を願われます。私たちも同じです。神が絶の愛、唯一の愛、不の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も、絶、唯一、不、永遠の愛を必要とします。すべて神に似なければなりません。

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 神は愛ゆえに創造されました。愛ゆえに創造したので、男性と女性がお互いに愛し合うのを見るのがもっといいのです。ですから神は存在世界の前に現れる時、愛の本質として現れます。

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 子女として造られた人間が兄弟を成し、夫婦となり、そして、父母の位置に進みながら育っていくのを見ながら、神はそのすべての段階の愛の主人として位置を占めることができるのです。ゆえに、そのように神を愛の主人にさせた人間こそが、神より貴い存在であると見ることができます。ちょうど、自分自身より愛する人が何千倍も値があり、貴く思うのと同じです。

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 神は愛の骨です。それを知らなければなりません。愛を中心として、神の愛は「骨の愛」であり、今日の人間の愛は「肉の愛」です。分かりますか。骨と肉が一つになって形態を備えるのです。そのような理になっています。

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 愛とは何でしょうか。回ることのできる潤滑作用と軌道作用をしてくれるのです。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も動かすためにはガソリンを入れなければなりません。運動するのに潤滑作用がなければなりません。何でも運動しようとするには潤滑作用をしなければなりません。ですから最高の喜びの潤滑作用は愛しかありません。それは根が永遠の神なので、なくなりません。作用すれば展するようになっています。

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 神の愛はわらないところに現れます。神の愛は不なので永遠です。神の愛が私に現れるならば、わらない心の土台の上に現れます。ですから一生の間、食べるのもその愛のために食べ、るのもその愛のために、活動するのもその愛のために活動しなければなりません。愛のためにわらない完全な基準をもっている限り、神の愛は現れます。そうでなければこの宇宙の公約全部がむなしいものです。

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 神は私たちの父です。夜もも子供が侵害を受けないかと心配し、子供に何か問題が生じないかと保護してあげ、またある反の用件が現れないかと防御してくれる父母です。そのような父母の本質を求めていく道が、善の道、愛の道です。人間は息子、娘として神の完全な愛を受けなければなりません。

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 神は今まで、御自身と近い側にいる人たちと、氏族、家にまで愛をえました。少ないと言って受け取らないのではないかと、加えに加えて祝福してくださいました。それも不足で、愛する息子の生命までもえました。神は一人しかいない息子を殺されてからも、再び愛を加えてえようとされます。ですからその愛が返ってくる日には、天地が丸ごと理想的な天わることになります。愛を受ければ、もっと多くを返してあげるのが愛の原則です。私たちが神に百の愛を捧げるならば、神は千の愛、万の愛で報いてくださるでしょう。

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 神の愛さえもてば、神の胸の中に入っていてもいいし、神の鼻をつかんでもいいし、世界のどこに行っても境界線がありません。どこでも通じるようになっています。

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 神から愛の口づけを受けたならば、部が爆するような喜を感じるでしょう。神の願いはここにあるのであって、ダイヤモンドや石を所有してうれしいとは言われません。

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 神と人間はどこで連結されるのでしょうか。生命が交流するところ、愛が交流するところ、理想が交流するところです。その点とは、どのような点でしょうか。親子係です。このように見る時、神は愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なので、子女にしては威信と体面を超越します。いくら罪人のできのい子供でも、神をつかめば神が「やい、こいつ、駄目だ!」と言われるのではなく、神が抱き締めてほお擦りして愛してくれるのです。このようなことを体すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。

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 神は千年、万年えてもまたえたい、そのような心を絶えずもっておられる方です。そのような方なので私たちが神を求めるのであって、えたのちに「おい、これはいくらいくらだ」と言う商人の神なら、そのような神は必要ありません。

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 神の愛に接すればどうなるのでしょうか。の毛も踊り、細胞も踊るというのです。一○○パセントその愛にえば、手を引くのではなく、千年、万年共に住みたくなります。誰かが起こそうとすれば、「起こすな」と言います。このような境地になります。「神仙の遊びに斧の柄の腐るのもづかない(注:遊びに夢中になって月日のたつのを忘れてしまうの意)」という諺があるように、それほど人間が想像できない高次元の愛にうことのできる道があります。

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 神がおられるところには愛が充します。えればえるほどもっとえたいし、受ければ受けるほどそこに千万倍加えてえたいのです。ですからそこが、天ですか、地獄ですか。そこでもっとえ、もっと受けることができるので、爆な刺激を感じるようになります。すべての細胞が張り裂けるような刺激を感じるのです。神の愛はそのようなものです。

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 愛ならどこでも埋めることができ、愛ならどこでも及ぶことができます。愛する人が抱き締めたらどうですか。手を取って「ああ、愛している」と言いますか。おそらく目の玉が飛び出して鼻水、よだれが出るほど抱き締めてくれることを願うでしょう。そのように抱き締めてじっと立っていないで、ぐるぐる回ります。そのように愛によって一つになってこそ、宇宙が回ります。

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 神は人間の父であり、人間は神の息子、娘です。神の骨の中の骨、肉の中の肉、骨の中の骨を丸ごと投入して創造した人間なので、人間が神を引っ張れば、引いてこられざるを得ず、また神が人間を引っ張れば、引いていかれざるを得ません。

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 人間はなぜ神が好きで、ついていくのでしょうか。神は千年、万年すべてのものをえ、またえても恥ずかしがりながら「今はこれしかできないが、もう少し待ちなさい。何百倍、何千倍もっといいものをあげるから」と言いながら、きょうえることで足するのではなく、未にもっと多くのことをえると約束する心をもっておられる方だからです。

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 人間はなぜ永生するのでしょうか。なぜ誰でも永生を求めるのかというのです。絶的主体者であられる神の前に、愛の象としての値をもつことができ、絶的な愛の神の前に永遠であらざるを得ないので、私は永遠な愛の相対圏を求めるようになるのです。この場に立つ時には、上も下も同に神であり私になります。愛で一体となりさえすれば、神を私のポケットの中に入れることもできるのです

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 私たちがこのような神の愛のに通ずればどのような分がするでしょうか。春の日に、いい香りのする園で美しい花を見つめ、香りという香りをすべて嗅いでった分のようなものです。そういう時には、私たちのすべての細胞が踊りを踊ります。

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 神の愛が的な愛ならば、男女間の愛は的な愛です。男性と女性が出うには、的な愛を的な愛に接ぎ木しなければなりません。九○度の角度に合わせなければなりません。これを合わせない愛、的な基準と連結されない愛は、さすらいの愛として破されてしまいます。ですから縦横が一致した愛の圏内に入るには、愛を中心として全宇宙を支配することができるのです。全宇宙と係を結べば、知識も力もお金も生命も必要ありません。生命も、その中では永生するのです。

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 神はアダムエバの体を好まれるのではなく、二人の間の愛を好まれます。神が人間にして願う終着点とは何でしょうか。息子、娘にって愛する場です。そして人間が願う終着点も神を父として侍り、息子、娘として愛される場です。

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 神においてアダムは自分の中の自分であり、未の理想的な愛の中の愛です。それでアダムは神の体です。またエバは神の夫人であり、体です。アダムは神の体に相する的相であり、エバは肉的相です。ですからアダムとエバが夫婦になって愛するのは、誰と共に愛するのでしょうか。神と共に愛するのです。それで結婚は極めて神聖なのです。

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 神に知識は必要ありません。神は知識を創造した方です。神力は必要ありません。全知全能だというのです。神にお金は必要ありません。ダイヤモンドや金も思うままに造ることができます。神に必要なものは、たった一つです。それが何かと言えば、愛です。神一人で愛を受けることができますか。神は愛を思うままにできるのではないかと言うかもしれませんが、とんでもありません。神において一番必要なものとは、の愛を分かつことのできる象者だというのです。人はこれを知りませんでした。

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 神は私たちに愛をえる時、限りなくえようとします。神はすべてえても、「お前の中で生きたい」と言われます。そのようになる本質は、愛にあります。神も愛の中に入れば、僕の暮らしをしてもいいと言うのです。愛は法を超越します。

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 神の愛は、どのような味がするのでしょうか。すべてのものを合した最高の味です。好きでつかめば果てしなくつかむことができ、開けば果てしなく開け得る力をもっています。ですから愛によればいくらでもたすことができ、どこでも及ぶことができるというのです。

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 神は愛の母体です。ここから父母の愛がわき出たし、夫婦の愛がわき出たし、子女の愛がわき出たし、親戚の愛、民族の愛がわき出ました。

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 愛の中でも見えない愛が、最高の愛です。愛が見えるならばおもしろくないでしょう。愛は見えないので、最高に高くあり得るし、最高にくあり得るし、深くもあり得ます。それで「愛はロッキ山脈のようだ。愛はナイアガラののようだ」という言葉は合っています。見えない愛がこのように貴いように、見えないところにいらっしゃる神も貴い方です。その貴い神を探すためには、無我の境地に、すなわち自分というものがない境地に入らなければならないという言葉が正しいのです。神は私たちが見ることができるものよりもっと深い、見えないかな世界にいらっしゃいます。

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 男女の間で愛し合うようになれば、いろいろなことが起こります。そうでしょう。しかし神を訪ねていける道を知って神の愛の味を本に知れば、神のその愛はこの世のどのようなものとも比べられないものです。そのような愛の味を知った人がいれば、どのような苦難も彼を占領できないし、どのような悲しみも彼を占領できないでしょう。そのような絶的な解放があるのではありませんか。これを探すことが問題になるのです。

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 神は絶的な方なので、そのような神に他のところで侍ることはできません。愛する人同士は、共に行きたがるし、共にいたがるし、共に住みたがります。どのように共に住みたいのでしょうか。神に深く染みんで一つになって、共に住みたがります。それが愛の本質です。

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 心はいですか、いですか。心の形を皆さん自身はよく知りませんが、心は無限に大きいのです。それでは、その心がどれほどいいでしょうか。世界人類一人一人に百億円をあげても、またあげたいのが心です。心はこのように素晴らしいものです。ですから人間は無限の愛、無限の希望の花としてくことができるのです。それは、なぜそうなのでしょうか。無限に神の性稟に似たからです。

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 皆さんの心はどれほど大きいでしょうか。これは測定できないほど大きいというのです。また小さいと言えば、とても小さいのです。針の先も入れないほど小さいのが、人の心だというのです。心は大きくげれば、無限にげることができるし、めれば無限にめることができます。そのような本質、本性をもっているのです。なぜ心がそのようになっているのでしょうか。それは、神が臨在できる神の家になっているからなのです。

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 愛は一番近い距離を通ります。簡な言葉ですが、貴い言葉です。なぜ垂直にならなければならないのでしょうか。これが問題です。なぜ水平になって、平衡にならなければならないでしょうか。愛を中心として垂直になるには、愛は直短距離を通らなければなりません。愛する人を探していく時、隣近所を訪ねるようにのろのろ行きますか。矢のように直行しますか。夜も係なく、春夏秋冬いくら史が長いといっても、愛は一番直短距離を通ろうとします。

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 愛だけは万有において直短距離を通れるようになっています。ですから上にあるものが下に降りてくる時、直短距離で降りてきますが、その場が垂直です。



  2.愛の目的は、神人愛一体理想


 天地の中心と宇宙の根本とは何でしょうか。神秘的な境地に入って神に祈ってみると、父と息子、娘の係、すなわち「親子の係である」と言われました。知らない人たちは、肉親の父、母、息子、娘の係だと思っていますが、それは神との根本係を言うのです。

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 父と息子が出うことのできる最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出うのです。そのように見れば愛と生命と理想が一つの場所にあるというのです。その場に行けば神も愛であり、私も愛であり、神も生命であり、私も生命であり、神も理想であり、私も理想になるというのです。それを決定できる最初の因と最初の統一の場所が親子係が成される場でなければ、それはあり得ません。これは間違いない事です。

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 本はアダムエバが互いに最高の喜びの中で、最高の生命力が揮され、最高の力が合わさり、全体の理想の力まで合わさった中で、愛の花がかなければなりません。そこで花のようにいて、その香りが全天下を覆っても余りあり、神がその花を見つめ、花の香りを嗅ぎながら自らそこにうことのできる、そのような愛を神は夢見ていたのです。

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 神が創造時、理想として願ったの愛、偉大な愛を中心として人間との愛の係を結び、一つになれる神人愛一体の家庭を成したならば、今日私たちは天だ地獄だと心配することもなく、ただそのまま天に入るようになるのです。

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 の愛を中心として、男性と女性が神を身代わりした立場に立てば、宇宙のすべてのものに連結されます。そのようになる時、神のすべてのものが私のものになるのです。の愛が偉大な理由は、の愛によって私自身が神象になることができ、神も私自身になれるからです。聖書に「神が私の中にいて、イエスが私の中にいる」という容があります。父が息子の中に、孫がおじいさんの中に、おじいさんが孫の中にいるという言葉は、ここから生まれた言葉です。おじいさんとおばあさんは、孫を中心として情を結ばなければなりません。このようになってこそ愛の垂直線が始まるのです。また孫は、おじいさん、おばあさんと一つにならなければなりません。おじいさんとおばあさんは神のような立場にいるので、神のように侍らなければなりません。そうでなければ愛の軸を見つけることはできません。これを立てたのちに的に展開するのです。

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 人間の完成は、神的な係を結ぶところから出します。

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 神が絶的な方なら、その方がなぜ人間を造ったのでしょうか。お金のために、知識のために、力のために造ったのでもなく、神の愛を感じることができるたった一つの道のために人間を造られました。このような点で神は父であり、人間は息子、娘だというのが一つの軸を成すのです。もし軸が連結されれば、人間と神が愛によって一体となった係を、何が作用しても絶に切り離すことはできません。神の本然の愛に綱を結んでその愛を味わった人が、別れるでしょうか。蜂は春に蜜の味を味わいます。蜜を吸っている蜂のお尻を引っ張れば、お尻が離れても蜜から口を離しません。

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 神から愛を受けたがる、その最高の場とはどのような場でしょうか。その場はまさしく息子の場であり、娘の場です。神には天情があり、私たち人間には人情があります。この人情と天情が互いに合わさることのできる着点はどのようなところでしょうか。そこは絶的な神も願い、人間も願うただ一つの場、すなわち一つの父母を中心とした息子、娘の立場で、互いに愛を授け受けできる場です。

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 愛のの中で抱かれ、愛のの中で生まれる息子、娘には、どれほど値がありますか。神日のように訪ねてきて、見物したいし、ってあげたいし、ささやきたい宇宙の主人がいるならば、どれほど値があり幸福でしょうか。そのような宇宙の主人公として生きられるようにするのが愛です。

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 アダムと神が一つになって、互いに愛があふれる時、アダムは神になることができます。アダムが愛によって神と完全に一つになる時に、神はアダムの中におられます。聖書にも、「あなたがたは神の宮であって、神の御が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ三一六)とあります。私たちが神の聖殿だというのです。

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 私たち人間は、神が造った創造的な傑作品として神に似ています。神が永遠であられるので私たちも永遠な性稟をもたなければならないので、私たちの心は年を取らないのです。人は永生しなければならず、永生してこそ傑作品の存在的値をもつことができるのです。ですから人間は万物の長になるのです。神の愛は神の愛だけで終わりません。その愛は必ず人間によって的にがります。電のプラスとマイナスがやり取りすれば、反する極ができます。そのようなものが他のところでまた展開します。このように神の愛は的にがってきます。

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 人類は世界舞台で一番になることを願う前に、本然のアダムとエバの家庭で一番になることができなければなりません。アダムとエバが神の前に直系の王子と王女の立場を備えれば、彼らは男性として最高であり、女性として最高になるのです。しかし落することによって占めなければならない長子王子、長子王女の立場を失ったのです。これが人類史に恨としてりました。それで人類は神の愛を再び探そうと、初めの息子と初めの娘の立場を探してくる人生の道をんできたのです。

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 落していないアダムエバの体は、神が臨在できる家です。アダムエバが神を心の中心としての愛によって永遠に統一された愛の体、生命の体、血統の体になったならば、今日私たちの心と体はわなかったことでしょう。落とは魔の愛を中心として、魔の生命体と血筋を引きいだことです。ですからこの血筋を改造しなければなりません。オリブの木をのオリブの木に改造してこそ、救援理の完成が成されます。



 二 の父母の愛


  1.原罪のないの先祖、人類の救世主


 今日まで、史は何を求めてきたのでしょうか。時代は何を求めてきたのでしょうか。未は何を求めていくべきでしょうか。の父母です。ですから全体がここに結されずしては、幸福の基準は史過程や宇宙の中では見つけることができません。

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 の父母とはどのような存在でしょうか。の父母は全体の希望の象です。落した人類の前に、絶的な希望の象なのです。彼は史的な結体であり、時代的な中心であり、人類が生きている今日、この世界に連結され得る未線上においての出点です。

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 人間の願いはの父母に出うことです。死の道を行くとしても出わなければならない人が、の父母だというのです。史をすべて失い、時代をすべて失い、自分の後孫をすべて失うようなことがあったとしても、の父母に出うならば史を取りすのであり、時代を取りすのであり、未を取りすのです。そのような方が正にの父母だということを知らなければなりません。

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 皆さんは、神の父母のためにを流さなければなりません。を流さずしては誰も復の道を行くことはできません。神は今まで人間を救うためにの道をんでこられました。

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 メシヤがこの地にて、代行しなければならない立場とは、の父母の立場です。それではの父母とは何でしょうか。的なの父の代わりに、的なの愛を中心とした的な父母です。キリストではメシヤが神であり、神がメシヤだと言いますが、それは違います。神的なの父です。これは一つしかありません。他の道に行くことはできません。メシヤは的なの父母だというのです。

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 の父母がこの地に出現するまでには、その背後に皆さんが想像もできないぐましい事情が多かったということを知らなければなりません。皆さんが知らないところで、どれほど多くのを流したか知れません。その容は神だけが御存じです。

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 人類はの父母が必要です。なぜそうなのでしょうか。愛の軸に連結され得る原則的なことが、史始まって以初めて起こったのです。史始まって以、以前にもなかったし、これからもありません。これをはっきりと知らなければなりません。軸は一つです。二つではありません。その軸とは何かと言えばの愛です。今皆さんの父母が愛し合うのはの愛ではありません。

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 神理の目的とは何かと言えば、一つの焦点です。神の理想が現される場も正にその場です。私たちが失った父母、失ったの父母に出えるところも正にそこです。それでその期待がすべての中心です。その場、それが「の父母だ」というのです。史上、多くの場がありましたが、この場が最も値ある場です。それがどれほど重要なのか考えてみてください。すべての聖人たちもこの基台、この問題のためにってきました。

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 人類が願うものは何でしょうか。の父母に侍ることです。六千年前にアダムとエバが成婚して全人類が神の後孫になるべきだったにもかかわらず、落によって人間たちは、サタンの後孫になってしまいました。ですから私たちは六千年前に失った天の側のの父母を、再びこの地上に探し立て、の父母の愛の因を通じて重生しなければなりません。そうしてこそ天の民になれるのです。

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 神は、の父母を絶的に必要とされます。善なる神も、の父母なしには理を成し遂げることができないからです。界に行っている億の人たちも、の父母を絶的に必要としています。の父母が生まれない以上は、天使長界の人たちも、地上でみ旨が成就できるように役事したかいを見いだすことができないからです。神の前に立つためにも、の父母が必要なのです。

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 すべての史は、の父母を迎えるためのものです。宗の父母を求めてきたし、世界もの父母を求めてきたし、家もの父母を求めてきました。の父母を探す道を模索してきたのです。

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 人間は史時代にの父母を失って孤になったので、一つになる道がありません。本然の父母の愛からすべてのものが連結されなければなりませんが、そのようにできませんでした。ですからすべての人が必要とする方が、の父母です。

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 今までの史的な願いとは何でしょうか。の父母に侍ることです。神がイスラエルのとユダヤを立てられたのも、メシヤを迎えるためのものでした。メシヤはどのような方かと言えば、の父母です。またキリストとキリスト文化世界をつくったのは再臨主を迎えるためでしたが、再臨主は第三アダムとしてられるの父母です。

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 すべてのものはどこに結するのでしょうかの父母に出うところに結します。人類のの父母が現れることが史の願いであり、家の願いであり、思想の願いであり、理の願いです。それでの父母が現れる時は史上に一度しかない頂点を成す時であり、空前絶後の時なのです。

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 の父母とは何ですか。肉親の父母との父母と、何が違いますか。の父母とは何ですか。何をするのがの父母ですか。愛を中心として言う時、その肉親の父母との父母とは何が違いますか。愛にする念が違います。愛の念が違うのです。肉的父母は肉身を中心とした愛をえてくれるのであり、的父母は的な世界を中心とした愛をえてくれるのです。容が違うのです。



  2.の愛で人類を生んでくださる


 皆さんはの父母と係のない場で、天の前から追い出されたりの父母の血筋を受けて生まれたので、の父母の血筋に生まれわるためには、りの血筋を踏みつぶし、完全にき取ってしまわなければなりません。そうして血統を根本的に替えずしては天のに行くことができません。

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 落した人間が要求する救世主とは、どのような救世主でしょうか。落した父母の立場からではなく、落していないアダムとエバのような立場で神のみ旨と一致し、神の愛を受け、神の祝福を受け得るの父母の立場で、人類を生んでくれる救世主でなければなりません。そうでなければ、人間が原罪と係のない立場に上がることができないのです。

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 血統を換するのはメシヤがするでしょうが、換するように行動するのは自分自身でなければならないと言いました。このような基準が成されない限り、私たちは救いの道に至れません。それは決してたやすく成されず、生きるか死ぬかの境地を通過しなければなりません。四十日食祈だとか、血を吐く死の境地に行ってこそ血統換が可能です。

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 の父母が必要なのは、何のためでしょうか。心情を中心としてその根を下ろさなければならないからです。今は根が違います。落によって幹と枝が全部違います。ここで新しく根がの父母から始まって、何が出てきたのでしょうか。ここで幹と枝が出てきて接ぎ木するのです。切り取って接ぎ木するのです。接ぎ木してそれが宇宙の大きい主流になるのです。サタン世界のすべてのものを切ってしまわなければなりません。根っこまで切らなければならないというのです。幹と枝が全部違います。

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 今日、万民が願うものとは何でしょうか。世界家を迎える前にの父母を迎えようとするのです。また未の後孫たちは誰から出したがるのでしょうか。皆さんの息子、娘は皆さんの血筋を通じて生まれたいのではありません。の父母の血筋を通じて生まれたいのです。ですからの父母は、新しい未の出点になるのです。

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 の父母は何をしなければならないでしょうか。サタン世界の根となる間違った血統を正さなければならず、間違った生命をもとがえさなければならず、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書に「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とありますが、そのような逆的な論理がなぜ出てこなければならないのでしょうか。サタン世界は死ななければならないからです。

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 の父母は世界の人を呼んで、父母の立場から結婚させてあげます。ここでは人種の違いを越えるだけでなく、善人と人も共に結婚させてあげるのです。

の父母はなる愛、なる生命、なる血統はすべて否定しますが、アベルを殺したカインは取り除いてしまわず、同じ位置で祝福してあげます。

海の潮の干を見るとき、出ていく水と入ってくる水が合い、水平を成した時のように、救援理(蕩減復)が終結する善換期で善人と人をすべて共に祝福してあげることによって、サタンを完全に追放するようになるのです。

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 エデンの園で結婚を誤ったことが落なので、今やの父母が正しく結婚させてあげることをもって、もう一度ひっくり返すのです。りの父母が犯してしまったことをの父母が算することで、地獄を撤し、百、千億の界の先祖たちまでも祝福結婚させてあげるようなことが起こるのです。

の愛を中心とした地上の後孫たちの家庭基盤を通して、界の先祖と地上の後孫が的に一つになるだけでなく、このような家庭基盤を基点として東洋と西洋がお互いに連結されます。

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 養子はどのようにしなければならないのでしょうか。の息子に接ぎ木されなければなりません。オリブの木を切って、のオリブの木の芽に接ぎ木しなければなりません。オリブの木がのオリブの木になる運動をしなければなりません。重生するためにはの父母の血統を引きがなければなりません。それで人類が願うのはの父母であり、イエスと聖が願うのは小羊の婚宴です。

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 まず何よりも父母を心から慕わなければなりません。私の生命の動機も父母であり、私の希望の一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準を中心として父母に侍らなければ、救いを受けられないのです。皆さんはそのように侍ったことがありますか。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。ですから「私はの父母と永遠に一つになれる息子、娘だ」という信念を、自分の存在意識を超越できるくらいに堅くもたなければなりません。そうでなくてはなりません。

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 肉的な父母さえいればいいのに、的な父母がなぜ必要なのでしょうか。落したからです。今まで落した父母が何をえてくれたのでしょうか。大きいものを半分以上みな取ってしまい、自分を中心として降りていくことをえてくれました。それで、父母の愛を中心としてサタン世界に永遠にいさせるための一つの決定的な線が引かれました。これを切る道がありません。それではの父母とは何でしょうか。そのような基盤で、もっと大きいものをだんだんえてあげるのです。それで天の、永遠のに合うようにえるのです。永遠のに行って拍子が合うようにえるのです。呼吸に支障のないようにえるのです。



 三 父母の愛


  1.父母の愛は本質の愛である


 子供は父母の愛の現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また父母の理想の具現体です。子供を生んで愛したことのある人たちは分かるでしょう。それで愛する息子にして「これは私の愛の体であり、生命の延長体であり、理想の具現体だ。第二の私だ」と言うのです。

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 子供は愛と生命と理想的基盤から生まれるので、父母はその子供を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相として登場するのです。

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 父母はわることができますか。父母の愛を革命することは史時代になかったことを知らなければなりません。いくら革命が起こるとしても愛を革命することはできないので、愛は永遠に存しなければならないことになります。そのような父母、そのような愛の主体である父母が、私を絶に必要とするのです。唯一に必要とし、不に必要とし、永遠に必要とするのです。

            *

 子供はなぜ父母をしがるのでしょうか。そこに自分の愛の家があるからです。

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 父母の愛をなぜ尊重視するのでしょうか。見返りを願わず牲になるからです。そこでは、ある結果を願わないのです。それで足し、それで幸福だというのです。えることで幸福だというのです。すべてのものが、もらうことによって幸福なのではありません。える者が、もらう者より福があります。なぜ福があるのでしょうか。神の側を身代わりできるからです。

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 父母の子供にする愛は、ただそのまま生活的な因を通じるだけの愛ではなく、骨からわき出る愛なのです。忘れようとしても忘れられず、切ろうとしても切ることのできない愛の心を父母はもっているのです。子供と生命の因が結ばれているということを感じる時、父母には子供を愛する心が自然にわき出るのです。

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 の愛とは何でしょうか。「ため」に生きる愛ですが、えてはただ忘れるのです。ことさらえたことをえていません。またいくら注いであげても疲れません。七十になった息子にして「おい、車にをつけなさい」と言ってもぎこちなくはなく、十年その言葉を何回繰り返しても、嫌になったり疲れるということはありません。落したこの世の父母がこうならば、ましてや本質世界で神の愛を授け受ける時、疲れるはずはありません。

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 父母は子供を愛するのに自分を主張せず、自分がない立場で子供を愛するのです。父母は限をもって、いつも堂とした立場で子供を愛するのではありません。父母は自分を牲にしても子供が立派に育つことを願います。父母はわらない愛の主人です。父母という存在は、子供が千態万態にわってどのようなことをやっても、子供のためにという心だけはわりません。ですからわらない父母の愛は貴いのです。

            *

 父母は愛する子供のために骨が溶けるほど苦しますが、大だとは思いません。なぜでしょうか。愛しているからです。自分の血と肉を削ってえ、その値がいくらなのか帳簿に付けておきますか。しないでしょう。かえって、全部をえられなくて、もどかしがるのです。

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 親子係はどのようなものでしょうか。愛を中心としてどのような係でしょうか。親子係は父母の愛が原因ならばその子供は愛のであり、結です。このように見るのです。結と原因が掛け離れたところから出するのではなく、一つの場から出したものです。父母の愛が原因ですが、その愛の中で私が結として現れたという言葉はどのような意味でしょうか。父母が愛した結果として登場したのが、現在の「私」だというのです。ですから愛と共に一体化した原因と結果の立場を等にもって生まれたのが、親子の係において子供だというのです。


            *

 親子係は的な側面を代表します。ですから親子係の愛は、わることができません。私たち人間の史上でもそうでしょう。夫婦の愛は、的な因なので四方性を備えたものです。ですから父母が子供を捨てることはできず、子供が父母を捨てることはできないのです。

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 子供において父母にする喜びは、それこそ世界を代表した喜びにならなければならず、父母において子供にする喜びは、世界を代表した欲望を充足させられる喜びにならなければなりません。親子の係は、それこそ宇宙の根本でないはずがありません。喜びの根本がそこから芽生えるでしょうし、悲しみが始まるならこれ以上の悲しい場がないと、結論づけることができます。

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 親子の係は何について言うものですか。これは血筋が連結されたものです。父という言葉の中には愛が介在しており、血筋が介在しているのです。直系の子女になるためには、愛によって一体とならなければなりません。血筋によって連結されなければなりません。血は生命を構成するものです。父母の統を受けいだ生命をもつのです。何によってですか。愛によってです。

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 私は、どこから生まれたのでしょうか。私は、父母の愛が最高に花くところから生まれたというのです。花くには美しく花き、美しくくだけでなく香りを漂わせ、その香りは父母も好み、神も好み、万宇宙も好む、理想的な花としてくことのできる、そのような中から私が生まれたというのです。

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 宇宙を合した男性、女性として生まれたその父母が、愛の花をかせるその場に、喜びのその場に、一つの種として植えられたのが子女なのです。

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 私は誰でしょうか。父母の愛の出の根源に同した者です。これは原因と結果が一箇所で出したので、離そうとしても離すことができません。原因的な父母の愛と、結果的な私の生命の愛の根源は一つです。そのような意味から見る時、愛を中心として父子一身という言葉が可能だというのです。

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 愛をけば、一身や一体という言葉はあり得ません。私は腹中から父母の愛を受けます。愛の本質によって腹中に私を妊したその時から、父母の愛とすべての心が集中するようになっています。なぜそうなのでしょうか。愛の結だからです。それで愛によって生まれ、愛から生命の因を受けぎ、愛を受けながら大きくなって相を迎えられる時になれば、相をめとるのです。

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 親子の係は、いかなるものをもってしてもすことができません。原子爆でもすことができません。絶すことができないし、別れることができないし、捨てることができない係です。

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 父母と子女の因は、切ろうとしても切れません。私の愛と私の生命の主体性をもったものが子女なので、これを切れば私を否定し、私の生命を否定する立場に立つので、愛の結を否定できないのです。ですから父母は、子女のために生命を捨てられるのです。このような論理を得ることができます。

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 夫婦同士暮らしながらどんなにしく愛すると言っても、子供がいない夫婦が幸福な夫婦ですか、子供がいる夫婦が幸福な夫婦ですか。子供がいないのは未完成品です。未完成夫婦だというのです。そうでしょうか、そうではないでしょうか。

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 父母が子供を愛するのを誰も打つことができません。打てないというのです。宇宙が保護するようになっています。それを知らなければなりません。愛する父母が愛する子女を抱いて愛するその場は宇宙の法が攻できず、保護するようになっているのです。今までこれを知りませんでした

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 子供が病になって体が不自由になっている時は、高く深い父母の心情は、その体の不自由な子供に流れるのが原則です。違いますか。そのような不具者の心情は、谷底にあります。父母の心情は、てっぺんの大きいところにあります。そのような父母の心情が、頂上からその深い谷底に流れていきます。

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 子供のために生きる父母の胸には、いものがありません。服がぼろであればぼろであるほど、悲なら悲なほど、それがの深い谷底を深く掘っていくのです。

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 皆さん、赤ちゃんがうんこするのを恥ずかしがればどうなりますか。うんこをしておしっこをしても恥ずかしがらずに、母親がうんこを片付けるのを見て、きゃっきゃと笑っているのです。それはどれほど純でしょうか。それは愛によってのみ可能です。愛には醜いものがないのです。愛によってのみ、すべて克服できるのです。

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 胸の中で乳をませて育てる母親の切なる心、子供がうんこをし、おしっこをして臭くても、愛によってその環境を忘れられるのが父母の心です。落した父母が子供を思う心もそうだとすれば、ましてや愛の主体であられる神が、本然の心情を通じてアダムエバを愛したかったその心がどれほど切なるものだったでしょうか。一度考えてみてください。

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 父母の心はえても足らないと感じ、愛しても十分愛し切れないところがあるのではないかと、もっと愛したい心、えてからもやり切れなくの毒に思う心、このようなものがあるので、永遠の愛と通じる本質にすることができるのです。これが愛の、出統的動機です。

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 父母が離婚するのは、刀で子供を半分に切るのと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう親は、どこに行っても禍いを受け、不幸がついて回るのであって、幸福になることはできません。

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 赤ちゃんのおなかがすけば、母親の乳が張ってきます。乳が張って痛くなると、きしまないところがありません。おなかがすいた赤ちゃんを抱いて乳をませる母親の持ちは、表現し難いものです。張った乳が赤ちゃんにまれて小さくなると、母親は心地よく、分が良くなります。それは母親でなければ分かりません。また赤ちゃんがちゅうちゅう乳を吸いながら乳をるのを見る時は、愛がどっとわき出るのです。

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 鮭の一生を見れば、鮭は卵を産んでから死にます。卵をはらんで産むために雄と雌が無件に一つになって……。それを見ると、死ぬ日が決まった死刑囚の立場で夫婦が愛する、それ以上に愛し合うのではないかというのです。雌が卵を産めば、雄は地を掘って保護してくれます。それこそ理想的なカップルです。そして卵を産めば死ぬのです。死にゆく雄、雌のいろいろな姿を見る時、本に大きな衝を受けます。そうやって、その親の体は赤ちゃんたちの餌になるのです。

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 創造主がいるならば、なぜそのように造ったのでしょうか。それを見れば赤ちゃんがどれほど重要か、愛がどれほど重要かということが分かります。愛が最高のものであり、赤ちゃんが最高のものだということを見せるための一つの表現として、鮭をつくったのだろうという理論は極めて然な言葉です。鮭の一生は本に驚くべき人間の材です。



  2.分けえ、また分けえても完全な愛


 子女をなぜ愛するのでしょうか。なぜ愛さざるを得ないのでしょうか。それは神の創造の偉業を、私たちが的なから受けいだのと同じだからです。アダムとエバを造っておいて神が喜んだ、その喜びを私たちも感じるのです。神の愛を受けいで、神の創造的限を受けぐのです。

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 子供をたくさん育てた父母は、何かしら愛の心情がく、大きく、深いことを知ることができます。子供をたくさん育てた人は、い怨讐も打つことができないということを自ら感じることができる人です。それほど何かしらい土台に立っているし、い法度をもって生きているのです。

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 赤ちゃんは、生まれると母親の愛の電波にって、自動的に乳を探していきます。醜女でも美人でも係なく、母親ならいいのです。これこそ調和した無二の、聖なる姿なのです。

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 人は愛によって生まれ、愛を受けながら大きくなります。「私」という存在は、父母の愛のなのです。お母さん、お父さんの愛がどのようなものかを、際ので見せてくれたのが「私」です。父母は愛のである「私」を愛さなければなりません。そのを通じて無限の愛がを結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的神の愛まで連結され得る道がここにあるのです。

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 私は、父母の前に二つとない愛の同者、同伴者です。愛をもってお母さん、お父さんと同等になることができ、同等な場に上がっていくことができるのです。それが愛の特です。に愛する息子、娘に自分のすべてのものを相させようとします。宇宙の相は、愛の統上で同等な愛の値的位置を得る時、すべてのものを心置きなく一○○パセント相するようになっているのです。それで父母は孝子(親孝行)を願うのです。孝子は、父母の永遠の愛の同伴者として愛の相を受けるのです。

            *

 父母の愛によって生まれた赤ちゃんはどのようなことをしても憎くなく、ただただ好きなのは、その赤ちゃんが自分の血と肉によって、また愛によって造られた分身体だからです。おしっこをして、うんこを垂れ、鼻を垂らしても、ただかわいく、愛らしいのです。その中に愛が染み付いているからです。

            *

 父母と子供の間の愛は、父母からます。私たちは生まれながらにして父母の愛を受けます。父母の愛を受けて成長し、的な夫婦の愛を体するようになり、夫婦の愛が継続するためには、また子女を生んで愛さなければなりません。父母は子供がいてこその愛を感じることができます。兄弟同士の愛だけでは、父母の愛がどのようなものか分かりません。言い換えれば、父母から始まって一回り回って父母にってこそ、その愛を知るようになるのです。

            *

 私には父母の愛の綱、理想の綱が連結されていますが、この綱は誰も切ることができません。かえって宇宙のすべての力がこれを擁護しています。ですから私がどこに行っても、父母はついてくるのです。界までも父母はいつも共にいようとします。ですから、父母が同行するのを嫌うのは罪です。したがって私たちは、父母を自分の体のように思い、愛し、親孝行するのが、人間にとって最高に値があることを知らなければなりません。

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 私たちが生まれたのは、父母の愛からです。父母の愛から接ぎ木して出てきたのです。生命の連結を言う前に、血筋を言う前に、愛によって血筋がつながり、生命がつながったのです。「私」というものがなぜ貴いのでしょうか。生命をもったから貴いのではなく、父母の愛に同したから貴いのです。愛は父母が成しましたが、愛のは「私」です。始まりと結をもって生まれたのが、正に「私」なので貴いのです。

            *

 の父母は、愛の統を承させようと骨を折ります。そこには東洋人も西洋人も係がありません。氏族を超越してすべての父母たちが立てようとするものとは、普遍的な愛の統です。人は誰でも、自分の家庭を完全にむつまじく結合し、幸福で平和な生をもうとします。洋の東西を問わず、すべての人は、そのような人生を望します。このような場合、その統は本質なのです。なぜならば、統のみが未と連結されているからです。

            *

 夫婦間の愛と親子間の愛の中で、どちらが大きいでしょうか。西洋の人は夫婦間の愛が大きいと思っています。しかしそうではありません。夫婦間の愛より、子供のための愛がもっと大きいのです。夫婦同士の愛では、自分を愛してくれなければけんかが起こりますが、親子間では、愛さなければいけないといってけんかが起こります。父母の愛が中心であり的なもので、天の法度に近い道にっていくからです。ですから「ため」に生きる愛がよりの愛に近いということを、私たちは知ることができます。どんなにい男性も、どんなにきつい女性も、その愛の前には頭を下げるのです。

            *

 父母が貴いのは子供のためにえるからです。それがあとで入れ替わるのです。父母は年が多くなれば、また子供になるのです。昔は父母が子供の先生でしたが、年が七十、八十になると再び子供になるのです。その時は子供が父母を身代わりするのです。父母が自分を育ててくれた代わりに、子供がその父母を愛さなければなりません。それが天地の道理です。



 四 夫婦の愛


  1.夫婦の愛は全宇宙の花


 男性は神の陽性的形であり、女性は神の陰性的形です。夫婦は天下を一つのふろしきに包んだようなものです。それゆえに、夫婦は神の理想的な愛の心情を感じることができます。

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 神的二性性相であり、人間は的二性性相です。その二者が合わさって完全な丸いりんご模を成し、四つの性相形態をもった東西南北に愛の理想を引きつけることのできる母体にしよう、というのが夫婦の理想です。

            *

 夫婦が神を愛し、人類を愛する心のパタンの上で爆するように互いに愛し合うならば、その家庭によって神い、宇宙がうことができるようになるのです。その愛は、神のための愛であり、人類のための愛でないがありません。その愛の根は、どこにあるのでしょうか。自分にあるのではありません。神が愛の根源であり、人類の愛の根源なのです。

            *

 理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。最高の芸術を体に展開できる夫婦、最高の文体に展開できる夫婦なのです。最高の理想、最高の文化世界に接する前に、最高の愛によって夫婦が授け受ける甘味な愛が世界最高の芸術作品にならなければなりません。夫婦生活自体が最高の文作品であり、それ自体が文体にならなければなりません。

            *

 人にはいつも刺激が必要です。幸福は刺激なしには成されません。刺激がなければなりません。いつも食べる御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新しいように、夫婦間の愛も同じように、いつも新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほどもっと見たいし、一日中共にいたがらなければなりません。そのために自らにする究をしなければならないし、神する究をしなければなりません。

            *

 神の愛が人間の三大愛を中心として、共に花くことのできる家庭を成すことが世界の願いであり、人類の願いであり、未の願いだというのです。これにより、初めて天地の法度の前に史の香りを香らせることができるのであり、新しい花として登場できる貴く美しいものが夫婦の愛だということを知らなければなりません。

            *

 愛は永遠です。愛は二つではなく一つです。男女の間が愛で結ばれたなら地上で百年偕老(注:共に年を取ること)しなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっています。体は二つですが、一つになって回ることによって一体となるのです。二つの体が一つになれば神と回るようになり、愛の四位基台を成すようになるので、これが正に理想世界なのです。そこにはりの愛が侵犯できず、ただの愛のみが臨在するようになるのです。

            *

 心情的な愛によって結ばれた夫婦は、あふれ流れるその愛情が、生活を通して生涯をり越え、神の目的と完全に一致したという家庭を成さなければなりません。そうしなければ神のいらっしゃる天に入ることができません。

            *

 男性と女性の愛の完成が宇宙の完成です。この愛がれる日には、宇宙の秩序が破され的な世界がみな絶してしまいます。切れてしまいます。

            *

 夫婦の愛を通じて一つになり、神のような立場で創造能力を成したのが子女です。

            *

 純な男性、女性として赤い愛の情熱の心をもって天地を代表することのできる男女、そのように結ばれた夫婦を天は探しています。そのような夫婦の愛をもって、そのような愛で息子、娘を育てなければなりません。

            *

 最近、インスタント食品のような愛し方をする人が至る所にいますが、それが問題です。香水のおふろに入るからといって、愛が深まるのではありません。田に住みながら、冷水に体を浸して洗ってから床に就く夫婦の愛が、もっと純で長くき、深くなるものだといえます。

            *

 新新婦はお金や力、名を中心として一つになるのではなく、神の本然の愛を中心として一体にならなければなりません。妻は夫のために、夫は妻を愛する中で、夫婦が神を愛する家庭を築いていかなければなりません。

            *

 男性はの父の分身であり、女性はの母の分身です。ですから夫が妻を無視すれば、の母を無視することになり、妻が夫を欺けば、の父を欺くことになります。

            *

 男性が女性を主管し、女性が男性を主管できる力は愛です。愛以外にどのような力も男女間において互いに主管できません。ただ愛のみが主管できるのです。

            *

 男性と女性を力で比べれば相手になりませんが、愛が介在すれば、妻と夫が互いに押し合い引き合って一つになるのです。人間が神の前に愛の象的存在になったならば、神は喜ばれるでしょうか。喜ばれるのです。

            *

 最高に好きなメロディとは何かと言えば、男性と女性が互いに好きで喜ぶ夫婦の笑いなのです。そのような夫婦がこの世を抱くことができ、宇宙全体を受け入れることのできる心で生をむ時、そのほほえみは自然に生します。そのような夫婦の美しい姿が、神の前に一束の花でなくて何でしょうか。これは純な理想や抽象ではありません。本の世界のことを言っているだけです。

            *

 愛する夫婦間の話を見れば、この世のどのような詩や絵画よりも美しいのです。また「愛する者同士」、「二人っきり」、「私たち二人」という言葉が、どれほど美しく素晴らしい言葉でしょうか。

            *

 男性と女性が祝福を受けて完全な愛を交わし、喜びを分かつ時、神の目には地上にいた花のようだというのです。また彼らの愛によって成されるすべての造化万象は、神には香水のようなものです。このような美しい香りの中に神は住みたくて訪ねてこられるのです。神の愛が訪ねてくることのできる土台が正に夫婦の愛の場です。その場は万物と宇宙が和動する場となるのです。



  2.夫婦の愛は分散すれば不完全


 人間は本性的に、自分にする相の愛が分散することを願いません。夫婦間の的な愛の係は、親子間の的な愛の係と違って、分散すればにその完全性が破されます。それは、夫婦間に絶的な愛の一体を成すようになっている創造原理のゆえです。人には自分の相に絶くし、「ため」に生きなければならない愛の責任性があります。

            *

 愛の力な力によって結ばれた夫婦ならば、相がどのようなことをしてもうれしく、愛らしく思えなければなりません。夫の体から出る臭いが嫌だと言ったり、妻のしぐさがに入らないと思ったり感じたりするのは、二人の間に完全な愛が成されていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害係で結ばれているからです。

            *

 夫婦が一に暮らすのに、一生の間に暮らすよりは、愛を中心として曲折をながら、台風もて、暴風雨も降って、雷も落ちる、そのような多性を感じながら、理想の愛を追求するのがもっと幸福なことでしょう。男女の問題を解決するためにはお金や知識ではなく、愛が必要です。

            *

 人の言葉をよく聞いてみると、女性ののほうが男性のより高いのです。なぜそのように高く造ったのでしょうか。力においては男性よりも弱いのですが、情においては女性のほうが高いというのです。

それでは男性はどうでしょうか。男性はい愛をもっています。自分の夫と息子、娘だけを思う愛においては女性が高いですが、親戚やを愛する心は男性たちがもっと高いのです。それで息子、娘を愛したり、家庭を愛するのは母親に習って、世の中を愛するのは父親に習うようになります。

どちらか一方だけでは不安ですが、これらをつなぎ合わせることによって均衡を成すことができます。

            *

 最初の三年間は接ぎ木しようとしても合いません。家が違い、風習が違い、節が違う男性と女性は、合うはずがありません。一つになるまで、合わせていく努力をしてこそ合うようになります。

            *

 愛を通じてのみより大きいものが出てきます。「ため」に生きる愛からのみえていきます。ですから、夫婦がう愛からは亡の種が生まれます。しかし「ため」に生きる愛からは、天地のすべての精を取った、神のような知の王子、王女が生まれます。

            *

 夫婦はなぜうのでしょうか。互いに愛を受けようとするからです。互いに愛を受けようとする輩は長く立ち行きません。互いに愛を受けようとする家庭はれます。しかし互いに愛そうとする家庭は、「れよ」と願ってもれません。互いに「ため」に生きようとする愛は永遠なものです。

            *

 愛は愚鈍で間けなものです。どのような況も意に介しません。本に愛するならば、で誰が見ていようが係ありません。誰かが見ることを意識する愛は、限界圏内の愛です。誰が見ても意識しないそのような境地にある愛なので、どれほど愚直で愚鈍でしょうか。

            *

 経済問題を中心とした困難が、夫婦の因にひびを入らせることはできません。有識と無が夫婦の愛を薄くすることはできません。純な男性、女性として赤い愛と情熱の心をもって天地を代表することのできる男性、女性、そのように結ばれた夫婦を天は探していらっしゃいます。

            *

 愛する人たちの間になぜ、離婚問題が生じるのでしょうか。離婚した人や離婚を考えているという人みんなが、初めは生死を共にするほど愛する係だったことを考えれば、何かが間違っているというのです。離婚するようになった理由はいろいろあるでしょうが、結局何かがわったということで、二人の間がわったということを意味します。彼らは愛を守り、培うことができなかったので、そのようになったのです。愛それ自体はわりませんが、人の心がわったのです。

            *

 この世の夫婦係においては、夫がお金を稼いでくる時に力が出ます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出、夫も力の出る妻を見て力が出るようになります。それで彼らはお金を稼ぐことができなければ、不安で夫婦係がれたりもします。しかしの夫婦は、神を中心として愛の一体を成さなければなりません。

            *

 ある男性は、自分の妻がいてもきれいな女性を見ると、「自分の妻だったらいい」と思います。このように二つの心をもった男性を指して、「泥棒根性をもった者」と言います。二つの心から始まったのがサタンなので、二つの心をもった男性を指して、「サタンだ」と言っても間違いではありません。そのような人がいれば、サタンとわりありません。

            *

 夫婦はだと見ることができます。顔がそれぞれ違うように、人の運も違います。一生の運命が違います。夫の運命がくても妻の運命が良ければ、それによって夫の運が良くなることができます。反に妻の運命がくても夫の運が良ければ、それもやはり良くなります。ですから夫婦の運命は、山と谷を崩して平地を造るようなものだと考えることができます。平地を造ってそこに夫婦の理想をもって木を植え、畑を耕し、いろいろな愛の計を推進することができます。そのような道理を考えてみる時、相を外面的にだけ見て結び合わせてはいけません。結婚とはそのように恐ろしいものです。

            *

 夫にえばいいかと思っていたら、い時もあるというのです。良いものだけを願ってはいけません。二十四時間ずっと日差しだけ照りつけたらどうでしょうか。夜もなければなりません。高ければ、低くなるのが原則ではありませんか。

            *

 幸福な家庭は、夫が出てってきたなら、外であったすべてのことを妻と共に相談して、新しく開拓できる要因を見する家庭です。お互いに力を合わせて究する家庭が幸福な家庭です。父母がそのようにすれば、子供たちもそこに力を加えて、私たちもこのような家庭を築こうと同調するようになります。

            *

 愛する夫婦同士、一方的に相手の顔がどうだと決めつけてはいけません。自分の相の顔が一つの模でのみ感じられるならば、それほど嫌なものはありません。相手の顔はうれしい持ちで見れば、うれしい態で現れ、愛の心をもって見る時は、美しく見えるのです。水が流れる時、曲がりくねるのと同じように、一つのうねりが回るたびに新しい模が現れるように、いつも相手の顔を新しく感じなければなりません。

            *

 人間の美というものは、顔だけにあるのではありません。四方八方から見て感じることができます。美はボルのように立体的なものです。上から見ても、から見ても、どのような方向から見ても、自分なりの完成された美をもっています。ですから、自分の妻の顔をむやみに評してはいけません。美人の中には貧しい人が多いのです。しかしや福を備えている女性は違います。顔がきれいな美人も、子供を二、三人産んだだけで顔がおかしくなる場合があります。ですから、子供を産んでも美を維持できる人が美しい女性だと言えます。

            *

 夫と妻が互いに愛し合うのにも、神の代身者として、夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。人間的な立場で愛すれば、互いに不足な面が現れ、結局は離婚する事態まで起こります。

            *

 愛は互いに慕い合う時、値があります。口があれば口を開き、目があれば目を開いて愛を下さいと言ってこそ、愛をえる人も分がいいのであって、ぼうっとしていたら、愛がても逃げていくことを知らなければなりません。愛する人が深刻ではなく、消極的に出てくる時、どれほど分がいですか。

            *

 夫婦がキスするためにを磨くとすれば、それは自然な愛ではなく、磨き粉の臭いのために、人だけがもつ固有の体臭を味わうことができません。を磨いてキスする人を見ていれば、その人が愛の味を見るためなのか、磨き粉の臭いを味わうためなのか分からないほどです。最近の世態を見れば、人間の幸福がどのようなものか混同するほどに計算的で、人的で、飾的な愛が蔓延しているのを見ることができます。そのような愛は滅亡の道に導いている主犯だと言えます。

            *

 味みは、煮み鍋で炊いてこそ本の味が出ます。さっぱりして風味が良い味汁の味は、一度味が付けばどこに行っても忘れることができないでしょう。同じように、人も風味良くさっぱりした味のような愛に、一度味を付ければわらないでしょう。甘いだけのインスタント食品はすぐに嫌になるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡に手に入るならば、それは「の愛だ」と言えないでしょう。

            *

 エデンの園で裸になって踊るのを誰が見ていたでしょうか。人がいない所ではそんなこともできるのです。部屋で夫婦が裸になって踊るからといって、それが心配なことですか。夫婦同士なら裸になって踊るどころか、どのようなことをしても、誰が何と言うでしょうか。夫婦同士でするのに、何の係があるでしょうか。

            *

 鳩も互いに「くっくっくっ」とを出しながら愛し合うのに、夫婦同士が出う時、本に愛する人同士が出う時、出があるとすればどのようなでしょうか。雷が鳴る音よりも大きいことはあっても、小さくはないでしょう。

            *

 夫婦が床に入ってささやく蜜語は、この世のすべての疲れや憎しみを解かすになるのです。夫婦がささやく言葉の中で「あなたは私を愛さなければならない」という言葉はあり得ません。愛が自然なように、愛の蜜語も柔らかく美しいものでなければなりません。

            *

 夫婦が愛し合うのに、夫の父がていても夫の母がていても、クライマックスになる時は率直にを出してもいいというのです。「あの家はどんなに夫婦の仲がいいのか、夜にこれくらいが出ると町のねずみたちがびっくりして、鳴いていたたちもさっと鳴きやむ」と言うほど、町中に愛のうわさを立てなさいというのです。「ねずみたちが驚いて、が鳴きやむほどにが出る出事がなぜ起こるのか」と聞けば、「なぜかって、どうして? 天地が振動する愛の喚がわき出るからそうでしょう」と言ってもいいのです。

            *

 夫婦の愛の場は全宇宙の花です。史時代、体として現れた新新婦が愛によって一つになる新しい部屋には、神られて住み着かれます。ですから愛の中で成される新婚夫婦の新しい部屋が、どれほど厳粛で恐ろしい場でしょうか。神との道をつないでおいて、完全な愛のマイナス的役割をしていると考える時、ここから天地の愛の太陽が昇り始めるのです。生命の安息の場、理想の安息の場に和して、妻の部屋を訪ねなければなりません。

            *

 愛の火がつけば、二つの生命が一つになり、次に血統が合わさって愛で沸き始めれば、その渦く中で私の生命が主人として種が植えられるのです。男性の生命体、女性の生命体が愛によって運動し始めて回れば上がるでしょうか、下がるでしょうか。上がる場で芽生えれば息子になり、下がる場で芽生えれば娘になります。理論的にはそうです。私はそうなのかそうでないのか分かりません。理論的に合っているので、事がそうなのかそうでないのか究して一致させれば、博士位、ノベル賞受賞ものになるでしょう。

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 最近は足袋を履きませんが、昔は足袋を履く時は、一カ月でも二カ月でも足の指が出るほど履きました。そうすると臭が出て、すっぱくてくてありとあらゆる臭いがしますが、愛する妻の鼻は「その臭いがどのような香りよりもっといい」と言うのです。臭のする足の指も愛する時は、行ってなめるのです。行ってなめてみると味が辛く、甘く、すっぱく、だというのです。愛のアンテナを立てて測定すれば、測定値が「嫌だ」という計よりも、「いい」という計がさっと上がるというのです。

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 息子、娘を再創造するのは簡ですか。ありとあらゆることをやってこそ、新しい息子、娘が生まれるのです。とても大なことを全部しなければなりません。ですから愛する夫のつばが汚いですか、汚くないですか。仮に夫が自分の手につばを吐いたとして、絹の服を着ていてこするところがなければ、それをなめてしまいたいですか、そうしたくないですか。率直に話してください。「なめてしまいたい」と言ってこその愛です。愛には汚いものがないのです。

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 愛を中心とした生活で、すべてのものが解決されます。欲張りじいさんの虎のような目も、愛するようになればに描いたお月のような姿になり、硬くこわばっていた口も、にたりと開きます。凍っていたものが完全に溶かされるのが愛であり、溶けていたのを凍らせることができるのも愛です。極と極を包括しても余りあるのが愛です。「好きだ」という「好」の字をよく見てください。男と女を合わせて「好きだ」という字を書きました。「夫婦げんかは刀で水を切るようなものだ」という言葉がありますが、刀で水を切れば跡がりますか。りません。一度けんかをしても、面と向かって笑えば、また平和が訪れます。夫婦が愛するのは、神まで連結するためです。

            

 女性はなぜ髭がないのでしょうか。神は、アダムが髭を生やした姿を御になって分が良くなかったので、エバを造られる時、髭なしに造られたのです。したがって、神の創造物の中で一番の傑作品は誰でしょうか。女性たちです。女性たちが傑作品ですが、誰のための傑作品なのでしょうか。正に男性のための傑作品なのです。そのように考えてみてください。




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