Text Box: TP portrait第五章 愛と


 一 界の空は愛、愛が生命要素である


 私たちは神の愛によって生まれ、愛によって生きて、息子、娘を生んで、愛の目的地に到達し、永遠に神と共に生きるために神の元にっていくのです。すなわち私たちの一生は愛によって始まり、愛によって成熟し、愛のとして穫されるのです。人が死ぬということは、愛のを刈り入れることです。

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 死とは、人間が肉身生活を終えたのちに第二の出生をすることです。第二の出生をするところ、死んでから行く世界がすなわち界です。その界に入って、第三の父母である神から宇宙全体を代表するの愛を供給してもらうのです。界は愛を呼吸して愛を中心として生きる世界です。それで完全なの愛の人格を成すことができなければ、行ったりたりする道が制限され、四方に通じることができません。ドアを通っても、一つのドアしか通れないのと同じです。春夏秋冬いつでもどこでも、合わせて生きることのできる資格をもつためには、地上生活において完全な愛の人格を具備しなければなりません。

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 神の愛の中に生まれることは死ぬことですが、人間世界では「ああ、死んでしまう」と大ぎになります。そうすると神はそれを見て大笑いされるでしょうか。人間の世界で泣きわめく姿を見て神は悲しまれるでしょうか、喜ばれるでしょうか。制限された愛のから無制限の愛の圏内に突入できる喜びを迎えることのできる瞬間が、第二の出生である死の道を通る、その瞬間ではないでしょうか。それでその道は、昇華の道です。

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 死を屈服しなければなりません。第二の生を促進させる化の過程が死です。それゆえに、死は悲しいものではありません。新しい世界に飛躍するものであり、昇華なのです。

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 この世では死が生命の終わりを意味しますが、死は他の世界に新しく生まれることを意味します。それで死のゆえに憂になったり、悲しんだり挫折してはいけません。代わりにえられた使命のために一生を生きて、的な勝利の中でもう一度生まれることを喜ばなければなりません。私たちが地上であまりにも悲しみに沈んだり悲痛に思うと、天上に上った人を地の下に引っ張るようになるのです。赤ん坊が第一の母の胎から生まれ出たように、第二の宇宙的な母の胎からまた別の世界に誕生する昇華式は、際に男女が出って結婚する、その式に比べることができます。悲しみの瞬間では絶にありません。それは昆虫が堅い皮を破り繭から出て、新しい形態に、新しい存在として、新しい本質になるのと同じです。

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 人間が死ななければならない理由は、肉身によって制限された愛しかすることができないからです。無限な神の愛の象的実権をもって現そうとする時には、制限された肉身のみをもってしては駄目なのです。ですから無形のに和するほかありません。さらにの愛の理想を全天地と共に同一化するためです。ですから死は、苦痛の道ではなくて、宇宙的の愛を所有することのできる幸福の門を開門する時間だというのです。

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 私たちが父母の愛を受けて、夫婦の愛を分かち合って子女を愛したので、私の一生にわたって蒔かれた神のすべての愛を刈り入れて、自分のに行くのです。そして私たちが完全に愛によって一つになれば、神と似るようになります。夫婦が合わさって三段階の愛を完全に成して界に行くと、永遠の主体であられる神の前に、永遠に相的な神になるのです。の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになるのです。神で始まり、神で終わりを結ぶのです。

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 人間は母親のおなかの中にいてから生まれ、一定期間を地上で生きて、死を迎えるようになっています。そうして大部分の人間は、年を取れば取るほど死にする恐れを感じるようになります。人間が年を取るほど死にする恐怖や不安を感じるのは、死後の世界を信じないからです。

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 界は愛の成分によって覆われているところです。地球は空で覆われていますが、界は愛でまれているところです。人間は地上で空を吸いガスを吐き出しますが、界は愛を吸って生きているところです。界で授受する愛は、の愛だというのです。

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 私たち人間の一生は腹中時代十カ月、肉身時代百年、そして魂時代千年、万年を永遠に生きるのです。赤ん坊は生まれてすぐに泣くと同時に、鼻の穴で息をする第二の世界、すなわち空の世界につながるのです。腹中から空の世界につながる時には、腹中の世界で生きていたへそのと水袋をみんな破して出てこなければなりません。それら死(破)と同時に、地球星という母親から生まれたのです。生まれると口で食べ、鼻で息をします。ところで地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な養分であり、本質的生命要素ではありません。本質的生命要素はすなわち愛です。それで、この世で愛という空を吸わなければなりません。母親、父親から愛の空を吸わなければならないのです。

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 界における愛の宮殿はの父母から始まります。界に宮殿があるとしても、の父母が行って、「ここを宮殿にする」と宣布して初めて、そこを中心として全界が位置を決めるのです。そのような責任がっているので、界でもの父母を絶に必要としているのです。

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 界の裏通りまでも通いながら調べてみると、天地の道理は簡なものでした。二人が絶的な力で合わさって態になったところに神が入ってきて、骨のような芯になるのです。

ここに男性の愛と女性の愛の二つのかけらがぴったりとくっつくのです。これが宇宙の核です。愛の理想的体が合わさって愛の軸になるのです。

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 地上の生活と界の生活は別ではありません。地上の生活も重要で界の生活も重要です。界の生活は地上生活から連結されているのです。方とも重要ですが、今日この地で生きている人は地上生活が重要であると思っています。問題はこれです。現在の生活が永世を保障する基盤であることを知らない人が多いのですが、それは本に不幸な人たちです。

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 もしアダムとエバが完成して界に行くとアダムとエバは神の体になり、神はアダムとエバの心になります。ですから界に行っても神は見えません。完成した人を体世界の体と心のような一つの結果として成して置こうというのが、神がアダムとエバを創造した目的です。

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 地上世界と界は、互いに向かい合って動きます。地上世界が上がると界も上がり、地上世界が下がると界も下がります。一方が回ればもう一方も共に回ります。それで現世でそれを感して、永世にプラスさせる生活をしなければなりません。永世と現世は分けられていないのです。

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 私たちは結局どこに行かなければならないのでしょうか。界とは何なのでしょうか。死後の世界だと大抵は言いますが、死後の世界ではありません。なぜ死後の世界ではないのでしょうか。

愛と係のある世界だからです。愛と係のある世界なので、死後の世界ではありません。の愛を中心として出したものなので、私がの愛の理に立つようになる時は今ここが界なのです。ですから愛が偉大だというのです。

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 神は愛にって億千万世を生きるように人間を造りました。ですから人が年を取るのは怨讐ではありません。人は愛から始まって、愛をもって生活して、愛のを刈り取ります。死ぬことは愛のを刈り取ることです。私たちは父母の愛を受け、子女の愛を受け、夫婦の愛をもって父母として子女を愛して生き、神の愛、すなわち的な愛の世界に蒔いたすべてのものを一生を通してを結ばせ、これを刈り取ってあの世に行くのです。

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 この地上で肉身の皮はだんだんと年を取りますが、夫婦生活をして愛すれば愛するほど人体はもっと若くなります。それはどういうことでしょうか。人間が長生きすればするほど、的な人間である人体は最高の厳粛な美男、美女になるというのです。

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 私の生涯に何をするのでしょうか。愛の墓をしていこうというのです。愛の墓の中で生きられれば恨みはないというのです。人生というものは永遠において成功するものです。そのように皆さんが生きて死ぬ時には神が祝福してくださるでしょうし、界では神が息子、娘を連れて迎するために出てこられるはずです。

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 界では、神の愛がなければ食べられません。食べる利がないというのです。地獄は、見ながらも食べられず、知っていながらも行うことのできないところです。ですから神の愛を中心として地上で肉が一つになって天生活をした人以外には、永遠の理想的世界をもつことはできないのであり、天を所有できないということを知らなければなりません。

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 あの世で必要なことは、世界よりも、自分よりも、自分の妻や夫よりも、自分の息子や娘よりも、神をもっと愛したということです。愛の圏内の最大の人格を構成した人は、その世界では神のような能力行使が可能です。

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 あの世は愛の空でできています。愛によってすべてのものが生まれ、愛によって生き、愛によって「ため」に生きることのできる愛の道理によってたされてこそ、今まで史時代に願われた神の希望の体を完成したという立場に立つことができ、天のどこに行っても迎されるのです。皆さんの家庭が、天に向かう修練所です。家庭で修練を受けたものを四方に大させて、「ため」に生きることのできる愛のをもって生きる人は天に直行するのです。

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 界という世界は無限に膨大な世界ですが、何百万里の距離も瞬時に愛を中心として行ったりたりできる世界です。愛は最大の速さをもっています。

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 界で神が見る時、皆さんの心の中で愛の鐘の音が鳴るようになると明かりがだんだんと大きくなります。この光は神の目にはダイヤモンドの光よりももっと美しく見えます。またその光は味のある、見れば見るほどいいものです。ですから神は愛だというのです。

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 界の空は愛です。愛が生命要素になっています。その世界は鼻で息をするだけでなく頭のてっぺんでも息をし、細胞全体が息をします。ですから完全な界生活をしようとするならば、地上生活で完全な愛の人格を具備しなければならないのです。

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 界に行ってみると父母、夫婦、兄弟姉妹、子女という、家庭生活で深い愛の経験をした人は多くの自由を得ることができ、その人はどこへでも、何の制限もなくどの方向にも行くことができます。その反に愛の経験のない人は心がく、界でも自分一人で孤立していて自由がありません。

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 界では神の愛がすなわち法です。

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 界とは、永遠の要素を望む永遠のところです。ですから愛を体した人体は間違いなく、自動的に磁石に引っ張られてその世界に行くようになります。界はどのようなところでしょうか。すべてが愛で充した、愛で詰まった調和の世界です。今日の人間は誰でも愛の係を結ぼうとします。これは界の拍子に合わせるためです。愛の力で動かない存在はないし、愛の力の象にならない存在もないので、愛の言葉で聞いてこたえないものもありません。愛はすべてのことを可能にすることができ、起こすこともできます。再現させることのできる能力があります。したがって界は、直感的な愛の心をもってすべてのことを可能にすることのできる自由自在の世界だというのです。

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 界を結束しなければならないのですが、界を拾することのできない人は天下を統一できません。天運の根が天なのですが、天を拾できない人がどのように世界を統一するのでしょうか。ですから地上を統一する前に、界を統一しなければなりません。

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 皆さんは全部先祖の顔に代わって生まれた史的な復活体です。その史がどのくらいになるでしょうか。何十万年にもなるというのです。そのように長い史過程は、結局は私自分一人をつくるために苦したというのです。金氏ならば金氏という自分一人を誕生させるために、多くの先祖たちがては去っていきました。ですから私たちは史的な結体です。

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 おじいさん、おばあさんが亡くなったなら、お墓りをしなければなりません。神がお墓に埋められたと言って、お墓りをしなければなりません。

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 今まで界に行った人たちは全部別れています。界では的には通じません。的にはこの程度に通じます。

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 あの世に行けば殺人を犯した人、殺された人、な人が一箇所に集まっているので、そこでは包丁ざたが起こり、復讐しようとする出事も起こります。ですから多くの塀にまれているところです。ですからなるが怨讐の子供をし回って事故を起こさせて連れていくような、そういうことが起こるのです。これを全部解かなければなりません。解くためにはまず地上世界で解かなければなりません。解くためにはもっといいものをあげなければなりません。死ぬよりももっといいもの、怨讐係になったものよりももっといいものをあげなければ解けないのです。

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 人はどこに行くのでしょうか。界に向かって行くのです。界は海と同じです。どうせ行かなければなりません。海にも流れがあるように、そこにはこの上ない調和の取れた化があるのです。海では主流の流れを中心として、淡水にはない調和の存在があります。海には多くの魚族があるように、そこには多くの新しい天地家庭があります。あの世に行っても同じなのです。



 二 愛の人格体は地上生活で具備しなければならない


 地上にいる時の生活がどんなに重要でしょうか。地上生活は一度しかありません。瞬間ですが一度しかありません。地上生活を永生に比喩すると、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。この期間に肉身生活を越えて界のために準備しなければならないのです。常にそのような思想をもって、中心に立って一体をコントロルして征服できなければなりません。そうでなければ完成を成すことができません。それを知らなければなりません。

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 もし生涯の中で三分の二以上が罪の生活をしたならば、その三分の二の生活をすべて切り捨てることができるでしょうか。できません。切り捨てることができないのです。これは必ずついて回るのです。

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 皆さんの心をフィルムに撮って、その写真を自分が見ると思ってください。

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 完成は地上でするのであって、界でするのではありません。地上でこその愛を中心として可能なのです。界ではありません。

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 今日、信仰生活をしている人は蕩減法を知りません。無責任な立場で天に行くと思っている人は多いけれど、責任をもって蕩減し史的な罪を算してから天に行こうとする人はいないというのです。ですから私たちは肉身をもっている地上生活で責任を果たし、史的なすべてのことを算した件を立ててから行かなければなりません。界に行った人は蕩減できないので、もう一度て蕩減しなければなりません。今までて去っていった史時代のすべての人たちは蕩減復をすることができなかったので、全部この法に引っ掛かって、界に行ってからもう一度て蕩減件を立てなければならない運命にあります。地上に住んでいる人が界の人より一つ有利なこととは何でしょうか。直接蕩減件を立てることができる肉身をもっているということです。

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 皆さんが天に行く人か、地獄に行く人か、確に知らなければなりません。レバレンドンは界をよく知っている人です。いろいろな人が生きては去っていきます。死を避けることのできる人は一人もいません。死は避けることができないというのです。ここで生きて去っていくのですが、自分のために生きた人は、この世界に行ってぐるっと回って地獄に行くのであり、他のために生きた人はぐるっと回って天に行くのです。

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 なぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体するために結婚するのです。それでは、それがなぜ必要でしょうか。愛の空が充するところが界です。界の拍子に合わせる訓練をするためには、家庭をもたなければならないことを知らなければなりません。これを感じられずに行く人は、あの世に行って拍子を合わせることができません。このような人は愛の空をかぐことのできる鼻のない人と同じなのです。

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 父子間の愛は的な係であり、夫婦間の愛は的な係であり、兄弟姉妹間の愛は旋回して取り係です。この三つの係はすべて違います。それで地上でこの三つの違った方法によって深い愛の経験をもってこそ、界に行って制限なく的、的、円として旋回できるのです。例をげると、父母が早く亡くなったことによって父母の愛を味わうことのできなかった人は、とても重要な愛の経験ができなかったので多少悲劇的な人であり、夫婦係を経験できなかった人は、人生の重要な部分が不足しているので界ではとてもみすぼらしい人です。また兄弟姉妹がいない人はすべての分野が欠けているので、完全な人生を生きることができずに界で寂しい立場に立つのです。

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 地上で子女を立派に育ててしていかなければなりません。将来その子女すべてが界に行きます。界に行って天民になるのです。自分が天民として何人捧げたかという時、地上ではつらいことだったけれども、永遠の世界ではそれが高貴な光の道になるのです。

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 あの世に行くと、界に行ったすべての次元の高い人たちのことが、地上のことと同じなのです。地上とはどのようなところでしょうか。天民を生産する生産工場です。分かりますか。大無の天です。無限大です。あまりにもいのです。人は億年の間ては去っていきましたが、どこにいるのか分かりません。そのようにいのです。一人が百人ずつ子供を生んでも天いので、過人生産ということがありません。あの世は、いくらでも容できる世界です。産制限しなければならないでしょうか、してはいけないでしょうか。あの世に行く時、天の民をどのくらい引き連れていくかということが問題になります。の天の息子、娘をたくさん引き連れてくる時、それが自分の域になり、天上世界で表彰を受けることのできる等級の等差を設定できる資料になるということを知らなければなりません。

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 これから界に行って自分の所有が何かというと、天の民をどれくらい連れて入っていくかということです。それは自分の財産です。永遠の財産なのです。

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 道端の乞食や体の不自由な人をく言ってはいけません。皆さんの人体がその姿ではないかと思いなさい。

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 界には繁殖がありません。神的な父母の立場におられ、軸は一つなので一点しかないのです。

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 皆さんは界に行って保護官生活をしなければなりません。何千年も待たなければなりません。祝福を受けた人たちもこれから息子、娘がみな「お母さん、私をどうしてこんなふうに産んだの。どうしてここに引っ張ってきたの」と言わないと思いますか。皆さんの息子、娘がじっとしていると思いますか。皆さんの家庭によってレベルがみな違います。それで行くのも、自分の級に合うところに行って長い間とどまるのです。そうすると皆さんの先祖たちが、息子、娘が「なぜこうですか。なぜできなかったのですか、いったい何ですか」と言いながら讒訴します。皆さんはそれに該するほどの長い時間そこにとどまらなければなりません。そのように簡なことではありません。それで地上でしっかりしなければならないのです。

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 皆さんは父母として生まれました。その次にもっと根本的なことは、母親のおなかを借りて神によって生まれたという事です。皆さんは宇宙の父母を通して、肉身の父母を通して、の父母を探していくようになるのです。肉身の父母は通過の父母です。それで死の瞬間はの父母にいに行く喜の時間です。そこを天上天と言います。そこの構成要素は愛であり、父母の愛によって充しています。その愛は私のためのものではなく、奉仕と牲の原則の元の法度を通すことのできる愛です。そこに合格するためには宇宙を愛し、人類を愛さなければなりません。地上生活はそのような愛のための訓練所です。皆さんはこのような容が宇宙の根本だということを知って、生きている時にこのようなをもって愛を実践し、合格したのちにそこに行けば間違いなく神えるという結論になるのです。

            

 界に行くと、必ず行ったとおりに返さなければなりません。祝福を受けた家庭は先生が祝福を授けたので天に行く門は開きますが、前進するにおいては心情の軌道にってあちらから引っ張ってくれなければなりません。それで、これからそのような世界があらわになる時になると、皆さんはたくさんの審判をて、初めて運命ではないかと思うようになるのです。

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 人が生まれたのは愛のを地上に結ぶためです。地上で神が望んだ愛のを結するのが地上にた目的です。ですから短いのです。一つの季節にしかなりません。短いというのです。分かりましたか。

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 魚は水の世界を離れては生きていけません。水が絶的な生命です。川の水に棲む魚が川の水だけにいてはいけません。海の水にも行ったりたりして生きなければなりません。なぜそうしなければならないのでしょうか。淡水の魚は海水と接するその水を味わわなければ子供をはらめないのです。それを知らなければなりません。それを知っていますか。また、海に住んでいる魚は淡水にて味わって子供を産むようになっています。二つの世界に通じなければなりません。地上と界も二つの世界ではありません。ですから二つの世界で生活できる、ある容をもたなければならないということを知らなければなりません。


(CSG Index)