Text Box: TP portrait  第三章 の御父母


 一 の御父母限と使命


 1.の御父母は肉体をつけられた神


 神は無形でいらっしゃるので界に行っても見えません。それゆえに神は体をもった父にならなければならないのです。体をもった父になることによって、無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象します。神は体をもつためにアダムとエバを造りました。体をもつには愛だけが可能です。愛があってこそ神の形に似た体を備えるようになります。アダムとエバが神の体を備えれば、彼らの心の中に神がいらっしゃって、地上世界と無形世界を統治するというのです。神の王をつくるのです。神の王は愛の王だというのです。愛を中心としてこそと肉が一つになるのであって、他のものでは一つになることができないのです。

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 神は、神と人間が主体と象として的な愛の係を完成することだけを目標とされたのではありませんでした。的な愛を完成してアダムとエバの的愛の結をもたらそうとされたのです。その瞬間が正に的父母であられる神が外的父母であるアダムとエバと完全一体を成すために臨在される愛の理想成就の瞬間です。無形の父母であられる神が、アダムとエバの形をかぶって有形世界に永存なさる父母になるのです。この時アダムとエバはの父母、の先祖になるのです。

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 神が体をもった父になることによって、見えない無形と有形が一つになるのです。それは宇宙が一つになることを象します。それゆえに神の形に似た体を備えることができる姿としてアダムとエバを造ったというのです。そしてアダムとエバを天の王宮に、王座に上がるようにして、その王と王妃の心の中に神の王をつくるのです。王は愛の王だというのです。愛の王。愛を中心としてのみと肉が一つになるのであって、他のものでは一つになることができないのです。

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 神が心と体に入った愛をもった男女が結婚すれば、それは誰の結婚になりますか。誰の結婚になるのかというのです。人間の結婚であると同時に神の結婚です。驚くべき話です。教会の信徒たちは驚き倒れる話です。「あんなことを言うから異端だと言うのだ」というのです。異端は誰ですか。本の異端は誰なのか界に行ってみてください。

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 本アダムとエバは何ですか。神の長男、長女です。神は天宙すべてを創造した万能の王であり、アダムとエバはその王の子女なのです。王の息子と王の娘が絶者である神の愛を中心として一つになって、神と一つになったその基準に立たなければなりません。それがアダムとエバの位置です。言い換えれば、アダムとエバは地上天と天上天の王にならなければならないというのです。皆さん、神の姿は界に行っても見えません。姿が見えないのです。神の創造目的は何ですか。自身の形をもつことです。姿をもちたかったというのです。

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 無形の神体がないので、その形態を身代わりしたものがの父母だというのです。の父母は個人的な父母であり、家庭的な父母であり、氏族的な父母であり、民族的な父母であり、家的な父母であり、界に行っても、今後、の父母の形で神が現れるのです。統一教会の偉大なことがそれです。レバレンドンの偉大なこととは何かというと、レバレンドンの形を神がかぶられるということです。何の話か分かりますか。

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 先生が監獄に行って、いうわさが立ち、すべて滅んでなくなると思っていたのですが、今でも生きて堂と大口をたたいています。アンテナを張ってすべて見聞きして分かっていて、大あげているのです。神も先生のサインが出ているか、出ていないかを見てそれから決裁するはずです。先生のサインがあるかないかを見て、先生のサインがあれば「OK」、ない時は「ノ」と言われるのです。言葉は簡ですが、そのようになることがどれほど難しいかを考えてみてください。今後の世界、界はすべて先生の手中で動くはずであり、この肉界はいずれ一つの谷間へ行くしかないという結論が出てきます。

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 自然世界は理でぎっしり詰まっているというのです。皆さんは界にしてよく分かりませんが、先生界の門家です。そこは二十一世紀ではなく二十二世紀、三十世紀になったとしても、先生がいなければ開門することができません。理論的に界を示して界を開門する時、体系的容を明らかにしてくれた元祖が文先生だという名が永遠にるのです。

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 界を結束させなければならないのに、界を拾できない人は天下を統一できないのです。天運の根が天であるのに天を拾できないのです。天運の根が天であるのに天を拾できない人がどうしてその結果をこの世の道理として世界を統一できますか。それゆえに地上を統一する前に界を統一しなければなりません。

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 天に王宮がありますか、ありませんか。そこの王は民主主義の王でしょうか。どのような王でしょうか。界はの愛を中心とした所なので、界の王は一度中心になれば永遠です。それゆえに、高い所、低い所を一つと見るのです。全体を球形と見るのであって、分離されたものとしては見ないというのです。



 2.宇宙の中心軸、地上天上の統治者


 界に行けばアダムとエバが家庭の王であり、氏族の王であり、民族の王であり、家の王であり、世界の王であり、天宙の王なのです。ですから、界に行っては神の代身者となるのです。神は無形の神であるので見えません。あの世に行っても神は見えないのです。しかし神も体が必要です。それで、神が造った万物世界は体をもっています。無形の神が体をもつことのできる相的な存在を必要として万物を創造したがゆえに、完成したアダムとエバは神の体になるのです。

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 アダム家庭とは何かというと、将来アダム一族の族長になり得る立場であり、アダム一の王になる人であり、世界の王の中の王になる人です。神の代身と一体となることができる世界です。神がなぜ創造をしたのでしょうか。地上で人間アダムの後孫を通じ天の民を育てることがアダムを造った目的です。ですから、地上でアダムとエバに通じることなしに子女を……。

 界で子女繁殖はできません。的であるために界に行っては息子、娘を生むことができないのです。ここは的ですから的なものは一点の上に立つのです。面積がありません。それゆえにアダムとエバが的な基準の前に三六度で……。これは無限であり、無限の面積が必要なその中で生まれた無限な息子、娘を天の民とするためのものだというのです。そうなれば天で王になることができる方が誰かといえば、神です。神が王にならなければならず、神と一つの体となり得る、体をもつことのできる人が必要です。その体が誰かといえば、アダムとエバです。

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 落しなければアダムが誰ですか。界に行くようになれば神になるのです。界で体をもつ主人になるのです。神はあの世に行っても見えません。なぜ人を創造しましたか。この宇宙は体があるので、体の主人であるアダムとエバを中心として管理主導できる立場に立つためです。

 神界で無形でいらっしゃるので、支配できないから、体の仮面をかぶって体の体をもつことによって、あの世において、地球星で生産されてくる自分の息子、娘たる後孫を、体をもって支配することのできる王になるために体の人を造ったのです。その王の顔が誰の顔ですか。アダムの顔です。王をつくったから王妃が必要なのです。王妃とは誰ですか。エバが皇后にならなければならないのです。地上の先祖であると同時に、天上世界の先祖になるのです。

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 界に行けば先生がすべて統治しているのです。先生ではなく、神です。神の体なのです。皆さん、体のあるところに心があるでしょう。心と体が一つです。もう少し深い話をすれば良いのですが、ひっくり返る人がいるために話をしてあげることができません。ひっくり返るようになっています。「ああ! そんなことがあるものか」と、このようになるのです。本にそのようなことがいくらでもあるというのです。神は遠方にいるのではありません。そのようなことがある、限りなく近い所にいらっしゃる方であるのを知らなかったのです。

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 界に行けば神が見えるのではありません。神がアダムとエバを造ったのは、体的万物世界を、今後後孫にすべて管理させるためです。神も形が必要だというのです。アダムとエバの形をもち、あの世に行ってお父の役割、すべての中心存在の役割をするのです。父母があの世に行けば、神が心にあって一つの体になって、全界とこの地が一つになるのです。神が心に入り、父母が神の身代わりに入っているのです。私たちの体と心の係のようなものです。そのような原則になっているので、地上の皆さんの家庭は、界の中心家庭である父母の家庭と神が一つになったその形態を、小さいけれど皆さんの家庭に一位としてを結ばせたのと同じだというのです。

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 アダムとエバが落しないで完成し、人間の責任分担を果たせば、この地上世界と天上世界に地上天と天上天が成されて、愛を中心として一つの世界になるというのです、の愛を中心として。結局は最初であると同時に最後になる日は何ですか。「の父母の日」です。「の父母」と言えば、神な父母をいい、の父母は的な父母をいうのです。的な神界を代表し、的なの父母は地上世界を代表して一つになるのです。の愛によって一つになる世界です。その二つの核心的な容がの父母です。の父母の中に的父母と的父母があることを知らなければなりません。



 3.の御父母を通して天に行く


 宇宙の中心が何かというと、肉のの父母です。その基準を中心としてそこから東西南北が生じ、家庭が生じ、氏族が生じ、民族が生じ、家が生じ、世界が生じるのです。これが、宇宙の根本です。これを中心として界が生じるのです。これが、九度、三六度になってこの中に宇宙が入るのです。

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 先生が幼い時から界問題に面しながら、このようなすべてのものを探し出してくる中での承的な記が、「原理」のみ言だということを知らなければなりません。漠然とした話ではありません。それで、李相軒氏もこの地上に生きているとき、先生を一〇〇セント信じられませんでした。先生が「右手は界をつかみ左手は地上をつかんで、反に引きかなければならない責任がの父母にある」と話したのですが、それが何のことか分からなかったのです。

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 今私が神に「神、私は落したこの世界と界を見たくありません。新しい、これよりももっと良い天を再びつくれば良いです」と言っても、それが可能だというのです。まだサタンが解放されていないのが問題だというのです。サタンを底無し地獄に押しんで、影も見たくないし、恨みのも聞きたくないというのです。解放されたとしてもまだ理すべきことがっています。

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 皆さんは界についてよく知らないでしょう。私は界の門家です。おそら史の中で界を開門することにおいて、理論的基盤と体系的容によって界を示し明らかにした元祖が文裁だという名がるでしょう。元祖を知っているでしょう。貧しくて助けるという意味の援助(注:韓みでは元祖と同じウォンヂョ)ではありません。「根本の意味の元」と「先祖の祖」です。

 皆さん、文裁にして「の父母」と言いますが、私はその「の父母」という言葉を最も嫌う人間です。それがどれほど怖い言葉でしょうか、の父母になったならば、の家庭を率いなければならないのです。ここに一門がくっつけばの一門を率いなければなりません。また世界へ張される時は世界を率いなければなりません。天地の前に、界と肉界に人類がいっぱいに張された時には、それを率いることができる能力がなければならないのです。途方もないことです。そのようなことをみな知っている人です。

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 落しない本然のの父母がて初めて、神の垂直と人間の水平の九度を合わせられるようになるのです。の父母がて九度に合わせることができる育をするのです。界へ行ってみてください。私が言っていることが間違っていれば首を切ってしまうのです。の父母がて水平垂直を九度で合わせられるようになるのです。九度で合わせられるように育をするのです。この育に絶しなければなりません。体をつかんで打ち、九度にしなければなりません。

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 の父母は宇宙的なの愛の中心基盤です。ですから、そのようなの父母が現れれば、朝にすべての山川草木が昇る太陽に向かうように、すべての被造世界がの父母に向かうようになります。すべての被造物が葉や枝と同じです。界ではすべてのものが神に向かっています。同じように統一教会でも先生が韓へ行けば食口たちのすべての神が自動的に先生についていくのです。同じことです。

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 博士の位を受けようとするなら指導授のおしりもふいてあげ、その授に足でけられても「ああ、ありがとうございます」と言ってこそサインしてくれるのであって、そうでなければしてくれないのです。「私が鼻を見ても顔を見ても体つきを見ても何を見ても優れていて、相撲をしても勝つし、御飯を食べてもたくさん食べ、何でも一等になることができ、十箇所、百箇所良いところがあるのに、一つくらい知らないからといって博士位をくれないのですか」と言っても通じません。先生がそのような界の特許をもつかもしれないというのです。

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 天地をえても取り替えることができない高貴な値の存在である人間が、なぜこのように落してしまったのでしょうか。落のためです。それを解放しようとするなら、レバレンドンを通じなければなりません。レバレンドンを通じることなしに、この原則を知ることはできません。いくら者であり、いくら世の中でずばぬけているといっても、界に行く時はレバレンドンのサインを受けて入っていってこそパスするのです。

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 考えてください。先生を中心として界が協助する、それが普通のことですか。界もそうですが、今からは私が深刻にしなければなりません。先生が血を見るようになれば恐ろしいのです。無慈悲なのです。史的なすべての蕩減を何倍もかけて打ってしまうのです。血を御になった神を、史過程のその神を慰する道がないのです。それをでふさいであげようというのが先生の考えです。

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 界でも心は先生以外にはありません。父母以外にはいないのです。それが生命の根源であり、愛の根源であり、良心の根源であり、すべてのものの根源です。そこを通じなければ大きくなりません。

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 この地上世界だけがの父母を必要とするのではなく、界も同じです。どうしてですか。そこでは地上で愛をもって生きた人が行って宮殿をつくるべきですが、そのような人がいないからです。愛の宮殿は神もつくることができず、界の人もつくれません。の父母がつくらなければならないのです。界で愛の宮殿がの父母から始まります。界に宮殿があっても、の父母が行って「ここを宮殿とします」と宣布してこそ、それを中心としてすべての界が落ち着くのです。そのような責任がっているので、界でもの父母を絶に必要としています。

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 先生は常にいる人ではありません。史始まって以、二百年の間に一世紀前にもなく、あとにもない、永遠に一回しかないこの期間に生まれた人です。いつでも生まれることのできる人ではないのです。そのような期間に皆さんが先生から直接秘密の容をぶということは、無限の値があるのです。そのまま実践して界に行けば、間違いなく天に行くのです。その未が皆さんを待っているのです。その天は今まで空いていました。の父母が本入るべきはずでしたが、の父母が現れなかったというのです。

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 統一教会の先生の誇りは、神を知っていることです。界で知っている以上に知っているというのです。人がいくら多いといっても、神の心情を知っている人を最も喜びます。宗人たちがに濡れて膝までへこむほど一生の間祈をしても、イエスに出い導きを受けるかどうかくらいです。にもかかわらず皆さんがここにて先生にい、このような話を聞くことができるというのは史的な事件です。

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 復理だとか、死だとか、界などを知るにおいては、何もせずに分かるのではありません。先生は何も食べないで十七時間ずっと祈だけをしたことがあります。十時間、十二時間は普通です。ですから、ここがすべて固まってしまいました。今は祈を長くしなくても神が近くにいらっしゃるために、すぐ通じます。この膝にもそのような痕跡があります。

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 先生が祈する時は、冬でも綿ズボンが濡れるほど痛哭したのです。そのような功績を立てて探した「原理」を、皆さんはどのように取り扱いましたか。界に行ってそのような事を知れば、先生の近くにどうやってるのでしょうか。お母も先生にしては用心するのです。分からないことが多いのです。知ればその道に同しなければなりません。そのような恨の峠を越えるとしても、ここで自分が死んでいきながらも、愛をプラスして死のうとしてこそ、天の死として扱ってくれるということを知らなければなりません。ここは死亡に勝つことができる位置です。死亡が干しない位置です。

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 先生を知っていて損をした人は手をげてみてください。いますか、いませんか。いるという者はどろぼうです。誰が損害を受けましたか。私が損害を受けましたか、皆さんが損害を受けましたか。私が一生の間損をしたでしょう。かといって、それを取り返そうとは思いません。代わりに皆さんの後孫の前に返してあげなさいというのです。皆さんの息子、娘にすべて、先生の代わりに父母として侍ってもらえというのです。それをすることができなければ、先生の功をすべて再び蕩減しなければならないのです。界に行き、がちっと引っ掛かってしまいます。許しがないのです。

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 「の父母」という言葉は驚くべき言葉です。皆さんの中で界に通じる人は祈してみてください。「神が高いですか、文裁が高いですか」と祈すれば、文裁が高いと答えるのです。このような話をするから異端でないはずがないでしょう。

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 悟りの世界においては、界に行って神にまで認められなければなりません。なぜそうなのでしょうか。「原理」の勉をすればみんな分かるでしょう。そのように難しいのです。それをすべて暴き体系を作らなければならないのです。私たちのような人はしぶとい者なので、そのような体系を作ったのです。その世界があまりに膨大なので手を付けることができません。ぎはぎのふろしき包みをくまなくすべて解いて一つの服を作るとするならば、君王が着て出掛けることのできる服を作ることができなければならないのです。そして、神をして「お前は史始まって以において私より勝っている」と言わせなければならないのです。

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 の愛を中心として生涯を投入し界に行けば、どこででも「先生!」と言うと、すぐにえるのです。すぐえます。心配することはありません。愛の心情に合わせれば同、同位、同居をもつことができるので、先生を呼べばすぐにえます。それはいいでしょう。そのような人には先生が全界を見物させてあげることでしょう。ダイヤモンドの星もあり金の星もあります。その時、先生の特で一つぐらいあげるかもしれません。先生にはそのような特があるのです。

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 分かりますか、分かりませんか、この者たち。この者たちと言うのは、私が件をしてあげることなのです。「文裁、どうしてそのように口を言うのですか。文裁に私が初めてうのに、そのように非難されてはすべて信じることができません」と言うかもしれませんが、その時になって許してあげようと口を言うのです。そして、あの世に行き「あなたが口を言うので、統一教会を信じることができなかった」。それは理にかなった話なのです。

 それで、界に行って許す件を立ててあげるために口も言うのです。非難されても心が痛くないのです。ってみてください。「ああ、悔しい!」そう思っていたのに、故へ行く前にすべて忘れてしまうというのです。心がそのようになるのです。分かりますか、分かりませんか。「分かります!」と言う人は手をげてください。ぼっとしなくなりましたね。

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 神は負債を負われる方ではありません。千倍万倍返そうとされるので、文裁はしがない一人の兵士として監獄に行きしながらも、先生の所有版を越え、世界を越え、天地を越えて、界と肉界の統一的な一つの位置をつかむことができるこの時がました。ですから、アダム家庭の天地に統一的な家庭的基盤形態を万民の前に付できる、このような特時代を得た先生の威がどれほど偉大かというのです。全体全般です。一つも欠けることなく全体全般です。その次には全全能の時代に向かうことができる結果が、先生の未の世界に待っているというのです。

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 天宙は肉の世界ですが、天上世界の中間界にとどまっているたちと地獄に行ったたちをすべて解放し、門をすべて開いてあげてこそ、神が解放の立場に立つことができるというのです。神が解放された立場に立ってこそ、全人類が呼吸を共にして太平の時代に入っていくことができるのです。それが統一教会の行く道です。それゆえに、神が解放される日まで統一教会は行かなければならないのです。偉大な事です。大ざっぱなのではありません。

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 今界は形態をもっていないのです。の父母によって形態をもつようになるのです。界祝福とともに天地合地上天統一の愛の主世界宣布をするようになれば、先生が界に行かなくても、神は先生の父母の形態をもって界を主管できるようになるのです。それゆえにそれを待つのです。別れてしまったものが結合するのを待っているというのです。先生が早く界にることを待っているというのです。ですから、地上の仕事が終われば界の仕事を始めなければなりません。皆、待っているのです。界の王として立つのです。地上の王がそのまま界の王になって、原理原則に一致した故の地にるのです。

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 文裁の願いは何かというと、主の中での愛のための代表的な主になろうと考えています。迎しますか。皆さんは界をよく知らないのです。私は界の門家です。死んでどのようになるかということをはっきり知っているので、世の中の万事がいくらしく反しても、それが私の目にはとまりません。なぜですか。それよりあの世界を見るからです。あの世に拍子を合わせて暮らすのです。

 それゆえに、今後世界の通人たちは私のところに育を受けなければなりません。僧侶でもどんな人でも……。天地の秘密を知っている人がいなかったのです。初めてこの時代に文裁という人が出てきて表することによって、天の博物館にもなかった記書になり、それを見て多くの善たちが知って、地上の自分の後孫に夢での啓示を通じて、あるいは啓示を通じてえるようになる時、地上の書館にぎっしりいっぱいになることでしょう。今ここで言うことは、どのような書館にもないのです。

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 神の心情世界までも見したレバレンドンが、物でないということを知らなければなりません。このようなすべてのことを聞いてみてください。世の中にないのです。先生がえる容は世界のどんな書館の本にもなく、界の書館にもありません! 初めてなのです、初めて! このような容は地上のどこにもなく、界のどこにもない新しい理のみ言です。これは神と地上の人間が求めることのできないの倉庫にある記だということを知らなければなりません。

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 地上で先生を見ただけでも界に行っては自慢の種になることでしょう。「私は先生に侍った」と言ってです。草木を見てください。植物たちの芽はすべて太陽の光に向かっているのと同に、皆さんの本性こそ愛の太陽の光に向かうのです。神は愛の太陽です。界に行けばそうなのです。

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 結論は何ですか。アダム完成です。アダム完成とは何ですか。アダムができなかったことが何かというと、責任分担の完成ができなかったのです。責任分担とは何ですか。祝福家庭世界の統的、世界の礎石的基準が、家庭的礎石であり、氏族的礎石であり、民族的礎石であり、家的礎石であり、地上天の礎石であり、天上天の礎石になることのできるすべてです。その礎石が汚されてしまいました。それを算しなければなりません。ですから界の掃、地上の掃、すべてのことをしなければなりません。





 



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