Book : 罪と蕩減復帰

Sin and Restoration Through Indemnity




はじめに


 今、この時代は神様のみ旨が地上に実現する成約時代です。真の御父母様によって、もつれた歴史の中に存在する数多くの曲折と複雑な事情が一つ一つ解明され、解怨されながら、新世紀への歴史移行が成される時です。根源的な神様の実存から、人間始祖の堕落、復帰摂理上の未知なる事実などが天意を中心として明らかにされつつ、新時代が開かれるのです。


 人間の堕落も「不倫な愛」によってサタン、悪魔を父に取り替えたことであり、サタン中心の血統転換が正に堕落だという観点を明らかにしました。したがって救いもサタンとの父子の関係を切って神様との父子の関係を回復すること、すなわち、神様中心の血統復帰、それが正に祝福であるという救いの観点を明確にしたのです。このような意味で祝福は、六千年のサタンの血統から抜け出す道であり、それが原罪の清算と重生摂理の核心となります。これなくしては、いかなる者にも人間完成はあり得ないし、天の国に入ることができないのです。


 また今まで難題であった歴史的な未知の事実、すなわち歴史発展の法則も人間の責任分担と蕩減法、また長子権復帰を中心として明快に解き明かされました。

 既成神学では組織神学や教義学の体系は膨大に立てていますが、長子論、人間の責任分担論、蕩減法等、根本的な神学はほとんど確立されていないのです。それは、人間の先祖である父母の秘密だけは、真の父母が再び来て、その真の父母によって糾明、解読されて、正されなければならないからでしょう。


 本書は、文鮮明先生の御言選集三百巻の中から、責任分担、罪、蕩減復帰にかかわるみ言を選び出したもので、真の御父母様のみ言を母の国に伝授するために作られた訓読教材です。


 私たちはみ言に接するたびに、その深く広い生命のみ言に感激し、また本当に恵みの多い恩恵の時を生きていく成約の子女となったことを重ねて感謝せずにはいられません。


 本書が私たちの生活において、人格の生霊化を成すために大きな役割を果たすことができるよう祈るものです。


 一九九九年十月


日本語版発刊によせて


 『原理講論』には「蕩減」について次のように述べられています。


 「どのようなものであっても、その本来の位置と状態を失ったとき、それらを本来の位置と状態にまで復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足る何らかの条件を立てなければならない。このような条件を立てることを『蕩減』というのである」。

 罪とは、私たち人間が堕落により本来の位置と状態を失ったことを意味しています。この本には罪とは何か、また罪を犯したら必ず蕩減復帰の道を歩まなければならないことなど、私たちが避けて通ることのできない蕩減復帰原則に関するみ言が集められています。


 神様を信じない人の多くは、「神がいるなら、このような悲惨な世界を、なぜ救わないのか」という動機をもっています。神様は、人間の責任分担があるがゆえに、「蕩減復帰」という原則を通してしか人間を救うことができないのです。罪に苦しみ、互いに傷つけ殺害し合う姿を見ながらも、人間を愛すればこそ、無条件に救うことのできない神様であったのです。蕩減復帰の道は、実は神様の赦しと真の愛があってこそ成り立つものなのです。本書を通して、歴史の背後にある神様の愛を発見するでしょう。


 文鮮明先生は、親なる神様の苦しみと、失った子女たちを堕落世界から救おうとされる神様の深刻さを知って、神のみ国建設のためにすべてを捧げてこられたのです。 


 この本によって、困難や苦労の多いように見える人生の根底に、神様の深い愛と計らいのあることを理解していただけたら幸いです。


一九九九年十月



第一章 蕩減・復帰原理の根拠

一 間接主管圏と直接主管圏

 一) 間接主管圏


 統一教会の原理を見れば、間接主管圏と直接主管圏があります。しかし人間が堕落によって間接主管圏にとどまるようになり、直接主管圏には連結されていないのです。それで復帰摂理も責任分担ゆえに何度も延長されていくのです。それを知らなかったのです。直接主管圏に連結され得る神様の愛の圏に行くためには間接主管圏で何をしなければならないのでしょうか。自分の責任分担を完遂しなければなりません。

           

 人間が成長するための間接主管圏をおいたのは、人間が成熟することを願う神様にとっては不可避なことだったということを論理的に解明できなければなりません。原理結果主管圏をなぜつくったのでしょうか。これをつくらなければ成熟したという限界、その時をつかむことができません。思春期という時をどこに定めるのかというのです。それで原理結果主管圏において、思春期になる時まで待つのです。ゆえに愛は、神様が全部干渉してはいけないのです。人間が必要とするものは何かと言えば、絶対的な愛です。

           

 統一教会の原理という言葉は何を意味しますか、なぜ原理と言いますか。原理結果主管圏と直接主管圏の限界線をつくること、それが原理です。アダムとエバが長子として蘇生、長成、完成圏に上がらなければならないこと、それが原理です。この間接主管圏内でも人間が完成するためには責任分担を果たさなければなりません。成熟するまでは絶対に愛の因縁を結ぶなというのです。大人になる前にアダムとエバがそれをしてはいけないのです。ですから限界線を定めておいて、「待ちなさい、取って食べるな!」と言ったのです。

 アダムとエバが堕落しないで、神様の前で間接主管圏を通過し、直接主管圏と連結され得る思春期になれば、すべての宇宙の力がここに和合できるし、ここに凝結され、作用するのです。その焦点で男と女が出会うと同時に、天と霊界と肉界が出会うのです。それは霊界で結ばれるのではありません。それで天国に入った人がいないというのも、この焦点に照準が合って写真を撮って(霊界に)行った人がいないということです。これはよく撮れていない写真と同じようにピントが合っていないのです。平面的焦点とともに垂直の焦点がぴったり中央点に合ってぱっとやらなければならないのに、そのように写真が撮れなかったというのです。愛の完成的写真が撮れなかったということを知らなければなりません。分かるでしょう。皆さんの中で誰がそのような愛をしていますか。そのような夫婦になっているのかというのです。

           

 直接主管圏は、アダムとエバが愛を中心として同参することのできるところです。ですから間接主管圏は、まだ責任分担未完成圏です。責任分担完成と同時にアダムとエバが愛を中心として夫婦になって、神様は内的父になり、アダムとエバは外的父母となって内外に一つとなる時に初めて直接主管圏が設定されるのです。ですからこの過程では結婚が絶対に必要だというのです。独身では越えていけないのです。

           

 天国はどこから始まるのでしょうか。サタンを分立しただけのところで始まるのではありません。責任分担完成圏から始まるのです。それは直接主管圏、間接主管圏が責任分担を完成したアダムとエバを通じて初めて連結され、天の愛が地上の愛に連結されるのです。これが原理です。それができていないので、サタンはこれを妨げるのです。天の愛の道を妨害するのがサタンなのです。

           

 いくらキリスト教文化圏が大きいとしても、新婦と共に真なる神様の愛と結合することのできるアダム完成者が来なければなりません。ですから責任分担を完成して直接主管圏内に入り、愛を中心として上下、前後、左右に一体化し得る家庭的真の愛の基盤を備えなければならないというのです。それは易しいことですか。

           

 真の父母は全体の責任分担を完成した立場で、間接主管圏と直接主管圏の心情圏を一元化させなければなりません。天国化させるためには、天上世界や地上世界を一元化させ得る基盤が築かれなければ天国はできないようになっています。それが創造理想です。

           

 人間が堕落しなかったならば、一度に責任分担を果たすようになっていました。しかし、堕落することによってサタンが生じたので、父母様は堕落した後孫たちの前に世界的な基準で一度に越えていける蕩減基準を立ててあげなければなりません。そのような責任分担圏を立てることによって一度に蕩減基準を立て、間接主管圏内から直接主管圏内に飛躍して入ることのできる基準をつくってきたのが、今までの先生の一生の仕事だったというのです。


 二) 直接主管圏


 責任分担を完成することによって間接主管圏と直接主管圏が連結され、地上天国と天上天国が連結されるのであって、それがなければすべて無効です。ですから私たちは責任分担を完成した愛の実体、愛の化身となって、神様を愛し、全宇宙を愛し、自分の家庭を愛さなければなりません。そのような人だけが天国に入るのです。それが天国に入る公式です。

   

        

 責任分担圏は、愛を中心として一つになったところです。完成に向かって縦的な神様の愛と連結されたとき、間接主管圏と直接主管圏が連結されます。そこにはサタンがいないのです。間接主管圏が連結されれば心情圏が連結されるので、サタンがそこに存在できないのです。その前に堕落したので問題なのです。

       

    

 神様の完全な愛が顕現するとき、サタンは現れることができません。それが責任分担完成です。責任分担を完成したならば、間接主管圏と直接主管圏において愛の因縁が結ばれるのです。そこで神様の縦的愛とアダムとエバの横的愛が連結されるのです。

           

 本来アダムとエバが堕落しないで、責任分担を完遂して神様と愛の一体圏内で天地が一体化して勝利的基盤を築いたというときは、神様とアダムが一つになったその愛の圏内で天使長を連れて天国に行くのです。それが道理です。それが原則です。

           

 責任分担は成熟する時まで必要なものです。成熟して思春期に入ればすべて終わるのです。愛の圏内に入れば直接主管圏内です。神様であると同時に私であり、私であると同時に神様です。

 原理の責任分担という言葉は何を意味しますか。責任分担完成というのは人間の愛と神様の愛が一つになることです。神様の愛は永遠の愛なので、永遠の神様の愛を中心として人間は相対の立場で永遠の一体を成すのです。そこには分立があり得ません。

           

 神様が人間を創造されるとき、直接主管圏と間接主管圏をおいてつくられました。それではなぜ間接主管圏をおいたのですか。直接主管圏と間接主管圏はいつ一つになるのでしょうか。本来の真の人類始祖であるアダムとエバが成熟して互いに横的な立場で愛によって一つになろうとする時、神様が臨在し、縦的な愛を中心としてアダムとエバを横的な愛によって接ぎ木するためのものがアダムとエバの結婚です。それで天地の一体化を成すのです。

           

 直接主管圏がなぜ必要なのでしょうか。直接主管圏に連結せずには神様と愛の連結ができないからです。この愛が連結されなければ神様から宇宙を相続することができません。相続は愛を中心としてするようになっています。ですからすべての国やすべての家庭も愛する子供を中心として相続させようとします。原理がそうなっています。


 責任分担という言葉は先生の時代に初めて出てきた言葉です。ある人は「間接主管圏や直接主管圏という言葉は、文先生が頭がいいので、合うように作った言葉だろう」と言うかもしれませんが、それなら私がどうして苦労しますか。適当に作ったのならば、私が一生の間何のために監獄に出入りしながらこのように苦労するでしょうか。口にもしてはいけません。私が作ったのならばどうして楽に行けないのでしょうか。楽な道を行ったらいいのに、なぜこのように、花のような青春を犠牲にし、ぼろのふろしきをまとって、このように生きなければならないのかというのです。レバレンド・ムーンが作ったという言葉は成り立たないのです。作るに先立って、それ以上の何かがあるということを知っているので、死の峠でも行こうとし、迫害の道も自ら進んで行ったのです。迫害の道を好む人がどこにいますか。神様しかその事情は知らないでしょう。

           

 祝福を受けて否定するのは、サタンよりももっと悪いです。サタンが讒訴するというのです。これは直接主管圏内に入って堕落したのと同じです。皆さんは知りませんが、その原則、その天理の法度が適用されるということを知らなければなりません。ですから、頑張らなければなりません。皆さんが、どのようにその伝統を立てるのかということが重要な問題です。

           

 その世界は、皆さんが考えるような漠然としたところではありません。直接的にお父さん、お母さんが私の皮膚にぶつかって来るし、私の精神にぶつかって来るのです。心の感動が爆発して私を刺激することを感じれば、彼は既に天国内で生きている人です。このようになれば、ちょっと人に接すれば分かります。「あの人は悪い人で、あの人はいい人だ」というのです。そのようになれば、皆さんが想像できない次元の高い直接主管圏内に入ったことを発見するでしょう。そう見るのが原理観です。そのように生きなさい。

           

 間接主管圏と直接主管圏を連結させるために責任分担を完成しなければなりません。責任分担完成というものは男性が成熟し、女性が成熟しなければならないのです。男性と女性が完成したとはどういうことですか。エデンの園での完成は神様しか知らないのです。神様を第一に愛さなければなりません。その次に男性は女性を第二に思い、女性は男性を第二に思う、そういう人にならなければなりません。このようになるとき、責任分担を完成することによって、みな間接主管圏から直接主管圏内に行くことのできる新しい次元に越えていくのです。

           

 堕落した人間世界で一番必要とするものは、堕落圏を乗り越えた真の父母です。私たちの原理で言えば、責任分担を完成した、その圏内を越えた人だというのです。間接主管圏内から直接主管圏内に入った人です。直接主管圏とは何ですか。愛に一致した世界です。こうなれば他の主人が生じることができません。絶対的です。愛にぴったり一致すれば二人の主人を願いません。神様も他の主人を願わず、人間も他の主人を願わないというのです。そうしてそれが家庭に拡大し、氏族、民族、国家に拡大され、その愛の軸を中心として天運は回るようになっています。

           

 神様を中心として責任分担を完成した基準で愛を中心として統一され、天運が回るのです。このような回転圏内に誰が来てぶつかるでしょうか。サタンは影も現すことができなくなるのです。このような基盤さえできれば地上天国は自然に形成されるのです。

           

 原理結果主管圏を通過し、人間の責任分担を完成することによって愛を中心として連結されるので、直接主管圏に入るのです。そうすれば縦的な役事も横的にできるし、横的な役事も縦的にできるというのです。下に押せば横的になり、引っ張れば縦的になります。その言葉がそれです。引っ張れば縦的になり、下に押せば横的になるのです。それゆえ縦的にも占領できるし、横的にも占領できるのです。

           

 神様の完全な愛が顕現するとき、サタンは現れることができません。それが責任分担完成です。責任分担を完成したならば、間接主管圏と直接主管圏において愛の因縁が結ばれるのです。そこで縦的愛と横的愛が連結されるのです。そうなればその縦横の愛を通じて神様の血統的な因縁が、血縁ができるのです。血筋が生じます。その血筋、神様の愛を中心として一つになり縦横の愛と因縁を結んで生まれた血筋は、サタンが干渉できないのです。サタンと因縁がないのです。ですから心情を受け継ぐためには、純粋な神様の愛を中心とした本然の伝統的血統を受け継がなければならないというのです。それが問題です。

           

 責任分担の統一的直接主管圏の一致点というのは理想的父母の愛からのみ可能なのです。

           

 責任分担は直接主管圏、間接主管圏を克服するのです。思いどおりに天上世界と地上世界に通じることができるようにするのは、神様の愛を中心として、一体的心情圏に入らなければならないのです。それが原理基準です。神様の愛を中心として自分の縦的な面の父母の立場を代表することのできる横的な面さえきっちり決まれば、そこからはサタンがいないのです。直接主管圏です。いまだに責任分担圏を越えることができていないので問題です。

           

 責任分担完成は、結果主管圏と直接主管圏の過程を通過し、愛をもって一体化します。一体化して直接神様の指導圏に入るのです。主管圏に入る、それ自体が神様の心情圏に属するのです。


二 人間に責任分担がある

 一) 責任分担を下さった理由


 神様が人間を愛されるとしたなら全天下が丸ごと屈服することのできる愛であり、権威を下さるとしたなら全宇宙が彼に従い、完全に頭を下げることのできる権威です。そのような最高の愛と最高の権威を考えて人間に責任分担を下さったのです。

           

 神様はどうして人間に責任分担を下さったのでしょうか。全知全能なる方なので、その全知全能な創造性までも賦与し、また永遠不変な愛の主体であられるので、その愛の主体を代表することのできる位置に立てるために責任分担を下さらざるを得なかったのです。これは福の条件になるのです。全体を占領することのできる一つの鍵のようなものなので、これを下さらざるを得なかったのです。しかし、この責任分担が問題になり、堕落したということを私たちは知らなければなりません。

           

 人間は神様の創造の偉業に加担しなければなりません。もともと人間が堕落していなかったとしても、そのような責任はあるのです。堕落して人間の責任分担が設定されたのではなく、堕落していなかったとしても人間は責任を負っているというのです。人として完成することのできる神様の九五パーセントの創造理想的形態をみな備えたとしても自分の五パーセントの責任を完遂しなければなりません。人間自体の完成を神様がさせるのではなく、自分がそこにプラスして完成しなければならない責任があるのです。堕落していなかったとしてもです。

           

 私たちは再建するのではなく、再創造しなければなりません。神様の責任分担九五パーセントに人間の責任分担五パーセントを合わせて新しくつくらなければなりません。

           

 人間に責任分担をなぜ与えたのでしょうか。創造の偉業に加担することのできる権威を与えて、神様の前に対象的な価値を賦与するためです。それは驚くべき事実です。

           

 原理には絶対性があります。原理には許しがありません。どうせ行かなければなりません。死んでも行かなければならないというのです。永遠に行かなければなりません。神様自身がこれを思いどおりにできれば、今まで復帰摂理の路程で受難の道を行く必要もないのです。しかしそのように制定しておいたので、責任分担的限界線のゆえに神様もそれにかかって今まで人間を復帰するために数多くの受難の道を歩んできたのです。その責任は神様にだけあるのではないということを知らなければなりません。人間と共同で責任を負っているのです。堕落しなかったとしてもそうだというのです。

           

 人間が責任分担を果たすことができなかったことによって蕩減復帰という怨恨の言葉が出てきたということを知らなければなりません。蕩減復帰の過程では、絶対に神様も後援しないし、本部も後援しないので、一人でしなければなりません。助けてあげたら蕩減になりません。どうしてですか。人間の責任分担という原則があるのでその原則において、助けては蕩減にならないからです。それを助けることができたならば、人間が堕落するとき、神様が干渉して堕落しないようにしたでしょう。責任分担があるからできなかったのです。人間の責任分担があるからできなかったのです。

           

 レバレンド・ムーンを神様が愛されますが、人間の責任分担を果たす過程で蕩減路程を行くときには神様が協助できません。私自身がサタンに勝って行かなければならないのです。サタンとサタン世界に勝って行かなければならないのが本来のアダムに許された理想圏でしたが、その理想圏を凌駕しなければならないというのです。

           

 結局責任分担があるから蕩減も生じるようになったという事実を知らなければなりません。もし責任分担がなかったならば神様はいつでも主管することができるのです。堕落するとき、「おい、そうしたら駄目だ」と言うことはできますが、人間の責任分担があって、神様が干渉することができない立場にいたので、人間が堕落しサタンが活動するのを防止することができなかったという事実を知らなければなりません。

           

 アダムとエバが、彼らが堕落する前に神様に先に尋ねていたならば堕落しなかったでしょう。「天使長がこれこれこうするのですが、どうしましょうか」と尋ねなければなりませんでした。そうしていたならば、神様が答えたはずです。この尋ねてみることが責任分担の五パーセントです。尋ねてみるのは自由です。しかし、尋ねないで横的関係を結んでしまったのです。それが問題です。尋ねないで行動したので問題が起こったのです。いつもそうです。皆さんは自分の責任分担の五パーセントを果たす自信がありますか。ないのにはしゃぐ雑多な鬼神たちが多いというのです。そのような精神をもって、いつ統一させますか。

          

 

 人間には責任分担があります。神様が人間に責任分担を与えた目的は創造の偉業に同参させるためです。九五パーセントは神様が造り、五パーセントは人間が造ることによって、創造するとき神様だけが創造したのではなく人間も自ら創造したという条件になるというのです。このような同等な価値を賦与するためのものが責任分担です。これが偉大なのです。人間だけに責任分担があるのです。しかし歴史始まって以来、責任分担を完成した人がいないというのです。責任分担、これを知らなかったのです。

           

 能力の多い神様、全知全能なる神様、絶対的な神様がどうして地上に御自身が願う天国を実現できなかったのかということが問題です。神様が思うとおりにされたなら既に一瞬のうちにすべてこれを解決することができたでしょう。しかし人間が堕落したので、人間の責任分担が残っているので、人間がその責任を果たさずしては神様が願う天国実現が不可能なのです。

           

 アダムとエバは愛を中心として完成しなければならないのに、愛を間違って、その責任分担に問題が引っ掛かりました。責任分担はすべての分野の過程にあります。目的を完成しようとすれば、過程を経なければなりません。過程には必ず責任分担が連結されるのです。それを知らなければなりません。ある時限的な過程を経るときは必ず責任分担があるのです。それを果たさないときには、すべてのものが破壊されるというのです。

           

 アダムとエバがなぜ堕落したのかと言えば責任を果たせなかったからです。責任分担はアダム一人でできるのですか。まず神様を中心として神様と一つにならなければなりません。神様と一つにならなければ責任分担を完遂することができない、ということを皆さんは知らなければなりません。その次は原理と一つにならなければなりません。このような二つの条件が成立しなければなりません。           

責任分担を完成しなければなりません。責任分担、責任という内容を喪失してしまいその世界に生きることができなかったのが恨です。血統転換という怨痛な、この悲運の運命をもった堕落の後孫になったことが気の遠くなるような悲痛な事実です。これを抜け出すためにはありったけの力を尽くして責任を果たした息子の姿、娘の姿として立ち上がり、神様に対してためらわずお父さんと言うことができなければなりません。

           

 先生が行く道は泰山峻嶺(注:とても険しい峠の道)でした。いつ神様が手でも一度つかんで「おいおい、お前大変だな」と言われたと思いますか。夜も昼も保護し、喜んで迎えてくださると思いますか。見ながらもじっとしているのです。どこに行けという話もしません。教えてくださることができないのです。責任分担を果たさなければなりません。神様は本然の愛をもった人間を愛そうとしたのであって、愛を求めていく過程の人間を愛そうとはしなかったのです。

           

 責任分担を完成した立場の人間とはどんな人間でしょうか。神様のように完全な人間だというのです。神様が九五パーセントを創造しましたが、人間が共に一〇〇パーセント完成した創造の資格を賦与される位置に立っているので、人間の完成であると同時に神様の創造の偉業の完成になるのです。創造の偉業の完成であると同時にみ旨の完成であり、み旨の完成であると同時に神様の完成になるのです。このようことが言えるのです。

           

 責任分担を完遂できなかった私たちの先祖の罪によって死亡の深淵、どん底が生じたのです。サタンの愛の領域が天国の門の前の境界線まで連結され、直接主管圏内と間接主管圏内の違いをもたらしたのです。

           

 責任分担を完成すれば、サタン悪魔がいなくなります。讒訴する存在がいないのです。この基準を越えられなければ讒訴条件があるのでいくら天上世界に、天国に入ろうとしても入ることができません。讒訴条件の内容をもてば入ることができないのです。絶対的な愛、不変・唯一・永遠の愛の内容を中心として神様の愛と関係を結んだ基準に立てばサタンがそこに讒訴条件を立てることが できません。そのような立場に立てばサタンが居座ることができません。私が行けば、サタンがいても出ていかなければなりません。

           

 アダムとエバが堕落しなかったならば、神様の体に和してその体を着て完成し、この地上で神様の愛によって直接主管圏と間接主管圏を連結させ得る責任分担を果たした愛の王になるのです。そうすれば神様はそのアダムの心におられ、アダムの霊は神様の体になるのです。一身になるのです。永遠に神様の愛と人間の愛を共に分かち、それを呼吸するのです。

           

 人間が責任分担を完遂して神様と対等な立場に立とうとするのは、真の愛を授受するために、対等な愛を与えるためであり、同じ愛を授受するためです。互いに同じ立場で中心になり、同じ立場で授受するというのです。それを知らなければなりません。

           

 堕落していなかったならば、責任分担は易しいのです。ただそのまま育てば思春期が来るようになっているので易しいのです。それは自然に来るようになっています。自然に来るので難しいことはないというのです。間違った愛によって責任分担が難しくなったのです。それでは責任分担の中心とは何ですか。神様が九五パーセントの責任を果たし、人間が五パーセントの責任を果たして、人間が神様の創造の偉業を相続することだというのです。それでは相続するための中心とは何ですか。真の愛です。


  二) 責任分担を果たせなかった結果


 統一教会が言う責任分担という言葉は偉大な言葉です。皆さんもみな責任分担を果たせなかった立場にいるでしょう。人類始祖が責任分担を果たせなかったその場は、サタンの支配圏になってしまったのです。ですから責任分担を果たせなかったその位置以下から、悪主権の世界ができたのです。ですから復帰時代においての善主権の世界は、責任分担を完成した線以上のところから始まります。理論的にそうです。責任分担線以下では悪主権であり、責任分担線以上では善主権が始まりますが、悪主権の出発は何によって始まったのでしょうか。堕落した愛から始まったのです。

           

 責任分担の未完成によってサタン世界が形成され、この地がサタン主管圏内に残されたことを知っています。この責任分担未完成によって、神様も今まで苦労の道をたどってきたことを骨身にしみて感じなければなりません。

           

 責任分担圏を侵犯されることによって何が生じたのかと言えば、もう一つの父母ができたのです。もう一つの父母がサタンです。はっきり知らなければなりません。

           

 アダムとエバが責任分担を果たせませんでした。責任を果たせなかったことがアダムとエバ自体だけで終わったのではなく、アダムとエバが根となり、幹となり、枝となり、葉となって全人類は結局責任を果たせなかった、そのような立場にとどまっているという事実を、はっきりと知らなければなりません。

           

 神様が今まで人間の責任分担圏以上の立場で接しているというのです。しかしそれ以下に落ちた人間はどんなことをしても橋を架けて上がらなければなりません。その圏にすべての人類が引っ掛かっているのです。世界が引っ掛かっており、歴史が引っ掛かっており、霊界に行った人、現在この世界の人類、今後生まれてくる後孫全体が、この運命圏を抜け出ることができずにいるというのです。これが怨恨の堕落圏です。

    

       

 堕落した人間は人間の責任分担だけではありません。全体創造の九七パーセントを蹂躙してしまったのです。ですから再創造しなければなりませんが、再創造過程全部が倒れたというのです。ゆえにどんなに難しいかというのです。したがって人間が九七パーセントに該当し得る責任を果たさずしては、責任分担を完成する道が永遠にないというのです。再創造しなければなりません。復帰摂理は再創造摂理ですが、再創造がなぜ必ず必要なのでしょうか。人間の責任分担のゆえです。人間の責任分担を果たし、その場まで出ていくためには、必ず再創造の過程を経なければなりません。再創造過程を通過するためには、必ず蕩減しなければなりません。蕩減条件を立てなければなりません。受難の道を行かなければならないというのです。

           

 蕩減復帰して解怨成就したのちにこそ初めて責任分担が展開されます。恨を残した責任分担、このために神様も参って……。今まで人類がこの責任分担を果たすことのできる世界的な一時を迎えることができなかったので、恨の歴史は繰り返し流れてきたことを知らなければなりません。恨の多い責任分担の峠を、どのように越えるのかということを皆さんがはっきり知らなければなりません。

 アダムが責任分担を果たせなかったことによって天地にこのように数多くの壁(韓国語でダム:垣根・囲いの意味)をつくってしまいましたが、アア、ダムをどうしたらいいのですか! ダム(壁)をつくってしまったので、エバはどのようにしてこなければならなかったのですか。ですから人類歴史での女性の道は悲惨な道だったのです。こちらに行っては引き裂かれ、向こうに行っては踏みにじられたのです。ひょうたんのように、割れたひょうたんのようにけられて割れてもまた転がっていかなければならないのです。ぱんとけられて靴の跡がついても転がっていかなければなりません。また向こうでもけられて穴が十個あいても転がらなければならない境遇にあるのが女性だというのです。全身傷だらけになって転がっていかざるを得ない道を歩んできたのが女性です。なぜですか。してくるために(韓国語でヘオギウィヘソ:エバを意味するヘワをもじって)。エバになるためにです。

           

 アダムとエバに悪口を言うとき、アダムから言いますか、エバから言いますか。エバから言うというのです。エバ(ヘワ)という言葉は、韓国語で「仕事をして(ヘ)復帰して来い(ワ)」ということです。それを覚えておきなさい。本当です。「アダム」は堕落して壁(ダム)ができたというのです。責任分担を果たせなかったことによって、いろいろな壁ができたのです。ですからその壁を壊していかなければなりません。


三 責任分担を完成すれば

  一) 責任分担の自由化圏が必要


 アダムとエバが責任分担を果たしていたならば、後孫は責任分担圏にいるのではありません。その次は統治法的家庭倫理時代に入るのです。そのときは地上に真の父母がいるので、即刻、平面的な面から教えてあげることができるのです。しかし今までは三六〇度の平面をもちましたが、神様は教えてあげることができないので、中心が来る時まで待っていたのです。それで問題が生じたのです。そのようなことを、はっきり知っていかなければなりません。

           

 真の御父母様は個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙蕩減路程を経なければなりません。サタンによって失った責任分担を完遂して、サタンを分別させることによって愛をもたらすのです。怨讐を愛し、怨讐の国を愛する人にはサタンが侵犯できないのです。自分を中心とした愛をもっては駄目なのです。サタンは自分を中心として愛し始めたので、これを除去するには自分を中心とした愛をもってはできないのです。

           

 蕩減復帰は、責任分担の自由化圏をつくるためのものです。堕落していない本然の責任分担の自由な環境を復帰するためのものです。理論的になっているのです。先生もそこに引っ掛かっているのです。ゆえに先生が世界的な反対を受けるのです。世界的な迫害を受けるのです。世界的に攻撃を受けるのです。その世界的迫害を受ける中で、世界的にサタンを分立するのです。

           

 蕩減復帰は不可避なものです。なぜ蕩減復帰しなければならず、なぜサタンを分立しなければならないのでしょうか。自然な本然の責任分担、自由な環境基盤を必要とするからです。そうすればサタンが讒訴できず、サタンが因縁を結ぶことができないところを私が占有するようになるからです。それで蕩減復帰、責任分担完成という基準は、論理的にも不可避です。ですからサタンを分立しなければなりません。それゆえ御飯が食べられずに座っていても、サタン世界とは関係がないという考えをもっていなければなりません。ここが分水嶺です。それが境界線です。

           

 責任分担がどれほど重要かを、みな知らずに生きてきました。蕩減復帰とは何ですか。責任分担を完成することのできる自由な環境をつくるためのものです。サタンが侵犯するので、サタンを防御しなければなりません。サタンを防御するにはどうしなければならないのでしょうか。サタンよりも神様をもっと愛し、人類をもっと愛さなければなりません。サタンは神様を憎み、人類を憎みますが、私たちは「神様をもっと愛し、人類をもっと愛する」と言えなければなりません。堕落していない人間がもっていくべき、責任分担完成圏を越えて行くべきその基準で一方通行させることのできる、このような立場に立たずしてはサタンを分立させることができません。 

 責任分担を完成するためには、蕩減条件が必要です。先生がそのような蕩減条件を払ったので、皆さんは先生が歩んできた生涯の目的観を受け継いだ者として、愛の旗手として、堂々と国に現れれば愛国者になるのです。家庭に入れば孝子、孝女になるのであり、夫婦の位置に立てば烈男、烈女になるのです。世界に向かっては聖人の道理を行くのであり、天の国の王宮の法に歩調を合わせる王子の位置まで行くことになるのです。無事に通過することのできるただ一つの道があるとすれば愛のために「ため」に生きようとすべてのものを捧げる生活です。これは驚くべき事実です。

           

 アダムとエバの責任分担、神様の前に頭を痛くしたその怨恨の峠に五十億人類がみな引っ掛かっているし、霊界に行った数多くの先祖もみな引っ掛かっています。これを見つめる神様は、堕落がなかった本然の基準をどうやって再び回生できるのでしょうか。それで神様はかわいそうな神様なのです。ですから早く早く、もっと早く早く蕩減の道を行き、このすべての責任分担を完遂して世界人類が解怨成就することのできる道を、その道に向かって「時間よ、行け」、「歳月よ、行け」、「解放の日よ、早く来い」と言いながら歩んできたのです。

           

 神様は今まで蕩減復帰の過程を待ちながら変わりませんでした。最後の峠、愛の理想を成して万民の前に解放の鐘の音とともに天下に宣布する、そのようなところまで耐えてきたのです。耐えてきた心を抱いて涙とともに復帰の使命を成し遂げることのできる再臨主がこの地上に来て、そのみ旨を成し、サタン世界全体の所有権を相続して天の前にお返しすることのできる、それこそ平和統一の世界を地上で成さなければなりません。強制ではありません。所有権を伝授して天の前にお返ししなければなりません。


 二) 完成した立場は天地一体化家庭


 地上と天上を統一し、心身を統一するのが責任分担の完成です。縦的な神様と横的な真の父母は一つだというのです。そこに統一された愛、天と地上を連結する愛、体と心が一つになった愛、男性と女性が一つになった愛が問題です。統一された愛の基盤を築くことができ、そこで初めて天の愛と天の生命と天の血統が連結され得るし、それの横的な拡大が八方に展開されることによって王権ができるのです。内容は簡単です。

           

 男性と女性は、天宙の圧縮された核です。夫婦が真の愛で愛するところには、全宇宙がかかってきます。男性と女性は、愛のために生まれました。本来人間は縦的、横的にできています。責任分担を完成することによって縦的な主人が設定され、次に横的な主人が設定されるのです。それは真の愛によって成立するのです。

           

 アダムとエバが責任分担を完遂することによって神様は彼らの縦的な存在になり、アダムとエバは横的な存在になるのです。真の愛によって一体化するのです。そうして初めて縦的なものが横的に連結され、そのように連結されたところは宇宙的な愛の根を下ろす基盤になるのです。それが定着できなければ、軸が正しく立つことができません。その軸を正しく立てるにはメシヤ思想、父母の思想が軸となるのです。それで立ったとすれば、それは自動的にその軸と一つになることによって繁殖するのです。そして神様の愛、神様の生命、神様の血統が永遠に固着するのです。

           

 責任分担は第一に真の子女になることです。第二に真の兄弟になることです。第三に真の夫婦になることです。第四に真の父母になることです。それで息子、娘として生まれ、子女になり、兄弟になり、夫婦になり、父母になる、父母になって神様の代わりに創造するのです。神様がアダムとエバを造って喜んだその事実を内的、外的に体恤するのです。どれほど貴いか、分かりますか。

           

 真の父母の勝利圏は第一は個人、第二は家庭、第三は国家、第四は世界、第五は天宙、第六は神様の真の愛です。その次は一体理想の実現で、このすべてのものが真の愛によって一つになるのです。神様が真の愛の主人ですが、この真の愛によって全部が連結されます。一体理想の実現で神様の愛が一つに連結されているので、一体理想です。家庭も個人も離れているものがないというのです。一体理想実現で天上、地上が統合され、本然のアダムとエバが長子権を取得することによって霊界が地上に順応するようになります。それは愛を中心としてそうならなければなりません。真の愛によって。私たちの原理で言い換えれば、責任分担を完成することです。

   

        

 神様の心情圏をどのように伝授されるのでしょうか。堕落していない本然の人間は、責任分担を完成することによって神様の縦的愛の核を中心として、左右にアダムとエバの愛が連結されなければなりません。そこが根源になり、根となって息子、娘が生まれるようになっています。そこから心情圏が勃発し、根を下ろすようになっているのです。血統基盤がよみがえるというのです。深刻な問題です。

           

 神様の摂理は四千万人、六千万人が全部動いて成されるのではありません。祭司長から成されるのです。はとを裂くことによって国が行ったり来たりするのと同じです。

 何よりもまず責任分担をはっきり知らなければなりません。責任分担を完成するために、天と地とすべてのものは、一つの愛の共鳴圏だということを知らなければなりません。親子関係、夫婦関係、兄弟関係がすべて真の愛を中心として統一を成しているのです。神様を中心とした愛を掲げていくのに、妻が掲げていくときには夫がついて行かざるを得ないし、お母さんが掲げていくときにはお父さんがついて行かざるを得ないし、孫や息子、娘が掲げていくときは祖父母、父母、兄弟たちがみなついて行かざるを得ません。それで家庭がすべてのものの基盤になるのです。それは責任分担を完遂することによって天の愛、地の愛、親族の愛、父母の愛、兄弟の愛が成されるのです。

           

 天の愛は縦的で、地の愛は横的です。そして兄弟の愛は前後の愛です。立体的です。ですから父母と息子、娘が一つの統一体になれば神様が地上に臨在することのできる基盤になるのです。それで神様が正に人間の先祖の立場に立つのです。人間がその神様の前に子女の関係で連結されて初めて、天地一体化の家庭が設定されるのです。責任分担を完成した立場で、それが可能です。天と地上の愛が連結されなければなりません。内容は簡単です。

       

    

 神様の愛、それは神様の血統を言います。アダムとエバの堕落によって神様の血統が切れたのです。それゆえ原点を復帰するその立場においては、どのように神様の生命を連結し、神様の愛を連結し、神様の血統を連結するかということが問題です。この場が再創造完成の場です。

 血統復帰は根本復帰です。条件では復帰ができません。愛は、条件的愛でいいでしょうか。根本的な愛でしょう。血統は根本的な愛から始まったので、条件的愛では全体復帰ができません。蕩減復帰は苦労したこと、何か牛どろぼうしたこと、人のまくわうりを取って食べたこと、かぼちゃを取って食べたこと、すいかを取って食べたこと、そのように蕩減復帰されるのではありません。愛は根本を蕩減しなければなりません。

           

 アダムが責任分担を完成すれば長子の立場に立つのです。それで真の父母です。父母権復帰です。王です。天地の王です。今までずっとサタン世界と闘って長子権を復帰したということは、いかなるものとも比べられない大変なことです。父母権復帰というのはなぞなぞのようなものです。王権復帰というのも、このような難しい時期に民主主義の世界の中でやったということを考えてみてください。そのようなことを話すことができたでしょうか。しかし今は「ああ、文先生がそんなことを話すとは、素晴らしいところがある」と言うことのできる環境になったのです。

           

 完成基準に立った真の男性、完成した主体となる本然のアダムの立場から見たとき、責任分担を果たした場合には子女の種、人類元来の子女の種を受けたはずです。それは神様の愛と神様の生命と神様の血統を受け継いだ立場のものでなければなりません。そのような種を受けなければなりませんでした。堕落によってそれが根本的に狂っているのです。

           

 アダムとエバは神様の体です。アダムとエバは横的な父母であり、神様は縦的な父母なので、私たちが横的なこの体を脱ぎ捨てて、縦的に還故郷して天の国で永遠の王に侍って生きるのです。アダムとエバが堕落しなかったならば、神様の体と和してその体を着て完成し、この地上で神様の愛によって直接主管圏と間接主管圏を連結させ得る責任分担を果たした愛の王になるのです。

           

 責任分担というものを失ってしまいました。それでは責任分担とは何でしょうか。男女に任された責任分担とは男は東側、女は西側で互いに成熟することです。男性が生まれたのは女性のためであり、女性が生まれたのは男性のためなので、結婚しなければならないのです。どこで出会うのですか。中央線です。垂直線、プラス、マイナスが接すれば、愛が爆発して神様の愛、神様の生命、神様の血統的基盤になります。これが根となり、抜こうとしても抜くことができないのです。絶対的な愛の起源、絶対的な生命の起源、絶対的な血統の起源を中心として人間が生まれるのです。  

 皆さんの心に残すべきことは、神様の心がそうであるように、責任分担、蕩減復帰というものが残らなければならないはずです。他のものはありません。本然の基準をどのように探すかというのです。蕩減復帰、その次は血統、真の愛を中心とした血統! それを知らなければなりません。責任分担、蕩減復帰、血統、この三つです。蕩減復帰が易しいですか。血統をひっくり返して合わせなければなりません。接ぎ木しなければなりません。完全にサタン世界と私は別の人です。お母さんの顔、お父さんの顔、みな忘れてこそ復帰ができるのです。


 四 責任分担の発見とその重要性

 責任分担という言葉はこの世ではあまり使わない言葉です。しかし統一教会では、どんな言葉よりも特別に重要視する単語です。統一教会において、この責任分担と蕩減という言葉、責任分担と蕩減復帰、この二つを知らなければ歴史的なすべての内容を悟ることができず、間違った歴史、あるいは歴史の未知の事実を解決できません。そのような重要な言葉です。

           

 責任分担ということを今まで知らなかったので、歴史の曲折を知りませんでした。なぜ善なる人たちがみな犠牲になり、悪なる人たちがうまくいくのですか。歴史を見ると、独裁者がなぜこの世を支配し、善なる王が出てきても平和の世界をつくることができなかったのでしょうか。歴史を調べてみると、独裁者の世界統一の夢だけが記録されているのです。それはサタン世界だからです。責任分担圏を侵犯されたので、それ以下のすべての被造物、それ以下の人間全体、地上世界の万民、以前に来ては逝ったすべての霊界にいる先祖たちまで見ても、責任分担完成圏を越えた人は一人もいないというのです。それが原理です。文先生が適当にもってきて付けたのではありません。この責任分担という言葉が分からなければ、歴史が解けません。歴史の曲折を解決することができません。なぜ戦争史ですか。責任分担という善の条件が悪なる世界の条件を克服しなければならない立場にあるので、堕落して、サタン世界になり、落ちたものを覆す闘いをしなければなりません。ですから歴史は善悪の闘争史なのです。

           

 この宇宙の矛盾した事実と歴史の悲運の曲折、このすべてが歴史上の責任分担というものを知らなかったので生じたのです。責任分担がどれほど重要かということを、皆さんは知らなければなりません。皆さんは責任分担を自分勝手に考えているのです。「責任分担は原理で教えてくれるものであって、私たちとは関係ない」。このように考えているのです。このように見るとき、先生が責任分担という言葉を発見したということは、偉大な発見だということを知らなければなりません。皆さんは責任分担をどれほど重要に思いましたか。この責任分担には宇宙が引っ掛かってあえいでいるのです。

           

 今日統一教会で人間の責任分担というものを見つけたという事実は、宇宙的な発見だということを知らなければなりません。原子爆弾を発明したことや、アインシュタインが相対性原理を発見したこととは比べものにならないのです。それを知らなければ、歴史のすべてのものが解決されないのです。皆さんが人間の責任分担というこの真理を知ったという事実は偉大なことです。しかし今私たちは人間の責任分担を一番嫌っているのです。一番好まなければならないのが私たちなのに、人間の責任分担を一番嫌っているというのです。

           

 復帰摂理を知らないので、人類歴史が解けないのです。歴史を通じてみれば、必ず因果原則によって悪なる者は滅びるようになっているのです。ところで、なぜそうなのか知らなかったのです。また、人類の理想がなぜ成就していないのか、神様の愛が現れなければならないのに、どこで現れるのかを知らなかったのです。学者の頭からは現れません。それは本然の父母の骨髄から現れるのです。本然の父母からです。ですから真の父母の歴史が始まったということは、天国の起源がこの地上に連結され得る一つの基盤が設定されたということです。真の父母を通さずしては天国は出現することができません。

           

 神様の愛は絶対的であると同時に、その愛は絶対的な責任分担の上に立たずしては見つけることができません。皆さんが朝、御飯を食べることと生きることを考えるよりも、これがもっと根本です。責任分担という言葉は先生が発見しましたが、皆さんのようにただ座って発見したと思いますか。闘争して発見したのです。これを発見すれば、サタン世界は完全に倒れるので、サタンは隠し、覆って、ひたすら泰山のようにして、それを全部隠してきたのです。

           

 統一教会において、責任分担という言葉を誰が作りましたか。私は発見したのであって、作ったのではありません。神様が作ったのです。神様がです。それでは先生がそれを発見する前にその言葉がありましたか、ありませんでしたか。太初からありました。この法は永遠の法です。それを知らなければなりません。

   

        

 統一教会で言う責任分担という言葉は、重要な言葉です。この責任分担が成就されることによってアダムとエバは初めて人間として完成するのです。完成した人間になるのです。また人間の完成とともに、神様が人間を創造した目的が成されるのです。それは何かと言えば、創造主として権威を立てることのできる結果をもたらすことになるというのです。このように重要なのです。人間が責任分担を完遂したというその立場は、神様のすべての創造理想を完成することのできる結果になるということです。

           

 レバレンド・ムーンが責任分担という言葉を発見したということは、偉大な発見だということを知らなければなりません。皆さんは責任分担をどれほど重要に考えていますか。この責任分担には宇宙がかかっています。このために神様も解放されず、宇宙も解放されず、地獄の門も解放されず、社会の矛盾したすべての不義の歴史が責任分担という囲いに、責任分担という壁に引っ掛かって、みんながあえいでいるのです。

           

 人間の責任分担という言葉は、私がいる前からあり、私がいるこの時代、そして私が去ったのちまでも永遠に残る法であると考える人がいますか。「人間の責任分担という言葉が何のために私たちに必要なのでしょうか。何で必要ですか」と言う者たちがいます。神様の愛が絶対的であると同時に、その愛が絶対的な責任分担の上に立たずしては見つけることができません。絶対的です。皆さんが朝、御飯を食べること、生きることを考えるよりも、これがもっと根本です。


           

 統一教会が出てこなかったならば、神様が分からないようになっています。人間の歴史始まって以来、霊界と肉界に対する関係、人間がどうしてこのように受難の道を行き、神様がいらっしゃるならなぜ悪なる世界をつくって人間をこのように悲惨な運命に追い込まなければならないのか、という問題を解決する道がないのです。しかし今日統一教会の信徒たちは、これが人間の責任分担のためだということを知っているのです。それは驚くべき事実です。

           

 もし堕落した人間の前に神様が責任分担を設定しなかったならば、蕩減復帰という言葉は出てこなかったでしょう。復帰するならただそのまましたでしょう。蕩減しなければなりません! なぜ蕩減しなければならないのでしょうか。人間には責任分担があるからです。人間が完成すべき責任分担を自ら壊してしまったので、その賦与された責任を果たしていかなければなりません。そうするためにはサタン世界のすべてのものに勝って、サタンを主管する立場に立ち、堂々と神様の愛を受けることのできる位置に入らなければなりません。そうなればサタンは離れるのです。



 五 責任分担を遂行する姿勢

 一) 責任分担はすべての分野の過程にある


 蕩減復帰歴史は幼いときから年老いて死ぬときまで、また霊界に行ってもいつも付いて回るのです。責任分担というものは付いて回るのです。霊界に行っても責任分担は残っているのです。霊界に行って、高い世界に上がれば上がるほどもっと高い次元の法があるのです。すべて責任分担が付いて回るのです。それを知らなければなりません。

           

 先生の時代に法を立てるのは、責任分担法の延長であり、拡大であることを知って、その法に順応しなければなりません。教会の規範のようなものも、みな責任分担です。それで礼拝時間はぴったり守らなければなりません。礼拝が始まる前に来なければならないし、礼拝の時間は絶対に動いてはいけません。先生もそうしました。先生も昔、学校の時間に遅れそうになれば、その日は昼御飯を抜いて、ちょうど五分前に行くのです。そういうことをやりました。あらかじめ行っても時間を無駄にすることはないではありませんか。ですから思考がとても科学的だったのです。

           

 すべての制度が責任分担の管下に所属するということを知らなければなりません。統一教会の法を守らなければなりません。朝、敬拝時間を守るのも責任分担です。それ一つもできなければ、この次の皆さんの人生の問題がここで左右すると考えなさい。

           

 責任分担はどこでもあるのです。御飯を食べれば、自分が食べた食器をみな片付けなければならないのも責任分担です。責任が多いのです。責任分担をたくさんつくることのできる人が偉大な人です。統一教会の先生が責任分担制度をたくさんつくりました。会社でも全体のためになる原則、法を立てて、その規約を守らなければなりません。異議があり得ません。ああしたりこうしたりしていたら追い出されるのです。アダムとエバが、ああだこうだと行動してどうなりましたか。追い出されたのです。


  二) 責任分担を遂行する姿勢


 堕落した人間は、人間の責任分担だけではありません。全体創造の九七パーセントをみな蹂躙してしまったのです。創造過程全部が崩れたというのです。ゆえにどれほど難しいかというのです。ですから人間が九七パーセントに該当し得る責任を果たさずしては責任分担を完成できる道が永遠にないというのです。ですから復帰摂理というのは再創造摂理ですが、再創造摂理がなぜ必ず必要なのでしょうか。人間の責任分担のためです。人間の責任分担を果たし、その場まで出ていくためには必ず再創造の過程を経なければなりません。再創造過程を経るには必ず蕩減条件を立てなければなりません。受難の道を行かなければならないというのです。

           

 責任分担をよく知らなければなりません。救いの歴史は復帰の歴史であり、復帰の歴史は再創造の歴史です。再創造は原理的にするのです。責任分担を果たさなければなりません。責任分担は私たちの絶対的な信仰です。絶対順応です。これしかありません。自己主張があり得ません。エバは自己主張して堕落したのです。教会に入って不平を言ってはいけません。

           

 皆さんは責任分担を一日に何回考えてみましたか。御飯を食べるときも責任分担、スプーンを握るときも責任分担、お皿を洗うときも責任分担、便所に行ってうんこやおしっこをしながらも責任分担、歩きながらも責任分担を唱えよというのです。アダムとエバが責任分担というものを考えなかったので滅びたのです。私たちはアダムとエバのように責任を果たせないで堕落する人になってはいけません。復帰して勝利する人になるためには二十四時間責任分担を尊重し、考えなければなりません。

           

 神様は今まで人間の責任分担圏以上の立場で人間世界に接していらっしゃいます。しかし、それ以下に落ちた人間はどんなことをしても橋を架けて上がらなければなりません。その圏内にすべての人類が引っ掛かっているし、すべての世界が引っ掛かっているし、歴史が引っ掛かっています。過去に霊界に行った人、今後生まれてくる後孫全体がこの運命圏を抜け出せないでいるというのです。これが怨恨の堕落圏です。それで再創造していくには必ず闘争過程を通過しなければなりません。再創造過程に必要とする圏は誰が支配していますか。サタンが支配しているのです。九七パーセント圏をサタンが支配しており、九七パーセント圏以上から神様が支配します。このように見なければなりません。

           

 人間が自分の責任分担を果たせなかったので、アダム完成者が責任分担を果たさなければなりません。ですから未知の世界を開発していくのです。ゆえに原理の道は開発していかなければなりません。求めていかなければなりません。原理の道は探していく道であり、蕩減の道は踏んで行く道です。ただそのまま踏んでいかなければなりません。ヤコブが蕩減したもの、イエス様の蕩減、モーセの蕩減路程を、今日の統一教会の文先生の蕩減路程を通して踏んでいかなければなりません。千里の道ではなくても、三歩、四歩ずつでも踏んでいかなければなりません。そのような条件が貴いのです。

           

 天使が来た時、ヤコブは神様の使者として来たことを知っていました。それで「私を滅ぼすための使命をもって来たのですか。でなければ福を与えるための使命をもって来たのですか」と尋ねると、「福を与えるために来た」と答えました。それに対して、「福を与えようと来たのならくれたらいいのに、どうしてくれないのか」と言うと、「それは責任分担が残っているから、ただ与えることができない」と言うのです。すなわち、ヤコブが相撲をして勝たなければ福を与えられないというのです。言い換えれば、命を懸けて闘わなければ与えられないというのです。そのような条件をかけて立ち上がった時、ヤコブは「そうか、よし、私の指が抜け、私の腕がなくなっても決して負けない」と決心し、刀で打たれても離さないし、首を切られても離さないという心をもって相撲をしたのです。どれほどやったでしょうか。夜を明かしてやりました。死んでも離さないという心で闘ったのです。

           

 責任分担圏の蕩減路程は立てなければならないものです。その責任分担は何を中心として果たさなければならないのでしょうか。より天を愛すること、より絶対的な信仰とより絶対的な愛をもたずしてはサタンを屈服させることはできません。

           

 責任分担という言葉に対して感謝したことがありますか。この責任分担を果たせなかった人間が行く道において、解放を追求する前に通過すべき蕩減という怨恨の道が、壁が、どん底が残っているのです。この事実を知ったので、この道を行くために身もだえする統一教会の群れにならなければなりません。その道が残っているので、先生もこの道を埋めるために身もだえしてやってきたのです。

           

 皆さんは責任分担を完成したと思いますか。アダムとエバが責任分担を完成できずに死んだので、皆さんも責任分担を完成した立場にいないのです。いくら素晴らしく、いくら大統領で、この国の有名な学者になったとしても責任分担を完成した立場に上がれなかったというのです。責任分担を完遂できなかった圏内ではサタンがぎゅっとつかんでいるのです。これを離すためには蕩減しなければなりません。蕩減せずしては、祭物にならずしては離れないのです。蕩減するまでは、ただでは離れないのです。

           

 皆さんは天国に行く道を知りません。蕩減の道を知りません。蕩減の道を知っていますか。責任分担を完成できなかったので、責任分担条件に引っ掛かっているのです。責任分担を果たせなかったことによってサタンが侵犯したのです。個人、家庭、社会、国家、世界、また霊界まで、みなサタンが侵犯しているのです。


 五パーセントの人間の責任分担を果たさなければなりません。先生も責任分担と蕩減法のゆえに一生の間、苦労するのです。これを知ったのでサタンが統一教会を一番恐れるのです。これがサタンを屈服させる武器です。ですからサタンの一線に行かなければなりません。サタン世界に行って反対行動をして、その基盤を築いて、カインを救わなければなりません。カインもサタンを解放してあげなければなりません。カインを救ってこそサタンが解放されます。カインを探してくることができなければ、追放ができないのです。

           

 私たちになぜ蕩減法が必要なのでしょうか。サタンを分別するためです。責任分担を果たせなければサタンを分別できません。責任分担を完遂できずしてはサタンが分別されないというのです。ですから皆さんは蕩減の道を行かなければなりません。先生が責任分担と蕩減法を知らなかったら、今日統一教会は成り立たないのです。神様のみ旨を中心として見るとき、神様が私に協助できないというのです。統一教会が特別なのは、責任分担を中心として蕩減法を知ったからです。先生が生涯をかけて苦労するのは、蕩減の道のためです。先生が一生の間なぜこのことをするのでしょうか。いつも牢獄に出入りし、なぜこんなことをしなければならないのでしょうか。それは蕩減法のためです。蕩減法のゆえなのです。




第二章 罪、人間堕落の内的意味

 一 換父易祖(注:父が換わり、先祖が替わったこと)がすなわち堕落

  一) サタン悪魔が私たちの父


 本人が糾明した原罪と堕落の曲折は、人間の最初の家庭で起こった天使長との不倫の事件でした。統一原理でのサタンは、観念的存在や仮想の存在ではなく、霊的実体です。神様の愛の理想を破壊し、神様の血統をサタンを中心とした血統に変えた元凶です。イエス様もヨハネによる福音書第八章で、人類の父が悪魔であることをはっきりと語られました。神様が御自身の外的な体であるアダムとエバを通じて実現しようとされた愛の理想を剥奪した愛の姦夫が、正に悪魔サタンなのです。皆さんには聞き慣れないことでしょうが、本人が霊界を開拓して宇宙の根本の曲折を糾明しようと血と汗のにじむ闘争をした結果、得た結論がこれです。皆さんも真剣に祈祷してみれば、解答が得られるでしょう。

 堕落の実相とは何でしょうか。善悪の実を取って食べて堕落したという聖書のみ言は、比喩です。今までそれをそのまま信じてきたのは、本当に健気です。善悪の実を取って食べたのが堕落だというそんな盲目的な信仰基準をもってしても今までキリスト教が世界的に発展して、二十世紀の文明を創建したことを見れば、神様が背後からたくさん協助してくださったということが分かります。しかし内容が確実ではないものは、結果がどのように出るでしょうか。無知では完成することはできないのです。

           

 聖書の内容を観察してみれば、人類始祖が不倫の愛によって、サタン悪魔を中心として父子の関係を結んだという事実を否定することができません。神様の血筋を受け、神様の絶対的な愛の中で、神様の直系の息子、娘として生まれなければならない価値をもった人間が、サタン悪魔の血統を受けてサタンの息子、娘として生まれたというのです。ローマ人への手紙第八章に「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(二三節)と記録されています。養子は、血筋が違うのです。これが私たち人間の正体なのです。

           

 ローマ人への手紙第八章を見てください。「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」(二三節)とあり、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」(一五節)とあります。養子にしかなれないのです。クリスチャンたちは養子です。養子は血筋が違うのです。ヨハネによる福音書第八章四十四節を見れば、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」とイエス様が言いました。ここで父と言いましたから、血筋が、先祖が悪魔ではありませんか。ですから割礼はどうするのですか。陽部を裂くのです。このようになっています。善悪の実とはどんな善悪の実ですか。

 堕落した結果、どうなったのでしょうか。私たちは死亡圏内に落ちました。神様が善悪の実を取って食べたなら必ず死ぬであろうと言われたみ言のように、死亡圏内に落ちていきました。堕落した結果どうなったのでしょうか。ヨハネの福音書第八章四十四節を見れば、サタン悪魔が私たち人類の父になった、とイエス様は指摘しました。神様を父として侍るべきアダムとエバが堕落することによって、サタン悪魔を父として侍るようになったというこの口惜しく恨めしい事実が堕落の報いであることを知らなければなりません。

           

 堕落によって人間は、偽りの父であるサタン悪魔に屈服せざるを得なくなりました。人間は、自分たちの父を替えたのです。私たちは真の父である神様を捨てて、偽りの父であるサタン悪魔と一つになったのです。こうして最初の男性と女性は、サタンの息子、娘になってしまったのです。

           

 もともとサタンはどんな存在なのでしょうか。悪魔とはどんな存在かといえば、神様の僕です。しかしこの僕の者が、主人の娘を強姦したのです。これが堕落です。聖書に出てくるその堕落とは何かといえば、エバが善悪の実を取って食べたのが堕落だと言いますが、善悪の実は果物ではありません。僕の者が主人の娘を強姦したことです。将来、代を継ぐ息子、娘を生み育てて、神様の理想を成そうとしていたのに、僕として造った天使長という者が、主人の娘を強姦したのが人類の堕落の起源になりました。この世にそんなことがあってもいいのでしょうか。天地がそのようになったのです。複雑にもつれた内容を、皆さんは原理を聞けば大体分かるはずです。 

 エデンの園にあるすべての木の実は取って食べたとしても、園の中央にある善悪を知る木と命の木の実は取って食べるなと言いましたが、それは何を意味するのでしょうか。尹博士! 他の木はどんな木で、命の木と善悪を知る木はどんな木ですか。同じ木なのに。他の木は何の木ですか。それが何かといえば、兄と妹として暮らしながら、手を握ってもいいし、なでてもいいし、かわいいと言ってどんなことをしてもいいですが、善悪の実は見てもいけないし、触ってもいけないというのです。それが何か分かりますか。他のところはみな触っても、そこは触るなというのです。そのように解釈すべきでしょう。何のことか分かりますか。


兄と妹が手を握ってもいいし、抱き締めてもいいというのです。兄と妹、二人しかいないではありませんか。子供たち同士は体を触ったり何でもするでしょう。大きくなる過程で、家でみなそうではないですか。兄なら兄が、それを知っているでしょうか。そのようにみな触ってもいいのですが、いけないところがあるというのです。命の木の実である男の棒は凸で、善悪の実は凹です。それは触ってもいけないのです。取って食べれば大変なことになるのです。聖書はそのように比喩で書かれているのです。神様がどれほど風刺的か分かりません。

           

 聖書を見れば、善悪の実を取って食べて堕落したとありますが、下部を覆ったというのはどういうことでしょうか。既成教会で聖書をもう少し知性的に解釈できる心さえあれば、すぐに堕落の起源を知ることができます。どうして下部が恥ずかしいものなのでしょうか。下部をなぜ覆ったのでしょうか。口を覆い、手を覆わなければならないのに、下部だからといって欠点になることはありません。しかし下部で堕落することによって天の愛を蹂躙した恥ずかしい宮殿になったというのです。真の愛の泉がわかなければならないのに、悪魔の愛を中心とした偽りの愛の泉があふれ出てきたのです。それで、これが愛の土台の中で一番悪い愛の土台になったのです。

           

 アダムを追い出すとき、息子、娘を生んでから追い出したでしょうか。生む前に追い出したでしょうか。見ることはできませんでしたが、息子、娘を連れていたら追い出すことができるでしょうか。涙をもっと多く見なければならないでしょう。「おじいさん、おばあさん、どうしてこのように追い出すのですか」と言って、つかんで痛哭するでしょう……。四人が四肢をつかんで騒げば、それをみな刀で切り捨てなければならないではありませんか。罪を犯したアダムとエバは分かりませんが、罪を犯していないアダムとエバの息子、娘がそれに気づくのです。それを知っている神様が息子、娘を生む前に追い出したのです。彼らが追い出されたのちに勝手に結婚して赤ちゃんを生みました。神様が追い出すとき、お前たちは出ていって結婚し、息子、娘を生めと訓示して送ったでしょうか。そんな話をしないで送ったでしょうか。答えてみなさい。いずれにしても彼らは息子、娘を生んだのです。追い出されてから。

           

 こんな話をどこかでお金を払って聞くことができますか。自分の家を売り、財産をはたいて千年、万年祭司をしても、教えてくれる人はいません。統一教会の文先生しかいません。これは宇宙の秘密です。聖書にもこのような内容はないでしょう。聖書では、善悪の実を取って食べて堕落したとあります。善悪の実とはどんな果実ですか。そのように幼稚園生にもなれない実力でありながら、博士号を検証し、博士号の総会長になった文総裁に異端だと言えますか。異端だというのは端が異なるのではなく、端が見えないという言葉です。私の言葉が合っていますか、違いますか。合っているというのです。

           

 堕落することによってどんな結果になったのかといえば、エバが未成年時代に僕に唆されて堕落してしまったのです。堕落とは何ですか。今日聖書で言う善悪の実を取って食べたことではありません。神様が一番貴く思うことをサタンは知っていました。また神様の息子になり、神様の娘になることができる一番貴いものが何なのかをサタンは知っているというのです。それで神様が一番愛し、アダムとエバが一番愛することのできるそれを、自分も一度もてたらいいと考えざるを得なかったのです。

 終わりの日になって、再びそれを再編成して、神様の恨を解き、天倫の恨を解くと同時に人類の恨を解かなければならないのです。このようにならなければならないのに、これを知らずに善悪の実を取って食べてどうのこうの……。ここで言う人の言葉が違っているというなら首をくくって四十日間祈祷してみなさい。統一教会の文先生がうそをついたのでしょうか。皆さんは正常な血筋を受けて生まれたのではありません。ですから独身生活を強調したのです。子供を繁殖しては困るというのです。

           

 神様は淫乱を憎みます。なぜでしょうか。人間が不法に愛して天地をひっくり返したからです。この悪の血はどうすることもできないものです。それで道の世界では独身生活を主張するのです。もし男性が神霊なる祈祷の境地に入れば、必ず女性が現れて試験をします。必ずこのようなことが起こります。道の道を妨げてくるというのです。なぜですか。不法な愛によって歴史がふさがったからです。善悪の実を取って食べて堕落したという教理をもって二千年まで残ったというのは健気なものです。

           

 宇宙の根本は脱線があり得ないのです。しかしこの悪魔が、大きくなる前、未成年の十五、十六歳と見て、十代の時に……ちょうどその時です。その時に、エバが天使長ルーシェルをじっと見ると、天地の理致(道理)をみな知っているのです。神様のお使いをして天地創造に対しても話すことができるのです。一方アダムはむっつり無口で……アダムは最近でいえば、鳥の雛でも捕まえようと歩き回り、こん棒でも持って蛇の子でも捕まえようと歩き回り、かえるの子でも捕まえようと歩き回り、こうして……自然に吸収されたすべてのことを将来、主管し管理し親しくなろうとし、その和合者になろうとするので、エバに対して関心があるでしょうか。ついて回りたくても力の強い男についていけず、一人で陰に座って休んだりすれば、ルーシェルがひそひそとささやいて誘惑して犯したのです。ところで神様がなぜそれを干渉できなかったのでしょうか。人間の愛は、人間を通じて主管するのです。天地のすべての愛は主体者が主ではなく、相対者が主なので、相対者の願いを中心として「ため」に生きる神様がそれを主管すれば、根本が破綻するのです。逆理的立場で主管者になるので仕方なく、見てもどうすることもできなかったのです。



  二) 堕落しなかったならば……


 それでは、堕落したのちに一番嘆いた方とは誰ですか。歴史をもって一番痛哭し、身もだえした方とは誰ですか。神様です。なぜでしょうか。神様はとてもよく御存じです。「アダムとエバが堕落しなかったならば、天地の偉業を受け継ぐはずなのに、こんなことがあり得るのか」と言うのです。アダムとエバは未成年時代だったので、知らなかったのです。世間知らずだったので、知らなかったのです。知らなければ、痛哭できますか、身もだえできますか。

           

 神様の性相は、男性格である父なる神様と女性格である母なる神様から成っています。ですから神様から造られた人間と被造世界が、男性と女性の二性の神様でもあります。神様は第一に体を着るためにアダムとエバを創造され、第二に愛を完成するためにアダムとエバを創造されたのです。このようなアダムとエバが完成して二人が一つになることのできる愛の実体になれば、神様が臨在され、人類の完全な愛の父母になるのです。そうして神様の形状的実体の父母となったアダムとエバの子女を繁殖することによって理想世界が成就するのです。そうなれば人間を通じて霊界と地上世界が連結されるので、霊界と地上世界を連結させるための目的もあって人間を造られたのです。それで神様が愛を中心としてアダムとエバに臨在されることによって、人類の真なる父母、実体の父母として、アダムとエバの形状である体を使って父母の立場に顕現できるのです。しかしアダムとエバが堕落することによって、このようなことが成されなかったという事実を皆さんが理解されることを願います。

           

 アダムとエバが堕落しなかったならば、神様を中心としたアダムの直系の長孫の子女たちが出てきたはずです。アダムは長孫であり、真の父であり、王です。地上の国と天上世界の王です。また真の父母であり、真の長子です。ですからアダム家庭は天の国の王室です。それではアダム家庭のおじいさんとは誰でしょうか。神様がおじいさんです。その次に、お父さんとお母さんは、アダムとエバです。そして過去の立場を身代わりした観点から見れば、おじいさん、おばあさんは神様の代身であり、また神様は父母の代身です。縦的に見れば、神様が一代圏、二代圏、三代圏を中心として家庭に着陸がなされるのですが、一代圏が横的に展開されたのがおじいさんで、二代圏がお父さんで、三代圏が私です。それで息子、娘を中心として万世一系の王室の代を継ぐのです。

           

 真の長子権、真の父母権、真の王権、これがアダムとエバが出発しなければならなかった原点です。そこに神様の王宮があり、神様の愛があります。そして人間と創造主が一つに連結され、真の愛の基盤になるのです。そこが完成した本然のアダムの家庭基盤であり、神様が永遠に臨在できる神様の王宮です。

           

 統一教会でいう神様とはどんな神様かといえば、真の愛を中心とした縦的な父母だというのです。それではアダムとエバは何でしょうか。縦的な父母は一つです。縦的なものは一つしかありません。神様が人間を愛するにおいては縦的関係です。中心です。縦的な愛です。そうだとしたらアダムとエバとは何でしょうか。縦的な基準の前に横的な父母を身代わりしなければなりません。それではなぜ横的なものが必要だったのでしょうか。繁殖が必要だからです。繁殖。縦的基盤を中心としては生むことができません。横的な基盤を通じて繁殖が必要なのです。繁殖、これは三六〇度を中心としてこの平面基準に無限数が包括されているというのです。それで繁殖が東西南北を通じてこれを縦に合わせることのできるこのような球形体を形成するために神様は、神様の愛を中心として体に通じることのできるアダムとエバを造ったのです。

           

 アダムとエバを中心として見るとき、父母がそこから出てきます。人類の元の父母が出てきます。アダムとエバを中心として、そこから人類の真の夫婦が出てきます。アダムとエバを中心として、初めて息子、娘が出てきます。アダムとエバを中心として、神様と息子、娘、父子の関係までみな出てくるようになっています。

           

 神様がなぜアダムとエバを造ったのか分かりますか。神様も父母の立場で息子、娘を愛する愛を一度もってみたいというのです。その次はアダムとエバのように新郎新婦が愛する愛、その愛を一度体験してみたいというのです。おじいさんの愛、その次は国を一度愛してみたいし、世界を一度愛してみたいし、みなもちたいのです。みなもちたいものが私たち人間世界に伝授されて、それを受け継いだのが皆さんの一族であり、皆さんの民族であり、皆さんの国であり、この世界です。この地であり、あの世、霊界だということを知らなければなりません。

       

    

 堕落せずに完成の立場まで行ったならば、アダムとエバは個人完成だけでなく、宇宙史的な完成をしたはずです。また、神様の愛を中心とした新しい家庭が出発したはずです。このように家庭から氏族、民族、国家、世界が成されたならば、神様に侍る一つの大家族社会になっていたはずです。このような大家族社会の中心は神様とアダムです。それでその世界では神様を中心としたアダム家庭の生活や日常の路程が歴史的伝統として残るのです。彼の生活方式、風習、慣習、そして生活的な背景が歴史的伝統になるのです。それは、神様の愛で結ばれた伝統以外の何ものでもありません。神様の愛は命の根源であり、すべての理想の源泉なので、その懐を離れようとしても離れることができず、離れるとしても再び帰って来ざるを得ないのです。

 堕落はアダムとエバだけに制限された問題のようですが、彼らは人類の先祖であり、根本となる泉のような存在なので、個人、家庭、民族、国家、世界と未来全体に影響を及ぼしたのです。

           

 アダムとエバの堕落は、アダムとエバだけの堕落ではなく、全般的な人類歴史を総合した立場での堕落です。言い換えれば、アダムとエバが堕落したということは、善なる父母になれないで、悪なる父母になったということを意味します。悪なる父母によって悪なる子女が生まれ、悪なる子女が生まれることによって悪なる氏族、悪なる国家、悪なる世界が形成され、この世界圏内に五十億人類が存続しているのです。このような堕落圏内にいる今日の人類歴史は喜びの歴史ではなく、悲しみの歴史であり、人類も喜びの人類ではなく、悲しみの人類であることに違いありません。

           

 愛を知るようになるときには、すべてのものが通じます。地上世界の平面的な事実だけでなく霊眼が開いて立体的な世界までも分かるので、神様を直接見て、接することのできる境地に至るのです。しかし愛の自覚が発達する前に堕落してしまいました。天使長と不倫の関係を結んだというのです。これが宇宙を破綻させた根本原因になったのです。

           

 先生の時になって、堕落が愛によって起こった結果だという事実を明らかにしたことは驚くべきことです。これは歴史的背景を通じて理論的に体系化されたもので、否定できない内容です。


 二 堕落はサタンを中心とした血統転換

  一) 怨讐の血統を受けた


 アダムとエバは、堕落のゆえに血統が変わったというのです。誰の愛によってでしょうか。神様の怨讐、姦夫であるサタンの愛によって、サタンの生命体になったのです。男性の生命体、女性の生命体がサタンの愛に入り混じって一つになり、その二人によって結実したのが息子、娘です。それゆえ、その息子、娘はサタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を継承しているのです。

           

 堕落人間は偽物になったので、接ぎ木しなければなりません。血統的に見れば、皆さんは先祖が違うのです。なぜ養子にしかなれなかったのかといえば、お父さん、お母さんが違うというのです。ですから堕落は血統的なものだったという論理が出てきたのです。堕落とは何ですか。血統を間違えて引き継いだことです。間違った愛によって堕落したという論理を立てても妥当です。ですから統一教会で愛によって堕落したと主張するのを否定することができません。聖書を見れば、善悪の実を取って食べて堕落したと書いてあるでしょう。善悪の実とは何か分かりますか。善悪の実とは単なる実ですか。風が吹けば落ちてころころ転がる実ですか。違います。

           

 アダムとエバの心にサタンが入って一つになったので、サタンの血統を受け継いだということです。愛の多い神様がなぜサタンを許せないのでしょうか。殺人強盗も許し、みな許すと言ったのに、イエス様を信じれば許されると言ったのに……。サタンを許すことができない理由とは何かといえば、人類の血統を汚したことです。それは何を意味するのでしょうか。神様の立場から見るとき、サタンは姦夫です。愛の姦夫。何のことか分かりますか。

           

 サタンを中心として結婚式をしたので、サタンを中心とした愛、サタンを中心とした生命、サタンを中心とした血統を受けなかったと否定することができないのです。もし善悪の実を食べずに堕落しなかったならば、神様を中心として結婚式をしたはずです。統一教会の父母様が皆さんを祝福してあげたように、アダムとエバが成熟したのちには彼らを呼んで神様を中心として祝福してあげたことでしょう。

           

 アダムとエバが善悪の実を取って食べないで、完成したなら、天地を創造した王様の息子、娘になるのです。王様の息子、娘なので、その直系の長孫、長女は何になるのですか。王子、王女になるのです。天の国を代表した地上の国の王国を治めることのできる基盤になるのです。王権は二つではありません。一つだというのです。

           

 神様の手で自ら造られたひとり息子、ひとり娘が、アダムとエバです。アダムとエバが堕落したので、問題になったのです。それでは堕落することによってどうなったのですか。取って食べるなと言った善悪の実を取って食べて堕落しましたが、取って食べるなと言ったその言葉を実践していたならどうなっていたでしょうか。キリスト教はそれを考えることができませんでした。考えてみても分かりません。蒼蒼大海です。深いのか浅いのか、大海の深さを測ろうとしても、それを測定することのできる計器がありません。知ろうとしても知ることができないので、無条件で信じなければならないという冠をかぶせたのです。しかし無知には完成がありません。

           

 体を打つようなことを、どうしてするのですか。サタンの血、神様の怨讐の血を受けたからです。神様の怨讐とは誰かといえば、姦夫です。神様の愛の怨讐です。姦夫です。姦夫の血を受けたのです。天の国の王権を受け継いで王妃になるはずだったエバが悪魔の配偶者になり、僕の相手になったというのです。これは天地の秘密ですが、先生の時代になって初めて暴露されたので、サタン世界は退かなければなりません。

           

 無知には完成があり得ません。サタンとは誰ですか。神様の姦夫です。姦夫。このような問題を明らかにしてあげましたが、これをみな覆っておいて天国へ行きますか。隠しておいて救いを受けますか。とんでもないというのです。偽り多く、でたらめな者たち。そのように信じて救われるものなら、私たちのような人は既にみな救われても余りあるというのです。このように苦労しません。

           

 悪魔がなぜ神様を憎みますか。神様はなぜ悪魔を憎みますか。キリスト教の論理でいえば、キリスト教は怨讐を愛せよと言いました。怨讐を愛するとすれば、神様の怨讐はサタンですが、神様はなぜ愛せないのですか。愛の怨讐を愛すれば天地がなくなるというのです。治める法がなくなります。存在法がなくなるのです。

           

 サタンが神様の理想的愛を破壊させ、理想的生命、理想的血統を蹂躙したのです。そうして赤ちゃんを生んだのが人間たちです。サタンの愛の表示、生命の表示、血統の表示であるその息子、娘を神様が干渉することはできません。

           

 サタンがなぜうんざりするほど人類歴史で道の道を行こうとする人々に間違いなく訪ねてきて、首を押さえ、背中に乗って、犠牲にするというようなことをやってきたのでしょうか。そのサタンのやつが何かといえば、神様においては神様の家族を奪っていった、強姦していった姦夫だというのです。私たちのお母さんが本来神様に侍り、平和の王国を成して、平和の天地を築かなければならないのに、お父さんと私たちを追い出したというのです。サタンが入ってきて、今日人間をこんな哀れな姿にしたのです。何か他の罪を犯したのではありません。

           

 その悪魔が堕落させたのが何ですか。善悪の実ですか。善悪の実を食べてどこを隠しましたか。口を隠しましたか。手を隠しましたか。下部を隠したでしょう。これが悪を蒔いた種になりました。ティーンエイジャー時代、成熟する前に堕落しました。この歴史的な人間の世の中の血統がそこから広がったので、それが人間終末時代において盛んになるのです。全世界的に青少年たちがアダムとエバのように、陰で独自的に愛の倫理を破壊させ、天地が恐ろしいことを知らない時になったら、サタンの全権時代が地上に到来したと思えというのです。その時は神様の鉄槌が目前にやってくるのです。

           

 血統を転換しなければなりません。なぜ血統を転換するのですか。サタンの血統を受けて継承したので、血統を正さなければなりません。皆さん、これをはっきり知らなければなりません。


  二) 血統的な原罪は遺伝する


 堕落は血統の否定的動機から始まった事件でした。ですから堕落の結果が今日まで、原罪として遺伝されてきているのです。

           

 サタン圏に属している人々は神様の血統とは全く関係がありません。すなわち、善なる父母の子女として生まれるべき人類が悪の父母と因縁を結んで生まれました。それで悪を中心とした家庭、氏族、民族、国家、世界に拡大されました。

           

 不倫なる淫行関係によってエバは天使長と一つになり、アダムはさらに天使長と一つになったエバと一つになることによって、アダムとエバは結局神様を中心としてではなく、天使長を中心とした夫婦関係を結んで家庭を築くようになったので、アダムとエバの後孫であるすべての人間はサタンの血統を受け継ぐようになったのです。

           

 堕落は、神様を中心としてアダムとエバが一つにならなければならないのに、神様の僕である天使長と一つになったことを言います。神様の血統を受け継ぐべき人間が僕の血筋を受け継いだということです。ですから堕落した人間がいくら神様を父と呼んでも実感が伴わないのです。これは神様であれ何であれ関係なく、すべてのものを自己中心に連結させて考える堕落性本性が遺伝されたからです。それでみな相反する存在になり、宗族と民族を成したので、少したてばすべて分かれるようになるのです。このようにして立てられたのがサタン文化圏です。二つに分かれ、三つに分かれて、みな分裂するのはサタン圏に属するものです。

           

 堕落によって真の父母を失ってしまい、真の夫を失ってしまい、真の子女を失ってしまいました。失った動機はエバと天使長のゆえでした。このような観点から見るとき、この地に生きている女性たちは天使長のお父さん、天使長の夫、天使長の兄に頼って生きているのです。ゆえに女性たちは悲惨なのです。お金持ちの家の令嬢が自分の家の下男と住むかたちになったのです。すなわち、僕の血筋を受け継いで生まれたというのです。ですから本来の夫、本来のお父さん、本来のお兄さんの愛を受けられなかった女性たちなのです。

           

 血統的に曲折が詰まっているので六千年かかるのであって、そうでなければ、全能なる神様が一日でみな復帰するというのです。血統的にこれが固まってしまったので、これを一度にみな抜けば死んでしまうのです。ですから六千年かかってきたのです。善悪の実を取って食べて堕落したというのですか。それならどれほどいいでしょうか。

           

 罪の基盤、堕落の基盤、悪の基盤、地獄の基盤、このようなものは具体的にどのように生じるようになったかということが問題です。アダムとエバまで戻って考えてみましょう。アダムとエバがどうして堕落したのかという根源を探ってみると、アダムとエバは神様が命令した「善悪の実を取って食べるな」という言葉を不信して堕落しました。二番目には自己中心的だというのです。三番目は自己を中心として愛そうとしたのです。これが堕落した中心の骨子の内容なので、この内容と同じものはサタン側だという結論が出てくるのです。堕落した人間たちはみな不信の愛、自己中心の愛をした人たちです。結局自己中心の愛を主張するのがこの世界の人たちだと見るのです。


 三 サタンは神様の愛の姦夫

  一) サタンは堕落した天使長ルーシェル


 サタンとはいったいどんな存在でしょうか。特にイエス様を信じる人たちは神様の前において、サタンの正体をはっきり明かさなければなりません。サタンとは何ですか。姦夫、愛の姦夫だというのです。こいつが……そのサタンがお父さんを殴り殺し、お母さんを強姦して生んだ子女が正に皆さんです。気分が悪いでしょう。とても信じられないなら、先生の言葉が本当かうそか命を懸けて神様の前に談判祈祷を一度してみなさいというのです。

           

 私たちの先祖がサタンに讒訴され、蹂躙されて、虐殺の祭物になってきた恨を解かなければならないキリスト教信徒であり、道の道を行く人だとするなら、このサタンの正体を解明しなければならず、歴史的な神様の心情と時代的な神様の心情、未来を心配される神様の心情を知らなければなりません。そうして神様が涙を流し、「おお、私の息子、娘よ」と言うことができてこそ世の中は回るというのです。

           

 神様においてエバは未来の妻でした。なぜならば、アダムは神様と一体になるので、神様自身です。神様の妻をサタンが犯しました。サタンは神様の怨讐であり、私たちの怨讐です。

           

 サタンとは誰ですか。神様の妻になるエバを強姦した姦夫です。アダムの妻であると同時に神様の妻です。神様の妻となるエバを強姦した姦夫です。サタンは愛の怨讐です。ですから神様が怨讐を愛しても、サタン姦夫まで愛せとは言いませんでした。サタンは許すことができません。サタンに属した人は愛しますが、サタンは許すことができません。それは原理なので、皆さんがみな知らなければなりません。

           

 エバはアダムの妻であり、神様の娘ですが、そのエバをサタンが強姦したのです。ですからサタンは神様の前に姦夫になるのです。今まで既成教会の人たちはこれを知りませんでした。

           

本来の主人を追い出し、彼の妻を奪ってその息子、娘までみな死の立場に引っ張っていく魁首の立場がサタン悪魔だというのです。このように見るとき、神様の怨讐であり、人類の怨讐であるサタン悪魔を許す道がありますか。結局サタン悪魔は神様と愛を中心として姦夫の関係になってしまったというのです。ゆえに許すことができますか。そのようなサタンを許せば世の中をみな破綻させてしまうのです。ですから皆さん、ただそのままで神様の息子、娘になれると思えますか。ですからこれをすり替える日まで、神様と人類は呻吟と苦痛の道を免れ得ない立場で歴史をつづってきたということを知らなければなりません。

           

皆さんの家庭が神様の公認された愛によって築かれた家庭ですか。違います。皆さんの家庭は、お父さん、お母さんがサタン世界の堕落した愛の因縁によって結ばれた家庭です。そのような家庭で生まれたのが、正に皆さんです。それで血統が違うというのです。それは強盗にお父さんが追い出され、お母さんが強姦され、その間に生まれた退廃物のようなものです。結局、神様がいらっしゃることも知らない姦夫の一族、悪魔の社会になってしまいました。


皆さんの愛の綱はどこから始まりましたか。どこから出発したというのですか。悪から始まりました。この悪の魁首がサタン悪魔です。どんな因縁をもった悪魔かといえば愛の姦夫だというのです。その姦夫の血と肉を受け継いで人間が生まれたのです。それなら私たちが受けようとする愛は姦夫の愛ですか。姦夫の血統を通じて受け継いできた不浄な血統の愛を受けようとしましたか。違います。これが問題です。

           

元来人間は神様を中心として真の命と真の血統を受け継ぎ、宇宙の権限をもって栄光の生活をしていなければならなかったのですが、堕落することによってサタンの愛を中心にサタンの血統、サタンの命を受けたのです。サタンは神様の怨讐です。神様の愛の怨讐です。それは姦夫です。姦夫。女が三人集まれば「姦」という字を書くでしょう。姦夫が何か分かりますか。姦夫とは何かといえば、自分が愛する女性を奪っていった者を姦夫というのです。

           

サタンは神様の前に姦夫です。そして人類はその姦夫の子供です。ですからサタンは怨讐です。この怨讐に対して敵を討とうという考えに激しく燃えている人であってこそ神側の人になるのです。

           

神様はもてる限りの精誠を尽くして、希望に満ちた大業を夢見て、宇宙を創造されたのですが、そのすべての大業と命と理念のすべての条件が一時に破綻して滅びるとき、天地が真っ暗になったというのです。ここに怨讐として登場したのが、天使長ルーシェルでした。このルーシェルを討ち取らなければならないでしょうか、討ち取ってはならないでしょうか。神様が最も愛していた骨の中の骨であり、肉の中の肉である息子、娘をルーシェルが自分の息子、娘にしたのです。こんな怨讐の首を切らなければなりませんか、そのままほっておかなければなりませんか。このような問題をめぐって歴史始まって以来初めて苦心した方が神様です。

           

 神様が願っていた王子、王女の資格を破綻させ、王子、王女の家庭的愛を破綻させ、王子、王女以後の王孫を破綻させ、神様が理想とする家庭、天の国を破綻させた元凶がサタン悪魔だということを知らなければなりません。この元凶が神様の怨讐であるだけでなく、私たち人類の怨讐です。その怨讐の敵将にその国の王宮にいる王族、王族の王子、王女が捕まっていって、僕の暮らしをしながらその僕の世界の赤ちゃんを繁殖させるのと同じです。王子、王女を中心として王権のもとで展開されなければならないにもかかわらず、悪なる悪魔の王権のもとで繁殖された群れのようなものが堕落した人類だというのです。

  二) サタンは愛の怨讐


 天使長とは誰でしょうか。神様の妻を奪った姦夫です。すなわち、悪の主体サタンとは何かといえば、神様の妻を奪った姦夫だというのです。姦夫といえば、何かの機関の幹部(注:韓国語では発音が同じ)ではありません。愛を取って食べた姦夫だという意味です。これを知らなかったのです。

           

 人間は本来、神様の王子、王女になるはずだったのに、僕の子になり、僕の赤ちゃんを生み広めたのです。サタンが何か知っているでしょう。姦夫です。姦夫とは何ですか。愛の強盗だというのです。それは順理を通じた愛の道理を逸脱したものです。ですからサタンは愛の強盗です。

           

サタンとは誰でしょうか。サタンは神様の姦夫です。姦夫。自分のお父さんを殺し、自分のお母さんを強姦し、その家の主人になりすますのです。世界の人類はこのような大怨讐を逃しておいて怨讐に対して敵を討つことのできない群れになったのです。

           

皆さんは姦夫を愛することができますか。それが神様の苦痛です。神様がどれほどかわいそうかというのです。その姦夫はどんな姦夫ですか。三代を蹂躙しました。おばあさん、おじいさん、お母さん、お父さん、自分まで、三代を蹂躙したというのです。それは何を意味しますか。この天の国の王宮を全部サタンが占領して、おばあさん、自分のお母さん、自分の妻までもみんなその場で強姦して殺してしまったのです。サタンはこのような怨讐だというのです。

愛の怨讐、サタン悪魔を許せば、天地がひっくり返るので、本然の愛を取り戻すためには許すことができないというのです。これを審判せずしては取り戻すことができないというのです。ですから不倫な愛の関係を神様が一番怨讐視するのです。これが膨張したので、神様が安着できないのです。

           

人間世界の知識が何に必要で、権力が何に必要で、富が何に必要ですか。人間世界の愛だとか家庭だとか何が必要ですか。否定しなければなりません。堕落人間はサタン、姦夫の血を受け継いだ血族です。「ぺっ!」とつばを吐かなければなりません。

        

   

神様の息子、娘には誰でもみななりたがります。本来の創造原則がそうで、そうならなければならないのに、そのようになれる血族から生まれるべき人間たちが怨讐に引っ張られていって、神様の愛の怨讐であるサタンの血を受けたのです。神様の血を受けて生まれなければならないのに、とても悔しいことです。

           

サタンは何を主張するのでしょうか。「あなたは神様ですが、私は悪魔になりました。それを認めます。私は悪魔です。それではあなたの原理を見れば、天使長を造ってアダムとエバを造るとき、天使長であるルーシェルという存在を永遠の愛の標準のもとで造りましたか。ちょっと一時的な愛の標準として造りましたか」と質問するのです。そのとき、神様はどのように答えなければならないでしょうか。「臨時に愛する標準のもとでお前を造った」と言うでしょうか。言うまでもなく「永遠を中心として造った」と言うのです。そうするとサタンが「私は変わったとしても、あなたは変わることができないのではないですか」と言えば、神様が「そうだ」と言うのです。「私が変わって破壊的行動をしたとしても、あなたは破壊されてはいけないのではないですか」と言えば、「そうだ」と言うのです。たった一つ、これをつかんでいるというのです。

 

          

 怨讐を愛さずしては天国に入れません。怨讐を愛さずしては天国に入れないと言いましたが、その内容を霊界で知ってみると、どんなにうらやましいかというのです。なぜそうかといえば、アダムとエバは堕落したとしても、神様の原理原則は変わりませんでした。天国に入る原理原則はアダムの堕落前も後も変わりがないのです。それでは本来堕落しなかったアダムが完成していたならば、完成と同時に神様とアダムが合わさって……よく聞きなさい。天使長であるルーシェルを愛して天国に連れて入らなければならないのが原理原則だったというのです。そのような原理原則は残っているのです。サタンがそれをもって主張するのです。

           

 この世で犯罪を犯した者でも自分の罪の実状を知っている人がいないときには、どこに行っても堂々と罪を犯していない人のように振る舞うことができるのです。しかし、とても小さい少年でもその人が罪を犯す現場を目撃したと指摘するときには、その犯罪者はそれに屈服するのです。ですからサタン悪魔を屈服させるには、サタン悪魔の正体を暴いて罪状を暴露し、天上と地上で追放運動をすればいいのです。

 神様は永遠の公法の主人公であられるので、神様の前にサタンを引っ張っていって讒訴しなければならないのです。サタンを告訴しなければなりません。サタンが弁護するのを見て、検事の立場で論告をして微動だにできないように締め付けておかなければなりません。そうして堕落した天使長ではなく堕落していない天使長たちが「正しい! まさしくそうだ! 正しい」と言わなければなりません。



 四 善悪の実はエバの生殖器

  ) 下部を覆ったのが罪の表示だ


 皆さん、エバが善悪の実を取って食べたのか、りんごを取って食べたのかよく分かりませんが、取って食べるには、まず目で見て、次に手が行って取って、その次に口で食べたはずです。取って食べるには、目、手、口が動機です。行動した実体なので、取って食べたのちには目を覆い、手を隠し、口を覆わなければならないのに、アダムとエバは取って食べたのちに、下部を覆ったのです。これが問題です。

           

 人は心情的な子女の立場で生まれましたが、ここで生まれて大きくならなければなりません。成熟して宇宙を主管できるようになるためには、回らなければなりません。それで神様もここに降りてきて、軸と一つになり、宇宙を回さなければなりません。原理において「善悪の実を取って食べるな」と言ったのは、成熟する時まで待ちなさいという意味です。それは何かといえば中央の点が決まるときまで、そこに定着できるその時まで待ちなさいというのです。

 愛が先ですか。自覚が先ですか。愛が先です。そうすれば万事に通じます。そうなれば人生が行く道には壁がなく、谷間の道があり得ないというのです。天理のギアが歯をぴったり合わせて、ぐるっと回ることができるようにする天理の大出演だったのにそれを離れて、女性が自分の自覚で始めたというのです。聖書に何を取って食べたいと言いましたか。善悪の実を見ると食べるによく、目が開けるという自己自覚! これが問題になったのです。ですから自分が自覚する立場、自己主張できる立場に立っているのは妖邪なサタンの侵犯圏、堕落性の侵犯圏にあるということが分かるでしょう。これをはっきり知らなければなりません。

           

 悪魔がどこに根を打ち込んだのかといえば、体に打ち込んだのです。神様はアダムとエバを造りましたが、彼らは未成年の時に堕落しました。善悪の実を取って食べるなと言いましたが、それは果実ではありません。善悪の実を取って食べるとき、手で取って口で食べたなら、手を隠し、口を覆ったはずなのに、なぜ下部を覆いましたか。これが死亡の落とし穴です。人類文化を滅ぼし得る根源地です。皆さん、愛という言葉が極めて聖なる言葉であるにもかかわらず、なぜ下品な言葉として使いますか。なぜ下品な言葉だというのですか。それが天地の大道を破壊したからです。

           

 それが何ゆえに神様がこのように手をつけられず、無力になりましたか。何の堕落のゆえにそんなにひどいのですか。善悪の実を取って食べたなら、なぜ下部を覆ったのですか。血を汚しました。血を汚したということは命を汚したということです。命を汚したということは愛を汚したということです。天地の大道の神経器官になるべき人間が、未成年期に堕落しました。女性を誰が強姦したのですか。僕である天使長が神様の娘、未来には神様の王妃になることができ、神様の外的な体になることができるエバを強姦してしまったのです。血筋をひっくり返したのです。こんな話は初めて聞くでしょう。

           

 善悪の実とは何ですか。何だか知っていますか。女性の陰部を言うのです。韓国語で「俺はあの女を取って食べた」と言うでしょう。韓国語は妙だというのです。男たちはそんな言葉を使います。「あの女を取って食べよう」と。聖書も知らない人たちがそう言うのです。それは心にあるままを告げるのです。すべての者が良心にあるままを告げなければなりません。終わりの日にはみなありのままを告げなければなりません。

           

 善悪の実を取って食べて原罪が生じますか。お父さんが善悪の実を取って食べたのが罪だと言いますが、善悪の実が何であるがゆえに千代、万代の後孫が罪人になるのですか。これは血統的関係です。血統的に罪の根を植えておけば、遺伝法則によって永遠に行くのです。それができるのは愛の問題しかありません。間違った愛が堕落の原因です。

    

       

 人間がキリスト教で言うように善悪の実を取って食べて堕落したならば、復帰も一朝一夕にできます。神様が善悪の実よりもっとおいしくいいものをつくって食べさせれば、蕩減になるのではありませんか。理論的にいえば、そうだというのです。

 アダムとエバがどこで出会うのかといえば、垂直線に行って出会うのです。出会うには愛を中心として一つになるのです。愛をどこに合わせますか。中心、中心に合わせるのです。それが何かといえば、男性と女性の生殖器です。そこに合わせるのです。男性と女性の生殖器はそのように貴いものです。ですから男性と女性は一生の間、それに侍って生きなければなりません、神様のように。それが至聖所だというのです。

           

 アダムとエバが堕落したのちになぜ下部を覆いましたか。そのような問題をキリスト教は知らずにいるのです。何、善悪の実を取って食べたというのですか。神様がなぜ愛する息子、娘を追放してしまったのでしょうか。どれほど重要な問題なので追放してしまったのかというのです。

           

 エバは二つの世界の母体になりました。善と悪の中間の立場になったというのです。それでは善悪の方向を誰が決定しなければならないのでしょうか。自分自身が決めなければなりません。そうするには悪をたたきつぶし、サタンをたたきつぶして、神様にしがみつかなければなりません。サタンを打つことよりも数倍も強く神様にしがみつかなければなりません。悪を打つためには渾身の力を傾けなければなりません。それと同時にそれ以上の力で神様にしがみつかなければならないというのです。

           

 堕落とは何でしょうか。キリスト教では「善悪の実を取って食べたことだ」と言います。それで善悪の実は木の実だと思っています。しかし木の実は人間の価値と対等ではあり得ません。本来植物というものは造るときに、すべての存在の中で人間の下にいるように造りました。それが自分以上のものを堕落させることのできる内容の要素をもつようには神様が造らなかったというのです。

           

 既成教会では善悪の実を取って食べたことを堕落と言います。そのような解釈は唯物論的なものです。物質を食べて霊魂が堕落したとすれば、物質の中から精神が出てくるという共産党の理論と何が違うでしょうか。物質を食べて霊魂が堕落するのでしょうか。物質を食べて堕落することができるでしょうか。霊魂によって物質が堕落したなら、話が分かりますが、物質によって霊魂が堕落したというのは話になりません。物質の中に霊魂があるというのは唯物論だというのです。


  二) 善悪の実は命と死亡の分かれ道


 聖書を見れば、エデンの園の木の実は取って食べてもいいけれども、園の中央にある命の木と善悪を知る木は見てもいけないし、触ってもいけないとあります。それは何を意味するのでしょうか。すべての木は何ですか。兄弟の関係なので、手を握ってキスをしてもいいけれども、すべての木の実を取って食べてもいいけれども、善悪の実と命の木、男性の生殖器と女性の生殖器は触らないようにしたのです。そのように警告したのです。

           

 それが死亡の落とし穴です。悲運の落とし穴であり、滅亡の落とし穴です。ですから善悪の実だというのです。正しく使えば国が栄えるし、天下がすべて明るくなりますが、間違って使えば天下が真っ暗になるのです。最近はエイズ(AIDS:後天性免疫欠乏症)まで出てきました。終わりの日が来たので、種の滅亡が起こるのです。

           

 人類始祖の堕落の起源になった善悪の実とは何か分かりますか。男性と女性の生殖器です。それを正しく使えば国が栄え、間違って使えば国が滅びるのです。それが善悪の実です。王様でも正しく使うときには国が栄えますが、間違って使えば国が滅びます。それによって家庭が壊れ、社会が壊れ、すべてのものが地獄と天国に分かれます。善の実が結ばれるべきところに悪の実が結ばれたのです。それが善悪の実ではありませんか。善悪の実はみなもっていますか。もっていませんか。男性の生殖器、女性の生殖器が善悪の実です。毒蛇の頭です。イエス様がなぜサタンをまむしだと言ったのですか。サタンをなぜ蛇だと言ったのですか。それが蛇の頭です。それを知らなければなりません。毒蛇の頭です。女性も男性もみなそれをねらっているでしょう。女性も男性も、みなそうではありませんか。

           

 善悪の実とは何でしょうか。愛を間違えば、永遠の悪の実を継承するのです。愛を正しくすれば、永遠の善の実を継承するのです。その善悪の実とは何かの果物ですか。狂った者たち! 善悪の実というのは男性と女性の生殖器を言うのです。

           

 男性よりも女性が堕落し得る素質が多いので、神様が「善悪の実を取って食べてはいけない!」と警告されたのです。女性の生殖器が善なる人を迎えれば、善なる実が出てくるし、悪い男を迎えれば悪なる実が出てくるのです。善悪の実は女性の生殖器のことを言うのです。男性にはそんなことがありますか。男性にはそんなことがないというのです。

           

 アダムとエバに善悪の実を取って食べるなと警告をするとき、誰にしたのでしょうか。アダムにしませんでした。アダムは思春期になって出て遊ぶのに忙しく、疲れて寝るのに忙しかったのです。女性(エバ)はいつも座って、「太陽の光が暖かい! ああ、花が咲く! 水もきれいで、空気もおいしい!」とこんなことばかり言っているのです。そうしながら「花のように美しくありたい!」と言ったりしたのではないでしょうか。ですから思春期もどちらが早いのかといえば、女性のほうが早いのです。

       

    

 善悪の実とは何ですか。善悪の実を見た人がいますか。ローマ教皇は善悪の実を見たのではありませんか。善悪の実を見たことのある人がいますか。見た人がいるでしょう。それが何ですか。女性の陰部を言うのです。それが善悪の実ではありませんか。罪を犯したら息子、娘が悪くなるのであり、善なる夫と一つになれば、善なる息子、娘を生むことになるのです。


           

 善悪の実とは性器のことを言うのです。性器。それは善の実が結ばれ得るし、悪の実が結ばれ得るのです。悪なる者とくっつけば悪なる種子を受け、善なる者とくっつけば善なる種子を受けるでしょう。それが女性の生殖器なのです。エバが堕落することによって悪魔の血を受けました。悪魔が誰かといえば、天使長です。この天使長は僕の代表でした。

 神様が警告することに何があるでしょうか。神様として一番理想的なアダムとエバを造っておいて、警告する条件物として何があるかというのです。若い男女に、お母さん、お父さんが警告することとは何でしょうか。注意することは何でしょうか。同じ道理です。神様に注意することのできるものは何でしょうか。神様はお金が必要ありません。知識が必要ではありません。権力が必要ではありません。それらはいつも自分の思いどおりに自由自在に所有することができるものです。しかし愛だけは神様も思いどおりにできません。

           

 「善悪の実を取って食べたら目が開ける」という言葉があります。「目が開ける」という言葉は何を意味しますか。人々が、男性が女性を知り、女性が男性を知ること、すなわち、異性に対することを知ること、それ以上はないというのです。男性として生まれて女性を知らなければそれはばかでしょう。最高の理想とは何ですか。男性が行くべき最高の理想的焦点は女性です。女性ですが、どんな女性ですか。自分の心にぴったり合う女性、若いときも合うし、年を取ってからも合うし、永遠に合うことのできる、このような女性ではありませんか。

           

 神様が人間を造るとき、一番苦労して造ったところとはどこでしょうか。目ですか。口ですか。鼻ですか。手ですか。人間は考えもしないでいるというのです。それが愛の本拠地です。愛の本拠地。愛の本拠地とは男性と女性のそれを言うのです。それが愛の本宮だというのです。そこから男性が愛を知り、女性が愛を知り、それなくしては愛が分かりません。愛の主人が現れることができません。

 愛の王宮、命の王宮、血統の王宮とはどこですか。男性と女性の重要な器官です。これは神様の創造当時の聖所です。聖所だったというのです。これを侵犯されれば、すべてのものが壊れていくのです。この一箇所に三つの貴いものが連結されるのです。愛もそこに連結され、命もそこに連結され、血統もそこに連結されるでしょう。重大な三要素の起源地が性器です。

           

 これは本来神様の創造理想から見るとき、一番貴い至聖所です。聖所、至聖所です。至聖所は誰でも入れるところではありません。大祭司長、責任をもった人以外にはそのふたを思いのままに開けることはできないのです。聖書の雅歌に出てくる封をした泉とは、それを言うのです。

           

 命の王宮であり、愛の王宮であり、血統の王宮である貴重なものを、放蕩息子のように何の価値もないもののように扱ったその罪の代価をどうやって払うのですか。深刻な問題でしょう。それは聖所です。神様が最高の貴重なものとして造っておいた器官としての至聖所です。それを汚す場合にはどうなるでしょうか。モーセの路程において契約の箱を汚す者はその場で殺してしまったでしょう。それと同じです。至聖所と同じ愛の本拠地を汚すのは許されません。男性と女性が抱擁をします。愛するというのは天宙的なものです。神人一体圏を成す試金石です。有限が無限に連結される因縁が与えられる瞬間なのです。

           

 聖なる男性と聖なる女性が、聖なる愛、聖なる命、聖なる血統が動いてそこに連結され子女を生むときは、その子女は天国に直行するのです。宗教が必要なく修養が必要ありません。心と体が九〇度の角度を備えて、愛とすべてのものが損失なく育って内外が整えば、教えてあげなくてもみんな分かるのです。私たちのような人はそうです。習ってから統一教会の先生をしているのでしょうか。さっと分かります。既に何がどうだということを知っているのです。教えてくれなくても分かるのです。

           

 善悪の実とは何でしょうか。それは今まで秘密でした。話すことができないものです。先祖の粗です。先祖たちが間違ったので、将来来る真の先祖が出てくるまではこの言葉を公開できないのです。サタンも公開できず、神様も公開できないのです。


五 堕落の恨、神様の復帰の心情

  一) 愛の怨讐、堕落の恨


 堕落したという事実は、長男長女を追い出したということと連結されます。長男というのはひとり子です。長女はひとり娘です。アダムとエバは、神様の億万代のひとり子、ひとり娘として生まれました。善悪の実を取って食べて、その億万代のひとり子を追放したと考えてみてください。皆さん、息子を一人もち、娘を一人もっていて、息子一人が死んだというとき、父母の痛みはどれほど大きいでしょうか。


七代のひとり子の死は町内とそのすべての村と知り合いたちがみな痛哭するという言葉があります。七代のひとり子を失った父母の悲しみは推し量ることができないので、周辺にあるすべての家庭をもった父母たちと子供たちと兄弟たちが同情するということを考えるとき、これは何代のひとり子ですか。億万代です。億万代。それで、父子の関係が成されませんでした。億万代のひとり子を失った神様がそれを再び取り戻すためには、億万代の苦痛を越えずしては取り戻す道がないというのです。そのような天の父母がいたということを知りませんでした。

           

 サタンとは何ですか。神様の愛の姦夫です……その怨讐サタンにエバを抱かせて今まで千回、万回讒訴すれば聞いてあげ、それを愛する立場に立っていたのです。それが神様の立場です。どれほど神様の立場が難しい立場かということを皆さんは知らないでしょう。愛する妻を怨讐に抱かせておいて福を祈ってあげることのできる男の立場、それ以上の立場が神様の立場であることを知らなければなりません。あなた方はそうすることができますか。

           

 サタンはエバの姦夫です。ゆえに神様の愛の怨讐です。その愛の怨讐が数千年の間、来て讒訴しても嫌な表情一つしないで、今まで真の主人としての仕事をやってきたのです。それで神様がこの地に一つの中心を育てあげるまでは、誰でも不平を言ったり、それを反対してはいけません。なぜでしょうかといえば、天使長がいるからです。

           

 サタンは神様の愛の姦夫です。愛の姦夫。これは文総裁が世界的に初めて発表した言葉ですが、悪魔とはいったい何でしょうか。僕が未来に神様の妻になることのできる人を強姦したのです。アダムとエバとは何ですか。神様の体です。聖書のコリント人への第一の手紙を見れば、「あなたの体が聖殿であることが分からないのか」と言いました。神様の家です。家。聖書にアダムが名前を付けたようになったということばがありますが、それは何を意味するのでしょうか。神様がその心の中に入っていらっしゃるということです。

           

 サタンは神様の立場から見れば姦夫です。エバは姦婦で、サタンは姦夫だというのです。そのような立場にある婦人とその娘を、純潔な女性として純潔な娘として考えなければ復帰することができません。そうでなければ、もともとのままに取り戻すことができません。そのような心情圏に処している神様の悲惨な心境は、誰も知りません。先生以外には、誰も知らないというのです。

 

          

 怨讐に引かれていった自分の愛する妻が、子供を産んで再び帰ってこなければならないとき、そのような母と子を結婚前の純粋な心で迎えることができるでしょうか。サタンは愛の怨讐であり、愛の姦夫です。それこそアダムとエバが堕落した立場と同じです。しかし神様の心情圏では、その峠を越えていかなければ平和の世界はできないのです。その基準が成立してこそ、サタンは自然屈服するのです。

           

 考えてみなさい。愛の怨讐になった悪魔のその息子、娘たちを怨讐の子として扱っていたら、神様のようなことはできません。それを、堕落する前の本然の息子、娘として愛するのと同じ心をもって愛したという基準を立てなければなりません。そうせざるを得ない悲痛な神様の立場を考えたことがありますか。

 キリスト教や他の宗教の最高基準が怨讐を愛せということです。神様もこのような原則的な立場にあるので、サタン悪魔を愛さざるを得ないのです。これは愛の怨讐ですが、その怨讐を堕落していないアダムとエバ以上に愛さなければならないのです。なぜそうなのでしょうか。怨讐の懐に抱かれたエバが庶子三、四人を連れて入ってくるとき、お父さんは彼らを自分が生んだ子供たちよりも愛さなければ、エバが本然の立場に帰ってくる道がないからです。何のことが分かりますか。

           

 自分の愛する妻を怨讐に抱かせてあげて、福を祈ることのできる雅量のある男にならずしては神様の息子、娘になることができないという結論にまで到達します。なぜですか。エバとは誰ですか。神様の妻です。サタンが抱いて今まで弄んだ姦婦のようなものを今まで六千年間、六千年ではありません。数万年です。人類歴史を一千万年までと見るではないですか。その間、彼が讒訴しても今まで相手にしてきた神様のその痛い心情の谷間を誰が知るでしょうか。ですから自分の愛する妻を自分の怨讐に抱かせてあげて、福を祈ることのできる心情圏を出入りする経験をしたことのない人は、神様の心情を知ることができないというのです。

           

 結婚の前日に神様を捨てて怨讐に引かれていき、姦婦になり、息子、娘を生んで暮らしていたのを再び本然の、そのような傷のない立場として受け入れなければならない神様の心情を思うとき、お母様を偉大なお母様につくらなければならないと考えるのです。昔のエバよりももっと素晴らしいお母様にしてこそ、エバによって傷つけられた悔しく悲痛な神様の心情の傷を埋めることができるというのです。父母様の家庭がそのことをしなければならないのです。何のことか分かりますか。

       

    

 先生がこの道を備えてくるには、先生の愛する妻までもサタン魁首に抱かせてあげ、祝福してあげることのできる心がなければならないというのです。何のことか分かりますか。神様がそのような立場に立ったのです。悪魔は愛の姦夫です。怨讐ですが、終わりの日になってメシヤになることのできる資格者ならば、自分の新婦までも犠牲にしてサタンに与え、神様を解放しようとすることのできる立場に立たなければ、神様を解放できないのです。



  二) サタンの讒訴条件


 神様の愛の姦夫が悪魔です。今まで愛の悪魔である姦夫が讒訴するとき、彼を相手にしてきたのです。彼を人類の前に、全体の人間たちの前に、愛したという条件を取り戻すために今まで耐えてきたのが神様の心情だというのです。なぜですか。堕落しなかったら天使長でしたが、天使長も神様が愛してこそ天国に入るのです。神様と神様の息子、娘たち、天使長を愛した人たちが天国に入るのです。それでサタンが讒訴するというのです。「私は悪魔になったとしても、あなたの創造原理、本然の原則的基準は残っているので、神様も私を愛し、神様の息子、娘も私を愛さなければ天国に行けないのが原則ではありませんか」と言うとき、「うーん!」と言うのです。ここに襟首をつかんで今まで讒訴してきたのです。

 サタンとは何ですか。神様の愛の姦夫です。この妖邪なやつが天理の大道を破綻させておいてもずうずうしくいまだにこの地球星で、人類を離さず、かじり食い、はぎ食い、削り食っているというのです。こいつを私が地獄に行って、全部ごみ箱にぶち込むでしょう。ほっておけば神様に帰る本心があるので、ぐるっと回っていくのです。春になりさえすれば、がりがりに枯れた木の枝も朝の日差しに、春の日差しに芽がふくのと同じように、人の心はじっと自由さえ与えれば、本心は自然に神様に帰ろうとします。ですから生きられないようにどっとぶち込むのです。そのようなことを知らないでしょう。自分の運命がそのように悲惨になっていることを知らないこの人類をすべて解放させて、一つにしようというのです。統一しようというのです。

           

 私たちはどんな犠牲でも投入して父の姦夫に恨みを晴らさなければなりません。恨みを晴らすには銃や刀で晴らすようにはなっていないのです。より大きい愛でなければ晴らす道がないと見るのです。ゆえにその怨讐を愛してこそ、本来の創造理論に合格した神様のところに登場するのです。なぜですか。サタン悪魔、天使長も本来、創造当時は神様の愛を受けるようになっていたからです。永遠に受けるようになっているので「あなたが神様になるには、私が堕落したとしても、私を愛したという原則を立てなければこの宇宙を支配できる立場に行けません」と言ってしがみつくのです。ここに引っ掛かっているのです。本当にあきれる事実です。

           

 人間は本来、創造原則に従って神様の息子、娘でなければならないのに、堕落することによってサタンの息子、娘になりました。それで神様は姦夫であるサタンと額を突き合わせて闘ってこられました。讒訴の条件を防ぎながら、今まで人類を取り戻してくる作戦をしてこられたのです。このような気のふさがる神様であることを既成教会の人たちは知らなかったというのです。栄光の神様としてのみ考え「おお! 天地の栄光の中の偉大な神よ」と言っているのです。

           

 皆さん、サタンとは何ですか。神様の姦夫です。したがって姦夫を許してあげれば天理の原則にそぐわないので、許すことができないのです。それゆえサタン世界の人間たちは百回、千回許すことができてもサタンだけは絶対的に許すことができないというのです。それで大審判があるのです。大審判は誰を審判するのかといえば、人を審判するのではなく、人間の心の中に主人の如く臨在しているサタンを審判するのです。

           

 サタンは愛を蹂躙した怨讐です。お母さん、お父さんが寝ているところに入ってきて、お父さんを殴り殺し、お母さんを強姦したどろぼう野郎です。サタンとは何ですか。神様の愛するエバ、神様の実体的相対であるエバを強姦した愛の怨讐です。そのような姦夫に自分の愛する人を渡して祝福してあげることのできる心をもたなければなりません。怨讐を愛するには許してあげるくらいではいけません。そのくらいでサタンが「ありがとう」と言うでしょうか。かけがえのない愛する人を怨讐に与えても祝福してあげることのできる心までもたなければならないのです。これが最後の峠です。それなのにただ信じれば天国に行くというのですか。

 今日、人間の堕落をキリスト教徒たちは、蛇がひそひそささやいて取って食べたと言います。原則がどうなっているかも知らない人たちです。ですから神様がどれほどもの悲しく哀れで悲惨で、残念がったでしょうか。アダムとエバが善悪の実を取って食べる瞬間、心臓が爆発するようなもどかしい心情をもたれた方でした。しかし神様は彼らを愛さざるを得ませんでした。皆さんはそれを知らなければなりません。

           

 アダムとエバが善悪の実を取って食べようとするとき、神様が「私が心配したとおりになったな。もう少しやれ」と言ったでしょうか。いいえ。心臓が縮み、すべての感覚が一箇所に吸い込まれていくそんな立場だったでしょう。「それを取って食べてはいけない」。血を流し、震え、形容できない哀絶なもどかしさのゆえに何も考えられない、そのような立場に立たざるを得ない神様だったのです。そのような神様がアダムとエバが善悪の実を取って食べているとき、見物だけしていただろうかというのです。刀があれば歴史を斬り、この天下を斬り、切ってしまいたい心でしたが、そのようにできない立場にいることを、自ら嘆かざるを得なかった神様でした。

           

 神様の前に立っていたアダムとエバ自身が神様の内情を察することができたなら、堕落しようにもできなかったはずです。父母は父母として子供に対して愛の心をもっていますが、子供は父母の深い心情まで知らなかったのです。もちろん幼くて堕落したのでしょうが、その年齢の幼さが堕落の動機になったのではなく、心情が足らずに堕落したのではないでしょうか。「あの方は私に対している。あの方は私と離れようにも離れられない」と、神様が一切の問題に関係しているということを、もしアダムとエバが感じることができたなら、彼は堕落することができなかったのではないでしょうか。結局心情の一致点をもてなかったので堕落したのです。天の願いと自分たちの願いが食い違い、自分の考える方向が天の考えることと食い違っていたから、堕落したのではないでしょうか。

           

 強盗が本来の父を殴り殺し、お母さんを強姦することによって生まれたような立場にあるのが、今日の堕落した人類です。サタンとは何かといえば、神様の愛の怨讐です。サタンは神様の子女を強姦した姦夫なので、愛の神様もサタンを許すことができません。愛の姦夫を許す法はないのです。ですから他のことは許すとしてもサタンだけは許すことができません。サタンを許せば天法がみな壊れるのです。

           

 私たちは神様の心情に背反した堕落した後孫です。皆さん、私たちの先祖が何に背反したと思いますか。取って食べるなという善悪の実を一つ取って食べたことだと思いますか。とんでもありません。心情に背いたのです。神様の心情に背反したのです。問題はそこにあります。どんな心情に背反したのか、創造理想の心情、希望の心情に背反したのです。

           

 サタンをなぜ一度に分別できないのですか。なぜ神様は全能な方なのに一度に引き離せないのですか。血筋が連結されているからです。血筋です。一度に引き抜いてなくしてしまえば、人類の種をみな滅亡させることになってしまいます。サタンの血を受けたのを一度に引き抜けば人類がいなくならなければなりません。アダムとエバまでいなくなります。たたきつぶさなければなりません。もう一度造るようにはなっていません。愛はアルファでありオメガなのです。初めであり永遠なので、そのような理想的基準になったので、その愛の対象としての人は打つことができません。それを知らなければなりません。

           

 サタンがどのようにして神様の前に六千年間対抗してきたのですか。サタンは今まで神様の前に原理をもってやってきました。「神様、私を処罰することができますか。私を処罰するにはまずこの天地を壊してしまわなければなりません。神様は私を創造されるとき、たとえ天使長が受ける愛であっても完成基準で愛してくださろうと創造されたのではありませんか」と言うのです。天使長も天使長級完成基準で愛を受けなければならないというのです。それで天使長は神様にいつ私を完成段階で愛してみたのかと聞くのです。神様もここにすっぱり引っ掛かるのです。神様が完成段階の愛を天使長に施しましたか。施せませんでしたか。できなかったというのです。自由天地であるエデンの園で天使長にも完成段階の愛をし尽くしてこそ、神様も責任を果たしたといえるのです。そうでなければ微動だにできず、引っ掛かるのです。

           

 神様が六千年の間、息子、娘の首を切ることを数千万回ほしいままにしてきた天使長を追及できないのは、天使長を完全に愛してあげることができなかった責任があるからです。それで今まで誰かが間違えば「神様! 誰々がこのようにしようとします」と言いながら讒訴しなければならない悲しい歴史の背後があったというのです。このような内容は今日統一教会が出てきたので分かるのであって、誰も知らなかった内容です。

           

 神様の前に孝子がいなかったし、神様の前に忠臣の道理、神様の前に聖人の道理、神様の前に聖子の道理、その国を守ることのできる主流の愛の体制がなくなったので、神様が立つ位置がないというのです。今まで囹圄(牢獄)の身として軟禁状態にとどまった神様になっているというのです。天の国は完全に廃虚となって空いています。その痛みを感じているかわいそうな神様であられます。


 六 真の父母の祝福と血統復帰

  一) メシヤとして真の父母が必要だ


 皆さんは真なる父母と関係のない立場で天の前に追い出された偽りの父母の血筋を受けて生まれたので、この血筋から抜け出すためには血筋を踏んで踏んで、引き抜いてしまわなければなりません。そうして血統を根本的に変えなければ天の国に行くことができません。

           

 血統転換を成すためにはアダムの骨髄まで、骨肉の中心部まで入って、将来の子供となるその種に神様の愛と結束された勝利的条件を充足させなければ、神様の子女として生まれることができません。これは理論的に間違いないものです。聖書にそのようにしてきた記録があるからです。そうだとしたら、聖書は神様のみ言だというのです。

           

 メシヤとは誰ですか。真の父母です。それなら真の父母がなぜ必要ですか。真の父母の愛によって再び接ぎ木しなければならないからです。ですからメシヤである真の父母が現れなければ、堕落した人間は原罪を脱いで罪のない解放された立場で完成段階の祝福を受けることのできる立場に出ていくことができないのです。

           

 メシヤがこの地に来て、代行しなければならない立場が真の父母の立場です。真の父母の立場。それでは真の父母とは何でしょうか。縦的な真の父の代わりに横的な真の愛を中心とした横的な父母です。キリスト教ではメシヤが神様であり、神様がメシヤだと言いますが、それは間違いです。神様は縦的な真の父です。これは一つしかありません。メシヤは横的な真の父母だというのです。

           

 堕落した人間が要求する救い主とはどんな救い主ですか。堕落した父母の立場ではなく、堕落していないアダムとエバのような立場で神様のみ旨と一体となり、神様の愛を受けて、神様の祝福を受けることのできる真の父母の立場で人類を生んでくれる救い主でなければいけません。そうでなければ人間が原罪と関係のない立場に上がることができません。

           

 皆さんは新しい血筋を受け継がなければなりません。受け継ぐにはメシヤが父として来て、サタン世界に勝った、サタンが干渉できない超世界的な基盤でエバを迎え、蕩減復帰しなければなりません。そうして夫婦の因縁を中心とした家庭で息子、娘を立てて、横的に接ぎ木するということが起こらなければなりません。それで統一教会で祝福をしてあげるのです。統一教会は違います。統一教会は、血筋がどこから始まったのか、神様から始まったというのです。ですからいくらでもサタン世界で反対してみよというのです。反対していたら損害賠償を払うようになるのです。

           

 私たち人間は血統的にサタンの血統を受けたので、それ自体では天の前に帰ることができないのです。ゆえにメシヤは絶対に血統復帰をして、サタンが汚した血統を改造しなければなりません。これを転換させなければなりません。それでメシヤは必ず来なければならないのです。メシヤが来なければ血統復帰ができないのです。血統を復帰しなければなりません。

           

 血統が違うというのはお父さんが違うということです。それゆえお父さんが違う血統をもって生まれた人間は本来、堕落していない本然の父母によらずしては罪を蕩減することができません。ですから今日まで歴史は堕落していない元の先祖になることができる権利をもったそのお一人が来るときまで、宗教の理念を中心に連結させてきました。

           

 真の父母が必要なのは何のためでしょうか。心情圏を中心としてその根を下ろさなければならないからです。今は根が違います。堕落によって幹と枝が全部違います。ここから新しく根が真の父母から始まり、幹と枝が出て、接ぎ木するのです。切って接ぎ木するのです。接ぎ木してそれが宇宙の大きな主流になるのです。サタン世界のすべてのものを切ってしまわなければなりません。根まで切ってしまわなければなりません。

           

 人間は堕落によって神様とは関係のないサタンの実体をもった存在になってしまいました。これは神様の愛とは正反対になるので、蕩減しなければなりません。蕩減とは原罪を除去することです。原罪を除去するには血統的なものが根本的に存在します。血統的なものは堕落人間としては到底解決できないものです。それでメシヤが必要なのです。

      

     

 真の父母は何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根である間違った血統を正さなければならず、間違った命を取り戻さなければならず、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書に「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」とありますが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのでしょうか。サタン世界は殺さなければならないからです。

           

 エデンの園で結婚を間違えたのが堕落なので、今真の父母が正しく結婚させてあげることによって再びひっくり返したのです。偽りの父母がしでかしたことを真の父母が清算することによって地獄を撤廃し、数百数千億の霊界の先祖たちまでも祝福結婚させてあげるということが起こるのです。真の愛を中心とした地上の後孫たちの家庭基盤を通じて、霊界の先祖と地上の後孫が縦的に一つに合わさるだけでなく、このような家庭基盤を起点として東洋と西洋が互いに連結されます。

           

 まずは父母を心から慕わなければなりません。私の命の動機も父母であり、私の希望の一切も父母であり、私のすべての理想と幸福の根源も父母だという基準をもって、父母に侍ることができなければ救いを受けられないのです。皆さんはそのように侍ったことがありますか。皆さんはこれをはっきり知らなければなりません。ですから「私は真の父母と永遠に一つになることができる息子、娘だ」という信念を、自分の存在意識を超越することができるくらいに堅くもたなければなりません。そうでなければいけません。


           

 皆さんが先生をどれほど愛さなければならないでしょうか。根本問題に帰るのです。サタン世界の愛の痕跡がある、その愛がしみ付いた立場で愛してはいけません。それ以上でなければなりません。それはどういうことですか。皆さんが、サタン世界で生まれたお母さん、お父さん妻子、その誰よりももっと愛さなければなりません。それで聖書で「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」と言ったのです。すべてそのような結論を下したのです。そうしながら後では「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ一六・二四)と言いました。十字架を負わなければならないと言いました。反対に引っ張っていく力を押さえて越えていこうとするので、十字架です。ここで悲痛な涙を流さなければなりません。

           

 血統を転換するのはメシヤがするでしょうが、転換できるように行動するのは自分自身でなければなりません。このような基準が成されない限り、私たちは救いの道に至ることができません。これは決して易しく成されるのではなく、死ぬか生きるかの境地を通過しなければなりません。四十日断食祈祷だとか血を吐く死の境地に行ってこそ血統転換が可能です。

 蕩減条件を立てる方法については先生から教えてもらわなければなりません。もし昔、日本でそれを知ろうという考えをもった一人の人がいて、日本全部と交換してでもそれを買ってきたとするならば、日本は既に世界を統一していたかもしれません。世界でそれよりもっといい事業はないでしょう。聖書に「たとえ人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」というみ言があります。命はそれほど貴いものです。私たちは蕩減条件を立てる方法を正しく悟って自分の貴い命を復活させていかなければなりません。


  二) 再臨思想の核心は血統復帰


 血統転換は誰がするのでしょうか。それは誰でもできるものではありません。先生がこのことをするために涙ぐましい十字架の道を歩んだということを知らなければなりません。このような基準があるので、皆さんは何の功労もなく祝福という新しい血統を継ぐことになりました。転換の勝利圏を立てるには数千年にわたる神様の労苦と実体を中心とした先生の苦難の生涯がありました。これをパターンとして立ったところが、正に皆さんが立っているところです。祝福とは接ぎ木することであり、接ぎ木することによって、血統が変わるのです。

           

 血統の同一性が必要なので、神様の心情圏に従わざるを得ないのです。なぜそうかといえば、根が違います。幹が違います。ゆえに根が同じでなければならないし、幹が同じでなければならないし、芽が同じでなければなりません。そこには絶対的に血統転換という大変な問題が起こるのです。それは一人ではできません。真の父母がいなければなりません。

           

 神側ではサタンの偽りの愛圏にいる人間をより大きい神様の愛で奪ってきて重生させるのです。人間が偽りの愛の父母、偽りの愛の先祖、偽りの愛の血統を通じて生まれたので、真の愛の父母、真の愛の先祖、真の血統を通じて再び生まれてこそ神様の子女、神様の民になるのです。イエス様の宝血(注:人類の罪を贖罪するためイエス様が十字架にかけられて流した血)の貴さも、聖晩餐の儀式もすべて血統転換を通じて神様の子女になる摂理を形状的に象徴的に現すものです。

           

 統一教会の祝福を受けるところに血統転換式があるのです。皆さん、血統転換式をしたでしょう。蕩減棒行事だとか三日行事だとか……どれほど複雑ですか。そこにはサタンが入って来ることができません。それは真の父母と神様の法によって天国の門を開き、解放を宣言して出てきたものなので、長成期完成級で行使していたサタンは関係することができません。祝福を受けた家庭は血統転換式をしたことを知っていますか。それを経なければならないのです。

           

 復帰家庭には血統転換という絶対語が必要です。皆さんも祝福を受けるとき、血統転換式をしたでしょう。その血統を転換するために聖酒がなければなりません。そして聖酒という酒が出てくるためには二十一種類の聖別過程を経なければなりません。それが何か分からないでしょう。それは空中で実を結ぶものと地で実を結ぶものと地のもとで実を結ぶものを中心として、その次には鉱物世界、植物世界、動物世界で最も貴いもの、このように二十一種類の聖別されたものを通じてその過程を経るのですが、そのすべてのものが讒訴条件に引っ掛かってはいけません。七カ月の間使わずにおきますが、そこに不祥事が起こってはいけません。皆さんはそれを飲みましたが、それが簡単に出てきたのではありません。

 皆さんは血統転換、これが実感がわかないでしょう。皆さん、いつこのようになりましたか。そのカイン・アベルがいつ……先生がアベルになるときには、皆さんはカインとして完全に一つになるのです。この関係があるので、皆さんが先生と一つになれるのであって、この関係がなければ大きい問題が起こるというのです。

           

 この烏合の衆、足りない者たち、みんな何と言うか、人間のいとこみたいな者たちを集めておいて……統一原理の特約とは何ですか。神様の息子、娘になる特権的な内容を中心としてサインしてもらって、真の父母様のサインをもらって真の父母を通じて血統転換をしたという立場に立って、解放者という名前をさっともらえば天国にも入ることができるというのです。入るには礼服を着て、入らなければなりません。服を脱いで行くことはできません。天国に入るには礼服を着て入らなければならないというのです。その礼服とは何ですか。統一教会の原理で武装してそのとおりに実践した人だというのです。特権はすべてもらったのです。この世にそうすることのできるものはありません。

           

 神様の心情はどこで連結されますか。理論で連結されるのではありません。血統を通じてこそ連結されるのです。皆さんは神様の心情の血統を受けましたか。今まで知らなかったというのです。それで皆さんは祝福を受ける前に血統転換式があるのです。その時は私は何もないという無の境地に入らなければなりません。私の体はないという立場に立って、父母様の血肉を再び受け継ぐ結着点が私から始まるという信念をもたなければなりません。

 皆さんが祝福を受けるとき、血統転換式をしたでしょう。皆さんは何も知らずに先生がさせるとおりに従ってやっただけですが、それがそんなに簡単なものではありません。イエス様が夫婦関係を成すことができなかったので歴史がこんなに混乱してきたということを考え、その目的に合う一双を立てるという心情的基準から見るとき、祝福で血統を汚すようなことがある場合には大変なことになります。これは刑罰が問題ではありません。エデンの園では未完成期に堕落したのも追い出しましたが、完成の心情的基準で罪を犯したとすれば言うまでもありません。それは後ろ姿も見たくない神様であられます。先生もそうです。

           

 祝福を受けるとき皆さんは血統転換式をしたでしょう。その次からは完全に変わらなければなりません。真の父母が出てこなかったならこのことが可能でしょうか。創世以後どれほど大変な道を歩んできたでしょうか。真の父母が出てきたことだけでも有り難いですが、真の父母から祝福を受けたということはもっと驚くべきことです。こうして伝統、その伝統が何かといえば、血統の伝統です。真の愛と真の命と真の血統を植えたことが伝統になっているのです。これをいつも考えなければなりません。

 祝福家庭はどんな意味をもっていますか。祝福家庭を中心としてみるとき、サタンが祝福家庭を支配することができないというのです。先生を完全に信じてどんな国ででも真の父母様に属しているという信念をもって立っているとき、サタンはそれを侵犯できないのです。なぜでしょうか。父母様の心情を中心として血統転換した心情圏に連結されているからです。ですからここからはサタンが手をつけることができないのです。

      

     

「私は堕落してあなたの血統的すべてのものを蹂躙しましたが、あなたがあなたの息子と天国に入るためには血統転換をさせなければならないのではありませんか。あなたの血筋と連結された一つの根……あなたが命の主体ならば、あなたからアダムが命の種を受けたのです。ですからあなたからアダムが受けた命の種がエバを中心として連結され、根になることができる本然の基準を成して、その基準であなたの血族の立場に立たなければなりませんが、そうするには今私の血族の中に立っている彼らの血統を転換させて、根を改造しなければ天国に入れません。天の国にはアダムの根の人が入るようになっているのであって、天使長の根の人が入ることができますか。入れません!」と言うのです。何のことか分かりますか。

           

 血統転換という怨痛な悲運の運命をもった堕落の後孫になったことが、息が詰まる悲痛な事実です。これを抜け出すためには力の限りを尽くして解放された息子の姿、娘の姿として現れなければならず、神様に対してためらわずに、お父様と言えなければなりません。自信がありますか。先生は神様に対して「お父様!」と呼ぶ自信があるでしょうか、ないでしょうか。自信があります。

           

 復帰途上で僕の僕の時代から僕の時代を経て、養子の時代、直系の時代に上がらなければならないのです。それでは完全に僕の僕の時代を経て、僕の時代、養子の時代を経て、直系時代と因縁を結ぶことができますか。直系の時代と因縁を結ぶにはただ結ぶことはできません。必ず原理によって信仰の基台を経て、実体基台を経て、メシヤのための基台を経なければなりません。すなわち、メシヤを迎えなければならないというのです。メシヤは神様の真の息子です。養子と真の息子は血統的な関係が違います。ですから血統転換が必要だというのです。


           

 堕落人間は血統を転換しなければなりません。これが根本的な問題です。神様と人間の関係は父子の関係ですが、このようなすべてものが未知の事実として残っているので、歴史が解かれなかったし、今まで神様の摂理を知らなかったというのです。血統転換も個人圏、家庭圏、民族圏、国家圏、世界圏と、すべてしなければなりません。これはメシヤが来なければならないのです。メシヤが。父母が出てくることによって父母から血統が出てくるのです。父母が出てこなければ、血統が転換されないのです。このようなすべての問題に個人が責任を取らなければなりません。個人がすべてこのようなことをして、越えていかなければなりません。これを知らないので、知っているメシヤが来て、代わりにしてあげるのです。

 堕落人間は出発が間違ったというのです。ですから再び戻らなければなりません。戻るには戻りますが、どこに行くのですか。原点に帰らなければなりません。偽りの父母で始めたので、戻って真の父母で再び始めなければなりません。ですからどれほど深刻でしょうか。私が神様の愛と神様の命と神様の血統を再び受け継がなければなりません。それで皆さんが祝福を受けるとき、血統転換式をしたのです。それを私の命よりもっと信じなければなりません。統一教会の一つの儀式だと、ただ一般の宗教儀式のように考えてはいけないのです。これは死んだ人を回生させる注射の薬と同じです。解毒注射です。解毒注射。

  

         

 聖書の歴史を見れば、ヤコブはお母さんと一つになりお父さんをだまして祝福を受けたし、タマルの役事を中心としてもこのように背倫の行為をしたのに、ユダの支派を通じてイエス様が来るということばは何を意味しますか。血統転換という問題があるからです。血統を清めなければなりません。ここにキリスト教だけが血統を重要視して、血統浄化を主要思想としてきました。他の宗教にはこのような歴史がないので、ここについていくべきだという結論が出てくるのです。ですから血統転換ということを中心として見るとき、文総裁はキリスト教を抜くことができなかったのです。それで選民思想を受け継いだキリスト教を抜くことができなかったのです。すべての宗教が同一だと言ったならどうして私が迫害を受けるでしょうか。何のことか分かりますか。骨子の思想がこのようになっているからです。はっきり知らなければなりません。


第三章 蕩減と復帰の公式

 一 母性復帰から見たリベカ、タマル、マリヤの役事

) エバの堕落とリベカ、タマルの欺きの役事


 堕落は母の胎内から始まりました。それゆえ復帰も母の胎内からなされなければなりません。そこが悪の根源地となり、出発点になったので、復帰においてもその原点に戻らなければならないのです。それで神様は二人の兄弟を立てて、長子権を復帰する摂理を行うことになったのです。すなわち、カインはアベルの位置に下がらなければならず、アベルはカインの位置、すなわち長子の位置に上がらなければならなかったのです。しかしカインはアベルを殺してしまいました。この行為は、アダムとエバの時の堕落行為の反復でした。すなわち復帰された立場はおろか、再び天使がアダムを主管した立場に立ってしまったのです。

           

 考えてみてください。エバが堕落するとき誰をだましましたか。神様をだましました。神様に隠れて、神様に相談せずに勝手に神様を否定する立場で堕落したのです。次に、アダムは自分の夫であると同時に神様の息子です。父子を否定する立場で堕落したがゆえに、アダムを失いました。このようになったのを蕩減復帰するために神様はリベカを立て、神様の代わりに父イサク、アダムの代わりに息子エサウ、この二人が分からないように祝福を奪ってくるのです。言い換えれば、逆になったものを取り替えるために、リベカはヤコブを通して、失った祝福の長子の嗣業を奪ってくることのできる条件をもつようになったのです。条件です、条件。その実体を得たのではなく、条件を得たのです。

           

 天使がエバを誘惑しましたが、今度は逆に、エバが誘惑するのです。そのようなことを蕩減復帰しなければなりません。ですからタマルは舅 と関係を結ぶことになったのです。関係を結ぶ時の約束で、やぎの子をやるというのを、印と紐と杖の三つのしるしとなるものをくれと言って受け取り、保管しました。「私のはらんだ子の父親が誰かということを確認させるためには、たとえ死ぬとしても、それを残して死ななければ」という覚悟で、タマルは証拠物を受け取って保管したのです。

           

 マリヤも、エバとほとんど同じではありませんか。自分の夫であり、兄であるアダムと父である神様、神様と兄と夫をエバが欺いたように、タマルもそのようにしたのです。自分の未来の夫となる人、そして舅、夫と兄とすべての兄弟を欺いたその内容は、すべてエバの行為と一致する蕩減の内容となるのです。それがタマル自体を中心として、マリヤを中心として相似しているのです。

           

 エバが三人の男性を欺いたように、いつも三人の男性を欺くのです。リベカが三人の男性を欺いたでしょう。神様、自分の夫、自分の息子を欺きました。またタマルも三人の男性を欺きました。舅と一番目の息子、二番目の息子を欺きました。またマリヤは誰を欺きましたか。マリヤも神様、そして自分の父母、自分の夫。同じです。エバが父を欺き、兄を欺き、夫を欺きました。アダムが兄であると同時に夫です。同じなのです。

           

 マタイによる福音書第一章に四大遊女が出てきます。そこにバテシバが出てくるでしょう。タマルが出てくるでしょう。その次に遊女ラハブが出てくるでしょう。次にはルツが出てくるでしょう。四大淫女が出てきます。彼女たちはみな淫女です。夫がいるのに他の男と関係をもったのですから淫女ではありませんか。聖書を一度読んでごらんなさい。よく読んでみなさいというのです。それゆえイエス様は正妻を通して生まれることができないのです。めかけを通して出てきたのです。

           

 聖書は聖なる経典であるのに、許されないような内容がたくさんあります。そうではないですか。ヤコブがリベカと一つになって、兄エサウと父を欺いて祝福を受けるというようなことがどうして起きたのでしょうか。またタマルが舅と関係を結んで生まれたペレヅとゼラを中心として、ユダの支派が祝福を受けるようになったのはなぜかという問題、人類の道徳観では解決できないこのような問題があるのはなぜかということです。

マタイによる福音書第一章には四大淫女が出てきます。タマルとバテシバとラハブとルツが出てきます。マタイによる福音書は創世記に匹敵するものですが、歴史時代において最初のページにこのような女性たちを中心として清くない汚点をもつ女性たちがこのように出てくるのはなぜかということです。このような問題は、すべて堕落原理を知らずしては解決する道がありません。謎として残っているのです。ところが文総裁の時代になって初めてそれをすべて明らかにしたのです。


  二) タマルを中心とした腹中根本復帰


 考えてみてください。カインとアベルが、エサウとヤコブが生まれてすり替えようとしました。そこにはいつも母子協助が必要なのです。エバがアベルを擁護したのです。次にエサウとヤコブ時代には、リベカがヤコブの側になり、うそをついて助けたのです。ところが、神様が祝福をしてくださったのはなぜかという問題については誰も知らないのです。そしてヤコブの時に双子として生まれてすり代わったのです。それでも駄目だったので、ぺレヅとゼラを中心としてタマルの腹中から出るときに争って、すり代わって次子が長子を押し退けて出てくるということが起こったのです。これはすべて、本然の父母の血統的基準に接近するための運動であったという事実を知らなければなりません。

           

 神様はリベカに「二つの国民があなたの胎中にあり、二つの国民があなたから分れるであろう」(創世記二五・二三)と言われたのです。二つの国に分かれるということです。一つの国は天の国であり、もう一つの国はサタンの国です。ここから争って血統復帰をしようとしたので三代を要したのです。腹中で争ってひっくり返して、腹中から血統を継承したという基準を立てなければならないのです。ヤコブが三代目にして外的に勝利しましたが、内的な勝利の基盤はタマルの腹中から生まれたぺレヅから成されたのです。これが復帰の原則です。

           

 タマルの役事を中心として考えると、タマルは天の天道を引き継ぐために自分の生命を懸けたのです。文総裁と同じように生命を懸けたのです。そしてヤコブは天使と命懸けで戦いました。ももの骨が折れても一晩中手を離すことはありませんでした。それはどういうことですか。ももの骨を打たれなければなりません。ももの骨を誤って用いたことが淫乱ではありませんか。それゆえ、我々統一教会では結婚をしたあとで蕩減棒儀式をするのです。蕩減棒儀式とは何でしょうか。どこを打つことですか。腰を打つことです。この腰を誤って用いたのではありませんか。この聡明な文総裁がどうしてそんなことをするのでしょうか。しかし仕方がないのです。

           

 昔、天使長がエバを誘惑したのとは反対に女性が舅を誘惑して、天命を賭けてアブラハムの理想を相続するために、自分の身は肥しとなり、今にも石に打たれ死んだとしても……その当時ユダヤの法は寡婦が子をはらむと石に打たれて死ぬというものでしたが、それを覚悟の上でした。どういうことか分かりますか。「ユダヤの血統を残すことが私の願いであり、そのためにはこうするしかない。殺すなら殺しなさい」という志を立てて、死を覚悟して進んでいったのです。祭物的死を覚悟して決断して勇み立ったタマルのこの役事は、驚くべき女性の役事となったのです。

           

 イエス様の先祖が、そこから生まれたのです。これは驚くべき事件なのです。これを考えると堕落論を否定することはできません。なぜ神様がこのような摂理をしなければならないのでしょうか。人類は腹中から汚れたので、腹中からすり替える転換点を立てなければならないので、タマルがそのような悲運の運命の中に立ったのです。

           

 さあ、歴史始まって以来、初めて兄と弟が腹中ですり代わるということが起こったのです。ユダの時になってタマルという不法的な行動をした女性によって、初めて歴史が正されたという事実を私たちは知りました。このようなタマルの勝利の伝統を受け継ぎ、信じて進む人にはサタンが侵犯することができないという起源が、ここから始まるのです。タマルのような心情的歴史的伝統を受け継いで、ユダの支派の伝統を受け継いで信じて進む人には、サタンが侵犯することができないのです。すり替えられたことを中心として、伝統が受け継がれてきたのです。

           

 タマルという女性は神様の血統、すなわち祝福というものを重要視した人物です。血統を受け継ぐためには、どんな冒険でもするという歴史的な代表の女性です。これはどんな位置と同じかというと、エバの位置と同じです。エバは人類の母として神様の直系の伝統的継代を受け継ぐべきであったにもかかわらず、これをないがしろにして破綻させたのです。それを復帰するためには、エバの上を行く女性が出てこなければならないのです。死んで滅びることをものともせずに、ひたすら神様の祝福を受ける血統の代を残すことを、自分の生命よりも価値あるものと考える女性が出てこなければならないのです。そのような女性がタマルです。

           

 ユダはタマルの舅でしたが、父の立場にありました。父と娘が一つとなることによって彼女は妊娠しました。結局タマルは舅によって息子を妊娠したのです。創世記第三十八章を見ると、ユダには三人の息子があり、タマルはその長男の妻でした。彼女の夫は死に、このような場合、ユダヤ民族の慣習ではその二男によって息子を生まなければならないのですが、二男も死に、三男は幼なすぎました。それでタマルは神様の復帰してきた血統を継承することが何よりも重要であり必要なことだと思い、舅ユダによって子を妊娠するという最後の手段を使わざるを得なかったのです。その時、彼女は誇りも捨て、生命までも投げ出す覚悟をしました。彼女は遊女の衣をまとい、舅が通る道端に座って、農場に行くユダを誘惑して関係を結んだのです。


           

 タマルは舅と血縁関係を結ぶために生命を投げ出しました。今すぐにでも石に打たれて死ぬかもしれないし、二つの家門がすべて打ち殺されるかもしれないというものでした。タマルはそのような状況の中でも、自分の体面と威信を捨てたのです。自分の夫が死んで、夫の弟を迎えたのですがその弟も死にました。ところが三男は幼くて、彼によっては天の祝福を受けた血統の代を受け継ぐことはできませんでした。そのような立場でタマルは、自分の威信と体面を捨てて生命を犠牲にしてでも天の祝福を受けた代を残さなければならないと誓ったのです。タマルのその心、それが貴いのです。


           

 エサウとヤコブのときを考えてみると、リベカの腹中から闘ったのですが、先に生まれたエサウはサタン側です。ヤコブは生まれてから長子の嗣業を奪ったのです。ところがペレヅとゼラはタマルの腹中で闘い、ペレヅが長子の嗣業を奪い返したのです。母の腹中は息子、娘の生まれる根本ですが、その根本からすり替えられたのです。生まれてから替えたのではなく、腹中から替えられたのです。

 腹中ですり替えられて先に生まれた息子に向かって、サタンは「お前は私の息子だ」ということはできないのです。腹中ですり替えられずに先に生まれたならばサタン側ですが、腹中ですり替えられて先に生まれたならば天の側なのです。タマルの腹中で闘ってペレヅがゼラを押し退けて生まれたので長子の嗣業を奪ったのです。ですから生まれつき長子なのです。ペレヅは必然的に次子となるべきであるにもかかわらず、長子の立場で生まれたので、善が先に生まれたということができます。

           

 天の祝福が貴いものであるがゆえ、天の選民思想を残すことは重要なことです。それゆえその血統を受け継がなければならないのですが、自分の夫は死に、夫の兄弟がいないというのです。ユダヤの風習では兄が死ねば弟が兄嫁をめとらなければならないのですが、弟は死んでいないのです。それで血統を受け継ぐために、仕方なく遊女の衣をまとって舅を欺いて子をはらんだのです。どういうことか分かりますか。サタンの世界に行って奪ってこなければなりません。それゆえ舅は夫の代わりであり、兄の代わりです。そのような立場に立てて長子権を……アブラハム、イサク、ヤコブ、ユダ、四代すべての祝福を受け継ぐために、タマルは生命を懸けて断行したのです。

           

 サタンがどこに子の種を蒔いたかというと、子宮に蒔きました。それゆえ、ペレヅとゼラも双子として生まれたのです。一つの腹中に二つの種が蒔かれたのです。ですから双子なのです。タマルの腹中から生まれる二人の子がペレヅとゼラなのですが、その兄が先に出てこようと手を出したときに赤い糸を結んだのです。これはのちに、再臨の主の時に、共産主義世界から全権を代表した独裁者が先に現れることを意味するものです。それで第二次大戦時代はヒトラーのような独裁者が現れ、ソ連にはスターリンのような人物が現れたのです。スターリンは一九五三年に死にました。その時から中国とソ連が分かれたのです。先生が獄中から解放されて出てから三年目に死んだのです。歴史はすべて偶然ではありません。


  三) イエスの路程におけるマリヤの使命


 タマルは複数の男性を経て息子を生んだので、駄目なのです。ですから養子です。それゆえ、タマルのそのような志操を受け継いで、処女の身で精誠を尽くして神様の前に召命を受けることのできる女性がいなければなりません。そのような処女がいなければなりません。その処女がマリヤなのです。

           

 マリヤはその時代において、自分の生命を懸けて神様のみ旨を誰よりも一生懸命追求する女性でした。あたかもタマルのような志操と忠節を尽くし、貴い天の血統を残すためにはいかなる冒険も強行することのできる大胆な立場に立っていた女性が、すなわちマリヤでした。天使ガブリエルが現れて、マリヤに遠からず懐妊するであろうと予告したとき、マリヤは「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」(ルカ一・三四)と答えました。天使が再び「神には、なんでもできないことはありません」(同一・三七)と言うと、マリヤは「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(同一・三八)と答えたのでした。

 イエス様はどのようにして生まれたのでしょうか。イエス様は血統を清めてこられました。兄弟から生まれ、双子時代を経て、エサウとヤコブを通して長子権を復帰し、タマルの腹中でペレヅとゼラの歴史に例を見ない、熾烈な闘いを通してひっくり返し、順序を変えて、血統転換を子宮でしたのです。先に出る兄を押し退けて出てきたのでペレヅと名づけられました。兄ゼラを押し退けて先に出てきたということです。タマルの腹中から兄ゼラの手が出てきたとき、産婆が赤い糸を手に結んだのは、今後この世界の継承者が現れるとき、共産主義が先に現れるということ予示したのです。これを退けて長子権復帰ができなければ、世界が統一されないのです。

           

 タマルのような立場にあったのが、ヨセフの婚約者マリヤです。マリヤも母を欺き、父を欺きました。そして自分の夫ヨセフを欺いて子を妊娠しました。アダムとエバがそうして堕落したので、蕩減復帰原則がそうなっているのです。婚約時代に天倫に背いたので、マリヤはタマルの伝統を受け継いで、子宮に神様の伝統的歴史を受け継がなければならないのです。神様の祝福を受けた血統を尊重するマリヤは、自分の生死を越えて、自分が死んだとしてもそうしなければならなかったのです。ユダヤの法では、処女が妊娠すれば石に打たれて殺されることになっていました。そうでしょう。女性はみな、生命を捧げる覚悟をしなければならないのです。

           

 ヨセフと婚約をしたマリヤという女性は、エバと全く同じです。アダムとエバが堕落したとき、どのような立場にいたかというと、婚約した立場にいたのです。アダムとエバが婚約した段階で堕落したのと同じなので、それを蕩減復帰するためにはリベカの伝統を受け継ぎ、タマルの伝統を受け継がなければなりません。そうして血統を清めた女性を代表した基準において、それを相続することのできる位置に立った人物がマリヤだったのです。

   

        

 蕩減復帰原則によってこのように欺いたマリヤは、その時代の法からすれば石に打たれて死ななければなりません。石に打たれて死ななければならないのに、妊娠したイエス様を殺すわけにはいかないので、天がヨセフに「ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである」(マタイ一・二〇)と伝え、ヨセフは仕方なくマリヤを迎えたのです。


           

 天使長の血を受け継いだので、天使長と同じような人物を通してイエス様を懐妊させたのです。聖霊によって身ごもったですって。そんなばかげたことはもう終わりにしなさいというのです。蕩減復帰原則がそうなっているのです。神様が特別に愛する天の側で、一〇〇パーセント永遠に変わらない天の側の忠臣になることのできる天使長のような人物を立てれば、サタンが天使長の位置から去っていくのです。ですから、天使長級の天の側の人物を通してイエス様を生んだのです。このようにしてイエス様は長子として生まれたのです。堕落した長子権から新しい血統へと清められ、天の側の長子権として生まれたのです。それゆえイエス様を信じる人が神様を中心として神様の愛に接することになるので、その血統はサタンとは異なるのです。

 ヨセフとマリヤが婚約したのは、アダムとエバが婚約段階にいたのと同じ立場です。それで神様は、婚約した関係にいるマリヤとヨセフの間からマリヤを奪わなければならなかったのです。神様がマリヤを奪わなければならないのは、失ったエバを復帰するためです。それでヨセフは、誰の立場ですか。天使長の立場です。ヨセフは元来、アダムの立場に立たなければならないのです。しかし、どうしてヨセフが天使長の立場ですか。堕落した後孫なので、種が違うからです。すなわち、根が違うというのです。ヨセフは堕落の種をもっているというのです。それゆえこれをひっくり返すには否定しなければなりません。それではその種は、どこから出てこなければなりませんか。神様から出てこなければなりません。

           

 その子がどんな子かと言えば……。堕落した世界において、アダムのような立場の人が初めて成熟して天の側の天使長の立場に立つことのできる代表者になって、天の側の天使長の種を受け継いで本然の種以上の立場に上がってこそ神様の直系の子女ができるのです。ですからイエス様のお父さんは誰ですか。お父さんが違うのです。ヨセフではありません。天の側の天使長圏ですが、堕落した天使ではありません。だからと言って、神様が来て赤ちゃんを生んであげたのではありません。サタンは天使長でしょう。天の側で忠臣になることのできる、堕落した天使長以上の天使長格でなければなりません。サタンが讒訴できる位置ではありません。サタンが讒訴できない血統的土台とその種の内容がなければなりません。堕落は落ちて下がっていきましたが、再び上がることのできる心情圏を受け継いで、神様の息子の権威を受け継いでくるのがメシヤだというのです。複雑だというのです。それで、初めてこの地上に神様の初愛を受けた長男が生まれたのです。

 イエス様が歴史的な背後のもつれたすべてを蕩減することができる過程を経ていくためには、母の絶対的な支持が必要でした。ガリラヤのカナの親戚の婚礼で、イエス様の母がぶどう酒がなくなったと言った時、イエス様が「婦人よ、あなたは、わたしと、なんのかかわりがありますか」(ヨハネ二・四)と言ったのは気分が良くて言った言葉でしょうか。「親戚の婚礼で何をばかげたことを言っているんだ。母としてすべきこともせずに」とはねつけたのです。それが分かりますか。

           

 イエス様は公的に立った人物なので、公的なすべての規約を、天法に従って結婚するようになっているのであって、適当に出会って生活する男と女のようなわけにはいかないのです。歴史の方向に照準を合わせ、その摂理の時代に照準を合わせなければなりません。蕩減復帰のためにはそれが絶対に必要なのです。それが合わないがゆえにイエス様は結婚できなかったのです。

           

 万王の王権をもってくるイエス様は、どのように来られましたか。血統を転換させ、勝利的な伝統を受け継いで来ました。それゆえ、マリヤの腹中に妊娠してもサタンは「それは私の息子だ」と言うことができないのです。タマルの心情的伝統を受け継いだ歴史的な基準の上に、国家的次元でマリヤが懐妊したので、エバの過ちを蕩減復帰したのです。それと同時に、歴史的願いである女性の行くべき道の前に結実の場に立って血統転換、長子復帰完成基準の心情圏の上で懐妊したので、腹中からサタンが自分の息子だと主張することができないのです。タマルにおいてペレヅは、生まれてから天の長子として主張することができるのであり、腹中では主張することができなかったのです。

           

 イエス様が、仏教の釈迦牟尼、儒教の孔子、イスラム教のマホメットのような方と違うところは、どこでしょうか。血統を清めて来られた方は、歴史上イエス様しかありません。そこが違うのです。釈迦牟尼とイエス様のどこが違いますか。マホメットとはどこが違いますか。イエス様が釈迦牟尼やマホメットと違うところは、血統を清めて来られたということです。それがメシヤの特権です。そこが違うのです。歴史においてこのような歴史が繰り広げられることによって、イスラエルの国に初めてイエス様を中心としたキリスト教の出発がなされたのです。こうして真の父の立場に立つのです。

           

 イエス様は万民に対して、このように宣布しました。「誰よりもわたしを愛しなさい」。誰よりもというのは、堕落した世の中を意味するものです。堕落した世の圏内は、堕落した愛の基準のもとにあるということです。その基準を越えなければなりません。ですから集約すれば、過程を中心とした自分の母、父よりも神様を愛するべきであり、本然の父母であるメシヤのために生きるべきであり、自分の妻や夫よりもイエス様を愛するべきなのです。それはどういうことでしょうか。蕩減復帰原則において、サタン側の愛を凌駕することのできる愛が、初めて出発することのできる基準を立てて宣布したということです。

 祝福というのは、男性と女性の二人が出会うことではありません。イエス様はザカリヤの家庭、ザカリヤの族属、ザカリヤの一族の者とヨセフの一族の者、二つの家門、カイン・アベルの関係にある氏族的基盤の上に立たなければなりません。これが、イエス様の結婚の立場です。ところが、これができずに死にました。それゆえ、これを蕩減復帰するためのものが祝福です。イエス様とヨセフの家庭は、アベルの位置を意味します。そしてザカリヤの家庭は、カインの位置を意味します。

           

 イエス様と洗礼ヨハネとの関係は、カインとアベルのような関係です。イエス様と洗礼ヨハネとは兄弟です。明らかにされていませんが兄弟です。洗礼ヨハネは最初の妻から生まれ、イエスは二番目の妻から生まれました。最初の妻から生まれてはいけません。それゆえ終末には淫乱が蔓延するのです。女性が身を売るという風潮が広がるのです。女性を解放しなければなりません。最初の夫ではならないのです。終末には放蕩な女、淫女、通りの女を通して偉大な人物が生まれるのです。どういう意味か分かりますか。めかけは堕落した世界から愛を奪ってくるのです。ですから今日、本妻であれ何であれ、めかけが逆に勢力をもつような時代になってきているのです。なぜそうなのでしょうか。最初のものはカイン側の愛であり、二番目のものは天の側の愛であるので、二番目のものを通して役事するのです。それゆえヨセフといった人物もイエス様も、二番目です。分かりましたか。


 二 真のお父様の歴史的蕩減路程

  一) 蕩減路程を行く心構え


 私が四十年前に、四十年後にはこれこれこういう時が来ると言いました。その時は本当に小さな存在でした。服がなくて、二重のパジ(注:ズボン)も大切に表地と裏地を別々に青く染めてはき、上着がないので米軍の青い作業服を着て、靴は運動靴、その運動靴も日本人がくれたものでした。そのように三カ国の服を着て歩いたのです。そんな身なりで歩きながらも「これはみな蕩減復帰のためだ。蕩減復帰するためにアメリカのぼろ、韓国のぼろ、日本のぼろを私が着て歩くのだ」と言ったものです。それはどれほど素晴らしいことでしょうか。

           

 私たちの教会は蕩減復帰の道を歩んできました。蕩減復帰をするために事情の多い道を経て、先生は今までこれくらい基盤を築いてきました。滅びることなく、サタンの鼻にかかって釣られることなく残りました。この基盤は誰のために築いたものでしょうか。自分のために築いたのではなく、人類のために築いたものです。これを統一教会のものとして残してはいけません。人類のためのものです。統一教会は今後なくならなければなりません。一つの主権の中に入っていかなけなりません。それがすべての宗教が望むところです。

           

 イスラエル勝利圏の出発者ヤコブからキリスト教文化圏まで、四千年基盤を築いてきたものが失敗したのを、レバレンド・ムーン一代の四十年間で、どんな辱めを受けても、これを元に戻し蕩減復帰しなければなりません。それが四十年荒野路程でした。

           

 イスラエルの歴史は、ヤコブからイエス様を経て今まで四千年の歴史です。この四千年の歴史を四十年で蕩減復帰できなければ流れてしまうのです。すべて壊れてしまうのです。四千年の歴史を四十年に圧縮して、すべてを蕩減しなければなりません。全世界が反対するのです。一つの国も例外があってはなりません。それはユダヤ教から、キリスト教から、アメリカから、共産党まで、すべてが先生に反対したのです。

           

 イスラエルの路程は蕩減復帰路程です。モーセに従っていけばいいのです。しかしモーセは六十万の生死の圏に責任を取って天と地を抱いて倒れたのです。モーセがシナイ山で四十昼夜を徹夜断食しながら石板を受けようとしたことは、どれほど悲痛な事実でしょうか。モーセが安楽な立場にあったでしょうか。あなた方は何ですか。今までやくざのような格好をして。大家に来て暮らしながらも、その大家の歴史も知らず、何をするのかも知らずに、何も知らずに目を気にして飯を食い、人目ばかり気にしてきたのです。みな恥ずかしい事実を知らなければなりません。

           

 荒っぽい人を見ると、足も大きく手も大きいのですが、先生の手足を見ると、苦労をしないお方だというのです。このように貴い体をもって生まれた方が苦労をしてはならないというのです。自分で考えても、苦労をしてはならないお方が苦労をしたという事実がおかしいのです。それは蕩減復帰を知らないからです。

           

 皆さんは偽物です。偽物、偽物なのです。本物になることが易しいと思いますか。溶鉱炉に何百回も出たり入ったりしなければならないということを知らなければなりません。蕩減復帰、心情圏の復帰のために自分の息子、娘を刑場に送る父親となるとき、涙なしにはできないのです。アブラハムもそうでした。天理の大道を切り開き、神様のために、神様を愛の圏の中に解放するためには、このまま座っていてはならないのです。今日このような位置を備えたのも、偶然にそうなったのではありません。血の涙の出るような、血の涙が凝り固まってたまるような、そのような過程を経て統一教会の基盤が築かれたのです。その基盤を知れば涙なしに座ることはできず、痛悔の念なしには座ることができないという事実を知らなければなりません。


           

 私は一生の間苦労してきましたが、私は豪華な高い位置で歴史を蕩減していこうというのではありません。私が享受することのできる福をあとに残しておいて、皆と苦労を共にし、先生が高く上がるそのような民族的な尊敬心も皆さんと同じ立場で、国家の解放とともに歓喜の一日を望むのが先生の希望だということを知らなければなりません。

     

      

 監獄に入る人はみな、監獄に入るときから絶望と落胆の思いをもちますが、ここに立っているこの人は、監獄生活のあとにやってくる結果はどんなものであろうか、ということに相当な関心をもちます。皆さんは蕩減復帰を学んだので分かると思います。この峠を越えれば何が起こるか、今受けている苦痛が問題ではなく、その苦痛のあとに来る新しい歴史的な一つのプレゼントが何であろうかということを、いつも考えていたことが今も記憶に新しいのです。

 責任分担を完遂できなかった私たちの先祖の罪により、サタンの愛の領域が天国の門前の境界線まで連結し、死亡の深い淵が生じたのです。それで先生は、世界から反対を受けながら国家基準を越えて蕩減復帰路程を行くのです。こうしてアメリカが民主主義世界のキリスト教文化圏を中心として本来の水平線、直接主管圏と完全に一つとなった位置で、世界的蕩減条件を立てた基台の上でカイン・アベルが蕩減復帰してきたのです。

           

 蕩減復帰の道は厳粛なものです。間違いなく四十年間に失ったものを取り戻してくるのです。四十年前にキリスト教とアメリカが一つとなり、韓国を抱いて統一教会を支援したならば世界復帰は七年以内に終わったことでしょう。今日このような問題を四十年かけて、ヤコブから再臨時代までの四千年の再蕩減歴史を四十年間かけて家庭を引っ張って蕩減復帰し、監獄に入ってでもありとあらゆる苦労をし、これを一つにして清算しなければならないという使命、召命を受けたがゆえに、先生は生命を投げ出してその道のために闘ってきたのです。そのような歴史路程にこの者たち、あれこれ考えては勝手に遊んでこのようになったのです。悔い改めなければなりません。今からそのような人とは、私は会いません。これからは法で治めます。法で。

           

 蕩減の道を歩みながら不平を言ったとするならば、既に消え去っていたことでしょう。蕩減復帰の道がどのようなものか、私がよく知っているからです。蕩減の道においては、世界的な迫害を受けなければなりません。万民が個人的立場から、世界五十億の人間が一対一ですべて反対する立場で、私が敗者にならないためにその反対する五十億の個人、彼ら以上のことをすべて成すという度胸をもたなければならないのです。そうでなければできません。

           

 第二次大戦直後に、世界はすべて長子権復帰することができたはずでした。キリスト教が統一教会の文先生と一つになっていたならば、今日のような四十年の歴史は生じませんでした。共産主義は既になくなっていたはずです。先生の言うことさえ聞いていたならば、韓国は分断されることはありませんでした。キリスト教を中心として神霊な団体が、すべて私の言うことを聞いていたならば……ところがエデンの園を復帰するために準備されたすべての団体が、この世的な考えをもつことによって、洗礼ヨハネのような運命へと流れていってしまったのです。そうして解放以後、統一教会が反対を受けることによってこれを再び収拾するためにキリスト教の二千年歴史、ヤコブからの四千年の歴史を繰り返すということを、四十年間に蕩減復帰してきたのです。


           

 先生は一人で蕩減復帰するのです。この世は知らないのです。こうして個人復帰、家庭復帰、このことをしてきたのです。サタン世界が蒔いたとおりに実ったのですが、この実った世界にメシヤが来て、これを再び救わなければ救う道がありません。解放直後、先生と一つとなりさえしたならば、七年路程を中心として一時に個人カイン、家庭カイン、氏族カイン、民族カイン、国家カイン、世界カイン、全体カインを蕩減復帰することができたのに、信じなかったので四十年延長されたのです。

 先生がキリスト教とアメリカ、韓国の反対を受けることでどのような立場に立ったかというと、国のない一人の人になったのです。国がないのです。国がないと同時に民族もなく、氏族もなく、家庭もない孤児のような立場に落ちてしまったのです。ここから四十年の間に取り戻して、国家的、世界的霊的版図基盤の上に立たなければなりませんでした。しかし、霊的版図だけではならないのです。霊的版図基盤をキリスト教文化圏から引き継いで、国家基準の実体文化圏を再び取り戻し、その基盤の上に世界の実体キリスト教文化圏をすべて蕩減復帰しなければならないのです。

           

 イスラエルの歴史は、ヤコブの時代から始まりました。イスラエルという勝利した伝統的な歴史を世界的勝利の基盤に、キリスト教文化圏を通して統一圏がつくられていたのに、これが反対することによって分かれたので、四千年を四十年で再び蕩減復帰しなければなりません。もしこれを四十年でなすことができなければ問題は大きくなります。この四十年間が歴史上大変遷の時代なのです。ですから、サタンが最も脅威を感じていた第二次大戦の直後に、サタンが全面的に後退するはずだったのですが、すべてがサタン側に立つことによって天が全面的に後退し、サタンが世界を全面的に支配し、天の側の統一教会を責め立て始めたのです。

           

 僕の僕から始めるこれは、内的蕩減分別路程なのです。サタン世界のすべての縦的な蕩減条件をすべて立てれば、サタンが攻撃しようとしても攻撃する条件がないのです。ですから先生自身が僕の僕から僕に、僕から養子に、養子から庶子へと、このように蕩減復帰してきたのです。その次は息子復帰、母復帰をしなければならず、アダム復帰をしなければなりません。男性として最高の位置に上がり、女性として最高の位置に上がったという条件を立てて初めて父母の位置に上がるのであり、ただ上がっていくのではありません。内的蕩減条件、これを確実にしなければなりません。


           

 復帰のためには、人がどんな干渉をしたとしても、自分自身の確固とした主体性をもって進まなければなりません。人がどんな道を行こうと、私の行く道は忙しいのです。横からどんなことを言われても、そこに神経を遣っている暇はありません。夜寝る時間がありません。落ち着いて、楽に座って食事をする余裕もありません。そのような切迫した心情をもたなければ復帰の道を行くことができません。

     

      

 先生は生涯命懸けで闘ってきました。この世なら苦痛を避けて通ることができますが、これを避けることもできません。腕力や暴力をもってできることではありません。原理原則に従ってなさなければ、四方から押し寄せる矢を避けることができません。このような闘いは、神様が天地を創造されることよりも、もっと困難なことではないかと思われます。そのようなことをしながらも蕩減を立て、内的な基盤を築いてきたということは、皆さんは夢にも考えることができないことでしょう。そのような基盤を礎にして転換点を築いたということは、天宙的な勝利だということができます。

 私が今死んだならば、私のように神様を愛し、私のように人類を愛する人がこの地にいるだろうかという懸念が先立ちます。そのような意味で私が長生きしなければならないのです。先生は皆さんの中からそのような人が早く出てくればどんなにいいかという目で、皆さんを見つめているということを知らなければなりません。神様がこのレバレンド・ムーンに祝福してくださるとすれば、神様が私にそのような人を下さることが一番のプレゼントであり、祝福であると考えるのです。今まで不信され苦難を受けてこられた神様を、先生以上に愛し、先生以上に人類を解放するために努力するという人がこの時間に現れるならば、きょうは栄光の日なのです。

           

 ある霊通人が、文先生が偽物か本物か祈祷していて痛哭したのです。我知らず痛哭するのです。一日、二日、毎日痛哭するのです。どうしてでしょうか。文先生を知るには痛哭する心情を知らなければなりません。それを知らずには文先生が分からないのです。誰かが私に向かって一言ったならば、私は千年の恨を抱いて痛哭できる事情をもっているということを誰が知っているでしょうか。私が神様を知らなかったとすれば、それほど悪口を言われることはありません。神様をあまりにも知っているという罪によって……私だけを信じるしかない神様がどれほどかわいそうなことでしょう。二千年間のもつれた歴史を、二十年間で蕩減復帰しなければならないのです。ですから容易でしょうか。容易に言うことができるでしょうか。

           

 蕩減原則をもって、歴史時代に神様が悲しまれたすべての事情と苦痛を解いてさしあげなければならないのです。そうしてこそ、その子が、過ちを犯して神様を苦労させた不孝者だということを知り、父母に仕えるにおいて不孝をした以上に、孝行の限りを尽くすことのできる真の孝行息子となるのではないかということです。それゆえ神様に仕えるにおいて自分のすべてを犠牲にして、御苦労される父母様の労苦を、歴史時代にどれほど苦労されたかを知らなければなりません。一歩一歩少しずつこのように清算することのできる時代になったので、神様に侍り、皆さんが今からでも神様の苦労を代わりに背負い、神様を解怨成就してさしあげなければなりません。

    

       

 救世主はいったい何をしに来るのでしょうか。政治をするために来るお方ではありません。今日キリスト教で言うには、主が来ればすべて空中に上げられ、自分たちは連なって引き上げられ、地上の人々はみな……。違います。そうではありません。審判するというのですが、救世主は審判しに来られるお方ではありません。その方は神様の息子、娘であると同時に、人類の父母として来られるのです。人類の父母として父母の心をもって来られるお方が、病気で死にそうになって呻吟している息子、娘を見て「お前はあの地獄に行け」と突き放すことができるでしょうか。堕落したこの世の父母でも、自分の子が死んでいく悲惨な姿を見ればのどを詰まらせ痛哭して、自分の生命を失ったとしても、子を生かすためならどんなことでもしたいという気持ちが先立つのです。それが父母であるのに、本然の父母の心情をもって来られる救世主はいかばかりでしょうか。審判というのは考えられないのです。そうではありませんか。

 さあ、先生と神様が会うとしたら、笑って会うでしょうか、痛哭して会うでしょうか。考えてみてください。私が思うには、昏睡状態に陥ると考えられます。涙を流すとすれば体面があり、死ぬとすれば体面があるからです。体面がありません。四十年の生涯をやったとはいえ、誇るものは一つもありません。恥ずかしいばかりです。そのように思うのです。

           

 統一教会の文先生という人が現れたので幸いです。人間の百五十万年という歴史的な恨がもつれ、絡み合ったものを元に戻すために、どれほど苦労したか知れません。限りなく転がっていくこの歴史的な悲惨な姿を、天の前に戻すための道を、誰が切り開くかということが問題です。統一教会の何年かの歴史の上に数千年の歴史が展開され、数十万年の歴史が背後でかみ合って動くのです。悲しみの歴史を、統一教会が蕩減の悲運を負って取り戻してきたということを忘れてはなりません。

           

 私がこの地に人間として生まれ、本然の地上の万物を神様のように愛し、動物を神様のように愛し、人間を神様のように愛したがゆえに神様の愛の相対になったのです。神様から出発したので神様に帰るのです。神様は皆さんが生きている間に、何億万倍も素晴らしくなることを願っておられます。それゆえ御自身よりも素晴らしい息子となって帰ってくることを願っておられるという事実なのです。

           

 先生の名前には興味深いものがあります。「文」という字をこのように早く書けば父という字になります。そして「鮮」という字は羊と魚を意味します。このように父を中心として陸地と海を合わせたものなのです。次に「明」は日と月です。海を一つにし、陸地を一つにする、カインとアベルを一つにする統一的真理を教え、日と月が一つとなる統一的真理を教えてくれる方とは誰かというと、神様だというのです。神様は知恵の王です。知恵の王であると同時に、神様は父母なのです。



  二) 真のお母様を選ぶこと


 キリスト教を通して二千年の間再臨主が来ることができるようにしたがゆえに、キリスト教文化圏を中心として、第二次大戦直後にキリスト教とアメリカを中心とした勝利的基盤の上に先生が立ったならば、先生が苦労をしたでしょうか。その当時に先生を受け入れたならば誰がお母様になっていたでしょうか。聖進様のお母様が駄目ならば誰がなったでしょうか。イギリスの女性です。み旨からしてイギリスの女性です。イギリスの王宮が先生と関係を結ぶのです。そこはキリスト教文化圏ではありませんか。アメリカはイギリスが生んだのです。ですから李博士(注:李承晩)がなぜ西洋の女性を妻にしたかというと、そのような象徴的な意味があったのです。それゆえキリスト教が反対することによって、お母様が福を得たのです。

           

 エバ復帰のために、七数を蕩減復帰しなければなりません。お母様を一九六〇年代に立てて一九六八年まで七年路程を経て「神の日」を定めるまで、お母様は迫害の時代に入ったのです。それで統一教会の女性たちはみなお母様を虐待して、あらゆる謀略中傷をする期間なのです。そのことをお母様は知らないので、お父様の言葉に絶対服従してこそ越えることができるのです。「ああしてこうして私の言うとおりにしなさい」と。ですから聖婚式ののち三年間は外に追い出して、三年を経てから先生と一緒に部屋の中に入ったのです。これはすべて事実です。我々統一教会員はそれが分かりますね。蕩減です、蕩減。個人蕩減路程、家庭蕩減路程を経てくるのです。

  

         

 「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を立てて「神の日」まで……一九六〇年度から七年路程を経て一九六八年に心情一致圏を中心とした「神の日」を定めることができるようになったのです。お母様も長成期完成級から完成期完成級まで七年路程が残っているのです。そうしなければ心情圏が同じにならないのです。それゆえ先生は一九六〇年に結婚しましたが、七年を経て一九六八年の一月一日に「神の日」を定めたのです。原理的なのです。七年路程は誰にもみなあるのです。祝福家庭も七年路程を行かなければなりません。例外はありません。七年路程をみな行かなければなりません。祝福家庭が七年路程を行くことができなければ天国には入ることができません。統一教会に家庭楽園級が生じるのです。すべてが理論的なのです。

           

 お母様を迎えたのは解放後十四年ぶりのことでした。一九六〇年度です。なぜ十四年なのでしょうか。人間始祖が長成期完成級で堕落したので二次の七年路程を経るという立場で、すなわち第三次七年路程を前にして第二次七年路程の終結時代に堕落したからです。ですから蕩減復帰原則によって十四年の迫害の路程で韓国に着陸して、統一教会という祭壇をつくり、既成教会と大韓民国と闘いながらお母様を選んで立てたのです。お母様を立てたところから初めて地上に着陸したのです。

 お母様は二十歳を過ぎていてはならないのです。それはなぜでしょうか。アダムとエバがティーンエイジャーの時に堕落したからです。その時に堕落したのでお母様はそのような年齢でなければならないのです。どんなにもどかしいことでしょうか。この複雑な統一教会、統一教会を動かすために、お母様を選ぶのに大学を出た博士のお嬢さんもぞろぞろいて、目をぎらぎらに燃やして先生の相対になろうとありとあらゆる工作をしているのを眺めながら、何も知らないティーンエイジャーの女性を探さなければならない運命も大変なものです。仕方がないのです。蕩減復帰の原則があるがゆえに勝手にはできないのです。

           

 蕩減復帰の原則を知っているがゆえに、四十になるまで槍柄のように年を取らなければならなかったのです。そして年の多いお嫁さんをもらえるわけでもなく、十八歳……十八歳を越えてはならないのです。統一教会に大学を出た博士、学士がぞろぞろいて、目をむいて射て捕らえようとするような女性の群れがおおかみのようにほえている所で、それにかまわず何も知らないお母様を迎えたのですから、どれほど大変なことになったことでしょうか。

           

 結婚してからは妻の母(注:洪ハルモニ・大母様)に「三年間は絶対に正面の門から出入りしてはならない。母親だからといって訪ねてくるな。エデンの園でエバには母親がいなかった。正門を通ってはならない」と言ったのです。こんなことがあっていいのでしょうか。この世から見れば、妻の母親の前で婿たる者が「お母様の部屋に入るときは絶対に後門から入らなければならない。正門から来てはならない、三年間」と言ったのです。それゆえ私が最も恐ろしいのです。見た目にはただ……。

           

 お母様は、エバがアダムを通して造られたように、何も知らないところから来なければなりません。親戚が多くてはなりません。三代がついてくるようではならないのです。縦的な基準において駄目なのです。正常的ではならないのです。今のお母様がまさしくそのようなお母様です。そうではないですか。兄もなければ父親もなく、一人です。母と娘の二人しかいません。また、そのお母さんは、主に仕えるために精誠を尽くすことにおいては韓国の代表です。主が肉身をもって来られるといって、腹中教から従ってきた人々なのです。また、知るところによるとお母様は、そのようなあらゆるエバ的な責任を果たした韓国の歴史を代表するおばあさんたちから祝福を受けていたのです。


 三 八段階蕩減路程と八定式

  一) 縦横の八段階の蕩減復帰路程


 六千年の歴史は個人から家庭、氏族、民族、国家、世界へと来た歴史なのです。統一教会は個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様の愛復帰まで八段階を経るのです。祈祷するとき、八段階を中心としてするでしょう。お父様、個人復帰完成し、家庭復帰完成しました。それがどういうことかというと、個人復帰完成は最も中心にあり、家庭復帰完成は氏族の中に、氏族復帰完成は民族の中に、民族復帰完成は国家の中に、国家復帰完成は世界の中に、世界復帰完成は天宙の中に、天宙復帰完成は神様の愛の中にあるのです。すべて神様の愛を中心として天宙的に一つになれという意味なのです。

           

 皆さんの体が、サタンの支配から逃れて神様と一つとなっていますか。自分を完全に否定しなければ、サタンに打ち勝つことができません。ですから三年半苦労をしなさいというのです。乞食、僕の僕から上がっていかなければなりません。縦的に僕の僕から僕、養子、庶子、直系子女、次には母、父、神、このように八段階です。また、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神、これも八段階です。ですから縦的に八段階であり、横的に八段階です。それが原理観です。先生の言葉ではありません。


  二) サタンの活動と八段階の勝利


 サタンが今まで歴史的に個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神、この八段階を中心としてついて回るものは何でしょうか。「神様、あなたは原則的な主人であり、神様の息子、理想的なアダムとエバ、すなわち真の父母というのは原則的な息子であり、その原則的な父が私を天使長としてつくったがゆえに、天使長の私が堕落する前に神様の愛と神様の息子の愛を受けられるというのが原則だった。そのように愛し尽くさなければ、あなたが原理的な父として原理的な息子を愛する立場に立つことができないのではないか」と言うのです。これが問題です。

私が堕落したとしても、あなたが私を愛してくれなければ私の所有を、本然のエデンでアダムの愛、神様の愛の圏内で主管することのできたすべてのものを取り戻すことはできないということです。個人的には、神様とアベルが一つとなり私を愛して、個人的な愛の条件をもって取り戻すことができるのであって、そうでなければ取り戻すことができないというのです。次に家庭もそうであり、氏族、民族、国家、世界もそのような立場にあり、天地もそのような立場にあると主張するのです。それがサタンが私たちの胸ぐらをつかむ、何というか、首を絞める綱なのです。

           

 統一教会の原理は一つの原則的な道であり、その道を原理の道といって、そのまま入っていくことはできません。八段階を経ていくべき運命の道なのです。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神まで八段階です。八数は再出発数です。その次に再出発は出てこないのです。

           

 歴史上数多くの苦難の道がありましたが、先生の歩んできたこの八段階の苦難の道は、歴史時代にあった道だという事実を知らなければなりません。だからといって困難さゆえに「神様、私はこの立場を耐え忍ぶことができません」と、涙を流してはならない蕩減の道であったということを知らなければなりません。天国へ行く人は、涙を流しながらその道を行ってはならないのです。涙を流すところを喜びをもっていくことのできる基盤ができていなければ、天国の足場はこの地上世界に残らないという天理原則があるのです。

           

 蕩減復帰は、肯定の条件が少しでも残っていてはなされません。絶対否定の条件によって蕩減条件が立てられるのです。そのように絶対否定の基準が個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神に至るまで立てられなければなりません。それで八段階が充足されれば人類歴史の理想郷に連結されます。その段階ごとに必ず絶対否定の過程を経なければ、神様と通じる理想郷を連結することができません。

           

 「その八段階というのはレバレンド・ムーンがつくったものだ。私には蕩減は必要ない」と言うかもしれませんが、とんでもありません。人間の責任分担が事実ならば、人間の責任分担によってこのような形態の過程があるのです。堕落しなかったならば一度に、二十一年間自動的に越えるはずなのですが、このように壁で遮られているので一つ一つ処理しなければなりません。一度に処理することができないのです。サタンがいるがゆえに、一つ一つ処理して代置していくしかないのです。堕落したがゆえにサタンが生じ、蕩減条件が生じたのです。その蕩減条件は人間の責任分担があるがゆえに不可避な過程なのです。

           

 復帰路程は個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰、天宙復帰、神様の愛復帰まで、八段階を経なければならないのですが、一度にそうすることはできません。アダムとエバが堕落しなかったならばそのまま完成したはずですが、これが歴史時代において僕の僕に落ちたがゆえに一度に上がることができないのです。それゆえ段階を開拓しながら続けていくこの過程には、過程ごとに必ず蕩減条件が必要だったのです。蕩減条件を立てることによってサタンが分立されます。サタンゆえに蕩減条件が必要なのであり、サタンがいなければ蕩減条件は必要ないのです。

 個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神までの八段階を上がっていくには、どのように行かなければならないのでしょうか。どこからこの茎を探し出すかというと、横に出て個人勝利をしなければならないのですが、心を中心として横に上がり、カインと闘って勝たなければなりません。このように八段階をカインと闘い、屈服させて上がっていくのです。なぜでしょうか。私にはサタンが付いているからなのです。これを知らなければなりません。

           

 先生はこの世の天地の中でこのような蕩減法を知り、個人から愛の焦点を合わせて家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、国家的愛の焦点を合わせてきました。そのたびにサタンがこれを撃破しようとありとあらゆることをするのです。それゆえ宗教は迫害の道を行くのです。涙と血を流さなければなりません。一番高いところに上ってはならないのです。日陰にいなければならないのです。そこが安全地帯です。サタンは驕慢なので、困難なところを嫌います。それゆえ最も悲惨なところが安全地帯なのです。

           

 アダムが個人の立場で堕落したのですが、彼は全体の中心なので、復帰は世界を中心としてしなければなりません。復帰するときには、一時に復帰することができません。一つ一つ復帰していかなければなりません。個人の位置を整備し、家庭的な環境と氏族、民族、国家、世界、天宙的な環境まで整備をしなければなりません。すべて八段階を経るのです。理想世界を求めていく人間は、必ずやこのような問題を解決してこそ愛の主体である神様に出会うことができるのです。どこかがふさがっているならば、その基準以下では通じるかもしれませんが、それ以上の世界では通じません。それは絶対的な神様と一つとなる道を得ることができないのです。ある段階まで行けば、蘇生圏と長成圏の霊界までは霊人の協助を受けることができますが、神様と通じることは困難なのです。

           

 僕の僕から僕へ、養子へ、庶子へ、直系子女へ、母へ、父へ、神様まで八段階です。八段階が残っているのです。きちんと分かっていなければなりません。統一教会の責任者となる前に、その国の僕にならなければなりません。そうしなければ解放の道がありません。僕の僕になり、養子の扱いを受けなければなりません。庶子の扱いを受けなければなりません。そして直系子女に……こうして上がっていくのです。この段階に上がるときは必ず蕩減がなければなりません。サタンと決闘して神様の公判による勝敗を決定しなければ蕩減路程を行くことができません。家庭蕩減路程を歩まずに氏族蕩減路程を行くことができますか。とんでもありません。氏族蕩減路程を歩まずに民族蕩減路程を行くことができ、民族蕩減路程を歩まずに国家蕩減路程を行くことができ、国家蕩減路程を歩まずに世界蕩減路程を行くことができ、世界蕩減路程を歩まずに天宙蕩減路程の道を行くことができるでしょうか。はっきり知っていなければなりません。

           

 先生のことを言うと、個人アダムであると同時に家庭アダム、氏族アダム、民族アダム、国家、世界、天宙アダムの歴史を結び合わせてきたのです。僕の僕からずっと縦的に八段階を上がっていくのです。また八段階を上がるだけではなく、横的に個人、家庭、氏族、民族、世界まで、すべてを抱かなければならないのです。世界五十億人類まで、世界まで縦横を中心として蕩減路程をすべて経て上がっていくことによって、サタンが讒訴することのできない解放圏を成就するのです。その道は容易でしょうか。

           

 今までの人類歴史は八十五万年と言われています。約八十五万年と見るのです。その期間、宗教運動は未開な時から迫害を受けてきたのです。それでは、このような歴史は誰がそうさせるのでしょうか。神様です。神様なのですが、僕の僕から段階的に分かれてくるのです。それでは僕の僕の中では、僕が主人となるのです。主人が僕を使うのではなく、僕が主人を使うようになるのです。そうなるには、このように天国の僕の主人になるには、サタン世界をすべて合わせた僕の迫害を受けて勝利しなければなりません。それゆえに死ぬ覚悟をしなければならないのです。それで死のうとする者は生きるという言葉が出てきたのです。


 僕の僕から僕の位置に上がり、次に僕から養子の位置へと上がるにも必ず迫害があるのです。ここも同じです。七段階まで。神様まで八段階です。それではこの迫害を誰が受けるというのでしょうか。人は変わりますが、神様は変わることがありません。ですからこの世界の宗教の中には僕の僕の宗教、僕の宗教、養子の宗教、庶子の宗教、息子の宗教、母の宗教、父の宗教、真の父母の宗教があるのです。一番最後には父母の宗教が出てくるのです。終末には真の父母を中心とした真の父母の宗教が現れるのです。統一教会という言葉ができ、宗教を統一するというのは、真の父母の内容をもった宗教の教理を通さなければそれが不可能なのです。


  三) 八定式


 縦的な蕩減と横的な蕩減、八段階の蕩減がすべて終わったので、去年(一九八九年)八月三十一日(陰暦八月一日)を中心として八定式というものを、西洋社会でも最も高いアラスカに行って行いました。最も高い所です。そうして九月一日に天父主義を発表しました。天父主義です。愛援主義であると同時に父母主義です。父母主義とは愛そうということです。愛することは、サタンが反対することができません。統一教会が行く道の前にサタンが反対しなければ、あっと言う間に世界的なものへと展開されるのです。

           

 八定式とは何か分かりますか。それは何ですか。縦横です。縦的に上がるには僕の僕から上がったのです。横的には個人、家庭、氏族、民族、国家、世界に広げていくのです。縦的な基準が立たなければ、横的な円形を描くことはできません。円形がすべて一つの八段階にぴったりと合わなければならないのです。これを一九八九年九月一日にアラスカで終えたのです。アラスカは「アラッスムニカ(分かりましたか)」という意味です。

           

 国家的基準と世界的、天宙的基準を中心として八定式を既に宣布することによって、縦的に天が思いのままに往来することができ、横的に天が思いのままに地球星のどの表面までも自由自在に通じることのできる時代が来たので、地球村という言葉が生まれました。地球村だけでなく、地球家族を訴えている統一教会、地球家族的役事が地上に展開し得る時代が来ました。世界全体が、昼と夜に二分されていた世界が、今は一日生活圏内に入り、すべてのものが瞬間的に世界と通じることのできる時代になりました。

           

 八定式が終わったので何をすることができると言いましたか。父母権が解怨成就されるのです。ですからこの時が来るがゆえに、先生は父母の立場から皆さんを氏族的メシヤの立場に立てて、イエス様の立場の解怨成就、アダム家庭の解怨成就をするのです。皆さんの一族を通して、父母の過ちの基盤をすべて解消することによって初めて、すべての人が生まれた故郷が、天国の故郷の地へと転換されるのです。

           

 アラスカで先生が、一九八九年八月三十一日に宣布したのが八定式です。そうすることによって世界人類の前に蕩減が必要のない時代に越えていくのです。それは何を意味するかと言えば、先生が行く所や統一教会の信徒たちが行く所には迫害時代がなくなったということです。これからは天の国に王国をつくるとか、私たちだけで様々なことをやっても、誰も讒訴できません。それで、その基地として定着する式が八定式です。

この八定式を基盤として一九八九年九月一日に天父主義を宣布しました。八定式が終わるまでは長子復帰時代です。長子復帰時代です。今こそ完全に長子権が復帰されたのです。長子権も天の側に復帰されることによって、サタンが反対できない世界的頂上圏に上り立つのです。これから私たちは強く大胆に押せばアメリカも押され、共産世界も押され、韓国も押される時が来ました。日本も押されるのです。ですから強く大胆でありなさいというのです。

           

 八定式は縦的な蕩減歴史的路程、横的な個人、家庭、民族、国家、世界蕩減路程、八段階の縦横の路程を経て、定着することで、長子権復帰がなされ、この地の世界の人間の前には蕩減の路程が解消されるのです。八定式をすることによって、そうなるのです。長子権が復帰され、父母様が抱くことによって父母の愛の圏内から長子権復帰のための歴史時代の戦争史、闘争史がなくなり、愛によって和合することのできる蕩減の必要ない時に突入したのです。そのようにするためには八定式をしなければなりません。八定式をすることによって、その息子、娘を、長子と次子をもった父母が、このような子供たちを許してくれたので、その次には父母の許し圏の時代が来るのです。

           

 八定式を宣布したアラスカは有名になります。今回私が帰るときに、北極の中央に教会を建てるように言いました。ソ連の共産党が反対すれば、私が責任を取るというのです。ちょうど北極の中央に私たち統一教会が世界万民のための祝福の基盤のために一生の間生きて、死ぬ前には北極の統一教会に来て四十日精誠を尽くして逝かなければならないと言えば……。考えてみなさい。氷山の世界に理想都市ができるのです。そうすれば何百里の道、何千里の道もすべて空中から補給して……。そのように一度やってみなさい。それは素晴らしいことです。それは今日の科学の力をもってすれば何でもありません。今から組立式にして……。そこに飛行場を造り、住もうとするのに何の問題がありますか。それで観光地コディアックに基地を造っておいて……。考えてみなさい。歴史時代にない関門になるのです。


四 長子権勝利と父母権、王権復帰

  一) 長子権復帰


 本来神様の創造理想から見ると、長子は神側から始まるべきであり、もちろん次子も神側で始まらなければなりません。ところが堕落によって長子権がサタン側になり、次子権が神側になりました。これを替えなければなりません。ですから聖書に出てくるエサウとヤコブの問題を見ると、ヤコブが母の協助を受けて母と一つとなり、エサウにレンズ豆のあつものとパンを与えて長子の嗣業を奪う役事をしたのです。今まで聖書の役事がなぜそのようになっているのか分からなかったのです。統一教会が現れることによって初めてこれが確実になったのです。

           

 堕落圏を越えて長子権も神側の長子権、次子権も神側の次子権を成してこそ、堕落しなかった本然の世界に立つことができるのです。これが本来の創造理想です。神様が絶対的であるからには、その理想も絶対的なものとして残っているので、これを再び取り戻すための歴史過程を経て蕩減復帰し、これを越えなければならないのです。

           

 長子権復帰。それはどれほど難しいことでしょうか。これゆえにすべてひどい目に遭ったのです。修道者が数えきれないほど犠牲になり、キリスト教がローマ帝国で四百年の間苦労し、サタン世界の版図を越えるために血を流したのです。皆さん、ローマに行って、その洞窟に入ったことがありますか。壇を作って先祖の死体をすべて壇の下に埋め、そのにおいをかぎながら暮らしました。天がそうするように言ったのでそのようにしたのであって、そうでなければ誰がするでしょうか。人間的にはできないことです。ですから天がどれほど苦労したかというのです。歴史上のその功を皆さんは知りません。それを知らなければなりません。

           

 皆さん、原理でカイン、アベルを考えたとき、カインが貴いでしょうか、アベルが貴いでしょうか。どちらが貴いですか。アベルが貴いとみな思っているのですが、それは間違っています。アベルは弟の立場であり、カインは長子の立場です。正しく知らなければなりません。アベルよりも、次子よりも長子の立場が貴いのです。長子は一人ですが、次子はそうではありません。長子が何人もいるということがありますか。長子というのは一人しかいないものです。長子がなぜ貴いかというと、一人しかいないからです。次子は何人にもなり得るのです。それを知らなければなりません。

     

      

 神様が復帰摂理をしてくるにおいて、長子をサタンの側に立ててきたのが恨でした。それゆえ今日歴史は病んでいるのです。どんな病気にかかったのですか。愛の病にかかっています。愛の病気で過ちを犯して長子を生んだのです。ですから今までの歴史は、順理的な法度の基準を取り戻すために億万年かかったとしてもこれを復帰するための蕩減の恨を抱いて長子を探し求めてきた歴史だったのです。

 アベルを立てた目的は何でしょうか。アベルの子を救うためではなく、長子権を立てて家の伝統を正すためだということを知らなければなりません。「えへん、私がアベルだ」と言いますが、責任者たちは心得なければなりません。「私たちはアベル的位置にいるのでこれでいい」というものではありません。皆さんを立てたのは、長子権の一族を定めるためなのです。自分たちが福を受けたいならば、長子権をつくって、その長子が福を分けてあげれば受けるのです。その長子権は自分ではありません。来たるべき主を中心として、縦的な天上世界と因縁を結ばなければなりません。横的世界だけではならないのです。原理で解釈すべきところですが、皆さんはみな知っていると見てこのようにお話をするのです。統一教会の文先生がこの道を知っているがゆえに「ために生きよ」という論理を立てないわけにはいかなかったのです。生まれたのもために生まれたのです。男性が生まれたのも女性のために生まれたということを知らなければなりません。「私」というものはないのです。

           

 サタン側はカインです。兄です。天側はアベルです。この闘いなのです。神様は上の息子を愛してから下の息子を愛するようになっているのです。カインである上の息子はサタン側です。長男がサタン側になったのです。その長男を救うためにアベルを立てたのです。アベルを立てて長子権を復帰するのです。長子権を復帰するのに力づくで奪うのではなく、愛で感動させなければなりません。愛で溶かして復帰しなければなりません。愛したという立場に立たなければ、愛することによって彼らが変わらなければ自分の息子、娘を愛することができません。神様の創造理想から見ると、本来は長子が先に愛されるのであって、次子が先に愛されるようにはなっていないのです。

           

 自分の妻よりも、自分の子よりもサタン世界をより愛したかということが問題です。妻や子のほうをより愛してはいけません。神様はアベル圏を愛する前にカインを先に愛さなければなりません。それ以前にアベルを愛してはならないのです。

           

 自分が勝利するには出ていかなければなりません。出ていって長子権を復帰しなければなりません。長子が弟のような次子を兄として侍り、祝福はすべてお前によって受けるというほどにならなければなりません。そうして長子が次子の立場に来て、次子が長子の立場に上がらなければなりません。そうして長子が「お前が私の代わりに上がりなさい」と押し出してくれて初めて長子権氏族から長子権民族へと進みます。こうして初めて一段階ずつ上がっていくのです。長子が代わりに押してくれてこそ上がっていくのです。そのままでは上がっていくことができません。このような原理的な内容があるがゆえに、この内容をもって長子権復帰基準を完成しなければなりません。そうせずしては神様の摂理を成し遂げることができないというのが歴史の秘密です。ですから真の宗教の道を行くためには家を出なければなりません。国を捨て、家を捨てて出家しなければならないという言葉がここから出たのです。

           

 宗教が今日までなぜ受難の道を行き、宗教がなぜ歴史路程で迫害を受けたときに発展するのか、その原因が分からなかったのです。すべての霊界と宗教世界、神秘の世界の背後でもつれた、サタンと神様のみぞ知る秘密の内容を暴いたのは、歴史上レバレンド・ムーン、先生しかいないのです。これは空論ではありません。そのように動くのです。そのまま、そのとおりに動くのです。皆さんが伝道をしてみてください。その人が決心して統一教会に行くというならば必ずサタンの役事が起こります。間違いありません。公式的なのです。

           

 個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙まで七段階、神様まで行くためには八段階を越えなければなりません。八段階の過程的長子復帰の基盤を通して堕落していない本来の長子の位置に行かなければならないのです。アダムとエバは長子であり長女でした。長子、長女が原理結果主管圏を通して直接主管圏まで、長子権の愛を中心として連結されるのであって、次子的愛をもっては連結されません。それゆえこの位置に戻って長子権を復帰して、一段階、一段階上がっていかなければなりません。この闘いをするのです。

           

 長子を復帰する秘法は何でしょうか。サタンが言うには「神様も完全な神様、神様の求めるアダムとエバも完全なアダムとエバなのだから、堕落しなければアダムとエバは本然の天使長である私を愛するのが原理の基準だ。それゆえ私が堕落して悪い立場にいるとしても、あなた方が善なる正しい立場にいるのならば私を愛したという条件を立てなければなりません。そうしなければ私の前で神様だということはできない」と主張するのです。それが問題なのです。「私があなたと一つになることのできる秘訣が一つあるとすれば、それは何か。あなたが遣わした人が私を愛さなければなりません。神様と一緒に私を愛する立場に立ち、愛したという条件を立てなければ、私が占めている長子の権利と嗣業を取り戻すことはできない」とブレーキをかけるのです。ですからイエス様が怨讐を愛せよと言ったのです。

           

 怨讐を愛するということは怨讐個人だけを愛しなさいということではありません。怨讐の家庭、怨讐の氏族、怨讐の民族、怨讐の国家、怨讐の世界を愛さなければ世界の長子権を取り戻すことはできないのです。それが神様が復帰摂理する歴史的路程だということをよく知っているサタンは、そのように主張してきているという事実を知らなければなりません。

           

 長子権復帰をするためには必ず、サタンが迫害し生命を奪おうとする一線に出て闘って、愛で屈服させて、私たちのもっているすべてを教えてやらなければなりません。そうして彼らが私たちの伝統が良いということを知って、自然に心に感動を覚え、涙で悔い改めて、生命を捧げてあなたのために祭物となりますと宣誓しなければ、カイン世界の祝福権を取り戻してくる道はないという事実をはっきりと知らなければなりません。

           

 愛をもたずにサタンを屈服させることはできません。それゆえ、天国に行くことのできる家庭となるためには、神様も堕落した天使長を愛したという立場に立たなければならず、神様の息子、娘の家庭も、サタンを愛したという条件を立てなければなりません。そして皆さんが出ていって闘い、サタン世界を愛で屈服させたという条件の上に立たなければならないのです。「私は怨讐をみなたたきのめしたのではなく、怨讐を愛で屈服させて長子権を回復した」と言わなければならないのです。

           

 神様は怨讐をたたき殺すのではなく、怨讐を愛したという条件と、怨讐であるサタンを、アダムに代わる立場に立つ人として愛したという条件を立てなければなりません。迫害を受けながら涙と血の汗にすべて打ち勝って、耐えに耐えて自然屈服させて、神様の愛を抱いて戻ってきて初めて祝福を受けることができるのです。そこでサタンは放してくれるのです。「あなたはこれから天国へ行くことのできる子女となれる」という公認を受けなければなりません。誰がサインしなければならないかというと、サタンがしなければならないのです。サタンがしたあとで皆さんがサインし、皆さんがサインしたものを真の御父母様がサインしなければなりません。真の御父母様のサインを通してこそ神様の前を通過できるのです。それが天国です。

   

        

 世界的にサタンを愛したという条件さえ立てれば、私に従う人はすべてサタンが連れていくことはできないのです。それではどうなるのでしょうか。カインとアベルが入れ代わるのです。皆さん、アベル圏は今までは追われる立場にありましたが、これからは天国の長子権をもって立つのです。そここでは、サタンの天下は崩れていくしかないのです。後退の一路ばかりで、ここに対峙するものはありません。対峙しようものなら、たたきのめされてしまうのです。それが原理観です。

 蕩減路程において、世界長子権復帰の基準を成就することによって初めてこの地上に原理結果主管圏と直接主管圏が真の御父母様の名で連結されるのです。この連結された基準、一致した線上にはサタンは存在することができなくなるのです。


  二) 父母圏復帰


 それでは、蕩減復帰や父母権復帰、長子権復帰、王権復帰といったものがなぜ必要なのでしょうか。サタンの愛とサタンの血統が問題なのです。もともと神様から出発すべきであったのに、悪魔から出発したのです。その悪魔は愛というとてつもないものを中心として出発しました。愛ゆえに宇宙ができました。創造は、すべての創造の起源になる愛を中心としてなされたのです。その根本をサタンがひっくり返したのです。ですからひっくり返った根本を元に戻さなければならないのです。

           

 本来神様の創造理想とは何でしょうか。真の父母の名を通して天の王国と地上王国を築くことです。真の父母の名をもってせずしては天上天国と地上天国ができません。今日キリスト教徒に「イエスが神様の愛する長子であり息子であるのに、どうして天国に行かずに楽園にいるのか」と聞くと答えることができないのです。天上天国と地上天国は、真の父母の完成と愛の基盤を通してのみ築かれるのです。霊界に行って王国を統一することが真の父母の使命であり、他の誰かの使命ではありません。

           

 神様と真の父母のことさえ確実に分かればすべて解放されるのです。生き返るのです。ですから皆さんは神様と真の父母を見せてやらなければなりません。皆さんが神様と真の父母を見せてやる証の実体になりさえすれば、すべて解放されるようになるのです。ですからその人にすがり、真の父母にすがるのです。その人にすがるということは神様にすがるということです。本心を知っているのでとっさにそうするのです。今日私がなぜこのような話をするのかというと、この日がそのような転換期を乗り越える一つの宣布の日なので、お話ししているのです。

           

 このように大変なことなので、歴史時代において苦労しながら今まで延長してきたのです。能力のある神様が、なぜこのように苦労をしてきたのでしょうか。教えてあげられるものならばもう既に教えたことでしょう。アダムが知らなかったので、アダムが責任を取って取り戻さなければならないのです。天地を分けて探さなければならないのです。そのためにどれほど涙を流したことでしょう。涙を流して追い出されたので、復帰路程でどれほど涙を流したかというのです。

 そのような点で、文総裁は涙をたくさん流した大王です。歴史を代表して真理の道を探し求めて涙を流し、血肉を裂きながら受難の路程に打ち勝ってきた代表だということを知らなければなりません。そのような驚くべき父母に仕えているという事実を知らなければなりません。これが最後の峠です。それゆえ父母権復帰基準とともに、次子権を一つつくらなければならないのではないでしょうか。先生は先生を中心として長子権、父母権を立てました。王権まですべて備えたので、一つとなれば、お母さんと次子の間に母子協助基盤さえ成せば終わりです。

 長子権復帰、父母権復帰、王権復帰の代行者だけが一族だという心をもたなければなりません。そうすれば先生がいなくても自然と天下統一されます。二万四千双以上を祝福しました。二十四数。三×八=二十四、蘇生、長成、完成の三時代を中心として八数を取り戻して立てました。それゆえ世界氏族的メシヤ権を完全に設定したのです。今は私がいなくても、すべてこのみ旨を中心としてその国を救おうと夜も昼も動けば、世界は一つ所に集まることでしょう。また世界的なあらゆる学者組織、政治組織、あらゆる文化背景組織、レバレンド・ムーン以上に思想的な内容をもった文化的基盤は歴史上ありませんでした。どれを見ても、今やすべて終わったのです。


  三) 王権復帰


 本来アダムが完成すれば天国の父が完成し、エバが完成すれば天国の母が完成し、そして家庭の主人になれば、家庭的天の王権が生じるのです。したがってアダムとエバは個人的王であり、家庭的王であり、氏族的王であり、民族的王であり、国家的王であり、世界的王になるのです。今やこのような国家基準を越えることのできる時になったので、サタン世界の王権を踏んで、天の世界の王権を定めることができるのです。その日が一九九〇年三月二十七日だということです。これによって世界は今やレバレンド・ムーンが風を起こすとおりに回るようになっているのです。

           

 では、天父主義とは何ですか。第一に兄弟権復帰、第二に父母権復帰、第三に王権復帰です。民主世界には王という概念がないでしょう。民主世界は兄弟主義です。平面的に見るのです。それが兄弟主義ですが、兄弟主義は互いにけんかするのです。お前のもの、俺のものと言いながら争奪が起こるのです。民主主義は争う概念ではありませんか。与党と野党が争い……。その内容は何ですか。王権を互いにもとうとするのです。大統領とは何ですか。王権ではありませんか。これが行ったり来たりして、みな搾取するので、うまくいかないのであって、絶対的な王が出てくれば問題がないのです。絶対的な平和な世界が来るのです。

           

 民主主義の政治体制は闘争の体制です。ですから私たちが父母の立場に上がらなければなりません。そうしてこそ争いをやめさせることができるのです。兄弟たちがみな父母を中心として一つになるのです。そのように一つになるところから平和の世界が展開されるのです。他の方法はありません。まず真の父母を探し出し、そこから真の子女、真の国家、真の平和を含んだすべてのものを探し出すことができるのです。それ以外に他の方法はありません。

           

 神主義は真の父母を中心とした思想です。神主義は垂直圏に属していますが、その垂直圏とバランスをとって、世界の兄弟全部を合わせて球体理想として現れるのです。愛の球体です。その球体はどこからも垂直と通じるのです。その表面は理想圏になるのです。ですからこの世は、表面圏は不平を言うことができません。サッカーボールが転がっていって止まるとき、どの面からも垂直と通じる平等な面をもっているので、価値観によって平等の世界、均衡の世界に到達するのです。はっきり知らなければなりません。

 天父主義、神主義を中心として統一するのです。真の父母は家庭の王です。家庭は様々な他の家庭と合わさって自動的に氏族になります。そうすると氏族の王が出てきます。また氏族は他の氏族と合わさって民族になり、民族の王が出てくるのです。国家、世界、天宙も同じです。このように王たちが連結されて神様までつながるのです。ですから神様は王の王になるのです。

           

 天の国に王宮がありません。地上にも王宮がありません。神様の愛を中心とした王宮がないのです。兄弟権を中心として今まで天の国の父母権に代わってこの地上に現れて、王権を立ててすべてを搾取しました。兄弟権王権時代にはなりましたが、本当の縦的父母権王権時代が地上に一度も現れたことはありません。

           

 アメリカのCIAが聞いているところで私が堂々と「統一国開天日」を宣言し「神様を中心とした王権復帰をしなければならない」、「民主世界の兄弟主義時代よりも、父母主義の方が優れている」と宣言したのです。民主主義は兄弟主義です。兄弟主義では争いが絶えません。父母が現れなければなりません。父母が「お前たち、上の者と下の者がこうこうこうしなければならない。父さん、母さんがこうすれば、お前は従わなければならないのではないか」、「はい」これが父母主義というものです。

           

 統一教会では今、王権復帰ということを言っていますね。これは統一家、統一家族を離れてはならないからです。統一家族とは何でしょうか。父母になれるということです。神様が万国の父母の心をもっているように、国に対し、世界に対することのできる父母の心をもっているように、私が国に対し、世界に対することのできる父母の心をもったならば、その家庭から王の子孫が生まれるのです。この王の子孫を連結することによって、王権が回復するのです。それで男性も女性もその道を行くのです。皆さんもそうですね。それは愛し、「ため」に生きる道を通していつでも占領することができるのということです。

           

 王権を復帰するには、東西南北四方に引っ掛かるものがあってはなりません。皆さんの家に王が来るとすれば、二十四時間三百六十五日、いつでも迎えることができなければなりません。三尋もある竿を振り回しても、三六〇度どこにも引っ掛かるものがあってはなりません。いつも歓迎できなければなりません。そのようなことを知らなければなりません。

           

 もし国家の責任者が原理を知った場合は、どうなるでしょうか。国を収拾するのは時間の問題です。ですから王権復帰という時代になるのです。今後は国民がみな信じる必要はありません。その国の大統領が国の憲法を直して原理に立ち返るようにするならば、一度に復帰が可能です。


 五 復帰歴史の展開と摂理国家の使命

) 第二次大戦以後のキリスト教文化の流れ


 私がこのような蕩減復帰原理を知っている立場で、第二次大戦直後にキリスト教さえ私を信じていたなら、李博士(注:李承晩)も私の前にひざまずいたことでしょう。李博士が大統領になったのちに私が祝福をしてあげなければならなかったのです。昔、ローマ教皇たちが王を祝福してあげたように出発していたなら、大韓民国は分断されなかったのです。三年半の間にそれをやっていたならば……しかしそのようにできなかったので、ざっくり二つに分かれたのです。

           

 レバレンド・ムーンが韓国に生まれたのはイエス様がイスラエルの国に生まれたのと同じです。イスラエルの国はローマの植民地と同じ立場ですが、ローマはサタン側のローマでした。このような立場でイエス様が亡くなったので、終わりの日にイエス様が来るときは、そのような内容を蕩減復帰しなければなりません。サタンがそのように天を打ったことを世界的にすべて除去しなければなりません。取り除かなくては、清算せずしては越えていくことができません。そのような立場に立てたのが韓国です。アメリカの保護圏内で神様の氏族圏、神様のアベル圏独立国家としてアメリカを通じて独立させ、保護圏内に立てて、キリスト教とレバレンド・ムーンをカイン・アベルとして一つにしようとしたのです。ここで一つになっていたら、一度に大韓民国の国家基準を成立させたことでしょう。先生とキリスト教が一つになって、大韓民国を一つにし、その次にアメリカと連結していたら七年以内に世界を収拾していたことでしょう。これが神様のみ意でした。

           

 もし先生がその時に成就していたなら、イギリスとアメリカとフランスが一つになり、韓国はアダム国家になったのです。天の国、縦的国の主権を中心としたアダム国家としてイギリスをエバ国家として率い、アメリカを長子として率いるのです。アメリカは何かと言えば、アベル圏として世界の主導権、世界の版図を率いるのです。世界国家的な主導権を初めてアベル的立場に立ったアメリカがもったのです。それ以外の国々はカイン的立場ですが、カイン的立場はアメリカについていくのです。ですから長子権復帰世界化時代に合わせて、統一的なキリスト教文化圏時代の上に主が来られて、母子協助基盤と連結させていたなら、すべての問題がみな解決されていたのです。

           

 エバが堕落するとき、アダムを誘惑したのと同じように、必ずサタン側エバ国家がアダム国家を強制的にのみ込んで四十年間、四数蕩減路程を通過するようにするというのです。これが何かと言えば、四十年間韓国が日本に圧制を強いられたことです。それは四千年の歴史を蕩減するためです。ですからこの闘いでサタンが倒れるというのです。それでは誰が解放されるのかと言えば、アダム国家が解放されます。それによって天の側のキリスト教文化圏である英・米・仏は完全に一つにならなければなりません。そうすれば天の側がサタンが蒔いたものを取り除いて、アダム国家を取り戻し、エバ国家を取り戻し、アベル国家を取り戻し、その次にカイン国家を取り戻すのです。天の側が収拾するのです。こうして一度に天の復帰的天国開門が可能だというのです。


 しかし、七年の間に、七数を完成できませんでした。第二次大戦が終わる一九四五年を中心として一九五二年までの七年路程で、そのようになっていたなら、李承晩政権を中心としてこの世界が完全に、アメリカとイギリスとフランスが一つになっていたなら、今日本はエバ国家になっていませんでした。ドイツがカイン国家になっていませんでした。韓国を中心としてイギリス、エバ国家、アメリカ、アベル国家、その次はフランス、天使長国家が天の側の国家として一つになり、定着していたならば、その時に統一世界、キリスト教文化圏の統一世界になるのです。そうではないですか。初めてキリスト教文化圏を中心として統一世界が来るのです。なぜ来るのでしょうか。父の国が、アダム国家が顕現できる時を合わせたからです。

           

 韓国はいったいどんな国ですか。イスラエル民族は滅びた第一イスラエルになりました。韓国はイスラエルを継いでサタン世界で栄光の出発とともに神様を中心とした王権を立てなければならなかったのですが、それを失ってしまったので、サタンを中心として苦労して血を流す歴史を経て、回りに回ってアメリカを通過して帰ってこなければなりません。帰ってくるにはどこに帰ってくるのでしょうか。アジアに帰ってきますが、イギリスが失敗したことを日本が蕩減しなければなりません。日本文明はイギリス文明と同じだということをみな御存じでしょう。ですから運転をするとしても日本は左側を行きます。みなイギリスのものを伝授されたのです。

           

 原理結果主管圏というのは間接主管圏なので、サタンがいつも侵犯可能なのです。ですからイスラエル民族は個人的に犠牲になり、家庭的に犠牲になり、民族的に犠牲になり、国家的に犠牲になり、世界的に犠牲の代価を払ってきたのです。犠牲があるのが悪いことではなく、犠牲を払えばその代価として新しい時代が開門されてやってくるということを私たちは知らなければなりません。イスラエル民族はヨーロッパの戦争で、ほとんど全滅したかのようでした。六百万人が虐殺されたのです。この虐殺によって新しい開門が起こったのです。そうして一九四八年にイスラエルが独立したのです。韓国が独立することによってイスラエルも独立したのです。それが自然に三年の期間内に関係を結んで越えたのです。

           

 西欧を中心として世界的な基準にカイン圏を蕩減復帰して、韓国に植えなければなりません。韓国はアジアです。アジアの真ん中です。ここに植えておいたので、この錨綱がここに来ることになるというのです。ですから西欧文明がアジアに向かう、回ってくる運勢の時代になったのです。


  二) エバ国家、日本の使命


 島国日本はイギリスの文化を一〇〇パーセント受け継ぎました。車もそれで左側通行でしょう。イギリスが左側通行だからです。左は日本の国を象徴します。そうしてどこに回っていくのかといえば、イギリスのような基準を中心として蕩減復帰するのに、半島の国イタリアのような韓半島に来ます。韓半島は何かといえば、男でいえば生殖器です。半島です。イタリアがなぜ世界の文化創造に歴史的貢献をしたのかといえば、半島だからです。半島。生殖器です。島国は女性の陰部と同じです。

           

 カインとアベルが復帰されて誰を通じて入ってくるのでしょうか。お母さんを通じて入ってくるのです。この国が日本です。日本が一九七八年から世界的な経済大国として登場したのは、エバ国家として選ばれたので、終わりの日にすべての物を収拾して、夫であるアダムにみな返すためです。なぜですか。堕落するときにすべての物をサタン、夫にあげたことを蕩減復帰しなければならないので、日本はすべての物質を収拾して、本然の夫であるアダム国家である韓国の前に捧げなければならないのです。

           

 日本は西欧社会のすべてのものをもってきたのです。政治風土はイギリスのもの、法律はイタリアのもの、それから軍隊はドイツのもの、西欧社会のすべてのものをもって模倣して基盤を築いたのです。日本・ドイツ・イタリアを中心としたここに対して、イギリスとイギリスの息子……イギリスの息子が誰かと言えばアメリカでしょう。日本の息子が誰かと言えばドイツです。ドイツも「わあ、日本というあの小さな国がああだから、この西欧社会は瞬時の内に巻き込んでしまうな」と言うのです。それで戦うのです。エバ国家日本とドイツと同じように、イギリスと息子のアメリカです。その次にイタリアと同じ天使長国家、これがフランスです。フランスは行ったり来たりするでしょう。

           

 先生が日本をエバ国家に立てなかったならば、悲惨な国になっていたことでしょう。キリスト教文化が先生を受け入れた場合は、イギリスがエバ国家です。アダム国家は韓国です。イギリスがエバ国家で、フランスが天使長国家、ドイツがアダム国家として自動的に一つにならなければならなかったのに、これらが神様に背いて反対しました。ですから怨讐が一番愛するもの、エバ国家を奪い、ドイツ男性国家を奪って、み旨の中で立てたのが統一教会を中心としたアダム国家、エバ国家、天使長国家だということを忘れてはいけません。ですから日本を祝福したのは日本のためではありません。世界のため、統一教会と韓国のためです。韓国統一のためにその祝福を使わなければ日本は滅びます。

           

 アジアを見回すと、アダム国家韓国、エバ国家日本、その次に三つの天使長国家です。アダムとエバが堕落する前は、アダムとエバを中心として神様と三天使長がいました。アダムを中心として見るとき、エバはアダムについていかなければならないし、三天使長もアダムについていかなければなりません。アダムを中心としてエバと三天使長が神様と一つになり、天国に入るのが理想です。それで今、アダム格の代表である先生がエバ国家である日本を動かし、アメリカを動かし、中国を動かし、ソ連も動かしています。それで三天使長とエバ圏を迎える立場に回ってきたというのです。

 日本文化圏はイギリス文化圏です。イギリスのすべての文明制度をもってきて移したのが日本です。アジアにおいてイギリスのような国、イギリスを中心として世界を制覇していたそのような時代を再び蕩減復帰したのです。それを再現させるための形態が日本だというのです。ですから自動車が左側通行するのです。ハンドルがみな右側にあるでしょう。イギリスと全く同じです。イギリスは島国なので、アジアにおいてそれに対比できる国がこれです。

           

 人類の文明は世界を一周して、再び再臨時代を中心としたアジア圏を求めて入ってくるのです。入ってくるには、それが蕩減復帰原則によって文明発展の歴史を中心として、サタン世界をすべて天のものとして蕩減したという条件を立てずしては一つにならないのです。それが今アメリカです。アメリカは天使長国家です。アメリカはイギリスが生んだのです。天使長、息子と同じです。アメリカがそのような型になっています。そうして、それがアジアのイギリスを訪ねてくるのです。イギリスの文化を受け継いだ、そのような立場の日本を中心として韓国に回って入ってくるのです。これが回って入ってきて一つにならなければなりません。一つになるには、ただできるのではありません。それを誰かが主導して結んでおかなければなりません。


) 世界的なローマ国家、アメリカの使命


 アメリカはローマのような国です。それでは、このようなときに先生がなぜ日本の食口と全世界の統一教会の食口をみなアメリカに連れてきたのでしょうか。イエス様が十字架で亡くなったのちに、すべての弟子たちはローマに集中しました。それと同じようにして、それを蕩減復帰しなければなりません。ここで追い出されて殺されるのではなく、歓迎されながら、天の国を建てて、天の前に奉献することのできる運動が起こらなければならないというのです。

           

 私が新聞社をつくった理由は、少数民族を糾合するためです。インディアンの住む国はレバレンド・ムーンのいとこの国でした。アジアは兄であり、そこから離れて出てきたのが弟です。これを蕩減復帰しなければなりません。レバレンド・ムーンはアングロサクソン民族のように血を流さないで、蕩減復帰しなければなりません。CIAとFBIも「レバレンド・ムーン、これは大変だ」と言うのです。いくら大変だとしても神様のみ旨です。神様がそのようにするのです。レバレンド・ムーンは神様のみ旨によって兄弟の関係を結びます。五色人種はみな兄弟です。神様が見るものにはカラーがありません。色盲です。色盲。その使命を中心としてこれをしないわけにはいきません。私が韓国に行っているときに、可能な組織をみなつくっておきました。私がアルプスの頂上に行って住むとしても問題がありません。世界は私の舞台です。私の活動舞台です。

           

 イエス様の十字架上において右側の強盗と左側の強盗が争いましたが、私の前では一つになったというのです。それを蕩減復帰するのです。これが歴史的な蕩減条件になったということを知らなければなりません。それではこの人たちはどこに行くのですか。「お前たちはみな地上天国に行かなければならない」と言うとき、「イエス」と言えば終わるのです。さあ、そのようになりましたか、なっていませんか。歴史的にイエス様は右側の強盗と左側の強盗が争いながら、讒訴を残す立場で死んでいきましたが、右側の強盗と左側の強盗が互いに和睦して歓迎することによって、復活して新しい次元に出発しなければならないというのが原理的な観点なのです。これが原理的に合いますか、合いませんか。

           

 それでこのアメリカにおいて今、法廷闘争にまで連結されたのです。アメリカでの法廷闘争は一九七七年にすべて終わったのに、先生が牢獄に行ったのはアメリカのために、アメリカを手放してはならないからです。その道はキリスト教と自由世界を再び取り戻すための受難の道であることを皆さんは知らなければなりません。それをするのに四代が引っ掛かりました。ニクソンからフォード、カーター、その次のレーガンまで四代にわたって蕩減復帰しなければキリスト教を捨て、自由世界を捨てなければならないのです。ゆえに復帰摂理がどんなに難しいかというのです。統一教会だけでできるのかというのです。

           

 アメリカの文明は、どんな文明ですか。一番遅れた国です。野蛮人のように生きる人もいるのです。山に行けば原始人よりも劣る人たちがいます。猪と友達になって生きる人たちです。そんな国です。彼らが反対し、間違ったことをすべて、世界的に蕩減復帰しなければなりません。歴史路程に現れたすべてのものは、平面的に蕩減復帰しなければなりません。二十一世紀に向かうこの時代において、レバレンド・ムーンが摂理することができるように平面的にざっと展開した国です。歴史的に、すべてのものを代表的に蕩減しなければならない国だというのです。

           

 韓国とアメリカは、イスラエルの国とローマのような立場です。ローマはその時太陽神に仕えましたが、アメリカという国はその時とは違います。今韓国はアメリカの保護のもとで自主独立した立場です。アメリカの立場がそうだというのです。ローマはイスラエルを滅ぼそうとしましたが、アメリカはローマの前にあるイスラエルのような国を滅ぼす立場ではなく、天の側の国として生かすための反対時代をつくったのです。それゆえ、ローマとイスラエルがイエス様の前にできなかったことを蕩減復帰することのできる自然的環境をつくって、韓国が連結されたのです。


           

 先生が今までアメリカでしたこととは何かと言えば、アダム国家とエバ国家、その次はカイン国家とアベル国家の復帰です。アダムが堕落して植えたので、世界的国家的基準でこれを蕩減復帰しなければなりません。韓国がアダム国家、日本がエバ国家、その次はアメリカがアベルの立場です。長子権復帰を成すために、主権復帰をするために出てきたのがアベル国家です。その次にドイツはサタン側のカイン国家でしたが、日本がエバの立場に立ったので、ドイツが天の側のカイン国家になるのです。この四つの国家が世界的な舞台の上で一つの国の伝統を立てなければなりません。その舞台がアメリカです。


           

 イエス様がユダヤ教に歓迎されなかったその時代を蕩減復帰しなければなりません。ですから、イスラエルの国とローマと一つになってイエス様に反対したのと反対です。韓国政府がアメリカと一つになっているその基準において、キリスト教が執拗に反対する、政府を中心として反対する、その立場に立って先生が蕩減復帰しなければならないのです。一代で国家的版図の上に基盤を展開させて大勝利したというのです。それで世界の二世たちを通じて霊的勝利基盤を再び実体の世界舞台に連結させるためにやってきたのが、一九七四年以後のアメリカ作戦です。三年路程を中心として、アメリカにおいて先生が一九七六年までの限界線を中心として、本格的に国家的次元で実体的戦争をしたのです。

 アメリカの国民が協助していたなら、その時ニクソンさえ協助していたなら、今日統一教会は瞬時に世界的基盤を築いていたことでしょう。しかしニクソンが責任を果たせず、折れることによって、ニクソンからフォード、カーター、今のレーガンまで四代を経て十二年目に蕩減復帰したのです。今回の一九八八年を中心として、四十年前の世界の共産圏以上の立場に戻さなければならないのが、私たちの使命だというのです。何のことか分かりますか。

           

 イスラエル民族の一世は四十年荒野路程でみな滅びましたが、二世たちが行くことのできる橋を架けたのでカナンの福地に入ったのです。同様に、今日第二次大戦以後、四十年の世界の荒野時代において、統一教会を中心として二世を収拾してカナン福地基準をつかんでいくのです。それで終わりの日にはソ連共産党の一番の熱烈分子の息子が統一教会の熱烈分子になるでしょうし、アメリカにおいて統一教会を一番積極的に反対していた牧師や官吏たちの息子、娘たちがみな統一教会の文先生のために立ち上がるでしょう。彼らの親たちが積極的に反対した数十倍も蕩減復帰することを知っているので、橋を架けなければなりません。何の橋ですか。愛の橋。愛の橋さえ架ける日には、行けと言ってけ飛ばしても決死的にしがみつくのです。

           

 今回ダンベリーから出てくるとき、私を中心としてジェリ・フォルウェルと一つになるようにしました。右側の強盗、左側の強盗が争いましたが、一つになるようにしてあげました。全部蕩減復帰です。ですから私が出たダンベリー以後の百二十日期間、三、四、十二(三×四=十二)、百二十日期間に、これを中心として世界のすべての言論は方向を決定しなければなりません。この期間において、ワシントン・タイムズを中心としてアメリカの言論をひっぱたかなければなりません。それでインサイト(Insight)という雑誌と月刊誌を作ったのです。世界の教授たちを先頭に立てるために雑誌を作ったのです。ワシントン・ポストとワシントン・タイムズ、名実共に地上世界の人々における判定は既に終わったと見るのです。

           

 アメリカはイギリスが生んだので、息子です。息子が天使長になる前はアベルです。息子を生みましたが、これが長子権です。長子権をもったので、天の側の長子になって帰ってくるときには、天の側の長子として天の側の母に侍らなければならないのに、向こうから落ちるようになったのです。ローマから島国イギリスに離れて出てくるとき、エバの以前には天使長の立場にいたのです。堕落した天使長ではなく、復帰された天使長の位置にいたというのです。それが何かと言えば、アベル的位置です。アベル的位置、長子権を受け継ぐことのできるアメリカになって、蕩減復帰のために帰ってくるようになるのです。

           

 エリヤがバアル神を屈服させたのちに七千の群れがあるように、神様のみ旨を中心として、キリスト教を中心として七千名の氏族的基盤がなければなりません。それを蕩減復帰するために、私が牢獄に入っていながらキリスト教七千名をみな収拾したのです。七千名を教育しました。その基盤は国家的基準であるだけに、イエス様を蕩減してあげなければならないし、エリヤを蕩減してあげなければなりません。その次には出てくるや否や百二十日以内にその基盤の上にその十倍の七万名の世界基盤を代表することのできる蕩減基盤として連結させよと、先生が指示したということを知らなければなりません。蕩減復帰はできません。それでエリヤが来たのです。洗礼ヨハネが、エリヤが来たのです。世界的です。世界的代表です。

           

 四十年前にレバレンド・ムーンとキリスト教と民主主義が一つにならなければならなかったのを、統一教会が再蕩減していくのです。統一教会がキリスト教の失敗を蕩減復帰して、レバレンド・ムーンと一つになって初めて、世界的頂上であるこの自由世界に来てキリスト教を連結させ、アメリカを連結させて責任を果たせなかったことを蕩減復帰する基準を立ててきました。その次には新しいカナン出発を命令しました。これが獄中、出獄から始まるという事実を知らなければなりません。

    

       

 アメリカが自由世界を代表し、人類を代表して、歴史を通じキリスト教文化圏を中心として神様の蕩減復帰の基準を備えたなら、そのアメリカがもつべき思想とは何でしょうか。神様を解放しようということです。神様を解放しようという心がなければなりません。来られる真の父母は神様の代身として来られるので、真の父母に侍って世界人類を自分の民族よりもっと愛さなければなりません。自分の民族、自分の国よりももっと愛さなければなりません。ですからこのアメリカの国の中には数多くの国家が入っているし、数多くの民族が入っているし、数多くの氏族が入っているし、数多くの家庭が入っているのです。

 統一教会は昔と反対です。ユダヤ教とイスラエルの国とローマが合わさってイエス様を打ったのと反対です。今回は統一教会がアメリカから勝利圏をもたらした基盤のもとで、韓国政府とキリスト教を押すのです。それでイエス様がその当時、イスラエルの国とユダヤ教とローマが合わさって反対することによって死んだのを、今日、統一教会を中心としてすべて蕩減復帰したのです。アメリカで歓迎され、勝利した圏をもって全アメリカと全キリスト教の協力を受けたレバレンド・ムーンが帰ってきて、統一教会と政府が合わさってキリスト教を押し出すのです。このようにしてイエス様が死んだのを蕩減復帰しました。

           

 少数の群れをもってしても、今まで韓国にこのような影響を私が及ぼしてきました……。多くの人は必要ではありません。蕩減復帰を知っているので、私が十字架を一人で背負って蕩減するのであって、従ってくる子女たちに苦労をさせないようにするのです。ですから私は執念をもって行くのです。このような犠牲の代価を知って、万物が私のあとに従って役事するではありませんか。世界のきれいな二世たちが私のあとについてくるし、その次には祝福を受けたきれいな家庭が私のあとについてくるのです。日本で、そしてアメリカでもそのような傾向になるのです。


  四) 蕩減復帰歴史は回ってくる運勢


 蕩減復帰の原則上、歴史始まって以来単一民族として五千年の歴史を背負いながら、自主的な国家として羽振りをきかせることができず、血をたくさん流してきた民族が韓民族です。多くの忠臣たちは奸臣たちによって犠牲になりました。それはこの国が、人類歴史路程においてサタンによって、天の国の多くの忠臣たちが犠牲になった表象的な国家であり、縦的な代表国家だからです。このようにこの民族は横的に悲惨だったすべての事実を縦的に蕩減する蕩減の道を、受難の歴史を歩んできたのです。

           

 回り帰ってくるには橋を架けなければなりません。天使長が物を捧げるには、ただそのまま天の物になることができません。エバによって失ったので、必ずエバと一つになることによって捧げなければなりません。天の物をサタンの物にしたので、蕩減復帰の原則によって、天の側の天使長がすべての物質を引っ張ってきてエバと一つにならなければなりません。エバである日本に接ぎ木しなければなりません。日本が近世になってなぜ経済大国になったのでしょうか。摂理時代においては橋を架けなければなりません。アメリカのすべてのものを引き継ぐのです。これが百二十年間、一九八八年までです。明治維新以後、計算してみなさい。一九八八年を中心としてこれが連結されるのです。来年まで百二十年間にアメリカのすべてのものを引き継ぐのです。

           

 ローマ教皇庁を中心としてイギリスを経てアメリカを経て、二千年かかって回り帰ってくるのです。回って入ってくるのに、ただ入ってきません。蕩減復帰の原則を中心として、それと反対の現象を経るようになるのです。日本の国がイギリスのような国に該当し、イギリスに行く前のイタリア半島のような半島が韓国だというのです。同じ与件を中心として、その時代に責任を果たせなかったことを世界半島で失敗したことを蕩減して清算したと言うことのできる基盤を経ずしては、サタンがついて入ってくるのを防ぐことができないので、蕩減という原則を中心としてそのような路程を歩んでいくのです。


第四章 蕩減路程と私たちの生活

 一 復帰の道は人が当然行くべき道

  一) 蕩減復帰は再創造の道


 蕩減復帰というとき、それは復帰のための蕩減です。完成を中心として蕩減復帰して見れば、完成します。蕩減されたのちに復帰をして、完成の道を行きます。ですから蕩減と復帰は一つだと考えればいいです。

           

 完成は自動的にできるのではなく、蕩減により成されるのです。ですから堕落世界に住んでいる人間は、蕩減条件を立てなければ完成することができません。

           

 統一教会で言う復帰の道とは、どんな道でしょうか。一般の宗教は、ただ救われなければならないと救いの道を求めますが、私たちは、復帰しなければならないと復帰の道を求めるのです。それでは復帰とは何でしょうか。復帰をどのようにするのでしょうか。再創造の過程を通じてするのです。

           

 復帰の道は人間が元の姿に帰っていく道なので、蕩減条件を立てなければ行くことができません。蕩減条件は、神様がお立てになるのではなく、人間が立てなければなりません。病気になった人が病気を治すためには、薬が苦くて飲みたくなくても飲まなければなりません。良薬口に苦しです。苦いのが本当の薬になるのです。蕩減条件を立てるのは、苦い薬を飲むように難しいことです。しかし、蕩減条件を立てなければ復帰できないのです。

           

 救援の道は、蕩減して復帰する道です。蕩減とは、堕落した経路に従ってさかのぼっていくことです。反対に行くことです。

           

 蕩減という言葉を知れば、すべてがとても良くなります。蕩減がなければ福もありません。統一教会において無限な黄金の塊とは何かと言えば、蕩減です。蕩減は死を押し切って、すべてを犠牲にし、すべての困難を克服することができる驚くべき単語です。

           

 復帰歴史とは、説明してあげてするのではないのです。やっておいて、勝利しておいて収拾するようになっているのです。説明してあげて行くようであれば、聖書新・旧約の六十六巻は必要ないのです。十枚ならば、すべて記録されます。六十六巻がなぜ必要ですか。くだらないのです。十枚も必要ないのです。三枚ならば全部記録されるのです。

           

 蕩減の概念は再創造のためのものです。ですから私たちには、再創造のための蕩減が必要だというのです。蕩減は、再創造されて本然の人間になるために必須なのです。本然の人間が出てくれば、本然のみ旨の道を行く人間が現れるのです。本然の人間が現れてこそ。皆さんは本然の人間ですか。堕落した族属です。堕落した族属ですから、蕩減を通して再創造されなければならないのです。

           

 アダムは、どのように堕落しましたか。不信から堕落したのです。不信が第一の原因です。その次は自己主張から堕落したというのです。自我主張、自己を中心としたのです。自己中心の立場で堕落したのです。その次は、自己を中心とした愛の圏を要求したというのです。これが堕落の三大要素です。不信、自我主張、自己を中心としたこと。その次には自己を中心とした愛の圏を夢見たこと。これがサタンの足場なのです。堕落した天使がそのようになったのです。

   

        

 先生が、なぜ皆さんに苦労させるのでしょうか。蕩減の道を行かなければならないからです。先生自身も一生蕩減の道を行こうとするのです。嫌々行くのではないのです。願って行かなければなりません。願って行かなければならないというのです。それを知らなければなりません。監獄にも願って行くのです。蕩減のためには行かなければなりません。不平を言えば蕩減にならないのです。

           

 私たちには蕩減の道が必要なのです。皆さんは、この世の中を救うためには蕩減の道を行かなければなりません。イエス様がいくら神様の本然の息子として生まれたとしても、世の中を救うためには蕩減の道を行かなければなりません。世の中ができないので、するべき人が全部反対するので、イエス様自身も行かざるを得ないし責任を負わざるを得なかったのです。

           

 復帰の道は、堕落した経路と反対の経路を貫いて行かなければなりません。蕩減の道は、堕落した者には原則として現れるのです。これを克服しなければ元の姿に復帰することができないので、自分を清算しなければなりません。個人的な問題から、家庭、氏族、民族、国家、世界をどのように復帰するのかという確実な理論をもっていなければなりません。


) 蕩減の道を行かなければならない理由


 再創造は本来、投入した力よりももっと投入しなければなりません。修理しようとするのは、新しくつくることよりも大変だという言葉と同じなのです。ですから創造よりも修理するほうが大変なように、それ以上に投入することを蕩減という条件で払わなければならないというのです。分かりましたか。蕩減という概念が分かるのかというのです。

           

 皆さんは神様のみ旨を深く知れば知るほど、サタンによって汚されたこの肉体、サタンの汚れた血が流れる自分の肉体を焼き殺してしまいたい思いになるのです。サタンに利用された手と足、この体全体を一度に切ってしまいたい思いになるはずです。サタンにより汚された自分の姿をそのまま保存していこうとするのは、とんでもないことです。皆さんは、このような心情を体恤してみましたか。しかし、そのように殺すこともできないので、私たちにはサタンとかかわり合った過去の自分を清算するための条件が必要なのです。

           

 復帰路程は一人で行くことができません。必ず再創造の原理を通し、神様と霊界の協助を受けて行かなければなりません。また、そのようにならなければならないのが救援摂理なので、神様と霊界が動員されて再創造の役事をしているのです。なぜならば神様は人間を創造される前に天使世界を造られて、天使たちの協助を受けて万物を造られ、その万物を材料にして人間を造られたからです。

 完成は、蕩減完成を通じて成されます。蕩減の峠を越えない人には、絶対に完成の道はありません。それは内的な意味から見れば個性完成を意味しますが、神様の立場から見れば復帰だということができます。蕩減完成の基準を復帰完成だと言うことができます。復帰は蕩減を通じて成されます。ですから蕩減復帰というのです。それゆえ、蕩減と復帰は切り離すことができないのです。

           

 人類の先祖であるアダムとエバは、自分を中心とした間違った愛で堕落しました。天使長を介入させ堕落したことにより、神様を追放し、本然の真なるアダムの人格を追放し、本然の真なるエバの人格を追放した結果をもたらすようになったのです。

           

 神様は、堕落していないアダムとエバに現れます。ここから神様を発見することができます。私たちはみな堕落以前のアダムとエバ、罪のないアダムとエバの立場に帰っていかなければなりません。そこで真の父母を迎え、真なる氏族をつくり、真なる国家をつくり、真なる世界をつくらなければなりません。このような主張をするのは統一原理以外にはありません。

           

 天国は、神様を絶対的中心として侍り、神様を通じて愛の因縁を結んで生きる所です。この根本を正しく立てるために神様は救援摂理をされるので、自分を立てれば絶対にできないのです。



 二 信仰基台と実体基台

  一) メシヤのための基台

 信仰基台と実体基台を復帰してメシヤのための基台を成すのは、原罪を脱ぐためです。原罪を脱げば、神様の生命圏と愛の圏内に新たに越えていくのです。そのようになろうとすれば接ぎ木されなければなりません。質の悪いオリーブの木を真のオリーブの木にするためには、質の悪いオリーブの木を切ってしまって真のオリーブの木に接ぎ木しなければなりません。


 同じように質の悪いオリーブの木のような人間を真のオリーブの木のような人間にするためには、自分自身を否定する過程を経て新しい肯定、あらん限りの肯定を提示する過程を経て越えていかなければなりません。そのようにすることにより、その本質素性が質の悪いオリーブの木ではなく真のオリーブの木と化して、完全に善のみを主としたそのような人間として登場し、一つの家庭、一つの氏族、一つの民族、一つの国家、一つの世界を形成していくのが統一教会です。そしてこれがきょうの日、統一教会の食口たちが願う現在の立場であることを皆さんが知らなければなりません。

           

 信仰の基台を何で復帰しますか。祭物で条件を立てなければならないのです。実体基台は堕落性本性を脱ぐことですが、それはカイン、アベルが一つになることです。体が堕落性本性を脱いで復帰されれば、堕落性本性がなくならなければならないので、血肉の感情が完全になくならないといけないのです。「東へ行け」と言えば「はい」と言わなければならないし、「西に行け」と言っても「はい」と言わなければならないのです。異議があれば復帰されないのです。異議があって復帰ができますか。絶対について行かなければならないのです。

           

 メシヤを迎えるためには信仰基台と実体基台がなければなりません。実体基台が完結されたのちは、メシヤのための基台が必然的に要求されるのです。それでは実体基台が完結されたのち、メシヤのための基台の位置に立つ者は誰でしょうか。堕落した人間の子孫として生まれた私たち人間は、サタンの血統を受け継いだので、いまだにその血統を越えることができません。その血統を越えるためには血統を換えなければならないのですが、人間は自分自身ではそれを成すことができません。それでメシヤが必要なのです。


           

 人間が堕落することによって、第一に父母を失い、第二にサタンの血を受け、第三にサタンの支配を受けるようになったのです。ですからそれを復帰するためには逆に上がっていかなければなりません。皆さんが原理を習うことによって、どこまで行くことができるかといえば、信仰基台を成し実体基台を成して、メシヤを願うことができるようになっています。これが原理です。ですから信仰基台と実体基台まで成そうというのです。外的に。

           

 人間は完成基準に入ったとしても、これはまだ血統的には完全に清算されていないのです。サタンの血統を受け継いだことにより、血統的にはまだ清算されていないのです。血統的に清算するには必ずメシヤが必要です。それで信仰基台、実体基台、メシヤのための基台が、堕落した人間には絶対に必要なのです。最後の問題は、どのようにメシヤのための基台をつくり、メシヤを通じて自分が血統転換を成すのかということなのです。

           

 信仰基台、実体基台を完成してメシヤのための基台を受け継ぎ、メシヤと接ぎ木するという驚くべきことをしなくてはいけないのです。接ぎ木されることにより、過去に質の悪いオリーブだったのを真のオリーブの木に変えられるようになるのです。言い換えれば、サタンの血統を脱いで善なる神様の血統に帰ってくるので、その位置を受け継ぐことができるところでのみ新郎新婦の位置を迎えることができるのが原理の道です。

           

 「復帰の道を最後まで行った」と言うことができる人は、この世の中にはいません。ですから滅ぶしかない人間になったのです。これを滅びないようにしようとして、このような内容を備え最後まで行くことができるようにする責任者として来られる方が、メシヤという方です。そのメシヤと接ぎ木されれば、私はついて行くことができるのです。統一教会には、信仰基台を立て実体基台を完成するようになればメシヤのための基台を成すことができる、という言葉があるでしょう。それがこのことなのです。

           

 復帰途上で、僕の僕時代から僕の時代を経て養子の時代、直系の時代に上がっていかなければなりません。それでは完全に僕の僕時代を経て、僕の時代、養子の時代を通過し、直系の時代と因縁を結ぶことができるのでしょうか。直系の時代と因縁を結ぶにはただ結ぶことができません。必ず原理によって信仰基台を経て実体基台を経、メシヤのための基台を経なければなりません。すなわち、メシヤを迎えなければならないということなのです。メシヤは神様の真の息子です。養子と真の息子とでは血統的に関係が違います。ですから血統転換が必要だというのです。

           

 さあ、それでは皆さんはどのようにしなければならないのでしょうか。皆さんは死ぬような苦労をしなさいというのです。縦的な歴史を横的に蕩減するために僕の子となれというのです。天使と同じように、神様が愛する韓国国民は僕の子となれというのです。僕になれというのです。そこにおいて主人になれば養子となるのです。養子になるのは信仰基台と実体基台を復帰することです。実体基台を復帰してこそメシヤのための基台が成されるので、これをしなければならないのです。

           

 皆さんは悪を屈服させて善を残すことによって、悪が自動的に順応できる立場に立ってこそ善なる人になるのです。それを原理的にいえば、実体基台完成です。9.5


           

 イスラエルがどんなに世界を復帰することができる国家になったとしても、その国家だけでは駄目なのです。皆さんは原理を通じて、カイン・アベルの実体復帰時代、すなわち実体基台というものを知っているでしょう。同じように、探し出されたイスラエル国家を中心としてカイン国家、すなわち天使長型国家を屈服させなければなりません。それを武力でするのではありません。アベルが兄であるカインによって殺されたので、死ぬ位置、すなわち打たれる位置に入って死なないで生きて彼らを屈服させることができる因縁をもつことができなければ、復帰の起点が現れないという事実を私たちは知らなければならないのです。

           

 復帰の道を行くために、まず信仰基台を立てなければなりません。信仰基台は、自分が位置を確保することができる確固とした基盤を築き、主体的な立場に立つために必要なのです。その次は、自分自ら目的に向かって行くことができるようになったとしても、それだけでは駄目なので、戻って来て実体基台を立てなければならないのです。

           

 実体基台とは何でしょうか。アベルの前にカインを屈服させることのできる基台です。カインとは誰でしょうか。怨讐の子です。このカインを通じて歴史的な闘争が行われてきたのです。カインを通じて悪の母体が根を下ろしたのです。カインを通じて今まで、死の波が歴史時代に向かって突っ走っているのです。このような事実を見る時、このすべての悪の要件と悪の側をここで防止するためにはアベル的立場、すなわち天の側に立つ人が、必ずカインの立場にいる人を屈服させなければならないのです。

           

 私たちが行く道は二つです。それはカインと自分のために行く道です。怨讐のための道まで経ていかなければなりません。それは何を意味するのでしょうか。カインを収拾していかなければならないということなのです。実体基台というのは何なのでしょうか。アベルが自分の道を修めたとしても、カインを完全に屈服させなければ神様の前に行くことができないのです。怨讐を導いていかなければなりません。怨讐と闘っていくのではなく、怨讐を導いていかなければならないのです。

 信仰基台が立てられたというのは、条件的立場で、神様を不信することによって堕落したことを、信じることができるアダムの立場、すなわち希望的なアダムの立場にもう一度立ったということです。このようになったのちは、サタンと闘って実体基台を立てなければならないのです。アベルの立場でカインを屈服させなければならないのです。

           

 皆さんは原理を通じて、信仰基台と実体基台を知っているでしょう。実体基台を成したとしても、その実体は神様の前に捧げることのできる実体ではなく、メシヤのための基台、すなわちメシヤを迎えることのできる実体となるのです。



  二) 結局は血統復帰が問題


 アダムが信仰を失って実体を失ったので、信仰基台を取り戻し実体基台を確保したのちでなければ愛を見つけることができないのです。アダムが失ったものとは何でしょうか。最初は信仰を失い、その次は実体を失って、その次に愛を失いました。この三つです。これを取り戻そうというのです。

           

 信仰基台というのは原理原則に立脚し揺れない人、夜も昼も四季が変わっても青春時代や壮年時代、老年時代になってもそのまま変わらない立場で、神様の原理と一致させることのできる信仰の基盤を立てなければならないのです。そうしてこそ、原理を通じた実体基台が成立するのです。信仰の基台の上に原理を通じて実体基台が現れ、その実体基台の上に原理と一つになった立場に立てば、対象価値の心情世界が賦与されるのです。これが堕落した人間の行く道です。

           

 先生が偉大な貢献をしたというのは、神様と人間との関係を愛を中心として確実にし、責任分担と蕩減路程、カイン・アベル問題、血統問題を確実にしたことです。カイン・アベルが一つになれなくてはメシヤは来ることができません。カイン・アベルが一つになることが実体基台が成され、メシヤが来てここで一つになってこそ血統復帰をすることができるのです。これが原理の要点です。原理の要点。皆さんは、このようなプログラムをすべて知って祈祷しなければなりません。ですから頭の中は、全部その思いでいっぱいでなければなりません。

           

 信仰基台、実体基台、その次はメシヤのための基台です。血統が問題になっているのです。アベルの勝利圏を中心としてアメリカの反対を押さえ、すべての自由世界のどんな国の反対にも勝たなければならないのです。全世界が私を反対しても、先生はその反対に押されなかったのです。原理がすべてあるのに、大ざっぱにできると思いますか。原理原則が鉄瓮城(注:堅固に取り囲んだたとえ)のようなのです。神様が公証した理論がそのようになっているので、仕方がないのです。あなた方が怨讐の国、悪魔までも愛したという条件を立てられなければ天国に入ることができる要件がないのです。イエス様が十字架にかかりながらローマ兵の槍で突かれながらも彼をお許しくださいという祈りをなぜしたのか知っていますか。それは個人ではありません。世界を支配するローマの国なのです。今日、キリスト教は個人救援を追求しているのではありませんか。


 三 なぜ蕩減復帰が必要なのか

  一) 蕩減復帰しなければならない二種類


 私たちが復帰路程を行くのに、なぜ蕩減法を重要視しなければならないのでしょうか。それは摂理的に見るとき、神様が創造したものを人間が滅ぼしたので、私が再創造しなければならないのです。再創造するためには、神様が創造の役事をするとき精誠を尽くしたので、私も精誠を尽くすその条件を復帰するのです。ところで神様がこの宇宙を造るとき、遊びながら踊りながら造ったのではないのです。ありったけの精誠の限りを尽くして、一〇〇パーセント投入して造られたのです。神様が創造された時と同じように、私が再創造するのが復帰の道なのに、ただ遊びながらしますか。

           

 元来アダム・エバが成長の各段階を完成するために、各々の責任分担が与えられていました。一段階の成長期間にはその段階の責任分担を、したがって三段階の成長には三段階の責任分担を完遂しなければなりません。ここには例外がありません。すべての人は同じ条件をもっていて、責任を完遂することによって成長することができます。もし神様が堕落人間に同じ量の責任分担を要求されたならば、堕落前の本来の位置に私たち自身を復帰する希望は少しもありません。責任分担を完遂することができる機会を失った代わりに、私たちは蕩減条件を立てなければならないのです。

 責任分担と蕩減は、一つは右側の立場であり一つは左側の立場です。また、一つは右足のようなもので一つは左足のようなものですが、それを失ってしまったのです。責任分担も知らず、蕩減も知らないのです。ですから、どうやって行くのですか。そのようにしては行くことができないのです。責任分担と蕩減復帰を連結しておかなければ前進は不可能だということを知らなければなりません。そのようなことを考えてみましたか。蕩減、嫌いでしょう。神様も摂理もみな嫌いでしょう。きょうからは新しく、御飯を食べることを忘れたとしても、寝ることを忘れたとしても、自分の愛する人を思うことを忘れたとしても、これを忘れてはいけません。そのように深刻なのです。神様もこれを通らなければならないし、レバレンド・ムーンも生きてこれを通らなければならないし、すべての統一教会の教会員もこれを通らなければならないし、全世界もこれを通らなければ行くことができないのです。みな何もなしに通過したいでしょう。博士や教授の位置をただ得ることができますか。そのコースを経てこそ博士になれるのでしょう。それを通過しなければ、それは偽物です。今こそ分かるでしょう。

           

 サタンを縦横に分別するのには、内的な蕩減条件と外的な蕩減条件があります。外的な蕩減条件はカイン・アベルの蕩減条件です。内的な蕩減条件は、アダムの蕩減条件です。この責任分担を中心として完全に屈服してサタンの支配権を取り除くとき、天の側が始まるのです。これが原則です。

           

 アダムはなぜ堕落したのでしょうか。アダムの堕落は責任分担を完成できずに、神様との関係、神様の愛の関係が切れたことです。責任分担を連結できず、その次には神様の愛に連結させられなかったのです。堕落することによって、責任分担を喪失し神様の愛の圏を喪失したというのです。

           

 サタンをどのように分別させるのでしょうか。蕩減条件を立てることができる立場に立ったアダムの代わりの存在にならなければなりません。ですから本然の基準において責任分担を完成した資格者となったアダムの位置で、愛を中心としてサタンと対決し、サタン側に対する人たちよりももっと天の側的に、サタン側で愛するよりも天の側でもっと愛したという条件を立てることによって分別が行われるのです。ここに蕩減条件が成立することを知らなければなりません。サタンは環境を支配しているので、中傷謀略をして、どんな手段を使ってでも切ってしまおうとするのです。しかしその環境を克服して、どんなことがあっても神様に代わってアダムが失った責任分担を取り戻すなら間違いありません。永遠なものです。そして神様を愛するのに絶対に誰が何と言っても、「間違いない」と言うことができる基準を立てなければ蕩減ができないのです。

           

 蕩減条件は何を分別させるものでしょうか。責任分担を完遂して、その次に神様を愛するものです。サタンがどんなに迫害して攻撃しても、それを退け、そこに動揺しないとき、サタンは打って打ちまくってそれでも退かないときは、自分が退かなければならないのです。このようにしてサタンを分別するのです。これが決定できなければカイン・アベルを蕩減する道がありません。

 縦的な蕩減条件は何によって立てなければなりませんか。責任分担完成と神様に対する絶対的な愛の復帰完成、この二つの条件です。このような基準があるのでイエス様も「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言いました。この原則からこのような言葉が出てきたのです。こうしてこそ聖書がすべて解けるのです。同じように皆さんも先生をそのように愛しますか。

      

     

 蕩減復帰の道は必ず行かなければなりません。サタン分立をしなければなりません。サタン分立をできないところには責任分担完成がありません。責任分担完成ができなければ天国に入っていくすべがありません。アダムとエバも追い出したのが神様の法度なのに、皆さんがアダムとエバより優れていますか。答えてみなさい。劣っていますか。優れていますか。劣っているのは、いつでも捨てることができるのです。ぼさぼさに頭をかき乱して歩き回りながら誰でも出入りするからといって、統一教会の教会員ではありません。原理をはっきりと知らなければなりません。

    

       

 生活観念は世界のために生きることです。世界のために生き、神様のために生き、さらには神様の解放と父母様の解放と世界の解放のために生きるのです。これが統一教会員の生活内容ではありませんか。解放するのに蕩減復帰だけ知っていては駄目なのです。責任分担というものがあるので完全に整備されるのです。

 カイン・アベルは責任分担を完成する責任がないのです。責任分担完成は誰がしなければならないのですか。アダムとエバ、すなわち父母がしなければなりません。先生にその責任があるので皆さんができないことを、キリスト教ができないことを、全部私が責任をもって四十年間父母の位置から個人で整備し、家庭で整備し、氏族、民族、国家、世界的に整備したのです。このようにして個人責任分担の蕩減復帰、サタンを追放できる壁を造っておいて……責任分担の完成圏を造ったので、ここから新しい世界が始まるのです。世界理想の位置から成されたので、これから天国が可能だというのです。それで天国創建という言葉、祖国創建という言葉が出てくるようになるのです。これがすべて原理的です。

           

 今までこの歴史を誰が動かしてきましたか。サタンが動かしてきました。ですからサタンを分別しなければなりません。サタンを取り除かなければ神様は入ってこれません。神様の領土ではありません。サタンの領土なので堕落した圏内から蕩減条件を立ててサタンを分別しなければ、追放することができる蕩減条件を立てなければ、神様の領域が拡大され神様が活動できる基盤が築かれません。ですから分別して追放してしまわなければなりません。

           

 サタン世界に、「いくらでも迫害してみよ、打ってみよ」と言うのです。私がお前たちを占領する。何によって。愛の力で。神様の創造の能力で。そうすれば神様が共にいるのです。ここには神様が共にされるのです。やってみなさい。共にされるかどうか。先生は監獄にいてもどんな拷問される所へ行ってもこれを忘れないで闘ってきた人なのです。そうやってこそ分別されるのではないですか。

           

 今日、統一教会員たちは蕩減の道を好まないのです。それは何かと言えば、復帰を好まないということです。「ああ、私は復帰というのは好きですが、蕩減は嫌いだ」と、こんな言葉はありません。それでは何が先ですか。復帰が先ですか。蕩減が先ですか。皆さんは、復帰が好きですが、蕩減は嫌いだと言うのですか。神側から見れば反対です。皆さんはどちら側ですか。神側ですか。サタン側ですか。これをはっきりと知らなければなりません。皆さんは復帰が好きです。しかし神側では復帰を好むことができないというのです。蕩減をした、蕩減を通じたのちに復帰があるのです。

           

 蕩減復帰、蕩減はなぜ必要ですか。蕩減せずしてはサタンを屈服させるすべがありません。本来神様の愛の焦点が個人に合えば、そこにはサタンがいますか、いませんか。原理的に見るとき、サタンがいますか、いませんか。

           

 蕩減復帰するには反対にしなければなりません。それで絶対信仰が出てきたのです。人類の先祖が不信して堕落したので、これを踏んで上がらなければなりません。私たちの先祖が堕落したその線以上に上がっていかなければなりません。絶対信仰をしなければなりません。私たちの先祖が堕落したその線以上に上がっていかなければなりません。絶対信仰をしなければなりません。絶対信仰は死ぬまで、死んでからも、死にながらも行こうとするのです。皆さんは絶対信仰を知らないでしょう。絶対信仰の限界とはどこですか。生命体をもった私自身と比較して言えば、死にながらも行くのです。私は死ぬとき、横に倒れるのではなく前に倒れるのです。そのような意味で死の道を選ぶのです。

 二つ目は自己否定です。一〇〇パーセント否定しなければなりません。自己否定です。私の見たい目、私の食べたい口、先生は三十歳までおなかがすかなかった日がありませんでした。これは私自身を否定することです。三つ目は絶対愛です。絶対愛は、怨讐を消化して敵を討つのが許しではありません。怨讐が自ら進んで自分の国と自分のすべての権限、長子の嗣業までも全部渡してくれなければなりません。渡してもらわなければなりません。

           

 サタン世界で蕩減を嫌う者はサタン側です。そして蕩減を好む側は神側だということが今分かりました。それでは自分自身をじっと反省してみなさい。自分が神側ですか。サタン側ですか。それは皆さんがよく知っているのです。皆さん自身に聞いてみなさい。今まで皆さんはみ旨に従ってきましたが、復帰を好むのはサタン側で、蕩減を好むのは神側であることをはっきり知ったならば、今からどの道を行きますか。

           

 皆さんもファンダレイジングをしたでしょう。「ああ、私はファンダレイジング嫌いなのに何だこれは」と言うでしょうが、これからが始まりです。これから逆に歩きなさいと言うかもしれません。「世の中が悪なのでお前たちは逆に歩きなさい!」と、そう言うかもしれません。世の中が逆になっていますから、悪なる人と一緒に行けば悪くなるので、私たちは反対に行かなければなりません。そうすれば善なる人になるというのです。それは理論的です。


四 蕩減条件は自分が立てなければならない

) 他の人が代わりに立てることができない


 蕩減条件は自分が立てなければなりません。他の人が代わりに立てることができるものではありません。堕落は主管権を失ったことを意味します。復帰のためには他の人がどんな干渉をしたとしても、自分自身の確固とした主体性をもって進まなければなりません。他の人がどんな道を行こうと、私の行く道は忙しいのです。前でどんな言葉を言ったとしても、そこに気を遣ういとまもありません。夜寝る時間もありません。落ち着いてゆったり座って御飯を食べる余裕はありません。そのような切迫した心情をもたずしては復帰の道を行くことはできません。

           

 堕落は人間がしでかしたので、蕩減復帰も人間自らがしなければなりません。罪を犯した者が罪を蕩減しなければならないのが原則なのです。父母が偽りの父母となったので、真の父母が来てそのすべてのものを蕩減してくれなければ、神様に帰っていける道はありません。このすべてのものを解決してくださる方が真の父母なのです。真の父母は、皆さんの生命を何千万、何億捧げたとしても換えることができない価値をもっておられる方です。ですから皆さんは真の父母を求めて、「命を懸けて従います」と言うことができなければなりません。

           

 人間が堕落することによってどんな結果が現れたのでしょうか。人間世界から神様が追放され、天使世界が追放され、万物世界を失って、その次には個人基準、家庭基準、氏族、民族、国家、世界基準をすべて失ってしまいました。その責任は誰にあるのでしょうか。その責任は神様にあるのでもありません。天使世界にあるのでもありません。万物にあるのでもありません。人間にあるのです。このような結果が現れたのは人間の責任です。ですから人間は、自分たちが責任をもって復帰路程を歩んでいくべき運命に置かれているのです。

           

 復帰の道は、堕落した経路と反対の経路を突破していかなければなりません。そして蕩減の道は、堕落した者には原則として現れるのです。これを克服しなければ本来の姿に復帰することができないので、自分を清算しなければなりません。個人的な問題から家庭、氏族、国家、世界をどのように復帰するのかという確実な理論体系をもっていなければなりません。

           

 皆さんが統一教会員として伝道をする時、「いやー、大変でできない」と言うならばどうなるか知っていますか。それは神様を中心としたことにならず、自分を中心としたことになるのです。このような原則を考えるとき、皆さんが統一教会に入ってきて活動するにあたって、行けないとか、不平を言いながら活動する人がいれば、不合格なことをしたということをはっきりと知らなければなりません。自分を中心として統一教会で働く人は、困難に遭うとすぐにレバレンド・ムーンと統一教会に対して不平を言いながら、今まで統一教会に入って働いたことが私のものだと主張するのです。

 蕩減条件は、自分自身が立てなければなりません。他の人が代わりに立てることはできません。堕落は主管圏を失ったことを意味します。

           

 天国は、神様を絶対的な中心として侍り、それを通して愛の因縁を結んで生きる所です。この根本を正しく立てるために神様は救援摂理をされるので、絶対に自分を立ててはいけないのです。

           

 アダムが責任分担を果たせなかったので、私たちは責任分担を全うするのに誰かの協助を受けては、その使命を完遂することができない立場にあります。最後の決定は、私たち自身がするのです。言い換えれば、善なる人になるのか悪なる人になるのかという決定は神様がされるのではなく、私たち自身がしなければならないのです。

           

 皆さんは、生命以上に懇切なる立場に立たなければなりません。ですからおなかをすかせた立場でも祈祷しなければなりません。断食をしながらも自分をすべて投入しなければなりません。神様の愛とともに生命力を万国に投入しなければならないのです。その過程では神様は絶対に答えられず、知らないふりをされます。干渉してはいけないのです。その投入が終わるまでは干渉されません。人間の責任分担とは何ですか。自分自ら完成することではないですか。同じように、自分が祈祷していくときは神様が干渉されないのです。かえって反対するのです。本当に不思議です。

           

 勝敗の起点をどこに置くべきでしょうか。先生に置いてはいけないというのです。先生がどんなに勝敗の起点をもったとしても、それは皆さんと関係がないのです。皆さん各自には五パーセントの責任分担があるのです。

           

 個人の生活環境が変わり、時代の違いが生じるに従って、その時その時ごとに神様が呼ばれる道の前に、相対となる立場を決定するためには、私自身が努力していかなければならない責任分担五パーセントの路程がいつもあるのです。それは個人を中心としてもそうであり、教会を中心としてもそうであり、国や世界を中心としてもそうだというのです。

           

 神様はどんな方なのでしょうか。玉座に座り、栄光を受ける神様だと思いますか。そうではないのです。堕落した人類に対して神様は今まで何をされたのでしょうか。人類を救援しようと毎日痛哭していらっしゃるのです。そのような立場で人類を引っ張ってこられたのが神様の姿です。神様はこのように悲惨な方です。悲惨な中に落ちた人類を救援するために神様は眠りこけた人類を起こして、「来い、来い」と言われるのです。しかし、そのようにして行くようにはなっていません。皆さんは責任分担を果たさなければならないのに、それを代わってあげることができない立場で、(救援)しようとされるのが、どれほど大変だったでしょうか。


  二) 責任分担の心構え


 人間は、自分が今生きているところが善側か悪側かということを決定しなければならない、中間位置にいます。また、私が善なる方向に行くのか悪なる方向に行くのかということも、第三者の力を借りて決定するのではなく、自分自らの判断によって決定しなければならないのです。さらに責任分担を全うすることができずに、堕落した人間の後孫になった私たちは、必ずこれを決定しなければならない、重大な岐路にあるということを知らなければなりません。



 五 蕩減法なしにはサタン分立はできない

  一) 私は分水嶺に立っている


 先生は監獄に何度も出入りしました。以北から以南まで行く先々で……。それを知らなければなりません。なぜ蕩減復帰しなければなりませんか。なぜサタンを分立しなければなりませんか。サタンを分立する目的は責任分担圏自由化のためです。堕落する前のアダムとエバがサタンの干渉を受けましたか。サタンの干渉を受けていては天の国へ行けないのです。皆さんは今どこに立っているのでしょうか。自分がどこにいるのかは、自分の良心が知っているのです。それはだますことはできません。私がどこへ行こうとしているのかを良心は知っているのです。

           

 蕩減復帰は不可避なものです。なぜ蕩減復帰しなければならないのか、なぜサタンを分立しなければならないのかといえば、自然な本然の責任分担、自由環境基盤を必要とするからです。そうすればサタンが讒訴できないし、サタンが因縁をもつことができない位置を私が占有するようになるからです。それで蕩減復帰、責任分担完成という基準は論理的にも不可避です。ですからサタンを分立しなければならないのです。ですから御飯を食べないで座っていても、サタン世界とは関係がないという考えをもっていなければなりません。ここが分水嶺です。これが境界線です。

           

 蕩減復帰の道は、サタンを分立するための道です。サタン分立をなぜしなければならないのでしょうか。責任分担圏を探すためです。本来責任分担圏は、サタンがいない所です。アダムの責任分担がそうです。アダムの責任分担圏は本来、サタンが侵犯できる基準ではありません。その確実な思想を注入しなければなりません。私たちはいずれにせよ行かなければなりません。責任分担を完成して神様の愛の中に接ぎ木されなければなりません。神様の愛の中に接ぎ木しようとすれば、サタンを分立しなければなりません。サタンと因縁をもったすべてのものを、完全に分立しなければなりません。

           

 蕩減復帰は、なぜ生じたのですか。堕落以後、何のために生じたのですか。責任分担がなければ蕩減復帰という言葉も必要ありません。人がどの位置で堕落したのかというと、責任分担を果たしていく過程で堕落したのです。このとき堕落した人間は、責任分担圏をサタンに渡してしまったのです。サタンに奪われてしまったのです。それゆえこの責任分担圏を、もう一度取り戻してこなければならないのです。

           

 もし堕落した人間の前に神様が責任分担を設定しなかったならば、今日の統一教会で主張する蕩減復帰という言葉は出てこなかったはずです。ただそのまま復帰すれば良かったでしょう。蕩減しなければならない! なぜ蕩減しなければならないのでしょうか。人間には責任分担があるからです。人間が完成しなければならない責任分担を自ら壊してしまったので、その賦与された責任を果たさなければならないのです。そのようにするためにはサタン世界のすべてのことに勝利し、サタンを主管する位置に立って、堂々とサタン世界の反対環境を取り除いたその位置に立って、神様の愛を受けることができる位置に入らなければなりません。そのようになればサタンは離れるのです。

    

       

 堕落した子孫である私たちには、責任分担圏が残っているのです。責任分担を中心として見るときに、個人的な原理結果主管圏で個人完成して神様の愛と連結させ神様の直接的な愛の因縁を結ぶことができる基盤をもったのかという時、もてなかったというのです。蕩減復帰はなぜ必要かといえば、サタンを分立させるためです。サタンを分立しなければ責任分担を果たすことができません。

           

 責任分担がどんなに重要かを、みんな知らないで生きてきたのです。これが解放の基準です。蕩減復帰とは何ですか。責任分担を完成できる自由環境をつくるためのものです。サタンが侵犯するので、サタンを防御するにはどのようにしなければならないでしょうか。サタンよりも神様をもっと愛し、人類をもっと愛さなければなりません。サタンよりも神様を憎み、人類を愛する反面、私たちは「私はお前より神様をもっと愛し、人類をお前よりももっと愛する」と言わなければなりません。堕落しなかった人間がもっていくべきその基準を中心として、一方通行化させることができるこのような立場に立たなければ、サタンを分立することができません。

 蕩減復帰はなぜ必要なのかいえば、サタンを分立させるためです。サタンを分立しなければ責任分担を全うできません。

           

 サタンは、責任分担が果たせなかったという条件の上に侵犯しました。ですから責任分担が終われば、サタンは追放されるのです。責任分担を完成すれば、サタンはいることができません。

           

 皆さんは、責任分担完成圏に立っていますか。未完成圏に立っていますか。未完成圏に立っているのに先生と何の関連がありますか。それを知らなければなりません。蕩減復帰をなぜしなければならないのですか。責任分担を全うするためです。責任分担を果たすにおいて本来、堕落する前の責任分担圏はサタンが讒訴することができないのです。サタンが侵犯するその場においては責任分担圏が出てきません。ですからサタンが侵犯できないのです。その場が監獄です。

           

 神様を愛する力をもって、サタン世界の監獄を自ら進んでいくのです。サタンが一番嫌う所を、私が一番喜んで歓迎するのです。この世の中の人たちは苦労を嫌うでしょう。統一教会の教会員は苦労が好きです。なぜ好きなのですか。蕩減復帰をしようとするからです。驕慢はサタンがする行動です。サタンは、下がっていく所へは下りていけないのです。

           

 サタンを防御するには、神様を誰よりも愛さなければなりません。この世界の誰よりも愛して、宇宙を誰よりも愛さなければなりません。自分よりも愛さなければなりません。自分は堕落した人間なので、自分より愛さなければならないのです。サタンは神様より自分を最も愛し、世界より自分を最も愛しました。それがサタンです。ですから個人主義を中心とした皆さんは、サタンの王者たちです。自分を思う人は、そうです。

           

 責任分担法がなければ整理ができません。責任分担があるのでサタンもきれいに整理されて、国もきれいに二つの国に分かれて境界線をはっきりさせて、神様の愛を中心とした宇宙的な主管圏時代に入っていきますが、これが神様が霊界と肉界を直接主管する天上天国です。地上天国です。はっきり分かりましたか。皆さんが問題です。皆さんはどこにいるのかといえば、いつも境界線にいます。個人を中心とした蕩減復帰の境界線においては、サタンがついてきてはいけないのです。

           

 統一教会の教会員の生活観念とは何でしょうか。世界のために生きるというのです。世界のために生き、神様のために生き、さらには神様の解放と父母様の解放と世界解放のため生きるのです。これが統一教会員の生活内容とならなければなりません。


  二) サタン圏(堕落圏)を脱するには


 完全に救いを受けるには、自分の罪を清算しなければなりません。皆さんの過去と現在のすべての生活を通じて犯した罪を清算しなければなりません。罪を清算するには、原理原則に食い違いがないようにしなければなりません。

           

 堕落して故障したので、故障を直すには故障する前の原理原則に従って合わせなければなりません。そして創造法度に一致できるようにするためには、再創造歴史の過程を経なければならないのです。堕落は相手のために自分を投入しないで、反対に相手に自分に投入しろというところから始まったので、反対に投入することを経なければなりません。ですから宗教は自分を犠牲にしなさいと言うです。

           

 アダムとエバの堕落以後、人間がかかった病気とは何ですか。サタンを中心とした愛の病気になり、間違ったその愛の病気でサタンの血統を繁殖させてきたのです。言い換えれば、サタンの血統を受けてサタンの直系として生まれたのが病気なのです。ところでその病気はどのように出発したのでしょうか。神様が立てた秩序と天地の道理、環境などすべてのものを否定して、自分を中心として愛したところから堕落の病気が始まったのです。ですからこの病気を治すには、自己を否定し神様を絶対的に中心として生きなければならないのです。天使長やアダムとエバが神様を中心とした愛を願ったならば、堕落しないで理想世界を成したはずです。

           

 サタン圏を抜け出すには、神様を中心とした観をもたなければなりません。そうでなければ抜け出すことはできません。それ以外には抜け出すことができないので、このような道を選ばざるを得ないのです。

           

 私が行かなければならない道は難しいけれども、私の前を行かれる神様がいて、私のそばで歩む友達がいて、私たちの兄弟がいるという事実を考えなければなりません。また、人類が行くべき未来の運命の道が、まだ私たちの前に残っているということを考えなければなりません。私の生命が尽きるまで行くと考えなければなりません。そのような考えをもつことによって、サタンが自分を中心として堕落した基準を越えていくのです。私中心ではなく、神様を中心とした考えをすることによって堕落圏を越えていくことができます。ですから統一教会で最も大変な時は、最も大変なサタンの堕落圏をけり飛ばして解放され得る日が近づいたことを意味します。

           

 元来堕落は死の境地に落ちたことなので、救援するために死の境地に飛び込まなければなりません。どうせその過程を通過しなければならない運命ならば、男らしく喜びの心で臨む皆さんにならなければなりません。そのように決意をもってみ旨の道を歩む食口が多くなれば、世界は新しい方向に進むのです。私たちはその母体を成す心情に燃えています。皆さんの心の中には、生死の境界を超越できる信念がありますか。

           

 先生は何十、何百、何千、何万にもなる生死の境界線を見守りながらサタンと対決して来ました。言い表し難い大変な環境が波のように何度も押し寄せても、先生が立てた基準は変わりません。足が折れたとしても、目の玉が落ちたとしても、首が飛んだとしても、出発した時の心情基準から外れません。ですから死ななければ勝利するのです。

           

 どのようにすればサタン圏の愛とサタン圏の血統が脱げますか。自分を愛して自分だけ考えればいつでもサタンは引っ張っていきます。反対に私を否定し、神様を中心として考えて生活するようになれば、サタンは私を管理できず、神様が臨在して管理するようになるのです。それによってサタン世界の天使長圏から解放され得るのです。堕落した天使長の位置から堕落しなかった位置に上がっていくのです。

           

 死ねというのです。死んだふりをなさい。あの足の裏に何度も踏まれよというのです。私が知るところによれば、高いところに上がって心と体を一つにすることのできる道はありません。天下に高い心をもって上がれば、一つになる道がありません。踏まれなければなりません。先生も高くなるのではと、神様が四十年間足で踏んでしまったのです。踏んでしまったので、上がろうとするのがすりつぶされて一つになるのです。三千里半島を歩き回った金サッカ(一八〇七―一八六三。本名は金炳淵。家門が滅んだのを嘆き、生涯放浪生活を送り、多くの風刺の詩をつくった)のように、ののしられ、踏みにじられ、ぞんざいに扱われながら、さまよわなければならないのです。そうしながらもそれを消化することができ、それをみな喜んで消化できる自分自身を発見しなければなりません。

           

 「愛という枠をもって私がサタンよりも愛するという心で、神様を愛し、宇宙を愛する心をもって、神様のみ旨と人類の解放のためにどん底に下りていく」と言うことができなければなりません。下りていくのはどういうことでしょうか。踏まれてみなさいということです。四十億人類にみな踏まれてみよというのです。踏まれても不平を言わないのです。感謝し、愛によって消化するのです。このようなことをしなければなりません。


 六 信仰は蕩減法を守っていくこと

  一) 信仰と蕩減


 統一教会は九八パーセント、九五パーセント生活的な面が全部信仰です。九五パーセント神様が造られたものを失ってしまったので、九五パーセントやってこそ再創造が始まるのです。その上でさらに五パーセントまで私がしなければなりません。ですからどんなに大変なことでしょうか。堕落していなかったら九五パーセントは天がしてくださり、五パーセントだけを私がしていたでしょうが、堕落したことによって神様がもう一度してあげることはできないというのです。再創造を私がしなければならないのですが、九五パーセント、プラス五パーセントです。ですから死ぬ覚悟をしなければなりません。犠牲になる覚悟をしなければなりません。世界蕩減路程を歩みきるまでは、楽な考えをしてはいけないのです。

           

 先生がこの地に来て信仰世界に残した偉大な内容は四つです。神様と人間との関係をはっきりさせました。責任分担と蕩減というものを、この歴史の中で誰も知らなかったことをはっきりさせておきました。その次に、良心的な人は生きていくことが難しく、悪人は良い生活をしていますが、これはどうしてかということです。蕩減法、カイン・アベルの問題を知らなかったことを、これをはっきりさせました。

           

 人間は堕落性を相続して習慣の奴隷になってしまいました。今日においては宗教者までもこのような惰性に浸り安逸な生活をする傾向があります。習慣的な信仰生活は危険です。このような信仰生活はサタンの讒訴条件を提示させてしまう要因になります。人間たちが復帰路程を歩んでいくにつれて一人でも失わないようにしようとするサタンは、あらゆる方法を通じて再侵犯の機会をねらっています。サタンは個々人が立てた蕩減条件によって個人から離れていかなければなりませんが、また再び家庭的次元、民族的次元において、侵犯することもあり得るのです。

           

 私たちが行くべき公式路程がありますが、皆さんはそのような公式をはっきりと知らないでいます。「私たちには蕩減が必要ない。何のために私たちがこの大変な蕩減の道を行かなければならないのか」。このような人はサタン圏内で死ぬしかありません。サタンは彼らの圏を主張します。皆さんはこのようなサタンの領域を征服しなければなりません。サタンを退かせなければなりません。サタン圏を占領しなければなりません。果敢に立ち上がりなさい。過去のことを清算しなさい。これが信仰生活において皆さんがしなければならない責任です。はっきりと知らなければなりません。

           

 蕩減復帰は条件復帰ではありません。事実蕩減だということを知らなければなりません。このようなものは原理にはありません。条件蕩減でありながら事実蕩減というようなことは初めて聞くことでしょう。したがって今までの復帰路程を考えてみると、サタン世界で一番良心的な一人を立てます。ノアが正にそのような人でした。ノア一人の信仰を絶対信仰の基台の上に立て、ノアの家庭を中心として着陸するようになります。絶対信仰の男性、絶対信仰の女性、絶対信仰の四位基台が必要です。

 神様は堕落した人間を蕩減復帰させようとして宗教を立てられました。神様は宗教を通じて神様中心の精神を強化させる方法、生と人格に対する肉体の支配を逆転させる方法を教えておられます。宗教が断食、犠牲的奉仕、温柔で謙遜な態度などを要求する理由は正にこのようなところから来ています。これは肉体の勢力を減少させ、肉体をして精神に服従させる方法です。信仰生活を通じて、肉体中心的な生活習慣から脱して新しく精神中心的な生活方式をつくっていくまでに、通常三年ないし五年かかります。

           

 蕩減は、何を中心としてするのでしょうか。蕩減の内容とは何でしょうか。サタンをより愛するのか、神様をより愛するのかという愛の問題です。すべてのことが愛の問題です。蕩減するには神様を絶対に信奉しなければなりません。ところがサタンは神様を絶対に信奉しませんでした。背信したということです。始めてから、中間で神様を背信しました。それゆえに、まず蕩減の道を行くに当たって信仰や行動が絶対的でなければなりません。

           

 蕩減路程というものは責任分担圏を立てなければなりません。この責任分担は何を中心としてしなければならないのでしょうか。より天を愛すること、より絶対的な信仰とより絶対的な愛をもたずしては、サタンを屈服させることはできません。

           

 今までの蕩減復帰時代は過ぎ去りました。蕩減復帰時代は過ぎたために、これからは法的な行動に即座に引っ掛かる時です。蕩減復帰時代は帰っていくことです。第一次ができなければ第二次に移るので、前進的な発展に通じることができる過程でしたが、今の時は蕩減復帰時代が過ぎたので復帰時代です。今は復帰時代であるだけに誤ったことを後日に延ばして解決する時ではありません。即刻的です。このようなことをはっきりと知って、過去のかすかな信仰概念があったならば、それをけり捨てて先頭に立つ覚悟をしなければなりません。

           

 み旨のために行く道で先生自身の生活を中心として見れば、誰も理解できない道を歩んできましたが、その背後で天が理解してくださるその二面的な深さと幅がありました。そのような事実を考えるとき、それは不幸ですか、幸福ですか。幸福なことです。彼らが私に反対するのは、反対したくてそうするのではありません。反対しなければ蕩減復帰は成立しません。天がすべてさせているという事実を知って、皆さんは感謝しなければなりません。感謝していけば、結局は私が考えもしなかった世界に行くことになり、私に反対していた世界は考えもしなかった結果の世界に落ちてしまうということです。それゆえ、天に侍っていく人の生涯は感謝しなければならないということです。

 

          

 自分が行った忠誠の実績をもって、それを貴く思い、天の前に一歩一歩前進することが貴いことであって、欲を出して祈祷するとしても、騒がしくするとしてもみ旨がすべて成就するというわけではありません。蕩減復帰の道を中心としては自分を第一に立てる人はみな流れていくのです。文先生は自分が一番素晴らしいと言いますか。私が今まで皆さんに教えたことは、私が行わないで教えたのではありません。私がすべて行ってから教えたのです。

           

 神様の解放は、真の父母と一つになって地上のすべての祭物を捧げることができるサタンの讒訴条件を清算しなければできません。皆さんが、どのようにして神様の心情的な所有権に帰着するのでしょうか。父母と皆さんと万物が平行線上で神様の所有だと決定することができる位置をもつことができなかったということです。これを蕩減復帰しなければなりません。

           

 皆さんが蕩減復帰の道を歩んでいるという事実、責任分担という宿命的な道を歩んでいるという事実をどれだけ感謝して受け止めましたか。もう一度考えてみなければなりません。「ああ、統一教会の原理のみ言は良いが、蕩減復帰は嫌だ」と言うことはできません。大学に入るためには、その関門を通過するために試験を受けなければなりません。私が願う反対の道が横たわっています。これを解決しなければ学校に入ることができません。同じことです。統一教会の行く道は簡単ではありません。

           

 私がどうしてついて行かなければならず、私の心がなぜ促され、良心が生きた心地もなく追求されているのかということを、皆さんは誰よりもよく知っています。私の心はどうしてこうなのだろうということです。正道が目の前にあるがゆえに従って行くべき歴史、人間が行くべきであり、私が行くべき蕩減復帰の深刻な運命の道が残っているからです。落ちてしまってはこの道は行けません。御父母様の背に乗っていくまでは、行く道がないということです。いくらはえが汚くても、走っている千里馬の腹の下にくっついて落ちることなく忍んでいけば、千里の道を行けるのと同じことです。ひっくり返ってもくっついていかなければならないのです。落ちてはなりません。

           

 今日、信仰をする人たちは蕩減復帰の道を歩んでいるということを忘却しています。アダムとエバがどうして堕落したのでしょうか。責任分担路程を忘れてしまったからです。現実を忘却してしまったから堕落しました。責任分担圏を残したまま人類は呻吟せざるを得ない立場に立ち、この責任分担圏さえも自由に迎えることのできない立場になりました。堕落した人間であるがゆえに、責任分担圏を自由に迎えることができるその位置まで出てくるためには、今日の歴史的なすべての堕落圏を解脱していかなければなりません。そうでなければ復帰の道に出てくることはできません。

           

 蕩減復帰を完成した人は手を挙げてみなさい。こいつ、こん棒でたたかれて、罵声を浴びせられ、雷に打たれなければならない邪悪な者たちよ、見なさい。これをしなかったら先生もどうにもなりません。先生ははっきり教えました。そのとおりに霊界が変形されるのです。皆さんがこれをできずに逝けば、あの世に行って必ず引っ掛かってしまうのです。いくら夫婦同士が息子、娘を愛したとしても、全部行ってストップです。霊界に楽園ができたのと同じように、統一教会において天国に入る前の家庭楽園ができてしまうのです。

 そこでは愛し合うこともできません。どうやって愛し合いますか。我が子だからといっても、愛したくとも愛することができなくなっているのです。そこに行けば、どうしますか。夫に「あなたは私を愛していたのに、ここに来てどうしてそうなの」と言ったとしても、愛することができなくなっています。愛することができません。自分が立っている位置では愛するようになっていません。

           

 皆さんに聞きたいことがあります。皆さんは蕩減復帰の道を歩いてきましたか。そのように生きてきましたか。長子復帰をしなければならない運命として私の前に長子復帰の道が立ちふさいでいるのに、これを必死に努力して、どのような代価を払ったとしてもこの峠を越えなければならないといって身もだえをしましたか、しなかったのですか。しなかったのですね。ただ先生について来たのでしょう。先生がどうだから? 先生が好きだからですか。どうしてついて来たのですか。ついて来たその動機も、原理よりも先生が好きだからついて来たのです。

           

 統一教会に入り、すべて腰掛けていて天国に行くと考えてはいけません。心情圏を相続しなければなりません。皆さんは、いつ蕩減復帰すると考えましたか。いつ蕩減復帰しますか。蕩減復帰するために行けと言うのに、いつ行きましたか。

           

 人間にとって一番難しいこととは何でしょうか。サタンの三大門がありますが、一つ目は食べることです。この口は、食べて食べて食べたら、もっといい物をくれと言います。しきりにそうします。その次は休むことです。寝さえすれば、しきりに休みたいのです。そうでしょう。仕事をしたくありません。その次は何ですか。情欲です。浮気をしようとします。統一教会で浮気をして男女問題があれば一箇所に連れていって、ガソリンを掛けて燃やしてしまうでしょう。そのような時が来るのです。私が、そのような指示をしないからこうなのです。神様が、エデンの園にいたアダムとエバを追放したでしょう。この子たちを処理する道がありませんでした。ところが今は大変おびただしいほどあります。ですから深刻だというのです。



 七 蕩減の道は絶対服従、絶対順従の道


 宗教人は、なぜ絶対服従をしなければならないのでしょうか。絶対的な主体の前に絶対的な相対になろうとするので絶対服従しなければならないというのです。そして悪に対しては、死んだとしても絶対相棒になってはいけません。愛せよと言っても、悪と絶対相棒になるなというのです。人間は愛しますが、人間と一つになっている罪を愛してはいけないということです。皆さんは、これを知らなければいけません。

           

 神様が絶対的ならば、私も絶対的な位置を願わなければなりません。神様が不変ならば、私も不変でなければなりません。神様が唯一ならば、私も唯一でなければなりません。神様が永遠ならば、私も永遠でなければなりません。このような観点で人間の永生は不可避です。それは結果的な帰一点でないわけがないという結論を堂々と下すことができると見るのです。いくら神様に愛があるとしても、私に愛がなく、いくら神様に生命があるとしても、私に生命がなく、いくら神様に理想があるとしても、私たち人間に理想がないならば、すべてが無駄だというのです。

           

 我欲をもってはいけません。先生を中心にして完全に絶対的に一つにならなければなりません。一つの根です。根を引っ張れば、引っ張られていかなければならないのです。幹や枝は、自分の存在意識をもつことはできません。主張することができません。二つの方向はあり得ません。一つです。これが勝利的基盤を築き、位置を確保すれば東西南北に自由が広がるというのです。そうしなければ自由がありません。どういうことか分かりますか。ですから自由行動をすることができません。

           

 今までの道人たちは、何を中心に生活してきましたか。イエス様もかわいそうな人です。人間的に見れば何の主張もない人です。夜も昼も神様のみ旨だけをもって、自分の旨はないのです。神様のみ旨の前に絶対服従でした。絶対服従! なぜ絶対服従したのでしょうか。絶対的な主体、円形的な主体がいるにもかかわらず、もう一つの三角形的主体の圏を成したのがサタンなので、そのサタンを取り除くためにそうしたのです。今日、人間はサタン圏の中に隷属しています。サタン圏内に隷属している人間を脱出させるためには、サタンが一番嫌がる道を行かなければならないのです。それで宗教は良心を中心に絶対服従しろと言うのです。良心と心が、本来は神様が絶対的なので絶対的な神様を中心に絶対的に一つになるようにしようとするので、宗教世界ではマイナスになれと言うのです。

           

 絶対的に服従しなさい。絶対的に服従することは滅亡することではないのです。服従したらどうなりますか。一つになります。一つになったらどうなるのでしょうか。悪は反発するのです。完全に一つになっているので、悪は反発するのです。それで悪を取り除くことができるというのです。これが原則です。

           

 神様のみ旨には、神様の理想的なみ旨と、人間が堕落してしまったので蕩減復帰しなければならないみ旨があります。二つあるということを知らなければなりません。それではどのようなみ旨の道を行かなければならないのでしょうか。二番目です。それではその二番目のみ旨の道には、天に従って信仰生活をする人たちが自由にすることができる内容が、少しでもあるのかということです。これっぽっちもないのです。

           

 絶対的な信仰をしなければいけません。「統一教会を信じるか」と言う時、「絶対的に信じて行く」と言わなければなりません。

           

 絶対信仰とは何でしょうか。自分が信じているある宗教の指導者がいたら、その指導者と私は歴史的に数千年という遠い隔たりがありますが、信じる心を中心としては平面的に対等な時代圏内に入ることができます。それで絶対的に信じなさいというのです。絶対的に信じる時、その人と一緒にいるということが分かるようになるのです。またその人と一緒に暮らしているということが分かるようになるのです。このようなことを新しく認識させて刺激させるためのものが、信仰だということを知らなければなりません。

           

 残るものは何でしょうか。絶対信仰も去り、絶対服従も去りますが、最後には絶対愛が残るのです。信仰と愛と希望、この三つはいつもありますが、その中で一番は何ですか。(愛です)。信仰も去り希望も去りますが、最後には愛が残るというのです。同じことです。絶対信仰も、みな去ります。

           

 死ぬところでも答えなければいけません。死ぬと言って目を閉じて「私は、死んだ」と言っていれば、既に別の世界に行っていたということです。飛躍が起こったということです。統一教会はそのように発展してきたのです。気が詰まり、息が詰まり、四方が堅く絞められて、地に入ることも天に跳ね上がることもできないその場を、死を覚悟して乗り越えていけば、生きておられる神様は間違いなく顕現されるのです。ですから私には神様がいるか、いないかということは問題になりません。そして怨讐を消化しなければいけません。怨讐を愛さなければなりません。その道は、易しくはありません。自己否定を何十回、何百回するだけでなく、怨讐を愛することができるところまで行かなければなりません。そうでなければ神側に立つことができません。

           

 宗教は、肯定概念から始めることができません。先祖がそうしたのです。それを否定する第一条件が何かというと、絶対信仰です。絶対信仰。分かりますか。そう、あなた方は絶対信仰を身につけましたか。ですから苦行の道をなぜ行くのか、その原因を暴かなければなりません。きょう文なにがしが来て、宗教の秘密世界をすべて明らかにすることを願うでしょう。なぜ苦行の道を行かなければならず、犠牲にならなければならないのか、なぜ絶対に信じなければならないか、と牧師たちを呼んで三つのことを聞いただけでも答えられず、「そ、それ信じることによってすべての救いを……」と言うのです。そのような妄想的なサタンの煙幕戦術に引っ掛かってはいけません。

           

 さあ、統一教会がそうです。統一教会員たちが蕩減復帰するためには、反対の行路を通じて行かなければならないだけに、自己認定、自己肯定から始めるのではありません。完全否定です。完全な宗教は自己否定から、堕落した世界の完全否定から始まります。それで世界を否定して、国を否定して、氏族を否定して、家庭を否定して、妻夫、男性女性自体を否定して、私の体と心自体を否定しなければなりません。否定の版図がどのくらい大きいか知らなければなりません。私の心を中心にして体まで否定しなければなりません。

           

 統一教会を信じて福を受けようという考えをしてはいけません。福をあげようという考えをしなければなりません。統一教会自体内の福を国と世界のため、もっと大きいもののためにあげると言わなければなりません。そのように行く時、レバレンド・ムーンが皆さんの進路に責任をもちます。皆さんの足を私が引っ張りはしません。そのような人にならなければなりません。

           

 表では好きですが、心の中で頭を横に振る人がいます。このようなことを見るとき、良い性稟をもって生まれなければならないというのです。信仰の道において自己と闘って勝つということは、世界を克服することよりも難しいのです。このような観点で見るとき、第一次の十字架は自己を克服しなければならないということです。

 では、今まで責任分担の蕩減歴史を誰が全部しましたか。それをお金で返すことができますか。皆さんの家を売って、国を売って返すことができますか。それでは、何をしなければなりませんか。することはありません。ただ絶対服従です。皆さんが二十代までは絶対服従です。二十代になる前にエデンの園でアダムとエバがお尻を振って堕落したのです。自己主張していてです。二十代までは絶対服従です。二十代前は服従しなければなりません。ですから子供たちは絶対服従です。絶対服従を教えなくても服従するようになっています。彼らももし父母と一つになれなかったならば滅ぶということを知っているのです。神様と一つにならなければ滅ぶというのです。

           

 四大心情圏と三大王権を失ったので、これを取り戻さなければなりません。これを成すためには絶対服従と絶対従順と絶対犠牲を中心として順応し、何をさせたとしてもすべてをやると言わなければなりません。そのようにしてこそ、父母がサタン世界からここに来るのです。ですからサタン世界の男性は天使長だから切ってしまわなければならないのです。そうすれば、ここから上がっていくのです。

           

 カナン復帰路程では先生について行かなければなりません。雁が大洋を渡るとき、親分雁の前に絶対服従です。異議がないというのです。「飛べ」と言えば飛ぶのです。死ぬほど疲れても、ただついて行かなければなりません。今までそのようなことをしてきたのです。今は目的地に来てひなを産む時です。すべてこのようになっているので、同族同士お互いのために生きて、愛して、一つの族属を成して、族属自体を誇ることができる、そういうことをしなければならないのです。これが今この時、しなければならないことだと言ったのです。今まではカナンの福地に向かっていく時でした。今は定着時代に入ったのです。

           

 本当の孝子は服従する者です。本当の忠臣は奸臣に追われて死んだとしても、王に対して無能な王だと言うのではありません。奸臣に追われて死にながらも、忠臣の志操でかわいそうな心を抱いて涙を流しながら王の安泰を願う人が、本当の忠臣です。絶対服従です。絶対服従で成功をもたらすことのできるただ一つの道は、真の愛の道しかありません。

           

 先生は今まで「ああ、お前たち、先生の言葉に絶対服従しろ」とは言いませんでした。私たちは歴史的な路程に順応して行かなければなりません。歴史的路程とは何かと言えば、神様のための摂理的な歴史路程です。今まで皆さんに復帰摂理路程を教えてあげたのは、そのような意味からです。統一教会の文先生のために教えてあげたのではありません。ですから先生も行くのです。人類の目的を成していくのです。その目的を一点に結末を見ることができなかったので、この結末を締めくくってあげようとするのが今日、この時代の統一教会が主張する統一原理であり、統一思想だということを知らなければなりません。