第二篇解説文    1

第一節真のお父様の聖誕とその背景    1

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第一節   真のお父様の聖誕とその背景    1

第二節真のお父様の家系    1

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第二節   真のお父様の家系    1

第一節真のお母様の聖誕とその背景    1

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第一節   真のお母様の聖誕とその背景    1

第二節真のお母様の家系    1

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第二節   真のお母様の家系    1

第三節真のお母様と神霊教団    1

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第三節   真のお母様と神霊教団    1

第一節自然と共に過ごした幼少時代    1

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第一節   自然と共に過ごした幼少時代    1

第二節神様からの召命    1

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第二節   神様からの召命    1

第三節学生時代    1

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第三節   学生時代    1

第四節日本留学と原理の究明    1

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第四節   日本留学と原理の究明    1

第一節信仰的な環境の中で過ごした幼少時代    1

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第一節   信仰的な環境の中で過ごした幼少時代    1

第二節学生時代と真のお父様との出会い    1

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第二節   学生時代と真のお父様との出会い    1

第三節天が選んで立てた真のお母様    1

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第三節   天が選んで立てた真のお母様    1

 

第二篇解説文

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神様は、人間の先祖であるアダムとエバが堕落したため、イエス様をメシヤとしてこの地に送り、救援摂理をしようとされたが、イスラエル民族とユダヤ教が不信して責任を果たせないことにより、再び韓民族の中に人類の救世主、再臨主として真ӗ#12398;父母様を送られた。

神様の救援摂理を担当することになる真の父母様の聖誕は、その意味から見るとき、神様の摂理史における大事件であるがゆえに、多くの前兆があった。真のお父様の聖誕に先駆け、生家の前のねずの木に金鶏が止まり、鳴いて飛び去ったということや、真のお母様の聖誕前に、洪順愛大母様に「あなたの子女が息子であれば宇宙の王になり、娘であれば宇宙の女王になるだろう」という啓示が下りるなど、多くの証が現れた。

真のお父様は、十六歳(数え)になられた年の一九三五年四月十七日、山上で涙ながらに祈る中、神様から召命を受けられたのち、将来の摂理的使命者として、故郷で三年、ソウル留学三年、そして日本留学二年半と続く準備期間を送られた。特に、ソウルでの学生時代には自炊しながらの下宿生活を通して、苦行に近い生活訓練を経ながら、学業と信仰に精進された。そして、日本留学時代には、学業のほかにも祖国の独立運動とともに、原理の究明に没頭しながら、多様な体験をされた。

真のお母様は、外祖母の趙元模女史と大母様が再臨主を迎えるための信仰生活に専念することにより、幼少時代を主に母方の実家で過ごし、信仰の精髄を身につけられた。そして、南下したあとは、孝昌小学校をはじめ、大邱、済州道の西帰浦、春川などの地を経ながら学業を続けられた。

真のお母様は、一九五六年、小学校を卒業した満十三歳の時、真のお父様に初めてお会いになった。真のお母様は、「お父様は、私を御覧になった瞬間、目を閉じられ、つぶやくように、『ああ、神様!韓鶴子というこのように立派な女性を、この韓国に送ってくださったことを感謝します』と語られた」と回顧された。

神様は、人類の救いのために、ひとり子である再臨主とひとり娘である天の新婦を送ろうと、長い間準備してこられた。その基盤の上に、真のお父様と真のお母様が「小羊の婚宴」をされ、人類の真の父母様として登場されたのである。真の父母様は、復帰摂理を完成、完結、完了し、勝利されて、真の愛、真の生命、真の血統の善の先祖となられたのである。

 

第一節真のお父様の聖誕とその背景

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第一節   真のお父様の聖誕とその背景

聖誕の時代的背景

神様が再臨主としてこの地に送られた、真のお父様の聖誕を前にして、民族的には、日本の占領下において、数年間の凶年が続いて大患難が押し寄せ、国際的には全世界が二つに分かれ、植民地争奪戦を繰り広げるなど、終末時代を彷彿とさせる大混乱が起こった。このように、国内外で混乱の様相が極限に達したのは、再臨主の地上聖誕のための世界的蕩減基台を立てる天の摂理と見ることができる。真のお父様は、三・一運動の翌年、一九二〇年の陰暦一月六日(陽暦二月二十五日)、平安北道定州郡徳彦面上思里二二二一番地において、父・文慶裕忠父様と母・金慶繼忠母様の間に、六男七女の次男として聖誕された。

1    本来アダムとエバは、堕落しなければ人類の真の父母となり、神様の心情に通じ、神様の事情に通じ、神様の願いと目的をすべて達成したはずでしたが、堕落することによってそのような計画が挫折したのです。ですから、これを再び取り戻すためには、再創造の歴史を経なければなりません。

言い換えると、アダムを再創造して、失った人類の真の父の立場に再び立て、神様が彼の頭に手を乗せて、「お前は、私が創造の理念に基づいて造ったアダムであり、私の事情と心情を推し量れる息子である!」と祝福してくださらなければなりません。

このような責任を背負つて、この地上に来られる方が再臨主です。ですから、六千年の歴史は、神様が取り戻そうとされる、一人の完成した人類の先祖をつくるための歴史なのです。

2    神様は、イエス様がみ旨を成し遂げられず、地上に養子の(父子)関係だけを残して亡くなられたので、彼を再びこの地に送ることを約束してくださり、キリスト教を中心に、直系の(父子)関係を取り戻すことができる土台を開拓するため、二千年間、摂理してこられました。したがって、今日、全世界に広がっているキリスト教徒たちは、神様が愛される真の息子に直接、接ぎ木されなければなりません。

それでは、歴史の終末時代に、主はいかなる資格をもって来られるのでしょうか。真の父母の資格をもって来られるのです。しかし、イエス様がこの地上に来て、真の父母の立場にまで進むことができなかったため、すなわち、栄光の中で神様に侍り、万民を代表して神様を慰労する生活的な土台をもてなかったので、メシヤが再び来られるとしても、栄光の主として来ることはできないのです。

ですから、再び来られるメシヤは、イエス様がこの地に来て成し遂げられなかったみ旨を継承し、神様を慰安してさしあげられる孝誠(真心を尽くして父母に仕えること)の道理を先に果たしたうえで選ばれ、サタンまでも屈服させ、神様に栄光をお返しできる土台を立てておかなければなりません。そのようにするまでは、真の父母の資格を備えることができません。これが、今まで神様が摂理してこられた復帰摂理の概観です。

3    第一次世界大戦から今まで、混乱の世界、戦争の時代が連続しています。この歴史的路程は、偶然に形成されるのではなく、人類史という巨大な歴史をめぐって、蕩減の役事(働き)を行っているのです。

世界のあらゆる知識人たちは、「今は急変する世界である」と言っています。一般の人々は、世界がこのように急変すれば、絶望の世界に到達する危険性が高いと見ています。希望の世界に到達すると考える人は、極めて少ないのです。近代文明を指導してきた西欧文明は、既に没落したばかりか、「もはや真っ暗闇の世界に入った」と言う人もいます。西欧文明を指導するうえで、精神的な支柱となってきたキリスト教はもちろん、キリスト教を中心とした家庭や社会や国家が、傾くだけ傾いているのです。そのうえ、世界の若者たちの中で未来を考える人たちは、極めて暗澹たる立場で悩まざるを得ない時代に置かれています。神様は、そのような絶望の終着点に向かって、そのまま走らせるのではなく、これに代わって、新たな次元の世界へと、希望の場所へと連結する道を考えざるを得ないというのです。

4    第一次世界大戦以降、六十年から七十年の期間は、世界的な激動の時代だと見ることができます。この期間は、受難の道を行かざるを得ない歴史的な運命の期間でした。お父様もこの期間に生まれ、今まで苦難を受け続けながら過ごしてきました。

それでは、神様の摂理において、この歴史の重大な受難期、激動の受難期は、何を目的として訪れるようになったのでしょうか。苦難を受ける背後で、滅びるか再生するかの二つの内容を、歴史はいつも決定してきたのです。この期間は、この二つの問題を決定しなければならない#27508;史的な運命の期間です。このような立場から、天の父は人類を滅亡に導くわけにはいきません。いかなる手段や方法を使ってでも人間を救わざるを得ないというのです。

この期間は、神様が特別な摂理の基準をこの地上に立てる重大な期間です。ですから、神様は、苦難の中で歴史を引いたり押したりすると同時に、その背後で、新しい天の摂理の基盤、発展の基盤を再生させてこられたことは間違いありません。

5    日本は、東洋を中心としてイギリスの文化を受け継いできたのですが、大陸文化を中心とする韓国は、メシヤが来られる地中海文化圏のローマと同じ立場で出発しました。

アダム国家である韓国に再臨主が来ることになっていたので、私が生まれる前、アダム国家として越えるべき蕩減期間がありました。それで、韓国が四十年間、日本に隸属したのです。私が生まれた一九二〇年当時は、蕩減期間です。ですから、歴史的な全体摂理史を終結させるみ旨を、私の家門において受け継がなければならなかったのであり、それゆえ、私の家族が伝統的蕩減路程を経ざるを得なかったのです。

6    私が生まれた時期は一九二〇年です。三・一運動が起きた年が一九一九年ですから、その翌年に生まれたのです。私が生まれる前の三年間は、凶年になりました。三年以上、凶年になり、最も困難な時に、三・一万歳事件を中心として、国家が混乱する時代に入ったのです。

このように国家が、日本の統治下でサタン側の方向に合わせて引かれていくので、ここに革命を提示し、新たな方向が現れるようになりました。三・一運動を主導した人々は宗教家たちでした。キリスト教と天道教を中心とした人たちが主導してきました。そうして新たな方向、日本帝国主義の方向ではなく、アメリカの方向に従っていくようになりました。

キリスト教が国家と民族を中心として、完全にその文化圏を平準化圏として形成できたという事実は、韓民族が日本帝国主義の統治下において、アメリカを中心としたキリスト教文化圏に方向を合わせてきたために可能だったのです。これは驚くべき事実です。そのような歴史的な反響を巻き起こした運動から、キリスト教は急進的に発展し始めたのです。

7    一九一九年三月一日は、韓国が日本の統治から独立するために万歳運動を起こすことによって、多くの人が犠牲になった日です。なぜ三月一日にそのようなことが起きたのでしょうか。私がこの期間に胎内に宿り、生まれなければならないからです。宿った時から十ヵ月すれば、一九二〇年の正月です。

そうして、条件的にでも国を取り戻して主が生まれるべきであって、条件的にでも国がなければ、来られる主が空中に浮いてしまうため、天はそのような役事をしたのです。私一人が生まれるには、多くの血を流さなければならないというのです。それで一九一九年が凶年になり、そのような良くないことが起きました。天の摂理は、そのように展開してくるのです。

8    十六歳(数え)で殉国した柳寛順烈士は、堕落していないエバと同じ立場にいました。アダム国家におけるエバと同じだというのです。そのエバの立場にいた柳寛順烈士の体を、サタンの立場である日本帝国が六つに分けてしまいました。六数はサタン数です。柳寛順烈士は、国家に忠誠を尽くすため、一身を犠牲にしながら独立運動をしたのです。

独立万歳運動が盛んだった一九一九年に、私はおなかの中にいました。独立していない地でそのまま生まれるわけにはいかないので、私の生命を中心としてそのような闘いがあったのです。その時から十ヵ月後の一九二〇年に生まれました。

韓半島と定州

韓半島は、東西洋文明を結ぶ橋の役割を果たしながら、再臨主が誕生できるよう準備してきた摂理的な地である。真のお父様のみ言によれば、「定州」は、神様の愛が地上に着陸できる基点であると同時に、神様があらかじめ定められた郡である。そして、真のお父様が誕生された上思里(サンサリ)は、天を欽慕して敬うという意味における代表的な地として位置づけられ、世界の聖地になるであろうと語られた。

9    アジアの東北地域に位置する韓半島は、現代文明を受け継ぎ得る地理的条件を備えた日本と接触できる位置にあります。大陸と接触する場合、大陸自体に直接接触するよりも、半島を経なければなりません。ですから、いつも文化交流の役割を果たす所は半島でした。そのような意味で、韓半島が東洋と西洋の文明を結実させ、結合させる橋梁の役割を果たしてきたのです。神様は、必ずそのような半島を中心として摂理されるので、この民族が、その文明を受け継いで収拾する役割をしてこなければなりません。終局において、文明は宗教を通して結実するのです。

10   メシヤは、いかなる国に来るのでしょうか。原理的観点から、その方は、独立した国に来ることはできません。なぜでしょうか。イスラエルの国と、その国を動かせるユダヤ教が基盤となってメシヤを迎えるべきだったのですが、メシヤを迎える立場になれなかったのです。ですから、イスラエルの国とユダヤ教は、国を失って追い払われていました。イエス様の立場から見ると、イエス様を迎えるべきその国と、その教会がなくなったも同然なので、イエス様は、相対する国と教会がない立場から出発するようになったのです。ですから、神様は歴史時代を通して、そのような立場にある一国を、再臨の一日と連結させる準備をせざるを得ません。

イスラエルの歴史が悲惨な分裂の歴史で出発したので、それを収拾するためには、最下の段階にある歴史的な国家を立てなければならないのです。歴史的に見るとき、そのような立場にある国が韓国です。韓民族は、地域的にも歴史的にも、ユダヤ民族と似た内容をたくさんもっています。

11   歴史的に見るとき、信仰心に燃えている民族は、どの民族でしょうか。「ハナニム(神様)」という言葉も聞くことができず(ユダヤ教、キリスト教のような宗教がなかったこと)、預言者や烈士のいかなる預言もないまま、五千年の歴史を保ってきた韓民族は、なぜか分かりませんが、天に対する信仰心が秀でているのです。東半球の、爪のように小さなこの国が、今まで幾多の時代を経て、五千年の歴史を保ってきたという事実は奇跡です。

韓国の歴史を見ると、周辺国から数百回にわたって侵犯される、危険な歴史路程を経てきました。それでも韓民族は、民族の気概として流れるその何かをもって希望の一日を望んできました。この極東の韓半島を動かしてきた希望の民族精神があったがゆえに、今まで闘ってこられたのです。このような精神をもって活動してきた民族に、メシヤが来ないでしょうか。

情的な面でも、極東では韓国人以上に情熱的な人々はいません。また、韓国は、東方礼儀の国と呼ばれてきました。信義の宗教、希望の宗教であると主張していた仏教も、儒教も、キリスト教も、今や限界にぶつかっています。しかし、韓国は、民族精神を中心として、世界理念に燃える隠れた情熱が、心から湧き上がっている民族です。

12   韓国は、五千年の歴史を経てくる間、今まで犠牲になってきました。中国に多大な影響を与えたのが韓国人です。韓国民族は東夷民族であり、本来、戦争を嫌い、平和を愛する民族です。ですから、中国大陸を捨てて半島に集まったのです。孔子も「そこに聖人が住む」と東夷民族をたたえながら、「東夷民族のところに行きたい」と言いました。

韓国の歴史を見ると、他国を侵略したことがありません。数多くの侵略を受けましたが、侵略をしたことがないというのです。その代わり、不義の攻撃を受けるときには、火のようになります。負けないというのです。それこそ正義に燃える民族です。満州やシベリアのような所を回りながら死んだ韓国人の亡骸(なきがら)を調べても、煙管(きせる)と火打ち石しかありません。他の国の人は刃物を持って歩きますが、韓国人にはそのようなものがありません。ですから、ロシアや中国のような国で、韓国人が夜に、「コリアンだ」と言いながら門をたたけば、ほとんどの人たちは門を開けて、「入りなさい」と歓迎するのです。そのような民族が暮らす国なので、お父様のような人が現れてくるのです。

13   お父様の故郷は、北朝鮮の平安北道定州です。そこについて語るべき話がたくさんあります。幼い頃の逸話がたくさんあるのです。今後、世界の人々が、そこをイスラームのマッカ(メッカ)や、キリスト教のエルサレムと同じように考えるようになるのです。

皆さんは、生きている間に、お父様の故郷に行ってみなければなりません。もし皆さんが、そこに行くことができずに霊界に行けば、「生きている時にいったい何をしていたのか」と後ろ指をさされるのです。

14   皆さんが「私は真の父母に侍った。出発から侍り、最後まで侍った」と言えてこそ、天国の民になり、天の国の皇族として現れ得るのです。ですから、父母様をお迎えし、出発した所に帰るのです。皆さんの故郷は本来、エデンです。真の父母様が生まれた所がエデンです。人間は、堕落によって故郷の地を失ってしまいました。ですから、真の父母がエデンの園の主人になるのです。真の父母が生まれた所が人類の故郷なので、皆さんの故郷も、父母様が生まれた所にならざるを得ません。

聖誕の前兆と名前の意味

真のお父様の聖誕を前後し、多くの吉兆が現れた。一九一九年の三・一運動以前には、真のお父様の生家の前にあるねずの木に金鶏が止まり、鳴いて飛び去ったことがよくあったという話が伝わる。そして、曾祖父である文禎紇(ムンジョンフル)が一双の龍が海から昇天するという夢の啓示を受け、真のお父様の代の「行列」(ハンニョル)(一族間で、始祖から数えた男性の世代の上下関係を表す語。同じ行列の男性は、名前の一字に同じ漢字をもつ)の字を「龍」の字とし、「龍」の字と「明」の字をもって名前をつけたが、真のお父様は一九四五年、光復直後に公式摂理路程を出発されたあと、平壌における伝道時代に、その大きな摂理的使命にちなんで、天から「鮮」の字と「明」の字を新たに受け、改名された。

15   私の母は、私を身ごもり、出産の日が近づいた頃、実家に行きました。母の故郷である大山洞の前には、帝釈山という大きな山があります。四方から眺められる、一つの象徴的な山です。

母が、出産する日を待っていたある時、悪天候になって暴風が吹き、山と村全体が雲に覆われたそうです。そこに一筋の光が現れると、その帝釈山の頂上に黄金の龍が現れ、山腹を回りながら昇っていったというのです。母がそのあとを少し離れて追いかけ、山頂まで来たので座って喜んでいると、その頂上がたちまち海になったのです。その海に尾で水を打ちながら身をくねらせる黄金の龍が二頭現れ、「天下よ、達者でいなさい」と挨拶をすると、天に昇っていったそうです。

母はそのようなものを見たので、心の内に秘めておき、私が八歳の時、「どう見ても、お前が果たすべき責任のようだ」と言いながら、この話をしてくれました。み旨を知ってみると、天との約束の中で、そのようなことがすべて啓示されたというのです。母も啓示をたくさん受けました。特別なことが起きたり、家で難しい問題が起きたりすると、母が事前に察知して、それに備えるために精誠を尽くすという経歴があったのです。天と地が一つになった場で、すべての困難を解決したのだと考えることができます。

16   私の母が、私を呼んで話してくれたことが忘れられません。曽袓父の時も、祖父の時も、夢のお告げで龍を見て、同じ夢のお告げを嫁である母も見ました。「どうもお前がその実体ではないかと思う」と言って話してくれたことが忘れられないのです

母の実家の前にある帝釈山(チェソクサン)の上で、二頭の黄金の龍が如意宝珠(仏教において様々な霊験を表すとされる宝の珠のこと)をくわえて昇天するのを見たそうです。それを母は、事実と考えたのです。昼間にどしゃぶりの雨が降っている時、山を見るとそのような現象が見えたというのです。

17   私の名前を見ると「鮮」の字があります。これは魚と羊ですが、海と陸地、水と地を意味します。ですから、のどかで明朗だという意味でもあります。夜、雨が降ったのち、朝が燦爛と輝けば鮮明です。「明」の字は日と月です。ですから、地ものどかで、天ものどかだという意味の二文字が合わさったのです。また、天は男性を意味し、地は女性を意味しますが、この二つが一つになったことを意味します。清く、明るく、明朗だということです。

そして、「文」というのは、真理を意味します。名前のとおりのことを私はしています。それで一生の間この名前を見ながら、「私は、このようにしなければならない。このようにしなければならない」と思ってきたのです。

 

第二節真のお父様の家系

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第二節   真のお父様の家系

家門の伝統

南平文氏の始祖である武成公(ムソンゴン)・文多省(ムンダソン)は、西暦四七二年二月に、今日の全羅南道羅州市(ナジュシ)南平邑(ナンピョンウプ)楓林里(プンニムニ)にある、長者淵(チャンヂャヨン)という池の近くにある大きな岩の上の石箱でお生まれになったが、その石箱には赤い字で「文」と刻まれていたと伝えられている。南平文氏の族譜を見ると、新羅時代の慈悲(チャビ)王が、夢の中で「この国に特別な赤ん坊が生まれたので探しなさい」という命を受け、南平にある文巌(ムナム)という岩で泣いている赤ん坊を探し出したところから、文氏の先祖が出発したと記録されている。また、文多省は、真興(チンフン)王の時代に輔相(ポサン)(大臣を従え、国王を助けて国を治める人)を兼ねて大国師(テグクサ)(国王の学問上の師)に昇格したのち、端正な容貌をした人々を選んで、風月主(プンウォルヂュ)(花郎徒-ファランド-の首長)と呼び、孝、忠、義を教えたという。真のお父様は、「南平文氏は、伝統的に良心的であり、操を立てて不義と妥協しない、恐るべき頑固さをもった一族」とされ、「八道江山(韓半島全土)から我が家を訪ねてくる人は、誰であっても厚くもてなしてから送り出しなさい」という家門の伝統があると語られた。

1    世界の人々は、お父様の血統がどこに連結されているのかを探ります。大韓民国の歴代の先祖たちが犠牲になった土台の上に連結されているのです。犠牲とは何かというと、肥やしになることです。肥やしのある所に生命の種を植えると、よく育ちます。歴史時代に受難を経て、苦痛を受けたその民族は、生命の種を受けӗ#12390;すくすくと育てることができます。このような受難を経た地域では、聖人が出生するのです。義の人、義の主張、義の国、義の主義が発生するようになっているのです。

2    お父様は、南平文氏です。南平という言葉は、南の平地を意味します。南とは理想のことです。南の国に平地を築いていける活動舞台、自然舞台が待っているというのです。文は「文章」の「文」の字です。文の字を見ると、「又」の字の上に点()を載せているので、祭祀にお供えするお膳と同じです。

ですから、文氏は祭司長の責任を果たさなければなりません。祭主にならなければならないのです。祭物を供え、神様の恨を解いてさしあげる祭主にならなければならないということです。私はそのように考えて生きてきました。

3    自分の先祖の中で、国の忠臣や聖人、聖子の功績をもつ人がいれば、その人を先祖の中の先祖として奉らなければなりません。文克謙(ムングッキョム)という方は、高麗時代に、武官と文官の間を行き来しながら和解を取り結ぼうとして客死しました。文克謙おじいさんは、歴史的な伝統をわきまえて、朝鮮時代五百年の歴史を綴り得る橋を架けたのです。そして、綿の種を中国から持ち込んだ文益漸(ムンイクチョム)おじいさんから二十三代目に私が入っています。

4    私の家は、曽祖父が引っ越してこられてから定州に住み始めたのですが、家には家訓があります。その家訓とは、「八道江山を慕いつつ、八道江山から貴い客が訪ねてくることを願い、来る客人たちを、真心を込めてもてなしなさい。通りすがりに訪ねてくる客人たちを、真心を込めてもてなしなさい。そうすれば、八道江山の福が、我が一族に訪れる」というものです。

ですから、訪ねてくる客人の接待に手抜かりがあってはいけないというのです。その背後に何がついているのか分からないので、この上ない真心でもてなして送り出せば、後代に福がやって来るのです。「三千里の全土から訪れる福なので、その福はそのような基盤の上で出会うようになり、そのような基盤を通して福を受ければ、さらに三千里半島を越えて世界に分け与えられる福が押し寄せてくる」と考えるのです。

5    私が両親に有り難く思うことは、家訓があるために、「家に出入りする人を絶対にそのまま帰さずに、必ずもてなしてから送りなさい」と言われたことです。乞食が来たといって冷遇してはいけないというのです。私の祖父もそうでした。伝統がそうだったのです。

冬に乞食が訪ねてきて「御飯を下さい」と言えば、食事中でも祖母や母が即座に出ていくのですが、準備をしていなければ、祖父が自分のお膳を持って出ていくのです。知らないふりをして御飯を食べることができません。乞食に食事をあげて、自分は食べられなくてもかまわないというのです。私は、今まで世界の人々のためにそのようにしました。

湖南地方、嶺南地方など、八道江山の人々が、以北(現在の北朝鮮)を経て中国に行くときには国道を通っていきます。村に来て一晚泊まっていこうとすると、「あっちに行けば文氏の家があるから、そこに行って泊まりなさい」と教えられるのです。それで、私の家はいつも、春夏秋冬、四季を通して客間が空いていませんでした。ですから、食事の用意をする母が、一生の間苦労したことを私は知っています。八道の人々に御飯を食べさせた、その家門は減びないのです。八道から歓迎される後裔が生まれるというのです。

6    私の家には、いつも人がたくさんいました。私が八歳の頃、眠りから覚めて起きてみると、見知らぬ人たちで客間がいっぱいでした。そうして夜に宴会をしました。どうして集まっているのかと尋ねてみると、「独立軍が来た」と耳打ちするのです。その時、その人たちは天幕のような所で寝泊まりし、屋根にも上って歩き回り、塀も片手を付いて飛び越えるという話をたくさん聞きました。

その人たちに、夜食として麵料理を作ってあげました。鶏を料理して麵を作るほうが、御飯の仕度よりも早く、たくさんの人に食べさせることができるからです。おなかをすかせた人がいれば、主人が食べられなくても、彼らに食べさせなければならないというのが家訓でした。そのような教育を受けたのです。

7    真の父母の家門にも、愛国忠臣の歴史的伝統を備えなければなりません。私の家では、不思議なことに、家族の中で誰かがたばこを吸ったりお酒を飲んだりすると蕁麻疹が出ます。お酒も飲めず、たばこも吸えません。また、家庭の伝統で立派な点は、妾を置いたことがないことです。ですから、私の祖父の代から見ても、儒教思想を中心に最高の信仰をもってきました。

私の従祖父は牧師でしたが、預言書に関するすべてのことに通じていました。私の母や家族も、祈ると未来について知ることができました。

真のお父様の家族

南平文氏が平安道と咸鏡道(ハムギョンド)一帯に根を下ろしたのは、忠宣公(チュンソンゴン)・文益漸(ムンイクチョム)の五人の息子のうち、三男の毅安公(ウィアンゴン)・文中實(ムンヂュンシル)の時からであり、その中で毅安公の五代目の子孫である文達(ムンダル)が平安北道の定州に定着した。真のお父様の高祖父・文成學(ムンソンハク)は、毅安公の十九代目の子孫に当たり、禎浩(チョンホ)、禎機(チョンギ)、禎紇(チョンフル)など、三人の息子をもうけた。その中で末息子の文禎紇が、正に真のお父様の曾祖父であり、上思里に初めて基盤を築いたのである。

そして、文禎紇は、致國(チグク)、信國(シングク)、潤國(ユングク)の三人の息子をもうけたが、長男の文致國が真のお父様の祖父である。文致國は、真のお父様について、「この子は将来、大きな人物になるので、彼が願うことは何でも助けてあげなさい」と語った。文致國は、慶裕(キョンユ)(一八九三年、陰暦七月十一日~一九五四年十月十一日)、慶福(キョンボク)、慶球(キョング)など、三男二女をもうけ、文慶裕忠父様は、延安(ヨナン)金氏の慶繼(キョンゲ)(本名は周觀(チュグァン)、一八八八年、陰暦十月十五日~一九六八年一月七日)忠母様と婚姻をした。忠母様は定州の有力者で、独立運動と五山学校の設立にも携わった父・金伯洪(キムペコン)と母・仁同張氏(インドンチャンシ)のもと、三男二女の長女として生まれ、朝鮮時代に最も多くの科挙合格者を輩出した延安金氏の家門で富裕な生活を送りながら、貞潔で気品を備えた姿に成長した。背が高く、闊達、情熱的な性格だった忠母様は、真のお父様の再臨路程において、完全な母子協助の摂理基盤を築く犠牲的な人生を送った。

8    私の家庭は、曽祖父の時に神様の祝福を受けました。しかし、祖父の時になって蕩減を受けました。祝福を受けたあとには、蕩減を受けることになります。イスラエル民族も、祝福を受けたあとには、必ず蕩減を受けました。十の祝福を受けたならば、必ずそれだけの蕩減を受けなければならないのです。

ですから、私が神様の召命を受けるまでに、私の家庭に相当な混乱が起きました。財産を失い、人命被害もありました。それだけではなく、私の身近な人々に混乱が起きたりもしました。このように、祝福を受ければ、絶望的な状態に至るまで、神様はその家庭をサタン世界に差し出します。そうすると、サタン世界がしきりに打つのです。三代にわたって蕩減の歴史がありました。

9    昔、私一人を亡き者にするために、私の家族に信じられない様々な霊的現象がありました。私はそのような環境の中で生まれ、様々な困難な環境を自らすべて解決してきました。もちろん両親もいて、親戚もたくさんいました。その中で従祖父(文潤國)は牧師でしたが、有名な方でした。漢文にもたけていて、中国の歴史にも精通している方でした。また、平壌神学校を出て英語もできました。西洋文明も見通すことができる、独立運動の先駆者でもありました。

そのような家庭的背景をもっていましたが、すべての問題を私一人で解決してきたのです。それは、どこの誰に相談しても分からないことです。私が将来歩もうとするその道については、両親も知らず、誰も知らないのです。その背後で、霊的現象によって一家族、親から親戚に至るまで、様々な問題が起きました。たくさんの出来事がありました。サタンはよく知っているので、私を中心に家族全体に悪影響を及ぼすのです。

10   私は、三・一運動を主導していたある家門で生まれました。私の従祖父、文潤國おじいさんがそのような人でした。私は、従祖父から「お前は、私よりも立派な孫にならなければならない」という話を聞きながら育ったのです。そのおじいさんは、私をとても愛しました。五山学校を建てたその背後には、私の従祖父がいます。

11   私の父について言えば、法がなくても正しく生きることができる方でした。もし父がどこかで急に借金をしてきた時には、その借金を返すと約束した日に、利子まで返してあげなければ耐えられない方でした。どのようなことがあっても、その約束を履行するのです。約束を遂行することにおいては、模範的な方でした

12   私の母は、十三人の息子、娘を生みました。私の上に姉が三人もいます。息子としては私が二番目です。五人が亡くなり、残ったのが六人の娘と二人の息子でした。ですから、母がどれほど衝撃を受けたでしょうか。息子を育てて亡くし、娘たちも育てて亡くしたのです。

弟が死んで、その棺を父が運んで埋葬したのですが、私の兄は手伝うことができませんでした。父が責任をもって簡単な棺を組み立て、そこに弟の亡骸を入れて、肩に担いでいって埋めたのです。母は子供を亡くして泣いているので、父は一人で埋葬しました。そして、帰ってきても手を洗いませんでした。三日過ぎてから、ようやく手を洗って御飯を食べ始めたのです。息子を埋葬して、どうして手を洗って御飯が食ベられるでしょうか。それを見ると、父は法がなくても正しく生きていける人でした。先祖の遺言を法より恐れる人です。

13   私の母は、厚い徳のある方でした。男勝りの方で、とても激しい性格でしたが、嫁の役割は上手にこなしました。舅が朝、どこかに出掛けるというと、それに合わせて明け方から食事を作ってさしあげました。一生の間、不平も言わずに、そのようにしたのです。私は、母から多くのことを学びました。

14   私は、母にとても似ています。私の革命的な気質は母に似ているのです。父は学者です。父は、一度聞けば、最近のコンピューターのように忘れません。記憶力が優れていました。私の創造力は母に似たのですが、母方の祖父もそうでした。革命的な素質が多かったのです。母方の祖父は、自分の村で海と関連した仕事をするにも革命的でした。それで、私が六歳、七歳、八歳の時、その母方の祖父の家に行っては、祖父に付いて回りながら魚を捕ったりしたのですが、それをどれほど興奮して待ったか分かりません。

15   私の母は、赤ん坊をたくさん生みました。十三人を出産したのですが、母が語った言葉があります。「この世で『楽しい、楽しい』と言っても、ほかに楽しいことはない。赤ちゃんを生んで、お乳をあげて育てる、それ以上に楽しいことはない。年を取って赤ちゃんが生めないから、すべてがつまらなくて仕方がない」と語っていたのです。

母の顔を見ると、多くの苦労をしてかさかさになった顔です。様々な風霜をすべて経た母親の顔です。しかし、愛らしい赤ん坊を育てた、その苦労の姿がいいと言うのです。愛は困難と犠牲を伴いますが、その犠牲を忘れさせるのです。真の愛を実践すれば、犠牲になったことを忘れるようになります。そのような犠牲が肥やしとなり、肥料となるのです。また、自分の肉となり、骨となって、喜びになります。愛になるというのです。

16   私の兄は、弟の私に対しては、絶対的でした。カインの立場で完全に蕩減できる基台が自然に造成されたのです。兄の信仰は徹底していました。八・一五解放と六・一五動乱が起こることをあらかじめ知っていました。あらゆる困難な問題を、霊界の指示を通して解決するという、信仰態度を身につけていました。私の兄は、「歴史上に数多くの兄がいて、数多くの弟がいたが、自分の弟は歴史的な弟である」と思っていました。ですから、私が何か言うと、それを絶対視して、従ってくれました。

私が平壌にいる時のことです。その時は、復帰摂理の途上において、とても大きな役事があったのですが、私が頼んだことは、普通の考えでは信じられないことだったにもかかわらず、兄は様々な内容を整えて弟のために手助けをしました。その頼みがどれほど難しいことであっても、躊躇せずに助けてくれる兄でした。

17   兄は霊界に通じていたので、知っていました。「兄弟関係はどの家にもみなあり、一族の誰もが縦横に関係をもっているが、兄弟の中で私の弟が歴史で一番の弟だ」と、それだけは分かっていたのです。霊界からそのように教えてくれたというのです。

ですから兄は、私がしようと言うとおりに、すべてしました。「家を売る」と言えば家を売り、「牛を売る」と言えば牛を売り、学費がなければ土地を売ってでも出してあげようと、一つも反対しようとはしませんでした。ですから、カイン・アベルを復帰したのです。

 

第一節真のお母様の聖誕とその背景

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第一節   真のお母様の聖誕とその背景

聖誕の宗教的背景

神様は、ひとり子である再臨主をこの地に送られ、ひとり娘、実体の聖霊である天の新婦を送るための摂理を進めてこられた。特に、天は復帰されたエバを送るために神霊教団を立て、多くの準備をされた。それゆえ、真のお母様の誕生の背景には、神霊運動が韓半島において大きく広がっており、お母様の家庭はその中心に立っていた。真のお母様は、一九四三年二月十日、陰暦一月六日、母方の実家である平安南道安州郡安州邑(アンジュウプ)信義里(シニリ)二六番地において、父・韓承運(ハンスンウン)氏と母・洪順愛(ホンスネ)大母様(テモニム)のもと、一人娘として聖誕された。

1    摂理歴史の中心人物を見れば、母の役割がどれほど重要か、私たちはよく知っています。アブラハム、ヤコブ、モーセ、イエス様なども、その妻や母親の果たす役割によって、新しい歴史をつくり、花咲かせました。しかし、内的には、悲惨で苦痛に満ちた恨の歴史をつくってきたのです。私(お母様)が生まれたことや、今日までのことも、すべては偶然ではありませんでした。解放前に有名だった李浩彬(イホビン)牧師が啓示を受けて、仲人を務め、父と母を結婚させたのです。

2    普通の子は、生まれると「おぎゃあ!」と泣きますが、(お母様)は泣かずに「ラッラ、ラッラ」と言ったそうです。すると趙元模おばあさんが、「この子は大きくなったら音楽家になるようだ」とおっしゃったそうです。

また、大母様が最初のわかめスー&##12503;を飲んで、私を抱いて眠りにつくと、角の生えた真っ黒なサタンが近寄ってきて、「この子が生まれたことによって私は死んでしまう」と言いながら、赤ん坊の命を奪おうとしたそうです。それで大母様は、「サタンよ、退け!この娘は、私にとって本当に大切な娘なのに、どうしてお前は命を奪おうとするのか」と叫んだそうです。

よほど大声で叫んだのか、祖母が「まあ、お前は気が弱っているようだ」とおっしゃったそうです。大母様が「そうではなく、角の生えたサタンが来て、赤ちゃんの命を奪おうとしたので、大声で叫んだのです」と言うと、祖母は「それは不思議なことだ」とおっしゃったそうです。

ですから、大母様は、「この世に生まれるなり、サタンが命を奪おうとするところを見ると、この子は精誠を尽くして育てなければならない。今後、世俗に染まらないよう、清く美しく育てて主に捧げなければ」と思われたそうです。

3    大母様は、(お母様)を生んだ直後に神秘的な夢を見たそうです。日本の統治下で太平洋戦争のまっただ中の頃でした。朝鮮総督府では、家ごとにくまなく探して、穀物と金物を手当たり次第に奪っていきました。戦争に必要な補給物品と武器を生産するためでした。奪い取った大量の物資は、日本列島に天高く積み上げられていきました。

ところが、ある瞬間から、供出された物資が船に積まれ、玄界灘を越えて韓国の地にやって来たそうです。そして、それが私の家の前庭に一つずつ積まれていったといいます。日本に行っていたすべてのものが、そっくりそのまま返還されたというのです。そこで、大母様は夢から覚めたそうです。今考えてみれば、その夢は、カインとアベルを和解させ、一つにして、天の父母様へと進んでいくべき母の道を象徴的に見せてくれたように思います。

4    韓国には、聖書とイエス様を信じさえすれば天国に行けると、単純に、そして盲目的に信じている形式化したキリスト教団とは異なる、特別な霊的教団が多くありました。彼らは、再臨主を迎える準備をし、主の花嫁を立てさせるため、神様から多くの啓示を受けていました。これが、私(お母様)が生まれた前後の宗教的状況であり、私は特別に準備された霊的な家庭で生まれました。私がきょう、その当時のことを思い、悲しみに浸ったのは、大母様が所属していたその教団が、到底言葉にできないような苦難を経たことが思い出されたからです。彼らは、常に神様の啓示を受けながら過ごしていました。そして、蕩減路程を通して、主の道を平坦にするために、実に信じ難い苦難の道を歩んできました。また、その中のある人は、監獄で死んでいきました。

彼らは、神様から召命を受けた人々として、神様に献身的に侍りながら、いつかはメシヤに出会えることを唯一の希望にして、苦難を越えていったのです。彼らは再臨主を迎えるために、多くの準備をしました。例えば、さじから衣服に至るまで、一切を準備しました。彼らは、服のサイズまで知っていたほど、非常に詳細に啓示を受けていました。しかし、彼らは不運にも、言葉では言い尽くせない苦難の中で、主に出会うことができず、一人、また一人と死んでいきました。彼らの使命は、三代にわたって引き継がれたのですが、彼らの啓示の最後の頂点において、私が生まれたのです。

「天の新婦」として祝福

真のお母様の聖誕は、単なる一個人の誕生という次元を超え、神様の摂理史の結実という次元から、その意味を見いだすことができる。二千年のキリスト教歴史は、再臨主を迎えるための韓国の神霊運動に連結され、これは再び、外祖母である趙元模女史、洪順愛大母様、真のお母様の三代にわたって結実した。特に、真のお母様が聖誕されて間もなく、聖主教の金聖道が拘束され、拷問の後遺症によりこの世を去ってからは、許浩彬(孝彬)の腹中教がその使命を受け継いだ。その後、許浩彬が投獄されて不在となる中、腹中教を率いた許浩彬の母親は、六歳になった真のお母様に対して、「天の新婦になられる方」と証して祝福した。また、真のお母様の聖誕以前にも、「宇宙の女王になるだろう」などの多くの預言があった。そのような過程を経て、再臨主を迎えるための精誠の基盤が、真のお母様に継承されたのである。

5    (お母様)の父は、安州でお生まれになり、生涯を教師として生きられた教育者です。体格が良く、体力もあり、繊細な性格で、常に奉仕をしながら暮らしたといいます。何よりもキリスト教の信仰に忠実で、教鞭生活ゆえにいつも忙しい生活を送りました。李龍道牧師の「新イエス教」でも幹部として活躍し、大母様は祖母と共に、安州の「新イエス教」を拠点として信仰生活をされたので、自然に顔を合わせる機会がありました。お二人は、この頃に婚姻されました。

信仰生活に精進していた時、大母様が啓示を受けました。「洪唯一(ホンユイル)の娘よ、喜びなさい!お前の子が男の子であれば宇宙の王になり、女の子であれば宇宙の女王になるであろう」という啓示でした。この啓示を受けて結婚する当時、父の韓承運は二十六歳、大母様は二十一歳でした。それ以後、主を探し求めるために、絶えず尽くされた大母様は、鉄山の聖主教に通われ、婚姻して九年目に私を身ごもられたそうです。限りない精誠と篤実な信仰生活を通して、一つの生命を得たのです。

6    (お母様)が生まれた時、神様が地上に主を送る計画について啓示を受けた、許浩彬という方がいました。その許浩彬女史の母親が、私が六歳の時、「この方こそ、天の新婦になるだろう」と預言したのです。許女史の母親は、「幼い少女が天の新婦になるであろう」という啓示を受けていました。当時、神様によって予定され、召命を受けた神霊教団が、主に以北に広まっていました。そして、平壌は、東方のエルサレムと言われるほど、キリスト教の勢力がとても強い所だったのです。

7    北側では、共産党の勢力が大きくなり、宗教に対する弾圧も激しくなりました。それで、許浩彬女史も、一九四六年八月に、平壌の大同保安署の監獄に入ったのですが、監獄で再臨主に出会うという啓示がありました。その時、お父様も平壌で伝道している中で捕まり、同じ監獄に入ることになりました。その監獄で、許女史の一番弟子を通して、許女史に送った手紙が看守に見つかり、お父様はひどい拷問を受け、歯まで折れる受難に遭われました。

(お母様)が南に下る前に、許女史の母親が啓示を受けて私を呼びました。六歳の時でした。許浩彬女史の集団は、再臨主のために新婦の使命を果たす団体だったのですが、その名目のもとで私に祝祷をしてくれたのです。これから大きな使命を果たす人であるという祈祷を受けました。白いチマチョゴリを着たおばあさんが私一人を呼んで、「天の啓示があった」と言って祝福をしてくださった記憶が鮮やかに残っています。

8    北の西海岸地方に金聖道女史の聖主教がありました。金聖道女史が死んだあとは、許浩彬女史が引き継ぐようになりました。大母様は、その許女史に篤実に従っていた人でした。大母様は、お母様が四歳の時にその集団に連れていったのですが、許女史の母親が、六歳になったお母様を祝福しました。それは、お母様に使命が受け継がれる出来事だったのです。お母様に会った時に、お父様はそのような事実を知りました。神様によって準備されていたすべてのものが、一九六〇年に成し遂げられました。ですから、今、真の父母が現れるようになったのです。ここから子女に対する祝福が始まるようになりました。

真のお母様の名前の意味

真のお母様がお生まれになった頃、父親の韓承運(ハンスンウン)氏が夢で鶴を見て、真のお母様の名前を「鶴子」にしたという。

真のお父様は、真のお母様の名前について、「恨(韓国語で「韓」と発音が同じ)を抱&##12356;た神様について最高に学んだ学者(韓国語で「鶴子」と発音が同じ)となり、神様の相対の位置に進む」という意味があると解釈された。また、韓鶴子の「子」の字は、「神様の王子と縁を結ぶように生まれついたこと」を象徴すると語られた。

9    (お母様)が生まれる頃、父は、夢のお告げ、幻想を御覧になったそうです。とてもうっそうとした松林の中に、澄んだ美しい陽の光がさし込み、二羽の鶴が和合する姿が見えたというのです。それで父は、私の名前を「鶴子」とお付けになったそうです。

10   お母様の名前は「鶴子」ですが、「鶴子」というのは「鶴の息子」ということです。鶴は、ヒマラヤの山脈を越え、平原に行って卵を産みます。これはエバの使命と同じです。「子」というのは息子のことを意味します。それは結局、女性として息子を慕うことを意味するのです。お母様の使命は、ヒマラヤ山脈を越えて平和の世界で息子、娘を生むことです。そして、鶴は入り混じったものを食べず、きれいなものだけを食べます。栄養があって、あっさりしたものだけを食べるのです。鶴は、一度飛び始めると、なかなか方向を変えません。そして、高く飛びます。それで、東洋では、鶴をとても愛するのです。

 

第二節真のお母様の家系

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第二節   真のお母様の家系

天が準備された家系

真のお母様の父親である韓承運(ハンスンウン)氏は、一九〇九年一月二十日、父・韓炳健(ハンビョンゴン)と母・崔基炳(チェギビョン)のもと、五人兄弟の長男として生まれ、教鞭生活を送る中、一九四六年五月頃に南下した。そして、南下後はソウルと京畿道の小学校で奉職するなど、一九七四年二月まで、四十一年にわたって教育界で活躍した。洪順愛大母様は、一九一四年、陰暦二月二十二日、篤実なキリスト教信仰をもった父・洪唯一(ホンユイル)と母・趙元模(チョウォンモ)(一八八九年、陰暦十一月七日E/span>一九六二年九月三日)のもと、一男一女の長女として、平安北道の定州で生まれた。母方の祖母、趙元模女史は、勤勉で活動的な新時代の女性だった。その先祖の中の一人である趙漢俊(チョハンヂュン)が、私財をはたいて平安北道定州の撻来江(タルレガン)に大きな石橋を造ったという話が伝わっている。

1    (お母様)は、一九四三年、陰暦一月六日の明け方、平安南道の安州で生まれました。私の村は、都会から遠く離れた所ではありませんでした。家の裏には小さな山があり、小川が流れる、とても穏やかで、温かい感じを与える所でした。ちょうどめんどりがひなを抱くような感じです。裏庭には、家族が食べるために栽培していたとうもろこし畑がありましたが、そのとうもろこしがとても大きかったことを覚えています。お父様の故郷である定州と、私の故郷である安州の間には、川が一つあります。

2    (お母様)の故郷である安州は、昔から軍事的にも政治的にも、とても重要な所でした。それで、平安道という地名は、平壌と安州から一文字ずつ取って付けられたのです。その地域は平野なので、農業に適していて、食べ物が豊富でした。古朝鮮の時期には、既に町を形成していたといいます。

そこを流れる清川江(チョンチョンガン)を中心として、平安北道と平安南道とに区分されますが、お父様の故郷である定州までは約六十キロメートルで、平壌までは七十五キロメートルほどです。大母様は、聖主教があった鉄山まで行って、新しいみ言を求め続け、毎日のように精誠を尽くしましたが、鉄山は実に百二十キロメートルも離れている所でした。

3    真のお母様の母方の祖母である趙元模おばあさんは、趙漢俊の直系の子孫です。この趙氏は、国の名に使われる「趙」の字です。ですから、国の母になる方が大母様の母親でした。このように、伝統のある歴史がつながっています。それは実話です。

定州にある撻来江(タルレガン)の橋は、数十年過ぎても誰も修理せず、放っておいたために崩れだし、人が渡れなくなりました。その橋を通っていく道が塞がってしまったのです。そして、それを放っておいたので、洪水が起こって橋が崩れ、土砂が押し寄せてきて埋まってしまいました。

そこに預言がありました。「岩を削って撻来江の橋に立てたチャンスン(村の入り口に立てた村の守り神の像)のような標石が埋まってしまう日には、国がなくなり、現れる日には、韓国に新天地が広がる」という預言があったのです。

4    中国の使臣が韓国に来ようとすれば、定州にある撻来江を渡らなければならないのですが、その当時は橋がありませんでした。橋を架けるお金が国になかったのです。そこで国は、その橋を架けてくれる人物を探すために、公示文を貼り出しました。その時、私(お母様)の母方の先祖に当たる趙漢俊おじいさんが、私財をはたいて橋を架けたのです。橋は石橋でしたが、その下を船が通れるほど大きな橋だったといいます。そのおじいさんは、橋を造るのに全財産を使い果たし、銅銭三文だけが残ったそうです。それで、「あすは橋の竣工式に行く」と言って、その残ったお金でわらじを買っておいて眠りにつきました。すると夢の中に白い服を着たおじいさんが現れて、「漢俊よ、お前の功労は大きい。それでお前の家門に天子を送ろうとしたが、残しておいた銅銭三文が天に引っ掛かったので王女を送ろう」と言ったというのです。その夢を見てから撻来江に行ってみると、その丘の上に石の弥勒仏ができていたといいます。

5    橋の竣工後、撻来江の河岸の土の中から、石の弥勒仏が勢いよく出てくると、村の人々は小屋を造って、雨風を浴びないようにしました。その弥勒仏が次第に大きくなり、屋根を突き破るようになると、改めて新しい小屋を造りました。ところが、不思議なことに、この弥勒仏はおなかがふっくらと出ていました。問題は、趙氏一族に生まれた娘たちもみな、弥勒仏のようにおなかが出て、結婚もしていない乙女が、妊娠していると誤解を受けたことです。それで、ふっくらと出ている(弥勒仏の)おなかを削ったところ、そこから血が出てきたそうです。石から血が出てきたのですから、不思議で霊妙でもあり、恐ろしくもなってきて、急いで石灰を塗って塞いだといいます。そして、馬に乗って弥勒仏のそばを通り過ぎるときは、馬から降りて礼を尽くさなければ、馬の足が地面にくっついて動かなくなる、という話も伝え聞きます。

このように、衷情に満ちた趙氏の家門を通して、天は趙元模おばあさんを送られたのです。そのように神様の環境創造が、その趙漢俊おじいさんの時から始まり、私(お母様)にまで連結されたのです。

6    お母様の母方の祖母は趙氏ですが、その趙氏たちが住んでいる所は、裕福な村でした。国の官職に携わった人たちが集まって住む、瓦ぶきの家が立ち並ぶ村です。そこに趙漢俊というおじいさんがいたのですが、&##12362;母様の母方の祖母が、その直系の子孫です。ですから、そのような伝統を中心として、母方の祖母と大母様が、お母様をとても愛しました。真心を込めてお母様を育てたのです。

大母様が、来られる主をお迎えしようと、八道江山(韓半島全土)を駆け回るのに忙しく、満足に家庭生活をすることができないので、母方の祖母がお母様を育ててくれました。そして、霊界についてのあらゆる秘密を、誰よりも知ろうとしたのがこの家門です。

7    母方の祖父である洪唯一おじいさんは、背が高くて美男子でした。初めてお父様にお会いした時も、容貌がそっくりで、同じ印象を受けたので、見知らぬ人のようには思えませんでした。それに、その時代に、嫁にハイヒールを買ってあげるほど、新しい考え方をもつおじいさんでした。

母方の祖母である趙元模おばあさんは、小さくて顔がきれいな上に、勤勉で活動的でした。勉学ばかりに多くの時間を割くことはできませんでしたが、当時としては新時代の教育を受けた女性であり、ミシン販売をされていました。ミシンを売ったあと、故障したミシンの修理もしたのです。

天の新婦を準備した韓民族

真のお母様の本貫は、忠清北道の清州である。真のお父様のみ言によれば、「忠清」は「心の中心が清い」という意味であり、「清州」とは「清い郡」ということである。川や海の水が澄んでいれば、魚だけでなく、水底までのぞき見ることができるように、「心の中心が澄んだ道人になることを目標にして歩む人々が暮らす郡」という意味である。そして、清州韓氏(チョンヂュハンシ)の「韓」は、「韓国」を代表し、「宇宙」を代表する。また、「韓(ハン)」は「一(ハナ)」を意味するものとして、「一番」という意味もある。神様が、清州韓氏を通して天の新婦を準備されたのである。

8    韓国は、四千三百年の歴史をもち、その歴史の中に古朝鮮時代がありました。私たちの民族は、天文を研究して天の運勢を解き明かした東夷民族です。天文学の博士たちだったのです。韓国の歴史を見ると国教があったのですが、新羅時代と高麗時代には仏教、朝鮮時代には儒教でした。私たちの民族の起源を遡ると、古朝鮮以前に韓氏が住んでいたとい記録が出てきます。

9    私たちの国の歴史学者たちは、古朝鮮以前の時代に、檀君(ダングン)をお生みになった桓雄(ファヌン)が治める国があったと主張しています。

歴史の記録に出てくる「桓」は、昔の発音に従えば「韓」と表記します。ですから、桓雄と韓雄は同じ言葉です。もちろんこれを「神話だ」と言って中傷する人たちもいます。しかし、檀君神話には、韓民族を天孫民族として選んだ神様のみ意が込められています。その当時の遺物や関連資料も発掘されていて、それが事実であることを示しています。

「韓民族」という言葉や「大韓民国」という国号の根源を知っている人は、多くありません。その根源は「韓氏朝鮮」から見いだすことができます「韓氏朝鮮」と呼んだのです。私たちの民族が「韓民族」であり、私たちの国号が「大韓民国」となったのは、正にこの「韓」に由来しているというのです。結局、韓氏の先祖がこの国を建てたという話です。

10   「韓民族」という言葉は、その源流を尋ねてみれば、「韓」に由来します。「韓民族」とは、古代から私たちの民族を呼ぶ固有の名称です。その意味は、最も秀でた民族であり、偉大な民族として、天のみ旨を立て、世界を一つにする天孫民族ということです。そして、韓氏は悠久な歴史をもった王族の血統であり名門の血統として知られています。このような血統を通して、天は母を求めてきたのです。

11   한(「韓」も同音)とは、一つという意味であり、神様も意味し、宇宙万象の合一も意味します。また、大きいという意味があり、宇宙万象を包容するという意味もあります。満ちるという意味で、充満していることを意味します。そして、神聖で立派であり、世界の「最上」と、万象の「太初」であることも意味しています。私たち韓()民族は、神様の天命を受けて歴史の主体となり、真理の主体となって、神様のみ旨を地上に実現する役割を担う民族なのです。

12   私たちの民族は、倍達民族です。「倍達」というのは、光明の国、輝く国、天をあがめ尊ぶ国を意味します。それで檀君を倍達王ともいうのです。数千年前の上古時代から、既に私たちの民族のことを倍達民族と言ったのです。

聖書の歴史を見ると、天はノアやアブラハムなどの中心人物を立てて役事(働き)をしてこられ、結局はイスラエルを選民として選んでイエス様を送られたのと同じように、大昔から天孫民族として、弘益人間(ホンイクインガン)(広く人間世界に利益を与えること)の思想をもつ天民として、韓民族を選んで準備されたというのです。結果的に、再臨主を送る摂理をされたと言うことができます。

したがって、私たちは、後天開闢時代に、平和王国創建の先鋒に立てるため、天が選んだ選民の血族が韓民族であることを、肝に銘じなければなりません。

13   訓民正音(フンミンヂョンウム)とは何でしょうか。正しい音を聞いて学び、訓(おし)える国民は、千年の歴史、万年の歴史においてすべてが減んでも、残るというのです。それが東夷民族であることを、私は知りました。古朝鮮から四千年の歴史と見ていますが、古朝鮮の前に三千年の間、「韓」があったのです。その「韓」の韓半島における根拠地が清州であると考えています。私は今、東洋史における古代韓国の歴史書を編纂し、年代的関係が途切れている歴史をつなげようとしているのです。

 

第三節真のお母様と神霊教団

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第三節   真のお母様と神霊教団

新しい天の摂理を準備した神霊教団

神様が再臨のメシヤを韓国の地に送るための摂理を急がれる中、一九〇〇年代初頭から、このような神様の摂理を、先立って知っていた篤実なクリスチャンの間で神霊運動が起こり始めた。その神霊運動は、李龍道師を中心とした新イエス教会、金聖道の聖主教、許浩彬の腹中教に脈々と受け継がれた。このような基盤の上に、天の新婦を迎えるための摂理が、神霊教団を中心に、同時に進められてきたのである。

1    神様は、今まで韓国の地で、キリスト教を中心に神霊の役事をしてきました。解放前の一九三〇年代と一九四〇年代に、神様はこのための準備をさせてきました。神様のみ旨に従うべきキリスト教は、そのような立場で神様の内的な事情に従い、内的なみ旨を立てなければなりません。神様は、数多くの家庭を通して、あるいは数多くの開拓者を通して、このような役事をしてこられました。

鉄山、平壌、または元山のすべての動きは、その時代的環境に対応させるためでした。キリスト教が従わなければならなかったので、それを一歩前進した環境で、神様は準備させてこられたのです。

2    神霊的な役事をした人の中で、鉄山に金聖道という方がいました。そして、咸興(ハムン)には白南柱という人がいました。白南柱氏は、総督府から聖主教の認可を得た人です。霊界からすべて教えられてそうしたのです。

「裸足で鉄山に行きなさい」という霊界の指示を受けた白南柱氏は、鉄山に行きました。咸興から平壌まで六十里から七十里にもなります。裸足で鉄山に行って金聖道女史に会いました。そのようにして東と西が会ったのです。会って、来られる主がこの地に来た時に、苦難を受けないように準備したのです。そうして、聖なる「聖」の字と主人の「主」の字を入れた「聖主教」がつくられました。

しかし、金聖道女史の主張と、その他の人の主張との対立が表面化するようになりました。金聖道女史は、「天が私を中心として、エバの使命について教えてくれたのだから、主が来られれば私がお迎えしなければならない」と主張したのです。

3    金聖道女史の家庭が責任を果たせないことによって、その使命は至誠を尽くして金聖道女史に侍っていた許浩彬という婦人に引き継がれました。その婦人は、すべて主を中心として生活をしてきました。天は、その婦人にまず罪を脱ぐ方法を教えてくれ、その次に生きていく方法を教えてくれ、またその次には、主が来られたあとに子女を育てる方法を教えてくれました。

その許女史は、主に侍って生活し得る法度と全体的な規則を立てて準備しました。許女史は、解放前からそのような準備をしなければなりませんでした。七年前からそのような準備をしてこなければならないというのが原則です。そのようになっていれば、韓国の解放を中心として、再臨理念が出発するようになっていました。そうしてこれを引き継いで、新しい役事をしていかなければなりません。その時は一段階離れます。「自分が主である」と言うのではなく、「主を生む」と言います。腹中を通して主が生まれるというのです。それは、復帰だからそうなのです。それがマリヤ的使命です。

4    二千年前、イエス様がイスラエルの地にお生まれになるまで、天は多くの準備をされました。イエス様が天の家庭を形成し、一つになった国家をつくり、世界へと出ていくことができるよう、あらかじめ準備させました。しかし、その当時、準備されて責任をもっていた中心人物たちは、天の深いみ旨や事情よりも現実問題に汲々とし、イエス様のことをきちんと理解できず、イエス様に侍ることもできずに、ついに十字架に送ってしまったのです。ですから、イエス様の復活後、二千年間続いてきたキリスト教文化を中心として、新しく来られる主を迎える新婦としての準備がすべてできるよう、天は無知な人間たちを悟らせながら役事してこられました。

天は、韓国を選民の国として選ばれ、韓国のキリスト教の歴史がまだ浅いにもかかわらず、解放前後を通して、新しい主を迎えるための内的な準備をする団体を立てられました。腹中教を立てた許浩彬夫婦を通して、天は内的にどのように再臨主に侍るべきかを直接的に教えてくださいました。イエス様が生まれてから、三十三年の生涯路程を歩み終えるまでの不幸だった恨を解いてさしあげるため、すべての衣服をそれぞれの年齢に合わせて作るようにするなど、あらゆる準備をさせたのです。

真のお母様に結実した神霊役事の基盤

真のお父様は、「金聖道を中心とした聖主教と、許浩彬を中心とした腹中教が、大母様を経て、お母様にまで連結されてきた」と語られた。特に、洪順愛大母様は、来られる主を迎えるために、神霊教団である聖主教と腹中教に通って多くの精誠を尽くし、献身した。そのような過程で、許浩彬の母親が真のお母様に対して、「天の新婦になられる方」と祝福したのだが、これはあらゆる神霊役事の精誠基盤が、大母様を経て真のお母様に承継されたことを意味するのである。

5    根のない木がないように、お父様とお母様が真の父母様の名前をもつに至るまでの過去の根を知らなければなりません。人は誰でも、良い環境、良い家族、良い血統を、どのようにして最後まできちんと整えるかが重要です。

大母様は、一九一四年、陰暦二月二十二日、平安北道の定州で出生され、来られる主をお迎えし侍るために、一生の間、渾身の力を尽くして生きてこられた方です。今までのすべてのキリスト教徒たちは、主を迎えるために生きましたが、大母様の一生は、それとは異なる道を歩まれました。主を迎えるために、実践の道を歩まれたのです。

6    二千年前のイスラエルの国においても、主を迎えるための内的な準備が多くあったように、解放前の韓国においても、再臨主を迎えるために準備した団体が数多くありました。そのように、復帰摂理の役事を内面的に果たしてきた団体も数多くあったのですが、母方の祖母と大母様は、そのような団体を訪ね回りながら、ひたすらみ旨のためだけに、ひたすら主に出会うその日を準備するために生きてこられたのです。結局、そのような信仰生活が、私(お母様)をこの場にまで導きました。

母方の祖母と大母様は、絶えず深い信仰生活をされました。常に分別され、清潔な生活、清い生活をされました。私は、生活のほとんどを大母様から学びましたが、母方の祖母からも影響を受けました。

7    趙元模おばあさんは、キリスト教の家庭で生まれました。信仰心と愛国心が篤く、すべてのことに熱心でした。一九一九年、三・一万歳運動が起こった当時、満五歳になった大母様を背中に背負い、その隊列に加わって万歳運動をしている写真を見た覚えがあります。それほど、素晴らしい方でした。大母様も、このような祖母の熱心な信仰生活の影響を受けて、十九歳までは長老派教会の信仰をもっていらっしゃいました。

鉄山で、金聖道女史が教主をしている聖主教が活発に集会を行っていましたが、祖母と大母様は、そこで熱心に信仰生活をされたのです。

8    (お母様)が生まれた翌年の一九四四年頃、大母様は、趙元模おばあさんと共に腹中教に入り、主を迎えるための準備をしました。ある日、許浩彬女史が、「女性はみな、服を一着ずつ作ってこそ、再臨主が顕現されても恥ずかしくない」と言いながら、午後一時くらいになっていたのですが、大母様に向かって、「夜になるまでに服を一着作りなさい」と言いました。普通の人の服であれば、数時間で作ることができますが、主の服を作るというので、いい加減にはできませんでした。しかし、大母様は従順に従いました。手がぶるぶると震えましたが、感謝の思いでその仕事をやり遂げました。

ある時、大母様は、夜も昼も霊的に再臨主に侍って暮らす許浩彬女史がとても羨ましくなり、「夢の中でも、再臨主に一度お会いできれば、死んでも恨みはない」と思いました。すると、夢のお告げがあったのです。

夢の中で、大母様はきれいな小屋にいました。上下に白い服を着て、台所で食事の準備をしたあと、ぬれた手をエプロンで拭きながら出てくると、祖母が、「この部屋は、誰も入れない部屋だ」と言うのです。しかし、言い返すわけでもなく、丁寧に扉をそっと開けて入り、おとなしく座ったといいます。すると、壮健な方が、東に向かって机を一つ置き、頭に手拭いを巻いて座って勉強していたのですが、さっと向きを変えて座るのです。そして、「私は、あなた一人を探し求めるため、このように勉強しているのだ」と言ったというのです。そのみ言が非常に有り難く、畏れ多くて、涙が自然と流れ、言葉が出なかったといいます。それで、その方の手を握って泣いているうちに、目が覚めたというのです。起きて初めて、「本当に不思議だ。あの方が恐らく、再臨主なのだろう」と思ったといいます。そのように、大母様は夢のお告げを通して、真のお父様に初め&##12390;会われたのです

9    許浩彬女史は、大母様に「再臨主が履かれる革靴と紗帽(サモ)を安州で作ってきなさいと、天がおっしゃっています」と言いながら、自分が受けた啓示を伝えてくれました。大母様はその話を聞くやいなや、安州で革靴と紗帽を上手に作ることで有名な家を訪ねていって、「精誠の限りを尽くして作ってください。お金は欲しいだけあげますから、最高の物を作ってください」と言い、サイズを書いて帰ってきました。一週間ほどしてから行ってみると、革靴は上手に作ってあるのですが、紗帽が気に入らないのです。その紗帽を受け取るやいなや、腕がしびれ始め、目がぐるぐる回り、身動きすることもできなくなりました。挙げ句の果てには、その家の床に足がくっついてしまったのです。そこで、「もう一度作ってほしい」と言ったところ、体が少しずつ動くようになりました。大母様が目をむいて紗帽を作った人を叱ると、(その人は)ぶるぶる震えながら、「きちんと作り直します」と言いました。一週間後にもう一度行ってみると、今度は本当によく作ってあり、気に入ったといいます。お金を払って平壌に持っていくと、心が落ち着きました。その話を許浩彬女史にすると、笑って喜んだといいます。それから約一ヵ月後に、また夢を見ました。大母様は、夢のお告げを非常にはっきりと受ける方ですが、一ヵ月前に(夢で)会ったその方がまた出てきて、「私はもっと北に行って勉強しなければならないので、あなたが一番大切にしている掛布団と敷布団、それから洋服を一着、背負い袋に入れてほしい!」と言われるのです。それで、「そのようにいたします」と答えて家に入ると、不思議なことに、掛布団と敷布団がきれいに準備されていました。洋服も、淡い色の服でしたが、良い布でできた物が準備されていました。ですから、「本当に有り難く、驚くべきことだなあ!」と思いながら、真心を込めてそれを包み、背負い袋に入れてさしあげました。すると、それを担いで「私は三年したら来るから、あなたは三年間、心変わりせず、待っていなさい」と言われ、北に向かって、口笛を吹きながら独り寂しく行かれるのです。その後ろ姿を見つめながら、大母様はいつまでも泣きました。独り、勉強しに行かれる姿が、この上なく寂しく見えたのです。もちろん、その間に心変わりすることはあり得ませんが、「取るに足らない私に向かって、三年間、変わらずにいなさいという、畏れ多いみ言を下さって行かれるのだなあ」と言って泣いている途中で、夢から覚めました。そのように、大母様は再臨主と既にお会いしたのです。

10   一九四六年八月、腹中教信徒の中の一人が共産党当局に密告して、許浩彬女史と腹中教の幹部たちが警察に捕まり、大同保安署に拘禁されました。内務署員が許浩彬女史に、「お前の腹中にいるイエスはいつ出てくるのか」と尋ねると、彼女は「数日後に出てこられる」と答えました。天から、しきりにそのような指示が下りたのです。許浩彬女史は、再臨主が監獄において出てこられる日時を話していたため、二、三十人の信徒が白い服を着て、毎日監獄の門の外に立っていました。また、内務署員は、それまで作っておいた服を、一つ残らず持っていってしまいました。

天から「再び作りなさい」という指示が下り、一年間以上、精誡を尽くしてもう一度その分を作りましたが、その時もまだ、許浩彬女史は出獄できずにいました。

11   一九四六年六月頃、お父様はソウルを離れ、北朝鮮の平壌に行き、景昌里で集会所を開き、伝道をされました。その頃、北朝鮮の共産党当局は、宗教団体に対する弾圧を始めました。腹中教の許浩彬女史などが、宗教の名を語って人をだましたという罪で立件された時、お父様も、それと類似した団体の指導者であり、李承晩政権のスパイであるなどの容疑で、大同保安署に拘禁されました。特に、摂理的新婦格として準備された腹中教が、新郎格であるお父様のところに自ら訪ねてくることができなくなるや、お父様は二度にわたって人を送り、勧告されました。それでも、最後まで拒否した結果、神様は獄中にまで訪ねていかれたのです。

お父様は、八月十一日から百日間、獄中での苦難に遭いながら、許浩彬女史と接触しようと数度にわたって手を打たれましたが、許浩彬女史は、最後までお父様が誰であるか気づかず、そのような摂理的に適切な(天の)処置に対して、顔を背けたまま不信の道に行ってしまいました。お父様は十一月二十一日、過酷な拷問により瀕死状態に陥ったまま、放免されました。天の加護が共にあったのです。しかし、その頃、腹中教幹部の多くは拷問を受けて死亡し、その後の六・二五動乱でも戦没しました。天の祝福と恩賜に対して、責任を果たせなかった摂理的使命者の結末が、どれほど過酷で厳しいかを教訓として教えてくれる、生きた歴史です。

12   大母様と趙元模おばあさんは、生涯にわたって再臨主を迎えるための準備をする信仰生活を貫かれました。世の中と妥協したり、安逸な家庭環境に安住したりせず、全面的に天のみ前に奉仕しながら、至誠を尽くされました。大母様が主を迎えるために、歴史的な受難の道を歩んできたがゆえに、私(お母様)もそこに同参(一緒に参加すること)したのです。私もそのような訓練をしました。み旨のために行く道であれば、何であれ犠牲にしてきたので、私たちの家門に神様が共にあったのです。

13   大母様の生涯のように、皆さんも誇ることができる一生を送らなければなりません。真の父母様の両家の父母のうち、大母様が最も高齢までお父様に侍られた方でした。それで、お父様は、「大母様」という称号を下さったのです。そのように「大母」の称号を受けるまで、天のみが知る血の涙の精誠祈祷をされました。

お父様に侍る前は、再臨主に会わせてくださいと祈り、お父様にお会いしてからは、真の父母様の家庭のために一層精誠を尽くされたのです。なぜなら、霊的によく御存じだったからです。真の父母様の家庭を守るために、サタンとの闘いをされたのです。大母様は、十年間、闘病生活をしながらも、真の父母様の家庭のために祈られました。

14   今後皆さんは、自分のために財物を積み上げておいてはいけません。節約するのは良いのです。しかし、み旨のために節約しなさいというのです。自分の一族と一国家、南北統一のために、皆さんがもっているものをすべて投入することができなければなりません。自分の家ばかり保護してはいけません。ただもつべきものは、神様の愛によって真っ赤に燃え上がる、その一つの心情だけです。

ですから、大母様のように、二十四時間、神様のみ旨と父母様のみ旨を成就させることを考えて生きなければなりません。大母様には、その考えしかありませんでした。それ以外のことは考えもしなかったのです。私たちが尊敬すべき方です。ですから、「大母」という名前を私が授けたのです。

15   大母様は、父母様の聖婚以降、労働者の妻から皇族まで、ありとあらゆる女性がお母様を打つという局面を収拾するために苦労しました。お母様一人では、これに耐えられないので、三代にわたって打たれなければなりません。その代を受け継ぐために、責任を果たしたおばあさんであることを知っているので、お父様は「大母」という名前を与えたのです。女性たちが行く愛の道で、泰山峻嶺(大きな山と険しい峰)のように立ち塞がっている垣根を崩してしまわなければ、お母様に降りかかってくるので、「あらゆる重荷を私に背負わせてください」と痛哭し、そのことをしてきました。「父母様の家庭のあらゆる心配を解消してください」と言ったのです。

そうして、今や恨多き犠牲の道を通じて、国家基準を越え、世界基準を越えて、統一天下に向かい、解放に向かって前進できる時代に来たのです。

この転換期に自分の責任を果たして逝き、すべての人が忠心で奉るべき資格をもったので、「大母様」としたのです。皆さんは、この方の一片丹心の心情を引き継ぎ、自分の子孫に対して、神様に侍る伝統を正しく立てなければなりません。このおばあさんは、神様に侍るために生きました。神様を皆さんの家庭に迎えるには、それ以上の一片丹心、忠情の道理を尽くさなければなりません。

一九八九年十一月四日、揮毫を「忠心奉身」としましたが、忠誠に満ちた一片丹心の心をもって、生畜の祭物になる道|#12434;歩みきったこのおばあさんのように歩むとき、迫害なく神様から福を受けることができるでしょう。

16   大母様は、生涯にわたり、ただ一つの所に向かって信仰生活をしてこられた方です。その中で私たちが特別に記憶すべきことは、新たな摂理歴史において「再臨主が人として来られる」と宣布し、新しい教団を準備したすべての役事に、最初から参加してきたということです。聖主教を中心として母の系統を引き継いだのは金聖道であり、それが一代目です。

そして、もう一つの系統が腹中教の許浩彬です。その系統で信仰の主流的歴史の伝統を引き継ぎ、来られる再臨主を迎えるために、選抜走者として走ってこられた方が大母様です。

お母様を生んで三代のエバの役事を経たのですが、お母様の時代に来て実を結ぶことができるというみ旨を暗々裏に知って、準備してきたおばあさんなのです。その間にあった苦労というものは、とても言い表すことができません。周辺にいる兄弟や親戚、仲間など、誰も理解できないこの道を独りで歩み、生食をしながら、ありとあらゆる役事を経てきたのです。

しかし、最後まで自分の中心思想を曲けずに歩んでくることによって、お母様がお父様と出会える基台を造成しました。

 

第一節自然と共に過ごした幼少時代

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第一節   自然と共に過ごした幼少時代

自然と共に過ごしながら得た教訓

真のお父様は、定州普通学校を卒業する頃までの十八年間、故郷である定州郡徳彦面上思里の周辺の二里から三里(八~十二キロ)を活動舞台にして、幼少時代を過ごされた。自然などから悟りを得る、重要な期間だった。真のお父様は、好奇心と探究にかける熱意が並み外れており、典型的な農村環境の中で、多彩で多様な情緒と資質を育まれた。特に鳥や昆虫などを通して、子に対する親の愛を観察しながら、人間愛の道理を確かめるなど、すべての事物が真のお父様にとっては情緒的な友となり、教材となったのである。

1    成長していく上で、情緒的に多くの教材を残してくれる所が故郷です。山を眺める時にも、忘れられない情緒的な網の目が張り巡らされています。また、小川を見る時にもそうです。小川には数多くの魚が棲み、数多くの虫たちが棲んでいます。そのようなものをすべて学びの材料として活用した場合には、自分が成長するようになります。そして、あらゆる知識の供給を受けるに当たって、忘れられない基本的な教材になるのです。

山河にいる動物や植物、自然界に関するあらゆるものを教材にして、自分が内的に成長する過程で、豊かさを身につけることができる多くの材料を与えてくれる所が故郷です。ですから、故郷の山川を懐かしく思うのです。

2    私が住む地、私が見ている周辺の村や山の尾根、山の向こうの地域まで、見ようと思えばいつでも行ってみたのです。私は幼い頃そうでした。そこに貯水池があれば、貯水池にいる魚という魚は、すべて捕まえてみます。鳥もすべて捕まえ、虫もすべて捕まえます。捕まえてみなかったものがありません。ですからよく知っています。ざりがにはもちろんのこと、魚がたくさんいる所はどこで、山の獣はどこにいるのかを、残らず知っているのです。そのようなものを何から何まで調査したので、魚を捕りに行くとき、どこに行けばよく捕れるのかを知っているのです。

3    私は毎日のように山に通い、平地では過ごしませんでした。山を歩き回ったのです。山に行けば、花もたくさんあり、鳥も多く、獣も多く、博物館のように、ないものがありません。人が作ったものは、自然から学んで作ったものが多いのです。自然を愛さなければなりません。満月になれば、私は家で寝ようとはしませんでした。松林に行きます。私の育った所は、おおかみもいて、虎もいましたが、月夜がどれほど神秘的か分かりません。

大きな松の木の下は、松葉が多く、草もあまり生えないので、雨が降ったとき、そこに座ったり寝転んだりしてもぬれません。どれほど素晴らしいでしょうか。そのような所に行って明るい月を見ると、吹いてくる風の音が神秘的です。そして、風で大きな木が揺れると、様々な色に反射するのです。それに酔いしれるというのです。不思議なことに、木と木がぶつかると音がするのですが、その音が人の話し声に聞こえるのです。「原理」は、そのような自然の中にすべてあるのであって、他の所にあるのではありません。

4    私は自然が本当に好きでした。ですから、山に行って座ったまま昼寝をすることもありました。大きな木に寄りかかり、自然の中で昼寝をするのです。そのように過ごしながら、山菜を採って食べたりもしました。このようなことが忘れられません。情緒的な人間として育つための、基本的な教材を私に提供したのだと思います。

山川にある木がすべて同じ木でも、それぞれの形が印象に残ります。それが情緒的な面において、追憶となって記憶に残る一つの教材であり、博物館なのです。

5    私の村に訪れる渡り鳥を、私はすべて知っていました。しかし、ある時、初めて見る渡り鳥がいました。まだら模様がどれほどきれいか分かりません。渡り鳥は、雛を産んで故郷に帰るのですが、どこで雛を産むのか、どうしてここに現れたのかを考えてみました。その鳥が現れた理由は簡単です。その周辺に巣があるか、水を飲みに来たか、この二つのはずです。水を飲む場合も、良い水を飲まなければならないので、良い水を探し求めて来たのです。

ですから、泉を探してみます。泉を探して良い泉があれば、間違いなくその泉の水を飲みに来るのです。それで、泉を見つけ出して二週間ほど見張りました。間違いなく水を飲みに来るはずなので、毎日のように朝から行って見張るのです。案の定、その鳥を発見しました。現れたのです。鳥たちを見ると、本当に不思議です。

6    故郷に小川があるのですが、私がそこに棲む魚という魚はすべて捕ってみました。どじょうもいて、鰻もいて、ありとあらゆる数多くの淡水魚がいますが、それらをすべて捕まえてみました。大きな池があれば、これらの魚をそこに投げ入れていたはずです。最近は、家でも魚を育てたりしますが、その時、そのようにできる池があれば、どれほど良かったでしょうか。

その頃は分別がなかったので、水たまりをつくって入れました。魚はどのような水でも、すべて生きていけると思っていました。ところが、一晚寝て起きて見ると、魚がすべて死んでいたのです。その訳も知らず、「精誠を尽くしてお前を生かしてあげようと思ったのに、どうして死んでしまったのか」と悲しみました。

そのようなところを見ると、私は情的な人です。死んだ魚を見ても、「おい、お前のお母さんが泣くだろうな。僕が泣いてあげるよ」と言いながら一人で泣きました。

7    私の家から二里余り離れた所に海がありましたが、私は他の人より短時間で往復しました。また、私は、鰻を捕るチャンピオンでした。私が小さい頃、「小さな目の子」と呼ばれていたのですが、その「小さな目の子」が鰻を一日に数十匹捕って煮込み、豚に食べさせたり、牛に食べさせたりしていると、うわさになりました。ですから、お客さんが来て鰻の話をすれば、私は「準備しておいてほしい」と言って、鰻を捕まえに飛び出していくのです。食事の時間に合わせて鰻を捕り、お客さんが喜ぶ料理を作って接待しました。鰻スープや、鰻の煮込み料理を食べようと口癖のように言っては、それを思う存分食べるのです。

8    万物は、人のためにつくられました。ごく小さな動物にまで真の愛を施すことができる主人の資格を備えるようになれば、恥じることなく堂々と神様の愛を受けることができるのです。子犬も人の愛を願い、すずめも人の愛を願い、くもも人の愛を願います。すべてが主人の愛を受けようとするのです。

昔、私は鳥を捕まえるチャンピオンでした。ですから、私が捕まえたことがない鳥はいません。渡り鳥たちも、捕まえられなければ、夜も眠れませんでした。

幼い頃はそうでしたが、成長してからは、その鳥たちに餌をあげ、泉を掘ってあげました。私が真心を込めて泉を掘れば、鳥がやって来て水を飲むというのです。また、私が食べ物をあげるとそれを食べ、私が行ったり来たりするのを見ても、飛んでいきませんでした。自分たちを傷つけないことが分かれば、人を好きになるようになっています。それは、人が万物の主人だからです。

9    動物たちも、春になれば、愛の相手を求めてさまよいます。鳥たちもそうで、昆虫たちもやはり同じです。夏に昆虫の鳴き声を聞いてみてください。その鳴き声には、二通りあります。一つはおなかがすいて鳴く声であり、もう一つはつがいになる相手に会いたくて鳴く声です。合図は簡単です。「おなかがすいているので、友達と一緒に何か食べに行こう」、それから「良い相手を探しに行こう」の二つです。

私は田舎で暮らしたので、昆虫を本当にたくさん捕まえました。また、捕まえてみたことがない動物はいません。山猫からたぬき、うさぎなど、すべて捕まえてみました。それは興味が尽きません。それらは一匹で住んでいると思っていましたが、すべて相手がいました。すべてつがいです。昆虫の世界も、鳥類の世界も同じです。

10   私は五葉松を愛しています。五葉松には、人間が食べられる実がなるからです。また、五葉松の実は、誰でもむいて食ベられるというものではありません。石で割らなければならないからです。どのように割ればよいか、その方法を知って割ろうとしても、正確にたたいてこそ割れるのです。ですから、誰もがむいて食べられるわけではないのです。

またこれは、植えても、凍ってひびが入ってこそ、初めて芽が出ます。普通のものとは正反対の時に植えるのです。春に植えるのではなく、秋に植えなければなりません。凍らなければならないのです。どのようにしても、その本質の素性は変わりません。その環境や与えられた条件に支配されることがなく、反対に環境全体を爆発させ得る内容をもっているので、そこから春を迎え、芽が出て、五葉松の木として育つのです。それが五葉松です。

これは、東西南北を中心にして、一つの中央線があります。そのような意味で、私は五葉松を愛するのです。また、この木はとてもよく育ちます。まっすぐに上がっていきます。根もまっすぐで、芽もまっすぐに上がっていくのです。

自給生活の訓練

真のお父様は、幼少時代、田畑の耕作、苗植え、草取りなど、田舍のあらゆる農作業を経験された。特に稲、豆、とうもろこし、さつまいもなどを上手に育てる秘訣、畑への肥料のまき方、山での落ち葉のかき集め方などを身につけながら、少年期を過ごされた。そして靴下や服、帽子も手作りで編んで使うなど、自給生活に強い一面をお見せになった。

11   私は学校に行って帰ってくると、もろ肌を脱ぎ、先頭に立って仕事をします。兄や姉たちと競争しても、いつも私が一歩先を行きました。農村で王のような勝利的農夫の称号を受けられなければ、その農夫の世界では指導者になれません。ですから、どのような土地に大豆を植えなければならず、小豆を植えなければならないのかをすべてよく知っています。

土地を見て、「ここは、さつまいもがよくできるのに、なぜこれを植えているのですか」と言えば、「そのようなことがどうして分かるのか」と言われます。すべて経験を通して知っているのです。私が農村に行けば、農夫の中の農夫です。漁村に行ってもそうです。船も造り、鮪(まぐろ)を捕まえるシステムも開発しました。

12   私は、靴下を自分で編んで履き、服も自分で作って着ました。寒くなると、帽子も自分で作ってかぶります。私が姉たちに編み物を教えてあげました。皆さんもみ旨のためには、一人で暮らす準備もしなければなりません。パンツなども、綿布を持ってきて、型を取って作ってはけば、ぴったり合うようになっているのです。

母の足袋も作ってあげました。母が「おやまあ、いたずら半分に足袋を作っていると思ったら、足にぴったり合うわね!」と言うほどでした。そのようなことを、すべて研究しておかなければなりません。服も編んで着ることができなければならず、靴下や帽子も作れなければなりません。そうであってこそ、一人で暮らしても、み旨を成就することができるのです。

13   最近、私が懐かしく思う食べ物があります。私が食べたことのない料理がどこにあるでしょうか。世の中の有名だと言われる料理はすべて食べてみましたが、今でも一番懐かしいものは何だと思いますか。昔、田舎では「五月のじゃがいも峠」(じゃがいもが収穫される前の農家の食糧事情が悪化する春の端境期のこと)というものがありました。(普段は)じゃがいもばかり食べていたのですが、(その時期は)麦を収穫し、麦で御飯を作って食べました。麦飯も、最近の平麦飯ではなく丸麦飯です。その丸麦を水にふやかして炊いた御飯は、スプーンでぎゅっぎゅっと押してすくっても、粒がこぼれ落ちるのです。それにコチュジャンを混ぜて食べたことが思い出されます。それが今でも懐かしいのです。

他のものを混ぜるとおいしくないのです。ぴりぴりするほど辛いコチュジヤンを混ぜて、薄赤い御飯を一口食べると、歯の間からぼろぼろと出てきます。それで口を閉じてもぐもぐと食べたのですが、そのことが今でも懐かしいのです。

14   田舎に行けば、本当におもしろくて、素晴らしいことがたくさんあります。そこであらゆることを研究し、材料を収集して、将来の大きな人生設計のために準備をするのです。私には、そのような経験がたくさんあります。

ですから、農村に行けば農作業もでき、海辺に行けば漁夫になって魚を捕ることもできます。私は網打ちをするにしても、明け方に出ていきます。どのみちやるのなら記録を出すのだ、という信念をもってするのです。明け方、一番鶏が鳴く頃に出掛けて、星が出るまでそれをして帰ってきます。私は常に、世界において何であっても、負けるのは駄目だという主義です。どこに行って何をするにしても、絶対に負けないという考えをもっています。ですから、人には絶対に負けません。私が精誠を尽くす時もそうです。

涙が多く情にあふれた少年

真のお父様は、幼い頃から涙の多い方だった。この上なく情が深く、同情心の厚い少年だった。鳥や魚を捕まえ、家で育てているうちに死んでしまうと、親の立場を考えながら涙を流す、切ない童心の情を表された。弱い友達をいじめる人に立ち向かっていったこともあった。御飯を食べられない人がいるといううわさが耳に入れば、両親に隠れて、米の入った甕(かめ)から米を運んであげ、子供が生まれたのに食べる物がない家には、わかめと米を持っていってあげたこともあった。お祝いの日に新しい服も着る#12371;とができない貧しい立場にいる友達のために、深い温情を施された。

15   六歳を過ぎて七歳になれば、物心がつく頃です。学校に通う年の頃には、村にいる身重の女性たちのおなかがどれくらい膨れたら、いつ頃赤ん坊が生まれるか分かりました。私は、そのような女性たちについて調べ、米がなければ、一ヵ月前から米を持っていってあげました。妊娠した女性の家にわかめがなければ、わかめを買ってあげたりしました。

ですから、貧しく暮らす人たちは、すべての秘密を私に報告しました。そうなると、秋になれば、とにかく栗でも取って分けてあげたくなり、とうもろこしでも取ってその家に持っていってあげなければ、心が安まりません。そのような訓練をしたので、世界の人たちをみな、食べさせて生かそうとまで考えたというのです。

16   昔、村の中で、私の家は暮らし向きが良かったのです。満足に食べられず、貧しく暮らす村の友人が、弁当に粟魬や麦飯を入れてきて食べるのを見ると、取り替えて食べることはあっても、それを見て、何もせずに自分の御飯を食べることはできませんでした。

また、友人の両親が病気なのに、病院に行くお金がない時には、父や母のところに行って涙を流しながら、「私の友人の誰々の両親が病院に行けるよう、お金を下さい」と言いました。

年が十一歳くらいになった時、「米、大豆一斗(約十八キロ)を売って誰々を助けてあげるのだ」と父に宣布しました。そうして、父に内緒で一斗の米を担いで二里の道を歩いていったことが、今も思い出されます。縄や何かのひもでそれを結んで担いでいかなければならないのですが、そのまま担いでいくので、どれほど息がはずんだか、何度もハアハアと息が切れました。それが今も忘れられません。一生の間忘れられないでしょう。そのすべてが、み旨のために歩むことができる立場に立たせたのです。

17   私は、冬に震えて通り過ぎる乞食を見れば、御飯も食べられず、眠ることもできませんでした。そのような性格でした。それで、父と母に、「部屋に入れて御飯を食べさせてから送り出してあげよう」と言いました。それが、天の愛する根本になり得るものではないでしょうか。

村で御飯を食べられない人がいるといううわさを聞いたならば、どうやって助けてあげようかと考えて、夜眠ることができませんでした。それで、私は両親に内緒で、米櫃{こめびつ)から米を取り出して分けてあげたりもしました。

18   私は餅が好きでした。私が母に「餅を作ってほしい」と言うと、母は「畑仕事もしなければいけないし、息子や娘を結婚させようと思えば、反物も織らないといけない。だから忙しい」と言って、作ってくれません。休む間もない忙しい母でした。それなのに、しきりに「食べ物を作ってほしい」と言うので、簡単な小豆餅や蒸し餅のようなものを作ってくれるのですが、大きな蒸し器に餅を作っておくと、それが三日ももちません。すべて分けてあげるのです。

村で心配なことがあれば眠れません。それをよく考えてみると、天がそのような心情を指導したのではないかと感じるのです。村に貧しく暮らす人がいたりすると、どうにかして良い暮らしができるようにしてあげたいと思うのです。村で何か起きれば、それを人ごとではなく、自分のことのように思ってするのです。心根がこのようになっていなければなりません。天性がそうでなければなりません。川上の水が澄んでいてこそ、川下も澄んだ水になるのです。人は霊的な存在なので、そのように生きてこそ、他の人たちがその人を頼りにして暮らしたいと思うのです。

19   私が幼い頃、我が家では数百箱規模の養蜂をしていました。養蜂をするときには、巣板をぴったり付けておくと、そこに蜂が巣を作って蜜の貯蔵所を作ります。巣は自分で作るというのです。その巣板は高価なものです。それをキャビネットのような所に積んでおくのですが、それを見つけて、(蜜蠟を)すべてこねるのです。

田舎に行くと、油がなくて明かりをともせない家があります。そのような家には、石油はあげられなくても、ろうそくの火だけでもつけられるように、それをあげました。そうしないと心が落ち着かず、我慢できないのです。ですから、(蜜蠟を)すべてこねて、一つ一つ配給してあげました。

私は世間知らずだったので、その当時のお金にするといくらになるか分かりませんでした。それで結局、父にひどく叱られました。ひどく叱られましたが、絶対に「間違っていた」という言葉は口にしません。父も、結局は途中で諦めて叱るのをやめてしまうのです。

20   ある障害者の夫婦がいました。男性は目が見えず、夫人は体に障害がありました。この夫婦は、村中で模範的な夫婦でした。夫人がいつも足を引きながら杖をついて夫を案内してあげるのです。口も曲がり、様々な障害をもっているのですが、夫はこの上なくその夫人を愛していました。冬になると、どこにも住む所がないので、必ずうちの精米所を訪ねてくるのです。

すると、むしろしかないので、私が布団を持っていってあげ、毛布も持っていってあげたりしました。それで、私のことを随分と気に入ってくれていました。そうこうするうちに、彼らが死んだという話を聞き、悲しくて泣いたことが思い出されます。

21   私も皆さんのように、はつらつとして希望にあふれた青春時代がありました。私は、このみ旨を知る前からかわいそうな人の友達になろうと考えていました。貧しく暮らす人に関心をもちました。子供たちがいても、裕福で力のある家の子供たちとは親しくしようとしませんでした。反対の生活をしたのです。村に御飯を食べられない貧しい人がいれば、私は寝るのも忘れてそれを解決してあげようとしました。こうしてすべての人と友達になって、すべての人の友達以上の道を行かなくてはならないと考えたのです。

不撓不屈の性格と予見能力

真のお父様は、幼い頃から一つのことをとことんまで突き詰める性格と、決して屈しない勝負根性の持ち主だった。正しいと判断すれば、絶対に先延ばしにしたり、待ったせず、即座に行動に移された。このように幼少時代は、神様の救援摂理を完成すべき真の父母となるための資質と禀性を育てる期間だった。そして、真のお父様は、幼少時代から近隣の人々の病苦と災難を予見するなど、特別な霊力を見せ、周囲の人々を驚かせた。

22   父、母、村人のすべてが私を信じていました。「文氏家門の恐ろしく、賢い者」とうわさになりました。相撲でもボクシングでも、できない運動がありません。どこに行っても三等以下に落ちることがなかったのです。すべて一等になるようになっています。

一等になる人の二倍、三倍努力するのですから、一等にならないはずがありません。私はそのような人です。ですから未知の人生問題や宗教問題の根本、根っこを掘ってひっくり返したのです。一度手を付ければ、それが終わるまで、御飯を食べることも、寝ることも忘れてしまいます。蕩減復帰に最も必要な性格なのです。

23   私は、泣き始めたら一時間で終わるのではありません。それで、あだ名が「ハルウリ(一日泣く子)」でした。一日中泣いてこそ泣きやむので、ハルウリというあだ名が付いたのです。

また、泣くときも、じっと座って泣くのではありません。村が吹き飛ぶかと思うほどの大きな声で泣きました。村中のおじいさん、おばあさんが出てきて見物せよというのです。こうして村中を大騒ぎにし、寝ていた人まで起こすほど泣いたのです。一大事でも起こったかのように泣き続けました。喉が腫れて声がかれ、しまいには声が出なくなるほどでした。そして、泣いてもじっとしたまま泣くのではありません。バタバタと跳ね回りながら、傷つき、皮膚が裂けて血を流しながら泣きました。

それほどなのですから、私がどんな性格かよく分かるでしょう。よくよく見ると、神様は本当に知恵深い方です。私はそのような性格の所有者なので、一度やると決心すれば、死ぬまで諦めません。

24   私は、性格が積極的で健康なので、活動範囲が普通の人の三倍にはなりました。雪が降るような時は眠りません。夜、いたち狩りに行くのです。おなかがすくのも忘れて歩き回ります。ですから、私の母は相当に苦労しました。私は、並外れた人です。十代になると、既に父と母を意のままにしていました。それほどの子供だったので、私は、このようなことをしているのです。まかり間違えば引っ掛かってしまうのですが、その性根に父母も降参しなければなりませんでした。私は、たとえ骨が折れても譲りません。死んでも譲らないのです。

「間違っていましたと、一言言いなさい」と言っても、答えません。間違っていないのに、どうして「間違っていました」と答えるでしょうか。

25   私は、誰にも負けない粘り強い性格をしています。幼い時には、けんかをして相手を降参させきれなければ、三、四ヵ月、眠れなかった人です。そのように粘り強い男です。恐ろしいといえば、誰よりも恐ろしい男なのです。

人に負けることを絶対に嫌う人です。負けたことがありません。何をしても必ず勝つのであって、負けることは考えもしません。勝つか負けるか、すぐに分かります。私が手を付けた場合には、死なない限り勝つのです。そのような性格の持ち主です。

26   私は、性格がとても性急な人です。一言でも悪口を言われれば、我慢ができない性格です。誰かに一発たたかれたら、耐えられない人です。また、誰に対しても負けるのが嫌いな人です。私はそのような気質と性格をもっているので、できないことがありません。どんな運動をしても、私が勝ってみせるという性格をもっています。私は頭も悪くありません。

そのような私に悲惨な境地、これ以上耐えられないという境地が、何十回、何百回あっただろうかと考えてみてください。恥ずかしいといえば、それ以上に恥ずかしいことはないという境地が、一度や二度ではありませんでした。しかし、それをすべて克服してきたのです。神様がそうされたからです。神様も火のような性格があるはずですが、その性格のままに一度動けば、世界を一掃できる立場にいるにもかかわらず、それを神様は、強い意志で耐えられたので、世界が残っているのです。

27   私が若い時は、同じ年頃の子と相撲をして負けたことがありません。私の村にいる私より三歳年上の人と相撲をして、私が一度負けました。田舎で暮らした人は分かるでしょう。アカシアの木が、春の季節になって水分を吸い上けるとき皮を剥ぐと、松の木の皮のように剥がれます。ですから、春の季節に木が水分を吸い上げるとき、何度もしならせると皮が落ちるので、それを一気に剥がすのですが、これが硬いのです。このアカシアの木と相撲を取るのです。「こいつ!お前を倒すまでは御飯を食べるものか!」と思って、六ヵ月目に彼を倒して馬乗りになりました。そうするまでは、御飯を食べることも忘れ、寝ることも忘れてしまうのです。

28   私は、八歳の時から、姉、遠い親戚、村中の人たちまで、嫁や婿に行く時、写真を見てたくさん結婚させました。幼い時も、私が「きょうは雨が降る」と言えば雨が降りました。また、「一週間以内にこの村で人が一人死ぬ」と言えば死にました。そのような逸話がたくさんあります。

ですから、結婚しようとする人が、私に相手の写真を持ってきて、「これをちょっと見てほしい。良いか、悪いか」と尋ねるのです。ちらっと見て「悪い」と言えば、必ず悪いのです。見るのも、長くは見ません。見て「良い」と言えば、それは良いのです。そのような歴史をもっています。

29   私は、村では五山の家の小さな(目の)子で通っていました。目が小さかったので、村で「五山の家の小さな目」と言えば、私のことだと分かります。目があまりにも小さくて、母が私を生んだ時、「目がない」と言ってしばらく見つめたといいます。目を広げてみると、ぱちぱちまばたきしたので、安心したそうです。そのような目が必要です。

遠くまで見ることができる素質をもって生まれたので、今日の世界はもちろん、神様の心情と事情まで解剖して探り出し、(神様の心情に対する)解剖学を論理的にまとめた男です。そのような価値を知るようになれば、世界は私にだけ付いてこようとするのです。私に会いに行こうという行列が、玄界灘を越えて太平洋の真ん中にまで続くでしょう。

30   私は、牛も見ることができます。販売場で牛を見て、「あの牛は悪い」と一言言えば、その牛は売ることができないのです。牛は、首筋が整っていなければならず、前足が整っていなければならず、後ろ姿が整っていなければならず、腰が整っていなければなりません。この四つが整っていれば、良い牛なのです。

昔、父が牛を買いに行く時には、私も付いていって鑑定してあげました。父が知らない牛に関する話をしてあげると、「お前、どうしてそれを知っているのか」と言われました。

私は、既に生まれながらにして知っていました。ですから、今日、世界で誰もできないことをしているのです。

31   昔、私が子供の頃、通りに出て、行き交う人を見てどのように感じるかを調べたりしました。「あの人は、間違いなくこうだ」と思うと、それが本当に正しいか正しくないか、付いていきながら打診してみるのです。その人に、「あなたは、こうだったでしょう?」と尋ねてみるのです。それは霊界から教えてくれるのではなく、私の心が既に知っているのです。

それで「あなたは、このような人でしょう?」と尋ねてみると、「どうして分かるのですか」と驚きます。間違いなく当たります。じっと座って、あの部屋に誰がいるのか、良いことをしているのか、悪いことをしているのか、良い人が住んでいるのか、悪い人が住んでいるのか、ということがすぐに分かるのです。

 

第二節神様からの召命

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第二節   神様からの召命

蕩減の道を行った家族

真のお父様が天から召命を受けられたことを前後して、家族と周囲の人々は厳しい蕩減を払わなければならなかった。十六歳(数え)になる頃までに、あらゆる試練が押し寄せた。サタンの讒訴条件を清算し、完全な天の側の勝利の基点を確定するため、摂理上、不可避な犠牲が伴ったのである。三代にわたって兄弟たちが客死し、行方不明になった。さらに、真のお父様を含む六男七女の兄弟のうち、格別に愛情をかけた五人の弟妹が相次いで夭折(ようせつ)した。天は、真のお父様が世の中で心を寄せ、頼れる関係や、関心をもつ外的環境を、ことごとく切ってしまった。この世のどこにおいても心安らかに過ごせない緊張した日々を、一生の間、経てこられたのである。

1    統一教会のみ旨を引き継ぐためには、誰もが蕩減路程を経ていかなければなりません。私は十六歳(数え)の時、この道を出発することになりましたが、その時には、十三人の兄弟のうち八人だけを残して五人が死にました。また、犬が死に、牛が死に、馬が死にました。奇怪なことが起きたのです。このような理解し難い出来事を、皆さんは知らないでしょう。謎のような出来事が本当に多かったのです。私の家庭を中心として、完全に破綻させるための悪魔の計略があったというのです。これは現実的な内容です。

万国を代表して勝利の覇権をつかむためには、末端の血族においても、その戦場でサタンが讒訴できない内容を提示しなければならず、本人自身の歴史性においても、世界万民、世界人類を代表して歴史的勝利圏を誇り得る条件を提示しなければなりません。統一教会も同じです。統一国を創建するにも同じなのです。

2    霊的な現象は、見えない世界で起こるのではなく、実際に見える所で様々に現れるのです。サタンはあらゆる手段を使って、お父様の一家を滅ぼすことを計画しました。その渦中で、兄と姉が精神的におかしくなり、大変なことになりました。若い頃、そのような霊的背景と霊的世界の問題があったのです。

気が狂ったと思った兄が、よく見ると何か話をしているのです。兄が話すときは独り言のように語るのですが、その内容が途方もないものでした。また、言い方が時によって違いました。何人かの霊が来て、一日中話をするのです。そのことがお父様には、すぐ分かりました。

3    私自身にとって最も親しかった友達、天が祝福してくれる立場にいる友達は、すべて連れていかれました。この世で信じ、頼れるものは、一つ残らず断ち切られてしまいました。その中には、平安北道の人もいて、黄海道(ファンヘド)の人もいました。誰よりも親しかった友達が、全員連れていかれたのです。

また、私が最も愛した妹が連れていかれました。私の家庭には娘が多かったのですが、母方の叔母の家には娘がいなかったので、叔母さんが懇願し、この妹は叔母の家に行って暮らしていました。それで、私はいつも、その妹のために祈りました。その妹は、兄に対して絶対的でした。ですから、妹にとって良いことであれば、兄としてどんなことでもしてあげたいと思っていたのですが、その期待までもすべて断ち切られてしまいました。妹だけでなく、愛する弟も連れ去られてしまいました。このようなことを見ると、蕩減には許しがないのです。そのような過程を経なければなりませんでした。

4    私のことを愛してくれた友達は、すべて霊界に連れていかれました。なぜ彼らを霊界に連れていったのかを、今考えてみると、私が彼らと私情を交わすかもしれないのでそうしたというのです。神様のすべてのみ旨に責任をもって歩んでいく私が、彼らと私情を交わす恐れがあるからです。神様は、私がこの世で関心をもつ人は、すべて連れていってしまいました。

このようなことをよく知っているので、他の道に行こうにも行けないのです。私が愚かなのでこのようなことをしているのではありません。どれほど多くのことを考えたでしょうか。

十六歳(数え)の時、神様からの召命を受ける

真のお父様は、長老派教会に入教する頃、新しい学問の修学とともに、思考の幅が広がってより深く考えるようになり、将来の問題と現実の問題について深刻な疑問に逢着された。理由も分からない中で起こる家の患難とともに、日本統治下における民族の悲惨な姿、そして、弱小民族の苦痛と悲哀を深く体感された。同時に、人生の根本問題について苦悩しながら、解決点を探そうと身もだえされた。そのような中、定州普通学校に転校した直後、十六歳になった年の一九三五年四月十七日の早朝に、長い時間、涙ながらに山上で祈りを捧げていたところ、イエス様の顕現を体験することになる。イエス様は、奥深く驚くべき事実を多く語られ、その後、何回にもわたって直接対話を交わされた。真のお父様は、神様から天命を受けられたのち、故郷とソウル留学、そして、日本の東京留学を経ながら、将来の摂理的使命者として、責任意識の体得と信仰を深化させる準備期間を過ごされた。

5    私は、十六歳(数え)になった年に、イエス様と出会い、深い霊的な体験をしたことがあります。それが啓示の始まりでした。その特別な出会いがあって以来、今まで、生きていらっしゃる神様と、イエス様を含めた霊界の聖賢たちと、絶え間なく対話をしてきました。その内容は、言葉では表現しきれません。神様は、御自身の摂理の時に従って私を選択されたのです。

6    私が悩み多き立場で神様を知る経験をし始めたのは、十六歳(数え)の時からでした。私は、少年時代から、「私は誰だろうか。私はどこから来たのか。人生の目的は何だろうか。死んだあと、私たちの命はそのまま続くのだろうか。また、神様は果たして存在されるのか。神様は全能であられるのか、あるいは無力であられるのか。もし神様が全能であられるのなら、なぜ人類世界の問題を解決してくださらないのか。この地球上には、なぜ数多くの苦痛が存在するのか」、このような人生の基本的問題について悩んでいました。

そうして、十六歳の時から九年間、私はいつも全能であられる神様、そしてイエス様と共に生活しました。また、何度も霊界に入ってみました。

神様は、徐々に驚くべき真理を示してくださいました。それは、まるで長く暗い夜が過ぎ去って朝日が昇るかのようでした。その真理の中で、栄光の新しい文化の曙光(しょこう)を見ることができました。新約聖書に基礎を置くこの特別な啓示は、ユダヤ教の教えよりはるかに素晴らしいものでした。この啓示は、あらゆる宗教を包摂して一つに結ぶことができる力と能力をもっています。私が受けたこの啓示は、今日「原理」と呼ばれており、(私は)神様からこの「原理」を地の果てまで伝えなさいという指示を受けました。

7    十六歳(数え)の時、どれほど深刻な立場にいたか分かりません。神様にとって最も困難であり、イエス様や宗教団体にとっても、最も困難な最後の時でした。韓国が日本の統治下に入ってコーナーに追われ、行き場のない三角地帯(窮地)にいたのです。天地と神様も、五大聖人たちも、宗教圏も、すべてが一点に集まりました。ですから、私もこの一点に対して召命的な責任があるので、その場に入っていくのです。

そうすると、私を中心とした家庭や韓国自体が、極めて深刻な立場に行くのです。夜も眠れませんでした。御飯を食べようにも御飯が喉を通りませんでした。それがすべて見えるのです。瞬く間に天下がすべて崩れそうなのに、その責任が私にあるというのです。ですから、どれほど深刻だったでしょうか。

8    私が受けた新しい啓示は、神様のみ旨をとても明確に解いたものです。そのみ旨は世界を救おうというものです。統一教会は、ある一つの宗派ではありません。統一教会は、世界を救うための運動を展開しているのです。このような私たちの運動に同参(一緒に参加すること)しているすべての人たちは、神様のみ言を通して、神様を中心とした個人、神様を中心とした家庭、神様を中心とした国家、そして、神様を中心とした世界という概念を明確に理解しています。

9    アダムとエバが十六歳(数え)で堕落したので、本性的内縁(内的な縁故)を中心として、天がアダムとエバを育ててきた心情の脈絡に乗ることができたのは、幼少の時から十六歳までです。特別に天が私を選び、立て、育ててこられたので、十六歳から霊界と肉界を一つにしていかなければなりません。

私は、この十六歳の本然の心情的な縁と連結されて育ったので、サタン世界は私に従ってこなければなりません。サタンは、兄の位置、祖父の位置、父の位置、宗教圏に先立って国家の位置で統治してきました。主管してきたのです。ですから、これが交差して入れ替わる時が、今までありませんでした。国が先に立って引っ張ってきました。私が十六歳の時からこれを連結させて、新しく天の秘密とサタンの秘密、また人類歴史の秘密をすべて知ることによって、これらを中心としてひっくり返していくのです。

10   私自身も、時には前が真っ暗な壁にぶつかることが多くありました。そのようなことがあるたびに、「神様は死んでいない」とおっしゃったその声が、私の骨髄にいまだ残っていることを、皆さんは知らないでしょう。私を召してくださった神様の切ない事情を、私は忘れていません。神様が、「お前は私のことだけを思っていなければならず、私のことを忘れてはならない」とお命じになったみ言が忘れられません。自分自身が哀れであることを感じれば感じるほど、私よりもかわいそうな方が神様であられることを、改めて感じさせられます。

私たちは、歴史の悔しさとともに、今まで耐え忍んでこられた父の心情を、無限に胸痛く体恤できなければなりません。そうして、「私は歴史上のいかなる息子、娘よりもお父様の心をよく知っている孝子の中の孝子、孝女の中の孝女になったではないですか」と言って、堂々と前に出て父を慰労してさしあげることができ、すべてのものを捧げられる息子、娘にならなければなりません。私はそのために闘ってきました。これからも、そのように生きていくでしょう。今や、いかなる宗教団体が統一教会に反対し、私に対して中傷し、謀略を仕掛けても、関係ありません。いかなる権限をもって抑えつけても、私たちのこの基盤を征服することはできないでしょう。

 

第三節学生時代

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第三節   学生時代

書堂と小学校時代

真のお父様は、七歳から十三歳まで、書堂で漢文を学ばれた。特に暗記力に優れ、筆字においては、先生の代わりに手本の字を書くほど、抜群の才能を発揮された。その頃は、将来、博士学位を三つ以上取得することを夢見ながら、一九三三年に十四歳で圓峰(ウォンボン)学院に入り、進学試験の準備をしたのち、一九三四年、五山普通学校の三年に編入された。そして、一九三五年四月、日本語の勉強のために定州公立普通学校の四年に転校され、一九三八年三月二十五日、第二十九回卒業式において、すべての式次第が終わる頃、自ら進んで壇上に立ち、長時間、特別所見を発表された。日本の植民地教育政策の虚構性とその偽善的形態、個々人の教師に対する問題点を一つ一つ指摘された。これをきっかけに、真のお父様は、日本の警察から要注意人物として目をつけられることになる。

1    私には、絵を描く素質もあります。そのような方面に素質があるのです。書堂に行くと、既に八歳(数え)から九歳、十歳、二十歳、三十歳まで、年上の人もいました。字を上手に書けるようになるため、毎日字を書くのです。私は、十二歳になる前から、字を書く帳面に手本の字を書いてあげました。そうすると、その帳面に数百回書くことになります。それが習慣になると、もう違うのです。さっと見て、筆がどこに向かえばよいのか、一番上がどこに向かえばよいのかが分かります。ですから、とれほど長いものでもさっさっさっと書いて合わせるのです。普通ではありません。

私は、そのように書堂に通いながら初めて塾に行きました。そこで初めて絵を描いたのです。年上の人たちは、画仙紙という絵描き用の紙にすぐに絵を描きました。私は、画仙紙を前にして、描こうとする花を考えて構想を練るのです。画仙紙がこれぐらいだから、そこに合うようにするためにはどうすべきか、計算するのです。計算して、心で線を引き、それに沿って描いていくのです。一つ、二つと描いていくと、すべて入ります。そのようにして線さえ描けば、形が現れてくるのです。その次は、色塗りにかかっています。そうして、私が初めて描いた絵が塾の壁に貼られました。

2    私は十歳(数え)の時、書堂に通いましたが、その時は本を一日に一ページだけ覚えればよかったのです。三十分以内にすべて覚えるのです。精神を集中してすれば、三十分ですべて記憶することができます。それから書堂の先生のところに行って、すらすら暗唱すればよいのです。

そうしてすべて終えたなら、先生が昼寝をしている間、私は山を歩き回るのです。書堂の先生は、疲れるので昼寝をよくしました。ですから、蛙がどこにいて、鳥の巣がどこにあり、山犬がどこにいて、きのこはどこにあるのか、すべて調べておくのです。そのように歩き回ったので、母が私を捜し回っても見つけられなかったのです。

3    物心がついて、十歳(数え)を越えるまで書堂に通いました。なぜなら、私の家門では、外地に出て勉強した人たちはすべて客死したからです。また、摂理的に見ても、み旨から見ても、二番目に生まれた息子には、問題が起こりました。ですから、私の一族では、勉強させれば死ぬといううわさがあり、学校には行かせず、書堂で勉強させたのです。そのような立場で育ったお父様の一生は、すべて開拓と改革でした。

書堂に通う中、初めてみ旨の道を知ったのち、十六歳(数え)の時から心を決めて、私の行くべき道を考えるようになり、この書堂にばかりいてはいけないと思ったのです。飛行機が飛び、汽車が走る科学文明の時代がだんだんと拡張され、未来を引っ張っていくようになることをありありと感じる立場で、「このような書堂にばかりいてはいけない!」と思い、そこから革新が始まりました。

それで塾に入って勉強し、その当時で言えば、普通学校に入ったのです。

その時は五山普通学校でした。その学校の三学年に、編入試験を受けて入りました。そこで一年勉強したのですが、一生懸命しないわけにはいきませんでした。

4    五山普通学校では、日本語を使ってはいけませんでした。皆さんも知っているように独立万歳運動の三十三人のうちの一人で、日本と怨讐の立場で闘争した代表的な人物である李昇薰(イスンフン)氏が建てた学校であり、そのような学校の伝統があるので、日本語を使わせなかったのです。

ところが問題は、私たちが敵を知らなければいけないということでした。敵について詳しく知らなければ、敵と闘っても対策を立てられないという思いがしました。それで、定州普通学校の四学年に、編入試験を受けて入りました。そこに入ってから、日本語が流暢にできるようになって卒業したのです。そのような過程を経ながら、信仰の道や人生の根本など、難しい問題について考えるようになりました。

5    定州普通学校に編入し、学校で日本語を習いました。片仮名、平仮名を勉強したのが、ついきのうのことのようです。それを一晩ですべて覚えてしまいました。学校に行ってみると、三年生、四年生、五年生の子供たちが日本語で話していました。

その当時の私は、年がいってから学校に入ったので、背が高かったので&##12377;。それなのに、日本語が一言も分からないのですから、他の人たちが踊っているその真ん中で、何もできずに一人でただ見物ばかりしているのに、恥ずかしいことさえ分かっていないというような状況でした。その時の気まずさは、感じたことのない人には分からないでしょう。ですから、稲妻のように、一年生、二年生、三年生、四年生のすべての本を半月ですべて覚えてしまいました。そうすると、聞き取れるようになったのです。

6    私は、頭が悪くないので、どんな勉強をしても世界的な学者になっただろうと思います。そのような頭をもったからといって、私が勉強して世界に名だたる学者になって何をするのか、そのような問題を深刻に考えました。

そのような学者になったところで、黒板の前でチョークの粉を吸い込み、一生の間、腰が曲がるまでひたすら研究ばかりして死ぬのです。そのようにしてすべての根本問題を解決できるのかといえば、それはできないというのです。

それならば、人間として行くべき道のうち、どんな道が最も困難で大変な道かを考えました。歩むのが大変といわれる道を私は行きたかったのです。人間として今まで歴史時代において、過去、現在、未来に誰もできなかったこと、できないことを、私が一度しなければならないと考えました。

7    私が勉強する時は、稲妻のように勉強しました。数年かけてすることを、瞬く間にやってのけました。私の故郷は、定州から北東方向に約八キロメートルの距離にある農村です。灯蓋(とうがい)(灯火用の油皿を載せるもの)に明かりをともして勉強したのが、ついきのうのことのようです。

午前二時、三時まで夜を明かしながら勉強していると、父や母が、「おい!もう寝なさい。体をあまり無理させてはいけない」と言いました。いつもそうでした。その時、私が常に友としたのが夜の虫たちでした。夏は夜の虫を友としたのです。そのように座って、午前二時、三時まで勉強しました。田舎の夜は本当に静かです。昆虫たちが月夜に鳴く声は、とても神秘的なのです。

ソウル留学生活

真のお父様は、定州公立普通学校を卒業され、一九三八年四月十二日から一九四一年三月八日まで、ソウル黒石洞の京城商工実務学校に通われた。真のお父様は、誰よりも早く登校され、教室の掃除を一手に引き受けてされるときも多かった。そのため、同級生たちも気兼ねし、むやみに接することができなかった。か弱い学生は保護してあげ、力があっておごりたかぶる者たちとは正面から向き合い、是非を正された。闊達であられたが、普段は寡黙で真面目だった。天道を明らかにし、人格の完成を目指して、常に沈黙された。真のお父様の学籍記録には、「明朗で活発、飾り立てることなく真面目、そして、強靭、健全であり、自ら率先してあらゆることに熱心に取り組む」、「身体が健康で、出席状況は良好、特にサッカーを好む」と評価されている。

8    謙遜な人は上がっていくのです。学校の友達の中でも、自分の位置や境遇も分からず、拳を振るう学生たちがいます。しかし、謙遜な人、自分に実力があってもおごり高ぶらない学生もいます。そのような人には、何かしら威圧感があります。主管性が宿っているのです。近づきたいと思うのですが、彼がじっとしていても、なぜか近寄り難いのです。皆さんの友達の中にも、そのような人がいるというのです。

私は学生時代、あまり話をしませんでした。学校に行っても絶対に饒舌にはなりませんでした。一日中、話をしない日もありました。ですから、同級生たちは、私のことをとても近寄り難く思っていました。学校の先生よりも近寄り難かったのです。かといって、私が彼らを恐喝したり、脅迫したのでもなく、たたいたりしたのでもありません。

それでも、彼らは私に対して、むやみに接することはできませんでした。

また、彼らは、悩みがあると、私のところに来て相談したのです。

9    学校の友達は、私のことを恐れていました。同じクラスの友達とは、会えば遊んだりしながら過ごしましたが、私のことを恐れたというのです。私は、余計なことは話しませんでした。困っている友達がいれば、私は人知れず、その友達を助けてあげたことがたくさんありました。

また、私は運動選手でした。相撲選手であり、サッカー選手でした。鉄棒もできました。体は大柄ですが、敏捷でした。黒石洞の我が物顔でいる人たちと、一週間のうちに全員会ってみました。そこで誰が親分なのかを調べて、彼らを私が教育すると考えながら暮らしたのです。

10   私の中学校時代は、一人で掃除をすべてやりました。学校を愛することにおいては、私が先頭に立ちたいという気持ちがあったので、全校生徒に代わって私が掃除しようと考えたのです。そのような時は、人が手伝ってくれることを嫌いました。一人できれいにしようとしたのです。それで、人がした所をまたやり直すことになります。そのように何度かしているうちに、友達が「お前が一人でやれ」と言うのです。それで自然に一人で掃除をするようになりました。

11   私は、一度つかんだら放しません。若い時もそうでした。村中から見えるものでも、私がすべて検証するまでは信じませんでした。学校で数学の先生が公式を教えてくれると、それを中心としてその先生を追い込んだ人です。誰がこのような公式をつくったのかというのです。ですから、暴いて、かき分けて、掘ってはまた掘り返しました。適当にではありません。何であっても、適当にしては通じないのです。

12   私が学校に通っていた時は、試験問題に何が出るのか分かりました。学校の先生が講義をする時、どれほど深刻かを見ます。自分の気に入った学生の目をまっすぐに見ながら語るのです。その学生が隅にいれば、隅のほうを見ます。「誰を見るだろうか」と思いながら、学校の先生に注目するのです。「先生が勉強のできる学生を見て強調しているのを見ると、これは間違いなく試験問題に出る」と思えば、ABCと印を付けておきます。

一冊の本の中で十ヵ所だけ印を付けたあと、それだけ勉強しておけば落第しません。その周辺まで見ておくので、答えを書けば、三〇パーセントから四〇パーセントは当てられます。講義をよく聴いたので、そのようにできるのです。

自炊生活と涙の祈祷

真のお父様は、ソウルで過ごされた学生時代の三年間、自炊しながらの下宿生活を通して、苦行に近い生活訓練と多様な経験を積みながら、学業と信仰に精進された。当初、しばらくの間はソウルの銅雀区(トンヂャクク)鷺梁津(ノリャンヂン)から通学し、主に黒石洞で自炊しながら下宿をされた。特に、故郷の家からは十分な学費が送られてきたが、井戸のつるべの鎖が手に張り付くほどの酷寒の中でも、火の気のない部屋で過ごし、冷たい水をくみ上げて御飯を作るなどの自炊生活を通して、貧しい中で生きていく人々の生活を直接、体験された。この時から、昼は常に断食をされた。常に一食一品だった。空腹の時こそ、神様の心情に近く接することができるからである。そして、一日に十二時間以上、祈りに没頭されることもあった。そのため、膝と肘にたこができるほどだった。特に、学校の近くの松林、そして、教会の裏側にある瑞達山(ソダルサン)の岩の丘と、山の向こう側、銅雀洞の麓で、深刻かつ凄絶な談判祈祷もされた。そのような中で、神様の心情を体恤しながら心情的一体を成し遂げられたのである。

13   ソウルに来て自炊生活をしていた頃、冬はとても寒かったのです。平均気温が零下一七度から二一度ほどでした。若かった頃は、それくらい寒かったのです。真冬に火の気のない部屋で暮らし、冷たい水で御飯を炊くのです。

そして、今も私が忘れられないことがあります。山の尾根に掘ってある深さが十尋(約十八メートル)以上の井戸があったのですが、この井戸水は本当に良いものでした。つるべは、緒が切れるので、鎖でつないでいます。それをつかむとき、手が張り付いて「ふうふう」と息を掛けたことが、ついきのうのことのようです。そのような生活をして、人が生きていくことを、身をもって知ったのです。

14   私は、女性がいなくても一人で生きようと、あらゆることを研究しました。一生、独身生活をするとしても、このみ旨を私の一生の事業とすると定めて出発した人なので、できないことがありません。私に必要なものは、誰の世話にもならずに、自らの手で解決するというのです。私は、食事を作るのも上手です。包丁さばきを見れば、素人かどうか、すべて分かります。また、おかずを作るのを見れば、腕前が良いか悪いかすぐに分かるのです。私は七年以上、自炊生活をしました。

私には、たくさんのおかずは必要ありません。地方に行くと、おかずをたくさんお膳に並べますが、それは好きではありません。一種類でも口に合えばよいのです。私は、一つのことに向き合えば、その終わりまで見届けてしまう気質です。おかずもそうです。いくらおかずが多くても、箸は付けてみますが、食べるおかずは一種類だけです。一種類だけ買い、料理して食べるのです。

15   統一教会の歴史を訪ねていく人は、黒石洞を訪ねざるを得ません。黒石洞が白石洞(ペクソクドン)になるのです。私が昔、暮らしていた暗い谷間のような所が、世界万民に明るい日の光を照らしてくれる伝統の基地にならなければなりません。ノドゥル(漢江の南にある地域の昔の地名)もそこにあります。しかし、昔の姿が今は一つもありません。

昔、その時代に黒石洞で暮らしていた人には会えませんが、子孫たちが大勢います。その父母と関わりのある私が、彼らと会えば、どれほど感激的でしょうか。そうなれば、そこから歴史が復活します。昔のことを語りながら、歴史を復活させて、時代を花咲かせるのです。

16   私が今でも忘れられないことがあります。私が黒石洞に住んでいた頃、上道洞(サンドドン)に越えていく所に松の木が生い茂っていて、その向こうには草花を育てている日本家屋がありました。そちらの方に回っていくと田んぼがあり、その向こうに村があるのですが、そこに開拓伝道のために通った家がありました。

ある時、見知らぬ人が病で道に倒れていました。それは、新学期が始まり、学費を持ってきた時だったので、三月末頃でした。よくよく聞くと、その人は息子のいないかわいそうな人でした。「天安(チョナン)に自分の娘の家がある」と言うので、私が学費をすべてはたいて、旅費と病気の治療費まですべて出してあげました。その時、私の足が離れませんでした。背を向けられなかったのです。そのようなことを見ると、その人の先祖は悪くない先祖なのです。

ですから、私が財布にあった、本を買うお金と下宿代をすべて持たせて行かせたのです。そこから三キロメートルほど背負っていったことが、ついきのうのことのように思い出されます。

そのような人と天が会わせてくださったのなら、天が「同情してあげなさい」と言われる以上に同情してあげたからといって、絶対に損にはなりません。天が十くらい助けてあげなさいと言うことに、百くらい助けてあげるようになれば、九十は、私が天のみ前に功績を積んだものとして扱われるのです。天が十くらい助けることを望んでいるのに、五だけ助けてあげるのではいけません。天が十くらい助けてあげることを望むときは、十以上助けてあげなければならないのであって、十未満ならば、皆さんの恩恵の道が塞がってしまうのです。それが原則です。公式がそのようになっています。

17   私は、おなかがすかない日がありませんでした。お金がないからではありません。四月初旬に家から学費が送られてくると、五月にはすべて使ってしまいます。すべてかわいそうな人に分けてあげるのです。そのようなことが多かったというのです。そうして何をするのかというと、新聞配達をしたり、物を売ったり、何でもするのです。蕩減の道を行かなければなりません。また、平安道の故郷を離れてソウルにやって来て、言葉にも慣れず、風習にも慣れず、最初の夏休みがどれほど待ち遠しかったか分かりません。

母が私のことをどれほど愛したか分かりません。み旨を知ってからは、その母をどのようにして振り切るかというのです。また、妹たちはお父様のことを愛しています。それをどのようにして引き離すかというのです。ですから、その父や母が現在の立場で望む道とは、反対の行動を取らなければなりません。それで、夏休みに入った日、すべての学生たちが自分の故郷に帰るといって町が慌ただしく、学校が慌ただしくなっているにもかかわらず、一人、部屋に鍵をかけ、「私は、今からこの部屋で、誰々や誰々が帰ってくるまで、私のすべきことをするのだ」と言って、休みの期間を過ごしたのです。

18   すべての人は、宇宙を主管することを願っていますが、自己主管もできていません。それで、お父様は、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」と言ったのです。まず、食欲から主管しなければなりません。食欲は、断食によって克服できます。一週間は問題ではありません。普通の人であれば死地を越えてしまう、そのような境地の訓練を受けなければなりません。

空腹を克服しなければならないのです。日本統治下で自炊生活をしていたとき、米が貴重だったので、友人たちは先を争って御飯をもっと食べようとしていましたが、お父様は、そのようにしませんでした。さじと箸を先に置く人が、あとに置く人の主人になります。原則がそのようになっています。お父様の生活は、毎日が新しいのです。きょうよりあすが新しくなければなりません。天は新しいことを願っていると信じて、実践してきたのです。そのようにしたところ、誰も成し遂げられない世界的な版図を備えるようになったのです。

19   私は、物心がつく頃から昼食を食べませんでした。国もない立場で、三食欠かさず食べる資格があるかと思ったからです。御飯が慕わしくなる生活を本当にたくさんしました。御飯を慕うより、民族を慕う道を行きました。「御飯より民族と国をもっと愛さなければならない」と考え、故郷を離れてソウルにいる時は昼食を食べなかったのです。そのような生活をしました。ポケットにお金がなかったわけではありません。お金があれば、貧しい人たちに分けてあげたのです。

20   私は、一日に四時間以上眠りません。それが習慣になりました。忙しい時は、一日一時間だけでも構いません。眠ることにおいて、人類歴史の中で一番短く眠る代表者が私だと思います。一生をそのように暮らしてきました。また、私ほどひもじい思いをした人はいないはずです。御飯がないわけではありません。おなかをすかせた人々の、救いの手を願い、解放を願う叫び声が聞こえてくるので、御飯を食べることができないのです。

三十歳までは、昼食を抜いて二食だけ食べる二食主義でした。一日に御飯を五杯食べても軽く消化して余りある壮健な体格の人が、二杯も食べずに青春を過ごしました。御飯に対する慕わしさよりも、愛することを優先させる訓練をして、神様を愛し、国を愛する生活の基準を立てようと努力してきたのです。

21   私は、どこに行っても涙を流しながら祈る立場にいたので、その事情が何か知らないのに、同情する人たちがたくさんいました。また、皆さんが私に接するように、行く先々でそのように接してくれる人たちがたくさんいました。下宿先の主人のおばさんは、祝祭日のような時に夜通し準備した料理、あるいは夫のために準備した料理を、私がいる部屋に持ってこなければ自分の部屋に戻れないということもありました。何もせずに自分の部屋に戻ると、突然目の前が真っ暗になるというのです。自分たちも、どういうことか分からないのです。神様は、女性たちの精誠を込めたその料理までも、私に食べさせるために、彼女たちの心を動かしたのです。そのような役事(働き)がたくさんありました。

ですから、私は、神様の愛を夢にも忘れたことがありません。千回、万回、この身が砕け、骨が粉と化すことがあったとしても、忘れることができません。過ぎ去った歴史過程において、神様は、私がいかなる場にいようと共にいてくださり、私のためにそれほどまでに苦労してくださったのです。

22   祈るときは、背が曲がり、膝にたこができるほど祈らなければなりません。私の膝には、祈りながらできた昔のたこが今でも残っています。祈りは床の上でしなければなりません。涙も流さなければならないというのです。私は、祈りながら流した涙の跡が乾かないほど、涙を流す境地を何度も越えた人です。流れていく男ではありません。

23   復帰の道は、たやすいものではありません。私は皆さんのように食べて、寝て、気楽でいたでしょうか。「原理」自体が、どれほど深刻でしょうか。私は、祈るために膝にたこができました。どれほど多くの涙を流したか分かりません。人生の行く道を解決できずに死んでいく人々が大勢いることを知り、それを解決するために、常に目を赤くして祈りました。祈りながらあまりにも涙を流しすぎて、日の光も見られないほどになることもありました。そのようなことをしながら、この道を尋ねてきたのです。

24   皆さんは、毎日のように祈らなければなりません。祈祷生活においても、一日の十分の一を捧げなければならないのです。(一日の)十分の一に当たる二時間二十四分は、毎日祈らなければなりません。私が最も長く祈った時は、身を伏せて十七時間、十八時間、普通でも十二時間祈りました。昼食は食べません。そうして痛哭するのです。そのようにしなければ、生きていくことができません。四方が完全に塞がれて出口がないときは、祈って初めて針の穴ほどのものが見えるのです。

そのような試練の過程を経て「原理」を探し出しました。皆さんは「原理」の本を握りしめて泣いたことがありますか。一生は大切なものです。一度過ぎ去れば二度とやって来ません。結婚して息子、娘を生み、荷物を背負って、リヤカーを引いてあくせくしているうちに、そのまま終わってしまうのです。深刻です。そのように生きていては、善の世界はやって来ません。

明水台教会設立と教会学校の生徒指導

真のお父様は、ソウルの黒石洞(フクソクトン)時代の初期、日本統治体制の影響下にあった教会の独善的教会行政と教理中心の信仰形態に異を唱え、韓国的聖霊運動を主導したペンテコステ教会と交流をもたれた。そして、西氷庫(ソビンゴ)ペンテコステ教会に通われ、一九三九年の秋、黒石洞に新イエス教会を建てるに当たって、主導的な役割を果たされた。平壌から李浩彬、朴在奉(パクチェポン)牧師が頻繁に訪ねてきて、復興会と聖書写経会を行ったときには、そこに同参され、彼らと深い交流をもたれた。そして、新イエス教会の教会学校の生徒たちを格別な愛情で指導され、長期の休みの際に平壌に行けば、教会学校で説教をされた。

25   私は、学校に通いながら教会学校の学生たちも指導しました。黒石洞教会でも、西氷庫教会でも、そのようにしました。当時は、夜になると寒いので、漢江が凍り、水の割れる音がしました。一人でいると恐ろしいのです。そのような漢江を渡りながら、西氷庫教会の教会学校の学生たちを指導しました。私は、教会学校の学生たちを上手に指導したのです。涙を流しながら話をしました。

一度そのように泣きながら話をしてあげれば、学生たちがもう十分だと言うはずなのに、追いかけてきて「また話してほしい」と言うのです。

26   私は、三人の友達と力を合わせて、ソウルの黒石洞に明水台・新イエス教会を造りました。私が学費をはたいて投資したのです。今も教会の跡は、すべて残っています。そして、新しい教会が始まる前、多くの人々をそこに連結させるために、西氷庫を中心として伝道したことが思い出されます。冬になると漢江がかちかちに凍り、水面の氷が割れて、とても恐ろしい音がしました。恨の多い歴史時代でしたが、思い出もたくさんあります。

27   私は、幼い子供にも敬拝した人です。三歳の子供を天の王子のように思い、精誠の限りを尽くして侍りました。私は、公証できる内外のあらゆる歴史的勝利の基台を築いて話すのです。幼い子供から勝利してきました。これを三代以上できなければなりません。そのような伝統をもたなければならないのです。幼い子供たちを私自身の希望の相対とみなし、教会学校の学生たちを指導した名指導員です。彼らを誰よりも愛しました。その子供たちが、学校にも行かずに、私のあとを付いて回ろうとしたのです。カインを愛する歴史を開拓することが私の使命だからです。

28   李浩彬牧師、朴在奉牧師、韓俊明(ハンヂュンミョン)牧師が新イエス教会の主な責任者でした。それで、彼らが建てた平壌の新イエス教会には、数千人の学生がいました。その教会は名が知れ渡っており、教会堂も非常に立派に建てられていました。

私が教会に寄るときは、いつも学生会に責任をもち、指導しました。それで教会学校の学生たちを指導することで私は有名になりました。ですから、教会の牧師たちをよく知っていて、また青少年を中心に有名になったので、誰もが自分の家に私を招待しようとしました。

29   私は、平壌にある新イエス教会の李浩彬牧師、韓俊明牧師、朴在奉牧師に対する秘密の内容を、誰よりもよく知っています。

彼らに、「あなたはこのような召命的責任を中心として、このように生きることを分かっているのですか」と尋ねると、答えられなかったのです。「そのような行動をしてはいけない」と忠告しました。ですから、私のことを最も恐れたのです。旧約・新約聖書の秘密をすべて知っていました。

学生だった私がそこに立ち寄れば、数千人の教会学校の学生たちが、「話をしてほしい」と私のところに来るほど、有名な学生指導者でした。子供たちがすつかり夢中になり、私が帰るときは、停留場にあまりにも多くの人が集まるので、牧師たちがみな、防御線を張って私を保護しました。ですから、その三人の牧師は、いつでも私の言うことを聞くのです。

 

第四節日本留学と原理の究明

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第四節   日本留学と原理の究明

神様解放の志を抱いて

真のお父様は、未来の摂理のためにより大きく、広く準備しようと、日本留学に旅立たれた。一九四一年三月三十一日、京釜(キョンプ)線のひかり号列車に乗ってソウル駅を出発し、四月一日、関釜連絡船・昌慶丸に乗って釜山を離れ、下関に向かわれた。そして、四月初旬、早稲田大学附属早稲田高等工学校電気工学科に入学された。

1    私は小さい頃から、「この国が日本よりも強い国だったら、このようにはならなかっただろう」と考えていました。問題はそれです。弱いから、弱い背景と弱い基盤に立っているから、悲惨な運命の道を避けられない、ということを切実に感じました。その時に思ったのは、「世界で一番の強国はどの国か。アメリカだ」ということでした。

その時、既にアメリカについて知っていました。「それならば、アメリカは日本よりも大きな国だが、アメリカも、日本がするように、自分の国権を拡張するために、弱小国を占領してこのようなことをするだろうか、しないだろうか。同じだ。している。だとすれば、正義の国家、この世界を代表し、正義の立場に立っ#12390;弱小国を保護し、育ててくれる正義の国はないのだろうか」と幼い頃から考えていました。もしそのようなことができる何かがあるとすれば、それは何かと考えたのです。歴史的に見るとき、人間世界では不可能ですが、もし創造主がいるとすれば、創造主なら可能だというのです。

ですから、「創造主、絶対者がいるなら、私はその絶対者を通して国を生かし、圧迫を受けている民族の解放を成し遂げよう」と思いました。それで、神様がいるかいないかという問題に取り組み、宗教を探査しました。神様がいるのなら、その神様に自分が一度会わなければならないと思ったのです。そうして十代を過ごし、二十代に向かいながら、信仰路程において様々なことにも悩みました。

そのような中で、「日本に行ってみなければならない。日本を経てアメリカに行ってみなければならない。現地に行って、弱小民族が悲痛な目に遭い、迫害を受けるとはどのようなことなのかを体験しなければならない」と考えたのです。

2    漢江の鉄橋を通り過ぎる時、涙をぽろぽろ流したのがきのうのことのようです。孤児のごときこの民族を置いて日本に行く時、汽車の中で外套を頭からかぶり、釜山まで痛哭しながら行きました。

ある日本人のおばさんが汽車の中で泣いている私を見て、「学生さん、親御さんでも亡くしたのですか。そのような悲しみは、人なら誰にでもあることではないですか」と言いました。しかし、私の悲しみは、ひとえに国を愛する気持ちでいっぱいになってあふれ出た悲しみでした。国を愛せない人は、天を愛することができないのです。

3    私は、日本留学に行くため、ソウルから「ひかり」という汽車に乗って釜山に行く時、「私が日本に行って学んでくることは何か。この国を解放し、成長しつつある次の世代が、希望にあふれて前進と出世ができる道、自主的独立国家を備えられる道を、私が築かなければならない」と決心しました。

汽車が漢江の橋を通り過ぎる時、手すりをつかんで、とめどもなく涙を流したことを今も思い出します。「私が帰ってくる時は、涙を流して帰ってくる男にはならない」と考えました。

4    私は、釜山から船に乗って日本に行ったのですが、その時、連絡船の中で、とめどなく涙を流したのが、ついきのうのことのようです。当時は日本統治時代です。ですから、哀れなこの民族を、誰がその束縛から救ってくれるのかというのです。私は星を見つめながら夜を明かし、この民族の解放の一日のために、涙を流して精誠を捧げました。この民族のため、神様のみ前に「私はこれから旅立ちますので、帰ってくるまで、神様、この民族をお守りください」と祈ったのです。そのように涙を流しながら恨の心情を残したのが、きのうのことのようです。

5    私は、早稲田大学附属高等工学校に入って、夜間部に通いながら勉強しました。それは、苦学生たちの費用を援助してあげるためでした。私は労働者生活をしながら暮らしたのです。それを皆さんは知りません。今、生きている人たちがこのことを涙で訴えなければ、日本は立つことができません。日本の人たちが、姿勢を正して立つことがてきない恥ずかしい歴史を抱き、痛哭とともに謝罪しなければならない日が残っているというのです。

6    日本統治時代の時、日本の友人もたくさんいました。その友人たちにも、分け隔てなく接してあげました。彼らは、難しい事情があると、私のところに相談に来ました。「韓国はどうなのか」と言いながら、大勢の友人たちが訪ねてきたのです。そのような日本の友人たちに負けたくないと思いました。彼らが一言話せば、私は二言話すのです。私は本当に早口です。日本人に話す時も、迅速に話します。素早く話せるように研究して訓練しておきました。今後、日本の青年たちまで自分の手で消化し、世界のために用いると誓ったのです。普通の日本人以上の常識をもって弁論ができる能力を備えなければならないと思って訓練しました。

7    昔は、言葉を速く話さず、ゆっくりと話しました。日本に来て、日本語を学びながら、一分間で誰がより多く話せるかを日本人と競争したりもしました。彼らに負ければ眠れませんでした。三十分ほど話をするのに、ゆっくり話せば千語しか話せないところを、ある時は倍以上速く話し二千語以上も話しました。ですから、訓練が必要なのです。

「原理」の究明と心身訓練

真のお父様は、日本留学時代から、原理の究明と体系化に没頭された。聖書全体を反復して読破し、新たに究明された原理と照らし合わせて検証された。下宿先の机の上には、いつも韓国語、日本語、英語の聖書が置かれていた。特に、韓国語と日本語の聖書には、文字を判別するのが難しいほど、傍線などが引かれていた。膨大な天倫の拫本真理を体系化する過程は、誰も道案内できない、ただ独り、孤独に歩む探究の道であった。そして、学業のほかにも、下層の生活から中流層と上流層の生活まで、等しく経験しながら、つらい修練をされた。将来、途方もない使命を完遂するため、いかなる環境においても限界線を突破し、目的地点まで進もうと、万事に対処できる力を蓄えられた。特に、家から送られてきた生活費は、貧しい人々のために使い、背負子(しょいこ)や荷車で物を運ぶ仕事などもされた。労働者の友人であると同時に、兄弟ともなり、一緒に血と汗を流しながら苦楽を共にした。「萬苦の勝者、栄高の王者」になることを、訓練を通して自ら体得されたのである。

3    私は人々に、自分がどのような思想をもっているのか、全く話しませんでした。友達も知りませんでした。私は、聖書を研究したり、宗教関係の書籍や、普通の人があまり読まない哲学書も読みました。早稲田大学の政経学部に通う友人がいたのですが、共産主義を勉強していたその友人と激論を交わしたことがあります。

また、路傍に立って大声で演説したこともあります。桜の花が満開で、多くの人が集まっている所でも演説をしました。その時代に対する批判をしたのです。「あすの青年は、これこれこういうようにしていかなければならない」と叫びました。その時に預言したことが、今になってそのまま的中しつつあります。その時、友人たちが見物に来て、私が演説しているのを見て仰天したのです。

9    ソウルの学校から推薦を受けて、早稲田大学附属高等工学校に入りました。学校の勉強の代わりに、教会関連の勉強をし、また、聖書にある未知の事実を突き止めるため、聖書を深く読みました。聖書の一つの章を中心として、五年間研究しても、解決できないことがあります。その一つの章が問題だというのです。それが根です。そのように、聖書の中で最も難しく、難解な問題をすべて明確に解かなければなりません。そのようにして解き明かしたのが「原理」のみ言です。天と共にこれを解き明かしたので、天が無関心ではいられないのです。天はすべて知っているというのです。

10   私は二十歳(数え)になるまで、血の涙の過程を経ながら生きてきました。乞食たちと友になり、彼らを自分の兄のように、自分の母のように愛する心をもつことができなければ、神様の心情圏に入れないことを知っていたので、そのような修練過程を経るために、日本に行っても、民族を越えてそのようなことをしました。私は、土木現場に行ってお金を稼ぎ、友人の学費を出してあげたりもしました。皆さんもその道を行かなければなりません。なぜそのようにしたのでしょうか。困難な曲折の道を自ら願って歩もうとしたからです。

11   雪の降る日や、台風が来た日は学校に行かず、土木現場に出掛けて働きました。そのような時は、とても気持ちが良かったのです。台風が吹いていた時なので、そこで手が真っ黒になっても、雨に当たって、きれいになってしまいます。そのような中で汗を流しながら働きました。その気分は本当に爽快です。

また、その中に悪い人がいれば、こらしめてあげました。時には大男をやっつけたりもしました。また、土木現場には班長がいて、搾取するのですが、給料の三割をかすめ取っていきます。ですから、「そのようなことをしてはいけない」と強く抗議しました。私は、普通の人が恐れるような人たちに対しても、「そのよ#12424;うなことをしてはいけない」と言って、彼らの言うことに従いませんでした。かえって彼らが私に降伏したのです。

12   昔、東京にいた時、二十七の区域にリヤカーで配達する配達夫の仕事をしました。自ら訪ねていってしたのです。お金が必要だったからではありません。訓練が必要だったのです。運送会社ならば、運送会社の人々を説得しなければなりません。知らなければ説得できません。夏に電信柱をリヤカーに載せて十字路を通るとき、電信柱が横に傾いたのですが、人々がそれを見て、大騒ぎになりました。十字路を渡っていて横に傾き、リヤカーがぐるっと回ってしまったのです。それで、男女の別なく逃げていった姿が、ありありと目に浮かびます。

また、今記憶に残っていることは、貧民窟での生活です。そこでぼろをかぶってしらみを取っていた生活が、今も生々しく記憶に残っています。神様の息子が最前線の将兵になり、サタン世界を征服するためのゲリラになったのです。

13   日本にいる時、土木現場に通ったことと、銀座でリヤカーを引いて歩いたことが、今でも生き生きと記憶に残っています。それは、私が御飯を食べるためにやったわけではありません。若い頃に苦労することにおいて、私が模範にならなければならないと思ったのです。

学校に行けなくなった学生を卒業させるために、私が何ヵ月間か学校を休んで、彼らの父や母の役割までしました。夜もありませんでした。夜中の二時に起きて、そのような仕事をしたりもしました。ありとあらゆることをすべて経験したのです。何のためにそのようにしたのでしょうか。私が人より愚かだったからではありません。会社に行って仕事もしてみて、字を書いて売ってみたりもしました。ある時は、会社で現場監督もしてみたのです。

14   私は、世の中についてよく知っています。既に幼い頃から八道江山(パルドガンサン)(韓半島全土)で行かなかった所がありません。

日本に行っても、行かなかった所がありません。困難な所はすべて回りながら、ありとあらゆる仕事をしてみました。大きな会社の使い走りから何から、すべてやってみました。そこでどんな扱いを受けても、私は一言も言いませんでした。通りすがりの一人の留学生にすぎないのですが、何を考えているか分からないというのです。貧民窟からすべて通過していきました。結局は自分の実力を備えなければならず、実力をもって実績を残さなければなりません。

自己主管と真の愛の道を体験

真のお父様の日本留学時代は、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」という標語を自ら実行する期間であった。特に、体をむやみに見せたりせず、五官の統制訓練などを重ねられた。そして、人情を越えて天情を立て、留学時代は、一貫して「日本人を誰よりも愛する条件を立てよう」という思いで、怨讐の国の人を兄弟のように、父母のように切々と愛する修練過程を経ていかれた。

15   私は、少年時代にこの道を修めてくるとき、自分を主管するまでは映画館の前も通りませんでした。酒場の前も通りませんでした。自分が自分を主管するまでは、何をしてもすべて失敗します。主管するのが一番難しいことは何でしょうか。

眠りの問題が一番難しいのです。その次に空腹です。そして、情欲の問題です。これが三大怨讐です。ですから、徹夜しながら、それを主管するための修養過程と考えてきたのです。

おなかをすかせながら、修養過程と考えて歩んできました。一人で暮らしながら、修養過程を通ってきたというのです。自分を主管する前に宇宙主管はできません。自分を主管してこそ宇宙主管ができるのです。自分を主管してこそ神様を呼ぶことができるのであり、神様の主管圏を願うことができるのです。これが原理観です。アダムは、自分を主管できなかったので堕落したのです。

16   日本が戦争をするとき、東京の新宿の裏通りなどを見て回りました。そういう所について研究し続けました。どこに行っても、自分にプラスになるものを得てくるのです。悪い所に行っても、消化できることは消化します。そのような主義です。良い環境を探し回る人ではありません。

修養するときは、必ず静かで荘厳な場所や、深い山のような所に入らなければならない、ということでは話になりません。静かな所でなければ勉強できないというのは、私には通じません。モーターやエンジンが動く工場でも勉強しました。そのようなことが得意です。様々なことをしながら準備するのです。腕っ節の強い人が弱い人をいじめる時には、彼らを単独で片づけます。私一人で闘うのです。それは、公のためにそのようにするのです。これは人生哲学に必要な問題です。

17   私は、皆さん以上に希望が山のようにあります。しかし、皆さんを僕の道に追いやらなければならない時が来るので、私自身も先に僕の立場で歩みました。そのようにしなければ、僕の生活をさせる資格をもつ人になることができないのです。

他人に僕の生活をさせようとすれば、自分自身が先に僕にならなければなりません。この国の僕にならなければなりません。私は、忠実な僕になって、三歳の幼子にまで朝晚侍ったことがあります。その幼子に神様のように侍ったのです。また、日本留学時代、しらみが湧く貧民窟でも暮らし、石炭も背負い、塩も背負ってみました。やらなかったことがありません。そのような歴史があったのです。

その恨を皆さんが解かなければなりません。それでは、感情的あるいは心情的な決意の基点をどこでつかむのでしょうか。そのような基点をつかむ場に、皆さんは私の代わりに行かなければなりません。皆さんがそのような場で涙を流し、迫害を受けるなら、皆さんの血管でお父様の血が躍動するのです。

18   私は、人々がしないことは何かを研究しました。「私は食ベずに我慢できるだろうか」と考え抜いた末、「できる」という信念をもって訓練に臨みました。御飯が出てくれば、いつもどんぶりで三、四杯を一気に食べてしまいます。それくらいおなかをすかせていました。ある日、「どれほど食べられるか試してみよう」と思いました。

戦時中だった当時は、食券というものがありました。その食券があったので、「何杯食べられるか、よし一度試してみよう」と思い、友達を連れて食堂に入りました。そこで食事をしたのですが、親子丼を七杯も食べました。七杯も食べると、首が回らないのです。それはおなかがすくよりもさらに苦痛でした。動くこともできませんでした。そのようなこともしたのです。

しかし、いつもそのようなことをしていたと思ったら大間違いです。私は、いつもおなかがすいていました。それでは、なぜそのように過ごしたのでしょうか。自分のおなかだけを満たしていれば、自分から民族が遠くに逃げていってしまうからです。神様も自分から遠くに逃げていってしまいます。おなかがすいて食べたくても、それ以上に民族と神様を愛さなければならないと考えました。それが真理であり、信条でした。このようにしながら、この道を開拓してきたのです。

19   東京にいた学生時代、雨が降る日は、学生服を着ていましたが、できるだけびしよぬれになった労働者の横に行きました。一番ひどい臭いがする所に行くのです。行って、「この方が私の兄、私の父だったらどうしただろうか。私のためにこのような悲惨な状態にいるとすれば、私はどうすべきなのだろうか」と考えました。

また、電車に乗れば、車中の学生たちのうちで、身なりのいい学生たちを見ながら比較するのです。「君たちが笑って過ごしているうちに、君たちの青春が流れていき、君たちの一生が流れていくが、私の思いの中では、私の一生が輝き、将来、希望の太陽が昇るのだ」と思いました。「私には未来が保障され、希望があるが、君たちには未来の希望がない」と考えるのです。

一生の間、真の父母の名を立てることは、極めて難しいという事実を知らなければなりません。すべての人に対して、主体性をもち得る&##33258;分自身を発見しなければならないのです。

20   お父様は、日本で勉強していた学生時代、故郷の家に行く際には、電報を打ちませんでした。また、定州駅から家まで、およそ二里になるのですが、できるだけ風が吹いて寒い日や、雨が降る日に歩いていくのです。歩きながら祈ってみると、「実に素晴らしい方が世の中をつくられたな!」と悟るようになります。

日が傾いて夜になった時や、白い雪が降った晚に、一人で歩きながら感じたその思い出は、一生の間忘れられません。小さなお土産を両手に交互に持ち替えながら家に向かうとき、両親がどのような顔で迎えてくれるだろうかと思うと、とても感傷的になります。それを考えると、その期間がどれほど幸せな期間だったか分かりません。

早期卒業と帰国

真のお父様は、当時の戦時状況の変化により、学期が半年短縮され、一九四三年九月三十日、早稲田高等工学校電気工学科を第二十五期生として卒業された。真のお父様は、卒業と同時に、故郷の家に帰郷の日程を知らせる電報を打ち、十月四日発の関釜連絡船乗船チケットをあらかじめ購入された。

出発当日、友人たちの見送りを受け、東京駅のチケット売り場に入ろうとした時、どういうわけか、心が不安になり、足まで動かなくなったため、悩み抜いた末に出発を保留された。

その日、真のお父様が乗船しようと予約した関釜連絡船・崑崙丸は、十月五日午前一時十五分頃、沖ノ島の北東約十海里の海上で、アメリカ軍の潜水艦による魚雷攻撃を受け、沈没した。帰郷日を延期したとの通知を受けていなかった。

故郷の本家では、事故の知らせに接するやいなや、大騷ぎになった。真のお父様は、「今は、民族の恨を解いてあげられないまま帰るが、近いうちに、必ず日本の青年たちに対して命じ、教える時が来るだろう。その時、もう一度会おう」という内面の誓いを立てながら、十月中旬、帰国の途に就かれた。

1    卒業する当時は、太平洋戦争中でしたが、兵役問題もあり、六ヵ月短縮して、九月に卒業しました。故郷の家には、関釜連絡船で帰り、何時に到着すると電報を打っておきました。ところが、その船が戦争のため、沈没してしまったのです。故郷では、乗船者名簿を調査しましたが、私の名前はありませんでした。それで、皆、死んでしまったと思い、大騒ぎになって、村全体がひっくり返ったのです。

2    私が日本から帰る一九四三年、崑崙丸(こんろんまる)が沈没しました。卒業を六ヵ月短縮したので、下関を経由して、韓国のソウルまで行くチケットを買ったのですが、その時に乗るべきだった船が崑崙丸です。汽車に乗ろうと、東京駅に入ったのですが、気分がおかしいのです。それで、その汽車には乗りませんでした。家には、間違いなく何日に到着すると連絡しておきました。チケットを買って、既に何時の便で行くと連絡しておいたので、故郷ではその日、その時間に来ると思っていたのです。ところが、東京駅で私が引き返したのです。その船が沈没してしまいました。その時、私は東京駅に見送りに来ていた友人と、熱海かどこかに行きました。ですから、故郷では、「帰る」という連絡があった人が来ないので、死んだものと思ったのです。

その時、私の母は、気が動転したのです。定州からソウルまで五十八里の道のりですから、汽車では十時間かかります。それを、签山まで行こうとするのですから、どれほど気が動転していたでしょうか。チマもはかず、薄手のズボンだけはいて飛び出したのです。靴がいつ脱げたかも分からずに走り続けたので、アカシアのとげが足の裏に刺さって固くなっているのも分かりませんでした。それを、私が帰ってきたあとに抜いたという話を聞いて、私は「ああ、父母の愛はそのように偉大なのだなあ!」と悟りました。

 

第一節信仰的な環境の中で過ごした幼少時代

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第一節   信仰的な環境の中で過ごした幼少時代

精誠と祝福の信仰生活

真のお母様は、洪順愛大母様が再臨主を迎えるための信仰生活に専念するにつれ、幼少時代を主に母の実家で過ごされた。そうして、外祖母である趙元模女史と大母様を通して、信仰の精髄を習得されたのである。大母様は、真のお母様が以北(現在の北朝鮮)にいらっしゃった六歳の時まで、サタンがあらゆる方法を用いて危害を加えようと付いて回るのを、夢の啓示を通してたびたび目撃し、乳母のような立場で、精誠を尽くして真のお母様を養育した。したがって、真のお母様は、天の新婦としてお立ちになるまで、大母様と共に苦難の道を歩まざるを得なかったのである。

1    (お母様)が生まれてから一ヵ月ほどたって、大母様の夢に「新しい主」、金聖道おばあさんが白い雲に乗り、白い服を着て現れました。そして、「順愛、その赤ん坊のために心配しただろう。心配するな。この赤ん坊は主の娘であり、あなたは乳母と同じである。お乳だけしっかり飲ませて養育しなさい」と語られました。大母様は、その命令を心にしっかりと刻んで生きていきました。私は幼少の時、普通の赤ん坊とは違いました。一歳になる前に歩き、言葉まで話しました。一言一言、非常にはっきりと話したのです。ですから、母方の祖母も、「この子はやはり違う」と言ったといいます。そのように賢く、少しも欠けた所がなかったというのです。

2    母方の祖母の趙元模おばあさんと洪順愛大母様は、再び来られる主を迎えるための準備と信仰で一貫した生涯を送られました。世の中と妥協されず、安逸な家庭環境の枠にはまった信仰ではなく、二十四時間すべてを天のみ前に奉仕し、主を迎えるための準備に、この上ない精誠を尽くされました。

大母様は、そのような信仰生活を送ったので、ほとんど家にいらっしゃらず、私(お母様)は幼い頃、主に祖母と一緒に多くの時間を過ごしました。それで、祖母を通して、自然に、かつ当然のように信仰を受け入れるようになったのです。

3    母方の祖母は、(お母様)に対する天のみ旨を御存じで、私が世の中に染まらず、純粋に育って天のみ前に用いられ得る貴い娘として成長できるよう、多くの精誠を注がれました。祖母は、いつも私に「お前の父親は天のお父様だ」と言われました。ですから、父親と言えば、肉身の父のことを思わず、いつも天のお父様のことを思ったので、神様のことを思うと、いつも心が温かくなるように感じました。また、外的に見ればすぐには理解し難い環境で育ちましたが、特別な不平不満はありませんでした。いつも何かが私のことを包んでくれているような感じがあり、常にゆとりのある心で過ごしていました。

大母様や祖母にも、肉身の父親に関してや、お二人がどうしてこのような生活をしているのかなどといった質問は、全くしませんでした。肉身の父母に対する恨みや不満は、私の人生には全くなかったのです。

4    (お母様)は、六歳(数え)の時まで平安南道の安州で過ごしましたが、その六年間、大母様の夢にはいつもサタンが現れ、私の命を奪おうとして付きまといました。ですから、大母様は、サタンと六年間、闘い続けられたのです。それでも深い意味は分からないまま、「なぜサタンがこれほどまでに追い回しながら、この子の命を奪おうとするのだろうか」と、ただ不思議に思っていたそうです。

5    大母様は、新イエス教会と聖主教を訪ね回り、最後は腹中教で、再臨主が来られることを待ち望みながら祈りに没頭しました。当時、私(お母様)は数えの四歳ぐらいでしたが、私も大母様に従って敬拝を捧げるなど、精誠を一緒に捧げました。朝と晚には公式的な敬拝の時間があり、各自、黙想祈祷を捧げつつ、たびたび敬拝を捧げました。以南(現在の大韓民国)に下ってきた数えの六歳まで、その生活は変わりませんでした。

6    (お母様)の幼少時代は、主の花嫁になる者として聖別するための期間だったと思います。本来、私の性格は外向的ではなく、世の中から離れて、自分自身の世界を楽しむほうでした。真のお父様も、趙元模おばあさんや大母様について、天情の道理を私に引き継がせるために骨身を削るのも意に介さず、一片丹心、神様のみ前に絶対服従し、絶対従順する道を行ったと語られたことがあります。そして、ありとあらゆる誘惑の環境に触れさせないようにするため、天が私を世の中から離して聖別生活をさせたのであると語られました。

南下後、戦争と受難を克服

外祖母の趙元模女史と洪順愛大母様と真のお母様は、腹中教に行き来された一九四八年、北朝鮮の共産党当局の宗教弾圧により、十一日間、共に収監された。このように、共産党が次第に猛威を振るうようになるや、趙元模女史は、「以南に行こう」と提案した。その頃、「以南に行きなさい」という天の啓示があった。以南は、三人にとって非常に不慣れな場所だったが、ちょうど、鉄山・聖主教の金聖道の長男の鄭錫天(チョンソクチョン)が先に南に行ったという話を聞いたため、彼を訪ねていこうと決心した。また、大母様の弟の洪順貞(ホンスンヂョン)は、日本留学中、戦時状況に伴って中途帰国することになり、陸軍士官学校の薬剤官教育を受けたのち、中尉として任官し、軍に服務中であった。その弟に会うことも兼ねて、三人は一九四八年、真夜中に出発し、死線を越えて、千辛万苦の末、南に渡ったのである。

7    (お母様)が安州に住んでいた時、大母様は信仰的惰熱ゆえに、ほとんど家を空けていました。そのような状況だったので、私は常に、母方の家族たちが面倒を見てくれる中で育ちました。キリスト教を信仰していた父は、共産党当局の脅威を避けて、一九四六年、やむなく先に南へと下りました。その頃、父が家に訪ねてきて、大母様に「一緒に行こう」と言ったことをかすかに覚えています。

8    共産治下で信仰をもつことはとても困難でした。趙元模おばあさんは、韓国にいる息子の洪順貞氏に会うため、大母様と私(お母様)と共に南下の途に就きました。私たち三代の母子は、南下する途中でも、主に向かって敬拝を捧げました。洪唯一おじいさんは、平壌がエデン宮であるという啓示を受けて、これを守るために残られ、それ以降、会うことはできませんでした。

9    (お母様)が南に下る道は容易ではありませんでした。すき返した田畑に沿って歩いていこうとするので、足を取られ、寒さに震えながら南へ南へと移動しました。私たち一行が、やっとのことで三十八度線の近くに到着した時のことです。物々しく警備に就いていた北の人民軍に捕まってしまったのです。彼らは、私たちを空き家の物置に閉じ込めました。そこには、既に捕まった人たちがいました。人民軍は、男性には乱暴に対しましたが、女性と子供にはきつく接することはありませんでした。

大人たちは、寒さに震えながら歩哨(ほしょう)に立っている人民軍に食べ物を持っていってあげなさいと、私を使いに行かせました。私は震える心を抑え、笑顔で食べ物を人民軍に渡しました。何度かそのようにしたところ、人民軍の人たちの心がとても穏やかになりました。ある日の夜、人民軍が、「故郷に帰りなさい」と言って私たちを解放してくれました。生死の岐路において、温かい愛の力が生命の道へと導いてくれたのです。

10   母方の祖母は、(お母様)といつも一緒にいらっしゃったのですが、祖母と通りを歩くと、人々が私のことを「とてもかわいい」と言って誰もがかわいがってくれました。それで、当時は、人々があまり出歩くことができない時だったのですが、私はあちらこちら歩き回りながら、人のお使いもたくさんしてあげ、多くの愛を受けました。韓国に下ってくる過程でも、子供や女性たちの中に幼い私がいたので、無事に南に渡ってくることができたのです。

やっとのことで三十八度線を越えたばかりの時でした。韓国の軍人たちが人の気配に気づき、こちらに銃口を向けて撃とうとした瞬間、私が歌を歌ったのです。すると、軍人たちはその歌声を聞いて銃口を下げました。そして、私たちを温かく迎えてくれたのです。「こんなにかわいい娘さんを連れてくるとは、大変な苦労だったでしょう」と言って、南側へと導いてくれました。

11   大母様が腹中教に通っていた頃に、母方の叔父である洪順貞氏が日本留学から戻り、南に下って軍に入隊しました。叔父は知識人で、とてもおしゃれな方でした。当時、知識人たちの間では、共産主義理論に同調する人がたくさんいました。叔父もまた共産主義思想が良いと思っていましたが、理論とは違う北朝鮮の共産体制を見て失望しました。理論と矛盾する体制を見て、親がいる北には行かず、南に行って軍に入隊したのです。

(その後、)母方の祖母が、軍隊にいる叔父にどうしても会いたいというので、大母様と私(お母様)と一緒に、叔父に会うために南下したのです。その時からソウルにとどまり続けることになりました。

南下した当初はソウルの孝昌洞(ヒョチャンドン)にいました。そこで小学校にも入学しました。その後、私は行く先々で羨望の的になり、周囲の大勢の人たちから愛されて育ちました。もし私が早く結婚しなければ、この世に奪われる可能性が高かったので、幼い年で聖婚させて、天が先に私を抱かれたのではないかと思いました。

12   ソウルで母方の叔父を捜す時も天の保護がありました。やっとのことで三十八度線を越え、苦労の果てに以南に下っては来たものの、叔父を見つける見通しが立ちませんでした。祖母と大母様は、どう捜したらよいか分からない状況で、あちこちさまよいながら訪ね歩きました。とても難しいことでした。そうこうしているうちに叔父の友人に出会い、便りを知ることができました。天佑神助(天の神の助け)でした

その時、叔父はソウル近郊の軍隊の幕舎に住んでいましたが、私たちが訪ねていくと、とても喜び、「いつも故郷にいる家族を思って心配していたところに、このように訪ねてきてくれたので、とてもうれしい」と言いました。それで、急いで家を一つ借りて暮らすようになったのですが、あとで分かったのは、そこが正に青坡洞の旧本部敎会からとても近い所だったということです。

13   (お母様)が数えの八歳の時、「六・二五動乱」が勃発しました。それで、ソウルから避難することになったのですが、その時、叔父が私たちを助けてくれました。当時、陸軍本部の医務将校だった#21460;父が、漢江の橋が爆破されるという情報をあらかじめ入手したのです。漢江の橋の通過証を持っていた叔父は、軍用車に乗ってきて、祖母と私を乗せて南の方に避難することになりました。大母様は、ただひたすら主に出会うことだけを思い、絶えず精誠を尽くしながら過ごされたのですが、その避難の途に最初は同行できませんでした。

漢江の橋を渡る時、叔父は私たちに「橋を渡ったらすぐに降りなさい」と言いました。私たち一行は、叔父に言われるがまま、橋を渡るやいなや降りて身を伏せたのですが、その瞬間、漢江の橋が「ドカーン」と爆発して、崩壊したのです。その時、漢江の橋を渡っていた多くの軍人が川に落ちて亡くなりました。幸運にも私たち一行は、叔父の助けで命を取り留めることができたのです。

今も漢江の橋を渡る時は、あの日のことが思い出されて心が痛みます。私と同年代の韓国人のほとんどは、戦争と厳しい受難時代を経てきていますが、私は、すべてにおいて絶えず天の保護があり、無事に過ごすことができました。大母様は、避難生活で私が風邪をひいた時は、飴を口に入れて咳を抑え、けがをした時は、アロエに御飯を擦り潰して傷口に塗り、治療してくださいました。

14   (お母様)たち一行は、一九五〇年六月二十八日の午前三時に漢江の人道橋が爆破されたのち、南の方に避難してきました。そして、全羅道にある軍人家族避難収容所に留まり、九・二八ソウル収復後に帰京し、空き家になった日本家屋で過ごしました。そのような中、中共軍が介入することによりソウルは再び共産軍の手中に落ちるようになりました。そして、一九五一年の一・四後退の時、再び避難の途に就いたのです。軍人の家族は、他の避難民より先に特別列車に乗ることができ、そのお陰で、ソウルを発ち、大邱に降りてきました。その時、陸軍本部が大邱に移され、そこに勤務していた叔父の家の近くに住むことになりました。私は、このような避難路程において、いつでも神様が共にいらっしゃることを実感しました。神様は、北朝鮮から韓国に来るときも、韓国での避難の渦中でも、常に保護してくださったのです。

 

第二節学生時代と真のお父様との出会い

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第二節   学生時代と真のお父様との出会い

天の導きのとおりに生きてきた学生時代

真のお母様は、ソウルの孝昌小学校をはじめ、大邱、西帰浦(ソグィボ)、春川などの地を経ながら学業を続けられた。特に、春川の鳳儀(ボンウィ)小学校の生活記録簿には、「非常にしとやか、親切で、どこか高尚な態度も見られ、級友の中で最も女性らしい」と記録されており、この学校を卒業する時には優等賞を受賞された。

その後、真のお母棣は、一九五六年四月から一九五九年三月まで、聖正(ソンヂョン)女子中学に通われた。真の父母様は、善正中学校に校名が変わったこの学校を、一九八七年四月に引き継がれている。また、真のお母様は、一九五九年三月、現在のカトリック大学看護学部の前身であるソウル聖ヨセフ看護学校に入学された。

1    (お母様)は、南に渡ったあと、ソウルの孝昌洞(ヒョチャンドン)に部屋を借りて過ごし、孝昌小学校に入学しました。そして、大邱と済州道に移ってからも、勉強を続けました。大母様が、私をより清く育てようという意図から、一九五四年に済州道に渡ったあとは、西帰浦の新孝(シニョ)小学校、すなわち今日の孝敦(ヒョドン)小学校の五学年に転校しました。その後、江原道・春川の補給廠長(しょうちょう)として発令を受けた母方の叔父が、手紙を二度も送ってきて春川に来るようにと言うので、そこに行くことになりました。

そして、春川・孝子洞(ヒョヂャドン)の叔父の家と近い薬司洞(ヤクサドン)で部屋を借りて暮らしながら、一九五五年二月、春川の鳳儀小学校に転校し、すぐに六学年に進級したあと、翌年の一九五六年三月二日に、第十一期として卒業しました。その後、叔父の助けで一九五六年四月十日、ソウルの鍾路区(チョンノグ)社稷洞(サヂクトン)にある聖正女子中学校に入学して、一九五九年三月二十五日、第三期として卒業しました。この期間は、叔父の家族と共に、敦岩洞(トナムドン)と新堂洞(シンダンドン)で生活しました。いとこと共に生活しながら、社稷洞に通学したのです。

2    (お母様)が中学生の時、学校で運営委員長をした記憶があるのですが、その時、全校生徒のいる前で壇上に上がり、決定事項を話さなければなりませんでした。その話を終えて下りていくと、国語の先生をはじめ幾人かの先生が、「いやあ!鶴子は大したものだ!」と言うのです。いつも周囲の人々には、静かでおとなしい学生という印象を与え、気安く近づけない感じを与えていたのですが、そのように発表するので、驚かれたのです。しかし、私はただ説明しただけなのです。それが、私が大勢の人々の前で話をした初めての経験でした。

3    最近、(お母様)を訪ねてきた一人の友人がいます。同じ地域に住んでいて、一緒に中学校に通ったのですが、彼女のお父さんは、私にとてもよくしてくれました。また、一年上の先輩が私を見て、端正できれいだと言って、多くの関心をもってくれました。その先輩は、カナダに住みながら、たびたび私に手紙を送ってくれたり、韓国に来ると会ったりもしました。いつだったか、私が通っていた学校に行ってみると、当時の国語の先生がまだいらっしゃいました。その国語の先生のお顔が思い出されます。また、数学の先生も、私にとてもよくしてくださいました。

4    (お母様)が高校に進学する頃は、戦争が終わったあとで、道路という道路が負傷者であふれていました。戦争孤児や子供たちは、飢餓と疾病でとても苦しんでいました。病気になったとしても、すぐに治療を受けられる人はまれでした。彼らは、とてもかわいそうでした。彼らの痛みを治癒してあげたいと思い、看護学校に入ったのです。彼らを助けてあげられる道を探すためでした。

5    (お母様)は、どの学校に行っても先生から愛され、よく面倒を見てもらいました。まじめに見えたからか、先生たちがよく面倒を見てくれたのです。また、先生たちから「君は今どきの学生とは違うね。少し外に出て歩いてみてはどうだ」と言われたりもしました。ただ、悩みが多いなどの理由からそのようにしていたのではなく、静かに座っているのが好きだったのです。

思春期や、成長期にも、私は生きることに対する悩みはもちませんでした。母方の祖母や大母様が、常に天に侍って生きる信仰を植えつけてくださったからです。大母様の厳格な指導のもとで、様々な本を熟読しながら過ごしました。そうして、気の合う一人、二人の友人と一緒に果物の木を育てて、田園生活をしながら暮らしたいとも考えていました。友人たちとの会話では、「あなたはまじめな人だけど、お嫁には先に行くでしょう」と言われたこともありました。

聖婚したのちは、過去の学生時代のことを考えることがなかったので、特別に思い出せることがありません。また、考える暇がありませんでした。最近になって、時折訪ねてくる友人たちがいて、その時の記憶が少しよみがえったりするのす。

6    (お母様)は、平安で静かな雰囲気の中で読書や音楽を楽しむ学生として知られていました。また、かなり知的なイメージの学生としても知られていました。極度に感情的でもなく、極度に怒りを表に出すこともなかったのですが、初めて会う人には、むしろ少し冷たい印象まで与えていたと思います。

私は寄宿舎で、修道女のような生活をしました。さながら温室の中に咲く一輪の花のように、完全に外の環境から自分自身を隔離していたのです。今になって初めて、それがいつか主にお会いして、主の花嫁になる人として聖別するための天の準備過程だったことを知りました。

7    (お母様)は、一九六〇年まで、衣服で包むように、自分自身をほとんど現さない生活をしました。天が私を世の中と妥協することのない生活へと導かれるので、簡素な生活環境の中で暮らしたのです。神様は、私がサタン世界の空気を吸うことも嫌うほど徹底的に保護してくださり、そのような環境の中で、私は、私自身の考えをすべてなくし、天が導く生活だけをしました。

そして、常に日記を書きましたが、不思議なことに、何げなく書き綴っていたことが、「私たちの願いは統一」など、ほとんどがそのような言葉だったのです。後日、お父様のみ言を聞いてから、そのようなことが意味のあるものとして思い出されました。

8    お母様は、壇上でもとても有名です。壇上で初めて歌を歌ったのが、高校二年生の時です。歌がうまいことでとても有名になりました。誰を前にしても、壇上に上がればチャンピオンのように堂々としていました。

9    お母様には一つも欠点がありません。とても良いお母様です。それは、ただ自然にそうなったわけではありません。男性たちに対するとき、お父様と比較して、「お父様がこうだから、あの男性たちもこうだろう」と考えるのです。そのたびに心が広くなるので、良く見えるというのです。お母様の目と手を見てください。どれだけ鋭敏か分かりません。一言語ると、主語がどうなっていて、目的語がどうなっていると指摘するのです。鋭敏なのですが、よく分析するというのです。十代の時、友人たちから印象的な女性、記憶に残る女性と思われたという話を聞きましたが、鋭敏だからそうなのです。ですから、行き来する道も、何の考えもなしには通りません。自分の心が向く所だけを通るのです。

真のお父様との出会い

聖主教の金聖道は、長男の鄭錫天(チョンソクチョン)に、「神様が任せてくださったこのみ旨を、私が成就できなければ、他の人を通してでも成し遂げる。その代身者も、私と同じように淫乱集団として誤解され、迫害を受け、獄中での苦しみを味わうだろう。そのような教会が現れれば、真実の教会であると思って、訪ねていきなさい」という遺言を残した。そのため、鄭錫天は、姉の鄭錫溫(チョンソゴン)と共に、母親の代でこのみ旨が成し遂げられなくても、次の代、あるいはその次の代になれば、必ず成し遂げられると信じ、南下したあと、家庭で熱心に礼拝を捧げながら、このみ旨が成し遂げられているところを探し回った。その頃、新聞に報道された梨花女子大学退学事件の記事を読み、鄭錫溫が娘と共に奨忠洞(チャンチュンドン)のソウル統一教会を訪ねるようになった。その後、真のお父様は、一九五五年十月四日、西大門刑務所から無罪で釈放されたのち、鄭錫天の消息を聞き、大邱の東城路(トンソンノ)にある鄭氏の家を自ら訪問された。これにより、のちに大母様と真のお母様が、真のお父様に出会うことになったのである。

10   真のお父様が西大門刑務所から出監され、復興会の激励のために大邱に来られた一九五五年十一月頃、春川にいらっしゃった大母様は、鄭錫天氏から手紙を受け取りました。聖主教とそっくりな教会がソウルにあるというのです。そして、真のお父様が今、大邱に来てみ言を語られるから、早く来て聞きなさいということでした。しかし、大母様は、事情があってすぐには大邱に行くことができず、翌月、十二月に行かれました。大母様が大邱に行くと、鄭錫天氏は、「ようやく主を探し出しました。腹中教で服を準備してお迎えしようとしていた方を、ようやく探し出したのです。その方が、大邱に来てみ言を語られました」と語り、その方が既にソウルに上京されたと伝えました。また、腹中教で教えていたことと全く同じことを教えていると話しました。大母様は、今からソウルに上京すれば、お慕いしていた方にお会いできるという思いでうれしくもありましたが、なぜかしきりに不足さばかりを感じたといいます。このように、心の準備をしていると、その日の晚、黄金の龍が一双、ソウルの方に向かってひれ伏している夢を見たのです。大母様は心の中で、「大邱に来る時は白い龍を見たが、大邱を発とうとする時には黄金の龍が一双現れるとは、本当に不思議だ」と思ったといいます。そして、すぐにソウルに上京し、青坡洞一街の旧本部教会で真のお父様にお会いして、挨拶をお捧げしました。驚くべきことにその方は、腹中教時代に二回夢でお会いした、正にその姿であり、夢にまで慕い求めた主の姿だったのです。大母様は、あまりにも畏れ多い気持ちになり、身の置き場がなかったといいます。

11   (お母様)は、北朝鮮ではお父様にお会いすることができず、南に下ったのち、ソウルで初めてお会いしました。その時、私は満十三歳で、小学校を終えたあとでした。当時は、大母様と共に入教してから、いくらもたっていない時でした。その頃、私は江原道の春川に住んでおり、お父様はソウルにいらっしゃったため、互いに遠く離れていました。一九五六年三月、大母様に連れられて青坡洞教会に行き、初めてお父様にお会いしたのです。私は、お父様と出会ったあと、青坡洞教会に通いながら中学校を卒業し、高校に進学しました。

12   お父様が学生服を着た私(お母様)を御覧になったのちに、じっと目を閉じて感嘆されたことが、今も記憶にはっきりと残っています。すべては天が準備なさっていたと常に感じます。私の性格から見ても、生きてきた背景から見てもそうです。

イサクがアブラハムと、祭物を捧げるために山に登っていく時、アブラハムに「祭物はどこにあるのですか」と尋ねるのですが、アブラハムは「神様が既に準備されている」とだけ言いました。しかし、幼いイサクは、既にそこで状況判断をしていたのです。

それと同じように、私も、「私が何かをしなければならないようだ」という状況判断を、幼い頃からしていました。再臨主の相対として準備された自分であることを、それとなく感じていたように思います。

私は、既に私に定められた道を行かざるを得ないように生まれついたのです。他の女性であれば耐え難い立場でしたが、私はすべてのことに打ち勝ってきました。

13   皆さんは、お父様が聖婚を決心されて、初めて私(お母様)に出会った時、最初の会話がどのような内容だったのか、最も気になるでしょう。当時の食口たちはみな、お父様のことを慕っていましたが、同時に近寄り難く感じてもいました。しかし、私は近寄り難いとは思いませんでした。私が何を言っても怒ることがないといった印象で、まるで私の母方の祖父にお会いしているかのように感じました。

周辺の人たちの中には、恐らく「あの人(お母様)は、年は幼いがとても肝が据わっている」と感じていた人もいたと思います。私は当時、祖父のようにも感じ、父のようにも感じ、そして、夫のようにも感じ、兄のようにも感じ、息子のようにも感じたのです。

14   アダムとエバは、神様のみ言に背いて堕落しましたが、(お母様)は、「神様が警告しなかったとしても、当時は神様と一問一答していた時代なので、本心の作用によってみ言を守れたのではないだろうか」と考えたこともあります。私は、神様の摂理歴史を思いながら成長してきました。私が満十七歳でお父様に出会った時、「神様が大&##22793;な苦労をして歩んでこられた蕩減復帰摂理歴史を、私の代で終わらせる。私が終わらせる」と自ら決心しました。私は、そのような内容を誰かに教育されたわけではありませんが、そのような決心をしたのです。そのように決心することができたのは、私が神様を知ったからです。

15   (お母様)は、お父様に会った時、摂理歴史を知りました。「原理」を勉強したわけでもないのに、蕩減復帰摂理歴史が分かったのです。ですから、私は、「お父様が再臨主として使命を完成、完結したと宣言するためには、私の力が絶対的に必要だ。私は誰にも任せることなく、私自ら責任を果たす。私が生きている限り、このみ旨は発展し、成功する。サタンを必ず追い払う」と決心しました。このために、私は心と体をすべて捧げて犠牲になったのです。

韓国における信仰生活

真のお母様は、外祖母の趙元模女史と洪順愛大母様と共に、一九四八年に南下されたあと、ソウルと大邱、西帰浦、春川などの地を転々としながら、信仰生活をされた。大母様が、大邱で過ごしていたとき、見知らぬ一人の男性が真のお母様を見て、「天地において貴い娘」と証をするなど、真のお母様はどこに行っても注目の的であり、多くの霊的な証を受けられた。

16   聖主教の金聖道氏は、獄中の苦難に遭ったあとに他界し、残った家族が中心となって命脈を保ち、許浩彬氏を中心とした腹中教がそのあとを継ぎました。しかし、聖主教は、北朝鮮の共産党治下で定着することができなくなりました。特に、金聖道氏の長男の鄭錫天氏は、南に下り、鉱山事業をしばらくしたあと、大邱の東城路(トンソンノ)に家を構え、米と石油の商売を始めました。その大邱で、六・二五動乱を経る中、鄭氏の家族と大母様の一行が出会うことになったのです。大母様は、鄭錫天氏の家族と集まって話をし、「私たちが北朝鮮にいたとき、聖主教の新しい主(金聖道氏)と腹中教の許浩彬氏を通して多くの恵みを受け、大きな役事(働き)が起きました。再臨主は韓国に来られるでしょうから、この道を探し求めるため、集まって一生懸命に祈りましょうと、心を合わせました。鄭氏の姉である鄭錫溫(チョンソゴン)氏も、釜山から来るようにさせ、大母様は、大勢の食口たちと共に、熱心に祈りながら信仰生活をしていくようになりました。

17   大母様が大邱で小さな店を出していたある日、笠をかぶった通りすがりの道人が、小学生だった幼い私(お母様)を見て、驚くべき証をしました。「この娘は、十人の息子にも勝るので、しっかり育ててください。数えの十七歳になれば、年の差が大きい人と結婚する貴い娘です。陸海空の財産をもつ富者として暮らすでしょう」と言うのです。

大母様がその言葉を聞いて驚き、どういうことかと尋ねると、(その人は)「生まれる時から、そのような運命に生まれたのです」と言いました。大母様は、その言葉を聞いてから、真理のみ言を求めて、さらに一生懸命に信仰しなければならないと決心されました。そして、「再臨主に出会うまでは、世俗に染まらないよう、正しく育てなければならない」と考え、済州道に行って生食をするなど、厳しい霊的な鍛錬生活をされました。

その後、真のお父様に出会ってからは、私を統一教会の重要な働き手として育てようと思われました。そのように、一つのほこりも付かないようにされたのです。それほど、天のみ旨に捧げるための摂理には、極端で、かつ涙ぐましい事情が秘められていたのです。

18   趙元模おばあさんは、家庭礼拝を捧げながら聖別された生活を送り、(お母様)に聖書の話もたくさん聞かせてくださいました。大母様は、聖書を熱心に奉読し、真心を尽くして信仰生活をされたため、私の周辺には常に聖書がありました。私は、自然に聖書を読むようになり、天の父母様が導かれる生活をしました。このような生活は、大邱に避難した時や動乱後、済州道と春川に転校してからも、そのまま続きました。大邱で教会学校に通う時は、学生代表として歌もよく歌いました。

19   大母様は、避難していた大邱で聖主教の金聖道氏の長男である鄭錫天氏に会ったのち、新しい主が韓国に来られるという信仰をもって祈りに励み、松葉を食べる生食をしながら暮らしました。

当時、小学生だった私(お母様)は、かわいらしくて勉強もできたので、周囲の人々に人気がありました。しかし、大母様は、私が注目の的になることを負担に思われました。私について「主の娘」という啓示や証がたくさんあったからです。結局、大母様は、再臨主に出会うため、一九五四年に済州島に渡っていかれました。私は、ひどい船酔いで苦労したことが思い出されます。

20   大母様の関心は、いつも「天の花嫁である」という祝祷を受けた私(お母様)を、世俗に染まらず純粋に成長させることに集中していました。「六・二五動乱」が終わった翌年、混乱した地を離れ、済州道で約九ヵ月間過ごしました。当時、済州道には、聖主教の金聖道おばあさんの次男、鄭ソクチン(鄭平和-チョンピョンファ)氏がいました。その人は、イエス様の苦難を体恤するために、茨の冠をかぶって十字架の苦痛を再現するほど、熱烈な信仰をもった人でした。

大母様は、その方と共に、より一層篤実な信仰生活に励みました。昼は畑を耕して生食をしながら、夜は祈りと精誠を尽くす日々でした。

 

第三節天が選んで立てた真のお母様

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第三節   天が選んで立てた真のお母様

三代にわたる準備

真のお父様のみ言によれば、新婦基盤全体を代表した女性が人類の真の母になるには、それにふさわしい摂理的条件が具備されなければならない。その第一の条件は、サタン世界の讒訴を越え得る内的な血統的内縁(内的な縁故)である。人類の女性全体を代表する一人の女性が立てられ、真のお母様にまで連結するため、その背後には三代にわたる一人娘の女性がいなければならないというのである。それゆえ、真のお母様の母方の家系は、三代にわたって一人娘をもうけることにより、天の側に聖別されてきた。そして、外祖母の趙元模女史と大母様、真のお母様は、一人娘として、周辺に親戚が多くなく、しがらみのない暮らしを通して分別生活をしながら、天の新婦基盤を準備したのである。

1    誰でもお母様になれるというわけではありません。すべての摂理が、エバの歴史を中心とした摂理と連結された関係を中心として出てくるのです。そのような内外のすべてを合わせ、主が来られて三人の女性の協助を受けて結婚式をするようになるのですが、その時、三人の女性は、蘇生、長成、完成と同じです。

祖母#27597;から母、娘まで、三代が一つになったというのは、旧約時代、新約時代、成約時代が連結されたということです。それによって、父母が定着できる時代に入ってくるのです。お母様が中心です。蘇生が中心ではなく、長成が中心ではありません。ですから、歴史時代のあらゆるものが三段階を経なければなりません。平面的時代のあらゆるものは、三番目の段階を完成してこそ、完成の段階に立つのです。

2    お母様は、世界の女性たちの代表です。その人類全体の女性を代表して一人の女性が受け継ぎ、お母様にまで連結されたのです。ですから、お母様の背後には、三代が連結されなければなりません。本来は一人娘にならなければなりません。アダムも一人息子であり、イエス様も一人息子です。再臨主も、神様のみ旨から見れば、一人息子です。一人息子のみ旨を立てていくので、一人娘でなければなりません。ですから、復帰摂理から見ると、男性と女性が相対的な立場で一つになって結ばれ、世の中のサタン世界を越えて天の国へと行かなければなりません。

3    お母様お一人がお生まれになるためには、三代が一人娘であると同時に、三代が、来られる主のために生きた功績の基盤がなければなりません。お母様の背景を見ると、趙元模おばあさんから洪順愛おばあさん、そして、お母様まで、三代が一人娘です。また、洪氏おばあさんは、再臨主を迎えるための神霊教団の重要な幹部として教育されてきました。そうして、南に避難してくる頃に、お母様が許浩彬氏の母親から「天の花嫁になるだろう」という祝福を受けたのです。お母様がそのような祝福を受けた基盤は、天が準備したのです。

4    お母様の三代が再臨主を迎えるための準備をしました。歴史は、そのようにして上がっていくのです。プロテスタント教会から反対され、カトリック教会からどれほど反対を受けたでしょうか。李龍道牧師を中心として新イエス教会をつくったといって、どれだけ迫害を受けたでしょうか。神霊的な役事と韓国の中心人物たちをすべて連結させて、お母様が祝福を受けました。お母様の家系は、十二人を超えてはいけないのです。

5    腹中教は、主が人として来て母を選定し、十二使徒を立てるという信仰をもっていて、主に侍る訓練をさせました。お母様は、その特定集団を通して訓練を受けました。その腹中教の教主の母親がお母様を呼び、祝福してくれました。気づいてみると、祝福をすべて受けていたというのです。そこに男性がいてはいけません。できるだけ一人娘でなければならないというのてす。

6    来られる再臨主を歓迎するために準備した代表者が李龍道牧師です。李龍道牧師は、既成教会から追い出されて新イエス教会をつくり、鉄山の金聖道と連結され、白南柱を通して東と西が連結されたのです。ですから、大母様の家庭を中心として、一つは新イエス教会へと進み、もう一つは女性を中心とした腹中教へと進んだのです。

腹中教において、主を迎えるために、先導的な代表として家を出て歩んだ人が大母様です。新イエス教会から祝福を受け、腹中教から祝福を受けたのです。お母様の家門を見ると、そのようにしてきたというのです。そうでなければなりません。

天の新婦としての準備生活

神様は、ひとり子として再臨主を送られ、ひとり娘である天の新婦をあらかじめ準備してこられた。真のお母様は、幼少時代に周辺から「天の新婦になるだろう」という霊的な証を、数回受けていた。「小羊の婚宴」が近づくと、真のお母様が天の新婦になるという夢の啓示が、多くの食口にも現れ、特に、大母様も夢で啓示を受けた。白い礼服を着た女性食口たちがピンク色の花を手に持ち、真のお父様の部屋に入っていくのだが、後ろを振り返ると、食口ではない女性たちも花を持って立っていた。その時、大母様は、「神様は女性を失ってしまったので、六千年間、女性を探し求めてこられたのだな」と考えた。そこで、真のお母様が、お座りになっている真のお父様の前に歩いていくのが見えた。その間、天から雷鳴と稲光が起こり、一ヵ所に集まった。そして、大勢の人々がその光景を羨ましそうに眺めているのだった。その時もやはり、大母様はそれが何を意味するのか分からなかった。それでも、大母様は、夢の啓示が実現されるように精誠を尽くしながら、真のお母様を養育してきたのである。

7    大母様が主を迎えるために歴史的な受難の道を歩んできたので、お母様もそのような訓練を経た歴史があるのです。み旨のために真心を尽くす夫の道であるならば、それ以上に熱心に従う女性と、そのような家門が必要です。そのように考えて、お母様を迎えたのです。

8    大母様は、迫害を受け、新イエス教会から腹中教を経て、統一教会まで来ました。三つの教団に仕えた歴史がなければ、お母様の先祖になることはできません。大母様がお母様を生んだのも、霊界の命令があって生んだのです。そのような歴史があります。そうでなければ、お母様として誰でも連れてきて立てることはできないのです。

9    母になるためには、三時代の祭物的な家庭にならなければなりません。一人娘の歴史を残さなければなりません。大母様がお母様を身ごもって、一人でこの道を出発したのです。純潔な夫を探し求める三時代の女性たちが歩まなければならない、十字架の峠を越えて育てなければなりません。お母様として、誰を選んでもいいのではないのです。お母様にとってお父様は、祖父の代わりであり、父の代わりであり、夫です。ですから、お父様と向き合うときは、兄のように思い、父のように、祖父のように、王のように思ったというのです。それゆえ、お父様がそれを知って、そのような妹の位置から育てていかなければなりません。婚約者の位置、夫婦の位置、母の位置、祖母の位置、女王の位置まで上がっていくようにしなければならないのです。

10   お母様を尊敬せざるを得ません。三つの教団を経てきました。大母様から、「主が来られるので、主に侍ろうとするなら、このように侍らなければならない」と何回も聞いたので、それが骨髄にしみ込んでいるのです。そうでなければお母様になることはできません。

この十七歳の娘が、女王にならなければならないのです。天の国の女王の位置まで進んでいかなければなりません。ですから、結婚したのちに、統一教会において、相対の位置、母の位置、祖母の位置、その上の女王の位置に上がらなければなりません。母と言えば、その母は国を代表する母です。妻と言えば、その妻は王の代身の妻なので、王として侍るのです。