第三篇公式路程の出発と「世界基督教統一神霊協会」の創... 2

第一節公式路程の出発とキリスト教団の不信... 4

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第一節   公式路程の出発とキリスト教団の不... 4

第二節平壌での伝道生活と大同保安署での摂理... 13

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第二節   平壌での伝道生活と大同保安署での摂... 13

第三節八段階の蕩減復帰と霊界での四十三日勝利... 20

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第三節   八段階の蕩減復帰と霊界での四十三日勝... 20

第四節興南監獄とイエス様の使命継承路程... 25

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第四節   興南監獄とイエス様の使命継承路... 25

第一節真のお父様の南下路程... 30

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第一節   真のお父様の南下路... 30

第二節釜山での新しい出発... 34

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第二節   釜山での新しい出... 34

第三節『原理原本』の執筆... 40

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第三節   『原理原本』の執... 41

第四節釜山と大邱の開拓伝道... 44

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第四節   釜山と大邱の開拓伝... 44

第一節協会創立の背景... 49

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第一節   協会創立の背... 49

第二節青坡洞本部教会... 58

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第二節   青坡洞本部教... 58

第三節真のお父様の精誠と信仰指導... 63

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第三節   真のお父様の精誠と信仰指... 63

第四節韓国百二十地域の最初の四十日開拓伝... 71

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第四節   韓国百二十地域の最初の四十日開拓伝... 71

第五節日本とアメリカの宣教... 76

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第五節   日本とアメリカの宣... 76

 

第三篇公式路程の出発と「世界基督教統一神霊協会」の創

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真のお父様は、一九四五年八月十五日、韓国の解放とともに、復帰摂理のための公式路程を出発された。神様の解放と人類の救援、平和世界の実現に向けた大長征の始まりであった。何よりも待ち望んだ新時代が開幕したが、摂理の道には、形容し難い苦難が横たわっていた。真のお父様が新しいみ言を発表できない状況で、牧師や長老に会わなければならなかったため、彼らから摂理の新しい主人として認められるのは、ほぼ不可能なことであった。そのため、真のお父様は、神様と直接、交流できる神霊教団を訪ねていかざるを得なかった。当時、霊的なレベルが最も高い位置にいた金百文が率いる、イエス教会イスラエル修道院を訪ねていき、一九四五年十月から六ヵ月間、あらゆる精誠を尽くして奉仕活動をされたのである。金百文は、翌年の三月初めに、真のお父様について、「ソロモン王の栄光により来られた方」と証したが、その後は、侍って従わなかったため、真のお父様は、「これ以上、金百文を中心として神様のみ旨を成し遂げることはできない」と判断されそこを離れていかれた

真のお父様は、このように韓国で摂理の基盤を築くことができなくなったため、北朝鮮の平壌に行きなさいとの啓示を受け、一九四六年六月六日、平壌に到着し、祈りによる精誠の祭壇を築かれた。平壌では、天の導きにより、篤実なキリスト教徒たちが集まり、彼らの伝道により、多数の礼拝参加者が来るようになった。しかし、教会員を真のお父様に奪われたと考えた牧師や長老たちの反対と告発により、真のお父様は、その年の八月十一日に、平壌の大同保安署に収監されることになった。そのような中でも真のお父様は、大同保安署で神霊教団の指導者と出会うことを知り、希望を抱いて入っていかれたのである。そこには、肉身再臨の啓示を受けていた腹中教の教主、許浩彬(孝彬)が捕らわれていた

真のお父様は、許浩彬に、「私が誰か、祈ってみなさい。すべてのことを否定して出ていきなさい」と書いた紙切れを秘密裏に送ったが、彼女の不信によってその紙切れが看守たちに発覚し、共産当局の激しい拷問を受け、瀕死の状態で釈放された。結局、真のお父様は、朝鮮半島の南と北のどちらにおいても、キリスト教の指導者たちと神霊教団から反対を受けることにより、イエス様がユダヤ選民とユダヤ教の反対によって、四十日断食と三大試練を経たように、大同保安署での容赦のない拷問と、三大試練の路程を行かれるようになった

その第一は、「主なる神の夫人」と語る朴ウルリョンを通した試練である。真のお父様は、僕の僕の位置から、神様の実体対象の位置まで上がっていく縦的八段階の蕩減復帰路程において勝利された。第二の試練は、霊界において、聖賢たちを中心とするあらゆる霊界の代表者たちを対象に、四十三日間にわたる真理闘争の路程であった。真のお父様は、血統転換、所有権転換、心情圏転換の三大主題についての熾烈な論争ののち、「文鮮明の主張が正しい」という神様の公認と御印を改めて受け、勝利された。第三の試練は、イエス様の使命継承者として再出発するため、イエス様が十二弟子を失って十字架の苦難を経たことを蕩減復帰する路程であった。真のお父様は、十字架にかけられた位置と同じ興南特別労務者収容所(興南監獄)で、十二人以上の弟子を復帰して勝利された

特に真のお父様は、一九四八年五月二十日から二年四ヵ月と二十五日間、興南監獄で強制労働の苦役を受けることになった。興南監獄は、劣悪な食事と環境、苛酷な強制重労働により一年に囚人の四〇パーセントが死んでいくという、生き地獄だった。真のお父様は、そこで生き残らなければならず、言葉も行動も思いどおりにできない立場で、弟子たちを探して立てなければならなかった。伝道の方法は、天を感動させ、献身的な生活によって霊界を動員する道しかなかったのである。霊界にいる先祖たちが、収容所にいる子孫たちに夢のお告げや啓示を与え、多くの人々が真のお父様に侍り、従うようになった

六・二五動乱の渦中、国連軍の上陸進撃により、興南監獄から九死に一生を得て解放された真のお父様は、昔の食口を訪ねるため、徒歩で十日間かけて平壌に向かわれた。最初に、獄中生活をする前に伝道された金元弼を訪ね、食口たちを訪問するようにされたが、彼らはみな、真のお父様の意向に従わなかった。四十日間の平壌滞在ののち、真のお父様は、金元弼と、監獄から先に出てきた足の折れた朴正華を自転車に乗せ、一九五〇年十二月四日に三人で平壌を出発し、徒歩で南下の道を歩まれた

南下して五十五日目の一九五一年一月二十七日、釜山の草梁(チョリャン)駅に到着された真のお父様は、その年の五月十一日から一年かけて、『原理原本』を執筆された。そして一九五三年七月二十日、姜賢實を最初の開拓伝道師として大邱に送られたが、これが最初の公開原理宣布であった。

真のお父様は、一九五四年五月一日、ソウル北鶴洞の三つの門の家で、「世界基督教統一神霊協会」を創立された。協会の創立は、真のお父様が北朝鮮において蕩減路程を勝利した基盤の上で、キリスト教に代わるアベル的教団を立てたということであり、神様の復帰摂理が、協会を中心に新たに始まったことを意味する。

第一節公式路程の出発とキリスト教団の不信

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第一節   公式路程の出発とキリスト教団の不

世界大戦における天の側の勝利と公式路程の出

第二次世界大戦で、キリスト教文化圏を中心とした天の側が勝利することにより、再臨主を中心とした摂理的基台が造成された。そして、韓国が一九四五年八月十五日、日本の植民統治四十年を締めくくり、解放を迎えたことは、神様の摂理史に大きな区切りをつける出来事だった。韓国が日本の圧政から抜け出すとともに、摂理が新たな段階に進むことができるようになったのである

1    第二次世界大戦は、イギリスとアメリカとフランスなどが連合し、日本とドイツとイタリアに対して戦った世界的な戦争です。堕落する時に蒔いたので、蒔いたとおりに刈り取らなければなりません。アダム、エバ、その次に、カイン、アベルによって蒔かれたので、世界も二つに分かれます。天の側もアダム、エバ、カイン、アベル、サタン側もアダム、エバ、カイン、アベル、このように二つのグループに分かれるです

個人によって蒔かれて結実したものが、世界的な国として現れるのです。ですから、イギリスは天の側のエバ、アメリカは天の側のアベル、フランスは天の側のカインです。日本はサタン側のエバ、ドイツはサタン側のアベル、イタリアはサタン側のカインです。第二次世界大戦で天の側とサタン側が戦って、サタン側が負けました

2    第二次世界大戦の間、韓国は日本の統治下にありました。韓国の愛国の志士たちは、日本の圧制に対抗して闘いました。人間始祖が堕落することにより、神様は四位基台を失ってしまいました。ですから、神様の復帰摂理の目的は、この四位基台を復帰することでした。それで、聖書や神様の摂理の中に四数が多いのです。聖書には、四十年と四百年の蕩減期間が何度も出てきます。すべての復帰と蕩減が、この原理に従って成し遂げられたのです

韓国が、神様の摂理においてアダム国家になろうとすれば、エバ国家の統治下に置かれなければなりません。エバ国家に打ち勝つことによって、独立を勝ち取らなければならないので

当時日本は、ドイツやイタリアと結合していたのですが、これらの国は、摂理的にすべてサタン側の国家です。天の側には、アメリカとイギリス、フランスがありました。第一次世界大戦の時、ドイツはほぼ破壊されました。しかし、ドイツが二十年のうちに復旧できたのは、第二次世界大戦において、神様の摂理の中で果たすべき大きな役割がドイツにあったからです

(人類歴史においては、)先に攻撃した国が常に敗れてきました(第二次世界大戦においても、)アメリカ、イギリス、そして、フランスが連合して、サタン側の国家に勝利したのですが、韓国は四十年間、日本から支配を受けなければなりませんでした。日本はサタン側のエバ国家でした。その四十年期間に、日本は、韓国の文化的伝統や、甚だしくは韓国の言語までなくそうとしたのです

3    イスラエルの国とキリスト教が、霊肉を中心としてサタン圏に支配されながら闘ってきたのと同じように、韓国も四十年間、肉的な面において怨讐に支配されながら、霊的な面においては、この国のために生命を捧げることを覚悟した群れを中心として、独立運動をしてきました。このような気概を中心として、神様は摂理の縁を打ち立ててきました。そうして民族を糾合、結束させ、キリスト教を中心とした人々が主導して、国を建てるようになったのです

そのように、キリスト教徒たちが霊的な面において、日本占領期四十年の弾圧の中で、国もない立場で死の道を自ら進んで歩み、国を愛する忠節の道理を立てたことは、摂理史的に重大な意義があるのです

4    韓国の独立とともに新しい摂理的運動が、第二次世界大戦で勝利したアメリカを中心として始まらなければなりませんでした。キリスト教とアメリカを中心とした世界的勝利基盤の上に、新しい歴史時代における神様の摂理が出発しなければならなかったのです

お父様は、新しい原理を中心として地下活動をしてきたのですが、第二次世界大戦の直後は、お父様が表に現れなければならない時でした

そして、韓国には、アメリカ軍が駐屯して軍政が立てられるようになりましたが、その軍政に従事する人たちの中には、外国留学から帰ってきた人たちが大勢いました。そのような人たちが軍政と一つになり始めました。また、神社参拝を中心として日本政府の手先の役割を果たしていた人たちが、アメリカの軍政と結託していました。しかし、地下運動をしたキリスト教徒たちは国内派だったため、外国に対してはあまりなじめず、アメリカの軍政と関係を結ぶ立場にはなれませんでした。それで、日本政府を支持していたキリスト教徒と、日本政府に反対していたキリスト教徒が、分かれるようになったのです

5    宗教の目的は、アダムを完成することです。また、神様の救援摂理の目的は、アダム完成です。エデンの園で神様が創造をするとき、天使はアダム完成を協助しました。神様は、天使を頌栄と協助の対象者として造りました。神様の目的や天使長の目的が、アダムを完成することなので、その基準を世界、霊界と肉界を前にして再蕩減しなければなりません。ですから、霊肉を中心とした天の側に立った天使圏の宗教がキリスト教です。キリスト教を中心として、全世界が動き得る環境がつくられたのが、第二次世界大戦の直後でした。全世界が天の側に引き渡されたというのです。その時にアダムが現れるようになっています

霊肉を中心としたサタン世界と、天の側の天使圏が闘って勝敗を競ったのが、第二次世界大戦です。聖書上で見れば、ハルマゲドン戦争だというのです。第二次世界大戦が天の側の勝利で終わったという事実は、霊界の天の側の天使圏と地上の天使圏が、サタン世界に対して勝利したということです。ですから、アダムが現れ得る時が来るのです。それゆえ、第二次世界大戦の直後に、再臨主顕現時代が来るというのです

6    第二次世界大戦も終わりに近づく頃、日本帝国の圧迫によって篤実なキリスト教徒たちは信仰生活が困難になり、彼らは、韓国の地に決定的な審判や判決を下してくれることを神様に祈りました

神様によって、または霊界によって直接導かれた多くの人たちがいましたが、彼らは日本の警察が捕まえようとするとき、逃げたり、脱出したりすることができました。彼らのほとんどは、日本がいつ敗北するのかを知っていました。また多くの人たちが、「第二次世界大戦後は、世界の歴史が韓国を中心に展開するだろう」という啓示を天から受けました

お父様もそのようないくつかの団体とつながりましたが、たとえお父様がそのような団体とつながったとしても、その時のお父様は、皆さんが今学んでいる原理のいかなるものも、決して語ることができませんでした。なぜならば、神様からのみ言もあったのですが、「韓国が解放され、このことを始められる環境ができた時に動き出す」と神様に約束していたので、その時には語れなかったのです。神様のみ旨は、一人だけでは成就できません。共に働き得る対象がいなければなりません

さらに神様は、第二次世界大戦後にすべてのキリスト教会が分裂することを教えてくれました

7    一九四五年の解放直後に、お父様を中心とした統一運動は、一度に世界を統合できるキリスト教文化圏を中心として出発しなければなりません。その立場においては、既に国家基準を越えるようになるのです

その時、韓国には主権がなく、キリスト教文化圏を中心としたアメリカが、天使長の勝利圏基盤の上で養子の基盤を受け継ぎました。その土台の上に世界的版図の基盤を造成していれば、天使世界の完成と養子世界の完成が成就して、直系の子女を迎えられる世界文化圏の時代へと入っていくのです

イエス様を中心としたアベル文化圏を築いたので、天使長圏と養子圏がつながり、実子圏と連結できます。縦的な歴史が横的に一つになるのです。これを収拾して統一しなければ、サタンの基点を取り除けません

8    お父様が(一九四五年)八月十五日の光復節の前に、キリスト教を中心にすべての基盤を築いていれば、神社参拝を拒否して監獄に閉じ込められた再建派は、お父様の信仰の基盤の上で中心になっていたでしょう。そのようになっていれば、キリスト教が私の言うことをすべて受け入れて、連合軍を迎え入れる立場に立つのです。世界全体が連結され、連合軍が入ってくるのを、監獄に入った人たちが迎えるようになったはずです

その時、連合軍が入れば、以北(現在の北朝鮮)で直接歓迎するようになります。そうなっていれば、韓半島は南北に分かれなかったはずであり、神霊的な人たちが連合軍を中心として一つになれば、サタンが侵犯するところがなかったのです。ところが、このような状況が崩れてしまったので、仕方なくこのすべてのものを条件的にでも、再び探し求めなければなりませんでした

しかし、この時に、この神霊的な集団が受け入れなかったので、お父様は孤独な立場で人を送って三度以上通告し、天のみ前に報告してから、彼らに、「あなたたちが受け入れなかったときには、あなたたちの国家と世界が破壊され、今まで立てられた功績は天がもっていってしまうだろう」と言いました。そのように通告し、お父様が刈り取ることのできる基盤を築いて、韓国の解放を待ったのです。解放が訪れるときには、世界のどこにでも出ていかなければならないのです

9    お父様は、日本帝国の統治下で、圧制を受けていた時代を過ごしてきました。ですからいくら大きな抱負をもち、いくらあふれんばかりの希望を胸に抱いていたとしても、自分の内的心情を吐露できる環境が与えられていませんでした。何か斬新な考えをもっていたとしても、それを口にして語るためには、必ず周囲を窺い、内外に鑑定しなければなりませんでした。「これなら安心だ」とはっきり感じることができなければ、いくら立派な思想や理念をもっていたとしても、語れる時代ではありませんでした。不自由な時代だったのです

そのような環境で、お父様は人知れず復帰の路程、今まで原理の中に現れた復帰路程をたどり、闘いながら準備してきました。そうして、一九四五年に解放を迎えました。二十六歳の時でした

その時、解放を迎えて、民族全体が祝いながら喜びました。万歳を叫びながら大騒ぎし、我々の天地になったといって世界を揺さぶり、ひっくり返すような喜びが天を突くほどの騷ぎでした。私もまたうれしく思いました

しかし、私は解放を迎えたその日以来、「この国が解放された」といって万歳を叫んだことはありません。うれしくても喜ぶことはできませんでした。その理由は、この民族には新しい出発をすべき使命があると同時に、お父様も新しい歴史的な出発をしなければならなかったからです。復帰世界に向かって第一歩を踏み出さなければならなかったのです。それで、まずは韓国の地に立っていたので、韓国の地を中心として、さらにはソウルを中心として、復帰の道を開拓するために全力を尽くして出発しました

キリスト教指導者の不信と神霊教

復帰摂理は、世界史的な転換期である一九四五年の解放直後、キリスト教の指導者たちを中心に天の主権を立て、世界を復帰できる絶好の機会を迎えた。しかし、キリスト教がこのような摂理を担当する真のお父様を受け入れないことにより、新たな摂理的基盤を整えなければならない困難な状況に直面することになった。このように、ソウルを中心とした第一次の出発摂理が挫折し、一九四六年六月以降、平壌を中心に第二次の出発摂理が進められた。しかし、真のお父様は、神様が長い歳月をかけて準備したすべての摂理的基盤が崩れるとともに、獄中の受難の道を歩まなければならなくなったのである

そして、韓国のキリスト教の中には、日本帝国の神社参拝強要に屈した教団もあったが、信仰の貞操を守り、解放の日を待ちながら闘った愛国的な地下教会の信徒も多くいた。神霊教団は、このような状況の中で、解放の十四年前から活発な活動をし、再臨主を迎えるための基台を築いていった

特に、韓半島の東の元山を中心に男性たちの神霊役事(働き)が起き、西の鉄山を中心に女性たちの神霊役事が起こった。その中で、女性の代表は聖主教の金聖道、腹中教の許浩彬、「主なる神の夫人」と称する朴ウルリョンであり、男性の代表は新イエス教会系統の李龍道、金百文であった

特に、洗礼ヨハネの使命をもっていた金百文は、真のお父様について「全世界のソロモン王の栄光が臨むようになるだろう」と証したが、真のお父様に侍って従わないことによって、摂理的な出発をすることができなかった

10   世界のキリスト教文化圏を中心とした民主世界は第二イスラエル圏であり、キリスト教は、民主世界の思想的な指導を受け持つべき立場、すなわちイスラエルの国に対するユダヤ教と同じ立場です。イスラエルとキリスト教は、このように霊的につながるようになっています

したがって、再臨の役事は、霊的なイスラエル圏を相続し得る勝利的基盤を整えた上でしなければなりません。霊的な個人から霊的な家庭、氏族、民族、国家、世界圏まで、勝利的な基盤を整えて地上に現れなければなりません

そうでなければ地上収拾作戦ができないというのが再臨の役事です

霊界を屈服させて指揮下に置き、神様のみ旨に従って地上に君臨しなければなりません。このようになれば、地上では実体的な再蕩減路程を経ていけばよいのです

このような点から見て、霊的に世界的なイスラエル圏が勝利しました。霊的に勝利したこの世界的イスラエル圏は、世界的な天使世界に該当します。したがって、再臨主は第三アダムなので、第二アダムであるイエス様が霊的に勝利した霊的イスラエル圏の足場を、相続しなければならないのです

11   韓国は、解放後、キリスト教圏である民主世界の保護によって、世界が一つになったところに建てられました。その時にお父様は、新しい歴史的な使命を果たすため、建国当時の要人たちと手を結んで、最高の位置から出発することを期待しました。そのようにならなければならないにもかかわらず、キリスト教を代表した幾人かの牧師が反対することによって遮られ始めたのです。キリスト教を中心とした国家形態ができなければならなかったのですが、キリスト教の最高指導者たちが反対することによって、韓国のキリスト教が反対する道が生じるようになりました

12   日本の帝国主義が、韓国のキリスト教を抹殺するために神社参拝をさせたのですが、そこには神社参拝を受け入れた群れと、神社参拝を拒否した群れがありました。神社参拝をしなかった人は獄中や地下に入り、神社参拝を受け入れた人は表に出るようになりました

ですから、地下にいた内的な神霊集団の人々が主体となって、外的な人々を再教育して収拾していかなければなりません。その時、彼らは、「主は人として来て、自分たちの団体を指導する」との啓示を受けたのですか、その人がどのような人として現れるのかということは分かりませんでした

彼らは一つになり、大韓民国が新たに独立する時に、それを主導する役割を果たさなければなりませんでした。ところが、解放後、内的な神霊集団が主体にならなければならないのですが、逆に神社参拝をした群れ、アメリカで勉強し、都合よく社会と接触してきた人たちが主体になりました。神様に対する新しい概念を中心とした再臨思想と連結された概念のもとで、教会の復興運動が起きなければならなかったのです

解放当時、韓半島のキリスト教会のほとんどが以北にありました。大多数が平壌を中心として存在していたので、以北がキリスト教の中心になりました。ですから、以北の地で行われる教会運動が、国家的な基礎となり、精神的な基調となり得るキリスト教の新しい世界的活動のための神様の摂理基盤にならなければならなかったのですが、そのようにはなれませんでした

国を中心として、カインとアベルの闘いをしたのです。教会の基地が立つ前に、サタンが先に入ってしまいました。先にカインの国が位置を占めたのです。ですから、仕方なく南側だけでも守るために新しい国を建てたのです。統一を成し遂げることができず、二つの国ができました。キリスト教を中心に統一された国家基盤を形成してこそ、神様のみ旨の基盤になるのですが、完全にサタン圏に移り始めたのです

13   光復後、韓国では、神社参拝をしたキリスト教派と、神社参拝に反対して監獄に行った再建教会派、それから神霊的な集団、このように三つの部類ができました。キリスト教派は蘇生、再建教会派は長成、神霊派は完成です

この神霊派がエデン復帰派ですが、旧約的エデン復帰派は朴東基派、新約的エデン復帰派はイスラエル修道院の金百文派です。その次に、成約的エデン復帰派は、婦人たちが主動となった許浩彬派です。彼らは、蘇生・長成・完成型の縦的な復帰をします。旧約時代、新約時代、成約時代の横的な復帰をするのです。再建教会派と神霊集団が完全に一つにならなければなりません

そのような基盤の上に、お父様が立たなければならないのですが、洗礼ヨハネがイエス様を信じられなかったように、神霊集団の責任者たちは、主が人として来ることは知っていたのですが、その人が誰なのかは知りませんでした

14   金聖道氏は、エバ的使命者であり、許浩彬氏はマリヤ的使命者です。許浩彬集団は、イエス様がこの地上に来て三十三年間生き、み旨を成し遂げられずに、(本来)願わない十字架の死の道を行ったため、それを復帰するためのあらゆる準備をしました。そして、「再び来られる主は、韓国人として来られるだろう」と言いました。その方の背丈はどれくらいで、体格はどうだということまで啓示を受け、衣服から寝具に至るまで、一切を準備したのです

本来、そのようなものをすべて準備しなければなりません。それを準備した人が地上にいなければ、主を送ることができないというのです。昔、イスラエル民族が、主が横になる一間の部屋を準備できず、イエス様は飼い葉桶に寝かされるようになりました。そのような恨をもった神様なので、神様は一人を選んで、生活のあらゆる物、すなわち服と部屋と家庭用品の一切を準備させたのです。この時代に文化生活を営む東洋、西洋の誰にも負けない最高の水準で、すべての物を準備させました

15   韓半島の東海岸地方で起きた霊的な運動集団には、李龍道牧師がいました。彼は、人々に多くの聖霊の火を受けさせました。そのようなことをすることによって、天は霊的な働き手を一つにまとめようとしたのです。霊的な運動も、二つの形態に分かれました。一つは内的で、もう一つは外的でした

李龍道牧師を中心として新イエス教が出てくるようになりました。当時、許浩彬氏の腹中教と新イエス教を統一せよという、天からの指示がありました。それで、西の集団が一つになるために、東の集団がいる所を訪ねていきましたが、東の集団は西の集団を受け入れませんでした。この二つの集団が統一に失敗することによって、神様は一つの新しい運動、新しい分野の開拓者を必要とするようになりました

神様は、御自身の指示を受け入れられる、他の一人の人を願われました。その人が金百文氏でした。白南柱氏は蘇生段階であり、李龍道氏は長成段階、そして、金百文氏が完成段階でした。李龍道牧師はイエス様と同じ立場であり、一九三三年に三十三歳で亡くなりました。このことから、神様が主のためにどれほど多くの準備をされたのかを知ることができます。神様は、日本の圧制に耐え抜けるようにしようと、そのように早くから準備をしていました。このような環境の中で、お父様は、自分が行くべき道のために準備を始めたのです

16   お父様は数えの二十五歳前後の時に、全国にいる神霊的な人たちを訪ねて回りました。名のある牧師や名のある僧侶、易者などをすべて訪ねたのです。そうして、彼らの信仰観と私の信仰観を比較したり、理論的に討論したりしました。そのような牧師たちに、「堕落とは何か」と尋ねましたが、分かっている人はいませんでした。人間がどのように堕落したのかを知らないのです。根本が曖昧な基盤から出発したものは、いくら過程が驚くべきもので、結果が世界的だとしても、完全な完成の終着点に帰着することはできません

しかし、彼らは、堕落の根源を全く知らなかったのです。お父様は、どのように堕落したのかという事実をすべて知っている観点から、大勢の神霊的な人たちに会ってみましたが、彼らは知りませんでした。だからといって、時になっていなかったので、発表することもできませんでした

17   お父様は、少年時代を経て、青年時代を経て、分別がつく頃から聖書の内容を深く探究するうちに、神様の摂理がどのようになっているかを、すべて悟るようになりました。そうして二十六歳の時に、解放とともに新たな出発をすることになったのです

まず、地下教会を遍歴しました。解放前数えの二十四歳の時から地下教会の遍歴を始めたのです。「神霊的な人たちはどのような道を歩むのか。神様の摂理はこのように進まなければならず、このように準備された団体が必ず存在しなければならないのだが」と思いながら、有名だと言われた神霊的な人々に数多く会ってみました。しかし、彼らは神様のみ旨やその方向を知りませんでした。ですからそのような人々を中心として精誠を尽くしてみ言を伝え、関係を結びました

地下教会の責任者は知らなくても、その教会の中で霊界に通じる神霊的な人たちは、お父様を証しました。私が一週間だけ立ち寄れば、そこにいた神霊的な人たちが私の後ろに付いてくる現象が起こりました。ですから、地下教会も二つに分かれるようになったのです。神霊的な教会を編成するために、志のある人を集めなければなりません

その人たちに教えなければならない内容は、主は雲に乗っては来ないということでした。これを十年ほど伏せたのちに発表していれば、数多くのキリスト教徒たちがお父様のもとに来ることを知っていましたが、天はそのようにすることはできません。正面から闘争しなければならないのです。神様は目に見えません。ですから、見える機関となり、見えないサタン世界と対峙し、克服して越えていかなければなりません

18   お父様は、解放後三ヵ月目となる一九四五年十月に、金百文氏に会いました。私は、彼に大きな使命があることが分かりました。当時彼は、プロテスタントの修道院を一つもっていました。彼は「修道院を一つ所有するように」と天から言われていました。また、「再臨主を迎えられる勢力を準備するように」と言われたのです。それが、彼が天から聞いた内容です。ですから、お父様はその集団を訪ね、彼に会い、六ヵ月間彼と共に過ごしました。その期間に神様は、様々な方法で役事されました

19   お父様は、金百文氏の集団に行き、僕暮らしをしました。当時、どれほど多くの涙を流したか、皆さんは考えることもできません。皆さんが想像もつかない切なる心情をもって祈ったのです。その時、祈っていた床には涙がしみ込み、流した涙が乾く日がありませんでした

私は、彼が教えてくれた内容を批判することもできました。口さえ開けば、彼らを完全に屈服させることができたにもかかわらず、そこでは一言も話さずに、奉仕の生活を続けたのです。そのようにしたところ、神様が共にいてくださいました。彼らも霊的に明るい人たちなので、天が彼らに、お父様に従いなさいと命令を下したのです

20   イエス様が洗礼ヨハネから祝福を受けたように、お父様は金百文氏からすべてを相続する予定になっていました。出会ってから数ヵ月後に金百文氏は天から啓示を受け、彼は私の頭に手を置いて、全世界のソロモン王の栄光が臨むようになるだろうと祝福しました。お父様が金百文氏に会ったことは、大きな意味をもっています。もし、金百文氏が天から、そのような祝福をしてあげなさいという啓示を受けたのなら、彼はすべてのことを知るために、私に質問をしなければなりませんでした。それが彼の五パーセントの責任分担でした

ところが、当時、彼に従っていた篤実な追従者たちがお父様に従ったのです。彼はそれを知って、そのことを良く思いませんでした。いずれにせよ、お父様は彼から祝福を受け、彼がもっていたものを相続したのです

21   お父様は解放後、金百文氏と共に出発しようとしました金百文氏と私は、カインとアベル、洗礼ヨハネとイエス様のような立場にいました。彼は、キリスト教を信仰していましたが、「イエス様は神様と同位である」と言いました。根本をよく知りませんでしたが、その人が神霊的な面では、当時のキリスト教で、最高の信仰基準にいたことだけは間違いありません。そして、金百文氏の一番弟子や神霊的な信徒たちは霊界に通じていたので、霊界から「文先生に従っていきなさい」と教えられたのです。しかし、私はそこに入って一言も語りませんでした。なぜなら、他人の基盤に入ってその基盤を崩してはいけないからです。彼らを自然に屈服させなければなりません

ですから、私は、涙もたくさん流しながら、模範的な信徒の一人として黙々と過ごしたのです。その信徒たちがお父様に従おうと決心するので、ここから問題が起こりました。

第二節平壌での伝道生活と大同保安署での摂理

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第二節   平壌での伝道生活と大同保安署での摂

「平壌に行きなさい」という神様の命

真のお父様は、一九四六年五月二十七日頃、「三十八度線を越えなさい」という天の命令を受け、北朝鮮に進駐したソ連軍によって共産主義体制が構築されている平壌に、六月六日に到着された。東洋のエルサレムと言われた平壌では、キリスト教信仰の中心地として、崩れ落ちた教会の再建を夢見ていた。真のお父様は、イスラエル修道院で信仰的な交わりをもっていた、平壌・景昌里(キョンチャンニ)の信徒の家にとどまりながら、み言を伝えられた

1    内的な基準において代表的な使命を担った人と、外的な基準において代表的な使命を担った人が出会える一時があります。言い換えると、今までの六千年歴史の頂上で、必ずカインとアベルが出会うことになるのです。ですから、カインとアベルが出会う、その頂上の位置で蕩減復帰しなければなりません。カインが天道に従い、アベルに順応する基準を備えるようになれば、カインとアベルが一つになって蕩減の峠を越えることができます。カインとアべルがこの峠を正常に越えれば、互いに相手の位置へと進んでいくのです。このように越えなければならないのですが、カインとアベルがこの基準を立てることができず、アベルだけが越えるようになりました

本来、お父様がこの道を出発する時、李承晩博士と協力して進んでいくのが神様のみ旨でした。摂理的に見れば、そのようになり得たのですが、その時、キリスト教が過ちを犯すことによって失敗してしまいました。それで、高い基準を失ってしまったので、低い基準へと下がってしまったのです。下がる時は、必ず最低の位置まで下がらなければなりません。ですから、すぐにお父様は以北(現在の北朝鮮)に行きました。以北に行って、再び上がらなければならなかったのです

2    お父様は、この道を出発する時、生命を差し出す覚悟ができているかを考えました。言い換えれば、死ぬ時はどのように死ぬのかということも考えたのです。銃殺されることも考え、五車(オチャ)(車裂きの刑)によってずたずたに引き裂かれて死ぬことも考えました。そうして、死ぬ時にはどのような言葉を残していくのかということも考えました

どうすれば生きられるのかを考えたのではありません。大韓民国を中心として役事しなければならないので、死の場を求めていったので

怨讐と対決する場、つまり怨讐を訪ねていきました。怨讐の本拠地を訪ねていったのです。韓国のキリスト教を中心としたみ旨の基盤がサタン側に回ったので、それを取り戻すためにサタンの巣窟である以北に行ったのです

3    お父様は、世界的な共産党と闘わなければならないので、そのために以北を訪ねていきました。手錠をかけられて囹圄(牢獄・獄舎)の身になることを覚悟して、訪ねていったのです。いくら暴悪な試練が私に襲いかかってきても、私はそれに屈服しませんでした。いくらひどい飢えの状況でも、神様の威信を失うことはしませんでした。組織的な生活圏内でいくら切迫した生活をしたとしても、天の法度を破りませんでした。お父様はすべてのことにおいて、拘束されても、すべてを取り戻すことができ、さらに神様のみ前に新たな出発の動機と新たな生き甲斐を探し出してきました。そのようにして出発したのです。「生きよう」というところから出発したのではなく、「死のう」というところから出発したのです

4    イエス様が、反対を受けることによって異邦の宗教を通し、異邦の民族を経て再び戻ってきたように、お父様もそのようにしなければなりません。そのようにして怨讐の国を復帰しなければならないのです。それで、以北に入りました

以北では、すべてが怨讐です。敵国です。足の踏む所すべてが怨讐でした。国や教会はもちろん、民衆までもお父様を打ち倒そうとしました。そのような場で生き残る方法とは何でしょうか。拳で対抗すれば滅びます。犠牲になって奉仕しなければなりません。十回打たれても彼らのために福を祈ってあげ、千回冷遇されても彼らのために祈ってあげる作戦を立てたのです。このような作戦を実行してきました。千回、一万回、悔しさを味わったとしても、神様が愛していて、神様が耐え忍んでこられたので、そのようにしなければならないのです

5    お父様は一人でした。一人ぼっちでした。新教を中心に基盤をつくろうとしたのですが、失敗しました。反対を受けたのです。驚くほどの反対を受けました

(アベル)を打って始まった歴史だったので、弟を迎え入れるということは、神様を正しく知らなければ難しいことです。自分が置かれた環境に基づく因習的な教理や内容をそのままもっていては、とても難しいのです。ですからお父様は、既成教会から反対される立場に立ったのです。それは追い出されたイエス様と同じ立場です。実体のイエス様の立場を受け継いだのと同じです。ですから、お父様は、復帰路程を経なければなりませんでした。二千年の歴史を二十年で蕩減しようと闘いました。そのような蕩減をするために、サタンの本拠地である以北に行きました。サタン世界の共産圏に行ったのです

み言の伝播と押し寄せる信

一九四六年六月六日、平壌に到着された真のお父様は、景昌里に一間の部屋を借り、そこで祈りの精誠を捧げながら教会活動を再び開始された。その時まで平壌には多くのキリスト教会があり、篤実なクリスチャンが大勢いた。真のお父様は、周囲から刺すような目で見られていたが、早く、多くの生命を救うためにみ言を伝えなければならないという一念で、新しい食口を探し求められた。終日、門の外を見つめながら、食口たちが来るのを待たれたことも多かった。自分の足で真のお父様がいらっしゃる所に訪ねてきた人々がおり、また、彼らを通して他のクリスチャンたちが集まってきた。特に、真のお父様が到着されたのちに、真のお父様に関する啓示を受ける人たちが現れた。霊界の導きによって、篤実な信徒たちが訪ねてきたのである。それで、真のお父様は、彼らを中心に礼拝を導かれた。真のお父様のために、以前から準備された人々が大勢おり、その中には、真のお父様の聖誕前から、真のお父様に出会うために準備されていた人もいた。霊界は時空を超越するため、心情世界の絆がそのように奥妙に結ばれていたのである。そのようにして縁をもった人々は、真のお父様の裾に触れさえすれば、飛び上がるほど感激し、踊りを踊るほど真の愛に感化された。真のお父様は、老人はもちろん、誰が訪ねてきても、夜を徹してみ言を語ってくださった

6    解放後、三年間、混乱時代が訪れました。キリスト教の混乱、政治界の混乱など、混乱時代が訪れて、すべてのものが定着できませんでした。キリスト教自体も、主が来るのか、み旨がどのようになっているのか、分かりませんでした。その時、再建(チェゴン)教会や高麗(コリョ)派などと称して、様々な教派が現れました。互いに自分たちが正しいと主張しながら、競争した時期でした。お父様が、地下から出てきてキリスト教徒たちを収拾しなければならなかったのですが、彼らは「主は雲に乗って来る」と信じていました。「人として来る」と信じている人は一人もいませんでした。ところが、許浩彬派と金聖道派と白南柱派は、既にそのことを知っていました。彼らは成約的準備派です。その人たちは、主が人として来ることは知っていますが、会うことはできません。いくら主に会ったとしても、その人が主のようには思えないのです。それが難しいのです。直接教えてあげることはできません

必ず、このような窮地に入っていって自分で探し求めなければなりません。神霊的な人も神霊的でない人も同じなのです。神霊的な人は、霊界から教えられて初めて動くのであって、教えてくれなければ微動だにしません。また、通じることができない人は、み言を聞いて歩まなければなりませんが、み言といっても、キリスト教ではすべて「雲に乗って来る」と言うのに、一方では「人として来る」と言うのです。ですから、その言葉もまた信じられません。このような渦中で問題が起きたのです。お父様は、平壌に行って、キリスト教の四十以上の教会から最も賢い人たちを引き抜きました。当時は、聖書のみ言で教えてあげなければなりませんでした。別な話ではいけません。その時は霊界が役事してくれました。霊界が連結してくれるのです。天があらかじめ準備して、神霊的な人たちを送ったのです

7    平壌にいる時、サタンの役事がどれほど多かったか分かりません。そのような中でも、お父様は食口のために精誠を尽くしました。朝、ある食口のために祈ってから、その食口が来るか来ないか待ってみると、間違いなく来るようになっています。このように神霊的な雰囲気の中で祈ってみると、祈りには、どれほど価値があり、どれほど効果が現れるのかが分かります。それでこそ、仕事をしてもおもしろく、神様が共にあるという信念をもつようになるのです

8    聖書のみ言については、私にかなう人はいません。私が平壌に行ったのは数えの二十七歳の時であり、若々しい青年でした。当時、北朝鮮のエルサレムと言われた平壌市内の大きな教会の賢い人たちが、私のところに来て、みな心を奪われました

聖書の「ローマ人への手紙」や「ヨハネの黙示録」について解釈するのを見て、その人たちの目がひっくり返りました。今もその人たちが生きていれば、「千年史についてすべて精通している。どうすればそのように分かるのか」と言うでしょう

9    私が以北の平壌に行っている時、一人のおばさんに会ったのですが、私より年が三十歳ほど上でした。そのおばさんが、「霊界から教えられて先生に会いました」と話しながら、「不思議です」と言うのです。「何が不思議なのですか」と尋ねると、「そんなことはあり得ないのに、本当に不思議です」と言いながら首をかしげるのです。それで「何が不思議なのですか」と再び尋ねると、「自分には全くの謎です」と言って、「自分が数えの二十四歳の時に先生の指導を受けた」と言うのです。私はまだ生まれてもいなかった時なのに、指導を受けたというのです

それは、平面的には理解できない話です。しかし、立体的な面から見るとき、神様は縦的父母なので、その父母の心情を追い求める人は、いつも神様と一緒にいなければなりません。ですから、姿形は今、現れたのですが、心情の世界は昔も今も同じです。このように、心情を主管する神様は、未来でも会える関係を常にもっているので、霊界は時間を超越しているのです

そのような心情の世界観があるので可能なのです。仮に神様の心の中に、これこれこのような男性がある時に生まれるだろう、という考えがあれば、その心情を通してその人を教えることができ、関係を結ぶことができるというのです。それは、心情世界の関係があるから可能なことです

10   私が平壌に行って伝道活動をする時、神様がどれほど多くの準備をされたかということを、知らなければなりません。私に会う二十年前に、「ある家でこのような方に会ってみ言を聞くだろう」と知らせてくれるほどでした。お父様が数えの二十七歳の時に以北に行ったので、七歳の時から天が役事したのです。その時は私も知りませんでした。それをこの世の人たちは信じられるでしょうか

ですから、多くの人たちがお父様を注視してきたのです。そのような人たちが今、地上で証しています。その人たちは、天使長の立場でお父様について証する使命を担うのです。原理的観点から見ると、私が現れる前に、私以上に精誠を尽くさなければなりません。それで、何世紀も前から、お父様に侍る霊人たちが再臨時代に向けてこの地に協助してこそ、地上のサタン世界へと進んでいける基盤がつくられるのです

11   おじいさん、おばあさんたちは、お父様のことが好きです。数えの八十歳になるおばあさんたちが、私が平壌にいる時、霊界から教えられて私を訪ねてきました。杖をついて歩くおばあさんたちが、どういうわけで訪ねてくるのでしょうか。霊界から教えられて集まったおばあさんたちは、私の服の裾をただ一度でも触って家に帰れば、その日は自然に踊りを踊るのです

服の裾でも一度触れるようになれば、帰る時は軽やかに飛んでいくようだというのです。帰ってから、御飯も食べずに一日中踊っても気分が良いというのです。何か妖術を使ったわけではありません。真の愛の雰囲気に接すると、そのようになるのです。無性にうれしいのです。与えてもうれしいというのです。ひっきりなしに与えてもうれしく、悪口を言われてもうれしく、これ以上ないほど誠実に働いてもうれしいのです

12   玉世賢おばあさんも、誰かが伝道したわけではありません。「主はどのようにして来られるのか」と祈り、霊界に通じてみると、「主は雲に乗って来るのではなく、人として来る」と言うのです。神様がそのように教えてくれたのです。ですから、「信じてはいけない」と誰が言っても、絶対に信じるようになっています

祈るとき、「主はいつ、どこに来ますか」と言うと、「平壌に来ている」と教えてくれるのです。「景昌里の小さなある家の部屋に隠れていらっしゃる」と教えてくれたのです。お父様はその頃、そこに隠れて過ごしていたのでうわさが立たず、探し出せなかったのです。その時は、景昌里で開拓する時でした

13   お父様が平壌に行っている時、訪ねてきたおばあさんがいました。その時、私は数えの二十七歳でしたが、そのおばあさんは七十二歳でした。吉善宙牧師の時から李龍道牧師を経て、恩恵を受けたおばあさんなのですが、この世のものとは思えない驚くべき奇跡の役事を数多くしました。このおばあさんは、平壌の牡丹峰で祈りを捧げ、「これから日本は、韓国のキリスト教を完全に排斥するようなことを必ず起こすから、その時に備えて準備せよ」という啓示を受けたのです

そのおばあさんは、必ず午前二時か三時に祈ります。しかし、そのおばあさんの夫は反対していました。そのおばあさんは、あらゆる反対を退けて、長年にわたって祈ってきたのです

このおばあさんは、韓国が選ばれた国になることを知り、また、平壌にいる女性たちに、「これからこのような世界になり、韓国に喜びの幸運の時がやって来るだろう」と教えてあげました

そのように祈ってくれた方がいたので、神様が役事してきたみ旨が残り得るというのです。一人で来て追い込まれ、追われて一人で死んでいってはいけません。地上で自分の生命を祭物にして、神様のために相対的な立場で祈ってくれる女性がいたので、神様の復帰摂理の基盤が、この地上に残り得たのです

14   お父様が数えの二十七歳の時、平壌に行くと平壌で騷ぎが起き、ソウルに行くとソウルで騷ぎが起きました。当時、町に行くと、町の人たちが夜も眠らず私のいる部屋にしきりに来ようとするので、論難の的になりました

町の子供たちまでも、私のいる家のトイレに来て用を足そうとしました。どうしてそうなるのかというのです。子供たちに会うと、おもしろいおとぎ話を聞かせてあげます。御飯を食べるのも忘れるほど、ひたすら話してあげるのです。一日の間に数十もの遊びを考え出して、一緒に楽しく遊びました。そうしながら子供たちに、「お前のお母さんはどこに行ったのか。お前のお父さんはどこに行ったのか」と聞いてすべて調べておき、子供たちを連れて遊ぶのです

私の家に来て遅くまで遊べば、疲れて寝るようになっています。そうなれば、伝道するためにその家を訪問することができるのです。それはどれほど良いでしょうか。子供たちが夜遅くまで遊んで眠ったら、お父さん、お母さんのところにおんぶしていきます。自分の子供をおんぶしてきてくれるので、有り難いことではないですか。そこで、「お茶でも飲んでいってほしい」と言うようになれば、役事が起きるのです

15   私が以前、平壌で下宿していた家で、三歳になる子供と出会った際、敬拝したこともあります。幼い子供に対して、天のように侍りました。幼子のようでなければ天国に行けないというので、まず、子供たちにそのようにしたのです。その子が涙を流しながら「やめてください」と言う立場まで高めてあげるのです

幼い子供に対して詩を詠み、歌を歌い、神様の息子だと称賛できるようにするためには、尊敬語を使ってたたえることができなければなりません。そうなる時に、神様の公認を受け、その子供がたたえることができるようになるのです

天地の法度において、上下関係がねじれてしまったので、これを正して、このように復帰の道を選別してくるのです。そのようにして相対圏をつくっておき、彼らが喜んでそのようなことを相続して行える基盤が築けたので、初めて先生の位置に立つようになったのです

キリスト教指導者たちの不信と大同保安署での受

平壌で真のお父様の教会が、恩恵深い役事によって活気を帯びるようになると、篤実なクリスチャンたちが自分の教会に行かず、真のお父様がいらっしゃる所にばかり来るようになったため、彼らが所属していた教会の牧師と長老たちが、真のお父様の集会所にまで来て、狼藉(ろうぜき)を働き、一部の教会員を拉致していったこともあった。のちに、彼らは、自分たちの思うとおりに解決されないと見るや、共産党当局に、真のお父様が南から来た怪しい人物であり、不法集会を行う者であると告発し、真のお父様は、一九四六年八月十一日、大同保安署に収監された。そのような中でも、大同保安署の中で神霊教団の教主に会うことを霊的に察知され、そこに入られたのである。大同保安署には、腹中教の教主である許浩彬と、その人に従う幹部たちが収監されていた。許浩彬は女性で、真のお父様とは違う監房にいたが、男性の幹部は真のお父様がいらっしゃる監房に入っていたため、その人と多くの会話をされた。当時、腹中教は、主が許浩彬の腹中にいると考え、おなかが振動するたびに出てくる言葉を通して、信徒たちを指導していた。真のお父様は、その信仰を否定して監房から釈放されなければならないと伝えたが、許浩彬は真のお父様の言葉を信じなかった。そのため、真のお父様は、最後の手段として、秘密裏に紙切れを許浩彬に送られた。許浩彬は、真のお父様の言葉を信じるか、無視するか、二つに一つを選ばなければならない立場に立たされた。しかし、彼女は、真のお父様に会ったこともなかったため、結局、真のお父様のみ言より、自分の信仰を守ることが、自分の侍っている主に対する道理であると考え、その紙切れを捨てようとした。真のお父様のことをメシヤと分かれば、その紙切れを大切に保管したはずだが、それが分からず、無情にも捨てようとしたのである。そうして、その紙切れが保安署当局に発見され、真のお父様は厳しい拷問を受けて、瀕死の状態で保安署の外に放り出されてしまった。このような真のお父様を、景昌里教会の食口たちが教会にお連れして、この上ない精誠で看護したのである。これにより、真のお父様は健康を再び取り戻すことができたが、許浩彬と幹部たちは、その後、獄死するなど、凄惨な最期を迎えた

16   一九四六年六月、共産党は以北の全域で、新しい宗教団体に対する弾圧を始めました。ですから、それと類似する団体があれば、糾弾されざるを得ない立場でした。当時、お父様は平壌の景昌里で伝道活動をしていました。なぜ以南(現在の大韓民国)にいた私が以北に行ったのでしょうか

その当時、韓国の信仰の中心地は平壌であり、またそこで信仰の闘争歴史が綴られてきたからです。このように、天が準備した基盤の上で新たな出発をすべき使命があったので、以北に行ったのです。そうして、そこで伝道活動をしていたところ、八月十一日に共産党に捕まって大同保安署に入ることになりました

17   一九四六年にお父様は、共産党に捕まって平壌の大同保安署に入りました。当時は、平壌で、キリスト教界が解放を迎えて、教会を再建しながら歴史的な使命を果たすために新しく出発していた時でした。このような環境の中で、平壌に行って新しい運動を展開したのです。当時のキリスト教界では、この民族に訪れた解放の喜びとともに、日本統治下で圧政を受けながら悲痛な信仰生活をしてきたすべての恨を取り除き、新しい望みと希望にあふれた教会の再建と信仰の革新運動が起こっていました

そのような新しい再建の火が広がる状況の中で、景昌里教会が出発することになりました。このような環境の中で活動をしているうちに、キリスト教の中心となる信徒、または特別な恩恵を受けた人たちが、自分の所属教会に行かずにお父様のところに集まってきました。それで、当時、平壌で問題になり始めたのです。その時、お父様は西門(ソムン)から近い景昌里で伝道をしながら、教会出発の基盤を立てていました

18   お父様が許浩彬氏の集団と関係があるとして監獄に入っていた時、許浩彬氏に紙切れに書いた手紙を送りました。お父様は「この手紙を書いた人は天の使命をもった人物である。あなたは祈ってその人がどのような人なのかを調べなければならない。もしあなたが啓示を受けたすべてのことを否認するなら、あなたは釈放されるだろう」という内容を書いて送りましたが、その紙切れが看守に発覚しました。それで、お父様はひどい拷問を受けました。一九四六年九月十八日、午後二時のことです

その時、韓国にいるアメリカ軍のスパイとしても告発され、ソ連の調査官によって尋問を受けましたが、無罪であることが判明しました。それで、お父様は、一九四六年十一月二十一日の午後に釈放されました。許浩彬氏とその追従者たちは、お父様の言葉に従いませんでした。一九五〇年に「六・二五動乱」が起こった時、彼らはすべて虐殺されてしまったのです。その集団の失敗ゆえに、お父様はほかの人たちを探し求めなければなりませんでした。条件的な数を探し出せるまで、活動したのです。

第三節八段階の蕩減復帰と霊界での四十三日勝利

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第三節   八段階の蕩減復帰と霊界での四十三日勝

真のお父様の縦的蕩減復帰路

真のお父様は、金百文から祝福された土台の上で、完成格エバの立場の女性に出会わなければならなかったが、それが、「主なる神の夫人」と自称する朴ウルリョンであった。彼女は当時、神様が導き、霊界が従って活動する立場にいた。そのため、真のお父様は、エバからの主管権復帰のため、朴ウルリョンを訪ねていかれたのである。真のお父様は、彼女の子女たちに付き添って世話をすることはもちろん、最低の立場で彼女に仕えながら、犠牲と奉仕の道を歩まれた。その老女は、僕の僕から、僕、養子、庶子、直系の息子、天の国の総理大臣、イエス様の位置、神様の対象実体など、真のお父様を段階的に証した。このようにして、エバからの主管権復帰歴史を締めくくり、縦的八段階の地位を探して立てられたのである

1    男性から祝福の相続を受けたならば、女性からも祝福の相続を受けなければなりません。そうでなければ復帰ができません。ですから、金百文氏の集団を中心に男性から祝福を受けたので、女性からも祝福を復帰しなければなりません。そのようにしなければ、今まで韓国の地で神様が築いたすべての摂理基盤を相続することができません

男性の前でそのような基準を立て、そこから分かれて出てきたので、次は女性の前で蕩減復帰をしなければなりません。女性が根本的な堕落をしたので、根本復帰をしなければなりません。ですから、今まで女性たちが受難の道を経てきたのです。僕の門を開け、養子の門を開け、息子、娘の門を開けるために、歴史路程で受難の道を歩んだというのです

2    平壌に不思議なおばあさんがいる、といううつわさが飛び交っていました。神霊的な集団は、そのような事実を互いに隅々まで連絡し合っていました。その不思議なおばあさんは、自分のことを「神の夫人」と言っているというのです。世間の人たちは、「そのおばあさんは気が狂っている」と言いました。キリスト教でも「気が狂っている」と言いました。しかし、お父様はそのような女性が現れることを願っていました。その知らせを聞いた時、どれほどうれしかったか分かりません。お父様はその知らせを聞いて、「天よ復帰の使命を中心として、天倫の法度の土台をこの三千里半島につこのような女性たちを通して、神様が築いてこられたものを解決すべき問題が残っているので、私は平壌に行きます」と祈ったのです

結局、キリスト教が従うことができなかったので、再蕩減の役事をしなければなりません。すべてを神様が導いてくださいました。三十八度線を越える時も、虹が前を導いてくれました。十二里の道を直接導いてくれたのです。このような驚くべき導きを受けて、平壌にいる朴というおばあさんに会って蕩減復帰の役事をしたのです

3    いくら再臨主だとしても、祝福を受ける過程を経なければなりません。「あなたは世界的なアベルです」という祝福を受けなければならないのです。そのように祝福してくれる人に出会い、夜も昼もあらゆる精誠を尽くし、「すべての福を渡しても惜しくない」と思う心をもつようにしなければなりません。そのような基盤の上に、天が共にある世界的な祝福を受けなければならないのです。アベルとしての祝福だけでなく、メシヤとして祝福を受けなければなりません。再臨主になるためには、世界的なアベルの位置、メシヤの後継者の位置に立って祝福を受けなければならないというのです。しかし、息子がメシヤを祝福することはできません。それをするのは母親しかいません。メシヤが生まれるようにする方は母親しかなく、神様しかいません。メシヤは女性を通して生まれるので、祝福してくれる人は母親と神様しかいないのです

ですから、「神の夫人だ」と言う女性が現れなければなりません。「神の夫人だ」と言う母が現れて、「自分が侍るべきメシヤである」と証言しなければなりません。そのような証言をするためには、その母から「お前は私の愛する子である」と言われるように、絶対服従しなければならないのです。そのような中で上がっていかなければなりません。そのような祝福を受けるためには、僕の僕としての本分を果たさなければなりません

4    人々がお父様に従って侍りたいと思い、何か貴い物を持ってきてくれると、お父様は、神の夫人と自称する朴というおばあさんの家族にすべて持っていって捧げました。今日、統一教会員がこの民族を復帰するために、農村に行っておじいさん、おばあさんの世話をしたり、赤ん坊の鼻を拭いてあげたりすることは問題にもなりません。女性たちにもできない、そのおばあさんの洗濯の世話までしてあげました。どんな命令でも言うとおりにしなければなりません。復帰路程の公式がそのようになっているからです

蕩減復帰歴史は僕の基準から上がってきたので、お父様自身も必ず僕のように扱われなければなりません。僕のように扱われるその立場で精誠を尽くせば、ますます復帰されるのです。どれほど心がはずんで楽しいか分かりません。その期間は、お父様が「原理は必ずこうである」ということを大きく開示する時までの試験期間でした。事実がそうかそうでないかを試験する期間だったのです

このようにしたならば、天は必ず祝福をしなければなりません。僕の僕の位置から祝福復帰をしてくるのです。それが過ぎると、僕の中で最高の僕になります。そうしてさらに精誠を尽くすと、養子の位置で養子の祝福をしてくれるのです

5    私が、「神の夫人」と語る人を訪ねていってみると、霊的な生活をしているのです。霊界の聖人、賢哲たちを連れて踊りを踊ったりしていました。イエス様が説教し、孔子が出てきて語り、モーセがやって来て話をするのです

その中に入ったのですが、最初、お父様は僕、天使長の位置に入りました。すべての人たちが、「天が愛する僕の僕が来た」と言いました。その次は、自分たちよりもあらゆる面で優れているので、「ああ、僕だ!」と言いました。そのように証をしなければなりません。その次は「イエス様の弟だ」と言い、そのあとは「イエス様と双子だ」と言います。それが復帰です。その次は「お兄さんだ」、「天の国の総理大臣だ」、このように上がっていくのです。総理の次は神様です。天の国の総理なので「天の国の王だ!」と言うようになるのですが、王になるだけではいけません

「霊界について教えてくれる先生の中の先生であり、父の中の父である。父であると同時に先生であり、先生であると同時に王である」と、このように神様に代わって呼ばれるようにならなければなりません。その次からは、今まで私が僕の僕として朴というおばあさんに侍ってきた道と、完全に逆の道を歩まなければならないのです

四十三日の霊界勝利路

真のお父様は、縦的八段階の位置を探して立てられたのち、四十三日間、霊界の試練を経ていかれた。イエス様と全霊界の聖人、賢哲たちが、真のお父様の原理のみ言に反駁する状況となった。そのため、真のお父様は、天理原則をもって、そのような反対に立ち向かい、独りで決着をつける闘いをされたのである。神様は、真のお父様の主張が復帰の恨を解く原則であり、天倫の秘訣の中の秘訣であると最終的に判定して、御印を押してくださった

6    お父様は、朴というおばあさんから祝福されたのちに、「私は誰々で、あなたは誰々であるから、復帰の恨を晴らそうとする天のみ旨に屈服しなさい」と言いました。自分の思いどおりに操り、自分の思いどおりに「来なさい、行きなさい」と言うことができていた若い青年がそのように言い出し、とりわけ「私は神の夫人だ」と言っていた局面なのですから、屈服しなければならないとは、唖然としたでしょう。そこでそのおばあさんがおとなしく従っていれば、お父様も苦労しませんでした。そのように従順にするのは大変なことです。千人なら千人が、そこですべて敗れ去っていくのです。屈服せずに反対したその時から、そのおばあさんは気が狂ってしまいました

内外の祝福基準を兼ね備えるようになるまでの、霊的な試練は言語に絶するほどでした。それは四十三日間にわたる試練期間でした。その時は、霊界のすべての霊人たちが責め立てたのです

しかし、お父様は、天理の原則をもって彼らと闘いました。一人で四十三日間、今まで生まれては死んでいった数多くの霊界の道人たち、イエス様や神様まで動員された全霊界と闘いました。天地を争いの場にするわけにはいかないので、神様は四十三日の期間が満ちれば、そこで判定を下さなければなりません。天理の原則でなければ天と地が滅びるのです。お父様が探し求めてきたこの道は、間違いありません。結局、お父様は、最後の勝敗を決める闘いで、勝利したという判決を受けたのです

7    再臨主がしなければならないこととは何でしょうか。キリスト教の反対によって、天上世界と地上世界、霊肉の版図を備えた勝利的覇権が完全に崩れました。それで、それを再び創建しなければなりません。個人、家庭、氏族、民族、国家の四千年間の復帰歴史を、霊界から再び整理していかなければならないのです。ですから、霊界に入っていって大勢の霊人たちを中心として闘いました。ここにおいて、霊界が反対しました。サタン側の立場で、「異端だ」と言って反対したのです

蕩減復帰は避けることができません。それを個人から収拾しなければなりません。真理をめぐって理論闘争するのです。地上天国は拳をもってつくるのではありません。理論闘争と真の愛をもってしなければなりません。ですから、四十三日間にわたって霊界に大混乱が起きました。教主たちを中心として、宗教指導者たちが責任を果たせなかったことや、復帰の過程では心情を中心として、血統転換していくことを知らずにいたのです。このようなことをお父様が発表することによって、霊界も知るようになり、このような過程において、彼らのほうが理論闘争で負けたのです

8    再臨主になろうとすれば、霊界に入って神様の御印をもらってこなければなりません。お父様は、霊界に入って四十三日間の闘いをしました。地獄のどん底から天上まで、皆が「文先生は異端者だ!」と言いました。それを下から整理していかなければなりません。最後には、聖賢たちと神様のみ前で談判して、正義の主人は誰かを決する闘いをしなければなりません

その時、「霊界に来たすべての人々は血統が違っている。血統転換をしなければならないことを知っているのか」と言いました。二つ目は所有権転換です。「地上で暮らしながら自分の所有意識をもっている人は、天の国の背信者である!」と言ったのです。教主たちがいくら偉いといっても、ここに引っ掛かっています。ですから、お父様は霊界で闘う時、自信満々に「異端がどうした」と言い張りました

最後には、霊界に大混乱が起きそうなので、神様が審判長として判決を下さなければならないのですが、神様まで反対したのです。アダムが天に背いたので、蕩減復帰の原則によって神様もアダム完成者に背かなければなりません。そのようにしてこそ、神様の心に築かれた壁が崩れるのです。そうして全体が反対し、神様まで向こう側に立っている中で、たった一人、お父様だけが残りました

かといって、混乱の渦中にある霊界を、そのままにしておくことはできないのです。神様が最後の判決を下さなければなりません。神様は、お父様が言う血統転換、所有権転換、心情圏転換をしなければならないというのは事実だと言ったのです。そのような勝利の覇権者として御印をもらって、降りてこなければなりません

9    解放直後、自由世界を中心として、韓国とキリスト教全体が一つになってお父様に反対しました。イエス様の命を奪い、洗礼ヨハネの命を奪ったのと同じことが韓国で起こったのです。サタンがアダムの命を奪ってアダムの家庭が滅び、イエス様の命を奪ってキリスト教文化圏が延長したように、世界時代が来たので、全権を駆使して平面的に攻撃するのです。肉的に攻撃するのも恐ろしいことですが、霊的に攻撃するのです。霊的世界と肉的世界を総合してお父様を攻撃します。神様がサタンに、「お前が望むことは何でもしてみよ!すべてしてみよ!」と言われたのです

サタンが望むのは、霊的世界全体と肉的世界全体が一つになって、父になれる資格があるかないかを、自分が試験するということです。サタンが「私は世界と天地に私の子孫を通して基盤を築きました。それから抜け出すためのものが真の父母なので、この二つの陣営の闘争圏内から解放されなければ真の父母にはなれません!」と言えば、神様も原理的な面から「そうだ」と言わざるを得ないのです。それを知っているお父様は、世界の攻撃を受ける前に、まず霊界に入り、数多くの段階の霊界を統一しなければなりません

10   アダムが神様に反逆したことを蕩減復帰しなければなりません。蕩減復帰の法則は本当に冷酷です。容赦がありません。人間が神様を打ったので、「終わりの日」に再臨主として登場するためには、アダムが神様に反逆したことを蕩減復帰しなければなりません。ですから、神様は、愛するのではなく、打ってしまうのです

そのような中で、神様が反対するのですが、「これでなければならない」と言って争うのです。これをそのまま放置しておけば、霊界の混乱が継続するので、神様は四十三日以内に「誰が勝利した」という決定的な宣言をしなければなりません。その宣言と同時に、勝利したという御印をもらってこなければならないのです。根は神様です。ですから、全体の勝利的覇権をもったその位置で神様の御印をもらって地上に降りてきました。四千年間継続してきた霊界のあらゆる紛争を収拾したのです

11   お父様は、試練の渦中でも不平を言いません。迫害を受けるまつただ中に入っても、不平を言わないのです。国や町や家庭や個人が終局において攻撃してきましたが、私に勝つことはできませんでした。すべて敗れていきました。最後には、神様までもがお父様に反対しました。しかし、神様がいくら理解し難いことをしても、私は神様をつかんでいました。そうして霊界で四十三日間闘ったのです

神様が反対するので、神様を中心としてイエス様が反対し、孔子が反対し、釈迦が反対し、ムハンマドが反対し、霊界全体が一つになって反対しました。しかし、四十三日間闘いながら、譲歩しなかったのです。神様は、四十三日の間に決裁をしなければならないようになっていました。それで神様は、お父様が天と地において最高の勝利者であると宣布したのです。

第四節興南監獄とイエス様の使命継承路程

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第四節   興南監獄とイエス様の使命継承路

イエス様の使命を全うするための蕩減路

興南監獄の試練は、再臨のメシヤとして、イエス様の使命を全うしていかれるための蕩減摂理路程である。再臨のメシヤは、クリスチャンたちが反対する中で、イエス様の使命を全うしていくために、十字架によって亡くなられずに、生きて監獄から出てこなければならないだけでなく、イエス様が失ってしまった十二人以上の弟子を、十字架上(監獄)で探して立てなければならない。北朝鮮の興南監獄は、人間を徐々に殺す十字架と同じであったが、真のお父様は、イエス様の使命を全うしていくための蕩減路程を勝利的に締めくくられたのである。特に、周辺の人に対して伝道することはできなかったが、霊界にいる囚人の先祖たちが子孫に夢で現れ、真のお父様に特別に良く接し、侍るようにと教え、真のお父様が監獄から出てこられるときには、十二人以上の弟子をもつようになられたのである。そして、興南監獄に収監されたのち、最初の二、三週間は、食事の半分を他の囚人たちに分けてあげ、定州にいらっしゃる忠母様(実母)が、定州から興南まで来て差し入れしたはったい粉と服も、すべて彼らに分け与えられるなど、人のために自らを犠牲にしながら、収容期間に三度も模範労働者賞を受けられた。毎日配給される飲料水の一部を残しておき、体を清められるなど、神様の息子であるという自覚をもって模範的な生活をされたため、天も感動せざるを得なかったのである

1    イエス様は、霊界の地獄のどん底に行って、三日間の受難の道を克服しなければなりませんでした。イエス様が霊肉を中心とした勝利の基点をもたなければならなかったのです。ですから、道を切り開いておかなければ讒訴される立場になってしまうので、道を築かなければなりません。それゆえ、イエス様が霊界の地獄に行って開拓し、道を切り開いたのです

お父様はそのような原則を知っていたので、以北(現在の北朝鮮)に行って監獄に入ったのです。私が平壌刑務所で手錠をかけられて刑罰を受けている中でも、「誰々に会うだろう」ということを、すべて約束されていました。「そこに行けば、イエス様の三弟子のような人に会うだろう」ということを約束されたのです。復帰の運勢圏の中では、そうでなければ天道と合いません。ですから、手錠をかけられて監獄に行く道も、最高の希望の道でした

「これこれこのような人に会うだろう」という、その希望をもって監獄に入っていったのです。絶望の中で訪ねていったのではありません。私が監獄に入ったので、そこで道を築き、その苦労の功績を通して、その門が自動的に開くようにしなければならないのです。そのようにするには、完全に蕩減しなければなりません。監獄暮らしをして、獄中で祭物にならなければならないのです。それで、監獄に入っても、最も難しいことを私が引き受けて行いました

2    解放後、お父様は、怨讐たちが群れをなす以北の地でみ言を伝えました。それで、監獄の道から出発したのです。お父様は平壌の監獄に入っていくときも、死なないことを知っていました。その上、「これこれこのような人に会うだろう」ということまで知っていました。お父様に何か必要な物がある時は、無知蒙昧な強盗や窃盗犯、殺人犯などの大勢の囚人たちに、霊界が「どこそこの監房に番号が五百九十六号の人がいるから、その方にこのようなものを持っていってさしあげなさい」と伝えて、来させたりしました。冬になって寒くなるのに、お父様の着る服がなければ、彼らに着る服を持ってこさせたり、また、私が食べることができず、おなかがすいた時には、思いがけない人に、お父様の名前と番号を教えて、食べ物を持ってこさせたりしました。そのようなことが一度や二度ではありません

平壌の監獄に入れば誰に会うのかを知っていたので希望の中で一九四八年五月二十日まで過ごしました。その時、監房の窓辺をかすめた柳の葉を眺めながら、思いにふけったことが、ついきのうのことのようです。今も記憶が鮮やかです。そこで、天のみ旨に従っていくことを約束した人たちに会いました。彼らに会うことによって、怨讐の地、最も深い谷間から天の密会が始まったのです。そこから天の兵士を募り始めました。家庭と社会から追われ、追い出されたので、そのように監獄から始めたのです

3    お父様が平壌刑務所から手錠をかけられて興南の監獄に行くのに、十七時間かかりました。それで、その車内で何を考えたでしょうか。深刻でした。唖然とするほど深刻な立場にいるお父様を見る神様は、どれほどかわいそうでしょうか。神様の六千年の摂理歴史を再び蕩減復帰しなければならないのですが、私のほかには誰もする人がいないのです。これを蕩減復帰しようとすれば、数千年はかからざるを得ません。知っている人は私しかいません

ですから、すべての山野の外景を眺めながらどれほど深刻だったでしょうか。私一人しかいないのです。その時、最も悪辣な強盗と二人組になって手錠をはめられていました

そのような状況で「いかにしてこの環境で生き残るか」を考えるのですから、どれほど深刻だったかというのです

お父様は、以北の平壌と興南の監獄で、イエス様の公生涯に該当する二年八ヵ月の期間を送り、十二人の人を復帰することができました。十二人を復帰することによって、イエス様が失ったすべての条件を復帰することができたのです。たとえその人たちがお父様に従わなかったとしても、お父様が釈放される時、彼らの位置に、ほかの人たちを立てることができました

お父様は、計画していたすべてのことを完遂したので、天は、天使長国家であるアメリカと国連軍を通して北朝鮮を攻撃するようにし、お父様を解放しました。そうして、監獄から出てくるようになったのですが、その時、四人の人が私に従いました。国連軍が韓国を守ってくれたので、その条件によって、天の運勢は再び民主世界に戻ってくることができ、キリスト教を復帰するための役事を始めることができたのです

5    イエス様が死の道を行くことになった時、イスラエル民族が裏切り、愛する三弟子までも裏切りました。ですから、蕩減復帰の原則によって、監獄にいる時、イエス様が失った十二弟子と同じ数を蕩減復帰しなければならなかったのです。このような立場にいたので、お父様が興南監獄にいる時、口を開かなくても第二イスラエル圏内にいる霊界の霊人たちが伝道して、その数を満たしてくれました。このような歴史的な関係を経てきたのです

共産党の厳しい監視と注目を受ける獄中生活でも、人知れぬ心情的な団結運動を、神様が責任をもって行ってくださいました。そこでは、あからさまに伝道することはできませんでした。しかし、お父様が口を閉じていても、霊界から伝道してくれたのです

北朝鮮・興南での蕩減路程において勝利された真のお父

真のお父様は、興南監獄で、誰よりも遅く休み、誰よりも早く起きる生活をされ、労働現場においても、同僚のために尽くしながら、最も難しい仕事を一手に引き受けられた。「監獄の聖者」と呼ばれるほど模範的な生活をされたため、天が感動せざるを得なかったのであり、すべての蕩減復帰摂理の条件を立てられた。興南監獄では、国連軍が興南に上陸したのち、一九五〇年十月十二日から、囚人たちを処刑し始めた。真のお父様の処刑日は十月十四日だったが、国連軍が、この日、総攻撃を断行すると、北朝鮮の人民軍が退却するとともに、真のお父様と収監されていた人々はみな、解放された。そして、真のお父様は、監獄から解放された直後、徒歩で十日かけて平壌に向かわれた

6    十月十四日は、興南の監獄から出てきた日です。そこに入っていくとき、私はどれほど深刻だったでしょうか。何としてでも生きていかなければなりません。生き残ろうとすれば、死ぬと思われるような状況を通過しなければなりませんでした。ですから、労働する所で、いつでもその仕事場で模範となる人物として登場する人が私でした。それが生きていく秘法です

働く人たちは数十人ではなく、千人近くいるのですが、看守たちが私を選定して、最高の実績を上げ得る材料にするのです。そのようになるのはたやすいことでしょうか。そのようにして生き残ったのです

お父様は、このような道を走ってきて、み旨を成し遂げてきました。恨多き復帰の峠を越える責任者はどこに行ったのかというのです。民族の怨恨、世界のキリスト教が失敗した怨恨、呪い得るそのすべてのことに対して、私が責任をもって消化してきました。神様と共に働く人になり、その方の味方になり、自分の道を再創造して、私を中心としてキリスト教文化圏以上のものを編成してきたのです

7    私が興南の肥料工場で働くことにおいてチャンピオンになったので、人々はみな私のあとにばかり付いてきました。朝、出ると班を編成するのですが、毎日同じ人たちと仕事をすることはできません。ですから、班を編成するとき、私がトイレに行っていたとしても、戻ってくるのを待って、私の後ろに付くのです

そうすると、その中で最も仕事ができる人たちが集まり、そこで私が隊長になります。かますを縛ることから、引きずり出して貨車に積むことまで、することがとても効率的で、公式化されているのです

ですから、仕事をしているとは考えず、他のことを考えます。国家的、世界的なあらゆることを材料にして、未来のプログラムを練るのです。そのようなことを考えながら働いていると、時間が過ぎるのも忘れます。ですから、他の人と同じように汗を流しますが、疲れを知りません。このようにすることが、精神的に力になるのです。このようにしていたところ、表彰があるたびに、毎回模範労働者に選ばれて賞をもらいました。そのようにして生き残ったのです

8    「六・二五動乱」中の一九五〇年八月一日、アメリカ軍のB29爆撃機が総攻撃をし、興南を大々的に爆撃しました。お父様はこのようになることを予見していただけではなく、お父様を中心に直径十二メートル以内は、神様が守ってくださることを知っていたので、近い人たちに、みな私の周りにいるように告げました。お父様は、その中でじっと瞑想をしていました。爆撃のことは考えずに、今後の理想世界について考えていたのです

結局、思想や理想をもった人こそ価値があるのです。このように復帰の使命を担った人を霊界に連れていけば、神様にとっては天宙的な損害になるので、神様はいかなる犠牲を払ってでも防備することを願ったのでありそのようにせざるを得ませんでした

9    連合軍が爆撃をする数日前から、共産党は囚人たちを処分し始めました。ある日、彼らが麻ひもを集め始めたのです。お父様は、直感的に最後の時が近づいてきたことを感じました。お父様は本当に深刻な祈りを捧げました

看守が、一人一人を呼び出して別の場所に移動すると説明しました。それが最後の道でした。そして、一人一人、井戸の中に逆さまに落として殺害したのです。次の番がお父様でしたが、その日の夜の午前二時頃、国連軍の総攻撃により、生きて興南監獄を出ることができたのです

10   一九五〇年に国連軍が北朝鮮を爆撃したのですが、最初に興南を爆撃しました。お父様のいた興南監獄がその近くにありました。お父様は、その国連軍によって自由の身になったのです。そうなるまでに多くのいきさつがあります

お父様は、東海岸にある興南から平壌まで歩いて帰ってきました。西側の平壌まで歩いていったのです。お父様は、以前に従っていたすべての人たちに、私が帰ってきたことを知らせながら弟子を捜してみましたが、ほとんど戻ってきませんでした。しかし、何人かの人を集めることができたのです

11   一九五〇年十月十四日に釈放され、東海岸から平壌に向かって歩きました。平安南北道の境界線付近に来たとき、人民軍が、逃走しながら、峠を越えるたびに敵対する思想をもつ人たちを粛清していました。数十人ずつ並ばせて処刑していた、その峠を越えてきたのです

その時は、刑務所から釈放されて、囚人服ではないほかの服を着て出てきていたので、人民軍は(私たちが)自分たちの敵ではないと思いました。死の峠を四回越えたのです。その時、四人の人が一緒に付いてきました。

第一節真のお父様の南下路程

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第一節   真のお父様の南下路

弟子と共に歩んだ南下路

真のお父様は、一九四八年二月二十二日から一九五〇年十月十四日まで、二年七ヵ月と二十一日間、平壌内務署と平壌刑務所、興南監獄において厳しい拷問と苛酷な強制労役の中、死の淵を越えて蕩減路程を勝利された

興南監獄を出獄されたのち、既に大勢の人々が避難していた平壌で、昔の食口の収拾に専念され、四十日後に南下された

真のお父様は、十二月四日の夜、平壌のキリスト教を代表する新婦格の金元弼と共に、獄中の弟子を代表する天使長格として、負傷した朴正華を自転車に乗せ、大同江の下流から、船便で川を渡られた。黄海道(ファンヘド)の碧城郡(ピョクソングン)に着き、青龍(チョンニョン)半島の南端から龍媒島(ヨンメド)に入ったが、再び戻って凍りついた臨津江(イムヂンガン)を渡り、南下された

平壌から二人の弟子と共に南下する苦難の路程は、堕落した人類を導き、創造本然の理想世界に率いていく、天の摂理の一面を象徴的に見せてくれるものであった

1    私は、興南の監獄から出て平壌にまで来ても、両親が故郷にいるのは知っていましたが、故郷に行くことができませんでした。いくらでも行ってくることができたにもかかわらず、行けなかったのです。その時、故郷に行けなかったのは、監獄に入る前に私に従っていた食口たちの安否が気遺われ、彼らに会って収拾し、すべて通告してから故郷に帰らなければならないという考えからでした。それが天に従う正道です

そうしているうちに、突然戦況が変わり、故郷には行けなくなりました。このような情勢になることは予測していました。それで、故郷に立ち寄らず、その食口たちを急いで捜し回ったのです。ですから、三十八度線を越える時に、「私がこのように故郷をあとにして発つのは、天のためであり、私が再び帰ってくる時は、私の手で以北(現在の北朝鮮)を解放し、私の故郷の地を訪ねて、天の勝利を称賛いたします」と祈りました。その祈りを中心として闘ってきたのです

2    興南の監獄から出て、平壌に行って何をしたのでしょうか。平壌で事件に巻き込まれて監獄に入る前まで私に従っていた食口たちに、会わなければなりませんでした。それで、一人一人にみな会いました。最後の三人のうち二人は、年を取って亡くなっていました。もう一人は、所在が分かり、人を送って会おうとしましたが、結局会うことができず、避難の途に就きました。一九五〇年十二月四日に平壌を出発しました

人民軍が(平壌に)入城して粛清をする過程の中で、私たちは出発したのです。その時、私は、足をけがした朴正華という人を自転車に乗せてきました。人民軍の銃声を聞きながら下ってきたのです。国道は人民軍が占領していたので、避難民たちはそのほかの小道や、道のない野原や山を越えて三十八度線まで南下してきました。ですから、人民軍とはわずか三里内外しか離れていない道を通ってきたのです

朴正華が避難の途中で、「このままでは三人とも死んでしまいます。ですから、私が抜けましょう」と言いました。行く道で足手まといになることを知って自決しようとしたところを、私に叱られ、最後まで付いてきたのです。龍媒島に出る時は、朴正華を背負っていきました。朴正華を背負っていったのですが、潮水が入ってくれば、みな溺れて死ぬかもしれません。あの困難な泥道を歩いたことが忘れられません

3    三十八度線を中心として、国軍警備隊は南側にいて、人民軍は北側にいました。三十八度線で警備隊が見張っているので、南側に行く道がすべて塞がってしまいました。それで、一般人は一人も三十八度線を越えることができませんでした。ですから、青丹(チョンダン)という所から船に乗って出なければなりません。三十八度線に問題が生じたことを、私が誰よりも先に知りました

国軍警備隊が道の要所にいるので、三十八度線に問題があれば、彼らがまず先に移動するのです。一日前に国軍警備隊が移動することを知ったので、すぐに三十八度線をあとにしました。歩いて埠頭に行ってみると、埠頭から龍媒島までが一・五里です。(ぬかるみの中、人を背負って)二時間以内に一・五里をどのようにして行くのでしょうか。水が引き始めるのを見て、一・五里の道を歩かなければならないのですが、水が引く時から渡り始めて、水が戻ってくるよりも速く歩いてこそ、一・五里を渡ることができるのですが、危険千万です。天を信じて、あらん限りの力を尽くして走った時の思いが忘れられません。その一・五里の泥道を走ったのです。ですから、体は、頭から足の先まで泥だらけになりながら、潮水が埠頭を越える前に、やっとのことで渡り終えました

4    私は、以南(現在の大韓民国)の地に下る頃、北朝鮮がどのようになるかということを見通していました。ですから、三十八度線をいかに越えるかという問題をめぐって、相当に苦心しました

もしその時、私の言うとおりにしていなければ、出てくることができなかったのです。休みなく先を急がせました。警備隊員たちが三十八度線からすべて後退していたので、事態は非常に不利でした。そのような時は、素早く先に動かなければならないのです

このようにして、龍媒島を通って韓国に向かう船に、一旦は乗ろうとしたのですが、その時、警備隊員がすべて後退していた状況だったので、一般人たちは船に乗ることができませんでした。ですから、龍媒島に行ったのに、私たちの乗れる船がないので、再び戻ってきて、三十八度線を越えて下ってきたのです

5    私たちが臨津江の近くに到着した日、夜の間に臨津江の川辺まで行かなければならないという、そのような何かを感じました。そういう時、お父様は、非常作戦、非常措置を取るのです。アンテナを最高に伸ばして調べるのです。普通の時には、そのようなことはしません

ですから、他の人たちは夕方になったといって、他の日と同じようにみな村に入って場所を取るのですが、私たちだけは午前零時を過ぎて一時に、臨津江に隣接する家に到着しました。その家の人は、みな韓国に行って、いなかったので、そこに入りました。ところが、私たちが到着した日まで、臨津江が凍らなかったのです。「今夜この川が凍らなければならないのだが」と心配したのですが、神様が保護してくださり、ちょうどその日の晩に凍りました。それで、明け方早くに越えていきました

私たちが一番早く来たと思ったのですが、その村に先に来ていた人たちがたくさんいました。そして、国連軍の撤収に伴って、私たちの一行を最後に、道を塞いでしまったのです。そのあとに来た人たちは、みな後ろに引き返しました。このような時に一分でもうろうろしていれば、どうなっていたでしょうか。人の運命は時間が問題だというのです。躊躇していればすべて台無しにしてしまうのです

そのようなことが私たちの人生にもたくさん起こるのですから、天道をかき分けていく道で、何事も起こらないことがあり得るだろうかというのです。ですから、どれほど深刻でしょうか

6    興南の監獄から出たあとは、何一つ持っていない旅人でした。平壌から韓国まで下ってくる約二ヵ月間は、乞食をしました。ある時は、言葉で表現できないほど食べたいと思うこともありました。それでも、「神様、きょう食べる物がないので、何か下さい」という祈りは絶対にしませんでした。かえって神様を慰労したのです

ある時は、「あすは間違いなく、ある美しい婦人が道端で何かをくれるはずだ」と考えると、翌日に間違いなく、考えたとおりに真っ白い服を着た婦人が道端で待っていて、「昨晩、夢で万端の準備を整えて待っていなさいと言われ、このようにお待ちしておりました。どうぞ召し上がってください」と言うのです。そのような出来事がたくさんありました。誰も否定できない生きた実績をもっているのです

そのように助けてくれた村には、時が来れば、恩を返そうと考えています。神様もそうです。お父様と神様が互いに抱き締め合って泣いたその悲しみは、地上の人々は誰も知りません。その深い深い神様に向かう心情は、推し量ることができません。それを考えると、すべての細胞が締めつけられるようです

三十八度線を越える時の決

真のお父様は、三十八度線を越える時、「必ず、この手で自由世界を糾合して共産党を消化し、北朝鮮を解放して、南北を統一する」という、悲壮な誓いの祈りを捧げられた。真のお父様は、その日の祈りと誓いを忘れることなく、一生涯、闘ってこられた。臨津江を渡ったあと、紆余曲折の道のりを、ソウルまで八十数キロ歩くのに、一週間かかった。一九五〇年十二月二十一日、臨津江から出発して汶山(ムンサン)駅に到着し、十二月二十七日に漢江を渡り、平壌を発ってから二十四日目に、学生時代に過ごされたソウルの黒石洞に到着されたのである

7    私は、三十八度線を越える時に祈った言葉を忘れません。「お父様、私は以南の地にまいります。私は以北に来て、み旨を成し遂げることができず、敗者の悲しみを抱いたまま、獄中の身の上を免れることができずに、追い立てられる群れの歩みに従って以南へとまいります。以南に行けば、また反対を受けるでしょう。十年の道、二十年の道、立ちはだかる道がどんなに遠いとしても私は行きます。行って、またこの道を訪ねてこなければならないことを知っておりますので、三十八度線より北に私が行けなければ、私の思想を植えつけて子孫に行かせるようにし、彼らが行けないのなら、私に従う弟子たちにでも行かせるようにいたします」という決心をして下ってきた人です。十年の歳月を一心不乱に闘ってきたのです。私が天のみ前に誓って進み出た歩みは、皆さんとは違います

8    私が三十八度線を越えながら心で誓ったことは、誰一人として知らないでしょう。また、以北の興南監獄で三年近い歳月を送り、三十八度線の南側を中心として天のみ前に祈ったことを、誰も知らないのです。「悲しい環境ですが、きょう、三十八度線を越えます」と言って涙ながらに祈ったことを、一緒に来た人も知りません。私のために精誠を尽くした父と母を故郷に残し、「この親不孝者が再び帰ってくる日まで待っていてほしい。死なずに待っていてほしい」と言って出発したことを、私は忘れずにいます。また、私が共産党から拷問を受けながら、「私がこの目の黒いうちに、お前の一族を屈服させ、お前の口で神様の偉大さを称賛するその日を迎えてみせる。私は死なずにその日を迎えるのだ」と誓って決意した事実を、皆さんは知らないでしょう。それは今もなお、骨身にしみる心情として私に残っているのです

9    お父様は一人、以北の地から追われる身で韓国を目指して下ってきました。それがついきのうのことのようです。その期間に夢のような出来事がたくさん起こりました

興南の監獄から出て、韓国に下ってきたのは三十一歳の時で、まだまだ若い頃でした。その時、監獄から出ながら決心したことが、再出発でした。いくら困難なことが北朝鮮の地であったとしても、そこでのすべての困難を忘れ、その困難だった事実が、私の行く道に損害をもたらすのではなく、第二の出発をする上で一つの刺激剤になるだろうと考えました

私は、いかなる道を通ってでも、み旨の道を完成すべき責任を感じていたので、監獄から出てきた三十代の若者として、新たに出発するという決意が強かったのです。(平壌から)三十八度線を越え、慶州を経て釜山まで来るのに、二ヵ月ぐらいかかりました。その時、釜山に来てみると、どこにも身を隠すことができないほど避難民たちでいっぱいでした。それで、仕方なく土窟を掘って避難生活をせざるを得なかったのです。

 

第二節釜山での新しい出発

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第二節   釜山での新しい出

釜山に至る路程と避難生

真のお父様は、ソウルの黒石洞に到着されたあと、明水台の新イエス教会時代に親しかった信仰の同志、郭魯弼(クァクノピル)の家を訪ねたが、既に釜山に避難していた。その家に荷物を置き、数日間,滞在された。一九五〇年十二月三十日には、昔の下宿先である李奇鳳(イギボン)の家族を、人づてに聞いて探し求めた末に見つけ出し、夜遅くまで語り合った。三十一日、郭魯弼の家に帰ってきたところを、突然押しかけた警官の職務質問に遭い、黒石洞の派出所に連行された。そして、真のお父様は、金元弼と同じく、防衛軍の徴集という名目で、昌慶宮(チャンギョングン)で身体検査を受けられた。短く切った髪と、「北朝鮮から下ってきた」という言葉に、検査員は、逃亡兵かスパイかもしれないとの心配から、丙種(免除)判定を下した。このようにして不合格証を受け、金元弼と共に黒石洞の郭魯弼の家に再び戻って、一九五一年、新年の初日を迎えられた。二日後、身体検査の不合格証を持って派出所に行き、避難民証の発給を受け、一・四後退(中共軍参戦による、韓国軍の後退)により一月三日、ソウル全域に避難退去令が下りると、真のお父様一行も、釜山を目的地として再び避難していかれた

1    私が以北から以南に来る時、丸刈りの頭のままで来ました。昔は軍隊に行くと、頭を刈りました。私も以南に来て、若者なので軍隊に行かなければなりませんでした。昌慶宮で若い軍人たちの身体検査をしていたのです

私は監獄から出てきたばかりでしたが、体つきはやせていませんでした。それで、兵役調査をしたのですが、私に対して、「どこから来たのか」と聞くのです。当時はスパイと軍人が入り混じって歩いており、見分けるのが難しい時でした。髪の毛を刈っていたのでスパイではないかと思ったのです。もしスパイを軍隊に送ったら、自分の首が飛ぶので、調査後に免除の「丙種」という落第のはんこを押してくれました。それで、それを持ち歩いたのですが、どこに行っても万事に通じました。証明書はそれしかなかったのです

2    皆さんは、お父様が苦労したことを知っていますが、その苦労をただしたのではありません。人民軍が叫びながら追いかけてくる中、避難地の釜山に到着しました。避難民の中では、私たちが一番遅く到着したはずです。洛東江戦線の戦闘が終わったあと、釜山に到着したのです

避難してくる中で、ソ連軍が迫ってくる危険、中共軍が迫ってくる危険、北朝鮮軍が迫ってくる危険を経てきました。ですから、避難生活をたっぷりと味わったのです。その中で忘れることのできない出来事がどれほど多いか分かりません。それは、お父様の一生において通り過ぎる歴史の一つの歩みではなく、歴史時代の蕩減という恨の穴を埋めるための歩みでした。私が、後ろを眺めながら、「これから行くべき道は楽に行くことはできない」と、決意して行く人であることを忘れてはいけません。避難生活のとき、家がないので芝生の上や砂場で、空を布団と思って眠り、星を見つめながら、三千里半島に恨の涙をたくさん流したのです

3    平壌から歩いて釜山まで来るのに、五十五日かかりました。御飯ももらって食べたりしながら来たのですが、おもしろいことに、天は本当によく御存じだというのです。おなかがすいて疲れて、「あさってぐらいに鶏が手に入るだろう」と考えると、そのようになります。それが分かるというのです

あるおばさんが現れて、「いらっしゃいましたか」と挨拶するのです。それで「どなたですか。私は知りませんが」と言うと、「昨夜、私の何代前のおじいさんが現れて、きょう貴いお客様が来られるから、鶏も料理し、餅も作っておくようにと言うので、準備しておきました」と言います。「その方がどのような顔立ちなのか御存じなのですか」と尋ねると、「見かけはみすぼらしい行人(こうじん)として来るとのことでしたが、見るとあなたの顔とそっくりです」と言うのです

皆さんはそのようなことを信じられますか。そのようにして、餅も鶏肉も御馳走になったのですが、そのようなことが多くありました

4    北朝鮮で私に従っていた食口は、積極的な人たちでした。夜も昼も、私がどこに行って誰に会おうと、付いて回りながら大騷ぎした人たちだったのです。しかし、監獄に入って出てくると、みないなくなってしまいました。私が忘れることのできない食口たちまでも、みないなくなりました。私が懇切な手紙を書いて、人を遺わして伝達した人がいたのですが、その人のところに行ってみると、その人も既に変わっていました。「先生が神様の息子なら、どうして監獄に行くようなことがあるのか。先生の教えは、すべてよこしまなものだ」と言って、手紙も何も受け取りもせずに、「異端の人物が現れたな。また異端の行いをしようと訪ねてきたのか」と言ったというのです。それで、その手紙を持って、避難してきました。慶尚北道(キョンサンプクト)の永川(ヨンチョン)に行くと線路があり、その横にできた道路に橋があります。その時、釜山に下るために、永川のその橋を通ったのですが、持ってきたその手紙を、もう一度読んでから、破って投げ捨ててしまいました。その時が一九五一年一月十八日です

そのような忘れられない事情がたくさんあります。あれほど熱心な信仰をもっていた人も、信じられない背信者となって離れていくことを、私は既に知っていました。監獄にいた時、その人の霊が来て挨拶をすると、泣きながら「私は離れることになりました」と、自分の事情を話すので、「そんなことがあるのか」と思っていたのですが、案の定、その時に離れていったのです

避難民生活とその苦

真のお父様は、一九五一年一月二十七日、釜山の草梁(チャリョン)駅に到着され、金元弼と共に、待合室でバター缶を使って御飯を作り、飢えをしのいで最初の夜を過ごされた。当時、釜山は避難民でごった返していた。翌朝から、ソウルの黒石洞の家に住所だけを残して、避難してきていた郭魯弼を探し、三日間過ごされた。そして、一月三十一日、偶然にも日本留学時代の友人である嚴德紋(オムドンムン)に出会い、嚴德紋の強い勧めを断り切れず、すぐに富民洞(プミンドン)にある一間の彼の借り部屋に移り彼の妻と二人の子女ら、四人家族と共に、窮屈な生活を始められた。一週間、み言を聞いた嚴德紋は、ひざまずき、「あなたは私の友ではなく、私の先生であり、偉大な聖人であり、哲人です」と告白した。真のお父様と金元弼は、四月初旬頃、草梁駅の裏にある、労働者の宿所として使われていた狭いバラックに入って十日ほど過ごし、道で偶然出会った、興南の獄中の弟子である金元德(キムウォンドク)の槐亭洞(クェヂョンドン)の家にも半月ほど滞在され、解放前に電気会社の職員社宅として使われたボムネッコルの入り口の家で、五月から八月まで、四ヵ月ほど下宿された。また、第三埠頭で荷物を運ぶ仕事をしながら半月ほど過ごされた。ある時は、日当たりの良い森の中や、防空壕でも眠られるなど、涙ぐましい避難民生活をされた。そして、もらった御飯を召し上がり、時には見知らぬ家の軒下に身を寄せられた

5    釜山に着くと人で超満員でした。部屋はどこに行っても空いていませんでした。ごみ箱や空箱のような所にも二、三人の人がいました。韓国の全域から避難してきた人々がすべて釜山に集まったのです。まるで、煮え返る釜のようでした。足の踏み場もないほどでした。町はいつも超満員で、まっすぐに立っていても、押されていくような日常生活だったのです

釜山に来たのに、着る物もなく、食べ物もないので、一銭でも稼がなければなりませんでした。そのような環境で様々な仕事をしながら、新しい教会運動を始めていきました。また、家がありませんでした。その時は二月なので寒い時期です。夜に仕事をして、夜中の十時から十二時頃に帰ってくるので寒かったのです。ですから、オーバーを膝までかぶせて、海老のように身をすくめて眠ったことが今でも印象に残っています。その時かぶったオーバーを、記念として残しておくようにと食口に預けたにもかかわらず、ぼろぼろのオーバーだといって捨ててしまいました。今それが残っていて、皆さんが目にすれば、見ただけで涙をぽろぽろと流すほど記念になるオーバーでした。そのようなことをしながら、一歩一歩、歩んできて今日の基盤を築いたのです

6    嚴德紋氏は学生時代の友人ですが、その友人に、水晶洞(スヂョンド)の十字路にある朝興銀行の前で、雨の降る日の昼の十二時頃に出会ったのです。出会うなり我知らず叫んでしまい、道行く人たちがみな振り返りました。嚴德紋氏は、私に会うとは思いもしなかったそうです。私が北朝鮮で死んだものと思っていたのです。嚴德紋氏は私に会うなり、「自分の家に行こう」と言いました。今でもそのことを感謝しています。大勢の人が絶えず避難してきたために、家という家の軒下にまで座り、夜を明かすしかなかったのです。ですから、午後一時、二時の最も暖かい時間にオーバーをかぶって、近くの山に登り、岩の間に座って寝ていた状況で、嚴德紋氏が家に連れていってもてなしてくれたことは、今も忘れることができません

お父様の興南監獄以降、釜山までの路程は、四ヵ月という長い期間でしたが、皆さんは、お父様の服がその間にどれほど汚れたか、想像もできないでしょう。服があまりにも汚いので、裏返しに着ていました。また、寝られるような場所もありませんでした。そのように薄手の服を着て下ってきた時が十二月だったので、とても寒かったのです。釜山に着いてからは、寒さを避けるために、夜に基地の埠頭に行って働きました。仕事をするほうが、寝るよりも楽だったのです。そして、昼は山に登って、林の中で寝場所を決めて眠ったり、一人の時間をもったりしました

8    お父様は、釜山に避難してきて、波止場のほとりでも寝て、山の中でも寝ました。おもしろいというのです。軍人の外套を敷いて寝る時は、二月の初めなので寒かったのです。夜は寒いので、出掛けてお金を稼ぎ、昼は十時から二時の間に寝ます。その時は日当たりの良い所に行き、じっと座って、雉(きじ)のようにしっかりと寝場所を定めて寝れば、それで良いのです。寝て起きて服を着ると、金サッカ(李朝末期の放浪詩人)の詩が思い浮かびます。そうしてお金ができ、お粥を食べたくなったら波止場に出掛けるのです。波止場のほとりのおばさんたちが、冷めるのではないかと布切れで小豆粥を包み、自分のかわいい一人息子を抱いて愛するように、大事に手渡してくれます。このお粥を買って食べるのです。その時は、その人たちが友達でした

凡一洞の土塀の小屋で新しい出

真のお父様は、一九五一年八月、釜山市東区凡一四洞一五一三番地、ボムネッコルの一番奥、水晶山の中腹に、小さな土塀の家を造られた。石と土だけを積み重ねて造ったところ二回も崩れ落ち、三回目にようやく完成した。中は二坪に満たない部屋が一つだけだった。別途に台所はなく、外の片側に釜を一つ置いたかまどがあった。その横に足を伸ばし、腰をかがめてようやく出入りできる、高さ一メートルの出入り口があった。腰を伸ばせないほど低い屋根は、戦闘糧食の段ボール箱でつなげてあり、晴れた日は空が見え、天気の悪い日は雨が降り注いだ。雨が降ると、部屋の片隅に小さな泉が湧き、下からは溝を流れる水の音が聞こえた。山のほうの煙突を通って入ってきた水は、部屋の下を通り、かまどへと流れ出てきた。床には何重にもむしろを敷き、その上にかますを三重、四重に広げて敷いたあと、さらに幅と長さのある敷布団を広げて敷いた。真のお父様は、一九五一年の後半期には、金元弼の仕事の世話をしながら内的準備に力を注がれた。朝早く出勤し、夜遅く帰ってきた金元弼は、副業で、アメリカ軍の軍人がもつ写真を見て肖像画を描く仕事をした。一枚四ドルの絵を一日に十枚前後、多いときは三十枚まで描いた。真のお父様は、『原理原本』を執筆しながら、夜には釜山市内や海を眺めて摂理の未来を思い浮かべられ、早朝には山に登って涙の祈りをされた

9    私は、避難時代である三十二歳の時、釜山の草梁に初めて来たのですが、まだ若かった頃です。今よりもっとハンサムでした。私は、釜山鎮区(プサンヂング)第四璋頭に働きに通いました。その埠頭で小豆粥を売っていたおばさんたち、蒸し餅を売っていたおばさんたちのことが思い出されます。また、草梁には労務者収容所があったのですが、そこの小さな部屋で『原理原本』を書いたことが思い出されます。とても小さな部屋だったので、横になってもまっすぐには寝ることができず、対角線に寝なければなりません。対角線に寝ても足が壁についてしまうのです

10   釜山で避難民生活をする時、私の周囲には人々がたくさん集まってきました。私が興味深い話をしてあげると、彼らは食べ物を持ってきて、分け合って食べました。しかし、ずっとそのように暮らしてばかりはいられないので、小屋を一つ準備したのですが、犬小屋よりは少し良い程度でした

泥土と岩石を材料にして造った、とてもみすぼらしい住みかでした。家を建てられるような土地は一坪もありませんでした。それで、山の斜面に小屋を建てたのです。建ててみると、床の真ん中を湧き水が流れていきました。屋根は古い箱で覆いました。部屋はとても小さなものでした。また、ぼろぼろの服を四ヵ月間、そのまま着ていました。そのような凄惨な状況でしたが、霊的に選ばれた人たちが、私を訪ねてきたのです

11   お父様は、この道を出発しながら、釜山の凡一洞につばめの巣のような家を建てることになりました。家を建てるにはシャベルが必要です。シャベルを借りようとしても、誰も貸してくれませんでした。避難民たちはお金になりさえすれば何でも売ってしまうので、そのような人だと思って、貸してくれないのです。家を建てなければならないのに、シャベルもなく、お金もなければ、どうするのでしょうか。仕方なく、火搔きでしました。つるはしもないので、火搔きで地面をならしたのです。また、煉瓦を作る道具を借りようとしましたが、それも貸してくれませんでした。それで、アメリカ軍の部隊に行って戦闘糧食の段ボール箱をもらい、角を広げて貼りつけ、その上にこねた土を塗って家を建てました。とてもたくさんの土を使いました。そのようにして、つばめの巣のような家を建てたのです

12   以北にいる頃から会っていた食口たちが、韓国に下ってきました。昔のお父様を忘れることができず、訪ねてくるのです。聖日になると、釜山の凡一洞の小さな家で礼拝を捧げました。家は小さいのですが、その家がどれほど有名か分かません。土地がないので、山の斜面を削って建てました。そのようにしても誰も何も言わないので、山の斜面を横に掘って建てたのです。雨が降るとその部屋から水が湧き出ました。どれほど味わい深いでしょうか。二十一世紀の最高の文化住宅です。ですから、仕方ないではないですか。地面をおよそ半尺ぐらい掘り、石を拾ってきて水門を造るのです。水門を造って、その上にオンドルを置きました。そのオンドルの下には湧き水が流れるのです。そのような有名な家です

13   一九五三年に休戦協定が結ばれましたが(それ以前の)「六・二五動乱」が続いている時のことです。当時、アメリカから入ってくる軍需物資の船団が、列をつくって釜山港に入ってきました。毎朝起きると、お父様はそれを数えるのです。普通は五十隻で、ある時は百隻を超えることもありました。それを見れば、戦況がどうなるかを知ることができます。軍需物資を補給する船の数が増えているのを見ると、「ああ、この戦争は熾烈になるだろう」と考え、船が少なくなれば、「ああ、もう戦争が小康状態になるのだろう」と考えました。その当時、お父様に従っていた食口たちが何人かいました。霊界を通じて縁をもち、出会った食口たちが、凡一洞に一人で住んでいたお父様を急ぎ足で訪ねてきたのが、ついきのうのことのようです

14   お父様は昔、避難時代に釜山でたくさんの涙を流していた時がありました。世の中にそのような家はありません。岩の上に家を建てておいたのです。入ってみると、小さなテーブルが一つ、それから絵を描くキャンバスがありました。「六・二五動乱」に参戦したあと、故郷に帰るアメリカ軍部隊の人たちに肖像画を描いてあげたキャンバスが一つあったのです。テーブルとキャンバスの二つしかありません。悲惨なことです。お父様は、左右四ヵ所にポケットが付いたアメリカ軍の作業服を赤褐色に染めて着ていました。また、真っ青に染めた韓国服のズボンを、裾のひもも結ばずにはいていました。靴はゴム靴を履いていました。それも同じ大きさのものではなく、片方は大きく、もう片方は小さいものを引っ掛けて歩きました。そうして、岩の上に独り寂しく座り、祈りながら涙を流したのですが、その岩が涙岩です

15   私たちが釜山で避難生活をした時、金元弼が絵を描いて売りました。私は枠を作り、紙に線まで引いてあげました。顔に鼻だけ描けば、あとは私がすべて塗りました。共に夜を明かしながら描いたのです。夜の十二時から始めて、一晩で肖像画を三十枚まで描きました。それをすべて描くためには、線を先に引かなければなりません。三十枚ずつ持ってきたら、まず線を引き、その線に沿ってかたどって描くのです。ですから、その線をすべて私が引いてあげるのです

一枚につき四ドルでした。アメリカ軍の人たちが帰国するとき、自分の妻にお土産にする物があるでしょうか。自分の妻の肖像画が最も良い贈り物であることを知って、その仕事をしたのです。今なら三十ドルや四十ドルどころか、三百ドルくらいはもらえるでしょう。ですから、一晩で二十枚以上描くのですが、それを一人では描けないので、私が手伝ってあげました。夜を共に明かしたのです

16   私は、金元弼を連れてボムネッコルで暮らしていた時が良かったと思います。その時が良い時だったというのです。幼稚園や小学校の時代が最も良いのです。なぜなら、父母が自分を迎えに来てくれたり、待っていてくれたり、自分のために尽くしてくれる時の(心の)ゆとりが、どの時期よりも多いからです。ですからその時期が、ほかのどの時期よりも良いのです

その頃は、互いにために生き合う心に満ちていました。そのようなことを感じたので、あの頃が良かったというのです。お父様とみ旨を中心として、心情的な絆が、ほかのどの時期よりも深かったので、あの時が良かったと思うのです

17   釜山の凡一洞の聖地は、共同墓地の近所にあり、石だらけの谷間のほかには何もありませんでした。そのような所に、お父様はみすぼらしくて粗末な仮小屋を建てました。しかし、その中で暮らしながら、この地上のいかなる宮中で栄光を享受しながら暮らす人よりも、神様の息子として孝行ができる一番の道を歩んでいました。また、誰も及び得ない深い内心の基準に到達することが願いでした。その当時は、外面的に見ると、何もありませんでした。一文の価値もない人のようでした。ひげはぼうぼうと生え、顔は黒ずむままに黒ずんでおり、服装は韓国服と洋服を合わせて着ていたのです

18   皆さんは、釜山のボムネッコルの聖地で、お父様が岩を抱きかかえて悲痛に思った心情を知らなければなりません

六・二五動乱」の時、貨物船で埋め尽くされた釜山港、武器を運ぶための船で埋め尽くされた釜山港を眺めながら、どのような祈りをしたのか、皆さんは分からないでしょう。その時のその祈りが、すべて成就しました。統一教会は、名実共に孤児の立場、世の中の誰も歓迎せずに見捨てられた立場から立ち上がりました。通過しなかったところがありません。忠孝の道理を果たし得る道があるのなら、その道を訪ねていこうと身もだえしながら準備した男が、皆さんが従い、信じ、侍る、お父様なのです

19   世界の有名な牧師たちが今(一九八六年)、韓国を訪問していますが、何のために韓国に来るのでしょうか。私が座っていた釜山の聖地を訪ねてくるのです。その時は、それこそ避難民として哀れな姿をしていた時でした。そこに座り、「あの大海を渡り、私が心で待ち望んだ心情の絆の種を、あの国に行って蒔いておかなければならない」と考えました。氷山のようなこの世界に、父母がどこにいて、妻子がどこにいて、子女がどこにいるのかというのです。その時が「六・二五動乱」の時です。釜山の海を眺めながら、そのような祈りをしました。神様は、「見てみなさい。この先、世界はこのようになる」と言いながら、大きな商船、天の商船に私を乗せ、数多くの群衆が歓呼するのを見せて、慰労してくださいました。

第三節『原理原本』の執筆

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第三節   『原理原本』の執

神様から公証を受けた原

真のお父様は、一九五一年五月十一日、『原理原本』の執筆に入られ、翌年の五月十日に完了された。食口がそばで忙しく鉛筆を削ってさしあげなければならないほど、執筆に没頭された。『原理原本』を書かれる間、涙を流しながら聖歌を歌われ、また、涙を流しながら祈られた。時には、裏山にある小さな平地まで登り、歌を歌い、瞑想を続けながら心血を注いで書いていかれたのである。「記録第一巻」から「記録第五巻」に分けて記述された『原理原本』は、各巻ごとに四ヵ所の穴を開けて束ねられ、合計六百九十ページ以上に達した。本文の内容は、主に鉛筆でハングルと漢字の横書き草書体で書かれ、校正と校閲作業は、黒と青、茶色のインクを使い、ペンで行われた。薄く下線を引くときには赤い色鉛筆が使われた。特に、中間の十ページほどの分量(二百九十一E/span>三百ページ)の本文は、青色のインクぺンで書かれている。『原理原本』は自筆で作成され、現存する最初の原理記録であるという点で、その意味は甚大である。初期には、この『原理原本』を弟子たちが筆写し、順番に読んでいた

1    原理のみ言を語るときに、私は聖書を参考にしません。聖書にない内容です。神様から直接伝授されたものです。新約聖書は、イエス様が直接書いたものではありません。使徒たちが編集した内容が多いのです

真は真のものとして、そのままにしておきなさいというのです。自分の神学観や自分の理論をもってきて、こぶのようにつけ加えてはいけません。神様の公証を受けたのか、自分の理論を加えなさいという許可を受けたのか、というのです。私は許可を受けていないものを発表したことはありません。私が行った上で発表してきました。間違いありません。ですから、滅びないのです

2    凡一洞にいる時は、粗末な服を着て、頭はぼさぼさのまま、男性二人で土窟のような家で過ごしました。他の人からは、哀れに見えたはずです。金元弼が「お金を稼いでくる」と言うので、私は「そうしなさい」と言いました。その当時は、『原理原本』を書いていましたが、同志一人がどれほど貴く、従ってくる一人の人がどれほど貴かったか分かりません

皆さんも、このように、人に対する味を知らなければなりません。ですから、金元弼が会社に出掛けるときは、必ず一キロ以上付いていったものですが、そのようにして初めて気が楽になりました。また、夕方になって帰ってくる頃になると、必ず迎えに出たのですが、その会う時の気持ちは、言葉では言い表せないものでした。そのように帰ってきて夜眠るのですが、布団がなくて、おくるみ一枚だけをかぶって寝たものです。その時は、そのように暮らしました

3    お父様は、埠頭が見下ろせる凡一洞で「原理」を書きました。『原理原本』を起草したのです。詩のように書きました。私が骨子を抜き出して書いたので、説明しなければ、他の人々はよく分かりません。そのように、『原理原本』を起草しておいて、一九五二年五月に『原理原本』の執筆を終えました。『原理原本』以降、『原理解説』、そして、『原理講論』が発刊されました

4    お父様は、聖書だけを見て原理を探し出したのではありません。「創世記が人間の堕落を記録した章ならば、ヨハネの黙示録は復帰の章である。これが生命の木としてこのようになったのなら、生命の木として復帰されるのだ。それが合わなければ聖書はうそである」と思いました。種を植えて生えたものは、種に返るのです。これが合わなければなりません。種から出た芽は上に伸びるべきであって、横に伸びてはいけません。それが合わなければならないのです

今日の原理の教えは、推理的な方法を通して摂理史観に一致しているのです。名実共に神様が生きている限り、その神様が愛を中心として摂理のみ旨を展開していく限り、世界は必ずその文化圏を中心として統一時代を迎えなければなりません。そして、天地創造がどのように成し遂げられ、なぜ神様が愛を好むのかなどを明らかにしたのです

5    神様は、すべての悲しむ人たちを慰労してくださいます。また、神様は、生死禍福を主管される主人でいらっしゃいます。ですから、あらゆることをその方に委ねようとするのです。人のために心配できる心をもったところには、神様の相対的な形態が備わっているので、「いらっしゃらないでください」と言っても、いらっしゃるのです。善なるところには、「いらっしゃらないでください」と言っても、神様がいらっしゃるというのです。ですから、『原理原本』を見れば、対象や対象の価値という内容までも、すべて異なる形で解釈しています。与え合えば、必ず相対性が備わるので、与え合うほど対象の基台ができるようになります。それで、神様や善、真を中心として動けば、それは残るようになっているのです

6    皆さんが「原理」の本を持ち歩くときは、この上なく大切に扱わなければなりません。この本が一冊しかないと考えてみてください。お父様がこの本の原稿を草案するとき、その原稿の管理をどれほど深刻にしたか考えてみなさいというのです。もしそれがなくなり、私が死んでしまったらどうなるでしょうか。世界が左右されるのです

この「原理」の本一冊で一族の興亡が決まり、一国の興亡が決まり、この世界の興亡が決まり、天地の興亡が決まり、永遠の生命が左右されることを、考えてみたことがあるのかというのです。そのようなことを考えてもみなかった人たちが、心情世界の様々な人たちとつながろうとすれば、どれほど遠いかを考えてみてください

7    お父様は原理を中心として、原理とともに今まで歩んできました。苦労で築かれた基盤です。原理の本には、血と汗と涙が入り混じっています。ぺージごとの内容に入り混じっているお父様の血の涙が、皆さんに訴えかけていることを知らなければなりません。お父様が若い青春を犠牲にしてここに投入したのです。血と涙が皆さんに訴えかけているというのです。そこに引っ掛かってはいけません。無価値な原理ではありません。神様が粛然として頭を下げるのです。仰ぎ見る原理です

真理の真髄、『原理原本

真のお父様は、『原理原本』について、真理の真髄を圧縮して記録したものであることに加え、本然の心情を通して愛の力を爆発させることができる歴史性を備えたみ言であるため、論文的表現よりは、詩的表現を用いて記述せざるを得なかったと強調された。様々な宗教の経典を隅々まで探究していた劉孝元協会長は、『原理原本』に初めて接し、驚くべき真理の世界に心酔して、一ぺージを筆写するのに何日もかかるほど、涙を流し続けたと告白した

8    お父様は『原理原本』を書く時、詩的に書いたので、一枚の中に数十枚分の解説が必要な内容を編成しておきました。一般の人たちはよく理解できません

劉孝元が医学を勉強したというので、「その内容について一度説明してみなさい」と言うと、「できません」と答えるのです。そこでお父様が一ぺージの内容を解説してあげると、その場で敬拝をしました。「いくら説明しようとしても、私の頭では及ばない内容があることが(今までは)分かりませんでした」と言ったのです

9    釜山に避難してきて、一九五一年五月十一日、『原理原本』を書き始めました。『原理原本』は詩的に書きました。それは、誰が見ても分からないのです。私が劉孝元に説明してあげたので、頭がすっきりしたのです。そうして、「なんと、このような内容だったとは!」と言いながら、その原本を見てページごとに涙を流すので、涙でぬれた原稿になりました。キリスト教の根本、共産主義の根本が、すべて砕けていくというのです

10   劉孝元協会長は、私の話を聞く前に、『原理原本』を読んで、「自分の体が永遠に天のみ前に捧げられる祭物になったとしても感謝します」と書面で誓ったのです。私が孤独な時に、その人に出会いました。このようなことが神様の役事です。その時のお父様の心情は深刻でした。深刻なので、その場で神様が役事したのです。神様があらゆる役事をしてくれるのです。そのようにして、今まで歩んできました

11   お父様は、劉孝元協会長に、原理の全幅的な体系を備えることができるように教えてあげました。『原理原本』は詩的に書いたものです。かなり飛躍し、圧縮して書きました。

劉協会長がその本を見て痛哭したのです。『原理原本』の内容に感動した、恐らく歴史的にも、統一教会の原理に接した代表的な人だと見るのです。ですから、劉協会長は、私に会いもしないうちに、「弟子になる」と言ったのです。手紙を書いて、「私はこのみ言をもって永遠に先生に仕える弟子になります」と誓った人です。それで、私はソウルから釜山の影島(ヨンド)に下っていき、二十一日間修練会をしました。修練会をするとき、劉協会長は自分が初めてお父様に会うので、いかにして会うのかという問題について心配していたのです。そして、お父様に会うやいなや、自分の過去の深刻だった事情をすべて話したのですが、私が今でも忘れられない内容がたくさんあります。その時の影島での修練会ですべての人が霊界に通じ、霊的体験をしました。その修練会が終わってから世の中に出てくるとき、修練生たちは、「このような世界があったのか」と思うほどの変化を感じたのです。

第四節釜山と大邱の開拓伝道

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第四節   釜山と大邱の開拓伝

釜山開拓時

真のお父様は、釜山に到着された一九五一年一月からほぼ半年間、転々と居所を移しながら、避難民生活をされ、同年八月、ポムネッコルに土塀の小屋を自ら建てて住まわれ、新しい食口を迎える準備をされた。神様が失ってしまった子女を探し求めてこられた、それ以上の慕わしさをもって、山に登って涙の祈りを捧げるなど、多くの精誠を注がれたのである。その結果、神様の啓示に従い、食口たちが一人、二人と集まり始めた。『原理原本』の執筆を終えた日の一九五二年五月十日、高麗神学校の二年生だった姜賢實伝道師が導かれ、その年の十二月一日、早くからキリスト教団で牧会をしていた李耀翰(イヨハン)牧師が加わるなど、天は準備された聖徒たちを送ってくださった。真のお父様は、一九五三年一月、食口たちが増え、一部で反対が激しくなると、ポムネッコルの土塀の小屋から水晶洞へと引っ越し、水晶洞でも何回か居所を移された

1    お父様は、「六・二五動乱」の時に釜山に避難し、そこで三年の期間を過ごすとき、大勢の人たちが声を張り上げる中、かつて会おうと約束していた人の呼ぶ声が聞こえてくるように感じましたが、会う方法がありませんでした。その慕わしさは、胸が締めつけられるほどのものでした。それは、神様が人間を捜し求めてきた思慕の心情を、地上にいる息子に体恤させる良い時期でした。自分の父母が慕わしくて涙を流すのではなく、父母のために夜を明かすのではありません

天が進むための足場であるカインとアベルを中心とした復帰の原則を、どのように解決するのでしょうか。それは、自分の血族でもできません。外的な血族を中心として、勝利の基盤の上に氏族基盤を立て、民族的基盤へと行かなければならないのが復帰の路程です

2    お父様は、釜山の凡一洞で、神様と縁を結ぶ食口たちを慕っていた時に、あらゆる精誠を尽くして待ちました。霊的に見ると、彼らが来ることは来るのですが、実際には近くに来ていないのです。ですから、時が来るのを待つしかありませんでした。凡一洞では、食口といえるのは、お父様まで合わせて三人しかいなかったのです。その頃、私たちは霊的に交流しながら、山河を友として暮らしていました

3    お父様が凡一洞にいた頃、本当に人が慕わしく、一人で座ってしきりに独り言を言う時が多かったのです。白い紙一枚隔てた向こう側から、大衆の話し声がすべて聞こえます。聞こえることは聞こえるのですが、顔は見えません。その白い紙一枚さえ取り除いてしまえば、大衆が来ることができるのです。そのように捜し求めている人の声が聞こえるというのです。ですから、人を慕わしく思うのです。朝起きてから夕方まで、時間が過ぎるのも忘れて人を慕わしく思います

人を慕わしく思う心は、この上なく貴いものです。その度数が満ちれば、人が訪ねてくるのです。その心をもって、その人と向き合うようになれば、人は霊的な存在なので、その場から立ち上がろうとしても、足が固まって立ち上がれません。不思議なことが起きるのです。その環境に完全に包まれるようになります。統一教会の出発には、そのような役事があったことを、皆さんは知らなければなりません。皆さんは、人を慕わしく思わなければなりません。自分の妻子が問題ではないのです。み旨のために、人を慕わしく思わなければなりません

4    「父母の心情で、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために」というみ言を、いたずらに主張したのではありません。お父様がそのように生きました

その標語のとおりに、出ていって伝道してみなさいというのです。お父様の言うことが本当かうそか、テストしてみなさいというのです。食口がいなければ、戸を開けたまま、食口を慕わしく思うようになると、人が訪ねてくる音がすべて聞こえます。そのように慕わしく思うのです。そうすれば、必ず道は開かれるようになっています。姜賢實が初めてポムネッコルに私を訪ねてきた時も、お父様は失った我が子を慕わしく思う気持ちで過ごしていました

5    ボムネッコルの土塀の家の時代に、「凡一洞の頂にサタンの魁首が現れたので、キリスト教徒たちは行ってはいけない」といううわさが立ちました。私たちだけで礼拝を捧げても、既にその近所の教会がみな知って、「行ってはいけない」とこそこそ言いふらすのです。しかし、絶対に失望はしませんでした。私は、山に登って祈りながら、霊的にサタンの胸ぐらをつかんでたくさん闘いました。「この闘いでお前が勝たない限り、お前が私に屈服する日が来るだろう」と言いながら闘ったのです。そのようにして出発しました

6    釜山のボムネッコル時代、凡一洞に教会が一つありました。その教会の人たちが私たちを見て、人も良く、聖書もたくさん知っていて、教会にも通ったという話を聞いたので、伝道しようとしたのです。お父様は、彼らの話を聞いてあげました。彼らが話をする時、よく聞いてあげたのです。それで、私が間違いなく自分たちの教会の信徒になると思って喜び、最初の日はそのまま帰りました。その翌日に、間違いなくまた来ます。その時は、私が「一つ尋ねてみましょう」と言いながら話をするのです。そのように尋ねれば、彼らは答えられません。彼らに、「イエス様とはそんなに無知なのですか。聖書はいい加減にできているようですね」と、このように一言、言っておくのです。私が優れているからこのように言うのではありません。その人が聖書をよく知らないので、そのような話をしたのですが、誰も聖書が間違っているとは言えないようになっています。聖書を知らない人がどうやって伝道をするのですか。お父様は、「私は教会には通っていませんが、私が知っている聖書の話を一度聞いてみませんか」と言いながら、話をそれとなく始めていきます

最初は、その人が聞いて消化不良を起こすような話は絶対にしません。様子を窺って、神経質な人ならば、私は神経の鈍い人のように話をします。そのように数時間だけ話をすると、私の言うことを聞くようになっているのです

7    釜山避難時代、凡一洞に家を建て、三人が集まって伝道したり、祈ったりしました。当時、彼らに話をするとき、お父様は、三人を前にして話をするとは考えませんでした。三人ではなく、三千万人であると考えたのです。「今この人たちに話をしているが、現在の数億のキリスト教徒と、全人類に対して話をしているのだ」と考えました。三人を前にしても、汗を流しながら、町内に響き渡るように話をしたのです

聖日にさえなれば、近所で「あの人、また大騒ぎしている!」と話すほどでした。膝を突き合わせて、こそこそ耳打ちをしても、すべて聞こえるはずなのに、およそ百五十メートル離れた井戸のそばにいるおばさんにまで聞こえるように話をするのです。そのようにするので、その近所の教会に通っていたおばさんが、通りすがりに聞くようになりました。それで聖日のたびに来て、外で聞くおばさんがいました。未婚の男性たちが住む部屋には入りづらかったのです。そのおばさんがのちに入ってきてみると、むちゃくちゃです。世の中にはない話や、世界が揺れ動くような話をひたすらするのですが、座っている様子を見ると哀れなのです。しかし、世界を統一するとか何とか言いながら、「神様は私の父であり、私は神様の息子である。天国が建設され、地獄が崩壊する」と言っているのです

8    凡一洞に井戸があるのですが、そこに水をくみに来た人たちは、私たちが礼拝を捧げ始めると、「あの家はけんかをしない家だとうわさになっていたが、この頃はけんかをしている」と言って不思議に思ったのです。ある時には、神学校に通う人が来て、「あなたよりも立派な人が歴史上にたくさん現れて統一世界を夢見たのに、みな成し遂げられませんでした。それなのに、ここであなたが統一するのですか」と言うのです。その時、私が話をしながら、よくよく考えてみても、本当に哀れでした。水が流れるように溝を掘り、その上に家を建てたので、オンドルの下では、ちょろちょろちょろと水の流れる音がするのですが、そのような家に座って、そのような途方もない話をするのですから、誰が信じるでしょうか

彼らは、私より良い物を食べ、良い服を着て、良い暮らしをしているのですから、私の話には信じられるところがないというのです。そうして私の話を聞いてみると、うぶな顔つきで、そのような人には見えないのに、「何がどうだこうだ」と言いながら大騒ぎしているのを見てからは、近所の話題の種になりました。お父様が語る話を聞いてみると、世界が行ったり来たりし、天地がひっくり返ったりする内容です。お化けが出そうな家に住んでいますが、世界を手の上に載せて思いのままにしたり、天地をひっくり返したりしながら、韓国と世界を統一するという途方もない話をするので、うわさが立ったのです。「あの近くに行ってみると、井戸端では無口だったあの人がものすごかった」といううわさが立ったので、人々がどんどん集まってくるのです

9    私が釜山の凡一洞の谷間で避難生活をしていたとき、釜山港のたくさんの船を見て、「私の手で造った船に乗って、一度釜山港に帰ってこなければならない」と思いました。すべての港口に出入りする大きな船を見て、「私の愛する息子、娘があの船に乗って世界に号令できるその日、自由と平等の舞台の上で、そのようにできる環境が整うひと日がいつ来るのか」と思いながら、神様が日久月深(イルクウォルシム)(願いが時とともに強くなる様子)、千万年史を行き来しつつ望んでいたことを考えるとき、その先頭に立って、大洋を目指して前進する航路に立つならば、それは驚くべき事件です

10   釜山は、避難民が集まってきた所でした。ですから、韓国にいる篤実な信仰者たちにも、みな会える所です。そのような過程を経ながら、教会が出発しました。学生時代における黒石洞の教会の歴史、平壌の教会の歴史、それからソウルの教会の歴史、このような歴史がすべて絡まっているのです。そして、北朝鮮の監獄から出てきて、(その後、韓国で)三人の女性と一人の男性の、四人を立てました。男性は天使長の代わりに立てたのです。女性は、玉世賢(オクセヒョン)おばあさん、池承道(チスンド)おばあさん、李奇完(イギワン)さんです。李奇完さんはソウルにいました。そうして、四人を中心として、初めて新しく釜山から出発したのです。そして、水晶洞で、以前に日本人が所有していた家屋を一つ手に入れて、教会を始めました

大邱開拓伝

真のお父様は、新しい食口が集まると、李耀翰牧師に有名な牧師と神霊的な指導者たちを訪ねさせるなど、伝道に目を向けられた。特に一九五三年七月二十日、姜賢實伝道師に、「生きていらっしゃる神様が、私たちの側に立って協助していらっしゃることを忘れてはならない」という激励のみ言をかけられ、服一着だけを持たせて、大邱の開拓伝道に出発させられた。この時、初めて原理が公に宣布されたのである。そして、八月中旬、李耀翰牧師を再び大邱に派遣された。姜伝道師が築いた土台の上に教会を建てる、というみ意があった。そのようにして、三、四十人の新しい食口が集まり、礼拝を始めるなど、キリスト教団の迫害と反対の中でも、教会が早々に出発できたのである

11   草創期には、私一人でした。そのように始め、何人かの食口たちを集めて、全国にいる神霊的な人たちを訪問させました。その中に、伝道のため大邱に送った姜賢實伝道師がいました。その伝道師は、凡一洞の天幕教会に責任をもっていた女性でした。凡一洞の谷間には寺しかなかったのですが、一番端の家におかしな青年がいるといううわさを聞いて、伝道しようと訪ねてきたのです。それで、その時、み言を語ってあげたのですが、神様が役事をして、毎日毎日訪ねてくるようになりました

そうするうちに、その天幕教会を捨てて統一教会を信じる決心をしたのです

そうして、その後、伝道のために大邱に送りました。大邱は、以南(現在の大韓民国)のエルサレムといわれる地域なので、そこに送ったのです。送る時は、何も持たせずに送り出しました。旅費も与えず、「出ていって伝道しなさい」と言って送り出すしかない、その時の事情がありました。ですから、霊界からたくさん役事しました。大邱に行ったのですが、行く所がないので、霊界がコーチして、会うべき人に会わせてくれたのです

大邱教会は、そのようにして始まりました

12   姜賢實伝道師に、「大邱に行って開拓伝道をしなさい!」と言いました。それで、開拓伝道に出て泣きながら歩いているので、神様が勧告したのです。大邱に行った時、「あなたは今ここに来て泣いているが、私は千年の恨を抱いて働いている」と神様から勧告されたので、逃げようとまとめていた荷物を再びほどいたそうです。よくよく見ると、神様は、こちらの事情を一つも聞いてくれません。(ただ、)開拓伝道をしなさいというのです

ですから、「私の代わりにどこそこに行きなさい」と言われて行くと、ある時は汽車の切符を買って待つ人がいたり、行く道中に祝いのお膳の支度をして待つ人もいたりしたのです

13   伝道をする時は、座って心配ばかりしてはいけません。お金を使ったからといってできるものではないので、精誠を尽くさなければなりません。そうして祈ると、天が教えてくれるのです。足に豆ができるほど活動し、事を起こしてこそ、そこから役事が始まるのです

姜賢實の証を聞いてみてください。知人が一人もいない大邱の真ん中に、開拓伝道に行ったのですから、誰か歓迎する人がいたでしょうか。通りをさまようしかないので、どれほど落胆するでしょうか。「神様、どこに行かなければなりませんか」と自分の身の上を嘆くと、「あなたは今、一日でそのような状態になるのか。千年、万年の間、そのようにし続けてきた神の心情と比べれば、話にもならないではないか」と言われたそうです。苦労をもっとしなければならないというのです

神様と出会い、神様のみ旨を探し求めていくのは、易しいことではありません

14   お父様が大邱にいた時は、一ヵ月間に十三回も引っ越しをしました。そこでは、私を知らない人がいませんでした。キリスト教徒たちが写真を持って歩きながら、私の顔さえ見かければ、「文誰それが現れた」と大騒ぎでした。どこそこに現れたというと、教会で毎日のように「異端の頭である誰それを追放せよ」と大騒ぎしながら、その都市全体がうなり声を上げて追放しようとしたのです。

第一節協会創立の背景

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第一節   協会創立の背

協会創立の摂理的背

真のお父様は、一九五三年九月十七日に上京されたのち、ソウルを中心とした本格的な活動を模索されると同時に、大邱と釜山の教会を訪ね、開拓の最前線で苦労する食口たちを指導し、激励された。そして、不信に陥ったキリスト教と国家指導者たちの代わりに多くの精誠を尽くしながら、再出発のための信仰基台を立てられた。自ら、摂理的アベルの使命基準を探して立てられたのである。このような縦的蕩減復帰基台の上に、ソウル、釜山、大邱など、三つの地域の教会基盤を中心として、実体基台復帰のための横的摂理の活路を模索された。そして、一九五四年五月一日、ソウル市城東区(ソンドング)北鶴洞(プッカクトン)、現在の中区(チュング)新堂洞(シンダンドン)三九一の六番地にある、いわゆる三つの門の家で「世界基督教統一神霊協会」を創立された。協会の創立は、イスラエル民族とキリスト教、ひいてはイエス様ができなかったことまで蕩減した土台の上に、彼らに代わって真のお父様が一人、立つようになったことを意床する。結局、キリスト教団の不信によって歩むことになった蕩減復帰路程を勝利した基盤の上で、協会が立てられ、真のお父様を中心に新しい神様の主流摂理が始まり、新しい変革が社会と国家、世界全般にわたって現れ始めたのである

1    お父様が解放直後、キリスト教と手を握って出発しようとした時、キリスト教の牧師たちが反対することによって、それが失敗してしまいました。その次は、大韓民国と手を握らなければなりませんでした。イスラエルの国とユダヤ教がイエス様を迎え入れなければならなかったように、大韓民国とキリスト教は、お父様を迎え入れなければならない立場であるにもかかわらず、反対の立場に立つことによって、教会と国が分立されていったのです

ですから、イエス様が追い出されて、キリスト教が異邦の宗教になったことを蕩減復帰しなければなりません。それで、キリスト教がサタン世界を経て発展したように、お父様も世界的サタン圏の共産主義である北朝鮮に入ったのです。そこから再び復帰してくるので、個人的蕩減が必要であり、家庭的蕩減が必要であり、氏族的蕩減が必要です。ですから、今まで苦労してきたのです。一度でできることを何度もひっり返しながらやってきました

それゆえ、統一教会を中心として、ユダヤ教の代わりをさせるのです。ユダヤ教の代わりにキリスト教をつくったのですが、そのキリスト教が責任を果たせなかったので、責任を果たすことができる基盤としてつくったのが統一教団です

2    大韓民国政府が樹立されてからは、神様のみ旨の中でキリスト教や神霊的な団体が立ったのではなく、お父様が立ちました。反対され始めたその時から、一人で神様のみ前に立ったのです。聖書の聖句に「家の者が、その人の敵となるであろう」(マタイ一〇・三六)とあるように、キリスト教が同じ家の家族であるにもかかわらず、怨讐の立場に立つことによって、その時まで築いた基盤をすべて投げ捨てて、神様のみ旨は、ひとえにお父様を中心として、新たな次元で出発しなければならない悲惨な運命に立つようになりました

その時からキリスト教も神様のみ旨から遠ざかり、民主世界も神様から遠ざかって、結局、逆に落ち始めました。ですから、お父様は受難の過程を経なければならないので、一九四八年から三年間、監獄生活をすることになりました。結局、北朝鮮も韓半島の地なので、サタン側の一線に行き、そのような闘いをしなければならず、韓国もサタン側なので、韓国でもそのような闘いをしなければなりませんでした。南北を中心として、そのような闘いをせざるを得なかったのです。北朝鮮は旧約時代に相当し、韓国は新約時代に相当すると考えます。それで、以北(現在の北朝鮮)に入って三年間、監獄生活をし、一九五〇年十二月に以北から出てきて、四年間、韓国で基盤を固め、一九五四年五月一日に、「世界基督教統一神霊協会」を創立するようになったのです

3    イエス様が連行され、獄中生活を経て十字架で亡くなっていったので、復帰路程においても獄中から出発しなければなりません。栄光の座から出発しようとしていたすべての道が、反対に十字架の路程へと展開されたので、統一教会の歴史も獄中から出発し、新しい次元へと前進するようになったのです

イエス様が監獄にいる時に十二弟子を失ったことを、実体的に復帰すべき歴史的使命があったので、神様は、私が語らずにいる中でも、監獄にいる囚人たちを通して、失われた数の基準を取り戻すために霊界を動員したのです。二十四人のメンバーが、獄中で、天命によってひそかに結束して出発しました。監獄から出てくる時、四人が一緒に来ました。四位基台の復帰の原則に一致する歴史的条件を、神様が立てたのです。そのように興南の監獄から出て平壌に行き、昔、失った食口たちを再び糾合して出発したのが、現在の統一教会です

4    統一教会は、今まで六千年の歴史をかけて神様が摂理してきた復帰路程を蕩減しなければなりません。個人的な問題、家庭的な問題、国家的な問題を蕩減復帰しなければなりません。イエス様が国家を中心として成し遂げるべきだった全体的な問題を蕩減復帰しなければならないのです。神様の摂理が、今日、韓国を中心として動いています。解放前まで神様は、預言者的な使命をもつたくさんの人物を送って準備してきました。ここには、婦人たちを中心として摂理した一面があると同時に、男性たちを中心として摂理してきた一面もあります。神様は、摂理のみ旨を立てるために、この民族が知らず、信仰者たちが知らずにいる中で、特別に選んだ人たちを立てて、内的、外的に役事をしてきました。ですから、この国、この民族は、解放後に新たな発展的内容をもって出発しなければなりませんでした。そして、このみ旨を伝えるために統一教会が出発したのです

5    サタン側である北朝鮮は、韓国を占領するため、一九五〇年に「六・二五動乱」を起こしました。その時、マッカーサー総司令官が仁川上陸作戦をし、興南を空襲して勝利をもたらすことによって、お父様は興南監獄から出て、韓国に下ってきました

その時、韓国は完全にばらばらになっていました。それまで、ソウルでもどこでも築いてきた基盤が完全にばらばらになったのです。韓国政府が完全に荒らされてしまいました

お金のある人は逃げようとし、キリスト教の牧師たちは息子、娘を外国に留学させるなど、国内は混乱時代に入りました

ここから統一教会は基盤を築いてきたのであり、統一教会の基盤ができるに従って、この国も新たな政府の形態へと収拾されてくるようになりました。それが摂理観です。社会が混乱したのは、むしろ、天の摂理がサタン側を利用して、神様のみ旨を築き得るよう、環境をつくってあげるためでした。それで一九五四年に協会を創立し、そこから混乱した社会環境を経て、新しい基盤を拡大してきました。そうして、政府と峙し、キリスト教と峙しながら、統一教会は発展してきたのです

6    お父様は、口があっても話しませんでした。この民族にしみ込んだ多くの恨があっても耐え忍びました。それは、お父様が意気地なしだからではありません。イエス様が三十数年の生涯を耐え忍んでこられたのを知り、神様がイエス様以降、二千年間も耐え忍びながら、み旨を成就するための基盤と、時を整えるための強固な土台を築こうと、心を砕いてこられたのが復帰の路程であることを知ったので、耐え忍んだのです。「台風よ、吹け。吹雪よ、吹け」と言いながら耐えるのです。そのようなものは一時です。過ぎ去るようになっています。今日の社会において、自分の幸福を自慢する人たちも同様です。過ぎ去るようになっています。それでは、お父様の責任とは何でしょうか。追われながら監獄に入る時、お父様はその立場で何をしなければならないのでしょうか。世界の人類のために打たれ、世界の苦難をすべて引っ張って殲滅(せんめつ)しなければなりません。「世界の苦難の道を開拓していく上で、これくらいの困難がないだろうか」と考えて、苦難をむしろ当然のことと思いました。お父様が愚かだからそのように思ったのではありません。復帰摂理歴史は、必ずそのような場で決着をつけて次の段階に行かなければならないので、私はそのような道を行こうとし、またそのような人が求められたので、「世界基督教統一神霊協会」を創立したのです

北鶴洞の三つの門の家で協会出

協会の看板を掲げた北鶴洞の三つの門の家は、軒先に手が届くほどのみすぼらしい家だった。そのため、看板は近所の子供たちが外しては遊びに使ったり、反対する人がたたきつけて割ってしまったりしたため、再びつなげて掛けるなど、何度も壊された。頭を下げて三つの門を通過し、家の中に入ると、二、三坪の広さの庭の片隅に井戸があり、その横に甕を置く小さな台があった。右には、三人が横になればいっぱいになり、足がつく半坪ほどの居間があり、左には、一坪にならないサランバン(客間を兼ねた主人の部屋)があった。居間には男性たち、サランバンには女性たちが寝泊まりした。低い天井は、頭がつくと板が傾いた。このように、協会は草ぶき小屋のような所から出発したのだった

真のお父様は、少ない人数しかいなくても、まるで数千人いるかのように、上着が汗でびしょぬれになるほど、大きく力強い声で祈り、み言を語られた。一人に対してみ言を語られるときも、一時間以上、涙を流しながら切実に祈られた。神霊に満ちた恩恵によってその場にいる全員が痛哭し、涙で床をぐしょぐしょにぬらした。一九四五年の光復後、準備されたキリスト教が真のお父様を受け入れなかったため、蕩減路程を経たのちに協会を立てて、世界復帰の出発基台を築かれたのである

7    私が一番初めに付けた統一教会の看板は「世界基督教統一神霊協会」でした。キリスト教を統一することも大変なのに、神霊まで統一しようと言ったのです。当時、お父様はお金が一銭もありませんでした。横になると足が(壁に)つくくらいの部屋なのですが、それも借りたものでした。そこから始めたのです。訪ねてくる人たちのために、僕のような立場で私はやるべきことをすべてやりました。私が、僕の立場、養子の立場でそのようにして、合格していくのです。そうして私が解放されていくのです

8    最初に統一教会の看板を付けた家は、粗末な家でした。その家には三つの門がありました。私のように、背が高くて太っている人が入ろうとすれば、体を横にして頭を下げて入らなければなりません。そこに「世界基督教統一神霊協会」という看板を付けました。世界のキリスト教を統一しても、ものすごいことなのに、神霊的な世界までも統一しようと言ったのです。世界のキリスト教も統一しますが、神霊的な世界も統一しようという協会なのです。どれほどすごいでしょうか。軒先に「世界基督教統一神霊協会」という看板を付けたのですが、のぞいて見ると、門が三つです

9    統一教会の看板をソウルの北鶴洞にある家に付けたのですが、当時、その家は、恐らくソウルで最も小さな家だったでしょう。部屋に入って横に寝れば、足が(壁に)つきます。縦に寝れば、何とか足を伸ばして寝られます。そのような部屋が一つあり、そのほかにも部屋がありましたが、その部屋も同じような部屋でした。それで、その家が有名なのは、門が三つあるということで、「三つの門」と言います。その門は、大きいものではなく、頭を下げなければ入れないほどの小さな門です。また、看板を付けたのですが、軒先が手の届く所にあるので、看板の位置は子供も触れられるほどの高さでした。看板を、大きな家に付けることができず、想像もできない、誰も信じられない最も小さな家に付けたのですから、誰がそこに関心をもつでしょうか。看板が同情されるほど、どれだけぞんざいに扱われたか分かりません。近所の子供たちが遊ぶ時は、これを外して遊び道具に使ったりもしました。それにどれほど傷がついたか分かりません。また、反対する人が来ては、「キリスト教を統一するとは異端だ!」と言いながらそれをたたきつけて二つに割ったこともありました。それでも、そのような歴史的な看板をそのまま捨てられないので、その看板に釘を打ちつけてつなげてから、また掛けたのです

10   私は、いくら軒の下や、穴蔵にいたとしても、「私が神様をここにお迎えしなければならないのに、この場は精誠が足りない」と思いました。「復帰原則において、最も小さな家で世界的な精誠を尽くせる代表者が現れなければならないのではないか」と思ったのです。これがお父様の思想です。それから、「もう少し大きな家で世界的な代表に適応する精誡を尽くさなければならないのではないか」と考えたのです

このように、統一教会は小さな所から出発しました。北鶴洞の三つの門の家から発展して、このように大きくなってきたのが統一教会です。これが統一教会の主流思想です。そのような立場で、天下にすべて知られるほどうわさを立てながら歩き回っても、「統一教会は小さい」と非難する人は一人もいませんでした。その立場で何をしたのかが問題です

「世界基督教統一神霊協会」の意味と目

「世界基督教統一神霊協会」の創立は、キリスト教が果たすべき使命を代わりに果たすという意味がある。もちろん、「世界基督教統一神霊協会」は、神様の復帰摂理を最終的に担当すべき父母宗教である。そのため、その名称に「世界基督教」という言葉が入った。「統一」は、キリスト教はもちろん、他の宗教、世界人類まで一つに束ねるという意味である。「神霊」は、真理とともに霊肉界の調和を通して、地上と天上に天国の基盤を立てようという意味を内包している。「協会」は、霊肉界統一圏を完成し、創造本然の理想世界を実現する団体という意味をもっている

11   今まで「世界基督教統一神霊協会」という看板をどうして掲げてきたのでしょうか。「基督教」という文言を付けてきたので迫害されました。それを外してしまえば、旧約聖書と新約聖書を捨てなければなりません。旧約がなければ新約は出てくることができません。それが誤ったので、新しい約束なのです。新約がなければ成約は出てくることができません。旧約の上に新約が出てきて、新約の上に成約が出てきたので、キリスト教と連結されなければならないのです

キリスト教はユダヤ教の延長です。それを捨てれば、お父様の立つ位置がありません。サタンの支配する国家的基準は長成期完成級ですが、それを越えて、お父様が自主的な基盤を獲得するまでは、キリスト教の上に、新約と旧約の上に立たなければなりません

12  お父様は、「世界基督教統一神霊協会」という途方もない名前を付けました。果たして統一は可能なのでしょうか。それは間違いなくそうなるでしょう。キリスト教だけを見ても、今まで四百以上の教派に分かれて争ってきました。しかし、私は、それがそれほど難しいものとは思っていません

ために存在するという鉄則をもった教派なら、またその教派以上にすべての教派が努力するなら、そこでは必ず一つになると考えます。もし異教だとしても、その宗教が主張する、その精神以上の努力ができるなら、その宗教まで一つになると考えるのです

主体でいらっしゃる神様がそのような方なので、そのような方の相対的な位置を守っていけば、自然に神様の力によって一つになれるはずです。この話は論理的です

したがって、一つになるというのは、それほど難しいことではありません。このような原則の上に立って、統一教会は始まりました

13   「統一」の「統」の字は、「指導を受ける」という意味ではなく、「統治する」という意味の字です。統治しなければなりません。統治するためには、統治できる内容がなければなりません。主体者としてすべてを備えなければならないのです。主体者は責任をもたなければならず、保護しなければならず、育成しなければなりません。ですから、統一教会は、天地に対する責任をもたなければなりません。その範囲が違ってくるのです。その次は、保護しなければなりません。悪の世界から侵犯されているこのすべての実相世界を聖別して、保護しなければならないのです。善のみの環境体制で保護してあげなければならないのです。悪いものはなくしてしまわなければなりません。それだけではなく、発展しなければなりません。統一教会は、統治して一つにしようというのです。統一教会を中心として一つにしようというのではありません。この全宇宙を創造した根本である神様、主体である神様を中心として一つになろうというのです

14   統一は簡単です。統一という言葉は、一番の福音です。皆さんが父や母の前に自信をもって出ようとすれば、心と体が一つになった立場に立たなければなりません。良心から見て、自分の体の行動から見ても、教育的な道理の基準から見ても、行動が外れていない一致した立場、一つになった立場においては堂々としているのです。統一された基盤の上では堂々としているのです。孝子は、父母の前で、情的な面でも、生活的な面でも、堂々としています。堂々としたその基盤の上で父母も生きようとし、その家門も立てようとするのが天地の道理です。ですから、「統一教会」という言葉、それ自体が偉大なのです。天地をすべてかき分けて調べてみると、これでなければならないので、お父様は「統一教会」という言葉を付けたのです

15   新約と旧約を通したすべての宗教のみ旨を代表し得る息子の宗教は、僕の宗教と養子の宗教と通じるのです。それが連結されると同時に、その息子の宗教を通し、父母の宗教圏を通して、霊界と神様の世界にまで公認される一つの体系が形成されなければなりません。そのようになる時、世界のキリスト教は自動的に統一されます。このような内容をもって「世界基督教統一神霊協会」という看板を掲げました。キリスト教の統一のための神霊的な協会です。「統一協会だ」と思うかもしれませんが、「統一協会」ではなく、「統一のための神霊的な協会」です。ですから、世の中では統一教会の人のことを「何かに取りつかれたような人たちだ」と言います。「統一教会の人たちは普通ではない」と言うのです。また、「統一教会の人たちは狂った人たちだ」とも言いますが、韓国語では「狂った」と「達した」は同じ発音です。ですから、これは目的に到達したという意味です。新約聖書と旧約聖書の内容に到達し、霊界にいるすべての霊人たちが、神様の愛を中心として成就することを願う、そのみ旨に到達した宗教なのです。ですから、統一教会は、神霊的な役事が続くのです

16   統一教会も、神様の協助を受けなければなりません。もちろん、韓国の善なる霊人たち、皆さんの善なる先祖のような善なる霊人たちの協助も受けますが、世界の聖人たちの協助を受けようというのです。範囲が広いのです

キリスト教だけの協助を受けていてはいけません。それは、あくまでもキリスト教系列の世界一つだけを考えることなので、それではいけないのです。全世界を一つにするためには、キリスト教の霊人たち、イエス様を中心とした霊人たちだけの協助を受けてはいけないのです。超宗派的協助を受けなければなりません。皆さんの善なる先祖たちの協助を受け、大韓民国の忠臣、烈女たちの協助を受け、ひいては全世界の聖人たちの協助まで受けなければならないのです

17   神様が人間の堕落以降、六千年の間、歴史を導いてこられた最後の目的とは何でしょうか。天地をかけて祝福してあげられる息子、娘を探し出すことであり、忠臣を探し出すことであり、烈女を探し出すことです。この歴史は、地上のある地域を中心として成就するでしょう。その場で心情を通して天の代わりに宣布する言葉に、天上が動くのです。その言葉が真の良心をもつ人々の心に伝播すれば、彼らの心は激動し、その動きがこの地上に起こる場合には、サタン世界は崩壊するでしょう。このような目標のもとに、世界に向かって、天地に向かってのろしを揚げた皆さんは、「世界基督教統一神霊協会」という途方もない看板を掲げた以上、絶対にこの一時代で倒れてはいけません。私たちは、天のお父様の心情を察して、個人を通し、家庭を通し、社会を通し、国家を通し、世界を通して、天宙にまで行ける内容を備えなければならないのです。それができなければ、看板を外してしまわなければなりません。今に至るまで皆さんが従っているお父様は、一生の目標を、この道を突破することに置いています

18   「統一教会」という名前をもって生まれたという、それ自体が冒険です。「統一教会」と言えば、すべての宗教を統一しようという教会です。どれほど膨大で、どれほど途方もない内容でしょうか。キリスト教の歴史を見ても、二千年の間、その伝統を選別していくために、数多くの学者や数多くの教派を通して新しい学説が出てくるようになり、またそれが良くないとしてひっくり返したりしながらキリスト教文化圏を形成し、一つの世界的基盤を備えました。そのようにしながら、キリスト教は数多くの教派に分かれたのです。キリスト教自体が統一できていません。このようなキリスト教を統一するだけでも問題なのに、宗教だけではなく、ひいては世界を統一し、その次は霊界まで統一しようというのです

19   皆さんが神様のみ言を絶対視し、神様と一つになって悪のサタン世界を打ち破り、サタン世界の主権を天の主権に戻すために闘わなければ、来られる主は、そのような闘いを再びしなければならないのです。再び来られる主が孤独な立場でそのような境遇に遭ってはいけないので、いかなる苦労の道でも自ら責任をもっていくという運動が、世界的に起こらなければなりません。そうでなければ、今後のキリスト教の行く道は塞がってしまうのです

それで、統一教会では何をしようというのでしょうか。神様のみ言を絶対的に信じる群れになろうというのです。いくらサタン世界の反対があったとしても、私たちは神様と一つになろうというのです。そうして、神様の愛を中心として、サタン世界を解放する運動をしようというのが、統一教会の使命です。この地上には民族を超越した新しいキリスト教の基盤がないので、世界的にそのような基盤を築こうというのです。昔、イスラエル民族がつくりあげられなかった主権形態の基準を、この地上で備え、再び来られる主が新しい世界的な役事ができる基盤を築こうというのです

20   宗教の真理とは、どのような真理でなければならないのでしょうか。内容だけを説明する真理は必要ありません。体と心と心情が「そうです」と言えるものが現れなければなりません。そのような主義、そのような理念が必要なのです。そのようなものが私たちの周囲から聞こえてきたり、関係を結んだりするようになると皆さんの心はそこに引かれていくでしょう。時間と空間を超越して引かれるような感じを受けるみ言があれば、皆さんは荷物をすべてまとめて、そこに従っていきなさいというのです。滅びることはありません。その人は歴史とともに残るでしょう

そのような人になろうとすれば、皆さんは昔のその姿ではいけません。ふさわしくない仮面を脱ぎ捨ててください。宗教家は宗教家の仮面を脱ぎ捨ててください。良心家は良心の仮面を脱ぎ捨ててください。宗教の看板を外してください。皆さんは今、統一教会に通っていますが、私は統一教会の看板を外す日を待ち望んでいます。統一教会の看板を掲げたのは、相対的な条件があるからであり、闘争相手が現れたからです。看板を外してしまわなければなりません。心の世界や心情の世界に何の看板が必要でしょうか。何もなくても自分自ら分かります。何もなくても、自らするようになるのです。それが、解決できる第一基準です

21   統一教会の創立目的は、私たちの教会だけに局限されたものではありません。統一教会の創立の日を、範囲を広げて、この国をみ旨の前に新しく立てるための日に連結しなければならず、全世界的には、この地上に天が願う天国を立てるための創立の日に連結しなければなりません。その使命を果たすために、統一教会が創立されました。統一教会は、今まで歴史過程において現れた普通の教会とは異なり、全体的な摂理に代わって総蕩減をし、総決算をすると同時に、未来における希望の標準の前に、神様が喜び得る勝利基盤を残さなければならない、全般的な責任を担っているのです

ですから、統一教会の創立は、一介の教派の創立ではなく、全体の摂理を身代わりして、み旨を中心とした一つの基盤を地上に立てるためのものです。このように創立された教会の基盤の上で、個人が天のみ前に新しく立てられなければならず、その個人を通して新しい家庭、氏族、民族、国家、世界へと進んでいける伝統的思想を強固にしなければなりません

食口の意味と使

協会は、真の愛の食口共同体を志向する。食口は、一つの食卓を囲んで座り、一緒に食事をする家族を意味する。食口たちは、神様の愛と創造理想を中心として、この地に天国を実現すべき使命をもっている。そして、イエス様が父母と親戚、教会、民族、国家、世界を愛せなかった恨を解いてさしあげるべき責任がある。そのため、統一家の食口は、理念と宗教、人種、国境など、すべての障壁を飛び越え、神様のもとの一つの世界を実現するために、全力で邁進しているのである

22   今日、選ばれた地上の聖徒たちが団結して、天の家庭から天の氏族、天の民族をつくりあげ、イエス様がイスラエル民族と四千年の歴史を代表したように、皆さんが民族の次元を超え、世界と六千年の歴史を代表して現れるようになれば、神様の審判の行使は撤回されるでしょう。このような基準を成就するために、私たちは「統一教会」という看板を掲げるようになったのです

また、私たちは、互いに「食口」と呼んでいます。私たちは食口です。私たちは、兄弟ならぬ兄弟として、氏族ならぬ氏族として、一つの兄弟と氏族になって、天倫のみ旨に責任をもつイスラエルを形成していっています。私たちは、このことのために、イエス様の悲しみを体恤しながら開拓の道を行かなければならず、サタンとの闘いの路程を経て、神様のみ旨を完成する立場にまで進んでいかなければなりません

23   私たちは、統一教会をつくりました。これは、失ったユダヤ教を再び捜して立てたのと同じことです。また、統一の一族たちは、失った氏族を捜して立てたのと同じことであり、失った兄弟を再び捜して立てたのと同じことなのです

そのような意味で、統一教会の私たちは一つの兄弟です。その兄弟の関係を経なければ氏族を形成できません。また、兄弟の関係を結ばなければ、教会も、民族も、国家も形成されません。ですから、この兄弟の関係を中心として連結させるべき使命が統一教会にあるのです。そのような意味で、「食口」という言葉が成立します。食口を通してこそ兄弟の関係が結ばれるので、この「食口」という言葉は、天国を造成するときの下地になるのです。ですから統一教会は食口という言葉を使います。したがって、統一教会の食口同士で、互いに愛を与え合わなければならないのです

24   統一教会は、「食口」という名称をもっていますが、皆さんの家庭でも、その一員を「食口」と言います。それでは、私たちは何を中心として「食口」という言葉を使っているのでしょうか。神様の愛と神様が人類を愛したいと思う高貴なその縁とその関係、そして、神様が本来探し求めている創造理想を中心として「食口」と言っているのです

ですから、私たちの関係は、歴史上のすべての人たちが願っていたものです。そのような関係が、私たちの「食口」という言葉の中にあるのです。このように、私たちは中心的な関係をもって現れたので、直接的に愛する立場にいたとしても、誰よりも近い立場で愛の関係をもって愛さなければなりません。また、間接的な立場にいたとしても、この世の誰よりも高い立場で愛さなければなりません

25   皆さんが寝ている時間にも、み旨を抱いた私たちの兄、姉、または食口たちの中には、眠らずに涙を流す人たちがいるでしょう。自分が満腹の時に飢えている食口がいるのです。ですから、御飯を食べても涙のにじむ心、眠っても涙のにじむ心をもって、彼らのために霊的な力で助けてあげ、祈りで訴え、祭壇をつくってあげなければなりません

「常に祭壇をきれいに掃除して待機していますので、夜昼も私を供え物として捧げられるようにしてください」と祈らなければなりません。自ら行動し、実際の責任を十分に果たすことができないならば、そのような内的準備だけでも共にして闘っていく皆さんになってこそ、患難の途上で十字架の過程を経る食口としての縁だけでもつかんでこられるのです。そうでなければ、一緒に闘っている彼らとは、遠からず分かれてしまいます。そうなれば、皆さんは脱落し、敗残兵になってしまうというのです。

第二節青坡洞本部教会

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第二節   青坡洞本部教

摂理の中心基地となった青坡洞・旧本部教

一九五四年五月一日、ソウル市城東区北鶴洞の三つの門の家に協会が創立されたのち、一九五五年一月十七日に、本部教会が城東区興仁洞二四一の四四番地に移転された。そして、四月二十七日には、本部教会が中区奨忠洞一街三七番地にある庭園付きの二階建ての建物に移転され、真のお父様がソウルの西大門刑務所から出監された直後、一九五五年十月七日には、龍山区青坡洞一街七一の三番地に再び移転された。それ以降、協会は、一九六三年五月三十一日、この住所で社会団体第二百六十一号として政府に登録された。真のお父様は、ここで血のにじむ祈りと精誠によって摂理を拡大させていき、昼夜、食口たちを教育しながら、世界に向けた本格的な摂理を準備されたのである

1    今日、世界で神様のために死んだ人がどれほどいるのかという時、エリヤが「ただわたしだけ残りました(列王紀上一九・一〇)と言ったように、その言葉しか語れません。天地の中で、このような父の心を中心として、堕落した世界に救いの基盤を広げてきた所が、このように悲惨でみすぼらしい青坡洞一街七一の三番地の統一教会です。ここを見つめながら、六千年の恨を晴らそうと歩んでこられた神様は、どれほど哀れでしょうか。そのような私自身を見つめると涙があふれます

皆さんも、神様以上に沈鬱な立場でそのような境地に入れば、涙があふれるのです。皆さんはそのような心情にどれほど接してみたでしょうか。情的に深い統一教会で、このような心情を捧げて神様と向き合えるかというのです。皆さんは、今までそのことを考えられずにいたのです

2    私たちが結んできた絆は、立体的な絆です。それは、今まで歴史上にあった何かの思想を基調として現れたものではありません。神様の心情と神様の創造理想を基調として、本性の人格を標準として始まった絆です。これは、あらゆる絆の核心なので、絶対視しなければなりません。その絆がここ青坡洞で現れました。「青坡」とは、青い丘を意味し、青い丘というのは理想を象徴しています。彼岸の理想世界を望みながら歌う人々が暮らす所、生き生きとした希望を謳歌するのが青坡洞です。ですから、平面的な四位基台を出発できる基盤が、青坡洞の統一教会本部だというのです

3    青坡洞の本部の場所には、昔、ある寺があったのですが、日本統治下の時代に日本人が所有していた建物です。これがまた、歴史的な建物なのです。一九五五年に、当時、西大門刑務所に入っていた私が釈放され、行き来する所もないので、非常手段を使って手に入れたものです。自ら用意したのです

最初、ここはお化け屋敷のようでした。真っ黒になっていた柱をすべて洗濯用の苛性ソーダで磨いたのです

歴史的な因縁がぶつかり合った家です。「この家から、怨恨に満ちた恨を解かなければならない。むちを打った群れを屈服させなければならない。(私を)追い出した群れを、逆に追い込まなければならない」という信念をもって歩んできました。今もその信念は失っていません。いくら一人でいても、天下をつかんで打てる気迫は、いつも宿っています

4    私たちは、韓国を生かせる旗を立てなければなりません。その旗が高々と掲げられる先々で神様の勝利をたたえるため、私たちはここに集まりました。この場所は、外見的に見れば何でもありません。お父様は、土窟のような、とても小さなみすぼらしい家で暮らしながらも、世界を一度指導してみようという夢をもっています。ある人は、青坡洞の本部教会の建物を見て、「統一教会は世界的に話題になっているにもかかわらず、本部の建物はどうしてこんなにみすぼらしいのか」と言います。お父様が見てもみすぼらしいのです。屋根か壊れてめちゃくちゃです。それでもそれをそのままにしておくのは、壊れたその瓦屋根を直すお金がないからではありません。屋根を直すそのお金を節約して、民族のために使うためです

これがいつか芽を出して育つ口には、この民族は統一教会を理解するでしょう。私たちが、この民族のために闘ってきたという歴史的な事実を知るとき、この民族は痛哭するでしょう。三千里の山河にそのような一日か来ることを宿願としながら、その日を迎えるために今も進軍しているのです。私の家に傷がつくことが問題ではありません。この国と、この民族に傷がある以上、私の家は安らかではいられません

5    これからは、本部の権威を守らなければなりません。本郷を見たいと思い、行きたいと思い、暮らしたいと思って、(本部を)慕わしく思う彼らに対し、何度見ても永遠に見たいと思い、また会いたいと思い、暮らしたいと思う心を一層かきたててあげ、士気を高揚させてあげなければなりません。神様に代わって全人類と向き合うことができる立場に立てなければ、本郷の人ではありません

そのように会いたくて訪ねてくる外国の食口たちを、一日、二日、あるいは一年でも喜んで迎え、額を突き合わせて暮らせる心をもたなければなりません。また、彼らが私を好きになれば、私が彼らと苦楽を共にして過ごそうという、ゆとりのある心の準備をしておかなければ、祖国であり本郷だといって訪ねてくる多くの外国の食口たちに、大きな傷を与えることは間違いありません

青坡洞は、今日の青坡洞で終わるのではありません。これから統一教会が建てられるあらゆる所から、数多くの食口たちがこの韓国を「本郷の地、祖国の地」と思いながら訪ね、それ以上に青坡洞を愛して訪ねてくるでしょう。かといって、私たちの現在の環境的な不備を落胆する必要は全くありません。今後、人々は、良い場所を選んで雄大な中で礼拝を捧げる所を慕うのではなく、正に青坡洞のここを慕いながら訪ねてくるのです

本部教会は歴史的聖

ソウル青坡洞一街の旧本部教会には、一階に礼拝堂、二階に真のお父様の寝室、協会本部事務室、式典会場、相談室および職員の宿所などがあった。当時、日曜日になると、聖殿が手狭になるほど食口が集まった。真のお父様のみ言によって恩恵が夕立のように降り注ぎ、礼拝の雰囲気はいつも神霊に満ちていた。毎日行われる劉孝元協会長の原理講義を通して、食口はさらに復活した。聖殿は、常に精誠を捧げる年配の女性をはじめとした食口たちであふれ、霊的な役事が相次いで起こった。祈りと涙と笑い、報告と証、原理講義と賛美の声が途絶えることのない、心情の溶鉱炉であった。また、ここは、真の父母様の聖婚式と四大名節の制定、真の子女様の誕生、三十六家庭、七十二家庭の祝福式などが行われた歴史的なゆかりのある、始まりの地である。全国の食口が旧本部教会に向かって敬拝をしたり、祈りを捧げたりするなど、すべての精誠がここに集められた。青坡洞の旧本部教会は、真の父母様の涙の跡がにじむ神聖な祭壇であり、歴史的聖地である。そのため、み旨を知る人であれば、世界各地からここを慕い、訪ねてくるようになる。真のお父様は、むやみに改造してはならず、原形を大切に保存しなければならないと語られた。ここは、たとえみすぼらしかったとしても、歴史的な事情と曲折がしみ込んでおり、懐かしさにかられる聖なる所だからである

6    統一教会の本部は、ソウルの青坡洞にあります。皆さんは、果たして本部にいる資格があるでしょうか。言葉では言いませんが、お父様は一日に数十回も涙を流します。お父様がどのように過ごしているのか、側近たちはみな知っているでしょう。お父様は一言語っただけで、ひたすら痛哭するのです。非常に敏感な人です。三千里半島に散らばり、この時間にもおなかをすかせた立場で哀切な祈りを捧げる食口がいて、自由のない環境で迫害を受け、困難に遭っている食口たちがいます。そのような食口たちに心情関係を伝達すべき媒介体が皆さんです。本部にいる人は罰を受けるとしても、より大きく受けます。ですから、お父様は新しいみ言を語るたびに、本部では語りません。先に地方に行って語り、それから本部で語ります。本部にいる人たちより、地方にいる人たちのほうがたくさん祈ります。本部にいる人として、「天地に恥ずかしくない」と言える人にならなければなりません

7    皆さんは、青坡洞の本部の写真を見たり、本部を思い出したりしただけでも涙を流す人がいることを知らなければなりません。また、皆さんは、痛哭しながら訪ねてくる彼らを、心から喜んで歓迎し、切実な心で接してあげ、心の友となって慰めてあげることができなければなりません

皆さんは、本部で生活しながら、今まで関係を結び、共に風霜を経てきたので、無事に天のみ前に祝福を受け、天のみ前に誇れる人たちになるようにしたい、というのがお父様の気持ちです

8    狭い本部教会にたくさんの人が座っているので、無理があることは知っています。しかし、これは私たちだけが知っているのではありません。神様はもっとよく御存じです。このような姿をこの世の人が見れは、あざ笑うかもしれませんが、お父様はそのように思いません。神様に「私たちの教会を建ててください」とは祈りませんでした。このような場にいることを、むしろ光栄に思っています

本部教会で、ある集会が行われるとき、入り口の後ろで押し合いへし合いしながら、先を争って入ろうと大騒ぎです。これを哀れに見るのではなく、これを御覧になる神様の切ない心情を慰めてさしあげるために、「一時はこのようなことがあってもよいのではないでしょうか」と祈ることができる心をもって参席しなければなりません。このような人がいてこそ、これからこの世を蕩減復帰できるのです

このような環境は、悲惨な境地にいる私たちの民族だけがもち得る真実な財産であり、蕩減復帰し得る材料になるのです。このような環境が、不幸の要件ではなく、むしろそれによって神様の内面の事情に深く入っていくことができ、私たちの教会を造ってあげたいと思う神様の心情的な基準を、私たちに連結させることのできる恵沢と恩賜の条件になるというのです

9    これから青坡洞の本部教会を、全世界の人々が訪ねてくるようになるでしょう。夢のような話ではありませ。私がここで暮らし、ここでみ旨を探し求めて歩んできたので、私が指導する理念に従って、国境を越えて訪ねてくるでしょう。家を新しく建てようとすれば、すぐにでも建てられます。しかし、この家は歴史的な行事をした所であり、天地が痛哭した所です。多くの人が痛哭した場です。血を流し、身もだえしながら訴えた場です。永遠に忘れられない曲折によって流された涙の跡がにじんでいる所です。涙がしみ渡った聖なる祭壇です。(それを知らずに)適当に入って、適当に出ていく所ではありません。お父様は、そのようにしませんでした

10   お父様が精誠を尽くしたこのすべての基盤を、皆さん自身が蹂躙してはいけません。統一教会が神様の六千年歴史を経て天のみ旨と向き合ってきた教会であるとすれば、この道を通ってきながら、涙の跡を残せる歩みのできない人は、天の人になることができません。私はそのように信じています

この床に涙しながら伏して祈るとき、この場が、千年、万年、父が待ち望んできた希望の一つの基盤であることを感じてみたでしょうか。骨髄からにじみ出て、血肉が結ばれた心情で、自分の一身のあらゆる意識を忘れ、涙だけで始まり、涙だけで終えることはできない悲しみと切なさが、自分を占領したことがあったでしょうか。そして、自分の環境を忘れて訴えた時が皆さんの生活の中であったかというのです。もしそれがないというとき、お父様がそれ以上の立場を通して基盤を築いておいた土台があれば、その土台の精誠が皆さんを讒訴するでしょう

お父様も、神様が億千万世の受難の道を歩まれながら、み旨のために尽くした精誠が私を審判するだろうと思います。その精誠を中心として、私が審判の場に立つので、それが最も恐ろしいのです。精誠を尽くした神様のみ前に、いかにして同情を受ける一時を私の環境に残すかという問題を中心として、この上なく身もだえする生活を、お父様はしてきているのです

11   本部に対して自分が願っていた基準と違うからといって、それを中心として悪く批評すれば、その人が今まで本部を慕わしく思った、その慕わしさが瞬時に消えてしまいます。もし「私たちの願った所がここなのか」と思い、口を開いてそのような言葉を一言でも言ったなら、その人がその時までいくら精誠を尽くしてきたとしても、その精誠を尽くしたものがそこで無効になってしまうのです

みすぼらしい本部を見ながら、「私が精誠を尽くしてきた所がこれでよいのだろうか。私がいかなる犠牲的代価を払ったとしても、この本部をどんな教会の本部よりも立派な本部にしよう」と決意して、涙とともにこの場で天のみ前に訴える人がいれば、彼は誰よりも次元の高い、天の懐に抱かれる良い同志になるだろうと思います。外国の食口たちなら、誰もがすぐにそのような思いを感じざるを得ないという話を、間接的に、または直接的にたくさん聞いてきました。外国の食口がそのように考えるのなら、本国にいる統一教会の食口として、この本部を見ながら感じる思いが、その外国の食口たちと比較して引けを取ってはいけません

12   青坡洞の本部教会で歴史にない聖婚式を挙行しました。ここで、歴史にないことをしたのです。「神の日」、「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を定めました。ここで一九六〇年に聖婚式をしました。三十六家庭を祝福し、七十二家庭を祝福しました。歴史的な場所です。この場所を汚してはいけません。ここに教会を建てようと思えば、すぐにでも建てられます。この建物を壊してしまい、韓国のどの教会にも負けない教会をすぐに建てることができるのです。お父様は、精誠を尽くさなかったり、神様を中心とした動機にならなかったりすれば、欲をもったり、何かを願ったりする人ではありません。真実の伝統の歴史というものは、(形だけの)手段や方法を通してできるものではありません

13   皆さんの目の前にある統一教会がすべてではありません。その背後の何を見つめているのかというのです。私は、世界の数十ヵ国を回りながら、数多くの宮殿をすべて見物しました。その宮殿に行って見るたびに、「私は小さい家で世界を生かそう」と思って帰ってきた人です

この小さな家で、世界の豪華な家で捧げる以上の精誠を尽くし、神様が記憶される精誠と心情の泉をつくれば、喉の渇いた人がこの泉を訪ねてくるのではないかというのです。岩穴でも山の尾根の高いどんな所でも意に介さず、湧き水があふれ出る所なら、誰もが訪ねていくのです。そこから出てくる水が真の湧き水なら、そこに都市もできます。そこは文化の発祥地になり得るのであり、歴史の起源地になり得るのです

14   本部教会の柱を見ると、私がある時、この柱を抱えて涙を流したことが思い出されます。歴史が回想され、当時、国が私たちに反対していた状況が目の前にはっきりと浮かびます。そのような刺激が必要です

ですから、愛する人の一枚のハンカチを一生の間、宝の中の宝として胸に抱き、愛の幸福を感じる人たちがいるのです。ほかの人であれば、持っていって簡単に捨ててしまうかもしれないハンカチですが、自分の命よりも貴く思い、何よりも大切にする人がいます。値段からすれば、いくらにもなりませんが、そこに愛が宿っている時は、無限の価値をもつようになるのです。

第三節真のお父様の精誠と信仰指導

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第三節   真のお父様の精誠と信仰指

精誠と投

真のお父様の西大門刑務所出監と、青坡洞一街の旧本部教会定着以降、一九五七年の前半期までは、新しい段階への発展のために体制を整える期間だった。真のお父様は、旧本部教会を中心に、食口教育に心血を注がれ、劉孝元協会長の原理講義とともに、伝道に注力する時期だった。また、よく野外に行っては訓練をし、親睦も深めた。信仰の熱意や礼拝、原理講義など、実質的な信仰生活は、この上なく熱烈なものだった。真のお父様は、ジャンパー姿で礼拝を執り行われ、狭い聖殿であったが、礼拝の時には昼夜を問わず、食口であふれ返った。その中には、十数人の大学教授をはじめ、高学歴の婦人食口と青年食口が多く参加していた。伝道活動は、自発的に行われていた

1    一九五七年から開拓伝道をする時、お父様は一日に二時間しか眠りませんでした。食口たちを連れて、夜を明かしながらひれ伏して祈りました。そうして、一九六〇年代に新しい世界へと出発する際、私自身が天のみ前に恥ずかしくない二十一年路程を勝利するために、七年間、その準備をしながら訓練したのです

2    統一教会をつくったあとは、部屋にかがんで座り、毎日のように七年間、午前三時、四時まで精誠を尽くしてきました。「私の精誠をすべて注ごう。倒れるまで注ごう。おなかがすいても注ごう。眠気が襲ってきても注ごう。天が公認するときまで」、このように心情で種を植えつけたので、今日、統一教会の教会員たちに受け入れられなかったとしても、この種は、神様の心情を通して世界に連結されていくでしょう。必ずそれがいつか刈り取られる日が来るので、韓国で刈り取ることができなければ、世界で刈り取られるだろうと考えました

3    統一教会の草創期に、お父様は鼻血を流しながら祈りました。「歴史的な血に代わって、万民が恥ずかしく思うだけでなく、万民が痛哭しても報いることのできない鼻血になり得るなら、それはどれほど光栄だろうか」と考えました。「万民が受けるむちを私が受けるのだと叫ぶ立場で打たれるなら、どれほど栄光のむちになるだろうか」と考えたのです。事実がそうです

それでは、愛国者の中で最高の愛国者とはどのような人でしょうか。国のためにむちを十回打たれた人と、百回打たれた人がいれば、百回打たれた人のほうが愛国者です。また、千回打たれた最高の愛国者がいても、もし一万回打たれた人が現れれば、その人が福をもっていくのです。それでは、一万回打たれた人の前に、十万回打たれた人が現れればどうなるでしょうか。その時は、福をもつまいとしても与えられるのです。福を受ける道は、その道しかありません

4    お父様が青春時代に犠牲になって準備したものを、皆さんが引き継ぎ、それこそ勝利の場、万国が称賛する場で、万国を愛し、万国のために生きていくことによって、お父様以上の栄光の場に出ていかなければなりません。座って何もせずに、ただ福だけを受けられるでしょうか。皆さんは、これから先頭に立たなければなりません。お父様は、草創期に、邪悪なこの世で流れていく人にならないよう、食口たちを昼夜訓練したのです

雨の降る日、ざあざあと降る雨に打たれながら冠岳山(クァナクサン)に登るのです。登る途中で滑ったりしても登るのです。登らなけれぱなりません。今後、国家と闘い、世界と闘う広大な戦場に進み出て、敗北者や敗残兵にならないようにするために訓練してきました。ありとあらゆる批判を受けながら、そのような訓練をしたのです

5    お父様は、一九五七年に食口を育てるとき、一対一作戦をしました。残るものは一対一作戦です。一人の前で講義をする時も、百人、千人の前で講義をすると考えてしたのです。その一人に数千、数万人の人がつながっていると考えました。私がどんな命令をしても聞くことができる人にするためには、私がそれだけの精誠を尽くし、そのようにできる動機をつくってあげなければなりません

そうなる時に、三段階の関係が結ばれるようになります。私と皆さんが一つになり、皆さんと地方にいる食口が一つになるのです。このようにならなければなりません。なぜ三段階になっているのでしょうか。神様とアダムが一つになり、アダムとアダムの息子が一つになったことと同じなのです。それが原理です。三段階の完成ができなければ、四位基台の完成圏が現れません。ですから皆さんは、自分と同じような人をつくっておかなければなりません

6    お父様は、誰かが私に心情的なことを一言だけ語っても痛哭します。そのような、心情をもっています。いつでも神様のことを思うと胸が詰まり、背骨がきしんで突き刺さるかのような、何かがあります。私自身も、どうすることもできません。そのような領域があるので、祈らなくても、生活のすべてが祈りの生活です。ですから、喉が締めつけられて倒れ、木にしがみつき、電信柱にしがみつく、このような神様の抑え難い唖然とする事情があり、悔しくて胸が痛む事情がいくらでもあるのです。ある時は、体を支えていられないほどの心情を体恤するのです

その理由を調べてみると、その時間に神様にとって悲しい出来事があるのですが、どの場所でそのようなことが起きるのかを教えてくれるのです。それは、私が中心的な責任をもって地上に来たので、霊肉を中心として収拾してあげ、心情的基盤を連結させなければならない使命があるがゆえに、必ず私に連結させて通告するのです

7    統一教会はみな、麦御飯を食べているので、乞食たちまでが「行っても麦御飯しかくれないので、行ってはいけない」と言った時もありました。一番下から始めて、一歩一歩踏み上がってきました。私は誕生日のお祝いをしませんでした。この地上に生まれた人の中で、誕生日も迎えられずに死んでいった人がどれほど多いでしょうか。そのようなことを考えると、私がそのような人たちに同情してあげ、霊界に行って関係を結ぶために、三年間、誕生日に断食をしたのです

また、昔は、この壇上では背広を着て説教をしませんでした。労働服から出発したのです。説教をする時、一人しかいなかったとしても、その一人を前にして、血の汗を流し、涙を流しながら精誠を尽くして説教をしたのであって、通りすがりの客を迎えるようにはしませんでした。今では、そのようなことが懐かしく思われます

8    お父様は、伝道するために、生涯にわたってあらゆるものを投入してきました。患者が病院に来れば、医者は、寝るのを忘れてその患者のために生命を投入する責任と義務があるように、お父様は、統一教会の食口たちを育てるためには昼夜も忘れるのです。朝御飯を食べていながら、これは夕御飯だと思うことがたくさんありました。そのような伝統的な歴史があります

皆さんが伝道するとき、流れていく水もとどまって称賛したいと思い、魚たちまでも、皆さんの食膳に上がれたらよいと思って同情し得る環境を残さなければなりません

そうなると、それらを食べて暮らしている人が動き出すのです。ですから、自分が責任をもつ所は、入ったことのない家がないほど、十回でも、百回でも回らなければなりません

神様は千回、万回、回りながら、人間を探し求めてきました。皆さんがそうしてこそ、神様の息子、娘となって、相続を受けることができるのです。ですから、皆さんも村々を訪ねて、百回、千回、回るのだと思い、回ることができなければ、涙を流しながら悔い改めなければなりません。人の心霊に責任をもつ指導者たちは、そのようにしなければなりません。そうして、正しい真の父母、縦的な真の父母と横的な真の父母の道理を代身者として受け継いでこそ、(食口たちは)曲がることなく、まっすぐな方向に合わせて位置をつかみ、従ってこようとするのです

9    お父様は、一九五七年頃、約四百人の食口のためにいつでも祈ってあげていました。最近は、私は祈らないようにしています。しかし、ある限界点まで越えていくためには、祈ってあげなければなりません。祈ると、どのような心霊状態なのかが分かります。祈れば、自分と関係している食口たちは枝のようなものなので、神様が必ず教えてくれます

精誠を捧げてみてください。食口たちのために精誠を捧げれば、彼らの心霊状態が傷つくときは、様々な姿で見せてくれます。うなだれている時もあり、ふろしきで顔を覆う時もあり、様々な姿で見せてくれるのです。気分の良いことがあった食口の場合は、すぐに笑う姿が見えます。また、悲しいことがある時もすぐに分かります

10   精誠を捧げる時間がなければなりません。明け方に起きる時は、休んでいた視神経が目覚める境界線にあるので、必ず見せてくれます。それを見て、「きょうは教会で何かが起きそうだ。きょうはこのような食口が来るようだ」といったことを感知しなければなりません

有能な医者は、患者の顔色だけを見ても、何の病を患っているのか分かります。歩く姿だけを見ても分かります。そのように、皆さんも霊的なアンテナを高くして、鑑定する能力がなければなりません。そのためには、精誠を捧げなければなりません

祈りというのは、本当に恐ろしいものです。無言でいながら、その環境を完全に占領するのが祈りです。お父様は、どこに行っても、自分の目標を中心として二十四時間祈ります。御飯を食べながらも、息をしながらも祈ります。それは、自分のためのものではありません。人類のためであり、神様のための祈りなのです

そのような一念を中心として、精誠を込めて四方を一周すれば、平衡を保って円形になります。私が祈ることによって上がっていけば、この圏内は天が主管し得る領域になるので、この圏内の良心的な人士たちは引っ張られてくるのです。会えば、我知らず引っ張られてくるのです。ですから、いつでも精誠を捧げなければなりません

草創期の熱気と愛の

一九五〇年代、真のお父様は、真心を込めて食口を指導された。夜が更けるまで食口の事情を最後まで聞いてあげ、多くのみ言を語られた。壇上に立たれるときは、涙を流しながら説教をされた。食口たちは、真のお父様のことを慕いながら常に教会を訪ね、教会に来れば、なかなか家に帰ろうとしなかった。このような神霊と真理、愛にあふれた雰囲気の中で、教会は受難を踏み越え、新たな跳躍の足場をつくり上げたのである

11   お父様は昔、食口たちを育てるのが一番楽しいことでした。夜遅くまで話をします。夜十二時になって、食口たちが帰りたくても、話をする喜びに酔いしれて語り続けるのです。お父様は、午前一時、二時、三時になっても話をするのですが、居眠りする食口たちもいます。それはどれほどの差があるでしょうか

講義しながら酔いしれ、講義しながら涙を流し、講義しながら感謝し、講義しながら考えるのです。地獄に行く生命でも、注射を一本だけ打ってあげれば、良くなってくるのです。それはどれほど興奮することかというのです。天が共にあるので、そこには電気が通るのです

何億ボルトが通っていくような力が共にあり、世の中が揺さぶられる気分がします。どれほど痛快でしょうか。そのような時は目をつぶろうとしても、つぶることができません。寝ていても、はっとして目が開きます

12   皆さんは、神様の心情に代わり、神様の創造的役割に代わって、人々を救ってあげるために、どれほどの努力をしたでしょうか。深刻な問題です

お父様は講義もし、説教もたくさんしましたが、一九五〇年代は、涙なくして説教した日がありませんでした。痛哭しない日がありませんでした。あらん限りの力を尽くし、血の汗を流して気が遠くなる境地や、「私は死ぬ」と言って倒れた境地から立ち上がろうとしてこそ、天が慰労してくれ、役事してくれるのです

ですから、皆さんが今まで出掛けていって働き、伝道をたくさんしたならば、寝る前にその村のために祈ってあげなければなりません。自分が責任をもつ郡ならば郡のために、最も高い山に登って祈り、高い山に登れなければ、最も深い谷に行って祈りなさいというのです。止まってはいけません。それから、最も神聖な所、聖殿に行って祈るのです。聖殿において涙が乾いてはいけません

13   歴史に残るのは、実力ではありません。実績が残るのです。準備が残るのではなく、基盤が残るのです。これはどこにでも適用されることです。これはお父様の言葉ではありません。学校や、どこに行っても同じです。ですから、語る時は、そのまま語ってはいけません。実績をもって語らなければなりません

講義する時は、痛哭してでも感動を与えなければならないのです。ですから、お父様は草創期、その激しい迫害の渦中でも、血の汗を流しながら説教をしました。喉が張り裂けんばかりに説教をして、集まった人に感動を与えました。きのう以上にきょう、より迫害を受けて疲れたとしても、これから行くべき道が残っているので、力を投入するのです。力を投入しようとするので、消耗戦をしなければなりません。ですから、私はあらん限りの精力をすべて注ぎ込むのです。そのようにして引っ張ってきました。なぜならば、実績を残さなければならないからです

14   一九五七年と一九五八年頃、お父様はどのような人だったでしょうか。どんなおばあさんでも、どんな人でも、その人の話を最もよく聞いてあげる先生でした。彼らから、「大韓民国で自分の話を一番聞いてくれる人」と言われていました

ですから、おばあさんたちが来ると、嫁いだ日から夫をどのように愛したかという話まで、すべて私にするのです。今まで話したかつたことをすべて打ち明けるのです。お父様を訪ねてくる人は、誰もが「先生は私の話をすべて聞いてくれる」と言いました。それからは話すことがないので、お父様が話すのです。ここに器があれば、その器を逆さにしてすべて出しきってから入れれば、入ります

話を聞いてあげる時には、本当に興味をもって聞いてあげます。夜を明かしながら聞いてあげるのです。話を心から聞いてあげ、また、心を込めて自分の話をするのです。それが秘訣です。そのように与え合うのです

15   私が伝道をする時は、八十歳になる老人が訪ねてきても、若い人に接する時と変わらずに接しました。そのような思いをもって接するので、天地において誰も嫌だとは言いません。そのような人が来れば、先祖に出会ったように喜んで接しなければなりません。自分の祖母より喜んで接するのです。天からすぐに(結果が)出てくることはありません。ですから、そのような気持ちで接しなさいというのです。そのおばあさんに接するのは、天の秩序的法度です。年を取った人と接することは、天の道理に従った橋を架けることになるのです。神様こそ、最も年を取ったおじいさんです

16   お父様に従ってきた人たちは、心情的な絆で結ばれているので、お父様を思いながら涙を流す人がたくさんいます。息子もいて、孫もいて、夫もいるのですが、涙をぼろぼろと流すのです。皆さんもそのようにすることができなければなません。食べ物があれば、とっておいて、あとで一緒に分け合って食べようとし、ひたすら和動して、大変なことを解いてあげようとし、困難なことがあれば、私が開拓してあげようとします。ですから、町中で大騒ぎになり、国から追放しようとするにもかかわらず、お父様に従ってくるのです

昔、私たちにはそのような雰囲気がありました。伝道に出掛けて、人が伝道されれば、自分を伝道してくれた人に無性に会いたくて、毎日教会にやって来るという雰囲気がありました。「そのような雰囲気をつくって指導しなさい」と言ったのです。新しく入ってきた人たちを、そのように指導しました。自分の家よりも良いので、家に行こうともせず、学校よりも良いので、学校に行こうともせず、職場よりも良いので、職場にも行こうとせず、みな教会に集まろうとしました。それが問題になったのです

17   草創期、統一教会の女性たちは、教会に行きたくて行きたくて仕方がありませんでした。心の中で、「ああ、行きたい」と声を張り上げるのです。その声が聞こえ始めます。声が聞こえると、もう別世界の言葉を語り出します。霊界に通じるのです。神様の愛が電気だとすれば、その愛に通じ得る電線が連結されているのと同じです。その境地に入るようになれば、もうすべてが見えるのです。自宅にいながら、お父様が何をしているのかすべて分かります。「きょうは気分が悪いので、私が行けば先生も気分が良くないだろう」ということがすべて分かるというのです。それでも、行かないわけにはいかずに訪ねてきます

この青坡洞の峠は、不思議な峠です。磁石が南北に向くのを誰も止めることはできません。「教会に行かない」と決心し、部屋から出て庭をぶらぶらしようと思っていたのに、門を開け、いつの間にかバスに乗って教会に向かっているというのです。我知らずに来てしまうのです。そのように不思議な力があります。そのようなことを感じたことのない人たちは、本当の愛が分からないのです

18   統一教会員たちは、追われに追われる最も哀れな人たちです。雪の降る冬の夜に、家から追い出された哀れな境遇の食口たちや、追い出されて行き先もなく、壁にすがるようにして祈っていたその人たちを私は知っています。このような恨が胸に残っているのですが、天の耐え忍ぶその心を私は知っているので、反対する家族を赦しました

彼らが知らずに犯した罪なので、赦すのです。様々な事情があります。その胸に天と地の恨を抱いて歩いていることを誰が知っているでしょうか。私はそのように歩んできながら、多くの涙をのんだのです

継続して行われた原理講

草創期は、劉孝元協会長が伝道対象者に対する原理講義を担当した。初めての人は、夕方に講義を聞かせ、三日が過ぎた人は、大抵三日間、泊まり込みながら、修練会方式で講義を聞いた。体が不自由な劉協会長は、横になったまま用紙に講義内容を書き記して講義を行った。講義のあとには、真のお父様が全身汗だくになるほど、渾身の力を尽くしてみ言を語られた

新しい食口が、この過程を通して深奥な原理のみ言に感化を受け、感服して、み旨の道を行くことを決断した。劉協会長は、一日に十八時間講義をするという記録を立てたこともある

19   昔、劉孝元協会長は、三年八ヵ月の間、一日も休まず講義をしました。そのような歴史があります。彼は不自由な体でそのようにしたのです。それを考えると私は無慈悲な人です。今のように食口がたくさんいたわけではありません。新しい人が来ると、その一人を座らせて講義し、新しい人が来なくても、そのまま食口たちに毎日続けて講義をしたのです。そのようなことを見た人もたくさんいるでしょう

20   劉孝元協会長に講義をさせているとき、私は寝ませんでした。中二階の部屋に座って、すべて聞いていました。誰が来て聞いているという報告をすべて受けました。夕方、講義をしに降りてきて、話し始めてから一分もしないうちに居眠りするのを見て、お父様は涙を流して祈りました。そのような涙の交わりがあったのです

そのような事情かあります。そのように統一教会の歴史はとても悲惨でした。何ゆえに私がそのようにしなければならず、何ゆえにその人がそのようにしなければならないのかというのです。それは神様ゆえです。それでも霊界が役事しないとすれば、霊界はないというのです

21   教会に人がいなくても、戸を開けて、痛哭しながら説教をしてみてください。そうすれば、周囲の人たちが、どうしたのかと聞いてくるでしょう。人々がそれを見物するために入ってくるのです。その時、「私の話を少し聞いてみてほしい」と言って、講義をするのです。皆さんが、涙を流しながらそのようにしてみなさいというのです

その涙は、誰のために流すのでしょうか。国のため、人類のため、世界のため、神様のために流すのです。その道しかありません

もし講義をしている途中で倒れたら、私が看護してあげましょう。そのようにして死んだら、私が葬儀もしてあげます。そうすれば、霊界に行っても弁明の余地があるのです。「お父様の言うとおりに、喉が張り裂けんばかりに講義をしていて倒れた」と言えます。ですから、それはどれほど深刻でしょうか。生きるか死ぬかの覚悟でしなければなりません。そのようなことをしたので、神様がお父様を押してくれたのであり、世界的な人物になったのです

22   一週間、統一教会に来て、修練を受けてから市内に出ると、何千年も前の電車が走っているとか、バスが逆に走っていると思うほど、全くの別世界に見えます。人々が前に歩いていくというのに、すべて後ろに歩いていくように見えるのです。それほど変わります。そのように感じた人たちに、「統一教会に来てはいけない」と言えば、来ないでしょうか

昔、草創期に、正門を閉めて鍵をかけても、垣根を乗り越えて入ってきたり、「入ってきてはいけない」と正門から追い出しても、裏門から入ってきたりして、わんわん泣きながら夜を明かして祈るのです。夜を明かすのが常でした。そのような雰囲気が必要です。大騒ぎになるようになっていました。

そのためには、昼夜なく講義をしなければなりませんそれで、劉協会長に「一日十八時間講義をしなさい」と言ったのです

第四節韓国百二十地域の最初の四十日開拓伝

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第四節   韓国百二十地域の最初の四十日開拓伝

百二十地域における四十日開拓伝

真のお父様は、一九五七年七月一日、食口たちと七日断食を共にされたのに続き、七月二十日から全国百二十ヵ所に二人ずつ四十日開拓伝道師を派遣された。このように、本格的な伝道活動によって食口たちが増え、地方の至る所に教会が建てられると、一九五八年には、地方伝道体制を強化された。一九五九年には、協会主管の四十日全国伝道師修練会が三次にわたって開かれ、以後、継続して四十日原理修練会が指導者の教育課程として実施された

1    神様のみ旨を成就してさしあげなければならない私たちは、どのように生きるべきでしょうか。自分自身の内外の問題ばかりを解決する人生になってはいけません。自らの問題を越えて全体的な問題と関係を結び、永遠の価値を実現させようという責任感をもって立ち上がらなければならないのです。そのようにするとき、皆さんは天的な福音のみ旨を成就してさしあげることができます。皆さんがそのような使命感をもって伝道の道に進めば、神様が共にいらっしゃるのです。皆さんがそのような心をもって「ために生きる生活」をすれば、そこには必ず愛の再創造の役事が展開するというのです

2    四十日特別活動は、一九五七年七月二十日から始まりました。韓国統一教会の全食口が、七月一日から一週間断食を始めました。一週間断食をしながら出発したのです。お父様もその時に、断食をしながら四十日特別活動を宣言しました。統一教会では、常に七月二十日を中心として、夏季四十日伝道活動をします。この時期は、学校も夏休みに入る最も暑い時です。一番暑い時に、み旨のために汗を流しながら努力しなければなりません。それが蕩減条件を立てる上で有用なのです。大きな蕩減条件になります。ですから、その期間を選んだのです。最も大変な時です

伝道に出る時は、お金を持たずに行きます。お金があれば、すべて一ヵ所に集め、ほかの人に分け与えてから行くのです。自分の生活は現地に行って解決するのです。血の汗を流して労働をしたり、何かをしたりして生活しながら、その地方の人々を助ける運動をしなければなりません。それが訓練です

一九五七年に、統一教会として初めて百二十ヵ所に、(食口を)伝道に送り出したのですが、その時は、お金は行きの交通費だけを持ち、服も二着だけ持たせました。「四十日の間、断食もするのだから、行って、はったい粉を食べながら、四十日間、活動しなさい」と言ったのです。そして、「働きながら食べる物をもらうところから始めなさい」と言いました。そのように(して任地に)行って、それを克服してきました。人間として最低の立場から始めたのです。お父様は三年間、誕生日に断食をしました。食卓もなく、御飯を床に置いて食ベました。また、おかずはキムチ、しょう油をはじめ、三つだけ食べました。このようにして上がってきたのです。蕩減復帰です。服も、もらい物を着たのです

4    草創期に食口たちが伝道に出ていく時、不平を言ったり、お金のことで愚痴をこぼしたりしながら出発することはありませんでした。人から批判されながらも、一人の生命を救おうとして、明け方に町中のあらゆる犬からほえられたのです。ですから、町の人々から後ろ指をさされて、その町では働くことができないので、早朝に起きてバスに乗り、働くために十里の道を行かなければなりませんでした。そうして、町に帰ってきて、働いて稼いだお金でポン菓子を買い、宴を開きながら人を集めて講義をしました。そのようなことが輝かしい摂理史の資料として残っています。初代教会の歴史に残り得る資料を残したのです

5    一九五七年から伝道期間を定めておき、伝道に出掛けました。互いに道端で出会って喜んだその時間や、また互いに別れる時、山腹を巡りながら再会を期して涙で離別した時間は、皆さんが億万のお金を出しても買えない時間です。それにどのような価値があるのか、皆さんは分かっているでしょうか

この上なく貴い事情をすべて流してしまうとすれば、何が貴いと言えるのでしょうか。今後、国内だけでなく、世界的舞台まで、皆さんはお父様と同行し、万民の前に天の伝統を誇り、新しい思想を植えてあげられるみ業をしなければなりません。それでは、皆さんはいつその材料をつくり、いつその材料を収拾するのでしょうか。この時しかありません

6    一九五〇年代、統一教会を出発する以前に、お父様は多くの人にあらゆる訓練をさせました。断食をさせ、開拓伝道をさせながら、すべての分野の訓練をしたのです

お父様に会いたくて訪ねてきて、帰るのが遅くなれば送ってあげ、夜を明かして行ったり来たりすることがたくさんありました。それはお父様だけでなく、食口たちもそうでした

当時、韓国には自動車があまりなく、みな歩いて通いました。月夜や夜明けに、互いに涙を流しながら、国のために、天のために、未来のために誓って出発した、そのような忘れられない事情がたくさんあります。そこから愛国心が生まれるのです

この世で初恋に夢中になる、それ以上に次元の高い霊的雰囲気の中で活動していたことが、いつも懐かしく思われます。そのような絆をいかに誘発するかということが、教会を指導する人たちの責任であり、自分たちの活動目標として立てるべき事柄です。その伝統基盤をいかに連結させるかということが、皆さんが努力すべき標準なのです

お父様が、そのようにこの基盤を築いてきた伝統を尊重し、伝統と教育と行動を考えながら、自分の後継者たちを育てなければなりません。今いくらうまくやったとしても、未来の後継者たちが今よりも劣るならば、落ちて下がっていくのです。今よりも未来のほうがさらに良くならなければなりません。未来のために今、投入しなければならないことを忘れないでください

7    責任者たちは、み言の宣布も重要ですが、必ず実績を刈り取ることができなければなりません。蒔く責任者になるのではなく、蒔いたあとに刈り取る責任者になりなさいというのです。刈り取るまでには三年以上かかります。すぐに刈り取ろうとしてはいけません。それが原理です。ですから、三年苦労しなさいというのです

それで、お父様は、一九五七年に百二十ヵ所の伝道地を設定し、派遣しながら、「皆さんは、三年間、服役し、そこに売られていって奉公するという立場で、村なら村に行って忠誠を尽くしなさい。そして、彼らに忠誠の道理を教えてあげなさい。それだけでなく、実践して見せてあげなさい。そうすれは必ず、皆さんが語らずとも、自分たちができることを引き継ごうと言ってくるだろう。誰も彼もがそのように言ってくるとき、皆さんはその村で完全に定着することができる」と言ったのです

草創期の伝道活動の雰囲

真のお父様は、全国各地に伝道隊員を派遣するに当たり、片道の交通費と服二着だけを持っていくようにされた。また、「麦御飯より良い食べ物を食べてはならない」と言われた。伝道隊員たちは、はったい粉を水に混ぜて飲み、時には犬の餌をもらって食べながら、最低の位置で開拓伝道をしたのである。一日働いて一食食べるのがやっとだっ

その時代、伝道隊員は、満足に食べることができず、歩きながら足がもつれることも多かった。み言を伝える前に、朝早くから起きて村の掃除をしたり、畑の草取りなどをしたりしながら関係を築いた。草創期には、大部分の人がすべてを置いて出てきたので、家族や世の中の友達、隣人から激しい反対を受けた。一九六〇年以降から、食口たちによって、ソウル市内の主要な公園をはじめ、地方の各都市でも街頭での伝道活動が活発に展開された

8    私たちは、年を取った方々や幼い人たちを問わず、これまで血のにじむ闘争をしてきました。あらゆる試練が前途を塞ぎましたが、ただみ旨だけを考えながら打ち勝つてきました。食べることもできず、着ることもできず、涙と血と汗を注いで足場を築きました

私は皆さんに、三年路程を出発する時、罪人のように行こうとお願いしました。ですから、三年間、罪人ならぬ罪人となって歩んできたのです。私は、皆さんがサタンに奪われないように、後退しないように闘ってきたことを知っています。任地を守るために、血を売ってまで闘ってきた食口がいることも知っています。皆さんは、制限された環境で苦労をしましたが、その苦労には途方もない背後がありました。その苦労は、前途のためにあらかじめ備えたものなので、新しい方向に向かっていく基盤になるでしょう

9    当初、統一教会が伝道する時は、人の口では伝道しませんでした。夢のお告げを通して、「統一教会に行きなさい」と言われ、行かなければ(霊界から)棒でたたかれたりして伝道された人たちがたくさんいます。霊界から伝道したのです。霊界から息子、娘に、「どこそこに行けば、文先生という人に会えるだろう」と言われて、伝道されました。行こうとしなければ、追い立てたり、追い出したりしてでも、必ず行かせました。そのようにして集まった人たちが統一教会の食口です

10   草創期に伝道に出ていた責任者たちは、迫害が激しいので、これ以上ないほど寂しい思いをしたのです。互いに消息が分からず、気になれば、中高生や大学生たちを通して連絡を取り合って会うのです。ところが、その距離が大概、五里、十里です。「いついつに二人で会おう」と言って中間で会うことになります。五里の道なら、二・五里ずつ歩いてきて会うのです。(しかし、)会う場所があるでしょうか。ですから、十字路や派出所の前、橋の下など、名が知られている所で会うのです。そのようにして会っても、食べる物があるでしょうか。そのように久しぶりに会ったなら、昼食を食べるとか、夕食でも一緒に食べなければならないのが人情の常であるにもかかわらず、そのようにできない立場で別れるのです。その中には、兄のような人もいて、姉のような人もいて、弟や妹のような人もいます。そこで交差する心情の切なさは、到底言葉に表すことができません

ですから、過去に自分の兄弟や父母を中心として暮らす中では、もつことのできなかった情熱を、投入するようになるのです。「今度来る時は、何としても昼食を御馳走してあげなければ。鶏肉を買ってもてなそう!」と思ったあと、一週間働いてでもそれを準備するのです。そのようにしながら、働いたという話はしません。あとで、働いてそれを買ってきたという事実を知った時には、血が沸くのです。感激して涙を流すようになれば、口元が先に震えます。そのような境地で再び会えば、二人で抱き合い、祈りながら張り上げる声がどれほど大きいか分かりません。近所の人たちが周りをぐるりと取り囲んでいることも知らずに祈った、当時のそのような出来事は、すべて歴史的な資料となるのです

11   韓国で開拓地に行って伝道した当時は、一日働いた稼ぎで一日暮らすのが大変でした。一日働いた稼ぎで、一食食べて暮らすのが大変な時だったのです。若い人たちが道を歩きながら、足がもつれることがいくらでもありました。伝道師たちがある町に開拓に行ったのですが、食べる物がないとき、その町で働こうとすれば、町にうわさが立って迫害がひどくなりかねないので、仕方なく十里以上離れた所に行って働いた人たちがたくさんいます

伝道師たちが本部からお金を持っていって伝道したのではなく、そのような事情の中で開拓伝道をしたのです。それでも、絶対に食口たちに自分の事情を話しませんでした。ですから、食口たちは分かりません。六ヵ月たち、一年たってからそれを知っては、痛哭するのです。そうして、指導者に弁当を持ってきて食べさせてあげる運動が起きました。ですから、その御飯を食べなければならない指導者の心はどれほど悲惨でしょうか。また、弁当をくれたその学生が、学校に行って昼食を抜くことを考えざるを得ないのです。このような中で、互いにそれを克服しながら、「私たちは死んでもみ旨を成し遂げよう」と言って、心情的な連帯感に浸つていたのです

12   統一教会の成和学生会は、中高生たちで構成されているのですが、その中高生たちが統一教会の伝道師たちを食べさせて助けました。父母の反対があまりにもひどいので、父母が作ってくれた弁当を順番に伝道師に持っていってあげたのです。学生たちが三十人とすると、一日に三人ずつ弁当を置いていけば、十日間に一度回ってくるので、朝昼晩と順に持っていってあげるのです。このように学生たちの弁当を食べながら開拓した歴史があります

それを父母が来て見たとすれば、どれほど痛哭したでしょうか。しかし、それが問題ではありません。国をつかみ、み旨の世界のためには、そのようにしてでも、これから迎える栄光の日を称賛しようとしたのです

13   統一教会に入る前までは、誰よりも良い弁当を持って通っていた学生が、統一教会に入ってからは、弁当を持たずに来て、昼食の時間は一人で校庭にこっそり隠れていて、また教室に戻ってくるのです。それが友達に見つかったりもしました。自分の親に知られたら大変なことになるのです

一度や二度ではなく、ずっとそのようなことをしているので、友達が彼の母親のところに行って、「息子さんは、以前は弁当をきちんと持ってきていたのに、最近、統一教会に入ってからは持ってきません。なぜ、お母さんなのに、昼食も用意してあげないのですか」と話す出来事が起きたのです。それで、その母親が息子に、「お前、学校で弁当を食べていないそうじゃないか。どうなっているんだい」と問い詰めれば、事実を話さざるを得ません。親たちがこの事実を知るようになると、ますます強く反対します

そのようなことが全国的に頻発しました。その上、全国のキリスト教徒たちは、「神様の羊を奪っていくおおかみの群れが入ってくる」と言いながら反対しました。そのような環境で、彼らを指導していたお父様の心は、いかばかりだったでしょうか

14   今まで私たちは、外的な分野を中心として、私たちの前を塞いでいる国の恨多き壁を崩すために、受難の道を歩んできました。お父様は、この国と、この民族に対して恨みを晴らそうという気持ちもありましたが、神様のみ旨を知っているので、いかなる困難も甘んじて受けてきました。

この三千里半島を、誰が血の汗を流して守り、神様の心情を抱き締めて、誰が忠誠を尽くしてきたのかという時、神様を中心として、私たちだけが主張できる内容をもっているので、私たちだけが、訪れる天運を迎えることができるのです。

第五節日本とアメリカの宣教

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第五節   日本とアメリカの宣

海外宣教師の派

真のお父様は、四十日伝道を通して韓国内の伝道活動がある程度定着すると、海外宣教に取り組まれた。西大門刑務所における受難の翌年である一九五六年、忠南(チュンナム)の鶏龍山(ケリョンサン)・甲寺(カプサ)で祈りを捧げる中で、日本がアジアで再び重要な位置に立つ時が来ることを予感されたお父様は、ソ連と中国が北朝鮮を後援する立場にいるので、その難局を打開する一つの道を開くためには、日本に宣教師を送らなければならないと考えられた。もし、日本が共産圏に立てば、必ずや韓国が脅威にさらされると考えられたのである。そのため、怨讐の国だった日本を愛することによって、神側の相対国家として立てようとされたのだった。困難な条件の中でも、日本に宣教師を送らなければならなかった意義がここにあった。これとともに、イエス様当時のローマに当たるアメリカにも宣教師を派遣し、世界宣教の中心国家として立てようとされたのだった

1    お父様は、自分の父や母に侍るように、心から人々に侍りました。さらには、社会や国家復帰のための基台を立てるために、面識のない人たちにもそのように接してきました。このような原則のもとでは、自分の国家だけを気遣うことはできませんでした。最もひどい迫害を受けている中でも、祈りと関心は韓国のためのものではありませんでした。日本とアメリカに宣教師たちを送るために最善を尽くしたのです

日本に宣教師を送る当時は、韓国と日本の間に国交正常化が成立していませんでした。ですから、宣教師は、正常な手続きを踏めないまま、小さな船に乗ってひそかに日本へと渡っていかなければなりませんでした。アメリカに宣教師を送る時も、私たちがどれほど多くの苦難に遭ったか十分に見当がつくでしょう。その当時、私たちがアメリカに宣教師を送るということは、誰も考えられないことでした。そのような環境だったにもかかわらず、私はアメリカに原理の種を蒔くために、誰かを送らなければならないと決心し、日夜、苦労を惜しみませんでした

復帰摂理の原則は、外部から内部へと訪ねてくるのです。したがって、国が神様から栄光の祝福を受けるためには、摂理のみ旨が外部から内部へと訪ねてくるように、事を進めていかなければなりません

2    統一教会が韓国政府に登録された当時、大きな争いが起きました。その時が一九六三年です。お父様はこのような日が来ることを知っていたので、これに備えた天的な基準を立てなければならないと考えました。それで、海外宣教を準備したのです。それは、アベルが拘束されれば、カインを立てて蕩減復帰できるように準備するためでした。昔は、カインがアベルを殺害しましたが、今や外国を中心にカインの祭壇を形成してアベルの祭壇を敬うようにすることができ、アベルの祭壇を救うことができるのです。そのような世界的な関係を結ぶために、追われに追われながらも外国に宣教師を送ったのです。冒険をしながら、アメリカに三人、日本に一人を送りました

私たちは、反対する自由党の政権下で成長してきました。自由党政権は、統一教会がなくなるものとばかり思い、このように発展するとは思わなかったでしょう。このように成長するまでには、血のにじむ歴史と、皆さんには想像もできない内容があります。このような時であるほど、必ず国家的な弾圧があるので、それに備えるための内的な準備をしなければなりませんでした。このような責任を感じて、アメリカと日本に宣教師を送り、ドイツにも送ったのです

3    私たちは、世界の前に作戦が必要です。もつれ合った世界を、真の父母を中心として立て直すことができなければなりません。世界的な蕩減復帰路程を越えていくべきときには、五パーセントの責任があります。私たちは、国家的基準を立てて世界の様々な国に宣教師を派遣しました。イエス様当時のイスラエルのような韓国で定着し、世界の中心だったローマのようなアメリカで定着しました。ですから、ユダヤ教とイスラエル民族に追われ、迫害され、悲しみに暮れたイエス様の事情とは違います。皆さんは、過去数年間にお父様が語ったことが、今になってどうなったかを知っています。私たちが億万のサタンと闘って死んでも、その亡骸がカナンの地に埋められさえするのであれば、それは栄光にならざるを得ないのです

4    私たちは、韓国に対する使命だけではなく、世界に対する使命も果たさなければなりません。統一教会を発展させるために、お父様は自由党政権の迫害を受けながら、日本とアメリカに宣教師を派遣しなければなりませんでした。今とは違い、当時は韓国政府が迫害し、反対しました。ですから、宣教師を密航船に乗せて日本に送ったのです。しかし、お父様は神様の摂理から見ていました。もしそのようにしていなければ、今日のこのような勝利基盤は、絶対につくることができなかったでしょう

5    大韓民国が生き残り、さらに、日本を生かし、世界を生かすためには、強力な宗教理念と思想をもって、日本国民を中心とした文化的中心都市、あるいは中心基盤の上にいかに定着化するかが問題でした。日本に行って糾弾されるのではなく、日本の人たちを教化して、いかに私たちが主体的な立場で定着化できるか、それだけが、未来において韓国が生き、日本が生きる道だと考えたのです

日本に宣教に行ったその青年は、日本で身を潜める立場で統一教会を開拓しそれこそ新しい基盤を形成するようになりました。そうして、私たちは、国民的な運動よりも、何としてでも日本の為政者たちへの道を突破しようとしました。韓国を日本とアメリカに、何としてでも連結させなければなりません。こうして日本に影響を与えるために、統一教会は活動を始めたのです

日本に宣教師派

真のお父様は、一九五八年五月三十日の早朝、忠南の鶏龍山・甲寺の裏庭にある松林で、崔奉春(日本名、西川勝)に二時間近くみ言を語られたのち、日本宣教師として派遣することを決定された。誰よりも日本を愛する心で、ただ日本を救うために、そのようにされたのだった。崔宣教師は、抑え切れない胸の高鳴りと感慨を抱いて、一九五八年七月十五日、釜山を出発し、いくつかの場所を経て広島の呉港に向かう航海の途中で、日本の当局に不法入国者として捕らえられ、収容所への拘束、病院への入院、病院脱出ののちに東京に到着し、その後、み言を伝えた。そうして、一九五九年十月二日、新宿区戸塚町二丁目八五番地で行われた最初の礼拝をもって、日本教会が出発したのである

6    日本とお父様は、一対一で見れば怨讐です。日本統治下で、たくさんの拷問を受けました。しかし、神様は怨讐を打てとは命令されません。怨讐に着る物がなく、食べる物がなければ、「その人のために施しなさい」と言われるのです。ですから、お父様は、日本に崔奉春を宣教師として送りました。日本全体が反対し、韓国自体が反対することを知っていました。しかし、お父様は、数十年後にはそれが韓国のためになり、日本のためになることを知っていました。両国の国民が手を合わせて感謝する日が必ず来ることを知っていたので、いかなることがあっても日本に宣教師を送ったのです

統一教会に対する弾圧が絶頂にある時、日本宣教師の派遣を決定しました。一人の人手も惜しいその時に、涙をこらえて日本に人を送ることには、誰も知り得ない苦悩があったのです。死を覚悟して成し遂げた業績は、日本の歴史上において消し去ることができない事実です

今になって韓国は、お父様に対して感謝しています。神様は日本を愛しています。お父様も、日本の歴史上、誰よりも日本を愛しました。日本人以上に日本を愛するのです。神様が愛する日本であれば、日本人以上の心情で日本を愛さなければなりません

7    日本は私にとって怨讐ですが、私が日本をどの国よりも愛することによって、今後、アジアで神様のみ旨を展開できる相対的基準になり得るのです。そのようにしなければ、主体国の前に、相対的国家を探し出すことはできません。日本には歴史的にそのような使命があるので、誰よりも愛する心をもち、日本を救うために借金しながら宣教師を送ったのです。それは、日本のためでした

8    私たちが日本の宣教事業を開拓した時が一九五八年です。その時は自由党の政権下にあり、韓国と日本の国交正常化に激しく反対していた頃でした。そのような状況で、大韓民国が生き残るため&#