第十一篇 礼式と名節

第一節 侍る生活

 

 

天聖経  第十一篇 目次 第一章 侍る礼法

第一節 侍る生活

 

1 これから、皆さんは、侍る生活をしなければなりません。今までは信じることによって救いを得る信仰生活をしましたが、これからは侍ることによって救いを得る時代です。本来、人間が堕落しなかったならば、神様に侍る道を行くのです。侍るときは、皆さんの生活と心で侍らなければなりません。皆さんがどこかに行くとき、必ず前には真のお父様が、後ろにはお母様がいることを感じなければならず、左右と上下には必ず天が共にあることを感じなければなりません。

 

統一教会員たちが何かの公的な責任を負い、任務を遂行するに当たって難関にぶつかり、独りでは解決できない問題があるときは、水を浴びて心身を清め、天のみ前に祈りながら問い掛ければ、教えてくれるようになっているのです。皆さんの心情の程度が、天の標準とする基準まで行っていないために教えてくれないのであって、その基準まで行けば教えてくれるようになっているのです。すべてのものを委ね、祈る気持ちをもってそこにぶつかれば、直感を通して自らの行く方向を提示してくれるようになっています。

 

 

 

2 これからは、侍って暮らす侍義時代です。侍ることによって救いを得るのです。今までは蕩減によって救いを受けました。天に侍って暮らせる侍義時代に入らなければなりません。神の国がなければならないのです。イエス様は、国がなかったために追い出されたのです。皆さんも同じです。先生のみ言をつかんで、歩んでいかなければなりません。み言を否定するサタンの権勢はありません。神様を中心として、そのみ言と霊界と歩調を合わせ、実体的家庭ができていれば、その家庭を中心として、いくらでも拡張できるのです。家庭がないのに、国がどのようにしてできますか。私たちの家庭から私たちの氏族が生じ、私たちの氏族を中心として私たちの国が生じ、世界が自動的にできるのです。その版図が、祝福を受けた家庭を通して形成されるのです。

 

 

今は神様に侍って生きる時代

 

3 統一教会では、信仰の天国を語りません。侍義を語ります。侍ることによって救いを受けるというのです。知らずに侍ることができますか。統一教会の教えを理解することは、問題ではありません。教えれば誰でも、すべて分かります。皆さんは、神様がいらっしゃることを一日に何回自覚しますか。二十四時間の中で、何回神様がいらっしゃることを感じますか。侍ることによって救いを受けようという人々が、二十四時間の中で、一、二時間程度侍ればそれでいいと思いますか。空気よりも、差し迫って必要なのが神様です。水よりも、差し迫って必要なのが神様です。御飯より、もっと貴いのが神様です。

 

 

 

4 皆さんは、神様の事情を知らなければなりません。その事情を知って、その次には神様の心情を知らなければならず、神様が私の父であると考えなければなりません。私の父、私たちの父だというのです。私たちが学び、聞き、侍る生活をするのは何のためでしょうか。それは、聖書に流れている神様の事情を知り、神様の心情を知るためです。傷を負い、蹂躙され、排斥され、引き裂かれながらこられたその神様が、私の父であることを知るためなのです。

 

 

 

5 すべての関係の中で標準になるのは、神様と人間の間に結ばれた父子の関係です。この関係から始まった心情は、いかなる存在の権限によっても曲げられることがなく、永遠で、不変、唯一のものです。また、この心情の権限は、絶対的です。そのため、この権限をもって現れるとき、すべての存在物は、その前に頭を下げざるを得ず、この心情の権限をもって動くようになるとき、満天下がそれに従って動かざるを得ないのです。これが宇宙の鉄則です。

 

 

 

6 五色人種(あらゆる人種)を抱いて、自分の家族や一族と共に暮らすことができるという、それ以上の腹をもたなければ、未来の理想世界である天国で、神様に侍ることはできません。そのため、統一教会の教会員は、人種を超えて結婚するのです。韓国人、日本人、アメリカ人が互いに結婚するのです。そのようにしなければ、先生が人類の心情世界において、主導的責任を果たすことができません。そのようにしなければ、「五色人種の中で白人だけを愛して、なぜ黒人を愛したという条件を立てないのか」と言われたりするのです。それで、韓国にいる人々と、白人、黒人、すべて一緒に結婚するのです。

 

 

 

7 侍る生活は、簡単ではありません。皆さんも簡単ではありませんが、先生も簡単ではありません。先生も、そのような内容があれば眠れないのです。先生がなさなければ、神様は身動きできません。解放されないのです。皆さんもそうです。皆さん自身が皆さんの生活舞台において、先生が動かなくてもよいようにしなければなりません。皆さん自身の足場が広がってこそ、活動舞台が展開するのです。

 

ですから、その環境において、皆さんが全体的に、そのような環境をつくっていこうとする心をもっていなければなりません。侍る生活は簡単ではないのです。父母が子女を愛する心以上に、神様に侍らなければなりません。父母は、自分たちが生まれて二十数年の間、精誠を尽くしたのです。神様は、何千万年です。人類が生まれてから、何千万年です。何千万年の間、慕わしく思った息子に会うために投入し、精誠を尽くしたというのです。精誠を尽くしたからといって、「私は精誠をすべて尽くした」と考えてはいけません。精誠を尽くしたあとも、不足だと感じなければならないのです。

 

 

 

8 神様は、皆さんの近くにいらっしゃり、誰よりも皆さん一人一人を心配される方です。世の中では、肉親の愛が一番大きいと思っていますが、神様の愛は、それよりも大きくて深く、世の中のいかなる人間的な愛よりも深くて大きいのです。このような神様の愛の懐に抱かれ、父を呼び求める皆さんにならなければならず、「父の悲しみを私は知っています」と言える立場で、神様の内的な心情を体恤する真の息子、娘にならなければならないのです。そのような息子、娘となり、神様をお迎えした天国を所有するならば、その天国はいかなる者も奪っていくことはできません。

 

 

侍る生活の心構え

 

9 神様は、妄想的で観念的な神様ではありません。抽象的な神様ではないのです。生活の中で主体性をもち、私たちが暮らしている生活の主人として、常に共にいるのです。侍られているだけではありません。愛を共有しながら共同生活をしている神様です。先生は、このような環境で、今まで一生の間、サタンと闘争してきました。このような人に、世の中がいくら反対しても、天が守ってくれるところにおいては、サタンは打つことができず、崩すことができません。そのような基盤が立っているので、打てば、彼らが倒れるようになっているのです。

 

 

 

10 神様を心の中にお迎えし、体の立場で人間が完全に一つになる起源をつくらなければ、この悪魔の世界を清算する道がありません。それで、侍義の救援時代だと見るのです。侍ることによって救いを受けるのです。神様は、あの空の遠く彼方にいらっしゃる方ではありません。私たちの生活圏内の主体者として、神様に侍らなければなりません。侍るには、どのようにしなければなりませんか。蕩減原則に従って、歴史時代に神様が悲しみ、苦痛を受けたすべての事情を解いてさしあげなければなりません。

 

 

 

11 行いの義や、信仰の義や、侍る義を追求するのはなぜでしょうか。義でなければ善悪を分別できないからです。悪の世界と善の世界が分かれないのです。善の基準点になるのが神様です。神様が信じるのと同じように、神様が行うのと同じように、神様が侍るのと同じように、いつでも神様が中心にならなければなりません。サタンは、神様のように義なる人に対しては、讒訴できないというのです。

 

 

 

12 神様が信じ、行い、生活し、侍る環境にいれば、サタンは干渉できません。いつもサタン圏内にいるとしても、そのような環境で神様と共にいられる義なる基準が生じれば、サタンはそこから後退するのです。

 

そうかと言って、行いの旧約時代が過ぎ去り、信仰の新約時代が過ぎ去り、侍る成約時代だけがあるのではありません。旧約時代の行いも必要であり、新約時代の信仰も必要であり、成約時代の侍る生活も必要なのです。成約時代にも信仰が必要であり、行いが必要であり、すべて必要です。それは蘇生の上に長成があり、長成の上に完成があるのと同じように、それは切っても切れないのです。今、特に侍義を語るのは、生活化天国時代だからです。

 

 

 

13 旧約時代までには、祭物を犠牲にして、息子が来れる道を築きました。そして、新約時代には、息子を送って犠牲にし、父母様が来れる道を築いたのです。キリスト教を中心として血を流すようにし、再臨主が父母様として来れる道を築いたというのです。統一教会の時代は、父母様の時代です。神様が地に臨み得る、お越しになれる道を築くのです。それで、神様がお越しになる時、侍ることによって救いを得るという言葉が成立するのです。歴史は、そのように発展するのです。低い階級のものを犠牲にして、息子を取り戻さなければなりません。万物を犠牲にするとしても、息子を生かさなければならないのです。万物が嘆息するのは、神様の気高い愛と子女の愛の圏に進めないからです。

 

 

 

14 真の息子、娘が尽くすべき精誠とは何でしょうか。現実的な生活舞台における精誠ではなく、希望の精誠、栄光の精誠、忠誠の精誠、侍る精誠を尽くさなければなりません。そのような精誠を残していってこそ、天国が「私」の天国になり、その父が「私」の父になるのです。今までの精誠は、蕩減途上での精誠でしたが、これからの精誠は、天に侍るための精誠でなければならず、侍る場に同参(一緒に参加する)するための精誠でなければなりません。

 

ここに同参する私たちは、最初の復活に同参する人々です。侍る場に同参するためには、今まで悲しみながら来られた神様を慰労してさしあげ、悲しい精誠の事情に同参できる内容を備えなければなりません。これを紹介し、それに伴う蕩減条件を神様のみ前に立てるために出てきたのが復帰摂理です。

 

 

 

15 皆さんは、孝子、忠臣、聖人、聖子の家庭になるために、今から侍義の生活、侍る生活をしなければなりません。先天時代のサタンと闘っていた時代を過ぎ、後天時代の平和の王権時代に越えていくのです。これは、不可避的なことです。必然的に行かなければならない、「私」の道です。他の人の道ではありません。自分が行かなければ、あの世の国で引っ掛かるのです。

 

 

第二節 神様に侍る生活

 

 

天聖経  第十一篇 目次 第一章 侍る礼法

第二節 神様に侍る生活

 

1 神様の愛をたくさん受ければ受けるほど、大きくなっていくので、自動的に中心的な個人になり、団体になるのです。また、国民を通して愛を受けられる基盤を築いたならば、世界を動かせる国家になるのです。このような原則があるので、皆さんは、侍る生活をしなければなりません。侍る生活をするのは、神様の愛を受けるためです。神様にまず侍らなければなりません。

 

神様の愛を受けるためには、どのようにしなければならないのでしょうか。神様は、私たち人間に完全な愛をもってこられるので、私たちは、完全な何かを投入しなければなりません。「至誠感天(至誠、天に通ず)」という韓国の格言があるのですが、それは天理に通じた言葉です。精誠をすべて捧げるというのは、内外のすべてを尽くすということです。また言行一致、すべての実践、内外のすべての生活圏までも合わせて捧げるということです。それが精誠です。

 

 

 

2 朝、寝床から起きて最初の言葉を天のみ前に捧げ、家を出る時も右足で第一歩を踏み出し、天のみ前に捧げなければなりません。普段の習慣がこのようになれば、侍義生活になるのです。このような観点で、皆さんは、原則的な基準で生活態度を取っていかなければなりません。

 

 

侍る生活の姿勢と法度

 

3 皆さんは、現在、どこにいますか。昼も夜も、いつ、どこに行っても、先生と共に歩調を合わせなければなりません。今まで先生は、神様が行く方向に歩調を合わせつつ、すべての生命を投入しながら生きてきたのです。今や三者合一です。

 

神様と真の父母と皆さんが一致しなければなりません。歩調を合わせなければならないのです。生死を決定する内容がかかっているので、三者が一致する点で一つにならなければなりません。そこに生命の復活圏があります。その点が、父と先生が一つになり、先生と皆さんが一つになって一致できる連結点です。そこで一心統一が起こるのです。

 

ですから、皆さんは、み旨と一致した生活をしなければなりません。そのためには、み旨とはどのようなものかを知らなければなりません。皆さんは、これを知らないのですから、祈りなさいというのです。祈れば、必ず先生が現れて教えてくれるのです。

 

 

 

4 わずかな土地でも、「私の財産だ」と言うことはできません。すべて神様から頂いたのです。神様から頂いたので、再び返してさしあげなければなりません。いくら少ないものでも、神様から頂いたので、神様に返してさしあげなければなりません。そのようにするとき、歴史が実っていくのです。そのように受けたので、そのように与える人にならなければなりません。そのような人々の世界にならなければ、この地は天国になりません。

 

一日二十四時間の生活圏内で、「私」が見聞きしたすべてのことは、何のためでしょうか。神様のためです。神様のために見聞きしなければならず、感じるのも神様のために感じなければなりません。私たちは、地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。

 

 

 

5 皆さんが僻地の山里に入って生活するようになれば、「統一教会の食口が訪ねてくれれば」と懇切に願うようになり、また「食口の中で誰か病気なのではないか」と心配するようになるのです。そして、「自分と一番親しい食口を迎えられたらいい」、また「先生を迎えられたらいい、牧会者を迎えられたらいい」という慕わしさがなければなりません。

 

毎日のように神様を慕うことができない人は、神様に侍ることができません。皆さんは、誰を慕うにしても、常に慕わしさに満ちあふれていなければなりません。ところが、夜十二時になると、「さあ、寝よう!」という人は、神様に心配をかけてしまう人です。天国は夜と昼がありません。心情の関係を抱いていくときは、夜が問題ではないのです。

 

 

 

6 皆さんは、おなかがすけば、「ああ、おなかがすいた!御飯、御飯、御飯!」と言いますが、誰のために食べようとするのですか。神様のために食べようとするのですか、自分のために食べようとするのですか。神様のために食べなければなりません。そのようにして、神様の完全な聖殿を造らなければなりません。「私の中にいる神様がおなかをすかせて、御飯を食べようとおっしゃっている」と考えなさいというのです。そのように御飯を食べれば、その御飯は聖なる御飯になるのです。トイレに行くのもそうであり、息をするのもそうであり、すべて同じです。

 

聞くのも、「私一人で聞く」と考えてはいけないというのです。見るのも、触るのもそうです。「私一人でする」と考えてはいけないのです。人と会うのも、サタン世界と向き合うのも、神様が向き合うと考えなさいというのです。話をするにしても、神様が話すと考えなさいというのです。

 

そのように神様と完全に一つになったあとには、私を中心として生き、私を中心として考え、私を中心として愛するのが原則です。そのときは、自分を中心として考え、自分を中心として愛しても、それは神様を中心として考えることになり、神様を中心として愛することになるのです。それが原則です。

 

 

 

7 神様に侍った者として、皆さんは、うれしいとき、神様をどれほど喜ばせてさしあげましたか。皆さんは、おなかがすいたとき、御飯を食べながら感じる有り難み以上に、神様に侍ってさしあげなければなりません。皆さんは、良い物を食べるときや着るとき、そして、悲しいときや困難なときにも、常に神様に侍らなければなりません。そうして、神様の心に記憶される事情を残しておかなければなりません。

 

 

 

8 天は、その心情と通じる人の手によって万物が触れられることを願っていらっしゃいます。心情が通じる子女によってすべての息子、娘が抱かれることを願っていらっしゃいます。心情が通じる新婦によって、神様の主権が成し遂げられることを待ち望んでいらっしゃいます。心情が通じる息子、娘に、この世界が主管されることを待ちわびていらっしゃるというのです。これを皆さんは、考えてみましたか。考えれば考えるほど、途方もないことだというのです。

 

このような神様の願いが「私」の一身だけでなく、世界と天宙にまで連結されていることを考えるとき、「私」は父のものであることを否定できません。ですから、私の心も父のものであり、私の心情も父のものであり、私の意識と直観と感覚器官のすべてが父のものであり、私が感じ、意識する全体が父のものだという思想が確立されていなければなりません。

 

全力を尽くして天の願いを成し遂げてさしあげなければならず、死の道がいくら恐ろしいとしても、高笑いしながら越えられる強烈な心情と信念をもち、それを克服していける自分自体にならなければなりません。

 

 

 

9 神様に侍るには法度があります。その法度に背けば、神様は、非常に立腹されます。子女を愛する父母が、子女の一言の言葉で胸に釘を打たれたり、抜かれたりするのと同じように、神様も人間を愛していらっしゃるがゆえに、憤りが多いのです。そのため、まかり間違えば神様から怒りを買うことになります。それで先生も、いつも神様を喜ばせてさしあげようとするのです。

 

 

 

10 六千年の歴史を縦的に見れば、旧約時代には天の民を集め、新約時代には天の子女を集めました。このように、歴史は逆さまに流れてきたというのです。今日、世の中には、天国同胞の理念を中心として天国を建設しようとする人がいます。また、天国子女、天国兄弟、天国夫婦の理念によって天国を建設しようとする人もいます。

 

皆さんは、生活の中で天国の法度を守らなければなりません。天国を建設するためには、天が求める天の法度を守り、また天国の法度を守ると同時に、天国生活ができなければなりません。そして、天国生活ができると同時に、天国の愛によって一つにならなければなりません。み言はすなわち天国の法度なので、み言を中心として生きなければなりません。ここに皆さんの道があるのです。

 

 

 

11 祈りを通して、神霊の役事(働き)を通して恩恵の基準に行けるかもしれませんが、それは霊界から霊人たちが協助してくれるためにできることです。しかし、本来人間は、生命体や生霊体をもつようになっています。「私」自体に霊があるというのです。霊界の協助を受けていない霊力を中心として霊の作用を啓発しておけば、霊人たちが指導してくれなくても、私自体の生霊体に感知できる能力が生じるのです。

 

このようになって、ある基準にさえ上がっていけば、神様が悲しまれるとき、私にも形容できない悲しみが訪れるのです。ある人に会ってから別れて見送るとき、言葉にできない悲しみが感じられれば、その人の行く道は祭物の道、もしくは神様が哀れむ道です。二つのうちの一つです。そのようなことを実際に感じ、生活圏内で刺激を受けられる立場に立った人が、体恤した人なのです。

 

 

 

12 父母が天倫の原則とともに生活した縁がこの地上に立てられる日、人間本性の人倫道徳が天地に創建される歴史が始まるでしょう。今日、家庭を抜け出す不幸な青年男女が多くいる原因はどこにありますか。天倫の法度に一致した愛が喪失したためです。それで、家庭を中心に神様をその家庭に迎えて座っていただけるようにする天地父母が顕現しなければなりません。イエス様一人が来られただけでは、救世主の使命を果たせません。堕落した人間を、どのように救ってあげなければなりませんか。父母の立場で救ってあげなければなりません。神様は、真の愛の父なので、父自身がこの地上に来て、父母の立場で人間を直接、救ってくれるのです。子女が死亡世界で苦しみながら救いを求めるとき、救ってあげたいのが父母の心情なのです。

 

 

 

13 主体のための対象の立場は、不平があり得ません。不平を言うのは無分別な行いです。破錠です。そのため、信仰の道は不平を許しません。感謝だけがなければなりません。天はいつでも主体としていらっしゃるため、主体と関わり合った運命をもちながら、それを離脱する生活法度、生活形態はあり得ないのです。

 

 

 

14 天理は、順序を正しく守るところから成立します。そのため、主体と対象の関係で、天は絶対的な主体の立場に立たなければなりません。その主体を無視する人は、対象になれません。絶対的な主体の前に絶対的な対象になろうとするので、絶対的に一つでなければなりません。ですから、見て、聞いて、感じるすべてのこと、家庭に入って愛することまでも、すべて対象と主体の立場に立って、天のためにするのです。一切がそうなのです。そのような家庭は滅びません。

 

 

 

15 最後に残されるものとは何でしょうか。神様と人間、すなわち神人の生きる道、神人の生活観です。人生観も同じように、神人の人生観、神人の世界観、このようにならなければなりません。それは、漠然と神様に接して人間が理解できる程度の位置ではなく、人が永遠に離れようにも離れられない位置です。神様と人は、本来、離れられない位置で離れたので、その離れられなかった位置以上の位置に到達しなければならないからです。そのような位置で神人が一つとなった生活的な舞台、世界的な舞台を求めていかなければならないのです。

 

 

 

16 これからは、蕩減の量が愛によって変わり、皆さん自体に連結されます。そのような意味で、侍る生活の法度を備えなければならない時が来ました。祝福を受けたのであれば、夫が必要です。夫が必要だという言葉は、夫を愛する心を中心として、尺度が生じるということです。愛をもって測るのです。愛がどれほど必要でしょうか。絶対的に必要だとすれば、絶対的な愛を中心として、「私」が対象的な立場で必要だというのです。神様がそのような立場にいます。神様のすべてのものは絶対的です。始まりと終わり、過程も絶対的です。

 

 

至誠感天と孝の道

 

17 心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くしなさいという言葉は、どういう意味でしょうか。生命を捧げなさいということです。それ以上のものはありません。「私」の心の果てがどこにあるでしょうか。心を尽くしなさいというのは、生命を差し出しなさいという意味です。思いを尽くしなさいというのも、精誠を尽くしなさいというのも、生命を差し出しなさいという意味です。「至誠感天」という言葉で、至誠の限界点は、生命を懸けて精誠を尽くすことです。首を差し出し、死ぬ覚悟をして精誠を尽くす人は、神様が「知らない」とは言えないのです。

 

 

 

18 復帰摂理の道において、その核心思想は何でしょうか。祭物に従っていく道です。祭物とはどのようなものでしょうか。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)とあります。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしなさいということの結論は、簡単です。生命を差し出して神様を愛しなさいということです。生命を差し出すのですが、無理やりに差し出すのではなく、狂ったように喜んで差し出しなさいというのです。

 

 

 

19 先生が床に伏して祈るときは、涙が乾きませんでした。膝にたこができるほどでした。「誠を尽くして建てた塔は崩れない」という言葉があります。神様のために誠を尽くさなければなりません。神様が慕わしくて胸が痛むほどの境地にまで入っていかなければなりません。神様がいらっしゃる所が地上であれば、一日に千回でも行ったり来たりしたい思いがありますが、地上ではないので、先生を送ったのです。そのような何かがあるので、皆さんが先生を愛さずにはいられないようになっているのです。理由もなく情が行くのではありません。

 

冬に涙を流しながら祈れば、綿入りのパジチョゴリを涙でぬらすことが多くありました。どれほど深刻だったか、考えてみてください。ナイフを立てておいて談判祈祷をしたことが、一度や二度ではありませんでした。

 

 

 

20 御飯を食べても、水を飲んでも、座っても立っても、誰に接しようと、父母様の前に見せた幼子の心情を見せることができれば、それで満点です。知識が多いことで通じるのではありません。神様のみ前で、「私は何々博士です!」と言って暮らしますか。そのようなものは必要ありません。神様の愛を、どのように「私」が誘導できるのでしょうか。たった一つの道は「至誠感天」しかありません。

 

 

 

21 不平を言ってはいけません。不満を抱いてはいけません。自分を考えてはいけないのです。自分の所有、自分の愛の観念を立ててはいけません。神様を思いながら、「私が不平を言えば、神様がどんなに苦しまれるだろうか。その方の事情を私が知り、その方の伝統を相続できる瞬間が私の前に訪れたら、それを引き継いで、その方に従っていきながらその方を慰労しよう」という心をもたなければなりません。そのように思いながら涙を流すその場に、天が共にあるのです。自分を中心とした涙は、天が共にありません。神様のために泣き、父母様のために泣かなければなりません。これが統一教会の祭壇であり、統一教会の侍る生活です。

 

 

 

22 先生は、おなかがすき、疲れて倒れることがあっても、どのようにすれば神様が案じるその道を行くか、背負うことのできる十字架の道があれば、どのようにその道を行くかということを考えました。

 

しかし、皆さんは、このような道を行こうという準備すらしていません。侍ることによって救われるということを知りながら、恥も外聞もなく眺めているだけです。そのような心でとどまっていてはいけません。

 

私たちは、寝ても覚めても父のために、父の国のために進まなければなりません。千回、万回死ぬことがあっても、その恨を解いてさしあげなければなりません。そのような勇気がある人であれば、自分の十字架を担い、神様の十字架を代わりに背負うことができなければなりません。そのため、今日、私たちは、父と神の国のために働かなければならず、父が呼び求める孝子、孝女にならなければなりません。私たちは、神様のために生まれた民なので、孝子、孝女、忠臣、烈女にならなければなりません。これが私たちの果たすべき使命です。

 

 

 

23 皆さんは、体面や威信を考えたり、空腹感にとらわれたり、話をする余地があってはなりません。自分の子女が病んでいることに気を遣うよりも、み旨の動きに対してもっと神経をとがらせなければなりません。それができていなければ、絶対服従でもしなければなりません。先生が何をしているか分からなければ、夜も眠れず、真夜中でも飛んできて、尋ねていける生活をしなければなりません。それで、「侍ることによって救われる」と言ったのです。先生は、神様に対して、いつでもそのように生きるのです。寸分も気を抜きません。自分の体を打ってから、神様を慰労できる蕩減の路程を歩まなければなりません。

 

 

 

24 困難で苦痛を感じるなら、静かな密室に入って祈るのです。それでも答えが来なければ、より深く、より深刻に祈るのです。さらに時間を投入するのです。先生は、この道を行くために、十二時間以上祈るのが普通でした。大洋の何千フィートの深い所を訪ねて入っていくと考えなければなりません。ですから、どれほど克服し、どれほど耐えなければならないでしょうか。祈る人々は失敗しません。自分ですべて分かるのです。祈りの味を知れば、御飯の味よりもおいしく、どのような趣味よりもおもしろいのです。そのようになれば、すべての環境の良し悪しがすぐに分かるのです。

 

 

 

25 統一教会の教会員は、祈らなければなりません。衣食住を克服し、慢心を克服するために祈らなければなりません。人類と神様を解放しようとすれば、どれほどたくさん祈るべきでしょうか。人類歴史の誰よりも、最高に深刻な立場で祈らなければなりません。「いくら大変でも、私たちは、祈りの道を通してこの道を行ってみせる」という決意を固めなければならないのです。いつでも、二十四時間祈るのです。そうすれば、神様が共にいます。皆さんも、皆さんのことを考えてくれる人を訪ねていくのではないですか。神様も同じです。他の誰よりも神様を考え、神様のために奉献しようというその人を、神様は、訪ねていくのです。

 

 

 

26 皆さんは、目が腫れ、鼻が塞がるほど泣きながら、神様を慕わなければなりません。人は、泣き過ぎると胸が痛くなります。そのように胸が痛むほど慕わなければなりません。「父よ!」と呼び求めるとき、死刑場に引かれていく息子の立場で父を呼び求める人もいて、遠い他国に旅立つ息子の立場で哀切に父を呼び求める人もいるでしょう。父なる神様を呼び求めるときは、それ以上の基準にならなければなりません。

 

 

 

27 神様が私個人のために困難に遭われ、私の家庭のために困難に遭われ、私たちの国のために困難に遭われ、世界のために困難に遭っていらっしゃるので、私自身も私個人のために困難に遭い、家庭のために困難に遭い、社会のため、国家のため、世界のために困難に遭おうというのです。神様を中心として、大韓民国と共に困難に遭おうというのです。正にそれが先生の主義であり、神様の主義です。

 

「皆が困難に遭っているのだから、私ではなくてもほかにする人がいる」と考えて、こっそり人に押しつけて、機会だけうかがおうとする人は、神様を裏切る人です。一言で言えば、み旨に対する主体性がないというのです。この道を行くためには、愚直でなければなりません。忠臣というのは、ある意味では愚直な人々です。少し愚かに見えるのです。熊のような性格があるというのです。自分が腕を切られても、「ああ、ここはあまり切れていない。もっと切りなさい!」と言える、愚直なところがなければなりません。

 

 

 

28 先生は、今までみ旨のために苦労し、今も、寝ても覚めてもその道を歩んでいます。先生の近くで侍ったことのない人は、先生のことをよく知りません。先生は、寝ていても、目が覚めれば、うつ伏せになって祈ります。なぜ、そのような生活をしているのでしょうか。この夜中にも、世界中の愛する子女たちが先生を頼り、神様のために祈っているからです。一緒に精誠を尽くせなくても、それに劣らずに拍子を合わせてあげるべきではないでしょうか。先生が寝ているときは分からないので、神様も許してくださるのです。

 

 

 

29 先生は、どのような人でしょうか。一つの才能しかない人です。愚直に、ひたすらまっすぐにのみ行く人です。口を閉じ、じっとしながら適当にやって帰ればいいのに、なぜしきりに悪口を浴びるように働き掛けたりするのでしょうか。多くの人々の反対を受けてこそ、一つの峠を越えていくからです。しかし、皆さんは、帰ることを考えています。なぜ、世の中のすべてのものを切り捨てて行かなければならないのでしょうか。母や父の愛に引かれれば、まっすぐに行けないからです。神様が今までまっすぐな道を訪ねてこられたので、まっすぐに行かなければならないのです。

 

 

 

30 神様が寂しい方で、孤独な方で、先生のような方で、私の事情を分かってくれることを知ったので、死ぬ日まで、その方のみ旨と願いを一つでも解いてあげ、その分野を一つの土台でも拡大させて、神様のために生きる人を集めることが、私の使命だと思ってきました。悪口を言われても反論せず、むち打たれても復讐しないで、愛によって耐えてきたのは、神様の子女として生まれたからであり、その方のみ旨を立てるべき責任があったからです。この伝統をどのように立てるかを考えながら、ふらふらになって歩き、腰を曲げながら歩き、這いつくばってでも、これだけは残さなければならないと言いながら、闘ってきたのです。

 

 

 

31 真の父母がするのは、すべてのことに勝利して、神様の心の奥深いところまで訪ねていき、恨を解いてその勝利圏を地上に成し遂げることです。そのような真の父母が出現したことに、皆さんは、感謝しなければなりません。縦的真の父母である神様が、地上に再臨主を送って地上解放を成し遂げるまで、どれほど悲惨だったかを知らなければなりません。私たちは、今、偉大な時代を迎えました。なぜなら、真の父母を中心として孝子、孝女になることを誓えるからです。

 

 

 

32 皆さんは、み旨の道を歩みながら、どれほど深刻になってみましたか。先生は、一生の間、そのような道を歩んできたのです。これは、妻子も知らず、私だけが知り、神様だけが知っています。孤独単身、寂しい男が行く道を誰も知らない中で、神様が協助し、驚くべき実績をもって、今日この社会に問題を提示し、また疲弊していくこの民主世界の思想圏内に新しい波紋を提示する問題の人物になりました。このようになったのも、私が立派だからではなく、神様が共にいてくださったからです。

 

 

第三節 真の父母と侍る生活

 

 

天聖経  第十一篇 目次 第一章 侍る礼法

第三節 真の父母と侍る生活

 

1 皆さんは、今から、真の父母と一緒に暮らさなければなりません。神様は祖父母の立場であり、真の父母は父母の立揚であり、自分たちは子女の立場だというのです。三代が共に暮らさなければならないという結論が出てくるのです。神様が「私」と共にあり、真の父母が「私」と共にあることを感じて暮らさなければなりません。

 

 

真の父母様に侍る生活

 

2 皆さんは、真の父母の本当の息子、娘ですか。子女とは何でしょうか。真の子女とは、真の血統をもっていることを意味するのです。もちろん、真の子女は真の愛を通して関係が結ばれるのですが、真の血統を通して連結されるというのです。そのため、真の血統を通して連結されたものは、父母に似るのです。皆さんは、先生に似ましたか。皆さんの目は青く、私は黒いのです。髪の毛も違います。私は東洋人で顔が平たいのです。一番の骨子に似なければなりません。サタンに勝つことと神様を絶対に愛すること、これに似なければなりません。

 

 

 

3 皆さんは、先生を、どれほど愛するべきでしょうか。サタン世界の愛の痕跡がある、その愛が染みついた立場で愛してはいけません。それ以上でなければなりません。サタン世界で生まれた皆さんの父母、妻子、その誰よりももっと先生を愛さなければなりません。それで聖書に、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)とあるのです。そのような結論を下したのです。そうして、そのあとには「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ一六・二四)と言ったのです。十字架を背負わなければならないと言いました。反対に引っ張っていく力を押さえて越えようとするので、十字架です。ここで悲痛な涙を流さなければなりません。

 

 

 

4 祝福の場は、世界で最も良い立場です。その祝福の場は、誰と関係を結ばなければならないのでしょうか。皆さんは、自分自体で完成するのではありません。純粋に、父母様の愛によって完成するのです。子女が父母の懐から生まれれば、立派であってもそうでなくても、その父母の形態に似るのです。それと同じように、統一教会では、真の父母の道理を教えてくれます。それが皆さんには福の中の福なのです。

 

人間の願いは、真の父母に会うことです。死の道を行くとしても会わなければならない人が真の父母です。歴史をすべて失い、時代をすべて失い、自分の子孫をすべて失うことがあっても、真の父母に出会うならば、歴史を取り戻すのであり、時代を取り戻すのであり、未来を取り戻すのです。このような方が、正に真の父母です。

 

 

 

5 すべてのものは、真の父母に出会うことに帰結します。人類の真の父母が現れるのが歴史の願いであり、国家の願いであり、思想の願いであり、摂理の願いです。ですから、そのような真の父母が現れる時は、あとにも先にもない時であり、歴史上に一度しかない頂上なのです。永遠の世界から見れば、人間の一生というものは、一度呼吸をするのと同じような期間です。

 

 

 

6 皆さんは、先生の写真を持ち歩かなければなりません。そうすれば、どのような苦難に遭うとしても、無事に耐え抜けるように保護してくれるでしょう。モーセがイスラエルの民をエジプトのパロのもとから脱出させ、カナンへ導くために奇跡を行うとき、エジプトの長子が患難に遭って死にましたが、羊の血を門の柱に塗ったイスラエルの民の家は、その患難がすべて避けていったのです。霊界からは、人間のすべての行動を見ることができるだけでなく、保護もしてくれるのです。

 

 

 

7 イスラエル民族がエジプトから出てくるとき、門の柱に羊の血を塗って災いを免れたのと同じように、先生の写真を持っていれば、それと同じようなことが起きるでしょう。先生の写真をいくらポケットに入れておいたとしても、霊界では分かるのです。皆さんの先祖たちが、これを媒介体にして連結されます。そのような良い材料だと知っているのです。これを持って歩くときは事故が起きず、故障が起きないのですが、この写真を置き忘れてしまうと、そのようなことがすぐに起き得るのです。それによって、先生の写真がどれほど貴いかということを、皆さんが悟ることが頻繁に起きるというのです。

 

 

人倫道徳と孝

 

8 今日までの人倫道徳は、父母が子女を愛し、子女は父母に孝行し、夫婦は各々の本分を区別しなければならないというものでした。これが「三綱五倫」の礎石として、今まで受け継がれてきましたが、これもやはり変わってきています。このように、既存の慣習や規範などが自然に変化していく気勢が、社会環境と生活環境に浸透してくる日が、終わりの日です。世界的な指導者、メシヤがこの地上に現れれば、その方はこの問題を収拾しなければなりません。

 

 

 

9 韓国の礼法では、目上の人から何かを受け取るときは、両手で受け取るようになっています。それは、水平になってこそ愛を受けられるという意味です。人心は天心であると言います。私たちのすべての規範は、良心の道理に従って、相対的に生じてきたものなので、水平にならなければなりません。男性と女性は、愛を軸として水平にならなければなりません。聖人が世界を愛する心、聖子が神様を愛する心をもって、いつでも水平にならなければならず、謙遜でなければなりません。

 

 

 

10 道を歩くのも、東洋思想では、目上の人が先に行かなければなりません。先に生まれたからです。そのように環境を合わせようとするというのです。あとの人はあとに立ち、高いものは高いものとして、低いものは低いものとして、前のものは前のものとして、後ろのものは後ろのものとして、上のものは上のものとして、前後を備えなければなりません。そのような思想は変わるものではありません。永遠不変です。

 

 

 

11 韓国の家庭を見れば、朝、父母が起きれば、息子の嫁が行って父母にまず挨拶し、それから布団をたたんでさしあげ、部屋の婦除もしてさしあげ、食事の用意もしてさしあげます。これが韓国の法度です。皆さんがこのような歴史時代を蕩減するためには、法の中の法、孝行する法であれば、孝行する法の中でも最高の法度を立てなければならず、国家においても最高の基準を超えられる法度を立てなければなりません。

 

 

 

12 世の中には、父母が死んで三年の喪に服す際、毎日、朝夕に上食(喪家で朝夕霊前に供える食事)を供え、出ていくときや入ってくるときは霊座(位牌の奉安所)に告げて挨拶する法度があります。皆さんは、それ以上にしなければなりません。皆さんの今やっていることが、み旨から見るとき、天の格式にきちんと合わせた生活かといえば、違うのです。話にもなりません。

 

夫婦が共に、その日のことを神様のみ前に報告し、出ていって仕事を始め、終えて帰ってきたときも、神様のみ前に報告をしてから御飯を食べるようになっているのです。そのようなことをすべて規範とする生活、神様を標準とした生活がどれほど厳格かを知らなければなりません。女性にも女性として守るべき家庭生活の規範があり、男性にも男性として守るべき家庭生活の規範があります。このような途方もない天的な規範を体系化させて生活するのが、皆さんが行くべき路程です。

 

 

 

13 難しければ難しいほど、もっと熱心にやらなければなりません。すべての人が先輩家庭を天のように仰ぎ見ています。

 

ですから、何か違う点がなければなりません。心の奥底に流れる心情が異ならなければなりません。祝福家庭の夫婦は、他の人たちの前で憧れの対象にならなければならないのです。「あのような夫をもった奥さんは、どれほど幸せだろうか」、「あのような奥さんをもった夫は、どれほど幸せだろうか」と、憧れることができなければなりません。

 

 

 

14 人倫道徳という言葉を聞いたことがあると思いますが、天倫道徳という言葉は聞いたことがないでしょう。人倫道徳の起源はどこですか。その起源を掘り下げていけば、良心に根拠があるのです。

 

今日の法は、ローマ法を基礎にして作られ、それが現在、世界文化の基礎になっていると言えますが、人倫道徳は、どこまでも良心を根拠にしているのです。法よりも良心だというのです。

 

良心の基礎は善です。善を標準とするのです。善から外れるときは、良心がその外れたものを正していくのです。そして、純粋な良心に一致する普遍的な社会体制を形成しようとするので、法令も必要なのです。ですから、結局、人倫は天倫に根拠を置くのです。

 

 

 

15 人倫を立てようとすれば、本然の道理が必要であり、本然の道理を立てようとすれば、天倫が必要です。それでは、その天倫は何を中心として現れるのでしょうか。これは、絶対的な愛を中心として現れます。本然の道理は、何を中心として現れるのでしょうか。これは、生命の権限をもって現れるのです。

 

今日、人倫に代わる道義は、何をもって現れるべきでしょうか。永遠の信義を中心としたものとして現れなければなりません。今日、皆さんは、天倫に向き合おうという心がありますか。そのような心があるとすれば、本当に心から、神様の代わりに信じられる友をもたなければなりません。さらに、神様の代わりに信じられる一つの兄弟、父母、夫婦をもたなければなりません。そのようにして家庭を越え、社会、国家、世界的舞台にまで伸びていかなければなりません。これが神様の願いだったのです。

 

 

 

16 隣人を自分のように愛することより、さらに大きな愛はないと言いました。それが一番の愛です。父母を愛せなかった恨が残っているなら、父母の前に孝行する以上の愛をもって隣人を愛するようになれば、必ず孝行できる環境が展開し、孝行のような愛の環境が展開するときは、その人がたとえ父母の前では孝行できなくても、天倫は孝行した以上の価値を分かってくれるのです。

 

 

第一節 礼拝と祈り

 

 

天聖経  第十一篇 目次 第二章 礼拝儀式

第一節 礼拝と祈り

 

1 礼拝時間より早く来た分の時間は、神様のために捧げた時間になるので、千金、万金を払っても買えない価値があります。礼拝時間は、神様に捧げる時間なので、その時間に遅れてくるというのは、神様の恩恵をどろぼうすることになるのです。礼拝は、定められた時間に出てきて捧げなければなりません。そうすることにより、その分できなかったことを蕩減もでき、神様のみ前に面目を立てられるのです。そのようになれば、きのうよりも良い心をもって、神様のみ前に近づいていけるのです。

 

 

 

2 「私は、誰々のために教会に行く」と言ってはいけません。「私は、私の愛する息子、娘のために教会に行く」、「愛する夫のために教会に行く」、「愛する妻のために教会に行く」という人たちは、越えていくことができません。誰のために行くのかといえば、神様のために行くのです。神様を私のものとして所有するために、神様の愛を私の愛として探し出すために、教会に行くのです。

 

 

安息日と安侍日

 

3 神様に侍る場には、礼服を着て参席しなければなりません。着る礼服ではありません。「心情の礼服」です。心から、み言とともに、賛美とともに、感激した心情が流れ出てくるなら、天は皆さんを通して役事されるのです。堕落した人間がエデンの園から追放されるとき、涙を流しながら追い出されましたが、皆さんは、涙を流すとしても、喜びの涙を流しながら、笑顔で神様に出会わなければなりません。悲しみの涙も流したことのない人が、喜びの涙を先に流してはいけません。

 

ですから、神様を失ってはいけないのです。「私」の目で探し出した神様を見失ってはいけません。「私」の耳で聞いたその神様、「私」の感触を通して感じられた神様を、失ってはいけないというのです。さらには、「私」の心情にしみ込んでくるその神様を、失ってはいけないというのです。これは、誰も干渉できません。いかなる偉大な人、権勢をもった人も、心情に入ってくる神様を引き離すことはできません。ですから、心情に深く入ってくるその神様をお迎えしなければなりません。

 

 

 

4 歴史は、「私」一人を生かすためのものです。ですから、恩恵を渇望しなければならず、恩恵を相続できなければなりません。統一教会に入ってきたのは、自分がうまくやって入ってきたのではなく、自分のために神様と先祖と教会が精誠を尽くしたからです。統一教会が苦労するのも、「私」一人を立てるためです。ですから、そのたくさんの負債を返さなければなりません。

 

 

 

5 安息日を神聖に守る目的は、どこにあるのでしょうか。結局は、神様が願う国を探し、人類を救うところにあります。キリスト教が聖日を守ってきたのは、この日を神聖に守ることにより、「私」自身が聖別され、救いの目的を果たすことに力を注ぐためでした。私たちが安息日を守る目的は、「私」自身の救いの道を促進させることであり、さらに全体を救い、神様の摂理の国と世界を救うという目的があります。これがより高い神様の願いです。

 

 

 

6 神様が喜ぶことを、人間も喜ばなければなりません。そのような理由で、神様は、第七日を安息の日として定め、休みなさいと言われました。ところが、六千年の歴史が過ぎた今日まで、安息の日を誇って休むことのできなかった神様です。イエス様も福音のみ言を強調し、安息日の重要性を強調しながら、二千年の摂理歴史の曲折の中で闘いの歴史を支えてきましたが、栄光の一日を迎えて神様に誇り、万民と共に安息した時がなかったのです。

 

このように、神様とイエス様が安息できない立場にいるので、私たちも安息できないのです。ですから、安息が来る前に戦争があり、安息が来る前に苦痛があり、安息が来る前に死があるでしょう。これを覚悟して越えていくとき、初めて私たちは、安息の味だけでも味わえるようになるのです。

 

 

 

7 教会に来るときは、自分の父母、妻子を、すべて連れてきなさいというのです。兄、姉、すべて連れてこなければなりません。皆さんは、母、父、従兄弟や姻戚の八親等まで伝道するために、どれほど血と涙を流してみましたか。その一つの生命を導いてあげるために夜を徹して精誠を尽くし、祈りながら、自分の一身を祭物にして、どれほど身もだえしてみましたか。これが問題になります。皆さんは、各自、置かれた環境で中心にならなければなりません。中心になって歩むべきなのです。

 

 

 

8 今や安息日がなくなり、「安着侍義の日」になりました。神様は、安息日に休もうとはされません。再創造をしてきたので、休む以上に何十倍を蕩減しなければなりません。安着侍義、侍ることによって救われるので、「安侍日」です。安息日よりも「安侍日」です。安着侍義によって救われるので、安侍日という言葉に略して使えば、統一教会はどこに行っても分かるのです。八日を守る、驚くべき再出発の祝福安着と侍義の世界、地上、天上理想世界の門が開かれ、入っていける「私」自身になるのです。

 

 

礼拝精誠と祈り

 

9 聖日、準備された時間を中心として皆さんが敬拝を捧げるのは、制限された圏内で捧げるのではありません。国家を超越し、地球上で活動している数多くの統一食口が、先生のいる本部に向かって精誠を捧げ、涙を流しながら祈っているというのです。彼らは、世の中の人々に追われ、追い出される立場でも、本部に向かって祈りながら精誠を尽くしています。そのような祈りの前に、「そのとおりです」と言って賛美し、彼らの心情を身代わりして神様に侍るべき責任をもった人々が、本部の食口です。

 

ですから、聖日の礼拝時間のために、三日前から気を揉んで準備しなければなりません。万民の幸福を祈ってあげ、「私」を通して万民が蘇生できる復活の権限と、生命の関係を連結させようと身もだえしながら、教会の門に足を踏み入れ、神様のみ前に喉が詰まる思いで礼拝に参加しなければなりません。

 

 

 

10 精誠を捧げる人は、礼拝時間に遅れてはいけません。そのような人がいれば、恥ずかしくて顔も上げられない、「罪人の中の罪人だ」という心をもたなければなりません。皆さんは、礼拝時間をしっかり守ると決意し、他の人よりもっと多くの精誠を捧げなければなりません。時間も守らないで、「ああ!天よ!」と言えますか。精誠は、他の人に分かるように捧げるのではありません。教会で精誠を捧げようとするならば、車に乗ってくるのではなく、歩いてこなければなりません。教会に来てから祈るのではなく、まず祈ってから、もっと懇切な祈りをしなければならないのです。精誠は、そのように捧げるのです。世の中の人々が願う環境と、彼らが追求する欲望とは反比例するところで、精誠は積まれるというのです。

 

 

 

11 天のみ前に出ていくとき、約束というのは、どこに行っても絶対的に厳守しなければなりません。約束を守らない人が何の恩恵を受けますか。そのような人は、行く途中でやめてしまうのです。天は、懇切に慕い、懇切に苦労する人と向き合ってくださいます。誰でも訪ねていけば、向き合ってくださるような天ではありません。そのため、礼拝時間は、絶対に厳守しなければなりません。

 

 

 

12 皆さんの中には、父母もいれば、子女の人もいますが、皆さんが神様のみ前に出ていくとき、時間というものは何よりも重要です。時というものは、何よりも重要だというのです。時を合わせられなければ、滅びるのです。神様は、この上なく聖別された環境を求め、聖別された心を求めるのですが、時間も守れずに後ろで賛美歌を歌うとすれば、天はそのような賛美歌を願われないのです。

 

 

 

13 神霊の世界に入って祈るなら、まず神様のために祈らなければなりません。主人に会う時間なので、主人の福をまず祈らなければなりません。そのようにしてから、イエス様のために祈らなければなりません。神様のために祈ってこそ、歴史的な神様の心情が分かります。イエス様のために祈ってこそ、歴史的なイエス様の心情が分かるのです。その次に、今までキリスト教界でみ旨のために闘ってきた数多くの人々のために祈らなければなりません。堕落以降、アダムとエバから今に至るまで、数多くの預言者が歩んだ一歩一歩をたどりながら、「私が彼らを解怨する祭物になれるようにしてください」と神様に祈りを捧げたあと、預言者たちに、「私はあなたたちの恨が地上に残っていることを知り、その恨を解こうと思うので、協助してください」と言いながら、涙を流せるようでなければなりません。そののちに、愛する自分の息子、娘のために祈り、その次に自分のために祈るのです。天法がそうなっています。

 

 

 

14 先生は、祈るとき、「今まで私に対してくださった父よ!」という心情で祈ります。きょう、一つの生命を父の前に立てるか、サタンの前に弄ばれるかを決着する岐路で、その生命を天のみ前に立てなければならないという責任を感じながら、祈るのです。説教をしても、世の中の他の説教者たちのように、何かの題名を定めて準備する人ではありません。この時に必要な父のみ言を語ろうとするのです。そのような基準が立たなければ、身もだえし、涙を流しながら祈ります。皆さんの行く道を心配しながら、祈るというのです。

 

 

 

15 精誠を捧げるときは、「絶対に信じます」という境地に入っていかなければなりません。「神様を絶対に信じます。み旨を絶対に信じます」という境地に入っていかなければならないのです。そのような境地でのみ、神様が協助するのです。祈りながらも、祈りが成就されるか成就されないか、疑ってはいけません。「父よ!私だけが残りました。私でなければこの国がなくなり、この世界がなくなってしまいますが、父よ、あなたが六千年間、苦労してこられたこの一つの境地に、私一人が残りました。あなたが成就させるみ旨の近くにいる者が、私しかおりません。私という存在がこのように重要ですが、私はまだ備えができておりません。それでも、そのような私に命令なさったので、私がそのようにできる条件、そのようにできる基盤を備え、この民族の身代わりをいたします。これが復帰摂理ではないでしょうか」と言えなければなりません。

 

 

 

16 祈るときは、最初に、国のために祈らなければなりません。その次に、世界のために祈り、その次に、霊界にいる天使と、霊界にいる先祖のために祈り、その次に、神様の解放のために祈らなければなりません。自分がすべきことが何かも分からず、世の中の運勢がどのように回っているかも知らないで、「おお、主よ。私を天国に送ってください!」と祈るようにはなっていないのです。

 

今日、私たちがかわいそうなイエス様を解放してさしあげるためには、歴史から、「かわいそうだ」という証言を得なければなりません。歴史の先祖たちから、「お前一人だけは、私たちの子孫として堂々としている。全体の歴史をお前が起こしたのだな」という証言を得なければなりません。また、そこに加えて、「時代的な使命と民族的な使命に責任をもち、息子の使命と父母の使命、孝子と忠臣の使命を果たした」という証言を得なければならないのです。

 

 

 

17 「自分が、あなたの願う息子になれないのなら、息子(メシヤ)を生かすための僕の道だけでも築きます。石のかけらでも持ってきて置くか、板でも一つ持ってきて置き、息子(メシヤ)が渡ってこられる飛び石だけでもつくります」というのが、神様の同情を受けられる祈りです。「私の息子、娘よ!」というのは、同情を受けられる祈りではありません。順番に、世界の聖人を祝福してあげてから、自分の祈りをするようになっているのであって、いくらそのような祈りをしてみたところで、役に立たないというのです。

 

祈る順番を知らなければなりません。自分の利益のために宗教を信じる人々、福を受けるために信じる人々は、福を受けたならば神様を信じなくなるというのです。福を受けるのが目的だからです。少し豊かに暮らすようになれば、離れていくのです。

 

 

 

18 皆さんが恩恵を受けて霊界に接してみれば、祈りの題名が自然に出てきます。自分が祈ったことを統計で出してみれば、祈りの方法と内容が公式的に発展していくことが分かります。

 

堕落した人間が最初に祈るとき、世界的な問題について祈ろうとすれば、ばたんとのけぞって倒れるので、初めは、一番近い人、すなわち父母と愛する息子、娘と夫を救ってくださいと祈るのです。その時期が過ぎて発展すれば、祈りの内容が変わります。

 

それでは、神様のみ旨を知っている人たちは、何のために祈るのでしょうか。自分の家族のためにせず、世界のために祈るのです。また自分が置かれている立場がどのような立場であり、これから神様の願う立場はどのような立場であるかを知って、神様が願うその立場で、蕩減路程を開拓しようというのです。このような人が知恵深い人です。

 

 

 

19 祈るときは、対象を定めて祈らなければなりません。何となく祈るよりも、ある対象を念頭において祈ることが必要です。そのようにすれば、主体と対象になり、授受作用の法則が成立するのです。主体と対象が授け受けする立場で授受作用をするので、皆さんが祈り、精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くすに当たっては、幾千年の心情を越えて、懇切に精誠を尽くさなければなりません。幾千年の心情を中心として内外が一つになり、神様を呼び求めるその場は神聖な場であり、素晴らしい場です。そのようになれば、実体的に感じられるのです。その場で呼び求める「父よ!」という一言の言葉には、最高の美しさが宿っているのです。

 

 

 

20 祈りの基準が、きのうもきょうも同じ人がいますが、そのような人は信仰生活をする人ではありません。毎日のように同じものを見るのですが、それが毎日、異なるというとき、その人は神秘的な信仰世界に入るのです。それでこそ、偉大な信仰世界に入っていって、新しい世界を発見できます。毎日、同じことを続けても、それが良くて味わいがあれば、続ける中でそれを吸収しながら大きくなるのです。

 

 

敬礼式と家庭盟誓

 

21 真の父母様に侍り、餅を分けて食べるのは、私たちが霊的に神様と一つになるということです。一つの体になるのです。このような餅を食べるのは、二つに分かれている人々の体と心を一つにし、父母が一つになり、家庭が一つになり、一族と世界が一つになれるように影響を及ぼすことを意味します。

 

統一教会の祝福家庭は、毎週、敬礼式をしなければなりません。敬礼式をする日は聖日ですが、聖日にはホーリーフードを食べます。それは堕落することにより、アダム家庭で神様に侍って神聖なホーリーフードを分けてあげられなかった恨を解いてあげるものです。それを解くために、そのような敬礼式とともに、祝い願う心をもって、そのような式をしているのです。

 

 

 

22 統一教会の教会員は、アダム家庭から、氏族、民族、国家、世界、地上天国世界になるときまで、神様に侍って共に一つになる式として、敬礼式を世界に拡張しています。そのため、一週間、聖餐と向き合える時間を、何よりも希望の時間として待ち望まなければなりません。この時間が神様に侍る時間であり、神様と直接関係を結ぶ時間であることを知り、世界の祝福家庭が重要視し、伝統として守っていかなければなりません。

 

 

 

23 敬礼式は、先生と一緒に始めました。皆さんが先生と共に、毎日のように敬礼式をしているという事実は驚くべきことです。祝福家庭は、真の父母もこのような式典を重要視し、自分たちもこのような式典を重要視することを見せてあげながら、自分の息子、娘の前にこの伝統を引き継いであげなければなりません。この敬礼式を通した心情的絆は、家庭の父母と子女を中心として、平面的に、横的に形成されるとともに、縦的に真の父母と関係を結べるようにし、四位基台、三代が一つになれる関係を結ぶ重要な時間だということを、皆さんが自分の子孫に教えてあげなければなりません。

 

 

 

24 皆さんは、自分の家庭で日曜日に敬礼式をしなければなりません。これは、祝福を受けた人々の宣言式です。このような家庭は、サタンが侵犯できません。そのため、「私の誓い」を唱えるのです。神様を中心とした一つの主権を誇り、一つの民を誇り、一つの国土を誇り、一つの言語と文化を誇り、一つの父母を中心とした血族であることを誇り、一つの心情文化世界を成し遂げる役軍(担い手)であることを誇るのです。それは、サタン世界と関連がないという宣布です。一週間、ありとあらゆることをしたすべてを清算してくれる、一つの宣布式です。

 

 

 

25 父母が子女の手を握って座り、一緒に祈るのは、どれほど美しいでしょうか。私たちの家庭で朝に敬拝をするのは、真の父母に出会う時間、神様に出会う時間だという伝統を立てていかなければなりません。真の父母に会いに、神様に会いにいこうというのです。

 

 

 

26 敬拝するとき、自分が一人で敬拝しているとしても、一人でしていると思ってはいけません。男性が敬拝するときは、自分の妻と二人で一緒に立って敬拝していると思い、女性が敬拝するときは、夫と一緒に敬拝すると思いなさいというのです。そのような立場に立つことにより、男性と女牲が一つになったことを表示するのです。それは、祝福を受けた人は、完全に一つにならなければならないことを意味します。

 

 

 

27 すべての家庭で真の父母様の写真を掲げ、四位基台が一緒に敬拝しなければなりません。三代が敬拝しなければなりません。四位基台は三代です。祖父、祖母、母、父、子女たちまで、三代が敬拝しなければなりません。真の父母の名前と共に四位基台圏を成し遂げて敬拝する所は、堕落圏ではありません。神様が直接主管するので、解放圏が広がることにより、天上世界に行ったすべての霊人が地上に来て、天使長と共にアダム家庭を保護するように、保護できる時代に入ったというのです。

 

 

 

28 聖日の敬礼式をするのですが、誰に敬拝するのでしょうか。先生にするのであり、自分の家庭にするのです。天の父母と真の父母を、王として侍るためのものです。王権を相続するためのものです。いくら忙しいとしても、それ以上に貴いものがどこにありますか。子女は父母に敬拝し、その父母は互いに敬拝するのです。孝の道を教えてあげる父母にならなければなりません。ですから、手本になれる人生を生きる運動なのです。

 

 

 

29 皆さんが敬拝するときは、地上の私たちだけが敬拝するのではありません。必ず天上世界を中心として、天の国を中心として、神様を中心として、祝福家庭と天使世界が完全に一つになって敬拝し、互いの心が懇切な思いになれば、霊界に行っている皆さんの父母、もしくは友が、引っ張られてきます。七十二代を超えて、百二十代までも引っ張られるのです。皆さんが国家基準をいまだ成し遂げていないためにできないのであって、国家基準を成し遂げれば可能なことなのです。

 

 

 

30 「家庭盟誓」は、歴史になかったものです。「家庭盟誓」が出てくることにより、地上世界のサタン家庭は、これから行く所がなくなります。「家庭盟誓」が出てきたというのは、失った第二次世界大戦の勝利の基盤を、先生が四十年を通して四千年歴史を蕩減し、復帰された基準が立つことによって、天の国が地上に設定されることを意味します。第一が、「私たちの家庭は真の愛を中心として」です。すべて、その表題が出てきます。真の愛は、神様の愛を意味します。神様の愛と真の父母の愛を中心として、真の生命と真の血統が連結されたことを意味するのです。

 

 

 

31 今までは「私の誓い」を唱えましたが、これからは「家庭盟誓」を唱えるのです。歴史時代に、「家庭盟誓」というものはありませんでした。これは、驚くべき事実です。四十年間の世界蕩減路程を終え、全世界が先生を中心として動ける時代に入ったので、これが可能なのです。第二次世界大戦直後にできた統一的世界であるキリスト教文化圏が破綻したので、先生を中心として、条件的ではありますが、世界的にこのすべての覇権的基盤の上に乗せたのです。

 

 

 

32 「家庭盟誓」は、歴史上に初めて出てきた言葉です。男性と女性が家庭を失ってしまったので、「家庭盟誓」を設定して、神様と人類がこの地上に堕落していない本然の基準で歓迎を受けられる家庭の母体を再び立てなければ、神様が喜び、神様がこの地に来て暮らせる地上天国と天上天国を成し遂げることができません。そのため、不可避的にこのような「家庭盟誓」を立てたのです。

 

 

 

33 家庭を中心として、家庭の核をつくるためのものが「家庭盟誓」です。「家庭盟誓」をつくって何をしようというのでしょうか。骨になる天の父母を、家庭の中心として迎えようというのです。真の愛を探し出して愛することにより、神様が私たちの家庭に訪ねてくるというのです。「私」の体と心が一つになり、体と心が一つになった夫婦が一つになれば、その中に神様が訪ねてくるのです。皆さんの体と心が闘えば、永遠に神様は訪ねてきません。真の愛はあり得ないのです。

 

 

牧会者の基本姿勢

 

34 牧会者は、その地方の祭司長です。ですから、その地方のため、眠ることができなくても福を祈ってあげなければなりません。多くの人々を生かしてあげるために祭物を扱わなければならないので、精誠を尽くす苦労をしなければなりません。祭祀は、牧会者と神様が一つになって捧げてこそ報いがあります。教会員が祭物ではなく、牧会者が祭物です。これからは知識的な指導ではなく、組織的な指導をしなければなりません。教会員は肉で、牧会者は骨です。骨は現れないのです。肉がよく包んであげなければなりません。

 

 

 

35 公的な仕事のために、疲れも知らずに走り、いつ寝たのかも分からずにばたんと伸びて寝てしまったとしても、朝起きると、どれほど体がすっきりしているか分かりません。そのようなことを見れば、「いやあ、天の道は、このように行くのが原則なのだなあ!」と思うのです。しかし、「ああ、きのうは三時間しか寝られなかったから、きょうは五時間、六時間は寝ないといけないのに」と思いながら眠りについて起きれば、腰が痛く、全身がとても重たいのです。ですから、そのようなことを考えてはいけないというのです。

 

 

 

36 先生は、精誠を捧げる人に対しては、何もできません。それで、今まで教会を指導してきながら、二人いれば、その二人のうちどちらが立派かという問題を解決しなければならないとき、顔が立派であるかを見るのではなく、心がどこに向かっているかを見ました。すなわち、私的なのか、もしくは公的なのかということを見たのです。皆さんがこのような原則を中心として公的な道を歩むようになれば、絶対に滅びません。そのため、皆さんは、物を公的に管理し、人に公的に接し、天に公的に侍りなさいというのです。

 

 

 

37 朝、最初の一歩を踏み出すときも、公的な一歩なのか、私的な一歩なのか、反省しなければなりません。そして、一日の仕事を終えて床に就くとき、公的な一日を送ったのか、私的な一日を送ったのか、反省しなければなりません。もしくは一年を中心として、公的な生活をしたのか、私的な生活をしたのか、一生を中心として公的だったのか、私的だったのか、反省しなければなりません。このようなことを中心として、皆さんの生死を決する秤の竿が上がったり下がったりするのです。このような原則を皆さんが知ってこそ、公的な路程において行くべき道が決定されるのです。

 

 

 

38 一旦責任を担えば、その次は戦闘であり闘争です。相手が折れるか、私が折れるかという闘いをしなければなりません。その闘いで、皆さんは、皆さんの一代において、少なくとも反対の立場にいる三人以上を、自然屈伏させられる土台を固めなければなりません。神様には手段や方法だけでは絶対に通じません。また、み旨の前において、一生受ける立場にいてもいけません。み旨の前では、ただ与える立場に立たなければなりません。

 

 

 

39 指導者になるときは、本当に病気の人を治療する医者の立場に立たなければなりません。病気になった人の心霊状態が低下するときは、夜も昼も時間を問わず、夜を徹してその人と共に涙を流しながら、その人を治療してあげるために努力しなければなりません。それが霊的指導者です。皆さんは、生命を生かしてあげるために、何日徹夜してみましたか。生命を救うために、どれほど忙しく歩んでみましたか。そのようなことが、今後、霊界に行けば表彰の対象になり、人格的な基準になるでしょう。

 

 

 

40 食口が離れていったからといって、落胆してはいけません。本当に不思議なことに、食口が一人離れていけば、その人と性格も似て、話し方も似て、歩き方までも似ている人が入ってくるというのです。どのような面で見ても、不思議なほどに離れていったその人とあまりにも似た人でありながら、すべての面において、はるかに優れた人が入ってくるというのです。そのようなことを見るとき、精誠を尽くしたものは失わないというのです。これは、間違いなく事実です。

 

私たちは、誰に会うとしても、会ってそれで終わってはいけません。特に天を中心として会った人であれば、絶対にその縁を忘れてしまってはいけません。その人が教会に通っていたのに来なくなったといって、切ってしまったり、呪ったりしてはいけないというのです。その人が離れていったとしても、その人と結んだ縁だけは、捨ててはいけないのです。

 

 

 

41 皆さんが話をし、教えるすべての言葉に、神様の心情を感じなければなりません。言葉の後ろに立つのではなく、言葉の前に、神様の心情が先立たなければなりません。そのため、いつでも謙遜でなければなりません。聖日に説教をするときも、女性がお産の苦痛を感じるのと同じ立場で説教をしなければなりません。精神をそこに集中しなければなりません。説教の檀上に立つときは、妊産婦が分娩室に入っていく感覚を覚えなければならないのです。その境地に行けば、準備が必要ありません。説教の内容が問題ではなく、話すのが問題ではありません。そのような心情になっているかが問題です。

 

 

 

42 説教をする時間は、礼拝参加者が天国に入れるかどうかの分岐点になります。「今まで統一教会について気になっていたが、一度行ってみよう!」と言いながら教会に来たのに、「あの説教は何だ?」と思わせてしまえば、その一人の首を完全に切ることになるのです。公判廷に立った判事が宣告するその時間より、もっと深刻な場が説教をする場です。数十人、数百人の人が、そのような運命の場に立つという事実を知らなければなりません。責任者がその責任を疎かにして、下にいる人が自分を嫌うようになってはいけません。そのような人がいないように努力しなければなりません。それで、責任者は大変だというのです。自分の正体を人々の前に現すその場は、この上なく恐ろしく、怖い立場なのです。

 

 

第二節 献金生活

 

 

天聖経  第十一篇 目次 第二章 礼拝儀式

第二節 献金生活

 

1 皆さんは、統一教会に入ってきて、蕩減復帰という言葉を学びました。蕩減復帰するためには、祭物的な条件が必要ですが、祭物を捧げるためには精誠を尽くさなければなりません。思いどおりにできるなら、どれほど良いでしょうか。自分の思いどおりにすれば、神様が受け取れないのです。話にもならないというのです。そのため、条件物は「私」の生命の代身です。「私」の代わりに死ぬのです。

 

ですから、その条件物と完全に一つにならなければならず、その条件物を完全に愛さなければなりません。それが死ぬとき、一緒に痛みを感じ、心の中で泣きながら祭祀を捧げなければなりません。アブラハムが子女を祭物として捧げたのと同じように、心情的に切っても切れない関係を備えた立場で捧げなければならないのです。このような立場で祭物を捧げるべきです。そのため、自分にとって一番貴いものを祭物として捧げなければなりません。物質を捧げるときは、皆さんが使い残した物を捧げれば罰を受けます。そのような物は、かえって捧げないほうがよいのです。

 

 

 

2 十分の一献金の内容を見れば、そこには本当に恐ろしい内容があります。十分の一献金を捧げなければならないという聖句もあります。十のうち、一を神様に捧げなさいというのです。「なぜ十分の一献金をするのか」と言う人もいるかもしれませんが、十分の一献金は、一だけ捧げたということを、十まで捧げたという認定を受けるものです。

 

もし皆さんが、皆さんの父母の誕生祝いや還暦祝い、あるいは王の誕生日を迎えて祝賀してさしあげるために、牛も屠り、豚も屠り、あるものないものすべて作って捧げた場合、その方たちがそれをすべて食べるでしょうか。食べません。受け取ることはすべて受け取りますが、すべてを食べることはできず、ほんの少ししか食べられません。このように少ししか食べなくても、すべて食べたという条件が立てられるのです。

 

 

 

3 十分の一献金は、「私」が所有している物の中から十分の一を神様に捧げることにより、全体を捧げるという意味があります。父に全体を捧げるのではなく、その中から精誠を尽くして十分の一を捧げるというのは、そのような意味で価値があるのです。そのように十分の一を捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱われるようになります。このように十分の一献金を捧げながら暮らす人は、絶対に滅びません。日がたてばたつほど、その人の「天の倉庫」があふれるようになっているのです。

 

 

 

4 神様のみ前に精誠を捧げるとしても、手つかずの物をもって精誠を捧げなければなりません。そのようにしてこそ神様と関係を結べるのであって、使い残した物で精誠を捧げてはいけません。十分の一献金は、一番精誠を込めた手つかずの物でなければなりません。それが祭物です。祭物を捧げるときは、手つかずの物を捧げなければなりません。もし、息子を祭物として捧げるとすれば、一番良い息子を捧げなければならないのです。祭物は「私」の代身だからです。

 

 

 

5 精誠を尽くして十分の一献金をすれば、絶対に飢え死にしません。その子孫が、物質に関して窮乏に遭わないのが原則です。十分の一献金を捧げるために精誠を尽くさなければなりません。それが信仰の本質です。適当にするのは通じません。祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。ですから、最も貴いものを捧げなければなりません。地上人にとって一番貴いものは生命です。ですから、「私」の生命を捧げるのです。これが、蕩減復帰の祭物を通して罪を洗い清めることなのです。

 

 

 

6 十数は帰一数であり天に至る数です。人間が占有できる数は九数までです。九数は、今までは悪い数として扱われてきました。サタンが今までこれを支配したというのです。今日、サタンが支配するこの地上で、この九数を天のみ前に預けて連結させることにより、神様が私を主管できるのです。そのようにして、十数の位置を取り戻しておけるので、私が神様を信じて九数を引っ張れば、この九数圏内のすべての所有権をサタン世界から分離することができるのです。それで、十分の一献金という言葉が出てきたのです。

 

 

 

7 神様にはお金が必要ありません。神様と堕落した人間が関係を結ぶための条件物として、お金を必要とするのです。神様のために献金するのですか。神様は、お金が必要ありません。神様は、二十四時間いつでも、いくらでも、黄金やダイヤモンドを作ることができるのに、何のお金が必要でしょうか。皆さんを生かしてあげる条件を立てるために必要なのです。「私は神様のために献金する」と考えずに、国のために献金し、世界のために献金すると考えなければなりません。救いの目的を成し遂げてさしあげるために献金するのです。神様のために献金するのではありません。

 

 

 

8 一つの生命を育てるということは、決して簡単なことではありません。精誠を尽くさなければできないことです。使い残した物ではいけません。食べ残したかすのような物でもいけません。そのような物は、果敢に切り捨てなければならないのです。最初の物は、神様のみ前に捧げなければならず、手つかずの物を神様のみ前に捧げなければなりません。手つかずの物がない所には、神様が共にいません。新しい物がない所には、神様が共にいないのです。祭物も、他の人が残した物ではいけません。それは汚れてしまっているというのです。恩恵を受けた人であれば、すぐに分かります。それで、不浄な所には行かせないようにするのです。

 

 

 

9 精誠を捧げ、恩恵を受けていく代価として、感謝献金をするようにしなければなりません。精誠のないお金は、天が願いません。精誠を込めたお金でなければならないのであって、ポケットに入れてあったお金を、そのまま献金してはいけません。三日以上身につけて供えて聖別し、それから献金しなければなりません。自分の生命、財産をすべて入れなければなりません。先生は、もっている財産をすべて捧げました。その捧げた物を通して、世界の物質が渡ってこれるように橋を架けるのです。そうすれば永遠に滅びません。永遠に生き残るのです。

 

 

 

10 精誠を込めた献金や礼物と向き合うとき、その価値を知らずに向き合っては、精誠を込めた礼物に審判を受けます。王も身の振り方を誤れば、すなわち精誠を尽くした人にいい加減に向き合えば、滅びるのです。その王に従った人々も、精誠を尽くす人に反対すれば、天の逆族として追いやられます。そのため先生は、精誠を尽くす人に、いい加減に向き合わないのです。

 

 

 

11 記念をする祝いの日には、必ず統一旗とともに先生の写真を置き、礼物を捧げなければなりません。民族を代表し、国家を代表し、自分の家庭を代表して、記念の礼物を奉献しなければなりません。これは、先生が食べるのではなく、今後の国と自分の子孫に返してあげるためのものです。宴をしたり、良いことがあるときは、必ず精誠を込めたお返しの物を奉献しなければならないのです。それが天に侍る生活です。

 

 

第三節 訓読会の生活

 

 

天聖経  第十一篇 目次 第二章 礼拝儀式

第三節 訓読会の生活

 

1 これから、訓読会をしなければなりません。本を買って、皆さんがその体制をつくっていかなければなりません。食口がひと所に集まり、訓読会をしなければならないのです。先生は、山に行っても、訓読会の時間になれば、独りでもしています。皆さんも訓読会の時間になれば、寝ていても、起きて訓読しなければなりません。今後、原理を知らない人は、人としての扱いを受けられなくなるのです。

 

 

 

2 先生と関係を結んだみ言に通じるようになれば、み言に通じれば通じるほどその精誠の度数が強くなり、愛の心がそこに宿ります。ですから、み言訓読会を毎日のようにしなさいというのです。訓読会の味が、御飯を食べることよりも、愛することよりもおいしいという人は、無限に発展するでしょう。先生の生涯の一つ一つの場面を、最高に深刻な立場で集めて宣布したのです。

 

 

 

3 み言がどれほど貴いかをよく知る人は、先生しかいません。そのみ言がすべて、今まで埋まっていました。そのみ言を伝えたときは、生死を越えて話をしたことを知らなければなりません。そのみ言には、そのときに深刻だった天の心情圏が埋まっています。そのみ言を読み始めれば、昔、感動を受け、関係を結んだ霊人たちがすべて協助するので、相当な恩恵が宿るのです。もう一度このように目を覚まして読むことにより、昔、天が役事したその役事を今も同じようにするのですが、その背後では霊界の協助によって何十倍、何百倍、強く役事するというのです。

 

 

訓読会の起源と意味

 

4 子女たちも聖日の敬礼式に参加し、その時間を慕わしく思えるように、父母が手本を見せてあげなければなりません。父母がその時間を喜んで待つとき、父母が喜ぶ姿を見て、「私たちもあのように、母と父が歩む道を学ばなければならない」と言えなければなりません。そのようなものを残してあげるべきです。また、訓読会の集まりをもつことを、見せてあげなければなりません。訓読会のみ言は、どこにでもあるのではありません。統一教会にだけあり、先生から始まったのです。先生のみ言を訓読する場に行くことを喜び、御飯を食べる時間も後回しにし、お客さんが来ようとどのような人が来ようと、すべて振り払っていける伝統を立てなければなりません。それでこそ、自分の家庭がまっすぐに行くのです。息子、娘に伝統を立ててあげなければなりません。

 

 

 

5 み言は流れる(伝える)ものです。流れなければなりません。自分たちの前にとどまらせておけば、み言のゆえに十字架を背負います。み言が重荷となり、座り込んでしまうのです。それを流さなければなりません。従弟妹や父母、村人に流さなければなりません。流れれば流れるほどみ言が大きくなって、自分の実績が大きな川のようになり、郡であれば郡を占領します。

 

 

 

6 訓読会の「訓」の字は、言偏に「川」です。み言が流れるという意味です。そのため、腐らないのです。水は、一週間でも溜まっていれば腐ります。ですから、流れていかなければなりません。父が聞いたのなら息子、娘に、祖父が聞いたのなら孫に、市長が聞いたのなら市全体の市民に教えなければなりません。水は高い所から流れます。

 

訓読会は、み言を分け与える永遠の営みです。「読」の字は、言偏に「売」です。売るというのです。み言を千人に与えれば、その千人は損をしません。これは、永遠の営みです。お金を集めてもお金は過ぎ去っていきますが、み言は過ぎ去っていくことがありません。

 

 

 

7 訓読会の「訓」の字は、言偏に「川」ですが、川は水です。水は流れていくのです。水は流れてこそ生きます。「訓」というのは、み言の水を象徴しているので、動いてこそ生きるのであって、そのままでは腐ります。水は高い所から低い所に流れていかなければなりません。ひたすら伝授してあげなければならないのです。澄んだ水が流れなければならず、汚れた水が流れてはいけません。純潔精神がそこにあるというのです。訓読会は水のようにみ言を流すのです。み言の水を閉じ込めておけば腐ります。「読」の字は、言偏に「売」なので、み言を分け与え、広めなければなりません。訓読には、そのような意味があるのです。

 

 

 

8 先生のみ言を伝えれば、その人は先祖になります。今、堕落した世界、僕の世界、地獄に落ちた人々にこのみ言を伝えてあげることにより、そのようになるのです。み言がよく分からなければ、み言集を買って、配りなさいというのです。配ってあげればあげるほど、それが財産になります。そのみ言を伝えれば、伝えてあげた人が永遠の先祖になります。どれほどみ言を与え、天の国の民にしたかということが、あの世に行って自分の位置を定める財産になります。このような途方もない事実を教えてあげるのです。訓読会のみ言は、先生が今まで語ったみ言ですが、先生のみ言ではありません。天地のみ言なのです。

 

 

 

9 先生は、適当に話しているように見えても、公式的なものを抜かすことなく話しています。じきに先生は、霊界に行かなければならないので、五十年間精誠を尽くして語った内容がどのような影響を及ぼすのか、鑑定しているのです。訓読会のチャンピオンが先生です。み言は誰から始まりましたか。神様から始まったのです。そのような事実を知っているので、先生は、それを適当に考えることはできません。深刻なのです。

 

 

訓読会の方法

 

10 一年三百六十五日を中心として、その日と関係のあるみ言をあらかじめ定めて訓読するのです。訓読会のプログラムを全世界的に一元化させなければなりません。それを毎日のように「きょう訓読するみ言です」と言いながら、訓読するのです。互いに、御飯を食べても何をしても、時間さえあれば討論しなければなりません。

 

 

 

11 これからは、訓読会を通して教育する道しかありません。それを何回も読まなければなりません。ですから、一時間のかかるものを、三十分で重要な部分を明示できるよう、番号をつけていきながら読みなさいというのです。いくらでもできます。このようにして、訓読会を通して心霊教育をしなければなりません。本が先生です。勉強しなさいというのです。それは本だけを読んでいるのではありません。

 

 

 

12 昼でもいつでも、時間さえあれば訓読会をしなければなりません。自分がまず読み、また集まって全体的に読んで、歩調を合わせなければなりません。自分の家庭での訓読と教会での訓読が、歩調が合うように訓練しなければならないのです。本来は夫婦でそのようにしなければなりません。訓読会に夫が参加したら、きょう訓読したものは何か、妻に教えてあげるのです。妻にその部分を読むように言って、それを合わせていかなければなりません。

 

 

 

13 訓読会の良いところは何でしょうか。本を配ってあげて訓読しながら、本をもった人が読み終われば、「次は誰々が読んでください」と指名するのです。このように訓練しなければなりません。そして、訓読する人が十人来たら、必ず三分の一の三人に、関心のある所について質問させるのです。時間が足りなければ、数人にだけ質問させて、その質問に対して解説してあげるのです。それが講義よりもっと重要です。本を三回だけ読めば、はっきり理解できるのです。

 

 

 

14 訓読をするとき、代表が出てきて読むよりも、全員で順番に読まなければなりません。どこまで読むかを決めて、すべて読めば、次に読む人を指名し、読ませるのです。そのように読みながら、自分の声に感動しなければなりません。恩恵を受けなければ、訓読会をするために責任者が十回以上本を読んできなさいというのです。先生自身もそうです。巡回講演をするときは、先生が原稿をすべて言いて、分かっていますが、祈る気持ちですべて悟らなければなりません。

 

 

 

15 これから訓読会をするときは、一人でせずに、必ず多くの人で分けて、声を出して本を読むのです。一人が何ぺージかを訓読し、次に「誰々!」と名前を呼んで、指名するのです。そうすれば、名前を呼ばれた人が、続けて読むような伝統を立てなければなりません。そして、重要な内容、質問したいと思っていた内容をもって、「きょうの訓読会で必要な内容はこれですが、これは、私たちが守っていくべき鉄則です」と言って基準を立てるのです。

 

 

 

16 忠孝の道理を果たし、聖人の道理、聖子の道理を果たして、地上天国と天上天国を完結するというみ旨に携わる生涯を送ったのは、貴いことです。その基準から脱落しないよう、各自、越えるべき家庭の基準をつくらなければなりません。エデンの園に帰れば、神様が直接主管する位置を許されるのです。この基準を立てなければ、千ほど、万ほども差がついてそのまま残ってしまうので、父母様の伝統を受け継ぐために訓読会を始めました。今まで、父母とはどのような方かということを一つも知らずにいたのです。

 

 

第一節 祝福式

 

 

天聖経  第十一篇 目次 第三章 礼式と儀式

第一節 祝福式

 

1 祝福は、人間だけのためのものではありません。また、天地だけのためのものでもありません。神様は、御自身の内的な心情の基盤から、すべてを投入して祝福されました。その祝福がそのまま成し遂げられていたならば、この世界、この天地は、勝利の栄光に満ちあふれていたでしょう。そのような世界の中で、神様の心情的なすべての内容を完備した表示体である人間が、神様の喜べる家庭的基盤をつくり、そこで天的な聖業を人間的な聖業として受け入れ、永遠無窮の幸福の福地を建設するようになさったのです。これが神様の理想であり、願いでした。

 

 

祝福の意義と価値

 

2 祝福家庭が、どれほど価値あるものかを知らなければなりません。

 

祝福とは、個人を完成し、善を完成し、子女を繁殖するためのものです。個人完成、相対完成、その次は善の繁殖です。それが人間にとって核心的で、根本的な要件です。

 

 

 

3 アダムとエバが堕落しなかったならば、彼らの縦的、横的愛の理想の焦点、すなわち和合の一体的角度を合わせて一つになる場が形成されたでしょう。その場が、人類の真の先祖の愛の設定とともに真の生命の起源が設定され、真の血統の起源が設定される所です。これは、人間だけではありません。人間の心に神様が入ってきて、外的な神様と内的な神様が一つになる結婚式になるのです。それが堕落していない本然の結婚式です。これは、宗教世界において革命的な言葉です。

 

 

 

4 祝福とは何でしょうか。男性が東だとすれば、女性は西だと言えますが、東と西が平衡の取れた線上で、中心点を中心にして一つに結束するのです。一つに結束させるその力は何でしょうか。愛です。愛によって一つにさせるために、男性と女性を造ったのです。そのため、男性と女性が成熟したあとには、必ず互いに一つになれる道を訪ねてくるのですが、それが中央点です。その中央点に神様が縦的に臨むことができるのです。

 

水平線の中で、縦的な九〇度を中心として、三六〇度の中央に連結される位置で神様の愛を中心とすれば、男性と女性が一つになれるのです。神様の愛を中心として一つになったならば、人間始祖は神様の体になります。アダムとエバは何者でしょうか。実体をまとった神様の体になるのです。それで、コリント人への第一の手紙に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(三・16)とあるのです。私たちの体は神様の聖殿です。堕落した人間が聖殿になれるのであれば、堕落していない本然のアダムとエバは、もちろん自然に神様が臨在できる人間世界の本聖殿になったでしょう。

 

 

 

5 神様は、プラスとマイナスの二性性相としていらっしゃいます。神様のプラスを分立させたのが男性のアダムであり、マイナスを分立させたのが女性のエバです。そして、アダムとエバを合わせた結実体が子女です。このように、神様を中心として一代、二代、三代が形成されるのです。この三代の中で問題が起こったのが何代かといえば、二代目のアダムとエバの代です。アダムとエバが神様の愛を中心として一つになれませんでした。もし、アダムとエバが神様の愛を中心として一つになっていたならば、神様が臨める関係が決定されるので、子女にも神様と関係を結べる愛の基準が連結されていたでしょう。それを祝福と言うのです。

 

 

 

6 負債を清算してくれる福の仕組みが祝福でした。歴史時代に初めて、祝福を中心としてすべて清算したというのです。破産者になることを条件として、清算したのと同じです。死ぬしかないところを、それを条件としてすべて清算したのです。統一教会の祝福を、有史以来の良いと言われるものをすべて一度に積んだものよりも貴いものとして、真の父母を通して出会った愛と生命、そして血統を、どんなものとも取り替えられない、貴いものとして、感じなければなりません。そのため、皆さんの体とすべてのもの、財産を売ってでも、一緒に投入しなければなりません。

 

 

 

7 統一教会の祝福は、神様の生命と神様の愛と神様の理想の無形の体が、実体で顕現するためのものです。神様の生命と愛と理想を連結させるためのものが祝福です。ですから、神様はどこで喜ばれるのでしょうか。祝福の場で喜ばれます。それによって神様の生命が躍動し、愛が躍動し、理想が躍動するのです。

 

 

約婚式と聖酒式

 

8 祝福約婚式のとき、先生が手を載せて祝祷するのは、アダム家庭で分かれたエバの代わりに世界の女性をアダム家庭に立て、条件的な血縁関係を結ぶためです。それが血統転換です。世界のすべての女性たちは、お母様を中心として、先生を兄として侍らなければならず、夫のように侍らなければならず、父のように侍らなければなりません。

 

 

 

9 神様を中心としてエデンの園で真の父母が現れたならば、その真の父母は、子孫万代まで、神様を身代わりして祝福を相続してあげるのです。神様を信じることにより、神様から真の父母がそれを受け継ぎ、真の父母から皆さんが受け継ぐのです。それで、先生がこの祝福をしてあげるのです。それを受け継ぐことにより、堕落圏ではない永遠の新しい勝利圏で生まれた息子、娘は、落ちていく息子、娘ではなく、上がっていく息子、娘なのです。

 

 

 

10 皆さんに祝福してあげる位置は、どのような位置でしょうか。蘇生、長成、完成の完成した位置にすぐに上がっていくのではありません。原理がそうです。長成期完成級で祝福してあげるのです。

 

皆さんには七年路程が残っています。結婚前の七年路程、結婚後の七年路程、その次に家庭をもったあと、その家庭を中心として七年路程、三次七年の二十一年過程を経ていかなければなりません。それで、この三次七年の二十一年路程までには、国家基盤の上に私が上がるべきなのです。そこに上がれなければなりません。

 

これから、その式をしなければなりません。約婚式があり、その次にエバ復帰式、その次にアダム復帰式です。それが心情復帰、血統転換式になります。

 

 

 

11 聖酒式は、新しい愛を中心として、神様の体を自分の体の中に投入する式です。体は一つしかないので、神様の愛を中心として取り替えるのです。これが聖酒式です。イエス様が、「またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、『これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。食事ののち、杯も同じ様にして言われた、『この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である』」(ルカ二二・一九―二〇)と語ったのと同じように、神様の実体を中心として新しい血統を受け継いでこそ、原罪が洗い清められるのです。その式を経なければ、祝福の場に出ていけません。聖酒式は、血統を転換する式なのです。

 

 

 

12 堕落によって汚された血統を継承したので、これを転換しなければなりません。これをしなければ原罪を脱ぐことができず、原罪を脱がなければ、真の子女として祝福を受けられる段階に上がっていけません。原理がそのようになっています。堕落によって生じた原罪を脱ぐ血統転換、すなわち血肉を交換する式が聖酒式です。

 

 

 

13 聖酒式をしたということは、真の父母の愛、真の父母の生命、真の父母の血統関係において祝福の血を受けたので、真の父母の血族になったことを意味します。死ぬような死地において先生が血を入れ、先生が血を注いだ人のようにしてあげるのが祝福です。聖酒を飲んでこそ、祝福してあげるのです。血を与えたのと同じです。

 

聖酒式をする順序は、女性が先に聖酒を飲みます。祝福を受けるときは、女性が男性よりも先になります。聖酒の半分を、女性がまず飲むのです。

 

 

 

14 聖酒式は、蕩減復帰式です。聖酒式は天使長の立場でするのです。ですから、血統とすべてを捧げるのです。それが復帰する条件になります。ここでお母様を通じて、先生がするのです。皆さんも全く同じ立場です。聖酒式を挙行することにより、皆さんが父母の立場と同じ位置に復帰されていくというのです。

 

聖酒は、女性が先に受け取ります。女性がまず先生に敬拝して聖酒を受け取り、半分だけ飲みます。その次に、男性が女性に敬拝しなければなりません。女性が半分飲むときには、男性は頭を下げているのです。このときは、女性が母の立場にいます。母の立場と同じです。そして、女性が半分を飲んで残った物を男性にあげ、男性が飲むことによって関係が結ばれます。それで、男性も対等な位置に行けるようになるのです。

 

 

 

15 天使長を通してエバが堕落したので、復帰歴史においては、エバがアダムを通して天のみ前に立ち、天使長を復帰しなければなりません。そのために行うのが聖酒式です。聖酒式をするとき、先生が女性に先に聖酒を与えますが、それは失ったエバを復帰する式なのです。聖酒式をすることによって霊的に一つとなり、心情的に一つとなり、肉的に一つになるのです。絶対的な内約です。

 

 

 

16 聖酒は、何となく作られるのではありません。ただ、そのままできるのではないというのです。サタンと神様の立ち会いのもと、霊界にいる数多くの天使の立ち会いのもとに作られるのです。そこには、皆さんが知らない二十一種類の物質が入っています。万物世界と人間の復帰歴史の過程で形成される、すべての物質が入っているのです。

 

聖酒を作るときは、霊界の霊人たちが来て、「どうか一杯だけ飲ませてほしい」と言います。聖酒を飲めば復帰されることを知っているからです。そのため、群れになって来て、しきりに「私たちにも恵みをくれないか」と言います。先生にはそれができることを知っているのです。しかし、先生は、霊界のための先生ではありません。地上のための先生です。ですから、「お前たちは待ちなさい!」と言って、苦労した皆さんにあげたのです。

 

 

 

17 聖酒には、父母の愛を象徴するものが入っています。その次に、血を象徴するものが入っていなければなりません。ですから、それを飲めば、父母の愛と一体になり、血と一体になるのです。このようなものが聖酒の内容です。聖酒は、地と海と空を象徴し、全体を象徴する物で作られた酒です。聖酒には、三種類の酒が入っています。それ以外に、すべての万物を象徴する物が入っています。これを飲むということは、霊的に生まれ、肉的に生まれることを意味します。この式がなければ、原罪を脱ぎ、血統を転換することができません。血統が転換されなければ、完成基準を通過して、神様の愛と一体になれません。ですから、聖酒式はそのすべてのものを蕩減する式なのです。

 

 

 

18 皆さんが祝福を受けるとき、血統転換式をしました。血統を転換するためには、聖酒がなければなりません。聖酒が出てくるためには、二十一種類の聖別された物質がなければなりません。それは、空中で実を結ぶ物と、地で実を結ぶ物と、地中で実を結ぶ物、その次には、鉱物世界、植物世界、動物世界で最も貴い物、このように二十一種類の聖別された物質で作られるのですが、そのすべての物がサタンの讒訴条件に引っ掛かってはいけません。そのように作って、七ヶ月間寝かせるのですが、そこに不祥事が起こってはいけません。それは、簡単に出てきた物ではないのです。

 

 

祝福式と蕩減捧式と三日行事

 

19 エデンにおいて、神様は、アダムとエバの結婚式をしてあげられませんでした。神様が結婚式をしてあげることができず、自分たちで勝手に結婚し、サタンの血統が連結されたのです。祝福式は、これを抜いてしまって、再び神様の血統につないであげる式です。そのため、神様を父として侍り、堕落のない解放の天上天国、私たちの本国で暮らせる国民証を伝授してあげる式が、この祝福式です。

 

 

 

20 約婚式をしたあとに聖酒式があり、その次に結婚式があります。この約婚式と聖酒式は、何かの前例に従って行う式ではありません。堕落したすべての内容をもう一度象徴的に再現させて、それを蕩減するために行う不可避的な行事です。アダムとエバは、どの段階で堕落したのでしょうか。約婚段階で堕落しました。すなわち、完成という目標を見つめて、成長する過程で堕落したということです。

 

ですから、約婚の目的は結婚です。アダムとエバが約婚した立場で結婚を誤って堕落したので、その誤った結婚を否定し、神様を中心として新しく、正して越えていかなければなりません。これを否定するのも、適当に否定することはできないのです。堕落した内容と反対の内容をもたなければなりません。

 

 

 

21 聖水式は、祝福儀式です。聖水式は洗礼と同じです。イエス様は洗礼を受けましたが、聖婚式はできませんでした。結婚できずに逝ったのです。妻も子女もいません。家庭もありません。先生は、生命を懸けてこの日を取り戻してきたのです。

 

 

 

22 統一教会の祝福を受けた家庭は結婚式をしましたが、その結婚式は教会内における結婚です。国家内における結婚ではなく、世界内、天宙内における結婚でもありません。ですから、祝福も、教会の祝福と国の祝福がなければなりません。世界の祝福、天国に行って永遠の祝福式を経てこそ、本然の世界に帰れる道があるのです。

 

統一教会の祝福を受けるとき、簡単に、便利に、先生の知らないところでこっそりと祝福を受けたとしても通じません。国家祝福を経なければなりません。そこには経歴がすべて出てきます。その次に、世界祝福を経なければなりません。そして、天上に行き、大入会式と共に入籍式を経て、十二支派の編成を終えたあと、神様を中心として真の父母があの世に行き、位置を定めて座ってこそ、万民も順番に位置について座るようになるのです。

 

 

 

23 父母から息子、娘が一人でも生まれれば、その家庭に四位基台が現れます。神様が六千年間、願ってきたすべての創造理想が成就される四位基台完成が展開します。四位基台が完成すれば、その場で神様が認定して、天国の民とし、天国の家庭としようということを約束する場が、統一教会が最も注視する祝福です。祝福は家庭です。天国は何の天国ですか。家庭天国です。家庭天国を成し遂げなければなりません。家庭天国を成し遂げられない人は、天上天国に入れません。

 

 

 

24 蕩減棒式とは何でしょうか。アダムとエバが腰を誤用して堕落したので、妻と夫が、「二度と堕落することはできない」として、もてる力を尽くして腰をたたくのが蕩減棒の行事です。二度とその腰を用いて、誤った行為をしないようにするのです。イスラエル民族も、誓いを立てるときは、もものつがいを指して誓いました。割礼をしたのです。息子が生まれれば、八日日に男性の生殖器の血を流しました。男性の生殖器が誤ったからです。種が誤ったので、新しい種にするために割礼という法があるのです。それは、すべて条件です。所有物を決定するための条件なのです。

 

 

 

25 タマルは、天の道をつなぐために、自分の生命を懸けました。そして、ヤコブは天使と命懸けで闘いました。もものつがいを打たれて折られても、一晩中、離しませんでした。もものつがいを打たれなければなりません。もものつがいを誤って用いたことが堕落です。ですから、統一教会では、結婚をしたあとに蕩減棒の儀式をするのです。蕩減棒の儀式とは、腰を打つことです。腰を誤って用いたというのです。三時代を代表した私たちの先祖が愛を誤ることによって絡まったので、これを清算しなければなりません。

 

 

 

26 蕩減捧とは何でしょうか。聖書を見れば、蕩減するために行う割礼というものがあります。アダム家庭において、愛によって壊れてしまったのですが、洗礼とは何でしょうか。それは、ノアのときのことを言うのです。既に汚された生殖器を蕩減したのです。ノアのときは水の審判をしました。洗ったというのです。洗ったのですが、未完成だったので、条件的に洗礼を受けました。汚されたことを蕩減し、汚された体を洗ったので、その次にヤコブのときに着地しなければなりません。愛の生活をしなければなりません。血統転換、所有権転換、心情圏転換です。選民は、血統をひっくり返して出発したのです。

 

 

 

27 統一教会の祝福を受けた家庭は、血統転換式をします。そして、蕩減棒行事と三日行事があります。そこには、サタンが入ってくることができません。それは、真の父母と神様の法によって天国の門を開き、解放を宣言して現れたものなので、長成期完成級で行使していたサタンは関係をもてません。それで、祝福を受けた家庭は、血統転換式をするのです。それを経なければなりません。

 

 

 

28 三日行事をしなければ、真の父母様の血統と何の関係もありません。垣根に入ってきて、見学者にしかなれないのです。三日行事を終えてこそ、礼服を着て残れるのであって、そうでなければ、餅をもらって食べ、宴の見物もしっかりとして、同僚と一緒に遊んだりしたとしても、分かれていくのです。一つになれません。分かれれば、永遠に分かれるのです。血統はこのように恐ろしいものです。

 

 

 

29 愛に関する話を今まで悪いものと思っていたのは、愛の器官が悪の宮殿になったからです。三大破壊の武器になりました。愛を破壊する宮殿になり、生命を破壊する宮殿になり、血統を破壊する宮殿になりました。このような三大破壊の宮殿になったというのです。天地のすべてのものを暗黒世界にする宮殿になったので、それが悪い言葉の中の悪い言葉であり、サンソリ(下品な言葉)の中のサンソリになったのです。

 

本来、「サン」という言葉は、悪い言葉ではありません。「サンサン(双々、ペア)」とというときの「サン」です。それをサンソリと言うのです。サンソリは、二人が愛することを意味するので、悪い言葉ではありません。本来は神聖な言葉です。自分の先祖もここにぶら下がって生きてきたのです。数千万代の先祖がそれをつかんで生き、アダムとエバもそれをつかんで一つになって生きました。男性のものと女性のもの、先祖がすべてそこにぶら下がって生きたのです。男性のものには女性がぶら下がって生き、女性のものには男性がぶら下がって生きました。それにもかかわらず、それがどれほど貴いものかを知らなかったのです。女性のものは、男性の生命をコントロールする主体の中の主体です。

 

 

 

30 私たちの体を構造的に見ても、男性のそれと女性のそれが最も貴いので、一番安全地帯に置いたのです。そこが一番の安全地帯です。風が吹いてもそうであり、何かが襲撃してきても、そこは侵犯できません。女性はさらに侵犯を受けません。これは、サンソリ(下品な言葉)ではなく、神聖な言葉です。本来は、それを先祖から最も貴く思うべきだったのですが、これをサンソリと言うならば、今までの先祖がすべて悪かったということになります。アダムとエバの第一先祖まで悪かったということです。サン(卑しい)先祖だったので、サンソリになったのです。

 

本来、真の愛を中心としていれば、先祖がそこに根を下ろし、育って神聖な木になったでしょう。そのようになっていれば良い言葉になり、良い言葉であれば、いい加減にできないのです。侍っていかなければなりません。ですから、愛する前に先祖に対して、「きょう、このような特定の日を下さり、ありがとうございます」と敬拝してから愛さなければなりません。それで、私たちは、三日行事をするとき、敬拝から始めるのです。それを略式で、代表でするのです。その次は自由です。その峠を越えたあとに愛するのは、自由にしなさいというのです。

 

 

 

31 今や祝福が可能なので、いくらでも祝福をするのです。一人も残さず、すべて祝福してあげなければなりません。先生が行く前に、霊界では祝福を受けていない人がいないようにしなければなりません。そのような祝福が今までなかったのですが、できるようになりました。地上世界でも天上世界でも、先生が行く前に祝福を受けた人でいっぱいにならなければならないのです。そのようにしなければ、今までアダムが蒔いておいた堕落のすべての血統が根絶されないというのです。

 

 

奉献式

 

32 私たちは、息子、娘を生めば、八日目に奉献式をします。それは中心数を意味します。中心数ですから、男性と女性が備えなければならず、祖父と祖母が備えなければなりません。三段階の四方を備えなければなりません。中心がなくては、三段階がありません。誰もが中心の位置で三段階になれるわけではないのです。

 

 

 

33 イエス様は、三年の公生涯期間が終わって亡くなりましたが、統一教会は地上天国の基盤を築いています。先生の子女の奉献式のとき、三大祭物の条件として三つの贈り物を分配し、わかめスープと御飯と牛乳をあげました。三年期間は、イエス様が成し遂げられなかった四位基台を成し遂げる期間です。イエス様がユダヤ教を収拾し、ローマを屈服させていたならば、十字架で亡くなることはなかったでしょう。先生は、第一次勝利を収めました。民をつくり、主権を立てようと、三女一男に褒美を与え、献納したのです。

 

 

 

34 けさ、「神の日」を祝う儀式を行いました。その前に何をしたかというと、奉献式をしました。今回、皆さんが最も愛し、心情的基盤となる妻を動員させたにもかかわらず、皆さんが反対したり、デモをしたりしなかったという事実は、この上なく光栄なことです。そのため、先生の家庭を中心として、全体が第一線で出会える家庭的な一致基台が連結される、勝利の基盤が整えられたという条件を備えるようになったのです。

 

そのようにして、先生の家庭が初めて神様のみ前に奉献できる勝利的条件を立てられました。それで「神の日」を祝う式も行い、二階で先生の家庭の奉献式も行ったのです。そのため、先生の子女たちにも祝福してあげたのです。ところで、奉献をするにおいても、秩序を立てなければなりません。天の家庭の前に天使世界があったので、先生の家庭を奉献すると同時にイエス様の恨も解怨し、地上の願いも解いてあげなければならないのです。

 

 

 

35 先生は、個人的、家庭的に闘って、国家に対して出ていける基準になっていますが、皆さんは、まだその基準になっていません。皆さんは、国家基盤の上に立ったという資格、国家基盤の上に立った父母の資格、国家基盤の上に立った子女の資格、国家基盤の上に立った万物主管の資格を備えて、万物を主管しなければなりません。

 

その次に、来られる主がその基準を中心として最後まで闘い、世界を代表した世界的父母の基準、子女の基準、万物の基準を立てておかなければなりません。今はそのために闘っていく過程にあります。そこに皆さんも同参しているのです。そして、国家的な式とともに、どのような式がなければならないのでしょうか。万物奉献式がなければならず、子女奉献式がなければなりません。逆さまになるのです。万物の奉献式、子女の奉献式、自分自身の奉献式、自分の家庭の奉献式がなければなりません。それをしなければ、皆さんが縦的歴史を完全に蕩減し、横的に蕩減して、勝利した祭物として、そのまま捧げることはできないのです。

 

 

第二節 聖和式

 

 

天聖経  第十一篇 目次 第三章 礼式と儀式

第二節 聖和式

 

1 統一教会の教会員は、霊界があることを知っているので、死ぬことをそれほど恐れません。

 

統一教会では、葬式のことを昇華式と言います。昇華です!神聖に昇天するというのです。昇華しなければならない昇華式です。

 

それをするためには、先生が死んだ息子を前にして、息子、娘を生んだことよりもっと喜び、神様が王子、王女をもったその喜びを発見しなければなりません。そのような立場に立てなければ、死の峠を越えられません。息子が死んだその場で、父母が解放された万歳を、愛に勝利したという万歳の祈りをしなければなりません。興進君が逝くとき、先生は、涙一滴流しませんでした。その世界に行く道は遠いので、「統一式」をしてあげたのです。

 

 

昇華式と聖和式

 

2 世界的カナン復帰四十年の期間に、三年路程を策定しました。この三年路程に決着をつけなければなりません。三年路程において、二年目が危険です。一番大変なときです。それで、そのとき興進君が逝き、先生が監獄に入ったのです。指導者として、天地に責任をもった先生は深刻でした。興進君に対してサタンがそのようにしたので、まず「統一式」をして、昇華式をしました。

 

勝利の息子として送らなければならかったので、興進君が逝くときまで、先生は、涙を流しませんでした。夢のような話です。世界で、先生が祈ったとおりに、語ったとおりに、事実としてそのまま今、展開しています。信じられないことが起こっているのです。

 

 

 

3 興進君が霊界に行くとき、「統一式」をして「愛勝日」を宣布しました。父母様の愛は、サタン世界の死亡を踏み越えるのです。そのため、先生は、その場に行く興進君を三日間見つめながらも、涙を流してはならないのです。死んだ息子、娘を前にしても、神様の愛を分けることができ、愛を捧げなければなりません。それで「愛勝日」を宣布したのです。愛がすべてのものに勝利したので、昇華式なのです。

 

 

 

4 統一教会は、葬式を昇華式と言います。出生も、その次に聖婚も、その次に終わりも、完全な実として神様のみ前に捧げるのです。それが昇華式です。自分勝手に生きた人に昇華式をしてあげ、花の宴をしてあげるのが、どれほどあの世で恥ずかしいことか分かりません。ですから、そのような原則を知って礎石を置き、そこに合わせていかなければなりません。

 

 

 

5 興進君は、独りで逝きましたが、イエス様が亡くなってから五十日目の五旬節に、マルコの家の屋上の間で百二十人の門徒に聖霊が降臨したのと同じように、その日を期して、地上で興進君を祝福してあげました。穴をすべて埋めてあげたのです。そのため、興進君を見送りながら、涙を流してはいけないのです。お母様にも、旅立っていった興進君の前で寂しく思わないようにと誓わせました。そのときに道を定めてあげなければ、一般人と同じように、悲惨な形で霊界に行くので、イエス様や霊界の分かれた祝福世界とは関係がなくなるのです。それで昇華式です。そのようなことをすることによって、昇華式の起源になったのです。

 

 

 

6 興進君の昇華式では、涙を流してはいけません。父母様もアメリカで「昇華式を喜びで終えた」という報告を受けたあとに、初めて「気をつけて行きなさい」と言いながら、祝福の涙を流したのです。涙によって分かれた歴史が、涙によって和合するのです。統一教会の昇華式のときは、涙を流してはいけません。涙を流せば、行くべき道を行けないというのです。

 

 

 

7 愛の心がないところには希望がありません。愛の心と関心がなければ、関係が結ばれません。死に対しても愛情をもたなければ、その死の向こうの世界を主管する神様と関係を結べないというのです。死の境地を超越しなければ、神様の愛の世界に入っていけないのです。いかなる人も堕落圏を越えられなければ、いくら神様が待っているとしても愛を探し出せません。希望があるところには愛があります。霊界に希望があれば、死も愛をもって越えていかなければなりません。ですから、統一教会では葬式を昇華式と言うのです。それは、サタンの防波堤を一気に突破して、昇華していくのです。

 

 

 

8 一生の間、妻から見たときに、夫から見たときに、恥ずかしいことがあってはいけません。「純潔な血統を守って子孫に残してあげるため、この伝統を守りました。天上が願う神様の純潔な天国を創建できる伝統がここにあるので、私はそのように生きて、そして逝きます。父の前に行くのでお願いします」と言えなければなりません。それで、昇華式としたのです。

 

 

 

9 人間は、死ぬこととは何かを知りません。それは悲しみではありません。次元が低い世界から次元の高い世界へ、愛の橋を通じて移動することです。ですから、統一教会は死を昇華と言います。次元の高いところに昇華するのです。それは愛においてのみ可能です。

 

 

 

10 統一教会では、死んで葬儀をすることを「昇華式」と言います。昇華式なので、死んだ人にすがって泣いてはいけません。泣くのを見ると、死んだ霊が嘆息するのです。「このように無知で、私の行く道を綱で縛って引っ張りながら、行けないようにしている」と言うのです。そのようなことを知っているので、統一教会では「昇華式」と言うのです。天に向かって聖なる飛翔をするというのです。愛の力をもって押してあげなければなりません。引っ張らないで、押してあげなければなりません。

 

 

 

11 「昇華式」という言葉は興進様から出てきました。「愛勝日」の「愛勝」という言葉は、死亡に勝つということです。他の人々と同じであれば、お母様も身もだえして這いずりながら痛哭するところですが、お母様は涙を流してはならないのです。三日以内に、この式をしてあげなければなりません。「死亡に勝った」と宣布しなければなりません。そのため、統一教会では昇華式をするのです。死亡を越えて、喜びに向かっていくのです。昇華式を経ていく人々は、霊界のすべての谷間を越えていくのです。

 

 

 

12 「死」という単語は神聖な言葉です。悲しみと苦痛の代名詞ではありません。それで、真の父母様がその単語を「聖和」に直して発表しました。「聖」の字です。上がっていく「昇」の字ではありません。この「聖和」という言葉も、先生が使う単語です。「昇華」と「聖和」を区別できなかったので、「聖和」に直して発表したのです。

 

地上の人生を花咲かせて実を結び、穀物を抱いて歓喜と勝利の世界に入るときが、霊界入門の瞬間です。一度しかない時です。そのため、喜ぶべき瞬間です。心ゆくまで祝って送り出してあげるべき時です。悲しみの涙ではない、喜びの涙を流すべき時です。永遠の生命が生きていくべき人生行路において、死後の三日間は一秒にもならないのに、なぜそれを悲しむのかというのです。それを悲しんでいては、永遠の生命を防げるようになるのです。どれほど恐ろしいでしょうか。理にかなった話です。悲しみの涙ではない、喜びの涙を流すべき時です。この「聖和」というのは、三日間、死んだ死体を前にして、霊界に行く道のために精誠を尽くすことなのです。それで、この「昇華式」という言葉を「聖和式」という言葉に直したのです。

 

 

原殿式

 

13 統一教会の教会員は、霊界を越えていきます。先生は、死に対する恐怖がありません。堕落とは何かといえば、死亡をもたらしたことなので、宗教が復活圏をつくらなければなりません。「愛勝日」を通して昇華式をすることができました。それで原殿です。死亡ではありません。天国に直行です。地上の国から天国の宮殿に連結されるのです。それが原殿です。世の中にそのような宗教は、統一教会しかありません。

 

 

 

14 統一教会の食口が行く所は原殿です。原殿とは、母の腹の中から根本を訪ねていくという意味です。原殿とはどこでしょうか。人の生まれる前、母の腹の中です。大きくても小さくても、精子と卵子が出会ったその瞬間から、息をして一緒にくっついて喜びながら生きるというのです。二つがくっついて押し合いながら存続するのです。その原殿理想を通過しなければならないというのです。原殿の「殿」の字は、宮殿の「殿」の字です。母の卵子が父の精子と出会って地上に生まれる前の、理想の神様の中にあった根本を訪ねていくのです。

 

 

 

15 七星板(チルソンバン)とは何か、知っていますか。人が死んで、棺に入る前、きれいに洗って準備をします。棺に移す前に、板の上に置いて、すべて洗わなければなりません。その場で一つにならなければ、棺に入れないのです。誰がそれをしてあげるのでしょうか。最も愛する人がするのです。寿衣(じゅい)も、精誠を尽くしてあらかじめ用意し、着せて送り出さなければなりません。死んで棺に入るときに着る服を寿衣と言います。忠臣と孝子の代表となる人たちが縫い始めて、それを受け取って作るというのです。

 

天国に行こうとすれば、霊界に行こうとすれば、愛国者と忠臣の伝統に従わなければなりません。韓国の葬式には、そのような意味があります。統一教会が遺体を葬る所を、「共同墓地」とは言わず、「原殿」と言います。天地が解放されるために、その場に入って埋葬されたいのです。そのような根本的な宮殿を意味するのが原殿です。そこには、誰でも埋葬することはできません。殉教などをした人々が埋葬されるのです。

 

 

第一節 祝福家庭の生活法度

 

 

天聖経  第十一篇 目次 第四章 祝福家庭の生活儀礼

第一節 祝福家庭の生活法度

 

1 互いの良い面を備えて、父母に侍る生活をしなければなりません。父母に侍りたいという懇切な思いをもって毎日のように待つのですが、父母がお越しになれないことをよく知っているので、愛する天の兄弟や天の息子、娘が自分の家に来ることを待ち望みながら、朝から夕方までお客さんを接待するために準備する人が、天の福を受ける人です。昔、韓国の礼節のある人たちは、通りすがりの旅人が泊まっていけるよう、サランバン(客間を兼ねた書斎)をきれいに飾って、お客さんを接待する部屋として使いました。このようなものは、韓国だけがもつ由緒ある歴史です。この法度は、天の法度をあらかじめサタン世界の歴史過程において、象徴的に見せてくれたものなのです。

 

 

心得ていくべき家庭の法度

 

2 今まで私たちは、いい加減に生きてきて、言葉もいい加減に使ってきました。しかし、これからは、私たちの家庭にも規律を立てなければなりません。父母が、腹が立つといって子女を好き勝手にたたき、「このどうしようもないやつめ!」という世俗的な言葉を使ってはいけません。今からは、すべてが一新されなければなりません。神様を中心として言葉から、態度から、生活から一新された立場に立たなければならないのです。

 

 

 

3 宗家が栄えるためには、先祖から下ってきた家法や礼法をきちんと受け入れ、実践しなければなりません。そのようにせずに、「そんなもの、もうなるようになれ、それが私と何の関係があるか!」という人は、宗家の子孫になれません。そのような人は、宗家の長孫(長子の長子:跡継ぎ)として生まれたとしても、長孫になれないのです。今までの先祖よりも優れていなければならず、いかなる先祖もできなかった無数の責任を果たせる子孫にならなければなりません。統一教会の教会員は、そのような子孫にならなければならないのです。

 

 

 

4 昔、忠臣の家庭では、良い物ができたらまず国王に捧げました。これが韓国の忠臣の生活法です。そのような観点で、韓国の礼法は、いかなる国にもない天国の中心内容です。儒教では、孔子の教えに従いますが、その孔子の教えを中心とした礼法を見れば、天法に近いものがたくさんあります。これから皆さんの子孫が、皆さんに対して祭祀を行うようにしなければなりません。今はまだ、生活規範や葬儀を執り行う手順などが「統一原理」を中心として定められていませんが、これからその礼法が出てくれば、そのときからは適当にしてはいけないのです。これから皆さんは、どのような内容であっても、神様が共にいてくださるという心を中心として、自分の環境を克服し、根を深く下ろして、どのような風霜でも育つ生命力をもたなければなりません。

 

 

 

5 孝の道を行く人は、自分の生活の中で良いことがあれば、まず父母を思います。先に自分の夫や妻を思うのは、堕落した世の中ですることです。自分の父母にまず貴い物を買ってさしあげなければ、自分の妻に与えることはできないのです。自分の妻に服を買って着させようと思えば、まず父母にしてさしあげなければなりません。妻も、自分の夫が父母にしてあげられないのに、「これが気に入ったので、あなたが私を愛しているなら、一つ買ってください」とは言えません。食べる物もそうです。

 

男性も同じように、自分が服を買って着ようと思えば、まず父母に買ってさしあげてから自分が着て、妻にも着させてあげなければなりません。御飯を食べるときも、父母に侍って食べなければならないのです。

 

 

 

6 習慣的で世俗的な家庭であってはいけません。「今はこうだが、いつかは良くなるだろう」と考えてはいけません。完全でなければなりません。現在が問題です。過去と現在が完全であってこそ、未来も完全であり得るのです。エデンの園でも、このような一日をもてなかったことが堕落の証拠です。過去、現在、未来が一致する位置が、理想的な位置です。現在を捧げることができなければなりません。地上の永遠の足場になり得るかというのが、神様の願いです。これが歴史的な総合点です。

 

 

 

7 今後、法の中でも、愛を侵犯することを罰する法以上に恐ろしい法はないと理解する時が来るでしょう。今まで皆さんが、ありとあらゆることをした過去があれば、ここで潔く悔い改めなければなりません。原理を聞くたびに本当に言葉を失い、悔しく口惜しい思いを感じなければなりません。「堕落の子孫として生まれたのも悔しいのに、私自身がまたそのようなことをしていたとは!」と、拭うことのできない悲痛さを感じながら、神様のみ前にこれを赦される道があれば、それ以上に感謝することはないという立場に立たなければなりません。皆さんがこの罪に引っ掛かれば、皆さんの先祖まで希望がないのです。

 

 

 

8 一心、一体、一念、一和です!その次に、真の愛、真の生命、真の血統、真の家庭です。一和までは、相対がありません。神様の二性性相が男性、女性に分立され、彼らが子女を生んだのちに、四位基台完成となります。これは鉄則です。先生が適当に持ってきてくっつけたのではありません。天の法度、霊界の組織がそのようになっていることを知らなければなりません。ここに一致しないときは、問題が発生します。

 

愛の法度は、何億千万年が過ぎても、絶対、唯一、不変、永遠でなければなりません。愛の相対的理想圏において、宇宙がそのように存続しているという事実を考えるとき、自分たちの愛は、絶対、唯一、不変、永遠だというのです。それでこそ、万宇宙の前に恥ずかしくないのです。万宇宙が主人として侍るとき、「堂々とした私自身の家庭である」と言える観念をもたなければなりません。

 

 

 

9 皆さんには食口がいるので、兄弟同士、愛を与え合い、互いが互いのために与えられる人にならなければなりません。そのような模範食口になるべきです。統一教会であれば、教会の食口全体が敬える男性、女性にならなければなりません。これからは、切るものは切り、解体するものは解体しなければなりません。皆さんの思いのままにしてはいけません。統一教会は、天国を成し遂げなければならない教会なので、個人ではなく家庭を探し求めなければなりません。家庭生活で手本になれない人は、世界的に指弾され、全天宙的に指弾されるでしょう。

 

 

 

10 祝福とは、責任を果たしてこそ貴いものなのです。この世的な悪口を言ってはいけません。世の中の人たちとは、何かが違わなければなりません。家庭は小さな教会です。神様の代行機関として、神様が訪ねていきたい家庭にならなければなりません。最低限、三家庭が一緒に暮らす以上に結束しなければなりません。特別に伝えてあげたいことは、第一に、多くの人々が往来できる家庭になりなさいということです。人が和合することが最も重要です。そして、第二は天の家庭同士、団結しなければならないということです。最低限、三位基台になった祝福家庭同士だけでも、完全に一つになるべきです。

 

 

 

11 私たちは、個人中心ではなく、家庭中心です。だからと言って、家庭だけを中心としてすべてのものを清算するのではなく、すべて連結しなければなりません。ですから、昔、独りで修道の生活をしていたときの努力ではいけません。「昔、努力したときの何倍以上も努力しよう」という決意と覚悟を加えなければなりません。

 

悪に対して挑戦していく生活は、ややもすると疲れて後退しやすいのです。家庭をもったときは、独りのときの何倍も努力しなければなりません。家庭は中心をつかむ場です。私たちは、現実を避けることはできません。前後、左右、上下の関係を家庭で築かなければならないのです。ですから、過去の信仰形態ではいけません。過去の一方的な信仰態度でも駄目なのです。祝福は、死ぬか生きるかの決定点です。

 

 

 

12 個人の信仰は、いい指導者に出会いさえすればいいのです。しかし、家庭では、互いに指導者とならなければなりません。家庭は、誰のため、何のために生きるかが問題です。独りのときは、祈ればすべてのことがうまくいきました。しかし、家庭では、反対する人がいれば、その十字架を背負って本然の基準まで貫いていかなければなりません。個人は客車と同じであり、家庭は機関車と同じです。個人が失敗したものを復帰するのは簡単です。しかし、家庭的に失敗すれば破綻なのです。

 

 

 

13 父母の愛を受けるには、何をすべきでしょうか。父母様が愛するすべてのものを愛さなければなりません。そのようにしてこそ、愛を受けるのです。自分の父母に愛されることを願うならば、父母の愛を受けようとする息子は、父母がもっているすべてのものを愛したのちに、愛を受けなければなりません。これをしないで愛を受けようとしてはいけません。父母が貴く思うものを自分が勝手に引き継いでは、愛を受けられないというのです。

 

 

 

14 神様の立場と父母の立場は、まず先に考えてあげる立場です。神様は、「私」よりも先に考えてくださるのです。父母も「私」より先に考えてくださるのです。だから良いというのです。それで主体なのです。二人で暮らすというとき、「あの食口がすべきことを、私がしてあげなければならない」と言うべきです。神様がそのような方です。そのような人が中心です。ために尽くしてあげる人が中心になるのです。

 

 

 

15 よりために生きなければなりません。よりために生きる人が責任者になります。十人の中で誰が中心になるかというと、その十人のために愛し、ために生きる人です。その人には、十人がみな、訪ねていくのです。今までは、ために生きるのは悪いことだと思ってきました。しかし、主人、中心者になるというのです。天理がそうです。ために生きるのは損なことだと考えてきましたが、これが中心になるためのものであり、責任者になるためのものであり、すべてのものを相続するためのものなのです。ですから、ために生きなさいというのです。悪いことではありません。損することではありません。商いの中でも、このような商いはないのです。

 

 

 

16 時代が変化することを知り、言葉や生活や態度が変わらなければなりません。霊界でそれを願っています。向こうの国は既に統一され、一つの目標に向かって走っているのに、地上はざわざわとして、目標も定められないまま混乱の中にあります。ですから、精誠をよく尽くしてこそ位置が定まるのであって、そのようにしなければ落ちていくのです。今の時は、そのような時です。

 

ですから、いい加減に生きられません。先生を中心として、どこであっても思いのままについて回り、何かの大会をしても、自分の大会のようにするのですが、それはいけません。一切、そのような行動をしてはいけません。自分の家庭を中心として、天のみ旨を家庭から立てる活動をしなければなりません。そのためには、父と母から変わらなければなりません。

 

これから伝統を立てるにおいては、まず統一教会に長くいる人が、息子、娘の前に伝統を立てなければなりません。伝統を相続させるに当たって、信じられる父母にならなければならず、信じられる兄弟、信じられる夫、妻、信じられる息子、娘にならなければなりません。家庭から整理しなければならないのです。

 

 

男女間の愛の礼節

 

17 西欧文明圏では、小学校のときから性教育をしますが、それは良くありません。それは、自然に分かるようにしなければなりません。アダムとエバに対して神様が性教育をしましたか。かえって、知らないのが良いのです。分かるような年齢になれば、それが恐ろしいことを教えてあげなければなりません。そして、どれほど貴いものかを教えてあげなければなりません。

 

先生の時代は、男女共学時代ではありませんでした。ところが、近頃の子女たちは、体を接触させながら踊りを踊ります。ですから、私たちは、そのような教育機関をつくらなければなりません。これは、恐ろしいものの中で最も恐ろしいものです。殺人罪よりもっと恐ろしいのです。殺人は一人を殺すことですが、これは、数千代の子孫を滅ぼすのです。何人、何百人、何千人が犠牲になるのです。今後、この問題は殺人よりもっと恐ろしい罪であることを教えなければなりません。これからは、このようなことを考えることもできないように教育しなければならないのです。

 

 

 

18 今日、青少年が父母に反対して家庭を破綻させるのは、愛の秩序を破綻させることなので悪です。それによって家庭が破壊され、社会が破壊され、国家が破壊され、人間が破壊されるので、これは明らかに悪なのです。思春期のときは、映画に出てくるスリルある場面を見れば、実践してみたいと思うのです。「それのどこが悪いのか」と言うかもしれませんが、そのような放縦が広がって環境を破綻させることが起きるので、制裁を加えなければなりません。皆さんの知性がより明るくなり、社会の体験と環境的なすべてのものを調整できるようになる、そのときには良くても、今は駄目だというのです。

 

 

 

19 皆さんは、今正に咲こうとしているつぼみが良いですか、いっぱいに咲いた花が良いですか。先生は、いっぱいに咲いた花が良いのです。咲くときは自分の思いどおりに、思い切り咲きなさいというのです。他人の力によって咲くのではなく、自分の思いのままに大きく咲きなさいというのです。それは、皆さんが自然に育ち、自然に思春期を過ぎ、自然な環境でいっぱいに咲いて、愛したい夫を迎えなければならないという意味です。咲くこともできないまましなびてはいけません。葉が落ち、時を逸してから咲く花になってはいけないというのです。男性も同じです。男性もいっぱいに咲かなければなりません。

 

 

 

20 まだ咲いてもいないつぼみなのに、手紙を言いて恋愛する愚かな若者になってはいけません。自然に大きく咲かなければなりません。神様が御覧になるとき、「やあ!純粋に、清らかに咲いたな。香りを嗅いでみると、初々しいな」と言えなければなりません。ですから、神様も希望が多いというのです。そのような神様が手つかずのものを願われるでしょうか、しなびたものを願われるでしょうか。それでは、皆さんは、手つかずのものを願いますか、しなびたものを願いますか。堕落した皆さんも手つかずのものを願うのに、神様は、それをもっと願うのではないでしょうか。そのため、純情をもっていっぱいに咲き、今日の堕落した世界において悲しみの峠に引っ掛からず、それを越えていける、価値ある皆さんにならなければなりません。

 

 

 

21 アダムとエバの一度の失敗を復帰するのに何万年かかったか、考えてみてください。数多くの人が犠牲の代価を払いながら、この場に訪ねてくるまで苦労したのに、ここでまたそのようなことをするのですか。知らないときであれば分かりませんが、知ったのちには、そのようなまねはできないのです。自分に損害があり、被害が莫大であることが分かり、自分に被害が出てどのような結果が訪れるということがあまりにもよく分かるので、これに勝つのは問題ありません。

 

何千倍以上の被害がもたらされることがはっきりと分かるので、それを「やりなさい」と言ってもできないのです。アダムとエバの一日の失敗によって、どれほど被害を受けたかが分かり、自分自身にどれほど致命的な損害が訪れるかが分かれば、そのような行動はできないのです。それが分からないので、「それにどうして勝てるのか」という言葉が出てくるのです。

 

 

 

22 女性には男性が、男性には女性が一番恐ろしいのです。ですから、近くに行ってはいけないというのです。前から女性が来れば、避けていきなさいというのです。最近は、未婚の女性や男性たちが木の下に座って話をしているのを目にしますが、そのようにしてはいけません。

 

話をするなら必ず三人以上で集まってしなさいというのです。三人なら大丈夫です。天使長とエバ、二人で会ったから堕落したのです。アダムを呼んでおいて話をしたら、堕落したでしょうか。そして、アダムとエバも二人で会って話をしたから堕落したのであって、神様を迎えておいて話をしていたなら、堕落したでしょうか。会おうとするなら、三人以上で一緒に会いなさいというのです。

 

これは、強引に従わせようとしているのではありません。そのように誤ることがいくらでもあるので、それを防ごうというのです。そのためには、アダムとエバが堕落できない立場を取るのが原理的です。間違うことを防ぎ、それを清算するためのものが、私たちのみ旨です。そのため、三人以上で会いなさいというのです。

 

 

 

23 伝道するときも、女性は一人でしてはいけません。年を取った祖父や祖母でも、杖を引きずって歩く祖母、祖父でもよいので、一緒に回りなさいというのです。あるいは、小学生でもよいので、一人を連れて回りなさいというのです。伝道してはいけないというのではありません。危険なのでそのように言うのです。堕落する可能性があるので、それを防ごうというのです。三人いれば大丈夫です。私たちが互いに愛するのは、これを防ごうということです。それが愛です。いくら責任者だとしても、そのようにしなければなりません。

 

 

 

24 男性と女性だけがいれば、堕落する可能性があります、なぜガソリンがあるところにマッチを持って入っていったり、ガソリン缶の横でたばこを吸ったりするのかというのです。一度誤れば、すべて壊れていくのです。永遠に逃れる道理がありません。原理を知れば、逃れる道理がないのです。「原理はこうなっている」ということが分かれば、それはきちんと組織的にできているので、一度引っ掛かれば、それを抜け出したり、否認したりする何の根拠もないのです。

 

 

純潔、純血、純愛の生活

 

25 父母は、子女に真の愛を実践することを教育しなければなりません。これは、すべて家庭に関する話です。夫婦が貞節を守らなければならず、一心が定着しなければならず、その次に子女に対して真の愛の実践教育をしなければなりません。父親が酒を飲んで入ってきて、母親を殴りながら「私の話を聞け」と言えば、聞くでしょうか。母親が父親をだまし、うそを言いながら、子女たちには「私の話を聞きなさい!」と言えば、聞くでしょうか。ですから、子女に対する真の愛の実践教育です。教育ではなく、実践教育です。実践し、教えてあげなさいというのです。これを標語として、きちんと言いて掛けておかなければなりません。皆さんが精誠を尽くして書かなければなりません。

 

 

 

26 純潔、純血、純愛、その次に純情です。情を離れては、血統が生じません。千年、万年、情を基盤として血統が連結されるのです。息子、娘を千年、万年、継承させることのできる道は本妻しかいません。離婚できないというのです。そのようになっていなければ、二倍以上、蕩減しなさいというのです。

 

 

 

27 神様が一代、真の父母が二代、皆さんは三代です。そして神様が一代、皆さんが二代、皆さんの子女の三代圏ですが、四位基台理想を中心として白い玉のように純潔な女性、男性となり、純潔な愛、純潔な生命、純潔な血統を千年、万年残すことが、祝福の根本の伝統だったという事実を知らなければなりません。

 

 

 

28 二十代に近い青少年として汚されていない、染まっていない神聖な純情を、大事にしっかりと包んで、どこにもっていくのですか。天が一番喜べる祭壇の前に置いて、神様が喜び、その次に純情をもった男性と女性が出会って、喜ばなければなりません。神様が一緒に束ねられる神聖な土台が、新郎新婦の出会う場所なのです。

 

 

 

29 自分の体は貴いものです。これを汚さず、孝行をしなさいというのです。天に奉仕するその責任をもって、神様から認定を受けたその体をもって、サタンの死亡圏から脱出しなければなりません。これは、人間としての最高の目的であり、またそれが基準です。創造原理からすれば、そのようにならざるを得ないのです。

 

 

 

30 聖子は、天地を愛する人です。聖子は、霊界と肉界を中心として、神様を中心とした天上と地上の王権を中心として、国を愛する人です。天上の王宮法を知り、地上の国法も知って、天地の二つの世界のすべての法を守りながら愛そうとする人です。

 

 

 

31 神様は、アダムとエバを、誠を尽くして造られました。そこにおいて受けたのが真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種です。そこに帰らなければなりません。蒔いてくれたのだから、帰らなければならないのです。がらくたは誰も願いません。しかし、霊界に行けば、自分で過ぎし日のことが、すべて分かります。死ぬときに、すべてのものを清算していかなければならないのですが、外的な面は清算していっても、内的には残っているというのです。それが問題です。内的なものまで完全に分からなければ良いのですが、内的な心では傷を受けた跡が残っているというのです。良心の呵責を受けた跡が残っているのです。

 

 

 

32 一心、一体、一念、その次に一核です。そこに必要なのが純潔、純血、純愛であり、純愛の前に純性です。性の問題です。性にも蘇生段階、長成段階、完成段階があるのですが、これは堕落したために生じたのです。「性」と言えば、すべて終わります。一度で終わらなければならないのですが、旧約時代、新約時代、成約時代、そこに合わせなければなりません。純潔、純血、純性です。男性は、心と体が完全に一つにならなければなりません。一つになって、純潔でなければなりません。結婚する前にそれを犯すことはできません。純潔、純血、その次に純性です。性を守って結婚する時になり、核を成し遂げて二人が一つになってこそ、男性と女性が完成した、神様の対象的存在が出発するのです。

 

 

 

33 一心、一体、一念、一性の完成は、体と心が完全に一つにならなければなりません。体と心が完全に一つになるのは、いつでしょうか。堕落した人間においては、永遠に体と心が一つになれないのですが、結婚するとき、初めて核が形成されるのです。一心、一体、一念、一核、その上に何が来るのでしょうか。純潔、純血、純性、純愛が一つになるのです。そうして、和合しなければなりません。一和にならなければなりません。こうしてもああしても、それは永遠に一つです。

 

 

 

34 一心、神様の心、心の根本を中心として、定着しなければなりません。宇宙完成をするとき、定着しなければならないのではないでしょうか。その心の中で一心というのは、統一した心、平和統一した心を意味するのです。それで一心です。ここに一体とならなければなりません。その次に、一念にならなければなりません。一体になって、一つの考えにならなければなりません。その次に、純潔を中心とした性にならなければなりません。

 

このようにして、男性と女性が一心、一体、一念、一核を中心として性の関係を結ぶことにより、男性と女性が初めて一つになるのです。核が一つになるのです。プラスとマイナスを中心とした球形を見れば、上弦、下弦、右弦、左弦、前弦、後弦があるのと同じように、核にもそれがなければなりません。異なる男性の心と女性の心が一つになって、神様のみ前に対象的な体と心の位置で、夫婦の愛の根本とは何かを知り、神様をお迎えして一つになるのです。そのような家庭を中心として、全体に男性と女性の愛を中心とする一体圏が形成されるので、一和、すなわち和合して統一されるのです。永遠に変わらない統一になり、そうして安着するのです。

 

 

第二節 家庭の愛の法度と夫婦の礼節

 

 

天聖経  第十一篇 目次 第四章 祝福家庭の生活儀礼

第二節 家庭の愛の法度と夫婦の礼節

 

1 父母に息子、娘が二人しかいなければ、どのようになりますか。息子から見れば、彼には姉が必要であり、兄が必要であり、弟と妹が必要です。また、娘には兄が必要であり、姉が必要です。また弟と妹が必要です。兄がいなければならず、姉がいなければならず、弟と妹がいなければなりません。これがすべて備わっていなければ、不幸なのです。妹、弟、姉、兄、すべて備わって完全に一つになる家庭は、神様が保護されます。これが氏族と民族と国家の起源になるからです。兄と姉は東西を意味し、弟と妹は南北を意味するので、それが完成すれば立体になるのです。これが愛の法度です。神様の愛の法度において根源となる創造原理の概念がここから出てきます。このような愛の法度が定着するとき、平和の起源が形成されるのです。

 

 

家庭の愛の法度

 

2 「私」が父母に会いたいと思うのと同じように、父母は、自分の兄弟を父母よりもっと愛してくれることを願うのです。「父母に孝行をする」と言いながら兄弟同士でけんかをすれば、その孝行は成立しません。父母の心は、自分のために尽くしてくれようとする思いよりも、兄弟同士がもっとために生きることを願うのです。父母を世話することができなくても、「お母さん、少し待ってください。私は弟と妹を愛してきます」と言えば、「この子は、見どころのある子だ」と思うのです。

 

兄弟を父母以上に愛そうという人は、天国で永遠に暮らせる人です。兄弟を父母のように愛せない人は、ここから外れるのです。その道理の根本を悟ってみれば簡単です。それが分からずに、今までできなかったのです。私たち食口同士で一つになれるか、なれないかということが問題です。父母の前に孝行できない立場に立ったならば、父母のために自分が精誠を込めたものを、父母の代わりに自分の食口のために与えなさいというのです。そのようにすれば、父母に孝行した以上のものとして天が受け入れます。そのような人は必ず祝福を受けるのです。

 

 

 

3 天国に行く道は、兄弟を神様のように愛するところから開かれます。皆さんは、先生についてこようとするのですが、その心で兄弟と一緒に行こうと努力してみなさいというのです。天国に最も高く、早く、正しく導いてくれるのは、神様でもなく、先生でもなく、兄弟です。父母と夫婦の愛を凌駕する愛をもって努力する人は、最高の愛の主体者として相対を主管できるのです。

 

 

 

4 兄弟は、同じ愛の同参者です。父母の愛の同参者です。ですから、互いに争うことができません。自分の右手を上げるときは父の手、左手を上げるときは母の手、右足を上げるときは父の足、左足を上げるときは母の足になるので、右手と左手が、右足と左足が争うことはできないのです。既に愛を中心として、そのようになっているのです。

 

 

 

5 兄弟は、多ければ多いほど良いのです。兄弟がいくら多くても、御飯が茶碗一杯分しかなければ、兄弟で分けて食べなければなりません。御飯が茶碗一杯しかないからといって、争ってはいけません。兄弟が多くて大変な中で暮らしていても、「私は御飯を食べなくても、お姉さんにあげたい。弟と妹にあげたい」という愛の心をもてば、いくらでも良いというのです。良い服は自分が着て、悪い服は弟と妹にあげますか。サタン世界と反対に考えなければなりません。統一教会の祝福を受けた家庭の子女たちが考えるのは、サタン世界とは違わなければならないのです。

 

 

 

6 皆さんが母の腹中から出てくるとき、どれほど大変だったか覚えていますか。神様は、赤ん坊を生むとき、なぜこのように生むようにしたのでしょうか。話をするかのように簡単に、おいしい食べ物を食べるかのように簡単に、香水の香りが漂うかのように簡単に、ただ喜んで口を開け、「ははは!」と赤ん坊を生めるようにすれば、どれほど良かったでしょうか。なぜそのようにせず、汗を流しながら、死ぬか生きるかという境地で生むようにしたのでしょうか。光り輝く愛と出会うためにそのようにしたのです。

 

 

 

7 父母は、子女のためにいるものです。もし「子女は父母のためにいるものだ」と言うなら、その人は父母ではありません。今後、統一教会の原理を中心として倫理観が形成されるようになります。父母は、どうあるべきですか。子女を生んだ父母は、子女のために苦労しなければなりません。これが倫理の第一条です。なぜそのようにすべきなのか、説明は必要ありません。うれしいからだというのです。うれしいからその子女のために生きようとする父母の立場は、幸福な立場です。

 

 

 

8 皆さん自身は、父母のものであり、息子、娘のものです。そのようになれば、父母は子女のものであると同時に、神様のものです。ですから、皆さん自体は、まず神様のものになり、子女のものになったあとに、自分のものにならなければなりません。そのようになるとき、初めて完成するのです。そのため、父母を敬うその法度が地上に残っており、人間生活に残っているのです。ここから、「父母を敬い、子女を愛しなさい」という言葉が出てきたのです。父母がいなければ孤児と言います。父母の愛を受け、子女を愛してみてください。それでこそ、私という人間が四方を、上も下も見分けることができるのです。

 

 

 

9 父親は、子女と向き合うとき、友達の中の友達にならなければなりません。そうすれば、自分の友達と遊んでいても、父親が現れれば、友達を捨てて父親に向かって走っていくのです。そして、先生の中の先生にならなければなりません。「私のお父さんは大統領よりもすごい。一番だ。神様の次にすごいのが私のお父さんだ」と言わなければなりません。「友達と替えることができないお父さんだ。どんな先生とも替えることができないお父さんだ」と言わなければならないというのです。

 

 

 

10 先生は、どこかに行って家に帰ってくれば、必ず寝ている子女たちの顔をなでてあげます。父母の役割を果たすのは簡単なことではありません。そのようにして、「私たちの父が私を愛するように、私も息子、娘を愛さなければならない」ということを自動的に植えてあげるのです。また、「私たちの父が世界で一番だ!」ということを分からせなければなりません。

 

 

 

11 人は誰でも、素晴らしい息子、娘をもちたいと思います。それでは、素晴らしい人に育てるためには、どのように教育しなければならないのでしょうか。ある人は、「幼稚園から大学まで学校がたくさんあるのだから、そこで教育すればよい」と言うかもしれません。しかし、教育は、父母が一生の間やらなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。父母が精誠を尽くして育てた子女に家門を任せるとき、すなわちその代身者として立てるときは、父母の心と一致させ、父母に従わせながら、代身者として立てるのが常例です。

 

 

 

12 先生が心配するのは、どのようにすれば統一教会の名前を後世に残せるかということではなく、どのようにすれば先生の伝統を受け継いだ人々を後世に残せるかということです。そのため、今まで伝統を重要視しなさいという教育をしてきているのです。

 

 

 

13 祝福家庭と祝福家庭の息子、娘たち、その息子、娘の息子、娘たち、すなわち三代がどのように先生と共に暮らせるかということが大きな問題だというのです。三代が功臣になれば、天下にない天上世界の功臣になるということを考えてみましたか。ですから、自分の息子、娘に対して、今からそのような思想を入れるために、教育して精誠を尽くさなければなりません。

 

 

夫婦間の礼節

 

14 夫婦は、一緒に行動しなければなりません。一つにならなければなりません。どこかに行って座るときも、別々に座るのではなく、一緒に座りなさいというのです。夜も昼も、いつでも一緒に通じることができるのが夫婦だというのです。夫婦でなければそのようにできないのです。夫婦でない男性と女性が、一つの部屋に入って寝ることができますか。そのようになってはいません。

 

今後、理想世界では、夫婦が仲良く歩けば、未婚の女性と男性はその人たちに挨拶をしなければなりません。これからそのような時が来ます。夫婦が一つになっている姿を誇らしく思い、それを賛美する社会風土にならなければなりません。さらには、祝福を受けた家庭の夫婦が歩けば、今後はそのような標識が立つでしょう。その人々は、どこに行っても社会からあがめられ、多くの人々がその夫婦に対して賛美し、尊敬できるようにならなければなりません。

 

 

 

15 男性は天を象徴し、女性は地を象徴します。それでイエス様は天から、聖霊は地から、救いの恵沢を与えているのです。そのようにして、家庭的基盤を築いているのです。家庭的な基盤を築くとき、夫に妻が心を合わせてあげれば福を受けるのであり、妻に夫が心を合わせてあげれば福を受けるのであり、子女が一つになれば福を受けるのです。今は家庭救援時代です。

 

 

 

16 祝福家庭が赤ん坊を抱いて愛するとき、その息子、娘が何ゆえに生まれたのかということを肝に銘じなければなりません。神様ゆえに生まれたということを知らなければなりません。神様との関係を通して生まれたのです。夫が貴く、妻が貴くて、秘密裏に何の話をするとしても、その相対は自分たち同士で出会った相対ではありません。公的な天道を前にして会った人です。神様を介在させて出会った人です。そのような自分たちが悲惨になれば悲惨になるほど、神様はもっと悲惨になるのです。

 

 

 

17 男性が女性の部屋に入っていくときは、天地に一つしかない女王の場に入っていくのです。女性が男性と向き合う場は、王に侍るために入っていく場です。そのため、敬拝して入らなければなりません。三拝して入り、迎えなければならないのです。自分の夫に敬拝して入っていき、愛し合ってみたことがありますか。ですから、家庭教育もそのようにしなければなりません。父の部屋に入るときは、母が神聖な服で着飾ってすべてを備え、外出するときよりもさらに美しく装って入らなければならないのです。

 

 

 

18 夫婦が愛し合うためにドアを開けて入るときは、敬拝をしなければなりません。女王、大王に侍るためにいくのです。アダムは、地上天国の王であり、伝統のモデルです。そのような思いをもって暮らせば、天上世界においてアダムの王子の立場を身代わりできる位置に行くのです。王族になります。対等な価値をもつのです。

 

 

 

19 女性の部屋を訪ねていくときは自重しなければなりません。生命が宿る所、神様が訪ねてこられる所、永遠の子孫が輝くように芽が出る所なので、自重しなければならないのです。それを「私」から整備して、厳粛に初愛の花を咲かせなければなりません。その合歓の城を訪ねて入っていくのが、夫婦の愛の場所です。王権を羨むことがなく、天上世界の幸福の基地を羨むことがありません。すべてがここから始まるのです。このようなことを知り、これから妻がいる部屋を訪ねていくときは、敬拝をしなければなりません。三代の王宮を神聖に輝かせるために訪ねていく男性の堂々とした栄光ある姿を、何と比べることができるでしょうか。

 

 

 

20 暮らしが大変なのは、不幸なことではありません。どれほど天とひそかに近くなれるかが、幸福と不幸の別れ道です。個人が滅びるのは大丈夫ですが、家庭が減んではいけません。夫にとっては妻が、妻にとっては夫が、世界で最も必要な人です。ですから、互いに助言をしてあげながら杖となり、共に働く人にならなければなりません。

 

 

 

21 自分の妻を愛するならば、夫は妻の誕生日のとき、その村の婦人たちを招待し、妻をこの上なく愛する心で、妻のために踊りを踊り、歌でも歌ってあげることができなければなりません。そのようにすれば、村のすべての人々がその夫婦に対して、「福を受けなさい」と両手を合わせて祈ってくれるのです。福を祈ってくれるというのです。その人々が心を合わせて福を祈るのは、この上なく貴いことです。そこに善人が千人いれば、千人の願いがかなうように祈ってくれるのです。一人の善人が祈っても、その願いをかなえてくれるのに、千人の善人がそのように祈ってくれるなら、その千人の願いをかなえてくれないことがあるでしょうか。

 

 

 

22 愛をたくさんもった夫は、家の中で悪口を言っても、これは、すべて愛の刺激になり得るのです。愛がない夫の言葉は、その一言が身を切るような破壊の動機になります。愛のむちなら打っても良いのですが、愛のないところでは何であっても嫌なのです。

 

 

 

23 妻が夫の心を曇らせれば、その波が世界を曇らせます。朝、働きに出る夫のために、妻は早く起きてよくサービスしなければなりません。化粧をし、香水をつけてでも、美しくしなければなりません。女性は、情緒生活において負債を負ってはいけません。また夫の体や衣服などに対して、常に関心をもたなければなりません。夫が家に帰ってきたとき、疲れているように見えれば、顔を洗う水もくんであげ、歯を磨く準備もしてあげ、足も洗ってあげ、髪も解かしてあげなければなりません。女性の笑顔は、家の中の花です。円満な家庭を築こうとすれば、女性は悲喜劇のトップ俳優になるべきです。夫がうれしいときも完全に溶かし、悲しいときも完全に溶かすことができなければなりません。

 

 

 

24 道を歩いてみれば、絶壁に囲まれた山河もあり、大きな泥沼もあるのです。その峠を最後まで越えられなければ、後々、死ぬしかないというのです。み旨に従っていくにおいては、愛する妻子がいても置いていかなければならず、愛する夫がいても置いていかなければなりません。女性は天道に従って順応し、女性として行くべき道を行かなければなりません。夫が「一緒に死ぬ覚悟でいこう」と言えば、そうすることができなければなりません。たとえ死ぬとしても、あの世に行って一緒に暮らせばよいのです。夫の命令を絶対視したのちには、解放される道があるというのです。

 

 

第三節 祝福家庭の日常礼節

 

天聖経  第十一篇 目次 第四章 祝福家庭の生活儀礼

第三節 祝福家庭の日常礼節

 

1 明け方に起きれば、「私の一日の生活が、お父様の前に感謝の実体になるようにしてください」と祈りながら、花咲く春の園のように自由な園で、お父様が私を立てて摂理できる希望の結実体になろうと考えなければなりません。昼になって職場に出れば、希望の結実体が育つ夏の季節のようにもう一歩発展し、神様が共にある価値ある存在にならなければなりません。また夕方になれば、すべてを集約させ、一つの結実を父の前に捧げる秋の季節のようなときなので、祭物になれる立場に立とうと考え、冬の季節に該当する夜には、生命力をもって神様と内在的な父子の起源を結び、すべての気を受け入れられる自分になろうと考えなければなりません。そのように、一年三百六十五日を勝利の日としながら感謝する生活をする人ならば、その人は父と関係を結んで暮らすのが価値ある生活だということを感じられるでしょう。

 

 

伝道と衣食住の生活

 

2 昼間も働かなければなりませんが、宗教的なことは夜にしなければなりません。夜が効果的です。そして、明け方に教えてあげても効果的です。そうして、一度来た人が居ても立ってもいられず、家から逃げてくるほどにならなければならないのです。皆さん自身がそのようにならなければなりません。動機がないのに結果があるでしょうか。今までできなかったならば、今よりもっと一生懸命にやり、もっとうまくやりなさいというのです。他の方法を研究しなければなりません。

 

そして、ある所に祈る場所、聖地をつくっておき、明け方に行っては声を出して祈るのです。通り過ぎる人がその祈りの声を聞くとき、本当に神秘的に感じられるようにしなければなりません。皆さんがそれを続ければ、その村に志ある人がひそかに来て、その祈りの声を聞くのです。祈りの声が良くて、何か分からないけれども、心に響いてくるというのです。

 

 

 

3 夜十二時を越えて、一番鶏が鳴く声が聞こえるまで、み言を伝えてみなさいというのです。どれほど神秘的か分かりません。しんと静まり返った夜に、近所の犬がほえる声を聞きながら、み言を伝えてみなさいというのです。あたかも光明な陽の光を求めて、新たな人生の道を打開していくようでもあり、灯台の光を求めて新たな航海に出る船長のような気分を感じるのです。周囲がすべて、神秘でいっぱいに満ちた世界を一人で進むような勇敢な姿、凛々しい姿、荘厳な姿を感じるでしょう。このような心情的絆をもつためには、夜の時間を中心として指導しなさいというのです。夜や早朝に、このような活動を展開する必要があります。

 

 

 

4 部屋をきれいに整頓し、服を掛けるのも原理的に掛けなければなりません。男性の服は右側、女性の服は左側に掛けなければなりません。服を入れるのも、男性の服は上に入れ、女性の服は下に入れるのが原理的です。そのような訓練が必要です。そのようにしなければなりません。男性の服を下に入れ、女性の服だけを上に入れれば、原理に背くことになるのです。

 

 

 

5 服を脱ぐときも、ズボンをまず脱ぎ、上着をその上に置かなければなりません。そのような原理的生活をして、環境を整理できなければなりません。男性の靴は右側、女性の靴は左側、また男性の靴は上、女牲の靴は下に置かなければなりません。そのように、すべて原理的に整理できなければならないのです。

 

 

 

6「笑うこと」は、本当に不思議です。にこっとするのも「笑うこと」です。笑えばどのようになるかといえば、すべてのものが丸くなっていきます。祖父が大きく笑うときは「ほほほ!」と笑うのですが、上がり続けるのではなく、最後は「かっかっかっ」と曲がるのです。なぜ曲がるのでしょうか。上がり続けながら笑えばいいのに、なぜ曲がるのかというのです。丸くならなければならないからです。にっこりと笑うときは、口元が上がるのですが、「ははは!」と笑うときは口が丸くなるというのです。そのため、口を丸くして笑う人には悪い人がいないのです。

 

 

 

7 男性も女性のように、髪の手入れをしっかりしなければなりません。身だしなみを整えるのもそうであり、髪も自分で見て、分け目を左側にするのか、右側にするのか、把握しなければなりません。西洋も東洋もそうですが、すべて左側を分けます。これは、西洋風ですが、大概、左側を分けるのです。これを女性はよく考えなければなりません。

 

 

 

8 歩くのも、端正に歩かなければなりません。歩く姿がバランスが取れていなければなりません。歩く姿がバランスが取れているかというのです。安全に歩かなければなりません。ある人は少しかがんで歩くのですが、歩くのもバランスが収れていなければなりません。そのようなことが必要です。

 

 

 

9 女性がどこかに行って座るとき、東洋の場合は絶対にもたれて座ることができないようにします。男性はそのように座るのを許すのです。なぜなら、女性はお尻が大きいので、座れば自動的に楽になるというのです。男性はお尻が小さくて上体が大きいのです。女性がもたれて座れば、赤ん坊に支障があります。妊娠すれば、大変なことになるというのです。

 

 

 

10 健康が第一です。いくら具合が悪くても、他の人が何も分からないような表情が必要です。風邪を引いただけでも具合の悪い表情をし、少し大変なだけでも苦しそうな表情をするのですが、そのようにしてはいけないというのです。夫が心配そうなそぶりを見せても、「何か心配なことがありますか」と言いながら、慰労できなければなりません。いつも健やかな表惰が必要です。

 

 

 

11 人倫は、情を通して形成されます。家族関係や道徳観念、社会制度、秩序というものは、すべて情緒的なものです。先に感じた惰が長く続いたり、次元が高かったりすれば、人々はそこに頭を下げるのです。人倫形成の動機は情からです。父母が子女を愛するところから人倫は始まります。子女が父母を愛するところから、真の人間関係が成立するのです。

 

 

 

12 皆さんは、父母が好きであり、必要としています。いつも父母に会いたいと思い、一緒にいたいと思います。それは、年齢で見ても差があり、秩序的段階を見ても上下の関係があるからです。ですから、そこには礼を備えて尊敬し、孝行しなければなりません。このようなすべての社会生活の人倫道徳的な内容を備え、上下関係において、一つは主体であり、一つは対象の位置に立たなければなりません。ここで孝子になろうとすれば、従順や服従という内容を介在させて、自分が会いたいと思わなければなりません。これが父子関係です。

 

 

 

13 人間が貴いのは、人倫道徳があるからです。人倫は、人と人の関係を意味します。一人の人を指して「人倫」という言葉は使いません。「人倫」という言葉は、二人以上になってこそ成立するのです。男性と女性が結婚した家庭から、社会の倫理という言葉が成立します。倫理は人間関係の道理であり、法則です。

 

 

 

14 私たちは、超民族的、超国家的な新しい伝統を立てていかなければなりません。その伝統を私たちの思いのままにするのではなく、神様が願うとおりに、伝統の相対的基盤を築いていかなければなりません。皆さんの習慣性や過去の風習、現在盛んになっている流行に歩調を合わせるのではありません。完全に違うというのです。

 

 

聖塩と聖燭による聖別生活

 

15 聖塩は麹と同じです。物を買ったときに聖別し、外で過ごして家に戻ったときも、門の所で聖別するのが原則です。聖別した物をサタン世界に差し出してはいけません。避けられないときは、左手であげなさいというのです。聖塩は十字(北南東西の順)にまくのです。

 

 

 

16 私たち食口は、すべての物を聖別しなければなりません。聖塩をまいて聖別するのは特に問題がありませんが、御飯を食べ、麺を食べ、水を飲むというときに、いつ聖塩をもってそのようにできますか。それでは、どのようにするのでしょうか。イエス様が復活したあと、「フッ」と吹きながら「聖霊を受けなさい」と言ったのと同じように、そのようにすればよいのです。アダムを造って、鼻に命の息を吹き入れて実体の新しい生命を誕生させたのと同じように、これからは皆さんも生命の実体を身代わりし、水を飲むとか、御飯を食べるときは、三回息を吹いて食べなければならないというのです。

 

韓国の風習は不思議です。水を飲むときも、必ず息を吹きかけてから飲みなさいというのです。また座るときは、息を吹きかけて座ります。それは、天がこの民族の前に実践できる自然な良心を動かして、私たちに一つの風習として残してくれたのです。これは、すべて偶然にできたものではありません。そのため、心でいつでもそのような聖別をしなければなりません。蘇生、長成、完成、六千年の非常に長い時代を三時代として経てきながら汚したものを聖別するために、私たちは、三回息を吹きかけて食べなければならないというのです。

 

 

 

17 喜べる万物にならなければ、喜べる人が生まれません。堕落した圏内で悲しみの万物になったので、喜ぶことのできる万物にしてあげようというのです。このようにするためのものが聖塩です。聖塩によって聖別するのです。何によって万物がそのように汚されたのでしょうか。父母によって汚されたのです。聖塩は、真の父母が現れるときから、真の父母様の聖婚式場から始まりました。堕落した父母の愛から、すべての物が汚され始めました。それで、聖塩は真の父母様の愛を中心として、聖婚式場から出てきたのです。聖塩は、新しい愛の関係が縦横を中心として出発した土台の上で始まったので、堕落した悲しみのすべての嘆息圏を取り除き、新しい希望の世界に越えていける絶対的な条件物です。ですから、サタンも聖塩をまけば逃げていくというのです。

 

 

 

18 今まで理想世界が引っ掛かっていたのですが、それを私たちが代わりに贖罪し、責任をもとうという意味で、「愛天日」を宣布しました。興進君が霊界に行くことによって霊界の地獄の門が開き、地上で地上地獄の門が開きました。そうして、天の圏に通じることができるようになりました。霊界地獄世界や地上地獄世界、監獄の世界まで通じることができるのです。イエス様が亡くなったのち、三日間地獄に行って門を開いたのと同じように、先生が三日間で地上地獄の門を開いたというのです。イエス様が十字架ですべて失ってしまったのを、このことによってすべて取り戻すというのです。

 

愛天のろうそくの火は、イースト・ガーデンでつけてきました。一九八四年五月十六日に宣布したのですが、そこでこのろうそくをつけてきたのです。愛天のろうそくは、家庭をもった人だけがともすことができます。独りのときはできません。結婚してこそ、できるのです。これは、愛の父母様を中心として天と一つになることにより、愛の主管権が広がるのです。その主管権のための一つの象徴的なろうそくなので、結婚した家庭がともすのです。

 

 

 

19 愛天のろうそくは、国と世界に重要な問題があり、自分の家庭に重要な問題があり、自分の一族に重要な問題があるときに使用するものです。家庭の祖父、祖母や、父母や自分の家庭すべてが一つになり、このろうそくを中心として愛の主管圏が形成されるように祈るのです。そうすれば、そこにはサタンが侵犯できません。このように分別されたろうそくです。この光が届くところには、神様と父母様が共にいると思い、愛の主管圏が形成されると思わなければなりません。聖別されるというのです。

 

父母様を中心としてこれを始めたのですが、皆さんがこれをもつことによって、皆さんの家庭まで連結させるのです。これからろうそくをもてば、恥ずかしいことがあってはいけません。そうでなければ、このろうそくをもつ資格がないのです。ろうそくを見れば、芯を中心として自分が犠牲になるという意味があります。天を中心として人類が一つになり、一つの光を発するためには、犠牲にならなければならないということの象徴にもなります。

 

火がつくのは、ろうそくでもなければ、芯でもありません。ろうそくと芯が合わさって火がつくのです。皆さん夫婦も、主体と対象が犠牲になりながら光を発しなければならないということの象徽にもなるのです。そこにはサタンが存在できません。そうして、父母様が「愛天日」を定めた基盤を中心として、世界的にすべての祝福家庭を連結するのです。この愛天のろうそくには、天が主管するという意味があるのです。

 

 

祝福中心家庭の報告祈祷

 

20 二〇〇一年正月の一日から、祈祷が変わります。「祝福中心家庭、誰々の名によって祈ります」と言うのです。すべて蕩減し、長子権復帰、父母権復帰、王権復帰をしたのです。アダムとエバが、堕落の因縁がなかった解放的時代に入っていく立場で、主体的な自分の家庭を築かなければ脱落します。アダムとエバが堕落したとき、即刻、処断しました。皆さんも、夫が誤れば即刻、妻が誤れば即刻、自分と関係を切れる時代に入るのです。

 

 

 

21 父の前に相対的な立場で、すべてのことを喜びで報告できる時代が来るので、「真の父母の勝利圏を祝福によって受け継いだ誰々の名によって」と祈る時は過ぎ去りました。これからは、「祝福中心家庭、誰々の名によって報告いたします」と言わなければなりません。祈祷ではありません。「報告いたします」と言うのです。報告する時が来ました。報告しようとすれば、善の結果がなければなりません。乞食のように、いつも「願います、願います」と言いますか。誇るために報告しなければなりません。実績がなければ報告もできないのです。

 

 

 

22 イエス様の名ではなく真の父母の名によって祈り、今は「祝福中心家庭、誰々の名によって」、このように祈るのですが、今は報告祈祷をするのです。報告祈祷をしなければ、これから第四次アダム時代において、天の所有権の分配を受けることができません。所有権の分配を受けるためには、天の国の代表家庭にならなければならないというのです。

 

 

 

23 祝福中心家庭は、堕落世界と何の関連もありません。アダムとエバが堕落する前、神様の心情世界と連結されていた立場だというのです。それが祝福中心家庭です。それは神様の創造理想が完成した家庭として、堕落していないアダムの家庭を身代わりするのです。そのような立場では、祈りの代わりに報告を捧げるのです。

 

完成したアダムの家庭では、祈りをする必要がなく、報告を捧げればよいというのです。日ごとに報告を捧げながら理想世界を成し遂げていくことが、完成したアダム家庭の進むべき道です。そのような新しい何かがなければ、報告をすることができないというのです。そこではメシヤも必要なく、宗教も必要ありません。なぜなら、すべてのことを知っているからです。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、そして神様の心情世界まで、すべて分かるのです。

 

 

 

24 これから統一教会は、キリスト教で言う「アーメン」を「아주」と変えます。「アーヂュ」とは、「私の家」という意味です。「アーヂュ」というのは、「我()」の字と感服するすべてのことを意味します。驚く「ああ」や感服する「ああ」など、すべての恨の歴史を越えるのです。「とても(アーヂュ)良い!」と。言うのであって、「とても(アーヂュ)悪い」という言葉を使いますか。それは最高を意味します。

 

「アーヂュ」の「ヂュ」というのは、「主」の字にもなり、「住」の字にもなります。人として主人になって暮らす最後の場です。「アーヂュ」がそうだというのです。入って住むというのです。「ああ、今や主人になったのだなあ!主人になったから、私の家に行って暮らさなければならないなあ!」というとき、「私の家」というのは神様の奥の間です。生まれるときは、神様の奥の間だけではありません。神様の妻の腹中、骨髄の中で暮らさなければならないのです。分けることはできません。「アーヂュ、私の家」と言えば、それ以上願うことはありません。神様の内的心情において、分かれることのできない永遠の一体圏を中心とする場所が「私の家」だというのです。「私の家」にもなりますが、一番深い家にもなるのです。二つの意味があるのです。

 

 

 

25 「祈った内容のとおりになりますように」というのが「アーメン」ですが、「なる」というのは何でしょうか。「私がなった」という立場に立ちなさいということです。「アーヂュ!私は、全体を祈る理想の主人になりました」という立場で祈りなさいというのです。祈る内容が私と関係なければ、「アーヂェ」と言うことができません。

 

 

 

26 「アーメン」の代わりに「アーヂュ」ですが、最高の主人という言葉です。「主(ヂュ)」です。主の上に行くということです。主は「アーメン」だけ言ったのであって、「アーヂュ」は言えませんでした。主の上に行くということではないですか。民が女王や王に出会えば、「とても(アーヂュ)良かった!」と言うのです。「アーヂュ」という言葉は、最高のものにつけるのです。「アーヂュ」というのは、三時代を頂上から突き通して主人になったということです。

 

 

第一節 主要名節

 

天聖経   第十一篇 礼式と名節  第五章 主要名節と記念日

第一節 主要名節

 

1 これから、皆さんが天の王子であり、天の国の群れであることを知って、自分のすべての環境に対する礼法を備え、自分の本分を遂行しなければなりません。祝福を受けたという人々が、そのようなことも知らずにいます。

 

それでは、統一教会の教会員は、これからどのようにすべきでしょうか。「神の日」を中心として、家庭の伝統を樹立しなければなりません。また「父母の日」を中心として、家法を立てなければなりません。「子女の日」を中心としては、一つの秩序を立てなければなりません。これらの日を記念するにおいては、世の中のいかなる名節よりも精誠を尽くし、喜びながら迎えなければなりません。

 

そうして、その家庭の伝統の起源が「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」、「神の日」にならなければなりません。またこれらの日を祝う伝統を立て、自分の千秋万代の子孫に至るよう、天的家法をつくっておかなければなりません。これを中心として、「父母の日」から「子女の日」に直行し、ここから「万物の日」に直行して「神の日」まで直行しなければならないのです。

 

 

真の神の日

 

2 今までサタン世界によって侵犯を受けていない高次元的な基準で、神様の心情を中心とした一つの回路を造成しなければなりません。このような伝統の最初の基礎の足場が、統一教会で守っている名節です。この日を迎えて記念するためには、自分の生活全体を、この日を中心として結びつけることができなければなりません。また忠誠と精誠をすべて集め、この日と連結させなければなりません。このようにしてこの日を祝うことができてこそ、天が立てた名分と礼法を守る子女になるのです。六千年目に初めて探し出された日が、正に「神の日」です。この日は神様が喜ぶことができ、天地の運勢が総集結する日です。歴史上、前にもあとにもない日です。そのため、精誠を尽くしてこの日を迎え、記念しなければなりません。

 

 

 

3 人間が最も願う祝いの日、希望の日があるとすれば、その日は自分が生まれた日でもなく、自分が結婚した日でもありません。自分の国を失った国民の一人として国を取り戻した、もしくは国家が独立した日でもありません。人間が最も希望する日、願う日があるとすれば、「神の日」と「父母の日」です。その日が地上に生じることこそが、私たちの全体の願いになったというのです。「神の日」と「父母の日」が始まれば、「子女の日」も「万物の日」も、自然に連結されるのです。

 

 

 

4 今日、この地上に暮らす人で、「神の日」を見た人は誰もいません。「父母の日」を見た人もなく、被造世界のいかなる万物も見ることもできませんでした。一年三百六十五日が連結されるすべての日の中で最も重要な日が、すべてのものが解決される「神の日」と「父母の日」だというのです。その日は、日の中でも王のような日であり、そのような年があれば、その年は年の中の王のような年だというのです。

 

 

 

5 真の父母を復帰する前には、すなわち堕落していないアダムとエバの家庭を探し出す前には、堕落していない子孫ももつことができず、堕落していない万物世界ももつことができません。人間が万物世界を思いのままに主管できる立場に立たなければ、神様も神様としての振る舞いができません。それで、一九六〇年を中心として「父母の日」を策定し、「子女の日」と「万物の日」を策定したのです。父母がいてこそ子女がいることができ、子女がいてこそ万物を主管できるのです。万物を主管するためには生育して繁殖し、地に満ちなければならないのであって、アダムとエバ、二人だけで主管するようにはなっていません。

 

子女は横的な基盤であり、父母は縦的な基盤です。そのため、父母は地上において神様の代身です。このような縦的な基台を備え、万物を主管するようになっているのです。それで、統一教会では「父母の日」を立てたあとに「子女の日」を立て、「子女の日」を立てたあとに「万物の日」を立てました。「父母の日」と「万物の日」、そして「子女の日」は、堕落圏にあるのではなく、神様の主管圏内にあります。すなわち、サタンの讒訴圏を抜け出した位置にあるというのです。そのため、神様と直接的な関係を結ぶことができるのです。

 

 

 

6 一九六〇年は、アダムとエバが堕落した長成期完成級の基準に上がった年でした。長成期完成級の基準を中心に完成圏まで上がっていくには、七年期間が必要です。それが第一次七年路程でした。完成基準に立てば、神様の直接主管圏に入ります。そこは内外共に直接なので、心情生活圏もやはり直接主管できるのです。その完成基準を残したまま祝福した年が一九六〇年でした。アダムの堕落によって堕落圏、すなわちサタンの主管圏にいたのですが、このサタンの主管圏を破壊する家庭が現れたので、この家庭に対してサタンは総攻撃をしてきました。しかし、サタンと闘い、ぶつかって追い出し、蕩減して「神の日」、「子女の日」、「万物の日」、「父母の日」、この四大名節をこの七年間に探し立てたのです。

 

 

 

7 「神の日」の決定と同時に、地上に神様が臨在できる基準を立てることができました。ですから、これから統一教会の発展は、地上において急速に促進されるでしょう。そのような基準を成し遂げたので、統一教会は真理を中心として、霊界解放とともに地上解放、そして地獄解放へと発展していくのです。なぜなら、「神の日」を迎えたそのときから地獄が壊滅し、サタンも滅亡するしかない立場に行き着くからです。それで、「神の日」の決定と同時に、先生の使命は完成したのです。

 

 

 

8 「神の日」が現れるまで、どれほど大変だったか分かりません。「神の日」を策定した時が最も大変でした。いくら「父母の日」が立てられたとしても、その「父母の日」を支えられる「子女の日」がなければ、「父母の日」は「父母の日」としての役割を果たせないのです。また「子女の日」を立てたとしても、「万物の日」を立てなければ、「子女の日」が「子女の日」としての責任を果たせません。そのため、「神の日」、「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」が完全に一つになって、神様の主管を受けなければなりません。そのようにできなかったのが嘆息の要因です。これを連結させるために立てたのが、一九六八年の一月一日に世界的に宣布した「神の日」です。

 

 

 

9 アダムが長成期完成級で落ちたので、長成期完成級で家庭を率いて上がっていくしかありません。それは完成の位置ではありません。また、長成期完成級でアダムとエバが落ちたので、先生も長成期完成級から出発して七年路程を上がっていかなければなりません。それで、一九六八年の一月一日になって、ようやく「神の日」を策定したのです。七年路程を越えていかなければなりません。そうして神様の直接主管圏に入り、「神の日」が策定されたのです。「神の日」が策定されることにより、その期間に「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」、歴史時代に失ってしまったすべての悲しみの日を蕩減し、世界的に本格的な出発が始まったのです。

 

 

 

10 「神の日」が設定されることにより、今や天地の前に新しい方面で、発展段階に向かってさらに前進するでしょう。今までの歴史は蕩減の歴史だったので、私たちが苦労して汗を流しながら犠牲になったとしても、それらは蕩減のためのものだっただけで、神様が本当に喜べる苦労にはなれませんでした。しかし、これからは私たちが涙と血と汗を流しながら苦労したすべての実績は、サタン世界において蕩減条件となって流れていくのではありません。

 

これから私たちの苦労は、自らのものとして連結され、自らの実績として収めることができるのです。そのような時代圏内に入りました。すなわち、私たちの苦労は、全面的に神様の勝利として決定される時代になったということです。このように栄光の時代圏内に入り、神様が喜べる時代的限界が設定されたので、神様が干渉できる時代を迎えたのです。それで「神の日」を設定したのです。

 

 

 

11 「神の日」が始まることにより、神様を中心として皆さんの一次七年路程と先生の二十一年路程を越え、今や第二次七年路程、その後の世界においては、天の家庭を中心として、神様が直接的に指揮できる時代になります。これを連結させて氏族を立てたのは、民族を救うためであり、これが神様の使命です。ですから、今私たちに残された使命は、民族を中心として復帰の使命を完結していくことです。

 

私たちの段階においては、迫害が既に消えてしまいました。何度も繰り返される困難な蕩減の時代が過ぎ、今や私たちが蒔けば、刈り入れができる時代になりました。ですから、神様のみ前に感謝しなければなりません。これからは皆さんが十ほどの苦労をすれば、その十の苦労が実を結ぶ時代圏を成し遂げました。これが神様のみ前には無限な誇りとなり、サタンの前には無限に悔しい事実となりました。

 

それにより、一九六八年一月一日、午前三時を期して、「神の日」を策定したのです。この日はすべてのものを捧げ、すべての精誠を尽くして感謝し、神様に栄光をお返ししなければなりません。この日は千秋万代の私たちの子孫が永遠に賛美するでしょう。神様がいらっしゃることを知らしめたこの日を、永遠に賛美しなければなりません。

 

 

 

12 人間は、今まで自分が生まれた日を祝い、自分たちが結婚した日を祝ってきました。また国家は国家なりに、記念する日を祝ってきました。今は、世界的に何かの日を祝う時代になってきています。しかし、今までの数多くの日の中には、神様に侍って本当に記念した一日、「神の日」がありませんでした。これがどれほど大きな悲しみであり、天地に深くしみ渡る恨であるかを、私たちは、原理を通してよく知っています。

 

神様のみ前に堕落した世界が横たわっている限り、この「神の日」は策定できません。ですから、この日を探し立てるためには、堕落した基準を蕩減復帰しなければならないのです。この地に堕落した父母が生じたので、この堕落した父母を蕩減しなければならないのですが、この堕落した父母を蕩減し、勝利の日として立てたのが、正に「父母の日」です。

 

 

 

13 私たちが迎えた「神の日」は、すべてのものが集中した希望の日です。また、この場は、イエス様のときの使徒たちの位置とは比較にもなりません。このような途方もない内容と結実の価値をもっているのが「神の日」なので、この日を心から祝う私たちの姿勢は、どのようなものでなければならないのでしょうか。皆さん個々人の心は、どのようにあるべきでしょうか。アダムとエバのときの、アベルがこの日を祝えるようにしなければなりません。

 

またノアが、「あなたたちの驚くべき心情を賛美いたします」と祈れるようにしなければなりません。そして、三代の信仰の先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブから「私が苦労し、私が困難に遭ったのは、きょうこの一日を迎えるためだったので、あなたたちの驚くべき成就を賛美します」という称賛の言葉を受けられるようにしなければなりません。

 

これだけでなく、イスラエル民族からも「私たちが国を探し立てるために、モーセを中心として砂漠を横断し、そのすべての困難を経ながらも備えることができず、収めることができなかったイスラエル圏を、このように整えてくれたので有り難い」という称賛の言葉を受けられるようにしなければなりません。これらの問題を見るとき、「私」はこの日のためにどれほど忠誠を尽くし、この日のためにどれほど苦労し、この日のためにどれほど犠牲の代価を払って、この価値ある日を迎えて祝っているのかということを考えてみてください。

 

 

 

14 皆さんは、「神の日」という宴の日を迎えるために、どれほど準備しましたか。自分の一人息子の結婚式を準備する、それ以上の準備をしましたか。女性たちは、結婚して新郎がいる部屋に入る前に、垢という垢はすべて落として精誠を尽くして装った、それ以上の準備をしてみましたか。また、男性たちは、「あなたでなければ私は死んでしまう」と大騒ぎして、望みのない困難な立場から数多くの障壁を取り除き、初めて願いを成就して、男性として喜びの心で新婦を迎える、それ以上の心で参席する準備ができていますか。

 

六千年間待ち望んできた、一つしかないこの聖なる「神の日」の行事のために、どれほど途方もない準備をしなければならないでしょうか。ここに参席した皆さんの誠心誠意が足りていないことを自ら認めなければなりません。そして、参席するときも、ただ参席するのではなく、統一教会の教会員の中で、誰よりも人知れず精誠の度数を満たし、神様のみ前に、中間ではなく最も近い立場で参席するという心をもたなければなりません。

 

 

 

15 皆さんは、誰よりもこの「神の日」に対する深い意義と高い価値を知らなければなりません。そして、この日を指標として、この日の前に栄光となる各自の生活の土台を開拓し、さらに統一教会の教会員としての責任を追及して、民族的な責任を完遂しなければなりません。そうして、民族がこの日を永遠の「神の日」として迎えるときまで、絶え間なく前進を続けなければなりません。

 

「神の日」が策定されることにより、霊界の数多くの霊人が地上に降りてきて、神様が願われるみ旨を中心として本格的に闘うことができる時期になりました。今までは神様がサタンの讒訴条件に引っ掛かり、それを弁償し、防御する時代でした。しかし、今や神様がこのサタン世界を占領できる条件を立て、神様が攻撃できる時代になりました。霊界の数多くの予言者や烈士たちが地上に降りてきて、自由に活動できる舞台が展開されたのです。

 

 

真の父母様の御聖誕日

 

16 堕落しなければ、真の父母が現れる前に、まず真の父が現れなければなりません。

 

今日、数多くの宗教では、自分たちの信じている教主が真の父になればと願っていますが、神様は、そうではありません。真の父という存在は、宗教の中の宗教から生まれるのです。真の父は、真の子女をつくることのできる、真の子女を生むことのできる資格をもった人です。

 

 

 

17 全世界は、新しい歴史的展開時期を迎えます。きょう、この真の父母様の御聖誕日を祝うのは、歴史的な意義をもっています。統一教会の信徒はもちろん、霊界に行った霊人、統一教会の霊人、キリスト教の霊人、すべての霊人が祝うことのできる段階に入るのです。天運によって一つの道に行けるように、地上の人間が道案内をしてあげなければなりません。今日、修行の道を信じ、宗教を信じる責任者がそれをしなければならないのですが、そのようなことは夢にも思わず、盲目的な信仰をして天国に行こうという人が多いというのです。そのような意味で、きょう祝う真の父母様の御聖誕日は、天宙史的な意義をもつ日です。今後は、父母様が生まれた日を本当に祝える人であってこそ、自分が生まれた日を祝うことができるのです。

 

 

 

18 五色人種の皆さんが、先生の誕生日を祝うためにここに集まったということは、驚くべき事実です。誰がこのようにしたのでしょうか。先生がしたのではありません。神様のみ旨がこのように導き、神様の愛がこのように導いたのです。他の人は知りませんが、統一教会の教会員の心の中にある神様のみ旨と愛を、皆さんは知っています。世界が反対し、この国が反対しても、これを知る私たちは、このみ旨を成就させるためにすべてのものを犠牲にしても、感謝しながら最後まで前進していかなければなりません。これが最高の価値あることなので、いかなるものも奪っていくことはできないのです。

 

「私」に近づいてくる試練がいくら大きいとしても、この試練を克服していかなければなりません。この世界において、価値のないものから、これ以上一時に侵害を受けるようなことがあれば、「私」の生命を投入してでも防がなければなりません。私たちは、生命を投入して、神様の愛を訪ねていけることを誇らなければなりません。きょう、先生とお母様の生まれた日を祝ってくれることも有り難いのですが、その前に、このみ旨と愛の前にすべての五色人種が一つにならなければなりません。また、先生とお母様が一つになり、神様を賛美するその日であることを祝わなければなりません。

 

 

 

19 神様は、必ず歴史的な終末の混乱時代に、新しい歴史創建のための準備をせざるを得ません。ですから、第一次世界大戦を中心として世界的な問題が展開すると同時に、その後の歴史において、世界的問題は世界人類の興亡を分ける方向に行くことを予測せざるを得ないのです。そのようなみ旨を中心として見るとき、西欧社会が没落に向かうならば、西洋思想が傾く道に向かうならば、神様は、必ずその反対の東洋を起点として、傾くことのない道を摸索されるでしょう。地球が丸いがゆえに、太陽を中心として朝、昼、夕、夜と移り変わりながら巡っていくように、歴史も巡っていくのです。

 

西欧社会が滅亡に向かうとすれば、神様は、必ずアジア社会を中心として、新しい朝に向かう道を模索するでしょう。このように見るとき、今日、西欧社会が探し求めているのはアジア文明です。それでは、東洋において神様は、いつからそのような準備を始めたのでしょうか。第一次世界大戦を中心として、これが始まったのです。大概、大きな事件が起きたあと、三年以内にすべてのものが現れるようになるのですが、先生は一九二〇年に生まれたというのです。

 

 

 

20 先生が母親のおなかの中にいるとき、母は松の木の内皮をむいて食べながら過ごしたという話も聞きました。神様は、先生を愛しているように見えるのですが、生まれるときは、なぜそのように歴史的に追いに追われ、一番の患難の谷間に立てて責めたてたのでしょうか。先生が生まれるときは、私の家庭、一族が困難に遭いました。先生は、蕩減法を知っているので、このようなことをすべて理解するのであって、そうでなければ、「それはすべて間違いだ」と言うでしょう。私の家門の一家、従兄弟から七親等まで、すべて蕩減を受けるのです。私の家は、先生一人が生まれることによって廃虚のようになりました。先生が十五歳になる前まで、そのような患難が家庭から離れませんでした。

 

 

 

21 地政学的に見るとき、韓国が強大国の侵略を受けながら、どれほど多くの血を流したか分かりません。そのような恨多き歴史過程において、どれほど多くの若い男性たちが軍隊に引かれていき、また若い女性たちが引かれていったでしょうか。願わない受難の過程において、家庭と個人が犠牲になり、男性と女性がそのように犠牲になり、国土が蹂躙され、国権が踏みにじられました。どれほど多くの侮辱を受けたか分かりません。

 

先生の一家を中心として起こった内的な出来事を見るとき、それが偶然にそのようになったのではありません。必然です。夢でもなく、どうすることもできない必然的な結果です。そのため、アベルを中心とした蕩減歴史が、ある一つの家門を中心として、前後左右にすべて清算しなければならない摂理史的運命があるので、その運命の場に呼び出されたのが、先生の家庭であることは否定できません。先生は、そのような背景をもって生まれなければならないのです。

 

 

真の父母の日

 

22 私たちの先祖、アダムとエバが堕落していなければ、私たちは、既に「父母の日」を迎えていたでしょう。しかし、アダムとエバが堕落したので、「父母の日」を迎えるためには、まずこの地上に真の父母が来なければなりません。それでこそ「父母の日」を迎えられるのであり、その日を基準として真の父母によって子女が生まれたあとに「子女の日」を迎えられるのです。そのようになれば、万物を主管できる日も迎えることができます。このような日を、神様は、堕落していない人間先祖に約束されました。

 

しかし、人間先祖が堕落することにより、神様の創造理想だった「父母の日」、「子女の日」、そして「万物の日」を迎えることができなくなったのです。したがって神様も、天地創造の目的を完成した神様として喜ぶことのできる日と、誇ることのできる日を迎えられませんでした。もちろん、アダムとエバが神様を失った状態に落ちたのが堕落ですが、アダムとエバの堕落によって、神様もまた、「父母の日」と「子女の日」と「万物の日」を失ってしまったのです。それにより、神様は、願っていたすべての日を失ってしまわれたのです。

 

 

 

23 今日、人類は、堕落の血統をもって生まれたので、永遠に不幸な立場で苦しまなければならない運命に置かれています。しかし、人間はこの地で神様に侍り、幸福と栄光を享受できるという希望をもっています。それでは、このような希望の中で最高の希望は何でしょうか。それは、正に「父母の日」を迎えることです。「父母の日」を通じなければ、天の国に行くことができず、また神様を訪ねていくこともできません。

 

キリスト教は、小羊の婚宴をする日を願っていますが、彼らが願っている日が、正に「父母の日」なのです。「父母の日」は全人類のためにあるのです。

 

 

 

24 世界には、神様を身代わりし、万民を解放させ、万民を幸福にしてあげられる神様の息子、娘が必要です。イエス様がこの地に来られた目的もここにあります。天地が願う日が、正に「父母の日」です。今日、全世界にキリスト教が広まっていますが、彼らが願う日は小羊の婚宴を行う日です。その日が「父母の日」です。既に十分成長したとしても、再び生まれて父母を迎えなければなりません。今までは、「父母の日」を迎えられなかったために、いくらよく信じても神様のみ前に養子としてしか立つことができませんでした。イエス様が再び来られるときは、父として、父の使命をもって来られるというのです。

 

 

 

25 世界に広がっている数多くの人種と民族は、多くの名節を迎えていますが、いまだ「父母の日」を迎えることができていません。ところが、一九六〇年を中心として、韓国で「父母の日」が設定されました。この日は、韓国が解放されたその日よりも、世界が喜べるいかなる日よりも、もっと喜ばしい日です。そのような「父母の日」が、追われ、迫害を受けている統一教会の群れによって立てられたのです。この日なくしては、天宙の恨を解けません。この日が来なければ、神様のみ旨を支えることができません。この日が立てられなければ、サタン世界であるこの地上に神様の勝利の足場を築くことができません。神様が勝利の日を決定する日もこの日であり、聖徒たちが解放される日も、正にこの日です。天宙間において、願いと理念が一つになるのもこの日であり、天地が開闢する日もこの日なのです。

 

 

 

26 私たちは、「父母の日」を迎える中で喜びを感じることができ、喜びを感じる場において、再び生まれることができる基準をもたなければなりません。また「父母の日」は、子女が生まれる日を天地の前に公布する日でもあります。神様は、子女としてアダムとエバをお造りになり、万物を主管できるように祝福されました。皆さんもこのような心情的関係によって復帰の路程に従っているので、父母に対することのできる位置に立ったのちに、万物を主管できる祝福を受ける子女の立場に立たなければなりません。このように、「父母の日」は本当に意義深い日です。「父母の日」が立てられることによって「子女の日」が立ち、「子女の日」が立つことによって「万物の日」が立つのです。「父母の日」を基準にして、三つの大きな日が出てくるのです。

 

 

 

27 「父母の日」の理念は、本来、神様の創造理念の中でも中心理念でした。神様が万物を創造されたのち、その万物を主管する人間を創造され、人間に万物を主管せよと祝福された目的も、正に真の父母を立てるためでした。本来は、アダムとエバが神様を中心として一体になり、真の父母になるべきでした。そうすれば「父母の日」が立てられるのです。そのようになれば、全宇宙が父母の名とともに頒栄を捧げるようになります。このように「父母の日」は、全宇宙が父母の名とともに頒栄を捧げる喜びの日なのです。

 

 

 

28 「父母の日」は、決して統一教会のためだけの日ではありません。韓国のための「父母の日」でも満足できません。世界のための「父母の日」でも、その意味を果たせません。天上天下、全天宙が和合できる一日として、神様と共に全宇宙が喜べる日にならなければなりません。私たちには、個人的な「父母の日」はあり得ません。

 

私たちは、個人的な「父母の日」を氏族的な「父母の日」として、氏族的な「父母の日」を民族的な「父母の日」として、民族的な「父母の日」を国家的な「父母の日」として、国家的な「父母の日」を世界的な「父母の日」として、世界的な「父母の日」を天宙的な「父母の日」として立てなければなりません。

 

 

 

29 全人類は、真の父母を迎えられる立場において、真の父母の愛を中心として全体的なものを備えなければなりません。それでこそ、父母の愛と子女の愛をもてるようになるのです。そのためには、真の父母の愛を受ける兄弟同士、この地で一つになり、すべてのものを備えていかなければなりません。真の父母を中心として恨多き歴史のすべてのものを清算できなければなりません。そうして、真の父母を迎える喜びを五色人種が賛美し、その心が愛によって弾け出ていって、この世界にある数多くの苦痛を取り除かなければなりません。そのときになってこそ、神様が安息なさるのです。

 

 

真の子女の日

 

30 神様は、天地万物を造られたのち、アダムとエバを中心として「子女の日」を迎えなければなりませんでした。もしその時に「子女の日」を迎えていらっしゃったならば、そこから「父母の日」も立てることができ、「万物の日」も立てることができ、「神の日」も策定されたはずです。

 

それでは、この「子女の日」とはどのような日なのでしょうか。子女として勝利し、宇宙的な栄光の場に出ていけるようになる日です。しかし、人間の先祖が堕落したので、アダム以降、全人類の中でいまだに神様のみ旨の前に一致した立場で勝利し、神様が許される栄光の立場に立った人は一人もいません。それで、そのような立場に置かれている人間を復帰するための歴史、救援するための歴史、すなわち、再び以前と同じ立場に立てるための歴史が、今までの神様の復帰摂理歴史です。「子女の日」は、この日一日が他の日と特別に違うから記念するのではありません。「子女の日」とは、堕落によって神様の栄光の場に同参できなかった人間が、歴史始まって以来、初めてそのような場に参与できるようになったことを、子女として記念する日なのです。

 

 

 

31 「子女の日」を迎えるためには、過ちを犯した子女が、過ちを正すことのできる起源において、神様と一つになるようにしなければなりません。誤った子女の行動によって神様を失ってしまったことを正すことができる息子、娘が出てきて、「子女の日」を立てることによって、神様を探し出さなければならないというのです。神様を探し出せば、神様が栄光の場に進み出て喜ばれます。神様が喜ばれるので、息子、娘も喜び、万物も喜ぶのです。

 

 

 

32 「子女の日」がなぜ必要なのでしょうか。「子女の日」を必要とするのは、私たちがその日を失ってしまったからです。それでは、誰が失ったのでしょうか。アダムとエバが失ったのです。ですから、アダムとエバが探さなければならないのです。アダムとエバが失敗して穴を開けたので、アダムとエバが繕わなければなりません。それで、最初のアダムは台無しにするアダムになりましたが、二番目のアダムは立て直すアダムになりました。最初のアダムは滅びる父になりましたが、二番目のアダム、イエス様は救ってくれる父になったのです。

 

 

 

33 統一教会で「子女の日」を決定したというのは、アダムとエバが蒔いた罪悪の種を取り除いてしまい、人類を悪から解放する起源をつくったという意味です。これまで人間が「子女の日」を立てることができなかったので、万物も解放を受けられずに嘆息圏内にあり、神様も嘆息圏内にとどまっていらっしゃいました。「子女の日」を迎えられないことにより「万物の日」も探し出せず、万物が栄光の場に進むことができませんでした。それで万物の前に怨恨が残されたのです。また、神様が喜ばれる栄光の日を迎えられませんでした。そのようになったすべての原因は、「子女の日」を立てられなかったことにあるのです。

 

 

 

34 堕落した人間にとって、名節の中の一番大きい名節は、「父母の日」よりも「子女の日」です。その日は、父母の権限を再び探し出す日であり、六千年間、人類歴史を蹂躙してきたサタンを追い払い、勝利の旗を掲げて現れる日です。堕落した人間は、その日を迎えてこそ天の国に入ることができ、天の父母に侍ることができます。統一教会の教会員でも、教会員同士だけで行っては、天の父母に侍ることができないのです。橋を架けて侍らなければなりません。ですから、男性も女性も、霊界に行っている人々に橋を架けてあげなければならないのです。この日は、統一教会の教会員だけでなく、これから世界万民が永遠に守るべき日です。堕落した人間にとって最も福のある日が、「子女の日」です。

 

 

真の万物の日

 

35 「万物の日」は、万物を解怨成就させる日です。万物を解怨成就させられる人間の資格は、堕落する前のアダムとエバの立場でなければなりません。本来、万物は、真の父母の愛を中心として主管を受けるのが天理原則です。真の父母の愛がなければ、「子女の日」もあり得ないのです。子女が真の父母の愛を通してのみ出てくるように、「万物の日」も真の父母の愛を通してのみ出てくるのです。

 

それでは、「万物の日」を迎えられる資格をもつ人は、どのような位置にいるべきでしょうか。堕落していないアダムとエバ以上の位置に立っていなければなりません。そして、その位置は、父母の愛を通してのみ形成されるのです。アダムとエバの堕落によって因縁が結ばれた位置で生まれてみると、私たちは、願わなかったサタンの主管圏内で生きるようになっていたのです。

 

 

 

36 「万物の日」によって万物世界が解怨され、「子女の日」によって歴史的な解怨が韓国を中心に広がりました。また「父母の日」によって歴史的な解怨が韓国を中心として広がったので、地球上でサタンが神様の勢力を追い出すことのできない、強固な土台が築かれたのです。これにより、地上摂理の出発がしっかりと固まって、サタンを防ぐ障壁として大きくなっていかなければなりません。ここでは、天の側の人々が多ければ多いほど、大きくなっていくのです。天の側の力と基準が大きくなれば天の側が勝利し、天国が成し遂げられるのです。先生は、このような観点から見つめています。そのため、一九六三年に「万物の日」を策定したのです。

 

 

 

37 本来、万物は、人間のために造られたので、人間によって主管されなければなりませんでした。しかし、人間の先祖アダムとエバが堕落することにより、万物は今まで人間の主管を受けられず、サタンに主管されてきたのです。神様が万物と関係を結べなかったのです。人間の先祖が堕落することによって、万物までもサタンの主管圏内に入ったので、この地上で万物圏まで侵害しているサタンの権限を取り除かなければ、万物が本然の位置に帰ることはできません。人間が万物を嘆息圏内に追い込んだので、万物を解放させる責任も人間にあるのです。

 

 

 

38 「万物の日」が設定されるためには、どのようにすべきでしょうか。人間の先祖の堕落によって万物がサタン圏内に入ったので、その万物を復帰するためには、人類の真の先祖が顕現しなければなりません。その次に、神様が子女の関係を中心としてアダムに祝福された主管性が復帰されなければなりません。父母と子女を中心として横的に連結させ、全被造世界を主管できる基準を立てなければなりません。それで、統一教会では「父母の日」を中心として「子女の日」を立て、そこから再び「万物の日」を立てたのです。この「万物の日」は、ある一個人だけが記念する日として残されてはいけないのです。

 

 

 

39 私たちは、「父母の日」を迎え、「子女の日」を迎えました。しかし、父母と子女だけがいるのでは、完全な復帰になりません。神様が人間を祝福されるとき、「生めよ、ふえよ、すべての被造万物を主管せよ」と言われたので、父母と繁殖した子女がいれば、彼らの前に主管を受けられる万物がなければなりません。ですから、私たちは、この「万物の日」を迎えるとともに、家庭を中心として万物をまず天と連結させて真の家庭を築き、万物と完全に一つになったあとにこそ、自分自身を天と連結させることができるのです。

 

 

 

40 私たちが「万物の日」を迎えると同時に、いつでも考えなければならないことは、私たちが「神の日」を立てることは立てましたが、いまだに万物を神様が主管できる位置に連結できていないということです。したがって今日、被造世界の万物は、誰それの物として残されてはいけません。「真の父母」の名を経て神様の物になるときまで、復帰の段階を経ていかなければならないのです。

 

 

天宙統一国開天日

 

41 きょうは、大韓民国の開天節ですが、四千三百二十一年目となる年(一九八八年)です。それで、きょうを「統一国開天節」と定めるのです。兄弟に侍ってこのようになれば、願いをかなえたということです。皆さんは、願いをすべてかなえました。堕落した人々の願いは何でしょうか。神様がいないと思ったのに、真の神様を知りました。神様を知り、神様をプレゼントとして与え、真の父母をプレゼントとして与え、真の夫と真の妻をプレゼントとして与え、真の息子、娘をもたせてあげ、その次に、真の氏族まで編成しなさいと、すべて与えたのです。真の国までつくるようにすべて成し遂げたので、今や真の世界しか残っていません。それで、きょうを真の世界統一国家出帆日と定めるのです。これは、世界万国の開天節の起源になるでしょう。

 

 

 

42 ソウルオリンピックを中心として、名実共に天理の度数を合わせる外形的なすべての規格を備えました。四位基台です。今年は、檀紀四三二一年です。この二十一数というのは、途方もない事実です。韓国において、きょうが開天節ですが、開天節というのは天が開くときという意味です。建国日といえばいいのに、なぜ開天節と言うのですか。「開」の字と「天」の字です。「天が開かれる節気」だというのです。ですから、天が開かれる節気であるこのときに乗って、国家的に開かれた個人的な門を、世界的な門まで開いてこそ、韓国の運勢は世界に向かって、内外に転がっていくのです。それで、きょうは「世界統一国開天日」です。

 

世界統一国、統一世界、「世界統一国開天日」を宣布できるすべての摂理観的な内容を通した理論において、一致点が内外に、前後左右にぴったりと的中するのです。またこの日は、理論的にも体恤的にも、統一教会の歴史の観点において一致するため、この日を掲げて私たちの希望の日が開門するという言葉に代えても、異議がありません。ですから、世界統一天国です。世界統一国が地上天国です。地上天国開天日です。

 

 

 

43 旧約時代までは物質の犠牲時代であり、その次に、新約時代は子女の犠牲時代です。成約時代は、父母様の犠牲時代です。父母様がすべて犠牲になってきたのです。先生は、愛の十字架を背負ってきました。愛の哲学をすべて知りながら、それを夢の世界のものとして願ってきたのです。ところが、その世界に進む道を、サタンはあらゆることをして塞ぎました。橋を架けられないように、ありとあらゆることをして妨げたにもかかわらず、千辛万苦の末に、天の協助と先生のみ旨のための忠情の道によって、今日、世界的なすべての蕩減基準を中心として、「統一国開天日」を宣布できるようになったということ、これ以上に喜ばしい知らせはありません。

 

 

 

44 統一所有権を確定してこそ、心情的基準の前に一致した統一世界となり、神様の所有権に帰ったその位置でのみ、統一世界、天地の真の父母様を中心とした一つの世界に前進できるのです。このような基盤のもとで、所有権を必ず神様の所有権に返さなければなりません。父母が反対しても、すべてのものを天のみ前に捧げられる良い時が来たので、これを統一教会の誰もが、伝統的思想として受け入れなければなりません。そのような環境で一族が伝統的思想として受け入れるとき、一族の解放が完全に広がるのです。そのようにすることによって、皆さんは、地上のアダムとエバの位置に行きます。天上世界のすべての先祖は天使長の立場に立ち、皆さんが先祖のようになるのです。息子、娘を生んで暮らし、何千代の祖父母になり、同時に何千代の子孫になるのです。そうして、天国開門の役事が起こるというのです。

 

 

七・一節(神様祝福永遠宣布の日)

 

45 きょうは「七・一節」です。「七・一節」は「神様祝福永遠宣布の日」です。人間が生まれたあと、神様から約束の祝福を受けたその祝福は、今まで成就されないで延長されてきました。救援摂理を通して、ある一時に神様のその祝福が成就されることを願ってきたのが、人類歴史を通した神様の願いでした。それがある一時に成就されなければ、人類の幸福、神様の理想世界は実現できないのです。そのため、神様が祝福したことを再び生かし、永遠の祝福として立てておかなければ、永遠の人類の理想世界は訪ねてこないのです。ですから、誰かがこれをなさなければなりません。「誰か」というその方は、「誰でも」ではありません。神様が選んだ、堕落していない本然的な完成したアダム理想を成就する方が来てこそ、これが可能なのです。すなわち真の父母の顕現とともに、そのようなことが可能だという結論を下せるのです。

 

 

 

46 神様の永遠の祝福が成就していないのは、何のためでしょうか。人類の偽りの父母が生じることによって、祝福を成就できなかったからです。それを蕩減復帰するためには、人類の真の父母が現れ、このすべてのものを清算できる立場に立って、「永遠の神様の祝福が、万歳(マンセ)を叫べる立場に立ちました」と宣布しておかなければなりません。そのようにしなければ、そのもとにいるすべての子女と氏族、国家、世界は、再び堂々たる立場で神様のみ前に立つことはできません。そのため、永遠の祝福を再び宣布するのです。それが「七・一節」です。

 

 

 

47 一九九二年を前にして、先生は、一九四五年から一九五二年までの七年間になすべきだったことを、四十年の再蕩減路程で受難の道に立つことによってすべて清算し、一九九一年に「七・一節」を宣布しました。これを通してお母様を世界的な母として、お母様の息子、娘を世界的な息子、娘として立てる時代が来るのです。それが「七・一節」です。第一次イスラエル選民圏を失い、第二次イスラエル選民圏であるキリスト教を失いました。その失ったものをすべて蕩減復帰しなければなりません。再び家庭を編成して、天の側の家庭と天の側の氏族と天の側の民族と天の側の国家まで取り戻してこなければならないというのです。サタン世界の国家基準まで、天の側が出てこなければなりません。

 

 

 

48 人間が堕落することによって、神様の三大祝福を失ってしまいました。この復帰過程において、実体が現れる前に、これを再開させて宣布しなければなりません。それが「七・一節」です。一九九一年を越えながら、来たるべき一九九二年を中心として、真の父母宣布と共に歴史的な転換時期を見つめながら、これを聖書歴史の中のすべてを清算しておいたのです。すべてきれいに清算しておいたというのです。神様が初めて、人間に対して最初に下さったみ言が三大祝福なので、神様のみ言のための出発の基準まできれいに清算して、投入した基準を越えた位置に立ち、真の父母宣布と共に成約時代を発表しなければなりません。ですから、全体のプログラムを摂理してきたのは、この時のためだというのです。

 

 

 

49 きょう「七・一節」の行事において、永遠の祝福を再び約束するのです。これからは堕落がないという意味です。今までアダムとエバの時代には堕落がありましたが、これからは堕落してはいけません。歴史時代に永遠の祝福の約束を宣布することによって、堕落することができないというのです。アダムとエバは、幼子として育ち、長成基準まで上がっていかなければなりません。完成するときまでは上がっていかなければなりませんが、これは、どこまでも原理結果主管圏内においてアダムとエバが行くべき五パーセントの責任です。神様と霊肉が一つになり、愛によって連結されるときは、内外が直接関係に入るので、思いどおりにできるのです。その前までは、これが散らばっています。一つになっていなかったというのです。今や一つになった基盤の上で真の父母を宣布し、成約時代を宣布したので、家庭においては原理結果主管圏と直接主管圏が統一されています。直接主管圏と原理結果主管圏を神様が直接干渉できる時代に来たというのです。

 

 

 

50 きょうは「七・一節」です。七月一日というのは、七数として七年の禧年(すべてのものが元の位置に戻る、喜びの日)に該当するのです。歴史的な解放の時代に入りました。歴史において最も哀れに拘束されている人が女性なので、女性解放という一声とともに、天下の女性を中心として統合するための「世界平和女性連合」を創設したのです。それを誰が主導していますか。お母様が主導するのです。代表はお母様です。有り難いことは、「七・一節」ができることによって、お母様が現れたということです。それで氏族的メシヤを派遣し、金日成主席と対決して金日成主席を屈服させ、その後、韓国に帰ってきて初めて先生が有名になったのです。

 

 

 

51 有史以来、世界版図をすべて制圧し、アダム家庭において「生めよ、ふえよ、地に満ちて天地を主管せよ」という祝福を成就できなかったことを、初めて世界の頂上の位置で神様の祝福を再開させ、永遠の祝福勝利を宣布したのです。その宣布の基盤の上に、お母様も初めて顔を天下に現したのです。先生が四十年、五十年なしてきたことを、お母様は九ヶ月間で同じ位置に上がってきました。今や先生を中心としてお母様が絶対服従し、一つになった基準でお母様を立てて女性解放を宣布することによって、初めて地上に男性と女性が神様の真の愛を中心として、完成した歴史的な標準の前に一体化するのです。そうして、全世界を越えて勝利的覇権を立てるのです。国家と世界が反対するすべての環境を踏み越え、永遠の神様の勝利的祝福を宣布できるということは、驚くべき事実です。

 

 

七・八節(天地父母天宙安息圏宣布の日)

 

52 陰暦で一九九七年七月七日七時七分七秒を中心として、三百六十万双家庭祝福を中心とした「真の父母様を誇り、愛することは、三百六十万双祝福完遂」という今年の標語のすべてのことを成就しました。ここに立っている真の父母をこの地に送られ、つらい歴史時代においてあなたの心情が分からなかった人間たちに、あなたの心情を吐露することができ、内的な事情を教育できるようになりました。

 

青少年時代のアダムとエバを失うことによって家庭が破綻に至りました。十六歳以降にサタンの陰謀を通して、神様の血族を受け継ぐべきアダムとエバがサタンの血族に連結されることによって、悲しみの歴史を残しました。残された天使長圏の血統、サタンの血統を清算し、あなたが天の国に新しい歴史を立てるために宗教圏を立てたことを考えるとき、今まで個人救援摂理を展開してきたのは、天使長圏から長子を探し出すための歴史でした。その上に、旧約時代、新約時代、成約時代を経て、選民圏の上にメシヤ、世界的な救済の再臨時代を迎えさせ、アダムによってゆがめられた青少年倫理と家庭の破綻を世界的途上で整理すべき、途方もない時代を迎えたのです。

 

 

 

53 天の国が空いています。アダム家庭もなく、歴代のすべての先祖が誰もいなかったのですが、真の父母が世界的な先祖を完成し、再び一代、二代と編成し、空いていた天国を一度に満たすのです。これによって一八〇度ひっくり返せば、サタンはいなくなるので、自由解放天国において神様が思いどおりに活動できるのです。個人から世界の果て、天上世界、天の果てまで行ったり来たりするのに何の支障もない解放圏を宣布した日が、「七・八節」です。「天地父母天宙安息圏宣布の日」です。

 

 

 

54 一九九七年八月九日は「天地父母天宙安息圏宣布の日」です。天地父母の「天」は父を象徴するのです。父としての天は無限です。父は無限です。父はそのように気高く偉大な威厳をもたなければなりません。そのような父親になるべきだというのです。そして、母親は情にあふれ、細やかでなければなりません。ですから、父親の懐は、母親や息子、娘が家を建てたとしても、余裕があるほど大きくなければなりません。真の愛だけが無事通過です。私たちが天国に行くときにも関門がありますが、そこを通過するとき、真の愛の証票さえ見せれば無事通過です。

 

 

 

55 家庭を探し出すことによって、その上に氏族圏を編成することができ、氏族を編成することによって民族を編成することができ、民族を編成することによって国家を編成することができ、国家を編成することによって、その上に世界、地上、天上天国編成の自由圏内に越えていくのです。世界が反対できない超国家、超民族、超宗派の基準を中心として、越えていくことができる祝福をしたので、サタン世界は門を閉じ、これを歓迎しなければならないのです。これを収拾できる方は真の父母しかいません。

 

それで、本然的神様の伝統に従って個人完成、家庭完成、氏族、民族、国家、世界完成、地上天国、天上天国の完成を決意できる時代が来たのです。これを実践躬行するときが目前に到達したので、そのような基準においては、サタンの反対があり得ないのです。この道を行くために、自由の環境で勝利の覇権を実践できる基盤を築いたので、この基盤の上に「天地父母天宙安息圏宣布」を完成しなければなりません。

 

 

 

56 私たちの理想家庭は、神様の安息所を訪ねていく家です。「私」個人の家から出発しなければなりません。その次に、夫婦の家です。「私」個人の安息所にも神様がいらっしゃることができ、妻の家にも神様がいらっしゃることができるのですが、より大きな愛を中心として、夫婦の家に訪ねてくるというのです。伝統も異なり、人格も異なり、主張も異なり、すべての姿も異なるのです。一八〇度異なる形が一つに結ばれる統一的夫婦形態を中心とするその安息所を、神様が訪ねてこられるのです。その神様に家庭で侍らなければなりません。神様の家庭的夫婦安息所をつくらなければならないというのです。無形の神様が入ってきて、愛を中心とする主体として心のようになり、アダムとエバは実体の体のようになって、体と心の統一を成し遂げた基準を、体と心が一つになった愛の安息所を連結させなければなりません。男性と女性のその基盤の上に、夫婦の安息所が展開することによって、家庭に神様の休む場所が生じるようになるのです。

 

 

 

57 安息所を探さなければなりません。個人の安息の家、夫婦の安息の家を探さなければならないのです。夫婦を中心として息子、娘を生めば、息子、娘と主体と対象の関係で安息の家になるのです。これが最も重要です。家庭でこれが蘇生、長成、完成をするという意味になるのです。ですから、あなたがいなくても、「私」がいなくても、神様が休む場所をつくることができないのです。千年、万年、神様が完成することができないというのです。それで、千々万々年一つになって、神様に侍ることのできる孝女となり、孝子にならなければなりません。

 

この孝女、孝子を迎えられなかった神様の恨がどれほど大きかったかということを知り、その心の根まで私たち夫婦を通して拭ってしまわなければなりません。「永遠に私と共に暮らすことができ、神様を父として侍ることのできる土台をつくろう」と言わなければなりません。その次にはどこに行くのでしょうか。家庭的安息所を探しにいこうというのです。それで、蘇生、長成、完成の完成した家となるのです。息子の家にも神様が永遠にいて、夫婦の家にも神様が永遠にいて、個人の家にも神様が永遠にいるので、その家庭全体は、神様の愛の中で永遠に存続するのです。それで、ここから地上天国、天上天国の起源になる家庭の出発ができるというのです。

 

 

第二節 主要記念日

 

天聖経   第十一篇 礼式と名節  第五章 主要名節と記念日

第二節 主要記念日

 

1 イエス様は家庭を探しましたが、探し出せずに十字架で亡くなりました。イエス様は「私は新郎であり、あなたたちは新婦だ」という立場で語られながら、再び訪ねてこなければならない家庭理想を残し、十字架で亡くなりました。そのため、その方が再びよみがえる再臨の日を求めてきたのが、二千年のキリスト教の受難の道です。

 

イエス様は、準備された新婦を探し出さなければなりません。それでこそ、家庭を中心として成し遂げようとする三つの愛の目的を結論づけることができるのです。その場がヨハネの黙示録に預言された小羊の婚宴です。人間始祖が堕落したので、人類は、偽りの父母、偽りの先祖に侍りました。神様のみ旨に一致した真の父母が現れなかったのです。神様は、アルファであり、オメガなので、最初に構想したことを最後に、創世記で失敗したことをヨハネの黙示録で合わせようとするのです。

 

 

真の父母様の御聖婚

 

2 一九六〇年に行われた先生の聖婚式の背後には、アダム以降、イエス様のときまで四千年、イエス様から今日に至るまで二千年の歴史過程で引っ掛かったすべてのものを、蕩減条件を立てて解決しなければならない内容がありました。その行事は、世界的で天宙的な意味をもっているにもかかわらず、現実的には少数の人々によって行われたのであり、それに対する迫害は想像できないほど大きかったのです。それを準備するための一九五三年から一九六〇年までの期間は、迫害の時期でした。

 

 

 

3 統一教会の群れを集めて、一九六〇年には、全国に少なくても百二十ヵ所以上の教会の基盤を築きました。それは、世界百二十カ国を代表しています。その基盤を築いたのち、そこにおいて、いくら国家的な試練を受けても倒れず、滅びない基盤を築いてきたのです。そのような基盤のもとで、一九六〇年に新しい聖婚式をしました。そうして、一つの統一氏族を編成したその基盤を中心として、民族的使命を完遂し、このような祝福の日を立てたのです。それは歴史的起点です。

 

 

 

4 聖婚式は、一個人のものではありません。世界史的なものです。このような世界史的な神様の摂理に対して、このような心情的起源を総合した場で、誰よりも愛する一つの家庭的起源を宣布するというとき、その家庭的起源を中心として、天倫と天地の運勢は動かざるを得ないのです。

 

 

 

5 統一教会は、一九六〇年に家庭という基盤をもったので、滅びません。家庭基盤をもてなければ滅びるのです。一九六〇年の先生の聖婚式が、どれほど歴史的な事件だったでしょうか!今まで六千年の摂理歴史時代において、アダム一人を探し出すために苦労されたその基盤の上に、アダムが地上に基準を築き、エバを完成したエバとして迎え入れられるということは、霊界と肉界に分かれたものが、初めて地上世界で連結されるということです。男性は天の代身であり、女性は地の代身です。分かれた霊界と肉界が連結されるのです。アダムとエバが怨讐だったその塀が崩れるのです。アダムとエバと神様が出会えなかったこの塀が崩れるのです。サタンが抜け出していくというのです。

 

 

 

6 お母様になるためには、三代が一人で暮らさなければなりません。お母様は、幼いときも誰の援助も受けずに独り育った一人娘でした。そのような一人娘にしたのは、サタンの血統を残さないためです。そして、お母様の母親も一人娘であり、その母親も一人娘です。三代が巻き込まれていくのです。それで、お母様は三大受難を受けました。祖母と母親は信仰に夢中になって歩き回ったので、おむつをきちんと替えてあげ、御飯をしっかり食べさせてくれたでしょうか。人間世界の情を知らず、天上の道理を受け継がせるために、一片丹心、身と骨が溶けるのも意に介さず、神様のみ前に絶対服従し、絶対従順する道を歩んだのです。

 

 

 

7 み旨がなければ、先生は、お母様と出会うことはできません。み旨がそのようになっているので、出会ったのです。お母様になる人は、二十代を超えてはいけません。本来は十八歳を超えてはいけないのです。十八歳を一日でも過ぎてはいけません。エバが十六歳で堕落したので、三年を経て、十九歳まで連結されるのです。

 

 

 

8 お母様自身が、愛を中心として羊のように従順でなければなりません。すべての面で絶対従順できる条件を探さなければなりません。そうして、全面的に夫のために犠牲にならなければなりません。夫を愛するとき、絶対的でなければなりません。「私の父にも劣る。私のお兄さんにも劣る」という比較の基準を置いてはいけません。なぜでしょうか。

 

エデンの園で、エバは男性というものを目にすることができませんでした。男性に対して他の考えをもつ余地がなかったのです。

 

 

 

9 お母様を選ぶときには、すべての条件が合わなければなりません。前後に合わなければならず、左右に合わなければならず、上下に合わなければなりません。第一の条件とは何かといえば、どのような血統をもって生まれたかということです。サタン世界において讒訴を受ける血統の因縁をもって生まれたのか、それともそれを越える血統の内容をもって生まれたのかが重要です。

 

 

 

10 お母様を見れば、非常に端正です。お母様が慎ましくじっとしているときは、誰にも負けない、尊敬する内的な性稟をもっているのです。そのため、西洋人も、「東洋の女性美があのようなものであるなら、自分も東洋の女性と結婚したい」と言えるように教育させるのです。西洋の男性の中には、「東洋の女性はお母様のような人だろうから、結婚の対象を東洋の女性に決めた」という人がたくさんいるのです。そのような面で、東洋の女性像を世界の食口に教えてあげることに、偉大な功績を積んだお母様であると考えられます。そのような意味で、お母様としての資格は十分だというのです。

 

 

 

11 解放直後の七年と七年で、満十四年を過ごしてから聖婚式をしたのです。蘇生旧約時代、長成新約時代の基準を越えて、アダムとエバが長成期完成級で結婚するようになっていたので、蘇生、長成の各七年期間を越えていき、連結できる位置に進まなければなりません。完成期蘇生級を国家基準を越えなければならないのです。

 

 

世界基督教統一神霊協会創立日

 

12 統一教会は、歴史的な関係に従って、「基督教」という名称をつけました。神様は、統一教会の神様としてのみ存在することを願わず、キリスト教の神様としてのみ存在することも願いません。統一教会は、統一教会だけのためにできたのではなく、キリスト教もキリスト教だけのためにあるのではありません。この二つは共同目的を中心として縁と関係を結び、より大きな世界的一念を中心として進んでいかなければなりません。

 

 

 

13 世界基督教統一神霊協会は、神霊によって統一するのですが、父子関係の神霊によって統一するというのです。愛を中心とした霊的世界と人間世界を調和させるものを神霊と言います。神霊は、目の見えない人の目が開くことが問題ではありません。塞がっていた耳が開くことが問題ではありません。神様は、それを必要としません。聖書にも、「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ四・二四)とありますが、それは何の真理でしょうか。愛の真理です。その愛の最高の真理とは何でしょうか。父と息子、娘のことを言うのです。神様は、お金や権力、知識が必要なのではありません。愛が必要なのです。

 

 

 

14 統一は、二つが一つになることです。「統」の字は、従える「統」の字です。主体性があるのです。連合ではありません。統一です。統一はどこまでも主体性をもっているのです。統一教会は、連合教会ではありません。統一教会です。主体性をもっているということです。その主体の根源はどこでしょうか。永遠に残るべき絶対的な神の心情の起源から出発したのです。

 

 

 

15 先生は、教派をつくろうとはしませんでした。名前を「世界基督教統一神霊協会」と言うのですが、教派をつくろうとはしなかったのです。教派を超越した超教派的な面において運動をしようとしたのですが、できなかったというのです。それで、仕方なく統一教会をつくったのです。

 

 

 

16 受難と試練の中で統一教会が創立されたというのは、ある意味では、天の全体的なみ旨を中心として見るとき、悲しいことですが、私たちが歴史的伝統を回想するとき、そのように困難な環境で創立されたことが、より印象的なのです。統一教会は、皆が歓迎する立場で創立されたのではなく、寂しい立場で何人かが集まり、涙とともにこの日を宣布したのです。このように悲しい事情がありましたが、それがかえって歴史上において追憶の中心になりました。往々にして人々は良いものを願いますが、良いものだけが良いのではありません。良いものは日常的に過ぎ去っていくことがありますが、その良いものを探し出すために困難を克服した歴史は、いつでも良いものを迎えることのできる、新しい日の約束を刺激する力の母体として残されるというのです。

 

 

 

17 統一教会とは、どのような教団でしょうか。反対していたキリスト教の代わりに、その前に新しいアベル的宗教の形態として登場したのが統一教会です。言い換えれば、反対するキリスト教によってみ旨を成し遂げられないため、そのキリスト教を身代わりして復帰してきたのが統一教会です。キリスト教がカインであれば、統一教会はアベルの立場です。私たちがアベル教団だとすれば、何から復帰してアベルにしないといけないのでしょうか。キリスト教から復帰しなければなりません。これは、カインを復帰する原則と同じです。

 

 

 

18 世界基督教統一神霊協会を創設することになった動機は、人意、すなわち人による志よりも、神意、すなわち神様によるみ旨があって出発したのです。この社会や歴史は、人意だけで構成されていくのではありません。ここには、必ず神意を中心とする大いなるみ旨を中心として、一つの目的を指向してきているのです。そのような意味で、人の志だけで協会が創立されては、歴史の流れや、これから来たる新しい世界に貢献できないということを考え、神意に立脚した新しい宗教を創設したのです。人意と神意が合わさることのできる一つの組織体が宗教であると考えたので、宗教は必ず、神意を中心として人類全体が願う人意的なすべてのものを結束しなければならないと考えたのです。

 

 

 

19 統一教会が神様によって始まったとすれば、この統一教会が経ていくべき道は、多くの道ではありません。出発も一つであり、行くべき道の方向も一つであり、帰着すべき目的地も必ず一つに違いないのです。神様から始まったので、行く道も「私」自ら行くことはできません。神様が動機になっているので、その動機に従って私たちが集合したので、その動機と一つになって、一つの方向を経ていく途上に立っているのです。その方向は、どこまでも私たちが自ら思いどおりにできるものではありません。

 

 

 

20 統一教会は、宗教の中で、最も長い歴史をもっていると見ることができます。最も長い歴史をもっているというのは、神様の愛の歴史を中心として、誰も知らない世界まで発掘したということです。愛の世界は、時間と空間を超越します。歴史はそこから出発し、過程ではそこを慕いながら行き、終着点であるそこを顕現させて、生活舞台で受け継ぐために行くのです。したがって、それは過去にもなければならず、現在にもなければならず、未来にもなければならないのです。

 

 

 

21 これから統一教会の名前を、「世界平和統一家庭連合」という名称に変更して使用します。「世界平和統一家庭連合」が中心となって先頭に立っていくのです。今までは、統一教会が先頭に立ちましたが、これからは家庭連合が先頭に立ち、統一教会は徐々になくなっていく時が来るのです。統一教会の「世界基督教統一」という言葉はなくなるのです。キリスト教が責任を果たせませんでした。それで、その次元を超えて、キリスト教の祝福が万民にすべて委譲される時代に入っていくというのです。

 

「世界基督教統一神霊協会」の神霊も、結局、真の父母様を中心として地上に家庭的メシヤの基準が定着するときには終わるのです。神霊の実体をこの地上に侍って暮らすべき人々が真の父母の継承者たちなので、その真の父母は、霊的完成と地上完成を代表した家庭の出発から、国家出発、世界出発、天宙出発を身代わりできる一つのモデル的な基台になるのです。そのため、「世界基督教統一神霊協会」時代は過ぎ去っていくというのです。

 

 

 

22 今日、団体の集まりは、一つの家庭を中心として結束できる代表的な核です。「女性連合」は母親の立場です。その次に、「青年連合」はカインの立場です。そして、「学生連合」はアベルの立場です。エバと共にこの三つが一つにならなければなりません。これから団体活動をするときは、すべて別々にするのではなく、一つになってしなければなりません。

 

今までは、縦的な時代であり、サタンが上から反対するので、仕方なく縦的な関係を結びながら、横的関係は結びませんでした。先生は、多くの団体をつくりましたが、これは、世界的基準まで縦的蕩減を越えるためのものでした。今や縦的蕩減を終結させるときになったので、横的に展開できるのです。それで、すべての団体は、「世界平和統一家庭連合」に結束するのです。家庭が着地しなければなりません。そうでなければ、蕩減復帰になりません。公式になっているのです。

 

 

 

23 神様を中心として、真の愛の血統を受け継いでいたならば、真の生命、真の血統と真の良心をもった「真の私」になったでしょう。堕落によって「偽りの私」になったので、体と心が闘っているのです。今や本然的アダム家庭の世界型版図に加入すべき時代に入ったので、全世界の人々が家庭を中心として完成しなければなりません。完成すべきものは何でしょうか。堕落した家庭を蕩減復帰した家庭にしなければならないのですが、これは、「世界平和統一家庭連合」を通して、世界的に各自が努力して備えなければなりません。

 

完成は、アダムとエバがしなければならないのです。神様がしてくれるのではありません。真の父母がしてくれるのではありません。これができることによって「家庭連合」が形成されるのです。これは、世界的な組織です。堕落した世界のアダムの血統を越えるのです。山を越え、坂道を越えるように、復帰過程を上がっていって失敗すれば、いつでもこれを繰り返すのです。何百万年、何千万年、繰り返すのです。

 

 

入監・出監日と愛勝日

 

24 先生は、監獄に入って頭をそられるとき、神様のみ前に祈りました。「私が願って頭をそるのではなく、怨讐の手に引かれていって、無理やり頭をそられるのです」と言ったのです。そのとき、先生の目がどれほど鋭く光ったか分かりません。落ちていく髪の毛を見ながら、私が願った幸福を捨て、さらには怨讐の前で頭をそられることが悲痛でした。復帰の事情を綴っていく路程では、そのすべての逆境が残念で悲しいことです。しかし、過ぎてみれば、神様が私を記憶してくださったがゆえに、それに勝つことができたというのです。

 

何日間も拷問を受け、むち打たれて倒れる場においても同じでした。私がむちを打たれるのは、私のためではなく民族のためであり、私が流す涙は、この民族の痛みを身代わりした蕩減の涙でした。先生は、すべての行路において、神様をつかんで身もだえしながら、神様の同情を受けるときまで、この蕩減路程の道を行かなければなりませんでした。私独り、この道を越えてきたのです。

 

 

 

25 拷問を受けて倒れる瞬間が、神様の声を開ける瞬間であり、息絶えるかどうかという場が、神様と出会える場なのです。統一教会のこの真理が出てくるまでには、皆さんの知らない深い背後があり、谷間があり、洞穴を通ってきたという事実を、皆さんは、考えることもできないでしょう。私は、「どうやってここまで来たのだろうか」と言うほどの立場だったことを知っています。先生は、監獄生活をしたことを、少しも悲しく思いません。「私が福を受けられる、天が私に財産を残してくれるための良い方法だった」と考えるのです。

 

 

 

26 服を脱げば、この道に歩み出たあとにできた傷跡が何カ所もあります。それを見つめるとき、この傷跡は人類と天が先生に与えた勲章だと考えるのです。それを見ながら「お前は、そのときに決意したことを、死ぬまで生命を懸けて行くと言ったその誓いを忘れたのか」と何度も誓うのです。悲惨です。これがなくなっていないのに、私が消えるわけにはいかないというのです。これを見るたびに、朝、昼、夕にそれを見つめながら誓うのです。「勝利しろ、この傷跡をもったお前は勝利しなければならない!」と激励するのです。

 

 

 

27 先生が興南監獄で労働するとき、冬の寒い時期に素手でアンモニアの肥料袋を運びました。肉が裂けて骨が見えるほどになり、血が出ているにもかかわらず、毎日のようにアンモニアの肥料を運びました。普通の綿の作業服では、一週間以内にすべてこすれて破れてしまいます。そのような所で半年だけでも働けば、体の細胞が死んで、つねれば水が出てくるのです。しかし、これは、問題にもならないというのです。自問自答して、「これが大変というなら、これ以上のときには天に背き、天の裏切り者になってしまうではないか!」と言うのです。

 

 

 

28 興南監獄で肥料を袋に入れる作業に動員されて働くとき、御飯が配給されれば、おなかがすいているので、御飯茶碗を受け取るやいなや、無意識のうちに御飯を口の中に放り込むのです。自分が御飯をもぐもぐかみながら、二つの目は他の人の御飯茶碗に釘づけになります。御飯を配り終える前に、すべて食べてしまうのです。それで、自分が食べたことも忘れてしまい、他の人が御飯をもらっているのを見て、自分の茶碗が空っぽであることに気づくのです。そうして、「お前がおれの御飯を食べただろう」と言いながら、時々横の人と争うのです。御飯を自分の口の中に放り込んで、喉が詰まって死ぬ人も多くいました。一人の囚人が、御飯をすべてのみ込む前に死ぬと、他の人たちがその死人の口からも御飯粒を取り出して食べようと争うのです。

 

 

 

29 先生は、精神力の重要性を知りました。それで、先生は、特別な決心をしました。食事を半分にしても生きることができると、心に確信をもちました。それで、その翌日から先生は、他の人々に先生の食事の半分を分け与え始めたのです。それを三週間続けました。食事を半分だけにしても、作業量を完遂できると確信しました。そして、三週間が過ぎてからは、先生の食事をすべて食べるようにしました。そのときから先生は、先生の食事はもともと半分で、もう半分は神様によって与えられた贈り物だと考えて食べたのです。

 

 

 

30 先生は、今まで監獄生活など、ありとあらゆる経験をすべてしました。今、過ぎてみれば、神様が有り難いのです。結局、先生一人を育てるために、神様がそのように苦労なさったということです。今まで経てきたその過程は、絶対に先生にとってマイナスになりませんでした。かえって、得たものが多かったのです。おなかがすくときの御飯一粒がどれほど貴いのか、今でも気が引き締まるのです。御飯一粒がそれほどまでに全神経を刺激できることを感じ、それに対する無限の価値を感じることができたのです。おなかがすいて御飯を慕いながらも、それを忘れようと努力しながら、神様をより慕おうと涙を流しました。また、かわいそうな人々を見れば、人知れず涙を流し、彼らのために祈りました。このような心には、神様が共にいらっしゃるのです。先生は、今もそのときが懐かしいのです。

 

 

 

31 興南監獄にいるとき、先生に良い服があれば、食口から良いパジやチョゴリが差し入れられれば、一番かわいそうな人のところに持っていって着せてあげました。そこでは、袋に肥料を入れて縄で縛る作業をするので、手のあちこちが裂け、血が出るほどでした。そのような手で、先生は、テントの布を外して服を作りました。ズボンを作り、囚人の中で、誰も面会に来なくて着る服がない人にあげました。それは、どれほど手間がかかるでしょうか。そのようにすれば、彼らは喜びます。自分の父母が買ってくれるより、もっと喜ぶのを目にすることができました。先生は、服がすべて破れて、風が吹けばお尻が見える服を来て歩いても、監獄にいる人の中でそのような人がいれば、私の服を持っていってその人にあげたのです。

 

 

 

32 先生は、共産党が監獄に入れてありとあらゆることをしても、神様を最後まで愛しました。神様を信じるのですが、絶対的に信じるのです。私が約束したならば、私が約束したことは絶対的であり、その方が私に命令すれば、それを絶対的なものと考えるというのです。難しいか易しいかは問題になりません。監獄でも、孝子は孝子の務めを果たさなければなりません。忠臣は忠臣の務めを、監獄に入っても果たすべきなのです。

 

 

 

33 六・二五動乱のとき、国連軍が一番先に北朝鮮に上睦した所が興南でした。それは、神様が急いで救わなければならない息子がそこにいたからです。共産党は、その前々日、監房にいる人たちを、「御飯をあげる」と言っておびき出し、連れていきました。この人たちは、処刑するためにそのようにしていることも知らず、御飯をくれると言うので、それを食べようと思って先を争って行こうとしました。先生は、既にそれが分かっていました。「他の人たちは死んだとしても、私は死なない。どのような惨事の悲運が通過していく場においても、銃殺されて倒れる場においても、私は決して死なず、生き残ってみせる!」と思いました。そのように人々をおびき出して山の中に連れていき、すべて処刑してしまいました。そして、その翌日が、先生の引っ張られていく番でした。ですから、神様は、どれほど急がれたでしょうか。そのような状況で、国連軍が興南に上陸しました。このようにして、先生は、監獄から抜け出すことができました。

 

 

 

34 国連軍が北朝鮮の興南に上陸することによって、先生が監獄から出たそのことが、民主世界が恵沢を受けられる条件になったのです。言い換えれば、国連軍が上陸して監獄の門を開き、先生を救出したので、そこから民主世界が救いを受け、支援を受けられる関係が残されたというのです。もし、先生が監獄でもう三日だけ過ごしていたならば、霊界に行ったでしょう。共産党は、囚人の一次、二次、三次粛清を決めていたのですが、先生は、三次粛清に引っ掛かっていたのです。刑期が七年以上であれば一次、五年以上であれば二次粛清の対象だったのですが、先生は、五年刑を受けて監獄にいました。一次粛清をした日が、正に先生の出獄三日前です。結局、三次粛清を受ける前に、先生は解放されたことになります。先生は、そのようにして、ぎりぎりのところで復帰摂理をしていることを皆さんは、知らなければなりません。

 

 

 

35 一九五四年五月一日に世界基督教統一神霊協会を創設することによって、反対が起こりました。闘いが始まったのです。戦争の真っただ中に登場したのです。そうして、キリスト教、韓国政府、すべてが先生一人に対して闘いを仕掛けてきました。先生一人しかいませんでした。すべてが反対したのです。世界史的な主人公を最後まで反対することによって、そのような問題が生じたのです。ここから全世界の勢力を集めて、先生一人を全世界のサタン世界がたたき潰そうとするのです。そのようにすることによって、将来、サタン世界が滅びざるを得なくなるのです。不可避的にそのようなことが起こります。

 

それで、一九五五年七月四日に事件が起きました。そのとき、「共産党だ何だ」とか言われながら、世の中の悪いものをすべて先生が背負ったのです。先生にすべてのものを頭からかぶせたのです。悪い名前であれば、すべてもってきてくっつけました。そのようにして、ありとあらゆる調査をしたにもかかわらず、何もないので、無罪釈放になったのです。

 

 

 

36 延世大学と梨花女子大学の事件が起こりましたが、そのすべての問題は、教育機関を中心としてキリスト教の最高基準を連結させるためのものでした。反対しましたが、天の側を形成できる条件を備えたので、一世ではなく二世を包摂できるようになりました。なぜ一世はやめたのでしょうか。一世は既に汚されたというのです。韓国でこのみ旨を立てようとするときに反対したので、北朝鮮に行き、再び訪ねてくるまでにサタンが提示する条件を立てた基盤ができたので、一世を中心とするのではなく、必ず二世を中心とした救援摂理を推進させていったのです。

 

 

 

37 梨花女子大学の総長が、「統一教会の内容について調べてきなさい」と言って、宗教社会事業学科の教授を送ったのですが、この方は、原理のみ言を聞き、一週間で統一教会に入ってしまいました。すると、多くの教授が訪ねてくるようになりました。そして、寄宿舎の学生がこの原理のみ言を聞き、皆訪ねてきました。梨花女子大学は当時、アメリカの宣教部から援助を受けている立場だったのですが、名もない統一教会に吸収されるかと思い、危険を感じたのです。そうして、統一教会に入った学生を相手に緊急措置を取ったのですが、それが退学事件です。二者択一をしなさいと言ったのです。「学校を選ぶのか、統一教会の文先生を選ぶのか」と言ったのです。そのような退学事件が起こることによって、先生は、監獄に行くことになりました。

 

 

 

38 梨花女子大学と延世大学の寄宿舎の学生たちに統一教会のブームが起き、何週間かでひっくり返してしまうので、これを放っておけば、数年の内にキリスト教が滅びると考えて、「どのようなことをしてでもたたき潰しなさい」と言ったのです。このようにして、ありとあらゆる怪しいうわさを立て、先生を調査させたのです。

 

調査しても何もないので、のちには兵役忌避という嫌疑をかぶせました。先生は、北朝鮮で監獄生活をして出てきたので、軍隊に行く年齢は過ぎていました。それにもかかわらず、兵役忌避という嫌疑をかぶせて調査したのです。そのような嫌疑をかぶせて調査しても事実ではないので、仕方なく無罪として釈放したのです。

 

 

 

39 当時、自由党の政権が先生にどれほど反対したか分かりません。先生が梨花女子大学を引っ張っていき、延世大学を引っ張っていくというのです。「ああ!宣教部が率いていかなければならないのに、レバレンド・ムーンの話を聞けば、梨花女子大学も延世大学もなすすべなく、根こそぎ引っ張られていく」と言ったのです。そこに大韓民国のすべての教派があれば、その教派が引っ張られていくようになっているというのです。ですから、大騒ぎになったのです。それで、学生を退学させる事件が起きました。

 

 

 

40 先生は、韓国人なので、韓国を中心として摂理の起点を出発しましたが、韓国のキリスト教は、韓国内のキリスト教としてとどまるのではありません。摂理と世界全体を代表したキリスト教の位置にあるのです。そのような立場に立った教会と国が反対すれば、全世界が引っ掛かっていくのです。先生一人をどのように潰すかということが問題でした。そのような問題の複雑な渦中を通し、イエス様が十字架で亡くなったのと同じように、最後にサタン側に引っ張っていく事件まで起きたのです。七・四事件のようなものが、その代表的な例です。

 

 

 

41 国が問題視していることに引っ掛かって倒れれば、問題が大きいというのです。しかし、延世大学と梨花女子大学を中心とした七・四事件によって監獄に入り、無罪釈放となったので、霊肉を中心とした新しい出発ができたのです。しかし、キリスト教と国が反対することによって基盤を失ってしまった立場にいたので、統一教会や先生自体で見れば、どのようになるのでしょうか。もちろん、分立された立場で失ってしまったものをすべて探し出した位置ではありません。今から再び探し出すべき位置だというのです。キリスト教が霊的世界の基盤を築いたので、この霊的基盤を身代わりできる基盤を先生がつくらなければならないのです。キリスト教のような基盤をもたなければなりません。それでこれを再び編成したのが、統一教会です。

 

 

 

42 先生は、ダンベリー刑務所に行きながら、「ダンベリーの向こう側には神様の愛の壁があるが、その愛の壁がどれほど高いか知っているか。どれほど大きいか知っているか」と言いました。そのとき集まった統一教会の教会員は涙を流しましたが、先生は、鼻歌を歌いながら、希望の行脚として、「あす、よみがえって訪ねてくる太陽の光は、さらに輝くだろう」と言いながら入りました。生活環境が一八〇度変わることが、先生にとっては研究の対象です。すべて、愛によって縫い合わせる研究材料にするのです。

 

 

 

43 先生がダンベリーから出てくることによって、今は西欧のキリスト教文明と東洋文明を代表した統一教会文明が位置を替え、次子が長子となり、長子が次子となって入れ替わる、潮流が変化する時になりました。四十年の峠を越えてこれを取り替えなければ、天の摂理が砕けてしまうので、先生は、監獄に行ってでもこのことをなさなければならなかったのです。

 

 

 

44 先生は、監獄でも、九五パーセントを他の人のために生きようとしました。それで、朝早く起きては掃除をし、汚い所をきれいに片づけてから日課を始めるのです。ダンベリーの監獄にいるとき、食堂に行っても休むことなく、何でもしなければならないというのが習慣になり、他の人たちは仕事がなければ居眠りして、ありとあらゆることをするのですが、先生は立って待つのです。習慣がそのようになっているのです。何か仕事があれば、先生がまず行って手伝ってあげます。ですから、その食堂で有名にならざるを得ないのです。

 

 

 

45 先生は、天のみ前に「私を助けてください」という祈りを一度もしませんでした。ダンベリーで先生は、第一に黙って働く人、第二に本を読む人、第三に瞑想をする人、第四に水泳をする人だ、というイメージが残りました。プール場が近いので、時間があれば水泳をしました。ですから、収容されていた人たちはみな、知っていました。そこは話を聞きつけるのが早いのです。先生が過ぎ去ったその足跡には、どこの誰が見ても回想する関係が残されているのです。

 

 

 

46 ダンベリーの壁を通過して生き残り、再び復帰して完成しなければ、天のみ旨に連結されません。中途半端な人に、完成の道は永遠にありません。いくら世界が統一され、先生が教える真理が世界の真理だとしても、大きな傷ばかりを負うことになるでしょう。

 

しかし、先生は、そうではありません。死の道を選んでも直行するのです。そこに先生の偉大さがあります。先生は、生涯に何回も監獄に引っ張られていっても、不平を言いませんでした。先生は、それ以上のことを考えるので、どこであっても堂々としているのです。万民の苦しみを背負っても、獄中生活を天国生活のように考えているのです。

 

 

 

47 先生がダンベリーでしたこととは何でしょうか。父母が道をすべて塞いでしまったので、先生が地獄から霊界まで直通する高速道路を築く式をしました。そのようにすることによって、地獄にいる人々がその道を通って上がっていけるようになったのです。道が開かれたので、自分の先祖が地獄に降りてきて、蕩減してくれるようになります。教育をして、一段階一段階、引っ張り上げるのです。

 

 

 

48 ダンベリーで先生は、偽りの父母によって閉ざされた霊界と肉界の塀を崩し、真の父母に出会える門を開いておきました。高速道路を築いておいたのです。そのため、霊界から自分の先祖が来て、父母が子女を愛する道理として、一段階ずつ引っ張り上げるというのです。ですから、霊界の統一運動もこの愛によって展開し、地獄解放運動もこの愛の道理によってのみ可能なのです。死亡圏まで消化できる能力は、愛にだけあるのです。

 

 

 

49 先生は、ダンベリーでの十三ヶ月の間に、アメリカで十三年間語ったものをすべて再鑑定しました。これから学者たちがこれを掘り下げていけば、疑問が出てくるはずですが、それに対する答えを得られずに先生のところに来るので、これに対する解説を確実にしてあげるためにそのようにしたのです。

 

責任者は、歴史的な責任を負わなければなりません。何回も耽読し、そこに対する盾をつくることができるよう、神様が私に許してくださった良い時期だったと思うのです。そのため、一般の人々が「文先生は、瞑想する先生だ。休む間もなく夜に昼に本を読んで勉強する方だ」、その次に「言葉を語っても絶対に不平を言わない方、不平を言う環境で希望の言葉を語る方だ」と思うのです。

 

 

 

50 「愛勝日」は、死亡圏に勝ったという意味です。神様の愛をもって勝ったということです。神様と真の父母様の創造現想を中心として、責任分担を完成した基準の愛の成立圏に入っていくので、死亡圏に勝つのです。そのため、今後、統一教会を信じる人々には、サタンが来て、近寄ることはできません。近寄ろうとすれば、即刻霊界が動員されるのです。父母様の愛の圏を受けるのと、サタンと天使長の愛の圏を受けるのとでは、異なります。父母様の愛の圏を霊界にまで連結させたのです。

 

 

 

51 「愛勝日」とは、先生の時代において、サタンが家庭圏を中心として侵犯して入ってくる、その死亡圏を防ぎ止めることです。愛によって食い止めるのです。息子が死んだのと同じですが、死ぬ前に、最後の時間が来ることを知り、処理しなければならないのです。そのため、興進君が逝く前に「統一式」をしてあげました。「父とお前は一つだ」というのです。「父とお前は一つなので、父が生きている限り、サタンはお前を思いどおりにできない」というのです。

 

このようにして、祭物として掲げることによって、サタンが統一家に侵犯しようとしたすべてのものを防御するのです。神様がイエス様を中心として霊的世界において祭物を捧げたので、その霊的世界の勝利の版図を、地上で父母様の愛を受けた息子を祭物として捧げることと連結させるのです。そのようにすれば、それは地上世界で成し遂げたことになります。霊的世界の版図基盤の上に、肉的実体圏を中心とした父子関係の天国理念を連結させるのです。そのようにすることによって、天上世界と地上世界の橋を架けるのです。

 

 

 

52 霊界も愛し、地上も愛するので、父母も愛しなさいという標語を立てなければなりません。愛しなさいという標語を立てるべきだというのです。先生は、興進君が死ぬことは死にましたが、地上世界と霊界において、死なずに愛の復活圏を成し遂げるだろうと考えました。「お前は死を通して逝ったが、お前の死を通して愛を復活させる」というのです。霊界をつかんで、地上をつかんで、愛の復活圏を宣布するというのです。これにより、死亡圏と別れを告げるのです。そのため、昇華式のときも悲しんではいけません。

 

 

 

53 興進君が地上から霊界に入っていく間、先生は、霊界と肉界を中心として特別な式をしました。それが「愛勝日」ですが、蕩減条件を越えて「愛勝日」を宣布するためには、息子が死んだと考えてはいけないのです。遺体を横に置いて、神様の愛のために闘ったというのです。母親や父親が、死んだ息子を思うよりも、神様の愛を思わなければならないのです。死亡圏に勝つ愛を思わなければならないというのです。

 

それでお母様に、「あなたと私はこの時間、天が見るときに誇れる父母にならなければならず、霊界にいるすべての先祖と天使世界と千々万の聖徒、聖人、賢人たちが誇れる父母にならなければならない。世界人類が、『やはり死亡圏を支配できる愛の権限をもっている方に間違いない』と言って頭を下げられる雰囲気をつくらなければならない」と言ったのです。そうして、全人類が先生に、「あなたはやはり、神様の愛の中心者です」と証できるようにしなければなりません。息子を送り出しながらも、死と取り替えて、前進しながら愛の旗を掲げ、新しい世界のために出動するという起源の日が「愛勝日」です。そのようにすることによって、民族的で世界的な新しい愛の方向を立てていける基準になったので、「愛勝日」という言葉を使用することになったのです。それで、一九八四年一月三日午前四時を中心として、「愛勝日」を宣布したのです。

 

 

神様王権即位式と後天時代の記念日

 

54 キリスト教は、ローマ圏を越えていける世界版図圏を築きました。イエス様が体を失ったので、キリスト教が霊界を代表した基準で第二次世界大戦のときに連合国と枢軸国が闘い、連合国が勝利することによって、キリスト教文化圏が世界を統一しました。キリスト教が世界を統一することによって、霊肉が合わさる時代となり、連合国と枢軸国が天の側に帰属できるようになったのです。

 

その基盤を中心として、カトリックと新教であるプロテスタントが一つになってキリスト教文化圏を代表し、来られた再臨主を迎えていたならば、一九四五年から七年後の一九五二年に統一天下が成就され、そのときに「神様王権即位式」が終わっていたでしょう。しかし、キリスト教が統一教会を受け入れませんでした。今も彼らは、最後まで反対しています。ユダヤ教がキリスト教を最後まで反対して衰退していかざるを得なくなったのと同じように、キリスト教が統一教会に反対しながら、全く同じ道を行っています。そして、家庭から社会、国家、世界が地獄のようになってしまいました。神様が願われた愛の理想圏は、地球星において見いだせなくなったのです。

 

 

 

55 祝福をしてあげ、血統を転換させられる存在が真の父母です。偽りの父母が現れることによって、神様とサタンが闘うようになったのですが、その闘いをやめさせるためには、真の父母が中間にさっと立ち、「神様は、このような目的で闘うのでしょう。私がそれをすべて入れ替えてさしあげます!」と言うのです。「入れ替えても良い」と言えば、終わるのです。神&#