第三篇 真の愛  

第一章 真の愛の根源

 第一節 神様の真の愛

 

1 神様は、どのような方でしょうか。愛の神様です。ですから、パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」(ローマ八・三五)と言いました。イエス・キリストも、神様の愛がなければ、取り立てて語るほどの人ではありません。それで私たちは、神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は、生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。

神様の愛とは

 

2 神様の愛は、太陽よりも強いのです。朝に太陽の光が出ると、すべての植物の芽は太陽に向きます。すべての生命の起源であり、人間の本心の起源であり、理想的要棄の主体的な起源になるのが神様の愛です。

 

3 来たるべき主には本来、神様の真の愛があり、神様の真の真理があります。この真理によって家庭が広がるのであり、国家と世界が広がるのであり、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的な愛と理念と人格が出発するのです。このようなことは個人から出発します。ですから、個人として正しく生きる人は、地の果てに行ったとしても世界のために生きる人です。愛の世界ではそうなのです。

 

心情の世界で一時間生きることを千年の歴史に誇ることができ、一日生きることを万年の歴史に誇れるよう、高貴な体験ができるようにするのが真の愛です。真の愛は、細胞が膨張する気運まで態じることができます。そのような世界は、神様の愛がある世界です。その世界は、言葉で表現するのは難しいですが、あたかも、のどかな春の日に雲に乗って飛んでいくような感じを与える悦惚の世界であり、すべての細胞が踊りを踊るような世界です。

 

4 神様の愛を何と表現することができますか。暖かい春の日に、空には白い雲がふんわりと浮かんでいて、地上ではかげろうが揺れ、虫が飛び交い、ありも世の中を見物しようと動き回って出たり入ったりし、さらさらと流れる小川のほとりには、綿毛のついた種が芽を出し、かえるが春の日の歌を歌い、蜂と蝶が群れをつくって飛び回る、そのような環境に酔いしれて眠りそうになりますが、眠らずに、うれしくていつまでも「いいな」と言える、そのような味だと言うことができます。神様が求める理想相対を中心として感じる気分は、蝶が飛び、蜂が飛んでくる花園のようなものです。

 

5 神様がいらっしゃる所には、愛が満ちあふれます。与えれば与えるほど、もっと与えたいと思い、受ければ受けるほど、そこに千万倍加えて返したいと思うのです。そのような所が天国です。そこでは、もっと与え、もっと受けることができるので、爆発的な刺激を感じるようになります。すべての細胞が、はち切れるような刺激を感じるのです。神様の愛は、そのようなものです。

 

6 善の人とは、どのような人でしょうか。貴く良いものを自分だけのものにしないで全体のものとし、またその価値を全体の価値に連結したいと思う心をもった人です。天地を創造された神様は、究極的な善の方であり、すべての万物の根本になる方であり、愛の主体であられる方です。ですから、神様は、御自身が本当に信じることができ、愛することができ、すべてのことを任せられる人がいるならば、最も貴いものをそっくりそのまま譲り渡したいと思うのです。これによって、私たちは、自分に最も貴いものを本当に与えたいと思う心が天理の原則であり、人間の本然の心であることを推し量れます。

 

7 神様の愛は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を代表します。

 

もちろん、そこには兄弟の愛も入り、これを拡大すれば国家や世界の愛も入ります。神様の愛は、父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛だというのです。これが最高に紫晴らしい言葉です。愛の力は、すべてのものを治めることができるので、運命の道も意のままにすることができます。もし、このような愛をはっきりと知ったなら、この愛の力をもってすべてのものを治めることができるので、私たちの運命の道も意のままにすることができるのです。

 

8 神様が必要とする愛は、絶対的愛です。神様が絶対の愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も、絶対、唯一、不変、永遠の愛を必要とします。すべて神様に似なければなりません。神様は、男性格と女性格、陽性と陰性でいらっしゃる方なので、そこから分かれて実体対象として創造された人間も、男性と女性に創造され、彼らが結婚するようになると、実体として神様を身代わりした陽性と陰性になるのです。このように、結婚を通して縦的な神様の愛が横的に完全統一されるように追求するのが、神様のみ旨です。

 

9 神様が私たちに愛を与えてくださるとき、どれくらい与えたいと思われるのでしょうか。「これくらいならいいだろう」という限界を引く愛ではありません。無限に与えようとする愛です。神様は、すべて与えても、「あなたと共に、あなたの中で生きたい」とおっしゃいます。そのようにさせる本質が愛です。神様も、愛の中に入って僕になってもいいというのです。

 

父親は、愛する息子、娘が自分の食卓の上に上がっても、それを眺めて喜びを感じるのです。愛は法を超越します。神様が今まで愛を下さったといって、人間に、「私は完全にすべてを与えたのに、お前はなぜ与えないのか」と言うことができますか。絶対的な愛をもった神様は、いまだに与えたい愛をすべて与えることができないで、もどかしく思っていらっしゃるのです。自分を主張できない神様です。完全な愛を与えようとしたのが人間に対する創造の原則なのですが、神様は、今まで完全な愛を与えることができなかったので、もっと良いものを与えたいと思われるのです。そのような神様なので、神様のことを思えば思うほどうれしくなるのです。

 

10 神様が「私は愛である」と言いましたが、その言葉は、夜も喜び、昼も喜び、働きながらも喜び、休みながらも喜び、踊りながらも喜び、泣きながらも喜ぶということです。それで、「私には愛がある。すべてがある」と言ったのです。「すべて」という言葉は、その中にすべて入っているということです。愛を一番好む方が神様です。そのような愛をたっぷりもっているのが神様なので、人間がその愛を知って昧わえば、死んでも神様を離すことができません。

 

11 縦的な愛を受けようとすれば、堕落していない本来の横的な九〇度を形成し、男性は右側、女性は左側になって二人に火がついて調和しなければなりません。そのようになるとき、男性と女性を中心としてその中で神様に侍ろうとすれば、訪ねていって接ぎ木しなければなりません。接ぎ木するのに、どのように接ぎ木するのでしょうか。平衡にならなければなりません。そうすれば個人的にはどのようになりますか。神様は、愛の骨髄です。それを知らなければなりません。愛を中心として神様の愛は骨の愛であり、人間の愛は肉の愛です。骨と肉が一つになって形を備えるのです。皆さんに骨があるように、神様の愛は骨の愛であり、真の父母の愛は肉の愛です。

永遠で絶対的な真の愛

 

12 皆さんの心に永遠の愛がありますか。「神様の愛は私に現れるのだ。永遠に変わりはしない。天地が変わっても、この公約は変わらない」という立場が定まっていますか。神様の愛は、変わらないところに現れます。不変なので、神様の愛は永遠です。変わらない愛なので、神様の愛が私に現れるならば、変わらない心の土台の上に現れます。ですから、人生の間、食べるのもその愛のために食べ、寝るのもその愛のために寝て、活動するのもその愛のために活動しなければなりません。愛のために変わらない完全な基準をもっている限り、神様の愛は現れます。そうでなければ、この宇宙の公約はすべてむなしいものです。

 

13 神様は、人類の前に、父の立場にいらっしゃる方です。父でいらっしゃるので、自分の息子、娘の前に中心です。人間を創造したとしても、父母の立場にいらっしゃるので、子女に対する立場では子女のために存在するのです。父母は子女のために存在しようとします。

 

夜も昼も子女が侵害されないかと心配し、子女に何かの問題が起きるかもしれないと保護してあげ、また何か反対される要件が生じるかもしれないと防御してあげるのが父母です。そのような父母の本質を求めていくこと、父母の本質に連結されることが善の道、すなわち愛の道です。このような父子関係の愛を連結させるのが善なので、そのような善の立場を通して目的が成し遂げられるのです。ですから、善には必ず愛がなければなりません。愛ですが、中心的な愛が臨在しなければなりません。そうでなければ、地上で愛の中心を決定することはできません。

 

14 神様は、今まで御自身と近い所にいる人々と、氏族、国家まで愛を与えられました。神様は、「少ない」と思って受け入れないかもしれないと、さらに補いながら、イスラエルの個人と氏族と国家を祝福してくださいました。そして、それでも不足で、愛する息子を送って祝福してくださろうとしました。彼らがそれでも受け入れないとなると、その息子の命まで与えたのです。このように、一人しかいない息子が死んでも、さらに愛を与えようとする方が神様なので、その愛が帰ってくる日には、天地がすべて理想的な天国に変わるようになります。

 

15 神様と人間は、どこで連結されるのですか。生命が交流する所、愛が交流する所、理想が交流する所です。その点は、父子の関係にならざるを得ません。「私」が神様と同等になることができるので、そのような喜びはどれほど大きいですか。愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なのに、祈りが必要ですか。威信と体面を超越するのです。ためらうことなく神様をつかむことができます。神様が抱きかかえてなでてくれ、愛してくれることを体験すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。

 

16 神様の愛に接すれば、どうなるのでしょうか。髪の毛も踊り、細胞も踊るというのです。その愛に一〇〇パーセント酔えば、ひっくり返るのではなく、千年、万年、共に住みたくなります。誰かが起こそうとすれば、「起こすな」と言います。このような境地になるのです。「神仙の遊びに斧の柄の腐るのも気づかない(夢中になって月日のたつのを忘れてしまうの意)」という言葉があります。それほど、人間が想像できない高次元の愛に酔うことのできる道があるのです。

 

17 なぜ、万民は喜びながら神様に従っていくのでしょうか。神様は、万民のためにすべてのことを与え、また与えながらも恥ずかしく思われ、「今はこれだけしか与えられないが、少しだけ待っていなさい。何百倍、何千倍、もつと良いものを与えよう」と言いながら、きょう、与えることで満足するのではなく、与えながらも「未来にはもっと良いものを与えよう」と約束する心の余裕をもっていらっしゃる方だからです。

 

そのような方と一緒にいれば、たとえ満足に食べることができずに貧しく暮らしても、幸福だというのです。満足に食べることができない立場になると、現実圏内で希望の刺激が衝撃的に感じられるのです。どういうことかというと、かえって新しい決心ができるということです。その場は、未来のためにお互いに慰労の涙を一緒に流すことができる場です。絶望が共にあるのではなく、あすの希望を現在の刺激として考え、お互いに決意して、一緒になって激励できる爆発的な場が、正にそのような場なのです。

 

18 神様は、アダムとエバの体を好むのではなく、二人の間の愛を好まれます。彼らと一つになれる立場を願わざるを得ないのです。神様が人間に対して願う終着点は、息子、娘に会って愛することができる場です。そして、人間が願う創造目的の終着点は、神様を父として侍り、その息子、娘として愛を受ける場です。ですから、人間は、神様の息子、娘になろうとし、神様は、人間を自分の息子、娘にしようとするのです。この二者が出会う場が、父子関係の場です。それ以上の場はないのです。

 

19 神様には知識が必要ありません。知識を創造された方だからです。神様には権力は必要ありません。全知全能の方だからです。神様にはお金も必要ありません。ダイヤモンドや黄金も思いどおりにつくることができる方です。その神様には、たった一つだけ必要なものがあるのですが、それが愛です。「神様御自身は思いのままに愛することができるのではないか」と言いますが、とんでもない話です。神様独りでは作用できないのです。どれほど立派な博士で、天下に号令できる権力者で、天下を掌握し所有している大富豪だとしても、一人では愛することができません。ですから、神様に最も必要なものは、真の愛を分かち合うことのできる対象者です。

真の愛の母体でいらっしゃる神様

 

20 情緒的な問題を中心として見てみるとき、神様は愛の母体です。ここから父母の愛が出てきたのであり、夫婦の愛が出てきたのであり、子女の愛が出てきたのであり、兄弟の愛が出てきたのであり、親族の愛、民族の愛が出てきました。愛の分岐というものは、根幹から伸びていく枝や葉のように、波紋が波打って出ていくのと同じように、遠い所に行けば行くほど、だんだんと感度の差が出てくるのです。皆さんが神様の愛を受ける人になれば、皆さんの親戚の中で心情的に最も近い立場に立つ人と親しくなるようになります。神様が共にいらっしゃるようになると、知らないうちに引っ張ちれるというのです。

 

21 皆さんは、父の心情を気遣える息子、娘の姿になって、父に侍ることができなければなりません。そうでなければ、皆さんは、かわいそうな人になるでしょう。神様がいらっしゃることを知らないのなら分かりませんが、知っているなら、私たちを探して苦労される神様は、私たちが心の主人公としてのみ侍る方ではないことを知らなければなりません。

 

神様は、「私」と永遠に一体となり、食べても共に食べ、生きても共に生きる、すなわち永遠に苦楽を共にできる実体的な主人公なのです。永遠に変わることのない愛の本体であり、永遠の希望の化身です。このような神様のみ前で、イエス様はどんな弁明も捏造もせず、自分自体を忘れてしまい、父を身代わりするみ旨ならば、どのような行動でもできる方でした。皆さんは、このようなイエス様の足跡を引き継ぐ息子、娘にならなければなりません。

 

22 皆さんの心は、大きなものがあれば、すべて自分のものにしようとします。ですから、その心の前にもっていけないものがないのです。心は、神様に侍り、その神様のみ前に従うすべての国があれば、その国まですべてもち、あるいは世界があれば、その世界まですべてもちたいと思うほど膨大だというのです。ですから、心の中で神様に侍っても事故が起こらないのです。これ餐心です。皆さんの心は、そのように大きいのです。

 

この心の中で神様に侍ろうというのです。神様は、愛する方であり、絶対的な方なので、その絶対的な価値がある方を他のところに置いておくことはできません。愛する人同士は共に行きたいと思い、共に居たいと思い、共に生活したいと思うのです。どのように共に生活したいと思うのでしょうか。そこに深く入り込んで一つになって、一緒に住みたいと思うのです。それが愛の本質です。

 

23 男性は、「私は男性を代表する完成した愛の主体者」と考え、女性は、「私は女性を代表する宗成した愛の主体者」と考えて、「あなたと私はお互いに絶対に必要な人です」と考えなければなりません。男性にとって、絶対に必要なのは女性です。神様の代わりに、地上で絶対に必要なものが女性なのです。また、女性にとって、神様の代わりに絶対に必要なものが男性です。そのように必要とするのは、なぜですか。神様の愛を受けるためです。そうしようとすれば、男性と女性は、真の完成の立場で、背を向けようとしても向けることができず、愛すまいとしても愛さずにはいられない立場で神様に侍らなければなりません。愛の主人は男性でもなく、女性でもありません。神様です。

 

24 神様の愛の発掘地は、どこでしょうか。兄弟間で愛する場に、神様の愛が出てくるのではありません。男女が愛するその愛を中心として、神様の愛が立てられるのでもありません。神様の愛は、父子関係の愛によって立てられます。縦的関係が成立しなければなりません。その縦的関係は、父母の愛を受けなければならないので、父子の愛以外にはありません。

 

この愛には距離がないのです。この縦的関係には、一つの中心がなければなりません。中心は一つしかありません。中心は第一の立場にいるのです。中心が二つあれば、世の中では闘いが起こります。

 

25 真の愛をもって自分よりも立派な方を探そうとするので、一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント以上投入し、また投入するのです。そうして投入が終わったと思うその瞬間に、止まるようになります。神様は、人間を創造するとき、御自身よりも立派な愛の相対を造ろうとしたので、神様のすべての要素、目に見えない無形の要素を一〇〇パーセント実体化させるために投入し、また投入しようとしたのです。投入して忘れることのできるところにだけ、真の愛の起源を発見することができます。簡単な内容です。これが宇宙の根本原理です。

創造は真の愛の投入

 

26 神様は、絶対者であると同時に、真の愛の主体であり、永遠不変の唯一圏に立っていらっしゃいますが、「私のために生きなさい」と言う方ではありません。ないところに存在させようとするので、自分から投入しなければなりません。投入とは、ために生きることです。自分を投入しなければなりません。投入して宇宙が生じたのです。ですから、真の愛の根源、根拠地、出発の地は、存在する世界のために生きようとする真の愛です。真の愛から出発したのです。これが理想的な本然の出発点です。

 

27 神様が万物を創造される時、自分のすべてのものを投入することによって、その投入した対象が拡張すれば、そこから愛を見いだすことができるのと同じように、私たちも公的な世界に投入すれば投入するほど、そこから愛と関係が結ばれていくのです。それで家庭で孝行しなさいというのです。なぜ父母に孝行し、兄弟同士の友愛をもたなければならないのかというと、そうすればするほど、愛が「私」につながるからです。

 

それでは、「私」はどのような主人になりたいのでしょうか。知識の主人になりたいのではなく、権力と名誉の主人になりたいのでもありません。愛の主人になりたいと思うのが、人間が造られた最高の目的であり、人間が求めていかなければならない終着地です。

 

28 母親は、自分の体を投入して忘れてしまいます。自分の血と肉を分けてあげながら、覚えておく母親はいません。子女にお乳を与えながら、「きょうは何グラムを子女に供給した」とノートに記録したりはしません。投入して忘れ、投入して忘れてしまうというのです。母親が子女を育てながら立っている所が、神様が天地を創造しながら投入して忘れ、投入して忘れた、その立場と同じなのです。

 

29 創造の起源は、愛を中心として、ために生きる論理です。対象のために、すべて投入することが偉大なのです。ここから、「ために生きよ」という生活哲学が出てきます。愛は理想的な航海をしなければなりません。私たちがそのような目的世界に向かって、方向を定めて生きていくためには、ために生きなければならないという生活哲学が出てくるのです。完全投入しながら行く道以外には、真の愛の道に出会うことはできません。それは、完全に投入し、完全にために生きるところにおいてのみ可能だからです。

 

30 真の愛は、ために生きる愛です。与えること、ために生きるということは、第二の創造の対象、愛の対象を求めることです。神様だけが創造するのではなく、私たちも今、創造しているのです。神様が創造される時、御自身を完全に投入したのと同じように、真の愛は、自分を完全に投入するのです。そのように、自分を完全に投入すれば、自分の代身である創造物が生じてきます。

 

31 真の愛は、仕えられることではなく、他に仕えることです。神様は、最初に御自分の愛の対象を創造される時、御自身のすべてのエネルギー、すなわち御自分を一〇〇パーセント投入されました。このようにして神様は、真の愛の根本をつくられたのです。言い換えれば、神様は、御自身を完全に消耗し尽くす、真の愛の伝統を立てられたのです。その真の愛は、宇宙の中心です。

 

32 真の愛が行く道は、受けるための道ではなく、ために生きるための道です。ですから、神様御自身も愛の相対を創造する時、神様御自身がために生きる立場に立って、御自身が所有するすべてを投入し、また投入しました。このような心をもつ本然の中心存在が、天地を創造された神様です。真の愛は、ために生きるときに一〇〇パーセント、一〇〇〇パーセント、すべてを与えて、真空状態になるのです。

 

33 愛は完全投入です。男性が愛を求めていくには、すべて投入しなければなりません。人間の五官、日、耳、鼻、口、触覚をすべて、完全に投入しなければなりません。創造の原型に従って、モデルの完成形態を経なければ、愛に至れる資格がないからです。神様と似ているという立場で、完全に投入しなければなりません。

 

34 神様は、愛を中心として創造を始められました。神様は、損になることをしたのではありません。投入することは損ですが、神様は、なぜそのようにされたのですか。愛には、すべてのものを満たして余りある力があるので、消耗させて投入しても、その代わりに愛が戻ってくるのです。真の愛は、投入するほど、だんだん小さくなるのではなく、投入して動けば動くほど、大きくなっていきます。

 

もし、真の愛が小さくなっていくというのが原理ならば、神様自体が投入すれば、消耗します。しかし、真の愛の世界は、投入すればするほど大きくなるのです。真の愛の世界は、動けば動くほど大きくなっていきます。愛を占領しようとすれば、投入して忘れ、投入して忘れてしまわなければなりません。

 

35 神様が心情をもって万物を造ったのは、自己投入であるとともに、相対のためです。その相対とは、愛の相対です。ですから、神様が創造されるときに自分を投入し、愛の心をもって喜ばれたのと同じように、皆さんも万物を愛するようになれば、神様の側に立つようになります。万物を愛すれば愛するほど、神様のあとを訪ねていくのです。

 

36 宇宙的原理の根源は神様であられます。宇宙の創造のときに、神様は、自らの創造物のために、自らの全体を投入されました。また、歴史を通して、自分勝手に生きる堕落した人類を救うために、絶えず犠牲になってこられた方が、正に神様です。神様のみ旨を知った預言者、聖人、そして哲人たちは、自らの人生の中で神様の原理に従いました。そして、彼ら自身は、真理を守ることで満足せずに、他の人たちを教えるために犠牲の道を歩みました。

 

37 人のために責任を負って犠牲になるのは、何のためでしょうか。自分が困難を克服しなければならないことがあったとしても、「私」を通して相手方に影響を及ぼすためです。あたかも、何もないところから神様が力を投入して創造されたのと同じような立場に立つためです。神様は、造られたものを見て「良し」とされたので、そのような結果として現れたものも善になっています。ですから、神様の原理原則に従って、神様の創造原理に従って、神様のような立場に立たなければ善になることができません。

 

 

第一章 第二節 真の愛の根源

天聖経:第三篇 真の愛  第一章 真の愛の根源

第二節 真の愛の根源

 

1真の愛は、どこから始まるのでしょうか。皆さんから始まるのではありません。神様から始まりました。その真の愛を中心とした神様は、真の愛の理想相対が必要なので、この世の中を造られたのです。天地創造も、真の愛から始まったのです。愛の概念は、必ず相対的世界で成し遂げられます。相対の観念を離れては、愛を求めることができません。

 

ですから、男性がいれば女性がいなければならず、右側があれば左側がなければならず、上があれば下がなければなりません。上下、前後、左右がなければならないのです。これらが連結して一つの球形が形成されます。創造の前から、神様にも心と体がありました。心と体が一つになった立場で、衝突することのない愛の中で、理想的な愛の世界の実現を夢見ながら生きていらっしゃったというのです。それで、神様は、ほのかな愛ではなく、爆発的な愛、三六〇度を回転させることのできる愛を願われます。そのような愛の相対を求め、つくるために天地創造をしました。

 

 

神様は真の愛の根源

 

2皆さんの中で神秘的な体験をした人がいれば、その人は、宇宙の根本を尋ね求め、宇宙の根本は何かを知りたいと思うでしょう。このような問題を提示して宇宙の根本を尋ねていく時、宇宙の根本とは、この万象の世界を代表している人間なのです。それでは、人間の根本とは何でしょうか。生命です。生命の根本とは何でしょうか。愛です。愛がなければ、生命は生じません。それでは、愛の根本とは何でしょうか。ここでは、人間以上のものに上がっていきます。そのような方が神様です。それで、神様は、愛だというのです。神様が愛という言葉を掲げて出てこられる時、その愛という言葉は、一人では成立しない言葉です。愛は、必ず相対的関係をもつ時に、使える言葉なのです。

 

 

 

3愛という言葉は、相対的関係で成立する言葉です。どれほど全能であられる神様だとしても、神様お独りでは、愛は成立しません。必ず相対的関係があってこそ愛は成立するのです。ですから、アダムとエバを造った目的がどこにあるかといえば、喜ぶためです。何を中心として喜ぶのでしょうか。見て喜ぶのではなく、話して喜ぶのではなく、触って喜ぶのではありません。愛を中心として喜ぶのです。したがって、喜びを得るために万物創造を始めたのです。

 

 

 

4愛は、「私」から始まるものではありません。愛は、相対から来るのです。ですから、その愛を受けようとすれば、「私」が門を大きく開けて、そのために投入しなければなりません。押してあげなければなりません。天地を創造された神様、真の愛をもつ神様は、世の中を造る時、自分のためではなく、相対のために造られたのです。相対のために神様は、全体を投入されたのです。

 

 

 

5真の愛は、ために生きるところから出てきます。神様が宇宙を創造された時、愛の理想をかけて始められたので、神様御自身も、造られたもののために数千年の歴史を経てきながら、人類に何度も裏切られ、何度も辱めを受けましたが、それを忘れて、さらに、さらに、さらに、さらに統けて愛を下さるのです。そのような愛がこの地上に、堕落した人間世界に残っていますが、それが父母の愛です。それでは、真の父母の愛とは何でしょうか。子女を愛する時、「ああ、私はすべて利子をつけて返してもらおう!」という心をもった父母は、真の父母ではありません。

 

昼も夜も犠牲になりながらも、ために生きて愛し、また愛し、また愛し、どんな立場に行っても、忘れることなく、もっとやってあげようとして、二十四時間、空間を超越してその人のために生きようとする愛が、本質的な愛に近いのです。このような愛の起源があるので、人間を救うことができ、救援できる基礎を取り戻すことができるのです。

 

 

 

6愛は、自分を中心とした立場では、成立しません。相対を身代わりして、相対の立場を擁護して敬うところから、相対の立場を立てるところから、愛という言葉が初めて成立するのです。愛する人に、「こいつ!お前は私の僕だ」と言いますか。相対を誰よりも尊敬し、誰よりも相対のために生き、相対を通して存在しようとするところで愛は成立するのです。「私」を中心として「お前は私の言うとおりにしなさい」と言うなら、それは愛ではありません。

 

 

 

7神様が被遣世界を創造したのは、神様も独りでは幸福になれないからです。幸福という言葉は、相対的な関係から始まります。愛という言葉も、相対的関係から起こり、楽しいという言葉も、相対的関係から起こります。自分独りで幸福だという人がいますか。独りで楽しいという人は狂った人です。喜び、愛、幸福、希望というものは、より次元の高い相対的関係を求めるときに必要とするのです。そこから、幸福の条件の等級を満たす位置が決定されるのです。

 

 

 

8愛は、自分を中心とするようにはなっていません。愛は、「私」から来るのではないのです。愛は、相対を通してのみ関係が結ばれるのであり、相対がなければ成り立ちません。ですから、男性も女性も相対が必要なのです。それは、自分のものではないからです。それは共有物です。宇宙全体を抱くことができる力です。その愛は、自分から来るものではなく、必ず相対を通して来るので、相対がいなくなる時には愛を感じることができず、作用もしないのです。

 

 

 

9父母の愛が良く、夫婦の愛が良いというとき、真の愛は、自分を中心とした愛ではありません。愛というものは、「私」から始まるものではなく、相対から始まるのです。夫、妻から愛が生じ、息子、兄弟から愛は始まるのです。また、愛は自分独りでいるところから始まるのではなく、相対から始まります。ですから、愛の主人は相対です。

 

 

相対のために無限に投入する真の愛

 

10神様の真の愛は、相対のために無限に与えようとするものです。愛の心をもった父母は、すべての子女が父母よりもっと立派になることを願うので、子女のために大きく与え、さらにもっと大きく与えようとします。愛し合う夫と妻も、やはり相手が自分よりもっと素晴らしい人間になることを願うので、相対のために投入し、また投入して忘れます。このように、真の愛は、相対のために投入し、また投入しようとするところからその作用が誘発されるのです。神様は、人間のために真の愛の主体的な立場から与え、また与え、また与える作用を続けることによって、永存されるのです。

 

 

 

11神様も、人間のために投入しました。神様は、人間のために存在するのです。ですから、人間は、千年、万年、神様についていこうとするのです。ために生きる天理の存在世界の前で、自分自らの存在位置を維持するためには、何かのために存在しなければなりません。ために生きることが、古今東西に通じることができるのです。

 

神様は、昔も今も、東洋にも西洋にも変わらない愛をもっているので、東洋と西洋を克服することができ、過去、現在、未来を克服できるのです。それは、過去も現在も未来も克服できるので、いつも発展でき、東洋と西洋を克服するので、東洋と西洋を統一できるというのです。これは、愛でのみ可能なのです。

 

 

 

12自分の愛の相対が、自分の息子、娘が、自分よりも劣ることを願う人はいません。そのような心はどこから来ましたか。神様から来ました。神様も同じなのです。自分の愛の相対が、自分の息子、娘が、神様よりも優れていることを願うのです。ですから、その優れた息子、娘、優れた愛の相対を造る時には、自分以上のものを投入しなければなりません。千倍投入しても忘れ、一万倍投入しても忘れてしまわなければなりません。投入するという概念がない時には、それ以上の相対は出てきません。

 

ですから、真の愛で愛する人は、自分の生命を与えても、もっと与えたいと思い、千年を生きても、もっと与えたいと思う心の本性をもっています。神様が自分の相対を、その限界にまで素晴らしく造りたいと思い、もっと造りたいと思う、そのような論理をもっているので、その神様を占領するためには、神様以上に投入しなければなりません。真の愛は、自分の生命までも投入して忘れようとするところに根拠地があるのです。

 

 

 

13神様は、全知全能の方なので、自分以上の一千倍、一万倍を思い描きながら投入できる自主的力をもった方です。投入しては忘れてしまいます。愛は無限に投入するので、無限の価値が生じます。投入してみると、自動的に上がっていくのです。循環運動をするのです。循環する球形の範囲の中にあるものは、自分の所有とすることができ、天上世界の愛の所有権を相続することができます。

 

愛には、相続権があり、同居権と同参権があるので、その活動舞台は「私」のものです。そのように見れば、神様は、本当に知恵の王です。なぜ投入して忘れるのでしょうか。そうしてこそ、投入しても、さらに投入できるからです。自動的な循環原理を通して、永遠の回転が始まるので、永生の論理が設定されます。投入し、投入し、さらに投入するところに永生の論理が展開します。

 

 

 

14愛して忘れ、もっと愛そうとするところに、生命を投入しても忘れ、もっと投入するところに真の愛が住むようになります。価値のあるものを一度に、すべてあげても忘れてしまうのです。なぜ忘れなければならないのでしょうか。もっと与えようとするので、忘れなければならないのです。母親の愛は与えて、それを忘れてしまう愛です。それをすべて帳簿につけて、見返りを受け取ろうとはしないのです。自分のお乳を、生命を分け与えてあげながらも喜びます。堕落した母親でもそのような心情なのですから、皆さんは、それ以上にならなければなりません。すべてのものを投入しても忘れてしまう人の中には、真の愛が永遠に存在するのです。

 

 

 

15真の愛は、自分を完全に投入するところから生じます。自分の生命も忘れてしまう時まで、すべて犠牲になるところから真の愛は引き継がれます。生命を投入した以上の立場で、真の愛は相続されるのです。真の愛が生命の根源だからです。生命以上に投入しなければ、真の愛として引き継がれる道がありません。真の愛は生命の根源なので、自分のすべてを犠牲にしなければ、本来の立場に帰っていくことができません。

 

 

 

16愛は、与えれば与えるほど生じるものであり、終わりのないものです。さらに加重して与えることができる余裕が生じるのです。しかし、他のものはすべて終わりが来ます。お金も、知識も、権力も、終わりがあります。世の中のあらゆる人間の事情や人情を通したものは、すべて終わりがありますが、永遠の真の愛は、どれほど与えても終わりがないのです。もっと無限に近い内容が永続的に続く、驚くぺきものです。ですから、この力をもてば宇宙に作用して余りあるというのです。

 

 

 

17偽りの愛と真の愛は、どのように違うのでしょうか。偽りの愛は、始まってからどんどん下がって落ちていく愛であり、真の愛は、始まってだんだん上がっていく愛です。とても大きいので、どこまで上がっていくかといえば、大きな世界までです。どんどん包括するのです。そのような無限な抱擁の心、かき抱いてあげる抱擁の心、「もっとかき抱こう。もっとかき抱こう」という心の本質作用をもっているものは、愛以外にはありません。真の愛以外にはないというのです。

 

 

 

18愛というものは、行っても行っても終わりがありません。父母が子女を愛することには終わりがないというのです。父母がすべての精誠を尽くして子女によく食べさせ、よく着せ、内外に思い残すことなく育てたとしても、もしその子女が死んだなら、「私はお前のためにすべて与えた」と言う父母はいません。愛の道とは、本当に良いものを与えても、恥ずかしさを感じるものなのです。良いものを与えても、それを自慢の条件と考えるのではなく。頭を下げて恥ずかしさを感じるのが愛なのです。

 

 

真の愛の本質は人のために施すこと

 

19真の愛とは、どのような愛でしょうか。真の愛の本質は、受けようという愛ではなく、人のために、全体のために先に与える愛です。与えても、与えたという事実自体を記憶せず、絶えず与える愛です。喜んで与える愛です。ですから、母親は赤ちゃんを胸に抱いてお乳を飲ませ、喜びと愛の心情を感じるのです。子女が父母に孝行して喜びを感じる、そのような犠牲的な愛です。

 

 

 

20真の愛とは、ために生きる愛です。真の愛は、愛する人が自分よりも気高いことを願うのです。自分の愛する妻や子女が、自分よりも立派になることを願うのが、すべての愛の本質です。人間の世界においてそうなのです。愛する人が父母よりも気高く、神様のように気高いことを願うのです。神様も同じです。神様のみ前に相対的な立場にいる人間を、神様は自分よりもっと愛するのです。神様は、投入して忘れてしまいます。これが神様の本然的な愛なのです。

 

 

 

21愛の本質的な性格は、自分のために生きるのではありません。ために生きようとするところに、愛は繁殖します。自分を中心とした愛は消耗しますが、ために生きる愛は繁殖するのです。大きくなっていくのです。ために生きて愛そうとするところでは、繁殖が起きてどんどん拡張しますが、自分のために生きようとする愛には、ますます縮小が起きます。愛の本質は、ために生きようとする時は大きくなりますが、自分のために生きようとする時は、だんだん小さくなっていくのです。

 

 

 

22真の愛は、与えて記憶するものではありません。自分のために生きるのではありません。真の愛は相対のためにあります。ですから、愛するのに、「まず自分を考えてから、お前のことを愛そう」というような立場に立ってはいけないのです。愛したあとも恥ずかしさを感じる人、それ以上に多くのことを感じる人は、愛の原則の合格者になることができますが、「私がお前を愛したので、お前も私を愛さなければならない」という人は、理想的な愛の原則に符合しないのです。

 

 

 

23子女を愛する父母は、子女を愛する時、「私は、お前にいついつの日にゴム靴を買ってあげ、服を買ってあげ、お前のために血と汗を流したが、その価値はいくらだ」と言いながら、帳簿に記したりしません。父母が子女を愛するところでは、世の中のどんな王宮の王子、王女よりもよくしてあげたいと思う心から、「私が精誠を尽くしても、これくらいしかしてあげることができなくて申し訳ない」と言いながら与えるのです。それ以上に、もっと良いことをしてあげたいと思う心を父母はもっています。ですから、父母の愛を喜ぶのです。父母の愛は、与えても不足さを感じて、愛してもまだ愛していないことがないだろうかと思ってもっと愛したい心、与えたあとにも「不足で残念だ」と思う心があるので、永遠の愛と通じるのです。それが愛の出発の伝統的な動機です。

 

 

 

24真の愛は、誰でも願うものですが、愛というものは、ために生きてあげることによって可能になるというのが原則です。相対のために奉仕し、犠牲にならなければなりません。「私のために生きよ」という心で人に対するようになれば、皆が逃げてしまいます。利己的な個人主義は、サタンの戦略であり、目的であり、道具です。その結果は、地獄です。全体のために生きなければなりません。人のために、全体のために犠牲になり、奉仕するようになれば、皆が来て「私」を愛してくれるのです。

 

 

 

25父母の愛はなぜ貴いのですか。これは、縦的な愛ですが、縦的な愛で終わるのではなく、横的な愛が宿るように努力するからです。父母の愛は、子女が間違った道を行かないかと、生活を通して子女の手本になろうとする内容を備えています。縦的な愛は、必ず横的な愛を創造するようになっています。父母の愛も、このような原則によって神様の愛を中心として、縦横に集約してできているのです。

 

このように縦横の要素に責任をもっているのが父母の愛なので、自分の貴いものをそのまま子女に与えようとするのです。そのまま受けさせて、横的に広げようとするのです。愛の本質は、そのようなものです。なぜ愛の本質はそのようになっているのでしょうか。相対的な関係からできているのが愛なので、そのようにならざるを得ません。主体と対象の関係は、そうでなければならないのです。主体と対象の間は、お互いに授け受けして円形を描くのです。主体は縦的であり、対象は横的なので、これが九〇度の角度になって円形を描くようになります。

 

 

 

26神様の愛は、縦的な愛です。しかし、神様の愛は、縦的な愛だけで終わるのではなく、横的な内容をも備える愛なので、横的な息子、娘の前に現れるのです。その息子、娘が縦的な基準で広がるだけではなく、横的にも広がっていくことによって、そこで万有の存在が縦的な環境を中心として、横的な環境に広がっていくようになり、世界と天宙にまで広がっていきます。この愛の心が動機になって、世界を治めよう、何をもとう、何をすればよいという考えをもつようになります。それは、私たちが知らない中で、縦横の愛が自分の本質的な心の根本に描かれているからです。その本質的な欲求によって、人間の欲望が充足される、という事実を否定することはできません。

 

 

真の愛は生命よりも貴い存在の起源

 

27父母は、子女が死ぬ境地にいれば、その子女を救うために自分の家にあるすべての宝物を、その子女の生命と取り替えようとするでしょう。このようなことを見るとき、宝物よりも貴いものが生命です。それでは、愛と生命では、どちらが貴いでしょうか。夫婦で暮らしていて、夫が妻に愛をもって買ってあげる宝物は、千年、万年もっていたいと思いますが、愛のこもっていない宝物をもらっても、もっていたいとは思いません。宝物は、環境が変わるに従って変わる内容をもっているのです。宇宙の中で千年、万年変わらない愛を中心とした夫婦がいるなら、それは生命よりも貴いのです。ですから、愛のために生命を捧げるのです。生命のために愛を捨てることはありませんが、愛のためには生命までも捨ててしまうのです。

 

 

 

28世の中には、ダイヤモンドや真珠のような宝石があります。なぜ、それらのものは宝石なのでしょうか。ダイヤモンドは、硬さにおいて誰も侵犯することができず、変わらない特性をもっています。真珠は、優雅な光において最高です。何ものももつことのできない、千年、万年過ぎても変わらない優雅な光をもっています。黄金は、なぜ良いのでしょうか。黄金は、黄金色の光において変わることがありません。千年、万年過ぎても、それを支配できるものはありません。このように、変わらないという性質をもっているので、人間世界で宝物として扱われているのです。このような宝物と取り替えられないものとは何でしょうか。宝物には生命がありません。愛する人の生命は、宝物と取り替えることができないのです。

 

 

 

29天の国で定める第一の価値決定の基準は、愛です。生命ではなく愛です。その愛とは、唯一、不変、永遠の愛です。その基準を中心として、万事の価値基準を決定するのです。神様はそれ以上考えることができないので、それが決定基準になることは、極めて当然の結論です。「あの人は人格者だ。あの人は価値のある存在だ」というのは、そのような基準から見るのです。

 

 

 

30すべての存在の共通分母とは、生命です。生命は愛から出てきました。ですから、生命よりも愛が貴いのです。生命を求めて愛を犠牲にするという人と、愛を求めて生命を犠牲にするという人のうち、どちらがより中心でしょうか。どちらがより真に近いのでしょうか。愛を求めて生命を犠牲にするのがより中心であり、真に近いのです。生命を求めて愛を犠牲にするのは自分中心ですが、愛を求めて生命を捧げるのは、自分中心ではないからです。

 

 

 

31愛は生命を屈服させます。生命を左右できる力が愛にはあります。しかし、生命は愛を左右することができません。それでは、生命の主体であり、愛の主体である神様は、どうなのでしょうか。神様も愛の前では弱いのです。生命の絶対的な基準それ自体だとしても、神様よりもっと強力な愛があるなら、その愛の前には屈服するのです。生命の力までも動かす力があるとするならば、それは愛の力です。

 

 

 

32真の愛とは、どのようなものでしょうか。人間世界では、神様と出会うことができなかったので「分からない」と言います。母親が子女を愛する以上の愛、真の初愛に燃えて生死も忘れて突進できる力が爆発する、それ以上の愛をもって出発する道が、真の愛の道です。死の境地にいる子女を、父母が自分の生命を捨ててまでも保護しようとする愛の心は、天の愛に通じるのです。そこから天の愛は出発するのです。

 

 

 

33全知全能の神様は、真の愛の主人公であるにもかかわらず、愛の根を御自分に下ろそうとはされません。愛の対象になり得る人間に、根を下ろそうと考えるというのです。ですから、真の愛を神様がもっているとしても、真の愛で愛することができる人に、すべてのものを投入しようというのです。投入するのに、悪いものから投入するのではありません。神様は、良いものから投入するのです。神様にとって最も良いものは真の愛です。その真の愛を、愛する人のために完全に投入するのです。

 

 

 

34宇宙生成の根本動機は神様ですが、その動機の中心が、真の愛の道を立てようとするところにあったので、神様は、御自身だけを考えません。御自身を考える前に、愛の相対を尊重して、すべてのものを、その前に投入したというのです。それでは、愛の結実体とは誰でしょうか。神様御自身ではなく、投入したものに愛の結実が実らなければなりません。これは驚くべき思想です。これが宇宙生成、宇宙の始まりの根源です。それを端的に分かりやすい言葉で言えば、神様がなぜ天地を創造したのかということです。哲学的な問題です。なぜ天地を創造したのかといえば、見て喜ぶために創造したのですが、それよりも、愛を愛らしくするために天地を創造したのです。

 

 

 

35原因のないところから結果が出てくることはありません。体と心は父母から出てきます。母親と父親の愛によって、母親と父親の生命体が和合するようになります。愛は、すべてのものを調和させます。母親の内的な体と心、父親の内的な体と心が、真の愛を通してお互いに調和します。生命力が一つの扇の要のようになって、愛を中心として血統が連結されます。

 

「私」が生まれるようになった最初の動機は、母親と父親の生命ではありません。その母親と父親の生命が愛によって連結され、血統を通して生まれます。母親の血と父親の骨を受けて血肉を連結させ、十カ月が過ぎ、血統に従って母親と父親の生命力をもって生まれます。生まれた「私」の根本は、皆さん自身ではありません。根本は母親の生命であり、父親の生命です。その生命を一つにしたものは、生命に先立つ愛なのです。ですから、この世の中のすべての存在の起源、創造された存在の起源は愛から始まったというのです。

 

 

 

36神様がアダムとエバを造った時、愛という概念がなかったなら、どうなったでしょうか。神様の愛の概念に合うように生まれたのがアダムとエバです。凸と凹は創造された時からそのようになっていたのです。ここには進化がありません。進化が成立しないのです。愛という概念のために雄と雌が生じたという事実は、進化を超越した概念なのです。

 

 

 

37皆さんは、愛と生命と血統という、重要な三つの本宮をもっています。どのようにしてこの三つを完全に一つにするか、ということが本宮の目的です。それは、愛によって一つにするのであって、それ以外の他の道はありません。その場は、最も秘密になっていて、神聖な所です。ところが、なぜ悪化してしまったのでしょうか。堕落したからです。堕落したので、愛の王宮を破壊し、生命の王宮を破壊し、血統の王宮を破壊しました。そうして、その場は、かえって最も悪いものになり、恥ずかしい場所になったのです。

 

 

真の愛の中で暮らすことが人間の願い

 

38愛と関係のある所に対しては、私のすべての神経が衝撃的な刺激を起こします。すなわち愛は、私をして最も近い所にいさせようとします。愛というものは、最も近いと同時に、私と離すことができない関係をもっています。そして、私に喜びの刺激と衝動を伝達してくれます。ですから、私たちは、懇切な心をもって「会いたい」と言い、懇切な心をもって「行きたい」と言うのです。

 

 

 

39愛は、すべての感覚を集中させて、一点に結ぶ力として現れます。目は「ああ、見たい」と言い、耳は「ああ、聞きたい」と言い、口は「ああ、食べたい。話したい。学びたい」と言うでしょう。これだけではなく、すべての細胞が、そこに動いていこうとするのです。高い頂で避雷針が雷に合うのと同じように、神経のすべての感覚を避雷針のように束ねるための作用が愛の作用です。

 

愛の心が宿るようになると、すべての感覚は、一カ所で衝動を受けて作用するようになります。一度に作用するというのです。目は目なりに、耳は耳なりに、鼻は鼻なりに、手は手なりに、すべてがこのように作用します。そのようになるのは、「私」のためではなく、愛する人のためなのです。

 

 

 

40自然は人間の母親です。ですから、その母親から供給を受けて生きるようになっています。このように供給を受けて大きくなるのです。腹中で水の中で生きていたのと同じように、地上で空気の中で生きるようになります。それでは、何を中心として生きるのでしょうか。愛を中心として生きます。ですから、いつも愛が問題です。父母の愛、妻・夫の愛、息子、娘の愛ですが、この愛が問題です。生命の一要紫は空気です。

 

母親のおなかの中でも空気を吸収しなければならず、出てからも空気を吸収しなければなりません。母親のおなかの中から地上へと、方向が変わっただけであって、空気を吸収しなければならないことは同じなのです。それでは、人にとって第一の生命要素は何でしょうか。それは愛です。

 

 

 

41なぜ人間が生まれたのでしょうか。「愛のために生まれた」という一言がすべてです。その愛が真の愛です。真の愛とは、堕落した世界の愛を超えた愛です。すべての宗教は、真の愛の世界に到達するのが目的なので、宗教の中の宗教であるキリスト教が語る愛は、世の中の愛の限界線を超えたものであると主張しています。それで、イエス様も、「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない」(ルカ一四・二六)と言いました。自分の父母や妻子、あるいは誰よりもイエス様をもっと愛するまではイエス様の弟子になることができないとは、どういうことでしょうか。弟子というのは子女を意味するので、堕落線を乗り越えなければ天と関係を結べないということです。

 

 

 

42真の愛は、横的な水平関係だけではなく、縦的な垂直関係も成り立ちます。真の愛の横的関係が縦的にだんだんその次元を高めると、結局、その頂点に到達するようになりますが、その場が真の人の王である神様の立場です。その立場では、すべてのものが結合して、抱かれ、愛と化して花開くことができるからです。ですから、宇宙の中にあるすべての存在は、愛で和合することを願い、愛の中で生きることを願うというのです。愛のために生まれ、愛のために生き、愛のために死ぬというのです。

 

 

 

43真の愛は、人間だけでなく、すべての万物も願います。万物の霊長である人間には、神様が造られた傑作を抱いて愛するだけではなく、すべての万物に愛することを教えてあげなければならない責任があります。万物は、このような主人を求めています。このような基準から私たち自身を照らして見ながら、自分を恥ずかしく思うことができなければなりません。

 

ダーウィンの「弱肉強食」という言葉は、このような真の愛の論理で、もう一度解釈されなければなりません。ですから、ありや小さな虫までも真の愛を願うだけでなく、自分を愛する主人のところに行って死のうとするのです。このような原則から、神様の愛の最も高い対象として造られた人間は、すべての万物を食べて摂取できる立場にいます。このすべてのものを食べて摂取するときに、これらを造られた神様の真の愛の心で、食べて摂取しなければなりません。

 

 

第一章 第三節 真の愛の属性

天聖経:第三篇 真の愛  第一章 真の愛の根源

第三節 真の愛の属性

 

 

 

1      愛には終わりがありません。すべて終えたという終わりを感じる愛は、愛ではありません。愛する夫や妻に、「あなた、私を愛していますか。愛しているのなら、どれほど愛していますか」と尋ねた時、夫や妻が「このくらい愛している」と言えば、気分が良くないでしょう。愛には終わりがないからです。自分だけのために生きる人々の愛は、一日もたたないで終わります。

 

なぜ夫婦がけんかをするのでしょうか。お互いが愛を受けようとするからです。お互いが愛を受けようとする者たちは長続きしません。しかし、お互いが愛そうとする家庭は、祭祀を行って「壊れろ」と呪っても壊れません。お互いがために生きてあげようとする愛は永遠なのです。

 

 

絶対、唯一、永遠、不変の真の愛

 

2創造主が男性と女性を造った目的は、愛のためです。真の愛とは、永遠で、変わらない愛のことをいいます。たとえ時代が変遷し、いくら環境が変わっても、その愛は変わらないのです。唯一で永遠、不変性をもった真の愛の理想を果たすために、男性と女性を造ったのです。それは、人間を中心として創造したのではありません。根となる神様を中心として創造が始まったのです。ですから、このすべての被造世界は、愛ゆえに生じたのです。

 

巨大な地球が数億年の間に一秒も狂わないで回っているのは、驚くべきことです。一秒違っても大問題です。このように真の愛は絶対的であり、永遠、唯一、不変なものなのです。

 

 

 

3元来、愛というものは、人間の愛ではなく、永遠不変な神様の愛なのです。神様の愛に接して、神様を「私」の主人として侍るその瞬間、その方と一つになるのです。神様と「私」が与え合う喜びの場に入っていけば、世界を征服できます。「私」が神様と一緒に楽しめる場面は、天上天下のすべてのものを所有して喜ぶ、それ以上の喜びに酔いしれる場面だというのです。もし、人間がそのようなことを体験すれば、この体のすべての肉的五官の刺激は問題にはならないのです。

 

 

 

4真の愛は誰もが願います。千年、万年たっても真の愛を嫌いにはならないのです。それを革命しようとする群れはいません。それでは、真の愛とは、どのようなものなのでしょうか。世の中で未婚の女性や未婚の男性が好むような一時的な愛ではありません。神様が介在しているので、永遠性、唯一性、不変性が連結されています。太陽系で太陽を中心として惑星が運行しているのを見ると、それは変わらないのです。地球は、太陽の周囲を一年に一回ずつ回っていますが、数億年の間、このように、一秒も狂うことなく回っているのです。

 

 

 

5皆さんが生まれたのは、母親と父親の愛があったからです。原因がなく結果が出てくる道理はないというのです。ですから、天地のすべての生命は、自分のものではありません。皆さんを中心として、もっと大きな神様の目的があるというのです。愛は永遠です。しかし、愛も、天理の法度に違反しては出てくることができないというのです。ですから、愛の法度を守らずに出てきた人は、いるはずがないのです。一個人を中心として、愛が出てきたのではありません。母親の愛は、神様の愛です。姉と弟がお互いにけんかをしたとしても、母と父がいれば平和です。同じように、人間世界にも愛の母親がいなければなりません。しかし、人間の世の中の愛を見たり、宇宙間の愛を見ても、愛の母親がいません。元来はいたのですが、人間はそれを失ってしまったのです。人間が失ってしまったもの、これが正に神様の愛なのです。

 

 

 

6真の愛とは、永遠に続く愛です。春にもその愛、夏にもその愛、秋にもその愛、冬にもその愛、少年時代にもその愛、壮年時代にもその愛、老年時代にもその愛、永遠の世界である霊界に行ってもその愛なのです。変わらない愛なのです。

 

 

 

7愛は、絶対、唯一、不変、永遠性をもっています。このような内的な属性の要素をもっています。このような全般的な面で、共通して関係を結ぼうとするすべての属性の根本は真の愛以外にはないので、どれほど絶対的で唯一無二の神様だとしても、真の愛の前では、「関係を結ばない」とは言わないのです。「関係を結ぼう」と言うのです。

 

 

真の愛だけがもつことができる特権

 

8統一教会は、何をする所なのでしょうか。縦的には神様に侍り、横的には真の父母に侍って、完全に共鳴した場で、真の愛を受け継ごう、相続しようというのです。この真の愛の属性には、愛に同参(一緒に参加すること)できる同参権と相続権があります。その次には、同じ立場に立てる同位権があります。また、愛を受けるならば、どこでも一緒に行くことができるのです。どこに行っても同参する権限があるのです。このように、真の愛の属性の中には三大属性があるのです。愛の関係を結ぶようになれば、同位権、同参権、相続権をもちます。すぐに同じ立場に立つのです。

 

 

 

9真の愛に接するようになれば、同位圏に立つことができます。父親と息子は立場が違います。しかし、父親の前で愛する孝子は、同じ立場にいつもいることを父親も願い、息子もそうであることを願います。そのような時に父親は、「息子よ、お前は子女なので立場が違う。自分の位置に帰りなさい」とは言いません。立場が違ったとしても、いつも同じ立場に座ることができる特権があるのです。愛の属性は、権威がいつも同じだというのです。その場には同参権があるのです。

 

 

 

10真の愛と一つになると、同位権と同参権をもちます。どこであれ、離れないで夜も昼も一緒に参席できるのです。愛する人が大統領になれば、大統領の夫人として、彼が貧民窟を訪ねていったとしても一緒に行くことができ、どこでも同参することができます。その次に、相続権があります。これは、宇宙万民に共通に賦与された法です。公式です。ですから、私たちの心も、自然とそのようなことを考えるのです。

 

 

 

11神様の創造の根本目的は、真の愛と、その対象である真の人です。絶対者の神様のみ前で、人間がどうしてその相対的な立場に立てますか。努力や外的な条件でできることではありません。ただ真の愛の関係においてのみ可能なのです。主体と対象が完全な真の愛の関係を結べば、すぐにお互いに同位権、同参権、相続権をもつようになるのです。

 

 

 

12愛のある人は、永遠の神様を所有した人になります。愛の属性には、相続権があり、同居権があり、同参権があります。愛する夫が大統領なら、妻が小学校を卒業できなかったとしても、愛する夫婦間では夫のものが夫のものとなり、昼夜、いつでも一緒に同居できるのはもちろん、すべてのことに同参できる権限があるのです。愛にはこのように偉大な三大属牲があるので、神様の絶対的な愛、不変的な真の愛と一致した立場に立つようになれば、神様がいらっしゃる所に「私」が手助けすることができ、いつでも同居できる旛限をもつようになります。

 

そのようになれば、私が目をつぶらなくても神様に出会い、神様の悲痛な心情を体恤した人は、道を歩いていても立ち止まって痛哭する、体恤の世界があるのです。堕落した世の中でも、母の愛は、もし息子が外地で不慮の事故に遭ったとすれば、第六感で分かる場合が多いのです。寝ていたとしても、「あっ!誰々よ」と叫んで、飛び起きるのです。

 

 

 

13堕落した人間だとしても、最も高い立場、最高の栄光の立場を願っています。学のある人ない人、黒人や白人も関係なく、最高の立場を願う人間の欲望は同じです。そのような欲望を充足させるのは、愛しかありません。°

 

愛は永遠なものです。ですから、神様の愛を所有するようになれば、永生できるのです。神様と対等な立場、同位権の立場に立とうとすれば、神様の愛を所有しなければなりません。

 

 

 

14人間は、神様と愛の関係を結べば、神様と同位権に参席することができます。

 

愛で一つになれば、同参的権威をもつようになるのです。このように、愛は同参権をもっています。

 

また、愛は相続椛をもっています。ですから、神様と愛の関係をもてば、神様のみ前に立てるだけでなく、神様がもつすべての所有権をもつことができます。人間には本来、神様がもつ、すべての所有権をもてる特権があるので、すべての人間が最高の存在になりたいという欲望をもっているのは当然なのです。

 

 

 

15真の愛を体験した人は、神様の本来の理想的な世界で、神様が願うことを、すべて即刻所有できる能力と権限をもちます。そして、そのような資格は、地上で成し遂げなければなりません。霊人体を中心として肉身が一つになる過程で、神様の愛の接続点が真の愛で成し遂げられてこそ、そのような立場に進むことができるからです。神様の真の愛は、同胞を愛し、世界の人を愛し、万物を愛することによって感じられます。

 

 

直短距離を通じる真の愛

 

16神様は、縦的な真の父母であり、堕落していないアダムとエバは、横的な父母です。真の愛は最直短距離を通じます。人間の愛と神様の愛は、どこに行って合徳(和合)しなければなりませんか。縦横はどこで出会いますか。真の愛は、直短距離で通じるというのです。天から地を結ぶ直短距離は垂直しかありません。垂直は一つです。天地大道の真の垂直の立場に立てるのは、真の愛しかないのです。天地大道のすべてのものを測定できる標準的起源が真の愛であり、その真の愛が通じる直短距離は垂直の一つしかないのです。

 

 

 

17神様の愛と人間の愛は、どこで一つになるのでしょうか。真の愛は、直短距離を通じます。上から来る愛の直短距離は、一つしかないのですが、それが垂直です。真の愛とは、上にいる父と下にいる息子の愛が直短距離を通して接触する道なので、一点の垂直点しかありません。その直短距離の前に、東と西の立場に立った男性と女性の愛、夫婦の愛も、直短距離を通るようになるので、九〇度で交わる水平線しかないというのです。その次に、兄弟の愛も、前後を中心として直短距離を通るので、垂直の九〇度以外にはありません。それでは、この宇宙の中で、神様の真の愛を中心として垂直点を準備できる男性と女性は、どこで会えるのでしょうか。最短距離の垂直点で会わなければなりません。

 

 

 

 

 

18神様の真の愛は、直短距離を通じます。真の愛は、最高に速く、最高に近い直短距離を行くのです。真の愛が定着できる場がこの地上にあるならば、直短距離の一つの場しかありません。それは絶対的です。永遠なものです。これを、堕落によって失ってしまいました。愛が定着できないで、軸が行ったり来たりするのです。真の父母が真の愛の論理を中心として、天地の愛の哲学を悟って定着させる起点をつくらなければ、この世の中は、愛を中心とする理想の経路を探すことができません。神様の愛と一致して垂直的な愛の前に水平的な愛が来るのです。堕落しなかったなら、男性と女性の真の愛は直短距離を通るので、この垂直の前に九〇度で出会うのです。これが、神様の創造本然的な愛と出会うことができる公式です。

 

 

 

19真の愛は直短距離を通じます。真の愛は直短距離を通じるので、真の愛の速度は最高の速度です。皆さんも、自分が愛する子女が外国に出ている時、子女のことを考えれば、その思いはすぐに子女のところに行くのです。距離を超越します。真の愛の速度は最高速度なので、この膨大な大宇宙を自分の生活の活動舞台とするのです。時間と空間を超越するので、距離感がありません。すべて目の前にあるのと同じです。

 

 

 

20愛の速度というものは、最高に速いのです。愛の行く道は、直短距離を通じるからです。それは世の中の愛ではありません。神様の愛です。神様の愛とは何でしょうか。真の愛です。真の愛の圏内に入るようになれば、直短距離を通じる最高の速度で行き来できるので、宇宙を自分の思考團内の舞台として活動できるのです。まるで、うそのような事実です。

 

 

 

21愛は最も近い距離を通ります。愛を中心として垂直になるには、愛が直短距離を通らなければなりません。愛する人を求めていく時、近所を訪ねるようにゆっくりとは行きません。矢のように直行します。夜も昼も関係なく、春夏秋冬、いくら歴史が長くても、愛は直短距離を通ろうとします。縦的に最も近い距離が垂直です。最も上にあるものと最も下にあるものが連結して、最も近いところになければならないので、そのようになったのです。

 

 

 

22神様の愛は、どのような愛なのでしょうか。与えてから満足するのではなく、与えてももっと与えたくて、恥ずかしさを感じる心をもっている愛です。与えてから恥ずかしい心を感じる人であるほど、真の愛の主人なのです。父母は、子女に服を着せても、もっと良い服を着せてあげることができないことを、すまないと思います。与えながらも、満足を感じるのではなく、不足さを感じるので、愛を通して、それを補充してあげるのです。

 

 

 

23よりために生きる人が中心になります。よりために生きる人が治め、よりために生きる人が主管し、よりために生きる人に相続が起こります。それが天理です。愛には同参権があります。夜でも昼でも、どこでも同参することができます。自分の息子、娘の部屋に許可を得て入っていきますか。自分の夫人の部屋に許可を得て入りますか。ですから、神様を愛する愛の作用をもったなら、神様がどこであっても同参できるのです。

 

 

 

24真の愛は、愛して忘れてしまいます。記憶しません。善と悪の基準は何でしょうか。悪は与えて利益を受けようとするもので、善は自分のものを与えても忘れてしまうものです。家においても、よりために生きる人が善の側です。ために生きる人は、結局、その家の主人になります。十人の友人がいるとして、その中で一番いい友人は、他のすべての友人のために尽くす友人です。そうすればその友人たちが、ために生きるその友人を中央に置いて侍るようになるのです。宇宙は、そのように相続されていきます。

 

 

 

25主管の本質は愛です。その愛の本質に接する「私」一人の生命要素が、完全に主体の前で対象的な価値をもつようになるとき、その対象の価値は、主体の価値に相当します。その対象の価値は、原因と対等な立場に立つのです。それは、心の前で私たちの体は、いつも対象の価値をもっているということです。私たちの心は、体の前に主体の価値をもっていて、体は心の前に対象の価値をもっています。この二つが合わさって「私」という存在が構成されます。宇宙は、このような関連した関係が結ばれていると同時に、前後の関係、内外の関係、左右の関係、上下の関係で関連しているのです。

 

 

第一章 第四節 真の愛の力

天聖経:第三篇 真の愛  第一章 真の愛の根源

第四節 真の愛の力

 

1世の中で最も速い作用は、愛の作用です。世の中で最も速度が速いのは電波ではありません。最も速くて、最も驚くほど飛ぶことができる力をもっているのが愛です。この地の果てと、あの地の果てにいる人同士が、お互いに愛するようになると、その地の果てを越えて引き寄せます。愛は、そのような力をもっています。ですから、今日、宗教を中心として、「愛を求めなさい。愛の神様の近くにいなさい。心情をもちなさい。祈りなさい」と言うのは、どういうことでしょうか。愛の世界に接することによって、神様のすべての愛の作用に同伴できるというのです。同伴という言葉は、一緒に参与できるということです。   2東西南北、四方に拡大できる関係をもっているのが愛です。そのように見るとき、前後、左右、上下の関係が、愛を中心として理想的に組み合わさって循環運動をするのです。それは、宇宙が循環運動をするからです。宇宙が回れば、その中にあるものは、どれほど嫌っても、歩調を合わせて回らなければなりません。 それでは、それは何を中心として回るのでしょうか。その中心が軸なのですが、その軸は永遠に変わらないのです。お金も変わり、知識も変わり、権力も変わります。人情までも変わる時代に、永遠不変の軸になるものとはいったい何でしょうか。ただ一つ変わらないものが、正に父母と子女の関係です。動物世界を見ても同じです。父母が子女を愛すること、それだけは永遠だというのです。

真の愛は授受作用の力

 

3人が存在するためには、自分の体から、まず授受の過程を経なければなりません。男性と女性も、相対的要件を備えて、お互いに授受してこそ存在できるのです。もし、男性は女性が必要ないと言い、女性は男性が必要ないと言うなら、百年もたたないうちに、世界はすべて滅んでしまうでしょう。人が存在するためには、つまり授受するためには、相対を必要とするので、今まで男性と女性は、お互いに愛し合って家庭をつくってきたのです。 ですから、愛というものは、授受の作用を起こさせる力なのです。それは、男性と女姓が授受する作用の力です。したがって、愛という力の母体が生じるためには、授受する作用がなければならず、そのためには、男性と女性が絶対的に必要です。すなわち相対要件が必要なのです。   4物質は力で成り立っています。しかし、力はそれ自体だけでは生じません。相対的基準が成立しなければ、授受作用をしないので、力が出てきません。皆さんの体から発生する力も、四肢五体で授受して出てくるのです。授受作用に比例して力が出てくるのです。力がある前に、まず授受作用がなければなりません。授受作用をしようとすれば、どのようにならなければならないのでしょうか。一人では絶対に授受作用はできません。したがって、授受作用をするために絶対的に必要なのが相対です。これは、すべての存在様相の絶対的な要件です。相対がなければ、授受することができません。   5愛は、愛すれば愛するほど、もっと大きいもので補われます。滅ぷのではなく、興隆するのです。愛なくして興隆する道理はありません。また、愛なくしては永生もありません。ですから、イエス様は、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)と話されたのです。これは、絶対的に守らなければならない戒めです。愛の関係と、愛の道理においてのみ興隆するのです。   6真の愛は、度数の限界線と生命までも超えて投入するようになるとき、力が何千万倍も発動するようになります。真の愛を投入して、滅ぶという道理はありません。真の愛を十くらい投入すれば、それが何倍も増加して出ていくのです。真の愛の力は、作動すれば作動するほどどんどん大きくなっていくので、世界を抱き、宇宙を抱き、神様まで抱きかかえる運動が起きるのです。   7真の愛には消耗がありません。動けば動くほど大きくなります。力学では、入力が出力より大きいですが、愛の世界では、入力より出力が大きいのです。ですから、愛がすべてのものの核なのです。それで、相対に供給しても余るのが真の愛です。供給して不足するということがありません。真の愛は、相対になるそのすべてに分けてあげても余るので、運動をすればするほど大きくなっていくのです。   8真の愛の関係では、入力よりも出力が大きくなるのです。ですから、歴史の聖人たちは、その時代に迫害されて消えていったのですが、彼らは入力よりも出力が大きくなる真の愛を投入し、また投入し、さらに投入しました。神様もそのようにしたので、宇宙創造が可能でした。投入すれば大きくなります。大きく、大きく、大きく、もっと大きくなるのです。投入する心情圏があれば、生命の存在基台は、永遠に残るのです。     9作用する世界が、永遠に循環できるように刺激的な力を補充でき、消耗する力を補強し加重する力をもっているのが、真の愛です。ですから、真の愛のみが永存できるのです。人間にとって最も貴いものは生命と愛です。生命は愛によって生じます。ですから、生命をもった人は愛に従っていくようになっているのです。   10真の愛が宇宙に存続できる生命の源泉だというとき、この宇宙のために低気圧的な立場で与えて、与えて、もっと与えれば、絶対的低気圧の方向から、宇宙は「私」を中心に立てるか、上に上がるようにします。中央の中心になるか、頂上に上がっていくのです。真の愛とは、どのようなものでしょうか。完全に投入し、投入して永遠の零点まで行くようになるときには、宇宙がプラスするというのです。 ですから、その立場に行くようになると、神様が発動していくのです。投入して忘れ、投入して忘れるほど、私を押してくれます。私を押してくれて何度も投入してみると、中央に押し上げられるのです。中央になってさらに投入すれば、地に深く入り込むのではなく、上がっていきます。膨らんでいくのです。中央で何度も運動をするので、丸くなっていくのです。それで、運動する宇宙は球形になっています。   11愛の相対は永遠なので、永遠にその相対が出てくるときまで投入します。また、相対をもったものも、無限に投入しようとします。自分の根本まで入っていくようになっているのです。神様はそれほど無限なので、その愛の世界で運動するすべてのペアは、永遠性をもっています。ですから、無限で絶対的な神様の愛の対象になれば、永生するのです。   12神様の愛は、ために生きる愛、ために生きようとだけする愛です。神様が何度も与えざるを得ず、真の愛も何度も与えざるを得ず、お互いが与え合って回っていきます。神様の愛は、そのようなものです。神様が何度も与えようとされるので、この愛の本質も、何度も与えようとして回るというのです。 宇宙はどこから始まったかというとき、回るところから始まったというのです。存在するすべてのものは、回るようになっているというのが本質です。どのようなものが永遠に行くのでしょうか。永遠に与えようというもの、永遠の愛を中心として永遠に与えようとする、その愛が永遠に回るのです。与える力と受ける力が一つになって、何度も与えようとするので、拡大が起きるのです。そのような原則の力があるので、宇宙は生成することができたというのです。   13愛は、回るための潤滑作用と軌道(修正)作用をします。愛なくしては潤滑作用ができません。自動車も、動かすためには油を注がなければなりません。私たちが運動するのにも油を差します。潤滑作用がなければなりません。何でも、運動しようとするには潤滑作用がなければなりません。最高の喜びの潤滑作用は愛しかありません。それは、根が永遠の神様なので、なくなりません。作用すれば作用するほど発展するようになっています。

真の愛の力は無限大

 

14真の愛は、宇宙を包括しても余り、宇宙を通しても余り、宇宙と和合しても余ります。それは、生命の原動力であり、運動の原動力であり、すべてのものの原助力です。そのような愛があるところで、初めて生命の価値があるのです。そのような愛から理想的なものも出てきます。「ははは」と笑っても、それが理想的なのです。わんわん泣いても、愛のために泣くのなら、それは理想的に泣いているという言葉が出てくるのです。それで、人は悲しいときにも涙が出て、うれしいときにも涙が出るのです。ですから、地獄でも、どこでも幸福を感じる力があるとすれば、その一つの力は、ただ全体のために生きようとする力です。   15不足なものを補充し、不完全なものを補充し、欠如したものを完結させようと、補充するのが愛の力です。その愛は真の愛です。その愛の内容は、全体的なものと個体的なものが異なりません。結果の世界から原因の世界に帰ってくるためには、補強される力の発露がなければなりません。その力の発露が、結果的な人間において衝撃的な力、再び戻すことができる刺激的な力です。   16皆さんが創造の偉業を相続すれば、真の愛の権限をもつのです。創造の偉業を相続することによって、すべてのものよりも強い真の愛を相続できるのです。真の愛をもてば、できないことがなく、成就されないことがありません。怨讐も愛することができるのです。真の愛の力は、闘いや強制ではなく、自然屈伏させるのです。ですから、これ以上に強い力はないというのです。   17聖害に、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ1733)とあります。このような逆説的な論理をなぜつくったのでしょうか。悪の世界と善の世界は方向が違うので、不可避な結論による論理なのです。これは、逆説的な論理ですが、神様の側から見れば、定説的な論理です。このような逆説的な環境を打開し、定説的な論理である真の愛の道を求めていく飛躍の運勢に乗らなければ、私たちに解放はあり得ません。飛躍できる力は、武力でもなく、経済力でもなく、政治力でもなく、知識の力でもありません。ただ、愛の力しかありません。これだけが永遠不変な、正道の近道なのです。   18愛は、生活と歴史から取り除くことができず、実際の内容を動かしている実体です。そして、社会制度や、すべてのものを動かす内的力の母体です。ですから、教育をする時にも国を愛することを教えます。兄弟愛、父母愛、夫婦愛、世界的な博愛、すべてに愛が入っています。これは、何を意味しているのでしょうか。人類の生活圏や歴史過程を経ながら、愛を求めていかなければ、歴史を連結できる伝統の内容をつくり得ないというのです。   19真の愛の力は偉大です。どれほど堅くても溶かすのです。この拳よりも恐ろしいものです。どれほど遠く広くても、さっと瞬問的に占領します。壊れないものはないというのです。真の愛は、怨讐までも溶かします。それで、愛を中心とした世界の主人になろうとします。これが人間の最高の希望峰です。   20真の愛の心をたたくと、体は自動的に響くようになっていて、真の愛で完成した男性と女性になれば、神様が自動的に現れるようになります。その作用は、愛のほかにはありません。そのような作用を現すのが真の愛です。真の愛とは、いったい何なのでしょうか。真の愛は、縦横を連結し、上下、左右、前後を結ぶことができます。ですから、愛は、上では天を結ぶことができ、下では地を結ぶことができ、横では右側を結び、左側を結ぶことができるのです。したがって、前後、左右、上下を結べる力は、愛なのです。   21人間世界において、蜜蜂が食べる蜜のような味がするものとは何でしょうか。真の愛の味です。それは、堕落した世界に生きている男性と女性の愛ではありません。その愛に接すれば、すべてのものが統一されます。目も一ヵ所に統囲されます。すべての細胞が固くなって一カ所に集まり、一塊になって転がっていくというのです。愛は、そのような力をもっています。無数にある細胞が、一カ所に集まって丸くなるというのです。丸くなって愛の道に転がっていくのです。転がっていく時には、「私」というものがあるのかないのか分かりません。   22漢方の五味子の味は、万病に効く根源になります。五味子は、薬剤としてたくさん使われています。五味子の五種類の味が合わさって薬になります。愛は、薬の中の薬なので、苦い昧もあり、塩辛い味もあり、甘い味もあり、辛い味もあり、渋い味もあります。愛の味が五味子の味のようだというのです。それで、食べ物の中で最もおいしい食べ物が、五味子を入れて作った食べ物なのです。そのような食べ物は、薬になる食べ物であり、人類が望む食べ物であることは間違いありません。   23養蜂の季節になると、蜜を取り出す機械で蜜を取り出します。蜂が蜜を貯蔵する所は穴がぼこぼこと開いています。蜂が冬を過ごすために貯蔵しておいた蜜を、人間がすべて取り出して砂糖水を与えます。砂糖水を補ってあげて冬を過ごさせます。そのように砂糖水だけを飲んでいた蜂が、春になって蜜の味を味わうようになると、正気を保てないほど夢中になります。春に花が咲けば、蜂は花を飛び回りますが、花の中に入っている蜜を見れば、蜜を食べようとお尻を上に押し上げて、頭を下に突っ込んでいます。それをピンセットでつまんで引っ張っても出てきません。力いっぱい引っ張ってお尻が抜けるほどになっても、口を離しません。その蜜の味がどれほど強いのでしょうか。 蜜の味がそうであるなら、愛の味はどうでしょうか。愛の味と蜜の味のどちらがもっと良いですか。神様は、何の味を最も好まれるでしょうか。神様が匂いを嗅ぐなら、どのような匂いを最も好まれるでしょうか。聞くなら、何を聞くのを好まれ、感じるなら何を感じるのを好まれるでしょうか。神様が好まれるものは愛しかありません。神様の五官を集中させることができ、喜びを充満させることができるものがあるなら、それは愛しかないのです。   24愛の光は青いですか。赤いですか。愛の光は、どのような光でしょうか。五色の光です。味も、五味子と同じように五種類の味です。五色の光なので、どれほどきらびやかでしょうか。虹の光は七色になっていますが、これらがすべて混ざると考えてみてください。どのような色になりますか。七色の光を合わせると白光色になります。人間が最も好む色とは、どのような色ですか。神様が創造する時、最も好む色を先につくっておきますか、最も嫌いな色をつくっておきますか。最も好きな色です。早春に咲く花の色は、どのような色ですか。紫色です。紫色は赤い色も入っていて、桃色も入っていて、すべて入っています。ですから、高尚なものは、すべて紫の光です。霊界に行ってみると、最も良い光が紫色なのです。   25男性と女性が抱擁しキスする場面は、平面的な極から愛を求めていく衝突の光が出る場面です。そこに白い光が出れば、色を加えて五色燦然と輝く光をつくらなければなりません。その光が縦的な神様の愛によって混ざるとき、虹の光のような、理想的な燦然とした光明の世界に転換されます。人間の愛の光は、横的な光で、単純な光です。本然の人間は、混合した光、つまり男性と女性が愛で結合した、完全な光を願うのです。そのときに、縦的な愛が降りてくるのです。虹のように、天の愛がこの横的な愛に降りてきます。

真の愛は一つにするもの

 

26愛の感覚は、一方的ではなく総合的です。 細胞までも、そのような作用をします。「愛に酔う」という言葉があります。ですから、一度酔ってみなさいというのです。酔うようになると、天下に存在するすべてのものを呼べば、返事のないものがありません。流れていく水だけ見ても、千年の間、歌を歌うことができます。そこにおける、甘美なささやきは無窮無尽です。 このようなことを見るとき、人間の価値は、愛を通して宇宙と和親できる主人格です。これを成し遂げることが人間の行く道です。皆さんの心が神様の愛を占領する日には、千年、万年歌を歌い、踊りを踊ることができます。その時は、すべてを成し遂げた時なので、ほかに何も必要ではありません。世の中で、それよりも貴いものはありません。神様の愛を占領する日には、金銀財宝もすべて必要ないのです。   27真の愛は、すべてのものをいっぱいに満たします。神様の目に愛が入っていくと、神様が愛に酔うのです。家庭で父親が愛に酔っていると、母親も喜び、息子、娘も喜び、全体がすべて喜びます。ところが、父親がしかめっ面をしていると、母親も仕方なくしかめっ面になり、息子、娘もしかめっ面になります。また、母親が真の愛に酔っていると、父親もその真の愛に溶けてしまいます。息子、娘もその真の愛に溶けてしまいます。息子、娘が真の愛に酔っていると、母親も溶けて、父親も溶け出します。   28真の愛は万能です。うまくできないことがありません。自分が理想を描くと、理想を描いた相対が現れます。夫の器量が悪くても、愛するようになれば、不器量ではなく、ハンサムに見えるのです。愛の中では、不器量なものも、すべて隠れてしまいます。 私たちは、自分の顔を覚えていません。毎日のように鏡を通して自分の顔を見てはいますが、自分の顔を覚えていないのです。写真を見ながら、「あ、私はこんなふうに見えるのだなあ」と思うのであって、鏡を通して顔を見る時には、そのようなことは考えられません。 考え方によれば、不器量な人の中で最も不器量な人のようでもあり、ハンサムな人の中で最もハンサムな人のようでもあります。また、長細いと思っていたのに、丸くも見えます。愛の目で見るようになるときは、自分のようにハンサムな人はいません。目のすぐ近くに何かを持ってきたとき、それが見えますか。適当に離れていて焦点を合わせて見てこそ、はっきりと見えるのです。ですから、あまりに近いと、感知することができないのです。   29愛は偉大な力をもっています。作男暮らしをする作男だとしても、主人の娘と愛の関係を結ぶようになるときは、作男にすべてあげなければなりません。愛は、極めて低い立場から、極めて高い立場に飛躍できるのです。どれほど強い塀や壁でも撃破することができます。どれほど混乱した世の中でも、袖様の愛を体験して感じる人は、飛躍することができます。 アメリカの大統領が、田舎に住む素朴で、無学で、もっているものもなく、不足なことの多い結婚前の女性と愛の関係を結ぶようになれば、その女性は、その日から大統領と同じ立場に同参できる権威を賦与されます。 このように、どれほど低い立場にいたとしても、高い立場に瞬間的に跳躍できるのです。今日、人間がどれほど悲惨であったとしても、神様を中心として、「あなたが父で、私が息子であることに間違いない」という愛の関係を結べば、家の居間を自由に出入りできる特権が賦与されるのです。愛だけがそれを可能にします。   30愛する人に会えば、永遠に花を咲かせたいと思います。爆発したいのです。愛の相対同士が和合するようになれば、爆発を起こします。また、愛は、光明な力ですべてのものを占領します。その力を凌駕できるものはありません。愛には、そのような爆発作用があるのです。存在という存在は、すべて愛の話さえすれば口を開けるのです。すべての細胞が門を開きます。   31愛する人を捕まえますか、博士の学位のある人を捕まえますか。なぜ真の愛を好むのですか。どれほどお金が多くても、私たちの体と心を一つにする力はありません。知識がどれほどあっても、体と心、五官全体を一つの焦点に集めることはできません。目と鼻と耳、すべてのものを一つの焦点に集めることはできません。権力も、そのようにすることはできません。 しかし、愛は、そのようにすることができます。ですから、愛から最高の喜びを感じることができるのです。愛によって霊肉の五感の焦点が合います。私たちには、霊的五感と肉的五感がありますが、この二つの焦点を一つにして爆発的な喜びを享受できるのです。強力な刺激を感じることができます。このすべてのことを否定して、細胞がすべて一つになることができます。真の愛の力は、霊肉の細胞を一つにできるのです。他のものは、そのようなことができません。真の愛が最高峰なのです。   32愛とは、男性と女性を一つにする力です。お互いが完全に愛するということは、彼が私の中にいて、私が彼の中にいることです。あたかも、パウロが霊的な体験をしたあとに、自分が体の中にいるのか、体の外にいるのか分からないと言つたのと同じです。主体と対象を何で結びますか。一人の男性と一人の女性が、ただ適当に会って生活するのは、愛ではありません。 愛によって方向が合い、体質と素質が合うのです。一つはブラスであり、一つはマイナスとして完全な相対的関係になり、「私はあなたが死ぬほど必要であって、あなたは私が死ぬほど必要だ」と言うことができるのが愛です。このように、完全に結ばれて一つになるときには、二つの人格が合わさって一つの人格をもつので、二人以上の価値を現すことができるようになります。そうすれば、より高い次元の世界を建設できる主人になるのです。   33体と心が一つになるのは、お金でもできず、知識でもできません。「三つ子の魂百まで」という言葉がありますが、正しい言葉です。習慣性、凝り固まった堕落性を脱ぐことはどれほど難しいか分かりません。歴史性をもち、世界性をもっています。歴史を踏み越えてしまうことができ、世界を飛び越えることができる自覚のある人でなければ、それを征服することはできません。 男性と女性は、生理的に異なり、構成の要素と本質が違いますが、愛では一つになるのです。   34真の愛で和合した体と心の細胞は、共鳴できるようになっています。真の愛でなければ共鳴することができません。共鳴体の音叉は、一方を打てば、同じ振動数でもう一方も響きます。一緒に響こうとすれば、振動数が同じでなければなりません。同じように、私たちの本性の心と、本性の体が、成熟した立場で神様の真の愛の心と完全に和合できる環境的条件が合えば、自動的に動くのです。力が作用するというのです。   35真の愛の共鳴圏に入っていけば、天地がはっきり見えます。お釈迦様が「天上天下唯我独尊」と言ったのはどういうことでしょうか。その共鳴圏の核心に入っていってみれば、天下がすべて私の手の中に入っていて、神様が私の中にいらっしゃり、天理が私と連結されているので、そのような言葉を言うことができたのです。真の愛の共鳴圏に入っていけば、信仰は必要ありません。救世主は必要ありません。解放なのです。   36体と心は、いつ一つになるのでしょうか。縦横が一つになっていれば、天地の大法(法度)によって永遠に体と心が一つになっていたでしょう。私が求める価値の定着点は、愛するときに生じます。男性が男性として生まれた、その価値を決定し、定着できる立場に立つのは、結婚することによって可能です。ですから、結婚しなければ、人に属することもできないのです。愛を知るようになるとき、男性としての完成品となり、女性としての完成品になるのです。愛を中心として完成するのです。   37人が求めるものの中で、最も貴いものが愛です。人間は、貴いもの、貴い人、貴い愛を求めて生きていきます。神様は、始まりも終わりもない愛の中心であり、天地の主管は、一日ではなく、永遠にするのです。貴い万物の中心は人間であり、貴い愛の中心は神様です。神様は、人を求めるために物質を犠牲にし、愛を求めるために人間を犠牲にしてきました。愛は二人が一つになることです!神様は、そのような愛を人間に与えようとされるのです。愛で結んだ縁のない場所ではばらばらになりますが、愛を中心とすれば集まってくるのです。   38すべてのものを和合させることができるものは愛です。昔の士大夫(家柄の高い官吏)の家は、両班(特権的な身分階層)の権勢がどれほど強く、権威意識がどれほど強かったでしょうか。その伝統的、道義的な生活法度は、どれほど複雑ですか。その環境では、足も思いのままに伸ばすことができないのです。しかし、たとえそのような家に女性がお嫁に行くようになっても、自分の母親、父親を放っておいて、自分の兄弟をすべて捨てて、新郎のところに行こうとするのです。調和の能力を発揮できる原動力が愛の力だというのです。   39愛という言葉自体は、一人では成立しません。これは、必ず相対的関係を結成することが必要です。二人が一つになるのです。一人が上になればもう一人は下になり、一人が東になればもう一人は西になり、一人が南になればもう一人は北になり、一人が前になればもう一人は後ろになります。どんな場所、どんな環境でも、自然に合わせることができる能動性をもっているのが愛なのです。

真の愛は調和と平等の母体

 

40真の愛を所有するようになると、すべての悲しみと苦痛も、その真の愛の中では喜びに昇華されます。言い換えれば、この宇宙の個人的な権力をもって、知識をもって、金力をもって主張する以上の、絶対的な権限として残したいのが、人間の本性の欲求である真の愛なのです。 真の愛は、どこから来たのでしょうか。言うまでもなく、宇宙の根本であられる神様の真の愛から来ました。神様もそのような愛を願っているので、そこに由来しているのです。結婚しようとする男性と女性に聞いてみれば、新婦は、「彼が自分よりも立派であってほしい」と言い、新郎も「新婦が私よりも立派であってほしい」と考えるというのです。また、父母は、誰でも自分の子女たちが自分よりもっと立派になってほしいと願っています。そのような心は、すべて神様から来たのです。これは、真の愛を中心として語る言葉です。   41花の色に、あらゆるまだら模様の色があるのと同じように、愛も根は一つですが、それが現れるときに、相対する作用は、千態万象の作用をします。これが愛です。悲しい人に対すれば、その人の心は悲しくなり、喜ぶ人に対すれば、その人の心はうれしくなるのです。相対に合わせて現れるのが愛なのです。愛する妻の表情というものは、夫の背後の暗い背景も、すべて消化することができます。   42神様は、真の愛の呼吸をします。神様も宇宙に拍子を合わせるので、真の愛を中心として宇宙が永遠に続くのです。愛には永生があります。すべて、神様を中心とした一方向です。真の愛は、永遠、絶対、不変の愛です。一度始まれば、永遠に続きます。それが進む時には、波の形や円形になります。波の形で行くものは横的に連結され、円形は縦的に連結されます。上がっていく時にはだんだん大きくなり、下がっていく時には小さくなります。天の側は大きく、地の側は小さくなるのです。神様の真の愛は、永遠なものなのです。   43人間の中で円満な人とは、どのような人でしょうか。女性と毎日のようにけんかする人が円満な人ですか。円満な人は、東側に向かっても、西側に向かってもぶつかりません。頂上を押せば、へこんで他の所が出てくるとしても、自分自体は変わりません。宇宙は丸い形をしています。太陽も丸い形です。すべてのものが丸いのです。 丸いものは、何を中心としているのでしょうか。自分一人では丸くなることはできません。相対的関係があってこそ丸くなることができます。このような関係的実体、関係的領域を集約させる一つの存在物として登場する世界は、円形圏を基盤とするようになっています。ここで、この円形をつくる母体が、調和の母体が、愛の作用なのです。   44人は、愛に酔って生きなければなりません。愛に酔って生きる人が幸福な人です。芸術家は、芸術に酔って生きます。文学をする人は、自分が構想する本を書くとか、ある名作に酔って生きます。そのような人は、幸福な人です。ですから、人間の四肢五体は、立体的な神様の理想的な愛に酔って生きなければならず、その方だけについていかなければなりません。   45愛は、個人の心にも通じ、家庭の真ん中でも通じ、民族の真ん中でも通じ、どこでも主流として進むのです。流れていっても、すべてが歓迎です。それを塞ぐ道はありません。すべて、愛の力に従って関係が結ばれるように造られたのです。ですから、愛の綱に従って宇宙と呼吸して生きた人は、神様の宮殿に行って、思いどおりに門を開いて入っていくことができます。そこにも、神様に侍る至聖所がありますが、その至聖所に行って「神様!」と言えば、神様が「おお、お前が来たのだな!」と言うのです。   46平等という言葉は、愛を取ってしまえば、取るに足らないものです。愛を中心として平等なのです。愛を中心としない平等はありません。それでは、幸福とは何でしょうか。幸福は、愛の端にある一つの実です。幸福は、愛の後ろ側だ、愛の前側だ、愛の頂上だ、愛の足場だという言葉は、すべて正しい言葉です。愛は一つであり、丸いので、すべて正しいというのです。愛なくして幸福がありますか。女性がどれほど美人でも、等しい愛の内容をもった男性がいてこそ、調和があるのです。   47真の愛を中心とする圏内では、どのような差別もありません。水や空気と同じです。愛の力は、水や空気と同じように、いつでも水平をつくるのです。水もいつも水平をつくり、空気も、高気圧が低気圧に流れていって、いつでも水平をつくるというのです。愛も同じです。愛は、すべてのものを平準化します。真の父母を中心として一つの文化、アダム文化世界が出発します。個人から始まって、永遠に霊界まで連結されます。   48愛をもてば、男性と女性は対等になり、愛をもてば、いくら息子が大統領だとしても、その息子と母親は対等になるのです。愛をもったところでは、すべて平等になる内容があります。夫は、外でいくら歩き回っても、家に帰るときには、「私は愛する妻の家に帰る。愛する妻の懐に帰る」と思い、妻は、「愛する夫よ、私の懐に帰ってきてください」と思わなければなりません。それが平和であり、平等です。ここで夫と妻が一つになるのです。夫は、妻の懐に帰ることを願い、妻は、夫が懐に帰ってきて一つになることを願うのです。そこには、低いものもなく、高いものもなく一つです。   49私たち人間は平等だと言うとき、それはどのような平等のことを意味するのでしょうか。本性による愛を受けるときに、本性的に平等圏をもっているということです。何の平等かといえば、愛を中心としての平等です。愛を中心として、最高の平等圏が決定されます。人に最も重要なものが愛です。神様に最も重要なものが愛なので、愛の平等さえできれば終わりです。それで、すべて成し遂げることができるのです。   50宇宙と授受しようとすれば、愛をもたなければなりません。愛でなければ永遠に授受することはできません。「愛は温和で謙遜だ」と言ったのも、永遠に、完全に運動するためなのです。抵抗なく運動するための一つの方法です。温和で、謙遜で、犠牲になれば、どこでも通じます。どこでも抵抗なく行くのです。これは、犠牲ではありません。抵抗なく作用するための一つの秘法は、ために生きて、犠牲になり、奉仕することなのです。   51愛は国境を超越します。神様の真の愛には、国境がありません。五色人種(あらゆる人種)を超越するのです。黒人、白人、黄色人種を差別しません。愛は偉大なのです。愛の流れにおいて環境を意に介さず流れていけば、環境がかえって同化されるのであり、反発するのではありません。そのようにできる思想的な内容を備えてこそ、神様が喜ばれるのです。

真の愛は平和と幸福の源泉

 

52神様の愛の圏を通るようになれば、春の日の香りが漂う花から、香りという香りをすべて嗅いで酔いしれた気分と同じようになります。また、春の季節の芝生に座っているとき、綿のようなもくもくした雲から、形容することができないほどの何かを感じる気分と同じようになるのです。そこでは細胞が踊ります。ですから、神様の愛は、生命力をもったあらゆる存在の力の源泉であり、幸福の源泉です。喜楽や平和、人生が願うものの絶対的な要件であり、信仰の絶対的な要素になります。   53男性と女性は愛を中心として、絶対的に一つにならなければなりません。一つになれば、どのようになるのでしょうか。争うのではありません。愛の調和を形成しなければなりません。そうすれば、そこに幸福が宿り、平和が花咲き、永遠の天国が広がるのです。そこから永遠の世界が訪れてくるようになっています。 愛を花咲かせなければなりません。愛は万国の幸福の拠点です。ですから、真の愛の世界を編成するようになるときには、万事が保障されるのです。   54人類始祖の初愛の結合は、神様御自身の愛の完成でもあるので、当然、神様もアダムとエバも宇宙万象も、歓喜と祝福の中に酔う、幸福な祝宴の連続でなければなりません。神様の愛と生命と血統が、人間の中でその始原となるものを形成しながら定着する、幸福な儀式でなければなりません。   55愛の主体が満ちれば、すべてのものが満ちるのです。愛がいっぱいに満ちてこそ、すべてのものが満ちるので、無限に与えることができ、真実に与えることができるのです。そこで授受することは、理想の実現であり、理想の繁殖です。愛の世界は、距離を超越します。愛がどれほど速いかといえば、光もついていくことができません。一番速いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満ちるのも愛です。居眠りしていた女性も、本当に愛する相対が現れると、花が咲いたようになります。愛だけがそのようにすることができます。その愛は、どのような愛でしょうか。宇宙の主人になる愛、宇宙の中心になる愛、宇宙の源泉になる愛である、真の愛です。   56一時的な目的を中心とした統一は、誰も願いません。統一されたとしても、永遠であることを願うのです。それでは、永遠を中心として一つになる、その要素とは何でしょうか。愛だというのです。愛は、統一するにおいての基盤です。それは、永遠に追求していくことができる幸福の基台になるのです。愛がなければ幸福はありません。愛がなければ平和はありません。愛がなければすべてのものが衝突しますが、愛が充満するようになるときには、すべてのものが和合するようになるのです。   57愛とは、神様が願う標準を前提として語る言葉です。心と心の境界線を打破し、一つに結束させる麹のようなもの、つまり原因であり、動機であり、母体となるのが愛なのです。この愛は、小さいなら極めて小さいものであり、大きいなら極めて大きいものです。愛する人同士は、目を一度まばたきしただけでも、天地がひっくり返るように感じられ、また愛する人が一度にっこりと笑う表情をしただけでも、天地が出たり入ったりするのを感じるようになります。鋭敏ならそれほど鋭敏であり、小さいならそれほど小さく、大きいならそれほど大きく、見えるなら見え、見えないなら見えないのです。その境界線を壊すことができるものは愛しかありません。   58数多くの境界線がありますが、この境界線をすべて打破できる、一つの中心ポイントとは何でしょうか。世の中では、お金のために境界線を打破します。知識のために境界線を打破されることもあり、また権力のために境界線を打破されることもあります。それを打破されたとしても、打破されたその国にもまた境界線が必要になります。ですから、知識も制限されたものであり、お金も権力も制限されたものです。この上下、前後、左右、過去から未来まで、東洋と西洋を中心として人類全体の境界線を克服できる一つのポイントが、真の愛です。これが真の愛の力です。これさえあれば、父親と母親の頭の上に踏んで上がってもよいというのです。愛を中心としては通じないところがありません。これは、この世界にも通じることができます。真の愛は、世界までも管理して、主管できるのです。   59真の愛というものは、常に秩序を守って余りあるものです。それができる絶対的なものです。息子が父親と母親の立場を侵犯することはできず、息子と嫁の立場を父母が侵犯することはできません。それは絶対的です。お互いが完全な秩序を維持できる立場で、愛が起こらなければなりません。愛は無秩序なものではありません。真の愛には、必ず前後関係、上下関係、左右関係がすべてあるのです。それは境界線ではなく秩序だというのです。   60愛の目で世の中を見るようになれば、飛んでいく鳥を見ても、「ああ、あの鳥はなぜピーチク、バーチク鳴くのだろうか。ああ、愛する相対を慕っているのだなあ」と思うようになります。そこから詩が詠まれ、文学作品が出てきます。そこでは人生や生活の歴史的事情が反復し、再現するというのです。普通の人は、流れていく水が、ただ地形に従って曲がりくねって流れ、岩があればぶつかって水しぶきを出しながら流れていくとだけ見ています。しかし、それが愛を中心として流れていくことを知れば、千年を経ても残る詩が詠まれ、小説が作られるのです。ですから、愛の息吹も、愛の手も、愛の歌声も、愛の言葉もすべて良いのです。   61愛を通して人間世界に幸福が始まります。人間自身が成し遂げようとする完成や理想実現は、愛の基準を離れてはあり得ません。宇宙万物は、愛を基礎として生きていきます。万物は、神様の愛を中心として始まりました。被造世界の中心である人間は、より一層愛を中心として出発したというのです。愛から出発し、愛によって成熟した基準を通し、愛を通して社会生活をし、愛を完成して霊界に帰っていくようになっているのです。   62世の中のすべてのものは、一度与えれば、なくなってしまいます。しかし、愛は、与えれば与えるほど、さらにたくさん帰ってきます。ですから、愛を好むのです。愛には、いつも与えることができ、満たすことができるので、いつもうれしく、楽しむことができる内容があります。お金がどれほど良いといっても、与えてしまえばなくなり、権力がどれほど良いといっても、使えぱ擦り減るのです。知識も限界線があります。しかし、愛は与えれば与えるほど、無限に通ずるようになるのです。   63永生は、何から始まるのでしょうか。神様の愛です。その愛は、神様のお金でも権力でも知識でもありません。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われたイエス様のみ言には、一つ抜けています。それが最も重要な「愛」です。「私は連であり、真理であり、命であり、愛である」としなければならないのに、「愛」が抜けました。これを、これから聖書に載せなければなりません。このようなことを言えば、無知な人々は、「なんと不敬な者か」と考えるでしょう。しかし、神様に尋ねてみると、「そのとおりだ」と言われるでしょう。このように見るとき、神様は、愛を好まれるのです。愛の中でも、真の愛を好まれます。これは理論的です。盲目的ではありません。

 

 

 

第二章 第一節 祖父母の愛

天聖経:第三篇 真の愛  第二章 真の愛の類型

第一節 祖父母の愛

 

1韓国の家庭制度は原理的です。血統もそうであり、歴史もそのようになっています。祖父と祖母、母親と父親、その次に自分、三代が一つの家庭で生活しています。神様が自分の孫を愛してみることができず、アダムが自分の息子、娘を愛することができなかったのが堕落です。

 

アメリカの家庭では、自分の息子、娘の家に行くのも自由にできません。孫や孫娘にも思いどおりに会うことができず、自分の息子、娘の家に、まず電話をしなければ行くことができません。世の中に、そのような道理がどこにありますか。それを見ると、どれほど悲惨でしょうか。

 

父母よりも孫を愛するのが祖父母です。神様も、孫を愛することができませんでした。祖父は天国の大使と同じです。

 

神様の代身者だというのです。祖父は、神様の代身者であり、母親と父親は、世界の王を代表した方であり、「私」は、未来の天の国の世界の王なのです。これが統一教会でいう三大王権です。

 

 

孫に対する祖父母の愛

 

2家庭を中心として見るとき、その家庭を良い家庭にしようとすれば、父母と息子と孫が心情一体を成さなければなりません。その家の中でどのような複雑な問題が発生したとしても、父母が息子を愛する心、あるいは祖父が孫を愛する心は、変わることがあってはいけません。皆さんの心に、このような絶対的な基準を立てて、断片的な個体の生活観、あるいはそのような環境を抜け出て、四方性をもたなければなりません。

 

 

 

3祖母と祖父は、孫を中心として情を結ばなければなりません。それでこそ、愛の垂直線が始まるのです。また、孫は祖母、祖父と一つになるべきです。祖父と祖母は、神様と同じ立場にいるので、神様のように侍らなければなりません。そうでなければ、縦的な愛の軸を探すことができません。これを立てたのちに、横的なものが生じるのです。横的なものは四方に連結されますが、縦的なものはただ一つの方向です。横的なものは東西南北、三六〇度に動くことができます。縦的なものは一つの点では動くことができますが、分離することはできません。

 

 

 

4祖父と祖母を愛し、父と母を愛し、息子、娘を愛する心には差がありません。同じ愛です。祖父と祖母の部屋に孫が入っていっても、祖父は喜ぶようになっていて、父母が入っていっても喜ぶようになっています。このような原則において、祖父と祖母は、孫をもっと愛するというのです。ですから、孫が育つ時、母親や父親よりも祖父と祖母が育ててくれることを願います。道理、原則、公式がそうだというのです。家庭は、このように、四位基台の理想を中心とする球形を備えた平均的愛が一体化した世界なのです。統一された世界が理想的家庭にあるのです。

 

 

 

5神様は、真の愛の前であれば、ひざまずいて、這って歩くこともできるのです。愛する孫のためならば、祖父は、喜んで孫を乗せる馬にもなります。髪の毛をつかんで頭の上に上がっても、「そうか、乗りなさい、乗りなさい」と言つのです。

 

「天地」が「地天」になり、「父母」が「母父」になり、「父子」が「子父」になってもよいというのです。愛は、そのように上から下に行っても、下から上に行っても、すべて和合できるのです。ですから、真の愛をもてば、天国の何であろうと手に入れることができるというのです。

 

 

 

6神様は、恐ろしい方ではありません。神様は、最も近いのです。神様に会えば、神様の背中に乗って、神様の髪の毛をつかんでも神様は喜びます。孫たちが祖父の髪の毛をつかんで背中に乗っても、愛する孫なので喜ぶのと同じです。神様は、私たちの父母ではないですか。分かってみると、神様は、恐ろしい方ではないのです。世の中で最も近い方が神様です。父母よりもっと近く、夫よりもっと近く、息子よりもっと近い方が神様です。そのような神様を知り、最も近く、最も尊く、「私」と共に永遠に一緒に生きる方であることを知るようになるときに、万事がすべて都合良く運ぶのです。

 

 

 

7祖父は、孫に会う時問が最もうれしいのです。ですから、健忘症が生じるのは、幼子と友人になるためなのです。愛の心、美しいものを愛する心を大きくするためです。ほかの考えはすべて忘れて、愛の心を、孫を愛する心を育てていくのです。それは、あの世に拍子を合わせるためのものであり、神様の創造過程なので悪いことではありません。健忘症が生じて、すべて忘れるのです。しかし、愛する人だけはもっと愛し、もっと会いたいと思うのです。そうして、あの世に行って高い立場に上がっていくのです。それが神様の愛です。

 

 

老年に訪れる健忘症

 

8老人ぼけした母親と父親を無視してはいけません。老人ぽけした母親と父親は、天上世界に行って、地上での生活のあらゆる不品行を忘れ、本心から湧き出してくる関係を整えて、後代に自分の息子、娘が来る時に備え、きちんと橋を架けて道を固めるために、父母の行く道を準備しているのです。ですから、ぞんざいに扱ってはいけないというのです。父母は、神様を身代わりした存在です。私たちの最初の先祖が神様です。生きている時に四代祖まで、高祖父、曽狙父、祖父、父を、神様のように侍らなければなりません。これらの方々を自分の夫以上、自分の妻以上、息子、娘以上に侍る家は、千年、万年続くというのです。

 

 

 

9人間は、愛から生まれ、愛の実体になり、愛で始まって愛で終わらなければなりません。また、愛する人に出会って、愛する息子、娘を生み、その愛する息子、娘を愛しながら生き、再び幼子のようになって帰っていくのです。老人ぼけは、悪いことではありません。それを悪いことと考えてはいけません。そうなることによって、子女たちが以前に父母に世話になったことを、限りなく恩返しできるのです。

 

 

 

10祖父と祖母の願いは、息子、娘よりも、孫と孫娘をもっと愛することなのです。息子、娘を育てる時は、忙しくて愛する暇がありませんでした。祖父と祖母になれば、そうではありません。霊界に行く準備をするのです。幼子と友人になるために、健忘症が生じて、すべて忘れてしまいます。純粋な子女に帰っていくのです。純粋な子女になって母親、父親を忘れ、兄弟を忘れてしまいます。

 

 

 

11年を取ると、子女の友人にならなければなりません。孫が友人です。純真で欲望のない人になって、天国に帰っていかなければなりません。子女たちは、いろいろなことを知っていきながら大きくなりますが、祖父と祖母は、だんだんと記憶を失っていきます。零から出てきたので、零に帰っていきます。それは、本然に帰っていくのです。人格や誇りや欲望などというものがない立場で出発したので、その立場に帰っていってこそ天に連結されます。孫がいるその一族では、父母が子女を育ててくれたのと同じように、家庭と国が代わりに祖父と祖母に侍って、天に帰らせてあげなければなりません。

 

 

 

12健忘症は、なぜ生じるのでしょうか。見える時代から見えない時代に移っていく境界線を越えるための準備をしなければならないので、年を取れば健忘症というものが生じます。単純になるのです。子女は、平面的な愛の正午に出会うために生まれるのですが、年を取った「子女」は、立体的な神様に会うために新しく生まれます。それは平面的な世の中から立体的な世の中に行くという意味です。自分が死ぬと、立体的な希望をもつために再び生まれるのです。女性と男性が一つになって、立体的な世の中に向かっていくのです。それで霊界に入っていきます。二性性相になって、神様の立体的な二性性相の主体を中心として、愛の正午に向かって前進するのです。新しい思春期に向かって出発します。

 

 

 

13愛を中心とするようになれば、霊界と肉界の間隔が打破されるので、死亡の恐怖心から抜け出ます。死ぬことは、恐ろしいことではありません。どこに行くか知っているというのです。ですから、大概、健忘症が生じる年を取った人々は、あの世に対する関心がだんだん広くなっていきます。既に知っているというのです。「ああ、私はいつか行かなければならないのだなあ。整備期間なのだなあ」と理解するというのです。世の中のすべてのことを忘れて、きれいに整備してから行きなさいというのです。ですから、健忘症が生じたといって、いい加減に扱ってはいけないというのです。人生のすべての過去、先祖からの罪悪のすべてのことを清算できる自らの清算期間をおいて、自分の行く道を正すためのものとして、健忘症が生じるようになるのです。

 

 

 

14人が六十を超え、七十になっていくと、精神世界が発達します。霊界に行くための準備をするためです。ですから、肉体のすべてのものを忘れて健忘症が生じるのです。それで、自分の体の中に潜在している以前に楽しんだ精神的意識は、愛することと食べることです。ですから、祖母と祖父は、ひたすら食べるものを探し、人が恋しければ泣くのです。それが人間の本能です。生命は、食べることで維持されます。生命と愛は貴いので、その表示として、愛の対象者と食べるものを恋しく思うのです。これは、創造原則による本能的な欲求なので、不可避なものです。

 

 

第二章 第二節 父母の愛

天聖経:第三篇 真の愛  第二章 真の愛の類型

第二節               父母の愛

 

1  子女は、父母の愛の実現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また父母の理想の具現体です。子女を生んで愛したことのある人たちは分かるでしょう。それで、愛する息子に対して、「これは、私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体だ。第二の私だ」と言うのです。子女は、愛と生命と理想的基盤から生まれるので、父母はその子女を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的相対として登場するのです。

 変わることのない父母の愛

 

2  伝統的で、縦的で、標本的な愛が、母親と父親の愛です。これは縦的です。縦は変わることがありません。夫婦の愛は、この縦的愛を横的に引き継ぐための愛なので、夫婦は離婚することはできても、父子の関係は切ることができません。天地の道理が、そうなのです。縦的な愛なので、そうだというのです。横は四方があるので、三六〇度回っていくことができますが、縦は一点しかありません。これは、移すことができないというのです。

 

3  愛の中で、最も貴い愛が父母の愛です。真の愛は、直短距離を通るからです。父母の愛は、真の愛を中心とした縦的な愛です。縦的な愛は、とどまる所が一つしかなく、分けることができません。その位置を変えたときには、天地がひっくり返ります。どれほど能力があって、どれほど良い手段でも、垂直に訪ねてくる愛を移せば、天地が暗黒天地、地獄になるのです。これは、直短距離を通るので、垂直にならざるを得ません。これに傷をつけることはできず、これを横に移すこともできません。ただ一つしかありません。絶対的です。父子関係は、縦的関係であり垂直的な愛の関係なので、分けることができないのです。

 

4  父母は、唯一であり、その次に、不変で永遠です。父母が変わることはありません。ですから、父母の愛も革命することができません。どれほど革命が起きるといっても、愛を革命することはできないので、愛は永遠に存続します。そのような父母、そのような愛の主体である父母が、「私」を絶対的に必要とするのです。唯一的に必要とし、不変的に必要とし、永遠に必要とするのです。

 

5  母親と父親は、息子、娘のために犠牲にしたこと、夜通し働いて食べさせ、学校に送って勉強させたことを、帳簿につけたりしません。「いくら使ったので、これが十年過ぎれば、銀行の利子ならいくらになる」と計算して取り立てようとはしないというのです。投入して計算するのではなく、すべて忘れてしまうのです。ですから、父母が良いというのです。最も良いのが父母の愛です。

 

父母がいない人を孤児と言いますが、孤児は悲惨なのです。根をもつことができずにいるので、方向ももつことができないのです。

 

ですから、犠牲になるところにおいてのみ、真の愛を探すことができる、というのが宇宙創造の原則です。

 

6  父母が子女を育てる時、赤ん坊の時から「お前がやがて大きくなって分別がつくようになれば、私がお前を育ててあげたことを覚えておかなければならない」と教育する父母がいたなら、その父母は正常な父母ではありません。そのようなことをするくらいなら、牛を育てて仕事をさせるほうがよいのです。自分の子女に、「私がこのように愛してあげたので、お前はそれ以上に私にしてくれ」と言う父母はいません。愛する人のためには、犠牲になるのです。与えて、もっと与えても、不足ではないかと感じ、与えても、もっと与えたい心があるのです。価値の究極を永続的に刺激することができ、未来の希望を続けて補充してあげることができる道が愛の道です。

 

7 堕落した世の中でも、母親の愛は、子女のために投入して忘れ、また投入して忘れ、奉仕し、犠牲になって子女が良くなることを願いますが、その子女が良くならず、老いて死ぬほど苦労しなければならないのであれば、老いて死ぬまでもっと投入し、投入することを続けるのです。それが母親の愛です。堕落した世界でもそうです。

 

そのようにして逝った父母であることを知るようになれば、お墓に行って、「この親不孝の子女を赦してください」と痛哭し、今からでも何倍も親孝行をしようと、一八〇度変わって孝子の道を行こうとするのです。手段と方法を通した道ではありません。これは、本当に血と肉を絞り出す愛の道においてのみ可能です。

 

8 子女に対する父母の愛は、ただそのまま生活的な関係だけで通じる愛ではなく、骨髄から湧き出てくる愛なのです。忘れるに忘れられず、切るに切れない愛の心を父母はもっているのです。それで、生命の余力がある限り、父母は子女を愛するのです。子女と生命の関係が結ばれていることを感じる時、父母には子女を愛する心が自然に湧き出るのです。「私の息子なので愛する」という意識的な心が先に立って愛するのではなく、その心よりも先立つ自分の生命力が、子女と連結されているので、愛さずにはいられないというのです。

 

9      真の愛とは何でしょうか。ために生きる愛ですが、いくらでも与え、千年与えても忘れようとします。千年与えても忘れてしまうのです。記憶しません。愛の世界では、入力よりも出力が大きいのです。父母は、七十歳になった息子だとしても、その息子がどこかに出ていくとき、「きょうは車に注意しなさい」と言うことができます。九十歳の老年になるまで毎日のように繰り返したとしても、疲れることを知りません。それは、永遠に続けても疲れないのです。それが愛です。

 

堕落した世界の父母の愛もそうなのに、本然の本質世界である神様の愛に属しているとすれば、疲れることがあるでしょうか。ここで初めて、私たちの人生において、真の神様の対象圏を確定することができます。神様の愛が永遠不変であることを知るようになるとき、私たち人間の愛を中心として永生の論理が妥当なものになるのです。愛を中心として見るので永生するのです。

 

10    父母が子女を愛するとき、「父母はこうでなければならない」というある固着した形式をもち、自分を主張する場において子女を愛するのではありません。自分を主張せずに自分を否定するのです。すなわち、自分がない立場から子女を愛するのです。言い換えれば、父母は、父母の権限をもって、いつも堂々とした立場で子女を愛するのではなく、父母の権限を忘れた立場、それ以上の立場で子女を愛するのです。そのような愛をもって子女の前に臨むのが父母なのです。

 

11    父母と子女の関係において、子女は母親の乳房を求めていきますが、愛を除いてそのようにすることができますか。できません。父母の愛を子女に感じさせ、子女を抱くことによって、自分の幸福よりも、天地がすべて平和の境地に入っていくことを感じ、全体の雰囲気に良いものが芽生えることを感じるようになるときには、その子女が自分の胸に入ってきたとしても、それを許し、「さあ、そのようにしなさい」と言える、大きな度量のある心が生じるのです。ですから、父母は子女を無限に愛することができるのです。

父母の愛は真の愛の典型

 

12    父母は、子女を無限に愛することができます。ある意味では、子女は父母の怨讐です。ホースを持ってきて、自分の血と肉を吸い取る怨讐なのです。しかし、母親としての新しい希望の刺激、夫に対する新しい刺激がその子を通して感じられるのです。そのような境地では通じる何かがあります。その境地は、他の誰かが意のままにすることができません。絶対的な愛に結び付けられるのです。絶対的な愛を中心として、自分のためではなく、神様のため、全体のための愛を中心として誓うその場には、何よりも強い基準が立てられるようになるのです。そのような基準の上に立たずに、ただ言葉だけで、または見て、聞いて、約束することだけでは駄目です。それは、いつ変わるか分からないのです。

 

13    父母は、子女を切ってしまうことができません。愛の共同体であり、愛の実だからです。すべてのものは、実を結びます。すべてのものは、結実を求めていくのです。結実を否定することはあり得ません。すべての木も、実を否定するものはありません。それは永遠を持統させるのです。この実は、母親と父親の愛の要素を、すべて引っ張ってくるのです。すべて動員させます。

 

ですから、それを見ればうれしいのです。「私」の中に永遠の「私」がいて、歴史があり、発展する「私」がいます。現在と未来の愛が連結するのです。父母が子女を愛するのを罰する法はありません。罰することはできないのです。宇宙が保護するようになっています。父母が愛する子女を抱いて喜ぶその場は、この宇宙の法が攻撃することはできず、保護するようになっています。

 

14 子女がおなかをすかせてやって来ると、母親の胸が膨れ上がります。胸が膨れて痛くなると、ばんばんに膨れます。おなかをすかせた赤ちゃんを抱いてお乳を飲ませる母親の気分は、言葉で表現することが難しいのです。膨れ上がっていた胸が縮んでくると、母親はすっきりして気分が良くなります。お乳を飲ませる味は、赤ちゃんと母親でなければ分かりません。また、赤ちゃんがお乳を吸って触るのを見るとき、母親の愛がそこからあふれ出ます。ですから、すべての喜怒哀楽の双曲線がぶつかる母親の心は、体験しなければ分からないというのです。

 

15    本然の愛は、父母が子女のために命を捧げることができる、そのような愛です。自分の生命を超えて愛するのです。本来、この宇宙が創造されたのは、生命のためではありません。愛のために造られたので、愛が先なのです。ですから、愛に一致する生命であって、生命に愛が一致するのではありません。したがって、真の愛は、命を犠牲にして命を超えて愛する愛です。それが天の愛であり、宇宙と通じる愛です。自分の子女のために命を捧げられる父母であれば、その父母は、この宇宙に二人といない真の父母だというのです。

 

16    子女をたくさん育てた父母は、愛の心情が広く、大きく、深いことを知ることができます。子女をたくさん育てた人は、悪の怨讐も打つことができないというのです。それほど広い土台に立っていて、広い法度をもって生きているからです。

 

17 赤ん坊が生まれると、母の愛の電波に沿って自動的に乳首を探しに行きます。器量が良くても悪くても関係なく、母であればいいのです。これこそ創造の妙味であり、神聖な姿なのです。人は、愛で生まれ、愛を受けながら成長します。このような立場で見るとき、「私」というものは、父母の愛の実です。父母の愛とはどのようなものかということを、実際の実として見せたのが私なのです。愛の実であるがゆえに、父母は私を愛さなければなりません。その実を通して、無限の愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、国家的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛まで連結できる道が、ここにあるというのです。

 

18    父母と子女の間の愛は、父母から来ます。私たちは、生まれた時から父母の愛を受けます。父母が生きていらっしゃる限り、少年時代、青年時代、壮年時代、どの時代ということに関係なく愛を受けるのです。父母の愛を受けて成長し、横的な夫婦の愛が各自に起きるようになっています。夫婦の愛が続くためには、子女を生んで愛さなければなりません。

 

父母は、子女がいなければ、真の愛が何なのか知ることができません。対象がいてこそ真の愛を感じられるのです。兄弟同士は、父母の愛がどのようなものかを知らずに育ちますが、成長して結婚し、子女をもつようになると、父母の愛を知るようになります。言い換えれば、父母で始まって一回転し、父母に帰って、初めて知るようになるのです。ですから、子女を生んでみてこそ、成熟した人になると言うことができるのです。

 

19    夫婦の愛を通して一つになることによって、神様と同じ立場で、創造の能力を備えたものが子女です。神様が創造されて、どれほど喜ばれたのかを私たちに感じさせるために、子女を愛する心を与えられたのです。このように見れば、神様は、最も良いものを私たち人間に、すべて注いでくださったというのです。永遠の神様の愛と一つになって、幸福と満足の中で、平和なエデンで生きるように人間を造られたのです。そのようになることによって絶対的な神様のみ前に、人間は神様の愛を中心として永遠に相対の立場になり、別れようとしても別れることができない、幸福な人として生きるのです。これが人間の本然の姿でした。

 

 

第二章 第三節 夫婦の愛

天聖経:第三篇 真の愛  第二章 真の愛の類型

第三節                夫婦の愛

 

1 愛には犠牲が伴います。愛の道は、流れていきながら犠牲になってこそ円満なのであって、自分が犠牲にならなければ、すべての四方の均衡が壊れるのです。夫婦の愛とは、家の中の均衡を取るための心情作用と同じです。自分が一人独自的に行動していては問題が起きます。夫婦の心情は、大きくなればなるほど、大きな分野で欠如したものを補ってくれるので、貧民窟にいる人々も、愛に対して夢をもって生きるのです。「私たちは、このような愛の立場を探すためにこのような立場に来たので、ここに幸福があるのだ」と言いながら、その立場に定着して生きようとするのです。

神様の愛を体恤する夫婦の愛

 

2 四位基台を造成するためには、まず夫婦の心情を経なければなりません。そうしてこそ、子女の心情をもつことができ、父母の心情をもつことができます。男性は神様の陽性的形状であり、女性は神様の陰性的形状です。夫婦は、天下を一つのふろしきに包んだようなものです。ですから、夫婦は、神様の理想的な愛の心情を感じることができるのです。四位基台は、地上天国と天上天国の礎石です。天国は、一人で立てることはできないのです。

 

3 夫婦の愛を中心として一つになった立場は、創造当時に、アダムとエバと天地万物を造った、神様の愛を体恤できる立場です。この立場で、子女、兄弟、夫婦、父母の実体的な代身者として完成したので、最初の創造主である神様の立場と同じように、霊肉を中心として第二の創造主の立場に立つのです。そこには、子女の愛、兄弟の愛、夫婦の愛、父母の愛が詰まっているので、第二の創造主の立場、対象の立場に立つようになります。それで、創造の喜びを感じられるように、神様が与えてくださったのが子女です。子女は、天の国の王子、王女です。

 

4 神様の愛、父母の愛は、縦的な愛であり、男女間の愛は、横的な愛です。男性と女性が会おうとすれば、横的な愛を縦的な愛の上に接ぎ木しなければなりません。九〇度で合わせなければなりません。これを合わせない愛、縦的な基準と連結しない愛は放浪者の愛です。破壊されるのです。縦的な愛と九〇度で連結するときには、作用するすべてのものが、球形に影響を及ぼすことができる力として現れます。縦横が一致した愛の圏内に入っていけば、愛を中心として万宇宙を治めることができます。万宇宙と関係を結ぶことができます。そこには、知識も、権力も、お金も、生命も、必要ではありません。生命も、その中では永生するのです。

 

5 人間の価値を知らなければなりません。夫も神様の代身者であり、妻も神様の代身者です。また、母親と父親も神様の代身者であり、「私」という存在も神様の代身者です。夫は四代を代表します。祖父、父、夫、兄弟を代表します。この四つの愛を中心に、その代表として相続されたのが夫婦です。それで、夫婦の愛が貴いのです。

 

ですから、夫婦が壊れる時は、人類の愛、祖父母の愛、父母の愛、兄弟の愛も壊れてしまいます。人間は、宇宙で神様に侍って生きるようになっているからです。

 

「私」には、祖父の愛が芽を出すことができ、父の愛、兄弟の愛が芽生えるようになっているのです。千年、万年、生命の連結とともに、血統を通して横的な繁殖の基台の上で発展することによって、家庭を中心とする氏族、氏族を中心とする民族、民族を中心とする国家、世界、天上の国が形成されるのです。

 

6 結婚すると、皆さんの思いどおりにはできません。神様の愛に出会うために行かなければなりません。人間が男性として生まれ、女性として生まれたのは愛のためです。愛で夫婦が一つにならなければなりません。二性性相として分立されたものが合性一体化すれば、どのようになるのでしょうか。神様の愛を受けるようになります。

 

神様の愛に出会おうとすれば、女性は男性と一つとなり、男性は女性と一つにならなければなりません。そうでなければ、神様の愛に出会う道がありません。神様の愛に出会うことによって同位格に立つことができるからです。神様の横の立場に行って立つことができるというのです。

 

なぜ神様は、その愛を、アダムとエバに求めたのでしょうか。その愛を中心として神様と一つになることができるからです。夫婦の愛は、神様の愛を連結させるためのものです。神様の愛を受けるようになれば、神様と同等の立場に立ちます。男性と女性は、夫婦の愛という概念の前では、同じ立場に堂々と立つことができます。愛したあとには、二人が一人です。逃げることができません。いつでも連帯責任を負うのです。

 

7 男性と女性が、各自の体と心が一つになったかということと、二人が一つの体になったかが宿題です。宇宙が「良い」と言うことができるように、完全な一体になったかというとき、真の愛がなければ一体とはなれません。宇宙で「私」が男性なら男性、女性なら女性として、完全に一つの体になることができる立場に立ったか、ということが宿題なのです。これは、今日の哲学と宗教が解決しなければならない問題です。

 

男性は妻が絶対に必要であり、女性は夫が絶対に必要であることを知りませんでした。男性に絶対に貴いものが妻であり、女性に絶対に貴いものが夫です。神様よりも、神様に会うことよりも、まず必要なものは、男性には妻、女性には夫です。一つの体になるとは、妻と夫が愛を中心として一つになるのです。

 

8 愛という球形を中心として東西が合わさり、南北が合わさるのです。その次には、天と地が合わさるのです。それは、宇宙を占領するためです。結婚する目的とは何でしょうか。宇宙を占領することです。神様を占領することです。夫は東側、上側の代表であり、妻は西側、下側の代表です。彼らが愛で結ばれることによって、天下を占領するのです。神様を占領し、宇宙を占領するのです。

 

9 夫婦が、神様を愛して人類を愛する心の基台の上で、爆発するようにお互いに愛すれば、その家庭によって神様が酔い、宇宙が酔うことができるようになるのです。その愛は、神様のための愛であり、人類のための愛とならざるを得ません。その愛の根は、自分にあるのではありません。神様が愛の根源です。

 

10 男性と女性というのは水平です。水平を念頭において語る言葉です。縦的に見る時は上下を念頭において語る言葉です。相対圏を中心としてすべての理想形が描かれるので、すべての言葉も相対的な言葉を語るようになります。人といえば、男性と女性です。男性と女性は何で一つになるのでしょうか。夫と妻は、各々半分の世界です。人類がどれほど多くても、その分母は男性と女性だけです。そこには、悪い男性、悪い女性もいて、あらゆる種類の人がいますが、男性と女性の二つに分けることができるのです。その二つが一つに出会うことができる母体は、お金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。愛なのです。

 

11 男性と女性が愛するようになれば、いろいろなことが起きます。神様を求めていく道を知り、神様の愛を本当に味わうならば、神様のその愛は、世の中のどんなものにも比べられないものです。そのような愛を味わった人がいるならば、どんな苦難も、その人を占領することができず、どんな悲しみも、その人を占領することができません。このようなことをはっきりと知って、神様を父として侍り、神様に似た息子、娘にならなければなりません。お金や権力があるといって神様の息子、娘になることは絶対にできません。神様の愛を味わった人は、神様の権威と神様の威信と神様の体面を中心として、法度のままに生きなければなりません。神様の息子、娘が価値のない生き方はできないのです。

 

12 皆さんは、兄弟の立場で兄弟のために生き、その兄弟の立場から夫婦になれる立場に立たなければなりません。そうしてこそ、神様が兄弟として愛せなかったものを愛し、夫婦として愛せなかったものを愛し、子女として愛せなかったものを愛したという、三大愛の原則を復帰するようになります。このような三大愛の原則が、皆さんの家庭を中心として完全に一致するようになれば、神様の愛で愛し合うことができます。このような家庭を中心として、神様の創造理想を実現しようとするのが、正に統一教会でいう天宙主義です。

 

13 復帰の道に立った私たち夫婦が、本然の世界に向かっていくときに、常に神様の創造理想の心情を感じなければなりません。それに満たされて、生涯をかけていく路程で、感謝の一念をもって過ごさなければなりません。それが、今から祝福家庭が、創造目的を成し遂げるために行かなければならない路程です。そこに苦労することがあったとしても、それは私たちを苦しめるためのものではありません。天に今まで秘密に積んでおいた祝福を、もっとたくさん下さるために、神様はこのような苦労の道を行かせるのです。それは、有り難いことです。

 

心情的な愛によって結ばれた夫婦は、その愛情が生活圏を乗り越え、生涯を乗り越えて、神様の目的と間違いなく一致した家庭をつくらなければなりません。そうでなければ、神様がいらっしゃる天国に帰っていくことができません。これが、創造なさった神様の目的です。そのような家庭に向かっていかなければなりません。

切っても切れない夫婦の愛

 

14 男性は女性のために、女性は男性のために生まれました。ですから、男性の重要なもの、男性の宝物は、女性に保管させました。そして、女性の重要なもの、女性の宝物は男性に保管されています。互いに取り替えられているのです。男性の宝物を女性に保管させておいたので、男性は女性と離れることができません。また、女性の宝物を男性に保管させておいたので、女性も男性と離れることができません。それが愛の「ひも」です。ですから、男性の愛の主人は女性であり、女性の愛の主人は男性です。ところが、男性や女性が今までよこしまに浮気をしたため世界が腐敗し、すべて滅んでいっています。主人が知らないうちにどろぼうをしているのです。愛の不変の鍵は、男性のものは女性が、女性のものは男性がもっているのです。

 

15 「私」の貴い愛は、私にあるのではなく、相手方にあります。ですから、夫のものの主人は妻であり、妻のものの主人は夫です。主人を互いに取り替えて向き合っているのです。ところが、この夫が、自分のものであるかのように、よこしまに浮気をして歩き回りながら、世の中をすべて滅ぼしてしまいました。妻たちもそうです。それは、自分のものではないのです。主人は一人です。自分が主人ではありません。妻の主人は夫であり、夫の主人は妻です。愛を中心として主人です。ですから、愛する時には、体と心のすべての細胞が共に作動するのです。

 

16 女性がもっているすべてのものは、女性のものではありません。横的なものは子女のものであり、縦的なものは男性のものです。「女性がもっているのだから、女性のものだ」と考えやすいのですが、自分のためには何も必要ありません。

 

これが必要なのは男性です。また、男性のものは男性に何の必要もありません。女性に必要なものです。神様が互いに取り替えておきました。ですから、凹凸があるのです。男性と女性を統一して一つにする道は、その道以外にありません。

 

神様は、その器官を作る時、「天地の間に最も高貴なものだ」と思われました。度胸があって欲心の多い男性が、すべてのものを片づけて最も好むもの、またそのような女性が最も好むものを、自分の中に求めるとすれば、それは刺激がありません。相対ゆえに刺激を感じるのです。ですから、女性のものは男性が主人であり、男性のものは女性が主人です。それを自分のもののように考えて行動すれば、天地の大道を破綻させるのです。

 

17 もし、男性が男性のものを自分のものとしてもっていたなら、絶対にそこから移動しようとしないでしょう。女性が女性のものをもっていたなら、そのまま張り合って千年、万年持ちこたえることができるかもしれませんが、そうすることはできません。相対が自分の側に来るようにしたり、自分が相対の側に行ったりしながら、互いに入れ替わつて一つになるのです。愛は、このように作用するのですが、授受する作用は、必ず互いに入れ替わりながら価値が現れるようになっているのです。

 

女性と男性を見るとき、女性がもっている愛の器官は女性のものでしょうか。女性の愛の器官の主人は男性であり、男性の愛の器官の主人は女性です。これを今まで知らなかったので、よこしまな世の中になりました。これは絶対的です。絶対的な愛の主人が互いに取り替えられてもっているので偉大なのです。

 

18 男性と女性は、何がお互いに違いますか。生殖器を含めた体が、まず違います。それでは、男性の生殖器と女性の生殖器は、誰にとって絶対に必要ですか。男性の生殖器は女性のためにあり、女性の生殖器は男性のためにあるのです。人間の生殖器は、一つは凸であり、一つは凹ですが、なぜそのようになったのですか。二つともとがったようにするとか、二つとも平らにすることもできるのに、なぜそのように違って生まれたのですか。すべて相対のためなのです。男性のものは女性が絶対に願い、女性のものは男性が絶対に願うのです。女性のものは男性のものであり、男性のものは女性のものだという事実を知りませんでした。

 

19 人の話し声を聞いてみると、その人について知ることができます。女性の話し声が高いですか、男性の話し声が高いですか。女性の話し声が高いのです。何がそのように高くしたのでしょうか。女性は、力が男性よりも弱いのに、どうして声を高く出すのですか。愛の情、その愛においては、女性は高く、男性は広いのです。男性は、広い愛をもっています。女性は、自分の夫と息子、娘だけを考える、その愛においては高いのです。しかし、男性は、親戚や国などを考える愛においては広いのです。ですから、息子、娘を愛したり、家庭を愛したりすることは母親に学び、世の中を愛することは父親に学ばなければなりません。このようになるのです。このように結んでおくことで、円満な円形を成し遂げることができるのです。

 

20 皆さんは、すべてが自分を主として「私だけ良い暮らしをすればいい」と利己主義に流れていっています。しかし、今は、利己主義をすべて捨てて愛を分けてあげなければなりません。家庭もそうでなければなりません。幸福な家庭は、夫が出掛けて帰ってくると、外であったすべてのことを妻と共に話し合い、新しく開拓できる要因を発見しなければなりません。

 

お互いが力を合わせて研究する家庭が、幸福な家庭です。父母がそのようにすれば、子女たちもそこに力を加えて、私たちもこのような家庭をつくろうといって同調するようになります。

 

21 夫婦の愛の場は、万宇宙の花です。自分の妻は、歴史博物館に展示されたすべての人々の総合体です。そこに、花として現れたのが妻です。神様が初夜の都屋に参席するというのです。歴史始まって以来、喜ばしい男女の愛の中に、神様がとどまって定住するのです。ですから、どれほど恐ろしい立場ですか。それを連結させて道をつなぐことができ、爆発することができる完全なマイナスになれなかったので、完全なマイナスをつくる役割を今、私がやっているというのです。ここから、天地に愛の光明な太陽が浮かび始めるのです。生命の家庭、理想の家庭として、すべて一つにして、自分の妻の部屋を訪ねていかなければなりません。

 

22 愛を中心とする生活では、すべてのことが解決されます。欲心の多い男性の虎のような目も、愛するようになれば、穏やかになり、絵に描いたお月様のような姿になって、凍りついていた口も、にこりと開きます。凍っていたすべてのものを完全に溶かせるものが愛であり、溶けていたものを凍らせるのも愛です。極と極を包括して余りあるものが愛です。

 

好むの「好」という字を見れば、男性と女性が合わさっています。男性と女性がけんかをするようになれば、完全に和解できる道がないのに、何を好むというのですか。けんかを十回しても、また好きになる力があるからです。その力が愛という怪物です。「夫婦げんかは刀で水を切るようなもの」という言葉がありますが、刀で水を切れば、傷が残りません。一度けんかしても、額をたたいてくすくす笑えば、終わるのです。愛なくしては平和が訪れません。

愛の至聖所と本宮

 

23 愛の道は、神様の至聖所を求めていく道です。契約の箱が至聖所ではありません。堕落した人間が作った契約の箱が至聖所ではありません。堕落せずに神様の本然の愛を中心とした愛をもつことができる所に、その契約の箱以上の価値があります。男性の愛の生殖器と女性の愛の生殖器が至聖所のようなものです。これで過ちを犯すと、雷に打たれてしまいます。至聖所に間違って触れるとイスラエル民族が急死したのと同じように、これに間違って触れると天下が滅びます。お互いが、愛を守る大祭司にならなければなりません。夫婦は、愛を守る大祭司であり、神様の愛を相続するための大祭司です。

 

24 男性と女性の生殖器は、天国の王宮の宝庫です。神様も勝手にはできません。男性のものの主人は女性であり、女性のものの主人は男性です。神様は、知恵の王なので、互いに取り替えておきました。それが最高に貴いものなので、それを占領するためには、自分の夫と妻を最高に貴く思わなければなりません。自分の生命以上、自分の息子、娘以上に貴く思わなければなりません。

 

25 女性でも男性でも、至聖所をもっています。その至聖所をお金で買うことはできません。世の中の人々が、「ああ、愛は天とも、地とも取り替えることはできない」と言います。それが至聖所だからです。至聖所は、天と宇宙の中心と完全に一つとなり、理想やすべてのものを所有する特権をもった所です。至聖所には、すべてのものがあります。すべてのものを所有しているというのです。

 

生命と愛のうち、どちらがより貴いですか。これが人類歴史において整理できていません。なぜ愛が貴いのですか。生命がどれほどあっても、男性の生命と女性の生命が至聖所を身代わりすることはできないというのです。生命には至聖所が連結されていません。愛にだけ至聖所が連結されているので、愛は生命よりも貴いのです。

 

26 結婚とは、半分の男性と女性が生殖器を一つにすることによって、お互いが完成することです。男性は女性の愛を中心として完成し、女性は男性の愛を中心として完成します。男性は女性を完成させ、女性は男性を完成させるのです。真の愛で一つになります。愛が中心になって生命が活性化され、二人が一つになる位置がその場です。男性の血と女性の血が一つの器の中で一つになる位置がその場だというのです。その場から息子、娘が生まれます。

 

その場は、息子、娘より貴いのです。夫よりも、神様よりも貴いのです。その場は、子女より貴く、夫より貴く、父母より貴いというのです。それがなければ、父母も無価値なものであり、夫婦も無価値なものであり、息子、娘も無価値なものです。そのように貴いので、宝の中の宝として、世の中の誰にも見えないように一生の間、錠をかけておくのです。そして、その鍵は、男性のものは女性がもち、女性のものは男性がもっています。

 

27 男性と女性が愛する本宮、生殖器は、愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮です。祖父と祖母も、それを中心として生き、父と母も、それを中心として生き、自分たち夫婦も、それを中心として生き、将来生まれる息子、娘も、それを中心として生きるのです。ところが、それが悪いもの、下品な言葉になってしまいましたが、なぜでしょうか。本来は神聖な言葉です。神聖な言葉として受け止めなければなりません。そこで永遠の愛が連結され、永遠の生命、永遠の血統が出てきます。最も貴いのです。ですから、それを犯す人は、生命の世界、愛の世界、歴史の世界の歓迎を受けることができません。

 

28 私たちが今まで、愛という言葉を卑しいものと考え、良くないものと考えてきたのは、堕落したからであって、事実は神聖な本宮なのです。本然の愛の立場は、神聖な宮殿であり、最高に貴い所です。その宮殿の門は、勝手に開くことができません。愛の王、愛の王妃になってこそ、その宮殿の門を開くようになっているのが人間本来の愛の伝統です。真の父母をもった王と王妃は、その宮殿の門を開くことができます。そのような宮殿、そのような本宮から神様の愛する息子、娘が誕生します。

 

29 頭よりも、愛の器官がもっと重要です。頭には真の愛の起源がありません。真の血統の起源もありません。その起源は生殖器にあります。生殖器にすべてのものがあります。そこに生命があり、愛があり、血統があります。そこが愛の本宮なのです。生命の根もそこにあります。血統も同じです。人間の体だけでなく、人間世界と人類歴史を通じて最も貴いところです。それがなければ人類の繁殖は不可能です。

 

30 旧約聖書を見れば、聖所や至聖所という言葉が出てきます。聖所は人を象徴し、至聖所は愛の家を象徴します。愛することができる家のことを意味します。すべての人が聖所をもっていて、至聖所をもっています。聖所は、神様をお迎えできる家です。至聖所は神様だけが特権的な愛の主管権をもつことができるので、神様と関係を結ぶことができる場所です。至聖所は、天と通じることができる場なのです。神様と直接関係を結ぶことができる至聖所が、正にそこです。それが人間のどこにあるかといえば、皆さんの生殖器です。これは、ほかの誰も触れることはできません。至聖所を守る大祭司は、絶対に二人ではありません。一人です。昔、エバの前でその至聖所の鍵をもっていたのはアダムであり、アダムの至聖所の鍵をもっていたのはエバでした。

 

31 愛は投入から始まります。真の愛は、与えようとする運動から始まったというのです。宇宙は、そのような法度と内容の原則に従って動くにもかかわらず、受けようとするのは宇宙に逆らい、背く行動です。そのようなものは天運が打ってしまいます。この宇宙は、主体と対象の相対関係を備えるようになるとき、保護するようになっています。ですから、相対を探す時まで成長し、その次には、相対に会わなければなりません。それができないときには、なくなってしまうのです。女性と男性が結婚したいと思うその心は、宇宙力から来るのです。

 

32 主体と対象の関係をもてば、宇宙が保護するようになりますが、愛を中心として主体と対象の関係をもてなければ、それを押し出す宇宙力のために、寂しさや苦痛を感じるようになります。

 

病気になると、どうして痛むのですか。夫婦で暮らしていて一人が先に死ぬと、なぜ心が痛むのでしょうか。そのようにする力の作用が、宇宙力です。

 

宇宙力は、主体と対象を保護するようになっていますが、この宇宙圏内で主体と対象が衝突すると、追放されるようになります。そうしなければ新しいものが補完されません。ですから、主体と対象の関係を維持すれば、均衡を保つ宇宙力によって相対的立場から保護を受けますが、一方だけでもなくなるときには宇宙力が押し出すので、その痛みに耐えられないといって騒ぐようになるのです。

 

33 広大無辺の大宇宙は、主体と対象の共同目的体なので、自分を保護する宇宙力をもっています。同時に、主体と対象が完全に一つになった存在を保護、育成する一方で、主体と対象が一つになれない存在を排斥する作用があります。そのために、存在の永続性が可能なのです。このように助ける力を相応作用といい、反対の力を相克作用といいます。また、作用と反作用ともいいます。

 

34 心と体が一つになっている時は、宇宙力の保護を受けるので、喜びを感じるようになりますが、心と体が一つになっていない時は、苦痛を感じて反発するようになります。病気から来る苦痛も同じです。体内で主体的要素と相対的要素が調和統一できていないとき、宇宙の保護力を喪失する一方、その反作用によって苦痛を感じるのです。これが大きな病苦となって現れます。この時、主体と対象に調和統一の道を開いてあげるためのものが医者の診断による投薬です。これは、個人や家庭においても同じです。

 

35 結婚後には、二人の間に誰かが介入するのをうれしく思いません。結婚後に、主体と対象が完全に一体化して、宇宙の保護力を得て幸福と満足を感じているのに、そこにある第二の女性や第二の男性が介入すれば、夫婦が一つになる力が破壊される憂慮があるので、反発作用をするようになります。このような刺激によって、彼らも主体と対象をつくって一体になり、宇宙力の保護を受けて永続するようにするのです。すなわち完成を促進する力になるのです。

 

電気作用でも、主体であるブラスと対象であるマイナスが一つになれば円満に作用しますが、プラスとプラス、マイナスとマイナス同士は反発するようになっています。どんな存在でも、このように主体と対象を探して関係を形成すれば、同じ法則によって安定と喜びを感じるようになるのです。

 

36 母親や父親が死ぬと、なぜ悲しいのでしょうか。宇宙の力が押し出すので悲しいのです。母親と父親の愛、父母が子女を愛し、子女が父母を愛するその愛を受けていかなければなりません。そうしてこそ、三六〇度で拍子が合うのです。また、夫婦で夫が死ぬと、一カ所が壊れてなくなります。天地の運勢は、すべてのものに拍子を合わせて完全に備わったものを保護するようになっているのに、それができずに欠如しているので、その力が欠如している分だけ、一気に押し出します。その一気に押し出すのを痛みとして感じるのです。病気になると痛みがあるのも同じ道理です。何かが欠如しているので、宇宙が、天運が保護する保護圏内から追放する力によって痛むのです。それが追放する作用です。それをうまく保護して存統しなさい、ということを告げているのです。

絶対「性」と真の愛の教育

 

37 男性に絶対に必要なものは凸ではありません。凸は反発します。そこには幸福がありません。絶対凸には絶対凹が必要です。絶対凸が絶対凹と向き合うときには、神様が共にいらっしゃいますが、そうでなければ、神様は離れるのです。それはサタンの血統です。それは、九八パーセントになったとしても、サタンの血統の影が少しでも残っていれば、神様は臨在されません。絶対「性」、絶対相対、絶対愛を中心として、縦横が九〇度の角度になってこそ、神様が訪ねてこられて、その家庭の主人になるのです。

 

38 真の愛は一つしかありません。初愛は、一人の夫を引き連れ、一人の女性を引き連れるのです。絶対的に一つです。ですから、絶対「性」という言葉なのです。フリーセックスを防御するためのものが絶対「性」です。まばたきする妻の目は自分のものですか。夫のものです。それをもってほかの男性を気にするようになれば、目が腐っていき、骨が溶けるのです。宇宙において、これを犯す日には赦しがありまぜん。救いがありません。神様が追い出してしまいます。追い出して、数千万代後の子孫を通して復帰するのです。

 

39 貞操という言葉があります。韓国では、貞操のある女性を何で表現しますか。「春香」(チュニャン)です。韓国は、貞操のある礼儀の国です。妻を中心としては春香です。孝女を中心としては「沈清」(シムチョン)です。ですから、女性たちは沈清以上にならなければならず、春香以上にならなければなりません。下(ビョン)地方長官が「寝室に来なさい」と言っても、その言葉を聞くことはできないのです。生命がずたずたに切り裂かれても、それはできません。愛のために生まれた生命なので、悪い愛によって犠牲になったとしても、結局は、光り輝く愛に復活するというのです。

 

40 女性の心の世界において、最も高まる領城、最高に悲惨な領域は、愛以外にはありません。女性がそうであるならば、男性はどうでしょうか。無愛想で、好き放題に生きるのが男性ですが、男性はどうでしょうか。愛の心は、男性が多いですか、女性が多いですか。恋わずらいになる比率は、女性よりも男性が高いのです。それは、男性にはかき抱く愛があるからです。女性は一方向の愛ですが、男性は四方を抱く心をもった愛なのです。四方の方向性を観測できる力があるので、愛の衝突も多いのです。

 

41 どれほど優れている男性だとしても、ある女性に惚れ込み、恋の病気にかかって死ぬほどの境地になれば、その男性は、金や知識、権勢などすべて捨てて、黄金の板に寝ていたとしてもそれをすべて捨てて、生きるためには体面も忘れてその女性のあとについていくようになります。そのように、神様が真の愛を好むなら、真の愛をもった一人の相手が現れる時、神様がどれほど神聖な方だとしても、その愛に従わなければならないのです。

愛の法は学んで知るものではない

 

42 人間が愛の舞台を求めていくときには、教育は必要ありません。男性と女性が結婚するとき、初夜にはどのようにしなさいと教えることはありません。性教育などがなくても、昆虫もよく知っています。万物の霊長として、夫婦で愛せない人はいません。ですから、教育は必要ないのです。男性と女性が愛に従って完成するときに教育が必要ならば、神様は、全能の神様ではありません。教育の必要がなく、天下万国と天下万象の世界を、いつでも超越できる資格を備えた道が、愛の道です。

 

43 皆さんは、家庭で愛し方を学びましたか。ある父親が彼の子女に、「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。また、母親も子女に、「私から愛し方を学びなさい」と言いますか。また、父母が子女の愛し方を誰かに学びましたか。誰かから、新郎新婦はこのように愛さなければならないと学びましたか。学んだことはありませんが、よく知っています。本当に神秘的なことです。

 

44 父母が子女を愛するのに、誰かに教えてもらって愛しますか。皆さんは、赤ちゃんを生んで愛する時、その愛する方法を習いましたか。どこに愛を教える学校がありますか。何もありませんが、誰でもその基準は満点です。不足だと感じれば感じるほど、さらに完全だというのです。完全なものは、手を出す必要もなく、習う必要もありません。加減が必要ないものが完全なものなので、完全なものは変わらないものであり、変わらないものは永遠に続くというのです。

 

45 「愛」と言っても、これは漠然とした言葉です。愛というものは、言葉では理解しきれません。父母の愛をどれほど説明したとしても、父母がいない人には理解できない境地です。夫婦の愛をどれほど説明したとしても、独身の人は理解することができません。父母の愛がいくら大きいと言っても、子女を生んで育てることができず、そのような体験をもてない人には、到達できない境地です。

 

46 人にはいつも刺激が必要です。刺激がなければ幸福を感じることはできません。刺激がなければなりません。いつも食べている御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新たな味がするように、夫婦間の愛も同じように、常に刺激を通して新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほど、もっと見たいと思い、一日中共にいたいと思わなければなりません。そのために、自らについて研究をしなければならず、神様について研究をしなければなりません。

 

47 真の愛は、経験を通して得るものであり、体恤を通して分かるようになっています。真の愛は、言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得できるものではありません。生活を通してのみ、完全に体得できるのです。

 

赤ん坊として造られたアダムとエバは、成長しながら、真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の夫婦の心情、真の父母の心情を、段階的生活を通して経験し、体恤することによって完成するようになっています。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。

 

 

第二章 第四節 子女の愛

天聖経:第三篇 真の愛  第二章 真の愛の類型

第四節                子女の愛

 

1 父母が愛の原因ならば、その子女は愛の実であり、結実です。結実と原因は、遠く離れたところから出発したのではありません。結実と原因は、一つの場所から出発したのです。父母の愛が原因ですが、その愛の中で「私」が結実として現れたというのは、どのような意味でしょうか。父母の愛の結果として登場したのが「私」だということです。ですから、愛と共に一体化した原因と結果の立場を対等にもって生まれたのが、父子関係における子女だというのです。

父子関係は宇宙の根本

 

2 父子関係は、血統が連結されたものです。父という言葉の中には愛が介在しており、血統が介在しているのです。直系の子女になるためには、愛によって一体とならなければなりません。血統によって連結されなければなりません。血は、生命を構成するものです。父母の伝統を受け継いだ生命をもつのです。それは正に愛によってです。

 

3 父子関係が、それこそ宇宙の根本でなければなりません。喜びはそこから芽を出し、そこから悲しみが始まるなら、それ以上の悲しみの場はないのです。

 

子女にとって、父母と向き合う喜びは、それこそ世界を代表する喜びにならなければならず、父母にとって、子女と向き合う喜びは、世界を代表する欲望を充足させる喜びでなければなりません。

 

外的な他の問題をすべて失ってしまうことがあったとしても、幸福に生きることができる希望の場は、父母の前には子女しかありません。

 

4 息子、娘は、父母の愛の同参者です。それでは、息子、娘はどこから出発するのでしょうか。父母の愛から出発するのです。ですから、その存在の世界で息子、娘は、父母の愛が一つになるその場に同参して、存在し始めるのです。

 

「私」はどこから生まれたのかというと、父母の愛が限りなく花開く場から生まれました。宇宙を総合した男性と女性として生まれた、その母親と父親が愛の花を咲かせるその場、喜びの場から一つの種として植えられたのが子女です。

 

5 「私」は、父母の本然的な愛の出発の根源に同参した者であり、父母の愛の結実として登場した者です。これは、原因と結果が一つの場所から出発したので、離そうとしても離すことができません。原因的な父母の愛と、結果的な「私」の生命の愛の根源は、一つです。そのような意味から見るとき、愛を中心として「父子一身」という言葉が成立するのです。愛を除いては、一身、一体という言葉はあり得ません。愛が原因です。

 

私たちは、腹中から父母の愛を受けます。「私」が愛の本質によって腹中に宿ったその時間から、父母の愛と、すべての関心が集中するようになっています。なぜでしょうか。愛の結実だからです。ですから、愛で生まれ、愛から生命を引き継ぎ、愛を受けながら大きくなって、相対を迎えることができる時になれば、相対を迎えるようになるのです。

 

6 子女は、父母の愛、すなわち夫婦の愛の最高の同参者の権威をもって生まれた存在です。言い換えると、子女は、そのような共通の内容をもち、不変で統一的な内容の属性をもった愛を中心として出発した人間として植えられたのです。ですから、父母と子女の関係は、切ろうとしても切ることができないというのです。父母の愛と父母の生命の主体牲をもっているのが子女なので、これを切れば、自分を否定し、自分の生命を否定する立場に立つようになるので、その愛の結実を否定することができないというのです。ですから、父母は子女のために生命を捨てることができる、という論理を見いだせます。

父母の愛の同参者

 

7 私たちが生まれるようになったのは、母親と父親の愛からです。母親と父親の愛から出てきました。生命の連結の前に、血統の前に、愛によって血統が引き継がれ、愛によって生命が引き継がれたのです。

 

「私」というものは、なぜ貴いのでしょうか。生命をもっているから貴いのではなく、母親と父親の愛に同参したので貴いのです。愛は父母がしたのですが、愛の結実は「私」です。初めと結実をもって生まれたのが、母親と父親ではなく正に「私」なので貴いのです。

 

8 「私」は、父親と母親の二人の生命が一つに結合した生命の連結体だというだけではなく、父母の愛の同参者であり、父母の愛と一体です。さらに、「私」は父母の理想とも一体です。理想には、幸福や平和というすべてのものが入ります。父母としては、自分が世の中で成功した時の喜びが大きいとしても、失った子女に会った時の喜びとは比較にならないのです。子女は、父母の最高の理想と一体です。

 

9 「私」には、母親と父親の生命のひもが連結されていて、愛のひもが連結されていて、そして理想のひもが連結されていますが、このひもは、誰も切ることができません。神様も切ることができず、宇宙も切ることができません。かえって宇宙のすべての力は、それを擁護しようとするのです。私がどこに行っても、母親と父親がついてくるようになります。あの霊界でも、母親と父親はいつも一緒にいようとするのです。ですから、母親と父親が同行するのを嫌うのは最も大きな罪です。この宇宙を破綻させる破壊行為です。父母に侍っていくことを嫌うのは、既にその人が原則を外れて堕落していくことを意味します。ですから、父母を自分の体のように考え、愛し、父母に孝行することが、人間にとって最高に価値のあることです。それで「和睦した家庭に福が来る」という言葉もあるのです。

 

10 子女がいなければ、孤独な人だといいます。愛を中心として、万宇宙を造られた主体であられる神様の心情的事情を、体験するためのものが子女だからです。子女は、「私」が動機になって生まれましたが、その子女を生んで愛することによって、「ああ、神様は、人間をこのように愛したのだなあ」と分かるようになります。子女を生んでみてこそ、父母に孝行しなさいと教えなくても、それを悟ることができるのです。

 

11 皆さんは、父母の愛に報いなければなりません。父母は、子女を育てる時、食べる物があれば、自分が食べられなくても、自分の飢えたおなかを握り締め、舌をかみ締めて、それを子女に与えます。その愛は、父母に対して同じようにできる子女として育てるためです。父母がまず苦労の路程を行ってこそ、父母のその苦労が土台になって、子女が父母を慰労できる苦労の路程を行くのです。皆さんがまず父母を慰労できる心情をもってこそ、皆さんの息子、娘もそのような息子、娘となり、そのような息子、娘を生んでこそ善の血族として残されるのです。自分自身だけのために生きて父母を知らないというなら、その人は絶対に孝子になることはできません。

 

12 どのような人を孝子と言いますか。父母が「私」のために生きたことを、父母に対しても同じようにできるとき、その子女は孝子だと言うことができます。それは、天とも通じます。父母は、精誠を込めて育てたにもかかわらず、その子女が「自分は父母のことは知らない」と言うなら、その家は滅ぶのです。与え合う道理によって相対的基準が造成されてこそ回ってくるのであり、また、そのようになってこそ、神様がその場に臨在され、天国を成し遂げていけるのです。

 

それでは、天国で残れる子女は、どのような子女でしょうか。父母の愛を通して受けた恩は、自分自らが返さなければなりません。父母が年を取って老いたときは、自分が幼いときに大小便を拭いてくれた父母の心で、すべてのことに耐え、困難を困難と感じることなく、父母に侍ってこそ孝子になるのです。

真の子女の道理は孝

 

13孝子とは何でしょうか。生涯父母のために自分のすべてを犠牲にし、自分の主体性を主張しない立場で犠牲になる人が孝子です。そうすれば、父母の真の愛が残るのです。真の愛の圏が残るようにしたので、孝が連結されます。その孝は、宇宙に向かって橋を架けることができるからです。

 

14父母に孝行しなければなりません。孝子にならなければなりません。父母を中心として国の忠臣にならなければなりません。父母が、国を率い、世界を率いてきたからです。忠臣になる前に孝子にならなければならず、孝子になる前に真の兄弟を誇れる家族にならなければなりません。家族とは、兄弟間で褒めたたえることができる圏内を中心とする名称です。

 

皆、男性と女姓が結婚して夫婦となり、家庭を率いて父母の前に孝行した以上の孝行をしなければなりません。結婚しなければ、真の孝子、孝女になることはできません。真の孝子、孝女には、結婚したのちに初めてなることができるのです。結婚して夫婦となり、その父母の前で、夫の孝行の心に妻の孝行の心をプラスして、父母に侍る孝行の心の基盤を備えてこそ、真の孝道圏を成立させることができるのです。

 

15孝子になろうとすれば、いつでも父母の心の方向と一致しなければなりません。孝子の道を行く人は、父母とかけ離れた行動をする人ではありません。父母が東に行けば東に行かなければならず、父母が西に行けば西に行かなければなりません。行く途中で回れ右をすれば、一緒に回れ右をしなければなりません。そこに異議があってはいけません。十度行き、十度回れ右をしたとしても、また回れ右して従っていかなければなりません。

 

16家庭で「孝行をしなさい」と言うのですが、これは、父母を中心として、父母が行かなければならない愛の道の同参者になりなさいということです。父母の真の愛の道には、天倫がついていきます。父母だけが行くのではなく、見えない縦的な天倫がここに関係づけられて、共に行くのです。父母と一つになりなさいというのは、縦的な歴史と横的な歴史の心情圏をつなげていきなさいということです。これが父母に孝行することです。

 

17皆さんは、父親に捧げる贈り物がたくさんあります。たとえ持っているものがなく、備えたものがなくても、神様に捧げることができる贈り物があります。それは、世の中の人々が楽しむようなものではなく、神様のために血を流し、涙を流し、汗を流す姿です。それが苦痛の父、悲しみの父、無念の父には、最大の贈り物なのです。

 

18家庭を中心として見るとき、父母に孝行することが、息子、娘としての責任です。なぜ孝行しなければならないのでしょうか。孝行する道は、国に対する忠臣の道と連結されるのです。国に忠誠を誓う人は、世界に対して聖人の道を行かなければなりません。それが一つの直総にならなければならないのです。このように見る時に、孝行はできなくても、国の忠臣になれば、その父母が「お前は私に孝行をしなかった」と言うことはできないのです。「本当によくやった」と言うのです。父母を捨て、家を出て親不孝をしたとしても、国の忠臣になるときは、母親や父親が死んで霊界に行っても、「やあ、本当にお前はよくやった」と褒めるというのです。

 

19どれほど愚かでも、父母と子女の間は直接に通じなければなりません。そのようにできなければ、父母ではなく、子女ではありません。孝子とは、父母の前で、得になることばかりをやって愛を受ける人ではありません。孝子とは、父母の悲しみに責任をもつために、困難な場を訪ねていって責任を果たすことにより、父母に喜びを捧げる人です。父母が十くらい働いて、子女が十五も努力すれば、父母はその五に該当する喜びを感じるようになるのです。そのような分野をどのように補充し、父母のために捧げることができるかを考えながら努力する人が孝子です。

 

 

第二章 第五節 兄弟姉妹の愛

天聖経:第三篇 真の愛  第二章 真の愛の類型

第五節          兄弟姉妹の愛

 

1 兄弟がなぜ必要ですか。男性は、妹や姉を見ながら、「母はあのように育ったのだなあ」ということが分かるのです。母親が育っていく姿を見るのです。また女性は、兄や弟が育っていくのを見て、「父はあのように育ったのだなあ」と、その姿を見るのです。それが兄弟愛です。そのように育って一つになるのです。ですから、兄弟を愛さなければなりません。

兄弟の愛は万民同胞愛のモデル

 

2 縦横を中心として連結しているのが兄弟です。アダムとエバを東西とすれば、神様とアダムとエバは縦的です。東西は平面にしかなりません。ですから、平面基準が必要であり、前後、すなわち立体基準が必要です。家庭愛を超越して拡大できるものは兄弟愛しかありません。それがあってこそ球形になります。

 

球形が成立するまでは、男性の最高の希望の基準と女性の最高の希望の基準が、創造のときに神様の心情圏内で願われた愛の実体なのです。息子、娘の実体です。天下を引き継ぐことができ、神様の代わりに愛を引き継ぐことができる息子、娘だというのです。その息子、娘は、兄弟の関係で育ちます。兄弟として育って上がっていくのです。育って上がっていく時、息子、娘は父母を訪ねていき、父母は息子、娘を訪ねていって会わなければならないのです。そのように会って完成するのですが、これは相対的な理念です。

 

3 同胞愛、兄弟愛をもって世界を抱いてこそ、すべてが理想的な球形になるのですが、そのようになれば、ぶつかっても衝撃がないのです。そうしてこそ、神様が考えたすべての実体がここに来て結実されるのです。神様の子女の理想が、ここに来て結実して一つになることによって、子女の愛の結実体になります。その次に、兄弟の愛の結実体、夫婦の愛の結実体、父母の愛の結実体になるのです。無形の神様が創造当時に構想した実体を、すべて成就すれば、神様と上下、前後、左右が一致できるのです。

 

4 男性は、生命の主体、生命の種ですが、女性がこれを受けます。ですから、男性と女性を東と西で表示するのです。東側から太陽が昇れば、西側で太陽の光を受けます。軸があり東西があれば、これは四つにしかなりません。上下と東西では、十字にはなっても円形にはなりません。それで必要なのが兄弟です。その兄弟を通して国民が形成され、人類が形成されます。ですから、円形をつくるのは兄弟です。兄弟が拡大されて国民となり、世界になります。ですから、兄弟愛は世界愛と通じます。たくさんの兄弟が育つ家庭は、理想的な天国、地上天国と天上天国を造るモデルのようなものです。

 

5 世の中で、人々の間につくられ、忘れることのできない友愛のようなものも、平常時の普通の環境からつくられるものではありません。死ぬか生きるかの場で、生死が行き交う環境で、友人が「私」の生命の盾になって命の恩人になってくれるとき、その友人のことは、一生の間忘れようとしても忘れることができないのです。そして、自分が死ぬ時、自分の息子、娘に遺言を残してでも、その友人の恩徳に報いようとするのです。それが恩徳を受けた人としての道理です。そのような立場は、誰も干渉することができない立場で結ばれた、深いものにならざるを得ません。

 

6天と和合して調和し、天を褒めたたえることができ、全世界が平等で、共に幸福に暮らすことを望む欲求の起源は、体にあるのではなく、心にあるのです。善に根をおいた心が願うことは、人類がお互いに怨讐と思い、お互いに争いながら血を流し、お互いに命を奪い合うことではなく、自由と平和と幸福が宿る中で、お互いに友愛を結べる関係をもって生きることです。これは、すべての人の願いです。

 

 

 

第三章 真の愛の実践 第一節 真の人生の道

天聖経:第三篇 真の愛  第三章 真の愛の実践

第一節                真の人生の道

 

1 本来の神様と人間の関係は、父子の関係です。神様が父母ならば、人間は子女の立場にいるのです。父母と子女は、愛を中心として結ばれています。母親と父親の愛によって生まれた子女は、父母の愛の場に同参するところから出発したということが偉大なのです。父母の愛を中心とするその中で、同参する立場で「私」の存在が始まったというのです。

 

ですから、子女は、父母の愛から生まれたので、父母が行く道に愛を中心として関係を結ばなければなりません。それにもかかわらず、今日、この地に住む人々は、父母の生涯、あるいは生活を経ていく人がいません。ですから、父母たち自身も浮き世の苦しみに悩まされながら、悲喜が交差する悲しみの峠を越える人生行路を歩んでいるのです。

人間が行かなければならない愛の道

 

2 人間は、愛で生まれ、愛の中で育ち、その次に、もう一度ほかの次元の愛に連結されますが、それは父母の愛を離れて、相対の愛を訪ねていくからです。父母の愛を蘇生的愛と言うことができ、夫婦の愛を長成的愛と言うことができます。夫婦同士がどれほど愛したとしても、子女がいなければ愛の完成を見ることができません。ですから、子女を願うのです。これが完成的愛です。

 

したがって、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を経る過程が人生の根本であり、神様の創造的愛の理想の根本となる道です。真の愛を中心として成就された家庭の目的は、家庭だけのためのものではなく、天国を成し遂げるためなのです。宇宙が一つになるための標準を中心として、家庭から民族、国家、世界、天宙まで拡大していくのです。そして、世界まで行ってから帰ってこなければなりません。

 

3 生命が先でしょうか、愛が先でしょうか。生命が先ではなく、愛が先です。ですから、あとのものは先のものに順応しなければなりません。ですから、愛のために生命を捧げるのは当然なのです。人間は、愛から生まれ、愛の道を行かなければならず、愛のために死ななければなりません。その愛は、大宇宙が歓迎できる愛です。

 

神様が公認し、天使世界が公認し、万物が公認し、すべての人が公認できる大宇宙の中で生まれ、その中で生きていき、その中で愛し、その中で死んでいかなければなりません。それが、人間が生まれた目的です。

 

4 人間は、愛で生まれ、愛の道を行かなければなりません。死ぬときも、愛のために死ななければなりません。したがって、私たちの人生を見るとき、生命より愛がもっと貴いだけでなく、愛が生命よりも先なのです。ですから、愛のためには、生命まで喜んで捧げるのです。

 

愛は永遠なのです。小説や詩のような文学作品を見ても、「変わらない愛、私の永遠の愛」という表現が多く見られます。このようなことを見れば、私たちは、瞬間的な愛、限られた時間内の愛を願うのではなく、永遠の愛を願うというのです。

 

5 愛は、神様も身動きさせない権威をもっています。神様も、愛には弱いというのです。全能の神様も、人間の愛の香りを嗅ぐならば、満面に笑みを浮かべられるのです。神様も、愛の話が好きなのです。話だけでも好きなのに、実際に愛すればどれほど喜ばれるでしょうか。私たちの体の様々な器官も、愛という一つの目的を中心に生まれました。

 

目は見るために生まれましたが、どのようなものを見るためかというと、共同のテーマである愛を探すために生まれたのです。鼻もにおいを嗅ぐために生まれましたが、においの中でも愛の香りを嗅ぐために生まれたのです。耳も愛の声を聞くために生まれました。私たちが聞く言葉の中で、いくら聞いても嫌気がしない好きな言葉は、「愛している」という言葉です。これは、若者も老人も同じなのです。

 

6 人間は、愛から生まれ、父母の愛で育てられ、相対と愛し合うようになります。また、愛を中心として子女を生み、育てて家庭と氏族を愛しながら、さらに大きな愛の世界に連結されます。

 

個人の愛から、神様の愛にまで連結されます。言い換えると、山奥に流れる小さな水の流れが、大洋に流れ入って黒潮とともに世界を生かすのですが、正にそのような水と同じです。ですから、愛の世界があり、愛の国家があり、愛の氏族があり、愛の家庭があり、愛の個人があるのです。

 

7 男性は天を象徴し、女性は地を象微します。男性は、主体なので、誰かに干渉されるのを嫌います。女性は、愛することよりも、愛を受けることを好みます。男性は天を象徴し、女性は地を象徴するので、男性と女性が一つになることは、宇宙が一つになることなのです。愛によってのみ宇宙を主管できるので、自分の相対を宇宙よりもっと大きいと考えなければなりません。天と地、この二つの世界を永存しながら連結できるものは、変わらない愛です。地上において愛で結ばれた生を生きた人は、天国に行きます。愛を中心とする世界が霊界です。

 

8 神様と人間が完全に一つになれば、自動的に男性と女性は一つになるようになり、完全な夫婦が生じれば、天地は統一されるようになっています。それでは、神様は、どこにいらっしゃりたいと思うのでしょうか。愛は、男性と女性の間に生じるものなので、真の男性と真の女性が愛する所にいたいと思われるのです。神様がいらっしゃるので、その愛は永遠に存在することができ、永遠の統一を成し遂げることができ、永遠の生命をもつことができ、永遠の理想をもつことができます。ですから、その愛を探し出した人は、すべてのものを占領することができます。

 

9 家庭を愛し、国をもっと愛さなければなりません。家庭を愛するよりも国をもっと愛さなければならず、国を愛するよりも世界をもっと愛さなければならず、世界を愛するよりも神様をもっと愛さなければなりません。それが真の人生が行く道です。これが人類歴史において行かなければならない標準的な正道です。

 

このように行くことによって、「私」が落ちていくのではなく、家庭を土台として国に、国から世界に、世界から神様まで出ていくことができるのです。そうしてこそ、歴史に孝子が残り、愛国者が残り、聖人が残るのです。その次に神様の息子、娘が残るのです。人間の最後の目的は、神様の息子、娘になることです。そうすることによって、皆さんの欲望が最高に高まり、最高に幸福になることができますが、その幸福は無限の幸福であり、全体のための幸福です。そして、全体が「私」のために、全体が「私」を支持してくれる幸福の場に到達するのです。私たちは、この道に従って直行しなければなりません。

 

10 神様から出発し、神様へと帰っていくのが人類の行く道です。そのように、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙と帰っていくには、真の愛がなければなりません。真の愛がなければできません。皆さんの体と心の統一も、真の愛でなければできないのです。ですから、心は、体のために犠牲になりながら、それを忘れてしまい、また忘れ、また忘れてしまうのです。心は、神様を身代わりした立場なので、師匠の中の師匠です。その心というものは、神様が御自身を身代わりして派遣した「私」の中心です。縦的な「私」です。

 

11 人間が行かなければならない最後の道は、神様の愛を占領できる場所を探す道です。心の欲望は、世界を占領しても、それよりもさらに高い神様がいるなら、その神様までも占領したいのです。その神様を占領したとしても、神様の愛を占領できないときには、神様を失ってしまうかもしれません。

 

ですから、人間の最高の欲望は、世界を征服することでもなく、神様を征服することでもなく、神様を征服して神様の愛まで征服することです。優れている人も劣った人も、誰彼の区別なく、誰でも伝統の道に従っていくようになると、神様を占領することができます。誰でも神様の愛を占領できる息子となり、娘になることができるのです。結局、人間が行く最高の道は、神様の息子となり、娘となる道です。

 

12 「私」が出発する時、母親と父親の愛から出発しました。母親と父親の生命から出発しました。父母の生命と父母の愛が「私」に連結しているので、「母親と父親は私のものだ」と言うことができます。また、父母の立場から見れば、「お前は私の愛の延長であり、私の生命の延長なので私のものだ」と言うことができます。

 

神様の生命力が宿り、神様の愛が宿ったものは、神様の所有物になることができます。

 

堕落した人間の願いは、神様の対象となり、「所有物」になることです。神様の対象になろうとすれば、神様の生命と愛がなければなりません。それが私たちの願いです。それが、死のうと生きようと、人間が行かなければならない道であり、求めなければならない道であり、行って触れなければならない最後の目的地です。

 

13 本来、愛の道は、理想が宿ることができる道です。その理想は、神様が本来、人間を創造された時の創造理想です。愛は、最高に不可思議なものです。人間は、神様を占領しても安息しません。神様を占領したといって、喜んで満足するようになっていないのです。人の欲心は、神様の心のふろしき、心臓の真ん中にある秘密の倉庫の中の愛を願うのです。永遠のこの愛を完全に占領すれば、人の欲心も、そのときには鎮まるのです。人間は、神様の愛を占領するための競技に出場した勇士たちなのです。

 

14 天国に行くには、神様を中心として、愛をすべて集めてから行くのです。家庭の愛を、その次に国家の愛を、その次に世界の愛を集めて天国に行って、神様を中心として一つにならなければなりません。そのように一つになれば、すべてのことが神様を中心として回るようになっています。

 

それでは、人生が行かなければならない所とは、どこでしょうか。孝子の道に従って、忠臣の道に従って、聖人の道理に従って、天の息子、娘の道を経て、神様の愛の場に行かなければなりません。そこに行って定着しなければならないのです。それが人間として生まれた最高の幸福の道であり、最大の完成の道です。すべてのことが、そのように構想されています。

堕落人間が行かなければならない真の人生の道

 

15 神様は、悠久な歴史を善人、善家、善民を通して摂理されました。過去の修道者は、サタンが行けない道を行きました。皆が嫌う道を行きました。心とは何であり、愛とは何であり、真とは何であるかを知るために苦難の道を行きました。これが、人間が行かなければならない道です。

 

16 神様の愛を受けなければならない人間が、祝福を受けて幸福を享受すべき人間が、どうしてこのようになったのでしょうか。希望の道、勝利の人生の道を行くべき人間が、どうして敗北の道、滅亡の道を行っているのでしょうか。人間たちがそのような道を行っているのは自らの責任だと考え、神様に代わって哀切な心をもち、心の中で哀れみの心情が湧き上がる人がいるとすれば、彼の行く道が苦労の道だとしても、彼はそこで勝利することができ、感謝する生活、神様と共に生きる生活ができるというのです。

 

17 堕落した人間が行かなければならない道は、悔い改めの道です。ですから、私たちは、悔い改めの道を求めていかなければなりません。悔い改めない人が国を愛するという話はあり得ず、悔い改めない人が世界を愛するという話もあり得ません。悔い改めはどこで探すのでしょうか。人を通して探します。人を通して探そうとするので、メシヤが必要です。

 

そのメシヤとは、どのような方でしょうか。その方は、友人の中の友人であり、師匠の中の師匠であり、父母の中の父母として現れる方です。その方を心から愛するということは、その方が愛さなければならない世界と、その方が愛さなければならない天地を、愛していく圏内に突入するということです。その方と共に関係を結ばなければ、愛そうとしても愛せないのが堕落の子孫たちなのです。

 

18 皆さんは、すべての精誠を尽くして私たち人類が願い、天が願う真の善の母体となり、父母の中の父母となり、人類の見本になる愛の道理を果たさなければなりません。そのようにできない「私」自身を悔しく思い、悲しみと怒りを感じなければなりません。そして、怨讐の血を受けて生まれたという事実を知り、この汚れた血をすべて抜き取ってしまい、新しく天の前に捧げられる「私」とならなければなりません。

 

どんな受難の道や迫害の道があったとしても、真の「私」の姿を備えて黙々と歩んでいくことができる道があるなら、百回、千回の死の立場も喜びで迎えていかなければならないのが人間の行く道です。この堕落した世の中を否定する道理を経なければ、この道を訪ねていくことはできません。これが宗教の道です。

 

19 私たちは、神様の愛の圏内に生まれました。ですから、間違いなく神様の血統を通して、永遠不変の真の愛の道を行かなければなりません。体と心が分かれて、二つの分かれ道を行くのではなく、心が体を主管できる自制力をもって、自分の人生の道を行かなければなりません。ですから、修道をしなくても、行くべき道を自ら知って行くことができる人にならなければなりません。羅針盤も南北に向かう方向を失わず、ねずみも台風に遭遇して破損する船をあらかじめ知り、綱を渡って陸地に降りる知覚をもっているのに、万物の霊長である人間が、どうしてこのような姿になったのでしょうか。行くべき方向を失ってしまい、目的を知り得ない、凄惨な群像になったというのです。

 

20 人間が行かなければならない道は、個人の方向や、家庭の方向、氏族、民族、国家、世界の方向がジグザグにすべて分かれています。お金に付き従う人、知識に付き従う人、権力に付き従う人、このような人たちはすべてよこしまな人々です。個人から家庭、氏族、民族、国家、世界が、永遠に変わらない一方通行の方向に決定される道が、真の愛の道です。

 

神様が人間を呼んで直ちに「来なさい!」と言う、その道が真の愛の道です。その真の愛の道は直短距離です。真の愛の道は、直短距離なので、まっすぐに行かなければなりません。ジグザグがありません。個人の方向は家庭の方向と、家庭の方向は国の方向と、国の方向は聖人の方向と、聖人の方向は聖子の方向と一致しなければなりません。そのような方向性をかけて一生涯修めていかなければならない修養の道が、堕落した人間が行かなければならない人生行路です。

 

21 堕落した人間は、個人が行かなければならない真の愛の方向を忘れてしまいました。悪魔の世界は、すべて体を中心とするのです。悪魔の愛は、自分を中心とした愛であり、自分だけのために生きなさいという愛です。天の側の愛は、その反対です。全体を中心とする愛です。ですから、死亡に向かう方向は、体が好む所を訪ねていく道であり、生命の天国に行く道は、心が好む所を訪ねていく道です。一八〇度違います。

 

22 生涯において、この地で行くべき道は、正道です。正道とは何でしょうか。個人の正道があり、家庭の正道があり、氏族の正道があり、民族の正道があり、国家の正道があり、世界の正道があり、宇宙の正道がなければならず、神様の正道がなければなりません。このような正道を行かなければならないのですが、たった一つの正道が本然の愛の道です。

 

23  堕落したあとの人間には、恨に満ちた運命の道があります。愛する家族に会うためには、数千万金を一朝一夕にすべて棒に振ったとしても、「お前に会ったことがどれほどうれしいか」という心をもたなければなりません。この体が苦しんで苦痛を感じることがあっても、「愛する兄弟一人を探し出すためなら、どんな所でも意に介さず行かなければならない」という心をもたなければなりません。このような理念を抱いて、イエス様のように地上でみ旨を成就できないで逝くことがあっても、この理念だけのために行こうという人は、必ず神様の愛に接するようになります。

 

24 堕落した人間が経ていかなければならない道は、どのような道でしょうか。この恨に満ちた歴史を退けて、「ハレルヤ、アーメン」と言いながら勝利の勇士として現れ、天宙的な父母に侍る場を経ていかなければなりません。その次に、天宙的な新郎新婦の基準を謳歌する場を経て、天宙的子女を愛する立場を経ていかなければなりません。これが堕落した人間が経ていかなければならない三大過程です。

 

国境が問題ではありません。東洋と西洋が問題ではありません。そのような人であれば父母も頭を下げ、そのような夫婦であればすべてが祝福してくれ、そのような子女であれば全体が頭を下げてために生きてくれるでしょう。そのような時が来なければなりません。そのような所とは、どのような所でしょうか。これから来られる主がいらっしゃる所です。そのような群れが、これから行く所が、天の玉座です。

 

25 人間は、愛の道を行かなければなりません。個人的に行かなければならない道、家庭的に行かなければならない道は、違う道ではありません。愛の道は同じ道です。古今東西を問わず、どんな民族でも、どんな国家でも、その道は同じ道です。違う方向ではありません。個人が行く愛の道でも、家庭が行く愛の道でも、数が多いだけで同じです。焦点はすべて同じ一つの道です。それが神様の愛の道です。

 

人間は本来、神様の愛が根源になって生まれました。皆さんは、本然の父母の愛を根拠として宇宙と連結できる驚くべき愛の道から生まれたのです。たとえ堕落したとしても、その根源は残っています。善を追求し、より価値があるものを追求する基準が残っているので、救援の役事(働き)が可能なのです。また、新しく発展できる起源が、そこから生じるのです。

 

26 神様が天地万物を創造され、人間に子女の権限を賦与して、理想世界、愛の理想を実現しようとした、そのみ旨を失ってしまいました。ですから、復帰摂理において、再創造歴史の過程を、神様の愛と神様の人格を中心として動かしてきました。人間的な愛ではありません。人間的な人格ではありません。神様の愛、神様の人格です。

 

なぜ神様の愛が必要で、神様の人格が必要なのでしょうか。神様の愛をもたなければ、サタン的な愛の世界を超越することができないからです。サタン的な愛がある世界には、神様の愛が介在できません。サタン的な人格の世界には、天的な人格が同伴することができません。神様の愛を中心とし、神様の人格を中心としてのみ、神様と共にすべての出発をすることができ、神様と共に経綸するようになっているのです。

 

27 統一教会は、蕩減法を学ぶ所です。「私」の荷物には、僕の僕の荷物があり、僕の荷物があり、養子の荷物がありますが、この荷物を降ろしていき、万民も引っ張って荷を降ろさせようというのが統一教会です。これが統一教会の偉大な点です。ですから、先生も天理を求め、本郷の愛の世界を訪ねていこうとすれば、この蕩減法を経ていかなければならないので、先生自身が僕の僕の役割から果たしました。先生自身が僕の役割を果たし、先生自身が養子の役割を果たしました。皆さんは、一人で行けばいいのですが、先生は、万物を抱えて行かなければならず、天を抱えてこの道を行かなければなりません。一つの目的に向かってすべての荷物を背負っていく一生を、すべて歩んだのです。

 

 

 

28 堕落した悪の先祖の世界が、地上世界の個人から天上世界の地獄まで門を開いたので、それをすべて撤廃する仕事を真の父母がしなければなりません。それをしようとすれば、世界史的な迫害を受けなければなりません。そのままでは解決ができないのです。打たれて復帰してこなければなりません。打たれてから、必ず損害賠償を請求するのです。善の人が行く道は、打たれて復帰してくる道です。いつも善の人は打たれました。打たれて歴史が過ぎたのちに発展するのです。天地の道理がそうでした。続けて投入するのでそうなのです。投入した人の道は、いつも入力よりも出力が大きいです。ですから、永生作用が続くのです。

 

29 私たちは、サタンと闘って勝たなければなりません。勝てない人は、天に帰っていくことができません。勝とうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。堕落したアダムが問題です。アダムができなかったこと、それ以上のことをしなければなりません。アダムは、神様を絶対的に信じることができませんでした。

 

ですから、アダム以上の人になろうとすれば、神様のみ言を絶対に信じなければなりません。アダムは、神様のみ言を中心として実践できませんでした。これが堕落です。神様を信じることができず、次に実践できませんでした。実践したあとには、神様の愛が連結されます。本来、堕落していない人間が行かなければならない道は、神様のみ言を信じて実践して越えることです。そうしていたならば、神様の愛が待っているのです。神様の祝福が待っているのです。

 

 

第三章 第二節 真の愛の実践

天聖経:第三篇 真の愛  第三章 真の愛の実践

第二節 真の愛の実践

 

1 神様の愛の本質と和合できる内容を備えなければ、善にはなり得ません。愛は、自分が主体的な立場を強調するものではありません。対象的な立場を強調するのです。自分を主張していては、行くことができないのです。「私」一人が孤独になれば、国の主人にはなれません。必ず相対的価値を決定しなければなりません。男性と女性は、必ず家庭で公認を受けることができる人にならなければなりません。これが理想天国における組織の根本思想です。

 

男性が女性に絶対的な公認を受けることができなければ、理想世界で絶対的な公認を受けることはできません。一人の女性に世界的な価値を公認されない男性が、世界的な価値の世界を迎えるというのは矛盾です。そのような価値の世界を堂々と迎えるのに不足のない人、そのような家庭の主人公にならなければなりません。その家庭は、二つではなく一つです。その家庭は、主体になって氏族のために犠牲と克服の生活をしなければなりません。その目的は、自分に置くのではなく相対に置くのです。

 

2 愛の道は、あちらこちらに行ったりはしません。一つの道しかありません。愛の道は、二つの道ですか、一つの道ですか。一つの道です。一つの道だけを行くようになれば、これが通じないところはありません。愛の道は、貞淑な道であり、静かな道であり、司祭が祭事を捧げる瞬間がそうであるように慎重な道です。

犠牲を通した真の愛の道

 

3 人の生命は、愛の理想を中心として宿ったものなので、人間の生命の本質は愛です。ですから、愛を本質として生まれた生命は、神様がそうされたように「ために生きる人生」を生きなければならないのが天理原則です。したがって、人間は、真の愛のために生まれた存在だと言うことができるのです。

 

真の愛は、ために生きるところから始まります。創造本然の人間は、その心と体に神様の真の愛を備え、そのまま感応しながら生きるようになっています。言い換えれば、心は真の愛を中心として神様と感応し、体は自動的に心に共鳴するのです。体と心が闘わない真の統一の起源は、神様の真の愛をそのまま引き継いで体感するところにあるのです。

 

4 神様の愛は、天の国に現れるのではありません。万宇宙、存在世界の前に現れ、人間の前に現れなければなりません。父母の愛も子女の前に現れるのです。夫の愛は妻の前に現れるのであり、妻の愛は夫の前に現れるのです。それが愛の公約であり、愛の行く方向です。その道に従わなければ、愛を成し遂げることはできません。

 

5 神様の愛のためには、神様も犠牲にならなければならず、人類も犠牲にならなければなりません。それが、私たちが行くべき道です。なぜそのように行かなければならないのでしょうか。神様がそのように行かれるので、私たちも神様と一緒に行くには、その道に進み出なければなりません。ですから、その道に行く立場は、「私」個人が家庭で神様と同参できる資格をもつ立場です。その次に、「私」の家庭が氏族と民族と国家と世界と天宙まで同参できる資格をもつ立場です。愛の世界を出発する時から愛の世界を過ぎていく時まで、そのような資格をもつのです。これは、神様の愛を中心として出発し、神様の愛を中心とする愛の方向に常に同参者になったと言うことができます。そうすれば、堕落圏を抜け出ることができるのです。

 

6 愛の道は、自分のために生きることではなく、自分を犠牲にすることです。愛する人の一言を聞けば、十年の苦労も克服できるのです。それは驚くべきことです。愛する夫や愛する妻と約束した一言を中心として、十年どころか一生の間も苦労できるのです。そして、その克服すべきすべての過程が険しければ険しいほど、難しければ難しいほど、悲惨であれば悲惨であるほど、約束した内容の愛は、より高い次元の立体的価値をもつようになるのです。

 

7 夫が妻のために犠牲になる心をもつようになるとき、妻は絶対的なその犠牲の前に、相対になるために、ひたすら努力します。嫌いながら努力するのではなく、心から喜びながら努力するようになっています。ここには苦痛がありません。犠牲はありますが、その犠牲は不幸な犠牲ではなく、甘くて奇妙な味が漂うのです。父母が子女を愛するところには、犠牲が同伴します。犠牲になって代価を払いなさいというのではなく、忘れるのです。与えて忘れるのが愛を通した犠牲です。神様は、今まで万民のためにたくさんのものを与えて犠牲になってきましたが、与えたあとはその犠牲の代価を忘れてしまいました。ですから、右の手がすることを左の手が知らないようにしなさいと言ったのです。何かをあげたのでこれを受けようと考える人は、愛の主人ではありません。与えて忘れる人が愛の中心者です。

 

8 人間は、神様が願う愛の道を探していかなければなりません。悪魔が願う堕落の道を否定し、神様が願う愛の道を探していってこそ悪魔が分立されます。知識があるといって、教理をもっと知っているといって、能力があるからといって、知恵があるからといって分立されるのではありません。愛がなければなりません。キリスト教が今まで残っているのは、犠牲になってきたからです。血を流してきたので残ることができたのです。

 

9 愛の道は、利用される道です。もっと大きな所に向かって利用される道なのです。個人は家庭に利用されようとし、家庭を引っ張って国のところに行って利用されようとする道です。また、国を引っ張っていって世界で利用されようとする道なのです。世界を引っ張っていって天地で利用されようとし、天地を引っ張っていって神様に利用されようとする道が真の愛の道です。

 

10 長い間、耐える道が宗教の道であり、長い間、耐えて犠牲になるのが宗教の道です。忍耐と犠牲で、探し出された偉大な愛の世界のために神様を信じていくのです。神様が「愛」と言うとき、その裏には犠牲が宿り、忍酎が宿っているのです。

 

11 愛する人との愛や父子関係の愛は、季節に関係ありません。自分の愛する人のために涙を流すその涙は、春や夏や秋や冬などの季節を超越します。真の愛は、若い時代、中年時代、老年時代を超越します。永生することができ、永遠に喜び、永遠に幸福になることができる軌道のようなものが真の愛です。世の中に変動が起き、革命が起き、生死の境が変わることがあっても、愛だけは変わりません。いつも、そのような心情的な環境をつくっていかなければなりません。そのような環境を続けるためには、祈りの生活が必要です。そのようにすることによって育ちます。み旨の道を行くところには、愛の道を求めていくところには、監獄が問題ではなく、死が問題ではありません。死を克服し、困難を克服できる道が、真の愛を求めていく道なのです。

 

12 真が永存することができ、時空を超越して永続できる力に連結されるためには、神様の真の愛に連結されなければなりません。私たちは、愛のために犠牲になって相対的愛を立てなければなりません。夫婦を犠牲にして家庭を探し、家庭を犠牲にして氏族を探し、氏族を犠牲にして民族を探し、民族を犠牲にして国家を探し、国家を犠牲にして世界を探し、世界を犠牲にして天地を探し、天地を犠牲にして神様を探し、神様までも犠牲にして愛の道を行こうというのです。神様も犠牲になられるというのです。愛のために神様も犠牲になっていらっしゃいます。

犠牲になる人は中心になる

 

13 愛の道を探していこうとすれば、犠牲になり、奉仕をしなければなりません。犠牲と奉仕がなければ、十の愛をもってきた人が、百、千、万の道を行こうとしても、行くことができません。先祖が悪ければ、十の愛ももってくることができません。しかし、十の愛を持ってきた人も、百、千、万の道を行くことができる道があるならば、そのような道を一度行ってみたいと思うのです。

 

先生は、これを知ったので、ありとあらゆる辱めを受け、監獄に入って死ぬほどの苦痛を受けながらも耐えてきたのです。ですから、民族のために生きて愛することにおいて、誰よりも犠牲になろうとします。愛することにおいても、これくらい愛すればいいだろうと思っていても、先生よりも犠牲と愛の度数が高い人がいれば、先生は、その千倍、万倍犠牲になって愛さなければならないと思うのです。その道を行こうとするのです。そのような先生になってこそ、神様が愛を注いでくださるのです。

 

14 人のために犠牲になるところにのみ、愛の道があります。父母が子女を愛するときに、「私はお前を二十年間勉強させたので、お前は蕩減復帰の原則によって二十年間父母の犠牲になりなさい」とは言いません。自分の代価を計算することなく苦労すればするほど、そしてその苦労が極まれば極まるほど、子女は父母に対して愛の心をもつのです。その代価を要求しなくても、父母を愛さざるを得ないのが子女の本心です。

 

ですから、子女を愛する父母には不孝者がいないのです。父母を心配させる不孝者はあり得ないのです。子女のために犠牲になる父母には孝行者が生まれます。一国の国王が臣下のために犠牲になれば、その臣下たちは、忠臣になるまいとしてもならざるを得ないのです。ですから、愛の道とは、より苦労し、より骨を折れば折るほど、その価値が減少するのではなく、倍加するのです。これが愛の道です。

 

15 犠牲の立場に追いやるのが愛です。それ自体は納得し難いかもしれませんが、倒れて死んで祭物になる背後には、神様の愛が自分も知らない間に積み上がっていくのです。ですから、それを広げて氏族圏を越え、それを広げて民族圏に影響を与え、それを広げて国家の基準を越える日には、新しい国の旗を掲げて世界に向かって進軍できるのです。その目的に向かっていく道が、統一教会の道です。ですから、皆さんは、この国を自分の息子、娘よりも愛することができなければなりません。み旨に従っていく立場では、代表として責任を担って歩むときが多くなければなりません。

 

16 愛の道は犠牲を伴います。それは、相対の愛を完全に占領するためです。相対が完全に「私」と一つになることができ、私に順応できる基盤をつくらなければならないからです。愛のために犠牲の代価を払う人には、愛を中心として完全に一体になるのです。ですから、愛の所在地は自分ではなく相対です。私が優れているので妻や夫が私を愛するのだと考えてはいけません。

 

17 愛の根拠地は、自分自体にあるのではなく、相対にあります。ですから、相対の価値を一〇〇パーセント認めるところにおいてのみ、一〇〇パーセント愛の価値が現れるのです。愛の道では、なぜ犠牲にならなければならないのでしょうか。それは自分のものではないからです。相対という根拠地においているので、その根拠地に完全に一致できる条件を提示しなければ、愛の目的を違成することができません。ですから、完全な愛で愛そうとすれば、完全に犠牲にならなければなりません。完全な犠牲を越えていく愛の道には、完全な統一が展開します。

 

18 犠牲になる人は、必ず中心者になります。家庭において孝子とは、より犠牲になる人です。ですから、家庭の中心になるのです。国の愛国者は、より犠牲になる人なので、国の中心者になります。聖人の中でもより犠牲になる聖人が、聖人の中の中心になります。これが天理なので、この天理の道に厳粛に従っていき、すべての分野で和合できる人にならなければなりません。そうすれば、神様の新しい希望が宿り、神様の愛の力が加重されます。

 

19 愛の道は、犠牲になることによって輝くのです。ですから、聖書に、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)とあるのです。宇宙のすべての戒めの中で、第一の戒めがあるとすれば、この戒めです。これが最も重要な法です。この法を中心として、すべてが成し遂げられるようになれば、それ以外のすべての法度は、この法度の圏内で治められるようになります。

 

このような観点から、神様のみ旨を成し遂げ、神様の創造理想を成し遂げるためには、行かなければならない道があるのです。創造理想は、絶対的な神様の愛と関係を結ぶときに実現されるというのです。

 

20 真の愛の道は、自分と立場を同じくする人たちを犠牲にしてでも、より大きな世界に向かって前進し、手を広げて犠牲になるのです。家庭を中心として見ると、家庭が社会のために存在する時は、家庭を去ったとしても、それは家庭を去るのではなく、そのような位置で社会と共に一つになるのです。息子が成長して相対に出会い、夫婦になれば、父母のもとを去りますが、夫婦になることによって、父母との愛がさらに深くなることができ、子女を生むことによって、さらに大きくなることができるのです。その家庭が社会に出ていけば、さらに大きくなることができ、発展すればするほど、もっと大きくなることができるのです。

 

21 父母が自分だけのために子女を愛すれば、それは偽りの愛です。また、子女が自分だけのために父母を愛すれば、それも偽りの愛です。統一教会は、どのようにしなければならないのでしょうか。真の愛をもった真の宗教であれば、統一教会だけのために愛してはなりません。自分が犠牲になったとしても、父母を愛してこそ孝子であり、自分が犠牲になったとしても、子女を愛してこそ真の父母になるように、統一教会を犠牲にしても、国を愛し、世界を愛さなければなりません。これが愛の法度を立てる最も近い道です。

 

22 私たち個人が家庭のために犠牲になることは、家庭的愛の道を探すためであり、家庭を犠牲にして氏族を探そうとすることは、氏族的愛の道を広げるためであり、氏族を犠牲にして民族を救うことは、民族的愛の道を広げるためであり、民族を犠牲にして世界を救うことは、世界的な愛の道を広げるためです。このように、世界的な愛を中心として神様の愛まで行かなければなりません。このように行かなければならない道が、今後私たちが行かなければならない道です。

 

23 宗教は、個人が犠牲となり、家庭が犠牲となり、氏族が犠牲となり、国までも犠牲にするのです。イスラエルの国も氏族圏を犠牲にしてきました。ですから、世界の国家の中でも、宗教を信じる国家は、今まで犠牲の歴史を歩んできたのです。創造的愛の対象の理念を成し遂げるためには、それが愛の本質的原則なので、その原則を通さなければ神様と一致できる場をもつことはできません。また、神様が主管する愛の理想世界と関係を結ぶことはできません。愛の理想世界と関係を結ぼうとすれば、その原則の伝統を受け継がなければならないので、宗教が行く道は、博愛主義を立てて犠牲を強調するのです。天国と地獄、善と悪はここから分かれます。

血と汗と涙の道

 

24 神様は、今まで私たちを復帰する路程で、サタンと対決してこられました。神様が苦労されたその路程を見本として、私たちもその道を行かなければなりません。分かってみると、神様は、父母の心情と僕の体で、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流して、失われた子女を取り戻すために歴史路程の中で数多くの苦労をしてこられました。私たちもやはり、父母を求めて侍るために、そのような汗と涙と血を代わりに流さなければならず、父母の心情を体恤するために、僕の体で歩まなければなりません。

 

神様が私たちを復帰するために苦労され、私たちもまた神様を求めていくのに苦労する、その路程で結ばれた涙は、私たち個体だけのための涙ではありません。この涙こそ神様が共にいらっしゃる涙であり、その汗こそ神様が共にいらっしゃる汗です。その血と犠牲も個体だけのためのものではなく、神様が血を流して犠牲になる場に同参するためのものなのです。

 

25 神様は、父母の心情をもって僕の体で地上に来られました。万民が涙を流せば神様も涙を流し、万民が汗を流せば神様も汗を流しました。また、万民が死の場に立つ時は万民を身代わりして血を流されたというのです。私に代わって神様が何千万回祭物になられたか分かりません。神様が何度自ら祭司長の役割をされたでしょうか。このようなことを、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界までしてこられ、どれほど苦痛が多かったでしょうか。息子を送ってこの使命を果たさせようとされましたが、それまでも失敗し、神様が息子の使命までしなければなりませんでした。

 

26 死んだ私たちを生かすために、神様が死の道を行かれたので、皆さんは、父母の心情をもって涙と血と汗を流していかなければなりません。この道は、堕落の子孫たちにとっては運命の道です。イエス様がこの地に来て、涙は人類のために、血は天のために、汗は地のために流したのです。過去と現在を歩み、一度に心情的な実体基準を準備したのです。心情的な蕩減をするために、不孝者の立場に置かれている人類に代わって赦しの基準を立ててきました。

 

27 神様と心情的に通じ、神様を心情的に体恤しなければなりません。心情的な体恤をしていない人は、絶対に父の前に行くことができません。イエス様当時のイスラエル民族は、どうしましたか。神様の涙で立て、神様の血で立て、神様の汗で立てた彼らには、神様の心情を通した涙が残っていて、神様の心情を通した血が残っていて、神様の心情を通した汗が残っているにもかかわらず、選ばれたイスラエル民族は、それをすべて忘れてしまいました。

 

28 一片丹心で一つの道を行かなければならない運命にある私たちは、どのようにその道を行かなければならないのでしょうか。知恵で行くことができなければ汗と涙で、汗と涙で行くことができなければ血を流してでも行かなければなりません。私たちの汗を神様の汗として、私たちの涙を神様の涙として捧げなければなりません。血は神様のために、涙は人類のために、汗は地のために流さなければなりません。

 

そうして、神様と地と人類が出会うことができない怨恨の基盤を、一つ残らず片づけてしまわなければなりません。これが、私たちがしなければならないことです。「私」の生活感情が、「神様がするべきことは私がするべきことであり、私がするべきことは地がするべきことであり、私がするべきことは人類がするべきことだ」と言える立場にまで行き、さらには「私」を中心とした天的価値を謳歌することができなければなりません。

 

29 私たちは、生きていらっしゃる神様の存在を知り、サタンがこれ以上この世界を滅ぼす前に人類を救わなければなりません。「私」は、たとえ低い立場から滅ぶ立場に入っていくとしても、統一教会がこの民族と世界人類に提示できる材料をもつことが急務です。先生は、そのようなことを心配しているのです。その材料が必要です。歴史について提示できる材料、時代について提示できる材料、未来について提示できる材料が必要です。

 

それでは、その材料とは何でしょうか。それは血と涙と汗です。心情で通じることができる血と涙と汗、神様に涙を流させることができる血と涙と汗、民族に涙を流させることができる血と涙と汗です。一人一人が、世界の人々がそれを聞くとき、涙を流すことができる血と汗がなければなりません。

 

30 皆さんがもっている最も貴重なものは何でしょうか。それを何の後悔もなく、ためらわずに与えることができなければなりません。皆さんにとって最も貴重な所有物は、皆さんの涙と汗と血です。皆さんは、万物のために汗を流さなければなりません。天のために皆さんの血を注がなければなりません。人類のために皆さんの涙を流さなければなりません。これが原理運動の標語です。私たちは、このようなことを自由に分けてあげることができなければなりません。そうしてこそ、心霊的に一つになることができ、心情的に一つになることができるのです。

 

31 皆さんは、セメントとなり、砂利となり、砂となり、水とならなければなりません。皆さんの血と汗と涙を水に、皆さんの肉は砂に、皆さんの骨は砂利にしなければなりません。そうして、自分自身の基礎を堅固にしなければなりません。そのようにして固めた基盤は創造的なものなので、千年の歴史が過ぎても崩れるはずがなく、一万年の歴史が過ぎても崩れるはずがなく、またどんな団体が千年、万年努力しても崩すことができません。

怨讐を愛することと原理の道

 

32 イエス様は、十字架を背負いながらも、なぜ「怨讐を愛しなさい」と言ったのでしょうか。サタンを屈服させるものは愛しかないからです。神様を中心とした愛は、世界を救おうとする愛です。サタン世界の愛の圏内を奪ってこようというのです。神様の愛の目的は、サタン世界を屈服させることです。救援の目的は、神様が願う摂理のみ旨を完成することです。その摂理のみ旨を完成する骨子が愛です。愛をもってこの世界をサタンから奪還しなければなりません。

 

33 聖書で、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五・四四)とあるのは、悪魔につながった人間を愛しなさいということであって、悪魔自体を愛しなさいということではありません。私たちの願いは永生です。永生は、真の愛の道にだけあります。そのような神様の愛を中心として体と心がために生き、さらにために生きる道を行くようになるときは、そこから統一が起こります。

 

統一は、心が体のために生きるように、体が心のために生きるところからなされます。そのような場で与え合うようになれば、中央を中心として軸に従って必ず統一されるのです。この原則的な愛の軸と水平線が十字になったところに、自分の存在位置があるのです。

 

34 人間は、二つの血統が連結しています。一つは、自分を生んだ歴史的な先祖を中心としてサタンの血統に連結しています。この血統が生じた動機は、自分を中心とする自主的自覚性を採ったからです。それでは、神様の血統とは何でしょうか。自分ではなく、全体のために生きるものです。ために生きる血統です。ですから、傲慢な人は、永遠にサタンの血統圏を抜け出すことができません。その血統圏を抜け出そうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。世界の人は、すべて自分のために生きるのですが、天の側は反対です。自分のために生きようとしないで、全体のために生きているのです。堕落圏を抜け出すための表題は「怨讐を愛する」ということです。

 

35 愛を求めていくときは、心が先に行きます。ところが、相対ができないときには、今まで投入したすべてのものはなくなってしまうのです。ですから、神様は、神様の愛が成立する時まで、はらはらすることを続けていこうとします。中断はできないので、すべての細胞に愛をいっぱいに満たし続けて関係を結ぼうとするのです。そのようにして、完成する時まで続けて投入し、また投入する心をもって創造活動をしていきます。ここに、ために生きる哲学の根本論理があるのです。

 

36 神様が天地万物を創造したということは、自分のすべての愛の心情を投入したことを意味します。そのような神様ならば、そのような心をもった対象が必ず生じなければなりません。そうしてこそ、神様と人間の関孫が形成されるだけでなく、神様の愛が顕現します。そのような人は興隆するようになっています。良心は、このような事実を理論的にはっきりとは知りませんが、「お互いに愛し、お互いにために生きなさい」と言います。そして、宗教は、「人のために犠牲になりなさい」と教えるのです。

 

37 神様がために生きる原則を立てたというのは、空気で言えば、平準化された空気の中で完全真空状態に入っていきなさいということです。絶対真空圏内に入っていけば入っていくほど、高気圧は自動的に低気圧のほうに循環します。神様御自身が愛の相対を求めるために投入して、また投入してみると、その場にいたとしても、自然に戻ってくるようになるのです。このような論理的根拠を中心として、被造物をペア・システムで創造したのであり、前進する次元の高い上部のレベルを通して、人間と神様の理想的な足場をつくるために天地を創造したのです。

 

38 真の愛は、「私のために生きよう」というところにあるのではありません。真の理想、真の幸福、真の平和の基準は、そのようなところにはありません。人のために生きようとするところから始まります。ですから、真の夫婦、真の父母、真の師、真の愛国者は、自分自身を中心として引き込むところから始まるのではありません。自分自身を投入するところから始まります。創造自体がすなわち投入なのです。

 

39 うまくいくようにしようとする人は、まず相対世界がうまくいくようにしなければなりません。このような観点から統一教会では、「人のために生きなさい!」と言うのです。生まれたのは、ために生きるためです。創造は、神様全体の投入ですが、神様も愛を中心として愛のために創造したというのです。

 

世界では、今まで「自分のために生きなさい!」と言ってきましたが、出発から間違っていたのです。父母のために生まれ、妻のために生まれ、夫のために生まれたのです。「私」の生は父母のために受け、夫の生は妻のために受け、妻の生は夫のために受け、兄弟のために受け、この国のために受け継ぎました。そして、世界のために生まれたのです。

 

40 「統一原理」は、アダムとエバが堕落したあとにつくられたのでしょうか、堕落の前につくられたのでしょうか。堕落の前にも原理はありました。その原理の道は、アダムとエバが行かなければならない道です。アダムとエバが人類の祖先として一〇〇パーセント完成し、神様の愛の圏内で一体になれば、誰も離すことができません。神様も離すことができません。救援の道は復帰の道であり、復帰の道は再創造を通して行かなければならない道です。再創造は、アダムとエバが堕落する前の原理原則を適用して、その原理原則に一致できる完成的内容を経て、存在の価値を決定しなければなりません。そうしなければ帰っていくことができません。神様と関係を結ぶことができないのです。

 

41 原理の道はたどっていく道であり、復帰の道は尋ね求めていく道です。蕩減復帰の道は尋ね求めていく道であり、尋ね求めることができれば、今度はその道をたどっていかなければなりません。今までは復帰の道を知りませんでした。今は先生によってすべて解明されたので、復帰路程の原理の道は、そのまま歩んでいかなければなりません。公式路程なので、先祖も子孫もそれを通過しなければなりません。

 

42 原理の道は、人間だけが行く道ではなく、神様もその原理の道を通してこそ、人間に出会うことができるのです。このように、神様も原理の道を行こうとし、また人間もやはり原理の道を行こうと努力しなければなりません。この二者が原理の道を通してこそ勝利の出会いがあるのです。それでは、悪というものは何でしょうか。原理の道を行くことに反対するのが悪です。その道を行くことができないようにするのが悪です。そこに障害物を持ってきて置いておくのが悪です。ですから、原理原則には例外がありません。

 

43 人間始祖のアダムとエバが始祖としての道を失ってしまったので、皆さんがもう一度探していかなければなりません。それで、復帰の道は尋ね求めていく道であり、原理の道はたどっていく道です。原理の道はたどっていく道なので、皆さんは、先生が行く道を行かなければなりません。先生の道は、霊的なサタンと世の中のサタン、すなわち霊肉を中心とする天宙的なサタンと闘って勝利して歩んでいく道ですが、皆さんにはそれがありません。世界的なサタンもなく、国家的なサタンもいないのです。

 

44 天運に乗ろうとすれば、原理の道を行かなければなりません。原則的な道を行かなければなりません。これが先生の生活哲学です。今まで迫書を受け続け、みな滅びると思っていましたが、その滅びる所から跳躍し、より大きな世界へ、より大きな舞台へと発展してきたのです。天が協助することができたのは、天理原則に一致した道を歩んできたからです。

 

45 統一教会の信徒は、先生を通して復帰の道を求めていく原理を知ったので、皆さんは、必ず原理の道を歩んで行かなければなりません。原理の道には例外がありません。祖父も行かなければならず、父親も行かなければならず、自分も行かなければなりません。祝福を受けて生まれた息子、娘だとしても例外はありません。

 

46 復帰の道は尋ね求めていく道なので、先生が今、皆さんの前で尋ね求めているのです。尋ね求めていって実験し、原理の道を切り開いてきているのです。ですから、皆さんは、これをそのまま歩んでいかなければなりません。道案内をする人が海を渡るようになれば、一緒について渡らなければならず、高い山脈を越えるようになれば、一緒について越えていかなければなりません。それを嫌だと言っていては、自分の解放圏を迎えることはできません。

 

47 先生は、今まで、神様に対して一言の不平も言わずにみ旨の道を歩んできました。罪もなく監獄に入っていき、悪事を行う者たちから打たれて血を吐く立場でも、「神様、なぜこのようにされるのですか」と恨んだりはしませんでした。僕が億千万回反対したとしても、息子だけはそのようにしてはいけないのです。反対するサタンがいるのを知りながら、どうして息子が神様に反対することができますか。そうではないですか。死んでも父の側に立って死ななければなりません。あらゆる困難に耐えてきてみると、父に言いたいことがたくさんあるでしょう。しかし、言わないのが偉大なのです。

 

48 皆さんは、どれほど悲惨な路程でも行かなければなりません。先生もそのような道を行った人です。行くときに、世の中のどこの誰をも恨んではいけません。恨む前にこの国、この世界がどのようになるかということと、み旨の行く道を心配しなければなりません。これが復帰の責任者として取らなければならない相応の態度です。皆さんは、そのような心的基準を天の前に立てなければなりません。

 

49 復帰の道は、喜んで行かなければなりません。死の道も喜んで行ってこそ天が訪ねてくるのであって、憂鬱になり、嘆く立場で行くようになればサタンがついてきます。殉教の道も、自分が天国に行くために殉教した人は、天国とは反対の立場にいきます。神様を解放して世界を生かすために「私」が殉教する、このようにならなければなりません。

 

イエス様の生涯は、ローマまで救うための生涯だったので、ローマの兵隊を愛したのです。それで、死んでもローマを愛したので、ローマがキリスト教の懐に入ってきたのです。そこで泣いたりわめいたりすれば、神様の心の中に尊敬する余地がなくなるのです。立場がなくなって、サタンがその場を占めるようになります。それで、み旨の道を行く人は、死んでも不平を言うことができません。不平を言う人を友人にすることは、最も危険です。

 

50 喜びを感じれば、神様が「私」に対して関心をもって神様の愛の圏内に入っていきますが、この喜びをどのようにして実践するかが課題です。すべてのことが喜びであれば、喜ぶ自分自体にとどまることなく、すべての万物と共に和動することができ、それを万物の相対的喜びとして残さなければなりません。信仰生活も楽しく、神様のみ旨の道ですることも楽しくなければなりません。仕方なくやるのではいけません。どれほど難しくても楽しく思い、難しいと感じてはいけません。生活環境でこれを根づかせなければならないのです。

 

51 天宙兄弟主義の共同生活体験を拡大しなければなりません。自分の家族だけで生活してはいけません。四位基台なら四位基台の四家庭、四カ国の家庭が、コンドミニアムのような所で三年以上一緒に生浩するのです。息子、娘だけが自分の息子、娘ではありません。全体を自分の息子、娘のように愛さなければなりません。神様が願う兄弟家庭のような制度をつくって体験することができなければなりません。

 

52 これからは家庭的に訓練するアパートができるのです。文化住宅、アパートです。七家庭以上が生活できる家を造るのです。それで、数カ月ずっ入って共同生活をしながら文化生活ができる、訓練住宅、アパート訓練所ができるというのです。皆さんは、すべてその訓練所を経なければなりません。そのアパートで三代が一緒に住むのです。御飯も一緒に食べ、勉強も一緒にするのです。これが原理です。

 

53 皆さんは、三位基台の三人の夫人同士で一つにならなければなりません。それで今、一つになるように訓練するのです。これからは、十二家庭が一つの家で生活しなければなりません。次には百二十家庭、あるいは千二百家庭がすべて一つの家で生活するのです。一つの町内で生活したとしても争ってはいけません。千代、万代の歴史を動かす伝統を立てなければならない時が、現在の真の父母と一緒に生きる時代なのです。この時代に、その伝統を立てることができなければ、大変なことになります。もし、三家庭の中で、一家庭でも息子、娘を生むことができなければ、息子、娘を生める家庭が、生めない家庭に息子、娘を生んであげなければなりません。

孝子、忠臣、聖人、聖子の道

 

54 孝子が行く道も違い、忠臣が行く道も違い、聖人が行く道も違い、聖子が行く道も違いますが、すべて一つの系統です。一つの系統ですが、何が一つの系統なのでしょうか。世の中で父母を愛することは、孝子一代で終わります。忠臣もその一カ所だけで終わるのです。しかし、真の愛を中心とすれば、その方向は永遠に残ります。その先祖を中心として立てた基盤があれば、その基盤は、自分の子孫が守ることができない時もいつも残され、その基盤で功を立てれば、そこで積み重なって上がっていくことができます。ですから、真の愛を中心とする方向性をもって、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を行えば行うほど、そこには発展があるだけで、後退はありません。

 

55 皆さんは、神様が願われるように、家庭で孝子になろうという考えや、国家で忠臣になろうという考え、世界で聖人になろうという考え、そして天地で聖子になろうという考えをもってみましたか。歴史的に見るとき、すべての聖人は、孝子となり、忠臣、聖人、聖子になりなさいと教えてきました。これを教えない宗教は、宗教として歴史に残ることができません。いずれにしても、これは人間の宿命です。宿命は、父子関係のようなものをいいます。宿命は分けることができません。運命は代わりを置くことができますが、宿命はそれができません。

 

56 孝子という名称をもってみ旨の道を行ってこそ、勝利者になることができます。六千年の罪悪の歴史に責任を担うという覚悟のもと、神様のみ前で従順の王子、服従の王子とならなければなりません。イエス様が、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言ったように、孝子の基準を立てたあとに、「サタンがついに私たちの前で屈服しました」と言ってこそ、天国に入ることができるのです。そうすることによって、先祖となり、実体の先祖となり、心情の先祖となり、み言の従順の先祖となり、血統の先祖にならなければなりません。

 

57 孝子は、自分の一身を無視し、自分に属する妻子を無視して、父母のみ旨に従わなければなりません。それが孝子の道理だというのです。ですから、み旨が行く道は、愛が行く道です。「私」個人よりも大きなことを先に愛する道がみ旨の行く道であり、愛の行く道だというのです。

 

58 孝子とは、父母に対して愛を中心として節操を守る人です。忠臣は、国を愛する人であり、聖人は世の中を愛する人です。聖子は、天の国の王宮圏までも愛する人です。ですから、これからみ旨を抱く人として世界に名をはせながら、万民からあがめられることを希望としてみ旨の道を行こうとすれば、苦労する道で、誰よりも輝く闘士にならなければなりません。

 

59 国のために土地を売るのが忠臣の行く道です。国のために牛や豚を売るのが忠臣の行く道です。息子、娘を学校に送ることができなくても行く道が、忠臣の行く道です。自分の肉を切るほどに千辛万苦の生を生きながら、国を愛し、後代のために闘おうというのが愛国者の行く道です。

 

60 国のために自分の一族と一家を犠牲にしても行こうというのが忠臣です。自分の不幸と不便を顧みず、夫のために愛の心をもって犠牲になるのが烈女です。父母のために愛をもって犠牲の道を求めていくのが孝子です。それが原則です。良いものには、必ず犠牲が伴うようになっています。自分を否定することが犠牲です。完全否定は、完全犠牲です。

 

61 国民が行かなければならない真理の道は、国の中心存在のために、変わることのない愛を求めていく道です。その道が愛国者の道です。国民は愛国者の道を行かなければなりません。次に人類が行かなければならない真理の道が聖人の道です。聖人の道を行かなければなりません。自分の一国を超えて万民を同胞のように、兄弟のように、自分の相対のように愛していくことが、世界に向かっていく真理の道です。

 

62 世の中には、家庭のために忠誠を尽くす人もいて、社会のために忠誠を尽くす人もいて、国家のために忠誠を尽くす人もいます。国家のために忠誠を尽くす人は、国家理念を後代に残すときに、一つの伝統の条件を立てることができます。しかし、この地と、この世界のすべてのものは、いずれ一度、審判台に立たなければなりません。これを越えるためには、一民族のための忠臣ではなく、一父母のための孝子ではなく、満天下の王の中の王、主人の中の主人、万有の父である神様のみ前で忠臣となり、孝子となりなさいと、宗教では教えています。これが宗教の道理です。

 

63 愛国者とは、国のための忠臣のことをいい、聖人とは国境を超えて世界人類を愛する人のことをいいます。ですから、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天地に対しては聖子の道理を守らなければなりません。イエス様のように、天の宮殿法と天国の法を愛で連結できる個人にならなければなりません。

 

この道は、すべて直線です。悪魔の愛は、この道とは反対に行くのです。ですから、サタン側の習慣と天の側の習慣は、一八〇度異なります。サタン側は、自分を主として投入しなさいという歴史的性稟をもち、天の側は、相手のために投入しようという歴史的性稟をもってきたので、そのように投入した人が主人になるのです。

 

64 聖人と忠臣は何が違うのでしょうか。忠臣は国家を超えることができませんが、聖人は国家を超えています。自分の国だけを愛するのではなく、人類と世界を中心として、すべての受難の中で自分の生命を飛び越えて人類を愛した人が聖人です。

 

65 キリスト教でいう聖人とは、イエス様のような人を言いますが、聖子は、天の国のすべての愛の圏内と歴史を代表し、地上世界の人類の愛の圏内を代表するのです。それだけでなく、天国と王宮の王権を中心とした内外の内容を備えた愛をもって生きようとした人が聖子です。

 

ですから、聖子と聖人は違います。聖人は、一つの世界を備えることができず、漠然と全人類を同胞愛で愛そうとした人であり、聖子は、天と地、地上天国と天上天国を中心として愛するのです。その主体は永遠でなければなりません。国家の国民は一時代を経ていきますが、その主権は永遠を代表します。天の国の王権を中心として最後まで愛そうとした人が聖子です。

 

66 聖子の道とは何でしょうか。人間世界だけではなく見えない霊界にも通じて、全宇宙を代表して伝統的忠孝の道を行くのが聖子の道です。ですから、聖人の道の愛を犠牲にして、それ以上の愛の道を立てようというのが聖子の道です。イエス様は、この地に来て聖子の法と道理に従う道を知ったので、怨讐までも愛そうとしたのです。

 

67 聖人は、世界を愛する人々です。宗教指導者たちは、すべて聖人の道理に従っていきます。千年、万年の歴史を超えて国境を克服していきながら、世界を愛する道です。次にイエス様のような聖子とは何でしょうか。神様を中心として、天国と天国の王権を愛する人です。

 

68 家庭で父母のために愛する人は孝子であり、国のために愛する人は愛国者であり、世界のために愛する人は聖人です。先生は、神様と世界と宇宙のために愛する聖子になりなさいと教えます。聖子になろうとすれば、神様のような愛を心にもたなければなりません。

 

69 人類歴史は、何を通して綴られてきたのでしょうか。堕落した世の中であっても、人倫道徳を中心として綴られてきたのです。その道徳の中心が愛です。父母の前における孝子とは、父母をより一層愛する人であり、国の前における忠臣とは、より一層国を愛する人であり、国を越えて世界の前に愛を教えようとするのが聖人の道です。世界を自らの家庭よりも、自らの国よりも愛そうとするのが聖人の道理です。聖子の道理は、天と地のすべての法よりも、王宮法を中心として「最高の愛を実践しなさい」と言うのです。愛を中心として、すべてのことがこのようになるのです。

 

70 孝子は、忠臣になれば自然になります。忠臣になるときは、千人、万人の孝子の上に立つのです。また、忠臣ではなく聖人になれば、忠臣何千人がなした基盤があったとしても、聖人の立場に吸収されます。聖子は、神様の息子です。数多くの聖人がいたとしても、聖子の道を行くようになるときは、聖人はそこに順応しなければなりません。愛さなければならず、ために生きなければなりません。孝子の道、忠臣の道、聖人の道、聖子の道を行く人は、どのような人でしょうか。自分の命よりも、自分の妻子よりももっと大きなものを愛して、ために生きて生活しようとする人です。

 

71 聖人がすべて聖子になるわけではありません。神様の息子になるのではないのです。聖子にならなければなりません。どれほど国王を愛し、国民を愛したとしても、聖子になるためには、天国の王宮法を知らなければなりません。王宮法の支配を受け、そこに拍子を合わせることができるたった一つの法を知らなければなりません。

 

72 地上で忠臣の資格を備えなければならず、世界を代表する聖人の資格を備えなければならず、天地を代表する聖子の資格を備えなければなりません。聖子とはどのような人ですか。天国の王宮法まで守ることができる人が聖子です。イエス様を聖子というのもそのような方だからです。

 

孝子は、ために生きる愛をもって家庭と国家と世界のために、愛を中心として全生涯を投入しなければなりません。聖子の道のためには、自分一代だけではなく、数百代を代表した立場で投入し、霊界の善の霊たちを地上に再臨させて自分に協助させることができる基盤を、どれほど幅広くして国家を超えた影響を及ぼしていくかということが問題です。ために生きる愛をどれほどもっていくかということが、天の国での等位決定の基準になるのです。

 

73 聖子の道は、天国の王宮法も知り、地上世界の王宮法をすべて知って、ここに合わせて生きようとするのです。そのようにするのが天国の王子の道理です。神様がそのようにされるので、その神様の父母の心情を受け継ぎ、その王権のすべての心情を受け継いで、夜も昼もそのように生きようとする息子が真の息子だからです。聖子の歩みは、今日の家庭から天上世界にまで曲折の道を行くのではなく、直短距離で連結される愛の道を行くのです。

 

74 聖人は、世界人類のために犠牲になって行く人であり、聖子は、神様を中心として世界の人々のために、神様のように生きていく人です。歴史的な聖人は、今まで世界の人々のために死んでいった人であり、神様の息子である聖子は、神様にも忠誠を尽くしますが、神様のように万民のために生きていく人です。このように、聖子は聖人とは違います。

 

真の孝子は、自分の父母のために生きるように兄弟のために生きていく人であり、真の忠臣は、国王のために生きるように国民のために生きていく人です。真の聖子、神様の息子、娘は、神様のために生きるように、神様に属したすべてのもののために生きていこうとする人です。

 

 

第三章 第三節 真の父母の真の愛

天聖経:第三篇 真の愛  第三章 真の愛の実践

第三節 真の父母の真の愛

 

1 神様の愛を体恤した人には、艱難や迫害は問題ではありません。先生は、今まで迫害を受けながらも堂々と出てきました。世界の問題をすべて克服して、皆さんと向き合うのは、ほかでもありません。神様を知ったからです。神様の愛がどのようなものかを知ったからです。真の愛の道を誰が遮ることができますか。人間の男女の愛の道も遮ることができないのに、人間の根本であられる神様の愛を感じた、その愛の道を誰が遮ることができますか。誰も遮ることはできません。

真の父母が歩まれた愛の道

 

2 先生の経歴を話そうとすれば、事情がいろいろあるのです。先生は、失望する立場で失望せず、卑屈になる立場でも卑屈になりませんでした。先生は、平壌で経験したことをはっきりと覚えています。平壌で鉄の鎖をぶら下げて刑務所に向かいながら、食口に元気でいなさい」と手を振った、その時のことがいつも忘れられません。

 

他の人々は、刑務所に入っていく時に、失望と絶望の中で入っていきましたが、先生は、かえって希望をもって入っていきました。神様は、獄中でどのような人に会うかを知らせてくださったのです。神様は、先生のおなかがすいたとき、人を動員して御飯を持ってこさせ、食べさせてくださり、語らなくても大勢の人々が従うという、歴史的な生きた実証を見せてくださったので、先生は常に自信満々でした。

 

3 先生の一族は、み旨の道ゆえに犠牲になりました。父親、母親、兄弟がすべて犠牲になりました。先生の一族を犠牲にして、反対する皆さんを愛したのです。自分の一族を犠牲にすることによって、何も関係がない怨讐の家族を愛し、また自分の一族を犠牲にした代価として、彼らを取り戻そうとするのが「統一思想」であり、神様の思想です。ですから、神様は、自分の息子、娘、自分に最も近い民族を犠牲にしながら、怨讐の国と、怨讐の民族を愛されるのです。

 

4 先生は、歴史上の辱めをすべて通過してきました。み旨の道を正しく立てるために、どれほど辱めを受けたか分かりません。ある一人の女性を伝道するのに、一年八ヵ月以上かかったこともあります。その家に入っていって、その夫の迫害を受けながらも、その夫と一緒の食卓に座って御飯を食べながら伝道しました。原理を正しく立てるために、男性としてそのような最悪の侮辱の路程を通過してきました。

 

5 先生は、神様に侍るとき、先生自身のことを考えたことはありません。「神様は、どうして愛する息子だと言いながら、生涯このように苦労ばかりさせるのか」と考えたことはありません。かえって先生が同情しなければならない神様だと考えました。刑務所に入れられる立場でもそうでした。み旨の道を行くためのその一歩から、「このように生命が残っているので感謝です」と、かえって神様を慰労してさしあげました。今日の統一教会の伝統思想を保ってきた歴史的蕩減基準を残すために、そのような道を歩んできたのです。これは、誰かが侵犯しようとしても侵犯することができません。父なる神様以外には侵犯することができません。

 

6 み旨の道を行くときに、愛を骨としてどこでも行く人は、天地が保護するでしょう。監獄にいたとしても敗者ではありません。先生は監獄に入ったからといって、「父よ、あなたの愛する息子が監獄に入ったので、恨みを晴らしてください」とは祈りませんでした。「神様の愛の垣根がまだ崩れていないので、監獄の道が残ってしまいました。私の体と心を、紅海を分けたモーセの杖で打ってください。肉が引き裂かれ、骨が折れても私は行きます。私はまだ死んでいません」と祈りました。

 

7 先生は、み旨を成し遂げる前に疲れることはできません。神様がどのような立場にいらっしゃるかを知っているからです。そのような意味で、先生と皆さんは違います。皆さんがすべてこのみ旨の道から落ちてしまったとしても、先生だけは絶対に落ちることはできません。皆さんは、世の中に流れていきたければ、この道を離れることもできますが、先生はそうすることができないで、一人その道を歩んでいます。

 

8 先生は、今まで多くのことをしました。多くのお金も投入しました。しかし、先生は、お金を稼ぐために投入したのではありません。先生は、名誉のために働いたのでもありません。ただ神様を悲しみと苦痛から解放してさしあげるために、真の人類の平和のために血と汗と涙を流してきました。人間が個人的にも、家庭的にも、国家的にも、世界的にも、まず神様を悲しみと苦痛から解放してさしあげて、喜ばせてさしあげなければ、人類の真の平和はあり得ません。先生は、これを徹底して悟り、実践してきました。

 

9 先生は、実子を犠牲にしてこの道を来ました。この道を出発するとき、先生は、父母、一族に先に世界の福をあげようとは思いませんでした。忠臣の行く道は、国を愛することによって国と一つになり、そうしてから家庭を訪ねていって愛するのです。それが忠臣の行く道です。聖人が行く道は、自分の国を捨てて世界の人を訪ね、世界の人と共に国のために生きる道を紹介してあげるのです。聖子の道は、天の国の王子としてこの地に生まれ、天法をすべて遂行してから、天の国と共に愛そうというものです。

怨讐に対する愛

 

10 先生の生活の中には、旅人のような行路がたくさんありました。暗闇が迫ってくる夕陽の光を受けて歩む旅人のような道もたくさん歩いてきました。リュックを背負って「愛する妻子を残して、私は行かなければなりません。行かざるを得ません」と祈った時を、先生は今も忘れられません。勝利すれば忠誠の道であり、勝利できなければ怨讐にならざるを得ない岐路で、先生は、「神様に出会うまでは妻子を愛さない」と祈りました。世界を生かすためには、このような血のにじむ路程を行かなければなりません。そのような覚悟がなければ、真の世界を成し遂げることができないのです。そのような立場でも、自分の妻子、自分の一族を抱いて涙を流すのではなく、取り戻さなければならない未来の大きな世界を抱いて涙を流さなければなりません。

 

11 リユックを背負って歩む旅人の行路には、近道はなく、平坦な道はありません。血と汗を流して訪ねていかなければならない困苦の道です。旅人の行路を歩み、天の道を求めていく青年の姿は、追われ追われる一匹の羊と同じです。訪ねていくその道で流す涙は、「私」の涙ではなく、私を通して流す神様の涙なのです。

 

12 聖書を見れば、最初の愛を失ってはいけないとあります。先生は、今まで復帰摂理に責任をもち、多くの逆境を経験してきながらも、神様との最初の愛を失いませんでした。誰が何と言ってもそれは否定することができず、私の生命が引き裂かれることがあるとしても、それは否定できないと考えながら来ました。これは、神様が御存じです。

 

先生は、神様を見れば胸が張り裂けます。神様の事情を考えれば、天のみ旨に反対する三千万の民族が憎く思うこともあります。しかし、そのように考えても、神様が今まで復帰摂理をされながら耐えてこられたことを思うと、恥ずかしい気持ちになるのです。このようにして先生も耐えてきたのです。

 

13 神様がもし、堕落した人間を呪っていたなら、人類の前途は塞がれていたでしょう。しかし、そのようにされなかったので、人類歴史に救援摂理の希望が残っているのです。それと同じように、先生もその伝統と愛の心を受け継いだので、怨讐が先生を死の道に追い込んだとしても、今まで彼らのために祝福の杯を注いであげ、良くなるように祝賀してあげました。これが統一教会の師がもってきた思想であり、皆さんが何年間も先生に侍りながら、見て、経験した事実であることを否定できません。

 

刀を抜いて怨讐の立場に立っているこの国の三千万民族の頭を打ち、その胸をずたずたに引き裂いたとしても解けない、天の恨を抱いている先生ですが、愛の道は、そのような人をもっと愛さなければならない道であることを知っていたので、その人々のために、先生が抱いてきた神様の愛はこのようなものだと、説明だけでもしなければならないのです。

 

14 先生は、この道を歩んできながら、激しく打たれました。考えてみれば無念です。無念なことがある時には、すべてを取り替えてしまいたい思いがする時もあります。しかし、神様を考える時は、怨讐がかわいそうだというのです。この怨讐に対してまだ未練があり、この者たちを愛さなければならないと希望をもってきた神様の姿を考える時、慰労してさしあげざるを得ません。子女が打たれて帰ってきた時、涙を流されていた父の恨を解いてさしあげなければならない道が忙しいというのです。

 

ですから、近所の犬がほえようがほえまいが、岩が転がろうが転がるまいが、私の行く道が忙しかったのです。これが統一教会の先生が行く道です。先生は、今まで数十年間を捧げてこの道を歩んできました。日本の統治下の時からこの道を歩み、反対を受けて監獄にも行き、行く所ごとに追われ追われて排斥される、哀れな身の上になったりもしました。それでも、サタンを恨まずに、ただその環境を嘆きながら歩んできたのです。

 

15 皆さんは、イエス様が弟子たちの足を洗ってあげたことを、聖書を通して知っているでしょう。皆さんもそのような伝統を立てなければ、彼らを糾合することができません。先生は、そのようにしてきました。先生は、怨讐の子女が御飯を食べられないといううわさを聞いた時、下着と一枚の布団だけを残してすべて持っていってあげたことがあります。そのようにして、下着だけ着て、一枚の布団だけをかぶって一週間過ごしました。

 

そして、あとになって、一枚残った布団まで彼らのために売りました。なぜそのようなことをしたのでしょうか。先生が愚かでそのようにしたのではありません。復帰の道を行こうとすれば、怨讐を愛したという絶対的な条件を立てなければならないからです。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五・四四)という聖書のみ言を実践しなければならないので、そのようなことまでしたのです。

 

16 神様は、誰を見て統一教会を協助されるのでしょうか。皆さんは、「私を見て協助してください」と言うことができる人にならなければなりません。「神様は、私のために協助される」と言うことができる生活をしなければならないのです。「私を中心として、神様が協助される、そのような人にならなければならない」、これが先生の生活哲学であり秘密です。神様が、「あなたゆえに、大韓民国を愛さざるを得ない」とおっしゃることのできる人にならなければなりません。このような責任者にならなければならないのです。

 

ですから、皆さんを見て、神様が統一教会を後押してくださるかということが問題です。怨讐を憎んではいけません。また、怨讐が滅ぶのを見て、喜んでもいけません。もし、神様が、怨讐が滅ぶのを見て喜ばれたなら、この世界は残ることができないでしょう。神様は、サタンまでも憎むことができないので、先生もそのようにしているのです。

 

17 神様を愛し、世界を愛し、国を愛することができないことが恨になって涙を流す時、神様が涙を流しながら「そうか、そうか、そのようにできる日を迎えさせてあげよう。お前の願いがそうならば、そのような日が来るだろう」と慰労を受ける皆さんにならなければなりません。そうしたあとにこそ、氏族を愛し、家庭を愛し、最後に自分を愛することができるのです。これが、今まで神様の摂理歴史において、人間がもたなければならない中心思想でした。

 

18 先生は、神様の悲しかった歴史的な事情を知りました。イエス様をあのような運命の場に送った神様の心情を知りました。ですから、先生は、どのように天のみ旨に自分を捧げるかを考えました。民族と世界から嘲弄されて追われながらも、どのようにしてでも神様のみ旨の前に怨讐の群れを取り返すために、誰よりも愛してあげました。愛するだけでなく、福を祈ってあげました。そして、私の息子と娘がいるなら、「私の代わりに怨讐たちを祝福してあげ、愛してあげてほしい」と私の子女に遺言を残すことを考えました。これが先生の願いであり、そのようにできるように道をつくってきた先生です。

カイン圏への愛と実践

 

19 先生の母親は、私をとても愛しました。十三人の子供を生みましたが、八人だけ生き残りました。息子は二人だけで、娘が六人でしたが、その中でも母親は、先生を一番愛したのです。そのような母親に、精誠を込めた手拭いの一枚も買ってさしあげられませんでした。天に従っていかなければならなかったからです。母親のために精誠を込める以上に、世の中を愛さなければならなかったからです。そうしなければ、愛の強盗になります。詐欺師になるのです。

 

それで、先生は、母親よりも世の中をもっと愛さなければならず、妻子よりも世の中をもっと愛さなければなりません。自分に矢を射ってきた怨讐は愛することができなくても、その怨讐の息子、娘は愛さなければなりません。神様の摂理は、天使長を愛せなくても天使長の子孫を愛して復帰することなので、私たちは、サタンに属している息子、娘を愛さなければなりません。

 

20 先生が千辛万苦の末に探し出した霊界のすべての秘密の内容は、宝物の中の宝物であり、何とも取り替えることができない貴いものです。ところが、これを愛する父母、兄弟と共に分かち合うことができないのですから、どれほど恨めしいでしょうか。母親をあとにして出発するとき、涙を浮かべながら心の中で「お母さん、ひとたびこの家を出発すれば、再びお会いすることができない道に行くことをお許しください」と挨拶を捧げて母親と別れました。

 

その母が、先生が監獄に入っている時に訪ねてきて、とめどなく涙を流しました。しかし、先生は、その母親に一言の慰労の言葉も掛けてあげることができず、かえって涙を流している母親に「小心者の息子を生んだ母親ではなく、立派な男を生んだ母親になってください」と言いながら、涙を流さないように言いました。先生は、このような歴史をもっているのです。

 

21 皆さんは、息子、娘を愛する前に、サタン側の息子、娘を愛さなければなりません。サタン側の息子、娘を愛したという条件を立てなければ、自分の息子、娘を愛することはできません。先生もそのような運命にいたので、自分の子女をすべて捨てて、三十八度線の以北にふろしきを包んで出掛けたのです。怨讐の国家に行って大勢の人々を愛したという条件を立てて、再び帰ってこなければいけませんでした。怨讐の国家を屈服させて帰ってこなければいけなかったのです。

 

22 先生は、三十歳になるまで服を自分で買って着ることができませんでした。お金がなかったからではありません。私が指導している息子、娘たちがいますが、私が精誠を尽くして何一つもしてあげることができなかったからです。私の心を尽くし、精誠を込め、愛する心で子女たちにそのようにしてあげてから、服を買って着たいと思うのです。これが修道の教えであり、父母の心です。先生は、そのような立場を備えることができなかったので、服も買って着ることができませんでした。

 

また、先生は、三十歳になるまでおなかがすかない日はありませんでした。先生がお金をもっていなかったからではありません。お金はありましたが、そのお金を先生のために使いませんでした。病気にかかって道端で横たわり、家に帰ることができずにいる人がいれば、力を全部投入して、千里以上の道を背負っていきながら助けてあげたというのです。

 

23 先生は、今まで統一教会を訪ねてくる人々が、きちんとした服を着ることができずに継ぎ当てた古い服を着ていれば、服を買うお金をあげました。先生は、息子として父親と母親に一着の服も買ってさしあげることができませんでした。ですから、どうして父母にあわせる顔があるでしょうか。

 

食べることができずに青白い顔をしている人を見れば、食べるものがあっても、喉が詰まって食べることができませんでした。

 

その後も、その人のことが頭に浮かんで喉が詰まり、食べることができないのです。おいしいものがあれば、喉が詰まって食べられず、その人にあげたいと思ったというのです。どれほど不器量な人でも、先生を訪ねてくる人には感謝し、百回でもお礼をしたのです。

獄中生活と真の愛の訓練

 

24 今まで先生は、獄中でも生活をした人です。今まで数度にわたつて監獄生活をしましたが、その獄中生活が先生にとって悲しみとはなりませんでした。そこは、先生には二つとない最高の道場でした。人間を本当に愛することができるか、怨讐を本当に愛することができるか、死刑囚と鼻と鼻を突き合わせ、同じ空気を吸うことができるかということを考える道場でした。

 

そして、そのような場で、この民族の恨を感じ、情熱をもって社会の不正を辛辣に批判できるかということを考える良い道場だったのです。そこから私たちの教会は出発しました。そのような場でも、人間が備えなければならない基準、神様が提示した人格的基準を喪失することなく、どれほど困難な環境でも克服できる一つの源泉的な実体をどのように収拾するかということを、今まで必勝の生活哲学としてきたのです。

 

25 獄中の受難の中で、むちを受けて血を吐く拷問を受けながらも、先生は、むち打つ怨讐を恨みませんでした。真の神様は、御自身が最も愛する息子を犠牲にしても怨讐を救いたいと思われ、それだけでなく、最も貴い記念品までもその怨讐に与える方です。これが正に神様の愛です。むち打つ怨讐のために、涙を流して祈らなければならないのが神様の道理です。それで、先生は、今までそのようなことをしてきました。

 

26 先生は、二十四歳から監獄生活をしました。拷問を受けて鼻が折れ、頭が割れ、首が折れるような場でも、鉄石のような信念をもち、この国に対して絶対に屈服しなかった男です。「いくらでも棍棒で打ってみよ。私の体が壊れるのではなく、棍棒が壊れるだろう。指を切ってみよ。どんなひどい拷問をしても屈服はしない」と考えながら耐えた男です。心情の骨髄に宿った事情、その誰も解くことができない事情を抱えた立場に、涙のにじんだ父の愛が込められていることを知りました。いまだに人が知らない深い谷間で、ひっくり返さなければならない峠道が残っているのです。

 

27 先生が、監獄にいる時、母親が訪ねてきましたが、そのまま帰しました。先生は、そのようにしなければなりませんでした。先生は、先生の兄弟に決して会いませんでした。先生は、兄弟、家庭、親戚を犠牲にして新しい人々を探そうとし、先生の父母、兄弟、また親戚を愛した以上に、皆さんをもっと愛してきたのです。神様がそのような方だからです。神様は、その息子を犠牲にして全世界を救おうとされました。神様は、ひとり子の生命まで犠牲にしなければなりませんでした。そのようにしてでも、全世界を救援しようとされました。先生もそのような手本に従わなければならなかったのです。

 

28 監獄で先生は、先生に従う多くの人々に会いました。彼らは、先生に従いなさいという啓示を天から受けて、そのようにしたのです。しかし、先に先生に従った人々は、「神様が愛する人が、どうして監獄に入っていくのか」と疑いを抱くようになり、それ以上先生を信じることができず、散り散りばらばらになりました。イエス様も十字架に架けられた時、十二弟子を失いました。

 

それで、先生は、監獄で彼ら十二弟子を復帰しなければならなかったのです。監獄にも囚人に変装したたくさんの共産党のスバイがいました。それで、先生は、監獄で一言も話すことができませんでした。しかし、霊界が人々に証をして先生についてきたのです。先生のおなかがすいたとき、先生が知らない多くの人々が、先生におにぎりを持ってきましたが、彼らの先祖たちが夢に現れて「先生に持っていきなさい」と話したからです。

 

29 神様が先生をどれほど訓練されたか分かりません。先生には、神様が愛の神様ではありませんでした。考えるだけでも残酷です。世の中の商売人のような心をもったなら、もう既に逃げ出していたでしょう。み旨のことは考えもせず、神様がまた来るかもしれないと思って、はるか遠くに逃げていたでしょう。

 

神様は、先生が監獄に入っていって苦労する時、最も多く愛してくださったのです。そのような場に行ってみると、「ああ、神様は、私を愛していらっしゃるのだなあ!」と知ることができます。ですから、監獄に入ったとしても、それが嫌ではありませんでした。ですから、統一教会の教会員は苦労しなければなりません。監獄や拘置所に入っていってでも苦労しなさいというのです。神様に出会うことができる場所とはどこでしょうか。最も深刻でつらい場所で神様に出会うことができるのです。

国と世界のための不断の投入

 

30 この民族のためにどれほど涙を流したかといえば、先生は、どの愛国者よりも多くの涙を流しました。先生が日本留学に出発した一九四一年四月一日の早朝二時に、釜山の埠頭で韓国を見つめながら祈ったことが忘れられません。そして、「今、私は祖国を離れるが、祖国であるお前をより一層愛し、お前のためにより多くの涙を流そう」と約束したのです。

 

目本に行っても、おなかをすかせた友人に会うと、先生は、自分が空腹になっても彼に食べるものをあげ、おなかをすかせた苦学生に会えば、抱き締めて痛哭しました。彼らに食べるものがない時は、彼らに食べるものを準備してあげるために学生服を脱いで埠頭で働き、石炭を運搬したりもしました。先生がそのような若い同志を愛するために闘ってきたことを知らなければなりません。先生に会った人々は、誰よりも私を親しい友人と考えました。

 

31 先生は、今まで誰を愛したのでしょうか。妻子と父母は愛しませんでした。世界を愛し、国を愛しました。世界を愛し国を愛そうとすれば、民族と氏族を愛さなければなりません。天が愛したかった国をこの地上で愛さなければならず、天が愛したかった氏族をこの地上で愛さなければならず、天が愛したかった家庭をこの地上で愛さなければなりませんでした。先生は、世界万民のために愛の涙をたくさん流しました。それは、天が公認するでしょう。この国のためにも、愛の涙をたくさん流しました。先生は、民族を誰よりも愛し、氏族を誰よりも愛しました。

 

32 新しい思想を抱いたこの男は、かわいそうな韓国の地に生まれました。かわいそうな韓国で生まれ、ひどく苦労し、ひどく冷遇され、ひどく追われて今まで来ました。皆さんは、そのままのんびり座って「自分は運勢が良くてここに来ている」と考えてはいけません。しっかりと目を覚ましていなければなりません。

 

皆さんがいい場所で幸福の鼻歌を歌って生活する時、先生は、ある農家の軒下で雨を避けながら、み旨のために涙を流しました。肌寒い日にも冷たい風とみぞれに当たり、乞食のような身の上となり、道をさまよいもしました。それでも、民族と世界のために闘いました。ですから、皆さんは、電車やバスに乗るとき、そこに薄汚れた服を着た青少年がいれば、彼を冷遇しないでください。師がそのような道を歩んできたのです。

 

33 先生は、卑賤な家門から生まれた人ではありません。苦労の道を行くように生まれた男ではありません。しかし、苦労しなければ復帰の道を開くことができないので、そのような道を行かざるを得なかったのです。先生には、民族全体を愛したいという切実な心があり、世界人類を愛したいという切実な心がありました。神様を痛哭させて民族を愛することができる縁を結びたいと思い、世界を愛することができる縁を結びたいと思ったのです。このような縁を、この三千里半島(韓半島)の荒廃した地で結んでおいたので、これから世界が「統一思想」を中心として、韓国の地を祖国として歓迎できる日が来るでしょう。

 

34 先生は、故郷も捨て、国も捨て、韓国教会もすべて捨て、追害を受けて悪口を言われながら、追われる歩みを今までしてきました。私たちは、追われ追われて発展するのです。私たちは、絶望的な人々ではなく希望的な人々です。何をもってしても切ることのできない絶対的な愛で一つになった人々なので、私たちを占領する人はいません。愛だけがすべての勝利をもたらすことができるのです。愛がある所に永遠の勝利と永遠の天国が成し遂げられます。愛の前では、すべてのものが解放されます。先生は、そこに向かっていこうとするのです。

 

35 先生は、神様を愛し、世界を愛し、人類を愛しました。解放直後に、先生を囚人として銃殺しようとした怨讐までも愛しました。彼の子女が飢えている時、背広から下着まですべて売って彼にあげたあと、何もないなかで二週間生活したこともあります。そのときは、着るものがなくて外に出ることができませんでした。それは、ある手段としてそのようにしたのではなく、心からの思いでそのようにしたのです。先生の息子、娘のために、涙の祈りをしたことはありません。涙を流しても皆さんのために流しました。もし、先生が皆さんのために涙を流して生きてきた基盤がなかったならば、神様は役事されなかったでしょう。

 

36 先生が願うことは、先生を愛する前に神様を愛することです。先生が母親なら母親に、子女なら子女に教訓を与えるものが何かといえば、神様を愛する前に先生を愛してはいけないということです。ですから、神様を愛するために、先生が千里、万里の巡礼の道に出掛けたとしても、寂しく思ってはいけないというのです。皆さんは、先生を愛する前に神様を愛さなければならず、世界人類を愛さなければなりません。世界のどこに行っても、公義の法度の前でも耐え得る権威と、その内容を実践できる資格を備えられなければ、約束できないのが天倫の道理であり、人倫道徳の道理です。