第四篇 真の人間 

第一節 真の人間は神様の実体

 

1 万物は実体的な姿形をもっていますが、神様は無形の存在です。神様はいかなる形ももっていません。大きいと言えぱ無限大であり、小さいと言えぱ無限に小さい方です。そのような神様が、ある標準的な形を形成して表示し、形体を表したとしても、実体をもった万物は、その神様から直接主管を受けることはできません。ですから、実体をもった被造世界には、実体をもった主人の人格と形を備えた存在がいなければならないのです。神様はこの地上の万物だけでなく、無限の霊界も主管されなければなりません。様々な形体をもった実体、そして、天使長や無形の実体までも主管するには、その中心的な形状が必要です。それで神様は、アダムとエバを創造されたのです。

 

 

人間を創造された理由

 

2 神様は、なぜ人間を創造したのでしょうか。神様が人間を創造したのは、愛のためです。神様は、何か芸術作品を作ろうとしたのではありません。愛のゆえに創造を始めたのです。そのため、「私」という一人の存在よりも愛が先立つのです。愛のモデルを標準として造ったのです。神様は本来、愛のモデルを置き、その理想的なモデルを中心として男性を造り、女性を造って、この被造世界を造ったというのです。

 

 

 

3 絶対的な神様が、なぜ人間を造ったのでしょうか。お金のために造ったのではありません。知識のために造ったのではありません。権力のために造ったのではありません。愛のためです。神様が愛を感じることのできるたった一つの道は、人間という相対を通じる道です。そのような観点から、神様は父であり、人間は息子、娘だという言葉が出てくるのです。これが一つの軸です。もしこの軸が連結されたならば、人間と神様は愛によって一体になるのです。このように一体となった関係は、いかなるものが作用して引き離そうとしても、引き離すことができません。阻止することができないのです。

 

 

 

4 神様が人間を創造された目的は何でしょうか。全知全能であられ、あらゆる所にいらっしゃる神様も、独りでいるのを願われなかったため、まず天宙を人間のための環境として創造され、その土台の上に御自身の絶対愛の対象として人間を創造されたのです。神様は、対象である人間が御自身よりもっと素晴らしく、大きな存在になることを願われたので、人間を御自身の子女として造られたのです。

 

世の中でも、父母は子女が自分よりもっと優れ、素晴らしくなることを願うのではないですか。それはすべて、神様が祝福としてくださった父母の伝統的愛なのです。子女として造った人間が成長して完成し、神様から祝福結婚を受けて、真の愛、真の生命、真の血統の実となる真の子女を繁殖し、真の家庭から永遠の真の理想天国を形成して暮らすのを見て、喜びを感じたいと思われたのです。それが神様の創造目的です。

 

 

 

5 神様が天地万物を創造し始めたというのは、対象の世界を展開するためです。結局のところ、別の自分の相対存在を造ろうということです。それで、神様御自身を投入したのです。見えない神様から見える神様に展開させようというのです。創造の役事(働き)をするということは力の投入を意味します。創造とは力を投入することです。投入したというのですが、どれほど投入したのでしょうか。真の生命を完全に投入し、真の愛を完全に投入し、真の理想を完全に投入したのです。

 

創造する前と創造したあとでは違います。創造する前は自分のことを考えましたが、創造を始めてからは、対象のために生きる時代に転換されるのです。「私」がいるのは自分のためではなく、相対のためです。愛と理想という言葉は、対象を前提として語る言葉なので、理想的な存在の起源は、自分のために生きるところからではなく、相対のために生きるところから出発するのです。

 

 

 

6 神様は、どうして人間を創造したのでしょうか。息子、娘の生命を見るために創造したのではありません。その息子、娘と共に愛するために創造したのです。いくら考えてみても、そのように言わざるを得ません。人間を創造した目的は愛のためです。神様の愛を中心として、その基盤から生命が創造されたのであって、生命をつくって愛を誘発させたのではありません。

 

言い換えれば、神様の心に愛が芽生え始めて生命が始まったのであり、その生命が愛から始まったがゆえに、結果も愛によらなければならないのです。始まりが愛だったので、終わりも愛でなければなりません。そのため、愛を抜いてしまえば人間は不幸なのです。ですから、愛は自分に対して語る言葉ではなく、相対的な関係において成立する言葉です。愛は、必ず主体と対象の関係において始まるのです。

 

 

 

7 神様の創造の最後の目的は、体をまとうことです。実体世界を主管するためには、無形の神様ではできないので、万民の父として、母として、体をまとって現れなければなりません。感覚器官をもって刺激を感じられる主体と対象として立つためには、体をまとわなければならないのです。

 

 

 

8 神様は、なぜアダムとエバを必要としたのでしょうか。二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就することです。二つ目は、無形の神様が形状をもって現れるためです。そのため、無形の神様が有形の形状をまとって、有形世界と関係を結ぶことのできるその基礎、その核心がアダムとエバなのです。

 

ですから、アダムとエバが完成して霊界に行けば、アダムとエバは神様の体と同じであり、神様はアダムとエバの心と同じ位置にいて、見えないのです。霊的世界で完成した一人の人を、実体世界の体と心のような一つの結実として造ろうというのが、神様がアダムとエバを創造された目的です。

 

 

 

9 神様と人間が愛を中心として完全に一つになることによって、アダムの体と神様の体が一つになり、アダムの心と神様の心が一つになります。それで、アダムの形状とエバの形状をすべて感じるのです。ここから正分合論理が出てきます。正から分かれて、合わさるのです。

 

それでは、分かれた目的はどこにあるのでしょうか。一つは、神様御自身が体をもった愛の対象体を通して、愛を完成できる立場になります。縦的な上下関係ではなく、平面的な立場に立つのです。心は縦的であり、体は横的であるのと同じように、神様御自身にも心と体があるのですが、体の分野はアダムの体と一つになり、心の分野はアダムの心と一つになります。そのような実体、体と心が一つになった女性であれば女性、男性であれば男性を探さなければなりません。

 

見えない神様には性相と形状がありますが、心的な基準の神様なのです。それで、体の分野において一つになるためにアダムとエバを造ったというのです。

 

 

 

10 神様は、なぜアダムとエバを造ったのでしょうか。無形の神としては、この実体世界を主管することができません。見えない神様としては、この見える世界、創造物、宇宙を治めることができません。そのため、神様は愛を中心として体をまとわなければなりません。ですから、創造をしたのです。愛を中心として体をもてば、内外の刺激が起こります。刺激が起こるというのです。内的基準において心だけがあり、そこに相対がなければ、刺激が起こらないのです。

 

 

 

11 無形の神としていらっしゃる神様では、この宇宙を相手に刺激を感じることができないのです。どんなに刺激しても、心だけでは、無形だけでは、感動がありません。同じものなので、刺激が来ないというのです。互いに相反するもの同士が合わされば、例えば、熱湯と冷水が合わされば爆発します。そのような刺激が必要だというのです。そのように相対的な距離を置き、刺激的で衝動的なものを必要とするので、神様はプラスとして、マイナス的な相対を造ったのです。

 

 

 

12 創造原理の結論ほ、神様がなぜ創造したのかということです。二性性相自体の分立相をつくったのです。ですから、神様が完全な神様であれば、アダムとエバは半分の神様です。アダムも半分の神様、エバも半分の神様です。神様を分けたので半分の神様です。神様の半分の実体をもつ目的とは何でしょうか。家庭を築き、国と天国をつくることは、一人ではできません。半分のアダムとエバが、愛を通して一つにならなければなりません。

 

 

人間は神様の聖殿

 

13 もし人間の先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのようになっていたでしょうか。アダムとエバは神様と一つの体になり、神様と同じ立場に立って、神様の創造の偉業を受け継ぎ、神様が創造のあとに喜ばれたのと同じ位置に立ったでしょう。神様と人間の間で、そのような関係を結ぶようになるのです。

 

そして、堕落していない本然の人間は、神様の聖殿になります。アダムとエバが堕落していない先祖になったとすれば、その心の中には神様が共にいらっしゃるのです。結局、神様が心の中に入ってきているので、神様が中心になり、アダムとエバは神様の外的な体と同じだというのです。

 

イエス様も、「私は父の中におり、父は私の中にいる」と言いました。一つの体だというのです。それと同じです。イエス様は堕落していない方です。アダムとエバが成熟して聖婚式をしたならば、彼らは神様を中心として、直接的な愛の圏内で一つになるのです。ここにおける中心は神様です。そのようになったとすれば、人間は実体をもった神様の体になるのです。

 

 

 

14 アダムは、実体をもった神様の体です。コリント人への第一の手紙第三章十六節に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」とありますが、神殿とは何ですか。神様がいらっしゃる所です。私たちの心に本然の愛が芽苑えるその場所を、至聖所とするのです。

 

ですから、アダムの心に神様が宇宙的な愛の聖殿を造って愛の力を伸ばし、愛の花を咲かせようとするのです。これが、神様がアダムとエバを造り、家庭と世界に繁殖しなさいと祝福してくださった目的です。

 

 

 

15 神様は、すべての万物を造られ、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造られました。人間を造られるとき、遊び半分で造られたのではありません。趣味で造られたのではありません。人間を造り、万物を代表する中心として立てるまでの神様の苦労と精誠は、到底言葉にできないものでした。

 

神様が人間を造られるとき、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また御自身の心血と生命の核心をすべて傾けて造られたのであり、愛情をすべて注がれて造られたのです。いかなる力をもってしても、離そうにも離すことができず、分けようにも分けることのできない関係として造られたのです。

 

このように造られた人間なので、そのような人間を見つめられる神様に初めて平和が宿ることができ、すべての情と幸福は、その人間を通してのみ宿ることができるのです。

 

 

 

16 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をすべて注いで造った人間であるがゆえに、このような人間が神様を引っ張れば、引っ張られなければならず、また神様が人間を引っ張れば、引っ張られなければなりません。神様は、このような関係の中で、内容と目的が一致した人間として造られたのです。

 

もし、そのように造った人間を見て神様が賛美する言葉や詩があるとすれば、それは世の中のいかなる詩人や文人にも表現できない最高の作品になるでしょう。その対象は神様でもなく、万物でもなく、唯一、万物を代表した人間なのです。

 

 

 

17 主体であられる神様と人間の関係において、愛を中心として互いに占領し合う場は、どのような場でしょうか。神様を中心として、人間が弟子の立場で愛を受ける場なのかというと、違います。神様に娘と息子がいて、神様の婿になり、嫁になる場が最高の目的かというと、それも違います。人間はそれよりも一歩さらに踏み込んで、神様の息子になり、神様の娘になることを目的とするのです。それ以外の場は願いません。このような関係が結ばれる場が、正に神様と人間の父子関係の場です。

 

人間が探し求めていくべき場所、この宇宙の究極的な真理の問題を前にして、誰よりも苦しんだ人が先生です。神秘的な境地に入って、人間が探し求めるべき宇宙の最高の真理が何かということを打診したとき、そのときに得た答えが、父子関係という言葉なのです。

 

 

 

18 絶対的な神様のみ前に、人間は相対的存在です。絶対的な愛を中心として一つの体にならなければなりません。そのように、神様とアダムとエバが一つの体になっていれば、そのアダムとエバを中心として生まれた息子、娘は、アダムとエバの息子、娘であり、神様の息子、娘です。そのようになったならば、神様の血族としてこの地上に家庭を成し遂げ、氏族を成し遂げ、民族を成し遂げ、国家を成し遂げ、世界を成し遂げていたはずです。永遠であられる神様の愛を中心として結ばれたその関係は、断ち切る者がいないので、その国自体が神様の愛を基盤とした地上天国になるというのです。

 

 

 

19 神様は絶対者であり、その絶対者は私たちの父であり、その父は天地の主権者であられます。これを言い換えれば、その絶対者は、「私」を中心としては父であり、世界を中心としては主権者であり、天の中心であられます。そのため、父という言葉は高貴なのです。霊界を統合できる一番近い場所にあるのもその言葉であり、世界を統合できる一番近い場所にあるのもその言葉です。私とその方が統一され得る最も近い場所にあるのも、その言葉だけです。霊界でも肉界でも、その言葉よりさらに近いものはないのです。

 

 

第二節 真の人間の心と体 (csg-4-1-2)

 

1 被造世界には二つの軸があります。二つの軸があるのですが、見える軸と見えない軸の二重構造になっています。一つの主体を中心として回り、その主体自身も回るのです。体と心が授け受けすれば、回るようになるのと同じです。すべての存在物は、このような原則によって存在します。同様に、堕落した人間世界における復帰の道も、軸を直さなければなりません。人間において体の中心は心です。心を中心として体が連結されているため、体は心を中心として回るのです。心の命令に体が動くのです。心が「東に行きなさい!」と言えば東に行かなければならず、「西に行きなさい!」と言えば西に行かなければなりません。

 

 

心と体とは何か

 

2 心とは何でしょうか。縦的であり創造主である父の愛を受け継いだものが心です。そして、横的な父母の愛を通して受け継いだものがこの体です。そのため、心は縦的な「私」であり、体は横的な私です。主体と対象の関係です。私という存在において心と体が焦点を合わせることにより、初めて環境的に縦横の一致が起きるのです。

 

愛を中心として、縦横において、縦的なプラスと横的なマイナスが九〇度で焦点を合わせる理想的な結着点が中央点です。中央点には何もないのですが、すべての力がその一つの焦点を通るのです。反対がありません。ジャンプ、ダイビングして入ってくるのです。台風のように入ってきます。それを防ぐ方法がありません。ですから、神様は知恵の王です。

 

この中心は真空状態です。真空状態では、引き寄せる力がそれに比例し、何百倍も強くなります。そのため、「来なさい」と言わなくても、引き寄せられるようになっているのです。引く力が強いので、その前にあるものは高い山でも何でも、すべて崩すのです。

 

 

 

3 心は、縦的な主人です。神様の血統を受け継いだので、縦的な主人です。体は、完成したアダム、横的な血統を受けた「私」です。私には二人の主人がいるのです。そのうちの一人は、垂直に受け継いだ神様の血統です。神様の血統だけがあってもいけません。神様の血統を中心とした垂直の前を横切って、水平線が連結されなければなりません。それで、分かれた東酉南北が中央に通じることができなければならないのです。垂直の前に水平線が連結され、九〇度になるのです。東、西、南、北が九〇度、垂直を中心として距離が同じ円形を形成するときは、すべて同じなのです。

 

 

 

4 心と体を見れば、心は主体であり、体は対象です。この二つが闘うのですが、なぜ闘うようになったのですか。体がプラスになったからです。主体である心の前に、体が永遠な対象にならなければならないのですが、これがもう一つの主体になりました。それが堕落です。

 

 

 

5 神様の愛が垂直的な愛だとすれば、水平的な愛がなければなりませんが、その水平的な愛は誰が占めることができますか。誰が占めるべき愛の場所でしょうか。その場は、堕落せずに完成し、本然の真の愛と和合しなければならない真の先祖の位置です。そのようにして一つになっていたならば、その愛を通し、神様の心と体に似て、父母の心と体に似て生まれることができたでしょう。これが「私」という存在です。

 

 

 

6 心は垂直な「私」であり、体は水平な「私」です。垂直の父母と水平の父母が一緒に私を造ったのです。彼らから真の愛、真の生命、さらには真の血統を受け継いだのです。私はそのようになっています。真の愛で一つになって造られたのが私です。私は宇宙の中心であり、愛を代表した存在です。また公式の中心です。私は、水平の愛の中心存在だというのです。水平の愛と垂直の愛が合わさって一つになった、真の愛の中心存在です。それが正に私なのです。

 

 

 

7 自分を見れば、心は縦的な面を代表し、体は横的な面を代表します。「心が正しい」という言葉を使います。正しいというのは何かというと、垂直にも合い、水平にも合うということです。言い換えれば、立てておけば垂直線にも合い、寝かせれば水平線にも合うということです。心が縦的ならば体は横的です。したがって、心が願うとおりに体が良く授け受けすれば、心の苦痛がなくなります。そのようなとき、よく育つのです。肉体的苦痛も苦痛ですが、心の苦痛がより恐ろしいのです。それは、縦的なものが中心だからです。

 

 

 

8 私たちの体と心は、置かれている位置が違います。心は縦的であり、体は横的です。これが一つにならなければ、水平にならなければ、本質的な神様の絶対的愛の方向に一致できる垂直線を引くことはできません。この垂直線は、二つではなく一つです。それゆえ、一番努力しなければならないこと、特に信仰生活をする私たちが努力しなければならないことは、心を中心として、どのように体を一つにするかということです。

 

 

 

9 人は体と心の二重になっていますが、心は縦的な面を身代わりしており、体は横的な面を身代わりしています。「あの人は心が正しい」と言うとき、それは水平を中心として見たということです。垂直に見て語る言葉ではありません。「その人は正しい」と言うとき、その「正しい」というのは、水平に対して語る言葉です。

 

仏教では、参禅を通して、心とは何かを研究してきましたが、いまだに心が何か分からずにいます。心は縦的な「私」です。また体は横的な「私」です。ですから、横的な私と縦的な私が統一される場で、私という人格が完成するのです。何を中心としてこの縦的なものと横的なものが統一されるのでしょうか。共鳴できる本質を通して一つになる所において、完成を論じることができます。それはお金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。ただ、神様の真の愛によってのみ共鳴するのです。

 

 

 

10 体は水平を象徴し、心は垂直を象徴します。垂直と水平が九〇度を備えなければなりません。この九〇度が四つ合わさって三六〇度にならなければならないのです。そのようにならなければ、完全な人になれません。ですから、垂直を中心として一つにならなければなりません。体と心が一つになるとき、体を中心として一つになることはできません。心が移動することはできないのです。水平の体が調整して、垂直の心と完全に一つになり、九〇度で一つになれる「私」を求めなければなりません。その私というものは、人間が成熟して初めて愛を知るときに見つかるのです。東で暮らす人が塀を越えて西を眺め、西に住む人が塀を越えて東を眺めるためには、成熟しなければならないのです。

 

 

 

11 心は、天地の道理に従って縦的な人格の観をもっています。そのため、心は高いのです。心が広いと言いますが、広いという概念の中には、高いという概念が入っているのです。皆さんの心は広く、高いというのです。まっすぐなことにおいてはどこまでも、天の果てから地の果てまで、垂直にならなければなりません。運動する世界、円形の大宇宙圏内も、垂直は一つです。一つでなければなりません。すべての万物が願い、すべての存在が理想として願う垂直があれば、それは一つでなければならないのです。それが真の愛です。真の愛という垂直は、この宇宙に二つあってはいけません。東洋人や西洋人、過去、現在、未来を問わず、真の愛の垂直はただ一つです。その垂直の前に神様もぶら下がっており、その一つの垂直の前に愛の作用が広がるため、神様が願う理想もその垂直圏内に連結されるのです。そのような軸が、そのような垂直が、この地上に生まれなかったというのです。

 

 

 

12 私たちはよく、心がまっすぐだと言います。一直線に垂直に立ったものを、まっすぐと言います。木も横に傾いたものは、まっすぐとは言いません。心がまっすぐだというのは、垂直に立っているという意味です。ですから、人は立って歩くのです。垂直になってこそまっすぐなのです。自分の心を完全に垂直にしなければなりません。そこにおいて、体が水平線になるのです。このように垂直と水平が私たちの内部で形成されるとき、垂直において引く力と水平において押す力がバランスを取るようになり、求心力と遠心力が形成されるのです。

 

 

 

 

 

13 私たちには体と心があります。その体と心が一つになったときは苦痛を感じません。体と心が一つになっていないとき、苦痛を感じるのです。心が高くても一大事であり、体が高くても一大事です。しかし、体と心が一つになっているときは、苦痛を感じないのです。体と心が一つになっているときは苦痛を感じませんが、体と心が垂直になったときは、作動するのです。躍動するというのです。そのため、すべてが垂直に合わせなければなりません。水平と垂直がいつでも調和しなければならないのです。

 

 

 

14 天国は男性と女性の愛から始まります。神様の愛を中心に、垂直線を中心として水平線が統一されている所が本然の天国です。神様がいらっしゃるのですが、その中で男性と女性が核になり、体と心が共にびたりと丸くなるのです。そこにおいて、心は垂直的な「私」です。体は水平的な「私」です。明確なのです。垂直的な心は神様であり、水平的な体は真の父母です。それが一つになるのです。

 

 

 

15 心は見えませんが垂直です。体は見えますが水平です。人間は大宇宙の縮小体です。人の中に霊界があります。霊が入っています。それが心です。見えない心、見える体は世界の代表です。二つが中心を中心として、完全に四方を歩き回っても、ひと所を離れなければ理想的な人になるのです。見えない心と見える体が真の愛の核を中心に一つになるとき、これが理想的な男性と女性、個人の完成になるのです。

 

 

心は第二の神様

 

16 十人の友人の中で、「私のために生きろ」という人からは、友人がすべて離れていきます。しかし、九人のために自分の生命まで捧げようとする人は、その中心者になるのです。ですから、ために生きるようになれば、滅びるのではありません。主人になるのであり、師になるのであり、父母になるのです。

 

神様は遠くにいらっしゃるのではありません。「私」の中にいらっしゃいます。心が皆さんの主人です。夜に悪いことをしようとしても、現れて「してはいけない」と言い、いつでも現れて主人の役割を果たし、どこでも母のように、師のように教えてくれるのです。

 

 

 

17 良心は第二の神様です。第一の神様はプラスであり、心はマイナスで第二の神様です。そのような概念をもたなければなりません。心が第二の神様です。第二の神様は常に「私」と共にいます。良心の深い所で、愛と生命と血統の深い所で、私と関係を結んでいるのです。すべてのものを整理して収拾し、取り除いて、私をしきりに高い場所に導くのです。ですから、本然の良心は絶えず上がっていくのです。その力が肉身を主管するのです。これがプラスとマイナスとして一つになって自動的に統一され、完成します。私の良心は第二の神様であり、この強い力がいつでも一つの中心として、すべて主管するのです。

 

 

 

18 皆さんの心には師が必要ありません。心は第二の神様です。師についていかないで、皆さんの心に侍りなさいというのです。心はどうですか。朝早く一人起きて、ねずみの音も聞こえず、はえの音も聞こえない静かなときに、「ああ、私はこういうことをしなければならない。良いことをしなければならない」と言えば、心が「よし!よし!早くやりなさい!」と言いますが、悪いことを考えれば、心が「こいつ!」と言うのです。心はそうです。心はよく知っているのです。

 

 

 

19 心は、皆さんの番人となって夜も昼も皆さんを守ってくれ、皆さんが休むことができないほど、しきりに「善を行いなさい。善を行いなさい!」と言います。ですから、どれほど疲れるでしょうか。意識することができ、社会環境においてすべての制度を分析できる知能が生じたその日から、一生ついて回りながら、自分の師もついていくことはできず、父母もついていけませんが、生まれたその日から死ぬ時まで、良心は永遠に「私」に対して命命するというのです。「神様に似なさい、聖人に似なさい、愛国者に似なさい、孝子に似なさい」と言うのです。常に体に向かって「体よ、お前は私に似なさい!」と言うのです。

 

 

 

20 自分自身に偉大な師がいることを知りませんでした。心は偉大な父母の代身です。父母が心に逆らって訓示することはありません。心が父母のように訓戒するときは、服従することができなければなりません。このような秩序のある環境において、起源になることのできる道義的な結論が出ていません。そのような公式が出ていないというのです。心は先生の代身、父母の代身、神様の代身です。ですから、心を教えることのできる師はいません。

 

 

 

21 良心は神様に優ります。良心は「私」がいる前からありました。神様に優り、父母に優り、王に優るのです。そのような貴いものが心です。悪いことをしようとするとき、「早くしなさい!」という心の声はありません。皆さんが悪いことをしようとすれば、心が「おい、こいつ。やめなさい!」と言うのです。良心の言葉を絶対に聞かなければなりません。そうしてこのように育んでいければ、良心と「私」が言葉を交わすのです。

 

 

 

22 祈るときは、心に対して祈らなければなりません。どれほど心が願うとおりにしたでしょうか。心を後回しにしていくら神様を呼び求めても、通じません。心と一つになってこそ、通じるようになっている神様です。そのため、心の命令を中心として考えなければなりません。いつでも心を見つめて尋ねなさいというのです。父母に尋ねる代わりに、永遠の良心に尋ねてみなさいというのです。

 

良心は父母に優っています。父母と分かれることもでき、離別することもできますが、心とは分かれることができません。師と分かれることはできますが、心とは分かれることができません。主人と分かれることはできますが、心とは分かれることができません。その三大主体に侍って暮らす心を無視するのは、途方もない罪です。父母を無視することであり、師を無視することであり、宇宙の主人である神様を無視することです。

 

 

 

23 心と楽しむ時間をもたなければなりません。世の中から見れば寂しい立場のようですが、それは心と友達になる時間なのです。座って瞑想でもしてみなさいというのです。深い祈りの境地に入っていきます。他人の分からない深い世界に入っていくのです。そのようなことが必要です。

 

 

 

24 心は「私」の主人です。「私」の師です。心に似た体を生んだので、心は私の体の根源です。そのため、心は平面的に父母の代身です。心は父母の代身であり、師の代身であり、主人の代身です。

 

 

 

25 心の価値、私にとって心がどれほど高価なものかを考えてみましたか。心は体が間違った所に行こうとすれば、いっでも忠告し、「こうしてはいけない」と、すべて制裁を加えるのです。しかし、体はいつも心を攻撃し、無視し、踏みつけて、自分勝手にするのです。迫害を受けながらも、死ぬときまで私にとっての戦友のように、師のように、主体的使命を担うべく犠牲を払っていくのが、体についている心です。

 

 

 

26 ある人を見れば、その人がどんな人かということを心は直ちに分かるのです。すぐにそれが分かるというのです。一番近い先生が自分の心です。ですから、その心を苦しめず、悲しませてはいけないというのです。それは先生を悲しませることであり、天宙の主人を悲しませることです。心が「私」の一生の主人です。ですから、心を悲しませるのは、「私」の一生の主人を悲しませることなのです。心が喜べる道を行かなければなりません。

 

 

 

27 皆さんの心は父母より先であり、師より先です。その心は永遠に、「私」と共に一つになっています。しかし、父母は永遠に一つではなく、師も永遠に一つではなく、主人も永遠に一つではありません。ですから、心に偉大な価値があるというのです。そのため、父母様に尋ねる前に、心と相談しなければなりません。そうすれば尋ねる必要がないのです。それは神様と直結しているので、共鳴圏に入ることによって、体が願うことについて尋ねれば、周波が同じなので答えが来るのです。「あす、これこれこのような人に会いに行くのだが、どうしようか」と心に向かって尋ねてみれば、心は喜んだり、嫌がったりするというのです。行って会うのが良いのか悪いのか、心が分かります。嫌ならば、心が縮こまってしまうのです。

 

 

 

28 真を求めていくならば、絶対的に心のために生きる体にならなければなりません。これが一つになって、神様を中心として九〇度で天地に連結されれば、東西南北、上下、どこに行っても分かるのです。自動的に霊界と通じ、学ばなくてもすべて分かるのです。

 

先生はどのようにして天地の秘密をすべて知ったのでしょうか。その境地に入ったので、すべて分かるようになったのです。真の愛を中心として体と心が共鳴する境地に入ってみると、すべて見えたというのです。神様も見え、天上世界も見え、歴史も見え、すべて見えるのです。真の愛を通して関係を結び、縁を結んで、理想的な生活をすることのできる環境的要件が本来の神様の創造理想の原則だったので、その境地に入ってみると、通じない所がないのです。霊界の先祖も、呼べばさっと出てきて会い、何でも尋ねることができるのです。

 

 

心身一体を成し遂げる道

 

29 良心は、体が間違ったことをすれば、いくら夜中であっても「こいつ、やめなさい!」と言います。悪いことをしようとすれば、すぐに良心が呵責を受けるのです。死んでいた神様が生き返り、死んでいた師が生き返り、死んでいた父母が生き返るのです。ですから、良心が願うとおりにせざるを得ません。

 

人間が堕落する前にも、良心と体が闘ったかというと、そうではないのです。神様は良心と体が闘っていないのに、そのような神様の息子、娘になれなかったので、心と体が闘うのです。根源がすべて変わってしまいました。簡単な原理ですが、聖人や賢人もこれを解決できませんでした。先生もこの問題にぶつかって、どれほど身もだえしたか分かりません。それで「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」と言うのです。この体が宇宙の怨讐です。

 

 

 

30 すべての人間は、それぞれ自分の中に最も貴重な師を、一生の間もち続けています。それにもかかわらず、その師を不当に待遇し、踏みつけて濫用するのです。その師が正に、人間の良心です。私たちの良心は常に、私たち自身に助けになるように話し掛け、私たちを真の愛と連結してあげようとします。私たちの良心は父母のように、私たちが善で、非利己的な人になるように促し、神様のみ旨に従って行動するように導いてくれます。しかし、私たちには良心の声にいつも逆らう反乱者がいます。その反乱者が正に肉体です。

 

 

 

31 堕落した世界の父母と師と主人は知ることができますが、人間として知ることのできないその主人が良心です。神様の本然の父母の根、師の根、主人の根を人間に植えてくれたのが良心です。これを先生が知って驚いたのです。先生が探し求めてきたすべてのものの最後の終結、隠された家が良心でした。「私には神様に責任を追及する何ものもない。私の良心の使命を果たすことを追求するしかない。責任を追及する場所がないのだから、私が責任をもとう」と進み出たのが、先生の立場です。そこにおいて、神様は先生を愛さざるを得ないのです。

 

 

 

32 良心革命は、良心の声に絶対服従しなければならないという内的革命です。皆さんの中に、いまだ善を指向する良心の命令と、肉身の欲望を求める肉心の誘惑が、絶え間ない葛藤を続けています。そのような恥ずかしい内面の闘いを終息させるためには、良心の位置と作用を確実に知らなければなりません。

 

良心は皆さんの一挙手一投足、さらには皆さんの考えまでも、一点一画の加減なく把握しています。皆さんの師よりも先に分かるのです。皆さんの父母よりも先に分かります。神様よりも先に分かるのです。そのような良心の命令に逆らえば、皆さん自身が呵責を受けます。皆さんの魂にほこりがたまり、垢がつき、傷ができるというのです。その傷は、永遠に消すことができず、そのまま霊界に背負っていかなければならない重荷となります。したがって、革命的な次元で自分の肉身を抑制し、良心の案内を受けて神様のみ前に進みゆくその日まで、傷のない、澄んだ、きれいな魂を保ちなさいというのです。

 

 

 

33 本来、心と体は、切り離そうにも切り離すことのできない一つのものでした。人間の心は神様の心であり、人間の体はその心を入れる器でした。ところが、人間の堕落により、人間の体を悪魔に差し出したのです。そのときから人間の体は、悪魔の僕になりました。

 

人間の良心は、神様を代表する心です。良心は、「私」のために存在するのではありません。天の義のために存在するのです。良心は常に、善に向かって走ろうとします。これに体は反抗します。体は自分だけが安らかでいようとし、利己的で本能的要求に従って肉欲を満たそうとします。良心はこの体を叱責し、心に順応させようとします。ここから、常に血のにじむ葛藤と闘争が、一つの体において起こるようになるのです。

 

 

 

34 すべての宗教は、自らの体を打つ道を教えてきました。宗教は、肉欲を制御し、体を心に屈服させる道場なのです。宗教は、人間を創造本然の人間へと引っ張っていく道場です。しかし、神様を自分の中に迎え入れなければ、自らの体を征服する者は誰もいません。ただ神様の真の愛と真理の力を中心として、主体の心は対象の体を従わせ、神様と一体理想を成し遂げるようになっているのです。これが、宗教の語る完成した人間です。

 

 

 

35 人間の貴重な価値を満点にするのは、真の愛と一体となるときに可能です。心身一体とは、良心と肉身が共鳴圏に立っていることを意味します。音叉の振動数が同じとき、一つをたたけば、その反対の音叉が響きます。それと同じように、真の愛によって良心をたたけば、肉身が響きます。真の愛で肉身をたたけば、良心が共鳴圏をつくるようになるのです。そこには教育が必要ありません。その真ん中に入っていけば、教えるべきすべてのことが分かるようになっているのです。

 

 

 

36 人間自体を見れば、体と心が闘っています。それは今日、この時代に始まったことではありません。私たちの宗主である先祖から、墾書に記録されたアダムとエバが堕落した直後から、このような作用が起きているのです。歴史上の聖賢の中で、「私は人類歴史において人間を代表し、体と心が闘わず、完全に統一を成し遂げたので、私を手本にしなさい!」と言った人がいましたか。

 

心も重要で、体も重要です。より重要なことは、「私」の体と心の統一圏です。それが重要です。それが形成されていない人は、いくら世界が統一されたとしても不幸な人なのです。統一された世界で不幸な闘いをする自分自身は、その世界に吸収、消化されません。反発を受けるのです。追放されるというのです。ですから、世界の統一に先立ち、新しい世界の理想的ビジョンを成就する前に、私自身がそれを受けて消化し、和合できる自分を発見できなければならないのです。

 

 

 

37 統一教会の人は、どんなことがあっても心身一体圏を形成しなければなりません。この生涯の間に心身一体圏を形成できない人が、愛を考え、理想を考えるということは恥ずかしいことです。天運に反するのです。そのようなものを完成した自分自身を目指すところに、新たな希望の道が連結されるのであって、ただそのままの基準では、新たな希望の天国に連結される道が現れません。

 

 

 

38 創造本然の人間は、その心と体に神様の真の愛をもち、そのまま感応しながら生きるようになっています。心は真の愛を中心として神様に感応し、体は自動的に心に共鳴するのです。体と心が闘うことのない真の統一の起源は、神様の真の愛をそのまま受け継いで体感する所にあります。心と体が統一体になるという人間の理想は、神様の真の愛を完全に所有するときに成し遂げられるのです。心と体が真の愛を中心として統一されるところから、真の自由と平和の理想が出発できます。そして、心と体が統一された基盤の上で、自由で平和な個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を成し遂げることができるのです。

 

 

第三節 人間の創造目的と三大祝福 (csg-4-1-3)

 

1 神様が天地を創造するとき、絶対信仰と絶対愛、絶対、唯一、不変、永遠のその理想から造りました。神様のみ言どおりに創造したのです。み言のとおりになるということであり、絶対信仰の上で神様と一つになるということです。そして、その創造は、神様が必要な相対者を求めることです。見えない神様、無形の神様が見える神様として現れ、神様の代わりに形状をもち、神様の愛の相対をつくろうということです。それで創造の第一の目的は、体をもつことです。無形の神様なので、今後、人間を中心として創造理想が完成すれば、体をもったアダムとエバと、体をもったアダムとエバの息子、娘が霊界に来ることにより、神様が霊界でも父になり、王になるというのです。ですから、体がなければならないのです。それでは、神様が体をまとって現れたその姿は、誰の姿でしょうか。完成した夫婦が神様の祝福を受けて一つの体になった、そのアダムとエバの顔です。そのアダムとエバは、神様の愛の相対です。

喜びの対象として創造

 

2 神様の創造目的は喜びです。喜びを享受しようと、人間と世の中を造られました。喜びは独りで感じることはできません。喜びを享受しようとすれば、必ず対象、相対が必要です。主体と対象が互いに相対基準を造成して授け受けするとき、初めて喜びを感じられるのです。そして、最高の喜びは、愛を授け受けするときに感じることができます。それで神様は、人間を対象として造られ、その対象と共に無限の愛を授け受けしながら、永遠に喜びを享受しようとされたのです。それが正に創造目的です。このような創造目的を完成するために、人間の祖先としてアダムとエバを造られました。そのアダムとエバが神様の完全な喜びの対象となり、愛を授け受けしながら善の子女を繁殖していたならば、その家庭が拡大して社会になり、その社会が発展して国家になり、その国家は世界に発展して、この地球はアダムの一族で満たされ、この地上には神様の善と愛を完成した喜びの世界が形成されたでしょう。   3 神様がアダムとエバの位置に入っていき、父母として役事することができるのです。神様には形状がありません。神様が天地創造をしたのは形状をまとい、人間と共に実体をもって愛するためです。愛するために人間を創造したというのです。神様が人間を創造された目的は三つですが、第一は愛を成立させるためであり、第二は体をまとうためであり、第三は人類の父になるためです。   4 神様は、天地万物を創造され。その万物を主管できる人類の先祖を立てたあと、そこに希望をもたれました。創造理念を中心としてアダムとエバを見つめられ、希望の実体として見つめられたのです。アダムとエバが成長したあとに、神様は彼らを訪ねていきたかったのです。彼らの心の中を訪ね、入っていこうとされたのです。心だけでなく、心情の深い所にとどまろうとされました。神様が人間を創造された目的は、神様の心情を、人間の心情の深い所に植えることだったのです。   5 本来、人間始祖は、神様の心情と愛を中心として、神様と完全に一つにならなければなりませんでした。神様は、心情の目的を完結するために天地を創造されたので、この心情の対象である天地万物を愛する息子、娘に、愛を中心として相続させてあげなければなりません。神様が天地万物を創造されたのは、神様のためでなく、アダムとエバのためだったので、喜びもまた神様御自身によって生じるのではなく、アダムとエバによって生じるのです。世の中の父母も子女を見て喜びます。そのように、喜びとは対象によって生じるのです。   6 神様が人間を造られたのは、アダムとエバを見るためではありません。造った目的は、喜ぶためです。喜ぶのは、愛することによって喜ぶのです。その創造の出発は、愛のゆえです。すべての存在の起源は愛です。人間だけでなく、すべての動物も、すべて愛の根拠を通して生じるのです。生物は、愛のゆえに生命を受け継ぎます。人間が神様に対して拍子を合わせることもでき、相づちを打つこともできる何かがなくて、どのようにして絶対的な神様の相対になれるのかというのです。   7 神様は宇宙の第一原因であられ、森羅万象の創造主です。そして、人間の愛する父であられます。神様は、特別なみ旨を成就するために万物を創造されたのであり、その目的は正に愛の具現にあります。神様は真の愛の根源ですが、いくら全能の神様でも、一人では決して愛の喜びを感じることはできません。神様には愛の対象が必要であり、その対象が自発的な愛を返してくれることを願われます。その対象として最高の被造物が、正に人間なのです。そのような理由のため、人間の生には目的があるのです。人生の目的は、成熟し、神様と永遠の真の愛の関係を実現することにあります。これが正に、神様と人間の間に平和を成し遂げる根本原理です。   8 神様のみ旨は、誰において実を結ばなければならないのでしょうか。これはどこまでも、相対的関係です。相対的関係においてみ旨が成就されるのです。創造目的の完成が、結局のところ誰において結果を結ぶのかというのです。アダムとエバにおいて実を結びます。人間において実を結ぶのです。結局は、アダムとエバが完成すれば創造目的が完成されるということです。アダムとエバが完成すれば、四位基台を完成するようになります。それが原理です。創造目的の完成は、四位基台の完成から始まります。そのため、神様のみ旨は神様だけがもつみ旨ではなく、人間に絶対に必要なものなのです。結局はアダムとエバが、神様の願うとおり、どのように完成するかという問題に結びつきます。そこから神様のみ旨の戒就が始まるのです。ですから、み旨と個体完成は切り離すことができない関係だということです。   9 創造理想世界は、神様の愛を中心として、神様と息子、娘であるアダムとエバが一つになり、その次に神様の愛を中心としてアダムとエバが父母となり、子女と一つになった愛の理想的家庭です。そのため、創造理想世界には、第一に、神様がいらっしゃらなければなりません。その次に、神様の愛を中心とした真の息子がいて、娘がいなければなりません。その次には、真の夫婦がいなければなりません。次に、人間を中心として真の父母が出てきて、真の息子、娘がいなければなりません。 ですから、私たちが創造理想世界に入っていこうとすれば、創造理想の内容を中心とした愛をすべて探さなければなりません。そのようにしなければ入ることができないというのです。神様の愛の中で「私」が生まれなければならず、神様の愛の中で個体を完成しなければならず、神様の愛の中で夫婦にならなければなりません。その次には、神様の愛の中で息子、娘をもたなければならないのです。

神様に忠孝の道理を果たさなければならない

 

10 人間個人はもちろん、地上に暮らしている数多くの人間の中で、善であることを願わない人はいません。今まで歴史も善を指向してきたのであり、教育者や信仰者たちも善の基準を立てるために努力し、闘ってきました。ですから、生まれるのも善のために生まれなければならず、生きるのも善のために生きなければならず、死ぬのも善のために死ななければなりません。これが人生の目的です。人生の目的だけでなく、人間の生活を続けてきた歴史の目的です。   11 自分たちが豊かに生きることも重要で、何かをすることも重要ですが、まずは自分たちが縦的な天の父母のみ前に孝の道理を立てなければならず、縦的な天の父母のみ前に忠の道理を立てなければならず、縦的な天の父母のみ前に聖人以上の道理を立てなければなりません。それが人間の生まれた本来の目的です。また、そのような人に出会うために、神様が人を造ったのです。そのような目的があるというのです。次に、横的な父母の前に孝子とならなければなりません。絶対的に一つにならなければなりません。絶対的に一つとなり、絶対的に共に暮らさなければなりません。   12 人は、自分がうれしいときは父母、兄弟、親戚を訪ね、一緒に楽しもうとします。うれしいというのは幸福だということです。幸福は永遠のものであり、永遠のものは心情です。宇宙の中心は父母と子女です。すなわち、父母と「私」です。神様と「私」だというのです。神様は父であり、私は息子です。人生の究極的目的は、父を訪ね、切り離すことのできない関係を結び、喜びを感じることです。   13 人間にとって最高の願いとは何でしょうか。「いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(コリントI一三・一三)という言葉は、本当に良いみ言です。しかし、これに対する完全な内容を知らずにいます。皆さんは確実に知らなければなりません。善のものは、宇宙が保護して育成します。自由と解放と平和が宿っています。そこに精誠が共にあるため、引力が生じるのです。   14 人間は、何を目的としなければならないのでしょうか。個人を目的とするより、家庭を目的とするより、団体を目的とするより、国家を目的とするより、世界を目的とするより、天地を目的とするより、神様を中心として、神様と人間が合わさった目的に向かって進まなければならないのです。 それでは、どの目的が最後に残るのでしょうか。個人を中心とするものは流れていき、家庭を中心とするものも流れていき、自分の団体を中心とするものも流れていき、国を中心とするものも流れていき、世界を中心とするものも流れていくのです。しかし、最後まで残ることのできる一つの目的は、神様と人間が合同で追求する目的です。そのような目的だけが、人類歴史の最後まで残ることができるのです。   15 皆さんの心が最後に安着できる終着点とはどこでしょうか。神様を探して自分のものにしたとしても、そこに皆さんの心は安息しようとしないのです。皆さんの心の最後の終着点は、神様を占領し、神様の愛を占領する場です。ですから、皆さんが神様の愛を占領することができなければ、万事がむなしいのです。 それでは、人生の最後の目的とは何でしょうか。天の中心たるその方に出会うことが問題ではありません。その方と一緒に暮らさなければなりません。その方とどんな場所で会い、その方とどんな場所で暮らすかが問題です。その方と中心の場所で会い、その方と中心の場所で暮らそうというのですが、その中心の場所とは、神様の愛の位置なのです。そのため人類の良心が指向する最高の目標は、天運に従って神様と一致し、神様の愛を自分のものにしようということです。   16 「私」という人間を見るとき、個人として生きて死にたい人はいません。それぞれ異なる顔をしていますが、世界的な人、世界的に注目を浴びる人になりたいと思うのは、人間の欲望です。それは人間であれば、誰もが行くべき道です。誰もが従う道です。それが正常な欲望をもった人です。人間が最後に到達したい所は、最高であられる方の愛の対象になる位置です。その最高の方が、人間の父であると同時に、神様なのです。

三大祝福と真の愛の完成体

 

17 神様は、人間の先祖アダムとエバを造られ、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記一:二八)という三大祝福を下さいました。第一の祝福である「生めよ」というのは、人間が成長して神様を中心に完成した人格者になりなさいという意味でした。第二の祝福は、完成した男女が真の夫婦となり、子女を生んで真の父母の道理を果たしながら、理想家庭を築きなさいということでした。第三の祝福は、人間が神様から許された環境の中で、不便や不足のない地上天国の環境を所有しなさいということでした。真の愛の本体であられる神様は、愛の対象体であり、子女として造った人間が真の愛の完成体となり、その次に真の愛による夫婦の理想を完成して、天国の環境をもつことを願ったのです。   18 人間の第一の願いは個性完成、すなわち個人が堕落したため、復活した一つの個体を中心として新たに生まれることです。第二の願いは相対完成、生まれたその人が祝福を受けることです。第三は善の子女を繁殖することです。いくら良く、うれしい日があったとしても、自分にとって直接的に良い日とは、自分がこの地に生まれた日、自分の相対を決定する日、そして、夫婦の間に新しい子女が生まれる日です。ですから、このような日をもつことができなかった人は、不幸な人です。神様も同じです。神様にとって最もうれしい日は、アダムが生まれた日です。この日は、実体世界の神様として出発する最初の日だからです。すなわち、宇宙的な神様の価値として生まれる実体的な最初の出発が、アダムから始まるからです。   19 天国へはどのように行くのでしょうか。天国は神様がいらっしゃる所なので、神様と共に暮らせる資格をもった人になってこそ行ける所です。その資格とは、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、万物を主管せよ」という祝福を完成することです。愛する夫婦が子女を連れて、一緒に行けてこそ天国なのです。   20 皆さんの子女は天国の民です。永遠の世界の民になるのです。子女をどれほど多く生んだかということが、皆さんが向こうの国で誇れる基準になります。それが最も誇らしい、最高に貴い財産になるのです。信仰の子女をたくさんつくることが、天の国に行って皆さんの所有になるのです。カイン側の子女とアベル側の自分の子女が一つになれば、堕落世界を復帰する理想基準が広がります。その二つが一つになることにより、拡張が始まるのです。 それでアダムは、息子として完成し、次には兄として完成し、夫として完成しなければなりません。エバは、娘として完成し、次に妹として完成し、妻として完成しなければなりません。これがきちんと準備されているのです。アダムもエバも、出発して、もうこれ以上行く所がありません。さらに延長しようにも、延長することができないのです。じっと見てみると、男性も女性も相対を探していくようになっています。ですから、絶対的に、結婚をしなければならないというのです。   21 神様は、人間を創造して祝福しながら、「万物を主管せよ」と言われました。「地に満ちるほどふえよ」と言われました。人間がこのみ言をすべて成し遂げて完成すれば、神様はその完成した人間を自ら主管しようとされました。これが創造の基準でした。ところが、人間は、この基準を今まで完成できませんでした。ですから、私たちは地を主管できない者たちであり、真の愛の世界において繁殖できない者たちであり、真の神様の愛を受けることのできない者たちです。これが私たちの悲しみです。このような圏内にいるため、私たちはサタンの餌食となっています。 このような人類を、天は再び起こして地を主管させなければならず、善の功績を積んで、悪の絡まった堕落人類のすべてを清算してしまい、彼らを再び和合させて天の血族にしなければならないのです。これが人間の目指していく歴史的な目的であり、人類が心で憧れ、願う基準です。

 

 

第四節 真の人間の価値と神人一体(csg-4-1-4)

 

1 神様が愛を訪ねていく対象を造ろうとするとき、誰に似るように造ったのでしょうか。神様に似るように造ったのです。神様に似るように造るなら、神様の中にある男性の性稟がなければならず、女性の性稟がなければなりません。そのため、二性性相の論理が出てきます。神様に似るように造るのですが、神様が自分の本性相と本形状からすべて抜き出して、見えない性相と見えない考えの形状を実体として展開させたのが人間です。ですから、聖書の創世記に出てくる、神様が御自分の形状のとおりに人間を創造したという言葉は正しいのです。

 

 

 

2 神様に必要なのは愛です。人の顔を見て喜ぶのではありません。目がすてきだからと喜ぶのではありません。外見が美しいと言って喜ぶのではありません。その姿が自分に似ていると言って喜ぶのではありません。人間は、神様が永遠に楽しむことのできる真の愛の対象的価値をもっています。この価値が顕現する日、この価値が登場する日、神様は初めてお笑いになり、人間はそこにおいて共に和動する相対になるのです。言葉を話すにしても一人で話すのではなく、相対的関係をもって話さなければなりません。人間の先祖アダムとエバは、そのような相対にならなければならなかったのです。

 

 

 

3 神様は、御自分が必要とする愛の対象であるため、人間を最も貴く思います。ですから、人間にとって一番貴いのは神様の愛です。いくら神様が愛をもっていたとしても、愛する対象がいなければ愛を感じることができません。相対的関係においてのみ愛を感じるのです。神様が人間を最も貴く思うのは、人間が神様の愛する対象の位置に立っているからです。神様が一番貴く思うのは、正に人間なのです。

 

 

 

4 神様が千年、万年慕わしく思うことができる存在が人間です。これが宇宙の根本です。これが内外の関係になったので、縦横の愛の世界観が成立するのです。上下関係と左右関係になるので、縦横の愛の世界観が広がります。その中心には神様が臨在されるのです。神様と人間が一つに固く結ばれる場所が、縦横の中心地です。これを結んでおかなければ、縦横の基準が愛の理想型として出てこないのです。

 

 

 

5 人間の欲心には際限がありません。神様まで占領したいと思うのです。その際限のない欲望を実現できる武器が真の愛です。神様が隠しておいた、たった一つしかない愛が自分自身のものになるのです。そのような本心があるので、自分が世界最高になりたいと思うのです。これが本来の人間がもつべき権利です。本来の人間の価値です。

 

神様は天地を創造した王なので、その王の息子、娘にならなければなりません。その方は自分の父母となる神様です。ですから、人間は神様の王族である兄弟です。その国は、自分の国です。父子一体、父女一体、夫婦一体、これを成し遂げるのが祝福を受けて生んだ息子、娘の責任分担です。よく管理しなければなりません。ですから、第一の問題は、男女の問題です。

 

 

 

6 人間が被造世界の中心だというのは、愛のゆえに被造世界が造られたからです。愛の神様を代表し、その主人の前に最初に中心の位置に立って愛を受けることのできる特権をもっているので、「人間は万物の霊長だ」という言葉が成立するのです。その霊長という言葉は、神様の相対的な愛の圏を除いてはあり得ません。人間の特有な価値は、愛の特権をもつことができ、全被造世界を代表して神様のみ前に最初に相対的立場に立ってこの宇宙を治めることができる、そのような愛の場に同参(一緒に参加すること)できる権威をもったことです。愛を抜かせばすべてなくなるというのです。

 

 

神人愛一体圏

 

7 人間は神様を追求してきました。六千年の歴史を経てきながら、神様と遠くなったのではなく、接近してきたのです。ここにおいて、一つはプラス、一つはマイナスにならなければなりません。プラスとプラスが出会ってはならないのです。また、マイナスとマイナスが出会ってもいけません。プラスとマイナスの関係をもたなければなりません。それで「天地」という言葉が必要なのです。上下、前後、左右という言葉が必要です。天地とは「私」を中心として語る言葉です。また上下、左右、前後も、私を中心として語る言葉です。結局、すべてのものが私を中心として成り立っているのです。

 

このように、人格の最高基準を追求し、一つの世界を追求するのは、神様ではなく私自身なのです。私が追求するのです。ですから、人間が宇宙の中心になります。そのため、神人一体となり、それと同時に神様の願いと人間の願いが一体となるのです。神様にも願いがあります。この願いが一つの基点です。それで天地人というのです。このような道を人間は必ず行かなければなりません。

 

 

 

8 エデンの園で神様が創造をする当時、絶対信仰、絶対愛、絶対服従によって創造しました。絶対信仰、絶対愛、絶対服従で神人愛一体圏をつくるのです。地上天国と天上天国が神人愛一体圏となり、絶対的な神様と同じ息子、娘のすべての権限も自由に行使することができ、自由奔放な世界になって、どこにでも通じることができるのです。そのような活動ができる能力のある者になってこそ、神様を解放することができるのです。

 

 

 

9 家庭を見れば、家庭には父母がいます。父母は愛を中心として一つになっています。夫婦一身という言葉は、男性を指して語る言葉ではなく、女性を指して語る言葉でもありません。家庭を指して語る言葉でもありません。その夫婦が愛を中心として一つだということです。父子一身も同じです。父と息子が一つの体だという言葉がありますが、実際は一つの体になることはできません。それは愛を中心として、離れることができないということです。永遠に分立することができないので、一つの体、一つであると結論づけても、これは妥当なのです。

 

人間が購落しなかったならば、神様と人間は神人一体、神様と人が一つの体になっていたでしょう。父と息子が一つの体になることができ、男性と女性が一つの体になることができ、父母を中心として生まれ育った男女が一つになることができれば、一体理想を完成したその家庭は、神様の愛を中心として一体の場に入っていくのです。

 

 

 

10 先生が宇宙の根本を明らかにしていくときに最も苦心したことは、愛がどのように動き、どのように定着するのかという問題でした。愛ほ直短距離を通るというこの一言を知ることによって、すべてが解決しました。真の愛が天から地に訪ねてくるとき、どのような道を通って来るのでしょうか。最高の直短距離ですから、垂直です。これは垂直しかありません。愛が一番早く、直短距離を通るというとき、天上世界と地上世界の接着地は、完全水平の中で一点しかありません。絶対的に一つです。

 

 

 

11 神様は内的な神様であり、私たちは外的な神様になろうというのです。皆、神様になりたいという欲望があります。創造理想は四位基台の完成です。四位基台の完成は、アダムとエバが愛によって神様と一つになることです。上下、左右、前後に神様が入ってくるのです。そうして人間の愛と神様の愛を完成するのです。神人愛完成であり、一体です。

 

 

第五節 被造世界と人間の位置(csg-4-1-5)

 

1 人間は万物の霊長だと言いますが、霊長という言葉は、必ず中心に立って全体の価値を身代わりすることができてこそ、語ることができるのです。優れた人であろうと、そうでない人であろうと、人間は世界的な中心になろうとする欲望があります。無限の価値をもった中心になりたいと思うのです。ある存在があれば、その存在の中の最高の存在になりたいと思い、また絶対的な中心があれば、その中心と一つになりたいと思うのです。このように、より優れた価値と関係を結びたいと思うのが人間の心です。それは本来、人間が歴史時代の全体価値を代表する中心的価値をもっているからです。

 

 

 

2 神様が人間を万物の霊長として立てるとき、天地のすべての環境を代表したその中心として立てました。そのため、すべての人間は、宇宙の中心になろうと主張できる自主権をもっているのです。それは、猿の世界やライオンの世界、虎の世界にはありません。人間世界にだけあるのです。

 

 

 

3 人は万物の霊長だと言いますが、万物の根本となる霊長は神様です。人間には霊があります。人間はその霊の中の長であるため、結局、神様と直結させて霊長と言うのです。万物の霊長は、人間それ自体だけではなることができません。人間も被造物なのに、どのように万物の霊長になるのかというのです。

 

被造物とは相対的結果体です。被造物としてだけでは原因に通じることができず、原因を占領することができません。被造物は原因によって占領されるようになっているのです。人間が結果的存在であるのは間違いありません。霊長の長は、霊の中で中心であるということです。この言葉は本来、神様と人間が一つになった関係を指して語る言葉です。

 

 

 

4 動物と人間が違うのは何でしょうか。食べるのも同じで、寝るのも同じです。服を着たりすることは違いますが、そのようなことは同じだというのです。目と鼻の形、構造を見れば、大した違いがありません。人間は霊と肉が合わさって、一人の人間になっています。

 

しかし、肉的な生活、肉をもって生きる生活は、動物的な生活とあまり違いがありません。食べて寝て、また食べ物のために活動するのは同じなのです。

 

人間と動物の違いは、この宇宙世界において異なる価値をもたらす、貴い価値をもたらす者になるということです。貴い人というのは、肉的な人ではなく神霊的な人です。神霊的なほうが貴いというのは、肉的なものとは異なるということです。違わなければならないのです。

 

 

 

5 猿と人間は根本が違います。猿はただ食べて寝て、子を産むのが第一です。人間とは種が違うのです。人は自分を中心とするのではなく、他の人を中心として、より大きなものを中心として願いをもちながら生きるようになっているのであって、自分より低いものを願いながら生きるようにはなっていません。次元が違うというのです。人間は生まれたときから神様をあがめてきました。神様をあがめない種族はいません。神様を考え、人間がより良くなれる宇宙を思いながら生きてきたというのです。

 

 

 

6 皆さんは、子女を生み、お乳をあげながらかわいいと言いますが、誰のゆえにかわいがるのですか。それは天地に代わってかわいがらなければならないのです。この世界のゆえに、神様のゆえにかわいがらなければなりません。神様の愛に従った天倫の運勢は、世界を越えて天地を抱擁するために動いています。その関係を通して生まれた息子、娘を、自分を中心に愛するというのは許されません。子女を抱いてお乳を与える母親は、天地に代わって神様の愛する息子、娘を抱くという徹底した心情で、自分の息子、娘を抱かなければなりません。神様が願われるエデンで暮らせる息子、娘は、宇宙的性稟を備えた息子、娘でなければなりません。万物を主管しなさいと言われたので、主管者としての資格をもった存在でなければならないというのです。

 

 

 

7 皆さん自体は、天が全体を主管するその立場を身代わりし、万物の主管主を身代わりするその価値を現さなければなりません。そして、自分の日で「あなたが探そうとする一つの存在、全体を身代わりした本来の主管主自体として立てられたみ旨をすべて完成しましたので、神様、命令してください」と言うことができなければなりません。このような立場に立つことのできる一つの存在が、六千年間摂理しながら探し求めてこられた、神様の願う存在です。

 

 

 

8 人間は、和動の中心体です。和動するためには、絶対的な中心基準が決定されていなければなりません。多くの人が拍子を合わせようとすれば、ちょうど指揮者を中心に上下関係がよく連結されていなければならないのと同じです。この宇宙の和動の中心体が人間です。このような人間は、絶対的基準と一致した位置にいるので、その人がとどまる所に宇宙がとどまるのであり、存在世界がその人を中心として作用するのです。そして、その作用によって存在世界に力が生じるようになるのです。

 

 

 

9 人は大宇宙の縮小体です。皆さんが小宇宙です。大宇宙は被造世界です。作用の源泉、力の源泉は神様です。「私」は大宇宙の前に立った一つの小宇宙として、大宇宙の絶え間ない力の源泉になるその力が私の心に入ってくることにより、この大宇宙と相応する相対の価値をもっているのです。ですから、人間は宇宙の花なのです。

 

 

 

10 人は自分一人ではありません。宇宙共同の縁を総合した結実体として現れたのが人間です。このような人間には、万物を総合した形がすべて入っており、私たちの先祖から受け継いだ、数多くの先祖のすべての性質が投入されています。顔を自分の顔のように感じていますが、その顔になるまで数万年の歴史を経てきたというのです。数万年かけて先祖の血を受け継ぎ、そのようになったというのです。奇跡的な実体です。それだけでなく、その背後に天との縁がついてきたために、その人が残ったというのです。天から見るとき、無限の曲折を経て今日の自分がつくられたというのです。万物のすべての関係的存在が投入され、投影された実体が自分だというのです。

 

 

 

第一節 人間の成長と責任分担(csg-4-2-1)

 

1アダムとエバが神様の愛を知り、神様と完全に一つになることのできる基準、神様の愛の中心基準と、アダムとエバの愛の中心基準が一点に集まらなければなりません。アダムとエバは横的な代表存在であり、神様は縦的な代表存在です。しかし、この三つが一致して、愛の球形が形成されなければなりません。内在的な核である神様の愛を中心として、外在的なアダムとエバの愛を中心に一つとなり、球形が広がらなければなりません。細胞にも核があります。核を中心として、主体と対象の幕準が授け受けしなければなりません。それが形成されなかったので、歴史時代を経て、これを再び収拾しなければならないのです。

 

 

人間の責任分担と成長期間

 

2人間の責任分担は、堕落していないアダムとエバにのみありました。真の父母が生まれたあとは、地上のすべての父母が抱いてくれるため、サタンが干渉できません。サタンが讒訴する何ものもないのです。堕落前には、アダムとエバにのみ可能なことでした。今まで歴史上においてアダムとエバの完成が実現されなかったため、この原則の影響は、すべての歴史過程に、全体分野にかかっています。そのため、堕落した世界の人間が真の父母が出てくることをどれほど待ち望み、霊界に行った霊人もどれほど再臨の日を待ち望んだかを知らなければなりません。

 

 

 

3アダムとエバの前に置かれた責任分担は、一度誤れば億千万年の間、人間にとって癌(がん)となる恐ろしい落とし穴となります。このような責任分担を果たすべき立場にいるアダムとエバなので、神様はサタンの攻撃があることを予想し、「取って食べてはいけない」と警告したのです。それにもかかわらず善悪の実を取って食べたので、それを見つめる神様の心はどうだったでしょうか。そのような立場から外れていく瞬間にも、神様は「お前だけはそうしないだろう」と信じたかったでしょう。

 

 

 

4創造の原則から見るとき、皆さんはどんなことがあっても、皆さん自体の責任を担わなければなりません。九五パーセントの責任は神様がもつのであり、五パーセントの責任は人間がもつのです。これが合わさって一〇〇パーセントになります。これが創造原理です。そのため、創造主の権限に加担するための特権的な権限を賦与されなければなりません。このように九五パーセントの責任は神様が、五パーセントの責任は人間がもつにもかかわらず、人間はこのような基準を越えられなかったので、歴史が始まりながらも真の世界の味を知ることもできず、始まりとともに傾いてしまったのです。そうして人間は、真の世界の味を知らない世界において生きるようになったのです。

 

 

 

5責任分担とは何でしょうか。第一に、真の子女になることであり、第二に、真の兄弟になることであり、第三に、真の夫婦になることであり、第四に、真の父母になることです。ですから、息子、娘が生まれて子女になり、兄弟になり、夫婦になり、父母になるのです。それで神様の代わりに創造するのです。神様がアダムとエバを造って喜んだその事実を内的、外的に体験するのです。

 

 

 

6原理結果主管圏と直接主管圏を連結しなければならないのですが、それを連結するのが真の愛です。アダムとエバが連結できなかったものを連結しなければなりません。それを連結していたならば、そこから全体が一つの文化圏、一つの国民、一つの国家、一つの国土になったでしょう。しかし、それができなかったので、悪魔を中心として分裂し、複雑な多くの国々に分かれたのです。これを再び統合して本然の世界に帰らなければなりません。

 

 

 

7責任分担とは、直接主管圏と間接主管圏を克服することです。思いどおりに天上世界と地上世界に通じるためには、神様の愛を中心として一体的心情圏に入らなければなりません。それが原理基準です。そこで神様の愛を中心として、縦的な父母の位置を身代わりできる横的な面さえ決定されれば、そこからはサタンがいないのです。直接主管圏です。

 

 

 

8人間に責任分担の基準を立てたのは愛の理想を完成するためであり、神様が創造過程において人間に五パーセントの責任分担を賦与したのは、その対象圏が必要だったからです。一人で愛することはできません。いくら全知全能の神様でも、その対象なくしては愛が顕現できないのです。

 

十代の子たちが自分一人でいるときは、愛があるのかないのか分からないのです。相対が現れるとき、初めて愛というものが運動し始めるのです。それと同じで、責任分担という過程を中心としてある時まで待ち、人間自体が自ら成熟期を迎えて花が咲き、香りを漂わせるときになったならば、神様の霊がアダムとエバの中に入って人類の内的な父、内的な母の位置に立ち、人類の家庭を築いたでしょう。人類の家庭だけでなく、氏族、民族、国家、世界に発展したでしょう。そうすれば、人類全体は神様の直系の血族になるのです。

 

 

 

9神様は、どうして人生の中に責任分担を立てたのでしょうか。全知全能の方なので、その全知全能の創造性までも賦与し、また永遠不変の愛の主体であられるので、その愛の主体を身代わりできる位置に立てるために、責任分担を与えざるを得なかったのです。これは福の条件となり、全体を占領できる一つの鍵のようなものなので、これを与えざるを得なかったのです。しかし、この責任分担が問題となり、堕落したのです。

 

 

 

10神様は、なぜ人間の前に責任分担を与えたのでしょうか。真の愛を人間にのみ賦与したので、「お前たちだけはこの法を守りなさい」というのです。それで真の愛に到着できる責任分担を人間に与えたのです。原理結果主管圏内で神様のために生き、互いにために生きる位置に立てば、自然に育つというのです。

 

ところが、これを悪魔が知って、自己覚醒させました。自己覚醒は、天使長から始まったのです。天使の誘惑をエバが受け、第二の自我覚醒によって堕落したのです。そのため信仰生活は、サタン世界に対して完全否定をするのです。ですから、サタン世界の血縁間係をどのように克服するかということが大きな問題です。真の愛の真の父母から皆さんの生命が始まれば、ここから心情圏が造成されるのです。

 

 

 

11人間が責任分担の完成段階に進んでいれば、神様の愛の五パーセントを創造し、完成したでしょう。言い換えれば、神様の愛を完成できただろうというのです。神様の愛を完成できるという愛の理想を創造する偉業を、神様は人間に賦与しようとしました。ですから、人間の価値はどれほど高貴でしょうか。

 

 

 

12天の国に入る人は、責任分担を完成して真の父母の血肉をもった子女になり、神様の蔽接的愛を受けられる位置に行かなければなりません。そのような場で、主管を受けながら暮らした人々が行く所が天国です。そのため、これを知らなければ、天国に入って入籍することができません。むやみにやってもできないのです。ですから、責任分担について知らなければなりません。

 

なぜ責任分担を与えたのでしょうか。それは、人間に無限で高貴な価値を賦与するためであり、神様の創造の偉業に加担させるためです。もし人間に責任分担を賦与していなければ、人間は神様の愛に相対できる対象の位置に立てません。

 

 

 

13神様が一〇〇パーセント造ってあげてはならないのです。九五パーセントは神様が造り、五パーセントは人間自身が責任をもつのです。そのようにしてこそ、一〇〇パーセントを満たすときに、協力者として同等の位置に立つことができるのです。そのようにすれば、絶対的主体である神様のみ前に堂々と相対的な資格を備えた位置で、愛を授け受けできるのです。このようにして愛の理想を形成することができます。責任分担がなければ、私たち自体では神様の愛の理想を、対等な位置で受けるにふさわしい威信を立てることができません。それで神様は、人間に神様の愛を受けることができる威信を立てさせてあげるために責任分担を設定したのです。

 

 

 

14人間は、成長期間において責任分担を果たさなければなりません。責任分担を果たすことにより、九五パーセント創造されたところに、五パーセントの創造の協助的条件を立て、創造者の権限に同参するのです。神様が愛する対象である人間をすべて造ったならば、その人間は人形と同じであり、何の権限もありません。

 

神様は人間に対象の資格を賦与するために、神様も干渉できない特権を下さったのです。人間が、人間自身を造ることに協助したという条件を立てるために、責任分担を下さったのです。

 

 

 

15人間には責任分担があります。神様が人間に責任分担を与えた目的は、神様の創造の偉業に同参させるためです。九五パーセントは神様が造り、五パーセントは人間が造ることによって、人間を創造するとき、神様だけが創造したのではなく、人間も自ら創造したという条件になるというのです。この同等な価値圏を賦与するためのものが責任分担です。これは偉大なことです。人間にのみ責任分担があります。しかし、有史以来、責任分担を完成した人がいません。責任分担というもの自体を知らなかったのです。

 

 

 

16なぜ人間に責佳分担を与えたのでしょうか。創造の偉業に加担させるためであり、神様の創造性に似るようにして、万物を主管できる資格を与えるためです。その次には、原理の絶対性と完全無欠性のためです。この三つの内容です。

 

皆さんが神様の創造の偉業に加担しなければなりません。本来、堕落しなかったとしてもそのような責任はあります。堕落したから人間の責任分担が設定されたのではなく、堕落しなくても人間は責任を負っているというのです。人として完成できる神様の九五パーセントの創造理想的形態をすべて備えたとしても、自分の五パーセントの責任を完遂しなければなりません。

 

人間自体の完成は神様だけがさせるのではなく、自分がそこに加えて、完成しなければならない責任があるのです。

 

 

 

17原理には許しがありません。いずれにせよ行かなければならないのです。死んでも行かなければなりません。永遠に行かなければなりません。神様御自身がこれを思いどおりにできるなら、神様が今まで復帰摂理路程において受難の道を行く必要もないのです。しかし、責任分担的限界線があるために、神様がその網目にかかり、今まで人間を復帰するために数多くの受難の道を歩んできたのです。その責任は神様にだけあるのではありません。人間と共同で責任を負っているのです。堕落しなかったとしてもそうなのです。

 

 

 

18今日、堕落した人間はどうなっていますか。堕落した人間は、人間の責任分担だけではなく、全体創造の九七バーセントを蹂躙してしまったのです。ですから、再創造をしなければならないのですが、再創造とは、人間の責任分担を果たした境界線に進むことや、その境界線に立つこともできるものではありません。再創造することによって人間が九七パーセントに該当する責任を果たさなければ、人間の責任分担を完成する道が永遠にないというのです。ですから、再創造しなければなりません。創造過程のすべてが崩れたのですから、それはどれほど難しいでしょうか。

 

復帰摂理は再創造歴史ですが、なぜ再創造が必要なのかというと、人間の責任分担のためなのです。人間が責任分担を果たし、その位置まで進んでいくためにも、必ず再創造の過程を経なければなりません。

 

 

責任分担とみ旨の成就

 

19摂理には遂行すべき主体があり、遂行すべき対象があります。主体は神様であり、対象は人間です。その主体と対象が摂理のみ旨を中心として一つになって完成しなければ、勝利の起源を探し出すことはできません。神様は、主体と対象が一つになるようにすればよいのに、なぜそうならないようにしたのでしょうか。それは人間の責任分担があるからです。人間の責任分担があるので、このような複雑な問題が延長されてきたのです。もし人間の責任分担がなかったならば、神様はいつでも勝利の歴史から、勝利の過程を経て、勝利の終着点まで進んだでしょう。

 

 

 

20堕落した子孫である皆さんには、責任分担圏が残っています。個人的な責任分担を中心として見るとき、個人的な原理結果主管圏で個人完成して神様の愛と連結し、神様と直接的な愛の関係を結べる個人的な直接主管圏の基盤をもったかと言えば、もてなかったのです。蕩減復帰は、サタンを分立するために必要です。サタンを分立しなければ責任分担を果たすことができません。そのため、責任分担の道を歩んで成熟し、十七、十八歳になれば、男性に絶対に必要なのが女性であり、女性に絶対に必要なのが男性であるということを知らなければなりません。

 

 

 

21神様はなぜ、人間に責任分担の期間を与えたのでしょうか。どうして神様は責任分担という過程を中心として、互いに接近しなければならないようにしたのでしょうか。なぜ、一つの共同目的である創造の偉業完成という課題を完成させるべく、一時を願いながら行かなければならないのでしょうか。それはほかでもない、愛のためなのです。

 

青年の男女は思春期を迎えますが、霊的にも肉的にも完全に成熟し、花が咲くときが思春期です。思春期は、十八歳を前後して人間に必ず訪れます。その思春期において、霊的な人と肉的な人がいれば、それらが一つになって花を咲かせるのです。万物の中心である人間がその香りを漂わせれば、このすべての宇宙が和動できる、一つの春の季節を迎える環境になったでしょう。その春の季節は、人間の春の季節であると同時に神様の春の季節です。神様が喜ぶ中で香りを嗅ぎ、歌を歌いながら「うれしい」と言うことができれば、そこで初めて、神様の完成的理想生活圏が出発したでしょう。

 

 

 

22愛の中心は人間ではなく、どこまでも神様です。そのため原理において責任分担の完成は、人間の愛と神様の愛が一つになることを意味します。神様の愛は永遠の愛なので、永遠の愛を中心として相対の位置で一つになるのは、永遠の一体を成就することなのです。そこに分立はあり得ません。

 

 

 

23アダム一人の責任分担の完成によって、個人の責任分担の完成だけでなく、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の責任分担を完成できる基盤が、その一代において築かれます。そうすれば、アダムの子孫は責任分担完成圏に立つため、天の国の直接統治を受けることのできる世界史的な基準に立つようになります。そこには世界責任分担や国家責任分担というものは残っていません。アダム完成とともに世界責任分担が完成します。責任分担を完成することにより、原理結果主管圏と直接主管圏が連結されるのです。

 

 

 

24直接主管圏と原理結果主管圏が連結されたその道、その接線は愛によって始まります。それが連結されるため、愛によって連結される愛の橋が生じるのです。神様と人間の間に愛の橋が初めて生じるのです。

 

しかし、責任分担を完成していない場所では、人間と神様の愛に本来の理想的な橋が架かりません。理想的な愛の場は、責任分担を完成するときに成されるのです。

 

 

 

25直接主管圏とは何でしょうか。愛を中心として初めて主体が生じ、客体が生じて、主体の意図による客体の環境圏が連結されます。そのような世界は、アダム家庭の完成であり、全体の完成です。そこにはサタンも存在せず、今日のような堕落した世界もありません。アダムとエバを造って「責任分担を果たしなさい」と言った場には、サタンがいなかったのです。

 

 

 

26原理結果主管圏と直接主管圏内でアダムが責任分担を完成することにより、アダムとエバを中心として神様が臨在し、家庭から真の愛の定着基地が始まります。

 

その家庭は、個人的家庭ではありません。その家庭は、天宙を代表した家庭です。世界を代表した家庭です。世界国家を代表した家庭であり、世界氏族、世界家庭、世界個人を代表した家庭です。

 

個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、すべて逆さまに代表した立場です。下から天宙、世界、国、民族、氏族、家庭、夫婦になります。この代表になって、ここから愛を中心として天と一つになることにより、この全体が天の家庭に連結された王権時代に前進するはずだったのです。

 

 

 

27天と地と人が分かれたのですが、どこで合わさるのでしょうか。男性が思春期まで成熟し、女性も思春期まで学んで成熟し、結局は男性を知り、女性を知るようになるのです。ここに来て初めて複数になるので、複数で連結されるのです。そのようにすることによって運動が始まります。この場が統一教会で言う五パーセントの責任分担です。この場は天と地が接する場です。世界が横的に接する場であり、天地が縦的に接する場であり、宇宙すべてが前後に合わさる所です。男性と女性が根源から分かれて出発したので、ここに帰らなければなりません。ですから、皆さんは全宇宙の中心です。最も貴い宇宙の中心をもう一度探さなければなりません。その宇宙の中心を探し求めていく道は、お金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。真の愛のほかにはないのです。

 

 

 

28男性と女性は天宙の圧縮された核です。夫婦が真の愛で愛する所には、全宇宙が引っ掛かってきます。男性と女性は愛のために生まれました。ですから、直接主管圏は縦的なのです。本来、人間は縦的になっています。責任分担を完成することによって縦的な主人が設定され、次に横的な主人が設定されます。それは真の愛によって設定されるのです。

 

 

 

29原理結果主管圏から直接主管圏に越えていくためには、必ず成熟した位置で夫婦の愛を完成させなければなりません。そのようにすることによって、責任分担が完成します。愛の碁準が神様と絶対的基準で連結された夫婦を通して生まれたその息子、娘は、絶対的な血縁です。その基準を目標にして、果たしておかなければならない責任が人間にあるのです。

 

 

 

30原理結果主管圏と直接主管圏、地上と天上を統一し、心身を統一することは責任分担の完成です。神様と横的な真の父母は一つです。そこにおいて統一された愛、天と地を連結する愛、体と心が一つになった愛、男性と女性が一つになった愛が問題です。統一された愛の基盤を築くことにより、初めて天の愛と天の生命と天の血統が連結され、その横的な拡大が八方に展開することによって王権が生じるのです。

 

 

 

31神様がアダムとエバに干渉できなかったのは、人間の責任分担があったからです。彼らが蘇生、長成の期間を経て、完成圏を通過して直接主管圏内で祝福を受け、人間の責任分担五パーセントを完成していたならば、すべて終わっていたでしょう。そこから新しい出発、個人的な人生と家庭的な人生が始まり、歴史的なすべての出発において、神様のみ旨が完成したでしょう。そのようになっていたならば、そこから真の愛を中心とした神様の血族となる真の父母が出てきて、真の家庭と真の子女が生まれ、氏族、民族、国家を編成して地上に神様の願った理想実現の国家が形成されたでしょう。それが地上天国です。

 

 

 

32アダムとエバが責任分担を完遂していたならば、私たちには恨という言葉が残されていなかったでしょう。責任分担を果たせなかったがゆえに、私たちの歴史過程には恨めしい道が残っているのです。もし責任分担を完遂していたならば、人間と天使世界、全被造世界は、喜びと栄光の中で神様の主管を受けることになっていたでしょう。これが原則です。責任分摺の未完成によってサタン世界が形成され、この地がサタン主管圏内に残されたのです。この責任分担の未完成によって、神様も苦労の道を今まで選んできているのです。この責任分担は、いかなる時代にも、いかなる個人にも、いかなる民族にも、いかなる世界にも残されています。一個人を見るときも、この責任分担という課題が、自分の生涯を中心として、いつも目の前にあるのです。それが「私」に対して責任を果たすよう追及しているというのです。

 

 

 

33創造の偉業を経綸したあとの神様は、完成のみ旨を目にすることのできなかった神様です。その神様に侍ってきた人類は、完成を目にすることができないまま呻吟している人類です。それでは、いつ神様の解放の日が来るのでしょうか。いつ人類の解放の日が来るのでしょうか。その解放というのは、責任分担を中心として来なければなりません。そうでなくては、人間が願う理想世界、統一教会が願う地上天国実現は不可能です。

 

責任分担を完成した位置に立った人間は、神様のように完全な人間です。神様が九五パーセント創造したのですが、人間は一〇〇パーセント完成した創造主の資格を賦与される立場に立つため、人間の完成であるとともに神様の創造の偉業の完成になるのです。創造の偉業の完成であるとともにみ旨の完成であり、み旨の完成であるとともに神様の完成になるのです。

 

 

責任分担が重要な理由

 

34神様は、すべての生命の中心であると同時に、愛の中心です。もちろん生命も愛の中心であり、愛も生命の中心です。神様は人類が苦痛を受けていることを知りながらも、なぜ幸福な人類になるように導けなかったのでしょうか。少し考える人は、「何らかの絶対的な神様がいらっしゃるならば、どうして全世界の人類が歴史を通して時を問わず、受難の道を行かなければならず、理解できない道をさまよいながら、手探りして行かざるを得ない運命に置かれているのだろうか」と言うでしょう。このようなことを見るとき、愛の神様は存在しないと速断しやすいのです。

 

 

 

35悲惨な復帰歴史は、神様御自身がいかなる権力をもってしてもどうにもできません。それは、人間の責任分担の五パーセントが残っているからです。神様がいくら涙を流しても、どうにもできません。この重大な基準は人間が立てなければならないのです。人間には責任があります。それを、今まで人間は分かりませんでした。神様は全能なので、その神様がしようとさえすればできないことはないと考える信者が多くいますが、神様にもどうすることもできないことがあるのです。

 

 

 

36神様は、人間が堕落するとき、なぜ干渉しなかったのでしょうか。絶対的な創造主として認定した以上、完成するまでは人間自身が責任を負うようにしなければなりません。中間で干渉すれば、絶対的な権限の基準が崩れるというのです。神様は偉大な方です。第二創造主の権限を委ねるために、そのようになされたのです。個性真理体になっているため、神様も思いどおりにできないのです。

 

 

 

37人間の責任分担というこの明確な思想的根拠によって、蕩減復帰という最も嫌な、「怨恨」の術語が出てきました。その蕩減復帰路程は、神様も絶対に後援することができず、一人で行かなければならないのです。助けてあげれば蕩減になりません。なぜでしょうか。人間の責任分担という原則があるので、その原則において助けてあげるのは蕩減にならないのです。助けることができたのであれば、人間が堕落するときに神様が干渉して、堕落しないようにしたはずです。責任分担があるので助けられなかったというのです。

 

 

 

38今まで神学者や霊界に通じる数多くの人々が、サタンがいることは分かりましたが、全知全能の神様のみ前に反対するサタンの活動を、なぜ防御することができなかったのかという問題は分からないのです。これは霊界に通じても、問題なのです。神側に行こうとすれば、いつでも必ずサタンが妨害するようになっています。一方ではなく、四方八方から反対するようになるのですが、なぜ神様がそれに干渉できず、制裁を加えられないのでしょうか。このような問題が今も謎です。霊界に通じても、これだけは分からないのです。

 

ですから、このようになったすべてのことを、サタンによってこのようになった悲惨な事実を、霊界がなぜこのようになり、地上がなぜこのようになったかということを解かなければなりません。それを神様が知っているからといって、教えてあげることはできないのです。それは責任分担がかかっているからです。

 

 

 

39責任分担に責任をもてる人は、本来堕落せずに完成すべきアダムとエバ、真の父母になるべきアダムとエバでした。父母だけが責任をもてる責任分担だったのです。父母が責任分担を果たせずにこのような結果の世界になったため、誰にも責任分担ということを教えられないのです。父母に教えられなかった神様なので、誰にも教えることができません。「統一原理」で言う責任分担という言葉が出てこなかったならば、歴史は解く道がないというのです。

 

 

 

40責任分担ということを知らなければ大変です。責任分担を中心として、ひっくり返すための蕩減路程を歩んでいるという事実を知らなければ、宗教世界の歴史が解けません。これが解けなければ、霊界に行ってもすべてが解けず、すべて残ってしまうというのです。解く道がありません。皆さんは責任分担という言葉を簡単に思うかもしれませんが、途方もない歴史的な福音なのです。

 

 

 

41      統一教会で人間の責任分担ということを明らかにしたという事実は、宇宙的な発見です。原子爆弾を発明したこと、アインシュタインが相対性理論を発見したこととは比較にもなりません。それが分からなければ、歴史のすべてのものが解決されないのです。神様と人間の関係、歴史のすべての出来事が曖昧です。正義の人々が歴史時代においてなぜ犠牲になり、なぜ過ぎ去ったあとになってその人々の名が現れるのかという問題は、歴史学者も哲学者も解明する方法がないというのです。

 

 

 

42責任分担を完成したというときには。サタン世界が私の前に現れてはいけません。皆さんの前にサタン世界は現れませんでしたか。これが問題です。先生がこの責任分担を知らなければ、今日、復帰歴史や世界救済、「錦衣還郷」(故郷に錦を飾ること)や解放圏というものはあり得ないのです。新・旧約の歴史が探し求めて解決しなければならない問題が、責任分担圏をどのように越えるかということです。それが新・旧約の願いです。

 

それでは、メシヤがなぜ必要でしょうか。メシヤは責任分担圏の上位にいる人です。メシヤと一つになればサタンが讒訴できません。天の権限をもって、責任分担完成圏の基盤の上に、神様の愛に一致した血統圏をもって現れるため、サタン世界が反対できないのです。

 

それでも反対を受けるのはなぜでしょうか。サタン世界の人をつかんで、死んでも放さないというので、十字架で葬ってしまえと言って騒ぎ立てるのです。責任分担を完成できなかった人は、天国に行くことのできる権限が絶対にありません。サタンの血統を受け継いでいなかったアダムとエバも、責任分担を果たせなかったために、サタンが引っ張っていったのです。

 

 

 

43蕩減復帰がなければアベル圏を探すことはできません。アベル圏を探すことができなければ、父母が出てくる道がないのです。父母を探すことができなければ、神様が理想とする本然の世界を探す道がありません。そのため、すべての人間は個人的責任分担に引っ掛かっており、家庭的責任分担に引っ掛かっています。そして、氏族的責任分担、民族的責任分担、国家的責任分担、世界的責任分担に引っ掛かっています。これを解くことができなかったので、霊界まで地獄と天国に分かれているのです。永遠の霊界までも地獄と天国に分かれているのは、責任分担の問題を解決できなかったからです。そこに人がいるとしても、サタンの人です。神様と何の関係もありません。ですから、責任分担と蕩減復帰は絶対に必要なのです。

 

 

 

44皆さんは、責任分担を一日に何回ずつ考えますか。御飯を食べるときも責任分担、スプーンを握るときも責任分担、スプーンや皿を洗うときも責任分担、トイレに行って大便や小便をしながらも責任分担、歩きながらも責任分担を唱えなければなりません。アダムとエバは責任分担を考えなかったので滅びたのです。皆さんも責任分担を果たさなければ滅びます。私たちは、アダムとエバのように責任を果たせず、堕落する人になってはいけません。復帰して勝利した人になるためには、二十四時間責任分担を尊重し、考えなければなりせん。

 

 

第二節 人間の堕落(csg-4-2-2)

 

1聖書の内容を観察してみれば、人類始組が不倫の愛により、悪魔サタンを中心として父子の関係を結んだという事実を否定することができません。神様の血統を受け、神様の絶対的な愛の中で、神様の直系の息子、娘として生まれなければならない価値をもった人間が、悪魔サタンの血統を受けてサタンの息子、娘として生まれたというのです。

 

 

 

2堕落は、どこから始まったのでしょうか。男性と女性の間で堕落したというのは、どういうことでしょうか。聖書の文字どおり、善悪の実を取って食べたのが堕落でしょうか。果物を取って食べたのが原罪になることはあり得ません。異性間で堕落し得るのは、誤った愛しかありません。人間始祖が果物を取って食べた罪によって、その子孫が千代、万代、罪人になり得るでしょうか。それは血統的に罪の根を植えたので、遣伝の法則によって永遠に持続するのです。不倫の淫行関係によってエバは天使長と一つになり、天使長と一つになったエバが再びアダムと一つになることによって、アダムとエバは神様を中心とせず、天使長を中心とした夫婦関係を結んで家庭を築くようになったので、アダムとエバの子孫であるすべての人間は、結局サタンの血統を受け継ぐようになったのです。

 

 

 

 

間接主管圏と直接主管圏

 

3神様の実体にならなければならず、人類の真の父母にならなければならなかったアダムとエバが、思春期になる前に堕落してしまいました。言い換えれば、秋に良い実を結ぶために春に種を蒔いたのですが、これが秋まで行くことができず、夏に落ちてしまったというのです。堕落とは正に、このように途中で脱落したことを意味します。

 

 

 

4本来、アダムとエバが完成すれば、神様がその完成の位置に入っていって、アダムとエバと一つになるのです。それで結局、霊的な立場と肉的な立場が一つになり、霊肉を中心として神様の愛に連結されなければならないのです。成熟した思春期を迎えていない未成年のときに堕落しました。霊肉が神様の愛と連結されていない未発達の時期に堕落したというのです。そのため、愛が分からずにいます。いが栗はいが栗なのですが、中身のないいが栗の姿と同じなのです。

 

 

 

5宇宙の根本に、脱線はあり得ないというのです。ところが、エバが成長する前、未成年のときに天使長のルーシェルを見ると、天地の道理をすべて知っているかのように話すのです。神様のみ使いとして、天地創造についても話すことができるというのです。アダムは無愛想で、鳥でも捕まえようと駆け回っていたのです。棒を持って鳥でも捕まえようと駆け回り、蛇でも捕まえようと駆け回り、蛙でも捕まえようと駆け回っていたというのです。自然にあるすべてのものを将来主管し、管理して親しくなり、一つになろうとしたので、そのようにしたのです。エバに対しては関心がありませんでした。

 

 

 

6堕落しなかったならば、アダムとエバは青少年の時期を過ぎ、思春期を迎えて、自然に一つになったはずです。誰が教えなくても、自然に一つになるようになっています。誰を中心として一つになるのですか。アダムでもなくエバでもありません。愛の根となる神様を中心として一つになるのです。

 

花が咲くとき、その花自体が咲くのではなく、根を通して咲くのと同じように、神様がそのような立場で人間と共に完全に相対的理想を完成し、愛を完成していたならば、すべてのものが公認されたでしょう。すぐにそこから天国生活です。このように見るとき、堕落したという事実は、神様が人間に願った理想の愛の完成基準を失ったということを意味します。

 

 

 

7神様はなぜ、責任分担というものを与えたのでしょうか。人は大きくならなければならないというのです。成長して上がっていかなければなりません。十五、十六、十七、十八歳の思春期まで成長しなければなりません。成長するまで待たなければならないのです。そのため、これを原理結果主管圏、または間接主管圏と言います。育って成熟する前は愛を知らないというのです。ですから、成熟するまで待つのです。育ち切って、平面的な極において二人が一つになることのできる、その時に神様が来られ、彼らの結婚式をしてあげれば、それで終わったというのです。

 

 

 

8人間が堕落することによって、間接主管圏内にのみ、とどまるようになりました。直接主管圏は、いまだに連結されていません。アダムとエバが責任分担を果たせなかったことにより、間接主管圏から直接主管圏を連結できなかったのです。

 

ここに責任分担が関係しています。そのため復帰摂理は、責任分担のゆえに何度も延長されていくのです。神様の直接主管圏に連結される神様の愛の圏に行くためには、すなわち完成するためには、間接主管圏で自らの責任分担を完成しなければなりません。

 

 

 

9間接主管圏と直接主管圏を連結させるために、責任分担を完成しなければなりません。責任分担完成というのは、男性が虞熟し、女性が成熟しなければならないのです。エデンの園における完成とは、神様のことしか分からないことです。神様を第一に愛さなければなりません。その次に男性は女性を愛し、女性は男性を愛する、そのような人にならなければなりません。このようになるとき、責任分担を完成することによって、間接主管圏から直接主管圏内に行くことのできる新しい次元に越えていくのです。

 

 

 

10皆さんは、原理結果主皆圏から直接主管圏に至るまで、家庭を中心として蕩減条件を立て、自ら責任分担を完遂したという条件を立てなければなりません。そのようにして、神様の愛を中心として直接主管圏と関係を結ばなければ、天国に入る道がありません。これが原理です。

 

それでは、責任分担をなぜ立てたのかというのです。神様のすべてのものを相続し、神様の対象者にするために蕩減条件が立てられました。その次に、直接主管圏はなぜ必要ですか。直接主管圏を連結せずしては、愛が人間と神様に連結されないからです。この愛が連結されなければ、神様から宇宙を相続することはできません。愛を中心として相続させるようになっているのです。そのため、すべての国や、すべての家庭も、愛する子女を中心として相続させようとするのです。それは、原理がそうだからです。

 

 

 

11責任分担圏は、愛を中心として一つになった場所です。完成して縦的な神様の愛と連結されたとき、間接主管圏と直接主管圏が連結されます。直接主管圏と間接主管圏が連結されれば心情圏が連結されるので、サタンがそこに存在できないのです。その前に堕落したので問題なのです。人間としては、いくらやってもこれが分かりません。ですから、万民がすべて地獄に行くのです。ここの中間で復帰摂理の道を立て、中間良心圏を啓発しながら、それを固めてきた歴史的背後の基盤が宗教です。

 

 

 

12直接主管圏は、アダムとエバが愛を中心として同参できる場所です。ですから、間接主管圏は責任分担未完成圏です。責任分担完成と同時にアダムとエバが愛を中心として夫婦になり、神様は内的父母となり、アダムとエバは外的父母となって内外に一つとなるとき、初めて直接主管圏が設定されるのです。そのため、この過程では結婚が絶対に必要です。独身では越えていけないのです。

 

 

 

13神様の愛を中心として、完全な神様の愛が顕現するとき、サタンは現れることができません。それが責任分担完成です。責任分担を完成したならば、間接主管圏と直接主管圏において愛の関係が結ばれるのです。そこで縦的愛と横的愛が連結されるのです。そうなれば、その縦横の愛を通じて、神様の血統的関係が生じるのです。血統が生じます。神様の愛を中心として一つになった縦横の愛と関係を結んで生まれた血統は、サタンが干渉できません。サタンと関係がないのです。ですから、心情を受け継ぐためには、純粋な神様の愛を中心とした本然の伝統的血統を受け継がなければなりません。

 

 

人間の責任分担と堕落

 

14エデンの園でアダムとエバが神様の命令に従順であったならば、堕落はなかったでしょう。神様の命令に従順であったならば、その個人によって家庭が築かれ、その家庭によって国家、世界が形成され、地上天国、すなわち神様だけが主管できる世界になったでしょう。

 

ところが、神様の命令に従順に従わず、反逆することによって、サタンを中心とした個人、家庭、氏族、民族、国家が形成されたので、本来神様が意図した神様の国は、いまだにできていないのです。本来神様が意図した世界と反対になったために、反対の中心存在であるサタンが生まれ、サタンが主管する個人と家庭と世界になったというのです。

 

 

 

15アダムとエバが堕落する前、神様に先に尋ねていたならば堕落しなかったでしょう。「天使長がこれこれこのように言うのですが、どうしましょうか」と尋ねなければなりませんでした。そのようにしていれば、神様が答えたはずです。この尋ねてみることが、責任分担の五パーセントです。尋ねてみるのは自由です。しかし、尋ねてみずに横的関係を結んでしまったのです。尋ねずに行動したので、問題が起こったのです。いつもそうです。皆さんは、自分の責任分担の五パーセントを果たす自信がありますか。ないのに騒ぎ立てる、ありとあらゆる人たちが大勢いるのです。

 

 

 

16アダムとエバが、なぜ堕落したのでしょうか。責任を果たせなかったからです。責任分担は、アダムやエバが一人でできますか。まず神様と一つにならなければなりません。神様と一つにならなければ責任分担を完遂することはできません。

 

その次に、原理と一つにならなければなりません。この二つの粂件が成立しなければなりません。ですから、「信仰をする人は絶対的に神様を信ぜよ!絶対的に神様のみ前に帰依せよ!神様を中心として完全に立て!」というのが信仰の第一条です。いかなる宗教でも、これが信仰をする人々にとって第一条です。その次に原理です。神様が立てた法度と完全に一つになれというのです。

 

 

 

17責任分担があったので蕩減も生じるようになったのです。もし責任分担がなかったなら、神様はいつでも主管なさることができます。堕落するとき、「おい、それはいけない」と言えるのですが、人間の責任分担があって神様が干渉できない立場にいたので、人間が堕落し、サタンが活動するのを防ぐことができませんでした。責任分担をアダムとエバが果たせなかったのです。その責任を果たせなかったことが、アダムとエバだけで終わったのではありません。アダムとエバが根となり、幹となり、枝となり、葉となって、全人類は結局、責任を果たせなかった立場にとどまっているのです。

 

 

 

18アダムとエバが罪を犯しました。アダムとエバが罪を犯したことに対しては、神様が思いどおりにできません。サタンは、罪を犯したアダムとエバをつかんで、神様のみ旨を滅ぼすよう、思いどおりにできるのです。いつかこの地上に再臨主、メシヤが来て、悪魔を屈服させるその日が来なければ、神様御自身が解放されません。

 

宗教を信じる人々は、このようなことを夢にも考えず、神様は全知全能なので思いどおりにできると言います。いくら権限があっても、定められた憲法を遵守しなければなりません。天地創造の大原則基準を中心として、神様が定めたその法を破って自分の思いどおりにする神様ではありません。

 

ですから、堕落したアダムとエバに干渉できなかったのです。干渉できる位置は、完成の位置です。その位置に立ってこそ神様が収穫して、干渉するようになっているのです。堕落したアダムとエバに干渉できなかったのは、長成期完成級にいたからです。中間段階にいるので、まだ実となり、種になることができないので、それを収めることができないのです。神様は完全に結実した、完熟した実を収めてそれを拡散させるのであって、完熟していないものには干渉できません。

 

 

 

19アダムが罪を犯したので、アダムが解かなければなりません。未完熟のアダムによって無知の立場で堕落したため、完熟したアダムが現れて、悪魔が知り、神様が知っているすべての秘密を明らかにし、悪魔を引っ張っていって神様のみ前に告訴できなければなりません。ですから、天国に行こうとするとき、イエス様が烙印を押すのではありません。悪魔に勝利したという証明書がなければ天国に入れないのです。このような内容を完全に明らかにし、神様の内密の事実、サタンの内密の事実、歴史過程におけるサタンの行動を証拠的事実として挙げ、このような原則に背くというすべての論理的根拠を提示しなければなりません。個人と家庭に背き、氏族にも背き、民族にも背き、国家にも背き、世界にも背き、神様が理想とした天上天国と地上天国の理念に背くという確実な根拠のもとでサタンを糾明し、糾弾しなければなりません。そのような証拠資料を提示するとき、サタンは罪を犯した悪魔として屈服するのです。

 

 

 

20罪の基盤、堕落の基盤、悪の基盤、地獄の基盤、このようなものが具体的にどのように生じるようになったかということが問題です。これは、アダムとエバまで戻って考えてみなければなりません。アダムとエバがなぜ堕落したのかという根源を掘り返してみれば、アダムとエバは、神様が命令した「善悪の実を取って食べるな」というみ言を不信して堕落しました。二つ目は、自己中心的だったことです。三つ目は、自己を中心として愛そうとしたことです。これが堕落した中心的骨子の内容なので、この内容のようにするのはサタン側であるという結論が出てくるのです。堕落した人々は、不信の愛、自己中心の愛で愛した人たちです。結局、自己中心の愛を主張するのがこの世界の人々だと見るのです。

 

 

 

21神様は取って食べるなと言ったのですが、何を取って食べるなと言ったのですか。エデンの園の生命の木や善悪を知る木は、アダムとエバを意味します。アダムの生殖器が生命の木です。善悪を知る木はエバの愛を意味します。マフィアと愛し合えばマフィアの息子、娘が生まれ、王と愛し合えば王の息子、娘が生まれます。ですから、血統的に、悪魔の血統を受け継いだということです。

 

 

 

22善悪の実は未完成のエバの貞操、さらにはエバの生殖器を指すのです。忠臣が息子、娘をしっかりと生んで育てたというとき、その根源は愛です。その愛がどこから成されるかと言えば、父母の生殖器です。それは悪いものではありません。この上なく神聖なものです。天の国の王権をどこで失ったのですか。貞操を失うことにより、それを通して失ったのです。神様の家庭、神様の理想圏をどこで壊してしまったのですか。それを壊してしまうことにより、すべてのものが壊れていったのです。それを壊してしまわなければ、それが神の国の王宮を造ることのできた本源地になったのです。ですから、生殖器は愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮だというのです。忠臣もその門を通って、聖子もその門を通って、神様の息子、娘もその門を通って生まれるのです。神様もその門を通って血統を植えたいと思ったというのです。

 

 

 

23聖書を見ると、善悪の実を取って食べて堕落したとあるのですが、下部を覆ったというのはどういうことですか。キリスト教で聖書をもう少し知性的に解釈しようとする思いさえあれば、すぐに堕落の起源が分かるのです。なぜ下部が恥ずかしいのですか。口を覆い、手を覆わなければならないはずなのに、なぜ下部を覆ったのですか。下部だからといってとがになるのではありません。下部で堕落することにより、天の愛を蹂躙した恥ずかしい宮殿になったのです。真の愛の泉が湧いてこなければならないのですが、悪魔の愛を中心とした偽りの愛の泉が噴き出てきたのです。ですから、これが愛の基台の中で最も悪い愛の基台になったのです。

 

 

堕落の動機と理由

 

24聖書には、善悪の実を取って食べたと書かれています。そして、「口にはいるものは人を汚すことはない」(マタイ一五・11)とあります。善悪の実を取って食べるなら、目で見て、その次には手で触って口に入れなければなりません。

 

ところが、善悪の実を取って食べたあと、どうしましたか。口や手、目を隠すのではなく、下部を覆ったのです。全く関係がない部分を覆ったというのです。天使と姦淫をしたという事実と、エバが下部を覆ったという問題を見るとき、私たちはここに共通した内容があると考えざるを得ません。

 

エバは善悪の実を取って食べてから恥ずかしいことを悟り、アダムに善悪の実を取って食べるように強要しました。エバは天使と不倫の貞操関係を結んだ結果、自分の本当の夫が天使ではなくアダムであることを知ったのです。神様のみ前に帰らなければならない自分自身が恐ろしいので、自分がとどまることのできる場所を探すためにアダムを誘い出したのです。そうしてアダムとエバの二人が関係を結び、二人とも下部を覆って隠れました。覆ったという事実は、結局恥ずかしい所ができたということです。すなわち、神様のみ前に見せることのできない科(とが)ができたということです。

 

 

 

25聖書のヨブ記第三十一章三十三節を見れば、「わたしがもし人々の前にわたしのとがをおおい、わたしの悪事を胸の中に隠したことがあるなら」という聖句があります。世の中においても、男性でも女性でも顔に何かの傷があれば、それを隠そうとするのが本性です。このような点から見るとき、アダムとエバにとがが生じたのは口でもなく、手でもなく、目でもなく、下部であるということを否定できません。

 

またヨハネによる福音書第八章四十四節を見れば、イエス様が不信する人々を責めながら、「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と、決定的なみ言を語られました。結局イエス様は、人類の先祖が悪魔サタンであると言ったのです。

 

洗礼ヨハネも不信するイスラエル民族に向かって「まむしの子」(ルカ三・七)と指摘しました。それは蛇と関係があるということであり、蛇はサタンと関係があるということです。人類始祖が悪魔サタンによって堕落したため、私たちはそのサタンの血を受けた子孫になったのです。皆さんの肉には許すことのできない、神様が最も恐れる怨讐の血が流れているのです。

 

 

 

26悪魔がどのように堕落させたのですか。アダムとエバは、善悪の実を食べて下部を覆いました。これが悪を蒔いた種になりました。十代の成熟していないときに堕落したのです。この歴史的な人間世界の血統がそこから広がったので、それが人間の終末時代において盛んに行われるのです。全世界的に青少年がアダムとエバのように、陰で独自的に愛の倫理を破壊し、天地を恐れることを知らないときになれば、サタンの全権時代が地上に到来したと思わなければなりません。その時には、神様の鉄ついが目前に近づいてくるのです。

 

 

 

27アダムとエバが堕落したこと、その一日の失敗が恐ろしい結果をもたらしました。ですから、男女問題が恐ろしく、結婚することが恐ろしいのです。相対が「私」をつかみ、「私」が相対をつかんで、相対が「私」を解放してくれ、「私」が相対を解放してあげるのです。何から解放するのでしょうか。愛の落とし穴から解放するのです。

 

その愛の落とし穴は、個人的愛の落とし穴、家庭的愛の落とし穴、国家、世界、天宙的愛の落とし穴です。神様がその穴の中に落ちてしまったのです。真の父母が理想としたすべての創造世界が、愛の落とし穴に落ちたのです。その愛の落とし穴が、誤った生殖器を中心とした愛によって一つになった場所です。そこに落ちたのです。

 

 

 

28堕落とは生殖器を誤って使用したことです。生殖器を誤って使用することにより新郎が替わり、愛する相対が替わりました。ですから、根本的な堕落です。これを犯すことにより、宇宙のどこにおいても、動物世界や植物世界、鉱物世界のどこにおいても、ねずみの世界や何かの虫の世界においても、これを前面に立てることができないほど誤ったので、この宇宙から追い出してしまわなければならないというのです。それでエデンから追放したのです。

 

 

 

29女性と男性のそれは、毒蛇です。毒蛇の罠です。蛇が惑わしたというのはどういうことですか。それは正に生殖器のことを意味するのです。女性の生殖器は、毒蛇よりも恐ろしい生殖器がどれほど多いですか。同じく男性の生殖器も、毒蛇のような生殖器で惑わし、奪おうとするのです。それに誤ってかみつけば、大変なことになります。国が滅び、世界が滅びるのです。天の国が、永生の道が塞がるのです。

 

 

 

30男性の生殖器は、堕落前の天使長と同じです。二つの舌を動かして欺き、惑わして、完全に地獄に放り込んだのと同じように、そのような蛇の頭のようなものを中心として、再び堕落させる行為をするのです。蛇がかみつくというのです。蛇に、取って食べさせたというのです。男性にとって女性を取って食べるというのは、それ以外に何がありますか。食べるというのはそれしかありません。それは恐ろしい器官です。それが天使長、蛇の頭のような男性の生殖器なのです。

 

 

 

31絶対信仰、絶対愛、絶対服従、それは生殖器についていう言葉です。堕落とは、神様と人間の生殖器が一つになれなかったことです。合徳(和合)できなかったのです。それを絶対信仰しなければなりません。「私」の家庭の歴史の柱であり、「私」の一族の歴史の柱であり、「私」の血統の歴史の柱だというのです。

 

 

 

32アダムとエバは、神様の万代の一人息子と一人娘でした。万代の一人息子と一人娘であった神様の息子、娘を滅ぼしたのは、愛の器官である生殖器でした。永遠不変の愛の器官であり、永遠不変の神様の心情の主流を受け継いで、永生不滅の福地基盤を形成することを破壊したのが堕落です。

 

 

 

33何ゆえに堕落しましたか。愛ゆえに堕落したのです。誤った愛が堕落です。誤った愛は、誤った生殖器の行動を通して行われました。これは公式です。アダムとエバの生殖器がなかったとすれば、人類が生まれることができますか。生殖器がなければ地上天国が出発できますか。完全で真の、善の生殖器を通して、真の善の地上・天上天国が生まれるのです。真でない生殖器を通しては地獄が生まれるのです。

 

 

 

34神様とアダムとエバが一つにならなければならなかったのですが、なぜそのようになれなかったのですか。その原因は天使長でした。天使長の偽りの愛ゆえに堕落しました。垂直に連結されなければならないのに、横から奪ってしまったのです。そのようにして横に関係を結んだのが肉身です。人間は、内的な自分と外的な自分の二重になっています。しかし、心身一体になれませんでした。堕落の結果として心身が分かれた人類歴史が始まったため、闘いによって綴られるのです。それは個人だけではありません。大宇宙がそのようになっているのです。どうやってそれを抜き取ることができるかというのが、神様の救援摂理です。

 

 

 

35男性は女性の、女性は男性のために生まれたのですが、自体自覚ではない他我自覚をして、自体自覚が再認定されれば、二人の所有権と勝利圏が備わるのです。しかし、相対圏の二人の価値を融合させる前に、自体自覚をして行動に出てしまったのが堕落です。

 

なぜそれによって、神様がこのように手をつけられず、無力になったのでしょうか。堕落というのが、なぜそれほどまでに深刻かというのです。善悪の実を取って食べたのなら、なぜ下部を覆ったのですか。血を汚したのです。血を汚したというのは生命を汚したということであり、生命を汚したというのは愛を汚したということです。天地大道の神経器官になるべき人間が、未成年期に堕落しました。誰が女性を奪ったのですか。僕である天使長が、神様の娘、未来においては神様の妃になることができ、神様の外的な体になることのできるエバを奪ったというのです。血統を取り替えたのです。

 

 

 

36サタンは、自体自覚を中心として、すべてのものを自分に結びつけようとします。宇宙は全体のためになることを中心として大きくなることを願うのですが、これと反対に締めつけられるので、窒息するしかないのです。嘆息と怨恨の落とし穴に落ちていくのです。理論的にそうです。否定する道理がありません。

 

このような論理を拡大するとき、エデンにおいてどのように人間が困難な立場になったかというと、堕落したからです。堕落は自体自覚です。自体自覚をして堕落したので、私たちは自分を否定しなければなりません。自分の家庭から氏族、民族、国家、神様のみ前に行っても、「私は神様の息子ではありません」と言わなければなりません。

 

 

 

37堕落は、自由意思によってではなく、自体自覚によって起きました。環境的に与えられた条件を忘れ、自分だけを中心として自体自覚をしたのです。全体が和動するのを無視し、全体の主体と対象の連体的関係を無視してしまい、個別的関係において連体関係の理想を占領したので、盗賊だというのです。それがサタンです。創造理想の大宇宙の連体的関係の愛の圏を、個人を中心として垣根を抜け出して支配したということは、神様までも無視してしまったということなのです。

 

 

サタンの正体を知るべき理由

 

38悪魔サタンがどこから来たかということが問題です。悪魔サタンがいなければ、イエス様も来る必要がなく、神様の復帰摂理や救援摂理というのも必要ありません。このすべては、サタンのゆえに必要になったのです。サタンがいる限り神様の復帰摂理は継続し、サタンがいる限り救い主は来なければならないのです。

 

このように見るとき、サタンという存在は、神様が造った被造物の中から生まれたと言わなければなりません。堕落したということは、それ自体が故障したことを意味します。病気になったということです。誰が堕落させたのかと言えば、悪魔サタンです。ですから、私たちは、この悪魔サタンの正体を知らなければなりません。サタンが今まで残っているのは、悪魔サタンが犯した罪の根本を明らかにし、神様のみ前に讒訴する人がいなかったからです。もしそのような人がいれば、悪魔サタンを処罰することができます。悪魔サタンを屈服させるには、悪魔サタンの正体を暴き、天上と地上で追放運動をすればよいのです。

 

 

 

39サタンは神様の姦夫(かんぷ)です。したがって、姦夫を許せば天理の原則に反するため、許すことができないのです。それゆえ、サタン世界の人間は百回、千回許すことができても、サタンだけは絶対に許せないのです。それで大審物があるのです。大審判は誰を審判するのですか。人を審判するのではなく、人間の心の中に主人のごとく臨在しているサタンを審判するのです。

 

 

 

40サタンは元来、どのような存在なのでしょうか。悪魔という存在は神様の僕です。この僕が主人の娘を奪ったのです。これが堕落です。それでは、聖書に出てくる堕落とは何でしょうか。エバが善悪の実を取って食べたのが堕落だと言いますが、善悪の実は果物ではありません。僕が主人の娘を奪ったことです。将来、代を継ぐ息子と娘を生み育て、神様の理想を完成しようとしていたのに、僕としてつくった天使長が主人の娘を奪ったのが、人類の堕落の起源になりました。世の中にそのようなことがあり得ますか。天地がそのようになったのです。

 

 

 

41本来、人間は、神様を中心として真の生命と真の血統を受け継ぎ、宇宙の権限をもって栄光の生活をしていなければならなかったのですが、堕落することにより、サタンの愛を中心としてサタンの血統、サタンの生命を受けたのです。サタンは神様の愛の怨讐であり姦夫です。「女」の字を三つ合わせて「姦(かん)」と書きます。愛する女性を奪っていったその者を姦夫と言うのです。

 

 

 

42本来の主人を追い出して彼の妻を奪い、その息子と娘まですべて死の場に引っ張っていった魁首が悪魔サタンです。このように見るとき、神様の怨讐であり人類の怨讐である悪魔サタンを赦す道がありますか。そのようなサタンを赦せば、世の中をすべて破綻させてしまうのです。ですから、皆さん自身が、神様の息子、娘になれると神様から公認されなければなりません。そのため、神様と人類はこれをひっくり返す日まで、うめきと苦痛の道を免れることのできない立場で歴史を綴ってくるのです。

 

 

 

43神様は、あらゆる精誠を尽くし、希望にあふれた大業を夢見ながら宇宙を創造されたのですが、その大業と生命と理念のすべての条件が一時に破綻して滅びるとき、天地が真っ暗になったというのです。ここに怨讐として登場したのが天使長ルーシェルでした。このルーシェルをたたき潰さなければなりませんか、たたき潰してはいけませんか。神様が最も愛した骨の中の骨であり肉の中の肉である息子と娘を、ルーシェルが自分の息子と娘にしたのです。このような怨讐の首を切らなければなりませんか、そのままにしておかなければなりませんか。このような問題を前にして、歴史始まって以来初めて苦しんだ方が神様です。

 

 

第三節 堕落の結果(csg-4-2-3)

 

1堕落した結果、人間は死亡圏内に落ちました。神様が、「善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創世記二・11)と言われたみ言のように、死亡圏内に落ちていったのです。堕落した結果どうなったのでしょうか。ヨハネによる福音書第八章四十四節を見れば、悪魔サタンが人類の父になったと、イエス様が指摘しました。神様を父として侍るべきアダムとエバが堕落することにより、悪擁サタンを父として侍るようになったというこの口惜しく恨めしい事実が、堕落の報いです。

 

 

サタンの血統を受け継いだ人間

 

2堕落とは血統が変わったことです。家庭がなくなってしまい、国がなくなってしまいました。ですから、血統を整備しなければなりません。何であれ、動機から結果までを知らなければ、新しい動機と方向、そして、結果を得ることができないのです。そのためサタンの秘密を知らなければ、正すことができません。

 

一番重要なことは、堕落したということです。サタンの血統が入ってきて、心臓から動脈、静脈がサタンの血によって動き、すべての細胞が使えなくなったのです。血統がめちゃくちゃになったので、実体世界の歴史を知らない無知に陥り、悲惨になったのです。エバは自分を中心として自覚をもちました。未完成の圏内で、自分を中心として自覚して対処し、天宙をひっくり返して打ち込んでしまったため、その自覚を新たにしなければならないのです。「堕落世界を私の手で完全に消化してしまおう。全世界を私の権限のもとに置いても消化して余りある。神様が信じなければ、信じられるようにしてさしあげよう」と言いながら、そのようにするのです。

 

 

 

3堕落とは血統を転換したことです。血統が問題です。神様は、変わってしまった血統をどうにもできません。神様の体になり、神様の実体を中心とした父母の血肉を受けた直系の子女にならなければならないのに、怨讐に奪われ、神様が計画したすべてを失ってしまいました。天の国や地上天国の理念を中心として、愛の柱が建てられなければならなかったのですが、その柱がすべて崩れてしまったというのです。

 

 

 

4神様を一代とすれば、アダムは二代ですが、三代が連結されませんでした。その三代が連結されなければなりません。アダムとエバが神様の愛を中心とした絶対生命、絶対血統を連結できなかったのです。そこまで戻るのです。袖様は息子、娘を抱くことはできましたが、孫と孫娘を抱いてみることができなかったのです。血統が途切れてしまいました。それを理論的に否定することができません。神様の愛の結実体、生命の結実体、血統の結実体として孫と孫娘を抱いてみたことがないというのです。ですから、全世界の人類が神様の愛と関係なくなってしまったのです。

 

 

 

5アダムとエバは、堕落のゆえに血統が変わりました。神様の怨讐であり姦夫であるサタンの愛によって、サタンの生命体になったのです。男性の生命体と女性の生命体にサタンの愛が入り混じって一つになり、その二人によって結実したのが息子、娘です。ですから、その息子、娘はサタンの愛、サタンの生命、サタンの血統を継承しているのです。

 

 

 

6今まで宗教は断食と苦行をしてきました。なぜ体を打つのですか。サタンの血、神様の怨讐の血を受けたからです。神様の怨讐は姦夫です。神様の愛の怨讐です。その姦夫の血を受けたのです。天の国の王権を受け継いで王妃になれるはずだったエバが悪魔の配偶者になり、僕の相対になったというのです。これは天地の秘密ですが、先生の時代になって初めて暴露されたので、サタン世界は退かなければなりません。

 

 

 

7アダムとエバの偽りの愛により、偽りの生命になりました。愛と生命にサタンの血統が連結されました。誰もそれを知りませんが、否定することのできない事実です。アダムとエバは、堕落したあとに神様のみ前から追い出されました。彼らが追い出されるときは息子、娘がいませんでした。彼らは追い出されたあとに息子、娘を生み、サタンの血統が連結されたのです。理論的に否定できません。堕落したあとに完成の概念を知りました。どのように神様の愛と生命、そして、血統に戻れるかということが問題です。堕落によって人類が神様の愛と生命、そして、血統から断絶され、サタンの愛と生命、そして、血統に連結されました。人間の先祖アダムとエバが堕落したということは、偽りの父母の血統が相続され、実を結んだということです。それをどのようにひっくり返して打ち込むかということが問題です。一八〇度、変わらなければなりません。

 

 

堕落世界と終末現象

 

8サタンがエバをそそのかし、エバはアダムをそそのかして、互いにだまし合う悲劇の歴史が出発しました。それで彼らは、悪魔サタンを中心とした罪悪性をもった夫婦になり、そこから罪のある息子、娘を生んだのです。ですから、罪ある父母の伝統から、罪ある子女の伝統へと続いてきたのです。そうして罪のある兄弟、罪のある氏族、罪のある民族、罪のある国家、罪のある世界に至るまで、全世界を悪魔サタンが主管するようになったので、この世界は名実共に地上地獄にならざるを得ません。サタンが個人的に怨讐にし、家庭的に怨讐にし、氏族、民族、国家、世界的にすべて分裂させたので、誰も天の側に帰ることができないよう、すべて追い出されたのです。

 

 

 

9創世記第六章六節を見れば、アダムとエバが堕落したあと、神様が人間を創造したことを悔いたとありますが、これが神様の本意ではないことは間違いありません。人間が堕落することにより、神様と関係が結ばれるのではなく、その関係が切れ、神様によってエデンの園から追い出されたというのです。そのため、堕落したこの世は、神様のみ旨のとおりになった世界ではありません。神様のみ旨のとおりにならず、悪魔サタンの思いどおりの世界になったのです。

 

 

 

10悪魔サタンが人類始祖を堕落させることにより、何になったのですか。聖書のヨハネによる福音書第十二章三十一節を見れば、「この世の君」になったとあります。この宇宙を造った主人公が神様であるにもかかわらず、その主人公を押しのけて、どうしてサタンが人類を主管し、世界を支配できる「君」になったのかというのです。ですから、この世界は、善の神様が主管する善主権の世界ではなく、悪のサタンが主管する悪主権の世界です。人間は悪主権、サタンの手下として支配を受けているのです。これが第一の問題です。

 

その次の問題は、人間が原罪をもっていることです。聖書によれば、人類の先祖が善悪の実を取って食べたというのですが、それがどれほどひどい罪であれば、人類が数千年間、その罪を継承しなければならなくなるのかというのです。いまだにこの原罪の根を抜くことができていません。この原罪の根があるために、悪魔サタンはこの世の君になることができるのです。

 

 

 

11天理大道の基準、愛の元軸、天地の軸とならなければならなかった中心点が、堕落によって破壊されました。女性が自覚をし、天使長が自分に目覚めることによって因縁が結ばれ、宇宙の根本を撃破し、恨みのどん底が生じたのです。それは、王妃となる人を僕が支配したということです。ですから、宇宙の大道の原則となる根本基準が狂ってしまったのです。結局、その悪魔とは何ですか。愛の天の国の王宮を根本的に破綻させた魁首です。

 

 

 

12人類は、父母を失った孤児と同じです。神様が自分の本当の父母だということが分かれば、どれほどうれしいでしょうか。孤児として歴史的にひどい扱いを受けてきた恨よりも、父母を貴重視するのです。皆さんと先生が違うのがそれです。神様とは誰かを知り、道を歩くにも、どこに行くにも、尊重するのです。それには誰もついてこられません。

 

 

 

13ある観念が一度頭の中で位置を占めれば、抜くのは大変です。ですから、宗教が必要なのです。宗教がない所は滅びます。私たちは、絶対者である神様を父として侍っています。私たちは神様の息子、娘です。サタンは神様の愛を踏みにじった姦夫です。

 

私たちの本当の父は神様なのですが、サタンが父の振る舞いをしているのです。ですから、ヨハネによる福音書第八章四十四節で、イエス様は「その父の欲望どおりを行おうと思っている」と、とがめたのです。サタンの血を受けたやるせない事実を知ったならば、悔しい思いが湧き上がり、自分の体を刀で切って、汚れた偽りの血を抜いてしまいたいという義侠心が起こらなければなりません。

 

 

 

14人間先祖が堕落したのちは、神様の家庭と神様の相対がいませんでした。神様が第一代、アダムは第二代だと言いますが、その関係が結ばれなかったのです。アダムとエバが祝福を受けられませんでした。祝福を受けることで、愛によって神様と関係が結ばれるはずだったのに、そのようにできず、完全に断絶されたため、神様は独りになったのです。アダムとエバが血統的に連結される、いかなる内容もなかったのです。すべて分かれてしまいました。

 

神様を中心にして言えば、お前、あなた、彼、家庭という観念がないのです。相対的な存在がなくなってしまったのです。ですから、人間の堕落以後、神様はただ独りで存在してきたのです。創造される前よりも、もっと悲惨なのです。創造を始められたのちには、万物が相対的な基準の上で待っていたのですが、その中心である人間が堕落したため、すべて失ってしまったのです。完全に相対圏を失った神様の立場になったのです。堕落というのは、そのように恐ろしいのです。

 

 

 

15淫行によって堕落したので、終わりの日にはそのとおりになります。青少年がすべて堕落してしまうのです。先祖がそのように種を蒔いたので、収穫期にはそのように青少年の堕落が世界的に蔓延し、世界を滅亡させているのです。今日がそうなのです。それを否定できません。

 

フリーセックスを誰が始めましたか。アダムとエバです。堕落したので、フリーセックスの先祖はアダムとエバなのです。

 

 

 

16真の愛は貴いものなので、真の愛を蹂躙するというのは宇宙的な犯罪になります。不倫と青少年の淪落、家庭破綻、近親相姦、同性恋愛、形容し難い性犯罪など、今日の現実は神様を悲しませています。創造理想は、崇高で、永遠の愛を中心とした家庭理想の成就にあるのですが、なぜこのような結果がもたらされたのでしょうか。それは、終末を迎え、人類の先祖が堕落した結果がそのまま結実することにより、植えたとおりに収める世紀末的様相を呈するからだと言えます。

 

 

 

17今、アメリカにおける青少年の淪落問題をアメリカ政府が解決できますか。軍事力をもって、経済力をもって、科学技術をもってしてはできません。最近では「性解放だ」と言って、ありとあらゆる邪悪なことが起こっていますが、愛とはそのようなものですか。永遠の生命をもつことができる真の愛がこのようにまでなってしまったので、ここに何の希望がありますか。絶望です。男性と出くわしても絶望であり、息子と出くわしても絶望であり、父母と会っても絶望であり、どこに行こうと、会えば絶望なのです。

 

 

 

18最近では、独身生活を強調します。また同性愛のようなものが問題になっています。そのようにならざるを得ない内容とは何かというのです。近親相姦によってそのようになったのです。祖父が孫娘を蹂躙するのです。自ら進んで蹂躙するのです。父親が自分の娘を蹂躙するのです。性解放という時代、フリーセックス時代が来て、思いのままに接触しているのです。接触するのですが、それが遠くの町の知らない人ではありません。最も近い親戚関係において起きるのです。

 

 

 

19最も深刻なのは家庭の問題です。青少年問題、家庭破綻問題が最後です。サタンの全権を神様が許しました。サタンが「アダムとエバを思いどおりに抱いて愛したその基準を、人間世界の終わりの日において私に許さなければなりません。そのように蒔いたので、よこしまな愛を中心として全体を破綻させる全権の行使を、私に許さなければなりません。そうしてこそ私の願いどおりにすべてを行い、神様のみ前に要求するものがなくなるので、讒訴が断ち切れるのではないですか」と言うので、神様は「そうだ」と言ってサタンの全権時代を許したというのです。神様の愛の中において性解放はあり得ず、同性愛はあり得ないのです。

 

 

 

20サタンはどのような武器を利用しましたか。空気の武器を利用しました。それがたばこです。次に、液体の武器は酒です。それから固体の武器は麻薬です。このようにして神様まですべて腐らせるのです。体を腐らせ、精神を腐らせ、鼻の穴から肺をすべて腐らせるのです。ですから、私たちは酒を飲まず、たばこを吸いません。これは人類を滅亡させるためのサタンの武器です。神様と通じる精神を妨善する要素であるこの三つが、怨讐の最高の武器です。その次は愛です。フリーセックス、愛の秩序を破綻させるのです。そのようなものを先生の手で、すべて整備するのです。

 

 

堕落人間を見つめられる神様の心情

 

21父母が愛する子女を信じているにもかかわらず、子女が裏切るとき、その信頼に比例して、父母が受ける衝撃と苦衷、そして、悲惨さは、言葉に言い表せません。また生命を懸けて互いに愛し合った人が裏切り、排斥して不信するときも、やはり言葉にできないほど悲惨なのです。そのような立場で身もだえしながら味わう苦痛は、経験してみたことがない人には分からないのです。言葉だけでは分かりません。これは世の中の出来事を見て知ることができます。それでは、神様はどのようにして悲惨になったのでしょうか。神様は漠然とした神様ではなく、具体的な神様です。人間とは最高の関係をもった神様です。神様が喜ぶことがあるとすれば、それは人間と共に喜びで出発し、終わりのない永遠に向かって進み続けることのできる出発の起点を目にすることです。ところが、その出発の起点を、人間によって失ってしまったのです。

 

 

 

22人間は堕落しました。これは、千年間の恨で蕩減できるものではありません。億千万年において限りなく多くの民が死の峠に引っ掛かる罠になることを御存じの神様だったので、どれほど悲痛だったでしょうか。そのような悲惨な傷を負わせた人間です。このようなことを考えてみるとき、人間は何も言えない存在です。

 

世の中でも、父母が還暦を越えて生んだ七代続きの一人息子が死ぬと考えれば、絶望の中の絶望でしょう。若ければまた生むこともできますが、晩年になって生まれた七代続きの一人息子が元気に育たずに死ぬとなれば、七代圏を継承しようとしていた先祖たちはどれほどつらいでしょうか。先祖たちは自分の子孫、自分の血統を通して、世界にない万福を受けたいと思うのです。ですから、子女が死ぬとなれば、父母はそれを追って死にたいと思うのです。

 

ところが、アダムは七代続きの一人息子ではなく、永遠の一人息子です。一人しかいないアダムを、家庭を築かせ、創造の大業を成し遂げた立場に立てようとしたのですが、そのアダムが死んでしまったので、神様の心はいかばかりだったでしょうか。

 

 

 

23本来、創造原則から見ると、愛の一体理想圏内に行けば、永遠の所有主が、愛を中心とした主体者が中心となるのです。ところが、神様がそのような中心となるべきだったのに、サタンが中心になったのです。天地が地天となり、すべてが反対になったのです。神様御自身が真の理想として願った愛の理想、真の愛を中心として一体となり、一つの体となったものは、分かつことができてはならず、その血統も神様の直系の子女になるべきなのですが、それがねじれることによって反対になったのです。

 

 

 

24アダムとエバが善悪の実を取って食べようとするとき、神様が「私が心配したとおりになったな。そのままもう少しやりなさい」と言ったでしょうか。違います。心臓が縮み、すべての感覚が一カ所に吸い込まれていく立場でした。「それを取って食べてはならない」と、血を流しながら震え、形容できない哀切なもどかしさのゆえに、何も考えられない立場に立たざるを得なかった神様だったのです。

 

そのような神様が、アダムとエバが善悪の実を取って食べているとき、見物していただけだっただろうかというのです。刀があれば歴史を斬り、この天下を斬り裂いてしまいたい気持ちでしたが、そのようにできない立場を自ら嘆かざるを得なかった神様でした。ですから、神様がどれほど寂しく、悲惨で、哀れだったでしょうか。歴史上の誰よりも寂しく、誰よりも哀れで、誰よりも悲惨だったのです。アダムとエバが善悪の実を取って食べる瞬間、心臓が爆発するような悲痛な心情をもたれた方でした。しかし、神様は、彼らを愛さずにはいられなかったのです。

 

 

 

25神様のみ前に立っていたアダムとエバが、神様の内情を探ることができていれば、堕落しようにも堕落できなかったはずです。父母は父母として、子女に対して愛の心をもっているのに、子女は父母の深い心情までは分からなかったというのです。

 

もちろん、幼くて堕落したのですが、その年齢の幼さが堕落の動機になったのではなく、心情が及ばずして堕落したのです。「あの方は私のためにいる。あの方は私と共にいる。あの方は私と一つである。あの方は永遠に、私と離れようにも離れることができない」と言いながら、神様が一切の問題に関係していることをアダムとエバが感じることができていれば、彼らは堕落できなかったでしょう。

 

結局、心情の一致点をもつことができず、神様の願いと自分たちの願いが食い違い、自分の考える方向が神様の考えるものと違ったために、そうすることがそれほど大きな問題になるかが分からず、そうなれば生命の死活問題がどうなるかということを骨肉にしみるほど感じることができずに堕落したのです。

 

 

 

26私たちは、神様の心情に背いた、堕落した子孫です。私たちの先祖が何に背いたと思いますか。取って食べるなという善悪の実を一つ取って食べたことだと思いますか。とんでもないことです。心情に背いたのです。神様の心情に背いたのです。問題はそこにあります。神様の創造理想の心情、希望の心情に背いたのです。

 

 

 

27なぜサタンを一度に取り去ってしまうことができないのですか。なぜ神様は多くの能力がありながらも、一度に取り去ってしまうことができないのですか。血統が連結されているからです。一度に引き抜いて消してしまえば、人類をすべて絶滅させなければなりません。サタンの血を受けたものを一度に引き抜けば、人類がいなくならなければなりません。アダムとエバまでいなくなります。たたき潰さなければなりません。なぜ神様は、アダムとエバをたたき潰して再び造れないのですか。

 

再び造るようにはなっていません。愛はアルファでありオメガ、初めであり永遠です。そのような理想的基準になっているので、その愛の対象的人間は打つことができないのです。

 

 

 

28世の中の父母も自分の息子、娘が罪を犯して絞首刑に処されることになれば、その子が死ぬことを願う父母はいません。自分の思いどおりに子を生かすことができるならば、百回でも千回でも生かしてあげたいのが父母の心です。母親の気持ちはなおさらそうです。堕落した世界の女性の心もそうであるのに、全知全能の神様がいったい何ゆえに、終わりの日になって審判をしなければならないのかというのです。神様がなぜ赦してあげられないのかというのです。神様はどれほど愛するでしょうか。イエス様が七回ずつ七十倍赦すとすれば、神様は七十回ずつ、七千回以上赦さなければならないでしょう。神様の心はそうだというのです。

 

 

 

29全知全能の権限で、全世界とサタンまでも審判してしまうことのできる神様であり、能力をもっていながらも、今でもそのように苦労する立場で、手をつけようにもつけることができず、神様御自身がもつべき環境をもてないまま、独り孤独にサタンに讒訴され、サタン世界に足場をすべて奪われて苦しまれる神様の立場を考えると、言葉も出ないのです。このような神様に同情しながら、どれほど涙を流してみましたか。問題はここに帰結するのです。

 

 

 

30皆さんは、神様のためにどれほど涙を流してみましたか。神様のなされた苦労の前に、代わりに苦労するため、四肢が裂かれるような道でも訪ねていこうともがいてみましたか。できなかったというのです。

 

皆さんが子女という立場を追求するためには、公的な涙を流さなければなりません。天のお父様に出会い、「お父様、あなたの息子である私を、私たちの先祖を失ってしまったとき、あなたの心にどれほど悲しみがしみわたったことでしょうか。その子孫を通じて、今まで歴史過程において受けられた屈辱と苦痛と困難が、どれほど多かったでしょうか」と慰労してさしあげながら、限りなく涙を流すことができなければなりません。

 

 

 

31人間より、もっと大きな苦痛と悲哀の中に落ちた方が神様です。御自身の創造理想を奪われ、愛する息子、娘を奪われ、真の愛の理想の国として創造した地球星まで、怨讐サタンの寵絡の基地として差し出してしまったので、どれほどやるせなく、悲痛な恨の心情だったでしょうか。言葉にならないのです。皆さんはこのような神様の立場に対してどれほど多くの慰労の涙を流してみましたか。

 

愛する息子を怨讐に差し出すしかなかった神様です。権限や能力がないからではなく、天理原則として立てておいた愛の天道を自ら踏みにじることはできなかったので、涙で耐えて待ちながら、復帰摂理を進めてこられた私たちの父でいらっしゃいます。創造主であられた御自身までも否定しなければならない辱めを受けながら、子女を探して六千年の道を歩んでこられた方です。全知全能の神様も、真の血統を復帰するため、このように地獄よりもさらに大変な路程を経なければならなかったのです。

 

 

 

32本然の真の父母の位置にいらっしゃるべきだった神様が、父母の位置を奪われたのですから、どれほど悲痛でしょうか。偽りの父母である怨讐サタンの血統を譲り受け、真の父母が分からない堕落した子女を見つめなければならない神様の心情は、どれほど痛ましいでしょうか。人間の悲惨な状況を瞬間ごとに見つめられる神様の心情、父母の心情はどうでしょうか。

 

宇宙とも取り替えることのできない真の愛の実体相対を失うことによって、万物万象までもすべて失ってしまい、創造理想全体が崩れてしまうような悲しみの神様になられたのです。天宙の王座を怨讐に奪われた、無念な神様になられたのです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従の原理に従いながら真の愛を投入したので、堕落の結果に対して、さらにもどかしく思わざるを得ない神様になられたのです。神様は御自身の理想を奪われ、愛する息子、娘を奪われ、天宙の王権を奪われ、しかもサタンからは讒訴されてきたのです。

 

 

 

第一節 人間の蕩減復帰(csg-4-3-1)

 

1皆さんは、一つの生命が高貴であるということを感じなければなりません。「全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ一六・二六)と言われたイエス様のみ言をそのまま感じ、体験できる人になってこそ、宇宙を主管する資格をもった人になれるのです。

 

皆さんは条件を立てる資格をもった人になりましたか。皆さんはいつ、サタンから賛辞を受けるほどに神様を愛し、サタンをこの上なく感動させることをしてみましたか。皆さんがそのようにできなかったので、神様は人類を愛してくださって蕩減の道を開拓し、その本然の世界に帰るまで従っていきなさいと教えてくださるのです。それが統一教会の原理です。復帰の道は探し求めていく道であり、原理の道はたどっていく道です。先生がこの蕩減復帰の道を来るとき、先生の一生は探し求めてくる路程でした。ですから、皆さんは、先生が既に探し出した道に従ってきさえすればよいのです。

 

 

なぜ蕩減復帰をしなければならないのか

 

2蕩減復帰はなぜ生じたのでしょうか。堕落のゆえに生じたのですが、堕落以後、何のゆえに生じたのですか。責任分担がなければ蕩減復帰という言葉は必要ありません。人は責任分担を果たしていく過程で堕落しました。このとき、堕落した人間は責任分担圏をサタンに渡してしまったのです。サタンに奪われてしまったというのです。ですから、責任分担圏を再び探してこなければなりません。

 

 

 

3神様が人間に責任分担を設定しなかったならば、今日、統一教会で主張する蕩減復帰という言葉は出てこなかったでしょう。ただそのまま復帰して、蕩減は必要ありません。なぜ蕩減しなければならないのでしょうか。人間には責任分担があるからです。人間が完成すべき責任分担を自ら壊してしまったので、その賦与された責任を果たしていかなければならないのです。そうするためには、サタン世界のすべてのものに勝ち、サタンを主管する立場に立ち、堂々とサタン世界の反対する環境を取り除いたその立場に立って、神様の愛を受けることのできる位置に立たなければなりません。そのようになれば、サタンは離れるのです。

 

 

 

4蕩減復帰は不可避です。なぜサタンを分立しなければならないのでしょうか。自然な本然の責任分担、自由な環境基盤を必要とするからです。そのようにすればサタンが讒訴できず、サタンが関係を結ぶことができない場所を、私が占めるようになるからです。それで蕩減復帰、個人の責任分担完成という基準は、論理的にも不可避です。

 

ですから、サタンを分立しなければなりません。そのため、御飯が食べられずに座っていたとしても、サタン世界とは関係がないという考えをもっていなければなりません。ここが分水嶺です。それが境界線です。

 

 

 

5責任分担がどれほど重要かを、みな知らずに生きてきました。蕩減復帰は、責任分担を完成していく自由環境をつくるためのものです。サタンが侵犯するので、サタンを防がなければなりません。サタンを防ごうとすれば、サタンよりも神様をもっと愛し、人類をもっと愛さなければならないのです。サタンが、神様を憎み、人類を憎む反面、私たちは「神様をもっと愛し、人類をもっと愛する」と言わなければなりません。堕落していない人間がもっていくべき、責任分担完成圏を越えていく基準を中心として、一方通行させられる立場に立たなければ、サタンを分立することができません。

 

 

 

6責任分担完成のためには蕩減条件が必要です。先生が蕩減条件を立てたので、皆さんは先生が歩んできた生涯の目的観を中心として、それを受け継いだ愛の旗手として、堂々と国に現れれば愛国者になるのであり、家庭に入れば孝子、孝女になるのであり、夫婦の場に立てぱ烈男、烈女になるのであり、世界に向かっては聖人の道理の道を行くのであり、天の国の王宮法に歩調を合わせる王子の位置まで行くのです。無事に通過できるたった一つの道があるとすれば、愛のために生きようと言って、すべてのものを捧げる生活です。これは驚くべき事実です。

 

 

 

7蕩減復帰は条件復帰ではありません。先生のときまでは条件蕩減でした。先生は事実蕩減だというのです。そのようなことは『原理講論』に書いていません。条件蕩減を経て事実蕩減であるということは初めて聞くでしょう。ですから、今までの復帰路程を考えてみると、サタン世界で最も良心的な一人を立てるのです。ノアが正にそのような人でした。ノア一人の信仰を絶対信仰の基台の上に立て、ノア家庭を中心にして着陸するようになるのです。絶対信仰の男性、絶対信仰の女性、絶対信仰の四位基台が必要です。

 

 

 

8蕩減復帰の道は、サタンを分立するための道です。サタン分立は責任分担圏を取り戻すためです。本来、責任分担圏はサタンがいない所です。アダムの責任分担がそうです。アダムの責任分担圏は本来、サタンが侵犯できる基準ではありません。その明確な思想を注入しなければなりません。私たちは、いずれにせよ行かなければなりません。責任分担を完成し、神様の愛の中に接ぎ木しなければならないのです。神様の愛の中に接ぎ木しようとすれば、サタンを分立しなければなりません。サタンと因縁をもったすべてのものを、完全に分立しなければなりません。

 

 

 

9蕩減復帰はなぜ必要なのですか。それは責任分担の自由環境をつくるためです。サタン分立がなぜ必要ですか。堕落していない本然の責任分担の自由環境を復帰するためです。理論的になっているのです。

 

先生も、その網目にかかっているのです。ですから、先生が世界的な反対を受けるのです。世界的な迫害を受け、世界的に攻撃を受けるのです。その世界的迫害を受ける中で、世界的にサタンを分立するのです。

 

それで、ダンベリーを中心に分立してきました。そこで怨讐を愛し、怨讐の国を愛し、愛によって神様のために生き、愛によって神様のために生きるにおいて先頭の位置に立ち、愛によって人類を抱くにおいて、サタンが愛する以上の立場に立ったと宣布できる条件を掲げていくのです。それが分立されたので、責任分担完成圏が形成されるのです。

 

 

八段階の蕩減復帰

 

10神様は今まで、愛を中心としてアダム以後、天使長までも怨讐視せず、命令もせずに耐えてこられました。天の秘密とサタンの秘密が分からずに混乱に陥った時代に、真の父母が来て、すべて開拓したのです。ですから、復帰の道は探し求めていかなければならず、原理の道はたどっていかなければなりません。

 

分からなかった復帰の道を先生が探し出したので、皆さんは、ただそのまま自動車に乗り、高速道路を走るのです。何十年もかけて歩んだものを、何時間かで走る時代に入るのです。それでそのような言葉が、この原則を中心として解明されるのです。

 

 

 

11皆さんが蕩減復帰の道を歩んでいるという事実、責任分担という運命的な道を歩んでいるという事実を、どれだけ感謝して受け止めましたか。「統一教会の原理のみ言は良いが、蕩減復帰は嫌だ!」と言うことはできません。大学に入るためには、その関門を通過するために試験を受けなければなりません。私が願う反対の道が横たわっているのです。これを解決しなければ学校に入ることができません。同じことです。統一教会の行く道は簡単ではありません。

 

 

 

12統一教会は蕩減復帰の道を歩んできました。蕩減復帰をするために、このような事情の多い道を経ながら、先生は今まで基盤を築きました。滅びることなく、サタンの罠にかかって釣られることなく、残りました。この基盤は、先生のために築いたものではありません。人類のために築いたものです。これを統一教会のものとして残してはならないのです。人類のためのものとして残さなければなりません。今後、統一教会はなくならなければなりません。一つの主権の中に越えてこなければなりません。それが、すべての宗教の願うところです。

 

 

 

13忍耐と克服、この言葉は、辛抱して耐え忍びなさいということです。幸抱して耐え忍ぶのを好む人は一人もいません。しかし、無理やりにでもしなければなりません。人は、辛抱して耐え忍びながら生きるようにはなっていないからです。堕落したので、辛抱して耐え忍びながら生きなければなりません。報いを受けて、越えていかなければならないからです。人間の先祖は辛抱できず、耐え忍ぶことができなかったため、堕落したのではないですか。

 

ですから、それを蕩減復帰しようとすれば、最後まで辛抱して耐え忍ばなければなりません。これが蕩減原則です。辛抱して耐え忍ぶ所には、サタンが身動きできず屈服するのです。どこまで辛抱して耐え忍ばなければならないかというと、最後まで辛抱して耐え忍ばなければなりません。そのため、神様は六千年間、辛抱して耐え忍んでこられたのです。その方が私たちの父です。私たちは、その父の天稟と血肉を受け継いだので、その父のようにならなければなりません。

 

そのため、堕落した世界における生活哲学は、辛抱して耐え忍ぶことでなければなりません。誰のためでしょうか。神様のためです。ここから孝の道理が始まり、忠の道理が始まります。ここから、国も世界も解放の運動が広がるのです。ここにおいては、良い世界も歓迎であり、悪い世界も歓迎なので、地獄はなくなるのです。このような原則のもとで辛抱して耐え忍ばなければなりません。

 

 

 

14六千年の歴史は、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界的に出てきた歴史です。統一教会は、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様の愛の復帰まで、八段階を経るのです。祈るとき、この八段階を中心として祈るのです。個人復帰完成は家庭の中にあり、家庭復帰完成は氏族の中、氏族復帰完成は民族の中、民族復帰完成は国家の中、国家復帰完成は世界の中、世界復帰完成は天宙の中、天宙復帰完成は神様の愛の中にあります。神様の愛を中心として天宙的に一つになろうというのです。

 

 

 

15家庭のためにも生きるのですが、家庭よりもっと大きい氏族のために生きようとする人にならなければなりません。また氏族のためにも生きるのですが、氏族より民族のために生きなければなりません。そのようにすれば、一段階さらに残るのです。ですから、世界を貫いていかなければなりません。

 

今、私たちが生きている世界は堕落圏です。個人堕落圏、家庭堕落圏、氏族堕落圏、民族堕落圏、国家堕落圏、世界堕落圏、天宙堕落圏、堕落圏がこのようになっているのです。これを越えてこそ八段階の神様のもとに行くようになっています。それを一度に越えれば、どれほど良いでしょうか。それが理想的です。堕落していないときは、アダムを中心として二十一年、思春期を越えれば、自動的にそれを一度に越えるようになっていました。

 

 

 

16僕の僕から始めるのは内的蕩減分別路程です。サタン世界のすべての縦的な蕩減条件を立てれば、サタンが攻撃しようとしても攻撃する条件がありません。ですから、先生自身が僕の僕から僕に、僕から養子に、養子から庶子としての扱いを受け、このように蕩減復帰してきたのです。その次は息子の復帰、母の復帰をしなければならず、父の復帰をしなければなりません。男性として最高の位置に上がり、女性として最高の位置に上がったと言える条件になってこそ父母の位置に上がるのであって、ただ上がっていくのではありません。内的蕩減条件を確実に立てなければなりません。

 

 

 

17復帰していくにおいては、世界的な大迫害があります。必ず血を流すというのです。僕の僕から僕の立場に上がり、僕から養子の立場に越えていくのにも必ず迫害があります。七段階まで同じです。神様までで八段階です。人間は変わりますが、神様は変わりません。ですから、この世界の宗教の中には、僕の僕となる宗教、僕の宗教、養子の宗教、庶子の宗教、子女の宗教、母の宗教、父の宗教、真の父母の宗教があります。宗教は長い歴史を超越しながら来るので、そのような宗教形態が残っているのです。しかし、終わりの日になれば、真の父母を中心とした真の父母の宗教が出てくるのです。

 

 

 

18統一教会では、僕の僕から僕、養子、庶子、直系の子女、母、父、神様に帰ると言います。この八段階は縦的基準です。個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰、世界復帰、天宙復帰、神様まで、これは横的基準です。この縦横を合わせるのです。この両面の蕩減基準を立てなければなりません。皆さんは、すべては分かりません。先生がこのようなことを知らなければ、世界を収拾する道理がなく、この世は滅びて悪魔の巣窟になります。

 

東西、四方を周りながら激しく打ってくる中で生き残るためには、ありとあらゆることをすべてするのです。サタンが血統的には父の位置にいるのですが、これが怨讐の中の怨讐になっています。自分の出所を知らず、サタンの僕として振る舞っているのです。先生が来て、初めて根を明らかにするのです。今は歴史時代の根を求めています。

 

 

 

19私たちは、少なくとも八段階の過程を経ていかなければなりません。統一教会で教えた僕の僕の時代が、皆さんにあったでしょうか。僕の僕の時代は、僕が主人になるのです。主人が命令する僕ではなく、僕が命令する僕の僕の立場です。その場で、僕の位置をどれほど慕わしく思うかというのです。それで僕の立場から養子の立場、庶子の立場、直系の子女の段階まで、その次に母の段階、父の段階まで行かなければなりません。そうして神様の段階まで上がらなければならないのです。神様の段階に行って一つになってこそ、愛の世界に入るのです。天国は愛の世界です。その段階を見つめながら、これを克服して超越した立場で愛の世界に入っていかなければなりません。

 

 

 

20八定式とは何でしょうか。僕の僕、僕、養子、庶子、直系の子女、母、父、神様までの縦的八段階と、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様までの横的八段階において完全に勝利したということを意味する式です。この縦的蕩減路程と横的蕩減路程を八段階路程として経て、定着することにより長子権復帰が起こり、この地、世界の人間の前には蕩減の路程が解消されたという式が八定式です。この八定式をすることによって、そのようになるのです。

 

長子権が復帰され、父母様が抱くことによって父母の愛の圏内から長子権復帰のための歴史時代の戦争史、闘争史がなくなり、愛によって和合できる、蕩減する必要がないときに入ったというのです。そのようなことをするためには、八定式をしなければなりません。

 

八定式をすることにより、その息子、娘を、長子と次子を前に立てた父母が、このような子女たちを赦してあげたので、その次には父母の赦しの時代が来るのです。

 

 

真の父母の蕩減復帰の道

 

21監獄を通過する人は、監獄に入るときから絶望と落胆の思いをもって行きますが、先生は、監獄生活のあとにやって来る結果は何かということに、相当な関心があります。皆さんは蕩減復帰を学んだので分かると思います。この峠を越えれば何が起こるか、今受けている苦痛が問題ではなく、その苦痛のあとに来る新しい歴史的な一つの贈り物とは何かということをいつも考えたのです。

 

 

 

22責任分担を完遂できなかった人間先祖の罪によって、死亡の深い底が生じました。ですから、先生は世界から反対されながら、国家基準を越えて世界的蕩減復帰路程を行くのです。アメリカが民主世界のキリスト教文化圏を中心として、本来の平衡を保って直接主管圏と完全に一つになり、先生が世界蕩減条件を立てた基台の上で、カイン・アベルを蕩減復帰しなければなりません。

 

 

 

23統一教会の信徒たちが国の中心の位置に立たなければならず、世界の中心の位置に立たなければなりません。原理と思想内容は国家の中心になり、世界と天地の中心になれるのですが、それが「私」と何の関係があるのかというのです。頂上に行って中心的家庭になり、それが主体的家庭になり、中心の位置に進み出なければならないのですが、そうしようとすれば、堕落して上がったものを消してしまわなければなりません。それは不可避なことです。消してしまわなければ、国を探し出すことができません。

 

降りてきて立っているとしても、家庭から再び上がっていかなければなりません。ですから、先生は一生をかけて、家庭的七年路程を再び個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代において勝利し、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理、家庭的理想の位置に再び上がらなければならないのです。このため、家庭はありませんでしたが、家庭を探して再び上がるのです。それが四十年です。

 

 

 

24先生は、怨讐の名前をすべて忘れてしまいました。私が霊界に行くとき、怨讐は誰でしょうか。怨讐よりも怨讐の息子、娘、怨讐の一族を愛する思いが湧いて、その名前をまず考えなければならないのです。先生はそのように生きました。

 

怨讐の子女たちに学費がなければ、学費を送ってあげました。食べるものがなければ、食べるものを買ってあげました。ですから、怨讐たちの呪いが、どこに行くだろうかというのです。その家庭が先生を呪うとしても、先生はその呪いを受けません。先生が愛した心の借りを返さなければならないため、自分の一族が滅びながらも、その子孫は先生の僕となって、くびきをつけて、先生のあとを痛哭しながらついてこなければならないのです。ですから、かわいそうだというのです。そのような心情が天にあったので、今日の世界を正し、神様を中心として天下を収拾できる中心、永遠の中心を決定することができたというのです。

 

 

 

25神様の代わりに先祖となり、信仰の息子、娘が千人いれば、その千人を抱いて毎日のように助けてあげながら生きるのが、先祖のすべきことです。先生は生涯そのようにしてきました。ですから、人知れず涙を多く流してきました。個人のために涙を流し、家庭のために涙を流し、氏族のために涙を流し、世界人類だけでなく、天上世界にいるすべての人々と神様の解放のために涙を流したのです。

 

ただそのままでは蕩減になりません。地の上に落ちた水滴が海に流れていくのと同じです。そのような場で、歴史的な功を立てた天地父母に感謝できる思いがないと言えば、そのような人は先生が責任をもたないのです。

 

 

 

26復帰摂理の完成は、蕩減復帰の完成です。そのため、父母様が責任をもたなければなりません。父母様が責任をもてないときは、神様が責任もってすべてを干渉することはできないのです。皆さんが行くべき蕩減の路程は、皆さん自ら行かなければなりません。

 

地上において六千年の歴史を六年間に短縮させることができ、六十年以内に短縮させることができます。地上にはそれしかありません。先生がすべて教えてあげました。それを絶対に信じ、世の中に父母は多くいますが、その父母よりも真の父母様を愛さなければなりません。

 

サタンの血と関係ない純潔な立場で生まれた息子、娘の姿で、天宙を自分の故郷の地とし、天宙を自分の理想の国とし、父母に侍る孝子、忠臣、聖人、聖子の一族を「私」がつくっていこうという結論を自分の家庭で出してこそ、一族全体が天国に入るのです。

 

 

 

27先生が出てきたので幸いなのです。人間の歴史的な恨、誤って絡まり、もつれたものを正すのにどれほど苦労が多かったか分かりません。際限なく転がっていくこの歴史的な悲惨さの中で、誰が天のみ前に帰ることのできる道を築くか、ということが問題です。統一教会の歴史の上に数千年の歴史が展開し、数十万年の歴史が背後にかみ合って回っていくというのです。統一教会が蕩減の悲運をもって悲しい歴史を尋ね求めてきたという事実を忘れてはいけません。

 

 

 

28神様の永遠の希望として待ちに待ったその瞬間、歴史上の宗教圏が待ちに待った一つの瞬間、メシヤを代表する真の父母も待ちに待った一つの瞬間、歴史の解放圏を形成する一つの瞬間を「私」の一生において迎えたのですから、それにふさわしい精誠を尽くすべき責任があるのです。

 

「神様王権即位式」のために数多くの国家が滅び、数多くの宗教圏も興亡を繰り返し、数多くの聖人、賢人も犠牲になりました。そこに加えて、神様のひとり子として来られたイエス様が責任を果たせずに残したものを、再臨主が来て蕩減復帰し、完成しなければならなかったという悲惨さがありました。その背後で、神様が創造主としての体面を立てられず、恥ずかしい立場を抜け出せなかった事実を考えなければなりません。その方が正に私の真の父です。その方は愛の主人、生命の主人、血統の主人です。その方と私の関係は、離れることのできない一体圏を形成している、宿命的な父子の関係です。

 

 

 

29聖人たちもみな、神様を父として考えてみたことがありません。そのような観念をどのように消化し、体恤するかということが大きな問題です。先生も、神様を知り、霊界を知ったために、いかなる迫害の路程も何でもないと思ってついてきた結果、今は天宙を代表するようになったのです。そのように生きなければ、神様のみ前に勝利者として永遠に記憶される人になれません。そのような立場にいる人が真の父母であり、そのような路程が救世主の生涯路程だったのです。その路程に従ってこなければならないのが祝福を受けた人々です。

 

 

第二節 祝福を通した復帰の道(csg-4-3-2)

 

1神様の愛を受けようとすれば、世の中のものをすべて否定し、神様を愛することに生命を捧げなければなりません。まず神様と愛の関係を結ばなければならないのです。神様の愛を受けようとすれば、自分の生命を投入しなければなりません。そのようにすれば、生命力が比例して投入され、入ってくるのです。

 

このようにして、神様の生命と自分の生命が一体になれば、初めて、堕落する前の息子として、神様が信じることのできる息子として復帰されるのです。こうして信仰基台が立てられます。信仰基台が立てられたというのは、条件的な立場で神様を不信することによって堕落した者が、信じることのできるアダムの位置、すなわち希望的なアダムの位置に再び立ったということです。

 

このようになったのちには、サタンと闘って実体基台を立てなければなりません。アベルの位置でカインを屈服させなければなりません。サタンと拳で闘うのではなく、愛で闘うのです。愛によって堕落したからです。もしサタンが十の愛で愛するのなら、「私」は十五の愛で愛し、サタンが十五の愛で愛するのなら、「私」は二十の愛で愛さなければならないのです。

 

 

メシヤを通した血統転換

 

2人間が堕落することによって、第一に父母を失い、第二にサタンの血を受け、第三にサタンの支配を受けるようになったのです。ですから、それを復帰するためには、逆さまに上がっていかなければなりません。信仰基台を立て、実体基台を立ててこそ、メシヤを願うことができるようになります。これが原理です。したがって、外的に信仰基台と実体基台まで造成しようというのです。

 

 

 

3アダムが信仰を失い、実体を失ったので、信仰基台を取り戻し、実体基台を確保したのちにこそ、愛を見つけることができるのです。アダムが失ったのは何でしょうか。最初は信仰を失い、その次は実体を失い、愛を失ったのです。この三つです。これを取り戻そうというのです。

 

 

 

4復帰の道を行くためには、まず信仰基台を立てなければなりません。信仰基台は、自分が位置を確保することのできる確固たる基盤を築き、主体的な立場に立つために必要です。その次に、自分自らが目的に向かっていくことのできる自分になったとしても、それだけではいけないので、戻ってきて実体基台を立てなければなりません。

 

実体基台は、アベルの前にカインを屈服させる基台です。カインは怨讐の子女です。このカインを通じて歴史的な闘争が繰り広げられてきたのであり、悪の母体が根を下ろしたのであり、今まで死亡の波が歴史時代に向かって一目散に走ってきたのです。このすべての悪の要件と悪の側を防ぐためには、アベル的立場、すなわち天の側に立った人が、必ずカインの立場にいる人を屈服させなければならないのです。

 

 

 

5私たちが行く道は二つです。それは、カインと自分のために行く道です。怨讐のための道まで経ていかなければなりません。それは、カインを収拾して行かなければならないということです。

 

実体基台とは何でしょうか。アベルが自分の道を修めたとしても、カインを完全に屈服させなければ、神様のみ前に行くことができないのです。怨讐を導いていかなければなりません。怨讐と闘いながら行くのではなく、怨讐を導いていかなければならないのです。

 

 

 

6信仰基台と実体基台を復帰してメシヤのための基台を立てるのは、原罪を脱ぐためです。原罪を脱げば、神様の生命圏と愛の圏内に新たに越えていくのです。そのようになろうとすれば、接ぎ木しなければなりません。野生のオリーブの木を真のオリーブの木にするためには、野生のオリーブの木を切ってしまって、真のオリーブの木を接ぎ木しなければなりません。これと同じように、野生のオリーブの木のような人間を真のオリーブの木のような人間にするためには、自分自体を否定する過程を経て新しい肯定、全幅の肯定を提示する過程を通過して、越えていかなければなりません。

 

 

 

7人間が完成基準に入ったとしても、これはまだ血統的には完全に清算されていません。サタンの血統を受け継いだので、血統的にはまだ清算されていないのです。血統的清算をするには必ずメシヤが必要です。ですから、信仰基台、実体基台、メシヤのための基台が、堕落した人間には絶対に必要なのです。最後の問題は、どのようにメシヤのための基台をつくり、メシヤを通して自分が血統転換を成し遂げるかということです。

 

 

 

8信仰生活をするときは、何を標準にして信じなければならないのでしょうか。人類始祖、アダムとエバよりもさらに高い位置に上がらなければならないということを目標にして、それを信じなければなりません。

 

その次に、闘わなければならないのですが、誰と闘わなければならないのですか。兄弟同士で闘うのではありません。サタンと闘わなければなりません。何か新しい善のことをしようとするときは、必ずサタンが現れるようになっています。善のことをしようとするときはサタンも現れますが、神様も現れるようになっているのです。皆さんは、善悪の中間位置にいます。その場で悪を屈服させて善を残すことにより、悪が自動的に順応する立場に立ってこそ、善の人になるのです。それを原理的に言えば、実体基台の完成です。

 

これを完成するためには、サタンと闘って勝たなければなりません。サタンに勝ったので、賞をもらわなければならないのです。世の中では何かのメダルをあげ、副賞としてお金をあげたりしますが、そのようなつまらない賞ではありません。賞は賞ですが、一つしかない神様の愛を賞としてもらうのです。

 

 

 

9堕落した人間は、メシヤを探し求めていくのです。メシヤは私たちを再び生んでくれるための父母として来られる方です。生命ではなく、愛を通して生んでくれるのです。その愛はどこから出発するのですか。父子の関係を中心とした父母も父母ですが、本来、愛の主体は神様です。天を代表して神様が愛の主体だとすれば、地を代表してアダムが愛の主体です。父が愛の主体だというのです。

 

父が愛の主体なので、その主体となる父の前に、相対となる母が出てこなければなりません。これについて、キリスト教ではいまだ探し出されていない父と母の位置を求めてくるのですが、その道をこのように求めていかなければならないという決定的な教えが新郎新婦の理念です。

 

 

祝福の起源と価値

 

10人類の先祖であるアダムとエバが堕落したことを私たちは聖書を通して学びました。堕落したということは落ちたということであり、落ちたということは不合格だったということを意味します。すなわち病気になったということです。そのため、人類歴史は喜びの歴史ではなく、悲しみと涙の歴史として出発しました。そのような立場が福を受けることのできない立場であることは、間違いありません。

 

それでは、祝福という言葉はどこから始まるべきなのでしょうか。祝福の歴史は、アダムとエバから始まらなければなりません。祝福を受ける人と祝福する人がいるのですが、祝福を受ける人がアダムとエバだとすれば、祝福する方は神様です。そのため、神様を中心として人間が祝福を受けなければならず、神様は祝福をしてあげなければなりません。神様が祝福をしてくれることにより、その祝福が途切れるのではなく、神様から連結されて人間と関係をもつので、その祝福は神様のものになるのと同時に人間のものになるのです。

 

 

 

11アダムとエバが長成期完成級で堕落したので、復帰路程においても、父母によって復帰できる祝福の起源となる所は長成期完成級です。ここで祝福を受けるのです。また祝福を受けたのちに、そこから完成段階の基準に立とうとすれば、七年という期間を経なければなりません。この過程は先生自身も経なければならず、皆さんも経なければなりません。私たちは、全員がこの過程を経なければならない共同の運命をもっています。

 

 

 

12祝福という言葉は、統一教会から始まったのではありません。この言葉は、今まで神様が復帰摂理をしてきながら心の中に抱き、これが実践されることを願いながら歩んできたのです。神様がエデンの園でアダムとエバを創造し、彼らを祝福してあげ、そのみ旨が成し遂げられることを願われたのも、やはり同様でした。その祝福をまだ誰も実践できていません。このように、神様は、やるせない立場で、祝福が実践されることを願いの中の願いとして待ち望みながら、今まで歴史過程を経てこられたのです。

 

四千年の歴史過程を経たのち、神様は、本来与えたいと思われていた祝福を最後に決行するため、イエス様をこの地に送りました。神様はそのような摂理の役事をされたのですが、イエス様もやはりその祝福の位置まで進むことができず、十字架で亡くなりました。その後も、キリスト教の歴史過程の中において、多くのキリスト教徒が殉教の血を流しながら闘ってきましたが、いまなお神様のその願いを解くことができずにいます。

 

そのような願いの一日を探すために、神様は今まで受難の道を歩んできたのですが、今もその日を見つけることができずにいるのです。ですから、この一日を探し出せば、その日は歴史的な解怨成就を成し遂げる日であり、神様の歴史的な願いが成就する日になるのです。

 

 

 

13堕落は長成期完成級で起きたため、これを原状に回復するためには、堕落したのと反対の経路を通して帰らなければなりません。アダムとエバが愛の問題を中心に堕落したので、私たちの復帰路程においてもその基準に到達したならば、必ず愛の問題を中心にして越えていかなければならないのです。

 

今まではサタンの父母から愛を受けていたので、愛の問題を克服しようとすれば、神様の愛を中心とした真の父母の愛に連結されなければなりません。そのようにしなければ、これを克服する道がないのです。ですから、堕落した父母の血統を受け継いだ堕落圏にいる人類は、最後には父母を迎え、縦的に一つになって堕落圏を克服する道を探っていかなければならないのです。これが原理の立場です。

 

これを克服するのは一人ではできません。必ず男女がペアにならなければなりません。これが統一教会で行っている祝福です。ですから、祝福は自分なりにしてはならないのです。縦的中心である父母を中心にしなければならないのです。

 

 

 

14人間が堕落することによって、まず万物を失いました。そして、実体がサタンに汚されました。そして、心情を奪われてしまいました。このすべてを蕩減復帰しなければなりません。万物の問題、実体の問題、心情の問題を完全に神様を中心として解決し、完成期間を通過しなければ、完成基準に到達できません。これが原理原則です。万物を復帰しなければならず、実体を復帰しなければなりません。そして、心情を復帰しなければならないのです。これを横的に見れば、万物は蘇生であり、実体は長成であり、心情は完成です。

 

 

 

15人間は、祝福という言葉に最高の意味を付与します。この世の人々は、自分の事業がうまく行けば「祝福された、福を受けた」と言います。あるいは良い息子、娘をもてば、「あの人は福を受けた」と言います。

 

祝福を受けるのは男性と女性です。それでは、男性にとって最高の福とは何であり、女性にとって最高の福とは何でしょうか。第一に、生命の関係が結ばれる場所から愛の関係が出発します。これが最も貴いのです。その次に、生命が人間だけのものではなく、生命の中心となる永遠の神様の生命と結束し、愛が私たちだけの愛ではなく永遠の神様の愛と結束し、愛の理想を受け継ぐ場所が、最大の祝福の場です。その基盤の上に理想を描いていく人生が祝福なのです。

 

 

 

16祝福は、天地父母を「私」が継承することであり相続することです。神様が天地を創造し、アダムとエバと結ぼうとした心情的関係が結ばれなかったのです。それが結ばれることにより、千年、万年、子孫を繁殖するのです。そうして千年、万年、一つの世界を造ろうとしたのですが、それができなかったので、それを再び継承するというのです。そのため、父母の代わりに継承する場です。父母が今までサタン世界で闘って勝利した栄光ある勲章とメダルと、すべての偉業、勝利した偉業、その看板をすべてかぶせて相続させるのです。

 

 

 

17有史以来、家庭的救済の道理を初めて体系的につかんだのは統一教会だけです。ですから、統一教会を信じる人は家庭が救われ、天国に入ることができるのです。このような家庭を築く行事が合同結婚式です。世の中であざ笑い、ありとあらゆることを言いますが、この祝福の内容がどれほど素晴らしく、どれほど驚くべきことか、彼らは知らずにいます。

 

私たちは、天倫と人倫、天情と人情が合わさった真の息子、娘の姿で、真の長男と真の長女の位置で家庭を築き、神様を中心とした地上生活をすることができなければなりません。

 

このようになるとき、この地上に生まれた真の人間としての目的を完成し、神様が人間を創造され、期待された目的が達成されるのです。この道が真の人間の行くべき道です。

 

 

 

18私たちは、今まで復帰の因縁を越えて、エデンで堕落したアダムとエバよりも高い価値をもち、真の父母の功績の基台の上に立ちました。そのため、私たちはイエス様が備えることのできなかった民族の基準を身代わりすることができ、氏族の基準を身代わりすることができ、家庭の基準を身代わりすることができ、夫婦の基準を身代わりすることができる圏内にいます。そのような圏内で、父母の言葉と生活と心情に絶対一致する信仰基準に従っていけば、難なく神様のみ前で祝福を受けることができるのです。

 

 

 

19皆さんは、誰を中心として祝福を受けられますか。父母です。絶対的に信じられる真の父母です。「私は真の父母を中心とした血肉をもって出てきた。いかなる力もこの関係を断つことはできない」と言える絶対的信念をもたずに祝福を受ければ、天罰を受けます。これから皆さんがこの条件に引っ掛かって倒れる日があれば、不幸なことになるでしょう。皆さんは、歴史を代表し、善の先祖を代表して現れました。善の先祖とこの時代の自分の氏族を代表して現れた、厳粛な場にいるということです。

 

 

 

20父母の愛を通して完全に復活した自分が、手の先から足の先まで生きていることを感じながら、感謝できる立場に立ってこそ、天に帰ることができるのです。しかし、足の先にありとあらゆることがすべて縛られているので、皆さんはこのような現実を踏み越えていかなければなりません。

 

その道は、いくら千辛万苦の受難の道だとしても、渡っていかなければならない運命の道ですが、一本のわらもつかめないほどどうすることもできない状況の中で、今までそのどん底に落ちて死んだ人が、どれほど多かったでしょうか。そこで数多くの個人と家庭、氏族が滅び、数多くの国が滅びました。その崖から落ちてすべて死んでいったというのです。

 

しかし、その崖のある谷間に橋を架けてあげることができるならば、それは国と取り替えることもできず、この世界と取り替えることもできません。このような高貴な価値が真の父母によって成し遂げられたという事実は、天地を一度にすべて与えられるよりも貴いのです。

 

 

 

21皆さんの血の中には、サタンの血が蠢動しています。ですから、神様が近くに行くことのできるすべての要素を備えられていない自分自身の恥ずかしさを嘆き、これを呪い、踏み越えてからこの場に来なければなりません。皆さんは、父母様が痛みを味わっているこの道を、愛する心と感謝の思いをもって行かなければならないのです。

 

この道は、皆さんの考えと皆さんの頭で、比較して良し悪しを決める道ではありません。ここにおいて、新たに血統を転換できるのです。血続が転換されるというのです。祝福の場は世界で最も良い場です。その祝福の場は、皆さん自体で完成するのではなく、完全に父母様の愛によって完成するのです。

 

子女が父母の懐から生まれれば、立派であってもそうでなくても、その父母の形態に似るのです。それと同じように、統一教会では、真の父母の道理を教えてくれます。それが皆さんには福の中の福なのです。

 

 

第三節 真の人間の生活(csg-4-3-3)

 

1真の愛の人生は、一言で言うとために生きる人生です。人が自分のために与えてくれることを願う前に、まず人のために与える生き方です。そして、人のために与えたことを忘れてしまう生き方です。与えてあげたといって何かを期待する生き方ではありません。与えても、もっと多く与えることができずに心を痛める生き方です。ために生きるにおいても、頭を下げて与える生き方です。それが父母の愛であり主人の愛です。人類の真の父母である神様がそうなのです。

 

 

ために生きる人生哲学

 

2神様を愛するほど人を愛するようになれば、神様が「私」を愛するように、また人が「私」を愛するのです。ですから、聖書においてイエス様も、「人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう」(マタイ一〇・三二)と言われました。同じ道理です。神様を愛するように人を愛しなさいというのです。

 

そこにおいては、何を投入しても考えず、惜しまず、何を投入したか記憶してはいけないというのです。食べるものがあれば、それを食べずに取っておいて、自分が食べられなくても与えたいと思い、一人では食べられないといって食口たちのことを考えられる、そのような父母の心を備えた責任者にならなければなりません。

 

 

 

3いつでも神様の愛を中心として主体にならなければなりません。影響を及ぼさなければなりません。影響を及ぼすというのは、どういうことでしょうか。与えなければならないということです。与えるときには、どのように与えなければならないのでしょうか。食べ残した残りかすを与えてはいけません。食べ残した残りかすをあげれば、食べてからも気分が悪く、唾を吐くのです。

 

餅をあげるにしても、あれこれ取ったり置いたりしてからあげるときは、かえってあげないよりもっと気分が悪いというのです。五つある餅を人にあげるのに、半分くらいそのままあげてこそ「有り難い」と言うのであって、あれこれとつまんでからあげれば、世話になる人が、あとから批評するのです。ですから、与えるときは、神様と共に父母の心情で与えなさいというのです。

 

 

 

4自分を中心として作用しようというのは悪をもたらしますが、全体のために作用しようというのは発展をもたらすのです。全体のために行くところには、すべてのものが門を開くというのです。個人も門を開き、家庭も門を開き、氏族も門を開き、民族も門を開き、世界も門を開き、天の国も門を開き、愛の道やすべての道が門を開いて歓迎するというのです。統一教会は、このような観点から、ために生きる道を行きなさい、ために生きなさい、ために生まれた、という天理を教えるのです。

 

 

 

5もし皆さんのために誰かが心から生命を尽くし、犠牲になりながら一〇〇パーセント与えた人がいるとすれば、皆さんの本心がその恩を返すのに、五〇パーセントはポケットに入れて、五〇パーセントだけ返したいと思うでしょうか。それとも、あるだけすべて返したいと思うでしょうか。誰でも、もっと返したいと思うのが人間の本心です。

 

心から愛して与えたことを知れば、一〇〇パーセント以上返すというのです。このようにすることによって、ここに永遠という概念が設定されます。永遠が始まるのです。ですから、このような原則を立てざるを得ません。ここから発展と繁栄が広がるのです。

 

 

 

6父母の愛は良いものですが、父母の愛が父母のために生きなさいという愛であれば、子女はその父母の愛を必要としません。子女の愛は良いものですが、子女が自分のために生きなさいという愛であれば、その愛は父母も願いません。

 

自分が十を与えたなら、ために生きる愛は必ず十一で返ってきます。ために生きる愛はそうなのです。相対が小さなもので「私」を愛し、ために生きてくれたなら、「私」はそれ以上のもので返してあげたいと思うのです。これは、どんどん拡大していきます。拡大しながら時がたち、一生の間そのようにすれば、これが国を越え、世界を越え、永遠の世界、天国を越え、天上世界を越えていくのです。

 

「私のために生きなさい」と言う者は減少します。一度したのち、二度目にするときには、十だったその愛が減少して八に落ちるのです。夜も昼も私だけのために生きなさいというのは、心が逆に巻き込まれていきます。愛は相対から来るのですが、ために生きようとするその道に従うことによってのみ、純粋な理想的愛が往来するのです。

 

 

 

7個人主義思想はあり得ません。自体自覚から、自分に利益になるようにしようという思想を中心としてエバが天使長と一つになったため、その道を否定しなければなりません。今までは利己思想について語りましたが、これからは利己ではありません。利他主義思想を語らなければなりません。

 

「利己」とは何かと言えば、「我」だというのです。相対が「私」だというのです。カイン世界のために生きなければならないというのですが、そうではありません。一つの体なので、一つにならなければならないのです。利己的思想の時代ではなく、利他的思想時代です。「私」が相対を創造し、「私」と一体化させ、より大きな「私」にできる道を行ってこそ天に帰るのであって、自分第一主義で進んでいく人は天国に行けません。それが原理です。

 

一つのモデルが中心になっていれば、中心の四方を中心として、三六〇度は同じ度数で分けられなければなりません。そこには境界線もなく、平等、平和、統一です。また自由です。ですから、利已的な思想ではありません。利他的な思想によって「私」の体と心から、より大きな心を中心として体が一つにならなければなりません。カインを屈服させる「私」にならなければならないのです。

 

 

 

8与えてくれる父母に対しては、「私」も返さなければならないので、孝行せざるを得ないのです。生命は、皆さん自身を中心として出発したのではなく、宇宙の根本から生じました。その宇宙全体がために生きる場にあるのですが、それを否定する存在は、なくならなければなりません。根源がないので、消えなければならないのです。

 

人間は、ために生きるために生まれたというのです。ために生きるときは、愛の相対のために生きなさいというのです。父母のために生きるときは、その父母の愛を「私」が受けて、育ててあげなければならないので、年老いた父母ほど、(「私」は)ために生きなければなりません。そのようにすれば、自分の家庭が大きくなるのです。

 

国を受け継ごうとするのであれば、夫婦同士で愛するよりもっと大きく、国のために生きる家庭にならなければなりません。そうしてこそ、その国が抱くことのできる家庭になるのです。家庭よりさらに大きな国、国よりさらに大きな世界のために生きなければなりません。その次には、より大きな世界である天地、天地よりさらに大きな神様のために生きなければなりません。

 

 

み旨にかなう心情生活

 

9サタンの侵犯は、神様の心情を蹂躙する所から出発したので、サタンを屈服させて審判できる一番の基準は、神様の心情を復活させることです。すなわち、神様の心情を再び誘発させるところから、勝利の基台が整えられるということです。そのため、終わりの日にはみ言審判、人格審判、心情審判があります。

 

そのみ言と人格と心情が審判の基準なのですが、その基準がどの段階でなければならないのでしょうか。アダムとエバが堕落する前の段階の基準、それ以上の位置に上がらなければなりません。そのようにしなければ、み言を再び探し出したという立場で、勝利の旗を持って現れることができません。そのみ言と実体を完成したという立場にも立つことができず、またみ言の実体であられる神様のみ前に呼ばれた者として、神様の心情を相続したという立場にも立つことができないというのです。その基準は、アダムとエバが堕落する前の段階よりさらに次元の高い段階で決定しなければなりません。ですから、統一教会では完成時代の神様の心情を教えてあげるのです。

 

 

 

10アダムとエバは、長成期完成級で堕落するとき、神様の心情を推し量ることができませんでしたが、統一教会では完成時代において、神様の心情を教えてきました。完成を中心とした神様のみ旨がどういうものかということを教えてきたのです。ですから、その基準以上の位置に立たなければ、サタンがアダムとエバを堕落させたその基準を清算することができないので、皆さんはそのような位置に進まなければなりません。しかし、この世界人類を見るとき、今までそのような場に進んだ人は一人もいませんでした。その場に私たちが行こうというのです。

 

 

 

11皆さんは一つの志を立て、それと共に生活しなければなりません。神様が動じる生活、歴史が動く生活、人類が手本とする生活、子孫が後ろに従ってくる生活をしなければなりません。そして、行動は強く、大胆でなければなりません。神様がヨシュアに、「強く、また雄々しくあれ。あなたは歴史的な神を忘れてはならない」と言ったように、神様は摂理のみ旨を成就するために、中心人物にあらかじめ勧告しておかれるのです。怨讐との闘いを天が命令するときには、必ず勝つようになっています。この世的な志を立て、それに従って生活し、行動すれば、そこにはサタンが侵犯します。ですから、どのような志を立てたかが問題なのです。世の中で公認された志ではいけません。世の中で公認する生活ではいけないのです。心情的に公認を受けられる志を立てなければなりません。

 

 

 

12志と生活と行動には、心情が裏づけされなければなりません。歴史的心情、復帰的心情、創造的心情、汎人類的心情、このような心情を中心として、志と生活と行動が成されなければなりません。アダムとエバにおいては、蘇生、長成、完成の段階を経て、完成したのちにこそ心情問題が台頭してくるのです。

 

これから新しい時代における中心問題は心情です。神様の心情を中心として生活しなければなりません。神様の心情は、復帰の心情、創造の心情です。堕落がなかったならば復帰の心情はなかったでしょう。栄光の心情、見るだけで喜ばしい創造の心情だけがあったでしょう。ところが、堕落して復帰の心情が生じたのです。ですから、そのみ旨を果たさなければなりません。

 

皆さんが神様のみ旨を中心として、神様の理念を中心として、今まで復帰路程において悲しまれた神様の心情を解いてさしあげなければなりません。アダムとエバが神様のみ前に栄光の一日を成し遂げてさしあげられずに堕落したので、それを皆さんが成し遂げてさしあげなければなりません。復帰的な心情と創造的な心情をもって、神様のみ前に栄光の一日を成し遂げてさしあげなければなりません。

 

 

真の人間の生活

 

13イギリスやアメリカを訪問した日本人やドイツ人を、怨讐の国の人と考えてはいけません。怨讐の国の人でも、自分の家族の延長だと考えなければならないのです。世界のどこに行っても、老人を見れば、自分の祖母を愛する以上に愛さなければなりません。そのようにしてこそ、天の前に近づくことができるのです。

 

そのような環境になれば、アメリカの祖母も、日本の子女たちを実の孫のようにかわいがるのです。自分の孫がいれば、国家を越えて結婚させてあげたいと考えるようになるのです。愛は偉大なものです。環境を越えて、自分の最も近い所に置きたいと思うのが愛の世界です。家庭は天国生活の訓練場です。それを拡大したのが地上天国であり天上天国です。先生がアメリカに対して心配したのは、そのためだったのです。

 

 

 

14家庭の生活において、愛を中心として一つになったモデル的なその形態は、教科書と同じです。これを拡大したのが世界です。世界は、祖父母の年齢、父母の年齢、自分たち夫婦の年齢、息子、娘の年齢に等級が分かれているのです。そのように互いに違う年齢の等級が一つの家庭において訓練され、一つになった形でその公式を通して和合できる者になれば、世界のどこに行っても、天国、天下のどこに行ってもその相続を受けることができ、そこに同参することができ、主人の位置に入ることができるのです。天国は家庭です。そのような愛の経験をもって国境を越え、兄弟姉妹のように愛する世界が地上天国です。そのように生きた人が、永遠の天国に連結されるのです。それは人生最高の成功であり、最高の幸福の道なのです。

 

 

 

15男性と女性は、互いが理想的な道を完成させる相対です。相対がいなければ真の愛を見つけることができないので、「私」が完成できないのです。皆さんの父母がサインしなければならず、祖父母がOKしなければならず、自分の相対がOKし、息子、娘が「間違いなく私たちのお父さんはOKだ」と言うことができるその時、息子、娘は幸福を感じるのです。神様の代身者、この宇宙の王の代身者に侍って暮らす幸福な皇太子、皇女として暮らすことができ、王宮で宮中生活ができるので幸福だというのです。そこが天国です。それを先生が発見し、教え、実践するのです。

 

 

 

16天国は家庭からです。祖父母は神様の代身であり、父母は現在の代身であり、息子、娘は未来です。過去と現在と未来が縮小されています。ですから、父母はこの世を代表します。祖父母は神様を身代わりしているのです。祖父母は過去の神様の位置であり、父母は現在の神様の位置であり、息子、娘は未来の神様の位置です。真の愛を中心としては同等なのです。

 

真の愛の論理を中心として、平等であり、同等な内容の価値、本質的な一体理想観を形成できるのです。真の愛を中心として、ために生きる愛の核を中心として、東西南北、四方が一つに絡み合うとき、その場は永遠に神様の愛の運勢が保護するため、これは神様の愛の相対として永遠に不滅です。永生するというのです。

 

 

 

17真の父母は横的なので、そこには縦的なものを必要とするのです。

 

この縦的な父母に似たのが心です。縦的な愛と生命と血統を受け継いだのが良心であり、横的な愛と生命と血統を受け継いだのが体です。そのため、九〇度になることのできる人情と天情が合徳(和合)し、永遠に固着したその場に神様が安着されるのです。すべての万福の起源がそこから無限にあふれるので、永生幸福の福ある世界が出てくるのです。このような家庭天国を形成しなければなりません。そのような生活圏を拡大すれば、世界になるのです。

 

 

 

18神様の愛を知り、父母の愛を知り、父母に侍ることができ、夫の愛を知り、夫に侍ることができ、子女の愛を知り、子女に侍ることができなければなりません。子女に命令をするだけでなく、侍ることもできなければならないのです。ために生きることができなければなりません。そうしてこそ、神様の愛を理解することができます。

 

教材として必要なのです。子女がいなければ未完成です。神様の愛を知ることはできません。神様が人間を、子女をどれほど愛されたか分からないというのです。夫になってみなければ妻の愛が分からず、妻になってみなければ夫の愛が分かりません。また父母になってみなければ、父母の愛がどのようなものか分からないのです。それをまとめて分からせるための教材として造ったのです。ですから、息子、娘がいなければ真の父母になれません。

 

本然のその原則、規範に合格できる一等品になるためには、父母が必要であり、妻が必要であり、子女をもたなければなりません。そうしてこそ、神様の愛を体恤できる一等品として、この宇宙が判を押してくれるのです。それでこそ、天国に自然と入っていくというのです。

 

 

 

19神様が喜ばれ、悲しまれることを常に判別しながら生きる人は、悪なる人になろうとしてもなることができず、天の法度に背こうとしても背くことができません。公的であれ私的であれ、神様が最も嫌われる人は、対人関係において他の人を利用しようとする人です。その次は、何でも自分の利益を中心として判断しようとする人です。

 

神様が好まれる人は、譲歩する人です。譲歩とは、自分がひたすらその人についていくことです。その人がしようと言うとおりに、ひたすらついていくのです。ひたすらついていけば回るようになり、回ってみれば、あとから自分がその位置を占領するようになります。結局は、その人のすべてのものを占領できるというのです。

 

 

 

20常に柔和、謙遜で、その人がしようと言うとおりに従順、服従、屈服しなければなりません。それは、その人を完全に占領するためです。人だけを占領するのではなく、その人の全体を占領するための作載です。したがって信仰世界においては、自分を否定し、代わりに相手の要求に完全に順応していく作戦を取らなければなりません。それは自分自体がなくなるのではなく、相手を完全に占領するための一つの作戦なのです。このようなことを生活において感知しなければなりません。

 

 

 

21驕慢は怨讐です。驕慢と固執はサタンの本質であり、サタンの要素です。ですから、秘たちは驕慢になる代わりに議遜になり、固執する代わりに和合しなければなりません。「和而有親」です。この人にもよくしてあげ、あの人にもよくしてあげる人にならなければなりません。そのようになれば、ここからすべてのことが通じるようになるのです。この人とあの人、二人が一つにならなければ、より大きいものが出てこないのです。和合しなければそのようになります。サタンの本質には、妬みと嫉妬のようなものもありますが、驕慢と固執は、私たちには許されないものです。

 

 

 

22統一教会は聖人をつくろうというのです。偉人の前には怨讐がいますが、聖人の前には怨讐がいません。偉人は自分の民族だけを愛した人ですが、聖人は人類を愛した人です。ですから、偉人が神様のみ前に出ていくとき、「お前は自分の民族は愛したが、私が愛する、私が求める世界人類を愛することができなかったではないか」と言われれば、神様のみ前に出ていくことができませんが、聖人の道理に従っていった人は、神様のみ前に直行できるのです。統一教会は聖人をつくろうというのです。

 

 

 

23神様をあがめる人は血を流さなければならず、神様を愛そうとする人は涙を流さなければなりません。目から涙が乾いてはいけません。そして、神様を探し求めていこうという人は汗を流さなければなりません。それで、父母の心情で僕の体を用い、人類のため、アベルの立場で犠牲になって奉仕し、精誠を尽くして与えなさいというのです。そのように与えながら誇るのではなく、もっと良いものを与えたいという思いをもち、恥ずかしさを感じながら与えなさいというのです。それが神主義です。

 

 

 

24先生が今まで夜を徹しながら人に対しているのは、すべての人を好きになるためです。人を嫌っては復帰歴史に責任をもつことはできません。悪人も好きにならなければならないし、善人も好きにならなければなりません。すべての人を好きにならなければ神様を身代わりできないからです。

 

堕落とは、神様の世界から反対の立場に落ちたことです。この世界を、悪の立場に落としたのが堕落です。神様も、「この世界は悪い」と言うようになれば、神様ではありません。神様が復帰摂理をすることができないというのです。神様がこの世界を「良い」と言いながら造ったのに、「堕落したから、この世界は悪い」と言う立場に降りてくれば、神様ではないというのです。ですから、悪いことも良いことのように対するのが原則です。ですから、イエス様も「怨讐を愛しなさい」と言われたのです。

 

 

 

25「怨讐を愛しなさい」というのは、「怨讐がいない立場に立ちなさい」ということです。怨讐がいない立場に立ちなさいということは、エデンの園で堕落圏を迎えていない本然の世界、本然の位置に帰った状態になりなさいということです。私たちは、これを中心として闘うのです。すべてがそのようになるために闘うのです。ですから、皆さんが最初に人に対するときは、悪い人だとしても、悪く見てはいけないというのです。

 

 

真の忠臣、孝子の人生

 

26正午定着をする家庭、影のない家庭にならなければなりません。エデンの園では、影のない真の愛だったので、愛するのに影があってはいけません。ですから、世の中の万事、すべてのものがそこに来てつながり、一つになるようになっているのです。そこに他のものが進み出て自己主張することはできません。ですから、絶対信仰、絶対愛、絶対服従です。そのため、自分がないのです。真の愛の前には、すべてがそのようになります。影のない定着をアダム家庭で成し遂げ、アダム一族、アダム民族、アダム国家、アダム世界にならなければなりません。

 

 

 

27神様がその中で夜も昼も思いどおりに安息できる、影のない家庭にならなければなりません。そのような場所が神様の創造理想なので、私たちがこのように生きるのは、神様を個人から天上世界まで、永遠に父として侍り、その父のみ前に孝子、孝女の家庭になり、忠臣、忠女の家庭になり、聖人夫婦の家庭になり、聖子と聖女の家庭になるためなのです。

 

その家庭において、神様は自由自在にどこへでも行くことができます。末裔から一度に何代かの先祖まで思いどおりに行き、思いどおりに帰ってくることができ、四方、天地に神様が思いどおりに通じることのできる、影のないその世界が天地に連結されるとき、地上天国になり、天上世界の天国になるのです。影のない正午定着にならなければなりません。

 

 

 

28皆さんは影のある生活をしてはいけません。それで正午定着を宣布しました。それは素晴らしい言葉です。影がありません。体と心が一つになり、家庭の四位基台が一つにならなければなりません。父が誤れば父の影が生じ、母が誤れば母の影が生じ、四人家族で四人が定着できなければ、光の混乱が起こるのです。影がある所は、みな嫌がります。ですから、正午定着をしなければなりません。

 

あちらの国に行っても影があってはならないのです。影がない所で個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで八段階の垂直線を往来する方が神様です。神様の愛に影が生じるかというのです。純愛そのものです。ですから、誰もが純潔な血を願うのです。誰もが影を嫌がるのです。影はサタンです。ですから、何であっても、誤れば隠そうとするのです。それが怨讐です。国境線がそうです。国境撒廃は正午定着を意味します。これは象徴的な話ではありません。必ずこのようにしなければならないのです。

 

 

 

29真の父母の前に真の孝子、真の忠臣、真の聖人、真の聖子の道理を果たさなければなりません。それによって初めて王権樹立になるのです。敬い侍る息子、娘の権限がそれだけ拡大すれば、その上に立てなければならないのが天の国の王権です。王権を立ててそこに即位することにより、サタン世界はなくならなければならないのです。

 

 

 

30これから、家庭を中心として、新しい忠臣、聖人、聖子の道理を果たして生きた人々の歴史を、伝統として新たに立てなければなりません。

 

今までの蕩減時代の伝統ではなく、理想世界の新しい伝統を立てなければなりません。その伝統が、皆さんが天の国に永遠に暮らすことのできる伝統になるのです。真の孝子、孝女の道、真の忠臣、烈女の道を立て、聖人、聖子の家庭の道理をここで準備していかなければなりません。

 

 

第一節 人間の本性の道(csg-4-4-1)

 

1「私」はなぜ来て、なぜ生きなければならず、どこに行かなければならないのでしょうか。皆さん自ら生まれたと考えてはいけません。生まれはしましたが、自分が生まれた動機と目的が分からない私たちです。生まれることは生まれましたが、「私」が生まれようとして生まれたのではなく、生きていることは生きていますが、「私」が生きようとして生きているのではなく、死ぬことは死にますが、「私」が死のうとして死ぬのではないのです。それなのに、自分の何を誇るのでしょうか。自分自身が生まれたくて生まれることもできず、何かをもって生きることもできず、死の道を避けることもできない自分を誇ってみても、哀れで寂しいだけです。生まれたので生きなければならない運命であり、またそのように生きて逝くべき運命なのです。

 

 

人生の目標と準備

 

2世の中では「人生とは何か」と言いますが、人生観、国家観、世界観の確立、その次には宇宙観の確立、さらには神観の確立が問題になります。これをどのように確立するのでしょうか。系統的な段階の秩序をどこに置かなければならず、その次元的系列をどのように連結させるのか、これは深刻な問題です。

 

ために存在するという原則から見るとき、最も価値のある人生観は、自分が全人類のためにあり、全世界のためにあり、国家のためにあり、社会のためにあり、家庭のためにあり、妻のためにあり、子女のためにあるという立場で幸福な自分を発見できるなら、これ以上の人生観はありません。

 

 

 

3出発を誤れば、とんでもない所に行きます。ですから、船が大海を航海するにしても、出発した港から、羅針盤を中心として行くべき目的地を描いておいて進むのです。人間は出発した港がどこなのか分からずにいます。羅針盤をもって彼岸の世界に到達でき、目的地を描いていくことのできる方向性がないというのです。これがくねくねと、自分勝手に行ったりきたりしたのです。人間がいくらやっても、人間で終わるというのです。

 

 

 

4自分はどんなことをやろうという、そのような見方がなければなりません。もう二十代になったのであれば、そのような見方をもって何をすると定め、一生の間、闘っていってこそ、歴史的な人物になり、何か一つでも残せるのです。次に、その目的のためにはいかなる困難があったとしても、闘争していける勇猛な心がなければなりません。それを嫌だと言わず、消化できる度胸がなければなりません。

 

 

 

5一番重要な時が、十八歳から二十四歳までの期間です。二十四歳までには、完全に全人生を懸ける目標を定めなければなりません。それは修養をして精誠を込めれば、分かるようになっています。統一教会で赤ん坊として生まれて、正常な信仰生活をすれば、自分が何をしなければならないか、すぐに分かるようになっているのです。自分を中心として生き、自分の考えを中心として行動する人には分かりません。

 

自分が自らの分野を分からないという事実は、深刻なことです。重要な一生の問題について、天と共に深刻に折り合いをつけなければなりません。そして、自分自ら、環境的に与えられた条件に適応しなければなりません。それはいずれにせよ、自分がしなければならないのです。

 

 

 

6先生は十六歳のとき、既に深刻でした。どこに行くにしても、行きたくない所には行かないのです。行けば必ず事故が起こります。今もそうです。ですから、怨讐が多い世界で今まで生き残ったのです。大きな人物になるほど、本当に困難が多いのです。それを越えるためには、自分が行く道をある程度選ばなければなりません。

 

先生に向かって「先生、大変です。問題が起こりました」と言えば、既にすべて分かっているのです。そうでなくては、これから大きな指導者になれません。皆さんは平面的に考えますが、立体的な考えをもたなければなりません。平面は立体圏内に無限に入るのです。

 

そのようなものがあるので、いくら優れていても、良心がまっすぐでない人は、先生の前に来ると、ただ圧倒されてしまうのです。説明が必要ありません。もちろん知識的な実力もなければなりませんが、霊界やこれからの世界は、修道の世界なので、心霊が成長しなければなりません。

 

 

 

7人は落ち着けば、心の深い所に心が静まる場所があります。心が眠ることのできるその場所まで、自分の心が入っていかなければなりません。そこで眠って自覚めるときには、鋭敏になっているのです。そのときに、雑多な考えをもたずに精神を集中すれば、すべてが通じるのです。ですから、修養と祈りが必要です。いつも精誠を込めなければなりません。

 

精誠は一度込めて、使い回すものではありません。静かに心の位置をつかんでおかなければなりません。そのようにすれば、自分のすべきことがすべて分かるというのです。それをしなければなりません。方向をつかみ、その方向を中心としてついていかなければなりません。方向は突き出ていて、一つしかありません。それは難しいことではなく、簡単なのです。

 

今、万全の準備をしなければならず、整備をしなければなりません。毎日のように、それを自ら押していける推進力を生み出さなければなりません。それは、自分一人ではできないことです。

 

 

 

8十八歳になれば、自分がどのような人間かということがすべて分かります。力ではできません。だから焦りやすいのです。友達の力が必要になるとか、師が必要になるとか、神様の力が必要になるのです。先生も、先生自身が今もっている力より、もっと大きい世界的なことを行うときは深刻です。より大きな力が必要なときは、それをどこからもってくるかということが問題になります。もってこられないときは後退しなければならないのですが、それはできません。ですから、祈りが必要であり、神様が必要なのです。それだからこそ、心情の世界が必要なのです。

 

愛の世界は、いくら引っ張り出しても終わりがありません。物質の世界は終わりがあり、知識の世界も終わりがあり、権力の世界も崩壊することがあるのですが、心情の世界は無限です。そのため、心情の世界を中心として動かなければなりません。心情の世界の中央に行けば、軸を中心として上下する運動をするのです。心情の中心の真ん中に入ってみなさいというのです。そこから無限な力が伝わります。九〇度さえつくれば、無限な力を九〇度で維持できるのです。ですから、道を修めていかなければなりません。精誠を込め、世の中のすべての面において深い心霊世界を体験しなさいというのです。

 

 

 

9自分の最も近い先生は、自分の心です。一番親しい友人よりも貴いのが自分の心であり、父母よりもっと貴いのが自分の心です。ですから、心に尋ねてみるのです。その心には神様が入っていらっしゃいます。その声を聞くことができなければなりません。心の声を聞くことのできる境地まで入っていかなければなりません。

 

「天上天下(てんげ)唯我独尊」とお釈迦様が言いましたが、それは、「私」が「私」に尋ねれば、「私」に神様が入ってきていることが分かるということです。そのようになれば、できないことがないのです。

 

ですから、自分の心を明るくしなければなりません。心が先生よりも優れているのです。心は永遠の私の主人です。ですから、よこしまな心をもたず、公理に属した、公的立場に立った心をもたなければなりません。

 

 

神様の息子、娘になれ

 

10人間は本来、宇宙の王予です。「神様が私の父であり、父のものである天と地は私のものだ」と言うこともできるのです。神様を占領してこそ、安息することができます。神様の心情を占領すれば、神様を占領することになるのです。

 

神様の心情を中心として万物万象を抱いてこそ、他のどんな人も占領することができなくなり、そこで初めて天運が動き、天下の福がとどまるようになり、エデンの園が開かれるのです。神様と人間と万物、また天と人と地、この三つが心情的に合わさった所が地上天国です。心情でなくてはならないのです。

 

 

 

11人間は、神様の息子、娘にならなければなりません。神様は主体としていらっしゃり、私たちはその対象ですが、たとえ堕落したとしても、そのような本性の基準は今に至るまで残っているため、その本性の基準を通して本然の主体的な理想圏を願わざるを得ないのです。その作用は良心作用よりも強く、夜も昼も「そこに行きなさい」と人間を促し、強制的に追い立てるのです。そのような力が皆さんの良心の背後にあります。堕落はしたとしても、そこに向かつて進みなさいというのです。

 

 

 

12磁石にはプラス極(N)とマイナス極(S)がありますが、その極の間に絶縁体や紙のような妨げとなる物質があれば、それを貫いて作用します。それがだんだん厚くなれば、作用はだんだんと鈍くなります。さらに厚くしておけば、作用しないように見えるのです。しかし、作用はしているというのです。

 

それと同じように、人間が堕落したために神様と人間の間に何かが挟まっています。これがすべて塞がってしまったように思えるのですが、良心はそこに向かつていつでも作用するのです。これを開け放つ日には、その作用が強くなるのです。その間の絶縁体を一つ一つ取り除いてしまえば、だんだんと強くなるのです。それをすべて取り除いたときには、完全に通じてしまいます。学ばなくても、すべて分かるようになるというのです。

 

 

 

13人間始祖がエデンの園で犯した堕落の動機とは何でしょうか。自分を中心としたことです。それで神様の息子の位置で息子になることができず、神様の娘の位置で娘になることができませんでした。サタンの侵犯を受けたのです。そのために、すべて失ってしまいました。侵犯されることを避ければ息子になり、娘になります。

 

したがって、「絶対的な神様は私の父である」という自覚が、アダムよりも強くなければなりません。その父は、天上世界の中心であり、地上世界の中心です。その父と一つにならなければなりません。そのようにすることによって「私」は、絶対的な中心と一つになるのであり、天地を主管なさる絶対的な主管者と一つになるのです。これを、どのように自覚するかということが問題です。その価値がどれほど絶対的かを確実に知るまでは、清算する道理がありません。「父と私の価値がどれほど貴いか!その父は、世界の主管者であられる!その父は、世界とも取り替えることができず、全天下とも取り替えることができない!私は、その父の息子、娘だ!間違いなく息子、娘だ!」という自覚をもたなければなりません。堕落する前のアダムとエバ以上の立場に立たなければならないのです。

 

 

 

14父母と自分が一つの場所から共に出発したという事実は、驚くべきことです。父母の愛は「私」の愛であり、父母の生命は「私」の生命であり、父母の理想は「私」の理想として決定することができるのです。

 

父母は、子女を見つめるとき、「これは私の愛する息子、娘だ」と言います。これは自分の愛と自分の生命、そして自分の理想の実体であることを父母は感じ、悟り、知っているのです。愛する息子、娘とは、一日会わないだけも会いたくなり、ついさっき会ってもまた会いたいのです。それは、どんなに離そうとしても離すことができない骨の中の骨であり、肉の中の肉です。そこには、すべての理想がかかっているのです。

 

今日、堕落によって真の愛と真の生命、そして、真の理想をもつことができなかった人間世界に生まれた父母であっても、そのように子女を愛することを知っているのに、そのような父母の主体であられる神様は、それよりもっと愛するというのです。本来、堕落していないアダムとエバは、神様の直系の息子、娘であり、神様の王孫でした。アダムとエバは、天上天国と地上天国を受け継げる王子、王女だったのです。

 

 

第二節 自己主管完成の道(csg-4-4-2)

 

1人間自体が矛盾した存在であるという事実を見るとき、人間がある基準に達せずに故障したか、落ちてしまったという観念を導入すれば、神様がいるという理論を発見できます。ですから、堕落という言葉が、どれほど有り難い言葉か分かりません。

 

堕落したために矛盾した立場に立ったのです。堕落したというそれ自体を見るとき、神様がいると語ることが可能となり、宇宙全体が落ちた、故障したと語ることが可能になります。私たちは堕落したので矛盾する以外になく、私たちが矛盾したので、完全な神様は矛盾した私たちと共通の立場にいることができないのです。このような論理的追求から、神様の存在性を確定することができるのです。

 

 

心と体が闘う矛盾した人間

 

2神様が万物を造られるとき、絶対的な目的をもって造らなかったとすれば、神様は絶対的な方になれません。堕落した人間も一つの目的を中心として、その目的を達成できる物を作っていこうとします。人間自体内に、それぞれ異なる二つの目的を追求する体と心が存在するという事実は矛盾しています。絶対的な神様が造った被造物として、そうであってはならないというのです。

 

神様はお一人なので、その方が造った被造物も一つの目的をもたなければなりません。そのような一つの目的の中で、神様の子女の名分をもって生まれた人間ならば、一つの目的と関係を結び、一切がその目的を中心として関係を結ばなければならないにもかかわらず、「私」という個体において一番近い体と心の衝突が起きているというのです。これは人間が堕落したからです。

 

 

 

3人間が堕落しなかったならば、本釆天国で暮らすようになっており、天国のすべての生活条件に一〇〇パーセント適応できるようになっていました。ところが、堕落した世界になったため、私たちの心と体は、磁石が逆さまになり、南北がひっくり返ったのと同じなので。完全に置き替わっているのです。プラスとマイナスが完全に反対になっているのです。

 

絶対的な神様がいるならば、その神様は一つの観念をもたなければなりません。一つの思想をもたなければなりません。神様を原因として、その結果として生じた人間であることが間違いなければ、そして、原因となった神様の考えが一つであるならば、その結果となった人間も一つの考えと一致しなければなりません。

 

ところが、矛盾した人間になったというのです。いくら見ても矛盾です。堕落が分からなければ、そのように緒論づけるしかありません。堕落したので、プラスとマイナスの方向がひっくり返っているのです。心は神様に向かっていこうとするのですが、体は逆さまになっています。ここに衝突が起こるのです。

 

 

 

4人間には、善の要素もあり、悪の要素もあります。これが問題です。「私」という一個体を見れば体があり、心があります。しかし、この体と心がいつも仲良くしていないのです。心は「このように行きなさい」と言うのに、体はいつも心が行こうとする方向にブレーキをかけます。「そっちに行かないで、こっちに行きましょう」と言うのです。そのため、今までの歴史過程に来ては行った多くの預言者や烈士たちは、心と体をどのように調整するかという問題で悩んだのです。

 

 

 

5心と体が互いに一つになれず、一つは東に行こうとするのに、もう一つは西に行こうとしながら、互いに相反した結果を追求するというのです。心が行こうという所に行けば、堕落した今日の人間の世の中とは違う所に行き、体が行こうという所に行けば、堕落した所に行くのです。

 

この体は、何かを食べさせてあげれば、「もっとよく食べさせてほしい」と言い、休ませてあげれば、「もつとよく休ませてほしい」と言い、人のものもすべて自分のものにしようとし、自分を中心にして自分だけが一番だというのです。他の人はお構いなしです。心は体と反対です。心はいつも「人のために犠牲になりなさい」と命令します。「人のために生きなさい。かわいそうな人を助けてあげなさい。貧しい人がいれば助けてあげなさい。公的な立場で、大衆のために体を捧げなさい。体を犠牲にしなさい」と言いながら、心はいつも体とは違う方向へと指導するのです。

 

 

 

6本来、人間の心と体には神様の愛が入り、内外で矛盾や相反、または闘争があってはいけません。ところが、人間が神様から離れていき、サタンを中心として外的な愛を行ったことが動機となり、体と心が相反した立場で闘争する結果が生じたのです。

 

そして、外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的で永遠な生命の起源となる神様の愛に背く歴史の結果が生じたのです。ですから、外的な愛、すなわちサタンの愛を取り除き、そこに本然の内的な愛、すなわち神様の愛を相続して体と心を糾合しなければなりません。そうしてこそ、ここから統一が始まるのです。

 

 

 

7宗教の世界に行けば行くほど、困難が相反して入ってきます。自らの体の欲望の要件をすべて脱皮して越えるまで、反対作用が起きるのです。ですから、宗教では、体を強制的に打ちなさいと言います。零点の体をつくるところに神様の願いが提示されると見るのです。そのため、絶対的な立場で肉身を完全に否定するところから、真の宗教の起源が成立します。

 

人間が行くべき公式的な路程があります。故障したなら、故障したものを必ず、本来創造するときの、言い換えれば工場から出てくるときの設計図によって、そのまま再び合わせなければなりません。再現して合わせなければならないというのです。修理するには、最初に造るときよりもっと力が要ります。それは、神様が創造されたときよりも、修理するほうがもっと難しいということです。これが人間完成の道です。

 

 

 

8「私」自身が、変わらない心の基準を神様の心情世界に一致させ、その心情を中心とした心が、「私」の生において、体を調整する主体的な立場に立つことができるかということが問題です。いつでも、夜でも昼でも、二十四時間相対的な立場で、マイナスのような立場で「私」の体が心と一つになることを願う力の作用が、私の体と心に広がれば、その力は宇宙を動かせる力と通じます。私の心がプラスになり、私の体がマイナスにならなければなりません。ところが、心もプラスであり、体もプラスになっています。プラス同士では相反するため、この体が怨讐なのです。これを、どのようにマイナスにするのでしょうか。これが、宗教が明確にしていくべき道です。

 

 

 

9神様のみ旨の道を行こうとすれば、体と心が一つにならなければなりません。体が主体になっているので、心を中心として体を征服しなければなりません。それで修養の道は、体が言うことを聞かなければ、「この体め!」と言って打ちながら歩むのです。断食をし、節制をし、自己制裁を加え、すべてのものを否定させるのです。

 

宗教の道には、してはいけないことが多くあります。劇場の前にも行くなと言い、恋愛もするなと言います。お金が問題ではなく、知識が問題ではありません。体が心をいつでも攻撃できるように一〇〇パーセント武装し、白兵戦をする態勢で一時も逃さずに狙っています。これをどのように解決するか、これをどのように越えていくかということが皆さんの闘いです。これを越えずしては神様のみ旨が成就されません。

 

 

 

10修行している人々を見れば、霊界に通じるために多くの精誠を尽くします。ところが、男性が道を修めるとき、最後まで行くと、女性が妨害します。美女が現れて惑わすのです。これがサタンの武器です。また女性が精誠を尽くしていけば、美男子が現れて惑わすのです。

 

悪魔が天地を破壊した動機を超えて、新しい根本を探し求めて神様の本性的世界に触れようとするので。悪魔サタンがこれを妨害するために、男性の前に一番の女性を動員するのです。世の中の男性の中で、美人を動員してその色仕掛けに引っ掛からない男性はいません。また、いくら道を修めた立派な女性でも、体格の良い天下の美男子を見れば、我知らず目よりも先に手が行くのです。じっとしていても体が先に行くのです。愛の引力によって、プラスとマイナスのような引力によってそうなるのです。

 

 

 

11宗教は、独身生活をしなさいと教えます。愛を防ぐ盾だというのです。肉身が怨讐なのですが、この怨讐には三大武器があります。第一に食べること、その次に眠ること、その次が情欲です。そこに先生もぶつかりました。先生がこれを超えるためにどれほど涙を多く流し、どれほど身もだえしたか、皆さんは知らないでしょう。

 

これに勝つことのできる蕩減条件を立てるためには、監獄に十年入っていることが問題ではなく、どんなことでもすべてしなければならないのです。甘美な神様の愛を受けるときは良いのですが、このような壁にぶつかったときはどうするのかというのです。先生は、このままでは万民を救うための神様のみ旨を成就できないことが分かったので、この道の向きを変える方法はないか、という問題にぶつかったのです。

 

 

 

12主管性をどのように復帰しなければならないのでしょうか。悪のサタン世界では、主管性を強制的に復帰しようとします。「お前は私が支配しなければならない」と言いながら、むちを持ち、手段、方法を選ばずに主管しようとします。それではいけないのです。

 

本性的主皆性の復帰は、何を土台にしなければならないのでしょうか。今日のサタン世界と同じように、手段、方法を選ばずに強制的にするのではありません。自分が出世するために第三者を犠牲にし、謀略にかける方法ではありません。

 

神様は時代を超越する主管性を提示してこられました。それが犠牲と愛です。犠牲と愛の主題を前に立てて、あらゆる辱めと困難を克服していけば、その環境にいる人々が自動的に、主管性をもつことを願うようになるのです。自動的な主管性を願うというのです。

 

 

心と体が一つになった境地

 

13アダムとエバも、体と心の二重構造になっています。心が内になり、体が外になっています。このような個体が、内外に一体になっています。このように一つになった男性と女性が、再び主体と対象の関係で横的に一つになっています。言い換えれば、女性も内外に一つとなり、男性も内外に一つとなり、その男性と女性が愛によって一つになるのです。

 

本来、堕落がなかったならば、体と心は何によって一つになるのでしょうか。道義的な、何かの観念や考えで一つになるのではありません。何かの力によって一つになるのではありません。神様が私たちの体と心を分立させた動機は、愛を具体化させるためです。愛を具形化させるためであり、四方に適用させるためです。一点に定着させるためではなく、全体に活用することのできる環境圏をつくるために、愛を必要とするのです。

 

 

 

14人間の心は、いつも父母を思います。父母の愛を思います。その心の流れの方向性は何でしょうか。心は、父母の愛、兄弟の愛、国を思う愛、世界を思う愛、そして天地を思う愛を連結しようとします。このように前後、左右、上下関係の愛を連結しようとするのです。

 

なぜそうしなければならないのでしょうか。体と心が一つになる場は、北に偏っているのではありません。また南にも偏っていません。「私」を中心として東西南北、中央の近くに立とうとするのです。中央の近くに立とうというのは、中央に本来の愛、縦的な宇宙の愛、神様の愛と人間が関係を結べる一つの道があるからです。創造主も人間が完成すれば、人間と愛することができる一つの中心的愛の道があるのです。神様が人間を分身としたのは、人間の姿を見るためではありません。

 

 

 

15肉身が願う欲望と、心が願う欲望は反対です。この体は人のものを盗んで自分の腹を満たそうとします。動物的です。父母の口に入ったものも、自分の腹が減っていれば奪って食べるのです。そのようにする性質が十分にあります。サタン世界の子孫として生まれた以上、それはすべて平等に現れるようになっています。この体が問題です。

 

ですから、高次元の宗教をもった民族は発展するのです。なぜ発展するのでしょうか。心に体をプラスさせることができ、体を吸収して一つにすることができるからです。プラスとマイナスが一つになれば光を発します。新しい力、エネルギーが発生します。これが天地の道理です。磁石を見ればプラスもあり、マイナスもあります。自分の体と心が完全に一つになれば、完全な磁石のようになります。磁石のようになった男性の体と女性の体は、プラス的磁石のようになることもでき、マイナス的磁石のようになることもできます。そのため、男性と女性が自動的に一つになるのです。言葉で愛を表現するというのは、すべて二次的です。人に会えばみな、良く思えるようになっているのです。

 

 

 

16プラスである心とマイナスである体が完全に一つになれば、プラスの心に一つになるその力は、本然の創造主の力の権限に同参することができます。全能の創造力があり、生命力があれば、神様の創造力と生命力が接することのできる可能性があるというのです。体と心が永遠に一つになる境地に入れば、全天下がすべて見えます。ここに天地がすべて共鳴するのです。完全な心を中心として、完全な体が共鳴して一体化する立場に入れば、すべて通じます。宇宙が動く音がするというのです。その音に比例して笑顔になり、喜びがはじけます。超然たる力が無限に連結される一つの境地があるのですが、その境地は創造的理想の力が到達する境地です。

 

 

第三節 男女の真の愛と真の結婚(csg-4-4-3)

 

1男性が生まれたのは愛のためです。男性の愛は、男性から来るのではありません。男性の愛は女性から来ます。女性の愛は男性から来ます。愛を中心として見てみるとき、男性は自分のために生まれるのではありません。男性が生まれて探し求めていく真の愛の道は、自分のために生きる場においては絶対に探し出せません。前進することができず固着してしまいます。神様が、御自身をすべて投入して宇宙創造をした道に従っていくべき立場なので、男性が生まれるのも、人のために生まれるのです。真の愛のために生まれたのに、自分のためだと考えれば、真の愛を探すことができないのです。ですから、男性が生まれたのは女性のためであるという結論が出ます。そして、女性は、真の愛を中心として男性のために生まれたのです。

 

 

男性と女性は互いに相対のために存在する

 

2神様が愛をもって喜ぼうとすれば、この宇宙はどうなるべきでしょうか。神様だけが喜んではいけないので、この宇宙もすべてペア・システムで造ったのです。鉱物世界にもペアがあります。水品の結晶もペアでくっついています。そのような相対的概念が連結され、拡大するのです。私たちの目には見えませんが、すべてそのような作用をします。

 

宇宙が愛の概念を標準として造られたので、すべてのものはその愛に和動して従うようになっています。ですから、すべてのものがその愛に和動しようとすれば、主体と対象の関係がなければなりません。一人では愛することができません。主体と対象の概念を中心として愛によって連結されるので、宇宙はペア・システムになっているのです。

 

 

 

3男性と女性は、お互いのために生まれました。男性は女性なくして愛を探す道がありません。愛ゆえに男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれたのです。それが貴いのです。真の愛は、自分を主張する所にはありません。ために生きる所にあります。ですから、互いのために生まれたのです。神様は真の愛をもった方なので、ために生きようとします。そのために人間を造ったのです。神様のために人間を造ったのではありません。真の愛のために存在するのです。

 

 

 

4男性は女性ゆえに生まれました。聞きたくないかもしれませんが、それが天理です。億千万年変わることのない真理です。これが分からなかったというのです。男性にとって最も貴く、一番のものが愛なので、男性には女性が絶対に必要なのです。

 

男性と女性が結婚するとき、何を見て結婚するのですか。生理的構造において異なる一点、それを見て結婚するのではないですか。女性同士でも結婚できるのに、なぜ男性としなければならないのですか。それは絶対的です。生理的構造が違います。男性の愛の貴い生命のひもを受け継ぐことができ、愛の伝達を通して宇宙と関係を結ぶ道が生じるのです。

 

男性が探し求める愛の道は、女性を通してやってきます。女性が探し求める愛の道は、男性を通してやってきます。ですから、その愛でなければ、理想の基盤、すべての価値の基準を探し出すことができません。この愛と一つになって進み出るときは、この宇宙が歓迎するのです。東西南北、四方の方向を克服することができ、主管することのできる能力がここにあります。愛は偉大な力をもっているのです。

 

 

 

5春の季節になり、鳩が「クククッ!」と鳴くのは、愛の歌です。それは悪いものではありません。自然はすべて、人間に教える教材です。すべての鳥や動物はペアになっています。互いが愛を中心として和動するのです。これは天地の調和です。宇宙の極と極が愛を中心として和動し始めるのです。

 

渡り鳥も同じです。南にいた鳥が北に飛んでいき、北にいた鳥が南に飛んでいって、地域を行き来しながら愛するのです。永遠に回ります。人間は、神様が造った博物館の教材を通してこのような愛を学びます。人間と神様が良いといって愛するようになれば、天下のすべての万物は、そこに拍子を合わせて和動するのです。神様が愛し喜ばれれば、天使世界も喜び、このすべての被造物が喜んで拍手を送り、賛美を送るのです。

 

 

 

6芸術は、情緒的な背後が深く介在していなければ価値がありません。千年前のものを何千年後に見ても、そのとき以上の感情を感じれば、名作だと言えるのです。一つの絵を見ても、そのような感動や刺激を感じるとき、傑作と言うのです。

 

神様の作品の中で、最高の傑作は人間です。そして、人間の中にある愛です。神様が願われた愛の主体の前に、対象的な愛の美を備えて立てば、神様が涙を浮かべるのです。思わず溶けて美しい迷路に引き込まれていくのが、愛の美しさです。

 

暖かな春になれば、私たちの目にはよく見えない小さな虫たちも、雌、雄が愛を交わします。それを見れば、本当に不思議です。雌がいれば雄がいて、互いに愛し方を知っているのです。それを誰が教えてあげたのか分かりませんが、愛し合って子を生むことができるのです。それはすべて、神様が人間に愛を教えるための愛の博物館なのです。

 

 

 

7アダムとエバが互いに愛するとき、神様は喜ばれます。御自身が愛するからです。神様御自身が、御自分の体であるアダムと、その相対であるエバを通して衝突を起こすのです。極と極が分かれてから合わされば爆発しますが、そのような爆発的な衝動を感じるとき、神様も愛に酔ってひっくり返るのです。このように話すからといつて、不敬なのではありません。愛には不敬というものがありません。神様が好む愛さえあれば、それでいいのです。

 

世の中で、女性にとって一番良いものが男性です。いくら優秀で、天下が羨ましがるほどの美しい女性だとしても、その女性に愛することのできる男性がいなければ、何も始まりません。家に入っても寂しく、すべてのことが煩わしくなります。絹の布団を広げておいたとしても、蹴飛ばしてしまうのです。しかし、男性さえいれば、ぼろぼろの薄い布団を敷いて寝るとしても、味があるというのです。

 

 

 

8自然は、すべて愛の展示場です。主人になることのできるアダムとエバが、中心から東西南北を眺めるとき、そこに見えるすべての存在が教材になるのですが、それは愛の教材です。植物もすべて相対的条件であり、動物も同じであり、昆虫も同じであり、すべてが相対になっているのです。それは、アダムとエバが理想的な愛の道を歩むように教えてあげるための博物館です。愛の教示をするための一つの自然博物館になっています。それは、アダムとエバのためです。ですから、自然を愛せない人は、人を愛することができません。人を愛せない人は家庭をもつことができないのです。

 

 

 

9男性は女性のために生まれました。また女性は男性のために生まれました。ですから、男性の生殖器と女性の生殖器は自分のものではありません。神様は知恵深い方です。主人を入れ替えておいたのです。統一教会では、浮気することを絶対に許しません。

 

「右」と言うときは「左」を先有条件として語るのであり、「上」と言うときは「下」を先有条件として語るのです。「女性」と言うときは「男性」を先有条件とするのです。男性は男性のために生まれたのではありません。

 

凸が必要とするのは凹です。凸の主人は男性ではありません。それは、この上なく神聖なものです。ここから神様の生命、神様の愛が連結されます。永遠の愛が発掘されて継続する、愛の源泉地です。男性は、この源泉地を通らなければ、神様の愛に接近することができません。それが愛の源泉であり、生命の源泉であり、血統の源泉です。愛が動くとき生命が沸きたち、血が躍動します。父母の愛を一つに交流させて一〇〇パーセント、球形に混ぜたのです。

 

 

 

10神様は、愛の至聖所にいようとされました。堕落していなければ、人間の生殖器が神様の至聖所です。その至聖所は、人が作ったものではありません。それでは、神様が作ったものの中で最も複雑で、最も刺激的で、最も神経が鋭敏なものとは何でしょうか。男性と女性が愛し合うことのできる接触部分を何と言いますか。稲光が避雷針に接触するときは、先端に接触します。人間のすべての神経の先端が、男性と女性の唯一異なる器官です。その一点が異なるがゆえに、女性であり、男性なのです。それが何かは、説明しなくてもみなよく知っているでしょう。それは貴いものです。堕落していなければ、神様が臨在し、神様の愛が宿る至聖所だったというのです。

 

 

 

11本来、至聖所は、完成したアダムとエバを象徴します。二つの石板やマナとうずら、そして芽が出たアロンの杖は、アダムとエバを象徴します。聖書の秘密の話は、アダムとエバについての内容が多いのです。雲の柱と火の柱もアダムとエバであり、生命の木と善悪を知る木もアダムとエバを意味します。アダムとエバの秘密の愛を暗示的に、すべてそのように記録しておいたのですが、それが分からずにいるのです。ですから、アダムとエバが堕落せずに成熟して夫婦になったならば、万事がすべて終わるのです。そこから天国が始まります。神様が愛した基盤の上で天国が広がるのです。しかし、堕落することによって、その愛した基盤がないというのです。

 

 

 

12なぜ男性が生まれたかということが問題なのですが、男性のためではなく、女性のために生まれたのです。男性にとって最も重要なのは女性です。女性も、自分のために生まれたのではありません。生存の起源が自分ではなく、男性なのです。女性が女性として生まれ、もっているその美貌は自分のものではありません。胸は女性のものですか。大きなお尻が女性のものですか。女性のためにそのように生まれたのでしょうか。男性のために生まれたのです。また、男性の肩が大きいのは、威張って力を振るい、暴力の魁首になれといってそのようになったのではなく、女性を保護するためなのです。それで女性はお尻が大きく、男性は肩が大きいのです。そのようになってこそバランスが取れるのです。

 

生まれたのは自分のためではありません。自分のために生まれたと主張するようになるとき、真の愛はすべて破錠してしまうのです。真の愛は神様から始まりました。人類のためにいらっしゃる神様です。神様の愛は、与えて、与えて、与えて忘れてしまうのです。それが真の愛です。

 

 

 

13生命の根源地、愛の根源地、血統の根源地が皆さんの生殖器です。それをひっくり返して打ち込んだので、一番下品な言葉になったのです。それを誤って使わなければ、下品な言葉ではなく、王の言葉です。神聖な言葉です。人間が堕落していなければ、男性と女性の生殖器が愛の王宮です。それをいい加減に使用することはできません。そして、生命の王宮です。そこから生命が生まれます。また血統の王宮です。そこから自分の生命が血統を受け継いで生まれるのです。「私」の生命の根源地であり、「私」の血統の根源地であり、「私」の愛の根源地です。

 

 

 

14私たちの器官のうち、最も貴いものとは何でしょうか。愛の根本もここから、生命の根本もここから、後代の人類のすべてのものも、ここから連結されます。構造的に見るとき最も貴く、すべての神経系と結びつけられているのが生殖器官です。ですから、真の愛を願う人は、生殖器官を守ることができなければなりません。生殖器官を犯せば、自分の先祖を侵犯し、神様を侵犯し、生命の根源を侵犯し、血統と愛、すべてのものを侵犯する罪になるのです。それは、人類を蹂躙することであり、歴史時代のすべての人間を蹂躙することであり、すべての理想的愛を破綻させることなのです。

 

 

 

15男性と女性の血と肉は、どこで和動するのでしょうか。これは夫婦関係において行われます。男性と女性が、このように目だけ見つめることによって血が交わるのではありません。夫婦生活、夫婦関係で交わるのです。夫婦関係をする所が生命の源泉地です。男性と女性の生命の血が他の所で交わるのではありません。ただ一ヵ所しかなく、夫婦が愛する関係において交わるというのです。次に、血統が連結されるのもその場です。生命の結合、生命の癒着もそこであり、血統の起源もそこであり、愛の結着もそこで行われます。愛が一つになる、その点しかありません。

 

 

責任分担と理想相対

 

16人が福を受ける道とは、どのような道でしょうか。正常な原理原則に従って、神様の最高傑作である人間を愛する道です。それでは、愛の順序があるのですが、どこからでしょうか。子女からではなく、父母から愛を受けるところから始まるのです。そして、一番麗しい時期、花がいっぱいに咲く青春時代がいつかというと、思春期からです。その時期が正に、十八歳から二十四歳までの七年間です。この七年間は一生に二度とない、愛の花が咲く時期です。一度しかない麗しいこの時期が、どれほど貴いかというのです。

 

芍薬の花は、そのつぼみが色の違う黄色の花房によって、簡単に散らされないようにしっかりと包まれています。男性も女性もこれと同じです。皆さんの赤い愛、責色い花のようなその愛のつぼみをいつ、いっぱいに咲かせるのでしょうか。天地の調和の中で美しさが最もよく現れる時が、その時期です。人間として見ても、最高に咲く時です。神様の傑作となり、最も中心の結晶として輝く期間です。成長しながら最も麗しい時期、最も美しい時期が青春時代です。

 

 

 

17愛は円形を描いていきます。だんだんと小さくなるのではなく、だんだんと大きくなっていかなければなりません。愛は、さらに大きくなっていかなければならないため、個人的愛よりも家庭的愛を追求します。そのためには、「私」の家庭だけではいけません。氏族が必要です。氏族が必要なので、螺旋形に拡大運動をしながら発展する作用をするのです。

 

統一教会では、「個人は家庭のために」と言いますが、国は世界のために、世界は天宙のために、天宙は神様のために、神様は愛のために生じました。ですから、この地のすべての存在は、愛に吸収されようとします。人も、夫と妻が二人で暮らすときは夫がよく愛したのですが、夫に夫婦の愛よりもっと強い愛があれば、夫はその愛に熱中するというのです。夫婦で暮らす人も、世界を中心としてすべてをかき抱ける愛の世界があることを知れば、家庭を捨てて旅立つのです。それは悪いことではありません。その大きな愛に従って歩んでいく人々が、さらに神側に近づくので、それを善と言うのです。

 

 

 

18神様は、アダムとエバが完全に成熟することを願いました。これはいが栗と同じです。六月や七月くらいになれば、いが栗の大きさは、収穫する時の大きさと同じになります。しかし、このときにそれをむいてみれば、中身がないのです。栗の実の形はすべてあるのですが、食べられる実がまだできていないのです。それと同じです。まだ実ができていません。成熟してこそ実ができるので、神様は実ができるまで待たれたのです。

 

アダムとエバが成熟すれば、宇宙の中心になります。存在するすべてのものが、宇宙の中心の位置に立つようになるというのです。ですから、十七、十八歳以上に育つまで、神様は待たれたのです。神様は、アダムとエバを成熟した人間として造ったのではなく、自然の法度に従い、幼子として造りました。アダムとエバがそのように成長し、神様と一つになって愛したならば、今日の人類は悲惨なことにはならなかったでしょう。

 

 

 

19神様の愛以上に貴いものがないので、神様の愛さえもてば宇宙は「私」のものです。神様のものであると同時に私のものです。女性がもっているその愛の器官は男性のものであり、男性がもっているその愛の器官は女性のものです。あなたの体が私の体であり、私の体があなたの体であるという言葉が、それで成立するのです。そのように入れ替わっているのです。

 

男性にあるからといって男性が主人ではなく、女性にあるからといって女性が主人ではありません。ですから、いい加減に使えば大変なことになるのです。それは絶対的です。そのため、統一教会では自己本位な恋愛をさせません。初めての情を夫にあげなければなりません。アダムとエバも同じです。それで初愛が貴いのです。初愛は神様が導きます。神様が初愛の橋に乗り、地獄と天国を連結するのです。このようになれば地獄はなくなります。

 

 

 

20責任分担が重要であることを知らなければなりません。責任分担について神様がアダムに、先生のように説明してあげていれば、アダムは堕落しなかったでしょう。「責任分担!取って食べるなと言った。責任分担、責任分担!」と言いながら、夜でも昼でもいつでも責任分担を叫んだならば、堕落しなかったでしょう。

 

女性たちは、体格の良い夫を得なければならないと考えます。男性は体格が良くて背も高くなければならない、気前がよくなかったり背が低かったりしてはいけない、と考えるのです。それで先生は、そのような女性には一番背が低い夫を与えなければ、と思うのです。それが蕩減復帰です。そして、背が低い人は、背の高い女性を一度もらってこそ恨が解けるのです。痩せた人は、太った男性をもらってこそ恨が解けるのです。

 

 

 

21春夏秋冬のように季節が異なるのと同じように、人間もみな異なります。生まれるとき夏の季節に生まれた人がいて、秋の季節に生まれた人がいて、冬の季節に生まれた人がいて、春の季節に生まれた人がいます。春の季節に生まれた人は夏を通らなければならず、冬の季節に生まれた人は春の季節についていかなければなりません。行く方向が違うのです。地球が回るので方向が変わるというのです。一つは上がっていく運勢で行かなければならず、一つは下りていく運勢で行かなければなりません。

 

ところが、下りていく運勢で行く人が下りていく人に会えば、二人とも粉々になるのです。事故が起きて二人とも死ぬなどということが起きます。ですから、下りていく運勢であれば、力を入れずに上がっていける運勢に乗ってこそ生き残るのです。それで、そのような男性は、できるだけ押し上げていける女性をもらわなければならないのです。

 

 

 

22皆さんがもって生まれた天性は、どんな季節に一致しているのでしょうか。下りていく季節か、上がっていく季節か、それとも横切る季節か、相対型か、反対型か、すべて違うというのです。それを、最初は合わせていくのです。合わせるのも、何カ月ではできません。三年間は合わせなければなりません。そのような運命の道を開拓すべき道が残っているというのです。

 

皆さんが結婚したからといって、すべて解決するのではありません。結婚が本当に問題です。結婚をうまくしなければなりません。道端で会って、良く見えるからといって結婚すれば、長く続きません。若い男性と女性の目には、すべて夏なので青く見えるのです。青々とした木に美しい実があり、からすとかささぎが飛び回っているので良く見えるのです。しかし、その実が何の実か分かりますか。松の木は、松の木同士で接ぎ木しなければなりません。それぞれ科が分かれていて、科の境界線があるのです。

 

 

 

23完全なプラスがあれば、完全なマイナスは現れるようになっています。完全なマイナスが現れなくても、完全なプラスがなくなるということはありません。そのようになれば、完全なプラスの立場にいる神様自体も、マイナスがなくなるときにはいなくならなければならないという結論が出ます。そのため完全なプラスは、完全なマイナスを創造するのです。

 

このような点から見るとき、神様がアダムのあばら骨を抜いてエバを造ったというのは、アダムを手本として造ったということです。完全なプラスがあれば完全なマイナスは自然に生じるので、アダムが完全なプラスであれば、完全なマイナスであるエバは、アダムを通して生まれたということになります。これが天地の道理です。このように分かってみれば、神様は真の科学者です。

 

 

 

24神様が完全な男性を造ったのは、その完全な男性のためではありません。完全なプラスは完全なプラスのためにつくったのではなく、完全なマイナスのためにつくったのです。完全なマイナスである女性のために造ったのです。

 

根源的な神様が絶対的な主体者であれば、神様は絶対的な対象をつくらなければなりません。言い換えれば、神様が完全なプラスである絶対的主体者であれば、完全なマイナスの対象を創造しなければならないのです。ですから、完全なプラスはなくなるのではなく、完全なマイナスをつくり出すのです。完全な人格者は、じっとしていても、その環境のすべての良心的な存在がその周辺に集まり、その人に似ようとするのです。それと同じことです。

 

その主体者の前に対象圏を確保するために、すべての存在物、すべての元素世界、すべての物質世界は動くのです。より価値があり、より次元の高い段階に上がるためです。すべての元素は、一段階上がって、高い段階の、より円満で、より理想的な自分を追求するのです。

 

 

 

25「私」が完全な主体になるか、完全な相対になるかということが決定されてこそ、完全な理想相対が出てくるのです。ですから、先決問題は、どのように自分自身が完成するかということです。皆さんが思春期になれば異性に対して愛そうとするのですが、それよりも父母様をもっと愛したという条件を立てなければなりません。「孝子だ、孝女だ」、このようになってこそ神様と愛の関係を結べるのです。これが天理原則であり、創造原則です。

 

理想相対を考える前に、まず自分自らが父母の前に孝子にならなければならず、父母が孝子として公認できる愛の関係をもたなければなりません。そのためには、父母と一つにならなければなりません。孝行しようとすれば、兄弟同士でも一つにならなければなりません。家庭において誰もが、真の模範であると言うことのできる話が出てこなければならないのです。それが終わったあとに理想相対が始まるのです。

 

 

 

26神様は、人を見るとき、心を見抜き、その次に過去を見て、現在を土台に未来を見ます。若者たち、年の幼い皆さんは、これからそのような面を重要視しなければなりません。顔を見て人を選ぶのではなく、その人の心がどうか、その人の過去と生活を中心にして未来はどうか、このような面を見て選ぶことができなければなりません。

 

顔は窓口と同じです。この顔を見れば、目、耳、鼻、口の四つしか見えません。顔は良くなくても、品行を端正にし、厚徳な心をもちなさいというのです。神様が世界をすべて回って人を探すとすれば、どのような人を探そうとするでしょうか。世界くらい大きな人です。しかし、仮にそのような人がいるとすれば、目も世界のように大きく、手も世界のように大きいので、どこに行っても歓迎する人は一人もいないでしょう。しかし、心が世界のように大きければ調和するのです。顔よりも、徳の高い心をもって生きなければなりません。そうだとすれば、皆さんは未来において顔の良い奥さんを迎えますか、心の良い奥さんを迎えますか。心の良い人を迎えなければなりません。

 

 

真の結婚は創造理想を完成すること

 

27結婚は、創造理想を完成するために、すなわち創造目的を完成するためにするのです。創造目的は、アダムの目的である前に神様の目的です。ですから、アダムが喜ぶ前に神様が喜ばなければなりません。このように見るとき、結婚は神様のためにするのです。言い換えれば、神様の創造目的というみ旨のためにするのです。み旨とは創造理想を完成することです。

 

創造理想は、自分を中心として完成されるのではありません。すべての心情が主体的な神様と一体になり、その方が動けば「私」も動き、その方が静まれば「私」も静まることによって心情的一致点を形成し、内外が一つにならなければなりません。このように、神様のみ前に和合できる基準を立てなければ、創造目的を完成することはできません。皆さんが創造目的を完成したアダムになり、エバになろうとすれば、結婚をしなければならないのですが、この結婚は、神様のためにするのであり、神様のみ旨のためにするのです。

 

 

 

28「私」が生まれたのは愛のためです。宇宙の根本は真の愛です。男性も女性も同じです。男性と女性がなぜ結婚するのですか。結婚するのは神様を占領するためです。先に横的に移動するのではありません。縦的な愛、垂直的な愛が先です。神様が直短距離で九〇度を立て、その垂直になった所に九〇度で合わされば、それで終わるのです。そのようになれば皆さんの体と心は、永遠に闘いません。常に和合するのです。

 

 

 

29男性と女性は、愛のために結婚します。なぜ愛のために結婚しなければならないのでしょうか。神様に会うためです。それでは、男性と女性はどこに行って会わなければならないのでしょうか。垂直的な宇宙の中心、父子関係を通して育ってきたその縦的基準に行って、額を合わせなければなりません。女性が一歩早く来てもいけません。男性が一歩早く来てもいけません。一緒に来て、互いにつかんで引っ張れば回るのです。愛する人に会って踊りを踊るとき、そのまま立っていますか、回りますか。引き寄せれば回っていくのです。回れば水平線から上がります。速く運動すれば上がるのです。

 

 

 

30堕落した世の中では、愛というものが危険なのです。エデンの園にはアダムとエバしかいませんでした。女性はエバだけでした。しかし、この堕落した世の中には女性がいくらでもいます。その女性たちが夜も昼もなく、男性を惑わして転ばせようと騒いでいるのです。ですから、男性は自分の立場を守っていくのがどれほど難しいでしょうか。女性も同じです。結婚したあとは、男性は他の女性と会ってはいけません。結婚したのちには、夫婦が必ずくっついて歩きなさいというのです。堕落したのは管理を誤ったからです。その妻が夫の管理を誤ったからであり、夫が妻の管理を誤ったからです。また自分だけの夫であり自分だけを絶対視するように教育できなかったからです。そのように懇切な愛で愛することができなかったというのです。

 

 

 

31家庭に息子、娘がいなければ、夫婦だけでいれば、横的基準は立ちますが、縦的基準を立てることができません。ですから、結婚したすべての夫婦は息子、娘を願うのです。天理運行の法度の力が作用して、そのように願うのです。

 

お嫁に行けば、大変なのになぜ赤ん坊を生むことを願うのでしょうか。なぜ、それほど苦労してまで赤ん坊を生まなければならないのかというのです。自分の生命を犠牲にしてでも夫を愛さなければならず、自分の生命を犠牲にしてでも息子、娘を愛さなければならない、その理由が分からなかったのです。それは宇宙の中心である神様の愛に接するためであり、神様の愛に接することによって万事にすべて勝利し、万事が思うとおりになるので、その愛のためにそのようにするのだという事実を知らなければなりません。それは皆さんによってつくられたのでもなく、皆さんが願ったことでもないのですが、本来、創造なさった神様の創造原則がそのようなプログラムになっているのです。

 

 

第四節 真の愛の人生の道(csg-4-4-4)

 

1人間は、神様の息子、娘になるのが最高の願いです。なぜなら、父母と一番近い立場は父子関係だからです。「私」という人間は、父母の愛と生命が集中した場、父母の理想を身代わりした場に生まれました。

 

愛や理想という言葉は、一人に対して語る言葉ではありません。生命も一人で独断的に出てくるのではなく、連結された立場から出てくるのです。そのため、神様が人をお造りになるとき、神様の真の愛と生命、そして理想の対象として造られたのです。これは驚くべき偉大なことです。自分がいなければ父母の愛は現れることができません。父母の愛と生命、そして理想は、自分と共に関係しているのです。「私」は父母の愛と生命、そして理想の結実体です。ですから、息子の位置は最高に価値のある立場です。神様と人類は父子の関係なのです。

 

 

真の父母と夫婦の道

 

2神様の息子の特権とは、その方が自分のものであり、その方がもっているすべてのものも自分のものだということです。神様の愛と生命と理想までも自分のものです。このように驚くべき偉大な本然の価値を、人間は再び回復しなければなりません。したがって、神様が主体的な真の愛で永生されるならば、その真の愛の相対も永生しなければなりません。

 

神様の真の愛と一つになれば、神様が自分になるのです。

 

堕落していないアダムとエバの体は、神様が住むことのできた家です。アダムとエバが神様を心の中心として、真の愛で永遠に統一された愛の体、生命体、そして血統体になっていたならば、今日私たちの心と体は闘っていないのです。

 

 

 

3なぜ神様が世界を創造したのかというとき、神様は「愛のために!」と言われます。愛のためです。その愛は、どのような類型の愛でしょうか。

 

ありったけの「私」の愛を願うのですが、皆さんも「愛」と言えば、「ありったけの私の愛」という言葉を聞いたことがあるでしょう。その歌は聞きましたが、愛のことは知りません。考えただけでも神秘で、丸ければ丸く、長ければ長いというのです。

 

それでは、女性が一人でその愛を探すことができるでしょうか。見るのも嫌で、意地の悪いぼさぼさ頭の独身男だとしても、そのお尻についていかなければならないのです。

 

 

 

4「ありったけの私の愛」と言いますが、「ありったけの私の愛」の中にはすべて入っています。そこには夫の愛も入っていて、母の愛も入っていて、息子の愛も入っていて、神様の愛も入っています。ですから、愛だけがこのすべてを入れても耐えることができるのであって、愛ではないふろしきでは、入れても耐えることができません。

 

父母が子女を愛する心をもっていれば、世の中のすべてのものを与えたいと思うのです。与えて、与えて、与えても、また与えたいのです。愛はそのように大きいのです。愛の心は無限です。無限に通じ、無限に大きく、無限の価値の内容をもっています。ですから、愛をもった人は宇宙をもったことになり、愛をもった人はすべての幸福がそこにあり、愛をもった人はすべての面において勝者になる、このような結論が出ます。人生をいくら素晴らしく生きても、この愛をもって愛に対する勝利者になれなければ、人生の敗者になるという結論が出るのです。

 

 

 

5女性として生まれ、人生の花が咲き、生命の種が連結される夫が訪ねてくるときに、「早く来てください。早く来てください。このすべての花は、あなたの花です。根こそぎあなたが消化してください。食べるなり、切るなり、たたくなり、何でもいいです」と言いながら、ほほえみの花が咲こうとする美女の姿で「千年、万年、幸福であれ!」と祈ることが、どれほどすてきでしょうか!

 

初愛を中心として固い絆は切れることなく、争っても、再び絆を結ぶことができるのです。このようにしながら暮らす夫婦が偉大だというのです。ですから、争わず互いに愛し合えば、どれほど偉大だろうかと思うとき、争う夫婦がいるがゆえに、それを教材として、争わない夫婦は幸福だということが分かるのです。不幸な人がいるのを見るとき、幸福であることを知るのです。平等です。

 

 

 

6愛は、すべてのものを満たします。傾いたものを満たすことができます。本当に愛する女性が病気になったからといって、「傷物だ」とは言えません。それを憎もうとしても憎むことができないのです。初愛は、誰にでもいい加減に与えることはできません。いい加減に関係を結ぶことはできません。天地が公認した中で、この宇宙が公認した中で関係を結ばなければならないのです。ですから、主人の承諾がなければ、女性が自分の思いどおりにできず、男性が自分の思いどおりにすることはできません。

 

なぜお嫁に行こうとするのでしょうか。主人を探して侍るためにお嫁に行くのです。天国は愛の中にあります。イエス様も「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・二一)と言ったのですが、それはあなたの深い心の中に愛があるということです。

 

ですから、夫が本当に妻を愛するように、その愛をもってすべての人を愛するようになれば、どこに行っても通過するのです。

 

 

 

7皆さんの家庭で、二人が行く道は明確です。誰がよくできたか、できなかったかという問題より、神様をもっと愛するために先頭に立つ所には異議がありません。ついていかなければならないのです。いくら夫でも、その夫が話を聞かなければ足で蹴飛ばしてしまい、ついてこなければそのまま行かなければなりません。そのようにしなければ二人とも滅び、ついてくる子女まで滅びるのです。

 

第一に、環境に主管されて習慣化された生活をしてはならず、第二に、愛を中心とした前進的発展をしていかなければなりません。

 

妻は夫のために生きなければならず、夫は妻のために生きなければなりません。そして、夫婦は神様のためのものなので、そのみ旨の中には神様が探し求めることのできる氏族が必要であり、民族が必要であり、国家が必要であり、世界が必要だというのです。天の国の霊界を解放できる解放圏、地獄を解放しなければならない解放圏が残っています。

 

 

 

8神様が人間を造るとき、男性をより愛したでしょうか、女性をより愛したでしょうか。女性をより愛しました。男性は神様の家です。ですから、男性は成熟して思春期になれば、天下に号令をかけたいと思い、宇宙を回りながら万事において一等になりたいと思うのです。男性はそのような欲望がより大きいのです。しかし、女性はそうではありません。

 

女性は「私が世界全体で一等になる」という考えをしません。一方向しかありません。どこかに行って安らかに眠りたいし、安らかに寄りかかりたいという性格をもっているのです。いつか一旗揚げたいというような激しい闘争の気質がありません。

 

ただ愛を受けながら生きたいと思い、寄りかかって生きたいと願うのです。ですから、家族と一緒に、天を頼りにして、支えて暮らしたいと思うのです。女性は、神様が最後に造った傑作です。そして、男性よりもっと愛を受けられる立場にあるのです。

 

 

 

9芸術をするのは、生活化するためだと考えればよいのです。子女教育において、芸術的な教育をしなければならないということです。夫に対して芸術的な感情をもち、厚くもてなすこともでき、包んであげることもできなければなりません。それがもっと素晴らしい芸術です。芸術をすることによって家庭で愛を美化させることができ、昇華させることができます。それが芸術の、さらにやりがいのある価値だと思います。家庭は悪いものではありません。女性はどうやったとしても、家庭に入らなければなりません。ですから、お嫁に行かなければならないのです。

 

 

 

10夫婦生活において、夫の真の愛の手でなでてくれる場合、夜でも昼でも、いつでも妻は一〇〇パーセント歓迎します。女性として一番恥ずかしいことは何でしょうか。胸を見せるのを恥ずかしく思うでしょう。男性も同じです。生殖器を隠すのです。夫婦だけでいる所で、それを互いに隠せばどうなりますか。秘密にして保管したいと思うでしょうか。そのときは一番露骨にさらけ出したいと思うのです。常に夫の手が触ってくれるのを願うのです。未婚のときは男性が触ったら大変ですが、結婚して夫が触ってくれるなら、そうではないのです。愛する前は隠しても、愛すればそのようにしません。一心同体になるのです。

 

 

 

 

真の愛を探し求めていく人生路程

 

11人間が生まれたのは愛の世界を旅行するためです。愛の宇宙を旅行するために生まれました。「私」が父母から血統を受け継ぐとき、父母の愛の中に同参したのです。それで、生まれたときから愛を受けるのです。母の腹中から父母が愛したのです。十ヵ月間ひたすら触り、生んで、愛し、学校に入るまで、大学までの期間、父母の愛の圏内で育つのです。

 

その父母は、自分の息子、娘を最高に愛するのですが、他の人と同じようにしてあげられなければ胸が痛むのです。息子、娘を生んでみてこそ、「私たちの父母がこうだったのだろうなあ」と理解するのです。そうだとすれば、私たちをこのように放っておいて歩き回るとき、父母はどうして安らかに眠り、安らかな時間をもつことができたでしょうか。いつも焦る思い、不安な思いをもったであろうことを皆さんは知り、私たちの父母は素晴らしいということを悟らなければなりません。

 

ですから、愛です。生まれて十六歳になれば物心がつきます。そして、十八歳、ないし二十歳になれば結婚します。それでまた愛です。結婚し、また何年かたつと息子、娘を生み、また愛です。結婚すれば、今度は孫を愛するようになるのです。

 

 

 

12祖父母は、年を取りながら、息子、娘よりも孫、孫娘をもっと愛します。皆さんも祖母がいる人は、父母の愛よりも祖母の愛をたくさん受けるでしょう。祖母の願いとは何かと言うと、孫、孫娘をかわいがることです。自分の家には何があるかというと、昔、自分が少年だったときから青少年のときを過ごした、そのような姿がすべてあるのです。その次には、結婚して息子、娘まですべているというのです。自分が一生を歩んできたものを、再び自分が実体として見ることのできる環境が広がるのです。

 

祖父になり、曽祖父になれば、東西南北をすべて備え、数多くの子孫を率いているというのです。その子孫がすべて愛でつながっているのです。それが多ければ多いほど福だというのです。愛から生まれ、愛によって流れていくようになっています。人生行路は、愛の道をつないでいくのです。ですから、愛のゆえに生まれた人生であることを否定できません。

 

 

 

13私たちは刺激的な映画を好みます。よりおもしろく、より刺激的なものには、行ってはいけないと言っても、しきりに心が惹かれます。おもしろくて刺激的なものには、すべてのものが集まります。宇宙の中心的な変化無双の刺激的な母体があれば、その母体の前には、すべての万物が集まるようになっています。人間は言うまでもありません。元素もすべて作用しています。作用をしながら、高いものと一つになろうとするのです。そのような力があるため、宇宙創造が可能だったのです。

 

その高い所における刺激的な道は、与え合うことによって調和を形成する道です。そこで刺激を感じることができるのです。元素であれば元素自体が、運動しているという刺激を感じることができます。こうして、さらに次元の高い所に行こうとするのです。その刺激には、すべてのものを完全に同化させることのできる力があります。真(らこと)の愛の力には、神様も我を忘れて酔いしれることができるのです。神様もふらふらになることを願います。私たちが神様に似たので、そのようになるのです。私たちも酔ってぼんやりとし、東西南北を見分けられないほど酔います。その酔った味は何かと比較することができません。ですから、真の愛に酔おうとするのです。

 

 

 

14アダムとエバが成熟すれば、見えはしませんが、愛の主管を受けます。そして、縦的な頂上にいる神様が降りてきて、横的な立場の両端にいるアダムとエバの中央に来て立つのです。そのように、縦的な主体である神様が横的な位置の核にいるようになれば、アダムとエバはマイナスなので、プラスである神様と完全に一つになるのです。

 

その次には、縦的な核である神様も、愛するようになれば、じつとしながら愛するのではありません。人間も愛する人同士、抱き締めてキスをするときは、目を閉じて静かに口だけを合わせるのではなく、こすり、ぐるぐる回りながら揺れるのです。縦的な愛は神様の愛です。私たちが神様と同じように火がつけば、その何千度となる核の場に、神様が降りてきてぶつかるのです。

 

 

 

15夫婦が愛するということは、神様を植えることです。本来、父母は本然の神様の立場を代表し、ここで夫と妻は、互いにもう一方の神様になります。そして、息子、娘は、また一つの小さな神様です。神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されれば皆が同じ体になります。

 

父母は、神様に代わる生きた神様であり、夫婦も神様の代わりであり、子女も神様の代わりです。このように、三代が真の愛を中心として神様の代わりの立場になるのです。それで父母、夫婦、そして子女も真の愛を必要とするのです。このように真の愛を中心に形成された家庭組織が、天国の基盤です。そのような基盤を形成しなければ、天国ができません。これが公式です。家庭とは、すべての現実世界の中心です。

 

 

 

16家庭完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。この場合、神様は全体宇宙の父母として愛の複合的な中心の位置にいらっしゃいます。真の愛を中心として男性と女性が一つになり、理想的な夫婦となって家庭を築けば、彼らは神様に代わる立場に立つようになり、宇宙のすべてのものに連結されます。そのようになるとき、神様のすべてのものが自分のものになるのです。それはどれほど幸福でしょうか。ですから、私たちの心は万物を征服したいと思うのです。

 

男性と女性が合わさって、家庭、社会、国家、そして世界になるので、その男性と女牲が中心になって築く家庭は、氏族のモデルにならなければならず、氏族は国家のモデルにならなければなりません。私たちの家庭が行くべき道とは、理想的な家庭、氏族、国を訪ねていくことです。ですから、理想的な国が出てくるためには、理想的な家庭がなくてはいけません。

 

 

 

17私たちは、愛によって生まれ、愛によって生きなければならず、愛の世界に向かって死ななければなりません。死は恐ろしいものではありません。死はお嫁に行くのと同じです。移動するのです。制限された人間の愛、抜け出ることのできない愛の限界圏から、時空を超越した無限の世界に移っていくのです。無限の世界に跳躍するというのです。

 

母親の腹中にいながら、母親の腹を蹴飛ばしながらも、もどかしいとは思いませんでした。そこにいながら、それが一番だと思ったのです。ところが、ふろしきが裂けて母親の腹の中から出てくるとき、安らかだったでしょうか。頭を見れば、頭が長いすいかのようになって出てきます。それはどれほど大変でしょうか。神様は本当に調和の王様です。頭が固い石のようであれば、最初の子女を生むとき、母親がどれほど死ぬような思いをするでしょうか。それがすいかのように伸びて度数を合わせられるようになっているので、出産が可能なのです。

 

 

 

18霊界と宇宙が合わさったものを天宙と言いますが、真の愛を中心として、この天宙が一つに統一されることを願うのです。天宙を統一することができるのも、全体の家庭を理想化させて一つにできるのも真の愛です。人間が地上に暮らしていても、永遠の生活をする霊界に入っても、絶対に必要なものは真の愛しかありません。

 

真の愛は人間や霊界だけでなく、すべてが好みます。ですから、真の愛をもった人は、動物も植物も好んで彼を主人として迎えようとし、いかなる存在でも真の愛を中心とした人と一つになろうとするのです。被造世界のあらゆる存在は、真の愛をもって生きる男性と女性に近づこうと努力し、彼らと共に生き、彼らにより主管されることを理想と思うのです。したがって、この世の中で最も貴いものは、真の愛をもった男性と女性、すなわち真の人間なのです。