第六篇 真の万物   

第一章 万物創造とその意味

第一節 万物から学ぶ

 

1 先生は、自然を見るたびに、神様がこのすべてのものをどのように造ったのだろうかと深く考えました。木や様々な草、葉を見ながら、これらがどのようにして造られたのかを考えれば、限りなく神秘的です。何であれ、それに対して多くの関心をもたなければなりません。それに対する内容を知ってこそ、それを主管できるのです。

 

私たちが自然のもつその本然の価値だけを知っても、言葉にできない福を受けます。そうすれば、自然が「私」を中心にして造られたという事実が分かるでしょう。しかし、人々は自然を見るすべを知りません。自然は本当に神秘的です。私たちが自然を知れば、風の音も素晴らしい音楽に聞こえます。そして、信仰生活にも非常に役立ちます。私たちの体と一番近いのが自然なのです。

 

 

自然は第一の経典

 

2 あらゆるものの中で、人間が主人になっているので、万物の前に手本とならなければなりません。神様を父母として侍り、子女の立場で、天が下さったすべての万物を自らの生涯の教訓とし、そこに和合して生きれば、天地の道理に合う生活をするようになるのです。

 

動物は、種を保護するために、互いに協力しながら生きていきます。アフリカのしまうまは、ライオンが来れば自分の子たちを真ん中に押しやり、後ろ脚でライオンを蹴飛ばしながら保護します。ライオンも、食べる物を手に入れれば、自分たち同士で争いながらも、すべて分けて食べるのです。そのように自然から学び、自然が和合しているのと同じように生きなければならないのが私たちの人生です。

 

 

 

3 先生には文学的な素質がたくさんあります。詩的な内容を詠めば、どれほど素晴らしいか分かりません。自然には、万民が共感し、詩にできる背景がたくさんあるのです。人は環境を先に誇ったのちにこそ、自分を誇れるのです。「山が良く、水が良く、野原が良いので、その中にある私たちの家が良く、私たちの家がそうなので、私は良い人だ」と言ってこそ、理屈に合うのです。

 

神様は、環境を創造したのちに、アダムを創造しました。その環境の中には、主体と対象があります。自然の中には、ペアになっていない存在がありません。人間が宇宙の表象モデルになり、主人の位置に立ったということを、自然の中で感じられる人が幸福なのです。先生は原理を自然の中で見つけたのです。

 

 

 

4 先生が朝、ふと外に出れば、鳥がさえずる鳴き声が聞こえます。鳥の鳴き声は同じように聞こえますが、「なぜこのように鳴くのか」と考えるのです。一羽で寂しくさえずれば、それは必ず自分の相対を呼ぶ歌なのです。ここで鳴き声をあげれば、向こうで相手となる鳥が鳴きながら応答します。このように授け受けして、互いに会うのです。間違いなくもう一羽いるのだから出会うだろうと思えば、そのようなことが起こるのです。ですから、先生は自然を本当に愛しています。

 

自然に対して関心をもちなさいというのです。先生が原理を探す道において、どれほど関心をもって探し出したでしょうか。一つの問題があって、千種類、万種類、すべて比べてみれば、その中から合うものが出てくるのです。これが東でも合い、西でも合い、南でも合い、北でも合えば間違いないのです。それが原理です。

 

 

 

5 先生は名勝地に行くと、それが天の運勢を中心として、どのくらいの価値があるのかという立場で見つめます。そして、それを天の運勢と連結させるのです。ですから統一教会の草創期には、数多く山に登りました。ある国の山と地と水を見れば、その国の民族性を知ることができます。

 

私たちの国の水は、どこの水を飲んでも玉水です。私たちは、自然に対する復帰を先にしておかなければなりません。外国に出ていく前に、私たちの国の自然を深く愛してあげなければなりません。自分が生まれた地を愛する人が、自分の体も愛せるのです。また自分の体を愛する人が、自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人が、神様を愛する人です。

 

 

 

6 皆さんは修道を通して、深く奥妙な神様の心情世界に入り、涙を流しながら被造物に向かって叫べるようにならなければなりません。彼らに向かって、「私の事情がある前に、お前の事情があり、お前は私ゆえにこのようにかわいそうな立場にあるのだが、少しだけ我慢してほしい」と言える、心の姿勢をもった人にならなければなりません。これをもつためのものが修道です。

 

昔、祈りを捧げる人々は、自然が第一の聖書だと言いました。聖書よりは、神様が造られた自然世界を見なさいというのです。

 

 

自然は人間のための教材

 

7 自然はすべて、アダムとエバが理想的な愛を実現するための愛の標本であり、愛を教示する教材、すなわち自然博物館です。愛を教えてあげるための博物館です。それで人を完成させるのです。愛を完成させるためのものです。鉱物界も「早く愛を完成しなさい」と言い、植物界も「愛を完成しなさい」と言い、動物界もそのように言います。人間が愛を完成し、神様の愛が完成することを願うのです。

 

その時になれば、すべてのものが満たされた中で、愛をもって生き、一つとなれる世界になるので、それを願うのです。神様の愛の完成と同時に、人間の愛の完成、宇宙の愛の完成ができてこそ、すべてが「ああ、幸せだ!」と言えるのです。

 

 

 

8 人間が手本にする教材として展開したのが万物世界です。人間が万有の主人にならなければならなかったのですが、なれなかったという事実は、どれほど恥ずかしいことでしょうか。雄と雌の鳥が子を探し求めて鳴くのですが、そのような万物に対しても、恥ずかしい人生行路を歩む自らの生活が、どれほど矛盾した生活であるかを感じなければなりません。朝、外に出て、鳥がどこに飛んでいくのかを見てみなさいというのです。雄は雌のいる所、雌は雄のいる所、雌と雄は子たちのいる所に飛んでいきます。南米に行けば、数千羽のおうむが集まって歌を歌っているのです。そして、がちょうのようなものもそうです。からすやかささぎのような鳥も、朝に集まって宴をするのです。

 

 

 

9 最初に神様の子女として生まれたアダムとエバも、神様の保護圏内で次第に成長していくことによって知能が発達するので、神様がなぜ被造世界を造ったのかが分かるようになり、その被造世界を通して教育を受けるのです。被造世界が動かすすべてのものは、人間始祖、本来の先祖となるべきアダムとエバが、生活するのに必要なあらゆることを教えてくれる教材でした。一人の完成したアダムとエバが、理想生活を経ていく際の標本であり、一つの博物館でした。

 

ただそのまま成長すれば自然に愛の関係を結べるように、あらかじめ万物を通して学んでいくのです。昆虫世界を見ても、動物世界を見ても、すべてペアです。彼らが互いに与え合い、相対のために生き、相対を呼び求めながら、相対を愛しながら生きる環境を目にするので、物心のついていないアダムとエバであっても、知能が発達するに従って、世の中の道理を次第に悟っていくというのです。それによって、成熟すれば成熟するほど、知覚が愛に接近していくのです。そうして愛を知るときには、すべてのことに通じます。

 

 

 

10 幼い子女たちが好むおもちゃは、主に動くものです。動くものの中から直感的に感じ取れるのが、子犬や昆虫のような動物からです。子女たちは大概、鳥や動物のような動くものを好みます。人はもともと、そのようになっているのです。

 

自然の世界やこの地球の動きを見て、興味をもつようになるのです。もちろん対象は異なりますが、それを鑑賞することに人は喜びを感じ、興味を感じるのです。そのようにして、自分自体の愛の属性をすべて学ぶのです。

 

昆虫が暮らし、動物が暮らすのを見れば、すべてペアであることが分かります。このように見るとき、自然は正に、人間を愛の対象として相対理想を教育するために展開しておいた教材であり、博物館だというのです。

 

 

 

11 人間は、主体と対象、すなわち相対的な関係で造られました。また人間のために存在するすべての万物世界も、愛の原理のもとで調和を形成し、人間の愛によって生命と理想を実現するようになっています。万物世界は、人間、特に成長するアダムとエバにとって愛の教科書であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。神様の一性をそれぞれ代表したアダムとエバが、愛の教科書である自然の中で、愛を体得しながら完全に成長し、横的に一体となる相対理想を成し遂げることが、宇宙史的な神様の創造の願いでした。

 

 

 

12 真の愛の基準を中心として見てみれば、アダムとエバは、ペア・システムによって造られた愛の自然の園を見ながら、学び、成長するようになっていました。アダムとエバは、成長しながら、どのようにしなければならないかということを、万物を通して知るのです。万物が正に、アダムとエバを教育する愛の博物館なのです。

 

鳥も雄と雌、蝶も雄と雌、すべてがペアとして産まれ、互いに喜びながら子を産み、生きていくのを見て、成長するのです。このように成熟し、神様の愛を代表したプラス的王子が男性であり、マイナス的王女が女性だということを悟るようになります。女性は、「あの男性こそ、まさしく私に必要な男性なのだなあ!」と信じるようになり、男性もやはり、「あの女性が、本当に私に必要な女性なのだなあ!」と思うのです。

 

 

 

13 春の季節に木を見ると、花が咲き、蝶と蜂が飛んできます。すべてが愛を中心にして、そのようにするのです。木を見れば、葉が出て枝が伸びるのですが、それは愛をささやくためなのです。木が大きくなって時が来れば、実を結びます。植物世界にも愛の関係が作用します。そのようなことが、私たち人間にとって教材なのです。ですから、自然を見れば、この言葉が理論的だというのです。

 

神様も、愛の主体と対象の関係を中心として動く、連結された関係をもっています。したがって、どんな植物でも、そのような作用をしています。鉱物世界も同じです。ですから、金脈のようなものが生じ、銀脈のようなものが生じ、銅の鉱脈のようなものが生じるのです。そのような作用をするからです。自らの作用よりもっと大きな作用を訪ねていくので、鉱物世界も、そのような作用をするのです。

 

 

 

14 すべての万物世界は、互いに愛を交わします。動物を見ても、昆虫を見ても、植物を見ても、鉱物世界を見ても、すべて同様です。互いに相対を中心として歌も歌い、踊りも踊り、飛んだり、這ったりします。このようなすべてのことを見つめながら、「彼らは何をしているのだろうか」と、すべて見て学ぶのです。

 

自然とは何かというと、アダムを教育できる博物館です。アダムを教育する生きた教科書です。アダムが行くところにはエバがついていき、エバが行くところにはアダムがついて回ったでしょう。アダムは活動範囲が広いのです。男性なので外的に活動します。自然を見ながら、「あれを見なよ。あれは何をしているのだろう」と言ってじっと見ていると、互いに一つになり、あとからおなかが膨らんで子を産むというのです。そのようなことを見て学ぶのです。

 

 

 

15 エバは、十歳を超えれば、胸が大きくなり始めます。そして、動物がお乳をあげるのを見るのです。男性と女性は次第に成長しながら、互いに引力が強くなります。何か分からず、しきりに接触するようになり、不思議な気持ちになるというのです。アダムとエバは、強い引力を感じたでしょう。動物も、雄と雌が会い、二匹がキスするのを見たのです。すべて見て学ぶのです。自然が教育するようになっています。被造世界は、アダムとエバが理想的な刺激を感じられるようにしてくれる教材なのです。

 

 

 

16 神様は、愛ゆえに創造をしました。始めから終わりまで、御自分のすべてを注ぎ込んだのです。ですから神様は、「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである」(黙示録二一・六)と言ったのです。それは、愛を中心とした所でのみ可能です。愛の中、そこではすべてを包括できます。神様も、愛のゆえに宇宙を造り、愛のゆえに生きるというのです。愛の対象が必要だったので創造したのです。そして、人間をモデルとし、東西南北、四方に広げたのです。ですから、すべての万物、すなわち鉱物、植物、動物界、そのすべてがペアでできています。ペア・システムを中心とした万物は、理想的な愛を探し求めていく人間にとって教材です。虫を見ても、雄と雌が愛を交わすのです。すべて教材です。

 

 

 

17 自然はすべて科学的です。この宇宙は科学博物館です。机の脚のようなものも、自然から学んで作ったのであって、人間が自ら創造したものはありません。宇宙はすべての知識の宝庫です。自然大学です。魚や動物が棲む生態は、人間と違うものがありません。息をするのも同じであり、見るのも同じです。小さな虫、菌にも目のような機能があるのです。菌にも雄と雌がいます。目がなければ、どうやって相対を探しますか。五官がすべてあるので、ペアをつくって繁殖するのです。

 

 

第二節 万物創造の意味

 

 

天聖経   第六篇 真の万物   第一章 万物創造とその意味

第二節 万物創造の意味

 

 

 

1 神様は、天地万物を何かの趣味で造られたのではありません。目的も方向もなく、何の理念的な内容もなく、ただ造られたわけではありません。

 

非常に大きな目的と、大宇宙の理念をもって造られたのです。極めて微小なものから、果てしなく大きな宇宙に至るまで、すべての存在物には神様の心情に通じる理念が宿っています。

 

このような理念をもって造られた目的とは何でしょうか。神様の愛を中心とした理念の世界、すなわち愛に通じ、愛とともに楽しみ、愛とともに生き、愛とともに死ぬという世界を目的とされたのは問違いないのです。

 

 

 

2 なぜ神様は、天地を創造されたのでしょうか。神様は絶対的な主体ですが、主体だけでは喜びがないからです。喜びというものは、一人でいるときに生じるのではなく、相対的関係において生じるのです。平和も幸福も、相対的関係においてのみ成し遂げられます。ですから、神様も、独自的な立場では神様の本分を果たせないというのです。

 

 

被造世界創造の目的

 

3 神様は二性性相の主体としていらっしゃると言いましたが、その二性性相の神様としても、必ず愛の対象が必要なので、天地万物を創造したのです。ですから、原子世界を見れば陽子の周囲を電子が取り囲み、分子世界を見れば陽イオンと陰イオンになっており、植物世界を見れば雌しべと雄しべになっており、動物世界も雄と雌になっています。このように、すべてが相対的になっています。ペアで造ったのは、愛のためです。すべてのものが愛のために生まれ、愛のために生き、愛の目的を成し遂げてから逝かなければなりません。

 

 

 

4 神様は、六日間で造った被造物を御覧になり、無限に喜ばれました。その喜びの心をもって「良し、良し」と重ねて言われたみ言は、誰に言われたみ言だったのでしょうか。万物に向かって言われたみ言でした。万物に対して、それほど懇切な思いを抱き、語られたというのです。ところが、造られたすべての被造物が、エデンの園で「良し」と称賛されたその被造物が、善の価値を失ってしまいました。神様が誇ろうとされたそのみ旨が、万物の中において実体的に現れることができずにいるというのです。このような悲痛な事実を考えれば、神様が「良し」と言われたそのみ言が、悲しみのみ言になったというのです。

 

 

 

5 神様は、なぜ天地を創造されたのでしょうか。いくら絶対者だとしても、一人では喜びを感じることができず、たとえうれしいと思っても、喜びの刺激を感じることができないからです。絶対者がいくら「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったとしても、絶対者一人では愛の刺激を感じることができず、天地が自分の体の中にあるという生命の刺激を感じられないのです。

 

 

 

6 神様は、どうして宇宙と人間を創造されたのでしょうか。それは、神様が心情をもっているからです。心情があるところにおいてのみ生命が現れることができ、生命があるところから発展運動が起きるからです。その創造には必ず目的があるのですが、その理由は、本来、心情というものが目的を指向するものだからです。ですから、創造目的は、心情を充足させる喜びにあるに違いありません。そして、この喜びは被造物、特に人間が神様に似たときに訪れるのです。

 

 

 

7 神様が被造世界をお造りになるとき、そこには喜びがありました。造ってから、見て「良し」と言われました。喜びがあったというのです。喜びとは何でしょうか。ある目的を成し遂げたときに感じるものです。造られた万物に神様の目的意識が内在していたので、創造された万物を前にして神様は喜びを感じられたのです。それでは、復帰された世界とは、どのような世界でしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体を見て、神様を賛美する心情的な関係を立体的に備えた人々が暮らす世界です。

 

 

 

8 堕落前の人類の先祖は、神様が造ったすべての万物を収拾し、天のみ前に栄光の条件として、喜びの象徴的対象として、美の対象として、刺激を起こせる一つの外的な対象として立て、その万物から来る刺激を通して内的な刺激を起こし、天性の心情に対して栄光の実体であることを誇らなければなりませんでした。しかし、そのようになれなかったことが、何よりも悲しみになったのです。

 

それでは、天の心情に動じて生きていけるエデン、善と和合できるそのエデン、天のその理念によって生活できるそのエデン、見て、聞いて、感じるすべてのものが善の象徴であり、善を刺激しないものがないそのエデンにおいて、皆さん自身が天の心情に和合し、善の立場で神様を「父」と呼べる栄光のひと時をもてるとするならば、それは皆さんにとって最大の幸福となるでしょう。

 

 

 

9 被造世界は、誰のために生じたのでしょうか。それは、「私」のためにあるのです。私たちに喜びを与えるためにあるのです。ですから、人間は、自らが動機となって得た結果に対して、幸福を感じる環境を造らなければなりません。ここに、高次的な愛の理念へと発展させるためのみ旨があります。

 

人間は、万物を愛し、万物は人間に美を返す境地に入るとき、人間は和動の中心体になります。皆さんが目指す生活、願う生活、それ自体が重要なのではありません。皆さんの現在の生活で、その中心を探さなければなりません。どんな方法を通して、その中心を探せるでしょうか。和動の中心体の位置を失ってしまい、堕落した「私」自身が、その位置を探そうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。

 

すべての存在物と比較して、それよりも大きければ主体になる、というのではありません。「私」は主体になるべきだという自信、言い換えれば、「あなたよりも優れていなければならない」という自信がなければならないのです。主体は絶対的でなければなりません。全宇宙が絶対的な主体と一つとなり、和動しなければなりません。皆さんは、そのような位置、すなわち万物を統合できる位置に、入っていかなければならないのです。

 

 

 

10 神様が万物を造るときに喜んだその心情を、どのようにして感じることができるのでしょうか。皆さんは、そのような神様の心情を体得しなければなりません。嫌いなものでも好きなものでも、それが問題ではありません。皆さんがこのようなことを体恤しようと思えば、丘に座って、朝から夕方まで、日が沈むまで、思索にふけるのです。時間がたつのも分からない圏内に入らなければなりません。そこで息を深く吸い込めば、この宇宙の空気が生命力をもって押し寄せてくるでしょう。

 

このように、宇宙の生命力と生きなければならないのです。そのように生きる「私」自身が息を吐き出せば、すべての存在が新しく覚醒し、深く眠りにつけば、万物が相対的に和動するのです。このような場が、万有を統治できる絶対者の位置です。その場に立てば、万物と相対的関係を備えて、皆さんが息を吐けば万物が受け入れ、吸い込めば出してくれるのです。このように愛を中心として万物と授け受けする関係を結べば、この宇宙が互いに授け受けするようになります。皆さんは、そのような関係において、絶えず和動の中心体にならなければなりません。

 

 

 

11 宇宙は神秘的な世界です。神様がいたずらや遊び道具として造ったのではなく、愛する人のために精誠を込めて造ったとすれば、この世界がどれほど美しいでしょうか。この宇宙は父が「私」のために造ったのだという、この上ない感謝の気持ちをもたなければなりません。そのような思いをもって丘を散策し、草木と花を見つめ、鳥の鳴き声を聞いて鑑賞し、水が流れ、風の吹くすべてのものを見るとき、それがどれほど立派で素晴らしいかというのです。

 

 

絶対信仰と絶対愛で創造された被造世界

 

12 絶対信仰、絶対愛、絶対服従です!これが、神様が創造する前にもった姿勢です。神様が万物を造るとき、「私の言ったとおりになる」という絶対信仰をもって造りました。その造ったものは、神様の愛の対象です。すべての微小な昆虫、植物世界、動物世界が、絶対なる神様の愛の対象として造られたのですが、その絶対なる神様の愛の対象物を、神様の息子、娘が摂取して育つようになっています。

 

私たちは、地の恵みと、万物の恵みと、空気の恵みと、太陽の恵みを受けて生きるのです。自分のものは一つもありません。誇るものがありません。絶対信仰の中で、絶対愛の対象として造られたそのものを摂取して生きようとするなら、絶対なる神様が創造されたのと同じように、自分のために生じたすべての万物に絶対信仰で対さなければならず、絶対愛で対さなければならず、絶対愛だけではなく、自分が主人となった立場で、生命までも投入して消化すべき責任があるのです。

 

 

 

13 神様がこの世界を創造するとき、神様は、一輪の花を造るにも将来の美しい愛の相対を想像し、絶対信仰、絶対愛、絶対投入しながらも、それを忘れてしまわれたのです。未練がなかったということです。極めて小さな万物も、愛する息子、娘の血と肉になり、自らの体の血と肉になるからです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従は、漠然とした言葉ではありません。宇宙創造の前から、砂一粒のようなものさえも、人間にとって将来、愛の実体になれる栄養素として、血と肉になり、骨になり、骨髄になることが分かっていたので、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に作ったというのです。

 

 

 

14 万物を創造するとき、主人が相対的な世界を造るために投入し、投入して忘れ、また永遠に投入して忘れることによって大宇宙が誕生したのです。そのようなすべてを包容して余りある、天的な愛の権限をもって神様が無限に投入したときは、創造された本体が無限の力をもつのです。絶対無限のマイナスになったときは、絶対無限の力が現れるのです。運動が始まるというのです。真空圏になれば風が吹きます。完全真空になれば垂直に落ちるのです。落ちたときは天地がひっくり返ります。上のものが下になり、下のものが上になり、完全に混ざってしまうのです。永遠で無限大の運動が無限に広がるため、宇宙は永遠に存在するのです。

 

 

 

16 万物が神様に、ぷつぷつと不平を言いますか。絶対信仰、絶対服従です。全体を犠牲にしても不平を言わないのです。鉱物は、植物の前に全体がのみ込まれても不平を言わないというのです。植物は動物に、動物は人間に、人間は神様に、そうだというのです。同じです。神様のためには生命を捧げなければなりません。万物全体を神様が絶対信仰、絶対愛、絶対服従の伝統で造ったため、自分自身が残っていれば神様に帰ることができないのです。

 

 

 

15 神様は、絶対信仰の上で万物を造りました。宇宙の存在物をそのように貴く造ったのに、それを信じられず互いに争う人々は、万物を見るのが恥ずかしいことを知らなければなりません。流れる川の水を見ても恥ずかしく、飛ぶ鳥を見ても恥ずかしいのです。きりぎりすや昆虫も、万物の本然の信義をもって、人間よりも立派な生活をしています。

 

絶対信仰の中で造った被造物が、そのような価値をもっていることを考えるとき、私たち人間が堕落して、絶対信義を見つけることができないというのは、天を見るのも恥ずかしく、あの山と川のすべての草木と昆虫、ひいては病原菌を見るのも恥ずかしいというのです。病原菌までもが信義をもって生きているというのです。神様が神様となったのは、絶対信仰を立てて絶対愛を実行したからです。

 

 

 

17 独りで存在する万物はありません。万物は必ず主体と対象になっています。すべてペア・システムになっているのです。ペアで宇宙を創造したところから絶対信仰観が出てきます。ペア・システムが生じたのは愛のためです。ですから、絶対信仰の上に愛の道が関わるようになります。絶対信仰の上には真の愛が植えられます。鉱物世界、植物世界、人間世界もやはり同じです。真の愛が植えられる、万物のすべての価値を身代わりした立場でアダムとエバが完成しなければなりません。神様のように絶対信仰をした、その愛の実体にならなければなりません。神様に対して絶対信仰し、絶対愛で愛さなければなりません。

 

 

 

18 神様は、エデンにおいて、絶対信仰で万物を創造しました。農作業をするのと同じです。それは、愛する息子、娘が摂取して生きていける元素だからです。そして、神様御自身が絶対投入しました。神様が威信を忘れ、息子、娘のためにゼロの位置に上がるのです。宇宙は円形運動で動くので、ひたすら押せばぐるぐる回ります。宇宙が愛の理想を完成した一つの存在にならなければなりません。

 

ですから、それが連結されさえすれば、その中に神様が来て合体し、地上世界と天上世界、心の世界と実体世界が一つになって動きます。そうすることによって、真の愛を中心とした家庭、氏族、民族、国家、世界と天地が一つになり、霊界と肉界が一つの目的のために循環し、永遠に回る世界が地上・天上天国です。

 

 

 

19 人間と万物、人間と人間、人間と天の間にも、厳然とした創造原理的関係が予定されています。森羅万象の個性真理体が調和と統一の中で成し遂げた総合体である大自然は、人間に対して絶対対象の位置に立ち、主体である人間の絶対価値を実体化させる絶対的役割を果たすようになるのです。

 

それと同じように、人間においても、家庭という基本枠の中で三代圏を形成して暮らしながら、上下、左右、前後の縦的、横的関係を学び、身につけるようになります。個々人が、個性真理体としての絶対価値を実体化する主体と対象の関係による授受作用を通し、和合と愛の人生を追求するようになるのです。

 

人間と神様はどうでしょうか。創造主として絶対、唯一、不変、永遠の立場にいらっしゃる神様も、知ってみれば、御自身が立てた創造原理圏内で被造万物と授受作用を継続しながら、主体的立場に立っていらっしゃるのです。いくら絶対者であっても、対象との授受の関係を離れては喜びを感じることができないからです。

 

 

人間のための環境創造

 

20 天地を創造なさった創造主が天地を創造するとき、まず考える期間があったはずであり、準備する期間もあったでしょう。神様が、「このように天地万物を創造しよう」という決定的な計画を立てる前には、まず考える期間があったというのです。その後、立てられたその計画を中心として準備する過程を経て、実践段階に越えていきました。このように天地を創造したというのです。天地創造がそうだったということは、神様がそのような方だということを意味します。神様も、考える期間から準備する期間、実践する期間がありました。そのような過程を経て天地万物を造られたのです。

 

 

 

21 万物を中心として見てみるとき、実体というのは、より発展的な蘇生の形態に違いありません。このような実体が現れたところに、初めて喜びが生じます。また喜びが生じれば、そこから和動の役事(働き)が起こります。そうして現れた実体が、ある段階まで発展過程を経れば、そこに初めて愛というものが加わります。これが、神様が被造万物を創造された過程の形態です。

 

先に考えがあり、そこにみ言がプラスされて実体を形成し、その実体の上に愛が加わるというのです。このような創造過程を通して万物が生成されたのです。考える段階から体系的なみ言の段階に進んだとき、すなわち、漠然と「こうこうこのように創造しなければ」と考えている段階から、具体的な内容を添付し、一つの理論的体系を備えたみ言の形態を完成したとき、そこには言葉にできない喜びが生じるのです。

 

 

 

22 ある作家が自分の構想したものを作品に表現したとき、完成した作品を見れば、喜びが生じます。さらに、その作品が映画化されたり劇になったとき、それを自分が見れば、そこにはより大きな歓喜が生じるのです。心で思ったことが理論的に体系化され、体系化されたその理論を基盤として実体が備えられ、その実体が全体と関係を結べるようになり、全体が願う喜びの内容になれば、その実体は最も貴い存在になります。人間を見るとき、神様が天地創造の理念を中心として人間一人を創造するために、無限に苦労されたと考えることができます。どのような過程を通じ、どのような形で造るかを考えたのです。

 

 

 

23 人間も、み言によって創造されました。人を造る前に、人の形はこうだと説明できる体系を模索したあと、その基盤の上に、実体的な万物と連結させて人間を創造されたのです。このように、一つの実体として創造された人間が全体万物の前に中心存在として立つようになるとき、神様はより大きく喜ばれるのではないですか。

 

そこにおいて、神様が喜ばれる価値の内容が決定されるのです。アダムが正にそのような立場に立つことによって、その基盤の上にエバを造りました。ここで初めて愛が生じるのです。愛は必ず横的な基盤を通して、相対的な価値の内容が決定したところで成立します。

 

 

 

24 神様が創造されるとき、まず何を造られたのでしょうか。霊界を造り、その次に万物を造り、人間を造られたというのです。そして、人間を造り、愛によって神様と一つになるのです。まず霊界、二番目に万物、三番目に人間、その次に愛です。愛によって神様と人間が一つになるのです。再創造過程においては、これを引き返しながら蕩減したという条件を立てなければ、帰る道がありません。

 

 

 

25 神様は、何を必要とされるのでしょうか。神様も真の愛が必要なので、神様がすべての宇宙を造るとき、最も喜ぶ環境を造らざるを得ませんでした。このように、神様が最も喜び得る環境を先に造られ、ここに最も喜び得る主体と対象として男性と女性を造られたというのです。その男性と女性が一つになる真の愛を中心として、神様と縦的な愛の軸を立てるという創造理想がありました。ここに万民が和合しなければなりません。すべての個人は、この同伴者となり、相対圏や対象圏という環境的に与えられた条件に拍子を合わせなければなりません。それができないのは、踊りを踊る手が右だけあって左がないのと同じであり、右足だけあって左足がないのと同じです。「愛の障害者」になるのです。神様はそれを願われません。

 

 

 

26 神様が創造をなさるとき、最初に人から造ることはしませんでした。先に環境を造っておき、その環境の中に入れたのが主体と対象の概念です。ですから、この創造の環境の中にある鉱物世界、植物世界、動物世界のすべての物は、どんなものであっても、レベルの高低を問わず、主体と対象の関係、すなわちプラスとマイナス、雄と雌、男性と女性のように相対的関係の存在として配置されているのです。ですから、鉱物世界もプラスとマイナスが一つになるのです。植物世界、動物世界、このすべての世界が同じようになっています。

 

 

 

27 天地創造の道理を見れば、核心を先につくってから相対をつくったのではありません。核心をつくる前に、相対的な条件をつくっておいたのです。人を造るために土を先に造っておきました。外的なものを基盤として内的なものを立ててきたのです。それが天地創造の道理です。現在のものよりもさらに大きなもの、価値の小さな所からより価値のあるものを求めていくのです。天地創造の道理がそのようになっているのです。人間の創造を見ても、体を先に造っておいてから霊を吹き入れたのです。

 

 

二性性相に似た宇宙万物

 

 

 

28 宇宙を観察してみれば、すべてが陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって存在していることが分かります。これは鉱物という次元から始まり、すべての場合に適用されます。分子は陽イオンと陰イオンの結合を通して形成され、植物の場合、生存と繁殖は雌雄を代表する雌しべと雄しべの結合を通して形成されます。このような二性性相は、動物の場合によりはっきりとします。魚類、鳥類、哺乳類等、すべての動物は雄と雌で存在します。最後に、神様の最高の創造物である人間も、男性と女性に区分されているのです。

 

 

 

29 神様は、二性性相の中和的主体です。主体は何を中心として成立するのでしょうか。愛を中心として成立します。ですから、横的な基盤が必要です。刺激的な基盤を多方面にもちたいと考えて拡大、展開したのが被造世界です。神様は、いつも喜びの立場に立つために万物を創造されました。神様は、縦的な基盤を中心として役事しますが、横的な基盤がなくなるときは連結できません。したがって、どんな人でも、絶対相対基盤をもたなければ、神様の主管を受けることができません。

 

 

 

30 被造世界は、神様の性相に似ています。すべての被造物は二性性相の分立体として展開されています。主体と対象の関係、それから上下関係、前後関係、左右関係の相対的関係によって連結されているのです。そのような環境的制度の条件をもった目的とは何でしょうか。愛を目的として動くことです。

 

 

 

31 被造世界は、すべてペアの相対圏になっています。一双、二双、このようにすべて、ペアの主体と対象の相対圏になっているのです。ですから、最も小さいものから造ったのです。

 

神様も無形の主体なので、実体相対圏、絶対的な有形の実体を必要とせざるを得ないのです。したがって、神様も二性性相をもっています。それは、無形の性相を有形の実体として展開する創造のためのものです。

 

それを中心として宇宙の被造世界を考えてみれば、鉱物世界も主体と対象の関係をもって運動しています。分子を見ればプラスイオンとマイナスイオンが主体と対象の関係であり、原子を見れば陽子と電子が主体と対象の関係です。

 

 

 

32 宇宙を見れば、鉱物世界や植物世界、動物世界がペアで造られています。ペアでないものがありません。なぜ天地がペアで造られたのかというのです。子を産むためではありません。愛を完成するためです。そのため雄と雌、電気で言えばプラスとマイナス、その次に陽イオンと陰イ才ンがすべて相対と互いに一つになろうとするのです。次元は違いますが、愛を中心として一つになるのです。愛を好まないものはありません。

 

 

 

33 自然界を見つめれば、独自的な立場で存続する物はありません。必ず相対性をもって相対のために存在し、存続します。微生物も、もしくは鉱物世界の元素までも、必ず相対的な関係を迫求してこそ力が生じ、作用が起こります。存在しようとすれば力がなければならないというのは、誰もが公認しています。この宇宙は力によって構成されています。

 

それでは、力自体はどのように形成されるのでしょうか。力は作用を通じなければ発生できません。作用しようとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。独自的に作用するものはありません。これは科学世界において、特に化学実験室においてはっきりと感じられます。実験する当事者が、ある元素と元素を通して何かの作用を起こそうといくら力を加え、努力してみても、人間の力では作用させることができないのです。そのようにできない元素があるのです。

 

 

 

34 地球は人に似ています。神様も息をすると考えることができます。見えない呼吸をするのです。地面も、神様に似たので息をします。それでは、気道は何でしょうか。地球には磁力線があります。磁石に磁力をもった物を近づけると、その磁力線に沿って動きます。神様に似て、そのようになっているのです。

 

地球の表面にある木は、私たちの髪の毛と同じだと見ることができます。次に、地面は皮膚と同じで、その下に筋肉と脂肪の層があるのと同じように地層があり、その次に、骨のような岩層に入り、溶岩層に入っていくのです。すべて人を象徴しているのです。

 

 

 

35 神様が御自身の形を実体化させたのが宇宙です。言い換えれば、神様が考えるものをただそのまま実現化させたのが万物の創造なので、宇宙は神様に似ているのです。ですから、どんなものを見ても、そこには神様の性稟が入っています。このように見ると、宇宙は神様が造った創造物ですが、全体で見るとき、神様の一つの対象的存在だというのです。

 

 

 

36 家庭では、基本原則に従って父なら父、母なら母を中心として生活していきます。植物、鉱物、動物世界も、やはりそのような基本原則に従って存在するというのです。私たちの体も、五官を中心としたすべての系統に従って、全体の体が編成されています。このような全体を糾合して一つの原則的な基本を突き詰めてみれば、主体と対象の関係、二性性相という概念を発見するのです。

 

 

第三節 自然探求と自然の教訓

 

天聖経  第六篇 真の万物  第一章 万物創造とその意味

第三節 自然探求と自然の教訓

 

 

 

1 先生は幼い頃、活動範囲がとても広かったのです。目に見える野原や山の頂上など、行ってみなかった所がありません。その山の向こうまで行ってみなければ、気が済みませんでした。そうしてこそ、朝日に映るあの向こう側には何があるということが頭に入ってくるのです。ですから、どこにいても、座っているということがありませんでした。そのようにして先生が、信仰的な情緒を育てたのが故郷の山と川です。故郷の水であり、故郷の木であり、故郷の地であり、故郷の春の風です。過去のあらゆることが生き生きと記憶に残っています。祈りながら起きた出来事も、鮮やかによみがえってくるのです。

 

 

自然に没頭した幼少期

 

2 先生が幼かった頃、山に通いながら花という花で、観察していないものがありません。知らない花がないのです。自然がとても好きで、家にも帰らず、日が暮れるまで自然と戯れて駆け回り、疲れてそのまま寝てしまうと、夜の十二時になって父と母が捜しに来て、連れて帰ることが多くあったのです。自然がそれほど好きだったのです。

 

 

 

3 山で見かけるすべての鳥は、先生がすべて鑑定しました。渡り鳥が来れば、雄、雌がどのようになっているのか知りたくなるのですが、それが分かる本がないのです。ですから、仕方なく、渡り鳥を探しにいって研究するのです。一週間、御飯も食べずに待つのです。そうして渡り鳥が現れれば、それについていって穴を探し、巣を見つけて卵がかえるのを見ては、「ああ、あの鳥はああいう卵を産んで暮らすのだなあ」と確認するのです。そうしてこそ気持ちが楽になったのです。

 

 

 

4 先生の家の前庭には大きな木がありました。かなり大きな木だったのですが、そこにかささぎの巣がありました。一度、かささぎが卵を産んだのですが、毎日のようにそれが気になるのです。それをはっきりと知るまでは、夜眠ることができません。夕方、かささぎの巣がある所に登っていって見つめ、また早朝から、かささぎが出てくる前に、登っていって見るのです。

 

そのように登っていると、卵を一つ産み、二つ産み、三つ産み、毎日卵が増えていくのです。毎日のように登ったり下りたりしたところ、かささぎと親しくなりました。初めは「カッカッ」と大騒ぎしたのですが、毎日のように登ってきても支障がないので、騒がなくなったのです。そのようにして、何を獲ってひなに食べさせ、何をするのかを観察しました。

 

 

 

5 かささぎは枝で大きな巣を作ります。中は泥を塗って丈夫にし、風が吹く方向をすべて知って穴を開けておきます。最初にその巣のある所に登ったときは、どれほど大騒ぎしたか分かりません。しかし、一度登り、二度登って、卵を産むのを目にしました。毎日のように朝と昼、一日に二回は登るのです。一番初めは大騒ぎしますが、一週間そのように登ってきても自分には何の害も加えないので、大騒ぎしなくなるのです。

 

ところが、雨が降る日は登ることができません。雨の降る日が二日、三日続いて登ることができず、ようやく階れた日になって登っていけば、どれほど喜ぶか分かりません。「カカカッカカカッ」と鳴きながら、登ってこいと信号を出すのです。親しくなれば、通じないものがないのです。神様よりも、神様が造ったものをもっと愛せばどうでしょうか。作家が作った物や作品、絵のような美術品を見て、作家よりもっと愛せば、その主人も引っ張られてくるというのです。神様も同じです。神様が造った自然を愛せば、神様が訪ねてこられるのです。「こうしてこのようになった」ということをすべて教えてくれるというのです。自然はそのように貴いものです。

 

 

 

6 先生が幼かった頃、先生の部屋の前に柿の木がありました。トイレの前にあった大きな柿の木なのですが、その色がどれほど青々としていたか分かりません。柿の木の葉は、非常に潤いがあります。そこにひぐらしがいたのですが、村ではそこが一番高い所です。そのひぐらしが、高い所で鳴かなければならないことをすべて知っているのです。高い所で鳴いてこそ、その効果が出るのです。その鳴き声を聞けば、あるときはどれほど気分が良いか分かりません。どれほど涼しいか、一度聞いてみてください。そこには、縫い物をする女性たちが、暑さを忘れ、手を止めて引き込まれるような境地があるのです。

 

 

 

7 アカシアの花に蜂が留まって頭を押し込み、お尻を上に持ち上げて吸っているとき、ピンセットでお尻を引っ張ると、お尻がとれても口を放さないというのです。そのようなことを見れば、どれほどすさまじいでしょうか。体がとれるほど引っ張るほうもひどいですが、その味を知って放すことができないというのは、もっとすさまじいのです。先生はそれを見て、「いやあ!これは私が教えられた。私もこのようにしなければ」と思ったのです。

 

 

 

8 海に行けば、どんなことでもすべてできます。海の底には、どんなかにが棲んでいて、どんな魚が棲んでいるかを知っているというのです。先生の故郷からは海が遠いので、海を学ぶため、夏休みのようなときに毎日、海に通うのです。うなぎを捕まえ、かにも捕まえるのです。そのようにしながら、ありとあらゆる所をすべて探し回ります。そしてはっきりと分かれば、その次には釣りをします。どんな魚がどこに棲んでいるかを知り、魚を捕まえるのです。うなぎのようなものを捕まえることにおいては、先生がチャンピオンです。

 

 

 

9 夏休みのときは、一日にうなぎを四十匹以上、毎日捕まえました。うなぎは深い水の中にいますが、ただ身を伏せているのを嫌うのです。自分を保護できる穴を探して入っていきます。頭や尾が出ていようと、体を覆うことさえできれば安定感を感じるのです。生理的、生態的にそのようになっています。かに穴のような所を見れば、そこにいます。そのような穴を見れば分かるのです。それに関しては既に専門家になっていました。

 

 

 

10 雌鳥がひなをかえすために卵を抱いているのを見れば、目をじっと開け、足で卵を転がしながら一日中座っています。そのようにしていると、おなかに生えている毛がすべて抜けてしまうのです。毛が抜けるほど座っているのですが、それは気分が良くて座っているのでしょうか、気分が悪くて座っているのでしょうか。先生は幼い頃、本当に好奇心が旺盛だったので、それを毎日のぞき込みました。最初は追い払おうとしていましたが、一日に三度以上のぞき込むので、「またか」と言って、おとなしくなりました。

 

硬い卵を抱いているのを見れば、その姿勢は「天下の誰も触れさせない」と言っているかのような姿です。自分に危害を加える者は誰であっても赦さないという、大王の権威をもってにらむのです。雌鳥の権威には、雄鳥も勝手にできません。雄鳥に卵を抱かせれば、三時間もせずに逃げ出すでしょう。雌鳥が卵を抱いているのは、愛の力なのです。

 

 

 

11 大きな木には間違いなくかささぎの巣があります。かささぎは告鳥だと言います。かささぎが「カッカッカッ」と鳴けば、良い知らせが来ると言います。かささぎの生態を見れば、本当におもしろいのです。

 

かささぎの巣を見れば、「ああ、今年は風がどこからどこに吹くのだなあ」ということが分かります。東風が吹きそうであれば、出たり入ったりしながら、それに備えて穴をぽかりと開けておきます。また木の枝を集めてきて巣を作るのを見れば、誰が教えてあげたのか、傑作を作るのです。これは枝を編んで作るので、雨も入り込んできます。ですから、あとですべて泥を塗るのです。風が入ってこないようにしておき、枝の先を、雨が降っても雨水が家に入らず、一カ所に流れていくようにしておくのです。先端をできるだけそうやって集めておき、雨が降れば雨水が巣の外側に落ちるようにするのです。これを誰が教えてあげたのか、本当に驚くべき腕前です。

 

 

自然から学ぶ真の愛の教訓

 

12 万物のことを考えれば、真の父母と神様の愛が現れる、その時のために準備していることを発見します。鉱物も愛し、植物も愛するというのです。蝶と蜂、動物など、すべてが愛を中心として結びついています。

 

香りを出し、花を咲かせ、音を出すすべてのものが、万物の愛のための象徴的表示です。蝶と花には、どんな関係がありますか。蝶は花を探し回り、花は美しさを万物の前に表しています。宇宙に拍子を合わせるために、戯れながら存在しているのです。

 

神様が愛を中心としてこのような宇宙を創造したことを考えてみるとき、私のためにこのように造られたその庭園と調和の博物館が、どれほど素晴らしいかというのです。夏に、せみがペアになって音を出し、鳴いて拍子を合わせるのは、愛の歌を歌っているというのです。それがすべて教科書なのです。

 

 

 

13 先生がダンベリーの刑務所にいるとき、斜面になった高台をブルドーザーで整地して運動場を造ろうと、砂利のような物を拾い出す工事をしたのですが、途中で雨が降ってきて、最後までできずに残った場所がありました。その雨期の間に水鳥が来て、そこに卵を産んでひながかえったのです。そのときは雨が降る時期だったので、人が通らず安全だと思ったのですが、雨期が過ぎてみると、そこを通る人がたくさん現れました。そのひなをかえした巣が、散歩道からワッか二メートルほどしか離れていないのです。

 

ところが、本当に不思議です。人がそれに気づかずに通り過ぎるときは、母鳥もじっとしています。しかし、目が合いさえすれば、動き出して「ワァワァワァ」と大騒ぎします。一歩でも進もうとすれば、「ワッ」と鳴いて飛びかかってこようとするのです。とても小さい鳥なのですが、体の大きな人間が近づくと、体当たりしようとします。それもとても勇敢に体当たりしようとするのです。それを誰かが教えてあげたのでしょうか。人間のように、何かの学説を通した、計画的な教育制度によって教えてあげたのでしょうか。愛をもっているからです。愛には教育が必要ないのです。

 

 

 

14 魚の中で、雄と雌が愛することにおいて、最も模範的なのがさけです。ですから、先生は、さけを本当に愛しています。彼らは自分が生まれた場所を離れて五千マイル以上、五大洋を回り、四年がたつと故郷を訪ねてきます。アラスカは気候が寒いために昆虫もいないので、彼らの子供が食べる物がありません。ですから、母親が死んだのち、自分の体を子供たちに食べさせて育てるというのです。

 

万物の霊長が、魚にかなわなくてよいですか。動物世界は、そのようになっているのです。愛は、そのような偉大な力をもっているのに、万物の霊長である人間はどうでしょうかる人間は真の愛の主人です。どのように高次元的な夫婦の愛を完成するかというのです。先生が原理のすべての内容を発見したのも、聖書からではありません。自然の中から発見したのです。

 

 

 

15 さけは卵を産んで死にます。それを見れば、死ぬ日が定められた死刑囚の立場で、夫婦が愛する以上の愛を交わすのです。雌が卵を産めば、雄は地面を掘って卵を保護してあげます。それこそ理想的な一双です。そして、卵を産む十二匹は死ぬのです。死んでいく雌、雄の姿を見たとき、先生は本当に大きな衝撃を受けました。その母親の体は、子供たちの餌になります。創造主がいるとすれば、なぜそのように作ったのでしょうか。それを見れば、子女がどれほど重要か、愛がどれほど重要かを知ることができます。愛が最高のものであり、子女が最高のものであることを見せてあげるための、一つの標本としてさけを造ったのだろうという理論は、ごく当然な話です。命を捨ててでも、愛と子女のために行かなければなりません。

 

 

 

16 さけは、四千マイルから六千マイルの遠い大洋に出ても、四年間漂流したのち、においをたどって自分の故郷を訪ねていきます。人よりも優れているでしょう。そのように苦労しながら帰ってくるのです。そして、子供を産みます。雌と雄、二匹が一度出会って卵を産めば、死んでしまいます。死ぬと、その子供たちが父母の肉を食べて育つのです。愛の偉大さ、愛を通した子女の偉大さが、そこで現れるのです。ですから、「私」という存在は、父母の生命の代身存在だというのです。子女は一段階、他の人よりも前進して、高い愛に接する後継者です。そのように愛が高くなれば、最後には神様の愛の圏内に入っていかなければなりません。

 

 

 

17 すべての存在は、系列が異なり、その次に定着地、生きる基盤が違います。川の水は海に流れていきます。海に行き、また空中に上がって雲になります。再び気候の変化によって水になるのです。水がまた、雨や雪や雹(ひょう)に変わって落ちるのです。平安道の言葉で、それを「ムリ」と言います。

 

そして、鳥が魚を獲って食べ、魚も鳥を獲って食べます。植物と動物全体が食物連鎖によって結びついています。動物は植物を食べることができ、植物も動物を獲って食べることができます。

 

プランクトンには植物性プランクトンと動物性プランクトンがいます。それらが海のすべての生き物と微生物、菌までも養って生かすのです。それを食べながら生きるのです。

 

 

 

18 創造の根本基準は何でしょうか。神様がいくら絶対的な方だとしても、愛の相対者を訪ねてこられます。それが創造の始まりです。愛の相対を探す前に、まず環境を造られました。環境は、その相対者がそれを栄養素として取り、育つようにするためのものです。その栄養素を取るのも、強制ではありません。その相対者が真の愛の主体の位置に立つので、自動的に万物全体がその人に従って絶対順応していくことによって、一体になるようになっているのです。それが創造の主流となる根本精神です。

 

 

 

19 宇宙いっぱいに満ちているすべての存在は、自らの水準において相対と共に存在していますが、結局、より高い愛の次元に吸収され、上昇していく原則に従います。すなわち鉱物は植物に、植物は動物に、そして結局は、人間にすべて吸収されることを願うのです。ですから、すべての存在は食べられたり吸収されたりして、より高い愛の次元に上がり、ついには愛の根源である神様の最も近い愛を受ける位置まで進むのです。

 

このように、すべての存在が究極の目的地とするのは、正に真の愛の本質です。ダーウィンの弱肉強食という言葉は、このような真の愛の論理によって再び解釈されなければなりません。ですから、ありや微生物さえも愛を願うだけでなく、自分を愛する主人のところに行って死のうとするのです。このような原則において、神様の愛の最も高い対象として造られた人間は、すべての万物を食べ、吸収できる立場にいます。このすべてのものを食べて吸収するのですが、これらを造られた神様の真の愛を身代わりする気持ちで、食べて吸収しなければなりません。もしそのようにできなければ、宇宙は存立できないのです。

 

 

 

20 南極のペンギンのような鳥は、海辺で卵を産むものもいて、群れをつくって百マイル以上離れた地域に行って卵を産むものもいます。暴風が吹いても巻き込まれず、遠い距離をその足で歩くのです。雌は卵を産み、それを自分の足の甲に乗せて抱きます。足を動かしながら毛をこすりつけて温度を保ち、子をかえすのですが、何カ月間も食べずにそのようにするのです。そうしてそれを雄に渡すと、雄は餌を思う存分食べておき、子供に食べさせてあげます。子供を宿した雌よりもおなかが膨らんでいるかもしれません。雌と交替してふ化させ、子が出てくるまで我慢するのです。そのような精魂を込める中で愛の実として生まれた子供は、食物連鎖を中心として有り難く思うというのです。

 

 

 

21 より大きなものを保護するためには、より小さなものが犠牲になるのです。それが原則です。人間が草を食べる牛を捕まえて食べるのは罪ではありません。それは保護するためのものです。保護するために犠牲になるのです。それは発展です。小さなところからの飛躍です。草の細胞になったものが人間の細胞になれば、どれほど飛躍でしょうか。神様の愛に接する分野が広いからです。これを知らずに弱肉強食の概念を語り、人間が進化したという概念を語っています。唯物弁証法では、これを闘争の概念、階級概念として考えました。上下関係は主体と対象の関係なのですが、ここには主体と対象の概念がありません。

 

 

 

22 弱肉強食は闘争の概念です。宇宙の万物世界は闘争していると言います。愛の理想の大きな目的を中心として、宇宙を動員して神様の理想的生命体の根源を造成するという概念がないというのです。堕落によってそのようになりました。闘争して発展すると考えたのです。ギリシャ哲学では、自然界を敵という概念で捉えました。そこから適者生存の論理が出てきました。適切な環境において残れなければ、生存はないというのです。それは堕落した結果です。

 

マルクスやレーニンは、結果的なものだけを見ました。万物の根本である人悶の心の世界を見ても、闘争しているというのです。闘争の概念が万物の中から始まったと見たので、そのようにしか結論を下すことができないのです。愛の理想を完結した実体を越え、天の国の家庭完成と天の国の王権を中心として、天地における統一された神様の安息基盤を整えるためだという概念を知らないので、闘争の概念として見たのです。

 

 

第一節 宇宙の根本と愛

 

天聖経   第六篇 真の万物  第二章 宇宙の根本と秩序

第一節 宇宙の根本と愛

 

 

 

1 「宇宙」と言うとき、「宇」も「宙」も家を意味します。ですから、家庭と子女を愛するのです。その伝統的思想がどこから始まらなければならないかというと、国ではなく家庭です。この家庭は、宇宙的な家庭を代表したものであり、その息子、娘は億千万年の万民を身代わりできる先祖だというのです。それが創造本然の水準です。ですから、神様が万物を造ったのは、アダム、エバを愛するためでした。アダムとエバを探し出したのちには、神様と子女が一つになって、人間のために犠牲となる万物を愛さなければなりません。

 

 

 

2 被造世界のすべてのものは、神様の愛する息子、娘が愛の理想を探し求めていけるように、教材として造ったものです。ですから、すべて相対的な構造です。鉱物も主体と対象の関係で作用します。原子もそうです。陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続できないのです。運動しなければ永続、存続できません。

 

ですから、宇宙は、人間を中心として、その中心点に到達できるように創造された世界です。人間は、大きくなればなるほど、すべて自然を見て習得します。月が照らし、星が光る秋の夜に耳を澄ませば、昆虫がオーケストラのように演奏をしているのです。何を中心としてそのように鳴くのでしょうか。相対を探し、理想を歌っているのです。愛を中心としてささやいているというのです。鳥や他のすべての動物も悲しい鳴き声、宴びの鳴き声を愛という共通分母に従って表すのです。レベルは低く、軸から遠く離れていますが、その軸を中心として平衡を保って回っています。すべての存在はそのようになっているのです。

 

 

 

3 宇宙は第二の母の腹中です。皆さんが今暮らしている所は母の腹中です。宇宙の母の腹中で生きているのです。ですから、母親の栄要素をもらうのと同じように、宇宙のすべての津液(しんえさ)をもらって生きるのです。ですから、ここでこれを供給しなければ、多くの犠牲者が出ます。多くの犠牲を払うのです。

 

弱肉強食という言葉があります。「なぜ神様はそのように造ったのか」と言うのですが、それは誤った考えです。「私」がより次元の高い神様の愛の圏内に参与するのが宇宙の欲望なので、より次元の高い存在の体を通し、宇宙の愛の核の位置に帰ろう、これが願いにならなければなりません。「私」の体の細胞、人間の細胞が神様と直接通ずることのできる愛の細胞として存在しなければなりません。

 

 

 

4 宇宙の根本は何であり、宇宙は何から始まりましたか。愛から始まったのです。科学者たちは、「宇宙は力でできている」と齎います。作用するのを見て、力があると思うのです。力があれば作用をします。それでは、作用が先でしょうか、力が先でしょうか。

 

男性が男性として成長するときは、愛の力は作用しません。男性として作用しながら成長します。心と体が作用しながらだんだんと成人になっていくのです。そうして女性に会うとき、横的な力が生じるのです。力が現れるには、必ず作用を経なければなりません。力がある前に作用があるというのです。作用はどこから出てくるのでしょうか。主体と対象の関係から出てきます。人も心と体からなっており、すべてのものがペア・システムになっているのです。

 

 

 

5 宇宙はどのように出発したのでしょうか。相対理想を中心として創造された神様を見れば、すべてがために生きるところから、投入するところから出発したのです。自分を消耗するところから始まります。それでは、自分を消耗して相対をつくり、何をしようというのでしょうか。二つとも消耗するのですが、消耗して得るものが愛です。愛さえもつことができれば、いくら消耗してもよいというのです。そのような概念が愛なので、愛を中心として神様が創造を始めたのです。神様が損をするようなことをしたのではありません。

 

投入するのは損害ですが、なぜ神様はそのようにしたのかというと、愛にはすべてのものを満たして余りある力があるので、消耗させて投入しましたが、その代わりに愛を見つけてくるのです。真の愛は、投入すればするほど、次第に小さくなるのではなく、大きくなっていきます。動けば、その動き自体は投入して消耗することですが、真の愛は、投入すれば投入するほど、大きくなっていくのです。

 

 

 

6 愛には創造の能力があるので疲れません。愛の心をもてば、いくら投入しても消耗したエネルギー以上にいつも補充する愛の力があるので、疲れないのです。ですから、苦痛であっても嫌ではないのです。それが嫌ならば行くことはできません。愛のための道においては、「嫌だ」という心を永遠にもつことができないのです。真の愛のための道には、永遠に「嫌だ」という心があり得ないのです。神様の本質には怨讐の概念がありません。悪の概念がないというのです。それは、真の愛の中にいるからです。

 

 

 

7 この宇宙全体、天の国全体の中心軸は愛です。愛は生命の根本であり、血統の根本です。それは、愛を中心として形成されているので、愛の軸に従って運動します。

 

運動というのは、ただするのではないのです。運動は、必ず主体と対象を中心として行うので、それぞれの位置で愛を中心として、愛と関係を結んで行動するのです。永遠の愛の実績として存続したいというのが、すべての運動するものの目的になっています。作用というのは、ただするのではありません。

 

 

 

8 神様が天地を創造したのは、自分のためではありません。神様のために創造したのではありません。万物の創造は、神様のためではなく、神様の愛のために行ったのです。宇宙の根本は愛から始まりました。愛が中心です。

 

ですから、絶対的な神様も、絶対的に服従したいと思う理想郷をもたなければなりません。完全に服従するところに完全な幸福があり、完全な解放があるところに完全な幸福があります。

 

 

 

9 愛は、宇宙から始まり、いかなる存在でも、関係をもっていない存在はありません。取るに足らない一株の草も、必ず愛を中心として生きています。鉱物もプラスとマイナスを中心として生じ、すべて愛のゆえに動いています。小さなものから大きなものに至るまで、すべて愛を中心として関係が結ばれているのです。その愛は、何の愛でしょうか。神様の愛、真の愛を中心として関係が結ばれています。本来、神様が創造した世界がそうだというのです。

 

 

 

10 真の愛で成し遂げられた心情圏は、いくら小さくても宇宙と連結され、その中で起きる出来事の波長は、万象と霊界まで波及するのです。霊界を含む天宙は、すべて同じ神様の真の愛の原理のもとに存在するからです。神様と人間の間の縦横、前後の真の愛の関係は、人間相互間の理想的な真の愛の関係の根本であり、その完成は四大心情圏を完成した理想家庭においてのみ成し遂げられるのです。

 

 

 

11 秋には、昆虫が集まり、夜通しオーケストラ演奏会を開きます。夜が明けるまで、休むことなくオーケストラ演奏会をするのです。多彩な音でハーモニーを生み出して、索晴らしいオーケストラ演奏会を催し、その音が四方に響き渡ります。

 

人間は、「彼らは今、何をしているのだろう」といぶかしげに思います。彼らはキスし、愛を交わしているのです。愛の音色です。音楽ではなく、愛の音色です。キスして抱き合い、愛する音だというのです。愛のオーケストラ演奏です。それは低俗なものではなく、神聖なものです。

 

 

第二節 宇宙の作用と存在原則

 

天聖経   第六篇 真の万物  第二章 宇宙の根本と秩序

第二節 宇宙の作用と存在原則

 

 

 

1 宇宙は存在世界です。それは、誰もがみな認めています。存在するためには力がなければなりません。力が先か、存在が先かということが問題です。力がなければ存在もありません。力は作用がなければ現れません。力が存在する前に必ず作用が必要です。作用しようとすれば、力の前に先行条件として主体と対象が絶対に必要であることを否定できません。主体と対象が授け受けするところから作用が始まり、作用が始まることによって力が存続するのです。

 

 

主体と対象の関係で存在する宇宙と万物

 

2 被造世界を見ると、動物世界もそうであり、植物世界もそうであり、感覚もない鉱物世界も、すべて陰陽の道理に従って主体と対象の関係をもっています。分子を見れば、陽イオンと陰イオンがあります。世界の学者たちは、「宇宙は力でできている」と言います。漠然と力でできていると言うのです。

 

それでは、力が一度に出てくるのでしょうか。力が先にあって出てくるのでしょうか、それとも力が存在する前に作用が先にあったのでしょうか。卵が先か、鶏が先かという問題と同じです。力は作用を通して現れるのであり、その過程を通して段階的に見えるようになるのです。電気の作用は、電気の力ではありません。電気自体ではありません。プラスとマイナスは、与えたり受けたりする作用をしますが、そこに電気という力の流れはまだできていないのです。作用を通して力が出てくるというのです。

 

 

 

3 宇宙は、必ず力によって形成されるのですが、力が存在する前に作用があります。電気の力が存在するためには、プラスとマイナスの作用がなければなりません。プラスとマイナスの電気作用を集合すれば力になります。ここに電球をぶら下げておけば、私たちが使用する光に変わるのです。ですから、力が存在する前に作用があり、作用が存在する前に主体と対象があるのです。

 

神様がこの世界を造るとき、人間のための環境として造りました。環境には必ず主体と対象があります。これは存在の法則です。これが備わらなければ、存在できないのです。中性があると言いますが、中性にも相対があります。正午になれば、影が見えなくなります。しかし、影が消えるわけではありません。自分自体の中に入っただけです。すべて相対的関係をもっているというのです。

 

 

 

4 宇宙の形成において力が先か、作用が先かと言うとき、必ず作用が先になります。作用するときは、独自的にするのではありません。作用するためには、必ず相関関係にならなければなりません。その相関関係が同じレベルではいけません。「私」が後退するだろうというのでは作用しないのです。相手が発展するだろうという立場で主体的に与えても喜ぶことができ、プラスになる環境条件を見つめながら、与えなければなりません。そのような観点で、主体と対象の関係が形成されるのです。主体とは何でしょうか。先に与えるのです。ですから、主体は責任をもたなければならず、保護しなければならず、育成しなければなりません。ですから、作用が存在する前に、先に主体と対象の関係を認定しなければならないのです。

 

 

 

5 宇宙で最も神秘的なものは何でしょうか。創造するとき、神様が最初に抱いた観念は何でしょうか。それは愛です。愛という観念をもって宇宙を造ったので、すべての存在は愛を中心として相対的な基準をもたなければならないのです。ですから、環境には相対圏がなければなりません。主体と対象の相対圏がなければならないのです。

 

相対圏は必ず対応するようになっていて、その対応圏は家庭だけでなく、氏族、国家、世界とつながります。そうして、それが主体として立てば、そこに歩調を合わせる対象が生じるのです。自らが大きな立場に立った場合は、向こうが相対圏に立って直ちに歩調を合わせる方法を取ることにより、宇宙が衝突なく授受作用をして、平和的で円満な運動を続けるようになるのです。

 

 

 

6 宇宙の根本である力は、物質世界において授け受けする愛の関係と同じ形態の作用によって生成されます。ですから、いかなる存在でも、主体と対象の関係をもたなければこの宇宙に存在することができません。一番貴いのが愛なので、愛を中心として与えようとしても与えることができず、受けようとしても受けることができなくなるときに最も悲しく、哀れになるのです。

 

神様は、なぜ宇宙を創造されたのでしょうか。愛が必要で宇宙を創造されたというのは当然の結論です。ですから、人は愛によって生まれ、愛によって生き、愛によって死ぬようになっています。

 

それでは、最大の愛はどこから来るのでしょうか。主体と対象が完全に一つになるところから来ます。いかなる力によっても引き離すことができないように永遠に一つとなるとき、最大の愛は訪ねてくるのです。愛があることによって統一が始まり、愛があることによって生命が連結し、愛があることによって理想が実現するのです。

 

 

 

7 主体と対象の作用は、力をもってしてはできません。お金をもってしてもできません。知識をもってしてもできません。ただ、二人が喜ぶことのできる内容、愛という概念が必要なのです。なぜ鉱物世界を、プラスとマイナスにして造ったのでしょうか。それらの愛を中心として連結するためには、その作用が必要なのです。植物世界にも、雄しべと雌しべがあります。植物の花が作用するのに、生命力で生きる前に、主体と対象の概念があることを知らなかったのです。動物世界は、雄と雌で成り立っています。最も大きいものから小さいものまで、すべて雄と雌になっていることを知らなければなりません。

 

 

 

8 知恵の王であられ、全体の中心であられる神様は、真の愛や真の理想、真の幸福や真の平和の起源を、主体と対象、この両者の間のどこに置くのでしょうか。これが問題にならざるを得ないのです。主体がいて対象がいるのですが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で理想の要件をどこに置くかということが、創造主であられる神様として問題にならざるを得ないのです。

 

真の理想、真の愛、真の平和において、主体を中心として対象が主体のために生きるところに理想的起源を置くのでしょうか、対象を中心として主体が対象のために生きるところに起源を置くのでしょうか。神様が、主体である御自身に対して対象がために生きなさいという立場に、その理想的起源を立てたならば、神様がそのようにすると同時に、すべての人も、自分がある対象の前に主体の立場にいれば、「自分のために生きなさい」と言う立場に立つでしょう。そのようになれば、一つになる道が塞がってしまうのです。

 

 

 

9 自然世界には、循環しながら発展するという原則があります。今まで、数億年間続いてきた永遠の自然法則とは何かを、一度考えてみましょう。その共通法則、共通性は雄と雌でできていることです。人も男性と女性になっています。すべて相対的になっているのです。鉱物世界もそうであり、植物世界もそうであり、動物世界も雄と雌で組み合わさっています。雄と雌を中心とする関係が千年、万年、何億万年変わりなく続いていくのです。それが何かというと、次元は違いますが、愛という概念なのです。

 

愛という概念を中心として後継者を残していくのは、このすべての自然界に残っている中心法則です。人も同じだというのです。人も男性と女性になっているので、愛を中心として、これからより素晴らしい子孫を残すのは、変わることのない原則です。これだけは誰も占領できません。これだけは革命できないのです。

 

 

ペア・システムが宇宙の存在原則

 

10 万物は、鉱物世界も植物世界も、愛を土台とした主体と対象の関係を通じ、理想的な分母をもって生まれました。万物は結果の存在です。結果の存在は、原因的な内容がなければ生まれることができません。私たちは、その原因的存在を神様と言います。それで、神様を中心とした愛の圏内で東西南北、上下、前後、左右を問わず、いつでも和合して和動するために、鉱物世界もペア・システム、主体と対象の関係によって存在するのです。このようにペア・システムで構成されています。鉱物世界も動物世界も、植物世界も人間世界も同じです。

 

 

 

11 宇宙はすべて、プラスとマイナスになっています。分子を見ても、プラスイオンとマイナスイオンになっています。すべて相対圏になっているのです。原子を見ても、陽子と電子になっています。宇宙構成の根本がそのようになっているのです。植物は雄しべと雌しべ、動物は雄と雌、人は男性と女性、すべてが相対的になっています。そのように相対的になって、結局、一つの体制圏に収拾されなければなりません。神様が主体なので、神様を中心として収拾されなければならないのです。その創造の意志と一体化した相対圏がつくられなかったとすれば、神様の創造の喜びはあり得ないのです。

 

 

 

12 すべての存在が生じたのは人間完成のためです。そのために動員されたのです。ですから、完成体を形成するために、その細胞一つ一つがすべてペア・システムになっています。男性も女性も、その体に栄要素をすべて備えて補給されるので、どれ一つとして抜くものがないというのです。すべて薬材であり、必要なものです。道端にたんぽぽがたくさんあるからといって、いい加減に扱うなというのです。個性真理体としての自分の役目を果たすため、千年、万年、人類歴史が変化しても自分の種の区別は変化せず、拡大するのです。

 

 

 

13 すべての被造世界は、ペアの組織体制で連結されています。鉱物世界もそうです。すべてのものがプラスとマイナスの作用をするのです。重力をもった地球星(ぼし)の上でも、強い引力関係をもっている磁石は、その引力が地球の重力よりも強いために作用が表面上に現れるだけであって、磁石以外のすべての要素もプラスとマイナスの作用をするのです。すべての運動も、同じようにプラスとマイナスの作用を通して広がるのです。

 

ペア・システムの中央には、自ら二つを連結して保護できる中心軸があるのですが、その軸が正に愛の軸です。ですから、鉱物世界の元素も相対基準が合うもの同士は自ら一つになりますが、相反した元素同士では、いくら神様が命令し、またどんな実験室の主人が命令して千年の精魂を込めたとしても、一つにならないのです。

 

 

 

14 皆さんが環境圏をつくらなければなりません。神様も、環境圏として太陽、地球、空気、水を造りました。環境圏には、いつも主体と対象があります。それが公式です。すべての被造万物は、ペア・システムになっているのです。鉱物世界もそうであり、動物世界もそうであり、人間世界もそうです。なぜ主体と対象になっているのでしょうか。真の愛の完成のためです。主体と対象がなければ、愛を中心として完成できません。これが公式です。そのように完成した先祖が、今まではこの地球上にいなかったのです。

 

 

 

15 この世界、宇宙を見てください。鉱物世界もプラスとマイナス、植物世界も雄しべと雌しべ、動物世界も雄と雌がいます。近頃は、細菌まで雌と雄があると言っています。すべてのものは、愛を中心として、それぞれのレベルを中心として一つになるようになっています。

 

このようなペア・システムの宇宙を見れば、これらは人間の理想的な愛が天地を代表して一つになるとき、共に連結されて支えるために、そのようになっているというのです。家を建てようとすれば、初めに基礎をつくるのと同じように、人のためにこのようなペア・システムをつくったのです。動物も、雄と雌が一緒に歩いていて、雌が被害を受けるようになれば、雄が命を懸けて守るのを見たことがあるでしょう。子を産めば、親は子のために命を差し出すのです。愛の道理はそのようになっています。本来、根本がそのようになっているからです。

 

 

 

16 真の愛の深い境地に入っていけば、万物と通じます。岩とも通じ、万物とも通じます。真の愛の世界は、通じないものがありません。ペア・システムになったのは、神様に属するように、愛と関係を結んで一つになる作用ができるからです。真の愛は、共鳴するようになっています。そのような真の愛の圏内に入れば、神様の内的な世界と外的な世界を感じることができます。

 

ですから、誰かが教えてくれなくても霊界が分かり、神様が分かり、この地において父母にどのように侍らなければならず、また国王にどのように仕えなければならないかなど、すべてのことが自然に分かるようになるのです。愛の行く道は、いい加減に行くようになっていません。公式になっているのです。愛が行く道は一つしかありません。

 

 

 

17 誰が愛を教えてくれるのでしょうか。自然が教えてくれるのです。野山を走る動物を見れば雄と雌、蝶を見ても雄と雌、すべてペア・システムになっています。花が咲いた美しい国には、鳥が「ピーチクパーチク」とさえずっています。鳥はなぜ鳴くのでしょうか。雄の鳥、雌の鳥がさえずるのは何のためですか。

 

鳥が鳴くのには三つの理由があります。一つはおなかがすいて鳴くのであり、一つは愛のために鳴くのであり、一つは子を呼んでいるのです。その三つの理由です。それは愛のゆえにそのようにするのです。

 

 

 

18 真の愛が行く道においては、すべてのものが自動的に一つになります。被造世界を見れば、いくら微小なものでもペアになっています。数千年の歴史が流れても、そのようにペアになっているのは変わりません。種のペア概念は、いかなる被造物も変えることができません。それは永遠なものです。そのように、周囲にある現象が教えてくれています。堕落していない本然の現象が教えてくれているのです。

 

木を見れば、成長を止めることがありません。休まずにいます。すべての生き物は、四季、昼夜の区別なく、成長を止めないのです。すべての被造世界は、そのような本然の道を歩んでいます。

 

 

存在様相と作用の原則

 

19 与えるとなぜ栄え、与えることによってなぜ大きくなるのでしょうか。それは、神様が宇宙を創造した当時の根本と通じるからです。神様が創造するというのは、受けようとするのではなく、与えることです。与えれば、ひたすら大きくなるのです。すべてのものが与える概念に変われば、だんだんと大きくなります。ひたすら受けてばかりいれば、すべてのものが小さくなるのです。なぜ、そのようになっているのでしょうか。神様の創造原則に同伴できるので、宇宙が「私」を協助するのです。宇宙が「私」を協助するからです。

 

 

 

20 宇宙万物が存在しようとすれば、力がなければなりません。力はただそのままで存在するのではありません。力が存在しようとすれば、継続して作用しなければなりません。作用を続けてこそ力が存続するのですが、作用を続けようとすれば、どのようにしなければなりませんか。一人では作用できません。必ず主体と対象がいなければなりません。これが鉄則です。主体と対象が作用するときは、ただそのまま作用するのではありません。主体と対象の位置より、さらに良くなる場所が発見されるところにおいてのみ、作用するのです。これが原則です。

 

 

 

21 物事は、必ず二重構造になっています。すべて二重構造になっています。神様が内的な愛を中心としてために生きれば、無限に自分を忘れて投入し、投入するところに大きな宇宙の核が生じるのです。例えば、太陽系の数千億倍にもなるという大宇宙は、すべて球形になっているというのです。ですから、そこの核に従って動くのです。愛も同じです。人間の愛は、神様の心情圏からこの宇宙全体の軸の位置に立ち、神様の完成と創造理想完成のために、今まで歴史性をもった運動を継続してきているのです。霊界に行ってもそうです。すべて、愛の雰囲気の中で主体と対象の関係になっています。

 

 

 

22 発展するためには、必ず自分よりさらに良い場所を探し求めていくのです。すなわち、プラスになるところでのみ作用するのであって、マイナスになるところでは作用をしないというのです。二つが一つになってこそ発展があるのであって、二つが一つにならなければ絶対に発展がありません。それが宇宙の鉄則です。

 

互いがプラスになる価値を発見してこそ一つになるのです。作用してマイナスになるにもかかわらず一つになる、それが原則であれば、この世の中はなくなるのです。小さくなる原則と一つになるという道理があるなら、この世の中は逆さまになるのです。世の中の原則がそうだとすれば、世の中の一方は形成されても、もう一方は崩れていくのです。そのような原則はありません。

 

 

 

23 主体と対象が授け受けするときは、より良くなる何かを発見するところにおいてのみ作用するのであって、そうでないところでは作用しません。これが宇宙の鉄則です。化学実験において、ある元素とある元素を一つにするために藥品を入れ、ありとあらゆることをすべてしても、合わさらないものがあるのです。それは、合わさったとしてもマイナスになります。作用するようになれば互いにマイナスになるので、絶対に作用しないのです。神様も絶対に作用させません。それが原則です。

 

しかし、ある元素同士は、考えなくても作用するのです。互いに作用すれば必ずより大きなものが形成され、よりプラスになる立場になるので、作用するのです。それはいくら妨げようとしても作用するというのです。これが宇宙形成の原則です。

 

 

 

24 原子を見るとき、原子においては、陽子を中心として電子が回っています。それもやはり、二つの目的を結合できる、授け受けする位置にあるため、それが一つの原子の形を形成するのです。ですから、電子の目的と陽子の目的を兼ねた目的を中心として一つになっているのです。

 

大きく見れば、神様も存在者です。神様も存在するならば、実存体としていらっしゃるのです。そうだとすれば、神様もやはり主体と対象の関係になっていて、完全に授け受けできる二重目的性を中心として結合した立場に立たなければ、永遠に存在することができません。それはどういうことでしょうか。神様も結局は、主体性と対象性が合わさり、お一人の神様としていらっしゃるということです。

 

 

 

25 すべての主体と対象が完全に、永遠の愛に一つつになっているとき、この宇宙には永遠に保護する責任があります。これを破綻させようと第三の力が介在するときは、宇宙の力が取り除くというのが現象世界存続の道理です。原理原則は同じです。愛の世界においても、同じ結論なのです。霊界に行っても、この結論は正しいのであり、地上世界の現実的な舞台においても、正しいのです。したがって、どこにおいても現実化できるのが宇宙の法度です。ですから、原理原則に従って生きなければなりません。

 

 

 

26 創造において、直線上では調和するのが大変です。線は二点を連結したものです。直線上においては調和がありません。これは、行けば行くほど遠くなるのです。帰ってくることができません。ですから、この世の中、この宇宙の出発は、直線ではありません。三点の出発が偉大だというのです。三点を合わせてついていけば、球形が生じます。

 

直線運動から、どのように円形を回って三点基盤を見つけたのでしょうか。これは、運動する物自体がすることはできません。ここには第三の力が介入したことを認めなければならないので、創造主がいることを公認する論理が形成されます。

 

そして、宇宙創造の起源においては、受ける作用であろうと与える作用であろうと、必ず作用があったはずですが、どのような作用を先にしたのでしょうか。神様が受ける作用をしたのであれば、創造した宇宙がすべて神様にくっついてしまいます。神様しかいないのですから、受けようとばかりしていれば、永遠に存在できないのです。

 

 

 

27 宇宙の運動は、どのように始まるのでしょうか。直線上では運動できません。二点を連結したものが直線なので、直線上では調和は不可能です。三点から創造の調和が始まります。三点から放物線を通して、円形が描かれるのです。三点を通して回れば、連結されます。運動は、押すところから始まったのでしょうか、引くところから始まったのでしょうか。これを解決できなければ、宇宙の根本を解決する道がありません。運動は押すところからです。どちらが簡単でしょうか。押すほうが簡単です。引くのは二重の力になるので、理論的に矛盾です。ですから、「私」から投入するのです。

 

 

 

28 世界は丸くなっています。月も丸く、太陽も丸いのです。原子世界と分子世界もすべて丸いのです。丸いのですが、一人で丸くなることはできません。一人では絶対に丸くなれません。主体と対象の関係が円満に調和して発展しようとするので、丸くなるしかないのです。

 

すべての存在は理想圏を必要とし、そこに作用して関係を結ぼうとするので、自然に丸くなるのです。人間の中で円満な人は、どのような人でしょうか。丸く円満な人は、東に方向を向けたあとに西に方向を向けても、ぶつかりません。てっべんを押せば、そのまま他の所に入っていって出てくるのであって、それ自体は変わらないのです。

 

 

 

29 宇宙は、空気さえも円形を抱こうとするのであって、角のあるものを抱こうとはしません。円形をかき抱くようになっているのです。それが理想形なので、そこには消耗が起こりません。その根本原因とは何でしょうか。円形であるほど、丸いほど、長く続くのです。丸くないものは、回れば回るほど摩擦によって削られるか、消耗するのです。ですから、人間は円満を願うのです。円満というのは、平面ではなく球形を意味します。目もいっぱいに満ちていて、鼻もいっぱいに満ちていて、口もいっぱいに満ちていて、体全体がすべていっぱいに満ちていて、一つの円形を形成するのと同じです。

 

 

 

30 世の中を見れば、すべて回るようになっています。力の作用が直線に伸びていけば、永遠に消耗です。神様が被造世界を創造された第一の原則的目的はどこにあるかというと、直線で進む力を回すためでした。したがって、世の中の道理は、回転する道理であり、それと同時に運動する道理なのです。

 

皆さんが化学を勉強しようとすれば、物質を研究、分析し、運動して作用するすべての現象を観察することになるのですが、その道理から外れた存在はないことが分かります。そのすべてが三六〇度を回っているのです。宇宙も回り、社会も回り、「私」の心も回っています。全宇宙の中心である神様の心情を中心として回れる人は、神様が回ればその人も回るでしょう。神様が回る限り、この宇宙も回るでしょう。神様が回れば私たちが回り、万物が回ることになるのです。

 

 

第三節 宇宙の秩序と公法

 

天聖経   第六篇 真の万物  第二章 宇宙の根本と秩序

第三節 宇宙の秩序と公法

 

 

 

1 私たちが住んでいるこの地球は、太陽の周囲を宇宙の法度に従って、変わることなく公転しています。地球自体もそうですが、太陽自体も自転しています。地球の百三十万倍にもなる太陽が、休みなく動いているというのです。宇宙には、このような太陽系の数千億倍にもなる広大な銀河系があります。このような銀河系を小宇宙と言うのですが、宇宙には銀河系のような星雲が数えきれないほど多くあるのです。これをまとめて大宇宙と言います。

 

半径だけで数千億光年にもなる途方もない大宇宙を造られた神様は、その大宇宙を変わることのない法度に従い、数億万年の間、動かしていらっしゃるのです。私たちが考えることもできず、感じることもできないほど偉大な力をもって、すべての天体を動かされるというのです。このような宇宙を造られた神様を思えば思うほど、私たちはその雄壮さと偉大さに、自然と頭を下げざるを得ません。このような大宇宙を創造されたその方が、私たちを守ってくださる父であり、私たちを保護してくださる神様であり、実存なさる偉大な主人公だというのです。

 

 

 

2 大宇宙を見れば、宇宙は無秩序になっているのではありません。単位を構成する公式の上に、宇宙は動いているのです。ですから、千年、万年動いても、間違うことなく動くのです。今日の科学の発達も、公式上の発達です。数学を通してすべてのものを解いていくのも、公式を連結させて解くのと同じように、科学文明は公式上において発達するのです。公式とは、単位の完成です。単位を連結しなければなりません。それは出発と終わりが完全に連結され、合わなければなりません。数学の問題を解くときも、多くの公式を通じた結論は、本然において提示した理想の道と、解いて戻っていくものがすべて合わなければならないということです。

 

 

 

3 宇宙は、漠然とできているのではありません。秩序があります。このような内容をもって循環運動をしているというのです。運動は、数多くの形を備えて行われますが、そこにも一つの主流があります。それが大きな川を中心として見てみるとき、支流と主流が同じ立場で運動しているのです。大宇宙も一つの軸を中心として、主流のような流れに従って運動するというのです。ですから、終着点に立ったこの世界、この宇宙は、一つの目的を中心として動くという結論を下さざるを得ないのです。

 

 

 

4 神様は、絶対的な方でなければなりません。唯一、不変、永遠でなければなりません。その方が定めた法度は、絶対的でなければなりません。ですから、この宇宙はその法度に従って、千年、万年、何億万年、運動を続けるのです。微生物の世界や植物の世界も、そのような科学的公式法度による基盤の上に存続するのです。したがって、数学ですべて解けるのです。微生物もそうであり、植物もそうであり、大宇宙の運行するすべてのものも、法度の上に立って永遠の軌道に従って存続することを願うのに、万物の霊長である人間がいい加減に、思いのままに行動するようになっているのだろうかというのです。そのようにはなっていないのです。

 

 

 

5 広く限りない大宇宙は、一つの公式原理を通して運動します。公式は単位を通して、単位を結束させて成立します。この宇宙は、公式を土台とした形式を通して創建された世界なので、公式にきちんと当てはまるのです。ですから、数学で解けるのです。電気も数学で解くでしょう。数学は、公式を活用して解いていくのです。公式は単位がなければなりません。一、二、三という単位を通して出てくるのです。ですから、単位が合わなければならず、公式に合わなければなりません。そうでなければ、正しい答えが出てこないのです。

 

 

 

6 自然界やこの世界の動きを見ても、無限で広大な大宇宙を見ても、私たちは目にできませんが、すべて宇宙の公法によって変わることのない回転運動をしながら、軌道に従って永遠に存続しています。夏が過ぎれば秋が来て、秋が過ぎれば冬が来ることを誰が分かったでしょうか。冬になれば、また春が来ることを誰が知っていたでしょうか。宇宙は自分の行く道に従って、春夏秋冬、軌道を自ら合わせ、自転しながら自存しているというのです。

 

 

 

7 宇宙は家庭を拡大したものです。家庭を見れば、上中下があり、左右があり、前後があります。これが原則です。ですから、上下と言うときは父母と子女を意味し、左右と言うときは夫と妻を意味し、前後と言うときは兄弟を意味するのです。このような全体が、何によって一つになるのでしょうか。力や知識やお金ではありません。それでは、どのようなものでできるのでしょうか。愛です。愛も、普通の愛ではありません。真の愛です。それは間違いのない真理です。そうでなければ球形になりません。それでは、家庭における上中下とは何でしょうか。愛の教材です。宇宙の愛に接することのできる愛の教材です。それと同じことを、社会に出てしなさいというのです。

 

 

 

8 愛の法を立てるために宇宙があると考えるとき、この世界がどのくらい一定に変化するでしょうか。春の季節に「チュンチュン」と鳴くすずめを見るとき、「いやあ、私たち夫婦がすずめより優れているだろうか」と考え、つばめが餌をくわえて自分の子供に食べさせるのを見るとき、「いやあ、子をあのように愛してあげるのが原則なのだな」と考えなければなりません。すべて同じ法です。

 

その母親が、おなかいっぱいでもう食べることができないので、子たちに食べさせてあげるのでしょうか。自分がおなかをすかせていても、餌をくわえて食べさせるというのです。人間世界において、このような愛の公法をどこで見つけることができるでしょうか。先生からも見つけられず、国王からも見つけられず、夫からも見つけられず、妻からも見つけられないのですが、それでも父母が子女を愛するところにだけは、それが残っているというのです。神様が人類を愛するその愛が残っているからです。ですから、父母が子女を愛する愛にだけは、それが残っているのです。

 

 

 

9 人がいくら優れていると言っても、春夏秋冬、四季に順応しなければなりません。冬なのに、「ああ、私は夏が好きなので、からむしの上着とチマチョゴリを着なければならない」と考えていては、死んでしまいます。歩調を合わせなければなりません。春になれば春の服を着なければなりません。着替えなければ支障をきたし、破綻が起きるのです。冬になれば冬の服に着替えなければなりません。

 

同じように皆さんが天地の法度、天理の法度に対して、その環境と境遇において順応するだけでなく、合わせることができてこそ、天理の保護を受けるようになるのです。そこで生き残ってこそ、生命体として永遠の宇宙の前に主体性をもてるのです。

 

 

 

10 宇宙は、運動の法則、力の作用の原則によって始まりました。すべてのものは宇宙の拍子に合う天運の法度に合わせていきます。その天運の法度に合わせていくのが何かというと、四位基台の法度です。ですから、私たちは、この四位基台の法度に自分を一致させ、四位基台の法度を擁護しなければなりません。

 

しかし、その結果が十分でなければ、不合格者になるのです。言い換えれば、夫婦の間でいくら良く授け良く受けるとしても、結果的存在である子女がいなければ不幸なのです。なぜなら、宇宙の法度と原則が四位基台を中心として回っているのに、三位基台しかできなければ、永遠に回る四位基台の法度に反することになるからです。そのようになれば、神様と距離が遠くなるので、自然と悲しくなるのです。

 

 

 

11 喜びは、どこから来るのでしょうか。心の要求に体が応じるとき生じます。心と体が完全な主体と対象になって四位基台を形成すれば、心が願うとおりに体が動くようになります。そのような立場で喜びが来るのです。宇宙の原則である天運が擁護してくれるので、神様と出会える距離が次第に短縮されて、近くなるので喜びが生じるのです。

 

しかし、良心の呵責を感じることをして心の相対要素がなくなるときは、結局その主体までもなくなるのです。宇宙の原則というのは、主体だけがいると、対象が反対しなくても追い出す力が必ず現れるようになっているのです。それが悲しみとして現れるのです。喜びと悲しみは、「私」が原因となって生じるのです。

 

 

 

12 胸が痛むほど悲しいときもありますが、それはなぜ悲しいのでしょうか。どのような力が「私」に作用して悲しくなるのでしょうか。それは、この宇宙の大運勢、生命力を左右できる宇宙の公法作用のためです。ですから、この公法に一致できず反対になれば、除去されるのです。宇宙の力は押したり、引いたりします。宇宙の力の反対方向に押し出す力が大きければ大きいほど、喜ぶことができないのです。

 

夫婦が一緒に暮らしていて、一人が先に死ねば、涙を流します。それは、宇宙の公法に不合格の基準となれば、宇宙の公的な力がその人を押し出すようになり、そのようになれば悲しみの強度が高まるからなのです。それでは、喜びはどのように生じるのでしょうか。宇宙の公法に一致する自分になれば、宇宙の力がその人をかき抱こうとします。その力が大きければ大きいほど強く抱き締めるようになり、強く抱けば抱くほど、その人は内的な中心に入っていくので、喜びが来るというのです。ですから、悲しみと喜びは、自分自身から始まるのではありません。これは力の原則、すなわち宇宙の公法を中心として起こるのです。

 

 

 

13 共存する宇宙を見つめれば、そこには必ず和合作用と反発作用があります。和合作用はより大きなところに和合しようとします。皆さんの心も和合しようとするのですが、より大きなところに和合しようとするのです。和合するのに、ただするのではありません。回りながらするのです。二つの小さなものが、互いに好きで合わさろうとすれば、どうなるべきでしょうか。「私」自体が自分を越えて、相対を包むことのできる力があってこそ、一つになるのです。自分を越えて大きな力で抱こうとするものがあってこそ、一つになるのです。自分よりも小さくしようとするところでは、絶対に一つになりません。自分を越えてより大きなものを抱こうとする互いの作用をもてば、それは宇宙力が保護します。それが主体と対象の関係です。

 

 

 

14 痛みとは何でしょうか。私たちのすべての器官において、バランスを取る、ある一面が破壊されたとき、それを早く是正しなければ、宇宙が「お前は現在、共存原則の基準において不合格者だ」と言いながら追い出すのです。その追い出す力のゆえに痛みを感じるというのです。

 

それでは、悲しみはなぜ起きるのでしょうか。同じです。「私」自身が平和な境地で体と心が一つになり、環境と一つになって、宇宙のより大きな世界に前進していくのに和合する場に立てば、そこでは宇宙が保護してくれるのです。宇宙の全体世界において互いが連結され、共存できる連体的作用圏を形成していれば、互いが相応する立場で保護してくれるのですが、そこに相反するときは、必ず宇宙力が追い出すのです。これが悲しみに連結されるのです。

 

 

 

15 宇宙には、相対理念を備えていない存在は、存続することができません。相対理念を備えた人は保護します。必ず保護してくれるのです。ですから、男性と女性が永遠の愛を中心として一つになって生きようとするときは、全宇宙が保護するのです。前後、左右からこれを侵犯する者はいません。体に授け受けする道があるのですが、病気になるのは、その一つが詰まっているからです。プラスとマイナスの道が塞がっているのです。塞がっていれば、宇宙の不合格者です。

 

相対理想を備えていてこそ保護するのですが、そのようにできなければ、不合格となったその割合に応じて一気に追いやるのです。激しく追いやる作用が痛みとして表れます。押せば痛むでしょう。病気のゆえに痛むのではありません。宇宙力のゆえに痛むのです。「お前が授受作用できず、主体と対象の和合関係を構築しないからだ。お前の体がこの詰まったものを取り除いて和合させなければ、宇宙の廃棄物処理場に入るのだ」と警告するのです。宇宙は和合するものを保護するようになっているのです。

 

 

第四節 万物の創造と進化

 

天聖経   第六篇 真の万物  第二章 宇宙の根本と秩序

第四節 万物の創造と進化

 

 

 

1 今まで学者たちにとって、進化論が正しいのか、神様の創造が正しいのかということが問題でした。愛の概念がある前に、先に進化の概念がありましたか。どちらが先でしょうか。進化の概念が先ではありません。愛の概念が先にあり、そのあとにそれがあったというのです。ペア・システムの宇宙が先に生じ、その中で形体的な構造が合うものが進化論形態として合っていただけであって、根本がそうだからそうなったのではありません。

 

 

進化より愛の概念が先

 

2 すべての鳥の種類は、形態が似ているとしても、種は区別されます。すずめとほおじろが夫婦になって子供を産むことができますか。できません。アメーバから人までは何千段階の種の区別があるのですが、これを無視して一度にさっと人が出てくることができますか。アメーバから人になるまでは、何千段階を越えて連結されなければならないのに、自分勝手に連結することはできません。とんでもないことです。種の区分は絶対的です。概念が先か、実在が先かというとき、実在が先だと言って唯物論が出てきたというのです。ですから、真の愛だけがすべてのものを連結できるのです。

 

 

 

3 今日、進化論が事実か、造化の創造が事実かということが大きな問題になっています。進化論の方向性は、誰が決定するのですか。自分が決定しますか。発展するその物質が決定できますか。また問題は、それ自体が理想圏と関係を結べる力をどのように育てることができるか、さらに、生み出せるか、プラスさせられるかということです。それは、神様によってのみ可能なのです。そのような問題は、科学も解明できません。物質にもやはり人の欲望のようなものがあるのですが、その欲望の方向は神様と一つになることです。それが目的です。ここにおいて宇宙のすべての元素の総合的存在、物質世界の代表が人間なのです。

 

 

 

4 神様は人間の主体です。被造世界全体の主体です。このように、作用の中心となる方を神様と呼ぶのです。今日、科学者たちは、「この宇宙は力でできている」と言います。しかし、力が存在する前に作用があるという事実を知らずにいるのです。主体と対象があって作用があるという事実を知らずにいるので、混乱が生じるのです。

 

 

 

5 環境圏内に存在する物は、必ず主体と対象の関係をもつようになっています。それは、必然的条件です。そうでないものは、このすべての宇宙の力、自然の力が追放するのです。すべての存在物、鉱物世界から動物世界まで、いくら微小なものだとしても、それらが願うのは、神様の愛を受けられる対象、実体の構造物になることです。

 

元素は、愛の元素になって鉱物に吸収され、鉱物は、愛の元素を引き入れて植物に吸収されることを願うのです。神様の愛の対象の位置まで、人間まで訪ねていくのです。人間の中でも、人間の愛の器官まで行くのが目標です。もしそのようなものがなければ、生物は存続できません。低級のものは高級の存在に吸収されるようになっています。吸収されることによって、自分の価値やレベルが高い存在に上がっていくのです。

 

 

 

6 力の公式的な原則を見れば、入ってくる力と、出ていく力は同じでしょうか。力が入ってきて作用をしたのに、入ってくる力と作用をしたあとの力が同じということがあるでしょうか。ここには消耗が起こります。運動をすれば消耗が起こるのです。ですから、入ってくる力と出ていく力が同じということはあり得ません。作用したあと、力はいつも小さくなるようになっているのです。進化論者は、作用すれば力がもっと大きくなると言います。そのような公式はありません。そのようになれば、この世の中はひっくり返ります。ですから、第二の力が必要なのです。

 

 

 

7 主体と対象が作用して、現在よりも劣るようになるのなら作用せず、より良くなることを発見すれば作用する、というのが原則になっています。そのように見れば、進化するにおいても、より良くなるという何かの目的をもつことができなければ、発展できません。発展するためには、横的により強い力が加重されなければならないのです。そうでなければ発展できません。その力は、作用することのできる目的と対象がなければ絶対に出てこないのです。

 

 

 

8 進化論を解決しなければなりません。進化論の概念と実在は、共産主義が利用するのです。見えないものが貴いのです。神様が見えますか。良心が見えますか。愛が見えますか。人間にとって最も貴いのはこの三つです。見えない三つの貴重なものが神様、良心、愛です。

 

良心があるというのはみな知っているでしょう。「良心はない」と言う人がいますか。「愛はない」と言う人がいますか。目には見えません。見えないのでどこにでも入っていくことができ、どこにでも一つになれるのです。見えれば、入っていけますか。見えないので細胞の中にも入っていけるのです。通じない所がないということです。そのような論理の根源を探すことができます。愛だけは誰も制止できないのです。真の愛は、宇宙が制止できず、妨げることができないのです。

 

 

 

9 宇宙の根本は何でしょうか。進化論でもなく、創造論でもありません。進化と創造の概念がある前に、雄と雌がいたことを知らなければなりません。雄と雌が生まれたのは、愛のためです。これが公式です。愛のために男性がいて、女性がいるのです。男性が男性世界で愛を探すことはできません。女性が女性を中心として愛を探すことはできません。女性が男性を探すところから、男性が女性を探すところから、愛を見つけることができるのです。

 

 

宗教と科学の統一

 

10 神様が人間に総括的な統一理念を成就する責任を負わせてくださったため、人間は自然を研究する自然科学を一つの統一科学形態に発展させてきているのであり、宗教を通じて心の世界を糾合してきているのです。十六世紀後半には、宗教と科学が分かれましたが、終わりの日である今日に至っては、再び一つの目的を達成できる帰一段階へと越えていっているのです。

 

 

 

11 今日の科学の発達、すなわち科学を中心として出てきた現代文明というものは、統一的な外的理念を成就してきています。それが世界的な統一の理念圏にまで進んできています。内的な面において、言葉で明らかにする科学文明ではなく、心で明らかにする宗教、すなわち人間の本性と性稟を明らかにする宗教と、全人類が一つになれる内的な世界を建設する使命を完遂しなければなりません。

 

今日、宗教と科学は、互いに対立する立場に置かれています。しかし、原則はそうではありません。終わりの日には必ず、体を造ったあとに命の息を吹き入れて、神様の代わりに立てるアダムを造られたのと同じように、歴史の終末的な現象も、そのように帰一しなければならないのです。

 

 

 

12 科学は結果的な世界を探る論理であり、宗教は心情に通じる分野であり、思想は今までの文化史を中心とした論理です。この三つの系統が伝わってくるのですが、これがすべて別々になっています。宗教は宗教なりに、科学は科学なりに、思想は思想なりにすべて別になっているというのです。神様はお一人であるため、これを互いに分けておくことはできないというのです。終わりの日になれば、神様を中心として宗教と科学と思想が一つにならなければなりません。

 

 

 

13 宗教的最高の頂上から科学的最高の頂上に通り、思想的最高の頂上まで連結できる、地上に現れている一つの思想体系において、宗教の理想的な基盤となっているところは、統一教会しかありません。ですから、神様が統一教会を通して代わりに役割を果たさせるという論理的結論が出てきます。これは人間がするのではありません。神様が今の時代において科学をこのように急激に発展させ、宇宙科学まで発展させたのは、宇宙を主管するための思想的な変革時代に入ったからです。科学がこのようになったのは、宗教的統一圏を、宇宙を含む統一圏に拡大するからです。そのようにしなければ、宗教と科学と思想が一つになることができません。

 

 

 

14 神様は、宗教的真理の根源であるだけでなく、科学的真理の根源でもあります。神様は、最初の説教者であると同時に、最初の科学者でもあります。先生はこの事実が宇宙の根本真理だということを固く信じており、先生の生涯の課業はこのような仮定に基づいたものでした。生きていらっしゃる神様の使徒として、先生は全被造世界に実体的、霊的に明らかに現れて示される神様の存在の本質的なすべての面を、より広く、深く、明確にし、統一しようと試みてきました。

 

 

 

15 科学の目的は、人類の外的な夢を実現するところにあります。ところが、過去においては、科学が民族的、国家的障壁に遮られ、素晴らしいものが発明されても、それが直ちに人類全体の福祉に寄与できない場合がたびたびありました。ときには、科学文明にも国境がなければならないという主張もされました。しかし、科学文明は本質的に人類全体のものでなければならず、ある特定の国家や陣営の専用物であってはならないのです。

 

 

 

16 過去、数世紀の間、科学はあまりにも分析的方法に傾き、多くの部門が専門化され、科学の細分化現象が起こったのは事実ですが、最近は総合的な方法によって細分化された知識を総合、統一する希望的な傾向が現れています。統一科学は、その際立った例だと言えるでしょう。いずれにせよ、今日までの科学が、たとえ細分化現象があったとしても、すべての部門がそれぞれの立場で福祉世界の実現という一致した目標、一致した方向を目指してきたのは事実であり、またこれからもそれを目指して進んでいくことを信じてやみません。

 

 

 

17 科学は、人間生活において単に手段であり、目的にはなり得ません。人生の目的は、神様の創造目的を実現することにあります。人間は霊と肉の結合体です。したがって、人間は、肉的生命を土台にして価値のある人生、すなわち愛と真理と善と美の生活をするようになっているのです。便宜的に言えば、科学技術は霊的生活に一致し、肉的生活に必要なものです。

 

ですから、価値のある生活を強調しなかったり無視したりする科学は、かえって価値観の破壊をもたらし、今日のような恐怖と不安の現実へと導くのです。この不安な現実において人間を救うのは、真の価値観を追求し発展することによってのみ可能です。ですから、科学は言うまでもなく、絶対価値に起因したこの価値観に一致しなければならないのです。

 

 

 

18 絶対価値は、どこにおいて発見できるのでしょうか。それは、神様の愛においてのみ探し出すことができます。神様の愛による美と真理と善が、正に絶対価値です。結局、科学技術の悪用による被害から人間を解放するのは、科学自体が神様を認識し、神様の愛と同じ方向にその技術を活用するとき、可能となるのです。

 

 

 

19 神様には、メシヤを再び送る前に、必ず成就すべき二つの重要な宿題があります。その一つは、高度な物質文明の発達です。神様のみ旨が成就されるということは、すなわち地上天国が成就されるということですが、それは霊的天国だけを意味するのではなく、肉的天国、または物質的天国も意味します。ですから、メシヤの降臨とともに成就される高度な精神文明を収める器、いわゆる高度な物質文明の世界を準備される必要があります。

 

さらには、神様の理想では、世界が一つの国なので、その世界が科学の発達によって交通と通信手段が高度に発達し、全人類が一日生活圏の中で暮らすということは、地上天国建設においてこの上なく重要な要素です。これは、統一世界文化創造に必要不可欠な条件なのです。

 

 

 

20 科学は、人間の物質的生活を改善するのがその本分であるため、統一科学は実践面において、以前よりもさらに効果的に、物質的生活の改善に寄与するでしょう。しかし、本然の人間が精神と肉身の統一体であるように、社会生活も物質と精神の統一的生活であり、理想世界も愛と創造の統一的世界であるため、物質的生活の改善だけでは真の幸福の世界は実現できません。

 

ですから、統一科学は、その役割を完全に果たすため、不可避的に統一思想と再び一つに合致せざるを得ないのです。このような合致が成し遂げられるとき、長い間の宿題であった宗教と科学の統一が実現され、名実ともの福祉世界、幸福な世界、善の統一世界が形成されるでしょう。

 

 

第一節 万物と人間の関係

 

天聖経   第六篇 真の万物  第三章 万物の嘆きと真の万物主管

第一節 万物と人間の関係

 

 

 

1 今日、見える万物世界を主管している人間、万物の霊長だと自負している人間が、自分を自分のものだと思っているとすれば、それは誤解です。皆さんの体は、皆さんのものではありません。皆さんの心もまた、皆さんのものではありません。皆さんのものだと認定できる根拠とは何かと聞き返してみれば、答えることができないでしょう。もしこの問題が解決されれば、それが歴史的な一つの基点になると同時に、すべての問題を解ける解決点になります。

 

しかし、今日、この地上に生きている人間は、この問題を忘れたまま、何となく暮らしています。神様は、宇宙を失って悲しまれるよりも、このような人間になったという事実をもっと悲しまれるのです。ですから、そのような神様の心情を感じて体恤する人がいるとすれば、その人から根本的な宗教の摂理が出発できるのです。ここから、神様を再び探すことのできる道が開拓されるのです。この地上に存在しているすべてのものが地を父母としており、天体を父母としており、さらには創造主を父母としているのと同じように、皆さん個人も、皆さん個人で終わるのではありません。

 

 

地は人間の第二の母

 

2 私たちの体を養育してくれるのは地です。私たちの体に必要な要素を提供してくれる地は、私たちの父母です。しかし、この地が人間の父母だということを知る人はいません。次に、私たちを生んでくれた父母がいます。体の父母は地であり、心の父母は私たちを生んでくれた父母です。

 

しかし、人間にはこの二つの父母だけがいるのではありません。この父母を越え、理念的な価値の姿、絶対的であり永遠無窮なもう一人の父母がいるのですが、その父母を認めず、解き明かせないとすれば、人間は嘆息するしかありません。ですから、全人類は、流れゆく歴史路程において、そのような父母を解き明かす一つの瞬間、ひと時、一つの時期をもたない限り、安息の園をもつことはできません。

 

私たちには、「心情的な父母」がいます。その父母は、地と共に滅びゆく父母ではなく、地の歴史と人類の歴史を激しく揺るがし、治めて余りある父母です。その父母が正に天上の父母、すなわち私たちを創造なさった父母です。人間には、このように三大父母がいるのです。

 

 

 

3 人間は、自分を生んでくれた父母だけが父母だと思っていますが、そうではありません。皆さんの体の源泉は土の塊です。皆さんは、生んでくれた父母の息子、娘として生まれましたが、生んでくれた父母だけに似たのではありません。人間は、その父母を越え、新しくより大きな何かを追求するのです。

 

動機と縁がなければ天的な結果はあり得ないのが鉄則ですが、絶対的な価値の姿を慕うのは、そのような父母がいるからだということを否定できません。真の人間は、地に対して心情が通じる人でなければならないでしょう。自分を生んでくれた父母が地であれば、人類はその父母と共に心情的にために生きることのできる人でなければなりません。さらには天を知り、天上の父母のみ旨を心配し、そのみ旨が願う善の目的地に向かってきょうもあすも闘っていく人、そのある絶対的な関係を解き明かすために努力する人は、真の人生行路を歩んでいる人だと見ることができるのです。

 

 

 

4 宇宙にある万物が、人間の肉体の中からそれぞれ自分たちの物をすべて探し出そうと主張すれば、人間はすべてを奪われてしまうでしょう。宇宙からすべての元素を借りてきて形成されたからです。それは、「宇宙が私を生んでくれた。宇宙が私を造った」ということです。ですから、私の体の父母が宇宙です。私は宇宙の元素を総合した実体だというのです。

 

したがって、「私は動く宇宙である」、「私は活動する宇宙である」というのです。このような観点で宇宙を愛さなければなりません。

 

 

 

5 自然の中に座って万物を見つめ、自然を見つめれば、神秘的なものを感じます。自然をこの上なく愛する気持ちが湧き出てくれば、人間を自動的に愛するようになるのです。花と蝶、すべての万物を見れば希望をもつようになります。「私は自然におけるひとり子であり、お前もまた自然におけるひとり子だ。だからこの宇宙は、私とお前のためにある」と考えなければなりません。これがどれほど素晴らしいかというのです。

 

 

 

6 地は愛の種を植え、収めることのできる畑です。地から私たちの生命要素を吸収し、育つのです。母の体は畑と同じです。母のおなかの中から、母の体のすべての血肉と栄養素を吸収して育った赤ん坊が生まれ、地上で大きくなり、家庭を通して完成し、収穫されていく所が霊界です。

 

ですから、霊界は、秋に刈り入れたものを積んでおく倉庫と同じであり、地上は、刈り入れをする畑のようなものです。畑でよく育ってこそ素晴らしい実ができます。地上で上下関係、左右関係、前後関係の真の愛で一体圏の愛の理想を体験していくことによって、神様の国の倉庫に入って、神様の愛を中心として生活の理想的相対圏となり、神様と永遠無窮に生きるのです。

 

大宇宙が私たちの家です。これが天宙です。大宇宙が私たちの家なのですが、思いのままに主管しながら、神様と愛によって一緒に永遠に暮らすのが、人間の最大の幸福であり、最大の解放であり、最大の自由です。

 

 

 

7 人の体の約三分の二は水です。見えない空気と見える水が供給され、皆さんの子女を育てるのです。それは地から供給します。ですから、地は第二の母です。ですから、皆さんの母よりも、もっと愛さなければなりません。

 

そのように育ったのちには、霊界に飛んでいかなければなりません。子宮と空気の世界を経て霊界に入り、解放されるのです。そこが最後の目的地になります。そこが神様を中心とした天国です。

 

 

万物の中心は人間

 

8 神様は、アダムとエバの外的で生物的な成長のための足場として、美しく繊細に準備した環境である万物世界を創造されました。このような環境の中で人間は成長し、発展します。神様のより深い関心は、人間の内的性稟と愛の人格にありました。彼らは、真の愛の経験を通し、神様の真の愛に似て完成するのです。神様は、愛の力を内的で非物質的な力の中で最も強力なものとして創造されました。

 

 

 

9 「万物之衆惟人最貴(マンムルチチュンユインチェキ)(あらゆるものの中で人間が最も貴い)」という言葉はもっともな話です。神様も愛の相対が必要で、人間を造ったのです。中心である人間を手本として、和合し、吸収されるようにすべての万物を造ったのも、愛の理想のためです。

 

被造世界を観察すれば、鉱物世界、植物世界、動物世界、人間世界もすべてペア・システムになっているのが分かります。鉱物世界を見ても、プラスとマイナスが作用しています。元素と元素も、どんな組み合わせでも結合するわけではありません。相対的要因に合わなければ、神様も思いどおりに命令できません。それと反対に、互いに相対的要件が合うときは、神様でも妨げることができないのです。レベルは低いのですが、鉱物世界も愛の創造理想型モデルの核に反応できるよう、そこに通じるように作用するのです。

 

 

 

10 宇宙の存在秩序は、ために生きることを根本としています。真の理想、真の愛、真の平和の世界は、神様の創造理想であると同時に人間の願いです。ですから、理想の起源、幸福と愛の起源は、相対のために生きるところにあるのです。宇宙を見れば、いかなる存在物も、自分だけのために存在するものは一つもありません。植物界は動物界のために、鉱物界と植物界は動物界のために、またこのすべてを合わせた万物は、人間のために存在しています。それでは、人間は、誰のために存在しているのでしょうか。人間は、神様のために存在しているのです。その神様は、万物のために存在し、それらが存在し、成長し、発展するようになさるのです。

 

 

 

11 人間は、すべての存在世界の実であり、縮小体であると同時にモデルと言えるので、鉱物と植物、動物のすべての要素をもっている最も高次元の存在です。しかし、人間も、どこまでも結果的存在なので、ある第一原因的存在があり、それに似て生まれたという結論が成立するのです。すなわち、人間を対象とする絶対主体的存在が必ず存在し、私たち人間が人格的存在であれば、その主体も明らかに人格的存在であるに違いありません。

 

その第一原因的絶対者を哲学では存在者と言い、宗教では神様と呼ぶのです。

 

 

 

12 万有は二重目的、すなわち個体のための目的と、全体の中で和合するより高い次元のための全体目的をもっています。したがって、宇宙は二重目的の連体になっている一つの大きな有機体と同じであり、個体内で主体と対象が完全に一つになって個体目的を完成した存在は、それ自体だけで孤立、単独、固定された状態でのみ存在することはありません。個体は他の存在と関連を結ぶために、主体的立場、もしくは対象的立場を取り、それと一つになることによって、より高次元の方向性と目的性を帯びた存在として発展します。

 

このように、宇宙は、主体と対象の共通利益で連結されている共同目的体なので、その中に宇宙全体の共同目的のためのある力、宇宙力をもっているのです。主体と対象の永遠の調和合一のための最も濃い、完全な相関関係の内容とは何でしょうか。愛を中心とした授受の関係です。愛の動機は人間ではありません。愛の究極的根源は、絶対不変の原因的主体です。宗教では、この第一原因者を神様と言うのです。

 

 

 

13 神様の創造過程を探ってみれば、神様は万物を先に創造された土台の上に、最終的に人間を造られました。人間は、最後に造られた傑作です。神様を中心としてすべてのものが始まったのです。人間の創造を終えることによって、神様と人間、そして万物が平衡を保った立場で統一されることを願われたのです。人間は、神様を中心とする霊界と肉界を接触させる媒介体の使命をもっているのです。

 

 

 

14 万物は、神様の息子、娘を造ることのできる土台です。関係し、連結できる土台です。動物もそうであり、鉱物もそうです。鉱物世界にもプラスとマイナスがあります。植物世界にも雌しべと雄しべがあり、動物世界にも雌と雄がいます。すべてに橋を架け、すべてのものが結集して創造された最高傑作が、人間の内的な形状と外的な形状です。すべての形状を賦与し、象徴的に、形象的に、実体的にすべてを表して橋渡しするようにし、すべて連結されて関係を結ぶようにしたのです。

 

 

 

15 世の中は、様々な組織体と関係の調和の中で運行されています。複雑で多様なこの世の中において、真の主人にならなければならないという思想は、人間と人間の関係はもちろん、人間と万物の関係にも適用される思想です。

 

問題は、どのような人間に対して「真の主人」と呼べるかということです。より他のために配慮して献身、奉仕する「ために生きる人生」、すなわち真の愛の人生を実践躬行する人が真の主人になるのです。

 

真の愛をもって万物を愛し、保護、育成する人が、万物に対しても真の主人になるのです。

 

 

 

16 愛の中で組み合わさったものは一つです。一つの連体現象です。「私」の髪の毛と「私」は似ています。髪の毛を見れば、これは何でもありません。関係がないように見えますが、関係があるのです。

 

同じように、このすべての草木は産毛と同じです。愛は不思議な作用をするのですが、このすべての万物も、自分なりの愛の表示的情緒を感じているのです。

 

ですから、花も音楽を聞かせてあげ、情緒的な環境を造ってあげれば、満開に咲くのです。つぼみが咲きかけて、しおれることはありません。円満に咲くというのです。鶏を育てるときも、音楽を聞かせればよく育つのです。相対的な周辺環境と歩調を含わせていき、和合する環境で育つときは勢いが衰えることがないのですが、四方に和合できずに育つときは潰れてしまうのです。

 

 

 

17 神様が環境を創造したのはなぜでしょうか。そこにすべての万物と植物が暮らすことによって、人間がそれらを吸収して栄要素を満たせるようにするからです。海の魚、山の草木、このすべてが人間に栄養素を補給するのです。

 

次に、病気になったときに使う薬材を作れるのが万物です。一つも使えないものはありません。一番ぞんざいに扱われているものが、一番良い薬になるのです。毒蛇の毒が、薬の中で最も良い薬だというのです。

 

 

第二節 万物の嘆きと万物復帰

 

天聖経   第六篇 真の万物  第三章 万物の嘆きと真の万物主管

第二節 万物の嘆きと万物復帰

 

 

 

1 万物は、サタン世界において、サタンの子女の名をもつ存在によってサタンの主管を受けています。またサタン世界の国家に主管を受けています。これが神様の嘆息される理由であり、万物が嘆息する理由です。ですから、これを蕩減、解怨し、神側に復帰しなければなりません。そのためには、神様を中心とした神様の息子、娘が万物を主管しなければなりません。神様の前に主管を受けることを願う万物を、アダムだけでなくエバまでも主管しなければなりません。また人間の先祖、アダムとエバの子孫も、やはり一つになって万物を主管しなければなりません。

 

 

嘆息する万物

 

2 人間が堕落することによって、万物世界がサタンの主管圏に堕ちました。それで万物の嘆息圏が広がったのです。人間世界の嘆息圏と万物世界の嘆息圏、二つの嘆息圏が広がりました。創造された被造世界においては、人間を中心としてすべての被造世界の環境的な条件が成立するので、人間が堕落することによって万物が嘆息圏内にとどまるようになり、また堕落した子孫を中心として人間が嘆息圏内にとどまるようになったのです。

 

ですから、万物が先に象徴献祭によって神の前に帰って解放されなければなりません。万物をまず造り、その次に人間を造ったので、再創造の過程においてもそのようにしなければならないのです。万物の嘆息圏を解放しなければなりません。万物圏が解放されたその基盤の上に、人を造ったのと同じ立場に戻らなければならないのです。

 

 

 

3 万物の中には、鉱物世界、植物世界、動物世界があります。鉱物世界から嘆息しているのです。すべてサタンの血統圏に落ちることで、神様を主人と考えることもできず、関係を結ぶことができないというのです。すべて塞がってしまいました。ですから、万物の嘆息、その次に人間の嘆息があるのです。霊界に行っては天使世界の嘆息、神様の嘆息が起こっていくのです。

 

 

 

4 人間が堕落することによって、神様の理想を中心として神様が喜ぶことのできる日をもつことができず、人類始祖が願った理想の日をもつことができず、万物が堕落せずに本来の神様の物として愛を受けられる圏内に入れませんでした。ですから、これを再び取り戻して合わせなければ、この世界は再び生きる道がなく、神様の愛の世界を訪ねていく道がないという結論が成立します。

 

ローマ人への手紙の第八章を見れば、人間が堕落することにより神様の嘆息が生じ、その次に人間の嘆息が生じ、万物の嘆息が生じたとあります。その嘆息はなぜ生じたのでしょうか。それは、神様が愛することのできる息子、娘を失い、人間は愛を受けることのできる父母を失い、また万物は愛を受けることのできる主人を失ったからです。

 

 

 

5 万物が嘆息するというのは事実です。自分たちが苦痛なので嘆息するのではなく、自分たちをお造りになった神様が嘆息されるので、嘆息するというのです。人間が手にするあらゆる万物の中で、どれ一つ、恨を抱かなかったものがないのです。ですから、人間は悲しむことができなければならないのですが、そのような人がどこにいるでしょうか。この嘆息圏を誰が解いてくれるのでしょうか。神様お一人ではできません。万物もできません。サタンはなおさらできません。ただ人間だけができるのです。ですから、少なくとも、悲しみの同志にならなければなりません。

 

 

 

6 復帰摂理歴史を見れば、旧約時代には祭物を通して復帰してきました。最初は祭物を中心として人間と一つになるための摂理をして、次は、人を中心として神様と一つになる摂理をしました。これが今までの復帰摂理歴史です。これからは、このような出来事が皆さん自身で起こります。そうして、皆さん自身が祭物のような立場で万物と一つになり、その次に神様と一つにならなければなりません。このように、縦的に続いてきた歴史が今、横的に皆さんの家庭において成し遂げられなければなりません。

 

 

 

7 万物を主管するためには、男性と女性が「愛」という文字を中心として一つにならなければなりません。このときに万物を主管するのが原則です。神様がアダムとエバを祝福なさるとき、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」(創世記一・二八)と言われました。生育して繁殖し、地に満ちて万物を主管しなさいということです。結局、家庭を築いてから万物を主管するのです。

 

 

 

8 人間は、新郎新婦の名を備えて真の家庭を築くときまで、万物を主管できる権限をもてません。人間が万物を主管しようとすれば、本来の基準、アダムとエバの本来の基準を復帰するときまで待たなければなりません。万物は一つになった人間に主管を受けなければならないので、本然の愛を経たのちに被造万物を主管するのです。万物は、愛の関係の中で愛を受け、愛の関係の中で尊重される立場で成長することを願います。そのようなところが、万物がとどまるべき永遠の場所です。

 

 

 

9 人間が堕落することによって本来の位置を失ったので、万物が嘆息するというのです。それで万物も、すべての嘆息圏を治める権限をもった神様の息子が多く現れることを待っているのです。このような息子が多く現れることによって、神様の息子の家庭を中心として、万物が主管を受けられるのです。万物はこのような時を願ってくるので、それを成し遂げるのが宗教の使命です。人間は、その時が成し遂げられるまでは、万物を主管できる権限がありません。

 

 

 

10 愛を中心として万物を主管する特権的価値を主張できる人がいません。本然の愛の心情で万物と向き合うことのできる基準に到達しなければ、万物を食べ、消化できる資格が私たちにはありません。万物は家庭に主管されるのです。愛に満ちあふれた家庭と共にいれば、万物が嘆息するでしょうか。しないというのです。万物も愛が花咲く場で主管を受けようとするのです。

 

今までの修道の基準は、そのような位置まで出ることができませんでした。そのような場に出なければ万物を主管できないので、その位置の主人になろうとすれば、新郎と新婦として二人が一つにならなければなりません。新郎新婦が家庭を築き、その家庭を中心として万物を主管するのが本然の法度です。そのようにするためには、失われた人間を取り戻さなければなりません。そのようにできなかったので、万物を主管できる特権的な権限を許されない立場にいるのです。

 

 

 

11 皆さんが着る服や一つ一つの必需品までも万物の一部分なので、自分が使っている日常生活のすべての必需品を、自分の生活の限界圏内にとどまっている万物として扱ってはいけません。すべてのものを、被造世界の万物を縮小させた直接的な相対物として扱い、その価値を世界的なものとして評価する生活をしなければならないのです。そうして自身の生活自体が一つの生きた祭物の表示になるようにし、その祭物となった環境を中心として、いつでも神様が臨在なさることができるという信念をもって生活しなければ、万物主管のための真なる家庭的基盤ができません。

 

 

 

12 すべての被造万物は、サタン圏内にいるサタンの子女を通して主管を受けてきたので、サタンの物であるという立場に置かれています。これをすべて神様の物として復帰しなければならないのです。復帰路程の原則的な基準から見るとき、万物はまず人類始祖の物にならなければなりません。もちろん、神様の物であることは言うまでもありませんが、神様が人間の前に下さった祝福の基準を中心として見るとき、人間始祖の物にならなければならないのです。すなわち、堕落していない善の父母の物にならなければなりません。その次に、善の子女の物にならなければならないのです。

 

 

 

13 完全な復帰においては、「私」一人だけが復帰されてはなりません。天と「私」が一つになり、外的な万物と完全に一つになって、「これは天の物だ」と言える立場を決定したあとにこそ、「私の物だ」と言える位置に立つのです。自分の物である前に神様の物にならなければならず、さらに真の父母の物にならなければなりません。そうでなければ自分の物になりません。「私」がもっている物をそのような位置に引き上げ、公的関係を経なければなりません。「私」を通した物質的関係を結ばなければならないのです。そのためには、小さな物質的関係よりも、より大きな物質的関係の基準を経て、大韓民国を復帰できる基盤をつくらなければなりません。

 

 

万物の恨を解怨してあげる真の主人

 

14 人間が万物の霊長という特別な価値をもって生きる条件とは何でしょうか。万物より先にあり、それ以後にも永遠に存在する神様の心情をもつことです。神様の心情をもてば、何よりも先立つことができます。中心、すなわち根と関係を結んでこそ、人間の価値が決定されるのです。それがすなわち心情です。

 

この心情は、太初から神様と共にあるものです。この心情をもって号令をかけるとき、万物は、「はい、おっしゃるとおりです。ありがとうございます」と言うでしょう。そのようになっています。しかし、神様も万物も、なぜ悲しむのでしょうか。それは、この心情関係が断ち切れたからです。この断ち切れた心情関係をつなぐためのものが復帰歴史であり、復活の歴史です。心情関係がつながれば、神様に対して「あなたは私の父であり、私はあなたの息子、娘です」と言うことを否定する論理はありません。いかなる人も否定できません。父子の間の心情関係は、いかなるものによっても否定できないのです。

 

 

 

15 私たちが失った本然の基準を取り戻し、新しい理念の天国に入って暮らそうとすれば、どんな人になるべきかを知らなければなりません。造られたすべての万物は、神様と愛の関係を結んでいることを知り、それを父の影のように感じられなければなりません。事実、万物は父の心情の影のようなものです。父がもてる精力をすべて注いで造られたのです。父の手を経て造られたものなので、万物は父の代身者のように貴い価値を感じ、愛してくれることを願っています。しかし、堕落以降、今日まで、誰もそのように扱ってはくれませんでした。ですから、嘆息せずにいられるでしょうか。ですから、聖書に、万物が喚息しているとあるのです。

 

 

 

16 嘆息する万物の恨を解怨してあげなければならない責任を負った皆さんは、一本の木や一株の草からも、六千年前にそれらを造る時の、神様の心情と創造のみ手を体恤しなければなりません。ですから、「主人を失ってしまい、どれほど寂しかっただろうか」と言いながら、道を歩いていて一株の草を見ても、涙を流すことができなければならず、一本の木をつかんでも泣くことができなければなりません。ここで話をする先生は、それらをつかみながらたくさん泣きました。岩をつかんでも泣き、風が吹くのを見ても泣いてみたのです。

 

 

 

17 神様が心情によって造られた天地万物を愛し、誇らなければなりません。それは、神様が愛する息子、娘が豊かに暮らせるようにするために造ってくださったものです。金銀財宝を払っても買うことのできない貴い創造物です。ところが、それがぞんざいに扱われ、無視されてきました。それで今、天地万物が嘆息しているのです。山を見れば山が嘆息し、野原を見れば野原が嘆息しています。吹きつける風さえも嘆息しているのです。

 

 

 

18 皆さんは、神様に侍る息子、娘にならなければなりません。そのあとには、神様の息子、娘の資格で万物に責任をもつ万物の主人にならなければなりません。神様の心情、六千年間、罪の多い私たちを訪ねてこられ、見捨てることなく愛された神様の心情を見習い、ありったけの愛で愛する皆さんにならなければなりません。

 

誰がいてもいなくても、皆さんは一株の草をつかんで、「父よ!あなたがこの草を造られるとき、このような思いをもって造られたのでしょう。この草をもっていって愛する息子、娘に見せながら、どれほど誇りたかったでしょうか。父が造られたこの草も、愛する息子、娘に自らを誇ってくれることをどれほど願ったでしょうか。そのような日を迎えることができなかったのですから、どれほどおつらかったでしょうか」と言えなければなりません。

 

 

第三節 真の万物主管

 

天聖経   第六篇 真の万物  第三章 万物の嘆きと真の万物主管

第三節 真の万物主管

 

 

 

1 世界の主人は神様です。それでは、誰がこの地を治めるべきでしょうか。当然、この世界の主人である神様が治めなければなりません。そうでなければ、神様から愛を受ける、主人を代理する人が治めなければなりません。世界の主人は神様です。したがって、神様に忠誠を尽くす思想をもった人間が世界を治めるのです。

 

人類を永存させるためには、神様を主人として一つの世界、言い換えれば、より価値のある一つの世界、より永遠の一つの世界を成し遂げようという主義をもたなければなりません。それが何主義かというと、神主義です。神様の愛を受ける息子、娘になれば、「世界は私のものだ」と言えるのです。

 

 

公的に管理しなければならない万物

 

2 万物は、公的な法度による統治を受けるようになっています。公的な法度の主管圏内にあるというのです。人間も公的な法度の圏内に属しているのであり、万物も公的な法度の圏内に属しています。国家も公的な法度の圏内においてのみ、存続することができます。ここに私的な内容が介在するときは、存続することができないのです。

 

 

 

3 公的な人は、すべての万物を公的な世界の統治法で管理することができ、主管できるのです。その内容が正に天法です。皆さんがこのような原則を知っておけば、言葉を話しても、どんな行動をしても、罪にならないのです。悪を除去するための行為は罪になりません。三回以上、言い聞かせたのにもかかわらず、話を聞かないときは、打ってでも正してあげなければなりません。したがって、皆さんは、常に善と悪をえり分け、より大きなもののために生きなければなりません。天地のために生きる人々ほど恐ろしい人間はいないのです。

 

 

 

4 この世の中にある万物を見て、「お前は、公的な法によって治められるのを願うのか、私的な法によって治められるのを願うのか」と尋ねれば、「より公的な法によって治められたい」と言うでしょう。それはなぜでしょうか。人が最高の善の圏内に進みたいと思うのと同じように、万物も最高の善の圏内に進みたいと思うからです。ですから、世界のすべての万物と、すべての人間は、誰によって治められたいと思うのでしょうか。より公的な存在によって治められたいと思うのです。

 

 

 

5 皆さんは、万物を公的に管理できる人にならなければなりません。御飯を食べるときは、その御飯の価値を知って食べなければなりません。「お前は、どんな人の口に入ることを願うのか。お前は、どんな顔をもった人の口に入って骨となり、肉となり、エネルギーとなり、善の世界のために何を残したいと思うのか」と考えながら御飯を食べなければならないというのです。御飯がおなかに入るのは同じですが、たった一つの御飯粒でも、善の人に入っていくことを願うのです。より公的なものを願うというのです。

 

 

 

6 公的な物は恐ろしいのです。公的な物が個人の命を奪うこともあります。近頃は、都市の空気を汚染しないようにしようと言いますが、当然そのようにしなければならないのです。きれいにしなければ侵犯されます。また水もきれいにしなければなりません。このように、万物はすべて公的なものなのです。

 

太陽は生命の根源であり、無限の価値をもっています。私たちは、そのような太腸の光をただで受けています。太陽の光を買おうと、お金を用意して持ち歩く人を見ましたか。また太陽の光を受けたからと言って、一銭でも出した人を見ましたか。この太陽の光を売ると言えば、買いますか、買いませんか。水や空気、光などの自然物は、皆さん個人のものではありません。

 

 

 

7 今まで自分がもっていた物、もしくは自分所有の財産は、自分がしばらくの間、管理する過程にあるものです。すなわち、皆さんは管理人だというのです。各自がよく管理し、神様に奉献してさしあげるべきこの万物は、真の父母を経て、神様の懐に帰らなければなりません。言い換えれば、神様の物であると同時に真の父母の物であるという過程を経て、自分の物になるという事実をはっきりと知らなければなりません。

 

皆さんが今までこの地上で暮らしてきた慣例から見れば、ある物を指して誰々の所有だと主張することはできますが、そこにとどまってはいけません。このすべての物は、父母の名を経なければならず、神様の名を経なければなりません。そのようにしてこそ、復帰した万物の基準が完結するというのです。皆さんは、そのような日を迎えるときまで、所有主ではなく管理者です。ですから、主人に返してさしあげるそのときまで、管理人としての責任をしっかりと果たさなければなりません。このような観点から、公的な物と私的な物を明確に区分しなければならないのです。

 

 

 

8 皆さんは、公的な物と私的な物を、必ず秩序をもって区別しなければなりません。そのような過程を経て私的な物と公的な物の基準を明確にし、確固たる原則を中心として生きることができなければなりません。ところが、見てみると、大概は逆さまになっています。私的な物は大切に思い、公的な物はないがしろにしています。それでは絶対にいけません。

 

皆さんは、公的な物を大切に思うことができなければなりません。私たちがもっている私的な物を通して万物復帰の峠を越えようとすれば、まずそれを公的な物とし、教会であれぱ教会、国家であれば国家、ひいては世界の物にしなければなりません。ですから、公的な物をより重要視しなければならないのです。このように見るとき、万物よりも人であり、人よりも神様です。人間は、自分を中心として「私が一番だ」と言いますが、自分を中心としては世界復帰など話にもなりません。物よりも人であり、人よりも天です。天を中心として、すべての万物を見つめることができなければなりません。

 

 

 

9 皆さんが自分本位にもっている物は、皆さんの物ではありません。私が住んでいるその家が私の物ではなく、私が食べている御飯が私の物ではなく、私が使っているささいな日常の家の物すべてが私の物ではないというのです。これは、永遠無窮に継承できる公的な父を中心とした世界と、永久に関係を結んでいる公的な物であることを忘れてはいけません。私が着ている一着の服もそうであり、私がもっている生活基盤ももちろんであり、私がもっている体も私の物ではないというのです。

 

 

 

10 罪とは、公的な物を蹂躙することです。統一食口は、これからこのような点で最初から最後まで徹底していなければなりません。父の物は神聖な物です。その万物が神聖であってこそ、その万物を食べて生きる「私」の体が神聖になるのです。その万物が無限の価値をもつようになるとき、その万物を生活要素として暮らす「私」の体が無限の価値をもつのです。

 

そのような自分が無限の価値の公的な存在であると分かるとき、「私」はその公的な価値をもって家庭を統一しなければなりません。家庭を基盤として氏族、氏族を基盤として民族、民族を基盤として国家、国家を基盤として世界に前進していかなければなりません。より大きな分野に小さなものが吸収され、小さなものが祭物になっていかなければならない私たちなのです。

 

 

 

11 皆さんは、寝ても覚めても、父の国は私たちの国であり、父の民は私たちの民であり、父の物は私たちの物になるようにしなければなりません。これは、神様の心情と、「私」の一身を通して、心情的な二つの相対的基盤の上に乗せられ、生活し、存在することを願うことです。これが造られた被造万物です。

 

ですから、心情を取り去ってそれらを扱うのは罪だというのです。心情から外れれば罪になるというのです。私たちは、兄弟と向き合うとき、私たちの世代においては神様を立ち会わせ、神様の心情を連結させて向き合えなければなりません。そして、物質を扱うときにも、神様の心情を立ち会わせて扱えなければなりません。

 

 

 

12 「私」自身は公的な物をもっているのか、私的な物をもっているのか、これが問題です。皆さんは、「自分の物」という観念を超越しなければなりません。これが今後の世界人類に教えるべき最も大きな教訓です。皆さんは、自分の物という観念を否定し、公的な物であるという観念をもって進まなければなりません。

 

被造世界のすべての万物は、ある特定の個人に固着している所有物ではありません。自分の土地だと言って、それが良いと過度に誇れば滅びるのです。それは公的な物だからです。自分は、ただそれを管理しているだけです。その統治法に従って、自らが公的な管理人として管理すれば永遠に管理できますが、管理法に従わなければ滅びるのです。

 

 

 

13 公的管理法、万物に対する公的な管理法を、誰も知らずにいます。万物に対する真の価値を設定するときになってこそ、聖書で言う万物の解放時代を迎えるのです。そのようにすることなく万物に対するのは、管理ではなく強奪です。したがって、万物には真の主人が必要です。万物は今まで、公的な権限と価値を賦与されませんでした。万物は、そのような立場で治められることを願っています。すなわち、万物は真の愛の管理を受けなければならないということです。真は、自分を中心としたものではありません。

 

 

 

14 妻は夫のために、子女は父母のために、また父母は家庭のために、祖父と祖母も家庭のために、孫も家庭のために、このように愛によって互いのために生きるのが幸福なのです。すべての家族が、自分のものにしようとするよりも、自分たちのものにしようと努力し、祖父も節約して自分たちのものにしようとし、父と母も自分たちのものにするために節約し、息子、娘もそのようにし、家族全員が自分たちのものを拡大させるために努力する家は繁栄するでしょう。

 

ですから、お金を節約し、全体のために生きるところから愛の家が拡大されるのです。このような家庭を中心として、社会や世界に広がっていくときに理想実現が可能なのであって、自分のもの、自分を中心としてではできません。

 

 

 

15 統一教会の宣教師は、西欧文明社会の豪華な要素を必要としないほど訓練されています。私たちは新しい文化をもっているからです。それが開拓精神です。私たちの若者は、どこに行っても不慣れなことがありません。私たちの宣教師は、豪華な家具なしで、最も質素な生活道具だけをもって暮らします。皆さんが宣教師になって悲しみに沈んでいる人たちを伝道するときは、まず涙の心情をもたなければなりません。皆さんは、神様が悲しみの神様であることを彼らに認識させてあげなければならないのです。神様は、悲しみにくれている人々と共に泣くのを願っていらっしゃることを知らなければなりません。

 

 

 

16 皆さんが、捨てるべきではない物をたくさん捨て、消耗すべきではない物をたくさん消耗するのをたくさん見てきました。ですから、どのようにしてでも、世界のため、神様のみ旨のため、この国の復帰のために、一銭でも節約できる道を模索しなければなりません。ですから、経済的管理において、より一層節約できる道を開拓しなければなりません。

 

 

 

17 原理的に見るとき、浪費は罪です。私たちは、生まれるときから一定量の消耗品を使うようになっています。それ以上使えば罪なのです。私たちは、残していかなければならないというのです。そうでなければ、私たちの子孫がそれを負債として相続します。そのようなことを誰かが教育してくれますか。教育以前に、原理が先生です。自然が先生であり、海が先生です。

 

 

 

18 大切にし、節約し、苦労して何をしようというのですか。後代のために良いことをしようというのです。それで世界に誇れる基盤をつくるという思想をもとうというのです。そのような思想の伝統を十年残し、そのような思想の伝統を百年残し、そのような思想の伝統を千年残すとき、大韓民国が世界から推戴を受ける民族になるのは間違いありません。ですから、このような原則で指導しようというのが先生の思想です。反対を受けている現在においては、最も悪い思想だと見ることもできますが、のちのちにはこの思想だけが残り、この思想だけが勝利すると考えるので、このような道を歩み始めたのです。

 

 

万物主管と健康

 

19 断食をしてみた人は、時間がどれほどたくさんあるか分かるでしょう。御飯を三食食べると、どれほど多くの時間を消費するか分かるでしょう。また精神的にも、りんごを一つ食べようと冷蔵庫を開いてのぞき込み、コーラを一本飲もうと行ったり来たりする精神的消耗がどれほど多いでしょうか。食事のときだけ食べる習慣が必要です。そのようにすれば、病気にもならず、健康になるというのです。

 

 

 

20 おなかがすいて御飯を食べるにしても、御飯を茶碗に山盛りにして食べるのではなく、五分の二を除いた五分の三を食べて満足できる基準を持ちなさいというのです。そうしてこそ知恵深い人です。何でも節約できなければなりません。「最高に節約していくらで暮らせるか」、このような訓練をして、最低三カ月間は各自の記録を出し、自ら最大の限界点までやってみなければなりません。そのようにしてどうなるか、見てみようというのです。

 

 

 

21 神様を直接愛する前に、皆さんの足先から、皆さんが食べる食べ物を愛し、物質を愛し、万物を愛し、皆さんの体を愛さなければなりません。万物を愛することによって万物の要素を吸収し、「私」の体を愛するようになるのです。皆さんの第一の父母は皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。この地です。皆さんは地から、皆さんの肉身が大きくなるように要素を供給されたのです。ですから、地を愛しなさいというのです。

 

 

 

22 誰であっても、多くの動物と魚を愛して放せば、子孫が繁栄するというのはもっともな言葉です。自分の故郷の地で暮らせば風土病にかかりません。身土不二(しんどふじ)です!その地域の土を踏み、空気を吸い、穀物を食べ、野菜を食べ、水を飲むのが身土不二です。

 

自分が暮らした故郷の地と同じ所を、世界的に一、二、三、四、五、六、七番から何百まで定めることができれば、そこを順番に遊覧しながら暮らすことができます。世界が一つの光復の祖国彊土(きょうど)にならざるを得ない時代になるというのです。

 

海にも、西洋と東洋が均衡を取れるよう、魚がよく育つことのできる海流が流れています。空気も勝手気ままに流れるのではありません。気温の差に従って流れるのですが、均衡が取れているのです。そのように、均衡を取ることを考え、絶滅する動植物の種を繁殖させる訓練を小学校のときからしなければなりません。そのようにすれば、一つの世界にならざるを得ないのです。

 

 

 

23 原理的に見るとき、完全な人間は、精神と肉体が神様の心情と絶対価値を中心に統一的な関係をもち、健康な状態で正しい役割を果たさなければなりません。いくら健全な精神をもっているとしても、健康な肉体をもてなければ完全な人にはなれず、それとは反対に、健康な肉体を所有していても、精神が正しくなければ正しい人間の役割を果たすことはできません。このような事実を認識し、皆さんは体と心が正しい統一を成就していけるよう、絶えず精進しなければなりません。

 

 

 

24 万物世界は、神様の産毛のようなものです。これが汗で流れ、時が来て落ちていく立場にあったとしても、神様の体と一致していた存在として「私」が愛し、触れるのと同じように、万物を愛しながら食べて生きてこそ、病気にならないというのです。神様が愛するものを造られたので、造られたその愛するものを神様のように愛し、神様の代わりに食べてあげて、神様の代わりの人格になるとき、すべての栄養素は健康を支えるようになっているのです。病気になって死ぬようにはなっていません。そのようにするためには、神様の愛と生命と血統と一つにならなければなりません。神様の代身存在にならなければならないのです。

 

 

 

25 人間は、どれほど素晴らしいでしょうか!愛のオーケストラを演奏し、愛の脈拍を中心として宇宙を生かしていく動物と植物を食べて暮らします。愛の結実を食べて生きるというのです。花も結局、愛の結実です。葉も愛の結実です。このような愛の結実を食べて生きるので、どれほど幸福な「私」自身かというのです。

 

愛の結実を食べて暮らす人間は、病気がありません。真の愛の実を食べて生きる人間は病気にならないのです。食堂で食事をするとき、パンが一つ残っていたとしても、「これが、世界的に数多くの手を経てここまで来るのに、どれほど多くの旅行手段があり、どれほどたくさんの苦痛を克服して来ただろうか。すべての人の努力の実、愛の実として作ったものを持ってきて私に献上されたものなのだから、これを愛の主人である私が、相対のように思いながら食べなければならない」と言わなければなりません。そのようにするのが嫌な人は、病気がついてくるようになっているのであり、喜ぶ人は病気が退くようになるのです。愛で満ちた世界の実を取って食べる仙人が人間だというのです。

 

 

 

26 愛する心をもって食べ物と向き合うとき、その食べられる食べ物は、「あなたの血と肉になり、力になって神様を愛することのできる元素として私が吸収される、この驚くべき事実に感謝します」と言いながら、早く口に入っていこうとするのです。牛の肉を食べても、「この牛肉は、子牛のときから母親が愛し、主人が愛で育ててここまで来た愛の結実なのだなあ!」ということが分からなければなりません。愛の実を食べて生きるという概念を中心として愛し、神様の本質的愛と一致する立場で食べて感謝する人は、病気にもならないというのが理論的な結論です。

 

 

 

27 皆さんが食べている食べ物は、すべて実りです。すべての万物の実りを食べているのです。美しさの種の本体、美しさの生命体が縮小した物を食べているのです。

 

私たち自身がその価値ある物を食べている以上、それを価値ある愛を中心として完成するために、大きくなるために食べていることを忘れてはいけません。そのような心をもって食べれば、病気にもならず、健康によく育つことができるという話が成立するのです。

 

 

第四節 万物に対する姿勢

 

天聖経   第六篇 真の万物  第三章 万物の嘆きと真の万物主管

第四節 万物に対する姿勢

 

 

 

1 私たちが眠りから覚めて目を開ければ、目の前に広がった万象が見えます。見えるその万象を通して、何か分からない間接的な印象を受け、その反応する感覚で生活における感覚を高めていくのです。私たちの周辺にある極めて微小なものでも、必ず私たちと関係が結ばれています。私たちが無視しても、その微小なものはその日その日、天倫の理念に従って存在の価値を表し、人間と関係を結んでいるというのです。なぜでしょうか。極めて小さい存在から、万物を主管できる万物の霊長である人間に至るまで、その存在目的を中心として見れば、神様の大宇宙の理念に通じることのできる愛の理念圏内に入っているからです。

 

ですから、小さなものは、大宇宙の目的を達成するために、大きな分野を担っているものに吸収されて動くのです。小さなものは大きなものに吸収されてその材料になり、一つの要素となって、大理念を中心として一つの目的に向かうのです。歴史はこのように進展するのであり、存在世界は天倫という原則の軌道に沿って、一つの目的のために動くという事実を否定することはできません。

 

 

万物の価値と自然破壊

 

2 先生は、「神様の造られた価値ある万物が、神様と共に永遠の関係を結んだ貴い万物が、今日どこかの王宮で『国宝だ、宝物だ』と言いながら大切に扱われている物と同じように扱われていない悲しみを、私が分かってあげなければ、私だけは分かってあげなければ」と考えながら歩んできました。「この地に暮らす世界人類がすべて分かってあげなくても、私は分かってあげなければ」という心を皆さんがもてば、この民族は、これから世界人類を治める新しい民族になるでしょう。これは観念でなく事実です。

 

万物を前にして、代々受け継がれてきた自分の家門の宝より、世の中で最も貴い宝石だというダイヤモンドより貴く思い、しがみついて放さないという人がどこにいるでしょうか。そのような人がどこにいますか。神様は御自身が造られたものを心情的に分かってくれ、それをつかんで涙を流す人を見て、「おお!」と言われるのです。

 

 

 

3 自然は、ために生きる愛をもった息子、娘が生まれるとき、その息子、娘に、ために生きることのできる万物として、贈り物として神様が下さった展示品です。一羽の鳥も、一株の草も、愛の息子、娘たちの生活を美化するために造られた装飾品なのです。道端に転がっている石ころも、息子、娘が国を治める主人になることを知っていて、その国の装飾品として造ったというのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、造化無双な和合の園をつくり、愛のための世界を見て、それを相続できる夢の王子、希望の王子を造るために創造したというのです。ですから、万物を通して学ぶのです。

 

 

 

4 博物館の中の作品がどんなに貴重だとしても、生きている作品にはかないません。神様の作品であるこの地球星の万物博物館を、誰が神様以上に愛したか、自分の国の博物館以上に愛したか、というのです。道端で踏まれる一本のたんぽぽが、博物館にある新羅時代の金の冠と比べることができるでしょうか。そのような神様の心情をもって、「本然の神様が慈しむことのできる王の位置で、愛を受けたその位置で、お前を愛することができない自分自身が申し訳ない。恥ずかしい」と言える心をもって慈しむ王がいるとすれば、草もその王に従っていき、永遠不変に共にいたいと思うのです。そのように生きなければならないのが人間です。

 

 

 

5 神様の愛が宿っている自然を見つめて、「世の中の王や有名人がもっている、立派だという物と比べられるだろうか。骨董品と比べられるだろうか。有名な婦人が着ている豪華な服と比べられるだろうか」という思いをもたなければなりません。それができなければ、私たちは、自然界の前に、我知らず罪を犯しているのです。

 

一つの生命体を見るとき、「人間が作った物と比べられようか。いくら立派な人でも、神様より立派であるはずはない」と言いながら、神様が心情を注いで造られた万物を手に取り、何よりも貴く感じる者がいるとすれば、これは間違いなく神様の息子、娘です。このような人には祈りが必要ありません。神様と共に生きる人です、神様は人間を、そのような位置にまで押し出すのです。

 

 

 

6 公害のゆえに、自然が破壊されています。第二次世界大戦後、公害により水が汚染されて魚が死に、公害により空気が汚染されて鳥も落ちる時代になりました。ですから、水を保護しなければならず、空気を保護しなければなりません。水が一番重要です。その次に、空気、太陽の光です。人々は、その貴さを知らずに生きているのです。

 

 

 

7 公害のゆえに人間が今、問題になっています。第二次世界大戦以降、今まで公害によって海の水が汚くなり、魚が死んでいます。山に棲む動物や鳥もそうです。自分の国だけが生き残ろうとして、他の国に近い公海上に廃棄物を捨てているので、海が死んでいくのです。汚染が年を追うごとにだんだんひどくなると、浅い海に棲んでいた小さな魚が次第に増え、それを深い所に棲んでいる魚が捕まえて食べます。その小さな餌となる魚を捕まえて食べると、みな死ぬというのです。ですから、魚自体の餌がだんだんと減少するのです。これが大きな問題です。ですから、先生は、汚染された海水を再び引き人れて浄化しなければならないと思うのです。汚れていない水のようにして、魚を生きていけるようにしなければなりません。

 

 

 

8 公害の中で、水の公害が最も深刻です。人類の滅亡を促進しています。人が死ぬ前に動物が死にます。海の魚が死に、鳥が死に、小さな昆虫が死んでいきます、第二次世界大戦以降、空気が汚染されて鳥が死に、水が汚染されて魚が死んでいっています。今も農薬のために、小さな動物も、大きな動物も死んでいっています。これから世界が争えば、どうなるでしょうか。酸素を発散するのではなく、炭酸ガスを多く発散するのです。人類が滅亡する塗炭の状況が起こります。いくら優れた人でも、水がなく、空気が希薄であれば死んでしまいます。土地があっても何ができるでしょうか。草が生えないのです。ですから、水を愛さなければなりません。水を愛し、地を愛さなければなりません。魚を保護しなければならず、動物を保護しなければならないのです。

 

 

 

9 人間は、神様が造ってくれた環境を破壊し、公害問題を起こして多くの動物を死なせました。神様の息子、娘に、最高のプレゼントとしてくれたものの命を奪ってしまったのです。ですから、神様の第二の創造主となり、神様が贈り物としてくれたものを、神様の代わりに愛しながら暮らして、天国に行こうというのです。

 

最近、韓国では、かささぎが人間に害を加えるので捕まえて処分するというのですが、そのような心配をせず、国でかささぎが一年間食べられる穀物を準備して、しっかり育ててみなさいというのです。先生は、鳩の餌、鳥の餌を準備して、いつでも与えます。ですから、村を通る鳥たちは、おなかがいっぱいになり、かささぎが「カッカッカッ」と鳴き、鳩が「ククク」と鳴き、すずめが「チュンチュンチュン」と鳴いて飛び立っていきます。挨拶をするのです。主人がいれば、ただ通り過ぎるのではなく、挨拶をしていくのです。毎日のように食べる物をあげるので、有り難く思うというのです。

 

 

 

10 人間が、公害のために死んでいっています。動物が死に、昆虫が死ぬことのないように保護しなければなりません。誰がそれに責任をもつのでしょうか。神様がそれに責任をもつことはできません。食物連鎖をつくり、バランスを取れるようにしなければならないので、国で法的な措置をして、長期的にそれらが残れるように指導しなければなりません。世界的にそのようにしなければなりません。

 

 

 

11 人間が生きるためには、空気と水と太陽の光、その次に土がなければなりません。ですから、太陽が有り難く、水が有り難く、空気が有り難く、その次に土が有り難いのです。皆さんが汚いものを空気の中に投げても、地に落ちます。地を保護しなければなりません。地に肥料をあげなければなりません。肥料をあげれば、その肥料で生命の種が育つのです。母親は、家で最も汚いものを触ります。地と同じです。母親のところに行ってこそ、家庭がきれいになります。男性は何でも散らかしておくのです。地を無視し、やたらに踏んで歩き回るというのです。

 

 

自然保護と愛

 

12 自然を保護し愛することが、人間を愛するモデルになるのです。赤ん坊もそうです。おもちゃのようなものやペットを愛することが、人を愛する教育になるのです。そのように生きさえすれば、自然と共に暮らす人が、宗教生活より心情的な面で次元が高まるので、良い霊界に行くのです。ですから、年が七十を超えて八十になれば、自然に帰らなければなりません。自分の記憶が曖昧になり、体力が弱まれば、自然に帰って暮らさなければならないのです。そうして、神様が造ってくれた自然のすべての原初的なものを愛し、管理、保護し、主人の役割をしながら生きることによって、高い心情の世界である天国に行けるというのです。

 

 

 

13 真の愛をもった人、真の愛をもった夫婦が愛し合いながら暮らす庭には、美しい花が咲こうとし、美しい鳥と、美しい動物が近くに来て棲みたいと思うのです。そのような本性の動きがあることを知らなければなりません。そのような人は、自然にすべての万物が慕ってついてくるので、豊かに暮らすなと言っても、豊かになるようになっているのです。

 

 

 

14 人は自然に帰って、神様が創造された万物を愛して暮らさなければなりません。「私」のために造った神様の心情を感じながら、土、水、植物、動物を造られた父なる神様の物を「私」が相続するのです。ですから、創造された神様の本然の心に喜びとして栄光をお返しし、すべての物をお返ししなければなりません。

 

ですから、一年間苦労して作った穀物を収穫し、冬になれば休むのですが、一年一年、刈り入れたすべての収穫を、感謝祭のように、天のみ前に捧げて神様に栄光をお返しし、翌年の春になればまた出発するのです。そのように出発すれば、その栄光をお返しする基準を中心として神様が祝福してくださるので、繁栄できるというのです。

 

 

 

15 神様がするのは人類の救援です。人類を救うのに、一本の大きな木があれば、その木の枝は、大きな木と同じです。私たちもそうなので、結局、神様が探し求めるみ旨の助けになれるよう、失われた人類を探し求めるのです。ですから、東洋と西洋のどこに行っても、人を愛する関係を残さなければなりません。人を愛することを知らない人は、自然を愛することができません。

 

また、自然を愛することを知らない人は、人を好きになることができません。それが神様のみ旨です。人と共に自然を好きになり、神様の愛と共に人が生きるのです。好きだからといってそれでよいのではなく、愛と共に生きるのです。

 

 

 

16 自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛せず、自然を愛せない人は、神様を愛することができません。

 

万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛せる人は、神様を愛するようになるのです。

 

 

 

17 神様の代わりに山を愛し、神様の代わりに水を愛し、神様の代わりに万物を愛すれば、万事亨通(こうつう)(すべてが順調であること)です。健康だというのです。それが三大条件です。それで山水苑なのです。私も、それで山が好きなので、山と水が共にある所を探すのです。神様の代わりに万物を愛さなければなりません。海を愛さなければなりません。そうしてこそ愛する主人になるのです。より愛する人が主人になるというのは、間違いのない結論です。

 

 

 

18 この地上の全万物を神様の代わりに愛せる人であれば、その程度によって神様の愛を自然に受けるようになっています。ですから、万物を愛さなければなりません。万物を愛し、人間を愛する人は、神様の愛を受ける資格をもつ者になるのです。世界とこの宇宙を愛し、世界万民を愛する人、本当に生命を捧げ、自分の生命以上に貴く思って愛せる人は、自動的に神様の愛を価値あるものとして受けることができるのです。

 

 

第五節 復帰しなければならない本然のエデン

 

天聖経   第六篇 真の万物  第三章 万物の嘆きと真の万物主管

第五節 復帰しなければならない本然のエデン

 

 

 

1 堕落がなかった本然のエデンの園を考えるときに、誰もが連想するのは何かというと、神様です。そして、神様が六日間の創造を終えられ、祝福されたアダムとエバが連想されます。また、神様を中心として、罪のない本然の人間始祖がいて、罪悪の侵犯を受けていない万物がありました。万物があるのは人間のためであり、人間がいるのは神様のためでした。しかし、天を中心とした人間になれず、人間を中心として和動できる万物になれなかったという事実は、エデンを思う人間にとって大きな悲しみであり、痛みであり、悔しさとして残り、私たちの心と体をつかんでいるのです。

 

 

神様の心情が宿った被造万物

 

2 私たちは、天下万象を何げなく見つめてはいけません。神様の大創造理念世界の存在物は、すべて一つの愛を目的として動くので、極めて微々たる存在だとしても、そこには神様の全精力が宿っているのです。神様は、この被造世界を六日間でお造りになりましたが、その一つ一つの存在物、例えば一日目や二日目に造られた存在物にも、六日以降に展開する大宇宙の創造理念が連結されていました。このように見るとき、どんなものであっても、神様の心情を根として造られなかったものは一つもないと断定できるのです。

 

 

 

3 私たちは、昔の有名な人々が残した遣物を大切に思います。彼らが所有して暮らした骨董品を貴重に思うのです。しかし、今、皆さんの目の前に砂粒が落ちているというとき、その一つの砂粒にも神様の心情が関係を結んでいることを知らなければなりません。それは、どんな貴い人や素晴らしい人より、もっと高い創造主のみ手を経て生じた心情の結実体です。このような価値のある存在物であることを知り、一つの砂粒でも宇宙のように貴く思う人がいれば、その人は、間違いなく神様の息子、娘です。

 

 

 

4 野原に育っている微々たる一本の草も、神様のみ手を経ていないものはありません。成長している一本の木を見ても、そこには神様の無限な内的心情を通した事情が通過しているのです。草木だけでなく、野原で飛び回っているいかなる動物や昆虫、もしくは鳥類も、これらは何げなくできたのではなく、徹頭徹尾、神様の内的な心情を通して造られ、実体のみ手を経て造られたというのです。

 

 

 

5 神様はお造りになった万物を愛されますが、私たちは、どのような思いをもつべきでしょうか。神様は万物を造り、「良し」と言われましたが、その中でも一番愛するのが草であれば、草の中でも神様が最も愛する草は何かを考えなければなりません。このようなことを、皆さんが時間を惜しまず考えられるところにとどまれば、皆さんは人間を造る前に万物を通じた神様の恵みと接することができます。

 

そして、一株の草をつかんでも、これが一日の希望の対象になるという事実を知って、楽しみながら喜びの心情をもたなければならず、神様のみ手を経て出てきた草だということを体恤しなければなりません。そのような人がいれば、その人は堕落した人間ですが、太初に天地を創造された神様の創造の心情世界においては、神様の友の立場に立てるのです。

 

 

 

6 天の心情を欽慕し、天の理念を待ち望み、天の復帰の園を見つめる真の心をもったという人の中で、神様を仰ぎながら栄光の位置、楽しむことのできる位置で喜びを体得するために努力する人は多いかもしれませんが、微々たる草木から昆虫、さらには全体に及んでいる父の内的心情を思い起こしながら喜べる人は少ないというのです。自分の精力を傾けてある昆虫を作ったというとき、それ以上の精力で愛そうという人が現れ、心と情を尽くして見つめ、その昆虫を愛してくれるとすれば、その昆虫を作った存在にとって、それ以上の満足はないというのです。

 

 

 

7 万物世界、被造世界の原理と法則、公理と公式を解明するために努力する分野が科学です。そして、自然の中に深く隠れている情緒的な分野を表したのが文学です。自然に表れていたり、隠されていたりする美しさを、ある形態で構成して表現したものが芸術です。そして、自然の根本道理を解明しようとする分野が哲学です。このような段階の上にあるのが宗教です。それでは、真の宗教と宗教家が解明するものがあるとすれば、それは何でしょうか。それは、自然の中に深く流れている情的な内容を解明することです。そのような責任を宗教が担わなければなりません。

 

 

 

8 人類の文化は、自然を抜きにして考えることができません。自然から離れて人類文化を語ることはできないのです。人間がいくら堂々とその威勢を誇り、権勢を享受するとしても、自然を無視すれば、そのすべてのものが成立しないのです。このように、人間の生活を価値あるものにしてくれるのが自然であり、人間の生涯において必ず必要なものが自然です。ですから、自然万象に流れている心情を感じられる人になれなければ、真の幸福を享受できず、天と関係を結べる栄光の位置に進むことができないのです。

 

 

 

9 皆さんは、一株の草を見つめるとしても神様の立場で見つめ、花を見つめるとしても神様の心情をもった立場、神様の心情に通じる立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、もしくは何かの動物を見つめるときも、神様の心情と関係が結ばれる内的な感情を体得できなければなりません。そのような人がいれば、その人が何かの公式や定義として、すなわち科学的な論理でそれを解明することはできなくても、あるいは文学的にその情緒を表現できなくても、もしくは芸術的にその美を表現できなくても、情緒的に愛を体恤する力がないとしても、その人は偉大な科学者であり、偉大な文学者であり、偉大な芸術家であり、偉大な哲学者であり、偉大な宗教家であることは間違いありません。

 

 

万物の主人となる資格

 

10 私たちは、私たちの視線に刺激を与える森羅万象と毎日のように接しています。皆さんは、その日をただ同じ心情、もしくは同じ感情で森羅万象に接しているかもしれません。人間が堕落しなかったならば、善を中心とした本然の自然になったでしょう。そのようになっていれば、私たちの先祖は、この自然を見てどのように感じ、また私たちを造られた神様は、どのように感じただろうかということを、もう一度考えなければなりません。

 

 

 

11 皆さんは、神秘的な雰囲気、もしくは恩恵深い雰囲気の中で、自然の一輪の花を見つめたいと心で慕ったことがありますか。また、先祖の誰かに会うかのような懇切な思いで接してみたことがありますか。もしくは、山と川を見つめるとき、懐に飛び込んでくる刺激に、我知らず天のみ前に賛美を捧げたことがありますか。ないとすれば、皆さんには万物の主人になる資格がないと、先生は断定するのです。

 

 

 

12 朝、目を開けて自然を見つめれば、その自然が静かに「私」の本性と関係を結び、新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし、人間の世は見つめれば見つめるほど、絶望と悲しみの感情が芽生えるという事実を、よく知っているでしょう。本来、堕落していない本然の人間が暮らす世の中であれば、人間の価値は、そのようにして見つめる人を悲しませるものではないというのです。

 

一株の草、一輪の花、一本の木と同じ程度の価値として造られた人間ではありません。被造万物のいかなるものとも取り替えることのできない高貴な人間であり、いかなるものとも比較できない価値をもった姿で、天上に代わって進み出るべき人間なのです。

 

 

 

13 私たちは、自分の周囲の環境を見つめて顔をしかめたり、嘆息したり、社会の矛盾を見つめて落胆せずに、成長していく一株の草を見つめ、その喜びに自らの悲しい感情を忘れられる人にならなければなりません。もしそのような人がいれば、その人は新しい時代に残る人間です。ある理想的で心情的な世界を目指す人がいるとすれば、その人は必ずや神様と何かしらの関係を結ぼうとする人に違いありません。

 

成長する一株の草を見つめながら、どうしてよいかも分からない心情を感じてみてください。そこには無限な生命があり、神様がいらっしゃいます。そびえ立つ一つの山の峰を見つめれば、きのう見たときの感情と、きょう見るときの感情が違うのです。春夏秋冬、四季の変化によって「私」の心情に感じられる感情の違いを歌えるならば、どれほど高尚なことでしょうか。その人は、すべての自然と共に和動できる人なのです。

 

 

 

14 「私」が見つめる自然は、どのような自然であり、私が踏み締めているこの地は、どのような地でしょうか。悲痛なことに、堕落した地、喜びが途切れて悲しまなければならない地になったというのです。万物を見つめるとき、心に気持ち良いと感じられる反面、悲しい事情が残っている嘆息圏にとどまる万物であることを感じなければなりません。山高く秀麗な名勝地があり、そこを見つめて喜んだとしても、無限に悲しみの感情を感じ、父と連結できる人にならなければなりません。

 

 

 

15 私たちは、一株の草をつかんで喜びを感じる代わりに、悲しみながら泣くことができなければならず、喜びを翻し、一本の木をつかんで泣くことができなければならず、山と川を見つめながら深いため息をつくことができなければなりません。それは、エデンが慕わしいという思いをもっているからだというのです。そのような心情が宿っていらっしゃる方が神様です。そのような心情をもった人であれば、自然を見つめながらエデンを慕うことができるでしょう。慕わしいエデンと言うならば、被造万物を主管できる本然の人間も慕わなければならないというのです。

 

 

 

16 本然のエデンの園で、神様は、アダムとエバと共に自然をたたえ、自然に対する感情を表現するひと時をもったかというと、もてなかったのです。神様が「私の息子よ、あの山を見なさい。あの山は私がこうこうこのようにして造った。あの草木を見なさい。あれは私がこのように、このようにして造った。このすべてのものはお前の幸せのために造ったのだ」と語りたいと思われたことは間違いありません。

 

しかし、神様は、実際にそのようなみ言を語ることができませんでした。なぜできなかったのでしょうか。アダムにまだ分別がついていなかったからです。神様には、アダムを見つめながら語りたいと思われた懇切な内的心情があったことを知らなければなりません。情的に未熟な立場にいたため、アダムに対して語れなかった神様の事情を知らなければなりません。

 

 

 

17 本然のエデンを慕わなければなりません。神様の無限な愛がある世界、一度始まればそのまま永遠に愛の感情に和合できる世界、一度歌を歌えば永遠無窮に酔うことのできる世界、一度跳び跳ねれば神様と永遠に跳び跳ねたいという思いが宿る世界、一度動いて一度責任をもてば、これは永遠の価値をもつ責任になると考えて努力できる世界、このような世界が慕わしくて涙できる人にならなければなりません。そのような心情をもった人間を探し出せなかったことが神様の悲しみです。地に対して摂理される神様は、必ずそのような人を探し立てざるを得ません。私たちが歌う歌にも、山と川、もしくは自然が入っているのは、このすべてのものを借りて私たちの感情を高めようとするからです。

 

 

 

18 復帰の使命を果たそうという心情に徹して万物を求め、また人間を求めて動かれる天に対して、父と呼べる人がいれば、天はその人を知らないとは言えないのです。そのような心情をもって本然の園を求めてさまよった人がいるならば、その人に対して神様が知らないとは言えず、人類が知らないとは言えず、全被造万物が知らないとは言えない、本然の真の人間です。ですから、慕わしいエデン、そこに育つ万物、そこに暮らしている人間、そこに訪ねてくださった神様が、別々に事情に通じるのではなく、一人の人を中心として、上には天、下には万物が和合し応ずることのできる、一つの楽しい住み家をつくらなければなりません。そこにいる人は、天が愛する人であり、人間のために生きることのできる人であり、万物が尊重できる真の主人であるに違いありません。

 

 

第一節 万物還元と趣味生活

 

天聖経   第六篇 真の万物 第四章 自然と海についてのビジョン

第一節 万物還元と趣味生活

 

 

 

1 自然を愛するのは何をするためでしょうか。人を愛するためです。人を愛するのは何をするためでしょうか。神様を愛するためです。神様を愛するのは何をするためでしょうか。所有決定権をもつためです。「私」が息子になり、娘になり、御自身は父になるという決定権をもつのです。決定してからは何をするのでしょうか。格位が生じます。天地万物の秩序が生じるのです。そのようになれば、すべてのものが関連をもつのです。

 

 

 

2 被造世界の主人とは誰でしょうか。神様の実体であるアダムとエバが理想的な主人にならなければなりません。ですから、このアダムとエバの完成のために被造世界が動員されるのです。被造万物は、愛のために生まれたので、愛を受けなければなりません。そのように、神様のように愛することのできる被造万物の前に、主人がいません。堕落したために、いないというのです。万物の嘆息が、ここから出てくるのです。今後、神様の実体として霊肉が合わさった一体の合徳(和合)体が出てくれば、神様が造ったものよりも、神様が投入したものよりも、さらに高い愛の相対となります。それを願ったがゆえに、この被造万物も、アダム完成のための高貴な位置にいて、アダムが考える以上の元素になります。そのような元素が数多く合わさって、アダムとエバの完成を成し遂げなければならないのです。そのような天的契約になっているというのです。

 

 

 

3 アダムは、万物の主人になるべきだったので、水の中に何が棲むのか、園の中に何が棲むのかを知らなければなりませんでした。それで、動物やとんぼなど、すべてのものを捕まえるために駆け回ったのです。アダムは、エバが完成して関係を結ぶときまでは、神様が造った万物を愛するべきでした。ですから、土の中に何がいるのかを知らなければならず、鉱物がどのようにできていて、それが植物に吸収されて大きくなり、植物はまた動物に食べられ、小さな動物は大きな動物に食べられ、大きな動物は人に食べられることも知らなければなりませんでした。神様が造って愛されたその事実を、アダムはただそのまま代わりに愛すべき主人だったのです。

 

 

 

4 人間が堕落しなかったならば、全天下が私たちのものであり、神様も私たちのものです。しかし、堕落することによって、所有できる資格を失ったので、私たちがもっているすべての物を捨てなければなりません。「見える世界も私たちの世界ではなく、造られたすべての万物も私たちの物ではありません。このすべては神様の物です」と言いながら、神様にお返ししなければなりません。そのような立場で再び神様と関係を結んで生まれ変わったあと、すべての万物を主管する位置に立てようというのが救いの目的です。

 

 

 

5 堕落した人類は、サタン側と天側、両方の所有が決定されていない中間の立場です。ですから、これを決定するためには、「私」自身が神様を中心として、「私は神側だ」ということを自ら確認したのち、最後には神様の愛を中心として、万物や民やすべての国を一つの基台の上で愛によって束ね、それを父母様がこの地に来られて神様のみ前にお返ししてこそ、神様の愛を中心とするその所有が初めて決定されるのです。

 

 

 

6 私たちは、サタンから物質を取り戻して神様のみ前にお返しし、体を取り戻してお返しし、心を取り戻してお返ししなければなりませんが、この心をお返しするためには、いくら変わらない理念があるとしても、ただ好きだからというだけではできません。その理念に深くしみ込んでいる心情問題に入っていき、心情が通じる場に立ってこそ、「神様であり私、私であり神様、神様の物であり私の物、私の物であり神様の物」と言うことができるのです。この心情を連結させるとき、今まで捧げてきた物質、体、心、すべてが一つに統一され、神様のみ前に最高の物として決定されるのです。そのために祭物を捧げるのです。

 

 

 

7 真の愛を中心として楽しく生きなければなりません。動物と話し、すべての万物と和合し、神様と和合しなければならないのです。そのようになれば、国境がありません。異なる文化ではないのです。愛の文化です。愛の文化は趣味文化なので、趣味生活が愛なのです。自分が妻を愛し、息子、娘を愛することを、世界版図で行うことができるのです。すべて自分の家庭を拡大した文化祝典の対象圏です。そこに参加して楽しむ心情文化世界が、地上天国文化だというのです。趣味文化は、堕落していない本然の愛の文化です。趣味文化は、地上天国の文化だというのです。

 

 

 

8 これから農村に入っていって、趣味農場を営まなければなりません。ですから、汚染されていない物を自分の手で作り、食べて暮らすのを趣味生活としなければなりません。そのようにならなければ、公害のために世界が滅びるのです。趣味生活、趣味農業、趣味産業です!

 

先生は、趣味産業という言葉を今、新たに使っています。それは、利権のために語るのではありません。釣りをしても、魚を売ろうというのではありません。趣味でするので、魚を釣っても小さな魚は放してあげるのです。自分一人で食べるのではありません。分けて食べるのです。これが趣味だからです。

 

 

 

9 今後、産業は、レジャー産業になります。これからの技術産業時代は、オートメーション技術によって人間が働かない時代です。そのような時が来ます。今もそのようになりつつあるのです。人がボタンさえ押せば、機械が仕事をするのです。何千人が作業をしていた工場で、三、四人いれば昼夜、生産品を提供できる時代が来るというのです。そのようになれば、これからどんな産業が起こるのでしょうか。それがレジャー産業です。

 

 

 

10 一生懸命に働いてきた人々は、年を取れば自然と共に暮らし、自然に逝かなければなりません。神様の愛を感じながら生き、神様の愛を感じて逝くことによって天国に入るのは、定められた道理です。趣味生活、神様がそれを好むのです。皆さんの趣味が創造と連結されるのです。すべての趣味の材料が私を待っています。それは疲れることがありません。趣味が重なり合い、自動的に神様の世界と近くなるのです。これが人間の願う最高の生活です。

 

 

 

11 趣味生活をしなければなりません。神様が創造した時、無理やり造ったのではありません。喜びを感じるように造ったというのです。創造の神様の立場を、私たちは再び感じなければなりません。誰かが「やりなさい」と言うからするのではありません。せずにはいられないのです。たとえ眠らなかったとしても、それはしなければならないというのです。そこに、どうしてお金が介在し、環境が介在しますか。

 

ですから、趣味生活、趣味産業、趣味研究などが、神様と共に喜ぶ中で一つになって行われたものであってこそ、神様に所有されるものとなり、神様が愛する息子、娘たちが愛用できるものになるのであって、そうでなければサタンのものだというのです。お金を目的に、これをするのではありません。

 

 

 

12 今後世界は、工場に行って働くことを嫌うようになります。これからは、旅行して暮らさなければなりません。今、世界の人々が忙しく生活しているのを見れば、かわいそうだというのです。ストレスがたまっていて、趣味というものがありません。人生に趣味がないのです。僕になっています。すべて道具のようになっています。そこには、何の趣味もなく、自分という意識もなく、機械の動作のように生きているのです。一生の八〇パーセント以上を、そのようにして生きるのです。ですから、今後は趣味産業を開発しなければなりません。レジャー産業ではありません。趣味産業です。

 

 

第二節 源焦万物博物館

 

天聖経   第六篇 真の万物 第四章 自然と海についてのビジョン

第二節 源焦万物博物館

 

 

 

1 人間が堕落することによって、万物までも犠牲になり、主人としての責任を果たせませんでした。それらを愛で抱いて天のみ前に連結させることによって、天の下の自然界と連結されるのです。それを誰が連結させなければなりませんか。アダムとエバが分離させたので、アダムとエバとして完成した祝福家庭が連結させることによって、天上世界と地上世界を標準化させるのです。

 

この水平に広がった平原のような澄んだ水で、万物が幸福の土台として躍動し、生きている姿を神様が見つめられるようにするのです。また後代の人々もそのような思いをもって、ブラジルにあるバンタナールの万物を見つめ、神様が造られた本然の心を感じてみようという思いをもつのです。その思いが一致しなかったことに対する無念な思いを解消させ、神様と真の父母と同じ心の一致圏に、自分が万物と共に参与できてこそ、主人の資格が決定するのです。ですから、バンタナールは重要な所なのです。それでアマゾン流域が、これから人類の大革新を行える一つの素材だというのです。

 

 

南米ジャルジンで新エデン建設

 

2 ジャルジンがどれほど不便でしょうか。もう行きたくないと思うジャルジンを、どんな所よりも懐かしく思わなければなりません。行きたくて泣き、月を見ながらも慕い、太陽を見ながらも慕い、その太陽の下で統治される生命体、すべての万物を見て自分の心情を吐露し、恨の神様の祭物条件となるものを、すべて心で洗ってしまわなければなりません。ジャルジンは源焦地です。創造物自体が総合的に一つの博物館のように集まっている源焦地だというのです。ジャルジンは焦点地域です。万物創造の焦点だというのです。原初の生物が生息するそこに行き、三年以上血と汗を流さなければなりません。労働を三年間しなければならないというのです。なぜでしょうか。祖国光復のためです。水の中でそれをするのです。水は世の中を象徴するので、水の中で天国を建設しなければなりません。父母様が立てたのと同じように、皆さんがそれをしなければなりません。

 

 

 

3 人間の堕落によって破壊されたものを、早く復帰して管理し、絶滅しかけた種をここから再び世界に拡張させなければなりません。したがって、鳥博物館を造らなければなりません。鳥も千五百種類います。千五百種類の鳥博物館を造り、昆虫博物館を造らなければなりません。それを造っておけば、ここは摂理のみ旨の中で登場した所なので、世界の人々が息子、娘の教育場所として訪問するのです。神様がお造りになったものを見て喜ばれたその事実を目にし、喜ぶ環境を造るためにジャルジンを開発するのです。ジャルジンはエデンだということです。

 

 

 

4 ジャルジンの農場では、たくさんの種類のおうむを飼っています。おうむも自然の中で人々と一緒に暮らすことができ、だちょうも餌をあげればしきりに寄ってきます。人に慣れているので、人が行って餌をあげても逃げていきません。神様が造り、それを見て喜んだのと同じように、アダムのように遊び回る世界を造ってみようというのです。先生は今、その仕事をしているのです。

 

 

 

5 水は、いくら汚れていても、水平を取ることができます。人も、いくら出来が悪くても、水平は取れなければなりません。先生がジャルジンにいるからといって、ブラジルとは関係ありません。ここには五色人種が生活していますが、言葉は通じなくても別の種とは思わないのです。自分の親戚であり、自分の弟妹であり、みな六千年間離れて暮らしたのちに再び出会った人々なので、言葉にできない事情を乗り越え、習慣と風習が通じなくても、自然に懐かしく思い、受け入れているのです。

 

 

 

6 ジャルジンの四百キロメートル内外に、何の魚が棲んでいるか、先生が調査しました。蚊に刺されながら調査したのです。お金が必要だからそのようにしたのでしょうか。名誉が必要だからそのようにしたのでしょうか。政治的な背景が必要だからそのようにしたのでしょうか。死んでいく人を生かすためです。彼らは兄弟です。先生がこのようなことを考えなければ、誰が万民を救ってくれますか。どの政治家、どの国の主権がそのようなことを考えますか。このような基盤をもち、その地から出てくるすべての原材料を売り、輸出するのです。彼らがしようとするとおりにしてあげるのです。工場が必要であれば工場を造り、何かが必要であればそれを出してあげるのです。

 

 

 

7 広大な草原地帯に無数の果物があり、無数の鳥、無数の動物がいます。いない動物がないのです。ありとあらゆる動物が、すべています。水がある所には魚がいくらでもいます。女性が夕食を作るときに、夕食のおかずになる物がなければ、川の水が流れる裏口の外で釣りをして魚を釣り、それを天ぷらにして食べることもできます。ブラジルは、そのような国です。世界にそのような所は、そこしかありません。投網を一度投げれば、魚がひとかますもかかるのです。

 

 

 

8 ジャルジンでは、春夏秋冬の季節を超越し、養殖をすることができます。ですから、魚を養殖して、釣り場に供給できる世界的な場所になるのです。先生が関心をもつものとは何でしょうか。ここにバンタナールの湿地帯があるのですが、ここには数多くの魚がいます。これを捕まえて養殖場で養殖し、三千六百個の釣り場を造るのです。その魚を養殖する方法を開発し、世界の至る所でこのような場所を拡張するのです。

 

 

パンタナール聖地

 

9 韓国から見れば、バンタナールは極と極です。日本から見てもそうです。パンタナールは地球の果てだというのです。そこには源焦聖地があり、根源聖地があり、勝利聖地があります。そこはエデンの出発基地です。基地というのは、完成した父母様が初めて愛の基礎をつくったところを意味します。

 

根源聖地がバンタナールにあるホテルに設定されていますが、そこは水があっても何があっても、何の問題もありません。水上宮殿を造るというのです。人間が苦労するとしても、

 

世界において永遠に褒めたたえられる聖地を準備しておかなければなりません。そのようになれば、その努力の結果が現れるので、その努力を誰が最初に始めるかというのが問題です。聖地を守り、聖地の名前を高らかにするのは、日本の国家的メシヤがしなければなりません。それで、バンタナールの管理に、日本の国家的メシヤが行っているのです。

 

 

 

10 パンタナールは動物でも植物でも、本来神様が創造した源焦的な宝庫になる所です。それを先生が守り、保護するための世界的な運動を起こしているのです。

 

 

 

11 日本の二倍にもなる湖がパンタナールの湖です。パンタナールの湖には数多くの魚が棲んでいます。それで、その水や水温、そこの立地条件と環境など、すべてが同じ条件の湖は世界的にどれくらいあり、水がどれほど多くあるか、これを分科別に研究し、養殖ができる所を造るのです。そうすれば、世界的に養殖を展開できるのです。全世界の専門的な水産物研究班を中心として、どんな水、どんな温度、どんな地域に何の魚が棲むかということを研究するのです。

 

 

 

12 バンタナールには、草や魚の種類がたくさんあります。魚の種類も多いのです。アマゾン川よりも多くの種類の魚がいるのです。その種類を考えてみてください。ですから、すべての万物、草や穀物や木など、数多くの種類があるのですが、神様が洪吉童(ホンギルドン)(同名の小説の主人公)のように「このようになれ」と言って、そのようになったのではありません。すべて考えがあり、構造的なすべての内容が自然界の法度と気候条件に合うように、照らし合わせて万物を造ったというのです。

 

 

 

13 バンタナールは、神様が創造した源焦的なすべての万物が集約された所です。先生がなぜここに来たのでしょうか。先生だけが来たのではありません。神様がついてきて、歴史的に犠牲となったすべての万物を愛するのです。ノアの時代に、魚は裁きを受けませんでした。裁きを受けなかった魚たちと関係を結ぶことによって、万物が解怨、蕩減して戻っていける道を築こうと、バンタナールに来たのです。神様が造った万物を愛さなければなりません。先生がこれを保護する責任があります。種をもっと繁殖させなければなりません。神様が創造したときよりも、種を滅ぼし、減らしてはいけないのです。

 

 

 

14 パンタナールには、魚がどれほど多いか分かりません。何かを投げれば、いつの間にかきれいになくなっているのです。稲妻のように素早く、きれいに片づけてしまうのです。汚いものでも、いつきれいにしてしまうのか気づかないのです。様々な種類、ありとあらゆるものがいるのですが、種類によって食べるものが異なります。そのようなものがすべて混ざり、休むことなく清掃作業をしているのです。食べること、それ自体が清掃作業だというのです。彼らは自分の目的のために生きているのではなく、環境を整理しながら、周辺をきれいにしながら、互いに助け合いながら生きているのです。それが自然協助体制です。

 

 

 

15 み旨を知ったその日から、霊界を愛し、人類を愛しました。人類を愛するにおいては、自分の家庭より、自分の国より、もっと愛さなければなりません。人類を愛し、その次には万物を愛さなければなりません。この陸地にあるすべてのものを愛さなければならず、その次に、水の中にいるものを愛さなければなりません。再創造過程です。神様の愛と人類を連結し、人類の愛と地球星を連結し、水の世界まで連結しなければなりません。バンタナールを中心として、先生がもてる精誠をすべて尽くすのは、そのためです。

 

 

 

16 人間は、神様が創造した種の絶滅を防がなければならない責任を負っています。今までどれほど絶滅させたでしょうか。バンタナールには、数多くの種類、魚だけでも三千六百種類がいます。養殖場を造ったので、世界で土の質が同じ所では、いつでも繁殖させて、永遠に絶滅しないようにするのです。そのようなことをします。先生は今、そのような膨大なことを始めようとしているのです。

 

 

 

17 今後、三千六百種類の魚の養殖のために、都市ビルよりも、さらに大きな養殖場を造らなければなりません。これを魚の種類別にコンピューターで温度調節し、海洋世界の魚や淡水魚、寒帯地方の魚や熱帯地方の魚を、すべて一つのビルの中で養殖するのです。全世界の三千六百種を養殖できると考えてみなさいというのです。都市ビルが問題ではないのです。

 

 

 

18 皆さんは、神様の愛をもち、自然の嘆息圏を解放して生きようというその真の父母の生活に従いますか、それとも都市に挟まれて環境を破壊し、公害問題を起こして子女の情緒的な発展を遮る父母になって暮らしますか。先生がこのように自然を愛して暮らせば、統一教会の信徒はおのずと従ってくるので、自然と和合できる理想的天国が可能だというのです。ですから、自然を保護するために、先生は博物館を造ってすべての種類を展示しようと思います。標本を作って展示するのです。ここで見れば、自然に接するのと同じような養殖場を造るのです。動物を愛することのできる表示として、村に博物館を造る運動を展開するのです。その種類を一番多く集めた所は、世界的な観光村になるでしょう。また、草と木の種類も、そのように集めて展示するのです。

 

 

 

19 魚をむやみに捕まえれば、すべていなくなります。ですから、養殖をしなければなりません。育てなければならないのです。それで、南米のバンタナールや、アマゾン川流域の動物で動物園を造ろうと思います。そして、昆虫を育てる都市ができなければなりません。鐘を鳴らせば、おなかのすいた鳥がすべて出てきて、食べられるようにするのです。鳥を養うことのできる昆虫を育てる都市ができなければなりません。昆虫がいなければ、すべて死んでしまいます。昆虫を育てる町ができ、鳥を育てる町、動物を育てる町ができなければなりません。

 

 

 

20 南米には、縦に流れる川があり、横に流れる川があります。パラグアイ川とアマゾン川、この二つの流域に家を建てて暮らしながら、統一教会の人々が主人にならなければなりません。ここに訪ねてくる人を教育しながら、自然と共に暮らすのは、どれほど素晴らしいでしょうか。現代文明、都市文明と連結できる村を造るために、このような膨大な地域に三千万種類の昆虫博物館を造るのです。そのようにすれば、昆虫学者たちは、バンタナールに来なければなりません。また、三千六百種類の魚を養殖できる養殖場を造ります。その次に、烏類園を造り、植物園を造るのです。

 

 

 

21 一つの調和した社会は、その構成員の間の生活水準が同等でなければなりません。このような共同繁栄は、共同責任の土台の上で、愛によって自発的に進行しなければなりません。理想社会ではいかなる否定や差別、または堕落も存在してはいけません。このすべては、真の愛の実践が前提となるときにのみ可能なのです。民族と皮膚の色と伝統が異なる人々が、真の愛の共同体をつくる歴史的な運動です。

 

世界は深刻な環境危機に直面しています。環境汚染と自然破壊は、神様が創造された美しく神聖な世界を冒瀆するのと同じです。真の愛がない人は、自然界を単純に、利己的な利用物としてのみ考えるだけです。堕落がもたらした深刻な結果の一つは、アダムとエバが神様の真の愛を相続できなくなることによって、人間同士、または動植物や地を正しく愛することができなくなったことです。万物は、人間の真の愛を待ち望んでいるのです。

 

 

第三節 今は海洋時代

 

天聖経   第六篇 真の万物 第四章 自然と海についてのビジョン

第三節 今は海洋時代

 

 

 

1 生命の先祖のようなものが水です。神様の代わりに水を愛さなければならないと考えるべきです。海を愛さなければなりません。景色の良い所は水がなければならず、樹林がなければなりません。それが水の調和です。水は形態をもっていません。絶対的な個性をもっていますが、形態をもっていません。何に入れても、そこに合わせるのです。水に対する哲学さえ会得すれば、聖書六十六巻を完成することができ、みな神様の息子、娘になることができます。そのような言葉が成り立つというのです。

 

 

 

2 洗礼儀式は、水に入って再び生まれなさいということです。水はすべての生命の源泉なので、そこできれいになって再び生まれなさいという意味もあります。水を毎日のように目にし、このように動くのを見れば、自然に「私」の心も動くので、「私」の体の血も浄化されるというのです。

 

水が流れていくとき、「水と共に、私の心も流れていく」と言って、汚れたものがすべてきれいに洗われるのを感じてみましたか。ですから、水を愛そうというのです。水を愛することは、生命をもったすべての人間や、すべての万物がそこにぶら下がっているので、万物を愛することになるのです。これは根本的な考えです。水を愛するとき、茶碗の水を愛しますか、湖の水を愛しますか、海の水を愛しますか。毎日のように海に出掛けなければなりませんか、出掛けてはいけませんか。風が吹いて波が起きるのですが、船に乗ればざぶざぶと揺れるので、血が腐ることがないのです。すべて浄化されるというのです。

 

 

海から学ぶ

 

3 川がいくら多く、大きいとしても、川はいずれ大海に入っていくのです。大海に入れば、すべて混ざるようになっています。五大洋を中心として見てみれば、太平洋には黒潮というものがあり、四千マイルを回っています。もちろん、月の引力によることもありますが、このように回る黒潮があるので、五大洋全体を動かせるのです。それが海の柱の役割をしているのです。汚いものでも何であっても、入ってくれば、それをすべて混ぜ合わせ、一つの姿になろうとするのが海です。いくら大きな川が何万年も続けて淡水を投入したとしても、それをすべて吸収して余りある余裕があるので、海に権威があるのです。海は、どれほど入っていっても変わらない姿勢を備えているので、偉大だというのです。

 

 

 

4 自然は、だますということがありません。高ければ高く、低ければ低いのです。高い所にいれば、異議なく供給してあげるのです。先生はそれを学んで、高い所にいれば異議なく供給してあげるのです。異国の地に行っても、私よりも貧しければ、先生の倉庫を開き、米が底をつくことになっても、すべて分け与えるのです。水平になるようにするのです。それはすべて、水から学んだことです。ですから、水を好むのです。そこに棲む魚は、裁きを受けていません。

 

先生は、神様のみ前に祭物を擦げます。最初に捕まえた魚は、大きくても小さくても、すべて放してあげるのです。先生だけは、最初に捕まえた物が大きくても小さくても、放してあげるのです。それは、どれほどすてきなことか分かりません。

 

 

 

5 海が穏やかなときは、神秘的です。魅惑的な神秘の女王のような美女となり、すべての人々を引き込む力があります。海は銀色にも見えますが、翡翠(ひすい)色にも見えます。千態万象です。そこにそよそよと風が吹けば、その波の美しさは、舞姫がいくら上手に踊っても、それに比べることはできないのです。また、そこにかもめが飛んでいると考えてみてください。留まっているものがいるかと思えば飛んでいるものがおり、そのときはかもめの鳴き声が、悲しくて鳴こうとも、うれしくて鳴こうとも、すべて美しく思われるのです。そして、大きな波が高くそびえ立って落ちるとき、どれほどすてきか分かりません。全色のような水の滴が飛び散り、その水滴は日の光を浴びて、きらきら輝くのです。そのようなものを見れば、変化無双だというのです。

 

 

 

6 海には美女のような、舞姫のような性質があるかと思えば、一度怒れば荒野で飛びかかってくるライオンよりも、もっと恐ろしいのです。何十メートルもの波が押し寄せ、引いていくときは、かもめが鳴いても相手になりません。「お前がいくら上手に歌おうと、お前がいくら素晴らしい喜劇俳優だとしても、雄壮な私の気勢の前にはかなわない!」と言うのです。威風堂々としています。

 

 

 

7 自然の力は偉大です。ですから、海を愛する人は、驕慢になることができません。海にはそのような偉大さがあります。海には無尽蔵の魚がいます。黄金から金色、青色と、ない色がないほど多くの魚が棲んでいます。

 

陸地と海の中を比較してみれば、どちらがより美しいでしょうか。陸地にも花と蝶、そして美しい鳥がいますが、それらのものは単調です。花は動きません。海にいる豪華絢爛な色をもった美しいすべての生き物は、踊りながら活動するのです。陸地が美しいでしょうか、海が美しいでしょうか。海が美しいのです。神様はなぜ水を造ったのでしょうか。神様が鑑賞するための特別装置が水だと言うこともできます。そっと隠しておいて公開しなかったというのです。神様は、陸地より、海により多くの関心をもっているはずです。

 

 

 

8 愛の世界は、どこに行こうと、すべて通じます。太平洋の水が、「私は太平洋の水だ。アジアの水はすべて汚染されているので嫌だ」と考えるでしょうか。水がどこから流れてこようと、すべて自分のものにするのです。そこに悪いものがあれば、それを混ぜて早く解消させ、同じ道を行こうと努力するのです。ですから、太平洋の水は、いくら公害がひどくても、人類がいなくなることがあっても、変わらずに青々としていることは間違いありません。いくら試練を受けて紆余曲折の過程を経たとしても、海の水の青い色が占領されないのと同じように、愛の権威と愛の内容と愛の力は、いつでも青々としているのです。

 

 

 

9 台風が吹くときは、どれほど波が憎らしく、風が恐ろしいか分かりますか。しかし、風も、自分の使命を果たしていると考えるのです。もし風が吹かず、海に波がなければ、魚が棲むことができません。風が吹くのは、海に酸素を供給するためです。波は酸素を供給するのです。ですから、波が激しく怒り狂っていても、どれほど風が吹いてこようとも、それを味わいながら、「お前の味を失っていないな!」と思わなければなりません。海は塩辛い味がするのです。そのように思えば、波を憎いとは思わず、押し寄せる大波も憎いとは思わないというのです。海にはどれほど多くの哲学があるか分かりません。陸地だけで生活した人は、あの世に行って理想的な活動をするにおいて、相当多くの支障があるのです。

 

 

 

10 海に通ってみれば、本当に学ぶことがたくさんあります。一日に何度も変化します。世の中では、「人心は朝夕に変わる」と言いますが、海は、朝夕ではなく時間ごとです。時間ごとに変わるのです。じっと見てみれば、いくら天候が良い時でも、ある場所では風がないのですが、他の場所に行くと風が吹くのです。強い風ではありませんが、すべて異なるのです。人の顔が異なるのと同じです。水があって山があれば、山の高低によって気候が変わります。海は千態万象の妙味をもっているのです。

 

 

 

11 先生は、時間さえあれば海に出掛けました。海に行って、もまれるのです。しかし、それが精神を整えて大きな闘いをするための試練であり、準備だと考えるのです。睡眠も取れず本当に疲れますが、精神をまっすぐに正し、自らそのような標準を定め、この平衡が取れた状態から他の所に傾かないような生活をしているのです。

 

 

 

12 海の世界を知らない人は、それだけ幸福の領域が制限されるという結論が出ます。創造主がいれば、陸地を知り、海をよく知って、海の神秘性を思い、陸地の美しさを思いながら賛美するのを喜ぶのであって、一面だけをもって喜んだりしないだろうというのは極めて理論的な話です。

 

 

 

13 海を見るとしても、海をただ海としてだけ見るのではありません。父が「私」に下さった贈り物として見るのです。再創造をする過程において、すべての物を再び感じ取るというのです。ここで偉大な革命が起こります。偉大な勝利の旗がここから芽生えてくるのです。ですから、すべての万物は、誰のものになることを願うのですか。神様の愛を受ける人のものになりたいと思うのです。それが真理です。神様の愛を受ける人のものになりたいのです。微生物からすべての植物まで、神様の愛を受ける人の所有になりたいと思うのです。

 

 

 

14 先生は、刺激的なことが好きです。変動の多い所から切り開いていくのです。そのようにするためには、陸地よりも海がもっと良いのです。海は風も吹き、穏やかでもあり、波風が何度も起こって変化します。ですから、陸地の旅行よりも、海の旅行が良いというのです。

 

陸地は、歩き回っても朝の考えはそのままで、変動がありません。陸地はいくら歩き回っても、手をつけずにおとなしく行くことができますが、海はそうではありません。「私」がこのように行こうと思っても、あっちに行ったりこっちに行ったりするのです。そのように変わります。変化するときに、本当に刺激的な変化があるのです。穏やかなときは、陸地が顔負けするほどです。本当に不思議なほど穏やかなのです。

 

あるときは、その海面がガラスの板に思えるときがあります。あまりにも美しくて、触ったり食べたりしたいと思うときがあります。ですから、「海は限りなく変化するが、それでも私は行く」という一念で前進していくのです。そのような刺激がなければ、大きなことを成し遂げることはできません。

 

 

 

15 先生は、今まで開拓者でした。開拓して先生が先頭に立ちました。私たちの会社で船を造り、船長がいなければ、先生がすべて連れて海に出ていくのです。「風よ、吹け。波よ、打て。男の行く道を塞ぐのか。天と人類のために、後代に生命を引き継ぐ食糧問題を、ここで解決する」という思いをもっています。それは素晴らしい男でしょう?先生は、そのような男がよいのです。

 

そこから、今後、生きたサバイバル映画のようなものができ、歴史の渦がそこから解かれるでしょう。悲喜劇が交差し、素晴らしい男たちが憧れながら行くべき道だというのです。それで、世界を越えていける基地がそこにあるというのです。これによって、海に出ていく数多くの若者たちに希望を与えることができます。あすの海の世界に対する夢を描ける一つの源泉が、ここから爆発するのです。

 

 

 

16 先生は熱心に海に出掛けますが、その心を忘れてしまえば問題が生じます。精誠というものは、千年、万年続けなければなりません。海に出ていって精誠を尽くすとき、楽に座ってやれば蕩減条件が立ちません。きのうよりもきょうが良くなり、きょうよりもあすが良くならなければなりません。今後、先生が飢え死にする人々を救ってあげる時まで、その精誠を尽くすなら、先生が死んだとしても、そのみ旨はこの地上に成し遂げられると思うのです。

 

 

 

17 神様が絶対愛のために創造した万物を見れば、神様が楽しみながら造ったというのです。未来の福地天国を中心とした家庭において、十分に生活必須要件を備えられるよう、すべて造っておいたので、どれほど楽しさを感じるだろうかというのです。流れる水も、天地が機能するためのものです。海から水蒸気になり、雨を降らせて循環しながら万物を蘇生させるのです。すべてが協同圏内で、相反することなく全体が協力し、人間の理想を完成できるようになっているというのです。神様の生活舞台であるこの地上で、神様の息子、娘を育て、天国に移譲しようというのです。

 

 

 

18 西洋人は、先生が韓国人でも、韓国だけのために仕事をしているとは思っていません。世界のために仕事をしているという観念が強いのです。それで、陸地においても海においても、迫害を受けながらも雄々しく、勇敢に世界的な協会を構成しているのです。

 

そのような意味で、一般の思想を中心として行っているのではなく、宗教という背景を中心としてこのような体制を整え、「オーシャンチャーチ(海洋教会)というタイトルを掲げたということは驚くべき宣言です。これは、先生の驚くべき課題設定です。

 

今後、海洋教会をして何をするのでしょうか。海に出ていって訓練するという、その程度のものではありません。海を占領し、海を愛するのです。海を占領するといっても、何をどうするというのではありません。創造主の本意に合うように海を管理し、海を愛する意味から、海を中心に世界を結束できる舞台にしようというのです。

 

 

海は無限な資源の宝庫

 

19 海を好きにならなければなりません。開拓しなければなりません。陸地の三倍にもなる海を無視することはできません。これから、誰が海底にある資源を開発するのでしょうか。地上には、金銀財宝や石油があるといいますが、海は陸地より三倍も広いので、その三倍が埋まっているのです。それを開発できずにいたのですが、今から水産資源の開発に着手しなければなりません。

 

 

 

20 水には、決まった顔、形がありません。入れたとおりに、どこでも、間違いなくそこを満たしてくれます。千万の表情をもつことができます。小さな器に入れれば小さくなり、大きなタンクに入れれば大きなタンクになり、家全体よりももっと大きな所も隙間なく満たします。

 

あのように大きな海も、一つの顔として見るのです。太平洋、大西洋、インド洋など五大洋がありますが、一つの顔と同じです。いくつもの形をもっています。

 

地球星の金銀財宝は、海底に多くあります。海の中に多いのです。先生は、そこに関心があります。他の人が手をつけたものは願いません。

 

海底のすべての金銀財宝を、いくらでも掘り出すことができます。最近は科学が発達したので、島から海底まで何十里と穴を掘り、何でもすることができます。ですから、海を愛するのが重要なのです。

 

 

 

21 深刻な飢餓問題を解決できる代案は、どこにありますか。地球星の七五パーセントを占めている海洋圏こそ、新しい資源の宝庫です。海は、各種の公害と資源の枯渇によって死んでいく地球星を生き返らせ、人類の明るい未来を約束してくれる、新たな原材料の宝庫です。

 

 

 

22 海の資源がどれほど膨大かというと、この陸地は問題になりません。今後の燃料問題を考えるとき、油類燃料や石炭燃料、電気を中心とした時代は過ぎ去ります。電気も限界があるのです。今やエネルギーの補給源は海にしかありません。水素を開発する道しかないのです。

 

 

 

23 今後は、科学的に食糧を無尽蔵に作ることができます。今はなぜそれを作れないかというと、原価が多くかかるからです。燃料費が多くかかります。今後、水素エネルギーを解決すれば、エネルギーは無尽蔵です。エネルギーがあまりにも多くて処理しきれないほどになります。ですから、食べ物もいくらでも、食べきれないほど作れるのです。そのようになれば、独りで食べるのがつまらないので、通りがかりの人に、「ちょっと食べていきなさい。そして、ちょっと話をしましょう」と言う時が来るかもしれません。ですから、今から準備しようというのです。私たちは、子孫が豊かに暮らせるようにしてあげなければなりません。

 

 

 

24 海に行ってみると、海は単調です。水平線しかありません。しかし、その中はどれほど複雑か分かりません。また資源にしても、陸地より多くの資源をもっています。そこには無尽蔵の宝物があるのです。人間の好きなあらゆる宝物がそこに沈んでいます。このような海を占領しようとすれば、何が必要でしょうか。アメリカの開拓時代に、西部の鉱山を見つけるために危険を顧みることなく冒険したことを考えてみてください。そのとき、冒険的で勇猛だった人にそれを所有する特権があったのと同じように、冒険の峠を何度も越えていかなければ宝物を手に入れることはできません。今までは、船が行ったり来たりするための航路を手に入れる争いをしましたが、海の中の物を所有するための闘争はしなかったのです。

 

 

 

25 今後、誰が海の主人になるのでしょうか。地球に大変動が起これば、海の中に陸地が発生し、陸地が海になるかもしれません。もし、太平洋の真ん中にアメリカよりも大きな陸地が生じれば、その土地は誰の土地になるのでしょうか。そのようにならないとは言い切れません。いつそのようになるか、誰も分かりません。海の底だからといって、火山脈がないわけではありません。それで、「二百海里以内はどこも私のものだ」と主張する人がいればいいのですが、そのような人がいません。間違いなく、時が来るでしょう。海を中心として闘う時代が来るのです。その時、海を所有できる人は勇猛で開拓精神がなければなりません。そうでなければ海の主人になれないのです。

 

 

 

26 これから世界を指導できる人は、海を守れる人です。海底の宝、財宝を、人類が自分たちのすべての権力と文化的背景、伝統と国力を投入して開発する時代が来ます。それを開発するためには、海洋地域を誰が先に占領するかという問題が鍵になります。このような問題を見るとき、真の父母の名をもった歴史的な責任者として、今後統一教会がとどまる基地として、どのような所を残してあげるのでしょうか。それは海辺です。今後、海水を利用した水産業、養殖業は無限なのです。

 

 

 

27 北極には八百メートルの雪が積もっています。それはきれいな水です。千年前に積もった、澄んだ水だというのです。公害がありません。その水は万年後にもきれいな水です。南極も同じです。氷の下に、人工的に氷の文化都市、ニューヨークのような都市を造ったとすれば、多くの人々が観光に行くでしょうか、行かないでしょうか。それを造るのは問題ありません。考えるだけでも気分が良いのです。トンネルを一度造っておけば万年トンネルとなり、崩れることはありません。一年に一度ずつ冷水をまいておけば、かちかちに凍るので、どんどん丈夫になっていくのです。だんだんと強くなるのです。

 

 

 

28 氷の下で農業ができる時代が来ました。そこに、花も咲くのです。アラスカのような所に行くと、高い山中には万年雪があり、その中間には草が生えていて、その下には花が咲き、その下では釣りをしているというのです。どれほど美しい仙境か分かりません。美しく、水は澄み、空気はきれいで、すべての生態的条件をくまなく備えた環境です。一度行って味を占めてしまうと、そこで暮らしたいと思うようになり、出ていきたいと思わなくなるのです。今、先生がこのように努力するのも、そのようなものがある所だからです。

 

 

 

29 若い人たちは、海に関心をもたなければなりません。先生が二十四時間、海に出掛けるのは、海を愛したという伝統を立てるためです。船乗りは海に出ると、六カ月から一年は帰ってこないので、女性たちは船乗りを嫌います。ですから、船乗りが次第に少なくなっているのが世界的な傾向です。私たちがこれを引き継がなければなりません。これから世界の海上権を正しく管理しなければなりません。今後、陸地よりも海に力を注ぐ時が来るのです。それで、先生は海に関心をもっているのです。先生が海に関心をもつのは、そのような目的のためだということを理解して、皆さんも海に関心をもちなさいというのです。

 

 

海と人類の食糧問題解決

 

30 海は、原料市場の中で、三分の二を占める世界の宝庫です。海の中にはダイヤモンドの鉱山があるでしょうか、ないでしょうか。陸地の二倍以上あるでしょう。神様のみ旨の中で先生が神様の復帰摂理をしているので、二倍以上はあると考えるのです。それから、海には海草があり、魚がいます。これらがすべて食糧になります。海草が生えている面積は、この陸地の面積の二倍ほどになります。そこにまた、無数の魚がいます。このようなことを考える人が、そこに関心をもたないでしょうか。陸地より、もっと多くの関心をもつのです。

 

 

 

31 陸地の資源には限界がありますが、海の資源は無限です。一匹の魚が何十万個も産卵します。ですから、海の資源は無限なのです。これを人工的にふ化させれば、一〇〇パーセント近くふ化させることができます。餌や飼料などをしっかり調節さえすれば、無限の資源を補給することができます。そのような所は海しかないので、海洋問題について考えているのです。

 

これからは、一家族が水中に入って暮らすこともできる潜水艇を考えなければなりません。水中でも養殖ができるようにするのです。このように考えるとき、環境条件を無限に発展させることができ、拡張させることができるのです。

 

 

 

32 今後、人類の食糧問題を解決する方策は、養殖以外にありません。これから海辺に数十階、数百階のビルを造り、ボタン一つで養殖ができるようになるのです。百坪もあれば、一つの世帯が、子女たちを大学で勉強させながら暮らせるのです。今の時代は科学が非常に発達しているので、何十里、何百里、何千里離れた所からでも海水を引いてくることができます。山の中に、養殖ビルをいくらでも建てて養殖ができるのです。そのようにしなければ、人類の食糧問題を解決できません。ですから、先生は深刻なのです。

 

 

 

33 淡水魚と海水魚を入れ換えるやり方で魚を育てるのです。さけは、海に棲んでいますが、淡水に上がってきて子を産みます。養殖場を造って淡水魚を海水で育て、海水魚を淡水で育てることが必要です。なぜでしょうか。害虫を一匹ずつ取り除くことはできないからです。害虫を駆除するにはどうするのでしょうか。海水に棲んでいたものを淡水に移し、一カ月間そのままにしておけば、すべて死んでしまうのです。それは簡単なことです。二週間だけ取り替えてしまえば、いくらでもできるのです。その調整は可能です。ですから、陸地で行う牧場で得る収獲とは比較になりません。

 

 

 

34 釣り場に魚がいなければ、養殖場を造って魚を養殖しなければなりません。魚を養殖してどこへでも運送し、釣りができる時代になりました。気候が合い、温度が合う場所に養殖場を造って養殖をすれば、どこでも、どんな魚でも釣り場に入れることができます。船で運搬して放し、釣ることもできます。獣も、虎のハンティングまでできる時代が来ます。おおかみを育てて猟場に放ち、ハンティングをすることもできます。熊のハンティングもでき、どんな動物でも飼育してハンティングができるのです。

 

 

 

35 先生はまぐろに目をつけ、これから人類の食糧問題に対処しようと思っています。まぐろは、大量に育てて海に送り返しても、速いので、二ヵ月間だけ育てて放せば、絶対に捕まって食べられることはありません。普通、まぐろの平均速度は三十五マイルで、速く泳ぐときは六十マイルにもなります。海で最も速い魚の一つです。これがいかに格好いいかというと、泳いでいく時には背びれを小さくたたみますが、腹びれを大きく広げれば他の魚がそれに引っ掛かります。ある種の魚雷や爆弾のようになっているのです。まぐろは五大洋を舞台にして生きる魚です。これを無尽蔵に産卵させて海に送り返せば、人類の食糧問題が解決し、公害問題が解決すると考えるのです。それで先生は、これを開発しているのです。

 

 

 

36 南極に行けば、小さなえび、赤いえびがいます。一億五千万トンのえびが毎年死んでいきます。人類が魚を獲って食べるその量が、一億四千万トンになりません。高たんぱく質が最も多いのがえびです。魚とは比較になりません。ですから、えびをどのように処理するかということを先生は考えたのです。それで、粉を作るのです。えびは一年もあれば死にます。それは、神様が魚の餌として作ったのです。ところが、すべて捕まえて食べることはできないので、たくさん死んでいくのです。毎年そのような大量の死骸が海に流れていきます。また、それが公害と直結するのです。この問題をどのように解決しますか。先生が長年研究して、フィッシュバウダーを生産したのです。

 

 

 

37 世界で飢えて死んでいく二千万の人々のために、先生は養殖場を造りました。公害によるオゾン層破壊の問題を、人類の代表として解決できる人は先生しかいません。そのように、各方面に関心をもって進まなければなりません。先生が行けなければ、皆さんが涙を流し、汗を流しながらでも行かなければなりません。先生の足跡の上に自分も足跡を残そうという心をもたなければなりません。原理の道は、そのままたどっていく道です。越えていく道ではありません。何千代の子孫も、原理の道は同じなので、それと全く同じように行かなければなりません。ですから、蕩減の道なのです。

 

 

第四節 海釣りの深い意味

 

天聖経   第六篇 真の万物 第四章 自然と海についてのビジョン

第四節 海釣りの深い意味

 

 

 

1 まぐろ釣りは、普通の釣りではありません。海のハンティングです。海のハンティングという言葉は、初めて聞くでしょう。それを捕まえるのは、大きな牛を一頭捕まえるよりも難しいのです。一匹で千ポンド以上になります。五百、六百、七百キロになるものもいます。それは雄牛よりも大きいのです。そのようなものを捕まえれば、わくわくします。捕まえて長い間置いておくと肉が腐ってしまうので、血を抜くのですが、血を抜けば、海が一瞬にして血の海になります。

 

そのときは先生も、「本当にすまない」という思いが湧きます。先生はそのようなとき、いつも「私たちを人類解放のための祭物と考える神様の心情はいかばかりか」と考えます。また、「自然界で捕まえた物は、自分が精誠を込めたものではないので、私が育てて祭物を捧げます」と心に誓うと、気分が晴れたのです。それで養殖事業をし、水産業をするのです。

 

 

精神的な健康のための海釣り

 

2 海の魚を見れば、本当におもしろいのです。一番端、一番浅い所には小さな魚がいます。深い所に入れば、次第に大きな魚になっていきます。小さな魚は、もう少し大きな魚に食べられ、また、それはさらにもっと大きな魚に食べられるのです。おもしろいことに、鯨やまぐろを見ても、子も全く同じだというのです。すけとうだらも、まぐろであっても、小さな子は同じです。そのように食べられる過程を越えなければなりません。ですから、不平を言えないというのです。大きな魚の子だからといって、最初から大きく産んでおいて小さな魚を食べるようにはなっていません。同じ立場で出発するのです。このように公平な神様です。

 

 

 

3 海に行けば、水が深ければ深いほど温度の差が大きいのです。一度、二度の温度差によって魚の種類がすべて変わります。人間には分かりませんが、魚の世界では、一度の差による階層と、その面に沿って五大洋を訪ね回るのです。本当に神秘的です。きのうまで魚が無尽蔵にいて、魚が半分、水が半分の状態だったのですが、きょう行ってみると一匹もいません。それはなぜかというと、温度差のためなのです。

 

五度、一度変われば、完全にいなくなるのです。人は一度、二度の遠いなど問題ありませんが、魚たちはそうだというのです。人は寒帯地方に行っても暮らすことができ、熱帯地方に行っても暮らすことができ、温帯地方に行っても暮らすことができますが、動物はそうではありません。

 

 

 

4 海釣りに行っても、ただ水平線だけがある海に行くのではありません。必ず、底に石がある所に行かなければなりません。石があって隠れることができ、虫がくっついて棲む所に魚がいるというのです。水が流れるのを見れば、魚がいる所は必ず波が立ちます。三メートル、五メートルの波が立つというのです。そのような所に行けば、魚がいるのです。そのような所に近づいて魚を釣らなければなりません。

 

 

 

5 先生は、温度に合わせて釣りをします。どれくらいの温度の場所には、どのような魚がいるか分かるのです。釣り糸を何度か垂らせば、魚がもう餌をつつくのです。釣り竿を早く巻けば上に上がり、ゆっくり巻けば沈むのです。ゆっくり巻きながら、今、水面の何分の一の所に針が流れているか、すべて分からなければなりません。今このような気温なら、大きなさけはどのくらいで来る、ということが先生には分かるのです。さけは普通、海底にいます。底に餌がたくさんあるからです。虫やかにのようなものがそこにいるので、海底に集まるのです。

 

 

 

6 釣りをするために海へ行くのではありません。アラスカ精神とは何かというと、さけの精神です。さけは、子供を産むために四千マイル、五千マイルの大海を渡り、昔旅立った自分の故郷に訪ねてきます。

 

人間の復帰路程もこれと同じです。何千万里離れたとしても、再び訪ねていくことができなければなりません。

 

釣りをするにおいても、これ以上興奮する釣りはありません。それがどれほど強いか分かりません。他の魚が食いついたときは、何度か巻けば出てくるのですが、これは数十回巻かなければならないのです。

 

 

 

7 先生は、かなり上手に釣りをします。四十日以上、夜も昼もやってみました。先生が釣ろうとする魚は、すぐに食いつくようなものではありません。「それに食いつけ、めだかのような群れよ、集まれ」と言いながら、最後に大物が食いつくように待っているのです。

 

今皆さんがやっている伝道を、同じように考えてみなさいというのです。今、ひもが垂れているのかどうかも分からないまま、出ていって伝道しています。しかし、それを引っ張る時が来るのです。ですから、いくらでも待ちなさいというのです。大きく決心しなければなりません。今、そのような標準をもって進んでいるので、皆さんは一気に伝道しようという、せっかちな思いをもってはいけないというのです。

 

 

 

8 船に乗り、釣り竿から糸を垂らして座っているときの退屈さは、到底言葉にできません。そこで散歩ができますか。狭苦しい所で動き、そこで科理をしなければなりません。そこから映画を見に行けますか。友人の所に遊びに行けますか。静かにしなければならないので、音楽も聞けないのです。ですから、海を見つめながら、海や空と対話するのです。

 

海と空が一つになる、そこに先生が一人いれば、本当に気分が良いのです。そこでは、神様もお一人、先生も一人なので、その気分が通じるのです。魚を釣りに来たのに、そのようなことを考える人は、歴史上、先生一人しかいないでしょう。

 

先生はなぜ、頻繁に海に出るのでしょうか。霊的に、すべての面において利益が多いというのです。一日中家にいれば、精神が散漫になり、世界宣教や教会問題など、全体を考えなければならないのに、その何分の一しか考えられません。しかし、海に出れば、全体的に考えることができるのです。そのような面において、海はとても良いのです。「だから『釣り道』という言葉が出てきたのだなあ」と感じるのです。

 

 

 

9 先生は、釣りに行くにしても、どこに行くにしても、多くのことを考えます。長い間釣りをした人は、釣り竿を十回垂らせば十回考え、百回垂らせば百回考えるのです。ですから、十回垂らしながら百回考えるようになれば、先頭に立つことができるのです。

 

 

 

10 ハンティングは肉体運動として、肉体の健康のためのものであり、釣りは、精神の健康のためのものです。座って釣りをするときは、自分の一生を回想し、本当にたくさんのことを考えるのです。そのような時間をもてるのは驚くべきことです。自らの過去を分析し、未来の生活を設計できます。私たちにとって最も重要な時間となるのです。威厳を備え、自分自身を静かに省みることができます。それが絶対に必要です。これを東洋では「釣り道」といいます。

 

ですから、何年か釣りをすれば、魚を釣っても放してあげたいと思うのであって、釣った魚を食べたいという思いは全くなくなります。それが本当の「道」です。食べたい思いがなくなるというのです。ですから、どれほど道徳的、精神的な発展になるか分かりません。そのようなことを学べば、残忍性をなくしてしまえるのです。何かの部署の長になれば、その部署の人々に紳士的に対せるようになります。このすべての人間を和合できる、一つの道場になっているのです。

 

 

 

11 歴史は新しい世界をつくっています。ですから、先生を指さして「間違っている」と言うことはできません。先生は恥ずかしくないというのです。魚の顔を見て話すのです。日中座って釣りをしながら、「お前たちは私のような男に初めて会うだろう。お前たちを捕まえるのが目的ではない。お前たちを連結させ、漁場を中心として人類の飢餓を解決するためだ。それが、お前たちの創造された本然の目的ではないか。そのようになれば、お前たちの肉を食べた者は悪いことをしなくなるだろう」と言うのです。

 

 

 

12 先生が釣りをするとき、「私が主人だ。来なさい!」というと、魚が集まってきます。そうすれば餌をあげるのです。ですから、釣りをすれば、いつも周りの人々よりもたくさん釣ります。おかしいというのです。どうしてそうなるのか、理解できません。縦的な神様を中心とすれば、そうなります。そこから特別な光が出るのです。皆さんから普通の光が出るとすれば、先生からは特別な光が出るというのです。その光を魚が見るのです。それで、いくら「来るな」と言っても魚が押し寄せてくるのです。

 

 

 

13 先生は釣りに出て、最初に釣った魚は放してあげます。神様が造って解き放つという思いをもって、放してあげるのです。そして、今まで先生が釣った魚は、食べませんでした。二千万の神様の息子、娘が飢え死にしているのに、魚が自然死するのを許せないのです。「お前を釣って二千万の神様の息子、娘を生かしてあげなければならない」というのです。動物、あるいは植物が生まれた原則がそれなので、それに対しては有り難く考えなければなりません。そのような意味で、釣り大会に出れば、先生の釣り針には魚がよく掛かり、一般の人の針には掛かりません。精誠です。「神様が造った水の博物館に潜って入っていくことはできないので、一度水の中から飛び出してきて、神様が解き放つときの喜びを私に鑑賞させてほしい」というと、自分から訪ねてきて釣られるというのです。

 

 

 

14 真の愛をもてば、何でも統一が可能です。動物世界や植物世界、毒蛇までもすべて保護してくれるというのです。先生が釣りをするときは、「魚たちよ!私がお前を釣るのは、私のためではない。世界で飢えて死んでいくあのかわいそうな人々に、神様が涙を流しながら食べさせてあげたいと思う、その心情に代わって釣るのだ。私のためではなく、子孫と万民のために釣るのだから、お前たち、許してくれ!」と言うのです。それで、最初に釣ったものは食べずに、祭物として放してあげのです。愛を受ければ、その前に生命を捧げようとします。ですから、船に乗った十二人が釣った魚のうち、三分の一は先生が釣ったものです。周りで魚たちが見分けて、「先生の釣り針にだけひたすら食いつけ!」と考えるのです。

 

 

 

15 船に乗り、青い海で魚を釣ることは、神様の復帰摂理、救援摂理と同じです。堕落した人間が魚だとすれば、それと同じです。良い餌を用いなければならず、次に丈夫な糸を結ばなければならず、釣り竿も良いものでなければならず、すべての物をそろえて釣らなければならないのであって、糸も弱く、餌も悪く、釣り竿も悪く、釣る技術も悪ければ、釣れないというのです。世の中で生きるのも、魚を釣るのと同じです。

 

 

 

16 この世の中で成功しようと思えば、自分自身が釣り竿のような立場で釣り針を作り、良い糸、良い餌をかけて釣らなければなりません。ただそのままでは釣れません。それに相対的な条件が合ってこそ収穫ができるのであって、相対的条件を合わせなければ収穫をもたらすことはできないのです。ですから、一人で生きるのではありません。全体、すなわち万物と人類、天地、神様と共に生きるのです。

 

万民が見つめる目、良い目、良い五官、良い体、それも神様が見つめる五官、そのような良い体として共に生きることを自覚しなければなりません。それを感じて暮らせば、その人には宗教が必要ないのです。

 

 

 

17 最高の釣り餌のようなものが愛です。万民を釣れる一つの餌が、愛です。歴史を釣り、神様を釣ることができる餌は何でしょうか。神様を釣れる餌があるなら、一度準備してみたいでしょう。それは愛の餌です。歴史を釣ることができ、天地を釣れる餌があるとすれば、それは愛です。

 

 

 

18 今や私たちの時が来ました。神様が願われてきた時を迎えたというのです。歴史時代の数多くの人類、もしくは数多くの烈士たちが血の道を選んでいきながら築いてきた願いの一時代が、私たちの目前に到達しました。それが私たちの時代にかかっています。大きな魚の前に餌となり、おいしそうな匂いを漂わせながら尾を振ってぐるぐる回っている気分です。その餌を先生が握って座り、魚ががぶりと食いつく時に引っ張り上げるのです。そのような点で、釣りという趣味は、本当に葉晴らしいというのです。

 

夜の十二時を超え、午前三時、四時を過ぎて疲れてくれば、眠気に襲われ、遠くの村からは鶏の鳴く声が聞こえてきますが、魚が餌に食いついて鈴が鳴れば、精神がどこに行ってきたのか、はっきりと目が覚めるのです。本当に速いのです。雷もそこまで速くありません。そのような精神さえあれば、世界統一は間違いありません。目を閉じ、鼻でいびきをかいていても、いつの間にか正しい姿勢を取り、釣り竿を握っているのです。そのようなことが起きるのです。そのようなときの喜び、その味が修道です。これが本当の神様式修道だというのです。

 

 

人類の未来のためのビジョン

 

19 未来において、人類は海を占領しなければなりません。海にあるすべての金銀財宝をこれから開発するのです。そのようなことを考えていたとき、トンネルをたくさん掘らなければならないという結論が出たので、今、国際平和高速道路の計画も出てきたのです。

 

海底にトンネルを掘って道を造り、そこに門を造っておけば、その門から出ていって魚を獲ることもできるので、どれほどおもしろいでしょうか。海にある油も、船にパイプで直接供給すれば、どれほど紫晴らしいでしょうか。海底に石油が、どれほど多くあるか分かりません。ボタンを一つ押すと、パイプが現れて油が出てくれば、どれほど素晴らしいかというのです。

 

 

 

20 人間は、どこでも自由です。国境もなく自由に、海に行こうと思えば海に行き、山に行こうと思えば山に行き、水中でも暮らすのです。潜水艇を造って海の中で深度を調節すれば、いくらでも暮らせる時代になります。そのようにしなければ、人類の生きる場所がありません。タンクに水を入れ、沈ませれば沈むのです。ボタンで操作し、水を入れたり抜いたりすれば、沈んだり浮いたりするので、水中で暮らせるのです。

 

十メートル以下に行けば、天地にそれほど良い場所がありません。三十メートル下に降りていけば、非常に静かな世界が現れるのです。海底王国です。空中に上がれば風も強く、変化が多いので大騒ぎになります。気流が変わり、空気が変わり、雨が降って大変です。ですから、海に出て暮らすのが、理想的な生活だと考えるのです。

 

 

 

21 今後は、海の中に入って暮らすこともできます。それで、五人乗りの潜水艇について研究させています。風が吹かないときの穏やかな波がある所では、億万長者の主人になれるのです。どれほど神秘的で、気分が良いか分かりません。風が吹かないとき、ガラス玉のような海で、大海原に夢を託した夫婦が座り、皆のことや未来の夢を語り合いながら、愛の家庭をつくっていくと考えてみてください。それも問題ありません。もし台風が吹いても、三十メートル下に潜ればいいのです。水中で思いのままに暮らせる時が来ます。ですから、大韓民国の地が狭いといって心配しなくてもいいのです。

 

 

 

22 これから、陸地には食べる物がなくなります。食糧が不足します。ですから、海に行って暮らすようになるのです。そこで、陸地の肉の代わりに魚を取って食べ、野菜の代わりに海藻類を食べればよいのです。指導者であれば、皆さんが未来において、そのように海の中で暮らせるように計画すべきではないでしょうか。水の中に酸素がどれほど多くありますか。ですから、水の中で酸素をつくり、自動で供給するのです。海水の中の酸素の割合はどれくらいですか。それを、どのようにしてすべて使いきりますか。海の世界を占領できる時代が、遠くない将来に訪れるでしょう。

 

 

 

23 先生は、未来の世界に対して準備します。海に出掛けるのが好きで、そうしているわけではありません。海にいるのは大変です。最初は一週間行ってくれば、膝の裏がずきずき痛みます。しかし、心の中では、「すべきことが多いのだから、年のせいにせずに行かなければならない!」と考えました。ですから、休むことができません。十日ほどたつと、早朝に出て、夜の十二時に帰ってきてもびくともしなくなりました。しかし、一緒に行った人たちは、「疲れた」と言って釣り竿をつかみながら眠るのです。それでも、司令官となり、命令を下す立場では、まず魚を釣らなければならないという思いをもたざるを得ないのです。するとあるときは、魚が来て食いつくのが感じられるのです。精神は、そのように驚くべきものなのです。