第7篇地上生活と霊界  

第一章 人間の本然の生と死

第一節  三時代の人生

 

1 「私」は、「三大父母」を通して生まれました。最初は物質世界の父母です。自分は、物質の世界からすべての要素を受け継いで、物質の中心として、物質の複含的な存在として造られました。このような観点から、その物質の元素自体が「私」を生んでくれた先祖でもあり、また自分の延長が物質世界でもあります。宇宙は、この物質が愛の理想の立場においてのみ安着するようにできています。愛の理想の立場で、すべての細胞が平穏に生きられるようになっています。もし腹を立てたりすれば、みなぶつかり合うようになってしまいます。

 

二番目は、自分の体を生んでくれた父母です。自分を生んでくれた父母が、自分をして一つの形態を備えて生まれてこれるようにしました。しかし、この父母は、どんなに頑張っても愛の主人になることはできません。自分の生命の主人にはなれますが、愛の主人にはなれません。愛の主人は神様です。愛を宇宙化させ、愛を永遠化させるために神様はいらっしゃるのです。神様は愛の主体であられるので、愛を中心として父母になっています。ですから、三番目は、神様が父母です。このように、私たちは三大父母をもっているのです。

 

 

腹中、地上、天上の三時代の人生の道

 

2 人間は、腹中時代の十カ月、肉身時代の百年、そして霊魂時代を千年、万年、永遠に生きていきます。私たちの顔を見れば、目、鼻、口の三段階になっていますが、これは人間が生きていく三時代の姿を見せてくれているのです。口は物質世界の腹中時代を象徴し、鼻は人間世界の地上時代を、目は霊界の天上時代を象徴しています。母のおなかの羊水の中は、赤ん坊にとって正に自由天地です。母のおなかの中ではいつも背中を曲げていなければならず、また勝手に足蹴りもできず、鼻も口もみな塞がっているのですが、胎児にはここが自由天地だというのです。胎児に必要なものをすべて供給するパイプがへそについていて、へそだけで生きていかなければなりませんが、そのような世界が赤ん坊には自由天地なのです。

 

 

 

3 皆さんが腹中で、「私は陸地の世の中に出て、口で蜜も食べ、餅も食べ、御飯も食べ、牛肉も食べ、すべて食べる」と考えてみましたか。「ここを抜け出たら死ぬ」と思いながら、へその緒を通じて生きているのです。今それを思えば、息が詰まります。それにもかかわらず、腹の中から外に出るのが心配で、「出なければよい!」と思うのです。しかし、時になれば、すべて出ていきます。破水すれば、その水によって外に出て、出産になります。無事に生まれるのです。

 

 

 

4 地上生活は、胎内にいた時のように、空気中で動き回って暮らすのと同じです。空気のふろしきの中で生きています。死は、第三の人生に向かって出生することです。その瞬間が死ぬ時です。とんぼも、初めは幼虫になって水中で泳ぎ回っていますが、地上に上がってきて、一時は這い回ります。その次には、パタパタと飛び回り、地上では食べようとは思わなかった虫を取って食べます。天下を自分の舞台にして飛び回るのです。昆虫の中には、三段階の世界を経るものが多いのです。昆虫には、ほとんど羽があります。昆虫もこのように水の中で生き、陸地で生き、空中で生きるのですが、万物の霊長である私たち人間が、地上で生きるだけでよいでしょうか。次元の高い羽があるというのです。

 

 

 

5 腹中時代は水中時代です。赤ん坊が母親の胎内にいるときは、水の中でぷかぷか浮いています。母親のおなかの中の時代は、息が詰まって生活しづらいように感じられます。水の中で暮らしているので、当然、水を飲み込み、送り出すことをしなければならないのではないですか。そのために腹中の胎児は、ホースをおなかに連結して暮らすのです。腹中の胎児は、どこを通して栄養分が供給されますか。へそについたへその緒を通して受けます。へそは、腹中の胎児にとっては口なのです。

 

 

 

6 母の腹中にいる胎児は、何で生きていくのですか。へその緒です。これが母の体とつながったホースです。しかし、第二の世界、空気の世界につながっていることを知っています。腹中で暮らしたのちに、それを壊して出てくれば、その時は、泣くと同時に息ができるようになっている呼吸の穴、鼻の穴が空気の世界につながるのです。鼻の穴が絶対補給路です。

 

腹中で、空気の世界のために準備したのですが、それを連結させて出てくる時は、腹中の世界で暮らしたへその緒と羊膜を、すべて破壊して出てこなければなりません。腹中のへその緒は破壊されるのです。それと同時に、宇宙にある地球星という母の懐に現れます。口から栄養を補給されて生きるのです。腹中でへその緒を通して栄養補給するのと同じように、この体は、空気のパイプである鼻の穴を通して息をするのです。腹中でその準備をして、空気世界に出てくる時に、それに切り替えて息をするのです。

 

 

 

7 地上世界に生まれてからすべきことは、愛を体恤することです。愛という空気を吸わなければなりません。父母から、愛の空気を吸わなければなりません。愛の空気を供給されていかなければなりません。ある家庭の赤ん坊として生まれ、サインカーブのように、上がれば下がらなければなりません。赤ん坊として生まれて、その次には分解されます。赤ん坊として生まれて、赤ん坊に帰るのです。

 

その時は、どのようになるのでしょうか。第二の地上世界を振り払って、第三の愛の世界の呼吸器宮につながらなければなりません。父母の愛、兄弟の愛を振り払い、大宇宙の神様の本体と和合した愛の世界に入ります。霊界は、愛の空気でいっぱいに満ちています。ですから、皆さんは、今この地上世界で愛の息ができるパイプ装置を準備しなければなりません。それで、霊界の体験が必要なのであり、霊的愛を感じて呼吸できる人にならなければなりません。

 

 

 

8 母のおなかの中のような地球星を振り払って出てくるとき、皆さんは愛の呼吸器官で、愛の息の穴で呼吸をします。第三の愛を受け継いでこそ、永生を得るのです。そのように愛を連結させて神様に帰るのです。愛の呼吸器官に連結されて霊界に帰りますが、神様の本体に帰る道が残っているのです。種が本体から出てきたので、実を結んで本体に帰っていかなければなりません。

 

 

 

9 人間を見れば、腹中時代は水の世界です。人間の約三分の二は水です。地上世界は空気の世界です。ですから、水の中にいる時は、目、鼻、口など五官が必要ありません。腹中の十ヵ月間で成長するとき、鼻で呼吸してみましたか。鼻で呼吸しては死んでしまいます。即死です。どうして鼻が必要なのですか。次の世界のために準備するのです。その次の地上世界では、水のふろしきではなく、空気のふろしきです。空気のふろしきでは何をしなければなりませんか。水のふろしきでは肉身の五官を準備したように、空気のふろしきでは霊的五官を準備しなければなりません。天国に行って愛を吸収できる耳と目と鼻、霊的五官を準備して、死の峠を越える時にそれが開かれるのです。無限の世界で必要なのが霊的五官です。

 

 

 

10 人間の顔は、三時代を象徴します。母親の腹中は口の時代です。次に、地上は鼻の時代です。母親の腹中から生まれて空気の時代を生きるのです。それから、霊界は目の時代です。太陽時代、日の光の時代です。愛は光とも言います。明るくなると言いました。それで、光の世界です。このように、人間は三時代を経て生きるのです。とんぼも、水の中で暮らして、地上に上がって生き、殻を脱いで飛び回りながら、虫を捕まえて食べます。三時代を経ます。

 

 

 

万物の霊長も同様です。腹中時代から、母親のおなかの中から出てくるとき、自分が暮らしていた所帯道具を抱えて出てきますか。すべて破壊し、捨てて出てきますか。一つでもぶら下げて出てくれば大変なことになります。へその緒で食べ、生きていたのですが、それを切ってしまえば死ぬようになります。

 

しかし、母親のおなかの中から出てくれば、それを切ってしまわなければなりません。無慈悲に切ってしまわなければならないのです。すべて破壊して出てくるのです。

 

 

 

11 人間は、時になれば誰でも母親の腹中での生活を清算して、地上界での生涯を始めるようになっています。本人が願おうと願うまいと、宇宙の法則がそのように運行しています。想像もできず、夢にも見ることができなかった広大無辺の新しい世界が広がるのです。水中生活の一生涯が終わり、地上生活の一生涯が展開します。腹中生活の十ヵ月が地上生活の百年に変わり、発展するのです。

 

そして人間は、色とりどりの変化無双な生涯を生きていきながら、最終段階である霊界、すなわち死後の世界のために準備する生活を送るようになります。ですから、死ぬことを心配してはいけないというのです。もっと良い所に引っ越しするのです。

 

 

 

12 腹中生活の期間には、地上界の生活が想像もできなかったように、肉身をもって暮らす人間としては想像もできない永遠無窮な、また別の世界が待っています。絶望の世界ではありません。限定された地上界での百年の生涯が、時間と空間を超越した永遠の世界へと変貌するのです。

 

腹中では、へその緒を通して母体から栄養を供給されて生き、地上生活の期間は、宇宙の水と空気、そして光の三大基本要素と栄養素を中心として生を営むのですが、一旦霊界に入っていけば、物質的な栄養素はそれ以上必要なく、愛を呼吸しながら永生するのです。あの国に行けば、食べたければ食べ、食べたくなければ食べません。このように人間は、誰彼を問わず、水中生活十カ月、地上生活百年、そして霊界においての永生、このように三段階の生涯を生きるようになっています。

 

 

 

13 人間は、水中時代、その次には陸地時代、さらに太陽の時代の三時代を生きるようになっています。これが一つの範疇になっています。太陽の時代は、昼のようにいつも明るいのです。地球星には昼と夜がありますが、霊界は常に明るいのです。このように水の時代と空気の時代、その次には愛の時代です。愛は、常に消えてはいけません。太陽の光のように、夜も昼も愛がなければなりません。朝も昼も夜も、北極も熱帯地方も南極も、どこでも愛は変わりません。それで、愛の時代の霊界に行くのです。霊界は、春夏秋冬のすべてが結実したものを収める倉庫のような所であり、そこが太陽の光のように輝いているのです。

 

 

 

14 私たちは初め、母の胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくるとき、すべて振り払って生まれるのと同じように、私たちの霊人体にとって肉身はふろしきのようなものなので、これを切ってしまって飛んでいくのです。したがって、人間は、水の世界、陸地の世界を経て、空中の光の世界である永遠の真の愛の世界で暮らすようになるのです。

 

霊界では生命の要素が愛なので、愛を通じた命令には、すべてに不可能がなく、即座に成し遂げられます。そこでは、億万人が一度に夕食を食べるとしても、そこに合う食べ物をあっという間に準備して、宴会をすることができます。

 

 

 

15 霊界で照らすその光が、真の愛の光です。真の愛は、霊界と肉界の日の光のようなものです。ですから、鼻の生活を離れて、目の生活をして生きるのです。目の生活は、すべてのものがはっきりしていて、分からないものがありません。鼻の世界を過ぎれば、光の世界です。目の世界に入っていくのです。目の世界とは何かというと、この目は、世の中も見ますが、霊界も見ます。天の父母も見ることができ、地上の父母も見ることができ、天国がどれほど膨大で、地上の国と比べてどうだということをすべて見て生きるようになっています。

 

ですから、皆さんは、霊界と地上が二つではなく、一体だということを知らなければなりません。この目は、二つを見るようになっているのです。

 

 

地上で愛の呼吸器官を準備

 

16 赤ん坊が出生するようになると、生まれるやいなや、泣くと同時に鼻の穴で息をするようになり、第二世界、すなわち空気世界に連結されます。

 

おなかの中から空気世界に連結されて出てくるときには、腹中世界で暮らしたへその緒と羊膜をみな破壊して出てこなければなりません。それらを破壊すると同時に、母である地球星のところに生まれるのです。生まれて、口で食べて、鼻で息をするのです。

 

ところが、地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な栄養分であり、本質的な生命要素ではありません。本質的生命要素は、正に愛です。したがって、この世の中で愛という空気を吸わなければなりません。母から、父から、愛の空気を吸わなければなりません。

 

 

 

17 人間の一生は短いのです。生涯において十年がいつ過ぎたのか分からないのです。結婚して三十年以内に、すべてのものが決定します。ですから、人生の道はいつも待っていません。忙しいのです。そして、一度はみな死ななければなりません。死なない自信がありますか。死ななければなりません。死ねば、霊界に行きます。この世はつかの間です。十カ月の腹中生活と同じなのです。

 

 

 

18 霊界は愛の空気でできていますが、皆さんの霊人体が準備できずに天国に入っていけば、息ができません。地上世界は空気でできていますが、あの世は愛の世界です。皆さんの霊人体が愛を感じられるように準備しなければなりません。そのようにできずに霊界に行けば、関係を結ぶことができません。問題が大きくなります。何千万年もかかるのです。

 

 

 

19 地上に生きている人間は、この地上で生きるとき、第三世界である本然の世界に帰らなければならないので、この愛の世界に行って暮らすために、愛の世界の呼吸器官を準備しなければなりません。この肉身を彼裂させて出ていくのです。赤ん坊が、自分の家を壊しておなかから出てくるのと同じです。それで、生みの苦痛を受けます。第二の生みの苦痛が死です。

 

肉身が生きている間は、何を準備しなければならないのでしょうか。水の中で、空気とすべてのものに合わせることができる呼吸器官を準備するのと同じように、この肉身の世の中では、霊界に行って呼吸できる愛の器官を準備しなければなりません。体をすべて破裂させて出ていくようになれば、愛の器官を中心として呼吸し、それまで生きていた制限的環境を越え、無制限に自由奔放な人間として生きるようになるのです。

 

 

 

20 地上で愛を呼吸する人は、死んでいるのではなく、生きているのです。腹中で生きるときは、未来の空気世界でのパイプを準備して生きています。生きていますが、へその緒に連結された胎を破壊させて出てくるときは、新しい次元 、高い次元へと変化するのです。高い次元で供給を受けるのです。空気の供給を受けて出てきます。地上に出てきてからは、何を発展させますか。愛です。空気ではなく、愛です。愛の要素を受けるのです。御飯だけ食べていてはいけません。この期間に何を満たさなければなりませんか。この期間には、新しい愛の人格を形成しなければなりません。

 

 

 

21 水の時代には必要のない五官を腹中で準備しなければならないことを、誰も知りませんでした。腹中では、それが必要ないのです。しかし、へその緒を切って空気世界に出るようになるときは、それが必要です。空気時代にも、水の時代と同じく、霊的な内的五官を準備しなければなりません。実体、外的、体的五官ではなく、神様的、内的五官を準備しなければなりません。愛の世界に和合できる自由奔放な生活をするために、それを準備しなければならないのです。

 

 

 

22 皆さんは今、制限された立場で、百年間自然界を見る目があり、嗅ぐ鼻がありますが、皆さんの中の永遠の存在は、その存在が生まれるまで鼻を閉め、口を閉じ、耳を閉じてじっとしているのです。これと同じように、皆さんの中に、永遠の世界を見ることができ、永遠の音を聞くことができ、永遠のにおいと永遠の味を味わう感覚が待っています。同じです。その時になれば、すべての人々は、どこへでも行くことができ、何でも聞くことができ、何でもにおいを嗅ぎ、何でも食べることができるのです。

 

 

 

23 霊界に行けば、愛の歌を歌い、愛の言葉を語ります。霊界では、オペラ式に話せば、「私」がオペラ式に答えなければなりません。踊りで表現すれば、踊りで答えなければなりません。ひたすら踊り続けても喜ぶことができ、永遠に飽きることがありません。一カ所で踊れば天国がすべて踊り、一ヵ所で歌えばすべて歌うのです。その時は、自分の愛する妻と踊るのです。他の女性と踊るときは、「私の愛する妻を、あなたよりも百倍愛するためにあなたと踊る」とこのように考えるのです。他の女性と手を取って踊るとき、それはすべて自分の愛する相対を千倍、万倍、もっと刺激的に愛するために、このような過程を経るのだというのです。

 

霊界に行けば、仕事をする必要がありません。夜がありません。いつも目覚めています。いつもこのすべての器官が働いているのですが、どのようなことをしますか。永遠に目を開けていても、永遠に寝なくても喜べるようなものとは何ですか。愛です。そのような愛の理想さえしっかりともっていれば、「何々、出てきなさい!」と言えば、すぐに出てくるのです。そこでは、本然の愛を中心として生きるのです。

 

 

霊界は愛の結実を収穫するところ

 

24 人は、どうして生まれたのですか。愛のために生まれました。愛の実を結ぶために、父母から愛によって生まれ、愛の懐で成熟するのです。その次には、神様に代わって愛することができる息子、娘を育てるのです。そして、年を取れば、その次にはどうなるのですか。世の中で父母が感じられるすべてのものを感じ、世の中を通じて神様を感じられるすべてのものを感じ、そこで一つの実になります。植物の実と同じです。木のすべての部分からエキスを吸収した実のような立場で神様の懐に帰ることが、人間が生まれた目的です。また、神様が人間を創造した目的です。

 

愛で一つになることができるのです。ですから、宇宙とも取り替えることができない無限な価値の基準が、愛です。それで、その愛と一つになるところには、ないものがありません。すべてのものが完成して展開するところです。そのようなところが、今日、人間が行くべき理想世界です。そこが霊界であるといえぱ霊界であり、天国であるといえば天国です。そのような実が結ばれていくところが天国です。天国というところは、個人が入っていくようにはなっていません。愛を中心に結実し、神様の愛の所有権を相続した対等の価値をもつ対象、その資格をもった人が入っていくところです。

 

 

 

25 第一の父母は、皆さんを生んでくれた父母ですが、第二の父母は地球です。皆さんは地から、皆さんの体が大きくなれるよう、すべての要素を供給してもらいます。地が体の第二の父母です。第二の父母を経て、第三の父母に入るのが死ぬことです。第三の父母に入っていくとき、そのまま入るのではありません。第三の父母に帰るには、本来の父母だった神様の形に似なければなりません。したがって、なぜ結婚するのかというと、神様の形に似るためなのです。

 

 

 

神様は、二性性相としていらっしゃる方として、各一性が合体化した一律的な存在であり、その神様の分性的人格が男性と女性なので、彼らが合性一体化して結実体のようになり、神様の本性の位置に帰らなければなりません。しかし、その結実体をつなげるためには、愛の道を通じなければならないので、生まれて愛を受け、育つときも愛を目標として育ち、生きるときも愛を中心として生き、歩むときも愛に帰るために歩まなければなりません。その道は、ために生きる目標を中心として訪ねていかなければ、方向がそれてしまいます。

 

 

 

26 自分の環境を克服しなければなりません。そればかりでなく、未来に結実できるすべての条件を受け継ぎ、その結実する内容の動機となる力を自分自身がもたなければなりません。そうしてこそ、結実の過程を経て、新しい歴史過程や人類社会に必要な一つの結実体として残ることができます。人は、生まれて必ず環境を克服しなければなりません。

 

だからといって、それを克服するだけで終わるのではなく、未来に新しい生命を受け継いで、結実の内容をもてる過程を経ていかなければなりません。この過程を経たのちには、正しく実際に効力を現せる一つの位置を所有しなければなりません。例えば、穀物は種が蒔かれ、芽が出て育ち、実を結び、主人の手によって刈り取られて倉庫に保存されるのと同じように、必ずある目的に必要なものとなって刈り取られる過程を経なければならないというのです。

 

 

 

27 この地上での人生は、一つの通過期間です。ですから、霊界に行った子女に対して泣いたり叫んだりする人は、堕落圏内の因縁を抜け出ることができなかった人なので、霊界に行けば、塀に塞がれるのです。人は愛で生まれ、愛で生きたのち、愛に帰るのです。根から始まったので、実は必ず根に帰るのです。

 

人間がどうして生まれたかというとき、理想的愛のために生まれたというのです。その愛は永遠の愛なので、父と母を取り替えることはできません。自分たち夫婦同士を取り替えることはできません。自分の息子、娘を取り替えることはできません。ですから、愛は貴いのです。愛は、神様から始まるので、絶対的な神様の愛は変わることがありません。愛は永遠なので、神様の愛のために生まれた人は、愛のために生きたのち、永遠の神様の相対の位置に立つことによって永生するというのです。

 

 

 

28 空気の世の中で、霊人体が体にくっついて胎児のように肉身から栄養を得たのち、肉身がすべて老いてしまえば、振り払って出ていこうとしますが、肉身が「死にたくない」と言うとき、神様が見れば笑うでしょうか、同情するでしょうか、しかりつけるでしょうか。赤ん坊が生まれて父母の前に愛の対象になるのと同じように、この肉身が霊的父である永遠の神様と相対できる霊人体として再び生まれなければならないのは、原理原則の結論です。胎児が生まれ、父母と愛の友になれるのが地上世界です。父母と愛を共にできる地上世界に生まれるのと同じように、霊的で無限な世界に通じる父母であられる神様と、愛を交わせる霊界に生まれなければならないのです。そのような相対的な位置を所有しなければ、到底神様の息子、娘になることはできません。

 

 

 

29 見えない神様が発展し、見えるアダムを通して、アダムが初めて愛の主人となり、息子、娘を生んで育てることによって、神様の代身として実体圏を横的に感じるようになります。無形の神様、アダムの実体圏、その次には、孫を中心として二つの国の結実体になります。これは、霊界と肉界の実体になるので、その実体はどこに行こうと、霊界と肉界の完成した実になるのです。

 

 

 

30 人類の先祖が神様の中に抱かれて育っていれば、人間自身も、「神様が、どうぞ平安で幸福になりますように」と願わざるを得ません。神様が不幸を感じればよいですか。人間は、神様が常に美しく幸福であられることを願うのです。腹中にいる赤ん坊が願うことと同じです。絶対的な神様がアダムとエバを造っておかれ、彼らが育つ間は、無限の希望の中に、無限の幸福の中に、夢の中にいたはずです。私たち個人と同じ道理です。皆さん自身にも母親の腹中時代の生活があったのと同じです。その次には、生まれて、一生の間の肉身生活が始まります。今、私たちが一生の間生きることが、腹中生活と何が違うかというのです。宇宙の中に「私」が今、抱かれて育っているのと同じです。

 

 

 

31 私たちは、神様の代身として愛で生まれ、愛で生きながら息子、娘を生んで、愛の目的地に到達して、永遠に神様と共に生きるために、神様のところに帰るのです。すなわち私たちの一生とは、愛で始まり、愛で熟し、愛の実として収められるのです。人が死ぬということは、愛の実を収めることです。私たちが父母の愛を受け、夫婦の愛を交わし、子女を愛したので、内的な愛の世界に蒔かれた神様の愛のすべてを、「私」が一生をかけて実を結んで収め、あの世に行くのです。

 

したがって、私たちが愛で完全に一つになれば、神様に似るようになります。夫婦が合わさって、このような三段階の愛を完全に完成して霊界に行くようになれば、永遠の主体である神様のみ前に永遠に相対的な神様になります。真の愛を中心として夫婦が死ぬと、そのようになります。そのように、神様で始まって、神様で締めくくるのです。

 

 

第二節 二重構造で創造された人間

 

天聖経    第7篇 地上生活と霊界   第一章 人間の本然の生と死

第二節 二重構造で創造された人間

 

 

 

1 人間は、霊と肉、心と体の二重構造になっています。これが、いつ一つになるのでしょうか。皆さんが一人でどんなに修養をし、どんなに祈り、どんなに道理に通じても、完全に一つになることはできません。人間には五官があります。靈人体にも、五官があります。外的五官と霊的な内的五官の細胞が一〇〇パーセント飽和状態を形成して一つになり、完全に満たされて爆発する線まで戻っていけるようにする力は、ただ宇宙の共通分母となる神様の愛だけです。それ以外には不可能です。

 

 

 

2 人間の霊人体と肉身の関係について見てみるとき、より重要なのは、肉身ではなく霊人体です。肉身は百年くらいで死ぬといいますが、霊人体は、時間と空間を超越して永生します。いくら地上界で良い服を着て、良い物を食べ、裕福に暮らしている人も、結局死ぬのです。したがって、人間は、霊的な基準と肉的な基準をよく調和させ、霊肉が一つになった完成実体を形成して暮らしてから逝かなければなりません。現象世界であり有限世界である地上界の人生で、肉身を土台として霊人体を完成させる責任があるということです。

 

 

 

3 私たち自身には、「霊的な私」と「肉的な私」があります。「統一原理」の用語で言えば、霊人体と肉身です。本来は、霊人体と肉身が一つになるようになっています。一つにならなければなりません。そのように一つになるには、どのような位置で一つになるのでしょうか。共鳴する位置で一つになるのです。音叉の振動数が同じ時は、「タン」と打てば「ティン」と音が鳴ります。私たちの霊人体と肉身も、音叉と同じように共鳴圏を通して統一されるのです。

 

 

 

4 霊人体と肉身は、いつ一つになるのでしょうか。これが問題です。神様の愛の作用が私たちの心に及べば、自動的に体が反応します。ですから、体と心を一〇〇パーセント共鳴させ、一つになれる圏内に追い込めるのは、神様の知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、ただ愛だけです。皆さんの目や鼻のような肉的五官と霊的な五官が願う一つの焦点、理想的標準点とは、神様の力でもなく、知恵でもありません。愛がすべてのものの中心であり、標準点です。

 

 

 

5 霊人体と肉身が神様の愛を中心として調和するときは、霊的な細胞と肉的な細胞が初めて完全に作動するのです。目が完全に作動するときは、目を開けば霊界と地上界のすべてが見えます。完全作動するからです。マイクも、性能が良ければ、一〇〇パーセント響き渡ります。同じように、霊肉を中心として、体全体が愛の力に一致して、爆発する境地になれば、そこから照らし出される光によって、天上世界、地上世界、神様を問わず、すべて共鳴するようになるのです。

 

 

 

6 この世界の創造物は、すべて相対理想のペア・システムになっています。ですから、二数が必ず必要です。極めて小さな存在から大きな存在まで、人は個人で心と体が一つになり、その次には、夫婦が一つになり、霊界と肉界が一つにならなければなりません。元から一つになっていなければなりません。

 

 

 

7 肉身と霊人体の中で、より重要なのは、肉身ではなく霊人体です。肉身は百年の時間圏、限界圏内で生きたあとに去ってしまいますが、霊人体は時間圏を超越し、空間圏まで超越します。したがって、歴史的な責任を悟り、その責任を果たすことが人間の本意です。皆さんがいくら肉身を中心として裕福に暮らしても、結局は死ぬようになります。

 

それでは、霊的な基準と肉的な基準のうち、どちらがより重要でしょうか。私たちは、肉的な基準を中心として生きていくのではありません。肉身は霊人体のために、霊人体は肉身のために存在します。皆さんは、世の中の人たちが生きていくのと同じ立場にしがみついてはいけません。皆さんは、肉身を救援するという立場で、霊肉が一つになった実体を備え、より生き甲斐のある立場で出発しなければなりません。

 

 

 

8 神様が見るとき、若者、中年、老人の差がありますか。神様は霊人体を見ます。霊人体が若く活達で、人格が既に成熟していれば、それが見えます。外側の殻は見えないというのです。殻を取ってしまい、残った中身を見るのです。

 

 

 

9 人間が霊界に行けば、どのようになりますか。神様の体になります。人間は神様の体になるのです。ヨハネによる福音書とコリント人への手紙に「あなた方は神様の聖殿である」と記録されているように、神様が臨在できる聖殿であり、家です。

 

神様とどのように似るのですか。責任分担完成の段階に至り、神様が臨在して一つになれば、愛によって生命の一体化が成し遂げられます。生命が和合するのです。男性と女性が夫婦になって家庭をつくるということは、愛を中心として一体となり、和合するということです。それと同じように、その愛の力は神様と和合するようになります。

 

 

 

10 人間には、心と体があり、心の上に霊があり、霊の上には神様がいらっしゃいます。ですから、人間は神様と完全に一つになってこそ、完全な人間になります。人は、たとえ小さな一つの個体であっても、全体歴史を代表した存在であり、未来のすべての関係を代表する存在なので、天宙的な価値をもっています。

 

 

 

11 皆さんは、地上で永遠に暮らしますか、無形の愛の実体世界で永遠に暮らしますか。無形の愛の実体となる世界で永遠に暮らすと言うでしょう。神様が霊界を見せてあげたいというとき、皆さんの体で神様についていくことができますか。ですから、霊人体が必要です。これは、妄想ではなく事実です。見えない精神の中心となる神様がいて、その神様が相対的存在を必要とするならば、人間を連れてきて、自分が創造した永遠の理想圏をすべて見せてあげ、与えてあげたいと思うはずです。

 

 

 

12 私たちは、霊眼で無形の体を見ることができます。その無形の体には霊人体の中心があり、その部分が人間の心に該当します。そこが、神様と皆さんが人に知られることなく、思う存分出会える場所です。そのような場所で、神様と皆さんが互いに愛すれば、皆さんからその愛を奪う者は誰もいません。その位置は、縦的な愛の終着点であると同時に、横的な愛の出発点です。

 

 

 

13 生心とは、心と霊が一つになって、一つの目的に向かって新しく動くものです。神様を中心として良心と一つになった「私」、霊肉を中心とした理想的な「私」をつくり出すことができる動機的心です。ですから、その生心がなければ、霊界と真の愛と関係を結べる自らの根源を見いだすことができないという結論が出ます。生心が正しく機能すれば、体も喜んでそれに寄っていきます。自動的に一つになります。

 

今まで、人間にとって一番の問題となることは、心と体が互いに離れていたということです。霊的な力が「私」に臨んで生心的起源さえできれば、心と体が自然に一つになります。そのような根本において革命が展開し、根本において是正する根源を発見できない限り、私たちには理想を訪ねていく道理がありません。動機があってこそ結果が出てきます。

 

 

 

14 心は縦であり、体は横です。心は縦的な「私」であり、体は横的な「私」です。二つがあります。縦的な「私」は心であり、横的な「私」は体です。すべてのものが同じ構造になっています。公式的に同じ構造です。上がっていくものと下がっていくもの、木も二種類です。根から栄養素を吸収し、葉で栄養素を作ります。太陽の光を受けて葉緑素を中心とする栄養素を作って供給し、地からはまた地の栄養素を吸収して、お互いに交流します。「統一原理」で言えば、生力要素と生霊要素の関係と同じです。その二つの要素が授け受けするのです。

 

 

 

15 霊的な御飯を食べなければなりません。おなかがすいている時、肉的な御飯と霊的な御飯のうち、どちらがよりおいしく感じなければならないでしょうか。「私」が生き残って神側に立つためには、霊的な御飯の味が肉的な御飯の味よりももっと良くなければなりません。霊的な力を中心として生きる生活の味が、肉的な力をもって生きる生活の味よりもっとおいしく感じなければならないのです。

 

 

第三節 死とは

 

天聖経   第七篇 地上生活と霊界 第一章 人間の本然の生と死

第三節 死とは

 

 

 

1 私たちが神様に似たいと思い、神様も私たちを神様の息子、娘として御自身に似るようにさせたいという願いをもつのは当然のことです。ですから、人は再び神様に似ることのできる体をもって生まれなければなりません。神様と人間は共に、永生する日を待ち望みます。そのように生まれる日、そのような体に生まれる日、その日が正に、肉身を脱ぐ死の日です。

 

 

 

そうだとすれば、人間は死を歓迎しなければならないでしょうか、それとも悲しまなければならないでしょうか。もちろん歓迎しなければなりません。それでは、私たちが死ぬとき、何のために死ななければならないのでしょうか。神様の真の愛、すなわち、ために生きる愛のために死のうとしなければなりません。ですから、肉身を脱ぐというのは、無限の神様の愛の活動圏に私たちが同参二緒に参加するするためであり、神様の愛の世界のためです。

 

 

 

2 病気にかかって死にそうになれば、昏睡状態になります。死んだのか死んでいないのか分かりません。そこから、自分が行って暮らすべき場所のすべてのものを見るようになります。自分が行って暮らす場所にいる同志たちが来て、自分を歓迎してくれ、また、果てしなく広がる豪華絢爛な天国を見て、「私も早く行かなければならない」と思います。それで、行ってみると死ぬのです。

 

少しずつ少しずつ良いところに向かって、一次、二次、三次の門を通過するようになれば、あの世に入っていき、刈り取られるのです。死は、落胆したり、気落ちしたりすることではありません。落ちるのではなく跳躍するようになります。昇華するのです。ですから、死に対する恐怖をもってはいけません。死は、このような自然の循環法度によって訪れます。もっと良い世界に移してもらうための手続きです。

 

 

新しい人生の出発

 

3 一般の人々は、死ねばすべてなくなると考えますが、そうではありません。霊界があるので、そのまま続くのです。霊界に行くためには、地上で準備をしなければなりません。霊界に行けば愛で呼吸するので、地上で愛を中心として生活してこそ、そこでも自由に呼吸できます。地上で愛を中心として生活しなければ、そこで自由に呼吸できません。霊界は、愛を呼吸する世界です。愛の空気のような世界だと考えればいいのです。第二の新しい出発を「死」というのです。ですから、そのように恐れる必要はありません。死は、新しい出発の門を開くことです。

 

 

 

4生命と死について考えてみるとき、どちらが強いですか。死より生命が強いですか、生命より死がもっと強いですか。サタン世界では、生命より死がもっと強いのです。ですから、み旨を知ったのちには、死ぬべき立場で死ぬことを嫌がってはいけません。死んでこそ復活します。

 

それでは、聖書で言う死ぬこととは何を意味するのでしょうか。神様が、永遠の生命を奪うということではありません。堕落世界のサタンの血統を受け継いだ生命を奪うというのです。ですから、み旨のために死のうという人は生きるということです。

 

 

 

5 人間が肉身生活を終えたのちには、第二の出生をします。これが死です。第二の出生をして、行く世界が正に霊界です。その世界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表した愛が供給されます。理想的な愛が供給されるのです。ですから、霊界では統一されざるを得ません。死ぬ瞬間からは第二の空気世界を振り払って、新しい第三の愛の呼吸器官に連結されなければなりません。父母の愛、兄弟の愛を振り払って霊界に入り、結局は大宇宙の神様の本体と一つになった愛の世界に入ります。種が本体から出てきたので、実を結んで、また本体に戻らなければなりません。

 

 

 

6 人間が死ぬのは、肉身では制限された愛でしか愛せないからです。無限大の神様の真の愛の対象的実権をもとうとすれば、制限された肉身だけではできません。ですから、無形の霊にならざるを得ません。さらに、愛の理想を全天地に広げて実現するためです。ですから、死は苦痛の道ではなく、宇宙的真の愛を所有できる幸福の門を開く時間です。

 

死は、這って歩き回る地上世界から、ひらひらと飛び回って暮らすことのできる世界に移ることです。全宇宙を自分の舞台にして、真の愛で楽しめる旅行者の資格をもち、そのような世界に入門するために死の道を行くのです。ですから、死ぬことは正に、新しく生まれることです。

 

 

 

7 私たちは、いつかは肉身を脱いで霊界に行かなければなりません。したがって、この世の中に生まれた私たちは、死を覚悟しなければなりません。また、善の自我を第二の「私」として永遠の世界に立てるためには、苦労しなければなりません。母親の腹中で胎教を正しく受けてこそ、健康で善の赤ん坊が生まれるのです。この地上世界においての生活は、腹中での生活と同じです。ですから、神様の形状を模範として、神様の心情を模範として、神様の聖なる神性を模範として育たなければなりません。育ってまた命を懸けて越えていかなければなりません。

 

 

 

8 死は第二の出生なので、悲惨ではありません。アダムとエバが堕落していなければ、神様と共鳴圏で暮らしていたはずです。心と体が共鳴するというのです。それで、私たちが地上で愛を中心として生活するようになれば、霊界の愛と同じ波長基準になっているので、地上で暮らしながら霊的世界を感知することができます。

 

地上で父母から生まれて父母と共に生きながら、父母から学んで地上生活を完成させるのと同じように、天上世界の愛の母体である神様を中心として生まれ変わり、天の父母と共に永遠の愛の世界で、内的五官を完成した神様の息子、娘として、神様の友として、神様の体として生きていくのです。ですから、死んでなくなってしまうのではありません。死は第二の出生であり、有限な世界から無限の世界に行くときに境界線を突破するためのものであり、峠を越えるためのものなのです。

 

 

 

9 死は、胎児が、へその緒と子宮を破って出てくるのと同じです。この制限された世界から、神様から愛される位置に帰っていくのが第二の出生です。それがすなわち死です。それで、第一先祖がいて、第二先祖がいるのです。父母から愛されて生きていたこの世の中から、無限の父母、永遠の父母である神様の愛の位置を訪ねていき、神様の懐に抱かれて無限大の生命と愛の関係を結び、愛を空気のように吸いながら永遠に生きられる本郷の地に帰っていくのが人生の道です。ですから、神様から出発したので、このような愛の実権を「私」がもっていくことによって、「私」が神様と同じになるのです。愛を中心として対等な価値をもつようになります。

 

 

 

10 人間は、神様から生まれたので、いずれにせよ霊界に帰らざるを得ません。韓国語の中でおもしろい言葉が、「トラガンダ(帰る、亡くなる)という言葉です。どこに帰るのでしょうか。共同墓地に行くのは帰ることではありません。出発した元のところに帰るという意味です。その出発地は、共同墓地ではありません。はるか遠くの歴史の起源を越えて帰っていくのです。

 

「人間が帰る」というのは、韓国人として生まれて韓国人に帰ることを意味するのではありません。韓国人として死にはしましたが、韓国人に帰る、その道ではありません。人類の先祖の根源世界に帰っていくという意味です。創造主がいらっしゃるところに帰るということです。そこから出発したので、そこに帰るというのです。

 

 

 

11 韓国では、年を取って死ねば、「トラガショッタ(お亡くなりになった、お帰りになった)」と言います。祖父、祖母がなぜおられないのかと聞けば、「トラガショッタ」と言うでしょう。どこに帰ったのですか。霊界に帰ったというのです。本来、無形の神様から出発したので、本然の故郷が無形の世界です。無形の世界から有形の世界を経て、地上で繁殖して生きたのち、再び無形の世界に帰るようになります。そのように帰っていくのです。無形の父から出発して、有形の父を通じ、母の体を借りて生まれて生きたのち、有形世界の体を脱いで本然の形態に帰っていくのですが、それが霊界に行くことです。

 

 

 

12 人間は、生まれれば死ぬようになっています。死んでどこに行くのでしょうか。煙となって消えてしまうように消えてしまうのではありません。必ず霊界に行くようになっています。霊界に行くようになれば、霊界の国があります。その霊界の主人とは誰でしょうか。神様です。ですから、その神様の息子、娘にならなければなりません。神様の息子、娘になることができなければ、天国に入ることができません。

 

 

 

13 皆さんは、霊界の事実を知らないかもしれませんが、先生は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。その世界の根本を掘り返してみると、原則は簡単でした。その世界は、神様の天地の原則、理想的根源のために生きた人だけが行くところです。そのような内容で形成された世界が、理想天国です。そこが、私たち人間が訪ねるべき本郷です。私たちは堕落した人間として、本郷から追放された人間になったために、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかし、そこには、人間がそのまま入ることができないので、神様は、人間が入ることができる道を歴史過程に設定せざるを得ません。

 

 

神様の愛の世界に行くこと

 

14 私たちは、知っていようと知っていまいと、あるところに向かって進んでいます。「私」が動く時間にも進んでおり、休んでいる時間にも進んでいます。単に「私」だけでなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地までも、あるところに向かって進んでいます。これは否定できない事実です。一生を経たのちに、「私」はどのようなところに行くのでしょうか。これが、人間が解決すべき重要な問題です。宗教も哲学も歴史も、この問題を解決するために動員されています。

 

ですから、皆さん自身もこのような運勢に捕らわれ、引っ張られていることを否定できません。この問題を解決できなくても、私たちは、いずれ逝くべき運命に置かれています。私たちが生きたのちに死ぬ日、この体は土に埋められることによって終わります。体が埋められるその日は、心も、生命も、心情も、理念も、あるいは願いまでも共に埋められてしまうのでしょうか。この問題に対して、その内容と解決点と、はっきりした目的観を立てておかない人は、不幸な人にならざるを得ません。

 

 

 

15 神様が人間の父母であるならば、人間をどのように造ったのでしょうか。愛の神様が人間を造るとき、神様の愛に同参させた位置から出発したというのです。神様の心から出発し、神様の愛の懐で育ち、神様の愛の懐で成熟して家庭を形成し、この地上で世界的な愛と連結させることができる成熟者となり、神様の愛の懐に帰らなければならないのが人生の道です。

 

 

 

16 人間は霊的なので、その生命は永遠です。人々が天の前に忠誠を尽くし、天のために死の道も行き、多くの人が嫌だという道も希望を抱いて行ったのは、普通の人たちが感じられないものを感じ、普通の人たちが分からない価値を知ったからです。ですから、死の道も行くことができたのです。心が現実生活でぶつかる、逆境と困難と悲しみと死よりも、もっと強くならなければ、皆さんは死の前で後悔する者になり、悲しみと苦痛の前から後退する者にしかなれません。

 

 

 

17 皆さんは、父母から生まれました。根本的な立場で、どこから生まれたのかというと、「私」は、神様から父と母のおなかを通して生まれました。父と母が皆さんをつくったのではありません。皆さんが生まれたのは、「真の父母」を求めていくためです。宇宙の父母を通して、体の父母を通して、真の父母を訪ねていかなければなりません。ですから、死は、真の父母に会いに行く歓喜の時間です。

 

そこには、真の父母の真の愛があります。それを天上天国と言います。そこの構成要素は愛です。父母の真の愛が満ちあふれたところです。その愛は、奉仕と犠牲の原則を通した愛です。これは一般的な法度に通じます。そこに合格できる人になるためには、万宇宙を「私」が愛さなければなりません。この地上生活は、人類を愛するための試験場であり、訓練場所です。これが宇宙の根本です。人間が生きている時にこのような体験とこのような愛をもって生きて合格していけば、間違いなく神様のみ前に帰るのです。

 

 

 

18 人間は神様に似ようとし、神様も自分と似るようにさせたいという観念をもっています。ですから、人は、再び神様と似ることのできる体をもって生まれなければなりません。そのように生まれる日を神様も待ち望み、人間も待ち望むのです。そのような人として生まれる日が、死ぬ日です。

 

このような立場で、人間は、死を歓迎しなければなりませんか、歓迎してはいけませんか。歓迎しなければなりません。死ぬのですが、何のために死ぬのかというときに、「神様の真の愛のために死ぬ」と言うべきです。ですから、肉身を脱ぐのは、無限の神様の愛の活動圏に自分が同参するためであり、神様の愛の世界のためです。神様の愛の中に生まれることが死ぬことなのですが、人間世界では「ああ、死ぬ」と大騒ぎします。制限された愛の圏内から無制限の愛の圏内に突入する喜びの瞬間が、第二の出生の瞬間であり、それが死の道を通過する瞬間なのです。皆さんは、死の恐怖から解放されなければ、神様と関係を結ぶことができません。

 

 

 

19 人間には、生きる目的があります。ところが、生きていく人間の目的がすべて異なっています。「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ!」と言うのは、何のためですか。神様の息子になるためです。ですから、神様を愛するためなら、命までも差し出しなさいというのです。そのようにしなければならない私たちは、最低の位置で死ぬことはできません。最高の位置で死ななければなりません。天国を中心として死ななければならないのです。天上天下に一つしかない天国で死ぬのです。死ぬにも方法があり、位置があります。韓国的なもののために死ぬことはできないのです。最高の位置、天上天下を通過した神様の心情の国を中心とする最高の位置で死ななければなりません。天国の真ん中で死に、天下が旗を揚げて歓迎する位置で死ななければなりません。

 

 

 

20 天の希望を抱いて暮らす人は、人間が悲しむ死の峠も、喜んで越えることができる人です。そのような人が天の希望を抱いて暮らす人です。ですから、皆さんは、死を前にして世の中の万事を恨んで嘆息する人にならず、喜んで天のみ前に立って自らの死の価値を誇ることができる人にならなければなりません。天は、このような希望の息子、娘を求めています。このような立場に立って天の喜びを感じた人がいるとすれば、彼は神様が愛すまいとしても愛さざるを得ません。そのような立場で天に対して泣いて求める群れがあるとすれば、天はそれに応えまいとしても、応えざるを得ないのです。

 

 

第四節 天国とは

 

天聖経   第七篇 地上生活と霊界 第一章 人間の本然の生と死

第四節 天国とは

 

 

 

1 天国は、膨大なところです。この宇宙よりもっと大きく、もっと広いい世界です。それは、形容できないほど膨大な世界です。そして、その世界では、愛する人がその世界のどこにいたとしても、「私」が「会いたい」と思えば、直ちに現れます。どのような心をもって会いたいと思うのか、あちら側ではすぐに分かるのです。来るやいなや、挨拶します。「このように思ってくれてありがとう」と相手が思ったことを言ってくれるのです。

 

ですから、心の世界を説明する必要がありません。説明する必要がなく、すべて感じるのです。そこに行って会えば、どのようなことを話すのか分かります。分かってから聞くのです。どれほど素晴らしい世界ですか。真の愛は直短距離を通じます。真の愛は直短距離を通じ、真の愛の速度は最高の速度です。愛する子女が外国に出ていたとしても、父母がその子女を思えば、すぐに子女のところに行くのです。距離を超越します。真の愛の速度は最高の速度なので、この膨大な大宇宙を自分の生活の活動舞台と定めるのです。時間と空間を超越するので、距離感がありません。すべて目の前にあるのと同じです。

 

 

天国は神様の愛に満ちあふれた世界

 

2 天国は、神様の愛の世界です。愛の空気を吸う世界です。そこには生命がぎっしり詰まっています。どこに行っても生命が躍動しないところがありません。そして、すべて血縁的な関係によって結ばれています。神様の一つの血統なので、神様が悲しむものがあれば、全霊界が一つの細胞のように、一つの体のように悲しみを感じます。

 

また、神様が喜べば、すべてが喜びます。そのような神様の愛が膨大な大天国を動かしています。生命圏がそこに呼応し、すべての万物の主体と対象を中心として、芸術的な美化の対象になっているのです。血統のように連結していて、神様が喜べば「私」もうれしく、神様が悲しめば「私」も悲しくなります。

 

 

 

3 「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・二一)とあるのですが、その天国とは、神様の愛が中心になっているところです。神様の愛が中心となって関係を結び、普遍的で妥当な環境圏を設定したところが天国です。それでは、その圏に行ってとどまる人は、どのような人でなければならないのでしょうか。神様の愛の本質と和合できる人でなければなりません。そのような人以外には行くことができません。

 

神様の愛の本質と和合できる本質とは何でしょうか。自分を中心にしていく人は価値がありません。相手のために自分の生命を投入し、自分のすべての精誠を投入し、自分のすべてのものを与えようとした人だけが、神様の愛の圏内で存続することができます。

 

 

 

4 天国とは、準備したことをもって誇るところであり、侍る生活をしたことを誇るところです。それでは、その天国とは、どのような人が行くところですか。主を信じて恵みを受けようという人、恵みを前面に立てていく人が行くところではありません。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした人が行くところです。準備する期間に死んだとしても、侍る生活を残して喜んで逝くことのできる人が行くところです。そこに復活があります。

 

侍るための準備をしたあとには、侍る生活をしなければなりません。準備する目的は、侍るためなのです。侍る生活をするためです。侍る生活はどのようにするのでしょうか。皆さんの環境をよく見てください。生活の内幕は現れません。どのように侍る生活をするのかということが、私たちが生きる生活の中で考えるべき重大な問題です。

 

 

 

5 天国は、心情を通じなければ行くことができません。天国は、全体を主管できる本然の国であり、本性の国です。その国は、何かの事情をもって所有することはできません。深くしみ込む心情関係をもってこそ、所有できる国です。ですから、事情が通じるより、究極的に心情が通じなければなりません。事情を越えて心情を謳歌できる基盤を築くところに、地に対して摂理する天の目的があります。

 

 

 

6 イエス様も本郷を創建するために来られましたが、その本郷を創建できずに亡くなりました。「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・二一)と言われましたが、イエス様も天国を直接見ることができなかったのです。歴史過程に生まれては死んでいった立派な預言者や烈士、聖賢、君子であっても、その一つの場所を見ることができず、その一日を迎えることができず、堕落した先祖から悪の血統を受け継いだすべての人々も、本郷とはいまだに関係をもつことができていないのです。

 

ですから、すべての人は理想を探し求めていくのです。本郷を探すために行くのです。それでは、その世界はどのような世界ですか。お互いに反目し、人が成功すれば嫉妬し、人が喜べば耐えられないと思う世界ではありません。一人が成功するのは、全体を代表して成功することであり、一人が喜ぶことは全体に代わって喜ぶことなので、一人がうれしく思えば全体がうれしく思い、一人が喜べば全体がそれにつれて喜ぶところが本郷です。

 

 

 

7 神様を中心として喜びの生活にしなければなりません。天国化させなければなりません。天国は与えながら生きるところです。神様も与えなければなりません。父母は子女に与えなければなりません。良いものを与えたあとも、もっと良いものがあれば、それをまた与えたいと思うのが父母の心です。赤ん坊にどんなに晴れ着を着せ、どんなに良いものを食べさせたとしても、それで満足するのではなく、「もっと良いことをしてあげられないか」と思うのです。与えてからもっと良いものを与えたいと思うのが、父母の心であると同時に、神様の心です。

 

 

 

8 天国は、夫婦を中心として、その夫婦が生んだ息子、娘と一緒に行くところです。息子、娘、孫たちと共に、その一族を率いていくところです。さらには、国全体が行くところです。天国はこのようにして成し遂げられるところです。今日、宗教を信じる人々が「天国に行く」と言いますが、天国は一人で入っていくところではありません。絶対に一人では行けません。

 

 

 

9 天国は、本来の善の父母から生まれ、神様が喜び、宇宙のすべての被造物が彼と共に和動できる位置で夫婦になり、息子、娘を生んで愛し、その息子、娘たちにすべてのものを相続してあげてから行くところです。天国は、父は行き、母は行けないところではありません。父母、息子、娘、全員が行くところが天国です。

 

 

 

10 欲望の終着点はどこでしょうか。神様の愛を所有するところです。神様を所有したといっても、その中にもっと貴い愛を所有できなければ、神様は自分の神様ではありません。ですから、神様の愛を所有しなければなりません。その方のものが「私」のものであり、「私」のものがその方のものになるとき、初めて内外が一つになります。そのような国が、上下の等級のない理想の本国になるのです。そのような場に横たわるようになれば、天下にある存在の中で、良く見えないものがなく、天下にある存在の中で、自分のために存在しないものはないと感じるのです。そのようなものが神様の愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で満ちあふれたところです。

 

 

地上・天上天国の媒介体は人間

 

11 神様の創造過程を見れば、神様は万物を造って、人間を造りました。神様を中心としてすべてが始まりました。人を造ったことによって、神様と人間と万物が並び立つ立場で統一するのを願われたのです。これが神様の創造のみ旨です。神様がいて、この被造世界には地があり、その中に人がいます。このような中間的立場に立ったのが人間なので、人間は霊界と肉界を和動させることができる媒介体なのです。

 

 

 

12 神様が天地万物を創造したのは、神様が栄光を享受するためだったことは間違いありません。ですから、先に無形実体世界を創造し、次に無形実体世界の表象として有形実体世界を創造しました。そして、霊界と実体世界の中心であると同時に代表として、アダムとエバを創造しました。アダムとエバは、天地が変わらない以上、天地と運命を共にしなければなりませんでした。すなわち、天地が動くとおりに共に動くべき運命に置かれたアダムとエバでした。それで、アダムとエバが変われば天地も変わるのであり、アダムとエバの中心が乱れれば全天地の中心も乱れるのです。そして、全天宙の中心が乱れれば、創造主の中心も乱れるという必然的な条件をもって造られたのがアダムとエバでした。

 

 

 

13 神様が人間を一男一女に分立して創造されたことには目的があります。第一に、二性性相の中和的主体として自存されながら無形でいらっしゃる神様が、実体世界に相対するのに必要な体をもつためでした。無形世界と実体世界ですが、神様も体がなければならないというのです。男性の体だけでもなく、女性の体だけでもない、アダムとエバ、二人の体をもって実体世界と自由自在に往来し、作用するためだったのです。体をもたない無形の神様だけでは、有形実体世界に相対するのに限界があるためです。したがって、アダムとエバが神様をお迎えして一体となり、完成した基台の上で結婚して子女を生んだならば、アダムとエバは外的で横的な実体の真の父母になり、神様は内的で縦的な実体の真の父母になっていたはずです。このようになっていれば、アダムとエバは、内外両面で一〇〇パーセント神様に似た立場に立つようになっていたでしょう。神様に完全に似たアダムとエバが人類の真の父母になったならば、彼らの姿を通して、人類は神様の実体を認知しながら生きるようになっていたでしょう。

 

第二には、愛の完成のためです。アダムとエバが完成して完全一体となった愛の実体になれば、その上に神様が臨在して人類の真の愛の父母になろうとされたのです。神様の形状である実体父母の立場に立つようになるアダムとエバが、実体の子女を繁殖することによって、理想家庭と理想世界が成し遂げられていたのです。そのようになれば、人間を通して霊界と地上界が連結していたはずです。

 

 

 

14 本来、霊界に行けば、アダムとエバが家庭の王であり、氏族の王であり、民族の王であり、国家の王であり、世界の王であり、天宙の王なのです。ですから、霊界に行けば神様の代身者になります。神様は無形の神様なので見えません。あの世に行っても神様は見えません。しかし、神様も体が必要です。それで、神様が造った万物世界は体をもっています。無形の神様が体をもつことのできる相対的な存在を必要として万物を創造したので、完成したアダムとエバは神様の体になるのです。

 

 

 

15 神様の創造理想を見るとき、神様は無形世界の天国も願われましたが、御自身が自ら臨在できる実体世界での具体的な天国を願って万物を創造されました。言い換えれば、神様は、天上天国と地上天国が神様とアダムとエバを中心として成し遂げられることによって、霊的な天国と実体的な天国の栄光を御覧になるために被造世界を創造されたというのです。天上の天国や地上の天国も、神様のために造ったのではなく、人間のために造られたのです。アダムとエバを中心として地上で天国を成し遂げることによって、地上で天国生活をした人間が永遠の天国世界に入って生きることができるように地上天国と天上天国を立てることが、神様の天地創造の目的でした。

 

 

 

16 地上で天国生活をしながら暮らせる人々とは、どのような人々でしょうか。無限の霊界、天上天国で暮らせる霊人体はどのような霊人体でしょうか。地上でイエス様と聖霊の愛を受け、それを越えて直接父の愛を受け、父と共に生きながら愛の理想を中心として和動の勝利者となった人だけが暮らせるところが地上天国であり、永遠の天上天国です。

 

 

天国はまず地上で成し遂げられなければならない

 

17 神様の創造原理によれば、天国は、まずこの地上世界で完成されなければなりません。本来人間は、肉身をもって地上で天国生活をしたのちに、自然に肉身を脱げば霊界の天国に場所を移して永生するように創造されました。そうだとすれば、私たちが創建すべき地上天国とは、どのような姿でなければなりませんか。本然の家庭と天国とは、その類型が同じです。基本的に家庭には、本然の父母がいて、本然の夫婦がいて、本然の子女がいて、本然の兄弟姉妹がいます。その家庭が真の愛を中心として一つになれば、和合と統一は自動的にやって来ます。その基盤の上に、真の愛と真の生命と真の血統が連結され、理想の目的も可能になるのです。

 

 

 

18 本来、人間の堕落がなければ、人間は、神様の真の愛の中で完成し、神様を父母として侍る真の子女になっていたのです。完成した人間は、神様の愛の中で真の夫婦の関係を結び、真の子女を生んで養育し、共に天国を形成して暮らしたあとに、家族全員が自動的に天上の天国に入っていって暮らすようになっていたのです。

 

もし皆さんの家族の中で、父親は地獄に行って母親だけが天国に行くとすれば、それがどうして天国でしょうか。父母は地獄に行って子女たちだけが天国に入っていくとすれば、それをどうして天国と呼ぶことができるでしょうか。天国は、すべての家族が一緒に入っていき、永遠の平和王国を実現して暮らすところです。したがって、地上においても、家庭天国を実現して暮らすところに神様が臨在されるのであり、神様が理想とされた創造理想の世界、すなわち地上天国が定着するようになるのです。

 

 

 

19 祖父、祖母が絶対に必要であり、父母が絶対に必要であり、夫婦が絶対に必要であり、子女が絶対に必要だという心をもって、自分の家庭よりもっと国を愛し、世界にはその四段階の人類が分布していることを知って、自分の国よりもっと世界を愛さなければなりません。過去、現在、未来が一つになった霊界に行って暮らそうとすれば、その四段階の愛を実現した人々が行くところなので、その愛を実行しなければなりません。そのような世の中を地上に成し遂げたものが地上天国であり、天上天国は地上天国によって自動的に形成されるのです。

 

 

 

20 人類の先祖が堕落せず、罪を犯さず、神様のみ旨と一致して神様が喜ぶ位置で生きたのちに死んでいれば、彼らに恨みがあるでしょうか。恨みを抱かず、喜んで神様のみ前に賛美を捧げ、神様も喜ぶことができる位置で生き、そして死んでから行くところが、神様が立てられた天国です。それが本来の天国です。恨みをもった人がその天国に入るようにはなっていません。恨みを抱いては天国に入ることができません。

 

 

 

21 神様が願われる天国は、霊界だけで形成される天国ではありません。神様が願われる天国は、まず地上で成し遂げられたのちに霊界でも成し遂げられる天国です。人間が死んだあとに、その霊人体たちによって構成される霊界とこの地上世界は互いに分離できないので、皆さんが勝利的実体を備え、天国の理念を具現させるためには、天倫の前に立つと同時に、人倫の前にも立つことができなければならず、天倫と人倫に通じるよう、天国の理念を皆さんの生活圏を通して見せてあげなければなりません。そして、その天国の理念が、個人的な天国理念になると同時に、家庭的な天国理念、社会、国家、世界、天宙的な天国理念にならなければなりません。このような天国理念が、皆さん自体を通して現れてこなければなりません。

 

 

 

22 無形の主体であられる神様が、はるか遠い始原から愛の宇宙史的刺激を充足させる対象を慕われ、有形無形の完全な対象として人間と相まみえる時の、その愛の刺激はどれほど大きかったことでしょうか。神様がアダムとエバを地上に造られたので、天国を地上で先に形成し、地上で理想的な生活をしたのちに、霊人体が天上の永遠の天国に行くようになっています。

 

 

 

23 自分の家を中心として環境が良くなるように、緑地帯をつくらなければなりません。それを多くした人は、あの国で、何百倍も大きな天国で、それに比例した所有権をもつことができます。そのような位置が地上で決まるのです。良い暮らしをしたいですか。霊界に行って、小さな部屋に入って座り、額を突き合わせて顔だけ見て暮らしますか。飛び回って踊って歌い、どこでも思いどおりに、百の場所、千の場所を訪ね回ることができる生活をしなければなりません。

 

世界で最も荒廃した所とはどこですか。そのような所に行って、土地が痩せこけていれば、自分の国の宝石で人工的な自然だけでもつくらなければなりません。模型のようなものであっても、金剛山のような姿の万物をつくらなければなりません。今、何でもつくる時が来ました。石もつくることができ、すべてつくることができます。そのようにしてでも美化した天国をつくらなければならないのが、私たちの生涯に残されたことです。私たちが喜んで生きる環境をつくる主人にならなければなりません。

 

 

第一節 霊界の実相

 

天聖経   第七篇 地上生活と霊界 第二章 霊界とはどのような所か

第一節 霊界の実相

 

 

 

1 霊界を知らなければなりません。何千年前の先祖たちが霊界に行って何をしているかを知るようになれば、どうなるのでしょうか。必然的にその運命に引っ張られていかざるを得ないことをはっきりと知ることによって、この地上の難しい問題も越えていくことができます。先生は、その内容を知っているので、どんな迫書を受けても挫折しません。それ以上の内容を知っており、その価値に及ぶものがないので、すべてのものを否定して越えていくことができるのです。

 

 

愛の光の世界

 

2 霊界とは、神様の永遠の理想の園です。その園がどれほど素晴らしいでしょうか。それは形容することができません。天国の王宮の秘密を一つだけのぞいて見れば、千年見つめても良く、万年見つめても良いというのです。この世の一生は、ほんの瞬きするような一瞬です。ところが、霊界は永遠です。一生というのは、それに比べれば息を一度することにもなりません。

 

 

 

3 霊界は、この世界のためにあります。この世界も、永遠の世界のためにあります。霊界がないのではありません。あるので、先生がこのことをしています。「世の中に、神様がどこにいて霊界がどこにあるのか。私は知らない」と言うかもしれませんが、神様のいらっしゃるところが霊界です。神様はどのような方でしょうか。真の愛を中心としていらっしゃる方です。神様の希望は、愛を通してのみ連結されるのです。

 

 

 

4 霊界に行けば、そこには影がありません。永遠の朝日の光にあふれています。白い光がとても明るく、紫の光に変わり、銀色、金色に変わります。電気の光とは何かというと、愛の光です。プラス電気とマイナス電気が一つになって現れるのが、電気の光です。同じように、神様の性相と形状も一つになって稲妻のように現れるのです。永遠の真の愛の光です。それが永生の本質です。その最後の目的点に到違しなければなりません。

 

 

 

5 霊界とは、永遠の要素を願う永遠なところです。ここで愛を体験した霊人体は、間違いなく自動的にその世界に行くはずです。それは、自分が感じた分だけの霊界に行くのです。霊界はどのようなところでしょうか。すべてのものが愛で満ちあふれた、愛でいっぱいの調和の世界です。愛のボタンを一度押せば、この宇宙が作動するという言葉はうそではありません。ですから、すべての愛の電球に明かりがつくところが地上天国です。そして、愛の電球に明かりが完全にともるところが天上天国です。ですから、皆さんが愛の心を抱いて愛のひもさえ引けば、すべて引っ張られてくるのです。

 

 

 

6 霊界は、いくら優秀で、いくら立派な知識人がいるとしても、彼がもっている知識を一週間以内に凌駕できる直感の世界です。心の光を通じて見るので、そこに関連している世界は、自動的に理解されるのです。それは心情を通して見れば、「私」と相対的関係をもち、主体的関係をもつようになるからです。

 

 

 

7 霊界に行くようになれば、真の愛の力で、いくら遠いところにいる人でも一瞬のうちに会うことができます。いくら遠いところにいる人も、愛ゆえに訪ねていく時は、瞬く間に故郷へ帰ることができます。霊界は無限に膨大な世界ですが、何百万里、何千万里の距離も、一瞬のうちに愛を中心として行き来できる世界です。愛は最高の速度をもっています。皆さんの心と体が統一された愛の基台をもてなくなる時には、その世界とは関係がありません。ですから、統一の起源が相対世界から起こるのではなく、「私」から始まるのです。

 

 

 

8 霊界に行けば飛び回るのです。飛んでいくものは、あまりに速くて見ることができません。真の愛は最高のスピードをもっているので、広大なこの宇宙も、真の愛をもった神様は、一歩で飛び越え、ほかのところでも一度に行動することができるのです。皆さんも、すべて同じです。

 

霊界では、いくら大きな宇宙があっても、そこは自分自身の活動舞台です。霊界に行けば、夢の鉱山がいくらでもあります。金銀、宝石がいくらでもあります。花も、好きな人や愛する人が来れば、眠っていても突然口を開け、目を開けて歓迎するのです。

 

 

霊界の階層構造

 

9 霊界を見るとき、霊界の組織はどのようになっているのでしょうか。神様と相対である人間と同じ構造になっています。神様のみ前に、人類が一人の人間のような相対的形態で造られたのと同じです。ですから、この人々をすべて神様のような形象で造っておけば、神様のような一人の人間になります。

 

神様は今まで、宇宙を代表した人格者として人を造ってきました。ですから、そこに黄色人もいれば、白人もいれば、黒人もいますが、すべて合わせて一人です。皆さんは、神様のある一部分として構成されている細胞と同じです。それは、多くの細胞からできている私たちの体と同じなのです。私たちは、神様のみ前に一つの細胞です。神様は父であり、神様の肉体のようなものが人類です。それで、神様の実体をつくろうというのです。霊界の組織はそのようになっています。

 

 

 

10 霊界に行ってみれば、霊界全体が一人の人間に見えます。それで、主体である神様と一つになるのです。そうすると、全霊界と肉界がすべて溶け合います。神様が走れば地も走り、神様が笑えば地も笑う、そのようになっています。霊界に行ってみれば、一人の人間のような組織ができているのです。

 

 

 

11 全霊界の様造は、どのようになっているのでしょうか。現在の霊界は、真の父母ではなく、堕落した偽りの父母によって生じたものなので、これがあってはならず、堕落していない世界の霊界がなければなりません。救援摂理のみ旨が終わり、来られる再臨主がこの地上でみ旨を完成し、新しい霊界に変革されてこそ、本然の霊界に戻ります。復帰されなければなりません。

 

 

 

12 霊界に行っても、楽園と中間霊界、それ以外のすべての宗教圏の霊界があります。そのような霊界を通して地獄と連結されています。地獄と連結されたその霊界は、結婚生活を許しません。地獄のどこかに行って、自分たちが隠れて堕落を継続したりもしますが、それをすべて否定するのです。本未、楽園圏に所属できる人々は、一人で暮らさなければなりません。

 

 

 

13 霊界自体が、光明な日の光が照り、正午定着の影のない霊界にならなければならないのですが、まだら模様になっています。霊界は、最高の霊界、第一次霊界、第二次霊界、第三次霊界があり、動物たちもすべて異なります。最高の霊界では、動物たちが主人を褒めたたえます。すべて友逮なのです。

 

 

 

14 天国は一人では入れません。人間の先祖が思春期を過ぎて、神様を中心とした愛の理想を完成して生活し、真の愛の種を残して父母になって先に入るべきところが天国です。ところが、まだ神様の愛を中心とした父母として、この地に愛の種を残した父母がなく、そのような子孫を残した基盤を形成できなかったがゆえに、天国は空いているのです。

 

 

 

15 神様がいらっしゃるあの天国、神様がいらっしゃるあの霊界は、どのような組織になっているのでしょうか。その組織構造は簡単です。天国に行くことができ、極楽に行くことができる人々は、自分のために生きた人々ではありません。そのような人は行けないのです。全体のために生まれ、全体のために生きた人が行くところが天国です。

 

 

天上天国と天上地獄

 

16 アダムとエバが堕落することによって、この地球星はサタンが支配するようになり、霊界には地獄が生じました。それでサタンが支配できる版図は、地上地獄世界と天上地獄世界までです。そのため、それを解放しなければなりません。堕落がなかったなら地上地獄も生じず、一つの理想的天国にのみ行き着くはずだったのですが、堕落によって二つの世界に、サタンが支配できる世界形態が現れました。ですから、これを解消しなければなりません。

 

 

 

17 心と体が一つになれなければ、そこは悪魔の領土になります。地獄が別にあり、天国が別にあるのではありません。すべて「私」にあります。

 

皆さん自身が愛を中心として体を感化させておくことができ、愛を中心として自分の生命を超えて自分の血統を否定できる運動を起こしてこそ、邪悪で淫乱な世の中をきれいに清算することができます。そのような神様の道理を教えることによって、神様の家庭倫理、神様の氏族倫理、神様の民族倫理、神様の国家倫理、神様の世界倫理が地上に展開するとき、地上天国となり、地上天国で生きた人が、そのまま入っていくところが天上天国です。

 

 

 

18 真の愛の本宮は生殖器です。真の愛は絶対的です。真の愛は、唯一不変なので絶対的です。ですから、歴代の先祖たちを見ても、この問題が乱れるようになれば、結局、家庭も崩壊し、社会も崩壊し、政治も崩壊します。ソドムとゴモラもそれが崩れたので、家庭が崩壊し、社会も崩壊し、国家も崩壊したのです。その結果は崩壊するのです。地獄です。

 

ですから、天国と地獄が別々にあるのではありません。地獄のような環境で生きていくからといって地獄に行くのではありません。天国と地獄は、自分自身にかかっています。真の愛を乱す根拠地は、それ以外にはないのです。真の生命を汚し、真の血統を汚すところは、そこしかありません。他のいかなる行動でも、それを汚すことはできません。

 

 

 

19 地上天国は、どのようなところでしょうか。負債を負わないために努力し、お互いに負債を負わせようと努力をするところが地上に生じれば、そこが地上天国です。天上天国は、どのようなところでしょうか。天国に行く人は負債を負った人がいません。先生の知っている天国は、そのような天国ではありません。世の中で生きる間に、国の世話をして、人類の世話をして、神様のために生きようと努力した人が行くところが天国です。その国、人類、神様の世話になろうと思った人は、天国ではなく地獄に行っています。世話をしようと努力する人の位置は、常に勝利する位置です。これは過去にも勝利し、今日も勝利し、未来にも勝利するでしょう。そのように世話をして勝利した権限をもっていけるところが天国です。

 

 

 

20 皆さんが五十年の生涯を生きたとするとき、五十年の生涯で二十五年以上をこの宇宙のために、天倫、天理のために生きたなら、天国に行きます。そのように生きたとすれば、良い霊界にとどまる境界線を越えることができますが、五十年の生涯で自分中心に生きたことが多かったとすれば、残念ですが、善の本郷の世界に行くのではなく、悪の本郷である地獄に行きます。過去に自分を中心にして生きたことが多ければ、その生活を清算し、それを否定し、国のために、世界のために、天地のために、神様のために生きる余生を残すために努力しなければなりません。そのようにすれば、ここから地獄ではなく、天上の理想世界に行進するでしょう。

 

 

 

21 聖書のみ言で、「神の国は、実にあなたがたのただ中にある」(ルカ一七・二一)とあります。天国は神様の愛と一致したところなのですが、その愛があなたの心になければならないということです。「あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」(ヨハネ一四・二〇)という言葉も、抽象的な言葉ではありません。愛を中心とすれば、すべて可能な話です。

 

堕落した人間は、自分の心と体に神様の愛が顕現できるその日を訪ね求めていくのです。そうすれば、爆発するような神様の愛が顕現します。既に数千年間仲たがいしてきた体が、完全に一つになることができます。この日は、サタン世界では恐怖と革命の一日であり、天の世界では歓喜と勝利の一日です。その位置に立ってみれば、神様の愛がどのようなものなのかが分かります。どれほど良いことか、細胞が奮い立つようです。すべての骨と肉が一カ所に集まって固まるのを感じます。化石のようになるのです。すべての五官が完全に一つになるのを感じます。

 

 

 

22 祝福を受けた家庭は、国のためにすべて祭物にならなければなりません。天国か地獄かは、ここから分かれるのです。聖書をよく知って話を上手にすることで天国と地獄が決まるのではありません。実績と心情が問題になるのです。結局、天国と地獄の境界線は、心情の境界線、実績の境界線で左右されます。

 

 

 

23 良心を解放しなければなりません。皆さんの心は天国の監視所であり、皆さんの体は地獄の監視所です。皆さんの体が心を引っ張り回しますか、心が体を引っ張り回しますか。宗教を信じる人々は心が体を引っ張り回しやすく、宗教を信じない人は、体が心を引っ張り回しやすいのです。自分を中心として生活するのです。それが違うのです。ですから、地獄の出発地が「私」であり、天国の出発地も「私」です。心の願うとおりにすれば天国に行くのであり、体の願うとおりにすれば地獄に行くのです。人のために生きれば天国に行くのであり、自分のために生きれば地獄に行くのです。

 

 

 

24 霊界では結婚がありません。どれほど深刻な問題か考えてみてください。腕が一本なく、足が一本ないことが問題ではありません。ですから、不平を言わなければなりませんか、言ってはいけませんか。不平を言えません。喜ばなければなりません。涙を流しながらも、喜んで行かなければなりません。涙を流しながらも、笑顔で行かなければなりません。天国に行くか、地獄に行くかは、自分が決めます。先生が決めるのではなく、神様が決めるのではなく、自分が決めるのです。不平を言えぱ地獄であり、不平を言うところで感謝しながら行けば、天国だというのです。

 

 

 

25 霊界はどうなのでしょうか。混乱した人間たちが霊界に行って固まっているので、霊界も混乱せざるを得ません。盗みを働いた前科者は、常に盗みを働いて食べるようになっています。ですから、地球星で盗みを働いて食べた者たちは、天上世界に行っても、ただで得ることを願うのです。それで、処置に困って地獄というものが生まれました。地獄は神様がつくられたのではなく、生まれたのです。ごみ箱を作っておいてから、家を建てますか。家を造って暮らしてみたら、ごみ箱が生まれたのです。それと同じことです。

 

 

 

26 自殺することは罪の中の罪です。宇宙を破綻させるための邪悪な行動です。そのような人は、地獄の中の地獄に行かなければなりません。このような事実を知るようになれば、自殺することができません。「私」は誰かというと、父母の生命の連結体です。「私」は、父と母の二つの生命が一つに結合されたものです。共に連結されています。そして、「私」は、父母の愛の同参者です。父母の愛と一体であり、愛の一致が成されているのです。

 

 

 

27 地獄というところは、一度はまれば脱け出すのが難しいところです。それでも、皆さんは、自分の父、母、そして親戚が地獄に行くことを実感できません。ただ「どうにかなるだろう」と思って、それで終わりです。しかし、愛する父母が本当に地獄に行くと考えてみてください。この世の監獄に入るだけでも、泣いたりわめいたりしながら、ありとあらゆることをして引っ張り出そうとするのが人情であるならば、まして天情によって結ばれた息子、娘が、自らの父母と親戚、兄弟・姉妹が永遠に出てこれない監獄に行くことを知れば、そのようなことを考えるでしょうか。皆さんは、まだ何も知りません。地獄があるのか、ないのか、あると思っていてもどのようなものかを知らずにいます。確信がなく、ぼんやりとしているでしょう。しかし、死んでみれば分かるのです。死んでみれば一度に分かりますが、その時ではもう遅いのです。

 

 

 

28 再臨の一日が来れば、天国でない楽園と地獄のどん底に、新しい理想圏をつくっていくのです。地獄のどん底でカインとアベルを探して、新しい神様の家庭圏を形成するのです。新しい神様の氏族圏、新しい神様の民族圏、新しい神様の国家圏、新しい神様の世界圏を形成して、地上にいる人たちをすべて蕩減復帰しなければなりません。

 

カイン・アベルの問題を蕩減復帰して、すべてを吸収、消化し、統一した世界を地上で編成しなければ、天国を築こうとする神様の希望を解怨成就する道はありません。それでイエス様も、「あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイ一六・一九)と言いました。地で天国を築かなければ、天上世界に天国が生じません。地上に天国の主権を立てなければ、霊界で善の主権を回復することができないという、とてつもない事情が内在しているのです。

 

 

 

29 自分を考える立場では、天国に行ける道は生じません。自分が天国と距離が遠いことを発見するようになれば、自分というものを打破してしまわなければなりません。自分を打破するところでのみ、天国、あるいは間接的な天国が開放される道が開かれます。

 

しかし、自分を擁護する立場で、相手を自分に適用させようとする人、自分自らを主体的立場に置いて相手を引っ張っていこうとする人は、天国とは関係を結べません。天国は自分から成し遂げられます。いくら相対的天国が完備されたとしても、その天国が呼び求めるときに、それに応えることができる自分自身になっていなければ、その天国とは関係がなくなります。

 

天国は、サタンを克服したところです。皆さん自身だけを克服したところではありません。堕落した世界圏、習慣的な環境圏、あるいは常習化したところには、天国は臨むことができません。この常習化された環境を、サタンが凝り固まって支配し、サタンがここに寓居しているので、このサタンの環境を克服してこそ、天国が訪れるのです。

 

 

 

30 天国は、サタン世界の内容と相反するところで完成されます。もし、そのようになっていなければ天国に成りません。天国という名前がついていても、それは環境をたぶらかすためのトリックにすぎません。天国という概念は、サタンを屈服した場所で、サタンが相対できる一切の要因を否定した場所で、否定するだけでなく清算した場所で成立するのです。サタンの否定的条件が残っている歴史的な遺物や、生活のすべての内容を否定して清算した基盤において、天国が肯定されるのであって、それを残していては天国の内容を提示することはできないのです。

 

 

 

31 統一教会の人たちは、どのような人になるべきでしょうか。内的世界にも入ることができ、外的世界にも出ていくことができ、また、出てから入ってくることもでき、東西南北を自由自在に訪ねていける人になるのが理想的です。内的世界が主体になって、外的世界を主管する人をつくろうというのです。

 

外的世界は、悪が侵犯したために、その世界に行けば地獄に行き、内的な世界に行けば、善の霊界である天国に行くのです。本来、この外的世界と内的世界を自由に往来できれば、どこにでも訪ねて行くことができ、天国にも行くことができるということなのです。それを知っているがゆえに、「どこに行っても歓迎される人になってみよう」というのが先生の主張です。それが神様の主張です。

 

 

霊界と肉界は一つであり、地上で完成する

 

32 私たちが霊界を知り、神様を知るためには、神様が生活する環境を知らなければなりません。その環境は、人間世界と変わりません。人が死んでも、霊界に行けば死んだのか死んでいないのか分かりません。別の世界に行ったと思うのです。北極の氷の中で暮らしたのちに暑い所に行けば、四六時中暑く、常に緑があり、木の葉も何もかもが違うように、死ねばそのように感じるのであって、死んだということを感じることができません。関係が連結されているので、そのように思うのです。

 

 

 

33 私たちは結局、霊界に行かなければなりません。そこを死後の世界と言いますが、死後の世界ではありません。なぜ死後の世界ではないのでしょうか。真の愛と関係している世界なので、死後の世界ではないのです。真の愛を中心として出発したので、「私」が真の愛の位置に立っているときは、今その真の愛と共にあるところが霊界と直結するのです。ですから、真の愛が偉大なのです。天の世界と地上世界のすべての間隔が埋められ、共通の価値の生活圏で盤ゼきるので、霊界というのです。死後の世界も、行ったり来たりすることができます。

 

 

 

34 太陽が実体世界ならば、私たちは月のように反射体となって、世の中と関係を結ぶのです。私たち個人は、鏡と同じです。実際、霊界は地上に内外で連結されているのです。ですから、霊界と肉界は一つです。それを知らなければ、あの世の合格者になれません。これが重要です。成約時代は、個人ではなく家庭完成をしなければなりません。

 

 

 

35 統一教会で祝福したことによって、霊界と肉界をひっくり返すのです。ひっくり返る新しい転換期が準備されるので、霊界と肉界の統一が起こる時に越えていくというのです。それが霊界と肉界を連結させる、変換させる転換時代です。ひっくり返しておき、サタンを追放して地上のすべての悪の道を清算し、神様が直接主管できる時代に越えていく時です。ですから、霊界をはっきりと知らなければなりません。皆さんが霊界を知らなければ、家庭基盤を完成することができません。霊界を知ってこそ、すべてのものを完成することができます。

 

 

 

36 霊界と肉界は、真の愛をもって一体になるのです。真の愛が現れなかったので、霊界と肉界が統一できなかったのであり、真の愛が現れなかったので、個人の心と体が分かれたのであり、真の愛が現れなかったので、宗教と政治が分かれたのです。真の愛を中心として、すべて一つにならなければなりません。そのようになってこそ、個人、家庭、社会、国家、世界、天宙がすべてつながります。私たちの手でそのようにしなければなりません。そのようにしなければ、本然の天上天国と地上天国が現れることができません。

 

 

 

37 霊界では、神様の愛がなければ食べられません。食べる資格がありません。地獄は、見ながらも食べることができないところであり、知りながらも行うことができないところです。ですから、神様の愛を中心として、霊界と肉界が一つになる価値をもつ中心を立てて、地上で霊肉が一つになった天国生活をした人以外には、永遠の理想的世界をもてないのであり、天国を所有できないのです。

 

 

 

38 霊界は内的な世界であり、肉界は外的な世界です。心の世界は内的な世界であり、体の世界は外的な世界です。ここには境界線があります。これがどれほど深いかというと、真っ暗だというのです。皆さんの心と体の距離が、神様とこの世界の距離に相当するというのです。

 

皆さんの心と体の世界を一つにするためのものが、六千年の復帰摂理です。心と体が一つになればなるほど、地上でこの境界線が取り除かれ、地で蒔かれたものが刈り取られるので、神様を中心として霊界と肉界が統一された世界がやって来るのです。ですから、神様が人間を訪ねてこられ、人間が神様を訪ねていくとき、世界ではなく自分がその運動の場にならなければなりません。心と体が運動の場だというのです。

 

 

 

39 完全なマイナスは、完全なプラスを自動的に生じさせます。完全なプラスは、完全なマイナスを自動的に創造するのが原則です。それがこの宇宙の創造原則です。存在の法則です。それで、この地上で、原則的で完全な運動をすれば、霊界がつながるのです。歴史始まって以来、このようなことが初めて起こるということが、問題になります。ですから、霊界で問題となることを地上で解決して措置したならば、解かれるのです。そのためには蕩減が必要です。皆さんは、時が何なのか、世界的な時がどのようになっているのか知りませんが、先生は、このような蕩減の道を一人で、歴史と宇宙に、霊界と肉界に責任をもって歩んできました。どのような時に蕩減すべきかを知っているので、それが崩れたときには、霊界がどのようになり、地上がどのようになる、ということがはっきり分かるのです。

 

 

 

40 地上での百年は、つかの間です。この世の中で生きる堕落した人々は、この世が一番だと思って生きています。何も知りません。それは、腹中から生まれていない胎児と同じです。神様を知るようになれば、地上から霊界に入っていって愛と一つになることができる細胞となり、愛と一つになる一体圏を備えて生きられるようにならなければなりません。

 

 

 

41 地上生活をするのは、霊界を完成させるためです。私たちの霊人体が行って暮らせるところが霊界ですが、霊人体が地上でモデルの型をつくることができず、霊と肉が地上で愛の体験をしなければ、霊界に行って呼吸ができません。人間は、この地で父母のお乳を飲みながら愛を受け、父母の愛、兄弟の愛を感じます。霊界に行っても同じです。靈人体が行って、本来の父母である神様の懐に抱かれて、愛を受けて神様の愛の中で育たなければなりません。そうしようとすれば、この地上において、五官をもった肉体生活において、愛を感じることができなければなりません。地上生活は、霊界の完成のための生活なのです。

 

 

 

42 霊界が私たちの故郷の地です。本然の故郷の地です。この地は、本然の体の故郷の地であり、霊界は本然の心の故郷の地です。この次に行くところが霊界です。ですから、地上であらかじめそこに合わせて、暮らしていける訓練をしなければなりません。そうしてこそ、そこに行っても支障がありません。

 

 

 

43 地上で完成するのであって、霊界でするのではありません。地上で真の父母を中心として、完成することが可能です。霊界ではありません。ですから、息子、娘を生まなければなりません。息子、娘が正に天国の民になるのです。息子、娘が、理想的な天国の民になるのです。皆さんは、息子、娘をたくさん生まなければなりません。本来は十二方向以上にならなければなりません。それで、先生が十二方向以上を願うのです。

 

 

 

44 愛というものは忘れることができません。生命の根になるので、仕事をする時も、眠る時も、起きている時も、常に愛と共にあるのです。生きていく時は、神様を思い、真の父母を思わなければなりません。そのようにすることにより、愛によって心身が円満で、安定し、満足する圏内に立つようになります。そのような生活をした人は、霊界に行けば、そのとおりになるのです。

 

地上には内面的に拡大した生活がありますが、内面的に拡大したその基準は、霊界に行けば表面化されます。愛が内面化されているので、神様と人類は、一つの体とその細胞の関係と同じです。自分自身が、その細胞のうちの一つになる世界が霊界です。そのような境地に入れば、神様が間違いなく自分の心の中に入ってくるのです。神様と共に暮らしていく世界です。

 

 

第二節 霊人の生活

 

天聖経   第七篇 地上生活と霊界 第二章 霊界とはどのような所か

第二節 霊人の生活

 

 

 

1 私たちは霊界で、あたかも創造主である神様があらゆる種類のものを真の愛の概念を中心として新たに造り出せるように、愛を中心として本来の力を発揮して、すべてのものをつくることができます。「私」が、愛を中心として指示すれば、実在の物が完全に姿を現します。「このような工具、現れなさい!」と言えば、正にその工具が生じます。それはどれほど素晴らしいことですか。また、晩餐会場に数十万人、数百万人が参加する時、「このような食べ物を準備しなければならない」と願うだけで、食事が問題なく出てきます。金色のスーツが欲しければ、即座にそのようなスーツが出てくるのです。

 

 

 

2 霊界は時空を超越しているので、一秒間に何億万里も行くことができます。広大な世界が時空を超越しています。千年前が見え、数万年前が見えるのです。何を見ようと思うのでしょうか。何に会いたいと思うのでしょうか。男性として生まれれば女性を、女性として生まれれば男性に会いたいと思うのです。

 

 

考えるとおりに成し遂げられる生活

 

3 霊界では、「これこれこのようにしたい!」と思えば、実際にそのようになります。ですから、あの世では愛の切実な心をもって望む願いは、いつ、どの時でも、何であろうと可能なのです。自分が愛する相対に、千万種類の貴い服を一度に着せたいと思えば、着せることができるところです。黄金の糸で編んだ服を着せようと思えば、想像したその姿そのままに現れます。その前に、ばっと現れるようになっています。「私も同じ服を着よう!」と思えば、既に同じ服を着ているのです。そうすると、天上世界で、すべての霊人たちがワルツを踊りながら天の宴が開かれるのです。ですから、霊界は最高の愛をもった人々が行く栄光の世界です。その栄光の場に立っているすべての被造万物が、和動の対象にならざるを得ない、驚くべき世界だというのです。

 

 

 

4 すべてのものは循環運動を通じて生命が連続します。循環しなくなれば、すべて元素に帰るのです。神様は、どんな方でしょうか。神様は、この宇宙の存在世界の心のような方です。神様がどのような方か、分かったでしょう?実際、知ってみれば、宇宙の心のような方なのです。皆さんは、心を見ることができますか。霊界は、心が体となって生活する世界ですが、これは時空を超越した場所です。

 

そこでは、御飯を思いどおりに食べることができます。御飯の心配をする必要がありません。水の心配をする必要がありません。飲料水の心配をする必要がありません。服の心配をする必要がありません。衣食住のすべてを超越しているのです。そこに自動車が必要ですか。自動車工場、食品工場、服の工場、織物工場があるでしょうか。すべて必要ありません。そこでは、億千万里を瞬間的に往来するのです。愛の力をもってそのようにします。愛する人に会いたいと思えば、すぐに現れます。

 

 

 

5 あの世の生活は、どうなっているのでしょうか。食べる物の心配がありません。住むことの心配がありません。着るものの心配がありません。自らの心霊状態のままに、願うすべてのものが可能だからです。あの世でも食べます。自分を触ってみれば、あの世でも血管に脈拍が走るのが分かります。今と同じです。霊的な体ですが同じなのです。私が「何々を食べたい」と言えば、すぐに現れます。「このような物を食べたい」と言えば、すぐに現れるのです。それは、どこから来るのでしょうか。根源世界を動員できる、能動的な自主性を行使できる世界が霊界です。全体を動員できる主体的な能動権をもっているのは、権力でもなく、知識でもなく、お金でもありません。愛なのです。

 

 

 

6 霊界では、衣食住は問題になりません。衣食住は完全に自由自在です。愛の一体圏、神様の相対圏に立てば、神様がすることを、私たちもできます。何でもできます。何億万年の歳月も一瞬にして超越できます。愛の速度は超高速です。愛する人がいるところに行ってくるというとき、時間がかからないのです。瞬く間に行ってくることができます。ですから、愛の相対者に会うことは瞬間です。そこは絶対圏なので、何の障害もありません。そのような限界を越えた世界、時空を超越した世界です。そのような無限の世界が人間のために準備されています。

 

 

 

7 皆さんが霊界に行ってすることとは何でしょうか。そこでお金を稼ぎますか。服が必要で、家が必要でしょうか。皆さんが願うことは、瞬間的にすべてかなえられます。霊界は、すべてのことを解決できる世界です。願うものは、「現れなさい」と言えぱ即座に現れる世界です。しかし、「私」のために「現れなさい」と言えば、いくら死ぬほど大声を出して騒いでも駄目です。反対に、神様を愛し、世界を愛し、天国の王子の立場で、「王をお迎えするのに必要だから現れなさい」と言えば瞬間的に現れます。想像が及ぶことは、すべて可能な世界が霊界です。

 

 

 

8 エデンの国で、アダムとエバは、お金を出して食べ物を買って食べたりしたでしょうか。すべてただでした。すべての環境条件をつくられた神様は、人間に無限の価値をただで与えてくださったので、霊界に行っても、無限の価値の存在がすべて自然に供給されます。その霊界は、神様が住まわれる本郷の地です。そこでは、お金を出して買って食べたりはしません。私たち人間の想像が及ばないほど、すべてのことが可能な補給地です。

 

 

 

9 霊界がどれほど広大か分かりません。時空を超越した無限の世界です。「ある時代にこれこれこのような心情をもって地上で生きてから逝った人がいれば、ここに直接出てきてみなさい!」と言えば、その人があっという間に現れます。そのように直感的感覚が現実化する世界です。一瞬で百万人の宴会をしたいと思えば、それも問題ありません。食事も、果物も、問題ありません。あっという間に、望みどおりに現れます。そこには炊事場もありません。そこでは、いかなる心配もする必要がありません。そこには食糧を作る工場もなく、自動車を造る工場もありません。花は、多くの種類の花があります。家も、愛の心情基準に相応する家を、自分が願うとおりにいくらでも造ることができます。

 

 

 

10 霊界の動きを阻むものは何もありません。すべて通じるようになっています。時空を超越しているので、何億年前にいた人も一緒にいます。それらの人々もすべて若者として、自分が願う年齢で現れます。そのような人に、いくらでも会うことができます。ですから、説明が必要なく、言い訳が必要ありません。見れば、すぐに分かるのです。あの人が「私」の下なのか、横なのか、高い位置なのか、すぐに分かります。何億年前の祖父だった人々も、会えば愛の序列がすぐに分かります。その序列は絶対的です。その序列の高い人は、自らその序列に合わせて自分が立つ位置に立つようになっているのであって、むやみに立ちません。この世の中と違います。

 

 

地上の人生で位置が決まる霊界

 

11 霊界に行けば、自らの記録が一〇〇パーセント、コンピューターに入っています。記録されたことが、すべて現れるのです。良心は、永遠の世界に展示するコンピューターのディスクのようなものです。すべて入っています。ボタンを押せば、子女が母に抱かれてお乳を飲む時から一生の間に何をしてきたのか、すべて心の映像によって知ることができるようになっています。そのような世界が、皆さんを完全に鑑定するために日ごと記録しているのです。その日がいつ来るのかといえば、死ぬ時です。万能の鑑定コンピューターの前に立てば、誰もうそをつくことができません。霊界は映像が影のように現れる世界です。すべてが記録されています。

 

 

 

12 良心は欺くことができません。自分の一生がすべてビデオテープのように記録されます。自分の番号が付いたその記録が霊界にあるのです。そこに行ってその番号を押せば、あっという間に分かります。生まれてからその時までが、あっという間に分かるのです。どうすることもできません。

 

その記録を見るから良心が痛哭する程度に比例して、地獄と天国の境界線を出たり入ったりするというのです。その世界はただむやみに、大ざっぱな計算によって動くのではありません。数理的な世界です。理論的に動くのです。神様は科学者の王です。天国は、自分勝手にするようにはなっていません。

 

 

 

13 私たちは、好きでも嫌いでも、死んでも蕩減の峠を越えていかなければならない運命をもつ堕落の子孫です。それを否定することができません。この道を越えていかなければなりません。それを自分の一生で越えずに霊界に行けば、何百万年もかかるかもしれません。あの霊界には蕩減がありません。そこは解放された完成圏なので、愛の波で満ちあふれているところです。蕩減や再創造はありません。再生産もありません。そのような刺激がないので、一度固着すれば、それで終わるのです。神様はそのようなことを御存じなので、この地上にメシヤを送られたのです。

 

個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様という八段階の蕩減の道が残っています。その道を一気に通過することはできません。それで、神様は歴史を通じて、個人蕩減時代、家庭蕩減時代を経て、イスラエルの四千年歴史を通じてキリスト教文化圏の世界蕩減時代まで導いてこられたのです。

 

 

 

14 霊界は愛が一番です。愛の主体である神様のみ前に行くことが、最高の願いです。それを知ったので、先生は一生の間、十字架を背負って血の汗を流しながら来ましたが、自分がどこに行くか心配していません。先生が行くところは、先生がよく知っています。

 

人間は、霊界に行ってまた戻ってくることができればよいのですが、霊界というところは、一度行けば、再び戻ってくることができないようになっているので心配です。逝ったのちには帰ってくることができません。そこで知って解決しようとすれば、億万年かかります。そこには、きれいに掃除できる刺激的な装置がありません。

 

この世の中には不安定なことが多く、変動が多いのです。一日にも千態万象の変化があります。もまれることが多ければ多いほど、殻をたくさん脱ぐことができます。ところが、霊界には愛の刺激的な要素はありますが、罪悪を脱がせてくれる蕩減的な要素がないので、数多くの歳月がかかるというのです。

 

 

 

15 神様を失ってしまったことは、万宇宙の大主宰を失ってしまったことと同じであり、私たちの父を失ってしまったことと同じです。その父は、私たちが肉身をもって生きる百年余りの短い期間だけ呼び求める父ではありません。永遠無窮に呼び求める父です。永遠にその方が喜べば共に喜び、その方が悲しめば共に悲しまなければなりません。それが地上で決定するのです。

 

ですから、地上で生きている間に神様が喜ぶことができる立場で、悟りの道、信仰の道を守った人が行くところが天国であり、神様が悲しむ立場で生きた人が行くところが地獄です。ところが、私たちは、神様が悲しむ立場で生きています。このような曲折が堕落によって生じたのです。

 

 

 

16 霊界では、赤ん坊を生みません。霊界は縦的な世界です。神様を中心として円形を形成している世界なので、赤ん坊を生む必要がありません。体をもつ人間を造られたのは、横的な基盤が必要だったからです。それは繁殖する畑です。霊界の民は、すべてこの地球から行くのです。

 

それでは、世の中では今、なぜ産児制限をするのでしょうか。それは天命によるものです。悪の血統を、これ以上繁殖させてはならないというのです。統一教会の祝福家庭はどうでしょうか。皆さんにとっては、どれくらい天国の国民を繁殖させるかということが財産です。信仰の息子、娘より、自分の生んだ息子、娘のほうがもっと価値があります。信仰の息子、娘は、祝福を通じた血統関係ではありません。そのような息子、娘をどれほど残していくかによって、天国での自分の位置が決定するのです。

 

 

 

17 心臓が止まった時、死んだと言います。霊人体の心臓は永遠に止まりません。その心臓の根が神様です。神様の根を受けたので、心臓という実に対して神様と同じ人として刈り取るのが霊界に入ることです。それでは、皆さんが霊界に行けば、どうするのでしょうか。霊界は肉界と同じです。むしろ善化されて神聖化されたものが霊人体です。それは、人間的な五官よりも立体的な感覚で生きるのです。私たちは、地上で縦横の関係、上下の関係、前後の関係を通じることによって生命の脈を感じますが、霊界に入っていけばこれが宇宙的です。大きくなるのです。

 

 

 

18 霊界の生活で、すべての価値の中心は何でしょうか。霊界に暮らす人たちは、各個人が霊界の社会に属しています。霊界にも人間世界と同じように、霊界の家庭があり、一族がいて、一つの国があり、世界とつながっています。今日、地上に生きている人が、好きでも嫌いでも、誰彼を問わず、みな帰ってとどまるところが霊界です。そこには、未開人から文明人まで、歴史時代に生まれては逝った千態万象の多くの人間が集結しています。

 

ここで生きた人があの世に行って、突然変わることはできません。「三つ子の魂百まで」という言葉があります。もって生まれた性格は直すのが難しいのです。あの世に行っている霊人体は、私たちが今まで暮らしてきた内容と特別に違うのでしょうか。突然に変わるのでしょうか。そのようなことはありません。ここで生きた、その姿どおりに収穫されていくのです。

 

霊界に行っているすべての霊人体は、結局は地上で生きた人々の霊人体です。今日、人々が生きている世の中と違いのない世界です。

 

 

夫婦が一心同体で生きる生活

 

19 霊界に行けば、本当に一心同体になった夫婦は、いつでも男性が女性と一つになり、女性が男性と一つになることができます。女性の中をのぞいてみれば、男性が入っており、男性の中をのぞいてみれば、女性が入っています。神様の二性性相と全く同じです。性相と形状が分かれて出てきたので、その本体に帰るには、愛のはしごに乗らなければなりません。創造の基準が愛から始まったのですから、このはしごに乗って入らなければなりません。結局、終着点は、神様と共にいるのです。

 

 

 

20 愛の器官を誤って使えば、父と母も、死亡の世界に入っていきます。自分自身も同じです。ですから、愛の器官をつけて生まれた存在物は、それを犯すようになれば死亡に直結するのです。赦す道がありません。このような観念を、しっかり入れてあげなければなりません。その愛を中心として神様が人間と和合し、人間は神様と愛で一つになるのです。神様と一体化するのです。神様の二性性相が分立されたものが完全に愛で一つになれば、霊界に行ってみると二人が一つになっています。見れば間違いなく男性なのですが、その中に女性が一体化して入っているというのです。愛の目で見れば、すべて統一です。醜い人も美しく見え、美しい人も美しく見えます。

 

 

 

21 天国に行くとき、結婚式をするように礼服を着て入っていき、神様のみ前に愛の挨拶をします。神様のみ前で夫婦が愛するのです。そこで愛すれば、神様御自身が喜びと同時に縦的な立場で包み込み、横的な夫婦ばかりでなく、宇宙全体の感情が入ってきて酔いしれるようにするのです。想像もできない仕掛けが施された世界に入っていくのです。愛するようになれば、見えない二つの力が訪れてきて、すべて一つになって光の世界に同化されるという、驚くべきことが起こります。真の愛がなければ、そのような生活にはなりません。

 

 

 

22 霊界に行けば、天のお父様だけがいるのではなく、天のお母様がいるのです。父と母がいなくて生命体が出てくることができますか。そのような父母のように、アダムとエバの背後には、分かれて出ていた神様が一つになっています。ですから、母を通してもそうであり、父を通しても天の国に行ける道が生じるという話になります。そのようになったならば、あの霊界の天上天国の主人公とは誰でしょうか。実体をもって生きていた「私」の真の父母が、あの世に行って永遠の天国の王、女王になるのです。

 

 

善霊と悪霊が共存する生活

 

23 霊界は、善の霊界と悪の霊界、このように二つに分けることができます。その世界は、実在する世界です。地上世界の人たちには分かりませんが、そこは、確実にある世界です。霊界でも、善の霊人たちと悪の霊人たちが闘争しています。霊界にも闘争があります。

 

サタンを中心として、悪の霊がつながっていますが、その悪の霊の統治圏内に、今日、地球星の人間たちが暮らしています。なぜでしょうか。

 

今まで逝った先祖たちは、善の霊も悪の霊も、すべて霊界に行っているので、その善の霊も、堕落した世界と区別されたという条件をこの地上で立てて、善の側に立っているのであって、神様が御覧になるとき、完全な善の立場に立っているわけではありません。

 

神様の本然の理想世界、本然の人間になることができる、理想的な善の圏内に向かっていくときに、善の霊たちはそこへ前進しようとし、悪の霊たちはそれを妨げようとしています。悪の霊界と悪の世界というものは、いつでも通じます。いつでも連結できます。善の霊は、悪の世界で対立して、反対される立場で生きて死んだ霊なのです。それは、宗教を信じて行った霊人たちです。

 

 

 

24 あの世に行けば人の命を奪った者と命を奪われた者、様々な人たちが一カ所に集まっているので、そこでは刃物で相手を脅かしたり、復讐したりしようとすることも起こるのです。ですから、数多くの塀で塞がっています。ですから、悪霊が怨讐の子女を訪ねていって事故に遭わせて、連れていったりするようなことが起こるのです。これをすべて解かなければなりません。これを解くためには、まず地上世界で解かなければなりません。解くには、それ以上に良いものを与えなければなりません。死ぬことよりもっと良いもの、怨讐関係になったことより、もっと良いものを与えなければ解くことができません。

 

 

 

25 霊界は、歴史始まって以来今まで生きていた数多くの私たちの先祖たち、今生きている数多くの人たち、これから来る数多くの人たちが、みな行ってとどまるところです。その霊界にも善の霊界、悪の霊界があります。すべて死んで消えてなくなるのであればそれまでですが、神様が何らかの関係を結べる人間が残って一つになった集合体が霊界だとすれば、その霊界も不可避的に二つの種類になります。悪の種類と善の種類です。

 

ここで問題となるのが、いったい悪の種類とは何であり、善の種類とは何であるかということです。神様も悪の霊界と善の霊界が和合して、人間世界が和合できることを望むでしょう。それで、各自がもつ目的も達成すると同時に全体目的も達成できる、理想的に二重の結果が出る立場を追求するのです。

 

 

 

26 愛の実を取って倉庫に送れば天国が成し遂げられ、天国の家庭と天国の国と天国の民になっていたはずですが、これが途中ですべて腐って落ちるようになったので、地獄の家庭となり、地獄の民となってしまいました。そのようになったことを堕落と言います。落ちたというのです。

 

私たちは、生きてはいますが、理論的に否定できない地獄に落ちて生きていることを認めなければなりません。堕落し、地獄に生きているというこの二つの事実は、嫌でも認めなければなりません。愛の実を結んで天国の倉庫、天国に行くべきなのですが、堕落したので地獄の倉庫で腐ってしまっているというのです。

 

 

第三節 天使と天使世界

 

天聖経   第七篇 地上生活と霊界 第二章 霊界とはどのような所か

第三節 天使と天使世界

 

 

 

1 私たちは、神様が人間世界を造る前に、天使世界を造ったことを知っています。それでは、天使世界とはどういう世界でしょうか。人間が一つの結実のために、花のような存在としての美を備え、香りを放って現れるときに、初めて愛の巣が完成します。すべての生命力はそこから出発するようになり、すべての生命をもった存在がそこから和動できるようになります。

 

このように和動できるようになる起源が、正に人間です。そのような人間を中心として、天にいる天軍天使たちが人間と、蝶や蜂のように互いに与え合える和動の主体圏を形成するようになれば、それこそ神様が喜ばれ、人間が喜び、天使が喜び、全被造万物が愛に浸る和動の花園になったはずであり、春の宴が始まっていたはずです。

 

 

 

2 エデンの園には、アダムとエバがいて、天使長がいて、神様がいました。天使長は、アダムとエバが祝福を受けるまで、責任をもって養育していかなければなりませんでした。それが天使長の使命です。ところが、堕落してしまいました。それは自分を考えたのです。神様の創造は、神様の理想を中心とするのであって、天使長とは関係がありません。神様のみ旨によって創造したので、神様の考えどおりに造られたというのです。そのすべての価値と内容と目的は、神様が喜ぶためです。天使長が喜ぶためではありません。何と言おうと、目的の中心は神様でした。

 

ところが、その目的の中心価値を完成させるには、神様お一人ではできません。神様は、アダムとエバを中心として創造目的を完成することを願っていました。それで、それによって、神様は、天使長よりアダムとエバに心が向かわざるを得なかったのです。赤ん坊の時を見れば、子女は母親の懐にほかの子が抱かれている場合、すべて押しのけたいと思います。何も知らない赤ん坊の時でもそうなのです。それと同じように、その時も、天使長にそのような嫉妬心があったことは否定できません。アダムとエバは、完成して神様の目的、神様が喜ぶ目的を完成しなければなりません。それは、天使長とは何の関係もありません。単に保護し、育て、祝福を受けさせて家庭をもつように協助することが天使長の使命だったのです。

 

 

 

3 エデンの園において、天使長が堕落することによってサタンになったので、天の前に天使長がいなくなった立場になりました。天使長を身代わりすることができ、その使命を担うことができる存在、霊界と肉界にわたってサタン世界の、その何よりも強い存在を探し立てるために、天は苦労してこられました。

 

まず天使長を探さなければなりません。この天使長は、サタンになった天使長より劣った使命を果たす存在であってはいけません。堕落したサタンを退け、屈服させて、天の前により忠誠を誓う中心天使長のような存在を立てなければなりません。

 

この天使長のような世界的な代表、サタンを凌駕できる中心的な代表を立てるには、天と関係を結べる基盤を通じて立てなければなりません。これは一度に現れるのではなく、多くの受難の道と悪の環境をかき分け、一切の悪を分立した勝利の決定権を備えなければなりません。個人的圏内を超えて家庭、氏族、民族、国家、少なくとも一つの国家を中心とする基盤の中で、天は天使長的勝利圏を見つめて摂理してこざるを得ないのです。

 

 

 

4 天使長がエバを誘惑しました。この天使長圏で歴史的摂理の使命を担おうとすれば、天使長だけが完成しても駄目です。天使長がエバを奪って堕落させたので、言い換えれば、悪の天使長圏を中心として引っ張っていったので、善の天使長圏でエバを再びお返しする準備をしなければなりません。

 

サタンがエバを奪って人類始祖の立場で出発したので、これを否定できる天的天使長の立場で使命を担い、一人の新婦を準備しなければなりません。天のみ旨を裏切ったエバではなく、天のみ旨を受け継ぐ一人の新婦を準備しなければなりません。

 

このような新婦を準備すると同時に、新郎が現れるようになれば、その新婦と共に天使長圏内のすべてのものをお返ししなければならないのです。サタンがエバを誘惑することによって、アダムから、神様からすべてのものを奪っていったので、天側の天使長圏では、この全体をお返ししなければならない立場にいるのです。

 

 

 

5 本来は、神様を中心として、アダムとエバが天使を主管しなければなりませんでしたが、天使がアダムとエバを支配することによって逆になりました。それで、アダム側であり神側にいる二番目の息子を通じて、天使長側でありサタン側にいるカインを屈服させて蕩減しようというのです。アベルがそのような立場に立ったので、神様は、アベルの祭物を喜んで受けるようになりました。

 

喜びを返すアベルに対して、カインは自分の祭物を神様が受けなかったと寂しく思うのではなく、そのようなアベルを愛し、そのアベルを通じて神様のみ前に進まなければなりませんでした。そのようにしていれば、そこで救援摂理の基台は成立していたはずです。ところが、カインは神様に愛されるアベルを、恨みながらその命を奪いました。結局、天使長がアダムを支配したのと同じように、サタン側の天使長の立場に立ったカインが天側のアダムの立場に立ったアベルの命を奪ったのです。ここで霊肉の罪悪が結実するようになったのです。

 

 

 

6 キリスト教を信じていった数多くの霊人たち、イエス様以下の数多くの霊人たちは、どのような立場にいなければならないかというと、来られる主の前に天使長の使命を果たさなければなりません。天使長の使命とは何でしょうか。イエス様が霊的にサタンと対決して、サタンを屈服させることができる道を築くことです。洗礼ヨハネがヨルダン川でイエス様を祝福してすべてのものを相続したのと同じように、霊的世界から来られる主を祝福してあげなければなりません。そのようにしなければ、地上で摂理の出発ができません。ですから、キリスト教が行く道は、肉的な世界は捨て、霊的な世界だけを見つめていく道です。彼らには肉的な世界がありません。

 

 

 

7 今まで、数多くの宗教人たちが出てきました。宗教人たちはみな、自分たちがこの世界を動かすと言います。それは、洗礼ヨハネやイエス様が「悔い改めよ、天国は近づいた」と宣布したのと全く同じです。それでは、「悔い改めよ、天国は近づいた」という言葉は、どういう言葉でしょうか。洗礼ヨハネが宣布したこととイエス様の宣布したこととは、何が違うのでしょうか。一つは外的であり、一つは内的です。一つは天使型であり、一つはアダム型です。アダムは、必ず天使長を通じて現れるようになっています。神様がアダムを造る時、天使長の協助を受けて造られたからです。

 

また、天使長にアダムを保護して育てるべき使命があったのと同じように、その使命を果たさなければならないのが、今までキリスト教を信じてきた信徒たちであり、悟りに通じた数多くの宗教人たちです。そのような人々が世界に散らばっています。その中に世界的使命を果たせる一人の人がいるというのです。イエス様が体を失ってしまったのは天使長のためです。イエス様は天使長のゆえに死にました。ですから、世界的に天使長の使命を完結できる人は、イエス様の死を蕩減できる峠を越えなければなりません。そのような人が出てくるには、その人の家門が、必ず悲惨な歴史を経なければなりません。

 

 

 

8 イエス様以降、今まで数千年間、霊的世界の使命を担当した数多くの宗教は、アダムの代わりに侍っていける、実体的天使長をつくるための闘いをしてきました。実体的天使長、すなわち洗礼ヨハネのような人をつくるために世界が動員され、キリスト教を信じる人全体が動員されたのです。終わりの日に、水を注ぐように霊を注ぐと言いましたが、それは霊的世界の霊たちがこの地に来て、完全な霊を注いで人をつくるということではありません。未完成のアダム、すなわち堕落前のアダムのような人をつくることではないというのです。復帰した洗礼ヨハネのような人をつくるために、霊界は今まで苦労してきたのです。

 

 

 

9 再臨する時、天使世界のカイン型は、サタン世界のサタンを追放すべき使命が残っています。その次には、霊界にいるアベル型、すなわち霊人たちは地上で善の宗教を統合させる運動をすべき使命があります。地上では、次第に悪の運勢が消えるので、天使長として堕落したその一族たちをすべて撃退しなければならない責任があるので、地上世界のサタンの権勢は次第に没落していきます。

 

 

 

10 皆さんが天国に行くには、サタンの証明書をもらわなければなりません。サタンを愛したという証明書をもらわなければ、永久に天国に行けません。それで統一教会は、そのようなことをしようというのです。反対する人を怨讐として扱わなければならないにもかかわらず、愛さなければならないとは唖然とすることです。怨讐を愛しなさいというのです。彼らのために福を祈ってあげなければなりません。そのようにしてカインとアベルが一つにならなければ、復帰ができません。父母に帰ることができないのです。

 

 

 

11 堕落した天使長が神様を讒訴しても、神様は、神様が立てられた法度を遵守せざるを得ません。神様は絶対者であられます。ですから、天使長が既に堕落したとしても、神様は、神様が立てた法則、あるいは規則によって被造物を主管せざるを得ません。これは、神様が堕落以前の天使長にしようとされたことが何であろうと、堕落したのちも、そうせざるを得ないことを意味します。ですから、天使長は神様に、「神様、あなたは私を完成期まで、完成期以降も愛するようになっています」と言うのです。

 

 

 

12 サタンが神様に向かって、「あなたは永遠不滅の主体であられる神様であり、天地創造の大主宰であられることを私は知っています。真理の本体であり、愛の本体であり、原則の本体であるがゆえに、あなたはその法則、原則どおりに行われ、変わることはできません。ゆえに私は堕落したとしても、あなたはあなたの立てた原則を実行すべきではないですか。そのために、あなたは原則的な存在として、堕落した天使を愛さなければ、本然の世界に息子、娘を連れていくことはできません。あなたが私を愛し、あなたの息子までが私を愛さなければ天国に行くことができないというのが、堕落前の天使長に対してあなたが立てた計画ですから、私が堕落したとしても、あなたはその原則を守らなければなりません。ですから、私を愛さなければなりません。そうでなければ真の神様になることができず、真の息子、娘になることができません」と讒訴し、食い下がるのです。

 

 

 

13 サタンは、神様の愛を蹂躙した怨讐です。父と母が眠っているところに入ってきて父の命を奪い、母を強奪したどろぼうです。サタンとは何でしょうか。神様が愛するエバ、神様の実体的相対であるエバを強奪した愛の怨讐です。そのような姦夫に自分の愛する人を渡してあげ、祝福してあげられる心をもたなければなりません。怨讐を愛そうとすれば、赦してあげる程度では駄目です。その程度でサタンが「ありがとう」と言いますか。かけがえのない愛する人を怨讐に渡し、祝福してあげられる心までもたなければなりません。これが最後の峠です。

 

 

第四節 天上天国に行く道

 

天聖経   第七篇 地上生活と霊界 第二章 霊界とはどのような所か

第四節 天上天国に行く道

 

 

 

1 皆さんはみな、先祖たちの顔を代わりにかぶって出てきた歴史的な復活体です。その歴史がどれくらいになるのでしょうか。何十万年になるといいます。そのように長い歴史過程を、結局、「私」一人を造るために苦労したというのです。金氏なら金氏という「私」一人を誕生させるために、数多くの先祖たちが生まれては死んでいったのです。ですから、私たちは歴史的な結実体です。

 

皆さんからよく熟した実が出てくると思いますか。皆さんの二世が、間違いない天の姿になると思いますか。皆さんの心の中からよく熟した統一教会が出てくると思いますか。六千年の人類歴史の結実体が、木から落ちる実のように熟すことができずに落ちてよいのですか。「ああ、私は落ちそうだ。風がもう少し吹いたら落ちるので、先生、揺らさないでそっとしておいてください」と言わなければなりませんか。そのような人もいるでしょう。一方で、「先生が斧で打って枝を思う存分揺らしても、枝が裂けていくまでは絶対に落ちません」と言う人もいるでしょう。皆さんは、どのような人になっていますか。

 

 

人生の結実体

 

2 善の神様と、その反対の悪のサタンの間に挟まっているのが人間です。ですから、一生をかけて「私」が善を追求しながら行くようになる時は、善の神様が共にあるのであり、その反対に立つようになる時は、悪のサタンが共にあるのです。これが現在の人間の運命です。一生の路程で、善の神様を慕いながら善のみを残すことができる道をどのようにして立てていくかということが、人間が何より希望することにならざるを得ません。そうすることによって善の神側に立つことができますが、できなければ悪の側に帰結します。

 

絶対的な善を中心としていらっしゃる神様を人間が絶対的に信じ、その方と一つになる道を模索することによってのみ、私たちの人生行路が善で始まり、善の過程を経て、善の結実を結ぶことができます。私たちが一生をすべて生きたのち、善と悪を一つ一つ差し引きしたときに、悪が善より多ければ悪の主管圏内に帰結し、善が悪より一つでも多く残る時には、善の主管圏内に帰結するのです。

 

 

 

3 私たちの一生の中から、善と悪を一つ一つ抜き取ったとき、最後に残るものが善であってほしいというのが人間の願いです。しかし、善よりは悪が残りやすいのが私たちの人生行路です。一時代の数多くの人類を総合して見てみるとき、一人一人の善と悪を差し引いたあと、善よりも悪が残るならば、この地上に生きている人は善の人ではなく悪の人であり、またこの社会は善の社会ではなく悪の社会だという結論が出てきます。

 

 

 

4 善悪というものは、思いの中で決定されるものではありません。善悪というものは生活圏内で決定されます。天国と地獄は、皆さんの観念の世界で決定されるのではなく、生活舞台で決定されます。これは重要です。電車に乗って人々を見回してみると、気分の良くない人と気分の良い人がすぐに分かります。気分の良くない人は自分よりも霊力が低いのです。しかし、気分の良い人は、それ以上の人たちです。もし、霊的な体験のある人がいれば訪ねてくるのです。そのような人はすぐに分かります。動物も自分の生死が分かるのですが、万物の霊長である人間が、自分の人生を知らずに生きるのですか。すべて私利私欲にとらわれ、神様に背を向けて生きているので分からないのですが、神様と共に生きれば分かるようになります。

 

 

 

5 霊界に自信をもって行くことができますか、できませんか。自信をもって行けば天国があり、自信なく行けば地獄があるのです。いずれにせよ行かなければなりません。よく熟した実は天国の倉庫に行き、熟すことができなかった実は腐った臭いのするごみ箱に行きます。地上で、どんなに難しくても完成して行かなければなりません。ですから、しっかりと実を結ばなければなりません。

 

「目よ、地獄に行こう。口よ、地獄に行こう。耳よ、地獄に行こう」と言って、五官の地獄を克服してこそ、天国に行くことができます。そのようにして、地上の最も見たくないものを見なければならず、嗅ぎたくない臭いを嗅がなければならず、聞きたくない話を聞かなければならず、言いたくないことを言わなければなりません。先生がこの膨大な世界をすべて知り、霊界をはっきりと知りながら行く道は、地獄の道です。誰も行かない道を開拓していくのです。

 

 

 

6 神様は、万物を造られる時にもみ言を通じて造られ、私たちを取り戻してこられるときもみ言を通じて取り戻してこられます。皆さんが神様から出てきたとすれば、神様がみ言を蒔いたので、皆さんには、そのみ言を刈り取って父のものとして取り戻してさしあげるべき責任があります。終わりの日は、み言を刈り取って一つの実体を備えるべき時です。み言を通じて実体がつくられます。

 

このように、み言を通じてつくられた実体を探してこられたのが神様の歴史であり、イエス・キリストがこの地上に来られた目的です。神様は、堕落した人間に実体を先に見せてあげず、み言を先に見せてくださいましたが、これは逆に取り戻していくからです。失ってしまった順に取り戻さなければなりません。実体を願いますが、先に堕落した人間の心にそのみ言の種を蒔いたのち、そのみ言を根拠にして一つの生命体となった実体を備えるようにするのです。

 

 

 

7 アダムとエバが信仰を失ってしまい、実体を失ってしまい、愛を失ってしまうことによって、血統的に逆になってしまいました。ですから、これをひっくり返さなければなりません。ニコデモがイエス様の前に来て、「天国に入ろうとすればどうすればよいのですか」と尋ねたとき、イエス様は「生まれ変わらなければ天国に入ることができない」と言いました。するとまたニコデモが、「どうして、そのようなことがあり得るのですか」と尋ねると、イエス様が「あなたはイスラエルの教師でありながら、それも知らないのか」と言いました。

 

彼がユダヤの国の教師だったので、イエス様は比喩ではなく、事実の内容をもって最も重要なことに言及したのです。それで「あなたが生まれ変わらなければ天国に入っていくことができない」と言いました。生まれ変わるには、アダムとエバより劣っていては入っていくことができません。生まれ変わるには、アダムとエバより優れていなければなりません。これが原則です。そうでなければ、根本復帰の位置に上がっていくことができません。

 

 

 

8 堕落とは何かと言うと、み言と実体と心情の関係が離れていったことです。ですから、皆さんは、み言を知って、み言を実践しなければなりません。み言を実践するには、父母の心情を備えて行動していかなければなりません。蕩減復帰の解怨ができる実体的な行動を経た者であってこそ、祝福してあげることができます。それは言葉だけではありません。それが言葉だけであってはいけないのです。そして、天の一族、言い換えれば、この国の生命体になるのです。

 

これから皆さんは、生霊体にならなければなりません。そのようになって、入籍して自分の位置を求めていくのが復帰の路程です。ですから、皆さんは入籍しなければなりません。生霊体に連結され、入籍されれば、皆さんがどんなに間違い、どんなに誤ったとしても、サタン世界で立てた法で処理できなくなります。

 

今日の世の中でもそうではないですか。アメリカ人を韓国の法律で処理できますか。国籍が違うのでできません。そのような圏内に入っていけば、その圏内の法を通じてのみ適用するようになります。ですから、サタン世界の法は、一度越えれば適用できないというのです。サタン世界の法が適用できないので、結局は、この地上の法ではできないのです。それに応じた蕩減的な条件を立てたからです。ですから、地獄には行かなくなります。

 

 

 

9 プラスの神様は創造主であり、マイナスは被造物です。それは何によって引き寄せるのでしょうか。愛をもって引き寄せなければなりません。プラスの電気とマイナスの電気が一つになるでしょう?人間同士も愛で結ばれます。霊界に行けばどうなるのでしょうか。神様のところに帰ります。最後には神様のところに帰るのです。霊界に行って「神様!」と言えば、霊界の中から「なんだ!私はここにいる」とおっしゃり、一方では、「どこにいらっしゃいますか」と聞けば、心の中から、「ここにいる」と答えるのです。それで、良心と霊界が相対関係になります。

 

 

 

10 神様から始まったものは、神様に帰ります。神様に帰るというと、体が二つなのでしょうか。一つです。一つは原因であり、一つは結果です。これを出発させて押し出すのも愛であり、その押し出したものを引き入れるのも愛です。それ以外にはありません。それで、愛の心は歴史と共にあるというのです。歴史が押し出すのです。

 

愛は最初に帰ります。愛以外に最初に帰る力はありません。生命力は愛によって出てきます。これは、愛の引き出す力、引き入れる力によって出てきます。遠心力と求心力は、愛の力ゆえに成し遂げられるのです。男性と女性の生命力が愛によって連結されれば、男性は完全な生霊体になります。男性と女性が完全なものになろうとすれば、男性と女性が一つにならなければなりません。

 

 

天国に行く秘訣

 

11 神様のみ前に帰ろうとすれば、どうすればよいのでしょうか。アダムとエバが一つにならなければなりません。アダムとエバを復帰しなければならないのです。堕落したアダムとエバが一つにならなければ、解怨成就と救援ができません。その二人が一つになれば、父母を復帰することができます。ですから、私たちは、これを復帰しなければなりません。原理がそうです。

 

なぜ一つにならなければならないのでしょうか。神様を解放させるためです。これが結論です。兄弟同士で愛し合い、怨讐を愛さなければなりません。神様を解放し、父母を解放しようとすれば、怨讐を愛さなければなりません。怨讐を愛さなければ一つになることができないので、怨讐を愛さなければならないのです。

 

怨讐を愛したのちには、どのようにしなければならないのでしょうか。父母を復帰しなければなりません。父母を復帰したのちに、神様を復帰しなければなりません。これを一度に復帰するのです。堕落とは、サタンと非原理的な愛の関係を結んだことなので、一度に兄弟を失ってしまい、父母を失ってしまい、神様も失ってしまったのです。これを一度に復帰しなければなりません。ですから、命を懸け、命が尽きるまで愛して越えたという条件を立てなければ天国に入ることができません。

 

 

 

12 天国に行く秘訣とは何でしょうか。四位基台を復帰することです。聖書六十六巻がすべてここにかかっています。六千年歴史の願いが、すべてここにかかっています。人類の解怨成就も同じです。四位基台は絶対的です。これを完成することができなければ、大変なことになります。天国に入ることができません。

 

入っていくことができなければ、どうするのですか。そうなれば、祝福を受けた皆さんの息子、娘たちが千年、万年嘆息するでしょう。父母が責任を果たせずに、そのようにさせるのですか。そうなれば、完全復帰された子孫になることができません。統一教会で言う霊界は、そのようになっています。どうすることもできません。

 

 

 

13 天国は、四位基台を立てて蕩減しなければ、絶対に入っていくことができません。イエス様も、このために今まで苦労しています。先生も、このために今まで苦労してきました。それを正すために苦労しました。苦労した理由はほかにありません。四位基台の復帰のためです。イエス様の当時、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人の弟子も、それを立てるために必要だったのです。

 

ですから、天国は、どこから入ることができるのでしょうか。天国をアダム家庭で失ってしまったので、家庭で復帰しなければなりません。アダムとエバが不倫の愛によって堕落したではないですか。そこで失ってしまったのです。これを復帰するためには、失ってしまったカインとアベルとセツを捜し立てなければなりません。アダムとエバに代わって父母となり、この三人の息子を立てなければ、四位基台を完成することができません。これは公式です。

 

 

 

14 今、時は、世界的な時です。白人、黒人、黄色人は、三兄弟です。皆さんは、「人種の異なる人々が集まって暮らして、幸福になることができるだろうか」と考えるかもしれませんが、天国では争いがありません。天国は、人種によっていくのではなく、多く愛した実績によっていくのです。マタイによる福音書の第五章九節に、「平和をつくり出す人たちはさいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」とあります。神様の息子に出会うとうれしいのですが、サタンの息子は、会えば会うほど恐怖と不安が生ずるようになります。

 

このように見るとき、兄弟は、「私」より貴いのです。兄弟のために生きる人は自動的に天国に行きます。どこにおいても歓迎され、推薦されるというのです。兄弟のために生きる人は、中心的な存在になります。父母の愛と夫婦の愛を再現する兄弟の愛をどのように完成するかということが、正に地上天国をこの地に顕現させる秘法です。結局、喜ぶために与え、喜ぶために受けることだけが、天国に入る鍵です。

 

 

 

15 今後、天国はどのように形成するのでしょうか。天国を形成するためには、民族を超え、国境を超え、イエス様が愛することができなかった世界の人類を愛さなければなりません。世界の人類を愛しなさいというのです。国境を超越し、人種を超越し、民族を超越して、砂漠やアフリカの奥地の人も、誰も彼も、すべて自分の子女と同じように愛さなければなりません。イエス様に代わって姉のように、イエス様に代わって妹のように愛することができる心をもった人であれば、その人は神様の息子、イエス様と同じです。これが普遍化された世界が地上天国です。このように行ってこそ、天上天国に入ることができるのであって、そのようにしなければ不可能です。

 

 

 

16 私たちは、天国に入らなければなりません。天国は、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙を経なければ、入っていくことができません。最初から天国に行く道はありましたが、今まで天国に入っていった人はいません。それは、個人的な十字架の途上から、家庭、氏族、民族、国家、世界的な十字架の途上に至るまで、各段階のサタンを屈服させて勝利の基盤を立てた人がいなかったからです。イエス様もこの地に来られ、そのような勝利の基盤を立てることができなかったので、天国に入ることができずに楽園で祈る立場にいらっしゃるというのです。

 

 

天国に行く通行証を準備しなさい

 

17 人間の堕落は、神様の立ち会いのもとでなされたのではなく、サタンが主体となってなされたので、堕落圏から逃れるには、サタンを屈服させなければなりません。「サタンよ、お前と組んで私がこのようになったのだから、お前を屈服させて私は帰る」と言わなければなりません。それで、サタンを屈服させた証書をもらわなければ、神様の愛を受けることはできません。イエス様も三大試練で勝利しました。歴史的に勝利したというサタンのサインをもらわなければ、天国に行くことはできません。どのようにしてでも、サタンのサインをもらわなければなりません。イエス様がサタンから三大試練を受けて勝利したときに、その立場でサタンが、「あなたと私は永遠に違う」と認めるのです。

 

 

 

18 イエス様は、天の国を相続しましたが、この世を相続することはできませんでした。それでは、この世を誰が相続したのでしょうか。カインが相続しました。この世はカインの国です。ですから、アベルは天国を相続したのち、この世のカインが保証する受領書をもらわなければなりません。天国に行くにはサタンの受領書をもらって行かなければなりません。堕落人間は、この二つの原則に引っ掛かっています。そこで解けなかったので、今までの六千年の歴史が、果てしなく繰り返されてきたのです。

 

しかし、今分かったというのです。聖書を見ると、「また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ八・三二)というみ言があります。分かったので、歯を食いしばってでも愛さなければなりません。どの程度まで愛すべきでしょうか。怨讐であるカインまで愛さなければなりません。

 

 

 

19 キリスト教は、歴史時代に数多くの人々と共に、悲惨な運命を開拓しながら、真のオリーブの木を探す歴史を経てきました。真のオリーブの木は、すなわち神様の息子です。その息子が来れば、その方のエキスを受けて、枝をもらわなければなりません。その枝に自分を接ぎ木しなければなりません。そのようにすれば、歴史時代のすべての先祖たちが、蕩減条件を提示してサタンに引っ掛かり、倒れてしまった歴史的な条件が、その場ですべてなくなります。

 

沃土や温かいねぐらのような基盤ではなく、砂利の多い土地のような所で接ぎ木されなければなりません。今までサタン世界にない本性を備えたので、神様の息子になれるという証明書を、サタンからもらわなければならないからです。それは神様がしてくださるのではありません。神様が自由にしてくださることができるのなら、六千年前にすべてしてくださっているのです。

 

 

 

20 刑務所から出てくるために、判事が認可してくれるのではありません。それでは、誰がしてくれるのでしょうか。検事が認可してくれるのです。公判廷では、検事がサタンと同じです。ですから、裁判の場で検事の認可を受けなければ出てくることができません。同じように、サタンの認可を受けなければ、神様は「お前は私の息子だ。私が生かしてあげよう」と言えないのです。必ずサタンの公認を受けてこなければなりません。

 

皆さんは、サタンの公認を受けましたか、受けていませんか。サタンの公認を受けなければなりません。統一教会は、何を教えてあげる教会でしょうか。サタンから公認を受ける方法を教えてあげる所です。サタンから公認を受けるのですが、霊的にのみ公認を受けてはいけません。霊肉を合わせた実体として公認を受けなければなりません。

 

 

 

21 天法に引っ掛からなければ、天国に入ることができます。天法によって入っていけないと言われたら、どうするのですか。統一教会の信徒たちも、天法に引っ掛かれば、天国に入っていくことができません。間違えれば、すべて引っ掛かるというのです。統一教会を信仰すれば生霊体級の霊界に行くと思っていても、すべて無駄になってしまいます。それでは、どうすればよいのですか。ここには一つの秘法があります。統一教会の教会員である皆さんが勝利的基盤を築かなければなりません。そのようにしてこそ、父母の立場に立つことができます。

 

 

 

22 今は、統一教会が世界の峠を越えていくのです。今ではもう、誰かが統一教会をなくすことはできず、先生を誰も監獄に放り込むことができません。皆さんが今、結婚して、生活して、息子、娘を生むことに忙しくしている時ではありません。天国に入れる証明書を準備することに忙しくしているべき時です。

 

皆さんは、いつ死ぬか分かりません。どこかに行く途中で車の事故に遭って霊界に行くかもしれません。ありとあらゆることがたくさん起きます。いつ、どの瞬間に行くか分かりません。

 

祝福された家庭が、これから霊界に行く問題を等閑視して、自分たちだけでおもしろく暮らして霊界に行くならば、統一教会の先生の前に出ることができますか。祝福を受けた家庭は、長成期完成級の圏内にいるので、世界圏にまで上がっていません。長成期完成級にいるので、世界を越えなければなりません。そのような過程にいるので、越えなければならないのです。

 

 

 

23 皆さんは、お嫁に行くことが忙しいですか、生活することが忙しいですか、霊界に行く準備が忙しいですか。私が生きるのは、霊界に拍子を合わせるためなのです。すべての人は、霊界に拍子を合わせて生きなければなりません。統一教会を信じた人が霊界に行けば、先生が教えてあげた条件が霊界の門前に立てられていて、皆さんに質問するのです。先生が今まで教えたすべてのことが条件となって書かれているというのです。そこで返事ができなければ、入っていけないのです。中間の霊界で待たなければなりません。そこで先生が霊界に来るのを待たなければなりません。

 

 

 

24 私たちは、国がなければなりません。国はありますが、私たちが行く国は別の国です。神様の国です。その国の公認を受けた市民権を新たに受けなければ、天国に入っていくことができません。

 

公認を受けた市民権をもった人には、サタンが東西南北を通じて、過去、現在、未来を通じて、讒訴しようとしても讒訴することができません。

 

 

第一節 永生とは

 

 

天聖経   第七篇 地上生活と霊界 第三章 永生のための地上生活

第一節 永生とは

 

1 人は誰でも、自分なりの生の道を願って生活しています。「生活」といえば一日一日の暮らしを意味し、「生涯」といえば一生の生、一生を通して生きることを意味します。さらに宗教をもった人々は、「永生」という言葉を使っています。永生とは一生ではなく、永遠の生活を送ることです。生涯路程を永生にどう連結させるかということが重要ですが、それをしなければならないのが生涯の責任です。また、一生は一日一日の生活を連結させて決まるのです。

 

 

 

2 皆さんの一生は、毎日が連結されたものです。生涯の価値の内容が、どこで決まるのでしょうか。生涯をすべて生きて決まるのではありません。一日一日の暮らしが決めるようになっています。ですから、正しく生きなければなりません。正しく生きることは、生涯のすべての路程を代表する毎日を大切に送る生活です。きょう正しく生きたということは、自分の一生で誇りとして記憶される日です。「正しく生きる」ということは、生涯路程で間違いなく最も価値をもって生きる日のことです。価値をもって生きた日があるとすれば、生涯でその日は忘れられない日になるでしょう。

 

 

永生の概念はどこから生まれるのか

 

3 神様は、永遠の愛の主体であり、永遠の根です。ですから、そのような主体の対象の立場にいる人も、永遠とならざるを得ません。その愛は、自分の生命を投入しても忘れてしまう愛です。真の愛は、生命を投入しながらも、自分が死んでいくのを知りながらも、喜びながらまた投入しようとする道です。

 

それでは、真の主人、真の夫、真の師、真の父母とは何でしょうか。自分の生命を投入しながら忘れてしまい、ために生き、またために生きようとする存在を、真の父母と言い、真の師と言い、真の主人と言います。この境地に入っていくようになれば、天地が共鳴圏に入ってきます。釈迦が「天上天下唯我独尊」と言ったのは、その境地に入っていったことを意味するのです。

 

心と体が一つになって、天の膨大で無限の愛の圏内に入っていってみると、全宇宙がすべて明るくなるのです。共鳴圏が起きます。ところが、人間は堕落したというのです。永生すべき人間が堕落することによって、永生を失ってしまいました。もし真の愛と結束し、神様を中心として生命と血統が連結されていれば、自動的に永生するのです。救世主が必要ありません。メシヤが必要ありません。宗教が必要ありません。皆さんの心と体は、既に統一されていなければならないのです。

 

 

 

4 「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的で主体的な神様の対象が、正に「私」です。神様の愛の相対です。神様が御自身よりもっと貴く思うのは、真の愛の概念です。神様は絶対的であり、永遠の生命の中心です。神様の理想はより永遠なものであり、その理想の中心が正しく真の愛です。その愛の相対が「私」です。愛の属性はどのようなものでしょうか。それは、主体と対象が一つになることです。それは国家を一つにします。

 

ですから、どの位置にも同参することができ、どこに行こうと従っていくことができます。全財産を相続できます。神様の永生の位置、心情までもすべて相続するのです。神様の愛の心、神様の被造万物と共にあるその心、神様がすべてのものの心にとどまりたいと思う心まで、すべて相続するのです。ですから、どれほど貴いでしょうか。先生がその悲惨な過程を経て発見することにより、その基盤の上に立つようになったのです。どれほど喜ばしいことですか。他の何ものにも代えられない、崇高で、尊厳のある貴い位置です。驚くべき恩賜です。神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の位置に同参したのです。外の世界のどこに行っても、韓国のどこに行っても、この永生の概念はありません。「私」は永遠の生命として生まれたので、死んで霊界に行ってみなさいというのです。一瞬で飛躍するのです。

 

 

 

5 永遠の生命をもって生まれた「私」が霊界に行けば、飛躍するのです。時空に制限された地球上とは次元が違います。制限されたところでは自由に動くことができませんが、あの世界は次元の高い世界なので、何でもできるところです。時間を飛び越えるのです。愛を中心として、何であろうと願いさえすれば、いつ、どこでもすべて得ることができるのです。無尽蔵です。

 

神様がいらっしゃる場所は本然の故郷です。本然の父母様の故郷です。何であろうとすべてできるところです。今、霊界に行きさえすれば、私たちは自由です。また他の世界と完全に一つになるので、簡単に通過できます。

 

 

 

6 人間も、自分が精誠を込めて完成した作品を自分の子孫万代に残したいと思い、自分の近くに置いておきたいと切実に思うのですが、神様はどうでしょうか。愛らしい息子、娘として生まれた人間を、しばらくの問だけ愛して、それで終えるのでしょうか。永遠に愛したいと思われるのかというのです。ですから、人間が完成して神様の愛を永遠に受けるζとができるならば、神様は人間を永遠に近くに置いておきたいと思われるはずです。

 

絶対者がそのように喜ぶ立場に立たなければならないので、人間も永生しなければならないのです。永遠に残らなければなりません。人類の先祖であるアダムとエバがそのようになっていれば、アダムとエバの完成はもちろん、神様のすべての願いが成し遂げられるのです。アダムとエバが完成するということは、神様が創造された万物の中心となる人間に対して望んだ願いがすべて完結したことを意味します。

 

 

 

7 永生の概念を入れることができるものとは何でしょうか。愛です。信仰の道は肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備です。人は、四十歳を過ぎ、五十歳を過ぎて死ぬ日が近づいてくると、永生問題に対して深刻になります。年を取れば取るほど、ますます深刻になります。思考は年を取るほど希薄になりますが、永生の概念を入れると、年を取るほどますます深刻になるのです。ですから、宗教の理念だけが今後、世界を料理することができます。

 

環境が頻繁に変わり、悲喜劇にぶつかっても、永生の概念さえ徹底していれば問題になりません。問題は、永生という概念をどのように認識するかということです。神様は、アダムとエバを愛の対象として造られました。ですから、愛の対象となって生きなければなりません。それを言葉だけでなく、実感しなければなりません。また体恤しなければなりません。

 

 

 

8 何よりもまず神様を知らなければなりません。間違いなく神様がいらっしゃることを知らなければなりません。その次には、霊界がどのようなところなのかをはっきりと知らなければなりません。

 

霊界を知らなければ、神様も分かりません。アダムとエバが堕落する時に真の愛を失ってしまったので、永生がなくなったのです。ですから、神様、霊界、そして永生が問題です。人間は永遠に生きられるのです。神様が永遠に生きていらっしゃるので、その息子、娘も、当然そのように生きなければなりません。

 

 

 

9 一番重要なものは永生です。しかし、霊界があるか、ないかということを知らずにいます。間違いなく永生することを知るようになれば、他の人が「罪を犯しなさい」と言っても犯しません。「自分のために生きなさい」と言っても生きないのです。これを知らなければ、何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。神様の理想世界に行けないのです。真の愛と生命を投入しなければ、行くことができないのです。

 

 

 

10 永遠の世界で、永遠にために生きる主人がいるとすれば、永遠の主人になります。そのような方が誰でしょうか。神様です。その方は私たちの父であられるので、すべての宇宙が「私」と共にあるというのです。そこに永生があります。そうでないところには、永生がありません。それで、聖書には「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)と言いました。それは、死を超えなければならず、超えなければ生きることができないということです。

 

 

真の愛で永遠の生を決定

 

11 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、それは閥違いなく人間です。ですから、「万物之衆唯人最貴(マンムルチチュンユインチェキ)」という言葉が出てきました。

 

創造主の永遠の愛の対象になれるという論理的結論が出てくるようになるとき、その愛と一つになった愛の対象も永生するという論理が生じるようになります。永生は、自動的な産物です。永生は、ここから展開します。愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて貴重です。男性に永生があり、女性に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるのです。

 

 

 

12 人は、誰彼を問わず最高を願っています。人間が最高の立場に行くようになれば、神様は自分のものです。また、自分は神様のものです。そのようになれば、自分は神様の息子になり、神様自身にもなるので、宇宙も「私」のものになります。

 

神様が一番愛して、貴く考えるものがあるとすれば、それを一目、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちに、放り投げるように造るでしょうか、永遠に共にいるように造るでしょうか。永遠に共にいるように造るのです。人も同じです。人が生まれて、死んで終わりでよいでしょうか、永生しなければならないでしょうか。永生しなければなりません。それは、人間が、絶対者の神様が絶対的な愛を中心として喜ぶことができる対象だからです。一日や二日、あるいは十年、百年喜んで投げ出してしまうのなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。

 

 

 

13 人は永生しなければなりません。良い知らせでしょう?悪の世の中で八十年ぐらい生きるのですが、ありが死ぬのも人が死ぬのも違いはないと思うかもしれません。しかし、違います。人は霊物なので違うのです。

 

なぜ万物の霊長になるのでしょうか。老いない心のためです。万物はすべて変わります。色あせてしまいます。風化作用によって減退します。ところが、心だけは違います。変わらないことにおいて最高の権威をもっています。

 

 

 

14 真の愛によって永生が可能です。創造の出発の動機と過程、目的が、愛を中心として完成するからです。過程を通じて結果が出てくるのです。自分の心と体の完成は、真の愛によって根本的に可能になっています。無限の根本、原因、過程から理想の結実に至らせるものは、真の愛しかありません。

 

神様が永存するのは、お金によってでもなく、権力によってでもなく、知識によってでもありません。本来もっている真の愛によって永存します。神様の喜びは、独自的に生ずるのではありません。相対基盤が必要です。いくら偉大な神様であっても、一人では寂しいのです。縦的相対、横的相対、前後の相対が欲しいのです。ですから、神様に通じる愛がなければ、永生の道は連結されません。

 

 

 

15 永生できる本質に、最も近い位置とはどこでしょうか。愛です!自分一人では永生することはできません。愛だけが永生の本拠地になります。同時に、目的成就の本拠地になります。

 

愛で天地創造が成し遂げられたので、愛で始まり、愛で生き、愛で終わり、愛による栄光が広がらなければなりません。愛による栄光というものは不思議なものではありません。

 

 

 

16 真の愛の位置にいれば、神様の位置、天国のみ座に自由に行くことができます。神様の友達になることができます。神様は、愛のために人間を造りました。永遠であられる神様、絶対的である神様、永生する神様なので、愛に一致した人間自体も永生します。これは、自然な論理です。ですから、真の愛は永遠です。永生するには、その真の愛の圏内で生きなければなりません。

 

 

 

17 どのように永生するのでしょうか。イエス様をただ信じれば永生する、救われると言いますが、とんでもないことです。愛によってのみ救いを受けるのです。神様の創造原則の本質的原則から見るときに、真の人だけが神様の愛の同伴者なので、真の愛をもてば永遠に生きるようになっています。その愛の圏内に入っていれば、霊界や地上で生きるときに、自分がどこに行って生きるべきかを、すべて見ながら生きるのです。

 

 

 

18 「私」は永生する人です。それから、真の愛を実践する人です。真の愛を地上で実践する人だというのです。「私」がここでしているすべてのこと、工場で仕事をしたりすることすべてが、永生と連結される材料です。「永生を訓練し、永生を育てる訓練の材料を生産するのが、私のしていることだ」と考えなさいというのです。皆さんに永生と真の愛は、いつも必要なのです。永遠に必要なのです。

 

 

 

19 生命をもつすべての存在は、ペアで存在します。それは愛を立てるためです。愛の調和を形成するためです。神様に必要なものが永遠の生命です。その次に神様に必要なものが永遠の愛です。この永遠の愛を中心として見るとき、神様が永遠であれば、永遠の相対が必要です。

 

この宇宙の中で、永遠の相対がどこにいるでしょうか。このように考えるとき、人はペア・システムの観念を中心として永生するというのが自動的な結論です。永生が必要だというのです。皆さんは永生しなければなりません。なぜ永生しなければならないのでしょうか。ペア・システムの理想である愛を完成しなければならず、神様の愛を必要とし、神様のみ前に愛を完成する相対的関係にあるので、不可避的に永生しなければならないというのです。

 

 

 

20 太陽が昇れば、万物の芽は、すべてそこについていきます。草やすべての木、大きな木も、芽は、すべて太陽の光についていくのです。人は愛で生まれ、愛で成長し、愛で生きたのち、愛で死にます。そのままなくなるのではありません。主体である神様が永遠、不変、唯一なので、その対象の愛の位置に立つようになるときは永生するのです。永生という理論がここから発生するのです。生命から始まるのではありません。

 

 

 

21 息子、娘は、自分自身を身代わりする実りです。ですから、愛さなければなりません。自分自身を愛するので、神様の息子、娘である人間も、神様を身代わりするのです。永生は愛によって連結されます。それで、永生の環境を形成するには、愛の環境を中心として生活しなければなりません。愛の実体圏をもつには、愛を中心として実体的な体恤をしなければなりません。

 

 

第二節 霊界に行くための準備期間

 

 

天聖経   第七篇 地上生活と霊界 第三章 永生のための地上生活

第二節 霊界に行くための準備期間

 

 

 

1 私たちは、この世に生きていますが、この世だけではなく霊界があることを知っています。この世と霊界は、二つの世界ではなく、一つの世界として連結していることを知っています。

 

私たちが行くべき所、私たちが行って住まなければならないその場所とは、どこでしょうか。私たちは肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって歩んでいます。一般の人たちは、この世に生まれて、十代、二十代、三十代を過ぎ、青春時代を過ぎて壮年時代に入っていくようになり、一つの峠を越えて老年時代に入っていき、沈む太陽のように一生を終え、そこですべて終わると考えています。しかし、、霊界があるという事実を知っている人たちは、人生というものがつかの間で、死んだのちに迎えなければならない永遠の世界があることを知っているのです。ですから、一生は、永遠の世界に行く準備をするための期間です。

 

 

肉身をもった地上生活の重要性

 

2 皆さんはいつ、神様のみ前に行くようになるのでしょうか。父のみ前に至るまでの道は、一人で行くべき最後の運命の道です。そのような道を行ったとしても、もし神様が歓迎してくれなかったらどうしようかと考えてみたことがありますか。世の中に生まれる時、寂しい一人息子や、何もない人の息子、娘、そのような哀れな境遇の息子、娘として生まれたいですか。そのようなことは嫌でしょう。誰もが裕福な環境、すなわち裕福な家庭、裕福な国に生まれることを願うでしょう。自分が生まれる時から、その国が自分を歓迎して迎えてくれる、裕福な環境で生まれることを願うのです。

 

このようなことを考えてみるとき、私たちはどのような姿で、どのような国に生まれるのか、裕福な環境をもった姿で生まれるのか、あるいは天国と地上全体が歓迎できる姿で生まれるのか、この運命を決定するのがこの短い生涯路程なのです。

 

 

 

3 必ず、私たちは、次の世界と直面するようになります。その世界は、いずれにしても行くべき世界です。新たに誕生して、その世界に入っていかなければなりません。その時、孤独な一人息子の身の上で入っていくのか、あるいは恵まれた環境、すなわち自分が生まれるのを歓迎される環境に入っていくのかという問題が、皆さんが行く道に残っています。

 

 

 

4 地上の生活と永生の生活は、別々ではありません。地上の生活も重要であり、永生の生活も重要です。永遠の生活は、地上生活からつながっているという意味です。二つとも重要ですが、今日この地に生きる人たちは、永生の概念を知りません。この地の生活が重要だと思っています。

 

問題は、統一教会員も、現在の生活が永生を保障する基盤づくりとなっていることを知らないことです。ですから、「永生は今からだ」という天国観をもって天国基盤を設定した上で、永遠の生命のために自分が生きていることの重要性をいつでも感じなさいというのです。これを知らなければ、他のことをしてしまいます。今自分がするすべてのことが、永生世界の価値決定を左右しているというのです。

 

それは、互いに向き合って動きます。地上世界が上がれば永生世界(霊界)も上がり、地上世界が下がれば永生世界も下がります。一方が回れば、他方も同様に回ります。それで、現世においてそれを実感して、永生にプラスさせる生活をしなければなりません。永生と現世は分かれません。天国と地獄を明らかにしなければ、それが分かりません。したがって、永生と地上生活の重要性を感じながら働きなさいというのです。

 

 

 

5 皆さんは、肉身をもったこの期間がどれほど貴いかを知らなければなりません。宇宙も復活させることができ、すべての天下を統一させることができるのは、肉身をもっているこの期間しかありません。神様と万物を合わせても、この肉身世界と取り替えることができません。神様とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ完成されないので、肉身は宇宙とも取り替えることができません。

 

 

 

6 この肉身世界は、短い期間です。長くありません。それを知るようになれば、寝る時間が惜しいのです。御飯を食べる時間も惜しいのです。御飯も歩きながら食べ、寝るのも歩きながら寝て、遊ぶのも歩きながら遊ぶのです。そのようにするほど、世界の誰も受けられない福を受けるのです。神様の福をすべて相続できるということは、歴史的な内容です。その国でこのようにすれば、その国に名前が残されるのです。

 

 

 

7 地上人は体をもっていますが、すべてのことが限定された生活です。しかし、霊人たちには肉体がありませんが、無限の世界で活動します。また地上人は体をもっていますが、地上が永遠の場所になることはできません。霊人たちに肉体はありませんが、永遠の場所で定着しています。このように地上人と霊人との対比点を羅列すれば、無限にあります。

 

また、地上人と霊人とを比べてみると、地上人たちは肉身を中心とした生活であり、霊人たちは霊界を中心とした生活をするので、どちらも半分の世界のことしか成し遂げることができません。それでは、体と霊人の結実は、各々どのようにしたら完全な実を結べるのでしょうか。地上生活で肉体と霊魂が分離する前に、地上での生をよく締めくくってこそ完全な実を結ぶようになります。ところが、霊魂がよく成熟できずに霊界に来るようになれば、問題が生じるのです。

 

 

 

8 この地上でしている生活が、どれほど重要でしょうか。一回しかありません。瞬間ですが、一回しかありません。地上生活を永生と比較すれば、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。肉身生活を越えて、霊界のために準備しなければなりません。常にそのような主流思想をもって中心に立ち、一切をコントロールし、一切を征服することができなければなりません。そのようにしなければ、個性完成ができません。

 

 

 

9 水中生活で誤れば、地上生活をすべて台無しにします。実体世界、すなわちこの地で父母の前に生きる世界で誤れば、永遠の父母に侍る愛の世界が縮まり、台無しにするのです。ですから、地上世界がどれほど貴いかを知らなければなりません。ここで愛さなければなりません。父母に侍り、兄弟に侍り、国に侍り、愛しながら生きなければなりません。地上世界で和合して活動できる人とはどのような人かというと、互いにために生き、難しいことを自分がしようと、父母に代わって進み出る人です。そのような人が中心存在になるのです。あの世でも、高い天国に行く人は、そのような長子権、長女権の責任を果たした人です。

 

 

 

10 偶然に物事が起きるのではありません。準備するにも、たやすい準備はありません。一生について見るとき、少年時代は青年時代のための準備時代だということを知っている人は、将来性があります。壮年時代は、老年時代のために準備しており、老年時代は霊界に行く準備をするのです。一生は、大宇宙的な人格を備えるために、一つの訓練過程を経ている修練期間であり準備期間です。

 

 

 

11 永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続きます。ここに一日のうちの瞬間でも、時間の関係において飛躍があったりくぼみが生じたりすれば、永遠は中断されるのです。ですから、私たちが生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのですが、今年行けなければ来年に行き、来年行けなければ再来年に行く、このようにしてはいけません。一生をこのように生きていけば、その人は、み旨と一つになった一日の生活をしてみることが一生できずに死ぬでしょう。もしそのように生きれば、その人は天国に行けません。いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、一日の勝利基準をもてない人が、どうやって天国に行くことができ、一年の勝利基準をもてない人が、どうやって永遠の世界に入ることができますか。これが問題とならざるを得ません。

 

 

天国に入っていくための訓練期間

 

12 地上生活は、永遠の故郷に合わせるための訓練場です。これは永遠ではありません。学校生活のように通過する期間です。この期間に落第生になれば、大変なことになります。落第生にならず、家庭を通過し、国を通過し、世界を通過しなければなりません。世界を通過して天国に入っていくのです。地上天国を通過した人、地上天国のすべてのものに歓迎される人は、天上天国のすべてのものに歓迎されるようになります。

 

生涯をために生きる愛をもって投入し、投入して忘れる生活で終えた人は、高い神様のみ座の近くに行きます。神様がそのような方であり、そのような方の子女の立場になることなので、自動的に側近の位置にとどまるようになります。霊界は、神様が永遠に存在する本郷の世界です。そこから始まったので、そこに帰るのです。

 

 

 

13 神様が創造を終えて、あの天国で安息していらっしゃるというのは、平等な愛の公式を提示したからです。それで、神様は讒訴を受けることがありません。同じ公式が適用されます。誰が愛の教材でしょうか。父として、夫として、息子として、指導者として、皆さん自身が標本です。それで、「私」の父と母を中心として、その次には家族を中心として、国家を中心として、平等な愛の公式を教育するのです。天国に行って生きることができる訓練をするというのです。それを個人、家庭、社会、国家、世界的に連結しなければなりません。

 

 

 

14 天の国、霊界、本郷の地に帰っていく時に合格するための訓練をしなければなりません。合格するためには、個人から家庭、氏族、その一族の七代の子孫を中心として完全な一つのモデルにならなければなりません。そこでは争いがあってはいけません。自分の所有を持とうとして闘争してはいけません。

 

 

 

15 一つの家庭が幸福なように、国が幸福でなければなりません。そのためには、闘争の概念ではなく和合です。和合が天国の、霊界の最高の基準に合うようにしなければなりません。霊界は時空を超越しているので、あっという間に、思いのままに地の果てから地の果てへと回ってくることができます。どれほど速いか分かりません。電波や光は、一秒間で三十万キロメートル進みます。そのような世界に拍子を合わせるために地上でこのようにしなければ、天の国に行って脱落します。今後、霊界を知らない人は、天の国の国民になれません。

 

 

 

16 天国に行きたければ、天国に行くことができる内容をもたなければなりません。天国に入っていくとき、チケットが必要なのでもなく、そのまま無事に通過するのでもありません。すぐに分かるのです。霊界のコンピューターがあります。人間が造ったものもすごいものですが、霊界のコンピューターは、一瞬で一生のすべてが分かります。うそをつくことができません。このような息子、娘として生まれ、このような生活をしたということがすべて出てきます。

 

 

 

17 皆さんの良心が自分の生涯をすべて知っているように、すべての内容が霊界のコンピューターに入力されます。霊界に行って名前を入力すれば、その人の生涯が一瞬にしてすべて出てきます。霊界は、時間と空間を超越しているので、その場で、あっという間にすべての生涯の記録が分かります。ですから、良心は、永遠の世界のコンピューターのボタンです。知っていることがそのまま入力されます。良心の呵責を受けることがあれば、それがそのまま入力されるのです。良心の呵責を受けない人生であれば、きれいな生涯として記録されます。霊界に行って弁解できません。自分が生きてきた一生の姿が、そのままはっきりと見られます。そのような世界があることを知って、その世界に通じることができ、その世界を迎えることができる準備をする訓練所が地上世界です。

 

 

 

18 天国に行くには、「私は、アダムが失敗した旧約時代までの代表であり、新約時代の中心であるイエス様の時代の代表であり、完成時代を代表する成約時代の代表である」と言えなければなりません。

 

そのような三時代の父母圏が完成されたのちには、サタンはとどまることができません。そこには、それ以上、いかなる障害物もありません。三時代を完成した世界には、どのような問題もあり得ないのです。サタンは消え、地獄の門が開放されるようになります。天国に行く高速道路が敷かれるのです。一つの家庭が出発すれば、自動的に永遠の天国と連結されます。自由天地だというのです。

 

 

 

19 心と体が一つにならなければ、天国に入っていけません。原理を知ったので、何をしても、心が願うとおりに体を強制的に動かして屈服させなければなりません。「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」、これがどれほど難しいか分かりません。この体の主管が難しいのです。サタン世界がそうです。先生はそのように闘いました。そこでは、自分のすべてのもの、国と自分の一族を奪っていき、自分の父と母、夫と妻までもすべて捨てなければならず、自分の体まで監獄暮らしをしました。地獄に落ちなければならないというのです。神様が「開拓をしなさい」と言えば、地獄まで行って開拓して上ってきてこそ、神様が必要とする人になります。

 

 

 

20 皆さんが熱心に伝道をして苦労しているのですが、なぜ悪口を言われて迫害されるのでしょうか。それは、心情を失ったので、心情を取り戻すためです。愛を取り戻すためです。そのような人たちを愛することができる人になるためです。皆さんがこのような訓練過程を経なければ、いくら天の人になろうとしてもなれません。

 

言い換えれば、サタン世界の愛以上の愛を、自分が見つけなければなりません。そうでなければ、天国に行けません。愛の人になって天国に行こうとしているのです。愛の人になって天国に行こうとする人が、天国に行くのです。その時、神様が審判主になり、イエス様が審判主になり、先生が審判主になるでしょう。ですから、実践しなければなりません。これが私たちの当面の課題です。神様の法として指示された課題であり命令だというのです。

 

 

 

21 皆さんは、み言に対する審判を受けます。み言を誤って聞けば審判するのです。その次には、皆さんが実体を完成しなければなりません。実体を完成しなければならないのですが、実体を完成する行動ができない時は、実体審判があります。審判には、み言審判があり、実体審判があり、心情審判があります。三大審判過程を経なければなりません。まず原理のみ言が皆さんを審判するのです。

 

 

すべての罪は地上で清算しなければならない

 

22 統一教会で言えば、救援摂理は復帰摂理のことですが、その復帰の道を避けていくことができるでしょうか。避けていくことはできません。ですから、堕落の運命が入った包みを背負っているのが人間です。それがどれほど大きいでしょうか。その包みは、世界的であり宇宙的です。

 

ですから、皆さんは生活するとき、常に「私は、いずれにしろ一度は死ぬ」と考えなければなりません。生まれる時、皆さんは「私は生まれる」と考えなくても生まれました。死ぬときも、皆さんが考えようと考えまいと、「死なない」と言おうと言うまいと、「死ぬ」と言っても死ねず、また「死なない」と言っても死ぬようになるのです。それは思いどおりにできません。

 

しかし、いずれにせよ定まった一時を中心として、必ずその時が来るのです。これは変更することができません。蕩減すべきことは死ぬ前にしなければなりません。これが問題です。地上で堕落したので、地上で清算しなければなりません。地上でこのことを蕩減していかなければならないのです。霊界に行っては不可能です。

 

 

 

23 人間の完全な救援を目標にする神様であれば、短刀で人間の腐った部分を切り取ってしまわなければなりません。そうしてこそ、立派な神様です。皆さんは、どのような神様だと思いますか。「体よ、罪深い世の中でここまで残るためにどんなに苦労したか。功労が多かった」と言いながら、背中をたたいてくれる神様だと思いますか、それとも無慈悲にこの体を処置する神様だと思いますか。どのような神様だと思いますか。この体を一気に片づけたいと思うのが神様の心情です。

 

体は、堕落世界と連絡できるアンテナです。この体は、人間世界で罪の源になっています。皆さんはこのような言葉を聞けば、とても気分が悪いでしょう。しかし、気分が悪い人は悔い改めなければなりません。贖罪の役事(働き)が地上で起こるようになれば、統一は自動的に成し遂げられます。ですから、統一がそのように難しいことばかりではありません。体を打って悔い改めればよいのです。

 

 

 

24 霊界に行けば一〇〇パーセント表れるのです。悪いものが先に表れます。悪いものを先に清算してこそ、霊界に入っていくのです。そうでなければ霊界に入っていくことができません。目をつぶったとしても、悪いものが表れて処断を願うようになります。ですから、それがなくなる時まで教育を受けなければならないというのです。修練を受けなければならず、猛訓練を受けなければなりません。

 

 

 

25 自分の体が完全に勝利したということは、サタンまでも完全にその根を抜いて征服したということです。天国には、サタンを征服してこそ行くことができます。

 

サタンに勝つことは、肉身を脱いではできません。肉身が地で事故を起こしたので、直すのも肉身をもって、地上で直さなければなりません。地上ですべきことをすべてできなければ、永遠に地獄に行きます。

 

ですから、地上で勝利して天の側の善の立場に立つようになれば、永遠に天国に行くのです。

 

 

 

26 人類の先祖が真の父母になれなかったことによって、ゆがんだ罪悪の結果、真の民族と真の国家と真の世界を形成することができず、それにより神様と人類の前にゆがんだ罪状が残っています。このような罪状に対して、誰が責任を負うのかという問題が残っているのです。霊界に行った人々は、地上で犯した罪を霊界では解決できません。地上で、その誰かがこの責任を担ってくれなければ、霊界に行った人々が解放されません。地上に生きている万民が天国に行くためには、その犯した罪を清算しなければならないのです。

 

それでは、地上人が歴史を代表してゆがめた罪を、誰が清算しなければならないのでしょうか。その誰かが、ある宗教が、ある団体がすべきこのような使命を、今日この地上の宗教と民は知らず、唯一それを知っているところは統一教会しかないので、知っている者が責任を負わなければならないというのです。

 

 

 

27 罪悪歴史は、皆さん自身から清算しなければなりません。皆さんが歴史にマイナスとなる立場に立てば地獄であり、プラスできる立場に立てば天国です。また、時代と皆さんを比較するとき、時代が皆さんにプラスするのであれば地獄であり、皆さんが時代にプラスできれば天国です。そのようになります。

 

 

 

今日まで天地の運勢に従ってきた人間は、天地の運勢を調整できる日を回復しなければなりません。神様は、その一日を見つめて六千年の長い歳月を役事してこられたのです。天地の運勢に従ってきた歴史の悲しみを退けて、この運勢を主管できる一つの勇者を探してこられたのが、神様の六千年の復帰摂理路程です。

 

 

 

28 「私」ゆえに地獄も生じたのであり、「私」ゆえに天国もあるのです。その二つが分かれました。本来は、堕落していなければ、これらがあってはいけません。それで、心は右側になり、体は左側になったのです。体に従っていく人々は地獄に行き、心に従っていく人々は天国に行くのです。二つの道があります。五官は、すべて二つの性質をもっています。

 

それでは、どのようにしなければなりませんか。一方を完全に切ってしまわなければなりません。皆さんの体にはサタンの血が入っていて、サタンの生命が入っていて、サタンの愛が入っています。それを、どのように取り除くのでしょうか。歴史を通じて蒔かれたこれらのものを、すべて取り除かなければなりません。そして、神様の愛、神様の生命、神様の血統を再び植えつけなければなりません。そこから希望に満ちた永生があり、永遠の幸福があります。他の方法はありません。これは先生の言葉ではなく、原理がそのようになっているのです。それで、真の父母が必要なのです。真の父母が根です。そこから、真の幹、枝、芽が出て、森になるのです。他の方法はありません。これは簡単なことではないのです。

 

 

 

29 天国は心から始まります。心のどこからでしょうか。世の中に勝った心から始まります。どんなに環境的に天国が成し遂げられたとしても、「私」の心が悪く、その天国を慕うことができず、そこに応じることができない立場にいれば、天国が来ても、その天国は何の価値もないのです。ですから、天国を迎えられる基盤になるのは、環境ではなく、「私」自身です。「私」自身の問題です。

 

 

 

30 天国を維持できる支持点とはどこでしょうか。環境よりも「私」の心です。心の天国を慕うことができなかった人は、天国の環境ができても、その天国を動かすことができません。決心ができなければ、完全な行動ができません。完全な決心から完全な行動が起こります。

 

ですから、「私」の心が善をどれほど憧憬し、その歴史的善と共に一つになろう、いくら血の涙が出る環境があったとしても善と同行するためにそれを克服しよう、いくら寂しい歴史的終末の環境の中で闘争の路程があったとしても、それを避けるのではなく、撃破していこうとしなければなりません。

 

心が変わらない一路を開拓して、その心に一体となる体の生活環境を形成しようと決意して誓うところから天国が始まるのであって、心と体が別々に行動するところに天国があるのではありません。心と体が一体になったところから天国の方向に前進するのであって、心と体の行動が分かれるところに天国はできません。

 

 

 

31 習慣性を打破することは、とても大変です。それは、今まで皆さんがサタン世界で自分を中心とした習慣性をもって生きてきましたが、その習慣性が凝り固まっているということです。そのように凝り固まってしまった習慣性は、韓国人がキムチ、味噌、トウガラシ味噌を食べる習慣性よりももっとひどいのです。これは歴史性をもっています。悪魔が出発したその日から根を張った習慣性をもっているのですが、これをどのようにして抜いてしまうのでしょうか。穴を掘って、根まで埋めようと思っても、埋めることができないほどです。深刻な問題です。天国に行くには、神様を中心とする習慣性をもたなければなりません。

 

 

 

32 皆さんの中に水がいっぱいになっているとすれば、それは清い水ですか、泥水ですか。そこに砂がたまリ、石ころがたまっています。激しい雨が過ぎ去ったのちに見てみれば、どれほど汚れていますか。河川にありとあらゆる汚いものがすべて浮かんで流れていきます。それよりもっと汚れているでしょう。皆さん自身は違うか考えてみてください。

 

これをかき回して、すべて取り除く必要があります。ですから、濾過装置を経ていかなければなりません。大変でも左右をよく見ながら、濾過されていかなければなりません。自分があってよいでしょうか。自分があれば、すべて引っ掛かってしまいます。水の中に汚れた砂の塊があれば、流れることもできず、そこにすべて引っ掛かるようになっています。

 

 

真の父母に絶対順従しなければならない

 

33 真の父母は一組しかいません。霊界と地上に一組しかいません。絶対、唯一、不変、永遠なものは二つではなく、一つしかありません。全宇宙の唯一の中心です。そこから、すべてのものが連結されます。ですから、それが中心です。皆さんがその中心に対して、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の概念をもたなければなりません。その中心が真の父母です。神様を中心として完成したアダム家庭が人類の最初の先祖家庭になるべきですが、そのアダム家庭を中心として霊界と肉界が一つになって出発するのが真の父母です。

 

 

 

34 真の父母に、なぜ侍らなければならないのでしょうか。霊界と神様を代表しているからです。その次に、第一父母、第二父母、第三父母が心情的紐帯を結び、愛の中で束ねておいたので、これを代表できる、心情的勝利圏に同参できる資格を得るためです。堕落することによって、これがすべて分かれました。「私」が愛すべき万物の父母の前に孝子になることができず、「私」を生んでくれた父母の前に孝子になることができず、この霊界と神様のみ前に孝子になることができませんでしたが、真の父母に侍ることによって、孝子の資格を代わりに受けることができます。ですから、皆さんは粘り強く従っていかなければなりません。

 

35 神様のすべての相続圏を受けられる特権を得る道は、愛の道だけです。真の愛をもった人が「私」の体をかすめて通り過ぎれば、喜ぶのであって、反抗しないのです。すべて歓迎します。天の国がそのようになっているので、地上でそのような訓練を受けなければなりません。先生がこのようなことを教えてあげるのは、天の世界に行くことができる人、天の世界で呼吸することができ、拍子を合わせることができる人をつくるためです。そうしてこそ、踊りの場で踊りを踊ることができるのです。そうしなければ、拍子が合わないというのです。先生も今後、霊界に行くべきではないですか。先生のあとにはサタンがついてくることができません。

 

 

 

36 霊界の言葉を聞けば、精神が目覚めなければなりません。神様に侍らなければならず、神様に侍るために道を築いておいた、真の父母様のあとに従っていかなければなりません。先生が築いてきた道は途方もないものです。死に物狂いの生きた供え物の立場で、これをすべて巻き取ったのです。一つ一つ巻いて越えていくことがどれほど大変だったか知らないでしょう。ですから、神様や霊界全体が先生に対して絶対従順しなさいというのです。地上で誰もが出会える関係ではありません。特別な恩恵によって出会ったのです。これは世界を生かすためです。

 

 

 

 

 

37 先生は、一生を苦労しながら、変わることがありませんでした。五十年前に語ったみ言も、今語っているみ言も、すべて一致しています。霊界についての話は、今語ったのではありません。五十年前から語っていることなのですが、そのままその公式に従ってきました。天の国に永遠に残らざるを得ないというのです。

 

そのみ言を中心として、皆さんが峠を越えなければなりません。それで、絶対信仰、絶対愛、絶対服従しなさいというのです。サタン世界のどこに絶対信仰がありますか。絶対信仰、絶対愛、絶対服従が、神様と先生が約束した内容です。先生にしっかりつかまりなさいというのです。国も何もすべて捨てて、先生だけにしっかりつかまりなさいというのです。絶対信仰をしなさいというのです。

 

 

 

38 神様も真の父母が必要であり、皆さんも真の父母が必要です。それで、霊界と肉界の祝福の一族、真の愛の血統を中心とする統一された家庭から世界版図をすべてつくり、サタンが立っている位置まできれいになくなってこそ、正午定着時代に入っていくのです。二十四時間、一生の間影があってはいけません。創造理想のために「私」はこのように生きて、このように死ぬというとき、いくら客死したとしても、倒れたその位置には神様の塔が立てられるのです。

 

 

霊界を知ってそこに合わせて生きなければならない

 

39 神様を知らなければならず、その次には霊界を知らなければなりません。そして、神様の血統によって、今までのサタンの血統のすべてのものを否定しなければなりません。完全にひっくり返しておかなければなりません。異なる世界だというのです。夜と昼が相反しているのと同じように、サタン世界の血統が夜であれば、神様の血統は昼だということをはっきりと確定して、理解した人生を生きなさいというのです。

 

神様を知らなくても駄目であり、霊界を知らなくても駄目です。神様の息子、娘として、血統が一つになった一つの木であり、一体であることを理解して生きなさいというのです。これは重要です。ですから、霊界の事実をはっきりと知らなければなりません。その中で、「私」は霊界のどこに行くと、はっきり決めておかなければなりません。上層霊界なら上層霊界、そこに対する専門的知識をもたなければなりません。そこに拍子を合わせることができるように、生活を合わせて生きなさいというのです。

 

 

 

40 今後私たちは、みな霊界に行くようになります。地上で生きるのはつかの間ですが、霊界は永遠の世界であり、不変の世界です。それで、その不変の世界に行けば、変わる姿をもっては誇ることができません。今日、統一教会がどうして父母の心情を中心として人間の内情を考えるようになったのでしょうか。兄弟愛や同胞愛のようなものは、外的な環境が変わることによって変わり得るからです。父母の心情だけは変わりません。変わらない父母の心情こそ、天の国、すなわち永遠の世界に行って拍子を合わせられる相対的心情として残されます。

 

また、そのような心情を通して愛した自然環境があれば、その自然環境もやはり変わらない心情の相対として残されます。皆さんの一生において忘れられないものは、名勝地自体ではなく、心情的に関係が結ばれた、忘れようとしても忘れられない一つの事情がこもっているところでしょう。私たちはそこを、一生を通じて慕うようになり、一生を通じて回想するようになります。変わらない真の愛の心情がそこと関係を結んでいるからです。

 

 

 

41 皆さんは霊界を知らなければなりません。霊界を知ってこそ、険しい世の中を巧みに立ち回って生き残ることができます。興進君は、全統一家、また地上天国と天上天国の長兄のような立場にいます。興進君が今まで霊界において中間の立場で霊界と肉界に与えたすべての結果は、興進君と真の父母様によって成し遂げられたものなので、皆さんが真の父母様と興進君の言葉を生活の絶対標準として生きてこそ、天上・地上世界の解放の主人となり、天一国の主人になることができます。これを不信すれば、天の国の事実がはっきりと現れたにもかかわらず、それを信じることができなかったという事実を免れる道がありません。

 

興進君が犠牲になって霊界に行き、解放された地上天国の天一国を完成するために責任をもって総動員しているので、皆さんが興進君を兄として侍り、父母の代わりとして、王の代わりとして、神様の代わりとして従っていかなければなりません。これを知ることによって霊界の組職を知るようになります。信じることができなければ問題が大きいのです。

 

 

 

42 霊界が故郷です。故郷に帰って永遠に生きられる基準を、地上で合わせていかなければなりません。地上生活で、今までの世の中の何も知らない人々のように自分勝手に生活することはできません。霊界を知って、そこに合わせて生きることによって、この世の中を離れるときに、神様のみ前に行って天国と関係を結ぶことができるのであって、そうでなければ不可能です。ですから、霊界に対する事実をはっきりと知らなければなりません。

 

 

 

43 自分の生涯で何をするのでしょうか。愛の墓を残していこうというのです。これが結論です。愛の墓の中で生きれば恨がありません。墓のような、いくらうんざりするような所で生きても、愛の中で生きれば恨がないのです。「愛の墓を残していこう!」と考えれば、人生は永遠に成功するのです。そのように生きて死ぬことができれば、神様が祝福してくれるはずであり、霊界では神様が息子、娘を連れて歓迎するために出てくるでしょう。その時には、指輪をはめることができなかった手だとすれば、天国のダイヤモンドをはめてくださるはずであり、服を着られなかったとすれば、天国の皇族たちが着る最高の服を着せてくださるでしょう。

 

 

 

44 水晶のように霊人体と肉体で清く生きてこそ、のちに霊界に行って問題がありません。そこに何かの傷があれば、天国に入っていくことができません。地上での生活が重要です。生きたとおりに霊界に行くのです。ここには誰も例外がありません。自分自身が透明のように、すべて表に現れて見えるのです。ですから、地上生活を本当に正しく生きなければなりません。精誠を尽くして、一日に何十回も原理基準を中心として反省しながら、朝、昼、夜、二十四時間、天上の法に引っ掛からないように生きなければなりません。

 

 

 

45 霊界は、神様のために生き、全被造世界のために生きる人々が行くところです。そこが正に天国です。その世界の異端者は、自分だけを考える人です。自分を考える人には未来がありません。世の中でも同じです。

 

きょうの自分を考える人があすの幸福な道を歩むことができますか。成功しようとすれば、きょうこの時間の苦痛を克服し、あすのために準備しなければなりません。あすのためにきょう実践して、すべての訓練をする人だけがあすをもつのであって、きょう満足して、きょうが良ければよいという人はそれで終わるのです。

 

あすの立場から全体を見るとき、あすが歓迎できる人は、きょうここで喜ぼうとする人ではありません。きょうここで犠牲になる人です。

 

 

 

46 霊界は、真の愛を中心として人のために生きるところです。自分のために生きるのではなく、全体のために生きるところです。自分の利益ばかりに酔いしれるようになるときは、すべて怨讐になるのです。霊界に行っても同じです。より大きなもののために生きようとするときは、自動的に通過します。より大きなもののために生きれば、自動的に通じるのです。

 

ですから、世界のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもかまいません。世界の中にアメリカが含まれます。韓国も同じです。すべての国が含まれるのです。それでは、歩んでいくときに、家庭もそのまま通り過ぎ、皆が歓迎できる方向の内容とは何でしょうか。それは、ために生きる愛の道しかありません。この二つは、地上のサタン世界でも阻むことができません。この二つは、サタン世界も絶対従順しなければならないのです。

 

 

 

47 なぜ結婚しなければならないのでしょうか。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を体験するためです。なぜそれが必要なのでしょうか。そのような愛の動機が満ちあふれているのが霊界です。霊界に拍子を合わせるために、そのような訓練をするために、結婚して家庭をもたなければならないのです。

 

「私」がもっているものは「私」のものではありません。神様のものです。息子、娘も神様の息子、娘であり、宇宙の息子、娘であると思って育てなければなりません。夫婦というのは、自分たち二人だけではありません。天と地を代表した夫婦です。「私」が行くところには息子、娘も行き、万物も行き、神様もどこへでも従っていくというのです。「私は人間として、この宇宙の前に恥ずかしくない勝利者になりました!」と言うとき、神様が「おお、そうか!お前が勝利したので、私の愛を贈り物として与えよう」とおっしゃるのです。

 

 

 

48 どのようにして天国に行くのですか。神様の愛に狂って生きなければなりません。アダムとエバ以上に神様を愛さなければならず、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ以上にイエス様を愛さなければなりません。そうでなければ、神様が「私」を愛する真の愛の相対圏を復帰できません。これさえ復帰すれば、万事思いどおりになります。

 

お金がないと心配せず、息子、娘がいないと憂慮せずに、十年、二十年その道を続けていきなさいというのです。行ってみれば、大きな山や険しい峰にも登れるようになります。自分には、だんだん下っていき、苦労ばかりするように感じられるのですが、だんだん高くなります。統一教会は、打たれながら大きくなるのです。一つの家の中で、十人が暮らしているとすれば、公的目的のために九人の反対を受けながらも耐え忍ぶ人が、その家庭の主人になります。すぐ天国の主人になるのです。

 

 

 

49 今日、世の中に出てみれば、祖父、祖母、父と母、兄弟たちのような人が四方にあまねくいますが、その世界の人たちを、自分の家で愛したように愛して生きなければなりません。彼らは他人ではありません。おなかがすいていれば食べさせてあげ、困難なことがあれば助けてあげる、そのようにできる人にならなければなりません。この地上に生まれ、あの世界の愛の拍子に合うように準備の生活をするのが肉身生活です。

 

 

 

50 天国とは、人間が堕落せずに、この地上で神様の愛の懐で聖婚し、神様の喜ぶ息子、娘、神様の喜ぶ孫と孫娘を得て神様の愛を受け、その家庭がみな一緒に入っていくところです。子女は入っていけず、自分だけが入っていく天国ではありません。しかし、楽園というのは、いくら仲の良い夫婦や親子でも、別れて入っていくところです。家庭とは何の関係もありません。そのようなところが天国でしょうか。両親と共に家族全員が入っていって、神様を中心として与え合うことのできる、その世界が天国です。息子、娘は地獄で死にそうだとあがいているのに、親が天国でいい暮らしをすることができるでしょうか。そのようなところが天国ですか。統一教会が提示するのは、そのようなものではありません。地獄を解放する道を提示するのです。

 

 

 

51 神様の摂理、地上の歴史とともに生きて動くのは、永遠の道を築くためだと考えれば、信仰を確立させやすいのです。そうでなければ、着陸させることができ、信仰化させることができる地上の基盤が曖味になります。この時代的限界性をはっきりと教えてあげることによって、地上に着陸できる信仰基盤が確定されます。神様がこのように働かれるのに対して「私」が地上で協助するので、神様のみ旨が成就され、霊界が、私たちの実際の生活と関係をもつようになり、神様と共に永生できるという信仰観をもつことができます。ですから、地上生活は永生する準備の生活です。直結するのです。それが連結しなければ信仰生活をすることはできません。

 

 

 

52 天国に入っていける人とは、どのような人ですか。まず神様の心に合う人でなければなりません。神様が永遠の目的を中心として永遠の理想を描いていく方なら、永遠を中心として心が合わなければなりません。十年ぐらい合わせて途中で合わなくなるのではいけません。永遠であられる神様に、永遠に心を合わせなければなりません。

 

そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか。永遠に喜べる息子、娘にならなければなりません。そのような息子、娘になろうとすれば、悲しみの対象として現れてはいけないのです。その次には、神様の体に合わなければなりません。ここで体というのは、方向性を意味します。心は四方の中心点に代わるものですが、体は方向性で現れるのです。

 

 

 

53 私たちは、天国を望む前に、神様の心情を願うべきであり、また神様の心情を願う前に、「私」自身がどのように生きていくべきかを考えなければなりません。「私」自身が、まず侍る心情をもたなければなりません。高く貴いものについては、頭を下げて慕わしく思うのが、人間の本性です。堕落したとしても、高く貴い天の心情に対して侍りたいと思うのが、私たち、造られた人間の本然の心情です。心情に通じることができる、侍る生活をしてみることができなかった人は、天国と何の関係もないのです。

 

侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経てから、侍る生活をする必要があります。侍るための準備の過程を経て、侍義の生活を経て初めて行くところが天国です。侍ることのできる準備と、侍る生活を称賛し、高く掲げる世界が天国です。私たちは、このような目的の世界に向かうべき運命に置かれています。

 

 

第三節 霊性の啓発と霊界の体恤

 

 

天聖経   第七篇 地上生活と霊界 第三章 永生のための地上生活

第三節 霊性の啓発と霊界の体恤

 

1 先生が出てきて、霊界の根を詳細にはっきりさせることができたという事実が、人類にとってどれほど大きな福であり、祝福であるか分かりません。今、それを信じることができていません。霊界を信じない人々が多いので、信じる人々が福を受けるのです。そうすれば、幹となり、幹の最初の枝になることができるのです。中心の幹と最初の枝になっていれば、その木が千年たとうと、その幹と枝によって発展するのです。

 

 

祈りと精誠で霊界体験

 

2 心の門、すなわち心門があります。皆さんが祈ってみれば分かるのです。時間によって感じが違います。真夜中の一時に祈るのと、三時に祈るのは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。

 

神秘的な深い境地に入って祈ってみれば、祈る時間によって感じが違うというのです。朝に感じるものと、昼に感じるものと、夕方に感じるものと、夜に感じるものが、すべて違います。私たちの心の状態によっても、感じる基準が違うのです。私たちが肉体的な感情をもって常に季節の変化によって感じる感度が変わるのと同じように、心の世界もそうだというのです。

 

ですから、どの時間によく祈れるかを知らなければなりません。祈りのよくできる時間は、神様と通じる距離が近いからです。そのよくできる時間、心の門と出会います。神様の心の門と人間の心の門がぴったり合い、ある基準にまで合わせていけば、神様が感じることを体恤する道が生まれます。皆さんがこのような境地に入っていくためには、心を磨かなければなりません。

 

 

 

3 霊的に通じる人の多くは、霊的には強いのですが、真理の面では強くありません。初めは太いのに最後が細くなれば、これは始終如一(しじゅうにょいち) (始めから終わりまで同じ調子であること)ではないので、永遠に続かないのです。いつか必ず転がり落ちます。また、真理は強くても、霊的な面が弱ければ、永遠に続きません。ですから、私たちは、これを調整する生活をしなければならないのです。

 

祈りと真理、神霊と真理で礼拝せよという言葉があります。それは、平衡をつくって和合する場に入りなさいということです。人間は、霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的世界の中央に立たなければならず、真理の世界の中央に立って、調整できる人間にならなければなりません。そのような人間にならなければ、完全な立場になることはできません。

 

 

 

4 精誠を捧げれば神様の恩恵が訪れます。祈りの生活をしてみた人は分かるはずです。祈りの生活をするようになれば、大きくて偉大な力が訪れるのです。ですから、祈る人の目は、その力によって肉界だけでなく霊界までも透視します。神様は、超自然的な実体の理念圏を人間に関係づけてくださるために、宗教的な基盤を中心として摂理してこられました。人間の本質的な感情を刺激させて、そのような圏内に行けるようにする欲求を起こすのです。そうして人間を超現実的な善に連結させようとされるのです。

 

 

 

5 使徒パウロが霊界の三層の天の世界を見て体験したことは、彼が十四年間、たゆまず宣教活動をすることができる原動力となりました。そのような体験がなければなりません。先生も、それと同じです。先生にも願う基準があります。皆さんには話しませんでしたが、「このようにする」というまっすぐな根があります。先生はこのような信念をもって最後まで推し進めるでしょう。この信念が曲がらず、崩れない限り、いかなる試練と波風がぶつかってきても推し進めるでしょう。

 

 

 

6 私たちは、神様の心情を語ります。神様の心情がどこにあるかというとき、祈りの中で声を聞いてみれば、「先生の言うことをよく聞きなさい。先生を悲しませてはいけない。先生を喜ばせてさしあげなさい」と言うのです。それしかありません。そのように教えてくれます。そして、先生に会いたくて眠らずにいると、霊界が開かれるというのです。霊界が開かれます。先生がアメリカで何をしているのか、座ったまま見るのです。そのようなことが起こります。これは漠然としていた信仰の主体的対象を、現実的な実体的主体として横的舞台で体恤できる領域を形成したということです。このような事実は、宗教世界に偉大な革命を提示するのです。ですから、体恤がなければならないというのです。

 

 

 

7 皆さんは、今まで統一教会に入ってきて働いたといいますが、どの位置で働いたのかを考えなければなりません。自分が生活する立場で、個人的な生活と和合して働いたのか、天を中心として世の中と和合しようとしたのか、方向がどこで、位置がどの位置なのかを常に考えなければなりません。ですから、祈りながら、神様が「私」と共にいらっしゃるということを知らなければなりません。

 

それは、目を閉じさえすればすぐに分かります。祈らなくても分かるのです。どこかに行って話そうとすれば、言葉がすらすらと出てきます。良心のある人のところに行けば、「私」が引き込まれていきます。すべてが相対的です。自分の主体や対象になれば引きつけるのです。初めて出会ったからといって、相対にならないのではありません。その本質は永遠不滅です。それと同じように、そのようなところに行けば、心がうれしくて話したいのです。その境地に入っていけば、話そうとしなくても口が開くのです。

 

 

 

8 きょう、道を歩いていて、どんな人に会うかを考えなければなりません。最初に会う人はどんな人か、二番目に会う人はどんな人か、三番目に会う人はどんな人かを考えて、「お父様、どんな人ですか、私はこのような人に会うことを願いますが、どんな人でしょうか」と祈らなければなりません。自分が考えて、祈ったその基準と合えば気分が良いのです。このような体験をすることによって、皆さんの霊的触覚が発達します。道に出ると「きょうはこのような人に会うだろう」と感じるのです。

 

人の霊は、無限に通じます。「きょうはこのような人に会うだろう」と思い、実際そのような人に会えば、「ああっ!」と言って驚くようになります。このように、自分の思いと霊界から教えてくれた霊感が、実際の事実と一致するときが多いのです。このような体験を積んで上がっていかなければなりません。

 

 

 

9 魚の世界では、水が空気と同じであり、人間の世界では、空気が私たちの生命をつないでくれる母体となるのと同じように、霊界の生命要素は愛です。愛が空気と同じなのです。今まで呼吸していたこの五官を通じて、細胞自体が愛を呼吸しながら天と共に躍動し、神様と共に呼吸できる相応関係を体恤するのです。体恤的信仰、体験的信仰にならなければなりません。体恤する愛を中心として夫が妻に対するときは、毎日体恤しながら愛し、尊敬して暮らすのと同じように、愛を中心として、体恤的心情を通じて天情と人情が合徳(和合)しなければなりません。

 

 

 

10 心が反射作用をすることによって、体も共に反射作用をしてこそ、消耗が起こりません。電波が入ってきても、その入ってきた電波を体が妨げれば反射しません。しかし、私たちが、この電波が入ってきたとおりに通じるようになれば、私たちの体は震動するのと同じ作用をするので、霊的な体験は自動的にやって来るのです。突然霊的体験をするようになれば、副作用が起こります。自然に体験しなければなりません。

 

春になれば、自然と木に花が咲きますが、木が花を咲かせようとすれば、花を咲かせるぐらいに成長しなければなりません。今ようやく芽が出たというのですが、そこで花を咲かせることができますか。花が咲くことを願うあまり、早く大きくならなければならないと考えて、木を引っ張ってよいのですか。抜けてしまえばそれで終わりです。花は自然に咲き始めなければなりません。ですから、信仰の道は、焦ってはいけないというのです。千年史を創造していく道なので、焦ってはいけません。

 

 

 

11 心門に合わせて、心田を啓発しなければなりません。この心の畑を啓発して、方向基準を開拓するためには、必ず主体であられる神様を発見しなければならないのです。この主体であられる神様は、ぼんやりと感じられるものです。神様につながるには、精神を集中させて自分の心から出発する道以外にはありません。心を清めておけば、必ず方向が分かるようになります。自然についていくのです。東に向かって祈ったとしても、神秘の境地に入れば、すぐに方向が変わります。そのようなことを体験してみるとき、心の門があるというのです。

 

 

 

12 体恤するためには、まず祈らなければなりません。精神を集中しなければなりません。できるだけ零点の位置に下りていかなければならないのです。この零点の位置に行くためには、神様のみ前に対象の位置に下りていくのが最も早いのです。ですから、参禅する人は、「いったい心とは何か」という問題で苦悶するのです。

 

心とは何かという問題は簡単です。心とは何ですか。神様が永遠の理想的な善の主体でいらっしゃるならば、その主体的存在の前に相対的基台として、いつも変わりなく相対基準を形成できるものが心です。これを統一教会では、生心の起源と見ているのです。皆さんが神秘的な祈りの中に入っていってこの相対基準さえ合えば、超然とした力が現れます。釈迦もその境地に入っていって「天上天下唯我独尊」という言葉を語ったのです。

 

 

暗示や夢の啓示を無視してはいけない

 

13 祈りは、良くできる時というものがあります。いくら斎戒沐浴をし、精誠を捧げても、できない時というものがあるのです。部屋によって違うこともあります。部屋の位置によっても違います。そうならざるを得ません。一つの中心の前に東西南北があるので、その位置によって違うのです。また、方向によっても違います。山に行っても、祈りがよくできる所があります。また、サタンが集まっている所があります。そこは陰地です。陰地と陽地は、霊的にそのようになっているのです。何回か体験すれば、そのようなことがみな分かります。

 

暗示や夢のお告げ、啓示、黙示などがあるのは、天と関係を結ぶために広がる、開拓的で発展的な不可避な現象なので、これを軽視せず、生活に適用できるよう努力しなければなりません。

 

 

 

14 これから皆さんが、家庭生活において重要視しなければならないこととは何でしょうか。先生が妻や子女たちの夢に現れて何かを教えてあげたなら、それを信じなければなりません。自分の娘が教えを受けたなら、その娘の言葉を神様のみ言のように尊重して、その教えを絶対視し、そのみ言と一つになって従っていくことができる家庭環境をつくらなければなりません。

 

夫がその教えを受けることができなければ、妻を中心として必ず教えてあげるようになっています。そのようになれば、自分の家庭に神様が近づいてくださることを知って、妻の言葉を神様のみ言と同じように考えなさいというのです。そのようにすることが、良いことなのか、悪いことなのか、見ていれば分かるようになるのです。

 

 

 

15 韓国語に暗示という言葉があります。それはどういう意味でしょうか。「私」が道を何げなく歩いているとき、ある良い家の壁に止まっていた鳥が飛ぶのを見て、ひそかに何かを感じることです。実際の生活において、そのようなことが起き始めるのです。そのような暗示的なものが多くなるというのです。ある人が語った言葉に、偶然何かを悟るようになります。このような事実がますます多くなるのです。

 

 

 

16 暗示の段階を経るようになれば、どのようなことが起きるのでしょうか。夢の啓示のようなことを体験するようになります。夢の中で起こることですが、夢も、深い眠り中での夢ではありません。パウロも夢うつつの中で三層の天を体験しました。夢うつつの中でそのような現象や、あるいは声などというものを、五官を通して感じるようになるのです。そのようなことを何げなく流してはいけないというのです。それを総合して、「私」をどのような方向と連結させるために現れるのかについて、科学的な統計を出しなさいというのです。必ずその結果が現れます。ですから、皆さんが忘れられない夢の啓示のようなものは、一〇〇パーセント的中するようになります。

 

 

 

17 夢うつつの中で、ある人なら人、品物なら品物が関係を結ぶのですが、それが現実の中で実体として連結されるというのです。「私」が夢の中で誰かと歌っているのですが、その歌が夢の中での歌ではなく、隣で誰かが歌うその歌だというのです。このような事実が起こります。これは何を意味するのでしょうか。霊的次元において、心の状態が共鳴できる圏内に入っていくことを意味します。このようなことを何よりも貴く考えなければなりません。

 

そのようになれば、どうなるのでしょうか。神様がいらっしゃるとすれば、その神様がどこに現れるのでしょうか。空中に現れるのではなく、心を通じて現れます。皆さんがそのようなことを感じられないのは、心がいまだに存在性を確立できていないからであり、体に引き回される人になっているからです。その心が存在性を確立し、また別の一つの主体という人格的な次元の位置が形成されれば、それは必ず違ってくるのです。

 

 

 

18 啓示の段階を過ぎれば、次は黙示の段階です。一日中霊界に入って体験をする、などというものです。そのような世界にまでつながります。神様に対する生活的な感情圏まで到達することができます。皆さんがこのような体恤的な信仰をしなければ、偉大な天のみ旨の結果世界を、私たちの生活舞台に適用させることができません。ですから、体験をもたない信仰者は、信じることができません。体恤的な信仰がどれほど高貴かということを、皆さんが知って啓発していかなければなりません。

 

その次に、歴史というものがあります。霊的な力が、電気作用と同じように入ってきます。高圧電流に接したときと同じような力が訪ねてくるようになれば、私たちの意識より強い力が入ってくるので、それは別の世界の意識なのです。

 

 

 

19 体恤するためには必ず祈らなければならず、精誠を尽くさなければなりません。そこで現れる啓示や夢の啓示を絶対に無視してはいけません。それを調整して、現実的生活圏内に、実践舞台にいかに適用させるかということが、信仰生活において最も重要です。

 

 

第四節 祝福家庭と永生

 

 

天聖経   第七篇 地上生活と霊界 第三章 永生のための地上生活

 第四節 祝福家庭と永生

 

1 祝福結婚と永生は、真の父母から始まります。真の父母でなければできません。真の父母がこのような途方もない内容を解決し、霊界と肉界の統一、地上世界の統一をしなければなりません。世界が先生に反対しても、従ってくるようになっています。

 

神様のみ前に行って印を受けなければ、霊界統一と地上統一ができないのです。どんなに地上が反対しても、先生が行く道を阻むことはできません。天使世界と霊界が動員され、先祖たちが動員されて、「行かない」と言えば、夢でうなされ、首を押さえつける、そのようにサタンに代わって行動を起こす時が来るというのです。

 

 

祝福家庭は天国の門の鍵

 

2 結婚して初愛を交わす瞬間は、男性として完成する場です。すべての神様のプラス世界、すべての男性型、右弦型を代表するアンテナとして、すべての神様のマイナス世界、すべての女性型、左弦型を代表するアンテナとして君臨するのです。アンテナのてっぺんで陰電気と陽電気が出会う、正にその場と同じです。

 

女性と男性が愛し合うその場は、男性完成と女性完成をする場なのです。天地の中心として地上に定着できる愛の王宮がそこから始まるのです。初めて愛の本源地が出発し、生命がそこから連結されるのです。血統がそこから連結されます。それと同時に、そこから国が生まれるようになります。地上天国、天上天国が、初愛の門を開くその場から、愛から始まるのです。

 

 

 

3 統一教会で言う祝福は、堕落した人類が、必ず行くべき道です。いくら反対したとしても、霊界と肉界をつなげて入らなければならない、非常に重大な問題になるのが祝福です。今日、一般の宗教を信じる人は、救いというと、個人の救いだけを考えます。自分がよく信じれば、天国に行くと信じるのです。しかし、本来の神様の理想について考えてみるとき、天国は一人で行くようになっていません。愛する夫婦、愛する家族が共に入るようになっています。

 

 

 

4 天国の門の鍵は、誰がもっているのでしょうか。アダムとエバが天国の鍵をもって、個人的、家庭、氏族、民族、国家的に門を開かなければなりませんでした。既に祝福家庭を編成したので、これを世界版図で連合し、霊界と肉界の合作により一元化された統一的な祝福基盤の上で天国の門を開くことによって、アダムとエバから数千万年空いていた天国を一度に満たすのです。

 

 

 

5 天国は一人では行けません。天国は、必ず相対理想を決定してこそ、天国の門を通じて入っていくようになっているので、堕落人間が天国に入っていくためには、復帰の歴史、復活の歴史、再創造の歴史を経なければなりません。皆さんに祝福してあげることは、天国の門を大きく開いておくことです。皆さんの前に天国の門が閉まっていたので、祝福によって開いてあげるのです。

 

門を開いて入っていくには、一人では入っていくことができません。家庭が入っていきます。息子、娘と入っていかなければならないという話です。家庭は、歴史的であり、そのすべての実績を備えています。神様の六千年の復帰歴史が一次アダム、二次アダム、三次アダム時代を経たので、三人の息子を経て、その三人の息子まで相対理念を立てておかなければなりません。ですから、家庭的に入っていくのです。

 

 

 

6 天上世界と地上世界のすべてが、真の父母の愛の門を経て入っていく世界が天国です。アダムとエバが堕落せずに真の父母の愛を通して天国に入れば、万民にとって家庭のモデルになっていたはずです。一つの本然的なモデルの家庭形態が天国に入るのです。そうすることによって、その伝統的な歴史を受け継いだ天の皇族圏の愛を連結したすべての家庭は、一つの中心の幹に対して東西南北の枝のようなものになります。ですから、同じ圏内は統合されるという原則によって天国に入るのです。そうしてこそ統一世界になります。

 

 

 

7 宇宙の原則は、父母と夫婦と息子、娘、この三段階が一つになって四位基台を形成するようになっています。それで、この宇宙の原則に対する不合格者は、合格圏内から追放されるので、苦痛を感じるのです。三段階を中心として、神様とアダムとエバを中心として、縦的世界と横的世界が展開するのです。これが原則です。ですから、アダムとエバの息子、娘がいてこそ、横的な世界が展開するのです。これが大きくなれば、縦的な世界が自然に生まれます。それで、体の横的基準が息子、娘であり、心の横的基準が霊界です。そこで初めて、神様が霊界にも肉界にも一緒に行くことができるので、地上に天国が実現するのです。

 

 

 

8 成約時代とは何でしょうか。家庭定着です。家庭定着から氏族、民族、国家定着です。それで、天一国安着を宣布したのです。これですべて終わりました。霊界と肉界が一つになるのです。霊界も、地獄から楽園、天国に行く道がすべて開かれました。その決定的な整備は、地上でするようになっているのであって、霊界ではできないのです。聖書の中に、王権樹立という言葉がありますか。祖国という言葉がありますか。選民圏という言葉はありますが、祝福の門を経なければなりません。選民だからといって、祝福を受けずに天国に行くのではありません。信仰の道は、すべて祝福を受けることに合わせなければならないのです。

 

 

祝福家庭の霊界

 

9 祝福を受ければ、天国に行くことができる道がすべて開かれます。祝福を受けた家庭でも、堕落の行動をした人がいますが、祝福を受けた家庭の霊界の中に楽園が生まれます。祝福を受けた家庭たちの楽園、祝福を受けた家庭たちの地獄が生まれます。それは、神様の主管圏内にあり、善の天使たちが協助したのと同じように、すべての霊界が祝福を受けるようになっているので、祝福を受けた霊人たちが先祖の位置にあれば、先祖の位置でこの地を協助するのです。今後、先祖の子孫が地に出てくれば、地で祝福を受けるようにして、その直系の子女たちを保護するようになっています。そうすることによって、サタンと関係ない新たな世界に越えていくのです。

 

 

 

10 地上で祝福を受けた夫婦は、永遠の世界である霊界に行っても一緒にいます。この世の中の夫婦、息子、娘がいかに多くても、霊界に行けば、分かれてばらばらになります。分かれて、みなどこに行ったのかも分からないというのです。相対的な関係がなければ会うこともできません。心霊状態の基準によって、みな霊界で分かれるというのです。しかし、先生が語ったように、愛を中心として一つになれば、そのまま一族が霊界に入っていくというのです。

 

 

 

11 霊界に行っても、誰かが「地獄に行きなさい」と言うのではありません。自分が求めていくのです。自分の程度に合うところを求めていくのです。統一教会も、すべて同じ圏内に行くことが目的ですが、自分の心霊状態の基準によってとどまるようになります。

 

それでは、祝福を受けた家庭は、どのようなところが違うのでしょうか。祝福を受けた家庭は、離れようとしても互いに離れることができません。霊界に行くようになったとき、自分の妻が責任を果たせなければ、共同責任を負って夫が解怨してあげなければなりません。妻が誤っても引っ掛かり、夫が誤っても引っ掛かり、息子、娘が誤っても引っ掛かるというのです。家庭が共に入っていくべきところが天国なので、その家庭を一つに統一しなければなりません。その家庭の一員が誤れば、その一員の誤ったことを解怨成就できるまで、蕩減されるまで待たなければなりません。ですから、いずれにせよこの地上で完成していかなければなりません。

 

 

 

12 皆さんが及第生になれずに霊界に行けば、保護館での生活をしなければなりません。何千年も待たなければなりません。祝福を受けた人々も、息子、娘たちがみな、「お母さん、なぜ私をこのように生んだのですか。なぜここに引っ張ってきたのですか」と言わないと思いますか。皆さんの息子、娘たちが黙っていると思いますか。皆さんの家庭のレベルはみな異なっています。ですから、すべて自分のレベルに合ったところに行って、長い間とどまるのです。

 

そのようになれば、皆さんの先祖が、息子、娘たちが、「どうしたのですか。なぜそのように良くすることができなかったのですか。何ですか、それは」と言いながら讒訴します。そうなれば、皆さんはそれに相当するだけの長い時間、そこにとどまらなければなりません。それほど簡単なことではありません。ですから、地上でしなければならないのです。先生が「やりなさい」と言うことを、みなやらなければなりません。

 

 

 

13 私が一歩ずつ歩んで越えた道を中心として、再び先生に代わって報告し、解放・釈放圏の位置に立たなければ引っ掛かります。天国に入っていくことができません。カインとアベルが争う人たちは、霊界に入っていくことができないのです。天が制限するというのです。ですから、統一教会員がいくら祝福を受けたとしても、天国の門に入っていくことができなくなれば、自分たちが誤ったことによって霊界に祝福家庭の楽園が生まれ、地獄が生まれるのです。

 

 

 

14 十年後、百年後に霊界に行って、「神様!私はここに来ました。父母様を知ったので、父母様がいらっしゃるところに行きます」と言ったからといって行くことができますか。氏族的メシヤの使命、国家的メシヤ、世界的メシヤ、天宙的メシヤの使命を連結させることができなければ、天国に入っていって自由に生きることができません。どれほど恐ろしく深刻な立場かというのです。現在の状況を考えれば、それをどうやって否定でき、除去できるのかというのです。

 

 

 

15 皆さんも、祝福を受けて自分勝手に生きれば、すべて脱落です。証明書だけもっているのであって、実体がありません。実体世界が天国になるので、天国に入っていけば、実体をもたずに証明書だけでは駄目です。先生もそうです。いくら再臨主だといっても、霊界の実体圏がなければ地上の実体圏を主張することができません。ですから、霊界解放をしなければならないのです。

 

 

 

16 毎日、主体的世界である霊界の事実を知らなければなりません。皆さんが御飯を食べようと、子女たちを教育しようと、先祖が残した生活の記録よりも、自分の国の伝統よりも、先に霊界の事実を知り得なかったことが恨です。それを知ったので、真の父母と共に、天地父母と共に生活する立場で、天地父母の実情と天上世界と地上世界を理解して、自分の理想的基準に障害となるものは、いかなる犠牲があっても取り除くべき責任が各家庭にあるというのです。

 

解放された中心家庭になることができていません。自分の国と自分の世界を越えていくべき立場にいるので、これができなければ、霊界で成し遂げられなかったその段階にとどまるようになるのです。

 

 

 

17 今までサタンの血統によって生じた楽園や地獄を完全に取り除いてしまい、最高の神様に近い理想的な祝福家庭を中心として高位層の天国が生じ、その下に家庭的楽園が生じるのです。そして、仏教や儒教の中間霊界があるのと同じように、家庭的中間霊界が生じます。数多くの階層が生じます。その次には、家庭的監獄が生じます。監獄が生じれば、それはサタン圏内の地獄の監獄ではありません。今までは、子孫たちが先祖を救うということが起きましたが、今の時は原則的長子権が生じて蕩減がないので、兄や父母たちは、地獄に息子、娘や親戚がいて、知っている人がいれば、いつでも行って助けてあげられるのです。橋を架けてあげるのです。ですから、早く復帰されるというのです。

 

 

 

18 天国は、本来家庭が入っていけるようになっているところです。祝福家庭が霊界の最高の位置に入っていきましたか。家庭も、世の中の、堕落圏内の八段階の圏内を抜け出ること

 

 

 

ができなければ、そこにそのままいるので、祝福家庭はすべて解放されたのですが、家庭的天国と家庭的楽園と家庭的中間霊界、家庭的地獄が生じるのです。しかし、ここはサタンが主管していますが、永遠なものではなく、先祖たちが行って橋を架けてあげ、全体を引き上げてあげるのです。ですから、復帰が早いのです。今、宗教圏を中心として再び教育をしています。

 

 

霊界に行く時の最高の贈り物

 

19 霊界の神様のみ前に行く時、もっていける贈り物は何ですか。それは、お金でもなく、学者、博士の名誉でもありません。自分の愛する夫と裕福に暮らした、そのようなものではありません。そのようなものは贈り物になりません。そこには、世界のために生き、神様のために生きた愛をもっていかなければなりません。それが残るのです。

 

ヨハネによる福音書第三章十六節に、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」と、神様が世の中を愛すると言っています。それで、ひとり子を与えてくださいました。ひとり子は世の中を愛するために来た人です。ですから、愛を中心として信じれば滅びません。救いを受けるのです。主人が世界を愛するので、世界を共に愛さなければならないというのです。

 

 

 

20 皆さんは、天国に行くときに贈り物としてもっていく物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのですが、彼らの前に皆さんが持っていったふろしきを開いて見せることができると思いますか。統一教会がどのような苦労をし、皆さんがどのような苦労をしましたか。それほどの苦労もせずに、どうして国のために生き、世界のために生きたと言えるでしょうか。「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません」と言ってこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。霊界に行ってふろしきを解いて、「これは一生の間、私が用意した贈り物ですので、お受け取りください」と言えなければなりません。女性たちがお嫁に行く時は、荷物をしっかりと持っていくのに、天国に行く時は霊人体だけで行くことができるでしょうか。

 

 

 

21 この地上は、天国の民の無限の生産地です。これを誰も知りませんでした。息子、娘を天国の民として生んで完成した人間に育てていくことが、本来の夫婦としてこの地上で生きていく生涯路程です。ですから、赤ん坊が生まれれば、その赤ん坊も神様のところに行く時の贈り物になるのです。そのような贈り物がなければ、自分の面目を立てることができません。

 

皆さんが故郷に帰っていく時、父母の前に行って何を誇りますか。その時、息子、娘をよく育てて誇るように、霊界に行く時も同じです。神様のみ前に行く時も、神様の子女であり天国の民を地上で育てて連れていくこと以上の贈り物はありません。お金と権力と知識が重要ではありません。

 

 

 

22 多くの息子、娘をもった父母は、多くの愛の相対を迎えたので、天国に行っても四方八方、誰でも思いのままに会えます。息子、娘をたくさん生んだ女性の中で悪い女性はいません。なぜでしょうか。自らの息子、娘を愛する母の心をもって村に行けば、自分の息子、娘と比較して、少し気の毒な場合には、「少し助けてあげたいが、どうすることもできない」といつも考えるからです。ですから、生活圏内で自動的に愛の境地に高く上がっていくことができる立場に立つのです。ですから、多くの息子、娘を育てた人は、霊界の最も高いところにいます。

 

 

 

23 地上は、どのようなところですか。天国の国民を生産する、生産工場です。天国は広大無辺です。無限大です。一人が子女を百人ずつ生んでも、天国は広いので過剰生産ということがありません。あの世は、いくらでも受け入れることができる世界です。ですから、産児制限をしてはいけません。あの世に行けば、天国の民をどれだけつくって連れてくるかということが問題になります。天国の真の息子、娘をたくさん連れてくるとき、それが自らの権益になって、天上世界で表彰を受けることができ、等級の差を設定する資料になるのです。

 

 

 

24 今後、霊界に何をもっていかなければならないでしょうか。お金をもっていくのではありません。統一教会の名前をもっていくのでもありません。ですから、今後皆さんがしなければならないことは、神様が愛することのできる息子、娘をどれだけたくさんつくっていくかということです。人が赤ん坊を生むといっても、数人しか生むことができません。それは誰でもすることができます。

 

今の復帰過程において、皆さんがサタン世界で神様が愛することのできる息子、娘をたくさんつくるようになるとき、その功労は先祖と連結され、先祖を解放させることのできる道が生まれるのです。これが、復帰路程において自分ができる最大の贈り物です。

 

 

 

25 霊界に入っていく時、お金をもっていくのではありません。一人が百二十人以上収拾しなければなりません。天国の民をすべて失ってしまいました。それを接ぎ木し、失わなかったという条件に再び合わせなければなりません。霊界に行って十二の真珠門を経ていくためには、地上でサタンから、どれだけ天の民を復帰して帰ってくるかということが問題です。

 

そのためには、涙と血と汗を流さなければなりません。再創造の真の愛の心情を中心としてサタンの父母以上、サタンの夫、妻、息子、娘以上の心情を投入して、涙とともに、血と汗とともに交差するその過程をたどることなくして、天国の自分の民を所有することはできません。この数に比例してあの世の栄光の位置、神様の近くに行く条件が成立するのです。

 

 

 

26 霊界に行けば、誇るべきこととは何でしょうか。生命をどれほど生かしてあげたかということが誇りです。甲なら甲、乙なら乙、あるいは氏族を超越して、たくさんの民族を新しい生命と関連させて、どれほど生かしてあげたかということが財産です。財産はそれしかありません。霊界には、ないものがないので慕うものがありませんが、一番慕わしいものがあるとすれば、真の人です。ですから、真の人を養育するために功を捧げたその功臣は、当然、天上世界で栄光の息子、娘になることができます。

 

 

 

27 御飯を食べることよりもっと重要なことが、天国の民を刈り入れることです。それが人々にはうまくできていません。それが本職なのです。この地上に生きる私たちの本業です。生涯にすべきことの中で、それ以上に貴いものはありません。世の中で就職して出世したり、お金を集めたりしたものは、すべて流れていきます。あの世では、お金を集めても何の役にも立ちません。あの世では、物質が必要なく、知識が必要ありません。習わなくても、心が先に分かります。一週間以内に、何でもすべて通じるのです。

 

 

 

28 霊界、天国に行くときに必要なものは、信仰の息子、娘です。伝道した息子、娘が必要です。そのように伝道することによって霊人たちを復活させていくのです。ですから、皆さんが地上で活動することは、地上にだけ影響を及ぼすことではありません。堕落によって汚れた、すべてのものを整理するための活動だというのです。

 

 

 

29 天国は無限の世界ですが、そこでは愛の心情によって連結される橋がなければなりません。ですから、自分の伝道した人が世の中に多く広がっていれば、霊界に行ったとき、それに比例して広く往来できる道が生じるのです。すべてが自分と関係を結び、縁を結ぼうとします。それは、地上で思想武装して連結させたものと同じ体制が、自分を中心として連結されるということです。教育して多くの弟子をもったのと同じように、地上で解いてあの世に行けば、霊界で解くことができる相対的関係になっているので、膨大な活動基盤になるのです。

 

 

 

30 歳月をそのまま送ってはいけません。青春時代に息子、娘を生み、育ててこそ、後代に誇り得る基盤を残すのです。また、その子女たちが、立派な人になってこそ、歴史に誇ることができます。歴史に対して誇れる実績がなければ、自分の一家や町内ではグループに入れますが、国では入れないのです。国に入るためには、歴史の伝統に残る実績がなければなりません。

 

ですから、誰でも国に何かを残すことを願い、世界に何かを残すことを願い、天地に何かを残すことを願うのです。同様な道理です。ですから、自分の所有版図をどのように確定するかという問題が、終生の目的だという観念をはっきりともたなければなりません。ですから、み旨の道で、嫌ならやめようと考えることはできないのです。

 

 

第一節 末世と再臨復活

 

 

天聖経    第7篇 地上生活と霊界 第4章 再臨復活と神霊の役事

第一節 末世と再臨復活

 

 

 

1 今の時は、どのような時でしょうか。全世界を見れば、たくさんの人たちにノイローゼ現象が起きています。霊的世界と肉的世界が交差するので、そのようになります。これが交差するときは、先に善の人に来るのではありません。ニュースを早く知るのは誰ですか。善の人が先に知るのではなく、反対する怨讐が先に知るのです。善の側のニュースを、怨讐たちが早く把握しようとするのです。それと同じように、霊的世界が地上に臨むときに、善霊たちが先に地上に臨むのではなく、悪霊たちが先に地上に臨むのです。

 

 

終わりの日の現象

 

2 エデンの園で堕落することによって、天使長を中心としてエバが怨讐になり、エバを中心としてアダムが怨讐になりました。お互いが怨讐になりました。すべて怨讐です。ですから、皆さんの子女も怨讐です。信じられないのです。終末になれば母親、父親までも怨讐になります。兄弟間が怨讐になります。国同士が怨讐になり、すべての関係がばらばらになる時が来ます。その時になれば、人倫道徳がどこにあるでしょうか。世界の風潮がそのように吹きすさんで方向が分からなくなり、どのようなものが善で、どのようなものが偽りなのか、判断できない時が来れば、その時が終末だということを知らなければなりません。その時が正に今です。

 

 

 

3 この世の終わりの日とは、どのような時代でしょうか。全世界の人類が個人的な愛を絶対視する時代になれば、この世の終わりの日だというのです。堕落した愛を中心として見てみるとき、そのような結論が出てきます。世界的に個人的な愛を中心とする時代が終わりの日です。国の愛や、民族の愛や、あるいは家庭の愛などというものが、すべて否定された立場で自分の愛のみを中心としていき、人間の倫理や道徳観念に立つのではなく、動物的愛の道を行く時代を言うのです。

 

 

 

4 皆さんの心と体も闘い、夫婦も闘い、父と子も闘っています。すべてが終わりの日になって混乱が起こります。先生のみ言を中心として、霊界自体が、今まで自分が信じてきた信仰で大混乱が起こります。地上に再臨するためには、統一教会の皆さんと子孫たちに実績がなければなりません。実績がなければ再臨することができません。

 

再臨できる全体的蕩減路程を先生が歩んだのです。先生が、神様を身代わりしたアベルの王です。本然のアダム家庭において、カインがアベルの命を奪いましたが、歴史時代において、それが継続して今まで下ってきたのです。ですから、神様がサタンの血統の世界に対して干渉することができません。霊界に行った聖人たちや先人たちも、なぜ終わりの日になって、一時にこのようにすべてひっくり返るのでしょうか。それは避けることができません。一度にひっくり返ったというのです。

 

 

 

5 今のこの時は、神様のみ旨がこの地上に現れる時です。今日、この地上にはカインとアベルがいます。マタイによる福音書第十三章にあるみ言のように、この地上には毒麦と麦があります。またヨハネによる福音書第十章のみ言のように、門に入っていく真の羊飼いがいると同時に、門を通らずに別の所に越えていく偽りの羊飼いがいます。ですから、間違えれば、私たちの教会でも、まさしくそのような現象が現れることを直視しなければなりません。(003-207, 1957.11.01

 

 

 

6 聖書では、終末にメシヤが来ると教えています。メシヤという言葉は、三つを復帰すべき人を意味します。それは、永遠の真理、永遠の人格、そして、真の父母として子女のために生きる真の愛です。それで、イエス様が「新郎として来た、自分の新婦を求めるために来た」と主張されたのです。末世において、再臨主は堕落と反対の経路を行かなければなりません。

 

 

 

7 主とは主体です。それで、その主が堕落した世界に来られる時は、真理を語らなければなりません。人がその真理を聞けば、心と体がその主に属するようになるでしょう。人間が堕落した時、彼らは泣きながら、悲しみの涙を流しながらサタンに引かれていきました。しかし、彼らが帰ってくる時は、喜びをもって神様のところに導かれていかなければなりません。そのような運動が終わりの日に起きなければならないのです。すなわち正反対のことです。

 

人間は、サタンの言葉に引かれて越えていったので、堕落世界のすべての人々は、再臨主のみ言、彼のメッセージに導かれて越えてくることができます。ですから、彼のみ言は、天使長の言葉より優れていなければなりません。そして、神様が認める位置に立たなければなりません。ですから、権威をもってすべての人間を導くのです。

 

 

 

8 終わりの日には、髪に油を塗って密室に入って祈りなさいと言いました。人の言うことを聞いてはいけない時です。新郎の言うことだけを聞かなければならない時です。牧師も、信仰の同志も、最後の峠に行けば「私」の後援者になりません。「私」は天国に行き、彼は地獄に行くようになっていれば、地獄に行くその人が「私」にしがみつきます。愛する友人が水に溺れた時、助けようと水に入っていけば、その人がしがみついてくるのと同じです。その時は、同情してあげることができない時です。

 

いかなる指導者も、「私」の生命を救ってくれません。そのような時が来ます。そのような時を先に迎えた地域、国家、教団、社会では、混乱が起こります。互いに信じられないというのです。牧師が長老を信じられず、長老が牧師を信じられず、一般信者が党会(牧師と長老からなる議決機関)を信じられず、教派は教派同士で信じられず、社会や政党も互いに信じられません。国民が大統領を信じられず、大統領が国民を信じられず、民が国を信じられない中で身もだえするのです。四方を見つめれば、信じられない混乱した世の中です。その中で自分が自分を信じ、天が認めることができる信仰の位置を探しなさいというのです。(010-203, 1960.10.02

 

 

 

9 今、地上に霊界の混乱が起こります。混乱する霊界が地上を襲ってくるというのです。ですから、最近、ノイローゼ現象が起きたり、半精神病患者や半分気が狂った人が多いのです。ぶつぶつ独り言を言う人々が次第に多くなります。数千億の霊人のいる霊界が、この地球星に襲来するというのです。なぜ襲来するのでしょうか。宗教が自分の位置を探すことができなかったからです。宗教が自分の位置を確立できず、人々が水平線となり、天を中心として垂直に立つようになっているのに、すべて倒れたというのです。

 

ですから、霊界がこの地球星に向かって襲来します。気が狂った人のことを、霊に取りつかれたと言うではないですか。霊が何をしようと人に入ってくるのですか。利用してしまおうというのです。良心的な人々、さらには文人や芸術家のような人々は、普通の人よりセンスが良いのです。アンテナが高いというのです。ですから、今日そのような人々がそれに先に接して、ノイローゼ現象や世界的な終わりの日の現象が起きるのです。(030-1761970.3.22

 

 

 

10 今から、数千億の霊人たちが、地上を占領するために攻略を仕掛けてきます。ノイローゼ現象がその一つです。さらには、二〇〇〇年代を超えると、その時は悪霊に通じ、善霊に通じたりなどして、すべて霊的に通じるかもしれません。戦争をするなと言っても闘わざるを得ません。そのような時が来るかもしれません。それを防備することが「統一原理」の使命です。

 

高いアンテナにはピッピッと音が出てきます。それがノイローゼ現象です。最も恐ろしいのは、悪霊だけを動員して地上を攻略してくることです。そのような場合に、どうするのかが問題です。いくら人が地球上にいっぱいになったとしても、悪霊に攻略されてしまいます。それで、神様はそこまで準備していらっしゃいます。善霊たちを中心として霊界の基台を広げてきているのです。(055-301972.04.23

 

 

霊人の再臨復活

 

11 皆さんが地上で自分が備えるべきものをすべて備えることができず、サタンにそっくりそのまま心を奪われた立場で霊界に行けば、実体の行動をどのように展開させることができるでしょうか。それは、非常に難しいのです。もし皆さんが、この地で責任を果たせないときは、皆さんの子孫を代わりに立てなければなりません。自分を救ってくれるメシヤのような立場にその子孫を立て、彼らを助け、彼らの事情を見ていきながら協助してあげなければなりません。彼らをして、皆さんが生きている時にできなかった責任分担を成し遂げることができるように協助しなければならない立場に置かれるのです。これが再臨復活の現象です。

 

 

 

12 本来の人間は、サタンの支配を受けず、神様の直接主管圏内で暮らさなければならないのですが、堕落することによって堕落圏に暮らすようになったので、そこから抜け出すためには、個人として蕩減し、家庭として蕩減しなければなりません。これを蕩減せずには、抜け出すことができません。

 

霊人は、必ずその時代ごとに再臨現象を経て現れるので、それぞれの段階が輪廻、すなわち生まれ変わる現象として見えるのです。皆さんも同様です。皆さんが個人的にただ信じて死ぬようになれば、家庭をもてなかったので、家庭基準、氏族基準、民族基準、国家基準、世界基準といった段階をすべて越えていかなければなりません。ですから、何億万年かかるかもしれないのです。それは無限に相当します。

 

 

 

13 イエス様が死を通して、天と地の前に望みのすべてを実在的に証したことを、私たちはよく知っています。最後の十字架の途上で、「もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈ったイエス様は、その心に死の恐怖が襲えぱ襲うほど、望みの日が近づいてくることを、誰よりも感じていたのです。肉身の死が過ぎたのちには、新たな望みの世界が展開することを感じ、その世界を憧憬したというのです。肉身の死以後に永遠の自由の体で復活することを願ってそれを憧憬したので、死んだのちに復活の栄光を受けることができました。

 

 

 

14 先生に中心の根、中心の幹、中心の芽が連結されています。それを個人的に、家庭的に主流にして、中心の枝、中心の根、中心の幹、中心の芽がすべて一貫した流れになっています。生きているというのです。再臨復活をしたのです。枝として再臨主に連結すれば、すべて生きるようになります。こうすることによって、アダム家庭から世界基準まで、一度に復活した立場に立つというのです。数万年の間に繁殖したものを数年間で接ぎ木して完成させるので、地上の個人天国から家庭天国、天上天国まで、一度にすべて完成することができるのです。

 

 

 

15 先生が霊界と地上界の二重の仕事を一度にすることはできないので、霊的基準を中心として興進君を霊界の司令官として立てました。神様を中心として再臨主が地上に来るのと反対に、先生を中心として地上から天国の再臨主の立場で送るのです。先生が分かれた霊界と肉界を統一し、霊界に真の父母の愛の関係をもてなかったことを中心として、息子に命じて祝福の権限をもたせ、生きている父の代身者として霊界の復活圏の役事をさせるのです。重生式、復活式、永生式ができるようになり、地上に覇権的基盤ができたので、この基盤を中心として第一イスラエルの国、第二イスラエルのアメリカ、第三イスラエルの韓国を中心として、その境界線を撤廃してしまうのです。

 

 

 

16 今はもう先生が心配することがありません。放っておいても、そのまま進みます。その代わり、霊界から再臨するのです。三時代の霊界、旧約時代、新約時代、成約時代に、救援するための神様の摂理のみ旨が成し遂げられなかったのですが、それがひっくり返ることによって自動的に成し遂げられます。旧約完成、新約完成、成約完成をすることによって、自動的に摂理が方向を定めていきます。

 

ですから、霊界も神様を中心として霊界の方向に進み、地上も地上を中心として先に進むのではなく、本然の基準を中心として長子権を復帰し、神様、天宙父母と地上の再臨主、天地父母が新たな主義で祝福を中心として血統の決着をつけることによって、ここから平面的に進むのです。そのようにして、自動的に地上天国と天上天国が開門されます。ですから、ここでひっくり返して霊界全体が下りてくるようになります。

 

 

 

17 私たちは、復活の日を待ち望まなければなりません。地上を通じて、天を復活させなければなりません。私たちは、復活の根拠地が天上だと思っていますが、違います。この地です。この地が中心です。復活の根拠地も解決点も、この地にあります。この地で復活が成し遂げられなければ、天上の復活、人間の復活、万物の復活、地獄の人間の復活も、単なる言葉で終わってしまいます。

 

ですから、まず地上に復活した人が出てこなければなりません。霊界には、地獄と中間霊界と楽園と天国がありますが、今まで天に忠誠を尽くした人々は、すべて楽園に行っています。イエス様も楽園に行っています。復活の目的を果たすにおいて、間接目的地は霊界であり、直接目的地は地上です。霊界は復活させるべきところであり、地上は復活すべき所です。ですから、まず地上で、「私は復活した。復活の目的を終結した」と言うことができてこそ、天上天国に行くことができます。

 

 

 

18 天地開闢とは何ですか。最初の復活に同参できる資格を備えた人々とは、どのような人々ですか。祝福の門を通過した人々です。ですから、八十歳の老人たちも再び春を迎えなければなりません。不思議に思うかもしれませんが、祖母や祖父たちも、再び結婚しなければならないという話です。なぜならば、第三イスラエル国家をつくり、また第三イスラエル国家の民になるためには、祝福の門を通らなければならないからです。

 

 

2節 神霊の役事と霊的現象

 

 

天聖経    第7篇 地上生活と霊界 第4章 再臨復活と神霊の役事

第二節 神霊の役事と霊的現象

 

 

 

1 霊界と地上世界は、断絶された別の世界ではありません。一つの根本の存在原理のもとで相互交流し、授受する相関関係にあります。私たちの教会も、本来神霊を通じて統一する神霊協会として出発しました。神霊とは何ですか。一時的、配分的な霊力や霊的作用のことを言うのではありません。真の愛を中心として霊界と人間世界が調和し、共鳴することができる神様の愛の力です。ために生きて投入する真の愛の生活を通じて、人の心に感動を与えることはもちろん、霊的世界の協力も得る運動が統一教会の運動です。

 

 

霊的現象とそれに対する姿勢

 

2 初代教会の時は、異言を語り、神霊の役事を行い、預言を語るなど、ありとあらゆることがありました。このように初代教会で神霊の役事が多く起きることにより、その内容を知らない無知な人間が霊的な現象にあちこちでぶつかり、混乱するようになるので、それを防ぐために「聖書のみ言が一番である」と言うようになったのです。聖書にも「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注こう」(使徒行伝二・一七)というみ言が出てきます。それで、初代教会で起きた現象が終未のキリスト教の歴史世界に現れ、四方で気が狂った、異端だと言われる群れが多く出てくるというのです。統一教会も、その中の代表的な一メンバーとして入っています。

 

 

 

3 霊の召命を受けた人はむやみに行動できません。その人が、起きる霊的現象の理由を知らなければ、天が教えてくださいます。彼が目を開ければ霊界を見て、彼が行動すれば霊界にいる人のような行動をします。皆さんの日と皆さんの心と皆さんの行動とは、非常に異なります。狂った人のように見えます。昔のイエス様も賢い人に見えましたか。その当時の入たちが見るとき、気が狂った人のように見えました。これからこのような霊的な現象が襲い、民族を襲い、教団を襲うでしょう。

 

したがって、今日、世界的に、未知の精神系統の患者と神経系統の患者が幾何級数的に増えていっています。恐怖の世界、不安でいらだつ世界が近づいています。これは神様の息子であるイエス様が、焦燥感と不安感と興奮した心情をもって一生を過ごし、み旨に対されたからです。それで、世界的な運勢がそのように巻き込まれていくのです。

 

そして、最終的には方向を探そうとしても探すことができなくなり、真のものが偽りのようになり、偽りのものが真のようになる現象が起こります。偽りが優勢になり、真が劣勢になる時代、偽りが盛んになり、真がこれ以上ないほど微弱な状態になる時代が来るというのです。私たちは、そのような時代を経て越えていかなければなりません。

 

 

 

4 終わりの日になればなるほど、恐怖心にとらわれる人がいるかと思えば、その一方で喜びにとらわれる人もいます。このような動きが現れるのは必然的な現象です。この上なく悪の人がいるかと思えば、この上なく善の人もいるのです。この上なく善の人には、この上なく悪の人が侵犯できず、この上なく悪の人には、この上なく善の人が関与できません。

 

この社会は、神様もつかめません。いかに神霊的な人でも、いかに天の恩賜がある人でも、これに合わせようとしても合わせることができない時が来ます。その時が来れば、この上なく悪の世界で生きている人、天と関係を結ぶことができなかった位置にいる人々は、間違いなく審判台に上がります。そのような実相が皆さんの心から起こる時が来るでしょう。心はこっちに行くのを願うのですが、体は他のほうに行くのを願うのです。その心と体を連結できる条件をもてずに、もがき苦しむ人は、間違いなく地獄行きだというのです。

 

 

 

5 神様は、特定の宗派を中心として摂理してきます。ヨセフ家庭とザカリヤ家庭を中心として、時になる前に、誰も知らない中で内的に摂理したように、大韓民国の解放直後を中心として、誰も知らない中で、天はこのような摂理の内容を準備してきたのです。そこには、天使長的使命を果たす集団がいなければなりません。霊的に失ってしまったものを実体的に取り戻さなければならないので、そのような時代相になる解放前を中心として、肉的天使長の使命を果たす一人の人が出てこなければなりません。それで、霊界に通じる人々の中で、自分がペテロだ、パウロだ、あるいは「私は洗礼ヨハネだ」と言う人が出てきます。十二使徒がイエス様を信じられなかったので、彼らの霊が実体的に臨んで、この地上で基盤を築く役事が起こらなければならないのです。そのような役事をしてきたというのです。

 

 

 

6 イエス様の恨は何でしょうか。地上で弟子たちと共に実体圏を形成することができなかったことです。イエス様を中心として十二弟予が一つになれず、イエス様を中心としてヨセフ家庭が一つになれず、ユダヤ教が一つになれず、イスラエルの国が一つになれなかったのです。このような関係が破綻したので、それを、十二使徒を中心として収拾しようしたのですが、すべて破綻しました。それで、霊的基準型としては残っているのですが、実体基準はもてなかったので、霊的勝利の基盤を築いた十二使徒型をこの地上に再臨役事とともに再現して、その時を準備しなければなりません。

 

この基盤が築かれたのちに、すなわち不信してイエス様を追放した使徒たちが活動し、再び信任される基盤を築いた上で、再臨役事が始まらなければなりません。ですから、大韓民国の解放前を中心として、霊界に通じる人々の中に、私がペテロだ、ヨハネだ、パウロだ、あるいはアブラハムだと言って、歴史上に生まれては死んでいった数多くの預言者たちを代表する人々が、一度にこの平面的な韓国の神霊的な人たちを中心として顕現するようになったのです。

 

 

 

7 今までは、悪の霊人たちが地上に来て役事したので、ノイローゼ現象や人格を破壊する現象が起きましたが、今からは違います。体を占領して共鳴圏を形成して、正しく高い霊的な体験圏に入っていくようになるのです。高尚な人格圏が生じるのです。(259-163, 1994.04.02

 

 

 

8 霊的現象は、神様による霊的現象とその反対現象、その二つしかありません。それはすぐ分かるようになります。すなわち善の現象と悪の現象に分けられるのですが、「善の現象はこのようにならなければならない」という公式的な脈があります。これをずっと合わせていかなければ何にもなりません。それで、何百年ごとに、大転換期や霊的な大現象が起きるのです。

 

そのようになれば、その国が滅びたり栄えたりします。国が滅びるようになる時は悪霊が動員されます。また、大きく栄える時は善霊が動員されます。それをどのようにすれば世界の運勢に巻き込まれるようになるのでしょうか。それほど簡単ではありません。そのように考えれば、霊的現象や宗教の目的とはいったい何でしょうか。霊的現象を起こして天が摂理を導いていくのも、結局は人間完成のためです。

 

 

 

9 悪神の役事も善神の役事も、出発は同じです。ただ結果が違います。おびえながら大騒ぎして、身もだえするということが起こります。全く同じだというのです。悪神も神霊役事をするのですが、結局は、役事してどこに入っていくのでしょうか。世界の利益に、天と地の利益に戻っていかず、自分の利益に戻っていくというのです。そのようになれば必ず消えうせていくのです。自分を中心として個人的な利益に、自分の家庭を中心とした利益に戻っていってはいけません。それも消えうせていくというのです。

 

あくまでも神様の摂理は、出発は同じ姿でしても、必ず世界を標準にしなければなりません。神様の解放と人類の解放を目標にしない教会は、終わりの日まで続きません。自分の欲のままに行っては、自然に崩壊します。その指導者を連れていくのです。連れていくようになれば、その時代の環境を整えて連結させることができません。自分が置かれている位置を知らないからです。

 

 

 

10 今日、人間世界に生きている皆さんは、人間世界を中心として霊的現象を見ることができます。どの時代も、いかなる時も、宗教人はもちろん、それ以外の人々も、霊界との関係によって、霊界と混合した生活圏で生きていることは歴史的事実です。歴史過程を通じてそのように生活してきたという事実は、私たちが宗教を信じなかったとしても、夢を通じるなどして様々な神秘的な体験を通じて知っています。それで、霊界を見れば、善神と悪神がいて、地上ではその影響を受けて善人と悪人に分けられるようになります。それは理論的な結果です。ですから、良い人、悪い人という、この概念は何でしょうか。良い神の協助を受ける人と悪い神の協助を受ける人がいるのですが、その二つの種類の内容に基づいて、良い人、または悪い人と結論を下すのです。

 

 

 

11 これからは、霊的現象まで見られるものを発明する時代が来ると思います。そのようになれば、霊界がないということを言えなくなります。霊眼が開かれれば、霊界を見ることができます。すべての現象を、その世界に存在するすべてのものを、感覚的に感じるのです。天気予報のようにそれを見ることができるようになれば、神様がいないという言葉は言えなくなります。そのようになれば、宗教のようなものはなくなってもかまいません。堕落していなければ、そのような世界になっていたはずです。堕落世界となり、このようになってしまいました。復帰過程では、私たちにとってこの地上が、その世界と相対的に一致させていく訓練所になっています。

 

 

奇跡はその代価を払う

 

12 神様の協助は、原理原則が形成されるところから起こります。無謀な信仰は、神様が好まれません。奇跡を願い、「絶対に信じるとおりになるだろう」と言った人はどうなりましたか。奇跡を行った人は、その人自身と、その一族がどうなりましたか。韓国で有名だった復興師、過去に名が知られた人々自身と、その子孫が良くなりましたか。良くなりませんでした。なぜでしょうか。盲目的に要求したあとには、必ず盲目的に要求したその代価を、その人自身が要求されるのです。自分がそのような能力を使ったとき、自分自身がそれを動かせる自分になることができず、神様の力によって行ったとすれば、その人自身が受けた福によって侵害されるのです。基盤がなければ一度に崩れるのと同じです。

 

 

 

13 モーセが奇跡を行っていなければ滅びませんでした。イエス様が奇跡を行っていなければ十字架にかからなかったというのです。奇跡が良いのではありません。それは多くの犠牲の代価を払っても一度にこっと笑うだけで、終わってしまうのです。今日、それを妄信して、そのような奇跡で天地を収拾し、人間世界のすべてのものを清算しようという荒唐無稽な者たちになってはいけません。

 

 

 

14 復帰の路程を歩んでいったイエス様が奇跡を行ったのは、喜んで行ったわけではありません。喜んで、楽に奇跡を行ったと思ったら大きな誤解です。この地にはよりどころがなく、この宇宙の中には頼るところがないので、天に対して訴えざるを得ない事情があったのです。このように悲壮な境地にいた、イエス様の懇切な姿を見つめなければなりません。イエス様が同情せざるを得ない哀れな事情に置かれ、手を挙げて「父よ!」と呼び求めたとき、ここで奇跡が起こったのです。この上なく悲しい、骨肉が溶けるほど悲しい場面で叫ぶ、その事情を通じて現れたのが奇跡でした。

 

 

 

15 先生が祈れば、奇跡をいくらでもします。しかし、ありとあらゆることが起こったとしても、先生はしません。それを治して何をするのですか。治してあげたところで、天国で役に立ちますか。何の必要もありません。何人かの人が韓国でそのようなことをたくさんしましたが、先生はそのようなことをしませんでした。悪口を言われてもじっとしています。一人で歩みながら、先生が行く道を先生が準備しなければなりません。準備ができなかった人は流れていくと考えるのです。完全に準備をしておいて、大舞台であるアメリカに行って激しく悔い改めさせるのです。キリスト教が誤ったので、悔い改めなさいというのです。

 

 

 

16 先生に知恵がなければ、すべて台無しにしていたはずです。先生が病気を治す祈りをすれば、千人、万人が一度に治るでしょう。しかし、それを断りました。教育をしなければなりません。神霊の役事は一時ですが、真理は万年続きます。自分たちに今、そのような時が来ました。病気を治すことも、どのようなことも、すべてできるというのです。黙って見ているだけで、ハンセン病が治ることがあり、ありとあらゆる病気も治るというのです。火がついて統一教会の先生を慕い、食事をすることを忘れ、寝ることも忘れれば、どのような病気もすべて治ります。病気にかかったことも忘れてしまいます。忘れて一年も過ごせば、病気がなくなるのです。聖書の奇跡は何でもありません。そのようなことを、先生がすべてしました。