第八篇 信仰生活と修練

第一章 信仰生活とは何か

 

 

第一節  信仰生活とは

 

1  信仰生活は、必ず傍観者の立場を脱皮しなければなりません。皆さんは今、先生に従っていますが、先生を中心として信仰生活をするのではありません。皆さ ん自身を中心として信仰生活をするのです。ですから、信仰生活をする人には、人がどうであろうと、自分一人が守っていくべき信仰の道があるのです。

 

そのような信仰生活は、周りの人からは学べない深い心情の世界において、天を中心として一人で感謝する生活、一人で満足する生活ができなければなりません。

 

世の中がどんなに悪くても、天地を見つめながら、「感謝します。私は幸福です」と言える信仰生活をしなければなりません。

 

そのようにできず、そのようなことを感じられなければ、その反対の立場、この上なく悲しい立場で、「私は罪人です。私は足りない者でございますので、勇気をお与えください」と決意して再起する、そのような期間を必ずもたなければならないのです。

 

 

真の信仰観

 

2  「信じて行えば、できないことはない」。このような信仰観をもたなければならないのです。「第一の主体は神様であり、私は対象である。完全なプラスは、 完全なマイナスを創造する。自分は第二の神様、第二のイエス様、第二の父母様の立場にいるので、その立場に到達できる!」という考えをもたなければなりま せん。

 

先生がどのようにして世界的な仕事を独りでしているのかということを考える時、このような哲学的背景を中心として、直接的に国を消化 していっているからです。ですから、先生の前に潔く、「私たちは、これを伝授されて、間違いなくそのように生きます」と約束しなさいというのです。

 

 

 

3  先生がこの地に来て、信仰の世界に残した偉大な内容は四種類です。神様と人間の関係をはっきりさせました。責任分担と蕩減というものを、歴史上、誰も知 りませんでした。人間がなぜこのような姿になったかを知らなかったのです。これをはっきりさせておきました。次に、良心的な人は貧しく、悪人が良い生活を するのはなぜかということです。蕩減法、カイン・アベル問題を知りませんでした。その次には、人間が善を望むのに、なぜますます問題が悪くなっていくのか ということです。これは血統問題、サタンの汚れた血のためです。血統問題を根本的に知らないために、解決できませんでした。世界の問題がみな、この原理に 引っ掛かっています。

 

 

 

4 今までの信仰生活は、「私」一人を取り戻すためのものでした。失ってしまったアダムとエ バと同じ立場で、原罪のない本然の個体を取り戻すためのものでした。今、神様が最後に願うこととは何でしょうか。まずは神様の愛を中心として、個体と個体 を合わせた一つの家庭を取り戻すことです。さらには、神様が愛するその家庭を中心として、そこから広がる氏族を取り戻し、民族と世界を取り戻そうというの です。これが神様の全体的なみ旨です。

 

 

 

5 天は、人間的な希望を中心として生きている人間をして、新しい希望を もって死の峠を越え、永遠の世界を欽慕しながら生きるようにするために、無限に苦労されました。ですから、信仰生活をする人たちは、地上に何かの希望を抱 いて生きるのではなく、死までも越えて立ち得る希望を抱き、永遠の希望の世界を夢見て生活しなければなりません。このために、私たちも今、信仰生活をして いるのです。

 

 

 

6 天の心情を体恤し、その心情圏内からもたらされる衝撃と刺激を感じる者がいるとすれば、地上のど んな迫害や苦痛や死の道がその人の行く道を塞ごうとしても、塞げません。このような心情が心を激しく動かし、その心が体を促して手足を動かすようにするこ とによって、いつの間にか無限の境地に向かって歩んでいくようになる、その生活を一つ一つ体恤しようと努力するのが、正に今日、俗世で暮らしている信仰者 の生活なのです。

 

 

 

7 神様は、自分の教団を中心として信仰生活をするキリスト教徒を望みません。先生も統一教会と いう看板をつけていますが、「この看板をいつ取ってしまえるだろうか」と考えます。皆さんは統一教会の人たちだと注目を浴びているかもしれませんが、その 注目が三千里半島(韓半島)でいつ消えるかというのです。

 

世界に広がっている統一教会の食口たちは、神様の恨を解こうと歯を食いしばって努 力し、神様の苦難の道を代わりに歩もうと、忠孝の心情で走っています。この仕事をして倒れるのを最高の基準として、決意して歩んでいる群れが統一教会の食 口たちです。このように行く道が恵みの道なのです。

 

 

 

8 神様が見る皆さんの信仰の観念は、あまりにも気掛かりで す。今、先生がこの地にいなければ、皆さんの中で、何人残るか疑問です。分かりませんが、争いが起こるでしょう。今、先生は、み旨のために死のうという人 がどれほどいるかという点から、皆さんを見つめています。ですから、皆さんは深刻な立場に至らなければなりません。家庭では妻と子女たちのために、教会で は食口たちのために、自分がどれほど精誠を尽くしたかということが問題なのです。

 

 

 

9 自分の信仰生活において、天 の同情を受ける内容を残せない人は、それでおしまいになります。今、先生自身もそうです。先生自身はもちろん、公的な立場でどこかに行って、礼拝の時間に 遅れるようになれば、出てくる前に祈ります。また、ある聖日には、礼拝の時間になっても行けないときがあります。その時にも、必ず悔い改めの祈りを捧げま す。主体的責任をもった者として、食口たちが先生を仰ぎ見ながら、福を受けようと生死の問題を解決するために精誠を捧げているのですから、その時間に行け ない自らを赦してほしい、と祈るのです。そのような祈りが必要なのです。

 

 

 

10 世界のために行かなければなりませ ん。世界のために犠牲になるのです。目的を成就しようとする人が、その目的のためにどれだけ犠牲の代価を払うか、相対的圏内にそれがどれだけ流れていくよ うにするかによって、目的成就の期日が短縮されるのです。世界のために生きようとすれば、大韓民国のために生きなければなりません。大韓民国が世界のため に生きなければ、私たちが世界のために生きなければならないというのです。自分のような信仰と思想をもつ人をっくり、あるいはそのような子孫をつくって、 このような思想を千年、万年後代に残してあげる基盤が残る限り、「統一思想」は、世界に新しい文化世界を創造する思想になるでしょう。このように見るの が、先生の観点であり、神様の観点なのです。

 

 

 

11 皆さんの信仰生活に味がなければなりません。先生は、昔、皆さ んを伝道しなさいと地方に送り、統一産業に毎日、一日に二度、三度行き来しました。また、清平に一日置きに行き来しました。何のためにそのようにしたので しょうか。味があるというのです。普通の人には感じることのできない味が分かるのです。精誠を捧げて行き来するその世界において、心霊のあらゆる細胞が発 展し、その発展の力が自分の内面において運動するというのです。そのような何かがなければなりません。雨が降ろうと、雪が降ろうと、味を感じなければなら ないのです。

 

 

 

12 主がこの地に来られる目的は、地上に天国を実現するためです。天国は、どのような所でしょうか。侍るための準備に合格した人と、侍る生活に合格した人が行く所です。侍るための準備と侍る生活を、万宇宙に、永遠に誇れる世界が天国です。

 

国に行って何をするのか分かりますか。ただ遊び回る所だと思っているかもしれませんが、そうではありません。遊び回ろうとすれば、そのために、過去に準備 をしてきた条件と、生活的な条件がなければなりません。ところが、何もしないで、「福を下さい」と祈ってばかりいます。神霊的な人たちが途中で苦しくなる 主な原因が、そこにあります。いくら恩恵を受けた人でも、七年を越えるのが大変だというのです。

 

 

 

13 無条件に福 を下さいというのは、真の信仰ではありません。真の信仰をもとうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。今日、この地上にいる人類は、六千 年間続いてきたアダムの子孫です。ですから、人類を思って痛哭できる心の基準が確立されていなければなりません。そうでなければ、その世界と絶対に縁を結 ぶことはできません。

 

かわいそうな乞食を見て、胸が痛んで耐えることができず、服を満足に着ることのできない人を見れば、自分が服を着飾る ことに耐えられず、満足に食べられない人を見れば、自分も食べることができず、自分だけがどこか安らかな所にいることはできないという心をもたなければな らないのです。

 

 

 

14 世界には二種類の人がいて、宗教者の中にも二種類の人が存在します。とにかく自分は楽に、良 い暮らしをして福を受けようとし、自分の教団が豊かになり、自分たちの民族は幸せに暮らそうと祈る御利益宗教は、消えていくのです。そのようなことを知っ たので、統一教会は、自分の一身を犠牲にしてでも神様を助け、神様を解放しようというのです。

 

統一して何をするのでしょうか。神様を解放し ようというのです。神様の真の権威を中心として、人類始祖と共に無限の幸福をたたえながら理想郷で暮らすことができ、侍られながら過ごすべき神様が、この ように悲惨になったという事実を知ったので、その神様を私たちの手で解放させようというのです。これは驚くべき提言です。そのような内容が宗教界から出て きたという事実は、神様にとってこの上なく喜ばしい知らせなのです。

 

 

 

15 信仰生活とは、生きて死の問題を解決し ようというものです。皆さんは、死刑囚たちについては知らないかもしれませんが、先生は死刑囚たちと一緒に過ごしてみたので、よく知っています。その人た ちは、自分の刑が執行される前、どれほど深刻か分かりません。秋夕(先祖祭祀と墓参をする旦のような日になれば、その秋夕の月を、歴史にない最後の月とし て鑑賞するのです。風が吹き、台風が吹きつけても、「ああ、自分の人生では、この台風が最後になるなあ」と言いながらそれを鑑賞するというのです。あらゆ る万象を新たに見直す、そのような深刻な心情で過ごすのです。信仰の道を行く人の中に、このように深刻な立場で天の生命を大切に秤にかけながら、一日の生 活を誓っていく者がどれほどいるのでしょうか。これは深刻な問題です。先生もそのような深刻な立場にいるので、このような道を継続して行くのです。

 

 

信仰生活は神様に侍る生活

 

16  信仰は神様に侍る生活、侍りながら共に暮らす生活です。その道を行かなければ安らかではありません。すぐに体に支障を来たします。環境に支障を来たすと いうのです。信仰生活は、天に侍って共に暮らす生活です。朝に日が昇り、お昼になり、夕方になって日が沈むのは変わりません。千年、万年変わらないので す。その軌道が狂うことになれば、すべてのものがずれていきます。愛の心、真の愛の道を訪ねていかなければなりません。真の生命、真の血統を受け継いだ人 は、神様の眷属になって、いつも神様と共に暮らすというのです。自然と共に喜びながら生き、自分が行き来する生活を喜んですることが、神様と共に暮らすこ となのです。

 

 

 

17 信仰生活には、団体の信仰生活もありますが、個人の信仰生活もあります。団体の信仰生活をすれ 平均的な恩恵は受けることができますが、個人の恩恵を受けるのは困難です。個人の恩恵を受けるための生活は、天の近くで生きる生活です。深い祈りと自分自 らの生活の中で、どれだけ天と近く生きるかによって、個人の信仰が高まるというのです。

 

 

 

18 皆さんが統一教会の仕事をするためには、新しく信仰者の覚悟をもたなければなりません。中心に対するはっきりとした信念をもたなければなりません。その中 心を世界の理想の中心と思うまでは、世界を収拾できる信仰生活ができません。信仰による人格を分別することができないのです。

 

ですから、皆 さんは、信仰の中心に対して、はっきりとした信念をもたなければなりません。山の頂上に上ることを願うならば、夜も昼も行かなければなりません。そして、 心の世界で千回、万回行ってみて、正しい道だと感じたとき、初めて行動することができます。心の底からそのようにしなければ、行動ができません。心の底で 千回、万回決心してから行かなければならないのです。自ら決心して立ち上がったので、途中で様々な危険が近づくとき、その危険を解決するために、材料を収 拾するのが信仰生活なのです。

 

 

 

19 信仰生活は、ただするのではありません。信仰生活は、頂上なら頂上を征服するために、最高峰なら最高峰を征服するために、必要な材料を収拾するのと同じで す。ですから、皆さんは困難な峠が近づけば、その峠を避けて戻るのではなく、克服して進まなければなりません。今、ぶつかっている難しいことより、もっと 難しいことに遭遇するようになっても、「私はそこで滅びない」という真剣な立場で、その困難を自分のものとして消化できる、主体的な自我を発見するために 努力しなければならないのです。

 

 

 

20 悪の分野を阻止し、善の分野を生涯路程に残そうとするのが、人間が信じて進 む信仰生活です。人間が望む最高の希望とは何でしょうか。完全に善の存在になることです。マタイによる福音書第五章四十八節に、「あなたがたの天の父が完 全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とあります。

 

絶対にして善の主体であられる神様は、その愛の対象の位置に人間が立つことを願うでしょう。ですから、人間も、神様の相対的絶対の善の存在として立つことを、最高に願うのです。

 

その相対的な存在が悪の立場に立って呻吟し、サタンに讒訴される位置に立つことを願わないのが善の主体です。これは言うまでもありません。ですから、完全な善の主体としていらっしゃる神様は、人間に対して、完全な対象的善の実体であることを望まれるのです。

 

それでは、生まれる時からそれを願ったのでしょうか。もちろんそうでしょう。また、生まれて一生の間、そのように生きることを願うのでしょうか。もちろんそうでしょう。今までもそうしましたが、未来においても、善であることを願う神様だというのです。

 

 

 

21  信仰とは、信じて敬い、仕えることです。その信仰の限界とはどこでしょうか。忍耐の信仰、克服の信仰の限界がどこまでですか。神様以上の立場に上がるま でです。神様に侍ることより、神様の頭に上がって踊りを踊っても、神様が喜んで、「さあ、踊れ」と言うことができるところまでです。そこまで上がらなけれ ばなりません。ですから、信じられないことがありません。内容さえ裏づけられるならば、信じられないことはないのです。

 

 

 

22 統一教会は、生活の中で生きた神様を信仰の対象、侍る対象とし、神様の愛から結束と統一を主張していこうというのです。これが統一教会の出発の動機です。最も理論的な基盤の上で出発した宗教です。妄想ではありません。具体的な内容を提示して出発したというのです。

 

 

 

23  侍る生活は、千年たっても自分を考えてはいけません。「私は統一教会で数十年間、先生に侍った」と考えてはいけません。そのような人を先生は好みませ ん。先生は、今までしてきたことをみな忘れてしまいました。忘れていくようになるとき、より大きな侍る生活が待っています。神様もそうなのです。

 

 

信じて希望を訪ねていく生活

 

24  信仰者は、より大きなことのために、公的な祈りを捧げなければなりません。そうして、これを横的に、どのように展開させるのでしょうか。それを空想する ことで終わるのではなく、行動の結実として表すために、創造的な冒険をしなさいというのです。ですから、信仰者は、現実の環境と不断に闘争して、理想を現 実化させるための冒険の生活をしなければなりません。したがって、信仰生活は、最高の開拓者の生活であり、最高の闘争者の生活であり、最高の伝道者の生活 です。そのような結果として現れてこそ、最高の勝利者になることができます。皆さんは、そのような信仰生活をしなければならないのです。

 

 

 

25  永遠に自分が自分を信じ、自分が自分自身を望みとして、自分が自分自身を愛しながら、「神様、私の愛をお受けください。神様、私の希望を御覧になってお 喜びください。神様、私の信仰を御覧になってお喜びください」という時、神様が「分かった!」と言うことができなければなりません。信仰を立てた目的がそ れであり、希望を探す目的がそれであり、愛を慕わしく思う目的がそれなので、そのようになれば、そこで主に相まみえるようになります。そうして、その主と 共に暮らすのです。

 

 

 

26 皆さんの善し悪しが問題ではなく、皆さん自身が神様のみ前に順応できる絶対的な信仰を もっていけるのか、ということが問題です。実績をもてずにいれば、希望だけでももちなさいというのです。希望をもつためには、絶対信仰をもつことはもちろ ん、実践的過程を築いていかなければなりません。

 

先生は、この地上の男性を代表し、誰よりも厳しい闘争の歴史を経ていかなければなりませ ん。先生は、霊界と肉界から公認される権限をもって現れましたが、皆さんはそうではありません。実績がなければ、信仰で越えればいいのです。その信仰は、 どんな信仰でなければならないのでしょうか。自分が好む信仰ではいけません。そのような信仰では、志を成就したとしても自分だけが喜ぶ志なので、神様が喜 びません。

 

自分の思いどおりにしたことは、やればやるほど神様からも、先生からも遠ざかるのです。「自分が好きだからやるのであって、嫌な らしない」と言ってはいけません。神様がお喜びにならなければなりません。問題はここにあります。先生自身もそうです。ですから、自分が実践的な生活がで きなくても、絶対に信じなさいというのです。信じればよいのです。

 

 

 

27 統一教会の教会員たちは、先生の話を絶対的に信じなければなりません。希望を求めて昔のように信じなければなりません。

 

昔、 み旨が分からない時にも、希望を抱き、愛を慕いながら進みました。皆さんが求めた道を歩みながら、そのような立場に立っていないのなら、先生のみ言を信 じ、神様の愛を信じ、その命令によって動かなければなりません。それしか方法がありません。このような道を経ていかなければならないのです。

 

し、皆さんが個人的な勝利の位置で神様の祝福を受け、家庭的な位置で祝福を受けたとしても、家庭を越えて氏族、民族、国家、世界、天宙にまで進まなければ なりません。七段階が残っています。神様のみ前にまで行こうとすれば、七段階を経なければなりません。七つの峠があるというのです。その位置まで進むため には、神様を絶対に信じなければなりません。神様がどういう命令をしようと、そこに絶対服従しなければならないのです。

 

 

悔い改めて新しい生命を得る生活

 

28  ある人は、「信仰生活は年を取ってからしよう、死ぬ時になって、信じて天国に行こう」と考えます。しかし、とんでもないことです。それでは天国に行くこ とはできません。いつ神様を中心として出発するかということが重要です。死ぬ時になって出発したとすれば、全生涯の大部分は神様に背反する立場にいたとい うことになります。ですから、それに比例して、それ以上の悔い改めをしなければなりません。それにもかかわらず、年を取ってから信じて天国に行こうと考え る人は、愚かな人なのです。

 

 

 

29 信仰生活は、み旨を知ったその日から今までの生活が、ある人は一年になり、ある 人は十年になり、あるいは半生をみ旨と共に生きてきた人もいるはずですが、これまでの生活が停止した立場だったのか、あるいは前進する立場だったのか、そ うでなければ後退する立場だったのか、ということが問題になります。

 

皆さんは、これらのどこに属するかを必ず明示して、越えていかなければ なりません。いくら過去は前進したとしても、きょう停止していれば、そこに神様の生命力が存在できません。神様の愛が存在できません。過去には前進しなが ら無限の価値と無限の生命力と無限の愛の力をもって生きたとしても、現在が停止した立場にあるとすれば、神様と離別したということなのです。

 

 

 

30 堕落した私たちが神様の生命圏と愛の圏内に入るためには、必ず悔い改めが必要です。先祖から今まで、百の罪を犯したのなら、それ以上の努力をして悔い改めなければなりません。ですから、信仰生活において悔い改めは欠かすことができません。

 

たちは、千代、万代の先祖たちを通して生まれました。その先祖たちが善の先祖たちなら、「私」は自動的に神様の生命圏内に接することができる、近い距離に いるのです。しかし、悪の先祖たちならば、神様の生命圏と遠い距離にいます。遠い距離にいる人が神様の生命圏と関係を結ぼうとすれば、先祖たちの悪をすべ て乗り越えることのできる悔い改めの期間が、絶対に必要だというのです。これを満たさなければ、自分以上の生命力の世界に接触することはできません。です から、信仰の道には必ず悔い改めの涙が必要なのです。

 

 

み言を成就する生活

 

31 信仰生活を十年 すれば、その十年の信仰生活が神様の心情と一つになるために闘ったものでなければなりません。そして、皆さんが何かと向き合ったとき、とても大きな喜びを 感じたなら、その刺激を中心として必ずそれを成就できる日が未なければなりません。そのような思いが、いつも絶えず皆さんの心の中の深い所に残っていなけ ればならないのです。

 

皆さんが難しい環境に囲まれた立場に立ったなら、「春が来れば、私がこの思いをもう一度発揮して、天の果てまで伸びていく。いつか見ていなさい。その時が来れば、私はこのように行く」という信念をもたなければならないのです。

 

 

 

32  信仰は、あくまでも実践のための動機を備えるのに必要なものです。ですから、聖書は、天国がどこにあるのかというとき、天国は信じるところにあるとは教 えませんでした。天国は私にあるといいました。「私にある」という言葉は、主体的立場が相対的世界にかかっているという意味ではありません。主体的な内容 を自分が決めなければならないということです。それを決定できる動機が人間にある、という事実を表したのです。

 

 

 

33  皆さんは、霊的に先生を通して体恤した信仰を実践舞台に適用させなければなりません。そうすれば、そこから必ず天国が広がります。神様を中心として見る とき、私が二番目なら、実践環境は三番目です。蘇生、長成、完成です。私は中心の位置に立っているので、私が天も完成させることができ、世の中も完成させ ることができます。ですから、聖書を見ても、いつも二番目が問題になっています。その二番目の位置は、どのような位置でしょうか。神様と宇宙を見るとき、 人は二番目の位置にいるのです。

 

 

 

34 人は、一つの線を中心として見れば、三点を連結するのです。ですから、人間 が完成することによって神様が完成することができ、人間が完成することによって宇宙が完成することができます。そのような自分が今、開拓の途上で絶対に必 要なことは、この二つの世界を調整するための体恤と実践です。体恤が霊的な面を言うとすれば、実践は真理的な面を言い、体恤が右側ならば実践は左側です。 これが一致して平衡を保ち、私の人格基準の前に完結させることによって、宇宙を代表した神様の息子として登場することができるのです。

 

 

 

35  実績がなければなりません。戦場に出ていき、一人だけであっても、勝利の戦果をもつことが問題です。実践は、いい加減な実践ではありません。神様の代身 者として、一家を代表し、一国を代表して、感服させ得る実践過程を経るには、血のにじむ闘争がなければなりません。笑いながら歩んではいけません。死ぬか 生きるかという深刻な立場で実践することによって、そこに比例した実績が自然に現れるのです。ですから、最高の実力を発揮して実績を残すべき時なのです。

 

 

第二節 信仰生活の目標

 

 

天聖経  第八篇 目次   第一章 信仰生活とは何か

第二節 信仰生活の目標

 

 

 

1 習慣的な信仰生活は危険です。そのような信仰生活は、絶えず活動するサタンに讒訴条件を提示する要因になります。人々が復帰路程を歩んでいくにつれて、一人も失うまいとするサタンは、あらゆる方法を通して再侵犯の機会を狙っています。サタンは、個々人が立てた蕩減条件によって一個人から離れていかなければなりませんが、また再び家庭的次元、民族的次元において、侵犯することもあり得るのです。

 

ですから、ある意味では、厳格な戒律が信仰生活に有益です。習慣に依存した世俗的な生活は、皆さん自身を過去の生活に簡単に引き込む傾向があるので、真の生活の方法になり得ません。人間は、ただ真の愛と持続的な自己犠牲の生活をするとき、初めてサタンを克服できます。したがって、困難でも公義を実行するとき、人間の偉大な充足感も得ることができます。皆さん全員が、このような生活を営まなければならないのです。

 

 

信仰生活をする理由

 

2 人は良心と体があります。体が引き寄せ、体が広がり、欲望を広げれば、中心が縮みます。体が思いどおりにすれば、良心の世界は零に戻ります。引っ張って下りてくるのです。これをなくせば、縦的に高まります。縦的な基準において神様のみ前に完成基準を立てられなかったので、そこに到達するためには、世の中のどんな愛よりも最高の精誠を尽くさなければなりません。世の中の愛以上の愛を投入してこそ、長成期完成級から完成期に行き、直接主管と間接主管の一体圏を中心として、責任分担の完成圏を乗り越えるのです。それが原理観なのです。

 

 

 

3 純粋な宗教であるほど、体を打つのです。特にキリスト(カトリック)教徒たちが独身生活をしますが、社会と万民のために犠牲になり、奉仕しなさいというのです。キリスト教では、「城の頂上の石にならずに、隅のかしら石になりなさい」、「柱の中でも正門の柱にならずに、垣根の柱になりなさい」と教えています。

 

聖書の教えは、すべて、体が願うことと反対です。堕落した心と体を、二つともそのまま放っておいてはいけません。ですから、体が喜ぶことの反対側に追いやるのです。そうしてこそ、体の願うことが除去されるからです。純粋で最も高次的な宗教は、体が願う方向の反対に追いやる宗教なのです。

 

 

 

4 信仰の道においては、自己主張や自我観念はあり得ません。絶対的な信仰は、自我観念が一つも残らない信仰を言います。絶対的に信じるというときは、「私」自体に絶対的に反対する要因が一つもあってはいけません。神様を中心として一つになろうというところに、自己主張はあり得ません。主体が求めるとおり、完全に一致しなければなりません。完全に一致するということは、自分自ら主張できる一片の心もないのです。

 

信仰生活をしながら自分の思いどおりに主張できるところがあるとすれば、その場所は天国ではありません。自分の思いどおりに願うところでは、いくらよく信じたとしても、そこは天国ではありません。このような根本問題を中心として、皆さんは深刻に考えなければなりません。先生も、そのような問題を中心として深刻に考えるというのです。

 

 

 

5 個人的に解決し難いことにぶつかった人は、自分よりも信仰において立派な人、自分よりも上にいる人を訪ねて、率直に打ち明けて話さなければなりません。「私は、私ではなく、彼に従っていく人になろう」と考えなければなりません。彼が「右に行きなさい」と言えば右に行き、「左に行きなさい」と言えば左に行くのです。また「上がりなさい」と言えば上がり、「下りなさい」と言えば下りるのです。「私のために生きるのではなく、指導する人の代わりになろう」と考えれば、その環境を避けて行ける道があるのです。

 

ですから、信仰生活において同志が必要です。同志のいない人は寂しい人です。同志がいれば、互いに補充し、保護できるというのです。そうすることによって、環境の困難を克服できる道も生まれます。もし同志がいなければ、自分ですべて解決しなければなりませんが、前後関係を一人で解決できる能力がない自分では、とても難しいのです。

 

 

 

6 堕落した人間は、サタンによって生命が始まったので、自分自身を否定しなければ神様の生命と連結できません。ですから、生命を投げ出す方法しかありません。それでは、生命の統一はどこで起こるのでしょうか。堕落した生命を捨てるところ、すなわち自分の生命を犠牲にする、その果てにおいて神様の新しい生命と関係が結ばれるのです。ですから、信仰の道は、み旨のために行く道であり、一つになるための道であり、命を懸けて行く道なのです。

 

 

 

7 先生は、皆さんが部屋の中で笑いながら話をしても、すぐにその感じが伝わってきます。この笑いが神様のみ前にプラスとなる笑いなのか、マイナスとなる笑いなのか、その感じが伝わってくるというのです。皆さんもそれができるように、習慣化して発展させていかなければなりません。

 

ですから、自分を中心として起きる周囲のすべての要件には、無意味なものは一つもありません。すべてのことが、私を啓発させ、発展させるための一つの教材として登場するのです。そのような生活態度が必要です。一人だからといって、自分勝手にはできないのです。

 

このような生活態度を中心として生活すれば、初めて会う人でも、面識のある人でも、誰であっても、いい加減に接することはできません。初めて会う人だから、適当に扱えばいいだろうと考えてはいけません。その人がどんな人なのか分からないではないかというのです。ですから、このようなあらゆる心情的基準を中心として、体恤する環境を開発する生活をしなければなりません。そのように、あらゆることにおいて、間違いなく効果的な価値を発見して喜びを感じたとすれば、その人の信仰生活は、観念的な信仰ではなく、実質的な信仰生活であり、神様と共に生きる信仰生活です。

 

 

 

8 信仰生活は切実でなければなりません。おなかのすいた人が御飯を恋しく思うこと、母を失った子女が母を探すのと同様に、そのような切実な心が先に立たなければなりません。信仰の道や信仰の目的というのは、見えるものではないからです。神様のみ旨が見えますか。神様のみ旨は、人を通して成就されるまでは見えないのです。

 

世の中では、すべて計画し、設計し、予算を編成して広げていきますが、神様のみ旨は、目で見ることもできず、触ることもできません。ですから、その見えない世界を追求し、それに対する目的を現実として成就していくことは、とても難しい課題です。

 

皆さんの目は、見えないものを見るようになっているのではなく、見えるものを見るようになっています。また感じるのも、見えないものを見聞きして感じるようになっているのではなく、見えるものを見て感じるようになっています。必ず五官の作用は、見える世界を見て、聞いて、触って、感じるようになっているのです。

 

 

 

9 信仰の道とは何でしょうか。見える世界で感じる感覚よりも、見えない世界で一層強い感覚を感じるようになれば、その人は絶対に疲れることがないというのです。外的な世の中のことは、すべて見えるものによって動きますが、信仰の道は、見えないものを追求していくので、その目的が漠然とするときには力が出ないのです。

 

 

神様との父子関係回復

 

10 統一教会の人たちは、何を信仰生活の目標にして生きなければならないのでしょうか。父母の心情をもち、僕の体をまとい、十字架の道を行くことを目標にして生きるべきでしょう。僕の体というのも、ふさわしくない言葉です。父の命を奪った殺人者の体です。ですから、これを蕩減するための道を行かなければなりません。イエス様は、罪がなくてもその道を行きましたが、父の命を奪った罪人である私たちは、百回、千回でもこの道を行かなければならないのです。

 

 

 

11 人間が神様に対して切ない心情で深刻に訴えても、神様を探し出すことができなかったのは、人間が堕落によって神様と父子関係が結ばれなかったからであり、天倫にかなう愛の関係が結ばれなかったからです。ですから、人間がこのような立場に落ちるようになった原因と内容を知らなければならず、サタンの真相をはっきりと明かして、本来の立場を回復しなければなりません。言葉によって結ばれる父子の関係、約束だけで結ばれる父子の関係は必要ありません。心を尽くし、力を尽くして父のみ旨のために生き、骨肉が溶け出す苦痛の中でも耐えて勝利するようになるとき、私たちは、神様と父子の関係を回復できるのです。

 

 

 

12 神様のみ手によって造られた万物、神様のみ言によって実現された万物、その栄光を想像してみてください。今日の天と地は、そのようにはなっていません。それは、恨めしく、悔しいことです。創造の動機と目的もこのようなものではありませんでしたが、思ってもいない人間の堕落によって、創造の動機と目的を蹂躙した結果になってしまいました。

 

堕落は、苦痛と悲しみと不幸の源泉になり、人間が嫌うあらゆることの原因になりました。怨讐とは、刃物を持った人だけではありません。堕落、これこそが人類の怨讐であり、万物の怨讐であり、創造主の怨讐です。この怨讐は、どこから始まったのでしょうか。人間の先祖から始まりました。ですから、命懸けの闘争ももちろん必要ですが、この罪悪の根を抜いてしまうためには、堕落の本拠地を抜本的に取り除き、爆破して切ってしまわなければなりません。そうしてこそ、地上の人間と関係を結ぶことができなくなります。それがまだ残っているので、世の中に罪悪が蔓延するのです。

 

信仰者は、結果的なものを中心として闘争するのではなく、堕落の本拠地を探すところに第一の目標を置かなければなりません。怨讐の根拠地、堕落の源泉を求めて、神様と人間とサタンの三者間で、その問題を解決しなければなりません。そうでなければ、不幸の端緒は解けないのです。

 

 

 

13 人間が真の息子、娘の立場で神様を「父」と呼ぶことが人類の希望であり、すべての万物の願いであり、神様の願いです。ですから、私たちは、この地上で神様の真の息子、娘として復帰の運命を打開していかなければなりませんが、ここで私たちがただ一つ望むものがあるとすれば、真の愛を中心として神様と父子の関係を回復することです。

 

 

 

14 喜びと悲しみは、天国と地獄という言葉で代わりに表されます。先生は、この道に初めて立ち上がった時、宇宙の根本とは何かを考え、掘り下げていきました。それは父と息子の関係です。したがって、復帰の根本内容は、父子の関係なのです。歴史は、この関係を復帰させておかなければなりません。ですから、復帰歴史は、本然の父と息子、娘の関係を回復するものです。

 

 

 

15 私たちは、絶対的な父の前に、真の息子、娘として立つために、新しい信仰によってあらゆる疑いの世界、死亡の世界、罪悪の世界、恐怖の世界を越えなければなりません。私たちは、天が求める信仰の内容が分かれば、それを立証させる基準を立て、天のみ前に出なければなりません。それができなければ、神様の真の息子、娘になることができません。

 

このような信仰をもって立ち上がるとき、皆さんは神様と永遠の関係を結ぶことができ、永遠の善と永遠の生命を享受することができ、苦痛から永遠の解放を受けることができ、永遠の天国圏内で暮らしていけることを肝に銘じなければなりません。

 

 

 

16 人間は、父母がいなければ寂しく思い、夫婦がいなければ寂しく思い、自分と自分の家庭を保護してくれる国家がなければ寂しく思います。これが人間の相互の情として現れています。このように変わる関係でも寂しく思うのに、永遠の理念を中心とした関係を結べないことを寂しく思わないでしょうか。このように人間は、地上ですべての条件を備えても、そこに加えて天倫の永遠の関係を、また望むようになっているのです。

 

 

 

17 信仰者たちは、変わる理念的な条件をもって生きてはいけません。変わらない不変の関係を回復するのですが、その関係は別々に分かれたものではなく、自分が生きる生活圏内で全体が一つに連結されているという事実を知り、自ら神様と関係を結んで生きなければなりません。神様と関係を結ぶ、それが実証的な価値を回復し、神様を心に迎えて生きる、すなわち神様と一体の関係の中で暮らすことができるのです。

 

そのような生活をするようにさせてくれる神様の実体を感じるとすれば、その価値は部分的な価値ではありません。そのように全体的な価値が実現される環境を回復するようになる時、個体と全体の価値は自分を中心として動き始めるというのです。

 

 

 

18 統一教会の信仰観は、今までの信仰観とは異なります。今までは、イエス様と聖書を中心として、すなわち救世主という言葉を中心として漠然と信じてきました。しかし、私たちは、父母という言葉を中心として神様と父子の関係を備え、子女の立場で信じています。父母と子女は、離そうとしても離すことのできない関係をもっています。生まれる時もそうであり、生きていてもそうであり、死ぬ時もそうなのです。

 

ですから、皆さんは、父母を離れては生活することもできず、活動することもできません。宇宙史的な中心であるその父母は、父母自身だけの関係をもってきたのではなく、神様を中心とした絶対的な関係をもってきました。したがって、皆さんは、神様とその父母が一致したところに連結されなければ、責任を完遂することができず、目的を達成することができません。最も重要なのは、神様と父母と「私」がいつも一致しなければならないということです。

 

 

 

19 人間の嘆きは何であり、全被造万物の嘆きは何でしょうか。人間が天の家庭の家族として参与できないことです。これが天宙の嘆きです。今日、私たちが信仰生活をする目標は、ほかのことではありません。神様に対して「お父様!」と呼ぶことです。父の真の子女として、人類全体が兄弟となって喜び、神様を「父」と呼ぶことのできるそのひと日を迎えるために、神様が六千年間、復帰摂理をしてこられたというのです。

 

 

霊的成熟のために

 

20 イエス様は、どうして自らを「神のひとり子」とおっしゃったのでしょうか。イエス様が、このように人間が到底信じられない条件を提示されたのは、彼らにこれを信じれば瞬間的に飛躍できる恩恵を与えるためでした。人間が無限の信仰でイエス様を信じ、心から天に向かって叫ぶようになれば、飛躍的に信仰が成長するようになります。

 

天国の中心に向かう皆さんの信仰の程度が高ければ高いほど、それだけ霊界も皆さんを通してより大きく役事(働き)することができ、皆さんが無限の信仰心を所有するならば、皆さんのその人格を通して、皆さんが想像できないほどの超感覚的な世界の事実と、宇宙の事実を、一時に感じることができます。ところが、人間はこのような驚くべきものを失ってしまいました。

 

行って行って、また行かなければならないのが無限の世界を指向している信仰者の姿勢だとすれば、ある限界圏内にとどまらせる信仰を主張する群れをはねのけるために、終わりの日には、宇宙的な大きな闘いをしなければならないのです。

 

 

 

21 本来、人間は、霊肉を通してこそ完全な人間になります。しかし、イエス様が霊的父母の立場にのみいらっしゃれば、霊的救援、つまり半分の救援しかできない立場になります。ですから、残りの半分の救援、すなわち肉的救援をするために再臨主がこの地にいらっしゃらなければなりません。そうして、その再臨主が、イエス様を信じて逝った霊人たちと全世界に散らばっているキリスト教徒を一つに統一して神様のみ前に捧げることによって、第三イスラエルの出発をすることができます。霊的な第二イスラエル民族になるためには、洗礼を通さなければなりませんでしたが、今後、来られる主を中心として第三イスラエルになるためには、祝福の門を通らなければならないのです。

 

 

 

22 アダムとエバの誤った愛によって堕落したので、これを蕩減復帰するためには、神様の愛を中心として祝福の関門を通して、新郎と新婦の関係を結ばなければなりません。そのようにしなければ、天国に行くことはできません。イエス様もこのような責任を全うすることができませんでした。このことを救世主が再び現れて行わなければ、地上のすべてのものの根を通さなければ、この地上の絡み合ったものを収拾する方法がありません。ですから、けそれに対する責任を全うしなればならないのです。

 

 

 

23 イエス様が十字架にかけられたために、肉身をもった真の父母は実現されませんでした。すなわち神様の血統である息子は立てられましたが、霊肉ともの真の父母の顕現は実現されなかったのです。霊界にだけ限定され、霊的救援のみ行ってきたのであり、肉的救援、すなわち体の贖罪は実現されなかったのです。結局、今日までキリスト教には、霊的な父と霊的な母しかいませんでした。

 

ですから、真の父母がいらっしゃれば、私たちは、その父母によって霊肉が共に生まれ変わるために条件的、あるいは象徴的に母の胎内に入り、新しい生命として再びよみがえらなければなりません。私たちは、そのための路程を求めながら歩んでいるのです。

 

 

 

24 肉身と霊人体を中心として見るとき、より重要なものは肉ではなく霊だというのです。肉は七十、八十年の時間圏、限界圏内で生きては消えてしまいますが、霊は時間圏を超越し、空間圏まで超越できる権限をもっています。したがって、歴史的な責任を悟り、その責任を果たすことが人間の本義です。皆さんがいくら肉身を中心として裕福に暮らしても、結局は死ぬようになります。いずれにせよ肉身は死ぬようになっているのです。

 

 

 

25 イエス様の当時、洗礼ヨハネが家庭的にイエス様を迎えることができなかったために、イエス様が代わりに蕩減を受けたのと同様に、キリスト教文化圏が再臨主を迎えられないことによって、洗礼ヨハネ的なキリスト教の代わりに統一教会をつくってきたのです。ですから、統一教会は再臨時代において、世界的な版図のユダヤ教と同じです。

 

イスラエルの国と同じ立場にいるアメリカや自由世界が一つにならなければならないのですが、彼らがみな反対したのです。韓国もそうです。神様が新約時代にイエス様を通して霊的救援摂理をしてきたのですが、統一教会は、実体の国を求めて霊肉ともの救援摂理をしてきたのです。終わりの日を迎えて、世界的版図の霊的基盤をもったキリスト教が先生と完全に一つになれば、肉的基盤が連結されるのは問題ないのです。

 

 

 

26 私たちは、先にサタン世界から抜け出さなければなりません。そして、外界の人たちとは違う感情をもたなければなりません。神様の愛を体恤できなければならないのです。サタンが愛するものを憎悪しなければなりません。そして、全世界のために私たち自身を犠牲にしなければなりません。

 

先生を中心として、皆さんが個人、家庭、氏族、民族、国家、そして世界的に勝利すれば、私たちは、第三イスラエルとして、イスラエル選民、または霊的なイスラエルを再建することができます。そのようになれば、神様は、私たちを通して全人類を霊肉両面で救援なさることができるのです。

 

 

 

27 霊的な基準と肉的な基準のうち、どちらがより重要でしょうか。私たちは、肉的な基準だけを中心として生きていくのではありません。肉は霊のために、霊は肉のために存在するのです。皆さんは、世の中の人たちが生きていくような立場にしがみついてはいけません。皆さんは、霊肉が一つになった実体を備えて、よりやり甲斐のある立場で出発しなければなりません。これが統一理念をもった皆さんが行くべき道にもかかわらず、肉身を中心として食べて暮らすことが重要だと考える人がかなりいます。しかし、それはすべて条件に引っ掛かるようになっているのです。

 

 

真の父母様の命の中で成長

 

28 神様の願いと人類の希望の帰着点となり、信仰者が勝利できる起点となる一つの基盤とは何でしょうか。神様の恨の起源は、人類が偽りの父母から出発したことなので、真の父母の神聖な関係を中心として、その前に順応する群れになることです。そのようにすることによって、初めて天地が解放され、天国の門が開くというのです。

 

 

 

29 真の家庭には、真の父母がいなければならず、真の男性と真の女性、真の夫婦、真の子女がいなければなりません。一番の中心は何でしょうか。個人の目的も真の父母であり、男性と女性の目的も真の父母だということです。真の父母になって、息子、娘をもち、家庭をもつのです。それで統一教会は、「真の父母様を信仰しよう」、「真の父母を信じよう」というのです。信じるというのは、明確ではないからです。明確ではないので、信じるのです。明確であれば、信じる立場を越えられるのです。

 

今まで明確に知らなかったので信じましたが、明確に知ってしまえば、信じるのではありません。今までは自分がなぜ生まれたのか、私たち夫婦とは何か、子女とは何か、家庭とは何かを知りませんでした。しかし、私たちは、真の父母の家庭を信じるのではなく、真の父母様の家庭を知っているのです。皆さんは、真の父母を知っているというのです。信じるのではありません。真の父母を信じていると考えずに、知っていると考えなければなりません。その次には、真の父母と生活をしなければなりません。真の父母と共に生きなければならないのです。

 

 

 

30 メシヤは、堕落していない完成した真の父母です。真の父母が現れてこそ、一つの軸となって、神様と人間が連結されるのです。神様は、霊的な真の父母であり、アダムとエバが完成すれば、実体的な地の真の父母になります。この軸ができているので一つになるのです。

 

今までの宗教は、真の父母の基準がなかったので、地上で連結できる道がありませんでした。いつも精誠を捧げ続け、天と相対的基準を合わせて霊的に出会うのです。ですから、たくさんの信仰者が精誠を捧げて、捧げて、捧げる継続的な修道の生活を通して、だんだんと霊的に橋を架けて、天と出会う生活をしてきたのです。

 

 

 

31 偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統によって生まれたものを切ってしまい、真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木して生き返ることが、人類が行くべき道であり、個人全体が行くべき道なのです。宗教が出てきたのは、体を征服して一つにするためです。このような立場で真の愛と一つになり、この地上で暮らして天国に行くことができる息子、娘たちを、皆さんが生まなければなりません。

 

宗教を信じなくても天の国に行ける真の息子、娘を生むことができる人にはなっていません。ですから、宗教が出てきて体を征服して一つにし、真の父母と一つになって接ぎ木しなければなりません。偽りのオリーブの木が真のオリーブの木になるのです。真の息子、娘を生み、この地上で暮らしてから永遠のあの世に、天国に入っていくのが創造理想です。

 

 

 

32 真の父母は、地獄の底から天上の位置にまで行くのです。その真の父母のみ旨に従って真の父母と心情一体となり、生活理想一体となれば、真の愛を中心として行く真の父母とその人は隔たりがありません。縦的に立てて蕩減したものが、横的に入ってくるのです。

 

個人復帰、家庭復帰、氏族、民族、国家、世界、天宙復帰と神様解放圏まで行ってこそ、八段階の基準がすべてなくなるのです。そのように横的になされることによって、個人が家庭、氏族、民族に行けます。個人は思いどおりに家庭に行き、家庭は氏族に、氏族は思いどおりに民族に行けるので、個人から出発して世の中の果てまで行って、帰ってこれるのです。

 

 

第三節 信仰生活の道

 

 

天聖経  第八篇 目次   第一章 信仰生活とは何か

第三節 信仰生活の道

 

 

 

1 人間は、堕落した人類始祖の子孫として生まれたので、堕落の峠を越えなければ神様を訪ねることができる道はなく、天の国に入ることさえできません。また、堕落性をもった存在に落ちた人間としては、堕落した峠を再び越える道を模索したとしても、自分では不可能です。堕落した峠を再び越えるには、必ず自分の力ではない、第三者の力に頼らざるを得ません。このような境遇に置かれているのが、今日この地上に生きている私たちなのですが、有り難くも、天は私たちを放置されず、堕落の峠を越えさせるために、今まで歴史を通して試練しながら、その責任を担ってきているのです。

 

 

神様のみ旨どおりに生きる道

 

 

 

2 真の信仰の道というとき、真とは一つしかありません。信仰の対象とは誰でしょうか。絶対的な神様です。信仰生活とは、神様のみ旨に合うように、神様が願う目的地を訪ねていくためのものです。「私」が願うものではないというのです。信仰する人たちが願うものではありません。今まで信仰界の混乱が世界的に広がったのは、信仰の目的が自分を中心としてするのではなく、神様のみ旨を成就するためのものであることが分かっていないからです。

 

 

 

3 すべてのことが自分と連結されています。完成するのも自らにかかっていて、完成できないのも自らにかかっています。

 

成功するのも自らにかかっていて、成功できないのも自らにかかっています。信仰生活もそうです。一生涯、同じ信仰生活をしますが、本来、良心を中心として最高の目標に到達したいというのは、万民共通です。

 

しかし、最高の基準に到連するというのは並大抵のことではありません。上がれば上がるほど、最後にはだんだんと少なくなります。最後には、一つで全体が完成するという結論が出るのですが、その一つに到達するのが難しいのです。今まで歴史を通して良心は、善の目的に向かってきましたが、人間が願うところを完成するというのは、並大抵のことではないのです。

 

 

 

4 生活の中で、どんな立場で天と同行するかという評価の基準を育てる生活が、統一教会の信仰生活です。これが皆さんがあの世に行ったとき、財産になり、今後、新しい世代が歴史の主人公になるのか、あるいは落伍者になるのかを決める境界線になるのです。

 

 

 

5 私たちには勝利基準が必要です。使命を完遂できる出発の起点が必要です。これは、自分が主体的立場で勝利基準を立てなければならないということです。そうでなければ、目的とするところを実現させられないというのは、当然の論理です。それでは、勝利基準をどこに立てるのでしょうか。それは、「私」自身に立てなければならないのです。

 

 

 

6 イエス様がこの地に来て、神様の全体の使命を代わりに背負い、天宙において起こったこの闘いを完結するための責任者として立った時、いつも問題視したのが神様とイエス様御自身のことでした。神様は、天宙の中心にならなければならず、イエス様は実体の中心にならなければなりませんでした。これをいつも念頭に置いていたのです。もし、ここに間隔が広がり、一つの目的の基準を中心として相いれないことが広がるようになるときは、勝利の方向に前進できないのです。

 

 

 

7 イエス様がいつも心中で深く考えたこととは何かというと、「父と息子はいつも一つにならなければならない」ということでした。すなわち勝利的主体である神様を中心として、自分が地において主体的な立場で勝利的基盤を備えるためには、まず自分の心に神様を迎えなければならないという認識をもっていたのです。そのような立場でイエス様が自分のことを「神の宮である」と言った話が成立するのです。結局、勝利の基準とは、地で神様の実体となるイエス様を中心として、聖殿と同じ立場で一体になる基盤です。

 

すなわち、勝利の基準を決定することを標準としなければ、復帰の完結や、あるいはその当時、イエス様の使命を終結させる方法がないというのです。このような観点から信仰の基準を立てて出発しなければ、いくら信仰生活を長くしたとしても、いくら困難な路程を経過したとしても、勝利の基準を備えた立場に立ったと言うことができません。ですから、一番大きな問題は、勝利の基準を、自分自体内でまず決定できるひと時をもたなければならないということであると結論を下せるのです。

 

 

 

8 皆さんが真を求めようとするときには、真を求める心が必要だということを感じなければならず、天と地が喜ぶことのできる真理を探そうと願うときには、皆さんの体が自ら真の体になる真の相対基準を備えなければならないことを悟らなければなりません。

 

真であられる神様と真の真理と真の人間は、それぞれその存在の在り方が異なりますが、内的基準においては同じ方向に向かって動いています。すなわち、神様と真理は同じ方向に向かって永遠に実存するというのです。

 

今日、私たちが生きているこの地を見つめ、誰でもこの世が真の世の中になり得ないことを嘆いています。また、自分自身を反省してみながら、真の自身になれないことを嘆き、私たちが信仰の道を歩みながら真の神様と出会うことを願いますが、真の神様と出会えないことを嘆いています。これが信仰者たちの苦痛なのです。

 

 

 

9 私たちが命を懸けて信じるのを見るとき、単に流れる世の荒波とともに流れてしまうことを願って信じる人はいないはずです。生涯をかけて深刻な立場で信じれば信じるほど、その問題が重要であればあるほど、誰でも、それが深く、広く、あるいは長く残されることを願うでしょう。神様が私たちを見つめるとき、深刻な神様ならば誰よりも深刻な観点で自分を見てくれることを望むのが、私たちの願いでしょう。また、自分が起点となって世界に何かが残ることを願うのが、信仰者として誰もがもたざるを得ない態度なのです。

 

 

 

10 信仰をもつ人たちは、「神様の息子になる」と言いますが、神様の願いとは何でしょうか。神様の願いは、私たちが寝食を中心とする日常生活とは関連がありません。それは誰でもすることです。聖書には、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三一~三三)と定義されているのです。

 

 

 

11 環境を克服して一つの新しい面の突破口をつくり、毎日のように方向を異にする道を訪ねていかなければ、神様が願う世界に行けないのが信仰の道です。ですから、私たち自身が信仰の道を行くためには、「私」の力が不足し、私自身が神様を中心とした習慣的基準、生活的基準をもつことができないことによって、これが変わりやすいので、私たちは、いつも神様を標準としてきょうの生活を調整しなければならないのです。

 

 

堕落性を脱いでいく道

 

12 人間は、本来、ために生きることのできる一つの中心と連結され、自分の生を出発するようになっていましたが、堕落によって誰かのために生きるところから自分の生を出発できず、自分自身のために生きるところから生を出発するようになり、あらゆるものを自己中心にのみ考えて関係を結ぼうとするようになりました。永遠の自由と平和を目標にして進む私たちは、あらゆるものを自分のために帰結させようとする堕落性を脱いでしまい、自分を越えて、まず誰かのために生きられる自らにならなければならないのです。

 

 

 

13 私たちは、自分を誇る前に、堕落の氏族であることを自ら認めなければなりません。自分の何かを表す前に、堕落性に染まった罪悪歴史を表し、罪悪の本性を告白しなければなりません。このような立場に置かれているにもかかわらず、そのような立場を避けています。天は必ず、歴史的に染まった罪状を清算しなければならず、血統的に結ばれてきた罪悪の怨恨を解かなければならないのです。

 

 

 

14 同僚や師弟、あるいは家庭において、「私」と関係を結んだ人たちの中で、弁解する人を好む人がいるか、見てみてください。皆さんは、自分に何か起これば、「あの人もそうだ」と言いながら、他の人を引っ張り込もうとします。「誰々もそうだったのに、弟や妹もそうだったのに、なぜ私だけ叱るのか」と言うのです。これは、偽りです。自分が誤ったなら、率直でなければならないにもかかわらず、他の人にかみついて引き込もうとするというのです。これが堕落性です。ですから、日常生活において率直になりなさいというのです。神様のみ前では、より一層率直にならなければなりません。

 

 

 

15 完全な物が一つの目的のために結合するとき、完成された物になります。一つの家が完成するには、扉や、そこに所属する一切の付属品が完全でなければなりません。それでこそ、一つの家が完成します。このような問題を見るとき、完全な個体を追求するようになります。ですから、マタイによる福音書第五章四十八節で、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とあるのです。その標準が、天が完全であるようにあなた方も完全になりなさい、というものです。

 

絶対に近い対象的な価値を追求することは言うまでもありません。絶対者の前に対象として立つのに恥ずかしくない完全品を求めるのです。そうだとすれば、私たちの生活から分析しなければなりません。生活をすべて掘り返してみなければならず、私たちの考えもすべて掘り返してみなければなりません。私たちの四肢五体、私たちの感覚器官までも分析しなければなりません。「私」が感じることも、すべて昔とは違っていなければならないのです。

 

 

 

16 堕落した人間に肯定的な要因が残っているときは、堕落性をもっているという結論が出てきます。このように見てみるとき、完全に分解しなければなりません。その形態とその要素をそのまま連結させるところには、堕落性の要因が残っています。それは、完全分解、完全否定ではありません。完全分解というのは完全否定です。真の人間の本然の理想的な所願成就の道は、堕落した人間に肯定的な要因が存在していては、出てこないのです。このように結論を下すことができます。

 

ですから、真の神様が宗教を通して彼の摂理の目的を追求していらっしゃるとすれば、その神様が主張する行路、路程は、肯定ではなく絶対否定です。絶対否定で出発した基準が出てこなければ、堕落した人間の前に、絶対者の相対理念を成就できる道は出てこないのです。

 

 

 

17 堕落性を完全に脱がなければなりません。堕落性を完全に脱ぐためには、自分個人から脱がなければなりません。そうして、個人において勝利しなければならず、家庭において勝利しなければならず、民族、国家、世界、天宙まで勝利しなければなりません。これが堕落性からの解放圏です。ですから、それを克服できる相対的な自分を発見するようになるときは、直ちに神様が主管しているものが分かるようになります。信じるのではなく、「私」が神様と共にいることが分かるようになるのです。

 

 

 

18 皆さんが天のみ前に立つとき、足りない自分自身を発見しなければならず、罪人であることを認識しなければなりません。そして、神様が思いどおりにできる泥土のように、土くれのようになりなさいというのです。皆さん自身が存在するということを自ら認めては、不可能です。ですから、「死なんとする者は生きん」という言葉が、そこから成立します。

 

この目が堕落性をもっていて、この耳が堕落性をもっていて、この口が堕落性をもっていて、この体が堕落性をもっています。これを完全に排除してしまいなさいというのです。神様が願われるとおりに、このように造り出せばこのように行き、あのように造り出せばあのように行き、「突撃しなさい」と言えば突撃し、「後退しなさい」と言えば後退しなければなりません。神様が願うとおりにできなければならないのです。

 

 

 

19 認識や意識を変えるというのは、恐ろしくて難しいことです。一度誤った習慣を身につけると直すのが困難です。それで「三つ子の魂百まで」という言葉があるのです。

 

皆さんが統一教会に入ってきて数十年になっても、社会で生きていた習慣性が根絶されていないというのです。「み旨のために犠牲になりなさい、犠牲になりなさい」という話はしますが、本当に犠牲になったでしょうか。犠牲になる立場と犠牲にならずに行ける立場を選びなさいと言うなら、「犠牲になる立場に行こう」と、自信をもって言える皆さんになっているかというのです。そうはなっていません。生活する人間の歴史的伝統によって、習慣性がそのようになっているからです。

 

パウロのような人も、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ七・二四)と言いました。それも習慣性のためです。二つの法があり、心は神様の法に従い、体はサタンの法に従う、その中間に自分自身が置かれているので「ああ!」と言いながら嘆いたというのです。この死の陰から誰が救ってくれるのかという話です。

 

 

 

20 生涯の何年間にわたって身につけられた習慣性をなくすためには、死ぬほど努力しても足りないというのです。言い換えれば、何百万年も続いてきた習慣性と堕落性を抜き取るというのは、数世紀の人生路程をもってしてもできないというのが理論的です。これは深刻なことです。

 

皆さんは、堕落性についてただ漠然と話しています。それは、食べることによって身についた習慣ではありません。骨肉を受けて継承し、血統を受けて継承したものです。そして、血肉を混ぜてできた習慣性です。人の力では抜き取ることのできない根を、そこに下ろしています。世界万民を抱えるかのような、巨大な木のようになっているのです。

 

 

 

21 堕落性に対する自覚、堕落の恨に対する自覚をしなければなりません。エデンから追い出されて涙を流したアダムとエバを考えてみてください。それを回想するのです。それ以上に懇切に父母を求め、一つになろうとする心に徹し、千年、万年、死の峠があっても、それを何度でも越えようという心が先に立たなければなりません。ですから、心と体が一つになるところを探さなければ、勝利の覇権基盤が地上に横的に展開しても、「私」と関係を結ぶことができないのです。

 

 

本然の自分を探す道

 

22 皆さんは、取り戻すべき本然の自分を置いたまま、喜ぶことのできない自らであることを知らなければなりません。悲しみに置かれている自らであることを知らなければならないのです。しかし、ある世界を見て悲しく思うのではありません。悲しみや苦痛を感じるとしても、ある相対的な世界で起こる悲しみや苦痛を感じるのではなく、「真の私」を探せない悲しみ、真の私を探せない苦痛を感じなければなりません。世の中に悲しみと苦痛がたくさんあるとしても、真の私を探せない悲しみと苦痛よりひどい苦痛と悲しみはありません。

 

それでは、創造主である神様は、今まで誰を求め続けていらっしゃいますか。皆さん自体、すなわち私を訪ねてきていらっしゃいます。ですから、真の私が完全に決定されなければなりません。そうすることができないとき、完全に一つの実体を中心とした真の家庭、真の家庭を中心とした社会、国家、さらには国家を単位とした世界、世界を単位とした天宙とは、関係を結ぶことができません。ですから、完全な私になることが、すべての段階の一番の基準になるのです。

 

 

 

23 人間は、神様のみ言に背いたために、神様のみ言を失い、神様の実体を失い、神様の愛を失ってしまいました。神様がみ言を語られるときの心情はどうであり、実体を造るときの心情はどうであり、その実体を通して誇ろうとしていた神様の内的心情はどうだったのでしょうか。このようなことを考えるとき、私たちは、神様のみ言を失った者であり、本然の実体を失った者であり、神様の理念の園を動かせる愛の実体を失った者だというのです。

 

ですから、私たちは、自分を立てて誇ることのできない罪人だと悟らなければなりません。また、自分の実体を立てて主導する行事ができない存在であり、自分の心を立てて安息の基盤を求められない存在であることを知らなければならないのです。

 

 

 

24 心は、行く道をしきりに止めようとします。「背を向けなさい。昔に帰りなさい。心の深いところに帰りなさい」と言います。ですから、仏教では「座禅をしなさい」と言うのです。本然の私を、本然の心を求めていかなければならないのは、悲しいこの地上の生活であり、今日、この地上の現実ですが、昔に帰ってこれを清算したのちには、夢にでも過去を考えたくないというのです。これをなくしてしまおうとするのが神様の目的です。ですから、新しい理想世界と新しい希望に酔いしれて生きなければなりません。

 

 

 

25 世の中の人が求めるのは、良いものを食べようとし、良いものを着ようとするのです。しかし、修行の道を行く人は、悪いものを食べようとするのが本質にならなければなりません。反対です。良いのを食べられず、良いのを着られず、貧しくとも、本然の関係を求め、永遠に「私」を抱いてくれるその愛を訪ねていくことが、宗教人たちの生活目的であり、生活の方便です。行く道が、このように違うというのです。

 

 

 

26 み旨の本然の位置は、神様がいらっしゃるところです。ですから、み旨の本然の位置は神聖なのです。そこは、万有のすべての段階を超越し、四方から測定しても、自分の位置が何度だということがはっきり出てくるのです。しかし、それが合わないときは、自分が見ると一八〇度なのに、その原点基準がほかのところにあるので、回して合わせるまでは一八〇度になる道がありません。そのような結果にぶつかるのは、歴史過程が堕落圏内にあるという概念のもとでは、避けられない結論です。

 

「私」を照準として四方から零点の位置を探さなければなりません。探すには、本然の零点の位置を中心として、原器のすべてをはっきりと知るべきことを理解して、その理論に一致させるとき、私もそのようになるというのです。その事実を見いだすまでは、私たち自体が結果的存在として出発できる、み旨の一致点を探すことはできません。それは理論的にそうです。異議がないのです。

 

 

 

27 アダムとエバを造るとき、本来の関係を中心として、あらゆる精誠を尽くしたように、この堕落して故障した物を直すためには、千年歴史で創造したものの何十倍以上の力を注いで本然の位置を取り戻さなければなりません。何百回、何百回、何百回、このようにして定着していこうとするので、数千年、数万年の復帰歴史がかからざるを得ないのです。

 

 

 

28 人間は、悪魔の主管圏内、サタンの主管圏内で、本性の心と反対のサタンの愛の圏内で統治されることによって、良心と体が闘争するようになりました。この闘争をいかに整備するか、ということが重要な問題です。

 

これを整備するには、「私」一人の個人の事情を整備することで終わるのではありません。私を中心としてサタン圏の世界の環境を整備しなければなりません。ですから、その環境が自らと相いれないようにするのではなく、すべての環境が私に順応し、その環境自体が私についてくることができるようにしておかなければなりません。そうでなければ、本然の心が指向する所に訪ねていけないのです。

 

 

 

29 「私」とは、どのような存在なのでしょうか。この宇宙史的な存在として、最後の人生行路で勝利の冠を求め、天地の万宇宙、万有の存在物を相続できる神聖な王子です。このような存在が落ちて、一握りの米で売られていき、どこかの無価値な悪党の群れに籠絡されていいのでしょうか。それを許容することはできません。今から、私たちが取り戻さなければなりません。私たちが復帰の使命を担って、人間の本性を回復させなければならないのです。

 

本然の私は、どこにいますか。私を取り戻すためにさまよっていて、本然の私自身を知って、そこに関係を結んで生きようとする希望の中であえいでいます。歴史的な起源と通じ、歴史的な起源にだけ通じることで終わるのではなく、その背後には天地の法度と連結され、現実と連結されていて、今後、訪れる未来と連結されている私を取り戻さなければならないのです。

 

 

第四節 信仰生活の段階

 

 

天聖経  第八篇 目次   第一章 信仰生活とは何か

第四節 信仰生活の段階

 

 

 

1 漢字で信仰という字を書いてみると「信」の字です。ここから「人」の字を取れば「言」の字だけが残ります。信仰というのは、結局、人の言葉を意味します。この時、言葉とは、人と人の関係を結んでくれるものを意味します。関係がなければ言葉が出ないので、言葉を話すときは、既に相対的基準ができているのです。

 

また、関係が結ばれるには信仰がなければなりません。このような根本が愛によってつくられた関係から出てきたのです。しかし、その関係は、自分の思いどおりに結ばれたものではありません。その関係が結ばれる力の条件があり、目的とする基準が互いに符合できたので、結ばれたのです。

 

 

信仰を立てる段階

 

2 希望は、必ず信仰を標榜して進んでいきます。信仰は何を求めるのでしょうか。信仰を完成した実体において、百を信じたなら、信じた百の実際の価値を求めるのです。それは、創造理想と一致できる人、すなわち原理法度と一致できる人、堕落しないで完成した人を標榜し、信じて進んでいくのです。この信仰で勝利するようになるとき、彼は希望を成し遂げることができます。希望と信仰で勝利した実体になるとき、神様の愛は自動的に現れるのです。

 

 

 

3 絶対的な信仰者を絶対的に求めていく神様の公式的原則があるので、ノアに対して山に船を造る立場に、立てまいとしても立てざるを得ませんでした。ノアは百二十年間、その責任を全うしました。そのようにして百二十年という年数を復帰したのです。

 

ノアは、それをしました。聖書には、ノアの息子たちが洪水審判ののちに、「父は狂った父だと思っていたが、父の言葉どおり神様が審判して、うちの家庭の八人家族だけが残った。これを見ると、うちの父の言葉が正しい。うちの父は預言者であり、神の人だ」と、尊敬しなければなりませんでした。

 

それにもかかわらず、洪水審判ののちに、ノアが箱舟から降りたのち、裸になって寝ている時、次男が「父が狂って裸で寝ている」と兄弟を扇動し、兄弟が服を持って後ろ向きに歩いていってかぶせました。隅々まで否定したというのです。結局、反対したことを否定できません。神様のみ前に絶対的な信仰を立てなければなりません。サタンの前に絶対的にするのではなく、神様だけのために絶対的な信仰を立てる人は、神様が信仰の先祖として祝福しないわけにはいきません。愛さざるを得ないというのです。

 

 

 

4 実践と信仰について見てみるとき、いつも信じることが先立つのであって、実践が先立つことはできません。堕落した人間においては、信仰が強くなってこそ実践も強くなります。しかし、信じる基準と実践の基準には、いつも差があります。

 

神様は、信仰だけを望むのではありません。より良くなることのできる実践の結果を望んで、信仰を求めるのです。それにもかかわらず、人間は実践をおろそかにして信じることを主としているので、神様が望むことと食い違っています。そのような信仰生活を常にしているのが、私たちの立場なのです。

 

 

 

5 神様が絶対信仰から始めたので、み旨を成就するためには、絶対信仰から始めなければなりません。絶対信仰は、絶対愛を中心としてしなければなりません。主体となるものが愛です。信仰は相対です。ですから、皆さんは、愛を中心として絶対信仰、絶対欲望を望むのです。愛の目的は、大宇宙を出産することです。創造しておかなければなりません。ですから、絶対信仰です。大宇宙を生産していこうとするので、神様までも自分の実体、心と体のすべてを投入し、さらに投入し、永遠に投入しなければならないのです。

 

 

 

6 絶対信仰とは、ために生きることです。絶対の神様がために生きているというのです。若いときにデートをすれば、男性も女性もお互いに「どれくらい信じているか、どれだけ私のために生きてくれるか」と考えますが、ために生きる道を立てるために、ために生きる道を歩みながら一つにならなければなりません。

 

絶対信仰とは、創造の対象物を立てるためのものです。絶対信仰の上に真の愛を中心として一つになるので、投入しなければなりません。誰かが投入してこそ水平になりますが、誰が投入するのでしょうか。男性が「自分を中心として投入しなさい」と言っても駄目であり、女性が「自分を中心として投入しなさい」と言っても駄目です。二人がお互いに投入し合いながら、より大きなことのために思い、望むことができなければなりません。このようなものが絶対信仰、絶対愛なのです。

 

 

 

7 なぜ絶対信仰が必要ですか。神様も最高の理想的基準の位置まで行かなければなりません。ですから、その基準を中心として愛の相対圏が出てきます。相対圏自体を、微々たる動物や鉱物世界を絶対信仰で造ったのです。絶対愛を中心として投入したというのです。絶対投入して、鉱物時代、植物時代、動物時代、その次に安着時代に移っていくのです。心と体が争っては絶対にいけないという結論の立場に立たなければ、天国化された世界や天国になることはできないのです。

 

 

 

8 絶対信仰とは何でしょうか。絶対愛の秩序を立てるためのものです。愛のためです。その愛のために絶対信仰を求めていく人は、自分自体の個性真理体を忘れて投入します。神様が人格神の性粗と形状をすべて忘れて、根こそぎ投入してこそ、相手が完成するのです。そして、「私を、息子を愛することのできる父母の愛の主人にしてほしい」と言うのです。それは、息子がするのであって、神様御自身もできず、父と母もできないのです。

 

 

堕落性を脱ぐ実践の段階

 

9 今日まで、神様が失ったものを探し求めてこられたのも、人間を主管できる能力がないからではありません。今日まで、サタンの讒訴を受けながら闘われたのも、神様に権能がなくてそうしたのではありません。原理原則を探し立てるためでした。神様は、サタンを前に立てて、サタンがつくったものを再び整理する役事をしてきていらっしゃるのです。サタンが先に支配していたものを整理することは、サタンが讒訴できないというのです。ですから、最も賢い人は、サタンまでも立てて手伝いをさせることのできる人です。そのような人がいるとすれば、彼は最後の勝利者でしょう。

 

 

 

11 統一教会においては、すべての復帰の原則を提示しておき、サタンの讒訴条件に引っ掛からないように、全体責任を担って歩まなければならないのが先生の責任です。この道を先生が築きました。人間自身が、神様のみ前に神様の愛の公法によって、天から再び「喜ばしい」という言葉を頂く条件を、すなわち立て札を打ち込んでおき、その立て札によって愛することができる、そのような祝福を受けました。統一教会の先生が、世界歴史上において初めて愛することができる出発をしたのです。ですから、統一教会の教会員たちから原理を学ぶ数多くの人々は、今後、先生が指示する方法に従って生きなければならないというのです。

 

 

 

10 皆さんが闘いで勝利して、過去の歴史と現実と未来を代表した勝利者になろうとすれば、歴史を支配していたサタンの実情、現実を支配しているサタンの実情、未来に対するサタンの心の中を知らなければなりません。そのためには、イエス様がイスラエル民族を代表して、独り孤独な身でオリーブ山に登って祈られ、生涯を捧げて天のみ旨を遮るサタンと対決しながら、歴史と現実と未来を代表する苦難の標準を立てられたのと、同じ道を行かなければなりません。皆さん各自の行く路程に、このような試練の峠が残っているのです。

 

 

 

12 私たちは、堕落性をもっています。堕落性の四大条件とは何ですか。驕慢と猜疑と血気と偽りです。驕慢、嫉妬、血気、偽り、これが堕落性です。皆さんも、それを脱がなければならないということです。これを脱ごうとするので、今まで断食をしたり、思い悩んだりしてきたのです。

 

これを脱ごうとすれば、復帰路程の審判時代において、どのようにしなければならないのでしょうか。「私」自身がみ言で武装し、み言の実体にならなければなりません。実体過程を通過しようとすれば、必ず堕落性を脱がなければなりません。ここには四大条件が残っているので、これを脱ごうとすれば、迫害も受け、試練も受けなければならないのです。

 

 

 

13 再創造歴史とは、どのようなものでしょうか。落ちたものが上がるのです。反対の力で、勢いよく跳ね上がります。それで、心情の一致点を立てながら進むのです。ですから、信仰がなければなりません。また、信仰に先立ってあるべきものは、行うということです。自分を中心として行うのではなく、神様を愛する立場で行わなければなりません。愛する方のために行うのです。これを正しておかなければ、復帰の道を行くことはできません。歴史を見れば、そのようになっているのです。

 

 

 

14 神様は、善の側に聖別された動物、植物、鉱物などすべての物を通して、すなわち祭物という条件を通して、人間と関係を結ぼうとされました。そのような時代に生きていた人たちは、真の祭物と一つにならなければなりませんでした。このような時代が旧約時代までです。真の価値を求めていくべき堕落の運命を背負った人間が夢にも考えていないときに、神様は、この人たちをして、真の物を通して真の価値の関係を結ばせるために苦労してこられたのです。

 

 

 

15 地で堕落したので、地で抜け出さなければなりません。神様が複雑な状況をつくるのは悪いことではありません。どこに行ってもぶつかり、どこに行っても苦しむようにしておいたのは、汚れたものを取り除き、傷を取り出し、堕落性を早く脱ぐようにするためです。環境が平坦でなければ、体にごびりついた垢をすべて剥ぎ取るかのように、殻をどんどん剥ぎ取るというのです。ですから、多事多端なほど、蕩減的解怨成就が早いというのです。

 

 

 

16 世の中に堕落した世界圏、堕落圏があるので、それを抜け出さなければなりません。いくらアンテナが水中にあっても、この平面線を越えて、その先端が出れば、世界に通じるのと同じように、真の愛のアンテナが堕落性のアンテナを越えなければなりません。ですから、サタン世界のすべてのものを否定して余りあってこそ、天と関係を結べる、条件的存在になるのです。全体的存在ではありません。このようなことを宗教が分からなかったのです。

 

 

 

17 実体をまとって栄光の復活の日を迎え、神様のみ前に報いることのできる時が終わりの日です。神様の息子、娘の名でサタンを打ち砕くことが、正に伝道です。伝道する立場は涙を流す立場であり、歴史的な先祖たちがしっかり闘いなさいと祝福してくれる立場であり、未来の子孫たちまで期待にあふれた目で見つめる立場です。

 

言い換えれば、その立場は、僕の立場から養子の立場に、養子の立場から直系の子女の立場に再生する立場だというのです。私たち人間が、このように再生して、実体復活するのが神様の願いなのです。歴史的な基準を横的に立てて、復活の基準を立てなければなりません。

 

 

 

18 統一教会の教会員たちは、み旨を信じて進むにときに、僕の時代と養子の時代と直系の子女の時代を経なければなりません。そのような三過程を経て、自分が伝道した人や自分に従う食口を、父母が子女のために死を覚悟して愛するように愛することができなければなりません。「私が犠牲になっても、私のあらゆる福をその人に譲り渡せれば感謝だ」という心が皆さんに自動的に起きてこそ、祝福を受ける息子、娘になることができるのです。

 

 

真の愛で完成する段階

 

19 真とは何でしょうか。男性の前に真の愛をもった女性、女性の前に真の愛をもった男性が真です。父母の前に真とは何でしょうか。真の愛をもった孝子です。孝子の前に真とは何でしょうか。真の愛をもった父と母です。人間世界の前に真とは誰ですか。神様です。神様のみ前に真とは誰ですか。真の愛で一つになったアダムとエバです。そのようになれば完成です。

 

そこには、父母がいて、師がいます。父と母は息子、娘を教育します。夫は妻を、妻は夫を教育するのです。そのように生きた人たちは、父と母になり、師になり、主人になります。そのようになれば、その家が平和の基地になります。ですから、家庭ですべてが実を結ぶようになっているのです。

 

 

 

20 真の父母は何から出発しましたか。真の愛から始まりました。結局は、愛が問題になります。

 

真の愛を中心としていく家庭、氏族、民族、国家、世界は、一つに通じるのです。歴史の方向性は、真の愛の道だけでなければならないのですが、今までそれは、ジグザグでばらばらになってきました。

 

それを真の父母が来て、完全に方向を変えておかなければなりません。個人を越え、家庭を越え、氏族を越え、国を越えて、そのようにしなければならないのです。

 

 

 

21 心と体が真の愛で一つになれば、体の所有は心であり、心の所有は体なのです。心と体が一つになった男性と女性、この二人が真の愛で一つになるとすれば、真の愛をもったので、神様を占領することができます。神様を占領しようとすると、橋を架けなければなりません。それは、男性一人ではできず、女性一人ではできません。愛を中心として、夫婦が、横的な愛に連結されなければなりません。男性と女性が完成しようとすれば、自分の相対を訪ねていかなければならないのです。

 

 

 

22 真のオリーブの木の家庭の畑には、サタンが触れることのできる何の理論的根拠もありません。サタンが触れることができるのは長成期完成級までであって、完成期完成級には触れることができません。責任分担を完結することによって、原理結果主管圏と直接主管圏が真の愛で一体となります。連結されるのです。サタンがこれを分立させる内容はありません。ここから新しい歴史的な転換時代が訪ねてくるのです。

 

 

 

23 三大王権が一カ所に集まった組織体が私たちの家庭です。過去、現在、未来世界の王宮基地が私たちの家庭です。祖父を神様のように侍らなければなりません。家庭において、大王として絶対的な力をもった方が祖父です。父母はアダムとエバの立場です。現在の家庭の王であり、中心です。子女は、未来世界の王権を相続します。これが真の愛で結ばれた皇族概念です。そのように完成してから行くところが天国です。そうでなければ道がありません。この位置において完成するのです。

 

 

 

24 神様の創造目的は、アダムとエバが真の愛の主体であられる神様の戒めを守って、真の人として完成することです。さらには、神様の真の愛で一つになった真の夫婦になることです。アダムとエバが真の愛で完成することは、すなわち神様が実体をまとう希望が成就することです。そして、彼らが真の夫婦として完成することは、すなわち神様の絶対的な愛の理想の完成を意味するのです。

 

 

第五節 信仰生活での体験

 

 

天聖経  第八篇 目次   第一章 信仰生活とは何か

第五節 信仰生活での体験

 

 

 

1 皆さんは、信仰生活において神秘的体験、あるいは霊的に神様がいらっしゃることを体験していますか。皆さんの中に、祈りや夢での啓示の中で、霊的にでも先生とたびたび会い、先生の指導を受ける人がいるはずです。一〇〇パーセントそのようにならなければなりません。それは、私たちだけがもっている力であり、私たちだけがもっている誇りであり、私たちだけがもっている宝物だというのです。

 

今まで宗教は、体験的な過程を経ることができなかったために、あたふたとさまよい、世俗化してしまいました。しかし、統一教会は、最後の位置に立った神様であることを知っているので、いくら波風や洪水が押し寄せてもこれを押しのけ、死ぬことがあっても、あすへの希望を遺言に残して死ぬことのできる男性と女性になっているという事実は、驚くべきことです。

 

 

み言の体験

 

2 真理のみ言は、同じ内容を何度聞いても嫌になりません。これを体験しなければなりません。同じみ言を百回以上聞いても、また聞きたいと思う真理のみ言をもった教会に行けば、間違いなく天国に行きます。また、百回会い、千回会っても、また会いたいと思う教会指導者に出会ったなら、離れないでください。一つの手を失えば、残りの一つの手でその人をつかんでください。そのような指導者に出会えば、間違いなく天国に行くのです。

 

 

 

3 統一教会の原理のみ言を聞いて、教会に行こうと決心すると、必ず試練が伴います。あるいは、原理のみ言を聞くと約束しておくと、必ず家に何か事故が起きたり、いつも何か出来事が起こります。皆さんは、そのような体験をしたはずです。これは間違いない公式です。なぜなら、個人的な環境から、より高く上がろうとすれば、サタンがてっぺんから押さえつけるからです。

 

 

 

4 誰よりも深い心情関係を経て与えようとするので、み言を深く知らなければなりません。一〇〇パーセント以上の心的基準と連結される立場に立とうとすれば、そのように深いところまで体験し、実感しながら与えなければなりません。そのような心をもってみ言を伝えなければなりません。行動的な面で、彼らが「私」を好ましく思うことができるようにしなければならないのです。

 

 

 

5 信仰生活は実戦です。実戦で勝たなければなりません。新しい人が教会に行こうとするときは、必ずサタンが働くのです。新しい人が入ってこようとすれば、必ず妨害しようとします。ですから、それを克服させるためには、主体が絶対的でなければなりません。完全なプラスは完全なマイナスを創造します。ですから、うやむやではいけません。確定的な立場で、すべてのことを説明しなければならないのです。

 

 

霊的体験と心情体験

 

6 初代教会は、神霊の役事によって迫害の渦中を乗り越える行動ができました。しかし、それが個人から始まって、家庭を経て、民族を経て、世界的になることができず、限定された内容で残るようになりました。それは、どのような根本原因によって自分たちに霊的な現象が起き、またそれがどんな過程を経て、どんな終着点に向かっていくのか、その方向をはっきりつかめなかったからです。

 

 

 

7 初めから先生は、霊界を中心として重要な解決点を立てました。解決すべきその基準が国家を越え、世界を越える霊界かということを鑑定してきたのです。霊界は超国家的であり、超民族的なので、霊界では国家を越えて心霊状態が同じ人たちが集まります。国家を超越したというのです。

 

 

 

8 今後、霊的な体験をしなければなりません。自分のすることが成功するのか、失敗するのかということが分からなければなりません。祈りを熱心にすれば、すぐに成功することが分かります。それをすれば、気分が良くて、体が軽くなるのです。肉体的に分かるのです。体がそうです。そのためには、自分を考える観念、個人主義的観念が備わっているものを、すべて拭い去ってしまわなければならないのです。

 

 

 

9 先生は、世の中のどこかに行って苦労する統一教会の宣教師たちを、毎日のように霊界を通して指導し、教えてあげています。皆さんは、生活を通してそれを知らなければなりません。統一教会に入ってきて一週間だけみ言を聞いて決心すれば、生活態度が変わります。昔のことは嫌いになります。ですから、先生が教えた話が耳に入ってきて、話を聞く前に既に予示されたものを再び聞くのです。こうすることによって、統一教会の中心食口にならざるを得ないというのです。

 

 

 

10 信仰生活は体恤です。体恤しなければ分からないというのです。ですから、体恤しなければなりません。体験ではなく体恤です。体恤というのは何でしょうか。天が悲しい時、「私」がその悲しみを知らなければなりません。その悲しみが感じられるのが体恤です。体恤すれば、祈りが必要ありません。

 

 

 

11 信仰において、最も貴いことは体恤です。体恤して、自分自身でも分からない涙を限りなく流さなければなりません。皆さんは、意識を超越して目から涙が落ちるのを感じたことがありますか。誰かに非難されたといって、悔しく、悲しいからではありません。自分でも分からない悲壮な心情が湧き上がり、とめどなく涙が落ちなければなりません。信仰者の本質的な生活像は、そうでなければならないのです。自らにも分からない苦痛が、深くしみ込んでくるようでなければなりません。胸が詰まり、身の置き所がないほど、深くしみ込んでこなければならないのです。

 

 

 

12 皆さんが生涯を通して体恤信仰をするにおいて、原則的な分別路程を歩みながら、万物万象の前に、「永遠不変の勝利者だ」と誇れる基準を立てなければなりません。そのような基準を皆さんが立てることができないとすれば、この地上に悲しみの条件が残るようになります。また、悲しみの条件が残っている以上、天上に行っても、神様の内的な心情を尋ねていくことは困難です。ですから、皆さんは、心の立場にいるイエス様、体の立場にいる聖霊を通した生命体として、神様の栄光の実体として現れなければなりません。そうするとき、初めて皆さんが信仰の実体になるのです。

 

 

 

13 先生は今まで、韓国にいる数多くのキリスト教徒よりも多くの精誠を神様のみ前に捧げました。心情的な人は発展するようになっています。個人的な心情から家庭的な心情、民族的な心情、世界的な心情に発展し、体恤するようになっています。心情をもってより一層精誠を捧げる人がいるとき、神様は、その人を離しません。神様は、そのようにしていない人を用いては、作戦を行うことができません。

 

天国保衛の命令を受けた立場において、自分の位置をどのように信仰的に導いていくかという問題が、何よりも大きな問題です。自分が一つの行動を間違えば、歴史が左右されるので、のちに歴史的な審判を受けるようになるのです。ですから、寝ること、食べること、着ることなど、一切の生活を、信仰を中心として行っていかなければならないのです。

 

 

 

14 先生が車に乗って出発すると、すぐに良くないと感じるときがあります。そのときは、進路を変えます。そのようなインスピレーションや体感が来るのです。体感は、体恤する信仰生活で生じます。皆さんが道を行く途中で、電柱でも何でも、それをつかんで痛哭したい心情になるときがあるはずです。そのような時を絶対に逃さないようにしなければなりません。そのような時を何度か逃せば、そのような機会は私から遠ざかります。それを逃してしまえば、絶対に「私」にプラスになりません。かえって反対の力になって、私を押しのけるのです。

 

 

 

15 体恤は、必ず信仰生活に必要です。体恤を通して、神様の人格について知ることができ、それと同時に、神様が「私」と共にどのような内的な心情関係をもつのか、ということを感じられます。体恤の道を通してのみ、私たちは、そのようなことを感じられるというのです。信仰生活を通して幸福を感じ、また、信仰生活を通してより理想的な新しい希望をもつことも、体恤の過程を経なければ現れません。

 

キリスト教がローマ迫害時代に圧迫を受け、ライオンの餌になりながらも信仰の道をひるまずに行けたのは、漠然とした立場でそうなったのではありません。これは、そのような立場を乗り越えられる、体恤した内容があったからなのです。

 

 

 

16 皆さんは、天倫を中心として運行される神様と、そのみ旨を成就するために、人間に対して無限に忠誠を尽くされた神様の事情を体恤しなければなりません。また、このみ旨を立てるために無限に犠牲になってこられた神様の心情、また未来の理念を立てるために無限に御自身を超越された神様の心情、無限に与えようとされる神様の愛の心情を体恤しなければならないのです。

 

 

重生の体験

 

17 私たちは、信仰生活をするにおいて、完全に自分自身を忘れ、祭物になりながらも足りなさを感じ、犠牲になりながらも足りなさを感じて、死の場においても自らを叱責することができなければなりません。このように天のみ前に何も誇らない本性の人になってこそ、永遠であられる天の復活の理想を成し遂げることができるのです。

 

 

 

18 信仰路程において、サタン世界のどんな人よりも優れていなければならないのであって、彼らと同じ程度であってはいけません。内的な心情と心性を比較してみるとき、あえて彼らがついてくることができないほどの気高い心情と心性の円満性をもたなければなりません。その条件を根拠として、復活圏内に入ることができるのです。

 

 

 

19 私たちは、悔い改めの涙で復活圏を迎えなければなりません。アダムとエバが流せなかった涙を流して、抜け出さなければなりません。互いが反目し、妬ましく思いながら、「私の罪の動機は、お前のせいだ。私はこうなるはずではなかったのに、お前のせいでこうなった」と言って、自分の悲しみを第三者に転嫁させようとして、「私は肯定されるべきであり、正常だ」という気持ちをもってはいけません。「私」を否定して、環境を肯定しなければなりません。私が救援されることよりも、国が救援されることを願い、国のために涙しなければなりません。また、家庭が救援されることを願い、家庭のために涙することができなければならないのです。

 

 

 

20 私たちの生活を復活させ、私たちの生涯を復活させて、善を追求するようにする主体的な対象が存在するという事実をはっきりと知り、信仰心をもっていく「私」自身になったとすれば、私自身が対象の立場でその主体と一つになり、主体の目的と対象の目的が一致する一点を選んでいかなければなりません。

 

そのような人は、いくら難しい環境であっても、その環境を克服することができます。いくら難しい事情があるとしても、その主体であられる絶対者の願いと目的はこうだと、はっきりと知って悟れば悟るほど、その悟りが自分の生涯路程において、直接的に新しい力の源泉になるのを感じるようになるでしょう。

 

 

第一節 修練とは

 

 

天聖経  第八篇 目次   第二章 心と体の修練

第一節 修練とは

 

 

 

1 修練とは磨き、鍛錬することです。磨き、鍛錬するには、何を標準としてするのでしょうか。皆さんの中には二種類の人がいます。外なる人と内なる人がそれですが、堕落した立場から見れば、堕落した外なる人と堕落した内なる人がいます。これらが本然の人格体に似ていくのです。本然の人格体とは、万物が敬拝し、神様が懐に抱かれ、キスしてあげることのできる幼子のような姿です。したがって、皆さんは、本然の人格体を標準として修練を受けなければならないのです。

 

 

分立によって善の対象になる

 

2 皆さんは、どれほど統一教会のために生きたでしょうか。統一教会のために自分がいたのでしょうか、自分のために統一教会を利用したのでしょうか。ここから善悪の基準が分立されるのです。善と悪が別々にあるのではなく、み旨から外れるときは、悪と善として分かれます。善は正常な軌道を行き、悪は異常な軌道を行きます。

 

今日、人倫道徳や社会の道徳基準を中心として見てみるときも、原理原則があります。原理は、「私のために生きなさい」と言うところで成立するのではありません。ために生きようとするところで原則が成立します。ですから、統一教会の教会員として、二十四時間自分のことを考えるより、もっと大きな統一教会のイメージが「私」を占領していなければなりません。夢においても、統一教会と離れている自分になってはいけません。

 

 

 

3 善の神様の人にならなければ、善の神様が願う家庭を望むことはできません。また、善の神様の家庭にならなければ、善の国家や世界を望むことはできません。ですから、一番の問題は、「私」自身で解決点を探さなければならないということです。その境界線が心と体です。

 

 

苦行による蕩減

 

4 肉身を打つ方法は、正に苦行です。それで、イエス様は、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七:三三)と言いました。これは、体が願うものを切ってしまわなければならないという話です。体が願うものをなくさなければならないのです。

 

 

 

5 歴史時代において、どんな宗教よりも、苦行する宗教を訪ねていかなければなりません。宗教生活とは、良心が拷問官になって、「この体め、この体め!」と言いながら、完全に死んで倒れる時まで拷問し、降伏させ、再び目覚めないように占領できるようにすることです。心が体を占領しなければならないのです。

 

 

 

6 宗教は、なぜ苦行をしなければならないのですか。なぜ十字架を負わなければならないのですか。なぜ犠牲になって奉仕しなければならないのですか。それは、あらゆる人間が嫌うことです。ですから、この堕落した世界で、宗教は出家を強調してきたのです。すべてのことを完全に否定しなければなりません。統一教会の祝福は、完全否定を追求するのです。

 

個人否定から家庭否定、氏族否定、民族否定、世界否定、思想否定まで、あらゆるものを否定してきました。その否定する段階が高まるにつれ、自分の価値が蓄積されるのです。サタン世界を否定する足場が広くなれば広くなるほど、「私」の本然の人格の蓄積は高まります。大きくなるというのです。ですから、否定するのです。ですから、宗教は現実を否定して出家するのです。

 

 

 

7 宗教は、苦行の道を行きます。体が好むものは足で蹴ってしまいなさいというのです。肉的な目が喜ぶとおりに行ってみると、心の目はそれを嫌います。すべて反対です。人間はもともと矛盾した存在だと考えるのも、堕落を知らなかったからです。

 

矛盾した自我の発見、これは偉大な発見です。歴史において、どんな発見よりも偉大です。堕落がどのようにしてなされたかを知っているとすれば、それは何より驚くべきことです。この混沌の中から解放される道があるとすれば、どんな犠牲を払っても行かなければなりません。それが堕落した人間が行くべき責任路程なのです。

 

 

 

8 「復帰蕩減」ではなく、「蕩減復帰」です。「復帰蕩減」というものはあり得ません。神様の「復帰蕩減」という概念は、エデンの園にはあり得ません。もしそれがあるとすれば、アダムとエバを思いどおりにすることができます。堕落によって血統が変わったことが問題です。種が変わりました。それを蕩減しなければならないのです。

 

 

否定によって本然の道を求める

 

9 復帰の道においては、皆さんが最も好むものが怨讐です。男性には女性が怨讐であり、女性には男性が怨讐であり、父母には子女が怨讐であり、子女には父母が怨讐であり、その父母の一族には氏族が怨讐であり、氏族は民族が怨讐です。

 

すべて怨讐になっています。これを一度に清算するためには、すべて否定しなければなりません。自分の一族の四位基台を失った悲しみすらも体験できない人は、天の国に行くことはできません。神様は、数千代を延長しながら、今まで四位基台の復帰を願ってきたのです。神様のみ前に千年、万年親孝行しても、顔を上げることはできません。罪人の中の罪人のような自らを、逃れることはできないというのです。

 

 

 

10 天国に入るためには、サタンの血統を否定して再び元に戻さなければなりません。純潔であり純血です。純潔血統、純潔愛を中心とした家庭基盤の上で孝子にならなければなりません。家庭的孝子になれずにいます。国家的忠臣、孝子になれずにいます。家庭的純孝子、家庭的純忠臣、家庭的忠聖人、忠聖子にならなければなりません。天地を身代わりして相続できる息子、娘になれずにいるので、これを皆さんの一代で成し遂げなければならないのです。

 

 

 

11 自分のために生きる世の中は滅びました。堕落は、自分自体を先に自覚して中心の位置に立ったものなので、それを否定しなければなりません。自分を否定して全体を生かしたあとで、自分がそこに花を咲かせなければならないというのです。花の香りは、一年育った花でも、根と幹、枝のすべての栄養素を吸収して花が咲いたあとに出るのです。ですから、全体のために生きる人になって、花が咲き、香りが漂ってこそ、神様が訪ね、天使が飛んできて保護するようになります。それが天地の願いなのです。

 

 

 

12 皆さんは、神様を喜ばせる贈り物をもっていますか。神様が訪ねてくるとき、「本当にありがとう!」と言える贈り物をもっているのか、神様が訪ねてくるときに、家庭的に善の贈り物を差し上げられるのかというのです。夫婦になっていれば、夫婦は神様が訪ねてくるときに、贈り物として差し上げるものは、ほかのものではなく、愛で一つになった夫婦です。

 

愛で一つになった夫婦はどのような夫婦でしょうか。自分のために生きる夫婦ではなく、妻は夫のために生き、夫は妻のために生きる夫婦です。その夫婦が永遠に一つになろうと、生殖器を守って永遠に行こうという、その家庭を神様が贈り物としてもらうことを願うというのです。

 

 

 

13 アダムとエバが完成して息子、娘を生んでこそ、実体的な神様の姿になります。しかし、サタンの息子、娘になりました。天使長の息子、娘になりました。神様と関係のない息子、娘になったのです。ですから、完全に否定しなければなりません。血統を汚したので、神様が思いどおりにできません。

 

愛する女性とあす、あさってに結婚しようというのに、山賊が盗んでいったも同然です。そのように山に入って、盗んだ物で生活し、息子、娘を生んで一つの民族になったのです。昔、結婚の約束をしていた男性がその姿を見たとき、どれほど惨めでしょうか。神様が全知全能だといっても、天使長を思いどおりにすることはできません。天使長を葬り去ることはできない状況で、その血肉が混ざった息子、娘全体を葬ってしまうことができるかというのです。ですから、神様は、囹圄(牢獄)の身です。監獄に閉じ込められているというのです。

 

 

 

14 自分を否定するまでは、創造本然の原素材の立場に戻ることはできません。そこには、分かれた隙間があってはいけません。皆さんが本然の愛の理想家庭に定着するためには、サタンが入る隙間があってはいけません。水が入ってきてはならず、空気が入ってきてはならず、光が入ってきてはいけないのです。

 

 

 

15 愛を受ける位置に立とうとすれば、主体と対象の立場で一つにならなければなりません。主体は完全に与えようとしなければならず、対象は完全に受けようとするとき、主体と対象が一つになるのです。百を与えようとする主体がいれば、「私は百を受けなければならない」と言わなければなりません。天が百を与えようとするのに、私たち人間が自分の考えや自己主張、自分の欲望を中心として受けようとすれば、百を満たせる場が生じません。

 

自分の欲望があり、希望があれば、それが八十、七十、六十、五十になるというのです。ですから、百をみな受けることはできません。「百を完全に受けようとすれば、あなたのところにあるすべてのものを空けてしまいなさい。すべてのものをなくしてしまいなさい。すべてのものを否認しなさい。ここでは、すべてのものを放棄してしまいなさい」と言わなければなりません。全体を放棄して、絶対服従するのです。服従は悪いことだと思うかもしれませんが、完全に服従していけば、その人を占領することができるというのです。

 

 

 

16 善の人は、生まれてから死ぬ時まで、永遠に人を助けてあげようという人です。階級を超越して、東西南北を超越して、人種を超越し、歴史過程で定められた伝統を乗り越え、永遠に助けてあげながら生きて逝ったとすれば、その人は善の人です。自分が永遠に人のために与えてみると、空っぽになって、低気圧になるのと同じです。自分自体を他のところに押し出すので、あちらの世界の周辺には高気圧圏が生じます。ですから、息が止まるときは、その高気圧が一度に押し寄せます。千年積んでおいたものが一瞬のうちに上がってきて、「私」を一気に数千万年の頂上に上げてくれるというのです。

 

 

勝利者になる道

 

17 神様も人間も、まだみ旨を成就できないまま歴史は流れています。このみ旨を成就できなくなったのは、神様ではなく人間のためです。言い換えれば、アダムとエバが堕落したために、このみ旨が失敗するようになりました。ですから、失敗したこのみ旨を収拾しようとするのが、今までの歴史過程であり、摂理路程です。

 

このみ旨が成就されるためには、み旨を成就できる人が必要です。神様が長い歴史時代を経ながら、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ家庭、ヨセフ家庭を選んで、み旨に従う人をお立てになりました。もし、彼らが天と地を連結させる責任を果たせなくなるときには、み旨を成就できる方向さえ備えられなくなります。このような事実を、私たちは摂理路程を通してよく学んだのです。

 

 

 

19 イエス・キリストは、自分が引き受けた専門分野である万民を救援する責任を遂行するために、まずどのような立場に立たなければならないのでしょうか。その方も、やはり全身全霊を込める立場に立たざるを得ません。寝ても覚めても、ひたすら自らのすべてのものをここに投入しなければなりません。このようなことは、何かの命令を受ける立場や強要される立場からではなく、自分自らしなければなりません。そうしてこそ、それを通して自分の希望が芽生え、幸福の条件が提示され、それによって、自分の勝敗が決定されるのです。

 

 

 

18 今日、統一教会を中心として見れば、統一教会がみ旨を成就させるのか、させられないのかということが問題です。み旨は個人に該当するものもあり、全体に該当するものもあります。個人に該当するみ旨に相対できる人と、全体に該当するみ旨に相対できる人がいなければ、そのみ旨を成就することはできません。いくらみ旨が成就する時を迎えたとしても、その人が責任を遂行できなくなれば、み旨を成就できるひと時を失ってしまいます。み旨を成就するためには、必ず人が必要であり、その次には、時が問題になります。いつでも、時というものが問題になります。それと同時に、時と人の間に関係して、み旨を成就させる条件が必ず必要なのです。

 

 

 

20 子女なら子女、伝道した人なら伝道した人を中心として、周囲に垣根をつくらなければなりません。そのような垣根をつくって、その垣根の内ではどんな秘密も自由自在に議論することができなければなりません。死んでも私たちをサタン世界に移すことはできないという絶対的な圏内がつくられてこそ、神様は、ここから絶対的なみ旨を広げていけます。これは、今後、皆さんが専門家として責任をもち、遂行しなければならない分野なので、よく知らなければなりません。

 

 

 

21 勝利者になろうとする者にぶつかってくるあらゆる環境条件は、協助する環境ではなく、反対する環境です。そのような時、その環境に耐えられなければならず、心だけは、信じて頼ることができるようにならなければなりません。この心は、歴史的な血と涙と汗がまだらに染まって私たちにまで連結されてきます。ですから、どんな困難にも、心だけは動かず、変わってはいけません。

 

「どこの誰も、勝利したいと思うこの欲求の心情を奪っていくことはできない」という自信をもって進まなければなりません。自信のない勝利は、偶然の勝利です。そのような勝利ではなく、自信のある絶対的な勝利をしなければなりません。そのような勝利は、歴史的な勝利であると同時に、創造理想の勝利です。信念に燃える勝利的な心がなければなりません。どんな試練でも、勝ち抜くまでは勝利の月桂冠をかぶることはできないのです。

 

 

 

22 原理を学べば、否定できない事実であることが分かるようになるので、行かざるを得ず、やらざるを得ません。ですから、皆さんは、自らが行くべき道なので、その路程で敗北者にならずに勝利しなければなりません。先生も今まで独りで闘いましたが、勝利した基準があるので、皆さんも勝利することができます。先生がいる限り、心配せずに最後まで闘っていけば、勝利は皆さんのものです。先生は確信できます。そのように思って、自信をもって力強く突撃していきなさいというのです。

 

 

 

23 指導者は、部下により良く食べさせ、より良く着せたいと思わなければなりませんが、もし危急を要する時は、悲惨な道に追い立ててでも送らなければなりません。モーセがどれほどもどかしい思いをもって、民族を離れて四十日祈祷を捧げたでしょうか。モーセは、彼らに暴風雨が迫っていることを知っていたのです。

 

先生は、きょうもこの道を歩んでくる食口たちを見て胸が痛かったのですが、痛めば痛むほど彼らを追い立ててでも、一日でも早く天宙理想を実現しなければならないという切実な心を感じます。先生は昔、罪人として刑務所にいたことを覚えています。アメリカは、鉄格子をつかんで涙を流しながら訴えた先祖がいたことを忘れれば、滅びます。勝利は、涙と血と汗によってのみ得ることができます。先生はどんな孝子にも劣らず、たくさんの涙を流しました。天は善を指向する人の保護者だということを、先生は知っています。死を覚悟し、仕事をするたびに、天は生きる道を開いてくださるのです。

 

 

 

24 信仰生活をするにおいて、三つだけすれば、勝利は決定するようになっています。問題は、どれくらい持ちこたえられるかということです。数十年行くのでなければ数年行くのかということは、皆さんの努力と持久力に左右されます。

 

第一に、「理念において制覇しなさい」、第二に、「精誠と忠誠において誰よりも先頭に立ちなさい」、第三に、「善の行いにおいて先頭に立ちなさい」というものです。この三つだけ実践すれば、今後の勝利は既に決定されているのと同じです。結果は持ちこたえる力と期間、そして努力によって左右されます。勝利を得るのは、皆さんの努力いかんによって、七年が五年に短縮されることもあり、一年に短縮されることもあり得るのです。

 

 

 

25 勝利の中で最高の勝利とは、どのようなものでしょうか。本来、人間は勝利の本郷から出発するようになっていますが、堕落したために、それができないところから勝利の世界を求めていくようになりました。その求めていく標準とは何かというと、人格完成を成し遂げた位置です。もちろん人格も必要かもしれませんが、その人格を動かせる内心的な核、すなわち愛がもっと必要です。その愛が正に神様の愛なのです。

 

 

 

26 言葉よりも事実が必要であり、弁解よりも実績が必要です。弁解は通じません。言葉は通じません。実績の前に、結果は極めて厳粛なものであり、冷静に判断されるものです。正しければ正しいものとして、悪ければ悪いものとして帰結します。勝利は勝利として帰結するのです。敗者は敗者として、悲しみと惨めさとともに帰結するのです。それが歴史的な判断の路程なのです。

 

 

 

27 昔のように、むやみに生きることはできません。そして、自分の先祖たちとあの世に行っている宗祖、王、そして神様がすべて一体になり、天の国の血統を伝授してサタン世界の血統を地上から完全に清算し、一つの大家族の兄弟たちをつくつていかなければなりません。一つの大家族から一つの国、一つの文化世界、アダム文化世界、絶対、唯一、不変、永遠のアダム文化の世界を創造しなければならないのが、「私」の責任です。私が責任を果たさなければなりません。

 

今は「私たち」という言葉を語ることができません。私の心と体が一つになり、その次に、私の家庭が一つになり、私の一族が一つになって、国家圏、世界圏の国に接ぎ木して、野生のオリーブの木の畑を、完全に真のオリーブの木の畑にしなければならないのです。

 

 

 

28 理想家庭をつくれなかったのは神様の責任ではありません。人類の先祖と子孫である皆さんが責任を果たさなければなりません。神様が理想家庭をもってきて与えることはできません。破綻させた張本人が直さなければならないのです。理想家庭、平和理想世界王国を失ってしまいました。それが罪の中で、途方もない罪です。絶対的であり、唯一、不変、永遠の神様が造るのに、誤差はあり得ないのです。

 

 

第二節 修練の目標

 

 

天聖経  第八篇 目次   第二章 心と体の修練

第二節 修練の目標

 

 

 

1 人間が失った自らを取り戻そうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。子女を失う当時の、神様の心情を回想しなければなりません。そうでなければ、本然の自分を取り戻す方法がありません。失ったものは、失ったその場所にまた行ってこそ、見つけることができるように、失った自分を取り戻すためには、「私」を失う時の神様の心情を回想しなければなりません。そのような運動を提示しなければ、人間は本来の自分を取り戻すことはできないのです。

 

 

本然の自分を取り戻すこと

 

2 「私」を取り戻すには、誰を中心として取り戻さなければなりませんか。自分を中心として取り戻すのではありません。神様を中心とした私を取り戻すまでは、本然の位置に戻ることはできません。ですから、数多くの宗教は神様を求めるのです。神様と私の関係を知って、私がどのように立たなければならないのかということを知るための道が、宗教の道なのです。

 

 

 

3 人間にとって最も貴いものは、神様の全体属性を備える本然の私です。しかし、人間が最も貴いものを失ったので、それが見つかるまでは喜びや幸福を感じることができません。それで、今日の堕落した人類は、東西南北の四方に散って、その「本然の私」を探し求めているのです。

 

 

 

4 絶対的な理念の本体であり、善の本体であり、生命の本体であり、愛の本体であるその何かを必然的に求めるべき人間なのですが、「私」自身は今、さまよっています。このような私の姿が絶対的な善の方向と角度に比べて、どのような方向と角度をもっているのでしょうか。

 

私の心は右に行こうとするのに、体は左に行くのはどういうことでしょうか。私の心は、もっと高い理念をもとうとするのに、実際には限界のある宇宙観をもっているのはどういうことでしょうか。私たちの姿を、もう一度冷静な立場で観察してみなければなりません。その何かを求めるためにあえいでいる、自らの強情でひねくれた姿を見つめようとしなければなりません。私には体があり、心があり、霊があります。私たちは、この体と心と霊が統合した一つの姿にならなければならないのです。

 

 

 

5 神様と共に働き、共に死ぬ立場で自分を再創造する努力を経なければ、平和の境地、神様の理想郷は「私」と関係を結ぶことができません。この距離を短縮させ、その理想的平和の境地が自分のものだという自覚をもち、自分が動くときは必ず神様が創造した本然の道に従って動くようにするのです。そして、天国に入る時、サタンが汚したものをきれいに清算して解放し、天国の王権を受け継いでから入らなければならないのです。

 

 

 

6 人はみな、負債を負いました。生命の負債、血統の負債がそれです。宇宙の愛の中で生じた存在世界に負債を負っています。ですから、負債を返す解放の位置に行かなければなりません。万物を造られた神様の本然の愛の心の位置を踏み上がって、神様までも解放させてあげなければならないのです。創造したすべてのもの、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準で造ったものを神様が失ったので、私たち人間が取り戻してあげなければならないのです。

 

 

自己主管が優先

 

7 今は、自分たちの生命と、先祖たちの生命を救うべき覚醒時代です。これを考えるとき、「私」個人はこのように自由に動いて暮らせる自らではありません。このすべての存在世界は、宇宙的な関係圏内で私の実存価値を立てることを待ち望んでいるのを、実体的に感じなければなりません。心で感じ、頭で理解するだけでなく、情的に感じることのできる立場にまで進まなければならないというのです。

 

今日、人間を見つめて、「あまりにもかわいそうです。お父様!しかし、お父様が良心をもった人間に物質を与える責任と、真の心をもつ者の体を主管すべきみ旨があることを知っておりますし、真の霊自体がお父様の主管を受けなければならないことを私たちは知っております」と言いながら、自分自身に山のような黄金と宝物を持ってこられても、それが心の願うものではないとすれば、それを果敢に捨てることができなければなりません。

 

問題は、このようにこの上なく大きな物質的な試練を、軽々と越えられるのかということです。したがって、私の体の価値は宇宙よりも大きいので、この宇宙よりも大きな体を私の心が屈服させる時、私の心は宇宙的な価値を乗り越えるのです。

 

 

 

8 私たちの心は、世界を抱き、天地を抱き、最後には神様まで抱こうとします。それが心がもつ目的です。ですからイエス様は、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)と言いました。さらには、「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」ヨハネ一〇・三八)と言いました。

 

皆さんは、皆さんがもっている理念や、皆さんが暮らしている生活環境において、隣人をどれくらい同参(一緒に参加すること)させることができ、この民族とこの世界を、どれほど引き入れることができますか。皆さんの心は大きいのですが、その心の中に自分の一つの体を入れることができない堕落した人間です。皆さんの心は、天地を抱き、神様までも抱いて安息させてさしあげようとします。それにもかかわらず、皆さんは、自分の一つの体を征服できずに、あえいでいるのです。

 

 

 

9 皆さんは、それぞれ心をもっています。それでは、心と体は互いに友人になるでしょうか、争い合う群れになるでしょうか。もし友人になれずに争い合う群れになるとすれば、どちら側が闘いの主人公になるのでしょうか。心と体が争えば、いつでも体が先に心に闘いを挑むようになります。心はじっとしているのに、体が心を苦しめるのです。男性の体でも女性の体でも、その体は心を悩ませるのです。ですから、自分一個体において、心と体の統一を成し遂げなければなりません。皆さんが「心よ、体よ、お前たち、統一しなさい」と命令したからといって、心と体が統一されるのではありません。

 

 

 

10 心がどれほど大きいか知っていますか。見えませんが、あることはあります。この心がどれほど大きいかというと、恐らくこの世界を百個、千個入れても、満足しないでしょう。また、地球星のようなダイヤモンドが何千個、何万側あるのに、一個だけしか与えなければ、気分を悪くするでしょう。このように、心は想像もできないほど大きいというのです。また皆さんの心は、学ばなくても、良いことと悪いことをよく知っています。

 

心が誰かから、「おい、心よ。誰かがこれこれこのようなことをすれば、悪いことなので、その時はお前が番兵になりなさい」ということを学んだでしょうか。学んでいませんが、この心は、体がとても大きな力で刃向かってきても問題にしません。かえってその力に比例して、電気よりも速く、即座に反応を起こします。他の思いをもてば、即座に止めるようにするのです。

 

どれほど教育を受ければ、そのようになるのでしょうか。もし人が教育して、いつでもそれができるようにしたとすれば、これは大成功です。いくら偉大な教育者でも、このようにすることはできませんでした。このようなことを学んだことがありますか、ありませんか。学ばなくても、すべての人がよく知り、よくできるというのです。

 

 

 

11 世の中が問題ではありません。天下が統一されたとしても、「私」が統一されなければ神様のみ前に行けません。一言誤っても、良心はすべて分かります。良心は両親に優ります。良心は両親が与えたものではありません。天から来たのであり、根っこが神様なので、自分の両親に優るのです。良心は堕落した世界の師に優り、良心は両親に優るのです。

 

 

 

12 皆さんの心と体が闘い始めたのは、いつからか分かりますか。堕落した直後からです。そこで病気にかかったのです。それを取り除いてしまうことができなければ、絶対に天国に行けません。心と体が闘う人は、天国に行けません。先生はそれを闘ったのです。「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というのです。行けば行くほど、神霊的な世界に入れば入るほど、もっと恐ろしいサタンが現れるのです。

 

 

 

13 皆さんは、常に「私」という存在が善悪の母体だということを考えなければなりません。先生も皆さんのような年齢のとき、このような内容で苦闘したのです。

 

それで、先生が立てた標語が、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものです。これが信仰生活においての第一条です。このような面で、自己を完成し、自己を主管できるようになるとき、すなわち、自分の体を制御し、克服できる自主性をもつようになるときは、自分の心と体の相克がなくなるのです。

 

 

 

14 先生は、「お金を下さい」とは祈りません。出世するためには祈りませんでした。それでは、三大目標とは何でしょうか。

 

第一に、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものです。第二に、「絶対的な信仰をもとう」というものです。第三に、「絶対愛をもとう」というものです。これが三大目標です。

 

「私」の仕事において、サタンがうそをついてだましても、私は絶対的な信仰をもって事実を確認するまで行くのです。ですから、「サタン、お前も、最後には私を正しい道に案内しなければならない」という信仰をもつのです。

 

 

 

15 至高な愛の理想を成就すべき人間の完成は、愛に対する責任性をもつ時に可能なのです。その責任性とは、人間が愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修養、自己管掌で自由の主体になる責任です。人にとって愛の責任性は、法や世間体ゆえに守られるのではなく、神様との生命的、縦的関係の中で自己主管、自己決断で守られるのです。

 

 

心と体の統一

 

16 人の心と体を統一する方法は二つしかありません。一番目には、この体を粉々にして占領する方法であり、二番目は体を打たないで統一する方法です。強制で体を主管する方法はよくありません。それでは、どのようにしなければならないのでしょうか。今まで心は、体と対等に闘ってみることが一度もできずに、いつも負けてきました。それは心の力が弱いためです。

 

この心に注射を打ち、力を二倍から三倍に増やせばどうなると思いますか。そうすれば体を引っ張っていくことぐらいは問題にならないはずです。つかんで引っ張っていくことができるのです。自動車のタイヤに空気を強く吹き込めば大きく膨らむように、心にも強く力を放り込めば、どのようになるでしょうか。力が強くなります。そのあとに、心と体が闘えばどちらが勝つでしょうか。このように容赦なく体を打って占領する方法と、心に力を加える二つの方法があるのです。

 

 

 

17 心の力の源泉は愛です。ですから、心が授け受けして生じる爆発的な力を神様に連結さえすれば、それは何倍、何百倍、何千倍も統一できるのであり、世界万民が待ち望んでいた願いを成就できるのであり、永遠に共に暮らすことができると同時に、天国も自分のものにすることができるのです。その秘訣が正に愛です。愛は、統一に向かって上がるエレベーターであり、統一を成就できる絶対的な秘訣なのです。

 

 

 

18 この地に暮らしている堕落した人間は、悲しい思いが募れば募るほど、互いに分裂していきます。自分を中心として悲しめば、悪人たちの習性である分裂が起こり、善のために悲しめば、分裂していたものが一つになるのです。すなわち分かれた心と体が一つになって、天倫と統一された合一点がつくられるようになるのです。

 

 

 

19 統一は、「私」の心と体からしなければなりません。これを教える所が統一教会です。したがって、統一教会に入ると、他人のように疎遠に過ごしていた人も、兄弟よりも身近に過ごすようになります。また、肉身の父母ではない父母様に侍り、互いに異なる兄弟と互いに異なる国と互いに異なる民族が、一層強く糾合される高次的な愛をもっています。ですから、このようなところを「萬民之願統一世界」と言わざるを得ないのです。統一教会に入れば、このような希望の要素をもつことができるのです。

 

 

 

20 心と体が一つになった男性と女性、心と体が一つになったその心と体の基準とは何でしょうか。自分の心と体の基準ではありません。神様の心と体の基準、本来の先祖の心と体の基準がなければなりません。本来の神様の心の基準、神様の体の基準がなければなりません。見えない神様の心と体に似て現れたので、見えない神様の心と体の基準を中心として、地上において平衡を取っていきながら出会わなければなりません。会うのに、何で出会わなければならないのかというと、愛で出会うのです。愛で統一されるようになっているのです。

 

 

 

21 どんな聖人も、「心と体の統一が万事統一の基本となる」ということは主張しませんでした。「家和万事成」と言ったように、家が和合すれば万事が成就されるのは事実ですが、和合すべきその父と母の心と体が和合しているのかというとき、そうではないというのです。十人が暮らしていれば、十人の心と体が和合してすべてが一つになるべきですが、サタン世界では十人の心と体が闘っているので、二十に分かれているというのです。そこに平和はあり得ません。

 

 

 

22 皆さんは、個人の心と体を一つにしなければなりません。その次には、夫婦の統一です。愛を中心として互いにために生きるときに、統一が可能なのです。心は今まで一生の間、皆さんの体のために生きました。しかし、この体は心のために生きませんでした。心が体のために生きるのと同様に、体が心のために生きる立場に立って、一つにならなければなりません。

 

何を中心として一つになるのでしょうか。真の愛、ために生きる愛をもって一つになるのです。そのような「私」になってお互いのために生きる真の愛を中心として、夫と妻が一つにならなければなりません。そうしてこそ、枝がどんどん伸びていきます。それでこそ、大きくなるのです。それが自分で分かります。それでこそ、心が喜びます。何を見てもうれしく、仕事をしても苦しいと思わず、寝なくても疲れないというのです。

 

 

 

23 統一教会の「統一」とは何でしょうか。神様に心と体があるならば、心と体が一つになり、統一された場をもたなければ、神様も解放を受けた喜ばしい場に、幸福の場に出ていくことができません。神様がそうだとすれば、世界もそうだということです。世界自体も主体と対象の関係、社会も主体と対象の関係、家庭も主体と対象の関係になっています。

 

救援摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理です。再創造摂理を通さなければ、あらゆることが成就されません。男性と女性が通じてこそ、互いに夫婦にもなることができます。主体と対象が一つにならなければ通じません。統一もそのように成立します。神様と人間が通じてこそ、一つになります。通じるというのは、体が通じ、心が通じるということです。

 

 

 

24 どこで統一を探すのでしょうか。統一は、犠牲になるところ、譲歩するところにあります。そのようにすれば、どこに行っても、三年モーセずに一つになるのです。三年を越えて和合投入し、犠牲になって投入すれば、新しい主人が行ったり来たりしながら一つになります。世の中が、大宇宙の真の愛の空気でいっぱいになるというのです。ですから、解放圏です。

 

 

 

25 統一する前に、どのようにならなければならないのでしょうか。統一は、水平の上に立たなければなりません。平和がなければ統一はできないのです。ですから平和統一です。知らない人は「統一平和だ」と言うかもしれませんが、知っている人は「平和統一」です。ですから、この言葉は、道理に従って、理屈に合うように連結されています。それは本当に驚くべきことです。それ自体が伝統的な思想をもって、そこに関係している人たちが生きていることが奇跡です。神秘的なのです。

 

 

 

26 和合統一は栄え、闘争分裂は滅びます。分裂すれば滅びます。すべてが相対主義になっているのに、分裂するので滅びるのです。なくなるのです。和合統一です。あらゆるものは、お互いに個性真理体として和合して統一します。上中下、右中左、前中後、これはすべて栄えるのです。補い合うので栄えます。悪は闘争しながら分裂して滅びるのであり、善は一致しながら和合しようとするので、統一されて栄えるのです。

 

 

 

27 平和と和合は異なります。平和はただそのままこの水平上で実現されますが、和合は二つが一つの関係を結ばなければなりません。次に、統一は核がなければ定まりません。重心がなければ大変なことになるのです。なぜ生きるのかという問題や、なぜ仕事をするのかという問題は、目的観に連結されます。「私」が宇宙の中で、どこに関係を結んで生きるかということが問題なのです。

 

 

 

28 自然な環境において原則を中心として従っていき、ために生きることによって広がる和合と統一は天国のものであり、反対に、強制的にこちらのために生きなさいと注文し指示するのは、和平と平和の反対となる地獄の世界です。

 

皆さん自身の心と体を見るとき、心は天が定めた原則を知っているので、いつでも自分に「他のために生きなさい」と言うのです。

 

しかし、この体は、神様が定めたことと反対の立場にいるので、強制的に「自分のために生きなさい」と言うのです。このような存在はあり得ず、自動的になくならなければならないのです。

 

 

第三節 信仰の修練

 

 

天聖経  第八篇 目次   第二章 心と体の修練

第三節 信仰の修練

 

 

 

1 ヨハネによる福音第三章十六節に、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。アメリカを愛し、教派を愛して、ひとり子を賜ったのではありません。世界のために賜ったのです。バプテスト教会や長老派教会のために賜ったのではありません。それで、先生は、はっきりと教えるのです。統一教会は、世界のために存在し、神様のために存在するのであって、先生のために存在するのではありません。ですから、先生は滅びません。統一教会は滅びません。神様が保護するからです。

 

すべての完成は、真の愛から始まります。全世界が真の愛を中心として、このような公式を適用して訓練しなければなりません。そのようにしなければ生きていけないというほど、習慣化しなければなりません。世界のどこに行っても、そのように生きなければならないのです。年老いた人を見れば、自分の祖父と祖母のように、父と母の年齢なら自分の父と母のように、自分の相対の年齢なら自分の妻や夫のように、息子、娘の年齢なら自分の子女のように、自分の年齢なら兄弟のように愛さなければなりません。それが習慣化しなければなりません。楽しくなければならないのです。

 

 

真の愛で

 

2 川の水は、海に向かいます。地上は川の水と同じであり、霊界は海水と同じです。人間は誰でも霊界に行くようになりますが、淡水魚は、海水では死んでしまいます。突然入れば、窒息するのです。ですから、慣れなければなりません。統一教会は、その世界の内容を地上で訓練する所です。真の愛、ために生きる愛の活用訓練をさせる修練所が統一教会です。ために生きる愛の実体を形成するための修練所です。神様がために生きる愛で生きているので、ために生きる愛をもった場合、どこに行っても歓迎されます。どこに行っても反発がないのです。

 

 

 

3 真の愛の統治圏として征服することは、容易なことではありません。重なり合った防衛線を経て、受難を克服して立ち上がってこそ可能です。また、その受難を甘受できる自らの立場が決定された現在の基盤をもたなければ、達成することはできません。このような点から統一教会の現在の立場を見てみるとき、統一教会がこの世界の歴史過程で未来の主人として君臨できる立場とは、どのような立場でしょうか。個人のための立場ではありません。個人の立場より良い立場です。世界人類の個々人より少し良ければ、個人的な未来の主人になるかもしれませんが、個人的な主人では駄目です。また、家庭を中心として見てみるとき、少し良ければ家庭的主人になるのですが、私たちが望むのはそれではありません。家庭を越えて氏族、氏族を越えて国家、国家を越えて世界的主人として君臨しなければなりません。これは、簡単な問題ではありません。誰よりも悲惨な歴史過程を経て、現実的勝利の基盤を準備しなければ、未来の主人になることはできないのです。

 

 

 

4 愛のふろしきは、神様とこの宇宙を入れても余ります。神様まで入れても、そうです。もし神様が一秒の間に三十万キロメートルも進む電気をつくったとすれば、神様はそれよりも速く進むはずですが、その愛のふろしきで、もてる力を出し切って走っても事故が起きないほど、愛のふろしきは大きいというのです。いくら宇宙が大きくても、その愛を中心として回るようになっているのであって、直線では行きません。真の愛をもった人は宇宙をもち、宇宙をもった人は、宇宙を治めるのです。今日の地上生活は、このような愛を訓練する所です。そのような所で暮らしているのが人生なのです。

 

 

 

5 真の愛でために生きれば上がり、自分を愛すれば下っていきます。地獄と天国が自分を中心としてできています。体を中心として喜ぶときは、サタンの舞踏場になり、心を中心として絶対的に喜べば、神様の舞踏場になります。神様が喜べる絶対的な心になれなかったというのです。体を中心として絶対的に喜べば、地獄に落ちて滅び、なくなってしまうのです。

 

 

 

6 真の愛で怨讐のために生きてあげれば、怨讐の世界を治めることができるようになり、その怨讐の世界がむしろ皆さんを尊敬し、侍るようになるのです。皆さんの子女や父母よりも、周辺のすべての人のために生きてあげ、これ以上ない真の愛を施せば、サタンは自動的に逃げていくようになり、代わりに神様がその場に訪ねてこられて、千倍、万倍に返してくださるのです。

 

サタンをして逃亡せざるを得なくさせる秘法とは何でしょうか。真の愛でために生き、ために死に、ために愛そうとする真の人の前では、いくら悪辣なサタンでも、国境線を放棄して逃げていかざるを得なくなるのです。逃亡するとしても、国境線を崩してから行くようになっているのであって、そのまま行くことはできないのです。そのようになれば、どんなことが起こるでしょうか。悪魔、サタンが離れていくことによって、地獄の死亡圏に直行していた無数の生命が、一八〇度旋回して天の国に上昇できる永生の道理が広がるのです。このように永生の祝福が下されるのです。

 

 

み言に従って

 

7 先生が神様のみ言で生きたので、皆さんも神様のみ言で生きなければなりません。皆さんは、先生より何倍も熟達できるように、み言を読んで、また覚えて行わなければなりません。そうしながら、「私はこのような道を行かなければならない。父母様が願うことがこのような道なので、このように行かなければならない」と考えなければなりません。そのようにすれば、皆さんがある村に入っていったとき、その村の先祖たちまで来て自分に侍ってくれ、「歓喜の同参者になりたい」と思うというのです。

 

 

 

8 父母様が残しておいたみ言をたどる後世になってこそ、その万国の万民全体が永遠の天上に近い道に接近していくというのです。先祖を尊重し、先祖が残した遣物と、先祖が訓示として残したみ言を、世の中で自分が生きることよりも、表象的でない実象的な主体として、暗い世界の灯台のように見つめてこそ、暗い海の暗礁が幾重にも囲んだ世界を分別していくことができ、自ら解放の道を行くことができます。その灯台を見て、自分の方向を尋ね求めていく道しかありません。その灯台になれる話を先生がするのです。今まで天地を中心として、先生のみ言以上のみ言を語った人はいませんでした。ですから、この上なく高い心情の世界から芽生えて出てくる、天上のみ言として受け入れることができなければならないのです。

 

 

 

9 終わりの日には、心情と人格とみ言で審判するのです。どれくらいよく信じたか、ということで審判するのではありません。神様には心情の中心があります。天地を中心として、神様が立てるべき、ただ一つの心情の中心があります。そして、この神様の心情と一体になれる人格の中心があります。また、この人格と心情と一体になれる人として、神様の代わりに語れるみ言の中心があります。これが審判の三大要件です。その中でも、み言の審判が最初に始まります。堕落した人間の世の中では、み言の審判が先に展開されるというのです。

 

 

 

10 今日、堕落した世界の思潮は、真理の世界を求めていきます。そして、文化と共に発展していく歴史は、一つの文化世界に向かう理念を求めています。今まで、世界の思潮は、思想と主義を通して現れましたが、万民が一つになることができ、万民が和合できる一つのみ言の基準を立てられないまま、袋小路でもがいています。これが今の現実です。ですから、共産主義者たちも溶かし、民主主義者たちも溶かして、一つにできるみ言が出てこなければなりません。真理を追究するこの世界に一つのみ言が現れて、今までの真理を審判しなければならないのです。

 

 

 

11 皆さんが恩恵に満ちて、命懸けで立ち上がれば、神様が代わりにマイクを持って立ち上がるというのです。天使世界も同じです。先生もそうです。ですから、このみ言に夢中になって、御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れ、生活するのも忘れるほどに高揚すれば、皆さんは、誰でも、先生がしていたことを身代わりすることができます。この作用が偉大なのです。

 

 

蕩減の峠を越えて

 

12 神様は、アダムとエバの堕落によって、人類を一度に滅ぼしても収まらないほど悔しくて無念なのに、その父の世話になって良い暮らしをしようと、自分が幸せになろうと考えてはいけません。神様が捨てるしかない世界を再び収拾し、第二の理想郷に向かって、本郷の故郷の山河と父母たちに侍っていた孝子、忠臣、聖人たちが歩んだその後ろ姿についていき、一歩でも間違いなくその道を踏んで、この蕩減の峠を越えなければなりません。父母様が歩んだ道は、皆さんが一緒に行かなければなりません。ついていかなければなりません。千里万里、千里遠征です。千里遠征が残っているのです。

 

 

 

13 蕩減の道は、必ず時間が消耗されなければなりません。また、単に時間の消耗だけでなく、自分自らの消耗が起こらなければなりません。このような信仰の道を切り開いていくべき、各自の責任が残っています。それでは、皆さんがここにどれほど時間を消耗し、どれほど自分自身を消耗したでしょうか。これが蕩減の要因を除去させるか、させられないかを左右します。

 

このように見てみるとき、信仰の道は、犠牲の道です。自分の生涯の犠牲です。言い換えれば、自分が幸福になるすべての要因を投入する道です。それだけでなく、自分の肉身もここに巻き込まれなければなりません。全体を中心とした犠牲と、自分自体を中心とした犠牲の代価を支払わなければならないのです。その時間が長く、自分自体の犠牲の量が多ければ多いほど、それに比例して、自分一代で清算できる蕩滅の量が多くなるというのは、正当な道理です。

 

 

 

14 豊かに暮らす人より、苦労をたくさんする人が福を受けます。一番高い基準は、一番苦労することです。それで、先生は皆さんを苦労する場に追いやるのです。「その分野においては私でなければならない」と言うことができなければなりません。それでこそ、責任を遂行することになります。僕の中の僕になり、養子の中の養子になり、息子の中の息子になって、子孫までも公認する永遠の祝福の立場まで進んでこそ、責任を全うした皆さんになるのです。

 

行くときは、僕として行き、養子として行き、息子として行き、聖霊とイエス様の資格で行き、最後には父として行かなければなりません。息子、娘の立場までは自分のための蕩減分野であり、聖霊とイエス様の立場は父のための蕩減分野です。父の責任まで果たしてこそ、自らの責任を全うすることになり、過去、現在、未来に対して不足のない自らになるのです。

 

 

 

15 神様の息子であるイエス様は、世界と天宙を連結して親孝行をする男性になることが目的ではありません。親孝行をする家庭をつくるのです。家庭で血統を誤った基準から、個人的家庭、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的家庭をつくるのです。先生独りでその十字架を背負って蕩減の峠を越え、境界線、国境線を越えてきています。先生は、世界的な基準で勝利することによって、神様とサタンの戦争までやめさせ、平和な地上天国、天上天国をつくるのです。

 

 

 

16 神様の悲しみを蕩減してさしあげなければなりません。神様が「私」のために涙を流した代わりに、私たちは、兄弟のために、国家のために涙を流し、世界のために涙を流そうというのです。このような責任を遂行する群れが世の中に現れるようになれば、その群れは滅びません。その子孫は、間違いなく発展するでしょう。

 

皆さんの当代には、もちろん悲惨な、歴史的な何かがあるかもしれませんが、今、終わりの日が来たので、当代に二つの世界を審判し、一つの世界を建国できる時代が来ることを知り、この時こそ歴史的な時であり、神様のみ前に孝子になることができ、忠臣になることができる時であることを知り、神様を慰める皆さんにならなければなりません。

 

 

 

17 もし、どんな悲惨な環境の中でも、自信と勇気をもって困難を克服して再出発できる群れがいるとすれば、新しい世界は彼らから始まります。しかし、何かをもっている群れは、動くに当たって勇気がなく、もっていない群れは、動こうとしても動ける力がないのです。ですから、私たちは、このような境遇にある人たちにつき従うことができ、また与えることのできる、その何かをもっていなければなりません。この境地を越えるには、そのままではできません。そこには、多くの蕩減条件と犠牲を経なければなりません。自分の利益のための犠牲ではなく、全体の利益になる犠牲を払い、全体の勝利、全体の価値のために、自分の一身を犠牲にすることに満足する群れが必要です。

 

 

関係回復の原理

 

18 神様の愛を中心として、すべての万物が和動する中で、万物の主人の資格を備えて神様に、「我が父よ。栄光をお受けください!」と言うことができたアダムが堕落することによって、そのような価値を喪失してしまいました。ですから神様は、創世以後、本然の息子、娘が現れて「父よ」と叫ぶ、その一言を聞きたいと思うのです。

 

今日、私たちが呼び求めているその父は、罪悪の立場で呼び求める父ではありません。ですから、私たちは、罪悪の世の中から抜け出して、善の理想の園に入っていかなければなりません。その理想の園とは、人間が神様の栄光を現す世界であると同時に、喜びに陶酔して生きることのできる世界です。言い換えれば、人間が動ずれば万物が動じ、人間が静ずれば万物が静ずるようになり、人間と万物が動じ静ずると同時に、創造主の神様も動じ静ずることのできる世界です。それだけでなく、神様と人間の相対的な関係を超越して、一体となる理想の園なのです。

 

 

 

19 神様は、人間が御自身と一つになることを願われたのであり、一つになった中で驚くべき愛を中心として喜びに酔う、その一場面を思い描きながら、そのような世界を創造してこられたのです。ところが、人間が堕落することによって、これが自分たちの怨恨になったと同時に天倫の怨恨となり、堕落以後今日まで、その怨恨に怨恨を加重させる悲しい歴史を連ねてきたのです。

 

それでは、神様が今日、この地に対して摂理される最大の希望とは何でしょうか。それは、堕落の父母をもつ人類を再び神側に立て、「私は、あなた方の永遠の父であり、あなた方は、私の永遠の息子、娘だ」と叫ぶことです。そのようにできる日を迎えることが、堕落した人間の歴史的な希望であり、天倫に対する天的な希望なのです。

 

 

 

20 平和の世界は、国家と国家の間に良い関係を結ばなければなりません。闘争の概念があってはいけません。関係を結んで相対的立場にならなければなりません。縁があって来たので、相対的な関係になってこそ関係が結ばれるのです。関係というのは、悪いものを中心として語る言葉ではありません。良い意味の言葉です。

 

 

 

21 関係は、縁のないところでは結ばれません。仏教では因縁を語りますが、統一教会では関係を語ります。一段階先を行っています。関係は必ず二つ以上で結ばれますが、因縁は一人でも結ばれます。心と体は相対関係になっているので、統一された醐係を結びます。男性と女性も相対関係になっているので、「夫婦一体」と言うことができます。

 

このように見れば、関係を結べるその中心がなければならないのです。父子関係も相対的な関係なので、「父を中心として」、「息子を中心として」と言うように、絶対的な内容を満たせる「中」がなければなりません。真ん中を意味する「中」の字、これは四方の中心を意味するのです。

 

 

 

22 主体と対象の関係というものは、時間と空間を包括しています。関係を結ぶようになるとき、相手は低い位置にいますが、大きな心をもって対すれば、その相手にも大きな栄光を与えるのです。父母の心が広ければ広いほど、その相手もそうなるのです。主体の前には、必ず対象存在が生じるようになっています。

 

 

 

23 関係というものに型があれば、その型に縛られたすべての人間の歴史や個人の事情は、みな異なります。ですから、主流とどのような関係があるのかというのです。木で言えば、木の葉は千年前に出てきた葉も、千年後に出てきた葉も、その本質は同じです。その木の中心の根と連結されています。また、中心の幹と連結されていて、中心の芽が連結されています。枝も同じです。東西南北の四方にほかの枝があっても、その内容においてはみな同じだというのです。

 

 

 

24 共鳴圏は、二人が一つになった境地です。父母も二人であり、夫婦も二人であり、兄弟も二人であり、子女もそうです。すべて二人です。カップルになるので、関係という話になります。「兄弟関係」というものも、二人を前提に語る言葉です。独りでは「関係」という言葉は使えません。「政治関係」も国と民であり、「主体と対象の関係」もやはり二人を前提に使う言葉であって、独りでは関係を結べないのです。

 

 

 

25 人間に体恤させ、人間と父子の関係を結ぶために苦労していらっしゃる父であることを、心や生活で感じなければなりません。私たちの最後の希望として残されているもの、すなわち神様の恩賜の中で私たちが立てられるのも、何を基準として立てられるのでしょうか。それは、創造の理念である神様と人間の父子関係を回復するために、地上でどの程度実践したかということにかかっています。私たちの生活圏でどの程度実践したかによって、自分たちの価値を見いだすことができるのです。

 

 

 

26 鳥や、海にいる魚のような万物、万有の存在にも、歌と、踊りと、会話できる言葉があります。言葉が少し発展すれば歌になり、歩き方が発展すれば踊りになるのです。このような表現で和合し、会話できる関係というものは、愛を中心として成り立っていることを知らなければなりません。愛の時間を分かち合い、愛の時間を互いに高揚させるための行動を、万有の存在が競争しているのです。人間は万有の主人です。ですから、人間がこの歌の話と、和合の話を一日に十倍、百倍加担させて、さえずり、喜べる世の中になれば、その世の中は、神様が酔いしれて暮らせる環境となる世の中なのです。

 

 

第四節 心の修練

 

 

天聖経  第八篇 目次   第二章 心と体の修練

第四節 心の修練

 

 

 

1 心は永遠を伴い、体は一生を伴います。心は生涯を調整して現れ、体は生活を調整して現れます。生活と生涯は異なります。生涯とは一生について語ることであり、生活とは一日について語ることです。このように、私たちの心と体は、それ自体が異なります。人間は、心が生涯を主管し、体が生活を主管するようになっています。ですから、一日一日の生活で食べなければ、体は死ぬようになります。しかし、心は食べるには食べますが、生涯の観点から外れる立場で食べてはいけないというのです。このような意味から見るとき、心が望む観念がより大きいというのです。

 

 

心は父母の中の父母

 

2 私たちがほかの人と和合できない心をもっているとすれば、私たちは、その心を動かして、すべての人に一〇〇パーセント合わせることができる心の修練をしなければなりません。そうでなければ、サタンは終わりの日に皆さんを審判台の上に立てておき、「誰それよ、お前はこのような不備な条件があるではないか」と言って、そのようにできない点を掲げて讒訴するのです。

 

 

 

3 心は、宇宙の神様を身代わりしているので、父母の中の父母です。師の中の師であり、主人の中の主人です。ですから、純潔さをもっている「私」の心は、世の中の母よりもっと近い母であり、父母です。世の中のどんなに立派な先生よりも、私に一番近い先生です。また、世の中のどんな主人よりも、自分の僕たちを正しく導いてくれる主人の立場に立っているのが心なのです。

 

 

 

4 心と体は異なります。心はどこからもらいましたか。神様からもらいました。心は神様から来るのです。皆さんの心は天、体は父母から来ました。体は地から来たので、地から出るものを食べるのです。皆さんは、地の世話になっているのです。この地は物質です。人は、男性でなければ女性です。神様が創造されたアダムとエバの延長が正に「私」です。人といえば、そこには既に実体があるのです。人の中に何種類のものが入っていますか。地が入っていて、人が入っていて、神様が入っています。昔から「天、地、人」という言葉があります。心は天であり、体は地であり、人は人なのです。

 

 

 

5 「私」一人には、神様が入っていて、地が入っていて、人が入っています。心が主体となり、体は対象になります。心は、体の中心になるので、意志がなければならず、観念がなければならず、主張がなければなりません。これが一つに一致した人を人格者といいます。心の命令どおりに体が動く良心的な人を、人格者というのです。自分の一身を思いどおりにできる人が人格者です。ですから、心が中心です。心は神様の代身であり、体は人の代身です。神様は、人の心を治め、人の心は人の体を治め、人の体は万物を治めるのです。

 

 

 

6 人間には心と体があります。父母からもらった体、地から体の要素になる物質を供給された体をもっています。しかし、心が問題になっています。神様は、その心と体を不変の心情の基台の上に立てたいと思われるのです。そのようにすることが、神様が人間を創造された目的であり、堕落した人間に対して摂理される目的です。いくら心が喜び平安だとしても、その心は心情の家に入って休むことができずにいるだけでなく、体もやはりそうだというのです。

 

 

 

7 今まで人間は、何を求めて苦労してきましたか。人倫の心の代わりとなる天倫の心情を求めて、その心情と私たちの心が一つになるようにと、今まで骨を折ってきました。一つになったその心は、絶対的な心と関係を結んだので、その心は誰かが切り取ろうとしても切り取ることはできません。ですから、このようにどんな理念と、どんな主義主張をもってしても、決して侵すことはできない心を、私たちは、今まで求めているのです。ですから、もしこれを探し出せないとすれば、決して悲しみと悲哀を免れることはできません。

 

 

心の指向性

 

8 心は、自然の道理に符合します。善に向かって無限に動こうとします。それは、羅針盤が南と北を示すのと同じです。自然の道理が、方向を失って善を避けていくことはありません。そのような現象はないのです。人間の心もやはり、ある目的に向かって動こうとします。生命に向かって動く心、心情を通して動く心、真理を分別する心、全体と和合したいと思う心、全体のある理念に和合して生きたいと思う心、この心が、天が善の方向を指示できる基盤なのです。

 

 

 

9 私たちには心があります。その心は、より大きな理念に向かって、寝ても覚めても時間と空間を越えて、「私」をある方向に押し出そうとしています。しかし、このような動きが連続する歴史とともに動いていこうとする事実を感じながらも、そのような面をもっている自らを解明できずにいます。

 

皆さんは、自分を分かってほしい、自分を信じてほしいと言いたいでしょう。そして、私が考え、私が主張するすべてのことが、そのある動きと関係を結ぶことを願いながら今まで生きてきたという事実も、否定できないでしょう。それでは、私を信じ、私を分かってほしいと求めるとき、自らを確定して、天倫の大きな目的と関係を結んだ立場に自らを立ててから、そのような要求をしたかというと、そうではありません。

 

このように見るとき、私の価値は、どこで決定されるのでしょうか。万象を動かせる主体、あるいは主動体となることを心で望み、生活で、行動で動いて成し遂げようとする自らを、もう一度分析して、冷静に批判する過程を経るまでは、大きな目的を成し遂げることはできません。天は天倫の目的を成し遂げようとされますが、自らがそのようにすることができなければ、天のみ前に堂々と立つことはできません。天倫の前に頭を上げることはできないというのです。

 

 

 

10 天は、生命の主体であり、理念の主体であり、愛の主体であって、私たちの心と体の主体です。ですから、私が天と接触する瞬間には、私の体は自分の体ではありません。私の心は自分の心でなく、私の心情は自分の心情ではないのです。私の理念は自分の理念ではありません。その時こそ、神様を身代わりした体になるので、万物の主人公になるのです。その時に、私の心が神様と同じ心になるので、私の心は神様を身代わりすることができるのです。その時に初めて私の生命は、万宇宙を動かせる生命の権限をもつのです。私の心情は、神様の心情を身代わりして現れることができ、私の理念であり、父の理念だというのです。それでこそ、私たちの心的な願いのすべての目的が終結するのです。

 

 

 

11 心は、刺激的で苦痛な現実の環境を避け、理想に向かって進むことを促しています。どんな指導者でも、この現実と闘わなければなりません。しかし、理想を指向し、待ち望み、催促するこの心について知っている人は、一人もいません。その心の命令に従って行動しなければなりません。

 

歴代の数多くの預言者たちも、その心に抵抗しませんでした。今後、どんな人でも同じです。その心に応じるべきであって、誰かがどのようにするからといって、できるのではありません。抵抗できない、自ら応じるべき運命に置かれている自分たちであることを心から認めるとすれば、今日、この世界は、理想世界ではなく、私たちが夢見て希望する理想世界と関係を結んでいないというのです。それは堕落したからなのです。

 

 

 

12 神様が私たちのために受けたあらゆることは、私たちの心と体に反映されます。体が行動する一つ一つに、心は善の目標を指向するように環境を管理し、休む暇もなく努力します。また、体がその目的と方向を失い、死亡のどん底に陥るようになった時、心は体に向かって、善のものを見つめなさいと勧告します。ですから、「私」自身から解決しなければなりません。私たちの心が天を身代わりするならば、心が望む目標と天が望む目標が一致しなければならないのです。

 

 

 

13 神様が私たちの心の中心ならば、その神様が望む目標と、私たちの心が望む目標とが一致しなければなりません。また、心と体が一つになるために、体はこの地の理想的な基準と一致しなければならず、心は神様が目標とする方向と一致しなければなりません。歴史的な最後の終末時代、善の理想世界は必ず訪れるものなので、「私」の体が生活において善の理念世界と接する関係をもっていなければなりません。心の基準が神様の基準と分かれるとき、苦衷が生じるようになり、体の生活基準が世界的な理念と相反するとき、また、苦衷が生じるのです。それでは、どこから是正するのでしょうか。それは相対圏ではなく、私自身にかかっています。

 

 

信仰と祈り、精誠の道

 

14 きょう、死を覚悟して新しい信仰の道に立ち上がった皆さんが、絶対的な信仰で神様の希望に向かっていけば、そのような信仰路程を通して神様と同じ価値を探し出すことができます。このような信仰をもって責任感をもたなければならず、このような信仰をもって実践する真の息子、娘たちにならなければなりません。そのようにならなければ、到底父の前に立てません。絶対的な父の前に真の息子、娘として、忠臣の姿として立ち得ないのです。

 

 

 

15 天は歴史的に何を通して人間を訪ねてくださったかというと、信仰という条件をもって訪ねてくださいました。天は人間をして、この信仰の条件を立てさせる一方、人間に対して実践を求めました。天と「私」が関係を結び、悲しみの心情を除去することのできる一つの足場を立てるためには、信仰を中心として一つの実践的な行路が生じなければなりません。そうしてこそ、歴史的な関係を立てることができるのです。

 

 

 

16 不都合な立場を解消するためには、自分自身に対して率直に告げなければなりません。「私は本来、このような人です」と率直に通告し、「私はこのように悪い人だが、あなたは善の人なので、私のような人に同情して、行くべき道を模索できる方案があれば、私に哀れみを施してください」と言わなければなりません。

 

祈る心で人と向き合えば、自由な環境が広がります。しかし、ただそのまま踏みとどまっていては、いくら自分がやっても、心では収拾がつきません。環境を収拾できないというのです。ですから、「私はこのような人間ですが、あなたと関係を結びたいのです。ですから、哀れみを施してください」と率直に告げなければなりません。それが祈りです。

 

祈りは、自分が行く方向が間違ったとき、正しい方向に行くよう導いてくれます。皆さんの生活を見れば、言葉一つ、行動一つ、感じ方一つによって、二転三転しています。皆さん自身が、今日、現実の中で息をしながら生きているこの瞬間に、このように秤にかけています。その秤の目盛りを合わせることにおいては、率直でなければならないのです。

 

 

 

17 先生の祈りは、一般の人が聞いても分かりません。百回読んでみてこそ通じます。天の神秘の声を聞いて、そこに共鳴できる心と体で体恤する境地が必要なので、自然と通じ、すべてに通じなければなりません。通じなければ、分かりません。釈迦牟尼も言いました。「天上天下唯我独尊」という言葉は、その境地で語った言葉です。境界線を越えるようになれば、必ずそのようになるのです。

 

 

 

18 皆さんに必要なことは、祈りと精誠です。自分が自ら復活した位置に立ったのでしょうか。復話した位置に立てなかったとすれば、切実に求める位置に立ったでしょうか。信仰をもちながら、環境に責任をもち得る自らになったでしょうか。私たちは、そのようにはなっていません。

 

ですから、祈りが重要です。祈りは、生死の基準を動かす能動性をもっています。そのような祈りを捧げるのは、大変なことです。「私」が見上げるほど高く、広い塔を積むとすれば、どれほど忙しいでしょうか。広くて高い塔を積もうとすれば、どれほど忙しいかというのです。それを五十年なら五十年の間に、すべて積み上げなければならないと誓ったとすれば、休む暇がないのです。

 

 

 

19 先生は、祈りが最も威力のあるものと信じています。不可能を可能にすることができるからです。統一教会では祈りを強調しますが、ほかの特別な方法で祈るのではありません。しかし、その内容は異なるのです。「自分自身のために祈ってはいけない」というのが先生の教えです。自らの使命のために、そして他の人のために、また自分の祈りが慰労の言葉として神様に伝えられるようにしなさい、と教えています。

 

 

 

20 難しい問題があるときは、祈りを捧げて解決していかなければなりません。それでは、祈りはなぜするのでしょうか。祈りとは、神様の心情的基準を中心として関係を結ぶものです。ある問題を中心として、真の意味で国を心配し、神様を心配する思いで祈りを捧げれば、神様は、必ず前後を教えてくれるようになっています。そのような役事は、いくらでもあるのです。

 

 

 

21 私たちは、外的に伸びていくことよりも、精神を統一して内的に深く追求していく道を模索しなければなりません。これが今日、キリスト教で言う「祈りの生活」です。皆さんが目的を立てておき、それを成就させようとする祈りよりも、神様の考えに接して、神様が語りたいと思われるみ言を体恤し、それを実践するという祈りが、より貴重なのです。ですから、祈りを捧げるために、静かな所を訪ねていくのです。

 

 

 

22 祈りの生活をすれば、形容できない喜びが訪れます。その境地が、創世前の神様の心の境地です。皆さんがそのような境地で、「こうだ!」という内容をもって説明できる立場に立つとすれば、その立場は、正に神様が天地万物を創造された立場だというのです。神様がみ言で被造物を創造された立場です。そのような境地でみ言を宣布しなければなりません。そうすれば、人々も必ずそのようなみ言に触れようとするのです。

 

 

 

23 皆さんが祈りを捧げようとすれば、一日の日課を始める前にしなければなりません。ですから、最も重要な時間が早朝です。早朝が最も重要なのです。この時間が一日の勝敗を左右する重要な時間帯です。この時に祈らなければなりません。深い祈りをするときに、自分が今まで全く感じてみたことのない分野を感じてみるためには、自分を中心とした祈りをしてはいけません。国家なら国家、世界なら世界という、大きな目的を中心として祈らなければならないのです。

 

 

 

24 深く根を張った祈りの生活を、たくさんしなければなりません。み旨に徹した生活をしなさいというのです。そして、神様が行かれる道と教会が行く道に、自分がどれほど呼吸を合わせて生きるかを、常に考えなければなりません。そうしようとすれば、「教会の便りが気になって死にそうだ」と言いながら、直接、訪ねていけなければ、「電話してでも知りたい」と思う気持ちがなければなりません。そのような心を前面に立てて暮らす家庭なら、神様が共にいない道理はありません。そのような根もないのに植えておけば死んでしまうので、植えないことより良くないというのです。皆さんは、このような原則を知り、生活を再整備して、そのような基盤を築き上げなければなりません。

 

 

 

25 祈りは、御飯を食べることより重要です。ですから、先生も自然を好み、一人で過ごす時間は心が満たされます。静かな夜が本当に好きです。生活の豊かな底辺基盤を築くことができるのは、祈り以外に道がありません。その世界、その場で愛を感じ、愛を体験できるのであって、普通のところでは難しいのです。そのような基盤の上で、自分自体が力を補強できる立場に立ってこそ、皆さんの信仰の道を皆さん自身が行けるのであって、いつもこのように先生が導いてあげていては、先生がいないときはどうするのですか。そのような背後の生活を備えるためには、祈りが必要です。夜も昼も全体のために祈ってこそ、それが生きた祈りになります。そうしてこそ、何年かごとに、自分が願う祈りが変わり、題目が変化するとともに発展するのです。ですから、今の時がどんな時なのかを知らなければなりません。そのような背後の生活を、皆さんは、祈りの生活を通して備えなければならないのです。

 

 

 

26 祈りは、自分の気が散るような所でするものではありません。奥深い所、天を代表する所、境界線から遠い中央の地に行って祈らなければなりません。ですから、どのように祈るのでしょうか。自分の生涯の切実で重要な問題を祈るためには、自分自身を清め、この境界線と関係のない、永遠にサタンと関係のない所で祈らなければなりません。ある人は、「神様のみ前にいくら祈ってみても、応答がなかった」と言いますが、それは応答するようにはなっていません。サタン側で祈っているのに、神様がそのような祈りを聞いてくださるでしょうか。

 

 

 

27 心は丸く、心門というものがあります。祈れば、いつもうまくいくわけではありません。そこにも、春夏秋冬と同様の、自分の性稟による型があります。天の方向と心の方向がぴったり合う時があります。その時を逃してはいけません。そのような時が来れば、すぐに分かるのです。祈りの生活をすれば、直ちに「何か起こる」ということが分かります。その時のために、しっかりと準備しなければなりません。その時には、百事に備え、この心の門を開いて、そこを掘り下げれば、非常に大きな力と、非常に大きな神様の愛が、どのようなものかを感じられる段階に入るのです。

 

 

 

28 涙を流しながら祈りをたくさんしなければならない時が、終わりの日です。また、涙だけでなく、血を注ぎながらでも祈らなければなりません。私たちは、涙の峠、十字架の峠を越えてきました。イエス様はゲッセマネの園で血のしたたりのように汗を流して、涙の祈りを捧げられました。民族を胸に抱いて涙を流されました。そのような祈りは、サタンの権限を抑えることができるのです。

 

 

 

29 皆さんは、自らの心を通して祈れる人にならなければなりません。皆さんが体を通して現す言葉や行動が、皆さんの心の中心と連結された時、その言葉や行動は、神様とサタン、またはどんな人の前でも恥ずかしくなく、堂々としているでしょう。神様は、正にこのような存在を求めていらっしゃるのです。

 

 

 

30 心で祈り、すべての面で戒律を立て、天に向かって訴える祈りは成就するようになっています。今日の祈る人たちのような祈りを数十年したところで、成就しません。真の愛の心情をもって、約束する位置で祈りを捧げなければなりません。一度祈って三十年、四十年待てる、切実な心をもたなければならないのです。三十年、四十年過ぎても忘れない、切実な思いで祈って待ってみるのです。成就するというのです。多くの祈りは必要ありません。

 

 

 

31 祈るときには、涙を流しながら祈り、汗を流しながら祈らなければなりません。「何かがぶつかっても、私を突き抜けるのであって、私は倒れない」、このような信念をもって祈りを捧げなければなりません。迫害があり、反対が起こっても、祈りを成就してくれるための、神様の時が近づいたことを知らなければなりません。統一教会を信じていくとともに、だんだんと大変になれば大変になるほど、時が近づいたことを知らなければなりません。

 

 

 

32 神様だけを主として、自らが新しいものを刺激できる生活を直接経験しなければなりません。そのような心情を感じながら活動をすれば、そこには必ず繁殖が起こります。そのようになれば、発展するのです。生きている木には新芽が出てくるのです。きのうときょうが違うというのです。そこには必ず生命力が躍動するのです。皆さんがこのような感情を失う日には、生死を懸けて祈りなさいというのです。徹夜の祈りを捧げてでも精誠を積んでいかなければなりません。

 

神様は、皆さんがそのような生活をしようとすれば、わざとその時間を奪っていこうとするかもしれません。そのときは、いくら努力しても、希望を見いだそうとしても見いだすことができません。努力すればするほど、一層真っ暗な窮地に陥るときもあります。ですから、付きまとうサタンまでも「私」に屈服させて、神様に仕えなければならないという気持ちをもって、より一層強く闘うことができなければならないのです。

 

 

 

33 私たちが行くべき道は、いずれにせよ突破していくべき道であることを考えれば考えるほど、これは私たちの力だけでは不可能です。ですから、信仰者は祈りを捧げなければなりません。個人として神様のみ旨と一致する伝統を受け継ぐ道を見いだせなくなる時は、彼がいくら努力をし、いくら忠誠を尽くしながら行くといっても、その結果は、必ず神様のみ旨に背く立場に帰結するようになります。そのような観点から、現在の「私」の位置がどれほど重要かということを知らなければなりません。

 

 

 

34 皆さんは、息子、娘のために祈る前に、まず天界にいる、今まで苦労した歴史的な先祖たちのために祈らなければなりません。自分が幸せに暮らすことを願う前に、この地の人類が幸せに暮らすことを願う心をもたなければなりません。「私」が踊りを踊る前に、まず嘆息圏内にいる万民を見つめて心配できなければなりません。また、うれしくても、うれしい表情をすることができず、楽しもうとしても、楽しむ行為ができなかったイエス様の事情を身代わりできる心をもたなければならないのです。

 

 

 

35 自分の思いを中心として祈ってみなさいというのです。いくら夜を明かして祈っても、神様とは関係がありません。一生を否定し、一生をつかみ、その一生のために行かなければなりません。例えば、家庭を否定し、国を抱きなさいというのです。より大きなもののために生きること、それが公的です。そうしてこそ、残るのです。自分の欲望を中心として、家庭を中心として行くこと、それはあとのことです。より大きな目的を中心として行かなければならないのです。

 

 

 

36 堕落した人間は、生まれる時、喜びの中で生まれても、逝く時は涙を流しながら逝くのです。しかし、今、かわいそうな民族のために泣く者は、民族の福を受けるのであり、かわいそうな教団のために泣く者は、教団の福を受けるのであり、かわいそうな世界のために泣く者は、世界の福を受けるでしょう。

 

 

祭物になって分立する道

 

37 皆さんは、まず、皆さん自体を天のみ前に、誓いの条件物として立てようとしなければなりません。イエス様も世界のために、天地のために、あるいは多くの人のために、ただ一度誓いの条件を立てましたが、それが何かといえば十字架です。イエス様は、この十字架を通して、数多くの先知先烈(先駆けて道を悟った先人、義のために命を捧げた烈士)が命を捧げて苦労してきたその基準を一時に乗り越えたのです。ですから、皆さんは、宇宙的な生の価値を実現するために、今後、ある一時、天の前や世界の前に、または個人の前に捧げられる一つの誓いの祭物になろうという観念を、はっきりともたなければなりません。

 

 

 

38 統一教会自体を見ると、神様のみ旨と、先生のみ旨と、皆さんのみ旨が一致しなければなりません。まず、そのようにならなければならないのです。そのあとに方向を定め、条件物を提示しなければなりません。それが一致しなければ、いくら時が熟したとしても、み旨の成就は絶対に不可能です。祖父母、父母、自分、三代が合わさって、一つの祭物と同じ立場に立たなければなりません。宇宙史的な全体を中心として見るとき、一つになる道しかないのです。

 

 

 

39 祭物というものは、所有物を決定する条件物です。先生は、そのようなことをみな知っているので、このような定義を下しました。善に所有されるか、悪に所有されるかという問題は、何を中心として決定されるのでしょうか。サタンと神様が愛の心情を中心として取り引きしていることを、誰も知りませんでした。愛の道を開発し、愛の道を開拓するみ旨を立て、愛の人を求める立場に立ち、高い愛の基準を天のみ前に返すまでは、サタン世界の愛の基準の物が、天の所有物として登場することはできません。天の所有物として登場しなければ、神様が人間と共に一つになった物を所有できる道がないというのです。ですから、祭物は犠牲になり、人を身代わりして所有させるのです。

 

 

 

40 人類が遭遇するあらゆる苦痛を自分の苦痛として、人類が喜ぶあらゆることを自分の喜びとして感じられる立場に立っていらっしゃるのが神様なので、そのような神様のみ前に祭物の場に出ていく存在は、人類が喜び、神様が喜ぶことのできるその場に歩調を合わせなければなりません。人類と神様がプラスされるところに歩調を合わせてみると、自分はマイナスにならなければなりません。自分は犠牲にならなければならないのです。これが堕落によって失ったすべてを回復させられる、一つの助力部隊です。一つの祭物的条件物だというのです。

 

 

 

41 本質的愛を離れて、公的な愛を離れて、異質で自主的な覚醒をしたところから堕落が始まりました。自己を中心としたところから堕落が始まったので、自分を中心として愛を論じるその世界は、サタンの着陸基地がただそのまま延長されていくというのです。しかし、神様の愛、公的な愛を中心として自分の個人的な愛までも犠牲にさせてサタンを分立しようと、これを踏み越えるところでは、サタンの侵食基地が零になってしまうのです。

 

 

第五節 体の修練

 

 

天聖経  第八篇 目次   第二章 心と体の修練

 

 

第五節 体の修練

 

 

 

1 体は地を象徴するといいました。ですから、体が安息して暮らせる福地に向かっていこうとすれば、生まれ変わる苦痛を経なければなりません。したがって、時間がたてばたつほど、だんだん不安と恐怖にとらわれるようになります。しかし、その峠を越えれば、喜びがあります。

 

妊娠した夫人たちは、出産の期限が近づくほど苦痛がだんだんひどくなりますが、その苦痛を越えれば、その苦痛に反する喜びがあるように、そのような峠がなければなりません。人間を愛される天は、人間を造って祝福され、「あなたの体は地を治めるのであり、あなたの心は天を治めるだろう」とおっしゃったのです。

 

 

 

2 サタンは、死亡の障壁を立てています。その下に敷かれているのが私たちの体です。神様のみ前に怨讐となったサタンは、本来、天使長です。神様が主体であれば、天使長は霊的な対象です。心は天を象徴し、体はその対象を象徴するので、サタンは人間の体を足場として活動しているのです。それで、どの宗教も体を打つのです。どこかの国家や何かの主義を征服するのではなく、体を征服することが宗教の目的です。そして、本然の良心基準に入っていこうとするのです。体が求めるあらゆる条件を無視して心の門を開き、アダムとエバが堕落せずに上がっていかなければならなかった良心基準に到達するようになるときに、初めてそこから平和が始まるのです。

 

 

純潔を守る

 

3 男性も純潔であり、女性も純潔でなければなりません。結婚前に汚すことはあり得ません。純潔、それから純血です。血統です。愛を望む人は、純潔を守らなければならず、新しい血統、純血の血統を受け継がなければなりません。それで純潔、純愛、純血です。それとともに男性と女性が結婚して、二人が一つになって東西南北に切り替わっても、上下が切り替わっても、前後左右が切り替わっても、どのようになったとしても「私は投入して忘れ、ために生きる」と言えば、千年、万年解放され、和合しないものがないがゆえに、統一世界が現れるのです。

 

 

 

4 私たちには、蕩減路程が残っています。み旨のためにはすべてのものを犠牲にし、「私」の体の純潔を守りながら、自分の血族、親族を一時に失っても、み旨に従わなければなりません。すべての一家、親戚が自分を捨てても、み旨に従わなければなりません。歴史上のノアがそうであり、アブラハムがそうであり、モーセがそうでした。そうかといって、すべて失ったのではありません。永遠なものと取り替えたのです。しかし、彼らはすべてのものを失って永遠のものを得る、ということが分かりませんでした。漠然とは分かりましたが、具体的な内容は分からなかったというのです。

 

 

 

5 いくら美男美女がやって来て皆さんを誘惑しても、そのような渦中で倒れてはいけません。ですから、従順と貞節を重要視する男性と女性になって、祝福の血統を千年、万年守り、数千代にわたって純潔を守る子孫を残さなければなりません。そのような子孫を長く残すほど、世界を指導し、天国を指導できる皇族圏の血族として残されるのです。

 

 

 

6 愛は唯一のものです。一つしかありません。唯一のものであり、絶対的なものです。そのような愛を願うので、妻に接するとき、絶対「性」をもって接しなければなりません。妻に出会うことによって、天国が私を訪ねてくるようになります。そのようになっています。男性がいくら苦労しても、愛の道を訪ねていき、愛の正道に従わなければ、天国に行くことはできません。そのような天国を「私」に紹介するために訪ねてきた方が、妻という人であり、夫という人です。その二人が仲たがいする日には、天国が壊れていきます。私たちの人生の本然の理想と夢にひびが入っていくのです。

 

 

 

7 一つの個体において、過去と未来がきょうを中心として連結されています。過去、現在、未来が関係を結んでいます。過去と現在と未来を中心にして、天地の運勢が巡っていくのです。神様が最後の審判をする時、私個人が審判の聖書になり、法典になります。ですから、審判をしても引っ掛からない絶対的な立場を築いてこそ、個人復帰が完結します。

 

今は、個人完成の上に家庭を完成すべき時です。家庭の歴史のすべてが審判の材料になります。ですから、審判される時に、サタンが讒訴できない純潔の家庭にならなければなりません。そうしてこそ、家庭的な復帰を完成し、民族的な基盤を完結することができます。民族的な勝利の基盤を完全に築けば、サタン世界の万民を審判でき、神様が自ら裁判長の立場に立つようになります。全世界に散らばっている民族がサタンを攻撃するようになる時、抗議を受けない絶対的な勝利の基盤を築いてこそ、民族的な復帰の道を行ったということができます。そのような人が、国家、世界、天地、全人類を贖罪者として救う主人になるのです。

 

 

肉身の主管によって

 

8 私たちの体の限界点とは、どこまででしょうか。心が体と闘うとき、一番勝ちたいのは何でしょうか。それは食欲です。食べることです。宗教生活をするためには、食欲をいかに克服するかということが問題です。御飯は食べなければなりませんが、人間は御飯のために生きてはいけません。イエス様も四十日断食祈祷をしたのち、サタンから、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」(マタイ四・三)という試練を受けました。

 

しかし、それに対するイエス様の答えは適格でした。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」(マタイ四・四)と言いました。み言で生きるというのです。み言で生きるということは、真理に従って、すなわち道理のとおり、法のとおりに生きるという話です。ですから、イエス様がサタンに言ったそのみ言は、「あなたはなぜ神様の法度に背きながら生きるのか」ととがめるみ言なのです。

 

 

 

9 私たちは、二十四時間を治めなければなりません。時間を治めなければなりません。愛は、時間圏を治める立場に立たなければならないのです。その次には、行動を治めなければなりません。愛は、行動を治める以上の立場に立たなければなりません。時間を治めなさいという言葉は、睡眠を治めることです。行動を治めなさいというのは、御飯を食べることなど、あらゆる欲を治めることです。そして、情欲を治めなければなりません。愛は、その上にあります。その次には、物欲を治めなければならないのです。

 

 

 

10 イエス様も断食をしました。どの宗教を見ても、その宗教内には苦行をしない人がいません。そのような宗教であるほど、高次的な宗教です。この世を完全に否定した立場から出発してこそ、完成されます。真の宗教は、全体を否定しながら進んでいくようになります。世の中が考えることとは違うというのです。真の宗教は、世の中のことを肯定するところから出発するのではなく、否定するところから出発します。否定のどん底から肯定の要件を形成させて、自己主管圏を立てていかなければなりません。ここにおいて、心を中心として再創造されたという価値をもつ存在になる時には、善の人になるのです。

 

 

 

11 宗教は何を指導するのでしょうか。心を生かし、体を占領しようというのです。それで、宗教では、「犠牲になり、奉仕しなさい」と言うのです。そして、「断食をして苦痛を与えなさい」と言います。「苦行の道を行き、犠牲になって奉仕しなさい」と言います。その道を行かなければ、天国に入れません。これが原則なのです。

 

 

 

12 宗教は否定するのです。ですから、すべて捨てなければなりません。食べることも捨て、寝ることも捨て、好きなことをみな捨てなさいというのです。情欲、食欲、睡眠欲を捨てなさいというのです。食べて、寝て、喜ぶことをすべて捨てなさいというのです。人は本来、食べて寝なければなりません。そして、喜ばなければなりません。ところが、そのすべてのことが肉身を通して死亡の行路になったので、これを追放しなさいというのです。

 

 

 

13 宗教は是認、認定から出発するのではなく、否定から出発します。悪の世の中なので、悪を支持すれば悪になります。まず自分を審判しなさいというのです。「私」個人から打たなければなりません。この世界のあらゆる罪悪社会を打つのではありません。それも打たなければなりませんが、まずは自分自身を打ちなさいというのです。心と体が闘っているので、この体を弱めなければなりません。

 

何を中心として打つのでしょうか。打つためには正しいことを立てて、打たなければなりません。何を基準にして打つのかというとき、その基準は、「私」の個体においては良心を中心として打ちなさいというのです。ですから、人間にとって性欲や食欲という本能的なものを否定しなさいと言います。それで、断食祈祷をしなさい、徹夜祈祷をしなさいと言うのです。

 

 

 

14 宗教を中心とした既存の価値体系は、なぜ崩壊していったのですか。それは、宗教自体が本来の任務を忘れたまま分裂と紛争がやむ間がなく、それで現実に対する指導力を喪失したからです。既存の宗教は、神様と人生と宇宙について明確に教えられなかった結果、善と悪、義と不義の区別をはっきりさせることができませんでした。特に神様の存在の有無に対する質問に、明快な答えを与えることができませんでした。

 

宗教が無力化すると同時に、物質は、人間の前に手段ではなく目的と化し、享楽にふけるのが当然のこととなり、人間性は肉欲と物欲によって麻痺し動物化したので、このような土壌の上に真の愛と奉仕、そして義や神聖さなどの既存の価値観は存立し続けることができないというのです。

 

 

 

15 天国行きと地獄行きは、どこで決定するのでしょうか。「私」によって決定するのです。体の五官を通して感じる条件の中で、良心の呵責を感じる生活をする人は地獄にいます。心を中心として、心が喜べる生活をする人は天国にいます。ですから、人が物欲と悪心を捨てて、良心を中心として天倫を望むのは、極めて当然のことなのです。

 

 

善の実績を積む道

 

16 皆さんは、驕慢になって自分を自慢してはいけません。個人的な実績にプラスすべきものは、自分の家庭の実績です。家庭においては、家庭を誇る前に家庭の実績を中心として、氏族の実績のために投入しなければなりません。氏族の実績を誇るのではなく、民族のためにまた投入しなければならず、民族の圏内で三千里半島の韓国が祝福を完了したと誇るのではありません。世界を中心として個人から神様まで、八段階を越えていかなければなりません。ですから、神様が「すべてを成就した」とおっしゃるようになれば、皆さんも誇れるようになるのです。

 

 

 

17 真の父母の導きに従っていかなければなりません。真の父母が最初に天国に入って生活できる内幕を残したので。その内幕を中心として生きた生活の上で、皆さんがあの世に行って、自分の実績に応じて暮らさなければなりません。あの世においても、統計的評価基準によって自らの位格、留まる位階が決定されるというのです。それが科学的になっています。自分が信じたとおりに、自分が思ったとおりになるのではありません。

 

 

 

18 人は誰でも、家庭のこともすべてやりながら民族のために生き、国家のために生きて、暮らしていくことを願います。神様も、そうすることを願われるのです。しかし、私たちは、二者択一しなければならない運命に置かれています。すなわち堕落した私たち人間は、より大きな善を追求していくべき差し追った運命圏内にいます。家庭のための善の実績よりも、国家と民族のための善の実績がより大きいので、神様も、それをもっと追求していらっしゃるというのです。ですから、人格者になろうという人たちは、自分の家庭や氏族を主とした人格者になろうとは言いません。民族を越えて世界的な人格者になろうとするのです。私たち自体は、より大きな分野で貢献できる中心的な人物を願い、追求しているという事実を否定することはできません。

 

 

 

19 世界のために忠誠を尽くし、神様のみ前に忠誠と責任を果たした人がいるならば、その人はその国と民族の前に堂々としていて、その家庭の父と母、誰にでも堂々としています。鏡の前に立って自分自身を見つめるときも、堂々としているというのです。率直な良心をもって、自分自身を称賛できるというのです。「これ以上できません。いくら見ても、これ以上できません。私は命まで捧げました。この地に来て、これ以上できません。私がもっている気力を出し切り、精誠を尽くしました。ただ一つだけできなかったことがあるとすれば、それはこの民族と国家と世界を、私と共に神様のみ前に出ていかせることができなかったことです。それが罪ならば、罪であって、私としては、できることはすべてしました」と言える立場で逝く人がいるならば、その人は必ず歴史に何かを残していく人でしょう。

 

 

第6節 心と体の統一のための生活

 

 

天聖経  第八篇 目次   第二章 心と体の修練

第六節 心と体の統一のための生活

 

 

 

1 私たちの目は、天を見つめていなければなりません。もし、人間が堕落しないで根本的にうまくいったとすれば、九○度以下を見つめながら暮らせるのですが、堕落したので、目は天を見つめなければならないというのです。信仰者たちには、九〇度以下を見つめることは容認されません。天を見つめなければなりません。地を見つめていっては滅びます。「私」を中心としていけば滅びるのです。

 

今や、私たちは、あらゆるものを収拾しなければなりません。生活から体、心、心情に至るまで、すべて収拾しなければなりません。それでは、その心情の基盤はどこに置くべきなのでしょうか。心情の基盤は、歴史路程に置くのではなく、堕落する前のアダムとエバの心情に置かなければなりません。ですから、その心情を通して、天と共にきょうの生活感情と、時代的なすべての思潮を消化させ、天と共に解決する生活をしなければなりません。そのような息子、娘たちがこの地上に現れなければならないのです。

 

 

 

2 心と体を統一させるにも、愛がなければできません。父母が子女を愛するときは、自分のおなかをすかせることも、苦労することも、ぼろの服を着ることも自ら行い、あるいは願わない所も自ら行きます。このような愛の道には、心も体も統一的な方向を備えていくので、この道だけが統一の要因であり、統一の方案です。これを自分の生活路程の基準とし、生涯の標準として定めていけば、皆さんは滅びません。それは先生が保証します。

 

 

伝道生活

 

3 神様は、復帰の道をたどって個人と家庭を訪ねてこられましたが、その個人と家庭から排斥されました。そのような神様が、再び世界に向かっていくその歩みをやめないので、「私」も行かなければなりません。その道が険しいからといって、その道に死があるからといって、悲しい曲折があるからといって嫌がってはいけません。私の父が行かれる道を私も行かなければならないので、父が大変であれば私も大変であることを望み、父が悲しめば私も悲しむことを望まなければなりません。これが統一の理念です。

 

このみ旨が、間違いなく父の立てられたみ旨であることを知るようになれば、いくら難しいことでも克服しなければなりません。また、いくら難しい事情があるとしても、そのお方は私の父であり、その事情は私の事情になるので、その父が立てられた伝統を相続し、その父の歴史と心情に接ぎ木されるためには、その父が苦痛を受ければ、私も苦痛を受けなければなりません。それは当然の道理です。

 

ですから、統一教会の教会員は、休まずにその道を行かなければなりません。ゴルゴタの丘でイエス様が死の場においても祈りながら伝道したように、統一教会の皆さんは、死亡の暗闇が襲うこの天地の中でも伝道をしなければなりません。地獄に行っても、その中で一番かわいそうな人を伝道しなさいというのです。

 

 

 

4 信仰生活は副業ではありません。本業の中の本業です。人に会っても、「私」が会うその人に今、み言を伝えなければ、その人が帰る途中でどうなるか分からないのです。その人がほかの人でなく、自分の父母や兄や姉だと考えなければなりません。機会を逃したときは、「み言を伝えなければならないのに、私が忙しくて申し訳ない。いつかもう一度会いましょう」と挨拶だけでもして、条件を残していかなければならないのです。

 

 

 

5 伝道は、生命を接ぎ木することなので、簡単ではありません。それで、一人についても精誠を尽くすのです。皆さんは、一生をかけて、何人に精誠を尽くしてみましたか。自分のために精誠を尽くしてくれる人が多いといって誇ってはいけません。精誠を尽くす人は福を受けますが、精誠を尽くしたものを受ける人は、福を受けられません。ですから、私が精誠を尽くしてあげなければなりません。精誠を尽くしてあげたのに、彼が言うことを聞かないと寂しく思ったり、悲しいと考えたりしてはいけません。天理の原則がそのようになっていると思いなさいというのです。そのようにできる人は絶対に悲しんだり、寂しく思うことがありません。

 

 

 

6 伝道は、出産するのと同じです。先生が経験してみると、一人の人を自分の息子以上に信じることができる人にするためには、息子を生むより三倍の努力が必要だというのです。伝道した以後にも責任をもたなければなりません。ほかの道に行った人が再び戻るには、衝撃的な感動を受けて涙を流すか、自分自ら悔しさや無念さを感じるか、今まで感じることができなかった心情が爆発する出来事が起こらなければならないのです。

 

 

 

7 伝道は誰のためにするのでしょうか。神様のためにし、人類のためにするのですが、「私」の息子、娘のために、そして私のためにするのです。私たちのためにするのです。ですから、誰も恨むことはありません。自分を恨まなければなりません。誰かに「しなさい」と言うのではなく、私がしなければなりません。そうしてこそ、私たちが願った生きる所が生じるのです。

 

 

 

8 伝道は、おなかのすいた人が御飯を求めるように実践しなければなりません。おなかがすいたときに御飯の貴重さが分かるように、そのような心をもってやってこそ、霊界からも協助して対象者ができるのです。本業としてしなければなりません。最も重要なものが信仰生活です。

 

 

 

9 アダムが完成の位置で結婚できなかったので、真の父母が復帰され、家庭を率いて世界をさすらいながら、天の側の家庭、天の側の氏族を編成し、サタン世界が奪っていった家庭、氏族、民族、国家、世界を一つにして取り戻してこなければなりません。それで伝道しなければならないのです。

 

伝道とは何でしょうか。サタン世界の血統を中心として生まれたので、その生まれた血統に新しく神様の血統を接ぎ木するのです。それを中心として、野生のオリーブの木をすべてなくしてしまわなければなりません。それが伝道です。天の国に行くための財産なのです。

 

 

 

10 神様の愛を受ければ、その愛を与えなければならないので、伝道をせざるを得ません。神様をお迎えする中間の立場に立とうとすれば、自分の土台が必要なので伝道しなければなりません。「私」の罪にまでも責任をもてる信仰の子女がいなければなりません。ですから、伝道は教会のためのものではなく、自分自身のためのものです。神様の心情をもってみ言を伝えれば、伝道ができるのです。

 

 

 

11 伝道するために歩き回れば、神様が同行してくれるのです。「伝道」(전도)を逆にすると何ですか。「挑戦」(도전)です。私が行く道に敵がいれば、追い払ってくれる神様が共にいらっしゃるので、万事が思いどおりになるのです。挑戦です。伝道、挑戦です!それができない人は、どんどん気力を失っていきます。挑戦しない人は、父が嫌い、祖父が嫌い、祖父の子孫、父の子孫、自分の妻、息子、娘まで好みません。父は父として、母は母として挑戦しなければならないのです。

 

 

 

12 皆さんが愛の種を植えておいて、それが大きくなれば、どうなるでしょうか。霊界に行って、自分に伝道された子孫たちは他人ではありません。木の枝に連結された、また他の新しい枝と考えるのです。一つです。何千年たった木、何万年たった木から芽が出てくる時、今年も出てきて、来年も出てきます。何千年、何万年たったその木の要素が、「私」と共に途絶えることはあり得ません。そこに連結されて、もっと大きくなるのです。

 

 

 

13 皆さんが我知らず、神様が慕わしくてじっとしていることができず、道に出て誰かに会うようになれば、彼と縁をもって自然に伝道ができます。誰か相対する人がいなくて独りでいる時は、神様が直接来られて共にいらっしゃるのです。自分の手をつかむと光ります。そのようなことが感じられます。光が「私」を擁護し、抱いてくれるのを感じるようになります。

 

そのような時、安らかな顔、平和に満ちた顔、幸福に満ちた顔をして、その心情をどのように体恤するかが問題です。心と体が膨らみ、細胞やすべてのものが満ち足りて、天の無限の愛に浸ることができなければなりません。手でリズムをとりながらメロディーを口ずさむとき、全宇宙が注目していることを感じる立場に立って、「お父様!」と呼び求めるその声、そのような心情圏が必要です。それを皆さんが体恤しなければなりません。そのようにすれば、伝道ができるようになっています。

 

 

 

14 「私」の心が動いて出発するとき、あるいは「伝道しよう」と思うとき、望んでする人がいて、仕方なくする人がいて、死ぬかと思って恐る恐るする人がいます。どのようにしなければならないのですか。歓迎してするのか、やむを得ずに、死ぬこともできずに仕方なくするのでしょうか、恐ろしくてするのでしょうか。どうなのですか。それは、みな落第です。

 

それでは、どのようにしなければならないのですか。心と体が主体と対象の関係になっていて、その相対の位置と環境条件が一致しているときは、喜びで出発するのです。悲しみで出発するのではなく、喜びで出発するようになっています。喜びの内容が最初であって、悲しみの内容が最初ではありません。堕落とは何でしょうか。悲しみの内容が最初であり、喜びの内容はスタートもしなかったというのです。復帰の運命の道を求めていく私たちとしては、み旨を喜びの内容として出発し、喜びの過程として消化させてこなければなりません。

 

 

祝福家庭の生活

 

15 祝福家庭は、心が神様と一体にならなければなりません。また、体が神様と一体にならなければならず、志が神様と一体にならなければなりません。そうしてこそ、創造理念を代表していく家庭になるのです。家庭がなくては「私」という価値を決定することはできません。私たちの個体には、神様の心情と希望が宿っています。私たちは、神様の心情の実体であり、神様のみ旨を代表した立場なのです。

 

 

 

16 祝福家庭は、数多くの民族の前に手本となり、数多くの教会の前に手本にならなければなりません。ヨセフ家庭が責任を果たせなかったことを、皆さんの家庭がよく果たすことによって蕩減復帰し、ヨセフの氏族が責任を果たせず、ユダヤ教が責任を果たせなかったことを、私たちが教団的に蕩減復帰して乗り越えなければなりません。そうして、家庭的失敗、氏族的失敗を国家基準を中心として、一時に蕩減復帰して乗り越えようというのです。

 

 

 

17 祝福家庭は、何をすべきなのでしょうか。神様の国と、神様の世界を相続し、神様の愛を相続しなければなりません。国を相続できる権限と、神様の愛を相続できる権限を、祝福家庭はもっています。今後、神様の国と神様の愛を相続できる特権的権限を許諾するのが祝福です。統一教会は、神様と神様の国を連結させる神様の愛を主張してきたので、心情の世界を語るのであり、心情の歴史を語るのです。ですから、家庭が問題になります。

 

 

 

18 祝福を受けた家庭は、天国創建において愛国者の家庭にならなければなりません。一切の生活は、寝ても覚めても天の命令によって動かなければなりません。霊界から見れば、この地上にいる祝福家庭は、「天の国のスパイ家庭」です。サタン世界で迫害を受けながら、自由のない隷属の環境で暮らす人たちです。ですから、そこで展開される基盤を拡大させるためには、自分の生死をかけて活動しなければなりません。

 

 

 

19 先生は、祝福家庭を先頭に立たせます。しかし、祝福家庭が苦労モーセず、天地のために涙を流す生活もしなければ、意味がありません。涙なしに生きる人は偽者です。終わりの日には分かるでしょう。きょう、私たちもまた、涙を流さなければなりません。そうかといって、食べることのために泣いてはいけません。任された責任を全うするために泣かなければなりません。怨讐と対決している私たちは、怨讐の基盤を占領しなさいとの特別命令を受けた責任者として、その責任ゆえに夜寝ることができずに涙しなければならないのです。

 

 

 

20 祝福を受ければ、アダムとエバが堕落する直前の段階に復帰するようになります。それでは、何をすべきでしょうか。完成すべき段階が残っているので、神様の心情を理解していかなければなりません。この過程において、神様が堕落した人間を救うために苦労された内的な事情を体得しなければなりません。神様がこの地上に愛するひとり子を送られて、復帰歴史に責任をもっていくようにされたのと同様に、祝福家庭たちも自分の子女たちを祭物にして、サタンの世の中に出ていかなければなりません。

 

自分の息子、娘を背負いながら、ヨセフとマリヤがイエス様を抱いてエジプトに避難したような生活をしなければなりません。そして、愛する息子、娘がおなかをすかせているのを見て、「このような生活をするのは、この人類のためなのだから、私たちを愛されるお父様は保護してくださるだろう」と考えなければなりません。そうすれば、神様は、この世の中に実体として来られる主のような立場に彼らを立てられるでしょう。ですから、最後まで残って責任を果たさなければなりません。「私は祝福家庭なのだから、接待しなさい」と言っていては、敗れ去っていくのです。

 

 

 

21 祝福家庭が神様を中心とした生活、み旨を中心とした生活をしたでしょうか。できませんでした。自分を中心とする生活をしました。あらゆる生活の動機も目的も、み旨と神様であってこそ、そこに愛の園がつくられるのです。そうして、神様を主体にし、私たちは相対となって、与え合うことができなければなりません。そのようになれば、そこに神様の愛が介入するのです。

 

 

 

22 皆さんは、どんな人にならなければならないのでしょうか。天の家庭として生きていく原理原則がなければなりません。祝福家庭は、自分が属した氏族のために、つらい生活をしなければならないというのです。自分の周囲にいる家庭が眠るとき、一緒に眠ってはいけません。また、彼らが何かを食べるといって、一緒に食べてもいけません。祝福家庭は、その氏族内の家庭を育てなければなりません。子女を育てる父母と同じ立場で、その家庭が困難であれば、自分が困難を抱えている以上の困難を感じなければなりません。自分の近所で誰それが御飯を食べられずにいると聞けば、「いっそ、自分が飢えるほうがましであって、その人を飢えさせることはできない。到底私だけが食べることはできない」という心情をもち、その人に持っていってあげられる人にならなければなりません。

 

 

 

23 今日、祝福家庭は、赤ん坊を抱いて愛することができるのですが、その赤ん坊は何のために生まれたのでしょうか。神様のために生まれ、神様との関係を通して生まれました。夫を貴く思い、妻を貴く思い、二人でひそひそ話をしたり、どんなことをしたとしても、その相対は、自分たち同士で出会ったのではありません。公的な天道を前にして出会った人たちです。神様を介在させて出会った人たちです。

 

息子、娘が悲惨であればあるほど、そこに介在された神様が悲惨になるというのです。そうであればあるほど、精誠を尽くし、姿勢を整え、神様が信じ得る節操と志操をもっていけば、私たちの行く道は、絶対に塞がりません。必ず打開されるのです。それは、今まで先生が闘ってきた生涯路程を通して体験したことであり、否定することはできないのです。

 

 

 

24 先生が自分たち祝福家庭のために苦労したことを考えるとき、自分たちも家庭において、先生以上に苦労できる子孫をつくっておかなければなりません。それが原理観です。モーセに従うイスラエル民族が、モーセの道に従うためには、モーセのような苦労をしなければなりませんでした。モーセがその道に立ち上がるときまで、エジプトの風習の中で、イスラエルの人として守るべき伝統を失わず、選民圏を守らなければなりませんでした。ですから、モーセが指導者になるまでの生活は、イスラエル民族の誰よりも苦労する生活でした。イスラエル民族がモーセに仕えるとき、そのようなことを考えて、自分の生涯に困難があっても、モーセ以上に苦労はできなかったということを考えて荒野路程に出発したとすれば、三週間以内にカナンの福地に行くことができたというのです。問題はそこにあります。父母に侍る立場にあれば、父母より子女がもっと苦労しなければなりません。国においても忠臣がいれば、忠臣は国王よりもっと苦労しようとしなければなりません。それが天理なのです。

 

 

 

25 統一教会の祝福家庭は、自分の国を求めなければなりません。「私」の国を求めなければなりません。これを失ったのがアダムとエバです。アダムとエバが失ったので、これは必然的であり宿命的なことです。堕落したアダムとエバの宿命です。神様と真の父母が介在したので、宿命的な課題であり、お金でもできず、何かの手段ですることもできません。いつでも血を流して血の祭壇に立たなければならないのです。

 

 

第一節 復帰摂理による信仰生活

 

 

天聖経  第八篇 目次   第三章 真の父母の似るための信仰生活

 

 

第一節 復帰摂理による信仰生活

 

 

 

1 新しいメシヤを迎えるべきこの時に、私たちが果たすべきことは、イスラエルの復帰歴史をもう一度やり直して、サタン世界のどんな思想の侵犯も受けない、絶対的に神様のみ言を信じる信仰者になることです。そのような信仰者が必要です。世の中のどんな栄光や栄華があったとしても、それに揺さぶられることなく、それを断ち切って新しいメシヤのために立ち上がることのできる、分立された人にならなければなりません。そうすることによって、神様の愛の圏内に立てるという歴史的な公式路程を、私たちは知ったのです。

 

 

復帰原理の道

 

2 皆さんは、原理講義を何度も聞いてみたでしょう。その中の一つが復帰原理です。これは、堕落した人間が神様を訪ねていく公式です。その公式は、何を通して行くのでしょうか。言葉を通して行くのでもなく、知識を通して行くのでもありません。心情を通して行くのです。アダム家庭を見るとき、カインとアベルの位置も、心情によって決定されます。誰が神様をより愛するかということが問題であって、神様の愛を誰がよりたくさん受けるかということが問題ではないのです。

 

 

 

3 「統一原理」は、人間が神様の息子、娘になる原理です。神様の忠臣、烈女、神様の孝子、孝女になろうという原理でもあります。本心をもった人間は、誰でもイエス様の兄と姉にならなければならず、弟と妹にならなければならず、神様のみ前に忠男忠女、孝男孝女にならなければなりません。このような統一教会の原理は、過去にもなく、これからの未来にもない、一つしかない原理です。このような面で、誇りをもつにふさわしいものです。

 

歴史的な数多くの宗教の道主たちと闘って、神様の公認を受けた原理です。遠くない将来に、統一教会が世界を動かす時が来るでしょう。この大韓民国が問題ではありません。「統一原理」は、より偉大な真理、より偉大な思想、より偉大なみ旨、より偉大な生活観、より偉大な行動観として、万民が従うべき歴史と、時代と、未来の結果体なのです。

 

 

 

4 人間は、原理原則に従っていかなければなりません。春になれば種を蒔き、夏になれば生い茂り、秋になれば実を結び、冬になればすべて整理して、新しい生命の根源を自分の内心に備えなければなりません。そうしてこそ、再び春が来たときに、再び植えることができる種になります。これは、今後、皆さんが父母になって、皆さんと同じ息子、娘を生まなければならないということです。皆さんの息子、娘を、皆さんのように育てなければならないということなのです。

 

 

 

5 復帰は、創造の原理原則を中心としてなさなければなりません。本来、アダムとエバを中心として永遠なる愛の法度を立てたので、その法度に従わなければなりません。その法度を否定すれば、天理を破壊することになるのです。ですから、人間はもちろん、神様まで否定されてしまう立場になるので、そのため再創造過程を通して収拾してきたのです。

 

 

サタン分立路程

 

6 天は、私たち人類が憎くて審判するのではありません。人類をこのようにしたサタン、悪を支配してきた主人公、神様を裏切ってきた主人公を打って分立させることが、神様の摂理の目的です。私たち人間を捕まえて死の大釜に放り込むことが目的ではなく、人間を蹂躙して、この地を惑わしてきたサタンを撲滅することが神様の目的です。

 

ですから、「この道を離れなさい。この道を避け、出ていって闘いなさい。怨讐とみなしなさい」と皆さんの心に警告しています。良心をもつ人には、行けば行くほど、「あなたはここから離れなければならない」と警告するというのです。

 

 

 

7 サタン分立は、そのままではできません。サタン世界の人たちが好む道では、絶対にサタン分立ができないのです。サタン世界で一番難しいこと、サタン世界の人たちが一番嫌がることをしなければなりません。十字架の道、受難の道、犠牲になる道は、サタンが嫌がります。ですから、底辺に下りていかなければなりません。サタンは上がろうとするので、私たちは底辺に下りていくのです。底辺に下りていって、サタンを分立させなければなりません。分立しておいてこそ、責任分担圏が生じるのです。

 

 

 

8 愛の関係が結ばれれば、必ず主管されるようになっているのが原理です。この原理を立てておかれた神様御自身が、原理を否定することはできません。サタンが法に背いて介入したからといって、サタンを打ってなくしてしまうとすれば、神様御自身が立てられた愛の原理自体をなくしてしまうことになります。ですから、仕方ありません。

 

歴史的なすべての問題が、ここから起こってきたのです。ですから、アダムとエバを分立させて、故障したものを、故障していないのと同じ立場に修理してきたのが、救援摂理歴史なのです。

 

 

 

9 祭祀を捧げるところでは、必ず血を流すようになります。人を中心として、サタンと人間の権限を中心として、悪神と人間の権限を中心として、歴史過程で闘争が起こってきましたが、これを分立させなければなりません。しかし、人を裂くことができないので、神様は、人間の代わりに祭物を設定しました。人間の代わりに祭物を立て、天の側に属するか、サタン側に属するかを分けました。ですから、祭物を捧げて勝利するようになるとき、初めて堕落した天使が占領していたその基準を乗り越えることができるのです。祭物の宗教は、このようにしてきたのです。

 

 

 

10 サタンを屈服させなければなりません。何によってサタンを屈服させるのでしょうか。み言と一つになった基準をもって、屈服させなければなりません。それ以外には方法がありません。堕落とは、み言と分離してしまったことです。み言と一つになれなかったことが堕落です。

 

ですから、蕩減復帰原則において、み言を中心として一つになることによって、人格が復帰されるのです。人格が復帰されたということはどういうことであり、み言と一つになったということはどういうことでしょうか。堕落していない人の立場に立ったということです。その堕落していない人は、天使長を屈服させる権限を備えた人です。ですから、皆さんは、最前線に出ていき、サタンを屈服させて戻ってこなければ、神様の愛の世界を許諾されないのです。

 

 

 

11 蕩減条件が必要なのは、サタンを分立するためです。皆さんの血統を中心として、サタンが体の中に根を下ろしています。皆さんは、サタンの血を受けたというのです。ですから、生まれ変わらなければ、天の国に行けません。再び生まれなければなりません。重生の原理がここにあります。生まれ変わらなければならないということです。血統が違うので、接ぎ木されなければなりません。ですから、蕩減条件を立てようとすれば、皆さんのすべての生活を否定し、先生のすべてのものを中心として、接ぎ木されなければならないというのです。

 

 

堕落以前の立場に復帰

 

12 堕落以前にあった心情の園は、どこに行きましたか。堕落以前の高い位置で、神様と楽しみ、喜ぶことのできる世界は、どこに行きましたか。これを失ってしまいました。アダムとエバが神様の愛を受けるだけでなく、神様から「あなた方は私の永遠の息子、娘だ」という認定を受けて、天使長までもアダムとエバに屈服し、あらゆる万象が彼の命令に順応する立場、満天下を主管しなさいと堂々と立てることができる立場で堕落したのではありません。天使長に引っ張り回される立場で堕落しました。主人の息子、娘として、息子、娘の位置と息子、娘の権限を備えられない立場で堕落したのです。

 

 

 

13 神様は、堕落以前の本然の善の立場にいたアダムとエバに、天地をまとめて、ここに神様の実体まで合わせて遺業として与えようとされました。天地を与えると同時に、創造主まで与えようというのです。これ以上に大きな遺業がどこにあるでしょうか。

 

人間が堕落したその日から、神様は、天を収拾し、地を収拾し、人間を収拾して「あなたのものであり、私のものだ」と言うことができる日に向かって歩んでこられました。「あなたであると同時に私であり、あなたの家庭であると同時に私の家庭であり、あなたの社会であると同時に私の社会であり、あなたの国であると同時に私の国であり、あなたの世界であると同時に私の世界だ」と語ることを願われて、神様は、今まで歩んでこられたのです。神様は、天地全体の遺業を独りで抱え、その遣業を相続してくれる人間を求めてこられたのです。

 

 

 

14 神様が歴史路程で摂理してこられた全般的な内容を分析してみれば、神様は、復帰途上において、堕落しなかった本然のアダムとエバを求めてこられたことが分かります。堕落することによってサタンの血統を受け継いだので、人間は神様の血統を通さなければ、神様の民になることができません。このように悪の子孫なのですが、それでも神様は、人間がイエス様を信じて堕落以前の立場に上がることを望まれ、あすを希望として歩んでこられました。しかし、今日までイエス様を信じて堕落前のアダムとエバの立場に上がった人は、どのくらいいるでしょうか。一人もいないのです。

 

 

 

15 偽りの父母によって生まれたことを、どれほど実感していますか。人が病気になれば、病気を治さなければなりません。もし、弱い人が病気になったとすれば、病気になる前の弱い状態に治すだけではいけません。それ以上の健康な状態に治さなければなりません。これと同様に、堕落とは人間が故障したことであり、悪の世界へ落ちたことなので、故障したものを直さなければならず、落ちる以前の立場に引き上げなければ、救援にならないのです。

 

救援とは、すなわち復帰です。復帰するには、昔、堕落する前のその基準ではなく、その基準を越えた立場にまで復帰しなければなりません。ですから、原罪をもった偽りの父母を通して生まれた人類は、原罪を越えた真の父母を通して生まれ変わらなければならないのです。

 

 

 

16 復帰というのは、本来の種に帰ることです。復帰の完成は種の完成です。今まで人類は、その本然の種を探せませんでした。それは堕落のためです。サタンが中心の根、中心の幹、中心の芽を占領したのです。ですから、それが垂直にならずに曲がっています。そこでは、完成された種を収穫することはできません。それが、世の中を占領しているサタンの愛です。

 

 

 

17 救世主、メシヤ、再臨主、これは、主に救援と復帰過程に焦点を合わせた次元で呼ばれてきたものです。誰も天国に入ることができなかったのです。イエス様も楽国に入っています。偽りの父母、偽りの先祖と関係を結んで生まれ、葛藤と罪悪の中で生きてきた堕落人間は、堕落直前の段階にまで復帰されることによって、すべての所願が成し遂げられるのではありません。宗教者たちが願ってきたことは、神様のみ旨も、人間の本性の所願も成就され、創造理想を完成した本然の理想的な人間となって理想世界を成し遂げることです。それは、神様の愛の理想を完成した個人として生まれ変わったのち、真の愛の夫婦となって真の父母になることなのです。

 

 

第2節 真の父母を迎えるための路程

 

 

天聖経  第八篇 目次   第三章 真の父母の似るための信仰生活

第二節 真の父母を迎えるための路程

 

 

 

1 今、人類は、真の父母を求めていかなければなりません。その次には、その真の父母に孝行の道理を果たさなければなりません。アダムとエバは、神様のみ前に孝行の道理を果たすことができませんでした。本来は、神様に孝行の道理を果たしたあとに、子女たちを繁殖し、その子女たちをして、孝行の道理を受け継がせるようにしなければなりませんでした。すなわち、神様を中心とした心情的な法度の氏族が現れていなければなりませんでした。神様は、そのような一つの氏族を立てるために、六千年間役事してこられたのです。

 

 

真の父母と出会うには

 

2 私たちは、神様に出会えば、すべてが成就されると思っていました。しかし、人間にはゆがんだ分野がまだ残っています。すなわち人間の先祖が人類の真の先祖になれなかったことによって、真の父母をもつことができず、真の子女になれませんでした。ですから、皆さんが養子として神様を知り、サタンと闘って勝利したとしても、直系の血統の関係を結ぼうとすれば、真の父母を迎えなければならないのです。

 

 

 

3 人間にとって最後の目的とは何でしょうか。それは、神様のもとに行くことです。神様と直接、愛を授け受けすることです。そうするためには、真の父母に出会わなければなりません。その真の父母が青春時代に現れたとしても、彼の青春時代は個人の青春時代ではありません。彼が立っている青春時代の位置は、養子の時代を経て子女の時代を経た、歴史的な運命を備えた位置です。

 

彼の価値を個人的に見てみるときは、あなたと私の一対一の立場ですが、彼によって全体と個体が関係を結び、絶対者と相対できる関係を結べます。ですから、私たちが真の父母様を迎えるようになれば、僕の僕として来た人も、僕として来た人も、養子として来た人も、みな直系子女としてその価値が上がるようになります。そうでなければ、真の父母と連結されず、関係を結ぶこともできないのです。

 

 

 

4 皆さんは、どんな立場でメシヤと出会うことを願いますか。皆さんは、どんな立場で新郎のイエス様に出会いたいですか。どんな準備とどんな姿をもって、その前に現れることを願いますか。これは深刻な問題です。豪華絢爛に準備した栄光の灯を持って、「あなたは私の花婿です」と言いながら迎える花嫁をイエス様が願うでしょうか。ゲッセマネの園のような孤独な場において、涙を流しながら湧き上がる心情で、「私たちの先祖が責任を果たせずに」と言う、そのような哀れな姿の花嫁を願うでしょうか。皆さんは、どのように答えますか。

 

主は、栄光の花嫁に出会う前に、苦難の花嫁を訪ねていきます。皆さんは、苦難の花嫁を経て、ここに花嫁の資格をつくっておかなければなりません。これが復帰の路程です。父の悲しみをその子女がなくそうとすれば、父の悲しみ以上の悲しい場に行かなければならないのです。

 

 

 

5 復帰摂理路程を観察してみるとき、ここには個人が越えるべき峠があります。今までの六千年の歴史は、失ったアダム一人を探すための歴史です。一人の完成した男性を探すために、六千年かかりました。このように進んできながら、一時を決めて一個人が完成し、個人的に勝利したというその峠を越えてこそ、新しい関係を結べる時を迎えるようになります。その時が、正に、今日の人類が願う希望の時代です。また、一人の完成した男性としてこの地に来られる方が、万民が望む救世主であり、このような思想が救世主思想、メシヤ思想なのです。

 

 

 

6 真の父母ほ、永遠に一組です。アメリカにも必要であり、キリスト教にも必要であり、仏教にも必要であり、各国が必要とします。各個人から家庭、氏族、民族、国家、どこにもみな必要な言葉です。真の父母によって、すべてのことが解決されなければなりません。それが、堕落によって偽りの父母が出てくることによって解決されなかったので、真の父母が来て復帰して解決してくれるというのです。個人として真の父母に従うようになれば、天国に行くのであり、家庭として従っていっても天国に行くのであり、氏族、民族、国家、世界、天地も、従っていけば天国に行くのです。皆さんは、今まで統一教会を個人的に信じ、真の父母によって天国に行こうとしましたが、そうではありません。家庭が信じれば家庭的に従うのであり、国家が一度に信じれば国家が従うのであり、世界が一度に信じれば世界がすべて天国に入るというのです。

 

 

 

7 神様は、自分を忘れて歩んでこられたので、先生も自分を中心としては出ていくことができませんでした。神様は、そのような一人を求めてこられたのです。地上でそのような人を立てて蕩減しなければ、この悲しみの峠を越えることができませんでした。ですから、先生の家庭には、神様の六千年の悲しみの歴史が宿っています。

 

怨讐が内外で迫害をしながら、先生の路程を遮ってきました。神様もこのような道を歩んでこられました。地で誤ったので、このようになりました。神様の心情は、誰も知ることができなかったのです。このような環境においても、神様が願われる家庭を探し立てようと身もだえしてきた真の父母の道を、皆さんが再び歩まなければなりません。

 

ですから、過去を清算しなければ、この道を行くことができず、自分の家庭を中心としてはこの道を行くことができません。先生の内的な苦痛が、どれほど大きかったかを知らなければなりません。皆さんの家庭を見て、父母様が苦痛を忘れることができなければならないのです。祝福家庭は、父母様の家庭の垣根になり、自分たちが立派だということを、見せてあげられなければなりません。また、新世界の代表的な家庭にならなければなりません。今でも、そのような家庭になるために、身もだえしている人がいなければならないのです。

 

 

 

8 皆さんは、今まで祈る中で、そのまま天国に来ているかのような立場で父を呼び求めましたが、父が深刻な立場にいらっしゃり、父がかわいそうな事情にいらっしゃるように、「私」もかわいそうな事情にいなければならず、表現はできませんが、父のかわいそうな事情が私の事情としてお互いが心で感じられなければなりません。そして、「お父様、私にどんな悲しみがあっても、どんな困難があっても、御心配なさらないでください」と言いながら、子女としての道理を果たし、慰めてさしあげることができなければなりません。

 

そのような一人がこの地上に現れなければ、歴史的な問題を解決する道がありません。私たちは、この上なく難しい立場に立っても、神様のみ前に同情を願うのではなく、神様に同情してさしあげることのできる立場に立たなければなりません。そのような関係によって歴史時代を経て、磨きに磨かれてきた結晶体がイエス様でした。

 

しかし、イエス様がみ旨を成就できなかったために、再び来られる主が、そのみ旨を成就しなければなりません。そして、再び来られる主が行くべき道も、その道です。すなわち真の父母の道なのです。真の父母は、歴史的な希望の集約体です。神様が、全体を代表する歴史的な条件的実体として立てたお方が真の父母なのです。

 

 

信仰基台

 

9 統一教会は、真の父母を信じることによって、息子、娘を直接教育できる時代に入ったので、皆さんが心を一つにして精誠を尽くし、父母様が願う道に従っていけば自然に一つになり、皆さんの良心は、善し悪しがだんだんと分かるようになります。だんだん通じるようになるというのです。

 

神様は、ほかのところに存在するのではありません。皆さんは、第二の神様の愛の対象です。神様の愛を受けることのできる息子、娘の立場にいます。神様が「私」の良心に入ってきていることを、いつも考えなければなりません。一体になっているというのです。神様が縦的な父だということを感じなければなりません。それを中心として、一般の生活の中で環境のすべてのことを処理していかなければならないのです。そうすれば、天の国の皆さんの先祖たちがすべて共にあり、天使圏が共にあることによって、アダム家庭の代わりに立派な家庭を完成し、天国に直行するようになるというのです。

 

 

 

10 神様がアダムとエバを造られた根本時代を包括して信仰の基準を立てるための中心存在が真の父母なので、真の父母に絶対信仰、絶対愛、絶対服従しなければなりません。創造理想から堕落と復帰全体の世界的基準まで説明し、話だけでなく、それを経験していき、橋を架けてきた方が真の父母です。ですから、先生に旧約時代の完成、新約時代の完成、成約時代の完成がかかっているというのです。絶対信仰、絶対愛、絶対服従で神様が造った相対を堕落によって失ったので、それを取り戻そうとすれば、私たちも絶対信仰、絶対愛、絶対投入するしかないのです。

 

 

 

11 アブラハムがソドムとゴモラに対して、隠れた根となる祭壇を積んだのと同様に、自分が暮らす地域とその住民たちに向かって切実に訴えて祈ったアブラハムの燃える心情を、皆さん自身ももたなければならず、アブラハムの苦労の路程で立てられた信仰の基台、隠れた根のような基準を、皆さん自身が引き継がなければならないことを、決して忘れてはいけません。信仰の祖アブラハムの家庭は、神様から祝福の基となることを約束されましたが、これがイサクとヤコブを経てモーセを通して民族的な形態をつくり、イエス様を通して世界的な範囲に拡大しました。アブラハムの天に対する徹底した忠誠心と信仰がなかったならば、この地上には天と接続できる一つの関係も現れることはできませんでした。アブラハムが信仰の祖になることができた隠れた秘訣とは何だったのか分かりますか。ただ天に向かって思慕する心と地のために生きる心が限りなくあったので、天の父との広く深い関係を結ぶ足場をもつことができ、信仰の祖になることができたというのです。

 

 

実体基台

 

12 堕落性を脱ぐのは、決して容易なことではありません。数年、あるいは数十年の間に育まれた習慣である酒やたばこをやめるだけでも、二転三転するのが堕落人間の姿です。数千、数万年の間、血統に乗じて根を下ろしてきた堕落性を脱ぎ捨てることが、どうして容易なことでしょうか。人間の努力だけでは絶対に不可能なことです。神様を絶対信仰する基準において、縦的な軸として立てて侍りながら、一生身もだえしても難しい闘いです。神様を自分の父母や子女以上に絶対的に愛する境地で、真の父母として侍っていかなければ、考えることすらできないことです。

 

 

 

13 神様が何かを決定するときは、必ずカインとアベルを立ててするようになります。カインを通してでも教えてくださることがあるのです。このような立場から見るとき、悲しみも、苦痛も、死の道も、自分が開拓しなければなりません。自分が最後まで耐え、開拓して越えていくのが復帰の道です。ですから、イエス様も十字架で亡くなってから復活して勝利の基台を立てておき、聖霊を送りました。ここでキリスト教を立てて世界的な出発をするようになったのです。

 

 

 

14 世界で完全にカイン・アベルの基準が形成され、一つの主権をもつ理想国家を形成するようになるとき、初めて神様の永遠無窮な理想的地上天国が建設されるのです。統一教会は、そのために前に進まなければなりません。先にカインを導き、その次には父母様の行く道の足場にならなければなりません。父母様の行く道のために、常に足場をつくらなければなりません。皆さん自身がカイン・アベル家庭をつくり、カイン・アベル氏族をつくり、カイン・アベル国家基準を中心として進むことのできる基盤を発展させることができてこそ、その基盤を通して父母様が世界に進むことができるというのです。

 

 

 

15 キリスト教は、最後に一緒に残ることができる兄です。ですから、この兄と一つにならなければ、死を避ける道がありません。私たちは、そのような運命に置かれています。神様は、何を望むのでしょうか。統一教会とキリスト教が手を握らなければなりません。なぜなら、原理がそうだからです。カインとアベルが一つになってこそ、父母が登場するのです。カインとアベルを通して父母が復帰されるのです。

 

カインとアベルが争って決裂することによって、父母も落とし穴に落ちたので、カインとアベルが世界的基準で一つになってこそ、世界的氏族基盤を中心とした父母が出現します。そのようになれば、民主世界にはその統一された基準から一時に世界的な勝利の基盤が広がるのです。

 

 

 

16 今日、復帰路程でカインを救援しようとすれば、三倍以上努力しなければなりません。しかし、自分たちが命令するとばかり考えているのであって、命令を受けるとは思っていません。姿勢が違うというのです。カイン・アベルの原則は、そうではありません。アベルは血を流しました。カインの生きる道を築くために血を流したというところに価値があります。そこに貴いものがあり、そこに勝利の基準があります。牧会者も同じです。牧会者自身が、食口たちのためにどれほどアベル的な責任を果たし、人生の最高の目的のように、その一人に生命を傾けてどれほど育ててみたかという問題を、自問自答してみなければなりません。

 

 

 

17 カイン・アベルが一つになる勝利的基盤が広がることによって、父母がこの地上に臨在できるのです。父母が現れることによって、私たちが福を受けることができ、天国の新しい出発ができます。「私」独りではなく、父母に侍って天国に入らなければなりません。統一教会で言えば、既に父母は現れましたが、カイン・アベルの世界的蕩減条件において、祝福家庭の基盤の上に、このようなものができていないというのです。

 

アベル的家庭の代表が勝利して、天の福を受ける者として町内に行けば、その町内の人たちが涙を流しながらひざまずき、「世の中は滅びても、あなたの家庭は福を受けなければならない」と言えなければなりません。悪の世の中にいる町内の人たちがすべてひざまずき、あがめられる家庭になってこそ、長子の位置に立つのです。

 

 

第3節 真の父母を通して生まれ変わる路程

 

 

天聖経  第八篇 目次   第三章 真の父母の似るための信仰生活

 

 

第三節 真の父母を通して生まれ変わる路程

 

 

 

1 地上世界において、誰もが真の父母の門を通して再び生まれなければなりません。重生という言葉、生まれ変わるという言葉が出てきます。ニコデモが夜にイエス様を訪ねてきて、生まれ変わるということについて尋ねた時、イエス様が、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか」(ヨハネ三・一〇)と言ったのですが、重生は再び生まれるということです。生まれ変わるということです。生まれ変わるとは、どういうことですか。偽りの父母から生まれた人が、真の父母を通して再び生まれることを意味するのです。再び生まれるときに、神様の愛、神様の生命、神様の血統を受け継ぐためには、「サタン世界の愛と、サタン世界の生命と、サタン世界の血縁とは全く関係がない」と言わなければなりません。「それは意識にもない」と言えるようにならなければならないのです。

 

 

 

2 私たちが氏族的メシヤの使命を実践することによって、重生が成されます。重生、再び生むことのできる道が生じます。お母様のおなかの中に入るのです。家庭的メシヤから氏族的、国家的、世界的、天宙的メシヤまで、お母様のおなかの中を通して、頂上の神様とお父様とお母様が愛し合える位置に行き、その色に染まって出てこなければなりません。ですから、左側に入って再び回って出てきて、家庭のお母様のおなかの中から出てこなければなりません。

 

家庭から出発したので、本然の基準に戻ってすべてのものを清算して現れるとき、サタンとは全く関係のない基盤になるのです。そして、重生の生みの苦しみを体験しなければなりません。そのようになることによって、祝福を受けた家庭は、真の父母になるのです。サタンと永遠に関係のない新しい出発ができる神様の直系子孫の立場に至って真の父母になり、その一族は、真の父母一色となって天国に直行できる氏族になります。氏族と民族を編成して国家と連結されれば、国家が入り、世界が入ることができるのです。

 

 

み言の修練

 

3 真のみ言とは、どのようなみ言でしょうか。その内容は、どのようになっているのでしょうか。そこには、個人の内容と、家庭の内容と、社会の内容と、国家の内容と、世界の内容、天地があるならば天地の内容、神様がいるならば神様の内容まで含まれているのです。

 

そのように、一方向的で直行する道を教えてくれ、その道を守り、その道に行くようにする法がなければなりません。神様がいるならば、神様にまで到達し、神様の心情があるならば、その心情にまで連結される法がなければならないというのです。

 

 

 

4 皆さんが修練を受けるのは、皆さんの前にいる怨讐を退けて審判するためです。そのためには、まずみ言を学ばなければなりません。このみ言はどこから出てきたのでしょうか。創造当時の心情から、復帰の路程を経て出てきたのです。この事実を忘れてはいけません。み言を身につけなければ、実体を立てることができず、実体を立てなければ心情を立てることができないので、み言を聞く時は、体で聞き、心で聞き、心情で聞かなければならないのです。

 

 

 

5 修練を受けながら、み言を中心として、昔、自分がみ旨の道を出発した時に、み旨を慕わしく思い、先生に従った切実な心を回復させなければなりません。そうでなければ、天国の門を開くことはできません。

 

切ない心情で、会えなければ生きていけず、ために生きなければ生きていけない、という気持ちにならなければなりません。食口たちに会いたいと思わなければならず、食口たちがいる所に行って暮らしたいと思わなければなりません。このような心を再びもたなければ、天の国に行くことができる鍵を失うようになるのです。

 

 

 

6 皆さんは、世の中を振り払って、その反対方向に出ていくことができなければなりません。さらには、世の中を正すために真の生活をしなければなりません。どんな人に対しても、その人がうまくいくことを願わなければならず、その人が天的な幸福を得て喜ぶ時、自分も共に喜べる心をもたなければなりません。

 

そして、父に感謝しながら、新しい希望を抱く心を携え、光の栄光を見つめる心と、平和の心情を呼び起こせる心をもたなければなりません。さらには、すべての人が一つに結ばれるよう、生活を通してその心を現さなければなりません。もし、皆さんがこれらのすべてのことを、生活を通して、生涯を通して現さなければ、あの世に行って神様の栄光を謳歌することはできません。ですから、皆さんが天国に行って神様の栄光を謳歌しようとすれば、まず地上にいる時、神様のみ旨のためにみ言を伝え、実践しなければならないのです。

 

 

信仰の子女

 

7 皆さんは、家庭復帰をしなければなりません。そのためには、信仰の三子女を復帰しなければなりません。そして、その息子、娘と四位基台をつくるのです。信仰の父母を中心とする外的な信仰の四位基台を造成し、信仰の子女が自分の直系の息子、娘に完全に侍ることのできる基台を立てなければなりません。

 

この信仰の三子女とは何でしょうか。霊界の三天使長に該当します。三天使長がアダムとエバを造る時から侍っていたのと同様に、皆さんが祝福を受けたあと、出産する子女が腹中にいる時から、信仰の子女が侍らなければなりません。これは、アダムが創造される前から、創造されて成人して聖婚式をする時まで、天使長が協助すべき基準を、皆さんがこの地上で蕩減復帰するのです。ですから、信仰の三子女が必要なのです。

 

 

 

8 父母になるためには、祝福を受けなければなりません。そして、家庭をつくるためにはカインを復帰しなければなりません。自分の個体が復活するためには、カインを屈服させなければならないというのです。すなわち、アダムは父母の立場にいますが、神様の恨を解怨成就してアダム自身が復帰されるためには、カインが屈服しなければならないのです。

 

それと同様に、復帰原則による蕩減路程においても、皆さんが信仰の子女を長子の立場に立て、皆さんの息子、娘をアベルの立場に立てて、カイン・アベルを復帰させてこそ、完全に復帰されます。そうでなければ、真の父母の立場に上がれません。真の父母の立場に上がるためには、カイン・アベルを復帰しなければならないのが原則です。カインがアベルに屈服しなければならないというのです。

 

 

 

9 自分が信仰の子女をもつということは、数千代の宗教者たちが望んできた最高の理想です。イエス様も、それを得られませんでした。ゲッセマネの園での最後の談判祈祷においても、皆に反対され、見捨てられました。しかし、私たちは、復活圏で勝利の家庭を構築したので、これは天宙が支持する家庭です。そのような価値をもつ祝福家庭です。自分が犠牲になったとしても、自分の子女たちには正しい伝統を伝えなければならないのが、祝福を受けた夫婦の責任です。また、家庭の責任です。子女に重い蕩減の荷物を負わせてはいけないのです。

 

 

 

10 なぜ信仰の子女が必要なのですか。三大天使長と、アダムの三人の息子と、サタン世界のカインの兄を取り戻すために必要です。

 

旧約時代、新約時代、成約時代を取り戻すためです。旧約時代は民族、新約時代は国家、成約時代は世界を取り戻すのです。

 

それで、旧約時代はイスラエルの六十万大衆のカナン復帰、イエス様は国家から世界のカナン復帰、統一教会は世界から天宙のカナン復帰です。カナン復帰の最後の門です。このような意味で、三段階で表示がされるというのです。

 

 

 

11 皆さんは、食べたいように食べ、着たいように着て、自分がやりたいようにすべてやっていますが、それが讒訴条件になるのです。壮年の夫婦たちは、神様に忠誠を尽くせる若者たちをもつことができなかったので、神様のみ前に恥ずかしいと思わなければなりません。

 

今からでも、そのような若者たちを育てなければなりません。幸いにして有り難いことは、統一教会には「信仰の子女」というものがあります。壮年の夫婦たちを救援できるものが信仰の息子、娘だというのです。このために、骨髄が溶け出すほど、一度、真剣に走ってみなさいというのです。そうして、若者たちの前に希望の涙を流すようになる時、その希望ある若さの基盤の上にメシヤが訪ねてくるのです。

 

 

祝福による垂生

 

12 人間は、真の愛の根本を悟って、神様のみ前に真の愛をお返ししなければなりません。真の父母様を通して、祝福の基準を経て重生し、聖別された者だけが、神様の真の子女として登場することができます。したがって、祝福の過程を通過しなかった人は、最初の実の資格がないのです。

 

 

 

13 祝福式は、サタンの血統圏を断絶して神様の血統圏に転換させるものです。まず腹中に宿した赤ん坊から始まります。祝福家庭の子女は、聖酒を飲ませて条件的な重生式を経なければなりません。そのようにして生まれ変わるのですが、腹中にいる時に重生式をしなければなりません。祝福家庭の母もそのようにしなければならず、祝福を受けていない婦人たちも同じです。同じ母の立場に立つようになります。聖酒を飲むことが条件です。それで、完成した真の父母の血統を相続する内容が、すべてが連結されるのです。

 

 

 

14 父と母の血統を受け継いで生まれた人を、一人も残さずに祝福の場に導かなければなりません。腹中において重生式を行い、幼稚園からは復活式を行い、その次には、永生式である祝福をしなければなりません。そして、血統の根絶を目標として前進する私たちの責任は、神様の代身であり、真の父母の代身であり、イエス様の代身の道を行くことです。

 

国家的メシヤ、世界的メシヤ、天宙的メシヤ、家庭の王、氏族の王、国家の王、世界の王、天宙の王権を設定しました。皆さんの家庭でできなければ、世界の家庭で一致させなさいというのです。そうすれば、家庭において親不孝をし、家庭において逆賊になったとしても、世界の忠臣の位置に立てば、すべて解放されるというのです。そうすることができるように相いれない環境を段階的に払拭し、次元の高い前進的未来の基盤が残るようにしてあげなければなりません。それが真の父母の責任であり、天の父母の責任なのです。

 

 

第四節 真の父母に従って成長する路程

 

 

天聖経  第八篇 目次   第三章 真の父母の似るための信仰生活

 第四節 真の父母に従って成長する路程

 

 

 

1 血統転換式の過程には、お母様の生命と、お父様の生命が結合した内容が入っているというのです。それを通過することによって、皆さんは、サタン世界と分立するようになります。真の父母から再び生まれた、という信念をもたなければならないというのです。そのようにしなければ、真の父母様の前で祝福を受けるのは不可能です。生まれ変わって、父母様を迎えて成長した男女として神様のみ前に立ち、神様の心情圏を受け継いで、父母様を通して再び生まれたという相続権を受けなければ、結婚することはできないのです。

 

 

 

 

真の父母に従い、似る者となろう

 

2 皆さんが行く道は、皆さんのために行くのではありません。父がこのように行ったので、父に似なければならず、父に従う「私」自身にならなければなりません。今まで縦的な苦労の歴史を備え、横的な歴史の基準を築いてくるために苦労されたのですが、それと同じです。父が私たちの家庭を主として世界を主管することを願ったそのみ旨を、私たち自身で回復してさしあげなければなりません。そうすることによって、私たちの先祖が失敗したことを、私たちの時代に蕩減して責任を完遂しようという信念をもち、憂える心と、責任をもつ心と、実践する心をもって勝利の一日を迎えなければなりません。そうして、万民が、これは父のものであり、真の父母様のものだと言いながら、お返ししなければなりません。父のものとしてお返しし、真の父母様のものとしてお返ししたあとに、真の父母が「これはあなた方のものだ」と言って、再び私たちに返してくださるその日を迎えなければなりません。それでこそ、私たちのすべての摂理は完結し、最後の栄光の勝利は、この天上天下に成就するようになります。これをはっきりと理解し、それが成就される時まで、神様の代わりに憂い、責任をもって闘っていかなければなりません。

 

 

 

3 完全な主体であられる神様の対象として創造された人間も、完全な対象、すなわち絶対価値をもった真の対象にならなければなりません。既にその位置に立っていらっしゃる真の父母様に似て、神様が、絶対的位置で絶対相対を確保し、解放をお受けになることができる、真の理想家庭の愛の主人にならなければなりません。それが人間の責任なのです。

 

 

 

4 神様は、真の愛を中心とした、縦的な愛と生命と血統の父です。簡単に言えば、真の愛を中心とした父だというのです。縦的な父です。堕落していない人間は、その縦的な父母に九〇度を合わせて完全に一つになり、横的な真の愛と、真の生命と、真の血統を中心として、神様と完全に合徳(和合)した父母の立場に立てる愛の相対だったというのです。

 

神様の生命、神様の愛、神様の血統と、アダムとエバの愛、アダムとエバの生命、アダムとエバの血統が縦横に混ざり、喜びの中で、幸福の中で、満ち足りた中で人間が生まれたとすれば、皆さんの心は、神様のように永遠に縦的位置に立つのであり、皆さんの体は、アダムとエバのように九〇度を備えた真の父母の伝統的基準に一致して、自らが共鳴体になったでしょう。

 

 

 

5 良心とは何でしょうか。縦的な真の愛の神様から受け継ぎ、縦的な父に似たものとして受け継いだ「私」です。ですから、良心はまっすぐだというのです。垂直です。それは、神様の愛と生命と血肉を受け継いだ、内的な位置にあります。そして、「私」の体は、本然の愛と本然の生命と本然の血肉が内外に和動する中で一体化できる、横的な真の父母の体を受け継いだ、外的な「私」だというのです。

 

 

 

6 体は、人類の血肉の父母であるアダムとエバに似て生まれ、心は縦的な父母の血肉に似て生まれました。ところが、この二つが争います。なぜ争うのでしょうか。根っこが誤ったからです。

 

これを和合するには、神様を絶対に信じなければなりません。祈る前に「神様は、私の縦的な父だ」と明らかにしなければなりません。死んでも生きても、神様の愛を中心として、直角の位置に立たなければなりません。直角の位置に立てば影がなくなるので、修行は必要ありません。影があるので修行に励まなければならないのです。

 

 

 

7 神様に似なければなりません。神様のようになっていなければならないのです。このようになれば、神様と自分が似ているので、自動的にプラスとマイナスとして一つになり、四方に爆発するのです。縦的な父母と横的な父母が一つに統一された愛で生まれたなら、皆さんの心は、神様の愛と生命と血肉を一〇〇パーセント受け継いでいたでしょう。

 

また、そこに完全な理想的な相対である真の父母の愛と生命と血統を完全に受け継ぐのです。ここには、内的な神様と外的な神様が一つになっています。神様の心と体が真の愛によって統一されるのと同様に、私たちが真の愛の内的で縦的な真の父母、そして外的で横的な真の父母と一つになったその基準で生まれたというときは、絶対的な真の愛の圏内にいるので、私たちの心と体は一つになるのです。

 

 

 

8 真の父母はメシヤであり、真の子女はメシヤに似なければなりません。そのようになるためには、先生を中心として氏族的メシヤたちがそのように生きなければなりませんが、そのように生きることができなければ、問題が大きいというのです。霊界に行って先生が神様の審判の標柱になるでしょう。先生が百ならば、皆さんも百でなければなりません。父母は、自分の息子、娘たちが自分より立派になることを望むのが原則なので、そうでなければならないというのです。

 

 

 

9 先生だけが真の父母ではなく、皆さんも真の父母にならなければなりません。皆さんもやはり完成しなければならないのです。先生は大きな木になりましたが、皆さんは、大きな木の細胞のようにならなければならないという話です。大きな木である先生に似なければなりません。すべて種です。根本に似たのです。

 

 

 

10 「私」個人は、神様に似なければならないので、再創造されなければなりません。心と体が歴史の戦場として、休む間もない苦海の路程を歩んでいるというのが、私たちの先祖が行く道であり、私たちが行く道であり、未来に連結された私たちの子孫が行くべき道です。この怨恨の巣窟が分かるようで分からなかったのです。今は知ったので、これをしなければならないのです。

 

天使長まで治める万物の霊長として、その権威を喪失していたのですが、自分の本然の位置を取り戻す立場に立てるためのものが、再び来られるメシヤ、救世主であり、真の父母様が世界の家庭を、世界の国々を一つの所に行くことができるようにするためのものが、祝福家庭であり、祝福行事なのです。

 

 

真の父母の代身者

 

11 私たちは、真の父母の代身者です。男性はお父様の分身であり、女性はお母様の分身です。すなわち神様は、男性と女性の二性性相の中和的主体としていらっしゃるので、男性は神様の男性性稟を身代わりして生まれ、女性は神様の女性牲稟を身代わりして生まれたのです。

 

本性において私たちの個体は、生まれる時から真の父母の肢体です。それで、イエス様も、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ一五・五)とおっしゃいました。男性たちはお父様の肢体であり、女性たちはお母様の肢体であり、男性たちはお父様の分身であり、女性たちはお母様の分身です。ですから、神様が御覧になって、お父様の分身になることができ、お母様の分身になることができると思われれば、いくら離れていても、そこには神様の愛が宿らないわけにはいきません。お父様の事情とお父様のみ旨を中心として生きる人には、神様の心情が自然に連結されるのです。

 

 

 

12 皆さんが創造主として、父として、真の主人としての責任を代わりに担うとすれば、どこに行っても天地が皆さんを助けるでしょう。皆さんは、絶対者の責任、父の責任、主人の責任をもたなければなりません。それに責任をもっていけば、絶対に排斥されません。

 

今日、すべての人たちは、自分の行動と、自分の生命と、自分の心情に責任をもってくれる人を求めています。このような社会が理想社会です。責任をもって死を覚悟して進めば、同志がたくさん現れます。言い換えれば、皆さんが地域に出ていく時、生命を造られた創造主としての責任、父母としての責任、主人としての責任、この三つの責任をもたなければなりません。そうすることができなければ、絶対者の代身者、真の父母の代身者、真の主人の代身者になることは絶対にできません。これさえもできなければ、存在世界から追放されるしかありません。責任をもてなければ、絶対服従で侍ることでもしなければならないのです。

 

 

 

13 私たちは、休む時間がありません。先生と先生の家庭を中心として、復帰の構造がどのように拡大するかを理解しなければなりません。私たちがこのような形態によって、個人復帰、家庭復帰、氏族復帰などを経て、世界復帰の次元にまで至るようになれば、すべての国々、全世界が包容されて復帰の頂上のもとに入ってくるでしょう。ですから、皆さんもこの形態に従わなければなりません。そのようになれば、皆さんは、先生と真の父母と神様の代身者になるだけでなく、理想世界の理想的な夫婦の代表者になるのです。

 

 

 

14 統一教会は、教会員を食口と言い、真の父母に侍る息子、娘と言います。

 

しかし、出会うやいなや、世界のために出ていきます。夫と妻を結婚させて、東西南北に分けるのです。そのようにして、神様をもっと愛してみると、心情的に真の愛の主人公になったというのです。もし、地上で会えなくなれば、霊界に行ってその愛を見いだすことができます。これがどれほど素晴らしいかというのです。地上で出会って暮らしながら愛し合う以上の愛をもって、夫が「私」に仕えてくれ、父母と息子、娘が私に仕えるというのです。そのような人は、真の愛の主体になり、神様と同じ理想をもった完全な神様の代身者になるでしょう。

 

 

 

15 皆さんは、真の父母の代身者、お父様の分身、お母様の分身、お父様の願いの実体、お父様の事情とお父様の心情の実体として登場しなければなりません。皆さんは、六千年間のお父様の希望的な実体、事情的な実体、心情的な実体として現れたのです。皆さんは、その願いを自分のもの、その事情を自分のもの、その心情を自分のものとしなければなりません。天に対してこの地にいる皆さんが行くべき道は、お父様の前に祭物になる道です。皆さんが責任をもたなければならないのです。

 

 

 

16 人間の願いとは何でしょうか。息子、娘を生み、その息子、娘がサタン世界から迫害されず、天の国に直行するように育てる真の父母になることです。しかし、そのようになれませんでした。真の息子、娘を生んで、天の国に直行させる「真の父母」の代身者になることが願いです。皆さんも良い息子、娘を生みたいでしょう?世界で最も優れた子女を生みたいはずです。それができなかったのです。いかにそれを成し遂げるかが問題です。

 

その次は、天使長が、神様の息子、娘であるアダム、エバを育てることができませんでした。いかに神様の息子、娘を育て、神様に必要な人として教育するかということが問題です。それで、皆さんは、熱心に働いて、国を代表する大統領の代身者になりたいと思い、その国の会社や行政省庁の主人になりたいと思うのです。真の主人になろうということです。これが私たちの三大所願です。

 

一つは真の父母、その次には真の師、そして真の主人です。皆さんも出世してアメリカの州知事になりたいと思い、大統領になりたいと思います。その前に家の主人にならなければなりません。家庭の伝統を相続して、先祖に代わる、神様に代わる主人の立場に立たなければならないのです。

 

 

第五節 真の父母を通して完成する路程

 

 

天聖経  第八篇 目次   第三章 真の父母に似るための信仰生活

第五節 真の父母を通して完成する路程

 

1 神様と真の父母と「私」は、復帰を完結させるに当たって、なくてはならない存在です。神様を中心として真の父母になるべき人間の先祖が堕落したので、堕落の動機を越えるためには、三者が一致点を見いださなければなりません。神様のみ旨と、真の父母のみ旨と、私たちの志が一致しなければなりません。

 

復帰というものを考えるとき、人間が神様の創造目的と一致する立場に到達し&#