第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ第一章 家庭教会

第一節 家庭教会の摂理的意義

 

 

 

1 家庭教会とは本来、エデンの園で堕落せず、神様を中心としてアダム家庭が完全に愛し合って一つになったことを意味します。そのように家庭教会が始まり、家庭氏族教会、家庭国家教会に発展し、世界形態の家庭理想を備えた一つの世界になるのです。これが原理で教える思想です。

 

統一教会が家庭教会を主張でき、立てることができるという事実は、神様にとっても、人類全体にとっても重要なことです。本来、アダムとエバが堕落していなければ、神様を中心として一生の間、愛の中で息子、娘を生んで暮らし、地上生活が終わって霊界に入っていけば、次はその子孫が続いて入っていき、またその子孫が続いて入っていけば、その血統的子孫がアダムとエバを中心としてすべて天国に行くようになっているのです。

 

 

家庭教会とは

 

2 今まで皆さんは、「家庭教会は統一教会の制度だ」と考えていましたが、そうではありません。統一教会の家庭教会は、私の天国です。私の天国であり私のものです。イエス様がペテロに天国の鍵を授けて、その後どこに行ったかというと、十字架に向かったのです。その天国の鍵が家庭教会運動です。

 

言い換えれば、支派編成をしなければならないということです。支派編成のモデルを代表してつくることが、私たちの使命です。それでイエス様は、「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」(マタイ一八・一八)と言われたのです。それを解くことができず、それをつくることができなければ、天国に行けないのです。

 

 

 

3 先生は、統一教会の教会員に天国の鍵をあげるのです。先生は、死ぬために十字架に行くのでしょうか。死ぬために行くのではありません。希望をもって、より高い所に行くのです。イエス様は、行って帰ってくることができず、何千年の間、来ませんでしたが、先生は、行けばいつでも来ることができ、思いのままに行ったり来たりできるのです。

 

帰ってきてからは、統一教会を訪ねていくのではなく、家庭教会を訪ねていかなければなりません。先生が訪ねるべき所は家庭教会ですが、家庭教会は神様が臨在できる所であり、父母様が臨在できる所であり、息子、娘が暮らせる所、一族が暮らせる所です。家庭教会は、家庭のための社会的事務所です。

 

 

 

4 エデンの園で堕落することによってカインとアベルの争いが起こったのですが、カインは兄として生まれ、アベルは弟として生まれました。これが恨です。これをひっくり返さなければなりません。そのようにしなければ、父母を探し出す道がありません。このような曲折の歴史を歩んできた神様の摂理の中で、統一教会が出てきて主張するのが家庭教会です。

 

エデンの園とは何かというと、家庭教会です。そこではカインとアベル、兄と弟の争いがありません。そして、父母と一つになり、神様と天使長が一つになり、すべてのものが一つになって統一されるのです。このような環境のために、統一教会の先生が出てきて、天使世界と天の境界線を片づけ、人間世界と天使世界の境界線を片づけ、カインとアベルの怨讐間の壁を崩して立て直すのがみ旨です。歴史時代の摂理を中心として、あらゆる国境や社会制度を捨てて家庭教会の中で一つになれば、すべて復帰するのです。

 

 

 

5 神様に記憶される日があるとすれば、その日は愛の理想世界に同参(一緒に参加すること)できる新しい出生とともに、その世界の完成者として神様と永遠に生きることができ、永遠に友になることができ、永遠に愛を受けられる息子、娘になる日です。その日が、神様にとって最高の日として記憶されるのです。

 

地上で肉身をまとい、天の国まで通過できる愛の関門をつくるために、統一教会は愛の問題を重要視します。家庭問題を重要視するのです。それで、私たちには家庭が必要です。そのような理想を私たちは訪ねていくのですが、それが神様のみ旨の完成であり、人間としての最高の目的地です。ですから、私たちは、その道に向かって行かなければなりません。

 

そのような時代が来ることを願いながら、神様は男性と女性を、もしくは息子と娘をその場に一度に結びつけるために、宗教を通して今まで摂理してきたのです。その摂理してきたすべてのものを一度にまとめ、理想的家庭基盤を立てるためにつくったのが家庭教会です。

 

 

 

6 真の男性と真の女性として登場させ、堕落圏に勝利した立場に立ててあげるためのものが家庭教会運動です。これは歴史時代のいかなる宗教にもなく、今後もない、たった一度しかない出来事です。ですから、家庭教会に反対する人たちに打ち勝たなければなりません。反対していた人々から、「あの人は善の人だ。本当に神の人だ」という証明書を受け取ってから、祝福を受けるべきです。そこで勝利した条件をもって出発し、進めば、天国の門を通過し、神様のみ前にまで行くというのです。

 

家庭教会がある所が天国です。歴史的責任を中心として、統一教会は勝利の道を築いてきました。現在、荒涼とした砂漠、地獄のような世の中に、このような道が現れたという事実を考えてみるとき、これは何という生命の道、光明の道、希望の道でしょうか。

 

この中で神様に出会うことができ、この中でメシヤに出会うことができ、この中で真の父母に出会うことができ、この中でカイン・アベルが一つになって出会うことができ、失われたすべての怨讐、失われたすべての氏族、失われた全人類を探し出せるのです。

 

 

 

7 父母の代わりに働ける時代に入りました。皆さんが代わりにすべきことは、先生が行った活動を繰り返すことです。しかし、先生が世界的舞台でしたことを、皆さんが全世界を歩き回りながらすることはできないというのです。ですから、制限された一つの祭壇のような所でしなければなりません。世界を歩き回りながら連結させたすべてのものを縮小させた一つの祭壇で、人類を代表して世界全体に拡大されたものを縮小させた祭壇で行わなければなりません。皆さんには、そのように活動した蕩減内容が必要なので、そのためにつくっておいたのが家庭教会です。

 

 

 

8 家庭教会は、次子の立場で長子の特権を相続し、還故郷するためにつくるのです。それは、イエス様が失敗したものを取り戻し、復帰できる基盤です。イエス様ができなかったことを成し遂げてさしあげられる皆さんになり、イエス様の息子になれなかったことを越えて息子になれる条件を立ててこそ、神様の息子、娘になることができるのです。

 

 

 

9 神様が私たちの町に訪ねてきたとき、父と母をお連れして訓示できる私たちの家にならなければなりません。精誠を尽くして神様に侍るのです。歴史始まって以来、国王に侍るのではなく、天地の大主宰であられるその方に、誰もが夢の中ででも侍りたいと思った願いがあったのですが、私たちの時代において、平面的に、実際に迎えることができるのです。そのような時代圏内にいることに対して感謝の思いをもち、その町を飾り、家を美しく装って神様を迎えようとしなければなりません。

 

母、父、姉、兄、親戚が、不信の風潮と、このすべての死亡の波をなくし、神様が永遠に共にいらっしゃる「私の町」をつくってみようとしなければなりません。そのような運動が必要なので、今日、家庭教会という課題が統一教会から出てくるようになったのです。今まで宗教は、個人の救いを目標としてきましたが、統一教会の救いは氏族の救いが目標です。一度に氏族が救いを受けようというのです。「死んで天国に行くのではなく、生きて氏族が天国に入れる公義のチケットを受けましょう!」という運動が、家庭教会運動です。

 

 

 

10 皆さんは、死ぬときまで、父母を慕いながら涙を流さなければなりません。生まれるときも泣きながら生まれ、生きるのも泣きながら生き、父母のために会うたびにうれしくて涙する生活をして、逝かなければならないというのです。そうしてこそ、死んで天国に行きます。それが原則です。それができなかったので、今日、真の父母が現れ、その運動を再現して立て直し、そのような条件を立てたことによって天国に行くのです。

 

家庭教会は天の国の始まりです。天宙主義は真の父母主義です。ですから、皆さんも、真の父母主義を中心として、皆さんの家庭と一族をそのようにしなければなりません。それが家庭教会です。

 

家庭教会は、「私」を中心として家庭、氏族、このように三段階です。蘇生、長成、完成です。氏族がなくては国家編成ができません。ここから国が生じるので、私たちは氏族的メシヤという名をもって、家庭教会運動を始めたのです。これは天国の始まりです。それでは、皆さんは、父母様とどこで出会うのですか。家庭教会に行ってこそ、出会うというのです。

 

 

 

11 カイン・アベルが一つにならなければなりません。洗礼ヨハネが兄の立場で、弟のイエス様と一つになれませんでした。一つになれなかったことによって、十二支派と七十門徒が世界に行ける基盤を失ってしまったので、これを蕩減しなければなりません。十二支派は家庭型であり、七十門徒は氏族型です。そのため、家庭教会なくしては、この数を復帰できる基盤がありません。そして、世界に行ったり来たりできる条件基盤がありません。ですから、アダムは、いずれにせよ世界に出ていき、巡って戻ってこなければなりません。

 

先生が立てた世界史的蕩減条件を引き継ぐ条件が、家庭教会基盤です。これがなければ、天国に入れません。先生は、世界的な条件を経て活動したのですが、家庭教会はそれを縮小したものです。それを縮小し、先生の福を受け継げる祭壇です。神様はどれほど苦労したでしょうか。先生はどれほど苦労し、イエス様はどれほど苦労したでしょうか。このようなすべての苦労によって勝利した祭壇を、皆さんが引き継ごうとするのですから、皆さんも祭壇を築かなければなりません。そのように、引き継ぎをするためのものが家庭教会です。

 

 

 

12 原理を中心として世界を見れば、国、主権者、国民、これが三段階です。この三段階を外れれば、先生と関係を結ぶ道がありません。ですから、先生が世界的な仕事をするなら、皆さんは少なくとも国家的な仕事をするか、民族運動をしなければなりません。大復興をして超教派運動をしなければなりません。

 

三百六十軒を中心として精誠を尽くさなければならないのです。これは、三百六十氏族を代表したものです。また、三六〇度を代表します。完全球形を象徴するのです。

 

陰暦では、三百六十日が一年です。復帰摂理は地上で成し遂げられるので、陰暦を使うのです。陰暦が中心になっています。皆さんが先生を知っているからといって、「先生が世界的に勝利したすべての蕩減復帰の内容と責任分担完成圏を私は伝授された」と言えば、それが伝授されるのですか。先生がすべてのものを伝授する条件を備え、「これをすることによって伝授される」と提示したものが家庭教会です。

 

 

 

13 家庭教会を完成すれば、皆さんはすべての荷を降ろし、皆さんの家庭と共に三百六十家庭の氏族を率い、この地上で天国生活をするのです。このようなことが起こります。以前には個人を救った統一教会が、家庭教会を中心として氏族の救いを許すようになったことは驚くべき発展です。誰であっても、これをしなければ天国に行けません。これが堕落した世界において、私たち一人一人に委ねられた任務です。

 

天国がどのように成し遂げられるか、もう分かりました。理論的にも原理的にも当てはまるよう、すべてにおいて摂理の完成時代を語ることができる驚くべき時代です。皆さんに、すべてメシヤの資格をもつ者として家庭教会区域に行きなさいと命令するのです。ここで食べ、ここで眠り、ここで暮らしながら、ここで勝利しなければなりません。ここで勝利しなければ、天国に行けないのです。

 

 

真の父母の勝利圏相続

 

14 先生が統一教会に残してあげた宝があるとすれば、家庭教会です。家庭教会は、先生が一生の間、犠牲の道を歩んで残してあげた宝です。教会員に残してあげられる宝とは何でしょうか。統一教会の権限を天地から、サタンと神様から堂々と相続できるというのが宝です。

 

家庭教会が完成するときは、統一教会という名称がなくなります。家庭教会未完成圏には神様の摂理があるかもしれませんが、「私」自体で成し遂げられた家庭教会圏内には、神様の摂理や宗教はありません。そこは、天国人が住む所です。それでは、三百六十軒とは何でしょうか。それが全人類の理想型と同等になるためには、少なくとも十二地域、十二カ国の民族がそこに集結していなければなりません。

 

 

 

15 世界がまだ私たちの教会化した天国基盤になっていないので、家庭教会の組織を通して、先生が四十年間すべての蕩減条件を立て、神様の愛を中心とした所有の決定的権限を完全に編成し、勝利したという印を押さなければならないのです。サタンが公に認め、神様が公に認めた立場で「勝利しました」と言うことができてこそ、父母が愛の勝利の所有決定権を、皆さんにすべて相続してあげるのです。真の父母という名前をもったがゆえに皆さんが相続できるのであって、そうでなければ相続できないのです。

 

真の父母から相続を受けようとすれば、サタン世界の性質をもった偽りのオリーブの木の性稟が残っていてはならないというのです。

 

 

 

16 皆さんにとって第一に重要なのは、神様と人間の関係です。その次に、カイン・アベル問題です。これがなぜ必要なのでしょうか。それでこそ、長子と次子が復帰されるからです。祝福を受ければ、血統転換されます。このすべてのものを、先生はカイン側である皆さんにすべてしてあげました。父母様と父子の関係になっているというので、相続できるのです。相続を受ける場所が家庭教会です。そのような祈りをしなければなりません。

 

二十四時間、全体のみ旨が成し遂げられることを願いながら、その場に行こうと努力しながら祈る人、そのような祈りの心をもって努力する人は、祈りを生活化した祈祷者として神様に到達できるのです。そうなれば、先生と共に暮らすことができ、神様と共に暮らすことができるのです。神様が直接干渉するのです。直接主管圏内に入ります。原理がそのようになっているのです。そのため、皆さんが家庭教会活動をすれば、神様に出会えます。生きた神様を知ることによって、神様のみ旨が成し遂げられることを体験しなければなりません。

 

 

 

17 先生は、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界的な蕩減路程をすべて越え、今、韓国に連結させるのです。愛によって一つになっているので、愛を通して相続が始まります。伝授が始まるのです。愛は一つです。愛の場は同参の価値をもちます。いくら田舎に暮らす女性だとしても、その女性が国の大統領と愛の関係を結べば、その日から大統領夫人になるのです。一気に同等な立場に上がるのです。

 

そのため、皆さんは、統一教会を中心として、真の父母様を中心として完全に一つにならなければなりません。愛の心が何より先立たなければなりません。先生が真の父母なので、長成期完成級以上の基準、直接主管圏内の基準に進めなかった皆さんを、今から連結させるのです。連結させるための条件的基盤が家庭教会です。

 

 

 

18 家庭が責任を完成しなければなりません。皆さんが五パーセントを果たすことによって、一〇〇パーセントの責任を完遂するのです。人間の五パーセントの責任分担を果たすことによって、神様が果たす責任と併せて、皆さんがすべて果たすことになるのです。家庭教会を皆さんがすることによって、先生が一生の間に成し遂げてきたことを、皆さんが完成させたと言うことができます。それは、皆さんの責任です。

 

先生が国や世界、天地の責任分担まですべて蕩減したので、皆さんの家庭が蕩減することによって、このすべてを蕩減できる祝福を与えたという事実に対して、感謝しなければなりません。言い換えれば、先生自身が国家や世界、霊界まで動員してすべて蕩減復帰したので、皆さんが家庭基準の蕩減復帰さえ果たせば、これをすべて相続してあげるというのです。家庭の五パーセントが残っているのです。

 

 

 

19 天国はどこにあるのでしょうか。「心にあり、私にある」と結論を下さなければなりません。心の天国があったのちに、体の天国がなければなりません。体の天国があったのちにこそ、家庭教会、家庭の天国が成就されるのです。その天国は、サタンが讒訴できず、サタンが生きることもできません。サタンの活動が許されない所です。

 

「天国が私の心と体にある」と言える人にならなければ、環境天国をもてません。家庭教会は、環境を中心とした天国を意味します。家庭教会の基地はどういうものでしょうか。家庭教会の基地が、皆さんの天国として許されるのです。環境とは、家庭教会を中心として国と世界が連結されたものなのです。

 

 

第二節 家庭教会の目的

 

 

天聖経  第九篇 目次   第一章 家庭教会

第二節 家庭教会の目的

 

 

 

1 今まで宗教では、私一人が救われようとしてきました。私一人がどのようにすれば救われるかという、個人の救いを標準にしてきたというのです。私たちは、個人の救いをしようというのではありません。氏族の救いを一度にやろうというのです。皆さんゆえに氏族が救われるのです。このようなことは、宗教の歴史上にもなく、人類歴史上にもありませんでした。このように、たった一つの事件が起きたというのです。共に栄えることのできる、全体の救いの基盤を賦与される時代になったのです。

 

 

 

2 イエス様は、亡くなって昇天する前に、ペテロに天国の鍵を与えましたが、先生は、生きて天国の鍵を与えるのです。個人のために与えるのではなく、氏族を救う鍵を与えるのです。皆さんは、家庭教会のメシヤになるのです。空論ではありません。地で成就されることは、そっくりそのまま霊界でも成就されるようになっています。宇宙のダイヤモンド鉱山のような所で、誰がたくさん掘り起こすかというのは、皆さんの努力いかんにかかっています。宇宙のダイヤモンド鉱山を、統一教会の教会員が掘り当てるのです。家庭教会を掘り当てるのです。

 

 

三百六十家庭の復帰が基本条件

 

3 本来、祝福を受けるために何をしなければならないかというと、万物を復帰しなければならず、子女を復帰しなければなりません。復帰されたその世界において、相対を復帰しなければならないのです。堕落して、すべて失ってしまったからです。兄弟を失い、父母を失ったので、その父母を探し出そうとすれば、自分が父母の位置に出ていける基盤を、ある一時において築かなければなりません。

 

父母を探し出すと同時に天使世界も探し出さなければならず、サタン世界も探し出さなければなりません。神様も探し出さなければなりません。ここで、これがすべて決定するのです。これが家庭天国です。その三百六十軒すべてが皆さんをメシヤのように侍り、皆さんを真の父母のように侍ることのできる基盤を備え、神様のみ前に奉献したという事実は、全世界を通してサタンが基盤を築いて反対した、そのすべてに勝利した立場で受け継いだということなのです。

 

 

 

4 どこにおいても、三百六十軒の家庭教会運動をしなければなりません。それは特定氏族です。氏族を解放しなければ、特定氏族が生まれることができません。今や、天の国の版図を世界のどこに行っても形成することができます。国境を越えてどこに行っても、私たちの家庭教会さえつくれば、そこは既に地上天国の基盤となり、再臨が必要ない世の中になるのです。メシヤが必要ない地になります。その族長を中心として父母に侍ることによって、救いを得るのです。

 

その家庭教会の責任者は、三代を連結させます。アダム時代に、神様、アダム、息子、娘の三代を連結させられなかったので、私たちの時代になって、神様を身代わりした実体である平面時代の氏族的メシヤを中心として、自分の父母と自分の息子、娘を連結させるのです。

 

 

 

5 皆さんに、先生が家庭教会の基盤である三百六十軒を分けてあげられたというのは、歴史的な希望の日であり、宗教が希望してきた終着点であり、神様の摂理の終着点になるのです。今までサタン世界で確保しておいたサタンの基地が完全に撃破される、その出発の日になります。もし先生が家庭教会を発表できなかったならば、悲惨な運命の歴史として終わっていたでしょう。

 

家庭教会という名前は、皆さんにとって無限の福です。歴史過程に数多くの王、数多くの大富豪、数多くの学者など、有名な人がいましたが、それはすべて問題ではありません。皆さん自身が「たとえ私は卑しい身であっても、たとえ無価値な身であっても、私が生きているうちに先生から家庭教会という名前を伝授してもらえる」という事実は、驚くべきことです。ですから、皆さんの学問や学校よりも、もっと愛するべきです。名誉よりもっと愛さなければならず、愛する人よりも、自分の息子、娘よりも愛さなければなりません。これは、カインの歴史を撤廃するための不可避的な原則です。カインを復帰できなければ、天の国に帰れないのです。

 

 

 

6 三百六十軒を世界を代表した蕩減舞台とするのです。なぜ三百六十軒なのでしょうか。原理的数字では、ここに全体が入ります。一年も入り、十二数も入り、百二十の三倍も入り、すべてが入るというのです。三数、四数、十二数も入り、すべてが入ります。これは、歴史的な年限を意味することにもなります。

 

その次に、三六〇度のすべての立体的内容も備えているというのです。そこには四季があり、また十二ヵ月を合わせた数になります。三百六十軒は、百二十国家を三倍したことにもなります。これは三時代として旧約時代、新約時代、成約時代だというのです。そのようなすべての総合的な数です。

 

ですから、皆さんは、これから三百六十軒を中心として死生決断をしなければなりません。先生は、世界の舞台を手にするために一生の間、苦労しましたが、皆さんは、これから三百六十軒を一つにしなければならないのです。

 

 

 

7 家庭教会運動さえすれば、三百六十軒を中心として、すべてのものを解決できます。三百六十軒は、国で言えばカイン国家の百二十カ国の蘇生国家、その次に長成国家、完成国家を代表するものです。そのため、これはサタン世界のすべてを身代わりした家庭数と同じです。ですから、三百六十家庭で完全に歓迎を受けられる基盤を築くときは、サタン世界の讒訴を受けないで、霊界のどこへでも行けるのです。天国に入るときに、東西南北、四方の門から一度に、三六〇度から一度に入っていけるのです。北門からでも南門からでも、東門からでも西門からでも入っていって、自分の父母を中心として三百六十家庭の氏族を霊界に移すことができるというのです。

 

 

 

8 統一教会は、家庭教会をしなければなりません。これは、カインの氏族を一つにすることです。カインの氏族を一つにし、アベル氏族圏をつくらなければ、その氏族の基盤の止に父母様を迎えられる基盤ができないのです。氏族的天国が現れません。その基盤ができたのちに、民族が連結されます。民族ができれば、その次からは民族を中心として、国家に行くのです。

 

 

家庭教会は世界連結の基盤

 

9 先生が蕩減路程を歩むのは、個人のために歩むのではなく、全世界の男性を代表した立場で歩むのです。その次に、全世界の家庭を代表した、妻に対する夫の立場で歩むのです。全世界を代表した父母の立場で歩みます。それで、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を代表し、霊界まで代表します。そうして、愛を中心として神様が解放の旗を掲げる時まで行こうというのです。

 

ですから、決定的な勝利としてこれを縮小させ、これから統一教会に従う人たちが先生のように悲惨にならないようにするのです。それが神様の願いです。先生を苦労させたのですが、その苦労を短縮させ、このような悲惨な運命を一時に一カ所で、世界を代表して越えられる所があれば、どれほど良いかというのです。それが神様の願いであり、先生の願いであり、皆さんの願いです。そのような願いの基準を生涯の目標、摂理の目的地として定めているのです。こうして現れたのが家庭教会です。

 

 

 

10 家庭教会を中心として教えてあげ、手本にならなければなりません。皆さんが手本となり、すべて見せてあげなさいというのです。家庭教会を勝利することによって神様の主権が生じ、国民が生じ、地が生じます。愛を中心として実績をもった人にならなければなりません。思想で、努力で、愛で主管しなさいというのです。皆さんが教えてあげる能力がなければなりません。その次に努力です。実績をもった人にならなければなりません。その次に、愛を中心としなければなりません。その次には、神様が管理できる人にならなければなりません。

 

 

 

11 キリスト教は、家庭教会の看板を掲げなければなりません。長老派であれば長老派家庭教会、ベリータウンであればベリータウン家庭教会とするのです。教派を変えなさいというのではなく、そのままつけてもよいのです。イエス教家庭教会としてもよく、キリスト教家庭教会としてもよく、長老派、メソジスト派、ホーリネス派、すべてそのままにして家庭教会とするのです。このようにすれば、メソジスト派だとか何だとか、一つ一つ自動的にすべてなくなります。キリスト教のイエス教だとか、旧教、新教もすべて一つにしなければなりません。

 

 

 

12 先生は、アダム国家、エバ国家、アベル国家、カイン国家の統一圏の伝統を立てました。皆さんも皆さんの家庭を中心として、そのような伝統基盤を植えたという基準がなければ、先生の世界天国理念を連結させられる道がありません。先生は、反対を受ける世界版図の場で、サタン世界、カイン圏世界に行き、歴史的な怨讐国家に行って、その国の愛国者たちが国を愛する以上の愛をもち、怨讐と一つになって愛する、歴史的な世界基準を越えられる蕩減条件を立てたというのです。

 

先生が何か大声で怒鳴ってしたのではありません。愛でしたのです。愛によって連結させて基盤を築き、ダンベリーを中心として峠を越えたので、これからは世界国家が歓迎するときです。そのような心情圏を先生が世界的に築いたので、その条件を皆さんも備えなければ、家庭から氏族、民族、国家、世界まで、父母様の蕩減路程を受け継ぐことはできません。行く道が塞がるのです。天国に行ける道が塞がるというのです。これを開いておくために、家庭教会をつくったのです。

 

 

 

13 天子の位置では、一日を生きるのも楽に生きることはできません。矢の先が曲がるわけにもいきません。目標、標的に的中させなければならないのです。皆さんはそのようなことを考えますか。一年中、異なる立場で感じながらみ旨の道を歩んでいますか。先生は毎日のように、三百六十五日異なる立場で感じながらこの道を来ました。

 

「世界平和統一家庭連合」を、何年か前に発表しました。家庭教会をしていれば、この「世界平和統一家庭連合」という過程は経なくてもいいのです。既にすべて終わっていたでしょう。それをしなかったので、皆さんの親戚を中心として、再び取り組まなければなりません。家庭教会は、家庭基盤を築こうということです。

 

 

 

14 私たちは、理想の祖国建設のために出征した天の国の精兵です。皆さんの妻と夫、そして皆さんの息子、娘は、出征した天の精兵であることを忘れてはいけません。神様の祖国は、個人で探し出すことはできません。私たちが理想とする祖国は、男性独りでは探し出せないのです。家庭をもってこそ、探し出せるのです。家庭をもって闘わなければ、探し出すことのできない祖国だというのです。家庭をもって闘わなければなりません。そのようにしなければ、本然の祖国を探し出せません。

 

ですから、先生も家庭を率い、ひたすら苦労しながら、どこへでも歩き回るのです。世界国家から追われながら歩むジプシーの家庭が、先生の家庭です。この国で追われればあの国へ、あの国で追われればこの国へとさまよい歩くジプシーの家庭だというのです。私たちが定着できる祖国を探し出すことが、皆さんの家庭の中心目的です。

 

 

 

15 先生は今まで、父母の名をもって全世界の人類の代表として、万民が個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様にまで行ける蕩減条件を立てておきました。そして、代表として勝利したので、皆さんがこの勝利の名でそれを一〇〇パーセント相続し、七年路程を経ていかなければなりません。先生が一生の間に世界の舞台で成し遂げたことを、皆さんはできますか。ですから、世界舞台を縮小させた足場、祭壇が必要です。それが家庭教会です。

 

皆さんは、どこで神様に会えるのでしょうか。先生は、世界の蕩減基盤を中心として、各国において血と汗を流す闘争の中で、勝利の足場を立てるところで神様に出会えました。しかし、皆さんは、父母様の名を通じて勝利のすべてのものを相続し、世界の舞台には行かなくても、「世界に行った」という条件が必要なのです。

 

 

 

16 家庭教会は、神様を家庭に迎えようということです。神様を家庭に迎えれば、世界的に交差する時代において、蕩減が必要ない自由な環境をつくることができます。そうすれば、先生が来るやいなや、家庭で編成して一気に挙国的な運動ができるのです。教会が存在するのは、国と世界のためです。自分と家庭ばかりを優先して、教会を後ろに追いやってしまってはいけません。

 

 

 

17 祝福を受けた家庭は、すべて家庭教会の看板を掛けなければなりません。今からひたすら教育すべきです。自分の教会に行っても、そのようなことを言えるようにしなければなりません。看板を、牧師が掛けてあげなければなりませんか、国王が掛けてあげなければなりませんか。国といえば、国にはその伝統思想が入ります。その伝統思想を中心として、個人、家庭、国家基準を代表する家庭になるのです。今までのサタン世界以上の、その上に立った理想の家庭です。それは、天国で神様に侍る家庭を意味するのです。家庭が地上で成し遂げなければならないのが家庭教会だというのです。天上世界で神様に侍ることのできる家庭的モデルを、地上で訓練するのです。

 

 

 

18 今からは家庭伝道時代です。先生の家庭を中心として、公式的な中心が現れ、これを皆さんに連結するときなので、家庭を中心とした伝道時代に入るというのです。家庭単位の中心は女性であり、母親です。母親が二人の子女を抱いていかなければなりません。母親を中心として息子、娘を一つにすれば、すべて終わります。息子、娘の問題はありません。

 

そうすれば、問題のある世の中の家庭が、ここに来て懇願するのです。「この難しい問題をどのようにして解決すればよいのでしょうか」と尋ねれば、「この本を読めば可能です」と言いながら、原理の本をあげるのです。この本の内容を理解すれば、子女の問題を簡単に解けるようになるのです。その本を借りて帰っていけば、皆さんのところに再び訪ねてきて、疑問に思ったことを尋ねるでしょう。そうすれば、皆さんは詳しく教えてあげなければなりません。

 

 

 

19 地上天国をどのようにつくるのでしょうか。家庭教会を通して、「私は天の国のすべての愛と一致する相続権を賦与されました。そのため、私たち夫婦は、神様の愛を中心として所有を決定したあとの夫婦であり、私の息子、娘や私の物もそうです」と言うことができ、世界がすべて統一教会側に立ち返るようになれば、その次には家庭教会もなくなるというのです。三百六十軒がすべて統一教会の教会員になり、韓国と全世界が統一教会になるのに、家庭教会がどこにあるかというのです。

 

三百六十軒、それ自体が合わさって、家庭教会の蕩減条件圏を探し出し、天国に入っていくのです。そのため、これから自治制を中心として、家庭教会圏内に何か問題が起きれば大変なことになるのです。共同責任制です。自体浄化時代、自体守護圏が、これから家庭教会組織を通して成し遂げられるため、サタンの影は目の前に現れることもできなくなります。それで、そのような共同所有基地を拡大し、愛という主流を通して関係を結んで家庭教会をつくるのです。家庭教会、それが氏族教会、民族教会、国家教会、世界教会に拡大され、国がすべて統一教会を信じれば、国家教会になるのです。組織編成はこのようになるのです。

 

 

第三節 家庭教会の完成

 

 

天聖経  第九篇 目次   第一章 家庭教会

 第三節 家庭教会の完成

 

 

 

1 今や、神様の摂理のすべての壁を崩さなければなりません。皆さん自身も、これからどのようなことをすべきでしょうか。先生がこのように築いておいたすべてのものを、皆さんに無条件に相続させてあげることはできません。相続は、ただそのままではできないのです。皆さんが五パーセントの責任を果たさなければならないというのです。

 

先生が百以上の国家ですべて蕩減条件を立て、天地に塞がった壁を心情的基準で連結させたので、皆さん自身もそのような世界を縮小した型を中心として蕩減条件を立て、現時点において天と地に壁が塞がっていない、自分自ら動かせる基盤を築いておかなければなりません。それが家庭教会です。

 

 

 

2 統一教会の教会員は、何をすべきでしょうか。世界的メシヤになれなくても、氏族的メシヤにはならなければなりません。そのメシヤになれなければ、洗礼ヨハネにでもならなければなりません。ですから今、家庭教会問題が起こるのです。堕落した人間が、個人復帰、家庭復帰、氏族復帰をしようとして、先生のように死ぬほど苦労し、一生の間、迫害を受けながら犠牲になって天国に行こうとすれば、それができるでしょうか。ですから、代表者を立て、代表者がその道を築くのです。先生がその道を築いたので、皆さんは、蕩減復帰の条件を中心として、その道を行けばよいのです。

 

 

地上天国の基盤

 

3 神様は、「私」を愛すると同時に人類を愛するのですが、それは真の子孫です。堕落した世界において、神様は私たちを愛し、人類を救おうとするのですから、私たちは神様が私たちを愛するように、人類を愛することのできる目的のために歩むのです。そのような人が、神様に最も愛されます。

 

これからは迫害がありません。サタンの迫害さえなくなれば、これがすべて簡単になるのです。先生を中心として、個人的にサタンがどれほど妨害しましたか。発展できないようにすべて迫害しました。迫害したのですが、すべて払いのけ、発展してきたのです。家庭的に、どれほど迫害を受けましたか。その次に、氏族的に反対されましたが、これを耐え忍んできたのです。

 

このように闘って勝利した父母様の、すべての偉業を相続するという自負心をもたなければなりません。そのようにして、世界を一つの世界に追い立てていかなければならないのが、皆さんの責任です。先生は実体蕩減をしてきましたが、皆さんは条件蕩減をするのです。その条件的な運動が、家庭教会運動です。

 

 

 

4 霊界の霊たちが地上に来ることをどれほど待ち望んでいるでしょうか。今まで生まれては逝った、善の人生を送った良心的な霊たちが、地上に降りてくるのをどれほど待ち望んでいるかというのです。そうするには、自分の一族が関係を結ばなければなりません。それで、家庭教会組織が展開するのです。これによって、自分と関係のある専門分野、経済なら経済分野の学者を中心に、世界各国、百二十カ国以上の霊が自由に活動できる基地になるというのです。ですから、家庭教会が絶対に必要です。

 

 

 

5 先生は、個人的メシヤ、家庭、氏族、国家、世界、天宙的メシヤの道を開拓してきました。個人的基盤も、家庭的、氏族的、民族的、国家的基盤も、既にすべて築いておきました。このような道を開拓してくるとき、サタンは全面的に反対しました。先生は、迫害の生活、連続的な迫害を越えるための闘いの路程を歩んできたのです。

 

第二次世界大戦後、英米仏が、エバ国家とアベル国家とカイン国家が一つになり、先生と一つになっていたならば、その時、世界的に出発していました。国家を越えて世界を中心として、自動的な国家編成に入っていくというのです。その時そのように出発したならば、迫害がなく、個人的な歓迎、家庭、氏族、民族、国家、世界的な歓迎を受けながら、一つになった環境において家庭教会編成と氏族的メシヤ編成を行い、神様と父母様を中心として家庭定着は成し遂げられたでしょう。その時もやはり、家庭を中心として、カイン・アベルを中心として、母親を中心として新しい家庭を編成し、氏族と民族を連結して国家を形成し、世界と通じるはずだったのです。

 

 

 

6 新しい世界に越えていくときは、宗教もなくなります。家庭教会だけが残るのです。真の父母を中心とした家庭です。家庭は、真の父母の伝統を中心とした、その愛によって連結された一本の木のような理想世界、統一された世界です。霊的な世界は見えない神経系と同じであり、見える世界は血管系と同じです。この二つの世界が調和統一されるところで、私たち人間の相反した体と心が一つになるのと同じように、この世界と霊界が完全に一つにならなければなりません。

 

 

 

7 家庭教会は、第一に、子女たちが失敗したことを代わりに蕩減してきた父母様の世界的蕩減路程を相続するためのものです。第二に、イエス様が失ってしまった氏族的メシヤ圏を蕩減することによって、氏族的メシヤ圏から国家、世界まで行くためのものです。この二つを蕩減しなければ行くことができないのです。これを解決するためには、不可避的に家庭教会を経なければなりません。そのようにしなければ、天国に行けません。

 

皆さんは、家庭教会を通して血と汗を流さなければならず、涙を流さなければならず、ひどい扱いも受けなければなりません。そうして、父母様が苦労した事情を知らなければなりません。今からは迫害がなくなるので、先を争って統一教会の原理を知ろうとするのです。先生の願いは、それです。従ってくる子女たちに、苦労の道を残すことはしないのです。

 

 

 

8 イエス様当時の氏族的メシヤ圏は、真の父母圏のための国家基準、世界基準、天宙基準の蕩滅条件を立てた基盤でしたが、今、私たちの時代は、真の父母に侍り、真の父母の蕩減条件の基盤の上に立ったというのです。家庭教会の基準は、イエス様が失敗した基準を蕩減するものです。皆さんの責任分担である五パーセントを蕩減させるためには、その条件を集約して、何回も行うところを一度に蕩減することが不可避です。皆さんは、どこで蕩減を受けますか。家庭教会をすることによって、個人的に蕩減を受け、家庭的に蕩減を受け、氏族的に蕩減を受け、民族的に蕩減を受け、そして、国家的に蕩減条件を立てていけるのです。

 

 

 

9 私たちは、一生の間苦労しても、天のみ前に面目を立てることができません。父母様に出会ってこのような恩賜の時代にいることに感謝し、涙を流しながら感謝する生活を続けなければならないのが統一教会の教会員です。自らの本然の姿を探し出すために聖別された生活をし、ありとあらゆる忠誠を尽くしても、顔を上げられない罪人の後継者であることを忘れてはいけません。ですから、父母様が行く道に協助しなければなりません。父母様がすべきことは、もはやすべて終わりました。皆さんがしなければなりません。家庭教会活動を一生懸命にしなさいというのです。

 

 

 

10 家庭教会の責任者から、一代、二代、三代で続けて伝道をすれば、千人、二千人、何千人が家庭教会運動をするようなことが起こります。そのようにして入籍時代に入り、名簿を作ることになるのですが、名簿はいい加減に作ることはできません。家庭教会を通さなければ、名簿記入ができないのです。天の国の族譜編成ができません。祝福を受けた家庭でも抜いてしまうのです。そこから落ちるのです。

 

それを知って、天が提示するすべてのことを急いでしなければなりません。地上でせずに霊界に行けば、霊界に行って永遠にしなければなりません。地上で解決できずに行けば、大変なことになるというのです。その期間には、食べること、着ること、寝ることを考える余裕はありません。そのように行くべき蕩減路程が残された人生がどれほど悲惨かを知り、生きている間に皆さんが蕩減していかなければなりません。

 

 

 

11 家庭教会は、ゲッセマネの園、十字架の絶頂から始めなければなりません。さらには、ゴルゴタの絶頂から始めなければなりません。イエス様がそのゴルゴタの丘で亡くなるとき、同情した人は一人もいませんでしたが、私が死のうとするときには、数多くの人々が同情するのです。そのような基盤、環境をもってから死ねるということが、どれほど幸せかというのです。皆さんが死ぬときに逃げ出すペテロではなく、皆さんの代わりに「私が死にます」と言える群れを地上で備えることができる、自由な環境をもったのです。このような歴史的伝統を蕩減すると考えるのです。

 

 

 

12 真の父母を中心として、氏族的メシヤになれる責任者を選び、任命できる時代に入りました。ユダヤ教を中心として、イエス様が当時、ザカリヤ家庭とヨセフ家庭を連結すべきだった基準を立てられなかったことを蕩減復帰するのです。それを蕩減復帰してこそ、父母の位置に入っていけます。そのようにしてこそ、国を通じて世界に行けるのです。この基盤をイエス様がもてずに亡くなったので、これを蕩減するためのものが家庭教会運動です。キリスト教が反対したのを、ここで皆さんが代わりにその基盤を受け継いだという条件を立てることによって、その氏族を通して民族と国家と世界に行ける道が連結されるのです。

 

 

 

13 キリスト教が願った個人的メシヤではなく、家庭的メシヤとして真の父母に侍り、世界に行くための準備をするのが家庭教会です。それで、国のメシヤと世界のメシヤに侍り、一つの世界に越えていくのです。真の父母が来るので、真の父母を国家と世界のメシヤとして侍り、メシヤ理想天国に向かって前進するのです。そうすることによって、失敗したキリスト教が氏族的に受け入れた立場で、新しい統一教会を通して世界的な父母に侍って地上天国に前進することを知らなければなりません。

 

 

 

14 今、先生が皆さんを取り戻すために働いてきたことを理解し、皆さんも家庭教会を訪ねていき、先生が皆さんにしたのと同じようにしなければなりません。それでこそ、天が孝子という名で印を押し、天の国に連れていくのです。ところが、皆さんは、先生にばかりついて回ろうとします。「家庭教会は嫌だ。先生の行く所にだけ行く」と言うのですが、それではいけません。

 

いくら父が大統領だとしても、大統領の位置をそのまま自分が引き継げるでしょうか。大統領になるためには、大統領になれる基盤を築かなければなりません。皇太子として生まれたとしても、王になるためには、王になれるすべての法度と規則を学ばなければなりません。備えなければならないのです。

 

人類歴史の最後の路程において、真の父母様の言うことを聞いて基盤を備えれば、神様が「お前は孝子だった」という印を押し、天の国の孝子として天国に送ろうというのです。これがどれほど驚くべき愛でしょうか。その基盤が家庭教会です。皆さんも、天の国に孝子、孝女として行きたいでしょう?家庭教会を通さなければ、孝子、孝女の印をもらう道がありません。天国は孝子が入る所です。息子であっても、ならず者は入れません。孝子の名をもって行かなければならないので、孝子の名の印を押してもらうためのものが家庭教会です。

 

 

 

15 家庭教会は、イエス様が失敗した氏族的メシヤ圏と、キリスト教が失敗した世界国家編成基盤を復帰するために、私たちが行くべき不可避的な道です。統一教会で言えば、統一教会がアベルならキリスト教はカインなので、カイン家族の代わりにカイン教会とアベル教会を連結しようとすれば、家庭教会がなければならないのです。イエス様が失敗したことを成就させ、キリスト教が失敗したことを成就させるためのものが家庭教会です。このようにして一つになり、家庭教会を中心として統一教会と真の父母が一つになってこそ、天国に入れます。一つの世界に行くのです。

 

 

 

16 先生が悲惨な歴史をすべて経て、人間に対して最高に簡単で強力に提示することができ、サタンと神様のみ前に提示できる一つの条件として立てたのが家庭教会です。家庭教会は、皆さんが倒れれば起こし、難しいことがあればすべて慰労してあげられる場であり、皆さんが責任分担の過程を何事もなく通過できる自然な環境だというのです。また、その中には迫害するものがあるかもしれませんが、環境全体が迫害する時代を越えて、歓迎する時代の境界線からこれを出発したというのです。

 

そうして、皆さんがここで勝利することによって、先生と神様が六千年間願ってきたすべての理想の基地が確立されるというのです。皆さんは今、先生に接ぎ木するのです。そうすれば自動的に成長します。それでは、成長するために必要な肥料は、どこで手に入れるべきでしょうか。反対してきた家庭教会のすべての地域で、大きな木として育てられる肥料を得るのです。皆さんには肥料が必要です。そのような種類の肥科をどこで手に入れるかというと、迫害から手に入れるのです。それが肥料になるのです。

 

 

 

17 私たちは、家庭教会をすべきです。家庭教会をする目的を、はっきりと知らなければなりません。蕩減復帰の道が残っているからです。ヤコブの歴史にイスラエル民族が従っていかなければならず、モーセの歴史にユダヤの国が従っていかなければなりません。また、イエス様の歴史にキリスト教が従っていかなければならず、統一教会の先生の歴史に統一教会の教会員が従っていかなければなりません。

 

従っていくのですが、その行く道は簡単ではありません。四十年間の再蕩減路程を歩いていかなければならないのです。もしキリスト教とアメリカが韓国独立とともに統一教会を受け入れていれば、私たちが家庭教会をする必要はありません。

 

一瞬にして世界国家が編成されたでしょう。そのようになれなかったので、四十年間の再蕩減路程が残されたのです。これは、真の父母様が歩まれた道なので、子女たちが行かなければなりません。ですから、今まで四十年間、個人蕩減復帰、家庭蕩減復帰、氏族、民族、国家蕩減復帰をしてきたのです。個人蕩減復帰をするときには、必ずサタンと闘って勝たなければなりません。

 

 

 

18 皆さん、白人が「私は白人の家だけ訪問し、黒人の家には行かない」と言ってはいけません。その反対にしなければならないのです。そうしてこそアメリカが生き、世界が生きます。イエス様がこの地上に来て、王権を中心とした長子権を相続することに失敗したため、終わりの日にこれを世界的な基準に上げて、再び回復しようとするのが神様のみ旨です。これからは、先生がいなくても、家庭教会を中心としてこの基盤が築かれるので、自動的にその長子権は立てられるようになっています。

 

 

 

19 家庭教会とは何でしょうか。家庭教会は、統一教会が迫害の歴史において、先生を中心としてすべての歴史的蕩減基準、すなわち個人蕩減世界的基準、家庭蕩減世界的基準、民族蕩減世界的基準、国家蕩減世界的基準、天宙蕩減世界的基準の蕩減路程でチャンピオンの継承権を勝ち取り、全体に勝利したサインを受けて決定してきたものです。家庭教会においてのみ、すべての蕩減条件を払って定着できるのです。

 

 

 

20 統一教会において世界的蕩減、すべての蕩減の版図を縮小して現実化させたのが家庭教会です。これを氏族教会に発展させなければなりません。韓国には同姓が多いのです。その同姓を連結すれば氏族になり、民族になり、国家になります。そうなれば、統一教会を中心として家庭教会を始めたので、氏族圏教会が始まり、民族圏教会が始まり、国家圏教会が広がっていくのです。

 

なぜそれをしなければならないのでしょうか。イエス様の解怨成就をしなければならないからです。イエス様の解怨成就をしなければ、皆さんを結婚の場に立てることができないのです。イエス様を解怨成就しようとすれば、カイン家庭とアベル家庭、カイン氏族とアベル氏族がいるのですが、カイン家庭とカイン氏族を救わなければなりません。

 

 

世界基盤造成のための祭物

 

21 なぜ氏族的メシヤになるべきなのでしょうか。それは、イエス様の恨を解いてあげなければならないからです。先生の恨を解かなければなりません。アダムの恨を解いてあげなければならないというのです。アダムの恨とは何でしょうか。理想家庭をもてなかったことであり、イエス様の恨は理想の国をもてなかったことです。そして、先生の恨は理想世界をもてなかったことです。アダムの願い、イエス様の願い、先生の願いを解くことのできる蕩減条件として必要なのが、正に家庭教会です。家庭教会は、家庭を完成させ、国を完成させ、世界を完成させる条件になるのです。先生はこのような原則から話しているのです。

 

 

 

22 先生が統一教会の指導体制を率いていく時は過ぎました。平面的拡大時代になったので、家庭理想をもった自分の氏族を中心として拡大すれば、世界は自然に復帰されます。その氏族拡大方法が家庭教会です。このような総決算的公判廷が生じました。

 

皆さんは、これから祝福家庭として父母に侍って一つにならなければならず、皆さんの息子、娘がいれば、そこで父母である皆さんが、神様の愛を中心とした所有物決定権に対する判定を受けなければなりません。皆さん自身がそのようにすべきであり、皆さん夫婦がそのようにすべきであり、皆さんの息子、娘がそのようにすべきです。旧約時代、新約時代、成約時代と同じく、神様の愛の判定権を、真の父母によって代わりに受け取ったという条件を相続しなければなりません。真の父母の所有権を決定したのちに天国に行くのが原理なので、これを相続できなければ、天国に行く道は絶対にあり得ないのです。

 

 

 

23 皆さんには、父母がいて、息子がいて、万物がありますが、家庭教会はこのようなものを拡大したものです。アダムが堕落することによって、この三つを失ってしまいました。この三つを一度に探し出して、神様のみ前に捧げなければなりません。失ったものを探し、真の父母を通して神様のみ前に捧げなければなりません。失ったものを探してさしあげ、神様が手にしてから父母を通し、再び相続しなければなりません。そうしてこそ皆さんの家が生じ、皆さんの世界が生じるというのです。その土台が正に家庭教会です。これは祭物です。祭壇に三大祭物を捧げるのです。

 

 

 

24 家庭教会を宣布するためには、先生が国家をすべて教会化する運動をしなければなりません。一段階先に行くのです。国家教会、世界教会、天宙教会、このように進むのです。教会とは何でしょうか。サタンと神様を分立させる一つの機関です。個人的機関、家庭的機関、氏族的機関、民族、国家、世界的機関です。教会を中心として分かれるのです。

 

皆さんが定着できていなくても、時代に従って刺激を与え、引き上げてあげられる先生がひもをぶら下げておいたので、今まで残ってきたのです。そのようにしなければ、サタンがすべて引っ張っていきます。家庭教会は、氏族的基盤を拡大するためのものです。氏族的メシヤを中心として氏族を率いるのも、横的な基盤を拡大するためです。先生は、端から、氏族的基盤、民族的基盤、国家的基盤、世界的基盤を築いてきました。

 

 

第4節 訓読会と家庭教会運動

 

 

天聖経  第九篇 目次   第一章 家庭教会

第四節 訓読会と家庭教会運動

 

 

 

1 先生のみ言は、先生が語ったのではありません。天が先生を通して語られたみ言です。そのみ言は、皆さんがいつどこで聞いても、心が動き始めます。それが違うのです。先生一人ではありません。縦横を合わせたその場で語ろうとしたので、心も体も共鳴体になるのです。振動が起こります。体が振動しても、心が一つになれるので心も振動し、心が感動すれば体に一大革命的変化が起こります。そのような力があるのです。それは先生の言葉ではありません。

 

訓読会は、「み言を売る」と書きますが、もっていては大変なことになるので、売らずにそのまま与えなさいというのです。物を積んでおいて腐らせれば、罰を受けます。お金をもらって売るより、もっと貴いことが起こるので、売らなくても分けてあげなさいというのです。これが訓読会の本然の意味です。

 

 

訓読家庭教会と活動方向

 

2 訓読の「訓」の字は、言偏に「川」の字です。水は、あらゆる生命の要素です。水は緑地帯を造り、空気中に漂う雲を形成し、深く進み、高く動きながら世界を平準化させます。水は平準化させるのです。「読」の字は、言偏に「売」の字です。み言を中心として売りなさいという意味です。売らないのであれば、自分がみ言どおりに行動しなければなりません。水には、流れて大きな川となり、海を形成してこの宇宙を生成する力があるのと同じように、このみ言にはそのような内容があるのです。

 

 

 

3 訓読会を通して、訓読家庭が完成します。訓読教会で再び重生、復活、永生してこそ天国に行くのです。家庭から天国に行かなければならないというのです。その家庭から行くべきであって、他の所からは天国に行けません。家庭で平和と天国を成し遂げてから行かなければなりません。それは地上でするのです。

 

 

 

4 人は、万物を復帰したあとに愛するようになっています。旧約時代までは万物祭物時代です。新約時代は子女祭物時代、成約時代は父母祭物時代です。神様をこの地に迎えるために、父母が家庭を率いて十字架の道を経てきたのです。地上で家庭教会の祭壇を中心として活動し、精誠を尽くせば、各界各層の霊人が再臨し、地上の聖徒を協助するでしょう。家庭教会が訓読教会に変遷するのです。そして、これからは、氏族加入時代が来ます。個人加入時代ではなく、氏族加入時代が来るのです。金氏であれば金氏、朴氏であれば朴氏が加入するのです。それが過ぎれば、国家入籍時代が来ます。これからは早いのです。目まぐるしいほど早く回っていくのです。

 

 

 

5 天国は、家庭を中心として出発するのですから、皆さんが訓読教会の意味を知って実行すれば、それは驚くべきことです。そこに教会があっても、家庭教会です。家庭教会は、心のような教会の上に家庭があるので、訓読教会を発展させるというのです。種を多く蒔いて、たくさんの収穫の実を収めれば、それを天上世界が、もしくは万民が食べて暮らせます。それで新しい出発をして、春を迎えるのです。冬に耐えて生き残り、より高い次元の春の季節を迎え、また発展に発展を重ねることができ、その起源が訓読会をする家庭です。

 

 

 

6 家庭に種を蒔き、実が実れば、国を越え、世界を越えて天の国にそれを献納できるのです。その世界が天上天国なので、どれほど多くの実を自分自身が収めて献納するか、ということが人間の最高の目的です。この代価の基準によって、天上世界で皆さんが暮らせる永遠の位置が決定するのです。

 

投入して忘れ、低いところに投入し、与え、忘れてしまいなさいというのです。より多く忘れれば、必ず返ってくるのです。人間は個性真理体なので、真を受けたならば、真がただそのままなくなるのではありません。人間は精誠を込めた贈り物を受ければ、その受けた以上のものを与えたい思いがあるのです。個性真理体があるので、循環運動により大きなものを授け受けできる環境条件をつくれる基盤、土台が訓読教会です。

 

 

 

7 統一教会が認定するからといって、天国に入れるのではありません。手続きを踏み、国民としての生活をしなければなりません。税金を捧げたりしなければなりません。統一教会もなくなり、宗教もなくなり、政治もなくなります。国家もなくなるようになっているのです。先生が生きてきた生活と心情を訓読会で徹頭徹尾、教育することによって、世界は一つの大家庭国家、一つの国家心情世界になるのです。ですから、訓読教会であり訓読家庭です。教会は家庭を求めていかなければなりません。

 

 

 

8 訓読会は、宗教と国家基準を越える天一国の務めとして実践するものであり、孝子の中の孝子、天の国の忠臣の中の忠臣の先祖と子孫がこれを仰いでいくのです。天と地が一つになって訓読するそのみ言を通して、再創造された実体完成者として、私たちが家庭理想の基盤を天のみ前にお捧げすべき新しい教育の時代、全体教育時代に越えていくというのです。

 

 

 

9 自分の氏族を中心として、訓読家庭教会をしなければなりません。これが世界的家庭です。訓読教会に出席している人は、もう国境がなくなるので、どこに行ってもその国が、私たちの国だというのです。文化と宗教の背後がどうだこうだと言える時は過ぎていくのです。

 

 

 

10 み言に狂い、御飯を食べるのも忘れて走ってみてください。病気がすべて逃げていきます。先生は、若かったときに肺病にかかり、他の人たちは「死ぬ」と言いましたが、死ぬなら死んでもよいと考え、肺病を忘れるくらい忙しくして、夢中になれば、病気が逃げていくと考えたのです。今や、民主と共産の二つの世界の中に私たちが入っていき、その二つを消化するために革命的な責任を果たさなければなりません。父母の責任を果たさなければなりません。全国で訓読教会をしてこそ、父母が立つ位置が生じるのです。

 

 

 

11 訓読をすることにより次元が変わります。天の国と地が一つになって訓読会をすれば、霊界がすべて降りてきて協助するようになっています。それをしなければ、自分が生きる道を開放することもできず、その目的を成就することもできないというのです。それで、訓読教会です。家庭教会です。天国家庭がありません。神様も家庭がありません。天国に入れる家庭がないので、天国の民がいないというのです。これを再び編成しなければなりません。

 

 

家庭教会運動と統班撃破

 

12 復帰とは、帰ることです。どこに帰らなければなりませんか。先生が天下において、いくら高い位置に上がったとしても、循環する一番下は家庭です。ですから、統班撃破です。統班撃破とは、サタン世界のすべての家庭に対して、根源的に、血統的に、文化的に、生活的に浸透したものをすべてひっくり返すことです。それで、撃破という言葉が出てきたのです。

 

 

 

13 統班撃破と共に復興会をしなければなりません。そうすれば、縦的基盤が立てられるのです。家庭において、「私の母と父は真の母、真の父であり、私の息子、娘は真の息子、娘だ」と言える家庭の声がこの地の上に湧き上がるとき、地上世界のサタン圏は終わりを迎えるのです。家庭で出発したので、

 

家庭で締めくくらなければなりません。統班撃破は、サタン世界の家庭を転覆するためのものです。サタン世界の血統を転覆させ、意識的なすべての内容を消化するためのものです。

 

 

 

14 私たちは、統班撃破をしなければなりません。そして、神様の歴史的な願いを成し遂げなければなりません。家庭から誤ったものを、家庭からひっくり返さなければならないのです。天の国は、国家を通して出てきます。出てくるときは、真の男性と真の女性を通して出てきます。サタン世界の反対家庭から出てくるのです。そのため、統一教会はすべて反対です。真の父母という言葉も反対です。

 

それでは、今までの父母は何でしょうか。真の父母と反対なので、自分を生んだ父母は偽りの父母だということです。その言葉は、神側においては正しいのです。また、サタン側においても正しいのです。そのため、真の父母を強調すれば、サタンは退きます。神様が重要視するので、サタンは退くというのです。それで、ひっくり返すのです。

 

 

 

15 なぜ、統班撃破をしなければならないのでしょうか。復帰歴史は、今まで堕落した世界からどこを通じて戻るのかというと、真の父母の門を通じて戻るのです。堕落の門から出てきて繁殖したものが、すべて真の父母の門を通って、再び上がっていかなければなりません。上がっていくその主流が統一教会の教会員です。

 

上がるときは、ぼろのふろしき包みのようなものは必要ありません。サタンが汚したすべてのものをきれいに清算し、水晶のように澄んでいなければなりません。蒸留水のようにきれいな真の愛の体と心をもってこの地上に顕現した天の国の王子、王女であり、真の愛の後継者であるという自信をもった人にならなければなりません。

 

 

 

16 今、標準は統班撃破です。これは、イエス様を中心として氏族的版図を成就できなかったので、今日、統一教会の教会員の家庭を中心として、氏族版図を完成することによって、世界氏族圏の解放が四方から始まるようになるのです。そして、それが万国に統班解放圏が広がる条件になると考えるので、先生がそれを命令し、皆さんの決意をここで確認するのです。

 

 

 

17 今、最も重要なことは、私たちがどこに根を下ろさなければならないかということです。この根を道に下ろしてはいけません。道の下に郡があり、郡の下に里があるのですが、そこに根を下ろしていないので、サタンが入ってきて、仮住まいができる基盤になるというのです。ですから、統班に根を下ろさなければなりません。これを原理的に知らなければなりません。統一教会の目標は、統班を撃破するという単一目標です。復帰の目標は一つです。過去の時代でも、現代の時代でも、未来の時代でも、蘇生、長成、完成、すべての目標は一つです。完成はいつでも、個人から始まります。それと同じように、統班を中心として鉄の城のような基盤を築かなければなりません。

 

 

 

18 皆さんは、一線で闘う先生と同じ立場に立てなくても、統班を中心として涙の峠を越え、定着しなければなりません。堕落した運命、ゆがんだこの悲哀の運命を打開しなければなりません。そのようにしなければ、天が協助しないのです。天が動きません。天が離れるのです。先生がいくら苦労し、皆さんがいくら先生についていくとしても、天が共になければできません。天が共にいなければなりません。

 

 

 

19 皆さんは、統班撃破運動をするとき、靴が何足も擦り切れるほどやらなければなりません。統長や斑長を訪ねようとすれば、自動車ではいけないのです。歩いていかなければなりません。靴を何足擦り減らしてでも、歩いて回りなさいというのです。汗を流しながら一日に三回、四回、訪ねてみなさいというのです。皆さんは、ほとんど一回しか訪ねることができなかったと思います。講義をするために一日に何度も統班に行けば、汗でぬれておふろに入らなければなりません。そのようにやってみなさいというのです。天が役事(働き)してくれるでしょうか、くれないでしょうか。火がついていくか、消えていくか、見てみなさいというのです。

 

 

 

20 今からは、統班撃破をしなければなりません。一つの家も逃してはいけません。今がそのようなときです。それで先生は、統班撃破という言葉を使うのです。いくら疲れても、疲れを知らずに夜も昼も、自分の足が一軒でも多く立ち寄っていかなければなりません。東西に行き、南北を経て、円形に通過していかなければなりません。ですから、三回は訪ねていくべきです。三回以上訪ねていきなさいというのです。会って何をするのでしょうか。最も貴い贈り物をあげるのです。その貴い贈り物とは何でしょうか。真の父母の息子、娘になりなさいということです。ですから、そこでは血統を転換しなければなりません。

 

 

 

21 先生は、皆さんを私の母と父よりもっと愛しました。一生をすべて統一教会のために生き、血と涙の出る事情を経て満たしていくのです。個人を満たし、家庭を満たし、氏族を満たし、民族を満たし、国家を満たし、世界を満たしていくのです。満たさなければサタンが離れません。それで、先生がアメリカへ行き、千辛万苦の受難の道を歩んだのです。そして、ソ連を救うために準備しているのです。今やすべて成し遂げたので、故郷に帰ってきて統班撃破をするのです。

 

 

 

22 本然の故郷の地に帰らなければなりません。これが原理観です。ですから、今、「韓国で還故郷をしなさい」と言ったのです。自分の村の統班撃破を完遂した基盤の上に、国家基盤を完遂しなければなりません。各家庭の出発点を立てて、蘇生、長成、完成に通じるのです。家庭は蘇生であり、統班は氏族として長成であり、国家が完成になります。家庭にこの三つが連結されなければなりません。そのようにしなければ、氏族を連結できず、国家を連結できず、世界を連結できません。皆さんがこのように拡張していくことによって、サタンの隠れる所がなくなります。きれいに清算するのです。皆さんは、すぐにそのような基盤を築けます。迫害がないというのです。皆さんを歓迎できる基盤がすべて準備されているのです。

 

 

 

23 統班撃破は、銃剣で脅迫し、恐喝しなさいということではありません。愛のみ言と愛の実践を通して夜も昼も活動するならば、老人たちがたばこを吸い、酒を飲みながらも、あるいは悪いことをしながらも、「うちの息子、娘にもあの人たちを見習わせなければ」と統一教会を褒めるのです。そうすれば、酒好きの悪魔がそこにくっついていても、逃げていくというのです。けんかしていた者たちも、統一教会に入教してからはけんかしないのを見て、「うちの息子、娘も統一教会の教会員のようにならないといけない」と思えば、サタンは逃げていくのです。

 

すべての面において、原理原則を代表した一つの立て札となり、家庭に先祖の標的を立てなければなりません。先祖の中の先祖が真の父母なのです。

 

 

 

24 統班撃破の組織さえ完了すれば、家ごとに旗を掲げた竿を立て、統一教会の人が一日に三人出入りしても喜ぶことのできる家庭にさえなれば、すべて救われます。ですから、先生が世話をするのです。先生を中心として成就されたすべての事実、先生のみ言から始まって、精神的分野と物質的分野で恵沢を受けさせました。そのような段階まで来たのです。

 

ですから、父母様を宣布して歓迎することによって、世界の頂上を越えて、サタンが今まで舞台としてきたこの地球星を踏んで上がっていき、韓国に帰ってきて天の国と連結させ、王権定着宣布式ができる時になりました。上から押さえるのです。精神を統一すれば、何も言えません。拳で殴るのではありません。思いだけですべて制圧できる時が来るというのです。

 

 

第一節 氏族的メシヤの宣布

 

 

天聖経  第九篇 目次 第二章 氏族的メシヤ

第一節 氏族的メシヤの宣布

 

 

 

1 氏族的メシヤという言葉は、なぜ出てきたのでしょうか。メシヤの立場は、父母の立場です。真の愛をもった主体にならなければ、父母の立場という言葉はあり得ません。堕落した世界に一つだけ残っている本然のものは、愛する子女のために生きる父母の心です。堕落した世界に威厳ある姿で残っているたった一つの本然の心情基準は、父母が子女を愛する心です。消えゆく心情圏ですが、それが創世以降、本質的形態として残っている火種と同じなのです。

 

 

氏族的メシヤ宣布の意義と基準

 

2 家庭を訪ねていくのですが、どこに行くのでしょうか。復帰摂理をするために、私たちが蕩減う条件を氏族圏内で立て、家庭に行くのです。民族、国家、世界の蕩減条件を先生が立てました。ですから、皆さんはどこを訪ねていくべきでしょうか。皆さんの氏族圏内に入っていかなければなりません。イエス様がしようとしてできなかったその場に入って、しなければならないというのです。

 

氏族圏内で家庭教会をしながら反対を受け、悪口を言われながら、彼らを涙で抱き、愛したその愛をもって家庭に入らなければなりません。家庭教会運動は、より愛するための訓練です。三百六十軒から、「あなたは神様の息子です」というサインをもらわなければなりません。家庭に帰れば、自分が氏族を復帰しようとして家庭教会を愛したよりも何百倍以上、愛しなさいというのです。

 

 

 

3 勝利したメシヤと共に一つとなり、真の生命の種を植えなければなりません。エデンの園でエバとカイン、アベルが一つになれなかったことを蕩減し、この種を植えるのです。この種のような環境が家庭になければならないのですが、それが母であり、兄弟姉妹です。そこが、堕落していない本然のアダム、エバの理想的な真の愛と真の生命が出発した所です。そのような家庭を編成するために、先生が氏族的メシヤを宣布したのです。

 

イエス様は家庭を求めてきました。カイン一族とアベル一族が一つにならなければなりません。イエス様で言えば、ヨセフの支派と洗礼ヨハネの支派が一つになって家庭をつくらなければならないのです。そのように家庭が設定されなければなりません。そうすればサタンは侵犯できないのです。そうして、氏族的メシヤに、イエス様にすべての一族が抱かれることによって、初めてイスラエルの国で失敗した家庭基準が、堕落していない本然の基準に復帰されるのです。

 

 

 

4 統一教会の教団は氏族です。「私」の血が共に動くのです。私が涙すれば、氏族が涙しなければならず、私が喜べば、氏族が喜ばなければなりません。それは血族です。五色人種(あらゆる人種)を越え、文化背景の異なるすべての国家基準を越え、壁を取り払って一つにまとまった、新しい天の国創建のための民族です。

 

この民族が聖なるものとなるときに天の国の「創国」が顕現し、聖なる創国の民族として生きていくときに「創世界」が始まり、その世界の上に天宙的な地上天国と天上天国が連結されるのです。それは言葉だけで成し遂げられるものではありません。個人において最後の決定をし、天地に宣布しなければならず、家庭を中心として最後の宣布をしなければならず、氏族を中心として最後の宣布をしなければなりません。

 

 

 

5 今や、氏族を中心として最後の宣布をするときです。先生は、そのようなことを先導するために、万民族と万国家に代わって、天地に勝利の絶対的条件、一つの方向性の絶対的条件を立てなければなりません。そのようにしなければ、国に入って氏族を団結させ、公義の法度に従い、最後の解放を前にして宣布することができないのです。

 

「サタンは退け」と宣布すれば、皆さんの先祖が皆さんの家庭に入ってきて、主人の振る舞いをするのです。変わるのです。「私たちの家庭は、天を愛するとき、夫婦で愛し合う以上に愛し、子女を愛する以上に愛し、もっている所有物全体を犠牲にし、一家を祭物にして、私の氏族を代表して天の家庭に育て、民族解怨を成就するためにこれをしますので、お受け取りください!」と言えば、受け取ってくださるというのです。統一家は民族解放のための場で、天のみ前に祭物的家庭環境として捧げる決意を固めなければなりません。

 

 

 

6 皆さんは、氏族的メシヤです。カイン氏族を探し出せば、アベル氏族は自動的に見つかります。その運動をするのです。それでこそ、天上世界に行った皆さんの宗主となる先祖から、善の人は地上に来て蕩減条件を立て、恵沢を受けていくのです。これは、家庭教会の基盤がなければできません。いくら一人の自分の先祖が助けてくれたとしても、家庭基準は家庭基準に立っているのであって、氏族、民族、国家に連結する道がないのです。

 

しかし、先生がこれを連結したのです。それで、ダンベリーの刑務所に入っていながら、天上世界と地獄の門を開き、霊界の地獄から天上の宝座まで、高速道路を造っておいたのです。神様の恵沢圏内において、善の霊人は誰でも地上に降りてきて伝道し、一段階ずつ引き上げていける高速道路を造っておきました。父母が誤って、多くの壁ができたので、真の父母が開いておいたのです。それをすべて開き、伝授方法を提示しておいたので、天の国と地上世界を連結できる一つの基地が、家庭教会です。人工衛星が基地から飛んでいけるように、角度を定めてあげれば飛んでいくのです。そのような基地が家庭教会です。

 

 

 

7 今は、イエス様が果たせなかった理想の家庭基準を成し遂げて配置するときですが、それが家庭的メシヤの派遣です。家庭的メシヤとしてどこに送るかというと、自分の血族、自分の親族に送るのです。先生は、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界の蕩減路程を歩みました。ですから、皆さんは、先生のような蕩滅蹄程を歩まなくてもよいのです。先生は、皆さんをイエス様の立場と同じ氏族的メシヤとして送るのです。皆さんは今、結婚した立場にいます。そのような基盤の上にいます。それは個人、家庭、氏族が一つに連結されるのです。

 

先生はいつも、すべてのものが天に連結される蕩減路程を歩みました。皆さんはそのような路程を通過できませんでしたが、それでも皆さんを祝福してあげました。祝福を受けたのは、イエス様よりも良い立場を意味します。サタンは祝福を受けた皆さんを讒訴できません。なぜなら、真の父母を中心として血統が連結されているからです。それを見れば、サタンも、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界のどの次元においても讒訴できないのです。それが神様の最終的な観点です。絶対に讒訴できません。それが解放の境地です。それで今回、氏族的メシヤを宣布したのです。

 

 

 

8 氏族的メシヤになりなさいと宣布したというのは、皆さんが先生の代わりに責任をもってすれば、天が後援するということです。先生が困難な中で開拓していた、その時代に後援した役事を、霊界では今も間違いなく行っているというのです。その時は、反対を受ける中でも、統一教会を氏族的復帰時代に発展させたのですが、今は反対もされないので、どれほど発展するでしょうか。

 

今まで統一教会の教会員が十字架を負って迫害を受けたのは、長子復帰時代なので、長子を復帰するためです。長子復帰時代にとても苦労したのですが、皆さんの父母復帰時代には、長子復帰時代よりもっと苦労しなければなりませんか、してはなりませんか。もっとしなければなりません。そのため、氏族的メシヤは、イエス様の解怨成就をしなければならず、先生の解怨成就をしなければなりません。

 

 

 

9 自分の一族の前で、氏族的メシヤを宣布しなければなりません。聞こうが聞くまいが行うのです。任せられた責任をしっかりと遂行しなければ、誰が打たれるのでしょうか。天が代わりに引っ掛かるのです。そのような時が来ます。それで、氏族的メシヤを宣布するのです。そのような時を越えていくために氏族的メシヤを宣布したので、今、行動を開始しなければなりません。

 

すべて故郷に行かなければなりません。もし故郷に行けそうになければ、国を生かしなさいというのです。故郷に行けなければ、南北のために生きなければなりません。氏族的メシヤの責任を果たせなければ、北朝鮮を救うことのできる民族的メシヤの責任を果たすと言わなければなりません。そのように努力すれば、氏族的メシヤ圏を越えるというのです。

 

 

 

10 イエス様は、氏族の代表であると同時に民族、国家の代表になるはずでしたが、自分の家庭的父母権をもつことができなかったので、亡くなりました。それで、統一教会は、今、兄弟圏を解放したので、父母権を解放しなければなりません。今日、氏族的メシヤを立たせることによって、統一教会に反対していた皆さんの父母を、堕落したアダムとエバとして再び復活させ、探し出された家庭の資格を天の国の権限をもって認定し、公布するのです。それが氏族的メシヤ宣布の目的です。

 

なぜそのようにしなければならないのでしょうか。父母の基準を中心として、堕落していないアダムとエバを立てられなければ、その生まれた故郷を天の国の故郷に連結させる道がありません。本来、堕落していない故郷で生まれるときは、本来の父母から生まれるはずですが、堕落したために逆さまに接ぎ木したのです。ですから、その故郷においても、堕落していない本来のアダムが、父母としての王権を身代わりして生まれ、統治できた基準を、代わりに立てなければなりません。

 

 

 

11 氏族的メシヤを宣布したのと同じように、そのような時がやって来るので、皆さんも自分の故郷に帰っていかなければなりません。先生も今、故郷に行きたいのです。ソウルにいたいと思いません。皆さんが還故郷活動をし、その余波が北朝鮮をしのぐときは、先生の故郷が自然に上がってくるのです。争うことなく、そのまま通じるというのです。ですから、北朝鮮以上の精誠を尽くして心情的故郷として、カナンの地を編成するのが統一家の使命です。それで、「氏族的メシヤになりなさい」と言うのです。

 

 

 

12 なぜ氏族的メシヤを韓国とともに、世界に宣布したのか分かりますか。韓国ですれば、世界の国家すべてが先生を中心として一つになるのです。霊界においてどれほど総動員されるか、考えてみなさいというのです。「この時だ!」と、すべて目を光らせ、「解怨成就できる、何千年、何万年の歴史を蕩減できる良い時が来た」と言って、すべて降りていくことを願っているのです。

 

 

 

13 氏族的メシヤとして祝福家庭を配置し、イエス様完成、自己完成、アダム完成の三代先祖の基準を立てておいたので、この地上にいるすべての人間をかき抱ける自由な環境に入っていくのです。そのため、氏族的メシヤ宣布をすることになったのです。これは、神様の摂理において、これ以上ない福音です。人類歴史の終末であり、解放の日がここから始まるのです。南北統一は、適当にやって展開するのではありません。これを組み合わせていってこそ、可能なのです。それが家庭的基準と氏族的基準に連結されたので、国家的基準に連結されます。ですから、統一教会と政府が一つにならなければならないのです。

 

 

 

14 イエス様が失敗したのち、皆さんに氏族的メシヤを委任し、堕落したアダムと同じように自分を中心として結婚した自分の父母を、今の時を迎えて祝福という神様の天恵によって、堕落していない父母の立場に立てるというのは、途方もないことです。夢のような話だというのです。そのようなことを完成するために氏族的メシヤを宣布しました。一人のイエス様が氏族的メシヤ、国家的メシヤになるために送られたのですが、先生は全世界の祝福家庭を氏族的メシヤとして発表したのです。

 

 

 

15 真の父母の承認を受けることによって、天の側の公認を受けたことになります。カイン・アベル、父母、神様にまで公認を受け、そのすべての忠誠心と精誠を見てかわいそうに思い、「そうしなさい」と言えるようになるとき、再び祝福を受けられるのです。このような曲折があるので、神様が仕方なくこの峠を解決してくださるのです。神様が解決してくださらなければ、橋を渡ってくることができません。これが真の父母と重生です。真の父母がいなければ、重生する道がありません。そのため、氏族的メシヤが家庭的メシヤの橋を逃せば、重生できる道が塞がってしまいます。

 

先生は、このようなことを知っていたので、人類を解放させるために氏族的メシヤを宣布したのです。これは、世界的な革命的事件です。特権的、特赦的事件です。このように、一日のエバの失敗によって億千万年の間、多くの被害を受けつつも復帰の道を手探りしながら来た天がどれほど悲惨か、真の父母の代をつないだ数千代のアベル的存在の犠牲がどれほど悲惨かを知らなければなりません。それがアダムとエバを復帰するための歴史路程だったのです。

 

 

氏族的メシヤのための条件

 

16 今、先生が皆さんにメシヤという名を与えました。皆さんは氏族的メシヤです。皆さんは、氏族的メシヤとして何をすべきでしょうか。国家的メシヤ、世界的メシヤ、天宙的メシヤになるためのすべてのものを準備しておいたというのです。山のように大きな宝物を、皆さんのために準備しました。皆さんがメシヤになりさえすれば、宝石の山のようなこれらのものを、すべて相続するのです。水道管のようなものが連結されて水が流れ落ちていくように、皆さんに相続されるのです。皆さんがこの価値あるものを相続することに失敗すれば、皆さんの子孫が皆さんを讒訴します。

 

 

 

17 神様は、皆さんを助けてくれず、先生も皆さんを助けてくれず、先生の直系の子女たちも助けてくれず、教会の食口も助けてくれません。ですから、先生が勝利した道に自ら従っていかなければなりません。先生が過去に歩んできたのと同じ道を歩まなければならないのです。その次に自由があり、その次に新天地が展開するのです。

 

今までのメシヤは、男性一人しかいませんでしたが、これからは家庭的メシヤだというのです。今まで一人としてのメシヤは反対も受けましたが、これから家庭的メシヤが定着する世の中になるときには、反対する人がいないのです。必ず氏族的メシヤの責任をもち、各自が故郷に帰って、「私は氏族的メシヤとして帰ってきた!」と言いながら、誇りなさいというのです。これは、皆さんと皆さんの子孫のためです。イスラエル民族が十二支派に土地を分配するときと同じです。今やカナンの地に入ったのです。

 

 

 

18 自分のことだけを考えてはいけません。祖父母を見て回り、一番遅くに眠らなければなりません。血と汗を流して稼ぎ、自分の息子、娘、家族だけでなく、一族を養わなければならないのです。荒野路程にいるのと同じです。モーセの前にいる六十万人は、食べ物があれば、自分の家庭だけを養ってはいけません。支派を越えてモーセの前にもってきて、「死ぬとしても一緒に死のう」と言わなければなりません。百日、食べていける物を一日で食べてしまうとしても、十二支派の長は、モーセの前に持ってきて捧げなければならないのです。このような生活をしなければ、心情的紐帯関係を家庭から氏族、民族、国家、世界に連結できません。外的な国家と世界は、先生が蕩減復帰基準を立てたので、連結される基盤を築きましたが、皆さんの氏族的基盤は、先生が築いてあげることはできません。これは氏族的メシヤの責任です。

 

 

 

19 イスラエル民族が、カナン七族の文化と伝統に従ったことが問題です。それで、イスラエル民族が滅びたのです。それが重要です。今は違います。私たちが中心です。滅びゆく外の世界には希望がありません。「皆さんが唯一の希望だ」と言って、彼らが仰ぎ見るのです。皆さんが一つになって、今からはメシヤとしての責任を完遂しなければなりません。

 

神様がヨシュアとカレブに語ったように、「強く、また雄々しくあれ」(ヨシュア記一・六)というのです。長子権復帰のために父母を有し、天を有し、すべてのものを備えたこの地上の基盤をもったので、一気に押していきなさいというのです。後ろから神様が支えてくれ、真の父母と真の家庭の力が要塞のように、後ろから皆さんを保護してくれるのです。一つの道へ前進さえすればよいのです。それが勝利する道です。

 

 

 

20 皆さんの父母から受け取った、今まで生きてきた習慣性をもっていてはいけません。皆さんの息子、娘を、今から本当に教育しなければなりません。そのまま放っておけば、祝福を受けた家庭がすべて滅びます。ですから、メシヤの責任をもたせ、立たせるのです。それが「歴史的最高の時代」に生きるということです。霊界と肉界が、天地が見つめ、宇宙が見つめる、このような愛の驚くべき時期を占有する主人にならなければなりません。

 

 

 

21 氏族的メシヤがなぜ貴いのかというと、家庭の前において中心に立っているからです。先生は、世界的な国の中心になっていますが、皆さん自体にはそれがありません。皆さんには、五パーセントの実績がないというのです。そのため、先生が世界を愛し、国を愛したのと同じように、皆さんは神様を愛するように自分を愛し、夫、妻を愛し、自分の家庭を愛しなさいというのです。子女を愛するように自分の家庭を愛し、妻、夫を愛するように自分の家族を愛しなさいというのです。国を愛し、世界を愛しなさいというのです。そうすれば、国と世界は先生が既に連結しているので、自然に連結されるのです。

 

 

 

22 皆さん自身が行く道は、個人的心情圏から家庭的心情圏、氏族的心情圏、国家的心情圏、世界的心情圏、天宙的心情圏まで連結される基盤が形成されるので、この氏族的メシヤ基準がどれほど重要かを知らなければなりません。家庭が蘇生であれば、氏族は長成、国家は完成です。国家を中心として見るときは、国家が蘇生であり、世界が長成であり、天宙が完成です。世界を中心としては世界が蘇生であり、天宙が長成であり、神様が完成として、愛によって結ばれるのです。この三段階原則で連結されていく発展原則を見れば、国を探し出すときに氏族的メシヤ基準が重要だというのです。

 

 

 

23 皆さんは、金氏ならば金氏の家門のメシヤと同じ使命を果たさなければなりません。金氏の家門であれば金氏の家門、朴氏の家門であれば朴氏の家門において、天の国を創建するときに氏族を代表し、「私がメシヤだ」と考えなさいというのです。自分の氏族を救ってあげる救世主だと考えるべきです。そのためには、氏族全体を身代わりし、祭司長的な責任を果たさなければなりません。

 

 

 

24 今の自由世界を滅ぼすのが個人主義です。この個人主義の自由世界がどのように生き残るかが問題なのですが、これは簡単です。ために生きなさいというのです。ために生きることだけで、すべて救われるのです。統一教会が宗教を統一できるでしょうか。統一するときまで、私たちはために生きるのです。

 

今や最後に残った終着地はどこでしょうか。解決方法は何かというのです。すべての壁を崩し、恵沢を受けようとすれば、どのようにすべきでしょうか。氏族的メシヤになりなさいというのです。世界的にこれさえ終われば、個人的讒訴条件、家庭的讒訴条件、氏族的讒訴条件、民族的讒訴条件、国家的、世界的讒訴条件がすべてなくなるのです。

 

 

 

25 氏族的メシヤがどれほど恐ろしい言葉か分かりますか。メシヤが責任を果たせなければ、死ななければなりません。死なずしては帰ってくることができません。メシヤの使命を果たさなければならないのです。メシヤ権を蹂躙してはいけません。「私」の生命が消え、私の一族が消えることがあっても、メシヤ権を蹂躙してはいけません。母親と父親が皆さんの命を奪うことはできないでしょう。十字架に釘打つこともできないでしょう。それが福なのです。イエス様にそのような福があったなら、どれほどよかったでしょうか。

 

 

 

26 世界と闘い、蕩減条件を立てて還故郷できる伝統を誰がつくりましたか。氏族圏までつくり、家庭まで行ける道をすべて先生がつくりました。皆さんは、世界的問題をかけて、蕩減路程を歩んでみましたか。僕の僕からカイン・アベルを中心として息子になり、エバ圏、アダム圏を中心として、神様に帰らなければなりません。万有の主人である神様に帰らなければならないのです。そのような時が来るというのです。その次に、縦的な一つの心情圏を探し出したので、これを中心として個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を包括して余りあるようでなければなりません。有史以来、先生が数千年の恨を抱き、蕩減復帰のために立ててあげた氏族的メシヤ権の驚くべき内容を忘れてはいけないというのです。

 

 

 

27 先生が祝福家庭を氏族的メシヤとして送ったのは、世界の家庭を代表しているからです。そのため、全世界の夫婦の前に、記録的な男性、女性となり、記録的な男性と女性から生まれた息子、娘は、今まで地球星に生きては死んだ人間とは違う一族の先祖になったことを知り、神様の息子、娘として、天国に直行して入れる人にならなければなりません。

 

彼らは、神様を絶対に信じ、真の父母を絶対に信じ、人類を絶対に愛さなければなりません。縦的、横的な愛を中心として、人類を愛さなければなりません。そのように愛したとき、中央に入ってくるのです。中央に入ってきて、位置に定着するのです。そうでなければなりません。ですから、家庭的基準を中心とした召命の責任を担うため、いかなる家庭よりも模範的な家庭を築いていきなさいというのです。

 

 

氏族的メシヤの位置

 

28 氏族的メシヤとは、一言で言えば、父母を王権の位置に上げて立てるための役事をするのです。その次には、今まで愛を中心として、父母から始まり、私が生まれた本来の故郷である天の国の故郷に帰ることができるというのです。そうでなければ故郷はありません。これをしてあげなければ、故郷がないのです。故郷のない所には父母がいることはできません。故郷が設定されてこそ、韓国で暮らしていたすべての人々の故郷が、今後、天の国の故郷の位置に収められるのです。それによって、人間の生まれた場所ごとに集落があり、父母がいるのですが、そのあらゆる所が天の国に属し、堕落していない立場で生まれた父母の位置を代わりに受け継ぐようになるのです。

 

 

 

29 氏族的メシヤは、一代において氏族を中心として、故郷を案内する先鋒です。モーセのように出エジプトの先鋒です。盲目的ではありません。故郷を訪ねていかなければなりません。しかし、カインを探し出さなければ故郷に入れないというのが、原理的な事実です。サタン世界に兄の氏族が残っているので、彼らが自分の氏族のところに来るようにして、兄を救ってあげなければなりません。そのようにしなければサタン側になるのです。兄を救ってあげてから行ってこそ、兄が垣根となり、自分の故郷に帰って、自分の一族を救えるのです。そのようにしなければ、皆さんの父親と母親を伝道しておいても、サタンが再びかみついてきます。また引っ張られていくのです。そうなる危険性があるので、神様はこのような摂理をせざるを得ないのです。自分の父親、母親、自分の一族、故郷をすべて伝道しても、再び引っ張られていくのです。

 

 

 

30 先生が神様の代わりに、横的な面で氏族的メシヤを派遣しました。氏族的メシヤは、先生が死んでも、世界的に築かれた版図、垂直的世界に必ず接ぎ木されるようになっています。そのため、今先生は氏族的メシヤを送り、アベル的一族の先祖にするのです。この先祖は、生命の種をもっています。メシヤは父母なので、種をもって現れるのです。皆さんの一族と父母は、サタン世界の種を受けたのです。皆さんが生命の種をもってぶつかっていけば、どこに行っても勝利できるのです。

 

 

 

31 氏族的メシヤ権を皆さんに与えたことは、歴史上の数多くの宗教を総合した公義の実績をすべてもってきてあげたということです。アダムが堕落せず、ノアが失敗せず、アブラハム、イサク、ヤコブが失敗せず、モーセが失敗せず、イエス様が失敗せず、先生が失敗せず、苦労の十字架を負わず、受難を受けなかった歴史時代の全体を、解放された場で備えたその結実を、何も知らない皆さんにもってきてあげたのです。

 

その名前の中には、数千万の人々の殉教の血の訴えがあり、修道を中心として受難に遭って犠牲となった数多くの善人の復活の基地となり、どこでも平面的に天の基地となって解放の歩みができる地上天国となることを望む願いが宿っています。血の訴えと人類が願う訴えが一つになっているというのです。氏族的メシヤは、ユダヤ教とキリスト教を中心として、縦的に降りてきながら失敗したすべてのことを、統一教会を中心として圧縮させ、伝統的な勝利の権限をもって、仏教や儒教など、すべての宗教が受けようとするあらゆる福を総合した場で、決定的な核として伝授したものです。それが氏族的メシヤだというのです。

 

 

 

32 メシヤという言葉は、故郷の先祖と同じです。すべての横的な世界が、氏族の住む所です。完全に消化する中心は神様です。まず、真の父母様を中心として、その目的達成のための活動をするのです。アメリカにいる先生が韓国に帰れば、中心もすぐに韓国に移動します。先生がいなければ、がらんとしています。先生が来れば、再びすべての場所が満たされます。四方が希望に満ちた場になっていくのです。

 

氏族の王が氏族的メシヤです。氏族的メシヤの立場は、第二父母の立場、イエス様の立場です。先生から祝福を受ける皆さんの位置は、イエス様以上の位置です。「私は真の父母を中心として、氏族的メシヤとして派遣される」というのです。皆さんの氏族を救ってあげたのちに、皆さんはアダムの位置に上がることができます。

 

 

 

33 氏族的メシヤは、歴史的なすべての被造世界、人類の男性、女性、家庭のすべての種として祝福してあげたのです。種だというのです。数多くの家庭が育ってきましたが、天地が必要とし、神様が必要とする家庭ではありませんでした。それは種ではありません。氏族的メシヤとして行きなさいというのは、皆さんの氏族のところに行って新しい種を植え、そこに生えているのが偽りのオリーブの木なので、これを切って接ぎ木し、真のオリーブの木が生える真のオリーブの木の畑を造りなさいということです。その一族には、これ以上の福音はありません。国を探し出すことよりも、世界を探し出すことよりも、天地を探し出すことよりも、もっと貴いのです。

 

 

 

34 皆さんが外地に出て修練をし、み旨を中心として熱心に活動した新しい習慣性をもって、その町全体を変革しなければなりません。ついていってはいけません。神様が、何もない中で御自分のすべてを投入して愛の対象圏をつくったように、皆さん自身を投入しなければなりません。必ず一つに一致させなければなりません。皆さんの故郷の人々の中で、誰よりも最高の位置にまで行けば、霊界が協助するのです。

 

 

 

35 神様のみ前に一番近い所に行きますか、遠い所に行きますか。すべての人が「近い所に行く」と言います。勉強をするのもこのためです。なぜ勉強するのでしょうか。私が種になれる要素をたくさん吸収し、大きく吸収するためです。そのためには、すべて吸収しなければなりません。吸収するときは、無理やりではありません。自然と私に吸い込まれてこなければなりません。ですから、ために与えなければならないのです。

 

「私はいつでも歓迎します。どうぞお越しください!」と言える生活、種になれる生涯に連結されてこそ、天地の前に代表的な存在として残されるのではないかというのです。その意味を知った皆さんは、故郷に入って種になれる存在として植えられ、大韓民国はもちろん、天地が訪ねていくことができ、神様がいつでも訪ねたいと思う環境を残せなければなりません。そのようにしておいて天の国に行けば、間違いなく天の国の息子、娘として愛を受けながら暮らすのです。このような生涯路程を、これから定立しなければなりません。

 

 

 

36 皆さんが故郷を訪ねていくのは、新しい種を植えるためです。アダムとエバの種が不出来な種になったので、皆さんを通して新しい種を植え、新しい根を下ろそうというのです。新しい種を植えるときは、肥料を与えなければなりません。ですから、悪口を浴びに行かなければならないのです。理解されない立場で悪口を浴び、苦労をたくさんしなければなりません。三年も必要ありません。六ヵ月あれば、すべて終わるというのです。

 

 

2 氏族的メシヤの責任

 

 

天聖経  第九篇 目次 第二章 氏族的メシヤ

第二節 氏族的メシヤの責任

 

 

 

1 氏族的メシヤは、長子権が復帰された基盤の上で、父母権解放のために来られる主が、個人的アベル、家庭的アベル、氏族的アベル、民族的アベル、国家的アベル、世界的アベル圏を代表し、キリスト教とアメリカができなかったことを再び接ぎ木して、反対していた共産党まで倒し、統一天下にできる環境条件を備えた土台の上に送るのです。そのため、天上から再臨主を送ったのと同じく、神様の代わりに父母が皆さんを氏族的メシヤとして送り、イスラエルの国が四千年間準備したメシヤを迎えるための約束の基盤である主流宗教圏を、皆さんに相続してあげたのです。

 

 

家庭教会と信仰の子女

 

2 氏族的メシヤは、カイン・アベルの二つの一族を抱かなければなりません。自分の一族とカインの一族を抱かなければならないのです。イエス様を中心として見るとき、ヨセフ家庭とザカリヤ家庭と同じです。この家庭が一つになれないことによって、イエス様が亡くなったのです。今は、家庭教会と氏族教会が必要です。ヨセフ家庭とザカリヤ家庭が一つになったその上に、イエス様が立つのです。その氏族的メシヤに侍り、国家的メシヤに侍るようになれば復帰です。

 

そのため、家庭教会は、カイン的教会として氏族的メシヤの基盤であり、アベル的教会は自分の一族です。この二つを合わせなければなりません。そうしてこそ、氏族的メシヤの使命が終わるというのです。今や、氏族と完全に一つになるのは問題ありません。そして、外部的にも問題になることがなくなる時に来たというのです。氏族的メシヤを任命したからと言って、家庭教会がなくなるのではありません。この数十億の人類が復帰されても、家庭教会は必要です。体と心が統一され、全世界が統一されなければならないのと同じように、家庭教会も氏族の内外で統一されなければなりません。

 

 

 

3 皆さんが氏族的メシヤの使命を果たそうとすれば、カイン的氏族を復帰し、アベル的氏族を復帰しなければなりません。皆さんが精誠を尽くし、皆さんの命令に従って自分の生命と財産をすべて投入して活動できる人を百二十人確保すれば、彼らが皆さんの父母に対して、「息子さん、娘さんを育てるのにどれほど苦労されましたか。息子さん、娘さんが私たちを生かすためにどれほど尽くしてくれたか分かりません」と言うようになるというのです。そのように、百二十人が皆さんの一族を中心として宴をしながら、一言ずつ称賛するようになれば、一晩ですべて回っていくというのです。

 

 

 

4 故郷に帰って、氏族的メシヤにならなければなりません。そうかと言って、今まで長年活動してきた家庭教会がなくなるのではありません。家庭教会の基盤はカイン基盤であり、自分の一族はアベル基盤です。家庭教会の基盤において涙と血と汗を流した功績をもてば、自分の一族は自動的に回っていくのです。家庭教会を通して百人だけ伝道して自分の一族のところに行けば、「英雄が来た」と言って、その村が一晩で、一度に戻ってきます。その闘った経歴を報告するのです。

 

 

 

5 堕落したアダムとエバは、アベルによって復帰されるのです。祝福を受けた父母も、子女によって完成します。これは実に、堕落した父母がアベルによって復帰されるのと同じです。このようにして蕩減復帰されるのです。ですから、信仰の子女がいなければ、自らの子女を妊賑してはいけません。子女を生んで愛することもできません。これが原理の道です。堕落とは、原理の反対方向に落ちたことなので、その反対方向を塞ぎ、水が流れ出ないように合わせて一致させ、上がっていく道が復帰の道です。ですから、皆さんに絶対に必要なのが信仰の子女です。

 

 

 

6 統一教会の食口も、み旨を知り、神様の愛を受けるようになれば、アベルになります。そのような基準が立てられれば、それに応じた善霊人を中心として、アベルの立場に立つのです。二十歳で入った場合は二十歳を中心として、三十歳で入った場合は三十歳を中心として、四十歳で入った場合は四十歳を中心として、それぞれの年齢を中心としてアベルの立場に立つのです。そこである人を伝道すれば、その年齢基盤の上でカイン・アベルの基準が復帰されるのです。それ以外は許されないのです。それを再びやらなければならないので、子女を通して復帰していかなければなりません。

 

そのためには、三人の信仰の子女が、腹中の直系の子女に侍り、子女が結婚するまで力を尽くしてすべてのことに協助する伝統を立てなければ、絶対に完全復帰はされないのです。世界的勝利の基台を立てようとすれば、先生もその道を行かなければならず、皆さんもその道を行かなければなりません。先生が世界的使命をもったとすれば、皆さんは国家的使命まですればよいのです。先生は一段階、先に行きます。このようにして、先生は世界的勝利基盤をつくり、皆さん個人は国家的勝利基台をつくらなければなりません。

 

 

 

7 堕落による愛は誰によって始まったのかというと、サタン、天使長から始まりました。復帰はサタン、天使長から奪ってきて、信仰の子女をつくり、信仰の子女を愛したのちに、自分に戻ってくるのです。真の父母がしたように、戻ってくるのです。サタンによって始まったその愛の圏内から、奪ってこなければなりません。サタンが奪っていったので、それと反対にサタン圏から取り戻してくるのが、勝利的天使長、絶対服従する天使長の立場に立つべき三人の信仰の子女の使命です。

 

その信仰の子女を救い、神様のような立場で愛したという立場に立たなければなりません。愛の問題によって真の愛を失い、堕落したので、それ以上に愛さなければならないのです。ですから、信仰の子女をどれくらい愛せばよいのかというと、この世の中の父母が自分の子女を愛する以上に愛さなければなりません。そのようにしなければ、信仰の子女が復帰されないのです。

 

 

 

8 世の中の父母の愛以上の愛の道でなければ、人は引っ張られてきません。愛によって引っ張られていった人は、愛によって戻ってくるようにしなければならないのです。そのようにすることによって、勝利した愛の基準が三人の信仰の子女によって立てられ、勝利したその基盤の上に立ってこそ、自分の子女を愛することができるのです。これは公式です。先生も、そのような生活を続けてきています。その公式を通過しなければ、完成基盤は生じません。

 

ですから、いくら子女がいても、信仰の子女が完全に復帰されていないときは、その子女を自分の家に入れて一緒に暮らすことはできません。神様が蕩減復帰のためにイエス様を地上に送り、死の道に送って人類を愛されたように、信仰の子女を完全に愛さなければなりません。信仰の子女が自分の子女のために犠牲となる基台を立てなければ、自分の子女を愛する道が現れないのです。

 

 

 

9 私たちは、少なくとも三人の信仰の子女をもたなければなりません。すべての人には、二つの型の子女がいます。三人の信仰の子女と、自分たちを通して生まれた直系の子女がいるのです。この世界を総括的に見れば、神様の直系の子女の位置にいる息子、娘がいて、養子の位置にいる堕落した人間がいます。救いは、個人のためにあるのではありません。救いは家庭的な基準になければなりません。ですから、私たちは三人の信仰の子女をもたなければならず、彼らが私たち自身の直系の子女と一つになるようにしなければなりません。それが公式です。

 

 

 

10 本来、アダムとエバを誰が教育しなければならないかというと、天使がしなければなりません。神様が教育するよりも、成人するまでは天使が保護し、育成するのです。それと同様に、信仰の息子、娘を、その信仰の父母が天に帰っていける立場に立てるよう、すべて協助してあげなければなりません。その信仰の息子、娘の協助を受けて天に祝福されて越えていくとき、信仰の父母を協助したという条件によって一緒に越えていくというのです。

 

そのようにして、天使世界の三天使長が復帰され、アダムの三人の息子が復帰され、ノア家庭の三人の息子が復帰され、三段階の全体を代表した立場で越えていける条件が成立するのです。完全に一つになったというのは何でしょうか。エデンの園で堕落していないアダムを中心として、三天使長が完全に一つになったということです。それが一つになって、神様の祝福圏内に越えていくのです。

 

 

 

11 堕落前、アダムとエバの前に三人の天使長が完全に協助し、アダムとエバの結婚の日を天使長たちが待ちわびたのと同じように、信仰の息子、娘が、自分の信仰の父母が祝福を受けることを懇切に願わなければなりません。天使長が失敗することによって、天使がすべて引っ掛かったので、信仰の息子、娘が実体をもって協助することによって、肉界と霊界に引っ掛かった条件を蕩減するのです。

 

ですから、信仰の父母と信仰の息子、娘は、堕落した世界の父母よりも心情が高くなければなりません。堕落した世界の父子関係よりも心情が低くなるときは、天の側に立つことができません。堕落した世界の父子関係以上の場に出ていって一つになってこそ、天の祝福を受け継ぐ位置に越えていくのです。このようにして、祝福を受けたあとに自分の息子、娘が生まれて愛したとしても、サタン世界において蕩減条件を掲げて讒訴できないというのです。

 

 

 

12 先生が国家基準を越えたので、皆さんには迫害がありません。大韓民国が国家的次元で統一教会を支持できる段階に入ったので、皆さんはただそのまま、大韓民国の親戚を選び立てればよいのです。今や、私たちの親戚、兄弟のような人々を選んで立てれば、信仰の息子、娘を身代わりできる段階に入りました。しかし、その信仰の息子、娘はどのようにすべきでしょうか。皆さんのために生命を捧げることができ、皆さんの息子、娘のために生命を捧げることができなければなりません。そのような思想をどのようにして入れますか。皆さんが入れることができますか。原理を通して、入れてあげることができます。これからは、それが伝統になります。

 

 

伝道と祝福を通した氏族編成

 

13 皆さんの心が天だけを思い、天の家庭のために生きれば、その家庭が国のために生きるので、その家庭に従っていってこそ、「私」が国を復帰することができるのです。その家庭が世界のために生きる中心の位置にいるので、私が世界に行ける道は、その家庭を通して、その家庭を世界的な中心として侍ってこそ、行ける道です。原理の道がそうなっています。皆さんが原理に立脚した先生の代身の位置に立とうと思えば、三人の信仰の息子、娘をつくり、十二人の息子、娘をつくり、七十二人門徒をつくり、百二十人を伝道して結婚させなければなりません。そうしてこそ霊界に行って、十二の真珠門を四方から、昼に夜に思いのまま通っても、そこで門番が「何者か」と言うのではなく、「どうぞお入りください」と案内するのです。もし信仰の息子、娘が三人しかいなければ、いつも一つの門だけを中心として出たり入ったりするのです。他の所には行けません。

 

 

 

14 最も急がれるのは、皆さんが氏族的メシヤの責任を果たすことです。そのためには、皆さんが一族の中に入っていって、十二弟子をつくり、祝福してあげなければなりません。その次には、七十二門徒をつくらなければならず、百二十門徒、すべて合わせて百二十人を早く糾合しなければなりません。中心となった三十六家庭、七十二家庭を先生がすべて蕩減し、百二十家庭を先生が一気に蕩減したので、皆さんは百二十人だけ連れてきてくっつければよいのです。そうすれば縦的に、横的に、すべて蕩減できるようになります。ですから、皆さんが氏族に入っていって百二十人を糾合することは、統一教会の家庭の責任です。

 

 

 

15 皆さんは、信仰の息子、娘を中心として新しいイスラエルを編成していかなければなりません。先生が十二家庭を中心として三十六家庭、七十二家庭、百二十家庭を探し出したように、その道をそのまま踏んでいかなければなりません。先生は何となくこのことをしたのではありません。イエス様はそれを解決するために、悲運の死の道まで行くことになり、神様もそのような問題を解決できなかったので、今まで六千年間、役事してこられたのです。

 

先生が行く道は、その分野が皆さんより一段階先で、より広い国家的、世界的なだけで、内容は同じです。行く道においては同じなのです。先生は、キリスト教の反対を受けたため、氏族的メシヤの基盤がありません。それで、それを探してこなければならないので、道で唐突に出会った通りすがりの人と同じ立場である皆さんを、先生の血族よりも、父母や妻子よりも、もっと愛してきたのです。皆さんも、信仰の息子、娘が皆さんの生命を身代わりして犠牲になれる立場に行くようにするためには、実の息子、娘を育てるよりも三倍以上苦労しなければなりません。

 

 

 

16 皆さんは、百二十人を伝道しなければなりません。百二十人を伝道し、結婚させてあげなければなりません。祝福してあげなさいというのです。そのようにすれば、世界的代表、国家的代表、家庭的代表が霊肉を中心として連結されるので、皆さんが行く道と、天国の氏族圏が自然にできるのです。

 

三人を伝道できずに、顔を上げていられますか。それは、霊肉が分かれたのと同じなので、死んだのと同じです。三人を立てられなかった人は、四位基台にならないので、その基準に立てません。ですから、伝道しなければなりません。それを誰かがしてあげることはできないのです。皆さんがしなければなりません。そのように伝道するのは、統一教会のためではなく、先生のためでもありません。自分のためなのです。

 

 

 

17 神様が今まで再創造したのと同じように、その再創造過程を神様の代わりに、現実で行うという心をもたなければなりません。ですから、百二十家庭をどのように復帰するのか、これが重要です。百二十軒の中には、十二弟子も入っており、七十二門徒も入っており、すべて入っています。イエス様が復活したのちに聖霊が降臨し、百二十人の使徒が聖霊を受けて福音を世界に伝播したのと同じように、それを家庭的な基準で皆さんが収拾し、復帰してまとめなければなりません。そのようにしてこそ、氏族的メシヤの使命が終わるのです。

 

そのようになれば、そのときから皆さんが祝福してあげるのです。皆さんが先生の代わりに、結婚式もすべてしてあげなければなりません。なぜでしょうか。皆さんが先祖だというのです。これからは、それだけすればよいのです。国は既に一つになっています。世界全体が先生についてきます。これさえすれば国家編成と世界編成は一時に、すべて終わるのです。

 

 

3節 氏族的メシヤの役割

 

 

天聖経  第九篇 目次 第二章 氏族的メシヤ

第三節 氏族的メシヤの役割

 

 

 

1 氏族的メシヤになり、故郷を訪ねなければなりません。氏族的メシヤは、故郷を訪ね、先祖を訪ね、神様に侍らなければなりません。第一が何かと言うと地です。第二が先祖です。第三は真の神様の心情圏です。神様と同居するのです。皆さんが今まで生まれ育った地は、天の国の地ではありません。

 

皆さんの父母も、天の国の先祖ではありません。ですから、神様が同居できないのです。

 

堕落していない本然のアダム、エバを中心として暮らすその地がアダム、エバの地であり、神様の地であり、その先祖が神様の先祖であり、人類の先祖になります。そこが、神様と同居する場所なので、地上天国です。それが今、できていません。氏族的メシヤの責任を果たせなければ、これがないのです。いくら先生に従ったとしても、国に帰るときはイスラエル民族と同じように、自分の氏族を率いて帰らなければなりません。

 

天国は、家庭をもって入っていくようになっています。地上天国も天上天国もそうです。一族を率いていくようになっている所です。それでこそ、国を探し出せるのです。そのようにしなければ、国を探し出すことはできません。

 

 

氏族的メシヤの使命

 

2 還故郷するためには、生命、愛、血統の三つの条件があります。これを実践するためには、命を懸けなければなりません。先生は、生命を懸けて数多くの峠を越えてきました。命を懸けて行うことに、新しい国の夜明けを告げる東方の朝の光が照らすのです。その国を照らす陽の光も神様の愛であり、それは千秋万代に続く伝統の光り輝く太陽となるのです。永遠に変わらない天の血統を受け継ぎ、その陽の光を受けてこそ、永遠に侍ることができるというのです。

 

それは、人類の生命の本体である神様を象徴し、父母様を象徴するのです。父母様の伝統と天の復帰摂理の伝統を継承して生命と交換し、その交換したものが、世の中のいかなる脅威によっても取り除かれない主体性をもったと自負するようになるとき、新しい日を出発することになるのです。

 

 

 

3 新しい「私」から新しい家庭、新しい国のために氏族的メシヤが必要です。そこまで、あらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。先生が築いてきた信仰の道、神様が創世以後、何億年間も苦労して開拓したすべての結実を、皆さんに無償で伝授してあげるのですから、完全に継承しなければなりません。ですから、天上天下に恥ずかしくない、統一世界の血族の権限を賛美できるようになりなさいということです。それ以上に義なること、それ以上に価値のあることはありません。その価値の先にある平和の世界に直行できる皆さんにならなければなりません。そうすれば、還故郷の道とともに新しい国の統一が始まるでしょう。

 

 

 

4 氏族的メシヤは、父親と母親を堕落していないアダムとエバにするのです。その次に故郷を探し立てることによって、王権回復がなされるのです。そのようになれば、すべて終わるのではないですか。第一は、父母同位圏に立つことであり、次に故郷復帰をすることであり、王権復帰をすることです。そのため、すべての人々は、天の国の故郷をもつようになるというのです。天の国の故郷をもつには、天の国の父母をもたなければなりません。天の国の父母をつくるのが、氏族的メシヤの使命です。

 

 

 

5 天のために汗を流したように、血を流さなければなりません。血を流す歴史的な受難の峠を、喜んで訪ねていかなければなりません。「私」の解放のために、それ以上に注がなければならない自分たちであることを、今まで知らずにきました。「私はそれと関係なく、相対的な立場ですればすべてが成し遂げられる」と思っていますが、そうではありません。根本に帰ってくるのです。故郷の地に帰るためには、皆さんが根拠地を撃破すべき責任範囲が残っていることをはっきりと知らなければなりません。

 

今から、皆さんの根を整備しなければなりません。堕落することによって父母が誤り、長子が誤りました。そのため、真の父母を中心として、真の息子、娘を中心として、本然の父母権と長子権を逆さまにして越えさせなければなりません。ただそのままではできません。一八〇度反対にしてこそ、根の整備が出発できるのです。

 

 

 

6 今までは、先生が責任をもちましたが、これから、皆さんの一族は、皆さんが責任をもたなければなりません。九〇度の心情を中心として、この角度を合わせなければならないというのです。個人的に、家庭的に、氏族的に一つにしなければなりません。

 

寝ても覚めても、食べて暮らすすべてのものが、自分を中心としたものではありません。一族のためです。「私」が死んでも、金氏なら金氏のために、すべてのことを解決すべきです。統一教会は、この準備をしなければなりません。それが生き残る道です。国を生かす道なのです。そのため、氏族的メシヤの使命のために、前進に前進を重ねなければなりません。

 

 

 

7 個人が勝利して家庭をもてば、家庭は氏族と民族と国家と世界の峠を越えていかなければなりません。ですから、個人の願いは、天の側に立てる家庭を探すことです。家庭を探し出しておいて、「今まで祝福の問題を中心として、千辛万苦の受難の道を克服してきたが、もう結婚したのでこれで終わりだ」と言いながら、こそこそ昼寝でもしてみなさいというのです。勝手気ままに暮らしてみなさいというのです。そこは、サタンが世界的に包囲し、国家的に包囲し、民族的に包囲し、氏族的に包囲している圏内です。

 

個人が安息しようとすれば、家庭がなくてはならないので、今まで家庭を探し出すために闘ってきたのです。また、家庭が安息しようとすれば、氏族圏がなければなりません。氏族が垣根となって、吹きつける風と、その他のすべてのものを防いでくれなければなりません。そのような責任を身代わりする舞台をつくらなければ、平安な家庭で生存することはできません。そのためには、親戚を中心として、族長にならなければなりません。ですから、皆さんに、氏族的メシヤの使命を果たしなさいと言ったのです。

 

 

 

8 氏族的メシヤにとって、家庭がその教科書です。自分の先祖が顕現したのが祖父、祖母であり、母と父は現在の代表であり、皆さんは未来の代表です。この三時代を縮小したのが、氏族的メシヤの愛の教科書です。そのように一つとなった心情を中心として、世界の東西南北のどこに行っても、そのように暮らすことができ、そのように接することができれば、世界には祖父、祖母のような人、母、父のような人、兄弟のような人がすべているので、そのように温かく接し得る天の国の民として、天の国の愛を所有した人になるので、天国に行くのは問題ないというのです。

 

他人を自分の父母、兄弟のように接することができる雰囲気になれば、霊界とすぐに連結されるのです。皆さんは、家庭において、そのような生活をしなければなりません。そのような雰囲気を造成するために、今から氏族的メシヤとして還故郷しなければなりません。それが皆さんの使命です。いくら難しくても、克服しなければならないのです。

 

 

 

9 イエス様は、氏族的メシヤになれませんでした。ですから、完成時代に父母様の子女になれる資格がありません。それによって、父母が誤ったすべてのものを蕩減し、新約、旧約の蘇生、長成のすべてのもの、歴史的な全体を総合して一度に燃やして捧げるためのものが、家庭教会の祭壇です。これを完成して勝利すれば、世界でも天上世界でも、どこにでも行ったり来たりできる通行券をもらえるのです。

 

 

 

10 絶対信仰、絶対愛、絶対服従の上に祝福家庭が成立するのですが、その祝福家庭は天の所有権、天のすべての国と世界を抱ける位置の家庭です。絶対信仰、絶対愛、絶対服従する心をもって天の国に行き、血統を復帰したのです。絶対血統転換、絶対所有権転換、絶対心情圏転換をしたのです。すべて取り戻してきました。氏族的メシヤを通して絶対血統を転換し、絶対所有権を転換し、絶対心情圏を転換した氏族が多ければ、国は自然に救われます。最後となるのです。きれいに清算されます。

 

これは、自信満々に活動する「私」の手にかかっています。「私の活動いかんにかかっている」という自信をもって、出征するのです。私たちは、真の父母の息子、娘なので、真の父母が勝利した全世界を私たちが収拾し、父母が主張すべき所有権を私たちが父母の代わりに主張しなければならないことを自覚すべきです。それをすべてもらって、父母に連結するのです。それが国家復帰のための氏族的メシヤです。

 

 

故郷ですべきこと

 

11 父母様の写真を掲げ、統一教会の旗さえ掲げれば、それで天の国の一族になるのです。天の国の一族にしてあげようというのです。それで、旗を掲げたことを批判して、罰を受けた人がいます。本当に不思議です。先生に対して後ろ指をさした人の手が病気になり、幾晩も祈って悔い改めて、ようやく治るということが起こるのです。なぜでしょうか。天運が訪ねてくるのですから、個人の運勢で防ぐことはできません。宿命的な道です。変えることはできません。

 

モーセが杖を持っているとき、それを仰ぎ見た人は、すべて生き残りました。統一教会の旗を見つめて、出掛けるたびに敬拝し、帰ってくるたびに敬拝し、真の父母様の写真を見ながら、出掛けるたびに敬拝し、帰ってくるたびに敬拝すれば、生きるというのです。

 

 

 

12 統一教会の旗を揚げるのは、「通り過ぎる統一教会の教会員は、おなかがすいていればここに入ってきて、お昼どきなら昼食でも食べていき、休んでいきなさい」という表示です。そのため、いつもお客さんをもてなす準備をしなければならないというのです。父母様を身代わりしてそのような準備をしなければなりません。ですから、部屋もなければなりません。父母様に侍ることによって救いを得るのですが、父母様が来られないので、父母様の代わりにお客さんに侍ろうというのです。この思想は、天の最高の基準に平準化思想を連結させるためのものです。そのような意味で、お客さんを神様のように、父母様のように侍りなさいというのです。そのような人は福を受けます。

 

 

 

13 家庭復興会をしなければなりません。皆さんの一族を中心としてするのですが、その復興会は、全体の氏族を代表した復興会です。それは、韓国だけでなく、世界の数多くの祝福家庭が氏族を連結させた、その氏族を代表した復興会だと思わなければなりません。そのような復興会に、世界の人が同参するのです。今日、韓国にある統一教会は、韓国が基地となることによって、氏族基盤を中心として世界を代表して復興会ができるのです。これがどれほど福なことか分かりません。

 

 

 

14 今から故郷を訪ねていって、氏族復興会をすれば、それは歴史的な復興会になるのです。これは国を探し立てようと、万歳を叫んだ三・一運動以上の驚くべき事件です。歓迎を受けられる立場で、天理が動いていける環境をもったのです。このような舞台で、自分の氏族を動かせなければなりません。先生がここに帰ってくるのに、四十年かかりました。蕩減復帰の道がそうなのです。世界舞台において、サタンの讒訴を分立させなければなりません。帰ってきて、国家基準でこのように防御し、氏族的メシヤ権を設定することによって、東西南北に通じる世界的連携が形成されるようにするのです。

 

 

 

15 故郷に帰り、これからは灯台を立てなければなりません。灯台は夜、暗い所に光をともすのです。何の灯台でしょうか。東西統一と南北統一の灯台の明かりをともしなさいというのです。これからは聖地に火をともし、その火が消えないようにしなければなりません。オリンピックのときにともす聖火のような火を用意して、東西南北の統一の灯台に、私たちの中央の聖地を中心として聖火を一つともせば、夜の灯台になるのです。

 

それで皆さんは、その灯台に火をともすたびに、「東西南北に立ち寄るすべてのかわいそうな哀しい魂を解放させるべき生命の灯、この生命の灯をつないであげる灯台の灯心となり、油となろう」という祈りと、精誠で補給してあげなければなりません。その灯が消えるまで、私たちの教会で守らなければなりません。

 

 

 

16 真の心情を、本郷の地に植えなければなりません。これを植えられなかったのが堕落ですが、今や帰る時が来たので、早く植えておこうというのです。ここに、あらゆる精誠を尽くさなければなりません。ですから、皆さんは、皆さんの一族の族長家庭にならなければなりません。これから故郷に帰り、真の祭物を捧げ、真の愛の種を植えて、希望の祖国が明けてくる、その日のために前進しなさいというのです。

 

 

 

17 真の父母様について知るべき時が来ました。真の父母様を知らなければ、伝統が分かりません。伝統をもてないのです。今や父母として、天の父母として、真の父母としてできる、歴史的な蕩減をすべて経てきました。先生は、世界的先祖の位置に立つためにこのようなことをしましたが、皆さんはそれぞれが氏族的先祖になるための伝統、それぞれの分野に該当する伝統を受け継ぐための道を行かなければなりません。

 

皆さんの氏族のために、そのような伝統を立てなければなりません。ですから、伝統が必要だというのです。

 

 

 

18 故郷に行き、どのようにすべきなのでしょうか。皆さんと一つになるようにしなければなりません。一つにする方法は簡単です。息子は、天の伝統を伝授する教師となり、「このようにしてこそ天国が成し遂げられる」という手本を見せてあげ、母親と父親はその村の母親と父親たちに、「こうすれば天国村になる」ということを見せてあげなければなりません。夫は妻を、妻は夫を互いに愛し、父母は子女を、子女は父母を愛する愛の家庭を教材として用い、伝授してあげればよいのです。

 

 

 

19 自分の故郷に行き、涙を流して精誠を尽くさなければなりません。今までは事実上、他郷暮らしでした。イスラエル民族がエジプトに行き、四百三十年間暮らしたのと同じように、私たちは四十三年間働いたので、故郷に帰って愛の根を下ろさなければなりません。神様を愛し、父母様を愛し、兄弟を愛さなければなりません。それで、世界的サタンが讒訴できる起源を断ち切ってしまわなければなりません。イスラエル民族はそれができなかったので、カナンの福地に理想天国を形成できなかったのです。ですから、サタン世界に何かを願ってはいけないというのです。ふろしき包みを背負って歩き回っているとしても、私たちが一番です。悪口を言われながらも歩き、夜には村の犬がほえるとしても、私たちが一番です。

 

 

 

20 皆さんは、真の父母様の前に真の子女の名分をもったので、相続権、同位権の賦与を受けることができます。このような天の特権的な事実を信じ、すべてのものを愛の圏内に投入しなければなりません。神様が投入したのと同じように、皆さんが完全に投入することによって一族が復活し、一族が復活することによって一国が復活するでしょう。ですから、故郷に行かなければならないのです。

 

 

 

21 故郷に帰った皆さんは、カナン福地に入ったイスラエル民族と同じなのですから、故郷に帰ってお金持ちの人を羨んではいけないのです。権力者を羨んではいけないのです。心を奪われてはいけないというのです。正しい教育をしなければなりません。神様を愛し、自分の後代を愛し、イスラエル圏である私たち民族を愛する伝統が第一です。

 

皆さんが子女を抱いて教会を出入りしながらも、彼らに影響されてはいけません。何千年ぶりに、何万年ぶりに故郷に帰ってきたという還故郷の喜びをもって、細胞と骨髄に響き渡る嗚咽とともに、血と涙でその地をぬらし、血と涙でぬれた神聖な地であるという名誉が天から降りてこなければなりません。そこから天国が始まるのです。

 

 

 

22 悲惨な人を愛するときには、子女たちから愛し、中年へと上がってくるのです。世の中の貧しい人の中には、良心的な人が多いのです。統一教会の家庭は、世の中で最も貧しい人を愛しなさいというのです。貧しい人が悪魔の世界にいるとしても、今後、そのような人の中から天運を受け継げる人が出てくると考えるのです。

 

 

本郷と祖国創建

 

23 皆さんが行くべき道は、どのような道でしょうか。歴史的な祖国解放のために、祖国光復の日を迎えるために、失った本郷の地を訪ねていく道です。その日を迎えるのは、古今東西を問わず、歴史的なすべての人の願いであり、文化の最高目的であり、人類の希望の中の希望なので、その日は必ず来なければなりません。その日が来なければ、人間の今までの苦労は無駄だったことになります。お金や倫理道徳というものは、すべて無効になります。

 

 

 

24 今までの人類は、本郷の地をもてなかったので、本郷の国をもつことができません。この地球星で今まで復帰摂理をしてこられた神様は、終わりの日に必ず再臨主をこの地上に送らなければなりません。再臨主は、この地に来なければなりませんが、来るときには、必ず本郷の地を探し求めるために来るでしょう。

 

それでは、本郷の地を求めて何をするのでしょうか。そこで本郷の兄弟を編成し、氏族、民族に接ぎ木する役事をして民族を編成し、それによって国家を編成して、のちにはこの世界を本郷の祖国として復帰しなければならないのです。

 

 

 

25 私たちは、祖国光復のために進みゆく群れなので、メシヤがこの地上に来れば、必ず審判をしなければなりません。審判は、誰を通してするのでしょうか。祭物的な立場に立って、残った群れを通してするのです。そのような過程を間違いなく経てくるので、統一教会の教会員は、三千里半島、もしくは三千万の民衆の前で、祭物になりなさいというのです。

 

どのような試練の途上においても、絶対にのみ込まれてはいけません。「悪の力がどれほどあろうとも、私たちが備えた理念と心情をくじくことができるのか。いくら抜きん出ていても、私たちが備えた志操を汚せるのか」というのです。ですから、本郷の地を訪ねていかなければなりません。本郷の地を求めるすべての民、本郷の地に行ったすべての一族であれば、その一族が集まって祖国創建をしなければなりません。本郷の地を探し出さなければならず、祖国を探し出さなければなりません。

 

 

 

26 私たちには祖国がありません。皆さんが暮らしている国は、皆さんの祖国ではありません。それは、神様が願わない堕落した子孫が生まれて形成された国なので、その国とはいずれ別れなければなりません。清算してしまわなければなりません。個人から家庭、氏族、民族、地上地獄から、霊界地獄から、霊界の楽園からこれをきれいに清算しなければ、本然の神様の本郷の地、本然の故郷が現れることができません。

 

終わりの日に、私たち個々人の信仰者が連合し、教派を越え、宗派を越え、国家を越えて、最後の神様のみ旨を知って結合した新しい人類となり、祖国光復をしなければなりません。一つの国を探し出し、その国の上に父母としてお迎えし、師としてお迎えし、王としてお迎えすべき方が神様です。

 

 

 

27 地上の人類は今、お金がなくて恨みがあるのではなく、その国の主様がなくて恨みがあるのではなく、その国の民と、その国の国上がなくて恨みがあるのではありません。心がうれしく、喜べる世界になれなかったことが恨めしいのです。この地は、心が喜べる地になっていません。心が喜べる地と、心が喜べる社会になっていないからです。心が喜べる社会と、心が喜べる地になっていれば、そうではないというのです。

 

 

 

28 滅びたいと思う金持ちがどこにいて、国を失いたいと思う人がどこにいて、滅びたいと思う人がいますか。人間は知らないことですが、大宇宙の力の原動力が作用する原則に一致しないときは壊れるのであり、一致するときは立てられるのです。それで、古くからずっと神様を、抽象的な存在のようではあっても、漠然と仰いできたのです。

 

私たちが生きている現世の人類が願うこととは何でしょうか。この世の中は、私たちが暮らせる本郷の地ではありません。ここは、平等、平和、幸福を謳歌する自由世界、解放の旗が永遠無窮に私たちの心と体になびく世界ではありません。神様が良心世界に力を強烈に吹き入れていたならば、このようにはならなかったはずなのに、なぜこのようになったのでしょうか。堕落したからであり、未完成だったからです。未完成段階で堕落し、故障したというのです。

 

 

 

29 統一教会の教会員は、今まで何をしたのでしょうか。社会のすべての圧政と迫害を受けながらも、それを越えてきました。越えていくとき、「私だけが越えるのではなく、家族を率いて越えていこう、私たちの氏族と三千万民族を率いて越えていこう」というのです。これが統一教会主義です。

 

それで、私たちは「嫌だ」と言う三千万を動かして「良い!」と言わせ、三千万が逃げていく所に行って、主人の役割を担おうというのです。すべて反対です。「あなたたちは食べて楽しむが、私たちは飢えても楽しむ。あなたたちは飛行機に乗って喜んでいるが、私たちは歩き回りながらも喜ぶ」というのです。私たちはそのようにしてきました。そのように進んで倒れることなく、この国が終わりを迎えて必ず解決する日が来るので、その時まで行ってみようというのです。真のものと、強いものは残ります。これは天則です。また、神様は、御自分の側のものを残すので、私たちは神側に入籍しなければなりません。

 

私たちは、この道を行こうとするとき、家庭が反対すれば、家庭を乗り越えていき、社会が反対すれば、社会を乗り越えていかなければなりません。必ず行かなければならない目的地は本郷の地です。

 

 

 

30 真の父母がいなければなりません。み旨を訪ねていく運動を教えてあげ、本郷の地でこの億兆蒼生の本然の真の父母を紹介してくれる宗教が出てこなければならないのです。全人類は、真の父母の子孫になれず、悪の父母の子孫になったので、再び神様が保障する真の父母の関係を結ばなければなりません。これを儒教、仏教、道教では天地父母と言います。真の父母と関係を結び、真の父母が立てた道の門を通りなさいというのです。

 

その次には、万民が真の兄弟になりなさいというのです。その父母の血肉を通し、その父母の心情と事情と願いが一致した場を通して、兄弟になるのです。その兄第の理念をもって出てくる人は、今までの世の中の血縁同士が、いくら仲が良く、幸福だとしても、真の父母の血肉の関係をつないでおけば、一気に解放されていくのです。その真の父母に会うときは、世の中の父母が問題ではありません。世の中の父母も、その父母を訪ねていかなければならないのです。訪ねなければ滅びるのです。

 

 

 

31 「私」の良心は、生きる道を知っています。かぐわしい香りを嗅げば、心がうれしくなります。それはなぜでしょうか。そのようにできているからです。「私」の心も同じです。私の心がうれしいというのは、既にその香りを嗅いでいるのと同じなのです。心が無性にうれしいのです。宣伝が必要ありません。行くだけでもうれしく、会わなければ会いたくなるのです。

 

そのため、今日、この世の中の嘆息圏内で「ああ、行きたい!」と切実に訴えるのです。知らず知らずのうちに心が行きたいと思うのです。その行きたいと思う所が本郷の地です。

 

なぜ行きたいと思うのでしょうか。「父母がいて、兄弟、親戚がいて、私の国があるので行きたい」と思うのです。「そこに私の福地、私の安息所がある」ので、行きたいのです。

 

 

 

32 神様は、万民が会いたいと思う方です。その方がいらっしゃる所は、万民が行きたいと思い、万民が一緒に住みたいと思う所です。幸福な所、理想の本郷は、どのような所でしょうか。行きたいと思う所です。そこには会いたい父母がいて、兄弟がいます。ですから、行って会い、永遠無窮に離れずに一緒に幸福を謳歌しながら暮らしたいというのです。そのような本郷の地を失った人間は、いずれにせよ、そこを訪ねていかなければなりません。

 

 

第四節 還故郷と氏族的メシヤ

 

 

天聖経  第九篇 目次 第二章 氏族的メシヤ

第四節 還故郷と氏族的メシヤ

 

 

 

1 私たちは、還故郷して真の故郷に帰っていかなければなりませんが、故郷とはどこでしょうか。真の故郷は、愛のある所です。故郷は、「私」の動脈の血が歴史と共に動く所です。私が成長するとき、その地方のすべての要素を吸収して大きくなったからです。私の細胞と共に、血と共に、心臓の鼓動と共に躍動する所です。愛の感情を抜き去ることのできない、深い内容が隠れている所が故郷です。故郷に行けば、誰を訪ねていくのでしょうか。故郷を訪ねるときは、父母の懐が慕わしくて訪ねていくのです。

 

 

真の故郷と先祖の役割

 

2 宗教は、人間が故郷を追求することに対して、多大な貢献をしました。天国に行こう、あるいは理想世界に行こう、極楽世界に行こうと言いますが、そこは私たちが暮らしているこのような所ではありません。私たちが永遠に暮らせる本郷の地です。正にこのような面において、宗教は本郷を追求することに貢献したのです。

 

それでは、そこは、どのような所でしょうか。すべての条件が備わっている所です。心と体が少しも不足を感じない完全無欠な所です。そこを人類は今、追求して進んでいるのです。しかし、いくら故郷に行くといっても、喜んでくれる人がいなければむなしいのです。

 

 

 

3 この地球星には、いまだ真の故郷が生まれていません。宗教的に見れば、そうなのです。真の故郷が生まれていないのです。ですから、真の故郷には真の父母がいなければなりません。真の故郷の家において主人になるべき方は真の父母であり、その真の父母は、真の男性と真の女性が、真の愛を柱として結ばれた夫婦を意味します。愛の柱に縛られて自分の思いどおりにできず、一生の間、それをつかんで暮らす父母がいなければなりません。そのような真の父母でなければなりません。真の父母がいて、真の愛で愛してこそ、真の息子、娘が出てくることができるのです。

 

 

 

4 堕落によって、天の側が次子の悲しみの立場に立ったので、人間たちのために長子権を回復させるのですが、神様の思いどおりにはできないのです。この氏族を世界個人的長子権復帰、世界家庭的長子権復帰、世界氏族的長子権復帰、世界民族的長子権復帰、世界国家的長子権復帰、世界的長子権復帰をしてこそ、堕落していないエデンの園においてサタンの讒訴圏を抜け出した本然の家庭出発が始まるのです。これを見れば、私たちは故郷を失った民です。故郷を失った民が、故郷を訪ねて帰るのですが、これほど難しいとは思いもしなかったというのです。

 

 

 

5 蕩減復帰路程において、メシヤが来てすべきこととは何でしょうか。世界史的な蕩減基準を越えたところから、アダムの堕落圏以上のところから神様の摂理が出発するようになっているのであって、アダムが堕落した以下のところから神様の摂理が出発することはできないのです。今まで故郷に帰れる道が、アダムの堕落によって塞がっていたので、故郷に帰ろうとすれば、アダムの代身者が来て、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界的な蕩減条件を設定しなければなりません。そのようにしなければ、帰ることができないのです。

 

 

 

6 今までは、サタンが故郷を占領し、主人の振る舞いをしながら私たちを追い出したのですが、今からは皆さんが故郷に行くので、皆さんがサタンを追い出さなければなりません。それは自動的です。そのようになれば、善の霊たちが皆さんの故郷に来て守るのです。悪の霊をすべて打ってしまうのです。それが原理観であり、先生の観です。これは歴史に記録されることです。先生は、世界に還故郷を宣布できるその時を見つめて歩んできました。父母が霊界に逝かれたことを思えば、言葉を失います。しかし、皆さんの故郷で皆さんの数多くの親戚が、私の母、父、兄弟の代わりに解放されることを思いながら、そのことを忘れて祝福してあげるのです。

 

 

 

7 祝福家庭は杖と同じです。世界的な死亡の世界を渡っていける橋であり、そのような道に導く杖です。家庭がそうなのです。皆さんが伝道に行くべき所は故郷です。故郷に帰りなさい、還故郷せよというのです。皆さんは、先生よりも福のある立場にいます。先生は、いまだに故郷に行けません。先生の故郷は北朝鮮なので、国家が統一されるまでは故郷に行けないのです。橋を渡れません。還故郷できないというのです。しかし、皆さんは、還故郷できるではないかというのです。愛する父母、妻子、兄弟を抱きかかえて、涙を流しながら痛哭することができ、永遠に滅びざるを得ない民族を心配する立場で、自分の父母、兄弟を抱きかかえて痛哭の涙を流し、彼らを感動させられる環境をもっているではないかというのです。

 

 

 

8 今は、統一教会の歓迎時代です。昔、父母が「こいつ!家庭を滅ぼし、村を滅ぼし、国を滅ぼして逃げ出したやつめ!」と言ったのは、サタンの代弁をした言葉だったというのです。神様の名によって勝利の盾をもち、還故郷する皆さんは、昔とは違います。その村が歓迎することができ、大韓民国が歓迎することができ、世界が歓迎できる時代に入ったので、皆さんの村は、すべて歓迎しなければなりません。

 

それでは、どこで団結するのですか。真の父母様を慕い、父母様を愛し、真の父母様のみ旨を解怨成就するために、歴史をかけて涙と血と汗をすべて捧げ、本然の基準に和合し、神様の愛の花を咲かせられる自分自身を探し出そうという皆さんですが、どこでその花を咲かせるのですか。これが問題です。

 

 

 

9 神様の心情を知り、先生の心情を知らなければなりません。皆さんが故郷の村に入り、この心情圏を再び植えなければなりません。蕩減ではありません。過去は、蕩減して流れていってしまいました。今は、真のもので植えなければならないというのです。父母様の故郷を訪ねていく前に、皆さんの故郷を先に訪ねることができる恵沢を受けているという事実を知らなければなりません。

 

先生は、一段階、高い位置に行かなければなりません。南北を統一して故郷に帰らなければなりません。皆さんは、子女の立場なので一段階低いのです。父母様が歴史時代の個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的蕩減路程を歩みながら、とめどない涙と血と汗を流してきたすべての事実を、父母様の代わりに背負い、父母様が北朝鮮の地に入って天のみ前に勝利と感謝を捧げる心情を身代わりし、皆さんの故郷の地を父母様の代わりに涙でぬらし、血と汗でぬらさなければならない責任が残っているのです。

 

 

 

10 イエス様は、「預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである(ルカ四・二四)と言いました。ところが統一教会の先生は、皆さんに、どこへ行きなさいと言いましたか。故郷に行って先祖になりなさいというのです。そのような歴史はありませんでした。聖書にそのような教えはありません。

 

故郷では歓迎されないとあるのに、「今はもう故郷で歓迎を受ける時が来た」と語るのです。それは、先生のみ言であり、間違いなく天の経綸の中で現れるべき言葉です。ですから、故郷に行きなさいというのです。

 

 

 

11 エデンの園で、神様は、アダムとエバを健やかに育て、成熟したその場で、「お前は私の永遠の家である。お前の家庭は、千年、万年、全世界に砂粒のように満ちあふれ、天の星のように広がるだろう」と言われたでしょう。

 

その中で、どこであってもためらうことなく、血統に従って共に暮らすことができる土台だと言える希望の基台が断たれてしまったのです。それを連結させなければなりません。連結させて戻っていくには、どこに戻るのでしょうか。アダムとエバが堕落して悪い種を蒔き、偽りの根が出てきました。偽りの先祖が出発したのです。ですから、皆さんを追い込んで、真の先祖の位置にもっていき、植えなければなりません。それで、還故郷しなければならないのです。

 

堕落によって偽りの根が生じました。本然の心情ではありません。本然の心情に背くサタン的な根を片づけて抜いてしまい、これを腐らせてしまわなければなりません。腐った根の上に真の種を植え、本然の故郷の地の上に新しい心情圏が芽生えなければなりません。真の父母と真の神様の愛が皆さんの家庭から、金氏であれば金氏、文氏であれば文氏、皆さんの村と家から、新たに出発しなければなりません。ですから、還故郷をしなければならないというのです。

 

 

 

12 故郷に帰らなければなりません。今や、サタン世界から長子権を復帰されなければなりません。皆さんは、真の愛を伝授され、故郷に帰って真の父母様の伝統を植えなければなりません。そのようにすることによって神様が共にあり、神様のすべての相続権が万民に祝福となり、万福が横的に宿る福のある韓国の地になるというのです。

 

 

 

13 摂理のみ旨と一致する氏族的メシヤの使命を心情を中心として果たせば、誰も抜くことはできません。先生がすべて打ち込んでおいたからです。氏族的メシヤを先生が打ち込んでおいたので、抜く者がいません。ですから、統一教会で祝福を受けた人たちは、故郷に帰りなさいというのです。先生の代わりにすべてのものを捨て、故郷に行かなければなりません。

 

これから皆さんは、故郷の水を飲まなければならず、故郷で生産する米を炊いた御飯を食べ、そこで暮らしながら精誠を尽くさなければなりません。先生が世界的勝利の基盤を築いたのであれば、皆さんは氏族的勝利の基盤を築かなければならないのです。皆さんは何ももっていてはいけません。モーセの時代と同じです。皆さんの一族を身一つで訪ねていき、養っていこうと考えなければなりません。先祖にならなければならないのです。

 

 

還故郷の深い意味

 

14 世の中は、故郷を失った世界です。故郷を失った民の世界版図となったこの人類を、どのようにまとめて帰郷させるのでしょうか。これを御存じの神様がメシヤをこの地に送り、故郷を失った民を帰郷させるのが天の摂理です。帰郷したのちには、宗教でも何でも、すべて必要ありません。父母を愛し、慕いながら涙を流すのが礼拝の中の礼拝であり、すべてのみ旨の完成です。

 

千万回の天地開闢があるとしても、祖父、祖母、母、父、息子、娘の三代が一つになって金城鉄壁のように固く団結し、そこに神様を核として迎えれば、私たちがいる所は、どこであっても天国を実現できる一つの種になるのです。そのような存在になるのです。これは、神様の愛の種、神様の生命の種であり、血統の根源だと言えるのです。これを探し求めていかなければなりません。そのようにしなければ、地上天国、平和の天国、幸福と自由の世界という願いはあり得ません。

 

 

 

15 統一教会は、神様を知ったので、打たれて復帰してくる作戦をするのです。今はもう長子権復帰をしたので、反対に適用する時が来ました。

 

どの家にでも入っていって、「あなたは、真の父母の歴史を知っていますか。聞いてください」と言わなければなりません。真の父母の歴史には、夫婦が二人で座って開けば、痛哭する事情があるのです。皆さんには、氏族的メシヤとして故郷を天国基地に入籍させる責任があるので、「還故郷しなさい」と言ったのです。

 

 

 

16 アダムとエバは、堕落せずに、サタンのいない場で神様と愛の関係を結ばなければならないのですが、それを結べなかったので、初めてこれを条件的に立てました。それを基準として拡大すれば、それが大きくなります。そのような条件を立てたので、先生は皆さんに、「故郷に帰りなさい」と言うのです。父母様が勝利の主権をもったので、皆さんはカナン復帰をしなければなりません。

 

エジプト世界から故郷に帰ってきて、永遠に豊かに暮らせる幸福な家庭をつくり、新しい氏族を編成して国に接ぎ木しなければならないというのです。ですから、故郷に帰らなければなりません。宗教の歴史に、故郷から出てきなさいという言葉や出家しなさいという言葉はありましたが、このように「故郷に帰りなさい」という言葉はなかったのです。

 

 

 

17 堕落した世界を救うということ、宗教をつくって救援摂理を行うということは、新たに帰っていくためのものです。救援摂理歴史は、復帰歴史です。復帰歴史は、再創造歴史です。神様の人間創造は、根本的に愛を投入するその世界から始まりました。黙ってそれをすることによって、その家の愛の女王になり、愛の王になるのです。彼らのために、皆さんが先祖になりなさいというのです。

 

今まで宗教世界に、国を離れ、家を離れなさいという言葉や出家という言葉はありましたが、「還故郷」という言葉はありませんでした。故郷に帰って困難をすべて背負い、新しい社会を建設しなさいというのです。そこでは天地が支援するのです。滅びません。

 

 

 

18 「還故郷しなさい」という言葉は、福のある言葉です。イスラエル民族がカナンの福地に帰っても、そこは故郷の地ではありません。そこには、闘うべき未来の世界的版図が残っているのです。世界版図圏を越えて、今や故郷に帰り、南北を中心として統一した位置にいれば、私を追い出せる人など誰もいません。万国が入ってきて侍り、万民があがめる位置です。

 

神様に侍ることのできる驚くべき立場であるにもかかわらず、これを無視する人々はどこに行くでしょうか。滅びなければなりません。ですから、教えてあげたことを骨髄の奥深くに刻みつけ、あすの行動を考えなければなりません。

 

これからは、横的な行動ではなく、縦的な度数を合わせていきながら行動しなければなりません。この縦的基点に対して九〇度でなければならず、どこかに立つときは、平行線に立った神様の代身者として行動できる人にならなければ、天の国に残ることができません。

 

 

 

19 故郷に帰ることができなかった人々が、故郷に帰ってもよいという許しを受けて、その日を自分が迎えたというとき、どれほどうれしいでしょうか。「明洞に二十階建てのビルを買ったので、もう私は故郷だとか何だとか、そのようなものは嫌だ!」と言っていては、千年、万年、子孫に恨みを継承して、その胸に大きな釘を打ち込む悪党の群れになるのです。

 

アダムとエバが誤ったことに対して、今まで恨みに思わなかった人類の子孫が、この地のどこにいるでしょうか。たった一つのビルを手にして、故郷を売り飛ばすのですか。そのようなことをしては、逆族の息子になり、千年、万年恨みを抱いて、行こうにも行けず、同情票を得ようにも得られず、どこにも足の置き場がない人になってしまうのです。

 

 

 

20 昔、イスラエル民族がカナン復帰をするときは、乞食の群れとして入っていきました。四十年間、荒野で毎日のように飢え、マナとうずらだけを食べたのですから、みすぼらしい姿だったでしょう。顔を見て、姿を見れば、今にも死にそうな人々だというのです。

 

それで、カナン七族の中で裕福に暮らす家を見て、「あの人たちと結婚すれば良いな。いいものを食べたい」と思ったのです。心を奪われたというのです。反対するとき、心を奪われたのです。

 

皆さんがこれから還故郷するときは、心を奪われてはいけません。カナン七族を屈服させ、自由に結束させられる自由環境を開拓し、メシヤとして主人の役割を担いなさいというのです。

 

 

 

21 先生は、皆さんに仕事をさせるとき、誓わせたのちにさせます。誓ったならば実践しなければなりません。先生は、それ以上にやりました。氏族的メシヤだけでなく、国家的、世界的メシヤの責任を今、行っているのです。先生が世界的メシヤであれば、皆さんは「国家的メシヤになろう」と言ってこそ希望があるのであって、「氏族的メシヤにもなれない」と言ってはいけないのです。

 

 

 

22 還故郷できる秘法の内容は、第一に、神様と絶対的に一つになった真の愛です。第二に、その真の愛と絶対に一つになった生命です。第三に、その生命と絶対に一つになった血統です。氏族的メシヤが故郷に帰っていくには、愛をもたなければなりません。

 

統一教会の祝福を受けた家庭は、エバの立場にいます。ここでは、争わない自分の息子、娘を抱いて救いに行くのです。アダム家庭が堕落し、氏族が誤って繁栄したものを、氏族的メシヤの責任をもって救いに行くのです。その息子、娘を前に立て、父が後ろに立たなければ、父の行く道がありません。天の国にある新しい生命の種を受け継ぐことができません。家庭の愛、家庭の生命、家庭の血統基盤はできていますが、氏族的神様の愛、神様の生命、神様の血統はできていません。これを連結しなければなりません。それさえすれば、先生が中央に立っているので、接ぎ木できるのです。

 

 

 

23 還故郷するのに、どこに行くのでしょうか。還故国ではありません。還故郷です。還故家です。自分の本家に帰っていくのです。人類歴史を考えるとき、還故郷の本家はどこでしょうか。還故郷は、堕落したアダムとエバを基準とするのではありません。私たちのする還故郷は、堕落していない本然的完成アダムとエバの故郷を意味するのです。そこには神様がいらっしゃるのです。

 

 

第一節 教会長の使命と責任

 

 

天聖経  第九篇 目次 第三章 教会長の道

 第一節 教会長の使命と責任

 

1          祭司長として祭物を捧げ、祭事を行うのに、人が集まらなければ、それは祭司長の責任です。「私」が代わりに涙を流しながら、私を打ってこの民を赦してくだ さいと祈らなければなりません。「私に罪が多いので人が来ないのだ」と考え、民族のため、国のために、自分の罪を悔い改めなければなりません。皆さんが祈 る場所が床であれば、その床が乾かず、二十四時間、涙でぬれていなければなりません。そうすれば、神様が伝道すべき人を見せてくれるのです。

 

して、皆さんの前に訪ねてくる人を、王様のように侍らなければなりません。私が僕となって侍らなければならないのです。罪人が罪を脱ごうというのですか ら、仕方がありません。王様のように侍れば侍るほど、皆さんの蕩減は減るのです。私が下に下りていって罪のある人に天のごとく侍ったので、その間に蕩減条 件がたくさん立てられるのです。

 

 

 

2          祭司長一族は、カインが養わなければなりません。贖罪を受けるために捧げる祭物は、贖罪を受ける人々が捧げるのです。祭物は、カインを贖罪してあげるため の物なので、カイン側からアベルに祭物を捧げ、養わなければならないのです。カインがアベルを養う代わりに、アベルは生命を捧げるのです。物質的なものを 基準とするカインと人を基準とするアベルが、ここで一つになるのです。それによって、復帰の土台が築かれるのです。イスラエル民族を代表した祭司長たち は、アベルの立場なので、カインを復帰するための苦労の代価を支払い、カインを取り分として手にするのです。物質を手にするのではなく、人であるカインを 手にするのです。

 

 

 

3          祭壇を設けるためには、祭司長が責任を果たさなければなりません。祭司長の責任を果たそうとすれば、祭司長がいなければなりません。祭司長がいないのに祭壇を設けてはならないというのです。

 

祭司長になろうとすれば、どのようにすべきでしょうか。世の中において、神様が愛する、祝福を受けた一族にならなければなりません。そうでなければならないのです。それがレビ族です。祭司長は、誰でもなれるのではありません。

 

レビ族は、自分が所有する取り分がありません。彼らの所有は聖殿しかありません。聖殿の中には祭壇があります。そして、祭壇があると同時に祭壇の上に祭物があります。祭物を祭事に捧げ、贖罪の恵沢を民に与えたのちに、祭物を自分の取り分として取るしかないというのです。

 

 

 

4          統一教会は、どのようにすべきでしょうか。現在の統一教会自体は、レビ族のような立場に立たなければなりません。そのようにするためには、私たちに所有物 があってはいけません。レビ族の立場に立てば祭司長になります。祭司長になって、聖殿をもたなけれぼなりません。聖殿をもったのちには、祭壇をもたなけれ ばなりません。また、祭壇を準備したなら、祭物を捧げなければなりません。

 

神様がこの地の人類を救うために、昔は羊と牛を捕まえて祭物とし て捧げさせたのですが、最後には、自分の最も愛する息子(イエス)を祭物として捧げさせたのです。最も愛する、一番貴い祭物とは何でしょうか。自分自身で す。ですから、自分を生きた祭物として捧げなさいというのです。

 

 

 

5          責任者自身を見れぼ、いつも幸福な人ではありません。不幸な人です。なぜ不幸な人なのでしょうか。いつでも負債を感じるからです。ただ「私が食口によくし てあげなければ」と言いながら、いつでも負債を負っているという思いをもたなければなりません。かわいそうな人を見れば、その人の生命を心配し、夜を徹し て話をしてあげなければなりません。

 

その人が死ぬかもしれない立場にいれば、自分が犠牲になってその人の死の道を塞いであげなければならな いのが、霊的指導者の責任です。そのような立場に立たなければなりません。それは、どれほど食口のために生きる立場に立ったかという意味です。どれほどた めに生きたかというのです。その人は、他人ではなく、自分の延長になるのです。自分の枝になります。枝が伸びようとすれば、しっかり保護してあげなければ なりません。

 

 

 

6          伝道をすれば、信仰の息子、娘だと言いますが、それは自分の枝なのです。その枝にどれだけ補給しようと、夜も昼もなく努力しましたか。そのようにしようと すれば、「私」が幹や根にならなければなりません。根になっていれば、その幹、もしくは枝が多ければ多いほど、その幹と枝が必要とする栄養素を地から、私 自身が休むことなく、その要求する以上に補給できる余裕がなければなりません。それでこそ大きくなるのです。

 

上からは栄養素を求めているの に、限界線があってそれを補給できなくなれば、上は枯れて死んでしまうのです。底辺に、生命の感謝と生命の潤沢さがいつも湧き出るように流れるその何か が、自分自身になければなりません。苦痛ですが、平和で安息できる住み家のような、生命が宿る安息所を自分の心にしまっておかなければなりません。そうす れば、神様が共にいらっしゃるのです。

 

 

 

7          責任が重要です。しかし、皆さんは、時代的責任だけでなく、歴史的責任を背負っているという事実を感じられないまま生きています。「私の先祖が私にかかっ ており、この時代の一族が私にかかっており、これからの子孫が私にかかっている」ということを感じなければなりません。

 

ですから、霊的指導 者がその責務を果たすにおいては、自由な心をもてません。四面楚歌のような立場で、一つの道だけをもって生きるのが、霊的指導者の責務なのです。一つの道 というのは何でしょうか。心情の道、孝行の道理を教える道以外には、行く道がありません。御飯を食べても、眠っても、その心情に徹しなければなりません。 そのようにすれば発展するのです。

 

 

 

8          先生は、食口が慕わしくて泣くときがどれほど多くあるか分かりません。神様が今まで、真の息子、娘を探し出すためにそのように涙を流したのです。人が現れ れば、「献金をいくらするだろうか」と言いながらお金のことを考えてはいけません。それはバリサイ人が見る観点です。そのような人は絶対に発展できないと いうのです。お金よりも、人を愛さなければなりません。人を愛せば、お金は自然についてくるのです。ところが、逆さまに考えているというのです。

 

た、顔立ちが良くて若い人なら伝道するというのですが、とんでもないことです!教会は家庭の延長です。祖母、祖父がいなければならず、叔母、叔父がいなけ ればならず、若い人もいなければなりません。統一教会に若い人だけがいるとすれば、これは病弊です。これを早く正さなければなりません。

 

 

 

9          霊的指導者は、何か良いものがあれば、それが共同の利益になるようにしなければなりません。良いものを迎えた環境に、また良いものを加えなければなりませ ん。続けて良いものを加えてあげられる立場にいなければならないのです。このようなことを考えてみるとき、神様がどれほどかわいそうな方かというのです。

 

さんが世界的に有名な霊的指導者の位置にいる人たちに、「幸せを感じるか」と尋ねてみれば、「真の幸福を感じることはできない」という答えが返ってくるで しょう。彼らは、いつも与えなければなりません。また、向き合う人は多くの層からなっています。多くの種類の人々です。そのため、一つの方面だけのために 与えてはいけないのです。全体のために与えなければなりません。常にすべてのものを与えることができなくなれば、問題が生じるのです。

 

 

 

10        復帰摂理に責任をもってきた神様は、最もかわいそうな方です。人々は、受ければ受けたものだけで満足しません。受ければ、もっと受けたいと思うのです。ど こから受けたいと思うのでしょうか。ある中心存在を通して受けたいと思うのです。ですから、今後ついてくる人々が、すべて受けることばかりを願う人々にな れば、神様も困ります。愛であれば愛を、もしくは貴いものであれば貴いものを自分のものにしようとすれば、本当に困るというのです。

 

それで 神様は、信じるのも自分のために信じるのではなく、相対のために信じなければならず、順応するのも自分のために順応するのではなく、相対のために順応し、 愛するのも自分のために愛するのではなく、相対のために愛しなさいという、相対に対する意識を強化せざるを得ないのです。ですから、私たちは、このような 公的な基準で信じなければならず、公的な基準でために生きなければならず、公的な基準で愛さなければなりません。このような公的な基準を立てなけれぼなり ません。このような公的なものを自分と結びつけようとすれば、より公的な自分にならなければならないのです。

 

 

 

11     責任者の使命は、み言を伝えて蒔くことだけではなく、刈り入れることです。み言を伝えるのは蒔くことであり、蒔いて刈り入れなければならないのが責任者の 使命です。言うなれば、生えた芽に水をやって手入れをし、除草作業もして花を咲かせ、実を結ぶようにしなければなりません。これがある期間が過ぎて完全に 熟し、収穫するときに、初めて責任者としての使命を完結するのです。

 

ところが、他の人が植えておいたものを、新しい責任者が再び植えようと してはいけません。これをよく手入れをしてあげなければならないのです。たとえ他の人が植えたとしても、よく育てて収穫すれば、それは天の倉庫に入るので す。しかし、このようなことを考えず、過去の指導者の性格やその人に対する全体的な指導方法を把握することもしないで、自分のものを再び植えるので、死ん でしまうのです。それではいけません。

 

 

 

12        主流は、どこまでも教会活動をする人です。教会を受け持っている人は、イスラエル民族のレビ族と同じです。レビ族には取り分がありませんでした。牧師に誰 が月給をあげるのでしょうか。教会員が月給をあげなければなりません。教会長が自分の生計をつないでいくためには、教会員の前でそれ以上の祭物にならなけ ればなりません。教会員が喜んで、自分の食べる御飯までもってきて、おかずまでもってくるほどに犠牲の祭物にならなければならないというのです。これが教 会長の行くべき道です。それが、先生が天道を通して知った法度です。

 

 

 

13        天は、皆さんを基盤として、環境を再び変革させるべき責任を願うしかありません。そのため、公職にある統一教会の教会員は、涙とともに復帰の心情をもち、 すべての部署でこのような運動を提示して、国家運動から世界運動まで展開しなければ、自ら涙を流したこの世界を天の国に転換させられる道がありません。

 

一教会の人間、本当の食口は、涙を流す人であり、本当の責任者もまた、涙を流す人です。涙で堕落したので、涙によって復帰しなければなりません。自分を中 心として泣くのではなく、神様を中心として、人類のために公的な涙をたくさん流さなければなりません。そのような涙を多く流した人であるほど、天の心情圏 内に近いというのです。

 

 

 

14        信仰の道は、自分なりに判断した道、自分が望む道に行ってはいけません。信仰の道は、霊界に行っている数多くの宗教の指導者と関係を結び、高い段階に一つ ずつ上がっていかなければなりません。ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、この三弟子以上の位置に進んでこそ、イエス様と関係を結べるのです。それは、皆さんが自分 よりも位の高い人に会ったとき、その位の高い人に自分を直接紹介するのが失礼になるのと同じです。

 

このように考えてみるとき、皆さんは、自 分が信仰生活をするに当たって、どのような道が早く栄光に接する道かということを知らなければなりません。それは、ある宗教の道に責任をもって歩んだ人々 の道を、自らが探し出して、その道に従っていかなければならないということです。

 

 

 

15        私たちの平面的生活において、教会に行くとき、教会には必ず指導者がいます。教会の指導者は、自分の目的を達成しようとする人ではありません。もしそのよ うな人がいれば、その人は指導者になれません。指導者には、中間の橋渡しの役割を果たす責任があるので、訪ねてくる教会員のために与えなければなりませ ん。教会の指導者は、教会員のためにいるのですから、神様のみ旨を中心として、教会員の精神的な問題や生命の問題までも責任をもっているのです。

 

の指導者は、自分が責任をもった分野を中心として教会員を指導するのです。そうすれば、神様がその人を見てその人が高い位置にいるとき、教会員がその人と 一つになれば、教会員も高い位置に進めるのです。その人が「私」の代わりに精誠を捧げてくれ、その人が私の代わりに私の罪を贖罪するために祈ってくれれ ば、私はその人の祈りによって、その人が立った位置に同参できるのです。人々が、恵みを受けた人の祈りを受けたいという理由がここにあります。このように 橋を架けて訪ねていくのです。終わりの日になればなるほど、霊的な世界の内情が地上に現れるときになるので、宗教指導者の中には天の役事を直接行う人もた くさん現れるのです。

 

 

 

16     今日の人々は、人間に対してあまりにも無関心です。横的開係を中心として互いに尊重することが少ないのです。老若男女を問わず、人に対して煩わしく思って います。人を煩わしく思うようになれば、修養の道を行く人にはなれません。神様が復帰摂理をするとき、大韓民国だけを必要とするのではありません。世界の 全人類をすべて必要とします。ですから、人に対する深い関心をもっのです。これは今まで、神様の摂理の中で最も重要な目標でした。私たちがその目標を達成 するために集まった群れであるとすれば、すべての人に対して神様と同じ立場で関心をもち、向き合うことができなけれぼなりません。表向きだけそのようにす るのではなく、本心からにじみ出る思いをもって向き合うとき、縁の中の最高の縁が結実する場に立っことができ、関係を結ぶにおいても最高の関係を結ぶ場に 立つことができるのです。

 

 

第2節 教会長の公的生活

 

 

天聖経  第九篇 目次 第三章 教会長の道

第二節 教会長の公的生活

 

1 先生は、朝の敬礼時間に少しだけ遅れても、その日は一日中、顔を上げて歩くことができません。先生はそのような生活をしています。その日一日、その一週間ずっと、心が落ち着かないのです。そのときは、その次の週に早く起きて十倍、百倍の精誠を捧げ、先週の過ちを蕩減するのです。このように条件を立ててこそ、心が平安です。先生はこのように生きています。ですから、どれほどかわいそうでしょうか。

 

先生が皆さんに話をするときの姿は立派に見えるかもしれませんが、そのために何週間、もしくは何ヵ月間、否応なく拘束される生活をしているのです。これが私的な生活ですか、公的な生活ですか。公的な生活だというのです。この宗教指導者の立場がどれだけ大変な立場か、皆さんは分かりません。

 

 

 

2 先生が生きているときは、先生の歴史を書きませんが、先生が死んだのちには先生の歴史を書くでしょう。ですから、原理に公認されないことをしたならば、大変なことになるのです。なぜこのように生きたのかということを裏づけられる原理的内容があるかどうかが問題です。これがもしも間違えば、今まで成し遂げられたものをすべて失うことになるでしょう。ですから、責任者は難しいというのです。

 

責任者は、いくら疲れても、先に横になるのではありません。皆を寝かせてから横にならなければなりません。祈りを、するときも最後までしなければならず、信仰生活をするにおいても、食べられず、着られず、貧しく暮らしながら精誠を尽くす立場が責任者の位置です。そのようにすれば、「滅びよ」と言っても滅ぶことができないのです。

 

 

公義の道

 

3 皆さんは、箸を持って御飯を食べるときも、この食べることが公的か、私的かを考えなければなりません。大韓民国の三千万の民族のために御飯を食べ、世界人類のために御飯を食べなければなりません。大韓民国のための世界をつくろうとすれば、大韓民国は滅びます。アメリカのための世界をつくろうとすれば、アメリカは滅びます。世界のためのアメリカになってこそ、栄えるのです。

 

 

 

4 今日の堕落した世の中で交わす直接的な関係の愛と、神様を中心とした間接的な関係の愛のうち、どちらが高くなければなりませんか。世の中を中心とした直接的愛より、神様を中心とする間接的な愛によって立てられた私たちの基準が低くてはいけません。もし低いというときは、高めなければならないのです。ですから、このような関係が広がるようになれば、誰もがこの場を慕わざるを得ず、この関係を尊重せざるを得ないのです。

 

それでは、ここで私たちは何をすべきであり、何を学ぶべきでしょうか。人類を愛する方法を学ばなければなりません。今日、私たちは、この世的に見れば天との縁もなく、関係を結んでいないかのように見えるかもしれませんが、神様を中心として絆が結ばれた私たちとしては、神様が人類を愛したいと思うその愛を実現させなければならないのです。

 

 

 

5 皆さん自身が、食口という名のもとで互いを愛するその愛が、民族を愛する以上の愛にならなければならず、さらには世界を愛する以上の愛にならなければなりません。世界的な愛の土台と環境を築く立場で愛さなければならないという意味です。

 

このような点で、皆さんが一食口の生命をどれほど尊重するかが重要です。食口一人をどれほど貴く思うかが問題です。堕落した世の中でも、困難なことがあるときは、自分のすべてのものを捧げて協助するのに、私たちがそれ以上の関係に発展しないとすれば、今後、堕落した世の中に吸収されてしまうでしょう。神様が何よりも願う人間との関係を、広げる足場になれないというのです。

 

 

 

6 教会の責任者は、はっきりとした思想が立っていなければなりません。そうでなければ、全体に及ぼす影響が大きいのです。企業体や教会に責任をもった人々は、いつでも公的な心、すなわち愛の心をもって、神様が立てた関係の中で愛することができなければなりません。公的法度に従って、自分に尽くすように食口のために尽くさなければなりません。また責任者の立場で、自分が自らを認める以上に、自分に属したすべての人を愛さなければなりません。その基準が今日、サタン世界のどのような関係よりも高くなければならないのです。そのようにならなければ、私たちが願う天国は成し遂げられません。

 

 

 

7 教会に三回だけでも来なくなれば問題が生じ始めます。一週間来ないで、二週間来ないで、三週問続けて来なければ、よそよそしくなってしまいます。心の中の思いを言えず、うそを言うようになります。このようなことが繰り返されれば、教会からだんだんと遠ざかり、そのうちに完全に離れていくのです。このように、伝道はしましたが、その後の収拾方法において欠如した活動体制を備えてきたため、多くの人を犠牲にしました。ですから、原理講義をして関係を結ぶことよりも、関係を結んだ人が実を結ぶようにするのが、私たちの責任です。

 

 

 

8 公的な責任者は、どのような立場に立つべきかという問題が重要です。天は最高の位置です。イエス様は、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)と言いましたが、これはイエス様が最高の位置について語ったのです。このような最高の位置で愛そうとし、関係を結ぼうとするのが天です。

 

それでは、皆さん自身が多くの人の前で神様を紹介しようと進み出るとき、どのようにしなければなりませんか。まず皆さんが人に接するとき、機嫌が悪くてはいけません。その人の身なりは特別立派なわけでもなく、特別ひどいわけでもなく、普通なのですが、不思議と「私の兄、姉のようだ」と感じるときがあり、その人が横に振り返るのを見れば、「どこかで見た人だ」という気持ちになるときが時々あるでしょう。このような人は、間違いなく縁のある人です。

 

 

 

9 皆さんが伝道をするとき、どれほど生命を重要視しながらしてみたか、ということを反省しなければなりません。医者には、自分がどこか痛くても、体の悪い人が訪問してくれば、その人のために治してあげなければならない責任があるのです。もし、その病気が「私」にしか治せないとすれば、そして手術をしなければならないのであれば、メスを執り、自分の痛みを忘れて、何時間でもその人のために自分の医術を投入するのが、医者の道理です。

 

そのような医者は、医者の中の真の医者だと言えます。もし、手術を終えるやいなやその医者が死んだとすれば、その医者は、医者として真の生涯を終えた人だと言えるのです。もしそのようにして病気が治った人がいるならば、その人は一生の間、その恩徳を忘れることができず、その事実を遺言にしてまで、自分の子孫に残そうとするでしょう。

 

 

 

10 時代の責任者は、自分が優れていると考えてはいけません。多くの先祖の功績と犠牲の代価によって、その場にいるという事実を知らなければなりません。自分が優れていて、自分が堂々としているからと言って多くの人のものを手にするのではなく、より大衆のために歩むことができる主権者の姿勢をもたなければなりません。党を中心とした国家ではなく、国家を中心とした党でなければなりません。

 

統一教会は、統一教会を中心とするのではなく、国家を救うための統一教会なのです。世界を自分のものにするための統一教会ではなく、世界を生かすための統一教会にならなければなりません。このようになるときは、いつも天が共にあるのです。ですから、責任者たちは、この伝統を理解して仕事をしなければなりません。責任者になった人たちは、自分が優れていてこの位置に上がってきたと考えてはいけないというのです。

 

 

 

11 人間が生きる世界には、法がなければなりません。法を中心としてすべてのものが左右に分かれるのです。それと同様に、神様を中心としたこの宇宙は、何の法を中心として分かれるのでしょうか。公義の法です。公的な法です。公義の法を中心として、善か悪かという問題が分かれます。

 

一つの家庭を中心として見てみれば、家庭にも法があります。その家庭の公的な基準を中心として、公と私を分別していくのです。家庭においてもやはり、家庭の公義の法、公的な法を中心として、良いか、悪いかという問題をえり分けます。父母は、その家庭のすべての公的な法を司る責任者です。その家庭が進むべきその法に背くことを行うのではなく、背いたすべてのものを処理できる責任を背負っているのです。そのため父母が誤れば、その家庭は全体が引っ掛かっていきます。社会においても、会社なら会社、団体なら団体でも同じことです。そこには、必ず法があるのですが、その責任者を中心として公的か、私的か、もしくは善か、悪かという問題が連結されていくのです。

 

 

 

12 責任者は、どこまでも公的な責任、その部署に対する全体の責任をもち、法を立てて進むことができ、法の代表となって、法の標準に合わせて実践できる主体となり、その団体の人々が善の道に行くか、悪の道に行くかということを選別してあげなければなりません。国も同じです。国の主権者がいれば、その主権者は、その国の公的な法を中心として、法のすべての責任をもった主体者として、行動面やすべての面において内外に完全に備えなければなりません。それで、法で治めることのできる責任者の立場で、公義の法度を立てるために責任を果たし、任せられた責任を遂行できるように国民全体の前に影響を及ぼせる立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、公的な法を中心として見るとき、その主権者は国家全体を代表できる主権者になれないというのです。

 

 

 

13 世界は、必ず公法に従い、中心者と共に、その中心者の公的な理念と共に、一つになれる道に従っています。単に人間世界と宇宙だけでなく、天の国もやはり、同じ法に従っていくというのです。そのため、神様御自身がいくら公的な立場に立っているとしても、思いどおりにはできません。法を立てたのであれば、その法を中心として、その法の目的を達成できる公的な義務と責任を果たすことによって、自分の位置が強固になるのです。

 

公的なそのすべての法を無視して一体にならない立場では、神様の権限を行使できません。それは、家庭の法でも、社会の法でも、国家の法でも同じです。

 

 

 

14 精誠を捧げながら稼いだお金をどろぼうし、それを当然自分がもらうべきお金としてもらおうと考えれば、罰を受けるようになります。精誠を込めた物は、毒薬より恐ろしいのです。おなかをすかせ、やせ細りながら涙を流して集めた物は、それ以上の心をもって接しなければ、その物に引っ掛かってしまうのです。子孫が罰を受けるようになります。天のみ前に精誠を捧げたお金を消化できる善の基準になっていないので、それが病気になるのです。子孫を苦しめるというのです。それで、公金が貴いのです。世界的にそうです。

 

復興師の息子、娘や、有名になった宗教指導者の子孫が悪くなるのは、そのような負債を負ったからです。先生はそれを知っています。ですから、献金を持ってくれば、先生の手で受け取りません。先生には分からないようにして、そのお金は公的な所に回して使いなさいというのです。そのお金をもらわなくても生きていけます。その代わり、受け取るときは神様の名で受け取るのです。「このお金は公金として使います」と言って受け取ります。私的には一銭も手をつけないのです。

 

 

 

15 公的な人は恐ろしいのです。いい加減に生きられません。話をするにしても一般の牧会者が一時間するなら、先生は十分でも長くしなければなりません。山の頂上に登るとしても、一歩でも多く動いてこそ、条件に引っ掛からないのです。ですから、かわいそうな生活をしました。安心して暮らす生活ができないのです。そのように先生が注意して生きた分だけ、天も注意深く先生を扱い、すべての天運が注意深く先生を扱うのです。

 

 

 

16 教会の責任者は、目から涙が乾いてはいけません。世の中で本当にかわいそうな人が教会の責任者です。いつも悲しみを抱いて歩く人が教会の責任者です。神様の心情を思い、復帰摂理の時を思えば、神様がかわいそうだと感じられるときが多いのです。

 

どのようなことをして復帰の道を行かねばならないかと考え、先生がこうだから、このような道を行かざるを得ないと考えるとき、言葉を失い、喉が詰まり、胸が張り裂ける悲しみを感じるときが多いのです。卒倒するほどの感覚が来るときも多くあります。このような心情がなければ、神様のための、神様の仕事をする人にはなれないのです。先生は、村のどこかに行く途中で悪いものを目にすれば、「今は私がそのまま通り過ぎるが、今度また会おう。私の手できれいに片づけてしまおう」と考える人です。

 

 

 

17 祈りをたくさんしなければなりません。祈りをしなければ、神様の同情を得ることができません。神様の助けを受けられないというのです。自分を中心としては、同情を得られる背景がないからです。それで悲しいのです。神様が同情できる人になれば、寂しくありません。絶対に寂しくありません。

 

冷たい部屋に横たわっても、真冬の氷の塊のような部屋に横たわっても、自分がかわいそうではないのです。そのため、イエス様も祈りをたくさんしたのではないでしょうか。祈る時間がなければ、歩き回りながら祈りなさいというのです。祈る代わりに伝道しなさいというのです。自分の一日の祈りに代えて、伝道しなさいというのです。

 

 

 

18 指導者とは、与える人です。受ける人ではありません。与えるのですが、同じものを与えてはいけません。新しいものを与えなければなりません。説教をしようとすれば、難しいでしょう。原理のみ言はそのまますればいいのですが、説教は大変なのです。それは、同じものを与えてはいけないからです。父母が愛する子女に、あれこれと良い物を選んで食べさせなければならないのと同じように、同じものを与えてはいけません。与えるものがなければ、神様からもらわなければなりません。神様からもらったものを、食口に食べさせなければならないのです。神様と一緒に、相談もしなければなりません。

 

 

 

19 皆さんは、明らかに神様を代身です。自分が祈りながらも、何を祈るのかも分からないまま祈るときがあるのです。そのようなときは祈りながら、自分が祈る言葉に自分で感動するのです。そのような境地で祈れば、聴衆はすべて神様のみ前に引きつけられ、「神様が生命の原動力であり、本体だ」ということを体得するのです。そのような体験をするとき、神様が絶対に必要だということを感じるようになります。このような事情を連結させて、聴衆を魅了させるためには、祈りが絶対に必要です。

 

 

 

20 責任をもった人は、驕慢になってはいけません。責任者は父母にならなければなりません。神様の代身者にならなければなりません。夜も昼も、誰よりも努力し、涙ぐむ心情を抱いて、彼らの霊的、肉的、内外のすべての道を解決してあげられる責任を担わなければなりません。相談相手はもちろんのこと、心情の主体になって、彼らを父母以上に愛することのできる運動を提示しなければ、責任者としての役割を果たしたと見ることはできません。

 

 

より大きなもののために生きる道

 

21 皆さんは、社会に忠誠を尽くさなければならず、教会に忠誠を尽くさなければならず、家庭に忠誠を尽くさなければなりません。それでは、教会は何をする所でしょうか。人格を形成し、人格を育てる所です。堕落したので教会が必要なのです。家庭と社会で終わるのではありません。

 

人格を復帰するときには、ただそのままではできません。大学を出て博士学位をもらったからといって、それで人格が復帰されるのではありません。ですから、教会が必要なのです。先生を中心として新しい父母を求め、新しい子女となって家庭から新たに収拾していきながら、新しい世界に向かっていかなければなりません。行くに当たって、足場となるのが教会です。教会を足場としなければ、行けないのです。新しい家庭も教会を通して出てくるのであり、新しい社会も教会を通して出てくるのです。

 

 

 

22 人が正しいというとき、何を見て正しいというのでしょうか。人心が天心に根を置いているとき、正しいというのです。そのような位置に立たなければなりません。そのため教会を通し、人心が中心を決定する場であらゆる精誠を尽くさなければなりません。ここには、自分のすべての誠心誠意を尽くさなければなりません。家庭よりも、学校よりも、自分の出世のためよりも、精誠をもっと捧げなければならないのです。それで、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言ったのです。神様を愛するのですが、精誠を尽くし、思いを尽くし、心を尽くす立場で愛しなさいというのです。

 

 

 

23 教会がある目的は、国を救うためです。しかし、キリスト教はこれを知らずにいます。キリスト教では、「教会がある目的は天国に行くためだ」と言います。それも、自分個人が中心です。それで結局、アメリカのような個人主義の国をつくり上げたのです。このような世の中を開拓しようというのが統一教会です。

 

統一教会の教会員が伝道するのは、統一教会を発展させるためではありません。国を発展させるためです。国の中にとどまっている宗教ではいけません。イスラエルの国を救うことのできる主導的な役割を失ったので、ユダヤ教が衰退したのです。国のために生きようというのが、統一教会の方針です。

 

 

 

24 教会が行くべき目的は、神様の国を探し立てることです。教会を探し立てるのが目的ではなく、神様の本来の創造理想は、国を中心として世界を一つの世界にすることなので、教会が行くべき目的地は、その国を探し出すことです。そうだとすれば、国を探し出すために、国を探すにおいての必要条件は何でしょうか。カインとアベルが一つになることです。カインとアベルが一つにならなければ、国を探し出すことができません。

 

 

 

25 皆さんは、祝福家庭の使命が大きいことを知らなければなりません。自分の息子、娘に影響を及ぼせる父母になるべきです。これが第一の使命です。そのためには、教会生活や公的生活を徹底しなければならず、私的生活において模範にならなければなりません。これは、今後、子女がみ旨の道を歩めるよう教育するために、絶対的に必要です。

 

 

 

26 皆さんが今まで習慣的に生きてきた社会生活全体と、教会を中心として生活した全体を考えてみるとき、どちらが内的かというと、教会生活が内的です。皆さんは、どれほど内的生活の価値基準を立ててきたでしょうか。ある人は、み旨を中心として行くと言いながらも、「私がこのようにすることがみ旨になるだろう」と言いながら、自分勝手に考えます。そのようなところに神様はいらっしゃるでしょうか。

 

先生は今まで、このみ旨を立ててきながら、どこに最も重点を置いたのでしょうか。神様が臨在する所、すなわち神様が臨在できる基点はどこか、そこを中心としてどのように一体となるか、どのように同化するか、そこに神様が公認できる一体性の基盤をどのように立てて内的に適応させるか、このようなことに最も重点を置いて今まで闘ってきたのです。

 

 

 

27 非信仰者は、家庭を中心として社会生活さえすればよいですが、信仰者は家庭を中心として社会生活だけでなく、教会生活も合わせてしなければなりません。非信仰者は、社会生活をしながら立身出世することを願います。しかし、信仰者は、社会生活をしながら立身出世することよりも、教会生活をもっと重要に思わなければなりません。それはカイン・アベルと同じ立場です。

 

外的な社会生活はカイン的であり、内的な教会生活はアベル的です。そのため、外的な社会生活は内的生活の象徴体にならなければなりません。対象になるべきです。外的な社会生活の中心となるのは、内的な教会生活です。内的な教会生活において、神様から公認を受けられる立場に立てない人は、外的な社会生活において神様の代身者としての生活ができないのです。このように、内的な教会生活において神様から公認を受けることが問題です。

 

 

 

28 ある人を見れば、教会生活は良くできるのに、社会生活はできないという人がいます。また社会生活は良くできるのですが、教会生活ができないという人もいます。社会生活は良くできても教会生活ができない人は、実を結ぶための要因と、その内容がありません。教会生活は良くできるけれども社会生活ができない人と、社会生活は良くできるけれども教会生活ができない人のうち、どちらがより良いでしょうか。社会生活が良くできる人より、教会生活が良くできる人のほうが良いのです。結実の要因を備えた人は、あすの希望をもって動いていけますが、結実の要因を備えられていない人は、結実と関係を結ぶことができません。

 

 

 

29 神様に侍っていく人として精誠を捧げるのは、生命線と同じです。水源地に水道のパイプを連結するのと同じなので、いつでも精誠を尽くさなければなりません。その上、教会に責任をもっている教会長は、少なくとも男性食口三人と女性食口三人と一つにならなければなりません。教会長を合わせた七人がいつも一心になっていなければ、教会が発展しないのです。三人と一つになるにおいては、自分の心に合う三人と一つになるのではいけません。自分と心がよく合う人、自分と一番心が合わない人、中間の人を中心としていつも一つになり、教会長であれば教会長のために精誠を尽くすように導かなければなりません。

 

 

 

30 教会長がどこかに巡回に行くとき、教会長が一人で行く立場になってはいけません。教会長が巡回に行くために、背後で祈ってくれる人がいなければなりません。さらには、先生が巡回する間、先生がどこに行くということを知り、先生が行く所に対して祈り、精誠を尽くせばどのようになるでしょうか。そこには必ず神様が共にいてくださるのです。

 

 

 

31 責任者は、必ず基地がなければなりません。基地を中心として機動活動をしなければならないのですが、その基地が機動活動をする所よりも常に強くなければ、発展しません。木を見れば、幹から枝が伸びていきます。幹は枝よりも大きいのです。同じように、教会長がいる基地は、必ず機動活動をする現地よりも常に強力な力の母体にならなければなりません。そのような土台をもてなければ、発展できません。

 

そのために教会長は、いつも三人の男性と三人の女性が教会のために一心同体となり、一つになって動けるようにすることが、教会の発展にこれ以上ない基盤となることを理解し、このような活動体制を強化していかなければなりません。そこで、一人が三人を中心として三位基台をつくっておけば、自動的に二十四人になるのです。三人が三位基台を造成すれば自然に十二人になり、男性三人の三位基台と女性三人の三位基台を合わせれば、自然に二十四人になるというのです。

 

このように一つの主体を中心として、引き離そうにも引き離せない立場で束ねていかなければなりません。教会長自身がその人たちのためにどれほど精誠を尽くしてあげたかということが、その人たちが教会長のためにどれほど精誠を尽くしてくれるかを決定するのです。

 

 

 

32 真の指導者になろうとすれば、真の父母の心情をもち、自分が責任をもった舞台で内外の作戦を立て、その舞台を内外の作戦によって消化していかなければなりません。そのためには、様々な材料を収拾して研究し、他の人よりも眠らずにもっと努力しなければなりません。

 

その村の人々にどのような刺激を与え、その人々にプラスの要件をどのように残してあげるかによって、その村が引っ張られてくるか、引っ張られてこないかということが決定します。世話になるようでは、喜ぶ人はいません。先生もうれしくありません。その次に、内外に父母の責任をもった教会長、指導者はどのような指導者であり、責任をどのようにして果たすかということが問題です。またその次には、神様と関係をどのように結ぶかということが問題です。

 

 

 

33 精誠を捧げなければなりません。指導者として一日中、祈るためには、神様を慕わなければなりません。人を慕うことよりも、神様をもっと慕わなければなりません。欽慕と思慕の心情がいつも消えてはいけません。会いたいと思い、何か分からないけれどももどかしく、おなかをすかせた子女がお乳を飲みたいと思う気持ちのように、何か分からないけれども慕わしくなければなりません。そのようなとき、人知れず自分が霊的な糧を供給されるのです。

 

 

 

34 皆さんが心から人を慕わなければ、その人も絶対に「私」を慕いません。ですから、教会長は、いつも早く起きて門を開けて人を待ち、四時を越えて鶏の鳴き声を聞かなければなりません。自分が起きるよりも先に鶏が鳴けば、「私より鶏が先に起きて鳴くのだなあ、この鶏め!」と、文句の一つでも言ってみなければなりません。そのようにしなければ、食口が早朝に起きることもなく、皆さんを先生として、または自分の指導者として慕うこともなく、祈ることもないというのです。動機がないのに、結果が現れるという道理はありません。

 

 

 

35 誠を尽くして建てた塔は崩れません。問題はここにあります。先生は、人をどれほど慕ったでしょうか。それは説明しても、皆さんは理解できないでしょう。皆さんはどれほど慕ってみましたか。神様の息子、娘をどれほど慕いましたか。希望の家庭をどれほど慕い、希望の民族をどれほど慕いましたか。希望の国家、希望の世界をどれほど慕いましたか。皆さんはそれを知りません。そのためには、お金が問題ではありません。乞食のまねをするとしても、人を慕えばそれが栄光だというのです。世の中の栄華を忘れて天の道を築こうというのは栄光です。それは素晴らしいことなのです。

 

 

 

36 おなかをすかせた人に御飯をあげるのは、人間の道理です。もらってきた御飯でも、分けて食べるのが人間の道理だというのです。米びつの中に米がありながら、「通りすがりのおなかをすかせた人が御飯をもらい食いする」と言って文句を言えば、その家は長く続かないのです。ただで御飯をたくさん食べさせるだけではいけません。ただで御飯を食べさせると同時に、公的な心でたくさん気を配ってあげなければなりません。それが福を受けるのです。ただで御飯をたくさん食べさせてあげると同時に、公的な心でたくさん気を配ってあげる人、そのような人は誰も嫌いません。

 

 

 

37 教会に新しく入ってきた人を、一番初めに迎えてあげる人が福を受けます。その人が、自ら信仰生活ができるようになるまで、侍ってあげながら完全に定着できるようにしてあげれば、その人と共に栄光の場に参与するのです。このような関係を十人以上と結んだ人が、もし死地に入っていくようになったときは、関連のあるその人々によって、解放される特権をもつのです。福はここから受けられるのです。そのため、訪ねてくる客をよくもてなしなさいというのです。

 

 

主体的に活動する道

 

38 皆さん自ら、皆さんの過去と現在を中心として、過去が主体になっているか、現在が主体になっているかという問題を見極めなければなりません。過去と現在が、主体と対象の関係にならないときは、未来を希望の主体としなければなりません。しかし、未来の希望を中心として、それを主体として迎えられない中途半端な立場であれば、どのようにすべきでしょうか。過去を主体にし、現在を対象とするしかありません。ですから、信仰生活において、過去に受けた恵みをそのまま流してしまってはならないのです。

 

私たちは、信仰の道を歩みながら、我知らず気が緩む時期にぶつかります。そのようなときは、過去の信仰生活を一つの主体として、きょうの現実的環境をどのように収拾するかを考えなければなりません。過去の恵みある生活をしていたときに記録した日記を再び見たり、祈りの中で体験したものをもう一度回想したりしながら、そのときの心情をよみがえらせなければなりません。そうして、そのときにしたことを再び反復することによって、過去よりも刺激的な立場で決意しなければならないのです。

 

 

 

39 み旨の道を歩むときに、教会全体を代表した立場にいる生体、真理的な側面の主体がいます。もし、その主体と歩調を合わせられる相対的な関係を備えることができなければ、どのようになりますか。

 

自分の過去の生活と現在の生活を比較してみるとき、過去がきょうよりも良いとすれば、その過去の生活を現在の生活に再現させなければなりません。そのようにして、そのときにもった決意をどのようにもう一度自ら模索するか、そのとき感じていた心情をどのようにもう一度体恤するか、そのときに「私」が闘っていた環境をどのようにまた再現していくかということが問題になります。もしこれが自分自らの祈りの中で解決されなければ、行動の面においてでも解決できる道を探さなければなりません。

 

 

 

40 私たちは、このみ旨の道を歩みながらも、教会と隔離されやすいのです。教会と「私」の関孫を見るとき、教会の中にいる私ではなく、私自身を中心として教会活動をする場合があるというのです。教会全体を中心として、教会の中にいる私自身とはならずに、教会と隔離された立場にいる第三者の立場に立つようになれば、教会と距離が遠くなり、教会に対する関心がなくなります。刺激がないというのです。そのようになれば、教会と自分との関係がだんだんと希薄になります。教会生活がおろそかになる立場に陥るまいとしても、必ず陥らざるを得なくなるのです。

 

それでは、どのようにしなければならないのでしょうか。教会全体を身代わりして主体的に活動しなければならず、その活動において皆さん自身が孤立してはいけません。孤立した立場に立たずに、主体と歩調を合わせていきなさいというのです。そのようにして共に歩調を合わせながら闘っていくとき、先頭に立った人々が感じ、採択し、意欲をもっている環境を推し量ることができます。そのようになれば、教会を代表して主体的な立場で動く人々の後ろについていくだけでなく、彼らよりも先立って出ていける立場にも立つようになるのです。

 

 

 

41 統一教会を中心として、何を教えなければなりませんか。先生と皆さんの関係を教えてあげるのです。その内的な関係を中心として、外的な関係に拡大させるためのモデルを形成するのです。それが絶対視される価値として確定されない限り、絶対的な相対圏は形成されません。これが教会生活において最も貴いのです。

 

それでは、統一教会では実際にどのように動くのでしょうか。先生と皆さんが感じる心情的なものが核心となり、相対的な世界に応用しなければなりません。先生自身はどのようにすべきでしょうか。神様に対して先生が感じたことを、皆さんに応用しなければなりません。それで、先生が知っていることを皆さんは知りませんが、皆さんが先生に対して感じたことは、皆さんのものとして理解するのです。

 

ですから、皆さん自身において信仰世界の心の門を開き、心の畑を啓発することを今までしてきているのです。それが啓発される日には、それで終わるのではなく、それを相対的世界に適用させることができなければなりません。

 

 

第3節 教会長の精誠生活

 

 

天聖経  第九篇 目次 第三章 教会長の道

第三節 教会長の精誠生活

 

1 皆さんは、食口が訪ねてきて帰れば、その人を思いながら夜を徹して祈り、灯油ランプの灯をつけて、あした話してあげる内容を準備しながら、朝日が昇ってくるまでその人が来るのをどれほど待ってみましたか。そのように待ってみてください。その人が来るようになっています。間違いなく来るのです。それは実現可能です。そうすれば、「いやあ、精誠とはこういうものなのだなあ!精誠が極まれば、神様を動かせるのだなあ!」ということを実感するのです。「誰々が来なければならない」と思い、精神統一をして三時間だけ祈れば、その人はそわそわし、我知らずに心が動くのです。「教会に行ってみよう」と、心が命ずるのです。そのようなことが可能だというのです。

 

 

 

2 精誠を捧げるときは、多くの人を挙げて捧げるより、一人一人を挙げながら精誠を捧げるのが良いのです。多くの人に対して精誠を捧げるのと、一人一人に対して精誠を捧げるのでは、はっきりとした違いがあります。東西南北が違うというのです。そのため、主体がいれば一つの対象を決定し、その対象を中心として線を引かなければなりません。そうしてこそ四方が描かれるのです。その四方が描かれるときまでは、対象と絶対的な関係をもたなければなりません。それでこそ丸い円が描けるのです。

 

 

天が記憶する指導者

 

3 人間がこの地上で暮らしながら神様に仕えるためには、必ず聖人の道理を基盤とした宗教を通さなければなりません。そして、今まで過去の数多くの宗教指導者が歩んだ道を、自分も当然行くべき道と思い、その道を願いながら歩もうと決意する人にならなければなりません。そうして、宗教を中心として、生まれては逝った数多くの宗教指導者と一つになれば、その宗教の世界に自然と位置が定まるのです。そのような基盤の上で祈れば、それは一つの宗教圏を越えられる立場に立つので、それだけ神様との距離を短縮させられるのです。

 

ですから、地上で宗教の道を探し求めていく人は、精誠を捧げなければなりません。人間の中には、精誠を尽くして宗教の道を訪ねていかなければならない人もいますが、善の先祖を多くもっていて、彼らが願ったものに向かってそのまままっすぐに行く人もいます。それでは、彼らが願ったものとは何でしょうか。彼らが追求するのは、宗教が追求する目的の世界なのです。

 

 

 

4 宗教の目的は、一人の真の人間を探すことであり、真の家庭と真の国家と真の世界を探すことです。これは宗教の目的であると同時に、神様の目的です。それがすなわち、神様が地に対して摂理する目的です。ですから、私たちが宗教指導者の精誠を尽くしたその土台の上に立てば、神様の目的圏内に自然と接することができる境地まで行くのです。

 

そのため、ある特定の宗教を信じる人がいるというとき、その人は、その宗教の最高指導者だけを信じるのではありません。その宗教に従った人々と、その宗教のために四方から精誠を捧げている指導者を信じるようになるのです。それだけでなく、その宗教が世界的な基盤をもっていれば、世界の数多くの指導者たちまで信じ、従っていこうとするのです。それは、霊界と宗教圏の距離を短縮させるためなのです。

 

 

 

5 終わりの日には、恵みを受けた一人の人だけを通じるのではなく、必ず何人かを比較してみて通じなければなりません。高い内容をもった霊的指導者に会い、自らその段階を高めていく知恵深い方法を取らなければならないというのです。しかし、今日、地上に生きている信仰者たちは、このようなことを知らずにいます。そのため、信仰者は、総合的な観測、総合的な比較、総合的な分析をして、自分自身が最も早い道を探していかなければなりません。ですから、ある新しい道を行くときは、決してそのまま行ってはいけないのです。

 

 

 

6 いつも恩恵を受けようとしてはいけません。他の人が掘っておいた井戸から水をくんで飲むのではなく、その井戸の水脈に沿って新しい水の流れを探すために努力しなければなりません。これと同じように、自分を指導し、恩恵を与えてくれた指導者が限界点に到達したと思われるときは、その指導者が最も恵みを受けていたときに捧げたそれ以上の精誠を捧げてこそ、その道を越えることができるのです。しかし、今日、信仰者たちはこれを知らずにいます。

 

 

 

7 天国とはどのような所であり、その構造はどのようになっているのでしょうか。簡単です。一言で結論を下せば、その世界はために生きた人が行く所です。自分のために生きた人が行く所ではありません。神様と人類のために生きて死んだ人だけが行く所です。

 

ここに、いくらよく信じる教会の指導者や信徒がいるとしても、いくら精誠を捧げた人がいるとしても、その精誠が神様と人類のための精誠でない限り、それを自分に帰結させる人は、結局、天国に入れないのです。しかし、自分のために生きるのではなく、本郷の道理のみ旨に従ってために生きる原則を手本とし、物心がつくときから他の人のために、神様のために生活し、自分のために死の道を行くのではなく、神様と人類のために死の道を行く人は、間違いなく天国に行くのです。

 

 

 

8 教会長であろうと、教域長であろうと、人を見ることができなければなりません。心霊を検討し、どのような状態にあるのかを知らなければなりません。ですから、最も大変な仕事が霊的指導者の仕事です。ですから、祈らなければなりません。向こう側の山に何があるかということが、祈れば浮かんでこなければなりません。ですから、精誠を捧げなければならないのです。食口の心霊状態がどうなのか、教会長が先にすべて分からなければなりません。精誠を捧げた人は、どのようなことが起こったのか、あらかじめすべて分かるのです。

 

 

 

9 昔、先生が教会を指導するとき、四百人が集まりました。人々の名前をずっと呼んでいくのです。そうすれば、すぐに分かります。そのとき、心霊の良い人は水平線の上に立ち、低い人は斜めに立ち、一番悪い人は逆さまに立っているのです。そのような霊的な体験を適してでも、天と音律が合わなければなりません。共鳴しなければなりません。コムンゴ(朝鮮の伝統弦楽器)の弦を弾けば、音律が合わなければならないのと同じように、天と共鳴しなければなりません。弦が少しだけ緩んでも、合わないのです。それでは和音になりません。ですから、よく合わせた共鳴の音が必要なのです。

 

 

 

10 天のみ前に精誠を捧げる人は、いい加減に扱うことができません。地方で、ある食口がりんごを一つ先生のところに持ってきたとしても、先生はむやみに手を出しません。精誠を込めた物に誤って手を出せば、赦しを受けられないのです。神様の一片丹心の心情と神様の最高の努力を無視すれば、天倫の前に容認されない罪人になるというのです。

 

他の人が精誠を込めた物をいい加減に扱ってはいけません。九十九ほどの精誠を込めた物であれば、百ほどの精誠を込めてこそ、それを扱う資格があるのです。例えば、ある集団の責任者が、精誠を込めた物を受け取り、天のみ前に連結させられなければ、その精誠を込めた人が多ければ多いほど早く滅びます。ですから、神霊的な集団は、自らの当代には栄華を極めるかもしれませんが、天道に外れることが多く、すぐに滅びるのです。

 

 

 

11 自分のために祈り、精誠を尽くしてくれる人が多ければ多いほど、その人は福を受けた人に違いありません。「私」一人のために精誠を尽くす人をたくさんもつためには、まず自分がもっているすべての福を多くの人に譲り渡してあげなければなりません。そのようにするまでは、多くの人が私に対して「福を受けなさい」と祈ることはないというのです。一人のために十人が精誠を尽くせば、その一人は神様が記憶せざるを得ません。そのように精誠を尽くす環境を収拾し、「お互いがお互いを新しい段階へと刺激することができる環境の基台を広げよう」と言って、一つの団体を構成したのが教会です。

 

 

 

12 教会の責任者は、自分のために精誠を捧げてはいけません。数多くの群れのために精誠を捧げなければなりません。その数多くの群れが行くべき所は、自分の家庭だけでなく、その国と世界までです。そのため、教会長の視線が自分の家庭と自分の教会の教会員にのみ、とどまっていてはいけません。その教会員を通して国と世界に向かう心をもち、神様に向かって、「私が捧げた精誠と教会員が捧げた精誠を合わせ、世界に進むことのできる道を築いてください」と言わなければなりません。このように教会長と教会員が一つになって授け受けすれば、そこには必ず神様が臨在されるのです。一つになって神様が臨在なさるときは、自分の教会の復興のためではなく、国の復興のために一つになるときです。

 

 

精誠と天の役事

 

13 民族復帰時代には、家庭復帰時代に捧げた精誠以上の精誠を捧げられる人が、統一教会の教会員の中にいなければ、責任をもった責任者が精誠を捧げなければなりません。そのようにしなければ、統一教会は民族的な運命を残し、その限界線を越えていくことができません。もし一人でもその限界線を越えて、神様の無限の生命力を投入するように自分の生命を投入し、すべての愛の心を投入すれば、統一教会はその人によって発展するでしょう。

 

しかし、そのような人がいないときは、停止したり、後退したりするでしょう。統一教会が発展するときには、必ずその背後に発展させる動機があるのです。すなわち、国家と民族を越えて世界まで統一教会を率いていくために、自分の生命力を投入する人がいるはずなのです。その人が誰かを知らなければなりません。生命力だけでなく、すべての愛を投入して犠牲になる人がいなければなりません。そのような人がいなければ、世界へと発展できる統一教会にはなれません。これは原理的立場から見るとき、当然の道理なのです。

 

 

 

14 み旨の道に従ってきた皆さんは、自分の生命力と愛の力を、民族を越え、世界を越え、それ以上の位置まで投入しなければなりません。皆さんが投入する生命力と愛の力が、教会発展の行路を開拓する要因になるのです。地上の悲しい事情を抱き、ぶつかっていく統一教会の運命を抱いて身もだえする人々がいれば、彼らのためにあらゆる精誠を尽くし、感謝と称賛を捧げても足りません。

 

それにもかかわらず、自分を中心として批判し、自分と関係ないと言って無関係だと考えてしまえば、その人はそこで終わりだというのです。皆さんは、統一教会が発展する事実を見つめ、無限に感謝を感じると同時に自らの不足を感じ、「きょうはこうですが、私にも力を下さい」と言わなければなりません。秋の季節であれば秋の季節で終わらせ、冬の季節であれば冬の季節で終わらせるのではなく、自分の深い所に宿っている、あすの春の日を迎えていっぱいに咲く生命力と愛の力を探し出せなければ、皆さんの行く道は終わりだというのです。

 

 

 

15 宗教の責任者や指導者が地上で霊界の道を築く途中で失敗し、その道を越えられなくなったにもかかわらず、再びその道のために精誠を尽くしながら訪ねてくる人がいれば、神様はその人を保護されるのです。しかし、いつでもその人を保護されるのではありません。その人が先に歩んだ人々の失敗の境地に到達したときや、その場に入ったとき、そこで精誠を捧げれば、神様はその人が失敗圏内から抜け出してくることができるよう、背後で調整するのです。そうして神様の直接的な恩賜を受けられるように役事されるというのです。

 

 

 

16 神様は、宗教の世界に責任をもった人々が、その責任を完遂できずに逝った道の背後で、数多くの霊界を中心として、いつでも再び責任を担わせることのできる恩賜の基台を準備し、再びその道に従ってくる人々が失敗の道を免れるようにしてくださるというのです。このときは神様が、自分の立場を中心として考えるのではなく、宗教のために精誠を尽くす立場を中心として役事されるのです。神様は、このように一段階、一段階高く上がっていけるように役事されます。

 

 

 

17 教会長は父母の立場です。父母は、子女たちをすべて寝かせるまでは、先に寝ることができません。体調が悪いということでもない限り、そのようにはできないというのです。分別のつかない子女たちのあすを心配しながら涙し、生活の苦しさを感じるときには胸を締めつけながら、その息子、娘のために福を願ったあとに寝床につくのが、父母の心です。

 

同じように、責任者は眠ることができないようでなければなりません。そして、早朝や夜に静かな時間ができれば、自分の教会の食口のために人知れず涙を流し、精誠を尽くしてあげなければならないというのです。そのようにしてこそ、基盤が築かれるのです。このように子女を育てて、どのようにしなければなりませんか。教会よりも国のために生きる愛国者にすべきです。そのためには、父母が手本を見せてあげなければなりません。

 

 

 

18 愛によって正しく教育したのちに、「やりなさい」と言ってこそ、正しい父母です。皆さんがそのような生活をすれば、神様は皆さんから離れようとしても離れられません。また、そのような人には、何か分からない強い力があり、すべての人の視線を自動的に引くようになります。その人には、関心をもたざるを得ないというのです。

 

冬に、火鉢に火を起こしておけば、冷たい火鉢と熱い火鉢は説明しなくても誰でも分かるので、「行くな」と言っても、熱い火鉢を訪ねていくのです。同じように、皆さんも、そのように人が訪ねてくる人間にならなければなりません。そのような伝統的基盤を備え、犠牲的覚悟のもとで個人の新しい伝統を拡大し、家庭的基盤に連結させて、それによって氏族、民族、国家を形成しようというのです。これが天の行く道です。

 

 

 

19 もし責任者が誤り、責任者が間違うときはどのようにしますか。私がその人を中心として最後まで合わせていけば、その誤った責任者は出ていき、責任者のために精誠を尽くして侍った「私」が、その責任者の後継者になるのです。そのような人はどこに行っても発展します。いくら間違っている人と接するときでも、その人の心に合わせて調整しようとすれば、その心に合わせるよう調整された人が、必ず折れて出ていくというのです。できないことを命令され、そのできないことを「間違いなくやります」と言えば、自分がやらないのに命令した人が長く続かないのです。木の芽で言えば、やらない人は停止し、これをする人は育つのです。

 

20 負債を負った人は、どの社会でも除去され、すべてその人を嫌うのです。第三者の扱いをするのです。皆さんは、どの責任者が悪いなどと言ってはいけません。「その責任者の前に私が私自体を輝かせ、私の実績を公正に表すことのできる良い機会ができた」と思いなさいというのです。その周囲にいる人は、すべて「私」を認定するというのです。

 

その責任者に能力があり、細かく指導してくれるなら、私にとって何の実績になるでしょうか。責任者が不足であることによって、「私」が輝ける良い機会になるというのです。ですから、不平を言う所に行って不平を言わず、後退する所に行って後退してはいけないというのです。私が出会った人の仕事を手伝ってあげ、祭祀を行ってあげ、花を挿してあげようという心をもちなさいというのです。そうすれば、いつでも主人になるのです。

 

 

 

21 皆さんが高い山に登れば、その周囲の人々が「早く早く救ってほしい」と言う声を聞くことができなければならず、霊界の先祖たちが「早く早く救ってほしい」と言う思いを感じなければなりません。その中で責任を果たさなければならないのです。それが祭司長です。祭司長の資格証書をもって、自分の責任を果たさなければなりません。

 

いくら頭が痛くても「痛い」と言えず、いくら疲れていても「疲れた」と言えないのが祭司長です。神様が「休みなさい」と命令してこそ、休めるのです。責任を果たせなければ逆に蕩減を受け、病気になります。その道を避けていくために、自分で迫害を受ける道をつくって行くこともしなければなりません。祭司長は、食べることにおいても、一番下から上がっていかなければなりません。着ることにおいても、一番どん底から行かなければならないのです。すべてを復帰していくのです。そうして国と一つとなり、民と一つとなることによって、上がっていくのです。悲惨なのです。そのような意味で、先生は迫害を受けることを有り難く思うときが多くあります。「私」の家庭と私たちの教会がすべき蕩減を、外部でこのように騒ぐことによって、外的蕩減としてすべて消耗させているのです。

 

 

 

22 責任者は、苦労しなければなりません。苦労するのは、蕩減条件を提示することになります。寝ずに祈り、精誠を捧げ、そのまま休まずに努力して外的蕩減をしてあげることによって、どのようになりますか。人を王のように侍るのも蕩減です。蕩減法です。その人がいくら悪くても、王のように侍ったとき、その精誠の心をその人が受け取れなければ、神様が受け取ってくださるのです。その人が統一教会を信じないで出ていけば、その人の善の先祖が積んだすべての福を、「私」が根こそぎ受け継ぐのです。恐ろしい作戦です。全体の福、万民の物を私が受け継ぐのです。収穫するのです。収めるというのです。

 

 

 

23 統一教会が教えるのは、「個人は家庭のために犠牲になりなさい」ということです。個人が家庭のために犠牲になれば、その家庭は自然に蕩減し、必ず福を受け、豊かに暮らせる位置に行くのです。犠牲になった人が中心になります。より犠牲になってすべての環境に利益をもたらした人は、必ず中心者になると同時に、責任者になるのです。

 

ですから、自分がうまくいくために、福を受けるために精誠を尽くすよりも、全体の中心、責任者になる福を受けるために精誠を尽くし、信仰の道に従うのが、天理と歴史が願う信仰の道であることをはっきりと知らなければなりません。それで、統一教会は、この原則によって「個人は家庭のために犠牲になりなさい」と言うのです。理由なく語っているのではありません。皆さんがそのように犠牲になれば、皆さんが家庭の中心存在となり、その家庭の福を継ぐときに、皆さんの息子、娘を通し、皆さんの家庭が福を分かち合うようになっているのです。そして、今後、氏族になれば、その家庭がその氏族を統治できる中心家庭、福の中心になるというのです。

 

 

食口のために精誠を尽くす生活

 

24 精誠をたくさん捧げる人が中心存在になります。天の祝福は、その人を通して現れます。アンテナが高ければ高いほど、世界に向かって遠く広がっていくのです。少しでも高ければ、世界のすべての電波に乗って越えていくのです。この電波に乗って、世界に行くというのです。それと同じです。そのため、精誠をたくさん捧げ、より投入して忘れる人にならなければなりません。それが、神様の創造の原則なので、より投入して忘れる人は、永遠の責任者になるというのです。

 

 

 

25 祈らなければなりません。人の前に精誠を尽くし、その次に神様のみ前に精誠を捧げるという二つの道があります。霊的指導者の生命力を連結させるには、神様と人間が連結される中間的立場にいるので、皆さんが精誠を捧げた割合に応じて、結果が変わります。神様と百の原因をもてば、それが皆さんを通して百の結果として現れます。神様と一つになることに比例して、食口が一つになるのです。先生と一つになることに比例して、食口が一つになります。

 

そのため、皆さんは生命線として、先生を思わざるを得ません。神様は無形な方なので、眠りながらも、道を歩きながらも、寝ても覚めても先生を思ってみなさいというのです。そうすれば霊界の門が開きます。妻子をすべて忘れてみなさいというのです。精誠を捧げる道が最も早い道なので、皆さん自身を中心として、食口にそのような現象が起こるようになっています。原因がそうなので、結果として現れるのです。

 

 

 

26 牧会者は、三日に一度ずつでも、食口たちのために祈ってあげなければなりません。先生は、興南の監獄で三年近くの歳月を過ごしましたが、その中でも何人かの食口のための祈りは、御飯を食べるときから寝るときまで、毎回、してあげなかったことがありません。たとえ離れていった人だとしても、その人のために続けて祈ってあげました。

 

そうすると霊的に先生を訪ねてきて、離れていった事情を、涙を流しながら報告するのです。「肉身が弱く、どうしようもなくて先生から離れていかざるを得ません」と挨拶をして去っていくその悲惨な情景は、同情するまいとしてもせざるを得ないのです。そのように離れていっても、その人のために続けて祈ってあげなければならないのです。

 

 

 

27 先生は、地域のために祈るとき、その地域の責任者のために祈るのではありません。責任者のために忠誠を尽くし、その責任者と相対基準を造成して熱心に働く食口のために祈ります。このようにしてこそ、私たちのみ旨がだんだんと発展していくのです。地域の責任者たちが責任を果たしたからといって、その責任者を称賛するのではなく、その人が称賛を受けられるようにした食口たちを称賛しなければなりません。

 

これから責任者は、自分たちを協助した食口のために祈ってあげなければなりません。心情的な面で負債を負ってはならないというのです。一線で闘っている、苦労している食口がいれば、御飯を食べるときも彼らを思い、涙とともにスプーンと箸を持ち、涙とともに御飯をのみ込むことができなければなりません。「天よ、彼らを見守ってください」という祈りが自然に出てこなければなりません。このような心情が欠如すれば、発展できないのです。

 

 

 

28 責任者が一片丹心でしなければならないことは何でしょうか。御飯を食べることでしょうか。違います。この罪悪世界において、生命の一つ一つをどのように天の息子、娘として復活させ、天の国に移してあげるかという責任的使命感をもたなければなりません。月日がたつとともにそのような使命感をより深くもち、進んでみてください。できないことがありません。完全な主体の前には、完全な対象が生じるのです。

 

ですから、主体は対象のために祈ってあげなければなりません。祈るのですが、対象が早朝に起きるのであれば、それよりも先に起きて、精誠を尽くしてあげなければなりません。人は、自分のために精誠を尽くしてくれれば、すぐに分かるようになっています。

 

 

 

29 責任者は、自分の位置を守っていきながら、精誠を尽くさなければなりません。皆さんが責任者ならば、朝に祈るとき、二十人以上の人を祈らなければなりません。そうして一日に、七十人以上の人を祈ってあげなければなりません。食口と共に食べ、食口と共に暮らしなさいというのです。人にとって最も深刻な時間は、御飯を食べる時と眠る時です。おなかがすいて御飯を食べる時、そして、眠くなって寝床に就こうとする時は、すべての神経がそこに集中するからです。その反面、目が覚めるときはすべての神経がゆるんだ状態になっているため、深刻ではありません。ですから、一日の生活の中で、三食の御飯を食べる時と、眠る時が一番深刻な時間です。み旨のために、そのような深刻な場で祈りなさいというのです。そのようなときに祈る一度の祈りが、普通のときに祈る何度かの祈りよりも良いのです。

 

 

 

30 皆さんは、常に食口と御飯を一緒に食べ、一緒に寝るという心情で、食口のことを考えなければなりません。そうすれば、誰々はどうだという感触を得るようになるのです。そのように感覚が鋭敏になれば、遠くにいる人も近くに見え、近くにいる人はさらに近くに見えるのです。見れば、すぐに分かるというのです。心霊を指導する人々がその程度の能力もなくて、どのようにして人々を指導できるでしょうか。

 

自分が一つの生命に対してどれほど精誠を尽くしたかということが問題です。イエス様が、「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ八・三六)と言われたみ言の意味も、一つの生命を宇宙よりもっと貴く思い、そこに心情の錨を下ろされたことを知らなければなりません。世界を忘れ、一つの生命のために一対一で闘いながら、人間の価値の谷間を訪れて入っていかれたイエス様の心情的境地に到達するとき、新しい食口との縁が結ばれるのです。

 

31 祈りがどれほど偉大か、祈りの力がどれほど大きいかを知らなければなりません。私一人がここで祈りましたが、立体世界の霊界を、無限の世界を動かして動員できるというのは偉大です。そのため、祈りは磁石のような作用をします。また祈りは、力をもっているので、皆さんが将来、責任者になり、食口のために二十四時間決意して、「それはすぐにできる」と信じて祈れば、そのようになるのを見ることができます。実際、そのような力があるのです。ですから、聖書にも、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ一八・二〇)とあります。三人だけでも合わさって祈れば、偉大な力をもたらすことができるというのです。

 

 

第4節 教会長と説教

 

 

天聖経  第九篇 目次 第三章 教会長の道

第四節 教会長と説教

 

1 責任者は、環境を避けずに、その環境を消化しなければなりません。環境を消化できる能動的な人になれずに、どのようにして天のみ旨を成し遂げられますか。神様は、誰にも倒されることのない確固たる位置に立たせるために、作戦上、監獄に入れて試練に遭わせるのです。過去に苦労した基準があるので、現在の生活において苦労があっても、そのときの立場を思いながら耐えていけるのです。先生も興南監獄に入ったとき、そこで毎年、模範労働者賞を受けました。神様がそのような過程を経て先生を訓練させたことを思いながら、皆さんを訓練するのです。

 

子女が困難な立場で父母に何かが欲しいと言うとき、それを与えられない父母の心情はいかばかりでしょうか。先生は、苦労の路程を踏み締めてきたので、どのようなことでも喜んで受け入れます。価値なく苦労したことは役に立ちませんが、非常に大きなみ旨を抱いて苦労した経歴は、億千万金とも取り替えることができないほど貴重なのです。これが先生の財産です。先生は、説教のために準備したことがありません。生きた体験によって事実を話すときは、みな感動せざるを得ないのです。

 

 

説教を準備するときの心構え

 

2 責任者は、伝道の地で自分の骨と肉が溶けていくような感性をもたなければなりません。「父よ!私はこんなに足りません。それでも私が行かなければならないというので、もどかしく思います」と祈る心情で、壇上に出て説教をしなさいというのです。自分を中心とせず、真の父母と天地を身代わりし、神様の通牒文を手にして進み出た神様の精兵だと思いなさいというのです。

 

先生は、説教する前に、説教のために祈る時間よりも食口のために祈る時間を多くもちます。「父よ!この者たちを引き上げなければならないのですが、どうすればよいでしょうか。これですか、あれですか」と精誠を尽くしてから、心の命ずるままに説教するのです。

 

心情を離れては生命がないというのです。心情の谷間の道は苦痛で凄惨な道です。師を求めるにしても、知識の師を求めるのではなく、心情の師を求めなければなりません。心情の谷間は、中に深く入れば入るほど涙であり、自分がなくなるのです。目的地に近づけば近づくほど、目的とみ旨が大きくなり、「私」は小さくなります。小さくなる私と大きくなるみ旨に相対する心情さえあれば、万事は解決するのです。

 

 

 

3 父母の心情をもち、僕の体で祭物の過程を経ることによって、祭司長であると自称できなければなりません。祭司長になるためには、祭物となる子女がいなければなりません。直系の子女がいなければ、信仰の子女でもいなければならないというのです。礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に報告し、贖罪しなければなりません。ですから、礼拝時間は自由のない時間なのです。

 

 

 

4 一年十二ヶ月、ただ適当にやって壇に上がり、「皆さん、聖歌を歌いましょう」と言っては、「お父様、何がどうでこうで……」と祈る、それではいけません。そのようにしていては、天の国が成就されず、生命が復活しません。母が子女を生むのを見てください。肉身の赤ん坊を一人生むのも、五臓がちぎれるほどの苦痛に耐え、顔にはありとあらゆる表情をするではないですか。それ以上に無我夢中にならなければなりません。必ず汗を流し、涙を流して現れなければならないのです。

 

 

 

5 霊的指導者は、体恤する何かがなければ、仕事ができません。本を見て説教の準備をするのではありません。本を見て神様が見えますか。その本の中に神様がいますか。そうではありません。神様は神霊の中にいらっしゃるので、神霊に通じなくてはならないのです。体恤信仰は最も貴いものです。ですから、統一教会に入ってきた食口であれば大概、体恤するようになります。皆さんの現実的生活圏内にすべて起こることを、必ず体験するのです。本当にみ旨のために、もてる精誠をすべて尽くせば、天が共にいてくださるのです。

 

 

 

6 皆さんが神様と直接的で密接な関係にあるとすれば、説教の準備をしなかったといって心配してはいけないというのです。そのような訓練も必要です。先生が有名な人に会えば、一日に十回、話をするときもあります。そのときは、場所によって内容の異なる話をしなければならないでしょう。それをすべて準備してするのでしょうか。そのようなときの心は、完全に祭物としての自覚をもつのです。

 

「私」という存在意識がありません。所有観念もありません。完全に捧げられる立場です。そこは厳粛な場です。祭物の前に立った人々は、頭を下げなければならないのが天法です。その祭壇には、神様が臨在されて干渉するのです。心情的にきょう、私はこの祭壇に情熱とすべての力とすべての努力を捧げるというとき、自分の一生にない誠心誠意を尽くして口を開くとき、神様は助けてくださいます。祭物は、深刻な立場で捧げられるのです。

 

 

 

7 説教は聖日にだけするものだと考えてはいけません。聖日にさえなれば、「聖書はどこを読もうか。賛美歌、出てこい。聖歌、出てこい」、これではいけません。人々に対する情報を中心として、生きた材料を中心として、聖書からそのような歴史を抜き取り、その人のことと聖書の内容を照らし含わせていきながら、おもしろく説教をするのです。そうすれば、聞く人は自分のことを話しているので、すっかり夢中になるのです。喜びます。本を見てしようと考えるなというのです。人から本も出てくるのです。人自体が本の原本です。

 

 

 

8 先生にも、今までに印象に残っていることがあります。強盗と一緒に手錠をはめられて興南監獄に移送されていくとき、山の谷間に差し掛かり、小川の道に沿って歩いたそのときが、本当に新鮮に感じられます。くねくねした山の谷間の道を歩いたそのときが、今も忘れられません。印象的でした。それは、新しい世界に向かって出発した歩みでした。「これから日ごとに行くべき私の道は、どこだろうか。刑を終えて出たら、どのようにすべきだろうか」、このことがとても気になりました。困難な監獄生活ですが、「私は行く」というのです。そのときが新しい自我を覚醒できる良い機会となりました。先生に残されたのは、そのようなものしかありません。

 

 

 

9 先生は、かつて咸興(ハムン)で穴を掘る仕事をしました。おなかがとてもすく中で仕事をするので、つるはしを握り締めた手が上がらず、精魂が尽きて意識まで遠のくのです。そこで「昼食の時間だ!」という声を聞けば、その声がどれほどうれしいか分かりません。そのとき、御飯を食べるためにつるはしを地面に打ち込み、振り返るその瞬間の気分、先生には、そのような生きた歴史の材料が測り知れないほど多いのです。いかなる苦労も、そのようなものに比べることはできません。

 

このような悲惨だった事情が先生を滅ぼすのではなく、歴史に永遠に輝くものになることを知らなければなりません。それで、神様がしまっておいた宝物をかき集められるその日まで、行かなければならないというのです。そのような受難の事実を世界万民に打ち明けて話をすれば、どうなるでしょうか。他の内容で一時間説教をするより、この内容で十分だけ話をすれば、痛哭が起こるというのです。それほど良い説教内容がどこにあるかというのです。それで皆さんに、心配することなく三十歳前までは苦労しなさいというのです。

 

 

 

10 説教をするときは、絶対に皆さんが題名を定めて出ていってはいけません。本来は、祈りの中で題名が与えられなければならないのです。準備した題名では、絶対に感動させられません。他の人を泣かそうとすれば、「私」が説教を準備し、祈る中で涙を流さなければなりません。このような人、あのような人、千態万象の人を思いながら、今日の韓国の実情から思いを巡らせ、「きょう訪ねてくる人はこのような人だろう」と定めるのです。それを前にして涙を流しながら壇上に立ってこそ、涙を流させる恩恵を与えることができるのです。手紙も、涙を流しながら書いた手紙であってこそ、相手を泣かせることができるのと同じように、自分が主体的な動機にならなければなりません。そのようにせずに、相手がそのようになるというのはうそです。そのため、皆さんが壇上に立つときは、その壇が審判廷だということを知らなければなりません。前よりもっとうまくやることを願ったのに、できなかったときは、悔い改めなければなりません。恩恵を与えられずに説教を一時間したならば、三時間悔い改めなければなりません。説教をうまくできず、恩恵を与えられないというときは、三倍以上悔い改めなければなりません。

 

 

 

11 責任者は、誰であっても、食口が自分の事情を話すときはよく聞き、内容を記録して、全体の見本となる教材として使うことができなければなりません。そこに感動すれば、日曜日の説教の題名として定め、精誠を尽くして食口にその感動を伝えなければなりません。

 

いつも天をお迎えして生きなければならないのです。天をお迎えせずに、自分中心に説教をしてはいけません。本を参照して説教すれば、天が役事しません。流れていってしまうのです。生命の種は天から来たのです。人間からではなく、知識からではありません。

 

そのため、説教をする前には必ず涙を流していかなければなりません。涙を流してこそ、父母となる立場でその子女たちのすべてのものを悔い改めさせることができるのです。涙を流すためには、まず涙の門を開かなければなりません。子女の涙の門は、父母の涙によって開くべきです。涙の門を開いてこそ、涙が出てくるのです。痛悔の涙を流してこそ、痛悔の門が開かれるのです。

 

 

 

12 いつでも、負債を負った人の立場にならなければなりません。そのような人が公人です。自分が責任を果たせなければ、他の人が身代わりするのです。周辺を見て、「このような面は私ができないことだから、食口がしてくれているのだなあ!」と考えなければなりません。今まで統一教会全体が打たれるべきことを、先生が代わりに打たれてきましたが、これからは、個人と家庭、氏族、民族を越え、世界的なすべての事件が、食口に一つずつやってくるでしょう。先生ももちろん打たれましたが、全世界の食口が打たれながら、峠を越えていく過程です。

 

このような面から見るとき、私たちは同じ運命にあります。公的な面で、霊界が直接指導する人々の言葉を聞くというのは深刻です。これをくすくす笑いながら聞いてはいけません。それは先生も同じです。良いことがあれば、話すより、笑うより先に、天を思わなければなりません。悲しみがあっても、天を先に考えなさいというのです。私に悲しみが襲っても、「私が天の代わりに受ける」というとき、その悲しみを毅然として越えていけるのです。

 

 

 

13 悲しみにぶつかったあとには、必ず代価があります。地上で蕩減する過程の中で、本当に善の立場で悲しい涙を流せば、必ず善の喜びが来るのです。ですから、悲しみを十ほど受ければ、喜びが千ほど訪れるというのです。そのような生活を感じるので、信仰生活を続けるのです。十ほどの悲しみを越えても、一ほどの喜びしか訪れないとすれば、そのような喜びは何日かすれば下がっていくようになっています。

 

本当に天に従っていく道は、真の悲しみを受ければ真の喜びが、「私」が想像できないほどの喜びがやって来るのです。私が受けられず、私が感じられなければ、自分の妻や自分の子女、自分の先祖にそのような喜びが訪れるというのです。ですから、すべての出来事を軽率に扱うことができないのです。いつでも神様に侍り、相談する姿勢で生活しなければなりません。心が重苦しければ、座って祈りなさいというのです。寝るのが問題ではなく、働くのが問題ではありません。祈りが生活化されなければなりません。

 

 

精誠が込められた説教

 

14 先生は、できることなら、原稿を書こうとしません。それで、原稿をもたずに話すのです。原稿をもってすれば、天の役事が起きません。ですから、皆さんは、原稿を書いたとしても、自分が書いた文章を覚えてはいけません。原稿を書いたとしても、自分が原稿を書いたときの記憶が残っていてはいけません。原稿を読むとしても、その行を見ながら読んでいると考えてはいけないのです。

 

それは、共鳴圏に入っていくためです。自分の心と体が、その恩恵の雰囲気や天が介在する環境に和合するのです。そこには自己主張があり得ません。あるときは、「私」が対象の位置に立ったり、あるときは主体の位置に立ったりするのです。対象の位置に立つべきはずなのに主体の位置に立てば、雰囲気が壊れていきます。ですから、祈りが必要です。涙を流すことのできる心情で出ていけば、心情の基準が既に一番下に下りていて、すぐに分かるのです。きょうはどのような話をすべきだということが分かるのです。

 

 

 

15 皆さんは、説教をしたあとも、耐え難い恥ずかしさに身もだえしなければなりません。そうしてこそ発展するのです。十年前も十年後も、ただ壇上に立って習慣的に説教をしたとすれば、次第に枯れていくのです。自分の話をしてはいけません。整理したノートをもって十年、二十年使い回せば、そこに生命があるはずがありません。いつも自分の言葉を語るのではなく、新しい言葉、天の言葉を語らなければなりません。知っている言葉でも、いつでも天の言葉を語らなければならないのです。

 

ですから、原稿を書くときも、自分が書いた原稿を忘れてしまわなければなりません。このような霊的活動というものは深刻です。ですから、先生は、十二時ではなく、三時、四時でもそのような霊的な刺激がくれば、眠気などどこにあるでしょうか。霊的世界の感応や触感、刺激というのは、眠りを超越します。眠りの世界を越えるのです。

 

 

 

16 統一教会の責任者は、説教をするとき、体と心を尽くして天地を感動させ、聴衆を感動させ、過去、現在、未来の感動圏を動かせる動機が必要です。その動機がなくなるときは、大衆化されるのです。そのため、それはだんだんと世俗化されるのです。ですから、天に代わってしなければなりません。また聖日のみ言は、本を見て研究してはいけません。深い祈りの中で題名を悟らなければなりません。題名をつかむために祈り、生命の感動を受けた立場で、自分が最後の宣言、国が滅んだり栄えたりするすべての問題をかけて、宣言する気持ちでなければなりません。

 

言い換えれば、刑場に出ていって宣布する気持ちでなければならないのです。その書葉が成就されるか、成就されないかという境界線で宣布すべきです。祈りも同じです。絞首台に出ていく死刑囚のように深刻なのです。歌詞や音声はすべて同じ歌でも、人々が歌う歌が感動を与えようとすれば、そのすべての内容を知らなければなりません。声帯から出てくる言葉が深い内容をもって共鳴するようにしなければなりません。共鳴です。山びこのように行っては来て、自分の胸を締めつけ、「私」が感動して姿勢を動かすことのできる位置に、どのようにして入っていくかというのです。そのような歌を歌ってこそ、大衆に感動を与えるのです。

 

 

 

17 説教をするときや講義をするとき、新しいものを提示しなければなりません。どのようにしてでも、刺激を与えなければなりません。祈りをしてでも、補充しなければなりません。それでも駄目なら、命を懸けてでも補充しなければなりません。皆さんは、道を歩きながら、新しいものを探す気持ちをもって行かなければなりません。また教会に行くとしても、何となく行ってはいけないというのです。新しい立場と環境に接するという気持ちをもって行ってこそ、新しいものが生じるのです。教会に行く道も、直線コースだけで行くのではなく、回っていくこともしなければなりません。南に行くところを、北にも行ってみなさいというのです。なぜなら、新しい道を探すためです。

 

また、そのような実感が湧かなければ、家の暮らしを変えてみなさいというのです。数ヶ月たってもただそのまま置いておくのではなく、逆さまに取り換えてみなさいというのです。そうすれば考えが変わります。このようにすることが必要です。祈るときも、壇の前で祈る場合と一番後ろ側で祈る場合では、その感じ方がそれぞれ違います。聴衆の中で祈る場合は、また感じが違うのです。そのため、環境的な変化をどのように模索するか、これが必要です。

 

 

 

18 皆さんが説教をするとき、昔にしたものを再びすれば、食口はそれが分かって気分が悪くなるというのです。原理講義をするときも、昔のような形ですれば、気分が悪いというのです。それは、人が春夏秋冬、四季に従って変化を感じるのと同じだからです。朝だからといって、いつも気分が良いのではありません。何の心配もないのに、とりわけ憂鬱な日があるというのです。朝日も明るく、爽快な天気なのにもかかわらず、自分自ら憂鬱なときがあるというのです。

 

そのようなときは、どのようにして解洩するのでしょうか。これを変動させる刺激的なものがなければ、もっと憂欝な場に訪ねていきなさいというのです。このように反対の新しい刺激を与えたり、もしくはそれを克服できる直接的な新しい刺激を起こすなどして、補充していかなければなりません。皆さんが解決方案を立てて、一日一日の生活を調節していくことができなければ、これから多くの人の心霊を指導できないのです。

 

 

 

19 み言、実体、霊によって出来ている人間なので、まずみ言を立て、人格を立て、神霊の役事をしなければなりません。それでこそ正常です。もし、まず神霊を先立たせれば、段階を飛び越えたことになるので、蕩減が大きいのです。説教はまず、自分が感動しなければなりません。自分の祈りが自分を感動させなければなりません。説教は、同情を受ける立場でしなければならないのです。「私」を通して、生命の縁を結ぶべき人々の哀れさを神様に訴え、同情を受ける立場に立たなければなりません。皆さんがそのような同情を受ける立場に立つためには、自分が苦労をしながら天の道を探し求めていた立場に帰らなければなりません。そのようにするためには、怨讐がいてはならないのです。

 

 

 

20 精誠とは、一度に捧げるものではありません。説教をするときも、大衆を前にして説教をすると考えずに、一人を前にして説教をすると考えなさいというのです。一人が恩恵を受けて涙を流せば、それが全体に広がっていくのです。今まで教会を発展させられなかった理由は、根もなく空中に浮いている説教をしたからです。吸収される土台がないので、伝道できるはずがないのです。教会長自身も、自分の足場は自分が固めなければなりません。先生が何かの指示をしたとき、教会長が命を懸けて動く手本を見せてこそ、一般食口も動くのです。

 

 

 

21 世の中の万事が、すべて説教の資料にならなければなりません。自分が苦労したものがあれば、「私はあるとき、このようにした」ということを説教で語るのです。そのため、教会長は苦労をたくさんしなければなりません。人生修練をたくさんしなければなりません。かわいそうな労働者から乞食、もしくは高級官吏、もしくは権勢圏内にある位置まで、一時経験するのも必要だというのです。そのような状況を中心として、そのようなときに公的立場において、ある一時悲しかった事実、そのようなものに対して自分が体験した話は、実感が湧くのです。

 

 

 

22 皆さんが説教をし、講義をするとき、原理の本をただ見るのではなく、原理の本に対してある程度まで基準ができていれば、原理の本の内容を中心として、皆さん自身がそのみ言の中に入り込んでいかなければなりません。このみ言がどれほど恐るべきみ言だろうか、これはどれほどの犠牲の過程を通して発見されたのだろうか、ということを体験しなければなりません。それを感じれば、必ず痛哭するようになっているのです。

 

神様の復帰の心情圏内に入っていけば、そこには言葉にできない事情が根となっているので、我知らず霧の中に吸い込まれ、一人で身もだえするようなことが起こるのです。そこで神様を身代わりした主体性を確定しなければなりません。そこから自分が主体となって役事が起こるのです。霊的な協助基盤がなければなりません。そのような境地に入れなければ、祈りをしなければなりません。精識を尽くさなければならないのです。

 

 

 

23 原理講義をするとき、原理を完全に知らなければ、相対的な影響を及ぼすことのできる心的基盤を備えられません。そのためには、祈らなければなりません。「父よ、きょうはこのような題名でもって講義いたします」と祈ってからしなければなりません。祈りの中で講義をしながら、神様がこのような心情をもったということを感じなければなりません。神様と対話しながら講義するのです。「あなたがこのみ言を中心として、あなたが必要とする対象として、きょう復活させる人は誰でしょうか。あなたが願い、待ち望まれる人がいれば、私のもてる力を尽くして、その人を逃しません」と言わなければなりません。「私のやり方で、いつものように講義すればいいだろう」というのは、伝達はされますが、人の生命を復活させることはできません。絶対に生命を蘇生させることはできないのです。

 

 

 

24 皆さんが公的な壇上に立つとき、その心は刑場に出ていく心情と全く同じです。それは、公判廷で判事の峻厳な判決を仰ぐ瞬間に立った男性と同じ心情でしょう。すなわち、祭物だということです。この時間、「私」が数多くの生命に責任をもっているというのです。一言うまくやれば命を与えることもでき、一言誤れば命を奪うこともできるのです。医者が注射を誤って打てば、その命を犠牲にするのと同じです。一番恐ろしい場です。その場には天が共にあるのです。

 

 

 

25 講義をするときは、必ず原理のみ言自体を語るとは考えずに、先生の歴史を語り、神様の歴史を語ると考えなければなりません。結局は、「私」がその歴史を相続し、その歴史と一致するために語るという意味なのです。十回すれば十回することによって深くなるので、深くなった分、私が心情的に近くなるために語るというのです。他の人を救うよりも、自分が近くなるために語るというのです。十回すれば十回した分だけ近くなり、十回すれば十回した分だけ深くなるのです。

 

そのために祈れば祈った分、それが深く、広くなります。高くなるのです。高まるので、心情基準において自分が発展し、心情一体を中心とした発展の度数を強化できる機会が生じるのです。そのような時間がみ言を伝える時間であり、食口を教育する時間です。

 

 

 

26 先生は、祈るとき、膝にたこができるほど祈りました。祈れば、一日に十二時間以上するのです。問題を解決するための談判祈祷をするのです。そのような経験を通して習慣化された境地に入れば、何かの問題に対するとき、それがどのようになるか、すぐに結果が分かるのです。感じられるのです。説教も、本を見てしてはいけません。霊界というそれ自体が、本然の状態が、本を中心として動くようになっていないのです。愛を中心とした世界に入っていって主管を受けるのが原則です。そして、復帰は愛を中心とした人格完成を意味します。愛を中心として感動し、愛を中心として人格を天の側に接ぎ木するのです。知識ではありません。本を見てするのでは駄目なのです。それでは、生命の復活になりません。

 

 

 

27 説教の題名を定めるためには、闘わなければなりません。一大戦争です。題名を一週間前に本を見て決めれば、天が役事しません。それは「私」と関係ないのです。それでは絶対にいけません。ですから、説教の題名を決めるまでは、死ぬか、生きるかの闘いをしなければなりません。きょう、私が壇上に立つとき、聴衆の中から死ぬか、生きるかという問題をもって天が分別させることのできる人を探さなければなりません。そのためには、どのような人が来るのか、既にすべて分かっていなければなりません。それが合えば、霊界が開かれるのです。

 

先生は、いつも説教の題名を何日も前に準備しません。大概、出る十分前以内に説教の題名を定めます。その説教内容に、私が復活しなければなりません。そのように体験できる立場に立ってこそ、堂々としているというのです。しっかりと立てば、姿勢が定まります。そして、相対基準が定まり始めます。一度にすべて定まるのではありません。最初は一人、二人です。その相対基準を中心として、その人が感動して回っていけば、広がっていくのです。

 

 

感動を与える説教

 

28 数十万の聴衆を感動させようとすれば、原稿を書いてはいけません。霊感が必要です。そのため、霊的指導者は、いつも涙が途絶えてはいけません。深い心情の言葉を語れば、我知らず胸の中で涙が爆発できなければならないのです。そのような心情を失ってはいけません。それを失ってしまえば、生命を復活させられません。これは深刻な問題です。

 

皆さん自身が一つの生命を生かすために、どれほど深刻になってみたかというのです。皆さんを医者と比べてみるのです。メスをもった医者が手術台に行くときは、メスの先一つに生命が行ったり来たりするのです。そのように深刻な医者の立場と、多くの生命に責任をもった責任者としての自分を比較してみれば、「私」が一人の生命を扱う医者より、もっと深刻になる時が来るというのです。これは普通の言葉ではありません。そうでなければ詐欺師になるというのです。

 

 

 

29 聴衆に感動を与えようと考えず、自分が説教の中でまず感動しなければなりません。語るそれ自体の内容を中心として、「私」自身が恩恵を受けなければなりません。私に説教するのです。私が感動し、霊的基準が高い人が感動できれば、聴衆は恩恵のるつぼに入っていくのです。

 

自己啓発です。説教は相対を啓発してあげるためのものではありません。自分を啓発するのです。できるだけ、先生のみ言をたくさん引用しなさいというのです。皆さんが祈るよりも、先生の説教集を見なければなりません。恩恵を受けるものを一回、二回、三回読んで、骨子を中心に話をすれば、それが、皆さんが何週間勉強するよりも良いというのです。膨大な内容があります。その祈りの中には、皆さんが及ぶこともできない高い境地の内容があるのです。

 

 

 

30 聴衆の前に出る時は、まずどのような態度を取らなければならないかということを考えて、壇上に立たなければなりません。その次に、五分、十分以内に、聴衆に自分の印象を残せる準備をしなければなりません。この五分、十分以内に聴衆が自分に傾かなければ、難しいのです。ですから、最初にどのようにするかというのが問題ですが、全体が関心のある話から始め、もしそれができないときは、全く関係なく、聞いたことがない、知らない話で始めるのです。そうして、その話に対して「どういうことか」と引っ張られてくるように作戦を展開し、自分の作戦圏内に入れなければなりません。

 

 

 

31 その人が妥協する心のある人なのか、それとも融通の利かない人なのか、それを把握しなければなりません。その人が心理的にどのようなタイプの人なのかをつかんで、その人に合う話を研究しておかなければならないのです。「ああ、あの人は私の友達の中で、あのタイブの人のようだ。あの人は私が知っている百人の中で、あのタイプの人だな」ということを比較、研究しなければなりません。

 

そうして、三つ、四つのタイプの人を選んで、試してみるのです。柔和な人なのか、驕慢な人なのか、強烈な人なのか、優柔不断な人なのかを見ながら、劇的な場面を用いて、涙を流すべきところでは涙を流す立場に立たなければならず、許してあげる立場では許してあげる表情と感情をもって、その人を動かすのです。ですから、見えない闘いをするのです。その次には、その人に詩的な感性があれば、詩を詠んでいくのです。話の途中で考え出し、自分が詩情に浸って一分くらい詠んでみるのです。文学的な感性があれば、優しくささやく感情で話してみるのです。

 

 

 

32 皆さんをどこに連れていって立てても、原理の前編を講義しようと、後編を講義しようと、すべて通じ、詰まることがないようにしなければなりません。それ自体が一つの公式になっていなければなりません。そうして、これをすべての現象世界に公式として活用できる人になれば、どれほど膨大な知識圏を備えられるでしょうか。皆さんは、原理がおもしろくて夜を徹して本を読み、そこに酔って内在的な面でも発展をもたらさなければならず、生活面でも発展をもたらさなければなりません。自信がなければ発展がないのです。

 

 

 

33 名講師になろうとすれば、どのようにすべきでしょうか。全国の有名な講師が講義したものを録音し、それを聞いて評価し、良いものだけを抜き取って、自分のノートを作っておかなければなりません。録音したテープがいつも積まれていなければなりません。本当に機知に富んだ内容、数十人、もしくは数百人が才知にあふれて講義した内容を抜き取り、自分が講義するときに活用するのです。そうすれば名講師になれます。毎日のように、八時間以上講義しなければなりません。新しい人を一人でも連れてきて、講義しなければならないのです。

 

 

 

34 皆さんが聴衆を感動させるためには、自分がまず原理の本をつかみ、涙を流さなければなりません。その原理の本をつかんで夜を徹して読みながら、時間がたつのを惜しみ、ぺージごとに神秘を体恤する人にならなければなりません。それを感じたあと、聴衆に感動の役事がどのように起きるか、原理に酔って説教してみなさいというのです。そうすれば間違いなく、新しい感動の役事が起こります。死んだもの、すなわち生命力を失ったものは退化し、生きたものは必ず発展します。発展すれば、新しいものが生じるというのです。原則がそうなのです。

 

 

 

35 講義をするときは、講義の時間に「私」が何を残すのか、また話をするときは、その話を通して何を残すのか、手が動くときは、私の手が動いて何を残すのか、私が行動するときは何を残すのか、このようなことを確かめなければなりません。ですから、大変な道を歩みながらも、何を残すのかを思い巡らせなければなりません。困難で疲れる道をひたすら歩きながらも、何を残すのかを考えなければならないのです。興味が絶えず湧き出てこなければなりません。疲れていてはいけないというのです。難しければ難しいほど、そのような思いに追い立てられていくのです。

 

 

第5節 教会長と伝道

 

 

天聖経  第九篇 目次 第三章 教会長の道

第五節 教会長と伝道

 

1 統一教会の現在の立場を見れば、今まで責任者たちがしてきた活動方法をもってしては、これから革新的な発展を期待できません。昔の考え方と昔の生活態度、もしくは昔の伝道方法や信仰姿勢をただそのままもっていてはいけないのです。今までそのようにして歩んできましたが、今日、期待するほどの結果をもたらせなかったからです。良い結果をもたらしたのであれば分かりませんが、そのようにできなかったことを見るとき、過去のような信仰姿勢と生活態度、伝道方法から抜け出し、新たに変化した姿にならなければなりません。そのため、私たちが新しい信仰姿勢、新しい生活態度、新しい行動を提示しなければ、新しい発展をもたらすことは難しいのです。

 

 

心情基準をまず立てなければならない

 

2 発展は、私たちに最も必要なものです。しかし、その発展を追求する前に、自分自体内の純粋さをどのように造成するかということがもっと問題です。ですから、皆さんには、祈る時間が必要であり、精誠を捧げる時間が必要です。精誠は何となく捧げてはいけません。過去を清算して捧げなければならないのです。過去の意識が残っていれば、その意識が「私」をどこに引っ張っていくかということを考えなければなりません。過去の意識に私が陶酔し、どれほど強力な立場に立っているかという問題を中心として、過去は純粋だったのかと批判してみなければならないというのです。

 

純粋な立場で、それが善であったかどうかを批判しなければならず、現在はそのような立場に立っているのかを批判しなければなりません。また、私が望む願いが純粋なのかを批判しなければなりません。

 

純粋な善の立場とは何でしょうか。自分のために生きるところでは、純粋な善は存続できません。善は自分を強化させるところでは存続しないのです。善は、神様に侍るための基台だからです。善の中で神様に侍るということは、善の主人である神様に侍るということです。善の主人は、堕落した人間ではなく神様です。

 

 

 

3 地方に出ていって伝道するとき、まずその村の人々と内的な面で一体にならなければなりません。内的な一体とは、心情統一を意味します。その次に生活統一、理念統一の基準を連結させていかなければなりません。現実的な舞台において、神様を中心として心と体が一つにならなければなりません。すなわち、神様と一体となった心に、体が屈服しなければならないということです。そうしてこそ、蘇生、長成、完成の三点を連結させることができます。個人的にそのように歩むだけでなく、この民族をそのように導いていかなければなりません。

 

 

 

4 牧会者の中に、自分が天的完成基準に立ったと考え、自分に侍って敬意を表することを要求する人がいます。それは大きな誤りです。侍られるより、侍ってあげ、与えるのが父母の立場です。兄弟の立場で見れば、アベルです。父母の立場で見れば、父子関係です。自分はアベルなので、カインが侍らなければならないと考えるのは、大きな誤りです。何のためのアベルかというと、父母の立場を復帰するためのアベルです。ですから、父母の心情を先にもたなければ、アベルになれません。それが原則です。兄弟同士でアベルだと考え、父母としての立場を忘れてしまう人が多いのです。その欠陥を早く一掃しなければなりません。

 

 

 

5 私たちは発展できる内容を十分にもっています。時代的な条件と環境も、完全に具備されています。ところが、発展できないのはなぜでしょうか。この時代と立場、現在の置かれた環境、村であれば村に、プラスになっていないからです。利益を与えていないからです。もし物質的な面で利益を与えられなかったとしても、精神的な面ででも、誰もが利益を受けているという事実を切実に感じるようになれば、「教会に来るな」と言っても来るようになっているのです。

 

 

 

6 教会が発展できない原因は、どこにあるのでしょうか。それは、伝道した人に、最後まで関心をもってあげられないからです。伝道した人に対して、時がたつにつれてだんだんと、さらに関心をもたなければならないにもかかわらず、伝道するときは関心をもっても、伝道をしてからは無関心になるというのです。少なくとも三年までは、どのようなときでも関心をもってあげなければなりません。

 

なぜでしょうか。人の心霊の程度は徐々に発展します。初めて原理を聞いたときと、一年後の立場は違うというのです。一年が過ぎれば、原理の内外に対する立体的な内容を理解するようになります。それを理解すれば理解するほど、原理について知りたい気持ちがより強くなるのです。それで、自分を指導できる人と接近したいと思うようになるのです。このような人に時間をもっと投入し、細かい計画を立て、内面的に渇望するその心を解決してあげなければなりません。

 

 

 

7 教会が発展できないのはなぜでしょうか。それは責任者が、他のために生きるという内容をもって生きることができていないからです。ですから、霊界から協助しないのです。責任者は、食口に命令することは知っていますが、食口の使いをすることは知らないというのです。問題はそこにあります。自分の生活の九五パーセントを人のために生きようという責任者がいないので、発展できないのです。

 

 

 

8 伝道とは、サタン世界を捨てて、喜びながら天の道に従ってくるようにすることです。天の国に導くのです。皆さんを見れば、伝道すると言って、その人が喜ぼうが喜ぶまいが、ただ無理やり「来なさい、来なさい」と言っていますが、それではいけません。人は霊的存在です。

 

皆さんは、ある一人の人に対して祈り、一度実験してみなさいというのです。ある一人の人をこの上なく愛し、その人をみ旨の前に立たせるために、苦しい心情をもって涙を流してみなさいというのです。そして、研究してみなければなりません。本当にその人の父母が愛する立場以上の場に、「私」がどのようにして行くのかということが問題です。これが闘いです。その人の父母以上の心をもち、私がどのようにしてその人を占領していくのか、これが問題です。

 

 

 

9 アベルがプラスならば、カインはマイナスです。サタン世界に対して私がプラス、アベルの位置にいるのです。伝道は、サタン世界のプラスが天の世界のマイナスになるように、服従させることです。創造するのです。私と一つになれるようにする再創造です。嫌々やってはいけません。喜んでしなければなりません。神様は、天地創造をするときに喜びでもって造られたのです。悲しみで造られたのではありません。

 

ですから、自分の困難なことや大変なことよりも、それ以上に驚くべき愛を与えなければなりません。自分が全体のためにいると考えるときは、全体のために与えようとすれば、その人が全体の前に主体となります。再創造になるのです。投入するのです。再創造がすべて終わったあとに、自分が主体になるのです。その主体の前には、全体が喜んで頭を下げるのです。

 

 

伝道方法と姿勢

 

10 どのように伝道をすべきでしょうか。毎日のように、がむしやらに歩き回るのではなく、百軒回ったらそのうちの十軒を選び、その中から再び一軒を選んで、集中的にみ言を伝えなければなりません。一ヶ月に一人伝道することを目標に動いてみなさいというのです。そのようにして一ヶ月で一人伝道したならば、その人が一ヶ月間、精誠を捧げ、苦労したということは、間違いのない事実です。

 

ですから、一人が伝道されたのであれば、その次は伝道されたその人に、「あなたも自分の親戚に対して、私があなたにしたように精誠を尽くしながら伝道しなさい」と言わなければなりません。そのような伝統を立てて指導すれば、間違いないのです。このように、一ヶ月に一人ずつ伝道する一律的な方法で行けば、一人からその次の人につながる横的な伝道が展開し、食口が限りなく増えるのです。

 

 

 

11 皆さんは、「出ていって伝道する」と言いますが、伝道とは何でしょうか。道を教えてあげることです。皆さんは、世界のために、神様のところに帰っていく道を教えてあげるのですから、それはどれほど偉大なことでしょうか。本性の人間を見て、「お前はどこに行くのか」と尋ねれば、「いやあ!世界を通じて天の国に帰っていかなければならない」と言うのです。その道を開拓してあげるのですから、どれほど素晴らしいでしょうか。

 

 

 

12 今まで宗教は、自分の救いという問題を中心にしてきました。そのような宗教は必ず滅亡します。終わりが来ます。今は、いくら世界的になっているとしても、それは必ずもう一度復活しなければなりません。自分一人の生命を救うための宗教と、キリスト教を信じる信徒の目的はどこにありますか。自分が救いを受けて、天国に行こうと言いますが、それではいけません。天国に行くのですが、一人で行って何をしますか。万民を連れていくために、信仰しなければなりません。ですから、「伝道してはいけない」と言っても、伝道せざるを得ないのです。「善を行ってはいけない」と言っても、行わざるを得ないのです。

 

 

 

13 伝道に出るのは、「私」も生き、カインも生かすためです。言い換えれば、伝道は、神様とサタンに認証書をもらって、実践するために歩む道です。私が闘うのは、認証書をもらうために立てておいた条件のとおりに実践するためです。皆さんはそれを知って道を歩まなければなりませんが、今までそのように歩んだ人がいますか。何も知らずに行ったり来たりしたというのです。

 

ですから、一番の怨讐はサタンではありません。自分が一番の怨讐です。自分が怨讐の立場に立っているので、怨讐のサタンが飛びついてくるのです。したがって、皆さんは、いつも自分が怨讐だと考えなさいというのです。怨讐は、私たちの体を通して現れるからです。すなわち、血統を通してサタンと連結されているので、自分の体が怨讐の立場にいるのです。

 

 

 

14 「私」が生命を捧げて悪を屈服させれば、生命を探し出すことのできる神様の愛が私のところに来ます。これは公式です。秤の重りと同じです。片方が下がれば、もう片方は上がります。悪を多く取り除けば善が上がり、悪を多くもてば善が下がるのです。これと同じです。悪を取り除いた分だけ、愛をくれるのです。ですから、神様は、誰よりも神様を愛しなさいと言ったのです。神様をもっと愛しなさいというのは、神様をより愛した分だけ、神様の愛をさらに受けるということです。すなわち、神様を愛したので、神様の愛を受けるということです。

 

 

 

15 伝道するときは、必ず精誠を捧げ、天を抱き締めて涙を流しながら、「私が、きょう出会う人との縁を破綻させる天倫の反逆者にならず、すべての人に歓迎され、ここに動機を呼び起こすことのできる人になるようにしてください」と言わなければなりません。そのような心で伝道に出てみてください。そのようにしないで、晴れない気持ちのままで、村で一番良い人を訪ねていけば、冷遇され、迫い出されるのです。

 

そのようなことを皆さんが生活を通して体験し、「ああ、天がこのようなところには共にいらっしゃり、このようなところには共にいらっしゃらないのだなあ!」ということを実験しながら判別していってこそ、皆さんが発展し、人格修養にもなり、神様の心情世界に到達できるのです。欲心ばかりを抱いたまま、あぐらをかいて座り、自分の利益だけを考えていてはいけないのです。

 

 

 

16 伝道は、無限に与えながらするようになっています。もし、皆さんがそのようにしたにもかかわらず、彼らが応じなければ、天の呼び出し命令が下されるのです。許されません。善は、蒔いて収めることができないということがあってはならないので、善の人が呼ぶとき、そこに応えることができなければ罰を受けるのです。善が手を広げたのにもかかわらず、その結果が出てこなければ、その村と隣の村まで、サタンの手に巻き込まれていくので、善の縁をもった先祖たちはそのような所へ行き、伝道しようとする人が要求する基準にふさわしい対象者を、自分の子孫の中からかき集めてでも立てようとするのです。これが原則なので、夢の中ででも子孫に教えてあげるのです。

 

 

 

17 皆さんは、伝道対象者のために、夜を徹して痛哭し、祈ってみましたか。自分の父母が死んだとき以上に悲しみながら、あるいは愛する恋人が死んだとき以上に悲しみながら、痛哭してみたのかというのです。そのようにしたことがなければ、してみなければなりません。夜を徹しながら、痛哭しなければなりません。一つの命を生かすことさえできれば、何も惜しいものがないというのです。お金や服、家が問題ではありません。人を愛することに夢中にならなければなりません。

 

 

 

18 伝道しようとすれば、人の心理を研究しなければなりません。表情や歩き方だけを見ても、あの人が喜ぶか、嫌がるか、分からなければならないのです。その人の感情を公式的に鑑定できなければなりません。自分の妻の足音を聞いただけでも、彼女にいいことがあるのか、悪いことがあるのか、分かるのです。妻が部屋に入ってくれば、「あなたはなぜ機嫌が良くないのか」と言うのです。そうすれば妻は、見たわけでもないのに、既に夫がすべて知っているので、何も言えないのです。そのような物差しをもって暮らさなければなりません。関心をもって祈れば、その人が「私」に関心をもつようになるのです。

 

 

 

19 私たちが伝道するときも、きのう伝道するときの心と、きょう伝道するときの心が、出発するときから違わなげればなりません。言い換えれば、「過去にはこれこれこのような心で出発したが、きょうは新たな心をもってやらなければ」という覚悟で、出発の動機からそのように異なる覚悟で出ていけば、間違いなく良い結果をもたらすというのです。

 

しかし、そのようにできず、昔よりもっと低い立場で、きのうよりも良くない心で出発すれば、必ず後退の一路を歩むようになるのです。そのような環境の中で続けて歩めば歩むほど、破局を自ら招くことになります。また、それが一方的ではなく、四方にそのような後退の感情を起こしていけば、いくら目的が大きく、いくら自ら固く決意するとしても、それは停止状態として、動こうにも動けない、完全に固着した立場を体験するようになるのです。

 

 

 

20 人間であれば誰もが、み言を中心として復帰の道を行かなければなりません。「私」が国家的基準を蕩減できる位置に入っていこうとすれば、国家的基準の前に氏族的蕩減をしなければならないのですが、それを代行できる人を立てておけば、氏族の反対をその人が防いでくれるのです。家庭においてもそのような人を立てておけば、家庭の反対を防ぐことができます。氏族の代表を立てておけば、すべて防げるのです。それで伝道をするのです。私が高く上がっていっても、後継者を立てて、その人が私の行く道に同参(一緒に参加すること)し、反対を防いでくれる土台を広げようとすれば、伝道が必要です。

 

 

 

21 私たちは、武器をもって伝道するのではなく、愛をもって伝道するのです。アベルが愛によってカインを救う勝利の基台を通して、偽りの愛によって占領されたものを真の愛によって復帰しなければなりません。そうしてこそ、衝突することのない本然の世界に帰っていけるのです。他の手段や方法を通してすれば、再びサタンがあらゆる手段や方法をもって出てくるのです。イエス様は、死の道の上でも、生命が途切れる最後の瞬間までも、愛の道理を立ててきました。完全なカインの救いの道理を立てられなかったので、カインの救いの道理の門を開くことのできる道を、死を通して見せてくれたのです。

 

 

 

22 伝道するのは、統一教会自体のためではありません。統一教会を生かすためではなく、国を生かすために伝道するのです。世界を生かすために伝道するのです。キリスト教とは目的が違います。彼らは、自分の教派の発展のために伝道しますが、統一教会は、私たち自体のための伝道ではありません。統一教会が完成した位置に立ったとしても、統一教会が究極的に訪ねていくべきところは国です。教会を捨ててでも、国の完成の道を行けば、一段階高い位置で完成の道を迎えるようになるのです。その道がより価値のある道なので、教会を犠牲にしてでも国を探し出さなければなりません。

 

 

第六節 カイン・アベルの摂理

 

 

天聖経  第九篇 目次 第三章 教会長の道

第六節 カイン・アベルの摂理

 

1 皆さんは、教会を中心として誰がアベルであり、誰がカインであるかを分別できなければなりません。二人いれば、必ず一人はアベルであり、一人はカインだということ、三人いれば、二人がアベルになることもあり、カインになることもあるのですが、最も中心的なアベルとカインがいるということ、これを皆さんははっきりと分別できなければなりません。

 

そして、そのカインとアベルが一つにならず、分かれてはいけません。一方は右手で、一方は左手だというのです。そのため、誰であっても、「私」の神様であると同時にあなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を勝利するために最大の努力をしなければなりません。

 

 

 

2 カイン・アベルの論理は、偉大な論理です。神様の真の愛は、自分の子女を犠牲にしても、国の若者のために祭物にすることを願うのです。そのような神様の心があるので、そのような世界においてのみ統一が起こります。ために生きる愛においてのみ統一が起こるのです。ために生きない愛には、サタンが行き来し、破壊が起こります。

 

神様の願いがそうであり、万物の願いがそうであり、人間の願いがそうだとすれば、三代理想圏の願いをもって生きようという人がいるとき、滅びることがあるでしょうか。訪ねてくる天運は、その人を保護し、天運だけでなく神様が保護し、万物がその人についていくので、死の場に行っても、死なないというのです。死にそうであり、なくなってしまいそうなのに、そこから新しい道に跳躍していける発展の道を歩むというのです。真の愛の道を行くにおいては、妨害し、塞ぐ何ものもありません。サタンもここに屈服するのです。

 

 

摂理から見たカイン・アベル

 

3 カインとアベルが一緒に神様に祭物を捧げたとき、アベルの祭物を受け取られた神様の立場と、カインの祭物を受け取られなかった神様の立場が互いに異なるもののようですが、そうではなかったことを知らなければなりません。カインに、天の立場を身代わりしていたアベルを通そうという思いが少しでもあったならば、神様はカインの祭物を取られたでしょう。神様は、時間的な差はあったとしても、公平な立場で彼らに接しようとされたというのです。

 

今、皆さんが神様のみ前に宇宙的な嘆息の峠を越えて、神様が楽しみ、喜ぶ一つの祭物として現れることを願うとすれば、皆さんはどのようにすべきでしょうか。全宇宙の万物を復帰するためのアベル的な祭壇を築き、アベル的な祭物として、羊を捕まえて捧げるのではなく、皆さんの一つの生命の実体を捧げられなければなりません。

 

 

 

4 アベルは、復帰路程において何よりも重要な使命を果たさなければなりません。アベルという存在がみ旨の前に設定されたのは、堕落のゆえです。もし堕落がなかったならば、アベルという存在がみ旨の前に設定される必要性がありません。

 

アベルが一人でいては、アベルを設定できません。カインがいなければ、アベルになれないのです。また、アベルが真のアベルとして選定される位置に立つまでには、準備期間が必要です。言い換えれば、天の側に立つか、立てないかという期間が必要なのです。「統一原理」では、それを「信仰基台を立てる期間」と言いますが、その期間は祭物を捧げる期間です。祭物を捧げるのは、分かれた神様と人間を、再び心情的に紐帯を結ばせ、外的にも紐帯を結ばせるためなのです。

 

 

 

5 アベルは、どのようにすべきなのでしょうか。神様と一体にならなければならず、天使長を愛さなければなりません。そうしてサタンである天使長から、「あなたは神様の息子なので、間違いなく相続者です」と認定を受けなければなりません。このとき、天使長の立場の人はカインであり、アダムの立場の人はアベルです。

 

人間が堕落することによって、偽りの父母が現れました。それで、カインとアベルに分立して、復帰歴史を進めるのです。すなわち、アダムの代わりにアベル、天使長の代わりにカインを立て、復帰歴史を進めるのです。アベルになろうとすれば、まず神様と心情が一致しなければなりません。心情一致して神様のみ旨にかなえば、神様が愛さざるを得ないのです。

 

 

 

6 「私」がアベルになるためには、カインを探さなければなりません。カインを探し出すまでは、アベルになれません。したがって、私が神様を身代わりする立場で、僕の僕の位置と僕の位置を経て、養子の位置を経て、息子の位置に上がっていかなければなりません。そうしてカイン・アベルを中心として屈服したという条件を立ててこそ、神様のみ前に立つことのできる息子の責任が終わるのであり、その位置でカインが協助する立場に立てば、父母の位置に進むようになるのです。

 

ですから、皆さんが伝道するのは、第一に、カインをつくるためであり、第二には、アベルの位置を決定するためです。したがって、アベル的な立場で伝道する皆さんは、神様を身代わりする立場です。また皆さんは、神様を中心としてイエス様を身代わりし、僕の立場を復帰した時代に先祖ができなかったことを身代わりして、復帰しているのです。

 

 

 

7 皆さんが今、いくら神様の愛を受けると言っても、皆さんの前にカインがいなければ、皆さんはアベルになれません。カインとアベルは、どのような場で決定するのでしょうか。カインとアベルは、平安で良い場所で決定されるのではありません。

 

カインとアベルは、蕩減復帰するために必要なのですが、蕩減復帰しようとすれば、どのようにしなければなりませんか。祭物にならなければなりません。「私」の体と心が一つになり、次に神様と一つになり、次に祭物と一つになるのです。そこにサタンを立ち会わせて、カインかアベルかを判断しなければなりません。そこで決着をつけるのです。

 

 

 

8 神様は、アベルをどのような場で決定するのでしょうか。サタンの讒訴を受けない場で決定するのです。サタンの讒訴を受けない場とは、どのような所でしょうか。神様と一体になった場ですが、そこは喜びの場ではなく、最も悲しい場、最も困難な場です。言い換えれば、死のうとする場、最も悲惨な場において、神様と一体になれるのです。

 

 

 

9 原理的な立場から見て、アベルとは何でしょうか。中心です。この中心の中には、神様が入っていらっしゃらなければなりません。それでは、皆さんは、アベルになりましたか。アベルになるためには、まず従順に従わなければなりません。神様に従順に仕えて、一体にならなければなりません。神様と一体になろうとすれば、神様が「やりなさい」というとおりにすべてしなければならないでしょうか、してはならないでしょうか。神様が「やりなさい」ということをすべてできなければ、アベルになれません。九十九をすべてやったとしても、一つができなければアベルになれないのです。

 

 

 

10 神様とサタンの闘いが、人間と宇宙を中心として展開しています。ある時には神様のほうに転換され、ある時にはサタンのほうに転換される歴史が続いています。統一教会は、善悪の闘い、カイン・アベルの闘いをしています。復帰摂理はすなわち、カイン・アベルの闘いです。ここにすべて連結されるのです。

 

それでは、何のために先生が歴史性を代表し、カイン・アベルの問題を強調してきたのでしょうか。カイン・アベルの問題は、根本問題です。これは、家庭を中心とした問題です。アダム・エバの問題と兄弟の問題のゆえに、家庭が破壊されました。そのため、アダム・エバの問題、兄弟の問題を中心として、復帰しようとするのです。原点に返そうとするのです。そのように転覆される基準が、歴史の鍵となります。それが鍵になっています。それで、アダム・エバの問題と、カイン・アベルの問題が重要なのです。

 

 

誰がアベルか

 

11 カイン側とアベル側をどのように区別するかという問題を、皆さんは知らなければなりません。統一教会の教会員の中でも、二人がいればその中にカインとアベルがいるのです。どのような人がアベル側で、どのような人がカイン側かというと、侵害を受ける人がアベル側で、危害を加える人がカイン側です。じっとしている人のところに行って、いたずらに「こいつ!」という言葉を一言でも言えば、カイン側になるのです。

 

例えば、父母の前に二人の息子がいるとしましょう。その父母の相談相手になり、すべての面において、父母に代われる息子は長男だけだとしても、下の息子が何の失敗もせず、間違いも起こしていないのに、この長男が下の息子に手を出せば、父母は直ちに下の息子の側に立つのです。これが今日、社会で適用される善悪の判断基準であることを知らずにいます。危害を加えた者が、必ずカイン側になるのです。

 

 

 

12 統一教会の教会員で、教会のために熱心に働き、精誠を尽くす人を見て、「あの人は他の人と違い目立って、あれは何だ」と悪口を言う人は、既にカイン側になっているのです。カインとアベルはそのように分かれるのです。罪がない立場で批判される人、被害を受ける人は必ずアベル側になるのであり、批判する人、危害を加える人はカインになるのです。

 

何か一言語るときにおいてもそうです。話をするとしても、他の人に利益となる話をする人はアベルになり、他の人に害を及ぼす話をする人はカイン側になるのです。「私」が人の利益のために何かをするというのは、危害ではなく利益を与えることですが、自分の利益のために何かをするというのは、人に害を与えることです。ですから、人の利益になるようにするための立場が公的な立場であり、自分の利益のための立場は私的な立場です。このように、公と私を中心としてアベルとカイン、善と悪が分かれるのです。

 

 

 

13 より公的な存在がアベル側です。統一教会の教会員の中に、先に入ってきたのでアベルだと考える人がいますが、先に入っても公的な立場に立てなければカイン側なのです。間違いなくカイン側です。カインは、自分が先に生まれたのですが、アベルより公的な立場に立てなかったので、アベルに従わなければならなかったのです。

 

アベル的な存在は、より公的な立場に立った人です。公的な道を歩もうとすれば、兄弟の関係をもたなければなりません。公的な道を歩むにおいては、横的な関係が重要だということです。天国に行くにおいても、神様と一つになることが問題になるのではありません。天国に行く秘訣は、公的な道を歩むことなのです。

 

 

 

14 責任者は、無条件に自分がアベルだと考えますが、それは違います。カインを救ってあげてこそ、アベルになるのです。そして、カインと一つになってこそ、母のところに行くのです。責任者と一つになれなかったとしても、皆さん同士で一つになっていれば、その場に責任者が訪ねてくるというのです。それで、二人、三人が祈るところには、いつも神様が共にあるという言葉があるのです。

 

きょうからは、責任者を第一とする今までの考えを捨てて、食口を第一とする思想をもたなければなりません。家庭に主人がいれば、その主人は自分よりも家族を第一とする思想を立てなければなりません。そのようにしなければ、家庭天国が生まれないのです。

 

 

 

15 アベルとして生まれるためには、カインがいなければなりません。皆さんは、これをまず知らなければなりません。アベルはアダムの立場です。アダムの立場であるアベルは、第一に、神様の愛をもたなければなりません。神様の愛と関係を結べなかったのが堕落です。第二に、天使長と一つにならなければなりません。アベルにおいて、天使長格の人物はカインです。アダムの前に先に天使長がいました。そのため、アベルの前に、先にカインがいるようになっているのです。

 

神様は、人間の堕落によってアダムを失ってしまったので、アダムの代わりにアベルを立てられたのです。本来は、神様のみ前にアダムが一つになり、アダムの前に天使長が一つにならなければなりません。そのようになっていたならば、堕落はあり得ないのです。ですから、復帰とは、神様とアダムが一つになれず、アダムと天使長が一つになれなかったことを、一つになれるようにはんだ付けすることです。そのためには、神様を中心としてアベルが一つにならなければなりません。まず神様の愛を受けてこそ、アベルになるのです。

 

 

アベルの責任

 

16 神様が願う観点に立脚して生きた人がどれほどいるでしょうか。ときには、個人的に感情を害し、食口に対して鬱憤を晴らしながら、言いたいことをすべて言う人を見かけます。兄弟関係において先に出てきた人が、カインの立場にいることを知らなければなりません。アベルになるためには、カインを救っておかなければならないのです。カインを救っておかなければ、アベルになれません。復帰された長子の立場になれないのです。アベルは、復帰された長子の立場です。結局は、長子の位置にいるのです。

 

そのようにするためには、世の中にいるカイン、すなわちサタン側にいるその兄を復帰しなければならないのです。復帰するのですが、無理やりたたいて復帰するのではなく、自然屈伏させなければなりません。新しい世界観を見せてあげ、新しい国家観、新しい生活観、新しい未来観、新しい人格観、新しい血統、新しい心情を見せてあげなければなりません。何か違う姿を見せてあげなければならないというのです。

 

 

 

17 アベルは、カインのために死ぬことができ、生命をすべて捧げられる立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、カインがアベルの前に絶対屈服しないのです。カインのために代わりに死ねる立場に立ってこそ、帰っていくことができるのです。ですから、イエス様の教えの中に、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)というみ言があるのです。このみ言は、アベルにも適用され、カインにも適用されます。アベルがカインを救おうとすれば、自分の命を惜しんではなりません。そのようにしなければ、カインを救うことができないのです。また、カインがアベルに従っていこうとすれば、死を覚悟しなければなりません。そのようにしなければ、従っていくことができないのです。

 

 

 

18 長子も神様のものであり、次子も神様のものです。神様が「私のものだ」と言えず、「私」が神様を「父」と言えない、この怨恨のどん底を撃破しなければなりません。どこに行ってするのでしょうか。天使世界に行ってすべて勝った上で、しなければなりません。

 

アベルの位置にいるとしても、堕落したアダムの息子、娘であって、神様の息子、娘ではありません。復帰された天使長の位置に立つことができても、神様の直系の息子、娘の位置には立てないのです。根をひっくり返して打ち込まなければなりません。

 

ですから、皆さんは、故郷に帰って先祖を取り戻す運命が残っているのです。その先祖を世界に出て取り戻すことはできないのです。その次に、長子権を取り戻さなければなりません。そのようにできる主体が今まではいませんでした。しかし、今は、真の父母を中心とした真の息子、娘がいるというのです。彼らを中心として、水平線に和合しなければなりません。

 

 

 

19 蕩減の道は、誰が行くのでしょうか。カインが行くのではありません。アベルが行かなければなりません。涙を流すにしても、先に流さなければならず、おなかがすくにしても、先にすかなければならず、悪口を浴びるにしても、先に浴びなければならず、むち打たれるにしても、先に打たれなければなりません。そのように蕩減の道を行くのです。

 

一人の人が入ってきたとすれば、その人を導いていけるように責任をもたなければなりません。夜を徹してその人の過去を聞いてあげ、父のような立場で相談に乗ってあげ、涙を流してあげ、祈ってあげなければなりません。帰るときには、心配でその家の前まで連れていってあげ、また朝になれば心配になり、その家の前に行って待っては会う、このようなことができなければなりません。

 

結局は、誰よりも人を好きになる人間にならなければならないのです。カインを一番好きになる人にならなければなりません。そうしてこそ、その人が「私」の後ろにしっかりとついてくるのです。蕩減の道についてくるのです。そのようにして蕩減の道を行かなければなりません。

 

 

 

20 カイン・アベルを中心として、最後に行くべきところが血統復帰です。天使長の血統の根を受けたので、真のアダムの血統の根に交換しなければなりません。その根が誤ったのは何のためかというと、偽りの愛のためです。サタンの愛、サタンの生命、サタンの血統、ここから根が連結されたので、これを切ってしまわなければならないというのです。

 

そのためには、神様の愛を中心として、神様の生命と神様の血統を投入しなければなりません。ですから、聖書にも「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)とあるのです。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くすというのは何でしょうか。愛をもって、生命とすべての血を投入しなさいということです。精誠を捧げるのは、神様を愛するということです。愛を中心として天を愛するときに、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くすのが、第一の戒めだというのです。サタン世界の血統を防ぐためのものです。これは根本問題です。

 

 

 

21 皆さんは、今まで神様とサタンの戦法を知らずにいました。打たれて復帰してくる道が、アベルの行く道です。サタンは先に打つので、勝ったように見えますが、あとになると自分のもっている善のものまでプラスして返さなければならなくなるのです。悪の側が相手を打って占領したとしても、占領したそれが栄えるのではなく、悪の側にある善のものまで奪われるのです。言い換えれば、神様は餅をついて渡しておき、それを取り戻すときには粉をまぶした餅が戻ってくるのと同じ役事をなさるのです。一時は悪が栄え、善を打つ立場に立ちますが、そうかといって天が滅びるのではありません。

 

 

 

22 統一教会の食口は、原理を知っているので、アベルの立場に立っています。そのため、皆さんはまず、サタンに対抗して闘うことができなければならず、サタン世界から自分を分立できなければなりません。これは皆さんが、神様の愛の圏内に入ってこなければならないことを意味します。しかし、これがすべてではありません。

 

そのときから皆さんは、神様の悲しみの心情と、サタン世界に縛られている兄弟姉妹の悲しみの心情を解くために、自らを喜んで犠牲にしようとしなければなりません。皆さんの生命、皆さんの犠牲を代価にして、サタン世界から彼らを喜んで救い出そうとしなければならないのです。アベルが犠牲になるところから、復帰摂理は進展するのです。これが、皆さんの覚えるべき公式です。これが、神様の摂理の、一項目なのです。