真の愛で一つになった夫婦は地上E/span>天上天国の出発地
1.神様と人間のための理想世界
1.神様と人間のための理想世界
日付:一九七二年二月四日
場所:アメリカ、ニューヨーク、リンカーンセンター
行事:アメリカ九ヵ都市巡回講演
今晩、このように参席してくださった紳士淑女の皆様に感謝申し上げます。長い間、アメリカ国民の皆様に会える日を心から待ち望んできましたので、このようにお会いすることができ、とてもうれしく、また有り難く存じます。きょうは、「神様と人間のための理想世界」というテーマについて、皆様と共に考えてみたいと思います。
今、人類は誰しもが、一つの世界、あるいは理想世界を心から願っています。しかし、現在において、それを実現する可能性があるようには見えないことが、人類にとって悲劇と言わざるを得ません。
もし神様が存在されるとすれば、神様もそのような理想世界、一つの世界を願われるに違いありません。神様や人間が願うのは、一つの世界、理想世界であることに間違いありません。神様がおられるとすれば、必ずそのような世界をつくり上げなければならず、神様の能力を信じる人であるならば、このことだけは必ず成就しなければならないと思うでしょう。
人間は、誰もが平和の世界を願い、一つの世界を願いますが、その世界は、ただこのままでは実現できないことも自認しています。民主世界は民主世界なりに、共産世界は共産世界なりに、それぞれ自分の主張する立場で
世界を一つにできれば、と考えているのです。それでは、民主世界を先に立てて共産世界がそれと一つになることができるのでしょうか。また、共産世界を先に立てて民主世界がそれと一つになることができるのでしょうか。これは極めて難しい問題と言わざるを得ません。
私たちが世界を中心として、統一を願って理想世界を求める時に、一つの国家を中心として「統一された国であり、理想世界に代わる国だ」と言える国はあるでしょうか。ないのです。統一された世界が存在する前に統一された国がなければならず、統一された国が存在する前に統一された氏族、統一された氏族が存在する前に統一された家庭、統一された家庭が存在する前に統一された個人がなければなりません。これが問題です。
統一はどこから成し遂げられなければならないのでしょうか。この世界は結果の世界なので、原因となる個々人を中心として模索しなければならないという結論が出てきます。私たち個人は、相反する二つの目的の方向をもった人間になっています。これは誰も否定できないことです。心は善の所に行くことを願うのに、体はそれとは反対の方に行けと言うのです。この二つが闘っています。そのような個人、すなわちそのような男性とそのような女性が合わさって家庭を形成します。ところが、内なる人と外なる人がいるので、夫婦が会えば四タイプの人がいることになり、それぞれが異なる行動をするようになるのです。このようにして一つの氏族ならば氏族、民族ならば民族、国家ならば国家、世界ならば世界がすべて分かれるのです。有り難いことは、数百、数千に分かれるのではなく、大きく二つに分かれることです。これが不思議なのです。
もし神様がいらっしゃるならば、このような人間をそのまま放っておくことができないので、人間の知らない歴史の背後で活動してこざるを得ませんでした。また、人間を悪へと追い込むサタンがいるとすれば、そのサタンも、神様が引っ張っていく方向とは反対の方向へと引っ張っていこうとするのです。
しかし、絶対的な神様のみ前にいくら反対するサタンがいたとしても、サタンには、絶対的な権限をもって立てた原則に反して進み出る権限がありません。正しいことは神様が管理し、悪いことはサタンが管理するのですが、そのような神様とサタンとの闘いの結果が、私たち個人から現れ始めるのです。ですから、人間は、悪の母体にもなり、善の母体にもなることを知らなければなりません。すなわち人というのは、善の出発地になると同時に、悪の出発地にもなるのです。
皆様。高くなることは良いことを象徴し、下つていくことは悪いことを意味します。皆様が人々の前で称賛されるようなことがある時は、大いに自慢したくなります。自分が悪いことが分かれば、奥のほうに隠れてしまうのです。良いことをする時は、宣伝をして「私を見習いなさい」と叫ぶことができます。悪いことをする時は、知られてしまうのではないかと隠そうとするのです。悪い行動、すなわち、盗みを働く人で、堂々と宣伝して歩く人はいません。隠れて歩くのです。
人の内には、高くなろうとする部分と低くなろうとする部分の二つの部分があることを知らなければなりません。高くなろうとするのが良心作用です。悪を働きながら、良心の苦痛を受けない壮士や偉人はいないのです。人間の良心が神様の見張り台ならば、体はサタンの見張り台であり、また良心が天国の起源ならば、体は地獄の起源となることをはっきりと知らなければなりません。
ですから、善悪の本質が根本的に違うことが分かります。善は全体の利益を追求するのであり、悪は自分個人だけのために生きるのです。善の人は、私よりも家庭、家庭よりも地域社会、地域社会よりも国、国よりも世界のために生きようとします。
今まで歴史は、自分のために生きる面と、人のために生きる公的な面を中心として、闘争によって連結されてきました。この体を中心とした悪の根拠を破綻させ、根を抜いてしまうことが神様の絶対的な要求です。その反対に、良心を無慈悲に破錠させようとするのが、サタンを中心とした悪の要求です。ですから、そのように闘いながら歴史を綴ってきたのです。
良心を主とした神様の側と、体を主とした、物質を主とした悪の側が対立しながら、この世の人類は唯物主義と唯心主義とに分けられざるを得ないという結論を下すことができます。もし神様がいないとすれば、このような結果の世界は来ることができないのです。悪は、嫉妬、分裂、闘争を強調して、自滅を招きます。このように見るとき、理想や統一は、どこから始まらなければならないのでしょうか。結局は、世界よりも根本に入って「私」です。個人なのです。神様が願われるのは、統一の世界であり、理想の世界なので、人間に対してそれを教えなければならないのです。
宗教の教え
皆様。その方法を御存じでしょうか。それは皆様の願われる方法ではありません。誰もが願うような方法ではありません。第一に、良心と反対になるものを打ちなさいということです。神様は代わりに打つことはできません。打つことができるならば、サタンも打つことができるのです。中間の立場にいる人間をめぐつて争奪戦をしているのです。神様の教えは、良心を中心として体を「打ちなさい!打ちなさい!打ちなさい!」というものです。このような運動を世界的にせざるを得ません。「体の嫌うことをしなさい」というのです。それを教えるのが宗教です。
それでは、宗教の教えとは何でしょうか。すべての宗教は「体を打ちなさい!食を貪つてはいけない!自分本位にやってはいけない!肉欲に主管されてはいけない!」と教えるのです。高次的な宗教は、すべてそのように教えているのです。仏教も苦行を重要な教えとしています。キリスト教も、犠牲を信条としています。それを実践しようとすればこの上なく難しいので、神様は一つになる方案を提示しなければならない、と考えざるを得ません。人間には心と体があるので、一度は心に従ったと思えば、今度は体に従っていき、そのように行ったり来たりするのです。
宗教の教えは、体の願うことを否定し、その反面、精誠を尽くさせて、神様の力を受けようというものです。これが今まで展開してきた宗教の運動です。それで神様は、そのような個人から始まり、家庭、氏族、民族を経て、一つの国を願ってきたのですが、それがイスラエルの国であり、イスラエル民族だったのです。すなわち選民でした。歴史上に「選民」や「選ばれた国」という言葉があるという事実を考えてみれば、神様が存在することは否定できません。
神様が計画されたとおりに、個人的に心と体が完全に一つとなり、家庭的に完全に一つとなり、氏族的に完全に一つとなり、民族的に完全に一つになって、世界まで完全に一つにできる代表者を送ってくださることを約束したのが、イスラエルのメシヤ思想です。神様が原型として待ち望まれた個人、家庭、国、世界をすべてイスラエル民族と一つにさせうの国をつくり、神側の世界をつくって、この世界を救おうとしたのです。
皆様がここで知らなければならないことは、イスラエル民族をしてメシヤを迎えさせ、豊かに暮らせるようにさせるという目的ももちろんあったのですが、神様の摂理は、一民族を救うのではなく、世界を救わなければならないので、イスラエル民族を立てて世界を救おうとしたのです。これがメシヤを遣わした目的でした。そのとき、イスラエル民族が願うことと神様の摂理の方向が一致すべきだったのですが、食い違ってしまいました。
ですから、このような統一的な世界をつくるために来られた個人としてのイエス様は、個人を中心として家庭的な原型をつくらなければならず、氏族、民族、国家、世界的な原型をつくらなければなりませんでしたが、それをつくることができずに亡くなったのです。例えて言えば、イスラエルの国は、主人が思いどおりにできる野生のオリーブ畑と同じです。イエス様は、この野生のオリーブ畑に真のオリーブの木として来て、野生のオリーブの木をみな切ってしまい、神様の思いどおりに、個人と家庭から一つの国家を神様の原型に接ぎ木しようとしたのです。そのようにすれば、イスラエルの国とユダヤ教団は、真のオリーブの木になるでしょうか、野生のオリブの木になるでしょうか。間違いなく真のオリーブの木になるのです。そのように国を中心として主権をもってユダヤ教と一つになり、世界的に宣教をしていたならば、今日の二千年のキリスト教歴史は必要なかったのです。
心と体が一つになることができなかった人間世界に、一つの原型、一つにするための統一の基本としてこの地上にイエス様を遺わしたのですが、イスラエル民族とユダヤ教は彼を十字架にかけて殺害してしまいました。神様のみ旨に反対するユダヤ教とイスラエルの国になってしまったので、神様が数千年かかって立てた国とその基盤は、サタン側に渡るようになったのです。こうしてイスラエル民族は二千年間、国のない民族として世界の数多くの民族から踏まれ、呻吟する民族になって闘ってきました。イスラエルの国は一九四八年に独立しましたが、このように独立できる時が来たということは、再逢春(チェボンチュン)(不遇に陥った人が春を迎えるように幸福を取り戻すこと)し、新しく出発できる世界的時代に入ったことを私たちは察することができ、そのような時が来たということは、主が再び来られる時が近づいたことを、私たちは推察して悟らなければなりません。
それでは、今までの歴史過程で、イスラエルが天を裏切って以来、神様の足場となる個人の土台、家庭の土台、氏族の土台、国の土台があったと思いますか。ありませんでした。これを引き継いだのがキリスト教であり、第一イスラエルはみ旨を成就できませんでしたが、このキリスト教が、第二イスラエルの使命を受けてみ旨を成し遂げなければならないのです。ところが、地上と霊界が一つになった立場で土台を築いたキリスト教になることはできず、地上を否定し、霊界だけを中心とした国を探し求めるための運動を今まで展開してきたことを知らなければなりません。
今日のキリスト教信徒が信じているように、主が空中に再臨するとすれば、そのような原型で統一された個人と家庭と氏族と民族と世界を成し遂げることはできないのです。来られる主が成就できる目的地は、空中ではなく、この地上、この世界であることをはっきりと知らなければなりません。ですから、イエス様は一つの原型を形成した男性として、心と体が完全に統一された男性として、統一された女性を迎え、統一された家庭をつくらなければならないのですが、どのようにすればつくることができるのでしょうか。これを解決しなければ、統一された国と世界は現れてこないのです。
今日のキリスト教の信徒の中に、「私は新婦となり、新婦として主が願われる家庭を築こう」と考える人がいるでしょうか。具体的な内容を知らずにいるのです。どこに来られるのかということも、どのように来られるのかということも知らずにいるのです。主は雲に乗つて来ると文字どおりに信じてはいけません。主は、神様が願う一つの家庭を求めるために来るのです。その家庭を求めるためには、その家庭だけでは駄目なのです。家庭のために生きる氏族がなければならず、氏族のために生きる民族がなければならず、民族のために生きる国がなければなりません。一つの国を中心として成し遂げることができる原型をつくっておかなければ、第三イスラエルの国を見いだせないことを、現在のキリスト教は知らなければなりません。
ここで、個人が永遠に残るための道を一度考えてみましょう。私たちは個人として世の中で尊敬される人になろうとすれば、自らを高めようとする人になってはいけません。尊敬されることを望むならば、犠牲にならなければなりません。十人の友人がいれば、その十人の友人のために長い間犠牲になる人は、その友人たちの中心存在になるのです。
それだけではなく、彼らの親戚と彼らの友人までもが、その人と一つになろうとするのです。反対にその十人の友人に、「あなたたちは、私のために生きよ、私のために生きよ」という人がいるとしましょう。そのようにすれば、その友人はみな離れていくでしょう。独りぼっちになるのです。最後には自分も行く所がなくなってしまうのです。これが私たちの社会における善と悪の分岐点であることを、皆様は知らなければなりません。
一国の愛国者について考えてみましょう。皆様はアメリカについて考えるとき、リンカーン大統領やケネディ大統領をこの上なく尊敬しています。なぜ尊敬するのでしょうか。大統領は同じ大統領ですが、アメリカのために命を捧げたので尊敬するのです。大統領の中で、アメリカのために死んだ大統領の中で、悲惨な立場で犠牲になればなるほど、その人はアメリカでこの上なく気高い愛国者、この上なく気高い大統領の位置を占めるでしょう。
命を捧げて国を愛した人であるほど、それも悲惨な立場で犠牲になった人であるほど偉大なのです。悲惨であればあるほど、それが一時は悲惨ですが、歴史時代が過ぎれば過ぎるほど、だんだんと環境の範囲が広がり、その人を中心として一つになるようになっているのです。
イエス様の死も同じです。イエス様は誰のために犠牲になったかというと、世界の人類のために、世界の国のために犠牲になったのです。誰よりも人類を愛し、誰よりも神様を愛し、怨讐までも愛した立場で福を祈って、悲惨な立場で亡くなったのです。名もなく死んだイエス様であり、その当時は民族の反逆者として追われたイエス様が、今日、世界的なキリスト教文明圏を創建するとは、誰も知りませんでした。ここで私たちは、一つの原則を提示することができます。大きな舞台のために、公的な大きな仕事のために犠牲になった人は、滅びるようにはなっていません。滅びることはないという事実を、私たちは知ることができます。そのような人たちが歴史的な聖賢たちです。
これを見るとき、神様がいらっしゃり、神様が悪の世界に対して闘う作戦があるならば、どのような作戦方法を取るのかということを、ここで発見することができます。悪はその反対です。自分のために他を犠牲にするのです。それが個人的にそうなれば、個人の反対を受け、家庭的に、あるいは国家的にそうなれば、必ず歴史に糾弾される独裁者になるのです。
また皆様は、悪の戦法は他を犠牲にして自分が出世しようとする戦法であり、神様の戦法は他を生かすために自分が犠牲になる戦法であることを知らなければなりません。ですから、歴史過程で善を主張してきた人たちは、その時代においては歓迎されず、犠牲になりましたが、自分の身を犠牲にしながら、国を愛し、世界を愛して死んでいった人たちは、歴史が過ぎたあとに、その名が知られるようになるのです。これが事実であることは否定できません。
ですから、キリスト教の思想は、奉仕の思想であり、犠牲の思想です。キリスト教は一つの教団を中心として、自分の教団だけのために生きるようになれば滅んでいきます。もしアメリカのあるキリスト教の教団が、活動するすべての目的をアメリカの救援に置き、その目的を達成するためにあらゆる犠牲を覚悟して進み出るとすれば、そこに天は協助するでしょう。このようにアメリカを救い、キリスト教化した国家にして、世界を救うためにアメリカ国民を犠牲にするキリスト教になれば、世界を支配するキリスト教になると見ることができるのです。
神様にとって、アメリカを愛するか、世界を愛するかという問題について考えてみるとき、アメリカよりは世界を愛する神様にならなければなりません。ですから、世界を救うために犠牲の代価を払わなければならない時は、アメリカを立てなければなりません。
アメリカ国民の皆様。アメリカに思想的伝統があると思いますか。今の青年たちの中にそれを見いだすことはできません。アメリカを開拓した人たちは、皆様も御存じのように、清教徒たちです。彼らは、神様を心置きなく愛し、神様のために行こうとする道を国家が妨げたので、国をあとにして、この新大陸アメリカの地を訪ねてきた群れでした。
そのとき、少数のアメリカ国民たちは、現地にいたインディアンたちと戦うために、神様に命を委ね、すがったのです。神様をあがめ尊びながら、神様にすがって戦っていったその思想が、アメリカの建国思想になったことを私は知っています。ですから、彼らは教会を先に建て、学校を建てたあとに、自分の家を建てたことを知っています。そのような立場に立っていたので、神様は反対を受ける環境から引っ張り出し、この地で保護し、二百年にもならない期間で世界的な国に築き上げてくださったのです。そのような神様は何のために祝福をしてくださったのでしょうか。アメリカに住む皆様だけを裕福に暮らすようにするために祝福したと考えてはいけません。今後、世界を救うための代表的な国にするために、神様は祝福したと見なければならないのです。
それでは、アメリカ国民は、「今や私たちは団結して世界を救おう」という統一された思想をもっているでしょうか。もっていません。しかし、アメリカの怨讐である共産世界は、世界を制覇するという思想をもって、アメリカを問題なくのみ込むことができると自陰をもって現れています。
アメリカ国民の皆様が覚えておくべきことは、アメリカの国策において、アジアへの援助や外国への援助を削減することは、神様のみ旨ではないということです。外国に対する援助を削減することを始めた大統領は、ケネデイ大統領であることを私は知っています。また、その当時の国連事務総長はハマーシヨルド氏でした。彼らは、なぜあのような惨事に遭って逝ったのかという問題は、私たちの知らないある背後の動機があると思われます。
私は一九六五年にアイゼンハワー元大統領に会いました。そのとき、私は、「あなたは、韓国戦争を休戦にしたことは正しかったと思うかもしれませんが、あれは歴史的な誤謬です」と指摘しました。「あなたは共産党を信じるのですか。共産党は言葉と行動が違う群れです」と言いました。行動と言葉が違うのです。これを知らなければなりません。休戦協定をしてから二十年が過ぎた今、北朝鮮はあらゆる力を尽くして国民武装をさせているのを、私たちはこの目で見ているのです。この事実を否定しますか。
今度の二月二十一日、毛沢東とニクソン大統領の会談があります。毛沢東はニクソン大統領に対して、何をしても、損することはありません。アメリカ国民はこれだけは知っておかなければなりません。共産党は、アメリカといくらでも「親しい、親しい」と言いながらも、背を向けることがあり得るのです。どれだけ親交が進んだと見えても、いくらでもそれを反故にする独裁体制なのです。
しかし、アメリカ国民はそのようにはできません。アメリカ全体が「よいです」と言って国民がみな進んだとしましょう。ここで、もし後退するようになれば、アメリカ国民はみな後退すると思いますか。半分は分かれてしまうことを知らなければなりません。その時にアメリカがどうなるのかを、私は今考えています。このような観点から、アメリカの四十代大統領、二百十年までの歴史は、神様が保護してくださる歴史と見ています。
皆様。一九七六年はアメリカ建国二百周年の年であることを私は知っています。アブラハムからイエス様まで四十二代になります。四十代、二千年歴史を神様のみ旨を中心として担当してきました。代数としては四十二代ですが、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」、この三代にわたった神様を一代の神様と捉えるので四十代になるのです。
この「終わりの日」にアメリカを中心として、このような蕩減の役事をすると見ているのです。この期間に責任を果たすことができなければ、今後のアメリカは、神様が保護し続けるような国にはなれないと見ています。私はそのように考えています。二十世紀の後半期において、世界的な主導国家的責任をもったそのアメリカを誇りとするのではなく、アメリカの国がなくなったとしても、アメリカ国民が誇り得る思想、三十世紀、四十世紀に至っても、その思想でなければいけないという思想をもつならば、アメリカ国民は世界を治める国民になるのです。
このような観点から、今日、統一教会はいかなる使命を果たそうとしているのか、ということが問題になります。統一教会は、来られる主の前に新婦をお連れし、このような超国家的な運動を世界的に準備して、神様が求める希望の天国をこの地につくり上げようとするのです。
そのためには、「この統一教会は統一教会自体のために働く」という思想を取り除いてしまわなければなりません。神様の作戦が世界のために犠牲になる個人と家庭と氏族と国家を求めることである以上、そのような個人、家庭、氏族、民族を編成し、神様の願う国の土台をつくってさしあげようというのが、私たちの使命です。
そのような統一の原則をもって、将来来るメシヤを中心として統一された個人として、家庭として、氏族として、民族として編成しなければならないのですが、このようなことを誰が先頭に立って引っ張っていかなければならないのでしょうか。信仰のない人でしょうか、信仰のある人でしょうか。宗教をもった人でしょうか、もっていない人でしょうか。これはキリスト教信徒、宗教人たちが糾合してしなければなりません。そのような運動を今、世界でしなければなりません。
そのためには、自分の教派だけを中心として、私の教派だけを中心として一つになってはいけません。神様のみ旨と世界を救うという信条のもとに一つにならなければならないのです。そのような運動をすることによって、主導権を握ろうというのではなく、下のほうに入って奉仕する運動をするのです。自分のもつ手段や方法、自分の財力、あるいは権力、あるいは知識力を動員して中心になるのではなく、人々が自主的に推戴して中心に立てる運動を、新しく世界的に行わなければ、この世界は救われる道理がありません。
ここに立っているこの私が、ここに至るまでには、数多くの迫害の道を歩んできました。キリスト教のために生き、キリスト教の行くべき道を提示しようと言ったにもかかわらず、キリスト教の反対を受け、国の行くべき道を提示しようと言ったにもかかわらず、国の反対を受けました。そのような観点から、アメリカも今後、この動く群れに代わって批判される日が来ると考えています。
善とは、自分の側のものを犠牲にしながら、世界を救おうとすることです。これが伝統的歴史です。ですから、今日この地上で、このような伝統を受け継ぎ、自分の側近の者を世界のために平面的に犠牲にさせながらでも、人を救おうという運動を全世界的に提示しなければ、理想的な何らかの方向を提示できないことは言うまでもありません。今後、人のために世界的な運動をする思想をもった団体、自分自体を犠牲にしても世界を救おうという運動をする思想だけが世界を治めるのです。
民主世界を代表するアメリカを考えてみましょう。アメリカは世界のために援助するほうに一方的に進んでいっていれば、常に世界があがめる国家になっていたでしょう。アメリカ国民を超え、アメリカの国を超え、世界をより愛する運動をしていれば、アメリカは今日、このような立場に立たなかったのです。
しかし、「民主世界を代表した国家として、外国を援助して栄えた国がないというのが歴史的な実情なので、私たちの国も歴史的伝統に従うべきである」と言いながら、自分の国を中心として背を向けるようになるときは、アメリカは孤立してしまうのです。
言い換えると、現在のアメリカは、世界のことよりもアメリカ自体を重要視し、世界の人類よりもアメリカ国民を愛そうという立場になっているのです。しかし、神様の見解はそうではありません。神様は、アメリカを動員して、世界を生かそうとされるのです。アメリカを超えて世界を愛することができるようにするためなのですが、方向が食い違っているので、民主世界もこれ以上行くことができなくなりました。
世界のためには、自分の国や国民よりも世界を愛する運動、神様を愛する運動こそが、最後に残る主義になり、思想になるでしょう。ですから、その国を超える超民族的な運動を世界的に提示し、超民族的に天が愛する立場に、あるいは世界の人々が愛する立場に自由に行けるようにするためには、どのようにすべきかを模索する主義こそが問題になるのです。
もし主が来られるとすれば、一つの国を救うために来られるのではありません。世界を救おうとして来られるのです。そのような時が近づいてくれば「終わりの日」なので、国を超えて、より愛する世界を発見し、国を超えて、天の人をより尊重し、国を超えて、神様を愛する運動をしなければ、世界は滅びるという結論が出るのです。これが今後、世界人類が願う統一の道であり、思想の道です。
ここでは肌の色が問題になるのではありません。ここでは文化の背景が問題になるのではありません。神様を愛し、神様のみ旨のために生きる世界のために一つになることこそが、私たちの希望であり、私たちの目的となるのです。そうして世界が一つになることによって、神様と人間が願う理想世界が開かれると考えています。したがって、個人として行く道、家庭として行く道、氏族として行く道、民族として行く道、囯家として行く道、世界として行く道を教えてあげることが、統一教会の使命であることを知っています。
ここできょう、お話しした題目の「神様と人間のための理想世界」が成就することを信じ、今、この地で活動を始めていることを、皆様に知っていただければ幸いです。ありがとうございました。
2.人間に対する神様の希望
平和経 第一篇
真の平和の根本原理
2.人間に対する神様の希望
日付:一九七三年十月二十日
場所:アメリカショージワシントン大学リスナーホール
行事:アメリカ二十一ヵ都市巡回講演
今晩、このように参加してくださった紳士淑女の皆様。心から感謝を申し上げます。皆様にお会いできる日を心から待ち望んでおりましたが、今晩、その願いをこのようにかなえてくださり、神様と皆様に感謝をお捧げいたします。
私が語る言葉を、皆様は聞き取ることができないと思います。そのように、言葉を語っても伝えられない人と言葉を聞いても聞き取れない人との間に、通訳という橋を架けて語り、聞くことが、どれほど大変なことかを理解してくださり、御声援くださるようお願い申し上げます。
きょう、皆様に「人間に対する神様の希望」という題目でお話ししたいと思います。題目が大きいといえば大きな題目であり、内容も複雑だといえば複雑な内容になると思います。
もし神様がいらっしゃるなら、神様は、私たち人間を必要とせざるを得ません。人は万物の中で最も貴く英明な存在なので、尊重せざるを得ないのです。その神様と人間の関係を、私たちは明確に知らなければならないと思います。
数多くの宗教人たち、数多くの信仰者たちは、神様と人間の関係を様々に表現していますが、それが神様と人間の関係を明確に、正しく知ることができる内容になっているでしょうか。神様と人間の関係は根本的な問題なので、この根本が狂えば、別の異なった世界へ行くこともあり、異なった結果をもたらすこともあるのです。神様だけを中心として見るか、人間だけを中心として見るかによって、二つの思潮の哲学世界があることを、私たちはよく知っています。
数多くの宗教が存在するようになったのは、根本が異なるからです。ですから、神様なら、「宗教はこうでなければならない。私とその宗教との関係はこうでなければならない」という、ある原則があるのではないかという問題が、より重要です。そのような関係について、お話ししようと思います。
この地上に生きる人間として、最も貴く感じるものは何でしょうか。このように問えば、様々な答えがあると思います。ある人は「権力である」と言うでしょう。またある人は「お金である」と言うでしょう。ある人は「知識である」と言うでしょう。果たして権力とお金と知識が、人間にとって最も貴いものかというと、「絶対的にそうである」と断言できる人は一人もいないのです。
それでは、それよりもっと貴いものは何でしょうか。もう一歩さらに踏み込んで尋ねてみれば、誰もが「愛が貴い」と答えるでしょう。その次は何かと問えば、「生命である」と答えるでしょう。そのような愛と命をもっていたとしても、理想がなければならないので、三番目には、「理想である」と答えるはずです。人間にとって最も貴いものが何かというと、愛であり、生命であり、理想だというのです。この問題について考えると、その愛と命と理想というものを一時的なものと思っている人はいません。
皆様が何かの小説の表現を見ても、愛と言えば、永遠の愛、不変の愛、唯一の愛を強調していることに気づきます。愛が変わることは誰も望みません。青春時代や中年時代、老年時代を問わず、愛は永遠であることを願います。また、愛もそうですが、生命の問題においても、「私は、少しだけ生きて死のう。なくなってしまいたい」と考える人はいないでしょう。生命も永遠であることを願います。自分の生命は変わらないことを願い、特権的であり絶対的であることを願うのです。
皆様が宗教を信じる目的も、救いや永生があると考えるからです。もし永生がないとすれば、宗教は必要ないでしょう。宗教を通して、人間の理想の愛を描ける道があると信じるがゆえに、宗教を必要とするのです。したがって、私たち人間にとって最も必要なものは、愛であり、生命であり、理想です。それが、一時的なものではなく、永遠であることを願うのが、私たち人間の欲望にほかならないのです。
ところで、「愛」という言葉や「理想」という言葉は、一人で語る言葉ではありません。一人でいながら「ああ、私は一人で愛する」と言っても、これは成立しません。「ああ、私は一人で楽しく、うれしい」と言うことはできないのです。したがって、私たちが「愛」という言葉と「理想」という言葉を追求し、絶対視し、望む立場にいれば、私たち人間が別の一つの主体や対象的な何かを求めなければならないというのです。
そこで、私たちが対象であれば、ある主体を必要とするようになります。私たちが結果的な存在であるならば、ある原因的な存在が必要であることを示しているのです。私たち人間を超越して、そのような主体的、原因的な存在がいるとすれば、それは不変でなければならず、永遠でなければならず、理想的でなければならないことは間違いありません。主体と対象は、いかなる面においても、いかなることにおいてもう一つにならなければならないのが原則です。一つになることにおいて、悪い位置で一つになることを願う人は一人もいません。最高の位置、変わらない永遠の位置、完全に統一された位置で一つになることを願うのは、主体と対象の存在がそれぞれ願う基準にほかなりません。
それでは、対象であり、結果的な立場にいる人間が願う最高のものが、愛であり、生命であり、理想であるとすれば、主体であるその方の要求と、その方の希望と欲望は何でしょうか。もし神様に、「神様、あなたが最も貴く、絶対的で、価値があると認めるものは何ですか」と問えば、神様もやはり対象が求めるものを求めざるを得ないという結論が出ます。
神様にとって、お金や知識、または権力は必要ではありません。間違いなく、その方は「愛であり、生命であり、理想である」と答えるでしょう。そのようなことを考えるとき、神様がいくら偉大で絶対的だとしても、結局のところ誰に似ているかといえば、私たちに似ているのです。主体と対象は似ていなければなりません。
神様は、どのようなお方かというと、愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体であられます。そうだとすれば、私たち人間は、愛の対象であり、生命の対象であり、理想の対象であるという結論を立てることができるのです。
神様が絶対的なら、私も絶対的な位置を願わなければなりません。神様が不変なら、私も不変でなければなりません。神様が唯一なら、私も唯一でなければなりません。神様が永遠なら、私も永遠でなければなりません。そのような観点から、人間の永生は必然であり、それは当然の結論にならざるを得ません。いくら神様に愛があっても、私に愛がなく、いくら神様に生命があっても、私に生命がなく、いくら神様に理想があっても、私に理想がなければ、すべては無駄なことなのです。
したがって、主体という存在にとって、対象はどれほど価値があるかということを、私たちは否定できません。それは、常識的に認めなければならない問題です。私がこの場に立って、聴衆がいないのに、こぶしを振って「おお」と言うなら、狂った人だと思われるでしょう。しかし、一人の足の不自由な人であっても、その人に対して目を見開いて語っているとすれば、それは精神病者ではありません。また、誰一人いなくても、小さなものを見ながら、喜んで詩を詠んだとすればどうでしょうか。それを狂っていると言えますか。
これは何を意味するのでしょうか。相対圏が「絶対」を擁護する絶対的な原理をもっていることを主張しているのです。それが対象の価値です。神様がいくら気高く、偉大だとしても、対象がいなければどうするのでしょうか。神様はうれしいでしょうか。一人で喜ぶことができるでしょうか。ですから、神様は喜ぶために対象の世界を創造されたことを知らなければなりません。
ある宗教では、神様は神聖で高潔な方であられ、人間は悪なるもの、罪悪にまみれたものなので、創造主と被造物は同等にはなり得ないと主張してきました。このような信仰は、根本的に間違っているのです。対象がいなければ、どんなに偉大な人でも、どんなに悟りを開いた人でも、どんなに絶対的な人であっても、悲しいのです。私たち人間が悲しむのは、神様がそのようになっているからであり、主体に似ているからです。この問題が、これまで度外視されてきました。絶対的な神様のみ前に、絶対的な対象の価値をもち、堂々と登場する権威を失ってしまったというのです。
それでは、そのように気高い神様のみ前に、私たちがいかにして相対的な位置へ進み出ることができるのでしょうか。努力によって可能でしょうか。力を使えば可能でしょうか。何をもってしても不可能です。ただ愛の関係によってのみ可能です。愛の関係さえもっていけば、誰もが直ちに同等な位置に進み出ることができます。皆様、この世でもそうではないですか。ある偉大な男性と、その男性を中心として一人の女性がいるとき、その女性が、世間一般的に見れば何の立場もなく、知識もなく、すべての権限においてないに等しかったとしても、主体であるその男性と愛の関係さえ結べば、瞬時に堂々とした対象的権限をもつようになるのです。夫が行く所には、妻もどこにでもついて行くことができるのです。
神様と私たち人間との関係も、愛を中心として連結されれば、神様と人間との愛は、この世の父子関係の愛よりも高いものなので、その愛を中心として、瞬時に対等な位置に上がるようになるのです。愛は絶対的であり、不変であり、永遠なので、それが可能なのです。ですから、偉大な価値の根源を忘れた私たちの人生の本源地を回復しなければなりません。
したがって、主体と対象は一つにならなければなりません。原因と結果も必ず一つにならなければなりません。聖書によると、神様は「わたしはアルパであり、オメガである」(黙示録一八)とおっしゃいました。それはどうなるということでしょうか。二つが離れるということでしょうか。一つになるということです。神様がアルパなら、私たち人間はオメガです。神様が最初なら、私たちは最後です。神様が初めなら、私たちは終わりです。端と端が、そのまま一つになることはできないのです。回らなければなりません。左手が回って右手と一つにならなければなりません。
それでは、一つになるとき、互いに異なるのでしょうか。一つは大きく、もう一つは小さくてもよいのでしょうか。和睦を望み、平和を望むことは、一つになる起源を離れては不可能です。平和や幸福といったすベてのものも、神様が愛と生命と理想の主体としていらっしゃるのならば、神様は、人間と一つになるために、人間と対等な愛と命と理想が連結される位置を策定しなければならないのです。
皆様。これで関係については理解しました。主体と対象の関係は理解できました。次は、その統一の場所がどこかということを、はっきりと知らなければなりません。私たち人間は、最高の欲望をもっています。そして、比較する知能をもっています。二つのうち、少し良いものが下にあり、悪いものが上にあれば、降りてきて良いものを取ろうとするのです。また、もっているものよりも良いものがあれば、もっているものを投げ捨ててそれを得ようとします。もっと貴いものがあれば、既にもっているものがあっても、また欲しくなるのです。最も貴いものを望むというのです。
ですから、これまで人間の欲望は終わりがないと信じられてきました。これが一般的な結論であり、評価です。そうだとすれば、神様はいないことになるのですが、どこまで行かなければならないのでしょうか。終わりがなければなりません。それはどこまででしょうか。世界最高の偉人が生きているとしましょう。言葉一つで全世界を動かすことができ、一言でどんなことでもできる聖人がいれば、皆様は「ああ!私はあの人の友人になれたらいいな」と思うでしょう。それで友人になったとします。
そうなれば、それで満足するでしょうか。それよりも高い位置があれば、高い位置を望むでしょう。友人よりも、その方の養子になる道があるならば、友人になることを捨てて、「養子になれたらいいな」と思うでしょう。しかし、それで満足するでしょうか。皆様。満足しますか。私は、そうは思いません。皆様も間違いなく、「言うまでもなく同じである」と答えるはずです。私は東洋人で、皆様は西洋人ですが、西洋人も東洋人も何ら違いはなく、同じなのです。
ですから、養子よりも直系の息子、娘になる道があるならば、なりたいでしょうか、なりたくないでしょうか。養子の立場よりも、直系の息子、娘になろうと思うでしょう。それでは、なぜ養子を捨てて息子、娘になろうとするのでしょうか。本心からにじみ出る完全な愛を受ける道が、その道しかないからです。その人を占領する前に、その人の愛を完全に占領できる息子、娘になれば、その方は誰の父ですか。その方は誰になるのですか。その方が喜ぶことは私が喜ぶことであり、その方が所有するものは私のものになるのであり、その方が従えるすべてのものは私のものになるのです。それは手続きを経てそうなるのではなく、自動的です。
それでは、もし神様がいらっしゃるなら、その神様を中心として、そのような位置を願わざるを得ないのです。神様がいらっしゃるなら、天の国の民になりたいと思うかもしれませんが、それよりは、神様の友人になることができれば、それを願うのです。それでは、友人になることを願いますか、それとも養子になることを願いますか。友人をやめて養子になることを願うのです。その次に、息子、娘になることができるなら、養子もやめるのです。このように見るとき、人間に最高を求める欲望を与えたのは、神様と関係を結べる対象の価値観が創造目的に設定されているからです。
それでは、神様にお会いすることだけを願いますか、神様と共に暮らすことを願いますか。結局は、神様の中に一つしかない、その愛を占領しようとするのです。人間の欲望が、神様の絶対的な愛を占領し、また何かを求めるようになれば、神様は何もできないのです。それ以上はあり得ません。ですから、神様の愛を占領したのちには、春の中の春、喜びの中の喜び、世の中のすべてのものが「私」の言葉によって動き、私の行動によって動くようになるのです。
ここに立っている人は、神秘的な境地に入り、宇宙の根本が何であるのか、追求した時がありました。神様からの答えは、「父子の関係である。父と息子である」というものでした。一般の人であれば、自分の父母との関係と考えるでしょう。言い換えれば、自分を生んでくれた父と母であると考えやすいのです。しかし、それは神様と人間との関係のことを意味しているのです。
父子関係がもつ特定の内容とは何でしょうか。父と息子が出会う最高の場所はどこでしょうか。愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見れば、愛と生命と理想は一カ所にあるのです。その場所に行けば、神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になります。それを決定できる最初の関係と最初の統一の場所が、父子関係が結ばれる場でなければあり得ないのです。
それでは、例を挙げてお話ししてみましょう。皆様が父母を通して生まれるためには、父母の愛が芽生えなければなりません。互いに相対的関係が成立しなければなりません。そうして、その愛の環境、生命の一致点で、命が連結されなければならないのです。夫と妻が、互いに嫌だというのではなく、互いが理想的でなければなりません。夫婦が愛を結び、一つになってこそ、夫婦の愛が成立するのです。そうしてこそ、夫の愛は私の愛であり、夫の命は私の命であり、夫の理想は私の理想となるのです。反対に、妻の愛と生命と理想も同様です。そのように一つになった場で発生するもの、そのような統一的な場で生まれるのが子女です。
ですから、その子女は父母の愛の実現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また、父母の理想の具現体です。皆様の中で、子女を生んで愛してみたことのある人たちは、分かるでしょう。その愛する息子に対して、「この子は、私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体である。第二の私である」と思うのです。出発から、愛と生命と理想的基盤の上で生まれたので、父母は、その子女を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対として登場するのです。
神様がいるならば、その神様と人間はどこで連結されるのでしょうか。生命が交差する所、愛が交差する所、理想が交差する所です。その点は、どのような点でしょうか。父子関係にほかならないという結論が出ます。
このように考えるとき、私が神様と同等になることができるという喜びがどれほど大きいか、考えてみてください。そこに祈祷が必要でしょうか。「神様、私は罪人です」という祈祷が必要でしょうか。愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なのに、祈祷が必要でしょうか。威信と体面を超越するのです。躊躇することなく神様をつかまえることができるのです。神様が私を抱き締め、なでてくれ、愛してくれることを体験すれば、骨身が溶けてしまうでしょう。
ここに宗教指導者の皆様もいらっしゃると思いますが、そのような神様の愛を一度受けたことがあるでしょうか。そのような立場で呼吸をすれば、世界が出たり入ったりします。酒を飲んで酔うことより劣るでしょうか。神様の愛に入るようになれば、満たされないところがありません。六十兆個にもなる細胞までも踊りを踊るのを感じることができるのです。目は目で、手は手で、みな感じることができるのです。それ以外の他のものを持っていってあげても、みな満足しません。
そのような神様の愛があるので、人間の最高に高貴な欲望が、それを望んでいることを徹底して知らなければなりません。それがなくてはならないのです。皆様は、他人の父親を自分の父親であると信じるのですか、自分の父親を父親であると信じるのですか。神様について、そのような実感がなければなりません。神様と私たちの関係は、このように偉大であることを、間違いなく感じなければなりません。どんなに孤独で苦難の場にあったとしても、神様の愛の中に抱かれるならば、たとえ受難の道を行くことになったとしても、苦痛を感じないというのです。ここに賢い方々がみな集まっておられますが、皆様は、そのような境地を得ることができるなら、何億ドルを出してでも得ようとするでしょう。しかし、それはお金で買えるものではありません。骨髄からしみ出る愛の心情を説明する前に、主体と対象の情の流れが中から爆発しなければなりません。そこから始まるのです。
イエス様も、そのような価値の内容を通して見たとき、宇宙と生命を取り替えることはできないと言いました。神様と連結されるその生命には、愛があり、理想が通じるようになっています。生命と理想が自動的に連結されるのです。愛を中心として生命が躍動し、理想を中心として生命が躍動するようになっています。今、皆様は神様と私たちの関係と位置を知りました。兄弟同士、そのような立場に立つことができるでしょうか。できません。夫婦同士も、そのような立場に立つことができるでしょうか。できません。それを知るようになるとき、堂々と神様のみ前に出ていくことができるのです。しかし、今日、イエス様を信じる人々、キリスト教徒たちを見ると、「私たち人間は、罪人であり、被造物なので、価値がなく、イエス様は神様である」と言います。それで、どうやって神様と連結されるのでしょうか。
テモテへの第一の手紙第二章五節を見ると、「神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリストイエスである」とあります。それでこそ正しいのです。そうでなければ、この罪人たちが、どうやって神様のみ前に行くことができるでしょうか。そのような根本的な問題を理論的に、すべて整理しておかなければなりません。その方は罪のないお方であり、私たちは罪人です。これが違うのです。ですから、イエス様は、神様の愛と交流でき、生命と交流でき、理想と交流できるお方なのです。
私が、この宇宙の根本問題に突き当たって、これを解決しようとしたとき、このような内容を知って、心底から神様に感謝しました。これを知ることによって、本当の意味で人間の価値を知ることができ、本当の意味で人間の本郷を探し求めるべきであり、人類が暮らすことのできる祖国を建設しなければならないという考えをもつことができたのです。
皆様は神様に似ています。皆様は、皆様自身のために生きる時があります。神様は、天地万物と人間を造る前、御自身を中心として存在しておられました。それで、神様に似た私たちも、自らを中心として考える時があるのです。そのような神様が天地万物を創造し始めたのは、対象の世界を展開するためでした。結局は、別の自分の相対的存在をつくろうということです。それで、神様御自身を投入されたのです。見えない神様から見える神様へと展開させようということです。
創造の業を行うということは、力の投入を意味します。創造とは、力を消耗することです。投入したのですが、どのくらい投入したのでしょうか。人々は聖書を読んで、神様がみ言で「このようになれ!」と言って創造されたと思っています。しかし、そうではありません。そこには、真の生命を投入し、真の愛を投入し、真の理想を完全に投入したのです。
創造前と創造後が違い、創造する前は自分のことを考えましたが、創造を始めたときからは対象のために生きる時代へと転換されたのです。「私がいるのは、私のためにいるのではなく、相対のためにいるのであり、息子、娘のためにいる」と考えるようになったのです。
ですから、皆様はそれを知らなければなりません。愛や理想という言葉は、主体と対象との関係において使う言葉なので、理想的な存在の起源は、自分のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。神様は、一〇〇パーセントを投入しても損をするのであれば、投入されないのです。返ってくるときに九〇パーセントになり、一〇パーセントが損害となれば、投入されません。それ以上に返ってくるものがなければならないのです。それで、一〇〇パーセント投入することによって、なかったものが生まれました。対象が生まれました。それだけではなく、その対象が、自分の望んでいた愛をもってきて、生命を刺激する理想的対象として現れるのです。神様も愛には引っ張られます。その対象が引っ張れば、引っ張られるのです。対象が好む所に神様も行くようになります。自分自身を見て喜ぶのではなく、相手を見れば見るほど喜ぶのです。人間の創造は、自己の完全投入です。人間は、それによる最高の傑作です。
有名な画家がいれば、その画家は、遊び半分で描いた絵を重要視するでしょうか。食事もせずに精神を集中させ、すべて投入して、一つ一つ慎重に自分自身の構想どおりにできた作品に対して、「傑作である」と言うでしょう。「その原画は自分が持ち歩き、保管し、愛したい」と思うのです。
ですから、真の神様は、相対をつくることに完全投入されることによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。神様も、アダムとエバをお造りになってからは、アダムとエバのために存在しようとするのです。神様のためではありません。自分お一人でいた時から、相対のために生きる時へと展開されたのです。理想的存在は、自分を中心としません。理想的存在は、人のために生き、対象のために生きるところにあるのです。この原則が、宇宙の根本であることをはっきりと知らなければなりません。
ここに、ワシントンDCの有名な方々が来られていることと思います。「私なら、この先この国の大統領にもなることができ、どこに行っても、実力においても、何においても負けない、堂々とした私である。私は、自分のために生きる人である」という人がいるかもしれません。私たちは結果的な存在であり、神様に似ているので、神様が御自身のことだけを意識していた時があったように、皆様も、皆様自身のために生きる時があります。そうしてこそ、自分自身が成熟するのです。大きくなるのです。吸収し、成熟します。しかし、対象が現れるようになれば、自分を捨てて相対のために生きる時へと越えていかなければなりません。
男性として生まれた人は、自分のためだけに生きようとするのではなく、相対のために生きようとしなければなりません。男性は何のために生まれたのでしょうか。男性自身のために生まれたのではありません。女性のために生まれたのです。
また、どんなに美人で、またどんなに男性が嫌いな女性でも、なぜ女性として生まれたのかというと、自分のためではありません。相対のために生まれたのです。存在の起源は、私のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。そのような世の中になれば、それは天国にほかなりません。
父母は子女のために生き、子女は父母のために生きるようになるとき、互いにために生き合うので回るようになるのです。ために生きれば生きるほど、早く回ることができます。四角ではなく、立体的に回るのです。ために生きることは、押してあげることです。あちらから私のために押し、私もあちらのために押してあげるので、早く回るのです。ですから、世の中は円形に似ています。顔が丸く、目も丸いのです。上部と下部がありますが、それが完全に与えて受けるようにしなければなりません。静脈と動脈も与えて受けるのです。与える道があるのに受ける道がなければ、病気になります。壊れてしまうのです。存在物は運動をしますが、その存在の根源においてために生きる作用の原則を立てなければ、永遠に存在することができないのです。
人間にとって最も問題となるのは、善が何であり、悪が何かということですが、その基準が不確かです。神様と私の関係を知り、その関係が一致して悪が何であり、善が何であるかということを確実に根本から見極めなければなりません。悪とは何であり、悪の定義は何でしょうか。
サタンが讒訴する条件をもつことが悪です。皆様は、それを知らなければなりません。サタンが讒訴し、そこに関係を結び得る内容をもつようになれば罪です。キリスト教徒は罪の根を知らなければなりません。
皆様は、神様の愛を受けていますか。皆様の父母や祖父母は、神様の生命と愛と理想を中心として一致できる立場で生きているでしょうか。そのような立場で生きている人が、どこにいるでしょうか。そのような人はいません。なぜでしょうか。堕落したからです。サタンが入ってきて、私たちを占領しているのです。サタンが讒訴し、関係を結び得る条件が罪であると言いましたが、結局は、創造の原則、本来の宇宙の根本原則に反対する立場に立つようになったのです。
皆様。人間は、対象の立場で神様を主体とするので、神様だけのために生きることに存在の価値があり、存在の起源があるというのが原則であることを知りました。しかし、悪の出発は、サタン自身が、「私が主体になろう。私が中心になりたい」と考えるようになったことから始まったのです。エバもそうでした。主体のために存在しなければならないのですが、「私のために存在せよ」と考えたのです。これが悪です。神様の創造の原則は、対象のためにあるものなのですが、対象を否定し、「私のために存在せよ!」というようになり、それを根本にしたということです。
皆様は、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪なる人とはどのような人かというと、「私のために生きよ。みな私のもとに来て屈服せよ」という人です。神様も、これを打ち砕かなければならず、イエス様も、これを打ち砕かなければなりません。ですから、「高ぶってはならない。自分の利益を求めてはならない。他のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と語られたのです。
しかし、堕落して故障したために、これを原理原則どおりに合わせなければなりません。創造の法度に一致できるようにして、壊れたものを再び合わせるためには、再創造役事の過程を経なければならないのです。堕落は、自分を相手に投入せず、相手をして自分に投入させたことなので、宗教は、反対に自分を投入させるのです。
それで、宗教は「自分を犠牲にせよ」と言います。イエス様は、この地に救世主として来られましたが、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるため」(マタイ二〇・二八)とおっしゃいました。また、イエス様は、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ一五一三)とおっしゃいましたが、これは完全に投入することを意味します。また、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七三三)という言葉もそうです。今日、自己を主張する世界において、聖書を見ると、謎めいており、誰も好まないような内容になっています。すべてが反対になっているのです。
しかし、天理原则、ために生きる原則から見ると、聖書こそが正に真理なのです。すべてがぴったりと一致します。神様は、悪なるサタン世界とは反対の天国をつくるために、悪なる世界とは反対の道を模索せざるを得ません。それが宗教です。
より大きなもののために犠牲になるのが善一善の人と悪の人について、一つ例を挙げてみましょう。善の人は、十人の友人がいる場合、その十人の友人のために、朝夕に、今年も来年も十年後も、一生の間、世話をし、奉仕するのです。そのようにすれば、十人全員が、その人を最も良い友人であると言います。ですから、自分たちだけが好むのではなく、自分の母や妹がいれば、連れていって紹介しようとするのです。
しかし、十人の友人に、「おい!こいつめ。私のために生きよ」と三度も言えば、友人たちは逃げていきます。彼がついて来るのではないかとおびえて、逃げていくのです。皆様、そうではないですか。それはなぜでしょうか。自分を中心として主張する人は滅びます。地獄に行くのです。しかし、原理原則に入って、人のために、相対のために投入する人は天国に行くのです。
人類のあらゆる教育理念や指導理念において、漠然とでも、このような観点から善を立ててきたので、今日、この地球星が残っているのです。ある個人が全体のために犠牲になれば、彼は全体の前に善の人であり、ある家庭が全体の家庭のために犠牲になれば、全体の家庭の前に善の家庭として登場するのです。また、ある民族が全体の民族のために犠牲になって進み出るならば、その民族は善の民族として登場するのであり、ある国が全世界の国家のために犠牲になって進み出るならば、その国家は善の国家として登場することを知らなければなりません。
それが神様のみ旨ならば、イエス様を送ったのも、そのようなみ旨を成就するために送ったのです。それで、キリスト教徒たちは、人類を救うために自分の国家を犠牲にし、自らのすべてのものを犠牲にして、投入していかなければならないのです。そのようにしていれば、キリスト教は世界の前に、善なる神様のみ旨のために生きる教会になっていたはずです。神様は、世界を救おうとするのであって、長老派なら長老派、メソジスト派ならメソジスト派、ホーリネス派ならホーリネス派一つだけを救おうとはされません。長老派だけを中心とする神様にはなれません。世界のために生きる神様です。教会が真の教会ならば、世界のために犠牲になりなさいというのです。世界を生かすためには、その教会がたとえ滅びるようになったとしても、犠牲にならなければなりません。これが原則です。そうしてこそ、神様のみ旨が成就されるのですが、教会を中心として世界を審判しながら、「我々でなければならない。我々のために生きよ」と言いながら自らを絶対視する教会は滅びます。
悪なる世界をどのようにして整理するのですか。皆様、どのようにするのですか。神様の天理原則によって教育し、根本的な道理を見極め、全世界を統一しなければなりません。そこから悪を処断できる起源が生じるのです。自分を中心とする主義を壊してしまわなければなりません。
皆様。家庭において問題になることは何でしょうか。夫は「いつも自分のためにいなければならない」と言い、妻は「私だけのために生き、私だけを愛してほしい」と言います。「自分だけを愛しなさい」、これがサタン的な立場になるので、神様が離れるのです。父母は息子、娘を育てて「自分たちのために生きなさい」と言い、息子、娘は父母に対して「自分たちのために生きてほしい」と言い、互いが「自分たちのために生きなさい」と言っているのです。
今日、世界の外交問題においても、他の国をだまし、翻弄しようとする国は滅びます。この地上で「私たちの国は滅びたとしても、神様のみ旨と世界を救うことができるなら犠牲になろう」という国があるでしょうか。アメリカが外国のために協助したとき、アメリカは全盛期にありました。しかし、「ああ、世界が栄えても私たちの国が滅びれば元も子もない。世界を投げ出して、私たちの国をしっかりつかまなければ」と考えています。
この原則から見れば、神様はアメリカから離れなければなりません。もしも「世界は統一教会のために存在しなければならない」と言ったとすれば、統一教会は滅びます。しかし、「統一教会があるのは世界のためである」と言うときは栄えるのです。ですから、統一教会の青年たちが皆様のところに何度も訪問しては煩わしくしたかもしれません。
イエス様が「だれかがあなたの右の頰を打つなら、ほかの頰をも向けてやりなさ」(マタイ五三九)とおっしゃったのは、完全に与えなさいということです。「右の頰を打つなら、ほかの頰をも向けてやりなさい」と言ったのです。そのようになれば、返ってくるのです。完全に与えれば、返ってきます。天地の原則はそのようになっているので、イエス様も、ローマ兵たちに十字架に架けられ、槍で胸を突き刺されても、福を請いながら死んでいったのです。それはどういうことでしょうか。完全に投入して行こうということです。そのようにすれば、怨讐の国までも戻ってくることを知っていたからです。それで、ローマ帝国がキリスト教の国になったのです。キリスト教になったというのです。
このように、歴史的な方向を引つ繰り返してしまわなければ、神様のみ旨は成就されません。このことについて、皆様はこれまで漠然と考えてきました。何が善で何が悪なのかを知らずに、ただこのように聖書を持ち歩きながら讃美歌を歌い、信じて天国に行くのだと言って教会に通っていたのです。それではいけません。
天国に行くために信じるのではなく、世界を天国にするために信じなければなりません。神様がこれまでそのようにされました。神様が御自身のためだけに生きられたなら、既に摂理も何もみな投げ出してしまっていたでしょう。
アメリカの国民は個人主義思想を尊重していることを知っています。主体と対象の関係を忘れた個人主義はあり得ません。ですから、アメリカは袋小路に差しかかっているのです。このようなアメリカを救うことのできるただ一つの道は、どこから出てくるのでしょうか。今こそ、キリスト教の精髄の路程を明らかにし、神様の本然の生命の道を探さなければならないのです。この道以外にはないのです。そのような意味で、この時代においてミスタームーンは、皆様が歓迎しなかったとしても、必要な人ではないでしょうか。
神様は、天理原則を通し、「あなた個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神様のためになければならない」とおっしゃっています。その神様に従うならば、神様のものであると同時に私のものになります。神様のためのものが、私のためのものになります。ですから、私のものは家庭のものであり、家庭は国のものであり、国は世界のものであり、世界は神様のものであり、神様のものは私のものになるのです。全世界が私のものになり、宇宙が私のものになるのです。
皆様。国のために生きる人が忠臣であることを知っています。そして、国の思想的中心存在としてその人に侍ります。このように、一つの国の中心存在として登場することを知らなければなりません。皆様は、このような偉大なことを発見しなければならないのです。若い青年たちが、このような言葉を聞けば、「ふん!ミスター・ムーンは古くさいことを言う。そのようにして、この悪の世界でどうやって生きていけるのか」と言うでしょう。しかし、そうではありません。ために生きれば生きるほど、より大きな中心存在になることを知らなければなりません。
ために生きる人は、主体になるのです。なぜかといえば、神様がために生きる創造理想をもって、これまでために生きてきたので、そのような神様に似てために生きれば、中心にならざるを得ないのです。悪が何かといえば、「あなたのものも私のものであり、私のものも私のものである」と主張することです。今日、民主世界が世界的に発展したのは、博愛思想、ために生きる思想があったからです。共産主義は、ますます崩れていくのです。なぜなら、「共産党のためだけに生きよ」と主張するからです。ですから、それは台頭しないというのです。
神様は、堕落した世界とは異なる別の世界を創建するために宗教を揭げましたが、宗教はそのことを知りませんでした。しかし、はっきりと線を引き、右なら右、左なら左と分けなければなりません。皆様は、善悪について、今後行くべき方向をはっきりと理解されたことと思います。
病気になったので医者が必要であり、故障したので修理工場の主人が必要です。個人的に故障し、家庭的に故障し、国家的に故障し、世界的に故障したのです。それでは、故障する前の人間、本来、神様が完全であられるように完全な愛と完全な生命、完全な理想に一致する人が、どのような人であるかということについて、一度お話ししようと思います。
皆様は、神様の愛を受けていますか。受けることができずにいます。息子、娘が大きくなれば、神様の愛の中で結婚式をしなければなりません。そして、罪のない息子、娘を生まなければなりません。皆様は、罪のない息子、娘を生んだことがありますか。罪のない息子、娘を生むためには、イエス様を信じなければなりません。ですから、メシヤが必要なのです。
その方は、罪のない父であると同時に、罪のない祖父にならなければなりません。この世界には、サタンの国があり、王がいますが、罪のあるその王たちが、神様に対して悪を働きます。それでこの地上に、彼らよりも良い、完全な王、完全な女王がいなければなりません。そのような人を、いつ神様が得たでしょうか。得ることはできませんでした。なぜ、得ることができなかったのでしょうか。サタンのためです。ですから、サタンを追放し、神様が個人的に愛し、家庭的に愛し、国家的に愛し、世界的に愛することのできる、そのような国と国民と息子、娘と家庭をもちたいと願うのは、当然の道理であるといえます。
私たちは堕落した先祖をもっています。堕落した祖父母、堕落した父母、堕落した民族、堕落した国家、堕落した世界をもっています。堕落していない世界とは関係のない群れになってしまいました。これを一度に、個人的に修理し、家庭的に修理し、氏族的に修理し、民族的に修理し、国家的に修理して、一つの国家を立てるために準備したのがイスラエル選民です。イエス様が来られた目的はそこにあったのです。イエス様は、堕落していない完全な人として来られました。ですから、完全な家庭をもち、本然の祖父となり、王とならなければなりませんでした。そのようにするために、神様がお送りになったのです。神様は、対象としてアダムとエバ、男性と女性をつくられましたが、彼らが堕落してしまったので、二人とも修理工場に預けなければなりません。
しかし、イエス様は完全なアダムの完成者として来られたので、新婦を迎えなければなりません。新婦が必要なのです。新婦を迎えて結娘していたならば、イエス様の息子娘はいるでしょうか、いないでしょうか。その息子、娘は、罪があるでしょうか、ないでしょうか。今日のプロテスタントやローマカトリック、長老派といった教派はすべて存在していません。イエス様は王になったことがあるでしょうか。そのようになってこそ、完全な人ではないでしょうか。それができなかったので、再び来なければならないのです。第一イスラエルがそれを成し遂げることができなかったので滅びました。そこで、第二イスラエル圏となるのがキリスト教です。
原因と結果は同じであり、主体と対象も同じです。イエス様がそのような目的で来られたとすれば、神様が主体であり、イエス様とイエス様の新婦となる人が対象であるなら、人として来なければなりません。「小羊の婚宴」とは何でしょうか。六千年前に、「神様は愛と生命と理想の主体である」と言える人がいれば、呼んで祝福し、人類の善の先祖としていたはずです。そのとき開かれる祝宴が「小羊の婚宴」です。そのときに人類の先祖になることができなかったので、終末に至って再び祝福し、神様が人類の前に善の先祖として即位させるのです。
無形の父母と実体をもった父母を中心として、無形の神様と実体の神様が一つになるところで息子、娘を生んでこそ、永遠の無形の霊をもち、実体をもった人が出てくるのです。私たちの霊的注入は、神様とイエス様と新婦が一つになったところにおいて、すなわち霊的なプラスマイナスと実体的なプラスマイナスが一つになったところにおいて、霊と実体が一つに合わさることによって行われるのです。そこから生まれた息子、娘は、永生の霊を受け、永遠の実体として、罪のない息子、娘として生まれます。ここから、永生する生命が始まるのです。そのようになれば、霊的な父を呼び求めることができ、実体的な父を呼び求めることができます。二人の父を知るのです。しかし、堕落したために、皆様はそのようになっていません。
神様とアダムとエバが、永遠の命と愛と理想をもって縦横で一つになれなかったことを、人類の終末時代において、初めて霊的な神様と実体の真の父母が一つになり、霊肉で地上と天上が和合する所に、子女の名分を復帰するようになるのです。そうすることによって、神様の愛を受けることのできる息子、娘の位置に入ることができます。そのような罪のない父母から、罪のない息子、娘、罪のない氏族、罪のない民族、罪のない世界を一度に接ぎ木しなければならなかったのが、イスラエル民族でした。これを成し遂げることができなかったので、主は再び来なければなりません。
神様の愛と神様の命と神様の理想が、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的に一つになり、サタンが讒訴できず、サタンの痕跡のない、そのような世界になってこそ、この地上が天国になるのです。神様と私たち人間が、完全に主体と対象の父子関係として、完全に罪なく聖別された父子関係として、完全に聖別された神聖なみ旨の中で一致し、真の父母と共に真の子女、真の氏族、真の民族を中心として地上天国を成就することを願うのが、神様の人間に対する最高の願いです。
神様の永遠の愛と命と理想が、どこにでも連結されるようにしてこそ、地上天国になるのです。ために生きる世界になって、初めて地上天国になるのです。そのような世界を願うのが、人間に対する神様の希望であることを、皆様が今晩、記憶してくださることを願います。そのようにできる皆様になることを願って、このようなお話をした次第です。ありがとうございました。
3.ために生きる世界
平和経 第一篇
真の平和の根本原理
3.ために生きる世界
日付:一九七五年一月十六日
場所:韓国、ソウル、朝鮮ホテル
行事:「希望の日」韓国晩餐会
今晩、各界各層の著名な先生方がこのように多数参席され、私のために祝賀の夕べを盛況のうちに開いてくださり、心から感謝申し上げます。ここに立っている者は、皆様も御存じのように、韓国やアメリカで、物議を醸している張本人ですから、「いったい、あの文某はどんな人か」という思いで、この場に参席された方も多いことと思います。
人にとって、食べること、見ること、聞くことは、大きな満足と刺激になるものと思います。おいしいものを、より一層おいしく食べられるようにと、私たちのために音楽でお力添えいただく金康燮(キムカンソプ)KBS軽音楽団団長とその団員の皆様に、拍手で感謝の意を表しましょう。また今晩、お客様をもてなすために御苦労される朝鮮ホテルの係りの皆様にも、心から感謝申し上げます。
今晩、このようにお集まりになった皆様の前で、いったい私はどのような話をしようかと考えてみました。しばらく挨拶を申し上げて終えればよいのかもしれませんが、そのまま座ってしまえば、皆様が「文某に会ったら何か話をすると思っていたのに何も話さなかった」と、物足りなさを感じられるのではないかと思いますので、今から私の所見をしばらくお話ししようと思います。
昔から人類は、永遠にして不変の真の愛と理想と幸福と平和を思い描いてきたことを、私たちは知っております。しかし、今日私たちが生きているこの世の中とこの時代は、不信の世の中であり、混乱した時代です。このような中で、人間が願う要件を求めて成就することは、既に不可能な段階に直面していることを、私たちは直視しているのです。
人間は、できる限りの努力をしてみましたが、このような要件を充足させられない現在において、私たち人間によってはこれが成就できないとすれば、人間を超えた、永遠不変で真の絶対者を探し求め、そのお方に依存する以外にないのです。そのお方が、真の愛、真の理想、真の平和、真の幸福を念願されるなら、そのお方を通してこそ、それが可能になる道があると、私たちは考えざるを得ません。そのような立場で考えるとき、そのようなお方がおられるとすれば、そのお方は神様でないはずはありません。
神様は、愛の王となるお方であり、理想の王となるお方であり、平和と幸福の王となるお方です。そのお方を通して、このように人類が追求してきた理想的な要件を成就するためには、そのお方が提示する内容を私たちが知って、それに従っていかなければならない、という結論を下すことができるのです。これは当然の結論です。
私たちが考えてみても、愛や理想、幸福、平和というものは、独りで成立するものではないことを知っています。それは必ず、相対的な関係において成立するものなので、いくら神様が絶対者としておられたとしても、その神様が望む愛と理想と幸福と平和は、神様お独りでは築くことができないのです。神様御自身にも、必ず相対が必要だということは、必然的な帰結なのです。
それでは、「いったいこの被造万物の中で、神様の対象になるそのような存在がどこにあるのか」と反問すれば、それは言うまでもなく、人間以外にはないと結論を下すことができます。神様の理想を成就することができ、神様の愛を完成することができ、神様の幸福と神様の平和を完結できる対象が人間であるという事実を、私たちは想像もできなかったのです。神様お独りで愛そうとしても何にもならず、神様お独りで理想を得ようとしても何にもならず、神様お独りで平和で幸福に暮らしたからといって、それで何だというのでしょうか。必ず相対となる人間を通さなければ、このような要件を成就できないことは当然の結論です。
このように考えてみるとき、私が皆様に一つ尋ねてみたいことは、ここに著名な方々がたくさん来ておられますが、皆様が若い頃、自分の結婚相手を選ぶ時に、劣った人を願ったのか、それとも優れた人を願ったのかということです。このように尋ねれば、皆様は誰もが、「優れた人を願った」と答えるでしょう。また、ある美男と美女が結婚して赤ん坊を生んでみると、両親の顔に比べて不器量な赤ん坊だったとしても、その赤ん坊を眺めながら、「この赤ちゃんは、お父さんやお母さんよりも良い顔立ちをしている」と言えば、その父母は、耳の下まで口が裂けそうになるほど満面の笑みで喜ぶのです。
このような事実を考えてみると、「いったい人間は誰に似てこのようになったのか」ということを、私たちは考えざるを得ません。人はあくまでも結果的な存在であって、原因的な存在ではありません。結果的な存在がそうだとすれば、原因的な存在がそのような内容をもっているために、そのような結果になったというのは当然の結論です。ですから、私たち人間が神様に似たために、そのようになっているという結論が出るのです。
神様に「あなたの対象である存在が神様よりも立派であることを願いますか、劣ることを願います力」と質問すれば、神様もやはり「対象的な存在が自分よりも立派になることを願う」と答えざるを得ないでしょう。したがって、私たち人間も、自分の息子、娘が、自分よりも立派になることを願わざるを得ないというのは、当然の結論なのです。私たちが単に人間自体を見るときには何でもないようですが、このような原則を通して見るとき、私たち人間自身は、本来、神様よりも立派になることを願われ、神様よりも価値あることを願われた存在であるという事実を、私たちは今まで知らなかったのです。
今日の既成の神学では、創造主と被造物は対等な立場に立てないと言います。もしそうであるとすれば、その創造主の前に、愛の実現、平和の実現、理想の実現ご幸福の実現は不可能なものになってしまうのです。
このような立場から見るとき、本然の人間は、神様よりも価値があり、より立派になる、そのような対象の資格をもった存在であり、子女の価値と資格をもった存在であることを、今日の私たち人類はついぞ考えたこともないのです。
このような観点から、今晩ここに参席された皆様は、私たち自身が今から神様のみ前に対象として立つのはもちろんですが、神様の対象として高い価値をもっており、より高い子女の価値をもっているという事実を、肝に銘じなければなりません。
ですから、もし神様が永遠であるとすれば、私たち人間も、地上で一時存在したのちに無になってしまう、そのような存在ではありません。地上で暮らす私たち人間も、愛する対象に対しては、一時いたのちに無になってしまうことを願う人は誰もいないことを知っています。愛する子女と離れて暮らすことを望む人はいません。このように見るとき、神様が永遠であり、唯一であり、絶対的であられる以上、神様の対象である私たち人間自体も、永遠であり、絶対的であり、唯一の価値ある存在でなければならないのです。これは極めて理論的な結論であると言わざるを得ません。
ここに参席された多くの先生方の中には、宗教を信じず、信仰生活をしない方々がいらっしゃるかもしれませんが、このような理想的要件を中心として、神様がおられ、その前に私たちは対象の価値をもった存在なので、神様がそうであられるなら、私たちも神様のように永遠の存在にならなければならないのです。ですから、永生するという言葉は妥当な結論です。今晩ここに参席された皆様が、このことさえ記憶されるならば、皆様の生涯において、より生き甲斐のある人生が始まると思います。
そうだとすれば、知恵の王であられ、全体の中心であられる神様は、真の理想や真の幸福や真の平和といったものの起源を、主体と対象、この両者の間のどこに置くのでしょうか。これが問題にならざるを得ません。主体がある一方で対象があるのですが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、神様は理想の要件をどこに置くのかということが問題にならざるを得ないのです。ですから神様は、真の理想、真の愛、真の平和を築くに当たって、対象が主体のために生きるところにその理想的な起源を置くのか、反対に主体が対象のために生きるところにその起源を置くのか、という問題を考えられたのです。もし神様がその理想的な起源を「主体である自分のために対象が生きよ」というところに立てたならば、すべての人も、「私のために生きなさい」という立場に立ったでしょう。
そのようになれば、一つになる道が塞がれ、分裂してしまうのです。一つになることができ、平和の起源となる道は、神様御自身のみならず、真の人間は、ために存在しなければならないという原則を立てるところにあるのです。ですから、真の愛、真の理想、真の平和、真の幸福などは、ために生きるところから離れては見いだすことができません。これが、天地創造の根本原則だったという事実を、私たち人間は知りませんでした。
真の父母とはどのような人かというと、子女のために生まれ、子女のために生き、子女のために死ぬ人であると言うことができます。そのようになってこそ、真の父母の愛が成立するのであり、真の子女の前に理想的な父母として登場できるのです。さらには、子女の前に平和の中心になるのであり、幸福の基準になることを私たちは知ることかできます。
一方で、真の孝の道は、どこに基準を立てなければならないのでしょうか。その反対の立場です。父母のために生まれ、父母のために生き、父母のために命を懸けて尽くす人が真の孝子になれるのです。このようにしてこそ、父母の前に理想的な子女となり、心から愛することのできる子女になり、幸福と平和の対象になることができるのです。このような基準から見ると、私たちがここで一つの公式を提示すれば、ために存在するところでのみ、このような理想的な要件、すなわち真の愛、真の幸福、真の平和を見いだせることが分かると思います。
それでは、真の夫とはどのような人でしょうか。生まれるのも妻のために生まれ、生きるのも妻のために生き、死ぬのも妻のために死ぬという立場に立った夫がいれば、その妻は、「夫は真の愛の主人であり、真の理想の夫であり、真の平和と幸福の主体としての夫に間違いない」とたたえざるを得ないのです。その妻の場合も同じです。この公式を大韓民国に適用してみれば、大韓民国の真の愛国者とはどのような人でしょうか。このように質問をしたならば、国のために生まれ、国のために生き、国のために困難な環境をものともせず、上は王のために、下は民のために生き、黙々と命を捧げた李舜臣将軍のような方を挙げざるを得ないのです。
また、範囲を世界に広げ、歴史路程において、聖人の中で誰が最も偉大な聖人かと尋ねれば、私たちはこの公式を適用して、その人をすぐに探し出すことができます。その方は、誰よりも人類のために生きた人でなければなりません。ここにキリスト教を信奉しない方も参席されていると思いますが、私の知るところでは、人類のために来て、人類のために死ぬだけでなく、自分が憎んで当然の怨讐、自分の命を奪う怨讐のためにまで祈ってあげたイエスキリストこそ、歴史上にない聖人の中の聖人と見ざるを得ないことを、この公式を通して結論づけることができるのです。このように、宇宙創造の原則と人間の幸福の起源が、ために存在するところから始まったことを、私たちは考えなければなりません。
例をもう一つ挙げると、男性がなぜ生まれたかと尋ねてみれば、きょうここに著名な方々が大勢集まりましたが、多くの男性の方々は、「私自身のために生まれた」と考えやすいのです。自分は自分のために生まれたと、今まで考えてきたはずです。本来、男性が生まれた本意がどこにあるかというと、実は、女性のために生まれたのです。女性のために生まれたという事実は、誰も否定できません。
相対的な立場から見ると、男性は肩幅が広く、女性は腰のほうが広くなっています。ニューヨークのような所に行ってみると、地下鉄が満員の時に窮屈な椅子に座っても、上が広い男性と下が広い女性が座れば、ぴったりと収まるのを見掛けるのです。そのようなことを見ても、互いがために生きる相対的関係を形成するためにこのように生まれたことを、私たちは否定できません。男性は男性のために生まれたのではなく、女性のために生まれました。また、その反対に、女性も女性のために生まれたのではなく、女性も男性のために生まれたのです。
このような事実を自らが確信できないところで問題が勃発することを、私たちは知らなければなりません。これを天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則として立てたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、愛と理想の世界に入ることはできないことを私は知っています。
皆様はよく知らないと思いますが、私は霊的体験、すなわち、霊界に関する内容を体験する機会がたくさんありました。神様がいらっしゃる本然の世界、今日、宗教で言う天国や極楽といった所の構造が、何を基準としてできているのかと尋ねるならば、答えは簡単です。神様のために存在する人たちだけが入る所であり、ために生まれ、ために生き、ために死んでいった人々が入っていく所です。それが私たちの本郷の理想的な構造なので、神様は、人間がその世界に訪ねてくることができるように、歴史過程で数多くの宗教を立てて訓練してこられたのです。
なぜ、宗教人は温柔、謙遜でなければならず、犠牲にならなければならないかといえば、本郷の法度がそのようになっているからです。本郷に入っていく時に備えて、その本郷に適合するように、地上生活の過程で訓練させざるを得ないので、高次元の宗教であるほど、より次元の高い犠牲を強調し、奉仕を強調するのです。その世界に一致させるという理由から、そのように強調せざるを得ないのです。
このような事実から推測してみるとき、歴史の進行過程で神様が摂理してこられたことを是認せざるを得なくなります。聖書がどんなに膨大な経典から成り立っているといっても、たった一言、「ために存在する」というこの原則にすべて一致するのです。
イエス様は「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)と語られました。このような逆説的な話をされたのも、結局は、本然の世界の「ために存在する」という原則に一致させるための方便にすぎないことを、私たちは気づくのです。
それでは、神様は、なぜ「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったのでしょうか。そのいくつかの要因を挙げてみます。私たちの本心を推し量ってみるとき、ある方が自分のために心から命を懸けて尽くしてくれた事実があるとすれば、皆様の本心はそれに報いるときにどのように言うでしょうか。一〇〇パーセント世話になったとすれば、「およそ五〇パーセントはポケットに入れて、残りの五〇パーセントだけお返ししなさい」というでしょうか、それとも、「一〇〇パーセント以上お返ししなさい」と言うでしょうか。そのように問うならば、私たちの本心ははっきりと答えるでしょう。「一〇〇パーセント以上お返ししなさい」と言うのです。
言い換えると、Aという人にBという人が、一〇〇パーセントだけお世話になったとすれば、Bはこれに報いるのに一〇〇パーセント以上を返すのです。そうするとAは、一〇〇パーセント以上返してくれたBに対して、パーセンテージをもっと高めて返したいと思うのです。このように与えて受けるところにおいて、与えて受ける度合が高まれば高まるほど、だんだんと多くなるので、そこから永遠という概念が設定されるのです。
永遠という概念、これは自分のために生きるところでは不可能です。運動するのを見ても、押してあげ、引いてあげるそのような相対的な方向が大きければ大きいほど、早く回ることが分かります。知恵の王であられる神様が、「ために生きよ」という法度を立てたのは、永遠に発展させるためなのです。その原則を知っておられるので、「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったことを、私たちは考えなければなりません。
それのみならず、永遠の概念が成立すると同時に、そのようになれば永遠に発展し、永遠に繁栄するのです。現在の位置から前進し、発展するのです。現在の位置で発展的な刺激を感じることができてこそ、幸福になるのです。そのような要件をもっているので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得ませんでした。
もう一つ、要因を挙げてみましょう。ある家庭で一番下の弟が、その十人の家族のために誰よりもために生きるなら、幼い弟であっても、父母も彼を前に立たせるようになり、兄弟も彼を前に立たせるようになるのです。そのようになることによって、日が経てば経つほど、家庭のために存在するその弟は、自動的にその家の中心存在として登場するようになるのです。
神様がこの宇宙を創造されて以来、神様御自身が、ために存在するがゆえに万宇宙の中心として存在するように、ために存在する神様に似たそのような人が、いくら幼い弟であっても、いくら小さな息子であっても、彼は間違いなくその家系を中心として、中心的な立場に出るのです。今日、私たちはこれを知りませんでした。
ために生きるところから自分自らが後退するのではなく、ために生きれば生きるほど、その人は中心存在として決定されるのです。神様がそうなので、そのような立場に立った人は、神様が中心存在として立てざるを得ないのです。それだけではなく、そのような立場でのみ、理想的統一、完全統一を成就させることができるのです。
今日、他人から主管されることは死んでも耐えられない、そのような人たちが多いことを、私たちは知っています。特に高名な有識者の人たちに、そのような姿を多く見掛けます。しかし、一つ知らなければならないのは、ために存在するその方に主管されて生きることが、どれほど幸福なのかという事実を、夢にも思わなかったということです。千年、万年、支配されても感謝するそのような理想的統一圏が、その場で成立することを知っているので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったのです。
もう一つの要因は、今日、皆様は「愛は私の愛である。理想は私の理想である」と思っています。しかし、そうではありません。愛は自分から始まるものではなく、理想も自分から始まるものではありません。生命よりも貴い愛と理想は、もっぱら対象から得ることができるのです。今日、私たちは、そのようなことを思ってもみませんでした。
この高貴な愛と理想を受けることができ、それを得ることのできる存在が対象です。ですから、私たちが謙遜にその高貴な愛と理想を受け入れようとすれば、最もために生きる立場に立たなければなりません。そうしなければ、それを受けることができないので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったというこの一つの事実を、今晩ここに参席された皆様は記憶してくださるようにお願いします。
よく世の中では、「ああ!人生とは何か」と言います。このように私たち人間には、人生観の確立、国家観の確立、世界観の確立、さらには宇宙観の確立、神観の確立が問題になるのです。それがどのようになっているのかということです。系統的な段階の秩序をどこに置くべきであり、その次元的系列をどのように連結させるのかという問題は、最も深刻な問題なのです。
ために存在するというこの原則に立脚して、私たちの一生について見るとき、最も価値ある人生観は、自分が全人類のためにあり、全世界のためにあり、国家のためにあり、社会のためにあり、家庭のためにあり、夫のためにあり、妻のためにあり、子女のためにあるという人生観なのです。そのような立場で幸福な自我を発見できるなら、これ以上の人生観はないと思うのです。国家自体についても同じです。理想的国家はどのようにならなければならないのでしょうか。「国のためにだけ存在せよ」という国は、悪い国として指弾されてきたことを、私たちは歴史を通してよく知っています。しかし現在、全世界の国家の中で、世界のための政策を展開している国は一つもありません。
皆様もよく御存じのように、今日の共産主義世界は決裂する状況になりつつあります。一九五七年を一つの起点として、共産主義世界が分かれた原因はどこにあるのでしょうか。それはソ連を第一とした共産主義が、スラブ単一民族を中心として世界制覇を夢見たからです。自分の民族だけのために生きる共産主義として登場したので、決裂が起こったことを私たちは知っています。
今日のアメリカも、民主主義の主導国家の立場から没落しつつある実情を私たちは直視しています。なぜそのようになったのでしょうか。世界のために生きる民主国家になるべきアメリカであるにもかかわらず、世界を捨てて自国だけのために生きようとするアメリカになったからです。今や後退の一途に立つたアメリカは、自らの力だけでは収拾する道がないと思われます。
このような問題について見てみるとき、今日、韓国でもう一つの国家観の確立を提唱しているのを見ますが、アジアにおいて韓国だけを第一とした国家観を確立すれば、それは歴史の一時代と共に流れていってしまうのです。ソ連共産党がそうであり、アメリカ自体がそうです。今日、大韓民国はこのように国は小さく、少数の民族ではありますが、世界のために生きる民族思想をもつならば、万一、国の形態がなくなったとしても、二十一世紀や二十五世紀、あるいは三十世紀になって、韓国はきつと世界を指導するでしょう。このような公式的帰結によって、私たちは結論づけることができるのです。
真の国家とは、世界のために生きる国家です。また、真の世界とは、世界のためだけに生きるのではありません。その世界自体は結果的な位置にあるので、動機の起源となる絶対的な神様がいるとすれば、その神様の観点と一致する思想的体系をもたなければならないのです。自分のために生きる内容の思想をもっていては、世界を指導し、解決していくことはできないと見るのです。家庭の天国とは、どのようなものでしょうか。妻が夫のために一〇〇パーセント存在し、夫が妻のために生き、彼女のために死ぬという立場に立つとき、その家庭こそが天国に違いないのです。
格言に「家和万事成」という言葉があります。国が栄えるのも同じです。国を治める主権者は、自分の存在の価値が、自分の主権を行使するところにあるのではなく、国民のために生きるところにあり、その国民は、国民自体のためよりも国のために生きるところにあるのです。そのようになった場合には、その国は天国になります。このような公式的な原則を拡大していくことによって、国家と民族を超越し、互いにために生き合う世界を築くならば、その世界が正に私たち人間の願うユートピア的な愛の世界であり、理想の世界であり、平和の世界であり、幸福の世界であることは間違いありません。ために存在するというこの原則をもって進んでいくならば、どこにも通じない所はないのです。
私がアメリカに行って、短い期間で問題を提起し得た動機はどこにあったと思いますか。私は韓国人ではありますが、アメリカ人以上にアメリカを愛したところにあるのです。私は夜も昼もこの国のために血と汗を流し、アメリカの若者たちが崇高な思想をもてるようにするにはどうすべきかと考えながら努力したこと以外にはありません。私はために食べ、ために活動し、ために生きてきました。そのように生きてみると、個人とぶつかればその個人と一つとなり、団体とぶつかればその団体と和合するようになるのを見てきたのです。
皆様はよく知らないと思いますが、今回の国連総会を中心として、韓国の問題がかなりの苦境に陥ったことを、私は知りました。私が知るすべての組織を動員して情報を得たのです。国連総会の議長からその補佐官、それから、そこに参席した各国の大使とオブザーバーたちが評価するのを総括的に見てみると、韓国の問題は既に希望がないということが決定的だったのです。
私は今まで個人的に見るとき、宗教指導者として、あるいは統一教会を創設し、指導してきた責任者として、「統一教会自体は統一教会のためにある教会になってはならない。統一教会は国家のためになければならない。国家のみならず、世界をリードできる国家となるように導かなければならない」と思ったのです。説明も必要なく、宣伝も必要ないと思いました。
私は三十数ヵ国の宣教師を集め、三十四人の各国の代表者を選出しました。そして、日本の女性三十四人を彼らに付けて、六十八人のメンバーを国連総会に投入しました。一対一で、一人一人を捕まえて説得作業をしたのです。その内容とは何でしょうか。ほかでもありません。言葉が達者だからでもありません。「あなたたちは精誠の限りを尽くして彼らのために生きなさい!会えば食べることから、話すことから、彼らのために努力しなさい一と言ったのです。
そのようにして、四十日の峠を越えると、彼らは私たちの活動に感服するようになりました。私が宗教を指導する一人の責任者として、韓国に対する世界の世論がどんなに不利だとしても、五十ヵ国の大使たちから北朝鮮の日本人妻の自由往来を推進するこの問題にサインさえもらうことができれば、間違いなく韓国の問題は勝利すると見たのです。そのような話をしても、彼らは信じませんでした。
国連総会には、世界の知性ある人たちが集まります。私たちの若者たちが行って、畏れ多くも彼らに対して口を開く自信がありませんでした。しかし、真心からために生きる立場で、そこをどこかの国の事務所ではなく、自分の事務所と思って、そこに行けば掃除をしてあげ、夜遅くまで、彼らを手伝えることなら夜の一時、二時でも意に介さずに車を動員する、そのような活動を背後で展開したのです。
皆様は御存じだと思いますが、テリータウンという所に私たちの迎賓館があります。ベルべデイアという所を中心として、夜には七十ヵ国の大使たちを招待しました。そのように活動したところ、結局、彼らは完全に私たちの側へと引き込まれ始めたのです。そのような過程で明らかになったことですが、北朝鮮は既に第三世界圏、アフリカ地域の低開発国である国々に対して、国連総会でサインすることをすべて決定してきたというのです。彼らが秘密裏に語った内容を総合してみると、北朝鮮は既に五万ドルから十五万ドルに相当するお金をすべて支払い、決定した上で来たので、北朝鮮は、国連に派遣する代表団に対して勝利の祝杯を挙げて、派遣したことを知りました。
しかし、世界のために奉仕し、涙を流し、夜を明かしながら切実に事情を通告したあとの結果は、韓国の問題において、韓国の提案が六十一対四十二、北朝鮮の提案が四十八対四十八で、私たち韓国に勝利がもたらされたのです。私が、このような事実をお話しするのは、皆様に自慢しようというわけではありません。想像もできない奇跡が、この原則の基準に立脚して起こることを、私は生涯を通してたくさん体験してきました。
皆様。いったい統一教会とは何でしょうか。多くの神学者たちが歴史時代を経ながら、ローマカトリックとギリシャ正教を糾合しようと努力しましたが、全く糾合できませんでした。また、たくさんのプロテスタントが統合しようとしましたが、四百以上の教派に分かれました。このような実情にあるのですが、統一教会がいかにして宗教を一つにできるのでしょうか。
このようなことについて考えてみれば、文某という人は頭が少し足りないのではないかと考えるかもしれませんが、問題は簡単だと思います。統一教会員がキリスト教の牧師よりもキリスト教信徒を愛し、信徒たち以上にその牧師を愛することができれば、宗教を統一することが可能なのです。
今日まで、統一教会は二十年の歴史を過ごしてきました。皆様は、統一教会に関する様々なうわさと論難の言葉を聞いていることと思います。統一教会は、地で踏みつけられましたが、そこから世界的発展をしてきました。どのようにして発展したのでしょうか。民族が背反するときに、世界に向かっていく道があることを知りました。民族が行くべき正道は世界のために行く道なので、この道が間違いなく天理の原則であり、万民が行くべき共通の公式であれば、世界がそれを理解するようになるとき、この民族が自動的に理解するようになるという、このような原則に基づいて、血のにじむ迫害の中で、私たちは海外宣教を展開してきたのです。
例を挙げて話すならば、日本を開拓するようになったのは、今から十七年前の自由党の時でした。しばらく、梨花女子大事件によって、文某という人間の評価は地に落ち、どうしようもない時でしたが、私は、日本の情勢が今後どのように回っていくのかを知り、アジアの情勢がどのように回っていくのか、私なりに感じたところがありました。
ですから、法治国家の一国民として、当時においては違法になるかもしれませんが、十年ないし五年のちには必ず大韓民国が、私たちを必要とする時が来ることが分かったので、私が犯罪人の烙印を押されたとしても、この道を断行する以外にはないと考えたのです。正に一九五六年、皆様も御存じのように、西大門刑務所から釈放され、忠清南道の甲寺に休養に行っているとき、そこに来ていた若い青年を呼んで、「あなたは日本のために密航するのだ。男が決めた道は、死を覚悟して行かなければならない」と訓戒したのです。
一九五五年十月に私が監獄から出てきてみると、その当時の統一教会の拠点はなくなり、一間の家までなくなってしまった立場でしたが、私は、国のため、アジアのために借金をして、一九五八年七月に宣教師を出発させました。そのような出来事がついきのうのことのようです。日本の統一教会は、そのような状況から出発しました。宣教師は逮捕され、収容所に拘禁されました。その人も大変なことになったのです。先生と固く約束をしたのに、基盤を築くどころか、牢屋の身になってしまったのですから、誰に哀訴するというのでしょうか。哀訴するところがないので、わざと体調を悪くさせたのです。そうして入院手続きをして、入院したのちに病院から脱出し、東京に行って始めたのが、今の日本統一教会です。
今では、日本の主要な政党が、私たちに諮問を要請する段階に入ってきました。彼らは国家の重要なことがあると訪ねてきますが、そのようになる段階にまで引っ張り上げたのです。そうしながら、この原則は天理が立てた原則であり、この原則どおりに押し進めていけば滅びないと教えました。この原則を知ったので、日本統一教会の若い青年男女の信徒たちは全国に広がり、「国家のための統一教会にならなければならない。アジアのための統一教会にならなければならない。さらには世界のための統一教会にならなければならない」と言って活動していくと、今日においては、日本国内でも知られるようになったのです。
きょう、私が公式の席上で皆様にお会いして、このようなお話をするのは、統一教会の二十年の歴史において初めてです。私は、北米大陸を駆け回りながら残念に思いました。「この孤児のようなかわいそうな男は、信じない自分の国に後輩たちを残したまま、異国の国民の前に来て、信仰を願わなければならない哀れな立場にいるが、神様はこのような者を立てて役事されたのだから、私に協助される神様は御存じだろう」と思い、ひたすら神様にしがみついて力を尽くしてきました。結果は、名実共に新しい創造の歴史を招来するようになったことを体験したのです。
今晩ここに参席されている皆様も、「どのような人が悪の人であり、どのような人が善の人か」、これを何で测定するかということが問題だと思います。しかし、それは簡単なことです。その人がいくら宗教人であっても、「その人は天国に行くか、地獄に行くか」ということを何で測定できるのでしょうか。自分のために生きてきた生涯が多ければ、彼は地獄行きです。他のために生きた生涯が、自分のために生きた生涯よりもーパーセントでも多ければ、彼は地獄を越えて天国に向かう道に立つのです。ところが、自分のために生きた比率が高い場合は地獄に行くのです。
御高名な諸先生方。今まで私たちは大韓民国の国民の一員として、この国のために貢献してきました。各自、自分の置かれている位置で貢献してきましたが、それは誰のためのものだったのでしょうか。全国民が各分野において、このような思想で革命をした場合には、いくら大韓民国が悲惨だったとしても、希望があるのです。家庭でそうであり、社会でそうであり、為政者から、あるいは、団体の指導者から、この民族の精神風潮がこのよな思想からなった場合には、この民族は絶対に滅びないのです。必ずこの民族はアジアに影響を及ぼすはずであり、世界に影響を及ぼすと思います。
このような観点から、私たちがいかにして理想的な体制を、一つの公式を通して探し出すことができるのかということを、結論的にお話しすれば、夫は妻のために生き、妻は夫のために生き、その夫婦は子女のために生き、家庭は氏族のために生き、その氏族は民族のために生き、その民族は国のために生き、その国は世界のために生きる、そのような国になった場合には、この国は滅びません。
神様がいらっしゃるならば、そのような人を求めるのです。神様は、世界万民を子女にしたいと思うのです。ですから、神様の目的は世界の人類を救うことです。さらには、宇宙を救うことです。国家や単一民族圏の枠を超えることのできないような宗教は、神様の全体のみ旨の前に立つことはできないでしょう。
神様は世界を救うことが主目的なので、それが可能な段階へといかに次元を高めて発展させるかという問題を考えてみるとき、原則は簡単です。家庭は氏族のためにあり、氏族は民族のためにあり、民族は国家のためにあり、国家は世界のためにあり、世界は神様のためにあればよいのです。そして、世界のために生きる人間でなければ、全宇宙を創造された全知全能であられる神様の子女となる資格はないのです。世界が神様のために生きる立場に立つならば、神様は世界のために生きる立場に立つのであり、国のために生きる立場に立つのであり、民族のために生きる立場に立つのであり、氏族のために生きる立場に立つのであり、家庭のために生きる立場に立つのです。
この話を別の言葉に言い換えると、自分のものは妻のものであり、その夫婦のものは家庭のものであり、家庭のものは氏族のものであり、氏族のものは民族のものであり、民族のものは国家のものであり、国家のものは世界のものだという観念をもったその世界は、結局、神様のものになるのです。神様のものであれば、それは誰のものでしょうか。「私」のものになるのです。そのような立場に立ってこそ、皆様の欲望を最高度に達成する立場に立つようになります。
皆様。そうではないでしょうか。人は誰しもが、「世界一になりたい」という欲望をもっています。そのような価値のある存在となるので、万有の中心である神様のものが、初めて「私」のものになり、そのような栄光の立場に人間は立つことができるのです。このように見るとき、ために生きるところでのみ、家庭天国の実現が可能であり、国家天国の実現が可能であり、世界天国の実現が可能なのです。それだけではなく、神様も人類と共に、「幸福で、理想的な園だ」と言いながら、踊って歌うことのできる世界へと連結されるのです。そのようなものが、正に宗教が目的とする天国であり、そのような天国が地上で築かれるので、そこが正に地上天国であるという結論が出るのです。
皆様。きょう、このような晩餐会を通して「ために存在する」というこの原則を心に刻んで、今からお帰りになりましたら、家庭や職曝から、そのように実践する皆様になってくださることを願います。そのように暮らす自分を発見した場合には、皆様はより満ち足りたあすの希望をもつことになり、あすの開拓者としての中心的な責任を堂々と果たす自分を発見するでしょう。
どうか、そのような皆様になってくださることを願いながら、皆様の家庭と皆様の社会とこの国に、より一層の神様の祝福があることを願います。「ために存在する」というテーマについて、今晩の挨拶に代えて皆様にお話ししました。これで私のお話を終えようと思います。
4.人類の新しい未来
平和経 第一篇
真の平和の根本原理
4.人類の新しい未来
日付:一九七五年四月十四日
場所:韓国、ソウル、獎忠体育館
行事:「希望の日」韓国九ヵ都市巡回講演
今晩、このようにお集まりいただいた紳士淑女の皆様に、心から感謝申し上げます。きょう、皆様と共に考えてみようと思うテーマは「人類の新しい未来」です。
現在、私たちは混乱した世界で暮らしています。中世以後、没落し始めた神本主義時代を経て、今は人本主義時代です。それのみならず、物本主義ともいえる唯物主義時代に置かれているのです。このような混乱した状況を経ながら、誰も明確な内容を提示できなかったために、今日、人類は脱イデオロギーという収拾し難い状況を迎えています。
今、問題となるのは、人がいないことでも、物質がないことでもありません。それは、神に対する明確な観が現れないことです。明確な神観を通して、人生観や歴史観を新たに設定しなければ、人類世界の新しい未来は現れることはないと思います。私たちがはっきりと神様を知るならば、中世に没落し始めた不明確な神観、現世の人本主義思潮、唯物主義思潮のすべての問題は解決すると思うのです。
ですから、神様は存在するかしないかということが問題にならざるを得ません。今晩、皆様に忘れ難い印象をいかに残してあげるかを、私は考えざるを得ません。
人間は今まで、真で永遠不変な愛と理想と幸福と平和を期待しない時がありませんでした。変わる人間を通しては、このような理想的な要件を成就させることはできません。これは、今日私たちが現時点において処している世界の状況を見つめてみれば、如実に証明される事実です。このような時に、絶対的で、永遠で、唯一で、不変であられる神様がいらっしゃるならば、そのような神様によって、新しい見地から、真の愛、真の理想、禀の平和、真の幸福の起源を求めざるを得ないのです。そのような立場から、神様御自身から見る神観、神様御自身から見る人生観、神様御自身から見る物質観、これを明確にするところから、新しい平和と新しい幸福の世界を私たちは迎えることかできると思うのです。
ここで問題となることは何でしょうか。いくら絶対的な神様だとしても、その神様お一人で愛や理想や幸福や平和というものを達成することは不可能です。愛や理想や平和や幸福といった言葉は、単独で成立する言葉ではありません。どこまでも相対的要件のもとで形成される言葉です。ですから、いくら絶対的な神様だとしても、その神様のみ前に相対がいなくなるときには、神様が願われる絶対的愛、絶対的理想、あるいは絶対的幸福、絶対的平和も成就しないという結論が出てくるのです。
そのような観点から見るとき、その絶対的な神様のみ前に対象的な存在として登場することができる存在とは何でしょうか。人間以外には、ほかの存在がいるとは考えられません。この人間だけが神様の理想を成就させることができる対象であり、神様の真の愛を完成させることができる対象であり、神様の幸福と神様の平和を完成させることができる対象の価値を備えているという事実を、私たちは考えもしませんでした。
神様は主体であり、人間は対象です。真の愛の王となることができる神様、真の理想の王となることができる神様、真の平和の王となることができるその神様のみ前に、対象である人間自体を見たときに、私たちは無限の価値をもった存在であることを知らなければなりません。
私が皆様に一つ尋ねてみたいことは、皆様が青春時代に、男性ならば男性が自分の結婚相手を選ぶ時に、劣った人を願ったのか、それとも優れた人を願ったのかということです。このように尋ねれば、誰もが、「優れた相手を願った」と答えるでしょう。また、ある父母に愛する子女が生まれるとき、自分よりも劣る子女が生まれるのを願う父母がいるかといえば、そのような父母はいないのです。自分よりも優れた子女、自分よりも立派な子女が生まれることを願うのが人間です。自分の相対や自分の子女が優れていることを願うのは、人間本性の欲求です。それは、人間が誰に似ているからでしょうか。人間はあくまでも原因的な存在ではなく、結果的な存在であることは否定できません。人間は自分の相対や自分の子女が優れていることを願うのです。それは誰に似ているからでしょうか。原因であられる神様に似ているので、そのように求めざるを得ないということは当然の結論です。
今日、人間は、自分の価値を取るに足りないものと考えています。「私など無価値な存在だ」と動物のように自分を扱う人がたくさんいます。きょう、皆様に一つ覚えておいていただきたいことは、神様は、皆様自身が神様よりも立派であることを願われているという事実です。このことを覚えてお帰りになれば、これは偉大な発見とならざるを得ないと思うのです。このような堂々とした人間の本然の価値を回復するところから、真の愛の世界へと行くことのできる道が生じるのであり、真の理想と真の幸福と真の平和の世界へと行くことのできる道があると思います。今までの神学者たちは、創造主と被造物は対等な位置に立つことはできないと考えてきました。
私たちは、「神様は愛である」と語っています。また私たちは、神様を理想的神様であると思っています。しかし、理想的であっても、一人でいてどうするのでしょうか。一人で幸福になれるのでしょうか。一人で平和や自由といったものがあり得るのでしょうか。このように見るとき、人間は本然の価値を喪失したのであり、本然の価値をもっていたならば、神様が尊敬する人間になっていたことは間違いありません。このような本然の価値を回復する人間の本性があるので、私たちは、最高の対象や最高の主体になることを願うのです。
堕落した人間たちの中で、自分の愛する対象の存在が、一年やあるいは十年ほどして消えてしまうことを願う人がいるでしょうか。愛を中心として対象は永遠です。永遠不変です。より次元の高い絶対的で唯一的な立場において、不変で絶対的な愛を求めるのです。堕落によって本然の価値を喪失した人間でもそのようなことを求めるのに、永遠不変で唯一の絶対者であられる神様が、その対象の存在がしばらく存在したのちになくなることを願われるでしょうか。それは願われないのです。神様は永遠のお方なので、その対象的な愛の存在である人間も永遠であることを願うのは、理論的な当然の結論です。
皆様が一つ、はっきりと悟らなければならないことは、人生は永遠でなければならないという決定的な結論です。そのようなレベルであってこそ、「人間が万物の中で最も貴い(万物之衆唯人最貴)」という言葉が成立するのです。ですから、人生は永遠でなければならず、人生は不変でなければならず、人生は絶対的でなければならず、人間は唯一的な存在にならなければなりません。なぜでしょうか。神様が主体なので、その愛と理想と幸福の対象である人間もそうでなければならないからです。
今、皆様は、主体と対象の関係において、理想の実現が可能であり、愛の世界が可能であり、また幸福の世界が可能であり、平和の世界が可能であり、真の自由の世界が可能であることを知りました。主体と対象の観念を、皆様は今はっきりと知ったのです。
私たちは今まで、天地創造の理想的起源をどこに設定するのか、という問題を考えもしませんでした。創造というその言葉自体は、何を意味するのでしょうか。すべてのものの投入を意味します。思いを形にするためには、それに相当する自分自体の力を投入しなければなりません。投入するところから存在が始まるのです。
主体と対象の関係について、神様が考えるならば、道は二つしかありません。一つは、神様を中心として対象が主体のために生きる道と、もう一つは、神様御自身がその対象である人間を造って、人間のために生きる道、この二つの道しかありません。ここに神様の理想的根源地を設定しなければなりません。もし「主体となる神様に、対象的なすべての存在は絶対服従せよ。主体だけのために生きよ」と言う場合は、どうなるでしょうか。神様が男性的主体として存在されるように、男性と女性を中心として、男性が主体で、女性が対象であるならば、その男性が女性に「主体のために生きよ」と言えばどうなるでしょうか。ここには一つになる道が塞がってしまうのです。しかし、知恵の王であられる神様が、「対象のために生きよ」という立場を設定するときは、すべてが一つになることができるのです。ですから、天地創造の理想的起源は、「自分のため生きよ」というところに置くことはできず、「相対のために生きよ」というところに置かざるを得ないという事実を、今、私たちは知らなければなりません。
それでは、堕落とは何でしょうか。人間は神様のために存在するようになっており、また神様は人間のために存在するようになっています。互いのために存在する原則を立てました。しかし、このような原則から外れ、人間自体が自主的自我を自覚し始めたことが堕落です。言い換えれば、自分を中心としてすべて「ために生きよ」というところに自分自身を立てようとしたのです。ここから堕落の起源が生じました。天理原則から外れ出したのです。
人間が神様を手本として、神様から教育を受け、神様のために存在していれば、そこから理想世界の実現が可能だったにもかかわらず、そうすることができず、人間自体を中心として主体性を強調したので、堕落が起きたのです。このような事実は、聖書を通して如実に証されています。ですから、ここに一つの公式的結論を下すならば、「すべての理想的創造物は、ために存在する」という原則が成立するというのです。真の父母とは、子女のために生まれ、子女のために生き、子女のために死ぬ父母です。その父母は、息子にとって真の愛の父母であり、真の理想の父母であり、真の幸福の父母であり、真の平和の主体的な父母です。真の孝子がどこにいるでしょうか。人が生まれたのは、自分のために生まれたのではなく、父母のために生まれたのであり、生きるのは、自分のために生きるのではなく、父母のために生きるのであり、死ぬのは、自分のために死ぬのではなく、父母のために死ぬ、そのような人が孝子です。
それでは、男性が生まれるようになった理由は何でしょうか。男性自身のためではありません。女性のために生まれたのです。女性が良い服を着て、顔を化粧するのは、誰のためにするのでしょうか。自分のためにする女性がいるでしょうか。男性のためにするのです。女性が生まれるようになった理由は男性のためです。互いのために存在しているにもかかわらず、自分のために生まれたと考えるところから問題が起こるのです。
それでは、理想的な夫とは、どのような人でしょうか。いつも自分だけのために生きてほしいと考える人が理想的な夫でしょうか。違います。真の夫、真の妻はどこで見つけることができるでしょうか。男性が、妻のために生まれ、妻のために生き、妻のために死ぬというその立場でのみ、「ああ!理想的な夫であり、永遠不変の私の愛の主体である」と言うことができます。ですから、そのような夫をもつ妻は「私は幸せな妻だ」と言うことができるのです。またそのような家庭が平和の家庭に間違いないという話が成立します。しかし、「私のために生きてほしい」と考える夫をもつ女性は不幸であることを、私たちはよく知っています。このような観点から、ために存在するという原則を宇宙創造の起源として設定された知恵の王であられる神様を、私たちは高らかに称賛しなければならないのです。
私たちは、今ここで一つの結論を得ました。ために存在するところでのみ、真の愛は始まり、真の理想が始まり、真の幸福が始まり、真の平和は始まるという、この公式を、私たちはここで設定できるのです。神様がこのような宇宙創造の公式を設定したとすれば、この公式を通してこそ、神様が願われる愛も、神様が願われる理想も、神様が願われる幸福も、神様が願われる平和も可能なのです。それ以外に、これはあり得ないということは当然の結論です。
愛国者、偉人、聖人は最も大きなもののために生きる人この公式を適用すれば、真の愛国者とはいったいどのような人かというとき、彼は、生まれるのも国のために生まれ、生きるのも国のために生き、死ぬのも国のために死んでいく人です。すべてをその国とその国民のために生まれ、生きてから死んでいく人であるならば、その人は愛国者にほかならないのです。李舜臣将軍のような方が愛国者であることを、私たちはよく知っているのです。順位をつけるとすれば、よりために生きた人が優位になるのです。ですから、悲惨な立場で志操をもってよりために生きる心をもった人であればあるほど、その人はより次元の高い愛国者です。この公式を通した結論は、自動的な結論とならざるを得ません。
今までの歴史の過程で多くの偉人と聖人が生まれては死にましたが、いったい歴史の過程において最も偉大で、最も立派だった聖人はどのような人かというならば、この公式を通して、私たちはすぐに発見することができます。どのようなお方かというと、生まれるのも人類のために生まれ、生きるのも人類のために生き、死ぬのも人類のために死にながらも、誰の責任にするわけでもなく、人類のために福を祈ることのできる立場にいるとすれば、その人は歴史上のいかなる聖人よりも偉大な聖人にほかなりません。
ここには、キリスト教の信徒ではないほかの宗教の方たちも大勢来られていることと思います。イエス.キリストはどのような人なのか、ということを私たちはここで一度考えてみようと思います。イエス様は、万民のためにこの地に来ました。自分のために来たわけではありません。万民と神様のために来たのです。また、自分のために生きたのではなく、神様と人類のために生きました。そのような意味で、神様の天理法度に従って、良い時も悪い時も、ために生きる原則に一〇〇パーセント合格した方がいるとすれば、それはイエス様しかいません。ですから神様は、そのイエス様を保護し、キリスト教を発展させざるを得ないのです。したがって、キリスト教は、名実共に世界的宗教にならなければなりません。
私たちがイエス様のみ言を分析すれば、それは簡単です。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」(マタイ二〇・二八)と語られたのは、天倫の大道を明らかにするためだったことを知らなければなりません。ために生きてもらうためではなく、ために生きるために来たということです。それが本来、神様が創造された存在物の理想的起源なので、この起源を説き明かし、この起源に一致する生涯を歩んでいかれた方が、正にイエス様であることを、私たちは知らなければなりません。
新旧約の聖書六十六巻が、いくら内容が膨大だとしても、この一言に帰結するのです。「ために存在せよ」という言葉に尽きるというのです。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三一二)という逆説的な論法が、天地創造の原則的起源を通して見るとき、真理に間違いないという寧実を、私たちはこれまで知らなかったのです。
霊界についてよく知らない方がたくさんいらっしゃると思います。私は、神様の特別な恩賜を受け、霊界に関する内容をたくさん体験しました。その世界の構造は、いったいどのようになっているのでしょうか。天国には、いったいどのような人が行くのでしょうか。神様の玉座に近い所に行く人は、いったいどのような種類の人でしょうか。自分のために生きた人は行くことができない場所です。理想的根源であり、創造の中心存在である神様御自身も、宇宙のために存在し、原則的な中心存在としていらっしゃるので、その天国の構造は簡単です。「ために存在する者だけが行くことのできる所である」というのは、当然の結論にならざるを得ません。
天地の大主宰であられる神様がいらっしゃる所が、私たちの本郷であり、本然の世界です。その本然の法度に適合できるように訓練するための場所が何でしょうか。宗教です。それでは、宗教の使命は何でしょうか。教権主義者たちのように、自分の教派のために生きることが、神様のみ旨ではありません。自分の教権を超えてでも、神様のために生き、人類のために生きる教派にならなければなりません。自分の教会のために生き、自分の教会のために戦うのではなく、サタンに対して戦い、人類のために行く教派にならなければなりません。
ですから、今日、宗教というものは、その本郷の世界に入っていくことができるように、その法度に合わせる訓練をする所なのです。ですから、歴史始まって以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教は、自分自らを否定する修行をしました。なぜ「犠牲になり、奉仕しなさい!」といったのか、今まで知らなかったのです。なぜ犠牲になり、奉仕をしなければならないのかといえば、本然の世界がために生きる本郷だからです。ですから、その世界に行くためには、そこに行ける訓練と準備をしなければなりません。したがって、高等宗教であるほど犠牲と奉仕を強く求めたのは、歴史時代に、神様が歴史過程を通じて摂理してきたものであることを、ここで知ることができます。
それでは、真の宗教とは、いかなる宗教でしょうか。それは簡単です。神様のみ旨のとおりに行う宗教です。神様のみ旨は何でしょうか。神様のみ旨は、宇宙を救うことです。言い換えれば、世界を救うことです。キリスト教の信徒たちは、これを知らなければなりません。神様のみ旨は、世界を救うことです。キリスト教を犠牲にしてでも、世界を救わなければなりません。それが神様のみ旨なのです。キリスト教の本然の使命は、神様のみ旨を成就することです。神様のみ旨を成就するためには、人類救済の責任を果たさなければなりません。それができないとすれば、審判台の前に立って、行くべき道を行くことができなくなります。私が探ってみると、そのようになっているというのです。
真の宗教はどこにあるのでしょうか。人類のために、自分の国はもちろんのこと、自分の教団や教会を投入できる宗教です。このような宗教は滅びません。私たちがわきまえて行くべきことは何でしょうか。国のために生き、世界のために生きるという原則によって見れば、真偽がはっきりと分かれることを、皆様は知らなければなりません。
神様はなぜ「ために生きよ」という原則を立てざるを得なかったのでしょうか。その内容と要因を、私がいくつかお話ししようと思います。真心から命を懸けて皆様を世話してくれた人がいたとしましょう。そこで皆様自身は、一〇〇パーセント世話になったとすれば、その世話に報いるために、五〇パーセントだけお返ししたいと思うでしょうか、それとも一〇〇パーセント以上お返ししたいと思うでしょうか。皆様の本心はいかがでしょうか。それは言うまでもなく一〇〇パーセント以上お返ししたいと思う本心があるので、今日皆様は、その本心に従って救いを受ける可能性があるのです。
ですから、知恵の王であられる神様は、ために生きる原則を立てざるを得なかったという事実を知らなければなりません。ために生きるときは、永生するだけではなく、繁栄するのです。そこから発展します。世話になると、その世話に報いるために適当にお返しするはずはありません。真心から命を懸けてそれ以上お返ししたいと思う本心をもっています。そのような心があるので、天国に行くことができるのです。
また、ために存在する原則を立てざるを得ない二番目の要因は何でしょうか。例えば、皆様の家庭に八人の家族がいたとしましょう。その八人の家族のうち、最も幼い弟が、家庭のために生きることにおいて、父や母、あるいは兄や姉よりも、その家庭のために生きるときには、どのような立場になるでしょうか。だんだんと高められ、中心的な存在として登場するようになるのです。
今日、宗教において教えてくれるすべての論理は逆説的なようですが、ために存在するこの原則に従って見ると、よりために存在すればするほど、より次元の高い中心存在になるのです。なぜ中心存在になるのでしょうか。ために生きる人は、万宇宙のために存在する神様に似ているからです。ですから、神様が自分に似た存在を、神様に代わる中心存在として立てるというのは妥当な結論です。心からために生きる主体の前に、心からために生きる対象となるとき、自然に中心存在にならざるを得ません。
今日、政治哲学で問題となるのは何でしょうか。支配者と被支配者の問題です。この問題をいかに解決するかということが今まで悩みの種でした。それがここで簡単に解決されるのです。よりために生きる立場に立った中心存在の支配を受け、主管を受けることを、今日の人間は恥ずかしいことのように思っていました。「人に支配されるなんて、たまらない!」と言いますが、とんでもないことです。心から自分のために生きてくれる人から完全に主管され、支配される立場が、どれだけ幸福な立場か、私たちは今まで考えもしなかったのです。
皆様が霊界に行けば、神様は、天地の中心存在としていらっしゃるので、そのお方に千年、万年、支配を受ければ受けるほど、それ以上の幸福はないことを知るのです。今日の私たちは、このことを知りませんでした。自分のために心から支配してくれる人、そのような方がいれば、そこに真の平和が存在するという事実を、私たちは全く知りませんでした。ために生きる存在は、中心存在になり、中心存在になることによって完全に統一的な環境をここから造成できるという事実を、私たちは知らなければなりません。
三番目の要因は何でしょうか。なぜために存在せよという原則を立てざるを得ないのでしょうか。今まで皆様は「愛」といえば、「それは私の愛である」と思いがちでした。「愛」といえば、それを皆様は自分の愛だと思っていました。いったい愛というのは、どこから来るのでしょうか。愛は自分から来るのではありません。理想も自分から来るのではありません。生命よりも貴く、何ものよりも価値のある愛と理想は、自分から来ることはないことを皆様は知らなければなりません。それは相対から来るのです。たとえ神様だったとしても、それは同じです。
このように相対が高貴であることを、今まで知りませんでした。ですから、生命よりも貴い愛と、生命よりも貴い理想は、どこから来るのでしょうか。自分からくるのではなく、相対から来るので、それを考えても、謙遜に頭を下げなければならず、ために生きよという法度を立てざるを得ないというのです。
文某という人は、再臨主という名前のゆえに、たくさんの被害を被った者です。統一教会とは、いったいどのような教会でしょうか。簡単です。「統一教会」という名前のとおり、教会を統一してみますか。教会を統一することができるでしょうか。ローマカトリックと分裂して以来、ギリシャ正教は約九百五十年の歴史をもっていますが、いまだに一つになれずにいます。プロテスタントも四百以上もの教派に分裂し、互いに批判し合いながら数百年間争ってきました。それを統一するとは、統一教会の文某という人は気が少し狂つているのではないかと思うかもしれません。しかし、それは簡単であるという結論を下すことができます。何を通して可能なのでしょうか。ために存在するこの原則を通して可能なのです。
それで、私がこのような論法によって、今まで三十年間、既成教会からありとあらゆる謀略や中傷を受けましたが、じつとしていました。愚かでじつとしていたわけではありません。天理の法度は、あまりに厳然として冷酷な原則をわきまえていく道であることを知っていたので、黙々と何も語らずにきました。あたかも神様のように、あたかもイエスキリストのように行かなければならないのです。
ですから、より次元が高い善のキリスト教の一人の生命が奪われれば、何百倍の損害賠償を請求し、打たれて取り戻してくるという天の作戦があることを私は知っていました。すべての既成教会が一つになって統一教会に反対したとしても、統一教会が善の立場であるときには、それを統一教会に損害賠償として渡さなければならないのです。理論的です。
神様は、個人を越え、家庭を越え、氏族、民族、国家、世界、さらにはこの天宙を越え、絶対的に神様のために生きるという一人の人、そのような一つの団体、そのような一つの民族、そのような一つの国家が現れることを願っていることを知らなければなりません。そのようなことを求めようとする神様のみ旨の前に、今日、統一教会は、そのような立場に進んでいこうと身もだえする姿であり、団体であることを記憶してくださることを願います。
ここにおいて、私たちは、理想が実現可能な段階的法則と公式の結論を下すことができます。夫は妻のため、妻は夫のため、父母は子女のために生きなければなりません。さらに、家庭は氏族や親戚のために生きなければなりません。また氏族は民族のために生きなければなりません。そして国家は、自国を中心として世界の国々を屈服させるのではなく、自国を犠牲にして世界のために生きようと考えなければならないのです。そのような国家を探し求めていることを知らなければなりません。
独裁者がほかにいるわけではなく、独裁主義帝国がほかにあるわけではありません。自国を中心として数多くの民族と国を踏みにじろうとし、あなたたちは私のために生きるべきだという、そこに神様の怨讐である独裁国家があるという事実を、皆様は知らなければなりません。
皆様も御存じのように、今日、共産主義は一九五七年を境界として、ソ連と中共が決裂し始めました。ソ連がスラブ民族だけのための世界共産主義を主張するようになり、そこから分裂するのです。永遠にソ連を宗主国とする共産主義を夢みたので、その共産主義は分裂せざるを得ません。しかし、ソ連共産主義が、世界共産主義のために犠牲になろうという愛をもつならば、中共とソ連は分裂しないのです。ソ連は、超民族的な思想基準の設定が不可能だったという事実を皆様は知らなければなりません。ですから、そこから崩れ始めたのです。
今日、民主主義の主導国家であるアメリカも、神様のみ旨から見た場合、どのように行くべきでしょうか。アメリカが民主主義の宗主国であるとすれば、民主主義を率いて世界のために生きることにおいて、アメリカを犠牲にしなければなりません。しかし、世界を捨てても、アメリカ自体のために生きる立場に立ったので、アメリカは今日、悲惨な状態で苦しんでいるという事実を私たちは知っています。このような観点から、今後、世界を指導する理想と思想はどこにあるのでしょうか。国家と民族を超越し、自分の民族を犠牲にしてでも、世界を救おうという国家と民族が現れるならば、その当時は悲惨な立場で犠牲になるかもしれませんが、二十五世紀や三十世紀以内のある時に世界が必要とする、そのような時が必ず近づいてくるのです。ですから、その時に至って、世界を指導する国家になることを皆様は知らなければなりません。
今日、大韓民国も、自国だけを中心とした大韓民国にしてはいけません。アジアのための大韓民国を誰が設定し、世界のための大韓民国を設定し、さらには、神様のための大韓民国を誰が設定するのかという問題が、今日、悲惨な中に置かれている韓国国民が、直ちに求めていくべき道です。
そのような意味で、統一教会は、教会を犠牲にしていきながらも、先端に立って共産主義と闘っています。民主世界の没落を防ぐために、血のにじむ犠牲を覚悟し、努力しています。自分の団体が犠牲になっても、この厳粛な思想を残す土台の上には、神様が必ず共にいらっしゃるでしょう。ガリラヤの海辺で民族の反逆者の罪を着せられ、三十代の育年として死んだイエス様が、世界を指導する民主世界を創建する国家観の思想をもっていたことを誰が知っていたでしょうか。同じ道理です。ですから、統一教会は黙々とこの道を整えていっているのです。
ここに世界二十五ヵ国からやってきた国際機動隊の隊員たちにも、「あなたは、自分の国よりも世界を愛しなさい」と教えました。これが神様の願う道であり、真の宗教の行くべき道なので、今日、彼らは、韓民族を自分の民族以上に愛する運動を提示するために韓国の地まで来たことを、皆様が記憶してくださるように願います。
神様は世界のために責任を負うことのできるその国を望んでいます。そして、世界のために自分のすべてを犠牲にできるその教会を望んでいます。そのことを皆様は知らなければなりません。もし皆様が神様に、「神様、あなたはキリスト教会、あるいは統一教会の神様になりたいですか」と尋ねるなら、神様は、キリスト教会の神様や、統一教会の神様になりたいとは思わないのです。世界の神様になりたいと思うのです。
より高い次元の道のために行く群れは、より高い次元の立場において、永遠に繁栄し、その環境において中心となり、自動的に主管することができるのです。そこから、天から臨む永遠の愛と永遠の理想を所有できることを知らなければなりません。ですから、夫は妻のため、妻は夫のため、また父母は子女のため、家庭は氏族のために生きることが公式的な生き方です。
ここから個人的人生観や国家観、あるいは宇宙観や神観にまで到達できる一つの公式が出されました。家庭は氏族のため、氏族は民族のため、民族は国家のため、国家は世界のため、世界は神様のため、神様は私たちのために生きることが理想です。皆様は、最高の神様が「私のためにいる」という立場、最高の神様の愛が「私のためにある」という立場に行ってこそ、平和と幸福、理想、真の愛が実現するのです。別の言葉で結論を下すならば、私のものは妻のもの、父母のものは家庭のもの、家庭のものは氏族のもの、氏族のものは民族のもの、民族のものは国家のもの、国家のものは世界のもの、世界のものは神様のもの、神様のものは私のものなのです。
このようなことが可能なその世界、個人でもために生き、家庭でもために生き、社会でもために生き、国家と世界的にもために生きることができる、どこに行ってもために生きることができるそのような所が、私たちの願う最高の理想郷です。理想郷なので、真の愛があり、真の平和があり、真の幸福があり、真の自由があるのです。そこが、私たちの願う理想世界です。
また、地上でそのような世界が展開し、神様を中心として一つになっているなら、そこは地上天国にならざるを得ません。堕落した人類は、そのような所を目指して前進しなければなりません。これが具現化された世界が起こるようになるとき、そこから人類の新しい未来、新しい希望の世界が展開されることを記憶してくださるように願いながら、私のお話を終えようと思います。
5.ために生きる生涯
平和経 第一篇
真の平和の根本原理
5.ために生きる生涯
日付:一九九一年四月二十七日
場所:ウルグアイ、モンテビデオ国立劇場
行事:カウサ創立十周年記念文鮮明先生歓迎大会
尊敬する貴賓、敬愛するウルグアイの「カウサ(CAUSA:南北米統一連合)」の会員、ならびに紳士淑女の皆様。美しいウルグアイの首都モンテビデオで、皆様と席を共にすることができましたことを、大変光栄に存じます。併せて、私の到着を熱烈に歓迎してくださったウルグアイの国民の皆様にも感謝を捧げ、特別に今日このように貴い場を準備してくださった皆様に、心から感謝を申し上げる次第です。
ウルグアイの「カウサ」創立十周年を記念するこの時点において、皆様の祖国ウルグアイのために、これまで十年間、最善を尽くして働いてこられた皆様の御功労を称賛いたします。特に、南米の中心部に位置し、ラテンアメリカ諸国の中でも重要な役割を担っている、このウルグアイを訪問することになったことは、何よりも意義深いことと思います。
この美しい皆様の国を、私が直接訪問することになったのは、今回が初めてですが、二十六年前、私が南米を初めて歴訪した時のことが思い出されます。その時から今まで、私はラテンアメリカを忘れたことがありません。過去数年の間、この地域の未来について案じ、特にラテンアメリカの人々の霊的救援に対して深い関心をもってきました。
今やアメリカ大陸発見五百周年を迎えようとするこの時に、私たちは、この大陸の根源がどこに由来し、現在はどのような状況に処しており、また将来はどこへ向かうのかということを、深刻に考えてみなければならない、歴史的で重大な時点に置かれていることに気づかされます。
私は、アメリカ大陸が十五世紀末まで、ヨーロッパの人たちに未知の世界として残されていたのは、決して偶然ではなく、神様の摂理による結果だったと思います。神様は、この大陸を、御自身の摂理のために準備してこられました。初めて大西洋を渡り、この大陸に定着した数多くの人々は、献身的な人々であり、神様を信じ、自由に礼拝を捧げることのできる国を建てたあと、この大陸の原住民にもイエス様の福音を伝え、新しい世界を創建しようとしていた勇士たちでした。
この大陸の原住民と、ヨーロッパから来た定着民との間に、統一と和解が形成されることが、神様のみ旨でした。そうして、新生国アメリカ大陸は、神様の名のもとに、すべての人種を和合させるモデル国家とならなければなりませんでした。しかし、神様の願いとは裏腹に、そのみ旨は成就されませんでした。善良で献身的な人々以外にも、自分の利益ばかりを追求する利己的な人々も一緒に入ってきて定着したのです。正に彼らが原住民を搾取し、蹂躙したのです。甚だしくは、奴隷制度まで生まれ、人種差別の悲劇が発生することになりました。
このように無分別な人々の行為によって、神様の祝福の中で開花すべき新しい文化の基盤が、常に天の祝福の中にとどまっていたわけではありませんでした。国家の形成過程が、キリスト教的な愛の土台においてではなく、敵対感の中で行われた時も少なくありませんでした。このような不幸の出発が生じ、拡大して、今現在も利己心と搾取という単語がなくならずに残っているのです。
ラテンアメリカが全世界に和解と平和の見本を示したいと思うなら、過去の慣習から抜け出し、新しい出発をしなければなりません。スペインから自由を得た日から、ラテンアメリカは、周辺国家間の統一を目指した偉大な夢を抱いてきたのです。
シモンボリバルが主張したパトリアグランデ(大祖国)思想や、他のすべてのラテンアメリカ諸国の建国のために功績を建てた人たちの理念、そしてウルグアイを立てたホセアルティガスの志も、ラテンアメリカの国家間の統一を念願するものでした。全世界のすべての国々が、文化的、経済的、政治的方法を通して、より偉大な統一を追求している歴史的な現時点において見てみるとき、ラテンアメリカが今まで培ってきた一つの世界を目指した夢は、より一層大きな価値をもって輝くのです。
このような観点から、私はこれまで「南北米統一連合(CAUSA)」、「中南米統合機構(AULA)」、「世界平和教授アカデミー(PWPA)」、そして「世界平和のための頂上会議」のような組織を通して、ラテンアメリカの夢を側面から支援し、育成してきたのです。これまで数年の間、私は先に申し上げた組織を通して、多くの元大統領や元首相たちを糾合し、彼らと共に、どのようにすれば国家間の協力を増進させ、統一を成し遂げることができるかという点を研究してきたのです。正にこのような目的のために、一九八六年、ここモンテビデオで、ラテンアメリカの十四ヵ国の元大統領たちが「アウラ(AULA)」という名で共に集い、会議を開いたのです。
私は、今日皆様の祖国である、ここラテンアメリカが、平和で豊かな未来を迎えるためには、必ず解決すべき深刻な問題点を抱えていると思います。文化的、経済的、そして政治的に発展を阻害する問題点は、必ず取り除かなければなりません。ラテンアメリカ諸国も、世界的な問題を前に、他の先進諸国のように、同一の責任を感じなければなりません。そのようにするためには、全世界的に、より偉大な世界創建のための技術平準化と思想の自由な交流が実現されなければなりません。
正にこのような目的のために、統一教会は、中国、アフリカ、ソ連、東ヨーロッパ、中東、そして皆様の故郷である、ここラテンアメリカなどで、より肯定的な世界的発展のために働いてきているのです。「カウサ」の活動、道徳観と倫理観の確固とした土台の上に立てられるべき民主主義体制に、より明確な方向性を提示する思想を、全世界的に普及しているのです。「カウサ」は、民族主義国家の中で、いまだに蔓延する不正と腐敗と搾取を根絶するために必要な道徳観を提示しているのです。
今日、私たち人類が直面しているすべての問題点、すなわち、無知、飢饉、疾病などは、単に外部に現れた現象的な問題点ということだけではなく、全世界の人々が共に責任をもって解決すべき、より根本的な次元の緊急の問題点なのです。このような重大な時点にあって、私たちは、歴史的な転換期に生きています。
過去の歴史を調べてみると、宗教的、文化的、政治的分野を中心として、より住みよい世界をつくるための運動が少なからずあったことを知ることができます。しかし、そのような運動や組織が人類の発展史に大きく貢献したのも事実ですが、それらのほとんどが、本来の理念や目的から逸脱し、独自の道を歩むようになったことも知ることができます。宗教団体や文化、政治団体、社会組織など、すべての組織活動が分裂、衝突、不和を繰り返し、さらには戦争も辞さなかったのです。
現在も、ゆがんだ政治的欲望や宗教的偏狭性が、敵対感と憎悪心を引き起こしているのを目撃することができます。このような現象は、信仰をもつ人がもつべき真の目的にはなり得ず、良心的な人々が追求する道にはなり得ません。それでは、私たちが追求する道はどこにあり、子孫たちに伝授してあげる正しい伝統とは果たして何でしょうか。
人類が勝ち取るべき和合と平和を成し遂げる道を理解するために、私たちはまず、神様の創造理想を知らなければなりません。絶対的で永遠の神様が、何ゆえに創造をしなければならなかったのでしょうか。神様にとって絶対的に必要なものとは何でしょうか。物質的な富や知識、それとも権力でしょうか。これらは、神様が願いさえすればいつでも得ることができるものです。
しかし、真の愛だけは、神様お一人では完成することができません。なぜなら、真の愛は、必ず相対を通してのみ完成されるもので、授受作用できる相対がいなければ、神様であっても、この真の愛を完成することはできないからです。正にこのような理由で、神様はこの世界を創造されたのです。
それでは、真の愛とは何でしょうか。イエス様が命を懸けてまで怨讐を愛された、その生涯を見ることによって分かるように、真の愛は、人のために自らの命を犠牲にしても、それを忘れることです。このような真の愛を通してこそ、イエス様のように死を克服して永生を得るようになり、天国の市民となる道を歩むようになるのです。
私たちが被造世界を観察してみると、鉱物世界、植物世界、動物世界は、すべて互いに愛を中心として和睦しながら授受作用をする主体と対象のペアになっていることが分かります。同じように、夫婦間や親子間でも、愛を中心とした平和がなければなりません。このような愛の関係が、すべての被造物の中に内在しているのです。人間は、全被造世界の中心であり、神様に最も近く、また全被造世界の最高位にいるのです。
したがって人間は、神様の真の愛の対象であり、人間がいなければ神様の真の愛の目的も成就されないのです。神様が真の愛を創造理想として立てられ、また最も気高く貴い絶対的な価値として立てられました。絶対的な神様でも、真の愛には絶対的に降服したいと思うのです。神様でさえもそうなので、人類と被造万物は絶対的に真の愛に屈服するようになっています。このような点から見るとき、私たちは神様の真の愛の対象として創造された人間の価値が、どれほど高貴であるかということを、改めて悟らされるのです。
神様は、真の愛である「ために生きる愛」を土台として、御自身の創造理想を立てられました。与えてはまた与え、さらに与えても、与えたというその事実さえも忘れてしまうのです。このように与える愛の中で、神様は真の愛を完成するのであり、無限に投入して創造するようになったのです。すべての人間は、和合して存在し、また究極的に相対のために投入する神様の真の愛を実践するとき、永生を享受できるように創造されたのです。
また、男性は女性のために存在し、女性は男性のために存在します。与えても、また与える真の愛の神様の創造理想と共に、男性と女性は互いに愛するように生まれ、愛を中心として夫婦となり、一つになるようになっています。夫婦が共に神様の縦的な愛の対象となり、神様のすべてを相続するようになります。これこそが人間が存在する目的なのです。
真の愛の根源であられる神様は、父母の立場でこの絶対的で不変な真の愛を人間に相続させようとするのです。
なぜならば、真の愛を通してのみ、完全な和合と統一が可能になるからであり、神様の真の愛も、御自身の対象的な子女たちに相続させることができるものだからです。
それだけではなく、神様から同居権を得るようになり、また、同参権までも享受するようになりますが、これらはみな、真の愛の三大属性を通して得た特権となるのです。父母の心は、子女が自分よりも立派になることを願うものであり、夫婦間においても、相手が優れていることを期待するのですが、それは正に、神様が、御自身よりも立派な子女となるように人間を創造された、神様の真の愛のためです。
このような点から見るとき、人間は、神様と共に生きるようになっており、神様と同じ価値観をもって生きるようになっていることを否定できず、さらには、人間同士においても、真の愛を中心として同居権、同参権、相続権を享有しながら生きるようになっているのです。したがって、理想世界では、真の愛を中心として、すべての人間は、真の理想と幸福を求めて生きながら、自分の対象と子女たちに、そのまま相続させてあげるようになっているのです。これこそが正に、神様がこの被造物を創造した根本理想なのです。
しかし、今日の世界を見ると、神様が理想とされた世界とは、あまりにもかけ離れた世界になっています。神様の根本的な創造目的とは異なり、天国の代わりに地獄となり、罪悪と苦痛、そして闘争によって満身創痍になっています。宗教的な用語を借りて説明すれば、このように病んで傷だらけとなったこの世界が、正に堕落世界なのです。この堕落した世界を本来の状態へと回復するために、神様は救援摂理を繰り広げて来られたのです。したがって、私はこれまで神様の救援摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理であることを、全世界に教えてきました。
神様の復帰摂理の目的は、堕落していない根本の理想家庭を探し立てることであり、その基盤の上に、神様の真の愛と真の父母様の思想を中心として、理想世界を建設することです。救世主の使命とは、正にこの世界に真の愛を実現することです。それが真の父母の使命であるということを、私たちが悟るようになれば、神様の括命を受けて、このような使命を果たすために生涯を捧げるようになるのです。言い換えれば、救世主の使命は、正に神様を信じるすべての人が共同で力を合わせて果たさなければならない使命なのです。
聖書を見ると、神様の最初の息子と娘であるアダムとエバは、神様の真の愛の中で成長し、神様から祝福を受けて結婚し、罪のない子女を繁殖するようになっています。そうして、彼らも、神様のように真の父母になって天国に入るようになっていたのです。そのようになっていれば、この世界は地上天国になっていたのであり、神様の真の愛と真の生命、そして真の血統だけが存在する理想世界が形成されていたのであり、その世界は、唯一、神様だけが主管する理想世界になっていたのです。
しかし、アダムとエバは、成長過程で不倫な愛の関係をもつようになり、その元凶である天使長はサタンとなったのです。アダムとエバは、善の先祖となることができず、悪の先祖になってしまい、そこから死亡の世界が始まってしまいました。悪の血統を相続した人々の横行する世界が、このようにして生じたのです。サタンは淫乱の神となり、神様は淫乱を最も憎むようになりました。
正にこのような淫乱のために、今日、アメリカやヨーロッパ大陸もソドムとゴモラやローマ帝国のような運命を迎えているのです。世界は今、サタンの愛、サタンの生命、サタンの血統から私たちを解放してくれる真の父母を必要としています。この真の父母こそが、正にメシヤなのです。
アダムとエバが責任を完遂できなかったために、神様は真の子女を失い、人類は真の父母を失ってしまう結果となりました。堕落の結果により、真の父母の理想と神様の真の愛を実現する真の人間と真の世界を失ってしまったのです。ですから、メシヤは、そのような途方もない真の父母の位置に立ち、人類の先祖によって植えられた偽りの根を引き抜いてしまい、永生できる真の子女を探し立て、創造理想世界を実現しなければならないのです。
一つの家庭について見ても、兄弟間の関係は、父母を土台としてこそ可能です。したがって、この世界が真の愛と真の家庭の圏内に立つためには、まず真の父母が確定されなければならないのです。正にこの目的を達成するために神様の召命を受けた私は、これまで神様のみ旨に従って、終始一貫して一本道を歩んできたのです。
私は、世界的に繰り広げている統一運動と、各分野にわたって推進している計画、すなわち、宗教界、学界、教育、言論、および文化芸術、科学技術、経済活動など、すべての分野を通して、神様から受けたその一つの目的を達成しようと、それらを推進しているのです。
正にこの目的達成のために、私は迫害を受け、死にも直面したのであり、いつも真の父母の心情で全世界のすベての人種を抱き、私の実の親や兄弟以上に愛してきたのです。
このような道を通して神様は、メシヤが歩んだ道、すなわち神様を心から愛し、神様が本来理想とされた世界である愛と平和と和合の世界の創建のために、自らのすべてを投入される、無条件の真の愛を人類に与える道を歩むよう、全人類に呼びかけていらっしゃるのです。このような愛の道こそが、信仰をもつ良心的なすべての人が従うべき、不変の道なのです。神様は、私たちすべてが、それぞれがいる場所でメシヤになることを望んでいらっしゃいます。私たちはみな、真の父母の心情で神様を愛し、人々を愛さなければならず、万物までも愛さなければなりません。これこそが正に神様が私たち人間に下さった使命なのです。
今日の世界情勢を探ってみると、外的には冷戦が終息し、東と西、南と北の平和増進を模索しています。分断と対決の時代を超え、これからは兄弟姉妹の関係で結束した一つの世界を形成し、和解を通した統一の時代に突入しています。
二十一世紀を迎えるまでのこの十年間は、神様が人間に特別に恩賜を施される期間であり、本来、神様が創造された根本の世界へと回帰できる、貴重な十年となるのです。したがって、私は既に「世界平和連合」の創設を主唱し、アメリカやソ連など、世界各国の数多くの指導者たちは、それに呼応して名乗り出ています。また私は、「世界平和宗教連合」の創設も提議し、既に八百人以上の世界的な宗教指導者から熱烈な支持を受けているのです。
これまで数多くの人たちが、真の統一と一つの世界を形成し、真の愛を探すために努力し、苦労してきましたが、なぜ真の統一と一つの世界は、いまだに私たちから顔を背けているのでしょうか。人間は誰しも平和を希求しています。しかし私たちはまず、どのようにすれば平和を達成できるのかということから知らなければなりません。問題の鍵は、皆様の妻、息子、娘、親戚、国家、世界など、相手側にあるのではなく、皆様自身にあるのです。言い換えれば、皆様の心と体が、良心を中心として完全な一体を完成した、和合と統一の実体になっているかいないかに、個人の幸福はもちろん、世界の統一までかかっているのです。
良心は、神様が私たち人間に下さった最も高貴な贈り物であり、天下とも取り替えることのできない私たちの主人です。私たちが神様と真の父母の心情を所有するようになれば、私たちの生涯は、真の愛を中心として真の平和を達成する「ために生きる生涯」となるのです。永遠の価値と、不変的価値の基準となる真の愛を中心として生きるようになれば、私たちは心と体の一体のみならず、精神と物質の両面を中心として、世界的に両分された愛と理念の統一までも達成することができるようになるのです。
このような点こそが、良識ある人たちの関心の焦点です。したがって、永遠の世界平和を達成するには、宗教と政治、そして文化の役割が必要不可欠です。そして、すべての分野で献身している老若男女が共に手をつないで立ち上がり、断絶と偏見の壁を壊し、恒久的な世界平和の達成を願われる神様のみ旨を中心として団結しなければなりません。
今、私たちが世界平和のためにどれだけ貢献しているのかを、自問してみるべき時に置かれています。私たちは、相互間において真の愛で交流しなければならず、その道こそが世界平和を達成する近道となることを知らなければなりません。誰彼を問わず、相手を軽蔑し敵対視する人は、神様の摂理はもちろん、世界平和に決して助けにならないのです。
世界は今、数多くの問題点を抱えています。したがって、私たちは真の価値観を探し立てなければならず、そのためには、腐敗と破倫の道をたどっている道徳観を正し、邪悪になっていく人間の心を正さなければならず、
良心的で信仰心の深い人たちを糾合して、神様と真の父母様の真の愛を実践する、永遠の神様の真の愛の働き手として育てなければなりません。世界各地で老若男女を問わず数多くの人々が真の愛に飢えています。すなわち、他のために生きる人を渇望しているということです。
私たちが今、そのような人たちのために新しく真の愛の伝統を立てるなら、すべての宗教が一つとなり、神様と全人類が一体になって神様の創造理想を完成し、新しい願い、すなわちイエス様が願われた理想世界を創建するために邁進するようになることは確実です。したがって、全世界と若者たちに、新しい平和の時代、真の家庭の時代、そして真の人類の起源が始まっていることを、はっきりと示しましょう。
最後に、私と私の家庭を温かく迎えてくださった皆様に、もう一度、心から感謝しながら、神様の祝福が皆様と皆様の家庭、そして皆様の国家ウルグアイの上に満ちあふれることをお祈りいたします。ありがとうございました。
6.真の平和の根本原理
平和経 第一篇 真の平和の根本原理
6.真の平和の根本原理
日付:一九九四年三月二十七日
場所:韓国、ソウル、ロッテホテル
行事:第二回「世界平和会議」
敬愛するゴルバチョフ元ソ連大統領、著名な議長団および元現職国家元首の皆様、そして尊敬する紳士淑女の皆様。このたび、第二回「世界平和会議」にこのように御参加くださり、深く感謝申し上げます。
今、私たちは、二十一世紀、国際化と世界化の時代を迎え、世界平和を遮る数多くの難題を解決しなければならない時点に立っています。きょう私は、このような世界的難題の根本に対する根源的解決方案が何であるかについて、生涯をかけて天意に従って努力してきた所信の一端を簡単に披瀝(ひれき)させていただこうと思います。
世界は争いと混乱と憎悪に満ちた罪悪世界になっています。国家も、社会も、家庭も、個人もそうです。どうして世界がこのように悪くなったのかと言えば、人間個々人において、歴史を通じて心と体が闘ってきたからです。この闘いは歴史と共に始まり、現在まで継承されてきているのです。
闘う個人から始まり、自然に闘う家庭、闘国家、闘世界となり、神様の最も嫌う悪なる地獄世界を形成しました。闘う世界の始発点は、個々人である男性と女性の二人の問題です。ですから、世界中の複雑多端な問題も、闘っている心身と男女、この二つの問題さえ解くことができれば、解決するでしょう。
心身はなぜ分裂したのでしょうか。男性と女性はなぜ和動、統一ができなかったのでしょうか。誤ったからです。人間は堕落によって心身が分裂し、男女の紛争が起こり、神様を失ってしまいました。サタンを中心とした悪の世界になってしまったのです。
したがって、問題の解決点は、第一に、神様を探し出すことであり、第二に、悪なるサタンを追放することであり、第三に、心身が統一された男性と女性を探し出すことです。神様は、エデンの園からアダムとエバを追い出しました。堕落したアダムとエバは、サタンを中心として結婚し、子女を生みました。そうして人類始祖は、サタンの血統を相続するようになったのです。血統が汚されてしまったというのです。
サタンとなった天使長は、神様の姦夫の立場に立つようになりました。愛の関係を結べば所有権が決定されるのが天理原則なので、人間の先祖はサタンの所有になってしまったのです。本来、神様の真の愛を中心として心と体が一つになるはずでしたが、心に神様の真の愛が完成する前に、サタン側の偽りの愛が結ばれ、サタンが体に根を下ろしたのです。ですから、本来、心がプラスの立場にあるべきなのですが、体がもう一つのプラス的立場に立ち、強く反発することによって、心の世界を引っ張り回すのです。
それで神様は、宗教を通じて真の愛の力を心に与え、偽りの愛で一つになった体を絶対に屈服させようとされるのです。心身が真の愛によって統一されてこそ、神様がいらっしゃるところに帰っていくのです。
堕落した先祖は、偽りの先祖となり、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の偽りの個人、家庭、社会、国家、世界の地獄を築くようになったので、これを打破し、神様を中心とした真の父母の真の愛、真の生命、真の血統を復帰して、本然の世界へと回復するのが、宗教の道であり、救世主メシヤが来られる目的なのです。
神様もお一人では寂しいのです。神様も相対理想を中心として天地創造をされました。なぜならば、真の愛を得るためです。被造世界を見ると、ペアシステムになっています。鉱物世界も、植物世界も、動物世界も、人間世界も、すべて主体と対象の関係になっているのは、人間の真の愛の理想のモデルを立てようとするところにあります。
真の愛ゆえに、女性は男性のために生まれ、男性は女性のために生まれました。世界の問題の解決は、真の愛を中心として、心と体、男性と女性が一つになるために存在するところでのみ完成することができます。真の愛は、相対のために存在するところでのみ得られるのです。サタンの愛は自己中心的な愛であり、神様の愛は利他的な愛です。正反対です。今や無形の神様は私たちの真の愛の理想の主体であり、私たちはその絶対的対象の立場にいるので、第二の神様の立場にいることを確信し、無形の神様と真の愛によって心身一体を完成し、自分の心に、神様のように絶対に侍るところでのみ、堕落した体からサタン世界を追放できるのです。
そして、良心の命令に絶対服従するところでのみ、「本然の自我」を取り戻すことができます。神様は、私たちの父母の中の父母であり、師の中の師であり、主人の中の主人なのです。これが、天地を中心とした三大主体思想です。私たちの良心のみが、主体思想を達成する対象の立場で絶対一体にならなければならないので、良心の位置は、私たちを生んでくれた父母より、師より、いかなる国の王よりも優る立場に立たなければ、神様の愛の対象の立場に立てないのです。良心は教育が必要ありません。神様の代わりに絶対に仕えなければならないのです。
良心は、自分のすることで知らないことがありません。すべて知っています。良心は、体が悪いことをしようとするとき、いつも反対しますが、体が自分勝手に心を引っ張り回すのは、堕落した愛の力が、堕落するときの良心の力よりも強いからです。しかし、人間が良心を中心として完成圏に到達し、神様と真の愛の関係を結んだなら、いかなることも問題になりません。
エデンの園におけるアダムの家庭は、神様が理想とされた真の愛の家庭でした。見えない無形の存在全体を現すための創造だったのです。神様と人間は、真の愛を中心とした主体と対象の関係でした。神様の心の中にある無形の子女、兄弟、夫婦、父母として、真の愛の実体完成を願い、アダムとエバの二人を創造したのです。神様は、子女の真の愛の完成を願い、実体の家庭の兄弟として、実体の夫婦として、実体の父母として、真の愛の対象を創造されました。
親子関係の真の愛は縦的であり、夫婦関係の真の愛は横的であり、兄弟関係の真の愛は前後の立場で、球形の真の愛の理想を願われたのです。すなわち、縦には上弦と下弦、横には左弦と右弦、前後には前弦と後弦の全体を連結した一つの中心点で統一されるのです。その点が球形体の中心点になります。
いつ四大心情圏である子女、兄弟、夫婦、父母が一体を完成するのでしょうか。神様を中心として人間が結婚し、初愛を結ぶ場がすべての完成の結実点であり、中心となるのです。ですから結婚とは、天地人の合徳(和合)であり、縦横、左右、前後の全体を完成するものです。結婚は、真の子女、兄弟、夫婦、父母の理想の真の愛の完成地なのです。
ですから、アダムとエバの夫婦は、神様が最も愛する実体対象である第二先祖であり、第二創造主の立場に立つので、神様が第一創造主として感じるものをすべて相続し、子女、兄弟、夫婦、父母の立場で、神様の代わりに喜びを感じるのです。第一創造主の立場を体恤するための子女の繁殖が第二創造主としての喜びなのです。
ここで神様は第一創造主であり、アダムとエバは第二創造主、アダムとエバの子女は第三創造主の立場になります。第一、第二、第三創造主、すなわち神様、アダムとエバ、子女は四位基台を中心とした公式的な範疇となり、すべての人類が従わざるを得ない存在の根本原則となるのです。
このようにアダムとヱパを中心として見るとき、上下(父子関係)が連結されれば、左右(夫婦)、前後(兄弟)が連結され、家庭が完成するのです。この場が、神様を求めて個々人の心身が統一され、男性と女性が統一され、神様を中心として安着できる神様と子女であるアダムとエバが統一された基盤となることによって、平和と自由と幸福と希望が結集される基地になります。アダムとエバをして、有形実体の第二創造主の立場で実体的第三の創造主を刺激的に体恤させたのが、アダムとエバの子女繁殖なのです。
こうして代々、子女、兄弟、夫婦、父母の四大心情圏を体恤させる基盤が家庭です。家庭はすべての真の愛を完成させる基地です。そうして、家庭において神人愛一体を完成し、天地を所有できるようになるのです。すなわち理想的子女、兄弟、夫婦、父母が出発する源泉地となるのです。
ここにおいてのみ、心身統一の男性と女性が現れることができるのであり、また理想的な男女一体を完成した夫婦を見ることができ、理想的な父母が出発できます。また、真の家庭を中心として子女、兄弟、夫婦、父母が完成するモデルが創造されるのです。
このような理想型を、国家と世界を越えて天宙まで拡張、展開するのが、神様の創造理想です。したがって、国家は家庭よりも大きな家庭型であり、世界は国家よりも大きな家庭型であり、天宙も世界よりも大きな家庭型になるというのです。
ですから、家庭、国家、世界、天宙にも、四大心情圏に代わる子女、兄弟、夫婦、父母の型をもつことができるので、家庭より大きな国家には数多くの家庭が入るようになり、家庭は国家のために存在し、世界は数多くの国家が入っているので、国家も世界のために存在し、世界はもっと大きな天宙のために存在し、天宙はもっと大きな中心者である神様のために存在しなければなりません。
ですから、家庭において四大心情圏を完成した基準がより大きく統一されれば、一体理想が実現し、その土台の上に平和と幸福と自由の天宙を迎えることができるのです。したがって、心身統一と、男女を中心とした家庭統一が重要なのです。神様も成長してこられたというのです。無形の心の中にあった子女、兄弟、夫婦、父母を、実体のアダムとエバとして創造し、子女、兄弟、夫婦、父母となり、第二の自己として体恤されることによって、真の愛の理想を完成した神様としての無限の喜びを感じられるのです。
私たち人間も、神様のような喜びを感じるために存在しているので、誰もが、ある人の子女、兄弟、夫婦、父母の立場にいるのです。人間は誰でも四大心情圏を中心として家庭を形成するので、家庭は理想的な心情圏を体恤するための基地なのです。
私たちも、神様のように実体の四大心情圏を体恤する人のみが、地上天国と天上天国のどこでもう一つになることができます。そのような理想的な人間になるために、家庭を願うようになるのです。このように、人間は心身統一と夫婦統一を絶対に要望します。個人の心身統一ができなければ、すべての面で不合格者になります。そのようになれば、自然と家庭統一はできず、家庭で脱落、国家で脱落、世界と天宙と神様から脱落するので、神様を中心として必死に努力してこそ、心身統一と家庭統一が可能なのです。
皆様御自身は、神様の代身者、第二の神様の立場にいることを知らなければなりません。そうして人間は、誰もが同じように本然の家庭を求め、愛の巣を復帰しなければなりません。
真の愛で一つになった夫婦は地上天上天国の出発地
夫婦の立場というのは、神様の子女が一つになった立場であり、神様の家庭で兄弟が一つになった立場であり、夫婦が一つになった立場であり、父母が一つになった立場であることを知らなければなりません。夫と妻は、四大心情圏を中心として見るとき、自分を完成させてくれる絶対的対象者です。
ですから、夫というのは、妻に理想的な神様の息子を迎えさせる立場であり、天の兄を迎えさせる立場であり、天の夫を迎えさせる立場であり、天の父を迎えさせる立場です。妻も、夫に対してこれと同様の位置に立つようになるのです。
このような夫婦は、神様が体恤したように、子女を生み、自分たちの育ってきたすべてのものを、子女を通じて実体的に真の愛を体恤することによって、喜びを感じるようになります。神様の愛は絶対的なので、夫婦は分けられないのが天理原則です。このような原則を失ってしまった堕落した人間世界を復帰して、本郷に滞らなければなりません。そのようにすることによって、「世界平和連合」がその目的を達成できるのです。こうして、家庭天国は国家天国へ、国家天国は世界天国へ、さらに天上天国へと完全解放し、平和の世界へと展開されるのです。
結婚して、夫婦が真の愛で愛し合う場は、神様と人間の愛と生命と血統の根源となる王宮の場であり、理想のための地上天国、天上天国の出発地なのです。このような真の愛によって結実した子女が、真の愛を中心として夫婦一体を完成し、神様に侍って暮らす家庭になって、平和と理想の出発基地となるのであり、片側である男性と女性は一体となり、神様の相対として、神様の理想愛を完成させるようになります。すなわち、真の愛を中心として、神様は人間を無限に価値ある存在として完成させるので、神様も真の愛を完成させ、神様の創造理想である永遠の理想の愛が宿る理想家庭を立て、理想世界を完成しようとするのです。神様とアダムの家庭を中心として見れば、神様は第一代の先祖、アダムは第二代の先祖、アダムの子女は第三代の先祖の立場です。神様は祖父の立場であり、アダムは父母の立場であり、アダムの子女は息子、娘の立場です。
三代が一つの家庭に定着するので、祖父は天上天国の神様の代身であり、地上世界と天上世界にいる王と女王の立場であり、父母は現在の地上天国を代表した家庭の中心である王と女王の立場であり、子女は未来を代表する天上天国と地上天国を相続する王子と王女の立場です。このようにアダム一族は、神様を中心とした王族になって暮らしたのち、天上天国である永遠の世界に移つて暮らすようになっていたのですが、これが人間の成就すベき目的なのです。
また、家庭を中心として見るとき、祖父母は過去を代表した天の国の王と女王の立場にあるので、神様のように侍り、父母は現在の全世界の家庭を代表した王と女王のように侍り、子女は未来の王子、王女のように愛して暮らしたのち、永遠の天国に入るのです。そこにおいてのみ、永遠の人間の欲望と自由、希望、平和、幸福が完成するようになるのです。
尊敬する各国の代表の皆様。皆様は、生涯の重要な時期を、皆様の国家の発展と世界平和のために渾身の力を尽くして努力された方々です。皆様のそのような献身的な苦労によって、今日人類は過去よりもはるかに進歩した環境と条件で暮らせるようになりましたが、いまだに私たち人類すべてが待ち望む自由と平和の理想世界は実現しておらず、今、この時間にも民族、人種、宗教間の葛藤と対立によって、世界の至る所で多くの人々が飢え、苦痛を受けて死を迎えているのです。
私は、宗教指導者として早くから神様の召命を受け、人類を戦争と罪悪から救い、平和世界を定着させなければならないという一念で生涯を生きてきました。きょう私が皆様に先ほどお話ししたことは、このような私の召命から出てきた、平和に対する平素の所信と哲学である「頭翼思想」の一端です。世界平和は、権力指向の政治的イデオロギーやその他の物理的力の論理では、決して実現できないというのが「神主義」と「頭翼思想」の観点です。
平和は、神様の真の愛と真理を、個人から始まって家庭、家庭から社会、国家、世界におけるすべての人類が共有し、共に実践することによって、人類は兄弟姉妹であることを悟り、地球大家族社会を形成するときにこそ実現できることを、はっきりと悟らなければなりません。
このような観点から、「世界平和連合」の創設目的は、神様を中心とした個人の心身統一と夫婦を中心とした家庭から本当の平和の教育と実践が行われることによって、社会と国家、世界の平和を具現しようというところにあります。私たち全員が家庭天国を完成し、ひいては世界平和の主役になることを願う次第です。神様の祝福が皆様と共にあることをお祈りいたします。ありがとうございました。
平和経 第一篇 真の平和の根本原理
日付:一九九五年八月二十三日
場所:韓国、ソウル、ロッテホテル
行事:第三回「世界平和会議」
尊敬する議長、尊敬する元、現職の国家元首ならびに紳士淑女の皆様。きょう私は、第三回「世界平和会議」の開幕の冒頭において、参加者の皆様に深い敬意を表しながら、世界平和に対する所信を披瀝できることを誠にうれしく思います。
今回の第三回「世界平和会議」は、過去のどの時よりも絶大な関心を呼び起こしています。皆様が、遠路はるばる旅行しながら、真の世界平和の働き手となることを希望して、このような盛大な会議を可能にしてくださったことに対して、衷心より感謝を捧げる次第です。
私は今年に入って、中南米大陸に神様のみ旨があることを知り、中南米二十三ヵ国を歴訪しながら、真の世界平和の模索に全力投球しました。私は行く国ごとにその国の主要人士たちと会い、私の所信を披瀝し、そのうち八ヵ国では、その国の大統領と単独会談をし、温かい友情の中で、世界平和について共に意気投合する貴重な機会をもちました。私はこの中南米の各国で「真の家庭と私」という題目で講演をしました。
私は、このように中南米大陸を東西南北に駆け巡る間に、多くの理想を描いてみました。中南米三十数ヵ国の国家社会が、真の平和を実現して理想国家を築くために、何をすべきか、どうあるべきかを考えてみたのです。
中南米大陸は、無限の潜在力をもっています。そこには無限の資源があります。そこには尽きることのない無限の人力があります。肥沃な平和の楽園、雄大な山と大自然、創造本然の汚染されていない美しい大自然!二十一世紀には必ず開花する、南米の全盛時代を夢に描いてみました。
このような無限の可能性を秘めた中南米大陸にお願いしたい切なる忠告があります。それは「先進諸国の前轍を踏んではならない!」という忠告です。現在、開発途上にある国々は、盲目的に開発された国々が犯した誤謬を犯してはならないということです。
私がなぜこのような忠告をしようと思ったのでしょうか。それは、既に開発された国々の前途が暗澹たるものであるのを見ているからであり、その先進諸国が、人類が心から願う幸福をもてずにいるからです。
私はその標本としてアメリカを例に挙げようと思います。私は、アメリカを心から愛している者です。またこれまでの四半世紀を主にアメリカで過ごしながら、世界平和の土台をアメリカにつくろうと心血を注いできた者です。
私は、このアメリカを正しい方向へと導くために全力投球する中で、アメリカから迫害も受けてきました。しかし、アメリカを愛する心、世界平和のためにアメリカに期待する心は、今でも少しも変わりはありません。
一九六〇年代に私が初めてアメリカに行った時でも、世界中の人類は、アメリカのようになることを望みました。『大草原の小さな家』のような家族愛あふれる農村の家族、日曜日になると全国津々浦々から響き渡る讃美歌の声、正義の使徒スーパーマンは、正義というアメリカ精神を象徴するものであり、高層楼閣が立ち並ぶ都市の通りには、紙くず一つ見ることのないほどに秩序整然としており、美しかったのです。その当時、全世界はアメリカを羨望の目で見つめていました。
それから三十数年が過ぎた今日のアメリカはどうなったでしょうか。輝いていたアメリカは色あせてしまったのです。解決できない難問題が山積しています。その中でも、人間の道徳性の衰退と犯罪の増加は、注目に値するものになりました。殺人、麻薬、暴動、離婚、幼児虐待および誘拐、若年未婚者の妊娠など、アメリカから流れてくるニュースは、信じられないものがあまりに多くあります。これは、アメリカを愛する私の胸を痛めています。
現在、このような現象は、単にアメリカでのみ起きているのではありません。暮れていく二十世紀のあらゆる先進諸国は、今一様に悩みの中で苦しんでいます。その原因はどこにあるのでしょうか。その原因は、先進諸国がみな物質文明の極致を謳歌する中で、今ではその物質文明の罠にはまつてしまったことにあるのです。
物質が精神を支配し、心を支配していった結果、人間の心霊が物質の奴隷になってしまったのです。そして、その結果は真の愛の没落です。物質的に豊かであり、都市には高層の楼閣が立ち並んでいますが、人間の心は砂漠のように荒れ果て、そこでは真の愛のオアシスは見いだすことはできないので、人間の生活は殺伐この上ないものになったのです。そこには真の愛がないので、人間の利己主義ばかりが生い茂るようになりました。この利己主義の最大の被害者は美しい大自然です。
私はこの平和会議の一つの主題として、地球と人間の環境の回復に関する討議も含めましたが、私たちの自然環境は、今ではもう破壊されるだけ破壊され、水と空気は汚染されており、人類を保護してくれていたオゾン層まで破損されているのですから、このままいけば人類は、自ら構築した物質文明のために自滅を免れることができない境地にまで至るでしょう。
しかし、何と言っても物質文明が与えた極度の被害は、あらゆる国家社会の基礎となる家庭の破壊にあります。家庭は社会の細胞です。私たちの体の中にある数十兆の細胞一つ一つが健全であれば、その体は健全な体ですが、その細胞が破壊されれば、その体全体が弱くなり、結局はその体も破壊されるのです。
ですから、この地球上で真の家庭制度が破壊されていくことは、すなわち世界人類全体の破滅が遠くないことを意味するのです。今、私たちの社会は、本来神様が設計され、創造されたものとは正反対の道を走っているのです。
二十一世紀は、どちらにしろ神様が意図される創造本然の世界へと帰っていく世紀です。物質文明の時代は過ぎ去り、精神と心が主人となる精神文明の時が訪れるのです。その二十一世紀が今や五年後に迫ってきています。
このとき、開発途上にある国々は、開発国の前轍を踏まずに、先進国を教訓として物質文明の罠にはまることなく、心と精神が主人となる世界に直接突入してくれることを熱望しながら、私が絶叫したいと思っていた忠告の内容をお話ししました。
今や世界は、大変遷を避けることのできない時に至りました。これを宗教的用語で表現すれば、「人類歴史の終末」に至ったと言えるでしょう。しかし、私の言う「終末」という言葉は、暗澹(あんたん)と滅亡を意味するものではありません。
創造主であられる神様の立場から見る「終末」とは、誤った世界、すなわち堕落世界の終息であり、これに続く正しい世界、すなわち創造本然の世界の新しい出発を意味するのです。ですから、「終末」とは、正に望みであり、希望なのです。
それでは、この物質文明から精神文明への歴史的転換は、何によって実現されるのでしょうか。それは、神様の真の真理の出現によって始まるのです。真理は光であるといいます。暗い夜を解放する道は、夜が明けて朝に太陽が昇るようにすることです。その歴史の転換の太陽が中天に昇りつつあります。それがすなわち私が発表した「統一原理」であり、真の愛の大真理なのです。
私は、神様の召命を受け、神様がかつて人類歴史の背後に隠しておかれた天宙の大原理を発掘するに至りました。それは人間が歴史にわたって渇望してきた大真理であり、すべての人間が真の愛に回帰し、真の世界平和を具現できる大原則でした。あたかも医者が病気を治そうとすれば、まずは病気の原因を究明しなければならないように、この原理は、今日の人類社会が塗炭の中で苦しみ、非原理的世界を築き上げるようになった人類始祖の堕落の経緯を明白に究明してくれました。原因が究明されたので、次にその処方を用いることができるのです。私はこれまでの四十年間、その処方をもって東奔西走しながら、これをこの世界に伝播することに専念してきたのです。
私はきょうここにおいて、そのいくつかの大原理を明らかにしようと思います。しかし、このようなかたちでは、皆様は到底深く理解することができません。皆様は真剣に「統一原理」を研究する必要があるのです。自分の永遠の生命と本当の世界平和がここにあるとすれば、それは何よりも先行すべき優先的努力でなければならないと思います。
その第一の大原則は、神様は生きておられ、その神様は人類の父母であるということです。人間と神様の関係は親子関係です。神様が私に示してくださった一番目の真理は正にこのことでした。
第二に、神様の本質は真の愛ですが、真の愛を具体的に現すために、天地万物と人間を創造されたのであり、また人間は神様の対象存在だということです。神様は、無限の真の愛を条件なく人間に注がれようとされるのです。
第三に、神様は、無形の父母であられる御自身の実体として地上に真の父母を立て、人間はその真の父母と一体理想を完成することによって、真の愛と真の生命と真の血統を取り戻し、永遠に救われるという大原理です。
ところが驚いたことに、今私たちは、その真の父母の時代に生きているのです。人類歴史を見ると、これほどまでに恵まれた時代は以前にもなく、以後にもあり得ません。そう考えると、私たちこそ、天運に乗って生まれた幸運の世代にほかなりません。
私と私の妻は、二日後の八月二十五日にここソウルにおいて、真の父母の名で三十六万組の国際合同祝福結婚式を挙行する予定になっています。私はこの祭典を、真の世界平和の祭典と呼んでいます。今日、真の世界平和がない理由は、その原因が家庭制度の崩壊にあると言えます。神様の真の愛と一体理想を完成していない限り、私たちはその家庭を真の愛の家庭とは言うことができません。
世界百六十ヵ国で、人工衛星を通して同時に挙行されるこの祝福結婚式は、無形の父母であられる神様のもとに実体として来られた真の父母様をお迎えし、人類が縦的に真の愛の鎖を掛ける儀式です。同時にこの儀式に参与する人たちは、国境と人種と宗教を超越しているので、これはまた、真の父母の前に一つになる真の兄弟姉妹、すなわち横的な同胞愛の鎖を掛ける儀式にもなるのです。
人類始祖アダムとエバの堕落によって失った神様の真の愛、真の生命、真の血統によって復帰する人類の大転換儀式になるのです。ですから、六千年間、悪魔サタンの束縛と主管圏の中で呻吟していた人間たちが、初めて真の解放を受ける感激の瞬間でもあるのです。つながれていた足かせが断ち切られ、神様の真の愛の自由天地の中に帰ってきて、ホサナの歌を歌う歓喜の祭典、その祭典がこの時代に真の父母の顕現によって可能になったのです。
皆様。この儀式はまた、神様のみ前に結婚によって結ばれた男性と女性が互いに純潔を誓う儀式でもあります。真の家庭の破壊は、純潔の破壊を意味します。不倫の愛が人類始祖の堕落の原因だったので、その子孫である今日の人類は、淫乱が渦巻く中でその不倫の愛の供え物になってきました。
これがすなわち今日、世界的現象として現れているフリーセックス、同性愛、背徳的な愛の関係の現象であり、今日、人間社会における愛の乱脈の様相は、動物の世界を彷彿させるのです。
このように堕落した人類を、偽りの先祖の血統から完全に解放することによって、今や人類は神様本然の純潔の世界へと復帰できる時が来ました。そして、このように世界を解放する転換の軸となる方が真の父母なのです。
新婦は、新郎が世界の全男性を代表する神様の息子であり、真の父母の実体分身であると考え、彼を主体として立てて純潔の愛を誓います。新郎は、自分の新婦が世界の全女性を代表する神様の娘であり、真の父母の分身であると考え、純潔の愛を誓います。
このように結ばれた夫婦の間に、エイズのような恐ろしい人類破壊の疾病がどうして浸透できるでしょうか。できません。エイズは「終わりの日」に人類の純潔を試しているのです。しかし、私たちの社会はエイズに対する解決を、神様のみ旨とは関係なしに、ただ、コンドームや特殊な薬を発明して解決しようとしています。しかしエイズは、そうしたからといって解決できる問題ではありません。この問題の真の解決は、道徳性の回復にあり、真の愛の回復によってこそ可能なのです。
エイズは、紀元二〇一〇年までにその感染者数が十億に達するという報告が、ハーバード大学のダナファーバー研究所から発表されています。これは人類の存亡を脅かす数字です。エイズは、ただ人類が神様の願われる真の愛に回帰する時にのみ解決されるのです。これは男女の純潔な愛を意味します。私が語る純潔とは、一時期女性だけに強調されていた封建的な純潔のことではありません。神様の大原則から見た男女共通の純潔のことをいうのです。
それは、男性と女性が結婚前まで共に貞操を生命視し、これを守りながら理想的相対を探し求め、祝福を受けて結婚したのちには、主体と対象が限りなく愛し合いながら永遠に暮らす一男一女の理想です。
私は今日、女性よりもかえって男性たちの純潔を強調したいと思います。今日世界の男性たちが無節制な愛に転落することによって派生する被害が、全人類の幸福を破壊する原因になっていると言っても過言ではありません。
しかし、今日の堕落した世界、不倫の愛が波打つこの世界が、神様が念願とされた本然の真の愛の秩序に戻ることは、人間の力では不可能です。これを可能にするものが神様の力であり、その神様の力の顕現がこの地上における真の父母の出現なのです。
人類の真の父母は、地上に顕現し、真の愛の革命の火をつけました。その革命的過程を経ずに真の愛の秩序を立てることはできません。この真の愛の革命の烽火は、今その炎が高々と燃え上がっています。国際合同祝福結婚式こそ、この真の愛の革命の炎を燃え上がらせる祝祭であり、地軸を揺るがす新世界創造の広場なのです。
今は三十六万組ですが、これが三百六十万組になり、三千六百万組になり、三億六千万組、三十六億組へと広がっていくとき、人類社会から初めてエイズが撲滅され、神人が一体化した純潔な真の愛の世界が実現されるのです。これは単なる夢ではありません。神様の地上天国建設の大きな摂理の中で、その実現は必至の事実です。人間の業ではなく、それは神様のされるみ業だからです。
尊敬する指導者の皆様。今日、二十世紀の科学は、世界を一つの小さな地球村に縮小させました。人類はこの地球村で暮らす地球家族です。ここには本来、真の愛の理想世界だけがなければなりませんでした。今や世界人類の真の平和は、このような神様の創造本然の世界への復帰によって達成されることを肝に銘じなければなりません。
皆様がこのような真の平和の使徒になってくださることを切に願います。私は、きょう皆様が真の平和の使徒であるだけでなく、私が生涯を捧げてきた真の世界平和の事業における貴重な同志になってくださったことに対して、感謝を捧げる次第です。皆様と皆様の御家庭に神様の祝福が満ちあふれることをお祈りします。
8.救援摂理史の原理観
平和経 第一篇 真の平和の根本原理
8.救援摂理史の原理観
日付:一九九六年四月十六日
場所:アメリカ、ワシントンDC、ヒルトンホテル
行事:「ワシントンタイムズ財団」創設記念特別講演
尊敬する内外の貴賓、高名な紳士淑女の皆様。今日、歴史的大変革時代を迎え、レバレンドムーンと皆様が出会うことができ、神様に心から感謝を捧げる次第です。
神様は、絶対者であられ、唯一、不変、永遠であられるお方です。そのみ旨も同じです。もし人間始祖アダムとエバが神様の愛で一体になっていれば、万事が完全、完成です。ですから、神様の出発、目的とその程度、そして原因と結果とその方向も絶対的なのです。
人間始祖であるアダムとエバは、堕落して、無知と混沌に陥りました。個人的な無知と混沌から、家庭、国家、世界的な無知と混沌に陥るようになりました。この堕落圏を抜け出すためのものが宗教と救援摂理の努力なのです。「終わりの日」にメシヤが来て、神側から見る絶対、唯一、不変、永遠の原因と方向と結果をはっきりと教えてあげ、無知と混沌の世界を清算し、本然の神様の懐に帰ることが神様のみ旨の完成です。
そのようにならなければ、「終わりの日」に、すべての宗教、主義、思想や国家も、みな滅びるようになるのです。今や人類は、わずか数年のちには二十一世紀を迎え、二〇〇〇年代の新しい歴史時代に差し掛かります。このような重大な時点において、私は、「救援摂理史の原理観」と題するみ言を通して、新しい時代を準備する私たちの心を確認しようと思います。
創造主と人間との真の愛を中心とした完全、完成を願う神様は、人間と一体となる条件が必要でした。それで神様は、人間始祖に与える戒めが必要だったのです。人間が成長期間を上がっていく未完成段階にいたことを御存じの神様が、子女である人間に最も貴い真の愛を相続させてあげるための条件として与えてくださったのが戒めでした。
本来、真の愛は経験を通して、体恤を通して分かるようになっていました。真の愛は、言葉や文字、あるいは一般教育を通して体得できるものではありません。生活を通してのみ、完全に体得するのです。赤ん坊として造られたアダムとエバは、成長しながら段階的に生活を通して経験し、真の子女の心情、真の兄弟の心情、真の夫婦の心情、真の父母の心情を体恤することによって完成するようになっていたのです。神様の真の愛を全体的に体得するとき、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。
人は、自分の愛する相対が、自分より何千万倍の無限大の価値ある存在として現れることを願います。このように神様も、御自身が愛する相対である人間が、無限の価値ある存在になることを願われるのです。人間は、完成すると神性をもち、天の父が完全であられるように完全で、神様と同等の価値をもつのです。
神様は絶対者であられますが、真の愛の理想は独りでは達成されません。愛の理想は必ず相対を求めるからです。私たちはここで、神様の真の愛と人間の真の愛の出発と完成が、互いにいかなる関連をもっているのかを知らなければなりません。
もし神様が、真の愛の絶対的な対象体として人間を立てずに、ほかの方法を通して御自身の真の愛の出発と完成を達成しようとされたとすれば、どのようになるでしょうか。神様と人間の真の愛を中心とした理想は、各々動機が異なるようになり、二つの愛の方向と目的も異ならざるを得なくなります。そのようになれば、神様の愛の理想は、人間よりも上位にほかの愛の対象を立てて達成しなければならず、一方で人間の愛の理想は、神様と直接的な関係をもてなくなってしまいます。
真の愛の主体者であられる神様は、その真の愛の相対者として人間を立てました。神様の愛の理想は、人間を通してのみ完成されるのです。神様の創造目的は、神人愛一体の絶対的愛の理想世界です。人間は神様の最高、最善の愛の対象として造られました。ですから、人間は創造物の中で唯一、神様の実体をまとった対象なのです。無形の神様のみ前に、見える体として生まれました。
人間は完成すれば神様の聖殿になります。神様が自由に、また安らかにいつでも入ってきて暮らすことのできる有形の実体です。神様の絶対的な真の愛の全体的な理想は、人間を通して、父母と子女の縦的関係で実現し、完成します。
神様は御自身の体としてアダムを先に造りました。アダムは神様の息子であると同時に、体をもった神様自身でもあります。その次に、アダムの相対者としてエバを造り、横的な愛、すなわち夫婦の愛の理想を完成しようとしました。エバは神様の娘であると同時に、神様の横的愛の理想を実体で完成する新婦でもあったのです。
アダムとエバが完成し、神様の祝福のもとで結婚して初愛を結んだとすれば、その場は、神様が実体の新婦を迎える場だったのです。アダムとエバの夫婦の愛の理想が横的に結実するその場に、神様の絶対愛の理想が縦的に臨在、同参することによって、神様の真の愛と人間の真の愛が一点から縦横の基点を中心として出発し、一点で結実、完成するようになっていたのです。
神様の創造は必然でした。目的のない創造は想像することができません。神様にとって創造が必要だった理由は、ただ一つ、真の愛の理想のためでした。最も簡単で低級な被造物から人間に至るまで、各々主体と対象、陽性と陰性の相対関係で展開された理由も、愛の理想のもとで相対関係を形成するためなのです。
創造物の愛の理想と神様の究極的な愛の理想は、別個のものではありません。人間世界の男性と女性の愛の完成を通して、神様の絶対愛が完成するようにされたのが、創造原理です。太初に人間をアダムとエバ、一男一女として創造された理由もここにあります。
神様の創造目的は、アダムとエバが真の愛の主体であられる神様の戒めを守って、真の人として完成することでした。さらには神様の真の愛で一つになった真の夫婦になることでした。また、彼らがその真の愛の中で息子、娘をもち、幸福で豊かに暮らすことのできる真の父母になることでした。アダムとエバが真の愛で完成していれば、それは実体を身にまとう神様の願いが成就することだったのです。そして、彼らが真の夫婦として完成していれば、それは神様の絶対的な愛の理想の完成を意味しました。
それから、アダムとエバが善の子女をもって真の父母になっていれば、それは永存する父母の位置を実体的に確定し、人間の血統を通して子々孫々を繁栄させることによって、天上天国の市民を無限にもつことを望まれた神様の理想が成就されるようになっていたのです。
ところが、人間始祖アダムとエバは堕落してしまいました。エデンの園から追われるとき、彼らは子女を連れていませんでした。神様が、追い出したアダムとエバをエデンの園の外まで訪ねていって祝福し、結婚式をしてあげたはずは絶対にありません。ですから全人類は、神様の愛と関係なく繁殖した、追い出された先祖の子孫なのです。
満場の内外の貴賓の皆様。人類の堕落が、木の実を取って食べた結果でしょうか。アダムとエバの堕落は、神様の真の愛の理想に背いた不倫の犯罪でした。守るべき戒めが必要だった堕落前のアダムとエバは、未完成の段階、すなわち成長期間で堕落してしまいました。蛇で表示された天使長に誘われ、エバが霊的に堕落し、そのエバがアダムを誘って、時ならぬ時に善悪の実を取って食べる肉的な堕落をしてしまったのです。
本然の園で神様と対話しながら、楽しく遊び回って慕らしていたアダムとエバが、死ぬことまでも顧みずに犯す可能性のある犯罪は、誤った愛の犯罪しかありません。本来、人類の先祖の初愛を中心とした結合は、神様御自身の愛の完成でもあったので、当然、神様も、アダムとエバも、宇宙万象も、歴史を通して歓喜と祝福の中で酔いしれる幸福な宴の連続でなければなりませんでした。神様の愛と生命と血統が、人間の中で出発するとともに、定着する幸福な儀式でなければならなかったのです。
ところが、彼らは下半身を覆い、木の後ろに隠れて不安に震えました。天道に逆らう偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の根源をつくった不倫の関係を結んだからです。堕落したアダムとエバの子孫である全人類は、子々孫々、生まれながらにして原罪をもつようになりました。人類が個体の中に心と体の衝突を矛盾として感じるのも堕落に根源があり、愛の秩序が乱れた社会の中で、本心の願わない人生を生きていくのも、すべてここに由来しているのです。
愛の理想を中心として見るとき、動植物の世界の愛の関係は、すべて繁殖を前提としてのみ行われます。しかし、人間だけはその例外です。人間は、夫婦の愛の関係において自由を享受します。それが万物の霊長たる特権です。神様は、息子、娘である人間が無限の愛の喜びをもつように祝福したのです。
神様が許してくださった真の自由は、責任性を前提とします。もし責任性なしに個々人が愛の自由だけを主張して実践すれば、どれほど大きな混乱と破局がもたらされるでしょうか。至高な愛の理想を達成する人間の完成は、愛に対する責任性をもつときに可能なのです。
その責任性とは、次の三つを考えることができます。第一に、人間は愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修養、自己管理によって自由な真の愛の主体となる責任です。人における愛の責任性は、法や世間体のために守られるものではなく、神様との生きた縦的な関係の中で、自己主管、自己決断によって守られるものです。
第二に、相対に対する責任性です。人間は本性的に、自分に対する相対からの愛が分けられることを願いません。夫婦問の横的な愛の関係は、父母と子女の縦的な愛の関係とは異なり、分けられれば、もはやその完全性が破壊されます。これは夫婦間では絶対的な愛の一体を形成するようになっている創造原理のためです。人には、絶対に自分の相対のために生きる愛の責任性があるのです。
第三に、子女に対する愛の責任性です。子女たちの誇りと幸福の基地は父母の愛です。子女たちは、真の愛で和合一体化した父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。父母の子女に対する最も貴い責任は、外的な養育だけではなく、彼らの霊性を完全にしてあげる真の愛の生きた要素を提供することです。家庭が貴い理由はそのためです。生活的な経験を通して体得する真の子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情は、真の家庭以外にいかなる所でも得ることはできません。
アダムとエバが神様を中心とした真の愛の夫婦となれば、神様は理想どおりに、御自身の実体であるアダムの体の中に住まわれながら、エバを愛するようになるのです。さらには、アダムとエバは、神様の実体をまとった真の父母になって、善の愛、善の生命、善の血統の始原となったでしょう。
ところが、堕落によってアダムとエバはサタンの実体となり、悪の夫婦、悪の父母、悪の先祖になってしまいました。彼らの結合は、悪の愛と悪の生命と悪の血統の根になってしまったのです。人類はみな、この根に根源を置いているので、生まれたときからみな神様の怨行であり、姦夫であるサタンの子孫になり、悪の父母の血統を受け継ぐようになってしまったのです。
親愛なる紳士淑女の皆様。人類始祖の堕落によって真の愛の理想が崩れたとき、神様の苦痛はどれほど大きかったでしょうか。神様の子女になるべき人間たちが、本来の父母である御自身のことが分からず、サタンに仕えているにもかかわらず、神様は救援摂理をしてこられたのです。また、絶対的な神様の創造理想も絶対的なので、悲しい救援摂理をされるしかありませんでした。神様の救援摂理は、失った真の愛の創造目的を回復する復帰摂理です。ですから、救援摂理は再創造摂理でもあります。
このような点で、復帰摂理の根本は、いかにすれば創造理想を完成する人間の種、本然の赤ん坊の種を見いだすかにあります。神様が最も嫌う姦夫サタンの偽りの愛に由来した生命と血統を清算しなければなりません。神様の真の愛と生命と血統と一体になった救世主、真の父母を、いかにして誕生させるかということです。
人間始祖が自分の責任分担を完遂できず、不倫な血統関係を結んでサタンの主管を受けるようになったので、神様が直接進み出て原状回復させることができないのです。神様は、天使長側に回った人類を、条件なしに善の立場から取ることも、打つこともできないのです。神様は、善の天使長的中心人物を立て、先に打たれながら蕩減条件を立てさせて取り戻してくる作戦をしてこられました。しかし、サタンは先に打ち、奪われる立場になりました。第一次、第二次、第三次世界大戦はその例になります。先に打ったほうが滅びました。
復帰摂理を概観すると、母子協助の基盤が重要でした。ヤコブのとき、モーセのとき、イエス様のときも、すベてそうでした。堕落の張本人であるエバの代わりに責任を果たす母を立て、次子に母子協助をしながら、サタンの血統と生命を分立させるための摂理が行われてきたからです。
神様は、堕落によって人類を先に占有したサタンと血縁的に直結した長子に、直接相対することはできません。神様は、善の側を代表する次子を相対として条件を立たせ、悪の側を代表する長子を屈服させることで、善の血統を復帰してこられました。アダムの家庭で、神様は、次子アベルを立てて長子カインを屈服させようという摂理をされたのです。堕落したエバによって、兄弟を一つにしようとする努力があったかもしれませんが、結局、カインがアベルを殺害することによって、救援摂理は終結することができず、そこから延長が始まったのです。
ノアの時も、母子協助の基準はありましたが、本格的な母子協助の基準はリベカとヤコブのときからです。人間の堕落はアダム、エバ、天使長の三つの存在によって引き起こされました。天使長がエバを誘って霊的堕落をし、その次に堕落したエバがアダムを誘って肉的堕落をすることによって、神様を裏切ったのです。堕落した天使長がサタンになりました。救援摂理は復帰摂理であり、復帰は一八〇度反対の道を通して行われるのが原則です。
真の愛と生命の種をもったアダムを失った神様は、サタンの讒訴条件がない新しい種をもった息子を探し立てなければなりません。神様が人間を創造するとき、アダムを先につくったように、再創造摂理である復帰摂理も、堕落と無関係な息子を先に立てなければならないのです。これがメシヤ思想の根本です。
メシヤは、サタンの主管下にいる堕落した血統をもった人間たちの生命を否定し、新しい生命の種を接ぎ木してあげるために来られる真の人です。根は神様に置いているのですが、後のアダムとして来て、アダムによって引き起こされたものを清算しなければならないのが、メシヤの使命です。神様が能力だけで役事する超人を、メシヤとして送ることはできない事情がここにあるのです。
この地に神様の愛と生命の種をもって生まれる息子のためには、先に母親がいなければなりません。母親が息子を生むにしても、ただ単に生むのではありません。必ず復帰の公式を通して生まなければならないのです。復帰摂理の中に現れた母子協助はみな、天の息子がサタンの讒訴を免れた新しい生命の種をもって着地するための準備であり、条件なのです。
母子共にサタンの攻撃を免れる条件を立てた土台の上で、サタンを代表する長子を屈服させることにより、サタンが先に占有した愛と生命と血統を復帰してこられたのです。
神様の摂理歴史を記録した聖書の中には、理解のできない記録がたくさんあります。リベカが夫のイサクと長子のエサウをだまし、次子ヤコブを助け、彼に祝福を受けさせました。神様は一見不当に見える方法を用いた、この母子の側に立たれて、彼らに祝福を与え続けられました。
アダムの家庭では、カインとアベルの兄弟が母胎の外で争い、次子のアベルが殺害されました。ヤコブは、アベル以後、善の側に立った多くの人の犠牲と蕩減条件の基台の上に立ったので、先に占有したサタンに追いついて、双子の兄であるエサウを相手にするようになったのです。結果的にヤコブは、ヤボク川で天使を屈服させる霊的勝利を収め、実体の天使長の立場であるエサウを屈服させることによって、歴史始まって以来、初めて「勝利した」という意味の「イスラエル」という祝福を受けるようになりました。しかし、その時は既に歳が四十代でした。
サタンの偽りの愛の種が、エバの胎中に蒔かれて悪の生命が生まれたので、神様は母の胎中まで入って分別しなければ、天の息子が胎中から誕生することができないのです。ですから、ヤコブの勝利によっても、依然として分別されていない妊娠から四十代までの期間も、サタンが分立されなければなりません。結果的にこの責任を担った偉大な母がタマルでした。タマルは、ユダの長男のエルと結婚しましたが、エルは神様にふさわしい人ではなかったので早く死んでしまいました。
当時の慣例に従い、ユダは次子のオナンをタマルに与え、子女を生むようにしましたが、オナンは生まれる子女が自分のものにならないことを知り、精を地に流しました。これが神様のみ前に罪となり、オナンも死んでしまいます。タマルは、ユダの三番目の息子のシラと一緒になろうとしましたが、ユダはシラをタマルに与えませんでした。タマルによって二人の息子が死んだと考えたユダは、シラまで死んで家系が途絶えることを心配したからです。
タマルは、選民の血統を継がなければならないという一念で、売春婦を装って、舅であるユダを迎えて双子を身ごもりました。赤ん坊たちが生まれるとき、先に手を突き出して出ようとした長子が再び胎に戻り、弟になるべき次子が先に生まれたのですが、それがペレズです。タマルの胎中で長子と次子が争い、サタンが分立される胎中復帰が成就したのです。
このような条件の上に選民の血族を得て、その二千年後にローマ帝国の国家基準に対峙するイスラエルの国家的な土台の上に、メシヤを身ごもることができたのです。神様の息子の種が準備された母親の胎中に、サタンの讒訴のない立場を得ることができるようになった国家的勝利の土台が造成されたのです。このような基盤の上に、聖母マリヤが摂理の主流に登場したのです。
ヨセフと婚約したマリヤは、自分の身を通してメシヤが生まれるという天使長ガブリエルの驚くべきメッセージを受けました。処女の立場で赤ん坊を身ごもれば、死ぬしかないというのが当時の規則でしたが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ一三八)と言いながら、絶対信仰で神様のみ旨を受け止めました。
マリヤは、親族であり、尊敬される祭司ザカリヤに相談しました。ザカリヤの家庭では、その妻のエリサべツが、神様のみ業によって妊娠した洗礼ヨハネを胎中に身ごもったまま、マリヤに対して「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう」(ルカ一四二、四三)とイエス様の懐胎を証しました。
このように神様は、マリヤとザカリヤとエリサべツに、メシヤの誕生を一番先に知らせました。彼らはイエス様によく侍り、神様のみ旨によく従わなければならない重大な使命をもった人たちでした。ザカリヤ夫婦はマリヤを自分たちの家に泊まらせました。ザカリヤの家庭でイエス様を懐胎したのです。
エリサべツとマリヤは母親側のいとこの関係でしたが、摂理上では、姉(カイン)と妹(アベル)の関係でした。ザカリヤの前でエリサべツの助けを受けたマリヤは、レアとラケルがヤコブの家庭で母子の一体化を果たせなかったことを、国家的基準でザカリヤの家庭を通して蕩減する条件まで立てながら、イエス様を誕生させなければなりませんでした。
歴史始まって以来初めて、神様の息子の種、真の父となるべき種が、準備された母の胎中に、サタンの讒訴条件なく着地したのです。それによって、地上に初めて、神様の初愛を独占できるひとり子が誕生するようになりました。
当時の法によっては容認されるはずもない、また、常識でも考えられないことを、マリヤは成し遂げなければなりませんでした。三人が共に霊的に感動したのであり、神様から来た啓示に従い、それが神様のみ旨であり、願いであることを無条件に信じ従わなければならなかったからなのです。
神様の息子は、たとえ着地はしたとしても、サタン世界の中で無事に育ち、み旨を成し遂げるためには、保護してくれる囲いが必要でした。神様はザカリヤの家庭の三人に、その基盤になってくれることを期待されました。三人が神様の息子を保護し、彼に侍ることにいかに専念し、どれだけ長い間一つになっていたかについては、考えるべき点がたくさんあります。
聖書には、「マリヤは、エリサべツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った」(ルカ一五六)と記録されています。その後、聖書には、マリヤとエリサべツとザカリヤが互いに行き来した記録はありません。ここから、マリヤとイエス様の困難が始まったのです。ザカリヤの家庭は、最後までイエス様の囲いにならなければなりませんでした。
しばらくして、ヨセフは、マリヤが妊娠した事実を知るようになります。この時、彼の衝撃はどれほど大きかつたでしょうか。愛する婚約者のマリヤが、自分とは何の関係ももたない状態で、三カ月間どこかに行って戻ってきた時には妊娠していたというのですから、ヨセフがマリヤに、誰の赤ん坊を身ごもっているのか、追及するのは当然のことでした。そのとき、もしマリヤが正直に話してしまっていれば、どんなことが起こっていたでしょうか。もし明らかにした場合には、一族が滅亡するのです。ですから、マリヤはただ「聖霊によって懐胎した」とだけ話したのです。
マリヤのおなかが大きくなってきて、周囲の人たちも妊娠していることが分かるようになりました。そのとき、ヨセフが「自分は関係をもたなかった」と言っていれば、どうなっていたでしょうか。しかし、ヨセフは神様の啓示を信じ、妊娠は自分の責任であると擁護した義人でした。これによってマリヤは、婚約期に妊娠したという嘲笑は浴びたとしても、石を投げられて死ぬことはなかったのです。
マリヤを愛したヨセフは、初めはこのようにマリヤを守ってあげました。しかし、ヨセフの心の底には悩みがたくさんありました。特に、生まれたイエス様を見つめるヨセフは、その父親に対する疑問につながり、心中に苦痛を頻繁に経験するようになりました。イエス様が成長するとともに、ヨセフとの心情的な関係において距離が生じるようになり、このことによって、家庭に頻繁に争いが起こったことは間違いない事実です。こうしてイエス様は、私生児の立場で、ザカリヤの家庭の保護も受けられず、またヨセフとの関係も厳しい状況下で、心情的に、言うに言えないほど寂しい立場で育ちました。
メシヤの道を自覚するようになったイエス様は、自分の孤独な事情が、神様のみ旨を成就するに当たって深刻な障害の要因であることを、独りもどかしく思いました。メシヤは真の父母であり、その使命のためには実体の新婦を迎えなければなりません。天使長が、アダムと兄妹のように育ったエバを偽りの愛で堕落させたので、イエス様はそれを根本的に復帰しなければならなかったのです。
したがって、アダムに代わって神様の息子として来られたイエス様は、天使長の立場に立った人物の妹を妻として迎えなければなりませんでした。その女性が正にザカリヤの娘であり、洗礼ヨハネの妹だったのです。
サタンの権勢が主人の役割をする世の中で、このことが成就するためには、絶対的な信仰によって形成された保護の基台がなければなりません。不幸なことに、イエス様の周辺では、そのような基台がすべて崩れてしまいました。
もしザカリヤとエリサべツが、神様の啓示と霊的な恩恵のもとで、初めにもった絶対的な信仰をもち続けていたなら、状況は違っていたでしょう。彼らが責任を果たしていたならば、マリヤは三カ月後にその家を出たとしても、継続して彼らと行き来し、相談したはずです。
ザカリヤの家庭は、イエス様の誕生ののちにも、地を代表し、一番の先頭に立ってメシヤを保護し侍りながら証す人たちとして、神様が選んだ家庭でした。彼らは、イエス様を神様の息子として、メシヤとして、この上ない精誠を込めて侍るだけでなく、イエス様を通して神様のみ旨を受け、絶対的に従っていたはずでした。また、イエス様のために生まれた洗礼ヨハネだったので、彼が悔い改めさせた民たちをして、イエス様を信じさせ、救いを受けさせるように導く責任を果たしたはずです。
しかし不幸なことに、ザカリヤも、エリサべツも、洗礼ヨハネも、イエス様を神様の息子として証しただけであって、侍ったことはありませんでした。尊敬される祭司のザカリヤが傍観し、洗礼ヨハネがイエス様と無関係な立場に立つことにより、かえってイエス様の道を困難なものにしてしまい、民たちが従うことができないようにしてしまいました。ましてや、彼らが信仰を失い、人間的な思いに流れたときに、イエス様が願われた、新婦を迎えることに協力するはずはなかったのです。
次に考えるべき点は、ヨセフとマリヤの関係がイエス様に及ぼした影響です。マリヤは、エバとタマルを蕩減復帰すべき立場なので、ヨセフとは婚約関係を保たなければなりませんでした。しかし、摂理的に見れば、彼らの関係は夫婦ではありません。ですから、彼らはイエス様が誕生する時まではもちろん、そののちにも夫婦関係を結んではいけないのが神様の願いでした。ヨセフはマリヤに対して、イエス様の誕生ののちにもずっと愛の心をもち続けました。マリヤは、ヨセフと別れ、イエス様を神様の息子として育てたい気持ちがあったはずです。
しかし、現実は、それを簡単には許しませんでした。本心ではいけないと思いながら、マリヤはヨセフと夫婦関係を結ぶようになり、子女をもつことによって、エバの失敗を反復した結果になってしまいました。サタンはこれを条件として、彼らに侵入するようになりました。イエス様一人を残して、皆がサタンの主管下に入っていつた結果となったのです。イエス様を守るべき父親も、母親も、アベル側の兄弟も、カイン側の兄弟もすベてサタン側になってしまいました。
人がサタンの侵入を受ければ、もはや霊的に受けた恩恵と感動を失ってしまい、神様に対する確信と感謝を失うようになり、すべてのものを人間的に考えるようになります。これによりマリヤまで、イエス様が願われる結婚に協力することができず、かえって反対してしまったのです。これが、イエス様が新婦を迎えられず、そして真の父母になれず、十字架の道を行かざるを得なくなった直接的な原因になったのです。
カナの婚宴で、イエス様がマリヤに「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」(ヨハネ二四)と言ったのも、最も貴い摂理の要請である、イエス様の新婦を迎えることをなおざりにし、遠い親戚の婚宴を手伝おうとするマリヤを責めた心情が表出されたものです。「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」(マタイ一二・四八)と言われたみ言も、このような基準から理解しなければなりません。
イエス様は、母マリヤからも、ザカリヤ、エリサべツからも反対され、最後に洗礼ヨハネからも反対され、肉親の保護を受けながら使命を完遂することを断念するしかありませんでした。新しく霊的基盤を探し求め、再び復帰摂理を出発しようとしたのがイエス様の出家でした。出家したイエス様は行く所がありませんでした。
「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ八・二〇)と嘆息されました。親族の基盤を失ったイエス様は、それに代わる基盤を求めて出発したのです。それがイエス様の三年路程でした。
しかし、民族が不信し、弟子たちの信仰が弱くなって、サタンの侵入を受けてしまったので、イエス様の基台は崩れ、十字架の道を行かれるしかありませんでした。本来、イエス様は、メシヤとして地上に来て、弟子たちと万民を祝福され、罪のない天国を築かなければなりませんでした。ところが、不信されることによって新婦を迎えられなかったので、真の父母になれず、その使命を完遂できませんでした。
ですから、再臨することを約束されたのです。再臨主はイエス様が果たせなかった神様の復帰摂理の根本を完成するために来られます。すなわち、創造理想を完成する真の本然の赤ん坊の種として来て、神様の真の愛、真の生命、真の血統の根源となる真の父母の理想を完成するために来られます。彼は、既にイエス様の時まで神側が勝利した根本摂理の基台の上に臨在されます。すなわち、イエス様が大人になられる時までの勝利的な基盤の上にまっすぐに立たれ、彼が果たせなかった新婦を探し出し、真の父母になられ、万民を救ってくださるのです。
ですから、真の父母は、血統を伝授する新しい結婚行事を通じ、全人類を神様の真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木することによって真の人として救い、さらには真の家庭を完成して、地上天国を建設されるのです。ですから、再臨主は肉身をもって来られ、新しい血統関係を編成しようとするのであり、それが国際合同祝福結婚式なのです。
アダムの家庭で失われたものを、世界大家庭圏で蕩減することにより、アダムの家庭で完成しなければならなかった真の長子権、真の父母権、真の王権を取り戻し、神様が主管される地上天国へと転換し、天上天国に入籍して、神様を中心とした地上、天上王権時代に進入し、勝利と自由と幸福と統一の世界を復帰し、神様の創造理想である地上天国、天上天国を迎えるようになるのです。これが救援摂理史の原理観です。皆様も、未来に幸福な新しい祝福結婚を受けるようお願いします。
敬愛するこの国の指導者、そして内外の貴賓の皆様。今晩、「ワシントンタイムズ財団」の創設を記念するために御出席いただいた皆様に、いま一度深く感謝を申し上げます。特に、この社会のために善の業績として「ワシントンタイムズ財団」が賞を授与する、最初の栄光を受けられた皆様に心からお祝い申し上げます。ありがとうございました。
9.神様の祖国光復
平和経 第一篇 真の平和の根本原理
9.神様の祖国光復
日付:二〇〇一年七月十三日
場所:韓国、ソウル、国会議員会館
行事:「世界平和連合」「世界平和超宗教超国家連合」文鮮明総裁招請講演会
尊敬する内外の貴賓の皆様。公私共に御多忙中にもかかわらず、この意義深い集いに参席してくださった国会議員と著名人の皆様に深く感謝を申し上げます。特に国民を代表する民意の殿堂である国会において、神様の摂理史的な観点で、貴いみ言をお伝えする時間をもてましたことをうれしく思います。
私は新千年紀が始まる最初の年である今年の一月十三日、「神様王権即位式」を終えた基台の上に、二月二十五日から四月十七日まで五十二日間、全米五十州の五十二ヵ都市とアメリカの国会、そして国連での講演を盛況のうちに終えました。
その期間に、主にキリスト教をはじめとする十万人を超える宗教指導者たちを対象に、神様のみ旨を中心としたアメリカと人類、さらに天上世界と地上世界の行くべき道を提示してきました。それだけでなく、ウルグアイを訪問し、南米三十三ヵ国の元、現職の政府首脳、および指導者たちが集まる中、「天宙平和統一連合」南米本部を開院し、再教育と組織編成をして、平和世界の実現のために全世界百九十一ヵ国の各界指導者七万人以上を教育した後、平和大使を六大州へ派遣し、祖国の南北統一のための国際的基盤を準備して帰国しました。帰国後、今月の三日から十二日まで、韓国の十二主要都市で、「神様祖国定着大会」を開催し、神様が選択されたこの地に、神様が定着される祖国をつくるべき時が到来したことを宣布し、皆が祖国統一の働き手となることを力説しました。
私は十六歳(数え)のとき、復活節の夜明けにイエス様と出会い、神様のみ旨を成就するため、神様解放のための天意の道を出発しました。これまでの八十有余年の生涯を、あらゆる無理解と迫害を受けながらも屈せず、真の理想家庭を基盤とした平和世界の具現に全力を尽くしてきました。特に、神様の命に従い、一九七一年、アメリカに渡った私は、過去三十年間、全身全霊を尽くして、アメリカが神様から選ばれた世界的な第二イスラエル圏の使命を果たすよう説いてきました。
私は過去数年間、数百回にわたるアメリカ指導者会議を通して、政治家や宗教家たちが、政党や宗派を越えて、各地域社会とアメリカ、そして世界のために心を一つにして協力するように促してきました。併せて、今回、アメリカ五十州巡回講演を通しては、すべての聖職者たちに、教派を越えて一致団結することを強く諭してきました。実際に、「アメリカ聖職指導者連合」を中心に、連合教会運動を通して、十四万四千の教会が救世の目的のために、この運動の先頭に立っています。
一方、私が国連で既に闡明した世界平和に向けた各種の国境線撤廃運動が活発に展開されています。この運動は「世界平和超宗教超国家連合」が先頭に立ち、NGO(非政府機構)総連合団体である「WANGO(世界NGO連合)」を中心に、国連本部から急激に五大洋六大州へと拡散していっています。
皆様。今、私たちはみな、聖書歴史では七千年、イエス様以後の三千年を開いていく新千年紀の時代を迎えています。この時代は、人類歴史を通して神様が願われ、すべての宗教を通して人類が念願した平和の時代がこの地に定着する時です。神様を中心として、心と体が一つになった完全な個人、そして真の愛で一つになった完成した家庭、社会、国家、世界、天宙を形成し、神様の創造理想が実現される時を期待してきたのです。ですから、この時代は聖書に預言された旧約と新約の約束が成就され、霊界が完成することにより、天上と地上に天国が形成されなければならない成約時代の完成を意味するのです。成約というのは、本性的次元で、すべてのものが祝福結婚を受ける時代という意味です。神様がつくられたすべての被造万物は、人類始祖の堕落によって祝福圏に立つことができませんでした。
しかし、神様は救援摂理の道を通して、キリスト教をはじめとする数多くの宗教を立て、万民を教育することにより、心霊の基準を段階的に引き上げ、成約時代を迎えるようにされました。そして、私たちは、神様の救援摂理を完成した信仰の結実体として、真の「個人王」から始まり、真の「家庭王」、「氏族王」、「民族王」、「国家王」、「世界王」、そして天宙的王権の基盤を取り戻し、ついに本然の「神様王権即位式」を挙行する位置にまで来るようになったのです。「神様王権即位式」は、天と地のすべての人たちが真の家庭と国をもち、祝福を受けて、一つの血族、血統が一つになった単一民族を形成した基台の上に、初めてその式を行うことができるのです。
皆様。人間にとって最も大切な愛、生命、血統の中で、何が最も貴いでしょうか。多くの人たちは愛が最も貴いといいます。しかし、愛や生命がどんなに貴いといっても、それは横的で、一代だけで終わってしまいます。しかし、血統は縦的であり、代を継いで、永遠に相続されるのです。ですから、血統が最も貴いのです。
堕落していない本然の世界では、神様を中心として、真の家庭を築かなければなりません。真の息子、娘の家庭を築くためには、真の血統が連結されなければなりません。真の父母の子女になるためには、真の父母の血統が連結されなければなりません。「父母」や「子女」という言葉は、血統が連結されなければ絶対に成立不可能です。それは神様も分けることができません。堕落したサタンも分けることができません。
そのため、真の父母様の祝福を通した真の血統は、旧約時代と新約時代の失敗を蕩減復帰できるのです。本然の基準である神様の真の血統に接ぎ木して、野生のオリーブの畑でも、真のオリーブの木の血統にして、真の愛を中心に一体、一心、一念となり、生死圏を越えていかなければなりません。個人、家庭、民族、国家、世界的な生死圏まで、いかなる犠牲があっても越えていくという心情をもった人は、サタンが関与できません。国家基準を越えるようになれば、完成圏、直接主管圏内に入るので、サタンは関係を結ぶことができません。
イエス様も結婚していたならば、十字架の道は行かなかったのです。誰もイエス様の命を奪うことはできません。これは相対理想の直接主管圏に連結されるからです。原理で言えば、責任分担を完成した基準になっているので、直接主管圏内に入っていきます。直接主管圏は、神様の血統が連結されているので、サタンがそれを断ち切る道理がありません。この過程において、心情が一致するその位置に行けずに、そこで堕落したことが問題だったのであり、アダムとエバが夫婦となり、真の愛で愛していれば、永遠に堕落できないのです。サタンが連れ去ることはできません。しかし、この過程で、実が熟しませんでした。熟さない実は、いくら地に植えても種ができません。ですから、永遠の生命がないので、死んだ生命のようなものを処理する所が地獄です。神様と関係がないのです。
父子関係というのは、父母の血統が連結されなければなりません。その血統はただでは連結されないのです。一人では血統が連結されず、男性と女性の血統が一つにならなければなりません。人間は、性相と形状の血統が一つになったその位置で完成するというのが宇宙の根本の道理です。それで互いに喜ぶ位置、性相となる心が喜ベば形状となる体も一緒に喜べるその位置で完成するように人間を創造したのです。実体の大きな木のようなアダムの家庭を中心として、その実体的対象の家庭を繁殖して世界中に満たし、天国の民を繁殖する生産工場を増やすのです。
そうすることによって、霊界にいる神様と地上の実体の父母が地上で暮らしながら、共に天の民を生産することに協力し合い、霊界で永遠に生きることができる民を繁殖して、地上と天上に理想天国を完成するのです。
神様の王権即位式を誰がしてあげるのでしょうか。最初に誰が即位式を台無しにしたでしょうか。サタンとアダム、エバが台無しにしました。アダムとエバが真の父母になれなかったことにより、サタンが侵入し、この地上に真の父母の血統的基準を立てることができませんでした。堕落によってサタンの血統を残したので、それをすべて否定してひっくり返すことは、神様もできず、サタンもできません。サタンが今まで築いた自分の国を自ら壊してしまうことは難しいのです。誰もが、自分が精誠を込めてつくったものを改造することは嫌います。サタンも同様です。それを神様がひっくり返すことはできません。神様がひっくり返すことができるならば、エデンの園でアダムの家庭を失うこともなかったでしょう。理論的にも神様は手出しできないことは間違いありません。そのように神様が手出しできないそのことに手出しできる人物が誰かといえば、堕落せずに本性を完成したアダムです。
本然の真の愛の家庭をもつことができる家庭は、真のアダムの家庭以外にはありません。中心が問題です!復帰も中心がなければ完結されるでしょうか。祝福家庭の中心は何でしょうか。誰が祝福をしてくれるのでしょうか。真の父母がしてくれます。結婚式を誰がしてくれますか。自分の息子、娘として血統を一致させ、父母に似るようにしてあげる、その結婚式を誰がしてくれますか。堕落しなかったならば、子女を生んでくれた真の父母がしてくれるのです。
今日の結婚式は、天使長に引っ張られていったので、社会の有名な人、名のある人が主礼をします。梯子を横にして架けながら、上に上がりたいと考えているのです。最近は結婚の秩序がめちゃくちゃになりました。本来、結婚は逆の順序ですることはできません。順番にしなければならないのですが、最近は逆にもして大騷ぎです。また、それが復帰の内容と外的には一致するので、あのようにも合わせ、このようにも合わせ、逆にも合わせるのです。本来は、長子と次子がいれば、その生まれた順序のとおり、結婚しなければならないのです。
また、性的退廃は深刻な水準に至っています。近親相姦関係が現れています。親族同士で姦淫するというのです。ある国では、祖父が孫娘と暮らし、舅が嫁と暮らしています。近親相姦が起こっているのです。このような人たちは、中心が分からないので、互いに成り行きに任せて暮らしているというのです。これが地獄化しつつある世界でなくて何でしょうか。
このような状況を誰が収拾するのでしょうか。神様も、エデンの園でアダムとエバが堕落するのを干渉できなかっただけでなく、サタンと結婚することにも干渉できなかったので、「終わりの日」に干渉できる道理があるでしょうか。結局、偽りの愛、偽りの生命、偽りの父母によって、偽りの血統と結ばれてしまったので、真の父母が来て、これをもう一度、蕩減復帰しなければなりません。すなわち、これらを完全に否定して、ひっくり返し、神様のみ旨を成し遂げなければならないのです。
したがって、「死なんとする者は生きる」という言葉は、死亡世界に生きている人がたとえ死ぬ立場に行っても、蕩減できれば、生き残るということです。死ぬことを悲しみ、逃げたいと思う人は永遠に復活圏がありません。ですから、聖書には「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)とあるのです。
ですから、神様も同じであり、真の父母も同じですが、天国に行く人はどうでしょうか。神様も、生きようという生命を生かしてあげるためには、その反対に、死ぬような立場に行かなければなりません。そうでなければ、生きるように支えることができません。綱を掛けて崖から落ちた人を助けるためには、死力を尽くして引き上げてこそ、人も生き、神様も生きるのです。
現代人たちは「自由」を語っています。どんなに現代の教育制度がよくできているといっても、皆様には堕落圏内における自由の観念しかありません。個人主義の観点では、そのようなことは分からないのです。氏族、民族、国家、世界、天宙の観念がないではないですか。どのようにして、それを悟らせるのでしょうか。文総裁が個人観、家庭観、社会観、国家観、世界観、宇宙観、神観を完成して、神様を解放しなければならないということを教えてあげました。
小さなことから始めて、神様を解放する最高の段階まで上がってきました。それをいかにして成し遂げるのでしょうか。心と体を統一することから始めるのです。絶対的に心と体が一つになったところから、家庭、国家、世界、神様まで進んでいくのです。どんなに人々がその位置まで行きたくても、個人主義の概念をもっている限り、行くことができません。個人主義の概念が怨讐なのです。
それが神様の怨讐であり、宗教世界の怨讐であり、良心世界、天国世界の怨讐です。すべてのものの怨讐です。それはサタン、天使長の位置に連結されるのです。フリーセックスや同性愛のようなものは、麻薬中毒とエイズ感染の近道になります。麻薬とエイズは、人類を全滅させる脅威になっています。アフリカではエイズが深刻な状況に至ったと報告されているのです。エイズウイルスの潜伏期間が八年から十二年であるとみるとき、ある地域は二代ですベて滅びるのではないかと思われます。
国連を見れば、NGO(非政府機構)も多くの問題点を抱えています。この人たちに最も難しいことをしなさいと言えば、それをする人がいるでしょうか。NGOの責任者たちは、現在の政権や社会悪を中心として、ああだこうだと指摘しますが、私のように国連の役割や共産主義と人本主義を消化する問題などについて指摘するでしょうか。そのような高い次元の内容を知ってこそ反対できるのであって、そうでなければ反対できません。青少年の淪落と家庭破鏡と麻薬問題、エイズ問題、特に純潔な血統をいかにして残すかという問題について、彼らは分かっていません。それに対する解決方法は、国家はもちろん、国連のような世界機構の指導者たちも知りません。彼らは「これはうそか、本当か」と言っているのです。
これから、「神様王権即位式」以後にできる条件をはっきりと教えようと思います。今まで問題が何だったかというと、血統が問題でした。それが最も重要です。社会団体や政府も関係ありません。学校も関係ありません。今この世に数多くの国がありますが、神様の血統と関係のあるものは一つもありません。すべてサタンに属しているのです。これからは他に方法がありません。神様に従い、真の父母様に従っていくこと以外には中心の位置がないというのです。
今日、この新千年紀の時代にするべきこととは何でしょうか。これまで神様も解放されず、真の父母様も解放されなかったのですが、これからは神様の王権定着のもとに解放された天地父母と子女になったので、恐れてはいけません。監獄に入ったとしても、恐れてはいけません。むしろ、天国に早く行きたいと思う人がいるなら、若くして行けばどれほどよいでしょうか。損をするでしょうか。天上天下の宇宙すべてが私の手の中に入って主人になるのに、なぜ否定しますか。死んでも生きても、心配することはありません。
皆様は、個人完成をどのようにするのか知っていますか。個人の心と体が一つになる道が分かりますか。堕落するとき、サタンの血統を受け継いだ愛の力が、良心の力よりも強かったのです。これが問題です。どんなことがあっても体が願うままに行動してはいけません。
これから守るべき鉄則が何かといえば、第一に、死んでも天から伝授された純潔な血統を汚してはならないということです。第二に、人事措置を誤って人権を蹂躙してはならないということです。男性も女性も、黒人も白人も平等です。人権を差別したり蹂躙したりしてはいけないのです。責任者たちは、自分の心に合わないからといって、むやみに人事措置をしてはいけません。人権を正しく指導するにおいては、真の愛、すなわちために生きる愛をもって生きる人が主流になるのです。天地創造はそこから始まりました。その主流思想を乱すことは許されません。それは罪の中の二番目の罪です。
第三に、公金を盗んではいけません。公金を勝手に使ってはいけません。以上の三つです。このすべてが、堕落したアダムの家庭から始まったものです。これらが原因になって監獄に行く人が七〇パーセント以上になります。監獄に入ってみるとそうです。人権を蹂躙し、血統を汚し、男女問題に引っ掛かっています。それからお金の問題、権力の問題です。お金と知識と権力が怨讐だったのです。これから、祝福を受けた血統は神様の血統であり、神様の真の愛と真の生命を受け継いだものである以上、これまでの堕落世界に染まった習慣的な行動によって汚してはいけません。
それを守ることができますか。夫婦であっても、あるいは配偶者がいなければ一人でもよいので、きょうという日を完全な血統を汚さないと決心して誓日にしなければなりません。天国の憲法第一条が何かといえば、血統を汚してはならない、きれいに保って、純潔な血統を永遠に守りなさいということです。第二は、人権を蹂躙してはならない。第三は、公金を略取してはならないということです。皆様が天国の王権を維持して、王権の前に民となり、父母となり、妻子となり、兄弟となるためにはこれが絶対必要です。ですから、兄を無視することはできません。弟が障害者だからといって無視することはできません。知識があるからといって、大学を出た人が、高校しか出ていない人を差別しています。そのようにすれば人権蹂躙になります。
公的な環境を破壊することも、国家財産略取と同様に恐ろしいことです。そのように暮らす人は天運が共にないので、いくら成功しようとしてもできません。負債を負う人は天下がみな嫌います。一族の中で問題を起こせば、一族から追い出されてしまうのです。
それでは、神様の公式、法度に従って生きるには、どのような環境、どのような人たちと共に暮らせば、正しい暮らしをしていることになるのでしょうか。簡単です。それも三つです。親子関係、夫婦関係、兄弟関係です。兄弟関係は父母の前には子女になります。子女関係は兄弟関係ということです。自分の家庭を中心として、父母がいて、その次に夫婦がいれば息子、娘がいます。
したがって、私には兄弟関係と同様に、父母の前に姻戚の八親等、四親等以上がすべて連結されます。それで親子関係、夫婦関係、子女関係です。これが連結されれば、兄弟は自動的に生じるのです。そのような人たちの手本になれなければ、誤った生き方をしているということになるのです。しかし、父母の前に、夫婦の前に、子女の前に手本となることができるように暮らすならば、正しい生き方をしているのです。
そのように正しい生き方をすれば、どのようになるのでしょうか。家庭のモデルは、国と天国のモデルと通じます。そのように生きた祖父母から、父母、子女の三代が四位基台の理想を備えた家庭に賞をあげるのです。ですから、兄弟関係でも子女関係でも、共同の責任のもとで和解し、影響を与えながら主体的な位置に立って生きた人になれば、誰もその人を抜きにして天国に行くことができません。
これから、この法を守って暮らせば、間違いなく天国の皇族圏になり、どこでも自由、統一、解放の家庭になります。ですから、これをきょう、新しく三千年を始める今年の標語として定めるのです。一方で、純潔血統、人権平準化、そして国家財産保護の先頭に立ち、その次に親子間、夫婦間、子女間で手本になろうというのです。町中がすべて、「あの人に従っていかなければならない」と言い、「あの人のような人になりたい、一緒に暮らしたい」と言うようになれば、その人は間違いなく天国の民となり、天国に記憶される人になります。文総裁自身もそのように生きています。
きょう、「神様王権即位式」で宣布した、最も重要な三大鉄則をお話ししました。それは、人間が公人として必ず守らなければならない、家庭に入っても、国に入っても、絶対に引っ掛からない指針です。
神様の全知全能の権能と真の愛がこの地に直接的に現れる成約時代には、天上世界についてはっきりと知らなければなりません。どうか霊界を熱心に研究して、神様を中心とした祝福を受け、真の血統の家庭を形成し、ために生きる生活を通じて永生を準備することを願います。今や人々は神様が願われた理想の地上、天上天国が到来する時であることを知って、限りある人間の能力とは比較にもならない天運のみ手を感知しようと努力しなければなりません。生きて働かれる神様のみ前で、実に温柔、謙遜な姿勢で最も貴い天の真の血統を輝かせる孝子、忠臣、聖人、聖子の道を行く人が恵まれた天国人です。
内外の貴賓の皆様。新千年紀が始まる二十一世紀は、過ぎ去った世紀の分裂と葛藤という遺物が清算され、和解と統一の地球村大家族の理想が実現される時です。私は、韓民族を選んで平和文化世界を成し遂げようとする神様のみ旨を早くから知ったために、五十数年の間、「頭翼思想」と「神主義」を中心とした理念運動を土台として、国内外に全力を尽くして統一の基盤を造成してきました。これまで私が主張してきた「神主義」は、有神論と無神論の相反した価値観の統一はもちろん、世俗的人本主義を解放できる唯一の思想として、世界各国の指導者たちと思想界で検証されました。韓民族を導き、世界に跳躍し雄飛させる使命をもった国会議員ならびに内外の貴賓の皆様。共に真の愛の「神主義」で私たちの価値観を確立し、国民思想武装に総決起しましょう。私たち自身と韓民族、そして世界平和のために、南北統一運動を信仰化しましょう。そして、心から共に暮らしたいと願う真の愛、怨讐までも愛する心で、統一運動の先頭に立つ義人と指導者になりましょう。
神様の王権時代を迎えて、私たちはみな、神様を中心として南北統一を成し遂げ、超国家的に神様の心情文化世界を共に創建する人になり、神様の故郷と神様の祖国光復を成就しましょう。神様の祝福が皆様の国と家庭にいつも共にあることを祈ります。
10.神様と人類が求めていく平和の国と世界
平和経 第一篇 真の平和の根本原理
10.神様と人類が求めていく平和の国と世界
日付二〇〇一年十月二十九日
場所:韓国、忠清南道、儒城(ユソン)、リベラホテル
行事:天宙平和統一国韓国大会
尊敬する各界指導者の皆様。歴史的な大転換の時を迎え、今日の韓国の統一と世界の平和を憂慮する指導者たちが一堂に会しました。去る九月十一日、アメリカのニューヨークとワシントンDCで起こった惨劇は、全世界に驚くべき衝撃を与えました。平和と安全に対する懸念とともに、現代文明と人類の未来に対し、深刻で根本的な疑問を再び抱かせたのです。
折しも、去る十月十九日から二十二日まで、ニューヨークでは意義深い国際会議が開かれました。私が創設した「世界平和超宗教超国家連合」と世界NGO(非政府機構)連合である「WANGO」との共同主催により、世界百一ヵ国から元、現職の国家元首、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、仏教、儒教などの主要教団の最高指導者、学界、そして各国のNGOの代表など、四百人以上が参席し、真摯かつ深刻に、今日の世界が直面している危機と、これを平和的に解決するための方案の模索をめぐつて討論しました。
世界で唯一残っている分断国である私たちの祖国、韓半島は、中東地域とともに地球上で最も注目されている紛争地域の一つです。恒久的で根本的な平和世界の実現に対する私の構想を、開会演説において伝達し、きょうこの時間、私の所見の一端を分かち合おうと思います。きょうお話しする題目は「神様と人類が求めていく平和の国と世界」です。
人類は、歴史を通して平和世界を希求してきました。しかし、その夢は、一度も実現したことがありません。振り返ってみれば、政治的、軍事的対立が熾烈だった冷戦が終息すると、多くの人々は、高度化した科学文明の基盤の上で、人類が願ってきた平和と安定の新時代が来るものと期待しました。
ところが、葛藤と憎悪、利己的な欲望が私たちの中にそのまま残っており、またそれが、別の形態のさらに大きな災禍を生んでいることを、今になってようやく実感しているのです。無辜の人々に対する暴力が罪悪であることは自明であり、そのような行動は、必ず終息させなければなりません。
それでは、このような葛藤と闘争を根元から除去する解決策は何でしょうか。憎しみと葛藤と闘争の種は、どこに植えられて根を張っているのでしょうか。それは、人類始祖の最初の家庭の中に植えつけられたものでした。その根から代を重ね、葛藤と闘争が綿々と続いてきているのです。
そうだとすれば、葛藤と紛争を解消し、平和を実現する道はどこに求めなければならないのでしょうか。人類はこれまで、葛藤と紛争を克服し、平和を実現する道を、政治の力や外交的努力により、あるいは経済力や軍事力を通して探し出そうと試みてきました。
しかし、このような方法は、根本的な解決策となることはできませんでした。根本的で唯一の方法は、失ってしまった人間始祖の最初の家庭、すなわち神様の理想家庭を復帰することです。それは、神様を中心とする家庭、真の愛を縦横で完成した家庭のことです。
神様は、真の愛の本体として存在し、人類にとっては無形の真の父母であられます。愛は、独りでは成立しません。必ず相手を通して結実します。人間は、神様の真の愛の実体対象として造られた子女です。
神様は、人間に「生育せよ」という第一祝福を与えられたのですが、その第一祝福とは、人間が神様の真の愛の完全な相対、すなわち真の人間になりなさいという祝福でした。相対は優れていることを願ったというのです。神様は、真の愛の相対である人間に対して、投入しては忘れ、さらに投入しては忘れる、そのように無限に与えたいと思う真の父であられます。愛の出発は、無限にために生きるところから生まれてくるからです。
神様は、人間に対して「殖えよ」という第二祝福を与えられました。人間始祖は、神様の子女として成長して完成し、神様と一体となった心情圏のもとで、真の夫婦となるようになっていました。さらに彼らは、神様から相続した真の愛、真の生命、真の血統を、自分たちの子女に伝授しながら、実体の真の父母となるのです。このように神様の創造理想は、最初の家庭から縦的に真の愛を完成するようになっていたのです。神様の愛が絶対、唯一、不変、永遠であるように、その家庭も真の愛を中心として、絶対、唯一、不変、永遠の家庭となります。
ここにおいて人間は、神様と一心一体となった実体となり、完全な自由と幸福と平和の理想を完成するようになります。このとき、人間は、宇宙万象の歓迎を受ける真の愛の主管主となるのです。
これが神様の人間に対する第三祝福です。第三祝福は、人間が万物を主管しながら、幸福な生活条件を得る祝福です。またこれには、生態系と自然を、真の主人の立場で保存しなければならないという管理の責任も含まれています。
ところが、人間始祖は、神様の祝福のもとで真の愛の家庭を実現することができませんでした。真の愛を中心とした真の人、真の夫婦、真の父母になることができなかったのです。神様に背き、堕落した人間始祖が楽園から追われたのち、神様の祝福とは何の関係もない偽りの愛を中心として夫婦となり、子女を生み、今日の人類世界を築いてしまったのです。
有史以来、人類は、神様に侍った真の愛の基盤から生まれることができず、心と体が葛藤する矛盾をもったまま生きてきました。この葛藤は、人間始祖の最初の家庭内において、兄弟間の憎悪と殺人という悲劇として現れました。これが神様を離れた家庭の悲惨な実状です。
人間が中心となった家庭、人間関係のみを基礎とした家庭は、本然の理想家庭ではありません。神様と垂直的な真の愛の軸で連結された家庭が理想家庭です。真の父母の真の愛のもとで、縦的軸を共有する兄弟間においてこそ、初めて完全な平和の関係が形成されるのです。真の愛は、理想家庭の中で体得され、また結実します。家庭は、唯一の愛の学校です。真の愛は、権力や知識や力の基盤からは決して創出されません。
尊敬する各界の指導者の皆様。皆様は、今日の世相を見渡すとき、また、若者たちに対するとき、何を感じるでしょうか。希望に満ちた明るい未来ばかりを感じますか。日ごとに増加する若者の犯罪率、暴力と麻薬乱用、不倫と退廃、十代の未婚の母問題と価値観の混乱など、未来社会を否定的に予測し、苦悩することが多いはずです。
なぜ若者たちが、このようになったのでしょうか。より優れた学校教育や制度と環境の改善も、部分的な解決策とはなるでしょう。しかし、根本の根はそのようなところにはありません。真の愛の最初の家庭を失った人類が、歴史の結実期を迎える中で、家庭が安定性を失って崩壊しているところに、その原因があるのです。
家庭の崩壊現象は、一つしかない愛の学校が破損したも同然なので、その否定的波及効果は、途方もなく大きいものです。社会的に様々な不安要因となることはもちろん、国家的、世界的に多くの問題を併発させます。
特に青少年には、情緒的不安を与え、人生の座標を変えさせ、脱線と放縦の生活への直接的な原因にもなります。結婚忌避の風潮や離婚率の増加など、家庭基盤が急速に崩壊していく現実の問題は、あすを憂慮する指導者が先駆けて、必ず解決しなければならない課題であると言えるでしょう。
神様の第一祝福と第二祝福を失った人類は、神聖で永遠な夫婦の愛を完成するという、真の愛の個体完成の重要性を知ることができませんでした。ほとんどの青少年たちは、婚前の純潔と真の愛の人格に対する徹底した教育を受けることができていません。喜びと幸福と理想の根本である真の愛の価値を知らないのです。夫婦間の信義と貞節が軽んじられ、結婚の神聖さが無視される風潮の中で、人類社会は途方もない悲劇と災いを内的に蓄積してきているのです。
また、男女間の愛が、刹那的で、肉欲的で、享楽的な方向にばかり走る、いわゆるフリーセックスと世俗文化の中で、真の愛は立つ場がなくなってしまいました。急速に拡大するエイズと性感染症(STD)は、人類の生存自体を脅かしています。エイズからの安全地帯はないとも言われています。
今、世界を震撼させているテロリズムよりも恐るべき脅威が、安全地帯もなく、私たち全員の間近に迫っているというのです。一度、感染すれば、幸福も理想も生命もすベて放棄しなければならないという、この途方もない地球星の災いを解決できずに、どうして私たちがこの時代の指導者だと言うことができるでしょうか。
また、「万物を主管せよ」という神様の第三祝福の前でも、人間は真の愛の管理責任を果たすことができずにいます。もし、自然が人間の虐待に対して反抗し、人間を拒否するとすれば、どのようになるでしょうか。既にそのような兆候が現れているではありませんか。生態系と自然環境が、無言のうちに人間の傲慢さに対して懲罰を与える前に、人間は、真の愛の人格を回復し、万物の前に現れなければなりません。
尊敬する各界の指導者の皆様。今日の問題をもう少し根源的に掘り下げてみるために、神様の創造理想を中心として、真の「私」と「私たち」の関係について考えてみようと思います。
人間は堕落によって、真の「私」の位置を探し出すことができなかったので、神様も「私たち」という言葉を使用してみることができませんでした。創造理想的意識圏内に立つことのできる神様御白身が「私のもの」、「私の子女」と言える関係を結ぶことができなかったのです。したがって、私たちがもっている「私」という概念は、神様の本来の創造理想とは何の関係もないものなので、私たちは自らを完全否定しなければなりません。
神様は、御自身が安心して「私たち」と呼ぶことのできる真の男性と真の女性、すなわち神様の真の息子、娘を探し求めて復帰摂理をしてこられました。言い換えると、神様は、愛の主体、生命の主体、血統の主体であられるので、永遠に一体不可分の基準に立っている真の息子、娘を探し求めてこられたのです。ですから、私たちは、まず心と体の統一によって個人完成し、その基盤の上で神様と父子間の縦的関係を樹立しなければなりません。
しかし、縦的な関係だけでは「私たち」という言葉は成立しません。そこには必ず横的な関係が共に調和しなければなりません。したがって、男性と女性が、真の祝福結婚を通して真の夫婦関係を結び、真の子女を生んで真の家庭を立て、三代を中心として四位基台を完成してこそ、天は家庭単位で「私たち」と呼ぶことができるようになるのです。
それでは、私たちは、どのようにすればそのような位置まで進むことができるのでしょうか。神様は、心と体が完全に一つになった立場で万物を創造されました。それは、絶対愛と絶対信仰を中心とした絶対投入でした。
そこには、御自身の利益や事情を考える余裕などありません。完全に一〇〇パーセント与えては、また与える、ために生きる愛の始原が正にここにあったのです。
私たちの家庭においても同様です。神様の立場にいる父母は、真の愛を中心とする「正分合」の論理から見れば、「正」の立場で完全投入、絶対投入することにより、子女を生み、養育して、縦的な「私たち」の軸を立てなければなりません。
そして、横的には、夫婦が「分」の立場で、真の愛を中心として完全一体になって横的な軸を立てるようになれば、子女たちは「合」の立場で、自動的に縦横の軸に合わせて一つになりながら、兄弟間には前後関係という、また別の軸が立てられるようになり、その時に初めて縦横と前後で完全な「私たち」の概念が実体的に展開するのです。
ですから、家庭が大切なのです。家庭こそ、天が私たちに与えてくださった最も貴い贈り物です。家庭という環境がないとすれば、私たちは、いかにしてこのような絶対的基準の「私」を探し出し、縦横や前後で完全な「私たち」というものを考えてみることができるでしょうか。家庭こそが、愛と平和と幸福の揺籃なのです。
それでは、真の「私」は、どこから探し出すことができるでしょうか。ために生きる真の愛を実践する生活においてこそ、それは可能なのです。自分を完全に否定し、家庭のために生き、国のために生き、世界人類のために、そして神様のために生きるようになれば、真の「私」は自動的に探し出されるのです。
私たちは自らを前面に立て、自分をむやみに主張してはいけません。非常に長い歴史の裏街道で、真の「私」を主張する子女を探し求めて、恨に絡み合った復帰摂理をしてこられた神様の心情を少しでも知るならば、むやみに自分を主張できないはずです。私たちは、寝ても覚めても理想家庭の完成のために生きなければなりません。神様の創造本然の世界である平和世界、神様が千年、万年待ち続けてこられた理想家庭さえ立てたとすれば、それが正に地上天国の出発地となるでしょう。そこにおいて、かわいそうな神様の恨を解くことができるようになるのです。
皆様、太陽を見つめても恥ずかしくなく、海の水を見てもやましくなく、万物の前でも一点の隠し事のない真の自分を取り戻し、神様が「私たち」と呼んでくださる家庭を立てましょう。
そのようにして、神様と人間の間に真の父母と子女の関係が成立しなければなりません。そして、人類の真の父母であり、愛と生命と血統の根源であられる神様は、人類の先祖であり、ひいては主管者であり、真の王であられます。
エデンの園における人類始祖の堕落により、神様は、そのすベての位置を失ってしまったのです。復帰摂理の進展に従って、私は海洋還元、陸地還元、天宙還元とともに、第四次アダム心情圏の還元を宣布し、その土台の上で、失われた神様の王権を取り戻してさしあげる歴史的な「神様王権即位式」を、去る一月十三日、韓国において挙行しました。
本来、アダムは、人類の始祖であり、家庭の根本です。本来は、家庭の王が、将来、国家の王の位置を受け継がなければならず、さらには天宙の王の位置を受け継がなければなりません。そうしてこそ本然の理想的天国圏が連結されるのです。今や蕩減の時代が終わり、入籍を通して本然の定着時代に入っていくことによって、国の王が連結され、さらには世界の王が連結されるのです。
それで、「世界平和統一家庭連合」では、昨年の「子女の日」に、天地父母が家庭の王として君臨するようになったことを宣布し、入籍された家庭から、初めて天の父母を王として侍っていくことができる時代に入ることを宣布しました。したがって、すべての祝福家庭は、天地の王に侍る標準的な伝統を立てなければならない家庭であることを自認しなければなりません。それで、教会時代は終わり、家庭連合の時代が開かれるのです。
宇宙全体が、一つの核を中心とした連体として連結しているのと同じように、皆様の家庭がそのような核の位置に立って万物を愛し、神様が愛で造られて存在する万物を食べて愛する、そのような主人の位置を備えなければなりません。
それで、自分の家庭が、神様のみ前に愛を中心として一体圏を形成し、天地父母の王に侍る標準的、定着的、礎石のような家庭であることを感じなければなりません。そのようにして、勝利圏を受け継いだ祝福家庭にならなければならないのです。
尊敬する指導者の皆様。人類は今や、独善と無知、そして利己心と憎悪を自ら反省し、神様のみ前に謙虚に頭を垂れ、天道に従わなければならない時に至っています。私は、いち早く神様の召命を受け、神様と人類が共に願う平和世界の実現のために生涯を捧げてきました。きょう、私はこの場において、平和に向かうための重要ないくつかの点についてお話ししようと思います。
第一に、私たちは、他のために生きる生活をしなければなりません。利己的な生活は、他人を不快にすることはもちろん、天道に逆らうものです。他のために生きることは、取りも直さず、神様の似姿になる実践なのです。
神様の真の愛を相続し、家庭と社会、国家と世界を愛することは、宇宙の基本秩序に順応することです。真の愛の実践を通してのみ、人格を完成した真の人間、真の父母、真の師、真の主人になります。そのようになってこそ平和を成し遂げる主体となるのです。
他のために生きることは、平和に向かう最初の関門になります。これと関連づけて、平和に至る道は、「神主義」と「頭翼思想」によらなければならないという結論を述べようと思います。「神主義」と「頭翼思想」とは、カインとアベルの葛藤を始原としたこの世の中にあるすベての葛藤の要因と思想とその結実を、すべて和合させ、包容できる思想であり主義です。
葛藤と憎悪の鎖を何によって断ち切るのでしょうか。憎悪に対するより一層大きな憎悪は、かえって恐ろしい憎悪と破壊を呼び起こすだけです。これは、平和に向かう道とはなり得ません。対立し、仲たがいする双方の葛藤要因は、ただ真の愛によってのみ感化され、教育され、包容されるのです。
神様を中心に立てた真の愛は、国境に阻まれることのない超国家的なものです。また、真の愛は、宗教の高い垣根も乗り越え、人種差別もない超宗教的、超人種的なものです。神様の理想を中心とした相対のために生きる真の愛の感化力、生命力によってのみ、地球星の左右、前後、上下、内外の様々な葛藤と対立の要因がすべて克服され、永遠の平和理想世界が成し遂げられるのです。
第二に、平和な世界と国家を形成する基礎単位である真の家庭を完成することです。既に言及したように、対立、葛藤の根は最初の家庭にあったのであり、したがって理想的な真の父母の家庭が生まれない限り、平和世界の起源はあり得ません。
これと連係して、私が世界的に展開している国際祝福結婚は、単純な一宗教団体の結婚儀式ではありません。神様の愛の伝統を立てる救国、救世の運動です。青少年たちに対しては婚前純潔運動を展開しています。
そして、成人すれば、神様の真の愛を中心に夫婦間の絶対信義と貞節の替約のもとで祝福結婚をする運動です。真の愛を中心として、真の家庭と真の父母を成し遂げる神聖な運動です。このような理想のもとで教育を受け、結婚した家庭は、エイズを脅威に感じる理由がありません。彼らにとって、エイズの予防は風邪の予防よりも簡単なことです。
世界のすべての若者は、このビジョンによって教育を受けて実践すれば、エイズは完璧に予防されるのです。真の愛の家庭は、家庭の崩壊を防ぎ、国家と世界に平和の礎石を据えるのです。特に、政治的、歴史的に不和であり怨讐関係にあった国家間の人々が、その高い垣根を越えて、姻戚関係、真の愛の関係を結ぶようになれば、和解の幅は国家を超え、人種を跳び越えるものになります。
真の平和へと向かう高次元の公式は、不和と怨讐の関係にある家門、さらには怨讐国家の子女たち同士で交叉祝福結婚をし、天地が願う真の愛の真の家庭完成の祝福圏を成就させることです。ここから、神様と人間が願う永遠の平和世界が出発する、そのような始原になるのです。
第三に、超宗教的な和解と協力は、平和世界へと向かう必須条件です。私はこの五十数年間、超宗教的な和合と対話のための運動のチャンピオンとして活動してきました。常に自らの教団の発展よりもはるかに多くの予算を支援しながら、休むことなくこの運動を進めてきました。
変わることのない、このような愛の実践は、たやすいことでしょうか。決してたやすいことではありませんでした。教団問の和解と協力がない限り、世界平和は期待できません。神様の理想である平和世界への案内者には、宗教指導者と信仰者がならなければならないのです。
もし、宗教が偏狭な教派主義ばかりを強調し、宇宙的な真の愛を教えることに失敗すれば、人類は葛藤と戦争の恐怖から自由になることはできません。ですから、地球星の危機の前に、宗教指導者たちは、謙虚に神様のみ旨に従い、超宗教的に手に手を取り合って、真の愛を実践していかなければなりません。
宗教の感化力によって安らかな人格が創出され、自己主管力が養われ、歴史的な憎悪と怒りを消化するところから、真の平和と安定がもたらされます。もし、各教が教理や儀式の違いを超えて、神様の高い理想のもとで互いに愛し、協力し、奉仕し合う姿をこの世に見せてあげるならば、世界は劇的に変わるのです。
第四に、平和世界を成し遂げるための国連の正しい役割を再度強調したいと思います。国連は、代表的な世界平和機構として、これまで多大な貢献をしてきましたが、創設時とは大きく変わってしまった世界の事情を考慮し、多元化した地球星の問題解決のために、昨年、私の考えを国連に提案しました。その提案の一つは、国連内に上院のような特別機構を補強し、宗教的、霊的、道徳的、思想的次元から世界の問題を審議させるというものでした。
国連が、国家の利益に基礎を置いた政治や外交の力によって運営される次元を超えて、地球星的な理念と神様の高い理想のもとで運営される機構にならなければなりません。そうしてこそ、万人の権益を保護し、平和世界を創建していくことができるのです。
国連だけでなく、今後の世界秩序は、政治主権が道徳的、霊的価値と別個に作用しては、公益と平和を保障することが困難です。神様の理想に基づき、宇宙の公法と通じる霊的、道徳的高次元の指導力が要請されるのです。政治力やそのいかなる力も、神様と天理の上に立つことはできません。
また、国連は、非政府民間団体であるNGOの意見を多く取りまとめていかなければなりません。私が世界NGO連合である「WANGO」を創設した理由もここにあります。すべてのNGOは、より一層対話し、協力しつつ、本来の創設精神を失わないようにしなければなりません。利己的で偏狭にならないように努力しながら、世界のために正しい奉仕を続けてくださるようお願いする次第です。
尊敬する指導者の皆様。自ら実践することなくして平和を語ることは、真の指導者の道理ではありません。また、何もしないで平和を待っているだけの余裕がある世界の状況でもありません。
平和大使たちはもちろん、私たち全員が平和運動の主体になって、必ずや平和世界を創建しなければなりません。国連をはじめとするすべての国際機構が、平和大使館を中心として、歴史的宿願である世界平和理想国家の建設運動に積極的に協力、支援するようになることを祈ります。
各界各層の指導者である皆様が一心一体となり、共に他のために生きることで、真の愛の家庭理想を実践し、天運の協助を受ける平和の先駆者となりましょう。統一された祖国と平和の理想世界を建設する働き手になりましょう。神様の祝福が皆様の御家庭に共にあることを祈ります。ありがとうございました。
11.あふれる感謝と愛を込めて
平和経 第一篇 真の平和の根本原理
11.あふれる感謝と愛を込めて
日付:二〇〇二年二月十五日
場所::韓国、ソウル、ヒルトンホテル
行事:二〇〇二世界文化体育大典」および「世界平和超宗教超国家連舎二〇〇二総会」(真のお母様)
尊敬する内外の貴賓、そして紳士淑女の皆様。私の祖国、韓国で開催される今回の「二〇〇二世界文化体育大典」の開会式典で皆様を歓迎することができ、大変うれしく思います。
私は生涯を通じて、奇跡のような多くの変化が韓国で起こるのを目撃しました。韓国に初めて来られた方々は、韓国の文化を経験し、飛躍的に発展した韓国の姿を御覧いただくことを願います。私たちは新千年紀を迎え、過去の暴力と苦痛を清算し、現代科学技術を総動員しながら世界の平和と繁栄が訪れることを期待しました。
しかし、昨年、韓国で起こった一連の事件が見せてくれたことは、私たちが輝かしい物質文明を享有しつつも、いまだにその文明と調和する精神文化と価値観の混乱によって、大きな葛藤を解決できずにいるという事実です。
今日の世界は相対的道徳観にあふれていますが、私の夫である文鮮明総裁は全生涯を捧げて神様に対する絶対信仰と絶対愛、絶対服従、そして人類と万物が願う絶対愛に根本を置いた絶対的道徳性を教育してきました。
皆様の中の多くの方々は、既に私の夫によって推進されるプロジェクトや活動を通して、皆様なりに文総裁を知っておられることと存じます。しかし、きょうは私だけが知っている総裁について御紹介しようと思います。
夫との四十二年間の結婚生活を経てきたこの時点で、神様以外には、夫のことを私ほどよく知っている人はいないでしょう。
総裁が教えている絶対価値と御自身の生涯とは、どのような関係があるのでしょうか。私は、総裁が朝から晩まで、ただ他のために生きるその生き様と、人間生活のすべての分野で塀を崩し、究極的には神様と人間の間の壁を取り除こうと率先垂範される姿を見守ってきました。
私が初めて夫に会った時を考えてみても、世界はまだ軍事力を軸にした二つの世界、すなわち東西冷戦によって韓半島は六二五動乱の悲劇に遭い、南と北が二つに分かれている時でした。
数年間続いた戦争で、ほとんどすべてのものが破壊されました。私の夫が建てた初めの教会を見ても、捨てられた紙の箱を拾い集めて土と混ぜ、地面の上に立てた土壁の家でした。そのような状況でも総裁は、神様がこの地に新たな希望を下さるという約束に対していささかも疑いませんでした。
北朝鮮の共産治下の監獄暮らしの中、残酷な拷問で何度も死の峠を越える時や、他の宗教団体の指導者たちの偽りの告発によって韓国で牢屋暮らしをされる時も、総裁は自分が処した苦境ゆえに神様に助けを求めるような祈祷は、絶対にされませんでした。
かえって神様を慰労され、必ず神様のみ旨である平和世界を成就することを自ら何千回も誓い、そのみ旨のために黙々と実践するだけでした。そして、いかなる苦境に処したとしても、例を挙げれば、食べるものがなくて飢える時や、キリスト教と言論、そして政府までもが共謀して夫を迫害する時も、神様に対する愛と人類に対する哀れみは、より一層大きくなるばかりでした。
歴史上の預言者たちがそうだったように、総裁は、反対にも屈せず、かえって真理を伝播することに、より拍車をかけてきたのです。天に対する絶対信仰の手本を見せてくださいました。十六歳(数え)になられた年、総裁は天から啓示を受け、本来、神様が願われた、純潔と自由と喜びが充満する世界に人類を導くべき使命を帯びて選ばれたことを悟られました。その使命を成就するため、総裁は個人から家庭、氏族、民族、国家、そして世界に至るまで、神様のみ旨を成就するために絶対信仰に基づいた生の原型を広げてこられたのです。
総裁は、天から召命を受けたその日から、言い表すことができない苦難と苦痛を伴う、総体的な犠牲の道を歩んでこられました。その中でも最も胸を痛めたことは、救ってあげようとするその当事者たちが、かえって嘲弄と偽りの非難を浴びせてくる時でした。
それにもかかわらず、総裁は、ただの一度も、天から与えられた使命を完遂するための意志を曲げたり、躊躇されたりしたことがありません。そして、自ら手本を見せ、神様に対する絶対服従の道を教えていらっしゃいます。何よりも、私の夫が解き明かす絶対愛に関する教えこそ、他の宗教指導者たちの追随を許さないものであると思います。数多くの宗教指導者たちや学者たちも、自分たちの教団における建立や教理伝播のために献身しています。ある方たちは、慈善事業や人道主義的なことを大々的に行われた方もいます。
しかし、総裁は初めから違いました。統一教会の運動が小規模で、また財政的に厳しかった時でも、総裁の教えには変化がありませんでした。「私たち自身を心配する前に、私たちの予算の三分の二を人助けのために使いなさい」ということでした。これまでに、超宗教活動を支援するだけでも数億ドルを注がれました。神様の願いがすべての宗教を一つにすることであることを御存じであるからです。
総裁は、統一教会の運動自体のためよりもはるかに多くの予算を、宗教の和解と一致のために投入してこられました。一九七五年に創設した統一神学大学院の学生たちは、自分の教団の教理を学ぶことよりも、はるかに多くの時間を費やして、他の宗教と対話し、またそれらの教理を学んでいます。
アメリカ政府が不当に総裁を断罪し、監獄に送ろうとするさなかにおいても、文総裁は、「ワシントンタイムズ」を創設して、アメリカが冷戦を終息させて世界平和のための摂理的な役割を果たせるように援助したのです。皆様も御存じのように、総裁は、世界的に多くの他の言論機関にも財政的な支援を惜しまれず、今も継続して、統一教会自体の出版事業に使うよりもはるかに多くの予算を、それらのために注いでおられます。
総裁の不屈の意志と、自分のことを心配する前にまず人のために犠牲になる、そのような生き方は、神様の無条件的な愛に起因しており、これこそ、愛の真の意味であり、今日この世界に存在する壁を取り除くことのできる解決方法であると私は確信します。
総裁は、自ら手本を示すことによって絶対愛を教えられます。絶対的愛で結ばれた夫婦関係こそは、背信や離婚があり得ず、今日、世界的に蔓延している性病から防御する、唯一で真の道なのです。
総裁がこのような理想を実現するため、自ら実践し教育しながら見せてくださった、確固として不動な献身的姿について誤解する人もいました。ある時は、その絶対的基準のゆえに、もう少し易しい道を選ぼうとする人たちのねたみと嫉妬によるでっち上げの非難もたくさんありました。
しかし、時が過ぎていきながら、だんだんと多くの人々は、正と不正、そして善と悪については折衷や妥協はあり得ず、私たちの生命と神様のための献身的な愛には、少しの譲歩もあり得ないことを悟るようになりました。
私は一生を通じ、総裁との安らかな時間をほとんどもつことができませんでした。人々のように新婚旅行を楽しむこともできませんでした。しかし、正直に言えば、私はこの世の誰の妻よりも大きな夫の愛を受けて暮らしてきました。総裁の、家族に対する愛と献身的な教育は、驚くほどの実を結びました。
夫自らが見せてくださったとおり、私の家族は神様のために絶対的基準で献身しなければならないことはもちろん、人類のための愛も完全でなければならないと教えてこられたのです。
十三人の子女と二十人を超える孫たちがいますが、私たちは、家族ぐるみの休暇を一度も過ごしたことがありません。しかし、私の家族は、神様の御加護の中で、感謝の生活をしています。
私たちが初めてニューヨークに移住して、数百人の教会員と共に暮らしていた時でした。誰よりもまず、夫は芝生を刈る機械の操作法を学ぼうとしました。自分一人でカーペットを敷く方法を体得されもしました。芝生一つ一つを刈りながらも、神様と人類に美しい芝生の庭を贈ろうという心情で臨まれました。カーペットに打つ釘一つ一つにも、同じような心情を注がれたのです。
また、私たち夫婦の生き方は、他の人たちとは異なりました。一生を通した犠牲的な生涯の結果として、世界的に数百万の家庭とその子孫たちが総裁の伝統に従って生きていることを目撃しながら、私は、神様が御自身の献身的な息子、文鮮明総裁のことを本当に誇りにしていらっしゃるだろうと思います。
きょう、私の生涯で初めて、このような公式席上で、あふれる感謝と愛を込めて、私の夫を皆様に御紹介することができ、喜びの心を禁ずることができません。紳士淑女の皆様。私と共に、この「世界文化体育大典」の創始者であり、神様の真の息子であられ、真の夫であられ、真の父母であられ、真の師であられる私の夫、文鮮明総裁を歓迎してくださるようお願いいたします。ありがとうこざいました。
12.平和の根源は神様
平和経 第一篇 真の平和の根本原理
12.平和の根源は神様
日付:二〇〇二年八月十日
場所:韓国、光州、新陽パークホテル
行事:天地父母統一安着生活圏韓国大会(真のお母様)
愛する祖国の兄弟姉妹の皆様、そしてこの歴史的な大会を見守っている世界の人々と霊界の祝福家庭の皆様。私たちは、いよいよ実に歴史的で摂理的な時を迎えました。六千年間、天と地がこれほどまでに待ち望まれてきた平和の理想世界、すなわち地上、天上天国を創建する天運の時が私たちに訪れたということです。
天は、歴史を通して摂理されながら、その時代と地域的文化に合わせて宗教を許可され、人類は、その宗教圏内で平和の世界を成就するために、不断の努力を傾けてきました。しかし、人類はきょうも、あらゆる不条理と不道徳の中から抜け出すことができずに、うめき苦しんでいます。津波のように押し寄せる堕落の風潮を食い止めることができないまま、激しい波にのみ込まれる自らの姿にふと気づき、驚愕を禁じ得ないのが現代人たちの姿なのです。それでは、私たちには永遠に希望がないというのでしょうか。私は、夫である文鮮明総裁と共に、神様のメッセージを伝えることに生涯を捧げてきました。そして、その預言的なメッセージの数々は、時代と環境の現実的な制約を超え、事実であり、真理であることが証明されてきました。
私は、きょうもこのように天のメッセージをもって皆様の前に出ました。信じるか信じないかは皆様に任せられていますが、私は悲壮な覚悟でこのメッセージを、終末期を迎えた今日の人類に神様に代わってお伝えします。「平和の根源は神様」と題してお話しします。
どうか心の扉を開き、無知と混沌で綴られた今日の終末期を生きている皆様に下さる天の警告を、謙虚に受け入れる知恵を見せてくださるようお願いします。
本来、人間はエデンの園で、神様を中心として、永遠の自由と理想と平和を享受しながら暮らすように造られました。しかし、私たちの始祖であるアダムとエバの堕落により、そのような本然の世界が成し遂げられませんでした。堕落したその日から、この地上には苦痛と悲しみと悲運の歴史が始まりました。真の愛と真の理念をもって生きるべき人間が、真の理念をもつことができず、真の愛が何であるか分からなくなってしまい、幸福な環境で暮らすべき人間が、幸福の園を失ってしまったのです。
自由と平和を謳歌し、ひいては創造主の前に心情で一つになった幸福のすべての要素をもって、栄光をお返しすべき人間とならなければなりませんでしたが、そのような人間になることができなかったのです。サタンは、私たちの真の父母を蹂躙し、私たちの真の家庭と真の兄弟を蹂躙し、真の氏族、民族、国家、世界を蹂躙したのです。それだけでしょうか。今まで六千年の長い歳月の間、神様を苦難と逆境に追い込んだ張本人です。
このように、堕落はこの地上に罪悪の歴史を出発させ、その日からこの地は、平和の地どころか苦痛の地となり、罪悪がこの地上に植えつけられたその日から、人間が身を置く所々に、平和ではなく闘いの歴史路程を経てくるようになったのです。個人的には心と体の葛藤として闘いが継続され、家庭においては家庭的な闘いがあり、またこの闘いは民族的な闘い、あるいは世界的な闘いへと拡大され、今日、世界のどこを見ても、争いのない所がないという歴史を綴ってきたことを私たちは知らなければなりません。
これらはすべて人間堕落の結果なのです。世界中の数多くの国家の中には、環境が良くなくても良い種をもつ国家がありますし、環境が良くても悪い種をもつ国家があります。もしこの世界がすべて良い種を受けていたとすれば、すなわち、もしこの世界がもともと良い木から採れた良い種を、良い環境で育てていたなら、今日のこの世界は、平和の世界、希望の世界、未来の保障された世界になっていたに違いありません。しかし、不幸にも私たちが暮らしているこの世界は、平和の世界、希望の世界、未来の保障された世界にはなっておらず、善悪が混在する世界になっています。周囲に現れる環境は、善の環境というよりは悪の環境になっています。このように周囲が悪の環境に取り囲まれているので、いくら種が良くても、良い実を結ぶことができないのです。
人類歴史を見ても同じです。人類が善であるためには、まず人類を形成している個々人が善でなければなりません。堕落していなかったなら、私たち人間は、理想的な春の園を迎えていたでしょう。その理想的な春の園で、神様が喜び得るそのような人々として育ち、そのように育った人類なら、この地上に創造本然の文化世界を開花させ、文化世界を創造したその中で、私たち人類は、平和で、幸せに暮らしていたでしょう。万物が春夏秋冬の季節に従って巡ってくるのと同様に、人類歴史もまた、春の季節、夏の季節、秋の季節、冬の季節のような過程を経ながら、永続する世界になるべきだったのですが、堕落することによって、人間の世の中では、人々が喜び得る希望のとき、栄光の一日を迎える喜びの出発ができなかったのです。
人間始祖アダムとエバから生まれたカインとアベルは、神様の愛を中心として生まれた子女ではありません。神様の真の血統を伝授されるアダムとエバが、堕落行為を通してサタンの偽りの血統を受け継いだがゆえに、彼らから生まれた子女たちは、神様の子女ではない、悪魔サタンの子女になるしかない運命のもとに生まれついたのです。ですから、イエス様もヨハネによる福音書第八章四十四節で「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と戒めたのです。
アダムとエバは、神様のむちで追い出された私たちの最初の先祖となりました。しかし、本来アダムとエバは、神様から「愛するアダムよ、愛するエバよ、私はあなた方を、万宇宙の創造目的の世界、愛の園を建設するために造ったので、あなた方は平和と幸福の主人であり、父母であり、王である」という祝福を受けるべきだったのです。言い換えると、アダムが、千秋万代、永遠に変わることなく地上の王として、また天上の王として立たなければなりませんでした。天地が生じ、神様と人間の関係が生じたのち、初めて真の主人、真の父母、真の王の名をつけられる方が誰かというと、正に私たちの始祖アダムだったのです。
それでは、何が人間をこのように悲惨な堕落の道に追いやったのでしょうか。一言で言うと、堕落とは、自己中心的自覚から始まりました。今日、私たちの周辺で、堂々と我がもの顔で猛威を振るっている極度の利己主義的思考と行為が、正に私たちを堕落の道に追いやった元凶なのです。
他人の立場や境遇を考える前に、自らの利益や都合だけを追求する拙劣な行為、他人が死のうと死ぬまいと自分だけが生きようという破廉恥な姿は、みな堕落が引き起こした行真の片鱗なのです。しかし、これは、創造当時に神様が計画された本来の目的ではありません。神様もこのような世の中を願われず、人間もこのような世の中に生まれて暮らすことを願いませんでした。したがって神様は、このような悲惨な歴史、悲しみと苦痛に満ちた歴史を清算して、本来願われた平和の世界、幸福の世界、自由の世界、善の世界を取り戻すことを目的として立て、この堕落した世の中を収拾してこられているのです。これがすなわち復帰の道であり、救援摂理の道なのです。
堕落したアダムとエバの子孫に転落した人類になりましたが、人間には誰しも本然の世界を指向する本心が残っているので、人類は歴史を通して神様が願われる世界を望み、指向してきたのであり、私たちのその希望は、行くまいとしても行かざるを得ない、困難であるとしてもかなえざるを得ない理想として残されたのです。神様は、堕落した人類に、時代に従って、新しい理想と新しい心情を取り戻してあげるために、今日に至るまで摂理を繰り返してこられました。
もし、そのような理想を成就する一日が、天と地に訪れなければ、また、天と地を動かすことのできる中心存在、そしてその中心存在を軸にして共に動くことのできる人々が現れ、天地が一つになって一つの目的を指向できる道を開くことができなければ、この地上に真の自由と平和と理想が訪れないのです。そうなると、人間は蕩減復帰の歴史過程から抜け出すことができなくなるでしょう。
このような事情があるので、神様は、私たちに栄光の立場でお訪ねになることができないのです。平和と自由と理想をもってお訪ねになることもできません。反対に祭物の時を歩んで私たちをお訪ねになるしかないのです。蕩減復帰の道だからです。神様の悲しい心情を一掃してさしあげる一時、すなわち神様の心中にしみ込んでいる恨を解いてさしあげることのできる一時を探し立てることができない限り、人類の平和はもちろん、神様の創造理想もこの地上でその実を結ぶことはできないのです。
ですから、私たちは、神様の胸にしこりとなっている恨を解いてさしあげることによって、神様を解放してさしあげる責任があります。しかし、このような事実を、今日、イエス様を信じる聖徒たちは知らずにいます。私たちは、堕落した人間なので、堕落以前の本然の状態を取り戻し、神様を失ってしまった人間なので、神様を失う以前の立場を取り戻し、人類の真の父母を失ってしまったので、真の父母を失う以前の立場を取り戻さなければならないのです。
私たちは、神様と真の父母を中心とした平和の園において、子女として生活できるその立場を取り戻し、その立場に立たなければならないようになっています。この課題を成就するために、今日の私たちには、新たに救援摂理が残るようになったのです。
全知全能の神様は、どのような作戦によって地獄のようなこの世界を平和の世界へと変えるのでしょうか。本来、人が堕落していなければ、神様の愛を中心として人間の心と体が二律背反的な位置に立つことは絶対にあり得ません。しかし、堕落することによってそのような位置に立ったので、歴史路程を再度収拾し、一つの世界平和圏をつくって安着できる基地を用意するために、神様は救援摂理、すなわち復帰摂理において、多くの宗教儀式や規則を通して、受難と犠牲と流血の歴史を綴ってきたという事実を知らなければなりません。
しかし、仮に心情の基準を立てることができないままその世界を取り戻したとしても、それはいつか再び整理しなければなりません。いくら良い理想をもったとしても、あるいは全世界を一つにして理想的な平和世界を樹立したとしても、個々人がその世界を考え、その世界に応じ、その世界の動きによってその世界と一つになる心情の基準をもつことができなければ、いくらそれが願っていた理想世界だとしても、その世界は自分自身とは何の関係もなくなるのです。
絶対者、創造主によってつくられた万物も、創造主の愛を受け、また創造主と一つになることが目的です。したがって、万物の霊長と言われる人間が、万物を主管できる立場に立とうとすれば、必ず神様の心情を身代わりする位置に立たなければなりません。このような心情は、神様と人間が父子関係だということを証明してくれる証票であることはもちろん、万物と人間を結んでくれる鎖でもあるのです。
ところが、このような平和の理想世界、すなわち創造本然の世界を復帰するには、必ず蕩減の条件を立てなければなりません。蕩減復帰の過程を経なければならないのです。蕩減復帰とは何を意味するのでしょうか。何であっても、その本然の位置と状態を喪失したとき、それらを本来の位置と状態に復帰するには、必ずそこに必要なある条件を立てなければなりません。そのような条件を立てることを「蕩減」といいます。
しかし一般社会では、「蕩減」という言葉をそれほど重要視していません。そのような言葉はありますが、その内容をよく知らずにいるからです。天と地、神様と私たち人間だけならば、このような「蕩減」という言葉は必要ないはずです。すべて、私たちの最初の先祖を堕落させたサタンのためなのです。サタンがいなければ蕩減も必要なく、今日私たちが、喉が張り裂けるほど叫んでいる「宗教統一」という言葉も必要なく、「神様の解放」や「人類の解放」といった単語も必要ない世界になっていたでしょう。
堕落が人類歴史の破綻、苦悩と失敗の歴史、戦争の歴史をもたらしたので、これを一掃してすべての根本問題を解くためには、神様のために生き、人類のために生き、すべてのもののために生きる真の愛の生活から、その根源を探し出さなければなりません。そうでなければ、平和の根源は発見できず、平和の根源を発見できなければ平和の世界も見いだすことはできないのです。
イエス様は、この地に来て何をしたでしょうか。迫害を受けて十字架で亡くなりながらも人類を愛そうとしました。十字架を中心として愛を施すことに我を忘れて逝った人です。愛を受けようとしたのではありません。怨讐までも愛そうとしました。皆様の人生においても、愛を受けようという方向性から、愛を与えて生きようという方向性に転換し、その基準が世界化されれば、その時には平和の世界が訪れるでしょう。愛を受けようという意識ばかりをもった人々が暮らす所には、永遠に平和の世界が来ることはありません。自分の父母だけが父母ではなく、自分の兄弟だけが兄弟ではなく、自分の息子、娘だけが息子、娘ではないのです。
すべての人を自分の父母、自分の兄弟、自分の子女のように感じ、接することのできる人格体になれば、皆様は死亡の世界で苦しむ多くの民を見るとき、涙なくして向き合うことができないはずです。青少年が麻薬と放蕩の沼でもがくのを見るとき、自分の子女を救う心情で、彼らを救うために心血を注がざるを得ないはずです。それは、受けようという愛ではなく、我知らず与えようとする愛の発露なのです。
自由や平和は、統一を前提条件としています。夫婦間の生活について一度考えてみてください。二人が一つになっていないのに、真の意味で夫婦の自由を享受できるでしょうか。夫婦が一つになれなければ、円満な家庭は期待できないのです。家庭の平和は、絵に描いた餅になってしまうのです。
個人や家庭はもちろん、世界的に「愛を受けるのではなく、愛を与えよう」と考えられる人を育てておかなければ、統一の世界や平和の世界は訪れることはありません。変わることのない神様のみ前に、いつでも心変わりするような人になろうというのは神様に対する冒瀆です。変わることのない愛の前に、変節を前提とした愛を行うことは愛に対する冒瀆です。
私たちは、神様と苦楽を共にできる基点、すなわち変わることのない頂点において、自分の心に平和の基盤を用意し、さらには自由と幸福の基盤を用意できる基準を備えなければなりません。そして、その基準を中心として体を完全に主管し、この世界を統一できる実力を備えていく運動が、この地上で展開されなければならないのです。イエス様がもたらした新しい世界主義運動が、正にこのような運動なのです。これこそ、今日このように混濁した世の荒波をかき分けて生きていく人類の前に、神様が最後の終末的警告として下さったみ言だということを銘記しなければなりません。これは、私たち全員にとって宿命的な課題です。運命的ではなく、宿命的なのです。宿命は変わらないものです。運命は自分の努力によって改めることも、変更することもできますが、宿命は変更できません。絶対に逃れられない天命です。
皆様。私たちが人生を生きながら、誰でも一度は平和の起源、あるいは幸福の起源がどこなのか、という疑問をもったことがあるはずです。果たして平和と幸福の起源はどこでしょうか。それはアメリカでもなく、韓国でもなく、国連でもありません。問題はどこにあるのでしょうか。心と体が闘うこの人間の胸の中で、いかに平和の宇宙観をもち、幸福な世界観をもつかということが、限りなく重大な問題なのです。
私たちの小さな胸の中では、六千年続いてきた戦争の砲火がいまだに燃え上がっています。第一次世界大戦も激戦であり、第二次世界大戦ももちろん激戦でした。しかし、そのような戦争は、すべて過程的な戦争だったのです。長くて五年を越えることのない戦争でした。
ところが、皆様自身において展開する心と体の闘争は、終わりも知らずに破滅に向かって走っていく最悪の戦争です。自らの一生に向かって大砲を撃っています。心と体の決戦場は、神様とサタンとの善悪の戦場となり、熾烈な激戦が展開しているのです。
しかし、このように霧の中に閉ざされ、垣根の中に封じ込められた人間像を、果たしていかに解放するかということが問題です。霧を吹き飛ばしてしまう風が吹くようにしなければなりません。高い天も恐れずに立ち塞がっている壁を爆破してしまわなければなりません。これが私たちの宿命的闘争路程です。
睡眠を主管しなければならず、食欲を主管しなければならず、非原理的な性的欲望を克服しなければなりません。それで、文総裁は、早くからこの道を出発しながら「宇宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ」という標語を掲げて、一生の間、闘ってきたのです。
聖書では、今日の人類を「孤児」と言いました。国家も「主人がいない国」と言いました。皆様の心は、ほんの一時でも真の平和を享受したことがあるでしょうか。皆様の国には主人がいるでしょうか。
昨今の政治の現実を見てください。この国、この民族を真に愛し、生命を捧げて統一を成就しようとする真の愛国者をどこに見いだすことができるでしょうか。心の病にむしばまれていくこの国の若者たちを救ってあげる思想や理念を、誰が提示できるというのでしょうか。実に切なく、悲痛な思いを抑えるすべがありません。このようなことは、すべて私たち個々人において、一心一体一念の基準を立てることができていないことに由来するものです。心と体の統一なしに、いかに家庭の和睦や国家と世界の平和を願うことができるでしょうか。
私たちの本心が平和と幸福と統一を願うのは、永遠不変の真理です。しかし、問題は私たちの肉身です。心を包んでいる器なので、好き勝手に脱ぎ捨ててしまうこともできず、時々刻々と色合いも、方向性も変わってしまうこの体を、どのように扱うかということが鍵です。
堕落人間の体はサタンの王宮です。それで、使徒パウロも、「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ七・二三、二四)と嘆きました。
私たち自身を深く見つめてみれば、善と悪の二つの目的を指向する要素が内在しているのを発見することができます。善を指向する心があるかと思えば、正反対に悪を指向する体があります。これを解決できなければ、歴史的に怪物のような怨讐である体は、いつまでもそのまま残り、永遠に私たちを苦しませるでしょう。使徒バウロの嘆きも、正にこの点を指摘しているのです。
皆様。世界平和を成就する道は、戦争ではありません。お金と権力と知識もその解答ではありません。国連の力でもできません。利己的な個々人の欲望と自国の利益にばかり血眼になっている国連の舞台では、何も期待できません。
私たち自身の中に堕落性が残っている限り、いくら理想を掲げ、平和を叫んでみても、そこにはいつも闘争と混乱の歴史が乱舞するでしょう。したがって、この堕落性を根絶することなくしては、平和の道を模索できないという結論を下すようになるのです。
世界平和の基準は、歴史時代の終末点にあるのではなく、闘っている自分の心と体を統一させるところにあるのです。人間の心と体の分裂が拡大すればするほど、それに従って葛藤と苦痛も大きくなります。私たちの心は、神様の監視所であり、体はサタンとの一線です。したがって、私たちは、心と体の不一致を狭め、衝突を避け、ついには一つに統一させなければならないのです。私たち自体の中に根を下ろした堕落性を抜いてしまい、心身一体一念の境地に到達するためには、私たちに真の父母が必要です。選択の余地もなく偽りの父母から受け継いだサタンの偽りの血統を除去してくれる真の父母に会わなければなりません。真の父母に会って真の愛の真理を受け継ぎ、ために生きる真の愛を実践する人生を生きなければなりません。
皆様。世界を一度注意深く見てみてください。小さくは夫婦間の葛藤から、大きくは国家間の衝突と戦争に至るまで、推測できないほど多くの問題点を抱えています。そこには、原因と理由も限りなく多く存在します。しかし、その根本を掘り下げてみれば、男性と女性の問題に帰結されます。いくら大きな問題でも、調べてみれば結局、男性と女性の問題に集約されることは否定できません。人類の出発は、本来男性と女性の関係から出発したのではないですか。家庭での不和が拡大され、各種の社会問題と国家、世界の問題にまで広がるのです。したがって、すべての家庭で、すべての社会と国家で、そして世界的次元において、男性と女性に関わる問題さえ完全に解決して、一つの標準型をつくっておくならば、世界は、一つになった平和世界、すなわち創造本然の理想世界になるでしょう。
神様は、本来私たちの始祖であるアダムとエバを中心として、この地に真の平和の世界を定着させようとされたのです。彼らがもし堕落せずに神様のみ旨どおりに成長し、人格完成していたならば、神様の祝福とともに、彼らは真の家庭を築き、罪悪と苦痛のない理想天国を創建したでしょう。
その世界が正に永遠の平和世界になったのであり、人類は、子々孫々神様の直系の子女として、神様と直接交流することはもちろん、先に霊界に行った先祖とも自由自在に往来しながら交流し、幸福な人生を享受したのです。罪を犯そうとしても犯すことのできない絶対善主権の世界になったのです。そのような世界で、どうして心と体の葛藤を想像することができ、家庭の不和を心配できるでしょうか。数千年間、天と人類を弄んで蹂躙してきた悪魔サタンが出現するようなことはあり得ないのです。このように、最初のボタンをかけ違えた人類歴史ですが、天は私たちをお捨てになりませんでした。失ってしまった子女を取り戻す復帰摂理に、六千年問心血を注いでこられたのです。ただの一度も、御自身の人間創造を後悔したり、サタンに翻弄され挫折したりすることなく、ただ一途に、真の愛と許しの心情で復帰摂理を展開してこられたのです。
きょう皆様がこのように、貴いみ言を通して、神様に対してより深く学び、知るようになったということは、偶然ではありません。この場まで皆様を導いてきた天と先祖に対して、感謝する心をもたなければなりません。今、私たちの最優先課題は、心身の一体化を通じて私たち自身の人格完成を成し遂げ、サタンの支配下で四分五裂した家庭を収拾して、真の家庭を探し立てることです。上は一代目の位置にいる祖父母に対して天のように侍り、二代目の父母の前に絶対服従しながら、三代目の立場に立った子女たちは、絶対夫婦となって、子女を罪なく純粋に養育し、一つの家庭において三代家庭圏を立てるようになれば、天はその家庭と永遠に共にあるようになります。皆様の家庭は、神人合徳の境地において、人類に永遠の平和と幸福をもたらす揺籃となるでしょう。
皆様。本然の人間は、心と体が神様の真の愛に感応しながら一体となって生きるようになっています。しかし、今日この地上の多くの人々は、心とは何であるかを知らないまま生きています。心自体が、神様の愛を中心として安息するための、自分の人格形成の基盤だということを知らずに生きているのです。この心の中には、神様も迎え入れることのできる余裕があります。どのような人でも正しい心をもつようになれば、万民を一度に平和の王宮に移したいと思うのです。私たちの心と体が闘うことなく真の統一の起源を形成できる可能性をもっているのは、人間が神様に似た子女だからです。
絶対者である神様は、自体内に矛盾や葛藤はありません。神様は、男性性相と女性性相の中和的存在でありながらも、男性格主体としていらっしゃるお方です。人間が心と体の二重構造になっているのと比較することができます。神様は、自体内に、絶対的でかつ完全な統一を形成して存在していらっしゃいます。したがって、そのような万有の大王であられる神様に似た子女として創造された人間も、心と体の完全統一を形成できるというのは、論理的にも可能な説明です。ところが人間は、堕落によって心と体が調和統一の基準を失ってしまい、葛藤と矛盾の泥沼で苦しみながら生きてきました。
堕落した人類を救おうとする神様の愛は、歴史的に多くの宗教の出現として現れました。悪の勢力がはびこる世の中で、心が体を一〇〇パーセント治める生活を営むということは、ほとんど不可能なことです。したがって神様は、歴史的に、時代や文化、そして地域的な環境や条件を考慮して、必要適切な宗教を許されたのです。そして人間は、宗教の教えに従って、心を中心とした人生の道を一つ一つ開拓してきました。現実世界に執着せず、永遠の世界に希望をおいて生きる道を学んできました。キリスト教を見ても、現実世界に焦点を合わせて生きなさいとい宗教えはありません。この世で裕福に暮らすために、利己主義的な生活を送ってもかまわないとは教えないのです。必ず心の世界における平和を強調するのです。
「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七ニー)と説いているのが、その良い例です。ここでいう天国論は、この世的な豊かさと権力を意味するものではありません。仏教でいう「天上天下唯我独尊」も同じ脈絡で理解することができます。宗教によってその方法は異なるかもしれませんが、一様に人間に希望をかけて自らを省察しながら、心が体を主管して生きることができる道に導くことが、宗教の使命でした。このように神様は、六千年間という長い歳月の間、宗教を通した人類救済の摂理を展開してこられましたが、どの宗教指導者や聖人、賢人も、どのようにすれば私たちの心と体の葛藤を克服し、永遠の統一と平和を成就できるかを明らかにして教えることができなかったのです。どうしたら心を中心として体を完全に征服できるのか、ということについて教えることができませんでした。
人類は、平和の基盤を見いだすことのできるところ、すなわち、父母が永遠に一つになり、夫婦が永遠に一つになり、兄弟が永遠に一つになり、父母と子女が永遠に一つになり、一族が永遠に一つになる心と体の統一点を提示できなかったのです。しかし、今や時が来ました。天が待つことは終わりました。私たちが生きているこの時代こそは、人類が歴史的に迎えた終末の中の最後の終末期です。天はもうこれ以上、人類救済の摂理を延長することも、延期することもできなくなりました。天と地が待ち望んできた人類の真の父母が、今やこの地上に顕現して、すべての貢任を一人で負い、復帰摂理を成功裏に遂行しているからです。混沌と放蕩によってもつれたこの世界に、本然の真の愛の秩序を立てているのです。
皆様。「信じる者は、幸いである」という言葉があります。この天の真理を伝えている文総裁夫婦こそが、正にその真の父母なのです。今、人類に平和を約束できる思想体系は、文総裁の説く真の父母思想しかありません。共産主義も民主主義も失敗しました。残るのはただ「ために生きる哲学」、すなわち永遠の生命と、真の愛を基盤にした「天父主義」だけであり、神様の対象である自分が、神様より高い価値をもった存在であると誇れる自分自身を発見することです。ここにおいてのみ、永遠の平和世界、すなわち永生の地上、天上天国が連結されるのです。
私たち夫婦は、人類の真の父母の資格をもって、既に全霊界を統一しました。四大宗教の教祖であるイエス、釈迦、孔子、ムハンマドはもちろん、彼らの高弟級の百二十人ずつからメッセージを受けています。霊界で開催されたセミナーを通して、私たち夫婦の教えである「統一原理」と「統一思想」を学んだのちに送ってきた彼らのメッセージは、一様に希望的であり、真の父母に対する感謝の言葉に満ちています。さらには、マルクスとレーニンをはじめとして、霊界に行っている世界的な共産主義者たちも、真の父母の命令に従って「原理セミナー」を修了し、悔い改めと痛恨の涙で綴ったメッセージを送ってきています。
今、彼らの希望は、ただ一つです。それは地上の信徒や信奉者たちが、一日も早く、真の父母である文総裁の教えを受け入れ、永生のために準備しなさいというメッセージです。つかの間の地上生活で、貴い一生を浪費せず、誰もが肉体を脱げば入っていって永遠に一緒に暮らすことになる霊界での生活のために、知恵深く準備して来なさいという忠言で満ちています。
皆様。これは何を意味するのでしょうか。第一に、老若男女、地位の高低を問わず、全人類は今、神様が実際に生きて働いていらっしゃるという、厳然たる事実を信じなければならないという点です。観念的にのみ信じて暮らす神様であってはなりません。私たちの一挙手一投足を、燃える炎のような目で見守っていらっしゃる神様であられます。
御自身の懐を離れてサタンのもとへ行った人類が、悔い改めて再び御自身の懐に帰ってくる日を待っていらっしゃいます。放蕩息子になって離れていった子女が、懺悔の涙とともに父の懐に帰ってくる姿を思い描いていらっしゃいます。いまだに地上にとどまって人類復帰のために血と汗と涙の道を歩んでいる真の父母様を慰め、真の父母様に侍りながら生きてほしいというのが神様の願いです。終末期であるこの時代に下さった神様御自身の警告を深刻に受け止め、誤った人生の軌道を修正し、後悔のない生活を送ることを願っていらっしゃる神様であられます。
第二に、霊界の実在を事実として受け入れ、私たちの生活すべてを天倫に合わせて生きなければならないという警告です。前進的自我を発見し、前進的主体性を探し立てて、この地上に平和世界を定着しなさいというむちとしてのみ言です。神様が見守り、数千、数万の聖人や賢人、そして皆様の先祖が、皆様の日常生活を注視していることをはっきり悟るなら、誰があえて天倫から外れた生活をすることができるでしょうか。
今からは、遠からず皆様も霊的な体験をすることになるでしょう。皆様の先祖が動員されて、皆様の生活と考えまでも直接監視し、指導する時が来ました。私たち夫婦の教えを信じて従う多くの統一信徒たちは、既に生活の中でこのような境地を経験しています。
愛する祖国の同胞の皆様、そして本大会を見守る世界の人々と霊界の祝福家庭の皆様。人類の真の父母であるメシヤが再臨したこの時代、韓国と北朝鮮が銃や剣ではなく、愛と真理で統一されるこの時代、世界のすべての宗教が真の父母の教えのもとに一つになるこの時代、霊界のすべての聖人と賢人と先祖が降臨し、直接私たちと交流しながら暮らすことになる、歴史的で摂理的なこの時代を迎えた皆様は、本当に恵まれた人たちです。
今後、全人類は、人種と理念、そして国境を超越し、平和の世界を創建するに当たり、召命された責任を果たしてくださることを促しながら、きょうの私のお話を終えようと思います。神様の限りない祝福が皆様の家庭と国家に満ちあふれることをお祈りいたします。ありがとうございました。
13.神様の祖国と一つの世界
平和経 第一篇 真の平和の根本原理
13.神様の祖国と一つの世界
日付:二〇〇二年十月十六日
場所:韓国、京畿道、九里市、中央修練院
行事:天上地上和合統一大会
全国から集まった宗教界、政治界、学界の指導者の皆様、そして高名な平和大使の皆様。きょう皆様は、平和世界に対する希望を抱いてこの場に集いました。私は、この意義深い席において、「世界平和超宗教超国家連合」の創始者として、神様が本来理想とされた「神様の祖国と一つの世界」に関するみ言をお伝えしようと思います。
今日、この地上に生きている人間たちは、神様があらかじめ告げてくださった神の国と神の義を見つけることができずにいます。ですから、神の国と神の義を探し出すことが、今日の私たち人類の希望であり、また今まで数千年の歴史過程において生きては去っていった人間たちにとっても希望だったことを、皆様は知らなければなりません。
それでは、このような希望の神の国、希望の神の義が、どうして私たちの最後の目標として残されるようになったのでしょうか。それは、人間が堕落したからです。人間始祖の堕落によって、神の国と神の義の中心となる神様と人間が、何の関係も結ぶことができない立場におかれるようになりました。すなわち、神の国と神の義の中心である父と家庭、そして国家に関して詳細に知らない人間に転落してしまったので、神様は、そのような無知に陥った人類を悟らせ、その父と家庭と国家がどのようなものかということを教えるために、今まで歴史路程において苦労してこられたのです。
ですから、神の国と神の義を探し立てることが、いまだに私たちの希望として、また目標として残るようになったのです。この世界には、現在数多くの国が存在しています。しかし、その多くの国々の中で、神様から本当に愛を受ける国は一つもありません。したがって、このような堕落世界を否定して、新しい神様の国を再び創造しなければならないということが、今まで六千年間神様が摂理してこられた目的なのです。それで神様は、歴史を通して国を探し求める摂理をしてこられたのです。国が協助しなければ、神様の人類復帰に対するみ旨は成し遂げられないからです。真の宗教を中心とした真の国家が存在しなければなりません。したがって神様は、ある一時を迎えて特定の国を探し出されました。それが選民イスラエルの国とユダヤ教を中心とした歴史でした。
皆様が望まれる神の国とはどのような国ですか。その国は、今日、皆様が暮らしているこのような国ではありません。このような国は、いずれ別れを告げなければならない国です。私たちには、まだ神の国がありません。国のない人には本籍地がありません。
国がなければ国籍をもつことができないのです。国がなければ入籍できる基盤もないということです。ですから、現世において私たちがすべきことは、国を探し出すことです。この地上に天の国を編成し、その国籍をもって国を愛し、民族を愛する真で善の父母の血統を受け継いだ勝利の息子、娘として、自分の一族、あるいは家族を導いて暮らしたのちに死んでこそ、天上世界の天国に入っていくことができるのです。それが原理です。
国があって初めて、千秋万代の私たちの子孫の前に、そのまま残してあげられる伝統も残るのであり、私たちの血と汗を流したすべての努力も残るのであり、天の苦労を祝賀する記念塔がこの地上にできるのであり、すべての栄光の痕跡がこの地上に残るのであって、国を探し立てることができなければ、すべて無駄になるのです。ですから、神の国を探し立てることが最も重要な問題であることを、皆様は知らなければなりません。「私たちの家庭は、真の父母様の愛を受ける国を守る家庭だ。したがって、私が真の父母様の前に孝子となり、国家の前に忠臣の道理を果たさなければならない」という信念を、いつももって暮らさなければなりません。真の父母の愛を受けて、神様の愛を受けなければならないという意味です。
しかし、神様の愛は、国がなければ受けることができないのです。サタンの王権に勝利したのちにこそ、天の国が成立するからです。私たちは、神の国を仰ぎ慕います。それは、愛があるところだからです。一時的な愛ではなく、時間を超越して永遠の愛が存続できるところです。また、自分自らが誇れるところであり、自己の価値を一〇〇パーセント認定されるところなのです。すなわち、永遠に幸福なところです。ですから、人間は、天の国を慕い、憧憬するのです。
私たちが行かなければならない道は、心から行きたいと思う道であり、私たちが探し求め、築かなければならない国は、永遠に暮らしたいと思う国です。私たちが所有すべき財物は、天宙のものであると同時に私のものであり、この時代のものであると同時に過去のものであり、同時に未来のものだと保証できるものでなければなりません。また、私たちが泣くときには、天地が共に泣くことができ、私たちが喜ぶときにも、天地が共に喜ぶことができる権威と知識をもたなければなりません。これが、今日の堕落した人間たちが現世において追い求めなければならない、最高の望みであり、願いなのです。
人は誰でも、自分の国で暮らさなければなりません。それは、人間に付与された絶対的な条件です。一人残らず、神の国と神の義のために、希望に満ちた義の生活をしなければなりません。思いで理想郷を描き、生活で義の法度を立てながら、神の国と神の義のために生きなさいというのです。
皆様には、そのような国がありますか。ないので、その国を探し求めて築かなければならないのではないですか。その国はどのような国だと言いましたか。理想の国、統一の国です。万民が行くことのできる国です。この国を成し遂げるにおいては例外がありません。ここには、家庭も協助し、氏族も、民族も、世界もすベて協助するのです。そのようにして個人を統一でき、さらには家庭、氏族、民族、国家、世界を統一できるのです。神様は、摂理のみ旨を必ずこの地上で成し遂げなければなりません。それでは、み旨が成し遂げられた結果とはどのようなことでしょうか。それは、この世界万民が救われ、神様が彼らをすべて主管されるようになることです。そのようになることを願うのが摂理のみ旨とならざるを得ません。
もし地上で国家の復帰を自分の生涯において果たすことができずに死ぬ場合、皆様は、霊界に行っても、天の国に属した人としての価値をもつことはできません。地上において、神様の主管圏内で統治された実績をもって霊界に行かなければなりません。それが本来、神様の創造基準だからです。
皆様。私は今、地上に羨むものがありません。世の中のものには関心がない人です。ただ、「神様が保護できるその国において死ななければならないのではないか。私がそのように生きてから逝くことができなければ、私の生涯は悲惨な生涯ではないか。死ぬ前にその国を探し出し、一日だけでもそこで暮らしてから逝かなければならない」というのが私の願いなのです。
そのような一日のためには、数千日の犠牲を投入しようという心で歩んでいるのです。分からない皆様は休んだとしても、私は歩んでいます。皆様ができなければ、外国人を動かしてでもしなければならず、この国ができなければ、外国を通して包囲作戦をしてでも行かなければならない道です。
皆様。私たちの信仰の目標は、果たして何でしょうか。神の国の民になることです。その国の民になることができなければ、自由自在に万民、あるいは万物世界に誇り、愛を受ける道が現れないのです。国のない人は、いつも攻撃を受けるようになります。哀れな立場に立つようになります。あえなくやられることがいくらでもあるのです。ですから、神様が願われる国はどこにあるのか、すなわち神様が足場にできる国がどこにあるのか、これが問題です。
私たちがこの国、この民族のために血と汗を流すのは、結局、永遠の天の国を築くためであり、千秋万代の子孫たちが永遠に称賛できる福地国家を築くためです。その国は、神様を中心として、直系の子女たちが天命に従い、すなわち神様の命令と王権をもって治めるそのような国であることに間違いありません。そこには、民主主義や共産主義はあり得ません。一度形成されれば、永遠の国家体制として残るのです。そのようなことを考えるとき、皆様御自身が、そのような国の民になることができなかったという事実が悲痛なことではないでしょうか。私たちは、そのような一つの国をもつことができなかったことを嘆息しなければならず、そのような国で暮らすことができないことを嘆かなければならず、そのような一つの不変の主権をもつことができなかったことを、悔い改めなければなりません。
そのような主権と国と国土を立てるために、人類は、歴史を通して主権国家を立ててきました。その過程で、数多くの人が死に、数多くの民が犠牲になり、数多くの国が滅び、数多くの主権が交替してきたという事実を、私たちは知っています。そのように犠牲になった数多くの人たちの中で、天の側にいる人々、あるいは天のみ旨のために犠牲になったすべての哀しい霊人たちは、いつかはそのような国、そのような世界が成し遂げられることを願うに違いありません。人類が堕落したのち、歴史は、神様が主管されるのではなく、サタンが主管するようになったのです。
しかし、本来この世の中の主人は、神様がならなければなりませんでした。神様と愛の関係を結んだ直系の子女、その子女たちによって構成された真の家庭を中心として、氏族と国家と世界が成し遂げられていたならば、それこそ神様が主管される世界であり、神様が主管される国であり、神様が主管される家庭であり、神様が主管される個人になっていたでしょう。ところが、人間が堕落することによって、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、このように全体が神様と反対の立場に立つようになったのです。これが堕落の歴史であり、堕落の世界であることを知らなければなりません。したがって、この世界をそのままにしておけば、神様が創建しようとされた創造理想の永遠な愛の世界を築くことができず、また、絶対者であられる神様が、本来意図された創造理想を実現させてこそ、神様本来の権威を取り戻すことができるので、その立場を標準として悪の世界を収拾し、本来理想とされた本然の世界に導いていかれるのです。これが堕落した世界に対する神様の摂理です。
しかし、この地には、堕落主権の国は多くありますが、神様が望まれるその国は一つもありません。神様は、御自身のみ旨を成し遂げることのできるその国を立てるために、人間が知らない中で、歴史を通して時代を動かしてこられました。神様は、一つの個体を通して家庭と社会と国家と世界を主管しようという望みをもってアダムを造られ、完成に向かって育てていかれました。ところが、アダムの堕落によって一から始まった歴史は、四分五裂してしまったのです。これを収拾して連結していくのが救援摂理歴史です。アダムは、すべての人間の先祖なので、アダム個人を失うことは、全体を失うことと同じです。したがって、これを再び呼んで立てなければなりません。再び立てられるその方は、氏族と民族と国を放棄して忘れてしまうことができる、つまり、神様のみ旨のためだけに生きていく人でなければなりません。
皆様。すべての宗教は、究極的に神様のみ旨を成し遂げようとする共通した目的をもっています。皆様もよく御存じのキリスト教の歴史をその代表的な例として、一度見てみましょう。ノアは民族的な環境に置かれていても、そこに属するのを望まず、国に属していましたが、その国に縛られずに自分が希望していた国を探していきました。彼は希望の国を探し立てるために、あらゆる試練と逆境を経なければなりませんでした。ノアには親戚もいて、民族もいましたが、それよりも神様のみ旨を追求していった人です。ノアに託された神様の願いは、神の国と神の義を求め、個人的な環境を克服していくことでした。
彼が春夏秋冬、一日も欠かさず、百二十年の試練過程を通過したその苦衷はいかなるものだったでしょうか。家庭も彼を理解しませんでしたが、ノアはそれらいかなる攻撃の矢もすベて受けながら、百二十年を貫いていきました。神の国と神の義を求める前に、自分勝手に飲んだり食べたりしていては、あとですベて蕩減を受けなければならないという原則をノアはよく知っていたのです。神様はアブラハムとサラを立て、力ルデヤのウルを発つようにさせました。アブラハムは、ハランが、自分たちの住むべき所であるとは思わず、神様の啓示をもってカナンに無条件に信じて向かって行きました。またサラは、パロ王に引つ張られていってもアブラハムを決して恨んだりはしませんでした。
このように、希望の国に向かって行く彼らの心は、いくら激しい迫害が押し寄せても、変わることはありませんでした。ヤコブは、自分に下された祝福には、希望の国と民族が約束されているという信念があったので、誰も彼の強い信念を打ち砕くことはできませんでした。そのように、み旨は個人、家庭、氏族と拡大され、預言者たちは、次第に世界的な希望をかけて進んでいったのです。イエス様は、イスラエルの不信と迫害によって彷徨する立場になり、霊肉ともの救いを成し遂げることはできませんでした。
しかし、メシヤは、天と地のすべての障壁を崩して、一つに統一しなければならない使命をもってこられる方です。この地を中心として構成された理念国家は減んでも、天倫が求める理念国家は必ず立てられなければならないというのが神様のみ旨です。アダムを中心として願われた神様の望みは、アダムの個体だけにとどまるのではなく、アダムを中心とした家庭、氏族、民族、国を築くことでした。メシヤが成し遂げようとした目的の国が、イスラエルの不信によって壊れたとき、イスラエルは滅びました。したがって、再び来られる再臨主には、アダムを完成させ、メシヤの使命を完成させる責任があり、アダムを中心とした家庭、氏族、民族、国家、世界を完成させる責任があるのです。
神様は、愛する息子、娘を地上に送られ、絶対的な一つの国家を立てるみ業を進行させてきましたが、現時点において、一つの国家を復帰できる基盤が準備できていません。常に失敗してきたので、この地上に天の人を送り、摂理を推進させ、成就させるために苦労してきたのが、今までの復帰摂理歴史なのです。
神様が私個人を犠牲にしたとしても感謝しなければならず、また私の家庭と氏族、民族、国を犠牲にしたとしても感謝しなければなりません。そのような私と国が現れてこそ、世界はその国によって収拾されるのです。
ところが、個人がいくら犠牲になったとしても、その国が立てられなければ、個人の犠牲はもちろん、家庭と氏族と民族の犠牲まで、再び継続されるのです。そのような原則のもとで、今まで神様も、歴史路程において、その国を探し出すための摂理を推進してこられたのです。ですから、国を思い、国のために生きることのできる個人がいれば、その個人の伝統を受け継いだ家庭を通して国のために犠牲になることができるようにされ、また氏族と民族がその家庭の伝統を受け継いで、国のために犠牲になることができるようにされました。このように、その国を探し出すために、今まで神様が摂理を推進してこられたのです。
皆様。今日、私たちがこの地に生まれた目的はどこにあるのでしょうか。国を愛するためです。神様が今まで摂理されてきた目的も、その国を愛するためなのです。主権のない国の国民は哀れです。それで、イエス様が心配しておっしゃったことが、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ六・三一-三三)とおっしゃったのです。
まず息子を求めなさいとおっしゃいましたか。それとも、国を求めなさいとおっしゃいましたか。神様が探し求めておられる国を求めなさいとおっしゃったのです。神の国と神の義を探し立てようとされる神様の望みは、人間と被造万物を離れて成し遂げられるのではなく、人間を通して成し遂げられるのです。
その望みは、真の人間を通して神様と万物が和合することでした。それで神様は、堕落した人間に、神様の代わりとなる一人の実体として、天の血統を代表する方として、イエス様を送られたのです。すなわち、イエス様は、神様の歴史的な願いを成就してさしあげるためにこの地上に最初に来られた方だったのです。四千年たって初めて、そのような立場に立てられた息子であり、一つの国の中で、ユダヤ教を中心として、ヨセフの家庭に一つの種としてこの地上に立てられたその息子が、正にイエス様でした。この時に、既にサタンは、国家を立てて神側を攻撃していたので、天の側でも、完全な足場となる国家的な基準がなければなりませんでした。ですから、神様は、一つの国を編成するために、四千年間苦労されました。そのように苦労された神様の功績は、イスラエル民族がイエス様を受け入れることによって、世界的な基盤となり、この地球星に神様とイエス様を中心とした世界が完全に成し遂げられなければなりませんでした。
しかし、イエス様が亡くなることによって、霊的にのみその世界が成し遂げられたのです。イエス様は、三年の公生涯路程において、ユダヤ教を中心として失ってしまったすべてのものを蕩減復帰しようとされましたが、十字架にかかって亡くなったので、霊肉を中心として、この地上に一つの実体として、神様の足場となる国として立てられたイスラエルがすべて崩れていきました。
結局、イエス様を殺害することによって、キリスト教は、霊的にのみ国家の基盤をもつようになり、また、イスラエル民族は、国のない民になって流浪し、彷徨ずる身となって、サタン世界の嘲笑の的となったのです。ですから、今日、霊肉ともの救いをなしたキリスト教の国は、どこにも見いだすことができません。したがって、再び来られる主は、四千年間準備してイスラエルの国を立てた神様の摂理を、イスラエル民族が理解できずに不信して失ってしまったものを復帰しなければなりません。
皆様。イエス様は、この地上に国を探し出すために来られました。一つの国を探し出すために来られたのです。しかし、イエス様は、霊肉ともの国を探し出すことはできず、ただ霊的にのみ探し出されました。ですから、今日のキリスト教は、この地上に実体の国がないのです。
これは、神様がこの地上のいかなる国、いかなる民族を中心としても、「愛する私の国、愛する私の民族」と呼ぶことができないことを意味します。今まで、神の国の基盤がこの地に立てられなかったことを意味するのです。もし、その当時、イスラエルの国がイエス様を中心として一つにさえなっていれば、息子であるイエス様を中心としたその国は神の国となるので、神様は、その国を中心として世界を復帰されたでしょう。しかし、この地を中心として霊肉を共に連結させようとした基盤は、イエス様が亡くなることによって、すなわち実体を失ってしまうことによって、霊的にのみ復帰されたのです。したがって、今までキリスト教徒たちは、国のない、主権のない民のような立場なので、どこに行っても死に直面したのです。殉教の血を流すことによって発展しました。そのように種が蒔かれたキリスト教なので、そのように殉教の血を流して刈り入れなければ、発展できなかったからです。しかし、今や血を流しながら迫害を受けた時期が終わったのですが、それがそのまま死んでなくなるのではなく、キリスト教の霊的基盤を中心として、失った実体の国を世界的に成し遂げるために、その国を欽慕し、主を待ち望みながら現れたのが正に再臨思想です。
イエス様も、楽園に行って待っているのです。天の玉座の前に行くことができなかったことを知らなければなりません。イエス様は、神様のみ前に国の主権を立てて、国を治め、地上から天国まで直通できる権限をもった国をつくらなければなりませんでした。しかし、イエス様は、そのような国をつくることができなかったので、神様のみ前に直接立つことができないのです。
したがって、楽園は天国に行く待合室です。また天国は、一人では行くことができない所です。天国は、本来堕落していなければ、アダムとエバを中心として祝福を受けた家庭単位で行かなければならない所です。息子、娘たちと一緒に入っていかなければならないのです。それを復帰するために、天は二千年間闘って、今まで世界と連結できる基盤をつくってきたのですが、国の基準がないこの地上において、国の基盤を誰が受け継いで来るのでしょうか。このことのために、神様はキリスト教を中心とした新しい宗教運動を通して多くの神霊的な人たちを探し求め、募集運動をしながら今まで準備してこられたのです。
尊敬する指導者の皆様。今、人類も三〇〇〇年に向かう新千年紀に入り、新しい天運を受けています。すべての宗教人たちは心を合わせ、私が主唱した、国連内に超宗教的代表者たちによって構成された上院のような議会を併設するという提案を貫徹しなければなりません。
国連が、人類のためにできる最も崇高な仕事があるとすれば、それは、神様の真の愛を基盤とした人類の霊性回復です。これよりも大きな仕事があるでしょうか。ですから、私はこれまで、宗教界だけでなく、政治、思想、経済、文化など、各分野をすべて網羅し、良識ある指導者たちを選んで、「ために生きる人生」に関する真の愛の教育を実施してきました。
このような基盤の上で、私は、既に数万人の平和大使たちを任命しました。彼らは今、世界各地に私が創設した「世界平和超宗教超国家連合」の旗を掲げて、神様と人類が強く願ってきた平和世界実現のために総力を傾注しています。全知全能であられ絶対的な神様のみ旨は、これから短期間のうちに成就されるでしょう。ここに参席した指導者の皆様も、皆様の御家庭と国を真の愛で新たに創建し、真であり、永続的でありながら、国境のない平和世界を具現する主役になってくださることを願いながら、これで私のお話を終えようと思います。天の祝福が、皆様と皆様の御家庭の上に満ちあふれることをお祈りします。ありがとうございました。
14.神様と平和統一世界
平和経 第一篇 真の平和の根本原理
14.神様と平和統一世界
日付:二〇〇二年十二月二十七日
場所:アメリカ、ワシントンDC、シェラトンナショナルホテル
行事:「世界平和超宗教超国家連合」聖職者会議
世界各国から来られた元現職の国家元首と高名な宗教指導者、各界の代表者、各国の平和大使、そして尊敬する紳士淑女の皆様。平和世界の実現という人類の共同理想を中心として根本を探究する、この意義深い会議に御参席くださいまして、誠に感謝申し上げます。
いつにも増して平和と安全が切実に、かつ緊迫して求められる時にあって、各界の指導者である私たちは、神様を遠ざけたまま、世界的な寫藤と戦争、罪悪と不幸の問題を解決すべき厳粛な責任を、共同で背負った立場に立っています。
きょう私は、これまで天意に従い、生涯を捧げて究明してきた、人類の難問題に対する根源的な解決法案に関する一端をお話ししようと思います。このみ言は、既存の神学的な研究や書物に基づいたものではありません。私が血のにじむような苦闘の中で、直接神様や霊界と交信しながら、体恤して究明した根本原理です。
神様と交信しながら天意に従う道は、一般の人が常識で理解できるような道ではありません。しかし、人が本心を開いて、深く洞察すれば、現実の中に生きて働かれる神様のみ旨と霊界を感知する新境地があるのです。
平和理想の根本を探究するこの大会は、現代人の苦難と絶望、そして現代の危機状況を分析する集まりではありません。病状の根本を探り、治癒しなければなりません。そのためには、宇宙の根本である神様と人間との本然の関係を知らなければならず、歴史の中で、生きて摂理してこられた神様のみ旨を悟らなければなりません。
神様は、真の愛の本体であられます。真の愛は、無条件に与えてはまた与え、投入しても記憶せずにさらに投入し、ために生きては、またために生きる属性をもっています。神様が創造された大気の中で、義人と悪人が共に呼吸できるように許容されたのは、絶対愛の神様であり、真の愛の本体であられるからです。自然の恵沢のもとに、善人も悪人も共に農業を営み、生活しているのです。
また、全能性と絶対性を先立たせて罪人を即決処分できる神様なのですが、真の愛で抱いてこられながら、罪人たちが悔い改めることを、長い間、耐え忍んで待ってこられました。創造主であり、本当の父であられるのに、御自身を不信し、背き、ひいては存在しないと主張し、死んだと考える群れから、ありとあらゆる悪ロを言われながらも、相対がなければ愛を完成できないがゆえに、変わることなく忍耐してこられた父なる神様であられます。
尊敬する指導者の皆様。神様が不平を言われるのを聞いたことのある人はいますか。言い訳をする神様に会った人はいますか。太初から、真の愛の理想の絶対基準を立てられ、御自身自らその理想に絶対服従されながら創造され、摂理してこられた神様です。あらゆる濁った水や残りかすのようなものをすべて受け入れても完全に浄化できる海のように、創造の原則から外れた人間世界を完全な善に浄化できる絶対の真の愛の主体として、真の愛の相対関係のために毅然として摂理される神様であられるのです。
神様は真の愛を中心とした絶対なる真の父母であり、絶対なる真の師であり、絶対なる真の主人です。ですから、神様はその真の愛を与えることのできる対象を必要とされました。それが創造の動機です。神様の創造は必然でした。真の愛の創造理想は、一人で成し遂げる理想ではありません。神様御自身の気高く善なるみ旨を、人間と共に喜ばれるための理想です。
真の愛の神様を正しく理解すれば、今日、罪を犯し、争う不幸なこの世界は、神様の本来の計画ではなかったことが自明になります。神様の創造のための精誠と投入はこの上ないものでした。自ら絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立てられ、絶対投入されました。
被造物はすべて、神様がこの上なく精誠を尽くし、投入してつくられた愛の対象です。その中でも、最も貴い被造物である人間は、真の愛を中心として、神様に最も近い関係、すなわち父母と子女の関係でつくられました。神様は無形の真の父母であられ、人間は実体対象である息子、娘です。
真の愛の世界には、大小、高低の分け隔てがありません。真の愛で一つになることは、上下や階層がなく、完全に、また全体的に調和一体となることです。さらには、主体と対象が一体となったその結果は、断絶なく永続するものです。このように、真の愛の中における主体と対象には、同位権、同参権、同居権があり、相続権が存在するようになります。
人間は、神様の愛の中で完成し、神様の絶対父母、絶対師、絶対主人の位置を相続するようになっているのです。このように神様は、御自身の子女である人間が、真の愛の理想を完成することによって、御自身と一つになって共に住み、御自身のすべてのものを相続するようにされました。
ために生きる真の愛の中でのみ、真の自由と平等が、平和と統一が、理想と幸福が永遠になることができるのです。ですから、真の愛は、宇宙万象、特に生命をもつすべての存在の力と生命の源泉であり、喜びと幸福の源泉なのです。真の愛は、喜楽と希望と平和の絶対要因です。
しばしば神様と人間の関係は、その尊厳性や神聖さにおいて、永遠に格位を異にする関係であると理解されています。もちろん、創造主と被造物としての立場の違いはありますが、何よりも優先する本然の関係とは、真の愛の父母と子女、性相と形状、主体と対象、内外の関係なのです。
人間は、心情的に一つとなり、真の愛の中で同位となり、生活の中で深い感情の通じる、分かつことのできない父子関係としてつくられました。神様は、愛の対象である息子、娘の人間と共に愛を完成するという創造理想を立てられました。これが真の愛の理想の成就です。
人間始祖アダムとエバを創造された神様の創造目的を要約すると、彼らが神様の真の愛、真の生命、真の血統の結実を完成した善の家庭を立てることです。アダムとエバは家庭を基盤として、子女の心情、夫婦の心情、父母の心情を育みながら、段階別に、また分性的に神様の愛を体得し、安着して完成するのです。このように創造されたアダムの家庭で、神様を中心とした真の愛の理想が成し遂げられていたなら、最初の天国家庭になっていたのです。
また、アダムとエバという真の父母の家庭を中心とする天国理想は、氏族、民族、国家、世界へ拡散すべきでした。真の愛の家庭の伝統が、世界の伝統につながっていたでしょう。その世界は、無形の絶対なる真の父母、真の師、真の主人であられる神様に似て、すべての属性を相続した真の父母を中心とする世界です。そして、天の国は、神様と有形、無形の一体を成した真の父母が、縦的な軸となって、子女たちが、上下、前後、左右、内外に調和を成し、自由と平和と統一と幸福の生活を出発した世界です。
人は地上の肉身生活を終えると、霊人体は無形の世界である霊界に行きます。これは、地上生活の延長であり、そこでもやはり天国理想を完成するようになるのです。もしも、そうなっていれば、宗教を中心とした神様の救援摂理やメシヤの降臨は必要なかったのです。
しかし、不幸にもアダムの家庭を中心として成し遂げようとされた神様の天国理想は、アダムとエバが堕落することによって成就されなかったのです。これは、アダムとエバがサタンを中心とした偽りの愛によって偽りの父母となったからです。彼らは神様の祝福とは関係のない、偽りの夫婦、偽りの家庭をつくり、偽りの生命、偽りの血統を子孫に伝授しました。サタンが怨讐の立場で血統を変えた恨を神様に残したのです。
こうして、彼らは神様を失ってしまい、神様に侍って暮らす聖殿を完成することができませんでした。かえって、彼らの体は悪魔サタンの巣窟となり、絶対価値を指向する霊性が響落し、無形の世界である霊界に関しても無知になりました。
先祖である彼らがこのようになったので、子孫であるすベての人類は、神様が私たちの真の父であられることが分からなくなりました。サタンの利己的な欲望を受け継ぎ、自己本位で堕落性による不義を犯しながら生きていくようになりました。本来、人類が一人の神様に侍る兄弟姉妹であることも知らず、葛藤と紛争に明け暮れ、罪を犯しています。互いに命を奪い合いながらも、それが自分自身を害することを知らずに不幸の中で生きているのです。
最初に、アダムの家庭を中心として、カインがアベルの命を奪った罪悪を受け継ぐようになった結果の世界なので、偽りの愛の子孫である人類の帰結は、家庭破綻と青少年の退廃、病魔エイズなどの不幸と罪悪と破滅です。
周囲を見回してください。心身の葛藤と価値観の混乱、犯罪と麻薬、人類の存亡がかかった家庭の危機、環境破壊、紛争と僧悪、テロと戦争、さらには人種と宗教と文明間の葛藤など、現在の危機はあまりにもひどいものです。日ごとにその程度が増し、危機が多元化、世界化しつつあります。これ以上、放置することはできません。時問がないのです。
誰がこの世代に責任をもつことができるのでしょうか。世界問題を根本的に解決する代案を提示する指導者はどこにいるのでしょうか。神様を見失うことによって、人間は真の愛も、平和も、幸福もみな失ってしまいました。人間は、神様を抜きに人間同士で、不幸から脱して平和を成し遂げようと、畏い歴史をかけて努力してきましたが、これは根本的な誤りでした。人間の力だけで危機を脱出することはできません。真の平和と幸福は、神様の真の愛、真の生命、真の血統に根源を置いています。
神様の創造のみ旨は絶対です。神様は、アダムとエバの堕落によって誤ったものを、再び原状に戻されます。したがって、神様の救援摂理は復帰摂理であり、その目的は堕落前の本然の世界の回復です。言い換えれば、神様の真の愛を探し立て、彼らに再び祝福結婚を受けさせて、本然の世界を探し立てることです。そのようになれば、その真の家庭を起点として、真の氏族、民族、国家、世界が形成されるのです。
尊敬する指奪者の皆様。私はこれまで神様の召命を受けてみ旨に従い、千辛万苦の中で、各分野に平和安着のための基盤を築いてきました。三十年以上も前から、「統一思想研究院」を創設して思想界を指導し、また絶対価値の探究と諸学問の調和統一のための「科学の統一に関する国際会議」を一九七二年から年ごとに三十回近く開催してきました。
「世界平和教授アカデミー」の創設と持続的な支援、「世界平和のための頂上会議」、「国際勝共連合」、「カウサ(CAUSA:南北米統一連合)」、「世界平和連合」、「世界平和島嶼国家連合、半島国家連合、大陸国家連合」、「南北統一運動国民連合」などの超国家的な平和運動、「文化芸術振興運動、スポーツを通した平和運動、小、中、高、大学などの教育機関の育成、「世界平和女性連合」活動、責任言論と道徳言論具現のための各種言論機関の設立、「世界大学原理研究会」、「世界平和青年連合」、「青少年純潔運動」、「環境問題国際会議」、「国際救護親善財団」、「サービスフォーピース(service for peace)」、「宗教青年奉仕団」、「ボランティア愛苑」、「世界NGO(非政府機構)連合」、祝福と真の家庭運動、天が願われる国連の平和理想の目的に対する支援と刷新運動など、救国救世運動を汎世界的に展開してきました。
無理解と迫害の中で、政府や財属からの財政的支援なしに、このようなことを持続的に行ってきました。ひとえに、神様から委ねられた理想家庭定着のために、人類の真の父母の使命を完遂し、神様のみ旨を成し遂げてさしあげたいという一念のもとに、あらゆる分野において基盤を築いてきました。
神様の真の愛の平和理想を実現するためには、宗教間の和解と率先垂範が何よりも重要です。偏狭な各国の一部の宗教団体や教派の無理解と迫害の中でも、私が最も力点を置いて行ってきたのが、超宗教、超国家、超NGO連合との協力運動でした。
各種の超宗教指導者会議、超宗派的な神学校の設立、新教会一致運動、「世界宗教協議会」、「世界宗教青年セミナー」、「世界宗教議会」、『世界経典』の刊行、宗教間の和解のための各種会議に対する持続的な支援、「世界平和宗教連合」の創設など、いかなる犠牲も顧みず、一つの世界のために私ができることはすべて準備してきました。
ここからもう一歩踏み込んで、宗教団体間の和解にとどまらず、既に基礎を築き上げた学界、政界、言論界、財界、NGOなどの各界指導者と共に、世界平和のための統一機構である「世界平和超宗教超国家連合」を創設しました。一九九九年二月に「世界平和超宗教超国家連合」を創設して以来、百八十九ヵ国の多様な分野の指導者数万人を平和大使に任命しました。
平和大使たちは、私の平和思想を中心として、ために生きる真の愛を実践し、国境、人種、宗教の壁を崩す、重要な活動を行っています。エイズ予防運動、各種の奉仕活動、真の家庭運動、指導者および青少年教育、環境親和運動などの実践運動を展開しています。
私の思想は、「神主義」に立脚した「頭翼思想」です。絶対価値の基準であり、真の父母、真の師、真の主人であられる神様を絶対中心に立てる主義です。人間が生活の中で神様に対し、三大主体思想、すなわち真の父母、真の師、真の主人として霊界と地上界で侍り、その対象として生きるようになれば、遠からず真の愛の地上天上天国となります。
神様と霊界を否認する無神論の共産主義思想は克服されなければなりません。同様に、絶対価値の縦的基準の重要性を無視する世俗的人本主義や価値の相対化を叫ぶ主張なども克服されなければなりません。
また、神様の名を借りた真の愛のない信仰生活や、利己心に基づいて本然の人権を踏みにじり不正を行うことなども、すべて克服されなければなりません。このように左翼と右翼を克服し、国と人種と宗教の壁を崩し、絶対神様を中心として、大きく統一調和させる思想こそ、私の提唱する「頭翼思想」です。
この活動に天地が協助して、理想的な一つの体系を形成しなければならないことを知っていただき、国連を中心としたすベての国家が、世界的に団結して解決すべき大転換の時期が来たことをお忘れにならないようお願いします。
現在、社会は脱イデオロギー時代となり、絶対思想の体系がない社会になりました。個人から家庭、社会、国家、世界へ、さらには天宙までつながる絶対価値観がありません。人間の考えが混沌とし、人間関係に秩序が立てられずに混乱が生じるのは、すべてここに由来しているのです。心や実生活に根本軸をもてずにいる現代人が、多元化、現代化の趨勢を迎えているので、なおさら価値観の混沌に襲われるのです。現代人は、感覚的な享楽にふけり、主体性なく気ままに生きたいという誘惑が絶え間なく襲ったとしても、決して価値生活を諦めてはならず、絶対価値を縦的軸として探し立てなければなりません。絶対価値の中心は、ために生きる、神様の真の愛だけです。
尊敬する指導者の皆様。世界平和の実現は、世界次元で先に成し遂げられるものではありません。まず、人間個々人を通して実現されるしかないのです。心身統一をなした個人が求められます。
堕落によって、人間は心と体の葛藤が生じるようになりました。サタンが体を拠点として人間を掌握しながら、本性の要求と霊性から離れ、利己的、個人的欲求ばかりを追い求めるようにさせるのです。
神様の真の愛を通した血統圏にのみ、サタンの主管圏を逃れる道があります。そして、利他的にために生きる道を步むならば、サタンはついてくることができません。サタンはその本質が利己的だからです。このように堕落人間は、神様の真の愛の実践によって人格の変化を達成し、霊性を回復できるのです。観念的な神様ではなく、生きておられる神様と関係を結ぶ、真の信仰でなければなりません。
本来、神様の真の愛の対象として造られた人間は、その真の愛を自然に実践するようになっています。美、真、善などの価値は、愛の実践として現れます。神様の真の愛によって心と体が一つになった人は、喜悦と平安、満足と平和をなした個人となります。平和世界は、このような主体的な人格が優先的に求められます。
第二に、平和世界は、制度や権力、物質や知識、または何らかの外形的な要因によって成し遂げられるものではありません。ために生きる真の愛によってのみ成し遂げられます。真の平和と統一と幸福は、ために生きる愛の関係を離れては見いだすことができません。これが創造の根本原則です。対象のために無条件に与え、投入し、愛することが、神様の創造の動機であり目的でした。
人間は、神様に似て、ために生きる存在として造られました。人は、ために生きる道でのみ、中心存在となり、平和統一の主体となり、愛と理想の永遠の主人となります。絶対なる真の父母、真の師、真の主人であられる神様に出会い、神様から相続を受け、真の父母、真の師、真の主人となる道は、ひたすら、ために生きる真の愛の生活だけです。真の愛によって、ために生きれば、自然に葛藤と分裂が克服され、全体が和合して統合されます。この道は、闘って勝ち取るのではなく、自然屈伏させて永遠の統一を成し遂げる道です。
第三に、平和世界の基本単位は、国家ではなく円満な家庭です。神様に侍る人格、すなわち心と体が一つになって調和した男性と女性が、神様の祝福のもとに夫婦となった家庭が、その単位となります。人類の歴史が始まって以来、真の父母を通して初めて探し出された家庭です。真の愛で家庭の構成員が調和一体を完成した、和気あいあいとした家庭です。このような家庭が繁栄し、平和な氏族、民族、国家、世界を形成していくようになります。一なる神様のもとに、真の愛を中心として人類は一家族となり、天宙が一つになることが、本来の神様の理想でした。
真の父母を中心として家庭の問題が解決する所が、平和世界の基台となる所です。真の愛の祝福家庭理想のもとには、既に国家と人種と宗教の壁はありません。
人類は、神様を求めなければなりません。無形の真の父母が分からない無知から抜け出さなければならないのです。この宇宙の無窮で奥妙な秩序の中に生きていながらも、創造主の偉業に対して感謝できない悖逆(はいぎゃく)を、これ以上繰り返してはいけません。堕落した人間は、自分の生命の主人が自分自身であるという傲慢から抜け出し、神様の真の愛の前に自ら霊性を啓発しなければなりません。
神様は真の父母であられます。永遠無窮に真の愛をさらに大きく投入しようとされる心情を、絶対的なものとして固めて生きられる神様を発見しなければなりません。御自身の絶対、唯一、不変、永遠の真の愛、真の生命、真の血統を完全に相続させる対象として、人類をつくられた神様の情を知らなければなりません。
そうして、絶対なる真の父母、真の師、真の主人であられる神様と真の父母を、私たち個人、家庭、国家、世界、天宙の絶対価値の軸として立てなければなりません。そして、個人的な生活から家庭、氏族、民族、国家、世界的な生活が根本とならなければなりません。
真の愛によって、ために生きる道である天地父母の伝統的な道を、千年、万年、変わることなくついていきたいと願うようでなければなりません。そうなれば、家庭問題、社会問題、人種問題、宗教間の葛藤問題など、解けない問題はありません。
創造理想世界である神人一体の心情世界になって生きる時代が来なければなりません。人のために生きることが、自分のために生きることよりも永遠の価値があることを悟って生きる時代、自己中心の利己主義時代が後退し、共生、共栄、共義の利他主義の世界を創建しなければならないのです。
私たちは、この目的のために神様と霊界について正しく知り、さらには、全世界に天道を証しながら人類を正しく指導し、神様の真の愛、真の生命、真の血統に連結された天宙大家族を形成し、神様の祖国と故郷を、地上と天上とに創建しましょう。絶対愛、唯一愛、不変愛、永遠の真の愛で、地上天国と天上天国を完成し、神様の王権を奉献してさしあげましょう。
神様の祝福が、皆様と皆様の御家庭、そして皆様の国の上に共にあることを願いながら、私のお話を終わらせていただきます。ありがとうございました。
15.神様の祖国と平和王国時代
平和経 第一篇 真の平和の根本原理
15.神様の祖国と平和王国時代
日付:二〇〇四年三月二十三日
場所:アメリカ、ワシントンDC、国会議事堂上院講員会館
行事:第三イスラエル平和の王戴冠式および平和大使授賞式
尊敬する上下両院の議員、世界各地から来られた宗教指導者、そして内外の貴賓の皆様。公私共に御多忙でいらっしゃるにもかかわらず、きょうこのように満場の盛況を呈してくださったことに対して、深く感謝いたします。
皆様。今日、人類が直面しているすべての問題は、万有の父母であられる神様をはっきりと知り、正に私たちの家庭において、その神様に侍って暮らす真の家庭を完成するところから解決していくのです。観念的な次元の神様ではなく、実体の父母であられる神様を私たちの家庭にお迎えしなければならないというのです。そのために私たちは、まず神様と人間の関係を確立しなければなりません。神様は、真の愛、真の生命、真の血統の本体であられ、すべての人間の真の父母であられます。
本来、人間の堕落がなかったならば、人間は、神様の真の愛の中で完成し、神様を父母として侍って暮らす真の子女になっていました。完成した人間は、神様の愛の中で、真の夫婦の関係を結び、真の子女を生んで養育し、共に天国を形成して暮らしたのちに、家族全員が一緒に、自動的に天上の天国に入って暮らすようになっていたのです。
考えてみてください。もし皆様の家族の中で、父親は地獄に行き、母親だけが天国に行くとすれば、それがどうして天国でしょうか。父母は地獄に行き、子女たちだけが天国に入っていくとすれば、そこがどうして天国と呼ぶことができるでしょうか。天国は、すべての家族が一緒に入っていき、永遠の平和王国を完成して暮らす所です。したがって、地上においても、家庭天国を完成して暮らす所に神様が臨在されるのであり、神様が理想とされた創造理想の世界、すなわち地上天国が定着するようになるのです。
それでは、地上における家庭天国は、どのようにして完成するのでしょうか。第一に、家庭を形成するすべての要員は、個性完成しなければなりません。堕落によって選択の余地もなく相続するようになった堕落性を脱ぎ、自らの人格を完成しなければなりません。
すなわち、心と体の間の葛藤と闘争を完全に克服して勝利し、一心、一体、一念の境地となり、人格完成によって完全一和の世界が実を結ばなければならないのです。このような境地に到達した人に、ねたみ、嫉妬、欲心、僧悪など、あらゆる悪の要因となる堕落性は二度と根を下ろすことができません。
しかし、このような堕落性を脱いでしまうことは、決して簡単なことではありません。長くて数年、あるいは数十年間しみついた習慣である酒やたばこを断つことさえも、挫折を繰り返すのが堕落人間の姿です。数千、数万年間しつこく血統をたどって根ざしてきた堕落性を脱ぎ捨てることが、どうして簡単なことでしょうか。
人間の努力だけでは、絶対に不可能なことです。神様を絶対信仰の基準で縦的な軸として立てて侍り、生涯身もだえしても難しい闘いです。神様を自分の父母や子女以上に絶対的に愛するそのような境地において、真の父母である神様に侍っていかなければ、考えることもできないことです。神様のみ前に命までも差し出して従わんとする絶対服従の基準に立たなければ、絶対に勝つことができない闘いなのです。
歴史的に主要な宗教の教えの中には、断食、禁欲、犠牲、そして苦行を修道の基本としている理由が、正にここにあるのです。天が共にあり、霊界が協助できる換骨奪胎した新しい人の姿に再び生まれ変わらなければなりません。山川草木の前に裸で立っても、一点の恥ずかしさもなく、サタンの前に立てば、サタンがかえって逃げていかざるを得ない「正午定着」の人格を備えた、すなわち永遠に一点の影もない真の愛の人格を備えた人にならなければなりません。
第二に、このような人格完成を達成した個々人が集まって真の家庭を築き、その家庭の中で家族全員が共に四大心情圏を完成しなければなりません。
そのような家庭は、心と体が完全一体を完成した一人の姿と同じです。天国は、家庭単位で入っていく所だと言いました。しかし、家庭といっても、どの家庭もみな自動的に天国入城の資格を得るというわけではありません。真の家庭の基台がなければ、四大心情圏を完成する足場がなく、また四大心情圏を完成した真の人たちが、神様を中心として父子の血統をもつ家庭であってこそ、天国に入っていくことのできる真の家庭になるのです。
それでは、四大心情圏とは何を意味するのでしょうか。本来、神様の真の愛と真の生命、真の血統によって連結された真の家庭の中で、祖父母、父母、子女を中心として、三代の純潔な血統を立て、父母の心情、夫婦の心情、子女の心情、兄弟姉妹の心情を完成するとき、これを総称して四大心情園の完成というのです。
ここで、父子の愛は上下の関係を立てる縦的関係であり、夫婦の愛は左右が一つになって決定される横的関係であり、兄弟間で与え合う愛は前後の関係を代表するのです。
神様の創造理想は、このように、観念的で、望みとして残るだけの夢ではなく、真の血統を中心として、四大心情圏の完成した、家庭を単位として実体的に完成するのです。父母の心情圏とは、父母が子女を生み、真の愛で育て、教育する過程において、自然に得られる心情、すなわち父母として子女に対する真の愛の主人となることのできる心情を意味するのです。子女がいなければ、誰も父母として愛の主人の位置に立つことはできません。
次に、夫婦の心情圏とは、夫婦が生活を通してお互いを愛の主人の位置に立ててくれたことを感謝しながら、真の愛を与えたり受けたりする中で体恤する真の血統的心情関係を意味します。
夫は、自分の命を犠牲にしてでも妻のために生き、妻は、夫に対して神様に侍る心情で侍って暮らすときに、夫婦は共に真の愛を体恤するようになるのです。この真の愛の体恤の上で、初めて夫婦の完成も可能になるのです。
神様の祝福を受けて結ばれた夫婦が、初夜に愛を交わすその瞬間は、神様から真の愛の王宮、真の生命の王宮、真の血統の王宮を相続する場です。妻は、夫を通して理想的な、神様の息子を迎える位置、天の兄を迎える位置、天の夫を迎える位置、天の父母を迎える位置に立つようになるのです。
夫も、妻を通して同様な位置に立つようになります。神様の主要な属性は、絶対、唯一、不変、永遠です。したがって、夫婦の心情圏を完成すれば、夫婦の関係も絶対、唯一、不変、永遠の関係となるので、そこには離婚という単語が存在できないのであり、相互間に尊敬と愛だけが花咲く幸福な生活が約束されるのです。
次に、子女の心情圏とはいかなるものであり、またいかにして得られるのでしょうか。家庭では父母が中心となります。家庭における父母の位置は、神様の位置です。父母なくして生まれた子女というのはあり得ません。したがって、父母と子女の関係は、人間の意志で規定される人倫の次元を越え、天倫が結んでくれる関係であると言わざるを得ません。
ですから、父子の関係は、横的関係ではなく縦的関係なのです。人間の努力で変えることもできる運命的関係ではなく、絶対的で永遠の宿命的関係なのです。子女は、父母を縦的な神様の位置に迎えて暮らしながら、真の愛の心情を学び、体恤するようになります。
父母から相続された愛と生命と血統が、神様が根源になっていることを自然に学んで身につけるのです。このように父母の生き様を見て学んだ子女たちは、成長して、堕落性とは無関係な真の夫婦となり、その後には、彼らも真の父母の位置を獲得するようになります。このように、真の愛の心情を中心として三代圏を引き継ぎながら反復する家庭単位の球形運動が、正に天国建設の基本モデルになるのです。
最後に、兄弟姉妹の心情圏は、真の父母に侍って一家族を形成して暮らす兄弟と姉妹が、真の愛に基づいて神様と同じ心情圏を形成することを意味します。
先ほど、兄弟姉妹の関係は、前後の関係を代表すると話しました。真の愛を中心として真の夫婦となり、真の人生を生きていく真の父母に家庭で侍って暮らす子女たちは、兄弟姉妹間においても、自動的に天倫の秩序を守って生きる道理を悟るようになります。
弟は兄に父親のように侍り、兄は弟に対して愛の心情で世話をしてあげるようになる美しい姿です。兄が前を代表すれば、弟は後ろを代うするのです。兄が父親の立場を代表すれば、弟は母親の立場を代表するのです。このような、兄弟姉妹の心情圏の完成は、彼らが社会生活をする中においても、愛と奉仕で「ために生きる生活」を実践躬行する根幹になるのです。
尊敬する貴賓の皆様。このように、四大心情圏を完成した真の平和家庭王国の数が増え、真の平和氏族王国となり、真の平和民族王国、真の平和国家王国、さらには真の平和世界王国を完成するようになるとき、その世界が正に神様が理想とされた創造本然の世界であり、地上天国であり、きょうこの場でレバレンドムーンが宣布する永遠の地上平和王国になるのです。真の家庭を立てることが、このように深刻で重要な天命であるという事実を、今まで人類は知らずに生きてきたのです。
しかし、今は時が変わりました。世界の至る所で、レバレンド・ムーンの教えを受け、平和王国の建設のために奮然として立ち上がる各界各層の指導者の数が、幾何級数的に増えています。たとえ命を失うようなことがあっても、必ず純潔を守り、真の家庭を築いてみせるという若い知性ある人たちの喚声が、天地を揺さぶり動かしています。
既に世界的に数億組の祝福家庭が送り出されており、彼らは、倫理と道徳が急速に崩れていく地球星を守る役割を果たしています。それだけではありません。霊界では、私たちよりも一歩先に進んで、平和王国時代を力強く開いていきつつあります。
五大聖人をはじめとして千二百億組以上の祝福家庭が、昼夜を問わず地上界を協助しながら、迫りくるその一日のために準備しています。創造原理によれば、地上界で先に神様の理想世界を完成するようになっているのです。
今日の人類は、堕落の後裔ではありますが、限りない神様の愛と霊界の協助によって、今ではどのような天国が創建されなければならないのかを知るようになりました。したがって、今や霊界で成就しているこの奇跡のような出来事を鑑(かがみ)として、真の愛の革命を完遂する時代圏に入っているという事実を肝に銘じなければなりません。
皆様も、今からは、心の扉を大きく開き、天がこの時代に私を通してくださる天の秘密のみ言を受け入れるべき時になりました。この場に立ったレバレンドムーンは、皆様と同じ肉身をもって生きる一人の人間でもありますが、天の摂理から見れば、六十億の全人類を救援し、天のみ前に原状回復させる天命を受けて地上界に降りてきた神様の全権大使であることを知らなければなうません。
霊界の五大聖人たちをはじめとして、大勢の指導者たちはもちろん、マルクスやレーニンのような共産主義者たちの魁首や、地上界であらゆる蛮行と殺傷を行ったヒトラーやスターリンのような独裁者たちまでも、私の教えに救われ、心を入れ替えて新しい人に生まれ変わりました。
地上であらゆる栄華と富貴を享受していった歴代の帝王と大統領たちはもちろん、世界的な名声を博した言論人たちさえも、この天宙史的な真の愛の革命の隊列の先鋒に立ちました。彼らはみな、レバレンドムーンの「真の家庭理想」の教えに新しい覚悟を誓う決意文を地上界にまで送ってきています。
レバレンドムーンこそ人類の救世主であり、メシヤであり、再臨主であり、真の父母であると、天上天下に宣布しています。彼らの決意文は、既に地球星の津々浦々にまで響き渡っています。
尊敬する貴賓の皆様。今ではもうすベてが時間の問題です。皆様の周囲を一度見渡してください。前後左右、どこに未来を約束できる希望を見いだすことができるでしょうか。誰彼を問わず、私たちはみな、遅かれ早かれ、すべてのものを子孫に譲り渡して旅立たなければならない期限付きの人生を生きているのではないですか。真の家庭理想を皆様自身の家庭において完成し、子女たちの永遠の平和と幸福を保障してあげることよりも、貴く価値あることがどこにあるでしょうか。神様が数千年間待ち続けてこられた平和王国をこの地上に建設することに、誰が躊躇するというのでしょうか。
私は、もう八十五歳の老齢になりました。しかし、この崇高な天命を完遂し、地球星が神様の真の家庭で満ちあふれるその日まで、中東地域から銃声が途絶え、平和と歓喜の祝砲が響き渡るその日まで、そして、私の祖国韓半島から聞こえてくる統一万歳の声が、太平洋を越えてこのアメリカにまで響き渡るその日まで、レバレンドムーンは誰よりも先頭に立って走るでしょう。
世界六十億の人類を代表し、きょうこの式典に参席された高名な指導者の皆様も、レバレンドムーンと共に手をつなぎ、人類の念願であり、神様の創造理想である平和王国をこの地上に創建する主役になってくださることを願う次第です。ありがとうございました。
16.ために生きる生活で平和世界を創建しよう
平和経 第一篇 真の平和の根本原理
16.ために生きる生活で平和世界を創建しよう
日付:二〇〇四年九月十六日
場所:韓国、ソウル、リトルエンジェルス芸術会館
行事:アメリカ財界指導者投資使節団招請晩餐会
著名なアメリカの財界指導者の皆様、大韓民国の政界、財界など、各界の指導者、そして紳士淑女の皆様。きょう、神様を中心とする絶対価値観のもとで生きてきた私が設けた晩餐に、御出席してくださったことを心から歓迎します。
生涯にわたり天命に従って平和世界の実現のために尽力してきた私は、最近、光陽湾圏経済自由区域に指定された全羅南道麗水市華陽面一帯に、人類和合と統一の理想を中心とする大規模観光リゾート開発を提唱しました。今から、その基本精神の一端をお話ししようと思います。
平和理想は、歴史を通じて万人の願いでしたが、人類は、ただの一度も恒久平和を実現することができませんでした。それは、今まで人類が、共有できる絶対価値観を立てることができず、無知と混沌、分裂と闘争の中で生きてきたからです。変化し、葛藤する人間自体の中から、絶対価値観が出てくることはできません。絶対者、造物主、神様にその根源を置かざるを得ないのです。
愛の本体であられる神様は、御自身の絶対愛の対象として人間を創造されました。愛の主人や主体の位置は、独りで成し遂げられるものではなく、相対を通して成立するのです。私たちが相対や隣人のために生きなければならない根本原理がここにあります。この愛の絶対価値観は、いかなる政治理念や経済原理よりも上位にあり、時代を超越する天理です。
宇宙を造られた神様、法度を立てられた神様とはどのような方でしょうか。宇宙を通じて、誰よりもために生きる代表的な立場に立った方です。ですから、その方に出会おうと思えば、ために生きなければならないのです。その方は、知識の大王ですが、知識をもってきなさいとはおっしゃいません。能力や権力、あるいはお金や物質の主人であり大王ですが、それをもってきなさいとはおっしゃいません。「ために生きたのちに来れば、誰でも私のそばに来ることができる」とおっしゃいます。神様は、自己本位の独裁者ではありません。神様は、人間のために投入されました。ですから、人間の本心は、千年、万年、神様に従っていこうとします。ために生きる天理のもとにある宇宙の存在世界の前で、他のために存在することが自らの存在位置を定めることになるのです。
ために生きることによってのみ、東洋と西洋に通じることができ、古今に通じることができるのです。自己本位で利己主義的にのみ活動すれば、悪をもたらしますが、全体のために活動するときは、発展をもたらします。
善と全体のために歩むときは、すべてのものが調和するようになります。個人も門を開き、家庭も、氏族も、民族も、国家も、世界も、天の国も門を開いて歓迎するのです。真の人生が行く道に一つの公理として立てるベきものは、「ために生きよ」ということです。これは、どこにでも通じる原則であり、万古不変です。孔子やイエス様、釈迦牟尼やムハンマドのような聖人の前に神様が現れて、「あなた方はどう思うか」とお尋ねになれば、「そのとおりです!」と答えるはずです。それが、真の姿で人間が生きることのできる宇宙の法則なのです。
また、歴史的な伝統として残すことができる実績とは何でしょうか。犠牲精神によってために生きた実績だけが、今日の世界に残されてきました。そのような人々が、聖人として、偉人として、忠臣として、あるいは孝子として残されました。このような犠牲精神のもとでのみ功績が残るのです。犠牲になることは、功績を残すことになるのです。
レバレンドムーンの思想が、今後二十一世紀において主体思想として登場できるのは、今までの「自分のために生きよ!」という中において、正反対の「他のために生きよう!」という原則を発見したからです。ですから、人類の希望は、私たちの統一運動以外にはありません。「自分のために生きよう」という世界ではなく、「利他的に生きよう」というこの群れのあとを、これからの世界は、数千、数万年従っていくでしょう。「自分のために生きよ」と言うところには、世界は従っていきません。従いたくないと思うのです。
それでは、どのようにして調和統一をするのでしょうか。暴力やお金、あるいは権力や知識でするのではありません。愛を中心とするために生きるところにおいて、万事が解決されるのです。真の愛を中心としてために生きていくところで、悪魔の世界が天国に再創造されていくという結論です。
「私」が人を屈服させる方法は、闘って勝とうとするのではなく、その人のために「私」が父母、師、主人の立場で先に考えてあげることです。そのような道は「私」が勝つ道です。三年だけでも真心からために生きてあげてみてください。間違いなく「私」の言うことをよく聞くようになるでしょう。そのような宇宙の原則的な作用が、人間の本心を動かしていることを知らなければなりません。
よりために生きなければなりません。よりために生きる人が責任者になるのです。十人の中で誰が中心になるのかというと、他の人たちのために最も多くの愛を施し、ために生きる人です。その人には、他の人たちがみな訪ねていくのです。一般的に、ために生きることは、損をするよくないことだと思いがちです。しかし、主人になり、中心者になり、相続者になることを知らなければなりません。天理がそうなのです。
アメリカの指導者の皆様、そして国内の高名な指導者の皆様。私はこれまで、無理解と無数の迫害にもかかわらず、当代において、世界百九十一ヵ国に、超人種、超宗教、超国家的な基盤を築くことができたのも、また神様と霊界の公認を受け、地上で人類の真の父母と平和の王として公認を受けることができたのも、先にために生きて与える真の愛の天道を実践してきたからです。相対のために与える真の愛によってのみ、和合統一が成し遂げられ、平和の理想が結実します。私は、天道に従い、真の愛、真の父母、真の家庭の実践原理によって人類を指導してきました。
祝福結婚行事を通じた理想家庭実践運動や、超国家、超人種、超宗教的な平和運動も、すべて先に模範を示しながら、ために生きて投入する真の愛の運動です。今まで犠牲的な投資を通して築いた、世界各国の各レベルの教育機関を通じた愛天愛人愛国の建学理念の実践も、ニューズワールドコミュニケーションズ社を基盤とする、「ワシントンタイムズ」、「UPI通信社」、「世界日報」をはじめとする世界的な言論機関の育成も、責任言論と公正言論を通して、ために生きる真の愛で世の中を正しく指導しようとするものです。超宗教平和運動、思想指導運動、文化芸術活動、技術平準化運動、超宗教超国家的な学術科学振興運動、奉仕活動、青少年指導と女性運動、スポーツ育成など、私が創設したすべての運動の基底には、真の愛の実践原理があります。ビジネス分野にも、人類共生という大きな目標のもとに、単なる利潤追求を越えた、より高い絶対価値のための明確な動機と方向性をもっています。
人は、天道が願う真理の道、真の愛の道を行かなければなりません。必ず行かなければならない真の愛の道は、人間が繰り広げるいかなる活動や事業よりも優先される根本となります。いくら財産や大きな力をもっていたとしても、ために生きた基盤がなければ、それは一時的であり、消滅せざるを得ません。反面、施して利他的に生きる生活は、自然と主体と中心者をつくりあげるのです。
利己的な打算を越えて、共に生きるべきマクロ的な平和思想と南北和解、そして韓半島の平和に焦点が合うならば、実に貴重なものを多く得るだろうと信じます。神様の再創造摂理の原則に従い、力や自己本位の生活が主導し勢力を得ていた先天時代が過ぎ去り、今や、絶対価値観が理想的に結実する後天時代が到来しました。
神様の永遠の平和王国を中心とした後天時代は、すべての障壁が撤廃され、ために生きる真の愛で生きる人が主人となり、中心となる時代です。皮膚の色、言語、慣習、領土間の偏狭による利己的な葛藤は、すべて消えていくでしょう。
今私たちは、絶対価値観を中心として、お互いにために生きながら、共に生きていく理想世界を創建する時です。皆様全員が天道に従い、利他的な生活によって事業を行うことにより、神様の永遠の祝福を受けることを祈りながら、私のお話を終えようと思います。