真の愛で一つになった夫婦は地上E/span>天上天国の出発地
1.神様と人間のための理想世界
1.神様と人間のための理想世界
日付:一九七二年二月四日
場所:アメリカ、ニューヨーク、リンカーンセンター
行事:アメリカ九ヵ都市巡回講演
今晩、このように参席してくださった紳士淑女の皆様に感謝申し上げます。長い間、アメリカ国民の皆様に会える日を心から待ち望んできましたので、このようにお会いすることができ、とてもうれしく、また有り難く存じます。きょうは、「神様と人間のための理想世界」というテーマについて、皆様と共に考えてみたいと思います。
今、人類は誰しもが、一つの世界、あるいは理想世界を心から願っています。しかし、現在において、それを実現する可能性があるようには見えないことが、人類にとって悲劇と言わざるを得ません。
もし神様が存在されるとすれば、神様もそのような理想世界、一つの世界を願われるに違いありません。神様や人間が願うのは、一つの世界、理想世界であることに間違いありません。神様がおられるとすれば、必ずそのような世界をつくり上げなければならず、神様の能力を信じる人であるならば、このことだけは必ず成就しなければならないと思うでしょう。
人間は、誰もが平和の世界を願い、一つの世界を願いますが、その世界は、ただこのままでは実現できないことも自認しています。民主世界は民主世界なりに、共産世界は共産世界なりに、それぞれ自分の主張する立場で
世界を一つにできれば、と考えているのです。それでは、民主世界を先に立てて共産世界がそれと一つになることができるのでしょうか。また、共産世界を先に立てて民主世界がそれと一つになることができるのでしょうか。これは極めて難しい問題と言わざるを得ません。
私たちが世界を中心として、統一を願って理想世界を求める時に、一つの国家を中心として「統一された国であり、理想世界に代わる国だ」と言える国はあるでしょうか。ないのです。統一された世界が存在する前に統一された国がなければならず、統一された国が存在する前に統一された氏族、統一された氏族が存在する前に統一された家庭、統一された家庭が存在する前に統一された個人がなければなりません。これが問題です。
統一はどこから成し遂げられなければならないのでしょうか。この世界は結果の世界なので、原因となる個々人を中心として模索しなければならないという結論が出てきます。私たち個人は、相反する二つの目的の方向をもった人間になっています。これは誰も否定できないことです。心は善の所に行くことを願うのに、体はそれとは反対の方に行けと言うのです。この二つが闘っています。そのような個人、すなわちそのような男性とそのような女性が合わさって家庭を形成します。ところが、内なる人と外なる人がいるので、夫婦が会えば四タイプの人がいることになり、それぞれが異なる行動をするようになるのです。このようにして一つの氏族ならば氏族、民族ならば民族、国家ならば国家、世界ならば世界がすべて分かれるのです。有り難いことは、数百、数千に分かれるのではなく、大きく二つに分かれることです。これが不思議なのです。
もし神様がいらっしゃるならば、このような人間をそのまま放っておくことができないので、人間の知らない歴史の背後で活動してこざるを得ませんでした。また、人間を悪へと追い込むサタンがいるとすれば、そのサタンも、神様が引っ張っていく方向とは反対の方向へと引っ張っていこうとするのです。
しかし、絶対的な神様のみ前にいくら反対するサタンがいたとしても、サタンには、絶対的な権限をもって立てた原則に反して進み出る権限がありません。正しいことは神様が管理し、悪いことはサタンが管理するのですが、そのような神様とサタンとの闘いの結果が、私たち個人から現れ始めるのです。ですから、人間は、悪の母体にもなり、善の母体にもなることを知らなければなりません。すなわち人というのは、善の出発地になると同時に、悪の出発地にもなるのです。
皆様。高くなることは良いことを象徴し、下つていくことは悪いことを意味します。皆様が人々の前で称賛されるようなことがある時は、大いに自慢したくなります。自分が悪いことが分かれば、奥のほうに隠れてしまうのです。良いことをする時は、宣伝をして「私を見習いなさい」と叫ぶことができます。悪いことをする時は、知られてしまうのではないかと隠そうとするのです。悪い行動、すなわち、盗みを働く人で、堂々と宣伝して歩く人はいません。隠れて歩くのです。
人の内には、高くなろうとする部分と低くなろうとする部分の二つの部分があることを知らなければなりません。高くなろうとするのが良心作用です。悪を働きながら、良心の苦痛を受けない壮士や偉人はいないのです。人間の良心が神様の見張り台ならば、体はサタンの見張り台であり、また良心が天国の起源ならば、体は地獄の起源となることをはっきりと知らなければなりません。
ですから、善悪の本質が根本的に違うことが分かります。善は全体の利益を追求するのであり、悪は自分個人だけのために生きるのです。善の人は、私よりも家庭、家庭よりも地域社会、地域社会よりも国、国よりも世界のために生きようとします。
今まで歴史は、自分のために生きる面と、人のために生きる公的な面を中心として、闘争によって連結されてきました。この体を中心とした悪の根拠を破綻させ、根を抜いてしまうことが神様の絶対的な要求です。その反対に、良心を無慈悲に破錠させようとするのが、サタンを中心とした悪の要求です。ですから、そのように闘いながら歴史を綴ってきたのです。
良心を主とした神様の側と、体を主とした、物質を主とした悪の側が対立しながら、この世の人類は唯物主義と唯心主義とに分けられざるを得ないという結論を下すことができます。もし神様がいないとすれば、このような結果の世界は来ることができないのです。悪は、嫉妬、分裂、闘争を強調して、自滅を招きます。このように見るとき、理想や統一は、どこから始まらなければならないのでしょうか。結局は、世界よりも根本に入って「私」です。個人なのです。神様が願われるのは、統一の世界であり、理想の世界なので、人間に対してそれを教えなければならないのです。
宗教の教え
皆様。その方法を御存じでしょうか。それは皆様の願われる方法ではありません。誰もが願うような方法ではありません。第一に、良心と反対になるものを打ちなさいということです。神様は代わりに打つことはできません。打つことができるならば、サタンも打つことができるのです。中間の立場にいる人間をめぐつて争奪戦をしているのです。神様の教えは、良心を中心として体を「打ちなさい!打ちなさい!打ちなさい!」というものです。このような運動を世界的にせざるを得ません。「体の嫌うことをしなさい」というのです。それを教えるのが宗教です。
それでは、宗教の教えとは何でしょうか。すべての宗教は「体を打ちなさい!食を貪つてはいけない!自分本位にやってはいけない!肉欲に主管されてはいけない!」と教えるのです。高次的な宗教は、すべてそのように教えているのです。仏教も苦行を重要な教えとしています。キリスト教も、犠牲を信条としています。それを実践しようとすればこの上なく難しいので、神様は一つになる方案を提示しなければならない、と考えざるを得ません。人間には心と体があるので、一度は心に従ったと思えば、今度は体に従っていき、そのように行ったり来たりするのです。
宗教の教えは、体の願うことを否定し、その反面、精誠を尽くさせて、神様の力を受けようというものです。これが今まで展開してきた宗教の運動です。それで神様は、そのような個人から始まり、家庭、氏族、民族を経て、一つの国を願ってきたのですが、それがイスラエルの国であり、イスラエル民族だったのです。すなわち選民でした。歴史上に「選民」や「選ばれた国」という言葉があるという事実を考えてみれば、神様が存在することは否定できません。
神様が計画されたとおりに、個人的に心と体が完全に一つとなり、家庭的に完全に一つとなり、氏族的に完全に一つとなり、民族的に完全に一つになって、世界まで完全に一つにできる代表者を送ってくださることを約束したのが、イスラエルのメシヤ思想です。神様が原型として待ち望まれた個人、家庭、国、世界をすべてイスラエル民族と一つにさせうの国をつくり、神側の世界をつくって、この世界を救おうとしたのです。
皆様がここで知らなければならないことは、イスラエル民族をしてメシヤを迎えさせ、豊かに暮らせるようにさせるという目的ももちろんあったのですが、神様の摂理は、一民族を救うのではなく、世界を救わなければならないので、イスラエル民族を立てて世界を救おうとしたのです。これがメシヤを遣わした目的でした。そのとき、イスラエル民族が願うことと神様の摂理の方向が一致すべきだったのですが、食い違ってしまいました。
ですから、このような統一的な世界をつくるために来られた個人としてのイエス様は、個人を中心として家庭的な原型をつくらなければならず、氏族、民族、国家、世界的な原型をつくらなければなりませんでしたが、それをつくることができずに亡くなったのです。例えて言えば、イスラエルの国は、主人が思いどおりにできる野生のオリーブ畑と同じです。イエス様は、この野生のオリーブ畑に真のオリーブの木として来て、野生のオリーブの木をみな切ってしまい、神様の思いどおりに、個人と家庭から一つの国家を神様の原型に接ぎ木しようとしたのです。そのようにすれば、イスラエルの国とユダヤ教団は、真のオリーブの木になるでしょうか、野生のオリブの木になるでしょうか。間違いなく真のオリーブの木になるのです。そのように国を中心として主権をもってユダヤ教と一つになり、世界的に宣教をしていたならば、今日の二千年のキリスト教歴史は必要なかったのです。
心と体が一つになることができなかった人間世界に、一つの原型、一つにするための統一の基本としてこの地上にイエス様を遺わしたのですが、イスラエル民族とユダヤ教は彼を十字架にかけて殺害してしまいました。神様のみ旨に反対するユダヤ教とイスラエルの国になってしまったので、神様が数千年かかって立てた国とその基盤は、サタン側に渡るようになったのです。こうしてイスラエル民族は二千年間、国のない民族として世界の数多くの民族から踏まれ、呻吟する民族になって闘ってきました。イスラエルの国は一九四八年に独立しましたが、このように独立できる時が来たということは、再逢春(チェボンチュン)(不遇に陥った人が春を迎えるように幸福を取り戻すこと)し、新しく出発できる世界的時代に入ったことを私たちは察することができ、そのような時が来たということは、主が再び来られる時が近づいたことを、私たちは推察して悟らなければなりません。
それでは、今までの歴史過程で、イスラエルが天を裏切って以来、神様の足場となる個人の土台、家庭の土台、氏族の土台、国の土台があったと思いますか。ありませんでした。これを引き継いだのがキリスト教であり、第一イスラエルはみ旨を成就できませんでしたが、このキリスト教が、第二イスラエルの使命を受けてみ旨を成し遂げなければならないのです。ところが、地上と霊界が一つになった立場で土台を築いたキリスト教になることはできず、地上を否定し、霊界だけを中心とした国を探し求めるための運動を今まで展開してきたことを知らなければなりません。
今日のキリスト教信徒が信じているように、主が空中に再臨するとすれば、そのような原型で統一された個人と家庭と氏族と民族と世界を成し遂げることはできないのです。来られる主が成就できる目的地は、空中ではなく、この地上、この世界であることをはっきりと知らなければなりません。ですから、イエス様は一つの原型を形成した男性として、心と体が完全に統一された男性として、統一された女性を迎え、統一された家庭をつくらなければならないのですが、どのようにすればつくることができるのでしょうか。これを解決しなければ、統一された国と世界は現れてこないのです。
今日のキリスト教の信徒の中に、「私は新婦となり、新婦として主が願われる家庭を築こう」と考える人がいるでしょうか。具体的な内容を知らずにいるのです。どこに来られるのかということも、どのように来られるのかということも知らずにいるのです。主は雲に乗つて来ると文字どおりに信じてはいけません。主は、神様が願う一つの家庭を求めるために来るのです。その家庭を求めるためには、その家庭だけでは駄目なのです。家庭のために生きる氏族がなければならず、氏族のために生きる民族がなければならず、民族のために生きる国がなければなりません。一つの国を中心として成し遂げることができる原型をつくっておかなければ、第三イスラエルの国を見いだせないことを、現在のキリスト教は知らなければなりません。
ここで、個人が永遠に残るための道を一度考えてみましょう。私たちは個人として世の中で尊敬される人になろうとすれば、自らを高めようとする人になってはいけません。尊敬されることを望むならば、犠牲にならなければなりません。十人の友人がいれば、その十人の友人のために長い間犠牲になる人は、その友人たちの中心存在になるのです。
それだけではなく、彼らの親戚と彼らの友人までもが、その人と一つになろうとするのです。反対にその十人の友人に、「あなたたちは、私のために生きよ、私のために生きよ」という人がいるとしましょう。そのようにすれば、その友人はみな離れていくでしょう。独りぼっちになるのです。最後には自分も行く所がなくなってしまうのです。これが私たちの社会における善と悪の分岐点であることを、皆様は知らなければなりません。
一国の愛国者について考えてみましょう。皆様はアメリカについて考えるとき、リンカーン大統領やケネディ大統領をこの上なく尊敬しています。なぜ尊敬するのでしょうか。大統領は同じ大統領ですが、アメリカのために命を捧げたので尊敬するのです。大統領の中で、アメリカのために死んだ大統領の中で、悲惨な立場で犠牲になればなるほど、その人はアメリカでこの上なく気高い愛国者、この上なく気高い大統領の位置を占めるでしょう。
命を捧げて国を愛した人であるほど、それも悲惨な立場で犠牲になった人であるほど偉大なのです。悲惨であればあるほど、それが一時は悲惨ですが、歴史時代が過ぎれば過ぎるほど、だんだんと環境の範囲が広がり、その人を中心として一つになるようになっているのです。
イエス様の死も同じです。イエス様は誰のために犠牲になったかというと、世界の人類のために、世界の国のために犠牲になったのです。誰よりも人類を愛し、誰よりも神様を愛し、怨讐までも愛した立場で福を祈って、悲惨な立場で亡くなったのです。名もなく死んだイエス様であり、その当時は民族の反逆者として追われたイエス様が、今日、世界的なキリスト教文明圏を創建するとは、誰も知りませんでした。ここで私たちは、一つの原則を提示することができます。大きな舞台のために、公的な大きな仕事のために犠牲になった人は、滅びるようにはなっていません。滅びることはないという事実を、私たちは知ることができます。そのような人たちが歴史的な聖賢たちです。
これを見るとき、神様がいらっしゃり、神様が悪の世界に対して闘う作戦があるならば、どのような作戦方法を取るのかということを、ここで発見することができます。悪はその反対です。自分のために他を犠牲にするのです。それが個人的にそうなれば、個人の反対を受け、家庭的に、あるいは国家的にそうなれば、必ず歴史に糾弾される独裁者になるのです。
また皆様は、悪の戦法は他を犠牲にして自分が出世しようとする戦法であり、神様の戦法は他を生かすために自分が犠牲になる戦法であることを知らなければなりません。ですから、歴史過程で善を主張してきた人たちは、その時代においては歓迎されず、犠牲になりましたが、自分の身を犠牲にしながら、国を愛し、世界を愛して死んでいった人たちは、歴史が過ぎたあとに、その名が知られるようになるのです。これが事実であることは否定できません。
ですから、キリスト教の思想は、奉仕の思想であり、犠牲の思想です。キリスト教は一つの教団を中心として、自分の教団だけのために生きるようになれば滅んでいきます。もしアメリカのあるキリスト教の教団が、活動するすべての目的をアメリカの救援に置き、その目的を達成するためにあらゆる犠牲を覚悟して進み出るとすれば、そこに天は協助するでしょう。このようにアメリカを救い、キリスト教化した国家にして、世界を救うためにアメリカ国民を犠牲にするキリスト教になれば、世界を支配するキリスト教になると見ることができるのです。
神様にとって、アメリカを愛するか、世界を愛するかという問題について考えてみるとき、アメリカよりは世界を愛する神様にならなければなりません。ですから、世界を救うために犠牲の代価を払わなければならない時は、アメリカを立てなければなりません。
アメリカ国民の皆様。アメリカに思想的伝統があると思いますか。今の青年たちの中にそれを見いだすことはできません。アメリカを開拓した人たちは、皆様も御存じのように、清教徒たちです。彼らは、神様を心置きなく愛し、神様のために行こうとする道を国家が妨げたので、国をあとにして、この新大陸アメリカの地を訪ねてきた群れでした。
そのとき、少数のアメリカ国民たちは、現地にいたインディアンたちと戦うために、神様に命を委ね、すがったのです。神様をあがめ尊びながら、神様にすがって戦っていったその思想が、アメリカの建国思想になったことを私は知っています。ですから、彼らは教会を先に建て、学校を建てたあとに、自分の家を建てたことを知っています。そのような立場に立っていたので、神様は反対を受ける環境から引っ張り出し、この地で保護し、二百年にもならない期間で世界的な国に築き上げてくださったのです。そのような神様は何のために祝福をしてくださったのでしょうか。アメリカに住む皆様だけを裕福に暮らすようにするために祝福したと考えてはいけません。今後、世界を救うための代表的な国にするために、神様は祝福したと見なければならないのです。
それでは、アメリカ国民は、「今や私たちは団結して世界を救おう」という統一された思想をもっているでしょうか。もっていません。しかし、アメリカの怨讐である共産世界は、世界を制覇するという思想をもって、アメリカを問題なくのみ込むことができると自陰をもって現れています。
アメリカ国民の皆様が覚えておくべきことは、アメリカの国策において、アジアへの援助や外国への援助を削減することは、神様のみ旨ではないということです。外国に対する援助を削減することを始めた大統領は、ケネデイ大統領であることを私は知っています。また、その当時の国連事務総長はハマーシヨルド氏でした。彼らは、なぜあのような惨事に遭って逝ったのかという問題は、私たちの知らないある背後の動機があると思われます。
私は一九六五年にアイゼンハワー元大統領に会いました。そのとき、私は、「あなたは、韓国戦争を休戦にしたことは正しかったと思うかもしれませんが、あれは歴史的な誤謬です」と指摘しました。「あなたは共産党を信じるのですか。共産党は言葉と行動が違う群れです」と言いました。行動と言葉が違うのです。これを知らなければなりません。休戦協定をしてから二十年が過ぎた今、北朝鮮はあらゆる力を尽くして国民武装をさせているのを、私たちはこの目で見ているのです。この事実を否定しますか。
今度の二月二十一日、毛沢東とニクソン大統領の会談があります。毛沢東はニクソン大統領に対して、何をしても、損することはありません。アメリカ国民はこれだけは知っておかなければなりません。共産党は、アメリカといくらでも「親しい、親しい」と言いながらも、背を向けることがあり得るのです。どれだけ親交が進んだと見えても、いくらでもそれを反故にする独裁体制なのです。
しかし、アメリカ国民はそのようにはできません。アメリカ全体が「よいです」と言って国民がみな進んだとしましょう。ここで、もし後退するようになれば、アメリカ国民はみな後退すると思いますか。半分は分かれてしまうことを知らなければなりません。その時にアメリカがどうなるのかを、私は今考えています。このような観点から、アメリカの四十代大統領、二百十年までの歴史は、神様が保護してくださる歴史と見ています。
皆様。一九七六年はアメリカ建国二百周年の年であることを私は知っています。アブラハムからイエス様まで四十二代になります。四十代、二千年歴史を神様のみ旨を中心として担当してきました。代数としては四十二代ですが、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」、この三代にわたった神様を一代の神様と捉えるので四十代になるのです。
この「終わりの日」にアメリカを中心として、このような蕩減の役事をすると見ているのです。この期間に責任を果たすことができなければ、今後のアメリカは、神様が保護し続けるような国にはなれないと見ています。私はそのように考えています。二十世紀の後半期において、世界的な主導国家的責任をもったそのアメリカを誇りとするのではなく、アメリカの国がなくなったとしても、アメリカ国民が誇り得る思想、三十世紀、四十世紀に至っても、その思想でなければいけないという思想をもつならば、アメリカ国民は世界を治める国民になるのです。
このような観点から、今日、統一教会はいかなる使命を果たそうとしているのか、ということが問題になります。統一教会は、来られる主の前に新婦をお連れし、このような超国家的な運動を世界的に準備して、神様が求める希望の天国をこの地につくり上げようとするのです。
そのためには、「この統一教会は統一教会自体のために働く」という思想を取り除いてしまわなければなりません。神様の作戦が世界のために犠牲になる個人と家庭と氏族と国家を求めることである以上、そのような個人、家庭、氏族、民族を編成し、神様の願う国の土台をつくってさしあげようというのが、私たちの使命です。
そのような統一の原則をもって、将来来るメシヤを中心として統一された個人として、家庭として、氏族として、民族として編成しなければならないのですが、このようなことを誰が先頭に立って引っ張っていかなければならないのでしょうか。信仰のない人でしょうか、信仰のある人でしょうか。宗教をもった人でしょうか、もっていない人でしょうか。これはキリスト教信徒、宗教人たちが糾合してしなければなりません。そのような運動を今、世界でしなければなりません。
そのためには、自分の教派だけを中心として、私の教派だけを中心として一つになってはいけません。神様のみ旨と世界を救うという信条のもとに一つにならなければならないのです。そのような運動をすることによって、主導権を握ろうというのではなく、下のほうに入って奉仕する運動をするのです。自分のもつ手段や方法、自分の財力、あるいは権力、あるいは知識力を動員して中心になるのではなく、人々が自主的に推戴して中心に立てる運動を、新しく世界的に行わなければ、この世界は救われる道理がありません。
ここに立っているこの私が、ここに至るまでには、数多くの迫害の道を歩んできました。キリスト教のために生き、キリスト教の行くべき道を提示しようと言ったにもかかわらず、キリスト教の反対を受け、国の行くべき道を提示しようと言ったにもかかわらず、国の反対を受けました。そのような観点から、アメリカも今後、この動く群れに代わって批判される日が来ると考えています。
善とは、自分の側のものを犠牲にしながら、世界を救おうとすることです。これが伝統的歴史です。ですから、今日この地上で、このような伝統を受け継ぎ、自分の側近の者を世界のために平面的に犠牲にさせながらでも、人を救おうという運動を全世界的に提示しなければ、理想的な何らかの方向を提示できないことは言うまでもありません。今後、人のために世界的な運動をする思想をもった団体、自分自体を犠牲にしても世界を救おうという運動をする思想だけが世界を治めるのです。
民主世界を代表するアメリカを考えてみましょう。アメリカは世界のために援助するほうに一方的に進んでいっていれば、常に世界があがめる国家になっていたでしょう。アメリカ国民を超え、アメリカの国を超え、世界をより愛する運動をしていれば、アメリカは今日、このような立場に立たなかったのです。
しかし、「民主世界を代表した国家として、外国を援助して栄えた国がないというのが歴史的な実情なので、私たちの国も歴史的伝統に従うべきである」と言いながら、自分の国を中心として背を向けるようになるときは、アメリカは孤立してしまうのです。
言い換えると、現在のアメリカは、世界のことよりもアメリカ自体を重要視し、世界の人類よりもアメリカ国民を愛そうという立場になっているのです。しかし、神様の見解はそうではありません。神様は、アメリカを動員して、世界を生かそうとされるのです。アメリカを超えて世界を愛することができるようにするためなのですが、方向が食い違っているので、民主世界もこれ以上行くことができなくなりました。
世界のためには、自分の国や国民よりも世界を愛する運動、神様を愛する運動こそが、最後に残る主義になり、思想になるでしょう。ですから、その国を超える超民族的な運動を世界的に提示し、超民族的に天が愛する立場に、あるいは世界の人々が愛する立場に自由に行けるようにするためには、どのようにすべきかを模索する主義こそが問題になるのです。
もし主が来られるとすれば、一つの国を救うために来られるのではありません。世界を救おうとして来られるのです。そのような時が近づいてくれば「終わりの日」なので、国を超えて、より愛する世界を発見し、国を超えて、天の人をより尊重し、国を超えて、神様を愛する運動をしなければ、世界は滅びるという結論が出るのです。これが今後、世界人類が願う統一の道であり、思想の道です。
ここでは肌の色が問題になるのではありません。ここでは文化の背景が問題になるのではありません。神様を愛し、神様のみ旨のために生きる世界のために一つになることこそが、私たちの希望であり、私たちの目的となるのです。そうして世界が一つになることによって、神様と人間が願う理想世界が開かれると考えています。したがって、個人として行く道、家庭として行く道、氏族として行く道、民族として行く道、囯家として行く道、世界として行く道を教えてあげることが、統一教会の使命であることを知っています。
ここできょう、お話しした題目の「神様と人間のための理想世界」が成就することを信じ、今、この地で活動を始めていることを、皆様に知っていただければ幸いです。ありがとうございました。
2.人間に対する神様の希望
平和経 第一篇
真の平和の根本原理
2.人間に対する神様の希望
日付:一九七三年十月二十日
場所:アメリカショージワシントン大学リスナーホール
行事:アメリカ二十一ヵ都市巡回講演
今晩、このように参加してくださった紳士淑女の皆様。心から感謝を申し上げます。皆様にお会いできる日を心から待ち望んでおりましたが、今晩、その願いをこのようにかなえてくださり、神様と皆様に感謝をお捧げいたします。
私が語る言葉を、皆様は聞き取ることができないと思います。そのように、言葉を語っても伝えられない人と言葉を聞いても聞き取れない人との間に、通訳という橋を架けて語り、聞くことが、どれほど大変なことかを理解してくださり、御声援くださるようお願い申し上げます。
きょう、皆様に「人間に対する神様の希望」という題目でお話ししたいと思います。題目が大きいといえば大きな題目であり、内容も複雑だといえば複雑な内容になると思います。
もし神様がいらっしゃるなら、神様は、私たち人間を必要とせざるを得ません。人は万物の中で最も貴く英明な存在なので、尊重せざるを得ないのです。その神様と人間の関係を、私たちは明確に知らなければならないと思います。
数多くの宗教人たち、数多くの信仰者たちは、神様と人間の関係を様々に表現していますが、それが神様と人間の関係を明確に、正しく知ることができる内容になっているでしょうか。神様と人間の関係は根本的な問題なので、この根本が狂えば、別の異なった世界へ行くこともあり、異なった結果をもたらすこともあるのです。神様だけを中心として見るか、人間だけを中心として見るかによって、二つの思潮の哲学世界があることを、私たちはよく知っています。
数多くの宗教が存在するようになったのは、根本が異なるからです。ですから、神様なら、「宗教はこうでなければならない。私とその宗教との関係はこうでなければならない」という、ある原則があるのではないかという問題が、より重要です。そのような関係について、お話ししようと思います。
この地上に生きる人間として、最も貴く感じるものは何でしょうか。このように問えば、様々な答えがあると思います。ある人は「権力である」と言うでしょう。またある人は「お金である」と言うでしょう。ある人は「知識である」と言うでしょう。果たして権力とお金と知識が、人間にとって最も貴いものかというと、「絶対的にそうである」と断言できる人は一人もいないのです。
それでは、それよりもっと貴いものは何でしょうか。もう一歩さらに踏み込んで尋ねてみれば、誰もが「愛が貴い」と答えるでしょう。その次は何かと問えば、「生命である」と答えるでしょう。そのような愛と命をもっていたとしても、理想がなければならないので、三番目には、「理想である」と答えるはずです。人間にとって最も貴いものが何かというと、愛であり、生命であり、理想だというのです。この問題について考えると、その愛と命と理想というものを一時的なものと思っている人はいません。
皆様が何かの小説の表現を見ても、愛と言えば、永遠の愛、不変の愛、唯一の愛を強調していることに気づきます。愛が変わることは誰も望みません。青春時代や中年時代、老年時代を問わず、愛は永遠であることを願います。また、愛もそうですが、生命の問題においても、「私は、少しだけ生きて死のう。なくなってしまいたい」と考える人はいないでしょう。生命も永遠であることを願います。自分の生命は変わらないことを願い、特権的であり絶対的であることを願うのです。
皆様が宗教を信じる目的も、救いや永生があると考えるからです。もし永生がないとすれば、宗教は必要ないでしょう。宗教を通して、人間の理想の愛を描ける道があると信じるがゆえに、宗教を必要とするのです。したがって、私たち人間にとって最も必要なものは、愛であり、生命であり、理想です。それが、一時的なものではなく、永遠であることを願うのが、私たち人間の欲望にほかならないのです。
ところで、「愛」という言葉や「理想」という言葉は、一人で語る言葉ではありません。一人でいながら「ああ、私は一人で愛する」と言っても、これは成立しません。「ああ、私は一人で楽しく、うれしい」と言うことはできないのです。したがって、私たちが「愛」という言葉と「理想」という言葉を追求し、絶対視し、望む立場にいれば、私たち人間が別の一つの主体や対象的な何かを求めなければならないというのです。
そこで、私たちが対象であれば、ある主体を必要とするようになります。私たちが結果的な存在であるならば、ある原因的な存在が必要であることを示しているのです。私たち人間を超越して、そのような主体的、原因的な存在がいるとすれば、それは不変でなければならず、永遠でなければならず、理想的でなければならないことは間違いありません。主体と対象は、いかなる面においても、いかなることにおいてもう一つにならなければならないのが原則です。一つになることにおいて、悪い位置で一つになることを願う人は一人もいません。最高の位置、変わらない永遠の位置、完全に統一された位置で一つになることを願うのは、主体と対象の存在がそれぞれ願う基準にほかなりません。
それでは、対象であり、結果的な立場にいる人間が願う最高のものが、愛であり、生命であり、理想であるとすれば、主体であるその方の要求と、その方の希望と欲望は何でしょうか。もし神様に、「神様、あなたが最も貴く、絶対的で、価値があると認めるものは何ですか」と問えば、神様もやはり対象が求めるものを求めざるを得ないという結論が出ます。
神様にとって、お金や知識、または権力は必要ではありません。間違いなく、その方は「愛であり、生命であり、理想である」と答えるでしょう。そのようなことを考えるとき、神様がいくら偉大で絶対的だとしても、結局のところ誰に似ているかといえば、私たちに似ているのです。主体と対象は似ていなければなりません。
神様は、どのようなお方かというと、愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体であられます。そうだとすれば、私たち人間は、愛の対象であり、生命の対象であり、理想の対象であるという結論を立てることができるのです。
神様が絶対的なら、私も絶対的な位置を願わなければなりません。神様が不変なら、私も不変でなければなりません。神様が唯一なら、私も唯一でなければなりません。神様が永遠なら、私も永遠でなければなりません。そのような観点から、人間の永生は必然であり、それは当然の結論にならざるを得ません。いくら神様に愛があっても、私に愛がなく、いくら神様に生命があっても、私に生命がなく、いくら神様に理想があっても、私に理想がなければ、すべては無駄なことなのです。
したがって、主体という存在にとって、対象はどれほど価値があるかということを、私たちは否定できません。それは、常識的に認めなければならない問題です。私がこの場に立って、聴衆がいないのに、こぶしを振って「おお」と言うなら、狂った人だと思われるでしょう。しかし、一人の足の不自由な人であっても、その人に対して目を見開いて語っているとすれば、それは精神病者ではありません。また、誰一人いなくても、小さなものを見ながら、喜んで詩を詠んだとすればどうでしょうか。それを狂っていると言えますか。
これは何を意味するのでしょうか。相対圏が「絶対」を擁護する絶対的な原理をもっていることを主張しているのです。それが対象の価値です。神様がいくら気高く、偉大だとしても、対象がいなければどうするのでしょうか。神様はうれしいでしょうか。一人で喜ぶことができるでしょうか。ですから、神様は喜ぶために対象の世界を創造されたことを知らなければなりません。
ある宗教では、神様は神聖で高潔な方であられ、人間は悪なるもの、罪悪にまみれたものなので、創造主と被造物は同等にはなり得ないと主張してきました。このような信仰は、根本的に間違っているのです。対象がいなければ、どんなに偉大な人でも、どんなに悟りを開いた人でも、どんなに絶対的な人であっても、悲しいのです。私たち人間が悲しむのは、神様がそのようになっているからであり、主体に似ているからです。この問題が、これまで度外視されてきました。絶対的な神様のみ前に、絶対的な対象の価値をもち、堂々と登場する権威を失ってしまったというのです。
それでは、そのように気高い神様のみ前に、私たちがいかにして相対的な位置へ進み出ることができるのでしょうか。努力によって可能でしょうか。力を使えば可能でしょうか。何をもってしても不可能です。ただ愛の関係によってのみ可能です。愛の関係さえもっていけば、誰もが直ちに同等な位置に進み出ることができます。皆様、この世でもそうではないですか。ある偉大な男性と、その男性を中心として一人の女性がいるとき、その女性が、世間一般的に見れば何の立場もなく、知識もなく、すべての権限においてないに等しかったとしても、主体であるその男性と愛の関係さえ結べば、瞬時に堂々とした対象的権限をもつようになるのです。夫が行く所には、妻もどこにでもついて行くことができるのです。
神様と私たち人間との関係も、愛を中心として連結されれば、神様と人間との愛は、この世の父子関係の愛よりも高いものなので、その愛を中心として、瞬時に対等な位置に上がるようになるのです。愛は絶対的であり、不変であり、永遠なので、それが可能なのです。ですから、偉大な価値の根源を忘れた私たちの人生の本源地を回復しなければなりません。
したがって、主体と対象は一つにならなければなりません。原因と結果も必ず一つにならなければなりません。聖書によると、神様は「わたしはアルパであり、オメガである」(黙示録一八)とおっしゃいました。それはどうなるということでしょうか。二つが離れるということでしょうか。一つになるということです。神様がアルパなら、私たち人間はオメガです。神様が最初なら、私たちは最後です。神様が初めなら、私たちは終わりです。端と端が、そのまま一つになることはできないのです。回らなければなりません。左手が回って右手と一つにならなければなりません。
それでは、一つになるとき、互いに異なるのでしょうか。一つは大きく、もう一つは小さくてもよいのでしょうか。和睦を望み、平和を望むことは、一つになる起源を離れては不可能です。平和や幸福といったすベてのものも、神様が愛と生命と理想の主体としていらっしゃるのならば、神様は、人間と一つになるために、人間と対等な愛と命と理想が連結される位置を策定しなければならないのです。
皆様。これで関係については理解しました。主体と対象の関係は理解できました。次は、その統一の場所がどこかということを、はっきりと知らなければなりません。私たち人間は、最高の欲望をもっています。そして、比較する知能をもっています。二つのうち、少し良いものが下にあり、悪いものが上にあれば、降りてきて良いものを取ろうとするのです。また、もっているものよりも良いものがあれば、もっているものを投げ捨ててそれを得ようとします。もっと貴いものがあれば、既にもっているものがあっても、また欲しくなるのです。最も貴いものを望むというのです。
ですから、これまで人間の欲望は終わりがないと信じられてきました。これが一般的な結論であり、評価です。そうだとすれば、神様はいないことになるのですが、どこまで行かなければならないのでしょうか。終わりがなければなりません。それはどこまででしょうか。世界最高の偉人が生きているとしましょう。言葉一つで全世界を動かすことができ、一言でどんなことでもできる聖人がいれば、皆様は「ああ!私はあの人の友人になれたらいいな」と思うでしょう。それで友人になったとします。
そうなれば、それで満足するでしょうか。それよりも高い位置があれば、高い位置を望むでしょう。友人よりも、その方の養子になる道があるならば、友人になることを捨てて、「養子になれたらいいな」と思うでしょう。しかし、それで満足するでしょうか。皆様。満足しますか。私は、そうは思いません。皆様も間違いなく、「言うまでもなく同じである」と答えるはずです。私は東洋人で、皆様は西洋人ですが、西洋人も東洋人も何ら違いはなく、同じなのです。
ですから、養子よりも直系の息子、娘になる道があるならば、なりたいでしょうか、なりたくないでしょうか。養子の立場よりも、直系の息子、娘になろうと思うでしょう。それでは、なぜ養子を捨てて息子、娘になろうとするのでしょうか。本心からにじみ出る完全な愛を受ける道が、その道しかないからです。その人を占領する前に、その人の愛を完全に占領できる息子、娘になれば、その方は誰の父ですか。その方は誰になるのですか。その方が喜ぶことは私が喜ぶことであり、その方が所有するものは私のものになるのであり、その方が従えるすべてのものは私のものになるのです。それは手続きを経てそうなるのではなく、自動的です。
それでは、もし神様がいらっしゃるなら、その神様を中心として、そのような位置を願わざるを得ないのです。神様がいらっしゃるなら、天の国の民になりたいと思うかもしれませんが、それよりは、神様の友人になることができれば、それを願うのです。それでは、友人になることを願いますか、それとも養子になることを願いますか。友人をやめて養子になることを願うのです。その次に、息子、娘になることができるなら、養子もやめるのです。このように見るとき、人間に最高を求める欲望を与えたのは、神様と関係を結べる対象の価値観が創造目的に設定されているからです。
それでは、神様にお会いすることだけを願いますか、神様と共に暮らすことを願いますか。結局は、神様の中に一つしかない、その愛を占領しようとするのです。人間の欲望が、神様の絶対的な愛を占領し、また何かを求めるようになれば、神様は何もできないのです。それ以上はあり得ません。ですから、神様の愛を占領したのちには、春の中の春、喜びの中の喜び、世の中のすべてのものが「私」の言葉によって動き、私の行動によって動くようになるのです。
ここに立っている人は、神秘的な境地に入り、宇宙の根本が何であるのか、追求した時がありました。神様からの答えは、「父子の関係である。父と息子である」というものでした。一般の人であれば、自分の父母との関係と考えるでしょう。言い換えれば、自分を生んでくれた父と母であると考えやすいのです。しかし、それは神様と人間との関係のことを意味しているのです。
父子関係がもつ特定の内容とは何でしょうか。父と息子が出会う最高の場所はどこでしょうか。愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見れば、愛と生命と理想は一カ所にあるのです。その場所に行けば、神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になります。それを決定できる最初の関係と最初の統一の場所が、父子関係が結ばれる場でなければあり得ないのです。
それでは、例を挙げてお話ししてみましょう。皆様が父母を通して生まれるためには、父母の愛が芽生えなければなりません。互いに相対的関係が成立しなければなりません。そうして、その愛の環境、生命の一致点で、命が連結されなければならないのです。夫と妻が、互いに嫌だというのではなく、互いが理想的でなければなりません。夫婦が愛を結び、一つになってこそ、夫婦の愛が成立するのです。そうしてこそ、夫の愛は私の愛であり、夫の命は私の命であり、夫の理想は私の理想となるのです。反対に、妻の愛と生命と理想も同様です。そのように一つになった場で発生するもの、そのような統一的な場で生まれるのが子女です。
ですから、その子女は父母の愛の実現体であり、投入体です。父母の生命の延長体です。また、父母の理想の具現体です。皆様の中で、子女を生んで愛してみたことのある人たちは、分かるでしょう。その愛する息子に対して、「この子は、私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体である。第二の私である」と思うのです。出発から、愛と生命と理想的基盤の上で生まれたので、父母は、その子女を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対として登場するのです。
神様がいるならば、その神様と人間はどこで連結されるのでしょうか。生命が交差する所、愛が交差する所、理想が交差する所です。その点は、どのような点でしょうか。父子関係にほかならないという結論が出ます。
このように考えるとき、私が神様と同等になることができるという喜びがどれほど大きいか、考えてみてください。そこに祈祷が必要でしょうか。「神様、私は罪人です」という祈祷が必要でしょうか。愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なのに、祈祷が必要でしょうか。威信と体面を超越するのです。躊躇することなく神様をつかまえることができるのです。神様が私を抱き締め、なでてくれ、愛してくれることを体験すれば、骨身が溶けてしまうでしょう。
ここに宗教指導者の皆様もいらっしゃると思いますが、そのような神様の愛を一度受けたことがあるでしょうか。そのような立場で呼吸をすれば、世界が出たり入ったりします。酒を飲んで酔うことより劣るでしょうか。神様の愛に入るようになれば、満たされないところがありません。六十兆個にもなる細胞までも踊りを踊るのを感じることができるのです。目は目で、手は手で、みな感じることができるのです。それ以外の他のものを持っていってあげても、みな満足しません。
そのような神様の愛があるので、人間の最高に高貴な欲望が、それを望んでいることを徹底して知らなければなりません。それがなくてはならないのです。皆様は、他人の父親を自分の父親であると信じるのですか、自分の父親を父親であると信じるのですか。神様について、そのような実感がなければなりません。神様と私たちの関係は、このように偉大であることを、間違いなく感じなければなりません。どんなに孤独で苦難の場にあったとしても、神様の愛の中に抱かれるならば、たとえ受難の道を行くことになったとしても、苦痛を感じないというのです。ここに賢い方々がみな集まっておられますが、皆様は、そのような境地を得ることができるなら、何億ドルを出してでも得ようとするでしょう。しかし、それはお金で買えるものではありません。骨髄からしみ出る愛の心情を説明する前に、主体と対象の情の流れが中から爆発しなければなりません。そこから始まるのです。
イエス様も、そのような価値の内容を通して見たとき、宇宙と生命を取り替えることはできないと言いました。神様と連結されるその生命には、愛があり、理想が通じるようになっています。生命と理想が自動的に連結されるのです。愛を中心として生命が躍動し、理想を中心として生命が躍動するようになっています。今、皆様は神様と私たちの関係と位置を知りました。兄弟同士、そのような立場に立つことができるでしょうか。できません。夫婦同士も、そのような立場に立つことができるでしょうか。できません。それを知るようになるとき、堂々と神様のみ前に出ていくことができるのです。しかし、今日、イエス様を信じる人々、キリスト教徒たちを見ると、「私たち人間は、罪人であり、被造物なので、価値がなく、イエス様は神様である」と言います。それで、どうやって神様と連結されるのでしょうか。
テモテへの第一の手紙第二章五節を見ると、「神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリストイエスである」とあります。それでこそ正しいのです。そうでなければ、この罪人たちが、どうやって神様のみ前に行くことができるでしょうか。そのような根本的な問題を理論的に、すべて整理しておかなければなりません。その方は罪のないお方であり、私たちは罪人です。これが違うのです。ですから、イエス様は、神様の愛と交流でき、生命と交流でき、理想と交流できるお方なのです。
私が、この宇宙の根本問題に突き当たって、これを解決しようとしたとき、このような内容を知って、心底から神様に感謝しました。これを知ることによって、本当の意味で人間の価値を知ることができ、本当の意味で人間の本郷を探し求めるべきであり、人類が暮らすことのできる祖国を建設しなければならないという考えをもつことができたのです。
皆様は神様に似ています。皆様は、皆様自身のために生きる時があります。神様は、天地万物と人間を造る前、御自身を中心として存在しておられました。それで、神様に似た私たちも、自らを中心として考える時があるのです。そのような神様が天地万物を創造し始めたのは、対象の世界を展開するためでした。結局は、別の自分の相対的存在をつくろうということです。それで、神様御自身を投入されたのです。見えない神様から見える神様へと展開させようということです。
創造の業を行うということは、力の投入を意味します。創造とは、力を消耗することです。投入したのですが、どのくらい投入したのでしょうか。人々は聖書を読んで、神様がみ言で「このようになれ!」と言って創造されたと思っています。しかし、そうではありません。そこには、真の生命を投入し、真の愛を投入し、真の理想を完全に投入したのです。
創造前と創造後が違い、創造する前は自分のことを考えましたが、創造を始めたときからは対象のために生きる時代へと転換されたのです。「私がいるのは、私のためにいるのではなく、相対のためにいるのであり、息子、娘のためにいる」と考えるようになったのです。
ですから、皆様はそれを知らなければなりません。愛や理想という言葉は、主体と対象との関係において使う言葉なので、理想的な存在の起源は、自分のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。神様は、一〇〇パーセントを投入しても損をするのであれば、投入されないのです。返ってくるときに九〇パーセントになり、一〇パーセントが損害となれば、投入されません。それ以上に返ってくるものがなければならないのです。それで、一〇〇パーセント投入することによって、なかったものが生まれました。対象が生まれました。それだけではなく、その対象が、自分の望んでいた愛をもってきて、生命を刺激する理想的対象として現れるのです。神様も愛には引っ張られます。その対象が引っ張れば、引っ張られるのです。対象が好む所に神様も行くようになります。自分自身を見て喜ぶのではなく、相手を見れば見るほど喜ぶのです。人間の創造は、自己の完全投入です。人間は、それによる最高の傑作です。
有名な画家がいれば、その画家は、遊び半分で描いた絵を重要視するでしょうか。食事もせずに精神を集中させ、すべて投入して、一つ一つ慎重に自分自身の構想どおりにできた作品に対して、「傑作である」と言うでしょう。「その原画は自分が持ち歩き、保管し、愛したい」と思うのです。
ですから、真の神様は、相対をつくることに完全投入されることによって、より価値のある理想的な完全形を展開したのです。神様も、アダムとエバをお造りになってからは、アダムとエバのために存在しようとするのです。神様のためではありません。自分お一人でいた時から、相対のために生きる時へと展開されたのです。理想的存在は、自分を中心としません。理想的存在は、人のために生き、対象のために生きるところにあるのです。この原則が、宇宙の根本であることをはっきりと知らなければなりません。
ここに、ワシントンDCの有名な方々が来られていることと思います。「私なら、この先この国の大統領にもなることができ、どこに行っても、実力においても、何においても負けない、堂々とした私である。私は、自分のために生きる人である」という人がいるかもしれません。私たちは結果的な存在であり、神様に似ているので、神様が御自身のことだけを意識していた時があったように、皆様も、皆様自身のために生きる時があります。そうしてこそ、自分自身が成熟するのです。大きくなるのです。吸収し、成熟します。しかし、対象が現れるようになれば、自分を捨てて相対のために生きる時へと越えていかなければなりません。
男性として生まれた人は、自分のためだけに生きようとするのではなく、相対のために生きようとしなければなりません。男性は何のために生まれたのでしょうか。男性自身のために生まれたのではありません。女性のために生まれたのです。
また、どんなに美人で、またどんなに男性が嫌いな女性でも、なぜ女性として生まれたのかというと、自分のためではありません。相対のために生まれたのです。存在の起源は、私のために生きるところにあるのではなく、相対のために生きるところにあります。そのような世の中になれば、それは天国にほかなりません。
父母は子女のために生き、子女は父母のために生きるようになるとき、互いにために生き合うので回るようになるのです。ために生きれば生きるほど、早く回ることができます。四角ではなく、立体的に回るのです。ために生きることは、押してあげることです。あちらから私のために押し、私もあちらのために押してあげるので、早く回るのです。ですから、世の中は円形に似ています。顔が丸く、目も丸いのです。上部と下部がありますが、それが完全に与えて受けるようにしなければなりません。静脈と動脈も与えて受けるのです。与える道があるのに受ける道がなければ、病気になります。壊れてしまうのです。存在物は運動をしますが、その存在の根源においてために生きる作用の原則を立てなければ、永遠に存在することができないのです。
人間にとって最も問題となるのは、善が何であり、悪が何かということですが、その基準が不確かです。神様と私の関係を知り、その関係が一致して悪が何であり、善が何であるかということを確実に根本から見極めなければなりません。悪とは何であり、悪の定義は何でしょうか。
サタンが讒訴する条件をもつことが悪です。皆様は、それを知らなければなりません。サタンが讒訴し、そこに関係を結び得る内容をもつようになれば罪です。キリスト教徒は罪の根を知らなければなりません。
皆様は、神様の愛を受けていますか。皆様の父母や祖父母は、神様の生命と愛と理想を中心として一致できる立場で生きているでしょうか。そのような立場で生きている人が、どこにいるでしょうか。そのような人はいません。なぜでしょうか。堕落したからです。サタンが入ってきて、私たちを占領しているのです。サタンが讒訴し、関係を結び得る条件が罪であると言いましたが、結局は、創造の原則、本来の宇宙の根本原則に反対する立場に立つようになったのです。
皆様。人間は、対象の立場で神様を主体とするので、神様だけのために生きることに存在の価値があり、存在の起源があるというのが原則であることを知りました。しかし、悪の出発は、サタン自身が、「私が主体になろう。私が中心になりたい」と考えるようになったことから始まったのです。エバもそうでした。主体のために存在しなければならないのですが、「私のために存在せよ」と考えたのです。これが悪です。神様の創造の原則は、対象のためにあるものなのですが、対象を否定し、「私のために存在せよ!」というようになり、それを根本にしたということです。
皆様は、善悪の起源をはっきりと知らなければなりません。悪なる人とはどのような人かというと、「私のために生きよ。みな私のもとに来て屈服せよ」という人です。神様も、これを打ち砕かなければならず、イエス様も、これを打ち砕かなければなりません。ですから、「高ぶってはならない。自分の利益を求めてはならない。他のために犠牲になりなさい。奉仕しなさい」と語られたのです。
しかし、堕落して故障したために、これを原理原則どおりに合わせなければなりません。創造の法度に一致できるようにして、壊れたものを再び合わせるためには、再創造役事の過程を経なければならないのです。堕落は、自分を相手に投入せず、相手をして自分に投入させたことなので、宗教は、反対に自分を投入させるのです。
それで、宗教は「自分を犠牲にせよ」と言います。イエス様は、この地に救世主として来られましたが、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるため」(マタイ二〇・二八)とおっしゃいました。また、イエス様は、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ一五一三)とおっしゃいましたが、これは完全に投入することを意味します。また、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七三三)という言葉もそうです。今日、自己を主張する世界において、聖書を見ると、謎めいており、誰も好まないような内容になっています。すべてが反対になっているのです。
しかし、天理原则、ために生きる原則から見ると、聖書こそが正に真理なのです。すべてがぴったりと一致します。神様は、悪なるサタン世界とは反対の天国をつくるために、悪なる世界とは反対の道を模索せざるを得ません。それが宗教です。
より大きなもののために犠牲になるのが善一善の人と悪の人について、一つ例を挙げてみましょう。善の人は、十人の友人がいる場合、その十人の友人のために、朝夕に、今年も来年も十年後も、一生の間、世話をし、奉仕するのです。そのようにすれば、十人全員が、その人を最も良い友人であると言います。ですから、自分たちだけが好むのではなく、自分の母や妹がいれば、連れていって紹介しようとするのです。
しかし、十人の友人に、「おい!こいつめ。私のために生きよ」と三度も言えば、友人たちは逃げていきます。彼がついて来るのではないかとおびえて、逃げていくのです。皆様、そうではないですか。それはなぜでしょうか。自分を中心として主張する人は滅びます。地獄に行くのです。しかし、原理原則に入って、人のために、相対のために投入する人は天国に行くのです。
人類のあらゆる教育理念や指導理念において、漠然とでも、このような観点から善を立ててきたので、今日、この地球星が残っているのです。ある個人が全体のために犠牲になれば、彼は全体の前に善の人であり、ある家庭が全体の家庭のために犠牲になれば、全体の家庭の前に善の家庭として登場するのです。また、ある民族が全体の民族のために犠牲になって進み出るならば、その民族は善の民族として登場するのであり、ある国が全世界の国家のために犠牲になって進み出るならば、その国家は善の国家として登場することを知らなければなりません。
それが神様のみ旨ならば、イエス様を送ったのも、そのようなみ旨を成就するために送ったのです。それで、キリスト教徒たちは、人類を救うために自分の国家を犠牲にし、自らのすべてのものを犠牲にして、投入していかなければならないのです。そのようにしていれば、キリスト教は世界の前に、善なる神様のみ旨のために生きる教会になっていたはずです。神様は、世界を救おうとするのであって、長老派なら長老派、メソジスト派ならメソジスト派、ホーリネス派ならホーリネス派一つだけを救おうとはされません。長老派だけを中心とする神様にはなれません。世界のために生きる神様です。教会が真の教会ならば、世界のために犠牲になりなさいというのです。世界を生かすためには、その教会がたとえ滅びるようになったとしても、犠牲にならなければなりません。これが原則です。そうしてこそ、神様のみ旨が成就されるのですが、教会を中心として世界を審判しながら、「我々でなければならない。我々のために生きよ」と言いながら自らを絶対視する教会は滅びます。
悪なる世界をどのようにして整理するのですか。皆様、どのようにするのですか。神様の天理原則によって教育し、根本的な道理を見極め、全世界を統一しなければなりません。そこから悪を処断できる起源が生じるのです。自分を中心とする主義を壊してしまわなければなりません。
皆様。家庭において問題になることは何でしょうか。夫は「いつも自分のためにいなければならない」と言い、妻は「私だけのために生き、私だけを愛してほしい」と言います。「自分だけを愛しなさい」、これがサタン的な立場になるので、神様が離れるのです。父母は息子、娘を育てて「自分たちのために生きなさい」と言い、息子、娘は父母に対して「自分たちのために生きてほしい」と言い、互いが「自分たちのために生きなさい」と言っているのです。
今日、世界の外交問題においても、他の国をだまし、翻弄しようとする国は滅びます。この地上で「私たちの国は滅びたとしても、神様のみ旨と世界を救うことができるなら犠牲になろう」という国があるでしょうか。アメリカが外国のために協助したとき、アメリカは全盛期にありました。しかし、「ああ、世界が栄えても私たちの国が滅びれば元も子もない。世界を投げ出して、私たちの国をしっかりつかまなければ」と考えています。
この原則から見れば、神様はアメリカから離れなければなりません。もしも「世界は統一教会のために存在しなければならない」と言ったとすれば、統一教会は滅びます。しかし、「統一教会があるのは世界のためである」と言うときは栄えるのです。ですから、統一教会の青年たちが皆様のところに何度も訪問しては煩わしくしたかもしれません。
イエス様が「だれかがあなたの右の頰を打つなら、ほかの頰をも向けてやりなさ」(マタイ五三九)とおっしゃったのは、完全に与えなさいということです。「右の頰を打つなら、ほかの頰をも向けてやりなさい」と言ったのです。そのようになれば、返ってくるのです。完全に与えれば、返ってきます。天地の原則はそのようになっているので、イエス様も、ローマ兵たちに十字架に架けられ、槍で胸を突き刺されても、福を請いながら死んでいったのです。それはどういうことでしょうか。完全に投入して行こうということです。そのようにすれば、怨讐の国までも戻ってくることを知っていたからです。それで、ローマ帝国がキリスト教の国になったのです。キリスト教になったというのです。
このように、歴史的な方向を引つ繰り返してしまわなければ、神様のみ旨は成就されません。このことについて、皆様はこれまで漠然と考えてきました。何が善で何が悪なのかを知らずに、ただこのように聖書を持ち歩きながら讃美歌を歌い、信じて天国に行くのだと言って教会に通っていたのです。それではいけません。
天国に行くために信じるのではなく、世界を天国にするために信じなければなりません。神様がこれまでそのようにされました。神様が御自身のためだけに生きられたなら、既に摂理も何もみな投げ出してしまっていたでしょう。
アメリカの国民は個人主義思想を尊重していることを知っています。主体と対象の関係を忘れた個人主義はあり得ません。ですから、アメリカは袋小路に差しかかっているのです。このようなアメリカを救うことのできるただ一つの道は、どこから出てくるのでしょうか。今こそ、キリスト教の精髄の路程を明らかにし、神様の本然の生命の道を探さなければならないのです。この道以外にはないのです。そのような意味で、この時代においてミスタームーンは、皆様が歓迎しなかったとしても、必要な人ではないでしょうか。
神様は、天理原則を通し、「あなた個人は家庭のためにあり、家庭は民族のためにあり、民族は国のためにあり、国は世界のためにあり、世界は神様のためになければならない」とおっしゃっています。その神様に従うならば、神様のものであると同時に私のものになります。神様のためのものが、私のためのものになります。ですから、私のものは家庭のものであり、家庭は国のものであり、国は世界のものであり、世界は神様のものであり、神様のものは私のものになるのです。全世界が私のものになり、宇宙が私のものになるのです。
皆様。国のために生きる人が忠臣であることを知っています。そして、国の思想的中心存在としてその人に侍ります。このように、一つの国の中心存在として登場することを知らなければなりません。皆様は、このような偉大なことを発見しなければならないのです。若い青年たちが、このような言葉を聞けば、「ふん!ミスター・ムーンは古くさいことを言う。そのようにして、この悪の世界でどうやって生きていけるのか」と言うでしょう。しかし、そうではありません。ために生きれば生きるほど、より大きな中心存在になることを知らなければなりません。
ために生きる人は、主体になるのです。なぜかといえば、神様がために生きる創造理想をもって、これまでために生きてきたので、そのような神様に似てために生きれば、中心にならざるを得ないのです。悪が何かといえば、「あなたのものも私のものであり、私のものも私のものである」と主張することです。今日、民主世界が世界的に発展したのは、博愛思想、ために生きる思想があったからです。共産主義は、ますます崩れていくのです。なぜなら、「共産党のためだけに生きよ」と主張するからです。ですから、それは台頭しないというのです。
神様は、堕落した世界とは異なる別の世界を創建するために宗教を揭げましたが、宗教はそのことを知りませんでした。しかし、はっきりと線を引き、右なら右、左なら左と分けなければなりません。皆様は、善悪について、今後行くべき方向をはっきりと理解されたことと思います。
病気になったので医者が必要であり、故障したので修理工場の主人が必要です。個人的に故障し、家庭的に故障し、国家的に故障し、世界的に故障したのです。それでは、故障する前の人間、本来、神様が完全であられるように完全な愛と完全な生命、完全な理想に一致する人が、どのような人であるかということについて、一度お話ししようと思います。
皆様は、神様の愛を受けていますか。受けることができずにいます。息子、娘が大きくなれば、神様の愛の中で結婚式をしなければなりません。そして、罪のない息子、娘を生まなければなりません。皆様は、罪のない息子、娘を生んだことがありますか。罪のない息子、娘を生むためには、イエス様を信じなければなりません。ですから、メシヤが必要なのです。
その方は、罪のない父であると同時に、罪のない祖父にならなければなりません。この世界には、サタンの国があり、王がいますが、罪のあるその王たちが、神様に対して悪を働きます。それでこの地上に、彼らよりも良い、完全な王、完全な女王がいなければなりません。そのような人を、いつ神様が得たでしょうか。得ることはできませんでした。なぜ、得ることができなかったのでしょうか。サタンのためです。ですから、サタンを追放し、神様が個人的に愛し、家庭的に愛し、国家的に愛し、世界的に愛することのできる、そのような国と国民と息子、娘と家庭をもちたいと願うのは、当然の道理であるといえます。
私たちは堕落した先祖をもっています。堕落した祖父母、堕落した父母、堕落した民族、堕落した国家、堕落した世界をもっています。堕落していない世界とは関係のない群れになってしまいました。これを一度に、個人的に修理し、家庭的に修理し、氏族的に修理し、民族的に修理し、国家的に修理して、一つの国家を立てるために準備したのがイスラエル選民です。イエス様が来られた目的はそこにあったのです。イエス様は、堕落していない完全な人として来られました。ですから、完全な家庭をもち、本然の祖父となり、王とならなければなりませんでした。そのようにするために、神様がお送りになったのです。神様は、対象としてアダムとエバ、男性と女性をつくられましたが、彼らが堕落してしまったので、二人とも修理工場に預けなければなりません。
しかし、イエス様は完全なアダムの完成者として来られたので、新婦を迎えなければなりません。新婦が必要なのです。新婦を迎えて結娘していたならば、イエス様の息子娘はいるでしょうか、いないでしょうか。その息子、娘は、罪があるでしょうか、ないでしょうか。今日のプロテスタントやローマカトリック、長老派といった教派はすべて存在していません。イエス様は王になったことがあるでしょうか。そのようになってこそ、完全な人ではないでしょうか。それができなかったので、再び来なければならないのです。第一イスラエルがそれを成し遂げることができなかったので滅びました。そこで、第二イスラエル圏となるのがキリスト教です。
原因と結果は同じであり、主体と対象も同じです。イエス様がそのような目的で来られたとすれば、神様が主体であり、イエス様とイエス様の新婦となる人が対象であるなら、人として来なければなりません。「小羊の婚宴」とは何でしょうか。六千年前に、「神様は愛と生命と理想の主体である」と言える人がいれば、呼んで祝福し、人類の善の先祖としていたはずです。そのとき開かれる祝宴が「小羊の婚宴」です。そのときに人類の先祖になることができなかったので、終末に至って再び祝福し、神様が人類の前に善の先祖として即位させるのです。
無形の父母と実体をもった父母を中心として、無形の神様と実体の神様が一つになるところで息子、娘を生んでこそ、永遠の無形の霊をもち、実体をもった人が出てくるのです。私たちの霊的注入は、神様とイエス様と新婦が一つになったところにおいて、すなわち霊的なプラスマイナスと実体的なプラスマイナスが一つになったところにおいて、霊と実体が一つに合わさることによって行われるのです。そこから生まれた息子、娘は、永生の霊を受け、永遠の実体として、罪のない息子、娘として生まれます。ここから、永生する生命が始まるのです。そのようになれば、霊的な父を呼び求めることができ、実体的な父を呼び求めることができます。二人の父を知るのです。しかし、堕落したために、皆様はそのようになっていません。
神様とアダムとエバが、永遠の命と愛と理想をもって縦横で一つになれなかったことを、人類の終末時代において、初めて霊的な神様と実体の真の父母が一つになり、霊肉で地上と天上が和合する所に、子女の名分を復帰するようになるのです。そうすることによって、神様の愛を受けることのできる息子、娘の位置に入ることができます。そのような罪のない父母から、罪のない息子、娘、罪のない氏族、罪のない民族、罪のない世界を一度に接ぎ木しなければならなかったのが、イスラエル民族でした。これを成し遂げることができなかったので、主は再び来なければなりません。
神様の愛と神様の命と神様の理想が、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的に一つになり、サタンが讒訴できず、サタンの痕跡のない、そのような世界になってこそ、この地上が天国になるのです。神様と私たち人間が、完全に主体と対象の父子関係として、完全に罪なく聖別された父子関係として、完全に聖別された神聖なみ旨の中で一致し、真の父母と共に真の子女、真の氏族、真の民族を中心として地上天国を成就することを願うのが、神様の人間に対する最高の願いです。
神様の永遠の愛と命と理想が、どこにでも連結されるようにしてこそ、地上天国になるのです。ために生きる世界になって、初めて地上天国になるのです。そのような世界を願うのが、人間に対する神様の希望であることを、皆様が今晩、記憶してくださることを願います。そのようにできる皆様になることを願って、このようなお話をした次第です。ありがとうございました。
3.ために生きる世界
平和経 第一篇
真の平和の根本原理
3.ために生きる世界
日付:一九七五年一月十六日
場所:韓国、ソウル、朝鮮ホテル
行事:「希望の日」韓国晩餐会
今晩、各界各層の著名な先生方がこのように多数参席され、私のために祝賀の夕べを盛況のうちに開いてくださり、心から感謝申し上げます。ここに立っている者は、皆様も御存じのように、韓国やアメリカで、物議を醸している張本人ですから、「いったい、あの文某はどんな人か」という思いで、この場に参席された方も多いことと思います。
人にとって、食べること、見ること、聞くことは、大きな満足と刺激になるものと思います。おいしいものを、より一層おいしく食べられるようにと、私たちのために音楽でお力添えいただく金康燮(キムカンソプ)KBS軽音楽団団長とその団員の皆様に、拍手で感謝の意を表しましょう。また今晩、お客様をもてなすために御苦労される朝鮮ホテルの係りの皆様にも、心から感謝申し上げます。
今晩、このようにお集まりになった皆様の前で、いったい私はどのような話をしようかと考えてみました。しばらく挨拶を申し上げて終えればよいのかもしれませんが、そのまま座ってしまえば、皆様が「文某に会ったら何か話をすると思っていたのに何も話さなかった」と、物足りなさを感じられるのではないかと思いますので、今から私の所見をしばらくお話ししようと思います。
昔から人類は、永遠にして不変の真の愛と理想と幸福と平和を思い描いてきたことを、私たちは知っております。しかし、今日私たちが生きているこの世の中とこの時代は、不信の世の中であり、混乱した時代です。このような中で、人間が願う要件を求めて成就することは、既に不可能な段階に直面していることを、私たちは直視しているのです。
人間は、できる限りの努力をしてみましたが、このような要件を充足させられない現在において、私たち人間によってはこれが成就できないとすれば、人間を超えた、永遠不変で真の絶対者を探し求め、そのお方に依存する以外にないのです。そのお方が、真の愛、真の理想、真の平和、真の幸福を念願されるなら、そのお方を通してこそ、それが可能になる道があると、私たちは考えざるを得ません。そのような立場で考えるとき、そのようなお方がおられるとすれば、そのお方は神様でないはずはありません。
神様は、愛の王となるお方であり、理想の王となるお方であり、平和と幸福の王となるお方です。そのお方を通して、このように人類が追求してきた理想的な要件を成就するためには、そのお方が提示する内容を私たちが知って、それに従っていかなければならない、という結論を下すことができるのです。これは当然の結論です。
私たちが考えてみても、愛や理想、幸福、平和というものは、独りで成立するものではないことを知っています。それは必ず、相対的な関係において成立するものなので、いくら神様が絶対者としておられたとしても、その神様が望む愛と理想と幸福と平和は、神様お独りでは築くことができないのです。神様御自身にも、必ず相対が必要だということは、必然的な帰結なのです。
それでは、「いったいこの被造万物の中で、神様の対象になるそのような存在がどこにあるのか」と反問すれば、それは言うまでもなく、人間以外にはないと結論を下すことができます。神様の理想を成就することができ、神様の愛を完成することができ、神様の幸福と神様の平和を完結できる対象が人間であるという事実を、私たちは想像もできなかったのです。神様お独りで愛そうとしても何にもならず、神様お独りで理想を得ようとしても何にもならず、神様お独りで平和で幸福に暮らしたからといって、それで何だというのでしょうか。必ず相対となる人間を通さなければ、このような要件を成就できないことは当然の結論です。
このように考えてみるとき、私が皆様に一つ尋ねてみたいことは、ここに著名な方々がたくさん来ておられますが、皆様が若い頃、自分の結婚相手を選ぶ時に、劣った人を願ったのか、それとも優れた人を願ったのかということです。このように尋ねれば、皆様は誰もが、「優れた人を願った」と答えるでしょう。また、ある美男と美女が結婚して赤ん坊を生んでみると、両親の顔に比べて不器量な赤ん坊だったとしても、その赤ん坊を眺めながら、「この赤ちゃんは、お父さんやお母さんよりも良い顔立ちをしている」と言えば、その父母は、耳の下まで口が裂けそうになるほど満面の笑みで喜ぶのです。
このような事実を考えてみると、「いったい人間は誰に似てこのようになったのか」ということを、私たちは考えざるを得ません。人はあくまでも結果的な存在であって、原因的な存在ではありません。結果的な存在がそうだとすれば、原因的な存在がそのような内容をもっているために、そのような結果になったというのは当然の結論です。ですから、私たち人間が神様に似たために、そのようになっているという結論が出るのです。
神様に「あなたの対象である存在が神様よりも立派であることを願いますか、劣ることを願います力」と質問すれば、神様もやはり「対象的な存在が自分よりも立派になることを願う」と答えざるを得ないでしょう。したがって、私たち人間も、自分の息子、娘が、自分よりも立派になることを願わざるを得ないというのは、当然の結論なのです。私たちが単に人間自体を見るときには何でもないようですが、このような原則を通して見るとき、私たち人間自身は、本来、神様よりも立派になることを願われ、神様よりも価値あることを願われた存在であるという事実を、私たちは今まで知らなかったのです。
今日の既成の神学では、創造主と被造物は対等な立場に立てないと言います。もしそうであるとすれば、その創造主の前に、愛の実現、平和の実現、理想の実現ご幸福の実現は不可能なものになってしまうのです。
このような立場から見るとき、本然の人間は、神様よりも価値があり、より立派になる、そのような対象の資格をもった存在であり、子女の価値と資格をもった存在であることを、今日の私たち人類はついぞ考えたこともないのです。
このような観点から、今晩ここに参席された皆様は、私たち自身が今から神様のみ前に対象として立つのはもちろんですが、神様の対象として高い価値をもっており、より高い子女の価値をもっているという事実を、肝に銘じなければなりません。
ですから、もし神様が永遠であるとすれば、私たち人間も、地上で一時存在したのちに無になってしまう、そのような存在ではありません。地上で暮らす私たち人間も、愛する対象に対しては、一時いたのちに無になってしまうことを願う人は誰もいないことを知っています。愛する子女と離れて暮らすことを望む人はいません。このように見るとき、神様が永遠であり、唯一であり、絶対的であられる以上、神様の対象である私たち人間自体も、永遠であり、絶対的であり、唯一の価値ある存在でなければならないのです。これは極めて理論的な結論であると言わざるを得ません。
ここに参席された多くの先生方の中には、宗教を信じず、信仰生活をしない方々がいらっしゃるかもしれませんが、このような理想的要件を中心として、神様がおられ、その前に私たちは対象の価値をもった存在なので、神様がそうであられるなら、私たちも神様のように永遠の存在にならなければならないのです。ですから、永生するという言葉は妥当な結論です。今晩ここに参席された皆様が、このことさえ記憶されるならば、皆様の生涯において、より生き甲斐のある人生が始まると思います。
そうだとすれば、知恵の王であられ、全体の中心であられる神様は、真の理想や真の幸福や真の平和といったものの起源を、主体と対象、この両者の間のどこに置くのでしょうか。これが問題にならざるを得ません。主体がある一方で対象があるのですが、主体のために生きる道と対象のために生きる道、この二つの道の中で、神様は理想の要件をどこに置くのかということが問題にならざるを得ないのです。ですから神様は、真の理想、真の愛、真の平和を築くに当たって、対象が主体のために生きるところにその理想的な起源を置くのか、反対に主体が対象のために生きるところにその起源を置くのか、という問題を考えられたのです。もし神様がその理想的な起源を「主体である自分のために対象が生きよ」というところに立てたならば、すべての人も、「私のために生きなさい」という立場に立ったでしょう。
そのようになれば、一つになる道が塞がれ、分裂してしまうのです。一つになることができ、平和の起源となる道は、神様御自身のみならず、真の人間は、ために存在しなければならないという原則を立てるところにあるのです。ですから、真の愛、真の理想、真の平和、真の幸福などは、ために生きるところから離れては見いだすことができません。これが、天地創造の根本原則だったという事実を、私たち人間は知りませんでした。
真の父母とはどのような人かというと、子女のために生まれ、子女のために生き、子女のために死ぬ人であると言うことができます。そのようになってこそ、真の父母の愛が成立するのであり、真の子女の前に理想的な父母として登場できるのです。さらには、子女の前に平和の中心になるのであり、幸福の基準になることを私たちは知ることかできます。
一方で、真の孝の道は、どこに基準を立てなければならないのでしょうか。その反対の立場です。父母のために生まれ、父母のために生き、父母のために命を懸けて尽くす人が真の孝子になれるのです。このようにしてこそ、父母の前に理想的な子女となり、心から愛することのできる子女になり、幸福と平和の対象になることができるのです。このような基準から見ると、私たちがここで一つの公式を提示すれば、ために存在するところでのみ、このような理想的な要件、すなわち真の愛、真の幸福、真の平和を見いだせることが分かると思います。
それでは、真の夫とはどのような人でしょうか。生まれるのも妻のために生まれ、生きるのも妻のために生き、死ぬのも妻のために死ぬという立場に立った夫がいれば、その妻は、「夫は真の愛の主人であり、真の理想の夫であり、真の平和と幸福の主体としての夫に間違いない」とたたえざるを得ないのです。その妻の場合も同じです。この公式を大韓民国に適用してみれば、大韓民国の真の愛国者とはどのような人でしょうか。このように質問をしたならば、国のために生まれ、国のために生き、国のために困難な環境をものともせず、上は王のために、下は民のために生き、黙々と命を捧げた李舜臣将軍のような方を挙げざるを得ないのです。
また、範囲を世界に広げ、歴史路程において、聖人の中で誰が最も偉大な聖人かと尋ねれば、私たちはこの公式を適用して、その人をすぐに探し出すことができます。その方は、誰よりも人類のために生きた人でなければなりません。ここにキリスト教を信奉しない方も参席されていると思いますが、私の知るところでは、人類のために来て、人類のために死ぬだけでなく、自分が憎んで当然の怨讐、自分の命を奪う怨讐のためにまで祈ってあげたイエスキリストこそ、歴史上にない聖人の中の聖人と見ざるを得ないことを、この公式を通して結論づけることができるのです。このように、宇宙創造の原則と人間の幸福の起源が、ために存在するところから始まったことを、私たちは考えなければなりません。
例をもう一つ挙げると、男性がなぜ生まれたかと尋ねてみれば、きょうここに著名な方々が大勢集まりましたが、多くの男性の方々は、「私自身のために生まれた」と考えやすいのです。自分は自分のために生まれたと、今まで考えてきたはずです。本来、男性が生まれた本意がどこにあるかというと、実は、女性のために生まれたのです。女性のために生まれたという事実は、誰も否定できません。
相対的な立場から見ると、男性は肩幅が広く、女性は腰のほうが広くなっています。ニューヨークのような所に行ってみると、地下鉄が満員の時に窮屈な椅子に座っても、上が広い男性と下が広い女性が座れば、ぴったりと収まるのを見掛けるのです。そのようなことを見ても、互いがために生きる相対的関係を形成するためにこのように生まれたことを、私たちは否定できません。男性は男性のために生まれたのではなく、女性のために生まれました。また、その反対に、女性も女性のために生まれたのではなく、女性も男性のために生まれたのです。
このような事実を自らが確信できないところで問題が勃発することを、私たちは知らなければなりません。これを天地創造の大主宰であられる神様が、創造の原則として立てたので、その原則に従っていかなければ、善で、真で、幸福で、平和な世界、愛と理想の世界に入ることはできないことを私は知っています。
皆様はよく知らないと思いますが、私は霊的体験、すなわち、霊界に関する内容を体験する機会がたくさんありました。神様がいらっしゃる本然の世界、今日、宗教で言う天国や極楽といった所の構造が、何を基準としてできているのかと尋ねるならば、答えは簡単です。神様のために存在する人たちだけが入る所であり、ために生まれ、ために生き、ために死んでいった人々が入っていく所です。それが私たちの本郷の理想的な構造なので、神様は、人間がその世界に訪ねてくることができるように、歴史過程で数多くの宗教を立てて訓練してこられたのです。
なぜ、宗教人は温柔、謙遜でなければならず、犠牲にならなければならないかといえば、本郷の法度がそのようになっているからです。本郷に入っていく時に備えて、その本郷に適合するように、地上生活の過程で訓練させざるを得ないので、高次元の宗教であるほど、より次元の高い犠牲を強調し、奉仕を強調するのです。その世界に一致させるという理由から、そのように強調せざるを得ないのです。
このような事実から推測してみるとき、歴史の進行過程で神様が摂理してこられたことを是認せざるを得なくなります。聖書がどんなに膨大な経典から成り立っているといっても、たった一言、「ために存在する」というこの原則にすべて一致するのです。
イエス様は「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)と語られました。このような逆説的な話をされたのも、結局は、本然の世界の「ために存在する」という原則に一致させるための方便にすぎないことを、私たちは気づくのです。
それでは、神様は、なぜ「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったのでしょうか。そのいくつかの要因を挙げてみます。私たちの本心を推し量ってみるとき、ある方が自分のために心から命を懸けて尽くしてくれた事実があるとすれば、皆様の本心はそれに報いるときにどのように言うでしょうか。一〇〇パーセント世話になったとすれば、「およそ五〇パーセントはポケットに入れて、残りの五〇パーセントだけお返ししなさい」というでしょうか、それとも、「一〇〇パーセント以上お返ししなさい」と言うでしょうか。そのように問うならば、私たちの本心ははっきりと答えるでしょう。「一〇〇パーセント以上お返ししなさい」と言うのです。
言い換えると、Aという人にBという人が、一〇〇パーセントだけお世話になったとすれば、Bはこれに報いるのに一〇〇パーセント以上を返すのです。そうするとAは、一〇〇パーセント以上返してくれたBに対して、パーセンテージをもっと高めて返したいと思うのです。このように与えて受けるところにおいて、与えて受ける度合が高まれば高まるほど、だんだんと多くなるので、そこから永遠という概念が設定されるのです。
永遠という概念、これは自分のために生きるところでは不可能です。運動するのを見ても、押してあげ、引いてあげるそのような相対的な方向が大きければ大きいほど、早く回ることが分かります。知恵の王であられる神様が、「ために生きよ」という法度を立てたのは、永遠に発展させるためなのです。その原則を知っておられるので、「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったことを、私たちは考えなければなりません。
それのみならず、永遠の概念が成立すると同時に、そのようになれば永遠に発展し、永遠に繁栄するのです。現在の位置から前進し、発展するのです。現在の位置で発展的な刺激を感じることができてこそ、幸福になるのです。そのような要件をもっているので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得ませんでした。
もう一つ、要因を挙げてみましょう。ある家庭で一番下の弟が、その十人の家族のために誰よりもために生きるなら、幼い弟であっても、父母も彼を前に立たせるようになり、兄弟も彼を前に立たせるようになるのです。そのようになることによって、日が経てば経つほど、家庭のために存在するその弟は、自動的にその家の中心存在として登場するようになるのです。
神様がこの宇宙を創造されて以来、神様御自身が、ために存在するがゆえに万宇宙の中心として存在するように、ために存在する神様に似たそのような人が、いくら幼い弟であっても、いくら小さな息子であっても、彼は間違いなくその家系を中心として、中心的な立場に出るのです。今日、私たちはこれを知りませんでした。
ために生きるところから自分自らが後退するのではなく、ために生きれば生きるほど、その人は中心存在として決定されるのです。神様がそうなので、そのような立場に立った人は、神様が中心存在として立てざるを得ないのです。それだけではなく、そのような立場でのみ、理想的統一、完全統一を成就させることができるのです。
今日、他人から主管されることは死んでも耐えられない、そのような人たちが多いことを、私たちは知っています。特に高名な有識者の人たちに、そのような姿を多く見掛けます。しかし、一つ知らなければならないのは、ために存在するその方に主管されて生きることが、どれほど幸福なのかという事実を、夢にも思わなかったということです。千年、万年、支配されても感謝するそのような理想的統一圏が、その場で成立することを知っているので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったのです。
もう一つの要因は、今日、皆様は「愛は私の愛である。理想は私の理想である」と思っています。しかし、そうではありません。愛は自分から始まるものではなく、理想も自分から始まるものではありません。生命よりも貴い愛と理想は、もっぱら対象から得ることができるのです。今日、私たちは、そのようなことを思ってもみませんでした。
この高貴な愛と理想を受けることができ、それを得ることのできる存在が対象です。ですから、私たちが謙遜にその高貴な愛と理想を受け入れようとすれば、最もために生きる立場に立たなければなりません。そうしなければ、それを受けることができないので、神様は「ために存在せよ」という原則を立てざるを得なかったというこの一つの事実を、今晩ここに参席された皆様は記憶してくださるようにお願いします。
よく世の中では、「ああ!人生とは何か」と言います。このように私たち人間には、人生観の確立、国家観の確立、世界観の確立、さらには宇宙観の確立、神観の確立が問題になるのです。それがどのようになっているのかということです。系統的な段階の秩序をどこに置くべきであり、その次元的系列をどのように連結させるのかという問題は、最も深刻な問題なのです。
ために存在するというこの原則に立脚して、私たちの一生について見るとき、最も価値ある人生観は、自分が全人類のためにあり、全世界のためにあり、国家のためにあり、社会のためにあり、家庭のためにあり、夫のためにあり、妻のためにあり、子女のためにあるという人生観なのです。そのような立場で幸福な自我を発見できるなら、これ以上の人生観はないと思うのです。国家自体についても同じです。理想的国家はどのようにならなければならないのでしょうか。「国のためにだけ存在せよ」という国は、悪い国として指弾されてきたことを、私たちは歴史を通してよく知っています。しかし現在、全世界の国家の中で、世界のための政策を展開している国は一つもありません。
皆様もよく御存じのように、今日の共産主義世界は決裂する状況になりつつあります。一九五七年を一つの起点として、共産主義世界が分かれた原因はどこにあるのでしょうか。それはソ連を第一とした共産主義が、スラブ単一民族を中心として世界制覇を夢見たからです。自分の民族だけのために生きる共産主義として登場したので、決裂が起こったことを私たちは知っています。
今日のアメリカも、民主主義の主導国家の立場から没落しつつある実情を私たちは直視しています。なぜそのようになったのでしょうか。世界のために生きる民主国家になるべきアメリカであるにもかかわらず、世界を捨てて自国だけのために生きようとするアメリカになったからです。今や後退の一途に立つたアメリカは、自らの力だけでは収拾する道がないと思われます。
このような問題について見てみるとき、今日、韓国でもう一つの国家観の確立を提唱しているのを見ますが、アジアにおいて韓国だけを第一とした国家観を確立すれば、それは歴史の一時代と共に流れていってしまうのです。ソ連共産党がそうであり、アメリカ自体がそうです。今日、大韓民国はこのように国は小さく、少数の民族ではありますが、世界のために生きる民族思想をもつならば、万一、国の形態がなくなったとしても、二十一世紀や二十五世紀、あるいは三十世紀になって、韓国はきつと世界を指導するでしょう。このような公式的帰結によって、私たちは結論づけることができるのです。
真の国家とは、世界のために生きる国家です。また、真の世界とは、世界のためだけに生きるのではありません。その世界自体は結果的な位置にあるので、動機の起源となる絶対的な神様がいるとすれば、その神様の観点と一致する思想的体系をもたなければならないのです。自分のために生きる内容の思想をもっていては、世界を指導し、解決していくことはできないと見るのです。家庭の天国とは、どのようなものでしょうか。妻が夫のために一〇〇パーセント存在し、夫が妻のために生き、彼女のために死ぬという立場に立つとき、その家庭こそが天国に違いないのです。
格言に「家和万事成」という言葉があります。国が栄えるのも同じです。国を治める主権者は、自分の存在の価値が、自分の主権を行使するところにあるのではなく、国民のために生きるところにあり、その国民は、国民自体のためよりも国のために生きるところにあるのです。そのようになった場合には、その国は天国になります。このような公式的な原則を拡大していくことによって、国家と民族を超越し、互いにために生き合う世界を築くならば、その世界が正に私たち人間の願うユートピア的な愛の世界であり、理想の世界であり、平和の世界であり、幸福の世界であることは間違いありません。ために存在するというこの原則をもって進んでいくならば、どこにも通じない所はないのです。
私がアメリカに行って、短い期間で問題を提起し得た動機はどこにあったと思いますか。私は韓国人ではありますが、アメリカ人以上にアメリカを愛したところにあるのです。私は夜も昼もこの国のために血と汗を流し、アメリカの若者たちが崇高な思想をもてるようにするにはどうすべきかと考えながら努力したこと以外にはありません。私はために食べ、ために活動し、ために生きてきました。そのように生きてみると、個人とぶつかればその個人と一つとなり、団体とぶつかればその団体と和合するようになるのを見てきたのです。
皆様はよく知らないと思いますが、今回の国連総会を中心として、韓国の問題がかなりの苦境に陥ったことを、私は知りました。私が知るすべての組織を動員して情報を得たのです。国連総会の議長からその補佐官、それから、そこに参席した各国の大使とオブザーバーたちが評価するのを総括的に見てみると、韓国の問題は既に希望がないということが決定的だったのです。
私は今まで個人的に見るとき、宗教指導者として、あるいは統一教会を創設し、指導してきた責任者として、「統一教会自体は統一教会のためにある教会になってはならない。統一教会は国家のためになければならない。国家のみならず、世界をリードできる国家となるように導かなければならない」と思ったのです。説明も必要なく、宣伝も必要ないと思いました。
私は三十数ヵ国の宣教師を集め、三十四人の各国の代表者を選出しました。そして、日本の女性三十四人を彼らに付けて、六十八人のメンバーを国連総会に投入しました。一対一で、一人一人を捕まえて説得作業をしたのです。その内容とは何でしょうか。ほかでもありません。言葉が達者だからでもありません。「あなたたちは精誠の限りを尽くして彼らのために生きなさい!会えば食べることから、話すことから、彼らのために努力しなさい一と言ったのです。
そのようにして、四十日の峠を越えると、彼らは私たちの活動に感服するようになりました。私が宗教を指導する一人の責任者として、韓国に対する世界の世論がどんなに不利だとしても、五十ヵ国の大使たちから北朝鮮の日本人妻の自由往来を推進するこの問題にサインさえもらうことができれば、間違いなく韓国の問題は勝利すると見たのです。そのような話をしても、彼らは信じませんでした。
国連総会には、世界の知性ある人たちが集まります。私たちの若者たちが行って、畏れ多くも彼らに対して口を開く自信がありませんでした。しかし、真心からために生きる立場で、そこをどこかの国の事務所ではなく、自分の事務所と思って、そこに行けば掃除をしてあげ、夜遅くまで、彼らを手伝えることなら夜の一時、二時でも意に介さずに車を動員する、そのような活動を背後で展開したのです。
皆様は御存じだと思いますが、テリータウンという所に私たちの迎賓館があります。ベルべデイアという所を中心として、夜には七十ヵ国の大使たちを招待しました。そのように活動したところ、結局、彼らは完全に私たちの側へと引き込まれ始めたのです。そのような過程で明らかになったことですが、北朝鮮は既に第三世界圏、アフリカ地域の低開発国である国々に対して、国連総会でサインすることをすべて決定してきたというのです。彼らが秘密裏に語った内容を総合してみると、北朝鮮は既に五万ドルから十五万ドルに相当するお金をすべて支払い、決定した上で来たので、北朝鮮は、国連に派遣する代表団に対して勝利の祝杯を挙げて、派遣したことを知りました。
しかし、世界のために奉仕し、涙を流し、夜を明かしながら切実に事情を通告したあとの結果は、韓国の問題において、韓国の提案が六十一対四十二、北朝鮮の提案が四十八対四十八で、私たち韓国に勝利がもたらされたのです。私が、このような事実をお話しするのは、皆様に自慢しようというわけではありません。想像もできない奇跡が、この原則の基準に立脚して起こることを、私は生涯を通してたくさん体験してきました。
皆様。いったい統一教会とは何でしょうか。多くの神学者たちが歴史時代を経ながら、ローマカトリックとギリシャ正教を糾合しようと努力しましたが、全く糾合できませんでした。また、たくさんのプロテスタントが統合しようとしましたが、四百以上の教派に分かれました。このような実情にあるのですが、統一教会がいかにして宗教を一つにできるのでしょうか。
このようなことについて考えてみれば、文某という人は頭が少し足りないのではないかと考えるかもしれませんが、問題は簡単だと思います。統一教会員がキリスト教の牧師よりもキリスト教信徒を愛し、信徒たち以上にその牧師を愛することができれば、宗教を統一することが可能なのです。
今日まで、統一教会は二十年の歴史を過ごしてきました。皆様は、統一教会に関する様々なうわさと論難の言葉を聞いていることと思います。統一教会は、地で踏みつけられましたが、そこから世界的発展をしてきました。どのようにして発展したのでしょうか。民族が背反するときに、世界に向かっていく道があることを知りました。民族が行くべき正道は世界のために行く道なので、この道が間違いなく天理の原則であり、万民が行くべき共通の公式であれば、世界がそれを理解するようになるとき、この民族が自動的に理解するようになるという、このような原則に基づいて、血のにじむ迫害の中で、私たちは海外宣教を展開してきたのです。
例を挙げて話すならば、日本を開拓するようになったのは、今から十七年前の自由党の時でした。しばらく、梨花女子大事件によって、文某という人間の評価は地に落ち、どうしようもない時でしたが、私は、日本の情勢が今後どのように回っていくのかを知り、アジアの情勢がどのように回っていくのか、私なりに感じたところがありました。
ですから、法治国家の一国民として、当時においては違法になるかもしれませんが、十年ないし五年のちには必ず大韓民国が、私たちを必要とする時が来ることが分かったので、私が犯罪人の烙印を押されたとしても、この道を断行する以外にはないと考えたのです。正に一九五六年、皆様も御存じのように、西大門刑務所から釈放され、忠清南道の甲寺に休養に行っているとき、そこに来ていた若い青年を呼んで、「あなたは日本のために密航するのだ。男が決めた道は、死を覚悟して行かなければならない」と訓戒したのです。
一九五五年十月に私が監獄から出てきてみると、その当時の統一教会の拠点はなくなり、一間の家までなくなってしまった立場でしたが、私は、国のため、アジアのために借金をして、一九五八年七月に宣教師を出発させました。そのような出来事がついきのうのことのようです。日本の統一教会は、そのような状況から出発しました。宣教師は逮捕され、収容所に拘禁されました。その人も大変なことになったのです。先生と固く約束をしたのに、基盤を築くどころか、牢屋の身になってしまったのですから、誰に哀訴するというのでしょうか。哀訴するところがないので、わざと体調を悪くさせたのです。そうして入院手続きをして、入院したのちに病院から脱出し、東京に行って始めたのが、今の日本統一教会です。
今では、日本の主要な政党が、私たちに諮問を要請する段階に入ってきました。彼らは国家の重要なことがあると訪ねてきますが、そのようになる段階にまで引っ張り上げたのです。そうしながら、この原則は天理が立てた原則であり、この原則どおりに押し進めていけば滅びないと教えました。この原則を知ったので、日本統一教会の若い青年男女の信徒たちは全国に広がり、「国家のための統一教会にならなければならない。アジアのための統一教会にならなければならない。さらには世界のための統一教会にならなければならない」と言って活動していくと、今日においては、日本国内でも知られるようになったのです。
きょう、私が公式の席上で皆様にお会いして、このようなお話をするのは、統一教会の二十年の歴史において初めてです。私は、北米大陸を駆け回りながら残念に思いました。「この孤児のようなかわいそうな男は、信じない自分の国に後輩たちを残したまま、異国の国民の前に来て、信仰を願わなければならない哀れな立場にいるが、神様はこのような者を立てて役事されたのだから、私に協助される神様は御存じだろう」と思い、ひたすら神様にしがみついて力を尽くしてきました。結果は、名実共に新しい創造の歴史を招来するようになったことを体験したのです。
今晩ここに参席されている皆様も、「どのような人が悪の人であり、どのような人が善の人か」、これを何で测定するかということが問題だと思います。しかし、それは簡単なことです。その人がいくら宗教人であっても、「その人は天国に行くか、地獄に行くか」ということを何で測定できるのでしょうか。自分のために生きてきた生涯が多ければ、彼は地獄行きです。他のために生きた生涯が、自分のために生きた生涯よりもーパーセントでも多ければ、彼は地獄を越えて天国に向かう道に立つのです。ところが、自分のために生きた比率が高い場合は地獄に行くのです。
御高名な諸先生方。今まで私たちは大韓民国の国民の一員として、この国のために貢献してきました。各自、自分の置かれている位置で貢献してきましたが、それは誰のためのものだったのでしょうか。全国民が各分野において、このような思想で革命をした場合には、いくら大韓民国が悲惨だったとしても、希望があるのです。家庭でそうであり、社会でそうであり、為政者から、あるいは、団体の指導者から、この民族の精神風潮がこのよな思想からなった場合には、この民族は絶対に滅びないのです。必ずこの民族はアジアに影響を及ぼすはずであり、世界に影響を及ぼすと思います。
このような観点から、私たちがいかにして理想的な体制を、一つの公式を通して探し出すことができるのかということを、結論的にお話しすれば、夫は妻のために生き、妻は夫のために生き、その夫婦は子女のために生き、家庭は氏族のために生き、その氏族は民族のために生き、その民族は国のために生き、その国は世界のために生きる、そのような国になった場合には、この国は滅びません。
神様がいらっしゃるならば、そのような人を求めるのです。神様は、世界万民を子女にしたいと思うのです。ですから、神様の目的は世界の人類を救うことです。さらには、宇宙を救うことです。国家や単一民族圏の枠を超えることのできないような宗教は、神様の全体のみ旨の前に立つことはできないでしょう。
神様は世界を救うことが主目的なので、それが可能な段階へといかに次元を高めて発展させるかという問題を考えてみるとき、原則は簡単です。家庭は氏族のためにあり、氏族は民族のためにあり、民族は国家のためにあり、国家は世界のためにあり、世界は神様のためにあればよいのです。そして、世界のために生きる人間でなければ、全宇宙を創造された全知全能であられる神様の子女となる資格はないのです。世界が神様のために生きる立場に立つならば、神様は世界のために生きる立場に立つのであり、国のために生きる立場に立つのであり、民族のために生きる立場に立つのであり、氏族のために生きる立場に立つのであり、家庭のために生きる立場に立つのです。
この話を別の言葉に言い換えると、自分のものは妻のものであり、その夫婦のものは家庭のものであり、家庭のものは氏族のものであり、氏族のものは民族のものであり、民族のものは国家のものであり、国家のものは世界のものだという観念をもったその世界は、結局、神様のものになるのです。神様のものであれば、それは誰のものでしょうか。「私」のものになるのです。そのような立場に立ってこそ、皆様の欲望を最高度に達成する立場に立つようになります。
皆様。そうではないでしょうか。人は誰しもが、「世界一になりたい」という欲望をもっています。そのような価値のある存在となるので、万有の中心である神様のものが、初めて「私」のものになり、そのような栄光の立場に人間は立つことができるのです。このように見るとき、ために生きるところでのみ、家庭天国の実現が可能であり、国家天国の実現が可能であり、世界天国の実現が可能なのです。それだけではなく、神様も人類と共に、「幸福で、理想的な園だ」と言いながら、踊って歌うことのできる世界へと連結されるのです。そのようなものが、正に宗教が目的とする天国であり、そのような天国が地上で築かれるので、そこが正に地上天国であるという結論が出るのです。
皆様。きょう、このような晩餐会を通して「ために存在する」というこの原則を心に刻んで、今からお帰りになりましたら、家庭や職曝から、そのように実践する皆様になってくださることを願います。そのように暮らす自分を発見した場合には、皆様はより満ち足りたあすの希望をもつことになり、あすの開拓者としての中心的な責任を堂々と果たす自分を発見するでしょう。
どうか、そのような皆様になってくださることを願いながら、皆様の家庭と皆様の社会とこの国に、より一層の神様の祝福があることを願います。「ために存在する」というテーマについて、今晩の挨拶に代えて皆様にお話ししました。これで私のお話を終えようと思います。
4.人類の新しい未来
平和経 第一篇
真の平和の根本原理
4.人類の新しい未来
日付:一九七五年四月十四日
場所:韓国、ソウル、獎忠体育館
行事:「希望の日」韓国九ヵ都市巡回講演
今晩、このようにお集まりいただいた紳士淑女の皆様に、心から感謝申し上げます。きょう、皆様と共に考えてみようと思うテーマは「人類の新しい未来」です。
現在、私たちは混乱した世界で暮らしています。中世以後、没落し始めた神本主義時代を経て、今は人本主義時代です。それのみならず、物本主義ともいえる唯物主義時代に置かれているのです。このような混乱した状況を経ながら、誰も明確な内容を提示できなかったために、今日、人類は脱イデオロギーという収拾し難い状況を迎えています。
今、問題となるのは、人がいないことでも、物質がないことでもありません。それは、神に対する明確な観が現れないことです。明確な神観を通して、人生観や歴史観を新たに設定しなければ、人類世界の新しい未来は現れることはないと思います。私たちがはっきりと神様を知るならば、中世に没落し始めた不明確な神観、現世の人本主義思潮、唯物主義思潮のすべての問題は解決すると思うのです。
ですから、神様は存在するかしないかということが問題にならざるを得ません。今晩、皆様に忘れ難い印象をいかに残してあげるかを、私は考えざるを得ません。
人間は今まで、真で永遠不変な愛と理想と幸福と平和を期待しない時がありませんでした。変わる人間を通しては、このような理想的な要件を成就させることはできません。これは、今日私たちが現時点において処している世界の状況を見つめてみれば、如実に証明される事実です。このような時に、絶対的で、永遠で、唯一で、不変であられる神様がいらっしゃるならば、そのような神様によって、新しい見地から、真の愛、真の理想、禀の平和、真の幸福の起源を求めざるを得ないのです。そのような立場から、神様御自身から見る神観、神様御自身から見る人生観、神様御自身から見る物質観、これを明確にするところから、新しい平和と新しい幸福の世界を私たちは迎えることかできると思うのです。
ここで問題となることは何でしょうか。いくら絶対的な神様だとしても、その神様お一人で愛や理想や幸福や平和というものを達成することは不可能です。愛や理想や平和や幸福といった言葉は、単独で成立する言葉ではありません。どこまでも相対的要件のもとで形成される言葉です。ですから、いくら絶対的な神様だとしても、その神様のみ前に相対がいなくなるときには、神様が願われる絶対的愛、絶対的理想、あるいは絶対的幸福、絶対的平和も成就しないという結論が出てくるのです。
そのような観点から見るとき、その絶対的な神様のみ前に対象的な存在として登場することができる存在とは何でしょうか。人間以外には、ほかの存在がいるとは考えられません。この人間だけが神様の理想を成就させることができる対象であり、神様の真の愛を完成させることができる対象であり、神様の幸福と神様の平和を完成させることができる対象の価値を備えているという事実を、私たちは考えもしませんでした。
神様は主体であり、人間は対象です。真の愛の王となることができる神様、真の理想の王となることができる神様、真の平和の王となることができるその神様のみ前に、対象である人間自体を見たときに、私たちは無限の価値をもった存在であることを知らなければなりません。
私が皆様に一つ尋ねてみたいことは、皆様が青春時代に、男性ならば男性が自分の結婚相手を選ぶ時に、劣った人を願ったのか、それとも優れた人を願ったのかということです。このように尋ねれば、誰もが、「優れた相手を願った」と答えるでしょう。また、ある父母に愛する子女が生まれるとき、自分よりも劣る子女が生まれるのを願う父母がいるかといえば、そのような父母はいないのです。自分よりも優れた子女、自分よりも立派な子女が生まれることを願うのが人間です。自分の相対や自分の子女が優れていることを願うのは、人間本性の欲求です。それは、人間が誰に似ているからでしょうか。人間はあくまでも原因的な存在ではなく、結果的な存在であることは否定できません。人間は自分の相対や自分の子女が優れていることを願うのです。それは誰に似ているからでしょうか。原因であられる神様に似ているので、そのように求めざるを得ないということは当然の結論です。
今日、人間は、自分の価値を取るに足りないものと考えています。「私など無価値な存在だ」と動物のように自分を扱う人がたくさんいます。きょう、皆様に一つ覚えておいていただきたいことは、神様は、皆様自身が神様よりも立派であることを願われているという事実です。このことを覚えてお帰りになれば、これは偉大な発見とならざるを得ないと思うのです。このような堂々とした人間の本然の価値を回復するところから、真の愛の世界へと行くことのできる道が生じるのであり、真の理想と真の幸福と真の平和の世界へと行くことのできる道があると思います。今までの神学者たちは、創造主と被造物は対等な位置に立つことはできないと考えてきました。
私たちは、「神様は愛である」と語っています。また私たちは、神様を理想的神様であると思っています。しかし、理想的であっても、一人でいてどうするのでしょうか。一人で幸福になれるのでしょうか。一人で平和や自由といったものがあり得るのでしょうか。このように見るとき、人間は本然の価値を喪失したのであり、本然の価値をもっていたならば、神様が尊敬する人間になっていたことは間違いありません。このような本然の価値を回復する人間の本性があるので、私たちは、最高の対象や最高の主体になることを願うのです。
堕落した人間たちの中で、自分の愛する対象の存在が、一年やあるいは十年ほどして消えてしまうことを願う人がいるでしょうか。愛を中心として対象は永遠です。永遠不変です。より次元の高い絶対的で唯一的な立場において、不変で絶対的な愛を求めるのです。堕落によって本然の価値を喪失した人間でもそのようなことを求めるのに、永遠不変で唯一の絶対者であられる神様が、その対象の存在がしばらく存在したのちになくなることを願われるでしょうか。それは願われないのです。神様は永遠のお方なので、その対象的な愛の存在である人間も永遠であることを願うのは、理論的な当然の結論です。
皆様が一つ、はっきりと悟らなければならないことは、人生は永遠でなければならないという決定的な結論です。そのようなレベルであってこそ、「人間が万物の中で最も貴い(万物之衆唯人最貴)」という言葉が成立するのです。ですから、人生は永遠でなければならず、人生は不変でなければならず、人生は絶対的でなければならず、人間は唯一的な存在にならなければなりません。なぜでしょうか。神様が主体なので、その愛と理想と幸福の対象である人間もそうでなければならないからです。
今、皆様は、主体と対象の関係において、理想の実現が可能であり、愛の世界が可能であり、また幸福の世界が可能であり、平和の世界が可能であり、真の自由の世界が可能であることを知りました。主体と対象の観念を、皆様は今はっきりと知ったのです。
私たちは今まで、天地創造の理想的起源をどこに設定するのか、という問題を考えもしませんでした。創造というその言葉自体は、何を意味するのでしょうか。すべてのものの投入を意味します。思いを形にするためには、それに相当する自分自体の力を投入しなければなりません。投入するところから存在が始まるのです。
主体と対象の関係について、神様が考えるならば、道は二つしかありません。一つは、神様を中心として対象が主体のために生きる道と、もう一つは、神様御自身がその対象である人間を造って、人間のために生きる道、この二つの道しかありません。ここに神様の理想的根源地を設定しなければなりません。もし「主体となる神様に、対象的なすべての存在は絶対服従せよ。主体だけのために生きよ」と言う場合は、どうなるでしょうか。神様が男性的主体として存在されるように、男性と女性を中心として、男性が主体で、女性が対象であるならば、その男性が女性に「主体のために生きよ」と言えばどうなるでしょうか。ここには一つになる道が塞がってしまうのです。しかし、知恵の王であられる神様が、「対象のために生きよ」という立場を設定するときは、すべてが一つになることができるのです。ですから、天地創造の理想的起源は、「自分のため生きよ」というところに置くことはできず、「相対のために生きよ」というところに置かざるを得ないという事実を、今、私たちは知らなければなりません。
それでは、堕落とは何でしょうか。人間は神様のために存在するようになっており、また神様は人間のために存在するようになっています。互いのために存在する原則を立てました。しかし、このような原則から外れ、人間自体が自主的自我を自覚し始めたことが堕落です。言い換えれば、自分を中心としてすべて「ために生きよ」というところに自分自身を立てようとしたのです。ここから堕落の起源が生じました。天理原則から外れ出したのです。
人間が神様を手本として、神様から教育を受け、神様のために存在していれば、そこから理想世界の実現が可能だったにもかかわらず、そうすることができず、人間自体を中心として主体性を強調したので、堕落が起きたのです。このような事実は、聖書を通して如実に証されています。ですから、ここに一つの公式的結論を下すならば、「すべての理想的創造物は、ために存在する」という原則が成立するというのです。真の父母とは、子女のために生まれ、子女のために生き、子女のために死ぬ父母です。その父母は、息子にとって真の愛の父母であり、真の理想の父母であり、真の幸福の父母であり、真の平和の主体的な父母です。真の孝子がどこにいるでしょうか。人が生まれたのは、自分のために生まれたのではなく、父母のために生まれたのであり、生きるのは、自分のために生きるのではなく、父母のために生きるのであり、死ぬのは、自分のために死ぬのではなく、父母のために死ぬ、そのような人が孝子です。
それでは、男性が生まれるようになった理由は何でしょうか。男性自身のためではありません。女性のために生まれたのです。女性が良い服を着て、顔を化粧するのは、誰のためにするのでしょうか。自分のためにする女性がいるでしょうか。男性のためにするのです。女性が生まれるようになった理由は男性のためです。互いのために存在しているにもかかわらず、自分のために生まれたと考えるところから問題が起こるのです。
それでは、理想的な夫とは、どのような人でしょうか。いつも自分だけのために生きてほしいと考える人が理想的な夫でしょうか。違います。真の夫、真の妻はどこで見つけることができるでしょうか。男性が、妻のために生まれ、妻のために生き、妻のために死ぬというその立場でのみ、「ああ!理想的な夫であり、永遠不変の私の愛の主体である」と言うことができます。ですから、そのような夫をもつ妻は「私は幸せな妻だ」と言うことができるのです。またそのような家庭が平和の家庭に間違いないという話が成立します。しかし、「私のために生きてほしい」と考える夫をもつ女性は不幸であることを、私たちはよく知っています。このような観点から、ために存在するという原則を宇宙創造の起源として設定された知恵の王であられる神様を、私たちは高らかに称賛しなければならないのです。
私たちは、今ここで一つの結論を得ました。ために存在するところでのみ、真の愛は始まり、真の理想が始まり、真の幸福が始まり、真の平和は始まるという、この公式を、私たちはここで設定できるのです。神様がこのような宇宙創造の公式を設定したとすれば、この公式を通してこそ、神様が願われる愛も、神様が願われる理想も、神様が願われる幸福も、神様が願われる平和も可能なのです。それ以外に、これはあり得ないということは当然の結論です。
愛国者、偉人、聖人は最も大きなもののために生きる人この公式を適用すれば、真の愛国者とはいったいどのような人かというとき、彼は、生まれるのも国のために生まれ、生きるのも国のために生き、死ぬのも国のために死んでいく人です。すべてをその国とその国民のために生まれ、生きてから死んでいく人であるならば、その人は愛国者にほかならないのです。李舜臣将軍のような方が愛国者であることを、私たちはよく知っているのです。順位をつけるとすれば、よりために生きた人が優位になるのです。ですから、悲惨な立場で志操をもってよりために生きる心をもった人であればあるほど、その人はより次元の高い愛国者です。この公式を通した結論は、自動的な結論とならざるを得ません。
今までの歴史の過程で多くの偉人と聖人が生まれては死にましたが、いったい歴史の過程において最も偉大で、最も立派だった聖人はどのような人かというならば、この公式を通して、私たちはすぐに発見することができます。どのようなお方かというと、生まれるのも人類のために生まれ、生きるのも人類のために生き、死ぬのも人類のために死にながらも、誰の責任にするわけでもなく、人類のために福を祈ることのできる立場にいるとすれば、その人は歴史上のいかなる聖人よりも偉大な聖人にほかなりません。
ここには、キリスト教の信徒ではないほかの宗教の方たちも大勢来られていることと思います。イエス.キリストはどのような人なのか、ということを私たちはここで一度考えてみようと思います。イエス様は、万民のためにこの地に来ました。自分のために来たわけではありません。万民と神様のために来たのです。また、自分のために生きたのではなく、神様と人類のために生きました。そのような意味で、神様の天理法度に従って、良い時も悪い時も、ために生きる原則に一〇〇パーセント合格した方がいるとすれば、それはイエス様しかいません。ですから神様は、そのイエス様を保護し、キリスト教を発展させざるを得ないのです。したがって、キリスト教は、名実共に世界的宗教にならなければなりません。
私たちがイエス様のみ言を分析すれば、それは簡単です。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためである」(マタイ二〇・二八)と語られたのは、天倫の大道を明らかにするためだったことを知らなければなりません。ために生きてもらうためではなく、ために生きるために来たということです。それが本来、神様が創造された存在物の理想的起源なので、この起源を説き明かし、この起源に一致する生涯を歩んでいかれた方が、正にイエス様であることを、私たちは知らなければなりません。
新旧約の聖書六十六巻が、いくら内容が膨大だとしても、この一言に帰結するのです。「ために存在せよ」という言葉に尽きるというのです。「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三一二)という逆説的な論法が、天地創造の原則的起源を通して見るとき、真理に間違いないという寧実を、私たちはこれまで知らなかったのです。
霊界についてよく知らない方がたくさんいらっしゃると思います。私は、神様の特別な恩賜を受け、霊界に関する内容をたくさん体験しました。その世界の構造は、いったいどのようになっているのでしょうか。天国には、いったいどのような人が行くのでしょうか。神様の玉座に近い所に行く人は、いったいどのような種類の人でしょうか。自分のために生きた人は行くことができない場所です。理想的根源であり、創造の中心存在である神様御自身も、宇宙のために存在し、原則的な中心存在としていらっしゃるので、その天国の構造は簡単です。「ために存在する者だけが行くことのできる所である」というのは、当然の結論にならざるを得ません。
天地の大主宰であられる神様がいらっしゃる所が、私たちの本郷であり、本然の世界です。その本然の法度に適合できるように訓練するための場所が何でしょうか。宗教です。それでは、宗教の使命は何でしょうか。教権主義者たちのように、自分の教派のために生きることが、神様のみ旨ではありません。自分の教権を超えてでも、神様のために生き、人類のために生きる教派にならなければなりません。自分の教会のために生き、自分の教会のために戦うのではなく、サタンに対して戦い、人類のために行く教派にならなければなりません。
ですから、今日、宗教というものは、その本郷の世界に入っていくことができるように、その法度に合わせる訓練をする所なのです。ですから、歴史始まって以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教は、自分自らを否定する修行をしました。なぜ「犠牲になり、奉仕しなさい!」といったのか、今まで知らなかったのです。なぜ犠牲になり、奉仕をしなければならないのかといえば、本然の世界がために生きる本郷だからです。ですから、その世界に行くためには、そこに行ける訓練と準備をしなければなりません。したがって、高等宗教であるほど犠牲と奉仕を強く求めたのは、歴史時代に、神様が歴史過程を通じて摂理してきたものであることを、ここで知ることができます。
それでは、真の宗教とは、いかなる宗教でしょうか。それは簡単です。神様のみ旨のとおりに行う宗教です。神様のみ旨は何でしょうか。神様のみ旨は、宇宙を救うことです。言い換えれば、世界を救うことです。キリスト教の信徒たちは、これを知らなければなりません。神様のみ旨は、世界を救うことです。キリスト教を犠牲にしてでも、世界を救わなければなりません。それが神様のみ旨なのです。キリスト教の本然の使命は、神様のみ旨を成就することです。神様のみ旨を成就するためには、人類救済の責任を果たさなければなりません。それができないとすれば、審判台の前に立って、行くべき道を行くことができなくなります。私が探ってみると、そのようになっているというのです。
真の宗教はどこにあるのでしょうか。人類のために、自分の国はもちろんのこと、自分の教団や教会を投入できる宗教です。このような宗教は滅びません。私たちがわきまえて行くべきことは何でしょうか。国のために生き、世界のために生きるという原則によって見れば、真偽がはっきりと分かれることを、皆様は知らなければなりません。
神様はなぜ「ために生きよ」という原則を立てざるを得なかったのでしょうか。その内容と要因を、私がいくつかお話ししようと思います。真心から命を懸けて皆様を世話してくれた人がいたとしましょう。そこで皆様自身は、一〇〇パーセント世話になったとすれば、その世話に報いるために、五〇パーセントだけお返ししたいと思うでしょうか、それとも一〇〇パーセント以上お返ししたいと思うでしょうか。皆様の本心はいかがでしょうか。それは言うまでもなく一〇〇パーセント以上お返ししたいと思う本心があるので、今日皆様は、その本心に従って救いを受ける可能性があるのです。
ですから、知恵の王であられる神様は、ために生きる原則を立てざるを得なかったという事実を知らなければなりません。ために生きるときは、永生するだけではなく、繁栄するのです。そこから発展します。世話になると、その世話に報いるために適当にお返しするはずはありません。真心から命を懸けてそれ以上お返ししたいと思う本心をもっています。そのような心があるので、天国に行くことができるのです。
また、ために存在する原則を立てざるを得ない二番目の要因は何でしょうか。例えば、皆様の家庭に八人の家族がいたとしましょう。その八人の家族のうち、最も幼い弟が、家庭のために生きることにおいて、父や母、あるいは兄や姉よりも、その家庭のために生きるときには、どのような立場になるでしょうか。だんだんと高められ、中心的な存在として登場するようになるのです。
今日、宗教において教えてくれるすべての論理は逆説的なようですが、ために存在するこの原則に従って見ると、よりために存在すればするほど、より次元の高い中心存在になるのです。なぜ中心存在になるのでしょうか。ために生きる人は、万宇宙のために存在する神様に似ているからです。ですから、神様が自分に似た存在を、神様に代わる中心存在として立てるというのは妥当な結論です。心からために生きる主体の前に、心からために生きる対象となるとき、自然に中心存在にならざるを得ません。
今日、政治哲学で問題となるのは何でしょうか。支配者と被支配者の問題です。この問題をいかに解決するかということが今まで悩みの種でした。それがここで簡単に解決されるのです。よりために生きる立場に立った中心存在の支配を受け、主管を受けることを、今日の人間は恥ずかしいことのように思っていました。「人に支配されるなんて、たまらない!」と言いますが、とんでもないことです。心から自分のために生きてくれる人から完全に主管され、支配される立場が、どれだけ幸福な立場か、私たちは今まで考えもしなかったのです。
皆様が霊界に行けば、神様は、天地の中心存在としていらっしゃるので、そのお方に千年、万年、支配を受ければ受けるほど、それ以上の幸福はないことを知るのです。今日の私たちは、このことを知りませんでした。自分のために心から支配してくれる人、そのような方がいれば、そこに真の平和が存在するという事実を、私たちは全く知りませんでした。ために生きる存在は、中心存在になり、中心存在になることによって完全に統一的な環境をここから造成できるという事実を、私たちは知らなければなりません。
三番目の要因は何でしょうか。なぜために存在せよという原則を立てざるを得ないのでしょうか。今まで皆様は「愛」といえば、「それは私の愛である」と思いがちでした。「愛」といえば、それを皆様は自分の愛だと思っていました。いったい愛というのは、どこから来るのでしょうか。愛は自分から来るのではありません。理想も自分から来るのではありません。生命よりも貴く、何ものよりも価値のある愛と理想は、自分から来ることはないことを皆様は知らなければなりません。それは相対から来るのです。たとえ神様だったとしても、それは同じです。
このように相対が高貴であることを、今まで知りませんでした。ですから、生命よりも貴い愛と、生命よりも貴い理想は、どこから来るのでしょうか。自分からくるのではなく、相対から来るので、それを考えても、謙遜に頭を下げなければならず、ために生きよという法度を立てざるを得ないというのです。
文某という人は、再臨主という名前のゆえに、たくさんの被害を被った者です。統一教会とは、いったいどのような教会でしょうか。簡単です。「統一教会」という名前のとおり、教会を統一してみますか。教会を統一することができるでしょうか。ローマカトリックと分裂して以来、ギリシャ正教は約九百五十年の歴史をもっていますが、いまだに一つになれずにいます。プロテスタントも四百以上もの教派に分裂し、互いに批判し合いながら数百年間争ってきました。それを統一するとは、統一教会の文某という人は気が少し狂つているのではないかと思うかもしれません。しかし、それは簡単であるという結論を下すことができます。何を通して可能なのでしょうか。ために存在するこの原則を通して可能なのです。
それで、私がこのような論法によって、今まで三十年間、既成教会からありとあらゆる謀略や中傷を受けましたが、じつとしていました。愚かでじつとしていたわけではありません。天理の法度は、あまりに厳然として冷酷な原則をわきまえていく道であることを知っていたので、黙々と何も語らずにきました。あたかも神様のように、あたかもイエスキリストのように行かなければならないのです。
ですから、より次元が高い善のキリスト教の一人の生命が奪われれば、何百倍の損害賠償を請求し、打たれて取り戻してくるという天の作戦があることを私は知っていました。すべての既成教会が一つになって統一教会に反対したとしても、統一教会が善の立場であるときには、それを統一教会に損害賠償として渡さなければならないのです。理論的です。
神様は、個人を越え、家庭を越え、氏族、民族、国家、世界、さらにはこの天宙を越え、絶対的に神様のために生きるという一人の人、そのような一つの団体、そのような一つの民族、そのような一つの国家が現れることを願っていることを知らなければなりません。そのようなことを求めようとする神様のみ旨の前に、今日、統一教会は、そのような立場に進んでいこうと身もだえする姿であり、団体であることを記憶してくださることを願います。
ここにおいて、私たちは、理想が実現可能な段階的法則と公式の結論を下すことができます。夫は妻のため、妻は夫のため、父母は子女のために生きなければなりません。さらに、家庭は氏族や親戚のために生きなければなりません。また氏族は民族のために生きなければなりません。そして国家は、自国を中心として世界の国々を屈服させるのではなく、自国を犠牲にして世界のために生きようと考えなければならないのです。そのような国家を探し求めていることを知らなければなりません。
独裁者がほかにいるわけではなく、独裁主義帝国がほかにあるわけではありません。自国を中心として数多くの民族と国を踏みにじろうとし、あなたたちは私のために生きるべきだという、そこに神様の怨讐である独裁国家があるという事実を、皆様は知らなければなりません。
皆様も御存じのように、今日、共産主義は一九五七年を境界として、ソ連と中共が決裂し始めました。ソ連がスラブ民族だけのための世界共産主義を主張するようになり、そこから分裂するのです。永遠にソ連を宗主国とする共産主義を夢みたので、その共産主義は分裂せざるを得ません。しかし、ソ連共産主義が、世界共産主義のために犠牲になろうという愛をもつならば、中共とソ連は分裂しないのです。ソ連は、超民族的な思想基準の設定が不可能だったという事実を皆様は知らなければなりません。ですから、そこから崩れ始めたのです。
今日、民主主義の主導国家であるアメリカも、神様のみ旨から見た場合、どのように行くべきでしょうか。アメリカが民主主義の宗主国であるとすれば、民主主義を率いて世界のために生きることにおいて、アメリカを犠牲にしなければなりません。しかし、世界を捨てても、アメリカ自体のために生きる立場に立ったので、アメリカは今日、悲惨な状態で苦しんでいるという事実を私たちは知っています。このような観点から、今後、世界を指導する理想と思想はどこにあるのでしょうか。国家と民族を超越し、自分の民族を犠牲にしてでも、世界を救おうという国家と民族が現れるならば、その当時は悲惨な立場で犠牲になるかもしれませんが、二十五世紀や三十世紀以内のある時に世界が必要とする、そのような時が必ず近づいてくるのです。ですから、その時に至って、世界を指導する国家になることを皆様は知らなければなりません。
今日、大韓民国も、自国だけを中心とした大韓民国にしてはいけません。アジアのための大韓民国を誰が設定し、世界のための大韓民国を設定し、さらには、神様のための大韓民国を誰が設定するのかという問題が、今日、悲惨な中に置かれている韓国国民が、直ちに求めていくべき道です。
そのような意味で、統一教会は、教会を犠牲にしていきながらも、先端に立って共産主義と闘っています。民主世界の没落を防ぐために、血のにじむ犠牲を覚悟し、努力しています。自分の団体が犠牲になっても、この厳粛な思想を残す土台の上には、神様が必ず共にいらっしゃるでしょう。ガリラヤの海辺で民族の反逆者の罪を着せられ、三十代の育年として死んだイエス様が、世界を指導する民主世界を創建する国家観の思想をもっていたことを誰が知っていたでしょうか。同じ道理です。ですから、統一教会は黙々とこの道を整えていっているのです。
ここに世界二十五ヵ国からやってきた国際機動隊の隊員たちにも、「あなたは、自分の国よりも世界を愛しなさい」と教えました。これが神様の願う道であり、真の宗教の行くべき道なので、今日、彼らは、韓民族を自分の民族以上に愛する運動を提示するために韓国の地まで来たことを、皆様が記憶してくださるように願います。
神様は世界のために責任を負うことのできるその国を望んでいます。そして、世界のために自分のすべてを犠牲にできるその教会を望んでいます。そのことを皆様は知らなければなりません。もし皆様が神様に、「神様、あなたはキリスト教会、あるいは統一教会の神様になりたいですか」と尋ねるなら、神様は、キリスト教会の神様や、統一教会の神様になりたいとは思わないのです。世界の神様になりたいと思うのです。
より高い次元の道のために行く群れは、より高い次元の立場において、永遠に繁栄し、その環境において中心となり、自動的に主管することができるのです。そこから、天から臨む永遠の愛と永遠の理想を所有できることを知らなければなりません。ですから、夫は妻のため、妻は夫のため、また父母は子女のため、家庭は氏族のために生きることが公式的な生き方です。
ここから個人的人生観や国家観、あるいは宇宙観や神観にまで到達できる一つの公式が出されました。家庭は氏族のため、氏族は民族のため、民族は国家のため、国家は世界のため、世界は神様のため、神様は私たちのために生きることが理想です。皆様は、最高の神様が「私のためにいる」という立場、最高の神様の愛が「私のためにある」という立場に行ってこそ、平和と幸福、理想、真の愛が実現するのです。別の言葉で結論を下すならば、私のものは妻のもの、父母のものは家庭のもの、家庭のものは氏族のもの、氏族のものは民族のもの、民族のものは国家のもの、国家のものは世界のもの、世界のものは神様のもの、神様のものは私のものなのです。
このようなことが可能なその世界、個人でもために生き、家庭でもために生き、社会でもために生き、国家と世界的にもために生きることができる、どこに行ってもために生きることができるそのような所が、私たちの願う最高の理想郷です。理想郷なので、真の愛があり、真の平和があり、真の幸福があり、真の自由があるのです。そこが、私たちの願う理想世界です。
また、地上でそのような世界が展開し、神様を中心として一つになっているなら、そこは地上天国にならざるを得ません。堕落した人類は、そのような所を目指して前進しなければなりません。これが具現化された世界が起こるようになるとき、そこから人類の新しい未来、新しい希望の世界が展開されることを記憶してくださるように願いながら、私のお話を終えようと思います。
5.ために生きる生涯
平和経 第一篇
真の平和の根本原理
5.ために生きる生涯
日付:一九九一年四月二十七日
場所:ウルグアイ、モンテビデオ国立劇場
行事:カウサ創立十周年記念文鮮明先生歓迎大会
尊敬する貴賓、敬愛するウルグアイの「カウサ(CAUSA:南北米統一連合)」の会員、ならびに紳士淑女の皆様。美しいウルグアイの首都モンテビデオで、皆様と席を共にすることができましたことを、大変光栄に存じます。併せて、私の到着を熱烈に歓迎してくださったウルグアイの国民の皆様にも感謝を捧げ、特別に今日このように貴い場を準備してくださった皆様に、心から感謝を申し上げる次第です。
ウルグアイの「カウサ」創立十周年を記念するこの時点において、皆様の祖国ウルグアイのために、これまで十年間、最善を尽くして働いてこられた皆様の御功労を称賛いたします。特に、南米の中心部に位置し、ラテンアメリカ諸国の中でも重要な役割を担っている、このウルグアイを訪問することになったことは、何よりも意義深いことと思います。
この美しい皆様の国を、私が直接訪問することになったのは、今回が初めてですが、二十六年前、私が南米を初めて歴訪した時のことが思い出されます。その時から今まで、私はラテンアメリカを忘れたことがありません。過去数年の間、この地域の未来について案じ、特にラテンアメリカの人々の霊的救援に対して深い関心をもってきました。
今やアメリカ大陸発見五百周年を迎えようとするこの時に、私たちは、この大陸の根源がどこに由来し、現在はどのような状況に処しており、また将来はどこへ向かうのかということを、深刻に考えてみなければならない、歴史的で重大な時点に置かれていることに気づかされます。
私は、アメリカ大陸が十五世紀末まで、ヨーロッパの人たちに未知の世界として残されていたのは、決して偶然ではなく、神様の摂理による結果だったと思います。神様は、この大陸を、御自身の摂理のために準備してこられました。初めて大西洋を渡り、この大陸に定着した数多くの人々は、献身的な人々であり、神様を信じ、自由に礼拝を捧げることのできる国を建てたあと、この大陸の原住民にもイエス様の福音を伝え、新しい世界を創建しようとしていた勇士たちでした。
この大陸の原住民と、ヨーロッパから来た定着民との間に、統一と和解が形成されることが、神様のみ旨でした。そうして、新生国アメリカ大陸は、神様の名のもとに、すべての人種を和合させるモデル国家とならなければなりませんでした。しかし、神様の願いとは裏腹に、そのみ旨は成就されませんでした。善良で献身的な人々以外にも、自分の利益ばかりを追求する利己的な人々も一緒に入ってきて定着したのです。正に彼らが原住民を搾取し、蹂躙したのです。甚だしくは、奴隷制度まで生まれ、人種差別の悲劇が発生することになりました。
このように無分別な人々の行為によって、神様の祝福の中で開花すべき新しい文化の基盤が、常に天の祝福の中にとどまっていたわけではありませんでした。国家の形成過程が、キリスト教的な愛の土台においてではなく、敵対感の中で行われた時も少なくありませんでした。このような不幸の出発が生じ、拡大して、今現在も利己心と搾取という単語がなくならずに残っているのです。
ラテンアメリカが全世界に和解と平和の見本を示したいと思うなら、過去の慣習から抜け出し、新しい出発をしなければなりません。スペインから自由を得た日から、ラテンアメリカは、周辺国家間の統一を目指した偉大な夢を抱いてきたのです。
シモンボリバルが主張したパトリアグランデ(大祖国)思想や、他のすべてのラテンアメリカ諸国の建国のために功績を建てた人たちの理念、そしてウルグアイを立てたホセアルティガスの志も、ラテンアメリカの国家間の統一を念願するものでした。全世界のすべての国々が、文化的、経済的、政治的方法を通して、より偉大な統一を追求している歴史的な現時点において見てみるとき、ラテンアメリカが今まで培ってきた一つの世界を目指した夢は、より一層大きな価値をもって輝くのです。
このような観点から、私はこれまで「南北米統一連合(CAUSA)」、「中南米統合機構(AULA)」、「世界平和教授アカデミー(PWPA)」、そして「世界平和のための頂上会議」のような組織を通して、ラテンアメリカの夢を側面から支援し、育成してきたのです。これまで数年の間、私は先に申し上げた組織を通して、多くの元大統領や元首相たちを糾合し、彼らと共に、どのようにすれば国家間の協力を増進させ、統一を成し遂げることができるかという点を研究してきたのです。正にこのような目的のために、一九八六年、ここモンテビデオで、ラテンアメリカの十四ヵ国の元大統領たちが「アウラ(AULA)」という名で共に集い、会議を開いたのです。
私は、今日皆様の祖国である、ここラテンアメリカが、平和で豊かな未来を迎えるためには、必ず解決すべき深刻な問題点を抱えていると思います。文化的、経済的、そして政治的に発展を阻害する問題点は、必ず取り除かなければなりません。ラテンアメリカ諸国も、世界的な問題を前に、他の先進諸国のように、同一の責任を感じなければなりません。そのようにするためには、全世界的に、より偉大な世界創建のための技術平準化と思想の自由な交流が実現されなければなりません。
正にこのような目的のために、統一教会は、中国、アフリカ、ソ連、東ヨーロッパ、中東、そして皆様の故郷である、ここラテンアメリカなどで、より肯定的な世界的発展のために働いてきているのです。「カウサ」の活動、道徳観と倫理観の確固とした土台の上に立てられるべき民主主義体制に、より明確な方向性を提示する思想を、全世界的に普及しているのです。「カウサ」は、民族主義国家の中で、いまだに蔓延する不正と腐敗と搾取を根絶するために必要な道徳観を提示しているのです。
今日、私たち人類が直面しているすべての問題点、すなわち、無知、飢饉、疾病などは、単に外部に現れた現象的な問題点ということだけではなく、全世界の人々が共に責任をもって解決すべき、より根本的な次元の緊急の問題点なのです。このような重大な時点にあって、私たちは、歴史的な転換期に生きています。
過去の歴史を調べてみると、宗教的、文化的、政治的分野を中心として、より住みよい世界をつくるための運動が少なからずあったことを知ることができます。しかし、そのような運動や組織が人類の発展史に大きく貢献したのも事実ですが、それらのほとんどが、本来の理念や目的から逸脱し、独自の道を歩むようになったことも知ることができます。宗教団体や文化、政治団体、社会組織など、すべての組織活動が分裂、衝突、不和を繰り返し、さらには戦争も辞さなかったのです。
現在も、ゆがんだ政治的欲望や宗教的偏狭性が、敵対感と憎悪心を引き起こしているのを目撃することができます。このような現象は、信仰をもつ人がもつべき真の目的にはなり得ず、良心的な人々が追求する道にはなり得ません。それでは、私たちが追求する道はどこにあり、子孫たちに伝授してあげる正しい伝統とは果たして何でしょうか。
人類が勝ち取るべき和合と平和を成し遂げる道を理解するために、私たちはまず、神様の創造理想を知らなければなりません。絶対的で永遠の神様が、何ゆえに創造をしなければならなかったのでしょうか。神様にとって絶対的に必要なものとは何でしょうか。物質的な富や知識、それとも権力でしょうか。これらは、神様が願いさえすればいつでも得ることができるものです。
しかし、真の愛だけは、神様お一人では完成することができません。なぜなら、真の愛は、必ず相対を通してのみ完成されるもので、授受作用できる相対がいなければ、神様であっても、この真の愛を完成することはできないからです。正にこのような理由で、神様はこの世界を創造されたのです。
それでは、真の愛とは何でしょうか。イエス様が命を懸けてまで怨讐を愛された、その生涯を見ることによって分かるように、真の愛は、人のために自らの命を犠牲にしても、それを忘れることです。このような真の愛を通してこそ、イエス様のように死を克服して永生を得るようになり、天国の市民となる道を歩むようになるのです。
私たちが被造世界を観察してみると、鉱物世界、植物世界、動物世界は、すべて互いに愛を中心として和睦しながら授受作用をする主体と対象のペアになっていることが分かります。同じように、夫婦間や親子間でも、愛を中心とした平和がなければなりません。このような愛の関係が、すべての被造物の中に内在しているのです。人間は、全被造世界の中心であり、神様に最も近く、また全被造世界の最高位にいるのです。
したがって人間は、神様の真の愛の対象であり、人間がいなければ神様の真の愛の目的も成就されないのです。神様が真の愛を創造理想として立てられ、また最も気高く貴い絶対的な価値として立てられました。絶対的な神様でも、真の愛には絶対的に降服したいと思うのです。神様でさえもそうなので、人類と被造万物は絶対的に真の愛に屈服するようになっています。このような点から見るとき、私たちは神様の真の愛の対象として創造された人間の価値が、どれほど高貴であるかということを、改めて悟らされるのです。
神様は、真の愛である「ために生きる愛」を土台として、御自身の創造理想を立てられました。与えてはまた与え、さらに与えても、与えたというその事実さえも忘れてしまうのです。このように与える愛の中で、神様は真の愛を完成するのであり、無限に投入して創造するようになったのです。すべての人間は、和合して存在し、また究極的に相対のために投入する神様の真の愛を実践するとき、永生を享受できるように創造されたのです。
また、男性は女性のために存在し、女性は男性のために存在します。与えても、また与える真の愛の神様の創造理想と共に、男性と女性は互いに愛するように生まれ、愛を中心として夫婦となり、一つになるようになっています。夫婦が共に神様の縦的な愛の対象となり、神様のすべてを相続するようになります。これこそが人間が存在する目的なのです。
真の愛の根源であられる神様は、父母の立場でこの絶対的で不変な真の愛を人間に相続させようとするのです。
なぜならば、真の愛を通してのみ、完全な和合と統一が可能になるからであり、神様の真の愛も、御自身の対象的な子女たちに相続させることができるものだからです。
それだけではなく、神様から同居権を得るようになり、また、同参権までも享受するようになりますが、これらはみな、真の愛の三大属性を通して得た特権となるのです。父母の心は、子女が自分よりも立派になることを願うものであり、夫婦間においても、相手が優れていることを期待するのですが、それは正に、神様が、御自身よりも立派な子女となるように人間を創造された、神様の真の愛のためです。
このような点から見るとき、人間は、神様と共に生きるようになっており、神様と同じ価値観をもって生きるようになっていることを否定できず、さらには、人間同士においても、真の愛を中心として同居権、同参権、相続権を享有しながら生きるようになっているのです。したがって、理想世界では、真の愛を中心として、すべての人間は、真の理想と幸福を求めて生きながら、自分の対象と子女たちに、そのまま相続させてあげるようになっているのです。これこそが正に、神様がこの被造物を創造した根本理想なのです。
しかし、今日の世界を見ると、神様が理想とされた世界とは、あまりにもかけ離れた世界になっています。神様の根本的な創造目的とは異なり、天国の代わりに地獄となり、罪悪と苦痛、そして闘争によって満身創痍になっています。宗教的な用語を借りて説明すれば、このように病んで傷だらけとなったこの世界が、正に堕落世界なのです。この堕落した世界を本来の状態へと回復するために、神様は救援摂理を繰り広げて来られたのです。したがって、私はこれまで神様の救援摂理は復帰摂理であり、復帰摂理は再創造摂理であることを、全世界に教えてきました。
神様の復帰摂理の目的は、堕落していない根本の理想家庭を探し立てることであり、その基盤の上に、神様の真の愛と真の父母様の思想を中心として、理想世界を建設することです。救世主の使命とは、正にこの世界に真の愛を実現することです。それが真の父母の使命であるということを、私たちが悟るようになれば、神様の括命を受けて、このような使命を果たすために生涯を捧げるようになるのです。言い換えれば、救世主の使命は、正に神様を信じるすべての人が共同で力を合わせて果たさなければならない使命なのです。
聖書を見ると、神様の最初の息子と娘であるアダムとエバは、神様の真の愛の中で成長し、神様から祝福を受けて結婚し、罪のない子女を繁殖するようになっています。そうして、彼らも、神様のように真の父母になって天国に入るようになっていたのです。そのようになっていれば、この世界は地上天国になっていたのであり、神様の真の愛と真の生命、そして真の血統だけが存在する理想世界が形成されていたのであり、その世界は、唯一、神様だけが主管する理想世界になっていたのです。
しかし、アダムとエバは、成長過程で不倫な愛の関係をもつようになり、その元凶である天使長はサタンとなったのです。アダムとエバは、善の先祖となることができず、悪の先祖になってしまい、そこから死亡の世界が始まってしまいました。悪の血統を相続した人々の横行する世界が、このようにして生じたのです。サタンは淫乱の神となり、神様は淫乱を最も憎むようになりました。
正にこのような淫乱のために、今日、アメリカやヨーロッパ大陸もソドムとゴモラやローマ帝国のような運命を迎えているのです。世界は今、サタンの愛、サタンの生命、サタンの血統から私たちを解放してくれる真の父母を必要としています。この真の父母こそが、正にメシヤなのです。
アダムとエバが責任を完遂できなかったために、神様は真の子女を失い、人類は真の父母を失ってしまう結果となりました。堕落の結果により、真の父母の理想と神様の真の愛を実現する真の人間と真の世界を失ってしまったのです。ですから、メシヤは、そのような途方もない真の父母の位置に立ち、人類の先祖によって植えられた偽りの根を引き抜いてしまい、永生できる真の子女を探し立て、創造理想世界を実現しなければならないのです。
一つの家庭について見ても、兄弟間の関係は、父母を土台としてこそ可能です。したがって、この世界が真の愛と真の家庭の圏内に立つためには、まず真の父母が確定されなければならないのです。正にこの目的を達成するために神様の召命を受けた私は、これまで神様のみ旨に従って、終始一貫して一本道を歩んできたのです。
私は、世界的に繰り広げている統一運動と、各分野にわたって推進している計画、すなわち、宗教界、学界、教育、言論、および文化芸術、科学技術、経済活動など、すべての分野を通して、神様から受けたその一つの目的を達成しようと、それらを推進しているのです。
正にこの目的達成のために、私は迫害を受け、死にも直面したのであり、いつも真の父母の心情で全世界のすベての人種を抱き、私の実の親や兄弟以上に愛してきたのです。
このような道を通して神様は、メシヤが歩んだ道、すなわち神様を心から愛し、神様が本来理想とされた世界である愛と平和と和合の世界の創建のために、自らのすべてを投入される、無条件の真の愛を人類に与える道を歩むよう、全人類に呼びかけていらっしゃるのです。このような愛の道こそが、信仰をもつ良心的なすべての人が従うべき、不変の道なのです。神様は、私たちすべてが、それぞれがいる場所でメシヤになることを望んでいらっしゃいます。私たちはみな、真の父母の心情で神様を愛し、人々を愛さなければならず、万物までも愛さなければなりません。これこそが正に神様が私たち人間に下さった使命なのです。
今日の世界情勢を探ってみると、外的には冷戦が終息し、東と西、南と北の平和増進を模索しています。分断と対決の時代を超え、これからは兄弟姉妹の関係で結束した一つの世界を形成し、和解を通した統一の時代に突入しています。
二十一世紀を迎えるまでのこの十年間は、神様が人間に特別に恩賜を施される期間であり、本来、神様が創造された根本の世界へと回帰できる、貴重な十年となるのです。したがって、私は既に「世界平和連合」の創設を主唱し、アメリカやソ連など、世界各国の数多くの指導者たちは、それに呼応して名乗り出ています。また私は、「世界平和宗教連合」の創設も提議し、既に八百人以上の世界的な宗教指導者から熱烈な支持を受けているのです。
これまで数多くの人たちが、真の統一と一つの世界を形成し、真の愛を探すために努力し、苦労してきましたが、なぜ真の統一と一つの世界は、いまだに私たちから顔を背けているのでしょうか。人間は誰しも平和を希求しています。しかし私たちはまず、どのようにすれば平和を達成できるのかということから知らなければなりません。問題の鍵は、皆様の妻、息子、娘、親戚、国家、世界など、相手側にあるのではなく、皆様自身にあるのです。言い換えれば、皆様の心と体が、良心を中心として完全な一体を完成した、和合と統一の実体になっているかいないかに、個人の幸福はもちろん、世界の統一までかかっているのです。
良心は、神様が私たち人間に下さった最も高貴な贈り物であり、天下とも取り替えることのできない私たちの主人です。私たちが神様と真の父母の心情を所有するようになれば、私たちの生涯は、真の愛を中心として真の平和を達成する「ために生きる生涯」となるのです。永遠の価値と、不変的価値の基準となる真の愛を中心として生きるようになれば、私たちは心と体の一体のみならず、精神と物質の両面を中心として、世界的に両分された愛と理念の統一までも達成することができるようになるのです。
このような点こそが、良識ある人たちの関心の焦点です。したがって、永遠の世界平和を達成するには、宗教と政治、そして文化の役割が必要不可欠です。{