1.お一人の神様と一つの世界宗... PAGEREF _Toc500751802 \h 1

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751803 \h 1

1.お一人の神様と一つの世界宗... PAGEREF _Toc500751804 \h 1

神様は実在するの... PAGEREF _Toc500751805 \h 1

二性性相の神... PAGEREF _Toc500751806 \h 2

神様のかたちに創造された人... PAGEREF _Toc500751807 \h 3

人体の神秘を通して見た神様の実在... PAGEREF _Toc500751808 \h 4

神様との関係から見た人間の本然の価... PAGEREF _Toc500751809 \h 4

世界を救うべき宗教の使... PAGEREF _Toc500751810 \h 6

世界的中心宗教はキリスト... PAGEREF _Toc500751811 \h 7

キリスト教の限... PAGEREF _Toc500751812 \h 7

新しい愛の理想世界建設のために出現した統一教... PAGEREF _Toc500751813 \h 8

2.キリスト教の新しい未来... PAGEREF _Toc500751814 \h 9

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751815 \h 9

2.キリスト教の新しい未... PAGEREF _Toc500751816 \h 9

神様のみ旨成就のために来られる... PAGEREF _Toc500751817 \h 9

人類救済のための神様のみ旨とキリスト教の使... PAGEREF _Toc500751818 \h 10

聖書に見るユダヤ民族がイエス様の命を奪った背... PAGEREF _Toc500751819 \h 12

旧約聖書を間違って解釈し、イエス様の命を奪ったユダヤ民... PAGEREF _Toc500751820 \h 14

洗礼ヨハネの失敗によって亡くなったイエス... PAGEREF _Toc500751821 \h 16

主は雲に乗って来られるのではな... PAGEREF _Toc500751822 \h 18

十字架はあらゆるものを失った... PAGEREF _Toc500751823 \h 19

女性の体を通して来られる再臨のイエス... PAGEREF _Toc500751824 \h 21

人として来られる主を迎えるべきキリスト... PAGEREF _Toc500751825 \h 23

3.今日の知識人と宗教... PAGEREF _Toc500751826 \h 24

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751827 \h 24

3.今日の知識人と宗... PAGEREF _Toc500751828 \h 24

人間は次元の高い価値を追求す... PAGEREF _Toc500751829 \h 25

神様が必要とされるものは何... PAGEREF _Toc500751830 \h 25

力が先か、作用が先... PAGEREF _Toc500751831 \h 26

主体と対象が一つになるのが愛の作... PAGEREF _Toc500751832 \h 27

すべての存在の最後の目的は神様の... PAGEREF _Toc500751833 \h 28

4.アメリカと宗教の自由... PAGEREF _Toc500751834 \h 30

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751835 \h 30

4.アメリカと宗教の自... PAGEREF _Toc500751836 \h 30

アメリカと宗教の自... PAGEREF _Toc500751837 \h 30

アメリカで果たすべき使... PAGEREF _Toc500751838 \h 31

アメリカで達成した十二年間の業... PAGEREF _Toc500751839 \h 32

アメリカの意図的な宗教裁... PAGEREF _Toc500751840 \h 33

世界最大の対... PAGEREF _Toc500751841 \h 34

神様、アメリカを祝福してくださ... PAGEREF _Toc500751842 \h 34

5.世界平和のために宗教間で和睦しよう... PAGEREF _Toc500751843 \h 35

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751844 \h 35

5.世界平和のために宗教間で和睦しよ... PAGEREF _Toc500751845 \h 35

6.統一運動に参与することを期待します... PAGEREF _Toc500751846 \h 39

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751847 \h 39

6.統一運動に参与することを期待しま... PAGEREF _Toc500751848 \h 39

十六歳(数え)の復活節に出会ったイエス様の啓... PAGEREF _Toc500751849 \h 39

神様が私をアメリカに呼ばれた理... PAGEREF _Toc500751850 \h 40

国税庁の起訴は職権濫... PAGEREF _Toc500751851 \h 41

アメリカのために数多くの事業を展... PAGEREF _Toc500751852 \h 43

7.神様のみ旨... PAGEREF _Toc500751853 \h 43

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751854 \h 44

7.神様のみ... PAGEREF _Toc500751855 \h 44

神様のみ旨と人間の完... PAGEREF _Toc500751856 \h 44

救援歴史は神様の血統に接ぎ木する重生の歴... PAGEREF _Toc500751857 \h 46

神様とメシヤのために生きて死ぬことがキリス卜教徒の特... PAGEREF _Toc500751858 \h 47

8.対話と連合... PAGEREF _Toc500751859 \h 48

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751860 \h 49

8.対話と連... PAGEREF _Toc500751861 \h 49

永遠なる真の愛、理想、幸福、平和を願ってきた人... PAGEREF _Toc500751862 \h 49

宗教の究極的目標は平和理想世界の建... PAGEREF _Toc500751863 \h 50

汎宗教的浄化運動、実践奉仕運... PAGEREF _Toc500751864 \h 51

教団間の和合を通して平和世界実現を早めなければならな... PAGEREF _Toc500751865 \h 52

神意の地上実現という「世界宗教議会」の成... PAGEREF _Toc500751866 \h 53

9.根本思想... PAGEREF _Toc500751867 \h 54

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751868 \h 54

9.根本思... PAGEREF _Toc500751869 \h 54

人生問題と神様を中心とした聖人の教... PAGEREF _Toc500751870 \h 54

宗教の起源、そして神様との関... PAGEREF _Toc500751871 \h 56

宗教生活は体を主管し、心に従って生きる生... PAGEREF _Toc500751872 \h 57

宇宙の根本真理を探すために神様と談... PAGEREF _Toc500751873 \h 58

真の信者とは、教主の愛を受けられる... PAGEREF _Toc500751874 \h 59

レバレンド・/span>ムーンは真の愛の哲学... PAGEREF _Toc500751875 \h 61

宇宙の根本は愛と生命と血... PAGEREF _Toc500751876 \h 62

神様と真の愛、そして永... PAGEREF _Toc500751877 \h 64

万教の平和基準と愛の道... PAGEREF _Toc500751878 \h 66

神様の人間救援の目... PAGEREF _Toc500751879 \h 67

10.真の愛の伝承と伝統... PAGEREF _Toc500751880 \h 68

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751881 \h 68

10.真の愛の伝承と伝... PAGEREF _Toc500751882 \h 68

11.イスラームと世界平和の定着... PAGEREF _Toc500751883 \h 73

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751884 \h 74

11.イスラームと世界平和の定... PAGEREF _Toc500751885 \h 74

平和の根源は神... PAGEREF _Toc500751886 \h 74

神様とサタンの対決の場である中... PAGEREF _Toc500751887 \h 76

宗教間の紛争解決の... PAGEREF _Toc500751888 \h 78

12.平和世界のための宗教の使命... PAGEREF _Toc500751889 \h 79

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751890 \h 79

12.平和世界のための宗教の使... PAGEREF _Toc500751891 \h 79

13.新文化創建と宗教の役割... PAGEREF _Toc500751892 \h 83

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751893 \h 83

13.新文化創建と宗教の役... PAGEREF _Toc500751894 \h 83

宗教が追求してきた... PAGEREF _Toc500751895 \h 83

平和と幸福の世界を取り戻してきた... PAGEREF _Toc500751896 \h 84

人間は真の愛のために生まれた存... PAGEREF _Toc500751897 \h 84

家庭は創造理想の基本単... PAGEREF _Toc500751898 \h 86

教団間の和合を通した世界平和の実... PAGEREF _Toc500751899 \h 87

14.宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751900 \h 88

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751901 \h 88

14.宗教と理想世... PAGEREF _Toc500751902 \h 88

世界の宗教の核心主題は理想世... PAGEREF _Toc500751903 \h 88

神様の理想と真の愛の家... PAGEREF _Toc500751904 \h 89

堕落と復... PAGEREF _Toc500751905 \h 90

宗教の責... PAGEREF _Toc500751906 \h 91

15.生死に対する理解... PAGEREF _Toc500751907 \h 92

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751908 \h 92

15.生死に対する理... PAGEREF _Toc500751909 \h 92

死は根源の世界への回... PAGEREF _Toc500751910 \h 93

人類は一つの兄弟、一つの国... PAGEREF _Toc500751911 \h 94

死と闘って勝利できる希... PAGEREF _Toc500751912 \h 95

真の愛のために死ぬことができなければならな... PAGEREF _Toc500751913 \h 97

水中、地上、天上の三時代を通過しなければならな... PAGEREF _Toc500751914 \h 98

神様の法則のとおりに生きなければならな... PAGEREF _Toc500751915 \h 99

地上で愛する訓練をしなければならな... PAGEREF _Toc500751916 \h 100

私の目的は世界の救... PAGEREF _Toc500751917 \h 102

死ぬことなく復活はできな... PAGEREF _Toc500751918 \h 102

直観的感覚が現実化する世... PAGEREF _Toc500751919 \h 104

霊界は真の愛を中心としてために生きる... PAGEREF _Toc500751920 \h 104

心情圏の世界は愛が普遍化される世... PAGEREF _Toc500751921 \h 105

世界宗教国連創設の主... PAGEREF _Toc500751922 \h 106

16.人間の行くべき生涯路程... PAGEREF _Toc500751923 \h 107

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751924 \h 107

16.人間の行くべき生涯路... PAGEREF _Toc500751925 \h 107

神様が人間を創造された目... PAGEREF _Toc500751926 \h 107

真の愛は宇宙創造の起... PAGEREF _Toc500751927 \h 109

物質世界、父母、神様は三大父... PAGEREF _Toc500751928 \h 111

私は父母の愛の... PAGEREF _Toc500751929 \h 112

真の愛を中心とした家庭が行くべき... PAGEREF _Toc500751930 \h 113

霊界は愛を中心とした世... PAGEREF _Toc500751931 \h 115

神様と人類は父子関... PAGEREF _Toc500751932 \h 116

救援摂理の完... PAGEREF _Toc500751933 \h 117

宗教の使... PAGEREF _Toc500751934 \h 119

 

1.お一人の神様と一つの世界宗

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

1.お一人の神様と一つの世界宗

日付:一九七二年二月三

場所:アメリカ、ニューヨーク、リンカーン・/span>センタ

行事:アメリカ九ヵ都市巡回講

紳士淑女の皆様。今夜、このように悪天候にもかかわらず、大勢の方々が集まってくださったことに対して、心から感謝申し上げます。皆様に会ってみたいという思いは、数十年前からありました。今晩、初めて皆様にお会いでき、まず皆様の前に感謝申し上げると同時に、神様に心から感謝を申し上げる次第です

神様は実在するの

きょう、お話しするタイトルは、「お一人の神様と一つの世界宗教」です。このニューヨークに住んでいる方々は、「神様」と言えば、「神様は死んだ」という言葉を連想するかもしれません。しかし、神様が存在しているのに、存在する神様を「死んだ」と言うのは、これ以上の罪はないと思うのです。神様が存在しないのに「神様は存在する」と言うほうが、それよりまだ良いと見ることができます

きょう、お話しする「お一人の神様と一つの世界宗教」というタイトルを見ても、ここに人がいなければ何の問題にもなりません。人がいるので、その人と一人の神様が必要なのであり、人がいるので、その人と一人の神様が一つになってつくられる宗教が必要だというのです

万一、絶対者である神様がお一人でいるならば、その神様がいる所は幸せな所ではないと考えざるを得ません

神様であっても、その神様が一人で喜ぶならば、神様も正常な神様ではないでしょう。しかし、その神様がいくら小さな相対だとしても、その一つのものを見て「ははは」と笑いながら喜ぶとすれば、それは正常なのです。いくら小さなものでも、それを見て笑う神様に対して「狂っている」と言えば、そのように言う人がかえって狂った人になるのです。ですから、相対的存在がどれほど貴いかということを、皆様に最初にお話ししているのです。「不幸」や「悲しみ」という言葉は、相対がいないところから始まる言葉です

それでは、神様が相対を好むとすれば、この世界でいったいどのような存在を好むと思いますか。感覚がない鉱物のようなものでしょうか。鉱物ではありません。植物でもありません。植物よりは動物のほうがより関心事になるでしょう。このように見るとき、この被造物の中で神様の関心事になり得る中心存在とは何かと尋ねれば、幼稚園児であっても、人間だと指摘するでしょう。皆様は、そのように思いませんか。このように見れば、人間は被造物の中で最高傑作だということを否定できないのです。ですから、神様も対象を訪ねていくとすれば、人間を除いては訪ねるべき対象がないという結論が出てきます

今日、この複雑な情勢の中で、今後のアメリカの運命や、あるいは世界の運命を考えるとき、神様がいれば良いのか、いなければ良いのかという問題は、深刻に考えてみる問題にならざるを得ません

絶対者がいて、真は真とみなし、悪は悪として処断することができれば良いですが、そのようなお方がいないとすれば、今後の世界は問題にならざるを得ません。ですから、神様がいないより、いるほうが良いというのが、私たちの願いです。ですから、神様がいるか、いないかということが問題です

二性性相の神

この宇宙は、存在世界であることを私たちは知っています。それは誰もが認めています。存在するためには、力がなければならないことを知っています。その力が存在するためには、力が先か、存在が先かということが問題です。力がなければ、存在もありません。ところが、その力というものは、作用をせずには現れないのです。力がある前に、作用という現象が必ず必要です

また、作用をするためには、そこには必ず先行条件として、主体と対象が絶対必要だということを否定できません。この主体と対象が授受するところから作用が始まり、作用が始まることによって力が存続するのです。言い換えれば、力が存在する前になければならないものとは何かというと、主体と対象だというのです

主体と対象は互いに異なる立場にあるので、これらが作用をするためには、互いに相手の内容に合うようにしなければならないのです。そのようにしなければ作用することができません。ですから、主体と対象が作用するためには、主体の目的と対象の目的が一致できる基点がなければならないのです。そうでなければ作用しないというのです

私たちが何かの用で外に出ていくとき、自らが損をするために出ていく人はいないでしょう。ニューヨークのタイムズ・/span>スクエアを大勢の人々が往来していますが、その人々が家から出るとき、「私はきょう、一ドルでも損をするために家から出ていく」といって出てきた人は一人もいないはずです。出てくる時は、必ず自分に利益になることを望み、自分にプラスになる何かを望んで出発するのです

皆様が友人たちに会って交流するとき、お互いがマイナスになり、今よりも悪くなりかねない立場では、絶対に一つにならないのです。甲と乙の二人が一つになるには、今よりプラスになる共通の目的があるからこそ、そこで作用が起こり、一つになるということが起こるのです。このように見るとき、力が作用するには、二重目的、すなわち主体と対象が互いの目的にプラスになるものがなければ、一つになることもなく、作用もしないという結論を出すことができます

原子を例に挙げれば、原子は陽子を中心として電子が取り囲んでいます。それもやはり、二つの目的を結合して与え合う立場にあるので、一つの原子型を形成するのです。ですから、電子の目的と陽子の目的が追求するものを中心として、合わせているのです。大きく見れば、神様も存在者です。神様が存在するならば、実存体としていらっしゃるのです。そうだとすれば、神様もやはり主体と対象の関係になっていて、完全に与え合うことができる二重目的を中心として、結合した位置に立たなければ、永遠に存在することはできないのです。それは、神様も結局は、主体と対象が一つになって、お一人の神様としていらっしゃるという話です

神様のかたちに創造された人

聖書の創世記第一章二十七節を見れば、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」という聖句があります。それを帰納的に追究してみれば、神様は、一人の男性と一人の女性を合わせた方だという結論が出てきます

そのような神様が一人でいてはいけないので、対象を必要とされ、そのために、この世界を創造せざるを得なかったというのです。それで、造られたのが一人の男性であり、一人の女性です。一人の人について見ても、人には心と体があります。この心と体が与え合うのです。もしこれが食い違ってくると苦痛を感じるようになります。どちらか一方が傾くというのです。しかし、これが一つになって上がっていけば喜びがあるのです。これが完全に一つになった男性がいるとすれば、彼は完全な男性です

もし絶対者がいるとすれば、どのような男性を要求するでしょうか。そのような男性を要求するでしょう。女性も同じです。心と体が完全に一つになった女性がいるとすれば、神様は、その女性に会おうとせざるを得ません。絶対者の威信から見ても、最高の男性、最高の女性に会わなければならないというのです。そのように、天のみ前に堂々と立つことができる人を天は求めるのであり、私たちも望むのです

私たち人間を見れば、原因的な存在ではないことを否定できません。人は結果的な存在です。皆様は、存在する、しないを自由に決めることができますか。できません。原因になれないので、結果的な立場にいることを否定できないのですが、結果的な存在も、原因が絶対的ならば、絶対的な相対の位置に立つことができるのです

人体の神秘を通して見た神様の実在

皆様。神様がいるか、いないかについて、少しの間お話ししてみましょう。私たちが人類始祖を求めてさかのぼれば、最初の人類始祖が出てくるでしょう。その人類始祖は大地で生まれたのです。その生まれた最初の人間が、大地に生まれるとともに、太陽があることを、それ自体が知っていて準備して出てきたか、そうでなければ、それ自体は知らずに出てきたかということを考えてみます

この地に出てくるとき、目は太陽があることを知らなかったでしょう。しかし、それ自体は知らなかったとしても、あらかじめ天体に太陽があって、見ることができることを知り、目をそのように生じさせたのです。皆様の目を見るとまばたきしています。それは、地の熱を受けて目の水分が蒸発するので、湿らせなければならないことを知っていたからです。また、まつげは、ほこりを防止しなければならないことを知って生じました。これを見れば、人間は博物学的、天文学的知識を基盤として生まれたということです

そして、目はあらかじめ汗が流れてくることを知っていました。それを知って、この貴重なところに異物が入れば大変なことになるので、防波堤をつくっておいたのです。そして、人が立って行き来することを知っていたというのです。また、耳を見てください。あらかじめ音波が来ることを知って、それを聞き取れるようになっています。また、鼻を見てください。鼻がなぜこのように下に向かうようになっているのかというのです。鼻に汗や雨水が入ってはいけないので、防波堤をつくって下に向かうようにしたのです。すべて知ってつくられたというのです。それらが自然にそのようになるでしょうか

このように私たちの人体を見れば、神秘の王宮のようになっています。これがただそのままそのように生じることはありません。このように見るとき、人間が生まれるとき、自分自身は知りませんでしたが、それを知っていた方がいたか、いなかったかということが問題になります。そのように生まれたことに対して、「ただ生まれた」とは言えません。それをあらかじめ知っていた方が誰かというと、神様でいらっしゃいます

神様との関係から見た人間の本然の価

それでは、神様が人間を造ったとすれば、私たち人間をどのような立場に置いて、どのような関係を結ぶために造ったのかを調べてみましょう。神様が人間を造ったとすれば、造った神様の目的があったはずです。また、そのように造られた人間ならば、その人間自身にも目的があるのです。造られた人間の目的と造った神様の目的が別々だということはありません。必ずある一致点がなければならないというのです。その立場は神様も望み、私たち人間も望むでしょう

ここに来た人々の中で、世界的に著名な大統領がいらっしゃるとすれば、その大統領よりも偉くなりたくないと思う人がいますか。偉くなりたいと思いますか、偉くなりたくないと思いますか。偉くなりたいと思うのです。最高に偉くなりたいと思います。世界で一番偉い人がいれば、その人と関係を結びたいと思うのが人間の欲望です

そして、その偉い人を中心として一つになったとしても、それよりも偉い人がいれば、その人とも一つになりたいのです。男性も女性もそのような思いをもっています。いくら愚かな人だとしても、そのような思いをみなもっているというのです。もし天地を創造した絶対者である神様がいらっしゃるならば、その神様と関係を結びたいと思うでしょうか、結びたくないと思うでしょうか

そして、その神様を占領したとしても、神様の中にただ一つしかない愛を占領できないときは、安心できないというのです。神様を占領し、神様の中に一つしかない愛までも占領すれば、万事OKです。そのお方の愛さえ占領する日には、そのお方のものは、私のものになるというのです。良心は私たちを、そこまでせき立てる作用をします。本来の人間は、そのような価値のある立場にいるので、そのような作用をしていることを否定できません

神様は愛の神様ですが、私たち人間を愛そうとするならば、どのような立場で愛したいと思われるでしょうか。また、私たち人間は、どのような立場で神様の愛を受けたいと思うでしょうか。その立場は父子関係、すなわち父と息子の立場しかないというのです。ですから、今日、キリスト教で「父なる神」と呼ぶのです。父と息子なら上下関係です。人間の欲望を見るとき、その高い父の位置に私も一度行きたいと思わざるを得ないというのです。ですから、神様はそれまでも心配して、私たちの心、すなわち内的なところに入ってきて、私たち人間自身を外側、すなわち神様の体と同様の立場を許諾しようというのです。そのようになれば、同等な立場に立つようになります

人間で見るとき、その父が貴いとすれば、一人しかいないその父を、どこかに持っていって保管したくはないのです。あの遠いところに置きたくないというのです。いつも自分と共にいて、自分だけに会い、自分だけが喜ベるところに持っていって置いておきたいと思います。ですから、神様が見えないことを願うのです。神様をどこかほかのところに置いてはいけないというのです。私だけが分かる心の中に置きたいというのが、私たち人間の欲望であるに違いありません

ですから、創造主である神様は、被造物である私たち人間を神様と同じ立場に置くというのです。私たち人間を、神様の息子の立場で愛することができるように、神様と同等な立場に立ててくださったのです

神様は天地を創造する能力をもったお方なので、その創造の能力までももつようにさせたかったというのです。神様が人間を創造したあと、私たち人間を造ってみると、どれほどかわいく、愛らしかったのか、そのような妙味までも、私たち人間が感じるようにさせたいと思われたというのです

その神様の創造の能力を受けようとするなら、神様はお一人の中に完全な男性と女性の姿でいらっしゃるので、分かれて生まれた男性と女性も、完全な男性と女性が一つになって、神様の相手にならなければなりません。神様の相手になることによって、創造的役割を身代わりできるのです

ですから、夫婦の愛を通して一つになることによって、神様のような立場で創造の能力を果たせるのが子女です。赤ん坊を生んで、どれほどうれしいかということを私たちに感じさせるために、神様は子女を愛する心を下さいました。このように見ると、神様は最も良いものを私たち人間に、すべて注いでくださったというのです

このように、永遠であられる神様の愛と一つになって、幸福と満足の中で、平和なエデンで生きるように私たち人間を造られたのです。そのようになることによって、絶対的な神様のみ前に、神様の愛を中心として永遠に相対となる立場で、別れようとしても別れることができない幸福な人として生きるのが、人間の本然の姿だったということを、私たちは知らなければなりません

世界を救うべき宗教の使

絶対的な神様が造られた存在物は、一つの目的をもたなければならないことは間違いありません。それでは、神様の愛を中心として、絶対的な相対の立場に立った人間がこの地にいると思いますか。いません。絶対的な神様が造ったので、一つの目的を指向する人間になるべきですが、人間を見れば二律背反的な、反対の目的となるもう一つの道に立っているのが分かります。ある人はこれを、人における主体と対象の関係と見ますが、そうではありません。良心が内的なプラスだとするならば、邪心はまたほかの一つのプラスなのです。ですから、反発が起こるのです。そのような立場に立っているのが、この地上に生きている私たち人間です

神様が私たちに高貴な偉業としてくださった愛の理念、絶対価値の理念を喪失してしまい、反対の二つの現象世界で呻吟して生きる悲惨な人間だということを知らなければなりません。言い換えれば、故障した人々になっているというのです。ところが、絶対的な神様は人間に相対するしかないので、このような人間をそのまま放置することができず、歴史過程を通して再生させる運動をしてきたというのです。すなわち、修理工場を造ったのですが、それが宗教なのです

世界には多くの宗教がありますが、文化が異なり、あるいは民族の背景が異なるので、その基準によって、多くの宗教を立てて糾合してきたのです。宗教が望む目的は、世界を救うことです。神様が望む目的も、世界を救うことです。世界を救おうとする宗教でなければ、長く存続できません

皆様、宗教指導者たちは、民族主義者ではなく、世界主義者であり、天を中心とした世界的な運動を提示した人々です。私たちは今、四大聖人として、イエス・/span>キリスト、釈迦牟尼、孔子、ムハンマドを挙げます。ある人はソクラテスを挙げていますが、ソクラテスは哲人であって聖人ではありません。知識では生命を救うことができません。天だけが生命を左右するのです

ですから、四大聖人とはどのような人々かというと、すべて世界的な大宗教の教主になっています。天に仕えなかった人はいません。皆様、聖人を尊重しながら、天を無視する人になってはいけないというのです

世界的中心宗教はキリスト

したがって、この修理工場のような使命を宗教がするのですが、神様が絶対者ならば絶対者が一番好む宗教とはこの四大宗教の中でどの宗教かということを、私たちは知らなければなりません

儒教を見れば、神様に対するはっきりとしたことを教えられませんでした。善を行えば天が福を与えて、悪を行えば災いを与えるという程度しか教えることができなかったのです。仏教を見れば、法則的な神様は認めますが、人格的な神様は知らずにいます。また、イスラームを見れば、これはキリスト教を受け継いだ中間的な宗教です

ところが、ただイエス・/span>キリストだけは、主張した内容が異なります。彼が現れて「私は神のひとり子だ」と言いました。人類歴史上に、神様のひとり子だと主張した人は、イエス様しかいないのです。その次に「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ一四・/span>)と言いました。「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ一〇・/span>三八)と言いました。それだけでなく、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」という立場で語られたのです。このようなことを見るとき、誰を中心としてこれを成し遂げようとしたのかといえば、神様を中心として成し遂げようとしたというのです。言い換えれば、神様を中心として息子になり、一つの体になり、一つの新郎新婦になり、一つの家庭をつくろうというのがキリスト教の目的なのです。私たち人間に最高の価値として与えられた息子の位置と同等な立場、そして創造の偉業と創造したそれ以後の喜びまでも感じられる家庭的起源を、イエス様は教えてくださったのです

キリスト教の限

ところが、イエス様は神様の息子であり、天の父と一体になりましたが、相対である新婦を準備できませんでした。もし、イスラエルの国とユダヤ教が、その時、イエス様と一つになった立場で、イエス様が新婦を迎えられるようにしたならば、イエス様は神様と直接の相対となって、創造の能力を発揮できる基盤をもったはずですが、それを成し遂げることができずに逝きました

このような神様を中心とした息子、娘が出てきて、家庭をつくって、新しい氏族と民族と国家と世界になったとすれば、この地球星はすぐに天国になったでしょう。神様を中心とした天の国になったでしょう。イスラエルの国の人々が信じることができず、ユダヤ教徒たちが信じることができなかったためにイエス様が死んだのであって、信じたとすればイエス様は死ななかったでしょう

もし、そのとき、イスラエルの国とユダヤ教がイエス様を信じて、神様が理想としていた新郎新婦を迎えて新しい出発をしていれば、第二次世界大戦中に六百万人のユダヤ人がヒトラーに虐殺されることもなかったでしょう。歴史始まって以来、初めて現れた、神様の対象となり、神様が愛することのできるお方を打ってしまったので、そのようになったのです。それ以上に大きな罪はないというのです

今、ここにもイエス様を信じる人が大勢来ていると思います。しかし、皆様の信じているキリスト教がこのまま進んでいけば、追われていくイスラエル民族のようになるかもしれません。今日、全世界に散らばっているキリスト教徒たちは、神様を中心として一つになり、再び来られる主がこのような使命をもって来られるので、再び追放することがないように基盤を築く運動をしなければ、今後、この世界の展望は悲惨だと見ざるを得ません

そのお方が来て、新郎として新婦を迎えて婚宴をするというのが、ヨハネの黙示録に出てくる「小羊の婚宴」です。堕落したために、私たちは偽りの父母をもちました。神様がモデルとして考えていた善の真の父母は出てきませんでした。このように計画していたことを、終わりの日に来て、再び合わせなければならないというのです。真の父母が現れて、再び生み、再び接ぎ木するみ業をしなければ、世界のすべての人は救援されないのです

新しい愛の理想世界建設のために出現した統一教

今後、来られる主はどのような使命をもって来られるのでしょうか。堕落せずに善の父母の立場で完成する真の父母を失ったので、それを再び完成して、神様の愛を受ける真の父母の家庭から人類が再び愛される道を開くために来られるお方が、再臨主です。神様の愛を受ける息子、娘たちがこの地で生きて、家庭的に天国に行くのが幸福でしょうか。今日、キリスト教で信じるように、ただよく信じて、母は天国に行き、父は地獄に行くようになって、別々に別れていくのが幸福でしょうか。父母から子女に至るまで、全体が入らなければならないというのです。家庭が入り、氏族が入り、国が入り、世界がすべて入らなければなりません

このような新しい父母を中心とした世界的な家庭がこれから生じ、そこから人類歴史上になかった新しい愛の理想を中心とした文化と伝統がこの地球星に顕現するようになるとき、今日のこの複雑で罪悪に満ちた世界ではなく、新しい地上の天国になるのです。そのようになるためには、皆様がどのように手続きを踏まなければならないのかを知らなければなりません。ですから、そのような内容を教えるのが、私たち統一教会の使命です

膨大な内容をこのように要点を整理して短時間で話そうとするので、飛躍も多く、理解しづらい点もあったかもしれませんが、皆様が了解して聞いてくださったことに対して、心から感謝を申し上げます。

 

2.キリスト教の新しい未来

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

2.キリスト教の新しい未

日付:一九七四年三月九

場所:アメリカ、バーミンガ厶、ハイアッ卜・/span>ホテ

行事:アメリカ三十二カ都市巡回大講演

今晩このように集まってくださった紳士淑女の皆様。心より感謝申し上げます。きょう皆様と共に考えようと思うタイトルは「キリスト教の新しい未来」です。このようなタイトルで、少しの間お話しいたします。皆様がよく御存じのとおり、アメリカといえば、キリスト教を中心として世界で一番の国家です

神様のみ旨成就のために来られる

きょう、お話しする内容は、今日、私たちの信仰生活、あるいは従来の神学を通して知ることができ、学ぶことができる内容に関するものではなく、全く新しい分野のものですので、アメリカの多くの国民が聞かなければならないものだと思います。そのために、私がここに現れるようになった次第です

今、終わりの日がやって来たので、歴史的な事件や事実を明確にしておかなければなりません。私は、神様から「三年間アメリカに行って宣べ伝えなさい」というみ言を聞き、一九七二年から一九七三年と一九七四年の今年まで、アメリカの皆様を訪ね、津々浦々でこのように壇上に立つようになりました。その点を理解してくださるようにお願いします

皆様も私も、神様のみ旨のために生き、神様のみ旨を成就する兄弟の立場にいることを理解して寛容な気持ちをもち、皆様が信じてきた信仰生活と相反するからといって、それを直ちに判断なさらずに、深い祈りの中で、あるいは暝想の中で探知、探求して判断してくださることを願ってやみません

キリスト教は今まで、二千年間、再臨主を待つ信仰生活をしてきたことを私たちは知っています。しかし、今は終わりの日がやって来たので、信じるだけではなく、来られる主を迎えるために準備をしなければなりません。その段階を経ていかなければならないと思うのです

私たちが一つの小さな大会を行うときにも、プログラムを組み、そのとおりに間違いなく動いてこそ、その大会を円満に終えることができます。今日、主が来るというこの事件は、歴史始まって以来最も大きな事件であり、人類歴史上で最も重要な事件なので、それが盲目的に漠然となされるとは考えられません。ですから、私たちは今、その内容がどのようなものなのかを知らなければならないのです

例えば、皆様がバーミンガムに向かって汽車に乗っているときは、汽車に乗ってさえいれば安心して目的地に到着することができますが、一度バーミンガムに到着すれば、行くべき新しい方向と目的が明確でなければならないのです。今まで信じていたキリスト教の中で、主が来ることを準備するある団体が存在しなければならないということは、理論的に明白な事実です

主は間違いなく来なければなりません。それでは、主はなぜ来るのでしょうか。神様のみ旨成就のために来ます。それでは、神様のみ旨とは何ですか。今日、信仰する人々は、神様が救援摂理のみ旨を通して摂理すると思っていますが、本来、神様のみ旨は一つしかあり得ないことを知らなければなりません

今日、この救援摂理というものは、神様が本来計画した創造理想世界において必要だったものではありません。人間が堕落することによって、神様のみ旨を成就できなかったために、そのみ旨を再び取り戻していく過程が救援摂理だということをはっきりと知らなければなりません

神様が決められたみ旨に背くことはできません。神様は絶対的なお方なので、そのみ旨を完成させてこそ、権威を保て、堂々とした立場に立つことができるのです。これが事実である以上、目的としていた本然の基準で堕落した人間を完成させることができなければ、神様が絶対的な神様になれないことを、私たちは知らなければなりません

人類救済のための神様のみ旨とキリスト教の使

それでは、人類の先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのような世界になったでしょうか。神様の愛の中で保護を受けて彼らが完成していたならば、神様がアダムとエバを呼んで祝福し、結婚式をしてあげたでしょう。そのために男性と女性を造ったのです

もしそのようになったとすれば、この地球星には、堕落した人類の先祖ではなく、神様の愛される、罪のない完成した人類の真の先祖が暮らすようになり、真の父母になっていたはずです。つまり、神様が本当に愛することのできる真の新郎と真の新婦が、この地上に誕生していたというのです。お互いが怨讐の兄妹ではなく、完全に神様のみ旨に協助する、神様の愛の中にいる神様の真の兄妹がこの地上に生まれたでしょう。そうすることによって、神様を中心とした家庭をこの地球星に形成し、罪のない父母として罪のない息子、娘を生んで、罪のない氏族、罪のない民族、罪のない国家、罪のない世界をつくり、この地球星の人類は、名実共に神様の主管を受け、神様はこの地球星の王になったでしょう。そのような結論になります

そうなっていたとすれば、救世主は必要ありません。宗教は必要なく、祈祷は必要ありません。救世主が必要で、宗教が必要で、救援が必要になったのは、堕落の産物だからです。それを、今まで知らなかったというのです

救援するというのは、落ちたからです。病気になったので、病人を直す病院が必要であり、故障したので修理する工場が必要なのです。ですから、宗教とは何でしょうか。修理工場と同じであり、病院と同じです。それはすべて救援です。病気になったので、救援が必要だということです。このような原則的な基準を、今日、キリスト教は規定しておかずに、漠然と無条件に信じていますが、それではいけないというのです

それでは、この世はどのような世の中なのかについて、聖書を通して調べてみましょう。ヨハネによる福音書第十二章三十一節を見れば、「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう」とあります。「この世の君」とはサタンのことです。なぜサタンが、人類の王になることができたのでしょうか。それは、人類が堕落したからです。神様とサタンとは怨讐関係です。人間始祖が偽りの夫婦関係によって堕落することで、私たち人類は堕落した先祖をもったのです

そして、互いに殺し合う偽りの兄弟関係が成立したというのです。夫婦が罪のある息子、娘を生んで、罪のある家庭から罪のある氏族、罪のある民族、罪のある世界に広がっていったのです。ですから、自動的に悪魔サタンが王にならざるを得ないというのです

このような世の中から、罪のない世の中に移行させなければなりません。それが救援です。移すということは、救援であり、復帰だということを知らなければなりません。本来、神様のみ旨とは、救援ではありません。ですから、本来の神様のみ旨に戻らなければなりません。メシヤが来る目的は、神様のみ旨を成就するためのものです。神様のみ旨とは何でしょうか。悪魔サタンから世の中の人をすべて救い出すことであり、最後には悪魔サタンを屈服することです

今日、皆様が暮らしているところには、人間が罪を犯せば、それを讒訴する悪魔サタンがいます。それを屈服しなければなりません。今日のキリスト教は行くべき目的が何かを知らずにいます。「私一人が救われて天国に行こう」というのは、本当の救いではありません。人類を救援することが神様のみ旨であり、人類を滅ぼし蹂躙する悪魔サタンを、この地球星から永遠に追放することが、神様のみ旨だということを今まで知りませんでした

そのような世界を復帰するためのメシヤを、そのまま個人の次元でサタンのもとに送れば、サタンが捕まえてその命を奪います。ですから、個人から家庭と氏族を経て、民族を経て、一つの国家形態を用意しておき、その国家の国民が一つになったところに、世界を料理するために送られたお方がメシヤです。それを準備すべきユダヤ教であり、選民だったということを、ユダヤ教の信者は知らなかったのです。その延長として世界的な主が再び来るときにも、そのみ旨は同じなので、世界的な終わりの日が来るとき、そのみ旨を拡大して、世界的な足場をつくるのがキリスト教の使命であることを知らなければなりません

聖書に見るユダヤ民族がイエス様の命を奪った背

それでは、今から問題になるのは、主がいかにして来るのかということですが、これを私たちははっきりと知らなければならないというのです。聖書のみ言を通して見れば、終わりの日については、イエス様御自身が、「天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マルコ一三・/span>三二)とおっしゃいました。ですから、いかにして来るのかという問題については、神様と談判して知る道と、私たち人間の知恵で求めて知る道があり、その道は昔、メシヤ、主がどのように来て、逝ったのか、ということから判断して知ることができるのです。その二つの道しかないことを、皆様は知らなければなりません

皆様がもし神様と談判し、霊界に入って啓示を受けて分かったとしても、それを信じることができますか。このレバレンド・/span>ムーンがそのような話をしても信じることができないというのです。ですから、はっきりとした証拠のある内容によって、真理に基づいた提示をしなければなりません。それゆえに、来られたメシヤについてはっきりと知ることによって、未来を推測することができるのです。それは言うまでもないことです

今日、キリスト教でメシヤが来ることを願うのは、あたかも今から二千年前にユダヤ教徒たちがメシヤを望んでいたのと同じ立場です。今のキリスト教を見れば、二千年間メシヤが来ることを望んできましたが、ユダヤ教を見ると、神様はアダム以降、四千年間数多くの預言者を送って犠牲にさせながら、メシヤを遣わしてあげようと約束したのです。神様がメシヤを送ると約束したので、その民族は、そのお方が来るとすれば、鉄石のように固く一つになって神様のみ旨を成し遂げようと精誠を込めて信じてきました

ですから、神様はメシヤであるイエス・/span>キリストを約束どおり、その民族に送りました。また、約束どおり、その民族は受け入れなければならないという立場に立っていました。ところが、メシヤが来ることを願った民族が、メシヤを受け入れたのではなく、むしろ迫害し、捕まえて命を奪ったのです。皆様、それがなぞではないでしょうか

その事件を例えて言えば、メシヤが来ることを願っている今日のキリスト教徒たちが、メシヤが来たにもかかわらず、カトリック教会の最高指導者であるロ・/span>マ教皇や枢機卿、司教、あるいはプロテスタント教会の牧師のような人たちがすべて動員され、メシヤを捕まえて命を奪ったのと同様の結果をもたらしたというのです。簡単に「死ぬために来た」という話は通じません。理論的に合わないというのです。死ぬためならば、何のために彼らを訓練し苦労させてきたのですか。四千年の間、数多くの預言者の命を捧げさせ、イスラエル民族に大変な苦労をさせてまでメシヤを送る理由が分かりません。準備していない悪党のもとに送れば、どれくらいよく葬ってしまうでしょうか。このように言えば、口があっても答弁できません

ですから、ユダヤ民族が、そのように待ち望んだメシヤを神様が送ったにもかかわらず、どうして彼らはメシヤを捕まえて命を奪ったのかというその原因を、はっきりと知らなければなりません。このような話を初めて聞くからといって、あまり深刻になりすぎないようにお願いします。なぜ捕まえて命を奪ったのかという問題を知らなければなりません

なぜそのようにしたのかというと、第一に、旧約聖書の内容がそうするようになっています。皆様が御存じのように、旧約聖書のマラキ書は、新約聖書のヨハネの黙示録に該当します。マラキ書第四章五節以下を見れば、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」と鉄石のように固く預言されているという事実を、私たちは知らなければなりません

エリヤはどのような人だったかというと、イエス様が来られる約九百年前に、火の車に乗って昇天した人です。神様がこの民を愛して、このように時を決めてエリヤを送ろうといったので、火の車に乗っていったエリヤ自身が降りてくるものと思い、そのように信じたのです。「エリヤが来る」と聖書にはしっかりと書かれているのに、エリヤそのものは来ませんでした。旧約聖書はどのような本かというと、イエス様まで約二千年の間、イスラエル民族の思想の基調となり、ユダヤ教の信仰の中心となっているとともに、全生命を傾けて信じてきた本です。そのような旧約聖書を、イエス様の話を聞いて簡単に捨てることができるのかというのです

皆様、それを信じますか。その話は、主が雲に乗って天から降りてくることを信じ、それを願っているのに、突然、ある人が来て「私が主である」と言うのと同じことです。それを今、キリスト教は信じることができますか。そのような事件であるがゆえに、イエス様が御苦労されるしかなかったのだということを、イエス様のみ言を通して調べてみることにしましょう

マタイによる福音書第十七章十節以下を見てみましょう。イエス様の弟子たちは聖書の内容をよく知りませんでした。無知な彼らがイエス様を救世主として信じて伝道に出掛け、「メシヤが来たので信じなさい」と言うとき、祭司たちが「おいおい、あなたたちの先生がメシヤだとすれば、マラキ書のメシヤが来る前にエリヤを遣わすとある、そのエリヤはどこに来たのか」と言いました。ところが、弟子たちはその意味が分からないので、イエス様に尋ねる場面が出てきます

エリヤそのものが来なかったので問題です。聖書に、「弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイ一七・/span>一〇一三)と書かれています

洗礼ヨハネはエリヤそのものですか。皆様なら信じますか。エリヤが来てもいないのに、洗礼ヨハネがエリヤだと言うのです。それで、「あなたが洗礼ヨハネをエリヤだと言うのは、メシヤを装うためだ」と言って、イエス様に対して疑い、彼を、約二千年間神様が立てたイスラエル選民を滅ぼし、ユダヤ教を滅ぼそうとする親玉だと言い、悪霊の頭ベルゼブルだと断定してしまいました。「間違いなく悪魔サタンの息子だ。エリヤは来ていないのに、エリヤが来たとこじつけるやつを、誰が救世主として信じるというのだ」と思ったのです

旧約聖書を間違って解釈し、イエス様の命を奪ったユダヤ民

今まで、ユダヤ教はキリスト教と怨讐の関係にあります。ここで私たちは、聖書がどのようなものかということを知って、その怨讐関係を越えていかなければなりません。サタン世界において神様のみ旨を成就できる人や家庭や国家をつくるためには、彼らは怨讐国家に送られた情報部員と同様の立場なので、神様は、彼らに情報をあからさまに指示したとすれば、彼らは捕らえられ、みな滅びるようになるのです

ですから、神様は暗号で指示せざるを得なかったという、その記録が聖書であることを知らなければなりません。アメリカ中央惰報局(CIA)がソ連に情報部員を送るとき、手紙で「このようにしなさい」とあからさまに書いて送るでしょうか。暗号でその指示を送るのです。もしその指示内容をはっきりと教えてしまうならば、情報部員はみな捕まえられ、その命を奪われるでしょう。これと同じように、神様はユダヤ教徒に彼らの任務を暗号で教えてあげ、終わりの日に遣わすメシヤの命を奪われない環境をつくり、教えてあげて、導くべき神様のみ旨があったことを知らなければなりません

ところが、ユダヤ教徒たちは、暗号で書かれた旧約聖書を解き間違えて、メシヤの命を奪ってしまったということを知らなければなりません。CIAの局長が、その暗号を最もよく知る人物であるのと同様に、旧約聖書の暗号を最も的確に解くことができるのは神様しかいないのです

そこで、神様のみ旨を成就するためには、必ず神様はあらかじめ教え、時を迎えたあとに再び教えるのです。アモス書第三章七節を見れば、「まことに主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」とあります

しかし、旧約聖書を信じていた人々が、旧約聖書を解き間違えてしまったために、来られたメシヤの命を奪うという歴史的な罪を犯してしまった事実を、私たちはよく知らなければならないのです。その時のユダヤ教の信者たちは、それでもまだよいというのです。洗礼ヨハネをエリヤだと主張するイエス様がなされたことは、当時のユダヤ教徒から見ると尋常でありませんでした。数多く奇跡を行い、歴史始まって以来の新しいみ言を語り、奇異なみ業をたくさん行うのを見たとき、それを否定もできず、かといって肯定もできないので、「さあ、それなら洗礼ヨハネをエリヤだと主張するのだから、彼がエリヤなのかどうか一度尋ねてみよう」といって議論が始まりました

そのことが、ヨハネによる福音書第一章十九節以下に記されています。洗礼ヨハネに、「あなたはどなたですか。あなたはエリヤですか。では、あの預言者ですか」と尋ねたとき、洗礼ヨハネはエリヤであることを否定しました。エリヤ自身ではなくても、また、あの預言者(申命記一八・/span>一八)ではないにしても、洗礼ヨハネは、自分が預言者の中の一人だということを強調しなければならなかったのです。にもかかわらず、それを否定してしまいました

それはなぜでしょうか。自分のことを預言者の一人であるとイスラエルの人々がせっかく信じているにもかかわらず、なぜ否定したのでしょうか。既にイエス様の言動を不信する状況が起こっており、事態が不利になっていたというのです。やがて国から追われるイエス様であり、教会からも追われる立場にあったイエス様でした。イエス様が語ることを問題視したユダヤ教の指導者やパリサイ人たちが、イエス様を葬り去ろうと話し合っている実情を感じ取っていたというのです

このように、洗礼ヨハネは、人間中心的な立場にたったために、天を代弁することができず、エリヤではないと言ったのみならず、自分は預言者の中の一人でもないと否認してしまいました。ですから、人々はイエス様の話を信じるでしょうか、洗礼ヨハネの話を信じるでしょうか。現代のアメリカで言えば、ある若者が出てきて、「ビリー・/span>グラハムはエリヤであり、私は再臨のイエスである」と言えば、それを誰が信じますか。歴史が交錯する中で、同じように、神様が、アダム以降、約四千年間準備してきた摂理歴史の中で、ユダヤ民族を信じ、希望を抱いてそのもとにイエス・/span>キリストを送ったにもかかわらず、ユダヤ民族が無知のために不信してイエス様の命を奪ったという事実を否定できません

それが事実なのか、そうでないのか、新約の使徒たちを通して一度調べてみましょう。イエス様の十字架後の初代教会のとき、ユダヤ教徒たちやイスラエル民族がイエス様の弟子たちを迫害するとき、その一番の扇動者であり、代表者として立ち上がった人とは誰かというと、使徒パウロでした。ステパノの命を奪うことにも賛同しましたが、他のイエス様の弟子たちの命を奪おうとダマスコに行く途中、天からの光に打たれて悔い改め、イエス様を証した人が使徒パウロです

使徒パウロは、イエス様がメシヤであったことを誰よりもよく実感したので、使徒行伝第十三章四十六節で、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ」と堂々と宣布しました

このようにして、来られた主が、当時のユダヤ民族の不信によって悲しみの十字架の道を行かざるを得なかったことが、どれほど胸の詰まることかを、私たちは考えもせずに、ただ無条件に十字架を信じてきました。本当なら、ユダヤ教徒の不信によって死んではいけないイエス様が死んだにもかかわらず、「死ぬために来た」と信じてきたのです。ですから、どうしてイエス様の前に行けるでしょうか。救いを受けても、行って会う自信がありますか

洗礼ヨハネの失敗によって亡くなったイエス

ユダヤ教徒は、旧約聖書を文字どおりに信じ、エリヤが来てもいないのに、自分こそメシヤだと言うイエス様の命を奪ってしまったのですが、その一方で、洗礼ヨハネはどうなったのでしょうか。マタイによる福音書第十一章二節以降を見ると、洗礼ヨハネがへロデ・/span>アンティパスの結婚の不道徳問題に口をはさみ、獄中に入れられて死ぬような運命に置かれたとき、自分の弟子たちをイエス様のところに送って「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねます。洗礼ヨハネは、イエス様をメシヤとしてよく信じましたか、信じませんでしたか。かつてヨルダン川のほとりで、多くの群衆に「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)と証したのに、どうして再び尋ねる必要があるのですか。かつて証したその同じ口で、人を送って「あなたはきたるべきかたですか、ほかの人を待つべきでしょうか」と尋ねたというのです

この話を聞いたとき、イエス様は、世の中で自分を認めてくれる人が一人もなく、国全体が反対する中、わずかな生命線のような一縷(いちる:細糸一本のように今にも絶えそうな)の希望としていた洗礼ヨハネまで、最後に来て「メシヤなのか、違うのか」と尋ねたので、どれほど胸が詰まる思いがしたか考えてみてください。ですから、六節で「わたしにつまずかない者は、さいわいである」と指摘したのです

そして、七節以降では、洗礼ヨハネがヨルダン川のほとりでイエス様を証するとき、群衆が見聞きしたことを風刺的に指摘したのです。イエス様は、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる」と語られました。そして、十一節では、「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と言いました。どうして、そのような矛盾する話を語ることができるのですか。あの世に行っている預言者も、すべて女性を通して生まれたのであって、石の間から生まれたのでしょうか。すべて女性から生まれ、洗礼ヨハネも女性から生まれ、イエス様がメシヤであると証したのですから、あの世でも大きな存在でなければならないはずなのに、彼はなぜ小さくなるのかというのです

なぜかというと、あの世に行っている過去の預言者たちは、歴史的な距離をおいてメシヤを証してきましたが、預言者として送られた洗礼ヨハネは、直接的にメシヤを証する使命をもっている立場なのですから、一番大きくならざるを得ないのです

しかし、なぜ天国では最も小さい人も洗礼ヨハネよりは大きいと言ったのでしょうか。霊界に行っている最も小さい預言者も、イエス・/span>キリストをメシヤだと思って迎えます。ところが、洗礼ヨハネはイエス様を証し、イエス様に直接従って、大きい人になるべきだったにもかかわらず、それができなかったので、最も小さい者になるしかないというのです。このような内容でおっしゃったことを知らなければなりません

事実かどうか、十二節を見てみましょう。「パブテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」とあり、洗礼ヨハネと、のちのイエス様の弟子との間で、天国を奪い合う争奪戦が展開していることを語っています。これは、洗礼ヨハネが自らの使命を中心として、尽力できなかったことを示しています。もし、洗礼ヨハネが努力したとすればどうなっていたでしょうか。洗礼ヨハネは、イエス様の一番弟子になっていたでしょう

もし、洗礼ヨハネが一番弟子になったとすれば、洗礼ヨハネの弟子たちは十二弟子に入るのであり、洗礼ヨハネに従う群れが七十門徒、百二十門徒になり、ユダヤの国全体の忠臣たちがイエス様に従っていくのではないかというのです。イエス様に反対するために洗礼ヨハネを送ったのですか。それでは、洗礼ヨハネがどれほど偉大な人なのかを調べてみましょう。神様が、メシヤのために公認して送った彼は、どれほど特別な人なのか、イエス様のみ言を通して調べてみます

十三節に、「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである」と旧約聖書を完成させる結実的存在として来たとイエス様は宣布しました。洗礼ヨハネがイエス様と一つになれば、ユダヤ教の聖書、旧約聖書を信じていた人々はみなついてきて、一つになるようになっています。そうすれば、誰がイエス様の命を奪うでしょうか。神様の王子であるメシヤというお方は、築いておいた基盤を活用するために来られるのであって、貧しく聖書にも無知な漁夫や売春婦や取税人たちを従えさせて彼らを食べさせ、彼らの主人になり、師になるために来られたのでしょうか

それでは、洗礼ヨハネがイエス様に従ったか従わなかったかを、もう一度はっきりと調べてみましょう。ヨハネによる福音書第三章二十六節以下を見れば、洗礼ヨハネの弟子たちがイエス様のことを聞いて、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」と報告すると、洗礼ヨハネは「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言いました。これをキリスト教では「洗礼ヨハネは立派な預言者なので、イエス様をそのように高め、自分は滅びると謙遜に言った」と解説しています

メシヤのために三年間以上苦労し、願っていたそのメシヤに出会って証したのなら、当然、死んでもメシヤのために死ななければならないというのです。これはどういうことかというと、一緒に共同歩調を取ったなら、メシヤが栄えれば自分も栄え、メシヤが滅びれば自分も滅びるべきです。それなのに「わたしは衰える」と言ったのは、「従わない」という決定的な事実をありのままに告げたことなのです

このように見るとき、第一に旧約聖書を文字どおり信じたゆえに、第二に洗礼ヨハネの不信ゆえに、イエス様が十字架で亡くなられるようになったことを、私たちは今まで知らなかったというのです

主は雲に乗って来られるのではな

その次に、第三の理由を調べてみましょう。その時にユダヤ教の人々が信じていたのは、来られるメシヤが雲に乗ってくるということです。それはなぜでしょうか。ダニエル書第七章十三節を見ると、「人の子のような者が、天の雲に乗ってきて」と預言されているので、旧約聖書を生命視する彼らは、雲に乗ってくると信じざるを得なかったのです

ここにいる牧師先生たちは、「レバレンド・/span>ムーンは、間違って理解したためにそのように語っているのかもしれない。そのみ言は再臨の時の話であって、イエス様の時の話ではない」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。イエス様のみ言どおりにすれば、洗礼ヨハネの時にすべて終わるのです。旧約聖書のあらゆる預言と預言者は、洗礼ヨハネまでにすべて終わったというのです

雲に乗ってくると思っているのに、人として生まれたマリヤの息子であり、ヨセフの息子、その兄弟をもみな知っている彼が、メシヤになる資格のある人物に見えたと思いますか。今日のキリスト教徒たちは、再臨主が雲に乗ってくると思っているのに、人として来たとすれば、その人物を信じられるかというのです。同じことです。それが使徒時代に問題になったのかどうか、聖書を通して調べてみましょう

使徒行伝第七章五十二節を見ると、このような話があります。「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった」と、ステパノは当時のユダヤ教指導者らの不信を断罪しています。弁明する方法が全くありません。今、私が語っているのは、すべて皆様が信じている聖書の話です。神様のみ旨を誰よりも愛し、神様のみ旨の道を正しく行こうするので、このような話を皆様にせざるを得ません

皆様は「レバレンド・/span>ムーンが何の権威をもって話しているのか」と言うかもしれませんが、そのような話をする権威があります。私が霊界のイエス様や、洗礼ヨハネに会ってみると、このようになっていて、またそれを聖書で探してみるとそうなっていました。両面が合ったので、間違いないというのです。皆様の信じていることが正しいのか、レバレンド・/span>ムーンの話したことが正しいのか、世界中に尋ねてみてください。もし皆様が信じることができなくても、皆様の息子、娘は間違いなく信じるでしょう

十字架はあらゆるものを失った

このようなことを見るとき、イエス様は本来、十字架で死ぬために来られたのではないにもかかわらず、ユダヤ民族の不信によって死ぬようになったことは、神様の悲しみであり、人類の悲しみであり、歴史的な悲しみであり、未来の悲しみとして残っているのです。私たちは、今までこのことを知らなかったというのです。旧約聖書は、メシヤが来ることを両面で預言していました。イザヤ書第九章、第十二章、第六十章を見れば、「栄光の主として現れる」と言っていますが、第五十三章には苦難を受けるだろうと預言されています。なぜこのように両面の預言をしなければならなかったのかを知らなければなりません

私たち堕落した人間のことを、神様も恐れ、サタンも恐れます。なぜかというと、一時、神様を熱心に信じていても、すぐ裏切ってサタンと組んで神様の世界を台無しにし、またサタンと組んで一つになっていても、再び神様のもとに来て、サタン世界を滅ぼす、そのような人間だからです。ですから、神様も恐れ、サタンも恐れていることを知らなければなりません

ユダヤ民族がイエス様を信じたなら、栄光の主となっていたはずなのに、信じなかったことによって、十字架で亡くなるようになったのですが、十字架を背負うようになったのは、急変的な事件であることを皆様は知らなければなりません。それでは、十字架で亡くなることを、いつ決定したのでしょうか。聖書を通して調べてみましょう

ルカによる福音書第九章三十節、三十一節を見れば、「すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」となっています。変貌山上のその時に決定したというのです

なぜなら、ユダヤ教が反対し、イスラエルの国がそうであり、洗礼ヨハネまで反対する立場に立ったので、既にみ旨を成就する足場はすべて崩れたのです。それで、神様も仕方がないので、霊と肉を中心として地上天国と天上天国の両面を救援完成しようとするみ旨を捨てて、霊的救援の世界だけでも立てるために、二次的摂理を中心とした十字架の道に送り出したのです。もし彼が十字架で亡くならなければ、両面をすべて失うようになります。仕方なく一つの分野だけでも残すために、イエス様を十字架に差し出さざるを得なかったことを、皆様は知らなければならないというのです

今日、キリスト教徒たちは、聖書のマタイによる福音書十六章二十二、二十三節のみ言をもって、イエス様が間違いなく死ぬために来られたと主張します。そのみ言が何かというと、イエス様がエルサレムに行って死ぬだろうと言ったとき、一番弟子のぺテロが、「主よ、とんでもないことです」と言いました。そのとき、イエス様は強く叱咤しました。「サタンよ、引きさがれ」と言ったのです。それで、キリスト教徒たちは「死ぬために来たイエス様が、死のうとするのに反対するので、サタンよ、引きさがれと言った」と考えています。しかし、それは変貌山上で、十字架で亡くなることを決定した以後なので、このような返事をせざるを得なかったことを、皆様ははっきりと知らなければなりません

もし、洗礼ヨハネとユダヤ教徒とイスラエル民族がイエス様を信じたなら、どうなったでしょうか。イスラエル民族はイエス様と一つになって団結し、その時に中東圏までイエス様と一つになるのです。そうなっていたなら、ローマに対抗して四十年以内にローマを天の側に引っ張り込むのです。死んだイエス様が四百年間でローマを征服したので、生きたイエス様を中心として、四十年以内に天の国の憲法を宣布できるのです。それができれば、今日までの、プロテスタントとカトリックの歴史はなくなります。すべて、イスラエル民族の立場でみ旨が成就していったからだというのです

み旨が成就していれば、イスラエルの国があのように悲惨に滅びることもなく、キリスト教徒たちも悲惨に血を流すこともなかったでしょう。王権を統一して、キリスト教が世界を動かすことができるようになったとすれば、誰がイエス様の命を奪うでしょうか

世界は既に、神様のみ旨どおりに、天の国になり、世界はすべて一つになっていたというのです。主が再び来る必要もないのです。キリスト教は、このことを知らなければなりません。ですから、イエス様が十字架で亡くなったその場は、神様とイエス様がすべてのものを失った場だということを、私たちは知らなければなりません。十字架は、神様の勝利ではなく、悪魔サタンの勝利です。神様の息子を釘づけにした場です

十字架でイスラエルの国を失い、ユダヤ教の基盤を失ったのであり、摂理史的な時を失ったのであり、ぺテロをはじめ弟子たちをみな失ったのであり、のちには、右側の強盗までも死んでしまったのです。そこにはキリスト教がなく、キリスト教の出発もありません。すべて失ってしまいました。キリスト教はいつから出発したのでしょうか。イエス様の復活後、そして四十日後にキリスト教が出発しました。キリスト教が十字架ではなく復活から出発したことを、今まで知らなかったのです。それは、二千年のキリスト教が根本的に教えています。聖書を見れば、否定できません。イスカリオテのユダがイエス様を捕えに来たとき、「今はやみの支配の時である」(ルカ二二・/span>五三)と言ったではないですか

もし、イエス様が死ぬために来たとすれば、ゲッセマネの園で三度祈る時、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言うでしょうか。理由もなく、このような祈祷を捧げれば、メシヤの資格がないというのです。なぜそのような祈祷を捧げたのでしょうか。死ぬことが恐ろしいからですか。キリスト教徒たちは、「ああ、イエス様も肉身をもっていたので、その死の苦痛のためにそのように祈ったのだろう」と言いますが、とんでもないことです。死が恐ろしくてそう祈ったのではありません

自分が十字架で死ねば、全世界のキリスト教徒たちが十字架の道に従ってこなければならず、自らが血を流すことによって、全世界のキリスト教徒の体にサタンが侵入できる条件が成立するので、数多くの人が血を流して犠牲になる、そのことを考えるとき、そのような祈祷を捧げざるを得なかったのです。また、四千年も準備してきたイスラエルの国とユダヤ教が滅びて足場もなくなることを知って、神様が四千年摂理されたその苦労を思ったとき、そのような祈祷を捧げざるを得なかったというのです

ですから、イエス様が十字架上で落命する前に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・/span>四六)と言いましたが、このような祈祷はどういうことでしょうか。また、三時間も暗闇になったというのは、成就すべき一つのみ旨がまっ暗な世の中に占領されたことを表示したものだったのです。皆様は、歴史時代において、死なずにみ旨を成し遂げていくべきメシヤが、このように死んでいったことを、もはや否定できないことを知りました

女性の体を通して来られる再臨のイエス

それでは、今後、来られる主はいかにして来られるかということを考えてみましょう。新約聖書にも両面の預言があります。旧約と同じだというのです。今日のキリスト教徒は、当時のユダヤ教徒と全く同じ立場です。範囲が世界的に発展しただけです。しかし、キリスト教は霊肉ではなく霊的のみです。国がありません。イスラエル選民のように国家基準の基盤ももっていないというのです。なぜですか。イエス様が死んだからです。昔のユダヤ教にさえ及ばないことを知らなければなりません

イエス様は霊的王としてのみ成就しました。ですから、神様のみ旨は世界人類を救ってサタンを追い出し、神様が王になることであるにもかかわらず、イエス様が死ぬことによって地上でサタン世界を復帰することはできませんでした。サタンを追放してイエス様が王になり、神様が主管する国を建てるというみ旨が成就できなかったのですが、そのみ旨を成就するのはメシヤなので、再び来なければなりません。ですから、全世界のキリスト教徒たちが一つになって、来られる主を中心として、この地上に天国を形成するために、失敗したイスラエル民族以上に強い世界の国家をつくらなければならないということです

聖書のヨハネの黙示録第一章七節を見れば、「彼は、雲に乗ってこられる」と預言されています。テサロニケ人への第一の手紙第五章二節を見れば、「主の日は盗人が夜くるように来る」とあります。雲に乗ってくるのに、盗人のように来ることができますか。皆様の思いどおり、盗人のように来る主は信じず、雲に乗って来る主を信じようと決定できますか。雲に乗ってくるのは、昔、旧約聖書のエリヤと主、メシヤが雲に乗って来ることを信じるのと同じであり、人として来るとすれば盗人のように来るということです

旧約時代を中心として神様の役事(働き)を見るとき、イエス様が雲に乗ってくると思いますか。そのように信じていては、また十字架にかけるようになります。イエス様を信じる人々が、来られるお方の命をまた奪うというのです

私たちは、両面の預言をどちらも信じようというのです。雲に乗っても来ることもでき、人としても来ることもできるということです。雲に乗って来ると思って信じていた人は、人として来れば迫害しかねませんが、人として来ると思って信じていて、主が雲に乗って来るとすれば、間違いなく迎えるというのです。ヨハネの黙示録第十二章五節を見れば、「女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすベての国民を治めるべき者である」と女性が産むといいました。それを教会では、仕方なく今まで雲に乗って来ることと結びつけて解釈してきました

それでは、聖書の中で、雲に乗って来ては成り立たないというものを紹介してみましょう。ルカによる福音書第十七章二十節以下を見てください。「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない」、とあります。雲に乗ってくるのに見ることができないでしょうか。また、二十二節では、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう」と語られました

雲に乗って来るのに、見ることができないでしょうか。二十五節、二十六節を見ると、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう」となっていますが、雲に乗って来る主が苦難を受けるでしょうか。ノアの時のように凄惨でしょうか。もし、人として来るとすれば、このようになるのです。人として来れば、間違いなくこのようになるでしょう

全世界のキリスト教徒たちは、主は雲に乗って来ると思っているのに、人として来るとすれば、ローマ教皇や枢機卿や、全体の勢力基盤をもった人々が、「キリスト教を滅ぼし、神様のみ旨を滅ぼす異端を捕まえて葬ってしまえ」と言うのではないかというのです。皆様、そうではないでしょうか。聖書のみ言がこのようになっています。歴史的な事実から見て当然そのような結論をつけるべきだという立場から見るとき、このように神様が生きていることをここから探し出すことができ、神様のみ旨は計画的であり公式的であることを、私たちは探し出すことができるのです

このレバレンド・/span>ムーンがここに現れて、このようなことを熱心に教えてあげたのですが、もし教える人がいなければ、また捕まえて命を奪うのであって、ほかに方法があるかという話です。時が来たということです。レバレンド・/span>ムーンがこのような話をしなかったとすれば、皆様がそのようにはしないと保障できますか

それからまた、ルカによる福音書第十八章八節を見れば、「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」という言葉があります。それは信じる人ではなく、信仰がない人の話です。雲に乗って来るのに、信じられないでしょうか。ユダヤ教徒と同じことになります。雲に乗ってきて、エリヤが先に来ると思っていたのに、人として来たとすれば信じる人が一人でもいるでしょうか。イエス様の使徒の中に書記官がいますか、祭司がいますか。1人でも信仰をもった人を見ましたか。このようなことを見るとき、雲に乗って来てはこのような話が成り立たない、というのが聖書の話だというのです

人として来られる主を迎えるべきキリスト

神様のみ旨とは何でしょうか。キリスト教の教派の神様になることでしょうか、人類の神様になることでしょうか。神様のみ旨とは、世界的な人類の神様になることです。救世主が来たのは、キリスト教だけを救うためではありません。世界を救うために来たのです。皆様がよく知っているヨハネによる福音書第三章十六節を見れば、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と言ったのであって、「一教派を愛し、一個人を愛する」と言ったでしょうか。「世の中を愛する」と言いました。それでは、世界がその神様を探し出しましたか。サタンを追放しましたか。地で失ったので、地に来て取り戻さなければならないのです

ですから、マタイによる福音書第十六章十九節を見れば、イエス様が霊界に行かれる前に、天国の鍵をぺテロに与えながら、「あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」と地上の重要性を説かれました。地上ですべてのことを解決しなければならないというのです

全世界の人類を中心として、神様がすべてを主管する王権をこの地上に立てましたか。サタンが王権を握っているので、そのようにしなければ、神様が計画どおりにできず、失敗した神様になります。誰ゆえにですか。サタンゆえにです。そのようになればサタンにさえ及ばないという結論になります。ですから、イザヤ書第四十六章十一節を見れば、「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」という言葉があります

結論を下しましょう。私たちは、悪の人類の先祖をもっていて、悪の夫婦の起源をもっていて、悪の兄弟の起源をもっています。善なる人類の真の先祖と善なる夫婦と善なる兄弟をもって罪のない息子、娘を生むことができなかった私たちなので、地上でこれを成し遂げなければなりません。ですから、神様を中心とした家庭を取り戻すことができなければ、国を取り戻すこともできず、世界も取り戻すことはできません

ですから、イエス様はこの地に再び来て、神様が愛する家庭をつくらなければなりません。すなわち新郎として新婦を見いだしてこそ、真の父母も生まれ、真の夫婦も生まれ、真の兄弟も生まれるのです。これを完全に成し遂げることができなかったので、再び来て成し遂げることを預言したのが「小羊の婚宴」であり、新郎が新婦を迎えることなのです

家庭をもってこそ氏族を取り戻し、民族を取り戻し、国家を取り戻し、世界を取り戻すことができるので、家庭が問題です。そのために新郎新婦として来るようになるのが、「小羊の婚宴」です。新郎新婦が出会わなければならないのです。神様が、堕落していないときに成し遂げるべきだったアルファのみ旨を、ひと回りしながら悪の世の中を除去してしまい、オメガとしてもってきて合わせるということです

最初のアダムが失敗したことを、二番目のアダムであるイエス様が来て復帰しなければならないのですが、それができなかったので、三番目に再臨主が来て成し遂げなければならないというのです。聖書のコリント人への第一の手紙第十五章四十五節から四十七節に、イエス様のことを「後のアダム」「第二の人」と言ったのはそのためです。雲に乗って来ては成し遂げることができないので、人として来なければなりません。それで、人類の真の先祖と真の夫婦と新しいキリスト教を中心として、世界の王権をつくって天の国を成し遂げなければならないのが、来られる主を迎えるキリスト教の使命です

今、そのような時が私たちの目前に近づいたことを知り、皆様が祈る中でそのような場に同参(一緒に参加すること)することを願います。今晩皆様にお話しできたことを感謝し、皆様が否定的に速断することなく、神様に祈ることで解決することをお願いしながら、お話を終えようと思います。ありがとうございました。

 

3.今日の知識人と宗教

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

3.今日の知識人と宗

日付:一九八一年五月十六

場所:韓国、ソウル、ロッテ・/span>ホテ

行事:著名人招請講演

大韓民国の重鎮である皆様をこの場にお迎えし、きょう知識人たちとの集いをもてるようになったことを、限りなく光栄に思う次第です。この場は、「今日の知識人と宗教」という主題をもって集まりましたので、私の所見の一端をお話ししてみようと思います

人間は次元の高い価値を追求す

皆様は、統一教会の主張に関心があるのではないでしょうか。団体ならば団体の主張があり、国家ならば国家も、国策を中心としてそれ相当の主張があるものです。その主張に従って、その指揮下にあるすベての行政あるいは組織機関が動き、その目的とすることに向かって進んでいくのと同様に、統一教会にもその主張があります

周知のように、人の欲望は極めて大きいものです。個人においては個人の欲望、家庭においては家庭の欲望、社会ならば社会、国家ならば国家、世界ならば世界なりの欲望があります。このように見るとき、人間がその欲望を通して何を得るのかを考えてみれば、その欲望を通して、より次元の高い目的や価値あるものを追求するということは、言うまでもありません。この宇宙、さらには宗教的に見るとき、見えない新しい世界があるとすれば、「私」はどこを終着点として進展するのかということが問題です。これが今まで、哲学あるいは人生問題を扱うすべての宗教が重要視する点です。人生はどこに向かっていくのでしょうか。人はそれぞれ異なる欲望をもち、自分なりに歩んでいます。そして、その欲望が指向する最高の目的とは、最高の価値でしょう

皆様は自分の専門分野において、世界で一番の学者を標準として動くでしょう。これと同様に、この宇宙の中で、私たちの目的となる主体である偉大なお方がいらっしゃるとすれば、そのお方を標準としてすベてのものは動いていくでしょう。それで、人間世界においては、聖人という問題、さらには宗教的に見れば、神様という問題が登場するようになります。このように見るとき、私たちのあらゆる欲望は、神様というお方を目的とし、そこに終着点を置いていくものだという結論が出てきます

神様が必要とされるものは何

もし私たちが神様を発見し、神様を探し出したとき、神様が必要とするものとは何なのか、尋ねてみたいと思わないでしょうか。神様として望むこととは何でしょうか。神様が望むことがあるとすれば、私たちは神様を発見したその時から、神様が望むことに向かって前進せざるを得ないでしょう

神様が望む欲望とは何でしょうか。その神様の望むものは、今日、私たちが生きている人間世界において語る物質でもなく、お金でもありません。ここに列席した高名な学者の先生方が追求する知識でもありません。神様は全知全能のお方なので、知識ではありません。権力でもありません。そのお方の欲望は、人間にとっても第二次的な立場で、さらに追求すべき重大な問題になるでしょう。このように総合して結論づけるとき、その結論とは何でしょうか。生命力ですか。それも違います。正に「愛」という一言に集約されるという結論を下さざるを得ません

全知全能のお方に、何のために愛が必要なのでしょうか。なぜ神様に愛が必要なのかという話です。愛は個体自体で成立するものではなく、必ず相対的関係で成立するものだからです。愛というものが、一つの個体から自発的に出発できますか。いくら自分が愛をもっているとしても、自分自体で自発的に出発できないというのです。必ず相手が必要です。相手を通して愛を追求するようになっています

それでは、神様は何を目的として創造したのでしょうか。神様が独断的な面において、一般的な目的の追求のために、この被造世界を造ったのでしょうか。それは喜びのためです。神様も喜ぶために造られたのです。喜び楽しむためです。何を中心として喜び楽しまれるのでしょうか。お金でもありません。この宇宙の万象をもって人間が喜ぶ、そのようなものを中心として喜ばれるためではありません。愛を中心として喜ばれるために万物を造られたのです。このすベての万物を、そのような目的のもとに造ったというのです

それでは、万物が願う最高の願いとは何であり、最高の終着点とは何でしょうか。神様が愛を通して喜ぶことを目的として万物を造ったとすれば、被造世界の万物は、愛を通して連結される関係を抜け出すことはできません。あらゆる万物は、神様の真の愛を受けるために相対的関係をもって授受作用するのです

力が先か、作用が先

今日、多くの科学者たちは、この宇宙について「宇宙は力によってできた」という結論を下しています。力が存在することによって宇宙が形成されたというのです。それでは、力があって宇宙が形成されたのでしょうか。力が存在する前に何かがなければなりません。力だけではできません。力が存在する前に必ず作用という過程を経なければならないのです。心臓の作用が終われば、私たちのすべての力の原動力となる生命も終わります。皆様は、自動車に乗られると思いますが、自動車のエンジン作用が止まれば、走る力が、すべてなくなるのと同じです。ですから、力が先か、作用が先かという根本問題に至るようになります。力が先ですか、作用が先ですか。作用が先です。このように見るときに、作用のないところには力が存在できないのです

私たちのすべての細胞構造から人体を見るとき、あらゆるものが作用圏内を総合して力を維持しています。いくら強い力があるとしても、その力自体が突発的に顕現することはできないと見るのです。細胞作用を通してのみ力が出てくるのであって、そのまま大きな力が出てくることはできません。必ずここには、力が存在する前に作用が必要だというのです。力が存在する前に作用がなければなりません。その作用は一人でできません。作用する要件を形成するためには、主体と対象の関係を絶対に離れることはできません。皆様はこの点をはっきりと知らなければならないというのです

それでは、宇宙形成はどこからなされるのでしょうか。力からではありません。主体と対象の観念があって、その主体と対象の作用から形成されるのです。それから力の活動方向が変わります。その力は、こちらに作用すればこちらに行き、あちらに作用すればあちらに行くのであり、総合的に作用すれば一つの方向に行くでしょう

このすベての作用を統一できる作用とは何なのかが問題です。例えば、私たちの腕がするような作用ですか。私たちの心臓が作動するような作用ですか。血管作用ですか。神経作用ですか。この全体を総合できる一つの方向性を定め、主体的力の主流圏を占めるものとは何かというのです。このようなすべての問題は、近世において多大な関心事でした。知識人たちには大きな問題とならざるを得ません

この主流的で統合的な作用として、ある大きな目的を連結させるのは自己中心ではありません。接すれば接するほど、ぶつかればぶつかるほど、喜びが増し、うれしくなる、主流的な力の総合的な作用形態があります。それが何かというと、真の愛です。真の愛という作用には、すべてが和合するようになっています

その理由は、神様が喜ばれるために愛を追求するというとき、その愛は私たちの第一の欲望と同じ立場に立つからです。すべての被造世界は相対のために造られたので、被造世界は真の愛を主体として拍子を合わせざるを得ない存在になっています

ですから、近所に愛のある裕福な家があるとすれば、近所の犬たちもその家に行って大便をするというのです。そこを通る犬もそこでとどまろうとしまた飛んていくすずめもその垣根に来てとどまろうとします。すずめがチュンチュン鳴くその家は、大抵愛のある裕福な家です。子犬もそうであり、小さな昆虫もこのような愛の理念に拍子を合わせ、宇宙の大作用圏の方向性に一致する作用形態をもって存在していると見るのです。これは人間自体においてもそうです。ですから、愛の道に従っていくためには、どうしなければなりませんか。この作用も、必ず主体と対象の関係によるのです

主体と対象が一つになるのが愛の作

人間を見るとき、人間は二重構造になっています。人には心の作用があります。心を見ることはできませんが、それは誰も否定できません。また、体も作用をしています。これはみなよく知っています

この体がなぜ作用し、心がなぜ作用するのですか。これを主体と対象として考えるならば、一つは男性型であり、一つは女性型です。プラス的なものは見えない内的な私、マイナス的なものは見える外的な私です。それがどうなりますか。それぞれ異なる作用をします。皆様、一度手を握ってみてください。様々な形態で手を握ったでしょう。このように上げて握る人がいて、このように下ろして握る人がいます

すべてのものが連結されるためには、主体と対象の観念圏内で動くので、必ず円形運動をします。主体と対象を基準とした作用圏内では、絶対不可避な作用をしなければならないからです。それで、どの一面であろうとすベて円形に似ているのです

男性と女性を見れば、相対的であると同時に、根本的に作用が異なります。概して男性は背が高く、女性は背が低いのです。両手は、運動することを中心として、関係を保ちながら一つになっていきます。二つが作用するのですが、出会うところから愛の作用を成立させることができると見るのです。独りではできません。二つが共同目的をもって和合できるところから愛の作用が爆発します。それでは、どうしてその愛が爆発する作用が必要なのですか。運動をすれば必ず消耗が生まれます。力学で入力と出力を見るときに、出力は必ず入力より小さいのです。したがって、このような原則の作用世界において、いかに作用を永続化させるかということが、極めて重要な問題です

ですから、偉大な科学者である神様は、互いに異なるすべての作用が接触するとき、爆発的な作用を加えることを考えないでしょうか。この二つが合わさることのできる次元において、作用の決着点から関係が結ばれるものが愛の作用です。おもしろい話です。ですから、もし二人がぶつかり合えば、押し出すというのです。来ては戻り、愛によって押して戻すというのです。ですから、連続作用を拡大する主流的な作用圏の行為を継続すると見るのです

ですから、一つのプラスがあれば一つのマイナスがあります。このプラスとマイナスがどのように合うのですか。合わせるのは主体と対象による作用です。マイナスは作用しますが、絶対に損をするようには動きません。これは、自分にプラスになる基準を探すためです。プラスを探して、より大きなプラス圏内に発展し、より大きな最高の欲望の目的、最高の価値の終着点に向かって走っていくのです。そうすることで、より高い次元にある愛の位置に進んでいこうという結論が出てくるのです

すべての存在の最後の目的は神様の

今日、人間の欲望というものは、すべて党派的です。経済学者は経済、知識人は学問、政治家は権力、あるいは世の中の自分の欲望、家門、歴史的背景、環境的要件などなど、とても多様な環境に引っ張られて党派的に作用しています。それは、それ自体で終わってしまうのです。人は欲望をもっていますが、ここから根本問題が生まれています。自分が主体だからです。自分が主体になって、「お前も私のところにきて、私に従いなさい」と言っています

今日、世界人類の弊害は何ですか。お金がないことが弊害なのではありません。知識がないことが弊害なのではなく、何かの社会組織の主権がないことが弊害なのではありません。自分を中心として引っ張って、自分に従わせようとすることが弊害です。個人個人がすべて自分を主張すれば、プラス・/span>マイナス理想の形成基盤が、一度に完全に崩れるというのです。作用は作用どおりに行い、自らを完成させながら、それがもう一つの主体と対象の関係に連結される道に行かなければなりません

すべての存在物が自分を中心として一つになろうといえば、止まってしまうことになります。この中に入ろうといえば止まってしまいます。ぶつかってしまいます。ここでは、大宇宙の形成は不可能なのです。ですから、神様がいるならば、神様はどのような考えをもたなければならないのでしょうか。これを連結させるためには、いつも「ために生きなさい」というでしょう。ために生きる行路を行かなければならないというのです

すべての存在は、より大きな目的のためにあります。個人は家庭の目的のために、家庭は氏族の目的のために、氏族は国家の目的のために、国家は世界の目的のために、世界は霊界があれば天地の目的のために、天地は神様の目的のために前進しなければならないのです。神様の目的それ自体は何かというと、愛の目的です。すべて愛の進路があります。一つの細胞から、微生物なら微生物から、すべてが一つの支流のようになって、本流に流れて大河を形成し、大海に連結される偉大な愛の流れがあります。この流れの原則と内容を公認しなければ、大海に行くことができないのです。このような内容を先に知ったので、すべてを新しく革命しなければならないというのです。大革命が起こるでしょう

孝子は必ず苦労の道を通ります。受難の道を通るには、その受難と苦労を超越して、価値のある内容に消化させていくことができる、ある刺激的な力の源泉がなければなりません。これを付加できる、その主体は愛です。有名な学者の先生方も、これを否定できないでしょう

愛国者とは誰ですか。同じ理屈です。国のために国民を愛し、主権者を愛するときに、この宇宙の原則の愛の要素と一致化できる和合の実体として、国を抱く人です。その民を愛で抱くところでは、頭をたたかれてもうれしいというのです

皆様。聖人とはどのような人ですか。国ごとに愛国者が大勢います。国ごとに偉人が大勢います。それでは、聖人と愛国者と偉人とは、何が異なるのですか。聖人というものは、天に侍り、人類を愛した人を言います。人類を愛するとき、天地の大道と一致する道に接近させる旗手の立場に立った人が聖人です。聖人で終わるのではありません。その次には、天子(聖子)にならなければなりません。天子の道とは何ですか。神様と人類の受難の道を収拾して、愛の目的を決着させることができる人こそ天子、すなわち神様の息子だということができるのです

統一教会は何を主張するのですか。「私」を中心として、宇宙の愛の本然の道に順応できる道に入って、私がいるのは父母のためであり、子女のためであり、民族、国家、世界のためにいるというものです。このように、より高い愛の段階に発展することです。それで、最後には一つしかない神様の愛を占領できると見るのです

このように見るときに、このような思想でのみ統一できるというのです。その位置に進めば、一つになるようになります。しかし、皆様の心と体は、この作用がうまくできません。それは、堕落して人間が故障したからです。それで、実存哲学で言う「極限状況」をいかに克服するかということが問題です。それを愛で克服しなければなりません

「今日の知識人と宗教」という主題について、現在の立場で皆様が考えるべきことは何でしょうか。愛を必要とする人は、いくら優秀な学者や博士、世界の政治家、あるいはいくら聖人だとしても、神様を信じる宗教から抜け出すことはできないという結論が出てきます。その愛が必要でなければ、宗教の道、神様を求める道を無視してもよいのです。

それで、皆様がきょう、この場に来られたので、私の話を一度参考にして、皆様の生活において、あるいは社会において、人倫や道徳、各分野にこのような内容を適用すれば、大韓民国と世界は新しい次元の発展基準、理想と幸福の基準が拡大するのではないかと思います。そのような意味で、少しの間お話しいたしました。ありがとうございました。

 

4.アメリカと宗教の自由

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

4.アメリカと宗教の自

日付:一九八四年六月二十六

場所:アメリカ、ワシントンDC、国会議事堂上院議員会

行事:アメリカ上院法司委員会憲法小委員会、宗教の自由に関する聴聞

尊敬する議長、上院議員、そして紳士淑女の皆様。私はきょう、宗教の自由のためのこの上院聴聞会に私を招請してくださったことに対し、深甚なる感謝を捧げるものです。また、議長が私の大法院上訴を支援してくださったことに対し、感謝を申し上げます。憲法が付与する個人の権利を守護する貴殿の高貴な行為は、数多くのアメリカ人から末永く尊敬を受けるようになるでしょう

アメリカと宗教の自

大法院上訴棄却が発表されて以後、アメリカ全域には、この大法院の不当な処置に抗議する宗教指導者決起大会が続々と起こっています。この大会に参加した全国一千人以上のユダヤ教、キリスト教、イスラームの指導者たちが、宗教の自由守護の大命題のもと、もし私が監獄に行かなければならないとすれば、自分たちも一緒に行って一週間ずつ服役しようと決議しました。私はこの事実を知って、大きく感動しました。私はこのような宗教の自由の闘士たちに敬意を表すものです

きょう、この場は、歴史的な場です。私はきょう、アメリカの国会に対してのみこの証言をするのではなく、歴史と神様の前に証言するものであると考えます。私には、神様がアメリカを愛していらっしゃることが分かります。しかし、アメリカの偉大さは、豊富な資源にあるのではなく、豊かな繁栄にあるのでもありません。アメリカの偉大性は、正にアメリカの建国精神にあります。その精神は、すなわち「万人のための自由と正義が存在する、神様のもとの一つの国」というものです

しかし、神様の望まれることは、そこで終わるのではありません。神様の究極的理想は、「お一人の神様のもとの一つの世界」というものです。私たちは、神様の子女です。五色人種(すべての人種)が兄弟姉妹として、人類大家族を形成するのです。私たちがみな、神様を父として迎えるとすれば、神様のこの理想は現実化されるでしょう

しかし、神様は宗教の自由がなければ、その理想を実現なさることはできません。アメリカの清教徒たちは、宗教の自由は正にすベての自由の核心であり、宗教の自由なしには、それ以外のどのような自由も意味がないことを知っていました。ですから、彼らは生命を、まるで、ちりあくたのように捨てながら、信仰の自由を勝ち取ろうとしました

ところが、今その信仰の自由は危機に瀕しています。現代のアメリカは、無神論の暗雲の中に包まれ、あらゆる宗教生活に対して、ますます弾圧を加えています。そうかと言って、私たちがこの世界を捨てて避難できる新世界は、地球上にありません。私たちは、必ず本然のアメリカを取り戻さなければならず、宗教の自由を回復しなければなりません。そうしなければ、アメリカは結局、滅びるようになるでしょう。そのようになれば、明らかに世界も滅びるでしょう

アメリカで果たすべき使

一九七一年、神様が私にアメリカに行きなさいとおっしゃいました。そうして、キリスト教の復興を試みて、アメリカを建国精神に戻す運動を展開しなさいとおっしゃいました。神様は私を、医師と消防士の役割をしなさいとアメリカに送られたのです。アメリカに行って、一大霊的覚醒運動を起こすために送られたのです。全世界の生存問題が、神様が賦与した使命をアメリカが果たせるか果たせないかにかかっていています。アメリカは自由世界の最後の橋頭堡です

去る十二年間、私はアメリカのためにあらゆる心血を注ぎ、一粒の汗と涙を惜しみませんでした。このような使命を遂行してくる過程で、私は問題の人物になりました。一部では多くの非難も受け、また迫害も受けました。しかし、歴史上、迫害を受けた宗教指導者は、私一人だけではありません。旧約と新約を通して主要な預言者は、蔑視され、迫害と苦難の道を歩んだ事実を知ることができます。今日、私はこのような神聖な伝統に参与することを光栄なことと考えています

神様はこの地上で、真の自由を勝ち取ろうとされます。自由に対する最大の脅威は、共産主義の独裁です。共産党は既に一億五千万人の無垢の人命を虐殺しました。そのうちの多くの犠牲者が宗教者です。私も北朝鮮共産党の強制収容所から九死に一生を得て助かりました。共産主義は、今日の世界最悪の非人道主義です

しかし、最近になり、自由は後退の一路にあります。一九七五年、自由は東南アジアから後退しました。そして、数百万の人命が、また犠牲に遭いました。アフリカとラテン・/span>アメリカの様々な国々が、続々と共産化されました。少なくとも十五億の人類が共産治下で捕らわれの身となりました。今のこの時点では、アメリカの裏庭とも言える中米一帯が第一線になりました。自由の敵たちは、彼らの最後の目標であるこのアメリカを征服するその日までその前進を止めないことを私は知っています

アメリカで達成した十二年間の業

私は、一九八〇年、レーガン大統領の選挙を支援しました。私はこの大統領が共産主義の侵略を防ぎ、国を神様と建国精神に戻すことを望みました。ところが、残念なことに、最も多くの宗教界の支持を受けて当選したその大統領指揮下の政府が、そのどの時よりも教会を侵害し、歴史上かつてないほどに、宗教の自由が致命傷を受けているのです。これはどういうことでしょうか

去る十二年間、私はアメリカのために、最善を尽くしました。私にはただ一つの目標があっただけです。それは、アメリカを道徳的に強くし、神様が賦与した使命を果たし得る力量を、どんなことをしてでも育てることです。そのような一念でした

私は、「国際宗教財園」をつくって世界の宗教の統合運動を起こし、「ニュー・エラー(NewERA:新しい宗教一致運動)」という超教派運動を始めています。各宗派の神学者たちが集まり、神様に対する理解を増進し、互いが融合するようにしながら、現代の最も偉大な神学者と哲学者たちが集まって神様の会議を開催します

また、学界に神様のみ旨を覚醒させてきました。私は「国際文化財団」を創設して、年次で「科学の統一に関する国際会議」を開催しながら科学と絶対価値を議論させ、志ある教授たちが集まる「世界平和教授アカデミー」と「パラゴンハウス」という出版社、そしてアメリカ、ワシントンDCに政策研究所を造りました

また、文化の分野を通して神様に対する畏敬思想の強化に努力してきました。マッカーサー元帥の仁川上陸作戦を描いた「オー!仁川」という映画の製作がその一例です。私は、マッカーサー元帥の愛国心と神様と人類を愛する精神を、この映画で描き、その精神をアメリカの若者たちに植えつけ、彼を英雄として推戴することが、この国を愛する道へと導いていくことになると信じていたのです

宗教的理念は、必ず社会奉仕で表現されなければならないという原則のもと、私は、教会の社会活動を支援する協議会(NCCSA)、また「国際救護財団(IRFF)」、そしてプロジェクト・/span>ボランティアをつくって全世界の貧しい人と困難者たちを助けています

共産主義からの解放のために韓国と日本に「国際勝共連合」を創設し、大学街の青年の道徳運動のために原理研究会を創設し、国際カウサ運動を展開しました。責任言論の暢達(ちょうたつ)のためには「世界言論人会議」と「ニュース・/span>ワールド・/span>コミュニケーション」を創設して、世界の至る所で日刊紙を発刊し、そのうちの一つがアメリカの首都にある「ワシントン・/span>タイムズ」です。これは民主主義の暢達のために、バランスの取れた言論の重要性を認めているからです。この「ワシントン・/span>タイムズ」の事業一つだけでも、何と一億ドル以上が投資されました

しかし、このような公共的は莫大な財政が必要であり、また数多くの人たちの献身的努力によって成り立っているのです。既に数億ドルがアメリカに投入され、この莫大な資金は、主に海外から送られてきました。統一運動においては、他とは異なり、アメリカが受恵者の立場であって、援助者の立場にはありません。それは、アメリカを失えば、世界をすべて失うという私の所信だからであり、神様がアメリカを差し置いては、ほかに期待できる国が地上にないからです

アメリカの意図的な宗教裁

皆様が私のこのような膨大な公益事業の範囲を御存じならば、私がアメリカで二万五千ドルの脱税を試みたとは、誰も思わないでしょう。私の裁判事件は、初めから脱税事件ではありませんでした。これはアメリカ政府の意図的な宗教裁判でした

彼らが統一教会を選んだのは、統一教会が攻撃を受けても、誰も同情しないだろうと信じたからです。しかし、政府はここで大きな誤算を犯しました。すべての人の人権が保障されない限りは、人権を保障されたとは言えず、ある一人が脅威にさらされれば、国民全体が脅威にさらされることをアメリカの宗教界は、あまりにもよく知っています

政府が権力を乱用すれば、恐るべき事態が起こります。見てください。ローマ帝国はイエス・/span>キリストを十字架にかけたではないですか。このアメリカでは、政府がシャーマンたちを焼き殺し、カトリックを迫害し、ユダヤ教を弾圧し、また黒人奴隷制度を延長させました。正に政府がモルモン教の教祖ジョセフ・/span>スミスを投獄し、暴徒によって殺害されるのを傍観しました。今はその政府が私を捕まえようとし、その過程で私たちの宗教の自由を侵しています。私たちは今すぐ、この政府の職権乱用を防がなければなりません。そうでなければ、次の被害者は誰でしょうか

正にこのような重要な時点で、レバレンド・/span>ムーンがアメリカの宗教の自由を決定づける新しい突破口になったということには、歴史的で摂理的な意味があるのです。私の有罪判決は、宗教活動自体を実践することが罪になるという意味です。宗教指導者であるゆえに、私は処罰されようとしています

このような啞然とする事実は、アメリカの良心を揺り起こしました。宗教指導者たちと信仰人たちがついに立ち上がったのです。彼らは怒りに震えながら、闘うために行進を始めました。最も重要な事実は、広範囲な宗教界が一つの目的のもとに団結したという事実です。この宗教界の団結が、アメリカの生存を保障するでしょう

世界最大の対

今日、世界の中の最大の対立は、アメリカとソ連の対立ではなく、資本主義と社会主義の対立でもなく、民主主義と共産主義の対立でもありません。それは神様を信じる人と神様を否定する人の対立だというのです

共産世界は神様を否定する世界であり、人類の夢を実現することに失敗しました。ところが、自由世界も物質万能主義に陥って神様に背き、世界の問題に対してはお手上げです。今日、民主と共産の二大世界が、すべて暗闇と混沌の中にあります。新しいビジョンがどこかで現れなければなりません。それは神様を中心とした世界観でなければなりません

私はその新しい理念が「神主義」であることを宣布します。この理念こそ、新しい解答を提示してくれるでしょう。この理念は、神様の愛の心情の中から湧き出たものです。これはすべての宗教者と良心的な人々を統合するでしょう。真の霊魂の自由を具現するでしょう。そして、この理念が結局は地上天国の基盤になるのです

私が発表した神様を中心とする膨大な思想体系の内容は、高次元的な理論であるため、聞く人が衝撃的な感動を受けるようになるので、いわゆる「洗脳」という言葉が出回るようになりました。これによって、一部、親の世代と言論機関の誤解を招く結果となり、私を怨讐視する共産主義者たちは、統一運動に対するデマとして世界的にこれを利用してきました

私はきょう、アメリカの宗教の自由を保全するために、私が犠牲の祭物になったことを光栄に思います。もし私が、危機に立ったアメリカ歴史の未来を警告する灯台の光になるならば、私の犠牲は偉大な目的を達成したのです

きょうの私たちが直面する課題は、正にアメリカと自由世界の生存そのものです。このアメリカと世界の生存と繁栄を保障するために、私はどんな屈辱も甘受し、どんな険しい所にも行き、どんな苦役でも辞退せず、どんな十字架でもこれを喜んで背負うでしょう。もし、この宿命の道を行く途中で、たとえ倒れるとしても、それによってアメリカが生き、世界がよみがえって、神様のみ旨が成就するならば、私はただ神様に対する感謝に満ちるでしょう

神様、アメリカを祝福してくださ

私には怨讐がいません。自らを槍で刺す人たちを十字架上で赦されたイエス・/span>キリストの伝統に従って、私もとうの昔に自分の怨讐たちをすべて赦しました。さらに私はアメリカ政府に対しても、敵意をもっていません。私はむしろアメリカのために祈ります

今、この瞬間、私の心情は神様に対する感謝で満ちています。それは、神様がこの重大な時期に私を選ばれて、この国の宗教の自由を勝ち取る闘いの先頭に立つ大将になるようにされ、アメリカの大覚醒を促す導火線になるようにしてくださったからです

議長。この機会を下さったことに重ねて感謝を申し上げます。私は次のような言葉で、私の証言を結論づけようと思います。神様、アメリカを祝福してください!ありがとうございました。

 

5.世界平和のために宗教間で和睦しよう

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

5.世界平和のために宗教間で和睦しよ

日付:一九八四年八月十四

場所:韓国、ソウル、ロッテ・/span>ホテ

行事:第四次宗教一致会議および世界宗教青年指導者セミナー(代読)

尊敬する議長、高名な学者および聖職者の皆様、世界宗教青年大会の参席者、そして紳士淑女の皆様。私は、「神様に関する今日の討議」の第四次会議の場所であると同時に、「第三次世界宗教青年セミナー」の終着地でもある韓国にまで来られた皆様を、心から歓迎するものです

この二つの行事がきょう、このように韓国で合流するようになったのは、偶然のことではありません。歴史的に見るとき、韓国は世界の宗教が唯一、集結した地でした。早くから仏教と儒教がここでその根を深く下ろし、互いに調和しながら、在来の檀君神話と土俗信仰の流れの中に習合して受け継がれてきました。そして、一九八四年はカトリックの韓国伝来二百周年であり、プロテスタントの韓国伝来百周年になる年です。単一文化圏の中で主要宗教の相互共存と相互発展の過程が歴史的に進行してきたこの地では、多様な宗教的教訓が「隠遁の国」の民たちの胸に深く入り込んでいます

正にこのような土壌に私たちの統一運動が宿り、出現してきたので、この運動は、汎世界的次元で「多様性の中での合一」を模索し、「神様のもとに全人類が一家族」であることを悟った基盤の上で、愛と共感と調和の世界を成し遂げようとする運動です

このような理想世界を創建するために、私たちは全体的なモデル、すなわち青写真をもたなければなりません

統一運動が提示する理想世界の姿は、心と体が一致した完成した一人の人間に比喩することができます。神様を中心とした人間の精神および霊的生活から、人生の理想と目的が出てきます。神経組織は心がしようとすることを各細胞に伝達し、四肢五体から入ってくる情報を頭脳に伝達します。この授受の過程が順調なとき、個人は調和が取れた状態にあると言うのです

人類全体の精神的および霊的生活が、一個人のそれと比べることができるならば、人類社会の経済的で外的な側面は、個人の身体と比べることができます。人類の霊的理想と神様に向かう念願と愛は、宗教を通して社会と文化の中に表現され、それを中心として神学、哲学、芸術およびあらゆる文化が巡っていくのです。ここにおいて、宗教指導者、神学者および哲学者は、あたかも人体の神経組織のように、神様から来るメッセージを解読して、全人類に伝達しなければならないのです

きょうの現実を改善し、新しい文化革命を成就するに当たって、宗教指導者および学者の皆様が、決定的な役割を担当できると私は信じています。歴史的に見るとき、宗教指導者たちと学者たちは、古代インド、中国、中近東およびギリシャで文化創建の先駆者たちでした。これは初期のキリスト教とイスラーム文化圏でも例外ではなく、文芸復興と宗教改革、または啓蒙思潮においても同じでした

しかし、今日の科学技術の急速な成功とともに、宗教は現実世界の諸問題を解決することに失敗し、宗教のこのような姿に幻滅を感じた数多くの人々が、共産主義の反宗教的旗じるしのもとに集まりつつあります。しかし、共産主義は暴力を手段とし、究極的に神様を拒否して、諸宗教の目標を挫折させ、人類の主眼を物質的次元に限定させようとしています。共産主義に傾いた相当数の人々は、自分なりに高い夢をもち、人種と国家の垣根を越えて活動しようとしている事実を、私が知らないわけではありません。しかし、この人たちの情熱と理想主義は、神中心の思想と活動によってのみ補完され、完成に向かう道を見いだすことができるのです

正に、ここに宗教指導者たちと学者の皆様が、献身的に先頭に立つべき時代的要請があるのです。「神様会議」と「世界宗教青年セミナー」、また「国際宗教財団」の諸般の活動は、このような理想を実現するための機構であり、テストケースであり、フォーラムなのです

皆様は、学問をもって皆様自身を世界と神様のみ前に奉献するよう召命されています。皆様は共同体の中で神様を代弁し、神様から来る愛と希望を隣人に伝達して、世の中の人々が人類と神様に奉仕する仕事をするに当たって、その手伝いをする使命を受けています。これは、皆様の教会や寺院や会衆を悟らせ、神様を中心とした自由と平和の世界を築くために動員されることに連結されるのです

この世俗化した時代に宗教のできることは何かと、尋ねてくる方が大勢います。それに対する私の所見は、世界の宗教が価値観の普遍的かつ不変的な土台、すなわち絶対価値を提示し、すべての政府がその上で真の調和をつくり出せるようにすべきであり、科学技術が正しい価値観のもとで人類に有益な方向に進むように指導すべきでしょう。地上のすべての文化圏が神中心の伝統のもとに純化され、高揚されて万人に共有されるとともに、末永く後代に伝承されるようにしなければなりません

私が語るこの理想は、地上に神様の王国を建てることであると、心から言うことができます。そして、私はこのことが可能だと信じます。ある方々は、私がとても理想主義的だと評していますが、私もこれを認めます。しかし、私には他の選択の余地がありません。神様が私を直接呼ばれたのであり、このような使命を下さったからです

私は今まで、神様の理想を教えることだけに終わったのではなく、地上に神様のみ旨を実現することに生涯を捧げてきました。これまで私が推進してきた宣教、教育、学術、勝共、教団および教団間の和解、社会奉仕などの活動がそれです。これらの中でも特に強調したいのは、教団および教団間の和解運動です

今日、人類が直面している大きな問題は、数多くのキリスト教の教派と様々な世界宗教、そして各世界宗教の内部からもたらされている相互無理解の現状です。この問題を解決しようとする多様な努力にもかかわらず、宗教の共同体間の対立と敵対感は依然として続いています。過去数世紀の間に繰り広げられた宗教戦争は、きょうも終結することなく続いています。相互一致のために数多くの運動が試みられてきましたが、篤実な信仰者たちの間では、まだ非寛容、宗教的偏狭および傲慢の風潮が澎湃(ほうはい:盛んな勢いでわき起こること)しています。そのために、大部分の宗教が同じ神様に仕え、甚だしくは同じ教理をもっているにもかかわらず、宗教者たちは相互弾圧と敵対行為を継続してきました

私たちは、神様が教団主義や教理的党派主義を超越していらっしゃるという事実を悟らなければなりません。神様の目的は、いつも全人類を救援されるところにあり、特定の民族や人種や宗教団体だけを救援しようとされるのではなく、これは今、この時間にも変わることはありません。宗教者として私たちが相互間の争いと敵対行為を終息させなければ、世の中を救援しようとされる神様を助けることはできません。多くの宗教指導者たちがこれを痛感してきましたが、様々に複雑な理由のために、この問題の解決はいつも挫折してきました

私が強調してきたことは、世界平和のための必須の条件が正に宗教間の和睦であるということでした。今まで、ある一つの宗教が神様を完全に代弁することは不可能だったので、宗教がもっている多様な見解は、必然的な産物です。しかし、私たちは、お一人の天の父母の子女であるがゆえに、私たちは一つの大家族の中の兄弟姉妹なのであり、したがって、宗教間の葛藤と憎しみは不必要なものです

私はかつて霊的探求の道で神様と何度も対面し、世界宗教の創始者たちとも霊的に出会いました。今も私は、引き続き神様の臨在とそこから来る霊感による交信を、生活の中で体恤しています。神様がいらっしゃらないとすれば、抑圧され、搾取されていた弱小民族の地の片田舍で生まれたこの人が、どうして無理解と迫害の中で世界的な霊的基盤を築き上げることができたでしょうか。そして、きょう、世界の宗教指導者たちのこの水準高い集いを主催し、このような演説をすることができるでしょうか。私たち統一運動の目標と手段は、神様が下さった指針によって設定され、採択されてきたという事実を、明らかにしておこうと思います。すなわち、このすベてのものは、私の私的所見や活動ではなく、正に神様に由来したものなのです

「国際宗教財団」は、一九九三年に世界宗教議会を開催しようと計画しています。この行事は、一八九三年にシカゴで開かれた世界宗教議会の百周年を記念するためのものです。一九九三年のこの行事を準備するために、二度の予備集会が開催される予定ですが、その一つは一九八五年末にニューヨーク市近郊で行われる予定であり、もう一つは、一九八九年に開かれるようになるでしょう。この予備集会には、それぞれ七百人以上の宗教指導者、学者、一般信者代表、芸術家、そして青年たちが参加するようになるでしょう。この二つの予備行事と一九九三年の主行事は、それで終わることなく、未来のより大きな集いに連結されるよう推進されるでしょう

いずれにせよ、このような行事は世界的に超宗派の広場を準備するように計画され、その目的はすべての生命体に内在している普遍的な原理を明らかにしていき、その原理の多様な発現を十分に高揚させようとするところにあります。これとともに世界宗教議会は、全人類が希求する世界平和の成就も模索するでしょう。その会議の参席者全員に、現代の霊的状況と当面の問題に関する各自の意見をやり取りする機会が提供されるでしょう

世界宗教議会の目的は、政治的または教理的な立法をすることではなく、世界宗教間の相互に対する尊敬心を培い、宗教間の協力を奨励するところにあります。そして、その議会の主題は「霊的刷新と神中心の世界平和実現」であり、これに関連するその他の多様な問題も合わせて討議されるでしょう。

この場に来てくださったことに対して、重ねて感謝を申し上げます。私は今回の大会が人間の考えを標準として神様を考える集いでなく、神様の本来の理想を探索する集いになることを願います。皆様の真剣な研究と討議によって、この時代に対する神様の願いが大きく発現することを祈ってやみません。ありがとうございました。

 

6.統一運動に参与することを期待します

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

6.統一運動に参与することを期待しま

日付:一九八五年二月二十八

場所:アメリカ、コネティカッ卜、ダンベリー連邦刑務

行事:アメリカ牧師に送った獄中書

親愛なる牧師の皆様。ダンべリーから貴殿と貴殿の教会信者たちに心からの御挨拶を申し上げます。私は文鮮明牧師と申します。獄中から貴殿にこのような書信を差し上げたことに驚かれるかもしれません。貴殿は恐らく、三十年ほど前に私が韓国で創設した宗教運動についてお聞きになったことがあるだろうと思います

十六歳(数え)の復活節に出会ったイエス様の啓

貴殿がこの宗教運動についてお聞きになったことや読まれたものは、恐らく敵意に満ちたものであり、歪曲されたものであると推察されます。このような事実が私を甚だ胸痛くさせています。私はこの誤解を解いてさしあげたいと思います。しかし、それよりも重要なことは、貴殿が私と統一教会に関してどのような意見をもっていらっしゃったとしても、世界的な国家であると同時にキリスト教国であるこのアメリカに対する私の衷心に満ちた観を、貴殿と共に議論したいと切に願っています。私がお話ししようとするすべてのことに対して、貴殿が賛同するとは決して期待していませんが、貴殿が私の声に耳を傾けてくださり、考慮してくださることを望む次第です。私は、北朝鮮にある一地方のまじめな儒教家庭で生まれました。十歳の頃、全家族がキリスト教に改宗しました。私は改宗とともに深い感銘を受けました。私はこの新しい信仰に愛着をもち、以前に誰かを愛した以上にイエス様を愛しました

私は数えの十六歳の時に、普通では考えることができない経験をしました。復活節の朝、長時間の涙ながらの祈祷のうちに、イエス・/span>キリストが私に現れて、多くの啓示と教示を下さいました。イエス様は、深奥かつ驚くべきことについて、多くのみ言を語ってくださいました。「苦痛を受けている人類ゆえに、神様が悲しんでいらっしゃる」とおっしゃいました。そして私に、「地上での神様のみ業に対する、特別な役割を果たしてほしい」と要請されました

それは既に四十九年前のことです。その後、多くのことが起こりました。私は学業を続けながら、聖書を勉強しました。私は、万民が聞いて知ることのできる深奥なみ言をイエス様から受けました。このみ言を人々に教えたといって、私は何度も逮捕され、収監されて激しい拷問を受けました。三年間、北朝鮮の死の監獄にいました。この監獄では人々が数ヵ月もたたずに死んでいきますが、主が三年間私を保護なさり、また私をして激しい苦痛から生き残るようにされました。その後、数年間多くの人々にみ言を伝播する機会がありました。そのようにして今日、統一教会は百二十余ヵ国に約三百万の信徒をもっています

今日、神様には頭痛の種が三つあります。第一に、無神論的全体主義、特に共産主義の拡大です。共産主義は制度的に宗教に反対し、神様に対する信仰をなくそうという理念をもつ偽りの宗教です。過去六十年間に、共産主義は何と一億五千万人の生命を奪い取っていきました。私は直接、共産主義の監獄で死ぬような拷問と苦役に服しました。共産主義は世界的に拡大し、また宗教と神様を信じる人々を抹殺しようとしています

第二に、神様の頭痛の種は道徳的没落です。特に全世界の青少年たちの退廃の姿です。伝統的な家庭の価値の没落と腐敗した大衆媒体の影響は、若者たちをして使命感を失わせました。数百万のアメリカの青年たちは、神様に対する信仰を失い、価値に対する尊敬心を失い、自分への尊敬心さえ失いつつあります。麻薬の乱用、性的不道徳が荒れ狂っています。若者たちはこの世界の未来を担っています。彼らが腐敗すれば、次世代のどこの誰が宗教を信奉して、神様に仕えるでしょうか

最後に、神様を最も悲しませるのは、キリスト教信仰の不協和および分裂です。神様はお一人でいらっしゃいます。イエス・/span>キリストもお一人です。しかし、今日、五百ないし千種類のキリスト教の教派が乱立しています。この地球上のある所では、キリスト教徒だと自任する人々が、神様の名のもとにお互いの命を奪い合っています。時には平和に共存もしますが、彼らの信仰は日増しに力を失い、退廃し、また冷めていきつつあります。キリスト教の信仰は熱気を失い、問題の多い現在の世界での挑戦に失敗を繰り返しています

善であり慈悲、正義の勢力と暗黒の勢力との宇宙的闘いにおいて、神様はこの国アメリカに特別な祝福をされました。神様はキリスト教をして真の信仰を取り戻させ、神様の愛を中心とした天国の家庭を形成する場所としてアメリカを立てられました。神様はアメリカを、この上なく愛されます。アメリカの偉大性は、その膨大な自然資源にあるのではなく、また途方もない繁栄にあるのでもありません。それは、この国の建国精神、正にそこにあります。「神様のもとにおける万人の自由と正義のための国」を建国しようと勇敢な男女たちがここアメリカに来ました。アメリカは様々な種族と様々な背景をもった人々が、一つの調和を形成した世界で唯一の国です。白人、黒人、黄色人のすべてが兄弟姉妹である一つの人間家族です。神様を私たちの父と認定するとき、この理想は実現されるのです

神様が私をアメリカに呼ばれた理

一九七一年、神様は頭痛の種を解決しようと私をアメリカに呼ばれ、キリスト教を復興させる運動を導かれました。その後、私はキリスト教を団結させ、道徳性を回復し、無神論的共産主義を撃破する運動のために、神様のみ言を伝播し、アメリカの人々を鼓舞させました

アメリカは本当に天が選択した国であり、キリスト教的愛と統一の手本として選択された国であるとともに、苦痛の中にあるこの世界のために自ら犠牲となり、奉仕するように選択された国です。しかし、今日のアメリカは危険な岐路に置かれています。一方ではキリスト教の復興、神様を中心とした道徳と家庭の価値の回復および無神論的共産主義に抵抗するために叫ばれる神様の声があります。そうであるかと思えば、他の一方では、暗い宗教の非寛容性がアメリカで幅を利かせています。この偉大なアメリカ全域にわたって、信仰的な人々は迫害され続け、罰金を出さなければならず、逮捕され、投獄され有罪宣告を受けています。皮肉なことに、この偉大な社会の一部では、宗教的理想を復興させているかと思えば、一方では暗黒勢力が神を恐れぬ不道徳および腐敗に向かって走っています

きょう、監獄にいながらも、私が神様に対して感謝していると言えば、驚かれるかもしれませんが、これは絶対に本当のことです。なぜなら、このような獄中の難しい過程を通して、私は貴殿とこのようなお話を分かち合うことのできる機会をもつようになり、直面した危機を貴殿にお知らせし、また歴史的なこの瞬間に私たちに与えられた恵みの機会を、貴殿と共にもつようになったからです

私がいかにして、きょうこの監獄にまで来るようになったのかを、簡略に御説明申し上げようと思います。私は自らの禍福については無関心です。私の入獄が神様のみ旨に役に立つならば、これ以上感謝することはありません。しかし、明らかなことは、私がアメリカ政府によって迫害を受け、差別待遇を受けたということです。すなわち、アメリカ政府は信仰的な熱意に対して、ますます敵意を抱く、驚くべき兆しを見せています

国税庁の起訴は職権濫

この歴史的な裁判について少しお話しいたします。大勢の統一教会の信者たちがこの国に到着し始めたとき、国際的教会事業のための特別基金がつくられました。長い間の名誉な伝統に従って、教会の信者たちがこの基金を管理する人として、教会に代わって私を選択するようになりました。私はこの基金を公開して取り扱い、隠匿しようとしたことは一度もありませんでした。事実はと言えば、ニューヨークの主要銀行に預金をしていました。「この基金は、教会の目的のために使われる教会基金ではない」という何の証拠もありませんでした

それにもかかわらず、IRS(国税庁)は私を起訴しようと際限のない努力をし始めました。途方もない公的な圧力と議会次元の圧力がIRSに加えられたあと、大掛かりな調査が始まりました。結局、数百万ドルの納税者たちの税金であるお金を使ったあと、IRSは教会基金として預けた私名義の銀行預金において、利益に対する収益報告をしなかったとして、私を起訴しました。政府の論理に従うならば、いわゆる脱税総額が七千ドルないし一万四千ドルでした。実際において委任された教会基金を、宗教指導者が取り扱う慣習は、長い間の光栄ある慣習です。カトリックの司教たちから一線の牧会者に至るまで、多くの宗教指導者たちは、まだ毎日この慣習に従っています。そして、私が実際に私個人の経費のために引き出した基金に対しては収入税金を納付したにもかかわらず、アメリカ政府はこの事実を黙殺してしまいました。すなわち彼らは、一人のなじみの薄い宗教指導者を告訴したのです

政府が私を迫害しようとやっきになって犯した権利の乱用をすべて表現しようとすれば、限りないでしょう。しかし、この権利の乱用は善良な正義の人々には知られていません。統一教会は、多くの人々にとって聞き慣れない教会であるにもかかわらず、私に対する告訴と有罪判決の状況に対して、未曾有の抗議が起こりました。私が連邦最高法院に出した嘆願書には、四十団体以上の「法廷の親友たち」の支持を受けました。これらの有名な機構と個々人は、政府の反宗教的権利の乱用に対する深刻な憂慮を現す、十六種類の訴訟摘要書を出しました。私の嘆願を支持する法廷の親友たちの中には、次のような方々がいます

全国キリスト教協議会、カトリック宗教および市民権擁護連盟、長老派、アメリカ・/span>バプテスト教会、全国福音伝道師協会、南部キリスト教指導者会議、アメリカ・/span>キリスト教学校協会、アフリカ監理監督教会、キリスト教法律協会、末日聖徒キリスト教会、アメリカ市民自由連合など、これら有名な互いに異なる機構は異口同音に、IRSが今日知られていない一つの宗教を効果的に迫害できるならば、あすは既存の教会の自由が脅威を受けるだろうと語りました。私が熱心に祈祷するのは、IRSが私と私の教会に下した権利の乱用が、正義と自由を愛するアメリカの人々の注目の対象になることです。この偉大な国を復興させ、キリスト教建国精神を復興させようとする神聖なみ業に、貴殿も参与されることを要請するものです

私たちは、アメリカの重要性とキリスト教と伝統的価値改善の緊迫性を痛感しているため、統一教会の運動はこの目的のために貢献する多くの事業を運営、または後援しています。国際宗教財団、新しい福音研究協会、神様会議などの事業を通して、神様とすべての宗教の間の理解を増進、改善しようと、あらゆる宗教の神学者たちを迎えて努力しています

私たちはまた、神様のみ旨を学界に展開することもしています。「国際文化財団」は科学と絶対価値に対する例年の会議を後援しています。「世界平和教授アカデミー」、「バラゴンハウス出版社」、「ワシントン公共政策研究所」などの機構に学者を迎えています。宗教の理想は人類に奉仕することによって現れなければならないので、私たちは「国際救護財団」と「自活奉仕団」などの事業を始めました。全体主義の理念から万人を救援するために「国際勝共連合」、「大学原理研究会」、「カウサ(CAUSA:南北米統一連合)」のような機構を設立しました。大衆媒体の責任性の基準を樹立しようと「世界言論人会議」、「ニュース・/span>ワールド・/span>コミュニケーション」を創設しました。後者は、いくつかの新聞を発行しています。その中で「ワシントン・/span>タイムズ」は国家の政策に対する代案を提示しようと創設されました。この事業だけのためにも、一億ドル以上のお金がかかりました

アメリカのために数多くの事業を展

これらの事業には、教会信徒たちの愛を通した犠牲はもちろん、途方もない財政的資源が要求されます。数億ドルがアメリカに投入されました。なぜなら、この国が世界の運命を決定するからです。私の運動において、アメリカは基金の受取人であって基金の出処ではありません。もしアメリカを失えばすべてを失うという確信のもとで、私たちは働いています。神様が頼れる国はこの国だけです。貴殿が私の事業の範囲を理解されるならば、私が七千ドルないし一万四千ドルの、アメリカ政府に出す税金を詐取するためにアメリカに来たと信じることができるでしょうか

今から、貴殿と貴殿の教会信者が地上で神様のみ旨を成就するために、共に働く統一運動に参与してくださることを願います。統一教会の信仰と慣習に対する多くの誤解と誤認があることは、私もよく知っています。アメリカの立派な紳士たちが、統一運動において私たちを理解し、協力するとともに、私たちと建設的対話を分かち合うことを切に望みます。統一運動をしている私たちの信仰を、この手紙ですベて御説明申し上げることはできませんが、私たちの信仰の教義を詳しく説明するビデオテープと印刷物を貴殿に送るよう、私たちの教会幹部たちに要請しました。まだ貴殿がこの贈り物を受け取っていないとすれば、近いうちにお受け取りになれるでしょう

貴殿がこれらを評価して、また私が貴殿に申し上げようとするお話を考慮してくださる時間があることを願います。私たちの根本的な使命は、全世界がキリストの中で愛し合い、団結するようにし、家庭を復帰するとともに、神様を中心とした観点で無神論に反撃することです。このような意味で貴殿がこのビデオテーブとその他の印刷物を受け取られるものと信じます

この手紙を読んでくださって、誠にありがとうございました。貴殿が、私が申し上げたことに賛同されようと賛同されまいと、私たちは互いに愛し、尊敬し、手を取り合って神様に奉仕できることを、心から祈るものです。神様の祝福が貴殿に、永遠に共にあることを願います

一九八五年二月文鮮明牧師より

 

7.神様のみ旨

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

7.神様のみ

日付:一九八五年八月二十

場所:アメリカ、ワシントンDC、オムニ・/span>ショーハム・/span>ホテ

行事:宗教の自由連盟主催ダンベリー連邦刑務所出監歓迎晩餐

尊敬する宗教の自由連盟委員長、そして委員の皆様、全国から集まってくださった聖職者の皆様、そして紳士淑女の皆様。このように挙国的に、超教派的に意義深い場を準備して、私の出監を歓迎してくださったことに対して、心から感謝を申し上げます

さらに、私が法廷闘争を行っているときから法廷嘆願書、宗教の自由に関する集会、特別祈祷会、同苦の会、カウサ聖職者連合に参加するなど、積極的な支援をしてくださった聖職者の皆様に、重ねて感謝を申し上げます。また、多くの方々が私に激励の書簡を送ってくださり、祈祷で支援してくださったことなどに対し、忘れることのできない感謝の気持ちをもっています

神様のみ旨と人間の完

私は今回で、私の生涯において六度目の監獄生活を経験しました。難しい立場でも神様と感動的な交流をすることができました。以前もそうであったように、今回も私が個人的な理由や失敗によって監獄に入ったのではありません。ですから、獄中で迫害者を恨み、自らの無念さを訴えることよりは、神様のみ旨を立てるために、神様のみ旨に従うべきアメリカと世界を心配する、深い瞑想と祈祷を捧げる有益な時間をもつことができました

私の決意と生涯は、世の中が知ることのできない神様の恨を解いてさしあげ、神様のみ旨をこの地上に成し遂げることです。私と私たちの運動は、今日に至るまで、深刻な無理解と迫害が続いてきました。神様のための至上課題の前には、親族から認められないことが問題ではなく、一般大衆や教団、または国家や世界が反対することが問題ではありませんでした。私は生涯を通して神様の深い心情と愛を確認し、これを証してきました。ですから、私にとって神様は、想像の中の漠然とした神様ではなく、生きていらっしゃる神様であり、私の心情と私の細胞一つ一つで体恤される神様でいらっしゃいます

神様のみ旨のための道において、同役者(共に働く人)であられる牧会者の皆様。皆様がきょう、私の出獄をこのように歓迎されるのは、レバレンド・/span>ムーン個人に対して歓迎しているのではなく、神様のみ旨のために生きてきたレバレンド・/span>ムーンを歓迎するものであると思います。この機会に、私たちすベての最大関心事であり、一番の課題である「神様のみ旨」について一考することで、きょうの私の挨拶に代えようと思います

神様は、永遠、絶対、不変のお方です。ですから、そのお方のみ旨も、永遠、絶対、不変であるに違いありません。神様が人間を創造されるとき、目的と理想をもって創造されました。その目的が成し遂げられた世界は、愛によって統一された世界であり、神様を父として侍り、全人類が兄弟姉妹として仲むつまじく暮らす、神様を中心とした人類大家族の世界です

愛の本体であられる神様は、愛のために人間を創造されました。愛は独りで成立するものではありません。したがって、神様が絶対に必要とされる唯一のものは、その愛を施せる対象、すなわち神様が愛することのできる対象なのです。相対がいてこそ愛することができます。愛と心情の本体であられる神様は、その愛が動機となって宇宙を創造されたのであり、特にこの期間に、創世記第一章二十七節のみ言どおり、神様に似た実体対象として人間を創造されたのです。ですから、万民において、神様は永遠な無形の内的父母であり、完成したアダムとエバは永遠な有形の外的父母(先祖)になるのです。最大の愛は、主体と対象が永遠の愛を与え合い、完全に一つになるときに現れて結実します。真の愛の中では自動的な統一が展開し、また生命が連結されて理想が実現されるのです

神様のみ前で最も貴い対象存在であるアダムとエバが、神様の愛を中心として父母と子女として、主体と対象として、また無形の創造主と有形の実体として、完全調和統一された永遠の愛と生命の理想を成就することが神様のみ旨でした。よく、創造主と被造物は対等な立場に立つことができないものだと言われてきました。もしそうだとすれば、その創造主の前には愛の理想の実践は不可能なのです。神様の愛の理想は、子女であるアダムとエバを有形実体対象として立て、永遠に彼らと合一するというものでした。コリント人への第一の手紙第三章十六節のみ言のとおり、神様は人間の中にいらっしゃることを願われます。無形である神様の愛の理想が実体の人間を通して実現される起点は、人間が神様の対象体として完成する瞬間です。人間が神様を中心として人格的に成熟し、心と体が完全に一つになることによって、神様の愛と理想と生命の永遠の対象になることを意味します。アダムとエバが神様の子女として理想的個体になれば、やがて理想的家庭に発展し、次に理想的社会、国家、世界へ発展して、絶対愛に対する感応で得た生命の喜び、幸福の理想、そして調和統一の天国を完成するのです

無形の主体としていらっしゃる神様は、果てしなく遠い始源から、愛の宇宙史的刺激を充足させる対象を慕わしく思ってこられ、有形無形の完全な対象体として人間と相まみえるその愛の刺激がどれほど大きかったでしょうか。神様がアダムとエバを地上に造られたので、天国は地上で先に造られ、地上で理想的な生活をして霊人体が天上の永遠の天国に行くようになっているのです

人間は主体と対象、すなわち相対的なカップルとして造られ、また人間のために存在する全万物世界も愛の原理のもとに調和し、また人間の愛によって生命と理想を実現するようになっています

万物世界は人間にとって、特に成長するアダムとエバにとって愛の教科書であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館です。神様の一つの性をそれぞれ代表したアダムとエバが、神様が許諾された愛の教科書である自然の中で愛を体恤しながら、完全に育って横的に一体となる相対理想を実現することが、宇宙史的な神様の創造の希望でした

神様の愛は、神様と人間が主体と対象として縦的な愛の関係を完成することだけを目標とされたのではありません。縦的な愛を完成してアダムとエバ自身の横的愛の結実をもたらそうとされたのです。その瞬間が正に、内的父母であられる神様が、外的父母であるアダムとエバと完全一体となるために臨在される、愛の理想成就の瞬間です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状をまとわれて、有形世界に永存なさる父母になるのです。この時、アダムとエバは真の父母、真の先祖になるのです

救援歴史は神様の血統に接ぎ木する重生の歴

このように真の愛は貴いものなので、真の愛を蹂躙することは宇宙的な犯罪になるのです。不倫、青少年たちの淪落、家庭破綻、近親相姦、同性愛、形容し難い性犯罪など、今日の現実は神様を悲しませています。創造理想は崇高で、永遠の愛を中心とした家庭理想の成就にあるのですが、なぜこのような結果を招いたのでしょうか。それは終末を迎え、人間始祖の堕落した結果がそのまま結実することによって、蒔いたとおりに収める世紀末的様相を呈するようになったからである、と言うことができます

時間の関係上、ここで詳しく説明することはできませんが、私が糾明した原罪と堕落の曲折は、人間の最初の家庭において起きた天使長との不倫の事件でした。「統一原理」でいうサタンは、観念的存在や仮想の存在ではなく、霊的実体です。神様の愛の理想を破壊し、神様の血統を、サタンを中心とする血統に変えた元凶です。イエス様も、ヨハネの福音書第八章で、人類の父が悪魔であることをはっきりと語られました。神様が、御自身の外的な体であるアダムとエバを通して実現しようとされた愛の理想を剥奪した愛の姦夫が、正に悪魔サタンなのです。皆様にはなじみがないかもしれませんが、私が霊界を開拓し、宇宙の根本の曲折を糾明しようと、血の涙を流す闘争をした結果として得た結論がこれです。皆様も真剣に祈ってみれば、解答が得られるでしょう

神様が長い間、サタンを即決処断なさることができなかった理由とは何でしょうか。サタンが、神様の愛の理想を奪っていき、神様の代わりに偽者として、内的父母の立場で人類を管掌しているからです。ですから、このサタンの血統的な基盤を清算できなければならないのです

堕落によって神様と人間の愛の関係が断絶し、また人間相互間にも、愛を中心とした本然の授受関係が成立できなくなってしまいました。人間相互間における愛を中心とした調和統一も、生命の喜びも、そして理想と幸福の関係も完全に破壊され、互いに怨讐になって敵対視し、不信に思う世の中になってしまったのです。神様の創造の計画は、人間を真のオリーブの木として造り、これらが繁殖した真のオリーブの園を地上全体につくろうとするものでしたが、サタンが人間始祖を堕落させて偽りの血統の始源を形成することによって、偽りのオリーブの園をつくってしまったのです。神様はサタンが掌握する偽りのオリーブの園では、条件なしに切って接ぎ木することはできません

神様が宗教を立てて教育してきたのは、神様のみ旨のままに切って接ぎ木できる、すなわち神様が管掌できる野生のオリーブの園をつくる摂理なのです。このような宗教的な基盤の上に、真のオリーブの木であられるメシヤを送り、より大きな神様の愛に接ぎ木しようというのがメシヤ思想です。聖書の中にある重生の根本の道理も、このような点から理解ができるのです

神側では、サタンの偽りの愛の圏にいる人間を、より大きな神様の愛で取り戻してきて重生させるのです。人間は偽りの愛の父母、偽りの愛の先祖、偽りの愛の血統を通して生まれたので、真の愛の父母、真の愛の先祖、真の愛の血統を通して再び生まれてこそ、神様の子女、神様の民になるのです。イエス様の十字架の血潮の貴さも、最後の晩餐の儀式も、すべて血統転換を通して神様の子女になる摂理を形象的、象徴的に表すものです。人類は生まれ変わらなければなりません。これは堕落人間の運命的な道です

私たちはどのような困難があっても、この道を行かなければなりません。救援歴史が神様の血統に接ぎ木する重生の歴史だとすれば、私に属した過ぎし日のすべてのもの、すなわち所有観念、伝統、意識の一切を完全に否定しなければなりません。既に持っているものは、神様のみ前にそのまま認定を受けることができないのです。ひとまず取り消し、整理したあとに生まれ変わらなければなりません。これは木を接ぎ木するとき、根元の部分だけを残してみな切って、なくしたあとに接ぎ木するのと同じです

真のオリーブの木として来られたイエス様は、すなわち真の父母でいらっしゃいます。私たちを生み変えてくださる真の父母です。ですから、私たちに過去の因縁を捨てなさいと強くお教えになりました。聖書のマタイによる福音書第十章三十六節以下を見れば、人の怨讐が自分の家族だと言われ、また自分の父母や子女を捨てて御自分についてきなさいと言われていますが、これも、捨ててしまわなければならない偽りの血統であるという点から理解しなければなりません

神様とメシヤのために生きて死ぬことがキリス卜教徒の特

敬愛する聖職者の皆様。神様のみ旨を受け入れ、これを実践して成就すべき聖業が私たちの課題です。私たちは神様のみ手に結ばれた人にならなければなりません。神様の求めに応じる人にならなければなりません。自分の必要に応じて自分だけの救援、私だけの天国のために神様を求めてはいけません。神様とメシヤのために生きて死ぬこと、これがキリスト教徒の特権ではありませんか。偉大な神様のみ旨を成就する宗教であり、教派にならなければなりません。狭い教派的な自己主張の中に神様がお入りになることはできないのです。私が知っている神様は、宗派や教派主義者ではありません。枝葉的な教理理論にしばられた神様ではありません。神様の父母の心情、そして大きな愛の心のもとでは、民族と皮膚の色の区分がありません。国家や文化伝統の壁もありません。神様はきょうも、万民を同じ子女として抱くために努力していらっしゃいます

聖職者の皆様。宗教の自由の天国だと信じてきたアメリカで、レバレンド・/span>ムーンの投獄が契機となって、宗教の自由の運動ののろしが全国を席巻したということが、偶然なことでしょうか。それは、背後で役事される神様の経綸があったからです。また、自由民主主義の旗手として自任しながら、共産主義の脅威があるとは想像もしなかったこの地で、カウサ(CAUSA)運動を通して全世界が共産主義の脅威の深刻性を悟り、教派の障壁のない、真の超教派的運動が燎原の火のように燃え上がっている、このような現象が偶然でしょうか

アメリカは神様を愛する建国精神で立てられた国です。特に第二次世界大戦直後から神様はアメリカを本格的な世界救援の先導国として、また歴史始まって以来、初めて世界統一圏を主導する国としてお立てになり、再臨のメシヤの臨在を準備するとともに、世界を見守るようにされたのです。しかし、不幸にもアメリカは、このような大きなみ旨を知らず、世界から徐々に手を引こうとし、自国だけで定着しようと企図したとき、内外的に受難と問題に直面するようになりました。今、アメリカは人種問題、価値観の混乱と社会の倫理と道徳の退廃問題、霊的枯渇とキリスト教信仰の没落問題、無神論に立脚した共産主義の問題など、深刻な問題を抱いています。私が神様の召命を受けてこの国を訪ねてきた理由は、ここにあります

今日のキリスト教は大きく覚醒し、団結しなければなりません。私たち牧会者たちも今まで果たしてきた役割を再点検し、悔い改めなければなりません。あたかもイエス様が来られて、悔い改めよと叫ばれたその時の情景が、二千年過ぎた今、この地上で繰り返されていると見なければなりません。私たちは、神様がアメリカに命令された重大な使命を果たさなければならないのです。今、このままでは絶対にいけません。新しい宗教改革が起こらなければなりません。キリスト教は各教派を超越して、より高い次元で超キリスト教的に世界的文化革命を主導するところまで進まなければなりません

私たちは、きょうを契機として大きく奪起し、神様の愛のもとで固く手を取り、一つになって、来られるメシヤを迎え、神様の願いを成し遂げてさしあげる、キリスト教の本然の道に総進軍しなければなりません。神様の祝福が、皆様と皆様の家庭、そしてすベての教団とアメリカに満ちあふれることを祈ります.

8.対話と連合

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

8.対話と連

日付:一九八五年十一月十六

場所:・/span>アメリカ、ニュージャージー、アメリカーナ・/span>グレート・ジョージ・/span>リゾー

行事:「世界宗教議会」創立総

尊敬する議長、各教団から集まってこられた指導者および学者、そして紳士淑女の皆様。私はこの「世界宗教議会」の創始者として、代表の皆様を心から歓迎するとともに、私たちがきょう、この場を共にしたことが、簡単な出来事ではないことを想起していただこうと思います

世界八十五ヵ国から、あらゆる宗教と文化、伝統と儀式、血統と環境の垣根を越えて、このように集って心の門を開けて和合し、人類の未来を心配すること自体が、一つの偉大な成就であり、また神様も、この歴史的な場を喜んで見つめられることでしょう

永遠なる真の愛、理想、幸福、平和を願ってきた人

きょう、この場に私たちが、たとえ人生の根本問題に対する解答や人間の苦悩の本質に対する理解、また人類の平和を模索して完成する方法などが互いに異なる、様々な宗教の伝統を背景として集まったとしても、私たちは神様を中心として各自の究極的関係を確立し、すべての問題を解決しようとする共通の期待をもっています

洋の東西を問わず、人間はたとえ罪悪と不信と混沌の中に生きているとしても、永遠で真の愛と理想と幸福と平和を絶えず願い続けてきました。悪を指向する欲望の誘惑を退け、善を追求する欲望に従って本心が喜ぶ幸福を見つけようと、ありとあらゆる努力をし尽くしてきました。歴史を通した人類の経験では、このような目的を成就することは不可能だという結論が出てくるのですが、人間の本性は、これを簡単に放棄することはできません。民族と伝統に関係なく、人生が追求する究極の道は一つなのです

この目標の成就が人間の力だけでできないとすれば、私たち人間を超えて永遠で真であられる絶対者を探し、そのお方に依存せざるを得ないはずです。私たちは、自らの人生が有限であることを知っている唯一の存在です。人間は、自分自身を超越し、自らの運命を開拓していくことができないので、これができると思う対象者、すなわち神様に依頼するようになっているのです。その神様が真の愛、真の理想、真の平和と幸福を願われるとすれば、そのお方を通してのみ、これが可能になると思うのです。神様を通して人類が追求してきた理想的要件を成就するためには、そのお方が提示する内容を私たちが知って、具体化しなければならない、という結論に至るようになります

私は霊的体験を通して霊界に対する内容を知り、神様との深い交流をもちながらそのみ旨と愛と心情を確認しました。宗教は単に真理や倫理を教えるだけではなく、神様に絶対的に依存し、関係を結びたいと思う人間の本然の心情に連結されています

人生において、真の宗教的直観は絶対的であり、無限なのです。私たちはこの直観によって、私たちそれぞれに対する神様の召命を聞くことができます。この境地は宗教の形式を超越し、何かの制度によって遮ることのない本然の交流です。ですから、これは宗教のもとにあるのではありません。このような関係においてのみ、人間は完成と幸福を所有します。この境地において、神人の関係は一つであるとともに、全体なのです

そして、神様がこのように人生の背後で作用してきた超越的な力とその関係性は、もし人類が願いさえすれば全体に通じるものなので、人生が進むべき道は二つにはなり得ないのです。個人の道がそうであり、その理想的な個人が歩む家庭の道、国家、世界の道もまたそうなのです。すべての道は、絶対者、神様が理想とする愛と幸福と平和の世界を指向するのです。愛や理想、幸福や平和という言葉は、独りでは成立しない言葉なのです。これは、必ず相対的関係において成立する言葉なので、絶対者であられる神様だったとしても、その理想は独りでは成し遂げることができないのです

宗教の究極的目標は平和理想世界の建

神様が一人だけで何かを愛して、一人で理想をもって何をするというのでしょうか。神様の創造の動機も、このような点から理解しなければなりません。神様の理想を成就させ、神様の愛を成就させる対象が人間です。人間を通してのみ、神様の愛と幸福と平和の理想的要件が成就されるので、本然の人間とはどれほど貴い存在でしょうか。神様と人間の関係は、たとえ格位は違うとしても、愛と幸福を中心として一体理想を形成する関係なので、本然の父母と子女の関係になります。神様が永遠で絶対的なように、その対象である人間も絶対的であり、永遠の内容をもった価値的存在になるのです。人間は神様の理想を実践する目的体です。神様の永遠で絶対的なみ旨は、人間と完全一体となったところで成就するので、人生の目的もまた、絶対的で永遠なのです

神様は永遠、不変、絶対なので、その理想とした創造目的も、永遠、不変、絶対であり、一つの目的で統一された単一の理想世界を形成することでした。今日の罪悪と分裂と不信の世界は、人間が本然の道から離れて堕落したからです。このような人間を救援される神様の摂理は、宗教的基盤の上で人間をして原状回復をさせることです。ですから、救援摂理はメシヤによる復帰摂理なのです

神様の創造目的が絶対的なように、復帰摂理の目的も必ず成就されるのです。したがって、メシヤの理想は、決して漠然としたものではなく、具体的な私たちの生活圏で必ず成就される神様のみ旨です。このような点で宗教の目的は、私たちの実生活で神様のみ旨を具体化するものです。神様が救援の全体的摂理のために、時代と民族と環境によって適切な宗教をおかれ、神様の基台を広げてきました。したがって、全宗教の究極的な目標は、神様のみ旨である平和理想世界を成し遂げることなのです。宗教は、教団内での救援や個人救援を考える前に、世界の救援という神様のみ旨を心配しなければなりません。今の時は、汎宗教的に神様の真意を再探求すべき時だと思います

私が知っている神様は、宗派主義者ではありません。枝葉的な教理理論に縛られたお方ではありません。私たちは、教義の文字や儀式の条件に融通性なく縛られる、神学的葛藤から早く抜け出し、神様と生きた交流をもたなければなりません。信徒たちの信仰が蘇生し、各自の心霊が神様と交信する、純粋な宗教風土の造成が急がれていると思います

神様と父母の心情、そして偉大な愛には、民族や皮膚の色の区分がありません。国家や文化の伝統や、東洋と西洋の壁もありません。神様はきょうも、万民を同じ子女として抱くために努力していらっしゃいます。私たちは教団間の対話と和合を通して、神様の創造目的であり人類の共通の希望である、単一平和理想世界を必ずや実現しなければなりません

汎宗教的浄化運動、実践奉仕運

尊敬する宗教議会の代表の皆様。私たちが今日の現実を直視するならば、私たちは信じてばかりいるときではなく、行動すべきときであることを直感するのです。私たちの社会に澎湃している深刻な問題点、価値体系の混乱、道徳的退廃、麻薬とテロ、戦争と大量虐殺、人種問題、人権と富の均等問題、無神論に立脚した共産主義の問題など、数多くの弊害は何を物語っているのでしょうか。神様を離れた人類が、無神論に立脚した物本主義、世俗的な人本主義、享楽主義などに便乗してたどり着いた、世紀末的な現象なのです。このすべては、この世代の精神的・/span>霊的枯渇と信仰心の衰退に根本原因があるという結論とともに、宗教者たちをむち打っているのです

今日の世界に誰が責任を負うことができますか。軍事力や政治力ですか。でなければ、財力や技術力ですか。決してそのような力ではありません。神様はこの時代の預言者であり祭司格である宗教指導者たちに、この問題を解決しなさいと勧告していらっしゃいます

すべての宗教者たちは、この世代の霊的基盤の欠乏に対して責任を痛感し、深く痛悔しなければなりません。長い宗教の歴史の中で、宗教者たちは生きていらっしゃる神様を正しく証することに不足だったのであり、愛の実践をおろそかにすることで無神論が蔓延し、また共産主義が世界に澎湃していることを、痛切に自ら叱責する宗教者になるべきだと思うのです

今日、神様は私たちを呼んでいらっしゃいます。すべての宗教者は、深い自己反省の内的基台の上で、力強く立ち上がり、あらゆる不正が乱舞する現実に挑戦し、神様のみ旨を地上に実現するめに、創意的な努力を果たさなければなりません。生きていらっしゃる神様が願われる人間との関係は、経典や礼拝儀式の中だけでの関係ではありません。信義を抱いて二十四時間の生活の中でこれを実践する、自覚された心の中に住まわれながら、人間と共に生活されることを願われます

私は、世界と人類の未来に対する長年の省察と祈祷を通して、今の世界を覆っている神様の情熱的な願いと強い聖霊の役事を感じてきました。これは、世界が必ず新しくならなければならず、宗教指導者が世界的に団結するだけでなく、懺悔と真の奉献の姿勢を整える汎宗教的浄化運動、実践奉仕運動が起こらなければならないと教示しています。世界は変わらなければなりません。新しい宗教改革の炎が燃え上がり、至る所で生活信仰、実践信仰の価値を高く、高く、とどろかせなければなりません。そして、無神論者たちの前に生きていらっしゃる神様を証明する、生きた信仰の炎がなければなりません。真の平和世界は、宗教を通した精神革命、愛と慈悲による大きな和合によってのみ実現されるのです

教団間の和合を通して平和世界実現を早めなければならな

尊敬する代表の皆様。私たちは神様の崇高な召命の前で、反目と誤解の無知が氾濫する世俗の泥沼を抜け出し、相互尊重および親善で、世界の教団が大きな協同体制を構築しなければなりません。そうして、行動する宗教者の意志と実践を地球星の隅々に見せなければなりません

宗教は単に未来を待望することで終わるのではありません。神様の最初の創造目的の地が地上なら、私たちが地上に実現すべきそのお方のみ旨を忘れてはいけないのです。天国や極楽が神様の理想的な居所ならば、そこに行くことだけが希望ではいけないのです。現実において理想の起源になる対象存在のために生き、愛し、与える実践と、その実績が必要条件になるのです

宗教が現実的規範原理や所在を超越しているからといって、その現実的作用までも無視してはいけません。宗教は、現実問題自体に至大な関心をもって、神様のみ旨の適用可否を深く調べなければなりません。また、政治、経済、社会、教育など、各分野の現実問題を解決すべき人々の心の中に、神様を中心とした新しい変化を起こすことによって、彼らが新しい人となって問題を解くようにさせなければなりません

生きた心霊をもった宗教者たちが、宗教の真理をもって現実社会に飛び込むことを、神様は求めていらっしゃいます。真理をもった人、神様と根本的な交流をもった人は、どこでも生命の役事を起こし、影響を与えるようになっています。真の宗教は世の中についていくのではなく、神様のみ旨に立脚して世の中を諭し、万人を先導しなければならないので、反対と迫害と騒乱が起こるようになっています。教団間の和合と大同団結、そして実践信仰の新しい運動は、孤独な開拓者的な道を行くかもしれませんが、これは歴史的・/span>世界的次元で考える多くの清新な人々の、大々的な呼応を受けることになるでしょう

私はこれまで、神様が願う摂理の方向に従って世界を改革し、地上に神様の理想を実現することに尽力してきました。また、統一教会を最も優先的に動員して、宗教間の和合を通した世界平和の目標のために投入してきました

皆様が属する各教団も、積極的にこの道に協力して、共に行くことを私は心から願います。これは、私がこの分野の努力を中断するからでもなく、統一教会の援助を惜しんでいるからではありません。全宗教の伝統の霊的資源と創造力を動員して、神様が願われる方向に総結集することによって、平和世界の実現を早めようとしているからです

神意の地上実現という「世界宗教議会」の成

皆様が御存じのように、この「世界宗教議会」は歴史的な企画であり成果です。世の中でも国連機構などをつくって和平を模索していますが、教団間に争いがあっていいでしょうか。私は長い間、既存の教団や指導者が出てきて、宗教議会を積極的に推進してくれることを待ち望みました。しかし、誰かが必ず果たすべきこのことを待ちきれずに、私が始めました

この集い自体が意味のあることですが、今後、回を重ねれば重ねるほど驚くべき成果を上げるようになることを期待します

第一段階は、世界の宗教の伝統が互いに尊重されながら、相互に交流する関係の中で和合し、集約されることによって、少なくとも宗教間の葛藤と戦争を防止することに寄与し、第二の段階は、宗教会議の共同決議を通した宗教者の実践生活と汎教団間の協力体制によって世界に奉仕し、人の心霊を啓発することが促進されることによって、万人を神中心の価値観で生きるようにし、第三の段階は、実質的な教団代表たちが参加する議会にまで発展しなければならないと思います

そうして、宗教議会で神意に立脚した高次元の価値観と生活規範が確立され、これが全宗教者と団体、国家に波及するようにしなければなりません。このような個人、団体、国家であってこそ、神様のみ旨の地上実現のための基盤となり、単位になるのです。すべての代表の方々は、今回の会議の期間中、全体会議あるいは分科会議で発表や討議、各宗教芸術の発表、瞑想と祈祷などのプログラムを通して、今日の世界を指導し、宗教界を改革して明るい未来を創出する霊的基盤を造成し、互いに和合することに大きく寄与してくださることを願います

私たちは、今から和合した力で「神意の地上実現」と