1.お一人の神様と一つの世界宗... PAGEREF _Toc500751802 \h 1

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751803 \h 1

1.お一人の神様と一つの世界宗... PAGEREF _Toc500751804 \h 1

神様は実在するの... PAGEREF _Toc500751805 \h 1

二性性相の神... PAGEREF _Toc500751806 \h 2

神様のかたちに創造された人... PAGEREF _Toc500751807 \h 3

人体の神秘を通して見た神様の実在... PAGEREF _Toc500751808 \h 4

神様との関係から見た人間の本然の価... PAGEREF _Toc500751809 \h 4

世界を救うべき宗教の使... PAGEREF _Toc500751810 \h 6

世界的中心宗教はキリスト... PAGEREF _Toc500751811 \h 7

キリスト教の限... PAGEREF _Toc500751812 \h 7

新しい愛の理想世界建設のために出現した統一教... PAGEREF _Toc500751813 \h 8

2.キリスト教の新しい未来... PAGEREF _Toc500751814 \h 9

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751815 \h 9

2.キリスト教の新しい未... PAGEREF _Toc500751816 \h 9

神様のみ旨成就のために来られる... PAGEREF _Toc500751817 \h 9

人類救済のための神様のみ旨とキリスト教の使... PAGEREF _Toc500751818 \h 10

聖書に見るユダヤ民族がイエス様の命を奪った背... PAGEREF _Toc500751819 \h 12

旧約聖書を間違って解釈し、イエス様の命を奪ったユダヤ民... PAGEREF _Toc500751820 \h 14

洗礼ヨハネの失敗によって亡くなったイエス... PAGEREF _Toc500751821 \h 16

主は雲に乗って来られるのではな... PAGEREF _Toc500751822 \h 18

十字架はあらゆるものを失った... PAGEREF _Toc500751823 \h 19

女性の体を通して来られる再臨のイエス... PAGEREF _Toc500751824 \h 21

人として来られる主を迎えるべきキリスト... PAGEREF _Toc500751825 \h 23

3.今日の知識人と宗教... PAGEREF _Toc500751826 \h 24

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751827 \h 24

3.今日の知識人と宗... PAGEREF _Toc500751828 \h 24

人間は次元の高い価値を追求す... PAGEREF _Toc500751829 \h 25

神様が必要とされるものは何... PAGEREF _Toc500751830 \h 25

力が先か、作用が先... PAGEREF _Toc500751831 \h 26

主体と対象が一つになるのが愛の作... PAGEREF _Toc500751832 \h 27

すべての存在の最後の目的は神様の... PAGEREF _Toc500751833 \h 28

4.アメリカと宗教の自由... PAGEREF _Toc500751834 \h 30

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751835 \h 30

4.アメリカと宗教の自... PAGEREF _Toc500751836 \h 30

アメリカと宗教の自... PAGEREF _Toc500751837 \h 30

アメリカで果たすべき使... PAGEREF _Toc500751838 \h 31

アメリカで達成した十二年間の業... PAGEREF _Toc500751839 \h 32

アメリカの意図的な宗教裁... PAGEREF _Toc500751840 \h 33

世界最大の対... PAGEREF _Toc500751841 \h 34

神様、アメリカを祝福してくださ... PAGEREF _Toc500751842 \h 34

5.世界平和のために宗教間で和睦しよう... PAGEREF _Toc500751843 \h 35

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751844 \h 35

5.世界平和のために宗教間で和睦しよ... PAGEREF _Toc500751845 \h 35

6.統一運動に参与することを期待します... PAGEREF _Toc500751846 \h 39

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751847 \h 39

6.統一運動に参与することを期待しま... PAGEREF _Toc500751848 \h 39

十六歳(数え)の復活節に出会ったイエス様の啓... PAGEREF _Toc500751849 \h 39

神様が私をアメリカに呼ばれた理... PAGEREF _Toc500751850 \h 40

国税庁の起訴は職権濫... PAGEREF _Toc500751851 \h 41

アメリカのために数多くの事業を展... PAGEREF _Toc500751852 \h 43

7.神様のみ旨... PAGEREF _Toc500751853 \h 43

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751854 \h 44

7.神様のみ... PAGEREF _Toc500751855 \h 44

神様のみ旨と人間の完... PAGEREF _Toc500751856 \h 44

救援歴史は神様の血統に接ぎ木する重生の歴... PAGEREF _Toc500751857 \h 46

神様とメシヤのために生きて死ぬことがキリス卜教徒の特... PAGEREF _Toc500751858 \h 47

8.対話と連合... PAGEREF _Toc500751859 \h 48

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751860 \h 49

8.対話と連... PAGEREF _Toc500751861 \h 49

永遠なる真の愛、理想、幸福、平和を願ってきた人... PAGEREF _Toc500751862 \h 49

宗教の究極的目標は平和理想世界の建... PAGEREF _Toc500751863 \h 50

汎宗教的浄化運動、実践奉仕運... PAGEREF _Toc500751864 \h 51

教団間の和合を通して平和世界実現を早めなければならな... PAGEREF _Toc500751865 \h 52

神意の地上実現という「世界宗教議会」の成... PAGEREF _Toc500751866 \h 53

9.根本思想... PAGEREF _Toc500751867 \h 54

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751868 \h 54

9.根本思... PAGEREF _Toc500751869 \h 54

人生問題と神様を中心とした聖人の教... PAGEREF _Toc500751870 \h 54

宗教の起源、そして神様との関... PAGEREF _Toc500751871 \h 56

宗教生活は体を主管し、心に従って生きる生... PAGEREF _Toc500751872 \h 57

宇宙の根本真理を探すために神様と談... PAGEREF _Toc500751873 \h 58

真の信者とは、教主の愛を受けられる... PAGEREF _Toc500751874 \h 59

レバレンドE/span>ムーンは真の愛の哲学... PAGEREF _Toc500751875 \h 61

宇宙の根本は愛と生命と血... PAGEREF _Toc500751876 \h 62

神様と真の愛、そして永... PAGEREF _Toc500751877 \h 64

万教の平和基準と愛の道... PAGEREF _Toc500751878 \h 66

神様の人間救援の目... PAGEREF _Toc500751879 \h 67

10.真の愛の伝承と伝統... PAGEREF _Toc500751880 \h 68

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751881 \h 68

10.真の愛の伝承と伝... PAGEREF _Toc500751882 \h 68

11.イスラームと世界平和の定着... PAGEREF _Toc500751883 \h 73

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751884 \h 74

11.イスラームと世界平和の定... PAGEREF _Toc500751885 \h 74

平和の根源は神... PAGEREF _Toc500751886 \h 74

神様とサタンの対決の場である中... PAGEREF _Toc500751887 \h 76

宗教間の紛争解決の... PAGEREF _Toc500751888 \h 78

12.平和世界のための宗教の使命... PAGEREF _Toc500751889 \h 79

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751890 \h 79

12.平和世界のための宗教の使... PAGEREF _Toc500751891 \h 79

13.新文化創建と宗教の役割... PAGEREF _Toc500751892 \h 83

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751893 \h 83

13.新文化創建と宗教の役... PAGEREF _Toc500751894 \h 83

宗教が追求してきた... PAGEREF _Toc500751895 \h 83

平和と幸福の世界を取り戻してきた... PAGEREF _Toc500751896 \h 84

人間は真の愛のために生まれた存... PAGEREF _Toc500751897 \h 84

家庭は創造理想の基本単... PAGEREF _Toc500751898 \h 86

教団間の和合を通した世界平和の実... PAGEREF _Toc500751899 \h 87

14.宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751900 \h 88

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751901 \h 88

14.宗教と理想世... PAGEREF _Toc500751902 \h 88

世界の宗教の核心主題は理想世... PAGEREF _Toc500751903 \h 88

神様の理想と真の愛の家... PAGEREF _Toc500751904 \h 89

堕落と復... PAGEREF _Toc500751905 \h 90

宗教の責... PAGEREF _Toc500751906 \h 91

15.生死に対する理解... PAGEREF _Toc500751907 \h 92

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751908 \h 92

15.生死に対する理... PAGEREF _Toc500751909 \h 92

死は根源の世界への回... PAGEREF _Toc500751910 \h 93

人類は一つの兄弟、一つの国... PAGEREF _Toc500751911 \h 94

死と闘って勝利できる希... PAGEREF _Toc500751912 \h 95

真の愛のために死ぬことができなければならな... PAGEREF _Toc500751913 \h 97

水中、地上、天上の三時代を通過しなければならな... PAGEREF _Toc500751914 \h 98

神様の法則のとおりに生きなければならな... PAGEREF _Toc500751915 \h 99

地上で愛する訓練をしなければならな... PAGEREF _Toc500751916 \h 100

私の目的は世界の救... PAGEREF _Toc500751917 \h 102

死ぬことなく復活はできな... PAGEREF _Toc500751918 \h 102

直観的感覚が現実化する世... PAGEREF _Toc500751919 \h 104

霊界は真の愛を中心としてために生きる... PAGEREF _Toc500751920 \h 104

心情圏の世界は愛が普遍化される世... PAGEREF _Toc500751921 \h 105

世界宗教国連創設の主... PAGEREF _Toc500751922 \h 106

16.人間の行くべき生涯路程... PAGEREF _Toc500751923 \h 107

平和経第三篇宗教と理想世界... PAGEREF _Toc500751924 \h 107

16.人間の行くべき生涯路... PAGEREF _Toc500751925 \h 107

神様が人間を創造された目... PAGEREF _Toc500751926 \h 107

真の愛は宇宙創造の起... PAGEREF _Toc500751927 \h 109

物質世界、父母、神様は三大父... PAGEREF _Toc500751928 \h 111

私は父母の愛の... PAGEREF _Toc500751929 \h 112

真の愛を中心とした家庭が行くべき... PAGEREF _Toc500751930 \h 113

霊界は愛を中心とした世... PAGEREF _Toc500751931 \h 115

神様と人類は父子関... PAGEREF _Toc500751932 \h 116

救援摂理の完... PAGEREF _Toc500751933 \h 117

宗教の使... PAGEREF _Toc500751934 \h 119

 

1.お一人の神様と一つの世界宗

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

1.お一人の神様と一つの世界宗

日付:一九七二年二月三

場所:アメリカ、ニューヨーク、リンカーンE/span>センタ

行事:アメリカ九ヵ都市巡回講

紳士淑女の皆様。今夜、このように悪天候にもかかわらず、大勢の方々が集まってくださったことに対して、心から感謝申し上げます。皆様に会ってみたいという思いは、数十年前からありました。今晩、初めて皆様にお会いでき、まず皆様の前に感謝申し上げると同時に、神様に心から感謝を申し上げる次第です

神様は実在するの

きょう、お話しするタイトルは、「お一人の神様と一つの世界宗教」です。このニューヨークに住んでいる方々は、「神様」と言えば、「神様は死んだ」という言葉を連想するかもしれません。しかし、神様が存在しているのに、存在する神様を「死んだ」と言うのは、これ以上の罪はないと思うのです。神様が存在しないのに「神様は存在する」と言うほうが、それよりまだ良いと見ることができます

きょう、お話しする「お一人の神様と一つの世界宗教」というタイトルを見ても、ここに人がいなければ何の問題にもなりません。人がいるので、その人と一人の神様が必要なのであり、人がいるので、その人と一人の神様が一つになってつくられる宗教が必要だというのです

万一、絶対者である神様がお一人でいるならば、その神様がいる所は幸せな所ではないと考えざるを得ません

神様であっても、その神様が一人で喜ぶならば、神様も正常な神様ではないでしょう。しかし、その神様がいくら小さな相対だとしても、その一つのものを見て「ははは」と笑いながら喜ぶとすれば、それは正常なのです。いくら小さなものでも、それを見て笑う神様に対して「狂っている」と言えば、そのように言う人がかえって狂った人になるのです。ですから、相対的存在がどれほど貴いかということを、皆様に最初にお話ししているのです。「不幸」や「悲しみ」という言葉は、相対がいないところから始まる言葉です

それでは、神様が相対を好むとすれば、この世界でいったいどのような存在を好むと思いますか。感覚がない鉱物のようなものでしょうか。鉱物ではありません。植物でもありません。植物よりは動物のほうがより関心事になるでしょう。このように見るとき、この被造物の中で神様の関心事になり得る中心存在とは何かと尋ねれば、幼稚園児であっても、人間だと指摘するでしょう。皆様は、そのように思いませんか。このように見れば、人間は被造物の中で最高傑作だということを否定できないのです。ですから、神様も対象を訪ねていくとすれば、人間を除いては訪ねるべき対象がないという結論が出てきます

今日、この複雑な情勢の中で、今後のアメリカの運命や、あるいは世界の運命を考えるとき、神様がいれば良いのか、いなければ良いのかという問題は、深刻に考えてみる問題にならざるを得ません

絶対者がいて、真は真とみなし、悪は悪として処断することができれば良いですが、そのようなお方がいないとすれば、今後の世界は問題にならざるを得ません。ですから、神様がいないより、いるほうが良いというのが、私たちの願いです。ですから、神様がいるか、いないかということが問題です

二性性相の神

この宇宙は、存在世界であることを私たちは知っています。それは誰もが認めています。存在するためには、力がなければならないことを知っています。その力が存在するためには、力が先か、存在が先かということが問題です。力がなければ、存在もありません。ところが、その力というものは、作用をせずには現れないのです。力がある前に、作用という現象が必ず必要です

また、作用をするためには、そこには必ず先行条件として、主体と対象が絶対必要だということを否定できません。この主体と対象が授受するところから作用が始まり、作用が始まることによって力が存続するのです。言い換えれば、力が存在する前になければならないものとは何かというと、主体と対象だというのです

主体と対象は互いに異なる立場にあるので、これらが作用をするためには、互いに相手の内容に合うようにしなければならないのです。そのようにしなければ作用することができません。ですから、主体と対象が作用するためには、主体の目的と対象の目的が一致できる基点がなければならないのです。そうでなければ作用しないというのです

私たちが何かの用で外に出ていくとき、自らが損をするために出ていく人はいないでしょう。ニューヨークのタイムズE/span>スクエアを大勢の人々が往来していますが、その人々が家から出るとき、「私はきょう、一ドルでも損をするために家から出ていく」といって出てきた人は一人もいないはずです。出てくる時は、必ず自分に利益になることを望み、自分にプラスになる何かを望んで出発するのです

皆様が友人たちに会って交流するとき、お互いがマイナスになり、今よりも悪くなりかねない立場では、絶対に一つにならないのです。甲と乙の二人が一つになるには、今よりプラスになる共通の目的があるからこそ、そこで作用が起こり、一つになるということが起こるのです。このように見るとき、力が作用するには、二重目的、すなわち主体と対象が互いの目的にプラスになるものがなければ、一つになることもなく、作用もしないという結論を出すことができます

原子を例に挙げれば、原子は陽子を中心として電子が取り囲んでいます。それもやはり、二つの目的を結合して与え合う立場にあるので、一つの原子型を形成するのです。ですから、電子の目的と陽子の目的が追求するものを中心として、合わせているのです。大きく見れば、神様も存在者です。神様が存在するならば、実存体としていらっしゃるのです。そうだとすれば、神様もやはり主体と対象の関係になっていて、完全に与え合うことができる二重目的を中心として、結合した位置に立たなければ、永遠に存在することはできないのです。それは、神様も結局は、主体と対象が一つになって、お一人の神様としていらっしゃるという話です

神様のかたちに創造された人

聖書の創世記第一章二十七節を見れば、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」という聖句があります。それを帰納的に追究してみれば、神様は、一人の男性と一人の女性を合わせた方だという結論が出てきます

そのような神様が一人でいてはいけないので、対象を必要とされ、そのために、この世界を創造せざるを得なかったというのです。それで、造られたのが一人の男性であり、一人の女性です。一人の人について見ても、人には心と体があります。この心と体が与え合うのです。もしこれが食い違ってくると苦痛を感じるようになります。どちらか一方が傾くというのです。しかし、これが一つになって上がっていけば喜びがあるのです。これが完全に一つになった男性がいるとすれば、彼は完全な男性です

もし絶対者がいるとすれば、どのような男性を要求するでしょうか。そのような男性を要求するでしょう。女性も同じです。心と体が完全に一つになった女性がいるとすれば、神様は、その女性に会おうとせざるを得ません。絶対者の威信から見ても、最高の男性、最高の女性に会わなければならないというのです。そのように、天のみ前に堂々と立つことができる人を天は求めるのであり、私たちも望むのです

私たち人間を見れば、原因的な存在ではないことを否定できません。人は結果的な存在です。皆様は、存在する、しないを自由に決めることができますか。できません。原因になれないので、結果的な立場にいることを否定できないのですが、結果的な存在も、原因が絶対的ならば、絶対的な相対の位置に立つことができるのです

人体の神秘を通して見た神様の実在

皆様。神様がいるか、いないかについて、少しの間お話ししてみましょう。私たちが人類始祖を求めてさかのぼれば、最初の人類始祖が出てくるでしょう。その人類始祖は大地で生まれたのです。その生まれた最初の人間が、大地に生まれるとともに、太陽があることを、それ自体が知っていて準備して出てきたか、そうでなければ、それ自体は知らずに出てきたかということを考えてみます

この地に出てくるとき、目は太陽があることを知らなかったでしょう。しかし、それ自体は知らなかったとしても、あらかじめ天体に太陽があって、見ることができることを知り、目をそのように生じさせたのです。皆様の目を見るとまばたきしています。それは、地の熱を受けて目の水分が蒸発するので、湿らせなければならないことを知っていたからです。また、まつげは、ほこりを防止しなければならないことを知って生じました。これを見れば、人間は博物学的、天文学的知識を基盤として生まれたということです

そして、目はあらかじめ汗が流れてくることを知っていました。それを知って、この貴重なところに異物が入れば大変なことになるので、防波堤をつくっておいたのです。そして、人が立って行き来することを知っていたというのです。また、耳を見てください。あらかじめ音波が来ることを知って、それを聞き取れるようになっています。また、鼻を見てください。鼻がなぜこのように下に向かうようになっているのかというのです。鼻に汗や雨水が入ってはいけないので、防波堤をつくって下に向かうようにしたのです。すべて知ってつくられたというのです。それらが自然にそのようになるでしょうか

このように私たちの人体を見れば、神秘の王宮のようになっています。これがただそのままそのように生じることはありません。このように見るとき、人間が生まれるとき、自分自身は知りませんでしたが、それを知っていた方がいたか、いなかったかということが問題になります。そのように生まれたことに対して、「ただ生まれた」とは言えません。それをあらかじめ知っていた方が誰かというと、神様でいらっしゃいます

神様との関係から見た人間の本然の価

それでは、神様が人間を造ったとすれば、私たち人間をどのような立場に置いて、どのような関係を結ぶために造ったのかを調べてみましょう。神様が人間を造ったとすれば、造った神様の目的があったはずです。また、そのように造られた人間ならば、その人間自身にも目的があるのです。造られた人間の目的と造った神様の目的が別々だということはありません。必ずある一致点がなければならないというのです。その立場は神様も望み、私たち人間も望むでしょう

ここに来た人々の中で、世界的に著名な大統領がいらっしゃるとすれば、その大統領よりも偉くなりたくないと思う人がいますか。偉くなりたいと思いますか、偉くなりたくないと思いますか。偉くなりたいと思うのです。最高に偉くなりたいと思います。世界で一番偉い人がいれば、その人と関係を結びたいと思うのが人間の欲望です

そして、その偉い人を中心として一つになったとしても、それよりも偉い人がいれば、その人とも一つになりたいのです。男性も女性もそのような思いをもっています。いくら愚かな人だとしても、そのような思いをみなもっているというのです。もし天地を創造した絶対者である神様がいらっしゃるならば、その神様と関係を結びたいと思うでしょうか、結びたくないと思うでしょうか

そして、その神様を占領したとしても、神様の中にただ一つしかない愛を占領できないときは、安心できないというのです。神様を占領し、神様の中に一つしかない愛までも占領すれば、万事OKです。そのお方の愛さえ占領する日には、そのお方のものは、私のものになるというのです。良心は私たちを、そこまでせき立てる作用をします。本来の人間は、そのような価値のある立場にいるので、そのような作用をしていることを否定できません

神様は愛の神様ですが、私たち人間を愛そうとするならば、どのような立場で愛したいと思われるでしょうか。また、私たち人間は、どのような立場で神様の愛を受けたいと思うでしょうか。その立場は父子関係、すなわち父と息子の立場しかないというのです。ですから、今日、キリスト教で「父なる神」と呼ぶのです。父と息子なら上下関係です。人間の欲望を見るとき、その高い父の位置に私も一度行きたいと思わざるを得ないというのです。ですから、神様はそれまでも心配して、私たちの心、すなわち内的なところに入ってきて、私たち人間自身を外側、すなわち神様の体と同様の立場を許諾しようというのです。そのようになれば、同等な立場に立つようになります

人間で見るとき、その父が貴いとすれば、一人しかいないその父を、どこかに持っていって保管したくはないのです。あの遠いところに置きたくないというのです。いつも自分と共にいて、自分だけに会い、自分だけが喜ベるところに持っていって置いておきたいと思います。ですから、神様が見えないことを願うのです。神様をどこかほかのところに置いてはいけないというのです。私だけが分かる心の中に置きたいというのが、私たち人間の欲望であるに違いありません

ですから、創造主である神様は、被造物である私たち人間を神様と同じ立場に置くというのです。私たち人間を、神様の息子の立場で愛することができるように、神様と同等な立場に立ててくださったのです

神様は天地を創造する能力をもったお方なので、その創造の能力までももつようにさせたかったというのです。神様が人間を創造したあと、私たち人間を造ってみると、どれほどかわいく、愛らしかったのか、そのような妙味までも、私たち人間が感じるようにさせたいと思われたというのです

その神様の創造の能力を受けようとするなら、神様はお一人の中に完全な男性と女性の姿でいらっしゃるので、分かれて生まれた男性と女性も、完全な男性と女性が一つになって、神様の相手にならなければなりません。神様の相手になることによって、創造的役割を身代わりできるのです

ですから、夫婦の愛を通して一つになることによって、神様のような立場で創造の能力を果たせるのが子女です。赤ん坊を生んで、どれほどうれしいかということを私たちに感じさせるために、神様は子女を愛する心を下さいました。このように見ると、神様は最も良いものを私たち人間に、すべて注いでくださったというのです

このように、永遠であられる神様の愛と一つになって、幸福と満足の中で、平和なエデンで生きるように私たち人間を造られたのです。そのようになることによって、絶対的な神様のみ前に、神様の愛を中心として永遠に相対となる立場で、別れようとしても別れることができない幸福な人として生きるのが、人間の本然の姿だったということを、私たちは知らなければなりません

世界を救うべき宗教の使

絶対的な神様が造られた存在物は、一つの目的をもたなければならないことは間違いありません。それでは、神様の愛を中心として、絶対的な相対の立場に立った人間がこの地にいると思いますか。いません。絶対的な神様が造ったので、一つの目的を指向する人間になるべきですが、人間を見れば二律背反的な、反対の目的となるもう一つの道に立っているのが分かります。ある人はこれを、人における主体と対象の関係と見ますが、そうではありません。良心が内的なプラスだとするならば、邪心はまたほかの一つのプラスなのです。ですから、反発が起こるのです。そのような立場に立っているのが、この地上に生きている私たち人間です

神様が私たちに高貴な偉業としてくださった愛の理念、絶対価値の理念を喪失してしまい、反対の二つの現象世界で呻吟して生きる悲惨な人間だということを知らなければなりません。言い換えれば、故障した人々になっているというのです。ところが、絶対的な神様は人間に相対するしかないので、このような人間をそのまま放置することができず、歴史過程を通して再生させる運動をしてきたというのです。すなわち、修理工場を造ったのですが、それが宗教なのです

世界には多くの宗教がありますが、文化が異なり、あるいは民族の背景が異なるので、その基準によって、多くの宗教を立てて糾合してきたのです。宗教が望む目的は、世界を救うことです。神様が望む目的も、世界を救うことです。世界を救おうとする宗教でなければ、長く存続できません

皆様、宗教指導者たちは、民族主義者ではなく、世界主義者であり、天を中心とした世界的な運動を提示した人々です。私たちは今、四大聖人として、イエスE/span>キリスト、釈迦牟尼、孔子、ムハンマドを挙げます。ある人はソクラテスを挙げていますが、ソクラテスは哲人であって聖人ではありません。知識では生命を救うことができません。天だけが生命を左右するのです

ですから、四大聖人とはどのような人々かというと、すべて世界的な大宗教の教主になっています。天に仕えなかった人はいません。皆様、聖人を尊重しながら、天を無視する人になってはいけないというのです

世界的中心宗教はキリスト

したがって、この修理工場のような使命を宗教がするのですが、神様が絶対者ならば絶対者が一番好む宗教とはこの四大宗教の中でどの宗教かということを、私たちは知らなければなりません

儒教を見れば、神様に対するはっきりとしたことを教えられませんでした。善を行えば天が福を与えて、悪を行えば災いを与えるという程度しか教えることができなかったのです。仏教を見れば、法則的な神様は認めますが、人格的な神様は知らずにいます。また、イスラームを見れば、これはキリスト教を受け継いだ中間的な宗教です

ところが、ただイエスE/span>キリストだけは、主張した内容が異なります。彼が現れて「私は神のひとり子だ」と言いました。人類歴史上に、神様のひとり子だと主張した人は、イエス様しかいないのです。その次に「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ一四E/span>)と言いました。「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ一〇E/span>三八)と言いました。それだけでなく、「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」という立場で語られたのです。このようなことを見るとき、誰を中心としてこれを成し遂げようとしたのかといえば、神様を中心として成し遂げようとしたというのです。言い換えれば、神様を中心として息子になり、一つの体になり、一つの新郎新婦になり、一つの家庭をつくろうというのがキリスト教の目的なのです。私たち人間に最高の価値として与えられた息子の位置と同等な立場、そして創造の偉業と創造したそれ以後の喜びまでも感じられる家庭的起源を、イエス様は教えてくださったのです

キリスト教の限

ところが、イエス様は神様の息子であり、天の父と一体になりましたが、相対である新婦を準備できませんでした。もし、イスラエルの国とユダヤ教が、その時、イエス様と一つになった立場で、イエス様が新婦を迎えられるようにしたならば、イエス様は神様と直接の相対となって、創造の能力を発揮できる基盤をもったはずですが、それを成し遂げることができずに逝きました

このような神様を中心とした息子、娘が出てきて、家庭をつくって、新しい氏族と民族と国家と世界になったとすれば、この地球星はすぐに天国になったでしょう。神様を中心とした天の国になったでしょう。イスラエルの国の人々が信じることができず、ユダヤ教徒たちが信じることができなかったためにイエス様が死んだのであって、信じたとすればイエス様は死ななかったでしょう

もし、そのとき、イスラエルの国とユダヤ教がイエス様を信じて、神様が理想としていた新郎新婦を迎えて新しい出発をしていれば、第二次世界大戦中に六百万人のユダヤ人がヒトラーに虐殺されることもなかったでしょう。歴史始まって以来、初めて現れた、神様の対象となり、神様が愛することのできるお方を打ってしまったので、そのようになったのです。それ以上に大きな罪はないというのです

今、ここにもイエス様を信じる人が大勢来ていると思います。しかし、皆様の信じているキリスト教がこのまま進んでいけば、追われていくイスラエル民族のようになるかもしれません。今日、全世界に散らばっているキリスト教徒たちは、神様を中心として一つになり、再び来られる主がこのような使命をもって来られるので、再び追放することがないように基盤を築く運動をしなければ、今後、この世界の展望は悲惨だと見ざるを得ません

そのお方が来て、新郎として新婦を迎えて婚宴をするというのが、ヨハネの黙示録に出てくる「小羊の婚宴」です。堕落したために、私たちは偽りの父母をもちました。神様がモデルとして考えていた善の真の父母は出てきませんでした。このように計画していたことを、終わりの日に来て、再び合わせなければならないというのです。真の父母が現れて、再び生み、再び接ぎ木するみ業をしなければ、世界のすべての人は救援されないのです

新しい愛の理想世界建設のために出現した統一教

今後、来られる主はどのような使命をもって来られるのでしょうか。堕落せずに善の父母の立場で完成する真の父母を失ったので、それを再び完成して、神様の愛を受ける真の父母の家庭から人類が再び愛される道を開くために来られるお方が、再臨主です。神様の愛を受ける息子、娘たちがこの地で生きて、家庭的に天国に行くのが幸福でしょうか。今日、キリスト教で信じるように、ただよく信じて、母は天国に行き、父は地獄に行くようになって、別々に別れていくのが幸福でしょうか。父母から子女に至るまで、全体が入らなければならないというのです。家庭が入り、氏族が入り、国が入り、世界がすべて入らなければなりません

このような新しい父母を中心とした世界的な家庭がこれから生じ、そこから人類歴史上になかった新しい愛の理想を中心とした文化と伝統がこの地球星に顕現するようになるとき、今日のこの複雑で罪悪に満ちた世界ではなく、新しい地上の天国になるのです。そのようになるためには、皆様がどのように手続きを踏まなければならないのかを知らなければなりません。ですから、そのような内容を教えるのが、私たち統一教会の使命です

膨大な内容をこのように要点を整理して短時間で話そうとするので、飛躍も多く、理解しづらい点もあったかもしれませんが、皆様が了解して聞いてくださったことに対して、心から感謝を申し上げます。

 

2.キリスト教の新しい未来

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

2.キリスト教の新しい未

日付:一九七四年三月九

場所:アメリカ、バーミンガ厶、ハイアッ卜E/span>ホテ

行事:アメリカ三十二カ都市巡回大講演

今晩このように集まってくださった紳士淑女の皆様。心より感謝申し上げます。きょう皆様と共に考えようと思うタイトルは「キリスト教の新しい未来」です。このようなタイトルで、少しの間お話しいたします。皆様がよく御存じのとおり、アメリカといえば、キリスト教を中心として世界で一番の国家です

神様のみ旨成就のために来られる

きょう、お話しする内容は、今日、私たちの信仰生活、あるいは従来の神学を通して知ることができ、学ぶことができる内容に関するものではなく、全く新しい分野のものですので、アメリカの多くの国民が聞かなければならないものだと思います。そのために、私がここに現れるようになった次第です

今、終わりの日がやって来たので、歴史的な事件や事実を明確にしておかなければなりません。私は、神様から「三年間アメリカに行って宣べ伝えなさい」というみ言を聞き、一九七二年から一九七三年と一九七四年の今年まで、アメリカの皆様を訪ね、津々浦々でこのように壇上に立つようになりました。その点を理解してくださるようにお願いします

皆様も私も、神様のみ旨のために生き、神様のみ旨を成就する兄弟の立場にいることを理解して寛容な気持ちをもち、皆様が信じてきた信仰生活と相反するからといって、それを直ちに判断なさらずに、深い祈りの中で、あるいは暝想の中で探知、探求して判断してくださることを願ってやみません

キリスト教は今まで、二千年間、再臨主を待つ信仰生活をしてきたことを私たちは知っています。しかし、今は終わりの日がやって来たので、信じるだけではなく、来られる主を迎えるために準備をしなければなりません。その段階を経ていかなければならないと思うのです

私たちが一つの小さな大会を行うときにも、プログラムを組み、そのとおりに間違いなく動いてこそ、その大会を円満に終えることができます。今日、主が来るというこの事件は、歴史始まって以来最も大きな事件であり、人類歴史上で最も重要な事件なので、それが盲目的に漠然となされるとは考えられません。ですから、私たちは今、その内容がどのようなものなのかを知らなければならないのです

例えば、皆様がバーミンガムに向かって汽車に乗っているときは、汽車に乗ってさえいれば安心して目的地に到着することができますが、一度バーミンガムに到着すれば、行くべき新しい方向と目的が明確でなければならないのです。今まで信じていたキリスト教の中で、主が来ることを準備するある団体が存在しなければならないということは、理論的に明白な事実です

主は間違いなく来なければなりません。それでは、主はなぜ来るのでしょうか。神様のみ旨成就のために来ます。それでは、神様のみ旨とは何ですか。今日、信仰する人々は、神様が救援摂理のみ旨を通して摂理すると思っていますが、本来、神様のみ旨は一つしかあり得ないことを知らなければなりません

今日、この救援摂理というものは、神様が本来計画した創造理想世界において必要だったものではありません。人間が堕落することによって、神様のみ旨を成就できなかったために、そのみ旨を再び取り戻していく過程が救援摂理だということをはっきりと知らなければなりません

神様が決められたみ旨に背くことはできません。神様は絶対的なお方なので、そのみ旨を完成させてこそ、権威を保て、堂々とした立場に立つことができるのです。これが事実である以上、目的としていた本然の基準で堕落した人間を完成させることができなければ、神様が絶対的な神様になれないことを、私たちは知らなければなりません

人類救済のための神様のみ旨とキリスト教の使

それでは、人類の先祖アダムとエバが堕落しなかったならば、どのような世界になったでしょうか。神様の愛の中で保護を受けて彼らが完成していたならば、神様がアダムとエバを呼んで祝福し、結婚式をしてあげたでしょう。そのために男性と女性を造ったのです

もしそのようになったとすれば、この地球星には、堕落した人類の先祖ではなく、神様の愛される、罪のない完成した人類の真の先祖が暮らすようになり、真の父母になっていたはずです。つまり、神様が本当に愛することのできる真の新郎と真の新婦が、この地上に誕生していたというのです。お互いが怨讐の兄妹ではなく、完全に神様のみ旨に協助する、神様の愛の中にいる神様の真の兄妹がこの地上に生まれたでしょう。そうすることによって、神様を中心とした家庭をこの地球星に形成し、罪のない父母として罪のない息子、娘を生んで、罪のない氏族、罪のない民族、罪のない国家、罪のない世界をつくり、この地球星の人類は、名実共に神様の主管を受け、神様はこの地球星の王になったでしょう。そのような結論になります

そうなっていたとすれば、救世主は必要ありません。宗教は必要なく、祈祷は必要ありません。救世主が必要で、宗教が必要で、救援が必要になったのは、堕落の産物だからです。それを、今まで知らなかったというのです

救援するというのは、落ちたからです。病気になったので、病人を直す病院が必要であり、故障したので修理する工場が必要なのです。ですから、宗教とは何でしょうか。修理工場と同じであり、病院と同じです。それはすべて救援です。病気になったので、救援が必要だということです。このような原則的な基準を、今日、キリスト教は規定しておかずに、漠然と無条件に信じていますが、それではいけないというのです

それでは、この世はどのような世の中なのかについて、聖書を通して調べてみましょう。ヨハネによる福音書第十二章三十一節を見れば、「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう」とあります。「この世の君」とはサタンのことです。なぜサタンが、人類の王になることができたのでしょうか。それは、人類が堕落したからです。神様とサタンとは怨讐関係です。人間始祖が偽りの夫婦関係によって堕落することで、私たち人類は堕落した先祖をもったのです

そして、互いに殺し合う偽りの兄弟関係が成立したというのです。夫婦が罪のある息子、娘を生んで、罪のある家庭から罪のある氏族、罪のある民族、罪のある世界に広がっていったのです。ですから、自動的に悪魔サタンが王にならざるを得ないというのです

このような世の中から、罪のない世の中に移行させなければなりません。それが救援です。移すということは、救援であり、復帰だということを知らなければなりません。本来、神様のみ旨とは、救援ではありません。ですから、本来の神様のみ旨に戻らなければなりません。メシヤが来る目的は、神様のみ旨を成就するためのものです。神様のみ旨とは何でしょうか。悪魔サタンから世の中の人をすべて救い出すことであり、最後には悪魔サタンを屈服することです

今日、皆様が暮らしているところには、人間が罪を犯せば、それを讒訴する悪魔サタンがいます。それを屈服しなければなりません。今日のキリスト教は行くべき目的が何かを知らずにいます。「私一人が救われて天国に行こう」というのは、本当の救いではありません。人類を救援することが神様のみ旨であり、人類を滅ぼし蹂躙する悪魔サタンを、この地球星から永遠に追放することが、神様のみ旨だということを今まで知りませんでした

そのような世界を復帰するためのメシヤを、そのまま個人の次元でサタンのもとに送れば、サタンが捕まえてその命を奪います。ですから、個人から家庭と氏族を経て、民族を経て、一つの国家形態を用意しておき、その国家の国民が一つになったところに、世界を料理するために送られたお方がメシヤです。それを準備すべきユダヤ教であり、選民だったということを、ユダヤ教の信者は知らなかったのです。その延長として世界的な主が再び来るときにも、そのみ旨は同じなので、世界的な終わりの日が来るとき、そのみ旨を拡大して、世界的な足場をつくるのがキリスト教の使命であることを知らなければなりません

聖書に見るユダヤ民族がイエス様の命を奪った背

それでは、今から問題になるのは、主がいかにして来るのかということですが、これを私たちははっきりと知らなければならないというのです。聖書のみ言を通して見れば、終わりの日については、イエス様御自身が、「天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」(マルコ一三E/span>三二)とおっしゃいました。ですから、いかにして来るのかという問題については、神様と談判して知る道と、私たち人間の知恵で求めて知る道があり、その道は昔、メシヤ、主がどのように来て、逝ったのか、ということから判断して知ることができるのです。その二つの道しかないことを、皆様は知らなければなりません

皆様がもし神様と談判し、霊界に入って啓示を受けて分かったとしても、それを信じることができますか。このレバレンドE/span>ムーンがそのような話をしても信じることができないというのです。ですから、はっきりとした証拠のある内容によって、真理に基づいた提示をしなければなりません。それゆえに、来られたメシヤについてはっきりと知ることによって、未来を推測することができるのです。それは言うまでもないことです

今日、キリスト教でメシヤが来ることを願うのは、あたかも今から二千年前にユダヤ教徒たちがメシヤを望んでいたのと同じ立場です。今のキリスト教を見れば、二千年間メシヤが来ることを望んできましたが、ユダヤ教を見ると、神様はアダム以降、四千年間数多くの預言者を送って犠牲にさせながら、メシヤを遣わしてあげようと約束したのです。神様がメシヤを送ると約束したので、その民族は、そのお方が来るとすれば、鉄石のように固く一つになって神様のみ旨を成し遂げようと精誠を込めて信じてきました

ですから、神様はメシヤであるイエスE/span>キリストを約束どおり、その民族に送りました。また、約束どおり、その民族は受け入れなければならないという立場に立っていました。ところが、メシヤが来ることを願った民族が、メシヤを受け入れたのではなく、むしろ迫害し、捕まえて命を奪ったのです。皆様、それがなぞではないでしょうか

その事件を例えて言えば、メシヤが来ることを願っている今日のキリスト教徒たちが、メシヤが来たにもかかわらず、カトリック教会の最高指導者であるロE/span>マ教皇や枢機卿、司教、あるいはプロテスタント教会の牧師のような人たちがすべて動員され、メシヤを捕まえて命を奪ったのと同様の結果をもたらしたというのです。簡単に「死ぬために来た」という話は通じません。理論的に合わないというのです。死ぬためならば、何のために彼らを訓練し苦労させてきたのですか。四千年の間、数多くの預言者の命を捧げさせ、イスラエル民族に大変な苦労をさせてまでメシヤを送る理由が分かりません。準備していない悪党のもとに送れば、どれくらいよく葬ってしまうでしょうか。このように言えば、口があっても答弁できません

ですから、ユダヤ民族が、そのように待ち望んだメシヤを神様が送ったにもかかわらず、どうして彼らはメシヤを捕まえて命を奪ったのかというその原因を、はっきりと知らなければなりません。このような話を初めて聞くからといって、あまり深刻になりすぎないようにお願いします。なぜ捕まえて命を奪ったのかという問題を知らなければなりません

なぜそのようにしたのかというと、第一に、旧約聖書の内容がそうするようになっています。皆様が御存じのように、旧約聖書のマラキ書は、新約聖書のヨハネの黙示録に該当します。マラキ書第四章五節以下を見れば、「主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる」と鉄石のように固く預言されているという事実を、私たちは知らなければなりません

エリヤはどのような人だったかというと、イエス様が来られる約九百年前に、火の車に乗って昇天した人です。神様がこの民を愛して、このように時を決めてエリヤを送ろうといったので、火の車に乗っていったエリヤ自身が降りてくるものと思い、そのように信じたのです。「エリヤが来る」と聖書にはしっかりと書かれているのに、エリヤそのものは来ませんでした。旧約聖書はどのような本かというと、イエス様まで約二千年の間、イスラエル民族の思想の基調となり、ユダヤ教の信仰の中心となっているとともに、全生命を傾けて信じてきた本です。そのような旧約聖書を、イエス様の話を聞いて簡単に捨てることができるのかというのです

皆様、それを信じますか。その話は、主が雲に乗って天から降りてくることを信じ、それを願っているのに、突然、ある人が来て「私が主である」と言うのと同じことです。それを今、キリスト教は信じることができますか。そのような事件であるがゆえに、イエス様が御苦労されるしかなかったのだということを、イエス様のみ言を通して調べてみることにしましょう

マタイによる福音書第十七章十節以下を見てみましょう。イエス様の弟子たちは聖書の内容をよく知りませんでした。無知な彼らがイエス様を救世主として信じて伝道に出掛け、「メシヤが来たので信じなさい」と言うとき、祭司たちが「おいおい、あなたたちの先生がメシヤだとすれば、マラキ書のメシヤが来る前にエリヤを遣わすとある、そのエリヤはどこに来たのか」と言いました。ところが、弟子たちはその意味が分からないので、イエス様に尋ねる場面が出てきます

エリヤそのものが来なかったので問題です。聖書に、「弟子たちはイエスにお尋ねして言った、『いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか』。答えて言われた、『確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらったE』。そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った」(マタイ一七E/span>一〇一三)と書かれています

洗礼ヨハネはエリヤそのものですか。皆様なら信じますか。エリヤが来てもいないのに、洗礼ヨハネがエリヤだと言うのです。それで、「あなたが洗礼ヨハネをエリヤだと言うのは、メシヤを装うためだ」と言って、イエス様に対して疑い、彼を、約二千年間神様が立てたイスラエル選民を滅ぼし、ユダヤ教を滅ぼそうとする親玉だと言い、悪霊の頭ベルゼブルだと断定してしまいました。「間違いなく悪魔サタンの息子だ。エリヤは来ていないのに、エリヤが来たとこじつけるやつを、誰が救世主として信じるというのだ」と思ったのです

旧約聖書を間違って解釈し、イエス様の命を奪ったユダヤ民

今まで、ユダヤ教はキリスト教と怨讐の関係にあります。ここで私たちは、聖書がどのようなものかということを知って、その怨讐関係を越えていかなければなりません。サタン世界において神様のみ旨を成就できる人や家庭や国家をつくるためには、彼らは怨讐国家に送られた情報部員と同様の立場なので、神様は、彼らに情報をあからさまに指示したとすれば、彼らは捕らえられ、みな滅びるようになるのです

ですから、神様は暗号で指示せざるを得なかったという、その記録が聖書であることを知らなければなりません。アメリカ中央惰報局(CIA)がソ連に情報部員を送るとき、手紙で「このようにしなさい」とあからさまに書いて送るでしょうか。暗号でその指示を送るのです。もしその指示内容をはっきりと教えてしまうならば、情報部員はみな捕まえられ、その命を奪われるでしょう。これと同じように、神様はユダヤ教徒に彼らの任務を暗号で教えてあげ、終わりの日に遣わすメシヤの命を奪われない環境をつくり、教えてあげて、導くべき神様のみ旨があったことを知らなければなりません

ところが、ユダヤ教徒たちは、暗号で書かれた旧約聖書を解き間違えて、メシヤの命を奪ってしまったということを知らなければなりません。CIAの局長が、その暗号を最もよく知る人物であるのと同様に、旧約聖書の暗号を最も的確に解くことができるのは神様しかいないのです

そこで、神様のみ旨を成就するためには、必ず神様はあらかじめ教え、時を迎えたあとに再び教えるのです。アモス書第三章七節を見れば、「まことに主なる神は、そのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない」とあります

しかし、旧約聖書を信じていた人々が、旧約聖書を解き間違えてしまったために、来られたメシヤの命を奪うという歴史的な罪を犯してしまった事実を、私たちはよく知らなければならないのです。その時のユダヤ教の信者たちは、それでもまだよいというのです。洗礼ヨハネをエリヤだと主張するイエス様がなされたことは、当時のユダヤ教徒から見ると尋常でありませんでした。数多く奇跡を行い、歴史始まって以来の新しいみ言を語り、奇異なみ業をたくさん行うのを見たとき、それを否定もできず、かといって肯定もできないので、「さあ、それなら洗礼ヨハネをエリヤだと主張するのだから、彼がエリヤなのかどうか一度尋ねてみよう」といって議論が始まりました

そのことが、ヨハネによる福音書第一章十九節以下に記されています。洗礼ヨハネに、「あなたはどなたですか。Eあなたはエリヤですか。Eでは、あの預言者ですか」と尋ねたとき、洗礼ヨハネはエリヤであることを否定しました。エリヤ自身ではなくても、また、あの預言者(申命記一八E/span>一八)ではないにしても、洗礼ヨハネは、自分が預言者の中の一人だということを強調しなければならなかったのです。にもかかわらず、それを否定してしまいました

それはなぜでしょうか。自分のことを預言者の一人であるとイスラエルの人々がせっかく信じているにもかかわらず、なぜ否定したのでしょうか。既にイエス様の言動を不信する状況が起こっており、事態が不利になっていたというのです。やがて国から追われるイエス様であり、教会からも追われる立場にあったイエス様でした。イエス様が語ることを問題視したユダヤ教の指導者やパリサイ人たちが、イエス様を葬り去ろうと話し合っている実情を感じ取っていたというのです

このように、洗礼ヨハネは、人間中心的な立場にたったために、天を代弁することができず、エリヤではないと言ったのみならず、自分は預言者の中の一人でもないと否認してしまいました。ですから、人々はイエス様の話を信じるでしょうか、洗礼ヨハネの話を信じるでしょうか。現代のアメリカで言えば、ある若者が出てきて、「ビリーE/span>グラハムはエリヤであり、私は再臨のイエスである」と言えば、それを誰が信じますか。歴史が交錯する中で、同じように、神様が、アダム以降、約四千年間準備してきた摂理歴史の中で、ユダヤ民族を信じ、希望を抱いてそのもとにイエスE/span>キリストを送ったにもかかわらず、ユダヤ民族が無知のために不信してイエス様の命を奪ったという事実を否定できません

それが事実なのか、そうでないのか、新約の使徒たちを通して一度調べてみましょう。イエス様の十字架後の初代教会のとき、ユダヤ教徒たちやイスラエル民族がイエス様の弟子たちを迫害するとき、その一番の扇動者であり、代表者として立ち上がった人とは誰かというと、使徒パウロでした。ステパノの命を奪うことにも賛同しましたが、他のイエス様の弟子たちの命を奪おうとダマスコに行く途中、天からの光に打たれて悔い改め、イエス様を証した人が使徒パウロです

使徒パウロは、イエス様がメシヤであったことを誰よりもよく実感したので、使徒行伝第十三章四十六節で、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ」と堂々と宣布しました

このようにして、来られた主が、当時のユダヤ民族の不信によって悲しみの十字架の道を行かざるを得なかったことが、どれほど胸の詰まることかを、私たちは考えもせずに、ただ無条件に十字架を信じてきました。本当なら、ユダヤ教徒の不信によって死んではいけないイエス様が死んだにもかかわらず、「死ぬために来た」と信じてきたのです。ですから、どうしてイエス様の前に行けるでしょうか。救いを受けても、行って会う自信がありますか

洗礼ヨハネの失敗によって亡くなったイエス

ユダヤ教徒は、旧約聖書を文字どおりに信じ、エリヤが来てもいないのに、自分こそメシヤだと言うイエス様の命を奪ってしまったのですが、その一方で、洗礼ヨハネはどうなったのでしょうか。マタイによる福音書第十一章二節以降を見ると、洗礼ヨハネがへロデE/span>アンティパスの結婚の不道徳問題に口をはさみ、獄中に入れられて死ぬような運命に置かれたとき、自分の弟子たちをイエス様のところに送って「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」と尋ねます。洗礼ヨハネは、イエス様をメシヤとしてよく信じましたか、信じませんでしたか。かつてヨルダン川のほとりで、多くの群衆に「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)と証したのに、どうして再び尋ねる必要があるのですか。かつて証したその同じ口で、人を送って「あなたはきたるべきかたですか、ほかの人を待つべきでしょうか」と尋ねたというのです

この話を聞いたとき、イエス様は、世の中で自分を認めてくれる人が一人もなく、国全体が反対する中、わずかな生命線のような一縷(いちる:細糸一本のように今にも絶えそうな)の希望としていた洗礼ヨハネまで、最後に来て「メシヤなのか、違うのか」と尋ねたので、どれほど胸が詰まる思いがしたか考えてみてください。ですから、六節で「わたしにつまずかない者は、さいわいである」と指摘したのです

そして、七節以降では、洗礼ヨハネがヨルダン川のほとりでイエス様を証するとき、群衆が見聞きしたことを風刺的に指摘したのです。イエス様は、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる」と語られました。そして、十一節では、「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と言いました。どうして、そのような矛盾する話を語ることができるのですか。あの世に行っている預言者も、すべて女性を通して生まれたのであって、石の間から生まれたのでしょうか。すべて女性から生まれ、洗礼ヨハネも女性から生まれ、イエス様がメシヤであると証したのですから、あの世でも大きな存在でなければならないはずなのに、彼はなぜ小さくなるのかというのです

なぜかというと、あの世に行っている過去の預言者たちは、歴史的な距離をおいてメシヤを証してきましたが、預言者として送られた洗礼ヨハネは、直接的にメシヤを証する使命をもっている立場なのですから、一番大きくならざるを得ないのです

しかし、なぜ天国では最も小さい人も洗礼ヨハネよりは大きいと言ったのでしょうか。霊界に行っている最も小さい預言者も、イエスE/span>キリストをメシヤだと思って迎えます。ところが、洗礼ヨハネはイエス様を証し、イエス様に直接従って、大きい人になるべきだったにもかかわらず、それができなかったので、最も小さい者になるしかないというのです。このような内容でおっしゃったことを知らなければなりません

事実かどうか、十二節を見てみましょう。「パブテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」とあり、洗礼ヨハネと、のちのイエス様の弟子との間で、天国を奪い合う争奪戦が展開していることを語っています。これは、洗礼ヨハネが自らの使命を中心として、尽力できなかったことを示しています。もし、洗礼ヨハネが努力したとすればどうなっていたでしょうか。洗礼ヨハネは、イエス様の一番弟子になっていたでしょう

もし、洗礼ヨハネが一番弟子になったとすれば、洗礼ヨハネの弟子たちは十二弟子に入るのであり、洗礼ヨハネに従う群れが七十門徒、百二十門徒になり、ユダヤの国全体の忠臣たちがイエス様に従っていくのではないかというのです。イエス様に反対するために洗礼ヨハネを送ったのですか。それでは、洗礼ヨハネがどれほど偉大な人なのかを調べてみましょう。神様が、メシヤのために公認して送った彼は、どれほど特別な人なのか、イエス様のみ言を通して調べてみます

十三節に、「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである」と旧約聖書を完成させる結実的存在として来たとイエス様は宣布しました。洗礼ヨハネがイエス様と一つになれば、ユダヤ教の聖書、旧約聖書を信じていた人々はみなついてきて、一つになるようになっています。そうすれば、誰がイエス様の命を奪うでしょうか。神様の王子であるメシヤというお方は、築いておいた基盤を活用するために来られるのであって、貧しく聖書にも無知な漁夫や売春婦や取税人たちを従えさせて彼らを食べさせ、彼らの主人になり、師になるために来られたのでしょうか

それでは、洗礼ヨハネがイエス様に従ったか従わなかったかを、もう一度はっきりと調べてみましょう。ヨハネによる福音書第三章二十六節以下を見れば、洗礼ヨハネの弟子たちがイエス様のことを聞いて、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」と報告すると、洗礼ヨハネは「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言いました。これをキリスト教では「洗礼ヨハネは立派な預言者なので、イエス様をそのように高め、自分は滅びると謙遜に言った」と解説しています

メシヤのために三年間以上苦労し、願っていたそのメシヤに出会って証したのなら、当然、死んでもメシヤのために死ななければならないというのです。これはどういうことかというと、一緒に共同歩調を取ったなら、メシヤが栄えれば自分も栄え、メシヤが滅びれば自分も滅びるべきです。それなのに「わたしは衰える」と言ったのは、「従わない」という決定的な事実をありのままに告げたことなのです

このように見るとき、第一に旧約聖書を文字どおり信じたゆえに、第二に洗礼ヨハネの不信ゆえに、イエス様が十字架で亡くなられるようになったことを、私たちは今まで知らなかったというのです

主は雲に乗って来られるのではな

その次に、第三の理由を調べてみましょう。その時にユダヤ教の人々が信じていたのは、来られるメシヤが雲に乗ってくるということです。それはなぜでしょうか。ダニエル書第七章十三節を見ると、「人の子のような者が、天の雲に乗ってきて」と預言されているので、旧約聖書を生命視する彼らは、雲に乗ってくると信じざるを得なかったのです

ここにいる牧師先生たちは、「レバレンドE/span>ムーンは、間違って理解したためにそのように語っているのかもしれない。そのみ言は再臨の時の話であって、イエス様の時の話ではない」と言うかもしれませんが、とんでもないことです。イエス様のみ言どおりにすれば、洗礼ヨハネの時にすべて終わるのです。旧約聖書のあらゆる預言と預言者は、洗礼ヨハネまでにすべて終わったというのです

雲に乗ってくると思っているのに、人として生まれたマリヤの息子であり、ヨセフの息子、その兄弟をもみな知っている彼が、メシヤになる資格のある人物に見えたと思いますか。今日のキリスト教徒たちは、再臨主が雲に乗ってくると思っているのに、人として来たとすれば、その人物を信じられるかというのです。同じことです。それが使徒時代に問題になったのかどうか、聖書を通して調べてみましょう

使徒行伝第七章五十二節を見ると、このような話があります。「いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった」と、ステパノは当時のユダヤ教指導者らの不信を断罪しています。弁明する方法が全くありません。今、私が語っているのは、すべて皆様が信じている聖書の話です。神様のみ旨を誰よりも愛し、神様のみ旨の道を正しく行こうするので、このような話を皆様にせざるを得ません

皆様は「レバレンドE/span>ムーンが何の権威をもって話しているのか」と言うかもしれませんが、そのような話をする権威があります。私が霊界のイエス様や、洗礼ヨハネに会ってみると、このようになっていて、またそれを聖書で探してみるとそうなっていました。両面が合ったので、間違いないというのです。皆様の信じていることが正しいのか、レバレンドE/span>ムーンの話したことが正しいのか、世界中に尋ねてみてください。もし皆様が信じることができなくても、皆様の息子、娘は間違いなく信じるでしょう

十字架はあらゆるものを失った

このようなことを見るとき、イエス様は本来、十字架で死ぬために来られたのではないにもかかわらず、ユダヤ民族の不信によって死ぬようになったことは、神様の悲しみであり、人類の悲しみであり、歴史的な悲しみであり、未来の悲しみとして残っているのです。私たちは、今までこのことを知らなかったというのです。旧約聖書は、メシヤが来ることを両面で預言していました。イザヤ書第九章、第十二章、第六十章を見れば、「栄光の主として現れる」と言っていますが、第五十三章には苦難を受けるだろうと預言されています。なぜこのように両面の預言をしなければならなかったのかを知らなければなりません

私たち堕落した人間のことを、神様も恐れ、サタンも恐れます。なぜかというと、一時、神様を熱心に信じていても、すぐ裏切ってサタンと組んで神様の世界を台無しにし、またサタンと組んで一つになっていても、再び神様のもとに来て、サタン世界を滅ぼす、そのような人間だからです。ですから、神様も恐れ、サタンも恐れていることを知らなければなりません

ユダヤ民族がイエス様を信じたなら、栄光の主となっていたはずなのに、信じなかったことによって、十字架で亡くなるようになったのですが、十字架を背負うようになったのは、急変的な事件であることを皆様は知らなければなりません。それでは、十字架で亡くなることを、いつ決定したのでしょうか。聖書を通して調べてみましょう

ルカによる福音書第九章三十節、三十一節を見れば、「すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」となっています。変貌山上のその時に決定したというのです

なぜなら、ユダヤ教が反対し、イスラエルの国がそうであり、洗礼ヨハネまで反対する立場に立ったので、既にみ旨を成就する足場はすべて崩れたのです。それで、神様も仕方がないので、霊と肉を中心として地上天国と天上天国の両面を救援完成しようとするみ旨を捨てて、霊的救援の世界だけでも立てるために、二次的摂理を中心とした十字架の道に送り出したのです。もし彼が十字架で亡くならなければ、両面をすべて失うようになります。仕方なく一つの分野だけでも残すために、イエス様を十字架に差し出さざるを得なかったことを、皆様は知らなければならないというのです

今日、キリスト教徒たちは、聖書のマタイによる福音書十六章二十二、二十三節のみ言をもって、イエス様が間違いなく死ぬために来られたと主張します。そのみ言が何かというと、イエス様がエルサレムに行って死ぬだろうと言ったとき、一番弟子のぺテロが、「主よ、とんでもないことです」と言いました。そのとき、イエス様は強く叱咤しました。「サタンよ、引きさがれ」と言ったのです。それで、キリスト教徒たちは「死ぬために来たイエス様が、死のうとするのに反対するので、サタンよ、引きさがれと言った」と考えています。しかし、それは変貌山上で、十字架で亡くなることを決定した以後なので、このような返事をせざるを得なかったことを、皆様ははっきりと知らなければなりません

もし、洗礼ヨハネとユダヤ教徒とイスラエル民族がイエス様を信じたなら、どうなったでしょうか。イスラエル民族はイエス様と一つになって団結し、その時に中東圏までイエス様と一つになるのです。そうなっていたなら、ローマに対抗して四十年以内にローマを天の側に引っ張り込むのです。死んだイエス様が四百年間でローマを征服したので、生きたイエス様を中心として、四十年以内に天の国の憲法を宣布できるのです。それができれば、今日までの、プロテスタントとカトリックの歴史はなくなります。すべて、イスラエル民族の立場でみ旨が成就していったからだというのです

み旨が成就していれば、イスラエルの国があのように悲惨に滅びることもなく、キリスト教徒たちも悲惨に血を流すこともなかったでしょう。王権を統一して、キリスト教が世界を動かすことができるようになったとすれば、誰がイエス様の命を奪うでしょうか

世界は既に、神様のみ旨どおりに、天の国になり、世界はすべて一つになっていたというのです。主が再び来る必要もないのです。キリスト教は、このことを知らなければなりません。ですから、イエス様が十字架で亡くなったその場は、神様とイエス様がすべてのものを失った場だということを、私たちは知らなければなりません。十字架は、神様の勝利ではなく、悪魔サタンの勝利です。神様の息子を釘づけにした場です

十字架でイスラエルの国を失い、ユダヤ教の基盤を失ったのであり、摂理史的な時を失ったのであり、ぺテロをはじめ弟子たちをみな失ったのであり、のちには、右側の強盗までも死んでしまったのです。そこにはキリスト教がなく、キリスト教の出発もありません。すべて失ってしまいました。キリスト教はいつから出発したのでしょうか。イエス様の復活後、そして四十日後にキリスト教が出発しました。キリスト教が十字架ではなく復活から出発したことを、今まで知らなかったのです。それは、二千年のキリスト教が根本的に教えています。聖書を見れば、否定できません。イスカリオテのユダがイエス様を捕えに来たとき、「今はやみの支配の時である」(ルカ二二E/span>五三)と言ったではないですか

もし、イエス様が死ぬために来たとすれば、ゲッセマネの園で三度祈る時、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言うでしょうか。理由もなく、このような祈祷を捧げれば、メシヤの資格がないというのです。なぜそのような祈祷を捧げたのでしょうか。死ぬことが恐ろしいからですか。キリスト教徒たちは、「ああ、イエス様も肉身をもっていたので、その死の苦痛のためにそのように祈ったのだろう」と言いますが、とんでもないことです。死が恐ろしくてそう祈ったのではありません

自分が十字架で死ねば、全世界のキリスト教徒たちが十字架の道に従ってこなければならず、自らが血を流すことによって、全世界のキリスト教徒の体にサタンが侵入できる条件が成立するので、数多くの人が血を流して犠牲になる、そのことを考えるとき、そのような祈祷を捧げざるを得なかったのです。また、四千年も準備してきたイスラエルの国とユダヤ教が滅びて足場もなくなることを知って、神様が四千年摂理されたその苦労を思ったとき、そのような祈祷を捧げざるを得なかったというのです

ですから、イエス様が十字架上で落命する前に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七E/span>四六)と言いましたが、このような祈祷はどういうことでしょうか。また、三時間も暗闇になったというのは、成就すべき一つのみ旨がまっ暗な世の中に占領されたことを表示したものだったのです。皆様は、歴史時代において、死なずにみ旨を成し遂げていくべきメシヤが、このように死んでいったことを、もはや否定できないことを知りました

女性の体を通して来られる再臨のイエス

それでは、今後、来られる主はいかにして来られるかということを考えてみましょう。新約聖書にも両面の預言があります。旧約と同じだというのです。今日のキリスト教徒は、当時のユダヤ教徒と全く同じ立場です。範囲が世界的に発展しただけです。しかし、キリスト教は霊肉ではなく霊的のみです。国がありません。イスラエル選民のように国家基準の基盤ももっていないというのです。なぜですか。イエス様が死んだからです。昔のユダヤ教にさえ及ばないことを知らなければなりません

イエス様は霊的王としてのみ成就しました。ですから、神様のみ旨は世界人類を救ってサタンを追い出し、神様が王になることであるにもかかわらず、イエス様が死ぬことによって地上でサタン世界を復帰することはできませんでした。サタンを追放してイエス様が王になり、神様が主管する国を建てるというみ旨が成就できなかったのですが、そのみ旨を成就するのはメシヤなので、再び来なければなりません。ですから、全世界のキリスト教徒たちが一つになって、来られる主を中心として、この地上に天国を形成するために、失敗したイスラエル民族以上に強い世界の国家をつくらなければならないということです

聖書のヨハネの黙示録第一章七節を見れば、「彼は、雲に乗ってこられる」と預言されています。テサロニケ人への第一の手紙第五章二節を見れば、「主の日は盗人が夜くるように来る」とあります。雲に乗ってくるのに、盗人のように来ることができますか。皆様の思いどおり、盗人のように来る主は信じず、雲に乗って来る主を信じようと決定できますか。雲に乗ってくるのは、昔、旧約聖書のエリヤと主、メシヤが雲に乗って来ることを信じるのと同じであり、人として来るとすれば盗人のように来るということです

旧約時代を中心として神様の役事(働き)を見るとき、イエス様が雲に乗ってくると思いますか。そのように信じていては、また十字架にかけるようになります。イエス様を信じる人々が、来られるお方の命をまた奪うというのです

私たちは、両面の預言をどちらも信じようというのです。雲に乗っても来ることもでき、人としても来ることもできるということです。雲に乗って来ると思って信じていた人は、人として来れば迫害しかねませんが、人として来ると思って信じていて、主が雲に乗って来るとすれば、間違いなく迎えるというのです。ヨハネの黙示録第十二章五節を見れば、「女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすベての国民を治めるべき者である」と女性が産むといいました。それを教会では、仕方なく今まで雲に乗って来ることと結びつけて解釈してきました

それでは、聖書の中で、雲に乗って来ては成り立たないというものを紹介してみましょう。ルカによる福音書第十七章二十節以下を見てください。「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない」、とあります。雲に乗ってくるのに見ることができないでしょうか。また、二十二節では、「あなたがたは、人の子の日を一日でも見たいと願っても見ることができない時が来るであろう」と語られました

雲に乗って来るのに、見ることができないでしょうか。二十五節、二十六節を見ると、「しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう」となっていますが、雲に乗って来る主が苦難を受けるでしょうか。ノアの時のように凄惨でしょうか。もし、人として来るとすれば、このようになるのです。人として来れば、間違いなくこのようになるでしょう

全世界のキリスト教徒たちは、主は雲に乗って来ると思っているのに、人として来るとすれば、ローマ教皇や枢機卿や、全体の勢力基盤をもった人々が、「キリスト教を滅ぼし、神様のみ旨を滅ぼす異端を捕まえて葬ってしまえ」と言うのではないかというのです。皆様、そうではないでしょうか。聖書のみ言がこのようになっています。歴史的な事実から見て当然そのような結論をつけるべきだという立場から見るとき、このように神様が生きていることをここから探し出すことができ、神様のみ旨は計画的であり公式的であることを、私たちは探し出すことができるのです

このレバレンドE/span>ムーンがここに現れて、このようなことを熱心に教えてあげたのですが、もし教える人がいなければ、また捕まえて命を奪うのであって、ほかに方法があるかという話です。時が来たということです。レバレンドE/span>ムーンがこのような話をしなかったとすれば、皆様がそのようにはしないと保障できますか

それからまた、ルカによる福音書第十八章八節を見れば、「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」という言葉があります。それは信じる人ではなく、信仰がない人の話です。雲に乗って来るのに、信じられないでしょうか。ユダヤ教徒と同じことになります。雲に乗ってきて、エリヤが先に来ると思っていたのに、人として来たとすれば信じる人が一人でもいるでしょうか。イエス様の使徒の中に書記官がいますか、祭司がいますか。1人でも信仰をもった人を見ましたか。このようなことを見るとき、雲に乗って来てはこのような話が成り立たない、というのが聖書の話だというのです

人として来られる主を迎えるべきキリスト

神様のみ旨とは何でしょうか。キリスト教の教派の神様になることでしょうか、人類の神様になることでしょうか。神様のみ旨とは、世界的な人類の神様になることです。救世主が来たのは、キリスト教だけを救うためではありません。世界を救うために来たのです。皆様がよく知っているヨハネによる福音書第三章十六節を見れば、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」と言ったのであって、「一教派を愛し、一個人を愛する」と言ったでしょうか。「世の中を愛する」と言いました。それでは、世界がその神様を探し出しましたか。サタンを追放しましたか。地で失ったので、地に来て取り戻さなければならないのです

ですから、マタイによる福音書第十六章十九節を見れば、イエス様が霊界に行かれる前に、天国の鍵をぺテロに与えながら、「あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」と地上の重要性を説かれました。地上ですべてのことを解決しなければならないというのです

全世界の人類を中心として、神様がすべてを主管する王権をこの地上に立てましたか。サタンが王権を握っているので、そのようにしなければ、神様が計画どおりにできず、失敗した神様になります。誰ゆえにですか。サタンゆえにです。そのようになればサタンにさえ及ばないという結論になります。ですから、イザヤ書第四十六章十一節を見れば、「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」という言葉があります

結論を下しましょう。私たちは、悪の人類の先祖をもっていて、悪の夫婦の起源をもっていて、悪の兄弟の起源をもっています。善なる人類の真の先祖と善なる夫婦と善なる兄弟をもって罪のない息子、娘を生むことができなかった私たちなので、地上でこれを成し遂げなければなりません。ですから、神様を中心とした家庭を取り戻すことができなければ、国を取り戻すこともできず、世界も取り戻すことはできません

ですから、イエス様はこの地に再び来て、神様が愛する家庭をつくらなければなりません。すなわち新郎として新婦を見いだしてこそ、真の父母も生まれ、真の夫婦も生まれ、真の兄弟も生まれるのです。これを完全に成し遂げることができなかったので、再び来て成し遂げることを預言したのが「小羊の婚宴」であり、新郎が新婦を迎えることなのです

家庭をもってこそ氏族を取り戻し、民族を取り戻し、国家を取り戻し、世界を取り戻すことができるので、家庭が問題です。そのために新郎新婦として来るようになるのが、「小羊の婚宴」です。新郎新婦が出会わなければならないのです。神様が、堕落していないときに成し遂げるべきだったアルファのみ旨を、ひと回りしながら悪の世の中を除去してしまい、オメガとしてもってきて合わせるということです

最初のアダムが失敗したことを、二番目のアダムであるイエス様が来て復帰しなければならないのですが、それができなかったので、三番目に再臨主が来て成し遂げなければならないというのです。聖書のコリント人への第一の手紙第十五章四十五節から四十七節に、イエス様のことを「後のアダム」「第二の人」と言ったのはそのためです。雲に乗って来ては成し遂げることができないので、人として来なければなりません。それで、人類の真の先祖と真の夫婦と新しいキリスト教を中心として、世界の王権をつくって天の国を成し遂げなければならないのが、来られる主を迎えるキリスト教の使命です

今、そのような時が私たちの目前に近づいたことを知り、皆様が祈る中でそのような場に同参(一緒に参加すること)することを願います。今晩皆様にお話しできたことを感謝し、皆様が否定的に速断することなく、神様に祈ることで解決することをお願いしながら、お話を終えようと思います。ありがとうございました。

 

3.今日の知識人と宗教

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

3.今日の知識人と宗

日付:一九八一年五月十六

場所:韓国、ソウル、ロッテE/span>ホテ

行事:著名人招請講演

大韓民国の重鎮である皆様をこの場にお迎えし、きょう知識人たちとの集いをもてるようになったことを、限りなく光栄に思う次第です。この場は、「今日の知識人と宗教」という主題をもって集まりましたので、私の所見の一端をお話ししてみようと思います

人間は次元の高い価値を追求す

皆様は、統一教会の主張に関心があるのではないでしょうか。団体ならば団体の主張があり、国家ならば国家も、国策を中心としてそれ相当の主張があるものです。その主張に従って、その指揮下にあるすベての行政あるいは組織機関が動き、その目的とすることに向かって進んでいくのと同様に、統一教会にもその主張があります

周知のように、人の欲望は極めて大きいものです。個人においては個人の欲望、家庭においては家庭の欲望、社会ならば社会、国家ならば国家、世界ならば世界なりの欲望があります。このように見るとき、人間がその欲望を通して何を得るのかを考えてみれば、その欲望を通して、より次元の高い目的や価値あるものを追求するということは、言うまでもありません。この宇宙、さらには宗教的に見るとき、見えない新しい世界があるとすれば、「私」はどこを終着点として進展するのかということが問題です。これが今まで、哲学あるいは人生問題を扱うすべての宗教が重要視する点です。人生はどこに向かっていくのでしょうか。人はそれぞれ異なる欲望をもち、自分なりに歩んでいます。そして、その欲望が指向する最高の目的とは、最高の価値でしょう

皆様は自分の専門分野において、世界で一番の学者を標準として動くでしょう。これと同様に、この宇宙の中で、私たちの目的となる主体である偉大なお方がいらっしゃるとすれば、そのお方を標準としてすベてのものは動いていくでしょう。それで、人間世界においては、聖人という問題、さらには宗教的に見れば、神様という問題が登場するようになります。このように見るとき、私たちのあらゆる欲望は、神様というお方を目的とし、そこに終着点を置いていくものだという結論が出てきます

神様が必要とされるものは何

もし私たちが神様を発見し、神様を探し出したとき、神様が必要とするものとは何なのか、尋ねてみたいと思わないでしょうか。神様として望むこととは何でしょうか。神様が望むことがあるとすれば、私たちは神様を発見したその時から、神様が望むことに向かって前進せざるを得ないでしょう

神様が望む欲望とは何でしょうか。その神様の望むものは、今日、私たちが生きている人間世界において語る物質でもなく、お金でもありません。ここに列席した高名な学者の先生方が追求する知識でもありません。神様は全知全能のお方なので、知識ではありません。権力でもありません。そのお方の欲望は、人間にとっても第二次的な立場で、さらに追求すべき重大な問題になるでしょう。このように総合して結論づけるとき、その結論とは何でしょうか。生命力ですか。それも違います。正に「愛」という一言に集約されるという結論を下さざるを得ません

全知全能のお方に、何のために愛が必要なのでしょうか。なぜ神様に愛が必要なのかという話です。愛は個体自体で成立するものではなく、必ず相対的関係で成立するものだからです。愛というものが、一つの個体から自発的に出発できますか。いくら自分が愛をもっているとしても、自分自体で自発的に出発できないというのです。必ず相手が必要です。相手を通して愛を追求するようになっています

それでは、神様は何を目的として創造したのでしょうか。神様が独断的な面において、一般的な目的の追求のために、この被造世界を造ったのでしょうか。それは喜びのためです。神様も喜ぶために造られたのです。喜び楽しむためです。何を中心として喜び楽しまれるのでしょうか。お金でもありません。この宇宙の万象をもって人間が喜ぶ、そのようなものを中心として喜ばれるためではありません。愛を中心として喜ばれるために万物を造られたのです。このすベての万物を、そのような目的のもとに造ったというのです

それでは、万物が願う最高の願いとは何であり、最高の終着点とは何でしょうか。神様が愛を通して喜ぶことを目的として万物を造ったとすれば、被造世界の万物は、愛を通して連結される関係を抜け出すことはできません。あらゆる万物は、神様の真の愛を受けるために相対的関係をもって授受作用するのです

力が先か、作用が先

今日、多くの科学者たちは、この宇宙について「宇宙は力によってできた」という結論を下しています。力が存在することによって宇宙が形成されたというのです。それでは、力があって宇宙が形成されたのでしょうか。力が存在する前に何かがなければなりません。力だけではできません。力が存在する前に必ず作用という過程を経なければならないのです。心臓の作用が終われば、私たちのすべての力の原動力となる生命も終わります。皆様は、自動車に乗られると思いますが、自動車のエンジン作用が止まれば、走る力が、すべてなくなるのと同じです。ですから、力が先か、作用が先かという根本問題に至るようになります。力が先ですか、作用が先ですか。作用が先です。このように見るときに、作用のないところには力が存在できないのです

私たちのすべての細胞構造から人体を見るとき、あらゆるものが作用圏内を総合して力を維持しています。いくら強い力があるとしても、その力自体が突発的に顕現することはできないと見るのです。細胞作用を通してのみ力が出てくるのであって、そのまま大きな力が出てくることはできません。必ずここには、力が存在する前に作用が必要だというのです。力が存在する前に作用がなければなりません。その作用は一人でできません。作用する要件を形成するためには、主体と対象の関係を絶対に離れることはできません。皆様はこの点をはっきりと知らなければならないというのです

それでは、宇宙形成はどこからなされるのでしょうか。力からではありません。主体と対象の観念があって、その主体と対象の作用から形成されるのです。それから力の活動方向が変わります。その力は、こちらに作用すればこちらに行き、あちらに作用すればあちらに行くのであり、総合的に作用すれば一つの方向に行くでしょう

このすベての作用を統一できる作用とは何なのかが問題です。例えば、私たちの腕がするような作用ですか。私たちの心臓が作動するような作用ですか。血管作用ですか。神経作用ですか。この全体を総合できる一つの方向性を定め、主体的力の主流圏を占めるものとは何かというのです。このようなすべての問題は、近世において多大な関心事でした。知識人たちには大きな問題とならざるを得ません

この主流的で統合的な作用として、ある大きな目的を連結させるのは自己中心ではありません。接すれば接するほど、ぶつかればぶつかるほど、喜びが増し、うれしくなる、主流的な力の総合的な作用形態があります。それが何かというと、真の愛です。真の愛という作用には、すべてが和合するようになっています

その理由は、神様が喜ばれるために愛を追求するというとき、その愛は私たちの第一の欲望と同じ立場に立つからです。すべての被造世界は相対のために造られたので、被造世界は真の愛を主体として拍子を合わせざるを得ない存在になっています

ですから、近所に愛のある裕福な家があるとすれば、近所の犬たちもその家に行って大便をするというのです。そこを通る犬もそこでとどまろうとしまた飛んていくすずめもその垣根に来てとどまろうとします。すずめがチュンチュン鳴くその家は、大抵愛のある裕福な家です。子犬もそうであり、小さな昆虫もこのような愛の理念に拍子を合わせ、宇宙の大作用圏の方向性に一致する作用形態をもって存在していると見るのです。これは人間自体においてもそうです。ですから、愛の道に従っていくためには、どうしなければなりませんか。この作用も、必ず主体と対象の関係によるのです

主体と対象が一つになるのが愛の作

人間を見るとき、人間は二重構造になっています。人には心の作用があります。心を見ることはできませんが、それは誰も否定できません。また、体も作用をしています。これはみなよく知っています

この体がなぜ作用し、心がなぜ作用するのですか。これを主体と対象として考えるならば、一つは男性型であり、一つは女性型です。プラス的なものは見えない内的な私、マイナス的なものは見える外的な私です。それがどうなりますか。それぞれ異なる作用をします。皆様、一度手を握ってみてください。様々な形態で手を握ったでしょう。このように上げて握る人がいて、このように下ろして握る人がいます

すべてのものが連結されるためには、主体と対象の観念圏内で動くので、必ず円形運動をします。主体と対象を基準とした作用圏内では、絶対不可避な作用をしなければならないからです。それで、どの一面であろうとすベて円形に似ているのです

男性と女性を見れば、相対的であると同時に、根本的に作用が異なります。概して男性は背が高く、女性は背が低いのです。両手は、運動することを中心として、関係を保ちながら一つになっていきます。二つが作用するのですが、出会うところから愛の作用を成立させることができると見るのです。独りではできません。二つが共同目的をもって和合できるところから愛の作用が爆発します。それでは、どうしてその愛が爆発する作用が必要なのですか。運動をすれば必ず消耗が生まれます。力学で入力と出力を見るときに、出力は必ず入力より小さいのです。したがって、このような原則の作用世界において、いかに作用を永続化させるかということが、極めて重要な問題です

ですから、偉大な科学者である神様は、互いに異なるすべての作用が接触するとき、爆発的な作用を加えることを考えないでしょうか。この二つが合わさることのできる次元において、作用の決着点から関係が結ばれるものが愛の作用です。おもしろい話です。ですから、もし二人がぶつかり合えば、押し出すというのです。来ては戻り、愛によって押して戻すというのです。ですから、連続作用を拡大する主流的な作用圏の行為を継続すると見るのです

ですから、一つのプラスがあれば一つのマイナスがあります。このプラスとマイナスがどのように合うのですか。合わせるのは主体と対象による作用です。マイナスは作用しますが、絶対に損をするようには動きません。これは、自分にプラスになる基準を探すためです。プラスを探して、より大きなプラス圏内に発展し、より大きな最高の欲望の目的、最高の価値の終着点に向かって走っていくのです。そうすることで、より高い次元にある愛の位置に進んでいこうという結論が出てくるのです

すべての存在の最後の目的は神様の

今日、人間の欲望というものは、すべて党派的です。経済学者は経済、知識人は学問、政治家は権力、あるいは世の中の自分の欲望、家門、歴史的背景、環境的要件などなど、とても多様な環境に引っ張られて党派的に作用しています。それは、それ自体で終わってしまうのです。人は欲望をもっていますが、ここから根本問題が生まれています。自分が主体だからです。自分が主体になって、「お前も私のところにきて、私に従いなさい」と言っています

今日、世界人類の弊害は何ですか。お金がないことが弊害なのではありません。知識がないことが弊害なのではなく、何かの社会組織の主権がないことが弊害なのではありません。自分を中心として引っ張って、自分に従わせようとすることが弊害です。個人個人がすべて自分を主張すれば、プラスE/span>マイナス理想の形成基盤が、一度に完全に崩れるというのです。作用は作用どおりに行い、自らを完成させながら、それがもう一つの主体と対象の関係に連結される道に行かなければなりません

すべての存在物が自分を中心として一つになろうといえば、止まってしまうことになります。この中に入ろうといえば止まってしまいます。ぶつかってしまいます。ここでは、大宇宙の形成は不可能なのです。ですから、神様がいるならば、神様はどのような考えをもたなければならないのでしょうか。これを連結させるためには、いつも「ために生きなさい」というでしょう。ために生きる行路を行かなければならないというのです

すべての存在は、より大きな目的のためにあります。個人は家庭の目的のために、家庭は氏族の目的のために、氏族は国家の目的のために、国家は世界の目的のために、世界は霊界があれば天地の目的のために、天地は神様の目的のために前進しなければならないのです。神様の目的それ自体は何かというと、愛の目的です。すべて愛の進路があります。一つの細胞から、微生物なら微生物から、すべてが一つの支流のようになって、本流に流れて大河を形成し、大海に連結される偉大な愛の流れがあります。この流れの原則と内容を公認しなければ、大海に行くことができないのです。このような内容を先に知ったので、すべてを新しく革命しなければならないというのです。大革命が起こるでしょう

孝子は必ず苦労の道を通ります。受難の道を通るには、その受難と苦労を超越して、価値のある内容に消化させていくことができる、ある刺激的な力の源泉がなければなりません。これを付加できる、その主体は愛です。有名な学者の先生方も、これを否定できないでしょう

愛国者とは誰ですか。同じ理屈です。国のために国民を愛し、主権者を愛するときに、この宇宙の原則の愛の要素と一致化できる和合の実体として、国を抱く人です。その民を愛で抱くところでは、頭をたたかれてもうれしいというのです

皆様。聖人とはどのような人ですか。国ごとに愛国者が大勢います。国ごとに偉人が大勢います。それでは、聖人と愛国者と偉人とは、何が異なるのですか。聖人というものは、天に侍り、人類を愛した人を言います。人類を愛するとき、天地の大道と一致する道に接近させる旗手の立場に立った人が聖人です。聖人で終わるのではありません。その次には、天子(聖子)にならなければなりません。天子の道とは何ですか。神様と人類の受難の道を収拾して、愛の目的を決着させることができる人こそ天子、すなわち神様の息子だということができるのです

統一教会は何を主張するのですか。「私」を中心として、宇宙の愛の本然の道に順応できる道に入って、私がいるのは父母のためであり、子女のためであり、民族、国家、世界のためにいるというものです。このように、より高い愛の段階に発展することです。それで、最後には一つしかない神様の愛を占領できると見るのです

このように見るときに、このような思想でのみ統一できるというのです。その位置に進めば、一つになるようになります。しかし、皆様の心と体は、この作用がうまくできません。それは、堕落して人間が故障したからです。それで、実存哲学で言う「極限状況」をいかに克服するかということが問題です。それを愛で克服しなければなりません

「今日の知識人と宗教」という主題について、現在の立場で皆様が考えるべきことは何でしょうか。愛を必要とする人は、いくら優秀な学者や博士、世界の政治家、あるいはいくら聖人だとしても、神様を信じる宗教から抜け出すことはできないという結論が出てきます。その愛が必要でなければ、宗教の道、神様を求める道を無視してもよいのです。

それで、皆様がきょう、この場に来られたので、私の話を一度参考にして、皆様の生活において、あるいは社会において、人倫や道徳、各分野にこのような内容を適用すれば、大韓民国と世界は新しい次元の発展基準、理想と幸福の基準が拡大するのではないかと思います。そのような意味で、少しの間お話しいたしました。ありがとうございました。

 

4.アメリカと宗教の自由

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

4.アメリカと宗教の自

日付:一九八四年六月二十六

場所:アメリカ、ワシントンDC、国会議事堂上院議員会

行事:アメリカ上院法司委員会憲法小委員会、宗教の自由に関する聴聞

尊敬する議長、上院議員、そして紳士淑女の皆様。私はきょう、宗教の自由のためのこの上院聴聞会に私を招請してくださったことに対し、深甚なる感謝を捧げるものです。また、議長が私の大法院上訴を支援してくださったことに対し、感謝を申し上げます。憲法が付与する個人の権利を守護する貴殿の高貴な行為は、数多くのアメリカ人から末永く尊敬を受けるようになるでしょう

アメリカと宗教の自

大法院上訴棄却が発表されて以後、アメリカ全域には、この大法院の不当な処置に抗議する宗教指導者決起大会が続々と起こっています。この大会に参加した全国一千人以上のユダヤ教、キリスト教、イスラームの指導者たちが、宗教の自由守護の大命題のもと、もし私が監獄に行かなければならないとすれば、自分たちも一緒に行って一週間ずつ服役しようと決議しました。私はこの事実を知って、大きく感動しました。私はこのような宗教の自由の闘士たちに敬意を表すものです

きょう、この場は、歴史的な場です。私はきょう、アメリカの国会に対してのみこの証言をするのではなく、歴史と神様の前に証言するものであると考えます。私には、神様がアメリカを愛していらっしゃることが分かります。しかし、アメリカの偉大さは、豊富な資源にあるのではなく、豊かな繁栄にあるのでもありません。アメリカの偉大性は、正にアメリカの建国精神にあります。その精神は、すなわち「万人のための自由と正義が存在する、神様のもとの一つの国」というものです

しかし、神様の望まれることは、そこで終わるのではありません。神様の究極的理想は、「お一人の神様のもとの一つの世界」というものです。私たちは、神様の子女です。五色人種(すべての人種)が兄弟姉妹として、人類大家族を形成するのです。私たちがみな、神様を父として迎えるとすれば、神様のこの理想は現実化されるでしょう

しかし、神様は宗教の自由がなければ、その理想を実現なさることはできません。アメリカの清教徒たちは、宗教の自由は正にすベての自由の核心であり、宗教の自由なしには、それ以外のどのような自由も意味がないことを知っていました。ですから、彼らは生命を、まるで、ちりあくたのように捨てながら、信仰の自由を勝ち取ろうとしました

ところが、今その信仰の自由は危機に瀕しています。現代のアメリカは、無神論の暗雲の中に包まれ、あらゆる宗教生活に対して、ますます弾圧を加えています。そうかと言って、私たちがこの世界を捨てて避難できる新世界は、地球上にありません。私たちは、必ず本然のアメリカを取り戻さなければならず、宗教の自由を回復しなければなりません。そうしなければ、アメリカは結局、滅びるようになるでしょう。そのようになれば、明らかに世界も滅びるでしょう

アメリカで果たすべき使

一九七一年、神様が私にアメリカに行きなさいとおっしゃいました。そうして、キリスト教の復興を試みて、アメリカを建国精神に戻す運動を展開しなさいとおっしゃいました。神様は私を、医師と消防士の役割をしなさいとアメリカに送られたのです。アメリカに行って、一大霊的覚醒運動を起こすために送られたのです。全世界の生存問題が、神様が賦与した使命をアメリカが果たせるか果たせないかにかかっていています。アメリカは自由世界の最後の橋頭堡です

去る十二年間、私はアメリカのためにあらゆる心血を注ぎ、一粒の汗と涙を惜しみませんでした。このような使命を遂行してくる過程で、私は問題の人物になりました。一部では多くの非難も受け、また迫害も受けました。しかし、歴史上、迫害を受けた宗教指導者は、私一人だけではありません。旧約と新約を通して主要な預言者は、蔑視され、迫害と苦難の道を歩んだ事実を知ることができます。今日、私はこのような神聖な伝統に参与することを光栄なことと考えています

神様はこの地上で、真の自由を勝ち取ろうとされます。自由に対する最大の脅威は、共産主義の独裁です。共産党は既に一億五千万人の無垢の人命を虐殺しました。そのうちの多くの犠牲者が宗教者です。私も北朝鮮共産党の強制収容所から九死に一生を得て助かりました。共産主義は、今日の世界最悪の非人道主義です

しかし、最近になり、自由は後退の一路にあります。一九七五年、自由は東南アジアから後退しました。そして、数百万の人命が、また犠牲に遭いました。アフリカとラテンE/span>アメリカの様々な国々が、続々と共産化されました。少なくとも十五億の人類が共産治下で捕らわれの身となりました。今のこの時点では、アメリカの裏庭とも言える中米一帯が第一線になりました。自由の敵たちは、彼らの最後の目標であるこのアメリカを征服するその日までその前進を止めないことを私は知っています

アメリカで達成した十二年間の業

私は、一九八〇年、レーガン大統領の選挙を支援しました。私はこの大統領が共産主義の侵略を防ぎ、国を神様と建国精神に戻すことを望みました。ところが、残念なことに、最も多くの宗教界の支持を受けて当選したその大統領指揮下の政府が、そのどの時よりも教会を侵害し、歴史上かつてないほどに、宗教の自由が致命傷を受けているのです。これはどういうことでしょうか

去る十二年間、私はアメリカのために、最善を尽くしました。私にはただ一つの目標があっただけです。それは、アメリカを道徳的に強くし、神様が賦与した使命を果たし得る力量を、どんなことをしてでも育てることです。そのような一念でした

私は、「国際宗教財園」をつくって世界の宗教の統合運動を起こし、「ニュー・エラー(NewERA:新しい宗教一致運動)」という超教派運動を始めています。各宗派の神学者たちが集まり、神様に対する理解を増進し、互いが融合するようにしながら、現代の最も偉大な神学者と哲学者たちが集まって神様の会議を開催します

また、学界に神様のみ旨を覚醒させてきました。私は「国際文化財団」を創設して、年次で「科学の統一に関する国際会議」を開催しながら科学と絶対価値を議論させ、志ある教授たちが集まる「世界平和教授アカデミー」と「パラゴンハウス」という出版社、そしてアメリカ、ワシントンDCに政策研究所を造りました

また、文化の分野を通して神様に対する畏敬思想の強化に努力してきました。マッカーサー元帥の仁川上陸作戦を描いた「オー!仁川」という映画の製作がその一例です。私は、マッカーサー元帥の愛国心と神様と人類を愛する精神を、この映画で描き、その精神をアメリカの若者たちに植えつけ、彼を英雄として推戴することが、この国を愛する道へと導いていくことになると信じていたのです

宗教的理念は、必ず社会奉仕で表現されなければならないという原則のもと、私は、教会の社会活動を支援する協議会(NCCSA)、また「国際救護財団(IRFF)」、そしてプロジェクトE/span>ボランティアをつくって全世界の貧しい人と困難者たちを助けています

共産主義からの解放のために韓国と日本に「国際勝共連合」を創設し、大学街の青年の道徳運動のために原理研究会を創設し、国際カウサ運動を展開しました。責任言論の暢達(ちょうたつ)のためには「世界言論人会議」と「ニュースE/span>ワールドE/span>コミュニケーション」を創設して、世界の至る所で日刊紙を発刊し、そのうちの一つがアメリカの首都にある「ワシントンE/span>タイムズ」です。これは民主主義の暢達のために、バランスの取れた言論の重要性を認めているからです。この「ワシントンE/span>タイムズ」の事業一つだけでも、何と一億ドル以上が投資されました

しかし、このような公共的は莫大な財政が必要であり、また数多くの人たちの献身的努力によって成り立っているのです。既に数億ドルがアメリカに投入され、この莫大な資金は、主に海外から送られてきました。統一運動においては、他とは異なり、アメリカが受恵者の立場であって、援助者の立場にはありません。それは、アメリカを失えば、世界をすべて失うという私の所信だからであり、神様がアメリカを差し置いては、ほかに期待できる国が地上にないからです

アメリカの意図的な宗教裁

皆様が私のこのような膨大な公益事業の範囲を御存じならば、私がアメリカで二万五千ドルの脱税を試みたとは、誰も思わないでしょう。私の裁判事件は、初めから脱税事件ではありませんでした。これはアメリカ政府の意図的な宗教裁判でした

彼らが統一教会を選んだのは、統一教会が攻撃を受けても、誰も同情しないだろうと信じたからです。しかし、政府はここで大きな誤算を犯しました。すべての人の人権が保障されない限りは、人権を保障されたとは言えず、ある一人が脅威にさらされれば、国民全体が脅威にさらされることをアメリカの宗教界は、あまりにもよく知っています

政府が権力を乱用すれば、恐るべき事態が起こります。見てください。ローマ帝国はイエスE/span>キリストを十字架にかけたではないですか。このアメリカでは、政府がシャーマンたちを焼き殺し、カトリックを迫害し、ユダヤ教を弾圧し、また黒人奴隷制度を延長させました。正に政府がモルモン教の教祖ジョセフE/span>スミスを投獄し、暴徒によって殺害されるのを傍観しました。今はその政府が私を捕まえようとし、その過程で私たちの宗教の自由を侵しています。私たちは今すぐ、この政府の職権乱用を防がなければなりません。そうでなければ、次の被害者は誰でしょうか

正にこのような重要な時点で、レバレンドE/span>ムーンがアメリカの宗教の自由を決定づける新しい突破口になったということには、歴史的で摂理的な意味があるのです。私の有罪判決は、宗教活動自体を実践することが罪になるという意味です。宗教指導者であるゆえに、私は処罰されようとしています

このような啞然とする事実は、アメリカの良心を揺り起こしました。宗教指導者たちと信仰人たちがついに立ち上がったのです。彼らは怒りに震えながら、闘うために行進を始めました。最も重要な事実は、広範囲な宗教界が一つの目的のもとに団結したという事実です。この宗教界の団結が、アメリカの生存を保障するでしょう

世界最大の対

今日、世界の中の最大の対立は、アメリカとソ連の対立ではなく、資本主義と社会主義の対立でもなく、民主主義と共産主義の対立でもありません。それは神様を信じる人と神様を否定する人の対立だというのです

共産世界は神様を否定する世界であり、人類の夢を実現することに失敗しました。ところが、自由世界も物質万能主義に陥って神様に背き、世界の問題に対してはお手上げです。今日、民主と共産の二大世界が、すべて暗闇と混沌の中にあります。新しいビジョンがどこかで現れなければなりません。それは神様を中心とした世界観でなければなりません

私はその新しい理念が「神主義」であることを宣布します。この理念こそ、新しい解答を提示してくれるでしょう。この理念は、神様の愛の心情の中から湧き出たものです。これはすべての宗教者と良心的な人々を統合するでしょう。真の霊魂の自由を具現するでしょう。そして、この理念が結局は地上天国の基盤になるのです

私が発表した神様を中心とする膨大な思想体系の内容は、高次元的な理論であるため、聞く人が衝撃的な感動を受けるようになるので、いわゆる「洗脳」という言葉が出回るようになりました。これによって、一部、親の世代と言論機関の誤解を招く結果となり、私を怨讐視する共産主義者たちは、統一運動に対するデマとして世界的にこれを利用してきました

私はきょう、アメリカの宗教の自由を保全するために、私が犠牲の祭物になったことを光栄に思います。もし私が、危機に立ったアメリカ歴史の未来を警告する灯台の光になるならば、私の犠牲は偉大な目的を達成したのです

きょうの私たちが直面する課題は、正にアメリカと自由世界の生存そのものです。このアメリカと世界の生存と繁栄を保障するために、私はどんな屈辱も甘受し、どんな険しい所にも行き、どんな苦役でも辞退せず、どんな十字架でもこれを喜んで背負うでしょう。もし、この宿命の道を行く途中で、たとえ倒れるとしても、それによってアメリカが生き、世界がよみがえって、神様のみ旨が成就するならば、私はただ神様に対する感謝に満ちるでしょう

神様、アメリカを祝福してくださ

私には怨讐がいません。自らを槍で刺す人たちを十字架上で赦されたイエスE/span>キリストの伝統に従って、私もとうの昔に自分の怨讐たちをすべて赦しました。さらに私はアメリカ政府に対しても、敵意をもっていません。私はむしろアメリカのために祈ります

今、この瞬間、私の心情は神様に対する感謝で満ちています。それは、神様がこの重大な時期に私を選ばれて、この国の宗教の自由を勝ち取る闘いの先頭に立つ大将になるようにされ、アメリカの大覚醒を促す導火線になるようにしてくださったからです

議長。この機会を下さったことに重ねて感謝を申し上げます。私は次のような言葉で、私の証言を結論づけようと思います。神様、アメリカを祝福してください!ありがとうございました。

 

5.世界平和のために宗教間で和睦しよう

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

5.世界平和のために宗教間で和睦しよ

日付:一九八四年八月十四

場所:韓国、ソウル、ロッテE/span>ホテ

行事:第四次宗教一致会議および世界宗教青年指導者セミナー(代読)

尊敬する議長、高名な学者および聖職者の皆様、世界宗教青年大会の参席者、そして紳士淑女の皆様。私は、「神様に関する今日の討議」の第四次会議の場所であると同時に、「第三次世界宗教青年セミナー」の終着地でもある韓国にまで来られた皆様を、心から歓迎するものです

この二つの行事がきょう、このように韓国で合流するようになったのは、偶然のことではありません。歴史的に見るとき、韓国は世界の宗教が唯一、集結した地でした。早くから仏教と儒教がここでその根を深く下ろし、互いに調和しながら、在来の檀君神話と土俗信仰の流れの中に習合して受け継がれてきました。そして、一九八四年はカトリックの韓国伝来二百周年であり、プロテスタントの韓国伝来百周年になる年です。単一文化圏の中で主要宗教の相互共存と相互発展の過程が歴史的に進行してきたこの地では、多様な宗教的教訓が「隠遁の国」の民たちの胸に深く入り込んでいます

正にこのような土壌に私たちの統一運動が宿り、出現してきたので、この運動は、汎世界的次元で「多様性の中での合一」を模索し、「神様のもとに全人類が一家族」であることを悟った基盤の上で、愛と共感と調和の世界を成し遂げようとする運動です

このような理想世界を創建するために、私たちは全体的なモデル、すなわち青写真をもたなければなりません

統一運動が提示する理想世界の姿は、心と体が一致した完成した一人の人間に比喩することができます。神様を中心とした人間の精神および霊的生活から、人生の理想と目的が出てきます。神経組織は心がしようとすることを各細胞に伝達し、四肢五体から入ってくる情報を頭脳に伝達します。この授受の過程が順調なとき、個人は調和が取れた状態にあると言うのです

人類全体の精神的および霊的生活が、一個人のそれと比べることができるならば、人類社会の経済的で外的な側面は、個人の身体と比べることができます。人類の霊的理想と神様に向かう念願と愛は、宗教を通して社会と文化の中に表現され、それを中心として神学、哲学、芸術およびあらゆる文化が巡っていくのです。ここにおいて、宗教指導者、神学者および哲学者は、あたかも人体の神経組織のように、神様から来るメッセージを解読して、全人類に伝達しなければならないのです

きょうの現実を改善し、新しい文化革命を成就するに当たって、宗教指導者および学者の皆様が、決定的な役割を担当できると私は信じています。歴史的に見るとき、宗教指導者たちと学者たちは、古代インド、中国、中近東およびギリシャで文化創建の先駆者たちでした。これは初期のキリスト教とイスラーム文化圏でも例外ではなく、文芸復興と宗教改革、または啓蒙思潮においても同じでした

しかし、今日の科学技術の急速な成功とともに、宗教は現実世界の諸問題を解決することに失敗し、宗教のこのような姿に幻滅を感じた数多くの人々が、共産主義の反宗教的旗じるしのもとに集まりつつあります。しかし、共産主義は暴力を手段とし、究極的に神様を拒否して、諸宗教の目標を挫折させ、人類の主眼を物質的次元に限定させようとしています。共産主義に傾いた相当数の人々は、自分なりに高い夢をもち、人種と国家の垣根を越えて活動しようとしている事実を、私が知らないわけではありません。しかし、この人たちの情熱と理想主義は、神中心の思想と活動によってのみ補完され、完成に向かう道を見いだすことができるのです

正に、ここに宗教指導者たちと学者の皆様が、献身的に先頭に立つべき時代的要請があるのです。「神様会議」と「世界宗教青年セミナー」、また「国際宗教財団」の諸般の活動は、このような理想を実現するための機構であり、テストケースであり、フォーラムなのです

皆様は、学問をもって皆様自身を世界と神様のみ前に奉献するよう召命されています。皆様は共同体の中で神様を代弁し、神様から来る愛と希望を隣人に伝達して、世の中の人々が人類と神様に奉仕する仕事をするに当たって、その手伝いをする使命を受けています。これは、皆様の教会や寺院や会衆を悟らせ、神様を中心とした自由と平和の世界を築くために動員されることに連結されるのです

この世俗化した時代に宗教のできることは何かと、尋ねてくる方が大勢います。それに対する私の所見は、世界の宗教が価値観の普遍的かつ不変的な土台、すなわち絶対価値を提示し、すべての政府がその上で真の調和をつくり出せるようにすべきであり、科学技術が正しい価値観のもとで人類に有益な方向に進むように指導すべきでしょう。地上のすべての文化圏が神中心の伝統のもとに純化され、高揚されて万人に共有されるとともに、末永く後代に伝承されるようにしなければなりません

私が語るこの理想は、地上に神様の王国を建てることであると、心から言うことができます。そして、私はこのことが可能だと信じます。ある方々は、私がとても理想主義的だと評していますが、私もこれを認めます。しかし、私には他の選択の余地がありません。神様が私を直接呼ばれたのであり、このような使命を下さったからです

私は今まで、神様の理想を教えることだけに終わったのではなく、地上に神様のみ旨を実現することに生涯を捧げてきました。これまで私が推進してきた宣教、教育、学術、勝共、教団および教団間の和解、社会奉仕などの活動がそれです。これらの中でも特に強調したいのは、教団および教団間の和解運動です

今日、人類が直面している大きな問題は、数多くのキリスト教の教派と様々な世界宗教、そして各世界宗教の内部からもたらされている相互無理解の現状です。この問題を解決しようとする多様な努力にもかかわらず、宗教の共同体間の対立と敵対感は依然として続いています。過去数世紀の間に繰り広げられた宗教戦争は、きょうも終結することなく続いています。相互一致のために数多くの運動が試みられてきましたが、篤実な信仰者たちの間では、まだ非寛容、宗教的偏狭および傲慢の風潮が澎湃(ほうはい:盛んな勢いでわき起こること)しています。そのために、大部分の宗教が同じ神様に仕え、甚だしくは同じ教理をもっているにもかかわらず、宗教者たちは相互弾圧と敵対行為を継続してきました

私たちは、神様が教団主義や教理的党派主義を超越していらっしゃるという事実を悟らなければなりません。神様の目的は、いつも全人類を救援されるところにあり、特定の民族や人種や宗教団体だけを救援しようとされるのではなく、これは今、この時間にも変わることはありません。宗教者として私たちが相互間の争いと敵対行為を終息させなければ、世の中を救援しようとされる神様を助けることはできません。多くの宗教指導者たちがこれを痛感してきましたが、様々に複雑な理由のために、この問題の解決はいつも挫折してきました

私が強調してきたことは、世界平和のための必須の条件が正に宗教間の和睦であるということでした。今まで、ある一つの宗教が神様を完全に代弁することは不可能だったので、宗教がもっている多様な見解は、必然的な産物です。しかし、私たちは、お一人の天の父母の子女であるがゆえに、私たちは一つの大家族の中の兄弟姉妹なのであり、したがって、宗教間の葛藤と憎しみは不必要なものです

私はかつて霊的探求の道で神様と何度も対面し、世界宗教の創始者たちとも霊的に出会いました。今も私は、引き続き神様の臨在とそこから来る霊感による交信を、生活の中で体恤しています。神様がいらっしゃらないとすれば、抑圧され、搾取されていた弱小民族の地の片田舍で生まれたこの人が、どうして無理解と迫害の中で世界的な霊的基盤を築き上げることができたでしょうか。そして、きょう、世界の宗教指導者たちのこの水準高い集いを主催し、このような演説をすることができるでしょうか。私たち統一運動の目標と手段は、神様が下さった指針によって設定され、採択されてきたという事実を、明らかにしておこうと思います。すなわち、このすベてのものは、私の私的所見や活動ではなく、正に神様に由来したものなのです

「国際宗教財団」は、一九九三年に世界宗教議会を開催しようと計画しています。この行事は、一八九三年にシカゴで開かれた世界宗教議会の百周年を記念するためのものです。一九九三年のこの行事を準備するために、二度の予備集会が開催される予定ですが、その一つは一九八五年末にニューヨーク市近郊で行われる予定であり、もう一つは、一九八九年に開かれるようになるでしょう。この予備集会には、それぞれ七百人以上の宗教指導者、学者、一般信者代表、芸術家、そして青年たちが参加するようになるでしょう。この二つの予備行事と一九九三年の主行事は、それで終わることなく、未来のより大きな集いに連結されるよう推進されるでしょう

いずれにせよ、このような行事は世界的に超宗派の広場を準備するように計画され、その目的はすべての生命体に内在している普遍的な原理を明らかにしていき、その原理の多様な発現を十分に高揚させようとするところにあります。これとともに世界宗教議会は、全人類が希求する世界平和の成就も模索するでしょう。その会議の参席者全員に、現代の霊的状況と当面の問題に関する各自の意見をやり取りする機会が提供されるでしょう

世界宗教議会の目的は、政治的または教理的な立法をすることではなく、世界宗教間の相互に対する尊敬心を培い、宗教間の協力を奨励するところにあります。そして、その議会の主題は「霊的刷新と神中心の世界平和実現」であり、これに関連するその他の多様な問題も合わせて討議されるでしょう。

この場に来てくださったことに対して、重ねて感謝を申し上げます。私は今回の大会が人間の考えを標準として神様を考える集いでなく、神様の本来の理想を探索する集いになることを願います。皆様の真剣な研究と討議によって、この時代に対する神様の願いが大きく発現することを祈ってやみません。ありがとうございました。

 

6.統一運動に参与することを期待します

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

6.統一運動に参与することを期待しま

日付:一九八五年二月二十八

場所:アメリカ、コネティカッ卜、ダンベリー連邦刑務

行事:アメリカ牧師に送った獄中書

親愛なる牧師の皆様。ダンべリーから貴殿と貴殿の教会信者たちに心からの御挨拶を申し上げます。私は文鮮明牧師と申します。獄中から貴殿にこのような書信を差し上げたことに驚かれるかもしれません。貴殿は恐らく、三十年ほど前に私が韓国で創設した宗教運動についてお聞きになったことがあるだろうと思います

十六歳(数え)の復活節に出会ったイエス様の啓

貴殿がこの宗教運動についてお聞きになったことや読まれたものは、恐らく敵意に満ちたものであり、歪曲されたものであると推察されます。このような事実が私を甚だ胸痛くさせています。私はこの誤解を解いてさしあげたいと思います。しかし、それよりも重要なことは、貴殿が私と統一教会に関してどのような意見をもっていらっしゃったとしても、世界的な国家であると同時にキリスト教国であるこのアメリカに対する私の衷心に満ちた観を、貴殿と共に議論したいと切に願っています。私がお話ししようとするすべてのことに対して、貴殿が賛同するとは決して期待していませんが、貴殿が私の声に耳を傾けてくださり、考慮してくださることを望む次第です。私は、北朝鮮にある一地方のまじめな儒教家庭で生まれました。十歳の頃、全家族がキリスト教に改宗しました。私は改宗とともに深い感銘を受けました。私はこの新しい信仰に愛着をもち、以前に誰かを愛した以上にイエス様を愛しました

私は数えの十六歳の時に、普通では考えることができない経験をしました。復活節の朝、長時間の涙ながらの祈祷のうちに、イエスE/span>キリストが私に現れて、多くの啓示と教示を下さいました。イエス様は、深奥かつ驚くべきことについて、多くのみ言を語ってくださいました。「苦痛を受けている人類ゆえに、神様が悲しんでいらっしゃる」とおっしゃいました。そして私に、「地上での神様のみ業に対する、特別な役割を果たしてほしい」と要請されました

それは既に四十九年前のことです。その後、多くのことが起こりました。私は学業を続けながら、聖書を勉強しました。私は、万民が聞いて知ることのできる深奥なみ言をイエス様から受けました。このみ言を人々に教えたといって、私は何度も逮捕され、収監されて激しい拷問を受けました。三年間、北朝鮮の死の監獄にいました。この監獄では人々が数ヵ月もたたずに死んでいきますが、主が三年間私を保護なさり、また私をして激しい苦痛から生き残るようにされました。その後、数年間多くの人々にみ言を伝播する機会がありました。そのようにして今日、統一教会は百二十余ヵ国に約三百万の信徒をもっています

今日、神様には頭痛の種が三つあります。第一に、無神論的全体主義、特に共産主義の拡大です。共産主義は制度的に宗教に反対し、神様に対する信仰をなくそうという理念をもつ偽りの宗教です。過去六十年間に、共産主義は何と一億五千万人の生命を奪い取っていきました。私は直接、共産主義の監獄で死ぬような拷問と苦役に服しました。共産主義は世界的に拡大し、また宗教と神様を信じる人々を抹殺しようとしています

第二に、神様の頭痛の種は道徳的没落です。特に全世界の青少年たちの退廃の姿です。伝統的な家庭の価値の没落と腐敗した大衆媒体の影響は、若者たちをして使命感を失わせました。数百万のアメリカの青年たちは、神様に対する信仰を失い、価値に対する尊敬心を失い、自分への尊敬心さえ失いつつあります。麻薬の乱用、性的不道徳が荒れ狂っています。若者たちはこの世界の未来を担っています。彼らが腐敗すれば、次世代のどこの誰が宗教を信奉して、神様に仕えるでしょうか

最後に、神様を最も悲しませるのは、キリスト教信仰の不協和および分裂です。神様はお一人でいらっしゃいます。イエスE/span>キリストもお一人です。しかし、今日、五百ないし千種類のキリスト教の教派が乱立しています。この地球上のある所では、キリスト教徒だと自任する人々が、神様の名のもとにお互いの命を奪い合っています。時には平和に共存もしますが、彼らの信仰は日増しに力を失い、退廃し、また冷めていきつつあります。キリスト教の信仰は熱気を失い、問題の多い現在の世界での挑戦に失敗を繰り返しています

善であり慈悲、正義の勢力と暗黒の勢力との宇宙的闘いにおいて、神様はこの国アメリカに特別な祝福をされました。神様はキリスト教をして真の信仰を取り戻させ、神様の愛を中心とした天国の家庭を形成する場所としてアメリカを立てられました。神様はアメリカを、この上なく愛されます。アメリカの偉大性は、その膨大な自然資源にあるのではなく、また途方もない繁栄にあるのでもありません。それは、この国の建国精神、正にそこにあります。「神様のもとにおける万人の自由と正義のための国」を建国しようと勇敢な男女たちがここアメリカに来ました。アメリカは様々な種族と様々な背景をもった人々が、一つの調和を形成した世界で唯一の国です。白人、黒人、黄色人のすべてが兄弟姉妹である一つの人間家族です。神様を私たちの父と認定するとき、この理想は実現されるのです

神様が私をアメリカに呼ばれた理

一九七一年、神様は頭痛の種を解決しようと私をアメリカに呼ばれ、キリスト教を復興させる運動を導かれました。その後、私はキリスト教を団結させ、道徳性を回復し、無神論的共産主義を撃破する運動のために、神様のみ言を伝播し、アメリカの人々を鼓舞させました

アメリカは本当に天が選択した国であり、キリスト教的愛と統一の手本として選択された国であるとともに、苦痛の中にあるこの世界のために自ら犠牲となり、奉仕するように選択された国です。しかし、今日のアメリカは危険な岐路に置かれています。一方ではキリスト教の復興、神様を中心とした道徳と家庭の価値の回復および無神論的共産主義に抵抗するために叫ばれる神様の声があります。そうであるかと思えば、他の一方では、暗い宗教の非寛容性がアメリカで幅を利かせています。この偉大なアメリカ全域にわたって、信仰的な人々は迫害され続け、罰金を出さなければならず、逮捕され、投獄され有罪宣告を受けています。皮肉なことに、この偉大な社会の一部では、宗教的理想を復興させているかと思えば、一方では暗黒勢力が神を恐れぬ不道徳および腐敗に向かって走っています

きょう、監獄にいながらも、私が神様に対して感謝していると言えば、驚かれるかもしれませんが、これは絶対に本当のことです。なぜなら、このような獄中の難しい過程を通して、私は貴殿とこのようなお話を分かち合うことのできる機会をもつようになり、直面した危機を貴殿にお知らせし、また歴史的なこの瞬間に私たちに与えられた恵みの機会を、貴殿と共にもつようになったからです

私がいかにして、きょうこの監獄にまで来るようになったのかを、簡略に御説明申し上げようと思います。私は自らの禍福については無関心です。私の入獄が神様のみ旨に役に立つならば、これ以上感謝することはありません。しかし、明らかなことは、私がアメリカ政府によって迫害を受け、差別待遇を受けたということです。すなわち、アメリカ政府は信仰的な熱意に対して、ますます敵意を抱く、驚くべき兆しを見せています

国税庁の起訴は職権濫

この歴史的な裁判について少しお話しいたします。大勢の統一教会の信者たちがこの国に到着し始めたとき、国際的教会事業のための特別基金がつくられました。長い間の名誉な伝統に従って、教会の信者たちがこの基金を管理する人として、教会に代わって私を選択するようになりました。私はこの基金を公開して取り扱い、隠匿しようとしたことは一度もありませんでした。事実はと言えば、ニューヨークの主要銀行に預金をしていました。「この基金は、教会の目的のために使われる教会基金ではない」という何の証拠もありませんでした

それにもかかわらず、IRS(国税庁)は私を起訴しようと際限のない努力をし始めました。途方もない公的な圧力と議会次元の圧力がIRSに加えられたあと、大掛かりな調査が始まりました。結局、数百万ドルの納税者たちの税金であるお金を使ったあと、IRSは教会基金として預けた私名義の銀行預金において、利益に対する収益報告をしなかったとして、私を起訴しました。政府の論理に従うならば、いわゆる脱税総額が七千ドルないし一万四千ドルでした。実際において委任された教会基金を、宗教指導者が取り扱う慣習は、長い間の光栄ある慣習です。カトリックの司教たちから一線の牧会者に至るまで、多くの宗教指導者たちは、まだ毎日この慣習に従っています。そして、私が実際に私個人の経費のために引き出した基金に対しては収入税金を納付したにもかかわらず、アメリカ政府はこの事実を黙殺してしまいました。すなわち彼らは、一人のなじみの薄い宗教指導者を告訴したのです

政府が私を迫害しようとやっきになって犯した権利の乱用をすべて表現しようとすれば、限りないでしょう。しかし、この権利の乱用は善良な正義の人々には知られていません。統一教会は、多くの人々にとって聞き慣れない教会であるにもかかわらず、私に対する告訴と有罪判決の状況に対して、未曾有の抗議が起こりました。私が連邦最高法院に出した嘆願書には、四十団体以上の「法廷の親友たち」の支持を受けました。これらの有名な機構と個々人は、政府の反宗教的権利の乱用に対する深刻な憂慮を現す、十六種類の訴訟摘要書を出しました。私の嘆願を支持する法廷の親友たちの中には、次のような方々がいます

全国キリスト教協議会、カトリック宗教および市民権擁護連盟、長老派、アメリカE/span>バプテスト教会、全国福音伝道師協会、南部キリスト教指導者会議、アメリカE/span>キリスト教学校協会、アフリカ監理監督教会、キリスト教法律協会、末日聖徒キリスト教会、アメリカ市民自由連合など、これら有名な互いに異なる機構は異口同音に、IRSが今日知られていない一つの宗教を効果的に迫害できるならば、あすは既存の教会の自由が脅威を受けるだろうと語りました。私が熱心に祈祷するのは、IRSが私と私の教会に下した権利の乱用が、正義と自由を愛するアメリカの人々の注目の対象になることです。この偉大な国を復興させ、キリスト教建国精神を復興させようとする神聖なみ業に、貴殿も参与されることを要請するものです

私たちは、アメリカの重要性とキリスト教と伝統的価値改善の緊迫性を痛感しているため、統一教会の運動はこの目的のために貢献する多くの事業を運営、または後援しています。国際宗教財団、新しい福音研究協会、神様会議などの事業を通して、神様とすべての宗教の間の理解を増進、改善しようと、あらゆる宗教の神学者たちを迎えて努力しています

私たちはまた、神様のみ旨を学界に展開することもしています。「国際文化財団」は科学と絶対価値に対する例年の会議を後援しています。「世界平和教授アカデミー」、「バラゴンハウス出版社」、「ワシントン公共政策研究所」などの機構に学者を迎えています。宗教の理想は人類に奉仕することによって現れなければならないので、私たちは「国際救護財団」と「自活奉仕団」などの事業を始めました。全体主義の理念から万人を救援するために「国際勝共連合」、「大学原理研究会」、「カウサ(CAUSA:南北米統一連合)」のような機構を設立しました。大衆媒体の責任性の基準を樹立しようと「世界言論人会議」、「ニュースE/span>ワールドE/span>コミュニケーション」を創設しました。後者は、いくつかの新聞を発行しています。その中で「ワシントンE/span>タイムズ」は国家の政策に対する代案を提示しようと創設されました。この事業だけのためにも、一億ドル以上のお金がかかりました

アメリカのために数多くの事業を展

これらの事業には、教会信徒たちの愛を通した犠牲はもちろん、途方もない財政的資源が要求されます。数億ドルがアメリカに投入されました。なぜなら、この国が世界の運命を決定するからです。私の運動において、アメリカは基金の受取人であって基金の出処ではありません。もしアメリカを失えばすべてを失うという確信のもとで、私たちは働いています。神様が頼れる国はこの国だけです。貴殿が私の事業の範囲を理解されるならば、私が七千ドルないし一万四千ドルの、アメリカ政府に出す税金を詐取するためにアメリカに来たと信じることができるでしょうか

今から、貴殿と貴殿の教会信者が地上で神様のみ旨を成就するために、共に働く統一運動に参与してくださることを願います。統一教会の信仰と慣習に対する多くの誤解と誤認があることは、私もよく知っています。アメリカの立派な紳士たちが、統一運動において私たちを理解し、協力するとともに、私たちと建設的対話を分かち合うことを切に望みます。統一運動をしている私たちの信仰を、この手紙ですベて御説明申し上げることはできませんが、私たちの信仰の教義を詳しく説明するビデオテープと印刷物を貴殿に送るよう、私たちの教会幹部たちに要請しました。まだ貴殿がこの贈り物を受け取っていないとすれば、近いうちにお受け取りになれるでしょう

貴殿がこれらを評価して、また私が貴殿に申し上げようとするお話を考慮してくださる時間があることを願います。私たちの根本的な使命は、全世界がキリストの中で愛し合い、団結するようにし、家庭を復帰するとともに、神様を中心とした観点で無神論に反撃することです。このような意味で貴殿がこのビデオテーブとその他の印刷物を受け取られるものと信じます

この手紙を読んでくださって、誠にありがとうございました。貴殿が、私が申し上げたことに賛同されようと賛同されまいと、私たちは互いに愛し、尊敬し、手を取り合って神様に奉仕できることを、心から祈るものです。神様の祝福が貴殿に、永遠に共にあることを願います

一九八五年二月文鮮明牧師より

 

7.神様のみ旨

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

7.神様のみ

日付:一九八五年八月二十

場所:アメリカ、ワシントンDC、オムニE/span>ショーハムE/span>ホテ

行事:宗教の自由連盟主催ダンベリー連邦刑務所出監歓迎晩餐

尊敬する宗教の自由連盟委員長、そして委員の皆様、全国から集まってくださった聖職者の皆様、そして紳士淑女の皆様。このように挙国的に、超教派的に意義深い場を準備して、私の出監を歓迎してくださったことに対して、心から感謝を申し上げます

さらに、私が法廷闘争を行っているときから法廷嘆願書、宗教の自由に関する集会、特別祈祷会、同苦の会、カウサ聖職者連合に参加するなど、積極的な支援をしてくださった聖職者の皆様に、重ねて感謝を申し上げます。また、多くの方々が私に激励の書簡を送ってくださり、祈祷で支援してくださったことなどに対し、忘れることのできない感謝の気持ちをもっています

神様のみ旨と人間の完

私は今回で、私の生涯において六度目の監獄生活を経験しました。難しい立場でも神様と感動的な交流をすることができました。以前もそうであったように、今回も私が個人的な理由や失敗によって監獄に入ったのではありません。ですから、獄中で迫害者を恨み、自らの無念さを訴えることよりは、神様のみ旨を立てるために、神様のみ旨に従うべきアメリカと世界を心配する、深い瞑想と祈祷を捧げる有益な時間をもつことができました

私の決意と生涯は、世の中が知ることのできない神様の恨を解いてさしあげ、神様のみ旨をこの地上に成し遂げることです。私と私たちの運動は、今日に至るまで、深刻な無理解と迫害が続いてきました。神様のための至上課題の前には、親族から認められないことが問題ではなく、一般大衆や教団、または国家や世界が反対することが問題ではありませんでした。私は生涯を通して神様の深い心情と愛を確認し、これを証してきました。ですから、私にとって神様は、想像の中の漠然とした神様ではなく、生きていらっしゃる神様であり、私の心情と私の細胞一つ一つで体恤される神様でいらっしゃいます

神様のみ旨のための道において、同役者(共に働く人)であられる牧会者の皆様。皆様がきょう、私の出獄をこのように歓迎されるのは、レバレンドE/span>ムーン個人に対して歓迎しているのではなく、神様のみ旨のために生きてきたレバレンドE/span>ムーンを歓迎するものであると思います。この機会に、私たちすベての最大関心事であり、一番の課題である「神様のみ旨」について一考することで、きょうの私の挨拶に代えようと思います

神様は、永遠、絶対、不変のお方です。ですから、そのお方のみ旨も、永遠、絶対、不変であるに違いありません。神様が人間を創造されるとき、目的と理想をもって創造されました。その目的が成し遂げられた世界は、愛によって統一された世界であり、神様を父として侍り、全人類が兄弟姉妹として仲むつまじく暮らす、神様を中心とした人類大家族の世界です

愛の本体であられる神様は、愛のために人間を創造されました。愛は独りで成立するものではありません。したがって、神様が絶対に必要とされる唯一のものは、その愛を施せる対象、すなわち神様が愛することのできる対象なのです。相対がいてこそ愛することができます。愛と心情の本体であられる神様は、その愛が動機となって宇宙を創造されたのであり、特にこの期間に、創世記第一章二十七節のみ言どおり、神様に似た実体対象として人間を創造されたのです。ですから、万民において、神様は永遠な無形の内的父母であり、完成したアダムとエバは永遠な有形の外的父母(先祖)になるのです。最大の愛は、主体と対象が永遠の愛を与え合い、完全に一つになるときに現れて結実します。真の愛の中では自動的な統一が展開し、また生命が連結されて理想が実現されるのです

神様のみ前で最も貴い対象存在であるアダムとエバが、神様の愛を中心として父母と子女として、主体と対象として、また無形の創造主と有形の実体として、完全調和統一された永遠の愛と生命の理想を成就することが神様のみ旨でした。よく、創造主と被造物は対等な立場に立つことができないものだと言われてきました。もしそうだとすれば、その創造主の前には愛の理想の実践は不可能なのです。神様の愛の理想は、子女であるアダムとエバを有形実体対象として立て、永遠に彼らと合一するというものでした。コリント人への第一の手紙第三章十六節のみ言のとおり、神様は人間の中にいらっしゃることを願われます。無形である神様の愛の理想が実体の人間を通して実現される起点は、人間が神様の対象体として完成する瞬間です。人間が神様を中心として人格的に成熟し、心と体が完全に一つになることによって、神様の愛と理想と生命の永遠の対象になることを意味します。アダムとエバが神様の子女として理想的個体になれば、やがて理想的家庭に発展し、次に理想的社会、国家、世界へ発展して、絶対愛に対する感応で得た生命の喜び、幸福の理想、そして調和統一の天国を完成するのです

無形の主体としていらっしゃる神様は、果てしなく遠い始源から、愛の宇宙史的刺激を充足させる対象を慕わしく思ってこられ、有形無形の完全な対象体として人間と相まみえるその愛の刺激がどれほど大きかったでしょうか。神様がアダムとエバを地上に造られたので、天国は地上で先に造られ、地上で理想的な生活をして霊人体が天上の永遠の天国に行くようになっているのです

人間は主体と対象、すなわち相対的なカップルとして造られ、また人間のために存在する全万物世界も愛の原理のもとに調和し、また人間の愛によって生命と理想を実現するようになっています

万物世界は人間にとって、特に成長するアダムとエバにとって愛の教科書であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館です。神様の一つの性をそれぞれ代表したアダムとエバが、神様が許諾された愛の教科書である自然の中で愛を体恤しながら、完全に育って横的に一体となる相対理想を実現することが、宇宙史的な神様の創造の希望でした

神様の愛は、神様と人間が主体と対象として縦的な愛の関係を完成することだけを目標とされたのではありません。縦的な愛を完成してアダムとエバ自身の横的愛の結実をもたらそうとされたのです。その瞬間が正に、内的父母であられる神様が、外的父母であるアダムとエバと完全一体となるために臨在される、愛の理想成就の瞬間です。無形の父母であられる神様が、アダムとエバの形状をまとわれて、有形世界に永存なさる父母になるのです。この時、アダムとエバは真の父母、真の先祖になるのです

救援歴史は神様の血統に接ぎ木する重生の歴

このように真の愛は貴いものなので、真の愛を蹂躙することは宇宙的な犯罪になるのです。不倫、青少年たちの淪落、家庭破綻、近親相姦、同性愛、形容し難い性犯罪など、今日の現実は神様を悲しませています。創造理想は崇高で、永遠の愛を中心とした家庭理想の成就にあるのですが、なぜこのような結果を招いたのでしょうか。それは終末を迎え、人間始祖の堕落した結果がそのまま結実することによって、蒔いたとおりに収める世紀末的様相を呈するようになったからである、と言うことができます

時間の関係上、ここで詳しく説明することはできませんが、私が糾明した原罪と堕落の曲折は、人間の最初の家庭において起きた天使長との不倫の事件でした。「統一原理」でいうサタンは、観念的存在や仮想の存在ではなく、霊的実体です。神様の愛の理想を破壊し、神様の血統を、サタンを中心とする血統に変えた元凶です。イエス様も、ヨハネの福音書第八章で、人類の父が悪魔であることをはっきりと語られました。神様が、御自身の外的な体であるアダムとエバを通して実現しようとされた愛の理想を剥奪した愛の姦夫が、正に悪魔サタンなのです。皆様にはなじみがないかもしれませんが、私が霊界を開拓し、宇宙の根本の曲折を糾明しようと、血の涙を流す闘争をした結果として得た結論がこれです。皆様も真剣に祈ってみれば、解答が得られるでしょう

神様が長い間、サタンを即決処断なさることができなかった理由とは何でしょうか。サタンが、神様の愛の理想を奪っていき、神様の代わりに偽者として、内的父母の立場で人類を管掌しているからです。ですから、このサタンの血統的な基盤を清算できなければならないのです

堕落によって神様と人間の愛の関係が断絶し、また人間相互間にも、愛を中心とした本然の授受関係が成立できなくなってしまいました。人間相互間における愛を中心とした調和統一も、生命の喜びも、そして理想と幸福の関係も完全に破壊され、互いに怨讐になって敵対視し、不信に思う世の中になってしまったのです。神様の創造の計画は、人間を真のオリーブの木として造り、これらが繁殖した真のオリーブの園を地上全体につくろうとするものでしたが、サタンが人間始祖を堕落させて偽りの血統の始源を形成することによって、偽りのオリーブの園をつくってしまったのです。神様はサタンが掌握する偽りのオリーブの園では、条件なしに切って接ぎ木することはできません

神様が宗教を立てて教育してきたのは、神様のみ旨のままに切って接ぎ木できる、すなわち神様が管掌できる野生のオリーブの園をつくる摂理なのです。このような宗教的な基盤の上に、真のオリーブの木であられるメシヤを送り、より大きな神様の愛に接ぎ木しようというのがメシヤ思想です。聖書の中にある重生の根本の道理も、このような点から理解ができるのです

神側では、サタンの偽りの愛の圏にいる人間を、より大きな神様の愛で取り戻してきて重生させるのです。人間は偽りの愛の父母、偽りの愛の先祖、偽りの愛の血統を通して生まれたので、真の愛の父母、真の愛の先祖、真の愛の血統を通して再び生まれてこそ、神様の子女、神様の民になるのです。イエス様の十字架の血潮の貴さも、最後の晩餐の儀式も、すべて血統転換を通して神様の子女になる摂理を形象的、象徴的に表すものです。人類は生まれ変わらなければなりません。これは堕落人間の運命的な道です

私たちはどのような困難があっても、この道を行かなければなりません。救援歴史が神様の血統に接ぎ木する重生の歴史だとすれば、私に属した過ぎし日のすべてのもの、すなわち所有観念、伝統、意識の一切を完全に否定しなければなりません。既に持っているものは、神様のみ前にそのまま認定を受けることができないのです。ひとまず取り消し、整理したあとに生まれ変わらなければなりません。これは木を接ぎ木するとき、根元の部分だけを残してみな切って、なくしたあとに接ぎ木するのと同じです

真のオリーブの木として来られたイエス様は、すなわち真の父母でいらっしゃいます。私たちを生み変えてくださる真の父母です。ですから、私たちに過去の因縁を捨てなさいと強くお教えになりました。聖書のマタイによる福音書第十章三十六節以下を見れば、人の怨讐が自分の家族だと言われ、また自分の父母や子女を捨てて御自分についてきなさいと言われていますが、これも、捨ててしまわなければならない偽りの血統であるという点から理解しなければなりません

神様とメシヤのために生きて死ぬことがキリス卜教徒の特

敬愛する聖職者の皆様。神様のみ旨を受け入れ、これを実践して成就すべき聖業が私たちの課題です。私たちは神様のみ手に結ばれた人にならなければなりません。神様の求めに応じる人にならなければなりません。自分の必要に応じて自分だけの救援、私だけの天国のために神様を求めてはいけません。神様とメシヤのために生きて死ぬこと、これがキリスト教徒の特権ではありませんか。偉大な神様のみ旨を成就する宗教であり、教派にならなければなりません。狭い教派的な自己主張の中に神様がお入りになることはできないのです。私が知っている神様は、宗派や教派主義者ではありません。枝葉的な教理理論にしばられた神様ではありません。神様の父母の心情、そして大きな愛の心のもとでは、民族と皮膚の色の区分がありません。国家や文化伝統の壁もありません。神様はきょうも、万民を同じ子女として抱くために努力していらっしゃいます

聖職者の皆様。宗教の自由の天国だと信じてきたアメリカで、レバレンドE/span>ムーンの投獄が契機となって、宗教の自由の運動ののろしが全国を席巻したということが、偶然なことでしょうか。それは、背後で役事される神様の経綸があったからです。また、自由民主主義の旗手として自任しながら、共産主義の脅威があるとは想像もしなかったこの地で、カウサ(CAUSA)運動を通して全世界が共産主義の脅威の深刻性を悟り、教派の障壁のない、真の超教派的運動が燎原の火のように燃え上がっている、このような現象が偶然でしょうか

アメリカは神様を愛する建国精神で立てられた国です。特に第二次世界大戦直後から神様はアメリカを本格的な世界救援の先導国として、また歴史始まって以来、初めて世界統一圏を主導する国としてお立てになり、再臨のメシヤの臨在を準備するとともに、世界を見守るようにされたのです。しかし、不幸にもアメリカは、このような大きなみ旨を知らず、世界から徐々に手を引こうとし、自国だけで定着しようと企図したとき、内外的に受難と問題に直面するようになりました。今、アメリカは人種問題、価値観の混乱と社会の倫理と道徳の退廃問題、霊的枯渇とキリスト教信仰の没落問題、無神論に立脚した共産主義の問題など、深刻な問題を抱いています。私が神様の召命を受けてこの国を訪ねてきた理由は、ここにあります

今日のキリスト教は大きく覚醒し、団結しなければなりません。私たち牧会者たちも今まで果たしてきた役割を再点検し、悔い改めなければなりません。あたかもイエス様が来られて、悔い改めよと叫ばれたその時の情景が、二千年過ぎた今、この地上で繰り返されていると見なければなりません。私たちは、神様がアメリカに命令された重大な使命を果たさなければならないのです。今、このままでは絶対にいけません。新しい宗教改革が起こらなければなりません。キリスト教は各教派を超越して、より高い次元で超キリスト教的に世界的文化革命を主導するところまで進まなければなりません

私たちは、きょうを契機として大きく奪起し、神様の愛のもとで固く手を取り、一つになって、来られるメシヤを迎え、神様の願いを成し遂げてさしあげる、キリスト教の本然の道に総進軍しなければなりません。神様の祝福が、皆様と皆様の家庭、そしてすベての教団とアメリカに満ちあふれることを祈ります.

8.対話と連合

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

8.対話と連

日付:一九八五年十一月十六

場所:E/span>アメリカ、ニュージャージー、アメリカーナE/span>グレート・ジョージE/span>リゾー

行事:「世界宗教議会」創立総

尊敬する議長、各教団から集まってこられた指導者および学者、そして紳士淑女の皆様。私はこの「世界宗教議会」の創始者として、代表の皆様を心から歓迎するとともに、私たちがきょう、この場を共にしたことが、簡単な出来事ではないことを想起していただこうと思います

世界八十五ヵ国から、あらゆる宗教と文化、伝統と儀式、血統と環境の垣根を越えて、このように集って心の門を開けて和合し、人類の未来を心配すること自体が、一つの偉大な成就であり、また神様も、この歴史的な場を喜んで見つめられることでしょう

永遠なる真の愛、理想、幸福、平和を願ってきた人

きょう、この場に私たちが、たとえ人生の根本問題に対する解答や人間の苦悩の本質に対する理解、また人類の平和を模索して完成する方法などが互いに異なる、様々な宗教の伝統を背景として集まったとしても、私たちは神様を中心として各自の究極的関係を確立し、すべての問題を解決しようとする共通の期待をもっています

洋の東西を問わず、人間はたとえ罪悪と不信と混沌の中に生きているとしても、永遠で真の愛と理想と幸福と平和を絶えず願い続けてきました。悪を指向する欲望の誘惑を退け、善を追求する欲望に従って本心が喜ぶ幸福を見つけようと、ありとあらゆる努力をし尽くしてきました。歴史を通した人類の経験では、このような目的を成就することは不可能だという結論が出てくるのですが、人間の本性は、これを簡単に放棄することはできません。民族と伝統に関係なく、人生が追求する究極の道は一つなのです

この目標の成就が人間の力だけでできないとすれば、私たち人間を超えて永遠で真であられる絶対者を探し、そのお方に依存せざるを得ないはずです。私たちは、自らの人生が有限であることを知っている唯一の存在です。人間は、自分自身を超越し、自らの運命を開拓していくことができないので、これができると思う対象者、すなわち神様に依頼するようになっているのです。その神様が真の愛、真の理想、真の平和と幸福を願われるとすれば、そのお方を通してのみ、これが可能になると思うのです。神様を通して人類が追求してきた理想的要件を成就するためには、そのお方が提示する内容を私たちが知って、具体化しなければならない、という結論に至るようになります

私は霊的体験を通して霊界に対する内容を知り、神様との深い交流をもちながらそのみ旨と愛と心情を確認しました。宗教は単に真理や倫理を教えるだけではなく、神様に絶対的に依存し、関係を結びたいと思う人間の本然の心情に連結されています

人生において、真の宗教的直観は絶対的であり、無限なのです。私たちはこの直観によって、私たちそれぞれに対する神様の召命を聞くことができます。この境地は宗教の形式を超越し、何かの制度によって遮ることのない本然の交流です。ですから、これは宗教のもとにあるのではありません。このような関係においてのみ、人間は完成と幸福を所有します。この境地において、神人の関係は一つであるとともに、全体なのです

そして、神様がこのように人生の背後で作用してきた超越的な力とその関係性は、もし人類が願いさえすれば全体に通じるものなので、人生が進むべき道は二つにはなり得ないのです。個人の道がそうであり、その理想的な個人が歩む家庭の道、国家、世界の道もまたそうなのです。すべての道は、絶対者、神様が理想とする愛と幸福と平和の世界を指向するのです。愛や理想、幸福や平和という言葉は、独りでは成立しない言葉なのです。これは、必ず相対的関係において成立する言葉なので、絶対者であられる神様だったとしても、その理想は独りでは成し遂げることができないのです

宗教の究極的目標は平和理想世界の建

神様が一人だけで何かを愛して、一人で理想をもって何をするというのでしょうか。神様の創造の動機も、このような点から理解しなければなりません。神様の理想を成就させ、神様の愛を成就させる対象が人間です。人間を通してのみ、神様の愛と幸福と平和の理想的要件が成就されるので、本然の人間とはどれほど貴い存在でしょうか。神様と人間の関係は、たとえ格位は違うとしても、愛と幸福を中心として一体理想を形成する関係なので、本然の父母と子女の関係になります。神様が永遠で絶対的なように、その対象である人間も絶対的であり、永遠の内容をもった価値的存在になるのです。人間は神様の理想を実践する目的体です。神様の永遠で絶対的なみ旨は、人間と完全一体となったところで成就するので、人生の目的もまた、絶対的で永遠なのです

神様は永遠、不変、絶対なので、その理想とした創造目的も、永遠、不変、絶対であり、一つの目的で統一された単一の理想世界を形成することでした。今日の罪悪と分裂と不信の世界は、人間が本然の道から離れて堕落したからです。このような人間を救援される神様の摂理は、宗教的基盤の上で人間をして原状回復をさせることです。ですから、救援摂理はメシヤによる復帰摂理なのです

神様の創造目的が絶対的なように、復帰摂理の目的も必ず成就されるのです。したがって、メシヤの理想は、決して漠然としたものではなく、具体的な私たちの生活圏で必ず成就される神様のみ旨です。このような点で宗教の目的は、私たちの実生活で神様のみ旨を具体化するものです。神様が救援の全体的摂理のために、時代と民族と環境によって適切な宗教をおかれ、神様の基台を広げてきました。したがって、全宗教の究極的な目標は、神様のみ旨である平和理想世界を成し遂げることなのです。宗教は、教団内での救援や個人救援を考える前に、世界の救援という神様のみ旨を心配しなければなりません。今の時は、汎宗教的に神様の真意を再探求すべき時だと思います

私が知っている神様は、宗派主義者ではありません。枝葉的な教理理論に縛られたお方ではありません。私たちは、教義の文字や儀式の条件に融通性なく縛られる、神学的葛藤から早く抜け出し、神様と生きた交流をもたなければなりません。信徒たちの信仰が蘇生し、各自の心霊が神様と交信する、純粋な宗教風土の造成が急がれていると思います

神様と父母の心情、そして偉大な愛には、民族や皮膚の色の区分がありません。国家や文化の伝統や、東洋と西洋の壁もありません。神様はきょうも、万民を同じ子女として抱くために努力していらっしゃいます。私たちは教団間の対話と和合を通して、神様の創造目的であり人類の共通の希望である、単一平和理想世界を必ずや実現しなければなりません

汎宗教的浄化運動、実践奉仕運

尊敬する宗教議会の代表の皆様。私たちが今日の現実を直視するならば、私たちは信じてばかりいるときではなく、行動すべきときであることを直感するのです。私たちの社会に澎湃している深刻な問題点、価値体系の混乱、道徳的退廃、麻薬とテロ、戦争と大量虐殺、人種問題、人権と富の均等問題、無神論に立脚した共産主義の問題など、数多くの弊害は何を物語っているのでしょうか。神様を離れた人類が、無神論に立脚した物本主義、世俗的な人本主義、享楽主義などに便乗してたどり着いた、世紀末的な現象なのです。このすべては、この世代の精神的E/span>霊的枯渇と信仰心の衰退に根本原因があるという結論とともに、宗教者たちをむち打っているのです

今日の世界に誰が責任を負うことができますか。軍事力や政治力ですか。でなければ、財力や技術力ですか。決してそのような力ではありません。神様はこの時代の預言者であり祭司格である宗教指導者たちに、この問題を解決しなさいと勧告していらっしゃいます

すべての宗教者たちは、この世代の霊的基盤の欠乏に対して責任を痛感し、深く痛悔しなければなりません。長い宗教の歴史の中で、宗教者たちは生きていらっしゃる神様を正しく証することに不足だったのであり、愛の実践をおろそかにすることで無神論が蔓延し、また共産主義が世界に澎湃していることを、痛切に自ら叱責する宗教者になるべきだと思うのです

今日、神様は私たちを呼んでいらっしゃいます。すべての宗教者は、深い自己反省の内的基台の上で、力強く立ち上がり、あらゆる不正が乱舞する現実に挑戦し、神様のみ旨を地上に実現するめに、創意的な努力を果たさなければなりません。生きていらっしゃる神様が願われる人間との関係は、経典や礼拝儀式の中だけでの関係ではありません。信義を抱いて二十四時間の生活の中でこれを実践する、自覚された心の中に住まわれながら、人間と共に生活されることを願われます

私は、世界と人類の未来に対する長年の省察と祈祷を通して、今の世界を覆っている神様の情熱的な願いと強い聖霊の役事を感じてきました。これは、世界が必ず新しくならなければならず、宗教指導者が世界的に団結するだけでなく、懺悔と真の奉献の姿勢を整える汎宗教的浄化運動、実践奉仕運動が起こらなければならないと教示しています。世界は変わらなければなりません。新しい宗教改革の炎が燃え上がり、至る所で生活信仰、実践信仰の価値を高く、高く、とどろかせなければなりません。そして、無神論者たちの前に生きていらっしゃる神様を証明する、生きた信仰の炎がなければなりません。真の平和世界は、宗教を通した精神革命、愛と慈悲による大きな和合によってのみ実現されるのです

教団間の和合を通して平和世界実現を早めなければならな

尊敬する代表の皆様。私たちは神様の崇高な召命の前で、反目と誤解の無知が氾濫する世俗の泥沼を抜け出し、相互尊重および親善で、世界の教団が大きな協同体制を構築しなければなりません。そうして、行動する宗教者の意志と実践を地球星の隅々に見せなければなりません

宗教は単に未来を待望することで終わるのではありません。神様の最初の創造目的の地が地上なら、私たちが地上に実現すべきそのお方のみ旨を忘れてはいけないのです。天国や極楽が神様の理想的な居所ならば、そこに行くことだけが希望ではいけないのです。現実において理想の起源になる対象存在のために生き、愛し、与える実践と、その実績が必要条件になるのです

宗教が現実的規範原理や所在を超越しているからといって、その現実的作用までも無視してはいけません。宗教は、現実問題自体に至大な関心をもって、神様のみ旨の適用可否を深く調べなければなりません。また、政治、経済、社会、教育など、各分野の現実問題を解決すべき人々の心の中に、神様を中心とした新しい変化を起こすことによって、彼らが新しい人となって問題を解くようにさせなければなりません

生きた心霊をもった宗教者たちが、宗教の真理をもって現実社会に飛び込むことを、神様は求めていらっしゃいます。真理をもった人、神様と根本的な交流をもった人は、どこでも生命の役事を起こし、影響を与えるようになっています。真の宗教は世の中についていくのではなく、神様のみ旨に立脚して世の中を諭し、万人を先導しなければならないので、反対と迫害と騒乱が起こるようになっています。教団間の和合と大同団結、そして実践信仰の新しい運動は、孤独な開拓者的な道を行くかもしれませんが、これは歴史的E/span>世界的次元で考える多くの清新な人々の、大々的な呼応を受けることになるでしょう

私はこれまで、神様が願う摂理の方向に従って世界を改革し、地上に神様の理想を実現することに尽力してきました。また、統一教会を最も優先的に動員して、宗教間の和合を通した世界平和の目標のために投入してきました

皆様が属する各教団も、積極的にこの道に協力して、共に行くことを私は心から願います。これは、私がこの分野の努力を中断するからでもなく、統一教会の援助を惜しんでいるからではありません。全宗教の伝統の霊的資源と創造力を動員して、神様が願われる方向に総結集することによって、平和世界の実現を早めようとしているからです

神意の地上実現という「世界宗教議会」の成

皆様が御存じのように、この「世界宗教議会」は歴史的な企画であり成果です。世の中でも国連機構などをつくって和平を模索していますが、教団間に争いがあっていいでしょうか。私は長い間、既存の教団や指導者が出てきて、宗教議会を積極的に推進してくれることを待ち望みました。しかし、誰かが必ず果たすべきこのことを待ちきれずに、私が始めました

この集い自体が意味のあることですが、今後、回を重ねれば重ねるほど驚くべき成果を上げるようになることを期待します

第一段階は、世界の宗教の伝統が互いに尊重されながら、相互に交流する関係の中で和合し、集約されることによって、少なくとも宗教間の葛藤と戦争を防止することに寄与し、第二の段階は、宗教会議の共同決議を通した宗教者の実践生活と汎教団間の協力体制によって世界に奉仕し、人の心霊を啓発することが促進されることによって、万人を神中心の価値観で生きるようにし、第三の段階は、実質的な教団代表たちが参加する議会にまで発展しなければならないと思います

そうして、宗教議会で神意に立脚した高次元の価値観と生活規範が確立され、これが全宗教者と団体、国家に波及するようにしなければなりません。このような個人、団体、国家であってこそ、神様のみ旨の地上実現のための基盤となり、単位になるのです。すべての代表の方々は、今回の会議の期間中、全体会議あるいは分科会議で発表や討議、各宗教芸術の発表、瞑想と祈祷などのプログラムを通して、今日の世界を指導し、宗教界を改革して明るい未来を創出する霊的基盤を造成し、互いに和合することに大きく寄与してくださることを願います

私たちは、今から和合した力で「神意の地上実現」という世界史的宗教の使命を完遂するために、総進軍しなければなりません。最後に、この議会の準備委員会の代表の皆様の企画と準備のための労苦に感謝申し上げ、また実務要員たちの苦労をたたえます。神様の御加護と祝福が、この歴史的な大会と代表の皆様にあることを祈ります。

 

9.根本思想

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

9.根本思

日付:一九九〇年一月十二

場所:韓国、ソウル、中区、長橋洞宗教会

行事:文鮮明先生御夫妻韓国宗教協議会訪問歓迎

各教団の重鎮であられる皆様に、このようにお会いできましたことを、感謝を申し上げます。宗教指導者たちが教団のために奉仕し、その教団自体が自分の使命を果たすとき、大韓民国の未来に希望があると思います。そのためには、一つの教団だけではいけません。互いにどのように和合しなければならないかという問題ですが、単に宗教界だけでなく、世界の政界を見ても、思想界を見ても、問題になります。いずれ人類は一つの目的点に向かって帰結されるということです

人生問題と神様を中心とした聖人の教

内外の世界を見れば、政治、経済、文化、社会を中心として、歴史をつないできた数多くの国家群があります。そして、内的世界を見れば、各教団が存在します。これらの教団の各教主は異なりますが、世界を指導すべき責任があるのです。これを人に比較すれば、宗教は心のようなものであり、一般社会は体のようなものです

しかし、人間自身を見るとき、その体と心がいつ統一されるのでしょうか。どのような聖人でも、「私の教理を通して体と心を一つにした。心と体が争うこの戦争を平和にした」と自信をもって宣言した人がいないことを、私たちは知っています。外的世界と内的世界がこのように対立していて、外的世界である国家主権者たちから今まで宗教界は弾圧を受けてきました。多くの犠牲に遭ってきたというのです。反面、宗教界は打たれるだけで、外的世界を打ってみたことがありません。いつでも、打たれながら大きくなってきたのです。これが根本問題です。それで、きょうのお話の題名は「根本思想」です

私は大韓民国の白衣民族の一人として生まれましたが、宗教という問題を中心として誰よりも苦心した人です。さらには、人生と人間の問題について深く苦悩しました。人間の問題を誰が解決しなければなりませんか。人間同士では解決できないというのです。それでは、何によって解決しなければなりませんか。聖人の教えで解決しなければなりません

聖人といえば、皆様が御存じのとおり、特に四大宗教の教主をいいます。その教主たちは、何を中心として生涯の道を歩みましたか。それは絶対的な価値の問題なのですが、神様がいるかという、神様に関する問題でした

宗教が哲学と異なるのは何かというと、宗教は神様と共に始まりましたが、哲学はそうではないというのです。宗教を見れば、その背後には神秘境と連結されていますが、神様という背後で動く主体を中心として、み旨を広げるために出発しました。ですから、その教主たちは、生活舞台で神様と共に歩んだ人たちです

神様と共に出発するその生活とは、どのような生活でしょうか。個人的生活でしょうか、そうでなければ家庭を中心として出発した生活でしょうか、氏族を中心として神様と共に生きる宗教の生活でしょうか。あるいは、私たち自衣民族を中心として出発したものでしょうか。これが問題になります。また、国家と共に出発したのでしょうか。世界問題と霊界と肉界、天と地までの問題になるのです

宗教が出発するとともに、家庭救援の論理を唱えた宗教がどこにありましたか。社会救援、氏族救援、国家救援を主唱して出発した宗教がありましたか。大多数の宗教は個人の救いを主張します。個人が救援されなければならないというのです。個人を中心として出発しました。ですから、高次的な宗教であるほど、その教主が教える教理は、現世と隔離させる内容です。出家を強調するのです。単に仏教だけでなく、キリスト教も同じです

出家というものは何ですか。大韓民国の民としてある氏族を通して生まれたなら、その伝統的歴史の背景がすべて私を包囲しているので、その背後の前衛隊のような家庭を否定するのです。出家するということそれ自体は、国を否定しなければならず、社会を否定しなければならず、家庭を否定しなければならず、家庭において父子関係までも否定しなければならないのです。これが問題になるのです

私たちが生活するうえで、運命の道は私たち個々人が努力して開拓できますが、宿命の道は開拓できないのです。父子の関係を切ることができるものとは何かというのです。これが問題になります。ある独裁者が「あれはお前の父親ではない!あれはお前の息子ではない!」と千年、万年教育したとしても、その関係を切ることはできません

出家において、父子の関係まで否定していく原因がどこにあるのでしょうか。これは問題が大きいのです。出家は、父母との関係をそのままにしていくのですか、それを拒否して自分自らの道の目的を成就するために、自分を中心したすべてのものを片づけて自己完成を標準としていくのですか。それはあくまでも、自己完成のみを標準にしたものなのです

宗教の起源、そして神様との関

すべての宗教は自己完成を標準としています。ですから、すべての高次的な宗教は、独身生活を強調します。父母の血縁までも否定させ、その次には後代までも否定させます。深刻な問題です。カトリックや仏教も同じです。世界を否定し、国を否定し、自分の家庭を否定し、自分の父母を否定し、男性が女性を否定して、女性が男性を否定しますが、なぜこのようにしなければならないのですか。根本問題がここから出てきます。そのような問題が、深刻な問題にならざるを得ないというのです

なぜ否定しなければならないのかという論理、その教理をどのように教団で探し立てるのかということです。キリスト教も曖昧です。仏教や儒教もそうです。「元亨利貞(げんこうりてい)は天道の常であり、仁義礼智は人性の綱である」という言葉があります。どれほど良い言葉ですか。ここで「天」とは神様のことですが、天が存在しても、始まりとともに永遠に関係を結ぶことのできるものでなければ、理想的な天として侍ることができないのです。始まりとともに過程と終わり全体が、永遠に天でなければなりません。その天と共に私が幸せでなければなりません。不幸ではいけません。その天と一つになるとき、すべての存在が羨まなければならず、すべてのものがそれを崇めながらついていくことができなければなりません。そして、その個体が生まれたある特殊性、韓国民族なら韓国民族にだけ限定された内容ではいけないというのです。人種を超越し、思想を超越していくものでなければなりません

このように見るとき、神様と共に生きるところから教団が始まったというのです。ここで教主と神様との関係を見るとき、神様についていかなければならないか、教主についていかなければならないか、ということが問題です。教主と神様の関係では、教主も神様についていかなければならないのです。その神様が絶対的な神様ならば、絶対的についていかなければならないというのです。その絶対的についていくことのできる神様と私の関係、神様と教主の関係を知らなければなりません。神様と教主の関係と、教主と私の関係をいかに連結させるかということは、簡単な問題ではありません

私が霊界と宗教界に関する問題を中心として苦心してみると、神秘的な世界があることを知るようになりました。神様がいるのか、いないのかというとき、神様は間違いなくいます。最近では、関係の世界が問題になっています。一つの家を見ても、父子の関係、夫婦の関係、兄弟の関係から成っています。それだけでありません。家庭と家庭の関係もあります。いくら自分が立派だったとしても、家庭の関係において脱落してはいけません。自分と家庭の関係、家庭と家庭の関係、氏族と氏族の関係で、中心は何ですか。人間は関係の世界を離れることができないのです

「家和万事成」という言葉があります。「家和万事成」になろうとすれば、祖父と祖母の関係が理想的でなければなりません。夫婦関係と兄弟関係が理想的でなければなりません。祖父と祖母が自分たちだけで喜び、夫婦同土、あるいは兄弟同士だけで喜んではいけません。祖父と祖母と父母、父母と息子、娘、縦横の前後左右ですべて和合してこそ、「家和」になるのです。「家和」は難しいというのです。なぜですか。私たち個々人の体と心が争っているからです。三十八度線が問題ではなく、世界の戦争が問題ではありません。戦争の動機とは何か、その根本か何力というとき、「私」なのです

宗教生活は体を主管し、心に従って生きる生

「人」といえば男性と女性がいます。男性と女性は心と体の両面をもっています。宗教を信じるのに、心と体で信じなければならないでしょうか、心でだけ信じなければならないでしょうか。心と体が一つになって信じるのが理想的ですが、それを一つにできなかったとき、神様は先に心を中心として一つになるようにします。主体である心を通して一つにするのです

心がまっすぐだというのは、垂直を前提に語る言葉です。心を中心として神様と完全に一つになって、体を一つにしなければなりません。これが今日、宗教者が一生をかけて達成すべき課題です。どのようにすれば心が体を支配できるでしょうか。そこには二つの方法があります。神様と共に生きながら、神意を知る立場に立たなければなりません。神様のみ旨を中心として生きなければならないのです。ところが、体がうまく従ってきません。心がプラスなので、体がマイナスになれば、どれほどよいでしょうか。しかし、体もプラスになろうとするというのです。プラスとプラスとになるので、反発するのです

それでは、どのように一つにしなければならないのでしょうか。根本理想を求め、強力な信仰心で、その変わらない心で絶対的な姿勢を備えて、体を弱体化させなければならないので、苦行をするのです。苦行を好む人がいますか。苦行を好む人が世の中のどこにいるかというのです。千人いても万人いても、すべての人が嫌います。数億の仏教信者がいるならば、その中で苦行を好む人がいるかというのです

それでは、それを無理やりするところで、理想が実現できますか。それは理論的に矛盾です。喜んで行っても難しいのに、無理に行って完成するというのは矛盾です。宗教生活は体を主管する生活ですが、プラスである心を中心として、体をマイナスにするためのものです。マイナスさえつくっておけば、「一つになれ」と言う必要がありません。体がマイナスに戻ることによって、体と心は一つになるのです

神様はなぜ体を打たなくてもよいように創造できなかったのかと言いながら、神様を否定する人々がいます。理由は分からなかったとしても、人間が病気になったのは事実です。僧侶たちがいらっしゃいますが、いくら修行に励みながら念仏を覚えても、肉体の欲望を捨てることはできません。その欲望は生きています。どれほど強いか分かりません。精誠を込めて修行に励んでも、うまくいきません。欲望が行こうとする道と、その世界の前進過程は、公式のようなものです

それでは、宗教を中心として、なぜ体を苦労させなければならないのですか。良心基準に対して体を弱化させることによって、体が心に従うようにするためなのです。体を弱体化させて、およそ三年間引っ張っていきながら、習慣になるようにしなければなりません。それは絶対的に信仰を強調するためです。絶対的にほかのことを考えてはいけないというのです。父と母、兄弟、自分が愛する人、国と世界の雑多なことをすべて捨てて、絶対的な道理を立てて体を修養し、帰一点を見いだすのです。どのような宗教もみな、そのように教えなければなりません。そうでなければ、宗教世界の発展をもたらすことはできません。人格革命をもたらすことはできないのです

ですから、断食と絶食をし、苦行しながら社会に出ていって迫害を受け、反対を受けなければなりません。修養の目的成就のためには、体が死にそうだといって大騒ぎしても、物ともせずにすべてのことを忘れなければなりません。心に体が順応できる自我を見いだすためのつらい生活が宗教生活です。そうでない人はみな偽者です。普遍的で妥当なこのような観を中心として見るとき、良心と体を一致させるために、経典が教える内容以上の境地にまで体の修行をしようという人が、仏教で言えば真の仏教信者です。またキリスト教で見れば、真のキリスト教信者です

申し訳ない話ですが、僧侶たちが妻を得て、息子、娘をもったとすれば、家族を率いて心の世界の統一圏を形成するということが、どれほど大変でしょうか。彼らを背負っていくことがどれほど大変でしょうか。そのような問題を簡素化するために、出家するのではないかというのです

出家して何をするのでしょうか。完全な道の成就、その目的を成就したあとで、男性と女性の修行者が一つにならなければなりません。それで、終わりの日には、今まで教えたすべての修行の時代が終わり、修行者たちも結婚しなければならない時が来るのです

外的な世の中では、結婚に失敗し、多くの問題が現れています。悪神の巣窟、悪魔の巣窟、サタンの巣窟になっています。神様は、「この滅びる者たち、お前たちは人倫、道徳を中心として背信の道を行くので滅びるだろう。しかし、お前たちを正すために標本が必要だ。僧侶が結婚し、神父や修道女たちが結婚して標本になるべきだ」と語るでしょう。経典を通してこのようなことを解釈できますか。経典にはありません。四大聖人はすべて教主です。宗教の教祖です。その教祖を中心として数千年の歴史を経てきながら、人類を教化させてきました。神様は天運を動かす中心の絶対的神様ですが、教主たちの志が良いので、彼らを立てて教材として使ったのです。ですから、「私たちの教主は神様だ!」と言ってはいけません。教主を「絶対的神様だ」と言うならば、問題が大きいというのです

宇宙の根本真理を探すために神様と談

人間は第一原因から始まりました。第一原因とは何ですか。その名前はどうでもよいのです。そのお方は私たち人間が描く理想をもったお方です。行ったり来たりしながら、適当なことを考えるお方ではありません。絶対者なので、そのお方が考える理想は絶対的です。どの教主でも、そのお方以上にはなれません。優秀な教主や宗教指導者、世の中を騷然とさせるほどの宗教者がいるとしても、神様を中心としなければなりません。自らを中心とすれば、大変なことになります。それは、人間はあくまでも第一存在ではなく、結果的存在だからです

第二存在である人間は、どのようにして生まれましたか。私にとって第一存在は父と母です。その父と母の第一存在は祖父と祖母です。このようにさかのぼるのです。祖父と祖母の第一存在は先祖です。先祖の第一存在は第一先祖です。人間の第一先祖の第一存在は神様です。神様がいるとすれば、そこまでさかのぼるのです

その神様のみ旨とは、どのようなものですか。宗教を立てて個人を救うのですか、家庭を救うのですか、国家、世界、天地を救うのですか。地上と天上に地獄がありますが、救いというものは、天上天下の地獄をなくし、天国をつくろうとするのです。そのようなお方が絶対善なるお方です

私はこのような問題について非常に悩み、宇宙の根本真理が何かと、談判祈祷を捧げました。そうして、神様を発見しました。「あなたを発見したので、死に物狂いです。根本を教えてください」と談判しました。私は身もだえしながら、神様に「あなたはどのようなお方ですか」と尋ねながら、根本思想を明らかにしたのです

今日、神様がいるのか、いないのかということが世界的問題です。そこから唯物史観と唯心史観の二元論が生じました。心が先か、体が先かということです。ところが、分かってみると、心も先ではなく、体も先ではありません。体と心が一つにならなかったために、このようなことが広がったのです。民主世界は心を拡大させたものであり、共産世界は体を拡大させたものです。これが互いに争うのです。この争いをどのようにすれば止めることができますか。民主世界と共産世界を一つにすることより、皆様自身の心と体を一つにすることが先決問題です

このような問題を考えながら、悩んで標語として立てたのが「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ!」でした。第一標語がこれでした。すべての人、すべての教団が世界と天地を支配しようとしますが、自分自身を主管できずにいるのです。そのように身もだえしながら、十年間さまよい歩きました。涙もたくさん流しました

自分の家の父母を中心として、絶対的に一つになりなさいと教えるのが孝子の道理です。国を中心として教えるのが忠臣の道です。孝子と忠臣は通じます。それをもう少し拡大して言えば、聖人の道です。皆様が信じている教祖たちは聖人ですか、聖者ですか。イエス様も孔子も釈迦牟尼も、聖人です

真の信者とは、教主の愛を受けられる

四大宗教において教主の中の教主とは誰ですか。最高の頂上は二人ではありません。山頂に登るときは東西南北の方向から登りますが、山頂は一つです。真の信者はどのような人でしょうか

仏教の僧侶たちが大勢参加し、高位の僧侶も来られましたが、釈迦が「私たちの高位の僧侶がナンバーワンだ」と言えば、どれほど良いでしょうか。それでは、釈迦が願うこととは何でしょうか。霊界に行ってみれば、お金は必要ありません。知識も必要ありません。そこに行ってみるとそうでした。権力が必要ありません。お金をいくらでも創造でき、ダイヤモンドの星も造ることができる神様です。絶対者であり、知識と権力の大王であられます。春夏秋冬の四季を越えて、永遠に自由自在に行使できるお方です。そのお方に何が必要でしょうか

仏教信者は釈迦の信任を受ける人ですが、信任されることが第一ですか。違います。結局はどこに行かなければならないのかといえば、外的関係から内的関係に行かなければなりません。誰よりも釈迦の愛を受ける人でなければなりません。皆様は信任される人になりますか、愛される人になりますか。母は子女を絶対的に信じますが、息子だといって絶対的に信じているだけで、じっとしていてはいけません。懐に抱いてお乳を与えながら愛してこそ喜びます。本性がそうなっています

ですから、教主と信者も、先にお話ししたような関係です。「家和万事成」の関係ですが、その関係をどのようにしてもたなければならないのでしょうか。教理を中心とした関係は立派です。しかし、教理は道を教えるのです。道理を教えるのです。道というものは、行く道を言います。方向を教えるのです。行って何をするのでしょうか。釈迦に会い、イエス様に会って何をしますか。みな教主に会ってみたいと思いますが、出会って何をしますか。イエス様のものを自分のものにし、自分のものがイエス様のものになるとすれば、どれほど良いでしょうか。結局は帰依だというのです。同等な立場に行くことが信者の願いです

その同等な立場に行こうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。釈迦を中心として父方の叔父の関係が良いでしょうか、母方の叔父の関係が良いでしょうか、僕の関係が良いでしょうか。信者たちに「あなたはどんな関係になることを願うか」と尋ねるとき、「釈迦の息子になり、娘になることを願う」と言うでしょう。それが最高の結論です。息子、娘は相続を受けます。そして、共に住みながら、どこでも一緒に行くことができます。どこでも同参できます。父子の関係において愛を中心とするようになれば、相続を受けることができます。愛の属性の中には相続権があるのです

男性と女性が互いに愛し合うとき、夫のものは誰のものになりますか。夫のものは妻のものになります。また妻のものは夫のものです。ですから、貯金通帳を二つもって暮らす夫婦がいるとすれば、その夫婦は偽者だということができます。それは荷物をまとめるための準備と同じだというのです。それを正さなければなりません。根を直しておかなければなりません

釈迦と弟子の関係はそれと同じですが、イエス様に「信者たちに何を望まれますか」と尋ねれば、「私たちの何代の孫よ、僕のように働け」と言うでしょうか。キリスト教の牧師たちは、「神様の僕」と言いながら祈祷を捧げます。なぜそのような祈祷を捧げるのですか。神様のみ前に、僕にしかならなくてよいのですか。僕の上には養子がいて、庶子がいて、直系の息子がいます。僕から三段階を越えてこそ、息子、娘になるので、同じ価値なら息子と言えばよいのに、なぜ僕と言うのでしょうか

レバレンドE/span>ムーンは真の愛の哲学

皆様の中にイエス様を信じる人がいるならば、イエス様の息子、娘のように近い立場に立ちたいですか、隣の家のおじさんのような立場に立ちたいですか。これをイエス様に尋ねれば、「横的ではなく、縦的な一番近い父子の関係だ」と言うというのです。なぜ父子の関係ですか。それは縦的な関係だからです。夫婦関係は横的です。それでは、縦が先ですか、横が先ですか。縦が先だとすれば、どうしてでしょうか。世の中のすべての物が創造されるとき、創造主は水平を見ながら造ったというのです。ですから、良いものは垂直になっています。茎はすべて垂直に育ちます。穀物を見ても、葉はすべて曲がっても、茎だけはまっすぐです。茎には根の茎と芽の茎があります。これらはすべて垂直です

人間の始祖が第二原因者ならば、第一原因者である神様は高いところにいて、人間は低いところにいます。その中で神様の愛と人間の愛について語るとき、愛は縦的にならざるを得ません。ここで一つの概念の定義を下すことができます。完全に縦的な垂直を作る動作は何でしょうか。知識ではできません。それでは直行できません。知識は回りながら進みます。また、お金は天から下りてくるのではなく、地を転がっていきます。権力も垂直にできません。しかし、真の愛は直短距離を通るのです

私はこれを発見し、どれほどうれしかったか分かりません。この原理でなければ解明できないのです。宇宙を解くことができません。真の愛とは何ですか。直短距離を経るものです。ですから、上から下に通じる真の愛があるならば、それは垂直にならざるを得ません。少しだけずれても垂直ではないのです。直短距離ではありません。何が宇宙の中で直短距離である垂直を占領できるのでしょうか。それは真の愛だけです

私が最近、真の愛の話をするので、世界的に有名になりました。レバレンドE/span>ムーンは真の愛の哲学者として知られるようになりました。父母は愛する子女が危険に直面したとき、反対に走っていって救うと言いますか。自分の生命は貴いですが、それが問題になりません。直短距離で駆けつけていくのです。これこそが偉大な福音です。それでは、宇宙の中心とは何でしょうか。直短距離で結ぶ垂直の場を占有できるものは何ですか。それがすべての価値の中心になっていれば、世界はそこから位置の策定が可能なのです。その垂直を中心として東側にあるのか、南側にあるのか、北側にあるのかを決定するのです

垂直という言葉は、垂直自体を前提として語る言葉ではありません。横である水平を前提条件として語る言葉です。上という言葉は、上を中心として語る言葉ではありません。先に下を認めて語る言葉です。右側という言葉は、左側があることを先に認めて語る言葉です。女性だけで、女性という言葉は使いません。そのような言葉は不明確な言葉です。女性という言葉は、男性を先に存在する先有条件として語る言葉です。相対的概念を中心として語る言葉です。ですから、宇宙で一番まっすぐな垂直を探そうというとき、知識で探すことはできません。権力でも探せません。お金でも探せません。しかし、愛では可能だと見るのです。神様は絶対的なお方であり、神様の愛も絶対的なので、絶対に真だというのです。ですから、その愛は最短の距離を占有するのです。これが根本思想です

宇宙の根本は愛と生命と血

哲学に入門する人は、本を見ながら、「私はなぜ生まれたのか」と言いながら悩みます。女性たちは「男性たちに冷遇されるのが無念で悔しい。男性に生まれて一度復讐できたらいい。輪廻転生してそうなったらいい」と考えかねませんが、そのように考えてはいけません

女性や男性、人が生まれるのは、誰のために生まれたのですか。子女は父母のために生まれました。父母はなぜいなければなりませんか。子女のためにいなければなりません。父母という言葉は、子女を前提として語る言葉です。子女という言葉は、父母を先有条件として語るものです。ですから、先有条件のために関係が結ばれるのです。自分を中心としては関係が結ばれる道理がありません。男性が生まれたのは、女性のために生まれました。真の男性になろうとすれば、先に真の息子にならなければなりません。真の息子になろうとすれば、孝子にならなければなりません。その次に、真の女性に会って真の夫婦にならなければなりません。真の夫婦において、妻は女性を代表したものであり、夫は男性を代表したものです。全世界の男性と女性の代表者です。動物世界は雄と雌、分子の世界は陽イオンと陰イオンから成っています。宇宙はすべてペアE/span>システムになっています。そして、雄雌はすべて縦的な愛を中心として繁殖し、生きていくのです

僧侶たちは、「女性との関係は考えてもいなかったのに、これは大変なことになった」と言うかもしれませんが、天上世界に行けばどうなるのか、すべて分かるようになるでしょう。男性として生まれたとすれば、何をするためにそのように生まれたのでしょうか。凸が凸のために生じましたか。その根本問題がここから出てきます。凸は凹のために生じたのです。また凹が凹のために生じましたか。凸のために生じました。天地の道理です。東洋思想も陰陽を中心として話をしますが、陰陽が合徳(和合)しなければなりません。そうでなければ未完成品です。その陰陽の合徳は何によってするのですか。愛です。ですから、男性が女性のために生まれたのは何のためですか。愛のためだというのです。男性の愛は男性にあるのではなく女性にあります。女性の愛は男性にあります。私自体に愛があるのではありません

宇宙の根本は、愛と生命と血統です。神様は愛の主体であり、生命の主体であり、血統の主体です。それがなければ、人間は愛を感じられません。私も愛をもっています。生命をもっていて、血統をもっています。それは、自分一人では分かりません。しかし、自分の相対が現れれば、愛の周波数が来ます。生命が動くのです。血が沸きたちます。それは誰に似てそうなっているのですか。根本がないところでは生まれることができないのです

それを見るとき、神様も同じだというのです。神様も愛をもっていて、生命をもっていて、血統をもっています。それでは、成熟したということはどういうことですか。成熟するということは、異性に対して愛を求めるということです。その時は、世界がみなその中に入ります。そして詩人にならない人がいません。思春期には、すベての人が詩人になるのです

一人の男性ならば、それは男性を代表したものです。「私は男性を代表している」と考えないですか。何をもってそのように考えることができるのでしょうか。勉強して、お金を集めて、権力をもってそのように考えることができますか。絶対にできません。世界の男性たち中で、愛することにおいて負けない代表者として立ったというときは、すべての男性たちが「それは正しい!」と言うのです。愛の代表者になったとすれば、すべての人が好むというのです。悪い人、良い人を問わず、みな好むのです。女性も同様です

そして、人間は一番上に行きたいと思います。何を中心としてそのように思うのですか。お金ではありません。愛を中心としてそのように思うのです。男性が生まれたのは女性のためであり、女性が生まれたのは男性のためです。ですから、神様は互いに貴いものを入れ替えておきました。女性の愛のふろしきは男性が主人です。男性の愛のふろしきは誰が主人でしょうか。女性が主人です。女性が主人ですが、何の主人ですか。愛の王権です。取るに足らないわらぶきの家に住む夫の妻としてではありません。愛の王権を代表した主人です。そのように考えて結婚式をしてこそ、大地が振動するほど太鼓をたたいて良いと言いながら、ウェディングE/span>マーチを響かせるのです。そうでなければ、真っ暗闇な世の中になって、何をしても興味が湧かないというのです。これは文総裁が、歴史始まって以来初めて語る話です。このような話を聞いたことがありますか。仏教の経典にもありません

それでは、男性と女性がなぜ結婚するのですか。愛のためです。何の愛かというと、絶対的な真の愛です。父子の関係は誰かが分けることはできず、革命できません。父子の関係は絶対的です。そこに流れる愛も絶対的なのです。その関係が絶対的ならば、母と父も絶対的でなければなりませんか、相対的でなければなりませんか。母と父も絶対的でなければなりません。母と父と息子、娘の関係が絶対的なので、母が離れ、父が離れても、息子、娘は離れることができないというのです。ところが、最近の家庭を見れば、母と父が、子女たちを捨てて離れたりしています

夫と妻が生きていくにおいても、絶対的な愛がなければなりません。ところが、結婚して一週間もせずに離婚する人たちがいます。それが真の夫婦ですか、偽りの夫婦ですか。それは偽りの夫婦です。愛のために生まれたというときは、気分が良いのです。僧侶たちも、精誠を捧げる生活によってこの国の仏教界の高僧になりましたが、昔の母と父の懐が懐かしく思いませんか。忘れることはできません。それは革命することができないのです。そこを求めて入ろうとする気持ちがあるのです。なぜでしょうか。愛が根源だからです。愛が動機になっているので、愛の動機で流れる過程は、愛の関係をもたなければ連結されないのです

神様と真の愛、そして永

それでは、神様はいったいどのようなお方ですか。神様は私たちの父です。仏教からは人格神は発見できません。万象の帰一法を論じながら、どのように人格神を発見しますか。内外に情、知、意の感情に通じることのできる神様をどのように発見しますか。愛する孝子をもった父母が、その息子が帰ってくるとき、どのようにするでしょうか。「ああ、私の息子よ!」と言いながら、高僧も教主もみな無視したまま、満面の笑みを浮かべて抱きかかえるのです

根本に戻ってみましょう。自分のために愛すれば大変なことになります。宇宙はそれを歓迎しません。自分のために生きなさいという愛ならば、大変なことが起こります

宇宙の根本である神様は絶対的なお方です。創造の根本に入ってみるとき、私が信じる神様は本当に偉大なお方だと思います。その絶対者が信じることのできる絶対的なことは何ですか。神様も絶対的な平和、絶対的な幸福を求めます

それでは、それをもたらし得るものとは何ですか。お金ですか。お金はいくらでも作ることができます。知識ですか。神様は知識の大王です。権力ですか。神様は全知全能です。それでは、何でしょうか。愛です。真の愛だというのです。絶対的な神様にとっても、愛は絶対的です

神様にいくら力があっても、真の愛の息子、娘に会えば、「私のものをすべて与える」と言うのです。真の夫は真の妻に「私のものをすべて与える」と言います。「私のものは私のものだ」と言えば、真の愛ではありません。完全に改心して与え合わなければなりません。神様が天地を創造するようになったのも、そのような理由からです

キリスト教の牧師たちは、「創造主は神聖であり、被造物は卑しい」と言います。しかし、分からないからそのように言うのです。そのような話は、愛の神様という論法を取り消す結果を生み出すのです。神様の愛もイエス様の愛も、愛という言葉は相対性を離れては成立しません。神様の相手は誰でしょうか。「万物之衆唯人最貴(マンムルチチョンユインチェキ)」(万物の中で人が最も貴いの意)という言葉があります。正しい言葉です。神様がなぜ天地を創造しましたか。愛のためです。神様御自身がその理想的な愛を立てる道は投入です。完全な投入です。一〇〇パーセント以上、一二〇パーセント投入です。ですから、真の愛をもって生きる人は、いくら迫害を受けても一二〇パーセント、何百パーセント以上投入できる本性の起源と連結されているので、支配を受けません

独裁者がその時代を破綻させてしまい、すべてを無に解消させたとしても、世界は再現されます。母と父がいくら老いても、愛を再現させるのと同じです。独裁者が抑圧しても、歴史を超越して再現され、権威を堂々と立てるのです。ですから、宗教世界の教主たちはその時代に迫害を受けるのです。しかし、投入したものは、取り戻される環境になれば、その時代以後には実を結ぶのです

神様は人格神なので、体と心があるのかというとき、あるというのです。神様も愛があるのかというと、あるというのです。生命があるのかというと、生命があり、血統があるのかというと、血統があるというのです。このすベてのものは、自分一人では成り立ちません。相対がいなければなりません。神様は縦的なので、縦的な基準を中心として連結しようとするのです。縦的な立場である子女の立場で大きくなって夫婦になるのです。そして、世界までみな知るようになります。そうして、一つになるのです。どこに行って一つになるのでしょうか。縦的な立場です。その中に息子、娘がいて、神様が入ってきているのです

円には弦がありますが、アダムとエバは、上弦と下弦を縮小したものになって、扇のような一つの連体になります。骨と肉のようになるというのです。それで、「父なる神」という言葉は、血統関係でなければ成立しません。神様が誰かというと、私たちの父です。真の愛を中心とした縦的な父です。アダムとエバが堕落しないで完成したとすれば、そこに神様が臨在します。アダムとエバが結婚して、夫婦として横的に一つになれば、縦的な神様が降りてきます。降りてくる力の運動が起こるのです。すべてのものは、球形を中心として作用することで、存在するようになっています。ですから、皆様の体と心は誰に似たかというと、神様に似たというのです

それでは、神様の心と体は、堕落した人間のように争いますか。争いません。それでは、なぜ人間は争うのですか。故障したというのです。事故が起きたというのです。これをキリスト教では堕落といいます。何の故障ですか。腕を一つ切断されても生きます。脚が切断されても生きられます。神様か最も嫌うことは、愛の秩序を破壊することです。アダムとエバが堕落したのち、下半身を隠しました。これが問題です。縦的な真の愛の父、そのお方が創造主ですが、人間が堕落しなかったなら、縦的な位置は九〇度です。男性と女性も、真の愛に通じる道は直短距離です。天地が通じる真の愛の道は直短距離なので、垂直の前に九〇度にならざるを得ないというのです。球形の一番高いところはどこかというと、その中心です

皆様は、あらゆる存在の中心存在になりたいと思います。なぜでしょうか。そこに行ってこそ、神様の愛に接することができるからです。神様の愛に接すれば、どうなるのでしょうか。神様が私のものになり、神様が所有されたすべてのものも、私のものになります。男性と女性が結婚するのは何のためですか。愛のためです。愛して、何をしようというのですか。中央に行って神様と愛の関係を結ぶことによって、神様を私のものにし、神様の愛を私のものにし、神様の所有を私のものにしようというのです。愛を中心として相続権が連結されるのです。その次には、同居権、永遠に共に暮らすことができるのです

ですから、真の愛が動くところに永生があるという論理を立てることができます。永生がどこにありますか。息を永遠に吸い込んでもよく、永遠に息を吐いても幸せだというのです。そのような愛を中心として呼吸する世界に、真の愛の永生があるのです。そのような父母を通して愛を受け継いだ「私」です。ですから、男性も女性も、愛をもっていない人はいません。男性も女性も父母の血肉を受け継ぎ、父母の生命を受け継いだので、みな愛をもっていて、生命と血統をもっているというのです

万教の平和基準と愛の道

心とは何ですか。縦的な神様の愛と血統を通して受け継いだ、内的な「私」です。内的な私は、縦的な私です。それでは、体とは何ですか。堕落しなかったなら、本然の根本理想を受け継いだ私は、九〇度に立つようになります。堕落しなかった真の父母の愛と生命と血統を受け継いで生まれれば、体と心が一つになった人になるのです。一つは心的な内的神様を中心とした人格、もう一つは体的な外的父母を中心とした人格です。そこにおいて、その二つは、愛を中心として生命と血統を中心とした男性と女性の混合的な統一圏を形成します。ですから、神様に似たものが心なので、心は内的な私だというのです

宇宙の秘密が何であるかと祈祷してみると、答えは簡単でした。父子の関係だというのです。父子の関係が、ただ形だけの父子の関係ならば、堕落した世の中にもあります。父が子女を売り、子女が父の命を奪う世の中です

堕落とは何ですか。神様の最も貴いものを盗んだのです。悪魔の行為です。最も貴いものとは何かというと、愛と生命と血統ですが、これを汚したというのです。ですから、歴史時代において神様が最も嫌うものは淫乱です。ローマが滅びたのはどうしてですか。外敵の侵略によって滅びたのではありません。淫乱のためでした。悪魔が淫乱で悪をばらまいたので、人類が世界的に淫乱の風に巻き込まれていくときは、鉄槌が加えられるのです

教団がそのようになるときは、教団が滅びていき、国がそのようになるときは国が滅びていき、歴史がそのように誤れば、その歴史の方向がみな壊れていくのです。誰がそのようにしますか。そのようにしたのは人間ではありません。国ではありません。神様が嫌うので、そのようになったのです。今まで救援してきた神様は、理想的な神様ではありません。堕落がなかったなら教主を教育し、導かなければならない神様ではないのです。ですから、真の宗教を求めなければなりません。宗教において求めるのは本当の神様です

神様は何をもって生きたいかというと、愛を中心として生きたいというのです。答えがそれです。何の愛でしょうか。神様と同様に心と体が九〇度で一つになり、完全に一つになった愛です。何が神様の心を統一させることができますか。真の愛です。それでは、真の愛とは何ですか。完全に犠牲になり、一〇〇パーセント投入しては忘れる愛です。そうでないとすれば、神様は今まで、人類が歴史時代に誤ったものを見て、耐えることができたでしょうか。世の中の人であれば、みな抹殺してしまったでしょう

真の愛は堕落した世界に一つだけ残っています。縦的な基準だけが残っています。それは、父母が子女を愛する愛です。神様の代身の立場で、それだけが地に残っているというのです。ですから、救援摂理も可能です。幸福がどこにありますか。皆様の心にあるのです。神様御自身も何を中心として生きたいと思うでしょうか。真の愛を中心として生きたいと思うのです。真の愛をもった男性と女性と、共に生きたいと思うのです。父母は子女たちを共に抱きたいと思います。神様は、真の愛をもった息子、娘をこの地でかき抱いて生きたいと思うのです

神様の人間救援の目

仏教の僧侶たちが、「文総裁は釈迦より偉いと言っている」と言って、大騒ぎしました。「イエス様より偉い、孔子より偉い、誰よりも偉いと言っている」と言って、宗教者たちが大騒ぎしているのです。一生涯において、教主の中で私ほど働いた人がどこにいますか。私は世界中の国々から反対を受けても、基盤を築き上げました。一代を中心として見るとき、私ほど仕事をした人がいません。それを人間の力で行ったとすれば、既に死んで久しかったでしょう。私利私欲のために働いたなら、そうなったでしょう。善の道である統一教会の行路は、愛を通した理想を中心として行く道です。個人的愛観、家庭的愛観ではありません。統一教会の愛観は垂直です。垂直的愛観をもって、思想的観を変えなければなりません。垂直的観を備えた水平の愛です。これが分かるので、民族を超越し、人種を超越するのです

統一教会の信者たちは、日本人もアメリカ人も、「あなたは黒人と結婚しなさい!」と言えば、喜んで結婚します。なぜでしょうか。何千年前に失った兄弟を取り戻すことだからです。知ってみれば、彼らは私の兄弟です。顔が黒いためにどれほど苦労したのかと言いながら、抱きかかえて泣きます。そのように痛哭から始まります。その痛哭を忘れることはできません。何がそのようにするのでしょうか。真の愛です。統一教会はそうです。私は賢い人です。世界の優れた人に会い、理論的に論じてすべて信頼を勝ち取った人です。ですから、世界の宗教指導者たちは私のことを好みます

理論に合わない教理は、二十一世紀に必要ありません。理論に合わず、現実生活に利益をもたらすことのできない宗教は、必要ないというのです。統一教会の信者たちはそうです。無邪気に見えますが、むやみに見過ごしません。神様だけでなく、神様の心情を論じます

神様は世界の救援が目的なので、家庭を犠牲にさせても神様の民族を取り戻そうとします。国家を犠牲にさせても世界を救おうとします。この地上の世界を犠牲にさせて、万代の霊界に行ったすベての霊人たちを解放しようとします。そして、最後には神様御自身が解放されなければならないというのです

私はそれを知ったので、十字架を背負うのです。「世界の宗教界において、分かった人が十字架を背負うべきだ」と言いながら、四十年の年月を風霜に苦しんだ男が、ここに立っているこの人です。その気迫を見れば、天地を塞いで余りある気迫です。私は神様のみ旨を知るようになったときから、統一教会を犠牲にさせてでも、万教を犠牲にさせてでも、世界救援をしなければなければならないと唱えたのです。ですから、統一教会に使う予算より何百倍も多くのお金を投入して、超教派運動、宗教連合運動をしています。そして、世界舞台では宗教財団をつくって、莫大な資源を投入しています。統一教会の人々は心血を注ぎ、その仕事をしているのです

世界のために投入します。神様のように投入すれば、蘇生の春の日、歓喜の愛の理想を中心として踊りを踊ることのできる、本然の理想世界が訪れることを知っているからです。このことのためには、十字架を東で背負おうと、西で背負おうと、家で背負おうと、必ず人類のために誰かが背負わなければならないというのです。そのようにしなければ、くぼみにたまった腐った水はきれいになりません。このような思想をもって生きる人たちが、統一教会の人々です

興亡盛衰の道は、ために生きることから分かれます。自然科学の力学で入力と出力を見れば、いつも入力が出力よりも大きいのです。しかし、愛の世界では入力よりも出力が大きくなります。愛があることによって、壊れていく世の中で均衡を取ることができるのです。ために生きて犠牲になる基盤と、ために生きて、さらにために生きたいという心をもつ真の愛の伝統を受け継ぐところでのみ、この世の中を収拾することができます。それが天理です。ために生きる道は、孝子の愛の道です。忠臣の愛の道、聖人の愛の道です。聖人の愛は人類のための愛です。聖子は天地を愛し、天の王宮法まで守ることができます。神様まで心情的に侍ることができるのです。そのような縦的な立場をつかまなければなりません

聖子の道理と神様の愛の道理を学ばなければ、万教の平和の基準を見いだすことができません。これこそ宗教協議会が到達すべき目的地ではないかと申し上げつつ、これで終わりたいと思います。ありがとうこざいました。

 

10.真の愛の伝承と伝統

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

10.真の愛の伝承と伝

日付:一九九〇年八月十六

場所:アメリカ、サンフランシスコ、ハイアッ卜E/span>リージェンシーE/span>ホテ

行事:第二回「世界宗教議会

尊敬する議長、そして全世界からお集まりになった宗教指導者と学者の皆様。私たちの宗教の伝統を、若者たちと社会に伝承する問題を主題として開催される、第二回「世界宗教議会」に参加した皆様を心から歓迎するものです

この重大な人類史の転換期において、私たち全員が摂理的な召命を共に受けていると確信する私は、格別な感慨と期待をもってこの場に立ちました

よく御存じのように、偉大な宗教の創始者たちは、無理解と深刻な迫害を受けなければなりませんでした。彼らは肉体的E/span>精神的迫害と死に対する恐怖までも克服し、真理の道を切り開きました。しかし、宗教が実際に歩んできた道は、その創始された本来のみ旨を離れて、時として分裂と矛盾を見せ、宗教間の葛藤と戦争もたくさんありました。今日の世界においても、誤った宗教的情熱と形式だけの信仰が社会問題にもなっています。これは宗教の真の目的でないことは明確であり、またこのような誤った伝統を伝承させることはできないのです

それでは、その真の目的は何であり、後代に伝承させるべき伝統とは何でしょうか。宗教の目的を正しく把握するためには、神様の創造理想を先に知る必要があります。永遠絶対の神様に、創造はなぜ必要だったのでしょうか。神様に絶対に必要なものとは何でしょうか。物質や知識、あるいは権力でしょうか。そのようなものは、神様が願いさえすればいつでも創造なさることができ、神様御自身が自由に調節できるのです。しかし、真の愛だけは、神様も御自分の意のままにできません。すなわち真の愛は相対圏を通してのみ見いだすことができ、一人だけでは刺激を感じることができないのです。これが、神様が相対的な被造世界を必要とした理由です

神様は、真の愛の理想のために世界を創造されました。鉱物界、植物界、動物界を観察してみると、たとえレベルは違ったとしても、すべて愛の理想を中心として、相応、和合できるようペアE/span>システム、すなわち主体と対象で創造されていることを知ることができます。そして、人間は被造世界の中心であり、最高レベルとして造られた神様の最も近い愛のパートナーです。このように人間は、神様の真の愛の対象として、人間がいなければ、神様の真の愛の目的は成就されないのです

神様は、その創造理想である真の愛を最高の絶対価値としてお立てになりました。絶対的な神様だとしても、真の愛の前には絶対的に服従したいと思うのです。神様がこのような方なので、人間と万物もその真の愛の前に絶対服従するようになるのです。このような点で、神様の真の愛の相対である人間の価値が、どれほど貴いものなのかを知ることができます

神様の創造理想は、ために生きる愛から始まり、ために生き、また与え続けても記憶しない、そのようなところで真の愛が成立するのです。太初に神様は無限に投入することで創造し、そのために生き、投入するその原理によって被造世界が和合し、授受の運動をしながら、永生、永存するようになっています

人間がなぜ生まれたのかというと、ために生きる原理によって生まれました。すなわち男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれました。神様の創造理想であるために生きる原理で存在するようになった真の愛を享受しようと、男性と女性はお互いのために生まれ、夫婦になり、縦的には神様の愛を所有するために生きるのです。これが、すなわち男女が存在する目的です。結婚しようとする男女は、自分の相対となる人が優秀であることを願うものであり、父母は子女たちが自分より優秀で、立派であることを望むのです

このような希望は、神様から由来したものであり、誰もが真の愛を中心としてそのように願うのです。同じ理由で、神様も愛の相対が御自身よりも優秀なことを望むからなのです。したがって、神様も一〇〇パーセント以上を投入し、また投入したいと思うところから、真の愛が継続して存在するのです

真の愛の起源である神様は、父の立場から人間に絶対不変の真の愛を相続しようとされたのです。真の愛の中では完全調和と統一が達成されるので、神様の真の愛は、その対象である人間に完全に相続されるのです。それだけではなく、このような真の愛の属性によって相続権、同居権と同参権も自然に生じるので、人間も神様の子女として、生死を共にすることができるようになっていました。また、人間の相互間においても、真の愛を中心として相続権、同居権、同参権を享受するようになっています。そうして、人間は神様の真の愛を中心として、各自の理想と幸福を所有しながら、また自然にこれを先代から後代に伝承するようになるのが創造本然の世界でした

しかし、現実世界は、神様が理想とされていた本然の世界ではなく、罪悪と闘争と苦痛に満ちた地獄世界になりました。自然界と霊界は、本然の秩序の中にありましたが、ただ人間始祖だけが病気にかかり、むしろ自然界と霊界にまで害を与えています。このように病気にかかって故障した人間世界について、宗教的には堕落したと表現します。神様はこのような世界を原状に戻そうとする救援摂理をされるようになり、またその救援摂理は復帰摂理であり、すなわち再創造摂理だと、私は今まで教えてきました

天意に従って、復帰摂理の主役を担ってきたのが宗教です。宗教は、神様の真の愛と真の父母思想を中心とした本然の理想的な家庭、さらには理想的な世界を復帰する目的をもっているのです。メシヤの使命を、神様の愛を実現する真の父母の使命として理解する場合、私たちはこの使命を追求し、成就するために召命を受けています。またメシヤの使命は、今まで神様に反対してきたサタンを追放し、その文化生活圏を追放し、またその血統を天の側に転換させることによって、神様を中心とした理想世界に変えなければならず、実際にそれがすべての宗教が遂行すべき、宇宙史的な使命なのです

聖書に記録された神様の最初の息子と娘だったアダムとエバは、神様の真の愛の中で育ち、また結婚の祝福を受けて罪のない子女たちをもつことによって、彼ら自身が真の父母となり、直接天国に入っていくようになっていたのです。そのようになっていたならば、この世界は地上天国となり、神様の真の愛と神様の生命と神様の血統を受け継ぎ、永遠な神様の理想家庭がつくられ、国家と世界まで神様が直接主管する血族になっていたでしょう

ところが、アダムとエバが未完成期に天使長と不倫な性的関係を結び、天使長はサタンになり、アダムとエバは悪の先祖になって、死亡の世界が始まったのです。すなわち、この世界はサタンの血族になってしまったのです

このようにサタンは淫乱の神となったため、神様は淫乱を最も嫌われます。ソドムとゴモラ、ローマ、そして今日のアメリカとヨーロッパも、淫乱で滅びていく時に遭遇しました。アダムとエバが青少年期に淫乱の種を蒔いたので、今日、青少年たちを通して淫乱の実を刈り取られるのを目撃するとき、私たちは終わりの日になったことを知り得るのです。人類はサタンの愛、生命、そして血統から解放されようとするので、真の父母を再び探さなければなりません。そのお方が、正にメシヤとして来られるお方なのです

アダムとエバが堕落して、本然の責任を果たせないことによって、神様は真の子女を失い、人類は真の父母をもつことができない一大悲劇がもたらされたのです。その結果として、神様の真の愛と真の父母理想を具現する実体がなくなりました。この悲劇的失敗を正し、原状回復をするように指導する目的のもとに、神様は宗教を立てました

これに対し、メシヤは真の父母として、これまで偽りの父母が植えた偽りの根を抜いてしまい、本然の創造理想を復帰する重大な責任をもってくるお方です。神様は、宗教を創設し、メシヤを遣わすことが本当の理想ではありませんでした。神様の不変の目的は、真の愛の家庭と国家と世界の実現です

宗教はこの目的にどれほど寄与するかによって、その価値が付与されます。このような点から見るとき、宗教の目的が達成されれば、真の愛と真の家庭が現実化されるのです。これと反対に、このような目的に寄与せずに、その宗教自体だけのために存続する宗教は、たとえ神様を口実にしても、神様とは関係がないのです。人間の家庭を見ても、血縁と兄弟関係は父母を前提としてこそ存在します。この世の中が真の愛と真の家庭の領域に入るためには、まず真の父母の位置が確立されなければなりません。正にこの使命を果たすために、神様は私を召命しました。この目的のために、私はすべてのものを捧げてきたのです

私が世界的に展開している統一運動をはじめとして、超宗派的な活動はもちろん、学術、教育、言論、科学技術、企業、金融など、各分野で展開してきたすベての事業も、すべてこの目的のためです。私は苦難と迫害の峠を越え、死地をかき分けてきながらも、自分を生んだ父母よりも、自分の兄弟よりも、世界の五色人種を愛そうという、ために生きる父母の心をもって生涯を生きてきました。真の愛が訪ねていく道は直短距離を通るようになります。真の愛の実践には、前提条件や言い訳があり得ず、そのどのようなものも障害になりません。ただ自己犠牲によって、ために与える道のみを直行する道です。全人類が真の父母を迎え、真の愛の生活をしない限り、世界平和は実現されません。真の父母の理想と世界平和の理想は直結しています。すべての国家と民族と文化と宗教が、互いに一〇〇パーセント以上ために生き、寛容でありながら、和合することによって、世界平和を成し遂げなければなりません

尊敬する宗教指導者の皆様。私はきょう、皆様の前に「世界平和宗教連合」の創設を唱えます。根幹の外的な世界情勢は冷戦の終息、東西和解に進んでいます。対決と分裂を克服し、人類一兄弟、世界一家族として和合していく統一の時代を指向しています

二十世紀を締めくくる最後の十年は、神様が人類に本然の世界へ復帰できるように許諾した貴重な機会です。私は既に去る六月一日、外的基台として「世界平和連合」の創設を提唱し、アメリカ、ソ連など、世界各国の指導クラスの要人数万人が呼応してきています。この機構の目標を達成するための内的基台が存在しなければならないのですが、それが正に「世界平和宗教連合」です

数多くの人々が真の和合と一つの世界を成し遂げるために苦労してきましたが、どうして真の調和一体の世界がまだ成就していないのでしょうか。誰もが和合を願いますが、真にその動機がどこから来るのか知らずにいるのです。真の和合と一体の動機は、自分の相対、息子、娘、隣人、国家、世界のような相手側にあるのではありません。自分自身にあるのです。自らが本心を中心として、調和一体を成し遂げた心と体をもつ和合の実体になったかどうかが問題です。人間が神様と真の父母の心情をもつようになるとき、初めて人のために生きることができ、また相手と真に和合する真の愛が中心となった生活を貫くことができます

これらは信仰の領域です。究極的平和世界の実現のための宗教の役割は絶対的なので、これから宗教者たちが宗派の壁を崩し、神様が願う目的のもとで、連合された力によって世界平和具現に立ち上がらなければなりません。世界平和のための宗教者の役割が不足だったことを自省し、世界和合の動機であり根本要素である真の愛を、宗教の中で啓発し、これを実践する「世界平和宗教連合」運動を大々的に展開すべきときです

尊敬する宗教界指導者の皆様。神様は宗教者たちの実践と模範を求めています。宗教のために神様が存在するのではありません。世界のために生きる本然の状態に回復させようとする、神様のみ旨を成就するために宗教が立てられました。神様がこの時代を経綸するために願われる宗教は、真の父母の宗教です。真の父母の心情を抱いた宗教、真の愛を実践する宗教こそ、葛藤と不正に満ちた今日の世界において、神様のみ旨を実現する宗教になるでしょう

歴史的に見れば、今まで養子レベルの宗教、庶子レベルの宗教、子女レベルの宗教などの各レべルの宗教があります。しかし、そのどのレベルを問わず、宗教は自分の宗教が第一であり、自分の宗教を通さなければ世界平和を成し遂げることができない、という偏狭性から抜け出さなければなりません。そうして、すべての宗教の教えは、究極的に真の父母レベルの宗教に吸収され、統合されなければならないのです。そのようになれば、すべての宗教が体験している宗教の斜陽化も終わるのです。真の愛を中心として絶対的にために生きる立場に立った宗教は、互いに統合して世界平和を成し遂げるために、そして地上の天国のために前進するでしょう

このようなことを知れば、私たちは今、世界が直面した深刻な問題を解決するためにも、真の宗教者の実践生活を見せなければなりません。世俗化された信仰から生活信仰に変える問題から、混乱した価値観の再確立、荒廃した人間の本性の回復、道徳基準の高揚と退廃文化の清算などの問題の解決は、すべて永遠の神様の真の愛と真の父母様の真の愛主義によってのみ可能になるのです

今日、世界の若者たちは、私たちの前に置かれた、このような偉大な機会を直感的に認識していると思います。宗教指導者としての私たちは、今日の若者たちに対して真の師の役割を果たさなければなりません。永遠に不変な絶対価値の基準である真の愛を指向して、私たち自らの心身の統一はもちろん、唯心論と唯物論の世界までも連結、統一させなければならないのです。そのことこそ、世界平和の土台をつくることになります

このような基盤の上に、私たちは内的世界である宗教界を統一し、外的国々を統合して、結局は永遠の世界平和を成し遂げなければならないのです。このような目的を達成するためには、すべての宗教者たちが、男女を問わず責任的役割を果たさなければなりません

多くの若者たちが真の愛に飢えています。他のために生きる人生を実践するのが真の愛です。したがって、宗教指導者である私たちが、神様の真の愛と真の父母様の絶対価値の道を手本として見せなければならず、宗教の伝統も真の愛の道に進む姿を見せなければなりません。そのようになれば、神様と人類が一つになって新たな希望の世界に前進するようになり、神様の創造理想も達成されるようになるのです。したがって、新しい時代が開かれたことをはっきりと見せましょう

結論として、今回の大会の期間、皆様の活発な議論が、神様のみ旨のもとで真の宗教の具現と真の愛の発見に連結され、世界平和に対して大きく寄与することを願います。神様の祝福が常に共にあることを祈ります。

 

11.イスラームと世界平和の定着

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

11.イスラームと世界平和の定

日付:一九九〇年十月二十一

場所:エジプト、カイ

行事:世界宗教協議会イスラー厶指溥者会議(代読)

尊敬する宗教指導者、学者、そして内外の貴賓の皆様。このように重要な会議に参加してくださった皆様に、心から感謝申し上げます。平和のための本会議を、開催直前にお知らせしたにもかかわらず、このように参加してくださった皆様の歩みは、神様の大きな喜びになると思います

平和の根源は神

皆様も御存じのように、私たちは驚くべき緊張感の中に囲まれています。政治および経済的対立と歴史的怨恨が極に達し、ついには、誰が見ても私たち人間の生存が大きく脅威にさらされていることが分かります。被造万物のように人間も絶滅の危機を迎えており、緊急な対策を講じなければなりません。これこそが、私たちがあらゆる分野で多大な活動を見せている理由でしょう

残酷な悲劇を防止しようとする努力の一環として、指導者たちは自分たちの良心作用によって必死に解決策を模索し、ある者は軍事的解決策を、また他の指導者たちは政治や経済的解決策を提示します。しかし、そのような解決策は、一時的に平和に寄与するかもしれませんが、恒久的な平和を定着させるための根本的な代案には、決してなり得ません。真の宗教者と信仰者だけが闘争の本質と原因を理解することができます。そして、無秩序の真の原因を知る人だけが、このような問題を解決することができます。そのため、このように緊急に皆様に会議の参加を要請したのです

もちろん地上の平和には、究極的に人間の政治、経済、言論のようなあらゆる分野からの洞察力が必要です。しかし、平和の根源は神様にあり、その平和は、自分たちの人生を神様のみ旨に合うように生きる人々を通して、この地に実現されます

世界平和は、究極的に神様のみ旨に対して、人間が従順に従うかどうかにかかっているということを悟った私は、既にかなり前に「国際宗教財団(IRF)」を創設しました。統一運動の草創期から、私は常に私たちの財源の大部分を、他宗教のために捧げてきました。大部分の統一教会の信者たちが、十分に食べることもできなかった一九五〇年代には、宗教間の和合のために私が使う資金について、彼らが不平を言いました

私は、統一教会の信者たちが苦労する姿を見るのがつらかったのですが、サタンが人類の未来を破滅させるために、究極的に人種間の紛争や宗教戦争を起こすという事実をよく知っていたので、忍耐して耐えていこうと、お願いしました。宗教者たちの間に真の愛と和合と協力を強調しながら、四十年以上の間、私は「国際宗教財団」に、あらゆるものを捧げました

あらゆる高等宗教から「国際宗教財団」の偉大な宗教指導者および平和の仲裁者たちは、今やサタンの計画を未然に防止し、恒久平和を切り開くべき偉大な使命をもちました

皆様がよく御存じのように、サタンは人類を破壊と暗黒に追いやるため、常に攻撃してきました。今世紀にかけてサタンの計画は、神様を否定する共産主義を通して攻撃することでした。国家の抑圧と統制によって、全体の国民には神様の真理のみ言の聴取が禁止されたのです。神様がいない社会を建設するという名分のもとに、数百万人を虐殺しました。この反逆者、悪魔サタンの計画は、六十年以上の間、繁栄し、世界の三分の二を制覇しましたが、いかにして、今この帝国が一日で没落するようになったのか、政治学者たちでさえも説明できずにいます。しかし、霊的な洞察力をもった方々は、それが神様のみ業だったのであり、天法に従って生きる方々の力がその原因になったという事実を、はっきりとお分かりになるでしょう。また、ついにはサタンを屈服させて、邪悪な恐怖政治を終わらせるようになることを、はっきりとお分かりになるはずです

サタンは人類を破滅させるために、最後の大攻勢を展開しています。その戦略は、共産主義よりも一層悪辣で脅威となる二つのもの、すなわち宗教戦争と人種間の紛争を起こすことです

今日、私たちが、正にそのような破壊的な人種間紛争が起きる直前の危機に置かれていることが誰にでも分かるでしょう。もし、そのような問題が勃発して人類を暗黒の中に追い詰めるならば、人類は蹂躙され、破壊された地球星で、辛うじて生を維持することになるでしょう。また氏族、宗教、民族が、彼らの思考を自分たちだけの利益にのみ限定させるならば、利益を得る唯一の存在は、神様の敵であり、人類の敵であるサタンだけでしょう

このような理由ゆえに、永遠であられる神様は、この二つのことに関心をもっていらっしゃいます。なぜ神様は預言者に預言を与え、世界の宗教を立てるのでしょうか。もちろん、それは堕落した人間を神様のもとに帰ってくるようにして、その祝福のみ旨と完全に一体となった一つの平和世界をおつくりになるためです

人間は世界に対して、神様が展開しようとされた理想を知らなければならず、なぜ神様が預言者たちに啓示を下さったのか、その理由を知らなければなりません。どこの誰も言葉だけでなく行動において、神様の根本理想を預言者ムハンマドよりも深奥に表現した人はいないでしょう

限りない愛をもたれた神様は、いくら取るに足らない人だとしても、その人の滅亡を願われないでしょう。宗教間の闘いが神様の希望と正反対になるという事実を知っても、私たちが知らないふりをしてやり過ごしたとすれば、どうなるでしょうか。純真無垢な子供たちを破滅させ、人類を言うに言えない暗黒世界に引きずり込もうとするサタンの計画に、私たちの力を貸す結果になるでしょう

人種間の紛争においても同じです。私たちは一つの先祖から生まれた一家族です。神様は、すべての人種が一つの兄弟姉妹として、調和をつくりだして生きることを願われます。預言者ムハンマドはこの事実をよく知っており、歴史もまた、彼が生涯を通してこれを理解していたことを明確に見せてくれています。人種と宗教の間の平和と和合と協力のために、神様の全体の計画を知らせることが、この時代の私たちの至上課題です

神様が啓示した真理の一部分だけを追求する人は、他の人々に本来のみ旨とは逆のことを伝播して神様に背くようになります。私たちは、神様の啓示を理解するために、私たち自身を宗教指導者や霊的な指導者たちに任せたように、完全に大衆や政治、経済、そして軍事指導者たちに頼ることはできません。人類は神様の起源と平和および兄弟の幅広いビジョンについて、教育を受けなければなりません。今世紀の人類歴史にあって、宗教戦争や人種間紛争以上に、神様に大きな苦痛と不快感を与えるものはないでしょう

神様とサタンの対決の場である中

地球で最も深刻な緊張感が、どうして中東で繰り返しているのでしょうか。軍事的侵略者が偶然に、中東のある国家から出たからですか。でなければ、中東地域が、石油が豊富だからですか。違います。いくら鋭利な分析力をもった天才だとしても、また歴史と政治の知識にいくら通じていたとしても、それに対するより深い現実的原因を説明するには足りません。これは正に、この地域が神様とサタンが対決を繰り広げる所だからです

中東の多くの預言者が神様の啓示を受けました。神様のメッセージは、単純に中東の人々だけのために予定されたのでしょうか。もちろん違います。神様のメッセージは、世界のすべての人々の人生を導かれるために下さいました

したがって、中東の現在の緊張と衝突は、この地域の人々だけの問題ではありません。全世界の運命が中東の発展にかかっています。神様のビジョンを全世界の人々が活用できるように、偉大な預言者たちは、闇の勢力と戦わなければなりませんでした。それと同様に、皆様の平和仲裁者の使命は、宗教戦争と人種間の紛争で世界を支配している悪魔の力を否定し、全世界の平和のために神様のみ旨を知らせることです

人類歴史は、善と悪の絶え間ない闘争歴史でした。神様の愛と心情に一致した社会と人間の生に復帰する過程では、当然のことです。私たちがこの過程をもう少し詳しく調べるならば、偉大な聖人たちや預言者が悪の勢力を屈服させた原理が分かります。サタンは常に神様より先にその勢力圏を形成します

そして、サタンはその強い力で神側を攻撃し、神様のみ旨を破壊しようとします。サタンが常に先行します。勢力圏の形成も先であり、攻撃も先です。実際、攻撃はサタンの専有手段です。攻撃を先に受ける側は、いつも神側です。それにもかかわらず、神様は原理に従って準備をします

天の側は先に攻撃を受け、苦痛と犠牲を克服して繁栄しました。言い換えれば、天の側は犠牲の代価を払い、不義に打たれながら、道理に従って勝利してきました。皆様は、預言者ムハンマドが生きている間、彼をマッカ(メッカ)から追放させた悪の勢力たちをよく知っています。ムハンマドがすべての氏族と民に、平和と兄弟主義に立脚した希望のメッセージをもたらしたとき、悪を中心とした政府勢力は、神様の使者とその追従者たちの命を奪い取ることに彼らの力を動員しました

そのため、イスラームを信じる群れは、これらの侵略と不義に耐えなければなりませんでした。神様の「打たれて復帰してくる法則」によって、ムハンマドと彼の追従者たちは、これらの勢力を完全に屈服させることができたのです。結局、ムハンマドは栄光ある勝利者として、カアバ(KAABA)に帰ってきて、それを神様に捧げました

しかし、彼についての話は、神様のこの原理を示す単純な話ではありません。イエス様とアブラハム家庭、そして他の預言者たちについても、それは同じでした。実際、皆様が今日の世界のどのような宗教を調べても、その宗教が正に打たれて復帰してくる自己犠牲と蕩減の原理によって繁栄したという事実を、明らかに知るようになるでしょう

このように攻撃されたからといって、全知全能であられる神様が、そのやり方を変えるだろと考えるとすれば、それはどれほど愚かでしょうか。真理は決して変わりません。第一に、攻撃はサタン側に属し、第二に、天の側は攻撃を受けても忍耐し、蕩減と犠牲を払ったあとに勝利を得るのです

この二つの事実は、政治、経済、軍事学などの基本原理を越えた真実であり、永遠の真理です。その唯一の真理は、すなわち神様の真理であり、復帰の法則になるでしょう

打たれて取り戻してくる戦法を通した復帰と勝利の原理以外にも、不変の歴史的原理がありますが、それは神様が常により大きな目的のために生きる人々を支援するということです。例えば、自分自身のためだけに生きる人と自分の家族のために生きていく人々がいるとすれば、神様は自分の家族の利益のために生きる後者を支援するでしょう。家族のために生きる人は、自分以外の家族のために自らを犠牲にするからです

一方で、自分の家族のために生きる人と自分が生きる地域の利益のために自らの愛する家族を犠牲にする人がいるとすれば、神様は地域のために生きるその人を後援するでしょう。これもやはり、神様の変わらない真理です

一方、私たちはこの原理を知って、その原理に従って生きた標本として、預言者たちを挙げることができます。預言者たちは、自らの氏族や部族のために生きましたか、でなければアラブ民族のために生きましたか。そうではありません。彼らはある特定のグループや氏族に限定されず、常により高次的な目的のために生きました

預言者たちのメッセージは、神様と霊的に交流するすべての貴重な方々のためのものでした。もし、最も偉大な人が私たちの中にいるとすれば、彼は世界のために最後まで努力する人でしょう。また、最も大きな目的があるとすれば、それは神様のために生きることです。神様にどれほど近づきつつあるかを調べてみる最も良い方法は、自らの言葉と生活がより大きな目的のためになっているかを調べればよいのです

すべての行為は、人類全体の利益のためのものでなければなりません。単に一団体や一つの民族、宗教あるいは氏族だけのためのものではいけません。神様に最も近い人がいるならば、全体の利益のために生きる人でしょう。ですから、中東の現状が一時混乱するとしても、私たちは、あらゆる分析と洗練された解釈に依存しようとする誘惑に打ち勝たなければなりません。私たちに重要なことがあるとすれば、神様の摂理の原則、すなわちサタン側は攻撃をし、天の側は全体目的のために個体を犠牲にするという法則が、決して変わらなかったということを記憶することです

宗教間の紛争解決の

宗教指導者たちだけが、このような真理と平和の方法を知っています。したがって、私たちは神様のみ旨と神様の原理を知らせる伝達者にならなければなりません。平和は私たちにかかっています

私たちは、現状について、私たちの同志、すなわち私たちの意見に従う政治および軍事指導者に話をするとき、どちらか一つの国家の利益を考えるのではなく、何が全世界のために最も利益になるのかを考えなければなりません。また、私たちは一様に、真の愛に立脚して、人のために生きていかなければなりません

この時代、最も大きな不幸は、中東でのユダヤ教とキリスト教、イスラーム間の戦いです。アメリカだけでなくヨーロッパ、中東など、全世界がこの点を悟るべきでしょう。私があらゆる国の指導者たちに、このメッセージを送る理由がここにあります

人はただ一つの目標のために生きなければなりませんが、それは中東の状況を宗教間の紛争から保護し、安全にすることでしょう。宗教指導者である私たちに、最も大きな責任があります。中東紛争が平和的に解決されるよう、私たちがあらゆる力をすべて注ぎましょう。私は今までお話し申し上げたとおり、平和のために夜も昼も心から祈ります。宗教指導者の皆様も、一緒に同参してくださることをお願いいたします。

いま一たび、神様と人類の平和のための皆様の神聖で崇高な愛に衷心から感謝申し上げながら、皆様と皆様の家庭とこの世界に、神様の祝福が常に共にあることを祈ります。ありがとうございました。

 

12.平和世界のための宗教の使命

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

12.平和世界のための宗教の使

日付:一九九一年八月二十七

場所:韓国、ソウル、リトルE/span>エンジェルス芸術会

行事:「世界平和宗教連合」創設大

尊敬する各教団の最高指導者の皆様。世界各国から来られた宗教学者と宗教界の指導者、そして満場の宗教者の皆様。私は一九八五年、アメリカのニュージャージー州で開催された第一回「世界宗教議会」の際に、創始者演説を通して三つのお願いをしました

一つ目は、各宗教の伝統は互いに尊重しなければならず、少なくとも宗教相互間の衝突や紛争を防止するために努力すること、二つ目に、私たちは、宗教共同体として協力しながら世界に奉仕すること、三つ目は、宗教の使命を完遂するために、すべての宗教指導者が参席し、世界平和のための一つの組織として発展しようという内容でした。そして、ちょうど一年前、アメリカのサンフランシスコで開かれた第二回「世界宗教議会」において、私は「世界平和宗教連合」の創設を主唱しました。皆様を含めた志のある宗教界の指導者たちの協力とともに、きょうこの場において、世界のあらゆる宗教の指導者たちが同参し、世界平和のための宗教連合体が歴史的な誕生を迎えるのです

今は、世界の宗教が世界平和の実現のための中心的責任を果たすために、積極的な実践の道に立ち上がるときです。幸福な人類の未来は、物質的繁栄を追求することだけで実現されるのではなく、宗教間の理解、精神的な和合を通して思想と文化、人種間の葛藤を克服してこそ迎えられるのです。ここで私は、「平和世界のための宗教の使命」という主題でお話しし、「世界平和宗教連合」の創設メッセージに代えようと思います

神様の真の愛を中心とした、他のために存在する利他主義的創造理想とは、心と体が調和一体をなした理想体としての個人を通して、理想的な家庭、社会、国家、さらには理想世界を成し遂げるというものです。しかし、人間は堕落することによって、その心と体がサタンの偽りの愛を受け、自分を第一と考える個人となり、このような人々が集まった家庭、社会、国家、世界は、立体的に増幅された葛藤と紛争を自体の矛盾としてもち、相互不信と分裂、闘争をするようになるのです。言い換えれば、サタンの願いである自己中心主義によって、民主世界は個人第一主義化され、サタンと人類は滅亡に向かうのです。これを救うために、神様の真の愛を中心とした「頭翼思想」と「神主義」が必要なのです

私たちの社会と世界の紛争が、サタンの偽りの愛による個体の中の心身の葛藤から始まったので、真の平和は、神様の真の愛によって、まず個体の中の和合統一を通してのみ達成されるのです。平和世界を実現すべき基地は世界ではありません。心と体がサタンの主管圏を超えて、神様の真の愛で調和一体を成し遂げた個人、さらにそのような男性と女性が夫婦として結合した家庭が、すなわち世界平和を生み出す場になります。偽りの愛によって心と体が一体化できなかった堕落の結果は、私たちをして生活の中で縦横、多方面で心的な面と体的な面との分裂、葛藤、混沌を経験させます。例えば、個人や社会の価値の体系が、精神と物質、宗教と科学、唯心論と唯物論、理想と現実の間で、多くの混乱を経てきました

創造理想によれば、心と体が理想的な神様の真の愛によって、個体の中で和合一体を形成するように、心と体の拡大の連結である心的世界と体的世界も、相克や闘争の関係ではなく、神様の真の愛で調和しなければなりません。心的世界を代表するものが宗教と思想の領域ならば、体的世界を代表するのは政治と経済の領域です。しかし、人間において心が主体であり体が対象であるように、宗教と政治の関係も、主体と対象の立場において、神様の真の愛で調和統一圏を成し遂げてこそ、理想社会が到来するようになるのです

それでは、神様が聖人や預言者たちを地上に送られた目的とは何でしょうか。神様が願われる人格と生活の手本を見せながら、神様の真の愛のみ旨を万民に教育することです。特に、為政者や指導者たちに天道を教育し、実践させることによって、心の世界と体の世界が、神様の真の愛のみ旨を中心として和合するためです

しかし、良心が願うとおりに体がついていかないように、多くの為政者たちは聖人や賢人を理解できず、その教えを受けずに警告を黙殺してきました。価値観の混乱、道徳的腐敗、麻薬中毒、テロ、人種差別など、現代社会の惨状と病弊に誰が責任をもてるでしょうか

特に、いつの時よりも多元化した社会、また国際的に互いにもつれ合っているこの時代に、政治家たちの判断と選択に伴う責任はどれほど重大でしょうか。為政者たちが重要な事案を決定するときは、謙虚に天から聞こえてくる声に耳を傾け、天道に従って解決の道を探し求めていかなければならないと思います

一方、私たちは、心の世界を代表する宗教自体が、平和世界を成し遂げるための主体的責任を全うできなかったことを反省しなければならないと思います。宗教が現実世界を指導し浄化する生命力をもつことができず、むしろ本来の使命に逆行していることを否定できないはずです

各宗教は、神様の真の愛で内的純粋性と生命力を蘇生させなければならず、また果敢な自己改革とともに、神様の真の愛のみ旨の中において、兄弟宗教たちと一つの家族のように調和した関係を発展させていかなければなりません。神様とそのお方の真の愛の大きなみ旨に献身することが各教の使命ならば、教団自体だけの発展が宗教の目的になることはできません。神様は、経典研究と宗教的儀式よりは、神様の世界を救援しようとする大きなみ旨を知って、それを生活の中で実践することを求められます。長い間、宗教は、生きていらっしゃる神様をはっきりと目撃し、関係を結ぶことに失敗してきました

私が知っている神様は、人間が論理を整えて集大成した教理の内容に執着されません。神様は、私たちすベての父母であられ、根源者であられるので、真の愛を中心として人種と宗派と文化を超越していらっしゃり、差別をしません。ですから、宗教者は、当然、万民救援とともに平和理想世界を実現しようという神様の真の愛のみ旨に、完全に従わなければなりません。宗教は、現実に安住することなく、生きていらっしゃる神様と共に、真の愛と真の生命力のある対話を行っていく、生きた信仰の道に進まなければなりません

今の宗教的雰囲気ではいけません。新しい次元において、超宗教運動の推進力を通して、全世界的規模で破格の変革が要請されるのです。神様の真の愛の実践に誠実でない宗教者たちの偽善が、この地上に無神論者の拡散をもたらしました

世の中は変わらなければなりません。各宗教は自浄努力で、新しい改革の主役にならなければなりません。すベての宗教は自らの利益を離れ、神様が願う世界救援のみ旨に従って、世の中の貧困と疾病と犯罪をなくすことにおいて先頭に立ち、終わりの日の暗黒世界に光明な光になって、政治、経済、社会の各界指導者を訓導しなければなりません

尊敬する宗教界指導者の皆様。私は、神様の摂理の方向に従って世界を改革し、地上に神様の真の愛の理想を回復することに、あらゆる精誠を尽くしてきました。「国際宗教財団」(IRF)を中心として世界的に展開した「新超宗派研究協会」(NewERA)、「世界宗教協議会」(CWR)、「超教派牧師会議」(ICC)、「世界宗教議会」(AWR)、「世界宗教青年セミナー」(YSWR)、「青年宗教者奉仕団」(RYS)等の活動を通して、教団間の理解と和合と宗教者がすべき神様の真の愛の実践の手本を示しながら、平和世界理想のために尽力しています。五年前に世界の宗教指導者の合意と私の指示によって、今回出版した『世界経典』は、世界宗教の普遍的価値の内容が集大成された神聖な経典として、人類の心霊を照らしてくれる最高の光になるでしょう。特に一つの地球村家族として和合して暮らすべき青少年たちに、宗教と皮膚の色と文化の塀を跳び越えることができるように教育する、大切な教科書になるでしょう

すべての人は、この経典を通して宗教的な無知と独善から抜け出すだけでなく、宗教の相互間には差別性より普遍的基台と共通性がはるかに多い、という事実を悟るようになると信じます。これまで『世界経典』の出版のために苦労してくださった各教団の監修委員と学者の皆様に、この場を借りて感謝と称賛を捧げます

私は、世界平和のための心的であり主体的である「世界平和宗教連合」の創設に続き、あすには体的であり対象的である「世界平和連合」を本芸術会館で創設する予定であり、このために全世界から指導者たちが到着しています。この二つの機構が内外に調和、協力しながら、天意に従って真の愛で統一を実践するならば、平和世界は実現されるでしょう。ここに、神様の真の愛によって、心と体の統一と世界を越えて宗教と政治が統一されることによって、平和の世界が訪れるのです

尊敬する宗教界の指導者の皆様。私たちが真実の目でこの時代を見つめるとき、今こそ宗教者の信仰だけでなく、実践の行動まで求められる切迫した時であることを知るようになります

人種間の紛争や宗教戦争などの不幸な闘争をはじめとして、無神論、快楽主義、世俗的人本主義、そして真の宗教に対する歪曲などが蔓延することによって、引き起こされたこの世界の問題は真に深刻です。西側社会においては、共産無神論が立つ場所を失ったと安心する風潮もありますが、これは本質を知らずに下した速断です。神様を中心とした新しい真の愛の覚醒運動が、社会全般にわたって起きない限り、西欧社会が中心となった現代文明の没落は、共産圏の没落よりもさらに悲惨な形で近づくでしょう。世界をこのまま放置できません。時間がありません。誰がこの世代に責任をもつことができるでしょうか。軍人でも政治家でも科学技術者でもありません。正に、私たち宗教界が責任を負わなければなりません

私は皆様の積極的な協力を要請します。「世界平和宗教連合」の運動を通して、歴史的な伝統宗教が調和しながら、世界平和に向かう実践運動として前進するとき、世の中を導いていく精神的基礎が固く立てられ、神様の真の愛を中心とした平和理想は完成されるでしょう。結局、全世界の宗教界が統一された方向をもつとき、統一された平和世界は到来するのです。

「世界平和宗教連合」の未来と各教団を代表した皆様と皆様の家庭に、神様の御加護があるとともに、皆様が世界平和を増進させる真の愛の人になることを祈りながら、これで終わりたいと思います。ありがとうございます。

 

13.新文化創建と宗教の役割

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

13.新文化創建と宗教の役

日付:一九九二年八月二十六

場所:韓国、ソウル、インターコンチネンタルE/span>ホテ

行事:第三回「世界宗教議会

尊敬する各教団の最高指導者の皆様。各国から来られた宗教学者と宗教界の指導者、そして満場の宗教者の皆様。第三回「世界宗教議会」に参席してくださったことを歓迎しながら、韓鶴子女史と私の祖国である韓国、ソウルで皆様を迎えるようになったことを、うれしく思います。皆様が韓国にとどまられる間、満ち足りた有益な時間をもたれるよう祈ります

宗教が追求してきた

今回の会議は第三回「世界宗教議会」です。一九八五年に開催された第一回会議において、私は「世界宗教青年奉仕団」を創立し、また「世界宗教協議会」の最初の会議を発表したことがあります

私が毎年支援しているこのプロジェクトは、昨年に発刊した『世界経典』とともに、全世界の宗教間の和合運動の最前線となってきました。特に各教団の青年代表たちが一カ所に集まって献身し、奉仕しながら他教団を理解し、和合の足場をつくったことは、幸いにも人類の未来のためになる伝統を立てました

第二回会議は一九九〇年、アメリカのサンフランシスコで開かれ、正にその場で「世界平和宗教連合」を創設することを発表したのです。その翌年である一九九一年八月、ソウルで歴史的な「世界平和宗教連合|の創設大会がありました。そうして、今年には「国際宗教財団」とともに「世界平和宗教連合」が会議を共同開催するに至ったのです

皆様が御存じのように、今回の大会は第一回「世界文化体育大典」の一環として行われることになります。ソウルオリンピックが開催された今から四年前、私は地球村の和合と交流協力の新しいぺージを開く「世界文化体育大典」に関する計画を公式的に発表しました。オリンピックは、大変重要な役割を果たしていますが、神様と縦的な価値および霊的な面が欠如しています

宗教は、文化の中心なので、「世界宗教議会」と「世界平和宗教連合」は、「世界文化体育大典」の中心に位置するようになります。宗教的理想とその知恵と価値が、世界の中の教育、学問、芸術、体育、言論、政治、経済の根幹となり、その基準にならなければなりません

「世界文化体育大典」は、人類の精神文化を収拾し、人間の幸福のための真の価値を取り戻し、神様と人間と万物が調和された平和的な新しい文化世界を志向する歴史的な行事になるでしょう

平和と幸福の世界を取り戻してきた

尊敬する宗教界の指導者の皆様。私たちの世界が深刻な苦痛に陥っていることは、周知の事実です。たとえ冷戦は終わったとしても、世界随所で依然として紛争が起こっており、罪悪と憎悪と不義が猛威を振るっています

物質的に豊かな先進国でも、絶望と霊的な貧困の中で苦痛を受ける人々が大勢います。多くの人々は麻薬と無分別なセックスの中に快楽を見いだそうとしますが、霊肉両面で破滅の道を突き進んでいます。誰がこのような罪悪と戦争と絶望の世界を望みましたか。誰も願いませんでした

人類の本性は、どうすればこのような不幸を清算して、平和と幸福にあふれる世界を成し遂げることができるかという問題の解答を求めてきました。宗教が追求してきた道が、正にこの道ではありませんか。しかし、いまだに人類が願ってきた理想世界は実現されていないというのです。宗教の核心には、人類の不幸と苦痛の根源を明らかにしようとする欲求があります。私たちが苦痛の根源に対して無知ならば、苦痛をなくすことができる希望さえないのです。しかし、この問題の解決は、神様の啓示による知恵をもってのみ可能なことなのです

人間は真の愛のために生まれた存

私はきょう、この問題に関する根本的な原因を明らかにし、その解答を提示しようと思います。神様は、人間始祖アダムとエバを造られて、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」(創世記一・二八)という三大祝福を下さいました

第一の祝福である「生めよ」というのは、すべての人間が成長して、神様を中心として完成した人格者になりなさいという意味でした。第二の祝福は、完成した男性と女性が真の夫婦となり、子女を生んで真の父母の道理を果たしながら、理想家庭を成し遂げなさいということでした。第三の祝福は、人間が神様から許諾された環境の中で、不便や不足のない地上天国の環境を所有しなさいということでした

真の愛の本体であられる神様は、愛の対象であり子女として造られた人間が、真の愛の完成体となり、その次に真の愛による夫婦の理想を成し遂げて、天国の環境をもつことを願いました

しかし、不幸にもアダムとエバは、神様が祝福として下さった愛を完成する前、未成熟の段階で非原理的な愛で堕落し、エデンの園から追い出されてしまいました。そうして、生命の根源である真の愛と本来の神聖な資質を失った人間始祖は、神様の祝福によらずに、サタンの愛を中心として結婚生活を始め、サタンの愛と生命と血統を、子々孫々に相続するようになったのです

神様は、人間の堕落によって成し遂げることができなかった創造目的を原状回復し、人間を不幸から救援しようというみ意を抱かれ、宗教を立てて指導してこられたのです。したがって、神様は全人類を生み変えるために、偽りの父母になったアダムとエバに代わってメシヤ、すなわち真の父母をお送りにならなければならないのです

神様の摂理の究極的、不変の目的は、真の父母を探し立てることです。真の父母は、真の愛の化身体であり、真の生命の種として来られます。真の父母から真の家庭が始まり、この家庭は、復帰されるべきすべての家庭の標本となるのです

神様の真の愛は投入して、また投入しても、その投入したことを忘れる愛です。神様御自身も愛の相対を創造されるとき、神様御自身がために生きる立場に立って、御自身が所有しているすべてを百パーセント投入して、また千パーセント、万パーセントをさらに投入したいと思うのです。なぜなら、愛の相対と愛する子女は、自分よりも優秀なことを望むからです。このように真の愛が行く道は、与えてまた与える道です。真の愛の化身体である真の父母が行く道も、他から受けようとする道ではなく、人のために犠牲になる道です

神様の救援摂理のために立てた宗教が見本を示すべき道も、この一つの原理です。人の生命は愛の理想を中心として育まれたものなので、人間の生命の本質は愛です

ですから、愛を本質として生まれた生命は、神様がそうであられたように、ために生きる生活を送らなければならないのが天理です。それで人間は、真の愛のために生まれた存在だと言うことができます。真の愛はために生きるところから始まります

創造本然の人間は、その心と体に神様の真の愛を備え、それにそのまま感応しながら生活するようになっています。言い換えれば、心は真の愛を中心として神様に感応し、体はその心に自動的に共鳴するのです。心と体が闘うことのない真の統一の起源は、神様の真の愛をそのまま受け継いで体感するところにあります

心と体が統一体になる人間の理想は、神様の真の愛を完全に所有するときに成し遂げられるのです。心と体が真の愛を中心として統一されるところから、真の自由と平和の理想が出発できるようになります。そして、心と体が統一された基盤の上で、自由で平和な個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を成し遂げることができるのです。ですから、世界と国家の中においてではなく、個人の心と体の間において平和の基点を探さなければなりません

尊敬する宗教界の指導者の皆様。昨日は世界全域から集まった三万以上のカップルが神聖な祝福を受け、神様を中心とした新しい家庭の伝統確立を誓いました。皆様も参観しましたが、その行事がある一教団の重要な結婚儀式とだけ考えてよいでしょうか。性道徳の紊乱、青少年の脱線、そして家庭破綻で社会がその根元から揺れる現実を、何によって解決しますか

サタンと人間始祖がばらまいた不倫が歴史的に実を結んでくるとともに、天道と人倫を破壊し、人間を獣にする地上地獄の終末的現象が起きているのです。このような悲劇は、不倫が美化されるようなフリーセックスを容認する風潮や、極端な利己主義により一層深刻化しつつあります。現実世界は精神的、道徳的に深刻な危機に置かれており、秩序正しい家庭が崩壊するだけでなく、次世代を担当する青少年の心と体を害しています

家庭は創造理想の基本単

このような人類の危機は、神様の真の愛と真の生命の主人であられるメシヤ、真の父母様を通してのみ解決されます。神様が願われる結婚観は、世の中の風潮に反して、神様のみ前に永遠の一夫一婦制、愛と性の尊厳、神様の祝福、そして子孫のための結婚を強調します。世界百六十ヵ国以上で人種と国境を越えて、神様の愛を中心として永遠の夫婦と家庭理想を成し遂げようとするこの運動は、人類の明るい未来であり、希望なのです

神様の創造理想の基本単位は家庭です。家庭は、国家と社会を形成する基礎になります。人種を超越した神様の真の愛によって、世界一家族理想は平和世界の具現と直結します。人類は、神様の真の愛の理想のもとで祝福家庭をつくり、模範となる夫と妻になるとき、善の子女をもって正しい倫理を実践することができるのです

このようになるとき、真の愛が実を結ぶ理想的な家庭が完成し、理想的な社会、国家、世界を形成していくことができます。そして、国際合同結婚行事を通して本然の家庭を復帰することによって、現代社会の慢性的な弊害を根本的に解決していきつつあるのです

世界から来てくださった宗教界の指導者の皆様。今、宗教が世の中でその指導力を発揮する時になりました。指導力とは、盲信的で、かつ偏狭から来る傲慢で独善的な態度からは出てくることはできません。真の指導力は、天のみ旨に自分を従属させ、利他的であるときに生じるのです。宗教者たちは、この時代の状況と様々な非道に対して責任を感じ、深い自己省察がなければならない時だと思います

今まで宗教者たちは、愛の実践において手本になることができず、自分個人の救援や宗派の利益に汲々とするあまり、全世界の救援のために尽力できなかったことを悔い改めなければなりません。今こそ、信仰だけでなく愛の実践が求められている時です。神様は私たちを呼んでいらっしゃいます。世の中の不義と罪悪に挑戦し、真の愛を施すことを熱望していらっしゃるというのです

すべての宗教が一心になって、神様の人類に対する熱望を代弁して実行しなければなりません。信じる者たちは儀式や教理の論争を越え、生きていらっしゃる神様との深い霊的対話と交流を通して心霊が成長することを、神様は望んでいらっしゃいます

宗教は、情熱をもった人間が関係を結ぶべき霊的秩序を確立し、これを制度化して論理的に表現する人生の形態を、この世の中に創造しなければなりません。宗教指導者たちは自らの浄化の先頭に立ち、さらに他教団の指導者たちと互いに尊重し合いながら、影響力のある宗教協力体を育てていかなければなりません

教団間の和合を通した世界平和の実

尊敬する宗教界指導者の皆様。私は昨年、「世界平和宗教連合」を創設するときまで、千辛万苦の困難を乗り越えてきました。誰も果たすことができなかった教団間の大和合と神様のみ旨を中心とした世界平和の実現という目標をおいて、私は四十年以上、ために生き、与える献身の路程を歩みました

特に世界各国の偏狭な一部教団の迫害と歴代政権の無理解の中でも、終始一貫した歩みによって、超教派運動をはじめとして、超宗派的な神学校設立、世界的な新しい教会一致運動、世界宗教協議会活動、『世界経典』刊行、教団間の和合のための様々な会議の持続的な支援、世界宗教議会創設など、私ができることは、これまであらゆる犠牲を顧みず、すべて行ってきました

私はこのようにして、何をしようというのでしょうか。私の宗教議会開催も、「世界平和宗教連合」の組織活動もすベて、人類の父母であられる神様のみ旨を成し遂げてさしあげようという一念なのです。私が願うことは、自覚された宗教指導者、学者の皆様と共に、神様と人類の希望を地上に実現することしかありません

今、ここから私たちが一段階さらに進んでいく道は、教団間の和合に満足せず、学会、政界、言論界等の社会指導者と共に、世界平和のための汎統一機構を構成し、より積極的な対社会活動をすることです。宗教は、この機構が神様のみ旨を地上に実現できるように教育し、率先しながら、ために生きる道において模範にならなければなりません

私たちは、もう一度、心霊を高め、天の声に耳を傾け、謙虚な姿勢で神様の勧告に従いましょう。そうして、神様がこの時代の宗教指導者たちに任せた使命を自覚し、人類の心霊を正しく指導して、新しい文化世界に霊的、精神的秩序を確立しなければなりません

今回の会議が人間的な見識の次元を越えて、天の知恵を中心とした討議になることを願います。大会議長として組織と運営に模範を見せたシリア東方正教会のグレゴリウス司教の献身に敬意を表しながら、分科議長団と代表の皆様の労苦に感謝を申し上げます。皆様と皆様の教団と家庭の上に、神様の祝福が共にあることを祈りながら、私のお話を終えようと思います。ありがとうございました。

 

14.宗教と理想世界

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

14.宗教と理想世

日付:一九九五年八月二十一

場所:韓国、ソウル、ヒルトンE/span>ホテ

行事:「世界平和宗教連合」第三回世界大

尊敬する全世界の各教団の最高指導者の皆様。国内外の貴賓、宗教界の学者、そして宗教指導者の皆様。韓鶴子総裁と私は、皆様を温かく歓迎するとともに、皆様が韓国にとどまる間、満ち足りた時間をもつことを願います

世界の宗教の核心主題は理想世

「世界平和宗教連合」の第三回世界大会の主題は「理想世界の実現と世界の宗教の責任」です。「理想世界」は、今まで世界のあらゆる宗教の核心主題でした。各宗教は悪の実体を認め、悪と無知の世界に対する代案を教えています。この代案の世界が正に理想世界なのです

理想を追求するのは、単に宗教にだけ限定された現象ではありません。なぜなら、全人類は宗教性を離れても理想を追求しており、理想の実現が不可能なときでさえ理想を追求しているからです

しかし、どのような努力と立派な意図があるとしても、天の法度に背いてこれを追求するならば、何の効果もなく、かえって害になる結果をもたらすようになるでしょう。ですから、神様をはっきりと知り、創造理想とそのみ旨を明確に知らなければなりません

私たちは、誤った理想の追求がもたらした悲劇を、無神論的共産主義によって胎動された、今世紀の様々な災難を通して明確に経験しました。共産主義は、神様を否定し、神様がいない理想的な人間社会をつくろうとした空想的な社会運動でした。民主体制は、共産主義より優れてはいますが、民主体制もまた、神様の摂理を無視するとすれば、継続して腐敗し、衰退してしまうでしょう

善の道と神様の法度は一つであり、同一です。人間の善と理想は偉大な神様と直接的な関係なしには、成就することも維持されることもできません。このような理由で、どこの誰でも理想を追求するとすれば、神様のみ旨と宗教の重要性を理解しなければならないと言うことができます

私は幼い頃から、人生と宇宙の根本的な疑問に対する答えを探し出そうと必死に努力してきました。私は、神様が理想の実現が不可能で、罪と苦難、そして不和がいつも猛威を振るう世界を創造されたとは、信じることができませんでした。私は、私が経験する世界がなぜこのように悪で満ちているのか、理解できませんでした。私の青少年期の経験を詳しく皆様にお話し申し上げる時間はありません。私の青年時代は真理に向かう渇望に満ちていたと話すことで十分でしょう

私が明らかにした「統一原理」は、平凡に得られたものではありません。「統一原理」の根本は、徹底的な祈りの中で、霊界の聖人や賢人たちとの交流は言うまでもなく、神様との深い交わりから見いだしたものです。サタンとの血みどろの闘いを通して得た勝利なのです。私はこの「統一原理」を教えて実践するために、生涯の一瞬一瞬を捧げています。「統一原理」は全世界に伝播され、人をして、生きていらっしゃる神様と新しい関係を結ばせ、その人生を変化させています

神様の理想と真の愛の家

私たち人間は、神様によって創造されたので、理想世界に向かう熱い望みをもって生まれました。「理想世界」と言うとき、その「理想」とは、本来神様に由来したものです。神様は、権力や栄光、あるいは富のために世の中を創造したのではありません。神様は、権力や栄光、富に対する欲望はありません。しかし、神様は、いかなる欲望ももたないというのは、正しくありません。神様は真の愛の本体としていらっしゃいます。愛を体恤するためには、神様も関係を結ばなければならないからです。真の愛の体恤は、主体と対象の関係を通した経験でのみ可能です。どのような存在も、独りで孤立していては、愛を感じることができないのです

愛の関係は、自由に与え合うことができる存在だけが結べます。神様は、神様と自由に愛を与え合うことのできる存在、すなわち神様の愛の完全な対象体として人間を創造されました。人間は、真の愛の主体性をもつように創造された、神様の息子と娘です。ですから、神様は人間の真の父母でいらっしゃいます。神様は人間を神様の真の愛に同参させ、その愛を相続する存在として立て、その垣根として万物世界を創造されました。神様と人間はすべて、真の愛を通して最高の喜びと幸福を経験できるのです

神様は、アダムとエバが真の愛を中心として純粋に成長し、真の人になることを希望されました。神様は、彼らの生物的な成長と栄養供給のために、環境を満遍なく、あらかじめ備えておかれました。しかし、神様のより深い関心は、人間の内的性稟と人格にありました。彼らは愛の経験を通して、神様の真の愛に似て完成するのです。神様は、愛の力を内的であり非物質的な力の中で、最も強力なものとして創造されました。そのような愛の力を、神様の愛と神様の法度の中で体恤するということは、人間が神様に似て一体となり、完成するということです。神様の愛が、人間の幸福と生命と理想の源泉になる理由も、ここにあります

アダムとエバは、神様の愛の中で真の人になったのちに、お互いが真の愛で真の夫婦になり、それから子女をもって真の父母になるようになっています。人間が神様の利他的で無条件的な父母の愛を伝授された人格完成体となるとき、真の父母になります

人間は成長期間を通して、神様の真の愛を段階的に体得します。生活の中の経験を通して、父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛を順次的に体得するようになっているのです。この四種類の愛と心情がとどまる基台が家庭なので、家庭は人間の愛と幸福、そして生命と血統の基地になるのです。このように真の愛の家庭は、人間の願いであると同時に、神様の創造目的の根本でもあります。人間の個体や家庭、そして社会や環境の真の完成は、家庭の中で真の愛の具現にその根を置いています。神様の真の愛の実体となった人間は、神様のみ旨に背いたり、他の人を侵害したり、または万物世界を悪用することができなくなります

堕落と復

今日の現実はどうですか。戦争と葛藤、暴力と麻薬など、あらゆる不正と弊害が人類を不安にさせています。より一層深刻なのは、若者たちの性道徳が急激に崩れ、離婚率が急増して、幼い未婚の母の問題と家庭破壊が、人類社会の根底を揺るがしているということです。これはすべて、堕落に起因したものです。アダムとエバが、成長期間に純粋な愛の理想を汚したためです。エバが、蛇すなわちサタンによって果実を取って食べたということは、エバが原理を外れた愛の行為で堕落したことを象徴します

アダムとエバは、愛する父母であられる神様を不信し、結果的にサタンに対して従順となり、偽りの夫婦になり、偽りの父母から人類歴史がスタートするようになったのです。彼らの子孫は暴力と殺人、罪と苦痛の中に陥る結果を招いてしまいました。このようにアダム家庭から人類が受け継いだ遺産は、罪と偽り、不浄な愛、暴力、殺人などでした。今は終末を迎えて、アダムとエバが蒔いた種の結果が、世の中に満開になって実を結んでいるのを見ることができます。神様の心情はどれほど悲しいでしょうか

神様はどのようにしてでも、本来計画された真の愛の理想を回復されなければなりません。神様の救援摂理のために宗教をお立てになり、善の版図を広めてきました。神様が送られるメシヤは、この復帰摂理を完結する総責任を負って来られるお方です。ですから、メシヤは真の父母として来られなければなりません。真の父母の使命は、人類を真の愛で重生させて真の人に回復させ、真の夫婦となり真の父母になるようにすることです

宗教の責

神様のみ旨に逆行する世界の問題は、誰が収拾しなければなりませんか。不正と罪と苦痛の現実を変える責任は、宗教指導者たちが引き受けなければなりません。私は神様の召命を受けた日から、この責任に自分自身を捧げてきました。私は、原理と摂理の道を徹底して守りながら、人類の具体的な人生に時間と空間を超越して深々と浸透してきた悪に向かって、挑戦してきました。私はいつも、私自身と自らのすべての基盤を使って、他の宗教と世界の偉大な宗教指導者たちと協力を図ることに最善を尽くしました。そのようにする間、一度も神様に対する責任を果たさなかったことはありません

「世界平和宗教連合」の創設を主唱した一九九〇年の「世界宗教議会」(サンフランシスコ)において、神様の創造目的、真の愛の根本、そして真の父母の役割を説明しました。社会倫理を正しく立て直して退廃文化を一掃し、真の愛と真の父母主義を実践しようと訴えました。真の愛による理想家庭を取り戻し、社会倫理を正しく立て直すことは、この時代の宗教指導者たちに賦与された貴重な責任です

また、宗教指導者たちは、世の中の不法と不正などをなくすために先頭に立つ責任があります。世界的に澎湃(ほうはい)した不法と不平等、不条理を傍観したまま、宗教だけが理想郷に向かって現実の泥沼を抜け出すことはできないのです。儀式に溺れた信仰から生活信仰に変え、人間がその精神的荒廃から本性を取り戻せるよう、宗教者が模範を見せなければならないと思います

そして、宗教指導者たちは他の人々のために、無制限の犠牲的生活を送り、またそのままそれを教えなければならない責任があると思います。まだこの世界には貧困と飢餓状態にある人が大勢いて、不平等が深刻化しています。これに対する宗教者の責任は、非常に大きいといえます

私は過去二十年間、海洋資源の開発のために直接先頭に立って船に乗り、物心両面で多くを投入しながら努力しました。高蛋白質のフィッシュE/span>パウダー(魚粉)を開発することに成功し、人体に大切な製品を研究し、開発することを続けています。このすベての成果は、既に「国際救護親善財団」(IRFF)を通して、アフリカなどの地に効果的に支援されています。そして、今年初めから、ブラジル、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチンの四ヵ国に広い土地を準備し、「新しい希望農場」を始めました。地球上から飢えの惨状をなくすという私の決意を実践しています。農業開発と海洋企業を通して食糧を生産し、低開発国家を支援することに、教団が互いに連合し協力すべきだと思います。教団が先導するこのような人的物的投資を通して、真の愛が実践されれば、世界に希望を与えることができると思うのです

神様の真の愛による投入と注入がなかったなら、宇宙は生じませんでした。宇宙の存在法則は、主体が対象のために生きることです。ところが、堕落した世界では、主体が対象のために生きるのではなく、むしろ自己中心に利用しようとするので、滅びるのです。宗教は相手を先に喜ばせたあとに、自分が喜ぼうとする天理原則を教育し、実践しなければなりません

尊敬する宗教界の指導者の皆様。「世界平和宗教連合」は宗教間の和合と世界平和のために、建設的に一緒に仕事をしていかなければなりません。「世界平和宗教連合」が世界の良心のような機能を果たさなければならないのです。政治、経済、教育など、世界の各界の指導者たちに助言し、指導するだけでなく、模範を示すべきでしょう。偉大な宗教は迫害と殉教の土壌の上に立てられ、創始者の貴い伝統基盤の上に立ったので、私たちは、犠牲を忌避することなく宗教本来の名誉を探し立てなければなりません

最後に、私は今回の「世界平和宗教連合」の議会が、理想世界の実現のための宗教の責任に対する深い議論とともに、大きな成果を上げるだろうと思います。皆様と皆様の家庭、そして皆様が行われることに、神様の祝福が常に共にあることを願います。ありがとうございました。

 

15.生死に対する理解

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

15.生死に対する理

日付:一九九八年十二月十九

場所:アメリカ、ワシントンDC、ワシントンE/span>タイムズE/span>ビルディン

行事:一九九八世界平和宗教連合大

尊敬する議長、世界の宗教指導者、ならびに内外の貴賓の皆様。キリストの聖誕日を前後して、各宗教では重要な日程と儀式が予定されているにもかかわらず、このように参席してくださったことに、心より感謝申し上げます。この時間をお借りして、これまで各宗教がその解答に苦しんできた問題である「人間の生と死」に対する、私の見解の一端をお伝えしようと思います

私たちはこの地上に住んでいますが、この世界は地上だけがあるのではなく、霊界もあることを知っています。霊界は間違いなくあるのです。そして、この地上と霊界は、全く異なる二つの世界ではなく、一つの世界として連結されています。したがって、私たち人間は神様から生まれたので、いずれにせよ再び神様がおられる霊界に帰らざるを得ないのです

死は根源の世界への回

皆様。韓国語ではおもしろいことに、「死ぬ」ということを「帰る」と表現します。どこに帰るというのでしょうか。これは単に墓地に行くことを言うのではありません。もともと人生が出発した、本来の場に戻るという意味です。はるかかなたの、歴史の起源を越えて帰るということです

だからといって、韓国人として生まれたので、韓国人に帰るという意味ではありません。私たち人類始祖の根源となるその世界に帰るという意味です。すなわち創造主がいらっしゃるならば、その創造主がいらっしゃる所に帰るという意味です。そこから出発したので、そこに帰るのです

宇宙も循環作用をします。例えば、山に積もっていた雪が解ければ、その水が小さな沢を通って流れ、さらにはいくつかの川を通って大海へと流れていきます。大海へと流れていったその水は、水蒸気となって再び帰るのです。このように循環運動を通して、より高まる所へ、より良い所へと帰ることを願うのです

それでは、私たちが行って、永遠に生きなければならない所とはどこでしょうか。私たちは地上界で肉身生活をしていますが、心だけは永遠の世界に向かって進んでいるのです。私たちはこの世に生まれると、十代、二十代、三十代、そして中年と壮年と老年の時代を通過します。このように青春時代を過ぎて壮年時代を経て、老年の峠を越えつつ、日が沈むように人生を終えていくのです。しかし、霊界があるという事実を知っている人々は、地上で肉身をもって生きる一生はわずかなもので、死んだのち、私たちが迎えるべき世界は永遠だということをよく知っています。ですから、地上での生涯というものは、永遠の世界に行く準備をするための期間なのです

学生を例に挙げれば、学生が一学期あるいは一学年を終えるときには、学校が定めたすべての学科の単位を取らなければならない単位の基準があるのです。その最高基準を百点とするとき、その基準にその学生の単位がどれほど到達したかという割合によって、学校の評価が決まるのです。しかし、単位が足りなければ足りないほど、その学生は学校が立てたその基準から遠ざかります

このようにあらゆることは、ある標準を中心としてその価値を測定するようになっているのです。私たちが一生の間、肉身世界で生きるのも、あたかも学生が学校でいい点数を取るために準備する期間のようなものなのです。言い換えれば、私たちの生涯をすべて懸けて単位を取る準備期間だということになります

すなわち、私たちの一生において責任を追及するある基準に、私たちがどれほど一致するかという基準値を中心として、私たちは日々の生涯路程を歩んでいるのです。ところが、ほとんどのこの世の人々は、本来人間がこの世に生まれて生き、求めていくべき本然の世界がどこなのかをはっきりと知らずにいるのです。すなわち死後の世界があるのかないのか、神様が存在するのかしないのかも知らずに生きているのです

人類は一つの兄弟、一つの国

皆様。私たちはいずれにせよ、いつかは霊界に行くようになっています。その霊界は一つの国です。地上世界のように、いくつもの国に分かれているのではありません

だとすれば、霊界で生活する内容はどなっているのでしょうか。例えば、魚は水を離れては生きられません。魚には水が生命維持の絶対的な条件となります。だからといって、魚も一カ所だけで棲むのではありません。魚の中には淡水を離れ、海水と接するきっかけをつくって産卵する場合もあるのです。二つの世界に通じなければならないという意味です

私たちの体と心も、このように互いに通じなければならないのです。人類歴史を互いに比較して考察してみるとき、もし私たちの先祖であるアダムが生まれた日と結婚した日、そして死んだ日を記念する世界的な統一圏が形成されていたならば、その日を記念する人類は、一つの兄弟となり、一つの民となっていたことでしょう。すなわち、一つの世界で生きる人類になり得ていたという意味です。そのようになっていたならば、アダムの生活風習は、そのまま人類歴史を通して継承され、そのとき形成された文化は人類が生存する限り、永遠に継承されていたでしょう

人間は誰しも、いつ死ぬかを知らずに生きています。いつ交通事故に遭って死ぬかもしれないというのです。死んでから、「ああ、レバレンドE/span>ムーンの話は正しかった!」と言って後悔する人もいるでしょう。私たちは、実はとても深刻な人生の道を歩んでいることを知らなければなりません。私たちは永遠の世界に行くための準備をするために、寸暇を惜しんで生きなければなりません。そのような運命の岐路に立っていることを、私たちは知らなければなりません

一般的に霊界に行く人にも、二通りの人がいます。自分のもって生まれた運命のとおりに生きてから逝く人と、自分の運命のとおりに生きられずに逝く人の二種類です。自分の運命のとおりに生きられずに逝く人の中には、早く死ぬ人と、民族や世界の罪を蕩減するために代わりに逝く人たちがいます

もし神様が千人の価値をもった一存在を中心的な立場に立て、すべての人の代わりに死の道を行かせたとすれば、千人がみなその人の恩徳に感動し、その人のために生き、その人の生涯を見習い、その人のように生きようとするでしょう。そのようになれば、人々はその人と同じ恵沢圏内に入っていくのです。人々が忠臣の思想を見習おうとし、聖賢の生き方に従おうとするのも、彼らと同じ恵沢圏内に入ろうとする欲望のためなのです

人間の中には、希望をもって生きる人もいて、希望をもてずに生きる人もいます。この希望は、人間を中心とした希望と天を中心とした希望の二種類に大別することができます

私たちは生まれたその日から、母の懐が何よりも一番いいものと思って大きくなりますが、ある程度大きくなれば、母の懐を離れるようになります。私たちはまた、成長しつつ友達と付き合い、友達こそこの世で一番いいものと思って過ごしますが、いつかはその友達とも別れていくのです。このように人間は成長しながら、愛する親も愛する夫婦も愛する兄弟も、さらには愛する子女も自分の希望のすべてにはなれないという事実を知るに至るのです

人間は、いつも多くのことを希望します。しかし、その希望する心も結局は消えてしまいます。家庭に対する希望、国家に対する希望、さらには世界に対する希望をもっていますが、年齢を重ねるにつれて、希望する心もだんだん弱くなっていくのです

事実、多くの人々は自分たちの希望を全体的な希望として誇り、自分の生命を失うようなことがあったとしても、その希望を捨てることができないという確固たる信念をもてずにいるのです。私たちは一生の間、あらゆる希望を抱いて生きますが、結局、死に直面して、自分が抱いていた希望のすべてを捨てて逝ってしまうというのです。私たちは、きょうも生きることを願い、あすも生きることを願い、新たな希望を求めてさまよっていますが、死に直面するときには、そのすベての希望をあとにして、最期の道を行くのです。この事実を私たちはよく知っています

人間は自分を中心として見るときは、希望をもっているようですが、死の峠を越えることのできる希望をもってはいないのです。私たちが人生観として、死さえも乗り越えることのできる一つの希望を見つけなければならないのが、今日、この地上に生きている人間たちが考えるべき重要な問題なのです

死と闘って勝利できる希

皆様。この世のすべてのことは過ぎ去るのです。家庭も過ぎ去り、国家も過ぎ去り、さらには世界、あるいはどのような主義や思想もすベて過ぎ去るのですが、最後まで残らなければならないものとは何でしょうか。それが正に、死と闘って勝利できる希望です。私たちにそのよう希望がないとすれば、「私たちは人生の敗北者である」と言わざるを得ないでしょう。この世には、生まれながらにしてこの世的なすべての希望を一切拒み、人間の世の希望ではない天の希望、すなわち永遠の希望を抱いて生きる人たちがいます

天は正にこのような人々を助けているのです。ですから、信仰生活をする人々は、地上のある希望を抱いて生きるのではなく、死の峠までも乗り越えることのできる希望を抱いて、永遠の希望の世界を夢見て生きなければなりません

私たちが若いときには、死についてあまり考えませんが、年を取るほど、死について徐々に深刻になります。ここに座っている皆様も、この場に立っているレバレンドE/span>ムーンも、いつかは死ぬようになっています。このように死というものは、運命の関門です

誰も避けられない道だからです。私たちが死んだのちには、果たしてどうなるのでしょうか。死という単語を使った目的とは何であるか御存じですか。生の意味を知らせるためです。生の価値は、誰がよく知っていますか。生きようと身もだえする人には分かりません。死ぬ境地に入り、生死の岐路で天にすがり、生の価値を打診したことのある人でなければ分からないのです

それでは、私たちはなぜ死を恐れるのでしょうか。私たちはなぜ生まれたのか、その目的を知らないからです。なぜ死ぬのか、なぜ生まれたのかということを知りません。それで哲学でも最初に問う質問が、人生とは何であり、人間はなぜ生まれたのかということです

皆様。私たちが死ぬということは、神様の愛の中に生まれることなのに、人間世界では「ああ、死ぬ!」と言って大騒ぎです。それを見る神様は、にこにこ笑われるでしょうか。それとも驚き、悲しむでしょうか。喜び、うれしく思うのです。限られた地上の愛の圏内から無制限の愛の圏内へと突入できる喜びを迎える瞬間が、肉身が死ぬ瞬間、すなわち第二の出生の瞬間だからです

だとすれば、神様は、私たちがこの肉身世界に生まれた日を喜ばれるでしょうか。それとも第二の無限拡大世界の愛のために肉身を脱ぎ、死を通して新しい息子、娘として生まれるその時間をもっと喜ばれるでしょうか。もちろん後者です。私がこのような話をするのは、皆様が死の恐怖から解放されなければ、神様と関係を結ぶことができないという事実を知らなければならないからです

神様は人間が生まれたときから、成長していく過程を見守り、また直接参与しながら喜ばれるのです。赤ちゃんが成長するにつれて、神様の心に動く愛の鼓動も増大するからです

神様があるしぐさをすれば、子女たちも一緒にそのしぐさをします。神様がお笑いになれば子女たちも共に笑い、悲しまれれば共に悲しみながら、このようにだんだんと神様に似ていくのです。また、その子女たちは、成長しつつ親たちの姿に似るようになります。言葉も習い、生活規範も親たちから学ぶようになります

もちろんこのすベてのことは、本来神様に由来したものです。だとすれば、神様が私たち人間と共にこの地球星に暮らしたのち、あの世に飛んでいくとき、私たちはどうすべきでしょうか。「ああ、私もついていきます」と言えば、「こいつ、お前は誰だ」と言いながら、神様が私たちを切り離してしまうでしょうか。それとも一緒に連れていかれるでしょうか。もちろん連れていこうとされます。ところが「今は連れていくことができないので、お前がもう少し大きくなって、もう少し完成したのちに連れていく」と言うとき、人間は「今は逝けないが、いつかは私たちも逝く時が来るだろう」と思いながら待つのです。地上で肉身をもって生きる間、人間はいつも神様に付いて回ることはできません

真の愛のために死ぬことができなければならな

さあ、それでは何が問題でしょうか。私たちが神様に似たいと思い、神様も私たちを神様の息子、娘として御自身に似させたいという願いをもつのは当然のことです

それで、人間は再び神様に似ることのできる体をもって生まれなければならないという結論が出てくるのです。神様と人間は共に永遠に飛び回ることのできる日を待ち望むのです。そのように飛び回ることのできる人として生まれる日、そのような体に生まれる日、その日が正に肉身を脱ぐ、死の日なのです

だとすれば、人間は死を歓迎しなければならないでしょうか。それとも悲しまなければならないでしょうか。もちろん歓迎しなければなりません。それでは、私たちが死ぬときは何のために死ななければならないのでしょうか。神様の真の愛、すなわちために生きる愛のために死のうとしなければならないのです。ですから、肉身を脱ぐというのは、無限の神様の愛の活動圏に私たちが同参するためであり、神様の愛の世界のためだという結論になるのです

皆様。皆様は一度、そのような真の愛を受けて実践する神様の本当の息子、娘として生まれてみたいと思いませんか。神様がお金持ちなら、どれほどお金持ちでしょうか。皆様、一度考えてみたことがありますか。無限の星の中に、ダイヤモンドの星がないと言えるでしょうか。純金でできた星がないでしょうか。神様こそ全知全能のお方です。御自分の子女たちに、何でも与えようとされないでしょうか。どうでしょうか

神様はこの無限の宇宙を、あっという間に往来することができます。皆様も関心がありますか。それなら私たちは、どのようにしなければならないでしょうか。神様が定めてくださった法度を守らなければならないのです。そうしてこそ、神様と共にいられるのであって、私たちの勝手にしてはいけないのです

水中、地上、天上の三時代を通過しなければならな

皆様。神様が「してはいけない、しなさい!」と言うことを守る自信がありますか。人間は二重構造になっています。心が主体であり体は対象なので、心が体に従って一つになるのではなく、体が心に従って一つにならなければならないのです

人間はまた三段階の世界、蘇生時代、長成時代、完成時代を通過します。すなわち、母の腹中での水中時代、地球星の世界、天上の空中世界です。私たちは腹中の水の時代を経て地上に生まれ、肉身をもって百年ほど地の時代を経るようになり、最終的には飛んでいく空中時代へと三時代を通過するようになるという意味です。私たちが母の腹中にいるときは、外の世界に出ていくまいと抵抗します。その中に残ろうとします

なぜなら、私たちが腹中から出るときは、家がみな破壊され、私たちが栄養を取って生きていたすベてのものも崩壊していきます。そうして、分娩過程を通過しながら頭も伸びなければならず、体も伸びなければならないのですから、誰がそれを好むでしょうか。生まれるその瞬間まで、みな「ノー」と言うのです。子女は、羊水がどっと出てくるその水に従って出てくれば、安産になります。母が赤ちゃんを分娩するのを見れば、本当にかわいそうです。赤ちゃんを生んだことのある母親たちは、よく分かると思います。力を入れるときは、顔がいくら美人でも、ものすごい形相で顔をしかめるので、夫さえもその顔を見ていられず、逃げていくほどです。このように、産婦も最後の瞬間まで大変な苦痛を通過したのちに、子女が生まれてくるのです

この過程でおへそについているへその緒は、そのままにしておかなければなりませんか、それとも無慈悲に切ってしまわなければなりませんか。「それは人の命綱なのに、人と人の命綱をどうして切ってしまうのですか」と抗議する人がいるかもしれません。生まれてくる赤ちゃんも「死にそうだ」とおぎゃおぎゃと泣きじゃくります。しかし、それを見つめる神様は、喜びのほほえみを隠しきれないのです。そうなると生まれた新しい生命には一つの世界は完全になくなり、新しい一つの世界で「ふうっ!ふうっー」と息をするようになるのです

皆様。人間は初めに生まれるとき、水の中から生まれるのです。腹中時代は水中時代です。胎児が母の胎中にいるときは、水の中に浮いています。ちょっと考えると母のおなかの中の時代では、息ができずに生きるのが大変なように感じられます

水の中で生きているので、当然、水を飲んでは吐き出さなければならないのではないですか。そのために腹中の胎児は、ホースをおなかに連結して生きるのです。腹中の胎児は、どこを通じて栄養分を供給されるのでしょうか。おへそを通じてです。へそは腹中の胎児には口なのです。それで、私たちはおへそを冷遇してはいけません。「おへそよ、お前は昔、苦労したな」と言って触ってあげなさいというのです。おへそをよく、軽くたたいてあげると健康になります。笑い話ではありません

そのように運動をしなさいということです。へその運動を通して健康になりなさいということです。その例として、いくら寒い部屋で寝たとしても、へそさえよく包んで寝れば下痢をしません。私たちはまた、へそを昔の口だと呼ぶこともできます。ある者は「この愚か者、昔の口がどこにあるか」と言うかもしれませんが、へそが私たちの過去の口だったことだけは間違いありません。このように私たちの呼吸器の役割もしていたへその段階が終われば、次は口だというのです。どんどん上に上がっていくのです

同じように、この地球上で空気を呼吸して生きる肉身に宿っている私たちの霊人体は、肉身が老いてしまえば、それを捨てて外に出ようとするのです

それなのに、その時に、肉身が「ああ、死にたくない、死にたくない」と言って悲鳴をあげるなら、神様はその姿をどのように御覧になるでしょうか。苦痛に直面したその肉身に同情されるでしょうか。あるいは静かにほほえまれるでしょうか

大変な苦痛を甘受し、母の腹中を飛び出してきた赤ちゃんが成長して、父母の愛の対象になるように、私たちは肉身の悲鳴を振り切って、無形の父である永遠の神様の相対として再び生まれなければならないというのが、原理的な結論です

地上世界でも子女が生まれたのちに大きくなれば、父母と友達になれるのです。父母と愛を共に分かち合うことのできる地上世界に生まれるからです。胎児が母胎の中で泳ぎ回るのと同様に、人間の地上生活は空気を吸い、空気のふろしきの中で生きるようになるのです

そのような過程を経ながら地上でこのように父母と愛を分かち、呼吸する人であってこそ、「死なずに生きている」と言えます。同じように私たちは、霊的な無限の世界に通じる、親であられる神様と愛を分かち合ことのできる霊界に、再び生まれなければならないのです

神様の法則のとおりに生きなければならな

それでは、霊界とはどのような所でしょうか。私たちが霊界に入れば、頭の上にあるひよめきと細胞で呼吸するようになります。霊界での空気は、地上の空気ではなく愛です。呼吸を通して愛の要素を受けるというのです

私たちが地上で生きるときも、御飯だけ食べていてはいけません。御飯だけ食べて、水だけ飲んで生きるというのは、胃袋を満たしているだけです。結局、そうして死んでいくということです。地上で生きている私たちの姿は、私たちの第二の存在です

私たちがこの期間にすべきことは、新しい愛の人格を形成することなのです。この地上で私たちが最も必要とするものは愛です。孤児とは何でしょうか。母と父の愛を受けられない子女たちを、どうして孤児と呼びますか。霊界と永遠に連結できる愛がないからです。愛がなければ孤独なのです。それで独身で生きる人をかわいそうだというのです

もう一度お話ししますが、私たちが死ぬということは、第二の呼吸をしていた肉体に連結されたこの器官を壊し、愛の要素を受け継ぐことです。ですから、私たちは、いずれにせよ肉身を破って出ていかなければなりません。愛は見えないものです。父母の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、子女の愛など、このすベての愛を中心として私たちの内的な構造が成長するのです

それで、私たちが神様の法則のとおりに生きるときにのみ、胎児が母の腹中で正常に育つのと同じように、私たちがこの地でも正常に成長できるのです。ですから、むやみに生きてはいけないというのです。私たちが自然界を調べてみると取るに足らない昆虫、実の中の種、そして鳥まで飛ぶことができるのに、ましてや万物の霊長たる人間が飛べなくていいでしょうか。たんぽぽの種を見てください。風が吹くと自然に飛ぶようになっています。このように鳥も飛び、昆虫も飛び、植物の種も飛ぶのを見れば、人間も明らかに飛べるように創造されたに違いありません。ある者は性急に「神様、ほかのものたちはみな飛び回るのに、どうして私たちは飛べないように造ったのですか」と神様に抗議しかねません。しかし、神様は「お前たちは数十年待って完成すれば、飛べるようにしてあげよう!」とお答えになるでしょう

地上で愛する訓練をしなければならな

それでは、その時まで私たちは何をしなければなりませんか。その時になって、その世界に適応できるように、私たち自身を訓練しなければならないのです。父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛しながら、この地上世界で訓練をしなければならないのです。そうして、時が来れば、永遠の世界に入り、永遠に神様に侍って生きるようになるのです。そのためには、いつかはこの肉身を脱いで死ななければなりません

私たちがせみの一生を調べてみれば、せみも飛ぶようになる前に、幼虫の段階を経ます。そのせみが「ぼくは幼虫のまま暮らしたい。殻を脱ぐのは嫌だ。ああ、陸地も空気も何もかもみんな嫌いだ!」と言って反抗したとしても、いざ殼を脱いでみると飛ぶようになるのです

とんぼも同じです。初めは幼虫になって水の中で泳いで暮らし、地上に上がってきて、しばし這い回り、その次は殻を脱いで飛び回りながら、食べるとは想像もしなかった虫を捕まえて食べるのです。天下を自分の舞台にして飛び回るのです。このように昆虫類の中には、三段階の世界を経るものが多いのです

それで昆虫には羽があります。水と陸地と空中の三時代を過ごしなから,羽をもつようになるのです。万物の霊長という私たち人間に翼がありますか。人間には次元の高い翼があるのです。皆様も肉身を脱いで死ぬのは嫌だと言うかもしれませんが、いざ死んで肉身を脱げば、私たちの霊人体が第二の出生の恵みの関門を通過して、飛んでいくのです

前にもお話ししたように、人間はいずれ死にます。私たちは、善なる自己を永遠の世界に第二の私として立てるために、苦労を覚悟しなければなりません。母の腹中で胎教をよく受けてこそ、健康で善良な赤ちゃんとして生まれるのと同じように、私たちの地上世界での生活も、よく準備しなければなりません

私たち人間は、神様の形状を見習い、神様の心情を見習い、神様の聖なる神性を見習いつつ、育たなければなりません。育ってからは、また命を懸けて越えていかなければならないのです。したがって、どんなに恐ろしい暴風雨がやって来ても、私たちは最後の峠を越えなければなりません。よくやっていても、境界線の前で倒れてはいけません

私たちがこのような人生の境界線に立つとき、私たちは果たして何をしなければならないのでしょうか。気持ちを引き締めて頑張っても、最後まで行けるかどうか分からないのに、あたふたしていれば、途中で挫折してしまうのです。最後の決勝点まで境界線を突破しなければ、勝利者になれません。人として生まれたのなら、一度やってみるだけの価値のあることです

いくら後ろで反対し、横から迫害したとしても、自分の行く道を行けばいいのです。人の反対に関与する余地がありません。一歩ずつでも早く行って、この運命の道を通過していこうという人が、最後の境界線を越えることができるのです。私たちは、そのように行かなければなりません

私たちはよく「心がまっすぐだ」と言います。それはどのような意味ですか。まっすぐに垂直に立ったものを「まっすぐだ」と言います。木も横に傾いたものを「まっすぐだ」とは言いません。「心がまっすぐだ」というのも同じです。垂直に立っているという意味です。それで人は立って歩くのです。垂直になってこそまっすぐなのです

自分の心を完全に垂直になるようにしなければなりません。そこに体が水平線になるのです。このように垂直と水平が私たちの内部で形成されるとき、垂直から引っ張る力と水平から押す力がバランスを取り、求心力と遠心力が形成されるのです。ですから、私たちは、私自身を見つけなければなりません。私たちが自分自身を主張するときは、神様と真の父母にそうだと認定されなければなりません。その土台の上に私たちは親戚、一族、一国に発展させていき、私たちの生活環境を拡大していくのです

この世で危険な伝染病の患者たちを隔離して収容するように、遠からず神様のみ旨を知っても罪をたくさん犯した人々は、隔離して北極のような寒帯地方に収容する時が来るでしょう。彼らは完全に悔い改めて改悛(かいしゅん)するその日まで、そのような所に放り出して、食べ物も寝る所もなく、大変な苦痛の道を歩むかもしれません。(*改悛:全非を悔い改め、心をいれかえること

私の目的は世界の救

皆様。私は心苦しく思うことが一つあります。神様が御自身のみ旨を成就する責任を下さったので、私は生きている間に神様が満足する水準までみ旨を成就しておかなければならないということです。その前には、死ぬに死にきれないのです。よって、死地に入っていっても、神様が導き引っ張ってくださるというのです。私はこのみ旨を成就するために、御飯を食べるときも、寝ても覚めても世界と人類のために祈り、努力しています

私は、ある特定の国や民族のためには苦労しませんでした。私の目的は世界の救援です。その目的のために今まで死を覚悟し、犠牲的に命を捧げて働いてきました。皆様も世界のために生き、死ななければなりません。世界を救うためなら、愛する妻を抱いて、家庭を抱いて、自分の氏族を抱いて、民族をまるごと抱いて、死ぬこともできなければなりません

さて皆様は、未来のある日、死を迎えることになり、死を前にして過ぎし日を回顧するようになりますが、そのときにどんな一言を残して逝くのかということを考えなければなりません。死の道は、友もいない道です。愛する父母もいない道であり、愛する兄弟もいない道であり、愛する夫婦や子女もいない道です。ただ一人で行かなければならない道です

もう一度行くこともできず、行って来ることもできない道、一度行けば永遠に帰ることのできない道ですが、この道を行くときに、人間はどんな心をもって行くかが重要です。人間が死に逄着するその瞬間に、その死を乗り越えられる希望がないとするならば、そこでおしまいです

今日まで神様のみ旨に従い、神様のみ旨を立ててきた多くの人々は、どのような人々だったかと言うと、死の道の前で後退した人たちではなく、死をあざ笑い、死を凜々しく乗り越えた人々でした。そのような人々が天の道を立ててきたという事実を、私たちは歴史を通じてよく知っているのです

死ぬことなく復活はできな

それでは、天の願いを抱いて生きる人とは、どのような人でしょうか。人間が悲しむ死の峠も、喜びで越えることのできる人です。そのような人が天の願いを抱いた人だということを知らなければなりません。ですから、私たちは死を前にして、この世のすべてのことを恨み、嘆く人にならずに、天の前に立って喜び、自分の死の価値を誇る人にならなければなりません

それでは、死ぬとどうなるのでしょうか。死ぬ前までは私のものですが、死んだのちには神様のものになります。それは私たちが堕落した血統を受けたからです。ですから、死ぬまでは、私たちの生命のすべてはサタン側の因縁を抜けきれないのです。しかし、死んだのちは神様と関係が結ばれるのです。死ぬことなく復活はできません。一つの時代を通過しなければ、次の時代を迎えることができないのです

「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)という聖書で言う命を失う「死」とは、何を意味するのでしょうか。神様が下さった永遠である真の生命を失いなさいということではありません。サタン世界の堕落した血統を受け継いだ生命を否定しなさいということです。それで、み旨のために死のうとする人は生きるというのです

この言葉は逆説のようですが、堕落と復帰の内容を中心として見るとき、そのようにしなければ、復帰ができないというのです。これは復帰の正常な論法です。人生の勝敗は、数十年の期間を通して決定されるのではありません。それは一瞬で決まるのです。私たちの一生を通して見ても、皆様が生まれるその瞬間は、長い期間ではありません

もちろん生まれるまでの腹中の時期がありますが、その腹中の十ヵ月という期間は、出生する一瞬のための準備期間なのです。ところが、十ヵ月の間、いくらよく準備したとしても、決定的な一瞬をうまく越えられなければ、生まれるその赤ちゃんは悲しい運命を迎えることになるのです

この地上に来て、運命の瞬間を迎える最期の場で、過去を悔い改める人がいるとすれば、その人の心には過去のすベての事実が映像として回想されるでしょう。その中で「真なるものがあった。自分の生命よりも貴い何かを残した」という人がいるとすれば、彼はこの地に来て逝くとき、甲斐のある一時を楽しむ人になるでしょう

しかし、過去のすべてのことを回想してみるとき、頭を振って回想したくない過去をもっているならば、彼は悲惨な人です。過去を回想すれば回想するほど、自分の顔に歓喜が満ち、自分のすべての問題が理想に浸ることができるならば、死の恐怖も彼には慰労の一場面として飾られるでしょう。過去を回想する瞬間が恐怖の瞬間ではなく、ほかの何かを残すなら、彼の過去は死なないのであり、現実も死なないものとして現れるでしょう

そうすることのできる過去をもった人は、必ず民族がついていくことができる縁をもった人であり、世界万民がついていかざるを得ない縁を残した人であると見ることができます。神様のみ前に一人で立つことができるかという問題を考えるとき、真と善は自分から始まって自分で終わるのではありません。自分から始まって人に結果を結ばせるか、人によって始まり、自分に結果をもたらすことができてこそ、善になるのです

過去の生活が人のために与える生活だったならば、死の道でも恐怖がないはずです。人のためにすべてを与え、人のために犠牲になり、真に近い生活をしながら、涙も人のために流し、自分の生命も人のために投入し、自分の願いも人のためのものなので、自分のすべての生命力を寄せ集めて人のために投入するならば、その過去の生活は光り輝く過去になるでしょう

直観的感覚が現実化する世

聖賢が行く道と凡人が行く道は違います。聖賢は歴史と共に生きようとし、世界と共に生きようとし、未来と共に生きようとした人です。しかし、凡人は自分のために生きようとし、世界も自分のためにあると考えて生きた人です

霊界にも霊界としての世界があり、国があり、氏族があり、家庭があり、個人がいます。個人を中心として見るとき、「私はそこで絶対的に必要な存在だ」と言える自主性なしには入れないところが天国です。家庭を中心として見るときも、氏族を中心として見るときも、「私が絶対的に必要だ」と言えるそのような自主性があって、初めて行けるところが天国です

霊界では、地球というものは、一つのほこりのようなものです。霊界は時空を超越した無限の世界です。そして「ある時代にこれこれこういう心情をもって地上に生まれ、生きて死んだ人がいれば、ここに直接現れよ!」と言えば、その人が瞬時に現れます。そのように直感的感覚が現実化される世界です。そこには食料を作る工場もなく、自動車を造る工場もなく、何もありません

人間は霊界に入籍するとき、地上生活を証明する証明書をもって行かなければなりません。「私はこのように生きた。このようなことをやった」と言える生涯の証明書です。そのような証明書は自分自身が書くことはできません。初めはサタンが書きます。まずサタンに証明書をもらってから、メシヤの証明書をもらわなければならないのです。その次に神様の証明書をもらわなければなりません。この三つの証明書が必要だということを知らなければなりません

霊界は真の愛を中心としてために生きる

霊界に行けば霊界は膨大ですが、三段階になっています。誰が一番高いところに上がるかというと、より人のために人生を生きた人です。しかし、自分のために生きてきた人は反対の位置に立つようになります。自分のために生きた人はみな反対し、人のために生きた人はみな歓迎します。霊界に行けば、自分の親や妻も関係ありません。高いところに行く人はみな、人のために生きた人々です

世界のあらゆる国を回りながら、自分の母と家庭に対する愛を拡大したような心情をもってために生き、世界の人々をみな悪から救おうとする聖人の心をもった人々が、高いところに行くのです。自分のために生きた人は地獄に行くのであり、人のために生きた人は天国に行くのです。この二つの世界が死において分かれます

ですから、全体のために生き、より大きなもののために生きなさい、というのです。世界のために生き、神様のために生き、人類の解放のために生きなさい、というのです。これからは、互いにために生きようとする競争が始まるでしょう

天の国では、ために生きる人が高い位置に行くので、その高い人のために私が生きれば、その人に乗ってジャンプできるのです。その人のために生きるのは、神様が創造して相対を造ったのと同じなので、その人の愛の対象圏に立とうということです

人のために一〇〇パーセント生きる人に対しては、「私を踏み越えていってください!」と言うのです。どんなにアメリカという国が大きくても、アメリカの大統領よりもその国の国民のために生きる人がいれば、その人が大統領を踏み越えていっても、みな歓迎するのです。しかし、自分の利益だけを得ようとするときは、みな怨讐になります

霊界でも同じです。より大きなことのために生きようとするときは、自然に通過します。より大きなことのために生きるようになれば、自然に通じるのです。ですから、世界のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれます。すべての国がみな含まれるのです

みなが歓迎するその方向の内容とは、真の愛を中心としてために生きる愛の道以外にないという結論が出てきます。死ぬときにもっていくべきものは、神様を愛し、自分を愛し、本質的人間としての自分を立てるために苦労し、自分と相対との夫婦の愛、家庭の愛を中心として、この愛を世界に拡大するために努力したものです

人類を愛し、神様を愛したことが、最後に残り、あの世の所有権決定の基準になります。霊界に行けば、伝道した人の数によって皆様の所有権が決められることを知らなければなりません。霊界に行って誇るべきものが何かというと、どれほど人を慕って生きたかということです

あの世で必要なものは、ほかのものではありません。世界よりも、自分の国よりも、自分の妻よりも、自分の息子、娘よりも、神様をもっと愛したことです。妻が話すとき、「あなたは私より神様をもっと愛してから私を愛してください」と言ってこそ、夫からより高い次元の神様のような愛を受けられるようになるのです

心情圏の世界は愛が普遍化される世

今日、レバレンドE/span>ムーンは心情圏を説いていますが、心情圏の基地とは、神様を中心とした真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、そして真の子女の愛というものです。そのような愛が普遍化される世界が心情圏の世界です

そのような本然の世界においては、愛する夫婦の愛の基準を中心として生きたとしても、天と地、天宙を中心とした夫婦の愛でなければなりません。ですから、その世界に合格できる愛の基盤をどこで築くのでしょうか。レバレンドE/span>ムーンは、この世でそれを築いていかなければならないと教えているのです。この世で何よりも貴いとされているものではなく、心情圏世界の合格者になるためです

ですから、霊界には家庭を連れて入らなければならない原則があるのです。どうして息子、娘がいなければなりませんか。子孫とは本来、縦的な神様の愛と横的な父母の愛、神様と父母の血が縦横に混ざって生まれたものです。したがって、子孫をもてなかった人は、霊界に行って天地の調和を形成することができず、東西南北に拍子を合わせられないのです。子孫をもてなければ、あの世に行っても、楽しみ、安息できる場所がありません

皆様。霊界では宗教や宗派は必要ありません。そこに行って長老派やカトリックというものは必要ありません。神様との生活圏内に入るのです

あの世に行けば、世界を愛した人もいて、愛国者、忠臣、烈女、聖人たちがみないるでしょう。しかし、レバレンドE/span>ムーンが知る限りでは、今までは神様の本然の愛の中で心情圏の伝統を中心として生きた人は一人も行っていないのです。何かを出発させるときは、神様を中心として出発しなければなりません。霊界に行けば、そのような原則にどれほど同化し、どれほど一致したかということによって、今後、地獄から中間霊界、楽園、天国まで連結されるのです

何が一番貴い道かというと、天のために地上でどれほど苦痛を受け、どれほど涙を流したかということです。それがあの世のどこでもパスするチケットです。あの世に行けば、他の国の人同士は一緒にいられませんが、すベての宗教圏は一緒にとどまることができます

宗教圏は、一つの世界を願って歩み、一つの神様を信じていくので、一緒にとどまることができるのです。宗教を信じる人々がこの世の人々と違うこととは何かというと、彼らは一生の間霊界を標準として生活するという点です

宗教というものは、永遠の世界、超然とした世界の内容を中心として、神様なら神様がいらっしゃるところと神様が住んでいらっしゃるところを中心として、私たちが関係を結ぶことのできる内容を教えてくれるのです

世界宗教国連創設の主

世界の各宗教を代表して、きょうこの場に参席された皆様に、私がこれまでお話ししたとおり、人間の生死の問題を中心とした生の価値を集中して取り上げたのは、他意があってのことではありません。生と死に対する正しい教えを伝えるのは、私たち宗教指導者たちの責任であることを強調するためです

今日、この世界の政治指導者たちは、国連を通じた世界平和と人類の繁栄を追求しています。しかし、私の判断では、政治、経済、軍事的側面を中心とした国連の機能だけでは、世界平和の道は不完全だというのです。政治、経済、軍事的手段は、外的、肉的、物質的側面にすぎません。ですから、より内的、霊的、精神的な側面は、宗教的教えと世界のすべての宗教の連合と一致した行動を通してのみ可能なのです

私は、きょうこの場を借りて、既存の国連に世界の主要宗教とその指導者たちが参与する、世界宗教国連の機構が創設されなければならないことを主唱するものです。世界と人類の未来のために、きょうこの時点で、世界宗教国連の創設とその役割の重要性について、これから皆様と世界のすべての国々が、さらに深く論議してくださることをお願いするものです。ありがとうこざいました。

 

16.人間の行くべき生涯路程

 

平和経 第三篇宗教と理想世界

16.人間の行くべき生涯路

日付:一九九九年一月十七

場所:韓国、ソウル、オリンピック公園重量挙げ競技

行事:真の家庭世界化前進大

高名な紳士淑女の皆様。きょう「人間の行くべき生涯路程」という主題で進められるこの大会に、真冬の寒さとあらゆる現実の困難をものともせずに、満場の盛況を呈してくださいましたことに、心より感謝申し上げます

今、全世界は大混乱の中で呻吟しています。個人では心身の紛争、家庭では青少年の淪落と家庭破錠、国家と世界においては不信と戦争が絶え間なく続いています。この諸般の問題の解決は、神人愛一体理想を体恤することによって克服することができます

神様が人間を創造された目

人間はなぜ生まれたのかという問題は、人類が歴史的に追究してきた根本問題です。ある人たちは自分の国のために、あるいは自分の父母のために、または自分自身のために生まれたと考え、信仰者たちは神様のために生まれたとも考えます。しかし、神様が宇宙を創造された目的は人間だけのためであるとか、神様御自身だけのためであるという論理は成立し難いのです。人間が造られる過程に連結された様々な目的、すなわち神様が人間を創造された目的や天使が人間の創造に協助した目的、あるいは万物が人間に投入された目的と人間が生まれたこと自体の目的などが、互いに違ってはならないのです。全体が喜ばなければなりません。人間の創造に関連した神様も喜び、天使も喜び、万物も喜び、そして人間自体も喜べる、そのような共通の内容でなければなりません

それは、もてばもつほどうれしくて喜ばしく、一度もてば永遠に手放したくないと思う、そのような何かなのです。それは外的な内容ではなく、極めて内的なものであり、目に見えないものなのです。知識やお金や権力のようなものは、人間が生きていくのに必要な付帯条件にすぎません。それはみな人間のためにあるものなので、人間には当然そのようなものを所有する権限があるのであって、そのようなものを所有するために生まれたとは考えられません。それはみな流れていくものです。それは自分と一時的な相対関係を結べるかもしれませんが、永遠の相対関係は結べないのです

さらに神様は、お金が必要なのではありません。全能であられる方なので、お金はいくらでもつくることができます。神様は万物を造るとき、原理原則を通して造ったので、知識の根本でもあられます。そして、神様御自身は創造主として権力の主体であられるので、権力が必要なのでもありません。そして、それは、人間の努力だけで追求できるものではありません。人間の努力では生命の根源を支配することはできません。自分の生命の動機や過程、そしてその生命の終末まで動かす、そのような何かでなければならないのです

このように見るとき、それは、真の愛であると言わざるを得ないのです。人間は愛で生まれ、愛の道を行かなければなりません。そして、死ぬときも愛のために死ななければならないのです。ですから、私たちの人生を見るとき、生命より愛がもっと貴いだけでなく、愛が生命よりも先なのです。ですから、愛のためには生命まで喜んで捧げるのです。愛は永遠です。小説や詩のような文学作品を見ても、「不変の愛」や「私の永遠のあなた」という表現が多く存在するのを見ることができます。このようなものを見ると、私たちが瞬間的な愛、一時的な愛を願うのではなく、永遠の愛を願うことが分かります

愛は神様も身動きさせない権威をもっています。神様も愛には弱いというのです。全能であられる神様も人間の愛の香りを嗅ぐならば、満面に笑みを浮かべられるのです。神様も愛の話がお好きなのです。話だけでも好きなのに、実際に愛すれば、どれほど喜ばれるでしょうか。私たちの人体の様々な器官も、愛という一つの目的を中心に生まれました。目は見るために生まれましたが、どのようなものを見るためかというと、共同のテーマである愛を探すために生まれたのです。鼻も臭いを嗅ぐために生まれましたが、臭いの中でも愛の香りを嗅ぐために、耳も愛の声を聞くために生まれました。私たちが聞く言葉の中でいくら聞いても嫌気がせず、好きな言葉は「愛している」という言葉です。これは若者も老人も同じなのです

ですから、あらゆる存在が互いにみな喜ぶことのできるテーマは、愛以外にはないのです。その愛とは、大宇宙が歓迎できる真の愛です。神様も、天使世界も、万物も、そしてすベての人が公認できる愛なのです。愛というふろしきを持ってきてかぶせておけば、その中から抜け出そうとはしません。このような点から見るとき、宇宙創造の起源や生命の発祥地とは、正に真の愛だというのです

真の愛は宇宙創造の起

人間が宇宙を愛する境地に入れば、宇宙のすべての門が開くことを経験できます。また、自分が今、ここの空間に、ただ極めて小さなものとして存在しているとしても、愛を中心とすれば、極めて大きな存在と共同で共通な、そして同等かつ対等な相対的権限をもつようになります。その極めて大きな存在が絶対的な神様ならば、私は愛の権威によって、その絶対的な神様の相対的な立場に上がることができるのです。神様の属性が愛だからです

ですから、神様の愛の公約を立てておいて、その公約の中に存在するようになれば、宇宙のどこに行こうと自由なのです。神様の愛に酔えば、一つの砂粒を千年見つめても飽きません。自分の手を見つめれば、自分の手から光が出ることが分かります。夜に一人で横たわっていると、暗い夜にもかかわらず、自分が黄金の板に横たわって黄金の光を発して寝ている自らを感じるようになります。夢のような話です。そのようになれば、丘に上がっても万物が喚声をもって歓迎するのを感じることができます。皆様もそのような経験をしたことがありますか

私たち自身が愛の宇宙の中に生まれたと考えれば、無限に幸福に感じられるだけでなく、世の中に「私を見なさい」と誇るに値する自分です。神様が実験室で研究している途中に、最も理想的で、驚異的な発見があったとすれば、それは正に自分だったというのです。このような観点から、神様の愛の相対的立場に立てられた自分自身を破綻させることは、罪の中の罪であり、これを愛して保護することは善の中の善であるという結論が出てくるのです。ですから、自殺することは最も大きな罪になります。宇宙を破綻させる行動です

監獄に入って、拷問で血を吐くことになったとしても、神様が抱いてくださる愛のみ手を感じれば、それがかえって神様が骨髄にしみる愛で抱くことのできる一つの条件になるのです。このように考えるとき、死ぬような環境も、幸福な場だと考えて歩むことができるのです。このようなことを考えるとき、男性も女性も、愛の力の中にいる人は、強い人なのです。国や世界を与えても変化させることができません。そのような人の前には、サタンも屈服せざるを得ない驚くべき結果が現れます

ですから、神様がこの宇宙的愛を中心とした人間を代表して呼ばれるとするなら、その方は正にメシヤです。イエス様がその代表者だというのです。メシヤを通さなければ、宇宙愛を見いだすことはできません。ですから、万民はそのあとについていかなければならないという論理が成立するのです。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四E/span>)と言われましたが、ここに愛という言葉を一つ加えなければなりません。「わたしは道であり、真理であり、命であり、愛である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」と言ってこそ、論理がより明確になるのです。私たち人間は、父母の愛の中で生まれました。その父母の愛の一番中心の、主人として生まれたのです。ですから、父母は、私一人をつくり出すために愛し合ったという結論が出てきます

ですから、父母に対して同等な立場で権利を主張することができます。「お父さんとお母さんは私がいなければ不幸です。私がいてこそ幸福でしょう」と言うとき、父母は「そうだ」と言うのです。そして、自分も父母がいなければ不幸だというのです。なぜなら、父母が原因で、私は結果だからです。父母と自分は愛を中心として一つです。原因と結果が一つになって愛の実体圏を形成するのです。これが宇宙の道理です

統一教会の原理では、主体と対象が一つになるところから力が出てくると言います。ですから、原因である父母が自分と一つになれば、主体と対象が一つになっで一体となったので、新しい対象となって、より大きな主体と一つになることができます。神様がその主体ならば、その神様と一つになるのです。すなわち、神様の理想的な愛を中心として神様と完全な主体と対象の関係を形成すれば、神様と人間は完全に父子関係になって、一つになるのです。神様と人間の愛の圏が形成されれば、宇宙にはいつも明るい太陽のような愛の光が発せられるのです

自分は、父と母の二つの生命が一つに結合した生命の連結体であるというだけでなく、父母の愛の同参者として父母の愛と一体です。さらには、自分は父母の理想とも一体です。理想には幸福や平和というものがすべて入ります。父母にとって、自分が世の中で成功したときの喜びがいくら大きくても、失った子女に出会ったときの喜びとは比較になりません。子女は父母の最高の理想と一体だというのです

自分には父と母の生命の綱、愛の綱、そして理想の綱が連結されていますが、この綱は誰も切ることはできません。神様も切ることができず、宇宙も切ることはできません。むしろ、宇宙のすべての力がそれを擁護しようとするのです。ですから、私がどこに行っても、父と母がついてくるようになります。あの霊界にまでも、父と母はいつも共にいようとするのです。ですから、父と母が同行するのを嫌うのは、大きな罪です。この宇宙を破綻させる破壊行為だというのです。父母を連れていくことを嫌うのは、既にその人が宇宙の原則から離れていくことを意味します

ですから、父母を自分の体のように思って愛し、父母に孝行することが、人間において最高に価値あることです。「和睦する家庭に福が来る」という言葉も、そこから来るのです。反面、父母が離婚することは、刀で子女を半分に切ることと同じです。それは宇宙の公法が許しません。これに逆らう父母はどこに行っても災いを受け、不幸がついて回るのであって、幸福になることはできないのです

物質世界、父母、神様は三大父

自分は三大父母を通して生まれました。第一の父母は物質世界です。物質の世界からあらゆる要素を取り出して、物質の中心として、物質の複合的な存在として自分は造られました。このような観点から、その物質の元素自体が自分を生んでくれた先祖でもあり、また自分の延長が物質世界でもあります。この物質は愛の理想の立場においてのみ安着するように、宇宙はできています。愛の理想の立場において、すべての細胞が平安に生きられるようになっています。もし腹を立てたりすれば、すべてがこじれてしまうのです

次に、自分の体を生んでくれた父母が第二の父母です。自分を生んでくれた父母が、自分をして一つの形態を備えて生まれてくることができるようにしました。しかし、この父母はどんなに頑張っても愛の主人になることはできません。自分の生命の主人にはなれますが、愛の主人にはなれないのです

愛の主人は神様です。愛を宇宙化させて、愛を永遠化させるために神様がいらっしゃるのです。神様は愛の主体であられるので、愛を中心として父母になっています。ですから、神様が私たちの第三の父母です。このように私たちは三大父母をもっているのです

私たち人間の一生は、腹中時代の十ヵ月、肉身時代の百年、そして霊界時代の千年、万年を永遠に生きていきます。私たちの顔を見れば、口、鼻、目の三段階になっていますが、これは人間が生きてゆく三時代の姿を見せてくれているのです。口は物質世界である腹中時代を象徴し、鼻は人の世界である地上時代を、目は霊界の天上時代を表します

胎児が育つ母のおなかの羊水の中は、胎児には正に自由天地です。母のおなかの中では、いつも背中を曲げていなければならず、鼻も口もみな塞がっているのですが、胎児には自由天地だというのです。胎児に必要なすべてを供給するパイプがへそについていて、へその緒だけで生きなければなりませんが、そのような世界が胎児には自由天地なのです。胎児がおなかの中から生まれるとき、「私は世の中に出て、口で蜂蜜も食べ、餅も食べ、御飯も食べる」と考えて生まれますか。むしろ、そのおなかの中から外に出る時になって「ああ、ここがいい」と思うのです。しかし「出たくない」と思っても、時が来れば出るようになるのです。羊水が流れ出れば、それに従って外に出るようになりますが、このようにして生まれることを安産といいます

赤ん坊は生まれるやいなや、泣くと同時に鼻の穴で息をするようになり、第二世界、すなわち空気世界に連結されます。おなかの中から空気世界に連結されて出てくるときには、腹中世界で暮らしたへその緒と羊水の袋をみな壊して出てこなければなりません。それらの死(破壊)と同時に、地球星の母の所に生まれるのです。生まれてからは、口で食べて鼻で息をするのです。ところが、地上で食べる食べ物は肉身が生きるのに必要な栄養分であって、本質的な生命要素ではありません。生命要素は、正に愛です。ですから、この世の中でも愛という空気を吸わなければなりません。母と父からの愛の空気を吸わなければならないのです

赤ん坊が生まれると、母の愛の電波に沿って自動的に乳首を探しにいきます。美女であるかどうかは関係なく、愛ある母であればいいのです。これこそ創造の妙味、かつ神聖な姿なのです。人は愛で生まれ、愛を受けながら成長します

このような立場で見るとき、「私」というものは、父母の愛の実です。父と母の愛がどのようなものなのかを実際の実として見せたのが自分なのです。愛の実であるがゆえに、父母は「私」を愛さなければなりません。その実を通して無限な愛がまた実を結ぶのです。個人的愛、家庭的愛、氏族的愛、民族的愛、国家的愛、世界的愛、宇宙的愛、そして本質的な神様の愛にまで連結できる道がここにあるというのです

私は父母の愛の

出生したのち、肉身時代には、生んであげた父母が子育てを受け持って正しい人に育てるのです。世界と国と家庭を代表し、父母がすべてを教えて供給してくれます。私たちが父母から物質を供給され、教育され、個体として完成すれば、愛を中心とした横的な基盤に連結させなければなりません。それが結婚です。父母は結婚するときまで責任をもつようになります。結婚して、父と母が互いに愛し合っていたその愛を引き継ぐのです。父母が自分を生んでどれほど愛したかを、自分が結婚して子女を生み育ててみることによって知るようになり、その愛を引き継ぐのです。そうすることによって、自分は愛を完全に受けることができ、与えることができる人になります。そうして、完全な一人の男性、女性として成熟するのです

父母の縦的な愛で生まれ、成熟し、横的に愛するようになって、初めて総合的な愛の圏を見いだすことができます。天地は球形世界なので、縦横と上下、左右、前後の愛が連結されてこそ、それを与え合いながら回り、すベてがまとまって一つの調和のセンターとして現れるのです。ですから、天地の縦的愛が内外に軸としてしっかりと立てば、その次に横的な愛が必要なので、思春期というものがあるのです

思春期には、ただ秋風に吹かれて落ち葉がころころ転がるのを見るだけでも笑うのです。乞食が訪ねてきて物乞いの歌を歌っても、思春期には「ああ!また来た。またやっているな」と言って歓迎します。そのように四方に拡大されるのです。ですから、おとなしくしていた女性たちも、髮の手入れや化粧をし、しきりに体に何かを塗るようになります。欲も強くなるのです。それが愛の横的な現象です。ですから、人生行路は旅のような道ですが、ここで備えるべきことは、縦横の愛を体恤していかなければならないということです。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の兄弟の愛、真の息子、娘の愛を中心とした家庭を築いたのち、これを横的に拡大し、東西南北に多くの家庭を広げておかなければなりません。そうして、彼らが縦横を連結できる真の家庭を形成し、氏族圏、民族圏、国家圏、世界圏で神様と真の愛で連結されるとき、その世界を天国というのです

夫婦が愛し合うということは、神様を迎えることです。本来、父母は本然の神様の立場を代表し、ここで夫と妻は互いに他の一方の神様になります。そして、息子、娘はまた一つの小さな神様です。神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されれば、みな同じ体になります。父母は神様の代身として生きている神様であり、夫婦も神様の代身であり、子女も神様の代身です。このように三代が真の愛を中心として神様の立場を身代わりするのです

ですから、父母も、夫婦も、そして子女も真の愛を必要とするのです。このように真の愛を中心に形成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を形成しなければ、天国が実現しません。これが公式です。家庭とは、すべての宇宙の現実世界の中心です。今日、人々は自分の家庭が、国と世界と宇宙を代表した家庭であることを知らずにいます。中心としての家庭だということを、知らずにいるというのです。ですから、家庭を破綻させることは、国と世界と宇宙に対する反抗になります。家庭の完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。この場合、神様は宇宙全体の父母として、愛の複合的な中心の立場にいらっしゃいます

真の愛を中心とした家庭が行くべき

真の愛を中心として男性と女性が一つになり、理想的な夫婦となって家庭を築けば、彼らは神様を身代わりする立場に立つようになり、宇宙のすべてに連結されます。そのようになるとき、神様のすべてが自分のものになるのです。どれほど幸福な立場でしょうか。ですから、私たちは万物を征服したい気持ちになるのです。男性と女性が合わさって家庭と社会と国家、そして世界を築くがゆえに、男性と女性が中心になって築いた家庭は氏族のモデルにならなければならず、氏族は国家のモデルにならなければならないのです。私たちの家庭が行くべき道とは、理想的な家庭と氏族と国を復帰していくことです。ですから、理想的な国が出てくるためには理想的な家庭がなければなりません

尊敬する市民の皆様。真の愛が偉大な理由は、真の愛で私自身が神様の対象になることができ、神様も私自身になることができるからです。聖書にも「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ一〇E/span>三八)とあります。父が息子の中に、孫が祖父の中に、祖父が孫の中にあるという言葉は、ここから生じた言葉だと考えます

祖母と祖父は、孫を中心として情を結ばなければなりません。それでこそ、愛の垂直線が始まるのです。また、孫は、祖母、祖父と一つにならなければなりません。祖父と祖母は神様と同じ立場なので、神様のように侍らなければなりません。そうでなければ、縦的な愛の軸を見いだすことができません。これを立てたのちに、横が生じるのです。横的なものは四方に連結されますが、縦的なものはただ一つの方向です。横的なものは東西南北、三六〇度に動くことができ、縦的なものは一つの点で動くことはできますが、分離することはできないのです

ですから、愛を中心として、まず体と心を一つにしなければなりません。そして、神様を中心とした縦的な世界である霊界を愛することができなければなりません。そして、未来に中心国家が現れれば、その国を中心として全世界の人類を愛さなければなりません。ですから、真の愛を中心として、犠牲、奉仕、献身の道を通じ、霊界と全世界の人類を愛する生活を送れば、人間は自動的に中心的存在になって、二つの世界を主管して一つの世界をつくることができます。そうすれば、神様もそこに臨在されるようになるのです

全霊界と全宇宙が合わさったものを天宙と言いますが、すべての霊界と宇宙は、真の愛を中心として、この天宙が一つに統一されることを願います。天宙を統一できるのも、全体の家庭を理想化させて一つにできるのも真の愛です。それで今日、人間が地上で暮らしても、永遠の生活をする霊界に入っても、絶対に必要なものは真の愛しかないという結論が出てきます

真の愛は、人間や霊界だけでなく、すべてが好みます。ですから、真の愛をもった人は、動物や植物たちからも好まれ、彼を主人として迎えようとし、どのような存在でも真の愛を中心とした人と一つになろうとするのです。被造世界のあらゆる存在は、真の愛をもって生きる男性と女性の前に近づこうとし、彼と共に生き、彼により主管されることを理想とします。ですから、この世の中で一番貴いものとは、真の愛をもった男性と女性、すなわち真の人だという結論が出てくるのです

人間には翼がないので、どんな昆虫や鳥よりももっと遠くに飛び、どんな飛行機よりももっと速く地球星を回るには、実体の肉身ではできません。どんなに走っても、いくらも行けないのです。人は万物の霊長として神様と対等な相対的立場にあります。ですから、一秒間に三十万キロメートルを走る光よりもっと速い作用ができなければなりません。それを可能にするものが霊人体です。今、私がソウルにいても、霊人体はさっとニューヨークに行ってくることができるのです。稲妻よりも速いというのです。このように、思いとともに歩調を合わせて作用できるのが霊人体です。しかし、世の中で一番速い作用とは、愛の作用です。世の中で一番速度が速いのは光や電波ではありません。世の中で一番速く、高く飛べる力をもったものが愛です。この地の果てとあの地の果てにいる人間同士で互いに愛し合うようになれば、その地の果てを越えて引っ張り合うのです。愛はそのような力をもっています

真の愛を体験した人は、神様の本来の理想的な世界では、神様が願うあらゆることを即座に所有できる能力と権限をもちます。そして、そのような資格は地上でもたなければなりません。霊人体を中心として肉身が一つになる過程で、神様の愛の接続点が真の家庭において形成されてこそ、そのような立場に進むことができるからです

神様の真の愛は、同胞を愛しても、世界の人を愛しても、万物を愛しても、感じることができます。どの国の人でも、五色人種を愛する心をもたなければならないのです。人だけではなく、微々たるものまで愛することができる心をもたなければなりません。自動的にそれが湧き出てこなければならないというのです。花が咲けば、その美しい色や香りは自然に出るのです。同様に、愛の花が咲かなければならず、愛の香りが自動的に宿らなければならないというのです

そうするには、その愛の花を咲かせ得る栄養素を受けなければなりません。植物が地と太陽から栄養素を受けるのと同様に、私たちも肉身と霊人体を通して栄養素を受けるのです。それで、肉身を通して生力要素を受け、その次には霊人体を通して生霊要素を受けます。そうすることによって、自分は愛を完備した実体となり、どこでも飛んでいくことができます。そのようになれば、太陽系をはじめとする大宇宙は、すべて自分の活動舞台になるのです

霊界は愛を中心とした世

人間が肉身生活を終えたのちには、第二の出生をします。これが死です。第二の出生をする所、死んで行く世界が正に霊界です。その世界に入って、第三の父母である神様から宇宙全体を代表した愛が供給されるのです。理想的な愛が供給されるというのです。ですから、霊界では統一されざるを得ません

死ぬ瞬間からは第二の空中世界を振り切って、新しい第三の愛の呼吸器官に連結されなければなりません。父母の愛、兄弟の愛を振り切って霊界に入り、結局は大宇宙の神様の本体と和合する愛の世界に入ります。種が本体から出てきたので、結果を結んで、また本体に戻らなければならないのです。霊界は愛の空気でできている世界です。愛の空気で満ちています。ですから、私たちはこの地上世界で、愛の息をすることができるもう一つのパイプ装置を準備しなければなりません。ですから、霊界を体験し、霊的な愛を感じて呼吸できる人になってこそ、霊界で死なないのです

霊界は愛を呼吸し、愛を中心として暮らす世界です。ですから、完全な愛の人格をつくれなければ、行ったり来たりする道が制限され、四方に通じません。門を通ったとしても一つの門だけを通らなければならないのと同じです。春夏秋冬、いつでもどこでも合わせて暮らせる資格を備えようとすれば、完全な愛の人格を具備しなければなりません。ですから、三時代を経るように人間を造ったのです

とんぼも、幼虫が水の中で泳ぎ回り、地上に上がってきてしばらく這い回ります。その次にはひらひらと飛び回り、食べるとは思いもしなかった虫を捕まえて食べます。天下を自分の舞台として飛び回るのです。このように昆虫類の中には、羽があって三段階の世界を経るものが多いのです。昆虫もこのように水と陸地での生を経て空中で暮らすのですから、万物の霊長である私たち人間は、もっと次元の高い翼をもっているのです

私たちは神様に代わって愛で生まれ、愛で生きながら息子、娘を生み、愛の目的地に到達して、永遠に神様と共に生きるために神様の所に帰るのです。すなわち、私たちの一生とは、愛で始まり、愛で熟し、愛の実として刈り取られるのです。人が死ぬということは、愛の実を収穫することです

私たちは、父母の愛を受け、夫婦の愛を交わし、子女を愛したので、内的な愛の世界に蒔かれた神様の愛のすベてを、一生をかけて実を結んで収穫し、あの世に逝くのです。ですから、私たちが完全に愛で一つになれば、神様に似るようになります。夫婦が合わさってこのような三段階の愛を完全に完成して霊界に行くようになれば、永遠の主体である神様のみ前に、永遠に「相対としての神様」になるのです。真の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになります。ですから、神様で始まって神様で締めくくるのです

人間が死ななければならない理由は、体をもっていては制限された愛でしか愛することができないからです。無限大の神様の真の愛の対象的実権をもって現れようとするなら、制限された肉身だけではできないのです。ですから、無形の霊にならざるを得ません。さらに、真の愛の理想を全天地とともに同一化するためです。死は苦痛の道ではなく、宇宙的な真の愛を所有できる幸福の門を開門する時間です。死ぬということは、這って歩き回る陸地の世界から、ひらひらと飛び回って暮らせる世界に移ることです。全宇宙を自分の舞台にして、真の愛で旅行を楽しめる資格をもった人になり、そのような世界に入門するために死の道を行くのです。ですから、死ぬことは正に新しく生まれることです

私たちは初めに母の胎内にいました。その胎が私たちを育てたふろしきです。そのふろしきの中から出てくるとき、すべてを振り切って生まれるのと同様に、私たちの霊人体に対して肉身はふろしきのようなものなので、これを振り切って飛んでいくのです。ですから、人間は結局、水の世界、陸地の世界、空中の光の世界を経て、永遠な真の愛の世界で暮らすようになるのです

霊界では生命の要素が愛なので、愛を通した命令には不可能がなく、即座に実現されます。そこでは億万人が一度に夕食を食べるとしても、そこに合う食べ物を準備して、あっという間に宴会をすることができます。そのとき、列席する貴賓たちが、みな王女、王子になりたいというときは、すべて本物の王女、王子になります。それが可能なのです

皆様、そのようなことを理解するなら、この地上で暮らしたいですか。あの世に行きたいですか。腹中にいるときは「腹中が一番いい」と言いながら、腹中でただ足をばたつかせながら暮らします。途中で引き出そうとすれば「嫌だ」と言うでしょう。そして、母のおなかの中から外に出るときは、一度死んでから目覚めます。地上での死というものも、一度死んでから目覚めるのと同じ作用なのです。ですから、肉身の死とは、正に第二のお産です

神様と人類は父子関

満場の市民の皆様。きょう一時を生きていく人生の道というものは、平坦な道ではありません。それは人間が堕落したからです。人間は堕落の因縁をもって生まれたがゆえに、その堕落によって生じた怨恨の過程を、いずれ乗り越えなければならない運命をもって生まれ、数千、数万年の歴史過程を経てもそれを越えなければ、その恨の道は私たちの前に永遠に残るようになるのです

エデンの園でアダムとエバが堕落したその瞬間から、人間は不幸の要件をもって出発しました。ですから、人類が幸福の世界に帰るためには、必ず不幸の世界を跳ね返して進まなければなりません。そうでなければ、誰も幸福な世界に帰ることはできません

人類始祖が堕落したことによって人間だけが不幸になったのではなく、神様までも共に不幸になりました。人間が生涯を捧げて生きていく一つの目的は、理想世界の実現だけではありません。それよりまず、生命の根源であられる神様に積もりに積もった悲しみと悲痛さをどのように打開するかということが、私たちの生涯の目的です。ですから、人類が幸福な所を訪ねるとき、神様も幸福になるのです。神様と人類は父子関係だからです。このように神様や人間は同じ立場に立って、一つの目的を指向し、歴史過程を経ながら今まで歩んできました。神様はアダムとエバを失うことによって、険しい道の中でも険しい道、世の中の誰も願わず、また行きたがらない道を歩んでこられたのです。人間もやはり堕落で残された、この避けることのできない運命の道を、救いの一日を願ってやって来ました

神様に対して人間は、その方の息子、娘になることが最高の願いです。なぜなら、父母と最も近い立場は父子関係だからです。「私」という人間は、父母の愛と生命が合わさって、父母の理想を実現するために生まれました。愛や理想という言葉は、一人について語る言葉ではありません。生命も一人で独断的に出てくるものではなく、連結された立場で出てくるのです。ですから、神様が人をお造りになるとき、神様の真の愛と真の生命と理想の対象として造られたのです。これは驚くべき偉大なことです。自分がいなければ、父母の愛は現れることができません。父母の愛と生命と理想は、自分と共に関係しているのです。自分は父母の愛と生命と理想の結実体です。ですから、息子の立場は最高に価値のある立場です。神様と人類は父子の関係だからです

父母と自分が一つのところから共に出発したという事実は、驚くべきことです。父母の愛は自分の愛であり、父母の生命は自分の生命であり、父母の理想は自分の理想として決定することができるのです。ですから、父母は子女を見つめるとき、これは自分の愛する息子、娘だと言います。子女とは、自分の愛と自分の生命と自分の理想の実体だということを、父母は感じて悟り、知っています。愛する息子、娘は、一日だけ会わなくても、会いたいと思い、今見ても、またすぐ見たいと思うのです。それはどんなに離そうとしても離すことができない、骨の中の骨であり、肉の中の肉です。いなければ死ぬほどつらいと思うのであり、そこにはすべての理想がかかっているのです

今日、堕落によって真の愛と真の生命と真の理想をもつことができない人間世界に生まれた父母でも、そのように子女を愛そうとするのですから、そのような父母の主体であられる神様は、それよりもっと愛するというのです

救援摂理の完

本来、堕落していないアダムとエバは、神様の直系の息子、娘として神様の血統を引く存在です。アダムとエバは、天上天国と地上天国を受け継げる王子、王女だったのです。王子、王女であると同時に、無形の神様であり、主体であられる神様のみ前に対象として造られた存在であるがゆえに、神様から愛を受けられる実体なのであり、無形の神様が実体として顕現したものです

神様の息子の特権とは、その方は自分のものであり、その方がもっているすべてのものも自分のものだというのです。神様の愛までも、生命までも、理想までも自分のものです。このように驚くべき偉大な本然の価値を、人間は再び回復しなければなりません。ですから、神様が主体的真の愛であり、永生するのなら、その真の愛の相対も永生しなければなりません。神様の真の愛と一つになれば、神様が自分のものになるのです

堕落していないアダムとエバの体は、神様が住むことのできる家です。アダムとエバが神様を心の中心として、真の愛で永遠に統一された愛の体、生命の体、血統の体になっていたならば、今日、私たちの心と体は闘わないでしょう。堕落とは、悪魔の愛を中心として、悪魔の生命体と血統を受け継いだことです。偽りの父母から生まれたのです。ですから、この血統を改造しなければなりません。野生のオリーブの木を真のオリーブの木に改造しなければならないというのです。そうするためには、接ぎ木をして三代以上経て、そこで結ばれる実が真のオリーブの木になって、本然の基準を取り戻すようになるとき、初めて堕落した人間が本然の人間に復帰されます。そのとき、救いの摂理が完成するのです

このように神様と一致した愛を中心として、善なる父母の息子、娘にするために、神様がこの地上に救世主として真の父母を送るのです。救世主は人類の血統を清め、本然の創造理想を実現するために来られるお方です

私たち人間は、誰でも最高になりたいと思い、神様の息子、娘になって、神様の王子、王女として王権を受け継ぐ相続者になりたいという本然の欲望がありますが、他の血統を受け継いだがゆえに、生まれても嘆かわしく、生きても嘆かわしく、死んでも嘆かわしいのです。人生は苦海だという言葉が、ここから出てきました。ですから、自分の体と心の闘いをどのように中止させ、一つに統一させるかという問題が重要です。自分の体と心を一つにできなければ、南北統一も、世界統一も、そして霊界統一も、自分とは何の関係もなくなります

主体と対象は、対応的な関係を結んだのちには、より大きなものを中心として一つにならなければなりません。男性と女性が対応して一つになったあと、より大きなプラスやマイナスになって、国の前に忠臣にならなければなりません。そして、これが再びプラスやマイナスとして世界的次元で聖人の道理に接ぎ木されなければならず、聖人の道理が再びプラスやマイナスになって、天宙的次元で聖子の道理に接ぎ木されなければなりません。そのように聖子の道理を備えたのちにこそ、神様に接ぎ木することができるのです

ところが、私たちは発展を願い、大きなものを願い、高いものを願う、このような原則において、自分が行くべき道が運命的に横たわっているにもかかわらず、その道を知らずにいます。本然的な天道の動きに対する対応的な反射として、自分の心の欲望は作用していますが、その成就の道を知らずにいるために、人生は塗炭の苦しみの中で呻吟しているのです。これを見いだすことができないために、世の終わりの日になれば、その道を見いだすために多くの努力をしても不可能なので、自殺がだんだんと増えていくのです。私たちは何としてもこれを克服する道を探さなければなりません

人類は世界の舞台で一番になることを願う前に、まず本然的アダムとエバの家庭で一番になることができなければなりません。アダムとエバが神様のみ前に直系の王子と王女の立場を備えるようになれば、彼らは男性として最高であり、女性として最高になるのです。しかし、彼らが堕落したことによって、彼らが占有すべき長子権の王子、長子権の王女の立場を失ったのです。これが人類歴史に恨として残りました。ですから、人類は神様の真の愛を再び探そうと、最初の息子と最初の娘の立場を求めていく人生の道を歩んできたのです

そのような真の愛を受けるためには、自分自身を中心に生きるのではなく、神様を主にして、兄弟である人類を主にして生きなければなりません。父母に代わって兄弟のために最も多く血と汗を流しながら、長く耐えて克服した真の人であるほど、深く、広く、高い愛を受けるのです。そのような息子になり、娘になってこそ、父と母の全体を相続することができるのです。この道は男性も女性もみな行かなければなりません。ですから、十回でも百回でも死の峠を経て、また死んだとしても絶えず神様の真の愛を求めていかなければならないのが、人生において行くべき最高の道なのです

統一教会の原理は、人間が神様の真の愛の圏内から脱したことが堕落であり、神様の愛の圏内に再び入ることが復帰だと教えています。そのような真の愛の圏内に入れば、自分の手一つを見ても、千回、万回激しく称賛するようになります。その世界では、自分の体も神様の真の愛を受ける体になるので、その喜びは言葉で表現できないのです。そのように素晴らしい世界が天国です

宗教の使

私たち人間の心が神様の真の愛を占領する日には、千年、万年歌い、踊ることができるのです。神様の真の愛に酔うようになれば、酒や麻薬のようなものに酔うこととは比較にもなりません。天下に存在するものすべてを呼べば、そこに応えないものはありません。流れる水だけを見ても、千年間歌を歌うことができます。そこにおけるささやきの甘味は、無窮無尽だというのです。その時は世の中のすべてを成し遂げたことになるので、金銀財宝も他の何も、みな必要ありません。世の中でそれより貴いものがないというのです

このようなことを見るとき、人間の価値は、愛を通して、真の愛の感覚を通して宇宙と和合できる主人格だというのです。これを成し遂げることが人生の行くべき道です。霊界は今まで未知の世界でした。その世界は神様の存在原則である、ために生きた人だけが行く所です。そのような内容で形成された世界が理想天国です。そこが、私たち人間が求めていくべき本郷なのです

今日、私たちは堕落した人生によって本郷から追放された人間となったがゆえに、本郷の地に向かって帰るベき運命にあります。しかし、そこは人間自体だけでは帰ることができません。それで、神様は人間が帰ることのできる道として、その民族の文化背景、風習あるいは伝統に従って数多くの宗教を立て、歴史的に収拾してこられたのです。宗教は本郷の地に帰る資格をもつ人に鍛える訓練の場です。神様は東西南北、四方の文化背景によって、高い所に前進できる一つの統一された宗教世界に導いてこられたのです

そのような本郷の地に導く宗教なので、宗教は「ために生きなさい」と教えてあげざるを得ません。それで、高等な宗教であるほど、ために生きなければならないという原則を強調し、温柔、謙遜であれと教えるのです。無数の人々を高め、彼らのために生きる立場に立って、犠牲になり、奉仕しなさいと教えるのです。

今や、私たちの前に到来する二〇〇〇年以降は、世界の全人類が神様を中心とした真の本然の人間の価値を取り戻し、天地父母と一体となった祝福を受けた真の家庭を成し遂げ、神様と真の父母様を中心として、永遠にために生きる、真の愛の道理を実践する、真の平和と真の理想の天国時代を迎えなければならないのです。新年に皆様の家庭と国家に、神様の愛と祝福が一層満ちあふれることをお祈りいたします。ありがとうございました。