原理講論

 

 

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総   序

人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。個人のささいな出来事から、歴史を左右する重大な問題に至るまで、すべては結局のところ、等しく、幸福になろうとする生の表現にほかならないのである。

それでは、幸福はいかにしたら得られるのであろうか。人間はだれでも、自己の欲望が満たされるとき、幸福を感ずるのである。しかし欲望などといえば、ややもすると我々はその本意を取り違えがちである。というのは、その欲望が概して善よりは悪の方に傾きやすい生活環境の中に、我々は生きているからである。しかしながら、我々をして不義を実らせるような欲望は、決して人間の本心からわき出づるものではない。人間の本心は、このような欲望が自分自身を不幸に陥れるものであるということをよく知っているので、悪に向かおうとする欲望を退け、善を指向する欲望に従って、本心の喜ぶ幸福を得ようと必死の努力を傾けているのである。これこそ正に、死の暗闇を押しのけて、命の光を探し求めながら、つらく、険しい人の道を彷徨する偽らざる人生の姿なのである。いったい、不義なる欲望のままに行動して、本心から喜べるような幸福を味わい得る人間がいるであろうか。このような欲望を満たすたびごとに、人間はだれしも良心の呵責を受け、苦悶するようになるのである。その子供に悪いことを教える父母がいるであろうか。その子弟を不義に導く教師がいるであろうか。だれしも悪を憎み、善を立てようとするのは、万人共通の本心の発露なのである。

とりわけ、このような本心の指向する欲望に従って、善を行おうと身もだえする努力の生活こそ、ほかならぬ修道者たちの生活である。しかしながら、有史以来、ひたすらにその本心のみに従って生きることのできた人間は一人もいなかった。それゆえ、聖書には「義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、神を求める人はいない」(ロマ三・1011)と記されているのである。また人間のこのような悲惨な姿に直面したパウロは「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう」(ロマ七・2224)と慨嘆したのであった。ここにおいて、我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。存在するものが、いかなるものであっても、それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、破壊されざるを得ない。したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、正に破滅状態に陥っているということができる。ところで、このような人間の矛盾性は、人間が地上に初めて生を享けたときからあったものとは、到底考えられない。なぜかといえば、いかなる存在でも、矛盾性を内包したままでは、生成することさえも不可能だからである。もし人間が、地上に生を享ける以前から、既にこのような矛盾性を内包せざるを得ないような、運命的な存在であったとすれば、生まれるというそのこと自体不可能であったといえよう。したがって、人間がもっているこのような矛盾性は、後天的に生じたものだと見なければなるまい。人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、堕落と呼ぶのである。

このような観点から見るとき、我々は、人間は堕落したのだという結論に到達する。と同時に、だれしもこの結論に対しては反駁する余地がないということをもまた知るのである。人間は、このように堕落して自己破滅に瀕しているということを知っているがゆえに、邪心からくる悪の欲望を取り除き、本心から生じてくる善の欲望に従って、一つの目的を指向することによって、それ自体の矛盾性を除去しようと、必死の努力をしているのである。しかし、悲しいかな、我々は、その究極において、善と悪とがそもそもいかなるものなのかという問題を解くことができずにいるのである。例えば、有神論と無神論とについて考えるとき、二つのうちいずれか一つを善と見なせば、他の一つは悪ということになるのであるが、我々はいまだどちらが正しいかということに対する絶対的な定説をもっていないのである。いわんや、人間は、善の欲望を生ぜしめる本心というものがそもそもいかなるものなのか、また、この本心に反して悪の欲望を起こさしめる邪心というものがいったいどこから生じてくるものなのか、さらにまた、人間にこのような矛盾性をもたしめ、破滅を招来せしめるその根本原因はいったい何なのかなどという問題に対しては、全く無知なのである。それゆえ、我々が悪の欲望を抑え、善の欲望に従い、本心が指向する善の生活をなすためには、この無知を完全に克服して、善悪を判別できるようにならなければならないのである。

人間の堕落を知的な面から見れば、それはとりもなおさず、我々人間が無知に陥ったということを意味するのである。しかるに、人間は、心と体との内外両面からなっているので、知的な面においても、内外両面の知をもっているわけである。したがって、無知にも、内的な無知と外的な無知との二種類がある。内的な無知とは、宗教的にいえば、霊的無知をいうのであって、人間はどこから来たのか、生の目的とは何か、死後はいったいどうなるのか、更に進んで、来世や神などというものは果たして存在するのか、また既に述べたように、善とか悪とかいうものはいったい何なのかなどという問題に対する無知をいうのである。また、もう一つの外的な無知とは、人間の肉身をはじめとする自然界に対する無知をいうのであり、すべての物質世界の根本は何であるか、また、それらのすべての現象は各々どのような法則によって生ずるのか、という問題などに対する無知をいうのである。人間は有史以来今日に至るまで、休むことなく、無知から知へと、無知を克服しようとして真理を探し求めてきた。その際、内的無知を克服して内的知に至る道を見いだすべく内的真理を探求してきたのがすなわち宗教であり、外的無知を克服して外的知への道を見いだすべく外的真理を探求してきたのが科学なのである。このような角度から理解すれば、宗教と科学とは、人生の両面の無知を克服して両面の知に至る道を見いだすべく両面の真理をそれぞれ探求する手段であったということを知ることができるのである。それゆえに、人間がこのような無知から完全に解放されて、本心の欲望が指向する善の方向へのみ進み、永遠の幸福を獲得するためには、宗教と科学とが統一された一つの課題として解決され、内外両面の真理が相通ずるようにならなければならないのである。

実際の人生の行路において、人間が歩んできた過程を二つに大別してみると、その一つは、物質による結果の世界において、人生の根本問題を解決しようとする道である。このような道を至上のものと考えて歩んできた人々は、極度に発達した科学の前に屈伏し、科学の万能と物質的な幸福とを誇りとしている。しかし人間は、果たして、このような肉身を中心とした外的な条件のみで、完全なる幸福を得ることができるであろうか。科学の発達が極めて安楽な社会環境を築き、しかもその中において、人間が、極度の富貴と栄華とを楽しむことができるとしても、これだけで、果たして人間のその内的な精神的欲求までも、完全に満たし得るであろうか。肉身の快楽にふける俗人の喜びと、清貧を楽しむ道人の喜びとは、全く比べものにならない。王宮の栄耀栄華をかなぐり捨てて、心の住み家を探し求め、所定めぬ求道の行脚を楽しむのは、釈迦一人に限ったことではない。心があって初めて完全な人間となり得るように、喜びにおいても、心の喜びがあって初めて、肉身の喜びも完全なものとなるのである。今ここに肉身の快楽を求めて、科学の帆を揚げ、物質世界を航海する一人の船頭がいるとしよう。彼が理想とするその岸に到達したとする。しかし、同時にそこが彼の肉身を埋めねばならない墓場であるということを彼は知るに至るであろう。それでは、科学が真に行くべきところはどこであろうか。今までの科学の研究対象は、内的な原因の世界ではなく、外的な結果の世界であった。本質の世界ではなくして、現象の世界であった。しかし、今日に至っては、科学の対象は、外的な結果的な現象の世界から内的な原因的な本質の世界へと、その次元を高めなければならない段階に入ってきているのである。ゆえに、その原因的な心霊世界に対する論理、すなわち内的な真理なくしては、結果的な実体世界に対する科学、すなわち外的な真理も、その究極的な目的を達成することはできないという結論を得るに至ったのである。今や、科学の帆を揚げて外的な真理の航海を終えた船頭が、今また一つ宗教の帆を掲げて、内的な真理の航路へとその舳先を変えるとき、ここに初めて本心が指向する理想郷へと航海を進めていくことができるのである。

人間が歩んできたいま一つの過程は、結果的な現象世界を超越して、原因的な本質世界において、人生の根本問題を解決しようとする道であった。この道を歩んできたこれまでの哲学や宗教が多大の貢献をなしたことは事実である。しかしながらその反面、それらが我々にあまりにも多くの精神的な重荷を負わせてきたということも、また否定することのできない事実であろう。歴史上に現れたすべての哲人、聖賢たちは、人生の行くべき道を見いだすべく、それぞれその時代において、先駆的な開拓の道に立たされたのであるが、彼らが成し遂げた業績はすべて、今日の我々にとってはかえって重荷となってしまっているのである。このことについて我々はもう一度冷静になって考えてみる必要があるのではなかろうか。哲人の中のだれが我々の苦悶を最終的に解決してくれたであろうか。聖賢の中のだれが人生と宇宙の根本問題を解決し、我々の歩むべき道を明確に示してくれたであろうか。彼らが提示した主義や思想は、むしろ我々が解決して歩まなければならない種々様々の懐疑と、数多くの課題とを提起したにすぎなかったのである。そうして、あらゆる宗教は、暗中模索していたそれぞれの時代の数多くの心霊の行く手を照らしだしていた蘇生の光を、時の流れとともにいつしか失ってしまい、今やそのかすかな残光のみが、彼らの残骸を見苦しく照らしているにすぎないのである。

すべての人類の救済を標榜して、二〇〇〇年の歴史の渦巻の中で成長し、今や世界的な版図をもつようになったキリスト教の歴史を取りあげてみよう。ローマ帝国のあの残虐無道の迫害の中にあっても、むしろますます力強く命の光を燃え立たせ、ローマ人たちをして、十字架につけられたイエスの死の前にひざまずかせた、あのキリストの精神は、その後どうなったのであろうか。悲しいかな、中世封建社会は、キリスト教を生きながらにして埋葬してしまったのである。この墓場の中から、新しい命を絶叫する宗教改革ののろしは空高く輝きはじめたのであったが、しかし、その光も激動する暗黒の波を支えきることはできなかった。初代教会の愛が消え、資本主義の財欲の嵐が、全ヨーロッパのキリスト教社会を吹き荒らし、飢餓に苦しむ数多くの庶民たちが貧民窟から泣き叫ぶとき、彼らに対する救いの喊声は、天からではなく地から聞こえてきたのであった。これがすなわち共産主義である。神の愛を叫びつつ出発したキリスト教が、その叫び声のみを残して初代教会の残骸と化してしまったとき、このように無慈悲な世界に神のいるはずがあろうかと、反旗を翻す者たちが現れたとしても無理からぬことである。このようにして現れたのが唯物思想であった。かくしてキリスト教社会は唯物思想の温床となったのである。共産主義はこの温床から良い肥料を吸収しながら、すくすくと成長していった。彼らの実践を凌駕する力をもたず、彼らの理論を克服できる真理を提示し得なかったキリスト教は、共産主義が自己の懐から芽生え、育ち、その版図を世界的に広めていく有様を眼前に眺めながらも、手を束ねたまま、何らの対策も講ずることができなかったのである。これは甚だ寒心に堪えないことであった。のみならず、すべての人類はみな同じ父母から生まれた子孫であるという教理に従って、それを教え、かつ信じているキリスト教国家の国民たちが、皮膚の色が違うというただそれだけの理由をもって、その兄弟たちと生活を同じくすることができないという現実は、キリストのみ言に対する実践力が失われ、灰色に塗られた墓場のごとく形式化してしまった現下のキリスト教の実情を、そのまま浮き彫りにする代表的な例だということができよう。

しかし、このような社会的な悲劇は、人間の努力いかんによって、あるいは終わらせることができるかもしれない。けれども、人間の努力をもってしては、いかんともなし得ない社会悪が一つある。それは、淫乱の弊害である。キリスト教の教理では、これはすべての罪の中でも最も大きな罪として取り扱われているのであるが、しかし、今日のキリスト教社会が、現代人が陥っていくこの淪落への道を防ぐことができずにいるということは、何よりもまた嘆かわしい実情といわなければなるまい。今日のキリスト教が、そのような世代の激流の中で、混乱し、分裂し、背倫の渦の中に巻きこまれていこうとする数多くの命に対して、手を束ねたまま何らの対策をも立てることができないというこの現実は、いったい何を意味するのであろうか。それは、従来のキリスト教が、現代の人類に対する救いの摂理において、いかに無能な立場に立っているかという事実を如実に証明するものと見なければならないのである。

それでは、内的な真理を探し求めてきた宗教人たちが、その本来の使命を全うすることができなくなった原因は、いったいどこにあるのだろうか。本質世界と現象世界との関係は、例えていうならば、心と体との関係に等しく、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、そして、主体的なものと対象的なものとの関係をもっているのである。心と体とが完全に一つになってこそ完全なる人格をつくることができるように、本質と現象との二つの世界も、それらが完全に合致して初めて、理想世界をつくることができるのである。それゆえ、心と体との関係と同じく、本質世界を離れた現象世界はあり得ず、現象世界を離れた本質世界もあり得ないのである。したがって、現実を離れた来世はあり得ないがゆえに、真の肉身の幸福なくしては、その心霊的な喜びもあり得ないのである。しかしながら、今日までの宗教は来世を探し求めるために、現実を必死になって否定し、心霊的な喜びのために、肉身の幸福を蔑視してきたのである。しかしながら、いかに否定しようとしても否定できない現実と、離れようとしても離れることができず影のように付きまとう肉身的な幸福への欲望が、執拗に修道者たちを苦悩の谷底へと引きずっていくのである。ここにおいて、我々は、宗教人たちの修道の生活の中にも、このような矛盾性のあることを発見するのである。このような矛盾性を内包した修道生活の破滅、これがとりもなおさず今日の宗教人たちの生態なのである。このように、自家撞着を打開できないところに、現代の宗教が無能化してしまった主要な原因があると思われるのである。

さて、宗教が、このような運命の道をたどるようになったのには、更にもう一つの重要な原因があるのである。それは、科学の発達に伴い、人間の知性が最高度に啓発された結果、現代人はすべての事物に対して科学的な認識を必要とするようになったにもかかわらず、旧態依然たる宗教の教理には、科学的な解明が全面的に欠如しているという事実である。すなわち、既に述べたように、内的な真理と外的な真理とが、いまだに一致点に到達できていないというところに、その原因があるのである。宗教の究極的な目的は、まず心をもって信じ、それを実践することによって初めて達成されるのである。ところで、信ずるということは、知ることなしにはあり得ないことである。我々が聖書を研究するのも、結局は真理を知ることによって信仰を立てるためであり、イエスが様々の奇跡を行われたというのも、彼がメシヤであることを知らせて、信じさせるためであった。ここにおいて、知るということは、すなわち、認識するということを意味するのであるが、人間は、あくまでも論理的であると同時に、実証的なもの、すなわち科学的なものでなければ、真に認識するということはできないので、結局、宗教も科学的なものでない限り、よく知ってそれから信ずるということが不可能となり、宗教の目的を達成することはできないという結論に到達するのである。このように、内的真理にも論証的な解明が必要となり、宗教は長い歴史の期間を通じて、それ自体が科学的に解明できる時代を追求してきたのである。

このように、宗教と科学とは、人生の両面の無知を打開するための使命を、各々分担して出発したがゆえに、その過程においては、それらが互いに衝突して、妥協し難い様相を呈したのであるが、人間がこの両面の無知を完全に克服して、本心の要求する善の目的を完全に成就するためには、いつかは、科学を探し求めてきた宗教と、宗教を探し求めてきた科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる、新しい真理が現れなければならないのである。

新しい真理が現れなければならないという主張は、宗教人たち、特にキリスト教信徒たちにとっては、理解し難いことのように思われるかもしれない。なぜなら、彼らは、彼らのもっている聖書が、それ自体で完全無欠なものだと考えているからである。もちろん、真理は唯一であり、永遠不変にして、絶対的なものである。しかし、聖書は真理それ自体ではなく、真理を教示してくれる一つの教科書として、時代の流れとともに、漸次高められてきた心霊と知能の程度に応じて、各時代の人々に与えられたものであるために、その真理を教示する範囲とか、それを表現する程度や方法においては、時代によって変わらざるを得ないのである。したがって、我々はこのような性格をもっている教科書そのものを、不動のものとして絶対視してはならないのである(前編第三章第五節参照)。既に述べたように、人間がその本心の指向性によって神を求め、善の目的を成就するために必要な一つの手段として生まれてきたのが宗教であるとするならば、あらゆる宗教の目的は、同一のものでなければならない。しかし、それぞれの宗教の使命分野は、民族により、あるいは時代によってそれぞれ異なるものであり、それに伴って、上述のごとき理由から、その教典も各々異なるものとなってしまったので、各種各様の宗教が生まれるようになったのである。すなわち、教典というものは、真理の光を照らしだすともしびのようなものであり、周囲を照らすというその使命は同一であっても、それ以上に明るいともしびが現れたときには、それを機として、古いともしびの使命は終わるのである。既に論じたように、今日のいかなる宗教も、現世の人々を、死の影の谷間より命の光のもとへと導き返すだけの能力をもっていないということになれば、今や新たな光を発する新しい真理が現れなければならないといえるのである。このような新しい真理のみ言がやがて与えられるということは、聖書の中にも数多く記録されている(前編第三章第五節参照)。

それでは、その新しい真理は、いかなる使命を果たさなければならないのであろうか。この真理はまず、既に論じたように、宗教が探し求めてきた内的真理と科学が探し求めてきた外的真理とを、統一された一つの課題として解決し、それによってすべての人々が、内外両面の無知を完全に克服し、内外両面の知に至ることができるようなものでなければならない。また、堕落人間をして、邪心が指向する悪への道を遮り、本心の追求する善の目的を成就せしめることによって、善悪両面への指向性をもっている人間の矛盾性と、前述のような、宗教人たちが当面している修道の生活の矛盾性とを、克服できるようなものでなければならない。堕落人間にとって、「知ること」は命の光であり、また蘇生のための力でもある。そして、無知は死の影であり、また破滅の要素ともなるのである。無知からはいかなる情緒をも生じ得ない。また、無知と無情緒からはいかなる意志も生ずることはできないのである。人間において、知情意がその役割を果たすことができなくなれば、そこから人間らしい、人間の生活が開かれるはずはない。人間が、根本的に、神を離れては生きられないようにつくられているとすれば、神に対する無知は、人生をどれだけ悲惨な道に追いやることになるであろうか。しかし、神の実在性に対しては、聖書をいかに詳しく読んでみても、明確に知る由がない。ましてや神の心情についてはなおさらである。それゆえ、この新しい真理は、神の実在性に関することはいうまでもなく、神の創造の心情をはじめとして、神が御自身に対して反逆する堕落人間を見捨てることができず、悠久なる歴史の期間を通して彼らを救おうとして心を尽くしてこられた悲しい心情をも、我々に教えることのできるものでなければならない。

善と悪との二筋道を指向する人間たちの相克をはらんだ生活によって形成されてきた人類歴史は、ほとんど闘争に明け、闘争に暮れてきた。その闘いは、財物を奪いあい、土地を奪いあい、人間を奪いあうなどの外的な闘争であった。しかし今日に至っては、このような外的な闘いは、漸次、終わりつつあるのである。そして、民族を差別せず、一つの所に集まり、一つの国家をつくり、今日においてはむしろ戦勝国家が植民地を解放し、彼らに列強と同等な権限を賦与して、国連加盟国とすることによって、みな等しく、世界国家の実現を企図しているのである。のみならず、不倶戴天の国際関係さえもが、一つの経済問題を中心として緩和され、更に一つの共同市場体制を形成していくという実情にある。特に今日の文化面においては、各民族の伝統的な異質性を克服して、東西両洋の距離を越えて、何らの障害もなしにお互いが交流しあっているという実情である。しかし、我々の前には、避けることのできない最後の闘いがまだ一つ残っている。それは、とりもなおさず、民主主義と共産主義との内的な理念の闘いである。彼らはお互いに恐怖すべき武器を準備して、外的な闘いを挑んではいるが、実際のところはこの内的な理念の闘いに勝利するために、心ならずもこれらの外的な武器を用いているにすぎないのである。それでは、この最終的な理念の闘いにおいて、どちらに勝利がもたらされるかといえば、神の実在を信ずるすべての人は、だれしもそれは民主主義だと答えるであろう。しかし、既に論じたように、今日の民主主義は、共産主義を屈伏せしめ得る何らの理論も実践力ももちあわせてはいないのである。ゆえに、神の救いの摂理が完全になされるためには、この新しい真理は今まで民主主義世界において主唱されてきた唯心論を新しい次元にまで昇華させ、唯物論を吸収することによって、全人類を新しい世界に導き得るものでなければならない。同時にまた、この真理は、有史以来のすべての主義や思想はもちろんのこと、あらゆる宗教までも、一つの道へと、完全に統一し得る真理でなければならないのである。

人間が宗教を信じようとしないのは、神の実在と来世の実相とを知らないからである。いかに霊的な事実を否定する人であろうと、それらのことが科学的に証明されるならば、信じまいとしても信じざるを得ないのが人間の本性である。また、現実世界に人生の究極の目的をおく人々は、だれしも、最後にはむなしさを味わわずにはいられない。これまた人間の天性の発露であり、何人といえども避けることのできない感情である。それゆえ、新しい真理によって、神を知るようになり、霊的な事実に直面して、人生の根本目的を現実世界におくべきでなく、永遠の世界におかなければならないということを悟るとき、だれしもがこの一つの道を通じて、一つの目的地に歩み、そこで一つの兄弟姉妹として、相まみえるようになるのである。

それでは、全人類が、一つの真理により、一つの兄弟姉妹として、一つの目的地において、相まみえるようになるとすれば、そこにおいて築かれる世界とは、どのような世界なのであろうか。この世界こそ、悠久なる歴史を通じて、人生の両面の無知から脱却しようと身もだえしてきた人類が、その暗黒から逃れでて、新しい真理の光の中で相まみえ、一つの大家族を形成していく世界なのである。ところで、真理の目的は善を成就するところにあり、そしてまた、善の本体はすなわち神であられるがゆえに、この真理によって到達する世界は、あくまでも神を父母として侍り、人々がお互いに兄弟愛に固く結ばれて生きる、そのような世界でなければならないのである。自分一人の利益のために隣人を犠牲にするときに覚える不義な満足感よりも、その良心の呵責からくる苦痛の度合いの方がはるかに大きいということを悟るときには、決してその隣人を害することができないようになるのが人間だれしもがもつ共通の感情である。それゆえ、人間がその心の深みからわき出づる真心からの兄弟愛に包まれるときには、到底その隣人に苦痛を与えるような行動はとれないのである。まして、時間と空間とを超越して自分の一挙手一投足を見ておられる神御自身が父母となられ、互いに愛することを切望されているということを実感するはずのその社会の人間は、そのような行動をとることはできない。したがって、この新しい真理が、人類の罪悪史を清算した新しい時代において建設するはずの新世界は、罪を犯そうとしても犯すことのできない世界となるのである。今まで神を信ずる信徒たちが罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うものではなかったからである。神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄に引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、だれがあえて罪を犯すことができようか。罪のない世界がすなわち天国であるというならば、堕落した人間が長い歴史の期間をかけて探し求めてきたそのような世界こそ、この天国でなければならないのである。そうして、この天国は、地上に現実世界として建設されるので、地上天国と呼ばれるのである。

ここにおいて、我々は、神の救いの摂理の究極的な目的が、地上天国を建設するところにあるという結論を得た。先に、人間が堕落しているという事実と、この堕落が、人間創造以後に起こったことでなければならないという事実を明らかにしたが、今、我々が神の実在を認識した立場から見ると、人間始祖が堕落する以前、創造本然の世界において、神が建設されようとした世界が、いかなるものであったかということに対する答えは、自明だといわなければならない。そのことに関しては、前編第三章において論ずるはずであるが、その世界こそ神の創造目的が成就されるところの地上天国なのである。しかし人間は、堕落することによってこの世界をつくることができず、罪悪世界をつくり、無知に陥ってしまったために、堕落した人間は、長い歴史の期間をかけて、内外両面の真理を探し求め、無知を打開しつつ、善を指向し、絶えず神の創造本然の世界である地上天国を渇望してきたのである。我々は、ここにおいて、人類の歴史は、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であるという事実を知った。したがって、その新しい真理は、堕落人間が、その創造本然の人間へと帰っていくことができるように、神が人間をはじめとして、この被造世界を創造されたその目的はいったい何であったかということを教え、復帰過程の途上にある堕落人間の究極的な目的が、いったい何であるかということを知らしめるものでなければならない。また、人間は果たして聖書に書かれているように、文字どおり、善悪を知る木の果を取って食べることによって堕落したのであろうか、それとも、もしそうでないとすれば、堕落の原因はいったいどこにあったのであろうか。完全無欠であるはずの神が、いったいどうして堕落の可能性のある人間を創造され、全知全能の神が、彼らが堕落するということを知っていながら、どうしてそれを食い止めることができなかったのか。また神はなぜその創造の権能によって、一時に罪悪人間を救うことができないのであろうか等々、実に、長い歴史の期間を通じて思索する人々の心を悩ませてきたあらゆる問題が、完全に解かれなければならないのである。

我々が、被造世界に秘蔵されている科学性を調べていくと、それらを創造された神こそ科学の根本でなければならないと推測されるのである。ところで、人類歴史が、神の創造目的を完成した世界に復帰していく摂理歴史であるということが事実であるならば、かくのごとくあらゆる法則の主人であられる神が、このように長い復帰摂理の期間を、何らの計画もなしに無秩序にこの歴史を摂理なさるはずがない。それゆえ、人類の罪悪歴史がいかに出発し、いかなる公式的な摂理過程を経、また、いかなるかたちで終結し、いかなる世界に入るかを知るということは、我々にとって重要な問題とならざるを得ないのである。それゆえ、この新しい真理は、これらの根本問題を、一つ残らず明白に解いてくれるものでなければならない。これらの問題が明確に解明されれば、我々は歴史を計画し導いてこられた何らかの主体、すなわち、神がいまし給うということを、どうしても否定することはできなくなるのである。そうして、この歴史上に現されたあらゆる史実が、とりもなおさず、堕落人間を救おうとしてこられた神の心情の反映であったということを悟るようになるに相違ない。

またこの新しい真理は、今日の文化圏を形成する世界的な使命を帯びているキリスト教の数多くの難解な問題を、明白に解いてくれるものでなければならない。知識人たちは、ただ単純に、イエスが神の子であり、人類の救い主であられるという程度の知識だけでは、到底満足することができないので、この問題に対するより深い意味を体得するために、今日まで、神学界において、多くの論争が展開されてきたのである。それゆえ、この新しい真理は、神とイエスと人間との間の創造原理的な関係を明らかにしてくれるものでなければならない。のみならず、今まで難解な問題と見なされてきた三位一体の問題に対しても、根本的な解明がなくてはならない。そうして、神が人類を救うに当たって、何故そのひとり子を十字架につけ、血を流さねばならなかったのかという問題も、当然解かれなければならないのである。更に加えて、イエスの十字架の代贖によって、明らかに救いを受けたと信じている人々であっても、有史以来、一人として、救い主の贖罪を必要とせずに天国へ行けるような罪のない子女を生むことができなかったという事実は、彼らが重生した以後においても、それ以前と同じく、原罪が、その子孫にそのまま遺伝されているという、有力な証拠とならざるを得ないのではなかろうか。このような実証的な事実を見るとき、十字架の代贖の限界は果たしてどのくらいまでなのかということが、大きな問題とならざるを得ない。事実、イエス以後二〇〇〇年にわたるキリスト教の歴史の期間を通じて、イエスの十字架の血によって完全に赦罪することができたと自負してきた信徒たちの数は、数え尽くせないほど多かった。しかし実際には、罪のない個人も、罪のない家庭も、罪のない社会も、一度たりとも存在したことはなかったのである。のみならず、先に論じたように、年月がたつに従って、キリストの精神は次第に衰微状態に陥っていくということが事実であるなら、今まで我々が信じてきた十字架の代贖と、完全なる贖罪との間に、結果として現れた事実の面で不一致があるというこの矛盾を、いったい何によって、またいかに合理的に説明することができようか等々、我々を窮地に追いこむ難問題が、数多く横たわっているのである。それゆえに、我々が切に待ち焦がれている新しい真理は、これらの問題に対しても明確に解答を与え得るものでなければならないのである。

また、この真理は、イエスがなぜ再臨しなければならないのか、この再臨は、いつ、どこで、いかになされるのか、またそのときに、堕落人間の復活はどのようにしてなされるのか、天変地異が起こり、天と地とが火によって消滅すると記録されている聖書のみ言は、いったい何を意味するのか等々、象徴と比喩によって記録されている数多くの難問題を、かつてイエス御自身が直接話されたように、例えをもってではなく、だれしもが共通に理解できるように、「あからさまに」解いてくれるものでなければならない(ヨハネ一六・25)。このような真理であってこそ初めて比喩と象徴によって記されている聖句を、各人各様に解釈することによって起こる教派分裂の必然性を止揚し、それらを統一することができるのである。

このように、人間を命の道へと導いていくこの最終的な真理は、いかなる教典や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも、編みだされるものではない。それゆえ、聖書に「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙一〇・11)と記されているように、この真理は、あくまでも神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである。しかるに神は、既にこの地上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人のお方を遣わし給うたのである。そのお方こそ、すなわち、文鮮明先生である。先生は、幾十星霜を、有史以来だれ一人として想像にも及ばなかった蒼茫たる無形世界をさまよい歩きつつ、神のみが記憶し給う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた。人間として歩まなければならない最大の試練の道を、すべて歩まなければ、人類を救い得る最終的な真理を探しだすことはできないという原理を知っておられたので、先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである。

ここに発表するみ言はその真理の一部分であり、今までその弟子たちが、あるいは聞き、あるいは見た範囲のものを収録したにすぎない。時が至るに従って、一層深い真理の部分が継続して発表されることを信じ、それを切に待ち望むものである。

暗い道をさまよい歩いてきた数多くの生命が、世界の至る所でこの真理の光を浴び、蘇生していく姿を見るたびごとに、感激の涙を禁ずることができない。いちはやくこの光が、全世界に満ちあふれんことを祈ってやまないものである。

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第一章 創 造 原 理

第一節 神の二性性相と被造世界
第二節 万有原力と授受作用および四位基台
第三節 創造目的
第四節 創造本然の価値
第五節 被造世界の創造過程とその成長期間
第六節 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界

 人間は長い歴史の期間にわたって、人生と宇宙に関する根本問題を解決するために苦悶してきた。けれども、今日に至るまで、この問題に対して納得のいく解答を我々に与えてくれた人はまだ一人もいない。それは本来、人間や宇宙がいかに創造されたかという究極の原理を知らなかったからである。さらに、我々にはもっと根本的な先決問題が残っている。それは、結果的な存在に関することではなく、原因的な存在に関する問題である。ゆえに、人生と宇宙に関する問題は、結局それを創造し給うた神が、いかなるお方かということを知らない限り解くことができないのである。創造原理はこのような根本的な問題を、広範囲にわたって扱っている。

第一節 神の二性性相と被造世界

(一) 神の二性性相
(二) 神と被造世界との関係

(一) 神の二性性相
 無形にいます神の神性を、我々はいかにして知ることができるだろうか。それは、被造世界を観察することによって、知ることができる。そこで、パウロは、「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」(ロマ一・20)と記録している。あたかもすべての作品は、その作者の見えない性稟の実体的展開であるように、被造世界の森羅万象は、それを創造し給うた神の見えない神性の、その実体対象として展開されたものなのである。それゆえ、作品を見てその作者の性稟を知ることができるように、この被造万物を見ることによって神の神性を知ることができるのである。
 今我々は、神の神性を知るために、被造世界に普遍的に潜んでいる共通の事実を探ってみることにしよう。存在しているものは、いかなるものであっても、それ自体の内においてばかりでなく、他の存在との間にも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在するようになるのである。これについて実例を挙げてみれば、今日、すべての物質の究極的構成要素といわれている素粒子は、みな、陽性、陰性、または陽性と陰性の中和による中性を帯びている。これらが二性性相の相対的関係を結ぶことによって、原子を形成するのである。
 さらに、原子も、陽性または陰性を帯びるようになるが、これらの二性性相が相対的関係を結ぶことによって、物質の分子を形成するのである。このように形成された物質は、また、互いに二性性相の相対的関係によって植物または動物に吸収されて、それらの栄養となるのである。
 さらに、すべての植物は各々雄しべと雌しべとによって存続するし、また、すべての動物は各々雄と雌とによって繁殖、生存するのである。人間についての例を見ても、神は男性のアダムを創造されてのち、「人がひとりでいるのは良くない」(創二・18)と言われ、その対象として女性のエバを創造なさったあと、初めて「はなはだ良(善)かった」(創一・31)と言われたのである。さらに、あたかも、電離した陽イオンや陰イオンが、各々陽子と電子との結合によって形成されているように、雄しべや雌しべ、あるいは雄や雌もまた、各々それ自体の内部で、陽性と陰性の二性性相の相対的関係を結ぶことによって、初めて存在することができるのである。したがって、人間においても、男性には女性性相が、女性には男性性相が各々潜在しているのである。そればかりでなく、森羅万象の存在様相が、表裏、内外、前後、左右、高低、強弱、抑揚、長短、広狭、東西、南北などのように、すべて相対的であるのも、あらゆる被造物が二性性相の相対的関係によって、互いに存在できるように創造されているからである。
 以上の記述によって、我々はすべての存在が、陽性と陰性との二性性相による相対的関係によって存在を保ち得ているという事実を明らかにした。さらに、我々はすべての存在を形成しているもっと根本的な、いま一つの二性性相の相対的関係を知らなければならない。存在するものはすべて、その外形と内性とを備えている。そして、その見えるところの外形は、見ることのできない内性が、そのごとくに現れたものである。したがって、内性は目に見ることはできないが、必ずある種のかたちをもっているから、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れているのである。そこで、前者を性相といい、後者を形状と名づける。ところで、性相と形状とは、同一なる存在の相対的な両面のかたちを言い表しており、形状は第二の性相であるともいえるので、これらを総合して、二性性相と称するのである。
 これに対する例として、人間について調べてみることにしよう。人間は体という外形と心という内性とからできている。そして、見える体は見えないその心に似ているのである。すなわち、心があるかたちをもっているので、その心に似ている体も、あるかたちをもつようになるのである。観相や手相など、外貌から、見えないその心や運命を判断することができるという根拠もここにある。それゆえ、心を性相といい、体を形状と称するのである。ここで、心と体とは、同一なる人間の相対的両面のかたちをいうのであって、体は第二の心であるということもできるので、これらを総合して二性性相であるという。これによって、あらゆる存在が性相と形状による二性性相の相対的関係によって存在しているという事実を、我々は知るようになった。
 それでは、性相と形状とは、お互いにいかなる関係をもっているのであろうか。無形の内的な性相が原因となって、それが主体的な立場にあるので、その形状は有形の外的な結果となり、その対象の立場に立つようになる。したがってこの両者はお互いに、内的なものと外的なもの、原因的なものと結果的なもの、主体的なものと対象的なもの、縦的なものと横的なものとの相対的関係をもつようになるのである。これに対する例として、再び人間を取りあげてみることにしよう。心と体は、各々性相と形状に該当するもので、体は心に似ているというだけではなく、心の命ずるがままに動じ静ずる。それによって、人間はその目的を指向しつつ生を維持するのである。したがって、心と体とは、内外、原因と結果、主体と対象、縦と横などの相対的関係をもっているということができるのである。
 このように、いかなる被造物にも、その次元こそ互いに異なるが、いずれも無形の性相、すなわち、人間における心のように、無形の内的な性相があって、それが原因または主体となり、人間における体のようなその形状的部分を動かし、それによってその個性体を、ある目的をもつ被造物として存在せしめるようになるのである。それゆえ、動物にも、人間の心のようなものがあり、これがある目的を指向する主体的な原因となっているので、その肉体は、その個体の目的のために生を営むようになるのである。植物にもやはりこのような性相的な部分があって、それが、人間における心のような作用をするので、その個体は有機的な機能を維持するようになるのである。そればかりでなく、人間が互いに結合するようになるのはそれらの中に各々結合しようとする心があるからであるのと同様、陽イオンと陰イオンとが結合してある物質を形成するのも、この二つのイオンの中に、各々その分子形成の目的を指向するある性相的な部分があるからである。陽子を中心として電子が回転して原子を形成するのも、これまた、これらのものの中に、各々その原子形成の目的を指向する性相的な部分があるからである。
 また、今日の科学によると、原子を構成している素粒子は、すべてエネルギーから成り立っているという。それゆえ、そのエネルギーが素粒子を形成するためには、必ずそのエネルギー自体の中にも、素粒子形成の目的を指向する性相的な部分がなければならないということになる。更に一歩進んで、このように性相と形状とを備えているそのエネルギーを存在せしめることによって、あらゆる存在界の究極的な原因となるところのある存在を我々は追求せざるを得なくなるのである。この存在は、まさしく、あらゆる存在の第一原因として、これらすべてのものの主体となる性相と形状とを備えていなければならない。存在界のこのような第一原因を我々は神と呼び、この主体的な性相と形状のことを、神の本性相と本形状というのである。我々は、今、パウロが論証したように、あらゆる被造物に共通に見られる事実を追求することによって、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体として、すべての存在界の第一原因であられることが理解できるようになった。
 既に述べたように、存在するものはいかなるものでも、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在するという事実が明らかにされた。それゆえに、森羅万象の第一原因としていまし給う神も、また、陽性と陰性の二性性相の相対的関係によって存在せざるを得ないということは、当然の結論だといわなければならない。創世記一章27節に「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と記録されているみ言を見ても、神は陽性と陰性の二性性相の中和的主体としてもいまし給うということが、明らかに分かるのである。
 それでは、性相と形状の二性性相と、陽性と陰性の二性性相とは、互いにいかなる関係をもっているのだろうか。本来、神の本性相と本形状は、各々本陽性と本陰性の相対的関係をもって現象化するので、神の本陽性と本陰性は、各々本性相と本形状の属性である。それゆえ、陽性と陰性とは、各々性相と形状との関係と同一なる関係をもっている。したがって、陽性と陰性とは、内外、原因と結果、主体と対象、または縦と横との相対的関係をもっている。神が男性であるアダムの肋骨を取って、その対象としての女性であるエバを創造されたと記録してある理由もここにあるのである(創二・22)。我々はここにおいて、神における陽性と陰性とを、各々男性と女性と称するのである。
 神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成した人間の一個体のように、神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。したがって、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。神が、被造世界の中心である人間を、神の形状である(創一・27)と言われた理由もここにある。したがって、被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。コリント・一一章7節に、「男は、神のかたちであり栄光である」と記録されている聖句は、正にこのような原理を立証しているのである。このように、神は性相的な男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その格位を表示するのである。上述した内容を要約すれば、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。

(二) 神と被造世界との関係
 以上の論述によって、被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神の二性性相に似た実体に分立された、神の実体対象であることが分かった。このような実体対象を、我々は個性真理体と称する。人間は神の形象的な実体対象であるので、形象的個性真理体といい、人間以外の被造物は、象徴的な実体対象であるために、それらを象徴的個性真理体という。
 個性真理体は、このように神の二性性相に似た実体として分立されたものであるがゆえに、それらは、神の本性相的男性に似た陽性の実体と、その本形状的女性に似た陰性の実体とに分立される。さらに、このように分立された個性真理体は、すべて神の実体対象ともなるので、それらは各自、神の本性相と本形状に似て、それ自体の内に性相と形状の二性性相を備えるようになり、それにつれて、陽性と陰性の二性性相を、共に備えるようになる。
 ここにおいて、二性性相を中心として見た神と被造世界との関係を要約すれば、被造世界は、無形の主体としていまし給う神の二性性相が、創造原理によって、象徴的または形象的な実体として分立された、個性真理体から構成されている神の実体対象である。すなわち、万物は神の二性性相が象徴的な実体として分立された実体対象であり、人間はそれが形象的な実体として分立された実体対象である。それゆえ、神と被造世界とは、性相と形状との関係と同じく、内外、原因と結果、主体と対象、縦と横など、二性性相の相対的な関係をもっているのである。
 今、我々は創造原理に立脚して、東洋哲学の中心である易学の根本について調べてみることにしよう。易学では、宇宙の根本は太極(無極)であり、その太極から陰陽が、陰陽から木火土金水の五行が、五行から万物が生成されたと主張している。そして、陰陽を道と称し(一陰一陽之謂道)、その道は、すなわちみ言(道也者言也)であるといった。この内容を総合すれば、太極から陰陽、すなわちみ言が、このみ言から万物が生成されたという意味となる。したがって、太極は、すべての存在の第一原因として、陰陽の統一的核心であり、その中和的主体であることを意味するのである。
 このようにして、ヨハネ福音書一章1節から3節に記録されているように、み言はすなわち神であり、このみ言から万物が創造されたというその内容と、これとを対照してみれば、陰陽の中和的な主体であるその太極は、二性性相の中和的主体である神を表示したものであるということを、知ることができるのである。
 創造原理を見ても、み言が二性性相から成り立っているがゆえに、そのみ言から創造された被造物も二性性相からなるものでなければならない。したがって、陰陽が、すなわち「み言」であるという易学の主張は妥当である。
 しかしながら、易学は単に陰陽を中心として存在界を観察することによって、それらが、すべて性相と形状とを備えているという事実を知らなかったので、太極が陰陽の中和的主体であることだけを明らかにするにとどまり、それが本来、本性相と本形状とによる二性性相の中和的主体であることを、明白にすることはできなかった。したがって、その太極が人格的な神であるという事実に関しては知ることができなかったのである。
 ここにおいて、今我々は、易学による東洋哲学の根本も、結局、創造原理によってのみ解明せられるという事実が分かった。そうして、近来、漢医学が漸次その権威を増していくようになったのも、それが陰陽を中心とする創造原理的根拠に立脚しているからだということを知ることができるのである。
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第二節 万有原力と授受作用および四位基台

(一) 万 有 原 力
(二) 授 受 作 用
(三) 正分合作用による三対象目的を完成した四位基台
(四) 神
(五) 生
(六) すべての存在が二性性相になっている理由

(一) 万 有 原 力
 神はあらゆる存在の創造主として、時間と空間を超越して、永遠に自存する絶対者である。したがって、神がこのような存在としておられるための根本的な力も、永遠に自存する絶対的なものであり、同時にこれはまた、被造物が存在するためのすべての力を発生せしめる力の根本でもある。このようなすべての力の根本にある力を、我々は万有原力と呼ぶ。

(二) 授 受 作 用
 あらゆる存在をつくっている主体と対象とが、万有原力により、相対基準を造成して、良く授け良く受ければ、ここにおいて、その存在のためのすべての力、すなわち、生存と繁殖と作用などのための力を発生するのである。このような過程を通して、力を発生せしめる作用のことを授受作用という。ゆえに、万有原力と授受作用の力とは、各々原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという、相対的な関係をもっている。したがって、万有原力は縦的な力であり、授受作用の力は横的な力であるともいえるのである。
 我々は、ここにおいて、万有原力と授受作用を中心として、神と被造物に関することを、更に具体的に調べてみることにしよう。神はそれ自体の内に永存する二性性相をもっておられるので、これらが万有原力により相対基準を造成して、永遠の授受作用をするようになるのである。この授受作用の力により、その二性性相は永遠の相対基台を造成し、神の永遠なる存在基台をつくることによって、神は永存し、また、被造世界を創造なさるためのすべての力を発揮するようになるのである。
 また、被造物においても、それ自体をつくっている二性性相が、万有原力により相対基準を造成して、授受作用をするようになる。また、この授受作用の力により、その二性は相対基台を造成し、その個性体の存在基台をつくって初めて、その個性体は神の対象として立つことができるし、また、自らが存在するためのすべての力をも発揮できるようになるのである。これに対する例を挙げれば、陽子と電子の授受作用によって原子が存在できるし、またその融合作用などを起こすことができるのである。また、陽陰二つのイオンの授受作用によって、分子が存在するようになり、化学作用を起こすこともできる。また、陽電気と陰電気との授受作用によって、電気が発生し、すべての電気作用が起こるようになるのである。
 植物においては、導管と師管の授受作用によって、植物体の機能を維持し、有機的な生長をするようになる。そして、雄しべと雌しべの授受作用によって繁殖するのである。
 動物も雄と雌の授受作用によって、その生体を維持し、また繁殖する。そして動植物間においても、酸素と炭酸ガスの交換、蜜蜂と花の授受作用などによってそれらは共存している。
 天体を見ても、太陽と惑星との授受作用によって、太陽系が存在すると同時に、宇宙形成のための運行をなしている。また、地球と月も、授受作用によって一定の軌道を維持しながら、公転と自転の運行を継続しているのである。
 人間の肉体は、動静脈、呼吸作用、交感神経と副交感神経などの授受作用によって、その生を維持しており、その個性体は体と心の授受作用によって存在しながら、その目的のために活動している。
 さらに、家庭においては夫と妻が、社会においては人間と人間が、国家においては政府と国民が、もっと広く世界においては国家と国家が、お互いに授受作用をしながら共存している。
 古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用している。このような力は、だれも遮ることができないものであって、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行うときには、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。もしも、堕落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。では、このような良心作用の力はいかにして生じるのであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのだとすれば、良心もやはり独自的にその作用の力を起こすことはできない。すなわち、良心もまた、ある主体に対する対象として立ち、その主体と相対基準を造成して授受作用をするからこそ、その力が発揮されるのである。我々は、この良心の主体を神と呼ぶのである。
 堕落というのは、人間と神との授受の関係が切れることによって一体となれず、サタンと授受の関係を結び、それと一体となったことを意味する。イエスは神と完全な授受の関係を結んで一体となられた、ただ一人のひとり子として来られたお方である。したがって、堕落した人間が、イエスと完全なる授受の関係を結んで一体となれば、創造本性を復帰して、神と授受作用をすることによって、神と一体となることができるのである。それゆえに、イエスは堕落人間の仲保となられると同時に、道であり、真理であり、また命でもあるのである。したがって、イエスは命をささげ、愛と犠牲によって、すべてのものを与えるために来られたお方であるから、だれでも彼に信仰をささげる者は滅びることのない永遠の命を得るのである(ヨハネ三・16)。キリスト教は、愛と犠牲により、イエスを中心として、人間同士がお互いに横的な授受の回路を回復させることによって、神との縦的な授受の回路を復帰させようとする愛の宗教である。それゆえに、イエスの教訓と行跡とは、みなこの目的のためのものであったのである。例を挙げれば、イエスは、「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ」るであろう(マタイ七・1、2)と言われた。また、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ七・12)と語られ、「だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう」(マタイ一〇・32)とも言われた。また、イエスは、「預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう」(マタイ一〇・41)と言われ、「わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」(マタイ一〇・42)とも言われたのである。

(三) 正分合作用による三対象目的を完成した四位基台
(1)
 正 分 合 作 用
 万有原力によって、神自体内の二性性相が相対基準を造成して授受作用をするようになれば、その授受作用の力は繁殖作用を起こし、神を中心として二性性相の実体対象に分立される。このように分立された主体と対象が、再び万有原力により、相対基準を造成して授受作用をすれば、これらは再び、合性一体化して、神のまた一つの対象となる。このように、神を正として、それより分立して、再び合性一体化する作用を正分合作用と称する。

(2) 三 対 象 目 的
 正分合作用により、正を中心として二性の実体対象に分立された主体と対象と、そしてその合性体が、各自主体の立場をとるときには、各々残りのものを対象として立たせて、三対象基準を造成する。そうして、それらがお互いに授受作用をするようになれば、ここで、その主体を中心として、各々三対象目的を完成するようになる。

(3) 四 位 基 台
 このように、正分合作用により、正を中心として、二性の実体対象に立たされた主体と対象と、またその合性体が各々三対象目的を完成すれば、四位基台を造成するようになる。
 四位基台は四数の根本であり、またそれは、三対象目的を完成した結果であるので、三数の根本でもある。四位基台は正分合作用によって、神、夫婦、子女の三段階をもって完成されるのであるから、三段階原則の根本となるのである。四位基台は、その各位を中心として、各々三対象となるので、これらを総合すれば十二対象となる。ゆえに、十二数の根本ともなるのである。また、四位基台は、創造目的を完成した善の根本的な基台でもあるので、神が運行できるすべての存在と、またそれらが存在するための、すべての力の根本的な基台ともなる。したがって、四位基台は、神の永遠なる創造目的となるのである。

(4) 四位基台の存在様相
 正分合作用により三対象目的をつくって四位基台を完成した存在は、いかなるものでも、円形、または球形運動をなして、立体として存在する。今、我々はその理由を調べてみることにしよう。正分合作用により神の二性性相が、各々その実体対象に分立された主体と対象において、その対象が主体に対応して相対基準を造成すれば、その対象は主体を中心としてお互いに授ける力(遠心力)と、受ける力(求心力)とを交換しあって授受作用をするようになる。このように、主体と対象とが授受作用をするようになれば、その対象は主体を中心として互いに回転して、円形運動をするようになるから合性一体化する。また、これと同一なる原理によって、その主体は神の対象となり、神を中心として回転して神と合性一体化し、また、その対象が、このような主体と合性一体化 するようになるとき、初めてその合性体は、神の二性性相に似た実体対象となる。このように、その対象は、その主体と合性一体化することによって、初めて神の対象となることができるのである。
 そうして、この実体対象における主体と対象も、これまた、各々二性性相からできているので、それらも同一の授受作用の原理によって、各自円形運動をしているのである。この実体対象は、このように、各自絶え間のない運動をしている主体と対象の授受作用によって、円形運動をするのであるから、その円形運動は、この運動を起こしているその主体と対象自体の特殊な運動様相により、場合によっては、同一の平面上の軌道でのみ起こることもあるが、一般的には、その主体を中心として、絶え間なくその円形運動の軌道の角度を異にしながら回転するので、この運動はやがて球形運動を起こすようになるのである。したがって、四位基台を完成した存在は、みな円形、または球形運動をするようになるので、その存在様相は立体とならざるを得ない。
 これに対する例として、太陽系を挙げてみることにしよう。太陽を主体とするすべての惑星は、太陽の対象となり、それと相対基準を造成して、太陽を中心として、それと対応して、遠心力と求心力による授受作用をするがゆえに、それらはみな、公転の円形運動をするようになる。このような円形運動をする太陽と惑星などは、合性一体化して太陽系をつくるのである。しかるに、二性性相の複合体である地球が自転するだけでなく、太陽や、太陽を中心とした他の惑星なども、また二性性相の複合体であるので、絶え間なく自転している。したがって、このように自転している太陽と惑星などの授受作用による太陽系の円形運動は、常に同一の平面上の軌道においてのみ起こるのではなく、太陽を中心として、絶えずその軌道の角度を変えながら回転するので、太陽系は球形運動をするようになり、立体として存在するのである。このように、すべての天体は円形、または球形運動によって立体として存在する。このような無数の天体が互いに授受作用をすることによって、合性一体化されてつくられる宇宙も、やはり同じ原理により球形運動をすることによって、立体として存在するのである。
 原子を形成している電子が、陽子と相対基準を造成して、陽子を中心として授受作用をするようになれば、それらは円形運動を起こすことにより合性一体化し、原子を形成するようになる。このように、陽子と電子も各々二性性相からなっていて、各自絶え間なく運動をしているので、このような陽子と電子の授受作用による円形運動も、やはり同一の平面上の軌道においてのみ起こるのではなく、陽子を中心として絶え間なくその角度を変えながら回転するので、この運動はやがて、球形運動に変わる。原子もまたこのように球形運動をすることによって立体として存在するようになる。電気によって、陽陰二極に現れる磁力線も、同じ原理により、球形運動をするのである。
 また、このような例を人間において考えてみることにしよう。体は心の対象として、心と相対基準をつくって授受作用をするようになれば、体は心を中心として円形運動をすることによって合性一体化する。そうして、心が神の対象となり、神を中心として回転して、神と合性一体化し、体がこのような心と合性一体化するようになれば、その個体は初めて、神の二性性相に似た実体対象となり、創造目的を完成した人間となるのである。しかるに、体と心も各々二性性相からできていて、それ自体も各自絶え間のない運動をしているので、このような体と心の授受作用によって起こる円形運動は、神を中心として、絶えずその角度を変えながら回転するようになり、球形運動に変わる。それゆえに、創造目的を完成した人間は、神を中心として、常に球形運動の生活をする立体的な存在であるので、結局、無形世界までも主管するようになるのである(本章第六節参照)。
 このように、主体と対象が授受作用をする平面的な回路による円形運動が、再び立体的な回路によって球形運動に変わることによって、創造の造化の妙味が展開されるのである。すなわち、その回路の距離、様相、状態、方向、角度、また、それらが各々授受する力の速度などの差異によって、千態万象の造化の美が展開されるようになるのである。
 すべての存在は、性相と形状を備えているので、それらの球形運動にも、性相的なものと形状的なものとの二つがある。したがって、その運動の中心にも、性相的な中心と形状的な中心とがある。そうして、前者と後者は、性相と形状の関係と、同じ関係をもっている。それでは、この球形運動の究極的な中心はいったい何であろうか。神の二性性相の象徴的実体対象として創造された被造物の中心は、人間であり、神の形象的実体対象として創造された人間の中心は神なので、結局、被造世界の球形運動の究極的な中心は神であられる。我々は、これに関することを、もっと具体的に調べてみることにしよう。
 神のすべての実体対象に備えられている主体と対象において、その対象の中心がその主体にあるので、主体と対象の合性体の中心も、やはりその主体にある。しかるに、その主体の究極的な中心は神であるので、その合性体の究極的な中心もまた神である。それゆえに、神の三対象が相対基準を造成して、それらの三つの中心が神を中心として一つになり、授受作用をすることによって、三対象目的を完成するとき、初めて、四位基台が完成できるのである。したがって、四位基台の究極的な中心は神である。このように、四位基台を完成した各個の被造物を個性真理体という。しかるに、上述したように、この個性真理体は、形象的個性真理体(人間)と、象徴的個性真理体(人間以外の被造物)とに大別される。被造世界は無数の個性真理体によって構成されているが、その低級なものから高級なものに至るまで、段階的に秩序整然として連結されている。その中で人間は、最高級の個性真理体として存在している。そうして個性真理体はすべて球形運動をしており、低級な個性真理体は、より高級な個性真理体の対象となるので、この対象の球形運動の中心は、いま一つ高級位にあってその主体となっている個性真理体なのである。このように、数多くの象徴的個性真理体の中心は、低級なものから、より高級なものへと、だんだん上位に連結され、その最終的な中心は、形象的個性真理体である人間となるのである。
 このことについてもう少し詳しく考えてみることにしよう。今日の科学は、物質の最低単位を素粒子と見なしているが、素粒子はエネルギーからなっている。ここにおいて、物質世界を構成している各段階の個性真理体の存在目的を、次元的に観察してみると、エネルギーは素粒子の形成のために、素粒子は原子の構成のために、原子は分子の構成のために、分子は物質の形成のために、すべての物質は宇宙森羅万象の個体を構成するために、各々存在していることを知ることができる。それゆえに、エネルギーの運動の目的は素粒子に、素粒子の目的は原子に、原子の目的は分子に、分子の目的は物質に、すべての物質の目的は宇宙形成にあるのである。それでは、宇宙は何のためにあるのであり、その中心は何であるのだろうか。それは、まさしく人間である。ゆえに、神は人間を創造されたのち、被造世界を主管せよ(創一・28)と言われた。もしも、被造世界に人間が存在しないならば、その被造世界は、まるで、見物者のいない博物館のようなものとなってしまう。つまり、博物館のすべての陳列品は、それらを鑑賞し、愛し、喜んでくれる人間がいて初めて、歴史的な遺物として存在し得るところの因縁的な関係が、それらの間で結ばれ、各々その存在の価値を表すことができるのである。もしも、そこに、その中心となる人間が存在しないとすれば、それらはいったいいかなる存在意義をもつであろうか。人間を中心とする被造世界の場合も、これと少しも変わるところはない。すなわち、人間が存在して、被造物を形成しているすべての物質の根本とその性格を明らかにし、分類することによって初めて、それらはお互いに、合目的的な関係を結ぶことができるのである。さらにまた、人間が存在することによって初めて、動植物や水陸万象や宇宙を形成しているすべての星座などの正体が区別でき、それらが人間を中心として、合目的的な関係をもつことができるのである。それから物質は人間の肉体に吸収されて、その生理的な機能を維持させる要素となり、森羅万象は人間の安楽な生活環境をつくるための材料となるのである。これらはみな、人間の被造世界に対する形状的な中心としての関係であるが、これ以外にも、また、性相的な中心としての関係がある。前者を肉的な関係であるというならば、後者は精神的、または霊的な関係である。物質から形成された人間の生理的機能が、心の知情意に完全に共鳴するのは、物質もやはり、知情意に共鳴できる要素をもっているという事実を立証するものにほかならない。このような要素が、物質の性相を形成しているために、森羅万象は、各々その程度の差こそあれ、すべてが知情意の感応体となっている。我々が自然界の美に陶酔して、それらと渾然一体の神秘境を体験できるのは、人間が被造物のこのような性相の中心ともなるからである。人間は、このように、被造世界の中心として創造されたために、神と人間が合性一体化した位置が、まさしく天宙の中心となる位置なのである。
 我々はまた、他の面において、人間が天宙の中心となるということについて論じてみることにしよう。詳細なことは第六節で述べるけれども、無形と有形の二つの世界を総称して天宙というが、人間はこの天宙を総合した実体相である。しかるに、既に述べたように、天宙を形成しているすべての被造物は、主体と対象とに分けられることが分かるのである。
 ここにおいて、我々は、人間始祖として創造されたアダムがもし完成したならば、彼は被造物のすべての存在が備えている主体的なものを総合した実体相となり、エバが完成したならば、彼女は被造物すべての存在が備えている対象的なるものを総合した実体相となるという結論を、直ちに得ることができる。神は被造世界を主管するように人間を創造されたので、アダムとエバが共に成長して、アダムは被造物のすべての主体の主管主として完成し、またエバはすべての対象の主管主として完成され、彼らが夫婦となって一体となったならば、それがまさしく、主体と対象とに構成されている被造世界の全体を主管する中心体となるべきであったのである。
 また、人間は天宙の和動の中心として創造されたので、すべての被造物の二性性相の実体的な中心体であるところのアダムとエバが、完成されて夫婦になってから、彼らがお互いに和動して一体となったときに、初めて二性性相として創造された全天宙と和動することができるのである。このように、アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、正に愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、創造目的を完成した善の中心となる位置なのである。ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。このときこの中心は、神の永遠なる愛の対象であるために、これによって、神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる。また、ここにおいて初めて、神のみ言が実体として完成するので、これが正に真理の中心となり、すべての人間をして創造目的を指向するように導いてくれる本心の中心ともなるのである。それゆえに、被造世界は、このように人間が完成されて、神を中心として夫婦となることによってつくられる四位基台を中心に、合目的的な球形運動をするようになる。しかるに、被造世界は人間の堕落によってこの中心を失ったので、万物も実に切なる思いで、神の子たち、すなわち創造本性を復帰した人間たちが出現して、その中心となってくれる日を待ち望んでいるのである(ロマ八・1922)。

(四) 神
 上述のように、正分合作用によって三対象目的を完成した四位基台は、神を中心として球形運動を起こし、神と一体となるので、それは、神が運行できるすべての存在の、また、その存在のためのすべての力の根本的な基台となるということを我々は知った。ところで、創造目的を完成した世界においては、神の本性相と本形状の実体となっているすべての個性体は、みな、このように球形運動を起こし、神が運行できる根本的な基台を造成するようになっている。このようにして、神は一切の被造物の中に遍在されるようになるのである。

(五) 生
 生理体が存続するためには、繁殖しなければならないし、その繁殖は授受作用による正分合作用によってなされる。これに対する例を挙げれば、植物は花の種子から花の雄しべと雌しべができ、その雄しべと雌しべの授受作用によって、再び多くの種子を結んで繁殖する。動物においてはその雄と雌が成長して、お互いに授受作用をして子を産むことによって繁殖する。また、動植物のすべての細胞分裂も授受作用によって起こるようになる。
 ある目的を立てて、心が望むとおりに体が実践して、体と心とが授受作用をするようになれば、同志ができ、同志たちがお互いに良く授け、良く受ければ、もっと多くの同志を繁殖する。このような面から見れば、被造世界は、無形の神の本性相と本形状が、その創造目的を中心として、授受作用をすることによって、それが実体的に展開されて繁殖したものであると見ることができる。

(六) すべての存在が二性性相になっている理由
 いかなるものでも、存在するためには、必ずある力を必要とするようになるが、その力は授受作用によってのみ起こる。けれども、いかなるものも単独で授受することはできないので、それが存在するための力を起こすには、必ず授受作用ができる主体と対象との二性性相として存在しなければならない。
 また直線上の運動においてはいつかは終わりがこなければならないので、このような直線運動をしている存在は永遠性をもつことができない。それゆえに、いかなるものでも、永遠性をもつためには回転しなければならないし、回転するためには主体と対象が授受作用をしなければならない。それゆえに、神も永遠性をもつために、二性性相としていまし給うのであるし、神の永遠なる対象である被造物も永遠性をもつためには、神に似た二性性相として存在しなければならない。そして、時間と周期的な輪廻とによって、永遠性を維持しているのである。

第三節 創造目的

(一) 被造世界を創造された目的
(二) 神の喜びのための善の対象

(一) 被造世界を創造された目的
 被造物の創造が終わるごとに、神はそれを見て良しとされた、と記録されている創世記のみ言を見れば(創一・4〜31)、神は自ら創造された被造物が、善の対象となることを願われたことが分かる。このように被造物が善の対象になることを願われたのは、神がそれを見て喜ばれるためである。それでは、被造物がいかにすれば、神に一番喜ばれるのであろうか。神は万物世界を創造されたのち、最後に御自分の性相と形状のとおりに、喜怒哀楽の感性をもつ人間を創造され、それを見て楽しもうとされた。そこで、神はアダムとエバを創造なさったのち、生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよ(創一・28)と言われたのである。この三大祝福のみ言に従って、人間が神の国、すなわち天国をつくって喜ぶとき、神もそれを御覧になって、一層喜ばれるということはいうまでもない。
 それでは、神の三大祝福は、いかにして完成されるのだろうか。それは、創造の根本基台である四位基台が成就された基盤の上でのみ成就されるのである。それゆえに、神が被造世界を創造なさった目的は、人間をはじめ、すべての被造物が、神を中心として四位基台を完成し、三大祝福のみ言を成就して、天国をつくることにより、善の目的が完成されたのを見て、喜び、楽しまれるところにあったのである。
 それゆえに、人間を中心とする被造世界が存在する目的は、神を喜ばせることであった。また、すべての存在は二重目的をもつ連体である。既に述べたように、すべての存在の中心には、性相的なものと、形状的なものとの二つがあるので、その中心が指向する目的にも、性相的なものと形状的なものとの二つがあって、それらの関係は性相と形状との関係と同じである。そして、性相的な目的は全体のためにあり、形状的な目的はそれ自体のためにあるもので、前者と後者は、原因的なものと結果的なもの、内的なものと外的なもの、主体的なものと対象的なものという関係をもっている。それゆえに、全体的な目的を離れて、個体的な目的があるはずはなく、個体的な目的を保障しない全体的な目的もあるはずがない。したがって、森羅万象の被造物は、このような二重目的によって連帯しあっている一つの広大な有機体なのである。

(二) 神の喜びのための善の対象
 神の創造目的に関する問題を詳細に知るためには、我々がどんな状態にいるときに、喜びが生ずるかという問題を先に知らなければならない。喜びは独自的に生ずるものではない。無形のものであろうと、実体であろうと、自己の性相と形状のとおりに展開された対象があって、それからくる刺激によって自体の性相と形状とを相対的に感ずるとき、ここに初めて喜びが生ずるのである。一つの例を挙げれば、作家の喜びは、彼がもっている構想自体が対象となるか、あるいはその構想が、絵画とか彫刻などの作品として実体化して対象となったとき、その対象からくる刺激によって、自己の性相と形状とを相対的に感じて初めて生ずるようになる。ここで、構想自体が対象として立つときには、それからくる刺激は実体的なものではないために、それによる喜びも実体的なものとなることはできない。人間のこのような性稟は、みな神に似たものである。ゆえに、神もその実体対象からくる刺激によって、それ(神)自体の本性相と本形状を相対的に感ずるとき、初めて喜びに満たされるということを知ることができる。
 四位基台の基盤の上で、三大祝福による天国が実現すれば、これがすなわち、神が喜びを感ずる世界であるということを、既に我々は説明してきた。そこで、これがいかにして神の喜びのための善の対象となるかを調べてみることにしよう。
 神の第一祝福は個性を完成することにある。人間が個性を完成しようとすれば、神の二性性相の対象として分立された心と体とが、授受作用によって、合性一体化して、それ自体において、神を中心として個体的な四位基台をつくらなければならない。神を中心として心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって(コリント・三・16)、神と一体となるので(ヨハネ一四・20)、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活をするようになる。このように個性を完成した人間は、神を中心としたその心の実体対象となり、したがって、神の実体対象となる。ここで、その心と神は、このような実体対象からくる刺激によって、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるので、喜びに満ちることができるのである。そうであるから、個性を完成した人間は、神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなるので、絶対に堕落することがない。
 つぎに、神の第二祝福を成就するためには、神の二性性相が各々個性を完成した実体対象として分立されたアダムとエバが夫婦となり、合性一体化して子女を生み殖やし、神を中心として家庭的な四位基台をつくらなければならないのである。このように、神を中心として四位基台をつくった家庭や社会は、個性を完成した人間一人の容貌に似るようになるので、これは、神を中心とした人間の実体対象であり、したがって、また神の実体対象ともなるのである。それゆえに、人間や神は、このような家庭や社会から、それ自体の性相と形状とを相対的に感ずるようになり、喜びに満ちることができる。したがって、人間が神の第二祝福を完成すれば、それもまた神の喜びのための善の対象となるのである。
 そのつぎに、人間が神の第三祝福を完成すれば、それがどうして神の喜びのための善の対象となるかを調べてみることにしよう。この問題を解明するためには、まず性相と形状とから見た人間と万物世界との関係を知らなければならない。
 神は人間を創造する前に、未来において創造される人間の性相と形状とを形象的に展開して、万物世界を創造された。それゆえに、人間は万物世界を総合した実体相となるのである。人間を小宇宙という理由は、すなわちここにある。
 神は下等動物から、次第に機能の複雑な高等動物を創造されて、最後に、最高級の機能をもった存在として人間を創造された。ゆえに、人間にはすべての動物の構造と要素と素性とが、ことごとく備えられているのである。人間がいかなる動物の声でも出すことができるのは、いかなる動物の発声器の性能をも備えているということを立証するものである。また、人間はいかなる被造物の形や線の美もみな備えているので、画家は人間の裸体をモデルとして画法を研磨するのである。
 人間と植物とを比べてみても、その構造と機能には差異があるが、しかしすべてが細胞からできている点においては同一である。それから、人間には植物の構造と要素とその素性とが、ことごとく備えられている。すなわち、植物の葉はその容貌や機能から見て、人間の肺に該当する。葉が大気中から炭酸ガスを吸収するように、肺も酸素を吸収する。植物の幹と枝は人間の心臓に該当するもので、栄養素を全体に供給する。そして植物の根は人間の胃腸に該当するもので、栄養素を摂取する。さらにまた、植物の導管と師管の形態と機能とは、人間の動脈と静脈に該当するのである。
 また、人間は水と土と空気で創造されたので、鉱物質の要素をももっている。地球も人体構造の表示体になっている。地球には植物に覆われた地殻があり、地層の中には地下泉があって、その下に岩層に覆われた熔岩層があるが、これは、ちょうど、産毛で覆われた皮膚があって、筋肉の中には血管があり、その下には骨格と、骨格に覆われた骨髄がある人間の構造とよく似ている。
 神の第三祝福は、万物世界に対する人間の主管性の完成を意味する。人間が祝福を成就するためには、神の形象的実体対象である人間と、その象徴的実体対象である万物世界とが、愛と美を授け受けして合性一体化することにより、神を中心とする主管的な四位基台が完成されなければならない(本章第五節(二)参照)。
 既に論じたように、万物世界はどこまでも、人間の性相と形状とを実体として展開したその対象である。それゆえに、神を中心とする人間は、その実体対象である万物世界からくる刺激によって、自体の性相と形状とを相対的に感ずることができるために、喜ぶことができるのである。そして、神はこのように、人間と万物世界とが合性一体化することによって、神の第三対象である被造世界によって、神自体の本性相と本形状に対する刺激的な感性を相対的に感じて、喜びに浸ることができる。人間がこのような神の第三祝福を完成すれば、それも神の喜びのための、また一つの善の対象となるのである。このように神の創造目的が完成されたならば、罪の影さえも見えない理想世界が地上に実現されたはずであって、このような世界を称して、我々は地上天国という。のちに詳細に説明するが、元来、人間は地上天国で生活して、肉体を脱ぐと同時に、霊界で自動的に天上天国の生活をするように創造されているのである。
 既に説明したすべての事実を総合してみると、天国は神の本性相と本形状のとおりに、個性を完成した人間一人の容貌に似た世界であるということを、我々は知ることができる。人間において、その心の命令が中枢神経を通じて、その四肢五体に伝達されることにより、その人体が一つの目的を指向して動じ静ずるように、天国においては、神の命令が人類の真の父母を通して、すべての子女たちに伝達されることにより、みな一つの目的に向かって動じ静ずるようになるのである。

第四節 創

(一) 創造本然の価値の決定とその価値の基準
(二) 創造本然の知情意と創造本然の真美善
(三) 愛と美、善と悪、義と不義

(一) 創造本然の価値の決定とその価値の基準
 創造本然の価値はいかにして決定されるのだろうか。ある対象がもっている価値は、その対象が存在する目的と、それに対する人間主体の欲求との相対的関係によって決定されるというのが、我々の今まで考えてきた一般的な価値観であった。しかし、ある個性体の創造本然の価値は、それ自体の内に絶対的なものとして内在するものでなく、その個性体が、神の創造理想を中心として、ある対象として存在する目的と、それに対する人間主体の創造本然の価値追求欲が相対的関係を結ぶことによって決定される。したがって、ある対象が創造本然の価値をもつためには、それが人間主体との授受作用により合性一体化して、神の第三対象になり、創造本然の四位基台をつくらなければならない。では、創造本然の価値の基準はどこにあるのだろうか。創造本然の価値は、ある対象と人間主体とが、神を中心として、創造本然の四位基台を完成するときに決定されるが、この四位基台の中心が絶対者であられる神であるから、この価値の基準も絶対者なる神である。それゆえに、絶対者であられる神を基準として、これに対して相対的に決定されるある対象の創造本然の価値もまた絶対的でないはずがない。
 例を挙げれば、花の美はいかにして決定されるのだろうか。それは、神がその花を創造された目的と、その花の美を求める、人間の美に対する創造本然の追求欲が合致するとき、言い換えれば、神の創造理想に立脚した人間の美に対する追求欲が、その花からくる情的な刺激によって満たされ、人間が完全な喜びを感ずるとき、その創造本然の美が決定される。このように、創造目的を中心として、その花から感ずる喜びが完全であるとき、その花の美は絶対的である。ここに、その美の追求欲というのは、人間自身がその性相と形状とを、その対象を通じて相対的に感じようとする欲望をいうのである。また、その花の創造目的と、その花に対する人間の価値追求欲とが合致する瞬間、その対象と主体は渾然一体の状態をなすようになる。それゆえに、ある存在が創造本然の価値をもつためには、神を中心として、それとそれに対する人間主体とが渾然一体の状態となって、神の第三対象となり、四位基台をつくらなければならない。そうすれば、絶対的な価値の基準である神に対して相対的に決定された万物の創造本然の価値も絶対的なものとなるのである。今まで、ある対象の価値が絶対的なものとならず、相対的であったのは、その対象と、それに対する堕落人間との間になされる授受の関係が、神の創造理想を中心としたものでなく、サタン的な目的と欲望を中心としたものであったからである。

(二) 創造本然の知情意と創造本然の真美善
 人間の心は、その作用において、知情意の三機能を発揮する。そうして人間の肉身は、その心の命令に感応して行動する。これを見ると、その肉身は心、すなわち知情意の感応体として、その行動は真美善の価値を追求するものとして表れるのである。神はどこまでも、人間の心の主体であるので、知情意の主体でもある。したがって、人間は創造本然の価値実現欲によって、心で神の本然の知情意に感応し、体でこれを行動することによって、初めてその行動は、創造本然の真美善の価値を表すようになるのである。

(三) 愛と美、善と悪、義と不義
(1)
 愛 と 美
 神から分立された二性の実体が、相対基準を造成して授受作用をすることにより四位基台をつくろうとするとき、それらが神の第三対象として合性一体化するために、主体が対象に授ける情的な力を愛といい、対象が主体に与える情的な力を美という。ゆえに、愛の力は動的であり、美の刺激は静的である。
 神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。被造世界においては、人間は愛の主体となり、万物世界は美の対象となるのである。しかし、主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。なぜかといえば、主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができるからである。対人関係において、目上の人の愛に対して目下の人がささげる美を忠といい、父母の愛に対して子女がささげる美を孝といい、また夫の愛に対して妻がささげる美を烈という。愛と美の目的は、神から実体として分立された両性が、愛と美を授受することによって合性一体化して、神の第三対象となることによって、四位基台を造成して創造目的を達成するところにある。
 つぎに、神の愛とは何であるかを調べてみることにしよう。神を中心としてその二性性相の実体対象として完成されたアダムとエバが一体となり、子女を生み殖やして、父母の愛(第一対象の愛)、夫婦の愛(第二対象の愛)、子女の愛(第三対象の愛)など、創造本然の三対象の愛を体恤することによってのみ、三対象目的を完成し、四位基台を完成した存在として、人間創造の目的を完成するようになる。このような四位基台の三対象の愛において、その主体的な愛が、まさしく神の愛なのである。それゆえ、神の愛は三対象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである。したがって、四位基台は神の愛を完全に受けて、これを体恤できる完全な美の対象であり、また、完全な喜びの対象であるから、創造目的を完成した善の根本的な基台なのである。

(2) 善 と 悪
 主体と対象が愛と美を良く授け、良く受けて合性一体化して神の第三対象となり、四位基台を造成して、神の創造目的を成就する行為とか、その行為の結果を善といい、サタンを中心として四位基台を造成して、神の創造目的に反する目的のための行為をなすこと、または、その行為の結果を悪というのである。
 例を挙げれば、神を中心として心と体が、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて合性一体化し、個人的な四位基台を造成して、創造目的を完成した個性体となり、神の第一祝福を完成するようになるとき、その個性体、または、そのような個性体をつくるための行為を善という。そして、神を中心としてアダムとエバが、主体と対象の立場において、愛と美を良く授け良く受けて夫婦となり、子女を生み殖やして家庭的な四位基台を造成して、創造目的を完成した家庭をつくり、神の第二祝福を完成するようになるとき、その家庭、または、そのような家庭をつくるための行為を善という。また、個性を完成した人間が、ある事物を第二の自我として、その対象の立場に立たしめ、それと合性一体化して神の第三対象をつくり、主管的な四位基台を造成して神の第三祝福を完成するようになるとき、その事物とか、または、その事物をつくるための行為を善という。サタンを中心として四位基台を造成することによって上記のような神の三大祝福に反対の目的を成し遂げる行為、または、その行為の結果を悪というのである。

(3) 義 と 不 義
 善の目的を成就していく過程において、その善の目的に役立つ生活的要素を義といい、悪(サタン)の目的を成就していく過程において、その悪の目的に役立つ生活的要素を不義という。それゆえに、善の目的を成就するためには、必然的に、義の生活を必要とするようになるので、義が善の目的を追求する理由は、すなわちここにある。

第五節 被造世界の創造過程とその成長期間 

(一) 被造世界の創造過程
(二) 被造物の成長期間

(一) 被造世界の創造過程
 創世記一章を見れば、天地創造は、地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、というところで、光を創造されることから出発して、その次には、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられ、その次に、陸と海とを分け、続いて、植物をはじめ、魚類、鳥類、ほ乳類、人類などを創造されるのに、六日という期間を要したと記録されている。これによって、我々は被造世界の創造が終わるまで、六日という時間的な過程があったということを知るのである。ここにおいて、我々は、聖書に記録された創造の過程が、今日、科学者たちの研究による宇宙の生成過程とほぼ一致するという事実を知ることができる。科学者たちの文献によると、宇宙は初めはガス状態として、無水時代の混沌と空虚の中で天体がつくられ、降雨による有水時代になって、水でできたおおぞらが形成され、その次に、火山の噴出によって水の中に陸地が現れて、海と陸地が生成され、次には、下等の植物と動物から始まって、順次に魚類、鳥類、ほ乳類、人類が生成されたといい、地球の年齢を数十億年と推算している。今から数千年前に記録されたこの聖書の天地創造過程が、今日の科学者たちの研究したものとほぼ一致しているという事実を見るとき、我々は、この記録が神の啓示であることは間違いないということを再確認することができる。
 ここにおいて、宇宙は時間性を離れて突然に生成されたものではなく、それが生成されるまでには、相当な時間を要したという事実を我々は知った。したがって、天地創造を完了するまでの六日というのは、実際は、日の出と日没の回数によって計算される六日ではなく、創造過程の六段階の期間を表示したものであることが分かる。

(二) 被造物の成長期間
 被造世界の創造が終わるまで、六日、すなわち六段階の期間を要したという事実は、正に被造世界を構成している各個性体が完成されるに際しても、ある程度の期間が必要であったことを意味する。また、創世記一章にある天地創造に関する記録を見ても、その日その日の創造が終わるたびごとに、その序数日数を明らかにしているが、この日数表示によっても、我々被造物の完成にはある期間が必要であったことを知ることができるのである。すなわち、神は初めの日の創造が終わると、「夕となり、また朝となった。第一日である」(創一・5)と言われた。夕から夜が過ぎて、次の日の朝になれば、第二日であるにもかかわらず、第一日であると言われたのは、被造物が夜という成長期間を経て、朝になって完成したのち、初めて創造目的を完成した被造物として、創造理想を実現するための出発をするようになるからである。
 このように、被造世界で起こるすべての現象は、必ずある程度の時間が経過したのち、初めてその結果が現れるようになる。これは被造物が創造されるとき、一定の成長期間を経て完成できるように創造されたからである。

(1) 成長期間の秩序的三段階
 被造世界は神の本性相と本形状とが数理的な原則によって、実体的に展開されたものである。ここにおいて我々は、神は数理性をもっておられるということを推測できる。またさらに、神は絶対者でありながら、相対的な二性性相の中和的存在であられるので、三数的な存在である。したがって、唯一なる神に似た被造物(創一・27)はその存在様相やその運動、さらにまたその成長期間がみな三数過程を通じて現れるようになる。
 したがって、神の創造目的である四位基台は、神、アダムとエバ、そして子女の繁殖という三段階の過程を通じて、初めて完成するようになる。四位基台を造成して円形運動をするには、必ず正分合の三段階の作用を経て、三対象目的をつくり、三点を通過しなければならない。ゆえに、一つの物体が定着するには、最少限三点で支持されなければならない。またこのように、すべての被造物が完成するに当たっても、その成長期間は、蘇生期、長成期、完成期の秩序的三段階を通じてのみ完成するようになる。では、自然界で三数として現れている例を挙げてみることにしよう。自然界は動物と植物と鉱物からなり、物質は気体と液体と固体の三相を表している。植物は根と幹と葉の三部分からなり、動物は頭部と胴部と四肢の三部分からなっている。
 我々はまた、聖書に見られる三数の例を挙げてみることにしよう。人間は成長期間の三段階を完成できずに堕落し、創造目的を完成できなかったので、この目的を再び完成するに当たっても、この三段階を通過しなければならない。それゆえ、復帰摂理は三数を求める摂理をされた。したがって、聖書には、三数を中心とした摂理の記録が多い。父、子、聖霊の三位、楽園の三層、ルーシエル、ガブリエル、ミカエルの三天使、箱舟の三層、ノアの洪水のときの三次にわたる鳩、アブラハムの三種の供え物、イサクの献祭の三日間、モーセの三日間の闇と災い、出エジプト路程のための三日間のサタン分立期間、カナン復帰のための三次にわたる四十年期間、ヨルダンを渡る前のヨシュアを中心とするサタン分立の三日期間、イエスの三十年私生涯と三年の公生涯、三人の東方博士、彼らの三つの貢ぎ物、三弟子、三大試練、ゲッセマネでの三度の祈り、ペテロのイエスに対する三度の否認、イエスの死の前の三時間の闇と三日目の復活など、その例は数多くある。
 それでは、人間始祖はいつ堕落したのだろうか。彼らは成長期間、すなわち未完成期において堕落したのである。人間がもし、完成したのちに堕落したとすれば、我々は、神の全能性を信ずることができない。仮に、人間が善の完成体になってから堕落したとすれば、善自体も不完全なものとなるのである。したがって、善の主体であられる神も、やはり不完全な方であるという結論に到達せざるを得なくなる。
 創世記二章17節を見れば、神はアダムとエバに、善悪を知る木の果を取って食べるときには、きっと死ぬであろう、と警告されたみ言がある。彼らは、神の警告を聞かないで死ぬこともできるし、あるいはその警告を受け入れて、死なずに済むこともできたことから推察してみるとき、彼らがいまだ未完成期にあったことは確かである。万物世界が六日という期間を経て完成できるように創造されたので、被造物の一つである人間も、やはり、そのような原理を離れて創造される理由はないのである。
 そうであるならば、人間は成長期間のどの段階で堕落したのだろうか。それは長成期の完成級で堕落したのであった。これは、人間始祖の堕落の前後の諸般の事情と、復帰摂理歴史の経緯が実証するもので、本書の前編と後編を研究することによって、そのことが明確に分かるようになるであろう。

(2) 間接主管圏
 被造物が成長期にある場合には、原理自体の主管性、または自律性によって成長するようになっている。したがって、神は原理の主管者としていまし給い、被造物が原理によって成長する結果だけを見るという、間接的な主管をされるので、この期間を神の間接主管圏、または原理結果主管圏と称するのである。
 万物は原理自体の主管性、または自律性により、成長期間(間接主管圏)を経過することによって完成する。けれども、人間は原理自体の主管性や自律性だけでなく、それ自身の責任分担を全うしながら、この期間を経過して完成するように創造された。すなわち、「それを取って食べると、きっと死ぬであろう」(創二・17)と言われた神のみ言を見れば、人間始祖が神のこのみ言を信じて、取って食べずに完成するか、あるいはそのみ言を信ぜずに、取って食べて堕落するかは、神の側に責任があるのではなく、人間自身の責任にかかっていたのである。したがって、人間が完成するか否かは、神の創造の能力にだけかかっていたのではなく、人間自身の責任遂行いかんによっても決定されるようになっていたのである。それゆえに、人間は神の創造主としての責任分担に対して、人間自身の責任分担を全うしながら、この成長期間(間接主管圏)をみな経過して、完成するように創造されていたのである。したがって、その責任分担については神が干渉してはならないのである。
 このように、人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造されたのは、人間が神も干渉できない責任分担を完遂することによって、神の創造性までも似るようにし、また、神の創造の偉業に加担させることによって、ちょうど創造主である神が人間を主管なさるそのごとくに、人間も創造主の立場で万物を主管することができる主人の権限をもつようにするためであった(創一・28)。人間が万物と違う点は、正にここにあるのである。
 このように、人間が、自身の責任分担を完遂し、神の創造性を受け継ぐことによって、天使をはじめ、万物に対する主管性をもつようになったとき、初めて完成するようになさるために、神は間接主管圏をおいて、人間を創造されたのである。それゆえに、堕落して、このような主管性をもつことができなくなった人間たちにおいても、復帰原理によって、人間の責任分担を完遂して、サタンをはじめ、万物に対する主管性を復帰するための、間接主管圏をすべて通過しなくては、創造目的を完成することができないのである。神の救いの摂理が非常に長い期間を通じて延長してきたのは、復帰摂理を担当した中心人物たちが、神も干渉できないそれ自身の責任分担を遂行するに当たって、常に失敗を繰り返してきたからである。
 キリストの十字架による救いの恩賜がいくら大きくても、人間自身がその責任分担である信仰を立てなければ、彼らを探し求めてきた救いの摂理は無為に帰せざるを得なくなる。したがって、イエスの十字架による復活の恵沢を与えてくださったのは、神の責任分担であって、それを信じるか、それとも信じないかは、あくまでも、人間自身の責任分担なのである(ヨハネ三・16、エペソ二・8、ロマ五・1)。

(3) 直接主管圏
 直接主管圏とは何であり、またこれを創造された目的は、どこにあるのだろうか。神を中心として、ある主体と対象とが合性一体化して四位基台をつくり、神と心情において一体となり、主体の意のままに愛と美を完全に授受して、善の目的を完成することを直接主管という。したがって、直接主管圏とは直に完成圏を意味する。このように、直接主管は、あくまでも創造目的を成就するためであるので、これがなくてはならないのである。では、人間に対する神の直接主管とは、具体的にどのようなことをいうのだろうか。神を中心として、アダムとエバが完成して合性一体化し、家庭的な四位基台を造成することによって、神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに、お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになるとき、これを神の直接主管という。このような人間は、神の心情を体恤し、神のみ旨が完全に分かって、実践するようになるので、あたかも、頭脳が、命令ならざる命令で四肢五体を動かすように、人間も、神の、命令ならざる命令により、神のみ旨のとおりに動いて、創造目的を成し遂げていくようになるのである。
 つぎに我々は、万物世界に対する人間の直接主管とはいかなるものであるかを調べてみることにしよう。神を中心として完成した人間が、万物世界を対象に立てて合性一体化することによって、四位基台をつくり、神の心情を中心として一体となった人間の意のままに、人間と万物世界とが、愛と美を完全に授受して、善の目的を成し遂げることを万物に対する人間の直接主管というのである。

第六節 人間を中心とする無形実体世界と有形実体世界

(一) 無形実体世界と有形実体世界
(二) 被造世界における人間の位置
(三) 肉身と霊人体との相対的関係

(一) 無形実体世界と有形実体世界
 被造世界は、神の二性性相に似た人間を標本として創造されたので、あらゆる存在は、心と体からなる人間の基本形に似ないものは一つもない(本章第一節(二)参照)。したがって、被造世界には、人間の体のような有形実体世界ばかりでなく、その主体たる人間の心のような無形実体世界もまたあるのである。これを無形実体世界というのは、我々の生理的な五官では、それを感覚することができず、霊的五官だけでしか感覚することができないからである。霊的体験によれば、この無形世界は、霊的な五官により、有形世界と全く同じく感覚できる実在世界なので、この有形、無形の二つの実体世界を総合したものを、我々は天宙と呼ぶ。
 心との関係がなくては、体の行動があり得ないように、神との関係がなくては創造本然の人間の行動もあり得ない。したがって、無形世界との関係がなくては、有形世界が創造本然の価値を表すことはできないのである。ゆえに、心を知らずには、その人格が分からないように、神を知らなくては、人生の根本意義を知ることはできない。また、無形世界がいかなるものであるかを知らなくては、有形世界がいかなるものであるかを完全に知ることはできないのである。それゆえに、無形世界は主体の世界であり、有形世界は対象の世界であって、後者は前者の影のようなものである(ヘブル八・5)。有形世界で生活した人間が肉身を脱げば、その霊人体は直ちに、無形世界に行って永住するようになる。

(二) 被造世界における人間の位置
 第一に、神は人間を被造世界の主管者として創造された(創一・28)。ところで被造世界は、神に対する内的な感性を備えていない。その結果、神はこの世界を直接主管なさらずに、この世界に対する感性を備えた人間を創造され、彼をして被造世界を直接主管するようになされたのである。したがって、人間を創造されるに当たって、有形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ要素である水と土と空気で肉身を創造された。無形世界を感じ、それを主管するようになさるために、それと同じ霊的要素で、霊人体を創造された。変貌山上でのイエスの前に、既に一六〇〇余年前に亡くなったモーセと、九〇〇余年前に亡くなったエリヤが顕現したとあるが(マタイ一七・3)、これらはみな、彼らの霊人体であった。このように、有形世界を主管できる肉身と、無形世界を主管できる霊人体とから構成された人間は、有形世界と無形世界をみな主管することができるのである。
 第二に、神は人間を被造世界の媒介体として、また和動の中心体として創造された。人間の肉身と霊人体が授受作用により合性一体化して、神の実体対象となるとき、有形、無形の二つの世界もまた、その人間を中心として授受作用を起こし合性一体化して、神の対象世界となる。そうすることによって、人間は二つの世界の媒介体となり、あるいは和動の中心体となる。人間は、ちょうど二つの音叉を共鳴させるときの空気のようなものである。人間はこのように、無形世界(霊界)と通ずるように創造されたので、あたかも、ラジオやテレビのように、霊界の事実をそのまま反映するようになっている。
 第三に、神は人間を、天宙を総合した実体相として創造された。神はのちに創造なさる人間の性相と形状の実体的な展開として、先に被造世界を創造されたのである。したがって、霊人体の性相と形状の実体的な展開として、無形世界を創造されたので、霊人体は無形世界を総合した実体相である。また肉身の性相と形状の実体的な展開として有形世界を創造されたので、肉身は有形世界を総合した実体相となるのである。ゆえに、人間は天宙を総合した実体相となるので、しばしば人間を小宇宙という理由は、ここにあるのである。
 ところが、人間が堕落し、被造世界が自己を主管してくれる主人を失ったので、ロマ書八章19節に、被造物は神の子たち(復帰された創造本然の人間)の出現を待ち望んでいると述べられている。それだけでなく、和動の中心体である人間が堕落して、有形、無形二つの世界の授受作用が切れたので、それらが一体となることができずに分離されたから、ロマ書八章22節には、被造物が嘆息している事実を明らかにしている。
 イエスは霊人体と肉身をもつ完全なアダムとして降臨された方である。したがって、彼は天宙を総合した実体相であったのである。それゆえに、万物をキリストの足もとに従わせたと言われた(コリント・一五・27)。イエスは堕落人間が彼を信じ、彼と一体となって、彼と共に完成した人間とならしめるために降臨されたので、救い主であられるのである。

(三) 肉身と霊人体との相対的関係
(1)
 肉身の構成とその機能
 肉身は肉心(主体)と肉体(対象)の二性性相からなっている。肉心とは肉体をして生存と繁殖と保護などのための生理的な機能を維持できるように導いてくれる作用部分をいうのである。動物における本能性は、正にそれらの肉心に該当するものである。肉身が円満に成長するためには、陽性の栄養素である無形の空気と光を吸収して、陰性の栄養素である有形の物質を万物から摂取して、これらが血液を中心として完全な授受作用をしなければならない。
 肉身の善行と悪行に従って、霊人体も善化あるいは悪化する。これは、肉身から霊人体にある要素を与えるからである。このように、肉身から霊人体に与えられる要素を、我々は生力要素という。我々は平素の生活において、肉身が善の行動をしたときには、心がうれしく、悪の行動をしたときには、心が不愉快さを経験するが、これは、その肉身の行動の善悪に従って、それに適応してできる生力要素が、そのまま霊人体へと回っていく証拠である。

(2) 霊人体の構成とその機能
 霊人体は人間の肉身の主体として創造されたもので、霊感だけで感得され、神と直接通ずることができ、天使や無形世界を主管できる無形実体としての実存体である。霊人体はその肉身と同一の様相であり、肉身を脱いだのちには無形世界(霊界)に行って永遠に生存する。人間が永存することを念願するのは、それ自体の内に、このような永存性をもつ霊人体があるからである。
 この霊人体は生心(主体)と霊体(対象)の二性性相からなっている。そして生心というのは、神が臨在される霊人体の中心部分をいうのである。霊人体は神からくる生素(陽性)と肉身からくる生力要素(陰性)の二つの要素が授受作用をする中で成長する。また霊人体は肉身から生力要素を受ける反面、逆に肉身に与える要素もあり、我々はこれを、生霊要素という。人間が神霊に接することによって、無限の喜びと新しい力を得て、持病が治っていくなど、その肉身に多くの変化を起こすようになるが、これは、その肉身が霊人体から生霊要素を受けるからである。霊人体は肉身を土台にしてのみ成長する。それゆえに、霊人体と肉身との関係は、ちょうど実と木との関係と同じである。生心の要求のままに肉心が呼応し、生心が指向する目的に従って、肉身が動くようになれば、肉身は霊人体から生霊要素を受けて善化され、それに従って、肉身は良い生力要素を霊人体に与えることができて、霊人体は善のための正常的な成長をするようになるのである。
 生心の要求するものが何であるかを教えてくれるのが真理である。それゆえに、人間が真理で生心が要求するものを悟り、そのとおりに実践することによって、人間の責任分担を完遂すれば、初めて生霊要素と生力要素とがお互いに善の目的のための授受作用をするようになる。ところで、生霊要素と生力要素とは各々性相的なものと形状的なものとの関係をもっている。ゆえに、悪人においても、その本心が善を指向しているのは、その生霊要素が常に作用しているからである。けれども、人間が善なる生活をしない限り、その要素も肉身の善化のための役割をすることができないので、生力要素との間に正しい授受作用をすることもできなくなるのである。このように、霊人体はどこまでも、地上の肉身生活においてのみ完成できるのである。霊人体は肉身を土台として、生心を中心として、創造原理による秩序的三期間を通じて成長し、完成するようになっているが、蘇生期の霊人体を霊形体といい、長成期の霊人体を生命体、完成期の霊人体を生霊体という。
 神を中心として、霊人体と肉身が完全な授受作用をして合性一体化することにより、四位基台を完成すれば、その霊人体は生霊体になるが、このような霊人体は無形世界のすべての事実をそのまま感ずることができる。このように、霊人体に感じられるすべての霊的な事実は、そのまま肉身に共鳴され、生理的現象として現れるので、人間はすべての霊的な事実を肉身の五官で感じて分かるようになる。生霊体を完成した人間が地上天国を実現して生活したのち、肉身を脱いで霊人として行って生活する所が、すなわち天上天国である。それゆえに、地上天国が先に実現したのち、初めて天上天国も実現できるのである。
 霊人体のすべての感性も肉身生活の中で、肉身との相対的な関係によって育成されるので、人間は地上で完成され、神の愛を完全に体恤して初めて、肉身を脱いだのちのその霊人体も神の愛を完全に体恤することができるようになるのである。このように、霊人体のすべての素性は肉身のある間に形成されるので、堕落人間においては、霊人体の悪化は肉身生活の犯罪行為に由来するもので、同じく、その霊人体の善化も、肉身生活の贖罪によってのみなされる。罪悪人間を救うために、イエスが肉身をもって地上に降臨された理由はここにあるのである。それゆえに、我々は地上で善なる生活をしなければならない。したがって、救いの摂理の第一次的な目的が地上で実現されなければならないので、イエスは天国の門の鍵を地上のペテロに授けて(マタイ一六・19)、地上でつなぐことは天でもみなつながれ、地上で解くことは、天でもみな解かれるであろうと言われたのである(マタイ一八・18)。
 天国でも地獄でも、霊人体がそこに行くのは、神が定めるのではなく、霊人体自身が決定するのである。人間は元来、完成すれば、神の愛を完全に呼吸できるように創造されたので、犯罪行為によってもたらされた過ちのために、この愛を完全に呼吸することができなくなった霊人体は、完全な愛の主体である神の前に立つことが、かえって苦痛となるのである。それゆえに、このような霊人体は、神の愛とは遠い距離にある地獄を自ら選択するようになる。また、霊人体は肉身を土台にしてのみ成長できるように創造されたので、霊人体の繁殖はどこまでも肉身生活による肉身の繁殖に伴ってなされる。

(3) 生心と肉心との関係から見た人間の心
 生心と肉心との関係は、性相と形状との関係と同じく、それらが神を中心として授受作用をして合性一体化すれば、霊人体と肉身を合性一体化させて、創造目的を指向させる一つの作用体をつくる。これが正に人間の心である。人間は堕落し、神を知ることができなくなるに従って、善の絶対的な基準も分からなくなったが、上述のように、創造された本性により、人間の心は、常に自分が善であると考えるものを指向する。このような心を良心という。しかし、堕落人間は善の絶対的な基準を知らず、良心の絶対的な基準をも立てることができないので、善の基準を異にするに従って、良心の基準も異なるものとなり、良心を主張する人たちの間にも、しばしば闘争が起こるようになる。善を指向する心の性相的な部分を本心といい、その形状的な部分を良心という。
 それゆえに、人間がその無知によって、創造本然のものと基準を異にする善を立てるようになるときにも、良心はその善を指向するが、本心はこれに反発して、良心をその本心が指向する方へと引き戻す作用をする。サタンの拘束を受けている生心と肉心が授受作用をして合性一体化すれば、人間をして悪を指向させるまた一つの作用体をつくるが、これを我々は邪心という。人間の本心や良心は、この邪心に反発し、人間をしてサタンを分立させ、神と相対することによって、悪を退け善を指向するようにさせるのである。

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第二章 堕  落  論

第一節 罪の根
第二節 堕落の動機と経路
第三節 愛の力と原理の力および信仰のための戒め
第四節 人間堕落の結果
第五節 自由と堕落
第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由

 人間はだれでも悪を退け、善に従おうとする本心の指向性をもっている。しかし、すべての人間は自分も知らずにあ る悪の力に駆られ、本心が願うところの善を捨てて、願わざる悪を行うようになるのである。このような悪の勢力の中で、人類の罪悪史は綿々と続いてきた。キリスト教ではこの悪の勢力の主体をサタンと呼ぶのである。そして、人間がこのサタンの勢力を清算できないのは、サタンが何であり、またそれがどうしてサタンとなったかという、その正体を知らないからである。それゆえに、人間がこの悪を根こそぎ取り除き、人類の罪悪史を清算して、善の歴史を成就するためには、まず、サタンがサタンとなったその動機と経路、およびその結果を明らかに知らなければならない。つまり、このような問題を解明するために、我々は堕落論を知らなければならないのである。

第一節 罪  の  根

(一)生命の木と善悪を知る木
(二)蛇の正体
(三)天使の堕落と人間の堕落
(四)善悪の果
(五)罪の根

 今まで人間の中に深く根を下ろし、休むことなく人間を罪悪の道に追いこんできた罪の根がいったい何であるか、この問題を知る者は一人もいなかった。ただキリスト教信徒のみが、聖書を根拠として、人間始祖アダムとエバが善悪を知る木の果を取って食べ、それが罪の根となったということを漠然と信じてきたのである。しかし、善悪を知る木の果が、文字どおり木の果実であると信ずる信徒たちと、聖書の多くの部分がそうであるように、これもまた、あるものに対する象徴、あるいは比喩に違いないと信ずる信徒たちとが、互いにその意見を異にし、それぞれに様々な解釈をしているだけで、今もってなお、これに対する完全な解明がなされていないというのが実情である。

(一)生命の木と善悪を知る木
 多くのキリスト教信徒たちは今日に至るまで、アダムとエバが取って食べて堕落したという善悪を知る木の果が、文字どおり何かの木の果実であると信じてきた。しかし、そうであるなら、人間の父母としていまし給う神が、何故その子女たちが取って食べて堕落する可能性のある果実を、このように「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好まし」くおつくりになり(創三・6)、彼らがたやすく取って食べられる所に置かれたのであろうか。
 かつてイエスは、「口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」(マタイ一五・11)と言われた。まして、食物がいかにして人間を堕落させることができるであろうか。人間の原罪は、あくまで人間の祖先から遺伝されてきたものであって、食物が原罪を遺伝するその要因とはなり得ないのである。
 なぜなら遺伝は、ただその血統を通じてのみなされるからである。ゆえに、ある一人の人間が、何か物を食べたなどということによって、その結果が子孫代々にまで遺伝されるはずはない。ある信徒たちは、神がそのみ言に対して人間が従順であるかどうかを試すために善悪を知る木の果を創造し、それを食べてはならぬと命令されたのであると信じている。しかし、全き愛の方であられる神が、人間に死を伴うような方法でもって、かくも無慈悲な試みをされたとは到底考えることができない。アダムとエバは、彼らが善悪の果を取って食べる日には、必ず死ぬであろうと言われたみ言のように、それを食べるときには死ぬということを知っていたはずである。それにもかかわらず彼らはこれを取って食べたのである。飢えてもいなかったアダムとエバが食物などのために、死を覚悟してまで、かくも厳重な神のみ言を犯したとは到底考えられないのである。それゆえに、善悪を知る木の果は何かの物質ではなく、生死にかかわることさえも問題視しないほどの強力な刺激を与えることのできる、他の何物かであるに相違ない。さて、善悪を知る木の果が物質でないとすれば、それは他の何物かを比喩したものであると見なければならない。聖書の多くの主要な部分が、象徴とか比喩でもって記録されていることは事実である。もしそうだとすれば、なぜ善悪の果だけを無理に文字どおりに信じなければならないのであろうか。今日のキリスト教信徒たちは、当然のことながら聖書の文字のみにとらわれた過去の固陋にして慣習的な信仰態度を捨てなければならない。では善悪を知る木の果を比喩であると見るならば、それは果たして何を意味するのであろうか。我々はこれを解明する方法として、創世記二章9節の善悪を知る木と共にエデンの園にあったという生命の木が何であるかをまず調べてみることにしよう。この生命の木が何であるかが明らかになれば、これと共にあったという善悪を知る木が何であるかということも、明確に知られるようになるからである。

(1) 生 命 の 木
 聖書のみ言によれば、堕落人間の願いは生命の木の前に行き、生命の木を完成するところにあるという。すなわち、箴言一三章12節を見れば、旧約聖書において、イスラエル民族も生命の木をその願望の対象として眺めていたし、黙示録二二章14節の記録を見ると、イエス以後、今日に至るまでのすべてのキリスト教信徒たちの願望もまた、ひたすらに生命の木に至ろうとするところにあるということが分かるのである。このように、堕落人間の究極的な願望が、生命の木であるということを見れば、堕落前のアダムの願望も、生命の木であったに相違ないのである。なぜかといえば、復帰過程にいる堕落人間は、元来堕落前のアダムが完成できなかったその願いを、再び成就しなければならないからである。
 創世記三章24節を見れば、アダムが罪を犯したために、神は炎の剣をもって生命の木の道をふさいでしまわれたと記されている。この事実を見ても、堕落前のアダムの願望が、生命の木であったということを知ることができる。しかし、アダムは堕落することによって、彼の願望であったこの生命の木に至ることができず、エデンの園から追放されたので、この生命の木は、その後すべての堕落人間の望みとして残されてきたのである。
 では、完成するそのときを仰ぎ見ながら成長していた未完成のアダムの願いであった生命の木とは、いったい何であったろうか。それは、彼が堕落せずに成長して、神の創造理想を完成した男性になるということでなければならない。したがって、我々はここにおいて、生命の木とは、すなわち、創造理想を完成した男性である、ということを知ることができる。創造理想を完成した男性とは、すなわち、完成したアダムを意味するがゆえに、生命の木とは、すなわち、完成したアダムを比喩した言葉であるということを知ることができるのである。
 もしアダムが堕落しないで、創造理想を完成した男性となり、生命の木を完成したならば、彼の子孫たちもみな、生命の木として完成し、地上天国を成就したはずであった。しかし、アダムが堕落したために、神は生命の木に行くその道を、回る炎の剣をもってふさいでしまわれたのである(創三・24)。ゆえに生命の木は創造理想を復帰しようとする堕落人間の願いとして、残されなければならなくなったのである。しかも、原罪をもつ堕落人間は、彼ら自らの力をもってしては、創造理想を完成した生命の木になることはできない。それゆえ、堕落人間が生命の木となるためには、ロマ書一一章17節に記録されているみ言のように、創造理想を完成した一人の男性が、この地上に生命の木として来られ、すべての人をして彼に接がしめ、一つになるようにしなければならない。このような生命の木として来たり給うたお方が、すなわちイエスであったのである。それゆえに、箴言一三章12節に記されている旧約時代の聖徒たちが期待していた生命の木とは、まさしくこの初臨のイエスであったということを、我々は知ることができるのである。
 しかしながら、創世記三章24節に明示されているように、神が回る炎の剣をもって、生命の木の前に行くアダムの道をふさいでしまわれたので、これが取り除かれない以上、人間は、生命の木の前に出ていくことができないのである。したがって、使徒行伝二章3節に記録されているように、五旬節の日に、聖徒たちの前をふさいでいた舌のごとき炎、すなわち火の剣が分かれて現れたのち、初めて聖霊が降臨し、全人類が生命の木であられるイエスの前に行き、彼に接がれるようになったのである。しかしながら、キリスト教信徒たちは、生命の木なるイエスに、霊的にのみ接がれるようになったので、いかにイエスを熱心に信ずる父母であるとしても、また再び贖罪を受けなければならない罪悪の子女を生まなければならなくなったのである。このような事実から見るとき、いかに信仰の篤い信徒といえども、アダムから遺伝されてきた原罪を、今もなお取り除くことができないままに、これをまた、そのまま子孫へと遺伝しているという事実を、我々は知っているのである(前編第四章第一
節)。そのために、イエスは地上に生命の木として再臨され、すべての人類を、再び接ぐことによって、原罪まで贖罪してくださる摂理をなさらなければならない。黙示録二二章14節のみ言のごとく、新約聖徒たちが再び、生命の木を待望するようになったその理由は、実にここにあったのである。したがって、この黙示録二二章14節に記録されている生命の木は、まさしく再臨のイエスを比喩した聖句であるということが分かる。
 我々は、ここにおいて、神の救いの摂理の目的は、エデンの園で失われた生命の木(創二・9)を、黙示録二二章14節の生命の木として復帰なさろうとするところにあった、と見ることができるのである。アダムが堕落して、創世記二章9節の初めの生命の木を完成できなかったので、この堕落した人間を救うために、イエスは黙示録二二章14節の、後の生命の木として再臨されなければならない。イエスを後のアダムという理由は実にここにあるのである(コリント・一五・45)。

(2) 善悪を知る木
 神はアダムだけを創造したのではなく、その配偶者としてエバを創造された。したがって、エデンの園の中に創造理想を完成した男性を比喩する木があったとすれば、同様に女性を比喩するもう一つの木が、当然存在してしかるべきではなかろうか。これが生命の木と共に生えていたと記録されている(創二・9)善悪を知る木であったのである。したがって、善悪を知る木というその木は、創造理想を完成した女性を象徴するものである。ゆえに、それは完成したエバを例えていった言葉であるということを知ることができるのである。
 聖書に、イエスを「ぶどうの木」(ヨハネ一五・5)、あるいは「オリブの木」(ロマ一一・17)に例えられているように、神は人間堕落の秘密を暗示なさるときにおいても、完成したアダムとエバとを、二つの木をもって比喩されたのである。

(二)蛇の正体
 エバを誘惑して、罪を犯させたものは蛇であったと聖書に記録されている(創三・4、5)。では、この蛇はいったい何を意味しているのであろうか。我々は創世記三章に記録されているその内容から、この蛇の正体を探ってみることにしよう。
 聖書に記録されている蛇は、人間と会話を交わすことができたと記されている。そして、霊的な人間を堕落させたという事実を見れば、これもまた、霊的な存在でなくてはならないはずである。しかも、この蛇が人間に善悪の果を食べさせまい、と計らわれた神の意図を知っていたという事実から見れば、それはなお一層霊的存在でなければならないということになるのである。
 また、黙示録一二章9節を見ると、「巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、(天より)地に投げ落され」たと記録されているのであるが、この古い蛇が、すなわち、エデンの園においてエバを誘惑したその蛇であるということはいうまでもない。しかも、この蛇が天より落とされたと記されているのを見ると、天にいたその古い蛇とは、霊的存在物でなくて何であろうか。また、この蛇を悪魔でありサタンであると呼んでいるが、このサタンは人間の堕落以後今日に至るまで、常に人間の心を悪の方向に引きずってきたものであるがゆえに、まさしくこれは霊的存在でなくてはならないのである。このように、サタンが霊的存在であるということが事実であるならば、サタンとして表示されているこの蛇が、霊的存在であるということはいうまでもないことである。聖書に表れているこのような事実から推測して、エバを誘惑した蛇は動物ではなく、ある霊的存在であったということを、我々は知ることができるのである。
 それでは、このように蛇という比喩で呼ばれる霊的存在が、果たして創世以前から存在していたのであろうか、さもなければ、これも被造物の中の一つであるのかということが問題となるのである。もし、この蛇が創世以前から神と対立する目的をもって存在していたとすれば、被造世界において展開されている善悪の闘争も不可避なものとして永続するほかはない。したがって、神の復帰摂理は、結局無為に帰してしまわざるを得ないであろうし、あらゆる存在が神お一人によって創造されたという一元論も崩壊してしまうのである。ゆえに、蛇として比喩されているこの霊的存在は、元来善を目的として創造されたある存在が、堕落してサタンとなったものであると見なさなければならないのである。
 では、神から創造された霊的存在であって、人間と会話することもでき、神の目的を知ることもでき、また、その所在は天にあり、そして、それがもし堕落して悪の存在に転落した場合には、時間と空間を超越して人間の心霊を支配し得る能力をもつ、そのような条件を備えた存在とは、いったい何なのであろうか。こう考えてみると天使以外にこのような条件を具備した存在はないので、まずこの蛇は、天使を比喩したものであると見ることができるのである。そこで、ペテロ・二章4節を見ると、神は罪を犯したみ使いたちを許し給わず、地獄に投げ入れられたと記録されているのである。このみ言は、天使こそが人間を誘惑して罪を犯させたその蛇の正体であるという事実を、決定的に立証しているのである。
 蛇はその舌先が二つに分かれている。したがって、それは一つの舌をもって二つの言葉を話し、一つの心をもって二つの生活をする者の表象となるのである。また、蛇は自分の食物に体を巻きつけて食べるが、これは自己の利益のために他を誘惑する者の表象となっている。それゆえに、聖書は人間を誘惑した天使を蛇に例えたのであった。
 
(三)天使の堕落と人間の堕落
 既に、我々は人間を誘惑して堕落させた蛇が、天使であったということ、また、この天使が罪を犯し堕落することによってサタンとなったという事実を知った。ではつぎに、天使と人間がいかなる罪を犯したかということについて調べてみることにしよう。

(1) 天 使 の 犯 罪
 ユダ書6節から7節に「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている」と記録されているのを見ると、我々は天使が姦淫によって堕落したという事実を知ることができるのである。
 しかしながら、姦淫というものは、一人では行うことができない。したがって、エデンの園で行われた天使の姦淫において、その対象となった存在が、何であったかということについて知っておく必要がある。これを知るために、我々はまず、人間がいかなる罪を犯したかということについて調べてみることにしよう。
 
(2)
 人 間 の 犯 罪
 創世記二章25節を見れば、罪を犯す前、アダムとエバは、裸でいても恥ずかしく思わなかった。しかし、彼らが堕落したのちには、裸でいることを恥ずかしく思い、無花果の葉をもって下部を覆ったのである(創三・7)。もし、善悪の果というある果実があって、彼らがそれを取って食べて罪を犯したのだとすれば、恐らく彼らは手か口を隠したはずである。なぜかといえば、人間は恥ずかしい所を隠すのがその本性だからである。しかるに彼らは、手や口を隠したのではなく、下部を隠したのである。したがって、この事実は彼らの下部が科となったために、それを恥ずかしく思ったということを表しているのである。ここから、我々は彼らが下部で罪を犯したという事実を推測することができるのである。
 ヨブ記三一章33節には、「わたしがもし(アダムのごとく)人々の前にわたしのとがをおおい、わたしの悪事を胸の中に隠したことがあるなら」と記録されている。そうしてアダムは、堕落したのち、その下部を隠したのであった。この事実はとりもなおさず、アダムが覆ったその下部が科となったということを物語っている。それでは、アダムの下部がなぜ科となったのであろうか。それは、いうまでもなく、アダムがその下部で罪を犯したからである。
 人間が堕落する以前の世界において、死ぬということを明確に知っていながら、しかも、それを乗り越えることのできる行動とは、いったい何であったのだろうか。それは、愛以外の何ものでもない。「生めよ、ふえよ」(創一・28)と言われた神の創造目的は、愛によってのみ完成することができるのである。したがって、神の創造目的を中心として見るとき、愛は最も貴い、そして最も聖なるものであったのである。しかし、それにもかかわらず、人間は歴史的に愛の行動を、何か卑しいもののように見なしてきたというのも、それが、堕落の原因となっているからである。ここにおいて我々は、人間もまた、淫乱によって堕落したという事実を知ることができる。

(3) 天使と人間との淫行
 我々は、既に述べたように、人間が天使の誘惑に陥って堕落したという事実、人間も天使もみな淫行によって堕落したという事実、その上にまた、被造世界においては、霊的存在であって、お互いにある情的関係を結ぶことのできる存在とは、人間と天使以外にはないという事実などを結びつけてみるとき、人間と天使との間に淫行関係が成り立ったであろうということは、容易にうなずくことができるのである。ヨハネ福音書八章44節には「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって、その父の欲望どおりを行おうと思っている」と記録されている。そして、黙示録一二章9節には、悪魔はすなわち、サタンであり、サタンはすなわち、人間を誘惑した古い蛇であると明示しているのである。このような聖句に基づいてみるとき、人間は悪魔の子孫であり、したがって、サタンの子孫であるがゆえに、結局蛇の子孫であるということになるのである。では、人間はいかなる経過を経て、堕落した天使、すなわちサタンの子孫となったのであろうか。これは、人間の祖先が天使と淫行を犯すことによって、すべての人間がサタンの血統より生まれるようになったからである。このように、堕落した人間は神の血統ではなくサタンの血統をもって生まれたのでロマ書八章23節には「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分(実子でなく養子として)を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」と記録されているのである。また、マタイ福音書三章7節には、洗礼ヨハネがユダヤ人たちを見て、「まむしの子」、すなわちサタンの子孫であると叱責し、また、マタイ福音書二三章33節においてイエスがユダヤ人たちを見て、「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか」と叱責されたという記録がある。このような聖書の記録に基づいてみると、我々は、天使と人間との間に淫行関係が結ばれ、それが堕落の原因になったという事実を知ることができるのである。

(四)善悪の果
 我々は既に、善悪を知る木が、完成したエバを比喩したものであるという事実を明らかにした。では、善悪の果とは何をいうのであろうか。すなわち、それはエバの愛を意味するのである。果木が、果実によって繁殖するように、エバは、神を中心とするその愛をもって善の子女を繁殖しなければならなかったにもかかわらず、実際には、サタンを中心とする不倫な愛をもって悪の子女を生み殖やしたのである。エバはこのように、その愛をもって善の実を実らせることも、また悪の実を実らせることもできる成長期間を通過して、完成するように創造されていたのであった。それゆえに、その愛を善悪の果といい、また、その人間を善悪を知る木といったのである。
 それでは、善悪の果を取って食べたということは、いったい何を意味するのであろうか。我々が何かを食べるということは、それをもって自分の血肉とするという意味である。エバは神を中心とする善なる愛をもって、善なる実を取って食べ、善なる血と肉を受け、善なる血統を繁殖しなければならなかったのである。それにもかかわらず、彼女はサタンを中心とする悪なる愛をもって悪なる実を食べ、悪なる血と肉を受けて悪なる血統を繁殖し、罪悪の社会をつくったのである。したがって、エバが善悪の果を取って食べたということは、彼女がサタン(天使)を中心とした愛によって、互いに血縁関係を結んだということを意味するのである。
 創世記三章14節を見れば、神は堕落した天使を呪い給い、「おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう」と言われた。足で歩くことができず腹で這うということは、天使が創造本然の活動をすることができず、悲惨な状態になるということを意味するのであり、ちりを食うということは、天より追いだされることによって(イザヤ一四・12、黙一二・9)、神からの命の要素を受けることができず、罪悪の世界に陥って、悪の要素を受けながら生きていくということを意味するのである。

(五)罪の根
 我々は聖書によって明らかにされたことにより、罪の根は人間始祖が果実を取って食べたことにあったのではなく、蛇に表示された天使と不倫なる血縁関係を結んだところにあったということを知るようになった。したがって、彼らは神の善の血統を繁殖することができず、サタンの悪の血統を繁殖するようになったのである。
 さらにまた、我々は次のような事実から、人間の罪の根が淫乱にあったということを、より一層明確に知ることができるのである。罪の根が血縁関係によってつくられたので、この原罪は、子々孫々に遺伝されてきた。そして、罪を取り除こうとする宗教は、みな姦淫を最大の罪として定め、これを防ぐために、禁欲生活を強調してきたのであるが、これも罪の根が淫乱にあるということを意味するものである。また、イスラエル民族が神の選民となるため、贖罪の条件として割礼を行ったというのも、罪の根が淫乱によって悪の血を受けたところにあったために、堕落人間の体からその悪の血を抜きとることを条件として、聖別するためであった。数多くの英雄烈士、数多くの国家が滅亡した主要な原因が、この淫乱にあったということも、淫行という罪の根が、絶えず人間の心の中から、我知らず発動してきたためである。我々は宗教によって人倫道徳を立て、また諸般の教育を徹底的に実施して、犯罪を生みだす経済社会制度を改善することにより、他のすべての罪悪は、この社会から一掃することができるかもしれない。しかし、文明の発達と、安逸な生活環境に従い、増大しつつある淫乱による犯罪だけは、だれによっても、またいかなるものによっても、防ぐことができないというのが現在の実情である。したがって、人間社会から、この犯罪を根こそぎ取り除くことができない限り、決して理想世界を期待することはできないのである。ゆえに、再臨なさるメシヤは、この問題を根本的に解決し得るお方でなければならない。このように、これらの事実は、罪の根があくまでも淫行にあるということを如実に物語っているのである。

第二節 堕落の動機と経路

(一)天使の創造とその使命および人間との関係
(二)霊的堕落と肉的堕落

 我々は既に、第一節において、蛇はまさしくエバを堕落させた天使を比喩したものであるということを明らかにした。このように、人間の堕落した動機は天使にあったから、その堕落の動機と経路を知るためには、まず、天使とは何かということを知らなければならない。

(一)天使の創造とその使命および人間との関係
 すべての存在は神によって創造された。したがって当然天使もまた、神が創造し給うた被造物であることはいうまでもない。神は天使世界を他のどの被造物よりも先に創造された。創世記一章26節に書かれている天地創造の記録を見ると、神は「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」と、自らを複数をもって語っておられるのであるが、これは今日まで多くの神学者たちが解釈してきたような三位神の立場から、そのように言われたのではなく、人間よりも先に創造されていた天使たちを考慮において、それらを含めた立場から言われたみ言であったことを知らなければならない。
 神は被造世界の創造と、その経綸のために、先に天使を使いとして創造された(ヘブル一・14)。天使はアブラハムに神の重大な祝福のみ言を伝えたのであり(創一八・10)、キリストの受胎に関する消息を伝えたり(マタイ一・20、ルカ一・31)、獄中で鎖につながれていたペテロを解いて、城外に導いたのである(使徒一二・7〜10)。このほかにも、神のみ旨のために天使が活動している例は、聖書の中に、無数に探しだすことができる。それゆえに、黙示録二二章9節では、天使が自分自身を「僕」と言い、またヘブル書一章14節においては、天使を「仕える霊」と記録しているのである。そしてまた、天使は神に頌栄をささげる存在として創造されていたという証拠も、聖書の中に数多く見いだすことができる(黙五・11、黙七・11)。
 つぎに、我々は天使と人間との創造原理的関係を探ってみることにしよう。神は、人間を子女として創造され、被造世界に対する主管権を賦与された(創一・28)。ゆえに、人間は天使さえも主管するようにつくられているのである。コリント・六章3節を見れば、人間は天使さえも審判できる権限があると書かれている。そして、霊的に通ずるあらゆる人たちは、数多くの天使たちが、楽園にいる聖徒たちを擁護しているのを見るのであるが、これもまた、天使の人間に対する主従関係を説明する一つの良い例であるといえよう。

(二)霊的堕落と肉的堕落
 神は霊的部分と肉的部分をもって、人間を創造されたがゆえに、堕落においても霊肉両面の堕落が成立した。天使とエバとの血縁関係による堕落が霊的堕落であり、エバとアダムとの血縁関係による堕落が肉的堕落である。
 では、天使と人間との間に、いかにして性的関係が成立するのであろうか。人間と霊的存在との間における感性は、いかなる点においても、実体的な存在の間における感性と、少しも異なるところがない。したがって、人間と天使との性的堕落は事実上可能なのである。
 なお我々は、次のような事実を通しても、前に述べた内容をより確実に理解することができる。すなわち、人間社会において、地上人間たちが、霊人たちとしばしば結婚生活をする例があるということ、そして、天使がヤコブと角力をして、そのもものつがいを外したという例と共に(創三二・25)、また、天使がアブラハムの家庭に現れて肉を食べたという事実(創一八・8)、また、ロトの家に訪ねてきた二人の天使が、彼の準備した「種いれぬパン」を食べただけでなく、その町の民たちが、天使たちを見て色情を起こし、ロトの家を取り囲んで、「今夜おまえの所に来た人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」(創一九・1〜5)と叫んだ事実などは、みなこれに属する例である。

(1) 霊 的 堕 落
 神は天使世界を創造されてから(創一・26)、ルーシェル(明けの明星という意、イザヤ一四・12)に天使長の位を与えられた。それゆえに、あたかもアブラハムがイスラエルの祝福の基となったように、ルーシェルは天使世界の愛の基となり、神の愛を独占するかのような位置にいたのであった。しかし、神がその子女として人間を創造されたのちは、僕として創造されたルーシェルよりも、彼らをより一層愛されたのである。事実上、ルーシェルは、人間が創造される以前においても、以後においても、少しも変わりのない愛を神から受けていたのであるが、神が自分よりもアダムとエバをより一層愛されるのを見たとき、愛に対する一種の減少感を感ずるようになったのである。これは、ちょうど、朝から働いた労働者が、自分が働いただけに相当する労賃を全部受けとったにもかかわらず、遅く来て少し働いた労働者も自分と同じ労賃を受けとるのを見て、自分が受けた労賃に対する減少感を感じたという聖書の例え話(マタイ二〇・1〜15)と同じ立場であったということができる。このような立場で愛の減少感を感ずるようになったルーシェルは、自分が天使世界において占めていた愛の位置と同一の位置を、人間世界に対してもそのまま保ちたいというところから、エバを誘惑するようになったのである。これがすなわち、霊的堕落の動機であった。
 被造世界は、そもそも、神の愛の主管を受けるように創造されている。したがって、愛は被造物の命の根本であり、幸福と理想の要素となるのである。それゆえに、この愛をより多く受ける存在であればあるほど、より一層美しく見えるのである。ゆえに神の僕として創造された天使が、神の子女として創造されたエバに対したとき、彼女が美しく見えたというのも当然のことであった。ましてやエバがルーシェルの誘惑に引かれてくる気配が見えたとき、ルーシェルはエバから一層強い愛の刺激を受けるようになったのである。こうなるともう矢も盾もたまらず、ルーシェルは死を覚悟してまで、より深くエバを誘惑するようになった。このようにして、愛に対する過分の欲望によって自己の位置を離れたルーシェルと、神のように目が開けることを望み、時ならぬ時に、時のものを願ったエバとが(創三・5、6)、互いに相対基準をつくり、授受作用をするようになったため、それによって非原理的な愛の力は、彼らをして不倫なる霊的性関係を結ぶに至らしめてしまったのである。
 愛によって一体となれば、互いにその対象から先方の要素を受けるように創造された原理によって(創三・7)、エバはルーシェルと愛によって一体となったとき、ルーシェルの要素をそのまま受け継いだのであった。すなわち、第一に、エバはルーシェルから、創造目的に背いたということに対する良心の呵責からくる恐怖心を受けたのであり、第二には、自分が本来対すべき創造本然の夫婦としての相対者は天使ではなく、アダムだったという事実を感得することのできる新しい知恵を、ルーシェルから受けるようになったのである。当時、エバはまだ未完成期にいたのであった。したがって、そのときの彼女自体は、既に完成期にあった天使長に比べて、知恵が成熟していなかったために、彼女は天使長からその知恵を受けるようになったのである。

(2) 肉 的 堕 落
 アダムとエバは、共に完成して、神を中心とする永遠の夫婦となるべきであった。ところが、エバが未完成期において、天使長と不倫なる血縁関係を結んだのち、再びアダムと夫婦の関係を結んだためにアダムもまた未完成期に堕落してしまったのである。このように、時ならぬ時にサタンを中心としてアダムとエバとの間に結ばれた夫婦関係は、そのまま肉的堕落となってしまったのである。
 既に述べたように、エバは天使との霊的な堕落によって受けた良心の呵責からくる恐怖心と、自分の原理的な相対者が天使長ではなくアダムであるということを悟る、新しい知恵とを受けるようになったのである。ここにおいて、エバは、今からでも自分の原理的な相対者であるアダムと一体となることにより、再び神の前に立ち、堕落によって生じてきた恐怖心から逃れたいと願うその思いから、アダムを誘惑するようになった。これが、肉的堕落の動機となったのである。
 このとき、不倫なる貞操関係によって天使長と一体となったエバは、アダムに対して、天使長の立場に立つようになった。したがって、神が愛するアダムは、エバの目には非常に美しく見えたのである。また、今やエバは、アダムを通してしか神の前に出ることのできない立場にあったから、エバにとってアダムは、再び神の前に戻る望みを託し得る唯一の希望の対象であった。
 だからこそエバは自分を誘惑した天使長と同じ立場で、アダムを誘惑したのである。アダムがルーシェルと同じ立場に立っていたエバと相対基準を造成し、授受作用をすることによって生じた非原理的な愛の力は、アダムをして、創造本然の位置より離脱せしめ、ついに彼らは肉的に不倫なる性関係を結ぶに至ったのである。
 アダムは、エバと一体となることによって、エバがルーシェルから受けたすべての要素を、そのまま受け継ぐようになったのである。そのようにして、この要素はその子孫に綿々と遺伝されるようになった。エバが堕落したとしても、もしアダムが、罪を犯したエバを相手にしないで完成したなら、完成した主体が、そのまま残っているがゆえに、その対象であるエバに対する復帰摂理は、ごく容易であったはずである。しかし、アダムまで堕落してしまったので、サタンの血統を継承した人類が、今日まで生み殖えてきたのである。

第三節 愛の力と原理の力および信仰のための戒め

(一)愛の力と原理の力から見た堕落
(二)信仰のための戒めを下さった目的
(三)信仰のための戒めが必要な期間

(一)愛の力と原理の力から見た堕落
 人間は原理をもって創造され、原理軌道によって生存するように創造された。それゆえに、原理の力それ自体が、人間を原理軌道より脱線させ、堕落せしめることはあり得ないのである。これはあたかも、レールや機関車に故障がない限り、汽車が自ら軌道を脱線するということがあり得ないのと同様である。しかし、汽車も自らの走る力よりも強い、ある外力が、それと異なる方向から働いてきた場合には、脱線するほかはない。これと同じように、人間も、それ自身を成長させる原理の力よりも強い、ある力がそれと異なる目的をもってぶつかってくれば、堕落する以外にはないのである。この原理の力よりも強い力が、すなわち、愛の力なのである。それゆえに、未完成期における人間は、その非原理的な愛の力のために堕落する可能性があったのである。
 それでは、神はなぜこのように原理の力よりも愛の力を強くして、未完成期における人間が、目的の違った愛の力にぶつかるとき、それによって堕落することもあり得るように創造されたのであろうか。
 創造原理によれば、神の愛とは三対象の愛によって、三対象目的を完成した、四位基台の主体的な愛をいう。したがって、神の愛がなければ、人間創造の目的である四位基台が成就されないために、愛は人間の幸福と命の源泉なのである。神は原理によって創造された人間を、愛によって主管しなければならないので、その愛が愛らしく存在するためには、愛の力は、あくまでも、原理の力以上に強いものでなければならない。もし、愛の力が原理の力よりも弱いものであるとすれば、神は原理で創造された人間を、愛をもって主管できず、したがって、人間は神の愛よりも原理をより一層追求するようになるであろう。イエスが弟子たちを真理によって立たしめ、愛をもって救おうとされた理由は、正にここにあったのである。

(二)信仰のための戒めを下さった目的
 神が、アダムとエバに「食うべからず」という信仰のための戒めを下さった目的は、どこにあったのだろうか。それは、愛の力が原理の力よりも強いため、まだ未完成期において神の直接的な愛の主管を受けることができずにいたアダムとエバが、もし天使長の相対的立場に立つようになれば、目的を異にする、その非原理的な愛の力によって堕落する可能性があったからである。天使長の非原理的な愛の力がいかに強くとも、アダムとエバが神の戒めに従い、天使を相手にせず、神とのみ相対基準を造成して授受作用をしていたならば、その非原理的な愛の力は作用することができず、彼らは決して堕落するはずがなかった。しかし、彼らが神の戒めを守らず、天使長と相対基準を造成して、それと授受作用をしたために、その不倫な愛の力が、彼らを脱線させてしまったのである。未完成期にいた人間に、このような戒めを与えられたのは、単純に、彼らが堕落しないようにするためだけではなかった。更にいま一つ、人間が、自分自身の責任分担として、そのみ言を信じ、自らの力で完成することによって神の創造性に似るようになり、併せて万物に対する主管性をも得るようにさせたいからでもあったのである(前編第一章第五節(二)(2))。
 そして、この戒めを天使長に与え給わず、人間に与えられたというのは、神の子女としての立場から、天使までも主管しなければならない人間の創造原理的な資格と威信とを、立てさせようとされたからであった。

(三)信仰のための戒めが必要な期間
 それでは、神が人間始祖に、「食うべからず」と言われた信仰のための戒めは、いつまでも必要であったのだろうか。愛を中心として見るとき、神の第二祝福完成は、アダムとエバが、神の愛を中心として夫婦となり、その子女が生み殖えることによって(創一・28)、神の愛による直接的な主管を受けることをいうのである。それゆえに、人間が完成すれば、「食う」のは原理的なものとして、当然許されるように創造されていたのであった。
 愛の力は原理の力よりも強いので、アダムとエバが完成し、神を中心として夫婦となることにより、その絶対的な愛の力によって、神の直接的な主管を受けるようになれば、いかなるものも、またいかなる力もこの絶対的な夫婦の愛を断ちきることができないから、彼らは決して堕落するはずはなかった。まして、人間よりも低級な天使長の愛の力ぐらいでは、到底神を中心とした、彼ら夫婦の愛を断ちきることはできなかったはずである。それゆえに「食うべからず」と言われた神の戒めは、アダムとエバが未完成期にある場合に限ってのみ、必要であったのである。

第四節 人間堕落の結果

(一)サタンと堕落人間
(二)人間世界に対するサタンの活動
(三)目的性から見た善と悪
(四)善神の業と悪神の業
(五)罪
(六)堕落性本性

 アダムとエバが、霊肉共に堕落することによって、人間と天使をはじめ、被造世界にいかなる結果を招来したのであろうか。我々はここで、この重要な問題を取り扱ってみることにしよう。

(一)サタンと堕落人間
 堕落した天使長ルーシェルを、サタンと呼ぶということについては既に述べた。ルーシェルと人間始祖が血縁関係を結び、一体となったので、サタンを中心とする四位基台がつくられると同時に、人間はサタンの子女となってしまったのである。ヨハネ福音書八章44節を見ると、イエスは、ユダヤ人たちを「悪魔から出てきた者」と言い、またマタイ福音書一二章34節、同じくマタイ福音書二三章33節においては、彼らを「へびよ、まむしの子らよ」と言われたのである(マタイ三・7)。さらにロマ書八章23節では「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること」を待つと記されているのであるが、これは、人間始祖の堕落によって、その子孫が、一人残らず、神の血統を受け継ぐことができず、サタンの血統を受け継いでしまったからである。アダムとエバが完成し、神を中心とする四位基台をつくったならば、そのとき、神の主権の世界は成就されるはずであった。しかし、彼らが未完成期において堕落し、サタンを中心とする四位基台をつくったので、この世界はサタン主権の世界となってしまったのである。それゆえ、ヨハネ福音書一二章31節には、サタンを「この世の君」と言い、またコリント・四章4節においては、サタンを「この世の神」と言ったのである。このようにして、サタンは、被造世界の主管主として創造された人間を逆に主管するようになったので、彼は被造世界全体をも主管するようになったのである。ゆえに、ロマ書八章19節には、「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」と記録されている。これは、万物が完成した人間の主管を受けることができず、サタンの主管を受けているため、そのサタンを追い払って、自分たちを主管してくれる創造本然の人間が現れることを願っているという意味なのである。

(二)人間世界に対するサタンの活動
 サタンは、ヨブを神の前に訴えるように(ヨブ一・9)、絶えずあらゆる人間を神の前に訴え、地獄に引いていこうとしているのである。しかし、サタンもその対象を取り立てて、相対基準を造成し、授受作用をしない限り、サタン的な活動をすることはできない。サタンの対象は、霊界にいる悪霊人たちである。そして、この悪霊人たちの対象は、地上にいる悪人たちの霊人体であり、地上にいる悪人たちの霊人体の活動対象は彼らの肉身である。したがって、サタンの勢力は悪霊人たちを通して地上人間の肉身の活動として現れる。それゆえ、ルカ福音書二二章3節には「イスカリオテと呼ばれていたユダに、サタンがはいった」と記録されており、またマタイ福音書一六章23節を見れば、イエスはペテロを指してサタンと言われた。さらにまた、このような悪霊人体を「悪魔の使者」と記録しているところもある(マタイ二五・41)。
 地上天国を復帰するということは(前編第三章第二節参照)、全人類がサタンとの相対基準を完全に断ちきり、神との相対基準を復帰して、授受作用をすることにより、サタンが全く活動することのできない、そのような世界をつくることをいうのである。終末に至って、サタンを底なき所に閉じ込めると言われたみ言は、とりもなおさず、サタンの相対者がいなくなることによって、サタンが活動できなくなるということを意味する。人間がサタンとの相対基準を断ち、更に一歩進んでコリント・六章3節のみ言のごとく、それらを審判するためには、サタンがサタンとなった罪状とその正体とを知り、神の前にサタンを訴えるようにならなければならないのである。ところが、神は天使と人間とを創造されるとき、彼らに自由を与えられたので、これを復帰するときにも、神は彼らに強制することはできない。それゆえに人間は、あくまでも自分の自由意志による責任分担としてみ言を探しだし、サタンを自然屈伏させてこそ、創造本然の人間に復帰することができるのである。神はこのような原則によって摂理されるので、復帰摂理歴史は、このように長い年月にわたって、延長に延長を重ねてきたのである。

(三)目的性から見た善と悪
 善と悪に対する定義は、既に、創造原理の中の「創造本然の価値」において論じ尽くした。今、ここにおいて、我々は、その目的性から見た善悪の意味を調べてみることにしよう。アダムとエバが、彼らに賦与された愛をもって、神を中心として四位基台を造成したなら、彼らは善の世界をつくることができたはずである。しかし、彼らはこの目的に反する愛をもって、サタンを中心とする四位基台を造成したので、悪の世界をつくってしまったのである。それゆえに、善と悪とは、同一の意味をもつものが、相反した目的を指向して現れたその結果を指していう言葉なのである。したがって、我々が、しばしば悪であると考えてきた人間の性稟も、それが神のみ意を目的として現れるときには善になるという例を、いくらでも発見することができる。今、それに対する例を挙げてみることにしよう。我々が、往々にして罪であると考えるところの欲望なるものは、元来、神より賦与された創造本性である。なぜなら、創造目的は喜びにあるのであり、喜びは欲望を満たすときに感ずるものだからである。したがって、もし人間に欲望がないとすれば、そこには同時に喜びもあり得ないということになるのである。そうして欲望がないとすれば、神の愛を受けようとする欲望も、生きようとする欲望も、善を行おうとする欲望も、発展しようとする欲望もないということであるから、神の創造目的も、復帰摂理も、達成することができず、人間社会の維持とその発展もあり得ないのである。
 このように、本来の欲望は創造本性であるがゆえに、この性稟が神のみ意を目的として結果を結ぶならば、善となるのである。しかし、これと反対に、サタンの目的を中心としてその結果を結べば悪となるのである。この悪の世界も、イエスを中心とし、その目的の方向だけを変えるならば、善なるものとして復帰され、地上天国が建設されるということは(前編第三章第二節(二)参照)、このような原理を見て明らかにされるのである。したがって、復帰摂理は、サタンの目的を指向しているこの堕落世界を、神の創造目的を成就する地上天国へと、その方向性を変えていく摂理であるとも、見ることができるのである。
 復帰摂理の性格がそうであるから、この摂理の過程において取り扱われる善の基準は、絶対的なものではなく、あくまでも相対的なものである。なぜかといえば、ある特定の時代の上に立って考えてみると、その時代の主権者の理念の指向する目的に順応すれば善となり、その目的に反対すれば悪となるのであるが、いったん、その時代と主権者が変わり、その理念が変わるようになれば、同時にその目的も変わるので、したがって、善と悪の基準も変わるようになるのである。そればかりではなく、宗教や思想においても、その枠内にある人々にとっては、その教理とその思想が指向する目的に順応することが善であり、それに反対することは悪となる。しかし、いったんその教理や思想が変わるか、あるいは他の宗教に改宗するか、または他の思想に転向するようになれば、それに従って、目的も異なってくるので、善悪の基準もおのずから変わるようになるのである。人間社会において、常に闘争と革命が起こるその主な原因は、このように、人間の指向する目的が異なるに従って、善悪の基準が、常に異なってくるところにあるといえよう。このように復帰過程における善は、相対的なものとならざるを得ないのである。しかし、地上でサタンの主権を追い払い、時代と場所とを超越して永存し給う絶対者たる神御自身が主権者となり、その神からくるところの理念が立てられるときには、その理念は絶対的なものであるために、それが指向する目的もまた絶対的であり、善の基準も絶対的なものとして立てられるのである。これがすなわち、再臨主によってもたらされるべき天宙的な理念なのである。事実上、人類歴史は数多くの闘争と革命を重ねながら、本心が指向するこの絶対的な善を探し求めて流れてきたのである。したがって、堕落した人間社会における闘争と革命とは、この絶対的な目的を追求し、絶対的な善の世界を成就するまで継続せざるを得ないのである。

(四)善神の業と悪神の業
 善神というのは、神と、神の側にいる善霊人たちと、天使たちを総称する言葉であり、悪神というのは、サタンと、サタンの側にいる悪霊人たちを総称する言葉である。善と悪とがそうであるように、善神の業と悪神の業も、同一のかたちをもって出発し、ただその目的のみを異にするものなのである。
 善神の業は、時間がたつにつれてその個体の平和感と正義感を増進せしめ、その肉身の健康をも向上させる。しかし、悪神の業は、時間がたつにつれて不安と恐怖と利己心を増進せしめ、また健康をも害するようになる。それゆえに、このような霊的な業は、原理が分からない人にとっては、それを見分けることが非常に困難であるが、時間が経過するに従って、その結果を見て、その内容を知ることができるのである。しかし、堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行うときがある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行うときがときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。

(五)罪
 罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう。その罪を分類してみれば、第一に原罪というものがあるが、これは人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をいい、この原罪は、すべての罪の根となるのである。
 第二に、遺伝的罪がある。これは、父母の犯した罪が数代にまで及ぶという十戒のみ言のように、血統的な因縁をもって、その子孫が受け継いだ祖先の罪をいう。
 第三には、連帯罪というものがある。これは、自身が犯した罪でもなく、また遺伝的な罪でもないが、連帯的に責任を負わなければならない罪をいう。例えば、祭司長と律法学者がイエスを十字架につけた罪により、ユダヤ人全体がその責任を負って神の罰を受けなければならなかったし、全人類もまた、共同的な責任を負って、イエスが再臨なさるそのときまで、苦難の道を歩まねばならなかったが、それはこの罪のゆえである。
 第四に、自犯罪というものがあるが、これは、自身が直接犯した罪である。ここにおいて、我々が前に述べたところの原罪を、罪の根というならば、遺伝的罪は罪の幹、連帯罪は罪の枝、自犯罪は罪の葉に該当するのである。しかし、すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる。それゆえに、原罪を清算しない限りは、他の罪を根本的に清算することはできない。しかしながら、隠されているこの罪の根はいかなる人間も知ることができないもので、ただ人間の根として、また、真の父母として降臨されるイエスのみがこれを知り、清算することができるのである。

(六)堕落性本性
 天使が神に反逆して、エバと血縁関係を結んだとき、偶発的に生じたすべての性稟を、エバはそのまま継承したのであり、こうして天使長の立場におかれるようになったエバと、再び血縁関係を結んだアダムも、またこの性稟を受け継ぐようになった。そして、この性稟が、堕落人間のすべての堕落性を誘発する根本的な性稟となってしまったのである。これを堕落性本性という。
 このような堕落性本性が生ずるようになった根本的動機は、天使長がアダムに対する嫉妬心を抱いたところにあった。それでは、善の目的のために創造された天使長から、いかにしてそのような愛に対する嫉妬心が生ずるようになったのであろうか。元来、天使長にも、創造本性として、欲望と知能とが賦与されていたはずであった。このようにして、天使長は知能をもっていたので、人間に対する神の愛が、自分に注がれるそれよりも大きいということを比較し、識別することができたのであり、またその上に欲望をもっていたから、神からそれ以上に大きい愛を受けたいという思いがあったということは当然なことである。そして、こういう思いは、自動的に嫉妬心を生ぜしめたのである。したがって、このような嫉妬心は、創造本性から誘発されるところの、不可避的な副産物であり、それはちょうど、光によって生ずる、物体の影のようなものであるといえよう。しかし、人間が完成すれば、このような付随的な欲望によっては決して堕落することはできなくなるのである。なぜなら、このような欲望を満たすときに覚える一時的な満足感よりも、その欲望を満たすことによって生ずる自己破滅に対する苦痛の方が、もっと大きいということを実感するようになるので、このような行いをすることができないのである。
 そして、創造目的を完成した世界は、あたかも一人の人間のように、互いに有機的な関係をもつ組織社会であるから、個体の破滅は、直ちに全体的な破滅を招来するようになる。したがって、全体は個体の破滅を放任することができない。このように、創造目的を完成した世界においての創造本性から生ずる付随的な欲望は、人間の発展をもたらす要素とはなっても、決して堕落の要因とはなり得ないのである。
 堕落性本性を大別すれば、次の四つに分類することができる。その第一は、神と同じ立場に立てないということである。天使長が堕落するようになった動機は、神が愛するアダムを、神と同じ立場で愛することができず、彼をねたんでエバの愛を蹂躙したところにあった。君主の愛する臣下に対して、その同僚が、君主と同じ立場において愛することができず、ねたみ嫌う性稟は、とりもなおさず、このような堕落性本性から生ずるのである。
 第二には、自己の位置を離れるということである。ルーシェルは、神の愛をより多く受けるために、天使世界においてもっていたと同じ愛の位置を、人間社会においても保とうとして、その不義なる欲望によって、自己の位置を離れ、堕落したのであった。不義な感情をもって、自己の分限と位置を離れるというような行動は、みなこの堕落性本性の発露である。
 第三は、主管性を転倒するということである。人間の主管を受けるべき天使が、逆にエバを主管し、またアダムの主管を受けるべきエバが、逆にアダムを主管するようになったところから、堕落の結果が生じたのである。このように自己の位置を離れて、主管性を転倒するところから、人間社会の秩序が乱れるのであるが、これは、すべてこのような堕落性本性から生ずるのである。
 第四は、犯罪行為を繁殖することである。もし、エバが堕落したのち、自分の罪をアダムに繁殖させなかったならば、アダムは堕落しなかったであろうし、エバだけの復帰ならば、これは容易であったはずである。しかし、エバはこれとは反対に、自分の罪をアダムにも繁殖させ、アダムをも堕落させてしまった。悪人たちがその仲間を繁殖させようとする思いも、このような堕落性本性から生ずる思いなのである。

第五節 自由と堕落

(一)自由の原理的意義
(二)自由と人間の堕落
(三)自由と堕落と復帰

(一)自由の原理的意義
 自由に対する原理的な性格を論ずるとき、第一に、我々は、原理を離れた自由はない、という事実を知らなければならない。そして、自由とは、自由意志とこれに従う自由行動とを一括して表現した言葉なのである。前者と後者とは、性相と形状との関係にあり、これが一体となって初めて完全な自由が成立する。それゆえに、自由意志のない自由行動なるものはあり得ず、自由行動の伴わない自由意志というものも、完全なものとはなり得ないのである。自由行動は、自由意志によって現れるものであり、自由意志はあくまでも心の発露である。しかし、創造本然の人間においては、神のみ言、すなわち、原理を離れてはその心が働くことができないので、原理を離れた自由意志、あるいは、それに基づく自由行動はあり得ない。したがって、創造本然の人間には、原理を離れた自由なるものはあり得ないのである。
 第二に、責任のない自由はあり得ない。原理によって創造された人間は、それ自身の自由意志をもって、その責任分担を完遂することによってのみ完成する(前編第一章第五節(二)(2))。したがって、創造目的を追求していく人間は、常に自由意志をもって自分の責任を全うしようとするので、責任のない自由はあり得ないのである。
 第三に、実績のない自由はない。人間が、自由をもって、自身の責任分担を完遂しようとする目的は、創造目的を完成して、神を喜ばせ得るような実績を上げようとするところにある。したがって、自由は常に実績を追求するがゆえに、実績のない自由はあり得ないのである。

(二)自由と人間の堕落
 前項で詳述したように、自由は原理を離れてはあり得ない。したがって、自由は自らの創造原理的な責任を負うようになるし、また、神を喜ばせ得るような実績を追求するために、自由意志による自由行動は、善の結果のみをもたらすようになる。それゆえに人間は決して自由によって堕落することはできないのである。コリント・三章17節に「主の霊のあるところには、自由がある」と言われた。我々は、このような自由を、本心の自由というのである。
 アダムとエバは、神から善悪の果を取って食べてはならないという戒めを受けた以上、彼らは、神の干渉なくして、もっぱら本心の自由によって、その命令を守るべきであった。したがって、エバが原理を脱線しようとしたとき、原理的な責任と実績を追求するその本心の自由は、彼女に不安と恐怖心を生ぜしめ、原理を脱線しないように作用したのである。また、堕落したのちにおいても、この本心の自由は、神の前に帰るように作用したのであった。したがって、人間は、このような作用をする本心の自由によって、堕落することはあり得ない。人間の堕落は、どこまでも、その本心の自由が指向する力よりも強い非原理的な愛の力によって、その自由が拘束されたところに起因するのである。すなわち人間は、堕落によって自由を失うこととなったのである。しかし、堕落した人間にも、この自由を追求する本性だけは、そのまま残っているので、神はこの自由を復帰する摂理を行うことができるのである。歴史が流れるに従い、人間が己の命を犠牲にしてまでも、自由を求めようとする心情が高まるというのは、人間がサタンによって失った、この自由を再び奪い返していく証拠なのである。ゆえに、人間が自由を求める目的は、自由意志による自由行動をもって、原理的な責任と実績をはっきりと立て、創造目的を完成しようとするところにあるのである。

(三)自由と堕落と復帰
 天使は、人間に仕えるために創造された。したがって、人間が天使に対するのは、どこまでも人間の自由に属する問題なのである。しかし、天使から誘惑された当時のエバは、いまだ知的、あるいは心情的に、未完成期にいた。したがって、エバが天使の誘惑により、知的に迷わされ、心情的に混沌となって誘惑されたとき、彼女は責任と実績を追求する本心の自由によって生ずる不安を覚えたのであるが、より大きい天使との愛の力によって、堕落線を越えてしまったのである。エバがいかに天使と自由に対したといっても、取って食うべからずと言われた神の戒めのみを信じて、天使の誘惑の言葉に相対しなかったとすれば、天使との非原理的な愛の力は発動し得ず、彼女は決して堕落するはずがなかった。それゆえに、自由が、エバをして、天使を相手とし、堕落線まで引っ張っていったことは事実であるが、堕落線を越えさせたものはどこまでも自由ではなくして、非原理的な愛の力であったのである。人間は、天使に対しても、自由をもって対するように創造されていたので、エバがルーシェルに対するようになり、それと相対基準を造成して、授受作用をするようになったとき、そこに生じた非原理的な愛の力によって、彼らは堕落したのである。それゆえ、これとは反対に、堕落人間も自由をもって神に対して相対的な立場に立つことができるのであるから、真理のみ言に従って、神と相対基準を造成し、授受作用をするようになれば、その原理的な愛の力によって、創造本性を復帰することができるのである。既に述べたように、人間が本性的に自由を叫ぶようになるのは、このようにして、創造本性を復帰しようとする、本心の自由の指向性があるためである。
 人間は、堕落によって無知に陥り、神を知ることができないようになったので、その心情も分からなくなってしまった。それゆえに、人間の意志はこの無知によって、神が喜ばれる方向を取ることができなくなってしまったのである。しかし、堕落人間においては、復帰摂理の時代的恩恵により、神霊(内的な知)と真理(外的な知)とが明らかになるにつれて、創造目的を指向する本心の自由を求める心情が、復帰されてくるようになり、それによって、神に対する心情も漸次復帰され、そのみ旨に従って生きようとする意志も高まるのである。
 また、彼らはこのように、自由を復帰しようとする意志が高潮するに従って、これを実現することのできる社会環境を要求せざるを得なくなるのである。しかし、その時代の環境が、自由を求めるその時代の人間たちの欲望を満足させることができないときは、必然的に社会革命が起こるようになるのである。十八世紀に起こったフランス革命は、その代表的な例であるが、このような革命は、結局、創造本然の自由が完全に復帰されるときまでは、継続せざるを得ないのである。

第六節 神が人間始祖の堕落行為を干渉し給わなかった理由

(一)創造原理の絶対性と完全無欠性のために
(二)神のみ創造主であらせられるために
(三)人間を万物の主管位に立たせるために

 神は全知全能であられるので人間始祖の堕落行為を知られなかったはずがない。また彼らが堕落行為を行わないように、それを防ぐ能力がなかったわけでもない。それでは、神はなぜ、彼らの堕落行為を知っておられながら、それを干渉し防ぎ給わなかったのであろうか。これは、今日まで人類歴史を通じて、解くことのできなかった重大な問題の中の一つである。我々は、神が人間の堕落行為を干渉なさらなかった理由として、次の三つの条件を挙げることができる。

(一)創造原理の絶対性と完全無欠性のために
 創造原理によれば、神は人間が神の創造性に似ることによって、あたかも神御自身が人間を主管されるように人間は万物世界を主管するように創造されたのである。そこで、人間が神の創造性に似るためには、人間自身がその責任分担を遂行しながら成長し、完成しなければならない。このような成長期間を、我々は間接主管圏、あるいは、原理結果主管圏というのである。それゆえに、人間がこの圏内にいるときには、彼ら自身の責任分担を完遂させるため、神は彼らを直接的に主管してはならないのである。そして、神は人間が完成したのちにおいて、初めて彼らを直接主管されるようになっているのである。もし、神がこのような成長期間に、彼らの行為を干渉し、彼らを直接主管されるとすれば、神は彼らが完成したのちに初めて直接主管するというその創造原理を、自ら無視する立場に立たれることになるのである。このように原理が無視されるようになれば、同時に、原理の絶対性と完全無欠性は喪失されてしまう。神は絶対者であり、完全無欠なる創造主であられるがゆえに、神が定められた創造原理も、また絶対的であり、完全無欠でなければならない。それゆえに、神は創造原理の絶対性と完全無欠性のために、未完成期にいた彼らの堕落行為に対して干渉されなかったのである。

(二)神のみ創造主であらせられるために
 神は自ら創造された原理的な存在とその行動のみを干渉されるために、犯罪行為や地獄のような、御自分が創造されなかった非原理的な存在や行動には干渉し給わないのである。神がもしある存在や行動に対して干渉し給うならば、干渉を受けるその存在や行動は、既に、創造の価値が賦与され、原理的なものとして認定されたもののような結果をもたらすのである。
 このような論理に立脚してみるとき、もし神が、人間始祖の堕落行為に対して干渉されるとすれば、その堕落行為にも創造の価値が賦与されることになり、原理的なものとして認定せざるを得なくなるのである。もしそうなれば、神は犯罪行為をも原理的なものとして認定されるという、もう一つの新しい原理を立てる結果をもたらすのである。このような結果をもたらすことは、どこまでもサタンが存在するためであり、そうなれば、サタンもまた、一つの新しい原理を創造したということになり、創造主の立場に立つことになる。したがって、独り神のみ創造主であらせられるためには、彼らの堕落行為に干渉することができなかったのである。

(三)人間を万物の主管位に立たせるために
 神は人間を創造されてのち、万物を主管せよと言われた(創一・28)。人間が神のみ言のとおりに万物を主管しようとすれば、万物と同等な立場においてはそれをなすことはできない。ゆえに、人間はそれを主管し得るある資格をもたなければならないのである。
 神が創造主であられるがゆえに、人間を主管し得る資格をもっておられるように、人間も万物を主管することのできる資格をもつためには、神の創造性をもたなければならないのである。したがって、神は人間に創造性を賦与し、万物を主管し得る資格を得るために成長期間を設け、この期間が満ちるときまで、人間がそれ自身の責任分担を遂行することによって完成するように創造されたのである。それゆえに、人間はこのような原理過程を通過し、完成することによってのみ、万物を主管し得る資格を得て、初めて万物を治めるようになるのである。
 そうであるにもかかわらず、もし、未完成期にいる人間を神が直接主管し、干渉されるとすれば、これは人間の責任分担を無視する結果となり、神の創造性をもつこともできなくなるために、万物を主管する資格も失うということになるのである。したがって、このような人間をして万物を主管せしめることは、不可能であるばかりでなく、未完成な人間を完成した人間と同一に取り扱うという矛盾を招来することにもなるのである。そしてまた、この人間に、その創造性を与えることによって、万物を主管せしめるように設けられた創造原理を、自ら無視するという結果となってしまうのである。それゆえに、原理によって被造世界を創造され、その原則に従って摂理を行い給う神は、人間を万物の主管位に立たしめるために、いまだ間接主管圏内にいた未完成な人間の堕落行為を、干渉することができなかったのである。

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三章 人類歴史の終末論

第一節 神の創造目的完成と人間の堕落
第二節 救いの摂理
第三節 終末
第四節 終末と現世
第五節 終末と新しいみ言と我々の姿勢

 我々は、人類歴史がいかにして始まり、また、これがどこへ向かって流れているかということを、これまで知らずに生きてきた。したがって人類歴史の終末に関する問題を知らずにいるのである。多くのキリスト教信者たちは、ただ聖書に記録されていることを文字どおりに受けとって、歴史の終末においては天と地がみな火に焼かれて消滅し(ペテロ・三・12)、日と月が光を失い、星が天から落ち(マタイ二四・29)、天使長のラッパの音とともに死人たちがよみがえり、生き残った人たちはみな雲に包まれて引きあげられ、空中においてイエスを迎えるだろう(テサロニケ・四・1617)と信じている。しかし、事実、聖書の文字どおりになるのであろうか、それとも聖書の多くの重要な部分がそうであるように、このみ言も何かの比喩として言われているのであろうか。この問題を解明するということは、キリスト教信者たちにとって、最も重要な問題の中の一つを解明することといわなければならない。ところで、この問題を解明するためには、まず、神が被造世界を創造なさった目的と堕落の意義、そして救いの摂理の目的など、これらの根本問題を解明しなければならないのである。

第一節 神の創造目的完成と人間の堕落

(一)神の創造目的の完成
(二)人間の堕落

(一)神の創造目的の完成
 既に創造原理において詳細に論述したように、神が人間を創造された目的は人間を見て喜ばれるためであった。したがって、人間が存在する目的はあくまでも神を喜ばせるところにある。では、人間がどのようにすれば神を喜ばすことができ、その創造本然の存在価値を完全に現すことができるのであろうか。人間以外の被造物は自然そのままで神の喜びの対象となるように創造された。しかし人間は創造原理において明らかにされたように、自由意志と、それに基づく行動を通じて、神に喜びを返すべき実体対象として創造されたので、人間は神の目的を知って自ら努力し、その意志のとおり生活しなければ、神の喜びの対象となることはできないのである。それゆえに、人間はどこまでも神の心情を体恤してその目的を知り、その意志に従って生活できるように創造されたのであった。人間がこのような位置に立つようになることを個性完成というのである。たとえ部分的であったとはいえ、堕落前のアダムとエバが、そして預言者たちが、神と一問一答できたということは、人間に、このように創造された素質があったからである。
 個性を完成した人間と神との関係は、体と心との関係をもって例えられる。体は心が住む一つの家であって、心の命令どおりに行動する。このように、個性を完成した人間の心には、神が住むようになるので、結局、このような人間は神の宮となり、神のみ旨どおりに生活するようになるのである。したがって、体と心とが一体となるように、個性を完成した人間は、神と一体となるのである。それゆえ、コリント・三章16節に、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」と記されているのであり、また、ヨハネ福音書一四章20節には、「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」と言われたのである。このように、個性を完成して神の宮となることによって、聖霊が、その内に宿るようになり、神と一体となった人間は神性を帯びるようになるため、罪を犯そうとしても、犯すことができず、したがって堕落することができないのである。個性を完成した人間は、すなわち、神の創造目的を成就した善の完成体であるが、この善の完成体が堕落したとすれば、善それ自体が破壊される可能性を内包しているという、不合理な結果になるのである。そればかりでなく、全能なる神の創造なさった人間が、完成した立場において堕落したとするならば、神の全能性までも、否定せざるを得なくなるのである。永遠なる主体としていまし給う、絶対者たる神の喜びの対象も、永遠性と絶対性をもたなければならないのであるから、個性を完成した人間は、絶対に堕落することができないのである。
 このように、個性完成して、罪を犯すことができなくなったアダムとエバが、神の祝福なさったみ言どおり(創一・28)、善の子女を繁殖して、罪のない家庭と社会とをつくったならば、これがすなわち、一つの父母を中心とした大家族をもって建設されるところの天国であったはずである。天国はちょうど、個性を完成した一人の人間のような世界である。人間において、その頭脳の縦的な命令により、四肢五体が互いに横的な関係をもって活動するように、その社会も神からの縦的な命令によって、互いに横的な紐帯を結んで生活するようになっているのである。このような社会においては、ある一人の人間が苦痛を受けるとき、それを見つめて共に悲しむ神の心情を、社会全体がそのまま体恤するようになるから、隣人を害するような行為はできなくなるのである。
 さらに、いかに罪のない人間たちが生活する社会であるとしても、人間が原始人たちと同じような、未開な生活をそのまま送らざるを得ないとすれば、これは、神が望み給い、また、人間がこいねがう天国だとは到底いうことができないのである。したがって、神が万物を主管せよと言われたみ言のとおりに(創一・28)、個性を完成した人間たちは、科学を発達させて自然界を征服することによって、最高に安楽な社会環境をこの地上につくらなければならない。このような創造理想の実現された所が、すなわち地上天国なのである。このように人間が完成して地上天国の生活を終えたのちに、肉身を脱ぎ捨てて霊界に行けば、そこに天上天国がつくられるのである。ゆえに、神の創造目的はどこまでも、まず、この地上において天国を建設なさるところにあるといわなければならない。

(二)人間の堕落
 創造原理で詳述したように、人間は成長期間において、未完成の立場にあるとき堕落したのであった。人間に、なぜ成長期間が必要であったか、また、人間始祖が未完成期に堕落したと考えざるを得ない根拠はどこにあるのか、という問題なども、既に創造原理において明らかにされている。人間は堕落することによって神の宮となることができず、サタンが住む家となり、サタンと一体化したために、神性を帯びることができず堕落性を帯びるようになった。このように、堕落性をもった人間たちが悪の子女を繁殖して、悪の家庭と悪の社会、そして悪の世界をつくったのであるが、これがすなわち、堕落人間たちが今まで住んできた地上地獄だったのである。地獄の人間たちは、神との縦的な関係が切れてしまったので、人間と人間との横的なつながりもつくることができず、したがって、隣人の苦痛を自分のものとして体恤することができないために、ついには、隣人を害するような行為をほしいままに行うようになってしまったのである。人間は地上地獄に住んでいるので、肉身を脱ぎ捨てたのちにも、そのまま天上地獄に行くようになる。このようにして、人間は地上、天上共に神主権の世界をつくることができず、サタン主権の世界をつくるようになったのである。サタンを「この世の君」(ヨハネ一二・31)、あるいは「この世の神」(コリント・四・4)と呼ぶ理由は実にここにあるのである。

第二節 救いの摂理

(一)救いの摂理はすなわち復帰摂理である
(二)復帰摂理の目的
(三)人類歴史はすなわち復帰摂理歴史である

(一)救いの摂理はすなわち復帰摂理である
 この罪悪の世界が、人間の悲しむ世界であることはいうまでもないが、神もまた悲しんでおられる世界であるということを、我々は知らなければならない(創六・6)。では、神はこの悲しみの世界をそのまま放任なさるのであろうか。喜びを得るために創造なさった善の世界が、人間の堕落によって、悲しみに満ちた罪悪世界となり、これが永続するほかはないというのであれば、神は、創造に失敗した無能な神となってしまうのである。それゆえに、神は必ずこの罪悪の世界を、救わなければならないのである。
 それでは、神は、この世界を、どの程度にまで救わなければならないのであろうか。いうまでもなく、その救いは完全な救いでなければならないので、神はどこまでもこの罪悪の世界から、サタンの悪の勢力を完全に追放し(使徒二六・18)、それによって、まず、人間始祖の堕落以前の立場にまで復帰なさり、その上に善の創造目的を完成して、神が直接主管されるところまで(使徒三・21)、救いの摂理をなしていかなければならないのである。病気にかかった人間を救うということは、病気になる以前の状態に復帰するということを意味するし、水に溺れた人を救うということは、すなわち、水に溺れる以前の立場にまで復帰するという意味なのである。罪に陥った者を救うということは、その者を罪のない創造本然の立場にまで復帰させるという意味でなくて何であろうか。それゆえに、神の救いの摂理は、すなわち復帰摂理となるのである(使徒一・6、マタイ一七・11)。
 堕落は、もちろん人間自身の過ちによってもたらされた結果である。しかし、どこまでも神が人間を創造されたのであり、それによって、人間の堕落という結果も起こり得たのであるから、神はこの結果に対して、創造主としての責任を負わなければならない。したがって、神はこの誤った結果を、創造本然のものへと復帰するように摂理なさらなければならないのである。神は永存なさる主体であるから、その永遠なる喜びの対象として創造された人間の命もまた、永遠性をもたなければならない。人間には、このように、永遠性をもって創造された創造原理的な基準があるので、たとえ堕落した人間であるとしても、これを全く消滅させてしまい、創造原理を無為に帰してしまうわけにはいかないのである。それゆえに、神は堕落人間を救済し、その創造本然の立場にまで復帰なさらなければならないのである。
 元来、神は人間を創造されて、三大祝福を与えてくださることを約束なさったので(創一・28)、イザヤ書四六章11節に「わたしはこの事を語ったゆえ、必ずこさせる。わたしはこの事をはかったゆえ、必ず行う」と言われたように、サタンのために失ったこの祝福を復帰する摂理をなさることによって、その約束のみ旨を成し遂げてこられたのである。マタイ福音書五章48節にイエスが、「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」と弟子たちに言われたことも、とりもなおさず、創造本然の人間に復帰せよという意味であった。なぜなら、創造本然の人間は、神と一体となることによって神性を帯びるようになるから、創造目的を中心として見るときには、神のように完全になるので、こう言われたのである。

(二)復帰摂理の目的
 それでは、復帰摂理の目的は何であろうか。それは本来神の創造目的であった、善の対象である天国をつくることにほかならない。元来、神は人間を地上に創造なさり、彼らを中心として、まず地上天国を建設しようとされたのである。しかし、人間始祖の堕落によって、その目的を達成することができなかったので、復帰摂理の第一次的な目的も、また、地上天国を復帰することでなければならないのである。復帰摂理の目的を完成するために来られたイエスは「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタイ六・10)と祈れと言われたり、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ四・17)と言われたが、これらのみ言は、みな、復帰摂理の目的が、地上天国を復帰するところにあったということを立証するのである。

(三)人類歴史はすなわち復帰摂理歴史である
 我々は既に、神の救いの摂理はすなわち復帰摂理であるということを明らかにした。このことからして、人類歴史は、堕落した人間を救い、彼らをして創造本然の善の世界に復帰させるためになされた摂理歴史であるといわなければならない。それでは、果たして人類歴史がすなわち復帰摂理の歴史であるかどうかということを、我々はここで、各方面から考察してみることにしよう。
 第一に、文化圏発展史の立場から考察してみることにする。古今東西を問わず、いかなる悪人であっても、悪を捨てて善に従おうとする本心だけは、だれでも共通にもっている。だから、何が善であり、いかにすればその善をなすことができるかということは、知能に属することであり、時代と場所と人がそれぞれ異なることによって、それらは互いに衝突し、闘争の歴史をつくってきたのであるが、善を求めようとする人間の根本目的だけは、すべて同じであった。では何故、人間の本心は、いかなるものによっても取り押さえることのできない力をもち、時間と空間を超越して、善を指向しているのであろうか。それは、善の主体であられる神が、神の善の目的を成就するための善の実体対象として、人間を創造なさったからで、たとえ堕落人間がサタンの業により、善の生活ができないようになってしまったとしても、善を追求するその本心だけは、そのまま残っているからである。したがって、このような人間たちによってつくられてきた歴史の進みいくところは、結局善の世界でなければならない。
 人間の本心がいかに善を指向して努力するとしても、既に悪主権の上におかれているこの世界においては、その善の実相を見ることができなくなってしまっているので、人間は時空を超越した世界に、その善の主体を探し求めなければならなくなった。このような必然的な要求によって誕生したのが、すなわち宗教なのである。このように、堕落によって神を失ってしまった人間は、宗教をつくり、絶えず善を探し求めて、神に近づこうとしてきたので、たとえ宗教を奉じてきた個人、民族、あるいは国家は滅亡したとしても、宗教それ自体は今日に至るまで、絶えることなく継続してそのまま残ってきたのである。それでは、このような歴史的な事実を、国家興亡史を中心として、検討してみることにしよう。
 まず、中国の歴史を見ると、春秋戦国の各時代を経て、秦統一時代が到来し、そして前漢、新、後漢、三国、西晋、東晋、南北朝の各時代を経て、隋唐統一時代がきた。さらに、五代、北宋、南宋、元、明、清の時代を経て、今日の中華民国に至るまで、複雑多様な国家の興亡と、政権の交代を重ねてきたのであるが、今日に至るまで、儒、仏、仙の極東宗教だけは、厳然として残っているのである。つぎにインドの歴史をひもといてみても、マウリア、アンドラ、クシャナ、グプタ、ヴァルダーナ、サーマン、カズニ、ムガール帝国を経て、今日のインドに至るまで、国家の変遷は極まりなく繰り返してきたわけであるが、ヒンズー教だけは衰えずにそのまま残っているのである。また、中東地域の歴史を見れば、サラセン帝国、東西カリフ、セルジュク・トルコ、オスマン・トルコなど、国家の主権は幾度か変わってきたのであるが、彼らが信奉するイスラム教だけは、連綿としてその命脈が断ちきられることなく継承されてきたのである。つづいて、ヨーロッパ史の主流において、その実証を求めてみることにしよう。ヨーロッパの主導権はギリシャ、ローマ、フランク、スペイン、ポルトガルを経て、一時フランスとオランダを経由し、英国に移動し、それが、米国とソ連に分かれ今日に至っているのである。ところが、その中においても、キリスト教だけはそのまま興隆してきたのであり、唯物史観の上にたてられた専制政体下のソ連においてさえ、キリスト教は、今なお滅びずに残っている。このような見地から、すべての国家興亡の足跡を深く顧みるとき、宗教を迫害した国は滅び、宗教を保護し育成した国は興隆し、また、その国の主権は、より以上に宗教を崇拝する国へと移されていったという歴史的な事実を、我々は数多く発見することができるのである。したがって、宗教を迫害している共産主義世界の破滅の日が必ずくるであろうということは、宗教史が実証的にこれを裏付けているのである。
 歴史上には数多くの宗教が生滅した。その中で影響力の大きい宗教は、必ず文化圏を形成してきたのであるが、文献に現れている文化圏だけでも、二十一ないし二十六を数えている。しかし、歴史の流れに従って、次第に劣等なものはより優秀なものに吸収されるか、あるいは融合されてきた。そして近世に至っては、前に列挙したように、数多くの国家興亡の波の中で、結局、極東文化圏、印度教文化圏、回教文化圏、キリスト教文化圏の四大文化圏だけが残されてきたのであり、これらはまた、キリスト教を中心とした一つの世界的な文化圏を形成していく趨勢を見せているのである。ゆえに、キリスト教が、善を指向してきたすべての宗教の目的を、同時に達成しなければならない最終的な使命をもっているという事実を、我々はこのような歴史的な帰趨を見ても、理解できるのである。このように、文化圏の発展史が数多くの宗教の興亡、あるいは融合によって、結局、一つの宗教を中心とする世界的な文化圏を形成していくという事実は、人類歴史が、一つの統一世界へと復帰されつつあることを証拠立てるものである。
 第二に、宗教と科学の動向から見ても、我々は、人類歴史が復帰摂理の歴史であるということを知ることができる。堕落人間の両面の無知を克服するために生じた宗教と科学が、今日に至っては、統一された一つの課題として、解決されなければならないときがきたということは、既に総序において論じた。このように有史以来、互いに関連することなく独自的に発達してきた宗教と科学が、今日に至って、各々その行くべきところに到達し、一つのところで、互いに相合わなければならないようになったという事実は、人類歴史が今まで、創造本然の世界を復帰する摂理路程を歩いてきたということを、我々に物語っているのである。もし人間が堕落しなかったとすれば、人間の知能は、霊的な面において最高度に向上したであろうから、肉的な面においても最高度に発達し、科学はそのとき、ごく短期間の内に驚くほど向上したはずであった。したがって、今日のような科学社会は、既に人間始祖当時において成就されるはずであったのである。しかし、人間は堕落によって無知に陥り、そのような社会をつくることができなかったから、悠久なる歴史の期間を経て、科学をもってその無知を打開しながら、創造本然の理想的科学社会を復帰してきたのである。
 しかし、今日の科学社会は極めて高度に発達し、外的には理想社会へと転換することのできる、その前段階にまで復帰されてきている。
 第三に、闘争歴史の帰趨から見ても、人類歴史は復帰摂理歴史であるという事実を知ることができる。財産を奪い、土地を略奪し、人間を奪いあう闘争は、人間社会の発達とともに展開され、今日に至るまで悠久なる歴史の期間を通じて、一日も絶えることなく続いてきたのである。すなわち、この闘いは家庭、氏族、民族、国家、世界を中心とする闘いとして、その範囲を広め、今日に至っては、民主と共産の二つの世界が最後の闘争を挑むというところにまで至っている。今や、人類歴史の終末を告げるこの最後の段階において、天倫はついに、財物や土地、あるいは人間を奪いとれば幸福を増進させることができるだろうと考えてきた歴史的な段階を越えて、民主主義という名を掲げて、この世に到来してきたのである。第一次世界大戦が終わったのちは、敗戦国家が植民地を奪われたが、第二次大戦後においては、戦勝国家が次々に植民地を解放する現象が現れてきた。一方、今日の強大国家は、それらの一つの都市よりも小さい弱小国家を国連に加入させ、それらの国を経済的に援助するだけでなく、自分たちと同等な権利と義務とを与え、すべて兄弟国家として育成しつつあるのである。それではこの最後の闘いというのはどのようなものであろうか。それは理念の闘いである。しかし、今日の世界を脅かしている唯物史観を完全に覆すことができる真理が現れない限り、民主主義陣営と共産主義陣営の二つの世界の闘いは、永遠に絶えることがないであろう。それゆえに、宗教と科学とを、統一された一つの課題として解決することのできる真理が現れるとき、初めて、宗教を否定して科学偏重の発達を遂げてきた共産主義思想は覆され、二つの世界は一つの理念のもとに、完全に統一されるのである。このように、闘争歴史の帰趨から見ても、人類歴史は、創造本然の世界を復帰する摂理歴史であるということを否定することはできないのである。
 第四に、我々は聖書を中心として、より詳しく、この問題について調べてみることにしよう。人類歴史の目的は、生命の木(創二・9)を中心とするエデンの園を復帰するところにある(前編第二章第一節(一))。ところで、エデンの園とは、アダムとエバが創造された、あの局限地域をいうのではなく、地球全体を意味するのである。もしエデンの園を、人間始祖の創造された、ある限定された地域だけを指していうのだとすれば、地に満ちるほど生めよ殖えよと言われた神の祝福のみ言(創一・28)によって、繁殖するであろう数多くの人類が、いったいどうしたらその狭い所にみな住むことができるのであろうか。
 人間始祖が堕落したために、神が「生命の木」を中心としてたてようとしたエデンの園は、サタンの手に渡されてしまったのである(創三・24)。ゆえに、アルパで始められた人類罪悪歴史が、オメガで終わるときの堕落人間の願望は、罪悪をもって色染められた着物を清く洗い、復帰されたエデンの園に帰っていき、失った「生命の木」を、再び探し求めていくところにあるのだと黙示録二二章13節以下には記録されている。では、聖書のいうこれらの内容は、何を意味するのであろうか。
 既に、堕落論において明らかにされているが、「生命の木」とは完成したアダム、すなわち、人類の真の父を意味しているのである。父母が堕落して、その子孫もまた原罪をもつ子女たちとなったので、この罪悪の子女たちが、創造本然の人間にまで復帰するためには、イエスのみ言どおり、すべての人間が重生しなければならないのである(重生論参照)。したがって、歴史は、人類を再び生んでくださる真の父であられるイエスを探し求めてきたのであるから、歴史の終末期において、信徒たちが願望し、探し求めていくものとして記録されているヨハネ黙示録の「生命の木」とは、とりもなおさずイエスのことをいうのである。我々は、このような聖書の記録を見ても、歴史の目的は、「生命の木」として来られるイエスを中心とした、創造本然のエデンの園を復帰するところにあるということを理解することができる。黙示録二一章1節から7節にも、歴史の終末においては、新しい天と新しい地とが現れるであろうと記録されているが、これはまさしくサタンの主管下にあった、先の天と地が、神を中心とするイエスの主管下の、新しい天と新しい地に復帰されるということを意味するのである。ロマ書八章19節から22節には、サタン主管下にうめき嘆いている万物も、終末に至って火に焼かれてなくなるのではなく、創造本然の立場に復帰されることにより、新たにされるために(黙二一・5)、自己を主管してくれる、創造本然の神の子たちが新たに復帰されて出現することを待ち望んでいると記録されている。我々は、このように各方面から考察してみるとき、人類歴史は、創造本然の世界に復帰する摂理歴史であるということを、明らかに知ることができるのである。
 

第三節 終  末

(一)終末の意義
(二)終末の徴候に関する聖句

(一)終末の意義
 神が、人間始祖に与えられた三大祝福は、人間始祖の犯罪によって、神を中心としては成就されず、サタンを中心として非原理的に成就されたのだということを、我々は既に述べた。ところが、悪によって始められた人類歴史は、事実上、神の復帰摂理歴史であるがゆえに、サタン主権の罪悪世界はメシヤの降臨を転換点として、神を中心として三大祝福が成就される善主権の世界に変えられるようになるのである。
 このように、サタン主権の罪悪世界が、神主権の創造理想世界に転換される時代を終末(末世)という。したがって終末とは、地上地獄が地上天国に変わるときをいうのである。それゆえにこのときは、今までキリスト教信徒たちが信じてきたように、天変地異が起こる恐怖の時代ではなく、創世以後、悠久なる歴史路程を通して、人類が唯一の希望としてこいねがってきた喜びの日が実現されるときなのである。詳しくは、後編第一章に譲ることにするが、神は人間の堕落以来、罪悪世界を清算して創造本然の善の世界を復帰するための摂理を、幾度もしてこられたのであった。しかしそのたびごとに人間はその責任分担を完遂し得ず、その目的が成就されなかったので、結果的には、終末が幾度もあったかのように記されている事実を、我々は聖書を通して知ることができるのである。

(1) ノアの時も終末であった
 創世記六章13節の記録を見れば、ノアのときも終末であったから、「わたしは、すべての人を絶やそうと決心した。彼らは地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを地とともに滅ぼそう」と言われたのである。それではどうしてノアのときが終末であったのか。神は、人間始祖が堕落したために始まったサタンを中心とする堕落世界を、一六〇〇年の罪悪史を一期として、洪水審判をもって滅ぼし、神のみを信奉するノア家庭を立てることにより、その信仰の基台の上に、神主権の理想世界を、復帰なさろうとしたのであった。したがって、ノアのときは終末であったのである(後編第三章第二節参照)。しかし、ノアの次男ハムの堕落行為によって、彼が人間の責任分担を完遂できなかったために、この目的は達せられなかったのである(創九・22)。

(2) イエスの時も終末であった
 復帰摂理の目的を完遂なさろうとする、そのみ旨に対する神の予定は、絶対的であるがゆえに変えることができないから(前編第六章)、ノアを中心とする復帰の摂理は成就されなかったのであるが、神は再び他の預言者を遣わして、信仰の基台を築いて、その基台の上にイエスを送ることにより、サタンを中心とする罪悪の世界を滅ぼして、神を中心とする理想世界を復帰なさろうとしたのであった。したがって、イエスのときも終末であったのである。それゆえにイエスは自ら審判主として来られたと言われたのであり(ヨハネ五・22)、そのときもまた、「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない」(マラキ四・1)と預言されていたのであった。イエスはこのように、創造理想世界を復帰なさろうとして来られたのであるが、ユダヤ人たちが彼を信ぜず、人間の責任分担を完遂し得なかったので、この目的も達せられず、再臨のときまで再び延長されたのである。

(3) イエスの再臨のときも終末である
 ユダヤ民族の不信に出会ったイエスは、十字架につけられて亡くなられることにより、霊的救いのみを成就されるようになったのである。したがってイエスは、再臨して初めて、霊肉合わせて、救いの摂理の目的を完遂され(前編第四章第一節(四))、地上天国を復帰するようになるので、イエスの再臨のときもまた終末である。ゆえにイエスは、「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろう」(ルカ一七・26)と言われたのであり、また御自身が再臨なさるときも、終末となり、天変地異が起こるであろうと預言されたのであった(マタイ二四・29)。
 
(二)終末の徴候に関する聖句
 既に上述したように、多くのキリスト教信徒たちは、聖書に記録されている文字どおりに、終末には天変地異が起こり、人間社会においても、現代人としては想像することもできない異変が起こるであろうと信じている。しかし、人類歴史が、神の創造本然の世界を復帰していく摂理歴史であるということを理解するならば、聖書に記録されている終末の徴候が、そのまま実際に、文字どおりに現れるのではないということを知ることができるのである。それでは、終末に関するすべての記録は、各々何を象徴したのであろうかということに関して、調べてみることにしよう。

(1) 天と地を滅ぼして(ペテロ・三・12、創六・13
        新しい天と新しい地をつくられる(黙二一・1、ペテロ・三・13、イザヤ六六・22
 創世記六章13節を見れば、ノアのときも終末であったので、地を滅ぼすと言われたのであるが、実際においては滅ぼされなかった。伝道の書一章4節に「世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない」と言われたみ言、あるいは、詩篇七八篇69節に、「神はその聖所を高い天のように建て、とこしえに基を定められた地のように建てられた」と言われたみ言を見ても、地は永遠なるものであるということを知ることができる。主体なる神が永遠であられるから、その対象もまた、永遠なるものでなければならない。したがって、神の対象として創造された地も、永遠なるものでなくてはならない。全知全能であられる神が、サタンによって破滅し、なくなるような世界を創造されて、喜ばれるはずはないのである。それでは、そのみ言は何を比喩されたものであろうか。一つの国を滅ぼすということは、その主権を滅ぼすということを意味するのであり、また、新しい国を建設するということは(黙二一・1)、新しい主権の国を建てるということを意味するのである。したがって、天と地とを滅ぼすということは、それを主管しているサタンの主権を滅ぼすことを意味するのであり、また、新しい天と新しい地をたてるということは、イエスを中心とする神主権下の新しい天地を復帰するということを意味するのである。

(2) 天と地を火をもって審判される(ペテロ・三・12
 ペテロ・三章12節を見ると、終末には「天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう」と記録されている。また、マラキ書四章1節以下を見れば、イエスのときにも、御自身が審判主として来られ(ヨハネ五・22、同九・39)、火をもって審判なさると預言されている。さらに、ルカ福音書一二章49節には、イエスは火を地上に投じるために来られたとある。しかし実際はイエスが火をもって審判なさったという何の痕跡も、我々は発見することができないのである。とすれば、このみ言は何かを比喩されたのであると見なければならない。ヤコブ書三章6節に「舌は火である」と言われたみ言からすれば、火の審判は、すなわち舌の審判であり、舌の審判は、すなわちみ言の審判を意味するものであるから、火の審判とは、とりもなおさずみ言の審判であるということを知ることができるのである。
 では我々は、ここにおいて、み言をもって審判されるという聖句の例を取りあげてみることにしよう。
 ヨハネ福音書一二章48節には、イエスを捨てて、そのみ言を受け入れない人を裁くものがあるが、イエスが語られたそのみ言が、終わりの日にその人を裁くであろう、と記録されており、さらにテサロニケ・二章8節には、そのときになると、不法の者が現れるが、この者を主イエスは、口の息をもって殺すであろうと記録しているのである。そしてまた、イザヤ書一一章4節においては、その口のむちをもって国を撃ち、その唇の息をもって悪しき者を殺すと言われており、ヨハネ福音書五章24節を見れば、イエスは自分の言葉を聞いて、神を信ずる者は裁かれることがなく、死から命に移ると言われている。このように火の審判は、すなわち、み言の審判を意味するのである。
 それでは、み言をもって審判される理由は、いったいどこにあるのであろうか。ヨハネ福音書一章3節に、人間はみ言によって創造されたと記録されている。したがって神の創造理想は人間始祖がみ言の実体として、み言の目的を完遂しなければならなかったのであるが、彼らは神のみ言を守らないで堕落し、その目的を達することができなかったのである。それゆえに、神は再びみ言によって、堕落人間を再創造なさることにより、み言の目的を達成しようとされたのであるが、これがすなわち、真理(聖書)による復帰摂理なのである。ヨハネ福音書一章14節には、「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」と記録されている。このようにイエスは、また、み言の完成者として再臨なさり、自ら、み言審判の基準となられることによって、すべての人類が、どの程度にみ言の目的を達成しているかを審判なさるのである。このように、復帰摂理の目的が、み言の目的を達成するところにあるので、その目的のための審判も、み言をその基準として立てて行われなければならないのである。ルカ福音書一二章49節に、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」と書かれているのであるが、これは、イエスがみ言の実体として来られ(ヨハネ一・14)、命のみ言を既に宣布なさったにもかかわらず、ユダヤ人たちがこれを受け入れないのを御覧になって、嘆きのあまり言われたみ言であった。

(3) 墓から死体がよみがえる(マタイ二七・52、テサロニケ・四・16
 マタイ福音書二七章52節以下を見ると、イエスが亡くなられるとき、「墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた」と記録されているのであるが、これは、腐敗してしまった彼らの肉身が、再び生き返ったということを意味するものではないのである(前編第五章第二節(三))。もし、霊界にとどまっていた旧約時代の信徒たちが、聖書の文字どおりに墓からよみがえり、都にいた多くの人々に見えたとすれば、彼らにはイエスがメシヤであるということが分かったわけであるから、必ずユダヤ人たちに、イエスがメシヤであるということを証明したはずである。もしそう行動したならば、イエスはそのとき既に十字架で亡くなられていたとしても、彼らの証言を聞いて、イエスを信じない人は、一人もいなかったであろう。また、そのように旧約時代の聖人たちが、再び肉身をつけて墓から起きあがったとすれば、その後の彼らの行跡に関する記事が、必ず聖書に残っていなければならないはずである。しかし、聖書には彼らに関する何らの記事も、このほかの箇所には記載されていない。では、墓からよみがえったものは、いったい何であったのであろうか。それはあたかもモーセとエリヤの霊人体が、変貌山上においてイエスの前に現れたように(マタイ一七・3)、旧約時代の霊人たちが、再臨復活のために地上に再臨したのを霊的に見て(前編第五章第二節(三))記録した言葉だったのである。では墓は何を意味するのであろうか。イエスによって開かれた楽園から見れば、旧約時代の聖徒たちがとどまっていた霊形体級の霊人の世界は、より暗い世界であるために、そこを称して墓と言ったのである。旧約時代の霊人たちは、すべてこの霊界にいたのであるが、そのとき再臨復活して、地上信徒たちの前に現れたのであった。

(4) 地上人間たちが引きあげられ空中で主に会う(テサロニケ・四・17
 ここに記録されている空中とは、空間的な天を意味するのではない。大抵聖書において、地は堕落した悪主権の世界を意味し、天は罪のない善主権の世界を意味する。これは、あまねくいまし給う神である限り、地のいずこにも遍在すべきであるにもかかわらず、「天にいますわれらの父よ」(マタイ六・9)と言われ、また、イエスは地において誕生されたにもかかわらず、「天から下ってきた者、すなわち人の子……」(ヨハネ三・13)と言われたことを見ても、そのことが分かるのである。それゆえに、空中で主に会うということは、イエスが再臨されてサタンの主権を倒し、地上天国を復帰されることによってたてられる、その善主権の世界において、主と会うようになるということを意味するのである。

(5) 日と月が光を失い星が空から落ちる(マタイ二四・29
 創世記三七章9節以下を見れば、ヤコブの十二人の子供たちのうち、十一番目の息子であるヨセフが夢を見たとあり、その内容について「ヨセフはまた一つの夢を見て、それを兄弟たちに語って言った、『わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました』。彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、『あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか』」と記録されている。ところがヨセフが成長して、エジプトの総理大臣になったとき、まさしくこの夢のとおり、その父母と兄弟たちが彼を拝んだのである。
 この聖書のみ言を見れば、日と月は父母を象徴したのであり、星は子女たちを象徴したものだということを知ることができる。キリスト論で述べるように、イエスと聖霊はアダムとエバの代わりに、人類を重生させてくださる真の父母として来られたのである。それゆえに、日と月はイエスと聖霊を象徴しているのであり、星は子女に該当するキリスト教徒たちを象徴しているのである。
 聖書の中で、イエスを真の光に例えたのは(ヨハネ一・9)、その肉体がみ言によってつくられたお方として来られ(ヨハネ一・14)、真理の光を発したからであった。ゆえに、ここでいっている日の光とは、イエスの言われたみ言の光をいうのであり、月の光とは、真理のみ霊として来られた聖霊(ヨハネ一六・13)の光をいうのである。したがって、日と月が光を失うというのは、イエスと聖霊による新約のみ言が、光を失うようになるということを意味するのである。では何故、新約のみ言が、光を失うようになるのであろうか。それはちょうど、イエスと聖霊が来られて、旧約のみ言を成就するための新約のみ言を下さることにより、旧約のみ言が光を失うようになったと同様に、イエスが再臨されて、新約のみ言を成就し、新しい天と新しい地とをたてられるので(黙二一・1)そのときの新しいみ言によって(本章第五節(一)参照)初臨のときに下さった新約のみ言はその光を失うようになるのである。ここにおいて、み言がその光を失うというのは、新しい時代がくることによって、そのみ言の使命期間が過ぎさるということを意味する。
 また、星が落ちるというのは、終末において、多くのキリスト教徒たちがつまずき落ちるようになる、ということを意味するのである。メシヤの降臨を熱望してきたユダヤ教の指導者たちが、メシヤとして来られたイエスを知らず、彼に反対して落ちてしまったように、イエスの再臨を熱望しているキリスト教徒たちも、十分注意しないと、その日にはつまずき落ちてしまうであろうということを預言されたのである(後編第六章第二節参照)。ルカ福音書一八章8節に、「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」と言われたみ言、あるいは、マタイ福音書七章23節に、イエスが再臨されるとき、信仰の篤い信徒たちに向かって「不法を働く者ども」と責められ、さらに、「行ってしまえ」と、排斥されるようなことを言われたのも、とりもなおさず、終末において、信徒たちがつまずき落ちるということを予知され、そのように警告されたのである。

第四節 終末

(一)第一祝福復帰の現象
(二)第二祝福復帰の現象
(三)第三祝福復帰の現象

 イエスが、将来訪れるであろうペテロの死に関して話しておられるとき、そのみ言を聞いていたペテロが、ヨハネはどうなるのでしょうか、と質問した。これに対してイエスは、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」(ヨハネ二一・22)と答えられた。それゆえに、このみ言を聞いた使徒たちは、みなヨハネが生きているうちに、イエスが再臨されるだろうと信じていたのである。そればかりでなく、マタイ福音書一〇章23節を見れば、イエスはその弟子たちに、「あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう」と言われており、また、マタイ福音書一六章28節には、「人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」と、言われたのである。
 このようなみ言によって、イエスの弟子たちもそうであったが、その後、今日に至るまでの多くの信徒たちは、各々が、自分の当代に、イエスが来られるということを信じていたので、彼らは、常に終末であるという切迫感から逃れることができなかったのである。これは、終末に対する根本的な意義を知らなかったからであった。我々は今ここにおいて、神が復帰摂理の目的として立て、それを成就しようとしてこられた三大祝福が復帰されていく現象を見て、現代がすなわち終末であるということを、立証することができるのである。それゆえにイエスは、「いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる」(マタイ二四・32)と、言われたのである。

(一)第一祝福復帰の現象
 既に創造原理において論じたように、神がアダムとエバに約束された第一祝福は、彼らが個性を完成することを意味するのである。堕落人間をして、個性完成した創造本然の人間へと復帰してこられた神の摂理が、その最終段階に至っているということは、次のような各種の現象を見ても知ることができる。
 第一に、堕落人間の心霊が復帰されていくのを見て、それを知ることができる。人間が完成すれば、完全に神と心情的に一体化し、互いに相通ずるように創造されたということは、既に述べたとおりである。それゆえに、アダムとエバも、不完全な状態ではあったが、神と一問一答した段階から堕落し、その子孫たちは、神を知らないところにまで落ちてしまったのである。このように、堕落してしまった人間が、復帰摂理の時代的な恩恵を受けるようになるに従って、漸次その心霊が復帰されるので、終末に至っては、使徒行伝二章17節に「終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう」と言われたみ言のように、多くの信徒たちが、神と霊通するようになるのである。そこで、現世に至り、霊通する信徒たちが雨後の竹の子のように現れるのを見れば、現世は終末であるがゆえに、人間が個性を完成し神の第一祝福を復帰することのできる、そのような時代に入っているということを知ることができる。
 第二に、堕落人間が、本心の自由を復帰していくという歴史的な帰趨が、これまた、それを示しているのである。人間は堕落によってサタンの主管下におかれ、本心の自由が拘束されるようになったので、神の前に出ていくことのできる自由を失ってしまった。ところが現世に至っては、肉体の命を捨ててまでも、本心の自由を求めようとする心情が高められてくるが、これは、終末になって個性を完成することにより、堕落人間が、サタンに奪われた神の第一祝福を復帰し、神の前に自由に出ていくことのできる時代に入っているからなのである。
 第三に、堕落人間の、創造本然の価値性が復帰されていく現象を見て、そうであるということを、より確かに知ることができる。つまり人間の創造本然の価値は、横的に見るときすべて同等であるがゆえに、その価値は、大して貴重なもののようには感じられないのであるが、天を中心として縦的に見るとき、各個性は、最も尊い天宙的な価値を、それぞれもっているのである(前編第七章第一節)。
 実に人間は、堕落することによって、このような価値をみな失ってしまったのである。ところが現代に至り、民主主義思想が高潮して、人々は奴隷解放、黒人解放、弱小民族解放などを主張しながら、人権擁護と男女平等、そして万民平等を叫ぶことによって創造本然の個性の価値を、最高度に追求するようになったのであるが、これはとりもなおさず終末となり、堕落人間が失った神の第一祝福を復帰できる時代に入っているということを実証するものである。
 第四に、堕落人間の本性の愛が復帰されていくという事実が、個性を完成していく終末のときの到来を更に証明してくれる。神の創造理想を完成した世界は、完成した一人の人間の姿の世界であって、その世界の人間は、みな神と縦的に一体となっているがゆえに、人間相互間においても横的に一体とならなければならないのである。したがって、この世界はもっぱら、神の愛をもって縦横に結ばれ、一つの体のようにならざるを得ないのである。しかし、人間は堕落によって神との縦的な愛の関係を断たれてしまったので、人間同士の横的な愛も切断され、人類歴史は闘争のもつれによって流れてきた。しかし、現代に至っては博愛主義思想が高潮してくるに従い、人間が漸次、その本性愛を探し求めてきているのを見ても、現代は神の第一祝福を復帰することにより、神の愛を中心として個性を完成することができる終末に入っている、という事実を知ることができるのである。

(二)第二祝福復帰の現象
 神の第二祝福は、アダムとエバが真の父母として完成し、善の子女を繁殖することにより、善主権の家庭と、社会と、世界を成就するようになるということを意味する。しかし、アダムとエバは堕落して悪の父母となったので、全人類は悪の子女となり、悪主権に拘束された世界をつくってしまったのである。しかし神は一方に宗教を立てて摂理することにより、内的なサタン分立による心霊復帰の摂理をされ、また、他方においては、闘争と戦争による外的なサタン分立をすることにより、内外両面における主権復帰の摂理をしてこられたのである。このように人類歴史は、内外両面のサタン分立による復帰摂理を通じて、将来の真の親であられるイエスに仕えることのできる子女を探し求めて、神の第二祝福を復帰してきたから、それは宗教を中心とする文化圏の発展史と国家興亡史とに現れた内外両面における神の主権復帰の現象を見ることによって、現世がすなわち終末であるということを知ることができるのである。
 我々はまず、文化圏発展史がどういうふうに流れてきて、現代を終末へと導いているのかを明らかにしよう。文化圏発展史に関する問題は、既に幾度か論じてきたが、神は堕落人間に聖賢たちを遣わされ、善を指向する人間の本心に従って、宗教を立たしめ、その宗教を中心とする文化圏を起こしてこられたのである。それゆえに、歴史上には数多くの文化圏が形成されたのであるが、時代が流れるに従って、これらは互いに融合、あるいは吸収され、現代に至っては、キリスト教を中心とする一つの世界的な文化圏をつくっていく趨勢を見せているのである。このような歴史的な趨勢は、キリスト教の中心であるイエスを中心として、すべての民族が、同じ兄弟の立場に立つようになるということによって、神の第二祝福が復帰されつつあるという事実を示しているのである。
 キリスト教が他の宗教と異なるところは、全人類の真の父母を立てて、その父母によってすべての人間が重生し、善の子女となることによって、神の創造本然の大家族の世界を復帰するところに、その目的があるという点である。これはとりもなおさず、キリスト教が、復帰摂理の目的を完成する中心的な宗教であるということを意味するのである。このように、現世に至っては、世界がキリスト教を中心として一つの文化圏を形成し、人類の真の父母であられるイエスと聖霊(前編第七章参照)を中心として、すべての人間が善の子女の立場に立つことにより、神の第二祝福復帰の現象を見せている。このような事実を見ても我々は現代が終末であるということを否定することができないのである。
 つぎに我々は、国家興亡史がどのように主権復帰の目的に向かって流れてきて、現代を終末へと導いているかについて調べてみることにしよう。闘争や戦争を、単純にある利害関係や理念の衝突から起こる結果であると見るのは、神の根本摂理を知らないところからくる軽薄な考え方である。人類歴史は人間始祖の堕落により、サタンを中心とする悪主権をもって出発し、罪悪の世界を形成してきたのである。しかし、神の創造目的が残っている限り、その歴史の目的も、あくまでサタンを分立して神の善主権を復帰するところになければならない。もし、悪主権の世界に戦争や分裂がないとすれば、その世界はそのまま永続するはずであり、したがって、善主権は永遠に復帰できないのである。それゆえに、神は堕落人間に聖賢たちを遣わされ、善を立て、宗教を起こすことによって、より善なる主権をして、より悪なる主権を滅ぼさせながら、漸次、天の側の主権を復帰なさる摂理をしてこられたのである。したがって、復帰摂理の目的を成就するためには、闘争と戦争という過程を経なければならない。この問題に関しては、後編においてより詳しく論ずる予定であるが、人類歴史は蕩減復帰の摂理路程を歩いていくので、ある局限された時間圏内においてだけこれを見れば、悪が勝利を勝ち得たときもないことはなかった。しかしそれは結局敗北し、より善なる版図内に吸収されていったのである。それゆえに、戦争による国家の興亡盛衰は、善主権を復帰するための摂理路程から起こる、不可避的な結果であったといわなければならない。ゆえに神は、イスラエル民族を立てカナンの七族を滅ぼされたのであり、また、サウルは神の命令に従わず、アマレク族とそれに属する家畜を全滅させなかったために、厳罰を受けたのである(サムエル上一五・1823)。神はこのように、直接異民族を滅ぼすようイスラエルに命令されたのみならず、その選民であった北朝イスラエルが、悪の方向に傾いてしまったときには、惜しみなく彼らをアッシリヤに手渡し、滅亡させてしまわれたのである(列王下一七・23)。神がこのようにされたのは、ひたすら悪主権を滅ぼして、善主権を復帰なさろうとしたからであったということを、我々は知らなければならない。ゆえに、同じ天の側における個人的な闘争は、善主権自体を破壊する結果となるがゆえに悪となるのであるが、善主権が悪主権を滅ぼすことは、神の復帰歴史の目的を達成するためであるという理由から、これは善となるのである。こうして、サタン分立のための闘争歴史は、次第に土地と財物とを奪って、天の側の主権へと復帰するに至ったのであり、人間においても個人より家庭、社会、そして国家へと、天の側の基台を広め、今日に至っては、これを世界的に復帰するようになったのである。このように、サタン分立のための摂理が氏族主義時代から出発し、封建主義時代と君主主義時代を経て、民主主義時代に入って今日に至っているが、今やこの人間世界は、天の側の主権を立てようとする民主主義世界と、サタンの側の主権を立てようとする共産主義世界との、二つの世界に分立されている。
 このように、サタンを中心とする悪主権によって出発した人類歴史は、一方において、宗教と哲学と倫理によって、善を指向する人間の創造本性が喚起されるに従い、漸次、悪主権から善主権のための勢力が分立され、ついに、世界的に対立する二つの主権を形成するに至ったのである。しかるに、目的が相反するこの二つの主権は、決して共存することができない。したがって、人類歴史の終末に至れば、これらは必ず一点において交差し、理念を中心として内的に衝突し、それが原因となって軍事力を中心とする外的な戦争が行われ、結局サタン主権は永遠に滅び、天の側の主権のみが永遠なる神の単一主権として復帰されるのである。しかるに現代は、善主権を指向する天の側の世界と、サタンを中心とする悪主権の世界とが対立して、互いに交差しているときであるから、ここから考えてもまた、終末であるといわなければならない。
 このように、悪主権から善主権を分立してきた人類歴史は、ちょうど、荒れ狂う濁流が時間を経るに従って、泥は水底に沈み、水は上の方に澄んで、ついには泥と水とが完全に分離されるように、時代が進むにつれて、悪主権は次第に衰亡の道をたどって下降線を描き、善主権は興隆の道をたどって上昇線を描くようになるので、歴史の終末に至っては、この二つの主権はある期間交差したのち、結局、前者は永遠に滅亡してしまい、後者は神の主権として永遠に残るようになるのである。
 このように、善悪二つの主権の歴史路程が交差するときを終末という。そしてさらにこのときは、アダムとエバが堕落した長成期完成級の時期を、蕩減復帰するときであるから、あたかもエデンの園の人間始祖が、どこに中心をおくべきかを知らずに、混沌の中に陥っていったように、いかなる人間も思想の混乱を起こして、彷徨するようになるのである。
 復帰摂理路程において、このように終末を迎えて、善悪二つの主権が交差していたときは、幾度かあった。既に述べたように、ノアのときやイエスのときも終末であった。ゆえに、この二つの主権が互いに交差していたのである。しかしそのたびごとに、人間はその責任分担を完遂できず、悪主権を全滅することができなかったので、神は主権分立の摂理を再びなし給わなければならなかった。したがってイエスの再臨期に、いま一度、二つの主権の交差があるのである。復帰摂理路程は、このように、周期的に相似的な螺旋状を反復しながら、円形過程を通りつつ創造目的を指向してきたから、歴史上においては必然的に、同時性の時代が形成されてきたわけである(後編第三章第一節参照)。

(三)第三祝福復帰の現象
 神の第三祝福はアダムとエバが完成して、被造世界に対する主管性をもつようになることを意味する。そして、被造世界に対する人間の主管性には、内外両面の主管性がある。人間は堕落によってこの両面の主管性を失ったのであるが、現代に至って、これが復帰されつつあるのを見て、現代が終末であるということを知ることができるのである。
 内的主管性というのは、心情的主管性を意味する。すなわち人間が個性を完成すれば、神と心情的に一体化し、神の心情をそのまま体恤することができるのである。このように、人間が完成することにより、被造世界に対する神の心情と同一の心情をもって、被造世界に対して愛を与え美を受けるようになるとき、人間は被造世界に対する心情的な主管者となるのである。けれども人間は、堕落して神の心情を体恤できなくなってしまったので、神の心情をもって、被造世界に対することもできなくなったのである。しかし、宗教、哲学、倫理などによる神の復帰摂理によって、神に対する堕落人間の心霊は、漸次開発されて明るくなり、現代に至っては、被造世界に対する心情的な主管者の資格を復帰しつつあるのである。
 つぎに、外的主管性とは、科学による主管性を意味する。もし人間が完成して、被造世界に対する神の創造の心情と同一の心情をもって、被造世界を内的に主管できたならば、人間の霊感は高度に発達することができたはずであるから、科学の発達も、極めて短時日に最高度のものにまで達し得たはずであったのである。このようになって初めて、人間は被造物に対する外的な主管をなし得るのである。したがって、人間は早くから天体をはじめとして、自然界全体を完全に主管できるばかりでなく、科学の発達に基づく経済発展によって、極めて安楽な生活環境をもつくることができたはずである。しかし、人間は堕落によって心霊が暗くなり、被造物に対する内的な主管性を失って、動物のように、霊感の鈍い未開人に零落してしまったので、被造物に対する外的な主管性までも失うようになったのである。しかし、人間は神の復帰摂理によって、心霊が明るくなるに従い、被造物に対する内的な主管性が復帰されてきたので、それに伴い、被造物に対する外的な主管性も、漸次復帰されてきて、現代ともなると科学の発達も最高度に達し得たのである。そして、科学の発達に伴う経済発展によって、現代人は極度に安楽な生活環境をつくるようになった。このように、堕落人間が被造世界に対する主管性を復帰するに従い、神の第三祝福が復帰されていく現象を見るとき、我々は、現代が終末であることを否定することができないのである。
 今まで幾度か言及したように、文化圏の発展においても、一つの宗教を中心として一つの世界的な文化圏を形成しているのであり、国家形態においても、一つの世界的な主権機構を指向して、国際連盟から国際連合へと、そして今日に至っては、世界政府を模索するというところにまでこぎつけてきているのである。そればかりでなく、経済的発展を見ても、世界は一つの共同市場をつくっていくという趨勢におかれており、また、極度に発達した交通機関と通信機関は、時間と空間を短縮させて、人間が地球を一つの庭園のように歩き、また、行き来できるようにさせているのであり、東西の異民族同士が、一つの家庭のように接触することができるようになってきたのである。人類は四海同胞の兄弟愛を叫んでいる。しかし、家庭は父母がいて初めて成り立つのであり、また、そこにおいてのみ、真の兄弟愛は生まれてくるのである。したがって、今や人類の親であるイエスだけが再臨すれば、全人類は一つの庭園において、一つの大家族をつくり、一家団欒して生活し得るようになっているのである。このような事実を見ても、現代は終末であるに相違ないのである。
 こうして流れてきた歴史が人類に与えるべき一つの最後の賜物がある。それは、何らの目的なくして一つの庭園に集まり、ざわめいている旅人たちを、同じ父母を中心とする一つの家族として結びあわせることができる天宙的な理念であるといわなければならない。

第五節 終末と新しいみ言と我々の姿勢

(一)終末と新しい真理
(二)終末に際して我々がとるべき態度

(一)終末と新しい真理
 堕落人間は宗教により霊と真理をもって(ヨハネ四・23)その心霊と知能とをよみがえらせ、その内的な無知を打開していくのである。さらに、真理においても、内的な無知を打開する宗教による内的真理と、外的な無知を打開する科学による外的真理との二つの面がある。したがって知能においても、内的真理によって開発される内的知能と、外的真理によって開発される外的知能との二つの面がある。それゆえに、内的知能は内的真理を探りだして宗教を起こし、外的知能は外的真理を探りだして科学を究明していくのである。神霊は無形世界に関する事実が、霊的五官によって霊人体に霊的に認識されてのち、これが再び肉的五官に共鳴して、生理的に認識されるのであり、一方真理は、有形世界から、直接、人間の生理的な感覚器官を通して認識されるのである。したがって認識も、霊肉両面の過程を経てなされる。人間は霊人体と肉身が一つになって初めて、完全な人間になるように創造されているので、霊的過程による神霊と肉的過程による真理とが完全に調和され、心霊と知能とが共に開発されることによって、この二つの過程を経てきた両面の認識が完全に一致する。またこのとき、初めて人間は、神と全被造世界に関する完全な認識をもつようになるのである。このように神は、堕落によって無知に陥った人間を、神霊と真理とにより、心霊と知能とを共に開発せしめることによって、創造本然の人間に復帰していく摂理をされるのである。
 人間は神のこのような復帰摂理の時代的な恩恵を受け、その心霊と知能の程度が、歴史の流れに従って漸次高まっていくのであるから、それを開発するための神霊と真理もまた、その程度を高めていかなければならない。それゆえに、神霊と真理とは唯一であり、また永遠不変のものであるけれども、無知の状態から、次第に復帰されていく人間に、それを教えるための範囲、あるいは、それを表現する程度や方法は、時代に従って異ならざるを得ないのである。例を挙げれば、人間がいまだ蒙昧にして、真理を直接受け入れることができなかった旧約前の時代においては、真理の代わりに、供え物をささげるように摂理されたのであり、そして人間の心霊と知能の程度が高まるに従って、モーセの時代には律法を、イエスの時代には福音を下さったのである。その際、イエスは、そのみ言を真理と言わないで、彼自身がすなわち、道であり、真理であり、命であると言われたのであった(ヨハネ一四・6)。その訳は、イエスのみ言はどこまでも真理それ自身を表現する一つの方法であるにすぎず、そのみ言を受ける対象によって、その範囲と程度と方法とを異にせざるを得なかったからである。このような意味からして、聖書の文字は真理を表現する一つの方法であって、真理それ自体ではないということを、我々は知っていなければならない。このような見地に立脚して聖書を見るとき、新約聖書は今から二〇〇〇年前、心霊と知能の程度が非常に低かった当時の人間たちに真理を教えるために下さった、一つの過渡的な教科書であったということを、我々は知ることができるのである。それゆえに、その当時の人間たちを開発するためにふさわしい、限定された範囲内においての比喩、または象徴的な表現方法そのままをもって、現代の科学的な文明人たちの真理への欲求を、完全に満足させるということは不可能なことだといわなければならない。
 したがって、今日の知性人たちに真理を理解させるためには、より高次の内容と、科学的な表現方法によらなければならないのである。これを我々は新しい真理という。そしてこの新しい真理は、既に総序において論じたように、人間の内外両面の無知を打開するために、宗教と科学とを一つの統一された課題として、完全に解決し得るものでなければならない。
 それでは新しい真理が出現しなければならない理由を、また他の方面から考察してみることにしよう。
 前にも述べたように、聖書はそれ自体が真理なのではなく、真理を教えるための教科書である。けれどもこの教科書は、その真理の重要な部分が、ほとんど象徴と比喩によって表現されている。したがって、それを解釈する方法においても、人により各々差異があるので、その差異によって多くの教派が派生してくるのである。ゆえに、教派分裂の第一原因は人間にあるのではなく、聖書自体にあるので、その分裂と闘争は継続して拡大されるほかはない。したがって、新しい真理が出現して、象徴と比喩で表現されている聖書の根本内容を、だれもが公認し得るように解明しない限り、教派分裂とその闘争の道を防ぐことはできないのであり、したがって、キリスト教の統一による復帰摂理の目的を成し遂げることはできないのである。それゆえに、イエスは「わたしはこれらのことを比喩で話したが、もはや比喩では話さないで、あからさまに、父のことをあなたがたに話してきかせる時が来るであろう」(ヨハネ一六・25)と言われることによって、終末に至れば再び新しい真理のみ言を下さることを約束されたのである。
 イエスは「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ三・12)と話されたみ言のとおり、ユダヤ人たちの不信によって、語ろうとするみ言も語り得ず、十字架に亡くなられたのであった。そればかりでなく、イエスは弟子たちにまでも、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・12)と、心の中にあるみ言を、みな話すことのできない悲しい心情を表明されたのである。
 しかしイエスが語り得ず、心の中に抱いたまま亡くなられたそのみ言は、永遠に秘密として残されるのではなく、「真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」(ヨハネ一六・13)と続いて言われたように、そのみ言は必ず聖霊により、新しい真理として教えてくださるようになっているのである。
 そして「わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった」(黙五・1)と記録されているその巻物に、イエスが我々に与えようとされたそのみ言が、封印されているのである。続いて聖書に記録されているみ言を見れば、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見るにふさわしい者が一人もいなかったので、ヨハネが激しく泣いていると「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」(黙五・3〜5)と言われているのである。ここにおいて、ダビデの若枝として誕生した獅子と記されているのは、とりもなおさず、キリストを意味するのである。このようにキリストが人類の前で、長らく七つの印をもって封じ、秘密として残されていたそのみ言の封印を開き、信徒たちに新しい真理のみ言として与えてくださるときが到来しなければならないので「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」(黙一〇・11)と言われたのであった。それゆえにまた「神がこう仰せになる。終りの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、若者たちは幻を見、老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにもわたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう」(使徒二・1718)とも言われたのである。このようにどの方面から見ても、終末においては必ず、新しい真理が出現しなければならないのである。

(二)終末に際して我々がとるべき態度
 復帰摂理歴史の流れを見ると、古いものが終わろうとするとき、新しいものが始まるということを、我々は発見することができる。したがって、古いものの終わる点が、すなわち新しいものの始まる点ともなるのである。それゆえに、古い歴史の終末期が、すなわち新しい歴史の創始期ということになるのである。そして、このような時期は同じ点から出発して、各々その目的を異にし、世界的な実を結ぶようになった善と悪との二つの主権が、互いに交差する時期となるのである。ゆえにこの時代に処した人間たちは、内的には理念と思想の欠乏によって、不安と恐怖と混沌の中に落ちこむようになり、外的には武器による軋轢と闘争の中で戦慄するようになる。したがって、終末においては国と国とが敵対し、民族と民族とが相争い、家族たちが互いに闘いあうであろう(マタイ二四・4〜9)と聖書に記録されているとおり、あらゆる悲惨な現象が実際に現れるに違いない。
 終末において、このような惨状が起こるのは、悪主権を清算して善主権を立てようとすれば、どうしても起こらざるを得ない必然的な現象であるからで、神はこのような惨状の中で、新しい時代をつくるために、善主権の中心を必ず立てられるのである。ノア、アブラハム、モーセ、そしてイエスのような人々は、みなそのような新しい時代の中心として立てられた人々であった。それゆえに、このような歴史的な転換期において、神が願うところの新しい歴史の賛同者となるためには、神が立てられた新しい歴史の中心がどこにあるかということを、探しださなければならないのである。
 このような新しい時代の摂理は、古い時代を完全に清算した基台の上で始まるのではなく、古い時代の終末期の環境の中で芽生えて成長するのであるから、その時代に対しては、あくまでも対立的なものとして現れる。したがって、この摂理は古い時代の因習に陥っている人々には、なかなか納得ができないのである。新しい時代の摂理を担当してきた聖賢たちが、みなその時代の犠牲者となってしまった理由は、まさしくここにあったのである。その実例として、いまだ旧約時代の終末期であったときに、新約時代の新しい摂理の中心として来られたイエスは、旧約律法主義者たちにとっては、理解することのできない異端者の姿をもって現れたので、ついにユダヤ人たちの排斥を受けて殺害されてしまったのである。イエスが、「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである」(ルカ五・38)と言われた理由もまたここにあったのである。
 今や、イエスが再び新約時代の終末期において、新しい天と新しい地のために、新しい摂理の中心として来られ、新しい時代の建設のために(黙二一・1〜7)新しい真理を下さるであろう。それゆえに、イエスが初臨のときに、ユダヤ人たちからベルゼブル(悪霊のかしら)の乗り移った人間として、排斥されたように(マタイ一二・24)、再臨のときにおいても、必ずや再びキリスト教信徒たちの排斥を受けるに相違ないのである。ゆえに、イエスは将来再臨なされば、自分が多くの苦難を受け、その時代の人々から見捨てられるであろうと預言されたのである(ルカ一七・25)。したがって、歴史の転換期において、古い時代の環境にそのまま執着し、平安を維持しようとする人々は、古い時代と共に審判を受けてしまうのである。
 堕落した人間は神霊に対する感性が非常に鈍いために、大抵は真理面に重きをおいて復帰摂理路程を歩んでいくようになる。したがって、このような人間たちは、古い時代の真理観に執着しているがゆえに、復帰摂理が新しい摂理の時代へと転換していても、彼らはこの新しい時代の摂理にたやすく感応してついてくることが難しいのである。旧約聖書に執着していたユダヤ人たちが、イエスに従って新約時代の摂理に応じることができなかったという史実は、これを立証してくれる良い例だといわなければならない。しかし、祈りをもって神霊的なものを感得し得る信徒たちは、新しい時代の摂理を、心霊的に知ることができるので、古い時代の真理面においては、相克的な立場に立ちながらも、神霊によって新しい時代の摂理に応じることができるのである。それゆえに、イエスに従った弟子たちの中には、旧約聖書に執着していた人物は一人もおらず、もっぱら心に感応してくる神霊に従った人々だけであった。祈りを多くささげる人、あるいは良心的な人たちが、終末において甚だしい精神的な焦燥感を免れることができない理由は、彼らが、漠然たるものであるにせよ、神霊を感得して、心では新しい時代の摂理に従おうとしているにもかかわらず、体をこの方面に導いてくれる新しい真理に接することができないからである。それゆえに、神霊的にこのような状態に処している信徒たちが、彼らを新しい時代の摂理へと導くことができる新しい真理を聞くようになれば、神霊と真理が、同時に彼らの心霊と知能を開発させて、新しい時代に対する神の摂理的な要求を完全に認識することができるので、彼らは言葉に尽くせない喜びをもってそれに応じることができるのである。したがって、終末に処している現代人は、何よりもまず、謙遜な心をもって行う祈りを通じて、神霊的なものを感得し得るよう努力しなければならないのである。つぎには、因習的な観念にとらわれず、我々は我々の体を神霊に呼応させることによって、新しい時代の摂理へと導いてくれる新しい真理を探し求めなければならない。そして探しだしたその真理が、果たして自分の体の内で神霊と一つになり、真の天的な喜びを、心霊の深いところから感ずるようにしてくれるかどうかを確認しなければならないのである。このようにすることによってのみ、終末の信徒たちは、真の救いの道をたどっていくことができるのである。

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第四章 メシヤの降臨とその再臨の目的

第一節  十字架による救いの摂理
第二節  エリヤの再臨と洗礼ヨハネ

 メシヤという言葉は、ヘブライ語で油を注がれた人を意味するが、特に王を意味する言葉である。イスラエル選民は彼らの預言者たちの預言によって、将来イスラエルを救う救世主を、王として降臨させるという神のみ言を信じていた。これがすなわち、イスラエルのメシヤ思想である。このようなメシヤとして来られた方が、まさしくイエス・キリストであるが、このキリストという言葉は、メシヤと同じ意味のギリシャ語であって、普通、救世主という訳語が当てられている。
 メシヤは神の救いの摂理の目的を完成するために、降臨なさらなければならない。このように、人間に対して救いが必要となったのは、人間が堕落したからである。ゆえに、救いに関する問題を解決するためには、まず堕落に関する問題を知らなければならない。堕落はすなわち、神の創造目的を完成できなかったことを意味するがゆえに、堕落に関する問題を論ずる前に、我々は創造目的に関する問題を解決しなければならない。
 神の創造目的は、まず地上に天国が建設されることによって成し遂げられるようになっていた。ところが、人間の堕落によって、地上天国は実現されずに、地上地獄がつくられたのである。その後、神はこれを復帰せしめる摂理を繰り返されてきたのである。したがって、人類歴史は復帰摂理の歴史である。ゆえに、この歴史の目的は、まず地上に天国を復帰することである。我々は、このような問題を、既に前編第三章第一節と第二節で詳細に論じてきた。

第一節 十字架による救いの摂理

(一)メシヤとして降臨されたイエスの目的
(二)十字架の贖罪により救いの摂理は完成されただろうか
(三)イエスの十字架の死
(四)十字架の贖罪による救いの限界とイエス再臨の目的
(五)十字架に対する預言の両面
(六)十字架の死が必然的なもののように記録されている聖句

(一)メシヤとして降臨されたイエスの目的
 イエスがメシヤとして降臨された目的は、堕落人間を完全に救おうとするところにあるので、結局、復帰摂理の目的を成就なさるためであった。ゆえに、イエスは天国を完成しなければならず、したがって、地上天国を先に実現なさるはずだったのである。これは、イエスが弟子たちに「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ五・48)と言われたみ言を見ても悟ることができる。創造原理によれば、創造目的を完成した人間は、神と一体となり神性をもつようになるので、罪を犯すことができない。したがって、そのような人間は、創造目的から見れば、天の父の完全なように完全な人間である。それゆえに、イエスが弟子たちに言われたこのみ言は、すなわち創造目的を完成した人間に復帰され、天国人になれという意味のみ言だったのである。このように、イエスは堕落人間を天国人に復帰させ、地上天国をつくるために来られたので、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」祈りなさいと言われ(マタイ六・10)、また、「悔い改めよ、天国は近づいた」(マタイ四・17)と叫ばれたのである。それで、彼の道を備えるために来た洗礼ヨハネもまた、「天国は近づいた」(マタイ三・2)と叫んだのであった。
 それでは、創造目的を完成した人間に復帰され、イエスが言われたとおり、天の父が完全であられるように完全になった人間とは、いかなる人間なのだろうか。このような人間は、神と一体となり、その心情を体恤することによって、神性をもつようになり、神と一体不可分の生活をするようになるのである。また、この人間は、原罪がないので、再び贖罪する必要がなく、したがって、救い主が不必要であり、堕落人間に要求される悔い改めの祈祷や、信仰の生活も、また必要ではないのである。そればかりでなく、原罪のないこれらの人間は、原罪のない善の子孫を生み殖やすようになり、したがって、その子孫も贖罪のための救い主は必要がないのである。

(二)十字架の贖罪により救いの摂理は完成されただろうか
 イエス・キリストの十字架の贖罪により、果たして、復帰摂理の目的が完成され、すべての信徒たちが創造本性を復帰し、地上天国を成就できるようになったであろうか。人類歴史以来、いかに誠実な信仰の篤い信徒であっても、神の心情を体恤して、神性をもつようになり、神と一体化し、神と不可分の生活をした人は一人もいない。したがって、贖罪が必要でなく、祈祷や信仰生活をしなくてもよいような信徒は一人もいないのである。事実、パウロのような立派な信仰者であっても、涙に満ちた祈祷と信仰生活をしなければならなかった(ロマ七・1825)。そればかりでなく、いくら信仰の篤い父母であっても、救い主の贖罪を受けずには、天国へ行ける原罪のない子女を生むことはできないということから推察してみても、我々は、その父母が依然として、その子女に原罪を遺伝させているという事実を知ることができるのである。
 それでは、キリスト教信徒たちの、このような信仰生活の実相は、我々に何を教示しているのであろうか。それは、十字架による贖罪が、我々の原罪を完全に清算することができず、したがって、人間の創造本性を完全に復帰することができないという事実を、端的に物語っているのである。イエスは、このような十字架の贖罪では、メシヤとして降臨された目的を完全に成就することができないことを知っておられたので、再臨なさることを約束されたのである。イエスは地上天国を復帰せしめるみ旨に対する神の予定が、絶対的であって、変更できないことを知っておられたから、彼は再臨して、そのみ旨を完成させようとなさったのである。それでは、十字架の犠牲は全く無為に帰したのであろうか。決してそうではない(ヨハネ三・16)。もしそうであったとしたら、今日のキリスト教の歴史はあり得なかったのである。我々の信仰生活の体験から見ても、十字架の贖罪の恩賜がいかに大きいかということは否定できない。そうであるから、十字架が贖罪の役割を果たしていることも事実であるが、それが、我々の原罪までも完全に脱がせてくれて、その結果、罪を犯そうとしても犯すことのできない創造本然の人間にまで復帰せしめて、地上天国を成し遂げるまでにはいかなかった、ということもまた事実である。そこで、十字架による贖罪の限界は、どの程度であるかが問題とならざるを得ない。この問題が解決できない限り、現代の知性人たちの信仰を教導することは不可能である。けれども、この問題を解決するためには、まず、イエス・キリストの十字架の死に対する問題が明確に分からなければならない。

(三)イエスの十字架の死
 我々はまず、聖書に表された使徒たちの言行を中心として、イエスの十字架の死が必然的なことであったかどうかということについて調べてみることにしよう。使徒たちがイエスの死に対して、共通に感ずるはっきりとした一つの情念がある。それは、彼らがイエスの死を恨めしく思い、悲憤慷慨したということである。彼らは、イエスを十字架につけたユダヤ人たちの無知と不信とに憤慨して、その悪逆無道な行為を呪った(使徒七・5153)。そればかりでなく、今日に至るまでのすべてのキリスト教信徒たちも、また当時の使徒たちと同じ心情をもちつづけてきたのである。もしも、イエスの死が神の予定からきた必然的な結果であったならば、使徒たちが、彼の死を悲しむということは避けられない人情であるとはいえ、神の予定どおりに運ばれたその摂理の結果に対して、それほどまでに憤慨したり、恨んだりすることはないはずである。これを見てもイエスは穏当でない死を遂げられたことが推測できるのである。
 そのつぎに、我々は神の摂理から見て、イエスの十字架の死が、果たして神の予定から起こった必然的な結果であったかどうかについて調べてみることにしよう。神は、アブラハムの子孫からイスラエル選民を召し、彼らを保護育成され、ときには彼らを苦難と試練を通して導かれた。また、多くの預言者たちを彼らに遣わして慰めながら、将来、メシヤを送ることを固く約束されたのである。それから、彼らをして幕屋と神殿を建てさせることによって、メシヤを迎える準備をさせ、東方の博士、羊飼い、シメオン、アンナ、洗礼ヨハネを遣わして、メシヤの誕生と彼の顕現を広く証された。特に、洗礼ヨハネに対しては、彼が懐胎されるとき、天使が現れて証した事実をユダヤ人たちはみな知っていたし(ルカ一・13)、彼が生まれたときの奇跡は、当時のユダヤ国中を大きく驚かせた(ルカ一・6366)。そればかりでなく、荒野における彼の修道生活は、全ユダヤ人をして、彼こそがメシヤではあるまいかと思わせるほど、驚くべきものであった(ルカ三・15)。神がこのように偉大な洗礼ヨハネまでも遣わして、イエスをメシヤとして証明させたのは、いうまでもなく、ユダヤ人をしてイエスを信じさせるためであった。このように、神のみ旨があくまでも、イスラエルをしてイエスをメシヤとして信ずるようにするためであったので、神のみ旨のとおりに生きるべきイスラエル人は彼をメシヤとして信じなければならなかった。もし、彼らが、神のみ旨のとおりに、イエスをメシヤとして信じたならば、悠久なる歴史の期間を通じて待った、そのメシヤを、だれが十字架につけて殺したであろうか。イスラエル人がイエスを十字架につけたのは、どこまでも彼らが神のみ旨に反し、イエスをメシヤとして信ずることができなかったからである。したがって、我々は、イエスが十字架上で殺されるために来られたのではないということを知らなければならない。
 また、我々は、イエス自身の言行から見て、彼の十字架の死が、果たしてメシヤとして来られたその全目的を果たされるための道であったか、ということについて調べてみることにしよう。
 神のすべての摂理がそうであったように、イエスも、ユダヤ人に対して、自分をメシヤとして信ずることができるように語り、行動されたという事実を、我々は聖書を通して、はっきりと知ることができる。イエスは、弟子たちがいかにすれば神のみ業を行うことができるかと聞いたとき、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざである」(ヨハネ六・29)と彼は答えられた。また、イエスは、ユダヤ人たちの背信行為を痛ましく思い、訴えるところなく、都を見渡して泣きながら、神が二〇〇〇年間も苦労して愛し導いてこられた全イスラエル選民はもとより、この城までも、一つの石も他の石の上に残さず滅ぼされてしまうと嘆かれて、「それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」(ルカ一九・4144)と、明白にその無知を指摘されたのである。それだけではなく、イエスは、「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった」(マタイ二三・37)と言いながら、彼らの頑固と不信を嘆かれたのであった。イエスは、自分のために証している聖書を見ながらも信じない、彼らの無知を責めながら、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない」(ヨハネ五・3940)と悲しまれた。また、彼は「わたしは父の名によって来たのに、あなたがたはわたしを受けいれない」と嘆きながら、「もし、あなたがたがモーセを信じたならば、わたしをも信じたであろう。モーセは、わたしについて書いたのである」(ヨハネ五・4346)とも言われた。
 イエスは、彼らを信じさせるために、いかに多くの奇跡を見せられたことであろう。ところが、彼らはその驚くべき業を見ながらも、悪霊のかしらベルゼブルによるのだと、イエスを非難したのではなかったか(マタイ一二・24)。このような悲惨な情景を見られたイエスは、「たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ一〇・38)とも言われた。そればかりでなく、ときには、彼らに災いあれと憤激されたこともあった(マタイ二三・1336)。イスラエルをして彼を信ぜしめるのが神のみ旨であったから、イエス自身も、このように彼らに自分を信じることができるように語られ、行動されたのである。もし、ユダヤ人たちが神のみ旨に従い、そして、イエスの願いのとおり、彼をメシヤとして信じたならば、だれが彼を死の十字架に追いこんだであろうか。
 我々は、既に論述したすべての事実から見て、イエスの十字架の死は、彼がメシヤとして来られた全目的を完成するための予定から起こった必然的なことではなく、ユダヤ人たちの無知と不信の結果に起因したものであることを知ることができる。それゆえに、コリント二章8節の「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」といった聖句は、まさしくこの事実を十分に証言しているといえる。もし、イエスの十字架の路程が、神が本来予定された路程であったならば、彼は当然行くべき道を歩んでいることになり、何のために、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と、三回も祈祷されたであろうか(マタイ二六・39)。これは、人間が堕落して以後四〇〇〇年間も、神が成し遂げようとして苦労された地上天国が、ユダヤ人の不信によって成就されずに、イエスが再臨されるまで、苦難の歴史がそのまま延長されるということをよく知っておられたからである。
 ヨハネ福音書三章14節を見れば、イエスは、「モーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない」と言われた。イスラエル民族がエジプトからカナンに入るときに、火の蛇が出て、彼らをかみ殺すようになったので、神は銅の蛇をさおの先に付けさせて、それを仰ぎ見る者は救われるようになさった。それと同様に、ユダヤ民族が、イエスを信じないことから、万民が地獄へ行かなければならなくなったので、将来、イエスが銅の蛇のように十字架につけられたのち、それを仰ぎ見て信じる者だけが、救いを受けることができるようになるということを予見されて、イエスは悲しい心情をもって、そのように言われたのである。
 イエスが預言されたように(ルカ一九・44)、彼が亡くなられたのち、イスラエル選民が衰亡したのを見ても、イエスはユダヤ人たちの不信によって死の十字架につけられたことが分かる。イザヤ書九章6節以下に、「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである」と記録されている。これは、イエスがダビデ王の位をもってきて、永遠に滅びない王国を建てることを預言したみ言である。それゆえに、イエスが懐胎されるときも、天使がマリヤに現れて、「見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう、その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」(ルカ一・3133)というみ言を伝えたのである。
 これによって、神がアブラハムからイスラエル選民を召し、二〇〇〇年間も苦難の中で導いてこられたのは、イエスをメシヤとして降臨させて、永遠に存続する王国を打ち建てるためであったことが了解できるのである。イエスがメシヤとして来られてから、ユダヤ人たちに迫害され十字架で亡くなられたのち、彼らは選民の資格を失い支離滅裂となって、今日に至るまで民族的な虐待を受けてきたのである。それは、彼らが信奉すべきメシヤをかえって殺害して、救いの摂理の目的を失敗させたその犯罪に対する罰であった。そればかりでなく、イエス以後数多くの信徒たちが経験してきた十字架の苦難も、イエスを殺害した連帯的犯罪に対する刑罰であったのである。

(四)十字架の贖罪による救いの限界とイエス再臨の目的
 もし、イエスが十字架で死ななかったならば、どんなふうになったであろうか。イエスは霊肉両面の救いの摂理を完遂されたであろう。そして、預言者イザヤの預言(イザヤ九・6、7)と、マリヤに現れた天使の啓示(ルカ一・3133)のとおり、また、イエスが親しく、天国は近づいたと言われたみ言(マタイ四・17)のように、彼は永遠に滅びない地上天国を建設されたはずであった。
 神は人間を創造されるとき、土で肉身を創造され、そこに命の息を吹き入れて生霊となるようにされた(創二・7)。このように、霊と肉から創造された人間であるので、堕落もまた霊肉共に起きてきた。したがって、救いも霊的救いと、肉的救いとを共に完成しなければならないのである。イエスがメシヤとして降臨された目的は、この救いの摂理を完遂なさるためであったので、彼は霊的救いと肉的救いとを共に完成しなければならなかったのである。イエスを信じることは、イエスと一体となることを意味するので、イエスは自らをぶどうの木に、信徒たちをその枝に例えられ(ヨハネ一五・5)、また「あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」(ヨハネ一四・20)とも言われた。このように言われた理由は、堕落人間を霊肉共に救うために、彼が人間として来られたので、彼を信じて霊肉共に彼と一体となったならば、堕落人間も霊肉共に救いを受けたに違いないからである。ところが、ユダヤ人たちがイエスを信じないで、彼を十字架につけたので、彼の肉身はサタンの侵入を受け、ついに殺害されたのである。そのため肉身にサタンの侵入を受けたイエスを信じて、彼と一体となった信徒の肉身も、同じようにサタンの侵入を受けるようになったのである。
 こういうわけで、いくら篤信者であっても、イエスの十字架の贖罪では、肉的救いを完成することができなくなったのである。したがって、アダム以来の血統的原罪は清算することができず、いくら誠実によく信じる信徒であっても、彼に原罪がそのまま残るようになり、また、原罪のある子女を生むようになるのである。我々が信仰生活において、肉身の苦行をしなければならないのは、原罪が残っているところから、絶え間なく肉身を通じて入ってくるサタン侵入の条件を防ぐためであり、「絶えず祈りなさい」(テサロニケ五・17)と言われたのも、このように、十字架の贖罪によっても根絶できなかった、原罪によるサタン侵入の条件を防ぐためなのである。
 上述のように、イエスは、彼の肉身がサタンの侵入を受けたので、肉的救いの摂理の目的は達成されなかったのである。しかし、彼は十字架の血の贖罪で、復活の勝利的な基台を造成することによって、霊的救いの基台を完成された。それゆえ、イエス復活以後、今日に至るまでのすべての信徒たちは、霊的救いの摂理の恵沢だけを受けることができるのである。このように、十字架の贖罪による救いは霊的な救いだけで、篤信者といっても、原罪は肉的に依然として残っており、それが引き続きその子孫たちに遺伝してきたのである。このために、信徒たちはその信仰が深くなればなるほど、罪に対して熾烈な闘いをするようになる。このようにイエスは十字架で清算できなかった原罪を贖って、肉的救いを完成し、霊肉ともの救いの摂理の目的を完遂なさるために、地上に再臨されなければならなくなったのである。
 上記のように、十字架の贖いを受けた信徒たちも、原罪と闘わなければならないので、使徒の中で信仰の中心であったパウロも、肉的に入ってくる罪悪の道を防ぐことができない自身を嘆いたあげく、「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって……わたしをとりこにしているのを見る」(ロマ七・2223)と言った。これは、霊的救いの完成に対する喜びと同時に、肉的救いの未完成に対する悲嘆を表明したものといえる。また、ヨハネ一章8節から10節に「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない……もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって」と言ったヨハネの告白のとおり、イエスの十字架の救いを受けている我々も、依然として原罪のために罪人であることを免れることはできないのである。

(五)十字架に対する預言の両面
 イエスの十字架の死が、メシヤとして来られた全目的を完成するための予定からきた必然的な事実でないならば、イザヤ書五三章に、彼が十字架の苦難を受けることが預言されている理由はどこにあるのだろうか。今まで、我々は、イエスが苦難を受ける預言のみ言だけが聖書にあると思っていた。しかし、原理が分かって聖書を再読すれば、旧約時代に、既に預言者イザヤによって預言されたイザヤ書九章、一一章、六〇章などのみ言どおり、神がマリヤに天使を遣わして、将来懐胎されるイエスが生きておられる間にユダヤ人の王となり、世々限りなく滅びることのない王国を地上に建設されることを預言された事実が分かるようになる(ルカ一・3133)。それでは、なぜこのように、イエスに対する預言が両面をもってなされているかということについて、調べてみることにしよう。
 神は人間を創造されるときに、人間自身が責任分担を果たすことによってのみ完成できるように創造された(前編第一章第五節(二)(2))。ところが実際においては、人間始祖は彼らの責任分担を完遂できずに堕落してしまった。このように、人間は神のみ旨のとおりに、自分の責任分担を完遂することもできるが、反対に、神のみ旨に反して、その責任分担を果たさないことも起こり得たのである。
 このような例を聖書で挙げてみれば、善悪の果を取って食べないのが人間の責任分担であった。アダムは神のみ言により、それを取って食べないで完成することもできるが、その反面、結果に表れた事実のように、取って食べて死ぬようなことも起こり得る事実だったのである。また、神は旧約時代の救いの摂理のための人間の責任分担の条件として、十戒を下さった。人間はそれを守って救いを受けることもできるが、またそれを守らずに滅びることもあり得ることだったのである。エジプトからカナンの福地に向かって出発したイスラエル民族が、モーセの命令に服従することは、彼ら自身が立てるべき責任分担であったので、彼らがモーセの命令に従順に従ってカナンの福地に入ることもできるが、また、従わずに入れないということもあり得たのである。事実、神はモーセが、イスラエル民族を導いてカナンの福地に入ることを予定されて(出エ三・8)、彼にこれを命令されたが、不信によって、彼らはみな荒野で倒れ、その子孫たちだけが目的地を求めていくことができたのである。
 このように、人間には、人間自身が遂行すべき責任分担があって、神のみ旨どおりにそれを成し遂げることもできるし、逆に、そのみ旨に反して、成し遂げられないこともあり得る。このように、人間は人間自身の責任分担の遂行いかんによっては、そのいずれの結果をももたらすようになるのである。したがって、神はみ旨成就に対する預言を両面性をもってなさざるを得なかったのである。
 メシヤを遣わすことは、神の責任分担であるが、来られるメシヤを信ずるか否かは、人間の責任分担に属する。それゆえに、遣わしてくださるメシヤを、ユダヤ民族が神のみ旨のとおりに信じることもできるが、神のみ旨に反して信じないということも起こり得ることだったのである。したがって、人間の責任分担の遂行いかんによって生ずる両面の結果に備えて、神はイエスのみ旨成就に対する預言を二とおりにせざるを得なかったのである。そうであるから、イザヤ書五三章の記録のように、ユダヤ民族が信じない場合に対する預言もなさったのであるが、また、イザヤ書九章、一一章、六〇章とルカ福音書一章31節以下の記録のように、彼らがイエスをメシヤとして侍って、栄光の中にみ旨を成就するという預言もされたのである。しかし、ユダヤ人の不信により、イエスは十字架に亡くなられたので、イザヤ書五三章の預言だけがなされ、イザヤ書九章、一一章、六〇章とルカ福音書一章31節以下の預言は、みな再臨されてから成し遂げられるみ言として残されてしまったのである。

(六)十字架の死が必然的なもののように記録されている聖句
 福音書を見れば、イエスの十字架の苦難が必然的であるかのように記録されているところが多い。その代表的なものを挙げてみれば、イエスが十字架で苦難を受けることを預言されたとき、これを止めるペテロを見て、「サタンよ、引きさがれ」(マタイ一六・23)と責められたことから見て、彼の十字架の死は必然的であったかのように感じられる。そうでなければ、イエスはどうして、ペテロをそれほど責められたのだろうか。これは、実のところ、イエスはそのとき既に、ユダヤ人たちの不信により、結局、霊肉ともの救いの摂理は完成することができない状態になっていたので、霊的救いだけでも達成なさるために、その蕩減条件として、やむを得ず十字架の道を行くことに決定されたときだったからなのである(ルカ九・31)。そんなときに、ペテロがこの道を遮るのは、結局、十字架による霊的救いの摂理の道さえも妨害することになるので、このように責められたのである。
 また、イエスが十字架上で「すべてが終った」(ヨハネ一九・30)と、最後のみ言を残されたのは、十字架上で救いの摂理の全目的が完成されたという意味ではない。ユダヤ人たちの不信は、もはや、取り返すことができないものであると悟られたので、その後、肉的救いは再臨後の摂理として残し、せめて霊的救いの摂理の基台だけでも造成なさるために、十字架の路程を行かれたのである。それゆえに、「すべてが終った」と言われたみ言は、ユダヤ人たちの不信により、第二次的な救いの摂理の目的として立てられた十字架による霊的救いの摂理の基台が、すべて終わったということを意味するのである。
 我々が正しい信仰をもつためには、第一に祈祷により、神霊によって、神と直接霊交すべきであり、その次には、聖書を正しく読むことによって、真理を悟らなければならない。イエスが神霊と真理で礼拝せよ(ヨハネ四・24)と言われた理由はここにある。
 イエス以後今日に至るまで、あらゆる信徒たちは、イエスは十字架の死の道を行かれるために、この世に降臨されたとばかり考えていた。しかし、これは、イエスがメシヤとして来られた根本目的を知らず、霊的救いがイエスの帯びてこられた使命の全部であるかのように誤解していたからである。生きてみ旨を完成するために降臨されたのにもかかわらず、ユダヤ人の不信によって、願わざる十字架の道を行かれたイエスの悲痛な心情を晴らし、彼のみ旨に協力する新婦が、もし地上に現れなければ、イエスはいったいだれと共にそのみ旨を完成しようとして再臨されるであろうか。「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ一八・8)と言われたイエスのみ言は、まさしくこのような人間の無知を予想されて慨嘆されたみ言であった。ここで我々は、聖書を中心として、イエスはあくまでも死ぬために降臨されたのではなかったという事実を明らかにしたが、霊交によって、イエスに直接聞いてみれば、一層明白にこの事実を知ることができる。もしも、自分が霊通できないならば、他人の証を通じてでも、正しい信仰をもって初めて、終末において、メシヤを迎えることができる新婦の資格を備えることができるのである。

第二節 エリヤの再臨と洗礼ヨハネ

(一)エリヤの再臨を中心とするユダヤ人たちの心的動向
(二)ユダヤ民族の行く道
(三)洗礼ヨハネの不信
(四)洗礼ヨハネがエリヤになった理由
(五)聖書に対する我々の態度

 エリヤが再臨するということは、既に、マラキ預言者が預言したことであって(マラキ四・5)、洗礼ヨハネが、正に再臨したエリヤであるということは、イエスの証言であったのである(マタイ一一・14、マタイ一七・13)。ところが、洗礼ヨハネがエリヤの再臨者であったということは、一般ユダヤ人はもちろん、洗礼ヨハネ自身も知らなかったので(ヨハネ一・21)、このときから、イエスに対する洗礼ヨハネの疑惑(マタイ一一・3)と、これに伴うユダヤ人たちの不信は日増しに深くなって、ついにはイエスが十字架の道を行かなければならなくなったのである。

(一)エリヤの再臨を中心とするユダヤ人たちの心的動向
 統一王国時代において、ソロモンの堕落により、彼の神殿理想はサタンの侵入を受けるようになった。そして、成就できなかった神殿理想を再び探し立てて、実体神殿としてのメシヤを迎えさせるために、神は四大預言者と十二小預言者を遣わし、サタン分立の摂理をされた。また、神は特別預言者エリヤを遣わし、カルメル山でバアル預言者たちと対決させて、バアル神を滅ぼされたのも、このような理想実現のみ言を遮るサタンを滅亡させるためであった。しかし、エリヤは彼の天的な使命を完遂できずに昇天したので(列王下二・11)、メシヤを迎えるためにサタンを分立していく路程で、再びサタンが横行するようになったのである。ゆえに、イエスの実体神殿理想が成し遂げられるためには、前もって、エリヤが地上で完遂できなかった、サタン分立の使命を継承完遂せしめる摂理がなくてはならない。このような摂理的な必然性によって、預言者マラキは、エリヤが再臨することを預言したのであった(マラキ四・5)。
 預言者たちの預言を信じていたユダヤ人たちの唯一の願いは、もちろんメシヤの降臨であった。けれども、それ以上にユダヤ人たちが渇望してきたのは、エリヤの再臨であったのである。なぜならば、上述したように、神はマラキ預言者を通じて、メシヤの降臨に先立ち、彼の道を直くするために、預言者エリヤを遣わされると、はっきり約束されたからである(マラキ四・5)。ところが、エリヤは既に、イエスが誕生される九〇〇余年前に昇天した預言者であって(列王下二・11)、彼は確かに霊界におり、イエスの弟子たちに現れた事実があった(ルカ九・30)。そこで、ユダヤ民族は天にとどまっているエリヤが再び来るときには、必ず前に昇天したそのままの様子で天から降りてくるだろうと信じていた。あたかも、今日のキリスト教信徒たちが、イエスが雲に乗って再臨されるものと考えて、天を仰ぎ見ているように、当時のユダヤ人たちも、天を仰ぎ見ながらエリヤが再臨することを待ち望んだのであった。
 しかし、預言者マラキの預言にあった、エリヤの再臨の消息もないのに、イエスが突然メシヤを自称して現れたため、エルサレムに一大混乱が起こったのは当然であった。それゆえに、マタイ福音書一七章10節を見れば、弟子たちが行く先ごとに、もし、イエスがメシヤならば、それより先立って来ると約束されている(マラキ四・5)エリヤは、どこに来ているかという攻撃を受けるようになった。弟子たちはその答えに困って、直接イエスに質問した結果(マタイ一七・10)、まさしく、洗礼ヨハネこそ彼らが待ち望んでいたエリヤであるとイエスは答えられたのである(マタイ一一・14、マタイ一七・13)。弟子たちはイエスをメシヤとして信奉していたので、洗礼ヨハネが確かにエリヤであると言われたイエスの証言を、そのまま信じることができたが、イエスがだれであるかも知らない他のユダヤ人たちは、いったいどうしてイエスのこのような証言を、そのまま受け入れられるだろうか。イエス自身も、ユダヤ人たちが、自分の証言を喜んで受け入れないだろうということを知っておられたので、「もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである」(マタイ一一・14)と言われたのである。しかしユダヤ人たちをして、洗礼ヨハネがエリヤであると言ったイエスの証言を一層信じられなくしたものは、ヨハネ福音書一章21節の記録に見るように、やはり、洗礼ヨハネ自身が既に、自分はエリヤでないとはっきり否認したことであった。

(二)ユダヤ民族の行く道
 イエスは、洗礼ヨハネを指して、彼こそまさしく、ユダヤ人たちが待ち望んでいたエリヤであると言われたのであるが(マタイ一一・14)、これと反対に、当人である洗礼ヨハネ自身は、既にこの事実を否認してしまった。ではいったいユダヤ民族は、だれの言葉を信じ、従っていくべきなのであろうか。それはいうまでもなく、当時のユダヤ人たちの目に、イエスと洗礼ヨハネの二人のうち、だれがより信じられる人物として映ったかによって、左右される問題であると見なければならない。
 それでは先に、当時のユダヤ民族の立場から見て、イエスの姿がどんなふうに映ったかを調べてみることにしよう。イエスは貧しい大工の家庭で成長した一人の無学な青年であった。このような青年が名もない布教者として立ちあがり、自ら安息日の主であると称しながら、ユダヤ人たちが命のごとく考える安息日を破った(マタイ一二・1〜8)。それだから、イエスはユダヤ人の救いの基準である律法を廃する人として知られるようになったのである(マタイ五・17)。したがって、イエスはユダヤ人の指導者たちから信じられなくなり、やむを得ず、漁夫を呼んで弟子とし、取税人と遊女と罪人たちの友達となって、共に食べたり、飲んだりしたのである(マタイ一一・19)。そうしながらイエスは、ユダヤ人の指導者たちよりも、取税人と遊女の方が先に天国に入る(マタイ二一・31)と主張された。
 一人の女がイエスの足を涙でぬらし、自分の髪でぬぐい、その足に接吻して、高価な香油を塗ったことがあった(ルカ七・3738)。このような行動は、今日の社会においても許容し難いことであるが、まして、淫行の女は石で打ち殺してもよいというほど、ユダヤ人の厳格な倫理社会において、どうしてそれを許容できるであろうか。しかも、イエスはこれを受け入れたばかりでなく、その女の態度を非難する弟子たちをとがめ、かえってその女を称賛された(ルカ七・4450、マタイ二六・7〜13)のである。
 また、イエスは自分を神と同等な立場に立てて(ヨハネ一四・9)、自分によらないでは天国に入ることができないと主張し(ヨハネ一四・6)、自分を彼らの父母や兄弟、妻子よりも、もっと愛さなければならないと強調された(マタイ一〇・37、ルカ一四・26)。イエスの姿は、このようなものであったので、ユダヤ人の指導者たちは、彼を悪霊のかしらベルゼブルに接した者と非難し、嘲笑した(マタイ一二・24)。イエスに対するこのような前後の事情を総合してみるとき、当時のユダヤ人たちの目に映ったイエスは、決して信じられる存在ではなかったのである。
 つぎに、我々は当時のユダヤ民族の立場から見た洗礼ヨハネの姿は、どんなものであったかについて調べてみることにしよう。洗礼ヨハネは、当時の名門の出である祭司ザカリヤの子として生まれた(ルカ一・13)。彼の父親が聖所で香を焚いていたとき、その妻が男の子を懐胎するだろうという天使の言葉を信じなかったために唖となったが、ヨハネが出生するや否や口がきけるようになった。この奇跡によって、ユダヤの山野の隅々に至るまで世人を非常に驚かせた(ルカ一・8〜66)。そればかりでなく、荒野でいなごと野蜜を食しながら修道した素晴らしい信仰生活を見て、一般ユダヤ人たちはもちろん、祭司長までも、彼がメシヤではないかと問うほどに(ルカ三・15、ヨハネ一・20)素晴らしい人物に見えたのである。
 既に明らかにしたように、その当時の事情から見て、ユダヤ人たちの立場から、イエスの姿と洗礼ヨハネの姿とを比較してみるとき、果たして彼らはだれの言葉がより信じられたであろうか。それは洗礼ヨハネの言葉であったということはいうまでもない事実である。したがって、ユダヤ人たちが、洗礼ヨハネのことをエリヤであると言ったイエスの証言よりも、自分はエリヤではないと否認した洗礼ヨハネの言葉の方を、一層信じたのは当然であった。ユダヤ人たちが洗礼ヨハネの言葉を信じるようになったとき、イエスの証言はメシヤを自称するための一種の偽証となってしまったので、イエスは自然、妄言者として追いつめられざるを得なかったのである。
 このように、イエスが妄言者として追いつめられるようになったとき、既に述べたようなイエスの姿はみな、ユダヤ人たちには疑わしいものばかりであったから、イエスに対する彼らの不信の度は、だんだんと深まるばかりであった。ユダヤ人たちがイエスを信じないで、洗礼ヨハネの言葉を信じるようになれば、エリヤはまだ来ていないと考えるよりほかはなく、したがって、メシヤが降臨されたということは、想像さえすることができなかったのである。
 このような観点から見るとき、ユダヤ人たちは、マラキの預言を信じる立場に立てば、まだエリヤは来ていないのであるから、メシヤとして自称するイエスを見捨てるよりほかはなく、これと反対に、イエスを信じる立場に立てば、エリヤが来たのちにメシヤが来ると預言した聖書を捨てる以外にはないという二者択一の立場であった。そこで、到底神の預言を捨てることができなかったユダヤ人たちは、やむを得ず、イエスを信じない道を選ぶ以外に仕方がなかったのである。

(三)洗礼ヨハネの不信
 既に詳述したように、当時の祭司長や、全ユダヤ人たちが、洗礼ヨハネを崇敬するその心は、ついに彼をメシヤであると信じさせるまでに至った(ルカ三・15、ヨハネ一・20)。したがって、もし洗礼ヨハネが、イエスが証言されたとおり、自分が正にそのエリヤであると宣布したならば、メシヤを迎えるためにまずエリヤを待ち望んでいた全ユダヤ人たちは、当然、その洗礼ヨハネの証言を信じるようになり、みな、イエスの前に出たに相違ない。しかし、最後まで自分はエリヤではないと主張した洗礼ヨハネの、神の摂理に対する無知は、ユダヤ人たちがイエスの前に出る道をふさいでしまう主要な原因となったのである。
 かつて洗礼ヨハネは、自分は水で洗礼を授けるが、自分のあとから来る人(イエス)は、火と聖霊とによって洗礼を授ける方であり、自分は彼の靴を脱がせてあげる値打ちもないと証言した(マタイ三・11)。そればかりでなく、ヨハネ福音書一章33節から34節を見れば「わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかた(神)が、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人(キリスト)こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」と言った洗礼ヨハネの告白が記録されている。このように、神は、イエスがメシヤであるということを、洗礼ヨハネに直接教示された。洗礼ヨハネ自身も、またそのように証した。また、ヨハネ福音書一章23節を見れば、自分は彼の道をまっすぐにするための使命をもってきたと証した。それだけではなく、ヨハネ福音書三章28節には、自分はキリストに先立って遣わされた者であることを言明した記録がある。それだから、洗礼ヨハネは、当然自分がエリヤであるという事実を、自らの知恵で悟らなければならなかった。たとえ、洗礼ヨハネがその事実をまだ自覚できなかったとしても、既に、天からイエスがメシヤであるという証を受けて知っていた上に(ヨハネ一・3334)、イエスが親しく自分をエリヤであると証言なさったのであるから、そのみ言に従い、私こそ、まさしくエリヤであると、遅ればせながらでも宣布するのが、当然の道理であった。しかし、彼は神のみ旨に対して無知であったので(マタイ一一・19)、イエスの証言を否認したばかりでなく(ヨハネ一・21)、そののちにも、摂理の方向と道を異にして歩んだのである。このような洗礼ヨハネを見ているイエスの心情や、またこのような困難な立場におかれたイエスを見ておられる神の心情は、いかばかり悲しかったであろうか。
 事実、洗礼ヨハネがイエスに洗礼を授け、彼を証したことによって、彼の証人としての使命はみな終わったのであった。では、その後における彼の使命は何であったのだろうか。彼の父親ザカリヤは聖霊によって感動させられ、まだ胎内にいた洗礼ヨハネに対して「生きている限り、きよく正しく、みまえに恐れなく仕えさせてくださるのである」(ルカ一・75)と、彼の使命を明白に預言したのであった。それゆえに、洗礼ヨハネはイエスを証したのちには、彼の前に一人の弟子の立場で彼に従い、仕えなければならなかったのである。けれども、彼はその後、イエスと離れて、別に洗礼を授けていたので、ルカ福音書三章15節を見れば、ユダヤ人たちはかえって洗礼ヨハネをメシヤと混同したのである。また、ヨハネ福音書一章20節を見れば、祭司長までも、このように混同したことが分かるのである。そのことだけでなく、イエスに従う者と、洗礼ヨハネの弟子とが、お互いに自分の先生の方が洗礼を多く授けると、潔礼を中心として争ったこともあった(ヨハネ三・25)。ヨハネ福音書三章30節で、洗礼ヨハネが、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言っているのを見ても、彼はイエスと興亡盛衰の運命を共にしなかったということを、我々ははっきりと知ることができる。洗礼ヨハネがイエスと運命を全く共にする立場に立ったならば、何故に、イエスが栄えるときに彼は衰えるであろうか。事実上、イエスの福音は、だれよりも先に洗礼ヨハネ自身が伝えるべきであった。しかし、彼の無知によりこの使命を完遂することができず、ついには、イエスのためにささげるべき彼の命までも、あまり価値もないことのために犠牲にしてしまったのである。
 洗礼ヨハネは、その中心が天の方にあったときには、イエスをメシヤと知って証した。けれども、彼から霊的な摂理が切れて、人間洗礼ヨハネに立ち戻るや、彼の無知は、一層イエスに対する不信を引き起こすようになったのである。自分がエリヤである事実を自覚できなかった洗礼ヨハネは、特に、獄中に入ってから、他のユダヤ人たちと同じ立場で、イエスを見るようになった。したがって、イエスのすべての言行は人間洗礼ヨハネの目には、一様に理解できないものとして映るばかりであった。そればかりでなく、彼もやはり、エリヤが来る前に現れたイエスをメシヤとして信ずることができなかったので、結局、自分の弟子たちをイエスの方に送って、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」(マタイ一一・3)と質問して、その疑いを解決してみようとしたのである。しかし、このような洗礼ヨハネの質問を受けたイエスは、マタイ福音書一一章3節から19節に記録されているように、悲憤やるかたない思いで、警告の意味を強く込めた内容で答えられた。洗礼ヨハネはイエスに仕えるために胎内から選ばれ(ルカ一・75)、彼の道をまっすぐにするために、荒野で苦難の修道生活をしたのであった。さらにまたイエスが公生涯路程を出発されるときに、天はだれよりも先に、イエスがだれであるかを彼に教え、また、それを証言させてくださった。このような天の恩賜をそのまま受け入れなかった洗礼ヨハネから、そのような質問を受けたので、イエスは改めて、自分がまさしくメシヤであるとは答えられなかったのである。彼は、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている」(マタイ一一・4、5)と、婉曲な返事をなさった。もちろん、洗礼ヨハネがイエスのこのような奇跡を知らないはずがなかった。それにもかかわらず、イエスがこのように言われたのは、自身が行われたことを、洗礼ヨハネに再び想起させることによって、自分がだれであるかを知らせるためであった。
 貧しい人々が福音を聞かされている(マタイ一一・5)と言われたみ言には、洗礼ヨハネとユダヤ人たちの不信に対するイエスの悲愴な心情が潜んでいることを知らなければならない。選民として呼ばれたユダヤ民族、その中でも、特に洗礼ヨハネは、天の愛をあふれるほど受けた恵まれた者であった。しかし、彼らはみなイエスに逆らったので、イエスは仕方なく、ガリラヤの海辺からサマリヤの地を遍歴しながら、貧しい者のうちで福音を受ける者を求められたのであった。無学不識な漁夫と取税人と遊女たちは、みなこのような貧しい者たちであった。事実、イエスが探し求めようとした弟子たちは、そのような者たちではなかったのである。地上天国を建設するために来られたイエスであるから、彼には、ただ従ってくるだけの千人よりも、先に立って千人を指導できる一人の指導者の方がより必要だったのである。ゆえに、イエスは天があらかじめ備えた能力ある群れを探すために、一番先に神殿に入り、祭司長と律法学者たちに福音を伝えたのではなかったか。
 しかし、イエスが親しく言われたように、あらかじめ備えられた宴席に招待を受けた客たちは一人も応じなかったので、やむを得ず町の通りに出て、彷徨する乞食どもを呼び集めなければならなかったのである。このように、招かれざる客をしか迎えに出られぬイエスの悲しい心情から、ついに、「わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイ一一・6)という審判のみ言が吐かれたのである。洗礼ヨハネは当時のユダヤ人たちが、あるいはメシヤ、あるいはエリヤ、あるいは預言者であると考えるくらいに立派な人であった(ルカ三・15、ヨハネ一・2021)。ところが、いくら立派な人であっても、自分(イエス)につまずいた者には何の幸いがあるだろうか、という間接的な表現を通して、洗礼ヨハネの運命を審判されたのである。それでは、洗礼ヨハネはいかなるつまずきをしたのであろうか。それは、既に上述したように、彼は一生涯従い、仕えるべき使命があったのを果たすことができなかったということである。
 質問に来た洗礼ヨハネの弟子たちが去ったのち、イエスは使命的な面から見て、洗礼ヨハネは本来最も偉大な預言者として来たにもかかわらず、今、任されたその使命を果たさない立場にいるのを指摘されて、「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」(マタイ一一・11)と言われた。天国にいるあらゆる人たちは、地上の女から生まれ、地上生活を通過していった人たちである。女の人が生んだ者の中で一番大いなる人であるならば、天国でも一番大いなる者になるべきであるのに、歴史上一番大いなる者として地上に生まれた洗礼ヨハネが、どうして天国では最も小さい者よりも劣るのであろうか。昔の多くの預言者たちは、将来来られるメシヤを、時間的に遠い距離において、間接的にこれを証したのであった。しかし、洗礼ヨハネは、メシヤを直接的に証言する使命を帯びて来たのであった。それゆえに、メシヤを証言することが預言者の使命であるならば、証する立場から見て、メシヤを直接に証した洗礼ヨハネは、間接的に証言をしたいかなる預言者よりも偉大であったのである。ところが、メシヤに仕えるという点から見るとき、彼は一番小さい者であらざるを得なかった。なぜならば、天国ではいかに小さな者であっても、早くからイエスをメシヤと知って仕えているのに、だれよりもメシヤに近く仕えるべき位置に召された洗礼ヨハネが(ルカ一・75)、かえって、イエスと別個の道を歩いたからである。それで、彼は天国のごく小さい者よりも、イエスを信奉しない立場におかれるようになったのである。また、その次の節には、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている」と記録されている。メシヤに仕えるために胎内より選ばれ、荒野でそれほど難しい修道生活をしてきた洗礼ヨハネが、イエスによく仕えたならば、彼は必然的に、イエスの一番弟子になるはずであった。しかし、その使命を果たさなかったので、イエスの一番弟子の位置はペテロに奪われてしまった。ここに、「洗礼ヨハネの時から今に至るまで」と、時間的な限界をおいたのを見れば、その次に記録されているみ言は、一般の人に対して言われたのでなく、洗礼ヨハネに対して言われたみ言であることが分かる。イエスは結論的に、「知恵の正しいことは、その働きが証明する」と言われた。洗礼ヨハネに知恵があって、知恵のある行動をとったならば、イエスのひざもとを離れることもなかったし、したがって、彼の行跡は永遠に義なるものとして残るべきであったが、不幸にも彼は無知であったので、彼自身はもちろんのこと、ユダヤ人たちがイエスの前に出る道さえも、みな遮ってしまったのである。我々は、これによって、イエスが十字架の死を遂げるようになった大きな要因が、洗礼ヨハネにあったことが分かるのである。また、使徒パウロがコリント二章8節に、「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう」と言い、洗礼ヨハネをはじめ、すべてのユダヤ人たちが知恵がなくて、イエスを十字架につけてしまったと、嘆いた事実のあることも分かる。

(四)洗礼ヨハネがエリヤになった理由
 我々は上述した事実(本章第二節(一))により、エリヤが地上で、全部果たせなかった使命を継承完成するために、洗礼ヨハネが来たことを知った。彼は、ルカ福音書一章17節に記録されているとおり、エリヤの心霊と能力をもって、主のみ前に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いをもたせて、整えられた民を主に備えるために生まれた人物であった。それゆえに、彼は使命的な立場から見て、エリヤの再臨者となるのである。これに対する詳細なことは、復活論で明らかにするが、エリヤは地上にいる洗礼ヨハネに再臨して、彼が使命を全うするように協助して、自分が地上の肉身生活で果たせなかった使命を、洗礼ヨハネの肉身を通して、彼によって完成させようとしたのであった。したがって、洗礼ヨハネはエリヤの肉身の身代わりとなる立場にあったので、使命を中心として見れば、彼はエリヤと同一の人物になるのである。

(五)聖書に対する我々の態度
 我々は、既に、聖書のみ言によって、イエスに対する洗礼ヨハネの無知と不信は、ユダヤ人たちの不信を招来し、ユダヤ人たちの不信は、ついにイエスを十字架につけるようになってしまったという事実を知った。
 しかし、イエス以後今日に至るまで、このような天的な秘密を明らかにした人は一人もいなかった。これは、洗礼ヨハネを無条件に偉大な預言者であると断定した立場からのみ聖書を見てきたからである。我々は、因習的な信仰観念と旧態を脱けでられないかたくなな信仰態度を、断固として捨てなければならないことを、この洗礼ヨハネの問題を通じて教えられる。使命を果たして行った洗礼ヨハネを、使命を果たさなかったと信じることも不当であるが、事実上、使命を果たさなかった洗礼ヨハネを、よくも知らずに、全部果たしたと信じることも正しい信仰ではない。我々は神霊面においても、真理面においても、常に正しい信仰をもつために努力しなければならない。我々は、今まで、聖書のみ言により、洗礼ヨハネの真相を明らかにしたが、だれでも霊通して、霊界にいる洗礼ヨハネの姿を直接見ることができる信徒たちには、ここに記録されたみ言がみな真実であるということを、もっとよくのみこむことができるであろう。

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第五章 復  活  論

第一節  復活
第二節  復活摂理
第三節  再臨復活による宗教統一
 聖書の預言を、文字どおりそのまま受け入れるとすれば、イエスが再臨されるときには、既に土の中に葬られて、元素化されてしまったすべての信徒たちの肉身が、再び元どおりの姿によみがえって、出てくるものと見なければならない(テサロニケ四・16、マタイ二七・52)。これは、神が下さったみ言であるから、我々の信仰的な立場においては、そのまま受け入れなければならない。しかし、これは現代人の理性では到底納得できない事実である。そのため結局我々の信仰生活に大きな混乱をきたすようになる。したがって、この問題の真の内容を解明するということは、極めて重要なことであるといわなければならない。

第一節 復   活

(一)死と生に対する聖書的概念
(二)堕落による死
(三)復活の意義
(四)復活は人間にいかなる変化を起こすか

 復活というのは、再び活きるという意味である。再び活きるというのは、死んだからである。そこで、我々が復活の意義を知るためには、まず、死と生に対する聖書的な概念をはっきり知らなければならないのである。

(一)死と生に対する聖書的概念
 ルカ福音書九章60節の記録を見れば、父親の葬式のために自分の家へ帰ろうとする弟子に、イエスは死人を葬ることは、死人に任せておくがよいと言われた。我々はこのイエスのみ言の中で、死と生に対して互いにその意義を異にする二つの概念があるということを知ることができる。第一は、葬られなければならない、その弟子の父親のように、肉身の寿命が切れた「死」に対する生死の概念である。このような死に対する生は、その肉身が生理的な機能を維持している状態を意味する。第二は、その死んだ父親の葬式をするために、集まって活動している人たちを指摘していう「死」に対する生死の概念である。それではどうしてイエスは、現在その肉身を動かしている人たちを指摘して、死んだ人と言われたのだろうか。それは彼らがイエスに逆らって、神の愛から離れた位置、すなわちサタンの主管圏内にとどまっていたからである。ゆえに、この死は肉身の寿命が切れる死を意味するのではなく、神の愛の懐を離れて、サタンの主管圏内に落ちこんだことを意味する死のことなのである。したがって、このような「死」に対する「生」の意義は、神の愛の主管圏内において、神のみ言のとおりに活動している状態をいうのである。それゆえに、いくらその肉身が活動しているといっても、それが神の主管圏を離れて、サタンの主管圏内にとどまっているならば、彼は創造本然の価値基準から見て、死んだ人であるといわなければならない。これは、黙示録三章1節に記録されているように、不信仰的なサルデスにある教会の信徒たちに、「あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる」と言われたのを見ても分かる。その反面、既に、肉身の寿命が切れた人間であっても、その霊人体が、霊界において、神の愛の主管圏内にいるならば、彼はあくまでも、生きている人である。イエスが、「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ一一・25)と言われたのは、イエスを信じて、神の主管圏内で生きる者は、寿命が切れて、その肉身が土の中に葬られたとしても、その霊人体は依然として神の主管圏内にいるので、彼は生きている者であるという意味である。イエスは、また続けて、「また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」と言われた。このみ言は、イエスを信じる者は、地上で永遠に死なずに生きるという意味ではなく、肉身のある間にイエスを信じる者は、現在生きているのはいうまでもなく、後日死んで肉身を脱ぎ地上を離れるとしても、彼の霊人体は、永遠に神の愛の懐で、依然として生きつづけるはずであるから、したがって、永遠に死なないという意味で言われたのである。ゆえに、上記の聖句にあるイエスのみ言は、人間の肉身の寿命が切れることを意味する死は、我々の永遠なる命には何らの影響をも及ぼさない、という意味で言われたみ言である。
 また、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」と言われた、ルカ福音書一七章33節のみ言も、肉身を保存するために神のみ旨に背く者は、いくらその肉身が活動していても、彼は死んだ者であり、また、これと反対に神のみ旨のために肉身を犠牲にする者は、仮にその肉身は土の中に葬られて腐ってしまったとしても、その霊人体は神の愛に抱かれて永存できるのであるから、彼はすなわち、生きている者であるという意味である。

(二)堕落による死
 我々は上述のごとく、互いにその意義を異にする二つの死があるということを知った。では、そのうちのいずれが、人間始祖の堕落によってもたらされた死なのだろうか。
 神は本来、人間が堕落しなくても、老衰すればその肉身は土に帰るように創造されたのである。だから、アダムが九三〇歳で死んで、その肉身は土に帰ったけれども、これはどこまでも堕落に起因する死ではなかった。なぜなら、創造原理によれば、肉身は霊人体の衣ともいえる部分で、衣服が汚れれば脱ぎ捨てるように、肉身も老衰すればそれを脱いで、その霊人体だけが無形世界に行って、永遠に生きるように創造されたからである。物質からなる生物体の中で永遠性をもつものは一つもない。それゆえに、人間もこの創造原理を免れ得ないので、人間の肉身といえども、永存することはできないのである。もしも人間が地上で肉身のまま永存するとすれば、霊人体の行くべき所である無形世界は、最初から創造される必要もなかったはずである。本来、無形世界は堕落した人間の霊人体が行ってとどまるために、人間が堕落した以後に創造されたものではなく、既に、人間が創造される前に、創造目的を完成した人間たちが、地上で生活したのち、肉身を脱いだ霊人体が行って、永遠に生きる所として創造されているということを知らなければならない。
 堕落人間が、肉的な命に強い未練をもつようになったのは、人間が元来、肉身を脱いだあとには、地上よりも一層美しく、かつ永遠なる無形世界に行って、永遠に生きるように創造されているという事実が、堕落によって分からなくなったからである。地上における肉身生活と、無形世界における霊人生活との関係は、青虫と蝶の生活に比較することができる。もし、土の中にある青虫に意識があるとすれば、ちょうど人間が肉身生活に対して愛着を感じているように、それもやはり土の中の生活に愛着を感じて、青虫として永存することを欲するであろう。ところがこれは、青虫がいったん殻を脱いで蝶となり、香りの良い花や甘い蜜を自由に味わうことができる、また一つの新しい世界があることを知らなかったからであろう。地上人と霊人の関係は、正にこの青虫と蝶との関係に似ている。もしも人間が堕落しなかったならば、地上人たちは、同じ地上人同士との関係のように、霊人たちとも自由に会うことができるので、肉身を脱ぐことが、決して永遠の別れではないことがよく分かるのである。そればかりでなく、人間が地上で完成して生活したのち、老衰して肉身を脱いで行く霊人の世界が、いかに美しく幸福な世界であるかということをはっきり知れば、かえって、肉身を脱いでその世界に行かれる日を慕い、待ち望むことであろう。
 このように、上述した二つの死の中で、肉身の寿命が切れるという意味での死が、堕落による死ではないということが分かれば、サタンの主管圏内に落ちるという意味での死が、まさしく堕落による死であるという結論になる。我々はこの問題を、聖書を中心として、もっと詳しく検討してみることにしよう。
 堕落による死とは、すなわち、人間始祖が善悪の果を取って食べることによって招来した、正にその死を意味するのである。ところで、その死は、いかなる死であったのだろうか。創世記二章17節(文語訳)を見れば、神がアダムとエバを創造されたのち、彼らに善悪の果について「汝之を食ふ日には必ず死べければなり」と言われた。それゆえに、神が言われたとおりに、彼らは取って食べたその「日」を期して、必ず死んだと見なければならない。しかしながら、その死んだアダムとエバは今日の我々と同じく、依然として地上で肉身生活を続けながら、子孫を生み殖やして、ついには、今日の堕落した人類社会を形成するまでになったのである。このような事実から見て、堕落によって招来したその死は、肉身の寿命が切れて死ぬことを意味するのではなく、神の善の主管圏から、サタンの主管圏に落ちるという意味での死をいうのであることを、我々は明確に知ることができる。我々は聖書でこれに関する例を挙げてみることにしよう。ヨハネ三章14節に、「愛さない者は、死のうちにとどまっている」と言われた。ここでいう愛とは、もちろん神の愛を意味するのである。神の愛の中で、隣人を愛することを知らない者は、いくら地上で生活をしているといっても、彼はあくまでも死んだ者であるという意味である。これと同じ意味で、ロマ書六章23節には、「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」と言われ、また、ロマ書八章6節には、「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」と記録されているのである。

(三)復活の意義
 我々はこれまで、人間の寿命が切れて、その肉身の土に帰ることが、堕落からきた死であるとばかり考えていた。したがって、このような死から再び生きることが、聖書の意味する復活であると解釈してきたので、既に他界した信徒たちの復活は、すなわち土に分解されてしまったその肉身が、再び原状どおりによみがえることによって成就されるものと信じていた。しかし、創造原理によれば、このような死は、人間始祖の堕落によって招来されたものではなく、本来、人間は老衰すれば、その肉身は自然に土に帰るように創造されているので、いったん土に分解されてしまった肉身が、再び原状どおり復活することは不可能であるばかりでなく、霊界に行って永遠に生きるようになった霊人体が、再び肉身をとる必要もないのである。ゆえに、復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分よりきょうの自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活したことになる。
 聖書で、復活に関する例を挙げてみれば、ヨハネ福音書五章24節に「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである」と記録されている。これは、イエスを信じることによって、サタンの懐から離れ、神の愛の懐に移ることが、すなわち復活であるということを意味するみ言である。また、コリント一五章22節には、「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」と記録されているが、これは、アダムによってサタンの血統を受け継ぐようになったのが死亡であり、この死亡からキリストによって天の血統に移されることが、復活であるということを意味するみ言である。

(四)復活は人間にいかなる変化を起こすか
 善悪の果を取って食べる日には、きっと死ぬであろう(創二・17)と言われた神のみ言どおりに、善悪の果を取って食べて堕落したアダムとエバが、死んだのは事実であった。しかし、彼らには、外形的には何らの異変も起こらなかったのである。変わったことがあるとすれば、不安と恐怖によって、瞬間的に彼らの顔色が変わる程度であっただろう。ゆえに、堕落した人間が善悪の果を取って食べた以前の人間に復活するとしても、その外形上には何らの変化も起こらない。聖霊により重生した人間は、重生する以前と比べて、確かに復活した人間には違いない。しかし今、彼と強盗とを比較すれば、一人は天の人間として、ある程度まで復活した立場におり、また一人は、地獄に行くべき人間として、死んだ立場にいるが、彼らの外形には何らの差異も認められないのである。既に例証したように、イエスのみ言に従って、神を信じる者は、死から命へと移されて、復活させられたのは事実である。しかし、彼がイエスを信じる前の死の状態にいるときも、イエスを信じて命に移されることによって復活したのちにも、彼の肉身上には、何らの変化も起こらないのである。
 イエスは創造目的を完成した人間として来られたことは事実である(キリスト論参照)が、外形から見たイエスは堕落人間と比べて何の差異もなかった。もし、彼に変わったところがあるとすれば、当時の側近者たちが、彼を信じ従わないはずがなかったのである。人間は復活により、サタンの主管圏から抜けだして、神と心情一体となれば、神性をもつようになる。このように、堕落人間が復活によって、神の主管を受けるようになれば、必然的に、その心霊に変化を起こすようになるのである。このような心霊の変化によって、人間の肉身もサタンの住まいから神の宮へと、事実上聖化されていくのである。このような意味において、肉身も復活されると見ることができる。これはちょうど悪いことをするために使用されてきた建物が、神の聖殿として使用されるようになれば、その建物の外形には何らの変化もないが、それは、既に聖なる建物に変化しているというのと同じ理論である。

第二節 復 活 摂 理

(一)復活摂理はいかになされるか
(二)地上人に対する復活摂理
(三)霊人に対する復活摂理
(四)再臨復活から見た輪廻説

(一)復活摂理はいかになされるか
 復活は、堕落人間が創造本然の姿に復帰する過程的な現象を意味するので、復活摂理は、すなわち、復帰摂理を意味する。復帰摂理はすなわち、再創造摂理なので、復活摂理はまた再創造摂理でもある。したがって、復活摂理も、創造原理によって、次のように摂理されるのである。第一に、復活摂理の歴史において、その使命的な責任をもった人物たちが、たとえ彼ら自身の責任分担を完遂できなかったとしても、彼らは天のみ旨のために忠誠を尽くしたので、それだけ堕落人間が、神と心情的な因縁を結ぶことができる基盤を広めてきたのである。したがって、後世の人間たちは、歴史の流れに従い、それ以前の預言者や義人が築きあげた心情的な基台によって、復帰摂理の時代的な恵沢をもっと受けるようになるのである。したがって、復活摂理は、このような時代的な恵沢の上に立ってなされるのである。第二に、創造原理によれば、神の責任分担として創造された人間は、それ自身の責任分担として神から与えられたみ言を信じ実践するとき、初めて完成されるように創造されたのである。それゆえに、復活摂理をなさるに当たっても、神の責任分担としての摂理のためのみ言がなければならないし、また、堕落人間がそれ自身の責任分担として、み言を信じ、実践して初めてそのみ旨が成し遂げられるようになっている。第三には、創造原理に照らしてみると、人間の霊人体は、肉身を基盤にしてのみ成長し完成するように創造されている。したがって、復帰摂理による霊人体の復活も、これまた地上の肉身生活を通じて、初めて成就されるようになっている。第四に、人間は創造原理に従い、成長期間の秩序的な三段階を経て完成するように創造された。それゆえに、堕落人間に対する復活摂理も、その摂理期間の秩序的な三段階を経て完成されるようになっている。

(二)地上人に対する復活摂理
(1)
 復活基台摂理
 神は、アダムの家庭から復活摂理を始められたのである。しかし、そのみ旨に仕える人物たちが、責任分担を完遂できなかったためその摂理は延長されてきたが、二〇〇〇年後に、信仰の祖アブラハムを立てて、初めてその摂理が始まった。したがって、アダムからアブラハムまでの二〇〇〇年期間は、結果的には次の時代に入って、復活摂理ができるその基台を造成した時代となった。ゆえに、この時代を復活基台摂理時代と称するのである。

(2) 蘇生復活摂理
 復活摂理が始まったアブラハムのときからイエスまでの二〇〇〇年期間に、蘇生復活摂理がなされてきた。したがって、この時代を蘇生復活摂理時代と称する。この時代におけるすべての地上人は、神の蘇生復活摂理による時代的な恵沢を受けることができたのである。蘇生復活摂理は、神がこの時代の摂理のために下さった旧約のみ言を人間が信じて実践することによって、その責任分担を成し遂げ、義を立てるように摂理されてきたのである。ゆえに、この時代を行義時代ともいう。この時代における人間は、律法を遵守することによって、その霊人体が肉身を土台に蘇生復活して、霊形体を完成したのである。地上で霊形体を完成した人間は、肉身を脱げば、その霊人体は霊形体級の霊界に行って生きるようになるのである。

(3) 長成復活摂理
 イエスの十字架の死によって、復活摂理は完成されずに、再臨期まで延長されてきた。このように延長された二〇〇〇年期間は、霊的救いによって、長成復活摂理をしてきた時代であるので、この時代を長成復活摂理時代と称する。この時代におけるすべての地上人は、神の長成復活摂理による時代的な恵沢を受けられるのである。そして長成復活摂理は、神がこの時代の摂理のために下さった新約のみ言を、人間が信じることによって、その責任分担を完成し、義を立てるように摂理された。ゆえに、この時代を信義時代ともいう。
 この時代における人間は、福音を信ずることにより、その霊人体が肉身を土台として長成復活して、生命体を完成するのである。このように地上で生命体級の霊人体を完成した人間は、肉身を脱いだのちに、生命体級の霊界である楽園に行って生きるようになる。

(4) 完成復活摂理
 再臨されるイエスによって、霊肉共に復活して復活摂理を完成する時代を完成復活摂理時代と称する。この時代におけるすべての地上人は、完成復活摂理による時代的な恵沢を受けることができる。再臨主は、旧約と新約のみ言を完成するための、新しいみ言をもってこられる方である(前編第三章第五節(一))。ゆえに、完成復活摂理は、新旧約を完成するために下さる新しいみ言(これは、成約のみ言であるというのが妥当であろう)を、人間たちが信じ、直接、主に侍ってその責任分担を完遂し、義を立てるように摂理なさるのである。それゆえに、この時代を侍義時代ともいう。この時代における人間は再臨主を信じ侍って、霊肉共に完全に復活され、その霊人体は生霊体級を完成するようになる。このように地上で生霊体を完成した人間が生活する所を地上天国という。そして、地上天国で生活して完成した人間が肉身を脱げば、生霊体の霊人として、生霊体級の霊界である天上天国に行って生きるようになるのである。

(5) 天国と楽園
 今までのキリスト教信徒たちは、原理を知らなかったので、楽園と天国とを混同してきた。イエスがメシヤとして地上に降臨された目的が完成されたならば、そのとき、既に地上天国は完成されたはずである。この地上天国で生活して完成した人間たちが、肉身を脱いで生霊体を完成した霊人体として霊界に行ったならば、天上天国もそのときに完成されたはずである。けれども、イエスの十字架の死によって、地上天国が実現できなかったので、地上で生霊体を完成した人間は一人も現れなかった。したがって、今日まで生霊体の霊人たちが生活できるように創造された天上天国に入った霊人は一人もいない。ゆえに、天上天国はまだ空いている。これはすなわち、その住民となるべき人間を中心として見れば、まだ天上天国が完成されなかったことにもなる。それでは、どうしてイエスは、自分を信じれば天国に入ると言われたのだろうか。それは、イエスが地上に来られた本来の目的が、あくまでも、天国を完成することにあったからである。しかし、イエスはユダヤ人の不信によって、地上天国を実現することができずに、十字架で亡くなられたのである。当時のすべての人間が、最後までだれも信じてくれなかった中で、自分を信じてくれた、たった一人の十字架の同伴者であった強盗に、イエスは共に楽園に入ることを許されたのである(ルカ二三・43)。結局、イエスはメシヤとしての使命を成し遂げようとする希望をもつことのできた過程においては、天国に入ることを強調されたが、このみ旨を成就できずに行かれる十字架の死に臨んでは、楽園に入らなければならない事実を表明されたのである。楽園はこのように地上でイエスを信じて、生命体級の霊人体を完成し、肉身を脱いで行った霊人たちが、天国の門が開かれるまでとどまっている霊界をいうのである。

(6) 終末に起こる霊的現象
 長成期完成級で堕落した人間が、復帰摂理により、蘇生旧約時代を経て、長成新約時代の完成級まで復帰されて、人間始祖が堕落する前の立場に戻る時代を終末という。この時代は、アダムとエバが堕落する直前、神と一問一答したそのときを、世界的に復帰する時代であるので、地上には霊通する人が多く現れるようになる。終末には、神の霊をすべての人に注ぐと約束されたことは(使徒二・17)、正に、このような原理的な根拠によって、初めてその理由が解明できるのである。
 終末には、「あなたは主である」という啓示を受ける人たちが多く現れる。しばしば、このような人たちは、自分が再臨主であると考えて、正しい道を探していくことのできない場合が多いが、その理由はどこにあるのだろうか。本来、神は人間を創造されて、彼に被造世界を主管する主になれと祝福された(創一・28)。ところが、人間は堕落によって、このような神の祝福を成し遂げることができなかったのである。しかし、堕落人間が復帰摂理によって、長成期の完成級まで霊的に復帰されて、アダムとエバが堕落する直前の立場と同一の心霊基準に達すれば、神が彼らに被造世界の主になれと祝福なさった、その立場を復帰したという意味から、「あなたは主である」という啓示を下さるのである。
 終末に入って、このように、「主」という啓示を受ける程度に、信仰が篤実な聖徒たちは、イエスの当時に、主の道をまっすぐにするための使命をもってきた洗礼ヨハネと、同一の立場に立つようになる(ヨハネ一・23)。したがって、彼らにも各自が受けもった使命分野において、再臨されるイエスの道を直くすべき使命が与えられているのである。このような意味において、彼らは各自の使命分野における再臨主のための時代的代理使命者として選ばれた聖徒たちなので、彼らにも、「主」という啓示を授けてくださるのである。
 霊通者が、「あなたは主である」という啓示を受けたとき、このような原理的な事情を知らずに、自分が再臨主だと思って行動すれば、彼は必ず、偽キリストの立場に立つようになる。終末に、偽キリストが多く現れると預言された理由もここにある。霊通者はみな、各自通じている霊界の階位と啓示の内容がお互いに異なるために(コリント一五・41)、相互間の衝突と混乱に陥るのが普通である。霊通者は、事実上、みな同一の霊界を探し求めていくけれども、これに対する各自の環境、位置、特性、知能、心霊程度などが相異なるために各自に現れる霊界も、各々異なる様相のものとして認識されて、相互に衝突を起こすようになるのである。
 復帰摂理のみ旨に侍っている人たちは、各々摂理の部分的な使命を担当して、神と縦的な関係だけを結んでいるので、他の霊通者との横的な関係が分からなくなるのである。したがって、各自が侍っている天のみ旨が、各々異なるもののように考えられ、互いに衝突を起こすようになる。なお、神は各自をして復帰摂理の目的を達成させるに当たって、彼らが各自最善を尽くすように激励なさるため、「あなたが一番である」という啓示を下さるので、横的な衝突を免れなくなる。また、彼が担当した部分的な使命分野においては、事実上、彼が一番であるために、このような啓示を下さることもある。
 また、篤実な信仰者たちが、アダムとエバの堕落直前の心霊基準まで成長して霊通すれば、アダムとエバが克服できずに堕落したのと同じ試練によって、堕落しやすい立場に陥るようになる。したがって、原理を知らない限り、このような立場を克服することは、非常に難しいことなのである。今日に至るまで、多くの修道者たちが、この試練の峠を克服できずに、長い間修道した功績を一朝一夕に台無しにしたことは、実に惜しんでもあまりあることである。
 では、霊通者のこのような混乱を、いかにすれば防ぐことができるだろうか。神は、復帰摂理の目的を早く完遂されるために、その摂理の過程において、部分的な使命を数多くの人たちに分担させ、その各個体と縦的にだけ対応してこられたので、上述のように、すべての霊通者たちは、相互間に横的な衝突を免れ難くなっている。しかし結局、歴史の終末期に至れば、彼らは各自の使命がみな復帰摂理の同一の目的のために、神から分担させられていたことを共に悟って、お互いに横的な関係を結び、一つに結合して、復帰摂理の全体的な目的を完成させる新しい真理のみ言を賜るようになる。そのときすべての霊通者は、自分のものだけが神のみ旨であるとの主張を捨て、より高次元的で、全体的な真理のみ言の前に出て、自分自身の摂理的な使命と位置を正しく悟ることにより、そこで初めて、横的な衝突から起こった過去のすべての混乱を克服することができるし、またそれと同時に、各自が歩いてきた信仰路程に対する有終の美を結ぶこともできるのである。

(7) 最初の復活
 「最初の復活」というのは、神の復帰摂理の歴史が始まって以来、再臨摂理によって、初めて人間が原罪を脱いで、創造本然の自我を復帰し、創造目的を完成させる復活をいうのである。
 したがって、すべてのキリスト教信徒たちの唯一の望みは、最初の復活に参与することにある。では、どんな人たちがここに参与できるのだろうか。再臨主が降臨されたとき、最初に信じ侍って、復帰摂理路程の全体的な、また世界的な蕩減条件を立てる聖業に協助して、すべての人間に先立って原罪を脱ぎ、生霊体級の霊人体を完成し、創造目的を完成した人たちがここに参与できるようになるのである。
 また、聖書に表示された十四万四千人とは何を意味するのであろうか。その事実について調べてみることにしよう。イエスが再臨されて、復帰摂理を完遂なさるためには、復帰摂理路程において、天のみ旨を信奉してきながらも、自分の責任分担を果たせなかったために、サタンの侵入を受けたすべての聖賢たちの立場を蕩減復帰できる代理者たちを、再臨主がその一代において横的に探し立て、サタン世界に対する勝利の基台を立てなければならない。このような目的で、再臨主が降臨されて立てられる信徒の全体数が、正に黙示録一四章1節から4節までと、黙示録七章4節に記録されている十四万四千の群れなのである。
 神の復帰摂理路程において、家庭復帰の使命者であったヤコブは、十二の子息を中心として出発し、民族復帰のために出発したモーセは、十二部族を率いたが、この各部族が再び十二部族型に増えれば、一四四数になる。世界復帰の使命者として来られたイエスは、霊肉共に、この一四四数を蕩減復帰するために十二弟子を立てられたが、十字架につけられたので、霊的にのみこれを蕩減復帰してこられたのである。ゆえに、サタンに奪われたノアからヤコブまでの縦的な十二代を、横的に蕩減復帰するため、ヤコブが十二子息を立てたように、再臨主は初臨以後、霊的にのみ一四四部族型を立ててきた縦的な摂理路程を、霊肉共に横的に、一時に蕩減復帰されるため、一四四数に該当する一定の必要数の信徒たちを探し立てなければならないのである。

(三)霊人に対する復活摂理
(1)
 霊人たちが再臨復活する理由とその方法
 創造原理によれば、人間の霊人体は神から受ける生素と、肉身から供給される生力要素との授受作用によってのみ成長するように創造された。それゆえに、霊人体は肉身を離れては成長することも、また復活することもできない。したがって、地上の肉身生活において、完成されずに他界した霊人たちが復活するためには、地上に再臨して自分たちが地上の肉身生活で完成されなかったその使命部分を、肉身生活をしている地上の聖徒たちに協助することによって、地上人たちの肉身を自分の肉身の身代わりに活用し、それを通して成し遂げるのである。ユダ書14節に、終わりの日に、主は無数の聖徒たちを率いて来られると言われた理由はここにある。
 では、霊人たちはどんな方法で地上人に対して、み旨を完成するように協助するのだろうか。地上の聖徒たちが祈祷や、その他の霊的な活動をするうちに、霊人たちの相対になれば、その霊人たちは再臨して、その地上人たちの霊人体と相対基準を造成していろいろの業をするようになる。そして、その霊人たちは地上人たちに火を受けさせたり、病気を治させるなど、いろいろの能力を現させるのである。それだけでなく、入神状態に入って、霊界の事実を見せたり、聞かせたり、あるいは、啓示と黙示によって預言をさせ、その心霊に感銘を与えるなど、いろいろの方面にわたる聖霊の代理をすることによって、地上人がみ旨を成し遂げていくよう協助するのである。

(2) キリスト教を信じて他界した霊人たちの再臨復活
  @ 長成再臨復活
 地上で律法を遵守し、神を熱心に信奉して行った旧約時代の霊形体級の霊人は、メシヤ降臨後に全部地上に再臨して、地上の聖徒たちをしてみ旨を成就せしめ、生命体級の霊人体として完成されるように協助した。このように、再臨協助したその霊人たちも、彼らの協助を受けた地上の聖徒たちと同じような恵沢を受け、共に生命体を完成して楽園に入るようになる。我々はこれを長成再臨復活と称する。
 これに関する実例を聖書の中で挙げてみることにしよう。マタイ福音書一七章3節に、エリヤが霊人体としてイエスとその弟子の前に現れた記録があるのを見れば、エリヤがそのまま霊界にいるということは確実である。しかるに、マタイ福音書一七章12節を見れば、イエスは地上で生活している洗礼ヨハネを指して、エリヤであると言われた。イエスがこのように言われた理由は、エリヤが洗礼ヨハネに再臨して、彼をして、自分が地上で完成されなかった使命まで代理に完成するように協助して、再臨復活の目的達成をさせようとしていたので、使命的に見れば、洗礼ヨハネの肉身は、正に、エリヤの肉身の身代わりともなるからである。
 マタイ福音書二七章52節を見れば、イエスが十字架で亡くなられるとき、墓が開け、眠っていた多くの聖徒たちの死体が生き返ったと記録されている。これは、土の中で既に腐ってなくなってしまった彼らの肉身が、再び原状どおりに肉身をとって生き返ったことをいうのではない。それは、どこまでも霊形体級の霊人体として、霊界にとどまっていた旧約時代の霊人たちが、イエスの十字架の贖罪の恵沢圏内における地上の聖徒たちを、生命体として完成できるように協助することによって、彼らの能力を受け、自分たちも共に生命体を完成するために、霊的に再臨したのを見て記録したにすぎない。もしも、聖書の文字どおりに、旧約時代の霊人たちが墓の中から肉身をとって、再び生き返ったとすれば、彼らは必ず、イエスがメシヤである事実を証したはずである。墓の中から生き返った信徒たちが証すイエスを、メシヤとして信じないユダヤ人がどこにいるだろうか。このような聖徒たちに関する行跡は、必ず聖書の記録に残ったであろうし、また今も地上に住んでいるはずである。しかし、彼らが墓の中から生き返ったという事実以外には、何の記録も残っていない。これから推してみても、墓の中からよみがえったと記録されているその聖徒たちは、霊眼が開けた信徒たちだけが、しばらくの間だけ見ることのできた、霊人たちの現象であったことが分かるのである。イエスの十字架の贖罪によって行くことのできる楽園に比較すれば、旧約時代の霊人たちがとどまっていた所は、より暗くつらい世界であるので、これを墓と言ったのである。

  A 完成再臨復活
 新約時代に、地上でイエスを信じて楽園に行った生命体級の霊人たちは、メシヤが再臨されたのち、全部地上に再臨するようになる。その霊人たちは、地上の聖徒たちをして、再臨されたイエスを信奉して生霊体級の霊人体を完成するように協助することによって、彼らも同様な恵沢を受けて、生霊体を完成するようになるのである。そして、この地上の聖徒たちが肉身を脱いで天国に入るときには、その霊人たちも彼らと共に天国に入るようになるのである。このような復活摂理を完成再臨復活摂理と称する。このような摂理において見るとき、霊人たちが地上人たちを協助することはいうまでもなく、結果的に見て、地上人たちも霊人たちの復活摂理のために協助するのだということも、我々はまた理解することができる。
 ヘブル書一一章39節以下に「さて、これらの人々(旧約時代の聖賢たち)はみな、信仰によってあかしされたが、約束(天国に入る許可)のものは受けなかった。神はわたしたち(地上人)のために、さらに良いもの(天国)をあらかじめ備えて下さっているので、わたしたち(地上人)をほかにしては彼ら(霊人たち)が全うされることはない」と記録されているみ言は、結局、既に説明した事実を実証したものといえる。すなわち、この節は、霊界にいるすべての霊人たちは、地上人の協助を受けずには完成できない、という原理を証したものである。マタイ福音書一八章18節に記録されている「あなたがた(地上の聖徒)が地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」と言われたみ言も、結局、地上の聖徒たちが解いてやらなければ、霊人たちにつながれたものが解かれないという事実を証したのである。このように霊人たちは地上の聖徒たちに再臨して、協助してこそ復活できるようになっている。ゆえに、マタイ福音書一六章19節で見るように、天国の門の鍵を、地上の聖徒たちの代表ペテロに授けて、彼をして天国の門を地上で開くようにされたのである。

(3) 楽園以外の霊人たちの再臨復活
 まずキリスト教以外の他宗教を信じていた霊人たちは、いかにして再臨復活するか調べてみることにしよう。人間がある目的を共同に成し遂げるためには、必ずお互いに相対基準を造成しなければならないように、地上の人間と霊人たちも、共同に復帰摂理のある目的を成就するためには、お互いに、相対基準を造成しなければならない。それゆえに、復活のために再臨する霊人たちは、自分たちが地上で生存したとき信奉していたのと同じ宗教を信じている地上人の中で、その対象になれる信徒を選んで再臨するのである。そして、復帰摂理の目的が成就されるように彼らに協助して、彼らと同様の恵沢を受けるようになるのである。
 第二に、地上で宗教生活をしなかったが、良心的に生きた善良な霊人たちは、いかにして再臨復活するかということについて調べてみることにしよう。原罪を脱げなかった堕落人間の中には、絶対的な善人はあり得ない。それゆえに、ここで善霊というのは、悪の性質よりも善の性質を少しでも多くもっている霊人たちをいうのである。このような善なる霊人たちは、地上の善人たちに再臨して、彼らをして神の復帰摂理の目的を成就せしめるように協助することによって、ついに彼らと同一の恵沢を受けるようになるのである。
 第三に、悪霊人たちはいかにして再臨復活するのだろうか。マタイ福音書二五章41節に「悪魔とその使たち」という言葉がある。この使いは、正に悪魔の教唆を受けて動く悪霊人体をいうのである。世にいわゆる幽霊という正体不明の霊的存在は、正に、このような悪霊人体をいうのである。ところで、このような悪霊たちも、やはり、再臨して時代的恵沢を受けるようになるのである。しかし、悪霊人たちの業が、みな再臨復活の恵沢を受けられるような結果をもたらすのではない。その業が、結果的に神の罰として、地上人の罪を清算させるような蕩減条件として立てられたときに、初めてその悪霊人たちは、再臨復活の恵沢を受けるようになるのである。それでは、悪霊の業がどんな具合に天を代理して、審判の行使を代理した結果をもたらすのだろうか。
 ここに実例を一つ挙げてみることにしよう。復帰摂理の時代的な恵沢によって、家庭的な恵沢圏から種族的な恵沢圏に移行される一人の地上人がいるとしよう。しかし、この人に自分自身、あるいはその祖先が犯したある罪が残っているならば、それに該当するある蕩減条件を立ててその罪を清算しなければ、種族的な恵沢圏に移ることができなくなっている。このとき、天は悪霊人をして、その罪に対する罰として、この地上人に苦痛を与える業をなさしめる。このようなとき、地上人がその悪霊人の与える苦痛を甘受すれば、これを蕩減条件として、彼は家庭的な恵沢圏から種族的な恵沢圏に入ることができるのである。このとき、彼に苦痛を与えた悪霊人も、それに該当する恵沢を受けるようになる。このようにして、復帰摂理は、時代的な恵沢によって、家庭的な恵沢圏から種族的な恵沢圏へ、なお一歩進んで民族的なものから、ついには世界的なものへと、だんだんその恵沢の範囲を広めていくのである。こうして、新しい時代的な恵沢圏に移るごとに、その摂理を担当した人物は、必ずそれ自身とか、あるいはその祖先が犯した罪に対する蕩減条件を立てて、それを清算しなければならないのである。また、このような悪霊の業によって、地上人の蕩減条件を立てさせるとき、そこには次のような二つの方法がある。
 第一に、悪霊人をして、直接その地上人に接して悪の業をさせて、その地上人が自ら清算すべき罪に対する蕩減条件を立てていく方法である。第二には、その悪霊人がある地上人に直接働くのと同じ程度の犯罪を行おうとする、他の地上の悪人に、その悪霊人を再臨させ、この悪人が実体として、その地上人に悪の業をさせることによって、その地上人が自ら清算すべき罪に対する蕩減条件を立てていく方法である。
 このようなとき、その地上人が、この悪霊の業を当然のこととして喜んで受け入れれば、彼は自分かあるいはその祖先が犯した罪に対する蕩減条件を立てることができるのであるから、その罪を清算し、新しい時代の恵沢圏内に移ることができるのである。このようになれば、悪霊人の業は、天の代わりに地上人の罪に対する審判の行使をした結果になるのである。それゆえに、その業によって、この悪霊人も、その地上人と同様な恵沢を受け、新しい時代の恵沢圏に入ることができるのである。

(四)再臨復活から見た輪廻説
 神の復帰摂理は、その全体的な目的を完成なさるために、各個体を召され、その各個体に適合した使命を分担させてこられた。そして、人間がこの使命を継続的に彼と同一の型の個体へと伝承しながら、悠久なる歴史の期間を通じて、その分担された使命分野を漸次完遂するように導かれたのである。
 復帰摂理は個人から出発して、家庭と民族を経て、世界を越え、天宙まで復帰していくのである。それゆえに、個人に任せられた使命は、たとえ部分的なものであっても、その型は個人型から始まって、家庭と民族と世界の各型へと、その範囲を広めてきたのである。聖書でその例を挙げれば、アブラハムは個人型または家庭型であり、モーセは民族型であり、イエスは世界型であった。
 ところで、地上で自分の使命を完成できずに去った霊人たちは、各々自分たちが地上で受けもったのと同じ使命をもった同型の地上人に再臨して、そのみ旨が成就するように協助するのである。このときに、その協助を受ける地上人は、自分自身の使命を果たすと同時に、自分を協助する霊人の使命までも代理に成し遂げるのである。ゆえに、この使命を中心として見れば、その地上人の肉身は、彼を協助する霊人の肉身ともなるのである。このようになれば、その地上人は彼を協助している霊人の再臨者となるので、その地上人はしばしば彼を協助する霊人の名前で呼ばれるのである。このようなわけで、地上人はしばしば、霊人が輪廻転生した実体のように現れるようになるのである。聖書でこれに関する例を挙げてみれば、洗礼ヨハネはエリヤの協助を受けて、彼の目的を立てていったので、彼はエリヤが地上にいるとき完成できなかった使命まで、みな完遂してやらなければならなかった。したがって、洗礼ヨハネの肉身は、エリヤの肉身の代理でもあったので、イエスは、洗礼ヨハネをエリヤであると言われた(本章第二節(三)(2))。
 終末において、世界型の分担使命を受けもった地上人たちは、各々過去に彼と同型の使命をもって、地上を経て行ったすべての霊人の責任分担を、みな継承して完遂すべき立場にいるのである。したがって、すべての霊人は地上人たちに再臨し、彼に協助することによって、彼らが地上にいるとき、完成できなかった使命を完遂させるのである。それゆえに、霊人たちの協助を受ける地上人は、彼に協助するすべての霊人たちの再臨者であり、したがって、その地上人はすべての霊人たちがよみがえったかのように見られるのである。終わりの日に、自分が再臨のイエス、弥勒仏、釈迦、孔子、あるいはオリーブの木、あるいは生命の木などと自称する人たちが多く現れる理由はここにある。仏教で輪廻転生を主張するようになったのは、このような再臨復活の原理を知らないで、ただ、その現れる結果だけを見て判断したために生まれてきたのである。

第三節 再臨復活による宗教統一

(一)再臨復活によるキリスト教統一
(二)再臨復活による他のすべての宗教の統一
(三)再臨復活による非宗教人の統一

(一)再臨復活によるキリスト教統一
 既に、本章第二節(三)(2)で詳述したように、楽園にとどまっている生命体級の霊人たちは、再臨されたイエスを信じ侍ることによって、生霊体級の霊人体を完成することのできる地上の信徒たちに再臨するのである。それから、彼らをして復帰摂理のみ旨を成し遂げるように協助して、彼らと同じ恵沢を受け、天国に入るようになる。したがって、イエスの再臨期には、楽園にいるすべての霊人たちが共に地上の信徒たちに再臨して、彼らに協助する摂理をしなければならなくなるのである。
 各個体の信仰態度と、彼がもっている天稟、また、み旨のために立てられた祖先の功績などにより、その時機は各々異なるが、前節で既に説明したような立場から、地上の信徒たちは、楽園にいる霊人たちの協助によって、再臨主の前に出て、み旨のために献身せざるを得なくなるのである。ゆえに、キリスト教は自然に統一されるようになる。

(二)再臨復活による他のすべての宗教の統一
 既に、終末論で論じたように、今まで同一の目的を指向してきたすべての宗教が、一つのキリスト教文化圏へ次第に吸収されつつある歴史的事実を、我々は否定することができない。それゆえに、キリスト教はキリスト教だけのための宗教ではなく、過去歴史上に現れたすべての宗教の目的までも、共に成就しなければならない最終的な使命をもって現れた宗教である。それゆえに、キリスト教の中心として来られる再臨主は、結局、仏教で再臨すると信じられている弥勒仏にもなるし、儒教で顕現するといって待ち望んでいる真人にもなる。そして彼はまた、それ以外のすべての宗教で、各々彼らの前に顕現するだろうと信じられている、その中心存在ともなるのである。
 このように、キリスト教で待ち望んでいる再臨のイエスは、他のすべての宗教で再臨すると信じられているその中心人物でもあるので、他の宗教を信じて他界した霊人たちも、彼がもっている霊的な位置に従って、それに適応する時機は各々異なるが、再臨復活の恵沢を受けるために、楽園にいる霊人たちと同じく再臨しなければならない。そして、各自が地上にいたとき信じていた宗教と同じ宗教をもつ地上の信徒たちを、再臨されたイエスの前に導いて、彼を信じ侍らせることによって、み旨を完成するように、協助せざるを得なくなるのである。したがって、すべての宗教は結局、キリスト教を中心として統一されるようになるのである。

(三)再臨復活による非宗教人の統一
 いかなる宗教も信じないで、ただ、良心的に生活して他界した霊人たちも、再臨復活の恵沢を受けるために、各々彼らに許されている時機に、みな地上に再臨するのである。そして、彼らも良心的な地上人をして、再臨主を信じ侍って、そのみ旨を完成するように協助するようになるのである。マタイ福音書二章2節以下の記録によれば、イエスの誕生のとき、占星術者(東方博士)たちが、イエスを訪ねてきて敬拝して贈り物をささげたとあるが、これはこのような例に属するものといえる。
 神の復帰摂理の究極の目的は、全人類を救うところにある。ゆえに、神は各々の罪を蕩減するのに必要な期間だけを経過すれば、地獄までも完全に撤廃なさろうとするのである。もし、神の善の目的が完成された被造世界に、地獄が永遠にそのまま残っているとすれば、結果的に、神の創造理想や復帰摂理はいうまでもなく、神までも不完全な方になってしまうという、矛盾をきたすようになる。
 堕落人間においても、その一人の子女でも不幸になれば、決して幸福になることができないのが、父母の心情である。まして、天の父母なる神が幸福になり給うことができようか。ペテロ三章9節を見れば、「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである」と記録されている。したがって、神の願うみ旨のとおり、成就されるべき理想世界に、地獄が永遠なるものとして残ることはできない。そしてマタイ福音書八章29節を見れば、イエスの当時、直接サタンがイエスを神の子であると証したように、終末の日においても、ときが至れば、悪霊人たちまでも、各々同級の地上の悪人たちに再臨して、彼らがみ旨のためになるように協助することによって、結局、悠久なる時間を経過しながら、次第に創造目的を完成する方向へ統一されていくのである。

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第六章 予 定 論

第一節  み旨に対する予定
第二節  万有原力と授受作用および四位基台
第三節  人間に対する予定
第四節  予定説の根拠となる聖句の解明

 古今を通じて、予定説に対する神学的論争は、信徒たちの信仰生活の実践において、少なからぬ混乱を引き起こしてきたことは事実である。それでは、どうしてこのような結果をもたらしたのかということを、我々は知らなければならない。
 聖書には、人生の栄枯盛衰や、幸不幸はもちろん、堕落人間の救いの在り方から、国家の興亡盛衰に至るまで、すべてが神の予定によってなされると解釈できる聖句が多くある。この例を挙げれば、ロマ書八章29節以下に、「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである」とある。また、ロマ書九章15節以下には「『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」と言われ、ロマ書九章21節には、「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」と言われた。それのみならず、ロマ書九章11節以下に、神は胎中にいるときから、ヤコブを愛し、エサウを憎んで、長子であるエサウは次子であるヤコブに仕えるであろうと言われた。
 このように、完全に予定説を立てることのできる聖書的な根拠が多くある。しかし、我々は、このような予定説を否定する他の聖書的な根拠も多くあるということを忘れてはならない。例を挙げれば、創世記二章17節に、人間始祖の堕落を防ぐために、「取って食べてはならない」と警告されたのを見れば、人間の堕落は、どこまでも、神の予定からもたらされたものではなく、人間自身が、神の命令に従わなかった結果であるということは明らかである。また、創世記六章6節には、人間始祖が堕落してしまったので、神は人間をつくったことを悔いて嘆息なさったという記録があるが、もしも、人間が神の予定によって堕落したとすれば、神御自身の予定どおりに堕落した人間を前にして、嘆かれるはずはないのである。また、ヨハネ福音書三章16節に、イエスを信ずれば、だれでも救いを受けると言われたが、このみ言は、すなわち、滅ぼされるように予定された人は一人もいないということを意味するのである。
 だれでもよく知っている聖句、マタイ福音書七章7節に、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」と言われたみ言を見れば、すべてのことが神の予定のみによってなされるのではなく、人間の努力によっても左右されるということが分かるのである。もしすべてのみ旨の成就が、神の予定によってのみなされるのであれば、何のために人間の努力を強調する必要があるであろうか。ヤコブ書五章14節に、病んでいる者は祈ってもらうがよいというみ言があるのを見れば、病むことも、また、治ることも、やはり、みな神の予定のみによってなされるのではないということが分かる。もし、すべてのことが、神の予定の中で、避けることのできない運命として決定されるのだとすれば、人間は苦労して祈祷する必要もないであろう。
 従来の予定説をそのまま認めれば、祈祷とか、伝道とか、慈善行為など人間のすべての努力は、神の復帰摂理にとって何らの助けにもならないし、全く無意味なことといわなければなるまい。なぜならば、絶対者たる神が予定されたことであれば、それもやはり、絶対的であるがゆえに、人間の努力によっては、変更できないからである。
 このように、予定説をめぐって賛否両論があり、そしてそのどちらも、自説の正しさを裏付ける聖書の文字的な根拠が十分にあるのである。それならば、このような問題が、原理によっていかに解決できるのだろうか。予定論に対する問題を、我々は次のように分けて考えてみることにしよう。

第一節 み旨に対する予定

 神のみ旨に対する予定を論ずるために、我々は、「み旨」とは何であるかということについて、先に調べてみよう。神は人間の堕落によって、創造目的を完成することができなかった。したがって、堕落した人間たちに対して摂理される神のみ旨は、あくまでも、この創造目的を復帰することにある。言い換えれば、この「み旨」は、復帰摂理の目的の完成をいうのである。
 つぎに、我々は神がこのようなみ旨を予定されて、これを成就なさるということを知らなければならない。神は人間を創造されて、創造目的を完成するみ旨を立てられたが、人間の堕落により、そのみ旨を達成できなかったので、神はそのみ旨を完遂なさるために、それを再び予定して、復帰摂理をされるのである。
 その際、神はどこまでも、このみ旨を善として予定して達成されなければならないのであって、悪として予定して成就し給うことはできない。なぜならば、神は善の主体であるので、創造目的も善であり、したがって、復帰摂理の目的も善で、その目的を成就する「み旨」もまた善でなければならないからである。ゆえに、神は創造目的を成し遂げるのにそれに対して反対になるとか、障害となるものを予定なさることはできない。そういうわけで、人間の堕落とか、堕落人間に対する審判とか、あるいは、宇宙の滅亡などを予定なさることは全くできないのである。もしも、このような悪の結果さえも、神の予定から生ずる必然的なものであるとすれば、神は善の主体であるということはできない。また、神御自身が予定したとおりになった悪の結果に対して、後悔してはならないのである。神は堕落した人間を見て嘆息された(創六・6)。また、不信仰に陥ったサウル王を見て、サウルを王として選んだことを後悔された(サムエル上一五・11)。これは、それらがみな予定によってなった結果ではないことを明らかに示している。悪の結果は、みな人間自身がサタンの対象になって、その責任分担を果たさなかったことによって起こるのである。
 では、神が創造目的を復帰されるみ旨を予定されるに当たって、どの程度にまで予定されて摂理なさるのだろうか。神は唯一であり、永遠であり、不変であり、絶対者であられるので、神の創造目的もやはりそのようにならざるを得ない。したがって、創造目的を再び完成させようとする復帰摂理のみ旨も唯一であり、不変であり、また絶対的でなければならない。それゆえ、このみ旨に対する予定も、また絶対的であることはいうまでもない(イザヤ四六・11)。このように、み旨を絶対的なものとして予定されたのであるから、もしこのみ旨のために立てた人物がそれを完成できなかったときには、神はその代理として、他の人物を立ててでも、最後まで、このみ旨を摂理していかなければならないのである。
 その例を挙げれば、アダムを中心として創造目的を完成させようとしたみ旨は達成できなかったが、このみ旨に対する予定は絶対的なので、神はイエスを後のアダムとして降臨させて、彼を中心としてみ旨を復帰させようとされた。そればかりでなく、ユダヤ人の不信によって、このみ旨がまた完成できなかったので(前編第四章第一節(二))、イエスは再臨されてまでも、このみ旨を必ず完遂することを約束なさったのである(マタイ一六・27)。また、神はアダムの家庭で、カインとアベルを中心とした摂理において「メシヤのための家庭的な基台」を立てさせようとされた。しかし、カインがアベルを殺害することによって、このみ旨は成し遂げられなかった。ゆえに、その代理にノアの家庭を立てて摂理されたのである。更に進んでノアの家庭が、またこのみ旨を完成できなかったとき、神はその身代わりにアブラハムを立ててでも、どうしてもそのみ旨を完成なさらなければならなかった。神はまた、アベルによって成就できなかったみ旨を、その身代わりとしてセツを立てて成し遂げようとされたのであり(創四・25)、また、モーセによって成し遂げられなかったみ旨を、その身代わりにヨシュアを立てて、成就させようとされた(ヨシュア一・5)。そして、イスカリオテのユダの反逆によって完成できなかったみ旨は、その身代わりとしてのマッテヤを選んで成し遂げようとされたのであった(使徒一・26)。

第二節 み旨成就に対する予定

 創造原理によって、既に明らかにしたように、神の創造目的は、人間がその責任分担を完遂することによってのみ完成できるようになっている。したがって、この目的を再び成就させようとする復帰摂理のみ旨は、絶対的なものなので、人間は関与できないが、そのみ旨の成就に当たっては、あくまでも、人間の責任分担が加担されなければならない。それゆえに、アダムとエバを中心とする神の創造目的は、事実上、善悪の果を取って食べないで、彼らに任された責任分担を、彼ら自身が完遂することによってのみ、完成されるようになっていた(創二・17)。したがって、復帰摂理の目的を完成されるに当たっても、その使命を担当した中心人物が、その責任分担を遂行することによってのみ、そのみ旨は成就されるのである。イエスも、救いの摂理の目的を完遂されるためには、ユダヤ人たちが彼を絶対に信じ従わなければならなかったが、彼らの不信仰によって、責任分担を全うできなかったので、このみ旨成就はやむを得ず、再臨のときまで延長されなければならなかったのである。
 それでは、神はみ旨成就に対して、どの程度に予定されたのだろうか。既に論じたように、復帰摂理の目的を完成させようとされるみ旨は絶対的であるが、み旨成就は、どこまでも相対的であるので、神がなさる九五パーセントの責任分担に、その中心人物が担当すべき五パーセントの責任分担が加担されて、初めて、完成されるように予定されるのである。ここで、人間の責任分担五パーセントというのは、神の責任分担に比べて、ごく小さいものであるということを表示したものである。しかし、これが人間自身においては、一〇〇パーセントに該当するということを知らなければならない。これに対する例を挙げれば、アダムとエバを中心としたみ旨成就は、彼らが善悪を知る果を取って食べずに、責任分担を果たすことによって、成し遂げられるように予定されたのであった。ノアを中心とした復帰摂理も、ノアが箱舟をつくることに忠誠を尽くし、その責任分担を果たすことによってのみ、そのみ旨が完遂されるように予定されたのであった。また、イエスの救いの摂理も、堕落人間が彼をメシヤとして信奉し、責任分担を果たすことによって、初めて、そのみ旨が完成されるように予定されたのであった(ヨハネ三・16)。しかし、人間たちがこれらの小さな責任分担をも全うできなかったがゆえに神の復帰摂理は延長されたのである。
 また、ヤコブ書五章15節には、「信仰による祈は、病んでいる人を救」うと記録されており、マルコ福音書五章34節には「あなたの信仰があなたを救った」と言われたみ言がある。マタイ福音書七章8節には、「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる」と言われた。このような聖句はみな、人間自身の責任分担遂行によってのみ、み旨が完成されるように予定されているという事実を証したのである。そうして、これらすべての立場において人間が担当した責任分担は、神がその責任分担として担当された苦労と恩賜に比べていかに微小なものかを知ることができる。また摂理における中心人物たちが、彼らの責任分担を全うしなかったがゆえに、復帰摂理を延長させてきたという事実を知るとき、この軽微な責任分担が、人間自身においては、いかに大きく、難しいことであったかが推察できるのである。

第三節 人間に対する予定

 アダムとエバが、善悪を知る果を取って食べるなと言われた神のみ言を守り、自分たちの責任分担を果たしたならば、善の人間始祖となることができたのであった。したがって、神はアダムとエバが人間始祖となることを、絶対的なものとして予定なさることはできないのである。ゆえに、堕落した人間も、それ自身の責任分担を果たして、初めて神が予定された人物となることができるのであるから、神は彼らがいかなる人物になるかということを、絶対的なものとして予定なさることはできないのである。
 では、神は人間をどの程度にまで予定なさるのだろうか。ある人物を中心とした神の「み旨成就」においては、人間自身があくまでもその責任分担を果たさなければならないという、必須的な要件がついている。つまり、神がある人物を、ある使命者として予定されるに当たっても、その予定のための九五パーセントの神の責任分担に対して、五パーセントの人間の責任分担の遂行を合わせて、その人物を中心とした「み旨」が一〇〇パーセント完成する、というかたちで、初めてその中心人物となれるように予定されるのである。それゆえ、その人物が自分の責任分担を全うしなければ、神が予定されたとおりの人物となることはできないのである。
 例を挙げれば、神はモーセを召命なさるとき、彼が自分の責任分担を果たした場合にのみ、選民をカナンの福地まで導くことができる指導者となるように予定された(出エ三・10)。けれども、彼がカデシのメリバで磐石を二度打ったことによって神のみ意に逆らい、自分の責任を果たせなかったとき、その予定は達成されずに、目的地に向かっていく途中で死んでしまった(民数二〇・7〜12、二〇・24、二七・14)。また、神がイスカリオテのユダを選ばれるときも、彼が忠誠を尽くすことによって、自身の責任分担を果たして、初めて、イエスの弟子になれるように予定されたのである。しかし、彼が自身の責任を全うできなかったとき、その予定は崩れ、彼はかえって、反逆者となってしまったのである。また、神がユダヤ人たちを立てられるときも、彼らがイエスを信奉して、任された責任分担を果たした場合にのみ、栄光の選民となれるように予定された。しかしながら、彼らがイエスを十字架につけたので、この予定は覆され、その民族は衰退してしまったのである。
 つぎに、神の予定において、復帰摂理の中心人物となり得る条件はいかなるものであるかということについて調べてみることにしよう。神の救いの摂理の目的は、堕落した被造世界を、創造本然の世界へと完全に復帰することにある。ゆえに、その時機の差はあっても、堕落人間はだれでもみな、救いを受けるように予定されているのである(ペテロ三・9)。ところが、神の創造がそうであるように、神の再創造摂理である救いの摂理も、一時に成し遂げるわけにはいかない。一つから始まって、次第に、全体的に広められていくのである。神の摂理が、すべてこのようになっているので、救いの摂理のための予定においても、まず、その中心人物を予定して召命されるのである。
 それでは、このように、召命を受けた中心人物は、いかなる条件を備えるべきであろうか。彼はまず、復帰摂理を担当した選民の一人として生まれなければならない。同じ選民の中でも、善なる功績が多い祖先の子孫でなければならない。同じ程度に善の功績が多い祖先の子孫であっても、その個体がみ旨を成就するのに必要な天稟を先天的にもつべきであり、また、同じく天稟をもった人間であっても、このための後天的な条件がみな具備されていなければならない。さらに、後天的な条件までが同じく具備された人物の中でも、より天が必要とする時機と場所に適合する個体を先に選ばれるのである。

第四節 予定説の根拠となる聖句の解明

 我々は、神の予定に関するいろいろの問題について解明した。しかし、次に解くべき問題は、本章の序言において挙げた聖句のように、すべてが、神の絶対的な予定だけでなされるように記録されている聖句を、いかに解明すべきかということなのである。まず、ロマ書八章29節から30節に記録されているように、「神はあらかじめ知っておられる者たちを……あらかじめ定め……あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さる」というみ言を解明してみよう。神は全知であられるから、いかなる人間が復帰摂理の中心人物になり得る条件(本章第三節)を備えているかを御存じである。そこで神は復帰摂理の目的を成し遂げるために、このように、あらかじめ知っておられる人物を予定して、召命なさるのである。しかし、召命なさる神の責任分担だけでは、彼が義とされて、栄光に浴するところにまで至ることはできない。彼は召命された立場で自分の責任を完遂するとき、初めて義とされることができる。義とされたのちに、初めて神が下さる栄華に浴することができる。それゆえ、神が下さる栄華も人間が責任分担を果たすことによってのみ、受けることができるように予定されるのである。ただ、聖句には人間の責任分担に対するみ言が省略されているために、それらが、ただ、神の絶対的な予定だけでなされるように見えるのである。
 つぎに、ロマ書九章15節から16節には「『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」との記録がある。既に解明したように、復帰摂理の目的を完成するためにどんな人物が一番適合するかということは、神だけがあらかじめ知っていて召命なさるのである。このような人物を選んで、哀れみ、あるいは慈しむのは、神の特権であり、人間の意志や努力によってできるのではない。したがって、この聖句は、どこまでも、神の権能と恩寵とを強調するために下さったみ言なのである。
 また、ロマ書九章21節には、「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか」と言われた。神が人間に対して、その創造性に似るようにし、被造世界の主人として立て、一番愛するための条件として、人間の責任分担を立てられたことは既に述べた。ところが、人間はこの条件を自ら犯して堕落してしまった。それから堕落人間は、あたかも屑のように捨てられた存在となったのである。したがって、たとえ神がこのような人間をいかに取り扱おうとも、決して不平を言ってはならないというみ意を教示するために下さった聖句である。
 ロマ書九章10節から13節には、神が胎中のときからヤコブは愛し、エサウは憎んで、更に長子エサウは、次子ヤコブに仕えるであろうと言われた。エサウとヤコブは腹中にあって、いまだ善とも悪とも、いかなる行動の結果も現すことができなかったにもかかわらず、神はエサウを憎み、ヤコブを愛したという理由はどこにあるのだろうか。これは復帰摂理路程のプログラムを合わせるためであった。このことに関して詳しくは、後編第一章の「アブラハムの家庭を中心とする復帰摂理」において説明するが、エサウとヤコブを双生児として立たせたのは、彼らを各々、カインとアベルの立場に分立させて、アベルの立場にいるヤコブが、カインの立場にいるエサウを屈伏させることによって、アダムの家庭で、カインがアベルを殺害して達成できなかった長子の嗣業復帰のみ旨を蕩減復帰させるためであった。したがって、エサウはカインの立場にあるので、神の憎しみを受ける立場におり、反対にヤコブはアベルの立場におり、神の愛を受けられる立場であったから、このように言われたのである。
 しかし、神が彼らを実際に憎むか愛するかは、あくまでも彼ら自身の責任分担遂行のいかんによって左右される問題だったのである。事実、エサウはヤコブに素直に屈伏したので、憎しみを受ける立場から、ヤコブと同じく愛の祝福を受ける立場へ移ったのである。逆に、いかに愛を受けられる立場に立たせられたヤコブであっても、もし、彼が自分の責任分担を完遂できなかったならば、彼は神の愛を受けることができないのである。
 このように、復帰摂理の目的を完成するに当たって、神の責任分担と人間の責任分担との間には、果たしてどのような関係があるかを知らずに、すべての「み旨成就」を、神の単独行使として見てきたところに誤りが生じてくるのであり、カルヴィンのように、頑固な予定説を主張する人が出てくるのである。そしてまた、それが今日に至るまで、長い期間にわたって、そのまま認められてきてしまったのである。

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7 キリスト論

第一節 創造目的を完成した人間の価値
第二節 創造目的を完成した人間とイエス
第三節 堕落人間とイエス
第四節 重生論と三位一体論

救いを望んでいる堕落人間においては解決すべき問題が多い。その中でも重要なものは、神を中心とするイエスと聖霊との関係、イエスと聖霊と堕落人間との関係、重生と三位一体など、キリスト論に関する諸問題である。しかし、今日に至るまで、だれもこの問題に関する明確な解答を得ることができなかった。このような問題が未解決であるということによって、これまでキリスト教の教理と信仰生活に、少なからず混乱を引き起こしてきたのである。ところで、この問題を解決するためには、創造本然の人間の価値が、いかなるものであるかを知らなければならないので、この問題について先に論じたのち、上記の諸問題を扱うことにしよう。

第一節 創造目的を完成した人間の価値

創造目的を完成した人間、すなわち、完成したアダムの価値を、我々は次のような観点から論じてみよう。

第一に、神と完成した人間との二性性相的な関係から述べてみることにしよう。創造原理によれば、人間は神の二性性相に似て心と体とに創造されている。そして、神と完成した人間との間にも、二性性相的な関係があるので、この関係は、人間の心と体との関係に例えることができる。無形の心に似るように、その実体対象として創造されたのが体であるように、無形の神に似るように、その実体対象として創造されたのが人間である。そこで、完成した人間において、心と体とが神を中心として一つになればお互いに分離することができないように、神と完成した人間とが四位基台をつくって一体となれば、人間は神の心情を完全に体恤できる生活をするようになるので、この関係は断ちきろうとしても断ちきることができないのである。このように、創造目的を完成した人間は、神が常に宿ることができる宮となり(コリント・三・16)、神性をもつようになる(前編第一章第三節(二))。このようになれば、イエスが言われたとおり、人間は天の父が完全であられるように、完全な人間となるのである(マタイ五・48)。ゆえに、創造目的を完成した人間は、どこまでも、神のような価値をもつようになる。

第二に、人間創造の目的を中心として、その価値を論じてみることにしよう。神が人間を創造された目的は、人間を通して、喜びを得るためであった。ところで、人間はだれでも、他の人がもっていない特性を各々もっているので、その数がいくら多く増えたとしても、個性が全く同じ人は一人もいない。したがって、神に内在しているある個性体の主体的な二性性相に対する刺激的な喜びを、相対的に起こすことができる実体対象は、その二性性相の実体として展開されたその一個性体しかないのである(前編第一章第三節(二))。ゆえに、創造目的を完成した人間はだれでもこの宇宙間において、唯一無二の存在である。釈迦が「天上天下唯我独尊」と言われたのは、このような原理から見て妥当である。
第三に、人間と被造世界との関係から見たその価値について調べてみることにしよう。我々は、創造原理によって人間と被造世界との関係を知ることにより、完成した人間の価値がいかなるものであるかを知ることができる。人間は霊人体では無形世界を、肉身では有形世界を、各々主管するように創造されている。それゆえに、創造目的を完成した人間は、全被造世界の主管者となるのである(創一・28)。このように、人間には肉身と霊人体とがあって、有形、無形二つの世界を主管できるようになっているので、この二つの世界は、人間を媒介体として、お互いに授受作用をすることにより、初めて、神の実体対象としての世界をつくるのである。

我々は、創造原理によって、人間の二性性相を実体で展開したのが被造世界である、という事実を知っている。したがって、人間の霊人体は無形世界を総合した実体相であり、その肉身は有形世界を総合した実体相である。ゆえに、創造目的を完成した人間は、天宙を総合した実体相となるのである。人間を小宇宙であるという理由はここにある。マタイ福音書一六章26節に、イエスが、「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」と言われたのも、上記で述べたように、人間は天宙的な価値をもっているからである。

例えば、ここに一つの完全な機械があるとしよう。そして、この機械のすべての付属品が、この世界にただ一つずつしかなくて、それ以上求めることも、つくることもできないとすれば、その一つ一つの付属品は、いくらつまらない微々たるものであっても、全体に匹敵する価値をもっていることになる。これと同様に完成した人間の個体は、唯一無二の存在なので、彼がいくら微々たる存在であっても、実に、全天宙的な価値と同等であると見ることができるのである。

第二節 創造目的を完成した人間とイエス

(一)生命の木復帰から見た完成したアダムとイエス
(二)創造目的の完成から見た人間とイエス
(三)イエスは神御自身であられるのだろうか

(一)生命の木復帰から見た完成したアダムとイエス

人類歴史は、エデンの園で失った生命の木を(創三・24)、歴史の終末の世界で復帰して(黙二二・14)、地上天国をつくろうとする復帰摂理の歴史である。我々は、エデンの園の生命の木と(創二・9)、終末の世界で復帰される生命の木とが(黙二二・14)、いかなる関係をもっているかを知ることによって、完成したアダムとイエスとの関係を知ることができるのである。

堕落論で、既に詳しく述べたが、アダムが創造理想を完成した男性になったとしたならば、彼は正に、創世記二章9節の生命の木になり、彼の子孫もみな生命の木になったはずである。しかし、アダムが堕落して、このみ旨が完成されなかったので(創三・24)、堕落人間の希望は、この生命の木に復帰されることにかけられた(箴一三・12、黙二二・14)。しかし、堕落した人間は、彼自身の力では、到底、生命の木に復帰することができないので、ここに必ず、創造理想を完成した一人の男性が、生命の木として来られて、万民が彼に接ぎ木されなければならなくなっている。このような男性として来られる方が、すなわち黙示録二二章14節に、生命の木として表象されているイエスなのである。ゆえに、エデンの園の生命の木として象徴されている、完成されたアダムと、黙示録二二章14節に、生命の木として例えられているイエスとは、いずれも創造理想を完成した男性であるということからして、その点から見れば互いに何ら異なることがないということを、我々は知ることができる。したがって、創造本然の価値においても、その間に、何らの差異もあるはずがないのである。

(二)創造目的の完成から見た人間とイエス

我々は、既に本章第一節で、完成した人間の価値がどんなものであるかを説明した。そこで、我々は、ここにおいて、完成した人間とイエスとは、いかなる差異があるかという点を考察してみることにしよう。これまで述べたことによって分かるように、完成した人間は、創造目的から見れば、神が完全であられるように完全になって(マタイ五・48)、神のような神性をもつはずの価値的な存在である。神が永遠なるお方であるので、その実体対象として創造された人間も、やはり、完成すれば、永遠なるものとして存在せざるを得ない。その上、完成した人間は、唯一無二の存在であり、全被造世界の主人であるがゆえに、彼なしには、天宙の存在価値も、完全になることはできないのである。

したがって、人間は、天宙的な価値の存在である。イエスは、正に、このような価値をもっておられる方である。しかし、イエスがもっておられる価値がいくら大きいといっても、既に列挙したように、創造理想を完成した男性がもっている価値以上のものをもつことはできない。このようにイエスは、あくまでも創造目的を完成した人間として来られた方であることを、我々は否定できないのである。原理は、これまで多くの信徒たちが信じてきたように、イエスを神であると信じる信仰に対しては異議がない。なぜなら、完成した人間が神と一体であるということは事実だからである。また原理が、イエスに対して、彼は創造目的を完成した一人の人間であると主張したとしても、彼の価値を決して少しも下げるものではない。ただ、創造原理は、完成された創造本然の人間の価値を、イエスの価値と同等の立場に引きあげるだけである。我々は、既に、イエスはどこまでも、創造目的を完成した一人の人間であることを論じた。

そこで、これを立証できる聖書的根拠を探してみることにしよう。テモテ・二章5節に、「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」と記録されてあり、また、ロマ書五章19節には、「ひとりの人(アダム)の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとり(イエス)の従順によって、多くの人が義人とされるのである」と記録されている。また、コリント・一五章21節には、「死がひとりの人(アダム)によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人(イエス)によってこなければならない」と表明されている。使徒行伝一七章31節には、「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている」と言い、ルカ福音書一七章26節には、「ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう」と言われた。このように聖書は、どこまでも、イエスが人間であることを明らかに示している。特にイエスは人類を新たに生み直してくださる真の父母として来られる方であるから、その点から見ても、人間として降臨なさらなければならないのである。

(三)イエスは神御自身であられるのだろうか

ピリポがイエスに、神を見せてくださいと言ったとき、イエスはピリポに、「わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか」(ヨハネ一四・9、10)と答えられた。また、聖書の他のところには、「世は彼(イエス)によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」(ヨハネ一・10)と言われたみ言があり、「アブラハムの生れる前からわたし(イエス)は、いるのである」(ヨハネ八・58)と記録されている。このような聖句を根拠として、今までの多くの信仰者たちは、イエスを創造主、神であると信じてきた。

前に論証したように、イエスは創造目的を完成した人間として、神と一体であられるので、彼の神性から見て彼を神ともいえる。しかし、彼はあくまでも神御自身となることはできないのである。神とイエスとの関係は、心と体との関係に例えて考えられる。体は心に似た実体対象として、心と一体をなしているので、第二の心といえるが、体は心それ自体ではない。これと同じく、イエスも神と一体をなしているので、第二の神とはいえるが、神御自身になることはできない。そういうわけで、ヨハネ福音書一四章9節から10節のみ言どおり、彼を見たのは、すなわち、神を見たことになるのも事実であるが、このみ言は、イエスが正に、神そのものであるという意味で言われたのではない。

ヨハネ福音書一章14節には、イエスはみ言が肉身となった方であると記されている。これは、イエスがみ言の実体として完成された方、すなわち道成人身者であることを意味するのである。ところが、ヨハネ福音書一章3節を見れば、万物世界はみ言によって創造されたと記録されており、ヨハネ福音書一章10節には、この世界がイエスによって創造されたと記録されているので、結局、イエスを創造主であると見るようになった。しかし、創造原理によれば、被造世界は個性を完成した人間の性相と形状を実体に展開したものであるがゆえに、創造目的を完成した人間は、被造世界を総合した実体相であり、また、その和動の中心でもある。ゆえに、このような意味から、この世は完成した人間によって創造されたともいえるのである。また、神は人間がそれ自体の責任分担を全うし完成すれば、その人間に神の創造性を与え、彼をして万物世界に対する創造主の立場に立たせようとなさるのである。このような角度から見るとき、ヨハネ 福音書一章10節の記録は、あくまでも、イエスは、創造目的を完成した人間であるという事実を明らかにしただけで、彼が、すなわち、創造主御自身であるということを意味するものではないという事実を、我々は知ることができるのである。

イエスは血統的に見れば、アブラハムの子孫であるが、彼は全人類を重生させる人間祖先として来られたので、復帰摂理の立場から見れば、アブラハムの祖先になる。ゆえに、ヨハネ福音書八章58節に、イエスはアブラハムが生まれる前から私はいたと言われた。したがって、このみ言も、イエスが神御自身であるという意味から言われたのではないということを悟らなければならない。イエスは、地上においても、原罪がないという点を除けば、我々と少しも異なるところのない人間であられるし、また、復活後、霊界においても、弟子たちと異なるところのない霊人体としておられるのである。ただ、弟子たちは生命体級の霊人で、受けた光を反射するだけの存在であるのに比べて、イエスは、生霊体級の霊人として、燦爛たる光を発する発光体であるという点が違うだけである。

また、イエスは、復活後にも霊界で、地上におられたときと同様、神に祈祷しておられる(ロマ八・34)。もし、イエスが神御自身であられるならば、その御自身に対して、どうして祈祷することができるであろうか。この問題については、イエスも、神を父と呼び、自ら神でないことを明らかにしておられる(マタイ二七・46、ヨハネ一七・1)。もしも、イエスが神御自身であるならば、どうして、神がサタンの試練を受け、また、サタンから追われて十字架につけられるなどということがあり得るだろうか。また、イエスが十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・46)と言われたみ言を見ても、イエスが、神御自身でないことは明らかである。

第三節 堕落人間とイエス

堕落した人間は、創造目的を完成した人間としての価値を備えていないので、自分より低級に創造された天使を仰ぎ見る程度の卑しい立場に落ちてしまった。しかし、イエスは創造目的を完成した人間としての価値をみな備えておられるので、天使をはじめ、すべての被造世界を主管する資格をもっておられたのである(コリント・一五・27)。また、堕落人間には原罪があるので、サタンの侵入できる条件がそのまま残っている。しかし、イエスには原罪がないので、サタンが侵入できる何らの条件もないのである。また、堕落人間は、神のみ旨とその心情を知ることができない。たとえ知ったとしても、それはごく部分的なものにすぎない。しかしイエスは、神のみ旨を完全に知っておられるとともに、その心情をも完全に体恤した立場において生活しておられるのである。
したがって、人間は堕落した状態にとどまっている限り、何らの価値もない存在であるが、真の父母としてのイエスによって重生され、原罪を脱いで善の子女になれば、イエスのように創造目的を完成した人間に復帰されるのである。それはちょうど、我々人間社会の父子の間において、父と子としての順位があるだけで、その本然の価値には少しの差異もないのと同じである。ゆえに、キリストは教会のかしらとなり(エペソ一・22)、我々は彼の体となり、また肢体となる(コリント・一二・27)。したがって、イエスは本神殿であり、我々は彼の分神殿となるのである。そして、イエスはぶどうの木であり、我々は彼の枝である(ヨハネ一五・5)。また、野のオリーブである我々は、もとのオリーブなるイエスに接がれることによって、オリーブとなることができるのである(ロマ一一・17)。ゆえに、イエスは私たちを友達と呼ばれ(ヨハネ一五・14)、また、彼(イエス)が現れるとき、私たちも彼に似るものとなることを知っている(ヨハネ・三・2)という聖句もある。そして、聖書は、復活するのは「最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち」であることをも明らかにしている(コリント・一五・23)のである。

第四節 重生論と三位一体論

(一)重生論
(二)三位一体論

三位一体論は、今日に至るまで、神学界で一番解決し難い問題の中の一つとして論じられてきた。そして、だれもがよく分かっているようで、実際には、その根本的な意味を知らないままに過ぎてきた問題の中の一つが、すなわち本項で扱う重生論である。

(一)重生論

(1) 重生の使命から見たイエスと聖霊

イエスは、自分を訪ねてきたユダヤ人の官吏ニコデモに、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできないと言われた(ヨハネ三・3)。重生とは二度生まれるという意味である。では、人間はなぜ新たに生まれなければならないのであろうか。我々はここで、堕落人間が重生しなければならない理由について調べてみることにしよう。

アダムとエバが創造理想を完成して、人類の真の父母となったならば、彼らから生まれた子女たちは原罪がない善の子女となり、地上天国をつくったであろう。しかし、彼らは堕落して人類の悪の父母となったので、悪の子女を生み殖やして、地上地獄をつくることになったのである。したがって、イエスが、ニコデモに言われたみ言どおり、堕落した人間は原罪がない子女として新たに生まれ直さなければ、神の国を見ることができないのである。

我々を生んでくださるのは、父母でなければならない。それでは、堕落した我々を原罪がない子女として生んで、神の国に入らせてくださる善の父母は、いったいどなたなのであろうか。原罪のある悪の父母が、原罪のない善の子女を生むことはできない。したがって、この善の父母が、堕落人間たちの中にいるはずはない。それゆえに、善の父母は、天から降臨されなければならないのであるが、そのために来られた方こそがイエスであった。彼は堕落した子女を、原罪のない善の子女として新しく生み直し、地上天国をつくるその目的のために真の父として来られた方であった。ゆえに、ペテロ・一章3節に、「イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ」というみ言がある。イエスは、アダムによって成し遂げられなかった真の父としての使命を全うするために来られたので、聖書では、彼を後のアダムといい(コリント・一五・45)、永遠の父といったのである(イザヤ九・6)。また、神は、預言者エリヤを再び送り、彼の力で堕落した人間の心を、父母として降臨されるイエスの方へ向けさせることによって、彼らをその子女となさしめると言われた(マラキ四・6)。そして、イエスが再臨されるときも、父の栄光のうちに来られる(マタイ一六・27)と言われたのである。

ところで、父は一人でどうして子女を生むことができるだろうか。堕落した子女を、善の子女として、新たに生み直してくださるためには、真の父と共に、真の母がいなければならない。罪悪の子女たちを新たに生んでくださるために、真の母として来られた方が、まさしく聖霊である。ゆえに、イエスはニコデモに、聖霊によって新たに生まれなければ、神の国に入ることができない(ヨハネ三・5)と言われたのである。

このように、聖霊は真の母として、また後のエバとして来られた方であるので、聖霊を女性神であると啓示を受ける人が多い。すなわち聖霊は女性神であられるので、聖霊を受けなくては、イエスの前に新婦として立つことができない。また、聖霊は慰労と感動の働きをなさるのであり(コリント・一二・3)、エバが犯した罪を蕩減復帰されるので、罪の悔い改めの業をしなければならないのである。さらに、イエスは男性であられるので、天(陽)において、また、聖霊は女性であられるので、地(陰)において、業(役事)をなさるのである。

(2) ロゴスの二性性相から見たイエスと聖霊

ロゴスという言葉はギリシャ語で、み言、あるいは理法という意味をもっている。ヨハネ福音書一章1節以下を見ると、ロゴスは神の対象で、神と授受をなすような関係の位置をとっているという意味のことが書かれている。ところで、ロゴスの主体である神が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない。もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物(ヨハネ一・3)も、二性性相になっているはずがない。このようなロゴスの二性性相が、神の形象的な実体対象として分立されたのが、アダムとエバであった(前編第一章第一節(一))。

アダムが創造理想を完成した男性、すなわち生命の木となり、エバが創造理想を完成した女性、すなわち善悪を知る木となって、人類の真の父母となったならば、そのときに、神の三大祝福が完成され、地上天国は成就されたはずであった。しかし、彼らが堕落したので、反対に、地上地獄になってしまった。それゆえ、堕落人間を再び生み直してくださるために、イエスは、後のアダム(コリント・一五・45)として、生命の木の使命をもって(黙二二・14)人類の真の父として来られたのである。このように考えてくると、ここに後のエバとして、善悪を知る木の使命をもった人類の真の母が(黙二二・17)、当然いなければならないということになる。これがすなわち、堕落した人間を、再び生んでくださる真の母として来られる聖霊なのである。

(3) イエスと聖霊による霊的重生

父母の愛がなくては、新たな命が生まれることはできない。それゆえ、我々がコリント・一二章3節に記録されているみ言のように、聖霊の感動によって、イエスを救い主として信じるようになれば、霊的な真の父であるイエスと、霊的な真の母である聖霊との授受作用によって生ずる霊的な真の父母の愛を受けるようになる。そうすればここで、彼を信じる信徒たちは、その愛によって新たな命が注入され、新しい霊的自我に重生されるのである。これを霊的重生という。ところが、人間は霊肉共に堕落したので、なお、肉的重生を受けることによって、原罪を清算しなければならないのである。イエスは、人間の肉的重生による肉的救いのため、必然的に、再臨されるようになるのである。

(二)三位一体論

創造原理によれば、正分合作用により、三対象目的を達成した四位基台の基盤なくしては、神の創造目的は完成されないことになっている。したがって、その目的を達成するためには、イエスと聖霊も、神の二性性相から実体的に分立された対象として立って、お互いに授受作用をして合性一体化することにより、神を中心とする四位基台をつくらなければならない。このとき、イエスと聖霊は、神を中心として一体となるのであるが、これがすなわち三位一体なのである。

元来、神がアダムとエバを創造された目的は、彼らを人類の真の父母に立て、合性一体化させて、神を中心とした四位基台をつくり、三位一体をなさしめるところにあった。もし、彼らが堕落しないで完成し、神を中心として、真の父母としての三位一体をつくり、善の子女を生み殖やしたならば、彼らの子孫も、やはり、神を中心とする善の夫婦となって、各々三位一体をなしたはずである。したがって、神の三大祝福完成による地上天国は、そのとき、既に完成されたはずであった。しかし、アダムとエバが堕落して、サタンを中心として四位基台を造成したので、サタンを中心とする三位一体となってしまった。ゆえに彼らの子孫もやはり、サタンを中心として三位一体を形成して、堕落した人間社会をつくってしまったのである。
それゆえ、神はイエスと聖霊を、後のアダムと後のエバとして立て、人類の真の父母として立たしめることにより、堕落人間を重生させて、彼らもまた、神を中心とする三位一体をなすようにしなければならないのである。しかし、イエスと聖霊とは、神を中心とする霊的な三位一体をつくることによって、霊的真の父母の使命を果たしただけで終わった。したがって、イエスと聖霊は霊的重生の使命だけをなさっているので、信徒たちも、やはり、霊的な三位一体としてのみ復帰され、いまだ、霊的子女の立場にとどまっているのである。ゆえに、イエスは自ら神を中心とする実体的な三位一体をつくり、霊肉共に真の父母となることによって、堕落人間を霊肉共に重生させ、彼らによって原罪を清算させて、神を中心とする実体的な三位一体をつくらせるために再臨されるのである。このようにして、堕落人間が神を中心として創造本然の四位基台を造成すれば、そのとき初めて、神の三大祝福を完成した地上天国が復帰されるのである。

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