Text Box: TP portrait  三 祝福家庭と家庭盟誓

  一) 真の家庭の理想と価値

   (1)真の家庭は創造本然の家庭


 創造目的の完成は、み旨の完成です。み旨の完成は、四位基台の完成です。このようになるのです。四位基台の完成は何かというと、真の家庭を完成することです。真の家庭には、真の父母がいなければならず、真の男性と真の女性がいなければならず、真の夫婦がいなければならず、真の子女がいなければなりません。これは理論的です。最も中心は、個人の目的も真の父母であり、男性と女性の目的も真の父母であり、赤ん坊の目的や兄弟たちの目的も真の父母だということです。真の父母になって息子、娘をもとう、家庭をもとう、このようになるのです。

 

 真の家庭が出てくるためには、真の男性が出てこなければなりません。真の男性とはいかなる人ですか。神様と一〇〇パーセント一つになった男性です。神様の理想と完全に一つになった男性であり、そのような人が神様の理想と完全に一つになった女性と一つにならなければなりません。女性にも心と体があり、男性にも心と体があるでしょう? 彼らが成熟してこそ、初めて心と体は一つになるようになっています。男性でも女性でも、心と体がすべて一つになった人が、初めて互いに横的に一つになることができる力を感じるのです。そのようなものが男女の愛です。ですから、男女は初愛を中心として、絶対的に一つにならなければなりません。

 

 神様が主体であり、私たち人間が客体であるならば、神様が願われる理想的な愛と、人間が願う理想的な愛が安着し得る一つの基準、センターが家庭です。それゆえに、夫とどのように向き合い、妻とどのように向き合うのですか。神様の前に恥ずかしくなく、子女の前に恥ずかしくない夫と妻とならなくては、夫婦の愛を結ぶことはできないという結論が出てくるのです。

 お互いに愛し合って愛をなそうとする時、神様が笑うことができ、理想的な神様の愛の安着点、中心点を通して、今後、喜びの子女をもつ資格をもった男性と女性にならなくては、この地上に理想的家庭を立てることはできないという結論が出てくるのです。

 

 理想的な夫婦、理想的な真の家庭は、神様と常に、共に暮らすことができます。ですから、男性は神様の性相、心の立場にならなければなりません。そして、女性は形状となって一つにならなければなりません。このようになったものが、一段階もっと大きくなって一つになるのです。心的な面が性相となり、体的な面が形状となって、この二人がここにおいて初めて実を結ぶのです。それで、神様を中心として心と体の一体圏ができあがるのです。

 

 生命を超越していく愛から、初めて真なる家庭が築かれるのです。真の夫は、自分の妻のために命を懸ける夫です。真なる父母も、自分の息子、娘たちのために、そのようにする父母です。真の男性もそうであり、真の女性も同様です。真の男性と真の女性が出会って真の夫婦となるのでしょう? その真の夫婦から生まれる息子、娘が真の息子、娘です。その息子、娘は、すべて真の息子、娘になるのです。そのようにして成し遂げられた家庭が、真の家庭になるのです。真の家庭においては、神様が中心軸です。その軸を中心として、アダムとエバの家庭に、神様が愛の中心として定着しなければならなかったのです。

 

家庭を中心として見るとき、夫婦の愛はどのようなものかというと、妻にとって、夫は神様の代身者であり、自らの絶対的な夫であり、今後息子を愛することができる中心存在です。妻は、その夫に対しながらこの世を相対的に感じることができ、相対的に考えることができなければなりません。夫は宇宙に一人しかいないのです。過去、現在、未来を通じて永遠に一つしかない存在です。また、夫にとって、妻は母の代身者であり、世界を代表した絶対的な相対です。世界を代表した娘として、愛の実体として愛することができなければなりません。

 

 真の父母になれば、真の子女が出てきて、真の家庭が出てきて、真の氏族が出てきて、真の国が出てきて、真の世界がここから自動的に生じるのです。そうではありませんか。ですから、一番重要な名前は何ですか。「真の父母」という名前です。「真の父母」という用語が一番重要です。

 

 真の家庭とは何でしょうか。夫婦です。夫婦は、神様の実体対象です。神様の体です。真の愛をもった神様を、皆さんは「お父様」と呼びます。神様が父です。父子関係なのです。父と息子であり、母と娘なのですが、一体です。それを知らなければなりません。縦横を合わせたものなので、そうだというのです。

 

 父母が子女のために無限に投入して犠牲になれば、真の愛が背後にある限り、子女はその真の愛に無限に感謝するようになっているのであり、父母は大きな喜びをもって、その犠牲の立場を満たすのです。このように、犠牲的な真の愛の力は、授受作用を発展させ、真の家庭で、そして真の世界で、永遠の喜びと平和の関係を結ばせます。このようなところから、永生の理想世界が顕現するのです。

 しかし、このような真の愛が欠如した家庭や、国や、世界は、抜け殻の建物にすぎず、むしろあらゆる不信と、反目と、不倫の納骨場所となってしまうのです。人間の純粋な真の愛が成長し、完成する場所が真なる家庭です。真の父母の愛、真の夫婦の愛、真の子女の愛、そして真の兄弟の愛が共に完熟し、実践される真の愛の初舞台が真の家庭なのです。

 

 最高の真理とは、どのようなものでしょうか。父母に仕え、真の子女と共に生き、真の父母と真の子女を中心とした真の家庭を中心として、「真の家庭とはこのような家庭だ」と言うことができるものです。さらには「真の氏族、真の民族、真の国家、真の世界と真の天地とはこのようなものだ」と言うことができるものです。このような「真」という因縁ができなければ不可能なのです。

 

 神様の真の愛の動機により、その対象として造られた人間にとって最も貴いものは、真の愛を中心とした真の家庭を成すことです。真の愛は、人間に真の幸福をもたらす根本です。真の愛の中に無限の喜びがあり、無限の自由があるのです。真の愛の中から、永遠の調和が成し遂げられるのです。

 

 真の父母の真の愛を通して神様の真の愛を学びながら、真の兄弟の真の愛を通して真の国と真の世界人類に対する普遍的な真の愛を訓練させる、平和世界の基本核の位置が真の家庭です。それだけでなく、父母と子女の間につながっている真の愛を通して、過去と現在と未来の世代が一貫した真の愛の価値観によって連結されていく、歴史的連結の輪の基本単位も真の家庭です。

 

 家庭を通して、すべての人を愛し得る経験をすることができます。幼い子供から年寄りまで、男性は女性全体を、そして女性は男性全体をそのようにお互いに愛することができる因縁の世界こそ、より生きがいのある理想に近い世界です。ですから、家庭は、理想世界を紹介するための教育場です。


   (2)真の家庭は、本然の血統と真の愛が連結されなければならない


 神様の究極的、不変の摂理目的は、真の父母を探し立てることです。真の父母は、真の愛の化身体であり、真の生命の種として来られます。真の父母から真の家庭が始まり、この家庭は、復帰されるべきすべての家庭の標本となるのです。

 

 統一教会でいう心情圏がどのように伝授されるのかという問題は、神様の本然の愛を中心とした血統的因縁が連結されなければ、神様を中心とした本然の心情圏は、完全に一〇〇パーセント伝授されないのです。

 

 神様が中心になって成長したアダムとエバを祝福してあげた場合には、神様を中心とした真の愛と、真の生命と、真の血統を受け継いだ真の夫婦が生じ、真の家庭、真の氏族、真の民族、真の世界へ拡散していったはずです。しかし、人類は、堕落したがゆえに真の父母を失ってしまいました。その結果、偽りの父母が生じ、地獄が生じました。その偽りの父母の歴史を払拭し、再び真の父母の歴史を登壇させることが神様の摂理です。

 

 神様は、真の愛を中心とした真の父母、真の子女、真の家庭、真の国家、真の世界、そして真の宇宙を立て、真の愛の理想によって主管しようとされましたが、サタンが偽りの愛を中心として、偽りの父母、偽りの子女、偽りの家庭、偽りの国家、偽りの世界、そして偽りの宇宙を立てて主管してきたのです。

 

 堕落後に、アダムとエバから連結した人類の血統は、サタン側に属しています。自然世界のすべてのものも同様です。そこで、反対に祝福を受けることによって、すべてのものが逆に帰っていくのです。財産、息子、娘、夫婦が神側に属するようになるのです。

 そのようになることによって全宇宙が神様に連結されます。そこから、神様が思いどおりにすることができるようになるのです。そのように帰っていかないものは、サタン側に残ります。すべてのものが神側へ帰っていかなければなりません。財産、息子、娘、家庭、そして先祖まで、本然の位置に帰っていかなければならないのです。

 

 神様の愛を中心として完全な神様の愛が顕現する時には、サタンは現れることができません。それが責任分担の完成です。責任分担を完成した直接主管圏において、愛の因縁が結ばれるのです。そこで、縦的愛と横的愛が連結されるのです。そのようになれば、その縦横の愛を通じて、神様の血統的因縁と血縁が生じるのです。血統が生じるのです。

 それゆえに、その血統、すなわち神様の愛を中心として一つになった縦横の愛と因縁を結んで生まれた血統には、サタンは干渉することができません。サタンと因縁がないのです。ですから、心情を受け継ぐためには、純粋な神様の愛を中心とした本然の伝統的血統を受け継がなければなりません。

 

 祝福結婚の儀式は、偽りの愛の因縁を清算し、絶対性を中心とした結婚の神聖な内容と価値の回復を指向します。真の夫婦の愛、真の父母の愛、真の子女の愛を回復するための儀式です。したがって、祝福結婚式に参加する当事者は、純潔と信頼を生命視し、不変の夫婦愛を誓約するのです。その真の愛の基盤の上で、真なる家庭を成し、真なる子女を養育し、生活の中で真の国家と平和世界の実現に献身することを誓うのです。


 二) 真の家庭と家庭生活

 (1)侍ることによって生活の天国化を実現


 神様は、妄想的な神様、観念的な神様ではありません。抽象的な神様ではありません。生活的な主体性をもち、私たちが生活している生活の主人として、常に共にいらっしゃるのです。侍られているだけではありません。共同的な愛を中心として、共同的な生活をしていらっしゃる神様です。夢のような話です。

 

 神様を心の中に迎えて侍り、私たち人間が体の立場から完全に一つになることのできる起源をつくらなくては、この悪魔世界を清算することはできません。このような観点から見るとき、侍りの時代、すなわち侍義の救援時代だとみなすのです。侍ることによって救いを受けるのです。神様は、あの空の遠く彼方にいらっしゃるお方ではありません。私たちの生活圏内の主体者として、神様に侍らなければなりません。

 

 皆さんは、神様がいらっしゃるということを一日に何度自覚しますか。二十四時間中に、何度、神様がいらっしゃる、ということを感じますか。侍ることによって救いを受けようという人が、二十四時間中の一、二時間程度侍ればよいのですか。空気よりも、切迫して必要なものが神様です。水よりも、切迫して必要なものが神様です。御飯より、もっと貴重なものが神様です。しかし、皆さんはそのように感じていますか。

 

 今から、皆さんは侍る生活をしなければなりません。今までの信仰生活は、信仰によって救いを受けましたが、今後は、侍ることによって救いを受ける時代です。本来、堕落しなかったならば、私たちは、神様に侍ることによって行くべき道を行くようになっているのです。侍るには、皆さんの生活と心で、共に侍らなければなりません。

 

 侍る生活をしなければなりません。希望の天国は迎えましたが、侍って実践しながら生活する天国は迎えていません。すなわち生活的な面において、主体であられる神様を知らないのです。

 

 神様は、宇宙の中心存在であられるので、その近くに行けば、千年、万年、主管を受けたとしても、もっと主管を受けたいと思うのです。神様を中心とした侍る道理がそのようになっているので、今日、私たち人間もそのような位置で主管を受けることができるならば、それ以上の幸福はないという事実を、私たちは考えてみることさえできなかったのです。

 

 皆さんは、侍る生活をしなければなりません。なぜ侍る生活をしなければならないのでしょうか。神様の愛を受けるためだ、という事実を知らなければなりません。したがって、まず神様に侍らなければなりません。神様に侍らなければならないのです。

 

 一日二十四時間の生活圏内で私が見聞きしたすべてのことは、何のためでしょうか。神様のためです。神様のために見て、聞かなければならず、感じるのも、神様のために感じなければなりません。私たちは、地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。

 

 神様が喜ばれ、悲しまれることを常に鑑別しながら暮らす人は、悪人になろうとしてもなることはできず、天の法度に背こうとしても背くことはできません。そのような男性は、どれほどの美人が誘惑しても負けません。そこに同化することができないのです。

 

 今日、家庭を脱皮する不幸な青年男女がたくさんいますが、その原因は、どこにあるのでしょうか。それは、天倫の法度に一致した愛が失われてしまったからです。ですから、家庭を中心として、その家庭に神様を定着させることができる、天地父母が顕現しなければならないのです。


   (2)家庭生活の中心は真の父母


 最後に残るものは何でしょうか。神様プラス人間、すなわち神人であり、神人の生きる道、神人の生活観です。人生観も同様に神人の人生観であり、神人の世界観です。そして、それは神様に対して人間が漠然と知るといった程度の立場ではなく、人間が離れようとしても、永遠に離れることができない立場です。神様と人間は、本来離れてはいけない立場から離れていったので、離れてはならない立場以上の立場に到達しなければなりません。そのような立場で、神人が一つになった生活的な舞台、世界的な舞台を要求していかなければなりません。

 

 皆さんは、侍義時代、すなわち侍る生活をする時代において、正確な中心をもっていかなければなりません。神様に侍るにおいては法度があります。その法度に背く時は、神様は非常に憤慨されます。子女を愛している父母が、その子女の一言の言葉によって胸に釘が刺さったり抜けたりする思いを味わうのと同じように、神様も、人間を愛していらっしゃるがゆえに、怒りも多いお方なのです。万が一誤れば、神様から怒りを買うようになります。それゆえに、先生も先生なりに、常に神様を喜ばせてさしあげようとしているのです。

 

 皆さんも、皆さんのことを思ってくれる人を訪ねていくでしょう? 神様も同じです。その神様を占領できる道は、誰よりも神様のことを思い、神様のために奉献しようとすることです。その人を中心として神様は訪ねていくのです。

 

 人間においては、神様を愛することが第一の戒めですが、愛する時は、死ぬほど愛さなければなりませんか、一時的に愛さなければなりませんか。皆さんは、神様を死ぬほど愛しますか、死ぬほど愛しませんか。たとえ雷に打たれて死んだとしても、愛さなければならないのです。神様を死ぬほど愛さなければなりません。死ぬほど愛さなければならないとすれば、死ぬ前までに、できないことはありません。

 

 この道を行くためには、愚かでなければなりません。忠臣たちは、別の見方をすれば愚かな人々です。少し愚鈍に見えます。熊のような性格をもっているのです(注:熊には愚鈍な人という意味がある)。自分の腕を切られたとしても、「ああ、ここがあまり切られなかった、もっと切りなさい」という、そのような間抜けで愚かな点がなければなりません。

 熊や猪は、銃に打たれた時に、動くのに足手まといになる部分があれば、その部分を口で切り落として逃げていきます。死についてはあとで考え、まず邪魔になる部分を切ってしまうのです。そのような、間抜けで愚かな何かがなければなりません。忠臣、烈士は、愚かでなければなりません。少しは間抜けでなければならないのです。

 

 レバレンド・ムーンとは、どのような人でしょうか。一つの芸しかない人です。愚かに、ただまっすぐにしか行けない人です。口をちょっと閉じて適当に回っていけばいいのに、なぜしきりに悪口を言われるようにするのでしょうか。それは、多くの人々の反対を受けてこそ、一つの峠を越えていくことができるからです。ところが、皆さんは回っていく考えをしているでしょう? では、どうして世の中のすべてのものを切って、行かなければならないのでしょうか。父と母の愛に引っ張られれば、まっすぐに行くことができないからです。今まで、神様がまっすぐな道を訪ねてこられたので、まっすぐに行かなければならないのです。

 

 神様がそのように寂しいお方であり、孤独なお方であられるので、私が死ぬ日まで、そのみ旨とその願いを一つでも解いてあげ、その分野の一つの基盤でも拡大させ、神様のために生きることができる人を集めることが使命だ、と思って歩んできたのです。

 悪口を言われ、むちで打たれても復讐することを知らず、愛で耐えてきたのは、神様の息子として生まれたからであり、そのお方のみ旨を立てなければならない責任があるからです。しかし、この伝統をいかに立てていくかということを考えながら、ふらつき、あるいは腰が曲がり、這いずりながら、「これだけは残さなければならない」としながら闘ってきたのです。

 

 今から、皆さんは真の父母と共に生活しなければなりません。それゆえに、真の父母はおじいさんの立場であり、自らの父と母の立場であり、自分たちは長子の立場だというのです。これが違うのです。三代が共に生活するという結論です。神様が自分と共にいて、真の父母が自分と共にいて、自らの父母が共にいることを感じて生活しなければなりません。「神様はいない、死んだ」という考えはもつことができない時代に入ってきました。

 

 父母の愛を受けようとすれば、何をしなければならないでしょうか。父母が愛する、すべてのものを愛さなければなりません。そのようにしたのちにおいて、初めて愛を受けるのです。家庭でいえば、自分の父母から愛を受けることを願うならば、その息子は、父母がもっているすべてのものを愛したのちに愛されなければならない、ということを知らなければなりません。これをしないで愛を受けようとする人は、どろぼうです。父母が貴く思うものを、すべて自分勝手にめちゃくちゃに引き継いでは、愛を受けることはできないのです。

 皆さんは、先生の血と汗の代価をもって買ってきた人々です。先生の体を与えて買ってきた人々です。したがって、皆さんは、先生と同じ仕事をしなければなりません。先生は食口たちを誇りたいのです。このような立場から、公約しましょう。

 

 皆さんは、実体の神様の立場に立っている真の父母が恋しくて、泣かなければなりません。しきりに会いたいと思わなければなりません。御飯一膳でも炊き、水でも一杯くんでおき、そのようにしながら侍りたいと思わなければなりません。そのような、切実な心をもたなければなりません。涙が先立つ心情をもっていれば、できるのです。そのようにすれば、先生を中心として心情一致が成され、先生と共に呼吸することによって、先生の人格基準と、それを後ろ盾する先生の過去と、そこに絡まった事情がどのようになっているのかを知るようになり、さらにはそれを相続し、引き継ぐことができるのです。

 

 エデンの園でアダムとエバは堕落して、その堕落圏内で生活したので、直接的な侍る生活をしてみることができませんでした。侍ることができなかった人間には、天国に入っていく資格はありません。しかし、皆さんは、堕落の血統を受けて生活したとしても、復帰の路程を蕩減し、地上で実体をもってアダムとエバが侍ることができなかった真の父母に侍り、神様に侍って生きてから行ったという条件を立てることによって、天国に入っていくことができる資格になるのです。それで、天国の市民権を得るようになるのです。

 

 皆さんが考える神様に対する侍りの生活とは、どのようにしなければならないものでしょうか。神様を一体と思い、真の父母を一体と思い、生活するすべてのものが一体となって、私が生活するときに「このすべてのものは神様のものであると同時に真の父母のものであり、真の父母のものは真の父母の国のものであり、真の父母の国のものになれば、私のものである」という観念をもたなければなりません。

 この宇宙も真の父母のものであり、この家も真の父母のものであり、国も世界も真の父母のものであるならば、私は真の父母の息子なので、すべてのものは私のものだ、という結論が出てくるのです。

 

 成約時代には、神様自体が真の父母の姿をして万民の前に現れるようになります。政治によるいかなる力を投入したとしても、負けない偉大な力を統一教会がもっているのは、正にこのためです。生きている神様を私たちが直接目で見て、感覚をもって体恤することができる圏内で、体験を繰り返しながら歩んでいくのが、私たち統一教会の道です。

 

 人間の願いは、真の父母に出会うことです。死の道を行ったとしても、出会わなければならないお方が真の父母です。歴史をすべて失い、時代をすべて失い、自らの子孫をすべて失ってしまう恨があったとしても、真の父母に出会うならば、歴史を取り戻し、時代を取り戻し、未来を取り戻すことができるのです。このようなお方が正に真の父母だということを、皆さんは知らなければなりません。

 

 「チャム・プ・モ(真の父母)」というその名前三文字を思う時、真の父母によって歴史が治められ、真の父母によって新しい世界に戻っていくことができる起源が生じ、真の父母によってサタンを屈服させることができる内的な因縁が決定され、真の父母によって外的な世界を占領しているサタンを征服して、初めて神様を解怨成就してさしあげることができる中心が決定されるのです。したがって、真の父母と共に生き、真の父母の命令を奉じて行動することができるこの驚くべき恩賜に、皆さんがまず感謝しなければなりません。

 

 神様を解放しようというのです。真の神様の権威を中心として、理想の境地で人類始祖と共に無限な幸福を褒めたたえながら暮らすことができる中で、侍られながら暮らされるべきだった神様が、このように悲惨になったという事実を知ったので、その神様を私たちの手で解放してさしあげようというのです。

 これは驚くべき提案です。そのような内容が宗教界から出てきたという事実は、神様にとっては、限りなくうれしい知らせです。福音の中の福音です。このように見るとき、仏教を立てられたお方も神様であり、儒教を立てられたお方も神様であり、イスラム教を立てられたお方も神様であり、キリスト教を立てられたお方も神様なので、すべての宗教が、もろ手を挙げて歓迎しなければならないのです。

 

 皆さんが真の父母と完全に一つになる時、国家があるのであり、氏族もあるのであり、民族もあるのであり、家庭もあるのです。天地のあらゆる栄光の価値を総合した実体基準が、真の父母です。真の父母を世の中のお金と換えることができますか。自分の生命と取り替えることができますか。それゆえに、昔とは違うのです。皆さんがどこに行ったとしても、真の父母に侍るために大韓民国を訪ねてこなければなりません。皆さんの息子、娘も、千代、万代の後孫も、そのようにしなければなりません。それゆえに、統一教会は違うのです。


) 真の家庭の伝統と家法を正しく立てよう


 先生が心配していることは、いかにすれば統一教会の名を後世に残すことができるかということではなく、いかにすれば先生の伝統を受け継いだ人々を後世に残すことができるかということです。ですから、今まで、伝統を重要視しなさいという教育をしてきているのです。

 

 今まで私たちは、いい加減に生きてきたのであり、言葉もいい加減に使ってきました。しかし、今から、私たち祝福家庭も規律を立てなければなりません。腹が立ったからといって、父母が子女を自分勝手に棒でたたき、「この駄目息子」という世俗的な卑しい言葉を使ってはいけません。今からは、すべてが一新されなければなりません。神様を中心として、言葉から、態度から、生活から、一新した立場に立たなければなりません。

 

 個人生活はどのようにしなければならないかということを、はっきり糾明しなければなりません。また、家庭生活はどのようにしなければならないかということも、はっきり糾明しなければなりません。過ぎし日に漠然と生きてきた生活を改め、これからは具体的に生きていかなければなりません。

 

 父母は、子供のために存在します。もし父母のために父母がいるとすれば、「父母」という言葉は出てきません。今後、統一教会の原理を中心として、倫理観が形成されなければなりません。父母は、どのようにあるべきですか。子女を生む父母は、子女のために存在しなければなりません。それが倫理の第一条です。それには、説明が必要ありません。息子のために存在しようとする立場は、不幸な立場ではなく、幸福な立場です。

 

 皆さん自身は、誰のものですか。父母のものであると同時に、息子のものです。そのようになるとすれば、父母は誰のものですか。父母は、子女のものであると同時に、神様のものです。ゆえに、皆さんは、まず神様のものとなり、子女のものになったのちに、自らのものとなるのです。そのようになる時、初めて完成がなされるのです。ですから、父母を敬うその法度は、地上に残っており、人間生活に残っているのです。ここから、「父母を敬い、子女を愛しなさい」という言葉が出てきたのです。父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けてみて、子女を愛してみてください。そのようにして初めて「私」という人間が四方を分別し、上下を分別することができるのです。

 

 伝統を残さなければならず、その次には、善なる立派な子孫を残さなければなりません。小心者の子孫ではなく、強く雄々しい立派な子孫を残さなければなりません。そのようになれば、たとえその国が滅びる運勢圏にあったとしても滅びません。滅びるべき立場から、新しい恩人が現れるのであり、追われる立場から、新しい勝利の旗がついてくるのだという事実を知らなければなりません。残すべきその伝統は、大韓民国だけでなく、万民が喜ぶことができる伝統にならなければならず、そして善の子孫も残さなければなりません。これができなければ、天の前にもっていく礼物がなくなります。

 

 いかにして私たち祝福家庭の息子、娘たちが先生のように生き、そのように三代を生きることができるか、ということが大きな問題です。三代が共に功臣になるならば、天下にいない、あの天上世界の功臣になるのだ、ということを考えてみましたか。ですから、自らの息子、娘を抱き、今から教育して、そのような思想を入れることに精誠を尽くさなければなりません。

 

 未来に対して、どのように暮らすことが、幸せに暮らすことでしょうか。私が幸せに暮らすことが問題なのではありません。子孫を教育しなければなりません。子孫の前に残してあげなければなりません。今まで、統一教会を指導してきた先生自身もそうですが、皆さんもかわいそうな道を歩んできました。避難民として定着することができなかったのです。荒野路程を歩んできたのです。今から、私たちは定着しなければなりません。そして、定着しようとすれば、闘って勝利しなければなりません。カナン七族を滅ぼしたように、戦って勝利しなければ定着することはできないのです。この民族を中心とした闘いにおいて、必ず勝利しなければなりません。

 

 父母は、死んでも、天道は、残していかなければなりません。その家庭は、何のために存在するのでしょうか。自らの子女のために存在するとしても、まず神様のために生き、国のために生きなければなりません。結局は、そのことが自らの子女のために生きる道です。そのようにしてこそ、子女たちは神様の運と世界の運と共にあり、国の運と共にあることができるのです。したがって、祝福されて生んだ貴い子女たちが苦労したとしても、その子女たちに拍子を合わせるのではなく、神様と、世界と、国の運勢に拍子を合わせなければなりません。

 

 私たちが神様から受けた純粋な血統を、いかにして保有するかが問題です。堕落した血統ではなく、純粋な血統をいかに保存していくのかというのです。彼らのために、心から心配しなければなりません。汚染されていないエデンの園においても堕落したのですから、この罪悪世界できれいになるということは、非常に難しい問題とならざるを得ません。罪悪世界で生まれた父母は、たとえ苦労したとしても、祝福を受けて生まれた子供たちには、汚染されていない環境をつくってあげなければなりません。私たちが犠牲になったとしても、二世たちのために早くそのような環境を準備しなければならない、というのが先生の考えです。急がなければなりません。

 

 習慣的で世俗的な家庭であってはいけません。「今はこうであるが、今後は良くなるだろう」と考えてはいけません。既に完全でなければいけません。現在が問題です。過去と現在が完全であってこそ、未来も完全であり得るのです。このような一日を、エデンの園でももつことができなかったことが、堕落の証拠です。過去と、現在と、未来が一致することができる位置が、理想的な位置です。現在を捧げることができなければなりません。地上の永遠の足場となることができるか、ということが神様の願いなのです。これは、歴史的な総合点です。

 

 イスラエル民族がカナン復帰を成し遂げたのちに滅亡したのは、彼らが既存の環境に同化し、習慣化されたからです。より豊かに暮らし、よく食べて贅沢をする生活にすべての精神を注いだので、滅亡したのです。彼らは、異邦人であっても、相手が金持ちの家ならば結婚しました。また、権力を貪り、知識を好みました。結局、既存のカナン文化に同化され、選民の精神を売り飛ばしたので、彼らは滅亡したのです。

 

 習慣は、最も凝り固まった悪い癖です。結婚したのち、皆さんが子供たちを育てながら習慣的な生活をするようになれば、それが体に染みついてしまいます。そのような環境の中では、特別な精誠や祈祷をする時間がありません。子供たちがそばで騒ぎ立てるので、祈祷をする時間がないのです。

 

 私たちは、個人中心ではなく、家庭中心です。だからといって、家庭だけを中心としてすべてのものを清算するのではなく、すべてを連結しなければなりません。したがって、昔、独りで道の生活をしていた時の努力をするだけではいけません。「昔努力していた時の何倍も努力しよう」という決意と覚悟を添付させなければいけません。悪に対して挑戦していく生活は、ややもすれば疲れて後退しやすいのです。家庭をもった時は、独りでいた時の何倍も努力しなければなりません。家庭は、中心をつかんでいる立場です。私たちは、現実を避けることはできません。前後、上下、左右の関係を家庭で完成しなければなりません。過去の信仰形態ではいけません。過去の一方的な信仰態度をもっていてはいけないのです。

 

 皆さんは、一代のために生きる家庭になるのではなく、世界と永遠のために生きる家庭にならなければなりません。また、愛の基盤を広げ、万民の心情を集めて、ろうそくのあかりをつけ、香をたいて祈りを捧げ、天と地、万民と共同の因縁を結んで生きたのちに死のう、という家庭にならなければなりません。そのような家庭になれば、いかなる苦難が迫ってきても、神様がその家庭を保護してくださるはずです。天が種として残しておくのです。

 

 皆さんは、侍る生活法度を知らないでしょう? これは、まだ教えてあげていません。今後、時になれば、すべて教えてあげようと思っています。侍る時は、世の中のいかなる孝子よりも、歴史上のいかなる忠臣よりも、最善を尽くして侍らなければなりません。天下が、このような家庭の規範に頭を下げることができる心情的起源をつくるために行く道が、統一教会の行く道であるということを皆さんは知らなければなりません。

 

 祝福家庭は、家庭の伝統を立て、家法をつくらなければなりません。そして、子女たちの教育基準と家庭の規範をつくらなければなりません。そのようにしなくては、もし父母が誤り、子女たちの追及を受けるようになれば、返す言葉がないのです。

 これからは匕首をもって、切るべきところは切り、解剖すべきところは解剖しなければなりません。皆さんの思いどおりにしてはいけません。統一教会は、天国を成さなければならない教会なので、個人ではなく、家庭を取り戻さなければならないのです。家庭生活で模範となることができない人は、世界的な指弾を受けるでしょうし、全天宙的な指弾を受けることでしょう。




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