Text Box: TP portrait第一章 の愛というものは


 一 愛は平和と幸福の源泉


 愛は、もてばもつほどうれしく、一度もてばうれしくて手放したくありません。人間の努力では生命の根源を支配することはできません。私の生命の動機や過程、生命の終末までも動かすことができるのは、の愛しかありません。人間は愛で生まれたので、愛の道を行き、死ぬ時も愛のために死ななければなりません。

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 愛の色はどのような色だと思いますか。夜はく、は白く、夕方になると色いと思いますか。愛の色とはどのような色だと思いますか。愛の中心色には平和と統一、人類の平等思想を成すことのできる力があります。ですから愛の至聖所にむやみに入れば、火でかれて死んでしまいます。

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 愛する相が現れれば顔に花がきます。何がそうさせるのでしょうか。愛の力のみがそのようにすることができます。銃ではありません。脅しではありません。その愛はどのような愛でしょうか。宇宙の主人となる愛、宇宙の中心となる愛、宇宙の源泉となるの愛です。

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 愛は公式性をびた無形の秩序であり、平和であり、幸福のかなめです。世界人類のための共同の財産であり、神の意志と力の象です。

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 愛は最高の値をもっています。の愛さえ引っ張っていけば、神もついてくるし、世界もついてくるし、みなついてきます。愛の場でなら、すべてのものがみなついてきます。

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 の愛とは、永遠に共にいても、ただただうれしい愛です。永遠に共にいても、共に住んでも、共に見ても、共に話しても、共に感じても、共に聞いても、ただただうれしい愛です。

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 愛は、小さいと言えば極めて小さいものであり、大きいと言えば極めて大きいものです。愛し合う者同士は、目が一度だけ瞬きをすれば、天地がひっくり返るように感じ、また愛する人が一度にっこり笑う表情をするだけでも、天地が出たり入ったりするように感じます。敏ならばとても敏で、小さいならとても小さく、大きいならとても大きく、見えるなら見えるし、見えないなら見えないのです。その境界線を破ることができるものは愛しかありません。ゆえに、愛する人は愛に占領されているので、一言の言葉をも愛を中心として言おうとします。

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 愛の力は、原子爆の威力よりも大きく偉大です。愛は人間に死から新しい生命を賦しますが、原子爆は人間にただ死をもたらすだけです。原子爆は創造ではなく、審判であり破滅です。世界を一つに一致させるのは武力を伴った力ではなく、の愛なのです。

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 ごとに境があり、文化的背景があり、風習がありますが、これらを超えることができる武器があるとすれば、それはの愛しかありません。

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 一生の間、愛のために生きる人には万物も祝福を送ることでしょう。花もその家の庭でくことを願い、一羽の鳥もその家の庭の木にを作って、歌を歌うことを願うでしょう。それは万物の値を知って、万物を心から愛してあげるからです。

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 すべての生命力の中心である愛は、わりません。愛は理想的な要件の中心の位置を占め、神と一致しているので、神がいらっしゃる限りっています。

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 の愛とは何でしょうか。縦横を通じ九○度の角度をもって、どこでも角度が合わなければなりません。東洋の家にも合うし、西洋の家にも合うし、五色人種、文化的背景、宗的背景がみな違うとしても共に行くことのできるもの、それが正にの愛です。

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 宇宙は縮小し、張する作用をします。息をしているのです。縮小させ張させる喜びの縮小を、何が調整するのでしょうか。政治力ではありません。知識ではありません。お金ではありません。愛がするのです。

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 愛の目でこの世を見れば、飛んでいく鳥を見ても、「ああ、あの鳥はなぜ鳴くのでしょうか。ああ、愛するものをしがっているのだな」と言います。そこで詩が詠まれ、文作品が出てきます。私たちの人生の史も、自然の中に合わせて愛の交響曲が再現されています。それゆえ、愛の息遣いも、愛の手も、愛の歌も、愛の言葉もすべて好きなのです。

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 の愛の前にはどのような力も溶けてしまいます。それは見るだけでも良く、通り過ぎるだけでもうれしいのです。人を構成する本質的な的要素は、生命に先立って作動し、根源にならなければならない愛に違いありません。

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 愛のために生きる人生は、生産的な結の人生であり、愛を知らずに生きる人生は、消耗的な滅亡の人生です。神も人間も宇宙も愛のための人生を生きることを願いますが、それが本然の人生なのです。

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 の愛は、絶的であり、不であり、永遠なものです。

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 愛には展もなく、いかなる革命もあり得ません。愛は原型そのままが完全なもので、不なもので、永遠なもので、絶的なものです。

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 愛は、自然な中で、最高に自然な雰囲気の中でなされるのが、真実な愛です。

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 人間が愛の目を開けば、自分の心と体は宇宙の中で立体的な係を結びたがります。それで秋風で落ちる落ち葉を見て自然の理を悟り、ほほえみ、春の山にく花の中で、美しさを競いたくて一束の花を作ったりするのです。

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 世の中で一番早い作用は、愛の作用です。この地の果てと向こうの地の果てにいる人同士が互いに愛し合えば、その地の果てを越えて引き合うのです。愛はそのような力をもっています。

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 みを受けた人、神の愛を受けた人は、美しく見えます。私たちが神の愛を感じることができる境地に入れば、すべてのものと通じることができ、超越することができます。根源的な愛の感情を中心とすれば、すべてのものをもつことができます。

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 私たちの人体にあるいろいろな器官も、愛という一つの目的を中心にして生まれました。目は愛を探すために、鼻は愛の香りをかぐために、耳は愛のを聞くために生まれました。私たちが聞くの中で、聞いても聞いても嫌でなく、好きな言葉は「愛する」という言葉です。すべての存在がみな喜ぶことのできる主題は、愛以外にはありません。その愛とは、大宇宙が迎できるの愛です。

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 愛の性は、好きなものだけ愛するというものではありません。とても低いものをも、高いもの以上に愛することができるのがの愛だ、と定義を下すのは妥なことです。

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 愛は、神も微動だにできないようにする威をもっています。神も愛には弱いのです。全能の神も人間の愛の香りをかぐならば、面に笑みを浮かべられるのです。神も愛の話を好まれます。

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 神も愛を願い、愛が大きいので神も愛の中に入らなければなりません。そうしてこそ理論に合うのです。神も希望をもって願うのが愛なので、愛は神より大きいのです。

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 この世で最も聖なるものとは何でしょうか。の愛です。の愛は神から出します。神が心から願うのはの愛の道であり、の愛の道を通じなくては神の前に出ることができないことを知らなければなりません。神は愛を通じて、見たり、聞いたり、食べたり、ったりしたいのです。

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 愛を通じて生きる時、人間世界には幸福が始まります。人間自身が成そうとする完成とか理想の現は、愛の基準を離れてはあり得ません。ですから宇宙万物は、愛をパタンにして生きていくのです。創造されたすべての万物は、神の根源の愛を中心として始まりました。

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 世の中のすべてのものは、一度えればなくなりますが、愛は、えればえるほどより多く返ってきます。それで愛を好みます。愛はいつもえることができ、たすことができ、いつも喜びしむことができる容がありますが、お金はいくらいいといってもあげればなくなり、力がいくらよくても、使えばすり減ってしまいます。しかし愛は、えればえるほど無限に通じるようになっています。

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 の愛とは何でしょうか。おじいさん、おばあさんでも、死んだとしても永遠に、それなしでは生きることができません。それさえつかんでおけば永遠にうれしくて、それなしでは生きられないのがの愛です。年寄りはもちろん、男性も女性ももちろん、少年ももちろんそうです。

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 おじいさんたちが愛の味をみては、「ああ、昔食べたのは嫌だ。今日の文明の香りとは違う! 嫌だ! 愛の香りをほうり出して、他の香りだったらいいのに!」と言いますか。すべての細胞が「ああ、おいしい!」と言える味は、パンでもなく御飯でもありません。それで愛は、すべてのものの核を、焦点を成しています。精のようなものが愛です。そのような愛で相すれば無事通過します。

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 の愛とは、永遠にく愛です。春にもその愛、夏にもその愛、秋にもその愛、冬にもその愛、少年時代にもその愛、年時代にもその愛、老年時代にもその愛、永遠な世界である界に行ってもその愛です。わらない愛です。

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 愛の主人は誰でしょうか。男性でもなく女性でもありません。正に神です。愛を中心として愛を通じてのみ神と人間が一つになるのです。なぜならば、神にも人間にも愛は絶に必要だからです。

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 愛の調和を成せば円形運動をなします。愛で一体となり愛のを結べば神は降りてこられ、人間は上がって中間で出うようになります。神がこの円形の球心点になり、球形運動がなされます。球心点は愛の調和が成されるところで、生命が胎動するところであり、平等主義と共同主義の始点なのです。そこには愛の力があります。ですから宇宙のすべての作用の力と包容する力は愛なのです。

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 愛は一人では絶に感じることができません。幸福も同じです。平和というものも一について言う言葉ではなく、相対国家との間で成立する相係を言います。相手と同等な相係を結びながら、愛することができてこそ、の幸福を感じるのです。自由もそうです。一人では本の自由が成立しません。愛の中で愛と共に得られる自由が、の自由です。の愛の中ではたとえむちをもって裁をするとしても、それが拘束ではなく、さらなる深い喜びと喜をもたらしてくれるのです。愛は相手のためにえるもので、自分が牲になって人を生かすものだからです。

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 愛とは、私の心と体が自動的に一つになるその中心の柱です。個人、家庭、氏族が同じ点、家、世界、神が同じ中心、一つの柱に位置します。その中心は動きません。ですからの愛の場は永遠の定着点です。

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 「わたしは道であり、理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四六)と言われたイエスのみ言に、一つけているものがあります。それは一番重要な愛です。「私は道であり、理であり、命であり、愛である……」と言わなければならないのに、愛がけています。これを聖書に入れなければなりません。このようなことを言えば、クリスチャンたちは「おお、何と不敬な!」と言うでしょう。しかし神に聞いてみると、「然り、然り」とおっしゃいます。このように見る時、神は愛を好まれます。愛の中でも、の愛を好まれます。




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