二 愛は無限に与え、また与えること
宇宙を造った神様、法度を立てた神様はどんなお方ですか。宇宙を通じて誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。ですからその方に会おうとするならば「ため」に生きなければなりません。その方は知識の大王ですが、知識をもってこいと言いません。能力の大王ですが、能力をもってこいと言いません。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、それらをもってこいとは言いません。「ため」に生きてくれば、みんな私のそばに来ることができるというのです。
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人のために与え、また与えるのは、再創造する上で、神様が創造時に御自身を消耗させた立場と一致します。私を投入するということは、第二の私をつくるためのもので、神様が創造する時、御自身を投入されたのと同じです。再創造の歴史は蕩減復帰路程であり、蕩減は再創造の歴史を通じてするので、御自身を投入するところにおいてのみ再創造が展開されます。ですから犠牲になるのは不可避だというのが理論的な結論です。
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愛は、自分を一○○パーセント投入することです。神様が天地を創造する時、愛ゆえにすべて一○○パーセント投入したのです。ですから真の愛は、「ため」に生きるところから始まるのです。
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投入し、投入し、また投入するところから真の愛の論理が始まるのです。「ため」に生きるところは滅びません。小さいところから大きいところに、そして大きいのがその次にはどこへ行くのかといえば、中に回るのです。
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愛とは、与えて満足するのではなく、与えてももっと与えたいのに、与えられなくて恥ずかしさを感じる、そのようなものが愛です。与えて恥ずかしさを感じる人であればあるほど、本当の愛の主人です。愛は、与えれば与えるほど、もっと大きいものに加えられます。また作用すればするほど、入る力より出ていく力がもっと大きいのです。ですから滅びるのではなく、栄えるのです。愛なくして栄えることはありません。
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愛には消耗がありません。動けば動くほど大きくなります。力学の原則は、動けば動くほど消耗しますが、真の愛は、動けば動くほど消耗がなく、大きくなります。
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愛の本質は、「ため」に生きようとする時は大きくなりますが、自分のために生きようという時はだんだん小さくなります。
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真の愛とは何でしょうか。与えて忘れるものです。与えて、また与え、また与えるのです。
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愛の世界は、与えて与えて与えても、無限に続くものです。
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愛という言葉は、本当に偉大です。「言葉一言で千両の借金を返す」という言葉があります。言葉一言で蕩減できるという言葉です。億万の借金があったとしても、愛の言葉一言で蕩減しても余ります。
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無限大のこの宇宙を中心として牛耳って生きることのできる権限は、真の愛の家しかありません。愛のために生きるところから、それが出てくるようになっています。神様がいくら大主宰で偉大だとしても、愛の前には頭を下げるのです。
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愛は、神様も一人で成すことができません。愛は、必ず相対的基盤を通じて成されるのです。愛は、どこから始まるのでしょうか。自分から始まるのではく、相対から育ち上がっていくものです。
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宇宙の根本は人間であり、人間の根本は生命です。生命の根本は愛で、愛の根本は神様です。しかし、愛は一人でいては成立しません。必ず相対的関係を必要とします。神様が愛の根源地ならば、その愛に相対する資格をもっている存在は、人間しかいません。
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愛という言葉は、一人についていう言葉ではありません。希望という言葉も、一人についていう言葉ではありません。生命も、一人独断的に出てくるものではなく、連結された立場から出てきます。
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神様は、人間をどのような存在として造ったのでしょうか。神様の絶対、唯一の価値になることができる愛の相対者として造りました。神様の前で宇宙を与えても替えられない高貴な価値、愛の相対圏を備えて男を造り、女を造りました。人は愛から生まれて愛で大きくなり、愛によって生き、愛で死にます。しかし、ただなくなるのではありません。主体である神様は永遠、不変、唯一ですから、その前に相対的愛の場に立つ時は永生するのです。
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神様がアダム・エバを造った目的は、喜ぶためです。見て喜ぶためではなく、話して喜ぶためではなく、触って喜ぶためではなく、愛を中心に喜ぶためです。したがって、喜びを成就するために人間を創造したのです。
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神様は絶対的存在ですが、愛の相対になれる存在がいなければなりません。神様の相対者は正に人間なのです。神様の愛の相対者として人間が、完成された愛をもって神様の前に現れる時、神様は幸福な神様、喜びの理想を取り戻した神様になるのです。
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神様の夢はただ一つ、愛の理想を実現することでした。しかし愛の理想の実現は、神様が一人で成すことはできません。愛や幸福、喜び等は一つの個体を中心として成されるのではありません。相対圏がなくては絶対に成立できません。
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愛はどこから出てくるかといえば、相対から現れます。相対が醜く憎ければ愛も後退しようとし、相対がきれいで良ければ愛の作用もそれだけ早くなります。相対の言葉、美しさ、におい、味等、相対の要素によって愛の作用が決定します。
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愛はどこから出てくるのでしょうか。私から出てくるのではなく、相対から出てくるのです。相対から出てくるので、私が頭を下げて、相対のために生きなければなりません。「ために生きよ」という天理がここから出てくるのです。極めて高貴なものが私を訪ねてきますが、それを受けるには、「ため」に生きるべきだという「ために生きる哲学」を成就しなければなりません。
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私が生きて動くこと、私が活動することは無意味なことではなく、ある目的があるからです。その目的とは何でしょうか。愛の世界を具現することです。人間は愛の具現のために、愛を成さなければならないという目的によって存在するのです。人間の生の目的が真の愛の具現にあるので、人間の存在価値もこの真の愛によって決定されます。これがどれほど素晴らしいことでしょうか。
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人は自分の愛する相対が自分より何千倍、いや無限大の価値的な存在として現れることを願います。このように神様も、御自身が愛する相対である人間が無限の価値的な存在になることを願われます。人間が完成すれば神性を成して、天の父が完全であられるように完全で神的な価値を成すのです。
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真の愛とは何でしょうか。相対に出会って、百年、千年共にいたいし、永遠に愛したがる愛です。そこには地獄があり得ず、サタンが付け込むこともできません。
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神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、誰を選んで立てるでしょうか。正に人間です。したがって創造主の永遠な愛と一つになった愛のパートナーは、永生するという論理が出てくるのです。愛の関係を中心として永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて重要な話です。男性に永生があって、女性に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるということを、はっきりと知らなければなりません。
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愛の主体がいなければ、誰もいないように感じます。しかし愛の主体がいれば、すべてのものが満たされます。愛が満たされてこそすべてのものが満たされるので、無限に与えることができ、真実に与えることができるという結論が出てきます。与え受けるのが理想の実現であり、理想の繁殖です。愛の世界は距離を超越します。愛がどれほど早いのかと言えば、光もついていけません。一番早いのが愛です。一番明るいのも愛です。一番完全なものも愛です。一番完全に満たされるのも愛です。
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生命を求めて愛を犠牲にするという人と、愛を求めて生命を犠牲にするという人のうち、どちらがより中心でしょうか。どちらがより真に近いのでしょうか。愛を求めて生命を犠牲にするのがより中心であり、真に近いのです。生命を求めて愛を犠牲にするのは自分中心ですが、愛を求めて生命を捧げるのは、自分中心ではないからです。
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私が五大洋六大州をさまよいながら切実に叫んだのは、正に愛の道でした。愛のない砂漠のような人類の前に、愛の光を照らしてあげようとしたのです。人間が究極的に行くべき道が愛の彼岸だとすると、人類の前に何よりも重要なものは「愛の灯台」でないはずがありません。正にその愛の灯台のみが、人間を本郷の地に導くことができるのです。
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神様と一つになる時は、千態万象(千差万別)に回ります。ですから、兄弟間でも父母が子女を愛するのを見習って、兄は弟を愛さなければなりません。そのような愛で一元化された家庭には、家庭愛が花咲きます。これがまた社会愛になり、さらに民族愛になります。このように進めば世界愛になります。
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神様は、愛に酔って億千万代を生きられるように人間を造られました。それで、人が老いることは怨讐ではありません。人は愛から始まって、愛をもって生活し、愛の実として収められます。死ぬことが愛の実を収めることです。私たちが父母の愛を受け、子女の愛を受け、夫婦の愛をもって父母として子女を愛し生きたので、神様の愛、内的な愛の世界に蒔いたすべてのものを、生涯を経て実を結び、これを収めてからあの世に行くのです。
三 愛が介在する時、調和が成される
愛は、考えでも良く、形でも良く、味でもいいのです。これが愛です。
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愛とは、東西が合わさるものであり、南北が合わさるものです。その次は天地が合わさるものです。ですから愛は球形を成すようになります。
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口が真の愛に酔っているならば、ほほえむその唇がどれほど恍惚だろうかと考えてみてください。人間の五感が真の愛によって動く姿、神様に向かって動く五感の調和がどれほど美しいかを想像してください。美しさを通じた喜びは、神様一人では体験できないものです。美しさは、相対がいてこそ体験できるもので、それが神様が人間を創造された目的です。神様は天地を創造された以上に、美しい内容を所有した人間の心情世界を旅行したいのです。
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神様も息をします。真の愛の呼吸をされるのです。神様も宇宙の拍子に合わせるので、真の愛を中心に宇宙が永遠に続くのです。ですから皆さんがここまで行ってこそ、神様の呼吸圏内に入って永生するのです。
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宇宙は丸い形をしています。太陽も丸い形です。すべての丸いものは何を中心とするのでしょうか。自分一人では丸くなることができません。誰かを中心として関係を結んでこそ丸くなることができます。このような関係圏を集約させる一つの物体、一つの存在物として登場する世界は、円形圏を基盤とするようになっています。ここでこの円形をつくることのできる物体とは何でしょうか。調和の母体は、愛の作用だというのです。
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愛は神経のようなものです。私たちが髪の毛一本を引っ張れば、体全体が引っ張られるのと同じように、愛さえ引っ張れば宇宙が引かれてくるし、愛さえ動かせば宇宙がみな和して、回るようになります。
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人は酔って生きなければなりません。酔って生きる人が、幸福な人です。芸術家たちは、芸術に酔って生きます。文学をする人たちは、自分が構想する本を書くとか、ある名作に酔って生きます。そのような人が、幸福な人です。ですから人間の四肢五体は、立体的な神様の理想的な愛に酔って生きなければならないし、その方だけについて回らなければなりません。
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男性が求め、女性が求めている最も貴いものとは何でしょうか。愛です。愛は人も永遠に好み、神様も永遠に好まれます。愛とは、全宇宙が永遠に一番好むものです。
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愛は見えませんが、最も貴い贈り物です。それは不変性をもっているからです。黄金は不変の色、ダイヤモンドは不変の硬さ、真珠は不変の調和の色があるので貴いのです。しかし宝物には生命がありません。真の愛は、生命がある宝物なので、もっと貴いのです。
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愛とは、みな好きなことです。愛とは結局、好きになることです。
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平等という言葉は、愛を抜けば何でもありません。愛を中心として「ため」に尽くす時、真の平等が成されるのです。愛をもてば、男性と女性が対等になることができるし、愛をもてば、息子が大統領だとしても、その息子と母は対等になれるというのです。愛をもったすべてのものは、平等になれる内容があります。私たちはこれを知らなければなりません。
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万物の中心は人間です。人間の中心は何でしょうか。真の愛です。神様の愛は垂直線一本です。天地の中心を立てるためのものが男性の愛の線であり、女性の愛の線ですが、女性は男性のところに行き、男性は女性のところに行って、その線が回るようになるのです。男性と女性が真の愛をもって現れる時に、神様の前に完全なマイナスの愛が生まれるのです。完全な真のマイナスの愛が生まれる時には、縦的な神様のプラスの愛が自動的に臨みます。宇宙のすべての原則がそうなっています。
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私が宇宙と授け受ける関係に置かれるには、愛をもってこそ可能です。愛でなくては永遠に与え受けることができません。愛が温柔で謙遜なものだと言ったのも、抵抗なくそれをもっと多く、完全に運動させるためです。温柔で謙遜で犠牲になれば、いつでも通じるようになっています。どこでも抵抗なく行くようになります。これは犠牲ではありません。抵抗なく作用するための一つの方法が「ため」に生き、犠牲、奉仕することです。それではなぜ奉仕しなければならないのかといえば、第二の生の呼吸気管を完成させるためです。
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繁殖するすべての存在は、必ず対が連合して繁殖しますが、繁殖の調和を起こすその内容が愛です。自然界のすべての存在物の繁殖は、みなそうです。水も陰性の水があり陽性の水がありますが、陰性の水と陽性の水が混ざったところには魚がよく棲みます。寒水と温水が和合するところには魚がたくさん棲むようになっています。それが理想的です。和合しなければならないのです。
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北に棲む鳥が南に行って雛を産み、南に棲んでいた鳥が北に行って雛を産みながら交流するのも、みなリズムによってそうするのです。そこで生まれたので、そこに行って雛を産むのです。冷たい水にいる魚は温かい水の所に行って産卵し、温かい水にいる魚は冷たい水に接してこそ産卵するようになっています。陰陽の一致の和合が成されなければなりません。それで移動するのです。
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愛は、相対的関係がなければ成立しません。絶対的な神様だといっても、一人では愛に出会う道がありません。相対者を立てずして出会うことができないので、絶対的創造主の前に絶対的相対の資格者を備えておくためのものが創造であり、創造の傑作品が正に私たち人間です。神様も愛を探すために相対が必要だからです。
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神様の愛に酔えば、砂の一粒を千年見つめても嫌になりません。私たち自身が愛の宇宙の中で生まれたと思えば、無限に幸福になるのです。
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真の愛は、無理になされるのではなく、自動的に喜びの中でなされるのです。愛する時も、もらおうとだけしないで、互いに授け受ける作用になってこそ理想的な愛が成立するのです。
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もし愛が誰でも描くことができ、触ることができ、形態がどうだと分かるようになっているならば、そのような愛は一日もたたないうちに嫌になるでしょう。しかし愛はあるようでつかめず、ないようであるのです。悪いと思えば良く、良いと思えば悪い、千態万象(千差万別)の奇怪な蜃気楼のような内容を作動させるのが愛です。
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宇宙統一理想を完成させる内容とは、真の愛です。いくら名作だといっても、その中に真の愛の味がなければ吐き出してしまいます。夫婦間の真の愛においても同じです。
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人間が愛を一番好むのも、愛が全体を統一させ私のものにすることのできる主体だからです。人々には、愛がどれほどいいものかを知るすべがありません。
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愛は、父母が子供を愛するように、すればするほど喜びが膨れ上がるのです。愛は一つになることです。もし神様の愛と一つになった人がいるとすれば、その人はどこの誰も切り離すことができません。ですから、どれほど素晴らしい愛でしょうか。
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花の中に入っている蜂たちは、蜜を吸おうとお尻を上にもち上げ、頭を埋めています。それをピンセットで引っ張っても離れません。強く引っ張ってお尻が外れても離れません。その蜜の味がどんなに良くてそうするのでしょうか。蜜の味がそうならば、愛の味はどうでしょうか。愛の味と蜜の味では、どちらがもっといいですか。
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愛でなくては一つにすることができません。二つを一つにするには言葉をもってはできません。二人が一つになるためには、何がなければならないのでしょうか。物質をもって一つになったならば、物質がなくなれば逃げていくのです。第三者の紹介によって何らかの事情を通じて一つになったなら、その人がいなくなれば去ってしまうのです。二人が一つになるためには、そして永遠に一つになるためには、何がなければならないのでしょうか。愛がなければなりません。
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愛のみに、あらゆる色の刺激を統一することのできる力があります。その愛が何かは分かりませんが、世間の人が「嫌だ」と言うおじいさんの臭いが、おばあさんの鼻には心地良いというものです。おじいさんの顔と手に皮しかなくても、おばあさんはその顔と手がいいというのです。まさしく愛がそのようにします。愛の風が吹いた時は、天下がすべて美しく見えます。愛のふろしきを取り込めば、詩人でない人がなく、風流でない人がいないというのです。
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私たちは一つの草を見つめても神様の立場で見つめられなければならず、花を見つめても神様の心情の代身としての立場、神様の心情と通じることのできる立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、あるいはある動物を見る時も、神様の心情と因縁が結ばれるそのような内的な感情を体得できなければなりません。神様の愛のように生きる人が神様の息子であり、娘です。天を主管することができ、地を主管できる全天宙の主人公です。人間が子供の立場に置かれ得る本質的な内容は、愛です。
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心情で私たちの心は無限に大きくなることができますが、知識で無限に大きくなることはできません。愛の心情は宇宙を含んでも余りあるので、このように偉大な本然の地を開発すれば、神様もその中に来て昼寝をしたがります。知識によって神様を包括することができないので、そこにおいて愛の心情が偉大だということを知らなければなりません。
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愛は国境を超越します。神様の愛には国境がありません。五色人種を超越するのです。黒人、白人、黄色人種と言って差別しません。それで神様の愛は偉大なのです。愛の流れにおいて環境を介さず、流れていけば環境が同化され、発展するのです。そうすることのできる思想的な内容を備えてこそ、神様が好まれるのです。そのため愛の道を行かなければなりません。