Text Box: TP portrait第一章 の愛というものは


 四 夫婦の愛


  1.夫婦の愛は全宇宙の花


 男性は神の陽性的形であり、女性は神の陰性的形です。夫婦は天下を一つのふろしきに包んだようなものです。それゆえに、夫婦は神の理想的な愛の心情を感じることができます。

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 神的二性性相であり、人間は的二性性相です。その二者が合わさって完全な丸いりんご模を成し、四つの性相形態をもった東西南北に愛の理想を引きつけることのできる母体にしよう、というのが夫婦の理想です。

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 夫婦が神を愛し、人類を愛する心のパタンの上で爆するように互いに愛し合うならば、その家庭によって神い、宇宙がうことができるようになるのです。その愛は、神のための愛であり、人類のための愛でないがありません。その愛の根は、どこにあるのでしょうか。自分にあるのではありません。神が愛の根源であり、人類の愛の根源なのです。

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 理想的夫婦とは、どのような夫婦でしょうか。最高の芸術を体に展開できる夫婦、最高の文体に展開できる夫婦なのです。最高の理想、最高の文化世界に接する前に、最高の愛によって夫婦が授け受ける甘味な愛が世界最高の芸術作品にならなければなりません。夫婦生活自体が最高の文作品であり、それ自体が文体にならなければなりません。

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 人にはいつも刺激が必要です。幸福は刺激なしには成されません。刺激がなければなりません。いつも食べる御飯も、おなかがすいていてこそ食べるたびに新しいように、夫婦間の愛も同じように、いつも新しくなければなりません。妻と夫が、互いに見れば見るほどもっと見たいし、一日中共にいたがらなければなりません。そのために自らにする究をしなければならないし、神する究をしなければなりません。

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 神の愛が人間の三大愛を中心として、共に花くことのできる家庭を成すことが世界の願いであり、人類の願いであり、未の願いだというのです。これにより、初めて天地の法度の前に史の香りを香らせることができるのであり、新しい花として登場できる貴く美しいものが夫婦の愛だということを知らなければなりません。

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 愛は永遠です。愛は二つではなく一つです。男女の間が愛で結ばれたなら地上で百年偕老(注:共に年を取ること)しなければならず、死んでも永遠に共に生きていくようになっています。体は二つですが、一つになって回ることによって一体となるのです。二つの体が一つになれば神と回るようになり、愛の四位基台を成すようになるので、これが正に理想世界なのです。そこにはりの愛が侵犯できず、ただの愛のみが臨在するようになるのです。

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 心情的な愛によって結ばれた夫婦は、あふれ流れるその愛情が、生活を通して生涯をり越え、神の目的と完全に一致したという家庭を成さなければなりません。そうしなければ神のいらっしゃる天に入ることができません。

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 男性と女性の愛の完成が宇宙の完成です。この愛がれる日には、宇宙の秩序が破され的な世界がみな絶してしまいます。切れてしまいます。

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 夫婦の愛を通じて一つになり、神のような立場で創造能力を成したのが子女です。

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 純な男性、女性として赤い愛の情熱の心をもって天地を代表することのできる男女、そのように結ばれた夫婦を天は探しています。そのような夫婦の愛をもって、そのような愛で息子、娘を育てなければなりません。

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 最近、インスタント食品のような愛し方をする人が至る所にいますが、それが問題です。香水のおふろに入るからといって、愛が深まるのではありません。田に住みながら、冷水に体を浸して洗ってから床に就く夫婦の愛が、もっと純で長くき、深くなるものだといえます。

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 新新婦はお金や力、名を中心として一つになるのではなく、神の本然の愛を中心として一体にならなければなりません。妻は夫のために、夫は妻を愛する中で、夫婦が神を愛する家庭を築いていかなければなりません。

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 男性はの父の分身であり、女性はの母の分身です。ですから夫が妻を無視すれば、の母を無視することになり、妻が夫を欺けば、の父を欺くことになります。

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 男性が女性を主管し、女性が男性を主管できる力は愛です。愛以外にどのような力も男女間において互いに主管できません。ただ愛のみが主管できるのです。

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 男性と女性を力で比べれば相手になりませんが、愛が介在すれば、妻と夫が互いに押し合い引き合って一つになるのです。人間が神の前に愛の象的存在になったならば、神は喜ばれるでしょうか。喜ばれるのです。

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 最高に好きなメロディとは何かと言えば、男性と女性が互いに好きで喜ぶ夫婦の笑いなのです。そのような夫婦がこの世を抱くことができ、宇宙全体を受け入れることのできる心で生をむ時、そのほほえみは自然に生します。そのような夫婦の美しい姿が、神の前に一束の花でなくて何でしょうか。これは純な理想や抽象ではありません。本の世界のことを言っているだけです。

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 愛する夫婦間の話を見れば、この世のどのような詩や絵画よりも美しいのです。また「愛する者同士」、「二人っきり」、「私たち二人」という言葉が、どれほど美しく素晴らしい言葉でしょうか。

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 男性と女性が祝福を受けて完全な愛を交わし、喜びを分かつ時、神の目には地上にいた花のようだというのです。また彼らの愛によって成されるすべての造化万象は、神には香水のようなものです。このような美しい香りの中に神は住みたくて訪ねてこられるのです。神の愛が訪ねてくることのできる土台が正に夫婦の愛の場です。その場は万物と宇宙が和動する場となるのです。



  2.夫婦の愛は分散すれば不完全


 人間は本性的に、自分にする相の愛が分散することを願いません。夫婦間の的な愛の係は、親子間の的な愛の係と違って、分散すればにその完全性が破されます。それは、夫婦間に絶的な愛の一体を成すようになっている創造原理のゆえです。人には自分の相に絶くし、「ため」に生きなければならない愛の責任性があります。

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 愛の力な力によって結ばれた夫婦ならば、相がどのようなことをしてもうれしく、愛らしく思えなければなりません。夫の体から出る臭いが嫌だと言ったり、妻のしぐさがに入らないと思ったり感じたりするのは、二人の間に完全な愛が成されていないからです。そのような夫婦は、目的のために利害係で結ばれているからです。

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 夫婦が一に暮らすのに、一生の間に暮らすよりは、愛を中心として曲折をながら、台風もて、暴風雨も降って、雷も落ちる、そのような多性を感じながら、理想の愛を追求するのがもっと幸福なことでしょう。男女の問題を解決するためにはお金や知識ではなく、愛が必要です。

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 人の言葉をよく聞いてみると、女性ののほうが男性のより高いのです。なぜそのように高く造ったのでしょうか。力においては男性よりも弱いのですが、情においては女性のほうが高いというのです。

それでは男性はどうでしょうか。男性はい愛をもっています。自分の夫と息子、娘だけを思う愛においては女性が高いですが、親戚やを愛する心は男性たちがもっと高いのです。それで息子、娘を愛したり、家庭を愛するのは母親に習って、世の中を愛するのは父親に習うようになります。

どちらか一方だけでは不安ですが、これらをつなぎ合わせることによって均衡を成すことができます。

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 最初の三年間は接ぎ木しようとしても合いません。家が違い、風習が違い、節が違う男性と女性は、合うはずがありません。一つになるまで、合わせていく努力をしてこそ合うようになります。

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 愛を通じてのみより大きいものが出てきます。「ため」に生きる愛からのみえていきます。ですから、夫婦がう愛からは亡の種が生まれます。しかし「ため」に生きる愛からは、天地のすべての精を取った、神のような知の王子、王女が生まれます。

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 夫婦はなぜうのでしょうか。互いに愛を受けようとするからです。互いに愛を受けようとする輩は長く立ち行きません。互いに愛を受けようとする家庭はれます。しかし互いに愛そうとする家庭は、「れよ」と願ってもれません。互いに「ため」に生きようとする愛は永遠なものです。

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 愛は愚鈍で間けなものです。どのような況も意に介しません。本に愛するならば、で誰が見ていようが係ありません。誰かが見ることを意識する愛は、限界圏内の愛です。誰が見ても意識しないそのような境地にある愛なので、どれほど愚直で愚鈍でしょうか。

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 経済問題を中心とした困難が、夫婦の因にひびを入らせることはできません。有識と無が夫婦の愛を薄くすることはできません。純な男性、女性として赤い愛と情熱の心をもって天地を代表することのできる男性、女性、そのように結ばれた夫婦を天は探していらっしゃいます。

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 愛する人たちの間になぜ、離婚問題が生じるのでしょうか。離婚した人や離婚を考えているという人みんなが、初めは生死を共にするほど愛する係だったことを考えれば、何かが間違っているというのです。離婚するようになった理由はいろいろあるでしょうが、結局何かがわったということで、二人の間がわったということを意味します。彼らは愛を守り、培うことができなかったので、そのようになったのです。愛それ自体はわりませんが、人の心がわったのです。

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 この世の夫婦係においては、夫がお金を稼いでくる時に力が出ます。妻は夫が稼いできたお金を見て力が出、夫も力の出る妻を見て力が出るようになります。それで彼らはお金を稼ぐことができなければ、不安で夫婦係がれたりもします。しかしの夫婦は、神を中心として愛の一体を成さなければなりません。

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 ある男性は、自分の妻がいてもきれいな女性を見ると、「自分の妻だったらいい」と思います。このように二つの心をもった男性を指して、「泥棒根性をもった者」と言います。二つの心から始まったのがサタンなので、二つの心をもった男性を指して、「サタンだ」と言っても間違いではありません。そのような人がいれば、サタンとわりありません。

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 夫婦はだと見ることができます。顔がそれぞれ違うように、人の運も違います。一生の運命が違います。夫の運命がくても妻の運命が良ければ、それによって夫の運が良くなることができます。反に妻の運命がくても夫の運が良ければ、それもやはり良くなります。ですから夫婦の運命は、山と谷を崩して平地を造るようなものだと考えることができます。平地を造ってそこに夫婦の理想をもって木を植え、畑を耕し、いろいろな愛の計を推進することができます。そのような道理を考えてみる時、相を外面的にだけ見て結び合わせてはいけません。結婚とはそのように恐ろしいものです。

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 夫にえばいいかと思っていたら、い時もあるというのです。良いものだけを願ってはいけません。二十四時間ずっと日差しだけ照りつけたらどうでしょうか。夜もなければなりません。高ければ、低くなるのが原則ではありませんか。

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 幸福な家庭は、夫が出てってきたなら、外であったすべてのことを妻と共に相談して、新しく開拓できる要因を見する家庭です。お互いに力を合わせて究する家庭が幸福な家庭です。父母がそのようにすれば、子供たちもそこに力を加えて、私たちもこのような家庭を築こうと同調するようになります。

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 愛する夫婦同士、一方的に相手の顔がどうだと決めつけてはいけません。自分の相の顔が一つの模でのみ感じられるならば、それほど嫌なものはありません。相手の顔はうれしい持ちで見れば、うれしい態で現れ、愛の心をもって見る時は、美しく見えるのです。水が流れる時、曲がりくねるのと同じように、一つのうねりが回るたびに新しい模が現れるように、いつも相手の顔を新しく感じなければなりません。

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 人間の美というものは、顔だけにあるのではありません。四方八方から見て感じることができます。美はボルのように立体的なものです。上から見ても、から見ても、どのような方向から見ても、自分なりの完成された美をもっています。ですから、自分の妻の顔をむやみに評してはいけません。美人の中には貧しい人が多いのです。しかしや福を備えている女性は違います。顔がきれいな美人も、子供を二、三人産んだだけで顔がおかしくなる場合があります。ですから、子供を産んでも美を維持できる人が美しい女性だと言えます。

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 夫と妻が互いに愛し合うのにも、神の代身者として、夫なら夫、妻なら妻を愛さなければなりません。人間的な立場で愛すれば、互いに不足な面が現れ、結局は離婚する事態まで起こります。

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 愛は互いに慕い合う時、値があります。口があれば口を開き、目があれば目を開いて愛を下さいと言ってこそ、愛をえる人も分がいいのであって、ぼうっとしていたら、愛がても逃げていくことを知らなければなりません。愛する人が深刻ではなく、消極的に出てくる時、どれほど分がいですか。

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 夫婦がキスするためにを磨くとすれば、それは自然な愛ではなく、磨き粉の臭いのために、人だけがもつ固有の体臭を味わうことができません。を磨いてキスする人を見ていれば、その人が愛の味を見るためなのか、磨き粉の臭いを味わうためなのか分からないほどです。最近の世態を見れば、人間の幸福がどのようなものか混同するほどに計算的で、人的で、飾的な愛が蔓延しているのを見ることができます。そのような愛は滅亡の道に導いている主犯だと言えます。

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 味みは、煮み鍋で炊いてこそ本の味が出ます。さっぱりして風味が良い味汁の味は、一度味が付けばどこに行っても忘れることができないでしょう。同じように、人も風味良くさっぱりした味のような愛に、一度味を付ければわらないでしょう。甘いだけのインスタント食品はすぐに嫌になるように、愛もインスタント食品のようにどこででも簡に手に入るならば、それは「の愛だ」と言えないでしょう。

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 エデンの園で裸になって踊るのを誰が見ていたでしょうか。人がいない所ではそんなこともできるのです。部屋で夫婦が裸になって踊るからといって、それが心配なことですか。夫婦同士なら裸になって踊るどころか、どのようなことをしても、誰が何と言うでしょうか。夫婦同士でするのに、何の係があるでしょうか。

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 鳩も互いに「くっくっくっ」とを出しながら愛し合うのに、夫婦同士が出う時、本に愛する人同士が出う時、出があるとすればどのようなでしょうか。雷が鳴る音よりも大きいことはあっても、小さくはないでしょう。

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 夫婦が床に入ってささやく蜜語は、この世のすべての疲れや憎しみを解かすになるのです。夫婦がささやく言葉の中で「あなたは私を愛さなければならない」という言葉はあり得ません。愛が自然なように、愛の蜜語も柔らかく美しいものでなければなりません。

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 夫婦が愛し合うのに、夫の父がていても夫の母がていても、クライマックスになる時は率直にを出してもいいというのです。「あの家はどんなに夫婦の仲がいいのか、夜にこれくらいが出ると町のねずみたちがびっくりして、鳴いていたたちもさっと鳴きやむ」と言うほど、町中に愛のうわさを立てなさいというのです。「ねずみたちが驚いて、が鳴きやむほどにが出る出事がなぜ起こるのか」と聞けば、「なぜかって、どうして? 天地が振動する愛の喚がわき出るからそうでしょう」と言ってもいいのです。

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 夫婦の愛の場は全宇宙の花です。史時代、体として現れた新新婦が愛によって一つになる新しい部屋には、神られて住み着かれます。ですから愛の中で成される新婚夫婦の新しい部屋が、どれほど厳粛で恐ろしい場でしょうか。神との道をつないでおいて、完全な愛のマイナス的役割をしていると考える時、ここから天地の愛の太陽が昇り始めるのです。生命の安息の場、理想の安息の場に和して、妻の部屋を訪ねなければなりません。

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 愛の火がつけば、二つの生命が一つになり、次に血統が合わさって愛で沸き始めれば、その渦く中で私の生命が主人として種が植えられるのです。男性の生命体、女性の生命体が愛によって運動し始めて回れば上がるでしょうか、下がるでしょうか。上がる場で芽生えれば息子になり、下がる場で芽生えれば娘になります。理論的にはそうです。私はそうなのかそうでないのか分かりません。理論的に合っているので、事がそうなのかそうでないのか究して一致させれば、博士位、ノベル賞受賞ものになるでしょう。

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 最近は足袋を履きませんが、昔は足袋を履く時は、一カ月でも二カ月でも足の指が出るほど履きました。そうすると臭が出て、すっぱくてくてありとあらゆる臭いがしますが、愛する妻の鼻は「その臭いがどのような香りよりもっといい」と言うのです。臭のする足の指も愛する時は、行ってなめるのです。行ってなめてみると味が辛く、甘く、すっぱく、だというのです。愛のアンテナを立てて測定すれば、測定値が「嫌だ」という計よりも、「いい」という計がさっと上がるというのです。

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 息子、娘を再創造するのは簡ですか。ありとあらゆることをやってこそ、新しい息子、娘が生まれるのです。とても大なことを全部しなければなりません。ですから愛する夫のつばが汚いですか、汚くないですか。仮に夫が自分の手につばを吐いたとして、絹の服を着ていてこするところがなければ、それをなめてしまいたいですか、そうしたくないですか。率直に話してください。「なめてしまいたい」と言ってこその愛です。愛には汚いものがないのです。

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 愛を中心とした生活で、すべてのものが解決されます。欲張りじいさんの虎のような目も、愛するようになればに描いたお月のような姿になり、硬くこわばっていた口も、にたりと開きます。凍っていたものが完全に溶かされるのが愛であり、溶けていたのを凍らせることができるのも愛です。極と極を包括しても余りあるのが愛です。「好きだ」という「好」の字をよく見てください。男と女を合わせて「好きだ」という字を書きました。「夫婦げんかは刀で水を切るようなものだ」という言葉がありますが、刀で水を切れば跡がりますか。りません。一度けんかをしても、面と向かって笑えば、また平和が訪れます。夫婦が愛するのは、神まで連結するためです。

            

 女性はなぜ髭がないのでしょうか。神は、アダムが髭を生やした姿を御になって分が良くなかったので、エバを造られる時、髭なしに造られたのです。したがって、神の創造物の中で一番の傑作品は誰でしょうか。女性たちです。女性たちが傑作品ですが、誰のための傑作品なのでしょうか。正に男性のための傑作品なのです。そのように考えてみてください。



五 性愛


  1.性は愛の本宮、天の至聖所


 神の至聖所とはどこでしょうか。愛が宿る男女の性です。ここが天の至聖所です。

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 男性と女性の愛の象は何でしょうか。愛の終着地点がどこでしょうか。男女を一体にする性の器官です。

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 それは愛を中心として、心と体が完全に合わさることのできる通路になるのです。

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 男性と女性は何が違いますか。性の器官を含むその体がまず違います。それでは男性の生殖器は誰にとって絶に必要ですか。男性の生殖器は女性のためにあるのです。人間の生殖器が一つは凹で、一つは凸ですが、なぜそのようになっていますか。二つともとがらせるとか、二つとも平べったくすることもできるのに、どうしてそのように異なってできているのでしょうか。すべて相のためです。男性のものは女性が絶に願い、女性のものは男性が絶に願います。絶に女性のものが男性のもので、男性のものが女性のものだという事を今まで知りませんでした。それを占領することによって愛を知るのです。

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 男性と女性の生殖器は王宮の庫です。天のの王宮の庫です。神も自分勝手にできません。その鍵は祭司長だけが開けることができます。女性として生まれ、服を二度いではいけません。主人の前で服をぐのは許されますが、ほかは魔です。

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 生殖器とは何かと言えば、愛の王宮であり、永遠の生命が誕生する王宮であり、永遠にわらない天の統を受けぐ血族、血統を受けぐ王宮だというのです。の生命の王宮、の愛の王宮、の血統の王宮だというのです。最も貴いところです。自分勝手にできません。神の公認がなければ開けられないのです。神と宇宙の公認を受けた自分の夫、自分の妻以外にはれることができません。

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 生殖器は何のために存在するのでしょうか。愛のためです。愛を見つけるために生まれたというのです。

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 生殖器とは何ですか。それはの愛を中心とした王宮であり、の生命を中心とした王宮であり、の血統を中心とした王宮です。一番貴いものです。これがなければ神の理想、神の家庭、神のみ旨が成就できないのです。これは全体の完成を成すことのできる一つの起源です。

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 生殖器を絶的に貴く思う世界になるならば、その世界がいい世界でしょうか、い世界でしょうか。える世界でしょうか、滅びる世界でしょうか。神が人間を創造される時、最も重要なものとして精誠をめて造られた箇所とはどこですか。目ですか、鼻ですか、心ですか。そうでなければ頭ですか。これらは全部死んでなくなるのです。事がそうではありませんか。

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 生殖器は愛の王宮です。今その愛の王宮がどのようになっていますか。愛の王宮であり、生命の王宮であり、血統の王宮であり、そのように貴いものが人間の生殖器です。聖なる箇所です。それがサタンによって汚い箇所になってしまいました。本然の神点から見れば、汚いのではなく、それは聖なるものです。最も貴いものです。生命、愛、血統がここに連結されています。このように聖なるものをサタンが汚しました。

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 私の生殖器は愛の本宮です。私の生殖器は生命の本宮です。王宮だというのです。私の生殖器は血統の王宮です。このようになってこそ、神が臨在できる王宮になることができるのです。神は、万王の王であられ、本宮に訪ねていって住まれる方であるので、神に侍るために、愛の本宮にならなければならず、生命の本宮にならなければならず、血統の本宮にならなければならず、良心の本宮にならなければなりません。アメン、アメン、アメン。み言のとおりになるでしょう、アメン。

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 愛が中心となって二人が生命の合一体となり、一つとなる場所、男性の血、女性の血が一つのるつぼで一つとなる場所が生殖器です。その場所は息子、娘よりも貴く、夫より、神よりも貴いということを知らなければなりません。このような話をするので異端者と言われるのでしょうが……。その場所がなんですって? 子供より貴く、夫より貴く、父母より貴い場所です。それがなければ父母も無値なものであり、夫婦も無値なものであり、息子、娘も無値なものとなるのです。

そのように貴いので、物の中の物として、世の中のどこの誰にも見えないように、一生の間、錠がかけられているのです。そして、そのかぎは男性のものは女性が持ち、女性の物は男性が持っているのですが、各一つしかありません。一つのキのみ持たなければなりません。フリセックスのように、十個、二十個持ちたいですか。門を開けても主人がいない家のように、通り過ぎる人がみな出たり入ったりする廃虚の家のようになりたいですか。

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 女性、男性の貞操を守り保護するということは、宇宙を保護することと同じです。男性、女性の愛の秩序が宇宙の根本であるためです。

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 善とは何でしょうか。愛を間違えば永遠な承するのであり、愛を正しくすれば永遠の善の承するのです。その善のとは、どのような果物ですか。善とは男女の生殖器をいうのです。それを間違って使えば天下が滅び、が滅びるのです。世界を滅ぼし天宙を滅ぼし得る妖邪な武器が一番恐ろしく、一番いい武器です。愛もそこで結ばれるのです。ですからそこは愛の王宮です。の愛の源地です。の愛の王宮がそれであることを今まで知りませんでした。生命がそこで結合するのです。男性の生命と女性の生命がそこで結合するのです。ですからそこは生命の本宮です。血統もそこから始まるでしょう。億千万の史に接し導くことのできる、未にまで接させることのできる血統が連結されるのです。それでそこは血統の王宮です。このように私は三大王宮をもっているので、驚くべき私自身の値を褒めたたえます。ですから、それに神のように侍らなければなりません。神が怖いでしょう。これを知らなければなりません。三大王宮を蹂躙する者は、統一の世界、生命の世界、愛の世界から追放されるのです。

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 なぜ男性と女性が地球上に生まれたのでしょうか。互いに愛し合うために生まれました。神は知の大王であられるので、男女の愛の器官を取り替えたのです。男性のものだと言っても、その主人は男性ではありません。女性の場合も同じです。主人をしておいて自分勝手に行動した人は、愛を違反したことにする審判を受けなければなりません。法の中で最も恐ろしい法の罰を受けることを知るならば、自分の妻をおいて、あえておかしいことを考えることができますか。反に婦人たちは夫をおいて、他のことを考えることができますか。

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 神は公平な方です。それで互いに「あなたのもの」、「私のもの」と言ってけんかをするといけないので、男性のものは女性に植え付けて、女性のものは男性に植え付けておいたのです。それで愛は陰なようで、本に凄まじいものです。

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 愛は調和です。それで愛には汚いものがありません。私たちの生殖器を見ても、生殖器は最も貴いものなのに、人体の一番汚い箇所の近くにあります。なぜそうでしょうか。和合するのが天地の調和の道理なので、最も貴いものをそこに配置したのが男女の生殖器です。それで一番良くない、汚い部分に良く装置したのです。

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 男女の生殖器は、どこにありますか。それは一番安全地域、一番の安全地であると同時に一番汚いところです。それを見れば神は本に知の王です。人間の世の中に「愛はそのような汚いものも支配する」ということをえてくれるのです。肛門の近い箇所にあります。小便が出る道と、また違う道が同じです。

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 人間にとって愛のアンテナは生殖器です。それで男性は凸で、女性は凹です。この二つが合わされば、丸くなりながらなくなります。それは、陰電と陽電が合わさって、雷が落ちればゼロにるのと同じです。初めにります。

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 もし男性が男性の生殖器を自分のものとしてもったならば、絶にあげようとしないし、女性も女性のものをあげようとしないでしょう。そうすると男性と女性はただそのまま立して千年も万年も耐えるしかないのですが、愛を中心として互いに交換したのでお互いが必要となり、授け受けて回るようになるのです。授け受ける作用を必ず交換してこそ、値が現れるようになっているのです。

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 落した世界において愛は最も危なものになってしまいました。愛をよく管理できなければ天下が崩れ、ひっくり返るのは落したからです。人間は愛がなぜりとなり醜くなったのか知りませんでしたが、その愛を守り保護しようとしたのはの愛が現れてくれることを願う本能のためでした。

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 愛する時、なぜ男性が上に上がらなければならないのでしょうか。そうしてこそになるからです。種はどこからるのでしょうか。天からます。何を通じてるのでしょうか。愛を通じてます。それ一つが全部を証明します。そして、種というのは父から的な愛の凸を通じてます。凸が凹と合えば天地が振動します。

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 愛するようになれば幸福になり、愛にって感じる感情はこのようなものだと言って、早く経験してみようとして走れば大なことになるのです。愛の門は時がてこそ開くのであり、門が開く時を待って入らなければなりません。自分が愛の主人になったという時、堂と開かなければなりません。

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 男性と女性はなぜ愛を好むのでしょうか。人間の体は大体百兆個にもなる細胞で構成されていますが、その細胞全体がいつ作動するのかといえば、愛する時なのです。人体のすべての細胞を動かすことのできる時が、正に男女が愛し合う時なのです。

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 男女が互いに愛し合う時、「ああ、電が通じる」と言います。その時、生じる電は天使長から始まるもので、細胞的なものです。本然の世界で生じる愛の電は宇宙的な愛の妻で、度において千倍を越えるだけでなく、人体の各器官の細胞が動く音も雷の音と同じです。本然の世界においての愛で愛し合う男女は、愛の妻が出う接点に向かって力を結集しなければ神と出えない、というのが愛の原理です。

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 誰が神の愛の象になりますか。男性一人ででしょうか、女性一人だけで象になるでしょうか。神はどのような象を願われるでしょうか。お金の象ですか。知識の象ですか。力の象ですか。違います。神は愛の象を願われるので、男性と女性が性の器官を通じて一つになるその場を中心として現され、人間と出われるのです。

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 自分の体を全部自分のものだと言いますが、愛だけは自分のものではありません。愛は全部相のものです。約聖書を見れば聖所や至聖所という言葉が出てきます。聖所は人を象するものであり、至聖所は愛の家を象するものです。人はそれぞれ聖所をもっており、至聖所をもっています。言い換えれば、聖所は神に侍ることのできる家です。至聖所は神だけが特的愛の主管をもつことができるので、神との係を結ぶことのできるところです。至聖所を守る祭司長は絶に二人ではありません。一人です。昔エバの前にその至聖所の鍵をもっていたのはアダムで、アダムの至聖所の鍵をもっていたのはエバだったことを知らなければなりません。

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 男性と女性の口は聖所だということを知らなければなりません。口は蘇生で、女性にとっては胸が長成で、その次に陰部が完成です。それらが私たちの体の聖所という箇所です。その聖所を開くことのできる鍵は誰でももっているのではなく、天道によって相しなければ、鍵をもつことができないことになっています。

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 宗は受難の道を行かなければなりません。体とわなければなりません。一番の怨讐とは何かと言えば、魔の血が激動する色です。淫から解放しなければなりません。その次に愛から解放しなければなりません。サタンの血でつづられた血統から逃れるためには淫から解放しなければなりません。そうして、生命に接ぎ木しようとするには神係を結ばなければなりません。そうしてこそ愛が始まります。愛の統的中心は神です。生命の祖先も神です。

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 この宇宙で一番恐ろしいものとは男女問題です。

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 愛するようになれば血が沸くでしょう。ぞくぞく震えるでしょう。それはなぜ震えるか知っていますか。混じりなさいというのです。東西南北が混じり上下が混じって一つになり、愛の火花が散る方向にすべての焦点が行列の方向性を備え、男性のために完全投入、女性のために完全投入、私の生命、財産をすべてくして投入、また投入しようと飛びつくのです。それが永遠に終わらない愛の道なので永遠に好むのです。

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 神が人間に贈り物をするのに、い贈り物をしたでしょうか。いいものの中でも一番いい贈り物をくれるようになっています。それがどこにあるものでも、深いところにあるもの、自分のの深いところから取って、愛する人にえたいのです。それで愛がいいのです。

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 の自由は責任性を前提とします。もし責任性なしに個人の愛の自由だけを主張して実践するならば、どれほど大きい混と破局がるでしょうか。至高なる愛の理想を成す人間の完成は、愛にする責任性をもつ時、可能となるのです。

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 人間は、愛の自由を下さった神に感謝しながら、自己修養、自己主管によって自由の主体となる責任性をもたなければなりません。人間において愛の責任性は、法や耳目によって守られるものではなく、神との生命的、係の中で、自己主管、自己決によって守られるものです。

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 生殖器を目の見えない人のように方向を失ったまま使用すれば、地獄に行き、反にこれを神の絶愛に基準を合わせて使えば、天の高い所に行くのです。これはきれいな結論です。

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 エデンの園でアダムとエバが、少年期に木陰で淫によって落しフリセックスを植えたので、穫期である終わりの日には必ず、世界的に少年たちのフリセックスの風潮が蔓延する現象が現れるのです。



  2.愛の法は習って知るものではない


 皆さんは家庭で愛する法を習いました。どこのお父さんが子供に、お父さんから愛する法を習いなさいと言いますか。またお母さんも子供に、お母さんから愛する法を習いなさいと言いますか。また、父母が子供にする愛し方を誰かに習いましたか。新新婦はこのように愛さなければならないと誰かから習いましたか。習ったことがありませんが、よく知っています。それは本に神秘的なことです。

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 父母が子供を愛するのに、誰かにえてもらって愛しますか。ここにいるおばさんたち、赤ちゃんを生んで愛する時、その愛する方法を習いましたか。どこに愛をえる校がありますか。そこに何の士、博士がいますか。何もありませんが、誰でもその基準は点です。不足だと感じれば感じるほど、さらに完全だというのです。完全なものは手を出す必要もなく、習う必要もありません。加減が必要ないほど完全なものなのです。完全なものはわらないものであり、わらないものは永遠に行くというのです。

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 愛というものは言葉ではよく理解できません。父母の愛をいくら明しても、父母がいない人には分かりません。夫婦の愛をいくら明しても一人で暮らしている人には理解できません。結局、自分が感じることができる主体やから、行動の一致点を備えることができる所から、彼が好むことができるものを私が好むことができる所から、また彼の一切が私の一切に連結され得るその場から、相の愛を感じるのです。

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 赤ちゃんが生まれるとすぐに母親の乳を探し、動物たちが生まれながらにして母親の乳を求めるのは、育と訓練を受けなくても、自然に行に移されるのです。これは正に愛の力が作用しているからです。

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 真実な愛は天理の法度なので、育される前に、自然に成されるのです。父母の愛が、生まれた子供の顔が醜いかかわいいかによって、大きくなったり小さくなったりして現れないし、父母が立派か立派でないかによって、父母にする尊敬と愛がわる子供はいません。顔が醜いので私のお母さんでないと言う子供がいますか。お前は私が生むには生んだが、醜いので私の子ではないと言う父母はいないでしょう。もしそのような父母や子供がいれば、彼らを人間だと言うことはできないでしょう。

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 の愛は経験を通じて得られ、体恤を通じて知るようになっています。の愛は言葉や文字、あるいは一般育を通じて体得できるものではありません。生活を通じてのみ完全に体得するものです。赤ちゃんとして造られたアダムとエバは成長しながらの子女の心情、の兄弟の心情、の夫婦の心情、の父母の心情を段階的生活を通じて経験し、体することによって完成するようになっています。神の愛を全体的に体得する時、初めて創造目的を完成した理想的な人間になるのです。

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 結婚して、年老いて死ぬまで子供をもつことができなければ、子供にする愛は千年、万年たっても知ることができません。子女にする愛を千年、万年勉しても知ることができませんが、息子、娘が生まれるや否や、瞬時に知るようになります。



 六 子女の愛


  1.子女は父母の愛の結集体


 愛する父母の前に、子供というものは極めて世界的な代表です。

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 子供がいなければ、なぜ孤な人だというのでしょうか。子供は、愛を中心として全宇宙を造られた主体者であられる神の心情的事情を体恤するためのものです。子供は、私が動機となって生まれたけれども、その子供を生んで愛することによって「ああ、神が人間をこのように愛したのだなあ」ということが分かるようにするのです。

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 父母が子供のために牲になるのは、父母として子供を通して神っていきたいという願いがあるがゆえです。子供を愛する中で父母の愛を体恤するようになり、さらには神の愛を感じて悟るようになるためです。これは本然の露です。子供をもったことのない人は、父母の愛を感じることができないだけでなく、神する愛までも悟ることができないので、その人がもっている愛はいつも不完全なものなのです。

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 天ることのできる子供とは、どのような子供でしょうか。父母の愛によってつくった借りを自分自身が返さなければなりません。父母が年を取ってぼけた時には、自分が幼い時に大便をし、小便をしたものを拭いてくれた父母の心で困難を耐えて、父母に仕えてこそ孝子になることができます。

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 愛をもった父母にむち打たれ、しかられても、その子供はうれしいのです。

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 父母が、子供のために生命までもえてくれました。ですから、子供も父母のために生命までえなければなりません。生命が愛から生まれたので、本質的な愛の前に生命線を牲にしていくのが理論的な結論です。矛盾的な理論ではないというのです。

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 子供が父母に借りをつくるまいと努力をする時、父母も生きがいを感じます。

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 愛を中心としてむちを振るったとしても、打ったのちに痛哭する父母にして子供が反抗したり、口を言ったりできますか。の愛は調和の面的値をもっているのです。

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 立派な母親は子供をに抱き、世界を動かすことのできる善なる存在になるために、どのような困難な立場でも耐えることができなければならない、と子供にえるのです。母親は、善は滅びないという天理に通じているからです。

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 皆さんが子供を産んでお乳をあげ、かわいいと言いますが、なぜかわいいと言うのでしょうか。それは天と地に代わって、神の子供を抱いているがゆえにかわいいと言わなければなりません。神の愛にった天倫の運勢は世界を越え、天地を抱擁するために動いています。子供を抱いてお乳をえる母親は、天と地に代わって神の愛する息子、娘を抱いているという徹底した心情で、息子、娘を抱かなければなりません。

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 子供の愛と幸福の基地は、父母の愛です。子供はの愛によって和合一体となった父母を通して生命が生まれ、そのような愛の中で養育されることを願います。子供にする最も貴い責任は、外的な養育だけではなく性を完全なものにしてあげる、の愛の生命的な要素を提供することです。

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 父親がいくら子供を愛するといっても、母親の愛にはかないません。母親は、精誠を捧げたとすれば誰よりも精誠を捧げたし、苦をしたとすれば誰よりも苦したし、愛したとすれば誰よりも愛したと見るしかありません。

 そのような意味でも、女性が情的な分野において高く貴い位置を所有しているのであって、父親がいくら子供を愛するといっても母親ほどに子供にする愛は分かりません。ですから天に行くならば、女性が心情の天に行くでしょう。そのような点から見れば、女性として生まれたことはくありません。また神は公平だということも分かります。



  2.なる子女の道理は「孝」


 父母を知ったなら父母の前に何をしなければならないでしょうか。孝行をしなければなりません。孝子にならなければならず、また父母を中心としてそのの忠臣にならなければなりません。父母がを抱え、世界を抱えてきたからです。忠臣になる前に、孝子にならなければならず、孝子になる前に、なる兄弟を愛せる食口(家族)にならなければなりません。食口とは、兄弟間で褒めたたえ合えるを立てた者の名前です。そうではありませんか。

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 孝子が貴いのは、わりのない愛によって幼い時も、成長する時も、老年時代も父母を敬うからです。そのような人を、孝子と言うのです。

 孝子になろうとすれば、どのようにしなければならないでしょうか。常に、父母の心の方向と一致しなければなりません。孝行者の道を行く人は、父母と全く違った行動をする人ではありません。父母が東に行けば東に行かなければならないのであり、父母が西に行けば西に行かなければならないのです。そこに異議があってはなりません。十回行って、十回れと言われても、また振り返ってついていかなければならないのです。

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 家庭で「孝行をしなさい」と言うのですが、これは父母を中心として、父母が行かなければならない愛の道の同者になりなさいということです。父母のの愛の道には、天倫がついていきます。父母のみ行くのではなくて、見えない的な天倫がここに因づけられて、共に行くのです。ですから父母と一つになりなさいというのは、的な史と的な史の心情をつなげていきなさいということです。これが父母の前に孝行だというのです。

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 家庭を中心として見る時、父母の前に孝行をすることが息子、娘としての責任ですが、なぜ孝行しなければならないのでしょうか。孝行する道は、する忠臣の道と連結されるのです。竹のように連結されるというのです。忠臣、つまりに忠誠を誓う人はどのようにしなければならないかというと、世界にして聖人の道を行かなければならないのです。それが一人の子供にならなければなりません。このように見る時に、孝行はできなくても、の忠臣になるなら、その父母が「ああ、お前は私に孝行をしなかった」と言うことはできないのです。「本によくやった」と言うのです。父母を捨てて家を出て親不孝をしたとしても、の忠臣になる時は、母親や父親が死んで界に行っても、「やあ、本にお前はよくやった」と褒めるというのです。

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 孝子とは何でしょうか。孝子は父母の悲しみに代わって責任をもつために、困難な場を探していって、責任を果たすことによって父母に喜びを捧げる人です。父母が十の仕事をするのに子供は十五ほど努力をしたならば、父母は五にする喜びを感じるようになります。そのような分野をどのように補充して、父母のために捧げることができるかを考えながら努力する人が孝子なのです。

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 の父母とは、どのような父母でしょうか。子供を永遠無窮に愛することに切りのない父母です。

それではの子女とは、どのような子女でしょうか。の子女は、の父母の愛の前に永遠無窮に父母を愛し、また愛があふれることのできる愛の心をもった子女です。そのような立場がの孝子の立場です。

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 神が子女に願うこととは何でしょうか。お金をたくさんもうけた百万長者になることでしょうか。の最高力を手中にする大統領になることでしょうか。神が息子、娘であるアダムエバに願われたのは、彼らが育って孝子、忠臣、聖人、聖子になることでした。それでは皆さんは、神が願われるように家庭では孝子になろうという持ち、では忠臣になろうという持ち、世界では聖人になろうという持ち、そして天地の前に聖子になろうという持ちをもったことがありますか。史的に見る時、すべての聖人は、孝子となり、忠臣、聖人、聖子になれとえてきました。

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 愛の統の中で育った子女たちが、もし父母が離婚しようとしているなら無心でいられるでしょうか。絶にそうではありません。子供たちはすべて「私はあなたの子女です。私はあなたの結合体です。私のためにはどのような妥協もしなければならず、私の立派な父母とならなければなりません。私は父母が必要です」と主張するでしょう。私たちは若者に「父母とはその子女のゆえに離婚する利がない者だ」と、父母の責任を悟らせなければなりません。

七 兄弟の愛


  1.兄弟愛は万民同胞愛の模型


 兄弟をなぜえられるのでしょうか。兄弟がなぜ必要なのかと言うと、男性は妹や姉を見ながら「お母さんはこんなふうに育ったのだなあ!」ということが分かるのです。そこに母親が育っていくのを見るのです。また女性は、兄や弟が育っていくのを見て、父親がそのように育ち生活してきたのだという容を見るのです。それが兄弟愛だということを知らなければなりません。そのように育って一つになるというのです。ですから兄弟を愛さなければならないでしょうか、愛してはいけないでしょうか。

 兄の立場で妹を愛し、妹の立場で兄を愛するのですが、ただ愛するのではないのです。必ず父母を介在させて、幼い時父母ので育ったことを重要視しながら愛さなければなりません。そうしてこそ、大きくなりながら共に上がっていくのです。小校、中校をずっとそのようにして上がっていくのです。

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 この世をいくら行ったりたりしてみても、家庭にある兄弟の愛、血を分けて生まれた兄弟愛のようなものはないのです。社に出ても自分の兄弟よりも近い人がいるでしょうか。近くなったとしても別れるのです。

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 なぜ兄弟が必要でしょうか。縦横を中心として連結されるのが兄弟です。アダムとエバを東西とすると、神とアダム、エバは的な係です。これは平面にしかなりません。ですから的な基準が必要で、前後が必要です。家庭愛を超越できるのは兄弟しかありません。万民同胞愛という言葉と同じです。それがあって球形が成されるというのです。

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 同胞愛、兄弟愛をもって世界を抱いてこそすべてが理想的な球形になるのですが、ぶつかっても衝がないのです。そうしてこそ初めて、神が考えたすべての体がここにて結されるのです。神の子女の理想がここにて結されて合わさることによって、子女の愛の結体になるのです。その次に、兄弟の愛の結体、夫婦の愛の結体、父母の愛の結体になるのです。無形の神が創造時に構想した体をすべて成したなら、神と上下前後左右が一致できるのです。

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 兄弟を通して民が形成され、人類が形成されるのです。兄弟は前後を表示するのですが、それが肉になるのです。平べったいものだったのですが、肉が付いたのです。そこから円形が生まれるのです。ですから円形をつくるのが兄弟であり、民なのです。兄弟が大されて民になるのです。

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 兄弟愛というものは世界愛と通じるのです。たくさんの兄弟が育つ家庭は、世界の人類を抱き、理想的な天、地上天と天上天をつくるモデルのようなものです。ですから兄弟は、ここで張されるのです。

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 兄弟が多ければ、御飯を食べるにしても、一つの器で二人で分けて食べなければならないのです。御飯が一つしかないと言ってけんかをするのではないのです。兄弟が多くて生活が大でも「私がひもじい思いをしても分けてあげなければ。弟にあげなければ……」このような愛の心をもてば最高だというのです。



 八 愛、愛世、人類愛


  1.孝子、忠臣、聖人、聖子の道に


 神と一つになる時は千態万象に回るようになります。そうして兄弟間でも、父母が子供を愛するのを見本として、兄は弟を愛さなければなりません。そのように愛で一元化された家庭には、家庭愛が花きます。これがまた社愛となり、さらには民族愛となります。このように行くと世界愛になります。

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 人類の共同的な目的のために生きる人がいれば、その人は人類愛を中心として一つになるでしょう。同じように民が祖愛をもっているならば、愛思想を中心として一つになるでしょう。愛の心がければいほど、家を成すために愛思想を中心として一つになるはずです。愛運動は一人ではできないという立場を知ったならば、的な因を連結させなければなりません。これが同志糾合というものです。

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 の愛が定着できる基地が家庭です。ゆえに、本の家庭は宇宙愛を掌握し、宇宙の保護相を体得しながら、宇宙愛大させ、家庭を越え、家を愛する愛の道を行くべきであり、さらに、民族と家を越え、世界を愛する道に行かなければなりません。家庭を愛する人を孝子あるいは烈女と言い、を愛する人を愛者と言うならば、世界を愛する人を何と言いますか。その人はすなわち、聖人であると言うのです。

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 愛は、生活と史から取り除くことのできない、在の容を動かしている体です。そして、社制度だとかすべてのものを動かしている的な力の母体です。ですから育する時も、家愛をえます。兄弟愛、父母愛、夫婦愛、世界的な博愛、全部愛が入っています。これは何を意味するのでしょうか。人類の生活だとか史過程をながら愛をたどらずには、史を連結させることはできないということを言っているのです。

            *

 皆さんはどうしなければならないのでしょうか。忠臣にならなければなりません。忠臣とは何でしょうか。の中心者のために精誠を捧げるのが忠臣でしょうか。違います。民のためにも、の中心者のためにするのと同じようにできる人が忠臣であることを知らなければなりません。孝子とは何でしょうか。父母だけのために精誠をくす人ではありません。父母のためにするように、兄弟のためにも精誠をくす人が孝子だということを知らなければなりません。

            *

 その次に聖人とは何でしょうか。聖人は世界人類のために今まで牲になった人です。聖子とは何でしょうか。神を中心として世界に行こうとし、神のためにしたように世界の人のためにくすことのできる人だというのです。史的な聖人は、今まで世界の人のために死んだ人です。神の息子である聖子とは何でしょうか。神にも忠誠をくすけれども、神がそうであるように万民のために生きる人です。

            *

 ですから孝子、忠臣、聖人です。では、聖人の次は何でしょうか。聖人であっても、そのまま聖子にはなれないのです。神の息子になれないというのです。聖子にならなければなりません。いくらの中心者を愛して民を愛したとしても、聖子になるためには天の王宮法を知らなければなりません。王宮法に統治され、そこに拍子を合わせることのできる一つの法を知らなければなりません。

            *

 本、孝子は心がわらずに父母にまっすぐに行く人であり、忠臣は心が王にまっすぐに行く人です。同じように、聖人は心がわらずに神にまっすぐに行く人です。別の言葉で言えば、死ぬ立場になっても、その心がわらずまっすぐに行ってこそ孝子であり、忠臣であり、聖人になることができます。

            *

 家庭で父母のために暮らし愛する人は孝子であり、のために暮らし愛する人は愛者であり、世界のために暮らし愛する人は聖人です。皆さんは世界と宇宙を愛する聖子にならなければなりません。そうするためには、神のような愛をもたなければなりません。孝子は家が滅びても生きています。そして孝子妃がいて、忠臣の妃がいて、聖人の妃がいるのです。聖子は聖人とは違います。聖子は人間世界のの法だけでなく、天の王宮法まで守ることを知っている人です。したがって孝子の道、忠臣の道、聖人の道をすべて直通できるのが、聖子の道です。それは太くていけれども、その核の流れは垂直です。

            *

 人間はどのように生きるのでしょうか。私たちの人生航路の骨子を選び出すと、孝子が行く道、忠臣が行く道、聖人が行く道、聖子が行く道の根本があるはずです。共にいたくて、共に住みたい心、上下にかかわらず共にいたくて、前後、左右、夜を超越して、生涯を越えて共に生きたい心に徹した人生ではないでしょうか。このような結論が出てくるというのです。

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 人間がどんなに立派だとしても、愛がなければ使いようがありません。また幸福というものも何を中心として連結されるのかというと、それは愛です。兄弟間、友人間、同胞間、人類間、天地間など、このすべてのものの間を連結させることのできる媒介体が、すなわち愛だというのです。愛はのようなものです。



 九 自然愛


  1.神が万物世界を造られた意義


 神は、なぜ万物を造られたのでしょうか。人間に愛する象を、象者をもたせるためです。人間に愛するをつくるためです。人が食べて暮らして、その本然の世界にってきて、永遠なる神の愛の祖に入って生きるためです。それを知らなければなりません。

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 今日、キリストの信者たちは、「ああ、神は全知全能なので、何、言葉一つで、『このような天地になれ』と言ってこのようになった」と考えています。しかし、そのようにはなっていないのです。神はすべてのものを投入したのです。もっている精力をすべて投入したのです。もっている愛の力をすべて投入して、未に、御自身の愛する息子、娘、御自身の愛する家庭のための物として、贈り物としてつくったのです。すべての物を。ゆえに、そのような念をもって私たちが万物を眺めなければならないのです。

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 神が被造世界を造られるとき、そこには喜びがありました。造っては、それを見て良しとされました。喜びがあったというのです。喜びとは何ですか。ある目的を成し遂げたとき感じるものです。造られた万物に神の目的意識が在されていたので、創造された万物を見て、神は喜びを感じられたのです。それでは、復の世界とは、どのような世界なのでしょうか。一言で言えば、森羅万象の個体、個体を見ながらも、神を褒めたたえることができる心情的な因を立体的に備えた人たちが、暮らす世界です。天が御になる人格の値は、そこにあります。それで、昔、聖フランシスのような人が、動物に向かって、あるいは鳥に向かって説教したという話もうそではありません。夢のような話です。けれども夢ではなく事です。

            *

 被造世界のすべてのものは、神が愛する息子、娘が愛の理想を見つけ出していけるように、材として造っておかれたものです。それで相的構造なのです。物も主体と象の係として作用し、原子も陽子と電子が主体と象の係として作用するのです。作用しなくては存できないのです。運動しなくては、永、存することができません。それゆえ、宇宙は人間を中心として、その中心点に到達できるように創造された世界なのです。

            *

 宇宙は神秘的な世界です。いたずらや遊びの材料として造られたのではなく、精誠をめて、愛する人間のために造られたとすれば、なるほど、この世界はいかに美しいことでしょうか。ですから、私たちがこの宇宙を眺めるとき、天の父が私のために造られたという、この上ない有り難い心をもたなければなりません。そのような心をもって、丘を散策し、草木や花を眺め、鳥を眺め、水が流れるのを見て、風が吹く、このようなすべてのものを見れば、本に感嘆せざるを得ません。

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 宇宙の完成は外的な世界も良いのですが、的な私自身、私も良くなければなりません。良いところにおいては、心もうれしく体もうれしくなければなりません。私の細胞を見れば、細胞の全部がうれしくなければなりません。目の細胞と足の裏にある細胞は違うでしょう。違うのですが、その細胞がすべて喜んで、手の細胞も喜び、すべての細胞が喜び、体と心のどこ一つもさずに全体が喜ぶことができ、それがただ離れているのではなく一つにつながって、連体的な容を中心として共鳴的な愛の喜びを感じることができる、そのような世界であってこそ宇宙完成になるのです。

            *

 因というものは極めて小さい所から結ばれるのです。皆さんの個体も百兆ほどにもなる細胞で因が結ばれている生命体です。神の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のすべての存在物はどんなもの一つとっても、神の心情の外で生じたものがありません。このようなことを感じる詩人は、偉大な詩人です。一枚の木の葉がれるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいるとすれば、その人は宇宙的な詩人であるはずです。

            *

 私たちの周で私たちも知らずに繰りげられている天下万象が、神の愛と共に存在するものであるという事を知りませんでした。神的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の理致が入っているし、一つの原子にも無窮無の宇宙の調和が入っているということが分かります。存在するすべてのものをよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果であるということは否定できません。分子を越えて原子、原子を越えて素粒子……。これらのものは無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的をもって存在するのです。ゆえに、存在するすべてのものは神の愛の手を通って出てきたものでり、必ず神と心情的な係を結んで存在しているという事を徹頭徹尾知らなければなりません。

            *

 道人とはどのような人ですか。草一株をつかんでも「神!」と言える心情で、自分の値と同等にその値を認識できる人が最高の道人であるはずです。そのようにその値をうたうことができる人が最高の芸術家であるといえるでしょう。色とりどりに存在する万象を見て、神の色とりどりの愛と心情の妙味を見し、それらのものと友達となり、共にしめる感情をもった人がいるとすれば、そのような感情で細胞の一つ一つが動く人がいるとすれば、その人は万宇宙を代表することができる人であるはずです。そのような人が万物の長です。ところで、食べることしか知らない人が万物の長になれますか。

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 小さい子供たちをよく見るとですね……。子供たちはみんな子犬とか、何かの虫とかいった、飛ぶ動物、野生の動物、このような動くものが好きです。それはどうしてそうなのですか。本、人間はそのようになっているのです。それはどういうことでしょうか。人間は自然世界やこの地球の動きを見て、趣を感じるようになるのです。もちろん相基準が異なることがあり得ますが、それを鑑賞することにおいては、人間は本におもしろさを感じ、興味を感じるのです。それゆえ、自分自体の愛の性をすべてわるのです。虫たちが生き、昆虫たちが生き、あるいは動物たちが生きるのを見れば、すべてになっているのが分かります。このように見る時、自然は何かと言えば、人間一つを愛の象として、相理想を育させるために展開させておいた材、博物館であるというのです。

            *

 神は宇宙を、被造世界のすべてのものを、愛する息子、娘が愛の理想を探し出すことができるような材として造っておかれました。それですべてが相構造になっています。物も主体と象の係で作用します。物質の構成位である原子も、陽子と電子が主体と象の係で作用します。作用しなければ存できません。運動をしなくては永、存できません。ですから作用をしなくてはなりません。



  2.自然は愛の理想をえてくれる


 人間は大きくなっていきながら、自然を見て習得します。「昆虫の世界はこうなっているのか!」とぶのです。月が照り星が光る秋の夜、耳を澄ませてみると、虫たちの鳴きが一つのオケストラの演奏に聞こえます。何のために虫たちがそのように鳴くのでしょうか。それは相を探し求め、理想を歌っているのです。愛をささやいているのです。鳥や、他のすべての動物たちも、悲しい、うれしいを何で表示するかといえば、愛という共通分母にって鳴きを出すのです。軸から遠い距離にありますが、その軸を中心として平衡を取りながら回っています。すべての存在がそのようになっています。

            *

 鳥たちの歌には三つの種類があります。まず第一におなかがすくときに合する歌であり、次は、互いに愛する相のために歌う歌であり、その次は、危なときに鳴く歌です。それはすべて異なっているのです。私たちは、なに、普通の人たちには分かりませんが、自分たちの世界ではすべて分かっているです。おなかがすいて鳴けば、すぐに分かるのです。日の生活が何を中心として成っているのでしょうか。おなかがすくことなどは、一度食べれば終わるものなのです。そうかといって、日のように、何か危な立場にあるのでもありません。大部分の歌は、何を中心として歌うのかといえば、相と授け受けする係で、歌が行ったりたりするというのです。

            *

 人間は主体と象、すなわち相的なペアに造られていて、また人間のために存在するすべての万物世界も、愛の原理のもとに調和をなし、また人間の愛により生命と理想を現するようになっています。万物世界は人間にとって、特に成長するアダムとエバにとっては、愛の科書であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。

            *

 すべての鳥や動物はになっています。お互いが愛を中心として和動します。花と蝶は極と極ですが、互いに和合します。これは天地の調和です。宇宙の極と極が、愛を中心として和動を繰りげます。渡り鳥も同じです。南方にいた鳥が北方に飛んでいき、北方にいた鳥が南方に飛んでいき、地域を行きしながら愛を成します。愛を中心として永遠に回ります。人間はこのような愛を、神が造られた博物館の材を通してびます。

            *

 人間と神が喜び、愛せば、天下のすべての万物たちはそこに拍子を合わせて和動します。神が愛し、喜べば、天使世界も喜び、このすべての被造世界が喜び、拍手を送り、称賛を送ります。歌える鳥は歌を歌って褒めたたえ、美しい花は香りを放って褒めたたえます。最高の愛の主人公たちがしむことができる香りの雰囲気張させるためのものが、この被造世界です。見かけがぞっとするようなヒキガエルも愛を交わすときには「うっうっうっ」とします。どんなに素晴らしいことでしょうか。足をたたいて、後ろ足を上げたり下げたりしながら愛し合っているその姿がどんなにすてきですか。それは最高の芸術です。

            *

 春になって鳥が歌を歌えば、その鳥の歌を聞くや否や、自分の妻を思い、自分の子供を思い、自分のを思い、世界を思い、神まで思わなければなりません。そうすれば、すべて完了です。鳥は鳥同士でのみ考えますが、人間は係性をもっています。動物世界、植物世界、天上世界の中間媒介体としての係性をもったのは人間だけの特です。すべてを連結させることができます。これは人間だけの特です。

            *

 アダムとエバは成熟していくにって、「ああ、あんなふうに愛するのだなあ!」と知るようになります。神は万物世界を、人間の愛の理想を成熟させることができる材としてげておきました。それをんでいくのです。だんだん大きくなるにって、「あは、昔は妹のように、お兄さんのように一に過ごしていたのに、よくよく見れば……」このように感情が化します。「あ、こうなんだ!」とんでいきます。それで「お前と私は死んでもわなければならない。他の所には行けない」といって、平衡線を直行しながら出くわすようになります。

            *

 愛は神と同じです。私たちがの毛を一本引っ張れば、体全体が引き上げられるのと同じように、愛のみ引っ張れば、宇宙が引き上げられ、愛のみ動けば、宇宙がすべて和するようになります。そのため、愛があれば踊りも踊るようになります。踊りはなぜ生まれましたか。愛のために生まれました。また、歌も愛のために生まれ、笑いも愛のために生まれました。愛を取り除いてしまえば、すべてが固まってしまいます。

            *

 人は蜂よりは蝶を好みます。蝶は踊りを踊りながら飛ぶからです。すべて飛ぶものは、拍子に、調子に合わせて飛びます。早く飛ぶものも拍子に合わせて飛び、ゆっくり飛ぶものも拍子に合わせて飛びます。飛び方はですが、いずれにしても全部拍子に合わせて飛びます。また、山で鹿が跳び回ったり、うさぎが遊ぶのも音的です。何かを食べるのも音的です。人も何かを食べる時、とても音的です。それはすべて音の象です。このように考えるとき、そのようなこの宇宙を永遠に私のために造り、私のために取り付けたとすれば、その方にして私たちは有り難く思わなければなりません。見物人のように、隣村のことのように考えてはいけません。

            *

 山にも高い山があれば低い山もあります。それでは、私たちは山が高くもあり低くもあるのが好きですか、のっぺりしていて平坦なのが好きですか。高くもあり低くもあるのが好きです。それはなぜでしょうか。その形が踊りを踊ろうとするある型を具備しているからです。あらゆる形の曲線を描きながら、上がっていったり、下がっていったりしながら、な形態を表現しながら形づくられているからこそ良いのです。そうなれば、それが正に踊りです。自然の中には素晴らしい踊りがあり、素晴らしい音があります。素晴らしい芸術があります。それらのものが自然の中にはにたくさんあります。

            *

 一番最初に神の子女として生まれたアダムとエバも、神の保護圏内で幼かったところから成長していくにって、だんだん大きくなっていくのです。そうして、知能も達していくので、神がなぜ被造世界を造られたのかを知るようになり、その被造世界を通して育を受けてくるのです。被造世界で動くすべてのことは、私たちの人間始祖、本の先祖になるべきアダムとエバが生活できるように、すべてのことをえてくれる材でした。完成されたアダムエバではないので、理想生活をしていく際の標本であり、一つの博物館であったという事を知らなければなりません。

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 朝、目をまして自然を眺めれば、その自然がおぼろげに私の本性と因を結び、新たな理想の感情を芽生えさせます。しかし、人間社は眺めれば眺めるほど、絶望と悲しみの感情を高めてくれるという事をよく知っているでしょう。本落しない本然の人間たちが住む世の中といえば、人間の値は、そのように眺める者をして、悲しみを感じさせる程度のものではないのです。草一株や、花一輪、一本の木と同じ程度の値で造られた人間ではないのです。被造物のその何ものをえても替えられない高貴な人間であり、その何ものにも比べられない値の姿で、天上に代わって現れるべき人間でした。

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 神の愛が宿っている自然を眺めて、「世の中の王、あるいは有名な人がもっている見事だという品物に比べられるだろうか。骨董品と比べられるだろうか。ある有名な婦人が着ている豪華な服と比べられるだろうか」という心をもたなければなりません。そのようにできなければ、私たちは、自然世界の前に、自分でも知らずに罪を犯しているのです。一つの生命体を見るとき、「人間が造ったある物に比べられるだろうか。どんなに素晴らしい人であっても神より素晴らしいだろうか」といって、神が心情を傾けて造られた万物をつかんで、何よりも貴く感じる者がいるとすれば、この人は間違いなく天の息子、娘であるはずです。このような人は祈が必要ありません。神と共に暮らす人です。天は人間をそのような位置までり立てるのです。

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 自然はどんなにつまらないものでも、そのどんなものとも比べられません。道端に値なく立っている一本の木も、有名な家が描いたどんな絵画とも比較ができません。どんなに名のある家が最高の傑作品として花を描いたとしても、描かれたその絵画からはいくら凝視しても花はきません。香りもしません。また、種も結べません。しかし、値なく道端に立っている木からは花がき、を結び、種をします。そして、その種を植えれば、その木よりももっと良い木がいくらでも出てくるのです。ゆえに、その有名な家が描いた絵画とも比較できません。

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 人間は自分が愛する人のものは何でも好み、慈しみます。そうするくせに、一番愛さなければならない神が造られた万物を慈しむことを知りません。このような人たちが神の息子、娘になれますか。嘆息している万物の恨を解怨してあげるべき責任を負った皆さんは、一本の木、一株の草にも六千年前、それらを造られた時の神の心情と、創造に差し伸べられた手を体恤しなければなりません。そのような心をもたなければなりません。そのため、道をいていて、一株の草を見てもを流すことができなければなりません。一本の木をつかんでも、泣くことができなければなりません。「主人を失ってしまってどんなに寂しかったことか」と言いながら。ここで話をしている文鮮明先生はたくさん泣いたのです。岩をつかんでも泣き、風が吹くのを見て泣いたのです。なぜ、そうでなければならないのか、今、み言を聞いたから理解できるはずです。

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 神が造られた値のある万物が、神と共に永遠なる因を結んだ貴い万物が、今日、ある王宮で、なに、国宝だとか物だとか言って、貴く思われている品物ほどの取り扱いも受けられないやるせなさを私は分かってあげなければなりません。「私だけは分かってあげなければならない」と言いながら生きてきました。「この地上に生きている世界人類がみな分かってくれなくても、私は分かってあげなければならない」という心を皆さん方がもつならば、この民族が将来、世界人類を支配できる新しい民族になるはずです。これは念でなく事です。どこの誰が万物をおいて、代受けがれてきた自分の家門の物より、世の中で一番貴い石だというダイヤモンドより、貴く思って手放さないようにしますか。そのような人がどこにいますか。神は御自身が造られたものを心情的に理解してあげ、それをつかんでを流す人を見て「良し」と言われるのです。

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 自然とは何でしょうか。神が私のために、慈しむ愛をもった息子、娘が生まれるとき、慈しむことができる万物として、贈り物として下さった展示品です。鳥の鳴き一つが、成長していく草一株が、愛する息子、娘たちの生活の美化のために造られた装飾品なのです。路傍にころがっている岩も、息子、娘がを治める主人になることを知っていて、そのの装飾品として造ったのです。流れる水も同じです。無味乾燥で調であってはいけないので、造化無な和合の園として、愛のためのそのような世界を見て、その相を受けることができる夢の王子、希望の王子を造るために創造されたのです。そのため、万物を通してぶのです。雄と雌が「ちゅんちゅん」するとき、これをその主人になるおばさんもべというのです。互いに慈しむ世界に向かって、自分の一生を命を懸けて生きている本然の被造世界のその美しさを、褒めたたえることができなければなりません。そのようになれば、その家の垣根に鳥も飛んできて暮らそうともするのです。雛を産もうとするのです。何の話か分かりますか。

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 博物館にある、何かの作品がどんなに貴重だと言っても、生きている作品にかないますか。神の作品であるこの地球星の万物博物館を、誰が神以上に愛したのかというのです。自分のの博物館以上に愛したのかというのです。道端で踏まれるたんぽぽ一株が博物館にある新羅時代の金環と比べられますか。神が直接造られたものであるのに。そのような神の心情をもって「お前を、本然の神が慈しむことができる王の位置で、愛を受けたその位置で、愛することができない私自身が申しない。恥ずかしい」と言うことができる心をもって慈しむ、そのような王がいるとする場合、その草もその王にっていき、永遠不、共にいたがるというのです。そのように生きなければならない人間なのです。

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 自然を愛し、人を愛するすべを知らなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神を愛することができないということを知らなければなりません。万物は神の象的な存在であり、人間は体的存在であるために、万物と人間を愛するすべを知っている人は、神を愛するようになるのです。

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 いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。また、人間を愛さなければなりません。人間の中でも、五色人種をすべて愛さなければなりません。「ああ、私は白人たちだけが好きだ」と、神がそのように言いますか。そうであれば全部白い服のみ着なければなりません。白人たちはみな白い服のみ着なければなりません。色の付いた服はすべて捨てなければならないのです。い服をどうして着ますか。色の付いた服をどうして着ますか。矛盾しているのです。

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 神が造られたすべての存在を愛の象として感じなければなりません。すべて、虫けらまで愛し、人は言うまでもなく、すべての天にあるものまで、無形のもの、有形のものを愛することができ、愛を受けることができる皆さんにならなければなりません。朝、鳥がちゅんちゅんちゅんと鳴くときは、「やい、このすずめ、私が朝しようとするのに何でちゅんちゅん鳴くのか」と言わないで、「ああ、お前、有り難い、ああ、私を起こしにたのだろ、大切なお客が私にいにるのをお前がえてくれるのか」と、このように考えなければなりません。思想が違うのです。これが偉大なのです。


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