三 地上生活の


 1.地上は愛のめる所


 地上生活が絶に重要です。地上がどれほど重要かということを知らなければなりません。キリスト徒たちは「死んで天に行く」と考えますが、妄想的です。地上で完成しなければならないのです。地上生活の重要さを知らなければなりません。地上生活の重要さに醒しようというのです。地上生活の重要さを忘れるなというのです。いつでも、千年万年界に行ってその生活に反映されるのです。これはすべて種です、種。ここで種を蒔いたことが天上世界でめるために、完全な種をうまく蒔かなければならないということです。「地上世界の重要さに醒しよう!」。もう一度醒しなければなりません。

             *

 地上人は体をもっていますが、すべてのことが限定された生活です。人たちには体がありませんが、無限の世界で活動します。また地上人は体をもっていますが、永遠に定まる所をもてません。人たちに体はありませんが、永遠な所に落ち着いています。このように地上人と人との比点を羅列すれば、無限に多いのです。

 ここで地上人と人との一致点を調べてみましょう。地上生活や人たちの生活はみな半分ずつもっているだけなので、半分ずつしか成し遂げることができません。それでは、体と人の結は各どのようにしたら完全なを結ぶことができるのでしょうか。地上生活で肉体と魂が分離する前に、地上での生をよく締めくくってこそ完全なを結ぶようになります。ところが、魂がよく成熟できずに界にるようになれば、問題が生じるのです。

             *

 種の結は、すべての期間、時間や時空をすべて超越させ、縮させなければなりません。そこには種も存在し、根も存在し、枝も存在し、も存在し、すべて存在するというのです。花もあってもあるというのです。それで、そのようにして出できる私たちにならなければならないのです。それでこそ、愛を中心として神も私のものだということができるのです。そこには異議がないというのです。

             *

 生涯の目的とは何ですか。愛のを結ぶことです。その愛のが天の倉庫に入っていくとき、神が「私は嫌だ! ぷう」としなければならないですか。どこに行っても「ああ、私をこの宇宙のどこに置いても良い!」と言うことができるのが愛のです。それを天の秘密の倉庫に置いておいても、自分を中心として、すべての中心として立っていることができる愛の結だと考える時、どれほど貴いかというのです。愛によって蒔いたので、愛によって刈り入れなければならないでしょう。

             *

 なぜ私が貴いのでしょうか。愛の統を受けいだからです。この宇宙のすべての理想的力の核の統を受けぐことができる立場に立ったがゆえに、愛が貴いのであり、私が貴いのです。その愛によって私が生まれ連結されのであり、またそれによって大的な愛のを結ぶことができるために貴いのです。それで、父母をなぜ尊敬しなければならず、父母をなぜあがめなければならないかが分かりますか。根を深くしなければならないのです。分かりますか。

             *

 神の愛を中心とした男性、女性の心と体が、垂直線と均衡的九度を備えなければなりません。そのような正常な男性、女性が現れて、神の愛を根っことした一つの生命体として東と西が互いに極となり、一度にぱっと火がついて、宇宙の本性に雷が落ちて妻が炸裂すれば、そこには男性、女性、神を問わず、全体が一くたにくっつくようになるというのです。

 それを誰が離すのですか。男性が離すことができますか。女性が離すことができますか。神もそこからけ出てくることができないのです。そうしておいて、人類の本性の基準である愛というものを中心として、男性、女性の心の根になって、その愛の花がき、も愛によって結ばれ、循環法度を通した球形理想を通して螺旋形に展し、世界へ前進するはずでした! アメン! この話がどういう話か、みな究してみなさい。

             *

 皆さん、生命を何によって授しますか。生命体ですか、血ですか。血統という言葉はありますが、生命統という言葉はないのです。愛統もありません。血統という言葉だけあるのです。血を合わせることによって生命が出てくるのです。男性、女性の血を一つにすることによって生命が一つになり、それが投入されて愛の体であるを結ばせるのです。それで、どのようになりますか。母の血と母の生命と、父の血と父の生命がこの愛を通してを結んだのが「私」です。ここのこの人の中に父母の血が入っていますか、入っていませんか。父母の生命が入っているのです。父と母の愛が入っているのです。それゆえ「私」というものは、父母なしに主張することができないのです。

             *

 「私」は愛の結ですが、その結には千年の史を通じた中心の根、幹、枝、花、全体の芽を一つにしたすべてのものが入っています。ですから、その結をもっていくようになれば史を運搬するのと同じです。また、それを植えれば、その史がどこでも承されるのです。何によってそのようになりますか。愛を通してです。男性、女性の愛を通して、主体、象の愛を通して、これが連結されるのです。それゆえに愛を侵犯する者は、宇宙秩序を破する最も放な者であるゆえに、地獄へ行くのです。

             *

 父子係の愛は、母の中に息子にするが熟すようになり、また息子の心に母にする愛が熟し、熟した二つの愛が現れれば、神がこれを摘み取りたく思うのです。愛の主人は神であるので、母の中で子女を愛するその、子女の中で母を愛する円熟したそのを結ばせるのです。完成した結を摘み取って神が食べるでしょうか、愛の完成のためにそれを摘み取ろうとするでしょうか。創造主もアダムとエバを造っておいて、自分の中に父母として子女にするを「私」がもつと同時に、子女が父母にするもつことによって、二つとも完成させることができるのです。それゆえに、神は二つとも摘み取ってもつことができるという言葉が成立します。

             *

 私たちは、神の愛によって生まれ、その愛によって生きながら、息子、娘を生んで愛の目的地に到達し、永遠に神と共に生きるために神のもとにるのです。すなわち私たちの一生というものは、愛によって始まり、愛によって成熟して、愛のとして摘み取られるのです。人が死ぬというのは愛のを摘み取るということです。私たちが父母の愛を受け、夫婦の愛を分かち合い、子女を愛したがゆえに、神の愛が的な愛の世界に蒔かれたすべてのものを、私が一生をかけてを結び、摘み取ってあの世に行くのです。

 ですから、私たちが完全に愛で一つになれば神に似るようになります。夫婦が一つになって、このような三段階の愛を完全に成し、界に行くようになれば、永遠の主体である神の前に、永遠に相的な神になるのです。の愛を中心として夫婦が死ねば、そのようになるのです。ですから、神によって始まり、神によって締めくくるのです。

             *

 愛のを摘み取って倉庫に送っていたならば、天が成され、天の家庭と天と天の民になっていたはずですが、これが中間で腐って落ちて、すべて腐るようになったので、地獄の家庭になり、地獄の民になってしまったのです。そのようになったことを「落」と言います。落ちたというのです。私たちが落し、地獄に生きているというこの二つのことは、嫌でも認めなければなりません。愛のを結んで天の倉庫、天に行かなければならないのに、落したがゆえに地獄の倉庫で腐っているというのです。

             *

 子女、兄弟、夫婦、父母がすべて一点に行ってが結ばれるのです。の愛を中心として定着が始まるのです。子女の心情、兄弟の心情、夫婦の心情、父母の心情がの愛を中心として連結されるのです。それが焦点なのです。神と愛で一つになることによって肉が完成したので、ここで父母が出てきて息子、娘を生むのです。神が創造時に感じたことを再び感じるようにするために、私たちに贈り物としてくれたのが息子、娘です。

             *

 界というのは、の愛のを保管する倉庫です。今まで、の愛のが出てきませんでした。の愛の言葉とその結を今初めて話すので、それが界にあるはずがないというのです。ですから、「私」という存在はどれほど素晴らしい存在でしょうか。

             *

 家庭の隅に手を付けるのは男性ではなく女性です。男性は中心に立っているために何もりませんが、女性はすべてるのです。それはどういうことですか。地を愛し、宇宙を愛するということです。ずっと手をかければかけるほど愛がしみみ、宇宙の津液(注:体からしみ出る液)、核が集中するというのです。そうして、夫が絶に愛してあげることで、女性に力を補充してあげるのです。このようになった家庭こそが、神の天の倉庫に入っていくことができるのです。天の倉庫とは何ですか。神が、よくできたを入れておく倉庫が正に天です。

             *

 愛も同じです。春夏秋冬があってこそ均衡が取れるようになるのです。暑いのが長くなれば寒いのも長くなります。それゆえに愛を中心として夫婦生活をするにおいて、秋もあって、夏もあって、春もあって、それから何ですか。冬もなければならないのです。それをすべて消化できてこそ、天上世界に行って顔を上げることができるのです。

             *

 お父さんがおじいさんを「お父さん」と呼ぶのは恥ずかしくなく、そのお父さんが息子、娘に「おい、何のなにがしや」と言うときに恥ずかしくなく、その息子がお父さん、おじいさんを呼ぶのは恥ずかしくないというようにならなければなりません。何を中心としてそうならなければなりませんか。お金をもうけることができなくて、おじいさんのお世話になったお父さんだからといって、責任を果たせなかったということではないのです。お金をもうけることができないからといって、知識がないからといって叱責できないのです。

 なぜですか。血族とは、愛とは、生命とは、知識を通して、お金を通して、力を通して授するものではないからです。何を通じてですか。「愛を通して!」。その愛を通してを結ぶのです。その愛を通して生命のを結び、その愛を通して血統が連結されるのです。お金ではないのです。

             *

 神はなぜ天地創造をしたのでしょうか。神と人間と被造世界との係を何を中心として結ぶかという問題を見てみるときに、それは知識でもなく、力でもなく、お金でもないのです。それは愛の因を結ぶためだというのです。それゆえに、皆さんが生まれたのは、愛のために生まれたというのです。愛のために生まれて、愛を中心として暮らして、愛の結の世界、愛のの世界へ行くのです。愛のの世界とは、どのような所ですか。そこが界なのです。その行く所が、愛の結穫する所が界なのです。界は、真実に生きた愛の容を中心として評を受ける世界です。それでは、その評する主人が誰かというと、神というお方です。

             *

 愛の種になりなさいというのです。結論がそれです。愛の、の愛の種になる時は、宗を通じて史時代の統一を越えるのです。分かりますか。種には根がありますか、ありませんか。幹がありますか、ありませんか。枝がありますか、ありませんか。花がありますか、ありませんか。香りがありますか、ありませんか。蜜がありますか、ありませんか。がありますか、ありませんか。生命がありますか、ありませんか。すべてあるのです。

 それで、皆さん、種になりましたか。今見てください。的に見るならば、古代は熱地方で、中世は温帯文明です。一時はシベリアの北風が……。これが、春夏秋冬を中心として一周回るその期間が六十年ないし七十年です。この期間に世界を飛び回るのです。

             *

 人間がどれほど素晴らしいかというと、愛のオケストラを奏でている、愛がすべての脈拍を中心として宇宙をすべて生かしていくことのできる動物世界、植物世界を食べるということは、愛の結を食べて生きるということです。を食べて生きるということなのです。食堂で食事をするとき、パンが一つっていても「これが、世界的に多くの手をてここまでるために、旅行手段がどれほど多く、どれほど多くの苦痛に勝ってきたのだろうか。すべての人の努力の結、愛の結としてつくられたものをもってきて私に進上されたので、愛の主人である私がトナのように思いながら食べてあげなければならない」と考えなければならないのです。

 ところが、それを嫌がる人には病がついてくるようになっています。好む人には病が退くようになっています。どうですか。「愛にちた世界のを取って食べた神仙が人間たちだった!」。どうですか。愛のとして消化して食べて生きるという念を中心として愛し、愛する神の本質的愛の父母の容と一致した立場で食べて、感謝する人は病にもならないという、これは理論的な結論です。



 2.地上は天の民の生産地


 天の民を生産できる生産工場が地球星です。界で人が生まれるのではありません。地球星です。では、神の人を生産できる工場のように造ったのが私たち人間が暮らす地球星ですが、なぜアダムとエバを分けて置いて落するようにして、この姿、この有になったのかというのです。神的位置では繁殖の場がありません。

             *

 神はなぜ人間を創造したのでしょうか。的基盤、面積が必要だったからです。面積と球形には無の細胞が分かれて出てくることができるために、その面積が必要なので、人間世界にアダムとエバの体を通じて天の民を製造していくのです。その民族製造工場が私たちの夫婦生活です。そのようなことも知らずに大口をたたく、そのようなでたらめな者がどこにいますか。とんでもないあきめくらになり、大口をたたいているのです。界に行けばそのような世界がすぐに展開するのです。文裁がえてあげた話が、事として展開するのです。

             *

 なぜアダムとエバを体として創造したのでしょうか。界というものは垂直の世界です。垂直とは面積がありません。界に行ってからは繁殖がありません。天というものは大無な所です。その天をつくっておいて天の民を出産させるための基地がアダムとエバの家庭、後孫の家庭です。なぜ体を着たアダムとエバが必要だったのでしょうか。神の直系の息子、娘は、垂直には一点しかないために面積はありません。生産できる基地がないのです。しかし、垂直を中心として、東西を中心として、前後を中心として分けて、球形になれば無限の宇宙になるのです。無限のスペスが生まれます。

 アダムとエバは、神がアダムの後孫の家庭を中心として天たすための民を創造する工場として造ったのです。アダムは本工場で、皆さんの家庭が天の民族をつくる分工場だというのです。分工場でも本工場でも生産品は同じなのです。値は同じです。

             *

 界は膨大な天です。故の地であり、本宮です。私たちが生きる本宮です。膨大な世界をつくりましたが、そこは神の息子、娘を生む所ではないのです。垂直を中心として前後左右となり、球形をつくるようになれば無限な空間が生まれるのです。宇宙のような空間が生じるというのです。この空間が多いために莫大な民を生産し天に移動していくのですが、この天の民を生産するその分工場が何かというと、皆さんの家庭だというのです。

             *

 界では生産をしません。地上は天の民の生産地です。なぜかというと、神は垂直の位置では繁殖ができません。それゆえに神は面積が必要なのです。アダムとエバを体としてつくっておいたのは、神のの民を繁殖するためなのです。天の息子、娘でしょう。傍系的な次子になる三番目の息子と四番目の息子がすべてうようになれば、彼らが天の民になり、直系の主流は地上世界の王、天上世界の王を受けぐのです。

             *

 この宇宙は愛の博物館です。その博物館で王にならなければならない存在が人間です。物世界も、植物世界もすべて愛の因を中心として繁殖しています。愛がなければ史が停止してしまいます。繁殖があるために史がくのです。それゆえに男性、女性が結婚して息子、娘を生まなければ、界に行って自分の位置を見いだすことができません。

 赤ん坊が生まれれば、その赤ん坊が神のもとに行くとき、贈り物になるのです。そのような贈り物がなければ、自らの体面を立てることができないのです。皆さんが故るとき、父母の前に行って何を誇るでしょうか。そのときに息子、娘をよく育てて誇るように、界に行くときも同じです。神の前に行くときにも神の子女、天の民を地上で育てて連れていく、それ以上の贈り物はありません。お金と力と知識が重要なのではありません。

             *

 地上は何かというと天の王孫を、天民を生産する生産地です。それゆえに天は無限な世界です。したがって、地上で息子、娘をたくさん生んで愛することができる訓練をし、東西南北、前後左右、上下でもって、ありとあらゆる人を愛によって消化し、一つにすることのできる体をした人は、あの界に行って活動できる範くなるのです。

             *

 天に行くようになれば生産地がありません。神が人を何のために造ったのですか。垂直には繁殖がありません。垂直の位置には一点しかないのです。神が一点、垂直の位置で愛を行うから、そこでは繁殖することができません。界では繁殖ができません。それゆえに的な三六度が必要です。

 的世界には東西南北に繁殖できる場がいくらでもあるのです。それゆえに女性と男性が界に行くようになれば、一つの体になって神に似ていくのです。のちには神化するのです。神に似なければならないのです。神は二性性相だといったでしょう。二性性相は何から出したかといえば、愛から出しました。愛の結によって、本然の神に似てってくるのです。ですから、神りでは孤なのです。

             *

 界では赤ん坊を生みますか、生みませんか。なぜ生みませんか。界は的な世界です。神を中心として円形を成した世界です。それゆえに赤ん坊を生む必要がないのです。的な基盤が必要なので、人間を、体を造ったのです。ところが、産制限をなぜするのですか。それは天命によるのです。「なる血統をこれ以上繁殖させるな」と言うのです。考えてみてください。このごろは子供が誰の子か分からない人が多いでしょう。日、週、他の男性たちにうのです。そんな汚いことを考えると、言葉でみな話すことができないのです。そのような人に息子や娘がいると考えてみてください。それゆえに、みな産制限をするのです。

             *

 地上はどのような所ですか。界では繁殖がありません。行ってみてください。ないのです。息子、娘をもたずに行くようになれば、あの世に行っても息子、娘がいません。地上でこしらえて界に行ってこそ、神の心情を中心として創造した理想を身代わりした心情に同して、愛の刺激を感じて暮らすことができるのです。ですから、息子、娘をもつことができずに逝っては駄目です。また、相を愛さずに逝っては駄目です。結婚は絶的です。息子、娘を絶的に出産することが原則になっています。

             *

 界という所は、どういう所でしょうか。界では出産をすることができません。界のの民を生産する所は、地上です。なぜそうなのでしょうか。神的にいらっしゃる方です。を集めるのは一点しかないのです。面積がありません。この値が出てこようとするためにはを連結しなければならないのです。が必要とするのはだというのです。が必要とするのはです。これも「ため」にあるのです。はなぜありますか。のためにあるのです。本、創造理想がそうです。が生まれたのは的相のためです。このような論理の定着をもたらしてこそ、理論的体制において矛盾が起きないというのです。

             *

 界に行けば出産できません。出産は的な基盤を中心としてなされるのです。ですから多くの的な基盤を大させて、多くの氏族を中心として多くの民族、多くの家を通じて膨大なその世界をたそうとするのですが、界は無限な世界です。一人、二人をもってしては駄目だというのです。ですから、世界的な的家庭基盤を大させて生産したその人を地上で完成させなければなりません。神が願われる完成した個人、完成した家庭、完成した氏族、完成した家、完成した世界編成をなして生きてきた人が、全世界で神の血族として生きてきた人が地上で生涯を終えて還故する所が天です。神から始まったので、神の傍らへるのです。そこが界です。



 3.あの世の所有を地上で決定


 神が創造した目的とは何ですか。地上に生きている神の息子、娘をすことが神の目的です。ですから、「私」が界で神の前に行っても、地上に生きた神の息子、娘をす立場になるときは、「私」も神と同じ立場に立つようになるというのです。それが聖書のみ言にある「生めよ、ふえよ、地にちよ」という意味ではないかというのです。皆さんは何をそうとしますか。皆さん、妻とおもしろく生きて息子、娘を生むこと以外にるものがありません。

             *

 これまで、皆さんは統一教会に入って何をしましたか。それは深刻な問題でしょう。五十を越えるまで何年間統一教会で仕事をしましたか。その時から何人道しましたか。一年に何人しましたか。それは深刻な問題です。今後界に行って、そこでの個人所有は何かというと、天の民をどれほど連れて入っていったかということです。それが自分の財産、永遠な財産です。これからはそれを問いたださなければなりません。そのような時がました。今からは一日に何百万と道できる時がるのです。統一教会にそのようなすごい容があるのです。世の中を見てください。今死ぬとか生きるとか、人生が何だとか、空しく放浪し落ち着く所がなくて、狂ったようにき回って途中で自殺する人がどれほど多いでしょうか。

             *

 界に行けばそうです。愛のが大きければ大きいほど、そのに入っていこうと列をなしているのです。そういう人は、あの世で尊敬を受ける人だというのです。千人万人にまれて「ああ! 私はあの人と一に生きたい」というを聞くようになれば、その人はそれだけ領土が大きい金持ちになるのです。ですから、ある家の門前を過ぎながら立ち寄らないというのはいけないのです。「立ち寄らなければいけない」と、「そのまま過ぎることができない」と言うほど愛の心をたくさん植えつけた人があの世の人格基準となり、愛を中心として係しているその舞台があの世の所有になるのです。

             *

 あの世の金持ちは特別なものではありません。それだけ愛のために投入した人が金持ちです。皆さんが福をえてあげられる群れが、ソウルだけでも一千二百万も待っているのに、なぜ交流できないのですか。行って、「福を祈ってあげよう」と言って訪ねなければならないのです。犬がほえれば、「お前たちは福を受けることを知らない犬だ。お前たちの家にあるすべての福のふろしき包みは私が抱えてき回る。私は磁石だ。福をすべて引っ張ってくっつけることができる完全なプラスだ。マイナス要素はすべて切ってしまって、サタンのプラス要素だけすべてしていくが、そのプラス要素はサタンだけなので、地獄しか占有することができない」と、このように見るのです。福を集めに回るのです。

             *

 界に行って十二珠門をていくためには、地上でどれだけ天の民をサタンから再び復してってくるかということが問題です。そのためにはと血と汗を流さなければなりません。再創造のの愛の心情を中心としてサタンの父母以上、サタンの夫、妻、息子、娘以上の心情を投入してとともに、血と汗とともに交差するその過程をたどることなくして、天の自分の民を所有できません。このの比例によってあの世の光の位置に、神の前に近づくすべての件の成立が識別されるということを知らなければなりません。

             *

 今後、界に何をもって行くのかといえば、お金をもって行くのではありません。統一教会の名前をもって行くのでもありません。「地長をした」と言っても通じないというのです。ですから、今後皆さんがしなければならないことは、神が愛することができる息子、娘をどれだけたくさんつくって行くかということです。人が赤ん坊を生もうとしても、何人しか生むことができないのです。しかし、それは誰でもすることができるのです。今復過程でていくべきこととは何かというと、皆さんがサタン世界において神が愛することのできる多くの息子、娘をつくるようになるとき、その功は先祖と連結され、また先祖を解放させることのできる道が生まれるのです。これが、復路程において自分が受ける最大の贈り物です。何の話か分かりますか。贈り物なのです。

             *

 御飯を食べて生き、息子、娘に食べさせて育てたことは、あの世に行って大したことにはなりません。それゆえに天の民を復しなければならないのです。それが天では自分の所有になるのです。ですから、私たちが早く五十億人類を、この世を消化しなければなりません。早く消化すれば、界のすべてのたちも再臨復活していくようになっています。今、長子がサタンの基盤になっているのが逆さまになり、アダムが長子になれば、天使長はアダムの話を聞いてついてくるようになっているのです。そうではないですか。絶する立場に至れば、神の愛とともにアダムの愛の圏内にあるために、自然に天についていくのです。原理がそうなのです。

             *

 私が教会に入ってから何年になったということを自慢するなというのです。何人を教区長にし、何人を祝福させ、何人を先生の一族と血縁関係を結ぶようにしたかが問題です。これは深刻な問題です。ここに先生の姻戚である朴普、郭錠煥、劉正玉がいますが、かといってこの人たちがそれですべて終わるのではありません。その背後に何千倍になり得る氏族メシヤを早く張して、今後の史時代において恥ずかしくない天の民を立てなければならないのです。

             *

 月をただ何となく送るなというのです。春時代に息子、娘を生んで育ててこそ、後代に誇り得る基盤をせるのと同じです。また、その子女たちが立派な人になってこそ史に誇ることができるのです。そのような史にして誇ることができる績がなければ、自分の一家や町ではグルプに入れますが、には仲間入りできないのです。

 に仲間入りするためには史の統にり得る績がなければなりません。それゆえに、どこの誰でもみなに何かをすことを願い、世界に何かをすことを願い、天地に何かをすことを願うのです。同じ道理です。ですから、自己の所有版をどのように確定するかという問題が終生の目的だ、という念をはっきりもたなければなりません。それゆえにみ旨の道で、「自分が嫌ならやめる」という考えはもつことができません。

             *

 神がしていることとは何ですか。世の中を救う仕事です。あの世に行ってみれば、界に行ったすべての次元の高い人の仕事は、地上での仕事です。地上とは、どのような所ですか。天民を生産する生産工場です。大無な天です。無限大です。あまりにもいのです。人億年の間にては逝きましたが、どこにいるか分からないのです。そのようにいのです。

 一家庭で子女を百名ずつ生んでも、天いので過生産ということがありません。あの世はいくらでも受け入れることができる世界です。ですから、産制限をしなければなりませんか、してはなりませんか。あの世に行けば、天の民をどれだけつくって率いてくるかということが問題になります。の天の息子、娘をたくさん率いてくるとき、それが自らの益になって天上世界で表彰を受けることができる等級の等差を設定できる資料になるということを知らなければなりません。

             *

 御飯を食べることよりもっと重要なことは、天の民を刈り入れることです。それが私たちにはうまくできなくなっているのです。考えてみてください。それが本職です。この地上に暮らす私たちの本業なのです。生涯にしなければならないことの中で、それ以上貴いことはないのです。この世で就職し、出世したりお金を集めたものは、すべて流れていくのです。あの世では、お金を集めても何の果もないのです。あの世では物質が必要ないのです。知識が必要ないのです。ばなくても心が先に知っているのです。一週間以に何でも、すべて通じるのです。


             *

 皆さんが今後あの世に行き、復帰歴史をされる神の前に、一人のアダムを取りすために今まで苦した神の前に行って何と言いますか。創世以後、今までアダム完成者を探してきたのではないですか。そして、皆さんは「原理」を知りました。これは万の民族を救うことのできる武器です。今まで神が人間にえることができなかったため、分からない中で理なさる神の切なさ、それを身代わりして地上で神以上のことを私たちがするのです。私たちには「原理」で千のアダムを化させて連れていくことができる道があるのです。考えてみてください、これ以上にすべきことがどこにありますか。

             *

 皆さんは天に連れていくことができる息子、娘を何人つくりましたか。皆さんがしなければならないことは、それしかないのです。いくら億千万金をもって良い生活をしてみても、すべて流れていくのです。そこには自らのすべての物質と知識と自分の生命まで、落した私の生命まで投入してもやらなければならないのです。それを別に投入しなければならないのです。投入する全体が加重するにって、その値は比例していくのです。

             *

 天は無限な世界ですが、そこでは愛の心情で連結され得る橋がなければならないのです。ですから、自分が道した人がこの世にたくさんがっているならば、界に行くと、それだけく往できる道が生じるのです。すべてが自分と係を結んで因を結ぼうとするのです。それは地上において思想を武装し連結させたのと同じような体制が、自分を中心として連結されるというのです。

             *

 息子、娘をたくさん育てた人は、愛の的な核が大きいのです。天に行く時は、これが行くのです。他のものではありません。お金や名や良い暮らしをしているという、それが福ではないのです。息子、娘を育てるにおいて、春夏秋冬四方を中心として自分の世界になれば、地がそこに合わせて平面的な地になるのです。東西南北に私が思いのままにえることができる立場になれば自分が足するようになりますが、そのようにできない時は、いつでも一方的にしかなりません。

             *

 この地上が天の民の無限な生産地であるというのです。これをどこの誰も知りませんでした。本の夫婦は、息子、娘を天民族として生み、完成した人間として育てていくことが、この地上で生きていく生涯路程だというのです。

             *

 多くの息子、娘をもった父母は、多くの愛の相を迎えたので、天に行っても四方八方誰でも思いのままにえます。息子、娘をたくさん生んだ女性の中で、い女性はいません。なぜでしょうか。自らの息子、娘をかわいがる母の心をもって、自らの息子、娘と比較していつでも考えるようになるのです。ですから、生活圏内で自動的に愛の境地に高く上がっていくことができる立場に立つのです。ですから多くの息子、娘を育てた人は、界の最も高い所にいます。

             *

 皆さんは氏族的メシヤとして、天の民をたくさん繁殖してから逝かなければならないのです。それが自分の生涯において最も貴重であり、人生の希望です。それが自らの非常に貴重な所有です。今までそのような人が界にいなかったというのです。それゆえに、呼びさえすれば皆さんの周に多くの友人たちが現れることができるように、百名以上、千名でも連れてこなければならないのです。

             *

 皆さんは地上で、子女を立派に育ててしていかなければならないのです。将来その子女たちすべてが界に行くのです。界に行って天民になるのです。自分が何人を天民として捧げたのかというとき、地上では苦しいことでしたが、永遠の世界ではそれが高貴な光の道になるのです。



 4.肉身をつけた地上生活が日ごとに記される


 皆さんは人体と肉体が水晶のようにく生きてこそ、のちに界に行って問題がないというのです。そこにいかなる汚点があっても天に入れません。地上での生活がこのように重要だというのです。生きたそのままが界に行くのです。ここには誰も例外がありません。自分自身が透明に、すべて表れて見えるのです。分かりましたか。

             *

 あの世に行けば、金なにがしならば金なにがしだと、ぽん、ぽん、ぽんとボタンを押せば、あっという間に生きてきた史が出てくるのです。その世界は時間と空間を超越するために、これを捕らえるのは直感のように速いのです。どうにも避ける道理がないというのです。それゆえに良心とは何かというと、永遠の世界に行くための地上生活の記帳です。コンピュと同じように一つ二つ、すべて入力されるというのです。間違いなく入力されるのです。

             *

 人の行動一つ、表情一つ、すべてのものがビデオプに撮られるように映っているのに、界に行ってすことができますか。自分の心をせないのと同じようにせないのです。心よりも表面的な世界が、表れた世界が界です。弁解が必要ありません。弁解をすることができません。口を開けば開くほど宇宙の恥が迫るのです。それゆえにその世界へ前進できません。後退だけがあります。怖い時代が尋ねてくるのです。

             *

 良心を知っていますか、知りませんか。良心が知っている良心世界の本宮が界であるので、界のコンピュに入力されるのです。「なにがし」と言えば、ぱたぱたっとして何代前からずっと出てくるのです。こいつの父母が何をしたかということ、良いのかいのかすべて出てきます。自分が一生の間何をしたかということが、あっという間に出てくるのです。何年もかかるのではありません。瞬時に分かります。それだけ大された人間世界に入るのです。

             *

 界に行けば自らの記が一〇〇セント、コンピュに入っています。すべて現れるのです。良心は永遠の世界に展示するコンピュのディスクのようなものです。すべて入っているのです。ボタンを押せば、子供が母に抱かれてお乳をむ時から一生の間ずっと何をしてきたのか、すべて心の映像によって知ることができるようになっているのです。そのような世界が、皆さんの完全な感情のために日ごとに記しているのです。その日がいつるのかといえば、死ぬ時です。万能になった感情コンピュの前に立てば、誰もうそをつくことができません。界の映像が、影のような世界で現れるのです。すべてが記されているのです。

             *

 良心は、一生の間において自分がしたことを知らないことはありません。自己のすべてのことをみな知っています。このことが、そのまま天のコンピュに入るのです。間違いなく入るのです。界に行ってみてください。

             *

 優れているという人は、浮をし、ありとあらゆるばかげたことをするでしょう。天に行けないのです。私が界に入ってひっくり返してみて、このような事を知るようになって、「ああ! 知らなければよかったのに」と思う時が、どれほどあると思いますか。行ってみると幾重にも重なった山また山です。サタンによって失ってしまった愛のために、永遠に包された監獄生活をしているというのです。

             *

 皆さんの心、落した心もそうでしょう。自分が一生の間どのような者だったか、よく知っていますか、知りませんか。だますことはできません、みな知っているのです。良く振る舞っていても、界に行けば一〇〇セント表れるのです。いのが先に表れます。いことを先に算し界に入っていくのです。そうでなくては界に入っていくことができません。

 目をつぶっているとしても、いのが表れて処断を願うようになるのです。それで、それがなくなる時まで育を受けなければなりません。修練を受けなければなりません。猛訓練を受けなければなりません。界では今そのような育体制をつくるために、興進君を中心として全体的に修練しているのです。

             *

 良心は欺くことができません。皆さんは、すべてビデオプと同じように記されます。一生の間生きて、界に行くようになると、そこに自分の番があります。心霊状態の光をに知って、「誰それがた」と言って連れてきます。連れてくれば「どのナンバか」と言って、十八番ならば十八番をぐっと押せば、あっという間に分かります。生まれてからが、あっという間に分かるのです。やむを得ません。良心が痛哭するのです。その比例によって地獄と天の境界線を行きする、このようなことが連結されたということを皆さんは知らないのです。その世界が、そのままむやみに大ざっぱな計算で動いているのではありません。理的な世界です。理論的に動くのです。科者の王が神だというのです。天は自分勝手にはなっていないのです。

             *

 習慣性は永遠にそのままです。そのように難しいものなのです。しかし、地上では直すことができます。今まで習慣になったことよりも、もっと新しいことを習慣化させれば地上では算できます。今しなければなりません。今しなければ界に行って問題になります。界に行って引っ掛かってしまうのです。

             *

 ごうとするとき、へびも通路にしっぽを入れて逆に死ぬほどの力をくして、木をいていって血を流して皮するのです。逆理的な過程をなければ順理的な過程を行くことができないという、落を認める人間には不回避な非原理的公式的路程となっているというのです。それが順理の立場で私の個人の心と体が一つになり、順理の立場で夫婦になり、順理の立場で父母となって生きた人間は逆理的件に引っ掛かりません。界は落した讒訴件に逆に引っ張られ得る、木が逆に引っ張られるのと同じです。根が引っ張られれば順理になるはずですが、枝を引っ張っていけば逆理になって、すべてのものが行けば行くほど傷を受けるのです。もっと難しい路程が……。ぴったりとそのようになったのです。

             *

 そこでは許しがありません。りが通じません。皆さんはビデオプを見るでしょう。笑えば笑ったとおりに、その相を見せてくれるのです。ここではビデオの時間的圏内け出すことはできませんが、そこは超時間的世界です。カチッといえば、千年の生活がすべて現れるのです。さっとつけて見れば、誰かが「行きなさい」とも言わないのですが、自分たちが界でいるべき所を探していくのです。我知らず押されていくのです。押されていけば、もっといい所に行こうと思っても、どんどん押されていくのです。行ってぴたっと三角地にとどまるのです。その時、行って嘆息しますか。私は界を知っているので、このようなことをするのです。界を中心としてこのようになるのです。皆さんは福が多いのです。分かりましたか。

             *

 見てください。界の輪郭がすべて表れるので、死後の世界がどれほど現世と連結されているか、その容を知れば、むやみに生きられないのです。地上の生活が、どれほど怖いかということを知らなければなりません。地上の生活が永遠の自らの生涯を左右するという事、それを知らないので自分勝手に暮らすのです。

             *

 地上生活を本に良くしなければならないのです。精誠をくし、一日に何十回も原理基準を中心として反省しながら、このようにして朝、、夕、二十四時間、天上の法に引っ掛からないように生きなさいと懇切にお願いするのです。

             *

 天の前に行くときに、あらゆることを算して行くときは、良くやったことから報告するのではありません。誤ったことから報告して良くやったことを話さなければなりません。世の中は反でしょう。「君は何をしたか」と言えば、「私はこのようにしました」といことはすべてすのです。しかし、界はそうではありません。界はいことから報告しなければなりません。順序がそうです。何をしたかというとき、さっと現れます、テレビのように。いことから報告するのです。なぜですか。カインが先です。いことが先に現れて、それから良いことは何か、となります。アベルは二番目に現れて、比較して善なるもの、アベル的基準が多くなる時は再育し、そこから界をえてあげるのです。



 5.肉身で犯した罪は地上で蕩減しなければならない


 地上で結ばれたことは地上で解かなければなりません。そのまま界に行っては大なことになるのです。自分自身が刺激を通し、そこからけ出てこなければなりません。そうでなければ、永遠に地獄に落ちるのです。

             *

 私たちは好むと好まざるとにかかわらず、今から死んでも蕩減の峠を越えていくべき運命的な落の後孫だというのです。それを否定できません。この道を越えなければならないのです。それを自分の一生において越えずに界に行くならば、何百万年かかるかもしれないのです。あの界には蕩減がありません。そこは解放された完成なので、愛の波で充した所です。蕩減や再創造はありません。再生産もありません。そのような刺激がないために、一度固着すればそれで終わりです。大なことだというのです。それで、神はそのようなことを知っていらっしゃるので、この地上にメシヤを送られたのです。

             *

 へびは皮すればするほど大きくなりますか、小さくなりますか。一日に十回ぐことができれば、十回ぎなさいというのです。界に行っては、そのような刺激がありません。そのような装置がないのです。再び地上に尋ねてきてそれを解怨成就できるようにといくら願っても、それは不可能です。一度行けば、勝手にることができないのです。

             *

 あの世、界には愛の刺激的な要素はありますが、罪を取り去ることのできる蕩減的な要素がないために、多くの月がかかるというのです。そのようなことを知ったので、先生は四十年間にすべて築いて片づけたのです。夜を忘れて過ごしてきました。一日に夕方一食だけ食べ、あるいは朝一食だけ食べる生活が普通だったのです。そのように生きてきました。

             *

 地上で肉身があるときは大ですが、共に抱き合い、痛哭しながら感動させることのできる道がいくらでもあるのです。しかし、界で肉身をもった地上の人間を感動させることはとても難しいのです。

             *

 この地上にいる生活がどれほど重要でしょうか! 一回しかないのです。瞬間ですが一回しかありません。地上生活を永生と比較すれば、これは一点にすぎません。あまりにも短い瞬間です。これは重要ではありません。私の肉身生活を越えて、界のために準備をしなければならないのです。常にそのような主流思想をもってセンタに立って、一切をコントロルし、一切を征服することができなければなりません。そうでなければ、皆さんは完成することができないのです。

             *

 界で最も嫌うことはを中心とした風習、習慣性です。風習によって習慣性になってしまうのです。日本人は日本で生まれましたが、食べ物は何を最も好みますか。汁と御飯なのです。アメリカ人はハンバ、韓人はコチュジャンとキムチ! しかしこのようにだけ考えて生きれば、その習慣性は永遠になくすことができないのです。

 それならその習慣性をどのようになくせばいいのでしょうか。自らの習慣性をなくすことがこのように難しいのに、固着した落性、頑固な習慣性をもって界に行くならば、どれほど難しい立場になるでしょうか。それを、この地上で整備しなければならないのです。界に行くとき、それがどれほど難しいでしょうか。ですから夫が問題ではありません。息子、娘が問題ではありません。夫と妻、息子、娘は、自らの習慣性をみな解決したのちにもたなければならないのです。

             *

 地上で結ばれたそれは、地上で解いて逝かなければなりません。界に行って解こうとしても、そのような刺激的な環境がないのです。反する役が、善に反する世界がありません。それがかった場合にはそれに反するのではなく、い方向に押しやってしまうのです。それに決別させてしまうのです。

             *

 皆さんは界に行き、保護館での生活をしなければなりません。何千年も待たなければならないのです。祝福を受けた人も今後……。息子、娘たちがみな「お母さん、私をなぜこのように生んだのか。なぜここに引っ張ってきたのか」と言わないと思いますか。皆さんの息子、娘たちがじっとしていると思いますか。皆さんの家庭のレベルはみな異なっています。ですから、行くにもすべて自分の級に合う所に行って、長い間とどまるのです。

 そうなれば、皆さんの先祖が、息子、娘たちが、「どうしたのか。なぜそのように良くすることができなかったのか。何だそれは」と言いながら讒訴します。そうなれば、皆さんはそれに該するだけの長い時間、そこにとどまらなければならないのです。そんなに易しくありません。ですから、地上でしなければならないのです。先生が「しなさい」と言うことを、みなしなければなりません。

             *

 皆さん、まだの家庭になっていないでしょう。界に行けばすべて別れます。界は永遠に落せず、天の家庭を成して生きた人が入るようになっているのです。いずれ永遠をおいて皆さんはらなければなりません。地上においては七、八十年以に解決できる問題が起こりますが、界に行けば永遠をおいて、何千万年かかったとしても、その解決の道は難しいのです。皆さんは地上で算しなければなりません。地上で解決しなければならないのです。地上で解けば天で解かれ、地上で結ばれれば天で結ばれる、とあります。地上で失ってしまったので、地上で取りさなければならないのです。

             *

 体をたたいて三年間制裁すれば、三年ないし五年制裁するようになれば、その世界に行くものなのです。そうではないですか。肉的なことを大きくすれば、的なことは小さくなるのです。肉的なことをなくしてしまえば、これが高まるのです。同じです。ですから、外的なものを無視して的なものを重視するようになれば界が近づいて、本然的良心的基準に接ぎ木をすれば電線のプラスマイナスが、電所の電が通じるように爆するというのです。それゆえに天地の化の作用が起こるのです。そのような的体がなければならないということを知らなければなりません。

             *

 聖書の「地で結べば天でも結ばれ、地で解けば天でも解かれる」という論理も、このような二重構造の一体性を知ることによって解明できるという結論が出てくるのです。きょう、私たち人間は肉身をもったこの期間が本に、どれほど貴重なのかを知らなければなりません。神も復活させることができ、宇宙も復活させることができ、全天下を統一させることのできる期間は、肉身をもっているこの期間しかないという結論になるのです。神と万物を合わせても、この肉身世界と取り替えることができないのです。

 なぜそうなのでしょうか。神とこの宇宙を合わせても、肉身をもった人間がいなければ完成できないためです。それゆえ、今日私たち人間の体がどれほど貴重なのかを知らなければなりません。それは素晴らしいでしょう。

             *

 天に行き、地獄へ行く二つの道があるとすれば、天を訪ねてくる人と地獄へ行く人とでは、どちらがより多いでしょうか。地獄へ行く人が、より多いことでしょう。それを見つめる神の心情はどうでしょうか。どれほどあぜんとするでしょうか。地獄とは係なく天て、膨大なこのの民になって、愛を中心として神とともに生きなければならない息子、娘たちが、みな地獄へ行くのを見るとき、どれほどあぜんとするかというのです。皆さんの息子、娘が死の地に行くと考えてみてください。このようなことはいずれ界に行けば、皆さんすべてが知ることです。

             *

 界でみんな尋ねるというのです。「先生のえはこうだったが、この基準にしてあなたは合格者か、不合格者か。的五感と肉的五感が一つになり、この基準に合わせようと努力したか」と聞くのです。皆さんはどのように考えますか。「天はどうあってもいい」と考えて、ただで通過できる所ではありません。祝福を受けても、でたらめに生活した人が集まる所ではありません。深刻な人が集まる所です。皆さんは、先生よりもっと深刻でなければなりません。

             *

 界に行けば、まず誰に一番にえるかというのです。誰にってみたいですか。そのようなことも考えたことがないでしょう。自分の母親におうと思ってもえません。の父母が解放させる前にはえないのです。いくら愛する人だといってもうことができません。少し離れた場所から見ることはできますが、近くではえないのです。

             *

 人間は界に入籍する時、地上生活を証明する証明書をもっていかなければなりません。「私はこのように生きた。このようなことをした」と言うことのできる生涯の証明書のことです。そのような証明書は、自分自身で書くことができないのです。初めはサタンが書きます。先にサタンから証明書をもらってから、イエスの証明書をもらわなければならないのです。それから神の証明書をもらわなければなりません。

             *

 今後、皆さんは自叙伝を書かなければなりません。自叙伝を書きなさい。統一教会に入ってからの生き方を、一つのうそもなく自叙伝を書かなければなりません。そうすれば、界に入っていく時、その自叙伝を前において「私がこのような役事をすることができたのか!」と痛哭をすることができなければなりません。これを地上で書き天に行って、百六十名、二百四十名、三百六十名に該する通人たちが前に立っている列をたどっていく時、うそをつけばそこで雷が起こるのです。欺くことはできないというのです。

             *

 皆さんが行動したすべてが、あの世に行ってスイッチだけ押せば、あっという間に一生がテプにすべて現れるのです。それは悲なことでしょう。ここで先生がすべて許してあげるようになれば、そのテプがすべて消えてしまうのです。そのようなことを知っていますか。



 6.自然の中への順的生き方が貴い


 自然に向かい合う人は、宗的な人です。宗の世界は貸しのない世界です。大地は、自然はうそをつきません。一〇〇セント私が努力すれば、そこにする結果をもたらすのです。そこには投機性がありません。一獲千金がありません。また、そこには賭博性がありません。年が五十になれば自然にり、自然の土とともに生きながら信仰生活をすれば、界に行く準備としてこれ以上良いことはありません。

             *

 先生は将来ここに農場をつくって、世界の食口たちを連れてこようと思います。皆さんが年を取って六十、七十になれば、自然の中で万物を育てながら、子供を育てるのと同じような心情を体恤し、神の創造の心情を体恤するのです。そうしてから界に行けば、高い界に行くことができるのです。ですから統一教会で苦した人は、晩年に農場に連れていって別で自給自足させる計なのです。それが理想です。先生はそのような大きい構想をもっています。

             *

 六十を越えれば下野し、故の農村にって土地を耕し、界に行く準備しなければなりませんが、その準備が忙しいのです。ですから精誠をくして先生のように農村に埋もれながら、農村を指導できる、このような責任を果たさなければなりません。ですから、趣味産業、趣味生活をやり終えて界に行ってこそ、高い界に行くことができ、情的な人になって界の舞台を活用できる皆さんとなるのです。どうですか。

             *

 六十まで仕事をしますが、その後は公的活動時代から解放されます。しかし、三年間は公的に無報酬で仕事をするのです。界に行くためには報酬を願ってはならないのです。界に行くための訓練をするのです。績があれば七年まで延長するかもしれません。それでは、何まで。六十七、六十で終わって七年もできるというです。界に行くことができる基盤を中心にして……。そのようになれば、どこに行っても誇ることができるのです。統一教会の基盤をもって逝けば「ああ功臣られたのですね」と言って、先生の代わりに接待を受けるかもしれないのです。「ため」に生きるその基盤を通して界に行くと考えるとき、そのような年輪が必要だというのです。「アメン」と言わなければならないでしょう。

             *

 陸地旅行、水中旅行、宇宙旅行をしながら暮らしてから界に行ってこそ良いのです。それで、海にも入って暮らせるようにするのです。五人が入っていって、いくらでも暮らすことのできる潜水艦を究しているのです。ですから、地上で定着生活をしながら旅行をするというのです。陸地旅行、水中旅行、宇宙旅行をしながら暮らしてから界に行かなければならないのです。

             *

 鹿みたいなも育ててあげ、魚も育ててあげ、それから穀物も自然に人工を入れて育て、すべて育てるというのです。それがどれほど素晴らしいでしょうか! 神が創造したすべてのものは何であっても再生させ、それを願いながら神を考えて、自然と調和を成し、このすべてのものがお互いに助け合って生き、趣味をもって暮らしてから界に行くのです。このようにすることによって、都市集中の世界をすべて分散できるのです。何の話か分かりましたか。

             *

 神が願う未の家庭システムはどのようなものでしょうか。それで、先生は趣味産業、趣味世界を考えたのです。今後各にどのような組織をつくるべきでしょうか。建築をするのですが、コンドミニアムシステム建築、四つの家庭が一つになって暮らすことのできるそのようなシステムで訓練しなければならないというのです。お金をもうけて、食べるのも一に食べて、息子の育も一にさせて、一つの家族のように暮らさなければなりません。一に暮らせず、和合することができなければ、界に行って制限された環境に押し出されるというのです。一に和合できないのです。

             *

 このおもしろみ、趣味文化というのはどこにもあるのです。創造の時から復の時、完成の時、地上生活、天上世界までおもしろくなっているのです。アメリカ人だけ良い生活をしなさいという法はないのです! アフリカも良い生活をすることを願いますか。「アメリカ人の中で最も良い生活をしている人の家で、アフリカで最も良くない暮らしをしている人を一カ月住まわせてあげなさい」と言えば、どうですか。それをすることができなければ、レバレンドンがします。

             *

 故に定着する時はどのようになりますか。天地のすべてのものが故になり、天地のすべてのものがそこに連結されているので、何ももって行く必要がなく、置いておかなければならないのです。それを置いておいて界に行けば、これを連結させることができるというのです。世界のものをここに移すことができ、また私がそこに行けば自分の家も引っ張ってくることができ、私のものになるというのです。もって行く必要がありますか、ありませんか。

             *

 ボトさえあれば一人で行って瞑想をすることもでき、小さい天幕だけ張っておけば、そこでることもできるのです。天のような光をすることができるのです。人がいない所でです。自然に埋もれてこのような光をするためには船が必要です。絶必要だというのです。そのようになると思いますか、思いませんか。駄目ならそのようにさせるのです。

             *

 界に行けば、ることもなく食べることもせず行動できる世界なのです。考えてみなさい。千里万里をあっという間に行きするというのです。この宇宙をすべて行動半径圏内に消化させることができるというのです。ここの自然において、南米にどのような木があり、どのような鳥がいてという、心事がどれほど多いでしょうか。この前、大蛇で八メトル近いそのがあったのです。や、それを一度捕まえたいです。それ以上の大蛇を捕まえたらいいというのです。

             *

 一生の間の生活の中で、人生の趣味生活が人間の史とともに、人間の理想生活とともに和合し、界と連結されなければならないのです。自然的幸福の世界と連結することができなければならないというのです。

             *

 地上世界でいつも晴れたり雲がかかったり、ありとあらゆる候の化を見るとき、それが芸術的なのです。その環境で愛することを感じれば、あの界の澄んだ世界に行き、自分が雲がかかるようにしてみたければ雲をかけることができ、霧がかかるようにしてみたければ霧をかけることができる、愛によってそのすべての多な感応圏をつくることができる特性をもった、そのような人間になることができるのです。ですから、すべての界が心をもっているのです。「ああ、その人のところに行けばおもしろい」と言うのです。

             *

 私は、山に行って草を見れば、どれが食べられるものか、みな分かります。芽が出てくるときは、すべてのものを食べます。子牛たちや子羊たちは、芽をみなかじって食べるのです。毒草を食べても毒がないのです。その時は毒がないのです。そのようなことをみなんだのです。山に行けば食べるものがどれほど多いでしょうか。また、茂みに入れば昼寝をするのにどれほど良いでしょうか。蒸し暑い夏には腹を出して涼しくごろごろして過ごせれば、どれほど良いでしょうか。雨が降ったとしても、どれほど涼しくていいでしょうか。

 腹を出して藤の下で大の字になってて、おならもぶ鳴らしながら、いびきをかいてる男の姿を過ぎゆく尼なら尼が見て、南無阿彌陀……。それはなぜですか。あまりにも立派なのです。石ではありません。何の話か分かりますか。それを知らない女性は木石です。それは息子、娘も生むこともできず嫁ぐこともできません。しかしそれを見つめて南無阿彌陀する時、胸がどきどきし、おしりが突き出る時は、僧侶たちも一次元上がっていくのです。本なのです。界に行ってみればそうです。愛を知らない僧侶たちは落第です。キリスト徒たちがよく信じて天に行こうといくらしてみても……。私がくまなく、すべてかき回して見ました。金活蘭がどこに行っているか知っていますか。患世界に行っています。




(next section)
(CSG Index)