四 天国に入る秘訣
1.天国は皇族の名誉をもって入る所
度数を合わせることができなければ天国に入れないのです。天国にそのまま行くことはできないのです。公式があるでしょう。メートルの原器はフランスのセーブルの国際度量衡局にありますが、それは気候や温度に対しても変化しません。数多くのメートルの物差しがあったとしても勝手気ままなものです。勝手気ままでは、それが正しいか間違っているかということは話になりません。必ず原器に合わせてみて判断するのです。そのような公式があるということを知らなければなりません。天国に誰でも行くものと思っていますか。
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皆さん、天国に行きたいでしょう。天国に行きたいならば、天国に行くことができる内容をもたなければならないのです。同じことです。天国に入る時、チケットが必要でしょうか。そのまま無事に通行できるでしょうか、何かの条件をもってチェックするでしょうか。無事通行ではありません。すぐに分かるというのです。霊界にコンピューターがあると思いますか、ないと思いますか。人間が造ったものもすごいけれど、霊界のコンピューターはさっと押すだけで一分の間に生涯全体を知ることができるのです。うそをつくことはできません。このような息子、娘として生まれてこのような生活をしたということが、悪いいたずらをして、良くない年輪をたくさん残した女性ならば、それがすっと出てくるのです。
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堕落しなければ、神様の血族をもって神様の直系の息子、娘が天国に入るようになっていました。その家庭が天国に入るようになっていたのに、堕落し、怨讐の血統を受けたのです。愛の怨讐となり、怨讐の血統を受けたその怨讐の子女だということを忘れてしまい、堕落しない直系の子女のように考えることができるその立場をもたなくては、本然の神の国に入ることのできる基準が立たないのです。神様の息子、娘、神様の血族である自分の息子、娘を直接愛した人が天国に入るようになっていますが、サタン世界の怨讐の子女をそれ以上に愛することができる基盤をもつことができなければ、天国に入れません。それゆえに、怨讐の子女を自分の子女よりも愛さなくては、天国に入る基盤がないのです。
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サタン、怨讐の血統を受けた、そのことが問題です。神様の血統を受けて霊界に直通しなければならなかったのです。神様の愛をなした心と体が一つになり、夫婦が一つになり、子女が一つになって天国生活をし、地上天国で暮らして天上天国に入っていくのが創造の原則です。神様の直系の血統として、直系の一〇〇パーセント真の愛の因縁を結んで、統一的個人と、統一的夫婦と、統一的家庭の枠組みを中心として、彼らが地上で生きてから入る所が天国なのです。それが原理原則の基準となっています。
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堕落したのちに地獄が生じたでしょう。それゆえに天上世界と地上世界、すべて真の父母の愛の門を経て入っていくその世界が天国です。アダムとエバが堕落せずに真の父母の愛を通じて天国に入ったならば、万民の家庭のモデルになったはずです。一つの本然的モデルの家庭形態が天国に入るのです。そうすることによって、その伝統的歴史を受け継いだ皇族圏の愛を連結したすべての家庭は、一つの中心的幹の前に東西南北の枝と同じです。それゆえに、同じ圏統合の原則によって天国に入るのです。それでこそ統一世界になるのではないですか。これをはっきり知らなければなりません。
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皆さんの家庭におじいさんがいますか、いませんか。ですから真の父母がおじいさんの位置にいるのです。皆さんの家庭に真の父母がいれば、皆さん祝福家庭は父母の位置以上だというのです。皆さんも真の子女として生まれたでしょう。そして、皆さん、子女をたくさん生んだでしょう。彼らが未来には王族たちになるのです。神様が最初に王家をつくり、完成して霊界まで連れていくのです。そうではありませんか。理想的最高の家庭です。それが天の王族です。本然のアダムとエバが完成するのです。真の愛を中心とした王家だというのです。そののちに完成して行く所が天国なのです。
先生が皆さんの家に行って暮らせれば良いと思います。なぜですか。一生を喜んで父母様に仕えるようになれば、自動的に天国に行くのです。それが伝統です。真の父母は一生をそのように生きたがゆえに、自動的に天国に連結されます。それゆえに皆さんとも連結されるのです。このことがどれほど驚くべきことで、楽しく、価値があって、貴いことですか。誰とも取り替えることができないのです。
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蕩減復帰原則についてもう一つお話ししましょう。蕩減復帰の原則は不変の真理だというのです。エデンでエバが犯した罪を後代のエバの世界において蕩減しなければ、復帰していくことができないのです。これはみんな知っているでしょう。それを復帰することによりサタン世界は消えていくのです。ですから、真の父母を中心として本然的基準のこれが、全世界的に成されるようになる時は堕落しない本然的天国、理想世界が成されるのです。その世界が人類の願うたった一つの方向へと訪ねていく、平和の世界以外にないということをはっきり知らなければなりません。
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真の父母と一つになり伝統の相続を受けて、皆さんの家庭が主体的伝統で万国を統治できる基盤となり、主体性をもつことができる家庭になるとき、天国の皇族圏内に入籍するのです。このようにして入る所が天国です。天国は誰でも入れる所ではないのです。その道を行こうと三代が決心しなければなりません。おばあさん・おじいさんから母・父、夫婦、息子・娘まで段階は四段階で、系列は、夫婦を備えたものは三代です。
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本来堕落しなければ、私たち人類の先祖は神様の息子、娘で、地上天国、天上天国の王子、王女になるはずでした。それは世界的です。根源と同時に一番終わりです。アルファとオメガです。アルファから善の父母が出てくることができず悪なる父母が出てきたので、これをすべて抜き取ってしまわなければなりません。そして、悪なる父母で始まったすべてのことを消化させることのできる真の父母が出てこなければならないのです。
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本来アダムとエバは神様の息子、娘でしょう。神様の息子、娘なので天国の王子であり、この地上の王子なのです。天国の王子であると同時に、大きくなれば地上の王になるのです。王孫です。それゆえに天国の王宮での法度を守り、その道理のすべてを実践して神様の愛を中心として縦横、前後、左右に一つの理想的なモデルになるのです。
東方に行くとしても、西方に行くとしても、南の方に行くとしても、北方に行くとしても、前の方に行くとしても、裏側に行くとしても、どこへ行くとしても理想的モデルになるのです。なぜそうなのかというと、この中心位置に立っているためです。その位置というものは、中心を中心として東方、西方、南方、北方、上下関係どこでもすべて核です。そのような立場を考えてみるとき、どこに行こうが、皆さんが見本にならなければなりません。
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愛の所有を中心とするならば故郷が私の故郷となり、家庭が私の家庭となり得るのです。そこで子女の完成、兄弟の完成、夫婦の完成、父母の完成がなされるのです。神様の教本に提示されたすべての内容をなせなかったことを、今日真の父母を通じて再現し知るようになり、それを再度実行することによって、堕落しない本然的立場で神様が完全に恨の峠を越えて教育に対する定義を下すことができるのです。そのようにすることによって、天国の民として合格者、合格家庭となるのです。霊界はこの地上の愛の大海が連結された世界で、そこが天上天国です。それゆえに、あの世では愛の体恤的心情をもたなければ生き残ることができないのです。
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五十億人類は長子権、直系王権を受け継いだ王家の親族たちです。その皇族圏の心情を体恤した人たちが天国に入るようになっているのです。それゆえに、全世界的に平面化された王族圏を中心として、それを実体化させた世界の統一心情圏を体恤する生活をしなければならないというのです。そこから真の父母も、長子の上の真の父母です。真の父母の王権なのです。このような王権を中心として周辺の王族を率いていかなければなりません。天国はこのような家庭の兄弟はもちろん、父母を中心として、王権を中心として、王族を率いて、王権に仕えて入っていく所です。そのような心情を体恤して入る所が天国です。
天国というものは何ですか。アダムとエバが双子で生まれて、暮らして成長し、結婚して二人が父母になったのと同じように、その心情圏を体恤し、王権をなしてその権限をもって王族を率いる人々が入る所です。そのように王が入ったのちに、王族を連れて入るようになっています。そのようにして平面的に四大王権になるのです。
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今から地上天国時代に入るので、私たちの家庭が王の一家だということなのです。ですから、どれほど模範的にならなければなりませんか。王が勝手気ままに暮らせますか。女王が勝手気ままに暮らせますか。その息子、娘が勝手気ままに暮らせますか。王と王妃、王子、王女たちは、その国の法をすべて守らなければなりません。それだけでなく、王宮の法があります。法の中には王宮の法があるのです。
宮で貴族たちが暮らす法があるでしょう。英国でも韓国でもみな、王孫が生きることがどれほど難しいでしょうか。先生がその道、復帰の道をすべて歩んできたのです。そのようにしてみなければ天国を意識できないのです。皆さんが天国を治める王の位置に上がることはできません。女王に仕えることができないのに、どうして男性の王になれるでしょうか。そうではありませんか。
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今、皆さんは真の愛を中心とした皇族にならなければなりません。皇族、アダムがそのようになれば、アダムが直系の子女ならば傍系の子女であるその兄弟姉妹たちは、すべて民になるのです。それゆえに天国に入るには、天国の王子、王女の愛を備えて、その権威と威信をもって入るのです。そこが本郷の国、天国であることを知るべきです!
2.四大心情圏の愛の実体が天国に行く
天国はどのような人たちが入るのでしょうか。四大心情圏を完成した愛の実体が入るのです。自分より何千倍も優れたことを願う愛の対象者として、天の国と地の国と未来の三王権を身代わりした中心家庭が私の家庭だということを知らなければならないのです。これを失ってしまったがゆえに、復帰された家庭でこのような概念と、このような内容を実践して結実させなければならないのです。それを息子、娘を通して繁殖させなければならない責任があるのです。
このように本然の道を失ってしまったので、これを完成して帰らなければならないのです。「それが復帰の道であり、再創造の道であることを知らなければなりません。アーメン!」。これは文総裁の話ではありません。神様が語られたみ言なのです。
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皆さん、このような話は初めて聞いたでしょう。四大心情圏と三大王権を復帰し、皇族の愛をもっていくべき祖国が天国です。死んでみてください。いくら優秀な人でもここにすべて引っ掛かります。その時になって「文総裁の話を聞いていればよかったものを!」と後悔せず、早く決定して祝福を受けなさい。それが最も早い解決方法です。
それとともに学ぶのです。男性、女性が和合し、天国の失ってしまった家庭を取り戻して、神様を王として侍らなければなりません。ですから、おじいさんは神様の身代わりです。おじいさんを神様の身代わりとして侍らなければなりません。自分の父母は、五十億人類の家庭を中心とした王です。その息子、娘には未来の王のように侍らなければなりません。神様のように、現代家庭を代表した王のように侍る父母の道理を受け継いで、千年万年にその道理を残していく世界が地上天国となるのです、アーメン!
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四大心情圏と三大王権を完成した家庭が理想的な家庭です。それで、おじいさんは神様と同じで、父母は世界の家庭の王で、自分自身は天上と地上の王権を継承する未来の王です。これは天国の王権であり、これは地上でしょう。これを相続する王なのです。このような三大王権が結実しなければならない所が私たちの理想家庭です。
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父母権復帰の目的は王権復帰であり、王権復帰の目的は皇族圏復帰です。それが四大心情圏です。おじいさん、父、自分の夫婦が三大王権を象徴します。おじいさんは過去を象徴し、自分の父母は現在を象徴し、自分たち夫婦は未来を象徴するでしょう。おじいさんは霊界の特権大使として自らの家に送られたお方なので、おじいさんの言葉に絶対服従する家庭は繁盛します。
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私たちの地上生活がそのまま霊界に移るのです。それを知らなければなりません。それでは、霊界に行きどのように横的に連結されるでしょうか。私の家庭で感じたことが宇宙の家庭で感じる、その世界に入るのです。世の中では縦的父母を中心として、もちろん神様圏を中心として縦的父母になっていますが、横的父母を中心として家庭で暮らして、永遠な縦的世界、父母の世界へ行くのです。
その世界が天国であるので、それは一代ではなく、数千代がすべて入ると考えるのです。神様を中心として世の中でおじいさん、父母、自分の息子、娘と暮らしたのを拡大させた世界なので、そこに入って暮らせば、この地上で姉として、妹として、それから妻として、母としての責任、また兄として、弟として、夫として、父として一つの家庭で感じた責任を横的に感じることができる因縁ができてこそ和するのです。
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男性は絶対に女性と一つにならなければなりません。女性は男性と絶対的に一つにならなければなりません。また、父と息子、娘が、神様と息子、娘が絶対的に一つになり、兄弟が絶対的に一つにならなければならないのです。神様の愛を中心として神様のように一つの家庭で暮らし、死んでそのまま移る所が霊界です。
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アダムは神様御自身です。家庭の主人ですが神様御自身の体です。国の中心も神様御自身です。世界の中心も神様御自身です。それで、人は生まれてこのような家庭において、家庭が一つになり、国が一つになり、霊界が一つになる三つの段階を越えていかなければならないのです。
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アダムは神様の愛を受けましたが、アダムの息子、娘は、神様の愛とアダムの愛、二つの愛を受けることができるのです。霊界の王権と地上の王権を受け継ぐのです。地上天国から天上天国に入っていくので、このカテゴリーは分けることができないのです。
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おじいさん、おばあさんが絶対必要で、父母が絶対必要で、夫婦が絶対必要で、子女が絶対必要だという心をもち、国は自分の家庭よりもっと愛さなければなりません。世界はそのように四段階の人類が分布していることを知って、自分の国よりもっと愛するのです。過去、現在、未来が一つになった霊界に行って暮らそうとすれば、そこは四段階のすべてを愛した人々が行く所なので、それを愛さなければなりません。そのような世の中を地上に成し遂げたのが地上天国であり、天上天国は地上天国によって自動的に形成されるのです。
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四大心情圏は夫婦によって愛一体を成したところで結実し、三大王権はアダムとエバが息子、娘を生んでこそ完成するのです。息子、娘を生んでこそ三大王権が完成するというのです。霊界を代表するのはおじいさんを代表した神様であり、アダムとエバは現在を代表します。過去、現在、未来です。現在を代表したアダムとエバを中心として未来を代表した息子、娘が出てきますが、「正」から「分」になったのが、合わさらなければならないのです。
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霊界においても、神様が過去に感じたすべての現れなかったことをアダムとエバが感じることによって、結婚時においてアダムとエバが一つになることによって、神様とぴたっと上下左右が合わさるのです。ここから兄弟が発生するのです。それで、円形的球形を成していきます。この球形を成していくのが皇族圏であり、夫婦を成したのが王権です、王権。三代一体圏が生じるのです。三代が一つになるということです。
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おじいさんは過去の王です。神様の位置であり霊界を代表する、天国から派遣した特権大使です。そして、父母、アダム・エバ圏は、この世の国の王と王妃だというのです。おじいさん、おばあさんは天国の王と王妃の位置で、父母はこの世の家庭を中心として家庭世界の王と王妃だというのです。霊界を代表したおじいさんの王権と現在のこの地上天国を代表した王権、この二つの王権が一つになったその継代を受けるのが後孫です。それゆえにいつもこの息子、娘は父母と一つにならなければならず、おじいさんと一つにならなければならないというのです。また、おじいさんはいつも父母を中心として孫と一つにならなければならず、父母もやはりおじいさんと一つにならなければならないというのです。これを離れては天国の基台が崩れるのです。
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天地がいくら高低の差があり、広狭の差があったとしても、天地にとどまる者たちは四段階になっているというのです。霊界にもおじいさん、おばあさんがいるのです。父母のような年齢、青年のような年齢、少年のような年齢がいます。これをもう少し集約すれば二人です。 二人 !
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四大心情圏、三大王権を知っているでしょう。皆さん夫婦は、これを成さなければなりません。そのようになれば、思いのままに霊界から地上までいつでも来臨できるというのです。四大心情圏の完成は、結婚して愛を中心として一つになることによって可能です。もしこれが壊れれば、子女心情圏の未完成、兄弟心情圏の未完成、夫婦心情圏の未完成、父母心情圏の未完成になるのです。霊界にはこのような心情圏を完成して行くべきですが、堕落したので、その心情圏を今まで成したことがありません。それゆえに蕩減復帰をしなければならないのです。
3.心に同化された生活をしなければならない
良心が神様の代わりに私に植えつけられた第二の神様、私の中心存在であることを知らなかったというのです。神様以上に仕えなさいというのです。道主以上、イエス様以上に仕えなさいというのです。そうすれば、イエス様を信じた以上の位置に行くことができるのです。統一教会の文総裁を信じないでください。統一教会の文総裁の教えを受けて良心と完全に一つになるならば、統一教会の文総裁についていかなくても天国に行くことができます。教材を買って勉強をしなければならないのです。
良心を解放し、解放的自我を確立させて統一圏をもたなければなりませんが、それができない人は天国に行けないのです。天国をすべて探してみましたが、そのようにして天国に行った人がいません。今でも修養過程にとどまってだだをこねて、牧師や長老や優れているという人々の中に、みな逆さにされて串刺しにされている人が多いのです。
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良心を解放しなさいというのです。皆さんの心は天国の監視所であり、皆さんの体は地獄の監視所だというのです。皆さんの体が心を引っ張り回しますか、心が体を引っ張り回しますか。宗教を信じる人々は心が体を引っ張り回し、宗教を信じない人は百発百中、体が心を引っ張り回します。自分を中心として生活します。それが違うのです。それゆえに地獄の出発地が私であり、天国の出発地も私です。心のとおりにすれば天国に行くのであり、体のとおりにすれば地獄に行くのです。他のために生きれば天国に行くのであり、自分のために生きれば地獄に行くのです。きょう帰れば、良心の解放を宣言しなければなりません。
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心と体はどのようなものですか。それは主体と対象です。相対のために存在しなければならないというのです。心は体のために生き、体は心のために生きるのです。一つになれば、皆さんは五官ではなく、十官になるのです、十官。天の霊界もすべて見えて分かるのです。天国から聞こえてくる音楽の音もすべて聞くことができます。
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今後は天国へ入っていくとき、霊通人たちが現れて、イエス様の横腹をローマの兵士が槍で刺したように、萩の茎で良くない行いをした人を、刺すのです。無慈悲な時代が来るということを知らなければなりません。人民裁判があったでしょう。そこまではいかないでしょうが、それは自分が願うからといってやらないわけにいかず、絶対うそをつけません。そのような時代が来るということを知って、心と体が一つにならなければなりません。
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神様は一つになっていらっしゃるということになれば、堕落して争う存在は、神様の反対の所に行くしかありません。そのような所を指して、霊界でも地上でも地獄というのです。悪いものは地獄に行くしかないのです。これを論理的に整理しておかなければなりません。はっきり分かりますか。良心と体がずっと闘って一体になることができなければ、地獄に収納されますか、天国に収納されますか。地獄! 死ぬ前に、いつかはそれを一つにしなければならないのです。それを一つにせずして天国に行こうと考える者は、とんでもない者だというのです。そのような結論が出ました。
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サタンは遠くにいるのではありません。自分と共に連結されています。自分というのは、天国と地獄の境界になるというのです。自分に地獄があり、天国があります。良心は天国、地獄は肉身なのです。良心は主体であるにもかかわらず、堕落したので……。愛によって良心が愛と一つになって、完全に霊的、地的、地上天国、天上天国の永遠なプラスの立場に立たなければならないのです。
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体は何かというと、地獄の中心核です。核心の中の核なのです。それでは、良心は何ですか。天国の中心の核です。この二つが闘うのです。ずーっと毎日闘うのです。これが問題なのです。どのようにこれを解決するかということが私たち一生一代の課題です。ですから、体を打って弱めることを趣味と考えなくてはなりません。その反対領域をどんどん占領して広めて自分の所有をつくらなければならないのです。そうすれば、肉身はだんだん小さくなるのです。
それで、制限領域を無限な世界へと広げるのです。永遠な世界のために生きること、ですから、肉身をずっと征服して霊界まで行くのです。水平になるまで行かなければなりません。このようにしなければ、地上天国を成すことができません。堕落しない本然の真の愛を中心として、平面上で心と体が一つになることのできる起源的位置を復帰することができないのです。
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悪魔が支配する地獄があり、善の神が支配する天国があります。天国はどのようなものでしょうか。天国は建設するものであり、地獄は破壊するものです。これが違うのです。それで、この建設と破壊が私の一身においてぶつかるのが、心と体の闘争です。
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神様は心と体が一つになっているために、心と体が一つになった理想的な息子、娘として生まれた人々が、地上で一つになって暮らしてから天国に移されるようになっているのであって、闘う者は絶対にあり得ないのです。神様はそのような存在形態を見るのも嫌うというのです。では、人類が願うこととは何ですか。このような闘いを停止させることのできる主人が、父母が来なければならないというのです。偽りの父母で始まって分かれたがゆえに、真の父母が来てこのような事実をはっきり理論的に教えてあげなければなりません。故障したがゆえに、その故障した箇所を取ってしまい、け飛ばすことができる、このような運動が地上で起こらなければ、地上天国は永遠に遼遠なものです。
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良心が体のために、どれほど犠牲になったでしょうか。一生の間蹂躙される良心の事情を、皆さんは知っていますか。昼夜私を管理するのに疲れているのが良心です。それでも、へたばらずに体が悪い行動をしようとすると防ぐのです。「それだけすればもういいではないか、私の話をちょっと聞かないといけないじゃないか」と、そうでしょう。自分の前に最も近い、父母の代身、神様の代身、先生の代身の存在が良心です。心自体には教育が必要ありません。しかし体には教育が絶対必要です。
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すべての人間は各々自分自身の中に、最も大切な先生を一生の間終始大事に保管しています。それにもかかわらず、その先生を誤って待遇し、踏みつぶして乱用します。その先生が正に人間の良心です。私たちの良心は、常に私たち自身にも助けになるように語り、私たちを真の愛と連結させてあげようとします。父母のように私たちの良心は、私たちをして善なる非利己的な人になれと促し、神のみ旨に従って行動するように導いてくれます。しかし各自の心の中にはまた、良心の声を常に拒む反乱者がいます。その反乱者は正に肉体なのです。
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皆さんの体と心の統一も、真の愛でなければできません。それゆえに心は体のために犠牲になりながら忘れに忘れ、また忘れてしまうのです。心とは、神様を身代わりした立場であるので、皆さんの先生の中の先生です。その心は、神様が御自身の代わりに派遣してくれた私の中心です。縦的な私です。
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先生は若い時、自分の体を制御するためにありとあらゆることをしました。一週間、目を開けて寝るのです。いくら千万の美人たちの中で寝ても、男性のそのスティックが美人たちの三角地帯に接しても動いてはならないのです。自分の体をコントロールできない人は、天国へ行くことができません。
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地獄の根、天国の根がどこかといえば、世界ではありません。終わりの日の世界が地獄と天国ではありません。地獄と天国の根はどこにあるのでしょうか。あくまでも皆さんの心と体にあるということを知らなければなりません。今までそれが分かりませんでした。数多くの聖人たちが来て教えてくれ、相対的世界に適応しようとはしましたが、自体において闘うこの根拠地を爆破させることができなかったのです。この統一はここから始めなければなりません。ここから始めなくては駄目なのです。
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サタン世界は地獄へ行くのであり、神様の世界は天国に行くのです。そうなれば、自主的な、自分のために生きる世界は悪なる世界へ行き、公的な世界、全体のために生きる世界は天国に行くというのです。善悪の分岐点が自分から始まります、皆さん、ここに、一つは公的に行こうとする心と、もう一つは私的に行こうとする肉体があるのです。心は公的であり、体は私的な立場で闘争するのです。
偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統によって生まれたことを否定し、ここで切ってしまい、真の愛を中心とした真の愛、真の生命、真の血統に接ぎ木をして再び生きる、このような道を行くことが人類の行くべき道であり、個人全体が行くべき道です。これが結論なのです。宗教が出てきたのは体を征服させて一つにするためです。このような立場で真の愛と一つになって、この地上に暮らして天国に行くことのできる息子、娘を皆さんが生まなければなりません。宗教を信じないで天国に行くことのできる真の息子、娘を生むことができる人にはなれずにいます。
それゆえに宗教が出てきて体を征服し、一つにし、真の父母と一つになって接ぎ木をし、偽りのオリーブの木が真のオリーブの木となり、真の息子、娘を生んで、この地上で暮らしてから永遠にあの世に上がっていく、天国に入っていけるのが創造理想だというのです。
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皆さんの体において、この戦争を早いうちに解決しなければなりません。この戦争を終えて生きることなしに天国に行くことはできません。永遠にあの世で引っ掛かるのです。深刻な問題なのです。父母が問題ではなく、家庭が問題ではなく、一族が問題ではありません。一遍にこれが引っ掛かるのです。
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心身が統一されていない人は天国へ行くことはできません! 偽物です、それは! 国が成立しても再び家庭を中心とした七年路程があるということを知らなければなりません。無慈悲なこのような過程を経なければなりません。へびが殻を脱ぐために岩のすき間を抜け出るのに、大きいへびであればあるほど、どれほど難しいでしょうか! 小さいものはたやすいけれど、大きいものは難しいというのです。大きいものが抜け出ながら皮をはがすことができる、そのような狭間がありますか。ですから平たくこのように行きながら、すべてはがれなければならないというのです。ですから、大きければ大きいほど難しいのです。世界の統一が難しいですか。霊界の統一がどうなのか考えてみなさい!
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皆さんがいつも考えるべきことは、サタンの血統が自分の体で蠢動しているという事実です。これをどのように停止させるか、どのようにこの根源を清算するかということが、私たちの日々の生活から始まって、生涯路程の使命です。これを清算することができずに逝けば、永遠な世界で引っ掛かるのです。天国に入るためには、モデルがなければなりません。天国に入るためには、神様が創造なさった公式に従わなければならないのです。そうでしょう。公式です。皆さんが学校を卒業しようとするなら、みなその学課を経て、単位を取って、卒業証書を受けるのと同じような過程があるのです。「これで終わる」という過程があるというのです。同じなのです。天国に入るにも公式がなければなりません。
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霊界に行けば良心が霊界の体のようになり、その体に対する良心の立場に神様が現れるのです。自分の良心は神様の体になるのです。皆さんが神秘的な世界に入って、「神様、どこにいらっしゃいますか」と言えば、自分の中から「ここだ、ここだ」と言うのです。人々はそのような体験を多くします。それで、人間はすなわち天だという話が出てくるのです。
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神秘的な霊界の世界に入って、「神様はどこにいるのか」と祈祷すれば、腹の中から「どうしたのだ」と答えるというのです。そのようなことを体験するのです。自分も知らないうちに話をするというのです。「そこに行ってはいけない」と、そのように言うのに、そこに行けば事故が起こるのです。それは誰が言うのですか。神様が言うのです。熱心に祈祷すれば、そのような神秘的な体験をする境地に入るのです。
4.絶対「性」を中心として天国、地獄が分かれる
男女の初愛とは神様に出会う時間です。結婚して初愛を交わす瞬間は、男性として完成する場なのです。すべての神様のプラス世界、すべての男性型、右弦型を代表するそのアンテナとして君臨するのです。アンテナのてっぺんで陰電気と陽電気が出合う正にその場と同じなのです。女性と男性が愛し合うその場は男性完成、女性完成をする場なのです。また、初めて天地の中心として地上に定着できる愛の王宮がそこから始まるのです。初めて愛の本源地が出発するのであり、また生命がそこから連結されるのです。そうではありませんか。血統がそこに連結されるのです。それと同時に、そこから国が生まれるようになります。地上天国、天上天国は、初愛の門を開くその場から、愛から始まるのです。これを知らなかったというのです。
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本宮、分かりますか。その愛の出発地は地上天国の出発地であり、天上天国の出発地です。男性と女性が絶対的に一つになる位置です。その絶対的な位置で神様が見えない性相と形状を分立して人を創造し始めたのと同じように、女性と男性が愛で一つになって息子、娘を生むのです。見えない神様が創造したのを、見える実体になって成し遂げるのです。血を混ぜることのできる力は愛です。血を混ぜることができるその軸はどこでしょうか。どこが発電所かといえば、女性と男性の凹凸が初愛を交わす所です。そこで初めて初愛によって発電し始めるのです。真の愛の発電、真の生命の発電、真の血統の発電、真の地上家庭と共に地上天国の発電、天上天国の発電の震源地がそこです。これを無視する者はあり得ないのです。いれば、地獄しか行かないのです。とんでもないというのです。
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男性と女性のその器官がどれほど貴いか分かりましたか。神様が降りてくるのです。神様の解放がここから始まり、神様の歌と踊りもその上から生まれるのです。それが愛の王宮、永遠な王宮と通じるのです。地上天国、天上天国の初愛の門がそこから始まるのです。そうだと思いますか、うそだと思いますか。皆さん、独身のとき、そのように貴く思っていましたか。
初愛がどれほど怖いでしょうか。初愛を間違えれば、天下がすべて地獄へ行くのです。ここで愛の王宮を失い、生命の王宮を、血統の歴史とすべてを失ってしまい、地上天国と天上天国の起源を失ってしまいました。その人はどこに行くでしょうか。原理原則があるのにどこに行きますか。存続する所がないのです。ごみ箱に入るのです。永遠に暮らせるようになっていた人間ですが、逆さまになってごみ箱に入っていかざるを得ないのです。
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男性完成、女性完成、神様まで完成させることのできるその本郷はどこでしょうか。どこで神様の愛を完成させることができ、どこで男性、女性を完成させることができるのでしょうか。その中心の定着地はどこでしょうか。これが問題なのです。これを知らなければ、地上に愛の理想天国を拡張、拡大できません。それが目ですか、鼻ですか、手ですか、足ですか。どこですか。(凹凸です)。
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男性、女性が、凹凸が一つになることは、神様が完成し、半分である女性、半分である男性が完成する立場です。男女が結婚し初愛の関係を結ぶその場から、神様の愛的理想が完成する定着地が生まれるのです。男性、女性の愛を中心とした神様の相対的位置としての完成の位置が決定するのです。これは宇宙の核です。これが動けば、宇宙全体が行ったり来たりします。地上天国の本拠地であり、天上天国の本拠地だというのです。
ここは愛の本然の地ですから、愛の本宮といいます。多くの王宮の中で中心宮を本宮といいます。これが愛の本宮であり、生命の本宮であり、血統の本宮であり、それから天上天国と地上天国の出発地であり、人間が願っている自由と幸福と平和がここから始まるのです。そこは愛、生命、血統すべてのものの王宮であり、個人、家庭、氏族、民族がそこから連結されるのです。天上天国と地上天国の本然の地であり、出発地だということを知らなければなりません。それから、自由と幸福と平和の起源です。女性にとって男性がいなければ絶対に暗黒であり、男性にとって女性がいなければ絶対に暗黒です。
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男性が崇拝できる最高の場所とはどこでしょうか。女性の顔ですか。女性の胸ですか。女性の体ですか。どこですか。凹凸を合わせることのできる所は一つしかないのです。そのために準備的環境が、社会が連結され、国家が連結され、世界が連結され、地上・天上天国、宇宙がすべて連結されるのです。これが、存在世界の鉄則であり公式です。
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平和の基地もそうであり、地上天国、天上天国、すべてのものが愛から始まります。どのような愛ですか。男性の愛ですか、女性の愛ですか、男性と女性が一つになった愛ですか。一つになった愛です。その男女の愛のどこで一つになりますか。顔で一つになりますか、指先で一つになりますか。凹凸で一つになるのです。
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神様の結婚式がアダムとエバの結婚式です。それゆえに、地上天国と天上天国が同時に生じるのです。愛の巣から出発するのです。男性、女性の生殖器を中心として、堕落せずに出会うその時間が、地上天国、天上天国出発の起源地なのです。三大王圏を樹立しなければならないその基地が、そこです。その場でなければ愛の巣をつくることはできません。
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愛が理想的な天国をなすことのできる出発地なので、愛の中心です。王宮だというのです。生殖器は愛の中心だというのです。それが王宮になるためには結婚しなければなりません。夫婦生活によって愛の王宮がなされるというのです。何がそれを連結しますか。男性と女性がキスして唇が連結しますか。何が連結しますか。凹凸が連結するのです。これは偉大な偉業です。この愛によって男性のすべてと女性のすべてが混ざるのです。一つになるのです。それから、そこから男性と女性の血統が連結されます。血統が連結され、渦巻きの中で、その中央で初めて新しい生命を中心として歴史が創建され、歴史が連結されるのです。一代で終わるのではありません。永遠な歴史が連結されるのです。地上天国、天上天国がその場から出発するのです。
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女性は、男性の愛の器官のために暮らすのです。愛のために生き、生命のために生き、息子、娘のために暮らすのです。女性は子供が好きなのです。女性の胸が大きく、おしりが大きいのは、赤ん坊のためにそのようになったのです。それを満たさなければならないのです。それゆえに、三代の本宮がどこにあるのでしょうか。人間の根本問題です。これが、家庭の根本であり、社会の根本であり、国家の根本であり、地上と霊界、天国世界の根本出源地です。
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愛の本宮は、神様まで完成させて安息させることができる王宮です。これが、どこで一つになるのかといえば、凹凸一箇所です。アダムとエバの生殖器、その場が偉大だというのです。それゆえに、その生殖器は愛の本宮といいます。驚くべき言葉です。天地創造の全体、神様まで完成させて安息させることができる王宮ですが、本宮です。天国も最初ではなく、地上の国も最初ではありません。この家庭から始まるのです。これが本宮です。驚くべき言葉です。
それからその場は真の愛を中心とした本宮ですが、真の生命を中心とした本宮でもあります。それからまた、血統を中心とした本宮であり、地上天国の出発地であり、天上天国の出発地だというのです。それがなければ地上天国と天上天国、天国と人間の国が成り立たないのです。真の愛のこの驚くべき所が、下品な言葉になりました。天地を滅ぼす亡国の種になったがゆえに、今まで最も悪いものとして取り扱われました。本来は神聖なものです。先生方、お分かりですか。朝起きてあいさつをする時、生殖器に「よくお休みになりましたか」と言わなければならないというのです。先祖よりも、先祖の愛に仕えることができる場がその場であることを知らなければなりません。
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愛の器官をむやみに扱えば罰を受けるようになっています。それが愛の王宮であり、愛の先祖の園です。愛はそこから出発しました。生命がそこから出発しました。歴史がそこから出発しました。地上天国の起源であり、天上天国の起源であり、神様の幸福の出発の起源がそこから形成されるというのです。神様の笑いの基台がそこから出発するのです。愛を求めて神様が踊ることのできる場がその場です。その場を訪ねていかなければなりません。それは正しいですか、正しくありませんか。このように貴いのです。
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神様の花が愛から、人間の花が愛から、地上天国、天上天国はこの花が愛で咲くことによって始まるのです。ゆえに「真の愛はすべての完成の花だ」という、このような言葉が通じるのです。このように見るとき、夫婦の因縁を通じて神様が創造した第二の創造を私に与え、神様が感じた喜びを感じ、永遠に実存的な神様の存在を実体的に体恤できるようにした栄光の場が、どれほど偉大かというのです。
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天国において美しい人になろうとするなら、愛の花がぱーっと咲いて、そこに和合し相対的世界で花の美しさを現し、花の香りを現して、その花を通じて新しい種をもつことができる、このような姿をもって地上で生きなければならないのです。そのように暮らして霊界に行くようになれば、永遠なるその世界でもそのような姿で現れるのです。
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女性の生殖器が宇宙的な本源なのです。愛の関係を交わすその場が愛の本宮となっているのです。本然の宮中なのです。愛はそこから始まるのです。結婚初夜の愛が愛の本宮の出発なのです。女性の生命、男性の生命が初めて一つになるのです。それゆえに理想的な生命の本宮がそこであり、血統がそこから始まるので、血統の本宮がそこだというのです。そして、天国がそこから始まるので、そこが地上天国の本宮であり、天上天国の本宮であり、人間完成の本宮であり、神様の完成の本宮なのです。
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人間が堕落する時、愛のために堕落したので、この性器が最も怖いのです。宗教では姦淫することを最も恐ろしい罪として取り扱っています。ですから、アメリカのフリーセックスは悪魔の地獄膨脹主義ですか、天国膨脹主義ですか。地獄です。地上地獄であり、天上地獄です。これはすべて滅亡するのです。
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文総裁がすべての真理を探求して、霊界、肉界を探査し、あらゆる経典を探査しても、これは解決する道がありません。神様がいるかいないか。神様がいるならば、世界をこのようにさせた神様を私がそのままにしておかないのです。決着をつけるために闘ったのです。人間が生まれた根本原則が何であり、なぜ生まれたのでしょうか。男性は女性のためにです。それが真理全体の中で最高の真理です。女性の前に理想的な男性は最高の真理です。宇宙全体を完成した以上の真理の本体だということを知らなければなりません。男性の前にそのような女性も、宇宙の真理の本体の中の本体です。絶対的な真理体です。
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今まで人間が悩んだ根本問題がこのように簡単で、こんなに易しいものだとは、私は本当に知りませんでした。大変な苦労をしました。まさかこうなっているとは知らずに、正しいもの間違ったもの、霊界に入って、使い道のないものまでくまなく探し、あらゆることをしました。ところが、気がついてみると自分がすべてもっています。「ああ、これを知らなかったのだなあ!」と思いました。大概すべてあるのです。気分が良いでしょう。宇宙がすべて私の中にあります。宇宙がすべて私に入っています。
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真理が他の所にあるのではありません。私自身にすべて備わっています。学ぶべきものはありません。先生もそれを尋ね求めてきましたが、真理の世界が宇宙の他の所にあるのではありません。霊界だとか何だとか世の中をすべて調べ、苦労して、すべて探ってみると、結局、神様がすべて与えてくれていました。あぜんとしました。すべて私にあったということを知らなかったのです。このことを知らなかったというのです。
5.夫婦愛が愛の理想の中心の花
神様は縦的二性性相をもった方であり、人間は横的二性性相をもった実体として、二つが一つとなって、完全な丸いりんごの形をなして、四つの性相形態をもった東西南北に愛の理想を引っ張ってくっつけることができる母体にしようというのが、夫婦の理想です。
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結婚をしたとするなら既に平面的ではありません。平面的な基盤しかありませんが、高いものが低いものと連結される時は、垂直的概念が生じるのです。平面的な歴史は宇宙を収拾したり、天宙を収拾できないのです。垂直と水平が出合って九〇度を成す時、それは天を地にしても、地を天にしても、前を後ろに、後ろを前にしても、右弦左弦、上弦下弦、前弦後弦どの面を付けてもぴったり合うのです。地上完成基準は、霊界のすべての完成につながるのです。
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絶対的な夫婦の理想を描いて、芸術的な夫婦を地に築き、今までの地上にない愛の絵を描くのです。その絵をもって天上世界の永遠な世界で旅行しようとするのが、霊界に行くことです。霊界は無限世界へ旅行することです。そこはお金も必要ありません。御飯も必要ありません。服も必要ないのです。愛する相対に与えたければ、すべて特権的に、すべて与えるようになっています。金のような服、世の中にない想像だけしていた服を着せてみたければ、愛する心が切実になって与えたい気持ちがあれば、相対が現れるのです。どこでも旅行でき、どこでも自由です。
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家庭を芸術化させなければなりません。おもしろい夫、芸術的な夫にならなければなりません。何かの雑誌に良いことが載っていれば、さっと抜き出して、寝ようとする夫人の前ですてきな声で読んであげるのです。感動を受けて寝る妻の姿を夢に描けば、それが再現されるのです。霊界と連結されるのです。それがどれほど素晴らしいでしょうか。そのように生きたいですか。そのままおもしろ味のない夫婦として生きたいですか。素晴らしく生きようとするならば、素晴らしくあり得る姿勢、素晴らしくあり得る方向をとらなければなりません。それが第一条件です。
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霊界に行けば農作業もせず、食べて遊ぶばかりなのに、どのようにしておもしろく生きますか。これを考えてみてください。退屈で、どうやって生きますか。けんかもできずに暮らすのに、どのようにおもしろく生きるかというのです。千年見ても嫌でなく、千年触っても良く、万年聞いても良く、億万年良いというものがなくて、どのように生きますか。御飯は毎日のように食べるのです。思いのままに食べることができるし、思いのままに得られる所です。何でも思いどおりにできる所です。その時は旅行をして暮らすのです。
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この世の生活は、一カ月だけテレビを見ればすべて分かります。見るべきものはありません。それはみな飽きます。ですから霊界を知らなければなりません。祈祷と精誠を捧げるならば、霊界の幻想が広がるのです。それはどれほど素晴らしいでしょうか! 天使たちが降りてきて踊りも踊るのです。どれほど素晴らしいでしょうか! 何百年前の有名な人々も集まって踊るのです。どれほど素晴らしいでしょうか! 私は妄想家ではありません。
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本然の地にすべての元素が連結されています。根と同じです。根が同じならば津液(注:体内からしみ出る液)も同じで、葉も同じで、花も同じではないですか。本質の元素が一体化し得るその期間だけ和するようになれば、学ぶ必要もありません。人は、自らの顔を一〇〇パーセント描けないではないですか。絵以上のものを自分がもっているのに絵が必要でしょうか。違いますか。男性、女性、二人を中心として美しい愛の理想的夫婦の花が咲いているのに、絵を描いてどうするのですか。そのように貴いというのです。絵が慕うことができ、称賛できる主題をもっているのに、それを分からずにいるというのです。しかし、人は服を着るとき、様々な柄で、季節によってこれが環境的調和をつくり出すように着ます。環境に合わせるために、様々な文化芸術だとかいうものが必要になったのです。
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霊界に入っていき、霊人体が永遠に生きていくならば、誰を訪ねていきますか。父母? 兄さん、姉さん? 子女? それは子女でもないのです。兄さん、姉さんでもなく、父母でもありません。自分の相対者なのです。なぜですか。子女を生んで育てる喜びというものは、途方もないものです。夫婦生活をしながら初めて赤ん坊を生んだ喜びは、最も刺激的です。その中でも最初の男の子に最も情がいき、夫も夫人も一心に心情を投入するのです。それで、初めて生んだ子女を最も愛します。長男と次男の差というのは、長男は愛をよりたくさん受けたということです。長女もそうです。その長男、長女とは何かというと、父の延長、母の延長なのです。間違いないのです。
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人間が完成すれば、男性の心の中には神様の性相が入り、女性の心の中には神様の形状が入るのです。アダムとエバの実体の結婚式は、神様の結婚式だというのです。霊界に行ってみれば、それがはっきり分かります。知り得ないこのような理論がみなぴったりと合うのです。それで、神様はどこにいるのか、夫婦を中心としてもどこにいるのかというとき、それは子宮です。そこにいるというのです。愛の根っこがそこだというのです。歴史始まって以来、文総裁によって、霊界がこのように構成されていて、このような内容によって成っているということが明らかにされたのです。
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皆さんが夫婦関係を交わすのを神様が見ていないと思いますか。公開的なのです。これは宇宙的に公開するのです。それを知らないのは大きな過ちです。皆さんの先祖がみな見ているのです。霊界でもすぐ目の前に見えています。手のひらに立ってしているように見えるのです。ですから、それを恥ずかしいと思えば大きな過ちです。
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愛によってなされるすべての調和と万象は、神様にとっては香りのようなものです。神様は、このような美しい香りの中で生きたくて訪ねてこられるというのです。神様の愛が尋ねることができる基盤が夫婦の愛の場だというのです。その場は、すべての万物と宇宙が和動する場になることでしょう。
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愛を中心とした王宮といえば霊界の王宮と地上の王宮がありますが、これらがどこで接触するようになるか、それが問題だというのです。人間と神様がどこで合わさるかという話です。それゆえに真の愛と一体となったその生殖器というものは本源地です。それが本源地なので、宮と見れば本宮になるのです。それは神様が出発した宮、最初に始まった宮であり、それが本宮です。
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夫とそのようにむつまじく暮らして、死ぬ時には何を考えるかといえば、いつも愛の器官を考えるようになるのです。彼の顔、キスを考えるようになるのです。あの霊界に行って残る記憶というのは、愛する夫、妻とキスして愛し合う、その生殖器を合わせた、それ以外にはないというのです。それをつかんで、キスしながら死んでいきたいですか。
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愛によって神様の代わりに生まれて、愛によって生きて愛の目的地に到達するために息子、娘を生んで、永遠に神様と共に生きるために神様のところに帰っていくのです。それゆえに皆さんが完全に愛で一つになれば、のちには神様に似るのです。夫婦二人が一つになり、このような三段階の愛を完全に成して霊界に行く人々は、永遠な主体である神様の前に、相対的な神様になるのです。そうではないですか。愛を中心として夫婦が共に死ねば、そのようになるのです。ですから、神様から始まり、神様に帰るのです。
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男性、女性たちは、愛し合う夫婦の愛に酔って生きなければなりません。これが課題です。父母に侍っているならば、父母の愛の中で、家庭の愛の中で生きたいと思わなければなりません。それが理想であり幸福です。幸福がほかにあるのではありません。霊界に行って、霊界がいくら良いからといって独りで何をしますか。文総裁で言うなら、気分が良ければお母さんを求めます。お母さん、母を求めます。母も二人の母がいます。自分を生んでくれた母と、息子、娘を生んだ母。一家に二人の母が暮らしています。そうではないですか。自分を生んでくれた母、それから? 息子、娘の母がいます。それから父の母、おばあさんがいます。母はいいものなのです。そうではありませんか。
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私は神様に似たし、完成したアダムとエバに似たというのです。二つの父母に似たというのです。これが一つになっているために心と体が闘いません。男性、女性が闘いません。完全に一つです。霊界と肉界と神様と、創造主と創造物が一つになることのできる完全な位置において、新しい泉がわき出てくるのです。これが平和の起点です。平和の出発です。幸福の出発です。理想の出発です。希望の出発だということを知らなければなりません。しかし、これを失ってしまったので、再び復帰しなければなりません。
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霊界に行って、男性に生まれて一人で生きてそのまま行った者たちを見ると、良い所に行っていません。良い所に行けません。神様を見つめる時も視線を下げます。「こいつ、なぜ視線を下げるのか」と言うのです。男性で生まれて天地調和の、陰陽の合徳を知らず、愛を知らずして来た僧に、天地大道の中心である愛の道理がどうして分かるでしょうか。
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息子、娘を生むことができずに霊界に行けば、片側だけにいなければならないのであって、思いのままに行き来できないのです。恥ずかしいのです。それゆえに独身生活を強調する者たちは悪魔の直系です。終わりの日に追い出される群れは悪魔、サタンしかないのに、彼らはサタンのあとをついていく者たちです。悪魔は天使長であったため相対理想がないのです。それゆえにその世界になってみると、青少年たちは淪落に陥り、年を取った男女は愛に疲れて、悪魔の愛に失敗して独身生活をするのです。独身生活をする者たちはすべて、地獄行きで終わるのです。
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独身生活をする人は、神様の本意のみ旨の前に犯罪者の立場です。赤ん坊を生まないで産児制限をした人は、あの世に行って、「あなたの息子、娘を通して天下を統治できる王子、王女を送ろうとしたのに、この有様は何ですか」と審判されます。霊界に行けばすぐに分かります。すぐに分かるというのです。千年万年の恨の歴史の中で苦労した先祖の功を自分一代、一族を通して福を与えようとしたのに、その首を切ったというのです。
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乙女で暮らして一人で逝った人々、男性も一人で逝った人々、そのような者を何というのですか。死んだのちにモンダル鬼神(注:独身のまま死んだ男の鬼神)と言いますが、死ぬ前だと何と言いますか。モンダル鬼神は死んだのちに言うではないですか。そんな言葉はないのですか。それは何というのですか。独身女性。これでは困るのです。
どこに行っても和合できません。女性の世界に行ってもこのように立ち、男性たちの世界に行ってもこのように立ち、行く所がありません。方向は陰になった所、陰の世界、かといって自分は振り返ることができないのです。和合は愛を中心として東西南北に通じるようになっているのに、方向がぴたっと固着されているために振り返れないのです。私は分からないので、死んでみてください。
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祝福を受けた血統を汚してはなりません。それを皆さんはよく知らなければなりません。天国を受け継ぐことができる、相続を受けることができる財産です。それは血族の文書、血統の家の権利書と同じです。族譜と同じなのです。純潔をどのように守るかというのです。
6.天国は家庭単位で入る
私たちの家庭と天国は類型のようです。我が家には父母がいて、夫婦がいて、子女がいて、兄弟がいます。我が家は愛で一つにすることができます。ここでは統一がなされ、生命が連結され、理想を実現させることができます。ですから、皆さんは夫婦の愛を尊重でき、父母の愛を尊重できてこそ天国に行くことのできる資格者になれるのです。
祖父母は父母の前に愛を相続してあげたのであり、父母は夫婦の前に愛を相続してあげたのであり、夫婦は子女の前に愛を相続してあげています。ここで、どの愛を否定しても天国はなされません。自分たち夫婦の間で愛し合う以上に父母を愛し、自分の父と母を愛する以上におじいさん、おばあさんを愛さなければならないという結論です。これが、すべての天国の核心になって、理想的モットーになるというのです。
*
神様は真の愛の本体なので、真の愛と連結されればすべてが同じ体になります。父母は神様を身代わりした生きている神様であり、夫と妻はお互いに他の片方の神様であり、息子、娘はまた一つの小さな神様です。このように三代が真の愛を中心として成された家庭組織が天国の基盤です。そのような基盤を成さなくては天国が成されません。家庭というものは宇宙の中心です。家庭完成は宇宙完成の基礎になるので、家庭で愛するように宇宙を愛すれば、どこでも無事通過です。こういう場合神様は、全宇宙の父母として、愛の複合的な中心の位置にいらっしゃいます。
統一教会の「原理」でいう四位基台は、三代愛圏をいうのです。三代が一つの家に暮らしながら愛によって和睦して幸福になるとき、天地創造の理想が実現されるのです。夫婦が愛し合わなければならないということはもちろんですが、子女たちを愛で祈祷してあげて精誠の心で見守ってこそ、家庭が和睦して幸福になるのです。これが縦的に成って横的に連結されるとき、完全な愛が成されるのです。いとこと、またいとこ、兄弟たちまで愛で一つになってこそ、初めて愛の円形になって完全になります。
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家庭は天国完成の基本単位です。天国は一度行ってみると戻りたくなく、十回、百回会ってもまた会いたい、その方がいらっしゃる所です。万民が共通にそこに行きたいと思い、その方に会いたいと思い、その方のように生きたいと思うならば、世界は統一されるはずです。そこに向けて進んでいるのが統一教会です。しかし、それは一度になされるのではありません。先に個人の基台が立ち、それから家庭の基台が立ち、それから民族、国家、世界へと伸びていくのです。
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天国生活はどこからですか。家庭からです。他の所から始まるのではありません。天国は家庭を立体的に拡大させたにすぎないのであって、家庭圏を外れたものではないというのです。それゆえに皆さんが自らの妻や夫を抱くときに、これは世界の男性と女性が一つになるのだと考えなければなりません。このように世界人類を愛したという条件を立てることのできる位置が、正にこの家庭です。
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神様の創造理想世界とはどのような世界ですか。真の父母圏を通じ、地上天国と天上天国が成された世界です。天国は愛の基盤を通じてのみ成されます。堕落した世界には、真の父母の愛を受けたことのある人が一人もいないし、現れた痕跡もありません。霊界も同じです。真の父母の愛を受けて逝った者がいないからです。神様を中心とした創造本然の家庭的基台には男性の愛、女性の愛、息子の愛、娘の愛、父母の愛、神様の愛がすべて入っています。このような消化された位置で父母を愛し、夫を愛し、息子、娘を愛すれば、誰でも天国生活をするのです。
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統一教会の使命は何ですか。統一教会は過去の宗教とは違い、個人的な救いだけを願う宗教ではありません。堕落しない本然の理想世界を願う宗教です。本然の理想世界は、完成した人間が神様の愛の中で夫婦の因縁を結んでその息子、娘を生んで天国に行く所をいうのです。父は地獄に行って母が天国へ行けば、それが天国でしょうか。父母は天国へ行って子女が地獄に行けば、それが天国かというのです。天国は父母と子女、氏族、民族、国家がすべて入っていくところです。
*
家庭天国を成す所で、初めて神様が理想とする地上天国が定着するようになるのです。これが、四位基台にならなければなりません。「統一原理」では「創造理想完成は四位基台完成だ」と言います。それはなぜですか。神様とアダムとエバを中心として三段階を経て、縦的世界と横的世界が生まれれば四位基台が成されるからです。アダムとエバの息子、娘がいてこそ横的な世界が生まれます。このようになれば縦的な世界が自然に生じるのです。体を中心とした体の横的基準が息子、娘であり、心の横的基準が霊界だというのです。そこで初めて神様が臨在なさることができるので、地上に天国が実現されるのです。
*
統一教会の救援観というのは、夫が天国に行って夫人は地獄に送ろうというものではありません。二人とも天国に行こうというものです。父母を地獄に送るのではなく、父母に侍り、息子、娘も連れて天国に行こうというのです。
統一教会は自分が愛する家庭、自分が愛する氏族まで一切を連れて天国に行くことのできる道理を教えてあげる宗教なので、他の宗教とは次元が違います。それゆえに今までの宗教は独身生活を強調しましたが、統一教会は家庭を重要視するのです。家庭を中心として行くのです。その家庭は世界のための家庭であり、神様のための家庭です。これが、統一教会の食口たちが行くべき道です。
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統一教会では、個人としては絶対に救いを受けることができないと考えます。個人として天国へ行けないのです。一人では行くことができません。原則がそうです。エデンの園のアダムとエバの二人が一緒に天国へ行くようになっているのであって、夫または妻だけ天国へ行くようになっていますか。夫婦が一つになり、家庭が一つにならなければ、天国へは行けないのです。それが理想であって、父は地獄に行って母は天国へ行けば、それが天国ですか。天国は夫婦が行かなければならないのであり、家庭が行かなければならないのであり、家庭だけでなく、一族が行かなければならないのであり、国家全体が行かなければならないのです。
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おじいさんに神様のように侍り、父母に天下統一させることのできる父母として侍らなければなりません。おじいさんは天上世界の特派員です。全権大使です。お父さんはこの世の全権大使です。自分は二つの国、地上天国と天上天国の全権大使として、息子、娘として、後継者として育っていると考えなさいというのです。そうすれば、間違いなく霊界に直行するのです。霊界へは、本来そのような人々が入っていかなければならないのです。ところが、今日キリスト教では「信じれば天国に行く」と言いますが、いい加減な話はやめなさいというのです。行ってみなさいというのです、どうなるのか。あぜんとすることでしょう。
「こういうことになっていようとは。こんなはずではなかったのに」と言うことでしょう。こんなはずでは、とは何ですか。原則と異なればすべてそのようになるのです。原則があります。数万数千いるとしても、誤ったならばすべて肥だめに入るのです。火で燃やして捨てるでしょう。同じです。原則的な基準を探さなければならないのです。
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自らの祖父は天の特権大使です。万一アダム家庭が堕落しなかったとすれば、おじいさんに神様に対するように侍るのです。歴史を通じて霊界に行った先祖の中で、一番最後の人として残された主人がおじいさんです。ですから神様の身代わりです。そして、お父さんはこの世界の家庭の王です。皆さんの父母はみな、現代の六十億人類の家庭の王なのです。
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おじいさんは、天国である霊的世界を象徴するのです。ですから、おじいさんに神様に対するように侍らなければなりません。天国の全権大使です。それから父母は、現在を象徴するので、世の中のすべての人類家庭を代表した王と王妃です。父母は、人類を代表した王と王妃だというのです。そして、息子、娘は未来です。未来において霊界と地上世界、二つの世界の王権を受け継ぐことができる王子、王女だというのです。
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おじいさんは過去を表徴するのであり、過ぎた時代の主体は天国、霊界です。おじいさんは霊界と地上を連結した代表者だと言うことができます。神様と善なる天国のすべてのものを、地上にある自らの家庭に連結させる神様の大使です。神の国の大使とは誰ですか。おじいさんです。
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国を形成するには家庭がモデルになります。家庭が第一段階です。家庭から始まるのです。それを知らなければなりません。そこを見れば、おじいさん、おばあさん、父と母、子女の三段階がありますが、これを拡張するときは三つ、四つ……。これをくっつけるのです。これを中心としてこの世にも通じますが、霊界にもそのまま通じるのです。世界を見れば世界にもおじいさんレベル、それから父母レベル、その次には自分のレベルがみなあるのです。ここで練習するすべてを世界へ拡張すれば、どこでもすべて合います。
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家庭を見れば、そこにはおじいさん・おばあさん、父母、息子・娘がいます。これが三代ですが、歴史をおいて過去からつながってきたのです。おじいさんは、先祖から今まで霊界に行っている天国の私たちの先祖を代表し、我が家の中に派遣された全権大使なのです。ですからおばあさん、おじいさんに誰に対するように侍らなければならないかといえば、神様に対するように侍らなければなりません。そのように侍ることによって、天国の出発を見るようになるのです。
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霊界には、家庭を連れて入らなければならないという原則があるのです。なぜ息子、娘がいなければ駄目なのですか。子孫というものは本来、縦的な神様の愛と横的な父母の愛、神様と父母の血が縦横に混ざり合って生まれたものです。したがって、後孫をもつことができなかった人は、霊界に行って天地の調和を成すことができず、東西南北に拍子を合わせられないというのです。後孫をもたなければ、あの世に行っても、遊んで休むことのできる場がないというのです。
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息子、娘を生んで正統的な家庭訓練をすることができなければならないし、また一族を率いた長になって霊界に入らなければなりません。霊界に入っていくときは、子女の完成、兄弟の完成、夫婦の完成、父母の完成をみな成さなければならないのです。
*
家庭では父母を中心として孝子になれというのです。その次には、国を中心として忠臣になれといいます。また、世界を中心としては聖人になれといいます。聖人とは世界を愛する人です。聖子は神様の息子になるために、神様と天国の宮法と天国の宮に暮らす人まで愛するのです。
このような人は、愛を中心として暮らす人なので、愛の生命を尊重視し、愛の血統を尊重視するのです。このようなことを尊重視しながら、世界のどこでも、故郷のように暮らすことのできるそのような所が人間の求めていくべき理想郷です。このように暮らす人が霊界に行くようになるときは、神様の前に躊躇することなく直行できるということを、皆さんが記憶してくださるようお願いします。
7.「ため」に生きれば天国に行く
天国は犠牲になった者が主人となるのです。家庭は氏族のために、氏族は民族のために、民族は国家のために、国家は世界のために、世界は天宙のために、天宙は神様のために犠牲になるのです。結局、目的は神様に到達することです。神様を占領するのです。生命をもったすべての存在の最高理想は、神様の愛を占領することです。それを最高の目標とするというのです。その特権をもっているのが人間です。
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霊界に行けば、相対を重要視し、全体のために奉仕し、犠牲になった人が高い所に行くのです。それが天国民の共通した性格です。どのような人が高い霊界に行くかといえば、すべてのものを投入して、神様のように投入し、投入して忘れてしまう人です。人類救援のために多くの人々を神側に引き寄せた人が天国に行くのです。天国の国民をどれほどたくさん連結させるかによって、霊界での自らの立場、位置が決定されるのです。
*
「ため」に生きる経験ができず、愛をもって生きられなかった男性、女性がどれほどかわいそうか、霊界に行ってみればはっきり分かるようになります。あの世はすべて、「ため」に生きる人だけです。ここでそのように生きれば、そのまま神様のところにひゅっと上がっていきます。それを知っているために文総裁は、今まで現れることを嫌いました。弟子たちをみな前面に出して、栄光ある立場をみな譲ったのです。
*
真を求めて行くならば、心は絶対「ため」に生きることができ、体もそうならなければなりません。これが一つになって天地に神様を中心として九〇度で連結されれば、東西南北、上下、高低どこに行こうが分かります。自動的に霊界が通じます。学ばなくてもみな分かります。文総裁のような人がどのようにして天地の秘密をすべて知ったのでしょうか。その境地に入ると、みな分かるようになります。真の愛を中心として心と体が共鳴する境地にぴたっと入ると、みな見えたというのです。神様も見え、天上世界がすべて見え、歴史が見え、すべて見えます。
なぜですか。真の愛を通して関係を結び、因縁を結び、理想的生活をすることのできる環境的要件が、本来、神様の創造理想の原則であったため、その境地に入ると、通じないところがありません。霊界の先祖も、呼べばさっと出てきて、会って何かを尋ねてみることもできるのです。
*
宇宙を造った神様は、宇宙の法度を立てた神様は、どのようなお方なのでしょうか。全宇宙を通じて誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。それゆえに、その方に会おうとするなら「ため」に生きなければなりません。その方は知識の大王ですが、「知識をもって神様の前に来い」とは言わないのです。能力の大王ですが、「能力をもって来い」とは言わないのです。権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり、大王ですが、「それをもって来い」とは言わないというのです。「ため」に生きて来れば、すべてが来ることができるというのです。
*
私たちの本郷は、神様のために存在する者たちだけが入る所であり、「ため」に生まれ、「ため」に生き、「ため」に死んでいった人々が入る所です。これが、私たちの本郷の理想的構造であるがゆえに、神様は本郷に訪ねるようにするために歴史過程に数多くの宗教を立てて訓練させてきたのです。宗教が柔和謙遜にし、犠牲にならなければならないと教える理由は、霊界の法度がそうであるがゆえに、宗教が霊界に帰らなければならない人間たちを地上生活の過程でその霊界にふさわしくなるように訓練せざるを得なかったのです。それゆえに、高次的な宗教であるほどより次元の高い犠牲を強調し、奉仕を強調したのです。それは、普段の生活を通してその世界に一致させようというところに、その原因があるのです。
*
お金についていきたい人は、永生の道を行くことはできません。知識についていく人も、永生の道を行くことはできません。知識に、学問に、永生がどこにありますか。知識は多いほど、知れば知るほど驕慢になるのです。驕慢の主人が、驕慢の親分がサタンです。サタン世界の近くへ行くのです。教授の方々、済みません。私が知っている真理はそうです。死んでみてください。私が間違ったことを言ったでしょうか。霊界へ行ってみてください。行ってみて、その時私に抗議してください。正しく教えてあげるので、正しい先生でしょう。そこでも先生で、ここでも先生です。取るに足りない先生ではありません。
*
霊界に行けば、固執というものが大きい怨讐です。国会議員をしていた人々が霊界に行けば、本当に困るのです。それをはっきり知らなければなりません。教授たちを再教育すべきですが、皮をはいで労働者の立場から汗を流させるのです。汗を流して、地も耕してみなければなりません。そうしなくてはなりません。そのような意味で私が教授をすべて結び合わせましたが、今まではこの人たちを厚遇しました。そのようにしていては、霊界に行って讒訴します。「先生はこのことを全部知りながら、なぜそうしたのですか。なぜ正しく教えてくれなかったのですか」と言うのです。これは事実の話です。行ってみてください、私の話が正しいか正しくないか。
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霊界に行ってみれば分かりますが、すべて「ため」に生きる人が行くのであって、「『ため』に生きろ」と言う人は行くことができません。ですから、学者になり、世の中で大統領になり、王になった人々は地獄へ行くのです。「ため」に生きなかったからです。牧師たちの心情を見ると、自分が恵んでもらうことを考えるのであって、与えて生きようとしないのです。父母というものは、いくら子女に与えても、また別の何かを準備し与えようとするのです。与えたい心が連結されるそのような基盤には、発展があるのです。
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霊界と人間が関係を結べば隠すことができないのです。水を見れば、水は必ず上から下へ流れ落ち、空気は空間があれば満たそうとするのです。これと同じように、霊界が動く所には空の所がありません。満たされるというのです。水を受けようとするなら器が空でなければなりません。器がいっぱいであれば、空いている残りの所にしか満たされないというのです。同じように、空気も空いている部分にはみな入りますが、ふさがっていれば、そのふさがった部分には空気を満たすことができないのです。
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霊界にさっと行ってみると、千年万年になる人々が、すべて自分を中心として集まろうとするのです。自分が動くと、群れをつくってすべて集まってくるのです。皆さんも先生と近い所で生きたいでしょう。近い所で「このように見ながら生きたい」と、そう思うのです。それは誰がそのようにしますか。自分ではないのです。天運が、宇宙の法則がそのような人を中心として、みな集まって一つになるようにしようとするのです。それが原則です。いくら「離れなさい」と言っても、離れることができません。
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「ため」に生きる人になりなさい。これが、天宙生成、形成の根本なのです。神様も「ため」に存在するのです。このように見れば、平和の世界が目前に展開するのです。天宙のすべてのものの中で、これに逆らうものはありません。このように主体的、生成の根源、エキス的、核心的な立場に立ったその人は、天宙、神様までも歓迎するのです。先生のような人がそうなのです。今、皆さんは、そのようなことを知らないために実感できません。霊界も先生を中心として動いているのです。そのような世界を知らないでしょう。それゆえに、いい加減にしているのです。
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真の愛を中心として「ため」に生きる人は、夜でも昼でも天宙万宙どこに行こうが歓迎を受けるのです。皆さんは、いずれ霊界の展示場に展示されるのです。人間の博覧会をする所が霊界です。霊界では、地上でどのような生涯を生きた人間なのか、すぐ展示されるのです。そこでびりになりたいですか、皆が称賛する人になりたいですか。どちらですか。最高に称賛を受ける人になりたいでしょう。そのようになるためには、先生が話すとおりに生きなければならないというのです。最高に称賛を受けようとする前に、最高に「ため」に生きなさいというのです。そのような人は、間違いなく中心者になるのです。
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青年たちはそれを知らないのです。二十人の友人たちがいるとするならば、友人たちの中心として残る人は誰ですか。「お前たち、すべて私のためにしろ」と言えば、すべて逃げてしまうのです。二十年、十年、一生を終える時まで、死んでもその友人のために生きた場合には、霊界があるならばそこに行き、すべて彼を中心として集まるのです。それは間違いない真理です。「ため」に生きる、より「ため」に生きる、より犠牲になる人が中心者になるのです。
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「ため」に生きる人は滅びません。また、「ため」に生きる人は霊界でどんどんコーチしてあげます。どんどん新しいものと関係を結ぶようにしてあげるというのです。新しいものと関係を結ぶから、その人は自然に有名になり、世界的に知られるのです。
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父母は苦労する息子、娘を先に考えるのです。それゆえに心情の潮流というものは何でしょうか。かわいそうな人々を訪ねて、いかにして自分のようにさせるか、ということを実践できなければならないのです。そのようになれば、世の中はすべて私に反対して冷遇しますが、神様と天国は私を擁護するというのです。神様を中心として、霊界の霊人たちが私を擁護し、保護して回るのです。雲のように私を擁護してくれるのです。
それゆえに、そのような人々は滅びません。それが過ぎるようになれば、雲が環境をすべて巻き込んで整理するのです。ですから投入して苦労した代価ぐらい、創造することができるというのです。私は苦労して迫害されましたが、天運があとから来て、その基盤を築いてくれるのです。聖人たちは当代では迫害を受けますが、後代において名を残すのは、霊界が、天が、天運がそうしてくれるので、そのような現象が起こるのです。
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天国に行こうとする人は悲惨に生きろ、悲惨に死ね、悲惨に逝けというのです。その言葉が良い言葉ですか、悪い言葉ですか。良いというのです。それなら、死ぬほど出ていって伝道しろという言葉も良い言葉です。他人のために命を捨てろというのです。自分のためにではなく、他の人のために、世界のために、天下のために命を捨てれば、大宇宙の主人として立ててくれるのです。
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永遠に残るものがあるならば、それは公的な苦労です。公的な苦労をして霊界に行ったのに、そこで滅びたなら先生に抗議してもかまわないのです。民族と世界、天地のために働いている途中で打たれる人が賢い人です。
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悟りの道に入った人は、死ぬ時まで死の道を行かなければなりません。死んでする苦労を生きて蕩減するので、そのような道を行かなければならないというのです。死んで億千万年苦労するのを縮小させ、生前に蕩減してしまおうというのです。このように悟りの道は、永遠に行くべき受難の路程を、この地上で苦難の道を歩いていくことで蕩減しようというものです。
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統一教会に来るようになれば、「地上で良い生活をしなさい」とは言いません。この上なく貧しく、この上なく苦労して死んで道端に倒れ、犬もかみつかない死骸を残したとしても、その場には花が咲く日が来ることでしょう。そこには、すべての神聖な人々が集まって都をつくることでしょう。統一教会の群れを国のために、世界のためにうんざりするほど苦労をさせて、孝子、忠臣にしてみようというのが先生の考えです。「行かない」と言うならば、張り飛ばさなければならないのです。足でけ飛ばしてでも現在の悲惨さを、現在の難しさを克服させるのが愛です。