Text Box: TP portrait  第二章 界はどのような所か


一 界の相と法度


 1.界は時空を超越した無限の世界


 界がどれぐらい大無な世界か知っていますか。今日、この宇宙だけで見てもそうです。二百二十億光年以上になる宇宙です。これがどれほど大きいかといえば、光が一秒間に三億メトル、一秒間に地球を七回り半回ることのできる速度で一年間進む距離を一光年と言いますが、それが二百二十億年かかるというのです。二百日ではありません。ですから、宇宙がどれほど大きいでしょうか。それがすべて私たちの活動舞台だというのです。

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 神は、時空を超越して存在するお方であられます。今日の時間や空間世界を超越して存在するのです。界に行けば、一年という年がありません。一年、二年、一日などというものがないのです。それは便利なことでしょう。もしないのです。界に行けばないで暮らすことができます。食べないで暮らすことができます。思いのうちで食べて生きていくことができるのです。例えば、目である物を一度見て「いいなあ」と思えば、千年も万年も忘れられないというのです。そうであったら本にいいでしょう。 

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 天は太陽系のように一年を三百六十五日として地球のように軌道を回って、一日は二十四時間でという、そういうものはありません。私たちの言う一年、二年というのは、地球での話です。太陽系を中心とする惑星の立場から一年を定め、地球が一回り自することを一日と定めているのです。界は、地球が一回り自するように回ったり、太陽を中心としてその軌道にって一年を回るという決まりがありません。朝なら永遠に朝です。そこには日や年の念がありません。

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 界は時間と空間を超越しているので、一秒間に何億万里も行くことができます。大な世界が時空を超越しているので、一秒間でも何億万里も行くことができるのです。大な世界が時空を超越しています。千年前が見え、何万年前が見えるのです。見えるのですが、何を見ようとするのでしょうか。他のものは見ません。誰にいたがるかと言えば、男性であれば女性にいたがるのです。そして、ってからは、その人の心中にある本然の愛の大きさがどれくらいなのか、その人のもっている愛の量がどれくらい多いのか。これが測定基準となるのです。

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 界の中心は何ですか。それは絶的な神を中心として構成された世界です。その絶的な神がいるなら、そのは天地創造の時の宇宙の起源になられる方です。彼によらないものがないというのです。それにしているために、それにした全体はそれとともに感じ、それとともに因をもっているのです。例をげれば、私たち人間は約百兆個になる細胞をもっていますが、すべての細胞自体がどのような分野であろうと感じさえすれば、直接頭に連絡されるのです。

 天地創造の創造主を中心として連結されるすべての存在もそれと同じだというのです。しかも、人間として生まれ、善でより次元の高い値のものを追求しながら生きることは、神を根源として始まったものです。それゆえ過程をて根源と通じることのできる結果の世界にあるのが人生であると、このように見るのです。

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 神はどのようなお方なのでしょうか。神は宇宙の存在世界の心のような方です。神は宇宙の心のような方です。皆さんは心を見ることができますか。界は心のような生活の世界ですが、これは時間と空間を超越した所です。そこでは御飯を思いのままに食べることができます。御飯の心配をする必要がありません。水の心配をする必要がありません。み物の心配をする必要がありません。服の心配をする必要がありません。衣食住すべてのものを超越しています。そこでは億千万里をあっという間に往するのです。何の力をもってでしょうか。愛の力をもってそのようにします。愛する人にいたいと思えば、さっと現れます。

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 動物がそうなのに、万物の長である人間は飛んでみたいでしょうか、飛んでみたくないでしょうか。ですから人間は飛び回るようになっています。界は飛行機なしに何百光年になる世界をあっという間に行ったりたりします。一度行ってみたくないですか。

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 神に「あらゆる昆虫までも飛び、鳩のような鳥も飛んでいるのに、人はなぜ飛べないのですか」と聞けば、神が何と言うでしょうか。神があの界の高い所から尋ねてくる時にいてくるでしょうか、さっと飛んでくるでしょうか。界は無限大の世界なのです。このごろは人工衛星が金星に行くのに、十四年間かけて飛びながら、キャッチして写真を撮って送ってくる時代ですが、この界は十四年ではありません。一瞬のうちです。人体は妻より速いというのです。それゆえ、人のように活動する神についていきながら、共に愛の主体の象になって生きようとするならば、飛び回らなければならないでしょうか、き回らなければならないでしょうか。この体では何けません。

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 あの世の大な大宇宙を見つめる時、ダイヤモンドの星がないと思いますか。金の星がないと思いますか。それがすべて自分の所有だというのであり、そのしさで暮らすのです。神がつくってくださった驚くべきものを自分が見て……。愛するすべての群れが、神の愛する群れ全体が一つになって、大移動しながら暮らせる理想世界だというのです。そこに同伴者になり、同者になってみたいですか。

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 界があるということを知っていますか。どのくらいはっきり知っていますか。この世界よりももっと確かなものです。その世界はどのような世界ですか。神が「良し」と言える構想でもってすべてのことが可能な世界です。

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 考えてみてください。多くの人が行っているのですが、一瞬のうちに彼らに祝宴を催しても余りがある理想世界です。界に行っているあらゆるの人、何百億になるその人を集めて、瞬く間に祝宴を催しても余りがあるのがそのような理想世界です。そのような世界、レバレンドンはそのような世界に向かっていくのです。この世を見つめていくのではありません。ここで、そこに合わせていくのです。

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 界に行ってみれば、男性、女性が一人の大きな人に見えるというのです。人は何ですか。皆さんはみんな一つの細胞のようなものになります。全宇宙がみな、男性、女性のように見えます。そのように見えるというのです。それは合わせたものです。このようにけば、宇宙がくのです。その中に入った人は神の細胞と同じです。一つの体になっているのです

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 界では明が必要なく、弁解が必要ありません。ちらっと見ればすぐに分かります。あの人が私の下なのか、なのか、高い位置なのかすぐに分かります。何億年前のおじいさんであった人にもえば、愛のその位階というものはすぐに……。その位階は絶的です。その位階が高い人は自然にその位階に合わせて自分が立つ位置に立つようになっているのであって、いい加減ではいけません。世の中とは違うのです。中傷、謀略して出世したり、そのような人はそれがすべて逆になっているのです。その反になるのです。ですから正道を見なさいというのです。

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 界に行っている人間は何を願うのでしょうか。界は自分が置かれている基準ですべてのものを補給できる世界です。願えばすぐです。主体的な能力がある人なら不可能がない世界です。もし、百万人の祝宴を催すなら、考えると同時に百万人が場に現れ、すべての準備が可能なので、百万人の祝宴を一瞬のうちにできるのです。そのような世界です。何が可能にするのでしょうか。原子力が分裂作用において熱が出るのと同じように、皆さんが愛の分裂作用をすれば、瞬く間に可能になります。それはありそうながしませんか。

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 界がそうです。私が「どこかに行く」と言う時はに行っているのです。あの大宇宙が自分の活動舞台になると考えてみなさい。愛が先んじなければなりません。「ああ、いたい。いたい」と、こうでなければなりません。自分の相のように、自分の愛する人のように、いたければさっと行くのです。あの世で芸術家にえば、自分が芸術的なあらゆる素質を一瞬のうちに啓してついていくのです。万事が可能な世界です。ですからあの世に行けば、歌う所では歌い踊るのです。みな喜んで心と体が和動して踊ったり歌ったりするというのです。どれほど美しいでしょうか。神を描くにも一等ではないですか。そうでしょう。神が傑作品のをはって眺めるでしょうか、傑作として行動する創造物を眺めるでしょうか。どちらを喜ぶでしょうか。傑作品は必要ありません。そして、その世界は愛の心にう最高の場であるがゆえに、年を取りません。年を取らないというのです。お母も年を取りましたが、私が見るにはいつも最も美しい時の姿なのです。

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 いつもかんかんに晴れた日だけあれば、どれほど退屈するでしょうか。そこに霧もかかったり、月に雲のかさをかけたり、このように月も見えなくて……。ありとあらゆる候の化を見れば、どんなに芸術的でしょうか。考えてみなさい。一つの美術世界です。芸術世界です。あの界の澄んだ世界に自分が雲をかけたければ雲をかけることができ、霧がかかるようにしたければ、霧がかかるようにできる、愛によってそのすべての多な感応圏をつくることのできる特性をもったそのような人間になれるというのです。ですからすべての界が心をおきます。「ああ、あの人の所に行けばおもしろい」と言うのです。

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 界では距離と時間を超越します。時間がありません。何でも見たいと思えばすぐに現れます。膨大な天がすぐに通じるのです。この地上で電話も距離の問題がないでしょう。そのようにどこでも通話ができるようになっています。そのような世界が背後の動機地、電所のようになっているのです。

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 界に行けば夜があるでしょうか、ないでしょうか。界に行けば、この地球星にも通じることができ、この物質世界にも思いのままに通じることができます。水中にも行くことができ、大地を垂直に通ることもできるのです。宇宙には星が無にありますがの愛の相として神の愛をもって行く所は道がぽんぽんと通じるのです。愛の速度が最も速いです。最も速いのです。光の速度は一秒間に三億メトルという距離を進み、地球を七回り半を回ることができると言います。これは、それより何千倍も速いのです。億千万里でも、の愛ならば瞬時に行くのです。膨大な界でも一瞬のうちに活動できます。

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 皆さんが界に行ってすることは何だと思いますか。あの世ですることとは何でしょうか。考えてみなさい。そこで金もうけをするのでしょうか。服が必要で、家が必要でしょうか。皆さんが願うことは瞬間的にすべてかなえられます。界では私のために現れなさいと、いくら死ぬと大を出していでも駄目です。これを知らなければなりません。反に、私が神を愛し、世界を愛し、天の王子の立場で、王に仕える中で「あらゆるものが必要だから現れなさい」と言えば瞬間的です。瞬く間にもてなかったものを……。想像が及ぶことはすべて可能な世界が界であるということを知らなければなりません。

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 愛は熱に例えて表現されます。熱で例えるでしょう。「胸が熱い」と言うでしょう。界に行けば、神は愛の本体であるゆえに光と熱で現れるのです。眼で見れば、皆さんの愛の光がどれだけ出るか、どんな光が出るか、まだらな光が出るか、虹の光が出るかということがみな分かるようになっているのです。家庭が一つになって光る星にならなければなりません。太陽のように星もすべて衛星のようになっていて、星を率いる星もあるのです。

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 神が創造する時、最も好きな色を先につくったのでしょうか、最も嫌う色を先につくったのでしょうか。早春にく花の色は何色でしょうか。紫色です。紫色は赤色も入っていて、ピンクも入っていて、それから何色が入っているでしょうか。すべて入っているのです。紫色が好きでしょう。ですから高な物はすべて紫色です。あの世に行ってみれば、最も良い色は紫色なのです。

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 界に行けば色がありません。あまりにも明るくて銀色のように見えます。銀色のように見えながらも、あまりにも明るくてきらびやかなので紫色に見えるのです。フィラメントに電が入れば、本来黒だったものが明るい白に光るのです。同じです。界に行けば人はいません。地上にいる時は人に見えた人が、界ではそのように見えないのです。なる良心をもって生きた善人は、高い級の界に行くのです。障害者も界にはいません。足の不自由な人、病を患っていた人も、肉身をげばいかなる障害もありません。

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 界ではどのような年で暮らすのでしょうか。最も美しい年の時の姿で暮らします。天に行けばそうです。そして、永遠に暮らすのです。そして、その人が考えるすべてのものがわればわるほど、その容貌がさらに美しく見えるのです。界を知れば、ただそのままそれがすべて連結するのです。

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 界に行けば、地上のことは思い出しません。窮屈なこの手のひらほどの地上で何をするのでしょうか。大宇宙があるのに、一つの砂粒のようなものを思い出しますか。しかし、界の民族を生産する工場はここしかありません。宇宙に一つしかありません。何ですか、金星にも人が暮らしているというのですか。人は、この宇宙でここにしかいないのです。



 2.界は愛全能の世界


 の愛の念でぎっしり詰まっている所が界です。の愛を五官によって感じるように、まんべんなくすべて体してから行く所が天です。その場に立てば、あらゆることがすべてできます。理想的な生活環境がそこで展開するというのです。どれほど驚異的なのか皆さんは知りません。

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 界はどのような所でしょうか。すべてのものが愛で充した、愛でいっぱいの調和の世界です。皆さん、スイッチさえ押せば、このスイッチ一つでニュク市の何百万世に電がぱっとつくとすれば、これは信じられますか。それでは、愛のボタンを一度押せば、この宇宙が作動するということがうそのように思えますか、本のように思えますか。

 地上天は、すべての愛の電球に明かりがつく所が地上天です。そして、天上天とは何ですか。愛の電球に明かりが完全にともることのできる所が天上天です。それゆえに、皆さんが愛の心だけ抱き、愛のひもだけ引けば、すべて引っ張られてくるのです。後ろに引けば後ろに行き、に引けばへ行き、このように引くとこのように入っていこうとして、このように引けば上がっていこうとするのです。思いどおりに操できるのです。無理やりそのようにするのではなく、自動的にそのようにするのです。自動的にそのようになるのです。それを理解できますか。

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 皆さん、一度考えてみてください。界に行けばうらやましいものがありません。皆さんのその愛の化身体をダイヤモンドと比較しますか、金の塊と比較しますか、珠と比較しますか。石が問題ではありません。もっときらきら輝くのです。愛と化した化身体はもっと美しいのです。ダイヤモンドに愛のダイヤモンドがありますか。生命のダイヤモンドがありますか。しかし、私たちはダイヤモンドも感動させることができ、すべてのものに影響を及ぼすことのできる値的存在だというのです。貴い愛のダイヤモンドなのです。貴い生命のダイモンドなのです。それが私なのです。ですから私はどんなに素晴らしいでしょうか。

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 界という所は、愛の電で充した所です! 事がそうなのです。私が知っている界はそうだというのです。ですから、今日人間は、何でもすべて愛と係を結ぼうとします。なぜ、愛と係を結ぼうとしますか。界に拍子を合わせるためです。これが理論にぴったり合うのです。そのようになっているために、そこにじざるを得ないのが私たち存在物です。その立場を離れることができないということを皆さんは知らなければなりません。

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 界に行けば夢の山がいくらでもたくさんあります。金、銀、石がいくらでもあります。花も好きな人がれば、愛する人がれば、眠っていても突然ぽかりと口を開け、目を開けて迎するのです。「少し待ちなさい」と言ったのに、ただそのまま行ってしまえば「ああ」と言って枯れてしまうのです。

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 神が笑えば全体が共に笑います。界に行けばそうです。界に行けば直感の世界と同じです。神が喜んでいるのか、そうでないのか、きょうは分がいのか、良いのか、すぐに分かります。地上世界に何かあって喜ぶのを見ると、全体がふわっと膨らむというのです。ぽんと浮かぶというのです。

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 界に行って何をするのでしょうか。愛の歌、愛の話をするのです。界では、オペラ式に話せば、私がオペラ式に答えなければなりません。踊りで表現すれば踊りで答えなければなりません。永遠に喜び、踊りを踊っても永遠に飽きません。一箇所で踊れば天がすべて踊り、一箇所で歌えばすべて歌うのです。その時は自分の愛する妻と踊るのです。他の女性と踊るなら「ああ、私の愛する妻をあなたより百倍愛するために私があなたと踊るのです」とこのように考えるのです。他の女性と手を取って踊るなら、それはすべて自分の愛する象を千倍、万倍、もっと刺激的に愛するためにこうするのだというのです。

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 界から神が見れば、皆さんの心は愛の鐘の音が聞こえる所に行けば、灯がますます大きくなるというのです。この光は五色燦然と輝くのです。神の目にはダイヤモンドの光よりもっと美しく見えるというのです。そして、光だけが良いのではなく、その光の中には味があるというのです。それは見れば見るほど良いというのです。何度も見れば見るほどってしまいます。

 それゆえに、神は愛という話をするのです。皆さんの心の愛の鐘を鳴らせば天地を動かし、すべての万民を動かすのです。そのようにすれば、神も「あ!」と言って動かすことのできる鐘があるということを知らなければなりません。それゆえに、愛のをどれほど流したか、愛の切なさをどれほど味わったか、それが皆さんの財産だというのです。

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 今後私たちがの愛の力をもって界に行くようになれば、いくら遠い所にいる人でも一瞬のうちにうことができ、愛ゆえに訪ねていく時は瞬く間に故ることができるというのです。界という世界は無限に膨大な世界であるので、何百万里、何千万里の距離も一瞬のうちに愛を中心として行きすることができる世界であるというのです。愛は最高の速度をもっているのです。皆さんの心と体が統一された愛の基台をもてなくなる時には、その世界と私は係がないというのです。ですから、統一の起源が相世界から起こるのではなく、私から始まるということをはっきりと知らなければなりません。

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 神がいくら高いといっても「神!」と愛の心で呼べば、すぐに「なんだ」と自分の心の中で答えます。「神、どこにいらっしゃいますか」、「どこにいるかって、お前の心の根本にいるではないか」と答えるのです。神が本根本ではないでしょうか。心の根の根本にいるでしょう。このようになっているのです。

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 あの世で必要なことは、世界よりも、自分のよりも、自分の妻よりも、自分の息子よりも神をもっと愛さなければならないということです。それが原則です。お父さん、お母さん、子供たちみんな……。お母さんが言うには「あ、あなたは私を愛するより神をもっと愛してから私を愛してください」それでこそ夫から高い次元の神の愛を受けることができるようになるのです。父母にしても「どうか私たちは置いておいて、本の父母の愛を先に受けてください。その父母の愛を受けたお父さん、お母さんを私は愛したい」と、そのようにすがりついて哀願しなければならないのです。

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 愛の理想を中心として神の前に相になれる人が、考えるすべてのものを瞬間的に現化させ得る世界です。何億、何千万名も一瞬のうちにバンケット(祝宴)を準備できる世界です。私が服を豪華絢爛に着て、愛の象として神を一度しくさせてさしあげようという時は、豪華絢爛になります。こうこうこのように想像できる以上のことを想像しても、それが可能な世界です。そのような世界を知っている人は、地上では生きるしみがありません。ですから、私は監獄にほうりまれても、何の問題もありません。この世でのわずかな生活は、永遠な世界で息を一度止めるのと同じです。

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 神の心情、天の心情に通じたならば、どこでもすべて一つになることができ、どこでもすべて和合できるからです。そうなれば、その門を通ることのできる階級に暮らす人は「わあ! 万! 神好きです!」と言うのです。ただついて行きたがり、皆が喜ぶのです。食べたいものがあれば何でも食べることができ、着たいものがあれば着て、遊びたければ遊んで、したいことを思いどおりにできます。この地球上で百年生きても感じられないあらゆる幸福を、有り難さを、一瞬のうちに感じられるというのです。

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 界はどのような世界ですか。神の心情と同等に立てる心情をもてば、何でも可能な、そのような所なのです。今後ムが何千万人になっても「皆さん、全員このような新しい服に着替えなさい」と言えば、さっと新しい服にみな着替えることができます。それから「バンケットの場所、これこれこういう場所に現れなさい」と言えば、すぐにそのようになるのです。テブルは、金の装飾や銀の装飾で五色きらびやかに飾られ、またそこにあるいすもそうですし、そこに座ったすべての人喜に、喜びに、愛にって踊ることでしょう。千年踊っても喜ぶことのできる所です。

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 何億万里の距離にある世界の人でも、愛の心がくなって「いたい」と思えばさっと現れるのです。「何の用ですか」と聞けば、「あなたが呼んだので現れました」と言うのです。「どのくらい遠くからたのですか」と聞けば、「何億万里からた」と言うのです。距離を超越します。宇宙が私の活動基地です。

 それなのに、その世界にない物質でもって首を絞め、お金、知識、力でもって首を絞めているのですか。あの世ではそのようなものは一つもありません。そのようなものは、るものが一つもありません。皆さん、この世ではお金、知識、力が必要ですが、あの世ではそのようなものは必要ありません。界のどんなものも皆さんを迎せず、界がいくら皆さんに心をもって一つになろうとしても、皆さんは何ももてないのです。本質とは反のこと、反的なこと、それでは一つになれないというのです。界が心をもてる位置と連結できません。

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 私が「このような人にいたい」と言えば、すぐ前に現れるのです。「あなたがこれこれこういう人ですか」、「はい、百、千年前に私は地上のどんな所で暮らしていた。私にいたいですか。私に尋ねてみたいことがありますか」、「はい、あります。私はこのようにえました。私とあなたがどんなに違いますか! 分かりますか」と言いながら、話をぴいぴいと交わすことができます。時間がかかりません。始めるや否やすぐに分かるようになるのです。この世に住むというのはどんなに不便でしょうか! 車が必要ありません。愛の感情は、あらゆるものをつくることができます。念をもってあらゆるものをつくることができます。の愛の念を中心として何でもみなつくることができます。

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 今から何百年前、八百年前、一千万年前に生きた人間もてあいさつするのです。聖書では人類史が六千年となっていますが、とんでもないことです。何千年前と今の時がどれほどわったかというのです。その時の人は、今生きている人よりも心では神をよく感じることができたというのです。しかし、文化生活の面では反なのです。的世界の啓は文化生活とともになされてくるものです。そうでしょう。

 知識に通じれば知識の尺度によって理解し、すべてのものを分析するにおいて敏だというのです。したがって、感を感得できる基盤がもっ大していくというのです。ですから今後は、自然にそのような知識があり、世界の行く末を憂慮する人にはあらかじめ界からえてくれるのです。波を通じてどのようになるのか分かるのです。最高の位置に行けば、終わりは一つしかないでしょう。同じなのです。

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 「誰にいたい」と言えば、何億万里、何百万里離れていたとしてもすぐに現れます。い天にいたとして、「自分がいたい人、自分が愛した人にいたい」とぴたっと情を整えて言えば、その場で相手が現れるのです。それはどんなにいいですか。そうでしょう。さっと現れればに自分がどの級にいるということが分かります。「私はどのような級だ」と知っています。自分が高いか低いか分かります。いくら親しい友人でも、自分のほうが天の前に愛の級が高ければ、るや否やあいさつするのです。いくらお母さんでも、それよりもっと先祖でもあいさつするのです。そのような世界なのです。

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 考えてみなさい。ここでは御飯を食べて暮らすことが心配でしょう。ですから、自動車工場、肥料工場、服の工場、食べ物を作る工場など、工場が必要でしょう。家でも食べ物ゆえに大ぎするでしょう。界に行けばそれはすべてありません。自動車が必要なく、飛行機が必要ありません。一瞬のうちに億万里でも行けるのです。太陽の光よりもっと速いのが力です。神が造った太陽の光だけでも一秒間に三億メトルを走ります。電もそうでしょう。光の速度も同じです。ところが、神の本然的な愛の力、生命の力というものは、それより何千倍もさらに速いというのです。

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 界に行って、ある家に暮らす人の級が自分より低い時は、その家が良い家であればその良い家を私の家にできます。さっと訪ねていけば、主人はにちらっと見れば分かるのです。額をちらっと見れば、顔をちらっと見れば分かるのです。さっと見て自分より高い人なら自分の茶の間に案するのです。「いらっしゃいませ」と言って案するのです。

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 神の息子、娘になれば、その膨大な宇宙がすべて自分のものになるのです。皆さん、界に行けば先生についていきたいでしょう。ついていけません。先生が行く所に皆さんはついてくることができません。皆さんは心情の門がいのです。の愛は大きな門でも小さな門でも自由自在に行けます。の愛でなければそれはできません。この位置は全体を代表した位置です。それゆえに、どこにでも入っていくことができ、どこにでも出掛けることができます。

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 どれほど人類を愛したのか、神が愛を中心として創造した被造物に接する時、神のようにどのように愛したのかということがすべての測定基準です。すぐに分かります。コンピュ以上です。嫁に行った女性は、自分の夫がどれくらい愛しているかということについて誇るでしょう。あの世では、神の愛を中心として、神の愛をどれだけ受けた人なのかということが誇りです。本然のの愛、これが高い級の愛なのです。これによって等級が決定するのです。

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 天に神の心情の架け橋があれば、どのように上がっていくのでしょうか。ヘリコプタのようなものにって行ったりたりしながら上がっていくのでしょうか。エレベ式に直線で上がっていくのでしょうか。ヘリコプタ式ですか。エレベ式です。万年エレベです。垂直です。神の愛に接するためには垂直線に入っていかなければなりません。

 聖書に「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二三七)と記されています。それは何だと思いますか。すべてのものの中心は愛だというのです。それで、あらゆる作用と意識のすべてを一つにして「主なるあなたの神を愛することしかない」と言う時、ここでエレベって垂直に上がっていくのです。そのような驚くべき世界を知らなければなりません。

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 あの世、界に行けばそうです。誰でも九度になれば、東西南北のどこに行ってもきちっと合います。ある社多くのクラブになっている社、千態万の社…。皆さん、ここに何名いますか。およそ五百名集まったとすれば、五百のタイプがあるのです。各みな違うでしょう。似たグルプにみんな集まります。それはコンピュ以上に分析されています。さっと行けば、さっと過ぎればに自分の角度が分かります。一週間以にすべての背後まで、あの秘密世界の倉庫の底までのぞきます。言葉が必要ありません。心で言おうとすることを感じるのです。コンピュのおじいさんのような世界なのです。

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 神も愛のために創造したということは知っているでしょう。神「一番好きなものは何か」と聞いてみれば、どのように答えるでしょうか。神は好きなものはありません。お金も必要なく、知識も必要なく、力も必要ありません。何が必要ですか。愛の中にはお金もあり、知識もあり、力もあります。愛の力が万年力です。本に愛を知っている人は天上世界に行ってぶことがありません。そのような人はいつでも神の心の中を出たり入ったりします。神の体を通して東西南北思いどおりに行きできます。これが中央停留所のようになっています。そこに入って出てくる時は、東西南北の力が集中するために力な力で出てきます。低いも、その中央を通って出てくる時は、高い神等な位置に上がっていくのです。愛にはこのような偉大な力があります。

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 私は、今日世界で電とか、宇宙とか、何だといって大ぎすることが、愛の理想世界を成し遂げるための一つの的な潤滑のようなものだと考えます。このような時、皆さんは「アメン」と言わなければなりません。そうだとすれば、その世界は愛の電で充した世界という結論が出てくるのです。界という所が愛の電で充した世界ではないかというのです。そうだとすれば、この世でも愛の電でできないことがなく、調和が起こるのです。愛の電ならばできないことがないというのです。

 ここで私たちは、今私たちの意識構造をもって理できる可能界だということを、決定づけることができるのではないかと思うのです。それでは、界とは何ですか。永遠な要素を願う永遠な所です。それゆえにここで愛を体した人体は、間違いなく自動的に磁石に引かれてその世界へ行くはずです。それを自分が感じた界に行くというのです。



 3.界の空は愛である


 界はどのような組織からなっているかといえば、あの世は空が愛です。愛が空になっています。心と体が愛の感を受けて和することのできる要素として、この地上で体恤されなければなりません。体恤をつくっておけば、そのまま通じない所がないというのです。木の樹液が木の芽と根に通じるように通じるのです。神が喜ぶのを自然に感じます。東方で神の祝宴が催されるのが分かるのです。そこに行こうとすればさっと行けます。自由天地です。

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 界で呼吸する空は愛からなっています。愛によりすべてのものが生まれ、愛によって生き、愛によって「ため」に生き、愛の道理で和してその容をたしてこそ、神が今まで史時代に願った希望の体を完成したという格位を備えるようになり、天のどこに行っても迎されるのです。

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 界は愛の成分で覆われている所です。地球は空で覆われていますが、界は愛で包まれている所です。人間は、地上では空を吸ってガスを吐き出すのですが、界は愛を吸って生きるようになっています。界は、今日のような人間の世俗的な愛を中心として授け受けするようにはなっていません。界でえ受ける愛はの愛なのです。

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 皆さんをたたいて純金をつくらなければなりません。純金をつくらなければなりません。そして、牲になりなさいというのです。自分を牲にしなさいというのです。自分がなくなるように死になさいというのです。自分をなくしなさい、自分を牲にしなさい、牲にしなさい、なくしなさい、ゼロになりなさいというのです。このごろ、なぜ宇宙時代に入り、電時代に入ったのでしょうか。このような時代が近いからそうなのです。「原理」で言えば、る前に外的なもの、カイン的なものが先にるというのです。この世がカイン的なのです。このように見ると、神の愛の電気学を語ることにおいては、レバレンドンが先祖になることでしょう。

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 界に行けば、原則にどれだけ同化し、どれだけ一致にしたかということが地獄から中間界、園、天まですべて連結されるのです。そのような原則がなければならないのではないでしょうか。だからといって、アメリカ大統領をし、世界的なノベル賞ももらい、世界的に有名な者だといって界に行けば、天に行けるのでしょうか。行くことができないのです。通ることができますか。

 それゆえに、宗界はすべてのものを捨てて行きなさいとえるのです。すべて捨てていかなければなりません。それでは、何が最も貴いのでしょうか。天のためにどれほど苦痛を受け、この世界のためにどれほど苦痛を受け、どれほどを流したか、それがあの世をパスするチケットです。これは間違いありません。絶的だというのです。これは理論に合うのです。

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 界で、永遠の世界に拍子を合わせるために、再生のために息が詰まり、窒息して注射を打ち、酸素呼吸する皆さんになりますか、自由に活動できる、自由な神の愛ので暮らすことのできる皆さんになりますか。ここは世界のために生きなければならないので、これが生涯の行く道です。将来のために行くことが、生涯において行くべき必然的な道だということを皆さんは知らなければなりません。



 4.人たちの生、人たちの相互


 神は、天地を創造なさった方であり、この世の存在の起源となる一番の母体となられる方です。その方は存在値の起源です。その方がいらっしゃるので、今日この現象世界が始まったのです。そのような絶的な方は、ある時代に化があるといってわる方ではありません。絶的なものはわることはありません。また、時間や空間に制限されることもありません。すべての制限を超越した位置で、すべての制限を主管される方です。

 そのような方が誰ですか。「神」とだけ言うのではありません。その方は「お父」です。皆さんは「父なる神」と呼ばなければなりません。神を何と呼ばなければなりませんか。そのお父は皆さんを生んでくれたお父さんです。人間が落したがゆえに、「再び産む」という言葉が必要なのであって、その方は本皆さんを産んだお父さんです。肉身のお父さんは皆さんを仲介するお父さんです。そのお父さんは界に行けば、お父さんというのではなくお兄さんと呼ぶようになっているというのです。お母さんもお母さんと呼ぶようになっていないというのです。

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 界に行けば、アダムとエバも神して「お父」と言い、千万代の子孫である皆さんも神して「お父」と言うでしょう。「兄なる神」と祈しますか、「父なる神」と祈しますか。それでは、自分のお父さんは何になりますか。界に行けば、お父が何になりますか。お兄さんです。お兄さんとは何ですか。私より先に生まれたのがお兄さんです。私より先に生まれたのがお兄さんだというのです。それで、的なお兄さんが神で、外的なお兄さんが自分のお父さんだというのです。それ以上の理論を立てることができないことを知らなければなりません。

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 父母の根をもった人が、神を何と呼びますか。キリストで呼ぶようにみんなが神を「お父」と呼びます。一軒の中でおじいさんも神を「お父」と呼び、お父さんも神を「お父」と呼びます。孫もやはり神を「お父」と呼びます。家族みんなが神を「お父」と呼びます。このように神は、すべての人間にとってお父になられる方です。したがって、神は人間にとってお父になり、人間はお互い兄弟になるのです。先生は時、本にそのようになるなら、界に行けばにおもしろいだろうと思うのです。

             *

 私たちの最初の先祖まで私が見ることができるのに、先祖を造られた神は見ることができないのでしょうか。神も見ることができるのです。それは何の話か分かりますか。ですから、家庭というものは何かというと、見えない神の愛の表現場所です。愛を中心として史時代に生きたすべての先祖は、愛の統治をあの世で受けているのです。同じ愛です。

             *

 すべての家庭がの愛で一つになって界に入っていけば、神の血肉を食べて永遠に生きるのです。そこに入っていけば農作業もなく仕事がありません。の愛の食べ物はにおいをかいでも永遠に生きることができ、見るだけでもおいしいというのです。愛の食べ物を分けて食べるのです。神の体、血肉と愛を分けてもらって生きるのです。

             *

 神とは誰ですか。あなたの友人です! 最も高い友人だというのです。そして、お兄さん、お父さん、王であり、創造主です。ですから、皆さんが膨大な界の天世界に入っていくようになって、そこでそれ以上のものを神に願ったとしても神がつくってくれるというのです。それは問題ないというのです。それはどんなに誇らしいでしょうか。その位置は神の代わりの位置です。その位置に行った人間を神が憎むでしょうか。いいえ、「私の息子、ナンバワン、私の息子!」と迎するというのです。これが父母が願う最高の望みです。

             *

 地上世界で親子係の愛を貴く思うように、愛をもって生きていけば、天上世界でも神を父母として侍って息子、娘のような立場で生きることになるのです。これが落しない家庭で生きる生活と同じであり、性格、性稟が似たのであらゆる方面でうのです。

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 落しない家庭は、界と肉界のすべてに通じることができます。「おじいさんのお父さんは誰ですか」と言えば、見ることができるというのです。また、そのおじいさんのおじいさんが誰なのか、四代の先祖が誰なのか、五代の先祖、百代の先祖、千代の先祖、その次の先祖まで見ることができるのです。

 そして、「アダムとエバがどんな顔つきか」と考えれば「こんな顔だ」と現れるのです。「私の目もアダム、エバに似たなあ、私の鼻も似ているなあ、私の口も似ているなあ」と言うのです。輪郭が似ているでしょう。顔にあるものの種類は四種類しかありません。もっとありますか。目、鼻、耳、口の四種類でしょう。「ああ、手足も同じだ! 私のように目もぱちぱちしますね! 言葉も話しますね! 似ている! ああ、こんなに似ているんだなあ!」と言うのです。

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 あの世では、しわくちゃのおばあさん、おじいさんが皆さんよりもっと美しいのです。もっときれいなのです。愛があればそのような世界にとどまることができるのです。そこは統一された世界で、とても美しい世界です。それで、おばあさん、おじいさんにって昔のおじいさん、おばあさんのように思って行動できますか。美しいおじいさん、おばあさんを見ればどんなにいいでしょうか。

 さあ、それではその時に見るものが……。孫娘がて、おばあさん、おじいさんにおうと叫んでいるのが界では見ものです。そのおじいさんの上のおじいさんは誰ですか。自分の先祖のおじいさんは誰ですか。一番最初のおじいさんが誰かといえば神です。それで、おじいさんが喜んで「神、ああ、とっても良いです」と言えば、神が「ウェルカム」と言うのです。大で「ハハハハ!」と言えば、神が「うん、そうだとも!」と言うのです。

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 皆さんが界に行って見れば、この地で生きた皆さんのおじいさんやお父さんを見分けられません。なぜなら、そのおじいさんとお父さんが若くてすてきな姿にわっているからです。年老いた姿ではありません。そのように若いおじいさんだから、初めは見分けられないけれども、徐に徐に話をしてみれば、「そうだ、それは合っている。だから私のおじいさんだ」と言って抱き締めるのです。そのような世界なのです。

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 界に行けば、皆さんの顔は最も美しい二十代の春にるのです。愛の花をかせることができ、香りを漂わせることのできる時期が創造の原則であるゆえに、その本である天に入っていくようになれば、そのような顔でるのです。それで、世の中で年老いた人があの世に行けばっても分からないのです。二十代の年の顔にるからです。知っているのは八十になった老人として知っているのに、その老人はいないのです。ですから分かりません。世界の有名な史的な人物もあの世に行っているのに分からないのです。写真を見てその時死んでいった年を知っているけれども、最も美しい時にっていくので分からないのです。

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 界で最も近い兄弟は誰でしょうか。界で最も近い兄弟は的な兄弟ではありません。この世で親子の係と兄弟の係の中でどのような係がもっと近いですか。兄弟の係より親子の係がより近いので界に行っても私のお父さんが最も近く、その次はおじいさん、その次はおじいさんのおじいさん、またその上のおじいさんになるでしょう。そのように上がっていけば最後のおじいさんが誰でしょうか。その方が正に神です。

 したがって皆さんは、この世に友人がいないと寂しく思うこともなく、一人暮らしをしていて死んだとしても悲しむこともありません。界に行けば上を見ても、を見ても近い兄弟が無尽蔵にいます。しかし、兄弟にただそのままなるのではありません。神を父として侍ることのできる特を備えてこそ、このあらゆる人と兄弟になれるのです。

 お父さんをお兄さんとし、おじいさんをお兄さんとしたからといって、分がいことがあるでしょうか。分が良いでしょうか、いでしょうか。考え方によれば分がいのです。世の中ではお父さんと呼ぶのに、界にたからといってお兄さんと呼ぶのですから、お父さんはどれほど分がいでしょうか。しかし、そのように呼ばなければなりません。

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 界に行けば人はどうでしょうか。人は人でしょうか、どうでしょうか。自分の願いどおりに、人が白人の姿になろうとするならいくらでもなれるのです。人間の世界で成し遂げられるただ一つの問題は何ですか。光が明るくなければなりません。何の光がですか。愛の光です。愛の光が明るくなるためには、的にも外的にも燃えなければなりません。愛するための動力によって燃えなければなりません。東西にたくさん吹き出さなければなりません。そのようにできる愛だというのです。そのようなことをすべて知って見ると、世の中の万事は過ぎゆく一つの旅行集です。

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 天において美しい人になろうとするなら、愛の花がぱっといてそこに和合し、相的世界で花の美しさを現し、花の香りを漂わせ、その花を通じた新しい種をもつことができる、このような姿で地上で生きなければならないのです。そのように生きて界に行けば、永遠の世界でもそのような姿で現れるのです。

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 界に行って、自分の夫と地上で愛した愛より大したい、より刺激したいと思うようになるのです。界に行けば、愛する女性がいればその中に男性がいるのです。

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 夫婦の愛はどの境地まで入っていくのでしょうか。界に行けばこうです。私は座っていても夫がけば、私も心できます。ってくれば、心でってくるのが分かるのです。心の中で夫と一いているのです。どこからるのかをすべて知っていて、どこへ行くのかをすべて知っています。この世では、男性が酒場に行ってどこに行くか、女性は知らないからえんえんと泣いてだまされるではないですか。しかし、界に行けばすべて分かるのです。

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 皆さんは、あの世、界に行って神に似なければなりません。神るのです。神の二性性相、性相と形がぴたっと一つになっているように、男性、女性が完全に一つになってそのを覆うようになる時、この二人が一つになったその基盤の上で神るのです。

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 界に行けば、本に一心同体になった夫婦は、いつでも男性が女性になり、女性が男性になることができるのです。「愛は一体」と言うでしょう。女性の心をのぞいてみれば男性が入っています。夫が入っているのです。神の二性性相とちょうど同じです。性相と形、それが分かれて出てきたのですから、その本体にるには愛の架け橋を渡らなければいけないでしょう。創造の基準が愛から始まったので、この架け橋を渡ってらなければなりません。結局、終着点では神のようになるのです。

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 男性が地上でしく生きて界に行き、さっと見れば、男性の中に女性がいるというのです。「あの女性は誰ですか」と聞けば「私の妻です」と答えるのです。また、女性の中に男性が見えるというのです。このようにして二人が一つになれば、東西南北の方になるというのです。男性、女性、二人でしょう。男性と女性のプラスマイナスで東西南北になれば、神にしっかりと侍るというのです。神が垣根になるというのです。

 そうすることができれば、神が私の神です。共に生きるのです。父母が年を取って百を越えれば、八十になった息子と友達になるのを知っていますか。「や、息子や!」とそのように言いません。「おい、君」と呼ぶのです。友人として呼ぶのです。神らなければなりません。

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 の愛を実践する夫婦は、神が本性相と本形としてあられるように、界に行けば神の本然的な基準に入っていくようになるのです。本然的で絶的な神の愛には絶されるので、彼ら夫婦も本然的な基準に達するようになり、その点は一点であるから彼らは神化するのです。神るのです。アルファとオメガです。

 それを何が可能にするかと言えば、の愛です。世の中に生まれた息子、娘は父母にるでしょう。同じ理屈です。それゆえに界に行ってこの地上で仲良く生きた人をちらっと見れば、男性に見えるのに、じっとよく見れば女性が笑顔でその中にいます。それが愛した妻だというのです。それが最高の理想です。そうすれば神の友人になるのです。それでこそ共に生きるのです。愛ゆえに生まれたのです。

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 界では、愛を中心として神が私たち人間と和し、人間は神と愛で一つになるのです。神化するというのです。神の二性性相が分立されたことを見ると、完全に愛によって一つになれば、界に行ってみれば二人が一つになっているのです。ただ見れば明らかに男性ですが、じっとよく見ればその中に女性が座っているというのです。愛の目はすべて統一です。憎い人もきれいに見え、きれいな人も憎く見えますか。きれいに見えるのです。

             *

 の愛の相になろうとすれば、零の位置に立たなければなりません。そのようになる時、神が「良し良し」と言い、地上世界を見る時は地上の太陽のように光るのです。その二つが爆する瞬間、界の神の目もあっと驚くというのです。神が「良し」と言うのです。それが信号弾なのです。神がその信号弾を受けて零の位置で完全に開き、太陽のように光る愛の火がぼうぼうと勢いよく燃える所にお出ましになり、その中に入っていき初めての夜を過ごしたいというのです。

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 界がそうです。何千、何億万里離れていた人が、ここにて心情基準が合うので離れることを嫌がるのです。「ああ、早く行ってくれたら!」とは思わないのです。その世界では、御飯のようなものが必要ありません。すべてのものが自らの直感で解決するのです。それは愛の直感です。このようなあらゆる愛の体恤を中心として万大していくのです。そうして神の代わりの心情さえもつようになれば、その下にすべての必要な存在が集まり、そこに千万人を一度にたせる演壇ができるのです。

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 神は、他の所にいるのではありません。神はどこにいらっしゃるのでしょうか。「在らざる所無し」という言葉は、神はどこにでもいるのではないというのです。愛がある所にいるということです。これを知らなければなりません。愛を中心としては「在らざる所無し」ということです。私も愛を中心としては「在らざる所無し」と言えます。特です。それゆえに愛がある所には主人がいます。よく主人を知っているから主客は倒できません。あの世はそのようになっているのです。愛を基調に、すべてのものが操されるようになっているのです。

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 それでは、男性とは何ですか。これは半分だけです。女性は何ですか。これも半分です。また、いくら至高な神であっても神にも象がいなければなりません。それゆえに、上は下が必要であり、下は上が必要なのです。界とは何ですか。界は半分の世界です。肉界も半分の世界です。

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 界に行ってもそうです。界に行ってどのようにするのでしょうか。史時代のすべての人、今後全世界的な版を越えてみんなにってどのように生きるのでしょうか。お互い「ため」に生きるのです。界に行ってもやはり理想的な愛を中心として、これを再現する生活をするのです。ですから同じようにもっと高い、値あるものに私が投入するのです。それがうれしいというのです。

 界は肉界の延長です。平面的な面の愛の理想を地上で追求したとすれば、界に行ったらしく、天のより深い立体的な外郭的な球形だけではなく、外郭的な球形と角の核心まで通じなければなりません。ですから、結局は深く、く、高く、低く、すべての面に愛を投入できるそのような行動をしなければならないというのです。神の代わりに再創造するそのような生活をしなければならないというのです。

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 界を動かせる代表者になりたいですか。人種主義者は力を揮できないのです。また、人本主義者も力を出せず、物本主義者も力を出せず、派主義者も力を揮できません。ひとえに統一主義だけが力を揮できるのです。界に行ったと考えてみましょう。界では食べるものの心配がなく、着るものも心配ありません。暮らすことも心配がありません。そこでは趣味が何でしょうか。神を中心としてバンケット()に加すること、神を中心として喜べる集いに加すること以外には希望がないことを知らなければなりません。神を中心とした祝宴に加することだけが最高の理想です。そこに愛があり、そこに喜びがあり、そこから幸福の起源が生ずるのです。

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 界に行けば何百里、何千万里から一瞬のうちにるのです。さっとえば、額を見れば分かるのです。どこからたのか、見てから頭を下げ……。これが通じません。何百年前の人でも、愛の人格基準が高ければ、うと、相手が先に頭を下げるのです。何をもって感動するのかといえば愛です。愛でもってどれほど人類を愛し、神が愛を中心として創造した被造物に接する時、神のようにどのように愛するかということがすべて測定基準です。すぐに分かります。コンピュ以上です。

 嫁いでいった女性が、自分の夫がどれほど愛するかということについてを誇るでしょう。あの世では、神の愛を中心として神の愛をどれだけ受けた人かということが誇りです。本然のの愛、これが高い級の愛なのです。これによって等級が決定するのです。

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 本質的な本然の愛を実践すれば、年老いた人にでも花がくのです。ですから、界に行けばすべて春です。思春期の最もかわいかったその時の姿で行って、とどまります。ですから愛が偉大です。それが信じられなければ、きょうにでも腹を切って死んでみなさい。うそか、本か。若くなれば本にいいでしょう。



 5.界での衣食住問題は自由自在


 あの世の生活はどうでしょうか。食べるものも心配ありません。住むのも心配ありません。着るものも心配ありません。なぜでしょうか。自らの心霊状態のままに願うすべてのものが可能だからです。あの世でも食べます。あの世でも自分をってみれば血管が、脈拍が走るのが分かります。同じです。的な体ですが同じなのです。私が「何を食べたい」と言えばすぐに現れます。「このような物を食べたい」と言えばすぐに現れます。それはどこからるのでしょうか。根源世界を動員できる能動的な自主性を行使できる世界が界です。ですから、全体を動員できる主体的な能動をもったものとは何ですか。力でもなく、知識でもなく、お金をもった勢力でもありません。愛です。

             *

 神が創造したこの巨大な宇宙! そこには自動車もなく、食店もありません。しかし、私たちは、界でまるで創造主であられる神のようにあらゆる種類のものを、の愛の念を中心として創出することができるように、愛を中心として本の力を揮してすべてのものをつくることができるのです。私が愛を中心としてこのようなもの、あのようなものなどを指摘すれば、在物が完全に姿を現すことができるのです。「どのような工具、現れなさい!」と言えば、正にその工具が生じるのです。どんなにすごいでしょうか。

 また、晩餐場に十、百万名加した時「このような食べ物を準備しなければ」と願いさえすれば、食事が問題なく出てくるのです。金色の正装を願えば、すぐにそのような正装が出てくるのです。どんなに素晴らしく、すごいことでしょうか! それは本に良いのです!

             *

 考えてみてください。あの世に自動車工場があるでしょうか、ないでしょうか。このような物にって一瞬のうちに、一秒間に何億万キロを行くことができます。先生がそのようなことをはっきりと知っているので、地上で生きたいと思わないのです。その膨大な世界が、愛を中心としてすべて編成されているというのです。その愛に和した神の心情をしっかりと所持すればすべて終わります。創造史は永遠にくのです。そのような愛の心に和して、自分が構想したすべてのことをしなければなりません。瞬時にしっかりと決心して命令すれば、すぐに展開します。

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 界に行けば小便をするでしょうか、しないでしょうか。今度行ってみなさい。私は小便をすると思いますが、しないと思う人は、小便をするか、しないか、行ってみなさい。それでは、大便をするでしょうか、しないでしょうか。みんなします。みんなするけれど、すぐ元素にります。宇宙の根本元素が百七個だと言いますが、どんどんえていますね。その元素にります。したがって、掃除する必要がありません。愛の心をもって手入れをすれば、きれいに本故るのです。それから愛の心で「何出てこい、何出てこい、何出てこい」と言えば、すっと出てきます。愛の心で言えば、すべてのものが出動可能です。

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 あの世にパン工場があるでしょうか、ないでしょうか。コラとかジュスを作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。どうしてないのですか。分からないでしょう。そこに自動車を造る工場があるでしょうか、ないでしょうか。あの世に行って「私は、いい車にり回るんだ」と言って、こうしてりますか。ここではベンツにって、何がどうだこうだと誇りますが、そこではそれはすべて必要ありません。

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 永遠に目を開けることができ、永遠に聞くことができ、永遠に食べないでいることができるのに御飯など……。ああ、今が良いのに、御飯を食べなさいと言われて食べるでしょうか。御飯を食べなさいと言えば食べますか。私は食べません。服を着るのも、私の思いどおりに服を着ることができるのです。

 「けさは、すべて金の服を着なさい。さあ、ダイヤモンドの何カラットをつけなさい。英の王妃は五百十七カラットをもちましたが、それ以上の一万七千カラットのものをつけなさい」と言えば、さっと! そのようなものは、みんなもつことができます。あらゆるのものをつくることができます。そのように見ると、レバレンドンは妄想家なのです。しかし、可能な理論圏内で話しているということを皆さんは知らなければなりません。

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 界という所は愛の空で充した所であるという念を、私たちがこの地上にある認識構造をもって見つけることができるというのです。愛の神が愛の心をもって、世界人類を一度にすべて食べさせたくて、喜ばせたくて「御飯よ出てきなさい」と言えば出てくるのです。界でも食べさせなければならないので、そのようにするというのです。それゆえに、愛の食べ物を食べるのです。お互いに見るのも愛の目で見て、すべてそのようにするというのです。

 みんなたたかれてけがをしても、またたたかれようとするのです。形容し難いほど不思議な所です。聞いても、もっと何度も聞きたくて、眠いとか、疲だとか、何だという念はあり得ないのです。疲れる余裕があり、興奮する何かがなければならないでしょう。退屈で妨害する何かがなければらないでしょう。それがないのに、どうして疲れるでしょうか。

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 界では、衣食住は問題になりません。衣食住は完全に自由自在です。愛の一体、神の相対圏に立てば、神ができることもできます。何でもできるのです。何億万年の月も一瞬にして超越できます。愛の速度は超スピドです。愛する人がいる所に行って時、時間がかからないのです。すぐ行ってることができます。ですから、愛の相者にうことは瞬間です。そこは絶対圏なので何の障害もありません。そのような限界を越えた世界、時空を超越した世界なのです。そのような無限の世界が人間のために準備されているということを知っている人はいません。の父母によってそのようなことを知るようになりました。

             *

 界に行けば何を中心として生きているか知っていますか。界には工場があるでしょうか、ないでしょうか。界に自動車があるでしょうか、ないでしょうか。消耗品工場があるでしょうか、ないでしょうか。界で御飯を食べるでしょうか、食べないでしょうか。服を着るでしょうか、着ないでしょうか。このようなものは界にはありませんが、自分の人格構造が神象的値基準をもてば、神ができる能力を受けぐことができるのです。

 界では百万名が一瞬のうちにバンケット(宴)を行うことができます。自分がの愛の心をもって「彼らをこのように食べさせなければならない」という、神のように本に愛する心がしっかりとできていれば、万事が不可能ではありません。それゆえに愛の園で、愛の世界で泳ぎ、愛の世界でそのすべての波長に拍子を合わせることのできる生活の訓練をした人は、神の心の中にも入っていくことができるのです。なぜですか。の愛の波長は同じなので、相いれないことは起こらないのです。

             *

 界に行けば食べることだけでも「今日はこのような食べ物で……」と言えば願いどおりにすぐ現れ、愛する人にいたければ「さっ」と一体化してこのようにめばすぐに現れるのです。そして、一瞬にして何万、何十万のバンケットムを造ることもできるのです。これは構ではなく、理論自体がそのようになっています。そして、そこでは食べてったものは原形にります。元の態の元素にるのです。そのように便利な所です。ですから、先生が行く所は、天宙すべてが慕ってっていこうとする、そのような所です。

             *

 創造理想世界では天が我が家です。そのように膨大な天ですが、それが私の生活の舞台になっているのです。私のではありません。には制度も多く、職種も多いでしょう。しかし、界はそうではありません。純です。考えてみなさい。界に経済支援する工場があるでしょうか、ないでしょうか。服を作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。御飯を作る工場があるでしょうか、ないでしょうか。

 生活必需品やこの世で必要な物は一つも必要ありません。ですから工場があるでしょうか、ないでしょうか。花だけく理想的な社だというのです。食べるものはいつでも食べられるようになっています。自分の考えるものがぴたりと現れるのです。食べて余れば……。そこにはごみ箱があるでしょうか、ないでしょうか。ごみ箱がありません。手ぶりさえすれば元素にる世界です。

             *

 天の永遠な世界、あの世に行けば政治体制はあるのです。経済体制は必要もないのです。いつでも自分が必要とする物はすべて供給できるようになっています。経済的なことは副次的な問題です。界に行く時、米を入れるひさごを持って入っていくと思っていますか。人から食べ物をんでもらって生活をしていくと思いますか。界は食べたければすぐ御飯が現れるというのです。それを食べしても「零にれ」と言えばるのです。ですから、すべて人格的な能力をもって活用できる象にすぎないのであって、それが主体的な影響は何にも及ばないのです。

             *

 界がどんなにいいかは、言葉ではすべてを言い表せません。そこは衣食住が心配ない所です。家もみんなあり、服もすべてあり、食べる物もすべてあって自分が願うとおりにできます。愛の心情の容によって相的基準を自由に供給できるのです。愛を中心として完成した人格基準によって、その相的環境要件を自由に補給できるというのです。私がていても朝御飯、夕御飯を食べることのできる場所に体が引っ張られていくというのです。界を見ればそうだというのです。そのように自由だというのです。ながらも食べたりたり、また、思いどおりに訪ねていくのです。体がそのようになっているというのです。

             *

 界に行けばどのようになりますか。そこでは食べることが心配ありません。稼ぎません。あの世に行けば稼ぐ必要がありません。食べたい時はいつでも食べることができます。におもしろいことに、食べたあと、そのかすはどのようにするのでしょうか。「れ」と言えば元素にります。根本の世界、元素にってしまいます。そのようなことが可能な世界で、四方八方に起動することのできる人とはどんな人ですか。神の愛を中心としていしれる生活をする人です。全知全能な神の愛を中心とした理想が、あらゆる方面に現される所が界なので、神の愛を中心としていしれて生きた人間が主導的な立場に立つのです。

             *

 界では元素を吸います。水であれば水の元素をみます。元素のようなものを知っていますか。そして、思う存分食べて手ぶりさえすれば元素にります。ごみ箱がありません。

             *

 界に行けば仕事が必要ですか。そこでも八時間仕事をしなければなりませんか。夜がありますか。夜がないのです。いつも目めているのです。いつもこのすべての器官がいているのに、何をするのですか。どんなことをしますか。永遠に目を開けていても、永遠になくても喜べるようなものとは何ですか。愛です。そのような愛の理想だけしっかりともっていれば「や、何出てきなさい!」と言えば、すぐに出てくるのです。ここに一万名が集まれば「一万名の食堂と食卓準備!」と言えばすぐに準備できるのです。

             *

 界にも空がなければならないでしょうか、あってはならないでしょうか。なぜ空が必要ですか。呼吸をしないで暮らせばどんなにいいですか。なぜですか。どうしてですか。呼吸をしないで生きれば大きくなることができません。二つの世界を連結させることができません。二つの世界を連結させなければなりません。肉身と魂を連結させなければならないのです。人体も大きくなろうとするなら、体が大きくならなければなりません。固着してはなりません。それならどのようにしなければなりませんか。見えないものも、神が見えない愛の空で呼吸するのと同じように、生命の源泉となる元素の供給をするのです。

             *

 この目がぱちぱち瞬きするのは、この世の空中にあるほこりが入るのではないかとそのように瞬きするのです。界にはほこりがありますか、ないですか。界では神が目を千年万年開けている、それは分が良いですか。地上では、習慣性でぱちぱち瞬きしたので、界にほこりがなくても瞬きしなければならないのです。なぜですか。私たちに似たからです。

             *

 界に行ってみたいですか、行ってみたくないですか。文裁がうそをついているかもしれないでしょう。うそでも神の言葉のように信じれば、神は創造の能力があるので、彼が願う以上のものをつくることができる主体であることを知らなければなりません。魔が「や、神がこのように言った」と言うならば、魔が言う以上のことまで信じて行動すれば、神は創造して成し遂げることのできる道がいくらでもあるというのです。



 6.界の力は愛の力である


 界に行ってみれば、お金が必要ありません。知識が必要ありません。私が行ってみるとそうです。力が必要ありません。お金を創造して余りあり、ダイヤモンドも創造できる神です。絶者です。知識の大王です。力の大王です。それをいつも春夏秋冬、四季を超えて永遠に自由自在に行使できる方です。その方に何が必要でしょうか。

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 界に行けば天上世界に、無限なる世界に百億の人類が生きています。そこに行けばえない人がいないのです。皆さんは史をぶ必要がありません。そこで「誰にいたい」と言って誰かを呼び出す時、彼を愛する尺度があって呼んでこそ現れるのであって、私が欲をもって、その人が立派な博士だから「知識を得るために私がう」と考えれば絶に現れません。えないのです。愛がなければならないのです。彼がそのように有名な人になるまでの過去に苦した、その苦の代を認めて彼を愛する心で呼べば、東西四方、誰でもみんな接することができます。

             *

 お金、お金はいくらでも作ることができるのです。知識、神は知識の王です。力、大韓民の大統領になってみても……。このような話をして失になるかもしれませんが、小さい、ソ連の百分の一にしかならないの大統領が……。知識とお金と力は、一生において追求する値的なものの一部分にしかなりません。

 授の知識を千年万年誇ることができるでしょうか。もってきながら誇りますか。一生にとどまるのです。それが自分とともにあるのは一生だけです。お金もそうであり、知識もそうです。優れているという人を見れば、知識をもって優れているということであり、お金をもって優れているというではありませんか。力をもって優秀だというではありませんか。この世界ではそうかもしれませんが、神はそれを何の値もないと思うのです。界ではすべて無値なのです。

             *

 人間と史が何を中心として解決して完成しますか。神を知らなければなりません。神は、人格的な神でなければなりません。神が漠然としていてはいけないのです。私たち自身が具体的であり、知意を備えた人格的な人ならば、その主体であられる神も知意を備えた人格的な神であるというのです。そのように考えるのです。それでは、神がもっている多くの性の中で一番の中心とは何ですか。情だというのです。愛だというのです。神も生きることにおいて、愛が最も必要なのです。

 天では知識だけもって生きるのではありません。皆さんが界を知らないのでそう思わないのであって、界に行って知るということは一週間以ですべて終わります。心を鏡のように見ることのできる世界が界です。界はいくら優秀で、いくら立派な知識人がいるとしても、彼がもっている知識を一週間以に凌駕できる直感の世界です。心の光を通じて見るので、そこに連している因の世界は、自動的に分かるのです。それは情の心情を通して見てこそ、私と相係をもち、主体的係をもつのであって、知識であるとか他の性をもっては駄目だというのです。

             *

 知識とは何ですか。知識があることによって、知ることによってすべての環境的件を所有することになります。知識の中に最高の知識である愛さえもてば、天下がすべて連結します。知っている人が支配します。「知ることは力なり」と言ったでしょう。力のある人が支配するという論理です。ですから、愛をもった人は知識が必要ありません。あの世では、ばなくてもすべて分かります。

             *

 宇宙が私の活動基地です。ところが、その世界にない物質でもって首を絞めており、お金、知識、力でもって首を絞めています。その世界には、そのようなものは一つもありません。それによってるものが一つもないのです。皆さん、この世界ではお金、知識、力が必要だけれども、あの世にはそのようなものが必要ありません。今まで、サタン世界の人がそれを願っていたのです。

             *

 界でお金が必要ですか。食べる物、知識、力が必要ですか。それが必要ならば、願えば一瞬のうちに生じるのです。そこには食べ物の工場がありません。校もありません。力者もいません。ただ神が力の根源であられます。そこが私たちの永遠の故です。その安息の場が待っているのです。皆さんは誰しも願おうと願うまいとその場に行くのです。私はそれをよく知っています。

             *

 あの世では力が必要ありません。界は愛を中心とした和合力です。愛を中心とした感化力です。その世界はそのような世界です。したがって、愛を中心とした感化力をもてない人は、愛でもって感化できる本然の世界に行ったら、本質的に和合ができずに反するのです。それは地獄に行くのです。これは深刻な問題です。

             *

 愛を嫌う人は手をげてみなさい。お金はなければ稼げばいいのです。勉は今しなくても界に行ってすればいいのです。界では東大を卒業するのに、三日もかかりません。東大を卒業した基準を備えるのに三日もかかりません。心の中を見ながら、本心を話そうとすれば、先に聞くことができるのです。それゆえに、そこではすことができません。便利でしょう。最高の能力をもって分析できる力をもったコンピュでもついていけないというのです。

             *

 この宇宙のすべてのものは愛で連結されています。界も、万物もすべて愛によって連結されているのです。の愛を中心としてそのように連結しています。ですから、の愛さえもっていれば、どこでも連結することができます。の愛さえもっていれば、みんな頭を下げるのです。界に行けば育が必要ありません。誰でも一週間以に、東大を卒業した人より十倍たくさん知ることができるのです。東大を卒業したことを調しないでください。良心的な人は一瞬にしてすべて通じるのです。明が必要ありません。

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 界に行けば言葉はぶ必要がありません。一週間以にあらゆることを知るのです。心の中で考えることが、すべて分かるのです。話す前にすべて分かるのです。ですから、だますことができません。そのような世界で皆さんは、サチライトで照らしながら見守っているのです。その光の中で何の問題もなく無事通過して本の位置に接することができるかということが、人生の路程においての課題だということを知らなければなりません。

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 どれほどこの世は不便でしょうか! 稼ぎが必要でしょうか、必要ないでしょうか。勉が必要でしょうか、必要ないでしょうか。勉をしなくてもみんな分かります。言う前に心で、に分かっています。あの世に行けば、高い、低いということがすべて表示されているのです。ちらりと接すれば、すぐに分かります。ちらっと測定し、レベルを測るのです。東西南北がどのようになっているということを知っています。またこのようにじっとしていても、誰かが私を呼ぶのが分かります。そのような時には、私は無に入って相手を主体として立てるのです。愛の力を育ててつくられるのがあの世です。

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 界の組織とは何かといえば、生活を中心としてすべて系列になっているのであって、政治というものはないというのです。神の直の愛を中心としていて、力に軍事張であるとか政治的目的のために、この世では手段、方法を選ばないのですが、そのようなことがないのです。経済の平準化運動を中心として、どのように豊かな生活をするかということです。地上もそのようにならなければなりません。

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 神も愛ゆえに創造したということは知っているでしょう。神に「一番好きなものは何ですか」と聞いてみれば、どのように答えるでしょうか。神は好きなものはありません。お金も必要なく、知識も必要なく、力も必要ありません。統一教会の食口は何が必要ですか。同じです。愛の中にはお金もあり、知識もあり、力もあります。愛の力が万年力です。

 本に愛を知っている人は、天上世界に行ってぶことがありません。そのような人はいつでも神の心の中を出たり入ったりします。神の体を通して東西南北を思いのままに行きすることができます。これが中央停留所のようになっています。何の話か分かりますか。それがなぜ必要ですか。そこに入って出てくる時は、東西南北の力が集中するために、力な力によって出ます。低かったもその中央を通じて出てくる時は、高い神等な位置に上がるのです。愛にはこのような偉大な力があります。



 7.界は神の法則と秩序の世界


 この地球自体がそうですが、太陽自体も自しています。地球の百三十万倍にもなる質量をもった太陽が休みなしに動いているというのです。宇宙ではこのような太陽系の質量の二千億倍にもなる大な銀河系があります。このような銀河系を小宇宙と言いますが、宇宙には銀河系のような星雲がえきれないほどたくさんあります。これをまとめて大宇宙と言います。

 私たちはこのような大無な大宇宙の世界を、心をげて考えなければなりません。半だけでも千億光年にもなるものすごい大宇宙を創造された神は、その大宇宙をわらない法則に基づいて億千万年を動かしていらっしゃいます。私たちが考えることができず、感じることもできないほどに偉大な力をもって、このすべての天体を動かすというのです。

 このような宇宙を創造された神を考えれば考えるほど、私たちは、その雄さと偉大さに自然に頭を下げざるを得ません。このような大宇宙を創造なさったその方が私たちを見守ってくださるお父であり、私たちを保護してくださる神存なさる偉大な主人公であられるという事を、私たちは心をくして考えなければならないでしょう。

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 人が精密に計算してレルをつくっていくことは、汽車の速度が少しだけ違っても線して大ぎするのですが、大宇宙は自然の法則に一致してぴったりと合い、自然にります。この太陽系だけでも、太陽が大な九個の惑星を抱えてこのようにみんな回しているのに、そのような太陽系が一千億個も入っている大宇宙が、今でもあらゆるコスをたどりながら活動していると考えてみなさい。一千億個が入っているそのような宇宙があるというのです。それがすべて動いているというのです。これが「ただそのままできた」と言って、「自然だ」と言っています。

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 根本を明らかにしなければなりません。本然の神がいるなら、その神は絶的な方でなければなりません。唯一、不、永遠でなければならないのです。そうでなければなりません。神が定めた法則は絶的でなければなりません。それゆえに、この宇宙はその法則によって千年万年、何億万年運動をけるのです。動物世界や植物の世界もそのような科的公式の法則による基盤の上で存するのです。ですから、数学ですべて解くことができるのです。

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 人が死ねば界へ行かなければなりません。界に行けばどうですか。界はすべての秩序が構成された世界です。界を知らなければなりません。界はどのような世界ですか。理想世界であると同時にしっかりと秩序が構成された世界ですが、愛を中心とした世界です。呼吸は愛でするのです。ここでは空で呼吸するでしょう。魚は水で呼吸するでしょう。では、界では何によって呼吸するのですか。愛の呼吸です。愛によって呼吸するのです。

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 神は天地を何で主管するのでしょうか。法で主管するのですが、法も愛で主管する法です。そして、主管の方向を後援するために、宇宙の法則も存するというのです。それで、神がどうして人間を創造したのかといえば、愛が慕わしいからです。一人じっとしていればいいのに、何のためですか。刺激的で衝動的な愛が必要だからです。

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 多くの人界を体しています。その界は特別な世界です。それがどのような原則が起源になり、どのような結果で運行するというそのような膨大な背景を悟るということは極めて難しいということを知りました。皆さんが統一教会の主張している「原理」の容を見れば、界は、公式的な法則で私たちが認識できる圏内に入るという原則を知るようになるでしょう。その原則を明らかにしたという事は、今後の史時代に大きな問題になるだろうと考えています。

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 全宇宙が動くすべての法則を主管し、一方では人間を再創造し、その人間を神の代わりに全宇宙を主管する値的な存在として立てられるために、理なさったということが、どれほど驚くべきことであり、かつ有り難い事かを、皆さんは骨身にしみるほど感じたことがありますか。





 



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