Text Box: TP portrait  二 天と地獄


 1.天は愛の理想の世界


 天とは、どのような所ですか。神の愛が中心になっている所です。神の愛を中心とした環境を設定した所が天です。それでは、そのに行ってとどまる人は、どんな人でなければならないのでしょうか。神の愛の本質と和合できる人にならなければなりません。そのような人以外には行くことはできません。

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 天は「ため」に生きる世界であるので、「ため」に生きようという念のみを中心として行かなければなりません。「自分が受ける」という考えをもてばれていくのです。天は、神の愛が充した世界です。愛の本質は受けるというのではなく、全体のために生きるということです。したがって、天は世の中と違います。宗えは「ため」に生き、絶し、自分を牲にしなさい、奉仕しなさいというのですが、世の中にはこのようなことはありません。これは、世の中の何も知らない乞食の群れがするようなことですが、天法を知らなくても福を受けることができるようにするための、サタン世界にする神の暗でした。

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 天へは愛の軌道にって行くのです。このように話せば感がわくでしょう。ゴムのひもは引けば引くほど細くなりますが、愛のひもは引けば引くほど反に太くなります。ですからみ旨のためには苦の王になることが、世界を占領できる秘法なのです。苦の王が天光を占するのです。

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 天とは、どのような世界でしょうか。お互いに反目、嫉視しながら、他人がうまくいけば嫉妬し、他人が喜ぶとたまらないという、そのような世界ではありません。一人がうまくいくことは、全体を代表してうまくいくことです。また、一人が喜ぶことは全体の代わりに喜ぶことなので、一人が喜べば全体が喜ぶのであり、一人がうれしがれば全体が共に喜ぶ所が天なのです。

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 天とはどのような世界かといえば、神の愛の世界です。愛の空を吸う世界です。そこには生命がぎっしり詰まっています。どこに行っても生命が躍動しない所がありません。そして、すべて血的な因によって結ばれています。神の一つの血筋であるがゆえに、神が悲しむそのような何かがあれば、全界が一つの細胞のように、一つの体のように悲しみを感じるのです。また、神が喜べばすべてが喜ぶのです。そのような世界です。それで、神の愛が膨大な大天を動かしているのです。

 生命がそこに呼して、すべての万物の主体・対象を中心として、芸術的な美化の象になっているのです。血筋のように連結していて、神が喜べば私もうれしく、神が悲しければ私も悲しくなります。やむなくそのようになっています。

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 天ではいがあるでしょうか。いのない永遠な世界で何をして生きるのでしょうか。その世界が一年生きて終わるのではなく、永遠にくというのです。それなら、退屈ではないでしょうか。そこで何をして生きるのでしょうか。一人で生きますか、界にいるあらゆる存在と係を結んで生きますか。何をもって係を結びますか。の愛です。

 それゆえに、その世界の本質は何ですか。食べることも、愛を感じながら食べなければなりません。着ることも、愛を感じながら着なければなりません。生きるのも、愛を感じて生きなければなりません。旅行することも、愛の神が母体となって旅行しなければなりません。そうでなければ、和動できないというのです。その愛というものは、神の本質的な愛でなければなりません。神の本質的な愛に近い容を備えた人格があの世で高い位置を占め、そのような人格を中心として、すべての界の万有の存在が和動して生きるというのです。そのような人が和動する世界だというのです。

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 人間を中心としたの愛、それが絶対価値の花です。神がなぜ生きているかといえば、の愛ゆえに生まれ、の愛ゆえに生きるのです。人もなぜ生まれ、なぜ生きているかといえば、の愛ゆえに生まれ、の愛ゆえに生きるというのです。そのような時は神も不平なく、人も不平なく宇宙の花のようにいて香りが漂うというのです。の愛をセンタとして側が一つになるのです。右側も左側も「万!」、手をげて「万!」、の人も「万!」、界も見下ろして「万!」、こちらもあの上も「万!」と言うのです。すべて一つになって香りが漂うのにって ……。

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 界がそうです。が合う兄弟同士が集まって暮らします。ここでそのように暮らす訓練ができていなければ、あの世に行ってぶつかります。あの世に行けば問題が大きいのです。人の心に合わせるとは、どういうことですか。神に侍る訓練の中で、人の心に合わせること以上に正しい道はありません。神がどれほど難しい方だと思いますか。原則に外れれば許しがありません。それゆえに、人の心に合わせることができ、人と和合することができなければなりません。神に侍る訓練の中で、それ以上早い訓練はありません。

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 完成した人が界に入っていけば、どこに行っても友人です。子女の位置に行っても友人、兄弟の位置に行っても友人、夫婦の位置に行っても友人、父母の位置に行っても友人で、すべて通じるというのです。神の玉座でもどこでも通じることができるというのです。

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 どのようにして天へ行くのですか。神の愛に狂って生きなければなりません。アダムとエバ以上に神を愛さなければならず、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ以上にイエスを愛さなければなりません。そうでなければ、神が私を愛し得るの愛の相対圏を復できません。これさえ復すれば、万事思いどおりになります。

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 お金がないといって心配せず、息子、娘がいないと心配せず、十年、二十年その道をけて行くと、大きな山にも、しい峰にも上がるようになります。自分では少しずつ下りていきながら苦だけしているように思いますが、だんだん高くなるのです。統一教会は打たれながら大きくなります。一つの家に十人が住んでいるなら、公的目的のために十人の反を受けながらも我慢する人が、その家庭の主人になるのです。すなわち、天の主人になるのです。

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 天は、愛の世界であり、中心者である神のためにある世界、神のために生きる世界です。

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 天には誰が先に入っていかなければならないかといえば、の父母が先に入っていかなければなりません。「天が空いている」と言えば、「レバレンドンはばかげたことを言う」と思うかもしれませんが、イエスも天に入れませんでした。天へは一人では入れません。人間の先祖が思春期を過ぎて、神を中心とした愛の理想を成して生活し、の愛の種をして父母になって先に入るべき所が天です。ところが、まだ神の愛を中心とした父母として、この地に愛の種をした父母がいません。また、そのような子孫をした基盤を成せなかったがゆえに、天は空いているのです。

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 皆さんは世界天に向かって行きますか、個人天に向かって行きますか。「世界天に向かって行く」と言うでしょう。先生も欲が深く、世界天へ行く愛の綱をぎゅっとつかむために、四十年間迫害されながらもこのことをしたのです。個人の愛の綱を越えて、家庭の愛の綱、氏族の愛の綱、民族の愛の綱、家の愛の綱、世界の愛の綱をぎゅっとつかむためです。ぎゅっとつかんでどこに行くのでしょうか。世界の愛の綱を探してからは、みを受け出世したので還故するのです。故に行って、かわいそうな人を助けてあげるべきではないでしょうか。


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 天に行く道は、兄弟を神のように愛することから開かれます。皆さんは先生にって行こうとするのですが、その心で兄弟を伴って一に行こうと努力しなければなりません。天に最も高く、早く、良く導く者は、神でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すことができます。

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 今日、宗を信じる人が「天へ行こう」と言うのですが、天へただそのまま行けますか。まず地上で天を迎えて行かなければなりません。地上で天を迎えるためには愛の規則をなければなりません。皆さんの家庭に子女がたくさん生まれれば生まれるほど、神をより一層愛さなければならない十字架が加重されるということを感じなければなりません。その家庭に息子、娘をたくさん送ることは、担う十字架が多いということなので、のために捧げるべき責任が多いという意味です。そのような容を知って、責任を全うする人にならなければなりません。そのような家庭であればこそ、その家庭に後代を相できる運勢をもった息子、娘が生まれるのです。

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 天に入っていける人とはどのような人ですか。まず神の心に合う人にならなければなりません。どれくらい合わなければならないのでしょうか。神が永遠な目的を中心として永遠な理想を描いていく方なら、永遠に心が合わなければなりません。十年ぐらい合わせて途中で合わなくなれば駄目です。永遠であられる神に、永遠に心を合わせなければなりません。そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか。永遠にお互いに喜べる息子にならなければなりません。そのような息子になろうとするなら、悲しみの象として現れてはなりません。

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 天という念は、サタンを克服した位置で、サタンが相できる一切の要因を否定した位置で、否定するだけでなく算した位置で成立できます。サタンの否定的件がっている史的な遺物や生活のすべての容を否定して算した土台の上で天が肯定できるのであって、それをしては天容を提示できません。

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 天に行こうとするなら、罪を犯さず、神の愛を直接受けることができ、イエスを信じる必要がなく、救い主が必要ないという息子、娘の資格を獲得し得る過程をなければなりません。そのように生きた人間が天に行ってこそ、神の理想天が成されます。

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 宇宙の最高のおじいさんとは誰かといえば、神です。それから、この世界を一つ造るのに、全天地を一つ造るのにおいて、その最後の子孫とは誰かといえば、未の後孫です。これを連結しなければなりません。何によって連結するかといえば、家庭です。ではありません。天へ行くのに「アメリカ人だ」と言っても認めてくれません。「展途上の人だ」と言って排斥しません。この主流、家庭組織を中心として神のみ旨とともに過去、現在、未を連結させることのできるモデル型だけを認めます。これが公式だということを知らなければなりません。そのようにしてできたをもってきて貯する倉庫が天です。

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 侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程をてから、侍る生活をする必要があるのです。侍るための準備の過程を、侍義の生活をて初めて行く所が天です。心情で侍る人が行く所が天です。侍ることのできる準備と、侍る生活を称賛し、高くとどろかせる世界が天です。私たちは、このような目的の世界に向かうべき運命に置かれているのです。

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 天という所は、心情を通さずには行くことができない所です。天は全体を主管できる本然のであり、本性のだというのです。そのは、いかなる事情をもってしても所有できません。深くしみ入る心情の因を備えてこそ所有できるです。それゆえに、キリストは究極的に事情を通す教会ではなく、心情を通す教会です。事情の因を越えて心情を謳うことのできる基盤を築くのに、地にして理なさる天の目的があるというのです。

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 天とは、どのような所ですか。準備したことをもって誇る所であり、侍る生活をしたことを誇る所です。それではその天とは、どのような人が行く所ですか。主を信じてみを受けるといって、みを前面に立てていく者が行く所ですか。違います。天は、侍るために心情的に準備する生活をした人が行く所です。準備する期間に死んだとしても、侍義の生活をして喜んでいくことのできる者が行く所です。そこに復活があるのです。生活の幕は現れません。どのように生活するのかということが、今私たちがこの侍る生活の中で考えるべき重大な問題です。

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 天がそうです。天に行けばどこも明るいのです。李相軒氏が言う界の相がそうでしょう。間違いありません。神の愛の光がこの宇宙の四方を照らして、そのの万物は万しているようです。何の万ですか。万万ではありません。「解放万!」、解放したならすべて「解怨万!」、恨みを解かなければなりません。

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 神の愛を中心とした本然の父母の因の中で、の愛の家庭基準を代表できる位置に立つことによって初めて天に入っていけるのです。天に入っていこうとすれば、の神の父母のの愛と一つにならなければなりません。その血統的な係において生まれた息子、娘と共にこの地で生きてから行く所が天ですが、今までそのように生きてから行った人は一人もいません。それゆえに天は空いているのです。

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 教会に何百年通うとしても、自分を中心とした心をもって通えば天行けません。救いを受けることができません。の宗がどのような宗かということを知らなければならず、の人がどのような人かということを知らなければならず、がどのようなかということを知らなければなりません。

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 神の愛の本質と和合できる人とは、どのような人ですか。自分を中心としていく人は値がありません。相手のために自らの生命を投入して、自らのすべての精誠を投入して、自らのすべてのものを投入しながらえようとする人だけが、神の愛の圏内に存できるのです。史上の偉人もそうでしたし、聖人もそうでした。



 2.天はお互いのために生きる世界


 自分自身を投入して忘れなければなりません。食口が全部で百人ならば、百人の食口の中で自分の息子、娘よりも良くない服を着ている人がいれば、ることができずにいなければなりません。えなさいというのです。神の心情、父母の心情がそうです。統一教会の主流思想は何ですか。父母の心情で僕の体を使い、汗は地のために、は人類のために、血は天のために流しなさいというのです。天とは何ですか。息子、娘を連れていく愛の世界なのです。愛をもって全宇宙の前えるのです。先生は神を愛しました。界からここまで、そのすべてをよく知っているのです。

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 界は今まで未知の世界でした。その世界は、神の存在原則のために生きた人間だけが行く所です。そのような容によって形成された世界が理想天です。

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 展しようとすれば、どのようにしなければなりませんか。利他主義でなければなりません。統一教会は絶に利他主義、「ため」に生きるのです。ここで分かれるのです。一方は地獄に落ち、もう一方は天に行くのです。界に行けばそうです。界に行けばすぐに分かるのです。「ため」に生きた人間は、行く所を知っているのです。ですから、より「ため」に生き、「ため」に生きる聖人の思想を受け入れなければなりません。救世主の思想を受け入れなければなりません。神の思想を受けなければなりません。神の思想とは何ですか。絶に「ため」に生きることです。

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 小さなものは大きなもののために投入しなければなりません。それゆえに、家庭は氏族のために牲になりなさいという論理です。氏族は民族のために牲になり、民族は家のために牲になり、家は世界のために牲にならなければなりません。家財産を取って自分の家庭のものにする者は、みんな地獄に逆さまに差しまれるのです。滅びるのです。ここで滅びなければ、界に行って逆さまに差しまれるのです。

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 地上生活と天上生活は反です。落した人は、地上で自分のために生きていますが、界は全体のために生きるようになっています。落を否定して全体のために生きる人になることによって、神の相になることができるのです! 永遠に「アメン!」と言わなければならないのです。

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 界は、自分のために生きていく人には行くことができない所です。なる人とはどのような人ですか。一から十まですべて自分を中心として一元化するという人です。そのような人が裁者、党なのです。そのような人は地獄に直行だというのです。統一教会では、それはいけないことです。個人は家庭のために生き、家庭は氏族のために生き、氏族は民族のために生き、民族は家のために生き、家は世界のために生き、世界は宇宙のために生き、宇宙は天宙のために生き、天宙は神のために生きなければならないのですが、神は誰のために生きるのでしょうか。私のために生きるのです。

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 本の地に導かなければならない宗であるゆえに、宗は何をえるのでしょうか。「ため」に生きなさいということをえざるを得ないということを知らなければなりません。高次的な宗であるほど、「ため」に生きなければならないという原則を調しなければならないので、柔和、謙遜になりなさいというのです。なぜですか。多くの人を高めて、彼らのために生きる立場に立てというのです。牲、奉仕しなさいとえるのです。なぜですか。それは、そのの法に合うことのできる人を訓練しなければならないからです。

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 地上で暮らしてから界へ行くのですが、高い所に行く人はみな他人のために生きた人です。世界の四十カならば四十カを回りながら、そこと自分の母と家庭を大したという心情をもって「ため」に生き、世界の人をすべてから救ってあげる聖人の心をもった人が高い所に行くのです。先生はそのように考えます。

 「私は一人の男性として、史時代の孝子を代表した帥であり、愛者の帥であり、聖人の帥である。神の息子として名づけられたすべての人は失敗したが、私は勝利した息子、娘として生まれた」というのです。そのように言うことができるようにしてあげることがたった一つあるのですが、それが絶に「ため」に生きることです。えて忘れ、「ため」に生きて、それを忘れて生きる人だけが、その世界を消化できるというのが結論です。簡なのです。

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 死を避けることのできる人は一人もいません。死を避けることはできないのです。ここで生きて死ぬのですが、自分のために生きる人は、この世界へ行ってぐるっと回って地獄へ行くのであり、他人のために生きた人間は、ぐるっと回って天に行くのです。この二つの世界が死を境に分かれるのです。

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 今後は自分の財産を天のものとして捧げるための綱が、世の中で最も長い綱になると考えるのです。ですから、すべて無一文の乞食になりなさいというのです。すべて捧げました。捧げるものは鼻水とと血しかありません。先生自身がそうです。捧げるものがないのです。生命と財産をすべて捧げました。皆さんに息子、娘のための預金通帳があれば、それは自分の息子、娘のために使わなければならないでしょうか、世界の救いの道のために使わなければならないでしょうか。そのような考えをし、そのような行動をしてこそメシヤと同等の立場に同席できるのです。

 「ため」に生きなさいというのです。全体のために生き、より大きいもののために生きなさいというのです。世界のために生き、神のために生き、人類解放のために生きなさいというのです。自分によって新しい血統に換しなければなりません。

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 今後どのような競が起こるでしょうか。お互いが「ため」に生きるということです。なぜですか。天では「ため」に生きる人が高い位置に行くので、その高い人のために私が生きるようになれば、その人にってジャンピングできるというのです。ケケネディに行けば、人工衛星の射台があるのですが、ここで人工衛星が射されて天に飛んでいくのと同じように、そのようになるというのです。

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 人のために生きることは、神が創造して相をつくったのと同じなので、その人の愛のに立つということです。そうでしょう。誰かにって「ため」に生きることも、すべてそのためです。皆さんも先生のために生きるでしょう。先生のために生きることは、先生の愛の象になってジャンピングして、神を占領しようというのではありませんか。そうですか、そうではありませんか。人工衛星は目標物に向かって飛ばさなければならないでしょう。同じです。人工衛星が出てきたのは、今日、信仰者が跳躍して天にどのように行くのか、何千万里、何万里をどのように行くのかということを前もって示すためなのです。

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 界はどのような世の中ですか。の愛を中心として他の人のために生きる所が界です。自分のために生きるのではなく、全体のために生きるのです。この地上でも人のために生きる人は、一〇〇セント「ため」に生きる人は「私を踏んで越えていきなさい!」と言うのです。いくらアメリカというが大きくても、アメリカの大統領よりもっとそのの民族のために生きる人がいれば、その人が大統領を踏んで越えていってもみな迎するのです。しかし、自分の利益だけを取るときは、みんな怨讐になるのです。

 界に行っても同じです。より大きいもののために生きるときは、自然に通過するのです。より大きいもののために生きるようになれば、自然に通じるのです。ですから、世界のために生きる人は、アメリカのために生きなくてもいいのです。世界の中にアメリカが含まれるのです。韓も同じです。すべてのが含まれるのです。それでは、行くにおいて、家庭もただそのまま過ぎ、すべてが迎できる方向の容とは何ですか。それはの愛を中心として「ため」に生きていく愛の道しかないという結論が出てくるのです。

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 皆さんが五十年の生涯の中で、二十五年以上をこの宇宙のために生き、天倫にって生きたとすれば天に行くのです。そうすれば、あの世に行っていい界にとどまることができますが、自分を中心として生きたことが多かったとしたら、念ですが善なる本の世界に行くのではなく、自分だけのために生きようとするなる本、地獄に行くというのです。そのような事を知って、これから皆さんは、自分のために生きた過去の生活を算して、余生を全体のために生き、のために生き、世界のために生き、天地のために生き、神のために生きなければなりません。そうすれば、ここから地獄ではなく天上の理想世界へと向かって進むことは間違いありません。

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 イエスは死を目前にしても「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六三九)と言いました。死んでいきながらも神に抗議するのではなく、お父のみ旨がもっと大きいので、もっと大きい牲でも然捧げるという姿勢でした。このような位置では、より一層深く入っていくことができるので、神ともっと近い位置に入っていくのです。そのような人の前では、神もどうすることもできません。そのような人を打つ人は、すぐに滅びます。神が自ら制裁をなさるのです。

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 界(天)とは、どのような所か知っていますか。「ため」に生きる人が行く世界が界です。自分のために生きる人は絶に行けません。そのような人は地獄に行くというのです。有名な牧師だといってそこに行けるのかどうか、行ってみれば分かります。統一教会は怨讐まで救ってあげ、共産党まで救おうとするのですが、共産党はすべての首を切って統一教会をなくそうとします。これが違います。ですから、どのような愛がこの世界を支配しなければならないのでしょうか。私たちは共産党よりもっとくなければなりません。なる人になってくなってはいけません。「ため」に生きる愛を中心としてくなれば、世界を救ってもるというのです。

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 天えて生きる所です。神も、えさえすればよいのです。親は、子女にえさえすればよいのです。良いものをえてからも、もっと良いものがあれば、それをまたえたいのが親の心です。

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 百をえて忘れることのできる神の前に、私は千をえても忘れることができるようになれば、神が私の相になってくださるというのです。このようなことを知っていますか。これは素晴らしいでしょう。主体と象の係が交換できるというのです。それでは、「私が一度善のために、神以上にやってみて生きる」と言った人が地獄に行くでしようか、天に行くでしょうか。天に行って神が暮らしている朝の食卓の召使になりますか、一に座って愛の御飯をお互いに分け合って食べながら生きることのできる位置に行ってとどまりますか。どちらですか。

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 界がどのようになっているかという事しては、誰にも劣らない体をしましたし、また界は私の門的な分野です。界の秩序的な起源を調べてみれば、どのようになっていたでしょうか。「ため」に存在するようになっている世界が天です。そこが私たちの本です。



 3.天は地上天ていく所


 今までの史上に神の前に呼ばれた人は、みんな五十代以上、六十代以上でした。年老いてやつれ、遠からず共同墓地に行くしかない人、葬送曲を聞く日が近い者たちだったのです。そのような背後で神は、今日このようにやつれてしまった老年層をつかんで理するのですが、今後は年層をつかんで理しなければならないので、彼らをつかんでどのように理を展開させるかを心配なさったのです。神はそのような事情を抱えて史路程をいてこられたのです。

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 迦も神秘な境地に入って「天上天下唯我尊」と言いました。修道しながら精神を統一して、的世界に入って神の前に完全な象の位置に入っていけば、「天上天下唯我尊」という言葉が可能だというのです。先生が世の中をしっかりとつかめば、世の中がこの握りこぶしの中で溶け出すような思いが生じるのです。そのような境地に入っていくようになれば、奇跡が自動的に起こります。病を治すことは信仰の付物として自然についてくるのです。

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 今日大部分の人を見れば、一日の生活圏内で朝起きて御飯を食べるという習慣的な生活をしながらも、「私は神して堂としている」と言います。そのように信じている人が多いのです。そのような人は天を所有できません。堂とすることはできません。私を公認する相的な要因がなくては、絶的な信仰基準ももてないのです。絶的な信仰基準ももてなかったのに、絶的な信仰基準を克服したのちにこそ成される天が成し遂げられるでしょうか。とんでもないことです。なぜでしょうか。その場にはサタンがとどまっているからです。

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 今日、多くの宗人は、「天は自分の宗を通じてのみ成される」と言います。それはすべて妄想的な話です。多くの宗がそれぞれ、「我が主がえる理を通じて天が成される」と言います。キリストだけ見ても十の宗派に分かれています。自分の宗派でなければ異端視してサタン視するのが現です。その教団が神から公証を受けてそのようなことを話すなら分かりませんが、ただに自分の宗派を立てて、自分の宗派をすための欲からそのようにするなら動機が純ではありません。そのような宗は、すべて滅びるようになります。もし統一教会がそうならば、統一教会から滅びなければなりません。

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 的世界も塀ですべて遮られています。仏教圏があり、儒教圏があり、すべて塀でふさがれています。これをより高い神の心情を通じてすべて取り除かなければなりません。天上世界の高い玉座から塀をして逆に下りてこなければなりません。何万年の私たちの先祖の塀から何千年の私たちの先祖の塀、何百年のこの時代の塀、何年前に亡くなったすべての人の塀をすべてして、地上のすべての塀をして、これを地獄まで連結させ得る道を築かなければ、開天門が成されないのです。

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 統一教会の食口はどの水準にまでならなければならないのでしょうか。迦よりも立派な人にならなければならず、イエスや孔子よりも立派な人にならなければなりません。今までの宗の目的は、個人を救うことでした。しかし、統一教会は個人の救いよりも家庭を目的とするのです。統一教会が一般宗と違う点がこれです。救うけれども家庭を救い、天に行くにも自分一人で行かないというのです。

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 天という所は一人では行けません。天という所は必ず相理想を決定してこそ入っていけるようになっているので、落人間が天に入っていくためには、復史、復活の史、再創造の史をなければならないのです。皆さんを祝福してあげることは、天の門をぱっと開けておくことです。「祝福」という名詞を立てて閉まっている天の門を開けてあげることです。

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 「天はあなたの心にある」と言われましたが、「天はあなたの家庭にある」と言えなかったイエスがどれほど哀れで孤であられたかを考えてみなさい。それでも皆さんは家庭をもって幸福を謳歌しています。私たちには、そのようにできる瞬間もあるのですが、天下を救うための求道者の主人であり、神のひとり子であられるイエスが、このような環境天の基地を夢にも見ることができず、「天はあなたの心にある」と言いながら、心で天をよみがえらせようとしている途中で、三年もたたずに十字架で亡くなったので、その方の生涯がどんなに孤で悲かというのです。

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 地上天と天上天は、レルが同じで二つが合うのです。境を越えれば、この世のレルとあの世のレルと合わなければなりません。それでこそ貨物列車が走ることができるのと同じように、地上と天上世界のレルが合うようになります。ここで走る愛の機車を担った家庭が、ただそのまま天まで、天の玉座の前まで直行できるレルを連結させるための道というものは、の愛で「ため」に生きる道です。個人が行く道と家庭が行く道を、すべて連結しなければなりません。方向が一致するのです。

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 私たちは、好きでも嫌いでも、いずれそこへ行くべき運命に置かれています。それが私たちの人生の道です。私たちは、そこに向かって旅人の道を行っているのです。それでは、ここで問題になることは、自分のために生きたのか、人のために生きる生活をしたのかということです。その差によって、すなわち人のために生きたことが多ければ天に行くことができるのであり、その反になるときには地獄に行くというのです。この原則はこの場では信じられませんが、死んでみれば分かります。

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 界に行ってみれば、人がいろいろな段階の所にとどまっているのですが、その人がどのようにしてそのようになったのでしょうか。愛の道理にってどれくらい孝行を果たしたか、どれくらいに忠誠をくしたか、どれくらい世界で聖人の道理を果たしたかという度の差によって該する位置にとどまっているのです。人間がこの地で行くべき道は正道です。正道には、個人の正道があり、家庭の正道があり、氏族の正道があり、民族の正道があり、家の正道があり、世界の正道があり、宇宙の正道がなければならず、神御自身にも正道があります。このような、ただ一つの道がなければならないのです。その道がどのような道ですか。本然の愛の道です。

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 最後にはどのような世界へ行くのでしょうか。地獄へ行くのでしょうか、天に行くのでしょうか。皆さんは行きながら「先生! 助けてください」と言う人になるのでしょうか、「先生! いらっしゃいませ」と言う人になるのでしょうか。死ぬか生きるかというのです。皆さんが結婚して仲良く暮らすというのですが、先生が仲良く暮らしなさいということは、わらない夫婦になりなさいということです。わらない夫婦になろうとするなら、わる世界に行って一に修練を受けて、南北が分かれ、四方に分かれて暮らす世界に行っても分かれてはなりません。このように訓練された位置に立たなければなりません。

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 の父母が生んだ息子、娘はりの息子、娘ではなく、の息子、娘です。そこからの家庭が出てくるのです。の家庭が出てきて、の氏族が出てきて、の民族が出てきて、が出てきて、が出てくることによっての世界になります。その世界では、神を中心として家庭で天生活をして、氏族で天生活をして、民族で天生活をして、世界で天生活をしなければなりません。そうしてこそ、この地が地上天になるのです。この地上でそのように暮らしてから肉身をいで永遠なる天に入っていけば、そこが界の天だというのです。これが神理の概観です。

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 皆さんは、「天に行こう」と考えてはなりません。地上に天を建設しようと考えなければなりません。天を建設する前に皆さん自身が先に天人にならなければなりません。天人になろうとするなら、「お父の心が私の心であり、私の心がお父の心だ」と自信をもって言える程度にお父と心情一体を成さなければなりません。それで、地上でお父の心に代わり、主と先祖の心に代わらなければなりません。そうしてこそ、史的なあらゆる問題を解決できるというのです。

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 死にながら「神、私は今まで神のみ意のままにできませんでしたが、私の心では天に行こうとしました。ですから私を蕩減件を立てたものとしてください」と言えば、神も公平であるので、そのような人は天へ行こうとする位置に置いておくというのです。どのような位置に置いておくのでしょうか。行こうとしたので、天へ行こうとする位置に置いておくのです。言ったとおり返してくれます。行くことは行くのですが、天へ行こうとする位置へ行きます。その場園以下の位置であり得るのです。地獄にいる人も天へ行こうとするというのです。

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 「統一教会は、ただこのように集まって別れる所だ」と言うでしょうが、そうではありません。ここで線を引けば、永遠に引かれるのです。この門を閉めれば永遠に開ける者がいないし、開ければ再び閉める者がいません。地で結んだことは地で解かなければならないがゆえに、皆さん自身が結んだことは、皆さん自身が解かなければなりません。これが問題です。それゆえに、皆さんが道をするにおいて、これからは他の所に行って道するなというのです。

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 「二十億の人類の愛の結である体を、私を生んでくれたお父さん、お母さんよりももっと愛し、四十億の人類を私のお父さん、お母さんよりもっと愛する」と言えば、神の愛のを中心として一つになったという立場で人類を愛することができるために、私はサタン世界とは無係な立場に立つのです。

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 落しない本然の人間として、サタンと係がない人間として、理想的夫婦の愛を中心として家庭を築き、暮らしてから天に直行できるようになっているのが本然の人間です。それで地上天というのです。地上天は天上天を受けぐのです。それゆえに、ペテロに天の門の鍵をえたとはどういうことかといえば、天を成すことのできる道が地上にあるというのです。はっきりと知らなければなりません。



 4.イエス


 落がなかったならば、天はひとり子、ひとり娘が神の愛を中心として神の家庭を築き、神の愛で暮らして引っ越して行く所です。天は家庭が入っていくようになっています。個人は天に入っていけないというのです。イエスは家庭を成せないことによって天に入れず、天の待合室に行って待っているのです。それが園です。園は、天に入る準備をするための待合室のような所です。

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 イエスは、血族を通してそれを成し遂げることができませんでした。それゆえに、イエスが再びてこれを解怨成就しなければなりません。そうでなければ天に入れません。天を開ける件とはどこにありますか。地にあります。したがって、イエスが天の鍵を地にしていきました。イエスと十二弟子が家庭を成し遂げることができなかったので、今日、統一教会で祝福家庭を通して七十門徒、百二十門徒の家庭を再び探し立てなければならないのです。それでこそ天が開きます。

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 キリストで言うように、イエスを信じて天へ行けると思いますか。イエス御自身も相理想を成せなければ行けないのです。神も成せなかったのに、イエス一人での愛を成すことができますか。ですから再びなければなりません。それなら、雲にるのでしょうか。今では、現容をすべて目で推し量ることができ、測ることができるこの民族が私についてくるようになっています。

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 今日のキリストを信じる人は、「イエスを信じれば救われて天へ行く」と言います。「天へ行くのも自分一人で行く」と言うのであって、「自分のお父さん、お母さんと一に行く」と言う人は多くありません。今後、宗は個人のみの救いであってはなりません。神が立てておいたの宗ならば、宇宙的で最後までり得る宗にならなければなりません。人類が望む最後の宗があるならば、その宗は「個人のみ天へ行くことがみ意」とは言わないでしょう。天を個人にだけ紹介してはなりません。お父さん、お母さんにも紹介しなければなりません。そのように紹介して族長までその容を知るようになれば、一度についていくようになるのです。

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 イエスがどうして天に入れなかったのでしょうか。天落せずに生きた者が入っていけるように、神が人間にして造ってくれたのです。人間は、本の原則的な基準に立ってこそ天に入っていけます。したがって、イエス御自身も落した人間を救って、落しない人類の父母であるアダムとエバの位置で息子、娘を率いて入らなければならないのです。しかし、イエスは一人でたので子孫がいません。いないので園に行くようになったのです。天に入ることができず園にいるというのです。天に行くための待合室のような所に行っているというのです。

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 天は空いています。これを考えれば神の復帰摂理が、悲しい復帰摂理の史であるというのです。神がアダムとエバを失ってしまいました。二人を失ってしまっただけで終わるのではありません。アダムとエバを失ってしまったということは、アダムとエバの一族を失ってしまったのです。その一族が大して民族になり、一つの家を成し、一つの世界へ大されたはずですが、失ってしまったのです。ですからアダム一人を失うことによって、天の王を中心とした王を失うようになり、天の民族を失い、天の氏族を失い、天の男性、女性、ひとり子、ひとり娘まで失ってしまったのです。

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 本界は家庭が入っていかなければならないのですが、家庭がありません。イエスも夫婦生活をしていない身です。聖人の孔子、迦、マホメット、王たちはどうだったのでしょうか。すべて天使長の子孫なので、身生活です。相理想がありません。このようなことを話して、無知で知らない人がどんどん知って、自分が王のようになるという非法的なことが起こってはなりません。王になるならの愛でならなければなりません。自分が人のために生きなければならないのです。

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 神は人類を救うために宗を立てて理してこられます。それゆえに、高次的な宗であるほど、その本のみ旨と本の原則に一致するを言わなければならず、「牲になりさい、奉仕しなさい」という告をせざるを得ないというのです。このように、神史と宗の背後で理しているという事を否定できません。このような原則について見ると、「ため」に生きようという宗展できますが、自分を中心にして世界に問題を起こしながら主体的な立場に立とうという宗は下がっていくという結論も、ここで出せるのです。

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 聖書に「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二三七、三八)と記されています。ここに引っ掛かる人は天に入れません。二つ目の戒めは何ですか。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同二二三九)と言いました。神を第一に愛し、隣り人を第二に愛する人が孝子になるのです。

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 イエスう弟子たちは、イエスがロマ帝を一時に占領してイスラエルの王に君臨すれば、自分たちは一席ずつ占領することができると思っていたのです。そのようなことが問題ではありません。まず私の心の中で天の基盤を築かなければなりません。その心を中心として体が神と一つになり得る基盤を築かなければなりません。これが最も大きい問題なのです。結局は、私自身から始まるのです。したがって、天点は私の心だというのです。

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 神は仲むつまじくすることを喜ぶのですが、荒しく激しくてはいけません。神が仲むつまじくする時は仲むつまじくしなければなりません。外が合わなければならないのです。このように外だけ合えば、それでよいのでしょうか。その次は、神のみ旨と一致することをしなければなりません。そうするならば心に何もないことがあり得るでしょうか。体が嫌がることがあり得るでしょうか。心と体が喜ぶことをしなければならないのです。神が存在するなら、神が喜ばれることがあるというのです。またイエスが神の息子ならば、イエスもそのようなことを喜ばなければなりません。

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 神を愛さずにはサタン圏内け出すことができないのです。それゆえに、自分の妻よりも、自分の夫よりも神をもっと愛さなければなりません。落した人類がサタン圏内の愛のわなから家庭の位置まで出てきましたが、まだ完全に出てくることはできませんでした。ゆえに自分のお父さん、お母さんを神よりも愛してはいけないというのです。

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 界に行ってみれば、昔殉した信徒の中で「私がこのように殉してこそ天に行くことができるだろう」と言った人は、天に行けなかったというのです。反面「父なる神が私を探すために受難の道をんでられ、血を流された。主の恩に報いるためにはどのような道でも行く」と言って、「その恩に報いることのできる位置に私が共に席できる光の一時を迎えられたことがどんなに有り難いことでしょうか」と言って死んだ人は、間違いなく天に行ったのです。そのような人は自分のために生きて死んだのではなく、天地のために死んだのです。「私がこのように信じて死んでこそ天に行く」と言って死んだとすれば、それは自分のために生きて死んだのです。落した人間は、自分の主張をしては絶に天に行けません。



 5.地獄は神の愛と係ない所


 落とは何ですか。落したがゆえに、っ暗な夜中になってしまったという結論が出てくるのです。天へ行くことのできるチケットをもらうべきなのに、地獄へ行くチケットをもらったというのです。それを感するでしょう。天へ行けるチケットが地獄行きのチケットにわってしまったのは、落のためだというのです。

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 地獄とは何ですか。神の愛と血統と生命、神との因がない所が地獄です。

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 地獄は、すべて遮られてしまって自分一人でいるのです。すべてのものを慕いながらも、何もできないのです。直感的にこの宇宙の膨大な幸福をすべて見て感じることができるのに、全然身動きができないでいるのです。それで、レバレンドンがすることとは何ですか。このような世界的な思想を中心として天地を愛し、神を愛する運動をするのです。これは、皆さんが未界にもって行くべき道を今から準備させるのです。このような準備をするということは偉大なことなのです。

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 界は無限の世界です。私たちを包容する故は、そのように大きいというのです。永遠な故界は本に巨大な所です。界が好きですか。どんなに大きいか分からないというのです。その世界を活動舞台とするのです。その心が世界的になって、宇宙的であればそこに拍子が合うのであって、個人主義では駄目だというのです。個人主義は全体と通じることができないので、どれほど地獄でしょうか。鷲を捕まえて、汚い穴に動くこともできないように閉じめておいて、えさだけえるのと同じだというのです。鷲はアメリカを象する鳥でしょう。食べるものだけ食べて生きるとすれば、どんなに悲でしょうか! それが幸福ですか、不幸ですか。悲なのです。

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 自殺することは罪の中の罪です。宇宙を破綻させるための邪な行動です。そのような人は地獄の中の地獄に行かなければなりません。

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 皆さん十分の一の鼻の穴、十分の一の口で息を吸って生きると考えてみなさい。それが地獄なのです。地獄はそれとわりません。わらないというのです。受けたい時に受けることができず、えたい時にえることができないのが地獄です。皆さん、息を吸いたいとき、空を吸いたいとき一度我慢してみなさい。何分我慢できるでしょうか。息を吐きたいとき吐くことができず、吸いたいとき吸いむことができなければ、どれほど我慢できますか。それが地獄です。

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 界では神の愛がなければ食べることができません。食べる利がないというのです。地獄は見ながらも食べることができない所であり、知っていながらも行くことのできない所だということを知らなければなりません。それゆえに、神の愛を中心として界と肉界が一つになり得るこのような値的な中心を立てておいて、地上で肉が一つになった天生活をした人以外には永遠な理想的世界をもつことができないのであり、天を所有できないということを知らなければなりません。

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 あの世に行って何をするのでしょうか。食べるでしょうか、食べないでしょうか。食べれば良いでしょうか、食べなければ良いと思うでしょうか。それでは食べるのに何を中心として食べますか。愛を中心として食べるようになっているために、愛をもっていない人は行って食べようとしても口が開かないのです。それが罰です。

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 世界も混しています。それでは、界はどうですか。混した人間像が界に行って集まっているので、界は混せざるを得ないのです。みも習慣になれば、いつもみをするものです。ですから、地上でみをしていたならば、天上世界に行ってもただを願います。それで、置が困難なので地獄というものが生じました。地獄は神がつくったのではありません。ごみ箱を作っておいてから家を建てるのではありません。家を建てて暮らしてみると、ごみ箱が生じました。同じです。徒はみんな根本を知りません。

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 地獄とは何かというと、集場所です。集場所なのです。神の愛とは係がなく、すべてりの愛で出した全人類は、みな地獄へ行きます。それで、天に行く人は、神の愛と心と体が一つになり、夫婦が一つになり、子女が一つになって神の愛を中心として神のように生きた人間です。神も心と体が絶的に一つになっているのと同じように、男性や女性やその家庭全体の家族が心と体が絶的に一つになることによって、主体なる神の前に、その家族が象として一に暮らし、この地を離れて界へと移動していくのです。

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 地獄に送る神が絶ではありません。界に行けば、自分で地獄に行きます。邪に生きた人は、善なる所に行けば呼吸が合いません。呼吸できなくなります。ですから、仕方なく自分に合う所を探さなければなりません。地獄の暗い所に行って「おお、ここだな」と言うのです。そこが地獄です。私のような人は、「地獄へ行っていなさい」と言われても、いることができません。呼吸が合いません。私がかぐにおいが違い、味を知っているのに……。地獄に誰が送りますか。そのような神ではありません。地獄は自分が訪ねていくのです。

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 天に行けば、地獄にも思いのままに行ったりたりできます。皆さん、界で制限される人になりますか、自由天地に解放された人になりますか。皆さんのにいる人を「ああ、この人は天の門番だ。番人だ」と言いながら、その門を通過するために訓練しなければなりません。「その門を通過しなければならないのですが、あなたが門番ですね。あなたの心をとろけさせ、あなたを感動させ、私が入っていく時、案してもらえるようにします」と言わなければならないというのです。

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 地獄とは何かといえば、未がないというのです。天には未があるのであり、地獄には未がありません。天に入ったならば未があるのです。落はどこから始まったのでしょうか。落とは公的な意味の未をもたない位置から、自分だけが中心となったところから始まったということを皆さんは知らなければなりません。「私のために生きなさい」という道は地獄であり、「人のために生きなさい」という道は天です。このような念がはっきりと生じるのです。

             *

 球があるでしょう。水素を入れれば、ゆっくりすっと上がっていきます。上がっていくのですが、それがどのくらい上がっていくでしょうか。最初に上がっていく時は、無制限に上がっていくようですが、上がっていくには限界があるのです。自らの重さと均衡が取れる所にとどまるのです。自分と同じ同類の空気圏内にとどまるのです。界も同じです。欲深い人は下がっていくのです。重いというのです。ですから、地獄という所は重い者たちが集まってぶつかるのです。そのようになっています。

             *

 もし界に白人と人が行って、白人が天に入っていく時、人の番人を立て、人が天へ入っていくとき、白人の番人を立てたとすればどうするでしょうか。後ろにりますか。では、どうしますか。行けないと口を言ってれば「私を殺してください。昔は分からなかった」と言いながら、ただ取りすがって「助けてください!」と、このようにみますか、逃げますか。自分が生前、人たちに反したことの何千倍、何百倍生き地獄でしょう。私が神でもそのように番人を立てます。

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 皆さんは、宇宙からどこにも行くことができないのです。どこかへ逃げる、そのような所はないというのです。自分の思いどおりに逃げることができないのです。宇宙の法と秩序圏内からけ出せない人間だということを知らなければなりません。道にって行かなければならないというのです。

 皆さんは愛の秩序、人倫、家庭、社家、世界、天宙、神、全体を通じることのできる公式的な憲法基準を中心とした、宇宙法の治下に生きている自分自身だということを知らなければなりません。自然をはじめとするすべての法が支持し、擁護して、解放をもてる道は、愛して「ため」に生きる道しかないという事を知らなければなりません。地獄までも……。統一教会の食口は地獄の念がありません。地獄があるという事を知らなければなりません。愛のバをもって行くその道を行くことができなければ、もっとひどい、もっと怖い地獄があるという事を知らなければなりません。それを分かったでしょう。法廷に立って勝利する皆さんになるように願います。

             *

 「私的なこと」と「公的なこと」という言葉は、はっきりしているのです。公的なことは、大きなもののために生きることです。私的なことは、自分を中心にするのです。自分を中心にすることは地獄と通じるのであり、公的なことは天と通じるのです。

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 統一教会の食口は安物ではありません。聖書を抱えて礼拝に行けば天へ行き、いくら金すれば天へ行くと考える、そのようなつまらない群れではありません。それはつまらない群れです。そのようなひどい群れではありません。信じたなら、ひたすら最後まで信じるのです。どのくらいすごいかといえば、自分が死のうと生きようと、夫がつかんで行けないようにしても離婚もさずに信じるというのです。そのようにものすごいのです。

 神がそれを見て、「おい、お前は離婚して私についてくれば、お前を地獄に送る!」と言われますか。離婚をしてでも、け飛ばしてでも正しい道を行くという時、神が「お前は離婚することをよく決心したな」と言われるでしょうか。どのように言われるでしょうか。一度答えてみてください。

             *

 今苦するのは天の自由を求めるためです。地獄までも天につくるためです。地獄に行って裁判長のようなことをしても、地獄で懲役生活をした人たちがみな「あなたはすべてたので讒訴することができない」と言うでしょう。この位置に降りてくる時、高い位置から一段階降りてくる時、世の中ならどんなに大ぎするでしょうか。「私がなぜそこに行くのか。私がなぜ行くのか」と言うでしょう。それは兄弟社ではあり得ないことですが、父母の心情でのみ可能なのです。この上なく高い神が、地獄のどん底まで降りてくることができるというのです。これが父母であり、の父母です。自分の顔に傷ができ、体がどのようになってもそのようにするのです。

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 目をむいて「酒をんではいけない。この者たち、滅びなさい!」とこのように言うならば、どれほどいい加減な者たちでしょうか。そこには余裕がありません。こうしたキリスト徒たちを見れば、ばからしくて私はうんざりします。「聖句のマタイ福音書何章に引っ掛かった。あなたは地獄に行きます」と言うのを見れば、えい、この者たち……。人を殺しても、を生かすことができれば、を生かすことのできる道のために人殺しを放する法がないと思いますか。この者たち! 

 あなた方はそれを考えるのです……。このように成長すると……。あの尾根にある大理石の間に根を下ろしたあの小さい松、そこには通りすがりの犬がてもおしっこもできないのです。陰があってこそおしっこをします。おしっこをするのは恥ずかしいので、犬もどこかに行ってくっついてするのです。それは人間よりましです。そうなのです。陰に行ってするのです。なぜですか。人が見るといけないからです。

             *

 天へ入っていくのに一番の問題とは何ですか。自分が怨讐だというのです。地獄やサタン世界は自我醒から生じたのです。天使長が自分を中心として考えたというのです。深刻に考えたというのです。逆賊とは何ですか。自分を中心としてと主者を越えて考える人を「逆賊」と言うのです。自分を中心として上がっていくその頂上は、すべて逆賊の道と通じるのです。地獄の道と通じるのです。人間自体において敗亡の道と通じるのです。自分を中心とするこの基盤は、死亡と通じるのです。

             *

 自分が愛を受けるということは地獄へ行く道であり、サタン側です。私が愛するということは天へ行く道であり、神側です。確かだというのです。そのような愛が世の中には一つしかありません。父母の愛一つしかないというのです。子女が「受ける」と言わなくても、しきりに愛するのが父母の愛です。落したけれども、父母の愛を通じたその道だけはっているというのです。神がそうですから、神が父母になるので、そのような愛が人間にもっているというのです。

             *

 皆さん、終着点とはどこですか。どこに行ってとどまるのでしょうか。レバレンドンは、あの世の界に行ってすべての愛の極点にいるでしょう。北極、南極と同じように愛の極点に……。中間でいくら探しても、いくらき回ってもレバレンドンはいないでしょう。いないから「レバレンドンは地獄へ行った」と言うでしょう。それが易しいことでしょうか。「愛の火だるまのように北極でも凍え死なない」これが素晴らしい理想であり、素晴らしい思想ですか。それならば、すべて成し遂げました。神も私の中にいます。また世界の人も私の中にみんないます。愛の相を受けるという人は、私の一族です。それは分がいですか。

             *

 神が地獄に行けば、地獄の魔まで頭を下げるのです。神の前には頭を下げるのです。サタンも絶的な愛には反できません。神は地獄に行っても地獄が順しなければなりません。地獄も神の所有なのです。神が行けば、地獄が門を全部公開しなければならないのです。簡容ですが、このすべての存在の作用の原則がこのようになっているということを知らなければなりません。

             *

 心には境界線がありません。神を考えてみなさい。神の心には境界線がありません。それゆえに、神はどこにでも行けます。神が天に行きたければ、天に行くのです。神が地獄に行きたければ、地獄に行けるのです。どこにでも行けるのです。それは神の心の中に境界線がないという意味です。

             *

 服がいくら良くても、死刑場に行く時に着る服はこの上なく嫌なのです。しかし、いくら良くない服でも、妻が愛のみ手を通して作ってくれた服は、限りなく光るのです。愛という容を中心としたすべてのものは、神がどこでも迎するという結論が出てくるのです。地獄に行っても愛のために地獄に行ったとすれば、神もそこに共に行くことができるのです。ここに愛の地獄をぴたっとつけておけば、どうですか。分が良いですか、いですか。地獄でも、愛の地獄ならどうですか。地獄に行っている人が「この!」と、このようにしていても、「愛の地獄!」とこう言えば、「ほう」と言うのです。それ、分かりますか。そうなると思いますか。

             *

 愛する人のために監獄に入っているのであれば、そこは監獄ではありません。愛する人をもっと光らせ、もっと深く因を結ぶようにしてあげる場所になるのです。それゆえに、の愛というものは、高さは神まで、深さは地獄まですべてコントロルできるというのです。それでは、この愛は人の世界でのみできるのでしょうか。違います。万物世界、すべての動物世界もそうであり、地もそうであり、植物もそうであり、すべて愛の歌は好むのです。

 皆さんが朝起きた時、鳥がお互いに愛する歌がいいですか、う歌がいいですか。愛する歌がいいのです。この宇宙では、の愛をもった所には境界線がありません。境界線がなくどこにでも通じることのできる容があり、神と地獄までもコントロルできる容があるために、どこでも境界線を押し倒していけるそのような力があるという事を皆さんは知らなければなりません。

             *

 愛が宇宙を存在させる柱になったのと同じように、これが地獄を成す柱になっているという事を知らなければなりません。このようになったのを直すのは、どれほど大でしょうか。何百パセントい漂白で細胞をすべて洗っても、これが根源になっているので、また染まるのです。

             *

 の愛の力だけが一〇〇セント一つにできます。「の愛」と言えば、神も「うん」と、地獄にいるサタンも「うん」と、世の中もすべて「うん」と言うのです。何の力が一つにさせるかといえば、の愛の力が一つにさせるのです。「先生のその話は違います」と言う人がいますか。

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 最高の頂上の神がいらっしゃる所と、地獄の最もどん底にいる人間世界の間に、ケブルカを置こうというのです。そのケブルカの綱は何の綱ですか。お金の綱はすぐに全部切れてしまうというのです。お金の綱では駄目です。では、知識の綱でできますか。力の綱でもできません。上下を超越した愛の綱をもって、その綱にケブルカを連結しなければなりません。

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 クァンデノルゥム(注:陰一月十五日にする全羅道の民族祭り)とは何ですか。クァンデは遊んだり踊ったりするのです。その時に行って踊ることができなくても、リズムは取らなければなりません。「ああ、統一教会主としてそれにリズムを取れば地獄に行く」というそんなつまらない神ではありません。神は、とても傑作な神なのです。神がそのような犬の足のつめより小さく、ありの前足のように心がい神ではありません。口を開ければ空をすべて吸いんでも余るほどの偉大な神であることを知らずにいたのです。

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 神理から見ると、界に行っているこの人たちはみんな地獄に送って、そのりの人だけ救援理をするでしょうか。神の意味の愛であられるならば、その愛の限界はどこでしょうか。このように反問すれば、その地獄の限界線まで越えた救援理の完成を願う神ではないでしょうか。このような答えが出てくるようになるのです。

             *

 人間の心は固い石ではなく、氷なのです。そこにはありとあらゆるがらくたが一つになって凍りついたというのです。これを溶かして、がらくたはみんな片づけてきれいな氷の塊を作ろうというのです。きれいな水で氷の塊を作って神が召し上がることのできる氷にしようというのです。「氷の中にはサタンが好むことのできる氷があり、神が好むことのできる氷があるが、神が好むことのできる氷になってみよう」と、そのような考えをしてこそ、地獄の氷の塊から天の氷の塊に復できるのです。



 6.天と地獄は自らが選する


 天へ行くか、地獄へ行くかは自分自身が決定するのです。レバレンドンが決定するのでなく、神が決定するのではなく、自分が決定するのです。不平を言えば地獄であり、不平を言いたい時に感謝していけば天だというのです。

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 神は猜疑心や嫉妬が深くて地獄をつくったのではありません。物が生じたので、物を理する理倉庫として地獄をつくったのです。誰がごみ箱を先に作って家を建てるでしょうか。キムチを漬けようと良い白菜を買ってきたのに、漬けてみると虫の食ったくず葉のようなものが出てきたので、ごみ箱に入れるようになるのです。落は人間始祖が犯しました。それゆえに、これを蕩減して罪を算するためには、の父母の資格をもってこそ可能です。

             *

 今まで人間世界に生まれた人には、神が救うことのできる件が一つもなかったので、みな地獄行きでした。虫が食べてうじがくっついたので、豚にでも食べさせて、ほかに使おうかと思って仕方なくもっていって保存した所が地獄です。地獄と園があるのです。このように言えば、天は空いているという話を感できます。

             *

 落の血統を受けて生まれたその日から今日まで、全世界の人類が心をくして神に侍った一日があったのかといえば、ありませんでした。落する前に私たちの先祖アダムとエバは、創造理想を通して育ちましたが、心情の因を立てて神に侍ったことがなかったというのです。

             *

 地獄とは何ですか。神の愛と血統と生命、神との因がないことが地獄です。いくら地上でよくやり、いくら地上で努力したとしても、神を中心とした天とは係を結べない地上世界になりました。これが地上の悲さであり、悲痛だというのです。

             *

 神の恨とは何ですか。心情を中心として神に侍るべき人間が、侍ることのできない位置に落ちたことです。心情を中心として侍られるべき神が、侍ってもらえないのです。信じる者がいないことが恨ではありません。神を知る者がいないことが恨ではありません。心情を通して神に侍り、心情を通して神することのできる人がいないことが天と地の恨です。

             *

 自分を憎まなければならないのです。この体を憎まなければなりません。私の体に怨讐の血が蠢動するのですが、これを刀で切ることもできず、燃やすこともできない私自身であることを知らなければなりません。神の保護を受けることのできない位置に立って、万物を消化して消耗する消耗工場になっているという悲痛な事を知らなければなりません。

             *

 天と地獄がどこから分かれるかといえば、聖書をよく知り、弁がよく立つことによって天と地獄が決定するのではありません。績と心情が問題になるのです。結局、天と地獄の境界線は、心情の境界線、績の境界線に左右されるのです。

             *

 あの世に行くようになれば、愛の理想に符合できる素性を訓練して備えることができなかった時には、反作用が及んできます。誰かが「地獄に行け」とは言いません。それゆえに、聖書では「怨讐を愛しなさい」と言いました。の愛は、怨讐にその愛が及んで一次、二次、三次、四次さえ過ぎるようになれば、怨讐は必ずなくなります。このような偉大な力をもっているので、イエスも「怨讐を愛しなさい」と言ったのです。

             *

 人間が地獄で死んでいくのを見れば、神は永遠に生かしてあげようととてもをもむのです。そうであってこそ天の父母の立場で責任を全うするのであって、「えい! みな掃き捨てよう」と言えば、父母の立場に立てないのです。それゆえに、地獄まで解放しなければならないという論理が成立します。

 息子が自分を生かすためにをもむ父母の情景を見れば「私のお父さん、お母さんが私のためにあのようにしているんだなあ」と思い、計り知れない罪をすべて悔い改めるようになります。そのようなお母さんがいて、お父さんがいるならば、その子女は骨が溶けてやせるほど悔い改めるようになるのです。父母によってそのようにすることができる道が生じるというのです。

             *

 サタンも人類を救援しようという神の愛の前では讒訴できません。父母の愛を通して悔い改める者を許せないという道理はありません。そのような心情を通して地獄までも解放しなければなりません。それがなる孝子として行くべき道ではないでしょうか。それで、統一教会では地獄までも救援してあげると主張するのです。なぜでしょうか。それは神がそのような方であられるからです。

             *

 地獄という所は、一度はまれば永遠にけ出せない所です。それでも、皆さんは自分のお父さん、お母さん、そして親戚が地獄に行くということを感できません。ただ「どうにかなるだろう」と思って、それでおしまいです。しかし、愛する父母が本に地獄に行くと考えてみなさい。この世の監獄にさえ入るとなると、泣いたりわめいたりしながらありとあらゆることをしてでも引っ張り出そうとするのが人情であるならば、まして天情によって結ばれた息子、娘が、自らの父母と親戚、兄弟と姉妹が永遠に出てくることのできない監獄に行くということを知れば、そのような考えをするでしょうか。





 



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