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1.神様には怨讐の概念がない
神様がなぜ人間を創造しましたか。神様が一人でいればよいでしょうか、寂しいでしょうか、喜ぶでしょうか。今日、宗教はそれも解決できずにいます。キリスト教では「神様は大審判主になり、裁判長になって、悪い者は地獄に送り、良い者は天国に送る」と言います。神様が裁判長になれば、神様の資格がありますか。それなら怖い神様でしょう。接したくない神様です。何の神様になりたいと思われるのかと言えば、人類に対して真の愛の神様になるということです。
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「神様が審判主」という論理は神様にはないのです。もし、恨みを晴らすという概念があれば、今後神様の理想世界が出現しません。それゆえに、神様には火の審判という概念がありません。怨讐の概念がないので、アベルを立てカインを強制ではなく自然に屈服させるのです。
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この世でも裁判長が死刑宣告を五回すれば、夜夢見が悪いというのです。もし、神様が億千万の人類をすべて審判して地獄に送ったとしたら、地獄に行ったその霊がじっとしているでしょうか。神様を殴り倒そうとするでしょう。夢見がどんなに悪いでしょうか。そんなことをするわけにはいかないかもしれませんが、それが理にかなった話です。
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全知全能であられる神様が、思いのままに審判して、キリスト教を信じる人だけ天国に送り、そうでない人は地獄に送り、すべて思いどおりにすれば、そこでは理想論を探すことができません。理想というものは普遍、妥当でなければなりません。どこでも、過去、現在、未来いつでもすべて同じでなければなりません。海水が理想的なのは、深い所は埋めていつでも水平だからです。変わることがないのです。このようになれば二元論、三元論になります。
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神様は誰も打つことができません。愛の理想をもって創造した神様が、愛の理想を実践しようという神様が、審判の鉄棒をもって打つことはできないのです。神様は打つことができません。なぜですか。創造する時に愛の理想をもって創造したので、その理想が実現されなくても打てないのです。もし、打つようなことが起こったとしたら、打つ伝統、打つ習慣を残しておいては、これを解く道がありません。今日、習慣性という言葉もあるでしょう。それゆえに、絶対的な神様は打たなくても絶対的な教化ができなければなりません。
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神様は歴史始まって以来、闘いながら打たれて奪ってくる作戦をします。神様が先に打つことができません。神様が先に打つことができるという論理を立てれば、審判できるという原則を神様が立てたという論理が起こります。善と悪を分別すべき責任を神様が負っているという時、善悪の概念が神様自体内にあったという論理が展開されるために二元論に落ちるのです。それゆえに、神様は打つことができないのです。
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「神様は何をして生きているでしょうか」と聞けば、既成教徒は「玉座に座って悪人は地獄に送り、善人は天国に送る」と言っています。それが神様のすることですか。皆さん、最高裁判所の判事を五年間だけやってみなさい、それができるでしょうか。
自分の息子、娘を審判し、自分の妻、自分のお母さんを判定することにおいて、死刑の宣告を下すと考えてみなさい。自分のお母さん、お父さんに死刑を宣告しておいて寝ることができるでしょうか。苦闘する心の世界の患難を誰が遮ることができますか。国も遮ることができず、世界も遮ることができません。そのような悲惨な位置にいる神様を、一方通行の論理をもって世界平和の主人だと侍ること自体が矛盾しているのです。ですから、既成教会は滅びなければなりません。
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皆さんは霊界をよく知らないかもしれませんが、霊界に行くようになれば、神様が公義の裁判官になって「ガンガン(注:木槌でたたく音)、あなたは地獄行き!」と言うのではありません。絶対そのようには言いません。神様がそのような神様であり得ますか。人類の父であられ、善の王の中の善の王であられる神様が、地獄に行けと地獄をつくっておいたのでしょうか。予定論のようなことを言う人は狂った人です。
私は霊界をどれほどよく知っているでしょうか。イエス様の秘密のすべてまでみな知っているのです。ですから、聖書の秘密をすべて解き、今日誰も分からない漠然とした聖書体制を中心として一貫した思想体制をつくったのです。そのような大先生が誰でしょうか。ここに立っている悪口をたくさん言われる文総裁ではないですか。
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親は自分の愛する子女が病気になった時は幸福ではありません。神様が、今日の世界人類が亡国の種となり、地獄の門に向かって垂直に落ちる実情を見ながら胸が痛まずに「お、お前は審判を受けて滅びていくのだなあ」と言って喜ぶ方ならば、そのような神様は雷に打たれなければなりません。父母の立場を代表した理想の神様であるがゆえに、その実情を見てじっとしていられないのです。国の法を無視してでも子女を助けたい父母の心情が隠れていることを考えると、神様も同じだというのです。
サタンさえいなければ、人間を許して助けてあげたいにもかかわらず、サタンの讒訴から抜け出すことができないので、切ない心情をもちながらもそれに順応せざるを得ないのです。そのような神様の苦痛を誰が知っているかというのです。それを解放してあげなければなりません。そのようにしようとするなら、サタンを処理して地獄に落ちた人を救ってあげることのできる息子、娘がいなければなりません。そうでなくては不可能なのです。
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空の牛車を引っ張っていくのも大変なのに、神様はこの世界人類を逆に引っ張っていくのです。これは順路ではありません。逆に引っ張っていくのです。逆路の道を行くので、逆に引っ張っていかなければならないのです。今日宗教を信じる人々はそのようなことをしている神様だということを考えもしません。仏教思想で見ても、キリスト教の思想でも、神様は全知全能で思いのままに殺し、生かし、審判し、罰を与えたり福を与えたりできると思っているのです。とんでもないことです!
このように見ると、宗教圏にあっても統一教会は、次元の高い世界の内容をもって解決方法を探そうと苦心する宗教に間違いないというのです。ですから、次元の高い宗教です。神様を解放するという宗教は、今統一教会以外にはありません。
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今日キリスト教信者が「不義と正義を審判する公義の裁判長として生きていらっしゃる神様」と言いますが、そのような神様は心が平安ですか。ここに判事をしたことのある人はいますか。死刑囚を殺す時は、その刑場に判事が立ち会わなければならないのです。判事のように悲惨な人がいません。裁判長がよいですか。
皆さんは何を中心として生きたいですか。裁判長ですか。権力者になって号令をかければ、天下のすべてのものは私が願うとおりに無事通過できる環境で何日間生きられると思いますか。一カ月くらい生きてみれば、こうではないというのです。嫌になるのです。牛肉定食を毎日のように食べてみなさい。それを食べてから出るガスのにおいも違います。そのように生きてみなさい。人は高い低いによって、前後左右をすべて備えて生きるようになっているのです。
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神様に「あなたは何をして生きたいですか」と聞いてみれば……。皆さん、私は直接聞いてみて返事を聞いた張本人です。裁判長ではありません。弁護士でもありません。検事でもありません。「愛に酔って生きたい」と言うのです。答弁は簡単です。何に酔って生きたいと言いましたか。愛に酔って生きたいというのです。愛に酔うようになる時は、目も一つの所へ行き、においをかぐ鼻もそちらへ行き、話す口もそちらへ行き、聞く耳もそちらへ行き、すべて一つの所へ行くのです。五官を完全に統一できる刺激的な要素が、私たち人間において何だというのですか。それが愛です。
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今日キリスト教において「神様は神聖で全知全能であられる方で、公義の審判主として玉座に座って万民を審判する裁判長です」と言いますが、皆さん、裁判長がよいですか。裁判長を十年したら病気になって死にます。死ぬというより病気になって倒れます。病気にならなければそれは偽者です。
他人の生命を奪う死刑宣告を下すこともしたはずですが、自分が下した判決が絶対的ではあり得ないというのです。論法が、解説法が様々な方向があるのに、自分の判決によってその人の生死問題を決定づけたので、そうなるというのです。それは深刻な問題なのです。宇宙の公法に照らしてみれば、韓国の法が絶対的ではあり得ません。ですから、人は「十年間判事」と言えば「病気になるはずだ」と言うのです。
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キリスト教式に言えば「神様が天国の玉座に座って、公義の裁判長として善悪を判別し、よくやった者は天国に送り、できなかった者は地獄に送るのです。それが神様の趣味生活です!」。アーメンですか、ノーメンですか。死ぬことができないというのです。裁判長は判決を下したら、夜寝ることができないというのです。正しくても間違っていても苦痛を受けるのです。審判者は一つです。私たちがこのような人なのに、私たちが神様に似ているとしたら、神様は、裁判長をすることを好むのですか、嫌うのですか。
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神様が悲しい神様で、苦痛の神様であることをキリスト教徒は知らなかったのです。神様が神聖な王として、審判主としていらっしゃいますか。神様が何が切なくて審判主ですか。審判主がいいですか。そのように生きることが神様の生活ですか。堕落によって仕方なくそれをするのであって、その清算方法を誰も知りません。宗教世界でも誰も知りません。統一教会以外には知っている所がありません。
2.真の御父母様は愛の統治法で審判
救世主とはいったい何ですか。救世主が何をしに来るのかというのです。政治をしようとして来る方ではありません。救世主は何をするために来ますか。今日、キリスト教では、「主が来ればすべて空中に上げられて自分たちはぽんぽんと上がり、地上の人々はすべて審判する」と言います。違います。そうではありません。「審判する」と言うのですが、救世主は、何かを審判しようとして来られる方ではありません。
その方は神様の息子、娘であると同時に、人類の父母として来るのです。人類の父母として父母の心をもって来られる方が、病気になって死ぬ場でうめいているこのような息子、娘を見て「おい、お前はあの地獄へ行きなさい!」と言って片づけることができますか。堕落したこの世の親でも自分の息子が死んでいく悲惨な姿を見れば、のどが詰まったり痛哭したり自分の生命を失うことがあったとしても、生かしてあげるためにはどんなこともしたいという心が先立つのです。それが堕落した世界の父母だと言うなら、本然の父母の心情をもって来られる救世主はいかばかりでしょうか。審判というものは考えられないというのです。そうでしょう。
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聖書には「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)と叫びながら……。世の中をこのように愛していると言いました。世の中の救いのためにイエス様が来たのであって、キリスト教の救いのために来たのではありません。終わりの日に審判するのですか。それでは、神様が世の中をこのように愛するという定義とは違います。キリスト教徒だけ愛するのですか。いつも愛していることを知らないでいます。それを教えてあげて悔い改めさせなければならないのです。教派主義者たち、行ってみなさい。
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今日、既成教会では、神様が審判してどのようにすると言いますが、神様が思いどおりにできるのなら、今までこのようにする必要はありません。堕落したその次の日にすべてしてしまったはずです。打って勝利したその基盤の上に神様の愛の理想を立てることができるという原理はないというのです。
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今日、既成教会の哲学が間違っているのは何ですか。神様を公義の裁判長と言います。裁判長を五年やれば、腰が曲がり始めるというのです。なぜですか。腰を伸ばすことができないからです。キリスト教がこれを知らなかったというのです。ただ力の神様、全能の神様を追慕して、それとともに一つになれば何でもできると信じているのです。ここで人を殺してもかまわないという論理が出てくるのです。今日キリスト教を中心とした西洋文化が力の哲学を培養してきたがゆえに、西欧文明の背後には血が連結されています。
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神様もそうなのです。この地上の悪なる人々を審判し整理するのは、神様がするのではありません。サタンを前面に立ててするのです。
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神様がこの世界を審判しようとする時、「少し待ってください。神様、これを見てください。実におもしろいことがあります」と言って、「それは何だ」と言われれば、「私の手のひらです。どんなにいい手相をしているでしょうか。あなたの手相より良いので、私がこれをしています」とこのように言えば、神様が何と言うでしょうか。
手相を比較しながら、このような者と話していれば、悔しいことがみんななくなるのではないですか。「神様、あなたが私の手を切って捨てますか。審判しますか」と聞けば、「ヒヒヒ、この者、この者」と言うのです。醜くても、そうすれば喜ぶのです。何の話か分かりますか。陰陽がなければなりません。傑作品になろうとするなら、バックグランドが立体性を成さなければならないのです。すべてのものがそうです。
人は日なたと日陰があって格位を備えてこそ人格者になるのです。神様がいくら怒ったとしても「神様そのように怒らないでください」と言うより、「神様、あれを見てください」と言って「なんだ」と聞かれれば、「あの鷲が鶏を捕まえて食べようとしています」と言うのです。「鶏を捕まえて食べようとして、食べてしまって……」と言えば「その鷲があなたのようです」それで、神様が引っ掛かるのです。「お、こいつなんだ。私が……」そのようにすれば、話すことができずに「ふむ……」と言うのです。
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神様に尋ねてみると、公義の審判主になるというのではありません。神様は審判しません。霊界を知らないのでそのようなことを言うのです。キリスト教で説教しているものをちょっと読んでみなさい。でたらめです。霊界をあまりにも知らないのです。そのようにして天国に行きますか。どうなるのか、行ってみなさいというのです。ですから、すべてからすの群れ、鷲の群れが食いついていきます。世の中の人たちより悪いのです。私はそのような人とは相対しません。犬がほえるのに一緒にほえれば、犬のようになるのです。相対しません。哀れなので、今後飢え死にするようになる時は、私が食べるものをもって訪ねていって食べさせてあげようと考えているのです。
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全人類は、しっかりしなければなりません。統一教会の文総裁の教えは、救世の真理なのです。人類が永遠に必要とする真の愛と生命のみ言です。再臨主が世の中を救おうとして来られるならば、人類を鉄の杖で審判してはなりません。打ってはたったの一人でも完全に屈服させることができないのです。
自分のために生きて、手がひきがえるの背中のようにでこぼこにゆがんで開かないほどに苦労した母の犠牲的な愛は、親不孝者を悔い改めさせて帰ってくることができるようにする力があるのです。棒をもってはできません。審判の大王であり、天地を思いどおりに主導する神様でも真の愛なくしては、天宙統一は不可能なのです。真の愛はいかなる困難も問題になりません。自分の生命を投げてでも行くことのできる力が、真の愛にはあるのです。
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怨讐を溶かすことができるものも愛です。最高の親不孝者を孝行者につくることのできる力をもったものも愛です。逆賊だと主張する人を忠臣のように屈服させ得る力も愛にだけあるのです。それは可能なのです。それで、古くから人間は、優秀でも愚かでも愛を中心として命を懸けたり、生きたりしたがるものです。誰が「アーメン」と言いなさいと言いましたか。アーメンは私の特許品ですが。
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長老派教会の教理は、神様は公義の審判長になって、予定して救援なさるというのですか。そのようなたぐいの狂った、ばかげた話がどこにありますか。それこそ詐欺師です。私が調べてみると神様はそうではありません。本来、人間が生まれる時、神様が天国に行くようにつくっておき、地獄に行く人をつくっておくなら、それがどうして善の神様ですか。理論として通じません。理論として通じてこそ常識に合うのです。常識に外れた真理はありません。常識にも合わないことをもって……。
考えてみなさい。裁判長が殺人犯を裁判して死刑を言い渡し、五人だけでも殺してみなさい。そのたびに行って検診しなければなりません。また考えてみなさい。大韓民国の法と北朝鮮の法は違います。ここで死刑宣告を受けた人が、向こうで愛国者にもなり得ます。天地の大道を中心として、公義の法を中心として考える時、弁護士の心が平安でしょうか。
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審判の大王であり、天地を思いどおりに力をもって主導する神様ならば、天宙統一は不可能なのです。これはお金をもっていてもできず、知識があってもできず、権力をもってもできません。ただ一つできるものがあるならば愛しかありません。
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悪魔でも神様は審判できないのです。ヨブ記を見てください。サタンがあのようについて回りながら支配するようになっても、なぜそれに応じてあげるのですか。応じてあげざるを得ません。サタンは「あなたが私を愛で消化せずには、愛で消化して本然の基準に合わせておかなくては、私を支配できないのがあなたの道理ではないですか。愛の道理を、原則的な愛のすべての完成的な道理を越えて私を主管するようになっているのに、その道理が満ちていないので私を主管することができない。私を主管しようとするなら、私を屈服させようとするなら、その道理の形態に合わせたその基準に……。個人基準ならば個人、家庭基準ならば家庭、氏族基準ならば氏族、民族基準ならば民族、ここで私が順応できるのであって、そうでなければならないのではないでしょうか」このように言うのです。これに身動きできずに引っ掛かっているのです。これを知らなければなりません。
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皆さん、そうでしょう。この世で「あなたは何をしたいのですか」と聞けば、「私は最高裁判所の判事がしたい」と言います。「判事」と言えばみな喜ぶでしょう。今日、既成教会で信仰する人が「神様は天地の大主宰であると同時に、善悪を見分けて善人は天国に送り、悪人は地獄に送る、天地を公義の法を通して治める裁判長です」と言いますが、そのような裁判長が良いですか。今まで歴史始まって以来数千億の人を地獄に送ったとすれば、その神様の気分は良いでしょうか。そんなことはあり得ません。それゆえに、玉座に座って公義の審判長の権限をもって行使して暮らすことが、神様の生活目標ではないというのです。神様がそのようなことは嫌だというのです。
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神様よりも自分が自分自身をよく知っています。それゆえに、私たちには審判主が必要ありません。事実、神様が必要ないというのです。自分の良心がよく知っているのです。このような原則について見てみると、解放的な基準を中心として私は何パーセントの解放の目的をもって参加したかという事実はパーセントで出てくるのです。私が本物なのか、偽物なのか分かっています。知らないですか、知っていますか。知らなければ望みがないでしょう。知らなければそれは共同墓地に行かなければなりません。そうでなければ、ごみ箱に入っていくか、そうでなければ、投げて太平洋にほうり込まなければなりません。それは処理困難なのです。
皆さんは善なることと悪なることを知っています。一言言うのも私が悪いことを分かっています。見る視線も悪いことを知っています。聞くこの音声も、感じるこの触覚もみな知っているのです。霊界に行くようになればそれがすべて現れます。頭をこのようにすれば、すぐに自分がどのような人なのかすべて現れます。その心の鏡、心の光彩がさっと現れるのです。説明が必要ありません。霊界を知らないのでそうでしょう。私はよく知っていますから、世の中の人に非難されてもじっとして耐えながら今まで来ました。
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この世の中にはどのような人が生きているかと言えば、僕の僕が生き、僕が生き、養子が生き、庶子が生きています。このように混じっています。この秩序を立ててあげなければならないのです。何によって秩序を立てるのでしょうか。愛しかないというのです。そのような愛の伝統的な道理を受け継ぎ、引き継いできた宗教が、世界的宗教にならなければならないのに、その愛の道理に外れた宗教と、この愛を中心として従っていけない人は、歴史をかけ、時代を代表して審判されるようになるのです。
その愛が、天地を愛するその愛の伝統が、世界を愛するその伝統が、国を愛するその伝統が、民族を愛するその伝統が、自分の家庭を愛するその伝統が、父母と妻と兄弟を愛するその伝統が、自分が自分を愛するその伝統が世界を審判するのです。
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神様は審判者であられ、イエス様は弁護士のようですが、今まで天の側の検事がいませんでした。今まで悪魔が検事をしていたのです。天の側の検事が生じなければならず、天の側の裁判長が生じなければならず、天の側の弁護士が生じなければなりません。このような意味から統一教会はすべてのものを備えているので、サタンを永遠に、人本主義を永遠に、淫乱主義を永遠に、破壊主義を永遠に地球において打破しなければならないのです。これが統一教会の主義です。
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神様が願うものはほかのものではありません。愛です。終わりの日になったら、何が最も怨讐ですか。審判の第一の条件は何ですか。終わりの日には自分が愛するものが、審判の第一の条件です。学者には学者意識、学ぶというそれ自体が審判の要件になります。自分が最も喜ぶことが審判の条件になります。お金を最も喜ぶ人、お金を集めるためにすべてのものを犠牲にする人は、それが審判の条件になります。名誉を喜んで、権力を喜ぶ人はそれが審判の条件になります。女性なら女性のすべての素性によって、特定の素質によって喜ぶものがあります。それが審判の条件になるというのです。
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悪口を言われながらも忘れて、むちで打たれても忘れて……。先生はそのような歴史の事情が多いのですが、私がそれをもって審判しようとするのではありません。愛をもってそれ以上のことまで消化しようとする道を行くので、それで神様が私を好きなようです。私もそのような人が恋しいです。少しやって代価をもらおうとするそのような人を、私は嫌う人です。誰か私の前で「代価をもらう」と言う人がいますか。顔を上げて出てみなさい。話を少ししましょう。
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悔い改めなければ、皆さんは公義の審判を受けなければなりません。愛の統治法の前に立つ者がいないのです。その時に先生が弁護士になってあげて、先生の家族の一族が弁護士になってあげ、皆さんを指導する統一教会のすべての人々が弁護士になり、神様もそうであり、先生もそうであり、先生の家庭から指導者までそうすることができ、弁護の範囲が讒訴圏よりも多くあってこそ、善の天国の民族として入籍できるのであって、その讒訴圏より小さくては入籍できません。
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法の道理を私も行っているのです。ですから皆さんは黙ってこの道について来なければなりません。黙ってこの道に従って行く日には、そこに共に参与した恩恵を受けることができますが、そこに自らの家を建てて自らの丘を造っておいては、審判の条件に引っ掛かるのです。刑務所に入った人が国家の法律の何条に引っ掛かったということと同じです。国家全体の法に引っ掛かったのではありません。ある条目に引っ掛かるというのです。同じように皆さんも審判の項目の何条かに引っ掛かれば、行くことができません。
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共に滅びることがあっても、背信者の道を行くなというのです。滅びれば霊界に行って良い立場に立つのです。背信者にならなければ、その背信者にならないグループで今後いくらでも発展できますが、背信者は発展できません。それがいつも遮っているのです。それを消化して越えていくことのできる力が自分にはないのです。ですから、国に対する背信者や……。より大きな目的のための立場でついていかなければならないという決意をしたのにもかかわらず、裏切ればそこに大きな目的が私をいつも審判する位置で責任を追及するのです。そこから脱け出す道がないというのです。
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今後、社会が一箇所に出て国を設定し入っていくようになる時は、皆さんの経路をすべて一つ残らず書いて、あの公義の審判場でパスしなければなりません。再審査を経ずしては国家祝福の位置に行けないのです。世界祝福まで行くべき道が残っているのです。統一教会がする祝福は教会祝福です。審判はどこから、統一家から、祝福を受けた息子、娘から、祝福を受けたお父さん、お母さんから、それから……。これをしておいてその秘法により比例する世界の審判圏に越えていくでしょう。はっきりと知らなければなりません。
祝福を受けたというこのでたらめな女たちからしっかりとしなさい。原理は後回しにしておいて自分勝手に生きて、原理の世界が、み旨の世界が皆さんと関係を結ぶことができると思いますか。とんでもないことです。そのようなことができるならば、私がこれほど苦労しません。
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神様の愛と神様の生命と神様の血統を通して、鉄槌で審判するでしょう。そのような時が来るのです。その時にメシヤが来るのです。メシヤがどのような方か知っていますか。救世主がどのような方か知っていますか。本然的な愛の秩序を求め、本然的な神様の永遠な生命と愛と血統の本宮を求めて、幸福の基地を正しく立て直して、それと連結した家庭と一族を越えて、民族と国家、世界に一つの愛の主導権に立てるために来られる方であることを知らなければなりません。
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神様の家庭とは何ですか。このような真の愛を中心として、神様の位置にいるこれは、下にもっていって合わせてもよく、これをすべて離してどこかにもっていって合わせてもすべて合うのです。おじいさんの肩に孫が上がっても、家法で審判しません。孫がおじいさんのふとんを持っていって、おじいさんが隅に体を曲げて寝るからといって、親不孝者だと審判しません。そこではすべてのものがOKです。
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「御父母様」と言葉ではよく言いますが、父母様に侍ったことがありますか。私が夜を明かせばさらに夜を明かしてこそ侍る位置に立つのです。私が苦労すればもっと苦労してこそ侍る位置に立つのです。ついていきながらみな寄生虫になりました。寄生虫は寄生の虫というのです。この者たち、寄生虫という名前にぴったり合います。偽物を喜ぶこの者たち! 統一教会の者はそのようなものが多いです。今粛清しなければなりません。
本当に怨恨をもった文総裁は、統一教会の遊んで食べて教会をむしり取って食べる食口を、ガソリンをかけて私の手で火をつけようと思います。世の中を審判する前に、この者たちを審判しなければならないのです。私が教えてあげた道理に一致しなければ、きれいに整備しなければならないでしょう。
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この悪魔の世界が天国を成し遂げるのに提供するものは何もありません。それはすべて火で燃やしてしまわなければならないのです。それで、聖塩を作って聖別させてそれを代わりに使うというのです。堕落したこの人間まですべて火で燃やしてしまわなければならないのです。火の審判を受けるのです。それで、人を私の手で再創造しなければならないのです。心情を投入して生かして天国に連れて行くというのです。
今まで私の手で一人の生命も血を流すようにしませんでした。私が手をつける日は恐ろしいのです。どうかそのような結果をもたらさないように皆さんが肝に銘じてください。分かりますか。血を見る日には問題が大きいのです。原則がそうです。それで、金日成までも私が生かしてあげようとするのです。
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私が酒を飲んでここに来て座っておしっこをもらしながら、「あなたたちなぜ来たのか」と追い出せば、残る人が何人になるか考えてみましたか。なぜ笑うのですか。そのような審判が天地の誰も分からずに引っ掛かり得る審判方法です。真の愛で愛するための参与者を探すためには、丸裸になって、半気違いになって横に行っておしっこをもらしても残る人が何人になるのか、そのような考えまでする人です。
なぜですか。私が経てきた道がどんなに驚く道か分かりません。それを皆さんは知りません。私の母も知りません。今ここのお母様も知りません。それゆえに、霊通したおばあさんたちが、先生がかわいそうだと大いに泣くそうです。話さなければそれを誰が知っていますか。難しい問題を今まで一人でぶつかってきて、内外共に倒れていることを誰も知りません。
3.罪を犯せば家庭裁判に、一族が審判する
皆さんの父母は何かといえば、公義の法廷の裁判官です。それを知らなければなりません。皆さんの家庭では必ずお母さんが弁護士の役割をします。そして、兄弟が間違ったら、その兄弟がすべて検事の役割をします。「ああ、姉が先にそうしたのであって、私が先にそうしたのではありません」。それで、お母さんはただ聞いて「うんそうか、お前が正しかった。お前が正しかったのではない。この子が正しかった」と言うのです。
ですから弁護士のようなものです。お母さんが弁護士の役割をするというのです。兄、姉、弟たちがけんかをしたら、検事は誰ですか。姉も検事になり、兄さんも検事になります。それを知らなければなりません。皆さんの家の中に判事、検事がいることを知らなければなりません。若い青年たち、そのように考えてみたことがありますか。
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妻が見て恥ずかしい夫になるなというのです。妻は神様の特使です。息子、娘が神様の特使だというのです。私を監視して教育し正しい道へ行くようにするための一番の側近者としての特使だというのです。子女の前に恥ずかしい父親になるなというのです。その天の特使は盗んだ物を食べさせるなというのです。詐欺を働いて天に侍ることができますか。先祖に侍ることができますか。それなら、皆さんがあの世に行けば、先祖が瞬間的に審判します。神様は審判しません。先祖が審判して結局は世界的な公判廷まで引っ張り出すのです。
先祖がここで報告して公判廷に引っ張り出さなければ、その先祖は善人になれません。そのようになっているのです。その統治法を背後に置いて未来に希望の基盤を決定すべき、またそのような日々を迎えていくべきこの生涯の路程というものは深刻だというのです。
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今後、理想時代には法廷が必要ありません。この世で人生の過程は永生の基盤であり、あの世に行って生きるべき準備の過程であるがゆえに、一族の中で誰かが誤ったら一族が処理するのです。一番の裁判長が誰ですか。妻が誤れば夫が裁判長になるのです。子女が間違った時は父親が裁判長になるのです。それで公法により指導を受けてその一族が処理するのです。
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今後、あの世に行けば誰が審判するようになるのでしょうか。自分の先祖が審判します。今後は国に裁判所がなくなります。一族が処断するのです。裁判長は誰がするのかといえば、自分の父母がなります。最も近い人になるのです。エデンの園で誤った時、誰が裁判しましたか。神様がしたでしょう。お父さんがしたでしょう。自分の一族にとって恥ずかしい事実なので、そのようにするのです。検事は誰がするのでしょうか。最も愛する人になるのです。夫が誤れば妻が讒訴するのです。
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誰が審判しますか。最も愛する人が審判するのです。アダムとエバを誰が審判しましたか。アダムとエバは兄さん、妹です。怨讐になりました。誰が怨讐に判決しましたか。アダムがエバを、エバがアダムを判決しました。そのような時が来るのです。
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天地と運命が左右され得る法を設定すべき仕事が、私たちが行く道の前に待っているということを知らなければなりません。その法が設定されるようになれば、今までむやみやたらに生きた人間は許しがありません。自分の一族で処理するのです。法廷に行きません。自分の氏族が中心になります。文氏ならば全国にいる文氏の宗族でその文氏の宗族法によって族長が審判するのです。そこには許しがありません。
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今後、罪を誰が審判するのでしょうか。もちろん霊界でも審判するのですが、自分の周辺にいる人々が審判します。誤れば町内の人が審判するでしょう。町内より高い段階の郡ならば郡の人が審判します。郡の人が誤れば道の人が、道の人が誤れば国が、国が誤れば世界が審判するのです。それゆえに、その秩序的基準に合格できる制度がこの制度です。
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今後、罪を犯すようになれば、法廷に引っ張っていって断罪するのではありません。自分の一家でするようになるというのです。そのような時代が来るのです。ですから、呪うこともできないでしょう。自分のお父さんとお母さんが審判し、妻が間違えば自分の夫が審判するのです。それゆえに、今後統一家の祝福家庭の二世が誤れば、誰が処断するのでしょうか。父母がするのです。
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アダムとエバのお父さんは神様でしょう。それでは、アダムとエバが罪を犯したのですが、誰が審判しましたか。その次は誰ですか。その次は自分の相対です。夫を妻が審判しなければならず、妻を夫が審判しなければなりません。その次は誰ですか。息子、娘です。愛の源泉を中心としてすべてこのようになるのです。
最も近い人が最も嫌うのです。息子、娘が最も嫌い、夫が最も嫌い、妻が最も嫌い、父母が最も嫌うのです。それにもかかわらずそのような行動をしては、父母を欺き、相対を欺き、息子、娘を欺き、天地の前に「お父さんだ、お母さんだ、兄弟だ、父母だ」と言えないというのです。ここにもそのような男性、女性がいるとするなら、今後あなた方だけでみなブルドーザーで押し出してしまいなさいというのです。
*
統一教会の家庭に対する審判時代が来るというのです。みんなヨルダン川を渡っていくのに、こちらに立って見つめながら渡ることができないのです。モーセがピスガ山上でイスラエルの地を見つめながら入っていけなかったのとちょうど同じです。家庭もちょうど同じです。ですから警告するのです。
*
警察が必要ありません。刑務所が必要ありません。一族の責任者が集まって警察に代わり、判事に代わってその家庭を審判するのです。その部落の法に外れることがあれば、問題が起こるのです。
*
完成した子女、完成した兄弟、完成した夫婦、完成した父母はこうであるべきだという神様の公式的なモデルがあるでしょうか、ないでしょうか。それがあってこそ永遠な審判の基準になるのです。「君は天国の第一合格者、第二合格者、第三合格者……」という系列を定めることができ、位置を決定できるのです。そのようなものがあるでしょうか、ないでしょうか。なければならないのです。そのような愛の理想相対を地上に実践し完成しようというのが創造理想だというのです。それで、神様が子女を造られたのです。
*
今後、一族の中でもし犯罪者がいれば、なにがしの一族、その一族の族長を中心として統治するのです。氏族的メシヤが神様の代わりの裁判長になるのです。自分の一族に事件が起これば、雷が落ちるのです。その一族からそのような悪者を輩出したという事実は、一族の看板に泥を塗るのです。部落がこのように滅び腐敗していく国ではいけません。全体が一つになって一族を保護するのです。
若者の中で悪者が生じれば捕まえて「こいつ!」と張り飛ばすのです。一番最後におじいさんが裁判長になり、お父さんが検事になり、お兄さんが弁護士にならなければなりません。天地原則の大道を明らかにするためには、私たちの家庭の検事になり、お兄さんが弁護士にならなければならないのです。
「天理原則の大道を明らかにするためには、私たちの家庭の血族ですが、血族になることができません」このようにして無慈悲に公的な審判をしてしまわなければなりません。それで、警察がなくなるのです。軍隊がなくなるのです。
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今後は警察がすべてなくなるのです。罪を犯せば、家庭が絶対権限をもって家庭で解決するのです。その父母が責任を負うのです。夫が間違えば妻が審判するのです。最も近い人が審判しなければならないのです。なぜですか。偽りの愛の種が残したものを真の愛の相対的基準が処理しなければならないために、最も近い人々が審判しなければならないのです。
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罪というものは何ですか。罪は私的な所で生じるのです。滅びるのも私的な基準で起こるのです。悪も同じです。私的なことが度数を越えれば、悪として現れるのです。私的なことには限界があるのですが、その限界を越えれば悪になり、滅びるようになり、罪を犯すようになるのです。それでは、永遠に善であり得る、永遠に発展することができ、永遠に福を受けることのできる位置はどこでしょうか。滅びるのを避けることのできる位置、罪になることを避けることのできる位置、悪になることを避けることのできる位置はどこでしょうか。
それは正に公的な位置です。御飯を食べても公的な位置で食べなければなりません。仕事をしても公的なこととして、話をしても公的な話として消化しなければなりません。このように一切を公的なものと関連づけ生きなければなりません。そのような人は地獄に行こうと思っても行けないのです。
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本来、天法の道理に従っていく人間には、自分自身が滅びることを防ごうとしたり保護したりしようという心があるのです。これは神様に本来そのような心があるので、人間にも本来あるようになったのです。自分が作った法ではないというのです。
「良心よ、私がこうなのでこのようにする」と言いますか。「私の考えがそうであるがゆえに、そうすべきだ」と命令するからといって良心が作用しますか。どこか分かりませんが、違う所で命令を受けるのです。そのような感情が自分を支配するのを見ると、これは公私問題を中心として支配するということが分かるのです。
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罪をたくさん犯した人は、どんどん北極に送るのです。そのような時が来るのです。そのような人々に御飯をなぜ食べさせますか。熊の子を食べて生きるのです。何年間かその境界線にほうり込むのです。「何でも捕って食べて暮らして死ななければ、何年かあとに来い」と言うのです。そのような隔離時代が来るのです。
その世界で死んだなら死に、死なないなら死ぬなというのです。虎を捕まえて食べるならそのようにしなさいというのです。氷の家を建てて生きるなら生き、建てないなら建てるなというのです。そのような隔離時代が来るというのです。伝染病患者は隔離するでしょう。そのように完全に隔離するのです。ですから予防薬として強調することが、罪を犯すなということです。