Text Box: TP portrait  二 侍る心構えと態度


  1.侍ることによって生活の天化を成す


 神は妄想的で念的な神ではありません。抽象的な神ではありません。生活的な主体性をもって、いつも私たちが生きている生活の主人として共におられるのです。侍られるだけではありません。共同的愛を中心として共同的な生活をしている神です。夢のような話です。

            *

 神を心の中に侍り、私たち人間が体の立場で完全に一つになることのできる起源をつくらずしては、この魔の世界を算する道がありません。このような点から見る時、侍る時代、侍義の救援時代だと見るのです。侍ることによって救われるのです。神はあの空中に掛け離れている神ではありません。私たちの生活圏内の主体者としての神に侍らなければなりません。

            *

 皆さんは神がいらっしゃることを一日に何回自しますか。二十四時間の中で何回神がおられることを感じますか。「侍ることによって救いを受ける」と言う人たちが、二十四時間の中で一、二時間ぐらい侍っていていいでしょうか。空よりも切迫して必要なのが神です。水よりも切迫して必要なのが神です。御飯よりももっと貴いのが神です。ところで皆さんはそのように感じられますか。

            *

 これから皆さんが侍る生活をしなければなりません。今までの信仰生活は信仰によって救いを受けましたが、これからは侍ることによって救いを受けます。本来堕落しなかったならば、神に侍ることによって私たちが行くべき道をむことができたのです。侍るには皆さんの生活と心で共に侍らなければなりません。

            *

 侍る生活をしなければなりません。願いの天は迎えましたが、侍り実践しながら生活できる天は迎えられませんでした。すなわち、生活的な主体の神を知りませんでした。

            *

 私たちがこのように習い、聞き、侍る生活をするのは何のためですか。六千年間、人類があえいできた目的は何ですか。それは聖書に流れている神の事情を知り、神の心情を知るためです。民族や家は言うまでもなく、個人をおいても父母の心情をもってし、傷つき、蹂躙され、排斥され、引き裂かれてこられた神が私の父だということを知るためです。

            *

 成約時代は、愛の時代です。ですから結婚できるのです。今まで宗時代には愛を許さなかったので、高次的な宗は結婚を許さなかったということを知らなければなりません。

            *

 神は宇宙の中心存在なのでその前に近く行けば千年、万年主管されてももっと主管されたいのです。神を中心とした侍る道理がそのようになっているので、今日私たち人間もそのような立場で主管されればそれ以上の幸福はないという事を、私たちは考えることすらできませんでした。

            *

 信仰の義であるとか、行いの義であるとか、侍る義を追求するのはなぜでしょうか。義でなければ善を分別できません。なる世界と善なる世界が分かれません。その善の中心点とは何でしょうか。神です。神が信じるのと同じように、神が行うのと同じように、神が侍るのと同じように、いつも神が中心にならなければなりません。それはなぜそうでなければならないのでしょうか。サタンは神のように義なる者にしては、讒訴できないというのです。神が信じ、神が行い、神が生活する、侍る環境にしていればサタンが干できません。サタン圏内にいてもその環境に神のようにできる義なる基準が生じれば、サタンはそこから後退するのです。

            *

 行いの約時代が過ぎ去り、信仰の新約時代が過ぎ去り、侍る成約時代だけがあるのではありません。新約時代にも行いが必要で、成約時代にも信仰が必要で、侍る生活もみな必要だというのです。成約時代にも信仰が必要で、行いが必要で、みな必要です。それは蘇生、長成があって、長成の上に完成があるのと同じだというのです。それは切っても切れません。

            *

 統一教会では侍ることによって救われると言います。侍義、すなわち侍ることによって救いを受けるというのです。春夏秋冬、洋服を仕立てて着る男がいるならばお父さんにも仕立ててあげなければいけません。その方が体をもった方ではないので、代わりに精誠をためておいて、ある時がればそのめられた精誠を、誰が見ていても見ていなくても自分一人、教会のために神に侍る心でを流しながら金箱に捧げれば、その精誠は契約の箱に積まれるのです。これが念的ではなく、感情的に体化され表現できる生活にならなければなりません。

            *

 侍る生活は、なぜしなければならないのでしょうか。それは神の愛を受けるためのものです。

            *

 今までの信仰生活は信仰によって救いを得ましたが、これからは侍ることによって救いを得ます。本来堕落しなかったならば、神に侍ることによって、私たちが行く道をみな行くのです。信じるといって、何を信じますか。侍って生活することによって、みんなできるのです。侍るには、皆さんの生活と心で共に侍らなければなりません。

            *

 今は個人なら個人として神に侍る生活、家庭なら家庭として神に侍る生活、教会なら教会として神に侍る生活、あるいはこの民族を中心として、神が要求される侍る基準を、どのように新しい統として設定するのかが問題になります。

            *

 統一教会時代は、御父母の時代です。神が地に臨むことができ、神られることのできる道を磨くのです。それで、神られることによって、侍ることによって救いを得るという言葉が成立するのです。史はそのように展するのです。

            *

 侍る場に同するためには、今まで悲しんでこられた神を慰してあげることができ、悲しい精誠の事情に同することのできる容を備えなければなりません。これを紹介し、それに伴う蕩減件を神の前に立てるために出てきたのが復原理です。

            *

 皆さんは侍る生活をしなければなりません。侍る生活はなぜしなければならないのでしょうか。神の愛を受けるためだということを知らなければなりません。ですから神に先に侍らなければなりません。神に侍らなければならないというのです。



  2.法度に背けば怒られる


 侍義というのは生活化天時代を言います。それで侍義をもって出てきました。復帰歴史は何かと言えば、神の創造理想を再現するのです。

            *

 神に侍るには法度があります。その法度に背く時には神は怒られるのです。

            *

 皆さんは生活の中で法度を守ることができなければなりません。天が要求する天の法度を守り、また天の法度を守ることができると同時に、天生活をすることができなければなりません。そして天生活をすることができると同時に、天の愛によって一つにならなければなりません。

            *

 神が喜ばれ、悲しまれることをいつも鑑別しながら生きる人は、い人になろうとしてもなれないし、天の法度に背こうとしても背くことができません。そのような男は、いくら美人が誘惑しても落しません。そこに同化されないというのです。

            *

 今日、家庭を皮する不幸な年男女が多い原因は、どこにあるでしょうか。天倫の法度に一致した愛が喪失されたからです。それで家庭を中心に、神にその家庭にお座りになっていただくことのできる天地父母現しなければならないのです。

            *

 天理は順序を正しく守るところで成立します。ですから主体と象の係で天は絶的な主体の立場に立たなければなりません。その主体を無視する人は象になれません。絶的な主体の前に絶的な象になろうとするので絶的に一つです。ですから見て、聞いて、感じるすべてのことは、家庭に入り愛することまでも全部象と主体の立場に立って、天のためにするのです。一切がそうなのです。そのような家庭は滅びません。

            *

 最後にるものとは何でしょうか。神プラス人間、神人、神人の生の道、神人生活です。人生も同じように神人人生、神人世界、それが漠然と神し人が知ることのできる程度のところではなく、人が永遠に落ちようにも落ち得ないところです。なぜですか。神と人は本落ちることができないところから落ちたので、落ちることができなかったところより以上のところに到達しなければなりません。そのような立場で神人が一つになった生活的な舞台、世界的な舞台を要求して出ていかなければなりません。

            *

 勝利的な主管を立てるために、神と共に生きなければなりません。ですから皆さんは絶的な信念をもって侍る生活を中心として、立体的な立場で生活していってこそ勝利的基台を成すことができるのです。復の道がそのようになっています。

            *

 主体のための象の立場には、不平があり得ません。不平は妄動であり、破綻です。ですから信仰の道は不平を許さないのです。感謝のみでなければなりません。皆さんはそれを知らなければなりません。天はいつも主体としておられるので主体と共に相した運命をもって、それを離る生活の法度、生活の形態はあり得ません。



 






(next section)
(CSG Index)