1.至誠感天
心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くせという言葉は何を意味しているのでしょうか。それは生命を捧げなさいということです。それ以上、何がありますか。心を尽くせというのは生命を差し出せという言葉です。思いを尽くせというのも、精誠を尽くせというのも、生命を差し出しなさいという言葉です。至誠なら感天という言葉があるでしょう。至誠の限界点、私の心の果てがどこでしょうか。生命を懸けて精誠を尽くせというのです。首を差し出し、死ぬ覚悟で精誠を尽くす人は、神様が知らないと言えないのです。
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生命を差し出すにも無理やりするのではなく、狂うように喜んで差し出せというのです。どうせ生命を差し出すのに泣きながら差し出すことを神様が願われるでしょうか。でなければ喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら差し出すのを好まれるでしょうか。どちらでしょうか。
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先生が床に伏して祈祷する時は涙が乾きませんでした。ここ(膝)にたこができました。「精誠を尽くした塔は倒れない」という言葉があるではないですか。神様のために精誠を尽くさなければなりません。神様が慕わしくて狂うほど胸が張り裂けそうな境地にまで入らなければなりません。神様がおられるところが地上ならば一日に千回行ったり来たりしたい気持ちがありますが、そのような地上ではないので、仕方なく先生を送ったのです。
そのような何かがあるので、皆さんが先生を愛さずにはいられないようになっているのです。どうしてわけもなくそんなに情が移りますか。涙を流し祈祷する時、真冬に綿入りのズボンを涙でびしょぬれにしたことがありました。どれほど気が遠くなりそうだったか考えてみてください。ナイフを立てておいて談判祈祷をしたのは、一度や二度ではありませんでした。
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皆さん、ここにダイヤモンド鉱があるとしましょう。自分だけが知っている、そんなところがあればどうなるでしょうか。それのために自分の家庭も売らなければならない場合が起こるでしょう。妻を売って多くの家庭を救うならば罪ではありません。自分の子供を売って国の多くの息子、娘を救うならば、それも罪ではありません。しかし自分の欲心のために売ってはいけません。
その鉱山が、国と民族を生かすことのできる道であり、世界万邦の人間たちが生きることのできる道だという時は、自分の妻と子供を売ったとしても歴史の罪になるのではありません。国を生かすために、世界を生かすために、妻や子供を売るのはいけないことのようですが、かえって世界が褒めたたえることのできる宝の根源が宿ることができるのです。
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御飯を食べても水を飲んでも、座っても立っても、誰に対しても、父母の前に、天の前にすべての心情を見せることができれば満点です。知識や学識があるからできるのではありません。神様の前に「私、誰々博士です」と言って生きますか。それは必要ありません。ですから神様の愛を私がどのように導くことができますか。ただ一つの道は「至誠なら感天」、これ以外にありません。
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先生の一生のモットーは「神様の代弁人」でした。今日、皆さんは天的な代弁人になってくれることをお願いします。そして神様の代弁者になり、神様の代わりの存在になり、さらには神様の代死者になってくれることを願います。
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とてつもない歴史的終末時代に、誰も信任できない孤独なところにおられる神様の前に私たちが信任の対象になれるならば、それ以上願うことがありますか。死んでもいいというのです。私の肉身が水となって流れていったとしても何の恨があるでしょうか。粉となり飛んでいったとしても何の恨があるかというのです。この世には、豚のように死んでいく無価値な人生がいくらでもあるのです。死んだ者は犬もくわないのです。
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不平を言ってはいけません。不満を抱いてはいけません。自分を考えてはいけません。神様を思いながら「私が不平を言えば神様がどんなに痛いだろうか。その方の事情を私が知り、その方の伝統を相続することのできる一瞬が私の前に訪れたらそれを引き継いで、その方についていきながらその方を慰労しようという心をもつのです。そうしながら涙を流すその場に天が共におられるのです。間違いありません。神様のために泣き、御父母様のために泣かなければなりません。これが統一教会の祭壇であり、統一教会の侍る生活だということを皆さんは知らなければなりません。
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神様の愛と共に生きると言いましたが、さて皆さんの生活目標はどうでなければならないでしょうか。愛の心情をもって侍る生活をしなければなりません。そのような心でハンカチに向かって敬礼しても偶像崇拝ではありません。愛の心情をもって頭を下げるのに何がそれを支配できるでしょうか。自分の栄光を超越して心情で敬礼するならば、サタンがこれ以上そうするなと言うのです。天宙の心情を通じていくなら偶像がないのです。
2.孝子の道
先生はおなかがすいて疲れて倒れる恨があったとしても、どうすれば神様が心配するその道を私が先立って行くか、背負うことのできる十字架の道があるならばどのようにその道を行くかということを考えました。しかし皆さんは、このような道を行こうと準備してはいません。今日皆さんは、侍ることによって救われるということを知りながらもずうずうしく眺めています。そんな心でとどまってはいけません。
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先生が何をされるか分からなければ眠れないで、夜中にでも飛んできて尋ねていくことのできる、そんな生活をしなければなりません。それで侍ることによって救われると言いました。先生は神様に対して、いつもそのように生きています。瞬時も気を抜けません。
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皆さんは侍義時代、すなわち侍る生活において正確な中心をもっていかなければなりません。神様に侍るには法度があります。その法度に背く時には、神様はとても怒られる方です。子供を愛する父母が子供の言葉の一言に胸に釘を打たれたり抜かれたりするのと同じように、神様も人間を愛していらっしゃるがゆえに怒りが多い方です。ややもすると間違えて神様から怒りを買うことになります。ですから先生も、いつも先生なりに神様を喜ばせてあげようとします。服をきれいに着た人を見れば気分がとてもいいです。それで先生もそうしなければと思い、洋服を着て出てきました。そうでなければジャンパーを着て出てきたことでしょう。
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皆さんも皆さんを思ってくれる人を訪ねていくでしょう。神様も同じです。その神様を占領できる道は誰よりも神様を思い、神様のために奉仕しようとするその人を中心として神様は訪ねてくるのです。
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先生は神様の前に綿入りのズボンがびしょぬれになるほど祈祷したことが何回あったか知れず、ナイフを持ちおなかにあてて誓ったことが何回あったか知れず、死の峠を越えながら心に堅く決意したことが何千万回あったか分かりません。
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人間において神様を愛するのが第一の戒めですが、愛するのに死ぬほど愛すべきですか、一時的に愛すべきですか。皆さんは神様を死ぬほど愛したいですか、死ぬほど愛したくないですか。雷に打たれて死ぬとしても愛さなければいけません。神様を死ぬほど愛さなければならないというのです。死ぬほど愛さなければならないなら、死ぬ前まではできないことがないというのです。
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皆さんは目が崩れ鼻がふさがるほど泣きながら慕わなければなりません。人が泣きすぎると胸が痛くなります。それほど激烈に慕わなければなりません。「お父様!」と呼ぶのに死刑場に引かれていく息子の立場で父を呼ぶ人もいるでしょう。遠い他国に旅立つ息子の立場で哀絶に父を呼ぶ人もいるのではないでしょうか。それゆえ神様、お父様を呼ぶ時、そのような基準以上にならなければなりません。
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白頭山の頂上に登ってそこで岩を砕き、畑を耕し、じゃがいもを植え、そのじゃがいもを神様に奉養できますか。それをしなければなりません。その時は牛がいなくて愛する妻を牛の代わりにして畑を耕したなら雷に打たれるでしょうか。打たれないでしょうか。妻を牛の代わりにして畑を耕すという時、神様が「おい、やめなさい」と言えばやりますか。あなたの心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くしなさいと言いました。やりますか。しなければなりません。
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皆さんは現在どこにいますか。昼も夜もいつも、どこに行っても先生と共に歩調を合わせて生きていますか。今まで先生はこの頭をもって生きてきたのではありません。神様と共に神様が行く方向に歩調を合わせながらすべて、生命をすべて投入して生きてきたのです。
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先生は一日一日の生活において、重要な問題は必ず神様に祈って解決します。いいかげんにはしないというのです。
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この道を行くためには愚鈍でなければなりません。忠臣たちは、ある意味で間抜けな人たちです。少しは愚鈍に見えます。熊のような性格があるというのです。自分の腕が切られても「ああ、ここがあまり切れていない。もっと切りなさい」という愚鈍な面がなければなりません。熊や猪は、銃に撃たれて足手まといになる部分があれば、その部分をかみ切って逃げます。死はあとで考え、いったん足手まといになるものを切ってしまいます。そのような愚鈍な何かがなければなりません。忠臣烈士は愚鈍でなければなりません。少しは愚かでなければならないというのです。
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神様を解放しようというのです。真なる神様の権威を中心として、理想郷で人類始祖と共に無限の幸福を褒めたたえつつ生きることのできる侍る生活の中で、侍られながら過ごされるべき神様がこのように悲惨になったという事実を知ったので、その神様を私たちの手で解放しようというのです。これは驚くべき提案です。そのような内容が宗教界から出てきたという事実は、神様において極めてうれしい知らせです。福音中の福音です。このように見る時、仏教を立てられた方も神様であり、儒教を立てられた方も神様であり、イスラム教を立てられた方も神様であり、キリスト教を立てられた方も神様なので、すべての宗教が両手を挙げて歓迎しなければなりません。
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先生は今までみ旨のために苦労してきたし、今も寝ても覚めてもその道を歩んでいます。先生の近くで侍ったことのない人は先生のことをよく知りません。先生は寝ていても目が覚めさえすればうつ伏せになって祈祷します。なぜそのような生活をしているのでしょうか。この夜にも世界に散らばっている愛する子女たちが私を頼り、神様のために祈祷しているからです。私が精誠を一緒にできなくてもそれに劣らず拍子を合わせてあげなければならないのではないでしょうか。先生が寝る時は分からないので神様も許してくださるのです。その時間には、子供が疲れて寝たら父が見守るのと同じように神様が代わりに祈祷してくださるのです。
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レバレンド・ムーンはどんな人ですか。一つの才能しかない人です。愚鈍にひたすらまっすぐにのみ行く人だというのです。ああ、口をちょっとつぐんで適当に回っていけばいいのに、どうしてよく悪口を言われるような作用をしたりするのでしょうか。それは多くの人々の反対を受けてこそ一つの峠を越えていくからです。しかし皆さんは帰ることを考えているでしょう。それではなぜこの世のすべてのものを切ってしまって行かなければならないのでしょうか。お母さん、お父さんの愛に引かれればまっすぐに行くことができないからです。神様は今まで正しい道を求めてこられたので、正しくまっすぐに行かなければならないというのです。
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皆さんは、み旨の道を歩んできながらどれほど深刻でしたか。先生は一生の間そのような道を歩んできたのです。妻子も知りません。神のみぞ知るです。孤独単身、寂しい男が行く道を誰も知らない中、神様が協助して驚くべき実績をもって、今日この社会に問題を提示し、また疲弊していくこの民主世界の思想圏内に新しい波及を提示する問題の人物になりました。このようになったのは私が立派だからではなく、神様が共にされたからです。
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神様がそのように寂しい方であり、神様がそのように孤独な方なので、私が死ぬ日までそのみ旨とその願いを一つでも解いてあげ、その分野の一つの土台でも拡大させて神様のために生きられる人を集めるのが使命だと思ってきたのです。悪口を言われても、むち打たれても復讐せず、愛によって耐えてきたのは、神様の子供として生まれたからで、その方のみ旨を立てるべき責任があるからです。ですからこの伝統をどのように立てるかを考えながらよろよろになって、あるいは腰を曲げ腹ばいになりながらこれだけは残さねばならないと言って、闘ってきたのです。
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人間は自分が立ったと自慢してはいけません。自分が立てておいたとしても倒れるというのです。しかし人間が立ててくれなくても天が立ててくれれば必ずできるというのです。
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「真の父母」がしているのは何ですか。すべてのことを勝利して、神様の心の深いところまで訪ね入り、恨を解怨し、その勝利圏を地上に成すことです。そのような「真の父母」が出現したということを皆さんは感謝しなければなりません。