Text Box: TP portrait  第二章 の御父母して侍る


 一 の御父母は祝福家庭の中心


  1.の御父母の息子、娘になるには


 皆さんはこれから「の父母」と共に生きなければなりません。ですから「の父母」はおじいさんの立場で、自分のお母さん、お父さんの立場で、自分たちは長子の立場だというのです。これが違うのです。三代にわたって共に生きるという結論です。神が私と共にあり、「の父母」が私と共にあり、自分の父母が共にあるのを感じて生きなければなりません。神がいないとか死んだとか考えられない時代に入りました。

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 一切を父母と共に相して、父母と共に決定し、父母と共に相談し、父母と共に解決しなければなりません。

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 いい食べ物を食べたり、いい服を着る時は、ただ食べたり着たりしてはいけません。一番いいものは神に先に捧げなければなりません。道をくときも右側には父を、左側には母を、と侍って行かなければなりません。

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 父母の愛を受けるには何をしなければならないのでしょうか。父母が愛するすべてのことを愛さなければなりません。そうしてこそ愛を受けるのです。家庭で言えば、自分の父母に愛されることを願うならば、その息子は、父母がもっているすべてのものを愛したのちに、愛されなければならないということを知るべきです。これをしないで愛されようとする人は泥棒です。父母が貴く思うものを全部自分がいいかげんに、勝手に引きいでは愛されません。

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 皆さんが思いのままにするのではなく、先生がするとおりにってやりなさい。先生が行くとおりについていくのです。統一教会統を引きぎなさい。統一教会の文先生がするとおりに、皆さんがすればよいのです。先生も家庭を捨てて、父母を捨てて、この道をんできました。皆さんもそのようにしなければなりません。皆さんは順にっていかなければなりません。

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 「の父母」と皆さんはすべての係を結ばなければならないし、永遠にその係がわってはいけません。

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 皆さんは先生の血と汗の代で買ってきた人たちです。先生の体をえて買ってきた人たちです。ですから皆さんは先生と同じ仕事をしなければなりません。先生は食口たちを誇りたいのです。このような立場で公約しましょう。

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 サタンが天に反逆し、天地の法度を狂わせたので、皆さんが天を支持する天使の立場に立って、天の前に忠臣の道理を立てなければなりません。そうするとそこから初めて新しい復の道が開かれるでしょう。それで皆さんを先頭に立てるのです。

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 神の心情を感じることができず、で別れたアダムなので、わなければならず、で別れたカインとアベルの怨恨をで解かなければなりません。その道でなければ合わさる道がありません。世界的に男性たちの中には先生にいたくて泣く人もいます。さて、ここにそのような人がいますか。このでたらめな人たち。昔はみんなそのようにしてきました。草創期にもみなそうでした。

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 統一教会に通う婦人たちが先生にうので、夫たちは妻が自分のそばにないと言ってひどくしかりました。これと反に女性たちも、夫たちが先生にうので、自分のそばにないと言ってかんかんになるのです。そのようになっているのです。また男性たちも先生にいたければを流さなければなりません。そのようにできない人は統一教会時代に天に入れません。

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 皆さんは体の神の立場に立っている「の父母」が慕わしくて泣かなければなりません。いつもいたい持ちがなければなりません。御飯でも一杯炊いて、水でも一杯ついで侍りたがらなければなりません。そのような切な心をもたなければなりません。が先立つ心情をもっていればいいのです。そのようにすれば、先生を中心として心情一致し、先生と共に呼吸することによって先生の人格基準とそれを裏づける先生の過去、そして、そこに絡んだ事情がどうなっているかを知り、さらにそれを相することができるのです。



  2.の御父母にどれほど侍ってみましたか


 落した人間が神の前に出ていくための方法は時代によって違いました。すなわち、約時代には祭物を捧げることによって、新約時代には神の息子であるイエスを信じることによって、成約時代には「の父母」に侍ることによって神の前に出ていくことができるのです。

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 エデンの園でアダムとエバは落し、その圏内で生きたので直接的な侍る生活をしたことがありません。侍る容をもったことがない人たちは、天に入る資格がないというのです。しかし皆さんは、落の血統を受けて生活したとしても、蕩減復するために、地上で体をもって、アダムとエバが侍ることのできなかった神に侍り、の父母に侍って生きていくのです。そういう件が天に入ることのできる資格になるというのです。それで天の市民を得るようになるのです。

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 私は愛すべき万物の父母の前に孝子になれず、私を生んでくれた父母の前に孝子になれず、界と神の前に孝子になれませんでしたが、先生を中心として「の父母」に侍ることによって、孝子の資格を代わりに受けることができます。ですから皆さんは執念をもってついていかなければなりません。

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 「の父母」に遠く接する時はの王であり、近く接する時は父母です。そのようになっているのです。

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 皆さんは先生のためにどれほど祈し、どれほどいたいと思いましたか。本いたく、本に祈し、本に思慕したならば、この体を見ることだけが問題ではありません。


 御飯を食べる時も「お父、お先にお召し上がりください」と言わなければなりません。

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 皆さんがお父に侍ることができるその時、その時間がればどうしますか。どのように孝行するか、そしてどんな姿で父母に侍るかを考えなければなりません。

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 祈室を設けて、先生の写真を掛け、千回、万回敬しなさいというのです。昔再臨主に侍るために準備した許浩彬氏の体では日三千回敬をしました。皆さんも一度やってみてください。縫い物も布目一つずつ一つずつ手で縫いました。ミシンでやれば不敬だというのです。そのように精誠をくしても不足なのです。

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 皆さんが鏡を見ながらこの目がどれほど父母いたくてを流し、この口が父母の解怨成就をどれほど叫び、この手がどれほど父母の地で血を流して仕事をし、自分の体がけるほど父母が願う土台の上でいてきたでしょうか。「それができなかったのが恨です」と言える心を感じながらその道を求めていくのが幸福な道であり、その道で天と共に因を結ぶのが幸福な人です。そのような人は誰も支配することができません。その人を動かすことができるのは父母だけであり、その人を感動させられる人も父母だけであり、その人を幸福にできる人も父母だけです。そしてその父母を幸福にできる人はその息子以外にいません。父母の希望は父母にあるのではなく、息子にあるのです。

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 皆さんが考える、神する侍る生活とはどのようなものですか。神を一体と考え、父母を一体と考え、生活すべてのものが一体となって私が生きるならば、「このすべてのものは神のものであると同時に『の父母』のものであり、『の父母』のものは『の父母』ののものであり、『の父母』ののものになれば私のものだ」。このような念をもたなければなりません。この宇宙も「の父母」のものであり、この家も「の父母」のものであり、も「の父母」のものなので、私は「の父母」の息子だからすべてのものは私のものだという結論が出るのです。

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 先生に差し上げようと家でよもぎもちを作り、そのもちが汚れないようにと密封したまま本部までて、御くださいと言わんばかりに開けてみると、もちが腐ってかびが生えていたこともありました。もちにかびが生えてうじがわいてもいいというのです。そのもちは食べられなくても億千万金に該するのです。そうであるほど情が移るのです。

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 愛は愚鈍で間けなものです。そうではありませんか。本に愛するならで誰が見ていても係ないというのです。誰かが見ていることを意識する愛は、限界圏内愛です。誰が見ていようが見ていまいが意識しない、そのような境地の愛がどれほど愚直で愚鈍なのかというのです。ある時は、山で掘って採ったききょうを先生の前に持ってきてを流すのです。そのようなことが界に行けば、彼を解放させることのできるいい材料になるのです。

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 皆さんは先生が苦した話をすれば、それが自分に遭ったことのように感じられ、胸が痛く、悲しく、が出るし、悔しく、憤慨する、このように同感できなければなりません。皆さんを同感させるための材料が先生の苦です。

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 先生を知ったと言ってはいけません。先生は原理しか知りません。原理原則に立脚した人だけを知っています。

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 先生が約三カ月間だけ日のように皆さんの家に行けばどうしますか。「ああ、うんざりだ」と言いながら嫌がるでしょう。そうではないと言う人、手をげてください。先生はあれこれと話すことが本に多いのです。そのようなことをみんな知っている先生はあきれてものが言えないではないでしょうか。ですから「あきれてものが言えない」という言葉が出てくるのです。このように皆さんは自分の威信も知らず、身の振り方も知らずにいるのです。ですからこのようなことを育しなければならないのです。

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 先生が生きている時は先生の史を書きませんが、先生が死んだのちには先生の史を書くことでしょう。ですから原理に公認されないことをしたならば大なことになるのです。なぜこのように生きたのかということを裏づける原理的容があるかどうかが問題です。もしもこれができていなければ今まで成されたことをすべて失うことになるでしょう。ですから責任者は大だというのです。









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