1.真の御父母様は人類全体の希望
統一教会で言う「真の父母」とはどのような方ですか。堕落しなかったならば、神様が縦的な愛になり、アダムとエバは神様の体になるのです。神様の体と同じです。神様は骨のようで、アダムとエバは体のようなものだというのです。神様も心があり、体があります。神様は内的な立場で内的な父母になり、アダムとエバは外的な立場で外的な父母になるのです。内的、外的父母が一つになったその場で愛によって結ばれ、内的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。神様と人間との愛の結合によって「真の父母」、すなわち、完成した人間ができるはずだったのです。愛で一体となれなければ完成人間になれないのです。
*
「真の父母」は何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根である間違った血統を正さなければならないし、間違った生命をもとがえさなければならないし、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書では「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いましたが、そのような逆説的な論理がなぜ出てこなければならないのですか。サタン世界は死ななければならないからです。
*
皆さんは、「真の父母」の本当の息子、娘ですか。真の子女とは何を中心として言うのですか。真の血統です。もちろん真の愛を通じて因縁が結ばれますが、成されるのは真の血統を通じて連結されるのです。ですから真の血統を通じて連結されればお母さん、お父さんに似るのです。そう、皆さんは先生に似ましたか。皆さんの目は青く、私は黒く、髪の毛も違うでしょう? 髪の毛がみんな白いではないですか。私は東洋人だし、顔が平たいです。では、何が似るのかと言えば、骨子だけ似るのです。骨子だけ似るとは、サタンに勝つことと神様を絶対に愛するところだけ似るのです。それだけ似るのです。そうしてサタンを主管しコントロールするのです。
*
皆さんが先生をどれほど愛さなければならないのでしょうか。根本問題に帰るのです。サタン世界の愛の痕跡がある、その愛が染みついた立場で愛してはいけません。それ以上でなければなりません。皆さんがサタン世界で生まれたお母さん、お父さん、妻子、その誰よりももっと愛さなければなりません。それで聖書に「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者はわたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)とあるのです。そのような結論を下したのです。
そう言いながらあとでは「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(同一六・二四)と言いました。十字架を背負わなければならないと言いました。反対に引いていく力を押さえて越えようとすると、十字架です。ここで悲痛な涙を流さなければなりません。
*
「真の父母」とはどんな存在ですか。「真の父母」はすべての希望の象徴です。堕落した人類の前に絶対的な希望の象徴なのです。彼は歴史的結実体であり、時代的中心であり、五十億の人類が生きている今日、この世界国家圏の中心です。真の父母は将来の理想世界に連結できる未来の線上においての出発点です。
*
万民が願うことは何でしょうか。世界国家を迎える前に、「真の父母」を迎えようとすることです。誰から出発したいのでしょうか。皆さんの新しい息子、娘は皆さんの血筋を通じて生まれたいのではありません。「真の父母」の血筋を通じて生まれたいというのです。ですから「真の父母」は新しい未来の出発点になるのです。
*
今日、神様は何を願っておられるのかと言えば、この終末時代に御自身の姿を現すことを願っておられます。それで完全に心情的で縦的に復帰され完成した男、言い換えればメシヤとして再び現れようとされるのです。完成したアダムを身代わりし、完成したエバを身代わりする中心人物が出てこなければなりません。
*
成約時代は神様自体が真の父母の姿をして、万民の前に現れるようになります。統一教会が、政治によるどんな力を投入しても、主管されない偉大な力をもっているのは正にこのためです。生きている神様を私たちが直接目で見て、感覚をもって体恤できる圏内で、体験を積みながら出ていくのが私たち統一教会の道なのです。
*
人間の願いは「真の父母」に出会うことです。死の道を行くとしても出会わなければならない人が「真の父母」だというのです。歴史をみな失い、時代をみな失い、自分の後孫をみな失う恨があったとしても、「真の父母」に出会うならば歴史を取り戻すのであり、時代を取り戻すのであり、未来を取り戻すのです。このような方が正に真の父母だということを皆さんは知らなければなりません。
*
「真の父母」というその名前の文字を考える時、「真の父母」によって歴史が治められ、「真の父母」によって新しい世界に帰ることのできる起源ができ、「真の父母」によってサタンを屈服させることのできる内的な因縁が決定し、「真の父母」によって外的な世界を占領しているサタンを征服して初めて、神様を解怨成事してあげることのできる中心が決定するのです。ですから「真の父母」と共に生き、「真の父母」の命令を奉じて行動できる、この驚くべき恩賜に皆さんがまず感謝しなければなりません。
*
皆さんが「真の父母」と完全に一つになる時、国家があるのであり、氏族もあるのであり、民族もあるのであり、家庭もあるのです。天地のすべての栄光の価値を総合した実体基準が「真の父母」です。「真の父母」をこの世のお金と換えますか。自分の生命を与えて換えられますか。ですから昔と違うというのです。皆さんがどこに行っても、「真の父母」に侍るために大韓民国を訪ねてこなければなりません。皆さんの息子、娘も千世万世の後孫たちもそうしなければなりません。ですから統一教会は違うというのです。
*
すべてのものはどこに帰結するのでしょうか。「真の父母」に出会うことに帰結するのです。人類の「真の父母」が現れるのが歴史の願いであり、国家の願いであり、摂理の願いです。それでそのような「真の父母」が現れる時は、歴史上に一度しかない頂点を成す時であり、空前絶後(前無後無)の時なのです。永遠な世界を通して見ると、人間の一生というものは一度息をする期間と同じです。
2.家庭ごとに真の御父母様のお写真に侍る
今日以後、皆さんは先生の写真を持ち歩くのがいいでしょう。そうすればどんな苦難に遭うとしても無事に耐えられるように保護してもらえるでしょう。モーセがイスラエル民族をエジプトのパロのもとから脱出させ、カナンへ導くために奇跡を行う時、長子が艱難に遭い病気になって死にましたが、羊の血を門に塗った家は、その艱難がみな避けて行ったのです。霊界は私たち人間のすべての行動を見ることができるだけでなく、保護してくれたりもするのです。
*
文総裁が有名です。国のための愛国者という言葉はみな認めています。また私が立てた功績には天下がみな頭を下げます。そして「あの写真を掛けた以上、あの方の前においては夫婦げんかもむやみにできない」と言い、息子、娘の前にも「こら、あの文先生の前ではいけません」と言うようになれば、何が悪いことがあるでしょうか。自分の親の写真以上に侍ることによって先祖たちが来て、先祖として侍るのです。また先祖たちが来て、その家に侍ることのできる祭壇になるのです。それゆえ天上世界で福を受けることのできる道があるので、夜中の三時になれば、皆さんは寝ますが、(先祖たちが)一家の周辺の邪なる悪魔たちをみな追い出すのです。
*
イスラエル民族がエジプトから出てくる時、門に血を塗って禍を免れたのと同じように、お写真を持っていればそのようなことができるかもしれません。霊界は先生の写真をポケットに入れておくだけでも分かるのです。このように小さな条件が門に血を塗ったのと同じになるのです。
*
先生のほほえみは、モナリザのほほえみほどにも神秘なところがあるという経験をしたことでしょう。ある時はこうで、またある時はこうで、数十万種の姿に見えるこの神秘的な姿が、霊界が皆さんを協助できるようにしてくれるという経験を大部分がしているだろうと思います。霊界の霊人たちはみな先生をよく知っていますが、この写真を見れば霊界が喜ぶでしょうか、悪く思うでしょうか。皆さんの先祖たちがこれを媒介体にして連結できるのです。このようないい材料だということを知っていてください。
*
今、レバレンド・ムーンの名声は国境を越えました。至る所にいる為政者たちの中には書斎にレバレンド・ムーンの写真を掛けておいて慕い仰ぐ人が多いということを私がよく知っています。尹博士も私の写真を掛けましたか。毎日あいさつしますか。毎日キスしますか。熱情的でなければなりません。キスしなければなりません。だからと言って失礼ではありません。神様の愛を代表してキスすることによって、霊界に行った人たちが私がキスすることで同参権、同位権をもつようにするためにこうすると言う時、神様が「ノー」とは言われません。「そうだ。お前の言葉が正しい」と言われるのです。どうですか、尹世元博士? そのようにされたら。
*
父母様の写真を貼って統一教会の旗さえ揚げれば、それは天の国の眷属(一族)になるのです。天の国の眷属にしてあげるというのです。ですから今回、旗を揚げることを呪って罰にあたった人が多いではありませんか。本当に不思議です。先生に後ろ指をさして病気になり、何日も夜祈祷して悔い改めたら治った、そのようなことが起こっているではありませんか。なぜですか。天運が訪ねてくるので個人の運勢では止められません。宿命的な道です。モーセがさおにかけた青銅のへびを上げている時、それを見上げた人はみな生き残りました。統一教会の旗を見つめて行くたびに敬拝し、来るたびに敬拝して、写真を見て行くたびに敬拝し、来るたびに敬拝すれば生きるというのです。
*
統一の旗を揚げるのは、通り過ぎる食口たちがおなかがすいたらここに来て休みなさいという表示であり、お昼時なら昼食でも食べていきなさいという表示です。ですからいつもお客さんをもてなすことのできる準備をしなければなりません。父母様を身代わりしてそのような準備をしなければなりません。ですから部屋もなければならないでしょう。しかし父母様が来られないので、父母様の代わりにお客さんに侍るというのです。この思想は天の最高の基準の前に平準化思想を連結させるためのものです。そのような意味で、お客さんを神様のように、父母様のように侍りなさい。そのような人は福を受けます。