Text Box: TP portrait  二 の御父母を愛し誇ろう



  1.の御父母は人類全体の希望


 統一教会で言う「の父母」とはどのような方ですか。落しなかったならば、神的な愛になり、アダムとエバは神の体になるのです。神の体と同じです。神は骨のようで、アダムとエバは体のようなものだというのです。神も心があり、体があります。神的な立場で的な父母になり、アダムとエバは外的な立場で外的な父母になるのです。的、外的父母が一つになったその場で愛によって結ばれ、的父母に侍るようになり、外的父母をもつようになります。神と人間との愛の結合によって「の父母」、すなわち、完成した人間ができるはずだったのです。愛で一体となれなければ完成人間になれないのです。

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 「の父母」は何をしなければならないのでしょうか。サタン世界の根である間違った血統を正さなければならないし、間違った生命をもとがえさなければならないし、間違った愛の道を正しく開かなければなりません。聖書では「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いましたが、そのような逆的な論理がなぜ出てこなければならないのですか。サタン世界は死ななければならないからです。

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 皆さんは、「の父母」の本の息子、娘ですか。の子女とは何を中心として言うのですか。の血統です。もちろの愛を通じて因が結ばれますが、成されるのはの血統を通じて連結されるのです。ですからの血統を通じて連結されればお母さん、お父さんに似るのです。そう、皆さんは先生に似ましたか。皆さんの目はく、私はく、の毛も違うでしょう? の毛がみんな白いではないですか。私は東洋人だし、顔が平たいです。では、何が似るのかと言えば、骨子だけ似るのです。骨子だけ似るとは、サタンに勝つことと神を絶に愛するところだけ似るのです。それだけ似るのです。そうしてサタンを主管しコントロルするのです。

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 皆さんが先生をどれほど愛さなければならないのでしょうか。根本問題にるのです。サタン世界の愛の痕跡がある、その愛が染みついた立場で愛してはいけません。それ以上でなければなりません。皆さんがサタン世界で生まれたお母さん、お父さん、妻子、その誰よりももっと愛さなければなりません。それで聖書に「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者はわたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)とあるのです。そのような結論を下したのです。

 そう言いながらあとでは「自分の十字架を負うて、わたしにってきなさい」(同一六二四)と言いました。十字架を背負わなければならないと言いました。反に引いていく力を押さえて越えようとすると、十字架です。ここで悲痛なを流さなければなりません。

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 「の父母」とはどんな存在ですか。「の父母」はすべての希望の象です。落した人類の前に絶的な希望の象なのです。彼は史的結体であり、時代的中心であり、五十億の人類が生きている今日、この世界の中心です。の父母は将来の理想世界に連結できる未の線上においての出点です。

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 万民が願うことは何でしょうか。世界家を迎える前に、「の父母」を迎えようとすることです。誰から出したいのでしょうか。皆さんの新しい息子、娘は皆さんの血筋を通じて生まれたいのではありません。「の父母」の血筋を通じて生まれたいというのです。ですから「の父母」は新しい未の出点になるのです。

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 今日、神は何を願っておられるのかと言えば、この終末時代に御自身の姿を現すことを願っておられます。それで完全に心情的で的に復され完成した男、言い換えればメシヤとして再び現れようとされるのです。完成したアダムを身代わりし、完成したエバを身代わりする中心人物が出てこなければなりません。

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 成約時代は神自体がの父母の姿をして、万民の前に現れるようになります。統一教会が、政治によるどんな力を投入しても、主管されない偉大な力をもっているのは正にこのためです。生きている神を私たちが直接目で見て、感をもって体恤できる圏内で、体を積みながら出ていくのが私たち統一教会の道なのです。

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 人間の願いは「の父母」に出うことです。死の道を行くとしても出わなければならない人が「の父母」だというのです。史をみな失い、時代をみな失い、自分の後孫をみな失う恨があったとしても、「の父母」に出うならば史を取りすのであり、時代を取りすのであり、未を取りすのです。このような方が正にの父母だということを皆さんは知らなければなりません。

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 「の父母」というその名前の文字を考える時、「の父母」によって史が治められ、「の父母」によって新しい世界にることのできる起源ができ、「の父母」によってサタンを屈服させることのできる的な因が決定し、「の父母」によって外的な世界を占領しているサタンを征服して初めて、神を解怨成事してあげることのできる中心が決定するのです。ですから「の父母」と共に生き、「の父母」の命令を奉じて行動できる、この驚くべき恩賜に皆さんがまず感謝しなければなりません。

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 皆さんが「の父母」と完全に一つになる時、家があるのであり、氏族もあるのであり、民族もあるのであり、家庭もあるのです。天地のすべての光の値を合した体基準が「の父母」です。「の父母」をこの世のお金と換えますか。自分の生命をえて換えられますか。ですから昔と違うというのです。皆さんがどこに行っても、「の父母」に侍るために大韓民を訪ねてこなければなりません。皆さんの息子、娘も千世万世の後孫たちもそうしなければなりません。ですから統一教会は違うというのです。

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 すべてのものはどこに結するのでしょうか。「の父母」に出うことに結するのです。人類の「の父母」が現れるのが史の願いであり、家の願いであり、理の願いです。それでそのような「の父母」が現れる時は、史上に一度しかない頂点を成す時であり、空前絶後(前無後無)の時なのです。永遠な世界を通して見ると、人間の一生というものは一度息をする期間と同じです。



  2.家庭ごとにの御父母のお写真に侍る


 今日以後、皆さんは先生の写真を持ちくのがいいでしょう。そうすればどんな苦難に遭うとしても無事に耐えられるように保護してもらえるでしょう。モセがイスラエル民族をエジプトのパロのもとから出させ、カナンへ導くために奇跡を行う時、長子が艱難に遭い病になって死にましたが、羊の血を門に塗った家は、その艱難がみな避けて行ったのです。界は私たち人間のすべての行動を見ることができるだけでなく、保護してくれたりもするのです。

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 文裁が有名です。のための愛者という言葉はみな認めています。また私が立てた功績には天下がみな頭を下げます。そして「あの写真を掛けた以上、あの方の前においては夫婦げんかもむやみにできない」と言い、息子、娘の前にも「こら、あの文先生の前ではいけません」と言うようになれば、何がいことがあるでしょうか。自分の親写真以上に侍ることによって先祖たちがて、先祖として侍るのです。また先祖たちがて、その家に侍ることのできる祭壇になるのです。それゆえ天上世界で福を受けることのできる道があるので、夜中の三時になれば、皆さんはますが、(先祖たちが)一家の周の邪なる魔たちをみな追い出すのです。

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 イスラエル民族がエジプトから出てくる時、門に血を塗って禍を免れたのと同じように、お写真を持っていればそのようなことができるかもしれません。界は先生の写真をポケットに入れておくだけでも分かるのです。このように小さな件が門に血を塗ったのと同じになるのです。

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 先生のほほえみは、モナリザのほほえみほどにも神秘なところがあるという経験をしたことでしょう。ある時はこうで、またある時はこうで、十万種の姿に見えるこの神秘的な姿が、界が皆さんを協助できるようにしてくれるという経験を大部分がしているだろうと思います。界の人たちはみな先生をよく知っていますが、この写真を見れば界が喜ぶでしょうか、く思うでしょうか。皆さんの先祖たちがこれを媒介体にして連結できるのです。このようないい材料だということを知っていてください。

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 今、レバレンドンの名境を越えました。至る所にいる政者たちの中には書にレバレンドンの写真を掛けておいて慕い仰ぐ人が多いということを私がよく知っています。尹博士も私の写真を掛けましたか。日あいさつしますか。日キスしますか。熱情的でなければなりません。キスしなければなりません。だからと言って失ではありません。神の愛を代表してキスすることによって、界に行った人たちが私がキスすることで同参権、同位をもつようにするためにこうすると言う時、神が「ノ」とは言われません。「そうだ。お前の言葉が正しい」と言われるのです。どうですか、尹世元博士? そのようにされたら。

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 父母写真を貼って統一教会の旗さえ揚げれば、それは天のの眷(一族)になるのです。天のの眷にしてあげるというのです。ですから今回、旗を揚げることを呪って罰にあたった人が多いではありませんか。本に不思議です。先生に後ろ指をさして病になり、何日も夜祈して悔い改めたら治った、そのようなことが起こっているではありませんか。なぜですか。天運が訪ねてくるので個人の運勢では止められません。宿命的な道です。モセがさおにかけた銅のへびを上げている時、それを見上げた人はみな生きりました。統一教会の旗を見つめて行くたびに敬し、るたびに敬して、写真を見て行くたびに敬し、るたびに敬すれば生きるというのです。

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 統一の旗を揚げるのは、通り過ぎる食口たちがおなかがすいたらここにて休みなさいという表示であり、お時なら食でも食べていきなさいという表示です。ですからいつもお客さんをもてなすことのできる準備をしなければなりません。父母を身代わりしてそのような準備をしなければなりません。ですから部屋もなければならないでしょう。しかし父母られないので、父母の代わりにお客さんに侍るというのです。この思想は天の最高の基準の前に平準化思想を連結させるためのものです。そのような意味で、お客さんを神のように、父のように侍りなさい。そのような人は福を受けます。









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