1.侍義時代の法は最高の法
皆さんが挙動すること、座ること、すべてのことが条文化されなければなりません。先生に対する時のあいさつ法のようなものも条文化されなければなりません。先生に対する時のあいさつ法、それはみなあるのではないですか。そうではないでしょうか。社会にもそのような法があるのですから、そうなるべきではないですか。
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今日までの人倫道徳は父母が子供を愛し、子供は父母に孝行し、夫婦には区別がなければならないというものでした。これは三綱五倫の礎石として今まで伝わってきましたが、これがやはり変わりつつあります。このように既存の慣習や規範などが自然に変わる気勢が社会環境に、生活環境に浸透して入ってくる日が終わりの日だというのです。メシヤがこの地上に現れるとするならその方がこの問題を収拾しなければなりません。
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堕落した習慣に対するすべてのことを正すための新しい法があるのではありませんか。私たちの前には数多くの法的過程が待っていることを皆さんは知らなければなりません。それを越えていかなければなりません。
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韓国の法(風習、しきたり)では目上の方から何かをもらう時、両手でもらうようになっています。それは水平になってこそ愛を受けることができるというのです。受けるのは垂直を通じて九〇度で受けなければなりません。人心は天心だと言うでしょう。私たちのすべての規範は良心の道理に従って相対的につくられて出てきたものなので、水平にならなければなりません。また、道を歩くときも東洋思想は目上の人が先に立たなければなりません。なぜですか。先に出てきたからです。そのように、環境を合わせようとしてそうするのです。あとの者は後ろに立ち、高いものは高いものに、低いなら低いところに、前のものは前のものに、後ろのものは後ろのものに、上のものは上のものとして、前後を整えなければなりません。そのような観は変わるものではありません。それは永遠不変のものです。
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一国の王様と臣下の間にも毎朝、調和があるのです。韓国の家庭を見れば、朝父母が起きれば父母に先にあいさつをします。このようなものが韓国の法度ではありませんか。皆さんは歴史時代を蕩減するためには法の中の法、孝行する法なら孝行する法の中でも最高の法度を立てなければならず、国家においても最高の基準を越えることのできる法を立てなければならないというのです。
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この世には父母が死んで、三年の喪に服す時には毎日朝夕に上食(注:喪家で朝夕霊前に供える食事)を供え、出ていく時や入ってくる時、霊座(注:位牌の奉安所)に告げてあいさつする法度があるではないかというのです。皆さんはそれ以上にしなければなりません。皆さんが今していることが、み旨から見る時、天の格式にぴったり合わせた生活ですか。とんでもないというのです。
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家庭の伝統を立てる最も早い道は先生が生きている時にすることです。元来は毎朝、沐浴斎戒し、一里の外から歩いてきて先生に敬拝を捧げなければなりません。このような伝統を立てられなければ、自分の後孫たちの道がふさがるのです。
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統一教会の中に、先生がたまに映画を見に行くと「私たちも映画を見に行かないと……」と言います。とんでもありません。昔は先生は劇場の前に行ってみたこともありませんでした。そのような訓練を経て、そのような所へ行っても自分が汚されず、支配されない自主的な人間になったので問題にならないのです。しかし先生がするとおりにみなすると……。私が地方へ行ったときある者が、私が良くない言葉を使うと言うのです。このような輩たちがいます。
私がぞんざいな言葉を使う時までは、幼子にまでも仕えて敬拝し、神様の前に侍る生活をしてきました。み旨を知ってみると、先生が皆さんに敬語を使えば(皆さんは)決まりが悪くて顔を上げて話ができないのです。礼儀正しく対してみましょうか。どれほどばつが悪いでしょうか。
2.人間が貴いのは人倫道徳のため
ローマ法が現在、世界法の基礎になっていますが、人倫道徳はどこまでも良心を根拠にします。法よりは良心だというのです。良心の基礎は善です。善を標準とするのです。善を外れて間違う時は、良心がその間違ったことを正していきます。そして良心に一致できる普遍的な社会体制を形成しようとすると、法令も必要なのです。ですから結局、人倫はどこに根拠を置くのですか。天倫に根拠を置くのです。
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人倫は何を通じて形成されるのかと言えば、情を通じて形成されます。家族関係や道徳観念、社会制度、秩序というのは、全部情緒的な面です。情を先に感じたそれが長くなったとか次元が高いということになれば、そこに頭を下げるようになります。皆さんはそれを知らなければなりません。人倫形成の動機は情からです。父母が子女を愛するところから人倫が始まります。子供が父母を愛するところから真の人間関係は成立するのです。
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皆さんは父母を愛し、必要とします。いつも父母に会いたがり、一緒にいたがります。それはなぜでしょうか。年齢で見ても差があり、秩序的関係を見ても上下の関係があるからです。ですからそこには礼を備え、尊敬し、孝行しなければなりません。このようなすべての社会生活の人倫道徳的な内容を備え、上下関係において、一つは主体であり、一つは対象の立場に立たなければなりません。ここで孝子になるには、従順や服従という内容を介在させて、自分が会いたいと思わなければならないというのです。これが親子関係です。
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人間が貴いのは人倫道徳があるからです。人倫は人と人の関係を言います。一人の人のみでは人倫という言葉は使いません。人倫という言葉は二人以上になってこそ成立します。男性と女性が結婚した家庭から社会の倫理という言葉が成立するのです。倫理は人間関係の道理であり、法則です。
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宇宙の日月星辰の創造の法則、すなわち、天道によって縦的秩序の体系を成しているのと同じように、家庭においても祖父母、父母、子女に成される縦的秩序と兄弟姉妹に成される横的秩序の体系が立てられると同時に、相応する価値観、すなわち、規範が成立されたことを明らかにしなければならないでしょう。
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私たちは超民族的、超国家的な新しい伝統を立てていかなければなりません。その伝統を私たちの思いのままにするのではなく、神様が願うとおりに伝統の相対的基盤を磨いていかなければなりません。皆さんの習慣性や過去の風習、現在の流行というものに歩調を合わせるのではありません。完全に違うということを皆さんが知らなければなりません。
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世界を見れば全体が調和するようになっているのです。ぎこちないところがないように、自然ながらも全部和合するための一つの刺激的な動機になれるようになっているのです。そのように、見た目に良くないところを注目するようにはなっていないのです。