一 教会に対する正しい認識
1.教会はみ言と人格を総合するところ
教会が目指すべき目的は、神様の国を求めて建てることです。神様の本来の創造理想は、国を中心として一つの世界をつくることです。そういう創造理想であるがゆえに、教会が目指すべき目的地は、教会を建てることではなく、国を建てることなのです。
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今後、教会時代は過ぎ去っていきます。人類が願うのは、教会ではありません。教会は堕落圏内で、復帰の運命の道を行く際に必要なのであって、新たな時を迎えれば、教会時代は終わるのです。それゆえ統一教会は、教会活動をするのではありません。教会の名で社会に適応し、社会を改革し、社会の廓清(浄化)運動をするのです。そうすることが、その国と民族、そして世界に住む人類には果たすことのできない、開拓者の使命を成し遂げることになるのです。今こそ皆さんは、この道を行かなければなりません。
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教会は、過去、現在、未来の因縁の本拠地です。それゆえ、蕩減条件を立てるための媒介体であり、み言と人格と心情を総合する所だと言うことができます。
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教会は、天地をつなぐ至聖所です。教会は、世界への門戸であり、すべての人に相互扶助の因縁をもたせ、国家存亡の霊的支柱となるのです。教会は、霊的生活の源泉であり、日々の生活に力を補給してくれます。
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家庭に忠誠を尽くす前に教会に忠誠を尽くし、社会に忠誠を尽くす前に教会に忠誠を尽くすのが原則です。教会が主体であり、家庭と社会は対象だからです。賢い人はどこに立つでしょうか。主体の立場に立ちます。主体の立場は、一つしかありません。対象は東西南北四方にあり、三六〇度回転しなければなりませんが、主体は中心のたった一カ所にあるだけです。そこは絶対的な圏内です。二つではありません。中心が二つになることがあるでしょうか。中心が行ったり来たりすると、滅びる可能性が増すのです。
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「全知全能で慈悲と愛に満ちた神様であるゆえ、千回、万回罪を犯しても許してくださる」と、クリスチャンは言っています。そう言って教会で祈祷して出てくるや否や、けんかをするのです。教会は、罪を犯してから悔い改める懺悔堂ではありません。それほど多くの罪を許せる神様であるとするならば、エデンの園で一度犯した罪を、どうして許すことができないのでしょうか。 そうではないですか。また、サタンが許される道があったとするならば、サタンは悔い改めたことでしょう。千回、万回涙を流して悔い改めたことでしょう。
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教会が一つから二つに分かれ、そのようにして三回分かれると、神様は去っていきます。天理の原則はそうなっています。そうして家庭的に集まります。恵みのある人は家庭的に集まるのです。教会に行きません。家庭でひれ伏して祈祷します。そのようになるかならないか、見ていてください。
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統一教会の目的とは何ですか。人類に対して、神様とメシヤとで地球星で踊りを踊り、サタンまでもみんな福を受けるようにしようということです。これが統一教会の道です。どれほど偉大でしょうか。そこまで行こうというのが統一教会です。さあ、話を聞いてみると、統一教会は素晴らしい所でしょう。この世の人々は統一教会がどうで、異端で、何かの邪教だと言いますが、私たちは「フンッ!」とも言いません。聖なる人たちが道を行くのに町内の犬がほえている、このように考えるのです。
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終わりの日、この時代の統一教会の使命は「神様の願いとは何か。人類の願いとは何か。神様の愛とは何か。人類の事情とは何か。神様の心情とは何か。人間たちの心情とは何か」ということを教えてあげることです。そのために出てきた教会です。そのような世界を教えてあげることができ、千人、万人をみな教育するとすれば、この理念圏内の世界は、統一されまいとしても統一されざるを得ません。
2.教会は家庭の延長である
「私は誰々のために教会へ行く。私は愛する息子、娘のために教会へ行く。愛する夫のために、妻のために教会に行く」と言う人は、みな乗り越えていくことはできません。誰のために教会へ行くのかというと、神様のために行くのです。神様を私の神様として侍るために、神様の愛を私の愛として得るために教会に行くのです。
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公的な教会は、自分の家よりも貴いものです。
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天国は教会を通して連結されます。すなわち、家庭は教会を通さなければなりません。それゆえ、教会は家庭が勝利するための基盤であり、家法を結実させる所であり、人格の認定を受ける所であり、天国生活の訓練場です。
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顔が良くて若くなければ伝道ができないというのですか。とんでもありません。教会は家庭の延長です。家庭の延長であることを知らなければなりません。おばあさん、おじいさんがいなければならないし、おばさんがいなければならないし、おじさんがいなければならないし、若い人もいなければならないのです。教会に若い人しかいなければ荒廃します。これを早く是正しなければならない、というのが先生の考えです。
年上の人に侍ることができなければなりません。おばあさん、おじいさんは神様の代わりであり、お母さん、お父さんは父母であり、自分と息子、娘まで四段階なのです。おばあさん、おじいさん、父母、私、こういう段階で見ると三段階です。この運命圏を外れることができないのが人生だというのです。おばあさん、おじいさん、お父さん、自分たち夫婦、息子、娘、三段階は線を四本引いて初めて三つの段階ができるでしょう。 七数の基準なので、これを結び合わせなければ三段階はできないのです。これを結ばなければ、すべてが勝手にばらばらになります。三段階ができるにはこれを結ばなければならないのです。
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教会生活で神様から公認を受け得る立場に立っていない人は、社会生活において神様に代わる生活をすることはできません。内的な教会生活で、神様の公認を受けるかどうかが問題です。ところが今、皆さんの教会に対する観念について考えてみると、教会で集会するその時間がどれほど貴いかを忘れています。教会の公的集会に対する観念が希薄なので、み旨の進んでいる方向に対しても希薄になるのです。内的に自分がどういう立場に立ち得るかを確実に知らないがゆえに、外的基準も確実ではないのです。
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教会生活は良くできても社会生活は良くできないという人もいれば、社会生活は良くできても教会生活は良くできないという人もいます。このような点から見ると、社会生活は良くできても教会生活が良くできない人は、実を結ぶための要因とその内容がありません。教会生活は良くできても社会生活が良くできない人と、社会生活は良くできても教会生活が良くできない人とでは、どちらのほうが良いかというと、教会生活が良くできる人のほうがいいのです。結実の要因をもった人は、あすの希望をもって動いていくことができますが、結実の要因をもっていない人は、結実と関係を結ぶことができないのです。
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皆さんは血統を通して神様の息子、娘であることを証し、真理を通して神様の息子、娘であることを証し、生活を通して神様の息子、娘であることを証し、仕事を通して神様の息子、娘であることを証し得る基準を求めて立つことができなければなりません。この基準を求めることができないならば、教会に来て信仰生活をしていても、それは小間使いのすることにすぎないのです。
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家庭と教会と社会の三角圏を中心として考えると、皆さんは家庭を中心とした思いが強いですか、教会を中心とした思いが強いですか。 それとも社会を中心として自分が出世しようという思いが強いですか。 皆さんはどの思いが強いかを考えてみてください。神様は、どのような人に協助し同情するでしょうか。教会を考えるというのは、神様に代わって人を愛することなのです。そして人を救うことなのです。
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人格者となるためには、組織的な訓練が必要です。集団的な教会生活を通過しなければなりません。すなわち、全体的な理念や制度に通じることができるかが問題です。そのような関門が、教会になるのです。
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皆さんが 今まで習慣的に生きてきた社会生活全体と、教会を中心とした生活全体を考えて、どちらが内的であるかというと、教会生活が内的です。それでは皆さんは、どれほど内的生活の価値の基準を立ててきたでしょうか。ある人は、み旨を中心として行くと言いながらも、「私がこうすることがみ旨になるだろう」と勝手に考えます。そのようなところに神様は、いることができるでしょうか。
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統一教会に反対する人が教会で御飯を食べていったとしても、笑いながら送りなさい。食べ物をけちってはいけません。 統一教会員ではない人が来て御飯を食べたからといって、「なぜ食べるのか」と言ってはならないのです。先生がこのようなことを言うのは、今まで八道江山(国中)の誰もが、統一教会員はもちろんのこと、統一教会員ではない人も、ここに来て御飯を食べたことのない人はいないと思うからです。
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人が最も好むのは赤ん坊であり、最も嫌がるのは先の短いおじいさん、おばあさんです。極と極です。天の運動とはどのようなものかというと、極と極を包括するための運動ではないかということです。子供と一つになろうとして、おばあさん、おじいさんが杖をついて来ては、遊んで御飯を食べていったり、そうなればそこは栄えるのです。皆さんがおじいさん、おばあさんの友達になり、おじいさん、おばあさんは皆さんに夢中になって夜も眠らず、自分の家の良い庭や、床の間、鯨の背中のような(とても大きくて立派な)家をさておいて、教会の板の間で寝るというようになれば、そこ、その団体、その人がいる所はどんどん栄えるというのが原則なのです。
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おばあさんが「ここに教会長はいるか」と訪ねてきた時に、遠くから見て「いないよ、いない」と言えば罰を受けます。「教会長は出掛けたけど、おばあさん何の用。 年寄りのおばあさんは要らないよ」と言ってごらんなさい。神様が御覧になって「こいつ、お前はどこから来たのか」と引っ掛かるのです。年を取ったおばあさん、おじいさんを否定するということは、お母さん、お父さんを否定することです。ですから年を取ったお母さん、お父さん、おばあさん、おじいさんを良く奉養してこそ、孝行者なのです。
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ある男性が、気の合わない女性と結婚しておもしろくない生活をしていて、楽しく暮らしている家に行くと、その家の人が本当に幸福に思われるのです。だからといって二度結婚しろというのではありません。幸福になるためには教会が必要なのです。人は刺激を受けなければなりません。刺激というのは、いつもいるところに来るのではありません。対比されるところから刺激は来るのです。天だけでは天になることはできません。地があってこそ天となるのです。それゆえ、すべてのものはみな相対性をもっているのです。
二 礼拝は神様に最高の敬意を表す儀式
1.礼拝時間は神様に出会う時
安息日を聖なるものとして守る目的は、神様が願う国を建て、人類を救うことでなければなりません。キリスト教が安息日を守ってきたのは、この日を聖なるものとして守ることにより自分自身が昇華され、自分自身を思う、すなわち救いという目的に重点を置いたためです。私たちが安息日を守る目的は、自分の救いの道を促進することでもありますが、さらに進んで全体を救い、今後神様の摂理である国と世界を救うという目的に、より重点を置いているのです。これが、より高い責任をもつ神様の願いであることを知らなければなりません。
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礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神様に贖罪しなければなりません。ゆえに礼拝の時間は、自由のない時間です。
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礼拝時間は、押し寄せるいかなるサタンの権限も防ぎ止め、父の前に勝利の栄光をお返しすることを約束する時間です。
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礼拝を捧げる時間は、怨讐と一騎打ちをするよりも深刻な時です。
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礼拝の時間に早く来た分は、神様のために捧げた時間となりますから、千金、万金を出しても買うことのできない価値があります。礼拝の時間は神様に捧げる時間であるために、その時間に遅れることは神様から盗みをすることと同じです。礼拝には決められた時間に来なければなりません。そうすることによって、それだけ神様の前に面目を立てることができます。そうなれば、きのうよりも良い心をもって天の前に近づくことができますが、遅れて来て、祈祷するときも目をパチクリさせながら、「先生はきょうどんなみ言を語られるか」と座っている姿を見ると、惨めで仕方がありません。
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神様の前に出て侍る場に、礼服を着ないで参席できるでしょうか。目に見える礼服ではありません。心情の礼服です。このように集まった皆さんのその心から、み言とともに賛美とともに感激した心情が流れ出てきたならば、天は皆さんを通して役事されます。堕落した人間がエデンの園から追放されたとき、涙を流しながら追われましたが、皆さんは涙を流すとしても、喜びの涙を流しながら、笑い顔で神様に会わなければなりません。悲しみの涙も流したことのない者が、喜びの涙を先に流してはなりません。
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礼拝時間のために、三日前から心を焦がして準備しなければなりません。万民の幸福を祈り、万民を蘇生させるための復活の権限と生命の因縁を結ぼうと苦悶しながら教会に入らなければならず、神様の前にのどの詰まるような心で礼拝に参席しなければなりません。それでも足りないのに、皆さんは行商人よりもずうずうしいのです。
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主日(聖日)礼拝の時は沐浴斎戒して神様の前に敬拝をして、聖地へ行って祈祷しなければなりません。たとえ訪ねてくる人がいなくても、神様がその部落を照覧されて役事することのできる心情的な基盤をつくっておかなければなりません。神様の前に一人祈祷し涙するという立場は、絶対に孤独ではありません。神様が共にあられるので、絶対に寂しくはないのです。皆さんが三年以上精誠を尽くしたにもかかわらず、その町で訪ねてくる人がいなければ、その町は滅びるのです。
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礼拝に来るにしても、ただ何も考えずに来るよりも、見えない心を尽くして一日、二日と、精誠を尽くした時間が長ければ長いほど光るのです。ですから見えないものが多いほどに、天が自分を保護し守ってくれるのです。妻が、目には見えない心で一日中夫のことを思った上で、目に見える顔で、口でほほえむと、光るというのです。栄光の光がです。その笑顔には、夫を引きつける魅惑的な力があるのです。同じような道理です。
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今後は礼拝をするにも説教形式ではなく、報告形式でしなければなりません。報告の内容は、その家庭が誇ることのできるものでなければなりません。ですから家庭全体が来て、礼拝を捧げなければならないのです。そうして良い家庭があれば、見習い、あまり良くない家庭があれば、うまくいくように導いてあげなければなりません。そのようにして、家庭天国を建設するのです。先に家庭天国をつくることができなければ、地上天国はつくられないということを確実に知らなければなりません。
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まず、教会生活を徹底しなければなりません。そのためには、公式的な礼拝時間を厳守しなければなりません。公式的に参席すべき時間を守る模範とならなければなりません。
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天の前に出るときに、約束は絶対的に厳守しなければなりません。約束を守らない人が、どうして恵みを受けることができるでしょうか。そのような人は、途中でやめてしまいます。途中でやめてしまうというのです。今後、先生は皆さんが動くとおりに指導します。嫌だったらおやめなさい。誰が滅びるか見てみようというのです。
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聖日の公的な集会に出席する模範とならなければなりません。礼拝に来るとき、子女たちがうらやましがってついてきたがるように、夫婦が一緒に仲良く来なければなりません。十時前に教会に来て、聖日の準備をしなければならないのです。
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礼拝時間はサタンと闘う時です。一騎打ちする時なのです。それなのに眠っていていいでしょうか。そういう人がいれば、揺すって起こしてあげなさい。「サタンよ退け」とイエス様がぺテロに言ったように、横腹を一発たたきなさい。それは愛なのです。先生は礼拝の時に居眠りをする者がいれば、そのままほってはおきません。
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精誠を尽くすべき人が、礼拝時間に遅れてもいいでしょうか。そのような人は、恥ずかしくて顔も上げられない、罪人中の罪人だという思いをもたなければなりません。そして、今後は時間をきちんと守ることを誓って、人よりも多くの精誠を尽くさなければなりません。時間も守らずに「ああ、天よ」と言うことができるでしょうか。精誠は、人に知られるように尽くすのではありません。教会に来て精誠を尽くそうとするならば、車に乗ってくるのではなく、歩いてこなければなりません。ここに来て祈祷するのではなく、祈祷して来て、もっと懇切な祈祷をしなければなりません。精誠というのは、このようにして尽くすものなのです。
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天は、懇切に慕い苦労する人に対されます。誰でも訪ねていったからといって対してくださる天ではありません。ですから時間だけは絶対に厳守しなければなりません。今後、時間を守らなければ前に立たせて恥をかかせます。
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本来は礼拝時間が過ぎれば戸を閉めてしまわなければなりません。遅れてきた人を集めて話したくありません。このような皆さんを集めて、ある基準まで引き上げようとして二時間、三時間話をするのです。そうして初めて、私が天の前に祈祷し、覚悟した心情的な基準と、つながれるのです。
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神様の前に出ていく上で、時間というのは何よりも重要なものです。時を知らなければ滅びるのです。時を逃せば滅びるのです。神様は極めて聖別された環境を要求し、聖別された心を要求するのに、時間も守れずに後ろの方で賛美歌を歌っているのです。天はそのような賛美を願われません。
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公式的な礼拝の時間を守らなければなりません。分かりましたか。そうすれば間違いなく発展します。
2.夜の礼拝(夕拝)、早朝集会、徹夜精誠
夕拝に力を注ぎなさい。
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土曜日の夜は、教会で徹夜をしなければなりません。
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今後、集会は夜に多くしようと思います。闇の世界を切り開いていかなければならないからです。そのためには、懇切な心情をもたなければなりません。
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夕拝には、伝道をして来なければなりません。そうしなければ、教会の威信が立ちません。礼拝時間には、引導者(司会者)よりも先に来ていなければなりません。
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人が眠る時間にぐっすり寝て、食べるだけ食べて、楽に来て座って礼拝を受けたらいいのに、どうして早朝から礼拝を受けるのでしょうか。どうして早朝から礼拝をするのでしょうか。 人とは違わなければならないというのです。他の宗教集団や信仰者と同じではいけないのです。違わなければなりません。
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私が早朝三時に集めて一年なり何年なり伝統を立てて眠らせないようにすることでしょう。人は怠惰になってはなりません。楽にしてはならないのです。楽な世界では発展がないのです。それゆえ、どの国家でも新たに復興したからといって、それに満足し陶酔していれば滅びるのです。
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昼間は働かなければなりませんが、宗教的なことは夜にしなければなりません。夜が効果的なのです。また早朝に教えても効果的です。そして、一度来た人が、来ないではいられずに家から逃げてくるほどにしなければならないのです。皆さん自身が、そうならなければなりません。動機がないのに結果があるでしょうか。今までできなかったのであれば、もっと一生懸命に、もっと上手にやりなさい。他の方法を研究してでもやりなさいというのです。
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十二時が過ぎて、鶏の鳴く声が聞こえるまでみ言を伝えてみなさいというのです。どれほど神秘的なことでしょうか。しんと静まり返った夜に、近所の犬がほえるのを聞きながらみ言を伝えてみなさいというのです。あたかも明るい陽光を求めて新たな人生の道を打開していくようでもあり、灯台の光を求めて新たな航海に出る船長のような気分を感じるのです。周囲が神秘でいっぱいの世界を一人で行くような勇敢な姿、たくましい姿、荘厳な姿を感じることでしょう。このような心情的な絆をもつためには、夜の時間を中心として指導しなさいというのです。夜や早朝に、このような活動を展開する必要があります。
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夜、深夜は神秘性があります。それゆえ復興会をするなら、昼間するよりも夜するほうが恵みが多いのです。なぜかというと、昼間は私たちの感情がみな分散しているからです。視聴覚、五感で感じるすべての感覚が、昼間は分散しやすいのです。しかし、夜はむしろ集中します。すべてが私を包囲し、私というものをはっきりとさせます。そのような圏内に私が自動的に立つために、夜は神様と共に恵みの役事をしやすいのです。神様も良く役事をしてくださることができるのです。
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早朝に起きて、自分の一日の生活が父の前に感謝の実体となることができるよう祈りながら、花の咲く春の園のごとき自由の園で、神様が私を立てて摂理することのできる希望の結実体になろうとしなければなりません。昼になって仕事場に行けば、希望の結実体が育つ夏のようにもう一歩発展し、神様が共におられる価値を現すことのできる存在になろうとしなければなりません。
また夕方は、全体をみな集約して一つの決心を父の前に捧げることのできる秋のごとき時なので、祭物になれる立場に立とうとし、冬に当たる夜は、生命力を携えて神様と内在的な父子の起源を結び、すべての価値を受け止め得る自身となろうとしなければなりません。このように一年三百六十五日を勝利の日としながら感謝する生活をする人であれば、その人は父と関係を結んで生き、生きがいのある生活をしていると感じることができるでしょう。
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皆さんが時間の過ぎるのも忘れているのは、神様の愛に酔っているからです。ですから草創期には、夜を明かしてみ言を聞き、み言を語るのが常でした。
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眠る時間を計算して「きょうは眠れなかったから、あすはもっと寝なければならない」と言ってはなりません。皆さんはそうでしょう。「聖日の朝は断食だから土曜日の晩に御飯をもっと食べよう」、このような断食は、してもしなくても同じです。むしろ断食をしないほうがいいくらいです。断食をするからといって前の日にたくさん食べると、かえっておなかがすくのです。そのように食べてみなさい。胃を広げておいて突然空にするのですから、おなかがすいて当たり前でしょう。
三 教役者(牧会者)がもつべき姿勢
1.教役者(牧会者)は公的でなければならない
千人以上を率いる人は、霊界の鑑定を受けて立てられた人です。
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自信があって責任者になるのではありません。先生も「自分に自信がある」と考えたことはありません。自信よりも、神様が慕い、神様が訪ねるその人を慕うべきだということを知っていたがゆえに、いかにしてその心情をもって立ち上がるかということが問題でした。その心情さえ通じれば、できないことがありません。慕うその人をより高め、悲しむ人を慰労できる心をもつべきだということを知らなければなりません。
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真の牧者(牧会者)は、自分が真の牧者だとは言いません。いつも黙々と神様のみ旨とすべての万象を自分の心に抱いて進むのみであり、自分の立場を弁明しないのです。
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公的なことのために疲れも忘れて走り、いつ寝たのかも知らずにぐっすりと寝て朝起きると、体がどれほど軽いか知れません。そのようなことを思うと、「ああ、天に行く道はこうして行くのが原則なのだ」と思われます。ところが「ああ、きのうは三時間しか眠れなかったからきょうは五、六時間寝なければならないのだが」と思いながら寝て起きると、腰が痛く、体中がとても重いのです。ですからそのように思ってはならないということです。
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責任者は、いくら疲れても先に横になるのではありません。みんなを寝かしてから横にならなければなりません。祈祷をする時も一番最後までしなければならないし、信仰生活をするにおいても食べられず、いいものを着ることもできず、貧しいながらも精誠を尽くさなければならないのが責任者の立場です。そのようにすれば、「滅びよ」と言っても滅ぶことができないのです。
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先生は、精誠を尽くす人の前ではどうすることもできません。今まで教会を指導してきながら、二人の人がいて、その二人のうちのどちらが優秀かという問題を解決すべき時は、顔の良し悪しを見るのではなく、心がどこに向いているかを見ました。すなわち、私的であるか、より公的であるかを見たのです。
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朝第一歩を踏み出す時も、公的な一歩であるか、私的な一歩であるかを反省しなければなりません。そして一日の仕事を終えて床に就いた時も、公的な一日を送ったのか、私的な一日を送ったのか反省しなければなりません。また、一年を中心として公的な生活をしたか、私的な生活をしたか、一生を中心として公的であったか、私的であったかを反省しなければなりません。
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公職に就いている人はかわいそうです。もてる精誠を尽くしたのに、仮にみ旨の前に誤って、自分のせいで千年の功績が駄目になってしまったらどうなるでしょうか。そんな心情で生活しているのです。
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過ぎゆく歳月とともに流れていってはいけません。新たな日に備えて前進する群れとならなければ、荒野ではげたかの餌食となります。私たちは歴史的開拓者だという事実を知らなければなりません。開拓者は困難な環境を突破して、あすへと向かう希望の前に準備態勢を整えて進むべきです。
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いったん責任を負ったならば、次は戦闘です。闘争です。お前が負けるか、私が負けるかという戦いをしなければなりません。皆さんはその戦いで、皆さんの一代で少なくとも三人以上、反対する立場にいる人を自然屈服させ得る基盤をつくらなければなりません。
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皆さんはまず理論に対する知識をもち、次に、できるという信念をもつべきです。自分の考えが及ばず、自分の信念が及ばなければ、自分のものにならずに人に奪われやすいのです。しかし、自分が実践してつくった基盤、根をしっかりと張ってできた基盤は、それ以上の力を加え、それ以上の信念を加えない限りは、絶対に奪われることはありません。
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責任をもつ前に、どのような心をもたなければならないでしょうか。責任を負えなければ命に替える、という信念をもたなければなりません。そのようになれば、問題の核心を解決する解決点が生じるのです。
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「人間としてできる限りの最大の努力をしました。夜も昼も心のすべて、精誠の限りを捧げました」と言うことのできる立場、天が見てもそれ以上できないという立場でそこを去る時、たとえその人がすべてを成し得なかったとしても、天は成した価値以上に報いてくださるのです。皆さんはそれを知らなければなりません。
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教会長はその地方の祭司長です。寝られなくても、恵みを祈ってあげなければなりません。多くの人を救うために祭物を扱うのですから、精誠を尽くす苦労をしなければなりません。祭祀には実体(教会長)と主人(神様)が一つとなって初めて、返ってくるものがあるのです。
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祭祀は、誰が管理するのでしょうか。祭司長が管理します。客が管理してはいけません。それゆえ公的な和合の場を重要視しなければ発展することができません。
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祭物の前に立った人たちは頭を下げなければならない、というのが天法です。その祭壇には神様が臨在して干渉されるのです。心情的に私は、きょうこの祭壇の前に情熱とすべての力と努力を捧げきり、自分の生涯で最高の誠心誠意を尽くして口を開くとき、神様が協助されるのです。祭物は深刻な立場で捧げられるものなのです。
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一生の間、嫌になるほど食べて、笑って、踊って生きたのちにお墓に行けば、福となることが何かあるでしょうか。そのような人のお墓には草が生えるだけですが、国のために血を流して死んだ人のお墓には、その国が生きている限り花が咲くことでしょう。
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統一教会の先生になるのは易しくありません。それは罪人のように、囚人服を着て死刑場への道を歩いていく、そんな気分で歩んでいる人だというのです。皆さんは刑務所生活をしたことがないので分からないでしょう。豪華な家に住んでいますが、私はその家を必要とする人ではありません。私は草屋にも住める人です。草屋にも住めるように訓練されています。服を脱いで、それを持って労働の場に行けば一等労働者になれる、そのような訓練をした人です。そこに神様が愛する人がいれば、私が行って抱き締め、環境をすべて収拾してそこで涙を流し、友達になれる、このような心情的な訓練をした人なのです。
2.食口の指導は精誠によって
教会員(食口)を慕うのも、初恋をするような心で慕わなければなりません。
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核心要員は、夜を徹してでも精誠を尽くして育てなければなりません。そのように三日間精誠を尽くせば、その人は一生忘れることのできない恵みの因縁を結ぶのです。伝道対象者が夜遅くまでいて帰る時にも、帰らずにもっといてほしいと思うようであれば霊界が協助してくれます。
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まず自分自身がみ旨に酔ってこそ相手にも伝わるものです。
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先生が食口を育てるために千辛万苦したように、皆さんもそうしなさいというのです。夜に客が来たならば、ひざまずいて天の恵みを祈ってあげ、昼間に来た客には奥の間に通して自分の親戚よりもうれしい客としてもてなし、「私の家はこういう家です」という家風を立てなければなりません。そのような家風を立てるならば、その人は誰のために生きるでしょうか。他人をもてなす伝統をもった人たちが教役者(牧会者)を飢えさせるでしょうか。教役者を飢えさせておきながら恵みを受けようという人たちには、口に砂を入れてやらなければなりません。
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夜を徹して話をする時も、楽しくすべきです。夜の十二時が過ぎて、夜中の二時、三時になり、「帰ったらいいのに。寝なければならないのに……」という思いがあると、みな逃げていってしまいます。明け方の三時、四時になっても「帰ってほしくない。時計が止まればいい」という思いがなければなりません。そのような場に因縁を結んでいけば、その人の霊は分かるのです。霊は申し訳なくて食事をするや否や、お尻は後ろを向こうとするのです。先生はそのようにしたのです。
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誰に会うにしても、会っただけで終わってはいけません。天を中心として会った人ならばなおのこと、絶対にその因縁を忘れてはいけません。教会に来ていたのに来なくなったからといって切ってしまったり、呪ってはいけないということです。その人が離れて出ていったとしても、その人と結んだ因縁だけは捨ててはいけません。
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もし悪いことがあれば、悪いことをすぐに処理するなというのです。悪いことがあっても、その悪いことが良くなり得る条件を探し求めつつ、それを保留にして処理し得る余裕をもたなければなりません。もし一年前に間違ったことを見て切ってしまったなら、その人は完全に死んだでしょうが、一年、二年、三年と切らずに保留にして、それを番外のことと考えながら処理するならば、一年、二年、三年以後にはその人が生き得る道もあるのです。
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新しく入った食口を愛すれば、蕩減条件を早く立てることができます。教会が発展できない原因は、食口たちがそのようにできないところにあります。ですから神様は、互いに愛し合い、和睦しなさいと言われました。
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食口が離れて出ていったとしても、落胆してはいけません。不思議なことに、食口が一人出ていけば、その人と性格や話し方、歩き方まで似た人が来るのです。どの面から見ても不思議なほどに出ていった人にそっくりでありながらも、すべての面でずっと良い人が来るのです。そのようなことを考えると、精誠を尽くしたことは失われることがないということが分かります。これは間違いのない事実です。
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教会の草創期に、韓国で食口を育てるときには眠りませんでした。一対一の作戦をしたのです。一人の人の前で講義をするにしても、千人の前で講義をするような思いでしました。その一人の人に数千、数万人がかかっていると考えたのです。どんな命令でも聞くことのできる、そのような人にするためには、それだけの精誠を尽くして、そうなるための動機をつくってあげなければなりません。
*
皆さんは、欽慕の心情をもった食口にどれほど会いましたか。先生は、そのような人にたくさん出会いました。地の果てからやってきて先生に敬拝するではありませんか。それはなぜでしょう。先生が地の果てまで愛の心情的な綱を投げたがゆえに、既に電気を通したので、方向が分かるからです。そうでなければなりません。
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指導者になるためには、心から病人を治療する医師の立場に立たなければなりません。病んでいる人の心霊状態が下がれば、夜でも昼でも時間を問わず、共に涙しながら心霊を治療するために努力しなければなりません。それが霊的指導者なのです。皆さんは生命を救うために幾晩も夜を徹したことがありますか。 生命を救うためにどれほど忙しく歩き回りましたか。そのようなことが今後霊界に行けば、表彰の対象になるのであり、人格的な基準になるでしょう。
3.男女問題、公金に厳格でなければならない
今後、男女問題に許しはありません。許しよりも天が願われません。堕落というのは何ですか。 性の問題を自己主管できなかったために堕落したのではありませんか。男性にとって最も問題となるのが衣食住の問題、性欲、次に物質に対する欲望、欲心、これらが罪悪の根です。これを主管できない人は責任者にはなれません。
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男女問題が大きな怨讐です。これが天地の法度に背き、世の中を滅ぼしたからです。これに自信のない人は祝福の場に出てはならないということをはっきりさせるために、話しているのです。万が一、皆さんがこれを破り、あの世へ行って引っ掛かっても私は知りません。私の責任ではありません。引っ掛かった場合には逃れる道がないのです。歯を食いしばってでも脱線してはいけません。
*
今後、男女問題には特に注意しなければなりません。男性でも女性でも、愛し合っているといううわさがある人は、今後絶対に責任者になれません。それは、そうしてはいけないようになっています。
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男女問題に関してはっきりさせなければなりません。責任者はこの原則に厳格でなければなりません。そうでなければ誤解を受けるのです。弁明する道理がありません。ここで一度この問題に引っ掛かると、それこそ永遠に道がないのです。
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宗教の背後には、いつも男女問題がつながっています。霊的な集団は、必ず男女問題にぶつかりました。それはどうしてなのでしょうか。 エバが堕落する時、自分の夫アダムと天使長を相手にしたからです。ですから終わりの日になって、女性は二人の男に対して善悪を判断すべき運命に置かれるのです。そういうわけで、男性が宗教に入門して修道すると、最後の峠で美人が現れて誘惑するのです。もしその誘惑に乗せられるようなことがあれば、千里、万里の崖から落ちるのです。
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教役者(牧会者)たちが息子、娘を育てていますが、非良心的な、良心の呵責を受けるようなことをしたり、あるいは公金をむやみに使ったりするよりも、いっそのこと食べないほうがましだというのです。食べなければ天と地が同情します。食べない人に同情しない人はいません。子供も飢えている時、食べさせてやらなければなりません。もうすぐ死ぬ人には同情するのが人情の原則なのです。それゆえ殺人犯が死刑場で死刑になる時、彼に「最後の願いは何か」と尋ねて、その時だけは願いを聞いてやるではないですか。そのように、悲しみ、困難に陥った人に同情すべきだと見るのです。
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統一教会の幹部の中に、公金や物質の扱いを誤って、人情で自分の家庭を中心として公金を使い、心情的に蹂躙する人がいます。それは自分の息子、娘の前に毒薬を配給するのと同じです。間違いありません。サタン世界ではこれが引っ掛かるのです。公金に対してはどうすべきか、 公的な人にどうやって対すべきか、公的なことをどう決定し処理すべきか、統一教会の牧会者は今後一大革新をしなければなりません。
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霊界の法の中で最も恐ろしいのが、公金横領と公的な人を冷遇することです。最も恐ろしいのがこれです。責任者や神様が送った人をないがしろにすれば国が引っ掛かり、世界が引っ掛かるのです。
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人間の生活において物質をないがしろにしてはならず、公金をきちんと扱わなければなりません。公金をきちんと扱わなければ天国の憲法に引っ掛かるのです。また、自分が出世したからといって勝手に人を人事措置することはできません。自分が出世して入った所に自分の怨讐の息子、娘がいたからといって、引き抜いて他の所に回して死ぬような立場に送ると問題が起こります。
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先生が公金を使うときは、全体のことを案じる気持ちで使います。
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これからは公私の問題を徹底的にしなければなりません。公金はサタンが配置した毒薬です。そのような公金を誤って使おうものなら滅びるのです。その公金から事が起こるのです。奸臣もそこから出てくるのです。そのために国が滅びることもあり、国を売り渡すこともあるのです。
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私が血と汗を流して稼いだこのお金を、むやみに使うことはできません。むやみに使うことがあろうものなら、手足どころか自分の先祖まで引っ掛かるのです。公務員が国の国庫金を横領すると罰を受けますが、神様の公認を受けた天の公金を横領すれば天罰を受けるのです。