Text Box: TP portrait  第三章 礼拝教会生活


 一 教会する正しい認識


  1.教会はみ言と人格を合するところ


 教会が目指すべき目的は、神を求めて建てることです。神の本の創造理想は、を中心として一つの世界をつくることです。そういう創造理想であるがゆえに、教会が目指すべき目的地は、教会を建てることではなく、を建てることなのです。

            *

 今後、教会時代は過ぎ去っていきます。人類が願うのは、教会ではありません。教会圏内で、復の運命の道を行く際に必要なのであって、新たな時を迎えれば、教会時代は終わるのです。それゆえ統一教会は、教会活動をするのではありません。教会の名で社に適し、社を改革し、社の廓化)運動をするのです。そうすることが、そのと民族、そして世界に住む人類には果たすことのできない、開拓者の使命を成し遂げることになるのです。今こそ皆さんは、この道を行かなければなりません。

            *

 教会は、過去、現在、未の因の本地です。それゆえ、蕩減件を立てるための媒介体であり、み言と人格と心情を合する所だと言うことができます。

            *

 教会は、天地をつなぐ至聖所です。教会は、世界への門であり、すべての人に相互扶助の因をもたせ、家存亡の的支柱となるのです。教会は、的生活の源泉であり、日の生活に力を補給してくれます。

            *

 家庭に忠誠をくす前に教会に忠誠をくし、社に忠誠をくす前に教会に忠誠をくすのが原則です。教会が主体であり、家庭と社象だからです。賢い人はどこに立つでしょうか。主体の立場に立ちます。主体の立場は、一つしかありません。象は東西南北四方にあり、三六度回しなければなりませんが、主体は中心のたった一カ所にあるだけです。そこは絶的な圏内です。二つではありません。中心が二つになることがあるでしょうか。中心が行ったりたりすると、滅びる可能性がすのです。

            *

 「全知全能で慈悲と愛にちた神であるゆえ、千回、万回罪を犯しても許してくださる」と、クリスチャンは言っています。そう言って教会で祈して出てくるや否や、けんかをするのです。教会は、罪を犯してから悔い改める懺悔堂ではありません。それほど多くの罪を許せる神であるとするならば、エデンの園で一度犯した罪を、どうして許すことができないのでしょうか。 そうではないですか。また、サタンが許される道があったとするならば、サタンは悔い改めたことでしょう。千回、万回を流して悔い改めたことでしょう。

            *

 教会が一つから二つに分かれ、そのようにして三回分かれると、神は去っていきます。天理の原則はそうなっています。そうして家庭的に集まります。みのある人は家庭的に集まるのです。教会に行きません。家庭でひれ伏して祈します。そのようになるかならないか、見ていてください。

            *

 統一教会の目的とは何ですか。人類にして、神とメシヤとで地球星で踊りを踊り、サタンまでもみんな福を受けるようにしようということです。これが統一教会の道です。どれほど偉大でしょうか。そこまで行こうというのが統一教会です。さあ、話を聞いてみると、統一教会は素晴らしい所でしょう。この世の人は統一教会がどうで、異端で、何かの邪だと言いますが、私たちは「フンッ!」とも言いません。聖なる人たちが道を行くのに町の犬がほえている、このように考えるのです。

            *

 終わりの日、この時代の統一教会の使命は「神の願いとは何か。人類の願いとは何か。神の愛とは何か。人類の事情とは何か。神の心情とは何か。人間たちの心情とは何か」ということをえてあげることです。そのために出てきた教会です。そのような世界をえてあげることができ、千人、万人をみな育するとすれば、この理念圏内の世界は、統一されまいとしても統一されざるを得ません。



  2.教会は家庭の延長である


 「私は誰のために教会へ行く。私は愛する息子、娘のために教会へ行く。愛する夫のために、妻のために教会に行く」と言う人は、みなり越えていくことはできません。誰のために教会へ行くのかというと、神のために行くのです。神を私の神として侍るために、神の愛を私の愛として得るために教会に行くのです。

            *

 公的な教会は、自分の家よりも貴いものです。

            *

 天教会を通して連結されます。すなわち、家庭は教会を通さなければなりません。それゆえ、教会は家庭が勝利するための基盤であり、家法を結させる所であり、人格の認定を受ける所であり、天生活の訓練場です。

            *

 顔が良くて若くなければ道ができないというのですか。とんでもありません。教会は家庭の延長です。家庭の延長であることを知らなければなりません。おばあさん、おじいさんがいなければならないし、おばさんがいなければならないし、おじさんがいなければならないし、若い人もいなければならないのです。教会に若い人しかいなければ荒します。これを早く是正しなければならない、というのが先生の考えです。

 年上の人に侍ることができなければなりません。おばあさん、おじいさんは神の代わりであり、お母さん、お父さんは父母であり、自分と息子、娘まで四段階なのです。おばあさん、おじいさん、父母、私、こういう段階で見ると三段階です。この運命を外れることができないのが人生だというのです。おばあさん、おじいさん、お父さん、自分たち夫婦、息子、娘、三段階は線を四本引いて初めて三つの段階ができるでしょう。の基準なので、これを結び合わせなければ三段階はできないのです。これを結ばなければ、すべてが勝手にばらばらになります。三段階ができるにはこれを結ばなければならないのです。

            *

 教会生活で神から公認を受け得る立場に立っていない人は、社生活において神に代わる生活をすることはできません。的な教会生活で、神の公認を受けるかどうかが問題です。ところが今、皆さんの教会する念について考えてみると、教会で集するその時間がどれほど貴いかを忘れています。教会の公的集する念が希薄なので、み旨の進んでいる方向にしても希薄になるのです。的に自分がどういう立場に立ち得るかを確に知らないがゆえに、外的基準も確ではないのです。

            *

 教会生活は良くできても社生活は良くできないという人もいれば、社生活は良くできても教会生活は良くできないという人もいます。このような点から見ると、社生活は良くできても教会生活が良くできない人は、を結ぶための要因とその容がありません。教会生活は良くできても社生活が良くできない人と、社生活は良くできても教会生活が良くできない人とでは、どちらのほうが良いかというと、教会生活が良くできる人のほうがいいのです。結の要因をもった人は、あすの希望をもって動いていくことができますが、結の要因をもっていない人は、結係を結ぶことができないのです。

            *

 皆さんは血統を通して神の息子、娘であることを証し、理を通して神の息子、娘であることを証し、生活を通して神の息子、娘であることを証し、仕事を通して神の息子、娘であることを証し得る基準を求めて立つことができなければなりません。この基準を求めることができないならば、教会て信仰生活をしていても、それは小間使いのすることにすぎないのです。

            *

 家庭と教会と社の三角を中心として考えると、皆さんは家庭を中心とした思いがいですか、教会を中心とした思いがいですか。 それとも社を中心として自分が出世しようという思いがいですか。 皆さんはどの思いがいかを考えてみてください。神は、どのような人に協助し同情するでしょうか。教会を考えるというのは、神に代わって人を愛することなのです。そして人を救うことなのです。

            *

 人格者となるためには、組織的な訓練が必要です。集的な教会生活を通過しなければなりません。すなわち、全体的な理念や制度に通じることができるかが問題です。そのような門が、教会になるのです。

            *

 皆さんが 今まで習慣的に生きてきた社生活全体と、教会を中心とした生活全体を考えて、どちらが的であるかというと、教会生活が的です。それでは皆さんは、どれほど的生活の値の基準を立ててきたでしょうか。ある人は、み旨を中心として行くと言いながらも、「私がこうすることがみ旨になるだろう」と勝手に考えます。そのようなところに神は、いることができるでしょうか。

            *

 統一教会に反する人が教会で御飯を食べていったとしても、笑いながら送りなさい。食べ物をけちってはいけません。 統一教会員ではない人がて御飯を食べたからといって、「なぜ食べるのか」と言ってはならないのです。先生がこのようなことを言うのは、今まで八道江山(中)の誰もが、統一教会員はもちろんのこと、統一教会員ではない人も、ここにて御飯を食べたことのない人はいないと思うからです。

            *

 人が最も好むのは赤ん坊であり、最も嫌がるのは先の短いおじいさん、おばあさんです。極と極です。天の運動とはどのようなものかというと、極と極を包括するための運動ではないかということです。子供と一つになろうとして、おばあさん、おじいさんが杖をついてては、遊んで御飯を食べていったり、そうなればそこはえるのです。皆さんがおじいさん、おばあさんの友達になり、おじいさん、おばあさんは皆さんに夢中になって夜も眠らず、自分の家の良い庭や、床の間、鯨の背中のような(とても大きくて立派な)家をさておいて、教会の板の間でるというようになれば、そこ、その体、その人がいる所はどんどんえるというのが原則なのです。

            *

 おばあさんが「ここに教会長はいるか」と訪ねてきた時に、遠くから見て「いないよ、いない」と言えば罰を受けます。教会長は出掛けたけど、おばあさん何の用。 年寄りのおばあさんは要らないよ」と言ってごらんなさい。神が御になって「こいつ、お前はどこからたのか」と引っ掛かるのです。年を取ったおばあさん、おじいさんを否定するということは、お母さん、お父さんを否定することです。ですから年を取ったお母さん、お父さん、おばあさん、おじいさんを良く奉養してこそ、孝行者なのです。

            *

 ある男性が、の合わない女性と結婚しておもしろくない生活をしていて、しく暮らしている家に行くと、その家の人が本に幸福に思われるのです。だからといって二度結婚しろというのではありません。幸福になるためには教会が必要なのです。人は刺激を受けなければなりません。刺激というのは、いつもいるところにるのではありません。比されるところから刺激はるのです。天だけでは天になることはできません。地があってこそ天となるのです。それゆえ、すべてのものはみな相性をもっているのです。



 二 礼拝は神に最高の敬意を表す儀式


  1.礼拝時間は神に出う時


 安息日を聖なるものとして守る目的は、神が願うを建て、人類を救うことでなければなりません。キリストが安息日を守ってきたのは、この日を聖なるものとして守ることにより自分自身が昇華され、自分自身を思う、すなわち救いという目的に重点を置いたためです。私たちが安息日を守る目的は、自分の救いの道を促進することでもありますが、さらに進んで全体を救い、今後神理であると世界を救うという目的に、より重点を置いているのです。これが、より高い責任をもつ神の願いであることを知らなければなりません。

            *

 礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を神に贖罪しなければなりません。ゆえに礼拝の時間は、自由のない時間です。

            *

 礼拝時間は、押し寄せるいかなるサタンの限も防ぎ止め、父の前に勝利の光をお返しすることを約束する時間です。

            *

 礼拝を捧げる時間は、怨讐と一騎打ちをするよりも深刻な時です。

            *

 礼拝の時間に早くた分は、神のために捧げた時間となりますから、千金、万金を出しても買うことのできない値があります。礼拝の時間は神に捧げる時間であるために、その時間にれることは神からみをすることと同じです。礼拝には決められた時間になければなりません。そうすることによって、それだけ神の前に面目を立てることができます。そうなれば、きのうよりも良い心をもって天の前に近づくことができますが、れてて、祈するときも目をパチクリさせながら、「先生はきょうどんなみ言を語られるか」と座っている姿を見ると、めで仕方がありません。

            *

 神の前に出て侍る場に、服を着ない席できるでしょうか。目に見える服ではありません。心情の服です。このように集まった皆さんのその心から、み言とともに美とともに感激した心情が流れ出てきたならば、天は皆さんを通して役事されます。落した人間がエデンの園から追放されたとき、を流しながら追われましたが、皆さんはを流すとしても、喜びのを流しながら、笑い顔で神わなければなりません。悲しみのも流したことのない者が、喜びのを先に流してはなりません。

            *

 礼拝時間のために、三日前から心を焦がして準備しなければなりません。万民の幸福を祈り、万民を蘇生させるための復活の限と生命の因を結ぼうと苦悶しながら教会に入らなければならず、神の前にのどの詰まるような心で礼拝席しなければなりません。それでも足りないのに、皆さんは行商人よりもずうずうしいのです。

            *

 主日(聖日)礼拝の時は沐浴戒して神の前に敬をして、聖地へ行って祈しなければなりません。たとえ訪ねてくる人がいなくても、神がその部落を照されて役事することのできる心情的な基盤をつくっておかなければなりません。神の前に一人するという立場は、絶に孤ではありません。神が共にあられるので、絶に寂しくはないのです。皆さんが三年以上精誠をくしたにもかかわらず、その町で訪ねてくる人がいなければ、その町は滅びるのです。

            *

 礼拝るにしても、ただ何も考えずにるよりも、見えない心をくして一日、二日と、精誠をくした時間が長ければ長いほど光るのです。ですから見えないものが多いほどに、天が自分を保護し守ってくれるのです。妻が、目には見えない心で一日中夫のことを思った上で、目に見える顔で、口でほほえむと、光るというのです。光の光がです。その笑顔には、夫を引きつける魅惑的な力があるのです。同じような道理です。

            *

 今後は礼拝をするにも説教形式ではなく、報告形式でしなければなりません。報告の容は、その家庭が誇ることのできるものでなければなりません。ですから家庭全体がて、礼拝を捧げなければならないのです。そうして良い家庭があれば、見習い、あまり良くない家庭があれば、うまくいくように導いてあげなければなりません。そのようにして、家庭天を建設するのです。先に家庭天をつくることができなければ、地上天はつくられないということを確に知らなければなりません。

            *

 まず、教会生活を徹底しなければなりません。そのためには、公式的な礼拝時間を守しなければなりません。公式的に席すべき時間を守る模範とならなければなりません。

            *

 天の前に出るときに、約束は絶的に守しなければなりません。約束を守らない人が、どうしてみを受けることができるでしょうか。そのような人は、途中でやめてしまいます。途中でやめてしまうというのです。今後、先生は皆さんが動くとおりに指導します。嫌だったらおやめなさい。誰が滅びるか見てみようというのです。

            *

 聖日の公的な集に出席する模範とならなければなりません。礼拝るとき、子女たちがうらやましがってついてきたがるように、夫婦が一に仲良くなければなりません。十時前に教会て、聖日の準備をしなければならないのです。

            *

 礼拝時間はサタンとう時です。一騎打ちする時なのです。それなのに眠っていていいでしょうか。そういう人がいれば、すって起こしてあげなさい。「サタンよ退け」とイエスがぺテロに言ったように、腹を一たたきなさい。それは愛なのです。先生は礼拝の時に居眠りをする者がいれば、そのままほってはおきません。

            *

 精誠をくすべき人が、礼拝時間にれてもいいでしょうか。そのような人は、恥ずかしくて顔も上げられない、罪人中の罪人だという思いをもたなければなりません。そして、今後は時間をきちんと守ることを誓って、人よりも多くの精誠をくさなければなりません。時間も守らずに「ああ、天よ」と言うことができるでしょうか。精誠は、人に知られるようにくすのではありません。教会て精誠をくそうとするならば、車にってくるのではなく、いてこなければなりません。ここにて祈するのではなく、祈してて、もっと懇切な祈をしなければなりません。精誠というのは、このようにしてくすものなのです。

            *

 天は、懇切に慕い苦する人にされます。誰でも訪ねていったからといってしてくださる天ではありません。ですから時間だけは絶守しなければなりません。今後、時間を守らなければ前に立たせて恥をかかせます。

            *

 本礼拝時間が過ぎればを閉めてしまわなければなりません。れてきた人を集めて話したくありません。このような皆さんを集めて、ある基準まで引き上げようとして二時間、三時間話をするのです。そうして初めて、私が天の前に祈し、悟した心情的な基準と、つながれるのです。

            *

 神の前に出ていく上で、時間というのは何よりも重要なものです。時を知らなければ滅びるのです。時を逃せば滅びるのです。神は極めて聖別された環境を要求し、聖別された心を要求するのに、時間も守れずに後ろの方で美歌を歌っているのです。天はそのような美を願われません。

            *

 公式的な礼拝の時間を守らなければなりません。分かりましたか。そうすれば間違いなく展します。



  2.夜の礼拝(夕)、早朝集、徹夜精誠


 夕に力を注ぎなさい。

            *

 土曜日の夜は、教会で徹夜をしなければなりません。

            *

 今後、集は夜に多くしようと思います。闇の世界を切り開いていかなければならないからです。そのためには、懇切な心情をもたなければなりません。

            *

 夕には、道をしてなければなりません。そうしなければ、教会の威信が立ちません。礼拝時間には、引導者(司者)よりも先にていなければなりません。

            *

 人が眠る時間にぐっすりて、食べるだけ食べて、て座って礼拝を受けたらいいのに、どうして早朝から礼拝を受けるのでしょうか。どうして早朝から礼拝をするのでしょうか。 人とは違わなければならないというのです。他の宗や信仰者と同じではいけないのです。違わなければなりません。

            *

 私が早朝三時に集めて一年なり何年なり統を立てて眠らせないようにすることでしょう。人は怠惰になってはなりません。にしてはならないのです。な世界では展がないのです。それゆえ、どの家でも新たに復興したからといって、それに足し陶していれば滅びるのです。

            *

 間はかなければなりませんが、宗的なことは夜にしなければなりません。夜が果的なのです。また早朝にえても果的です。そして、一度た人が、ないではいられずに家から逃げてくるほどにしなければならないのです。皆さん自身が、そうならなければなりません。動機がないのに結果があるでしょうか。今までできなかったのであれば、もっと一生懸命に、もっと上手にやりなさい。他の方法を究してでもやりなさいというのです。

            *

 十二時が過ぎて、の鳴くが聞こえるまでみ言をえてみなさいというのです。どれほど神秘的なことでしょうか。しんとまり返った夜に、近所の犬がほえるのを聞きながらみ言をえてみなさいというのです。あたかも明るい陽光を求めて新たな人生の道を打開していくようでもあり、灯台の光を求めて新たな航海に出る船長のような分を感じるのです。周が神秘でいっぱいの世界を一人で行くような勇敢な姿、たくましい姿、荘厳な姿を感じることでしょう。このような心情的な絆をもつためには、夜の時間を中心として指導しなさいというのです。夜や早朝に、このような活動を展開する必要があります。

            *

 夜、深夜は神秘性があります。それゆえ復興をするなら、間するよりも夜するほうがみが多いのです。なぜかというと、間は私たちの感情がみな分散しているからです。視聴覚、五感で感じるすべてのが、間は分散しやすいのです。しかし、夜はむしろ集中します。すべてが私を包し、私というものをはっきりとさせます。そのような圏内に私が自動的に立つために、夜は神と共にみの役事をしやすいのです。神も良く役事をしてくださることができるのです。

            *

 早朝に起きて、自分の一日の生活が父の前に感謝の体となることができるよう祈りながら、花のく春の園のごとき自由の園で、神が私を立てて理することのできる希望の結体になろうとしなければなりません。になって仕事場に行けば、希望の結体が育つ夏のようにもう一歩発展し、神が共におられる値を現すことのできる存在になろうとしなければなりません。

 また夕方は、全体をみな集約して一つの決心を父の前に捧げることのできる秋のごとき時なので、祭物になれる立場に立とうとし、冬にたる夜は、生命力を携えて神在的な父子の起源を結び、すべての値を受け止め得る自身となろうとしなければなりません。このように一年三百六十五日を勝利の日としながら感謝する生活をする人であれば、その人は父と係を結んで生き、生きがいのある生活をしていると感じることができるでしょう。

            *

 皆さんが時間の過ぎるのも忘れているのは、神の愛にっているからです。ですから草創期には、夜を明かしてみ言を聞き、み言を語るのが常でした。

            *

 眠る時間を計算して「きょうは眠れなかったから、あすはもっとなければならない」と言ってはなりません。皆さんはそうでしょう。「聖日の朝は食だから土曜日の晩に御飯をもっと食べよう」、このような食は、してもしなくても同じです。むしろ食をしないほうがいいくらいです。食をするからといって前の日にたくさん食べると、かえっておなかがすくのです。そのように食べてみなさい。胃をげておいて突然空にするのですから、おなかがすいてたり前でしょう。



 三 役者(牧者)がもつべき姿勢



  1.役者(牧者)は公的でなければならない


 千人以上を率いる人は、界の鑑定を受けて立てられた人です。

            *

 自信があって責任者になるのではありません。先生も「自分に自信がある」と考えたことはありません。自信よりも、神が慕い、神が訪ねるその人を慕うべきだということを知っていたがゆえに、いかにしてその心情をもって立ち上がるかということが問題でした。その心情さえ通じれば、できないことがありません。慕うその人をより高め、悲しむ人を慰できる心をもつべきだということを知らなければなりません。

            *

 の牧者(牧者)は、自分がの牧者だとは言いません。いつもと神のみ旨とすべての万象を自分の心に抱いて進むのみであり、自分の立場を弁明しないのです。

            *

 公的なことのために疲れも忘れて走り、いつたのかも知らずにぐっすりとて朝起きると、体がどれほどいか知れません。そのようなことを思うと、「ああ、天に行く道はこうして行くのが原則なのだ」と思われます。ところが「ああ、きのうは三時間しか眠れなかったからきょうは五、六時間なければならないのだが」と思いながらて起きると、腰が痛く、体中がとても重いのです。ですからそのように思ってはならないということです。

            *

 責任者は、いくら疲れても先にになるのではありません。みんなをかしてからにならなければなりません。祈をする時も一番最後までしなければならないし、信仰生活をするにおいても食べられず、いいものを着ることもできず、貧しいながらも精誠をくさなければならないのが責任者の立場です。そのようにすれば、「滅びよ」と言っても滅ぶことができないのです。

            *

 先生は、精誠をくす人の前ではどうすることもできません。今まで教会を指導してきながら、二人の人がいて、その二人のうちのどちらが優秀かという問題を解決すべき時は、顔の良ししを見るのではなく、心がどこに向いているかを見ました。すなわち、私的であるか、より公的であるかを見たのです。

            *

 朝第一を踏み出す時も、公的な一であるか、私的な一であるかを反省しなければなりません。そして一日の仕事を終えて床に就いた時も、公的な一日を送ったのか、私的な一日を送ったのか反省しなければなりません。また、一年を中心として公的な生活をしたか、私的な生活をしたか、一生を中心として公的であったか、私的であったかを反省しなければなりません。

            *

 公職に就いている人はかわいそうです。もてる精誠をくしたのに、仮にみ旨の前に誤って、自分のせいで千年の功績が駄目になってしまったらどうなるでしょうか。そんな心情で生活しているのです。

            *

 過ぎゆく月とともに流れていってはいけません。新たな日に備えて前進する群れとならなければ、荒野ではげたかの餌食となります。私たちは史的開拓者だという事を知らなければなりません。開拓者は困難な環境を突破して、あすへと向かう希望の前に準備態勢を整えて進むべきです。

            *

 いったん責任を負ったならば、次は戦闘です。闘争です。お前が負けるか、私が負けるかといういをしなければなりません。皆さんはそのいで、皆さんの一代で少なくとも三人以上、反する立場にいる人を自然屈服させ得る基盤をつくらなければなりません。

            *

 皆さんはまず理論にする知識をもち、次に、できるという信念をもつべきです。自分の考えが及ばず、自分の信念が及ばなければ、自分のものにならずに人に奪われやすいのです。しかし、自分が実践してつくった基盤、根をしっかりと張ってできた基盤は、それ以上の力を加え、それ以上の信念を加えない限りは、絶に奪われることはありません。

            *

 責任をもつ前に、どのような心をもたなければならないでしょうか。責任を負えなければ命に替える、という信念をもたなければなりません。そのようになれば、問題の核心を解決する解決点が生じるのです。

            *

 「人間としてできる限りの最大の努力をしました。夜もも心のすべて、精誠の限りを捧げました」と言うことのできる立場、天が見てもそれ以上できないという立場でそこを去る時、たとえその人がすべてを成し得なかったとしても、天は成した値以上に報いてくださるのです。皆さんはそれを知らなければなりません。

            *

 教会長はその地方の祭司長です。られなくても、みを祈ってあげなければなりません。多くの人を救うために祭物を扱うのですから、精誠をくす苦をしなければなりません。祭祀には体(教会長)と主人(神)が一つとなって初めて、返ってくるものがあるのです。

            *

 祭祀は、誰が管理するのでしょうか。祭司長が管理します。客が管理してはいけません。それゆえ公的な和合の場を重要視しなければ展することができません。

            *

 祭物の前に立った人たちは頭を下げなければならない、というのが天法です。その祭壇には神が臨在して干されるのです。心情的に私は、きょうこの祭壇の前に情熱とすべての力と努力を捧げきり、自分の生涯で最高の誠心誠意をくして口を開くとき、神が協助されるのです。祭物は深刻な立場で捧げられるものなのです。

            *

 一生の間、嫌になるほど食べて、笑って、踊って生きたのちにお墓に行けば、福となることが何かあるでしょうか。そのような人のお墓には草が生えるだけですが、のために血を流して死んだ人のお墓には、そのが生きている限り花がくことでしょう。

            *

 統一教会の先生になるのは易しくありません。それは罪人のように、囚人服を着て死刑場への道をいていく、そんな分でんでいる人だというのです。皆さんは刑務所生活をしたことがないので分からないでしょう。豪華な家に住んでいますが、私はその家を必要とする人ではありません。私は草屋にも住める人です。草屋にも住めるように訓練されています。服をいで、それを持って労働の場に行けば一等労働者になれる、そのような訓練をした人です。そこに神が愛する人がいれば、私が行って抱き締め、環境をすべて拾してそこでを流し、友達になれる、このような心情的な訓練をした人なのです。



  2.食口の指導は精誠によって


 教会員(食口)を慕うのも、初をするような心で慕わなければなりません。

            *

 核心要員は、夜を徹してでも精誠をくして育てなければなりません。そのように三日間精誠をくせば、その人は一生忘れることのできないみの因を結ぶのです。象者が夜くまでいてる時にも、らずにもっといてほしいと思うようであれば界が協助してくれます。

            *

 まず自分自身がみ旨にってこそ相手にもわるものです。

            *

 先生が食口を育てるために千辛万苦したように、皆さんもそうしなさいというのです。夜に客がたならば、ひざまずいて天のみを祈ってあげ、間にた客にはの間に通して自分の親戚よりもうれしい客としてもてなし、「私の家はこういう家です」という家風を立てなければなりません。そのような家風を立てるならば、その人は誰のために生きるでしょうか。他人をもてなす統をもった人たちが役者(牧者)を飢えさせるでしょうか。役者を飢えさせておきながらみを受けようという人たちには、口に砂を入れてやらなければなりません。

            *

 夜を徹して話をする時も、しくすべきです。夜の十二時が過ぎて、夜中の二時、三時になり、「ったらいいのに。なければならないのに……」という思いがあると、みな逃げていってしまいます。明け方の三時、四時になっても「ってほしくない。時計が止まればいい」という思いがなければなりません。そのような場に因を結んでいけば、その人のは分かるのです。は申しなくて食事をするや否や、お尻は後ろを向こうとするのです。先生はそのようにしたのです。

            *

 誰にうにしても、っただけで終わってはいけません。天を中心としてった人ならばなおのこと、絶にその因を忘れてはいけません。教会ていたのになくなったからといって切ってしまったり、呪ってはいけないということです。その人が離れて出ていったとしても、その人と結んだ因だけは捨ててはいけません。

            *

 もしいことがあれば、いことをすぐに理するなというのです。いことがあっても、そのいことが良くなり得る件を探し求めつつ、それを保留にして理し得る余裕をもたなければなりません。もし一年前に間違ったことを見て切ってしまったなら、その人は完全に死んだでしょうが、一年、二年、三年と切らずに保留にして、それを番外のことと考えながら理するならば、一年、二年、三年以後にはその人が生き得る道もあるのです。

            *

 新しく入った食口を愛すれば、蕩減件を早く立てることができます。教会展できない原因は、食口たちがそのようにできないところにあります。ですから神は、互いに愛し合い、和睦しなさいと言われました。

            *

 食口が離れて出ていったとしても、落胆してはいけません。不思議なことに、食口が一人出ていけば、その人と性格や話し方、き方まで似た人がるのです。どの面から見ても不思議なほどに出ていった人にそっくりでありながらも、すべての面でずっと良い人がるのです。そのようなことを考えると、精誠をくしたことは失われることがないということが分かります。これは間違いのない事です。

            *

 教会の草創期に、韓で食口を育てるときには眠りませんでした。一一の作をしたのです。一人の人の前で講義をするにしても、千人の前で講義をするような思いでしました。その一人の人に千、万人がかかっていると考えたのです。どんな命令でも聞くことのできる、そのような人にするためには、それだけの精誠をくして、そうなるための動機をつくってあげなければなりません。

            *

 皆さんは、欽慕の心情をもった食口にどれほどいましたか。先生は、そのような人にたくさん出いました。地の果てからやってきて先生に敬するではありませんか。それはなぜでしょう。先生が地の果てまで愛の心情的な綱を投げたがゆえに、に電を通したので、方向が分かるからです。そうでなければなりません。

            *

 指導者になるためには、心から病人を治療する師の立場に立たなければなりません。病んでいる人の心霊状態が下がれば、夜でもでも時間を問わず、共にしながら心を治療するために努力しなければなりません。それが的指導者なのです。皆さんは生命を救うために幾晩も夜を徹したことがありますか。 生命を救うためにどれほど忙しくき回りましたか。そのようなことが今後界に行けば、表彰の象になるのであり、人格的な基準になるでしょう。



  3.男女問題、公金に格でなければならない


 今後、男女問題に許しはありません。許しよりも天が願われません。落というのは何ですか。 性の問題を自己主管できなかったために落したのではありませんか。男性にとって最も問題となるのが衣食住の問題、性欲、次に物質にする欲望、欲心、これらが罪の根です。これを主管できない人は責任者にはなれません。

            *

 男女問題が大きな怨讐です。これが天地の法度に背き、世の中を滅ぼしたからです。これに自信のない人は祝福の場に出てはならないということをはっきりさせるために、話しているのです。万が一、皆さんがこれを破り、あの世へ行って引っ掛かっても私は知りません。私の責任ではありません。引っ掛かった場合には逃れる道がないのです。を食いしばってでも線してはいけません。

            *

 今後、男女問題には特に注意しなければなりません。男性でも女性でも、愛し合っているといううわさがある人は、今後絶に責任者になれません。それは、そうしてはいけないようになっています。

            *

 男女問題にしてはっきりさせなければなりません。責任者はこの原則に格でなければなりません。そうでなければ誤解を受けるのです。弁明する道理がありません。ここで一度この問題に引っ掛かると、それこそ永遠に道がないのです。

            *

 宗の背後には、いつも男女問題がつながっています。的な集は、必ず男女問題にぶつかりました。それはどうしてなのでしょうか。 エバが落する時、自分の夫アダムと天使長を相手にしたからです。ですから終わりの日になって、女性は二人の男にして善を判すべき運命に置かれるのです。そういうわけで、男性が宗に入門して修道すると、最後の峠で美人が現れて誘惑するのです。もしその誘惑にせられるようなことがあれば、千里、万里の崖から落ちるのです。

            *

 役者(牧者)たちが息子、娘を育てていますが、非良心的な、良心の呵責を受けるようなことをしたり、あるいは公金をむやみに使ったりするよりも、いっそのこと食べないほうがましだというのです。食べなければ天と地が同情します。食べない人に同情しない人はいません。子供も飢えている時、食べさせてやらなければなりません。もうすぐ死ぬ人には同情するのが人情の原則なのです。それゆえ殺人犯が死刑場で死刑になる時、彼に「最後の願いは何か」と尋ねて、その時だけは願いを聞いてやるではないですか。そのように、悲しみ、困難にった人に同情すべきだと見るのです。

            *

 統一教会の幹部の中に、公金や物質の扱いを誤って、人情で自分の家庭を中心として公金を使い、心情的に蹂躙する人がいます。それは自分の息子、娘の前に毒を配給するのと同じです。間違いありません。サタン世界ではこれが引っ掛かるのです。公金にしてはどうすべきか、 公的な人にどうやってすべきか、公的なことをどう決定し理すべきか、統一教会の牧者は今後一大革新をしなければなりません。

            *

 界の法の中で最も恐ろしいのが、公金領と公的な人を冷遇することです。最も恐ろしいのがこれです。責任者や神が送った人をないがしろにすればが引っ掛かり、世界が引っ掛かるのです。

            *

 人間の生活において物質をないがしろにしてはならず、公金をきちんと扱わなければなりません。公金をきちんと扱わなければ天の憲法に引っ掛かるのです。また、自分が出世したからといって勝手に人を人事措置することはできません。自分が出世して入った所に自分の怨讐の息子、娘がいたからといって、引きいて他の所に回して死ぬような立場に送ると問題が起こります。

            *

 先生が公金を使うときは、全体のことを案じる持ちで使います。

            *

 これからは公私の問題を徹底的にしなければなりません。公金はサタンが配置した毒です。そのような公金を誤って使おうものなら滅びるのです。その公金から事が起こるのです。奸臣もそこから出てくるのです。そのためにが滅びることもあり、り渡すこともあるのです。

            *

 私が血と汗を流して稼いだこのお金を、むやみに使うことはできません。むやみに使うことがあろうものなら、手足どころか自分の先祖まで引っ掛かるのです。公務員が庫金を領すると罰を受けますが、神の公認を受けた天の公金を領すれば天罰を受けるのです。









(next section)
(CSG Index)