1.説教の実際
説教する時は女性がお産の時に苦痛を感じるような立場で説教しなければなりません。すべての精神をそこに集中させなければなりません。説教の壇上に立つときには、産婦が産室に入るような感覚がなければならないのです。その境地に達すれば準備が必要ありません。説教の内容が問題なのではなく、そのような心情になっているかどうかが問題なのです。
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説教の時間はある人を天国へ行かせるか、地獄へ行かせるかという境界線になります。「今まで統一教会のことが気がかりだったけれど、一度行ってみよう」と教会に来たのに、「この説教は何だ」ということになれば、その人の首を完全に切ることになるのです。公廷で判事が宣告をする場よりも深刻な場が、説教の場なのです。
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人にとって最も大変なのが、前に出てみ言を語ることです。人前で話をすると、みんなが注目します。甲は甲なりに、乙は乙なりに、丙は丙なりに、また金氏ならば金氏、朴氏ならば朴氏と、みなそれぞれに聞いて批判なり判断をするのです。ですから人前で話をする人は、とても大変なのです。
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牧会者は説教についてのことを常に補充し、特に教会員に必要で、ためになることをいつでも供給してあげなければなりません。
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霊的指導者には体恤的な信仰なしにはなれません。本を見て説教の準備をし、本を見て説教しても、その本の中に神様がいますか。いません。神様は霊的な中におられるので、神霊を通さなければならないということを皆さんは知らなければなりません。
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皆さんが説教する時、昔その題目で説教したことがあるということを食口が知れば、気を悪くします。それは、人が春夏秋冬の四季によって変化を感じるのと同じだからです。朝だからといって、いつも気分がいいとは限りません。何も心配なことはないのに、とりわけ憂うつな日もあります。朝の日差しも明るく、そうかいな天気でも自分では憂うつな日があるのです。
そのような時、どうすれば解決できるでしょうか。これを急に変動させる刺激的なものがなければ、もっと憂うつなところを求めて入りなさいというのです。このように正反対の新たな刺激を与えるなり、それを克服し得る新たな刺激を起こして補充していかなければなりません。皆さんが解決方案を立てて一日一日の生活を調節していくことができなければ、今後多くの人の心霊を指導することはできないのです。
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新たなものを提示しなければなりません。どのようにしてでも刺激を与えなければなりません。祈祷してでも補充すべきです。それでも駄目ならば、命を懸けてでも談判しなければならないのです。
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準備のできていない説教をして恵みを与えられなかった時、ありったけの力を尽くしても駄目だった時は、振り返り、帰ってきて、ただただ大声で痛哭する時間がなければなりません。恥ずかしいのです。自分の恥ずかしさを知るべきです。そうしてこそ発展するのです。
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朝御飯を食べる時、新しく炊いた御飯を食べるでしょう。新しい味がしなければならないのです。説教するにも新しい説教をすべきです。霊的な面で新しい何か、保養剤とでもいうか、そのようなものを供給して、そこにつけ加えて説教しなければなりません。そうでなければ調味料を入れて酸味をきかせ、塩味をきかせ、さもなければ苦みでもきかせて新しい味を出さなければならないのです。
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恵みを与えられずに説教を一時間してきたならば、三時間悔い改めなければなりません。皆さん、それを知らなければなりません。説教がうまくできずに恵みを与えられなかった時には、三倍以上悔い改めなければならないのです。一つの生命のために命の水を与え、育てるべきなのに、水をやるどころか水を奪い、土を掘り起こしてきたとすれば、その責任を取らなければなりません。その人たちが帰ったあとでも、きょうのみ言を中心として恵みを施さなければならないのです。
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聖日ごとに「聖書はどこを読もうか、賛美歌、出てこい、聖歌、出てこい」と言うのではありません。それではいけないのです。人にとっての生きた材料を中心として、聖書からそのような歴史を取り上げて、その人のことと聖書の内容を対照しながら興味深く説教するのです。そうすると聞く人は、自分の話なのですっかり引き込まれるのです。喜ぶのです。本を見てしようとしてはいけません。本も人から出てくるのです。人自体が本の原本だということを知るべきです。
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牧会者は苦労をたくさんしなければなりません。人生の修練をたくさんしなければなりません。かわいそうな労働者から乞食、あるいは高級官吏、あるいは権勢圏にある立場まで一度は経験することも必要です。そしてそのような状況を中心として、その時に公的立場で経験した事実などを取り入れた体験談には実感がわくのです。
2.真のお父様の説教
先生は、説教のために祈祷する時間よりも食口のために祈祷する時間を多くもちます。「父よ! この者たちを引き上げなければならないのですが、どうすればよいのですか。これですか、あれですか」と、精誠を尽くしてから心の命ずるままに説教します。
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先生は、説教のために準備をしたことがありません。生きた体験で事実を語る時は、みな感動せずにはいられないのです。
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一時先生は(北韓にある)咸興でトンネルを貫通する仕事をしました。おなかをとてもすかせて仕事をすると、つるはしを強く握りしめた手が上がらず、精根尽きていました。「昼飯だ!」という声を聞いた時、その声がどれほどうれしかったか分かりません。その時の御飯! その御飯を食べるためにつるはしを地面に突き立てて振り向くその瞬間の気分、先生にはそのような生きた歴史の材料が数えられないほど多いのです。
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悲惨だった復帰歴史の事情は、私を滅ぼすのではなく、青史に永く光り輝く資料であることを知らなければなりません。それで、神様が秘めた宝物をかき集め得るその日まで行かなければなりません。その受難の事実を世界万民の前に打ち明け、話せば、他の内容で一時間説教するよりも、この内容で十分だけ話せば痛哭するというのです。そのようにいい説教の内容がどこにあるかというのです。
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神様と密接な関係にあれば、説教の準備をしなかったと心配するなというのです。そのような訓練が必要です。私は、有名な人に会って一日に十回話をしたことがあります。その時は、場所によってみな内容が違う話をしなければなりません。ところで、それをみな準備してするでしょうか。そういう時の心は、完全に祭物としての自覚をもつのです。祭物の自覚。「私」というものはありません。存在意識がないのです。所有観念もないのです。完全に捧げられる立場に立てば、天が共になされるのです。
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皆さんがいつも注意すべきことは、先生が今どの方向に向かっていくのかということです。そこに歩調を合わせていくのが、皆さんが説教する上で一番効果のある方法です。恩賜を施すことのできる動機になるのです。先生がこの時間に、何のために、どんなことをするのかを知ろうとするならば、相対的に心情的基準を先生と一致させるために自分の心を引き上げて、先生の心をどのように身代わりできるかが問題なのです。皆さんが先生の前に相対的立場で動くようになれば、天運はそこに訪れることでしょう。
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聖日の説教をする時は深刻でしょう。私が皆さんだったら、夜寝ることができません。どうして寝ることができますか。人の生命を生かすために注射するのです。強壮剤注射をするのと同じです。食口たちに一週間分の薬をあげ、強壮剤注射をしなければならないのです。生命を扱う医者が、生死の岐路に立たされた人に注射する時、深刻なのと同じように、そのような立場で指導しなければなりません。ですから壇上に立つ時は、死刑場に出ていくのと同じなのです。
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説教する時は汗を流さなければなりません。後頭部に汗が流れなければなりません。涙と汗がなければなりません。それが鉄則です。説教は心配する必要がありません。先生が一生の間に説教した二百巻を超える説教集があります。皆さんが霊界に行って問答する時、「私は見ることも読むこともできませんでした」と言いますか。英語には翻訳させないでしょう。これを読まないで逝けば大変なことになります。指導者たちがこれを読まなければ大変なことになります。
五 献金は法度に合うように捧げるべし
1.十分の一献金を捧げる法
公金に対して厳しくなければなりません。十分の一献金は徹底しなければなりません。自分の総収入から十分の一の献金を必ず神様の前に捧げなければなりません。
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十分の一献金は、所有している物質中の十分の一を神様に捧げることにより全体を捧げるという意味をもっています。父に全体を捧げるのではありませんが、その中の十分の一を精誠を込めて捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱い得るようになります。このように十分の一献金を捧げて生活する人は、絶対滅ぶことがありません。日がたてばたつほど、倉庫がいっぱいになっていくのです。
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精誠を込めて十分の一献金をしてみなさい。絶対に飢え死にしません。その子孫は物質に対して窮乏しないのが原則です。十分の一献金を捧げるために精誠を込めなさい。それが信仰の本質です。適当にすればいいだろうと、それは通じません。祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。それで、一番貴重な物を捧げるのです。
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蕩減するために物を条件にします。私たちが十分の一献金を天の前に捧げる理由もここにあります。九数は堕落世界の数です。十数はこれを超える数です。天の世界の数です。
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レビ族が治める教会の祭壇の前に、十一支派は全部十分の一献金を捧げなければなりません。これからは十分の一献金を捧げなければ教会員ではありません。もともとは十分の三献金を捧げなければなりません。一つは自分の国のために、一つは世界のために、一つは教会のためにです。十分の三献金を捧げなければなりません。
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私たちが生きていく上で生活の十分の一献金を出すのは絶対的です。それを自分の物だと侵犯してはいけないのです。なぜそうなのかといえば、九「三三が九(3×3=9)」は、サタンが今まで支配したのです。サタンが支配するこの地上を、九数を天の前に返し連結させれば、神様が主管できるようになるのです。そうすることにより十数を探し出すことができるので、私が神様を信じて九数を引っ張っていけば、この九数圏内のすべての所有権をサタン世界から分離できるのです。それで十分の一献金という言葉が出てきたのです。
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復帰途上を越えていく過程にあって、私たちは十分の一献金ではなく十分の三献金をする覚悟をしなければなりません。一つは国へ捧げ、一つはこの世の中の人たちに施さなければなりません。復帰過程ではしなければならないのです。また一つは天の国へ捧げなければなりません。十分の一献金というのは天の責任を担う人として、絶対に侵犯してはならないのです。そのようにして誠心誠意を尽くさなければならないのです。
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皆さんが献金する時、何かを買って食べて、残ったお金で献金してはいけません。そのようなお金は汚れた物です。また市場に行って何かを買って、残ったお金で献金をしても、神様はそこに共にいらっしゃることはできません。
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祭物は、他人が残した物でしてはいけません。それは汚れた物です。恵みを受けた者ならば一遍に分かるのです。それで不浄な所には行けないようにするのです。
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これからのすべての物は、最後に世界の物にならなければなりません。そうしながら同時に世界的な神様の物になり、世界的な「真の父母」の物になり、世界的な真の子女の物にならなければなりません。すべての物はそのような物質として復帰しなければならない責任が、私たちにはあります。これを徹底的に感じなければなりません。
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自分が使うところからいくらか献金して、それで教会を支えるというのは極めて良いことのようですが、それは悪いことだと思うのです。神様の前に捧げることは自分の生活より、自分全体よりも先にしなければなりませんが、それの何パーセント捧げるという観念によって自分の生活が主で、神様が次の段階に立つのが習慣化されやすいのです。神様が二番目になり一番最後になってしまうのです。そうだと思いますか。そうではありませんか。
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皆さんが献金をする時はどうでしょう。子供たちが聖日の朝教会に行く時に、「お父さん、お母さん、献金! 献金!」と言えば、いくらかを渡しながら「さあ、献金だ、聖日礼拝で献金しろ」ですか。神様が乞食ですか。教会の牧師が乞食ですか。そのような牧師、教会は駄目です。献金は自分の財産の金額を捧げなければなりません。自分の金庫の一番奥に入れておいて精誠を込めて準備しなければなりません。収穫の秋になりすべての蔵に穀物を刈り入れる時も、十分の一献金を別に取っておかなければなりません。そのようにして一年の間、息子、娘、一家が共に精誠を込め、愛の心を重ねて祭物として捧げなければなりません。
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祭物を捧げておいて祭物を取り戻す法はないのです。取り戻す道理がありません。それはより高いところで、その責任者がより高いことのために使えばそれでいいのです。低いところのために使いません。皆さんのために使わなくてもよいというのです。
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宇宙を創造された絶対全能であられる神様が、乞食に投げ与えるようなそんなお金でもって喜びながら、「ああ、福を受ける者たちよ! お前たちは愛らしい宗教人だ」と言うことができますか。サタンの前に威信が立つのかというのです。献金箱を回しながらお金を出しなさいというでしょう。それは、看板を付けた乞食です。それは、何ですか。それは、神様は喜ばれないのです。
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皆さんが先生に献金をしますが、先生はそんなお金は受け取りません。先生は受け取らない主義です。皆さんがそれを集めるためにどんなことをしたのか、それを私が知って、それに対して恥ずかしくない主体的な立場に立てるようでなければ受け取れないのです。心の姿勢がそうなので、与えてもまた与えたい心が神様に宿るのです。
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精誠を込めた献金や礼物に対する時、その価値を知らないで対すれば、精誠を込めた礼物に審判されるという事実をはっきりと知らなければなりません。王様も自分の身の振り方を間違えば、すなわち精誠を尽くした人には、むやみに接したなら滅んでしまいます。精誠を尽くす人を間違って接すれば、天の逆賊として追われるようになります。ですから先生は、精誠を尽くす人にはむやみに接しないのです。
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私的な物を公的な物より重要視する人は、天道に反する人です。私的な自分の人格を公的な人格より重要視する立場は、み旨に反する立場です。
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既成教会で、献金することを何と言いますか。それは何かの袋を持って回すでしょう。私たちの教会も、献金をそのように受け取りますか。何の献金箱を持って受け取るのですか。出ていく時、みんなあの門前の献金箱に集めておくのです。精誠を尽くし恵みを受けていく代価として感謝献金をするのです。出さない人たちは帰っていって……。そのようなお金をもらっても、それは天が願わないのです。
精誠のこもったお金でなければいけません。お父さん、お母さんのポケットにあったお金では駄目です。全部自分の体に三日以上持って聖別して、献金しなければなりません。昼食一回分にも満たないものをどこに献金するのですか。自分の生命、財産を全部はたいてでもしなければならないのに……。
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一番最初の物は、神様の前に捧げなければならないのです。聖なる物は、神様の前に捧げなければならないのです。聖なる物がないところには、神様が共にされないのです。皆さんの生活習慣は、このようにしていかなければならないのです。
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十分の一献金は、一番精誠を尽くした聖なる物でなければなりません。それが祭物です。祭物を捧げるには、聖なる物を捧げなければなりません。息子を祭物として捧げなければならないとするなら、どんな息子を祭物に捧げなければなりませんか。憎い息子ですか。望みのない息子ですか。そんな息子は祭物にはならないのです。一番良い息子でなければならないのです。なぜですか。祭物は「私」の身代わりだからです。
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今自分が持っている物、または自分所有の財産は、自分が少しの間管理する過程にあるというのです。皆さんは管理人です。それで、各自がよく管理して奉献しなければならないこの万物は、真の父母の懐を通し、神様の懐へ帰っていかなければなりません。もう一度言えば、神様の物であると同時に「真の父母」の物という過程を通さなければ、私の物にならないという事実を知らなければなりません。
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復帰路程の原則的基準で見る時、万物はまず人類始祖の物とならなければなりません。もちろん神様の物ですが、神様が人間の前に下さった祝福の基準を中心として見る時、人間始祖の物とならなければなりません。堕落しない善の父母の物にならないといけないのです。
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堕落は、自分のものをつくろうとし、自分が所有しようとすることから始まります。神様とメシヤが来られるのに、このようにすれば必ずサタン側になるのです。それで従順の道理を通らなければならないというのに、いつも堕落した世界に執着する事情が残るようになるのです。皆さんは皆さんの所有を神様のために使おうとする時、どのようにしますか。私は自分が稼いだ物でも、夢にも私の物にはしません。
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私のものはあなたのものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものだというのが、私たちの主流思想です。
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まず物質祝福時代を通して人間祝福時代が来て、その次に神様を主とした心情祝福時代が来るようになっています。
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今まで人間が復帰されるのに、万物がどれだけ多くの貢献をしたか分かりません。また万物と人間が一つになれなければ、父の前に行くことができません。
2.生活にも十分の一献金がある
教会の十分の一献金生活も、食口の家庭が十あれば引導者一人を食べさせなければなりません。そのようにできなければ天民権をもつことができません。
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十人が住めば、天の人一人を扶養しなければなりません。
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十分の一献金は、すべてに該当します。学校も、十教室中の一教室は、かわいそうな子供たちのための無料奉仕の教室として使わなければならないのです。
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これからは皆さんが持っているすべてのもの、時間までも十分の一を捧げなければなりません。過去と同じように物質だけではありません。仮に家族が十人いたら、一人を差し出さなければなりません。そのような基準で出なければなりません。これからは、私たちの教会食口は十分の一献金ができなければなりません。十分の一献金ができない人は食口ではありません。これは義務です。天的な義務だというのです。
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聖日は十分の一献金の日であり、自分の日ではありません。ですから天の命令どおりに服従する日なのです。天の物を私の物として使おうとするのが罪です。私の子供の中の一人を天の前に捧げなければならず、そのようにできなければ他人の子供でも勉強をさせ天の前に捧げなければなりません。
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そうめん一杯を食べるにしても一人で食べてはいけません。天の父に仕えている者として一人で食べて申し訳なければ、「共におられる父の前に私一人で食べるしかないので心苦しいです」と言い、父が参与できる条件を立てて、必ず父母をまずもてなす立場に立てておいて生活しなければならないのです。服を買って着ても、一人では着れません。そんな生活をしなければならないのです。
3.蕩減基金
堕落人間が父母を殺した罪、子女を殺した罪、万物を失ってしまった罪をどのようにして蕩減しますか。ユダがイエス様を売って旅人の墓地を買いました。ゆえに蕩減基金で聖徒たちがとどまることができる家を準備しなければなりません。元来は本部を買わなければなりません。十二弟子が売ったために、四年間に一万二千ウォンを献金しなければなりません。蕩減基金は、お金の中でも一番貴いお金を捧げなければなりません。この基金献納は、父と兄(アベル)を殺した罪の血の代わりに蕩減として基本的なお金を納めるのであり、子女たちにおいては父と兄の血の代価となるのです。これからこの基金に加えて、聖殿を建てなければなりません。
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蕩減基金を精誠を尽くして返さなければなりません。蕩減基金は、食べる物を食べなくても、着る物を着なくても精誠を尽くし、他人の手を通さないで自分自身が直接出さなければなりません。蕩減基金を伝統にし、私たちの子孫たちも全部この峠を越えなければなりません。これをすべてがするようになれば、国家の運勢を越えていきます。表面には見えませんが、千の道、万の道の中に泉がわいており、穴を掘れば爆発する力があります。私たちは他人が知らない中で、このような神聖な祭事を行う祭事長、祭官としての責任をもって祭物を捧げることができなければなりません。
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一人の誤った行動によって、真の父として来られたイエス様をこの地上から追い出した立場になり、神様の摂理は、四方八方が完全にふさがれてしまいました。これを蕩減する条件として四年間に三数に該当する金額を、イエス様を売ってしまったその実体の額を神様にお返しするのです。四年間というのは東西南北に該当し、韓国では一年に三千ウォンずつ四年間にわたって納めるという条件で、一万二千ウォンを献金しなければなりません。
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私たちは天と地の恨みを解き、この地にふさがれている城を壊さなければなりません。そうして、今まで道を磨いてきながら犠牲になった道人たちを中心とした本部をつくっておかなければなりません。この蕩減基金は、世界的な蕩減をするものです。蕩減基金は、血と汗を流し精誠を尽くしたものを出さなければなりません。銀行に貯金しておいたものを引き出してはなりません。
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主は、歴史の蕩減条件を立て血を流すような道を歩かれました。そうして天地の恨みを解きました。しかし、子女たちが恨みを解けなかったので、これを解くようにするための条件が蕩減基金です。父母は勝利しましたが、子女たちが侵犯を受けたので、勝利した父母の基盤の上に父母を売った恨みを解怨成事しなければなりません。蕩減基金を納入すれば飛躍的に発展するようになります。子女がどんなに父母を迎えても、天地をもったとしても、「真の父母」が流した血の恨を解かなければならないのです。
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食口たちは蕩減基金を率先して納入しなければなりません。涙と汗と血の恨を蕩減する条件を立て勝利してこそ、また新しい摂理が出てきます。民族的な基盤の上に、国家的な逆境をかき分けて行かなければなりません。先生は、韓国民族が一番かわいそうな民族になることを願います。それは、私たち民族が一番悲惨な位置にいてこそ蕩減をすることができるからです。それで私たちは今、民族的な蕩減条件を立てて進んでいるのです。
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蕩減基金は、お金の中で一番貴いお金です。この基金に逸話が多くなければなりません。悲惨なことが多くなければならないのです。