1.あいさつをするにも方法があるのではないか
信仰者はより大きなことのために公的な祈祷をしなければなりません。
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先生は興南の監獄で三年近い歳月を過ごしましたが、その中で何人かの食口たちのための祈祷を、御飯を食べる時から寝る時までしなかったことはありません。たとえ離れていった人であっても、彼のためにずっと祈ってあげました。それで、霊的に先生を探して物悲しく涙を流しながら報告をするのです。肉身(体)が弱くて仕方なく先生から離れるようになったとあいさつをしましたが、去るようになった悲惨な情景には同情せざるを得ません。そのようにして離れていっても、その人のために祈祷してあげないといけないのです。なぜでしょうか。その人が責任を全うできないで行ったために、継承者が出てくるまで祈祷してあげないといけないのです。そのような精誠の土台さえ残っていれば、どんなに食口が落ちていったとしても、神様が必ずみ意にかなう人を送ってくださいます。
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私が拷問を受け血を吐いて倒れたとしても、「天よ、この血を見て私のために涙を流さないでください。これは恥ずかしい血となるのであり、嘆きにぬれた怨恨の涙になるので、ここに天が同情することを願いはいたしません」と言うのです。ですから、監獄に入るようになっても祈祷はしないのです。心情世界にあっては、そのようにしなければならないのです。
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この世でもあいさつをするのに、その方法があるではないか。祈りにおいても研究してやりなさい。
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神霊な世界に入って祈祷するようになれば、まず神様のために祈ります。そしてイエス様のために祈ることができれば、歴史的な心情を知ります。その次に、天地創造以後今までキリスト教系の素晴らしいみ旨に代わって闘ってきた数多くの人たちに代わって祈ってあげなければなりません。堕落以後アダム・エバから今まで数多くの預言者たちが歩んできましたが、「彼らにつのった恨を解怨する祭物になるようしてください」と祈りました。これがすべて終わったのちに、愛する息子、娘のために祈り、その次に、自分のために祈るのです。天法がそのようになっているのです。
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涙を流し、骨髄が溶けてしまうような深刻な境地に入り、一対一で勝敗を決めようというのです。私が涙を浮かべる時神様も涙を浮かべ、神様が涙を浮かべる時私が涙を浮かべるそのような立場で、従順に従う心で神様とやりとりできる境地に入らなければなりません。どんなことでも、そのようにしなければなりません。そうするために祈らなければなりません。根がないといけません。その根が祈祷です。
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精誠を尽くすにおいて、「絶対信じます」という位置へ入らなければなりません。「神様を絶対信じます」。み旨ならばみ旨に対して「絶対信じます」という位置に入らなければなりません。そのような位置にのみ、神様が協助されるのです。祈祷していても、祈りが成されるか成されないかと疑ってはいけません。「父よ! 私だけ残りました。私でなければこの国がなくなり、この世界がなくなるでしょうが、父よ、あなたが六千年間苦労してこられたこの一つの境地に、この境界線に一人残りました。あなたが成就させるみ旨の近くにいる者が、私しかいないではありませんか。国にはこのような存在が重要ですが、私はまだ準備が十分ではありません。しかし、そのような者に命令され私がそのようにできる条件、そのようにできる基盤を備えて、全体のこの民族に代わってやります。これが復帰摂理ではありませんか」と言えなければなりません。祈祷は、目的の完成のためにも必要なのです。
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祈る時、一番最初に国のために祈らなければなりません。その次は世界のために祈り、次には神様の解放のために祈らなければなりません。神様が平安な位置にいらっしゃると思いますか。自分がしなければならないことが何であるかも知らずに、世の中の運勢がどのように動いているかも知らないで「おお、主よ。私を天国に送ってくださいませ」と言っています。
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責任者として、本質的な原理的軌道をどのように行かなければならないかということを知らなければなりません。それで祈祷をしなければならないのです。祈祷です。神様と私の関係、神様が私をどれだけ愛しておられるか……。また、食口のために精誠を尽くさなければなりません。私が食口と共にどれだけの関係を結んだか、これが丸くなるように……。そのために祈祷しなければなりません。
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自分の利益のために宗教を信じる人たちは、福を受ければ神様を捨てます。福を受けるのが目的だからです。少し豊かに生活するようになると落ちていくのです。皆さんは、神様が願われることが何なのかを探してさしあげるという観点で祈祷しなければなりません。そして世界に福を賜るようにと祈祷しなければなりません。
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師匠を師匠としてつくるためには、皆さんが責任を全うしなければなりません。父の前に祈祷をするにも、「父よ、あなたの息子、娘が来ました。あなたが会いたがっていた息子、娘が来ました」と堂々と言うことができる環境をつくっておいて祈祷しなければならないのです。
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誰が見ていようが見ていまいが、私がすべきことは私がしなければなりません。私たちが神様と約束を守らなければならないのです。夜でも昼でも全体のために祈らなければ、それは生きた祈祷とならないのです。それで自分の願う祈りが変わり、題目が変わりながら発展するのです。今、時がどのような時なのか知らなければなりません。そのような裏面の生活を、祈祷を通して身につけなければならないことを知らなければなりません。
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先生も自然を愛し、一人でいる時間を趣味としています。物静かな夜がとても好きです。しかしそんな話はしません。先生にそのようなものがないでしょうか。皆さんに見えないだけです。そんな生活の豊富な底辺基盤を磨くことができるのも、祈祷以外にはないということを知らなければなりません。
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福は他のところにあるのではありません。自分の心情的姿勢によって福が来るのです。皆さん、祈って精誠を尽くすのはなぜですか。精誠を尽くして「アーメン」と言って出てきて、泣いている赤ん坊がいればお尻を足でけって突く、このようならばその家はどうやっても駄目なのです。美しい祈り、懇切に願う祈りをしたならば、懇切な心と美しい心で環境を処理して、祈祷する基準の相対的な立場で、その結実を結ぶことができる姿勢を備えなければなりません。今日、既成教会の人たちは、賛美歌を歌い、礼拝に行けば天国に行くと言います。とんでもありません! 教会に行ってきて、けんかをし拳をふるい、ありとあらゆることをして天の国に行けるというのですか。
2.真の父母様のみ名を通し祈祷する
祈祷する時、「真の父母」のみ名で祈祷しますが、「真の父母」とは何ですか。その言葉は先生とお母様だけだと考えないでください。より高い次元で世界を抱き、民族感情や国家感情を超えて万民を真実に、一筋に愛することができるお母さん、お父さんという境地の基準を考えなさいというのです。それで先生も「真の父母」のみ名を通して祈祷するのです。
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今は、「イエス様のみ名で祈祷」する時ではありません。今はみ名の救援時代ではありません。実体救援時代です。キリスト教徒たちはイエス様の名前で祈ります。しかし先生はそのように祈りません。イエス様が必要であって、イエス様の名前は必要ないのです。お父さんという言葉は千個、万個あります。しかし実体は一つだけです。そうでしょう。ですから天の国には、イエス様の実体に乗って行かなければならないのであって、名前に乗って行くのですか。
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統一教会ではイエス様のみ名で祈りません。統一教会に初めて入ってきた人たちは「えー、なにー、『真の父母』が何だ。なぜ『真の父母』のみ名で祈祷するのか」と思うのです。皆さん、「真の父母」とは何か知っていますか。「真の父母」というのは、エデンの園で堕落せず神様の栄光の中で千世、万世に誇ることができる先祖を言うのです。ところが立てられた人類の先祖が堕落したために、新しい先祖がいなければ、神様または新しい先祖の名前で祈祷するのです。道理にかなっているのです。イエス様お一人では通じないので、イエス様と聖霊を通さなければなりません。イエス様は父の神で聖霊は母の神なので、堕落した人間たちは誰でも、父母の因縁を通さずしては天国に行くことができません。
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統一教会は、イエス様のみ名で祈りません。父母を求めていくのです。父母の中でも「真の父母」だというのです。すべて改め直さなければならないのです。改め直さなければならないものを知らないから、礎石を正さなければならないのです。そうしなければ、台風が吹いたら完全に駄目になってしまうのです。
七 伝道は愛を探す運動である
1.伝道は第二の私をつくること
伝道とは何ですか。道を教えてあげることです。神様に戻っていく道を教えてあげるので、それはどれだけ偉大なことでしょうか。本性の人間を見て「お前はどこに行くのか」と問えば、「いやー! 世界を通し天の国に帰っていかなければ」と言うのです。その道を開拓してあげるのでどれだけ素晴らしいかというのです。迫害を受け、ひたすらに何かを受け、何を受けても、いつも世界を通して天に帰っていくのです。
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私が生命を捧げ悪を屈服させれば、神様の愛が私に来ます。これは公式的です。秤の分銅と同じです。片方が下がればもう一方は上がるようになっているのです。悪を多く取り除けば善が上がり、悪が多くなれば善が下がるのです。悪を取り除いただけ愛を受けるのです。ですから、誰よりも私を愛しなさいというのです。神様をもっと愛しなさいと言うのは、神様を愛するほど神様の愛をたくさん受けるというのです。すなわち、神様を愛したので神様の愛を受けるということなのです。
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皆さんが、春を迎えるために伝道するのはなぜですか。伝道して何をしようとするのですか。夏の日を迎えようというのです。もっと良い日があり、枝を伸ばし葉を出して花が咲き実を結ぼうというのです。それでは統一教会はどうですか。「ああ、私は三年の間伝道したのでもう家に帰ってじっとしていてもいいでしょう」。そうすればどうなりますか。それは実を結んだとしても、その実を証することができる生命の余力をもっていなければ、冬季の北風寒雪が押し寄せる時には干上がり、縮んでしまうのです。
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伝道は第二の自分をつくるためのものです。
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どんなに時代的な一日の生活であっても、伝道するその一日は永遠と関係を結ぶのです。そんな秩序の基礎の上に、私たちの一片一片の行動が全体、または永遠と関係を結び、それがなくならずに残るようになるというのです。
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伝道すればうれしい。反面、伝道しなければうれしさがこみ上げてきません。先生もこれをしなければ苦しいので、するのです。伝道をすれば罵倒されてもうれしいのです。
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神様が生きておられることを体験すれば、「伝道するな」と言っても伝道したくなります。伝道すると、新しいことをつくってくれるからです。十人がいるとして、彼らと真摯に対話すれば十人が新しい人になります。そうしてから教会に来て祈ってみなさいというのです。そのようになれば彼らが発展する時、必ず自分自身も発展するようになっているのです。私自身が高まるのです。
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霊界に行けば誇れるのは伝道しかありません。霊界はお金を多く持っていたとしても何の誇りにもなりません。また世の中で権力をもっていたと誇ることもできません。生命をどれだけ生かすことができたか、これが誇りです。甲ならば甲、乙ならば乙、または氏族を超越し数多くの民族を新しい生命と関連させ、どれだけ生かしてあげたのか、それが財産です。財産はそれしかありません。
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霊界にないものはなく恋しいものはありませんが、一番恋しいものがあるとすれば、それは真なる人です。ですから真なる人を育てるため骨を折ったその功臣は、天上世界で当然、栄光の息子、娘になることができます。ですから誇れるのは伝道しかないのです。
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皆さんは伝道対象者を前にして、夜を明かし痛哭して祈祷したことがありますか。自分のお母さん、お父さんが死んだ以上に悲しんで、または愛する恋人が死んだ以上に悲しんで痛哭してみたのかというのです。していないのならば、してみなければなりません。夜を明かしながら痛哭しなければなりません。一つの生命を生かすことさえできたならば、何も惜しいことはないのです。お金や服や家が問題ではないのです。人を愛するのに狂わなければなりません。
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皆さんが教会に来る時は自分の父母、妻子をみんな連れて来なさいというのです。兄、姉みんな連れてこなければなりません。皆さんがお母さん、お父さん、親類や遠い親戚まで伝道するために、どれだけ血の涙を流しましたか。一人の生命を引っ張ってくるために夜を明かし、精誠を込め、祈祷しながらどれだけ身もだえしたのか、これが問題となるのです。皆さんは逆境の環境にあっても中心にならなければなりません。皆さんが中心になっていかなければならないということを知らなければなりません。
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伝道をするには人々の心理を研究しなければなりません。表情や歩き方だけ見ても、その人が喜んでいるのか嫌がっているのかが分からなければなりません。その人の感情を公式的に鑑定できなければならないのです。
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伝道に出掛ける時、「お金がなくて出掛けられない」と言わないでください。イエス様がお金を持って出ていきましたか。神様が復帰摂理をお金でもってしましたか。生命でもってしたのです。血でもってしたのです。それでキリスト教の歴史は、血で蕩減する歴史なのです。血でもって、生命でもってしたのです。お金でしたのではありません。皆さんがそういう心でもって出掛ければ、天が役事をされると私は信じます。
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伝道に出掛ける時は、お金を持って出掛けてはなりません。心情をもって行かなければなりません。
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皆さんが伝道をしようと出掛ける時、ただそのまま出ていってはいけません。どのくらい精誠を尽くして出掛けるのかということが問題です。ある人を伝道するのに一週間や一カ月、または一年、二年、三年はかかるだろうと思えば、その期間精誠を尽くさなければなりません。雨が降っても雪が降っても、御飯を食べ、寝て起きて、行ったり来たり、または休んだり、ある行動をしたり、一切の心でもって人の前に完全にすべてを与えなさいというのです。完全に与えれば完全に返ってくるのです。これが原理です。
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神様を愛するのにどれだけの精誠を通して愛し、人間を愛することにおいてどれだけ精誠を通し愛したのかが問題なのです。これが霊界に行ってからの人格になるのです。栄光の基盤になるのです。
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伝道するために夜を明かしましたか。先生は、夜を何度も明かしました。あの世で尋ねられることでしょう。伝道するために幾度夜を明かしたのかを。皆さんは、すべての力を尽くし伝道しなければなりません。
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投網で魚を捕る時、錘が少しでも前に出れば一匹でも多く捕まえることができます。私たちはこのような錘のような立場で、サタン圏にいる人たちを少しでも天の側に引っ張ってきたい心で動かなければなりません。
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他の人を伝道できるくらいまで育てないといけません。このようになれば、皆さんは伝道した人を一人も失うことはないのです。
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精誠を尽くして、どれだけ天が協助するのかを見てみなさい。地で自分の親戚と知り合いを伝道しなければ、あの世へ行って彼らの讒訴を免れることができないのです。
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伝道をするのも、商売をするのと同じようにしなさい。効果的にしろというのです。昔は伝道に行くとか、どこに行くにも何の準備もなく行きましたが、今は準備して行きなさい。精誠を尽くして行きなさい。昔と変わらなければなりません。
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皆さんは「生きた人間」の哲学を探究しなければなりません。いつも私がどのようにすればあの人を先生に、または皆さんに導いて来ることができるのかを考えなさい。その人たちが、皆さんに引かれてくることができるようにしなさい。このようにするためのただ一つの方法があるのですが、先生はその方法を知っています。それは他の人に仕える精神です。人間には自分自身に利益になるものがあるときは、いつでもそちら側に行こうとする本性があります。
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人を探すためには、春の季節のような、夏の季節のような、秋の季節のような、冬の季節のような地方に行って、涙と血と汗を流そうと考えなければなりません。「私が春の季節の人、夏の季節の人、秋の季節の人、冬の季節の人、春夏秋冬の人を愛していく。冬の季節の人、あのソ連の人までも愛していこう」と言わなければなりません。そうしてこそ自分の相対を愛することができるのです。それが復帰の過程なのです。
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精誠を込めて与えたのに「彼が言うことを聞かない」と、寂しく思ったり、悲しく思ったりしてはいけません。「天理の原則がそうなのだ」と考える人は福を受けることでしょう。そのような人は、絶対に寂しくなったり、悲しくなったりはしません。時が近づいているので春風が吹くのです。しかし、精誠を込めて与えたのに、それを受けない人には秋風が吹くことでしょう。それは、自分の時が近づいていることを知らせているのです。
2.修練過程と七日断食
統一教会では、二日修練と七日修練、二十一日修練、四十日修練を合わせて、原則は六カ月以内に七十日修練を受けなければなりません。これはみ言であり、法条項です。そうしてこそ、統一教会がどのようなものかが分かります。
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百二十日修練を受ければ、統一教会の威信と体面を立てることのできる正会員になります。
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二日から百二十日修練までを制度化しておいたので、世界のどこへ行っても共通です。
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終わりの日には三大審判を経なければなりません。三大審判は、真理の審判と、人格の審判と、心情の審判です。ここでの教理は真理です。この三大審判を通過してこそ、「真の父母」と因縁を結ぶ場に参席できる権限をもつようになるのです。
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皆さんが霊界に行く時、一週間以上天のために断食ができなかった時には、あの世に行って入籍ができなくなります。なぜですか。神様は六千年復帰歴史路程で苦労されたので、それを思いながら断食をしなければならないというのです。それで統一教会では七日断食期間があります。それは皆さんを苦労させるものではなく、天の前に肉身を打ったという条件を立てさせるためのものです。
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肉身を打たなければなりません。私たち人間が「この怨讐の体、肉の塊よ! その中に血がうごめいているのだな」と言いながらナイフで刺さなければならないのを、有り難いことにイエス様が代わりに刺されたのです。それではイエス様が私たちに何を残してくださいましたか。イエス様の血と肉を残してくださいました。私たちはそのようなイエス様に代わることのできる人にならなければなりません。