Text Box: TP portrait  六 神は公的な祈を受けられる


  1.あいさつをするにも方法があるのではないか


 信仰者はより大きなことのために公的な祈をしなければなりません。

            *

 先生は興南の監獄で三年近い月を過ごしましたが、その中で何人かの食口たちのための祈を、御飯を食べる時からる時までしなかったことはありません。たとえ離れていった人であっても、彼のためにずっと祈ってあげました。それで、的に先生を探して物悲しくを流しながら報告をするのです。肉身(体)が弱くて仕方なく先生から離れるようになったとあいさつをしましたが、去るようになった悲な情景には同情せざるを得ません。そのようにして離れていっても、その人のために祈してあげないといけないのです。なぜでしょうか。その人が責任を全うできないで行ったために、承者が出てくるまで祈してあげないといけないのです。そのような精誠の土台さえっていれば、どんなに食口が落ちていったとしても、神が必ずみ意にかなう人を送ってくださいます。

            *

 私が拷問を受け血を吐いて倒れたとしても、「天よ、この血を見て私のためにを流さないでください。これは恥ずかしい血となるのであり、嘆きにぬれた怨恨のになるので、ここに天が同情することを願いはいたしません」と言うのです。ですから、監獄に入るようになっても祈はしないのです。心情世界にあっては、そのようにしなければならないのです。

            *

 この世でもあいさつをするのに、その方法があるではないか。祈りにおいても究してやりなさい。

            *

 神な世界に入って祈するようになれば、まず神のために祈ります。そしてイエスのために祈ることができれば、史的な心情を知ります。その次に、天地創造以後今までキリスト系の素晴らしいみ旨に代わってってきた多くの人たちに代わって祈ってあげなければなりません。落以後アダムエバから今まで多くの預言者たちがんできましたが、「彼らにつのった恨を解怨する祭物になるようしてください」と祈りました。これがすべて終わったのちに、愛する息子、娘のために祈り、その次に、自分のために祈るのです。天法がそのようになっているのです。

            *

 を流し、骨が溶けてしまうような深刻な境地に入り、一一で勝敗を決めようというのです。私がを浮かべる時神を浮かべ、神を浮かべる時私がを浮かべるそのような立場で、順にう心で神とやりとりできる境地に入らなければなりません。どんなことでも、そのようにしなければなりません。そうするために祈らなければなりません。根がないといけません。その根が祈です。

            *

 精誠をくすにおいて、「絶信じます」という位置へ入らなければなりません。「神を絶信じます」。み旨ならばみ旨にして「絶信じます」という位置に入らなければなりません。そのような位置にのみ、神が協助されるのです。祈していても、祈りが成されるか成されないかと疑ってはいけません。「父よ! 私だけりました。私でなければこのがなくなり、この世界がなくなるでしょうが、父よ、あなたが六千年間苦してこられたこの一つの境地に、この境界線に一人りました。あなたが成就させるみ旨の近くにいる者が、私しかいないではありませんか。にはこのような存在が重要ですが、私はまだ準備が十分ではありません。しかし、そのような者に命令され私がそのようにできる件、そのようにできる基盤を備えて、全体のこの民族に代わってやります。これが復帰摂理ではありませんか」と言えなければなりません。祈は、目的の完成のためにも必要なのです。

            *

 祈る時、一番最初にのために祈らなければなりません。その次は世界のために祈り、次には神の解放のために祈らなければなりません。神が平安な位置にいらっしゃると思いますか。自分がしなければならないことが何であるかも知らずに、世の中の運勢がどのように動いているかも知らないで「おお、主よ。私を天に送ってくださいませ」と言っています。

            *

 責任者として、本質的な原理的軌道をどのように行かなければならないかということを知らなければなりません。それで祈をしなければならないのです。祈です。神と私の係、神が私をどれだけ愛しておられるか……。また、食口のために精誠をくさなければなりません。私が食口と共にどれだけの係を結んだか、これが丸くなるように……。そのために祈しなければなりません。

            *

 自分の利益のために宗を信じる人たちは、福を受ければ神を捨てます。福を受けるのが目的だからです。少し豊かに生活するようになると落ちていくのです。皆さんは、神が願われることが何なのかを探してさしあげるという点で祈しなければなりません。そして世界に福を賜るようにと祈しなければなりません。

            *

 師匠を師匠としてつくるためには、皆さんが責任を全うしなければなりません。父の前に祈をするにも、「父よ、あなたの息子、娘がました。あなたがいたがっていた息子、娘がました」と堂と言うことができる環境をつくっておいて祈しなければならないのです。

            *

 誰が見ていようが見ていまいが、私がすべきことは私がしなければなりません。私たちが神と約束を守らなければならないのです。夜でもでも全体のために祈らなければ、それは生きた祈とならないのです。それで自分の願う祈りがわり、題目がわりながら展するのです。今、時がどのような時なのか知らなければなりません。そのような裏面の生活を、祈を通して身につけなければならないことを知らなければなりません。

            *

 先生も自然を愛し、一人でいる時間を趣味としています。物かな夜がとても好きです。しかしそんな話はしません。先生にそのようなものがないでしょうか。皆さんに見えないだけです。そんな生活の豊富な底基盤を磨くことができるのも、祈以外にはないということを知らなければなりません。

            *

 福は他のところにあるのではありません。自分の心情的姿勢によって福がるのです。皆さん、祈って精誠をくすのはなぜですか。精誠をくして「アメン」と言って出てきて、泣いている赤ん坊がいればお尻を足でけって突く、このようならばその家はどうやっても駄目なのです。美しい祈り、懇切に願う祈りをしたならば、懇切な心と美しい心で環境を理して、祈する基準の相的な立場で、その結を結ぶことができる姿勢を備えなければなりません。今日、教会の人たちは、美歌を歌い、礼拝行けば天に行くと言います。とんでもありません! 教会に行ってきて、けんかをし拳をふるい、ありとあらゆることをして天のに行けるというのですか。



  2.の父母のみ名を通し祈する


 祈する時、「の父母」のみ名で祈しますが、「の父母」とは何ですか。その言葉は先生とお母だけだと考えないでください。より高い次元で世界を抱き、民族感情や家感情を超えて万民を真実に、一筋に愛することができるお母さん、お父さんという境地の基準を考えなさいというのです。それで先生も「の父母」のみ名を通して祈するのです。

            *

 今は、「イエスのみ名で祈」する時ではありません。今はみ名の救援時代ではありません。体救援時代です。キリスト徒たちはイエスの名前で祈ります。しかし先生はそのように祈りません。イエスが必要であって、イエスの名前は必要ないのです。お父さんという言葉は千個、万個あります。しかし体は一つだけです。そうでしょう。ですから天のには、イエス体にって行かなければならないのであって、名前にって行くのですか。

            *

 統一教会ではイエスみ名で祈りません。統一教会に初めて入ってきた人たちは「え、なに、『の父母』が何だ。なぜ『の父母』のみ名で祈するのか」と思うのです。皆さん、「の父母」とは何か知っていますか。「の父母」というのは、エデンの園で落せず神光の中で千世、万世に誇ることができる先祖を言うのです。ところが立てられた人類の先祖が落したために、新しい先祖がいなければ、神または新しい先祖の名前で祈するのです。道理にかなっているのです。イエスお一人では通じないので、イエスと聖を通さなければなりません。イエス父の神で聖は母の神なので、落した人間たちは誰でも、父母の因を通さずしては天に行くことができません。

            *

 統一教会は、イエスのみ名で祈りません。父母を求めていくのです。父母の中でも「の父母」だというのです。すべて改め直さなければならないのです。改め直さなければならないものを知らないから、礎石を正さなければならないのです。そうしなければ、台風が吹いたら完全に駄目になってしまうのです。



 七 道は愛を探す運動である


  1.道は第二の私をつくること

 

 道とは何ですか。道をえてあげることです。神っていく道をえてあげるので、それはどれだけ偉大なことでしょうか。本性の人間を見て「お前はどこに行くのか」と問えば、「いや! 世界を通し天のっていかなければ」と言うのです。その道を開拓してあげるのでどれだけ素晴らしいかというのです。迫害を受け、ひたすらに何かを受け、何を受けても、いつも世界を通して天にっていくのです。

            *

 私が生命を捧げを屈服させれば、神の愛が私にます。これは公式的です。秤の分銅と同じです。片方が下がればもう一方は上がるようになっているのです。を多く取り除けば善が上がり、が多くなれば善が下がるのです。を取り除いただけ愛を受けるのです。ですから、誰よりも私を愛しなさいというのです。神をもっと愛しなさいと言うのは、神を愛するほど神の愛をたくさん受けるというのです。すなわち、神を愛したので神の愛を受けるということなのです。

            *

 皆さんが、春を迎えるために道するのはなぜですか。道して何をしようとするのですか。夏の日を迎えようというのです。もっと良い日があり、枝を伸ばし葉を出して花がを結ぼうというのです。それでは統一教会はどうですか。「ああ、私は三年の間道したのでもう家にってじっとしていてもいいでしょう」。そうすればどうなりますか。それはを結んだとしても、そのを証することができる生命の余力をもっていなければ、冬季の北風寒雪が押し寄せる時には干上がり、縮んでしまうのです。

            *

 道は第二の自分をつくるためのものです。

            *

 どんなに時代的な一日の生活であっても、道するその一日は永遠と係を結ぶのです。そんな秩序の基礎の上に、私たちの一片一片の行動が全体、または永遠と係を結び、それがなくならずにるようになるというのです。

            *

 道すればうれしい。反面、道しなければうれしさがこみ上げてきません。先生もこれをしなければ苦しいので、するのです。道をすれば罵倒されてもうれしいのです。

            *

 神が生きておられることを体すれば、「道するな」と言っても道したくなります。道すると、新しいことをつくってくれるからです。十人がいるとして、彼らと摯に話すれば十人が新しい人になります。そうしてから教会て祈ってみなさいというのです。そのようになれば彼らが展する時、必ず自分自身も展するようになっているのです。私自身が高まるのです。

            *

 界に行けば誇れるのは道しかありません。界はお金を多く持っていたとしても何の誇りにもなりません。また世の中で力をもっていたと誇ることもできません。生命をどれだけ生かすことができたか、これが誇りです。甲ならば甲、乙ならば乙、または氏族を超越し多くの民族を新しい生命と連させ、どれだけ生かしてあげたのか、それが財産です。財産はそれしかありません。

            *

 界にないものはなくしいものはありませんが、一番しいものがあるとすれば、それはなる人です。ですからなる人を育てるため骨を折ったその功臣は、天上世界で然、光の息子、娘になることができます。ですから誇れるのは道しかないのです。

            *

 皆さんは象者を前にして、夜を明かし痛哭して祈したことがありますか。自分のお母さん、お父さんが死んだ以上に悲しんで、または愛する人が死んだ以上に悲しんで痛哭してみたのかというのです。していないのならば、してみなければなりません。夜を明かしながら痛哭しなければなりません。一つの生命を生かすことさえできたならば、何も惜しいことはないのです。お金や服や家が問題ではないのです。人を愛するのに狂わなければなりません。

            *

 皆さんが教会る時は自分の父母、妻子をみんな連れてなさいというのです。兄、姉みんな連れてこなければなりません。皆さんがお母さん、お父さん、親類や遠い親戚まで道するために、どれだけ血のを流しましたか。一人の生命を引っ張ってくるために夜を明かし、精誠をめ、祈しながらどれだけ身もだえしたのか、これが問題となるのです。皆さんは逆境の環境にあっても中心にならなければなりません。皆さんが中心になっていかなければならないということを知らなければなりません。

            *

 道をするには人の心理を究しなければなりません。表情やき方だけ見ても、その人が喜んでいるのか嫌がっているのかが分からなければなりません。その人の感情を公式的に鑑定できなければならないのです。

            *

 道に出掛ける時、「お金がなくて出掛けられない」と言わないでください。イエスがお金を持って出ていきましたか。神が復帰摂理をお金でもってしましたか。生命でもってしたのです。血でもってしたのです。それでキリスト史は、血で蕩減する史なのです。血でもって、生命でもってしたのです。お金でしたのではありません。皆さんがそういう心でもって出掛ければ、天が役事をされると私は信じます。

            *

 道に出掛ける時は、お金を持って出掛けてはなりません。心情をもって行かなければなりません。

            *

 皆さんが道をしようと出掛ける時、ただそのまま出ていってはいけません。どのくらい精誠をくして出掛けるのかということが問題です。ある人を道するのに一週間や一カ月、または一年、二年、三年はかかるだろうと思えば、その期間精誠をくさなければなりません。雨が降っても雪が降っても、御飯を食べ、て起きて、行ったりたり、または休んだり、ある行動をしたり、一切の心でもって人の前に完全にすべてをえなさいというのです。完全にえれば完全に返ってくるのです。これが原理です。

            *

 神を愛するのにどれだけの精誠を通して愛し、人間を愛することにおいてどれだけ精誠を通し愛したのかが問題なのです。これが界に行ってからの人格になるのです。光の基盤になるのです。

            *

 道するために夜を明かしましたか。先生は、夜を何度も明かしました。あの世で尋ねられることでしょう。道するために幾度夜を明かしたのかを。皆さんは、すべての力をくし道しなければなりません。

            *

 投網で魚を捕る時、錘が少しでも前に出れば一匹でも多く捕まえることができます。私たちはこのような錘のような立場で、サタンにいる人たちを少しでも天の側に引っ張ってきたい心で動かなければなりません。

            *

 他の人を道できるくらいまで育てないといけません。このようになれば、皆さんは道した人を一人も失うことはないのです。

            *

 精誠をくして、どれだけ天が協助するのかを見てみなさい。地で自分の親戚と知り合いを道しなければ、あの世へ行って彼らの讒訴を免れることができないのです。

            *

 道をするのも、商をするのと同じようにしなさい。果的にしろというのです。昔は道に行くとか、どこに行くにも何の準備もなく行きましたが、今は準備して行きなさい。精誠をくして行きなさい。昔とわらなければなりません。

            *

 皆さんは「生きた人間」の哲を探究しなければなりません。いつも私がどのようにすればあの人を先生に、または皆さんに導いてることができるのかを考えなさい。その人たちが、皆さんに引かれてくることができるようにしなさい。このようにするためのただ一つの方法があるのですが、先生はその方法を知っています。それは他の人に仕える精神です。人間には自分自身に利益になるものがあるときは、いつでもそちら側に行こうとする本性があります。

            *

 人を探すためには、春の季節のような、夏の季節のような、秋の季節のような、冬の季節のような地方に行って、と血と汗を流そうと考えなければなりません。「私が春の季節の人、夏の季節の人、秋の季節の人、冬の季節の人、春夏秋冬の人を愛していく。冬の季節の人、あのソ連の人までも愛していこう」と言わなければなりません。そうしてこそ自分の相を愛することができるのです。それが復の過程なのです。

            *

 精誠をめてえたのに「彼が言うことを聞かない」と、寂しく思ったり、悲しく思ったりしてはいけません。「天理の原則がそうなのだ」と考える人は福を受けることでしょう。そのような人は、絶に寂しくなったり、悲しくなったりはしません。時が近づいているので春風が吹くのです。しかし、精誠をめてえたのに、それを受けない人には秋風が吹くことでしょう。それは、自分の時が近づいていることを知らせているのです。



  2.修練過程と七日


 統一教会では、二日修練と七日修練、二十一日修練、四十日修練を合わせて、原則は六カ月以に七十日修練を受けなければなりません。これはみ言であり、法項です。そうしてこそ、統一教会がどのようなものかが分かります。

            *

 百二十日修練を受ければ、統一教会の威信と体面を立てることのできる正員になります。

            *

 二日から百二十日修練までを制度化しておいたので、世界のどこへ行っても共通です。

            *

 終わりの日には三大審判をなければなりません。三大審判は、理の審判と、人格の審判と、心情の審判です。ここでの理は理です。この三大審判を通過してこそ、「の父母」と因を結ぶ場に席できる限をもつようになるのです。

            *

 皆さんが界に行く時、一週間以上天のために食ができなかった時には、あの世に行って入籍ができなくなります。なぜですか。神は六千年復帰歴史路程で苦されたので、それを思いながら食をしなければならないというのです。それで統一教会では七日食期間があります。それは皆さんを苦させるものではなく、天の前に肉身を打ったという件を立てさせるためのものです。

            *

 肉身を打たなければなりません。私たち人間が「この怨讐の体、肉の塊よ! その中に血がうごめいているのだな」と言いながらナイフで刺さなければならないのを、有り難いことにイエスが代わりに刺されたのです。それではイエスが私たちに何をしてくださいましたか。イエスの血と肉をしてくださいました。私たちはそのようなイエスに代わることのできる人にならなければなりません。



 






(next section)
(CSG Index)