1.蕩減の道を行かなければならない
統一教会員たちは、蕩減の道が好きではないのです。それは復帰が好きではないということです。「ああ、私は復帰するのは好きですが、蕩減は嫌いです」。こんな言葉はないのです。何が先ですか。復帰が先ですか。蕩減が先ですか。皆さんは復帰が好きで蕩減は嫌いですが、神様は反対です。皆さんはどちら側ですか。神側ですか。サタン側ですか。これをはっきりしなければなりません。皆さんは復帰が好きですが、神側では復帰を好むことができないのです。蕩減を通過したのちにこそ復帰されます。
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蕩減という言葉を知ると、みんなが一番好きになるのです。蕩減がなければ福もありません。統一教会の無限な黄金の塊とは何かというと、蕩減です。蕩減は、死を覚悟してすべてのものを犠牲にし、すべての困難を克服することができる驚くべき単語なのです。
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責任分担と蕩減は、一つは右側の立場であり、一つは左側の立場なのです。一つは右腕のようなもので、一つは左腕のようなものです。両腕のような責任分担と蕩減復帰を連結しなければ前進が不可能だということを知らなければなりません。そのようなことを考えてみましたか。蕩減は嫌いでしょう。神様も摂理もすべて嫌いですか。きょうからは新しく御飯を食べることを忘れても、寝ることを忘れても、自分が愛する人を思うことを忘れても、これを忘れてはならないことを知らなければなりません。そのように深刻なのです。
神様もこれを通過しなければならないし、レバレンド・ムーンもこれを通過しなければならないし、全世界もこれを通過しなければいけないのです。通じないのです。みんな、ただそのまま通過したいでしょう。博士や教授の地位をただで取れますか。そのコースを経てこそ博士になるのでしょう。ただそのまま取れますか。その過程を通らなければ、それは偽物です。
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蕩減条件は、自分自身が立てなければなりません。他の人が代わって立てることができるものではありません。堕落は、主管圏を失ったことを意味します。復帰のためには、他の人がある関心をもったとしても自分自身の確固とした主体性をもっていかなければなりません。他の人はどんな道を行くとしても、私が行く道は忙しいのです。横でどんな言葉を言ったとしても、ここに気を使う暇がないのです。夜寝る時間がありません。定着してゆったり座って御飯を食べる余裕もありません。そのような切迫した心情をもたなければ、復帰の道を行くことはできません。
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病気になった人が病気を治すためには、薬が苦くて飲みたくなくても飲まなければなりません。私たちが薬を調べてみると、いい薬は味が苦いのです。苦いのが本当の薬になるというのです。蕩減条件を立てるのは、苦い薬を飲むように難しいことです。しかし、蕩減条件を立てなければ復帰ができないのです。
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天国は、神様を絶対的に中心として侍り、それを通して愛の因縁を結んで暮らす所です。この根本を正しく立てるために神様は救援摂理をされるので、自分を前面に出せば絶対に駄目なのです。
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救援の道は、蕩減し、復帰する道です。蕩減とは、堕落した経路をたどって、さかのぼって行くことです。反対に行くことです。
2.奉仕と献身
真の愛の道は、どのように鍛練することができるのでしょうか。献身、奉仕、そして犠牲を通して鍛練することができます。これは再創造コースだということを意味するのです。再創造コースでは、皆さんは犠牲を払わなければなりませんが、そのような蕩減の道が奉仕の道となるのです。犠牲の道を通らなければなりません。私たちが蕩減の道を通ってこそ神側に立つことができます。これは明らかな事実です。ですから皆さんは蕩減の道を通過しなければなりません。
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どちら側が主体で、どちら側が対象でしょうか。誰がついていかなければならない立場にあり、誰が引っ張っていかなければならない立場にあるのでしょうか。神様はこれをはっきり知っていらっしゃるのです。神様は知っていらっしゃるのです。神側になるのです。この世の中を見下ろすと、いつも二人がけんかしているので、「どちらが私の側になるのか」と言えば、既によく知っていらっしゃる神様は「うん、ははは……」とおっしゃるのです。「私の側になる人は、いつも犠牲になり献身し奉仕する立場に立つ人だ。その方に立っている側が正義のために闘う側で、私はその群れを選択するだろう」とおっしゃるのです。いつも中心は、犠牲になり奉仕するのです。
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統一教会は「ため」に行く道を取りなさい、「ため」に生きなさい、「ため」に生まれたという天理を教えるのです。
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天国に行く公式は簡単です。天と地を愛したという条件さえあればいいのです。このために苦労しなければなりません。まだ、本当にこれを成した人は一人もいません。
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善なる道を行く人たちは、いつも犠牲になるようになっています。それで私たちは犠牲になれと教えるのです。「他人のためになりなさい」というのは利益を得ることではありません。犠牲です。自己投入です。投入するにも、極まで達することができるその基準まで投入しなさいというのです。生命までも捧げなさいというのです。
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統一教会の主流思想とは何ですか。「ため」に生きるということです。神様が「ため」に存在するのと同じように、私たちも「ため」に存在する日には民族が反対しても世界のために生きることができると知ったために、統一教会はこのようにしてきたのです。
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お客を多くもてなして外部の人に多くの世話をしてあげた人がいる所には、サタンは越えて来ることができません。皆さんはこのことを知らなければなりません。
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皆さんを犠牲にし、皆さんに苦労をさせてこの愛に貢献できる貢献者をつくるのは、世界を代表した愛の結実をもたらすことに貢献することによって、神様の愛を受けることができ、人類の愛を受けることのできる人をつくるためです。その運動を今しているということを知らなければなりません。神様の愛を受ける人をつくり、人類の愛を受ける人をつくるのが統一教会の目的です。
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世界はより大きな摂理のために、蕩減の目的に向かっていくのです。神様が喜ばれると考える時、自分の一族が餓死するのを見て胸を痛め、心に傷を負うよりもそれ以上にそれを知り、神様を受け入れなければならないでしょう。そのような一日においてどんな十字架の道が来てもその十字架上で祈祷し、誰よりも苦労の道を行こうと決意しなければなりません。投入し投入して、忘れなければならないのです。
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世界のために自分を犠牲にしようという人は、乞食のような姿であっても恥ずかしくないのです。統一教会の群れは安物のパンを食べても、麦パンを食べても、水を飲みながらも「ああ、けさの冷やしたお茶は、ごちそうよりもおいしいな!」と言って、舌鼓を打ちながら「感謝します」と言えば、天下が泣くのです。天下のためにそのような立場に立てば主体がいないので、天下が自分よりもっと低いものとなってくっつくのです。
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昔は牛を引いて「どうどう、こっちだこっち」と言って畑を耕す時、気分が悪いことが多いではないですか。牛のお尻をたたきながら「この牛め、お前どうしてこうなんだ。私が精誠の限りを尽くしてこの一時のために使おうと育てたのに、何で言うこと聞かないんだ」と言いながら、むちで容赦なくひっぱたきますか。
そうするよりも「おお、冬の間休んでいたお前にあいさつもしないで、春になったので引っ張り出し、よく食べさせもしないで仕事をさせてごめんよ」という思いで、牛よりももっと忍耐心をもっていたらどうでしょう。そうすれば天が見る時、かえってその人を近く感じられるのです。賢しく、ずばずばと臨時処置がよくできるよりも、純情をもって福を待たなければなりません。そのように、福なる心をもって生活してこそ福が訪れるようになっているというのです。
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歴史始まって以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教者は自分自らを否定する修行をしました。「犠牲になり、奉仕しなさい!」。しかし、なぜそうなのかを今まで知らなかったのです。それは本然の世界が「ため」に生きる本郷だからです。ですからその世界に行くためには、そこに行ける訓練と準備をしなければなりません。したがって高等宗教であるほど犠牲と奉仕を強要したのは、歴史時代に、神様が歴史過程を通じ摂理してこられたからです。それが歴史的な事実であることを、ここで公認することができます。神様がおられるということを公認することができるというのです。
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信仰生活をする上で皆さんの心の中に、爆発的で刺激的な力をもってみ旨の世界に向かって行こうという余力がありますか。そのような心があれば、神様が皆さんと共にいらっしゃるという証拠です。反面、そのような力がないならば、神様が皆さんと分離している証拠です。
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人類を愛する心がわきあがり、人類と共に自分の生命を分かちたい心が絶えないということは天に属していることを証すものですが、自体を中心とした愛と自体の価値を誇る生命力として終わるならば、自分から既に神様は離別しているという事実を知らなければなりません。そのような人の行く道の先は天ではありません。そのような人は自己を中心とした限界点に到達するでしょう。
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皆さんは神様とサタンの作戦法を知らないでいます。打たれて奪ってくる道はアベルが行く道です。サタンは先に打つので勝ったように見えますが、あとになると自分がもっている自分の善なるものまでプラスして返さなければならなくなるのです。悪の側だということは、相手を打って占領したとしても栄えるのではなく、悪なるものの中にある善なるものまで奪われるのです。言い換えれば、神様はもちをついて渡しておき、それを返してもらう時にはもちにきなこがついてくるのと同じような役事をされるのです。一時は悪が栄え、善を打つ立場に立ちますが、だからと言って天が滅びるのではありません。
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一瞬一瞬、必死の決意をする皆さんにならなければなりません。神様が今まで求めてこられたこの一時を無意味に失う人になってはいけません。これは千年の歴史とも替えられない価値をもったものなので、これを逃せば大変なことになります。この世をみな失って、探し出したものをすべて手放すとしても、これだけは絶対に手放さないと決意する皆さんにならなければなりません。私の生命がなくなってもこれだけは残して行くのだと、もう一度固く誓いながら、精誠の限りを尽くして前進しなければなりません。