Text Box: TP portrait 八 蕩減と奉仕と身的な生活


  1.蕩減の道を行かなければならない


 統一教会員たちは、蕩減の道が好きではないのです。それは復が好きではないということです。「ああ、私は復するのは好きですが、蕩減は嫌いです」。こんな言葉はないのです。何が先ですか。復が先ですか。蕩減が先ですか。皆さんは復が好きで蕩減は嫌いですが、神は反です。皆さんはどちら側ですか。神側ですか。サタン側ですか。これをはっきりしなければなりません。皆さんは復が好きですが、神側では復を好むことができないのです。蕩減を通過したのちにこそ復されます。

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 蕩減という言葉を知ると、みんなが一番好きになるのです。蕩減がなければ福もありません。統一教会の無限な金の塊とは何かというと、蕩減です。蕩減は、死を悟してすべてのものを牲にし、すべての困難を克服することができる驚くべき語なのです。

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 責任分担と蕩減は、一つは右側の立場であり、一つは左側の立場なのです。一つは右腕のようなもので、一つは左腕のようなものです。腕のような責任分担と蕩減復を連結しなければ前進が不可能だということを知らなければなりません。そのようなことを考えてみましたか。蕩減は嫌いでしょう。神理もすべて嫌いですか。きょうからは新しく御飯を食べることを忘れても、ることを忘れても、自分が愛する人を思うことを忘れても、これを忘れてはならないことを知らなければなりません。そのように深刻なのです。

 神もこれを通過しなければならないし、レバレンドンもこれを通過しなければならないし、全世界もこれを通過しなければいけないのです。通じないのです。みんな、ただそのまま通過したいでしょう。博士や授の地位をただで取れますか。そのスをてこそ博士になるのでしょう。ただそのまま取れますか。その過程を通らなければ、それは物です。

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 蕩減件は、自分自身が立てなければなりません。他の人が代わって立てることができるものではありません。落は、主管を失ったことを意味します。復のためには、他の人がある心をもったとしても自分自身の確固とした主体性をもっていかなければなりません。他の人はどんな道を行くとしても、私が行く道は忙しいのです。でどんな言葉を言ったとしても、ここにを使う暇がないのです。夜る時間がありません。定着してゆったり座って御飯を食べる余裕もありません。そのような切迫した心情をもたなければ、復の道を行くことはできません。

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 病になった人が病を治すためには、が苦くてみたくなくてもまなければなりません。私たちがを調べてみると、いいは味が苦いのです。苦いのが本になるというのです。蕩減件を立てるのは、苦いむように難しいことです。しかし、蕩減件を立てなければ復ができないのです。

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 天は、神を絶的に中心として侍り、それを通して愛の因を結んで暮らす所です。この根本を正しく立てるために神は救援理をされるので、自分を前面に出せば絶に駄目なのです。

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 救援の道は、蕩減し、復する道です。蕩減とは、落した路をたどって、さかのぼって行くことです。反に行くことです。



  2.奉仕と


 の愛の道は、どのように鍛練することができるのでしょうか。身、奉仕、そして牲を通して鍛練することができます。これは再創造コスだということを意味するのです。再創造コスでは、皆さんは牲をわなければなりませんが、そのような蕩減の道が奉仕の道となるのです。牲の道を通らなければなりません。私たちが蕩減の道を通ってこそ神側に立つことができます。これは明らかな事です。ですから皆さんは蕩減の道を通過しなければなりません。

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 どちら側が主体で、どちら側が象でしょうか。誰がついていかなければならない立場にあり、誰が引っ張っていかなければならない立場にあるのでしょうか。神はこれをはっきり知っていらっしゃるのです。神は知っていらっしゃるのです。神側になるのです。この世の中を見下ろすと、いつも二人がけんかしているので、「どちらが私の側になるのか」と言えば、によく知っていらっしゃる神は「うん、ははは……」とおっしゃるのです。「私の側になる人は、いつも牲になり身し奉仕する立場に立つ人だ。その方に立っている側が正義のためにう側で、私はその群れを選するだろう」とおっしゃるのです。いつも中心は、牲になり奉仕するのです。

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 統一教会は「ため」に行く道を取りなさい、「ため」に生きなさい、「ため」に生まれたという天理をえるのです。

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 天に行く公式は簡です。天と地を愛したという件さえあればいいのです。このために苦しなければなりません。まだ、本にこれを成した人は一人もいません。

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 善なる道を行く人たちは、いつも牲になるようになっています。それで私たちは牲になれとえるのです。「他人のためになりなさい」というのは利益を得ることではありません。牲です。自己投入です。投入するにも、極まで達することができるその基準まで投入しなさいというのです。生命までも捧げなさいというのです。

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 統一教会の主流思想とは何ですか。「ため」に生きるということです。神が「ため」に存在するのと同じように、私たちも「ため」に存在する日には民族が反しても世界のために生きることができると知ったために、統一教会はこのようにしてきたのです。

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 お客を多くもてなして外部の人に多くの世話をしてあげた人がいる所には、サタンは越えてることができません。皆さんはこのことを知らなければなりません。

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 皆さんを牲にし、皆さんに苦をさせてこの愛に貢できる貢者をつくるのは、世界を代表した愛の結をもたらすことに貢することによって、神の愛を受けることができ、人類の愛を受けることのできる人をつくるためです。その運動を今しているということを知らなければなりません。神の愛を受ける人をつくり、人類の愛を受ける人をつくるのが統一教会の目的です。

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 世界はより大きな理のために、蕩減の目的に向かっていくのです。神が喜ばれると考える時、自分の一族が餓死するのを見て胸を痛め、心に傷を負うよりもそれ以上にそれを知り、神を受け入れなければならないでしょう。そのような一日においてどんな十字架の道がてもその十字架上で祈し、誰よりも苦の道を行こうと決意しなければなりません。投入し投入して、忘れなければならないのです。

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 世界のために自分を牲にしようという人は、乞食のような姿であっても恥ずかしくないのです。統一教会群れは安物のパンを食べても、パンを食べても、水をみながらも「ああ、けさの冷やしたお茶は、ごちそうよりもおいしいな!」と言って、舌鼓を打ちながら「感謝します」と言えば、天下が泣くのです。天下のためにそのような立場に立てば主体がいないので、天下が自分よりもっと低いものとなってくっつくのです。

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 昔は牛を引いて「どうどう、こっちだこっち」と言って畑を耕す時、分がいことが多いではないですか。牛のお尻をたたきながら「この牛め、お前どうしてこうなんだ。私が精誠の限りをくしてこの一時のために使おうと育てたのに、何で言うこと聞かないんだ」と言いながら、むちで容赦なくひっぱたきますか。

 そうするよりも「おお、冬の間休んでいたお前にあいさつもしないで、春になったので引っ張り出し、よく食べさせもしないで仕事をさせてごめんよ」という思いで、牛よりももっと忍耐心をもっていたらどうでしょう。そうすれば天が見る時、かえってその人を近く感じられるのです。賢しく、ずばずばと臨時置がよくできるよりも、純情をもって福を待たなければなりません。そのように、福なる心をもって生活してこそ福が訪れるようになっているというのです。

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 史始まって以、神のみ旨にった多くの宗者は自分自らを否定する修行をしました。「牲になり、奉仕しなさい!」。しかし、なぜそうなのかを今まで知らなかったのです。それは本然の世界が「ため」に生きる本だからです。ですからその世界に行くためには、そこに行ける訓練と準備をしなければなりません。したがって高等宗であるほど牲と奉仕を要したのは、史時代に、神史過程を通じ理してこられたからです。それが史的な事であることを、ここで公認することができます。神がおられるということを公認することができるというのです。

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 信仰生活をする上で皆さんの心の中に、爆的で刺激的な力をもってみ旨の世界に向かって行こうという余力がありますか。そのような心があれば、神が皆さんと共にいらっしゃるという証です。反面、そのような力がないならば、神が皆さんと分離している証です。

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 人類を愛する心がわきあがり、人類と共に自分の生命を分かちたい心が絶えないということは天にしていることを証すものですが、自体を中心とした愛と自体の値を誇る生命力として終わるならば、自分からに神は離別しているという事を知らなければなりません。そのような人の行く道の先は天ではありません。そのような人は自己を中心とした限界点に到達するでしょう。

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 皆さんは神とサタンの作法を知らないでいます。打たれて奪ってくる道はアベルが行く道です。サタンは先に打つので勝ったように見えますが、あとになると自分がもっている自分の善なるものまでプラスして返さなければならなくなるのです。の側だということは、相手を打って占領したとしてもえるのではなく、なるものの中にある善なるものまで奪われるのです。言い換えれば、神はもちをついて渡しておき、それを返してもらう時にはもちにきなこがついてくるのと同じような役事をされるのです。一時はえ、善を打つ立場に立ちますが、だからと言って天が滅びるのではありません。

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 一瞬一瞬、必死の決意をする皆さんにならなければなりません。神が今まで求めてこられたこの一時を無意味に失う人になってはいけません。これは千年の史とも替えられない値をもったものなので、これを逃せば大なことになります。この世をみな失って、探し出したものをすべて手放すとしても、これだけは絶に手放さないと決意する皆さんにならなければなりません。私の生命がなくなってもこれだけはして行くのだと、もう一度固く誓いながら、精誠の限りをくして前進しなければなりません。



 





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