1.食口は天情で結ばれた因縁
統一教会員たちを、私たちは食口と言います。食口というのは兄弟の因縁をもたなければならないし、父母の心情を同じくして生まれなければなりません。そうしてこそ食口となれるのです。同じ父母をもち、同じ兄弟の因縁をもたなければなりません。父母の生活と習慣と伝統を、ただそのまま相続しなければなりません。そうして天が喜ぶことができる家庭形態をもたなければなりません。そうしてこそ食口となるのです。
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今日、私たちは手と手を取り合って集まりました。老若男女を問わず、見知らぬ他人同士が集まりました。私たちには血が通じています。私たちには天情が通じています。出発が聖なるものだったので、結果も聖なるものでなければならないのではありませんか。
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私たちがもって生まれた因縁は、立体的な因縁だということを知らなければなりません。今まで歴史上にあったある思想を基調として出てきたものではありません。神の心情と神の創造理想を基調として、本性の人格を標準にして始まった因縁なのです。これはすべての因縁の核心なので、絶対視しなければなりません。
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私たちは違う因縁によって集まった者たちです。ですから兄弟ではない者たちが集まりました。兄弟ではない者たちが集まって、肉身の兄弟たちを主管しなければなりません。それが違うのです。兄弟ではない者たちが自分の肉身の兄弟を主管しなければなりません。そうでなければ皆さんの家は皆さんと因縁がないのです。事実それは自分が直接できないのです。ですから私たちは、兄弟にもっとよくしてあげなければなりません。
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食口に対する時には、その人を傷つけないように注意して、また信仰生活の助けにならない言葉を言ってはいけません。
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食口がある困難があったり、ある環境にぶつかって苦難に遭う時、お互いに自分のことのような心情で、同情する心をもたなければいけません。
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先生は、食口を非難し、食口を謀害する(注:謀略で人を害する)のを見ると我慢できない人です。世界を愛したい心があれば、その愛をどこからしなければならないでしょうか。私たちの間からしなければいけないというのです。東西南北から別れて一つの因縁に従って集まった私たちが、お互いに愛し合おうということです。顔を見なければ生きられないのです。会わなければ駄目だと言うのです。このような因縁で連結されているので、統一教会はそれでも、この悪なる世の中とは違う何かをもっていると自負しているのです。これを忘れてしまっては私たちは何にもなりません。
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私たちは素晴らしい人たちです。世界がうらやましがり、天と地がうらやましがり、霊界のすべての聖人と賢哲たちがうらやましがる堂々とした生涯を歩んでいる、天が捨てることのできない、天が称賛するだけでなく訪ねてきて愛そうとすることのできる、そのような背景と内容をもって生きる素晴らしい男たちです。
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善なる先祖をもった後孫がここにいれば、先祖たちが積極的に協助するというのです。そのような立場に皆さんが立っているのです。
このような立場にいる皆さんがよく素晴らしく闘い、行く先々で百戦百勝の戦績を立てる時、霊界では永遠に喜ぶのです。このような皆さんになれば雑神(注:正体の分からない様々な鬼神)が出てきても驚いてひっくり返るでしょう。そのようになっています。ですからこのような先祖たちは皆さんに、王様に仕えるように侍るでしょう。皆さんはこのように感じなければなりません。
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六千年の結実体が落果のように熟さずに落ちてもいいでしょうか。ただ風が吹くのではと心配しながら「ああー、私が落ちそうだ。もうちょっとだけ吹けば落ちてしまうでしょうから、先生、揺すらないでじっとしていさせてください」と言っていいでしょうか。ここにはこのような輩もいるでしょう。反面、「先生が斧で強く襲いかかり、枝を思いのままに揺らしても引き裂かれるまでは絶対に落ちません」という群れもあるでしょう。皆さんはどの輩に属しますか。風が吹くかと心配する輩ですか。揺らしても落ちない輩ですか。
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皆さんがここに来た目的とは何ですか。それはある環境的な問題を解決するために来たのではなく、人間の根本問題を解明し、絶対者から認定を受け、確定を受け、その絶対者の前に立つことができるようになるために来たのです。
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統一教会では争いがあってはいけません。ここは、お互いに愛し合うために集まった所です。愛を受けようとするのではなく、愛を与えるために集まった所です。それでは、愛する方法はどこで学びますか。先生から学ぶのです。先生と会って、先生を愛したい気持ちが生じなければいけません。そしてお互いに会いたいし、与えたい愛を、兄弟たちに与えなければいけません。そうすれば神様は、その何倍も返してくださるというのです。親は、兄弟がお互いに愛し合うことを喜ぶからです。
2.食口の間にカイン・アベルの関係がある
統一教会員たちを中心に見る時、カイン、アベルとは誰かと言えば、横的には先に入ってきた人がアベルで、縦的には新しく入ってきた人がアベルです。縦横関係を見る時、横が縦を重要視するのであって縦が横を重要視するのではありません。このようになるのです。
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アベルになる秘訣とは何ですか。伝統を守ることです。死に遭遇しながらも反発しない人が、アベルになるのです。皆さんは、これを知らなければいけません。イエス様を小羊だと言ったでしょう。ですから、たとえ刺されたとしても反発してはいけないのです。
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アベルはカインを愛さなければいけません。愛で自然屈服させなければいけません。血と涙で愛する立場に立たなければいけません。誰よりももっと高い愛を与えなければいけないのです。そうでなければ屈服させることができず、復帰ができないのです。私たちは既成教会のために、大韓民国のために、北韓のためにそのようにしなければいけません。それで先生が今北韓のために祈祷しているのです。
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アベルは何をしなければいけないのでしょうか。三代復帰をしなくてはいけません。最初に、カインを復帰しなければいけません。次に、父母を解放してあげなければいけません。その次には、神を解放してさしあげなければなりません。このように三代の使命があるというのです。言い換えれば、サタン世界を解放してあげなければ、父母が出てくることができず、父母を解放してあげられなければ神が解放されません。この三代解放圏の責任をもつのがアベルの使命です。
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教会を中心に誰がアベルで、誰がカインかを分別することができなければいけません。二人いれば必ず一人はアベルで一人はカインだということ、三人いれば二人がアベルになることもあるし、カインになることもありますが、一番中心的なアベルとカインがいるということ、これを皆さんが確実に分別することができなければなりません。
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カインとアベルが一つになれず、分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方は悪いほうです。ですから誰でも私の神様であると同時に、あなたの神様であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神様であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて最大の努力をしなければいけません。もしそのような人になれなければ、いつか一度は天の審判にかかってしまうということをはっきりと知らなければいけません。
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カインとアベルは、どんなところで決定されるでしょうか。カインとアベルは、楽ないい所で決定されるのではありません。カインとアベルが必要なのは何のためですか。それは蕩減復帰するために必要なのです。蕩減復帰しようとするにはどのようにしなければいけませんか。祭物にならないといけないのです。
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神様はアベルをどんな場で決定するでしょうか。サタンの讒訴を受けない場で決定するのです。サタンの讒訴を受けない場はどんなところでしょう。神様と一体となった立場ですが、その場は喜びの場ではなく一番悲しい立場、一番大変な立場です。言い換えれば、死のうとする場、一番悲惨な場で神様と一体となることができるというのです。
3.誰がアベルで誰がカインなのか
統一教会員の中で「私が先に入ってきたのでアベルで、あとから入って来た人はカインなので、私に侍りなさい!」と言う、このような気違いたちがいます。アベルとはどのような人ですか。神様のみ意どおりにする人がアベルです。より公的な人がアベルです。カインとは何ですか。サタン側です。サタンは、自分を考えるところから出発したのです。アベルは、自分を考えず神様を考えるところから始めたのです。これを知らなければいけません。
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先に入ったといっても我欲を張る人はカインです。自分の思いが先に立つ人はカインです。先生はこのような原則で人に対します。どんなに古い食口でも、その心が自分のためにするようになる時は見向きもしません。今は仕方なくそのままにしていますが、時が来れば荷物をまとめさせて追い出すのです。先に来たからといってアベルではありません。私的な基準が先になることはカインです。自分より公的な問題、天をもっと考えることがアベルです。
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ここの統一教会員同士、兄弟を決める上で、先に来た人はアベルの立場であると同時にカインであり、あとから来た人はカインの立場であると同時にアベルです。
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原理的な立場ではアベルが中心です。この中心の中には神様が入っていらっしゃらなければいけません。ところで皆さんはアベルになりましたか。アベルになるには従順に従わなければいけません。神様に従順に従って一体にならなければいけません。神様と一体になるには神様が「しなさい」と言うとおりに、すべてしなければいけません。神様が「しなさい」と言うことをすべてできなければアベルになれません。九十九までしたとしても、一つができなければアベルになれないというのです。
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統一教会員の中でどんな人がカインですか。頭を突き出し、あごで人を使う人たちがカインです。それではアベルはどういう人ですか。責任を果たそうとする者がアベルです。本来は先に入ってきた人がカインなのに、先に入ってきた者がアベルの位置で威張り散らします。それは自縄自縛になるのです。そんな人がどんなにいろいろなことをしても、原理原則どおりにしなければ先生が使ってあげないのです。
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アベルはどんな存在で、カインはどんな存在ですか。原理で見て端的に言えば、カインは自分に心配事があれば、その心配を他の人に覆いかぶせようとする人です。アベルは自分に心配事があっても、他人の心配事まで引き受けようとする人です。その差です。
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どんな人がアベルで、どんな人がカインかと言えば、侵害される人がアベルで、危害を加える人がカインです。例えば、父母の前に二人の息子がいて、上の息子は年を取っていて下の息子は年が若いとしましよう。ところがその父母の相談相手とかすべての面において、父母に代わることができる息子は長男だけだとしても、下の息子が何も失敗せず間違いも起こしていないのに、この長男が下の息子に手を出せば、父母は上の息子の側に立つのではなく下の息子の側に立つのです。これが今日、社会で適用される善悪の批判基準だということを知らないでいるのです。危害を加えた者がカインになるのです。
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教会のために熱心に働いて精誠を捧げる人を見て、「あの人は他の人と違ってあれは何だ」と悪口を言えば、既に彼はカインになるのです。皆さんがそれを知らなければなりません。カイン・アベルはそのように分けられるのです。罪がない立場で批判される人、被害を受ける人は必ずアベルになるのです。批判する人、危害を加える人はカインになるのです。
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話をしたとしても、他人に利益を与える言葉を言う人はアベルになるのです。害を及ぼすような話をする人はカインになるのです。私が他人に利益を及ぼすというのは利益を与えることですが、自分の利益のために何かをするというのは害を与えるのと同じです。ですから他人の利益になるようにするのは公的な立場です。自分の利益のための立場は私的な立場です。このような意味で、公と私を中心としてアベルとカイン、善と悪が分かれるのです。これを皆さんは知らなければなりません。
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より公的な存在がアベルです。統一教会の教会員の中には、先に入ったのでアベルだと考える人がいますが、先に入っても公的な立場に立てなければカインです。間違いなくカインです。カインも自分が先に生まれましたが、アベルより公的な立場になれなかったのでアベルに従わなければならなかったのです。統一教会員の中でも先に入って来たと傲慢に「私が先に入って来たのでアベルだ」と言っている人がいるかもしれません。しかし、あとで入って来た人より公的な立場に立てなければカインです。アベル的な存在はより公的な立場に立った人です。
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先生が一生涯をすべて捧げて自分の利益より公的な利益のために犠牲になり、そのような材料ならば材料、量ならば量を多く投入したことを隠しているので、皆さんが自然に敬うようになるのです。それが原理です。それが天運なのです。
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アベルの完成は、個人的アベルの完成、家庭的アベルの完成、氏族的(宗族的)または民族、国家、世界的アベルの完成の基盤を引き継いでいかなければ、世界天国復帰というのは不可能なのです。それを知っている私たちは、夜昼やって来るその日その日にこの原則を適用させ、この原則の発展を連結させるために休みなく走ることができなければなりません。そのような人を「天の人」と言うことができるのではありませんか。分かりましたか。