Text Box: TP portrait 九 食口間の法度と


  1.食口は天情で結ばれた因


 統一教会員たちを、私たちは食口と言います。食口というのは兄弟の因をもたなければならないし、父母の心情を同じくして生まれなければなりません。そうしてこそ食口となれるのです。同じ父母をもち、同じ兄弟の因をもたなければなりません。父母の生活と習慣と統を、ただそのまま相しなければなりません。そうして天が喜ぶことができる家庭形態をもたなければなりません。そうしてこそ食口となるのです。

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 今日、私たちは手と手を取り合って集まりました。老若男女を問わず、見知らぬ他人同士が集まりました。私たちには血が通じています。私たちには天情が通じています。出が聖なるものだったので、結果も聖なるものでなければならないのではありませんか。

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 私たちがもって生まれた因は、立体的な因だということを知らなければなりません。今まで史上にあったある思想を基調として出てきたものではありません。神の心情と神の創造理想を基調として、本性の人格を標準にして始まった因なのです。これはすべての因の核心なので、絶視しなければなりません。

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 私たちは違う因によって集まった者たちです。ですから兄弟ではない者たちが集まりました。兄弟ではない者たちが集まって、肉身の兄弟たちを主管しなければなりません。それが違うのです。兄弟ではない者たちが自分の肉身の兄弟を主管しなければなりません。そうでなければ皆さんの家は皆さんと因がないのです。事それは自分が直接できないのです。ですから私たちは、兄弟にもっとよくしてあげなければなりません。

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 食口にる時には、その人を傷つけないように注意して、また信仰生活の助けにならない言葉を言ってはいけません。

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 食口がある困難があったり、ある環境にぶつかって苦難に遭う時、お互いに自分のことのような心情で、同情する心をもたなければいけません。

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 先生は、食口を非難し、食口を謀害する(注:謀略で人を害する)のを見ると我慢できない人です。世界を愛したい心があれば、その愛をどこからしなければならないでしょうか。私たちの間からしなければいけないというのです。東西南北から別れて一つの因って集まった私たちが、お互いに愛し合おうということです。顔を見なければ生きられないのです。わなければ駄目だと言うのです。このような因で連結されているので、統一教会はそれでも、このなる世の中とは違う何かをもっていると自負しているのです。これを忘れてしまっては私たちは何にもなりません。

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 私たちは素晴らしい人たちです。世界がうらやましがり、天と地がうらやましがり、界のすべての聖人と賢哲たちがうらやましがる堂とした生涯をんでいる、天が捨てることのできない、天が称賛するだけでなく訪ねてきて愛そうとすることのできる、そのような背景と容をもって生きる素晴らしい男たちです。

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 善なる先祖をもった後孫がここにいれば、先祖たちが積極的に協助するというのです。そのような立場に皆さんが立っているのです。

 このような立場にいる皆さんがよく素晴らしくい、行く先で百百勝の績を立てる時、界では永遠に喜ぶのです。このような皆さんになれば神(注:正体の分からないな鬼神)が出てきても驚いてひっくり返るでしょう。そのようになっています。ですからこのような先祖たちは皆さんに、王に仕えるように侍るでしょう。皆さんはこのように感じなければなりません。

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 六千年の結体が落果のように熟さずに落ちてもいいでしょうか。ただ風が吹くのではと心配しながら「ああ、私が落ちそうだ。もうちょっとだけ吹けば落ちてしまうでしょうから、先生、すらないでじっとしていさせてください」と言っていいでしょうか。ここにはこのような輩もいるでしょう。反面、「先生が斧でく襲いかかり、枝を思いのままにらしても引き裂かれるまでは絶に落ちません」という群れもあるでしょう。皆さんはどの輩にしますか。風が吹くかと心配する輩ですか。らしても落ちない輩ですか。

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 皆さんがここにた目的とは何ですか。それはある環境的な問題を解決するためにたのではなく、人間の根本問題を解明し、絶者から認定を受け、確定を受け、その絶者の前に立つことができるようになるためにたのです。

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 統一教会ではいがあってはいけません。ここは、お互いに愛し合うために集まった所です。愛を受けようとするのではなく、愛をえるために集まった所です。それでは、愛する方法はどこでびますか。先生からぶのです。先生とって、先生を愛したい持ちが生じなければいけません。そしてお互いにいたいし、えたい愛を、兄弟たちにえなければいけません。そうすれば神は、その何倍も返してくださるというのです。親は、兄弟がお互いに愛し合うことを喜ぶからです。



  2.食口の間にカインアベルの係がある


 統一教会たちを中心に見る時、カイン、アベルとは誰かと言えば、的には先に入ってきた人がアベルで、的には新しく入ってきた人がアベルです。縦横関係を見る時、を重要視するのであってを重要視するのではありません。このようになるのです。

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 アベルになる秘訣とは何ですか。統を守ることです。死に遭遇しながらも反しない人が、アベルになるのです。皆さんは、これを知らなければいけません。イエスを小羊だと言ったでしょう。ですから、たとえ刺されたとしても反してはいけないのです。

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 アベルはカインを愛さなければいけません。愛で自然屈服させなければいけません。血とで愛する立場に立たなければいけません。誰よりももっと高い愛をえなければいけないのです。そうでなければ屈服させることができず、復ができないのです。私たちは教会のために、大韓民のために、北韓のためにそのようにしなければいけません。それで先生が今北韓のために祈しているのです。

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 アベルは何をしなければいけないのでしょうか。三代復をしなくてはいけません。最初に、カインを復しなければいけません。次に、父母を解放してあげなければいけません。その次には、神を解放してさしあげなければなりません。このように三代の使命があるというのです。言い換えれば、サタン世界を解放してあげなければ、父母が出てくることができず、父母を解放してあげられなければ神が解放されません。この三代解放の責任をもつのがアベルの使命です。

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 教会を中心に誰がアベルで、誰がカインかを分別することができなければいけません。二人いれば必ず一人はアベルで一人はカインだということ、三人いれば二人がアベルになることもあるし、カインになることもありますが、一番中心的なアベルとカインがいるということ、これを皆さんが確に分別することができなければなりません。

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 カインとアベルが一つになれず、分かれてはいけません。一方は正しいほうであり、一方はいほうです。ですから誰でも私の神であると同時に、あなたの神であり、私を愛するだけでなく、あなたを愛する神であるという信仰の立場で、お互いにアベル的な存在を求めて侍り、カイン的な立場を避けて最大の努力をしなければいけません。もしそのような人になれなければ、いつか一度は天の審判にかかってしまうということをはっきりと知らなければいけません。

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 カインとアベルは、どんなところで決定されるでしょうか。カインとアベルは、ないい所で決定されるのではありません。カインとアベルが必要なのは何のためですか。それは蕩減復するために必要なのです。蕩減復しようとするにはどのようにしなければいけませんか。祭物にならないといけないのです。

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 神はアベルをどんな場で決定するでしょうか。サタンの讒訴を受けない場で決定するのです。サタンの讒訴を受けない場はどんなところでしょう。神と一体となった立場ですが、その場は喜びの場ではなく一番悲しい立場、一番大な立場です。言い換えれば、死のうとする場、一番悲な場で神と一体となることができるというのです。



  3.誰がアベルで誰がカインなのか


 統一教会員の中で「私が先に入ってきたのでアベルで、あとから入ってた人はカインなので、私に侍りなさい!」と言う、このような違いたちがいます。アベルとはどのような人ですか。神のみ意どおりにする人がアベルです。より公的な人がアベルです。カインとは何ですか。サタン側です。サタンは、自分を考えるところから出したのです。アベルは、自分を考えず神を考えるところから始めたのです。これを知らなければいけません。

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 先に入ったといっても我欲を張る人はカインです。自分の思いが先に立つ人はカインです。先生はこのような原則で人にします。どんなに古い食口でも、その心が自分のためにするようになる時は見向きもしません。今は仕方なくそのままにしていますが、時がれば荷物をまとめさせて追い出すのです。先にたからといってアベルではありません。私的な基準が先になることはカインです。自分より公的な問題、天をもっと考えることがアベルです。

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 ここの統一教会員同士、兄弟を決める上で、先にた人はアベルの立場であると同時にカインであり、あとからた人はカインの立場であると同時にアベルです。

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 原理的な立場ではアベルが中心です。この中心の中には神が入っていらっしゃらなければいけません。ところで皆さんはアベルになりましたか。アベルになるには順にわなければいけません。神順にって一体にならなければいけません。神と一体になるには神が「しなさい」と言うとおりに、すべてしなければいけません。神が「しなさい」と言うことをすべてできなければアベルになれません。九十九までしたとしても、一つができなければアベルになれないというのです。

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 統一教会員の中でどんな人がカインですか。頭を突き出し、あごで人を使う人たちがカインです。それではアベルはどういう人ですか。責任を果たそうとする者がアベルです。本は先に入ってきた人がカインなのに、先に入ってきた者がアベルの位置で威張り散らします。それは自自縛になるのです。そんな人がどんなにいろいろなことをしても、原理原則どおりにしなければ先生が使ってあげないのです。

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 アベルはどんな存在で、カインはどんな存在ですか。原理で見て端的に言えば、カインは自分に心配事があれば、その心配を他の人に覆いかぶせようとする人です。アベルは自分に心配事があっても、他人の心配事まで引き受けようとする人です。その差です。

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 どんな人がアベルで、どんな人がカインかと言えば、侵害される人がアベルで、危害を加える人がカインです。例えば、父母の前に二人の息子がいて、上の息子は年を取っていて下の息子は年が若いとしましよう。ところがその父母の相談相手とかすべての面において、父母に代わることができる息子は長男だけだとしても、下の息子が何も失敗せず間違いも起こしていないのに、この長男が下の息子に手を出せば、父母は上の息子の側に立つのではなく下の息子の側に立つのです。これが今日、社で適用される善の批判基準だということを知らないでいるのです。危害を加えた者がカインになるのです。

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 教会のために熱心にいて精誠を捧げる人を見て、「あの人は他の人と違ってあれは何だ」と口を言えば、に彼はカインになるのです。皆さんがそれを知らなければなりません。カインアベルはそのように分けられるのです。罪がない立場で批判される人、被害を受ける人は必ずアベルになるのです。批判する人、危害を加える人はカインになるのです。

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 話をしたとしても、他人に利益をえる言葉を言う人はアベルになるのです。害を及ぼすような話をする人はカインになるのです。私が他人に利益を及ぼすというのは利益をえることですが、自分の利益のために何かをするというのは害をえるのと同じです。ですから他人の利益になるようにするのは公的な立場です。自分の利益のための立場は私的な立場です。このような意味で、公と私を中心としてアベルとカイン、善とが分かれるのです。これを皆さんは知らなければなりません。

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 より公的な存在がアベルです。統一教会教会員の中には、先に入ったのでアベルだと考える人がいますが、先に入っても公的な立場に立てなければカインです。間違いなくカインです。カインも自分が先に生まれましたが、アベルより公的な立場になれなかったのでアベルにわなければならなかったのです。統一教会員の中でも先に入ってたと傲慢に「私が先に入ってたのでアベルだ」と言っている人がいるかもしれません。しかし、あとで入ってた人より公的な立場に立てなければカインです。アベル的な存在はより公的な立場に立った人です。

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 先生が一生涯をすべて捧げて自分の利益より公的な利益のために牲になり、そのような材料ならば材料、量ならば量を多く投入したことをしているので、皆さんが自然に敬うようになるのです。それが原理です。それが天運なのです。

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 アベルの完成は、個人的アベルの完成、家庭的アベルの完成、氏族的(宗族的)または民族、家、世界的アベルの完成の基盤を引きいでいかなければ、世界天というのは不可能なのです。それを知っている私たちは、夜やってるその日その日にこの原則を適用させ、この原則の展を連結させるために休みなく走ることができなければなりません。そのような人を「天の人」と言うことができるのではありませんか。分かりましたか。









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