1.人にむやみに対するな
人にむやみに対するなというのです。それで一九七〇年まで本部では、「通りすがりのおなかをすかせた人は誰でも食べていきなさい」と言っていたのです。おなかをすかせた人に御飯をあげるのは人間の道理です。もらった御飯でも分けて食べるのが道理です。米櫃にお米を入れておいて、「通りすがりのおなかをすかせた人が御飯をもらって食べる」と言ってけなせば、その家は長く続きません。
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かわいそうな人を見れば、助けてあげるために、すべての物をあげたくなる時もありました。与えたい心、助けてあげたい心をもって欲するようになる時は、神様も褒めたたえます。自分だけ食べて生きようとするのではなく、全体を良くするために、現在は苦しいけれども未来を良くするために欲心をもつのは良いことなのです。
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ただ飯をたくさん食べさせてはいけません。ただ飯を食べさせると同時に、公的な心を多く働かせなければならないのです。それが福を受ける道です。ただ飯をたくさん食べさせると同時に公的な心を多く働かせた人、そのような人は誰も嫌いません。
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人を無視してはいけないのです。「一寸の虫にも五分の魂」と言うでしょう。それは必ずそうだというのです。死ぬ時、恨みを抱く、その恨みを買う人は先が長くないのです。
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人に対することを面倒くさがってはいけません。義務的な過程では復活の役事が起こりません。おもしろさがなければなりません。時が過ぎるのも知らずに夜を明かし、天国がここしかないというところからのみ、天国に行くことができる価値が発見されるのです。そうではありませんか。木も完全に密着されてこそ接ぎ木できるのではないかというのです。
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先生は、私たちが食べられなくても訪ねてきた人に良くしてあげようとします。彼らが百ほどの基準の道を修めれば、その基準以下で対しては私たちがふさがってしまうのです。審判されるのです。そのような時は倍以上、三倍、五倍、十倍以上してあげるのです。そのようにしてあげたとしても滅ぶことはないのです。そうすれば天が感服するというのです。「こいつ、天より優れている!」と言うのです。
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じっと見てみると、良い家は犬が糞をしてもその家の庭の隅に行ってします。ところが主人が「こらっ、この犬め! この町の犬はなぜみんなうちの庭の中に来て糞をするのか」。このように不平を言う人は福を追い出すのです。「さあ来てやりなさい、さあおいで」そのようでなければならないのです。
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闘うなと言うのではありません。二人ともよくなる時は闘うのです。一人が滅ぶ時には闘ってはいけません。闘うとしても、自分の味方をつくり教育するために闘わなければならないのであって、怨讐になるために闘ってはいけないのです。
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与える時は、父母の心をもってあげなければなりません。自分の欲望と野心をもってあげてはいけないのです。父がそのようにされたので皆さんもそのようにしなければなりません。
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人を愛するのに惜しむな。何を投入したのか記憶するな。もっとあげたい……。ですから皆さんが良い食べ物があったとき、隠して一人で食べる人ならば、くたばって死んでしまう者だというのです。食べ物があればそれを食べないでとっておき、私が食べられなくても与えたい、一人では食べられないと食口を思う、そのようにできる人にならなければなりません。そのような父母の心をもった者とならなければならないのです。
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与えるには、どのようにして与えなければならないのでしょうか。食べ残した物を与えてはいけません。残り物をあげれば、食べ終わっても気分が悪く唾を吐くのです。おもちをあげるとしても、五つあれば五つの中であれこれ取ったり置いたりして選んであげる時は、かえってあげないよりも気分が悪いというのです。他人にあげるのに、五つあれば半分くらいそのまま取って相手にあげれば、有り難いと思うでしょうが、あれこれ取ってからあげれば世話になった人は、世話になったあとで批評するのです。ですから相手にあげるには、神様と共に父母の心で与えなさいというのです。
2.他人との人間関係
今日、人間たちは人に対してとても無関心です。横的関係において、横的な因縁を中心として互いに尊重することが少ないのです。老若男女を問わず、人に対してみな面倒に思っています。人が面倒に思うようになれば道義の道を行く人になることができません。
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神様と一致した人になって万物世界、またはこの世界に、神様の愛に代わって一人で、全体に対して情緒的な基準で横的関係を広げ結んでいくのが、信仰者たちがしなければならない生活だと見るのです。生活でこれが結ばれなければなりません。生活でこれを成さなければならないのです。そうするには、皆さんがそのような神様の心情に代わって対人関係を結ばなければならないのです。
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人と人が会うところは……。ビリーヤードをすれば玉同士が当たってあちこちに転がるでしょう。これがおもしろさです。おもしろさ。人と人の出会いもそのような作用をするのです。それがぶつかれば引っ張って一つになり押し出す、そんな気分になるのです。皆さんがサッカーボールをけっても、そのボールが上がったり落ちたり、変化が多いほうがいいでしょう? 同じなのです。
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私たちが五感を通し感じる、感覚の一切を統合して、この命、または愛とどのくらいの関係を結んで生きるかによって、人間としてどれくらいの価値をもっているかという問題が左右されるのです。ですから私たちは、私たち自身が生命力と加重された愛の心をもって対人関係を結んで社会生活をしてきたのか、という問題を考えざるを得ないのです。もしそのような立場に立っていることができなければ、停止するか、そうでなければ後退するということを知らなければなりません。
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神様が復帰摂理をしてこられるのに、私たちの大韓民国だけを必要とするのではありません。世界人類をすべて必要とされるのです。ですから人に対する深い関心をもって出てこられるのです。これは今まで神様の摂理の中で一番重要な目標でした。私たちがその目標を成すために集められたとすれば、神様と同じような立場で関心をもって対することを知らなければなりません。
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すべての人に対する時、欲心をもって対してはいけません。
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善なる人になるためには、悪を他人のことと考えるのではなく、自分の痛みとして感じ、夜を明かして彼らのために涙で祈ってあげ、彼らの罪を贖罪するために祭祀を捧げる心をもって暮らさなければなりません。そのような人は、悪なる人の本性の中心存在にならざるを得ないのです。
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良い人は少年も愛し、青年も愛し、壮年も愛し、お年寄りも愛することができなければなりません。また、自然に対して人が主体的な立場に立ったならば、その主体的な人は春も好きになり、夏も好きになり、秋も好きになり、冬も好きになるのです。
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愛することにおいて、最も愛し尊敬し敬わなければならない人はお年寄りです。若者には会うだけでもいいですが、活動するにも不自由で力も不足し第三者のお世話にならなければならない老人たちには、もっと愛さなければならないし、同情もしなければならないのです。ところが、そのような風潮をこの世の中では見いだせないのです。
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人を愛するといって、若者だけを愛してはいけないのです。愛するのは、お年寄りから幼い子まで、すべての人を愛さなければなりません。最近の青年たちを見れば、お年寄りを相手にしないようにしますが、それではいけないのです。お年寄りも愛さなければならないし、若者も愛さなければならないのです。
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人を愛さなければなりません。人を愛し、人を恋しがることにおいてどんな団体よりも強くなければなりません。これが人間のみ旨ではなく、神様のみ旨を中心とした集まりだとするならば、必ず全世界に愛の実として残ることでしょう。木々が山を覆うように生い茂る時には、どれが松でどれが柾なのか見分けるのが難しいです。しかし秋になり、冬になれば分かります。冬になって、枝と幹だけの木々の中に緑の木が見えたならば、それは希望を呼び起こすのです。それは新しい因縁が結ばれることを象徴するというのです。
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「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)これが一番目の戒めであり、二番目は「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(同二二・三九)というのです。一番目の戒めは神様を愛し、二番目の戒めは人類を愛することです。隣町ではありません。人類を愛せよというのです。人類とは、兄弟であり隣人なのです。
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驕慢は怨讐です。驕慢と固執はサタンの本職です。サタンの要素です。それで私たちは驕慢の代わりに謙遜、固執の代わりに和合をしなければなりません。和而有親です。この人にもよくしてあげ、あの人にもよくしてあげる人にならなければなりません。そのようになってこそすべてのことに通じるようになるのです。あの人この人、二人が一つにならなければ大きいものが出てこないのです。和合しなければそのようになるのです。サタンの本質にはねたみと嫉妬のようなものもありますが、驕慢と固執は私たちには許すことができないものです。