1.なぜ「ため」に生きなければならないのか
宇宙を造られた神様、法度を立てた神様はどのような方でしょうか。宇宙を通して誰よりも「ため」に生きる代表的な立場に立った方です。その方が神様だというのです。ですからその方に会うためには、「ため」に生きなければなりません。その方は知識の大王ですが、知識をもって来いとはおしゃいません。能力の大王ですが、能力をもって来いとはおっしゃいません。「ため」に生きてくると、皆が神様のそばに来ることができるというのです。
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再創造において他人に与えまた与えるのは、神様が創造時に自分を消耗させた立場と一致します。自分を投入するということは第二の自分をつくるためで、神様が創造する時、御自身を投入されたのと同じです。再創造歴史は蕩減復帰路程であり、蕩減は再創造歴史を通して成されるので、自分を投入することによってのみ再創造が成されるのです。ですから犠牲になることが不可避であることは理論的な結論です。
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神様は独裁者ではありません。神様も人間のために投入しました。神様が人間の前にいるのは、人間のためにいるのです。ですから千年、万年、神様に従っていこうとするのです。「ため」に生きる天理の宇宙存在世界の前に自分自身の存在位置を維持するためには、「ため」に存在しなければなりません。「ため」に生きることによってのみ、東洋、西洋に通じることができ、古今に通じることができます。
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自分を主として動くのは悪をもたらしますが、全体を主として動くのは発展をもたらします。これを知らなければなりません。全体のために行くものに対しては、すべてのものが門を開けるというのです。個人も門を開け、家庭も門を開け、氏族も門を開け、民族も門を開け、世界も門を開け、天の国も門を開け、すべてのものが門を開けて歓迎するのです。
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真の人生が行く道に、一つの公理として立てなければならないのは「ため」に生きるということです。これはどこでも通じる原則であり、永久不変です。過去、現在、未来がないので、「ため」に生きなさいというのです。ここに孔子様やイエス様やお釈迦様やマホメット、すべての聖子といわれる人たちの前に神様が現れて、「あなた方はどう思うか」と言うと、「そのとおりです」と言うでしょうか、「そうではありません」と言うでしょうか。それが宇宙の法則です。それが、人間が生きるにおいて、真の姿で生きるための一つの方法だということを知らなければなりません。
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歴史的な伝統として残る実績とは何でしょうか。犠牲精神による、「ため」に生きた実績のみが今日の世界に残ってきました。そうかどうか調べてみてください。そういう人たちが聖人として、歴史的な偉人として、または忠臣として残ってきました。そのような犠牲精神のもとでのみ、功績が残ったのです。ですから犠牲になることは功績を残すためのものだということを知らなければなりません。
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神様の愛とは、神様自身を愛し、人類を愛するものです。それだけでなく、来ては去っていった、過去、現在、未来の人類すべてを愛する愛です。ですから地獄に行った霊人たちまでも解放してあげる運動をする神様である、ということを知らなければなりません。人は真理の道を行かなければならず、生命の道を行かなければならず、愛の道を行かなければなりません。いくら素晴らしくても「ため」に生きる基盤がなければ、すべてのものはついてこないのです。このように生きる人は自然と主体になります。真の生命の人になるのです。
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レバレンド・ムーンの思想が今後二十一世紀の主体思想として登場できるのは、今までの「自分のために生きろ」という世界で、反対に「ために生きよう」という世界を発見したからです。論理的な観点において、今までと反対の世界が顕現できる可能性のある、不可避な結論です。ですから希望は統一教会しかありません。自分のために生きるという世界ではなく、「ため」に生きようとするこの群れのあとを、二十一世紀以降の数千、数万年の世界がついていくのです。私のために生きろという世界にはついていきません。嫌だと言うのです。
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どのように統一されるのでしょうか。先生はどのように統一するのでしょうか。こぶしで、力で、お金で、権力で、知識で? 違います。愛を中心とした、「ために生きる」立場で万事は解決されるのです。結論は簡単でしょう。真の愛を中心として、「ため」に生きていくときに、悪魔の世界が天の国として再創造されていくという結論です。それは理論的なのです。
2.「ため」に生きる者が中心である
私たち統一教会はよく食べ、楽しく生きながら行こうというのですか。食べる物もなく、苦労しながら行こうというのですか。よく食べて、楽しく生きようというのでしょうか。食べる物もなく、苦労しながら行こうというのでしょうか。誰のためにでしょうか。統一教会の文先生のためにですか。神様のためにです。神様の心をとりこにする方法はそれしかありません。
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私がその人を屈服させる方法は、闘って勝とうとするのではなく、その人のために父母の立場でまず考えてあげるのです。そうすることによって私が勝つというのです。三年だけ「ため」に生きれば、間違いなく私の言葉をよく聞くようになるのです。心はそうです。心は。自分の居間のドアまで開けて、「あなたは勝手に私の家に入ってきてもいい」と言うのです。そのような宇宙の原則的な作用が、この本心を動かしているということを知らなければなりません。
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神様の立場と父母の立場は、どんな立場でしょうか。先に考えてあげる立場です。神様は私よりも先に考えてくださるのです。父母は私より先に考えてくださるのです。それで良いというのです。それで主体なのです。二人で住むという時に、「ああ、あの食口がしなければならないことを、私がしてあげなければならない」と言わなければならないのです。神様がそのようなお方です。その人が中心です。「ため」に生きる人が中心になるのです。
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相手が小さなもので私を愛し、「ため」に生きてくれたなら、私はそれ以上のものを返してあげたいのです。これはだんだんと拡大していくのです。拡大、拡大しながら日時が過ぎて、一生の間そうしていくと、これが国を越えて、世界を越えて、永遠の世界、天国を越え、天上世界を越えていくのです。
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人はどうして高いものが好きなのでしょうか。多様なものと因縁を結ぶことができるので高いところが好きなのです。なぜ低いものが嫌いなのでしょうか。単純になるからです。多様な関係から遠くなるというのです。人において最も貴い人は高い理想、高い観、高いものと関係を結ぼうとする人です。そのような人が貴い人だという概念を、ここで見つけることができます。
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より「ため」に生きなければなりません。より「ため」に生きるとはどういうことでしょうか。より「ため」に生きる人が責任者になるのです。十人の中で誰が中心になるのかというと、その十人のために愛し、そのために生きる人です。その人には十人がみな訪ねていくというのです。「ため」に生きることはつまらないことだと思っていたのでしょう? しかし主人に、中心者になるということを知らなければなりません。天理がそうです。「ため」に生きることはつまらないことだと思ったのに、これが中心になるためのものであり、責任者になるためのものであり、すべてのことを相続するための道だというのです。ですから「ため」に生きようとすることを知らなければなりません。つまらないことではありません。損することではありません。商売の中でもこのような商売はありません。
四 父母が立てるべき愛の法度
1.父母は友達よりも近く
父母は子供のためにいます。もし父母のために父母がいるとすれば、父母という言葉は出てきません。これから統一教会の原理を中心として倫理観が形成されなければなりません。父母はどうあるべきですか。子供を生んだ父母は子供のためにいなければなりません。それが倫理の第一条です。それは説明する必要がありません。息子のためにいようとするのは不幸な立場ではなく、幸福な立場です。
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自分の子供に間違ったことを教える父母はいません。師匠は弟子に間違えるように教えることもあります。怨讐の立場にいる師匠ならば滅びるように教えることもあるのです。師匠には二つの種類があるのです。兄弟も二つの種類があるのです。しかし父母はただ一つです。いくら悪い父母だとしても子供には正しく教えてあげるのです。
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皆さん自身は誰のものですか。父母のものであり、息子のものです。そうなると、父母は誰のものですか。父母は子女のものであると同時に神様のものです。ですから皆さんはまず神様のものになって、子女のものになったのちに、自分のものになるのです。そのようになる時に初めて完成されるのです。ですから父母を敬うその法度が地上に残り、人間の生活に残っているのです。ここで、父母を敬い子供を愛しなさいという言葉が出てくるのです。父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けたり、子供を愛してみましたか。そうしてこそ「私」という人が、四方を区別するすべが分かるようになるし、上も下も区別するすべが分かるようになるのです。
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子女たちが「天下に私たちの父母のような人はいない」と言えなければなりません。世界の人たちが韓国に模範家庭を探して訪問するでしょう。その時見せるものがあり、言う言葉がなければなりません。
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父親は友達の中の友達にならなければなりません。自分の父親が現れたら、友達を捨てて父親に走っていかなければなりません。そして師匠の中の師匠にならなければなりません。ですからできれば「私の父は大統領よりも良い、一番だ、神様の次だ」。このように考えなければなりません。「どんな友達とも換えることのできない友達だ。どんな師匠を与えられても換えることのできない父親だ。私が愛する妻を捨てたとしても父親は捨てられない」。このようにならなければなりません。
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先生は外出して家に帰れば必ず寝ている子供の顔をなでてあげます。親の役目を果たすのは簡単なことではありません。そのようにすることによって、「うちのお父さんが私を愛してくれたように私も息子、娘を愛さなければならない」ということを自動的に植え付けるようになるのです。また「お父さんは世界一だ」ということを分からせなければなりません。
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人は誰でも立派な息子をもちたいと思います。それでは、立派な人として育てるためにはどのように教育したら良いのか、それが分からないのです。教育は一生涯しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。父母が精誠を尽くして育てた子供に家を引き継がせる時、その代身者として立てる時は、父母の心と一致するようにさせるのです。その父母の因縁について行くようにさせながら代身者として立てるのが常例です。
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父母は愛する子供のために骨の髄まで溶けるような苦労をしても、つらいと思わないのです。なぜでしょうか。愛しているからです。自分の血肉を分けて、その代金がいくらなのかを帳簿につけておくのでしょうか。つけないでしょう。かえって全部あげることができなくて残念に思うのです。
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子供に対する父母の愛はただそのまま生活的な因縁だけで通じる愛ではなくて、骨の髄からわき出てくる愛なのです。忘れるに忘れられず、切るに切れない愛の心を父母はもっているのです。それで生命の余力が残っている限り父母は子供を愛するのです。子供と生命の因縁が結ばれていることを感じる時、父母には子供を愛する心が自然的にわき出るのです。私の息子なので愛するという意識的な心が先に立って愛するのではなく、その心よりも因縁よりも先立つ自分の生命力が、子供と連結されているので愛さずにはいられないというのです。このような事実は私たちが家庭生活でよく感じていることです。
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家庭で起こる是々非々は男性が責任を取らなければなりません。男性は家庭の中心的権威を守らなければなりません。
2.伝統を相続させてくれる父母
先生が心配するのは、どうやって統一教会の名前を後世に残すかということではなく、どうやって先生の伝統を相続した人を後世に残すかということです。ですから今まで伝統を重要視しなさいと教育をしてきたのです。
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未来に対してどのように生きることが豊かに生きるということになるのでしょうか。私が豊かに生きるのが問題ではありません。後孫を教育しなければなりません。後孫に残してあげなければなりません。今まで統一教会を指導してきた私自身もそうですが、皆さんもかわいそうな道を歩んできました。避難民として歩みながら、立場をつかむことができませんでした。荒野路程を歩んできました。これから私たちは定着しなければならないし、定着しようとするなら闘って勝たなければなりません。カナン七族を滅ぼしたように、闘って勝たなければ定着はできません。この民族を中心とした闘いで勝たなければなりません。
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子女たちを教育する時に、お前たちはお父さんやお母さんのようになりなさいと教育することができなければなりません。皆さんが伝道期間中に食べられず、豊かでなかったとしても、ぼろをまとっていたとしても、恥ずかしいことではありません。後代が千万金を払っても買うことのできない教育資料になるのです。
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苦労は素晴らしいことです。それで私たちは千秋万代の後孫が誇ることのできる伝統を立てておかなければなりません。
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祝福家庭の娘、息子たちが、三代をどのように先生と共に生きることができるかということが大きな問題です。三代がみな功臣になると、天下にもないあの天上世界の功臣になるということを考えてみましたか。ですから自分の息子、娘を抱いて今から教育して、そのような思想を植え付けるために精誠を捧げなければなりません。
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伝統を残さなければならないし、その次には善良で立派な後孫を残さなければなりません。器量の狭い男の後孫ではなくて、強くて雄々しい立派な後孫を残さなければなりません。そうなるとその国は滅びる運勢圏にあるといっても滅びないのです。滅びる立場から新しい恩人が現れるのであり、追い出される立場から新しい勝利の旗を掲げるのだという事実を知らなければなりません。残さなければならないその伝統が大韓民国のみでなく、万民が喜ぶことのできる伝統にならなければならないし、善良な後孫も残さなければならないというのです。これができなくなる時、天の前にもっていくべき礼物(贈り物)がなくなるのです。
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父母は死んでも天道は残していかなければなりません。その家庭は何のためにあるのでしょうか。自分の子供のためにあるとしてもまず神様のためになり、国のためにならなければなりません。これは結局は自分の子女のための道です。そうしてこそ神様の運と世界の運と共にある国の運と共にすることができるからです。そうして祝福を受けて生まれた貴い子女たちが苦労をしても、その子女たちに拍子を合わせるのではなくて、神様と世界と国の運勢に拍子を合わせなければなりません。
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皆さんは一代のために生きる家庭にならずに、世界と永遠のために生きる家庭にならなければなりません。また愛の基盤を広げて万民の心情を集め、ろうそくに火をともし、香をたいて、祈りを捧げ、天と地、万民と共同の因縁を結んで、生きて死ぬという家庭にならなければなりません。そのような家庭になると、どのような艱難にぶつかっても、神様がその家庭を保護してくださるのです。天が本家の長男として残してくれるというのです。