1.夫婦は生活の同伴者
一度結婚したのちには自分勝手に暮らすことはできません。結婚して家庭をもった運命の道は、生命を懸けて行かなければならないのです。
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愛が成される瞬間から皆さんは二人ではなくて一人なのです。夫婦になると独自的な行動はできないし、連帯責任をもたなければなりません。
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個人が滅びるのはいいですが、家庭が滅びてはいけません。夫においては妻になる人が、妻においては夫になる人が世界で最も必要な人です。互いにアドバイスをしながら杖になり同役者にならなければなりません。
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妻は職場から帰ってくる夫に対して夕御飯を準備してあげることによって夫に対する義務を果たしたと思ってはいけません。夕飯の食卓に座って愛の蜜語を分かち合い、和気あいあいとした時間をもつことが、何よりも重要なことです。初めて会った時、優しくささやいたその声で、愛の姿そのままで、一日の労苦を慰労してあげると、夫の疲労は洗われるように消えるのであり、愛もまた深まるのです。
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女性は本来、男性の平均の声よりも小さな声で話さなければなりません。女性のその声は愛のささやきのようでなければなりません。
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先生が七十歳に近づいた体で、海に出ていく、とお母様に話すと、お母様は海に行くすべての準備と精誠を尽くしてくれます。海に出て一晩泊まる準備までしてくれて、海で成そうとするみ旨のためにお祈りまでしてくれます。これはどんなに素晴らしく美しい内助者の姿でしょうか。
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夫が帰ってきて夕御飯も食べず、話もしないで、いびきをかいて寝てしまうなら、そのいびきを聞きながらそれ以上の泣き声が自分の心からわき上がる女性にならなければなりません。先生はそのような家庭が見たいのです。もしそれが見られなければ、先生の苦労は無駄になってしまいます。神様の六千年の犠牲は無駄になってしまうのです。皆さんはそれを知らなければなりません。
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夫が巡回に行くと言うとき、「行ってらっしゃい。私は疲れているので寝ます」と言ってはいけません。夫が巡回して帰るまで、妻も精誠を捧げなければなりません。子供もその父母が帰ってくるまで待たなければなりません。
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妻は夫を出世させなければなりません。内助をしっかりしなければなりません。
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夫婦の間で夫が、することに干渉するなと言ったからと、妻が干渉しなくて良いのでしょうか。妻も夫と対等の立場に立つことができるのです。夫がいない時は妻でもその立場に立つことができなければなりません。
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夫ができたらさぞ良いだろうと思ったのに、良くない時もあるというのです。良いことのみを願ってはいけないのです。二十四時間ずっと太陽の光が差せば良いでしょうか。夜もなければなりません。高ければ低くなるのが原則ではないですか。
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妻は貧乏だと悲しまず、着るものも着られなかったと寂しく思ってはいけません。夫がそれを知らないのではありません。心の中では申し訳ないと思うところに深い愛があるし、ダイヤモンドよりも貴い宝が隠されているのです。
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夫が横になって寝ていると、なぜこのように寝てばかりいるのかと言って起こすことのできる妻になるようにアドバイスしたいものです。
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少しでも慰労すると女性はすぐに怒りが解けます。
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夫婦が互いに「私を愛してくれない。私を分かってくれない」という、つまらないけんかをしてはいけません。けんかをしても、み旨のためにしなければなりません。
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妻の誕生日には、近所のおばさんたちを集めて、妻をこの上なく愛しているという心で妻のために、その人たちの前で踊りを踊り、歌を歌わなければなりません。
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妻や同じ家に住んでいる人の足音を聞いただけでも、その人に良いことがあったのか、悪いことがあったのか分かるのです。そして妻が部屋に力なく入って来たら「あなたはどうして気分が良くないのか」と聞くのです。そうすると妻は、見てもいなかったのにもう夫は全部知っているので何も言えないのです。そのようなアンテナをもって暮らさなければなりません。関心をもって祈祷するようになると、私に関心をもつようになります。
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愛の深い夫はその家の中で悪口を言ったとしても、これは全部愛の刺激にすることができます。愛のない夫の一言は、その一言が肉をえぐるような破壊の動機になるのです。愛があったらむちを打っても良いけれど、愛のないところではすべてが嫌なのです。
2.夫婦は信仰の同役者
皆さんは農村に行って仕事をする時にも、一人で行って仕事をするようにはなっていません。夫妻が共に、その日の仕事を神様の前に報告して、行って仕事を始め、終えて帰ったときも神様の前に報告をしてから御飯を食べるようになっています。そのようなことをすべて規範化させる、神様を標準とした生活がどんなに厳格かということを知らなければなりません。 女性にも女性として守らなければならない家庭生活の規範があるし、男性にも男性として守らなければならない家庭生活の規範があるのです。このような膨大で天的な規範を体系化して、生活するのが、皆さんが行かなければならない路程であるにもかかわらず、その路程を行くことができなければとんでもないことです。
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歩くのも男性は右足をまず踏み出し、女性は左足を最初に踏み出さなければならないのです。どこかに行って座るにも男性は東側に座り女性は西側に座るのが原則です。御飯を準備する時、服を掛ける時など、すべてのことには方式があるのです。
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男性は女性のために見下ろし、女性は男性を下からだんだんと見上げなければなりません。女性は水の流れて来る方を見るのではなくて、流れて行く方を見なければなりません。水の流れてくる方を見上げる女性は尻の軽いタイプです。本来男性が座るところは女性が準備してあげなければなりません。たんすを使う時も男性が右側なら女性は左のものを使わなければならないし、男性が上ならば女性は下を使わなければなりません。例を挙げると、男性の上着の上に女性のスカートや下着を置いてはいけません。男性の服の上に女性の服を載せてはいけません。
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責任者の夫人は夫が玄関を出る時、絶対に夫の悪いところを指摘してはなりません。妻が指摘をすることによって夫一人の心を暗くした波動は世界を暗くするのです。悪いところを指摘する時は夜にしなさい。そうするとすべての問題が夜の間にすべて解決されるのです。男性は朝戦いに行くのです。そういう夫のために妻は朝早く起きてサービスをたっぷりしなければなりません。
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夫に殴られても感謝の祈祷をしなければなりません。「夫として妻を一度殴ることもできなくて良いでしょうか。ありがとうございます」と。
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夫婦間の一人が傾けば心情と精誠で補充しなければなりません。
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パウダーをたたき香水をかけても、女性はいつも美しくなければなりません。女性は情緒生活において借りをつくってはいけません。また夫の体や衣服などについて、いつも関心をもたなければなりません。夫が家に帰ってきた時、疲れているようだったら洗顔のための水も持ってきてあげて、歯を磨く準備もしてあげて、足も洗ってあげ、髪もとかしてあげなさい。女性の笑いは家の中の花です。円満な家庭を成そうとするなら女性は喜悲劇の一等女優にならなければなりません。夫が喜んでいるときも完全に溶かし、悲しいときも完全に溶かさなければなりません。
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服は少なくとも三日に一度は着替えなければなりません。髪もそのようにしょっちゅう洗わなければなりません。そしていつもほほえんでいなさい。ほほえみは心の花です。いつも花を咲かせて香りを漂わせなさい。ヘアー・スタイルや化粧で相手をテストすることを知らなければなりません。自分の顔や姿で相手の心を喜ばせてあげられなければ、趣味でそれに代えなければなりません。音楽とかすべての芸術を総動員してみなさい。雑誌などを見て女性の生理について説明してもよいし、文学書籍を読んでおいてそれを説明してもいいのです。夫が幼子のようにスカートのすそに包まれて暮らすようにしてあげなさい。
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夫婦はせっかく会ったのだから両腕をつかんで死んでも生きても共に行かなければなりません。どうせ行くのなら格好良く行きましょう。
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結婚したのちには皆さんは勝手に行動できません。結婚後、どこに行かなければならないのでしょうか。神様の愛を受け持たなければなりません。人間が男性、女性として生まれたのは愛のゆえにです。愛は夫婦になって一つになることによって結実を結ぶことができます。皆さんは神様の愛が二性性相によって分立された実体であり、分立された実体が合成一体化されるために神様の愛を求めていかなければなりません。
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祝福家庭が子供を抱いて愛し方を知っているなら、その娘、息子が何ゆえに生まれたのかということを心に刻まなければなりません。神様のゆえに生まれたということを知らなければなりません。神様という因縁を通して生まれました。夫が貴く妻が貴くて秘密に何か話すとしても、その相手が自分同士で決めて出会った相手ではありません。公的な天道を前において出会った人です。神様が介在して出会った人です。そのような自分たちが悲惨になれば悲惨になるほど神様が悲惨になるということを、私たちは知らなければなりません。
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家庭的な基盤を築くために、夫に妻が合わせてあげれば福を受けるし、妻に夫が心を合わせてあげれば福を受けるのであり、子女たちが一つになれば福を受けるのです。今は家庭救援時代なのです。
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女性は天道に従って順応して、女性として行かなければならない道を行かなければなりません。夫が一緒に死のうといったら死ねなければなりません。死んでもあの世に行って一緒に生きれば良いのです。夫の命令を絶対視し、夫の命令に従順に従ったのちには解放される道があるというのです。人倫の世界の道徳観において悪の堕落圏内にいるとしても、三綱五倫を中心として順応する人たち、絶対従順であるという基準を立てた人たちには、もう一度解放される道が依然として残されているのです。