Text Box: TP portrait  六 子女を信仰的に育てる


  1.抱いて天法をえなければ


 皆さんは、皆さんの息子、娘に何を語るつもりですか。皆さんは公的な人生、それも模範的な公的な人生を生きることによって皆さんの息子、娘に見せてあげ、その統を受けぐことができるように育しなければなりません。人は本、自分の父母に育されるようになっています。校に行ってのみ育を受けるのではありません。特に統を受け育は、校ではぶことができません。

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 子供はすべての値を父母を通して探します。家庭で育っている子女は誰に似たのでしょうか。父母に似ました。その子女たちは誰についていくのでしょうか。父母についていくのです。このようになっているのです。

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 間違いがある時に子女を生むと、その間違いは遺します。

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 家法を準備しなければなりません。子供たちの育基準など、家庭の規範をつくらなければなりません。しっかり育てられずに子供の追及を受けても何も言えません。

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 子女を育するためには、父母がまず実践しなければなりません。父母が見本になってみ旨の前に忠誠をくさなければなりません。そうして父母が何を言っても、子女たちが一言半句も口答えせずに敬意を表すことのできる立場に立たなければなりません。そうでなければ子女たちがついていかないというのです。

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 子女たちが、自分が知っているみ旨と原理を中心として見る時、教会生活において父母が本部から指示している原則を等閑視してその指示にう生活をしていないのに、子女たちだけに原理原則どおりの生活をしろと言えば、鼻で笑うというのです。

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 父母はどんなことをしても息子、娘が統一教会の正道を行くようにしなければなりません。それから自分自身も正道を行かなければなりません。自分がまず行ってから子供にえなければならないのです。子供を育するために、自分がまずそのようにしなければなりません。その次に子供を育しなければならないのであって、自分はせずに育しようとするのは天道に外れるのです。先生が皆さんに話すすべてのことは、先生がまず実践して勝利の基盤を築いたあとでえているのです。信じられないなら祈してみてください。うそなのか、事なのか、祈してみなさいというのです。

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 祈をする時にも、私がこのようにするので私の子供もこうするようにしてほしいと祈しなければなりません。自分がまず標準になったのちにこそ子供をそのような位置に立てることができます。自分がまずそのような位置に立つと、神はその子供も同じ方向に導いていくのです。ですから私たちが、私たちを中心としてその方向をもとがえすことができなければ、界に行って責任追及を受けるようになるのです。

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 子女たちを育する時、お前たちもお母さん、お父さんのようにならなければならないと育できなければなりません。

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 子供は父母の心情をぶのです。

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 自分の子供をえる時は「立派な人になれ」と言うだけでなく、「立派な人になるためには、このような道をて何かになれ!」と言わなければなりません。父親は父親としての責任を果たし、兄は兄としての責任を果たさなければなりません。姉は姉としての責任を果たさなければなりません。別の言葉で言えばの男性、の女性の道を行く因を選んでいく方法を知って、法度に外れない皆さんになってこそ順理的な路程をて、一つのの民になることのできる道が生じるのではありませんか。

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 「お父さん」という言葉は、恐い言葉です。「」でなければ子供に食べさせてあげることができません。子供に血の功績と善なるものを食べさせなければなりません。間違ったものを食べようとする時はを流しながら指導してあげなければならないし、福を祈ってあげなければならないのが父母です。ゆえに父母は子供の世話にならないのです。

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 これから皆さんは父母として子供を抱いて天法についていかなければなりません。皆さんの生活がどんなにつらく、どんなに困難にもまれて生きているとしても、子供にはを見せてはいけません。絶にいけません。

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 子供を育するとき、どのようにしたらみ旨のとおりに使命をくす人として育できるのかを考え、乳み子にお乳をあげるときもこのように考えながらあげなければなりません。

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 皆さんが「あの家門は良い家門だ」と言うことのできる基準になっているとしても、その家の子供たちは何にでも注意しなければなりません。立派な家門に育った息子たちは何にでも注意しなければならないというのです。一踏み出すにも注意しなければならず、一言話すにも注意しなければならず、行動をするにも注意しなければなりません。法が複なのです。威のある家柄には子供を育することのできる資料がたくさんあります。目上の人にする時、兄弟にする時、父母にする時、どのようにしろと、育っていく子供たちを集めてえるのです。



  2.信仰育がもっと重要


 子女たちの信仰育が育よりもっと重要です。お父の考えはみ旨を中心とした考えであり、皆さんの考えは個人的な考えです。信じて行うものには創意力が生じます。

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 祝福家庭の子女は心情育を通して人格者として育て、規範育を通して誇り高い選民として育て、天才育を通して天がえた才能を一〇〇セント揮させて、み旨の展に寄しなければなりません。

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するときになぜ疲れを感じるのでしょうか。自分のために勉するので疲れを感じるのです。しかし三千万が死ぬか生きるかの問題がここ一ペジにかかっており、一つの文句にかかっていると思ってみてください。一つの語を付け加えることによって三千万が生き、一つの語を減らすことによって三千万が滅びるという心で、もっと精誠をくしてその一つの語を付け加えるという、深刻な心で勉してみなさい。頭がいはずがありません。皆さん、深刻な立場にいたことを忘れることができますか。生命を懸けてしなさい。皆さんはどきどきする心の鼓動を感じる時があるでしょう。深刻な時はそうです。そのような深刻な立場で皆さんが決心したのを忘れることができますか。頭がいというのもみな程度の問題だというのです。

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 先生も苦を通して業をしました。虎は子供の野性を育て、山中の王として育てるために、過酷な試練と酷烈な訓練をさせるということを知らなければなりません。金の塊も火にてるほどくなるという原理も、子女を育する時には一度は考えてみなければなりません。

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 父母が生活に困って心ゆくまで物質的な恵沢をもたらすことができなかったとしても、骨の中に染みんだ愛の心をもって子供のために生きる時、彼らは父母に借りをつくるというのです。それで孝子は貧乏な人の家庭から多く出るというのです。父母がそのような統をしたので、その子供が借りをつくるまいと努力する時、父母も生きがいを感じます。



 七 兄弟間の友愛


 父母に息子と娘の二人しかいなかったらどうでしょうか。息子を見るとき、彼にはお姉さんも必要であり、またお兄さんも必要でしょう。また娘には、お兄さんも必要であり、お姉さんも必要です。また彼らには妹と弟が必要です。お兄さんがいなければならないし、お姉さんがいなければならないし、弟、妹がいなければなりません。これらがそろわなければ不幸なのです。妹、弟、お姉さん、お兄さん、全部そろって完全に一つになる家庭は、神が保護されます。これが氏族と民族と家の起源になるからです。

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 お兄さんとお姉さんは東西を表し、弟と妹は南北を表すので、それが完成されれば一体になるのです。これが愛の法度です。このような愛の法度がしっかりと立つ時に平和の起源は成されるのです。

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 父母の心は自分のための心よりも、兄弟同士がもっと「ため」に生きることを願います。父母の面倒を見られなくても、「お母さん、ちょっと待って。弟をかわいがってくるから」と言うと、「この子はこれから使える人になるなあ」と言うのです。そうでしょう。

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 兄弟を父母以上に愛するという人は、天で永遠に生きることのできる人です。兄弟を父母のように愛することのできない人はここから外れるのです。その道理の根本を悟ってみると簡です。それを知らないから今までできなかったのです。私たち食口同士が一つになったのか、なっていないのかということが問題です。父母の前に親孝行できない立場に立ったなら、父母のために自分が精誠を捧げたものを、自分の父母にあげる代わりに食口にあげなさい。そうすると父母に親孝行した以上のものとして天が受け入れてくれます。そのような人は必ず福を受けます。

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 天に行く道は兄弟を神のように愛することによって開かれます。皆さんは先生についていこうとするのですが、その心で兄弟と共に行こうと努力してみてください。このように見る時、天に最も高く、早く、よく導いてくれるのは神でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すことができます。父母と夫婦の愛を凌駕する愛をもって努力する者は、最高の愛の主体者として相手を選するのです。

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 弟一人が間違った時には、全兄弟が支えてあげる家庭、またお母さん、お父さんが愛し合う、その家庭はどんなに美しいでしょうか。お母さん、お父さんは子女にし、「後代の私たちの神よ」と言うのです。それはなぜでしょうか。神の愛に通じる時も同じです。お父さんがお母さんを愛し、お母さんがお父さんのために生きれば、その家庭には神が共におられ、その息子と娘は将来の代身者になるということを知らなければなりません。

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 兄弟とは何でしょうか。同じ愛の同者です。父母の愛の同役者なのです。ですから互いにえるでしょうか。えないのです。ですから右手をげる時は父親の手、左手をげる時は母親の手、右足をあげる時は父親の足……。善進に、この足は誰の足かと聞くと、右の足はお父さんの足で、左はお母さんの足だと言うのです。本にそうだというのです。それはどうしてでしょうか。もう愛を中心として、そうなっているというのです。

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 兄の立場で妹を愛し、妹の立場で兄を愛しますが、ただ愛することはできません。必ず父母を介在させて、幼い時父母ので育ったことを重要視しながら愛さなければなりません。父母と子女が一つになった基盤で連結された兄弟でなければなりません。そうしてこそ成長しながら共に上がっていくのです。小校、中校をずっとそのように上がっていくのです。

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 この世をいくらき回ってみても家庭にある兄弟の愛、血を分けて生まれた兄弟愛のようなものはないのです。社に出て自分の兄弟以上に近い人がいますか。近くなっても分けられるのです。

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 兄弟が多ければ御飯を食べる時も一膳の御飯を二人で分けて食べなければならないというのです。御飯が一膳しかないとけんかをするのではないのです。兄弟が多くて生活が大でも「私が御飯を食べなくても分けてあげなければ。弟にあげなければ」という愛の心をもつならば、いくらいても良いというのです。

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 兄弟を通して民が形成され、人類が形成されるのです。兄弟は前後を表示するものですが、それが肉になるのです。これが平べったかったのに肉がつくというのです。そこで円形ができるのです。円形をつくるのが兄弟であり、兄弟が張されて民になるのです。

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 なぜ兄弟が必要でしょうか。縦横を中心として連結されたものが兄弟です。アダムとエバを東西と言うなら、神とアダム、エバは的です。これは平面にしかなりません。ですから的な基準が必要であり前後が必要です。家庭愛を超越できるものは兄弟愛しかありません。万民同胞愛という言葉と同じです。それがなければ球形が成されないのです。

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 兄弟愛というものは世界愛と通じるのです。兄弟の多い家庭は世界の人類を抱き、理想的な天、地上天と天上天をつくるモデルのようなものです。ですから兄弟はここから張されるのです。









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