Text Box: TP portrait 十 純潔にする


  1.思春期の戒律をよく守れ


 皆さん、思春期になると異性に目めるようになり、全体の思いがそこに集中するでしょう。すべての細胞の作用がそこに集合するのです。

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 皆さん、思春期になった少年たちを見てください。女性を見ると、目をぱちぱちして、カラフルな服を着、お尻を包んでき回るというのです。お尻が大きいと大なことになるのです。傷がつくかもしれないと小さくしてき回るというのです。皆さん、人において、知とすべての肉的な作用を一〇〇セント活用できる時が思春期です。細胞全部が作用するのですが、一〇〇セントするのです。その時のみ一〇〇セント活動するというのです。女性がかわいらしいもの、カラフルなものをなぜ着ようとするのでしょうか。それはみな信機と同じだからです。

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 このごろの世の中にはなことが起こりますが、この天地では統一教会の者たちは絶対巻まれてはいけません。思春期というものが「思考」の「思」を使った思春期ではなくて、「死亡」の「死」の死春期です。皆さん、これ(思春期)を選びますか、これ(死春期)を選びますか。

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イエスには思春期があったでしょうか、なかったでしょうか。イエスにも思春期があったのです。イエスも思春期があったのですが、何の思春期? この(「思考」の「思」)思春期をまれたのでしょうか。この(「死亡」の「死」)の死春期をまれたのでしょうか。どんな思春期をんだのでしょうか。誰にでも口笛を「ぴっ」と吹いて合する、そのような思春期ではありません。「思考」の「思」の思春期をんでいくというのです。

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 まず皆さんは思春期をしっかり過ごさなければなりません。生きようとするのはこれ(思春期)であり、死のうとするのはこれ(死春期)です。死のうとしてこれを外れて一回りひっくり返して、一八度回すと死春期がわって思春期になります。それでイエスは死んだ死春期を通して希望の春の日、新しく生きる春の日である新新婦の思春期に向かって探してこられたのです。それがキリストの新新婦の史です。

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 人間の落とはどういうことでしょうか。神を中心として春の日を迎えることができなかったことです。春の日がたら孝子になろうという者たちが、自分だけ春の日を迎えるのでしょうか。父母に、「お母さん、お父さん! きょうは春です。私たち、一に行って、きょうをしみましょう」と言ってこそ孝子です。「お母さん、お父さん! きょうは春ですが、春には昼寝をするのが適です」と言って、ぐっすり昼寝をするようにしておいて自分たちだけで行って、歌を歌い、踊りを踊る者たちが孝子でしょうか。親不孝者と言われるだけでなく、り殺されなければならない者たちです。そうでしょう。

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 落とは何でしょうか。神を中心として神の側にいると、死春期として始まったのです。「死亡」というときの「死」の字を使う死春期です。死春期の史が始まったというのです。ですから死のうとするものには春がるのです。新しい時代がるのです。このようなことを今までしてきたのが、キリスト史です。

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 今日のティンエイジャ(十代)が重要だと言われていますが、それは何でしょうか。これはプラスでもマイナスでも、どこでも……。目がひっくり返ってき回ろうとするというのです。それで社に破綻をもたらし自分自体に破綻をもたらすのです。また思春期は化の時なので誰かが一言言っただけでも、「なんだ!」と言う。全部そうだというのです。すっかりわる時なのでき回ろうとするのです。それで秩序にって、況を見つめながら行かなければならないというのです。皆さんは今これを整理しなければなりません。びくともしないものをみな整理しなければなりません。さあ、善の中でとは何でしょうか。破するためのものです。何の保護作用も成立できないということを知らなければなりません。

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 思春期の時は、男性や女性が危な時です。ですから思春期に間違えると一生を駄目にすることもあるのです。しっかり選すると一生を繁に導いて生きることができるのです。そのような問題が起こるのです。

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 今日の少年たちが父母に逆らい家庭を破綻させるのは、法度の秩序を破綻させることだからだというのです。それによって家庭が破され、社が破され、家が破され、人間が破されるのに、これがでないはずがありません。思春期の時は力を出して、映に出てくるスリルのある場面を実践してみたがったりするのです。それのどこがいのかというのです。しかし、そのようなふしだらなことをして環境を破綻させてしまうようなことが起こるので、制裁をしなければならないというのです。皆さんの知性が明るくなって、社の体と環境的なすべてのことをコントロルできるその時には良いとしても、今は駄目なのです。

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 皆さんは今最も美しくこうとしているつぼみが良いですか、ぱっといた花が良いですか。先生はぱっといた花が良いのですが。皆さんはちょうど今こうとしている人たちでしょうか。く時には自分勝手にぱっときなさいというのです。他人の力でくのではなくて自分の思いのままにぱっときなさい。それはどういうことかというと、皆さんが自然と育って、自然と思春期を過ぎ、自然な環境でぱっといて、愛する夫に出わなければならないというのです。くこともできずにしわくちゃになってはいけません。葉が落ちて粉が落ちてからく花になってはいけないのです。男性も同じです。男性もぱっとかなければなりません。

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 まだいてもいないつぼみなのに、手紙を書いて愛ごっこをするようない者になってはいけません。自然とぱっとかなければならないのです。神が御になる時、「わ! 純に本性的にいたのだなあ。香りをかいでみると汚れていない初物だ」と言えなければなりません。ですから神も希望に胸を膨らませているというのです。そのような神が初物を望むしょうか、しわくちゃなものを望むでしょうか。では皆さんはどうですか。初物を望みますか、しわくちゃなものを望みますか。落した皆さんも新しいものを望むのに、神はそれをもっと望むのではないでしょうか。ですから純情をもってぱっといて、今日の落した世界の悲しみの峠に引っ掛かるのではなくて、それを越えていくことのできる、値のある皆さんになってくれるように願います。



  2.私は天の子女


 私たちは父の息子にならなければなりません。娘にならなければなりません。本に父の血統を受けいだ娘、息子にならなければなりません。父の心情が私たちの心情と因を結び、父の心の動脈が私たちのの動脈と因付けられる一体的な係を成し、父が行かれる道が私たちの道であり、父の心情が私たちの事情であり、父のみ旨が私たちのみ旨にならなければなりません。

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 皆さん考えてみてください。二十代に近い少年として汚れに染まらずに聖なる純情をしっかりと包みんで、どこに置いておくのでしょうか。天が最も喜ぶことのできる祭壇の前において神が喜ばれるのです。その次には、自分のような純情をもった男性と女性が出って神と共に結ばれる聖なる基盤が、新新婦が出う場であるにもかかわらず、皆さんはそのような値を知らずにいます。

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 自分の体は貴いものです。これを汚さずに親孝行をするのです。神に認められる体をもって、責任性をもってサタンの死亡から出しなければなりません。これは人間としての最高の目的であり、またそれが基準なのです。創造原理的に言えばそうなるようになっているのです。

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 皆さんは神の純種になることができなかったので、純種になろうとすると順でなければなりません。そして皆さんが言うことを聞かないと、たたいてでも順になれるような法度をえるのです。神の愛をえるというのです。これが統一教会です。それで統一教会はすべての宗の中心になる宗なのです。

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 これから順の種を作らなければなりません。種を割るとその種の中心は胚乳です。胚乳の中心は神の愛だというのです。では皆さんの頭を割ったらその中心は何でしょうか。神の愛だというのです。種の中心、すなわち根になることのできる動機が神の愛です。神の愛から出するのです。ところで皆さん、「私には神の愛がある。私はたとえ見てくれはみすぼらしく、肉身は五、六尺にもならないけれど、この男の赤い心には神の愛があふれている」と、そう言ったことがありますか。

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 地上は貴重だと思います。特に若い人たちは体を正しく保存しなければなりません。順でい心、順でい体が親にするの親孝行になるのです。

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 初愛の心をもって神の前に行かなければなりません。

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 あの世に初愛と共に行った人が、天のでは最高の立場に行くということを知らなければなりません。

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 この地に生きる人で、天に行くことのできる人は初愛を中心として行き、初愛によってすべてのことをあきらめ、初愛のゆえに死に、生きるという人です。ですから初愛を正しくしなければなりません。



 十一 聖別儀式の生活化


  1.聖塩


聖塩は一九六年三月十六日(陰)、の御父母の成婚された日を基点として初めて聖塩を作って使用した。これによってすべての家庭は聖塩を使用して生活と環境を聖別する生活をした。

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 聖塩はのようなものです。ものを購入したときに聖別し、外出して家にったときも塀(門)のところで聖別するのが原則です。

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 聖別したものをサタン世界に出してはいけません。それが不可避なときは左手であげなさい。

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 聖別は「父と子と聖の御父母と私の名によって聖別いたします」と唱えながら聖塩を十字(北南東西の順)にかけます。

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 聖別した不動産などを分しなければならないときは、段階を追って許しを得て分するのが原則です。

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 私たち食口が聖別した土地をもって、すべての土地をだんだん占領していかなければなりません。

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 皆さんがどこかに行って座る時、塩をまいて座りますか。心の中で「ふ、ふ、ふ」と三回吹く件を立てて座りなさい。サタン世界に美男子がいたら、「ああ、美男子と一に暮らしてみたい」そのように思わずに、美男子が手を一度握ったとしても「ふ」と吹いてしまわなければなりません。塩をまかなければならないというのです。心の中で「ふ、ふ、ふ」と三回吹きなさい。塩を三回まくのです。

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 食口たちはすべてのものを聖別しなければなりません。聖別をするのに聖塩をまいて聖別するのは何の問題にもなりませんが、御飯を食べたりそうめんを食べたり水をんだりする時に、いつ聖塩をもってそうするのでしょうか。ですからこれからどうするのですか。イエスが復活したのち、「ふっ」と吹きながら聖を受けなさいと言ったのと同じです。アダムを造っておいて鼻に息を吹きかけて体の新生命を誕生させたのと同じように、これからは皆さんも生命の体を代身して、水をんだり御飯を食べる時には息をかけてから食べなければならないというのです。

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 韓の風習は妙だというのです。水をむときも息を吹きかけてからみます。また息を吹きかけて座ります。それは天がこの民族のために実践することのできる自然的な良心を動かして私たちに一つの風習としてすようにしたものです。これはすべて偶然に成されたのではありません。ですから心でいつもそのような聖別をしなければなりません。私たちは三時代、蘇生、長成、完成、六千年の長い時代を三時代としてながら、汚れたものを聖別するために三回息を吹きかけて食べなければならないというのです。どこに行っても、皆さんが小便をしても、これからはそれをしなければならないのです。どこに行ってもみなしなければならないのです。



  2.聖なるろうそく


   ① 心情のろうそく


心情のろうそくは一九六一年一月五日にお作りになり、祝福家庭に授。心情のろうそくはの御父母を象するものであり、神の心情を慰してみ旨の成就を誓う祈をする時に使用する。

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 「アダムは落以降の生命と愛(心情)の源泉を失ってしまいました。人間は神を心情的にずっと失望させてきました。このような失敗によってあなた落人間を復するために身もだえせずにはいられませんでした。あなた苦を心の中に大切にしまいながら私たち一人一人は復されたアダムの位置に上がるための一念で生きてまいりました。万物を復するための私たちの決心をもっと堅くしてください。この心情のろうそくが燃える時ごとにこの火花があなたの心情を慰してくださり、あなたのみ旨を成すための私たちの身があなた記憶されるようにしてください。私たちがこの心情のろうそくに火をともし、祈する時ごとに、復帰歴史において私たち自身の決意をさらにくさせてください」



   ② お産のろうそく


お産のろうそくはの誕生時から始まった。「三十六家庭」が結婚生活を始めて以降、の御父母が各家庭に授してくださった。

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 「私は今の御父母が三十六家庭に授してくださった統的なお産のろうそくを各家庭にもう一度授しようとしています。私が持っているお産のろうそくを、本の御父母が持っていらっしゃったお産のろうそくの象として使用しましたので、この家庭にも同じ容をもつお産のろうそくを持てるようにしてください。あなたのみ名と光をもって祈しますので、子女たちを出産する間、このお産のろうそくが燃える時に的な雰囲気を聖なるものにしてくださり、サタンが一切接近できないようにしてくださるように、祈いたします」。



   ③ 愛天のろうそく


愛天のろうそくは一九八四年五月十六日、の御父母が作られ、五月二十日、祝福家庭に授された。愛天のろうそくは人類にする愛の表示として心情のろうそくとは違って二本一組になっている。

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 ろうそくはそれ自体が牲となって光をします。このように神を中心として人類が一つになるためには、牲にならなければならないということを象しています。火がつく所はろうそくでもなく芯でもありません。ろうそくと芯が合わさって火がつき光をします。同じように、主体と象である夫婦が互いに牲になる時、光をするということを象します。そこにはサタンが存在することができません。

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 愛天のろうそくを中心として統一心情に完全に一つになりなさい。そうするとすべてのものが整理されるのです。

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 「愛する神! 愛天日を定めたこの勝利の標的を消えないろうそくの火によって象してくださったのでここに父母の愛、神の愛が共にあってくださり、このろうそくの光をともす所ごとに、その場の光と共に一つになるその家庭には平和がげられ、あなたの愛の主管が連結されて暗い勢力を防ぎ、すべての不義の件を防ぎ、不和の根源を防止できる勝利の聖なるろうそくになるように許してください。これを愛し、特別に祈する所ごとに、あなたが常に共にいてくださって父母が共にいてくださり、全界と肉界が愛の統治をもって共にいて保護してくださるようにお願い申し上げます。これから始まるこの愛天のろうそくの上にあなた光と共に史に長と連結されることのできるように、そうして天が完成される時まで継続することができるよう祝福しますので受けてくださいませ。父母の名前で祈し宣布いたしました。アメン」。



   ④ 統一のろうそく


統一のろうそくは一九九五年九月五日から一九九六年一月二日まで、のお母の子女と共に夜十二時に統一のろうそくをともして百二十日の間精誠を捧げられたのを起源とする。

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 今回お父は、九月五日から米巡回講演をされ、私も日本での講演を行いました。私は家を出てくる時、子供たちと話し合いました。集まることのできる子供たちをみな集めてから、「お父が、再び人類を抱かれるために、アメリカを相手に、第一線に出てお話しされようとしておられるので、私たちは精誠をくしましょう」と言いました。

 子供たちは一言の異議もなしに、皆「そうしましょう」と言いました。子供たちは離ればなれに分かれて勉しているのですが、どのような環境にいたとしても、夜十二時になれば、ろうそくをともして祈することにしました。年の一月二日までの百二十日間、精誠をささげることにしたのです。(のお母のみ言)

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 私が、きょう持ってきたろうそくがあるのですが、これを授します。ですから皆さんには、御父母の前に誇れる息子、娘として、この地上でを結ぶ立場になってほしいのです。そして、みんなを天に一に連れていきたいのです。

 精誠をささげる基台を、の御父母の家庭の子女たちまで大して、幼くとも皆さんがその隊列に共に同して、同じ心情で、各自、責任を果たすことのできる者となってほしいのです。    

 このろうそくは一本ですが、これは三つのろうそくが一つになったものです。そして、ここにのご子女たちの愛がめられています。(のお母のみ言)

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 この「統一のろうそく(統一燭)」を連結して、永遠に消えることのない火で燃えるあなたの前に、忠誠と愛の心をもって全人類を燃やす時まで愛することを、重ね重ね誓い、約束する時間となりますように。そして、そのような人生を生きることのできる各自すべてとなることができますように、お父、激し、お守りください。

 そのためにこの生命をささげるほどに、忠誠をくすことをお誓い申し上げるとともに、そのような立派な者たちとなることができますように、いま一度祝福してください。すべてのみ言をの御父母のみ名によってお祈り申し上げました。アメン。(のお母のみ言)



 






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