1.敬拝式
毎月一日は、朝の五時に各家庭で、夫婦が共に本部に向かって敬拝しなければなりません。喜びの雰囲気の中でしなければなりません。日曜日にも朝五時にしなければなりません。その時は一週間のすべての生活を報告しなければなりません。日曜日が早く来るのを願う喜びの日にならなければなりません。
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敬拝式は日曜日の朝にだけするのではありません。本来は毎日しなければなりません。朝起きたらまず本部に向かって敬拝式をしなければなりません。それが公式的な礼式です。しかし毎日そうすると副作用があるので副作用を避けるために、その条件をかけて聖日と毎月一日の早朝だけにしているのです。本来は毎日しなければならないのです。
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早朝の敬拝の時間だけでも天と直線上に立ちましょう。その時間は本当に深刻な立場です。その時間に一秒遅れても悔い改めなさい。その時間には聖物として飴一粒でも準備しておいて子供たちに分けてあげなさい。ちょうど聖晩餐の時のように……。
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早朝の敬拝、精誠、礼拝時間を厳守できないのに自分の息子、娘のことがうまくいくように願ってはいけません。先生を中心として四位基台を成さなければなりません。そして後孫を立てようとするなら父母がしっかりしなければなりません。
2.家庭礼拝
父母がみ旨の生活において模範にならなければなりません。家庭での祈祷生活とか、家庭礼拝だとか、どのような面でも負けることのない信仰生活を、子女たちに見せなければならないのです。
また敬拝の時間がどんなに重要かということを認識させなければなりません。その時間には敬拝式だけで終わるのではなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。
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自分の一族を中心として家庭礼拝をどこでも捧げることのできる環境を広めていかなければなりせん。ですから皆さんが公式の集会に参加したかどうかが問題になるのであり、その次には公式活動での責任遂行をしたかどうかが問題になるのであり、その次には家庭生活で子女の前に父母として模範になれたかなれなかったかが問題になるのです。
3.訓読会
訓読会はすべての祝福家庭の夫婦同士だけでもしなければなりません。毎日朝に一時間ずつ。もし朝にできなければ夜寝る前に十二時にでも、一時にでもしなさい。私はしているのです。今回南米の巡回をする時も十二時を過ぎて疲れてだるくてもそれを実践したのです。抜かすことができません。一日でも。分かりましたか。読んでみるのです。「祝福家庭と理想天国」この本は祝福家庭の内容を全部教えてくれ、理想天国の内容を全部教えてくれるものです。先生がこれのために闘ってきた勝利の基盤を、またハイウェイを築いておいたので、ここに高速道路をつくって皆さん全員が自動車になり、ガソリンになり、自動車でこれを最高のスピードで走らなければなりません。
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時間さえあれば訓読会をしなければなりません。一人でも、会長室にいても訓読会、一日に何時間でもどこを読んだか記録しておいて、ポケットにはみ言集を入れておいて、いつも訓読会をしなければなりません。
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訓読という言葉をもう一度書いてみてください。(「み言」という意味の)言偏にこのように書く、これは何でしょうか。「川」です。「み言」が「川」の横に行くと、何ですか。神様のみ言がまっすぐな小川に出会ったのです。これを見ると蘇生、長成、完成です。「読む」という字は(「み言」という意味の)言偏に(「売る」という意味の)「売」です。売らなければならないのです。もっていると大変なことになります。売らないならば、あげなさいというのです。商品を積んでおいて腐らせては罰を受けます。
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『御旨の道』を読み、『原理講論』を読むのはもちろんですが、『祝福と理想家庭』とか、今まで先生が語ってきたみ言の中で重要なみ言は、サタン世界に対して闘ってきた勝利の記録なのですべて読まなければなりません。ですから私たち統一家においては、父母様と一つになるためには、父母様の歴史的記念である過去、現在闘っている内容が全部含まれているので、その内容と一つになれるようにしながら、ここにあるこのみ言とともに相対的な気分をつくっていかなければならないのです。それは自分を中心として、家庭を中心として、自分の一族、七代まで、そしてこれを横的には百六十家庭、百八十家庭が完全に一つになって、み言を定着させなければならないのです。
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先生のみ言は先生が語ったのではありません。先生が語ったのではないというのです。天が先生を通して語られたみ言です。そのみ言は、皆さんがいつどこで聞いても心が動くようになっています。心が感動して体一帯に革命的な変化が起こるのです。そのような力があるのです。
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集まりがある時には勉強です。夜でも昼でも時間さえあれば勉強です。何百回、何千回、読んで自分のものになるまで。自分がその相対的実体圏をもつ時まで。これからそのようなことをするのです。統一教会は座っていると病気になるのです。病気にならないためには一生懸命読み、試験をし、努力するのです。
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訓読会は私が千辛万苦、一生積んできたすべての宝箱を民族のために解いてあげることです。誰にでもみな。翻訳もしてはいけないと言ったのです。翻訳してはいけないのです。民族にはっきりと知らしめるまでです。それを知らなければなりません。分かりましたか。
4.家庭盟誓
人間は本来盟誓した内容(家庭盟誓文)の因縁をもって生まれたのであり、この盟誓の中で生きては死んでいかなければなりません。何の呵責もなくこの盟誓文を読むことができなければなりません。
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これから皆さんは自分の家庭において日曜日には敬拝式をしなければなりません。これは何かというと、祝福を受けた人たちの宣言式です。この家庭はサタンが侵入できないというのです。ですから私たちが家庭盟誓を暗唱するのです。家庭盟誓。それは何かというと、サタン世界と関連がないという宣布です。一週間に様々なことをしたすべてを清算することのできる一つの宣布式です。ですからそれを抜かすと問題になるのです。
5.祭祀(祭事)(先祖供養)
昔の忠臣の家庭では、良いものがあるとまず国を治めている人に捧げました。これが韓国の忠臣の生活法です。そのような観点から見る時、韓国の礼法はどんな国にもない天国の中心の内容だというのです。儒教では孔子の教えに従うのですが、その孔子の教えを中心とした礼法を見ると天法に近いものが多いのです。これから皆さんの後孫たちは、皆さんに対して祭祀を捧げなければなりません。まだ生活規範や葬式の仕方など原理を中心として定められていませんが、その礼法が定まったら、その時からは適当にしてはいけないのです。
これから皆さんはどんな内容でも、神様が共にしてくださるという信仰をもって自分の環境を屈服して根を深く下ろし、どのような風雪の中にも育つことのできる生命力をもたなければなりません。そのようになる時神様が法を立てることも問題になりません。しかしそれができない時は問題だというのです。
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先祖が亡くなった日には皆集まって先祖のために祭祀の壇を飾り、祭事をします。先生の写真を掲げたその部屋でするなら、(先祖に)祈っても(敬拝しても)罪ではありません。おもちをついて祭祀を捧げても罪にならないのです。
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統一教会は先祖に侍ることを許すのです。統一教会はこれからその伝統を受け継いでいかなければなりません。これがこれから真の父母を中心とした反対の立場に立つのです。この世の国、この世の伝統ではありません。天の父母、天の国、天の先祖に侍るにおいて、その代を継ぎ、主流思想的、伝統的に、血族たちに千年、万年侍ることのできる王土になります。王に侍ることができ、永遠の太平のみ代をうたうことのできる国になるのです。その国で生きて過ぎ去っていってこそ皆さんの母親、父親、一家、一族が天国に直行するのです。
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選民圏と血統を重要視しなければなりません。選民圏は長子権です。韓国は長子の国です。韓国が族譜を愛する民族になったのもみな血統を受け継ぐためなのです。先祖を崇拝し、先祖に祭祀を捧げるのは悪いことではありません。これから儒教思想以上に父母を尊敬する時が来るのです。
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統一教会は祭祀を捧げても良いでしょうか。解放ですね! これからは祭祀を捧げてもかまいません。今までは祭祀を捧げることを天が望みませんでした。先祖を崇拝する韓国の法が天の法です。世界でも独特な民族です。韓国だけがそうなのです。
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祭祀を捧げる時間は後継ぎが決定するのです。ですから夜一時に捧げていたものを朝の五時にすることもできるのです。朝五時にしようとしたのを事情によって朝七時にすることもできるし、昼間にすることもできます。誰がそれを決定するのかというと亡くなったおじいさん、先祖がするのではありません。後継ぎが決定するのです。亡くなったおじいさん、おばあさんも、後継ぎが決定した時間に来なければ祭祀の壇につくことはできないのです。それが嫌でも席につくことができません。地が中心です。地で解かれれば天でも解かれるというのと同じです。ですから二人が一つにならなければなりません。
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祭祀をする時は叔父(三親等)、従兄弟(四親等)、八親等、ひいおじいさんがいたとしても後継ぎをまず立てるのです。韓国の伝統的文化背景に、先祖を尊重視するために後継ぎを立てるのを見る時、この民族は長子権を尊重視する民族だったというのです。
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父母に親孝行したなら死んだのちに祭祀を捧げなくてもよいのです。写真をおいて生きている母親、父親のようにその日を記憶すればよいのです。霊界になんの境界線がありますか。これからは墓地まで行かずに家に集まって、生きている父母のように侍ってお祭りをし祝えばよいのです。そうすると墓地に行かなくても祝うことができます。
ですから母親、父親の墓は、自分が生きている園に造らなければならないでしょう。西洋では教会の庭に埋めるでしょう。その母親、父親の墓の前に恥ずかしい行動をしてはいけません。亡くなった母親、父親が忠告するのです。愛の定義に外れることがあれば直接先祖たちがついてきてチェックするのです。
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今までキリスト教で祭祀を捧げられないようにしたのも一理があるのです。祭祀は神様と全人類の真の父母が受けなければなりません。上の代の先祖たちが天でまず侍られなければならないのです。ところが堕落によって、それを今までは禁止してきましたが、復帰時代において祝福を受けたので、これからは先祖たちに侍らなければならないのです。