Book七: 礼節と儀式 Etiquette and Ceremonies
第一章 神様に対して侍る礼法
一 神様に侍って生きるべし
一) 神様と人間は親子の関係
因縁の中でも標準となる因縁は、神様と人間の間に結ばれた親子の因縁です。この因縁から始まった心情は、どんな存在の権限にも曲げられない永遠で不変で唯一なものです。また、この心情の権限は絶対的なものです。それゆえこの権限をもって現れる時、すべての存在物はその前に頭を下げざるを得ませんし、この心情の権限をもって動かす時、全天下はついて動かなければなりません。これが宇宙の鉄則です。
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神様が創造当時、理想として願った真なる愛、偉大な愛を中心として人間との愛の関係を結び、一つになり得る神人愛一体の家庭を成したならば、今日私たちは天国だ地獄だと心配することなく、ただそのまま天国に入るようになるのです。
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父と息子が出会える最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見ると、愛と生命と理想が一つの場にあるというのです。
その場に行けば神様も愛であり、私も愛であり、神様も生命であり、私も生命であり、神様も理想であり、私も理想になるというのです。これを決定づけることのできる最初の因縁と最初の統一の場所が、親子関係が成される場でなければなりません。これは間違いのない事実です。
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皆さん、父子一身という言葉はいったい何を中心として言う言葉ですか。これは愛を抜いてはいけません。愛と生命と血統が連結されています。この三つの要件が必要です。父子一身だと言う時、そこには必ず愛と生命と血統が連結されなければなりません。
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言葉で結ばれる親子の関係、予約だけで結ばれる親子関係は必要ありません。心を尽くし、精誠を尽くして父のみ旨のために生き、骨肉が溶けるような苦痛の中でも耐えて勝利する時、私たちは神様と親子の関係を回復できます。
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神様から愛を受けたがるその最高の立場とはどんな立場でしょうか。その立場はまさしく息子の立場であり、娘の立場です。神様には天情があり、私たち人間には人情があります。この人情と天情が互いに合わさることのできる帰着点は絶対者である神様も願い、人間も願うただ一つの場、すなわち一父母を中心とした息子、娘の立場で互いに愛を与え受けることのできる場です。
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本来はアダムとエバが互いに最高に喜ぶ中で、最高の生命力が発揮され、最高の力が合わさり、全体の理想の力まで合わさった中で、愛の花が咲かなければなりません。それで花のように咲いて、その香りが全天下を覆っても余りあり、神様がその花を見つめて花の香りを味わいながら、自らそこに酔うことのできるそのような愛を、神様は夢見ていたのです。
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アダムと神様が一つになって、互いに愛があふれる時、アダムは神様になることができます。アダムが愛によって神様と完全に一つになる時に、神様はアダムに臨まれます。聖書にも「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ三・一六)とあります。私たちが神様の聖殿です。
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神様は皆さんの近くにおられ、誰より皆さん一人一人を心配しておられる方だということを知らなければなりません。この世では肉親の愛が一番大きいと思っていますが、神様の愛はそれよりもっと大きく深いのです。この世のどんな人間的な愛よりも深く大きいものであることを知らなければなりません。
このような神様の愛の懐に抱かれて、お父さんと呼ぶことのできる皆さんにならなければなりません。「お父様の悲しみを私は知っております」と言える立場で、神様の内的な心情を体恤する真の息子、娘にならなければなりません。そのような息子、娘となって、神様に侍る天国を所有するならば、その天国は誰も奪っていくことができません。
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父子一身という愛の論理圏において、父の所有は息子の所有になるのです。夫の所有は妻の所有になるのです。愛を中心としては相続権が永遠に保障されるのです。真なる神様の愛の対象者として因縁を結んだ息子、娘においては神様の体も私の体であり、愛も私の愛であると同時に、造られたすべてのものも私のものになるのです。
ですから皆さんの中には、天下を占領しようという本性の欲心が残っているのです。これが神様の人間に共通に分配してくださった、宇宙を所有できる神様の息子、娘の権限を引き継がせるための贈り物だったというのです。
2.一体となった生活をしなければならない
すべての宗教では見るものをむやみに見ないで、聞くものをむやみに聞かないで、言うことや対するのをむやみにするなと言います。見るのも、聞くのも、言うのも、感じるのも、愛するのも、すべてが神様を中心としてしなければならないのであって、自分を中心としてしてはいけないということです。
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皆さんは神様に侍る者として、うれしい時に神様をどれほど喜ばせましたか。皆さんがおなかがすいた時に御飯を食べながら感じる有り難み以上に、神様に侍ってさしあげましたか。皆さんはいいものを食べる時や着る時、そして悲しい時や大変な時にも、いつも神様に侍らなければなりません。そうすることによって、神様の心に覚えられる理由を残さなければなりません。
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私の意識と直感と感覚器官一切までも父のものであり、私が感じ意識する全体が父のものだという観が決定されなければなりません。そのようにならない限り、心情を通じて動く天を所有することができないということを、はっきり知らなければなりません。
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人間は誰でも、心情的に神様と一つになるようになっています。お父さんである神様と子供の人間は、正に心情で連結されています。
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私たちが話をし、見て、感じ、また感情的に体感する一切も、神様を中心として因縁をもったものでなければなりません。
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私たちは神様に侍り、父母に侍って生きるのです。話をするときも、行動をするときも、寝ても覚めても侍る生活をしなければなりません。このようなコンセプト(概念)さえもてば、二十四時間サタンが侵犯することは全くありません。
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朝、寝床から起きて初めの言葉を天の前に捧げ、家を出る時も、第一歩を右足から踏み出し、天の前に捧げなければなりません。平素の習慣がこのようになれば、皆さんの生活は侍義生活になり得るのです。このような観点で、皆さんは原則的な基準で生活態度を取っていかなければなりません。
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私たちが朝起きて感じるすべての感覚、動作が一つの目的を中心として、いつも直線上に帰一できなければなりません。その点を喪失すれば、み旨と私とは関係を結べないということを否定できません。
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天国は、侍る生活をしたことを誇るところです。それならその天国とは、どのような者が行くところでしょうか。主を信じて福を受けるために、福を先立てていく者が行くところではありません。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした者たちが行くところです。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活を残して喜んでいくことのできる者が行くところです。そこに復活があるのです。
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今は三合(神様、真の父母、皆さん)が一致しなければなりません。歩調を合わせなければならないということです。生死の決定的内容がかかっているので、三者が一致する点で一つにならなければなりません。その点に生命の復活圏があります。その点が、真の父母と皆さんが一つになって一致できる連結点です。そこで一心統一が起こるのです。ですから皆さんは、み旨と一致した生活をしなければなりません。
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一日二十四時間の生活圏内で私が見聞きしたすべてのことは、何のためでしょうか。神様のためです。神様のために見たり聞いたりしなければならないし、感じるのも神様のために感じなければなりません。私たちは地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。
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毎日のように慕わしく思えない人は、神様に侍ることはできません。皆さんは誰を慕うとしても、いつも慕わしさに浸っていなければなりません。しかし、夜十二時になると「では、寝よう」と言う人は神様を心配させる人です。心情の因縁を抱いて出る時、夜が問題ではないというのです。
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本来神様と完全に一つになったのちには、私を中心として生き、私を中心として考え、私を中心として愛するのが原則です。その時は自分を中心として考え、自分を中心として愛しても、それは神様を中心とした考えになり、神様を中心として愛することになるのです。それが原則だというのです。
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お父様である神様に出会うために、神様と因縁を結ぶために、どれほど精誠を尽くしたかということが自分の財産です。
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皆さんは涙の谷間で父を呼ぶ時、応答を受けることのできる息子、娘にならなければなりません。涙を流す場で「お父様!」と言う時、「おお、私がここにいるから耐えなさい」と、血と汗を流す苦痛が染みる場で「お父様よ」と言う時、「私が忍耐したのだからお前も耐えなさい」と、死が迫りくるその瞬間にも、「私がいるから安心しなさい」という言葉を聞くことのできる皆さんにならなければなりません。そのような場でどれほど父に侍り、どれほど父と共に相談し、どれほど父と共に生きたのかということが問題になるのであって、栄光の場では父をいくら呼んでも問題にならないというのです。なぜならば、まだお父様が栄光の日を迎えておられないからです。
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「ああ、おなかがすいた。ああ、御飯御飯御飯!」と言いますが、それは誰のために食べるというのですか。神様のために食べると、そうでなければなりません。どのようにすれば神様のために食べることになるのでしょうか。私が神様の完全な聖殿になったならば、「神様の聖殿である私がおなかがすけば、中におられる神様が御飯を食べようと言う」このように考えなさいというのです。分かりましたか。そのように御飯を食べれば、その御飯は聖なる御飯になるのです。御飯が御飯様になるのです。