Text Box: TP portrait  Book: 礼節と儀式 Etiquette and Ceremonies



第一章 神様に対して侍る礼法

 一 神様に侍って生きるべし

  一) 神様と人間は親子の関係


 因の中でも標準となる因は、神と人間の間に結ばれた親子の因です。この因から始まった心情は、どんな存在の限にも曲げられない永遠で不で唯一なものです。また、この心情の限は絶的なものです。それゆえこの限をもって現れる時、すべての存在物はその前に頭を下げざるを得ませんし、この心情の限をもって動かす時、全天下はついて動かなければなりません。これが宇宙の則です。

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 神が創造時、理想として願ったなる愛、偉大な愛を中心として人間との愛の係を結び、一つになり得る神人愛一体の家庭を成したならば、今日私たちは天だ地獄だと心配することなく、ただそのまま天に入るようになるのです。

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 父と息子が出える最高の場所とはどこでしょうか。愛が交差する中心、生命が交差する中心、理想が交差するその中心で出うのです。そのように見ると、愛と生命と理想が一つの場にあるというのです。

 その場に行けば神も愛であり、私も愛であり、神も生命であり、私も生命であり、神も理想であり、私も理想になるというのです。これを決定づけることのできる最初の因と最初の統一の場所が、親子係が成される場でなければなりません。これは間違いのない事です。

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 皆さん、父子一身という言葉はいったい何を中心として言う言葉ですか。これは愛をいてはいけません。愛と生命と血統が連結されています。この三つの要件が必要です。父子一身だと言う時、そこには必ず愛と生命と血統が連結されなければなりません。

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 言葉で結ばれる親子の係、予約だけで結ばれる親子係は必要ありません。心をくし、精誠をくして父のみ旨のために生き、骨肉が溶けるような苦痛の中でも耐えて勝利する時、私たちは神と親子の係を回復できます。

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 神から愛を受けたがるその最高の立場とはどんな立場でしょうか。その立場はまさしく息子の立場であり、娘の立場です。神には天情があり、私たち人間には人情があります。この人情と天情が互いに合わさることのできる着点は絶者である神も願い、人間も願うただ一つの場、すなわち一父母を中心とした息子、娘の立場で互いに愛をえ受けることのできる場です。

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 本はアダムとエバが互いに最高に喜ぶ中で、最高の生命力が揮され、最高の力が合わさり、全体の理想の力まで合わさった中で、愛の花がかなければなりません。それで花のようにいて、その香りが全天下を覆っても余りあり、神がその花を見つめて花の香りを味わいながら、自らそこにうことのできるそのような愛を、神は夢見ていたのです。

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 アダムと神が一つになって、互いに愛があふれる時、アダムは神になることができます。アダムが愛によって神と完全に一つになる時に、神はアダムに臨まれます。聖書にも「あなたがたは神の宮であって、神の御が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ三一六)とあります。私たちが神の聖殿です。

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 神は皆さんの近くにおられ、誰より皆さん一人一人を心配しておられる方だということを知らなければなりません。この世では肉親の愛が一番大きいと思っていますが、神の愛はそれよりもっと大きく深いのです。この世のどんな人間的な愛よりも深く大きいものであることを知らなければなりません。

 このような神の愛のに抱かれて、お父さんと呼ぶことのできる皆さんにならなければなりません。「お父の悲しみを私は知っております」と言える立場で、神的な心情を体恤するの息子、娘にならなければなりません。そのような息子、娘となって、神に侍る天を所有するならば、その天は誰も奪っていくことができません。

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 父子一身という愛の論理において、父の所有は息子の所有になるのです。夫の所有は妻の所有になるのです。愛を中心としては相続権が永遠に保障されるのです。なる神の愛の象者として因を結んだ息子、娘においては神の体も私の体であり、愛も私の愛であると同時に、造られたすべてのものも私のものになるのです。

 ですから皆さんの中には、天下を占領しようという本性の欲心がっているのです。これが神の人間に共通に分配してくださった、宇宙を所有できる神の息子、娘の限を引きがせるための贈り物だったというのです。



  2.一体となった生活をしなければならない


 すべての宗では見るものをむやみに見ないで、聞くものをむやみに聞かないで、言うことやするのをむやみにするなと言います。見るのも、聞くのも、言うのも、感じるのも、愛するのも、すべてが神を中心としてしなければならないのであって、自分を中心としてしてはいけないということです。

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 皆さんは神に侍る者として、うれしい時に神をどれほど喜ばせましたか。皆さんがおなかがすいた時に御飯を食べながら感じる有り難み以上に、神に侍ってさしあげましたか。皆さんはいいものを食べる時や着る時、そして悲しい時や大な時にも、いつも神に侍らなければなりません。そうすることによって、神の心にえられる理由をさなければなりません。

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 私の意識と直感と感器官一切までも父のものであり、私が感じ意識する全体が父のものだというが決定されなければなりません。そのようにならない限り、心情を通じて動く天を所有することができないということを、はっきり知らなければなりません。

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 人間は誰でも、心情的に神と一つになるようになっています。お父さんである神と子供の人間は、正に心情で連結されています。

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 私たちが話をし、見て、感じ、また感情的に体感する一切も、神を中心として因をもったものでなければなりません。

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 私たちは神に侍り、父母に侍って生きるのです。話をするときも、行動をするときも、てもめても侍る生活をしなければなりません。このようなコンセプト(念)さえもてば、二十四時間サタンが侵犯することは全くありません。

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 朝、床から起きて初めの言葉を天の前に捧げ、家を出る時も、第一を右足から踏み出し、天の前に捧げなければなりません。平素の習慣がこのようになれば、皆さんの生活は侍義生活になり得るのです。このような点で、皆さんは原則的な基準で生活態度を取っていかなければなりません。

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 私たちが朝起きて感じるすべての感、動作が一つの目的を中心として、いつも直線上に一できなければなりません。その点を喪失すれば、み旨と私とは係を結べないということを否定できません。

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 天は、侍る生活をしたことを誇るところです。それならその天とは、どのような者が行くところでしょうか。主を信じて福を受けるために、福を先立てていく者が行くところではありません。天は、侍るために心情的に準備する生活をした者たちが行くところです。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活をして喜んでいくことのできる者が行くところです。そこに復活があるのです。

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 今は三合(神の父母、皆さん)が一致しなければなりません。調を合わせなければならないということです。生死の決定的容がかかっているので、三者が一致する点で一つにならなければなりません。その点に生命の復活があります。その点が、の父母と皆さんが一つになって一致できる連結点です。そこで一心統一が起こるのです。ですから皆さんは、み旨と一致した生活をしなければなりません。

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 一日二十四時間の生活圏内で私が見聞きしたすべてのことは、何のためでしょうか。神のためです。神のために見たり聞いたりしなければならないし、感じるのも神のために感じなければなりません。私たちは地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。

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 日のように慕わしく思えない人は、神に侍ることはできません。皆さんは誰を慕うとしても、いつも慕わしさに浸っていなければなりません。しかし、夜十二時になると「では、よう」と言う人は神を心配させる人です。心情の因を抱いて出る時、夜が問題ではないというのです。

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 本と完全に一つになったのちには、私を中心として生き、私を中心として考え、私を中心として愛するのが原則です。その時は自分を中心として考え、自分を中心として愛しても、それは神を中心とした考えになり、神を中心として愛することになるのです。それが原則だというのです。

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 お父である神に出うために、神と因を結ぶために、どれほど精誠をくしたかということが自分の財産です。

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 皆さんはの谷間で父を呼ぶ時、答を受けることのできる息子、娘にならなければなりません。を流す場で「お父!」と言う時、「おお、私がここにいるから耐えなさい」と、血と汗を流す苦痛が染みる場で「お父よ」と言う時、「私が忍耐したのだからお前も耐えなさい」と、死が迫りくるその瞬間にも、「私がいるから安心しなさい」という言葉を聞くことのできる皆さんにならなければなりません。そのような場でどれほど父に侍り、どれほど父と共に相談し、どれほど父と共に生きたのかということが問題になるのであって、光の場では父をいくら呼んでも問題にならないというのです。なぜならば、まだお父光の日を迎えておられないからです。

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 「ああ、おなかがすいた。ああ、御飯御飯御飯!」と言いますが、それは誰のために食べるというのですか。神のために食べると、そうでなければなりません。どのようにすれば神のために食べることになるのでしょうか。私が神の完全な聖殿になったならば、「神の聖殿である私がおなかがすけば、中におられる神が御飯を食べようと言う」このように考えなさいというのです。分かりましたか。そのように御飯を食べれば、その御飯は聖なる御飯になるのです。御飯が御飯になるのです。



 






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